空母艦内にあった「ロナルド・レーガンルーム」について語ることで、
わたし自身あらためてこの大統領について知ることになりました。
大統領としての手腕もさることながら、ウィットに富んだ言動や茶目っ気が
全米を魅了して、大統領選での勝利を手にしたレーガンですが、
二期を務めた大統領時代も、この人気は変わることがありませんでした。
我が日本でも、一時の小泉首相の人気は大変なもので、マスコミは
「小泉劇場」などという言葉で表現したりしていましたが、どこかこれも
レーガン人気に似たところがあったような気がします。
「政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、
レーガンの比較的高い支持率は決して急落することがなかったのも、
こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかった。」
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1999年にC-SPANで行われた世論調査によると、
と堂々の6位に入っていますし、2000年のABCの調査では
リンカーン、ケネディ、ルーズベルトに続く4位なしの5位。
2007年のラスムッセン調査では9位に止まりましたが、
2005年のワシントン大学の調査ではリンカーンに次ぐ2位、
2007年のギャラップの調査でも全く同じ結果となっています。
我々が思う以上にアメリカ人から愛された大統領だったみたいですね。
ところで、その大統領の名前をいただいた空母、「ロナルド・レーガン」。
わたしたち日本人にとって、その名は特に忘れられないものです。
2011年3月11日。
未曾有の大地震が東北地方を襲った日、空母「ロナルド・レーガン」 は、
「ロナルド・レーガン空母打撃群」の旗艦として西太平洋を航行中でした。
災害の大きさを重く見た在日米軍が翌日の12日から展開した「トモダチ作戦」、
オペレーション「トモダチ」に参加すべく、RR空母打撃群は、予定されていた
米韓合同演習を中止して本州東海岸域に展開し、海自との連携をはかりました。
奇しき因縁というのか、このときに「ロナルド・レーガン」の艦長だったのは、
戦後自衛隊発祥の大恩人、アーレイ・バーク提督の孫、トム・バーク大佐でした。
バーク艦長は災害の知らせを受けると、災害救助支援の司令を待たずに
東北方面に向かった、とのちの記者会見で説明しています。
アメリカ領事館のHPによると、空母「ロナルド・レーガン」は他の米艦船ともに
13日早朝に現地に到着してすぐに、被災地上空に航空機を飛ばして
生存者の捜索と支援物資の運搬を開始しています。
同艦の将兵すべてが救助・救援活動に携わり、空母艦載の戦闘機さえも
生存者の捜索や救援物資の輸送が必要な場所の確認作業に使用されました。
乗組員たちは私物の毛布やジャケットを被災者の防寒のために提供し、
なかには震災ですべてを失った子どもにあげたいと
クマのぬいぐるみを差し出した兵士もいたということです。
他の米空母艦長の例に漏れず、バーク艦長はヘリパイロットでもありました。
被災地では自らの操縦で視察を行い、被災地の惨状を見て心を傷め、一方で
日本人の落ち着いた行動と助け合いの姿勢に深い感銘を受けた、と語っています。
バーク艦長はまた、自衛隊の勇敢で献身的な貢献を讃え、
米軍と自衛隊が効果的な協調・協力が行えたことを強調しました。
と こ ろ が (笑)
この米軍の支援を、一貫して日本の腐れサヨク新聞(特に沖縄の)は
「米軍は災害支援を理由に現施設規模を維持する必要性を主張している」
「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」
「ことさらに在日米軍基地の重要性を強調し、日米軍事協力の深化を求める動き」
「被災地支援のための出動を日本に米軍が駐留する根拠としてアピールしている」
などと非難していたそうです。
ときの政府であった民主党ですら、北澤防衛大臣(当時)がRRに乗艦して
謝意を述べ、乗員から寄せ書きをもらっていたというのに・・・。
いうまでもなく、当時、どれだけ多くの日本国民が「トモダチ作戦」に勇気づけられ、
感謝の涙を流したかははかりしれません。
「ジョージ・ワシントン」の日本での任期が切れてアメリカに帰ることになったとき、
「トモダチ作戦」で日本国民から熱狂的に受け入れられたRRが後任に選ばれたのは、
必然的とも言える流れだったのではないでしょうか。
去年の観艦式のときに「くらま」からヘリでRRに座乗した安倍首相は、
その前に行われた訓示で、あたかも「ロナルド・レーガン」の乗員に語りかけるように
「トモダチ作戦」への感謝を丁重に述べ、「日本へようこそ!」と結びました。
ところでRRの乗員が「正確な放射能災害の情報が得られず被曝した」として
東電を訴えたという話、あれどうなったのかな。
いよいよ舷門から外に出るときににこやかに見送ってくれた隊員。
あなたも「トモダチ作戦」に参加してくれていたのですか。
なだらかな傾斜になったラッタルを歩いて、岸壁に着いたら階段を降ります。
女性の参加者もちらほらいましたが、中には元海上自衛隊員という方が
連れてきた(おそらく通っている)スポーツクラブのインストラクター、
というお嬢さんたちがいました。
もちろん彼女たちには、見るもの聞くもの全てが初めてのことばかりだったようで、
それだけにとても印象深い体験となった、と懇親会でスピーチしていました。
我々を待つバスの向こうにも、プレハブハウスが立ち並んでいました。
乗るときは全く気にもとめませんでした。
プレハブの階段を上ろうとしているのは海軍迷彩を着ていますね。
艦内が補修中で外に泊らなければならない乗員もいるのでしょうか。
反対側のクレーンはどこまでも高くまっすぐに屹立。
全員が退出し終わるまでに結構時間がかかりました。
確かツァー参加定員は40名だったような気がします。
RR側から岸壁を撮ってみました。
向こうに「アンソニーズ・ピザ」と書かれたトラックが見えます。
ニューヨークではオフィスワーカーがお昼休みに出てきて、車のまえのフェンスに
座って、タコスやピザ、ホットドッグを食べる光景が良く見られましたが、
ああいった屋台車?かもしれません。
基地の中だけで十分仕事になるんですね。
第1グループは白い会ボーイハット型のヘルメットをかぶった広報官が
案内していたようです。
すっかり仲良くなって談笑する参加者。(この人も元海上自衛隊)
ここで改めて岸壁側の補修工事現場をみてみましょう。
こちらで修理していたのは艦載エレベーターでした。
今停止している部分がハンガーデッキの階になります。
お、クレーンはKATOですね。
皆が揃うのを待っている間、することがないのでスマホで写真を撮ったりとか。
もはや芸術的(ただし現代美術)と言えるほど混沌とした
補修工事中の「ロナルド・レーガン」舷側。
全てのノズルというノズルから管がこちら側とつながっています。
蒸気が出ているのはなんでしょうか。
制服を着ていない隊員が外出から帰ってきたのか階段を登っていきます。
階段の下にある緑のカバーをかけたものは、下部にたくさんの電球があり、
昼間なのにそれが全部点灯しています。
小さく「危険」と書かれた注意書きも見えますが、これはなんでしょうか。
カウボーイ・ヘルメットの広報官は、皆に挨拶をして帰っていきます。
一旦別れを告げたあとは、日本人がするように振り返ったりはしませんでした。
なんというか実にドライでクールです。
バスは「ロナルド・レーガン」前から退出し、出口に移動していきます。
場内を歩いている人もたくさんいますが、広いので自転車が便利。
アメリカ本土と違って、ここでは自転車を盗まれる心配はないので
バーにチェーンをかけたりする必要はありません。
ここでこういうのになれてしまうと、帰国した時、うっかりチェーンをかけずにいて
帰ってきたら自転車が影も形もなくなったていたりするんだろうな。
お揃いの大きなバックパックを背負って構内を歩く女性軍人。
ちなみに、RRの乗組員であれば、彼女らも1日12時間、週7日勤務のはず。
えーと、これも船?
構内だけで営業しているハイヤー発見。
この向こうに見えているのさっきの船ですが、どう見ても建物です。
ここにいるのは軍人だけではありません。
基地内で仕事をしている人、外からやってくる関係者、軍人の家族。
RRのなかだけでもそこは一つの町ですが、この広大な基地全体が、
日本の中のアメリカなのです。
いかにもアメリカだなーと思ってしまった光景。
なべてアメリカ人はどんなパーキングでも車を頭から入れます。
基本駐車場の通路が広いので、頭から入れることはそう難しくありません。
わたしも郷に入れば郷に従って、アメリカにいるときには前向きに駐車しますが、
少しでも狭いとバックの方が楽なのでそうします。
ただ、ここもそうですが、日本のように駐車スペースが進行方向に直角ではなく、
斜めに書かれていることが多く、そのときには前向きにしか駐車できません。
(一台むりやりバックで入れている車がありますが、これは多分日本人)
ちなみに、アメリカ人は車庫入れ苦手だと日本人は根拠なく思っていますが、
バック駐車をしないだけで、縦列駐車などは普通に皆うまいです。
どちらもで運転してみて思ったのは、やっぱりアメリカ人の方が
車が手足になっているだけあって、運転が大胆というか荒いですね。
特にニューヨーク近郊では時速100キロで走行していたら皆が抜いていきます。
スクールバス発見!
向こうで見るスクールバスとは車種が違うのでなんか変な感じですが。
基地の中には幼稚園から高校まで各種学校が整っています。
アメリカの法律では、スクールバスが路上で停まってハザードをつけていたら、
どちらの車線であっても、停止してその間待たなくてはいけません。
その間、バスはこの写真にも見えている赤い「ストップ」の札を垂直に立てます。
ボストンでこれに違反して捕まっている車を目撃したことがあります。
というわけで、大きな錨のあるゲートにたどり着きました。
ここで同乗していた男性と女性の添乗員はさようならです。
空母というアメリカの科学の結晶の片鱗を垣間見て、
この大国の力というのはまだまだ当分世界一の座にあるのだろうな、
と思った横須賀米海軍基地訪問でした。
さて、このあと我々を乗せたバスは、我が海上自衛隊の第2術科学校に向かいました。
続く。