「イントレピッド」のハンガーデッキに入って一番先に目につくのがこの模型です。
プリーズドゥーノットタッチ、と言われなくても手が届きません。
あ、触っちゃいけないのはこの周りのフェンスのことかな。
空母を博物館にしている西海岸の「ホーネット」は、
オリジナルのラッタルを使い、館内に入場する仕組みになっていますが、
ここニューヨークの「イントレピッド」博物館は、空母の外側、
少し離れたところに階段だけの塔を併設し、その渡り廊下を進むと
そこが甲板、という作りになっています。
イントレピッドの見学についてお話しした時に、艦載機というか、
甲板の展示飛行機から解説を始めたのはそのためで、すべての見学者は
甲板からツァーを開始するということになっているのです。
それを見終わった後、選択肢は三つ。
1、艦橋
2、艦内
3、特別に作られたスペースシャトルのコーナー
この順路はどのように行ってもいいですが、あまりに広大な博物館は
見るところが多すぎて、見学には丸一日かかってしまいます。
わたしたちは先日お伝えしたように艦橋を見学し、ついで
甲板に一旦出てからこんどは甲板の下のハンガーデッキに行きました。
ここではこの空母「イントレピッド」そのものの紹介をするコーナーがあります。
「イントレピッド」が最初にハドソンリバーに博物館として展示されたのは1986年ですが、
2006年、ここ86番桟橋、ピア86が老朽化のため改装する際一度移動しています。
もう自走できなくなっているため、6隻のタグボートで曳航を試みたのですが、
長い間に蓄積した泥にスクリューを取られて動かすことができませんでした。
そこで周りを浚渫(しゅんせつ)し、艦体はドライドックに移されました。
ピア86の改修が完成した後、ここに戻されたのですが、問題となったスクリューは
取り外してしまって、館内に展示されています。
大口寄付のスポンサ企業も、ちゃんと目立つところに名前があります。
「ミューチュアル・オブ・アメリカ」はアメリカではよく聞く相互保険会社です。
メイシーズは古くからの老舗デパートで、ボストンの独立記念日の花火大会スポンサーなど、
目立つイベントにはよく名前を見受ける企業。
そして、上から二番目、あのリーマンブラザースの名前が・・・・。
リーマンショックが2008年、イントレピッド博物館改修が始まった頃には
まだサブプライムローンの焦げ付きも始まっておらず、ブイブイ言わせていた時代。
社員が避暑地にクルーザーなど持ち、毎週末はセレブパーティなどと言われていた頃です。
しかし、世間で言われていましたが、リーマンショックの直接の原因って、
韓国政府筋の銀行が株取得をいきなり取りやめたことだったのですね。
日本では報道されなかったので「韓国が原因」って、いったいなんなんだと思っていました。
イントレピッドの進水式で派手にシャンパンの瓶が割られる瞬間。
この写真を撮ったカメラマンすごい。
「イントレピッド」intrepidを辞書で引くと、「恐れを知らない」「勇敢な」
という文語であることがわかります。
この名前を持つアメリカの軍艦は全部で4隻。
もちろんここにある空母「イントレピッド」がその最後の名前を持つ船です。
一番最初に「イントレピッド」と名付けられられた船は、バーバリー(トリポリ)戦争の時、
1801年にリビアにある王朝とアメリカとの戦いに投入されたものです。
二番目は1874年スチームエンジンで、三番目は海軍の水兵の住居として使われていました。
さすが空母だけあって時鐘も大きい。
時鐘とは、以前「大和の時鐘」で説明したことがありますが、
船の上でも時間の経過がわかるように30分おきに鳴らされる鐘です。
鐘の一打を「・」で表すとすると、
0:30 ・ 1:00 ・・ 1:30 ・・ ・ 2:00 ・・ ・・ 2:30 ・・ ・・ ・ 3:00 ・・ ・・ ・・ 3:30 ・・ ・・ ・・ ・ 4:00 ・・ ・・ ・・ ・・
これがワンセットで、4:30にはまた一点鐘から始まるのです。
これもなかなか奥が深くて、一巡してくるとまた「・」から始まるのですが、
16:30 ・ 17:00 ・・ 17:30 ・・ ・ 18:00 ・・ ・・ 18:30 ・ 19:00 ・・ 19:30 ・・ ・ 20:00 ・・ ・・ ・・ ・・
1830、1900、1930、この赤字の鐘の数がここだけ変則なのです。
ちょうどこの頃が気の緩みなどで、船にとって事故が起こりやすいんだそうですね。
というわけで本来5点鐘のところ、1点鐘にすることで
「まだ当直任務は始まったばかり」
と気を引き締めるためだそうです。
アメリカ海軍でも同じようなことをしているのでしょうか。
ここにもあった特大模型。
こちらは1943年に就役してから、戦時中に運用されていた時の再現モデルです。
「イントレピッド」は大戦時、常時90から100位の航空機を艦載していました。
F6F「ヘルキャット」、SB2C「ヘルダイバー」、TBF「アベンジャー」などです。
昇降機は、当時3つあり、そのうち一つは船のデッキのエッジに、あと二つは
センターラインに当たるところに位置していました。
そのうちの一つが、この部分です。
艦体の色は当初ブルーグレーにペイントされていました。
また別項でお話ししますが、フィリピンで海軍の特別攻撃隊の突入を受け、
多大な被害に苦しめられてから、艦体をカモフラージュの「ダズル・グレー」に
塗り直したあとが、この模型のカラーです。
日本の特攻隊員の目にはあまり関係なかったと思いますが・・。
ステージに誰か立ってお話ししているのに、後ろで喋っている人がいるー(笑)
この模型の置いてあるあたりは「ハンガー1」というのですが、乗組員は
何か催し物がある時にはここに集合しました。
先日、このステージの使用例をいくつかご紹介しましたね。
奥のステージのように見えているのは、艦載機のエレベーターです。
そしてここに見えている飛行機は手前がF9F-8「クーガー」、
奥のヘリがパイアセッキHUP/UH25「レトリバー」です。
写真は1958年に撮られたものだということですが、この頃まだ
人権を認められていなかった黒人兵が白人の中に混じっています。
海軍では世間一般ほど人種差別はなかったのでしょうか。
「航空機の着陸とはコントロールされたクラッシュ(墜落)である」
とそういえば昔飛行機の専門家という人に聞いたことがあるのですが、
実際に艦載機に着陸する時に、飛行機は2秒間の間に241kphから0に減速します。
それを可能にするのはアレスティングケーブルとテイルフック。
最初にこれに挑戦したパイロット、ユージン・エリーはこの事故で亡くなりましたが、
それらが改良されたあとも、着艦の事故は幾度となく起こりました。
着艦の際の事故を少しでも軽減するために、いろんなシステムが考えられました。
このオプティカル・ランディング・システムもその一つです。
ホーネットのシステムは去年確か甲板上にあったと思うのですが、今年は見ませんでした。
甲板上にあるとそう大きく見えないのに、こうしてみると巨大です。
日本海軍では採用されなかった着艦システム。管制うちわ。
正確にはなんていうのか知りません。
左下の書物には、このうちわマンの動作の意味が図解で示されています。
うちわマンのうちわ管制お仕事例。
ノリノリである。
「機動部隊」という映画についてお話ししたことがありますが、
ゲーリー・クーパーが演じた主人公の海軍軍人が、「ラングレー」という母艦に
必死の思いで着艦訓練していたのを覚えておられますでしょうか。
この「ラングレー」がCV-1、つまり海軍最初の航空母艦です。
この航空管制「うちわ」の横にはそんな説明が書かれているのですが、
興味深いのは、
航空母艦ができるまで、海の上の武器は船であったが、
艦隊戦の時代は終わりを告げ、艦載機による航空戦の時代がやってきたことを
「最初に真珠湾攻撃が証明した」
と書いてあることです。
それだけでは沽券にかかわるのか、ミッドウェイ海戦も付け足してはいますが。
そういえば映画「機動部隊」では、主人公のクーパーが大鑑巨砲主義の海軍上層部に、
「日本軍の攻撃は、これから艦隊戦は航空機の時代であることを教えた」
みたいなことを言っていましたっけ。
もしかしたら真珠湾攻撃をやった山本五十六っていわゆるひとつのパイオニア?
そういえば東京裁判でも、同じ海軍軍人として真珠湾攻撃を称賛すると言う言葉を
永野修身にわざわざ伝えたアメリカ軍人もいたと言いますね。
キャットショット。猫撃ち?
昔ペルシャとエジプトが戦争になった時、ペルシャの軍隊が盾に猫をくくりつけて、
猫を神の使いとするエジプト兵が攻撃できなくするというものすごーく卑怯な
防御法を編み出し、実際にそれで勝ったという話もあった気がするけど関係ある?
キャプションには、
1954年、インテレピッドからカタパルトで離艦遷都する
ヴォート7FU3「カットラス」の周りからはスティームが立ち上っている
と書かれてあるだけ。
これは「カタパルト( catapult )」のCATで猫は関係なかったのでした。
そういえば、先日見学した「ロナルド・レーガン」の管制士官が、なにかというと
「キャッツ」「キャッツ」と言っていましたが、こういう風になんでも
略して発音するのは、帝国海軍の伝統を引き継いだ海上自衛隊だけではなかったのね。
続く。