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百三回目の桜〜横浜鎮守府司令長官庁舎一般公開

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旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開、
わずか1時間ほどの見学から知る歴史や秘話。
いつもながら歴史的な遺物を見ることは、それだけで終わらせず
後から探求することによって知ることの愉悦を与えてくれます。


ここが一般公開の時しか見学できないというのは残念ですが、
横須賀地方総監部の管理下にある以上、管理人を置いたり、
ましてや見学料を取ったりすることができないのでそれもやむなしです。
この近くには横須賀地方総監の官舎もあった(はずな)ので、
不特定多数の人々が立ち寄るようになると警備の点でも困るでしょうし。 


ところで、地方総監というのは旧海軍でいうところの鎮守府長官です。
つまり、海自は旧海軍で長官庁舎だったところの近隣に
現在も地方総監の官舎を構えているというわけですが、何か理由があるのでしょうか。

これは想像でしかないのですが、ここは昭和37年まで横須賀に進駐していた
米海軍の長官公舎として使用されていました。
この頃までには海上警備隊から名前を変えた自衛隊はすでに横須賀地方総監を
この地に置いていましたが、米軍がまだいたためここを使用することができず、
したがってわざわざ近隣に地方総監用の官舎を建てたのではなかったでしょうか。

当時の地方総監は初代から始まって全員が海軍兵学校卒でしたから、
(防大1期が総監になったのは1989年のこと)我々が思う以上に
この鎮守府庁舎の意味は彼らにとて大きかったのではないかというのがその理由です。

しかし結局、旧鎮守府長官庁舎に自衛隊の地方総監が入居する日は二度と訪れませんでした。



大きな意味、というのは海兵出身の海軍軍人にとって、これらの有名な海軍の先輩が
ことごとく住んでいた官舎に自分も住む、という感慨でもあります。

例えばここには日露戦争では「三笠」の砲術長だった加藤寛治がいますね。
加藤と同級生の安保清種も日本海海戦のとき「三笠」砲術長でした。
この人が、ドミトリードンスコイ=「ごみ取り権助」の張本人、じゃなくて
発案者です。(いわれてみればいかにもそんなことを言いだしそうな顔です)

のちに総理大臣になって226事件では邸宅を襲撃された岡田啓介、
「大角事件」で軍拡路線の邪魔になりそうな山梨勝之進、堀悌吉らを
追放して今日やたら評判の悪い大角岑生の顔も見えます。



海上自衛隊の父となった野村吉三郎、そして最後の海軍大臣米内光政。
開戦時の軍令部総長であった永野修身、近衛内閣時の海軍大臣及川古志郎。

及川といえば、東條英機に「戦争の勝利の自信はどうか」と聞かれた時、
「それはない」と答えた話が有名ですが、彼に限らず海軍の上層部は
皆このくらいのことはわかっていたんだろうなという気がします。



27代から30代までが一人を除きビッグネームで、以降が戦史的に無名なのは、
横須賀鎮守府長官は「これから出世する役職」であったからだろうと思われます。

第44代の塚原二四三は、終戦直前に大将になった人で、なんというか
本人には気の毒なのですが、「大将になりたい」ということしか
(あんな戦況の最中)眼中になかった、という風に書かれています。

すでに同期の出世頭だった沢本が19年3月に大将に昇進し、
南雲も同年7月にサイパン島での戦死して大将に昇進したこともあり、
実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて
戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。
時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、
塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。
昭和20年(1945年)5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が
海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に大将に昇進。
「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、
塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。(wiki)

井上成美のような意見はどちらかというと少数で、大抵の軍人は
中将まで行ったらできれば大将で軍人人生を終えたい、と思うのが
普通というか、人間ってそういうものだと思うのですが、
どうしてこの人だけがここまで非難めいて言われるのか、
どなたかその理由をご存知ないでしょうか。



さて、そんな代々の横須賀鎮守府司令長官たちが毎年この季節に見た桜。
おそらく戦前にはここで今のように「観桜会」が催されたに違いありません。



庭の広さは13,000㎡。
桜を始め、百日紅、紅葉などの古木が残されています。
今咲き誇る桜は、この100年間、毎年同じ時期に花を咲かせてきました。



この長官邸のその時その時の居住者が、同じ桜の薄紅色に
それぞれどのような思いを込めながら見入ったのか・・。
野村吉三郎は、米内光政は、及川古志郎は、そして塚原二三四は・・(´・ω・`)

そんなことをつい考えてしまう場所です。



今年の一般公開の期間、この地方はずっと花曇りでしたが、
晴れた空と陽の光の下で見る桜とは又違った風情が楽しめました。



染井吉野だけではなく、濃い紅色を持つ種類の桜木も咲き誇っていました。



というわけで、庁舎をあとにして出てきました。
タクシーの運転手さんから一応電話番号をいただいていましたが、
町並みを楽しみながら歩いて行くことにしました。

この画面の、異様に高い丘の部分はなんでしょうね。
木が残っているので、かつて山の斜面が削られた跡かもしれません。



そしてこれ。
塀の向こうに、明らかに昔からあるらしい建造物が・・。
昔は防空壕だったとか?



タクシーの運転手さんは、ここに行くには「旧裁判所跡」といってもいい、
と教えてくれましたが、その跡のようです。
そんなに老朽化した建物ではないような気がしますが。

簡易裁判所は平成24年に新港町に移転したばかりだそうです。



帰り道発見した古い魚屋さんの看板。
もう営業は行っていないようですが、古くからここにあったのでしょう。



さらにこの近くには、現在も営業中(多分)の八百屋さん。
長官庁舎があったせいでこのあたりは空襲を受けなかったため、
このような建物が戦災で失われることなく残ったんですね。



通りがかりの男性が(多分一般公開に来た人たち)大正か昭和初期のものだろう、
と話し合っていました。
看板の文字が右から書かれているのでその通りだと思われます。

さて、わたしはこのあと、商店街を眺めながら横須賀中央駅付近に帰ってきました。



「みかさ」というショッピングアーケードに横須賀土産の店があるので
入ってみたら、3階はなんと展示室。
写真を撮るのを忘れましたが()旧海軍の制服や、なぜかこのような
意味ありげな(これなんだろう)コーナーがあり、



地元の模型クラブの作品が展示されていました。
ちなみにこれは昭和19年に行われた松号輸送作戦を再現したもの。

松輸送はこの時期にしては奇跡的というくらい損害がなく成功した作戦で、
米潜水艦からの攻撃を受けた艦があってもそれらが不発だったり、
あるいは発射した魚雷が円を描いて戻ってきて自分に当たる(ガトー級タリビー
などという信じられない日本側の幸運が相次いだことでも有名です。



階段の踊り場には、原画が飾られていました。

「史実ではたった10日で沈んだ幻の鑑」

・・・ったら「あれ」しかありませんよね?
横須賀で起工し、艤装を完成させるために回航中
米潜水艦に攻撃され沈没した・・・・

「あれ」がなぜ沖縄決戦に???
どなたかこの作品の詳細をご存知の方おられますか。



台詞の部分に字が貼り付けられているので、原画だと思うのですが、
どんなに眺めてもペンや塗ったあとが見えませんでした。

それにしてもプロというのは凄い絵を描くものだと改めて驚愕しました。



このお店で購入したお土産・・・といっても全部食べるものですが・・。
写真を撮るのを忘れましたが、これ以外にわたし自身のために錨を模った
ピンバッジを購入しました。

「肉じゃがカレー」「江田島海軍カレー」など、海軍カレーの発展形?
というコンセプトと思われる新商品が出ていました。

このなかで食べるのが一番楽しみなのが「陸軍さんのライスカレー」。
なんで横須賀で陸軍さんなんだよー。



さて、級横須賀鎮守府司令長官庁舎の庭にある見晴台からは、
こんな光景が臨めます。
向こうに見えているのは観音崎。

ここの主が海軍軍人であったころ、まだここには東京湾を防衛するための
砲台が装備されてはいたものの、ほとんど何もない土地でしたが、戦後、
ここに指揮官育成のための教育機関たる防衛大学校ができることになります。

かつての司令長官たちはこの季節、必ず一度はここに立って同じ景色を眺めたでしょう。

同じこの場所で103回目に咲いた鎮守府の桜。
激しい変遷を伴って泡沫のように過ぎた時間が信じられないくらい、
それはまるで奇跡の如く昔と変わらず鮮やかに、そこにありました。


 


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