2013年の3月、読者の方に市ヶ谷の防衛省見学ツァーを教えていただき、
午前中の回に参加して見たものをここでご報告したことがあります。
中でもインドネシアから友好の印として贈られたスディルマン将軍像について
書いたところ反響があったのも、つい最近のような気がしますが、3年前なんですね。
今回所属する防衛団体の企画で、新年の賀詞交換会、靖国神社昇殿参拝に続き、
この見学ツァーが申し込まれていたので、行ってきました。
わたしのカーナビはなぜかいつもこの道を選択します(笑)
本日国会は小委員会が開催されているようでした。
いつもの市ヶ谷ホテル(仮名)に車を停めて正門前に集合。
今回のツァーは雪の後の影響か、20名くらいの少人数でした。
人気のこのツァー、いつもはもっと人が多いのだそうです。
左手に見えているのは通信棟の巨大アンテナで、ここから
陸海空の全ての部隊への通信が一手に行われるため、棟入り口は撮影禁止です。
この前日の賀詞交換会の席上、わたしはここにお勤めの、昔でいうところの
情報将校と名刺交換してお話ししていたところ、偶然その方は観艦式で
わたしと同じ日に同じフネに乗っておられたことが判明し、驚きました。
さらには、そのフネの乗艦券を下さった方とその将校は同期。
またしても、あまりにも狭い世界に自分が首を突っ込んでいることを実感しました。
儀仗広場を見ると、思い出さずにはいられない「亡国のイージス」で
事件後、防衛庁に首相の車が到着するシーン。
後から聞いたのですが、あの映画のそこここには、現役の自衛官
(しかも当時の偉い人)がエキストラとして登場していたのだそうです。
「どこにいるかあててごらんなさい」
と言われ、制服のシーンだけを目を皿のようにして見直したのですが、
答えを聞いてびっくり、自衛官が制服を着て出ているとは限らなかったと・・。
って関係ないですね。次行きましょう。
案内は前と同じ、赤いコートの制服の女性でした。
ところで、わたしが受付を通るとき、ちょっとした混乱
(といってもざわめき程度ですが)があったので何かと注目すると、
何と中国人観光客らしい年配の女性二人が、このツァーを
どうやって知ったのか、参加したいと押しかけてきたので、
前もって名簿のための予約が必要であるからダメ、と断るのに
少し揉めていたようでした。
「日本語が全くわからないので断るのに苦労しました」
わたしと同行者(主催)にそのように説明したところ、
「この人が英語喋れますよ」
と同行者がわたしを指差して通訳にお使いだてしようとします。
「いや、もう大丈夫ですから」
しかし、日本語が全然わからないのにツァーに参加してどうするつもりだったのか。
なぜ、こんな防衛省の中に入りたかったのか。
中国人ならおそらく自国の国防省の中など一生見ることもないので、
開かれた日本国防衛の中枢たる防衛省内部を一目見ておきたかったのか。
それとも・・・・?
とわたしは渋々門を出て行く二人の中国女性を見ながら、このように思いました。
今やどこにでも出没する中国人観光客、彼女たちも日本旅行の記念に、
他の観光客が行ったことのない、珍しい体験をしてみたい!
という無邪気な思いつきの結果、押しかけてきたのだと思いたいですが、
どちらにしても、勇気あるよねえ・・・。
係の女性は、ここに防衛庁時代六本木(現在ミッドタウンのあるところ)から
2000年に移転してきた経緯などを話しています。
庁舎の前を通り過ぎると、そこには移転された旧陸軍士官学校講堂、
戦後は東京裁判の舞台になった講堂と、三島切腹の部屋、そして
天皇陛下御在所だった便殿の間だけをセレクトしてコンパクトにし、
1998年、この場所に移設した「市ヶ谷記念館」があります。
ツァーには陸自の制服を着た自衛官が増幅マイクを付けて
案内嬢とともに説明をしていたのですが、この前に来たとき、
「この建物は当時の大きさですか」
と参加者の一人がうっかり尋ねてしまい、
「先ほど、移設したときにほぼ10分の1になっていると説明したんですが。
ちゃんと聞いていてもらえばわかるはずなんですがね!」
とえらく機嫌を損ねた口調で反撃されていました。
まあ、人の話をろくに聞かずに質問する方もたいがいですが、
おっちゃんも何もそこまで怒らんでも(´・ω・`)
今回は、3年前にはなかった装備、広角レンズを投入しました。
というか、コンデジと広角一本で乗り切りました。
こういう建物の外観では本当に優れた画角が得られます。
全部収まってなんて美しいんだ、と今更ながら広角レンズに感謝。
ちなみに三島切腹の部屋にあった以前の建物。
昔はこの中央に桜、その前の陸軍士官学校時代は菊の御紋がありました。
桜の紋章は現在記念館入り口の玄関ロビーに飾られています。
隣の時計は昔の1号庁舎のシンボルだったもの。
参加された方はご存知かと思いますが、この後一行はずいっと中に入り、
右手にあるスクリーンに映される「市ヶ谷の歴史」を鑑賞します。
最初に必ず説明されるのがこの床は、昔からのものを忠実に、羽目板一つ一つに
番号を振って、再現したものであること。
つまり、ここで起こった歴史の登場人物が踏みしめた床そのものであるということです。
その際、必ず、東京裁判のとき証言台のあった場所に今置かれている椅子が
どこかが示され、たまたまそこに座っている人が感激?するという流れ。
ちなみにこの写真でも破損・紛失し組み木ではなく四角い板に変わっている部分が見えます。
この、1937年の建設当時には超モダンだったと思われる中央横の反響板は、
中央にあった当時の玉座に向かって斜めに設計されており、
そのために玉座が非常に遠く見えるという効果を生んでいます。
このドアからは、東京裁判のときに左側に並んでいた裁判官席に向かう、
ウェッブ裁判長やパル判事などが、何度となく出入りを行いました。
これが床に立って見た後方。
こちらが玉座から見た室内全景です。
これはとりもなおさず玉座におわす天皇陛下と同じ目線で見る景色でもあります。
そこで気づくのが、正面1階の5つのドアの部分、天井が異様に低いことで、
二階バルコニーがほとんどここからだと同じ高さであること。
これは天皇陛下を「見下ろす」という席にならないように工夫された設計で、
ドアの高さとバルコニー下の高さを全く同じにして、バルコニーを下に持ってきました。
ただ、それだと設計上二階の位置が建物の他の部分と合わなくなります。
そこで、わざわざ入ってすぐの部分にこのような傾斜を付けました。
こちら反対側。
左に座っている人がいるところまでかなりの傾斜が設けられています。
この写真でいうと、前から2列目の一番左あたりが・・・、
この写真での被告台であったということです。
二階席は被告家族席、被告はここに写っていない左手の窓際でした。
天皇陛下の御為に、をまず設計の中心に据えた講堂ですが、前回も
説明をした、「天皇陛下専用の階段」もそうですね。
右側は玉座に向かう陛下専用の階段。
こんなところに階段を二つ並べるなんて、と戦後接収したアメリカ人は
その一見不合理さをさぞ不思議に思ったに違いありません。
天皇を決して訴追せぬこと、という命令を合衆国大統領から拝していた
ジョセフ・キーナン検事は、戦後日本国民を「統治」していくためには
それがいかに重要なことであるかを、東京裁判でここを訪れた時に
この階段の造りを見て心から納得したと思われます。
というわけで前回と同じく玉座に上がることもできました。
市ヶ谷ツァー、続きます。