去年の夏見学してきた空母「ホーネット」艦内の博物館の展示に基づいて
今日は一つのテーマでお話しします。
唐突ですが、皆さん、今日は何があった日かご存知ですか?
1942年といいますから74年前、横浜横須賀を中心に、
アメリカ陸軍の爆撃隊による本土爆撃、「ドーリットル空襲」があった日です。
「ホーネット」博物館はドーリットル隊の説明にわりと力を入れています。
パイロットの控え室には、映画「東京上空30秒前」がモニターで放映され、
そこでドーリットル航空隊が出撃を待っているような演出がなされていました。
というのは、先代の CV-8「ホーネット」はドーリットル空襲の旗艦として
ウィリアム・ハルゼー中将が乗っており、さらにはこの甲板から
ドーリットル隊のB-25が飛び立ったからに他なりません。
パイロットルームだけではなく、ここにはドーリットル隊の記念品が展示されています。
まず、写真のケースに見えるのは陸軍の軍服ですね。
カーキ色の濃淡のジャケットとシャツにベージュのネクタイと帽子。
もちろんボタンは金と、色彩的にパーフェクトなデザインです。
航空隊のクルーには必須のレイバン型サングラスが時代を超越してかっこいい。
冒頭の写真は中央の左が、ジミー・ドーリットル少佐。
「パールハーバー」ではボールドウィン兄弟の長男が演じていましたが、
もう少し体重を減らせばかなり似ていたんではないかと思われる配役でした。
周りにいるのが整備員を含む航空隊の皆さんで、右側は飛行長でしょうか。
陸軍軍人になる前は、黎明期の飛行家でもあったドーリットルは、
航空に成績を上げた人物に贈られるハーモン・トロフィー、航空レースの覇者に
贈られるペンデックス・トロフィーをどちらも獲得していますし、
当時の不安定な飛行機で計器飛行の実験を史上初めて成功させたりしています。
学問的にもカリフォルニア大学バークレー校卒業後MITで学位をとっており、
アメリカ人の思う理想的なエリート軍人でもありました。
アメリカでは今日、ドーリットル准将はあの戦争の最大のヒーローのうち一人ですが、
その理由は、「ドーリットル空襲」を成功させたということに尽きます。
あの爆笑映画、マイケル・ベイの「パールハーバー」でも、わかりやすく
「開戦以来日本に押され気味だったので、アメリカ全軍と
アメリカ人の士気を奮い立たせるためガツンと一発東京を攻撃する」
とその意義が説明されていましたが、ここで留意すべきは、この作戦、
「帝都を攻撃した」という事実さえ残れば、実際の被害はどうであっても、その後
色々と戦争が捗るであろうという下心で計画されたということです。
だから後半にもいうように、かなりその戦果は事実を歪めて伝播されました。
しかしとにかく「パールハーバー」について書いたときも同じことを言いましたが、
サイパンもテニアンもまだ取れていなかった当時、アメリカ軍が航空機で
本土を攻撃してから中国に逃げる、なんて、いろんな意味でリスクが多すぎるわけです。
ルーズベルト大統領としては、これは「真珠湾の仕返し」というアピールを
国民に対してすることが第一の目標だったのですから、
たとえドーリットル隊の命は犠牲になっても、というかそうなったらなったで
アメリカ人はより一層復讐心に奮い立つであろうという下心もありました。
それを引き受けたとき、ドーリットルは自分自身を含め、攻撃隊全員が
生きて帰れる可能性はないかもしれないと覚悟したでしょう。
「もし不時着したらどうなるのか」
という部下の質問に対し、
「日本だって文明国だから心配しなくていいい」
とは答えていますが、自分は内心不時着のおそれが出たときには
適当な施設を見つけて自爆することを考えていたようです。
(これは映画のセリフにも採用されており、実際にそう言うか書いたかしたらしい)
そういう、いわば「決死隊」を率いた隊長の名が、アメリカ人にとって
今日現在でもヒーローとして賞賛されるのは当然のことでしょう。
大戦中にアメリカ陸軍航空隊で使用されていたナビゲーションキット。
正副操縦士、フライトナビゲーターの航空士がブリーフィングに使うもので、
この皮のパッドにA4のノートと鉛筆(鉛筆でないとダメ)、
航空地図と必要な飛行機のスペックなどが書かれたマニュアルが入っていました。
パッドとして膝に置いて使えるように堅牢な作りとなっています。
奥の分度器みたいなのはマーク・トウェイン式爆撃照準器。
アメリカ軍がトップシークレットで運用していたノルデン照準器については
以前このブログでもご紹介したことがありますが、ドーリットル隊は
この作戦に際し、ノルデン照準器を積まずにこれを携えていきました。
この名前は、これが制作されたのがマーク・トウェインが人生の大半を過ごした
ニューヨーク州エルマイラで作られたことからきているという説がありますし、
ノルデン照準器に比べてあまりにも原始的だからという説もあります。
(なんで原始的だとマーク・トウェインなのかよくわかりませんが一応)
また、「マーク・トウェイン」という言葉が船舶関係で何かの呼び出しに使われていた
とも言われており、何れにしてもはっきりした理由はないそうです。
ノルデン照準器のかわりにこのアルミ製の照準器を乗せた(というかポケットに入れた)
理由は、あまりにもノルデン照準器が重かったからでした。
長距離飛んで本土を攻撃し、さらにはその後大陸まで飛ぶという計画には
燃料はギリギリで、少しでも重量を減らす必要があったのです。
ちなみにノルデンの値段は当時の10,000ドル、マーク・トウェインは20セント。
ノルデン照準機は天候に左右されるなど、値段の割に使えなかったそうですが、
このときの戦果を見る限り、20セントの照準器の方はやはり「お値段それなり」で
全くその役目を果たした形跡はありません。(特に隊長機な)
というか、こやつら全体的にほとんど照準器なんて使わず、手当たり次第に
人を見たら攻撃していたようなのですが、これも安物の照準器が
結局役に立たなくてヤケクソになった結果、子供だろうが漁師だろうが、
とにかくジャップと見れば攻撃すりゃいい、と開きなおったとしか思えません。
フライトマニュアル。
これはかなり重たそうですが、本くらいは仕方ないか・・。
後ろにあるのがB-25Jの製品マニュアルです。
手前は、日本の模型メーカーの人が見たら激怒しそうなミッチェルのモデル。
わたしは模型の良し悪しはわかりませんが、それでもこれが
かなり雑なものだということぐらいはわかります。
手前は作戦参加記念の盾かなんかかな?
「日本が東京と横浜を敵機に襲撃されたと報告している」
ドーリットル空襲が成功した「らしい」と報じるNYTの紙面のようですが、
重要なニュースのタイトルをどうやらヘッドラインに4つ並べているようですね。
「犠牲者9名」「フランス大空襲」「リーヒ呼び戻される」
このときの犠牲者とは何の犠牲だったのかはわかりませんでした。
「LEHEY」とは元海軍軍人。
1940年にフランスがドイツに降伏してから駐仏大使をしていた
ウィリアム・リーヒは「呼び戻され」、ルーズベルト大統領の個人的な
軍事顧問、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 となりました。
それが1942年5月のことです。
つまりドーリットル空襲からすでに1ヶ月経っているということですが、
作戦の成否はこのころようやく日本の新聞などから成功だろうと思われた、
ということになるのです。
パッと見てしばらく何の地図か全くわかりませんでしたが、
これは日本地図の上に爆撃手が自分が爆弾を落としたところに印をつけ、
さらには色紙のように全員のサインが書かれた「記念寄せ書き」のようです。
この攻撃に加わった者のうち、戦死が1名、行方不明が2名、
捕虜となったのが8名で、残る隊員はアメリカへ帰還し、
8名のうち3名が軍事裁判にかけられ死刑、実は全員が死刑判決でしたが、
刑の執行を猶予されているうちに1名が獄中で病死。
戦後解放された爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーはキリスト教の伝道師となり、
日本で布教活動をしていたということです。
真珠湾攻撃の攻撃隊長淵田美津雄が伝道師になったのも、ディシェイザーの著書を
読んで感銘を受けたからでした。
ちなみに淵田はアメリカで伝導活動中、ドーリットルと対面したということが
自身の著作に書かれているそうです。
ところでアメリカでは今でもこのときの日本の捕虜死刑について感情的で、
まるで悪魔の所業かのように怒っているようですが、彼らはドーリットル隊が
なぜ裁判で死刑判決が出されたかの「理由」を知らされていないらしいのです。
前にもお話ししましたが、まず隊長のドーリットル機は小学生を含む民間人ばかりに
死傷者を出し、肝心の厚木基地は逃走の際素通りしただけで、要するに
軍施設には全くダメージを与えていません。
辛うじて13番機だけが横須賀鎮守府を攻撃し、「大鯨」にダメージを与えましたが、
あとは被害者は小学生だったり漁船だったり、これはもう国際法に照らして
どんなに弁護しても死刑不可避、というくらいの徹底した民間人殺戮となったのです。
決して意図したわけではなく冗談抜きで照準器が安物だったからかもしれませんが。
ところがですね。(笑)
英語のWikipediaで「Doolittle Raid」を見ていただければわかりますが、
肝心の日本側の被害(死者87名、重軽傷者466名、被害家屋262戸)
についてはここでも全く言及しておらんのですよ。奴らは。
爆撃機クルーの運命、たとえば彼らのうち一人が中国に不時着したとき
「落ちたのが肥溜めの上だったので幸運にも助かった」
なんてことまで詳細に書いているのにですね(笑)
「明らかに知った上で民間人に対する攻撃を行った」
とされる、校庭の生徒や、手を振った子供を攻撃したなどという事実は
アメリカではおそらくごく一部の学者しか知らないのではないでしょうか。
「パールハーバー」で描かれていたように、パールハーバーでは
日本側は民間施設も攻撃しまくり、逆にドーリットル隊は軍事施設にしか
爆撃をしなかった、とアメリカ人がいまでも信じている
(ドーリットル隊の名誉のためにそれだけを絶対に書かないので)
のであれば、そりゃ真珠湾であんなことを仕掛けてきておいたくせに、
捕虜3人も処刑しやがってジャップめが、と思ってもある意味当然です。
アメリカ人のいいところは「フェアネス」を重んじることのはずですが、
ことそれが国民的英雄の偉業に「ケチをつける」ことにつながるとなると、
これはもう官民一体で隠蔽にかかるものなんだなあ、と思ってしまいました。
まあ、未だに原子爆弾は正義の鉄槌だったなんて言って憚らない国だから
単純に考えても彼らの「公正」とはジャイアニズムに貫かれた
マイルールの下の「フェアネス」に過ぎないってことなんでしょうけどね。
ちなみに日本側の記述によると、
「死者のうち9名が日本軍高射砲の破片によると認められている」
とちゃんと正直に?申告されており、かなり中立だと思われます。
余談ですが、中国の軍事パレードに出席した国連事務総長の潘基文が
「国連は中立であるというのは誤解だ。中立ではなく公正なのだ」
と日本側にその立場を責められて開き直ったことがありましたが、
それでいうと、アメリカ側の記述も「中立ではなく公正」のつもりでしょうか。
英語でいうと「naturalではなくfairness」といったことになります。
では公正と中立は違う意味なのか。
我が菅官房長官は「言葉遊びをするな」とこれに対して不快感を表明しましたが、
国連が都合よく片側につき、それを「正義」とすることが「公正」だというのは
随分と便利な解釈もあったものだと感心します。(嫌味です)
ところで、またしてもいきなりですが、皆様は小さいときにH・ロフティング作の
「ドリトル先生シリーズ」をお読みになったことがありますか?
今にして思えば「ドリトル」って「ドーリットル」じゃなかったのかしら、
とつい気になって調べてみましたところ、案の定、
「ドリトル」=「DOLITTLE」
で、正式には「ドゥーリトル」という発音が正しいらしいことがわかりました。
「Do little」、つまり「少ししかしない」→「やぶ先生」というのが
もともとのこの「ジョン・ドリトル」ネーミングの「語源」だったのです。
この作品は20世紀初頭に書かれ、1925年にはすでにあの井伏鱒二の手によって
最初の作品が翻訳されていましたから、決して
「ドーリットル空襲の司令官の名前の悪印象からドリトルにした」
というような、つまらない配慮による変更ではなく、
単に「ドゥーリトル」が当時の子供には言いにくいだろうと、
井伏大先生が考えたからでした。
それに、よくよく見ると「ドリトル」は「少しの働き」を意味する
「Dolittle」ですが、ジミーの方は「Doolitte」、つまりoが一つ多いのです。
わたしはこれまで「ドゥーリトル」とこの名前を表記してきたのですが、
これはうかつにも、一つ"o"の多い「Doo」に注意を払っていなかったためです。
で、本日から発音も近いであろう「ドーリットル」に変えることにしました。
ちなみにこの一風変わった、(ドリトルも洒落で付けられた名前だし)
司令官の名前は、空襲後、彼我双方でネタにされております。
日本では爆撃後、
「ドーリットルの空襲はDo littleどころかDo nothingだった」
と言われたそうですし、逆にアメリカでは
「ドーリットルの偉業は決してDo littleではなかった」
とか
「Do Doolittle」 「Doolittle dood it!」
などというのが流行ったということです。
戦争の向こうとこちら側なので、もちろん言っていることは逆になるわけですが、
どちらもが「ドーリットル」の名前をあえてネタにしているのが面白いですね。
続く。