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市ヶ谷記念館〜防衛省見学ツァー

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市ヶ谷記念館が法廷として使われていた時のことを書くのに、
昔のエントリを検索したら結構詳しかったので、それをベースに
前回のブログを製作したわたしです。

展示物についてはそれこそひとつ残らず紹介し尽くす勢いで
ここにアップしたので、今日は駆け足でいきます。



そう、駆け足で・・・・
と、いつもこの義足を見るとギョッとしてしまうのですが、誠にリアルな出来ですね。

わが国で義足が戦傷者に与えられた最初の戦争は西南戦争だそうです。
戦傷者に対し、できるだけ元の姿で故郷に帰してやりたい、という意図で、
オランダ製の義手・義足が配布されました。

日清戦争では戦傷というより凍傷や栄養不足で手足の切断をした負傷兵に
昭憲皇后陛下はお心を傷められ、

「軍事に関して手足を切断したる者は、軍人と否とを問わず、彼我の
別なく、人工手足を」

との御沙汰があり、皇后陛下の御手元金から義手、義足、義眼が製作され、
敵味方の区別無く下賜される運びとなったのです。
捕虜を含めて、義手、義足、義眼がすべての負傷兵に与えられました。

ここにある義足は、そのうち陸軍兵に御下賜されたもののひとつです。
このころは義手・義足は装飾としてのものでしたが、この後、
日露戦争のころにはそれらに機能的な仕組みによって
日常の動作ができるように工夫されたものが開発されるようになります。



左側の陸軍軍装は、阿南惟幾大将が着用していたもの。
右側は陸軍中将の正装です。



第20師団を率いてニューギニア戦線でオーストラリア軍と戦い、
そこで散華した小野武雄少々の遺書がありました。

同地で終戦を迎ええたとき、当初25,000名だった兵力は、
飢えとマラリアにより生還できたのはわすか1,711名でした。

 
右の大越兼吉中佐は日清戦争の奉天会戦において、伝令が負傷したため
自らが伝令となるも、腹部に銃弾を受け、自決をしております。
書翰(しょかん)というのは手紙の意です。



東京裁判ではこのように大きな地図が何度となく審理に用いられました。
これは、マッカーサー率いるGHQが、日本地図株式会社 (当時)に注文したものです。



前もお見せしましたが、降下始めの直後だったので、ついまた撮りました。
海軍落下傘部隊はメナド・セレベスに降下して戦果をあげています。 

インドネシアには昔から、

「我々を白い人の支配から解き放つ人々が白いものをかぶって空から降りてくる」

という言い伝えがあった、ということは一度ここでも書きましたが、
まさにこの瞬間のことだったのです。インドネシアの霊能者有能。 

 

マレーの虎こと山下奉文大将の手紙。
前回、山下大将の裁判と処刑を通していたく感銘を受け、日本人に対して
畏敬の念を持つに至ったケンワージー憲兵隊長の話をしましたが、
山下大将の人間の器の大きさに心打たれた人間は彼我双方に多くありました。

たとえば、東京裁判で日本人被告の弁護をしたジョージ・ファーネス大尉もその一人です。 

この達筆であるだけでない、格調高く流麗で気品ある筆致を見ても、
山下奉文という人のただならぬ人間力が感じ取れる気がしませんか。



これも前にもご紹介したけど、もう一度。
比叡が進水式を行った時、記念に配られた文鎮セット。

魚雷、スクリュー、錨に・・昔はわからなかったけど今ならわかる(笑)
砲塔の形をした文鎮までありますね。
ひっくりがえしたウォーターライン模型のうらには「ひえい」と書かれています。



昔東京裁判で裁判官席であった向かって左の窓際には、
このようにかつて軍人が持っていた刀が飾られています。
これは荒木貞夫大将が愛用していた軍刀で、今でも恐ろしいくらい光っています。

226事件の時には思いっきりこの人の話をしましたが、
日頃から若い将校たちを可愛がり、下克上の雰囲気を作る原因になったのも
この人のおおらかさであったという話もあります。
皇道派青年将校のアイドル的存在だったのに、いざ青年将校が蹶起すると
自重を求める立場に鞍替えしてしまいました。

東京裁判では終身刑の判決が出ましたが、恩赦により世に出てから
講演・歴史研究などを行い、講演先の十津川村で客死しました。


さて、1階フロアの展示物見学は約20分間自由に行われ、その後
一同は階段を上って2階に上がりました。
そこには前回もここでお話しした総監部長室すなわち三島事件の現場、
そして旧陸軍士官学校時代、天皇陛下や皇族方の控え室であった
旧便殿の間があります。



これが移転前の市ヶ谷庁舎。
今は正面玄関を入るとすぐに講堂だった部分に接続していますが、
この写真でいうと当時は緑の屋根の部分にありました。

そして、便殿の間は手前の角部屋の2階部分だったそうです。
三島由紀夫が人質を取り、自衛隊員に向かって演説をしたバルコニーと
それに続く部屋は、正面玄関とともに残されました。

つまり、存続と取り壊しの折衷策として、歴史的に意味の深い部分だけを
抜粋してつなぎ合わせたのが、現在の市ヶ谷記念館ということになります。



今回改めて広角レンズで部屋の全景を撮ることができました。
ここであの三島事件が起こったわけですが、移転に際して全てが交換され、
当時のままであるのは窓枠やドア、照明器具、壁の装飾などだけです。



しかし、そのドアには事件の時に付けられた刀傷が残されています。
案内は、「誰の刀傷かまではわかりません」と言っていましたが、
三島一行と自衛官の間で乱闘になった時の状況というのは、

総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、
川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、
すぐさま三島は日本刀・“関孫六”で背中などを斬りつけ、
続いて木刀持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、
「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した。
この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、
大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。
この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った。(wiki)

ということなので、おそらく三島自身の付けたものであると思われます。



最初に幕僚たちが突入し、刀傷が残ったのがこの右側のドア。



写真だけではわかりにくいので、傷の部分を丸で囲んでおきました。

わたしは防衛団体の宴会の時、三島事件のときに警衛として駆けつけ、
このときの乱闘で刀傷を負ったという元自衛官と話したことがありますが、
その方はこの刀傷の乱闘の後、反対側のドアから突入してきたということになります。

三島と盾の会との乱闘で負傷した自衛官は全部で8人でした。



三島が窓から外に出るときに見た同じ景色。
このバルコニーで三島は演説を行いました。
そして、その声をヘリの爆音で消され、自衛官たちに野次られた三島は

「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。
男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。
それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、
自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ」

「諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか」

と問いかけ、そして絶望して同じ窓から部屋に戻って自決します。



事件後、警視庁から駆けつけた佐々淳行が、総監室に足を踏み入れたとき、

「足元のじゅうたんがジュクッと音を立てた。みると血の海。
赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」

と述懐したということですが、改装後の絨毯も、全く同じ緋色をしています。
同行者の誰も気づいていませんでしが、わたしは前回来たときに
この部屋の窓枠に水をたたえた湯飲みが置かれているのに注目していたので、
今回も同じ場所にそれを探すと・・・・。

今、この湯飲みには水ではなく塩が盛られていました。
水を交換するのを誰が行うかとか、いつやるかについて、
市ヶ谷記念館の管理の中で色々と話し合いが行われた結果でしょうか。



続いてとなりの「宮便殿の間」へと移動。
窓の下の通風孔は地下とつながっていて、夏の暑い間
クーラーのない当時でも陛下に心地よくおすごしいただけるよう、
冷たい空気が送られていたといいます。



窓の上枠にも網目のある小さな通風孔が確認されます。



両側に計二つ。
当時は今のようにクーラーの熱がなかったため、夏であっても
この程度の冷気で十分室内は冷えたものと思われます。

また、この便殿の間に限り、扉は外開きになっていました。
その理由は、

「陛下が御在所の際には、扉から人を迎え入れることはないから」

 

現在市ヶ谷記念館に移設されて保存されているのはこのふた部屋だけです。 
よくまあこれだけ必要最小限だけを残してコンパクトな記念館に作り変えたもので、
その建築と移設技術にまず驚かされます。

二階から玉座を臨むと、説明されたように「同じ高さ」には見えませんでしたが、
ここに腰をかけ、玉座の高いところにやんごとなき方々がつかれて、
それでようやくぎりぎり同じ目の高さになるのかと思われました。


続く。 


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