さて、我々は最後の予定地に向かいました。
「鉄の歴史村」が通称である、菅谷たたら山内(さんない)です。
朝早かったので、わたしはバスの移動の度に細切れの睡眠をとっていましたが、
同行者の皆さんは先ほどの物産展で買い込んだ地酒「玉鋼」を
コップでちびちびとやりながらもう宴会気分。
お酒の好きな人はこういう楽しみがあっていいなあと思います。
目的地に着く度にだんだん皆の顔が赤くなっていくのがシュールでしたが、(笑)
結局一升瓶が半分空いたそうです。
そして、最後の見学地、ここが凄かった。
国の重要有形民族文化財となっている「菅谷たたら山内(さんない)」。
ここはかつてたたら師たちの集落でした。
日本で唯一たたらの面影を偲ぶことができる場所です。
「山内」とは、製鉄施設と職能集団の移住空間の総称です。
この建物は「大銅場」。
鉄を溶かして最初に生まれる「(けら)」を割る作業が行われました。
建物の中には約200貫の大きな分銅が吊ってあり、これを落としてを粉砕したそうです。
その分銅を持ち上げるのは水車の回転する力を利用しました。
水車によって取り込まれた川からの水は、製鉄に使われたり、
溶けた鉄の塊を最初に投入するための人工池に注ぎ入れられたりしました。
どのように水を引き、どう分銅をひっぱったのかはわかりません。
水路は一部だけがこのように保存されています。
この辺一帯がたたら師たちの生活の場そのものでした。
しかし、今時このような風情が残された(再開発ではなく)集落が他にあるでしょうか。
岡本太郎氏が島根国体のモニュメントを依頼されて出雲来訪したのですが、
鉄の博物館などでは超不機嫌だったのが、この景色を見て上機嫌になったそうです。
解説をしてくださったのは、ここで生まれ育ち、
小さい頃はここを遊び場にしていた、という方でした。
後ろには「たたら侍」という映画のポスターがあります。
よくわかりませんが、EXILEの人たちの映画みたいです。
EXILEについてはわたしは曲以外のことはあまり知らないのですが、
伝説の地 奥出雲に 天下無双の鉄があるという
名刀を生み出す 唯一無二の鉄、玉鋼。
生まれたときから玉鋼を作ることを宿命づけられた男が、
侍に憧れて旅立った。
後に人はその若者を「たたら侍」と呼んだ。
というサイトからのあおりを見る限り、面白そうです。
EXILEの青柳翔、AKIRA、小林直巳、三人のポスターは
この菅谷高殿で撮られ、(映画もね)今島根県下で見ることができます。
『世界に誇る日本を最高のエンタテイメントに』をキャッチフレーズに、
2016年の冬以降(っていつのこと?)公開されるそうなので、
是非そのときは脚を運んでみたいと思います。
先ほど解説の人が立っていたのはこの内部。
なんと!築200年なんだそうですよー。
ガラスは所々歪んでおり、それが100年くらい前のもの。
もっと古いガラスには気泡が入っているものがあるのだそうです。
出来た当初はガラスはなく、戸板だったのではないかということでした。
水車小屋の向こうに凛として枝を伸ばす大木は、たたら師たちの
「御神木」とされてきた桂の木で、樹齢200年と言われています。
たたら師たちがここで操業を始めた頃に植えられたことになります。
木の幹にはお賽銭箱がくくりつけられ注連縄が貼られていました。
ちなみにこの横にあるカーブミラーですが、
曇ってしまって何も映っていません。
今は葉を落としていますが、秋の紅葉は見事だそうです。
左から築200年の住居であった三軒長屋、そして米倉。
今工事中なのは元小屋といい、事務所のような役割をしていた建物です。
そしてここが文化財の中心である菅谷高殿。
企業たたらとして固定した施設で製鉄を行った跡です。
宮崎駿氏もここにたたらの見学に訪れました。
ここは1751年にこの施設でたたら製鉄が始まり、
170年間の長きにわたって操業が続けられ、大正10年にその火が消えました。
手作りよりも機械化された産業製鉄の方が安価に大量の鉄が取れるからです。
しかし、純度の高い「和綱」でないと日本刀はできません。
皆さんは「靖国たたら」という言葉をご存知でしょうか。
たたら製鉄が大規模な近代製鉄にその主役を譲った後も、
陸海軍の将校が必要とする軍刀は相変わらず「たたら」で作られました。
終戦末期になって鉄が不足してきたとき、「一応鉄」というだけの刀が
出回ったそうですが、当初は特に士官の指揮刀、海軍士官の短剣は
ちゃんと「和鋼」から打ち出した刀だったのです。
昭和8年、軍刀の供給を目的とした「日本刀鍛錬会」が創立され、
「和鋼」を作るために、鳥上(斐伊川上流)に「靖国たたら」ができました。
そこで終戦までたたらが行われていましたが、昭和20年、敗戦とともに途絶えました。
ときは流れて昭和52年。
「靖国たたら」は「日刀保たたら」と名前を変え、
技術と伝統の保存を目的に昭和52年、復活されました。
先ほど博物館で見た巨大なたたら炉は、この日刀保たたらのものです。
日刀保たたらは毎年2月「たたら」操業を行います。
まず炭を作り、炉を作ることから操業が始まります。
炉の下から風を送りながら、木炭と砂鉄をかわるがわる入れていきます。
(このとき人力のふいごを使うのかどうかはわかりませんでした)
時間がたつとともに、砂鉄は還元され鉄になり、 さらに炭素を吸収して
ズク(銑鉄)が炉の下の穴から流れ出てきます。
そして最後に「(けら)」できるのです。
炉を燃やし続ける作業は70時間、計3回行われ、
約2トンの玉鋼が生み出されます。
この玉鋼は、約250人いる全国の刀匠に配られ、刀として命を吹き込まれます。
ここには村下の一番偉い人が座って作業を監視しながら指示を出していました。
ここでも作業は冬に行われたのか、一人用の火鉢跡があります。
天井が高くないと、熱を取り込むための酸素が不足します。
なにより、数千度の火が燃え盛るのですから、低いと火事になってしまいますね。
向こうに向かって坂になっています。
石炭を集積していた場所だと思います。
これが炉。
ここに投入された砂鉄は、木炭の燃焼によって還元、溶融され、
そののち鉄塊が生成されるのです。
炉にはふいごから空気を送り込むためのパイプ(竹ですが)が
このように均一に炉の底に連結しています。
そして、ここではこのようなふいごを踏んで風を送り込みました。
1時間踏み続け、「代り番子」で休みなく高温の火を保ちます。
たたらは砂鉄と木炭を交互に装入する3昼夜の操業の後、
できあがった鉄の塊である約2.5トンほどの「(けら)」を釜から出します。
この釜を壊す作業とそののちを引き出す作業を「(けら)出し」といいます。
一連のたたら操業のなかで、クライマックスともいえる場面です。
使用済みの炭を捨てるところだったと思います。
このように至る所に隙間ができているので、高殿の中は震え上がるくらい寒かったです。
外に出てホッとしたくらいでした。
高殿の道を挟んで向かいには、かつて人工池の跡がありました。
(けら)出しのとき真っ赤にに焼けたをここに落とし込むのです。
そのとき、鉄は凄まじい音を立て、瞬時に水が燃えます。
工事が完了したら改めてここを訪ね、今度はたたら関係者だけが住んでいた町が
今はどうなっているのか、集落を歩いてみたいと思いました。
飛行機の上から見た島根県は、山あいに小さな集落があるのに気がつきましたが、
それらはこのような昔ながらの集落がそのまま残り、現在も人が住んでいるらしい、
ということを今回聞きました。
かつてのたたらの民の子孫たちは今、どのようななりわいを持ち
どのような暮らしをしているのでしょうか。
この川も、かつて製鉄のために引き入れたものだとこのとき聞きました。
たたらの民に製鉄を教えたのは「金屋子」という神様であったと伝えられています。
菅谷高殿のすぐ裏には「金屋子化粧の池」があり女神の金屋子神は
この池を鏡にして化粧をされるとされていました。
製鉄に女性が携わることができない理由は、この女神が嫉妬するからです。
宮崎駿監督も「もののけ姫」を制作するにあたってまさにここにきたそうですが、
あえてこの部分を無視して「女性上位のたたら」を創作しました。
村のトップにエボシ御前という女性を据えた関係でしょうか。
奥出雲の「たたらの里」を訪ねる旅。
EXILEの映画ではありませんが、それは日本の魂を再発見する旅になることでしょう。
皆様も如何でしょうか。
終わり。