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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

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本日タイトルはアメリカの「レジェント」といわれたスナイパー、
クリス・カイルを描いた映画「アメリカン・スナイパー」から取りました。

伝説のスナイパーとは、「白い死神」といわれたフィンランドのシモ・ヘイへ、
「ラマディの悪魔」クリス、「ホワイト・フェザー」ことカルロス・ハスコック、
記録の上では世界一である朝鮮戦争における中国の張桃芳などがいますが、
当然のように全員が男性です。
そもそも狙撃手に女性がなるということがないので当然ですが、
その中で何人かの「レジェンド」を排出している国があります。
 


先日、アメリカ軍における女性の登用について書きましたが、
第一次世界大戦で、女性の役割は看護師としてに限られていました。
唯一そうでなかった国が、ロシアでした。

女性の入隊を正式に許可していたわけではなかったので、女性は
変装したり(!)あるいは暗黙のうちに兵士として部隊に参加していました。
最前線のコサック騎兵の指揮を女性の少佐が執っていたという話もあります。

基本的に女性でもなんでも参加したければどうぞ、という感じだったのね。

マリア・ボチカリョーワという軍人は「婦人決死隊Women's Battalion of Death」
を率いて前線に立ち続け、西部戦線(レマルクのあれ?)でも戦っています。
ボチカリョーワは一度アメリカに亡命し、そのときにロシア軍の実情、
男装して戦っている女性兵士が数多くいることなどを著書にしていますが、
その後再び戦列に復帰するために帰国したところボルシェビキに逮捕され、
(これが最初の逮捕ではなく、前回、前々回と内部の者に逃がしてもらっている)
ついに銃殺されてしまいました。

そういう素地というかお国柄なので、当然ながらソ連となったあとも、
戦線には女性が普通に立っていました。

ソビエト連邦軍に所属していた女性は80万人と言われ、全体の3%でした。
1941年、ドイツがロシアを攻撃したとき、そのうち数千名が
隊から離れたということですが、全体数が多く、パイロットや狙撃手など、
特殊な技能を持って前線で戦う女性兵士はむしろ奮い立ったのです。

以前、「レニングラードの白百合」とあだ名されたリディア・リトヴァクと、
「ソ連のアメリア・イヤハート」、マリナ・ラスコヴァ、エカテリーナ・ブダノワなど、
ロシアの女性パイロットについて一度お話ししたことがあります。
彼女らは男性と同じ戦闘機で男性の部隊に加わって戦闘を行っていました。

ソ連は、女性が戦闘機に乗って戦うことを可能にした最初の国家で、
彼女らの中から少なくとも20名のヒーロー、そして二人のエースが誕生しています。

ソ連と共産主義国家のジェンダー事情についてわたしは寡聞にして知らないので
なんとも判じかねるのですが、もしかしたら人民平等を謳った共産主義とは、
ジェンダーフリーも内包していた(理想として)のかもしれないと、
このソ連という国家が前線に女性をバンバン投入したのを見ると思ったりします。

そんなソ連ですから、陸上部隊の戦力として女性に狙撃手をさせることにしたのも
ごく自然なことであったという気がします。

現在でもオリンピックのエアピストル競技は、男女共通で行われます。
2位と3位の男性が、小柄な優勝した女性を二人で抱え上げている写真を
(しかも彼女は東洋系だったと思う)見たことがありますが、
性差に関係なく結果が出せるのが、1対1で対峙することなく敵と戦える
銃撃手だとソ連は判断し、戦闘機パイロットがそうだったように、
志願した女性兵士の中から”レジェンド”といわれた女性狙撃手が出ました。

本日画像にしたのは、特に美人と言われた4人のスナイパーです。

左のリュドミラ・ミハイロブナ・パブリチェンコは、
たとえて言うならソ連のクリス・カイルのような存在だったと思います。
本日表題の「ロシアン・スナイパー」は当初の洒落のつもりでしたが、
パブリチェンコのことを調べていて、彼女の生涯を描いた2014年映画、

「ロシアン・スナイパー」

という映画があったことが判明しました。

Russia Sniper Army Meilleur Film d'action Complet en Francais 2014


フルでアップされているのですが、残念ながらフランス語版です。
パブリチェンコの銃撃シーンはとりあえず11分頃に見ることができました。


もともと学校のクラブで射撃部に入っていたパブリチェンコは、
ドイツが侵攻してきたときキエフ大学で歴史を学ぶ学生でした。
志願して狙撃隊に入隊した彼女は教育隊で驚異的な成績を上げ、
配属された部隊が行った防御戦では初陣にもかかわらず2名を射殺しています。

その後は独軍の侵攻を食い止めるため、前線に配備され続けましたが、
彼女は枯草で偽装して狙撃陣地に潜み、敵を一旦やり過ごしてから
その後背や側面に向けて700~800mの長距離から狙撃を行う、
という戦術を用いて多大な戦果を挙げたといわれています。

彼女が狙撃し射殺した公式の記録は309名であり、そのうち39人は
ドイツ軍の狙撃手(つまり同業者)でした。

短期間に少佐にまで昇進し、全軍にその名を知られるようになったため、
ソ連は彼女を失うことを恐れて教育隊の教官に任命し後方に下げました。

そして、国民的英雄である彼女の名声を利用して、軍は女子の狙撃手を募集し、
彼女に憧れた女性らが志願し、約2000名の狙撃手が生まれたそうです。


写真に残るパブリチェンコはシャープな感じのする美女ですが、
やはり美貌を謳われていた狙撃手にローザ・エゴロブナ・シャニーナがいます。

パブリチェンコより9歳年下(1924年生まれ)のシャニーナの名前は
ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルグから取られました。
戦争が始まるまでは学費を稼ぐために保母をしていたシャニーナは、
1941年にドイツが侵攻後、入隊していた兄が戦死したことで、彼女は
自分も文字通り銃をとって戦うことを決意します。

志願して女性狙撃手となった彼女は、1943年から2年間の軍歴の間に
少なくとも54人を狙撃によって殺傷したと言われてます。
自身も戦傷を負い、女性で初めて英雄メダルを授与されました。

1945年1月20日、東プロイセンの前線で歩兵将校を守るために戦っていた彼女は
胸に砲弾の破片が直撃し、翌日亡くなりました。
彼女の部隊はすでに78人のうち72人がドイツの自走砲によって戦死しており、
彼女自身も多分自分は戦死するかもしれないと手紙に書いています。

戦死したとき、彼女は20歳と10ヶ月でした。


中央上段のクラウディア・カルディナ・エフレモブナの写真は、まさに天使。
ロシア人にしては小柄で(157センチ)アイドルのようなキュートな女性です。

彼女は1926年、シャニーナより2歳年下です。
戦争が始まったとき彼女は15歳で、コムソモール(若者のための組合)
に働きながら参加していましたが、スナイパー養成過程が「セカンダリースクール」
で選択できるということを知り、受けてみることにしました。

彼女はそのとき17歳。養成過程の最年少でした。
この写真もその頃撮られたものだと思われます。
彼女は他のスナイパーのように多くを殺傷したわけではありませんが、
特筆すべきは高校生の年齢の少女が人間を殺すために戦線に立っていたという事実です。

クラウディア・カルディナインタビュー

ここに、2010年、84歳の彼女にインタビューした記事がありますが、
ここで彼女は 最初にドイツ軍が侵攻してきたとき、
そこにいた何人かの女性狙撃手は人を撃つのが初めてで
どうしても最初に引き金を引くことができなかったと語っています。
その晩、自分のことを「弱虫!弱虫!」と自己嫌悪にかられて罵り、
次の日にはマシンガンを構えたドイツ兵を彼女はためらわず撃った、と。

一番右、アーリャ・モロダグロワは、その発音不可能なミドルネームからも
わかるように、カザフスタンの出身です。
カザフスタンの人々には東洋的な風貌が多々見られますが、彼女も
大変オリエンタルに見える女性です。



1925年、カザフスタンのブラクで生まれた彼女は幼いときに両親をなくし、
(一説ではじゃがいも畑で不法侵入を疑われ撃ち殺されたという)
叔父に育てられましたが、その叔父がレニングラードに引っ越した際、
彼女を若くして軍の輸送業務を学ぶ学校に登録しました。

4年後、奨学金を得ることができた彼女はそのまま赤軍に入隊し、
そこでスナイパーとしてのトレーニングを受けることになります。

戦闘に投入されるようになったある日、彼女と戦友(女性)は
緩衝地帯で5人の「ファシスト」と出逢いました。
彼らが彼女たちが女性の狙撃兵であると気づくより少し早く、
アーリャは彼らに向かって銃を放ち、一人を射殺しました。
彼女の同僚たちもさらに二人を撃ち、残る二人を格闘の末捕虜にしました。
 


1944年、第43狙撃隊に参加してノボソコルニキの線路で敵を待ち伏せしていた
彼女がふと気づくと、隊長がいなくなっていました。
とっさに彼女は自分が指揮をとる決心をし、こう叫びました。

「祖国のために!進め!」

その号令で全軍がドイツ軍の塹壕に飛び込みました。
マシンガンの掃射によって部隊はドイツ軍を掃討することに成功しましたが、
アーリャ自身は白兵戦の過程で地雷の爆発を受けそれが致命傷となって死亡しました。

時に19歳。

彼女がその生涯で狙撃した敵将兵は少なくとも91名になると言われています。



彼女の記念館の様子も見られます。

Имена - Алия Молдагулова (RU)

4分頃、女子狙撃隊の訓練や更新の様子が見られます。



イラストでご紹介できなかった女性狙撃手以外にも有名な何人かがいます。

タチアナ(ターニャ)・バラムツィナ

1919年生まれ。最終回9伍長。24歳でドイツ軍の拷問にかけられ死亡。
狙撃した敵兵は20名と言われています。
情報を聞き出すために両眼をくり抜かれ、対戦車銃で射殺されるという
無残な最後を遂げています。

ナタリア・コフショワ

1920年生まれ、1941年戦死。
すぐれた狙撃手で、ドイツ軍が侵攻してすぐモスクワでの戦いに参加し、
そこで300名以上の敵兵を狙撃したといわれています。

彼女の最後は、敵の塹壕に手榴弾のピンを抜いて飛び込み、
敵を殲滅するとともに自分も死ぬというものでした。

ジーバ・ガニエワ

1923年生まれ、アゼルバイジャン出身。

ウズベキスタン・フィルハーモニーに付設されたダンスコースで学んでいたとき
ドイツ軍の侵攻がありました。
通信業務とスパイ活動を行っていた彼女は活動中に戦闘に巻き込まれ負傷します。

狙撃兵の女友達がいたこともあって、彼女はそのあと狙撃手となり、
モスクワ攻防戦で21人のドイツ兵を射殺しました。

戦後彼女は学業に復帰し、1965年には文献学の分野で博士号を取っています。 



ローザ・シャニーナの日記には、彼女がほのかな想いを寄せていた
一人の男性のことが書かれていました。


「ミーシャ・パナリンがもう生きていないということを受け入れられない。

なんていい人だったんだろう!彼は殺されてしまった・・・。

彼はわたしを愛していた。わたしは知っている。そしてわたしも彼を・・。

心が重い。

わたしはまだ24歳。だけどもう男の友達は作らない」


心を寄せていた男性の死を嘆いていますが、自分がもしかしたら
恋愛どころか人生を若いうちに終了せねばならないかもしれない、
という危惧を感じている様子は不思議なことにあまり感じられません。


こうして何人かの有名な女性狙撃手が歴史に名前を残していますが、
赤軍は彼女らをを持ち上げて宣伝に使い国民の戦意高揚に利用したため、
実際の彼女らの記録はかなり水増しされていたという説もあります。

しかも生存者は生涯、人を殺したというトラウマに精神を苛まれることにもなりました。
 

彼女らのような若い女性が、対独戦においては2000人投入されましたが、
終戦時に生き残っていたのはそのうちわずか500名であったといわれます。

 


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