日系二世部隊であるMIS(Military Intelligence Service) 、
14人の諜報部は、そのうち一人だけが白人の部隊で、
ビルマ戦線では「マローダーズ」のために任務についていました。
この写真はMISのヘンリー・ゴウショ軍曹と、「マローダーズ」のウェストン中尉。
ゴウショ軍曹も日系人収容所からMISに参加した組で、戦線で娘の誕生を知りました。
戦後は、1977年に「レンジャー・ホールオブフェーム」にその名を加えられています。
日系米人シリーズを書くために、山崎豊子の「二つの祖国」をもう一度読みましたが、
改めて思うのは、我々が想像するよりずっと、彼ら二世は「日本」に対して複雑な、
むしろ愛憎で言えば「憎」の側が勝った感情を持っていたのではないかということです。
日本人の両親から生まれても日本を見たことがなく、日本人というだけで
酷い差別を受けてきた上、アメリカ的には「スニーキーアタック」である
真珠湾攻撃によって一層自分たちの立場を悪くした日本。
アメリカが自分たちを非人道的に扱うのは「日本のせい」だと、むしろ
自分たちの不幸の責任を「日本」にすり替えて憎悪するものすらいたのではないかと。
日系人の中には、日本がミッドウェーで負けたというニュースを知らず、
快進撃を続け、そのうち勝つに違いないと期待を続けた者もいる、
と小説ではかかれていましたが、それは少数派ではなかったのか、と、
たとえば占領後の日本で、占領軍の先に立ち、
日本人に侮蔑的に振る舞う二世などの話を聞いて思わずにはいられません。
特に戦後の日本側の媒体で、この日系二世が良く描かれることは稀ですが、
特にアメリカ政府が日系人に対する迫害などを謝罪してからというもの、
アメリカ側からこの視点で日系アメリカ人を描くことはタブーでもあるようです。
前述の傲慢で無礼な日本人に対する態度、そして東京裁判における稚拙な日本語が
裁判の進行を甚だしく妨げた、などということはあくまでも日本側からの視点で、
現在のアメリカでは日系二世たちはアメリカのために日本やドイツと戦った
アメリカ合衆国のヒーローということになっています。
どうもわたしは日本人のせいか、442部隊は素直に賞賛できても、MIS、
特に沖縄で宣撫工作を行った日系二世兵士たちに対しては、感情的な部分で
「よくそんな立場に立てたなあ」というか、虎の威を借る狐を見るような、
わずかな嫌悪を交えずには見ることができないのですが、この複雑さもまた、
当事者である彼らが一番苦しめられたジレンマそのものでもあるのでしょう。
ところでみなさんは「メリルの匪賊」という言葉を聞いたことがありますか?
ない?それでは「メリルのマローダー」は?
「マローダーなら知ってるよ、飛行機の名前になっているし」
と思った方はわたしと全く同じです。
「メリルの匪賊」、というキャッチフレーズが日本では全く知られていないのも、
このビルマ戦線で苦労した、フランク・メリル隊長以下第5307編成部隊についての逸話が
日本では有名に成るべくもない(どうでもいい?)ものであったからに他なりませんが、
アメリカでは「Merrill's Marauder's」という映画にまでなっています。
Merrill Marauders (Original Trailer)
ビルマ戦線では、アメリカも結構大変だったんですねよくわかります。(適当)
映画では状況が悪くなって、隊の中で仲間割れして殴り合いなんかになってますね。
戦況を簡単に説明しておくと、もともとイギリス領だったビルマに日本が侵攻し、
イギリスを追い出して全土を制圧していたのですが、これを取り戻すために連合軍が、
終戦までに多大な犠牲を払ったというのがビルマの戦いの全容です。
「メリルの匪賊」というのは、1943年に日本の補給線を断つための戦闘に、
ブーマに投入された第5307隊のニックネームですが、
これは戦後になって、隊長だったメリル准将自身がつけたものです。
自分の名前をちゃっかり入れたあだ名を後からつけていることにご注目ください。
それはともかく、ジャングルに展開した「マローダーズ」は、重機も戦車もなく、
1000マイル以上を歩いて進軍し、日本の陸軍第18部隊と戦い、
これを倒してシンガポールとマラヤを散々苦労して制圧しました。
この戦いにおいては日系アメリカ人二世が多大な功績を上げたわけですが、
その働きはメリル将軍(最終)の言葉に要約されています。
「君たちがいなかったらどうなっていたかわからない」
はあそうだったんですか。
諜報部隊の二世たちには、その勇気と武功を評価され、
全員にブロンズスターメダルが与えられています。
真ん中、フランク・メリル将軍。
なんだかフライングタイガースのシェンノートみたいな人ですね。
このときのMISの隊長は、ウィリアム・ラフィン大尉といい、日本語学者でした。
父親がアメリカ人、母親が日本人で、1902年、日本生まれです。
日米が開戦となった時に彼らは日本にいましたが、収監を経て国外追放となります。
アメリカに帰国することを余儀なくされた彼は、ニューヨークに着いたその足で
MISへの入隊を決めています。
彼の場合は母の国から拒絶された思いが、日本と戦うことになることも承知で
軍へとその身を駆り立てたのでしょう。
隊長としてメリルの「マローダー」に配属された彼ですが、 乗機が零戦に撃墜され、
1944年5月にビルマのブーマで戦死しました。
ところで、日本はビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、
6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名だけでした。
この地で捕虜になった日本軍の将兵には、連合軍による非人道的な報復が行われました。
敗戦により捕虜になった日本兵が大多数だったため、連合軍は、勝手に
「降伏日本軍人」(JSP) という枠を設け、(捕虜とすると扱いが国際法に準じるから)
国際法に抵触しないギリギリで、現場ではリンチまがいのことも行われ、
この結果、半数が収容所の労務で死亡しました。
終戦になっていため、本来は条約により、多くの日本兵を一年以内に帰国(帰還)
させることが決まっていたにもかかわらず、英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC) は
日本兵から「作業隊」を選び、意図的に帰国を遅らせました。
兵士の労役の賃金は、連合国(英国)からは支払われず、日本政府が負担しています。
それだけではありません。
連合国軍は秩序の維持の為と称して、暴力・体罰を用いたり、銃殺を行いました。
窃盗などの軽い犯罪であっても処刑されたり、泥棒は即時射殺されたりしました。
連合国軍兵士は、日本兵に四つん這いになることを命じ、一時間も足かけ台にしたり、
トイレで四つん這いにさせてその顔めがけて小便をしたり、
タバコの火を日本兵の顔で消したり、顔を蹴ることも楽しんで行いました。
また、『戦場にかける橋』などで知られる泰緬鉄道を敷設した
「鉄道隊」に対する英国軍の報復について、
「アーロン収容所」の著者会田雄次はこんな話を聞いたそうです。
「イラワジ川の中洲には毛ガニがいるが、カニを生で食べるとアメーバ赤痢にかかる。
その中洲に鉄道隊の関係者百何十人かが置き去りにされた。
英国軍は、降伏した日本兵に満足な食事を与えず、飢えに苦しませた上で、
予め川のカニには病原菌がいるため生食不可の命令を出しておいた。
英国人の説明では、あの戦犯らは裁判を待っており、狂暴で逃走や反乱の危険があるため、
(逃げられない)中洲に収容したと言う。
その日本兵らの容疑は、泰緬国境で英国人捕虜を虐待して大勢を殺したというものだが、
本当なのかはわからない。
その中洲は潮が満ちれば水没する場所で、マキは手に入らず、飢えたらカニを食べるしかない。
やがて彼らは赤痢になり、血便を出し血へどを吐いて死んでいった。
英国軍は、毎日、日本兵が死に絶えるまで、岸から双眼鏡で観測した。
全部死んだのを見届けると、
「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、
生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」
と上司に報告した。
会田にこのことを伝えた人物は、
「何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」
と話を締めくくったそうです。
この収容所の地獄から生きて帰ってきた会田雄次は、「アーロン収容所」という著書で
日本が手本とした英国のヒューマニズムは英国には無かったとする主旨を著し、
「少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する
燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」
「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」
「(もう一度戦争した場合、相手がイギリス人なら)女でも子どもでも、
赤ん坊でも、哀願しようが、泣こうが、一寸きざみ五分きざみ切りきざんでやる」
と怨嗟の思いを書き残しています。
さて、終戦後日本からビルマを取り戻し、そこで散々日本人捕虜に虐待しておいて、
東京裁判では人道に対する罪と称して日本を「有罪」にしたイギリスはじめ連合国は、
最終的にはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失いました。
ビルマは1948年に独立を達成しましたが、戦後、同国と最も良い関係を築いたのは、
アメリカでももちろんイギリスでもなく、戦後補償をきちんと行い、
合弁事業によって国家の振興に協力し、戦争により破壊された鉄道、通信網の建設、
内陸水路の復旧や、沈船の引き上げなど、2億ドル(720億円)の戦争賠償と
5,000万ドル(180億円)の経済協力を行った日本でした。
ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、
大統領となった後も訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めたと言われます。
1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら
旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉である、
「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」
を授与しています。
日系二世たちは国家から忠誠の踏み絵を踏まされ、その結果、
選びとった祖国アメリカのために命を捨てて戦いました。
なんどもわたしが言うように、戦争に「どちらが正しい」はありません。
しかし、彼らが忠誠を誓ったアメリカはじめ連合国の大義は、少なくとも
ビルマやインドネシアなどアジア諸国において戦後否定されるという結果となったのです。
自分たち日系人が結果として、日本を叩き潰す、すなわち
大国側に立って植民地支配と人種差別を維持するための戦いを幇助していたこと
を、大抵の二世兵士たちは、おそらく考えてみることもなかったでしょう。
彼らのなかには、米国における日系人の立場を悪くした真珠湾攻撃を起こした国として
日本を純粋に憎み戦った者がいたかもしれないし、ラフィン大尉のように
「日本から裏切られた」という苦衷の思いで戦った者もいたでしょう。
日系アメリカ人たちは、激しい人種差別の中、よきアメリカ国民になるため、
祖国のために血を流し、遅かったとはいえ戦後それが国家から認められるに至りました。
しかしその祖国は、皮肉なことに、戦後、1966年に人種差別撤廃条約が締結されるまで、
日本がかつて国連で提唱した「人種差別撤廃提案」を拒否したこともある差別大国だったのです。
どれくらいの日系アメリカ人たちが、アメリカという大国の二面性を表す
この痛烈な皮肉に気づきながら、その旗のもとに戦っていたのでしょうか。