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横須賀戦前戦後〜横須賀歴史ウォーク

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横須賀ウォークで見た横須賀人文・自然博物館の展示、続きです。
横須賀に関わる歴史も自然もまとめて展示してあるので、
ナウマン象がいたかと思ったらペリーの座った椅子もあるといった具合で、
1日がっつりと見学すれば横須賀そのものがわかってしまうという仕組み。

で、ナウマン象の横に巨大なジオラマがあってですね、これが何かというと、



いま話題の?南海トラフがどう走っているかを説明しているのです。
この赤いランプの線が南海トラフですね。
この模型だと随分駿河湾から内陸に食い込んで伊豆半島を横切っています。
んー、これまぢでしょうか。

トラフとは深さ6,000mまでの海底の溝のことで、それ以上は『海溝』となります。
トラフというだけなら単に地形の名称に過ぎないのですが、
これが『南海トラフ』となると水深4,000mの、非常に活発で大規模な地震発生帯です。
模型の部分、駿河湾内にあるのは『駿河トラフ』とも言われています。

一定の年数ごとに地震が起こっているので、それでいうと、

「30年以内にM8〜9の地震が起きる確率は60〜70%」

逆に言うと起きない確率は30〜40%「も」あるわけですが、
まあこの数字をみると決して楽観できないですよね。
で、国の立ち上げた中央防災会議の評価によると、
もし南海トラフを震源とする地震が起こった場合、

この南海トラフ巨大地震による被害については、超広域に
わたる巨大な津波、強い揺れに伴い、西日本を中心に、
東日本大震災を超える甚大な人的・物的被害が発生し、
我が国全体の国民生活・経済活動に極めて深刻な影響が生じる、
まさに国難とも言える巨大災害になるものと想定される。

だそうで・・・・。
これによると駿河トラフは伊豆半島を分断して横須賀沖まで来ているので、
横須賀もそうなれば甚大な被害を受ける、ということでこの模型となったのでしょうか。


先日瀬戸大橋の耐震性について関係者からいただいた説明をしたとき、

「(安心なのは)岡山くらい?」

と書いたところ、専門家であるその方から即座に

「岡山で危険視されている断層としては、四国を通る中央構造線と長尾断層、
兵庫県との県境から北部に伸びる山崎断層帯、北東部の那岐山断層帯、
そして広島県境付近の長者ヶ原ー芳井断層ぐらいで、岡山市付近には大きな断層がない」

という詳細な説明をいただきました。
わたしが岡山といったのは決して地震学を学んだというようなことではなく、
単に当の岡山県人が口を揃えてそれを言っていたからです。

しかも、津波に対しても四国が防波堤の役割になっており、広島のように
大雨における土砂災害もほとんどない、とくれば、これはもう

「首都は岡山に移転させてはどうか」

と彼らがいい気になって(笑)いうのも無理はないというものです。
実際にも岡山には移住してくる危険地域の人が少なくないということです。



横須賀地方で漁業を営んでいた民家が再現されていました。
横浜の「馬の博物館」にも、馬と一緒に生活をしていた民家が
そっくりそのままどこからか移築されて再現されていましたが、
これも本当に人が住んでいたのに違いありません。

一般に漁民の暮らしは貧しく、このような家を建てられるのはごく少数でした。



土間部分は台所でもあったらしく、カマドがあります。
それにしても夏はともかく、昔の日本人は寒い家に住んでいたんだなと思います。
急いでいて写真を撮り損ねましたが、この周辺には漁民が冬に着た作業着、
目の詰まったいかにも重たそうな綿でつくった着物が展示されていました。



この地域で行われていた地引網漁法がジオラマです。
野比村(現在の野比)では「ウチマエ」といって、
大抵は親戚同士6〜7軒にひとつ地引網を持って操業していました。

三浦半島ではこのようにしてイワシ漁が行われていました。
見張りがイワシの群れを見つけると法螺貝を吹いて農作業をしている
ウチマエの仲間に知らせ、漁が始まったのです。



これ、なんだと思います?
木でつくった臼砲の模型なんですが、誰が作ったかというと浦賀奉行所の与力。
ただしこの与力がモデラーだったというわけではありません。

当時の横須賀の奉行所は海の最前線防御をになっていたので、同心や与力というのは
常に最新の情報を手に入れ、防衛について対策を練る過程で、
このような武器装備の模型を作る必要もあったのかと思われます。

いまいち模型の必要性というのも理由がわかりませんが。

この模型の不思議なところは、作られてから関東大震災、そして戦災があったのに
喪失することなく今日に形をとどめていることだそうです。



戦前の横須賀。久里浜海水浴場です。
横須賀は鉄道の敷設とともにいち早く近代化され、賑わった街でした。
繁華街も発達し、東京や横浜などの流行もいち早く入ってきました。
都市化が進む一方で、久里浜、、馬堀、大津、鴨居などでは都会から
海水浴に訪れる客でにぎわい、竹田宮別邸や団琢磨など財界人の別荘、あるいは
井上成美大将の別荘なども建てられました。(井上は晩年そこに住んだ)




「武功しるこ」「三笠最中」・・・。
やっぱり戦前らしいねえと感心してしまうのですが、よく考えたら今だって
自衛隊お菓子で「撃!せんべい」とかチョコチップクッキー 「来るなら来い!」
とか「オスプレイ せんべい」カステラ戦車饅頭「 ロックオン 10式戦車」
カステラ戦車まんじゅう「 弾 90TK」「ストロングパイ 火力」とか、
「ヒトマル戦車まんじゅう 10TK」、ロシアンルーレットクッキー「 状況開始!」
 栄養ドリンク 「元気バッチリII」  自衛隊限定 「弾 」ドロップス、
緑茶「整列休め」、戦車クッキー 「10TK 烈炎轟」とか、「 隊員さんのサブレ」とか、

・・・・あるよね。(呆)



横須賀には戦前「海洋少女団」というシースカウトがありました。
もちろん今も横須賀海洋少年団は存在するのですが、どうもこれらは
戦前の海洋少年団とは全く関係ない、という立場のようです。

中央のキャプションにはこう書かれています。

 少女ながらも夢といたづらな感傷とを払って、戦時下日本の現実を直視し、
海を知り海に挑まうと、横須賀信證女学校(現在の信証学苑)
海洋少女団の少女たちは毎週二回軍艦「春日」の甲板に氾濫して
鴎と競う海洋訓練をつゞけてゐます
 午前八時軍艦旗掲揚、綱領斉唱につゞいてただちにその日の訓練が開始されます

潮風もなんのその、炎天直下もなんのその、短艇漕法に分列行進に
また手旗信号に少女たちは海洋制覇の希望を大きく展げてゆきます
 砲塔の重みを載せて高くつけられた喫水線をさかひに海に浮んだ城の
巨大な胴体と、海を実践してはつらつと動く海国の少女たちの姿とは、
軍港横須賀の碧(みどり)の洋上に脈々と生きて力強く頼母しいかぎりでもありました


右ページ左下は、水兵さんから舫の結び方を教わっており、
その右側は手旗信号の訓練を受けている様子なのですが、水兵さん、
女学生を教えるこの仕事、かなり楽しかったのではないかって気がします。

海洋少女団は戦況の悪化に伴い、昭和20年の6月に解散となりました。
戦後の「海洋少年団」は、戦前のものとは無関係という立場のようですから、
このときに「海洋少年団」も消滅したということになります。

それからわずか1ヶ月後、軍艦「春日」は横須賀港の空襲で爆撃をうけ、
大破着底したまま終戦を迎え、11月になってから除籍処分になっています。



さて、というわけで終戦となりました。
横須賀には米海軍が進駐してきます。
かつての鎮守府には米海軍の司令官が居住することになります。



これは当時日本に進駐したアメリカ軍の工兵隊の記念アルバムの1ページ。
アメリカ工兵隊は自らを「SEABEES」(海の蜂)と誇りを込めて呼んでいましたが、
その「海の働き蜂」たちが初めて日本に上陸した瞬間です。
工兵隊らしく港でもないただの岩礁に上陸用の足場を自分で作っていますね。

これは昭和20年8月30日の写真です。



「30時間Kレーションだけで食いつなぎ、一睡もしなかった」

ということですが、別にこっちはそんなことお願いしてないのよ?

Kレーションとはこのようなしろもの です。
写真を見る限りどれもマッチ箱みたいで、主食はビスケット。

これは大食漢のアメリカ人には辛かったろうなあ・・。




軍港だった街は進駐軍がきて姿を変えていきました。
これは市の振興協議会が発行した「あの施設は今」シリーズのようですが、
これでざっと見ると

海軍防備隊→市立長井中学校(中右)
     →東京電力久里浜発電所(上)
     →日魯漁業(株)久里浜支所(中段左)

海軍工廠造機部→東京芝浦電気横須賀工場(下段中二枚)

となったようです。



この地図は、かつて陸海軍が使用していた土地が、
現在どのように使われているかを色分けしたものです。
まず緑は「公共施設」となった部分。
保護区域だったり、公園になっている国や自治体の所有地です。
それによると猿島も公共地となっていますね。

赤が民間の産業施設になった部分。
左上の赤の多い部分はかつて追浜飛行場のあったところで、
現在はほとんどが日産の所有地となっているようです。

そして紫の部分が防衛省、つまり自衛隊の所有地となっている部分。
黄色の米海軍使用地にくらべて、肝心の横須賀港に紫がほとんどないというね・・。

紫部分の多いところは防衛大学校、武山駐屯地など。
公共の部分には横須賀刑務所や久里浜少年院になったところもあります。

防衛省の技本、艦艇装備研究所って、少年院のとなりなんですね・・・。
     


汐入にあった海軍の下士官集会場などは、進駐軍が来てから「EMクラブ」となり、
なんと平成2年までその名前で使われていたのだそうです。

映画館やゲームルームを備えた社交・娯楽設備で、多くのアメリカ人や日本人が集まり、
催し物も多彩に行われました。
ここまで「日本人立ち入り禁止」にならなくてよかったです。

昭和20年代に行われたバレエにオペラ、コンサート、映画鑑賞会のパンフレット各種。 




アメリカの民間人が横須賀市内で開いていたお店
「ピーターの店」のメニュー。

「今日のオススメ」のなかに「あげたカエルの足」があります。
「legs」なので両足ってことですかね。
カエルの足「だけ」って、どんなでかいカエルだよ。

・・・あ、もしかして「足がたくさん」?それもなんか嫌だな。

ちなみにお値段は400円。
デザート付きのコースが1000円の時代なので、結構なお値段です。 


 

こちらは市内の洋食レストランのメニュー。
ビーフステーキが400円なので、カエルの足がいかに高いかわかる(笑)

チキンライス、ハヤシライス、カレーライス、オムライスが皆150円。
「ハムライス」ってあるけどこれなんだろう。

デザートはありませんが(デザートメニューは別っていう感じの店じゃないし)
「センベイ=Wafer」が100円です。
アメリカ人対象らしく英語が中心のメニューですが、センベイは
今アメリカでは「rice cracker」で通用しております。

「Mochi」「Sake」「Sushi」「Nappa」「Edamame」「Fuji apple」

みんな日本語でそのまま通じるようになるとは、
さすがにこのころの日本人には想像できなかったのではないでしょうか。



続く。
 


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