空母「ホーネット」博物館にあった「フィリピン・シー」コーナーに
展示してあった「BABYSAN」というカートゥーンについて調べたら
それに一項を費やしてしまい、またしても今回、「フィリピン・シー」を
描こうとして、「フィリピン・シー」が参加した「ハイジャンプ作戦」
の司令官リチャード・バード少将のドレスジャケット姿を見つけてしまったので、
すべての予定を変更してバード少将の少佐時代の絵を描いてしまいました。
右上の星二つは、最終的にリア・アドミラルであったことを表します。
Richard Byrdで画像検索すると、エスキモーのようなフードを被った
バード少将の写真が出てくるかと思います。
バードが少佐の時に指揮した「ハイジャンプ作戦」とは、終戦後、
海軍によって行われた南極探検作戦です。
なぜ海軍がこんなことをしたのか、もしかしたら日本との戦争が終わって、
することがなく、次なる敵のソ連が台頭してくるまで「自分探し」でもしていたのか、
と穿ったことをつい考えてしまうのですが、それはともかく、
この作戦、調べれば調べるほど結構大変なものだったことがわかりました。
アムンゼンと南極到達を争ったスコットがイギリス海軍中尉であり、
我が日本の白瀬矗が陸軍輜重中尉だったように、極地探検には多くの
陸海軍人が名前を残しており、だからこそこの頃アメリカ海軍は、
このような作戦を行うことにしたのでしょうか。
しかも、このときのアメリカ海軍は、不確かな情報ながら
とんでもないことをやらかしていたという噂さえありましたよ。
wiki的にいうと、ハイジャンプ作戦は、アメリカ海軍が1946年から
1年にわたって行った南極観測「作戦」でした。
目的は、
恒久基地建設の調査
合衆国のプレゼンスの提示
寒冷地における人員・機材の動作状況の確認・技術研究
ということになっています。
参加艦艇は13隻の艦船と多数の航空機。
バード少佐は、このうち空母「フィリピン・シー」に座乗して
その全体指揮を執りました。
「フィリピン・シー」は単艦行動を行い、航空機輸送が任務です。
ここで(本来本題の)「フィリピン・シー」について少し。
空母「ホーネット」の「フィリピン・シー」コーナーにあった巨大な模型。
ふざけたセイラーもいますが、これはご愛嬌。
ってかアス比が全く違うっつの。
94飛行隊(戦闘機)は、ヴォートF4U-4コルセアの部隊で、1952年まで
「フィリピン・シー」の艦載戦闘部隊でしたが、
この後戦闘機を「パンサー」に変えられています。
しかしこの白い軍服を着ていると皆男前に見えるねえ。
ところでこの写真を見て気付くのは、アメリカ海軍の「正しい椅子の座り方」
というのは自衛隊とは全く違うということです。
皆一様に脚を足首でクロスし、手は揃えて膝の真ん中(というか股間?)
に、左手を上にして置く。
偶然でなければ、これは米海軍で公式に決まっているポーズらしいのです。
海上自衛隊は(陸空もね)脚は少し開いて爪先は真っ直ぐ前方に向け、
両手は拳にして各々の膝の上に軽く乗せるというのが正しい姿勢です。
(今まで観察してきたところによると)
日本人的にはこの写真のような座り方ってなんだかお行儀悪く見えますね。
機体の穴からこんにちは。
とふざけられるような事故ならいいんですが、こりゃやばい。
その「パンサー」、F9Fで、派手にネットを突き破った事故例。
スペックでは劣っていたこのパンサーを、腕利きのパイロットが
MiGを撃墜するくらい使いこなしていたというのはたいへんご立派ですが、
やはり着艦にはこのようなことも多々あったようです。
アメリカ海軍は、空母の離着艦で今日のように事故がなくなるまで、
それこそ数知れない犠牲の上にその技術を積み重ねてきました。
今日の事故率になるまで、米軍はそれこそ40年以上を費やし、
文字通り搭乗員の亡骸を超えてここまでやってきたわけです。
そのことひとつ取っても、昨日今日そういうことをやりだしたばかりの中国海軍には
これだけの技術の昇華の前には後塵を拝すどころか後ろ姿を見ることもできまい、
先日ある元海幕長がおっしゃっていましたが、まったくもってその通りだと思います。
この写真の状況は、ネットを越してしまっているので、
アレスティングワイヤーが利かない状態のままネットを張るも失敗したようです。
パイロットが無傷だったのはなによりです。
フライトデッキの一部が、製造板と一緒に飾ってありました。
さて、「ハイジャンプ作戦」の話に戻りましょう。
この作戦に際し、アメリカ海軍は東海岸(ノーフォーク)と
西海岸 (サンディエゴ)から、別々に部隊が出動しています。
南極における調査箇所も、それぞれ西南と東南、というように別を担当しました。
それだけでなく、「中央隊」というのまであって、また別の箇所を調査しています。
このうち、事故による殉職者を出したのは東部グループでした。
作戦中、USS「パイン・アイランド」から海上に降ろされたPBM飛行艇は、
航空写真を撮るために飛び立ちましたが、そのうちクルー8名を乗せた
「ジョージ・ワン」が雪上にクラッシュしてしまいます。
「ジョージ・ツー」が捜索に向かったとき、「ジョージ・ワン」の翼には、
「LOPEZ HENDERSIN WILLIAMS DEAD」
と三人のクルーがすでに死亡していることを知らせるメッセージがペイントされていました。
そのうち二人は墜落によって死亡したのではなく、凍死だったそうです。
このような殉職者を出したこの作戦でしたが、全体としては多数の航空機投入による
航空写真を一挙に撮ることによって、成功を見たとされています。
このときのバードが出した提言というのは、
「米国が南極からの敵対国の侵入の可能性に対する保護の措置をとるべきである。
現実として、次の戦争の場合には、南極や北極経由で攻撃される可能性がある。」
というものでした。
このミッションにおける観察と発見の最も重要な結果は、極地が、
米国の安全保障における潜在的な効果を持っているということです。
世界は驚異的なスピードで縮小しており、その距離によって
海洋、および両極は安全性を保証されていた時代は終わった、
という海軍軍人としての彼の警告だったのでしょうか。
バード少将は、海軍軍人でしたが、実際探検家としての活動の方が有名でした。
兵学校を出てから艦隊勤務をしていたバードは、第1次世界大戦までに
飛行機の操縦資格を取り、それだけでなく、ナビゲートシステムを
発明して、のち極地探検にそれを生かしています。
1926年には、北極上空をフォッカーで飛行するという試みにより
名誉勲章を得るとともに、国民的英雄にもなっています。
わたしが描いたのは、おそらくこのころのバード少佐でしょう。
このようにスマートでハンサムなネイビーパイロットが、前人未到の
冒険飛行を成功させたのですから、さぞかし国民は熱狂したと思われます。
もっとも、このときバードは北極点に到達していなかった(したと思ったが間違い)
という噂はその直後からあったようです。
同乗した飛行士が、この冒険からわずか数カ月後「実は北極点には達していない」
と告白し、後日それを翻すなど、その真実は闇に包まれたまま論争だけが残っています。
1927年、大西洋横断飛行に二回目の支援を行った後、彼は最初の南極探検を行います。
「ハイジャンプ作戦」のときが彼にとって最初の南極ではなかったってことですね。
このときと7年後の1934年には、彼は5ヶ月を南極でたった一人、越冬しています。
先ほどの「アローン」という自叙伝は、このときのことを回顧したものです。
このとき、バードは狭いところでストーブに当たり続けたため、
一酸化中毒を起こして混迷状態に陥るという事故に遭っています。
彼の無線の異常さに異変を察知したベースキャンプの隊員たちが、
心配してアドバンスキャンプに飛行機で迎えに行くという騒ぎになりました。
その救助隊の出動も第一次は失敗して、第二次救助隊がたどり着いたとき、
そこにはぐったりとしたバード少将が倒れていたということです。
ちなみにバードは史上最年少の41歳で少将となっています。
第二次世界大戦中はヨーロッパ戦線に赴いていたそうですが、
どういうわけか1945年9月2日の降伏調印のときは東京にいて、
ミズーリ艦上で行われた降伏調印式に立ち会ったりしています。
そして、もうひとつ不思議なことがあります。
「ハイジャンプ作戦」の10年後、すなわち、1955年に海軍は「ディープフリーズ作戦」
という南極観測隊を送り、その隊長にアメリカ海軍はバード少将を指名しているのです。
しかし、よく考えていただきたいのですが、これって少将の亡くなる直前ですよね。
いくらエキスパートでも、67歳の老人を南極探検の隊長にするか?
というのがまずわたしの疑問。
なぜこの作戦の隊長がバード少将でないといけなかったのでしょうか。
このときバードは1週間だけ南極で過ごすというミッションをこなしたそうですが、
そんな短期間の「作戦」でアメリカ海軍はいったい何をしようとしたのか?
ちなみに「ディープフリーズ作戦」の1年後、バード少将は亡くなりました。
南極に行かなければもう少し長生きできたのでは、とおもうのはわたしだけ?
さてさらに、ここで皆さんには眉に唾をつけて読んでいただきたいことがあります。
「南極上空を飛行中に、原野や森林・河川が見られる地域に
マンモスのような動物が歩いているのをバード少将は目撃した」
さらには
「バード少将は作戦終了後海軍病院に入れられ、目撃した事実を
一切口外しない事を軍から誓約させられ、真実を一切語らずに没した」
などという、それなんてムー?
みたいな噂まで「ハイジャンプ作戦」にはまつわっているのです。
(それがもっともらしく書いてあるサイトは、ハイジャンプ作戦を
”北極点に行った”などと言っている時点でもう信憑性アウトだと思いますが)
そこであらためて、なんでこの時期アメリカは
南極に行かなければならなかったのか、という疑問がわいてきます。
米海軍は1958年頃(バード少将の死んだ年)、南極点に向けて
弾頭装備のICBMを海軍艦船から撃った、という噂もあり、南極探検は
実はこれをするための調査だった(だから1週間ですんだ)のでは、とか、
終戦直後に南極を偵察したのは、ナチスの秘密基地があるという情報もあり、
そのために、送り込むのが軍隊でなければならなかったともいわれています。
いずれにしてもその理由は現在も明らかになっていませんし、表向きには
「ハイジャンプ作戦」は観測と対ソに備えた訓練ということになっています。
亡くなったとき、彼は多分自分でも覚えていないくらいの叙勲をされており、
メダルにその肖像が描かれる米海軍の4提督(サンプソン、デューイ、パーシング)
の一人であり、海軍軍人として彼に与えられた栄誉はそれは輝かしいものでした。
それにしては「アドミラル」なのにどうして死ぬまで少将だったのか、
史上最年少の41歳で少将になってから、なぜ一度も進級することがなかったのか、
死んでも階級がそれ以上上がらなかったのはなぜか。
これも不思議といえば不思議です。
(サンプソンも少将なのでは海軍的にはそういうこともあるのかもしれませんが)
もしかしたらですが、この男前の少将が、「アメリカの闇」を
南極点の上に見てしまったという噂に関係しているのでしょうか。