ときとして歴史ガイドにも載っていないような史跡を紹介するのが
この「歴史ウォーク」の使命でもあります。
とくに、坂本龍馬の妻であった「おりょうさん」、本名
楢崎龍(西村ツル)
がここに住んでいたとかここで死んだとかいう場所は
なんのことはない今現在普通の民家が建っていて、案内の人も
住人に配慮して声をひそめるといった風に気を遣っていました。
そりゃ、定期的に老人の団体がやってきて自分の家の写真を撮ったり
前で佇んでいたりしたら誰だって嫌ですよね。
わたしもだから「ここが」といわれてもその家にカメラを向ける気には
到底ならなかったわけですが、 そもそもおりょうさんって、何?
いや、何って坂本龍馬の奥さんだった、ってことくらいは知ってますが、
結婚してからわずか3年で龍馬は暗殺されてしまったわけで、
しかもその後、龍馬のつてをたどって知り合いを転々とし、
別の人と結婚して最後は酒浸りで死んだという人ですよね。
これについてはガイドの方が
「おりょうさんねー、最後は酒ビン抱えて呑んだくれていたそうですよ。
こんなこというとおこられちゃうんだけど、でも本当だから。
後から文句言ってくるんですよ『おりょうさんを悪く言うな!』って」
小栗忠順が「無実の罪」で処刑された、っていうのはおかしい、
というようなことを言っても、クレームがつくらしいですから、
まあそういうことをガイドがいうのを許せない!って人もいるのでしょう。
歴史上の偉人のイメージを壊すな、ってところでしょうか。
ところでこのついでにこのガイドさん、
「だいたいそんなこというならね、
坂本龍馬だって、偉人とか有名人って言う割に
案外皆何したか知らなかったりするんですよね。
実際も言うほどたいしたことしたのか、ってね」
と、おりょうさんどころではないクレームがきそうな発言もしていました。
まあ、これに関しては
「敵対していた薩摩藩と長州藩の間を取り持って同盟関係を結ばせた」
「勝海舟の門下生として海軍操練所の開設に奔走した」
(のちに海軍塾頭となる)
「大政奉還の原動力となり維新後新政府の綱領をつくる」
という立派な仕事を、しかも30歳そこそこでしているので、
どう考えても「たいしたことをした」としか言いようがないのですが。
わたしはそもそも坂本龍馬の伝記の類を読んだことがなく、
おりょうさんについても全くと言っていいほど知識がありませんでした。
で、ガイドさんが声をひそめながら
「死ぬ頃は呑んだくれていた」
と話をし終わった後、
「(おりょうさんは)どうやって食べてたんですか」
と聞いてみたところ、ツァーの同行者が
「結婚してたのよ」
と教えてくれたのでした。
結婚していたのに呑んだくれて孤独死、ってことは連れ合いに先立たれて・・?
と思って調べたら、おりょうさんの再婚相手、呉服商の若旦那だった
西村松兵衛さんという人は、おりょうさんが死んだ時もまだ生きていました。
この旦那という人もお人好しというのか、おりょうさん、酔っ払っては
「わたしは龍馬の妻だ」
といってからんでも松兵衛は離縁するでなく、それどころか
先だったおりょうさんの墓に、最後を看取った自分ではなく
坂本龍馬の妻としての墓を作ってやりました。
今横須賀市内にある彼女の墓の墓石には
「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」
と記されています。
これはなんなんでしょうねえ。
坂本龍馬と結婚していたから松兵衛は彼女を好きになったんでしょうか。
坂本龍馬の存在は明治の世になって忘れられていましたが、
1883(明治16)年、ジャーナリストの坂崎紫瀾が書いた小説で
その名前が一躍有名になり、安岡秀峰らがおりょうにインタビューしています。
泥酔して「わたしは龍馬の妻だ」といったのを目撃し書き残したのが安岡で、
そのインタビューに答える形で彼女は
「龍馬が生きていたなら、また何か面白い事もあったでしょうが・・」
などという、そのときの夫である松兵衛に対してなんとも失礼なことをいっています。
ちなみに松兵衛と結婚したとき、彼女は自分の母と妹の子を引き取らせ、
要するに3人で転がり込んで松兵衛に面倒を見させているんですね。
こういう経歴だけを見ても彼女に対する印象は決して良くないのですが、
加えて人望もなかったことは、龍馬の死後、彼女は夫の知り合いを次々と訪ねて
援助を頼むも、だれも相手にしなかったということにも表れています。
勝海舟も西郷隆盛も龍馬の未亡人ということで少しは援助したようですが、
龍馬の部下である元海援隊士の間では彼女の評判は悪く、
維新後に出世した者も誰一人彼女を援助しようとはしませんでした。
田中光顕(元陸援隊士で後に宮内大臣にまで出世)の回顧談によれば、
瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、
おりょうの処遇が話題になったのですが、妹婿の菅野覚兵衛にまで
「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」
と拒否されていた(wiki)ということです。
「品行が悪く」というのはいったいどんな行いを指していたのでしょうか。
さておりょうの名前、「龍」は決して偶然ではなく龍馬の龍です。
もしかしたらこれをきっかけに二人は仲良くなったのではないかと思われます。
美人の龍に坂本龍馬はぞっこんになりましたが、頭がよくも才気煥発でもない、
とくに秀でたところがないばかりか、恋人(のちに夫)の地位をかさにきるので、
龍馬の周りの人々、ことに海援隊のメンバーに嫌われていたそうです。
彼女は後年安岡のインタビューで、近藤勇が自分に横恋慕してちょっかいをかけた、
ということまで暴露したそうですが、こういった話を総合すると、
彼女は「女」であることしか取り柄のない凡百の一人に過ぎず、
坂本龍馬が男を見る目は一流であったけれど、女を見る目はなかったらしいとなります。
いつも命を狙われて、今日明日にも死ぬかもしれないと覚悟している男が
女に求めるものは、一時の安らぎと器量だけだったということなのかもしれませんが。
おりょうの住んでいたという住宅の写真は撮りませんでしたが、
その「終焉の地」、つまり息を引き取った家の路地は撮りました。
ロッカーがずらりと並んで大した風情ですが、この路地の右側に
その長屋があったという話です。
一同はこの路地を入る前にガイドからの説明を受けましたが、
前を通る時にはガイドは身振りだけで全員が無言でした。
やっぱりここも普通に人が住んでいますから。
で、この路地を向こうまで通り抜け、左に曲がると、
「おりょう会館」というのがあります。
そこには冒頭のおりょうさんのリアルな像があるのですが、
(なぜ頭の部分が切れているのかというと、おりょうさんの顔より
着物の打ち合わせのところに入れられた1円玉を中心としたからです)
このおりょうさんの顔、いったい誰をモデルにしたんでしょうね。
これが確実に楢崎龍、晩年の中村ツルの写真。
この写真は彼女にインタビューした安岡が、
「彼女は今回写真を撮るのは初めてだそうである」
と言っているので、これが唯一の彼女の姿を伝える写真です。
ところが、こちらの写真も確か龍馬と結婚後、日本で最初のハネムーンで
訪れたという宮崎の温泉に飾られていました。
老年の中村ツルと同一人物であることをスーパーインポーズ法で調べ、
同一人物らしいということにまでなっていたのです。
まあ、美人の写真なのでこれならいいな、という期待というか願望が、
安岡の「これが最初の写真」という言葉をも無視させる結果となり、
今なお、お龍の写真というとこれが一般的になってしまっています。
ところが近年、この女性と同一人物の別のカットが古本屋で見つかりました。
また、別のところから、複数の芸者や華族の女性をセットにした組写真の中に、
この女性とみられるものが発見されたのです。
どういうことかというと、この写真は売り物であったということなのです。
当時写真は大変高価でしたから、庶民が何枚もポーズを変えて撮ることはありませんでした。
龍馬や勝海舟の写真ですら、そんなにたくさんあるわけではないのです。
つまりこの女性は新橋あたりの売れっ子芸者で、写真館が販売するために
撮影したものであるということがわかってしまったのです。
また名刺サイズで見つかった同一人物の写真には「土井奥方」とあり、
後に子爵土井家の妾となった芸者であることまで判明してしまいました。
しかし一旦広まってしまったこの美人=お龍説は根強く、というか
真相が分かっても、あえてこの写真をお龍のものだということにして、
そのうちそれが定着してしまいそうな気配すらあります(笑)
「おりょうさんを悪く言うな!」ではありませんが、歴史の現実よりも
物語としてロマンを見出したいのが大衆の常ですから、
これもまたいたしかたないことなのかもしれません。
さて、そしてこの謎の銅像のある「おりょう会館」ですが、なんだと思います?
なんと葬祭場なんですよ。
おりょう会館のHPのどこを見ても、この胸像についての説明がないので、
全くこの経緯についてはわからないままだったのですが、
なぜおりょう?しかも葬祭場に・・・・、と考えこんでしまいました。
これ、どう考えても、お龍さんがこの道向こうで亡くなっていたから、
としか理由らしい理由を思いつかないんですよね。
だとしたらなんかなあ、と彼女の決して幸せではなかった(らしい)
晩年とその死に方を思うと、微妙な気持ちになるのでした。
そもそも、お龍さんという女性は、坂本龍馬と3年暮らしたというだけで、
それこそガイドさんの発言ではありませんが、「何かをした人」でもありません。
寺田屋の遭難の時には、彼女がお風呂に入っていると外に多数の捕吏がいたので
慌ててお風呂を出て二階に急を知らせに行ったということはありましたが、
これも妻や身内であれば誰だって同じことをしたでしょう。
また彼女は龍馬が生きている間、彼が何をしているのか、何をしようとしていたのか
興味もなかったし全く知らなかったといいますが、それなら寺田屋の時のように
夫が命を狙われていることについて、どう理解していたのでしょうか。
そんな彼女が夫の業績を初めて聞かされたのは明治新政府からだったそうで、
これが本当ならば、彼女はこのときさぞかし驚いたことと思われます。
それにしても、たまたま坂本龍馬というビッグな人物に見初められて
結婚していたがため、若い時にはイケていただけの「普通の女」だった彼女は
その人生をいたずらに不幸なものにしてしまったという気がしてなりません。
夫亡き後は自分の愚かさのツケを払う形で皆に疎んじられ、転々とし、
やっと自分の母も含めて身を引き受けてくれる優しい男と知り合ったのに、
彼女の思いはおそらく自分の人生の絶頂期であった龍馬との3年にしかなく、
相手を本当に愛するということはできなかったのではないでしょうか。
そして死んでなおのち、偉人の妻であったばっかりに、その気質の
良くなかったことや、晩年の酒びたりの生活までを語り継がれ、同情される。
まことに運が悪いというか、気の毒な女性だなと思います。
「龍馬はわたしの夫だ」を目撃されたころ、彼女は58歳。
美容医療もエステもない時代、かつての美貌はもはや消え失せていたでしょう。
たった3年だけ夫だった男の面影をアルコール依存症による幻覚に見ながら、
彼女は彼岸を渡るその日までを泡沫(うたかた)のうちに過ごしたに違いありません。
輝ける日々、一流の男に愛されたことを人生唯一の誇りとして。
続く。