老舗百貨店のツァーで行く自衛隊基地見学、久里浜駐屯地の
海軍時代からある建物にある貴賓室の見学が済みました。
移動の間にも広報の女性自衛官に質問する人もいて、
雰囲気がツァーらしくなってきました。
久里浜駐屯地の見学の写真を検索してみたところ、ほかの写真にも
まさにこの陸曹長が写っていましたから、彼女は団体見学の際
広報として必ず案内を任されているようでした。
説明の合間に聞かれるがまま、自分の経歴などに話は及んだとき、
「わたしは通信ではトンツー出身なので」
とおっしゃったので、ふと
「今でもトンツーって”ノギトーゴー”で覚えるんですか」
と聞いてみたところ、
「そうですよ!ご存知ですか」
「ええ、知識だけですが」
陸曹長が次に案内してくれたのは構内にある歴史館。
当基地の海軍時代からの歴史的資料が展示されています。
記念館はかなりの広さで、こんな感じ。
手作り感漂う展示内容となっております。
説明がないのでいつのことかわかりませんが、制服から見て
昭和30年代といったところでしょうか。
最初にこの資料館は「通信参考館」としてオープンしたようです。
整備披露式の看板に付けられたティッシュのお花が時代を感じます。
このころは箱詰めティッシュなどというものもなく、「ちり紙」でしたが。
おそらく最初の「参考館」時代からあったであろう写真の数々。
でもこれどうみても陸軍の写真ですよね?
ここ久里浜は海軍基地として発足したのになぜ陸軍の写真が?
ちなみに右下の「サガレン派出員」というのは、
シベリア出兵時に、北部樺太占領及び軍政実施のため派遣された部隊で、
1920年(大正9年)7月に編成されて1925年(大正14年)5月に復員しています。
大東亜戦争時のシベリア派遣と違うとはいえ、5年もシベリアとはご苦労様です。
これもどう見ても陸軍さんですね。
一目で海軍とは違うとわかってしまう今日この頃。
「靴工場」「木工場」「電気工場」「縫工場」
学生の作業所を「工場」と称したようです。
「12階段前跳下り」の何がすごいといって、この運動のために
わざわざ12階段の跳び降り台を作ってしまったということでしょう。
下にはマットが敷いてあったことを祈りたい。
で、これらの写真ですが、どうも当時の神奈川県高座郡大野村、現在の
神奈川県相模原市南区にあった陸軍通信学校のものらしいです。
同じ通信学校つながりでここに資料が集められたのでしょう。
電動式電話器(電動式でない電話器って・・・糸電話?)による送受信、
受付を行い?自転車で配達させる、という一連の動きが開設されています。
これは野外での架線作業などでしょうか。
アンテナとなる柱を立てて脚立でその上に架線するというレトロなものです。
架線作業をしている人はまるで脚立の上で出初式をやっているようです。
帽子と軍服の感じから見て明治終わりから大正時代くらいでしょうか。
お食事中。
兵学校では狭いところで食事をするのに慣れるため、左手を下に置いて
右手だけで食事をした、と76期の生徒さんから聞きました。
陸軍ではそんな訓練すらする必要がないので普通に皆茶碗を持って食べています。
ところで、海軍式に皆が右手だけで食べるということになると、左利きの人は
自分だけ逆に箸を持つわけにいかないので、否が応でも右に矯正したんでしょうか。
昔は左利きは「いけないこと」となっていて、一般的にも矯正させられたそうですが。
アメリカ人は見る限り左利きが大変多いですし、日本でも最近左利きが多いなと感じます。
健康診断中。
内科医と歯医者が同じところで診察を行っています。
医師二人は白衣の下に陸軍軍服を着ていますね。
ここでやっと海軍の通信関係の写真になりました。
昭和20年6月に少尉候補生を拝命した兵科予備生徒、とあります。
「兵科予備生徒」とは海軍予備員のひとつで、
旧制高校在校・高等商船学校の生徒がこれに採用されました。
東京及び神戸の高等商船学校の生徒は、入学と同時に海軍予備生徒になり、
全員を兵籍に編入するということになっていましたが、戦争の拡大に伴い、
他の旧制高等学校の生徒に対しても選抜を実施し、合格者を予備生徒として
その学資は海軍が支給しました。
これらの写真の撮られた昭和20年6月という時期を考えると、
彼らは一般高等学校の予備生徒である可能性が高くなります。
彼らが予備少尉候補生となるのは卒業と同時で、予定では
1年6ヶ月の教育期間を経て予備少尉に任用されるはずでした。
ですからこの全員は少尉任官前に終戦になってしまったということになります。
それにしても、一般高校生徒であるせいか眼鏡着用率が高いですね。
先日の練習艦隊壮行会の写真をあげたところ
「眼鏡が多い」
という感想を数箇所からいただきました。
中には「ジパングの菊池に憧れた人が多いとか?」という人もいましたが(笑)
昔は視力の悪いものは兵科に行けなかったというだけのことでしょう。
この予備生徒もそうですが、機関学校の写真なども眼鏡着用率が高く、
特に最近目が悪い人が増えたということはないと思いますが、どうでしょう。
やっと見慣れた海軍の写真が出てきました。
これは夜の「温習時間」、つまり自習時間です。
実はこのツァー後半では防大見学というのが組まれていたのですが、
そのとき改めて彼らの1日の学生生活を聞いたところによると、
今でも兵学校などで行われていたこの夜の自習時間があるそうですね。
学校単位で見ると、防衛大学校の学生というのは日本で最もよく
勉強している若者ではないかととわたしは思いましたよ。
これもセーラー服がいるので海軍通信学校の実習風景でしょう。
左がわの糸巻きみたいなもの一式は
海軍36式無線電信機(明治35年)
旗艦「三笠」を始め戦艦、巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、
仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備されました。
日本海海戦では仮装巡洋艦「信濃丸」が「アリョール」を発見、
更に接近し敵大艦隊の存在を確認、「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて
敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報が発せられました。
昔も書きましたが、この三六式無線を開発した安立電気、現在のアンリツも、
島津源蔵の島津製作所も、日本海海戦での勝利にその技術が大いに寄与しています。
そしてその右側は冒頭軍艦旗を昭和18年から形容していた旗竿です。
約7mあるヒバの一本木を使用したこの旗竿は、反り返ったりしないように、
背割り(芯を持っている木材の化粧面以外の一面に、
直径の約1/2程度の深さの切り込みを入れること。
乾燥前に行うことで乾燥による材の縮小で起こる「干割れ」を防ぐ)
を入れてあるそうです。
老朽化のため昭和40年に取り外されましたが、風雪にさらされた
野外の木材が22年保つというのは結構たいしたことです。
展示室にはこのように海軍と陸軍で使用された当時の通信機が展示されています。
続く。