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龍馬の墓と殉職自衛隊員慰霊碑〜京都霊山護国神社

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もともとここ京都霊山護国神社は、明治天皇の御言葉によって
勤皇の志士たちの魂を慰めその働きを顕彰するために創建されました。

坂本龍馬というと高知、高知というと坂本龍馬とカツオしかないのでは?
というくらい、高知では龍馬を県のアイデンティティにしているわけですが、
実は龍馬は17歳で江戸遊学して以来、活動の中心は関東でした。

京都には深い縁があった、というほどではないのですが、なんといっても
ここで亡くなって荼毘に付されたため、葬られてお墓があるので、いわゆる
熱心な龍馬ファンの方々の巡礼の地ともなっているようです。

ただ、彼らが龍馬殉難の11月15日に墓参りに来ると、
龍馬がタバコ好きだったということから、火をつけたタバコを多数霊前に備えるので
一本二本ならともかく、消防法の観点からも神社の方が大変迷惑している、
という記事を読んだことがあります。 

そういえば太宰治が自殺した「桜桃忌」には、太宰の墓に太宰ファンが詰めかけ、
季節物でもある(笑)さくらんぼを墓前に供えるのですが、これが困ったことに、
相変わらずさくらんぼを墓石の字の窪みにぎゅうぎゅう嵌め込んでいるようですね。
それも、桜桃がお高いせいかアメリカンチェリーを。

馬鹿かしら。

と偉そうに言ってしまうわけですが、自分の墓石に不気味にはめ込まれた桜桃、
いやアメリカンチェリー、あの自意識過剰のナルシスト太宰が生きてこの光景を見たら、
あまりの屈辱にもう一度今度は憤死するのではないかとわたしなど思います。

これ、絶対本人喜んでないから(断言)

とまあ、ファン心理というのはあくまでも自己満足がベースとなっているので、
このような愚行をも熱に浮かされてやっちまって、何年かしてから思い出しては

「あのときのわたし、なぜあんなことを・・」

と頭を抱えるものではないかと他人事ながら推察するわけですが、
(もしこれをココ何年も毎年必ずやっているという人がいたならお目にかかりたい)
龍馬の煙草も、これと同工異曲のファンの自己満足というかエゴというべきでしょう。

だいたい、隣の中岡慎太郎が嫌煙家だったらどうするんだ。ってそういう問題じゃない?



普段の両雄の墓はひっそりと静まり返っています。
京都護国神社が明治天皇の詔によって創建されたのは1968(慶応4)年。
龍馬殉難はその約半年前の慶応3年ですから、もしかしたら
この二人のためにこのお沙汰が出された面もあるのでしょうか。

ちなみにこの山道を登って行った頂上には木戸孝允の墓がありますが、
木戸の死は明治10年(1877年)とずいぶん後のことになります。
木戸は西南戦争の際明治天皇と連れ立って「出張」していますし、
死の間際には明治天皇のお見舞いも受けるという関係であったので、
この神社に祀られる霊のなかでも「最高位」扱いなのです。

おそらく慶応4年から変わっていない墓所には、
ここで手を洗っていいのか戸惑うような手水があり、
つい最近のものらしい花が手向けられています。

墓所に設えられた「坂本龍馬 中岡慎太郎の最後」という説明には
抜粋するとこんなことが書かれていました。

大政奉還の大作者でもある坂本龍馬は、遭難した10日前、
醤油商の近江屋に移転していた。
当時最も幕府側から命を狙われていたので仲間が気遣ったのが
仇となったのである。
事件当日の午後6時、中岡慎太郎が龍馬宅を訪問、その2時間後、
彼らは刺客の襲撃に遭い、龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は
右の肩から背骨にかけて、三の太刀で前額部を裂かれて即死。

中岡慎太郎も全身に刀傷を受けて二日後に亡くなった。

葬儀は18日、近江屋にて行われ、遺体は京都護国神社に葬られた。

昭憲皇太后の夢枕に立ち現れた侍が

「微臣坂本にございます。
この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。
不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、
ご安心願い申し上げます」

といって消えたという。


ずいぶん省略されているのですが、この「海戦」とは他でもない
日本海海戦のことで、葉山御用邸でお休みになる昭憲皇太后が
侍の夢をご覧になったのは1904年2月、日露戦争前夜だったということです。

ただ、皇太后陛下がその侍のことを田中光顕にご下問されたということは、
陛下は坂本龍馬のことをご存知ではなかったということになり、
つまり「不肖坂本」などは後で付け加えられた話ではないかとも云われます。

のみならず話そのものも戦意昂揚のための創作だとする説もあるそうですが、
さすがに皇太后陛下を相手にそれはありますまい。


さて、この看板で知ったことがもう一つあります。
最後に書かれた

墓所 右 中岡慎太郎 左 坂本龍馬
   左奥 下僕 藤吉

という説明。
帰ってきて初めて知ったので、藤吉の墓がどこなのか
この写真からは全くわかりません。
画像検索すると出てくるので興味のある方はどうぞ。

この藤吉という人は、龍馬が雇った用心棒兼世話役、今でいうSPだったようです。
シークレットサービスにはレスラーや武道家出身が多いといいますが、
この山田藤吉も醜名を「雲井龍」という元相撲取りでした。

事件現場で倒れていた藤吉は、階段にうつ伏せになり、
手には十津川郷士の名の名刺を持ったままだったそうです。
名刺ってこの時代からあったのか!とついそんなことに驚いてしまうわけですが、
それはともかく、刺客たちは普通の来客を装って藤吉を安心させ、
名刺を持って龍馬たちのいる二階に向かう藤吉を背後から斬ったのでした。

藤吉は倒れるときの大音響とともに「ぎゃあ!!」と大声を上げ、
彼が相撲ごっこでもしていると思ったらしい坂本は、

「ほたえな!」

と叫んだため、刺客に居所を教えることになったということです。
「ほたえな!」とは土佐弁で「騒ぐな!」という意味で、子供がうるさいとき
使われるのだそうですが、確かに藤吉はこのときまだ19歳でした。


藤吉は刀傷を負って翌日亡くなり、気の毒に思った龍馬の同僚たちが
龍馬と同じ墓所に彼を葬ってやったということです。

ちなみに三人の遺体ですが、 当時の日本は、特に神道では土葬が一般的で、
明治政府が1873年(明治6年)火葬禁止令を出したくらいでしたから、
近江屋での葬儀の後ここに運ばれて土葬されたものと思われます。



坂本龍馬の墓石越しに上を見上げると、そこには龍馬の後ろに控えるように
長州藩の志士たちの墓がならんでいます。
左奥には山口招魂社があります。

「幾助」「市蔵」「吉太郎」

など、苗字を持たぬ者の墓がときおり見られます。
平民も須らく名字を持つべし、とした「平民苗字必称義務令」
が明治政府により発令されたのは明治8年(1875年)のことです。




坂本・中岡の墓から下を見下ろしていたところ、TOがあっと声をあげ、
あれ、と指差したところに

「殉職自衛隊員之碑参道」

いう碑がありました。
上までいって木戸公の墓参りをしている時間がなかったので、
最後にここをお参りして帰ろうということになりました。



山道を入っていくように整備された小道が続いています。



「慰霊」とだけ記された慰霊碑には、国旗が二振掲げられていました。
碑の扉の中には殉職者の名簿が奉納されているのでしょう。

京都府内の陸海空自衛隊に所属し、殉職された自衛官の慰霊のために、
平成20年、京都隊友会と府下の自衛隊組織により建立され、
毎年11月3日には、参議院議員・西田昌司氏はじめ、現職の陸海空幹部自衛官を迎え、
慰霊祭が行われ、これには誰でも参列できるとのことです。



現在、52柱の殉職自衛隊員の御霊が合祀されています。

わたしは殉職自衛隊員は本来靖国神社始め護国神社に祀られるべきと思っていますが、
いろいろあって()慰霊碑は市ケ谷の防衛省内と、自衛隊駐屯地内、という
一般の人がお参りできない(というか目にも触れない)場所にあるのが現状です。

京都府下の殉職自衛隊員の御霊が霊山護国神社の一隅に祀られていることが、
少しでも彼らとそのご遺族の慰めになればと願ってやみません。



この慰霊碑の前に立ち、山腹を眺めると、だれも立ち寄ることのできない
草木の茂みを通して三体の仏像が立っていました。



階段を下りていきながら見る本殿。



二年坂を下りたところまで戻ってきてさっぱりと冷たいお抹茶をいただきました。
これは「夏茶碗」だそうです。



さて、この後、父の墓所参りをしようとして、大谷本廟と間違えて
大谷祖廟にきてしまいました。
親の墓所を間違えるなって話ですが。




この時に大谷祖廟の境内にいた写真の外人さん、くぐる時に頭を下げ、
真剣に本堂の前に佇んでました。

「きょうび下手な日本人よりずっと彼らの方が弁えてたりするからねえ」



大谷本廟はこっちでした。
お父さんごめんなさい。



晩は鳥料理専門で有名な「八起庵(はちきあん)」で。
基本飛び込みお断りなのですが、直前に電話して予約が取れました。



鳥尽くしコースの一番小さいのを頼むと最初にスープと酢の物。
スープの最初の一口ですでにここはただものではない!と思いました。



つづいて「鳥刺し」、このあとはワサビ和えなど。
鶏ばかりなのに手を替え品を替えで飽きません。



唐揚げもここのはただものではないオーラ。
外はあくまでもカリッと、中はふわっと、肉は滋味があります。



お腹がはちきれそうになった頃、〆の鶏南蛮。
卵ご飯もつけるかと聞かれて、つい誘惑に逆らえず少なめで、とお願いしました。
食べ終わったあと、それは苦しかったです・・・。



来店した有名人はサイン色紙ではなく、写真をずらりと並べて。
店主は一見にこにことしたおじさんですが、目の光がただものではありませんでした。



さて、この日タクシーで移動していて道の脇に偶然見つけた標柱。

「陸軍用地」

調べてみると、伏見には昔陸軍第16師団があったので、今でも地名に

「第一軍道」「師団街道」

などという痕跡が残っているそうです。
聖母学園の現在の校舎は、昔の陸軍第16師団司令部で、これがあったため
昔の伏見は「陸軍の街」だったということでした。


今回の京都滞在で、また日本の歴史をわずかながら深く知ることになったわたしです。





 


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