さて、オフィサーズ・ワードルーム(士官居室)、
キャプテンズ・ステートルーム(艦長室、stateには特別室の意味あり)
と進んでまいりました。
ここでもう一度艦内図を見ておきましょう。
艦内は片側ずつ一方通行で進み、アタックセンター付近まで来たら
そこで折り返して戻る形で見学するので、つまりこの図のセイル下部分しか
公開されていないということになります。
後部のエンジンルームや乗員居室などは別に見せても良かったんでしょうが、
そこに行くには原子炉の横を通らざるを得ないので、こうなったのでしょう。
お節介船屋さんの教えてくれた「世界の艦船」情報によると、除籍後、
原子炉撤去工事を含む解役工事が実施されているということなので、
つまりここにはすでに原子炉すら存在していないということですが、
それならそれで「原子炉跡」としてそのスペースを見せてくれればいいのに・・・。
こういうときにわたしのような人間は「何か見せたくないものがまだあるのでは」
と勘ぐってしまいがちですが、そういうことになっているのでそうしておきます(笑)
なんと、武器庫がありました。
航行中に飛び道具が必要な事態というと、まず真っ先に
海賊に襲われるという可能性が思い浮かびますが、
潜水艦なのでまずそれはないし・・・となると、
乗員の反乱・・・・とか?
アメリカ海軍に限ってそんなことが起こるわけがない、と思いたいですが、
「K-19」だって艦長に造反する乗組員が反乱起こしてたしな。
まあ、北極に行けば何が起こるかわからないからってことで。
「コミニュケーションセット」とあるので何かと思ったらソナーです。
昔の装置なので巨大ですね。
このころはコンピューターも今のスパコンみたいな大きさでした。
ペリスコープ(潜望鏡)ルームにやってきました。
天井が凹凸のある金属で張り巡らされているのはなぜ?
画面手前に伝声管がありますが、原子力潜水艦でも最も効率的に
いかなる場合も確実に声を届けるのはこの原始的な方式なんですね。
熱心に潜望鏡を覗いている乗員あり。
ところで注意していただくと、潜望鏡が2種類あるのがお分かりですね。
こちら側の潜望鏡には昔の電話コードみたいなのがぶら下がっています。
このセイル上部でいうと、乗員が使用中なのは一番高い金色の潜望鏡。
こちらを「タイプ2F」といい、こちらを日中は常用していました。
その前の白いのが電話コード付きの「夜用潜望鏡」で、「タイプ8B」。
レーダー、ラジオ内蔵でESMスタブアンテナを内蔵しているのです。
ところで、博物館の展示に「潜望鏡体験コーナー」がありました。
子供でも見られる高さに調整したものから、アメリカ人の大人用(つまりすごく高い)
ものまで三種類の潜望鏡が部屋にしつらえてあり、覗くことができます。
なんと潜望鏡は建物の外を見ることができるというものでした。
ちなみに日本海軍の潜水艦の潜望鏡は最初イギリス製に頼っていましたが、
第一次世界大戦の勃発で輸入ができなくなったため、海軍は三菱に要請して
光学兵器製造メーカー設立に乗り出します。
1917年、東京計器の光学計器部と、サーチライトの製造を行っていた
岩城硝子製作所の探照燈反射鏡部門を統合し、日本光学工業株式会社、
つまり現在のNikonを設立したのです。
「海のニッコー」と言われていたのはなんのことはない、海軍の要請で
創られた会社だったからだったんですね。
なお、日本光学は独自の潜望鏡を作るため、ドイツから技術者を招聘しています。
ドイツのUボートの潜望鏡は当たり前ですがカール・ツァイス製。
現在のアメリカ海軍がどこの潜望鏡を使っているかはわかりませんでした。
アメリカのことだから全部海軍で作ってるかもしれませんね。
ペリスコープルームの外側には警報装置がありました。(アラームパネル)
浸水、衝突などの一般的な非常事態事態、推進や発電機能が損害を受けた時
作動させます。
真ん中の赤いのは衝突による非常事態専用。
チャートルームを見ていると、後から追いついてきたおじさんが、
地図を指差して、
「ほら、これ見てごらん。このサブは北極点に行ったんだよ」
と、おそらくここにやってくる大人であれば10人中9人は知っていることを
重大ニュースのように教えてくれました。
それに対してまるで初めて聞くかのように”Oh, really?"と驚いてみせるTO。
おじさんが指差したオペレーション・サンシャインのときの
原子力潜水艦「ノーチラス」の航路。
この時に記された歴史的なノーチラスの「艦位」。
1958年8月3日、北極までの距離、ゼロ。
緯度 90°00.0'N。
この記録を刻んだのはShepherd M. Jenkesという中尉でした。
ちなみにこの人は、一度原子力士官の試験を受けて落ちているのですが、
2度目に「ノーチラス」の通信士に応募しています。
そして例の「頑固なことでは悪名高い」リッコーヴァー大将の面接を受け、
昔一方的にチラ見しただけだというのに、いきなり
「僕のこと覚えていませんかー?」(^o^)/
と超フランクに語りかけて怒りを買い()即座に部屋を追い出されました。
ところがなぜかその後彼は採用されることになりました。
こういうボスだと何が気に入られるかわからないですね。
ジェンクス中尉
ちなみにジェンクスはその後大尉まで昇進し、2013年に亡くなりました。
さて、ところでどうして世界初の原潜であったノーチラスは
北極点を通過するというミッションを課せられたのでしょうか。
その理由は冷戦にあります。
1957年にソ連は人類初の無人人工衛星スプートニクを打ち上げました。
このときに西側諸国、ことに世界の科学技術の雄を辞任していたアメリカが陥った
「スプートニクショック」は大変なものだったと云われています。
対抗策として立ち上げた人工衛星の「ヴァンガード計画」が失敗したことが、
さらにショックに追い打ちをかけました。
しかしそこは腐ってもアメリカ、当時のアイゼンハワー大統領は政策を変更して
以降、ソ連との宇宙戦争へと舵を切っていき、最終的に
これに勝利することになったのは歴史が示すところです。
ついでに、このときは日本にもその余波がありました。
これからの宇宙時代に乗り遅れまいと、まず理数教育のカリキュラムを強化しています。
映画「地球防衛軍」のラストシーンには、この報を受けて急遽人工衛星が登場し(笑)
アイザック・アシモフはこの騒ぎの余波で作家への道を開き、その後続く一連の
SFものの名作は、日本にも星新一や筒井康隆などのSF小説の嚆矢となりました。
つまり西側諸国にとっては、むしろメリットの方が多かったような気もしますね。
話が逸れましたが、つまり
「原子力潜水艦ノーチラスが太平洋から北極点を通過して大西洋に抜ける」
という計画は、スプートニック・ショックに打ち克つためにアイゼンハワー大統領が
提案した、アメリカの威信をかけた国家事業でもあったのです。
彼らの課題はつまるところこうでした。
「ロシア人のスプートニクを(とにかく)上回ること」
左航海士官のジェンクス中尉、右アンダーソン艦長。
気のせいかジェンクス中尉の態度がでかい・・・。
1958年、「ノーチラス」は母港のここグロトンを出港し、
パナマ運河を抜けて西海岸に到達し、太平洋艦隊にお目見えして、
その後はシアトルからハワイを通過しました。
6月28日にはパールハーバーに到着、彼らはハワイを一ヶ月も楽しみました。
この間、我らがジェンクス中尉は、偽名で偵察機に乗り込み、これから通過する
北極点上空に飛んで、現地の氷の様子を下見して報告書を作っていたのです。
ジェンクス中尉の報告によって、水深の浅い部分や氷の厚いところを確認し、
ノーチラスがハワイを出港したのは7月22日のことでした。
アラスカにて。
8月1日、ついにノーチラスは北極点の氷の下を通過するため、
ここから潜行を行いました。
北極点まで1,094マイルの距離でした。
さて、そのジェンクス中尉が活躍していたナビゲーションルームです。
これがジェンクスだったらよかったのに、ジョーダンとなっていますね。
ここナビゲーションルームの装備は当時の最新機器が搭載されていました。
たとえば、方向探知機AN/BRD-6B、ロラン電気航法システムなど。
氷の下を潜行しながらも方向を探知する機能はノースアメリカン航空の
N6A-1によって可能になりました。
この区画には換気のための二種類の速度の違うロータリーもあります。
最新式の航法・天則装置を装備しながらも、
昔ながらの六分儀もちゃんと搭載しています。
ちなみに赤いシャツが「北極に行ったんだよ」と教えてくれたおじさん。
狭いところに巨大なロッカー状のものがたくさん。
説明がなかったので何かわかりませんでした。
ここはESMベイ。
主に探索のための機器が集められている部分です。
この人が引き寄せているのはマイクかなんか?
レーダー音を録音するためのテープレコーダーだそうです。
録音時間に限りがあるのにどのように録音したのか気になります。
おじさんの後ろにかかっている周波数のチャンネル表らしいもの。
ところで、このアコースティックグラフに表れているのは、
「ノーチラス」が60ftの深海を航行中、海底から15ft(4.5m)しか離れておらず、
しかも浮遊する氷の塊に衝突する危険が近づいていたということです。
ノーチラスはこのとき、まさにくさび形のトンネルのようなところを
ゆっくりと進んでいましたが、この間「アクセス・ディナイド」、
つまり外部からは通信も途絶えていたということなのです。
いやー、よくぞなんの事故もなく無事に通り抜けられたものですね。
続く。