さて、キュレーターのジェニファーさんに取り次いでもらうために
ホールの中を見当違いにうろうろしているわたしたちです。
階下が入学事務所だったので、もういちどホールの階に戻ってきました。
そこはライブラリー。
ジェニファーに連絡をするにはどうしたらいいかを司書に聞いてみることにしました。
古書なども蔵書に充実していそうな明るい図書館。
ネイビーブルーの作業着を着たカデットもちらほらいます。
彼らの図書館にはどんな蔵書があるのだろう、と写真を撮ってみたのですが、
こういう学校だから、海事に関する本ばかりかと思ったら、そうでもないみたい。
「ニコラ・テスラの真実」「ファット・フード合衆国」
カーレド・ホッセイニの「千の輝く太陽」、「ダビデとゴリアテ」・・・。
図書館の人がわたしにはわからない、というので、もう一度ミュージアムの前に行ってみると、
そこには車椅子に乗った白人女性が待っていました。
この人がキュレーターのジェニファーさんでした。
メールで「この日の朝、わたしは病院に行ってから出勤するので、
少し遅く来てくれるとありがたいです」といわれていたのですが、
まさかこういう状態の人とは夢にも思いませんでした。
彼女は
「わたしはそれで少し喋るのも遅いのだけど、ごめんなさいね」
というのですが、我々にとっては謝られるどころか願ってもないことです(笑)
彼女は自分で車椅子を移動させながら、このあと展示品とコーストガードの歴史について
熱心に説明をしてくれました。
入り口のホールには、そのマークの元にこのようなことが書かれています。
私はコーストガーディアンだ
私は合衆国国民に奉仕する
私は彼らを守る(protect )
私は彼らを守る (defend)
私は彼らを守る (save )
私は彼らの盾になる
彼らのためにわたしは常に備える(semper paratus)
私はコーストガードの真髄に生きる
私はコーストガーディアンであることを誇りにする
我々はアメリカ合衆国コーストガードである
さて、このあと、ジェニファーさんに一度館内を説明してもらい、
終わってからもういちど二人で確認&写真撮影しながら廻り、
外に出てきたのはたっぷり2時間くらい経っていたでしょうか。
このときの内容については、また日を改めてお話ししようと思います。
ミュージアムのあるホールの下に慰霊碑のようなものが建っていました。
沿岸警備隊は国家の非常時、つまり合衆国議会における宣戦布告や
大統領の命令などの戦時には、アメリカ海軍の指揮下に入ることが決められています。
よって、1915年に沿岸警備隊の名前になって以降のアメリカの戦争、
第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争にも参加しています。
USS、とありますが、戦時中は沿岸警備隊は海軍の下に入ることになっているので、
「カッター」と言わずこのときだけは「シップ」になるということなのでしょうか。
各艦のシルエットには戦歴が箇条書きにされています。
USS「カヴァリエ」 サイパン・台南・レイテ・リンガエン・スビック
東シナ海での戦闘にて魚雷を受け乗員1名死亡、58名重軽傷
USS「レオナード・ウッド」 北アフリカ・シシリー・ギルバート・マーシャル諸島
サイパン・レイテ・リンガエン
敵機5機を撃墜
USS「キャラウェイ」 クァジャレイン・サイパン・アンガウル・レイテ
リンガエン・硫黄島_
1945年1月8日神風特攻を受け、乗員31名戦死
敵機2機を撃墜
USS「ベイフィールド」 D-デイ 南仏 硫黄島 沖縄
乗員1名戦死 5名重軽傷
乗員のことを「SHIPMATE」というのも、コーストガード独特のものでしょうか。
メダル・オブ・オナーを授与したダグラス・アルバート・マンローの
写真が彫り込まれた彼の顕彰碑。
マンローは、1942年、ガダルカナルで日本軍の捕虜になっていた海兵隊500人を
奪還する作戦に従事していた上等信号兵だったそうですが、自分が囮になって
日本軍の集中砲火を受け、その間に海兵隊の乗った5隻の船が脱出を果たしました。
マンローは、史上唯一の名誉勲章受章者たる沿岸警備隊員となりました。
アレキサンダー・ハミルトン。
なんかこの名前最近ここで書きましたよね。
そう、アメリカ建国の父で、税収カッターの発案者、つまり沿岸警備隊の
生みの父というべき人(かれは軍人でもあった)じゃないですかー。
その名をもらったというのにアレキサンダーハミルトン、1942年に
ドイツの潜水艦U-132に魚雷攻撃を受け、レイキャビク沖に沈没しています。
主に機関科の20名が船とともに沈み、怪我をした6名がのちに亡くなりました。
この顕彰碑は生存者によって建立されました。
日本人としてはなんとなくホッとしたのですが、これは対日戦のものではなく、
1940年から45年まで行われていた「グリーンランド・パトロール」の参加艇です。
当時グリーンランドには米軍の基地があったので、周辺を警戒する必要があったのですが、
過酷な状況の中で事故に遭いUSS「ムスケゲット」「エスカナバ」が喪失。
USS「ナトセック」は行方不明になっています。
この顕彰碑の冒頭に書かれている言葉はこのようなものです。
「今では忘れ去られ、大した名誉も与えられていないかもしれない。
しかし、彼らが”男”であったことだけは疑うべくもないのだ。」
顕彰碑コーナーの見学を終わってから、わたしたちは車に乗りました。
このとき、駐車場にもその周囲にも誰一人いなかったので、
その気になれば車を置いたまま周囲を歩いても良さそうな雰囲気でしたが、
やはり東洋人が構内をカメラを抱えてうろうろするのはまずかろうと思い、
おとなしく帰ることにしたのです。
せめてゆっくり運転しながら写真を撮ろうという考え(笑)
ここは予想したように、カデットの居住区が奥にあるホールです。
木々が生い茂っていますが、おそらく樹齢は100年越えているに違いありません。
渡り廊下の向こうは中庭になっています。
学生舎から教室まで、廊下で繋がれているようです。
博物館を見学しているのは、わたしたち以外に子供連れの家族が2〜3といった感じで、
ましてやアメリカ人以外の姿を見ることはありませんでした。
車に乗り、構内を走っているときにも人一人姿を見ませんでした。
なんだか不思議な空間の静寂です。
実は、この何日かあと、ロングアイランドからフェリーでニューロンドンに着き、
そこから今いるウェストボロというところに移動したのですが、
優秀なナビの指示をなぜかこのときだけ聞き間違えて、気が付いたら
このウェストコーストアカデミーの正門前に来ていたということがありました。
異邦の見学者であるわたしたちが、センパーパラタスな人たちに
”歓迎”されたからかもしれない、とこの不思議な間違いを、わたしは勝手にこう解釈したのです。