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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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"I SPY"の世界〜ミスティック・シーポート

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「The Museum Of America And The Sea」

これがミスティック・シーポートのテーマです。
1929年に、弁護士のカール・カトラー、ニューヨークの医師、
チャールズ・スティルマン、そして地元の絹製造業者であった
エドワード・ブラッドレーの三人が、アメリカの歴史的な
海事をテーマとした博物館を作ろうと決めたのが始まりでした。

ブラッドレーが初代チェアマンとなり、人集めを始めると同時に
とにかく「海」をテーマにした展示の収集が始まります。

壮大な計画であったため、スティルマンもブラッドレーが
亡くなった1938年にもその計画はまだ達成していませんでしたが、
一人残ったカトラーが、二人の夢を叶えるために現存する古い船を探し、
ついに捕鯨船チャールズ・W・モーガンを手に入れることに成功します。

ただし彼女はその年のハリケーンで被害を受け、ようやく
コネチカットに到着したのは真珠湾攻撃の1ヶ月前でした。

戦争中にもかかわらず(というかアメリカは今も昔もこんなだったのだなと思いますが)
1942年にはチャールズ・W・モーガンは公開されて客を集めていました。
ミスティックに船大工がオープンして、彼女が今の場所に来たのは1944年のことです。



「ジョセフ・コンラッド」は1945年にここにやってきました。



樹々の間に設えられた小さなステージで、数人のスタッフが
なにやら演劇のようなことを行っていました。
わたしたちは時間がなかったので近寄ることもできませんでしたが、
前の観覧席では意外なくらいたくさんの人々が熱心に鑑賞していました。 



この石造りの二階建ては「ミスティック銀行」。
なるほど、火災に遭わないように石造りなんですね。



入ってみる。
狭くて仕事ができそうな椅子が三つしかありません。
昔の銀行は三人で仕事していたんでしょうか。

1850年ごろ、銀行というのは一般家庭の人々が使うものではありませんでした。
普通口座や預金口座、貸し出しなどのシステムは一切なかったのです。
当時は会社、ここミスティックでいうと「シップビルダー」の操業資金を
貸し付けたりするのが仕事だったので、「ディレクター」がボスで、
その下に二人の従業員「プレジデント」と「キャッシャー」で事足りたのです。

この銀行は、1856年に一人のビジネスマンが立ち上げたもので、
ミスティックリバーに面したところに建っていました。



仕事スペースの奥にある金庫。
コインがばらまかれていますが、見学した人がどうも1セントを投げ込んでいるようです。

この頃の銀行は銀行強盗から守るために金庫があったのではありません。
彼らが恐れていたのは火事だったので、立地も火事になりにくいところが選ばれました。

金や銀、そして顧客にとって最も大切な証書や債券など、紙類も、
それがなくなればおしまいでしたから、さらに金属の箱に収められてここに収納されました。

上の写真で「ザ・シップ アシュネット」と書かれている箱がありますが、
ここにはフェアヘブンにあったマサチューセッツの捕鯨船の書類が収められています。
この捕鯨船「アシュネット」に1941年ごろ乗っていたのがハーマン・メルヴィル。
ご存知「モーヴィ・ディック」、「白鯨」の作者です。



売っているものは樽しかありません。
ここには説明員がいて、質問に答えていました。

COOPERAGEというのは初めて聞く単語だったのですが、
これがなんと「桶屋」なんですよね。
じゃ、「風が吹けば桶屋が儲かる」は

If the wind blows cooperage is earn.

でいいのかしら。
桶屋というよりこれ樽屋なんですけど。 



セスとジェーン・バローズが住んでいたので「バローズハウス」と呼ばれる家。
1805年から1825年の間に建てられたものと言われています。



ジェーンは1874年からドレスメーカーをして収入を得ていました。
夫のセスは「ドライタウン」、つまり禁酒法時代に食料品店を経営し、
そこでこっそり酒を売ったというので悪評があったそうです。 



でもまあ儲かったんでしょうね(笑)
悪名とかいっても、だいたい禁酒法そのものが馬鹿馬鹿しい限りの茶番だし、
酒をこっそり売る業者はそれこそいくらでもいたというし・・・。



「ミスティック・プレス・プリンティング・オフィス」

つまり印刷屋さんです。
漁港に素早く最新ニュースを届けるためには印刷屋が不可欠でした。
政治や事件など以外にも、船の出入港について情報が必要とされたのです。
ここミスティックに新聞が登場したのは1859年のことです。



活字を組んで印刷する活版印刷。
これらは1962年からここに展示されています。



同じような大きさの、数段の階段を上る家がならんでいます。
この赤い家は「マスト・フープ」を作る工房。



マストフープって何なのかと思ったら、マストに帆を貼るために
マストに通すフープのことだったのですね。
この工場にある丸い輪っかは、加工してフープにする前のものです。 

 

"nautical" の意味もわたしはこれで初めて知りました。
「船舶の」ということなので、船舶専用の時計や六分儀などの専門店です。
さすがは港町ですね。

"quadrants" は象限儀といって、円周の4分の1の目盛り盤を主体とする
 扇型の天体観測器のことです。



こんなこともあろうかと偶然写真を撮っておきました。
どうやって使うかは全く想像もつきませんが。



羅針儀や船内用の時計はわかるとして、窓際の台の上のは
これも検討がつきません。



組み立て前のmarine chronometer(航海用の高精度な時計)。



ジャックスパロウが使っていたみたいな?望遠鏡。



部屋の隅にあった謎の金属窓。まさか排水溝?



お神輿みたいなこれ、なんだと思います?
ファイヤーエンジン、つまりポンプ式の消防車。
海辺の産業は火がつきやすいものばかりだったので、このような
簡易な消防車を地域で用意していたようです。

ところでこの自転車、本当に乗れるものだったんですね・・。
(装飾だと思っていた)



「プリマス製糸工場」。

マサチューセッツのプリマスに1824年創業した工場です。
製糸工場の先鞭であったニューオリンズの技術を導入しました。
南北戦争の始まったのは1861年で、まだまだ南部では奴隷が労働をしていましたが、
この工場の経営者、ボーン・スプーナーは "abolitionist" 、即ち奴隷制反対論者でした。



彼は新しい技術を導入し新しい製品を開発しつつも、常に
価格と製品について研究を怠らず、45年間に実業家として
大変な成功を収めたと言われる人物です。


プリマス製糸工場は、ここ港町にあって船舶の舫を専門に作っていました。
チャールズ・W・モーガンなどの捕鯨船には丈夫な舫を必要としますが、
ここで生産されたものは常に船乗りたちの信頼に足るものであったといわれます。



「キャットボート」といわれる船。

ここニューイングランドだけでなくロングアイランドやニュージャージーで、
浅瀬で作業をするときに使われた船で、1850年以前には出回っていました。



みてお分かりのように、折りたたみ式のマストが一本あります。



ブラント・ポイント灯台。

小さなかわいらしい灯台です。
これはナンタケット港にあるブラント・ポイント灯台のコピーだそうです。

フレネル・レンズといわれるガラスの層を積み重ねたような光源が
ここからでも見てとれます。



トーマス・オイスターハウス内部。

ボストンとサンフランシスコ、というのはいずれも住んだことのある街ですが、
この二つの都市では牡蠣がたいへんポピュラーな「コンビニエンスフード」でした。

採取した牡蠣を入れておくカゴが棚に並んでいます。



外には牡蠣をとるボートが横付けしてあります。



「ファイヤフライ」(蛍)とかかれた小さな小屋。
中を見ることはできませんでしたが、建物の割れ目から
船を引っ張るためのワイヤが出てきています。



「ライフ・セービングハウス」となっています。
実際に中を見てみると、スタッフの私物や服などが乱雑に置かれていました。

ここは「U.S. 救命サービス」という組織の出張所で、万が一
船が難破したり沈没したという知らせを受けた場合、現場に急行し
とりあえず人命を救助するという任務を帯びていました。

実際には1870年から1930年までの間、この小屋はケープコッドにあり、
救命サービス隊とコーストガードが使用していたものです。




昔の街並みを家の中ごと再現した空間を歩いていると、息子が小さいときに
夢中になってやったCDゲームの「I SPY」(日本では『ミッケ!』)の
港町のシーンに迷い込んだような錯覚が起こってくるのでした。


街の果てに行くと、造船所が現れてきました。
ここでは今でも修繕や造船が行われているのだそうです。

続く。


 


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