Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2816 articles
Browse latest View live

市谷・防衛省ツァー〜「極東国際軍事裁判の址」

$
0
0



タイトルはここ市谷法廷で行われた

極東国際軍事裁判、通称東京裁判の様子。

先日市谷でこの法廷跡を見学した時に、
偶然同じ位置から撮った写真と並べてみました。

ご覧のように、右側に裁判団の席、左が被告席。
二階バルコニーには傍聴人(おもに被告家族)が座り、
そのバルコニーの下が報道陣の席です。



わたしたちはこの時、この体育館正面の

「玉座」

の壇上に立って全体を見ていたわけですが、
この玉座は当然のことながら、ここが士官学校であった時代には
天皇陛下および皇族方のご臨席を賜るときに使用されました。

この部分に貼られている壁布は、当時のもの。



菊の御紋が入り、さらに意匠は菊(と藤?)があしらわれています。
実に精緻なこの織物、当然ですが手織りです。



「基幹部分は移設に伴い作り変えてしまった」

と言うことで若干感興を殺がれたとはいえ、
このような細部は当時のままです。
この組木の床ですが、どこかで見たことありませんか?

そう、「からくり箱」である箱根細工ってありますね。
この部分は箱根細工の職人の手によるものです。

うちも箱根旅行のときこのからくり箱を一つ買い求め、
たしか「37ステップ」を経て開けるという行程に挑戦しましたが、
行き詰ったときに

そこで放置したまま置いておく人がいて、

いったいどこまで進んだかわからないままになってしまい、
そこから押しても引いてもびくとも動かなくなり、
そのうち部屋の隅でホコリを被りだしたので、

泣く泣く処分しました。

今度機会があったらもう一度買ってきて挑戦したい。

できれば100行程くらいのものを・・・・・・・・・・

・・・・・って、無理?

 

ところで、この玉座ですが、前回の「見学記」のときに
次回のお楽しみ、と書いた「かいだんのひみつ」について。

この玉座につく天皇陛下のために、この裏部分には

天皇陛下専用階段

があります。
年に何回ご光臨賜るかわからないその機会のために、
わざわざ専用階段を設けているのです。

江田島の海軍兵学校にもやはり玉座がありますが、
確かここに上るための専用階段まではなかったような。

この江田島の兵学校大講堂は、
二階の「貴賓席」に行くためには専用階段があります。
そこは一般の観覧席とは仕切りで隔てられており、
戦後初めて一般人としてここを使ったのが

日本人ではない母親を持つ小沢一郎であった

というのが、なんとも虚しい話です。
因みにこの小沢一郎ですが、田中角栄が
「今朝鮮人の子供を預かってるんだが」と
小沢を指して言っていたことがあるそうです。


さて。



その階段画像もう一度。



といっても、はっきり言って写真では全くわかりませんね(笑)

この階段、実は陛下がそのおみ足をそこに乗せた途端、

膝を動かすだけで勝手にすいすいとその御体を押し上げてくれる

ような仕掛けがなされています。

少し大げさか?

つまり、見た目ではわかりませんが、上って初めてわかる。
階段の踏み板のの中央にわずかな凹みがあり、
さらにほんの少し傾斜をつけてあるのだとか。

それだけ言うからには実際に登らせてくれるんだろうな?

と期待したのですが、本日その計らいはありませんでした。
どうもツアーの参加人数によって上らせたり上らせなかったり、
違うみたいです。残念。

この件で思ったのですが、

どこの世界に権力者の一瞬の移動のためにこれだけの
「匠の技」を気配りにして注ぎ込むような国民がいるかってことです。
しかも、陛下ご本人が全く気付くかどうかもわからないレベルで。

全く、日本人とは「気配りのできる民族」であることだと
つくづくこの階段を見て思いましたですよ。

まあ余は日本人に生まれて本当によかったと思った。
(by夏目漱石)



記念館への入り口から玉座を望む。



この構図、遠近法がいまいちおかしいと思いません?
それは、この床が玉座のある部分に対して傾斜がついているからです。
玉座のある部分を高く見せるためですね。



だからたとえばこの二階観覧席から玉座を見たときにも
ほとんど同じ高さになるように見えるのです。

いやはや、この日本の匠を使った見事なまでの気配り。

というか、このフロアでは球技はできないってことですね。

それだけ気を配った玉座の設え。
極東軍事裁判のときにはここがどうなったかと思います?

なんと

同時通訳席

ですよ。
同時通訳と言えば、このときに通訳モニターとして働いた
日系アメリカ人を描いた大河ドラマがありましたね。昔。

「山河燃ゆ」。

山崎豊子の「二つの祖国」をベースにしたもので、
日中戦争やこの極東軍事裁判が語られます。

児島譲の「東京裁判」では、いよいよ刑言い渡しのとき、
東条英機の部分をアナウンスすることになっていた二世が
文官で死刑はありえないと言われていた広田弘毅の担当に

「死刑の言い渡しを通訳するのは嫌だから代わってくれ」

と頼み込み、頼まれた方が

「俺はビッグネームをやりたいから歓迎だ」

と快く引き受けたので広田に担当を変えたところ、
その広田が誰もが驚く「デスバイハンギング」の判決だったので、
わざわざ代わってまで広田を引き受けたこの通訳は真っ青になった、

というエピソードがあったのですが、その後知るところによると
このエピソードをこの大河では主演の松本幸四郎がやった模様。

今、この大河ドラマの配役を見ていたんですが、

チャーリー(沢田研二)エイミー(多岐川裕美)
マリアン(ヒロコグレース)米人記者(ケントギルバート)
陳美齢(アグネスチャン)

・・・・・・・・。

とくに、このケントギルバートは

戦艦大和の建造について調べていて殺される

なにこれ!
皆さん、これ観たくありませんか?

なんでも当時「史上最低の大河視聴率」だったらしいけど、
今ならかえって視聴率取れそうじゃないですか?

まあ、ちゃんと偏向捏造せずに制作さえすれば、ですが。




えらくモダンですが、反響板です。



冒頭の裁判中の写真と実際の写真をもう一度見比べてください。
裁判中の写真には天井から「吊り照明」がたくさん見えますね。

これは進駐軍、軍事裁判法廷の意向で

「昼のように明るく照明を照らすこと」

とされたので、そのために急設した灯りです。
画面の右側が裁判官席で、その後ろのカーテンを閉めていたため、
そして主にアメリカからは映画の撮影班も来ていましたから、
まるでハリウッドの映画撮影のように過度な照明がされました。



こんな明かり取りじゃまったく足りない!というわけです。



しかしこの過度な照明、夏は大変でした。
何しろ当時、

クーラーがここには備わっていなかった

のですから。
暑さの上に過剰な照明で報道陣は勿論のこと裁く方も裁かれる方も、
うんざりするほどだった、と児島譲の「東京裁判」には
当時の様子が描かれています。



床の組木もその当時のままのもの。
移設に当って、「どうしても使えなくなった」300枚余りは
代替の木に変えたそうですが、それ以外はすべて全部

一枚一枚番号を振って

元の位置にはめることに成功したそうです。
この写真でも傷がちゃんと組木の三枚に亘って
ついている様子などがわかりますね。

つまり、この同じ床の上を歴史的人物たちが踏み・・・・。

と言いたいところですが(笑)

これも冒頭写真を観ていただければわかりますが、
床には傷防止のためか絨毯のようなものが敷いてありますし、
被告人席も階段状のものを増設しているようですから、
実際に歩かれた部分と言うのはあまりないのかな。

ただ、この部分。



わたしが紹介ビデオを見るために座った席の近くですが、
ちょうどこの前から2番目の長椅子の角の部分。

ここに証言台がありました。


各被告が個人反証のときに座った、あの証言台です。

ここに・・・。

さて、ここには写真でもお分かりのようにガラスケースがあり、
そこに実際の資料や写真が展示されています。





判決を終えて出てきた被告たち。
下の写真の階段部分で撮られたものでしょう。
南次郎大将(前列左端)のお髭が立派です。
それにしてもさすがは一国の政治指導者たち。
そのコートをまとって立つ様子は皆堂々として見えます。

とくに元海軍大臣、嶋田繁太郎(南の右)、東条英機、
皆よろしいですね・・・・何がいいんだかわかりませんが。

左に立っているMPは、

オープレー・S・ケンワージー中佐

市谷法廷における被告たちの世話と監視にあたった
この下士官出身の憲兵隊長は、東京に赴任する前にマニラにいて、
あの山下泰文、本間正晴の処刑を見届けました。

「山下は軍人として立派に死んでいった。
わたしも軍人としてあのように死んでいきたい」

二人を畏敬していたケンワージー憲兵隊長の気持ちは
そのまま市谷のA級戦犯たちの扱いに表れました。
彼らを尊敬し、手厚く儀礼を以て接し、時には接見のときに
家族と少しでも長い時間会えるように計らいました。

それを日本人である被告たちがありがたく思わないわけがありません。

被告たちは判決が下り、ケンワージーと別れることが決まったとき
相談して彼に全員の揮毫を贈呈しています。



ここには「東京裁判は無効であり被告は全員無罪である」
と独自の判決書を出したラダビノッド・パル博士についての
少しの資料も見られました。



わたしたち日本人との関わり合いで、
偉大な知識の光明をこの世に遺してくれた。
決してわたしのこの評価は大げさなものだとは思いません。

パル博士がいなかったら、東京裁判の欺瞞性が
戦後の日本に膾炙し、同時に自虐史観から抜け出そうとする動きは
今よりさらに遅れたであろうことは火を見るより明らかだからです。

しかし、そのパル博士がインド代表判事に選出されたのは
ちょっとしたアクシデントによるものでした。

2009年と言いますからごく最近分かったことですが、
パル博士は休暇中の裁判官の穴を埋めるために
短期間裁判官代行を務めた弁護士で、
インド総督府の認める正式な判事ではなかったと言うのです。
これは国内手続きのミスと言うべきだったのですが、
ともあれこの偶然が日本にパル博士を与えることになったのです。


このミスに「神の配慮」を感じるのはわたしだけでしょうか。




この写真は珍しくカラーですが、誰かの(つまり処刑された7人のうちの)
遺族が、GHQにもし見つかったら叱責没収になることを覚悟で
こっそり写したものなのだそうです。

証言台にいるのは広田弘毅元外相のように見えますが・・・・・・。




写真自体は特に変わったものではありませんが、
この提供者の名前を見てください。

森山真弓元法務大臣。

森山元法相は当時津田塾女子大を出て通訳のアルバイトで
極東国際軍事法廷の現場にいました。



翻訳業務中の森山真弓(たん)。
彼女はこの後東京大学に入学し官僚になり、
自民党から法務大臣、文部大臣、内閣官房長官などを歴任します。

どうでもいいことですが、彼女と結婚することになった男性は
「君は飯は炊けるのか」と聞いたとか。

「相撲の土俵に女性を上がらせろ!」とか夫婦別姓とか、
なんだかちょっとフェミ臭いんでわたしはあまり好きじゃありませんが。






下の方に見える黒っぽい板の部分が
「修復不可能」で入れ替えた部分。
入れ替えた部分を本物そっくりにせず、
あえてわかりやすくしているあたりに「良心」を感じました。



市谷見学記、まだまだ続きます。




開設1000日記念漫画ギャラリー 第二弾

$
0
0

「どんがめ下剋上」






潜水艦という特殊な配置に最初に興味を持ったのは、
「特殊潜航艇」でシドニー湾に突入した松尾敬宇(まつおけいう、かずたか)
少佐の話を読んでからです。
このころは、伊33の事故のことや、いくつかの潜水艦映画が出たこともあって、
わたし的には「潜水艦ブーム」でした。

そんなブームの中、描いたのがこの2編。

「とある少尉候補生のブラックアウト」







「とある潜水艦長のブラックアウト」








板倉光馬艦長の4コマはつい最近
「敵機に帽を振れ」というログでアップしました。
こういう人物がいたことを知るのが、「海軍ファン」冥利です。

最近、旧軍に関する情報を集めておられる方のブログに、
これをはじめいくつかの当ブログ記事が掲載されていることを知りました。
まったくありがたいことでございます。

この「板倉艦長のブラックアウトシリーズ」も載せていただいていますが、
それにつけられたコメントが

「『ちーん』があるある過ぎて怖い・・・・・」

あるある過ぎちゃだめでしょー。


「ハンモック・ナンバー」



ハンモックナンバーについてお話しした時に、特別出演した
「ジパング」の草加、滝両中佐。
これは実話です。(迫真)

ここを読んだとき、何を言われても比較的無表情の草加中佐が
むっとした(ような気がした)ので、これを描いてみました。

というか、こんなこと普通は言わないよね〜。社会人として。



「『大和です』を漫画化してみた」











「雪風」でこれのパロディをするために描いた
「大和です」編。
なぜか本題の「雪風編」よりこちらの方が人気。


「雪風は死なず」












幸運艦「雪風」を初心者向けにまとめてみました。
本篇では新郎の着ているのが自衛官の制服になっています。
最初、紋付で描いたバージョンがあったので、
こちらをここでは載せてみました。

本当は、間違えて載せてしまったのですがまあいいやってことで。

もし今これを描いていたら、自衛官が結婚式のときに着る
メスジャケットの絵を描いたんだけどな。

最近読んだのですが、自衛官の結婚式って基本なかなかワイルドだそうですね。
同僚が全員全裸になるって、どこの秘境の部族ですか。



「駆逐艦『梨』物語」









駆逐艦「梨」の数奇な運命を描き、また
「この無名の艦で亡くなった方も、大和で亡くなった方も、
皆同じ英霊である」と、
「大和です」の感動的な話にすこしアンチってみました。

最近ですが、海軍で艦隊勤務をしておられたお爺様が乗っていたのが
聴いた状況からどうもこの「梨」ではなかったかとおっしゃる方から
コメントをいただき、大変感激いたしました。

このようなことがあると、ブログをやっていて本当によかったと思います。


「笹井中尉と三輪車」












読者のさとんさんとのコメントやり取りに端を発し、さらに
笹井中尉が三輪車に乗っている小さいときの写真に
想像力を刺激されて描いた漫画。
ありそうな話だと思ってしまう(というかわりと実話)のが笹井中尉らしい。


ここで、一コマ漫画を。

「海の男の洗濯任務」



艦の中で洗濯をするための水が盗難される事件が相次ぎ、
「水泥棒」を割り出すためについに医務課の捜査班が動いた。
彼らがそのためにこっそり水に仕込んだのはなんと
「洗濯すると生地が赤く染まる溶液」。

そして次の朝、艦の一隅には真っ赤に染まった洗濯物が。
動かぬ証拠を突きつけられたかれのこの後の運命やいかに。

・・・・ってなことを海軍の「お洗濯事情」に交えてお話ししてみました。



「嗚呼陸軍潜水艦」



潜水艦未来漫画「青の1号」をパロッてみました。
描いておいて読んだことが無いのもなんなので、
一時この漫画の再販でもいいから読めないかと探していたのですが、
どうやら再発行などはされていないらしく、「幻の漫画」のようです。
そうと分かればますます読みたくなってきました。

この陸軍潜水艦を「海軍と陸軍の齟齬の産んだ私生児」と
位置付けてみたのですが、後から見て大局的にはそうでも、
作った人や乗った人にとっては命令を受け乗務し、
さらに命を賭けるしかない乗り物だったわけで。
現にこの潜水艦で出撃し、亡くなった方々は多数です。

南方での目撃談ですが、このまるゆがある輸送任務に携わったとき、
潜水艦であるのに荷物を満載にし、しかも艦橋にまで荷を積んで、
つまり「潜水できない状態で」出撃していったというのです。
そして、そのままそのまるゆは消息を絶ちました。

制海権の無い海にそんな状態で出て行くしかなかったその切羽詰まった状況と、
成功する可能性など1パーセントもないこんな無謀な作戦に
命を掛けねばならなかった陸軍の潜水艦勤務乗員のことを思い、
これを読んだときには、ただただ涙があふれてしまいました。

「まるゆ」に乗務した陸軍将兵の英霊にに敬礼。


開設記念漫画ギャラリー、もう一遍続きます。







市谷・防衛省見学〜栗林中将の絵手紙

$
0
0


安倍新内閣になって名前を呼ばれるとつい注目してしまう閣僚が
二人います。
小野寺五典防衛大臣と、新藤義孝総務大臣。


中国との関係が緊張を加える中、この一軒物腰穏やかな、
しかし真に強さを秘めた清廉な人物を防衛省のトップに据えたこと、
そして先日からも問題が噴出しているようにNHKを筆頭とするメディア、
ことにテレビの暗部に踏み込んでいくことが喫緊の課題になっている
政権運営において、この「栗林中将の孫」である新藤氏と、
女性保守の筆頭である稲田朋美議員を総務の担当にしたこと。

このことは安倍内閣の「覚悟」を見るような人事であると思っています。




栗林忠道大将(死後昇進)は陸海軍硫黄島守備隊を総指揮し、
硫黄島の戦いで昭和20年3月26日、
総攻撃を下命したのち戦死しました。


戦史家などには非常に評価の高かった栗林中将ですが、
ほとんど個人的なエピソードが伝わっていなかったところ、
クリント・イーストウッド作品「硫黄島からの手紙」で渡部謙が演じ、
その名が世間に知られることになりました。

この市谷には、極東国際軍事裁判の法廷である市谷記念館があり、
そこにはここに伝わる軍資料などが展示されています。

その中に、栗林中将が硫黄島から送った絵手紙が多数ありました。




この栗林中将と言う人は非常に愛情こまやかな人物で、
さらにアメリカに駐在武官でいた経験からスマートな紳士でもあったようです。
写真に残る中将はピカピカに磨かれた長靴を付けた長い脚を
じつにエレガントに組み、軍服を素晴らしくかっこよく着こなしています。

新聞記者志望であったほどで非常に文章がうまく、また絵も達者でした。


そんな栗林中将の絵手紙。

イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、もともとこの
栗林中将の手紙から着想を得たのではないかと思っています。


この市谷の記念館は、基本的に映像以外写真を撮っても構いません。
展示物を傷めるため、フラッシュだけが禁止されていますが。

と言うわけで、この絵手紙、全部撮ってまいりました。

とても読みにくかったですが、文章も抜き書きしてみました。



2月16日 お父さんより

こちらは大変暖かだから
子供たちは皆外へ出て大騒ぎをして遊んで居ます。
これは道の真ん中でスケートをやっているところです。
(アメリカの道は皆コンクリートだから)
太郎君は渋谷で見たスケートを覚えているかね


どうもアメリカ駐在中の手紙のようですね。


この子供の服装は
夏、太郎君にはごくよろしいと思ったから、
念入りに前、後を見せるように書いて
お母さんの参考にする


なんと、「絵を参考にお母さんに同じ服を作ってもらいないさい」と。
何たる細やかな心遣い。
こんな旦那様を持った奥様は幸せ者ですね・・・。

子供のセリフは

「そら行くぞ そらそらそら」
「やってこーい!」

まあ、アメリカの子ですから

「ヒアアイカム!」
「ヘイカモーン!」

って感じでしょうね。

左のラインは

「ああもうすっかり腕を出した女もあらわれたな
夏気はい(気配?)だ もー」

この頃のアメリカ女性も「腕剥き出し」だったんですね。
日本女性のつつましい夏服を見た目には
アメリカ人の露出は少し刺激的に見えたかもしれません。



太郎君へ 12月9日 父より

これはお父さんが ある寒い晩
自動車の機関部を凍み割られて
しまったところなんだよ

「や、や、や・・・・・ついにやっちゃった
こりゃどーも でかい損害だ
100ドルくらいで済めばいいがな

早く50万出してアルコールさしておけば
こんなことはなかったにな
ほんとに しゃくだな・・・・・

壊れたところは太郎君も知っている
「あわいよー」の中なんだよ


息子との会話で何かこの部分について語り合ったのですね。
他人には全くわからないけど、家族にはすぐ通じる、
そんな言葉がこの家族にもあったようです。

因みに栗林中将が駐在武官でアメリカにいたのは
昭和2年から三年間のことです。

左上

お父さんは 外がどんなに寒くても
元気に運動しているよ

(ぴゅーぴゅー)

寒いからって家の中にばかり居るのは
よくねーことだ
それに歩くのはなかなかいー運動だ

寒い日が来ると新兵教育を一生懸命
やったころを思い出すな

栗林中将、「よくねーことだ」とか「イー運動」とか、
割と面白い文章を書いておられます。
子供さんに宛てているのでわざとでしょうね。



お父さんは夜になると日本から持ってきた浴衣を着て
勉強するんだよ

「この点が少しおかしいな・・・・」

セリフ入りです。



お父さんより

太郎君へ

お父さんは今度こんないい自動車を買ったの

外出したたんびに坊に買ってやったのと違うだろ
もっとも、高いのだよ

お父さんは今自動車を自ら運転しているの

坊がいればいくらでも乗せてやるのだがな

どーだ? 乗りたいかね


最新品、四人乗り、色も形もこの通りです
(この絵は見本図から切り取ったの
坊に見せようと思った)


栗林中将、とてもかわいいです・・・・。(萌)

今なら「カタログ」と言うところですね。
カタログから一生懸命車の形を切り抜いてノリで貼って。

坊に見せたい、乗せてあげたいというのは勿論ですが、
どうやら栗林中将、このピカピカの新車を運転できるのが
心から嬉しかった模様。

子供のようにはしゃいでおられます。

そして、中将は太郎君とお出かけするたびに、
おもちゃの自動車を買ってあげていたのですね。
親子そろって車好きだったんですね。

あ、上で「凍み壊れた、しまった」って言っている自動車は
これだったのか!



太郎君へ お父さんより

お父さんが今度来た女中の角刀とり御婆さんと
話をしています

この婆さんの夫はお父さんが今いる
連隊の下士官です


アメリカ人の太った女性は見かけより若いですから、
栗林中将が「婆さん」言い切っているけど実は同じくらい
だったりするんですよね。
そしてその婆さんいわく。


「キャプテン」は「我が陸軍」(傍点あり)はどう思います?
「キャプテン」は奥さんがありますか?
美しいかね?
なぜ連れてこないのかね?
子供もあるって?まあ二人も?

私の夫は陸軍伍長だよ なかなかいい男だよ(傍点あり)
子供はどーもないね・・・・・・

目方?32貫あるんですよ・・・・

これ?
この刺青は若い時分やったのだよ

女中かね?
軍人さんの家ばかり渡り歩いて
ちょうど30年務めたことになるね

日本はいいところかね・・?

私ダンスはなかなか素敵なんですよ
若いときは全くうまかったんですよ
(時々力を入れて言いました)

お父さん腹の中で
『まるでポンチ絵(漫画)だね
これでも断髪73分けか(当時の流行)
それにまた良くしゃべる婆だ
英語のケーコになったりウサになったり
丁度これはいいわい』


栗林中将、むちゃくちゃ辛辣です。
32貫ある、ってこれ120キロのことですね。
これ、中将が聴いたからこう答えたんでしょうね。

「ハウマッチどぅゆーうぇい?」

って聞いたんでしょうね。

しかし、この御婆さん、この後アメリカが日本と戦争を始め、
自分の旦那がいるアメリカ軍が(もう退役していたでしょうが)
日本と戦うことを知ったとき、あの、
自分の体重をズケズケ聴いたスマートなキャプテンのことを
思い出したりしたのでしょうか。



×月27日 バッファロー 父より
太郎君へ

栗林中将はアメリカから帰国後、カナダにも駐在します。
バッファローと言うのはナイアガラの滝を見に行った方なら
聞き覚えのある地名でしょう。
この名前の空港もあります。


じーさんがこの家の庭の芝に水をやっているところ

お父さんは今それを見ながら
じーさんに日本の話をしてやっているところ



日本語なら
「それ行け行けいけ行け!」

これはアメリカの(傍点あり)子供が遊んで居るところです
このへんは三輪車が大流行です
お父さんは子供がこうして遊んで居るのに出会うと
ちょっとしばらく立ち止まって見ています
太郎君もこうして元気よく遊んで居るかと思って

太郎君へ

御飯をどっさり食べること
近所の子供等とよく遊ぶこと




太郎君へ

11月33日 フォートラーシー 父より

お父さんは体操をしています
外は雨だが家の中は夏も全然だ
(次の一文解読不能)

オイ一、二、オイ一、二
モーたいそうやったからもうよすとしようか
太郎は体操をやるかな?



これはお父さんは何を考えているのでしょう?
『日本酒一升でひと月楽しめ

(この部分も解読不可能)

『これだけはいくら呑みたくても
今しばらく我慢して太郎君の誕生日の分と
しような』

『それにしてもカリホルニヤから醤油来る
カンカン(解読不能)買い込む
どーも我慢はできかねるな・・
しかしそこを一辛抱だ」

このあたり、全く意味が分かりませんが、要するに
「飲みたいけど我慢するために、
自分で自分にいろいろ言っているってとこですか。

雪がどっさり降って自動車の屋根にたくさん積もりました




珍しくひらがな表記の手紙です。

右上から

(近頃帽子はなかなか被らないのだ)
学校へ出かけるところ
「今日も××は熱いなあ」

ポカァーッと町を眺めているところ

太郎君にやろーとして
郵便いれているところ



下宿で勉強しているところ

公園のベンチに腰かけて
ボンヤリ休んでいる

お風呂にはいっているところ





太郎君へ 10月27日 父より フォートライレイにて

アメリカの将校の処のカアチャン達は
乗馬で来ています

あああいつ等は毎日暇なものだから
ああして馬に乗っているんだな

日本の将校の細君などは馬になど乗る者は
まるで無い様だが大いに違っているわい

父さんの食事中です

よくのべつにしゃべる好きだな
全く驚き入るな・・・・
犬もこーしゃべりながら食べるのが本当だな

それだのに日本では余り黙り過ぎているわ
「しゃべりはちょ」の太郎は喋りながら食べているだろーかな
純日本娘のオフクロがだまりやだから
そんな様に一生懸命しつけているのではないだろーかな

これはトウモロコシかまたジャガイモ、
いつも同じものを食べさせるな
まあ考えると日本人の食事は相当贅沢なモノさ


べちゃべちゃべちゃべちゃ

今夜の肉はよいわね
べちゃべちゃべちゃべちゃべちゃべちゃ

むにゃむにゃ
べちゃべちゃべちゃべちゃ



マア日本はモロコシをご飯で食べないんですって?
御芋ばかり食べるのは貧乏人ですって?
ま、また随分ご冗談がじょうずになりましたね
(お父さんが言ったのは冗談だと思っている)


栗林中将、ここでも辛辣です。
アメリカ人がコーンとポテトばかり食べているのは
昔からだったんですね

アメリカでは特に「ディナー」はしゃべるところですから、
無理にでもこうやって口を開くのですが、
日本人の栗林中将にはどうしても
「食事中にしゃべるのは行儀が悪い」
という感覚がぬぐえないようです。

そういえばうちも、食事中は「あまりしゃべるな」
というしつけをされていた覚えがあります。



そのほかにも残されていた栗林中将の写真。
硫黄島の作戦本部での様子です。



右が栗林中将でしょう。
その佇まいからは戦地にあってなお静けさすら湛え、
この人物の高潔な人柄さえも覗える気がします。



玉砕したのが20年の3月。
この頃はまだ米軍も影も形もないころですから、
栗林中将はじめ参謀の表情にも明るさが見えます。



若い士官たちと。
建物のガラスに飛散防止のテープがあることから、
これは内地で撮られたものでしょう。
お利口そうなシェパードの首を抱いています。




「散るぞ悲しき」

この栗林中将の電文は「士気が殺がれる」
と言う理由で「口惜し」と直して発表されました。
遺族にはこの訂正前のものが渡された、というのが
せめてもの慰めでしょうか。


栗林中将、玉砕前総攻撃を記す最後の電文。

一、戦局は最後の関頭に直面せり
二、兵団は本17日夜総攻撃を決行し敵を撃砕せんとす
三、各部隊は本夜正子を期し各当面の敵も攻撃後
後の一兵となるもあくまで決死敢闘すべし
大君(三語不明)て顧みるを許さず
四、余は常に諸子の先頭に在り


以下は日本に向けて打たれた惜別の電文です。



戦局最後の関頭に直面せり
敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり

特に想像を越えたる量的優勢を以てす
陸海空よりの攻撃に対し
宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは
小職自ら聊カ悦びとする所なり

然れども 飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ 為に御期待に反し
此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは
小職の誠に恐懼に堪えざる所にして 幾重にも御詫申上ぐ

今や弾丸尽き水涸れ 全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り
熟々皇恩を思い粉骨砕身も亦悔いず

特ニ本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思い至り
縦い魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す
 
茲に最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共に
只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
永えに御別れ申し上ぐ

尚父島母島等に就ては
同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも
断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく申上ぐ
終りに左記駄作御笑覧に供す
何卒玉斧を乞う」


国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ

醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ

 


この決別の電文は本土最北端の
海軍大湊通信隊によって傍受されました。

通信員は泣きながらこの電文を大本営に送付したと言われています。



栗林中将は突撃決行のその日、同日付で特旨をもって大将に昇進。
五三歳の彼は史上最年少の陸軍大将として
最後の突撃を行ったのでした。




リーツェンの桜〜ドクトル肥沼を知っていますか

$
0
0

今年の桜の開花は観測史上最速だそうです。
我が家の裏にある立派な大木も今7分咲き。
桜の名所である近くの公園には、
きっと今週末お花見を楽しむ客がやって来るでしょう。

本日のエントリは、桜の咲くであろうと思っていた
4月1日にアップしようと思っていましたが、
予想を裏切る開花の速さに、予定を変更して
慌ててログ作成しました。

日本の桜がドイツのある町で花を咲かせている、
という話です。




旧東ドイツのポーランド国境近くに、
リーツェン(Wriezen)という小さな町があります。

この700年の歴史のある市のある広場の墓地に、
この地に尽くして死んだ一人の医師が眠っています。

その墓石は高さ一メートルの大理石で、
表面には古代ギリシャの医神、アスクレピオスの持つ杖、
ヘビの巻き付いた杖の意匠が刻まれています。

またこの町では体育連盟の主催による少年柔道大会が行われ、
300名弱の参加者は全員大会前に、
この墓の前に詣でて花を捧げることを恒例としています。

この町の人々がこの医師の偉業を偲んで何かしよう、
ということになったときに思いついたのが柔道でした。

「彼は日本人だから、やっぱりするなら柔道だろう。
柔道をやろう」

その柔道大会はこう名付けられました。

「肥沼杯」

1946年、医師としてこの地にあって、瓦礫の町に蔓延する
チフスの治療に無私の情熱を注ぎ、ついには自らがその病に
斃れた日本人医師の名が冠されたのでした。


肥沼信次(こえぬま・のぶつぐ)は1908年(明治41年)
東京八王子に、開業医の長男として生まれました。

中学時代から数学にのめりこんだ肥沼は、
アインシュタインやキュリー夫人に憧れ、
ドイツに行って勉強したい、という夢を持っていました。

あまりにも数学ばかりを勉強しすぎて他の教科ができず、
旧制一校を不合格になった肥沼は、数学を東京理大で教える
アルバイトをしながら(笑)日本医大に入学します。
その後東京帝大からベルリン大医学部へを進みますが、
どこに行っても彼の評価は一つでした。

「数学の鬼」

医学部にいながら、数学ジャンキーの彼は、
「趣味は数学」と言い切るほど数学に熱中していたのです。

東京大学で放射線医学を学んだ肥沼は昭和12年、
29歳のときに憧れのドイツ、ベルリンに渡りました。
出発の日、横浜の港は冷たい雨が降っていました。
母や弟たちにとってこれが肥沼との今生の別れとなります。

ベルリン大学医学部で放射線研究所の研究員となった肥沼は、
留学6年目には論文が認められ、教授資格を得ます。

ベルリン大学の教授資格を東洋人が受理されたのは
肥沼が初めてでした。


当時ドイツは一次大戦の敗戦による社会の疲弊が、
アドルフ・ヒットラー率いるナチス党に対する大衆の支持を生み、
その独裁体制を一層強化する国情となっていました。

ヒットラーの民族主義はユダヤ人迫害、そしてアーリア人種至上主義
となって現れ、社会の中枢は次々と「ナチス化」されていっていました。

「白バラの祈り」という映画についてエントリを上げたとき、
ナチス式の挨拶を法廷がしてから審理が始まるシーン、
そして反ナチスの被告を罵倒するナチ裁判官について書きましたが、
法曹界、宗教界、公務員などの組織もナチ化が進められます。

医学界もその例外ではありませんでした。


「ナチス医師同盟」に医師は強制的に入会させられました。
ナチスに反対を唱える学者や医者は追放される運命だったので、
皆それに従うしかありませんでした。

44年の2月、肥沼はドイツ政府にある宣誓書を提出させられました。
その内容は次のようなものです。


「私はフリーメーソン結社に所属したことはないことをここに宣誓します」

「私は純潔な日本人であり、日本国籍を有することをここに宣誓します」

当時日本とドイツは同盟国でしたから、日本人は「名誉ドイツ人」
としていわば特別扱いになっていました。
しかし、当時のナチスの純血主義を鑑みると、この宣誓、
あえて純粋な日本人であることをあらためて宣言したこの宣誓は
肥沼の日本人としての矜持のさせたこととはいえ、
非常に勇気のいる発言でもあったと言えます。

ナチスに毫も媚びなかったこの態度が、今日に至って
彼を知る人たちに評価されている所以です。

また、肥沼は1944年、フンボルトハウスで行われた講演の中で
このように述べています。

「アーリア人こそ優秀な民族である、というが、
我々はヨーロッパ自然科学を生み出したのと同じ能力を、
日本人も前々から持っていたと考える」

「その証拠として次のような例を挙げたい。
ライプニッツやニュートンとほぼ同じ時期に、
日本人の関孝和は書式こそ違うとはいえ、かの高等な
微積分学とほぼ同一の計算式を考案していた」

「日本人は疑いなく種類や程度の高さにおいて、
ヨーロッパのそれと等しい
自然科学の研究能力を持っている」

「今日は欧州の築いた基礎の上に
独自の研究を重ねてはいるが、
他人の畑の果実を収穫するだけでなく、
自らの種を撒くことのできる知力を
備えていると言っていいだろう」

「日本人が一から行ったと評価されている業績もたくさんある。
山極勝三郎、市川厚一による癌発生システムについての研究、
吉田富三の肝臓がんを発生させる研究、
そして湯川秀樹の作り出した中間子理論などである」

肥沼は湯川がノーベル賞を受ける5年も前に、
その中間子論を高く評価していたのです。

アーリア人至上主義のナチス政権下で、このような
「日本人優秀論」を講演で唱えた肥沼が、はたして
どのように扱われたか。
このようなことは全く記録にありません。

彼がいつベルリンを去ったのかさえも、はっきりしていないのです。

ベルリンを脱出した肥沼は、終焉の地となるリーツェンに移りますが、
この町は当時酷い衛生状態であらゆる伝染病が蔓延していました。
ドイツ人の医師はすべて戦争に駆り出されていたので無医村状態。
あまりの発疹チフスの蔓延ぶりに、近隣の都市の医師は
伝染病に感染するのを恐れて診察に来ませんでした。

ここに一人、ふらりとやってきたドイツ人以上に正確なドイツ語を話す
日本人が、ベルリン大学の研究者で教授資格を持っていることなどを
ここの住民は何も知りませんでした。

彼は自分のことをほとんどしゃべらなかったからです。

ここで肥沼は、ベルリンからある夫人とその娘を伴ってきていました。
シュナイダー夫人というこの女性は、肥沼にとても献身的に
尽くしていましたが、「夫婦という感じではなかった」そうです。
この女性は肥沼の最期を看取ると、
どこへともなく去って行ったということです。




自分のことを話そうとしなかった肥沼が周囲に時折話していたのは

「日本の桜は大変綺麗です。
皆にぜひ見せてあげたい」

ということでした。





この地での肥沼の死闘が始まりました。
発疹チフスはペスト、マラリアとともに恐ろしい病気です。
シラミによって感染し、戦慄、高熱、頭痛、四肢痛、
めまい吐き気を伴い、発疹が次いで表れます。
重傷者は心臓の衰弱により死に至るのです。

この国境沿いには、ポーランドから退去させられた
大量のドイツ難民が400万人流れ込んできていました。
リーツェンの近郊には難民収容所が緊急に作られ、
大勢の病人が収容されていました。

そこは地獄と化していました。

人々はそこでただ虫のように横たわり、
苦痛ととシラミに苛まれて助けを求めていました。


「肥沼先生は、まるで勇敢な兵士のように入っていき、
身の危険も全く顧みず、もっとも酷い症状の患者に
持ってきた貴重な薬をせっせと与え、
また次々に患者を見て回るんです。
こんな無私無欲の行いを目の当たりにして、
気が遠くなるような感動に打たれました」


肥沼についていた看護婦の証言です。

それどころか、肥沼はたった一人の患者のために
雪の中を一人で往診に出かけ、診察料のことを
口にしませんでした。
これもまた、

「金銭のことを口にするのは下品である」

という意識が浸透している日本人ならではです。
そして、

「また一つの小さな命が救われた、よかった」

治療の効果が出て患者が回復するたびに
肥沼はこのようにつぶやいたそうです。

このように肥沼に命を助けられたリーツェンの住民は多く、
その伝説は子から孫へと伝えられ、いまでは
リーツェンの小中学校では必ず先生がこの日本人医師の
偉業について伝える時間があるのだそうです。


精力的に患者の間を歩き回っていた肥沼自身が
発疹チフスに倒れたのは、死の二か月前のことでした。

「ベッドに横たわっている先生の頬はすっかり落ちくぼみ、
顔が大変小さくなっていました。
額からは汗がどんどん吹き出し、私はふき取ってあげました」

家政婦だった女性の証言です。

肥沼が死んだ前日の3月7日はこの家政婦の誕生日でした。
かねてから誕生日パーティをやりましょうと約束していた肥沼は

「誕生パーティをやれずにごめんね・・・・・。
誕生日おめでとう」

と言い、次の日の午後一時、37歳の生涯を終えました。

肥沼の遺体は粗末な棺に納められ、数人の囲まれて
墓地に運ばれていきました。



戦争が終わったとき、研究者であった肥沼は日本に帰り、
専門の研究をしたかったことでしょう。
しかし、彼はリーツェンにとどまり病気に苦しむ人を診療した。

その無私の精神、そして「自死の心」を以て、
肥沼は「アピクレウスの杖」に忠実たろうとしたのです。
肥沼がドイツ人に向かって

「日本人は科学的な劣等民族などではない」

と堂々と述べたことからも、彼がヨーロッパ人の中にあって
日本人を代表する誇りと気概を常に持っていたことは
間違いのないところでしょう。


肥沼の本質は「研究者」であったはずです。
しかし、彼は目の前で苦しむ人々を医者として
見捨ててそこを去ることができなかった。


それは彼が日本人であったからこそではなかったでしょうか。



リーツェンの人々は、かつて自分たちの生命を助けてくれた
この日本人医師に対して感謝をし続けてきました。
そしてこの小さな墓を守り続けてきました。

しかし、日本の関係者に彼の行方は全くわからないままでした。
東ドイツの社会主義体制の中では、たとえ住民が感謝していても
「資本主義国の日本人」
ということで不審、異端を見る目で見る人々もいたからです。

しかし、ベルリンの壁崩壊後、社会体制が変わったことで、
ドイツ国内でもそれまで公にされていなかったあらゆることが
表に出るようになります。

肥沼信次のこともその一つでした。

リーツェンの新市長が市としてこの恩人である日本人医師の
生前の偉業を掘り起し、柔道大会や「肥沼通り」という
桜並木の道路を造る計画を進めた結果、
日本の遺族と連絡が取れたのです。

その際、弟の肥沼栄治氏が、兄が生前現地で言っていた

「日本の桜を見せてあげたい」

という言葉を知り、リーツェンに100本の桜の苗木を贈りました。
そのうち枯れずに残った50本が、市庁舎の庭で育ちました。

それが1991年のことです。

1993年に訪独した舘沢貢次氏によると、

「大きく育ったらこれを何本か肥沼さんの墓に移し替え、
残りは『肥沼通り』に植えたい」

と市長は言っていたそうです。

それから22年。
市長のその計画は実を結んだのでしょうか。


今頃、日本から贈られた桜は花を咲かせ、
今日本で咲いているのと同じ色のその花びらを
ドクトル肥沼の墓に散らせているのでしょうか。





参考:大戦秘史 リーツェンの桜 舘澤貢次 ぱる出版

とある地銀の美術コレクション

$
0
0


先日、私自身の仕事である地方に赴いた際、
ご縁を得てある地方銀行の会長に
行内にある美術コレクションを観せていただきました。

バブルの時代に安田火災がゴッホの「ひまわり」を買ったという話が、
どちらかというと批判的に報じられていたのは記憶にありますが、
今までこのような機会がなかったので、一般的に銀行というのが
どこもこのようなコレクションをしているのかどうかは知りません。

ただ、この銀行がこのような収集をした原因の一つとして
初代頭取があの大原孫三郎だったということがあるでしょう。

大原孫三郎。

倉敷貿易の創立者で、先日レポートした倉敷の風致地区にある
大原美術館を造った、経済界の神様のような実業家です。

昭和5年の当行開業以来、10年間頭取の任にありました。
そんな人が頭取ですから、その後この銀行がこういった
美術を収集していくのも当然の成り行き。

というわけで、行内のいたるところに価値ある美術品が
まるで美術館のようにさりげなく飾られているのです。

それをわざわざ会長の解説により見せていただけると。
今まで銀行の内部などに入ったことがありませんから、
その意味でも興味津々です。



この地方ではトップの地銀だそうです。
新行屋?は近代的でありながらどことなく古風な
威厳を残したものとなっています。



案内されて、応接室に。
「うぉっほん、ちみちみ〜」
などと息子と「頭取ごっこ」をしていたら、
何人も行員さんがやってこられました。

「すみません!会長が・・・・・・!」

なんと、連絡の間違いかTOの勘違いか、
この日会長さんが我々のホテルまで公用車で迎えに
来てくださっていて、勝手に電車でやってきた我々と
行き違いになってしまったというのです。

「今連絡が取れましてこちらに向かっているそうです!」

ははー。
一行の会長ともあろう方がわざわざお迎えに来てくださっていたとは。

「到着まで代わりにご案内しろとのことでございます」

というわけで代理の方にしばらくご案内いただきました。



くどいですが、ここの超目玉展示?
下世話な言い方をすれば
「ここでもっともお高かった作品」。

平山郁夫の「吉備路緑映」



この作品があまたのコレクションの中でも「白眉」ですから、
その展示の仕方も細心の心遣いが見えます。



このスペースは家具もない、何もない、
立ってこの絵が一目で見渡せるだけの余裕があります。
写真ではわかりにくいですが、バレーボールのコートは
楽に取れそうなくらいの広さです。

それだけでも贅沢なのに、この対面の壁には



先日窯元を訪ねた陶芸家のご尊父である
人間国宝の作品が!!

この陶芸家は
「平山郁夫の絵の正面に置くため」
という依頼を受けてこの作品を捻ったとか。

わたしには陶芸の良さははっきり言って全くわかりませんが、
この壺が「気持ちいい」つくりであることだけはわかります。



絵の一部。
夕暮れで鳥の群れが飛ぶ様子。



平山郁夫の作品は特に好き、というわけではありませんでしたが、
少なくともこれは「気持ちいい作品だ」と思いました。

(なんでもこの一言で片付けるエリス中尉である)

ほら、家の軒の洗濯物とか。
どこにもありそうな民家とか。
藁ぶき屋根の家なんてわざわざ描かなくても十分絵になっているのがいい。



道を歩いている母子の姿。
これは何を隠そう平山画伯の家族。

平山郁夫の夫人というのは東京芸大の油絵科の同級生。
なんでも平山生徒よりも成績はよかったのだそうです。
しかし、結婚してからは自分は絵筆を捨て、
平山の全面的な協力者となって夫の創作を助けました。

ん?

こんな夫婦、漫画界にもいたような・・・。



因みに人間国宝の作品はこんな風に展示されています。



平山の絵の前には、対にこのような作品も。
こちらも素晴らしいですね。
釉薬の緑が平山の絵とリンクしているようで。

どちらかくれると言われたら・・・・
わたしならこっちかな(人間国宝の方すみません)



人間国宝多数。



双鹿図。白川何某画。
金属レリーフ作品。
エリス中尉のシルエットは無視してください。



確か陶器をはめ込んで作ったモザイク作品。
「燦々」藤原何某作。
ちゃんと名前を書け、って?
拡大しても名前の部分が読めないんですよ(T_T)



この銀行のすごいのは、このような美術作品を
会議室の飾りとして普通に壁にかけていること。
まさに美術品の日常使いです。
いや贅沢なことです。



それをさらに実感したのがこの絵。
小磯良平でございますよ皆さん!

これもただの会議室にポンと掛けてありました。

わたしは昔から小磯良平が好きです。
神戸出身というので身びいき?しています。



このあたりで「会長が参りました」
と秘書さんが呼びに来られました。
銀行の会長秘書を生で見るのはこれも初めてです。
しずしずとお茶を持ってこられましたが、
ソファにふんぞり返ってそれをいただくのは
「なんか大物になった気分!」でした。

(つくづく根っからの小物である)

このだだっ広いスペースは、いくつかの応接室の扉があり、
そこに行くための単なる「廊下」。
廊下なのに40畳の大広間ほどのスペースがあります。

ここからは会長がご案内説明をしてくださいました。



絨毯ですら美術工芸品。
こんな絨毯にコーヒーでもこぼしたらどうするんだ!
考えただけでハラハラしてしまいます。



この会議室の絨毯も工芸品。
「この部屋のどの美術品より値打ちがある」とか。
瀬戸内の波を表している模様だそうです。

絨毯より価値がないと言われてしまった作品。



これも絨毯以下。
本物の中国出土の古美術のようです。
はっきり言って怖い。

内心「たいしたことねー」と思ってしまった絵。
作家の方すみません。



またもや人間国宝。
日本には人間国宝がいったい何人いるのか。
そして、横に置かれた小石は何か。

でもしかしこの花器はもしくれるならぜひ欲しい。
これに枝もの(満天星躑躅・ドウダンツツジとか)を活けてみたい。

上部が開いているのか、果たして花器なのかも判然としませんが。



真ん中の「輪」がいいですね。
これも好き。



後藤純男さん作。
どうも金箔を使うのが好きな作家さんみたいですね。



エレベーターホールにあったブロンズ作品。
題名「潮風」。
なるほど確かに潮風である。
おみ足がたいへん美しい方ですね。

児島虎治郎作。
この名前に記憶はございませんかポチ三水?
そう、大原孫三郎をパトロンとして多大な援助を受け、
ヨーロッパに留学して大原に絶大な信頼を受けた
その「眼力」で、ヨーロッパの名画を独断で買い付け、
大原コレクションを完成させた洋画家です。

東京芸大を首席で卒業、名画のコピーも上手かったようです。
この作品を見てもルノワールの影響が大きいのがわかりますね。



これなんか、好きな児島作品です。
児島自身は大原美術館の完成を見なかったそうで、
きっと心残りだったことでしょう。

もっと世界的に評価されてもいい画家だと思います。



竹内勇さん作。



応接室にいたにこちゃん大魔王。
怖いよ君怖いよ。



ウサギを抱く少女。(仮題)
ウサギ、嫌がっています。
下のウサギも心配そうだ。



おおここにも例の人間国宝の方の関係者の作品が。
工房で見た備前焼とは肌合いが違う気がするんですが、
釉薬とかかけたらこうなるんでしょうか。



唐突ですが、宅のTO作。
人間国宝の作品との価値の違いが全く分からない
わたしははっきり言ってみる目がありませんか。

これは、TOが単独でここの窯元に行ったとき、
焼かせてもらった作品なのだそうです。
つまり、人間国宝の窯で焼いた素人の作品です。
ただしこれを「本職の陶芸家が焼いたものではない」
ということを証明するために、

「なんでもいいから字を書いてください」

といわれて、TOは字を書きました。

「○○(エリス中尉の名前)、
いつまでも
こんなに
好きで
いさせてくれて
ありがとう」

・・・・・おいっ。

「あの、気持ちは嬉しいんだけど、
もう少し気の利いた文句思いつかなかったの?
『不撓不屈』とか『五省』とか。
わたしならそうするけど。
せめて『にんげんだものくだもの』とか」
「いいの。これしか思いつかなかったから」
「もう・・・・恥ずかしいなあ」

ええ、こういう人物です。うちのTOは。

それはともかく、これにもしこの怪しい字がなくて、
「人間国宝作」と言われれば、へえそうですかと
思ってしまいそうなんですが。

そう思ったっていいじゃないか。にんげんだもの。



お茶を飲んだ応接室の絵。



廊下の絵。
不思議な色遣いの絵ですね。
というか木が不気味である。



同じ名前だと思ったら、児島虎次郎さんのお孫さんらしい。
ドイツプロイセンの兜にインスピレーションを得た作品。
(だと思う)



応接室にアクセスする廊下にあった作品。
道標・鳩 藤原義達作。



荒ぶる獅子。



これもエレベーターホールにあった作品。
モデルはANNさんです。



これも平山郁夫。
ずいぶん手抜・・・、いや何でもありません。
ペンに水彩で色を掛けてあります。



だからといって手を抜かなければいい作品かというと
そうでもないのではないか、ということを立証している作品。

うーん、エリス中尉、この手の絵に対して点が辛い。



まあ、扇子の柄ですから、これでいいんじゃないでしょか。



高山辰雄作。
これなど、近くに寄ってみると大変よろしいかと。



こういう感じ。



ところで当行からは岡山城がこのように見えます。
この日は雨でした。



玄関が広ければ傘立てにいいかもしれない。



ところでこの銀行、昔ここにあった歴史的建造物にあった
建築モチーフをいたるところで再現しています。
ここは劇場ではなく、カンファレンスルーム、大講堂の前の
ホールで、今から社員研修が始まるので人がいるのですが、
この柱の仕様をご覧ください。



まるでギリシャの神殿かはたまたローマの浴場のような柱が!
なんというか、地銀の底力を感じますですね。



このホールにあった巨大な絵画。



壁画もご覧のとおり。



あまり写っていませんが、あたかも塗っているかのような壁。
まるで「カフェ・ラミル」の壁みたいです。
これが銀行だっていうんですから・・・・。

この銀行は、このようにいたるところに美術品を置いているだけでなく、
銀行の資料室というものがあって、歴史的資料を見ることもできます。

それもまた興味深いものだらけ!だったので、
一日かけてお話ししたいと思います。

しかし、この美術品の数々。とにかくすごかった!



米海軍基地スプリングフェスタに行ってきた

$
0
0

週末、息子がお泊りに行ってしまい、夫婦で小旅行を兼ねて
横須賀米軍基地のスプリングフェスタに行ってまいりました。

本当は前日から葉山に宿泊したり、「軍港めぐり」をしたりと
大変盛り沢山な週末だったのですが、とりあえず今日は
米軍基地の中に初めて潜入したことをお伝えします。



ショッパーズプラザという商業施設に車を停め、
基地の方向に向かって歩き出すとすぐに人の列が。

「ここが最後尾です」



え?まだここから数キロあるんですけど。
後で聴いたら基地に入れる日はいつもこのような状態で、
何キロにもわたって行列ができるそうです。

何のためにそんなにしてまで。

自分が列に並んで居ながらついこのような疑問が
頭をかすめましたが、ここまで来たんだから、
とおとなしく並んでいました。
おそらく皆同じようなものだったと思います。

混乱も小競り合いも起きず、皆和やかに列を作り、
なかなか進まないのにもかかわらずいらいらする様子もなし。
さすがは日本人である、と妙なところで感心しました。



途中で桜の並木など見つつ。
ここにたどり着くのに並びだして30分かかりました。



ようやく三笠公園入口。
ここまで45分。



三笠公園の戦艦三笠記念館を見ながら、進んでいきます。



広場に着いたら着いたで、このような仕切られた道を
何度も何度も行ったり来たりして、あたかも夏休みの
ディズニーリゾートに着た気分。

「これ、7月にもイベントするんだよね?」
「7月には来たくないねえ・・」

並びながら、案の定三笠のうんちくや、アーレイバークと草鹿中将の話、
韓国が桜の起源を主張してポトマック川の桜の季節にはビラ配りしてること、
興の赴くままにいろいろ話をしながら歩いていました。
周りの人もてんでにいろんな話をしており、それが時たま耳に入ってくるのですが、
後ろのおじさんたちが民主党政権に対し、

「あいつらは本当に馬鹿だ」
「(鳩山元首相が)まったくわざわざ中国で何してくるんだ。
あの国賊が」

と熱くお怒りで、わたしとTOはそれを聞きながら顔を見合わせて
「うんうん」とうなずきあったりしていました。

マスゴミは「ネット言論」というものが特殊な人たちの間にのみあり、
自分たちや民主党に反対するのはそういう特殊な人々だと
勘違いしているみたいですが、実は彼らに怒っているのは、
「普通の人たち」ばかりなんですよね。

最近の民主党議員の「まだまだ俺たちは政権交代できる」
と信じきっている姿を見ると、
こういうことがまるでわかっていないらしい、と思わざるを得ません。




並びだしてから1時間30分。
やっとのことでゲートに到着。
どんなちんたら手荷物検査をしているんだ、と思ったのに、
ゲートの係員はコマネズミのように仕事をこなし、
あっという間にゲートを通過させています。

「こんなに急いでやっているのにあれだけ進まないとは・・」

入場者はこの日4万人だったそうで、
そりゃ無理ないですね。

「来年来るとしたら、朝一で並ばないとだめだね」

きっと皆こう思うんだろうなあ。




入るなりバンド演奏を目撃。
見たところ日本人ばかりのバンドに見えました。



普段ならこのフェスタのときにはまだ桜の季節ではないのですが、
今年はどんぴしゃり、桜満開の日曜日。
皆お花見も兼ねてやってきたようです。



内火艇(っていうのかな)の船着き場。
向こうに「三笠」のマストが二本見えています。



海軍の信用組合。
この中ではドルが流通していますし、すべての施設があり、
テレビ番組もアメリカの放送を受信しています。
まあ、はっきりいってアメリカにいるのとほとんど同じ生活ができると。

日本行きが決まったら米兵の多くは
「ラッキー!」なんて思うらしい。
結構日本にある米軍基地は待遇もいいんでしょうね。



海軍迷彩を着た米兵。
仕事をしながらコーヒー飲むな。

「こういうところがやはり自衛隊とは違う!」

なぜかTOが

「同じ兵数と装備でやったら絶対自衛隊が勝つ!」

とこれを観て力強く言い切っておりました。



日本というと、富士山、鳥居、日の出。
あまりにベタなステロタイプ。
まあ仕方ないかもしれませんね。



お?海軍さんに交じって陸軍兵?



皆、ついピザを頼んでしまうんですね。
そして(いくらか知らないけど)アメリカンサイズの、
巨大ピザを「はい」と渡され、せいぜい一切れ食べて、
「捨てるのももったいないから」
とこうやって持ち歩いているわけです。

帰りに三笠を見学しましたが、
三笠艦内にもこの箱を抱えた人たち(なぜかみなおじさん)が
うろうろしていたので笑ってしまいました。

皆はアメリカサイズのピザの恐ろしさをわかっていない。

このピザが冷めるとむちゃくちゃまずいことも。
そう、一旦冷めたピザは温めても食べられないのに、
こうやって巨大なボックスを持って歩いているのです。

「冷めたピザはすぐさま捨てろ」

という賢人の教えがアメリカにはあるというのに・・。
まあ、アメリカ人はたいていこれを残さず食べてしまうんですけどね。




花冷え、というのか、まあまだ3月ですから寒かったんですが、
やっぱりこんなアメリカ人があっちこっちにいました。
寒さを感じる皮膚感覚が日本人のそれとは違うらしいですね。

半袖Tシャツ一枚はいくらなんでも寒いと思うが。

でも、これを見て「ああ、アメリカだなあ」と実感しました。



ボウリングセンター。
ボウリングセンターって何?
なぜみんな入っていっているの?
と覗いてみたら、

本当にボウリング場でした・・・。
かなりの数のレーンがあって、しかもいつも稼働している模様。
アメリカ人ってこんなにボウリング好きだったっけ。
この日は誰がやってもよかったらしく、
日本人がレーンを占領していました。



いたるところにいた「写真撮影要員」
この二人はわざわざ第一種軍服を撮影用に着込んでいます。
実はこの後ろには順番待ちをする日本人の列が・・・。



激しく人に取り囲まれてサインを求められている米軍人。
軍帽がスクランブルドエッグ。将官クラスですね。



アメリカではおなじみの店が通常営業。
本当に基地内部は「アメリカ」です。



高校までの学校はすべてあります。



特設ステージではバンド演奏が。
丁度この時やっていたのは「タイガー&ドラゴン」。
ご当地ソングです。

「おれの、おれの、おれの」

とこのお姉さん(おそらくバイリンガル)が絶叫しています。



ふとステージの横を見ると、なんだか見慣れた迷彩が。
おお、これは我が陸軍の精鋭ではないか!
ここからは上の端しか見えませんが、太鼓がありますでしょう?
この後から陸自の「太鼓演奏」を友情出演で行うための
機材運搬をしているところだったのです。
残念ながら時間が無くて見られなかったのですが・・・。

それにしても、隊員さん、花粉症が多いですか?



物販店も少し覗いてみました。



オペレーション・トモダチのワッペン。
本当にあの時、アメリカさんは頼もしかったですねえ・・・・。

なんか「知らないうちに被爆した!どうしてくれる!」とかいって
東電を訴えてる人もいるみたいですが(爆)



少しお腹が減ったので、屋台を覗いてみることにしました。
アメリカ人らしく、ごみ袋を大量に放置し、
さらにバーベキューの蓋を地面に置くという、
ひじょうに雑駁な営業をしている様子が観察できました。

しかも、見ていると、このゴミは

全く分別されていませんでした。

自衛隊のイベントや防衛大ではゴミ袋を厳密に分け、
ごみを受け取った隊員や生徒が分別までしてくれるという
実に日本的かつ感動的なシーンを見たものですが。

「分別しないんだ」
「いいんだよ、ここはアメリカなんだからきっと」

いや、しないとだめでしょ、分別。



ジェネラル・メス。
意味は分かりませんでした。



美味しそうだったのでここのポークチョップバーガーを一つだけ買って、
TOと二人で半分こ。
小さなバーガーが500円です。
高すぎないかい?



と思ったのですが、一生懸命働いている、
この東南アジア系の軍人さんがさわやかなイケメンだったので、
許す。(独断)

彼らは一生懸命日本語でセールスしていましたが、
こちらが英語を使うと英語で返してきました。



黒人兵ばかりのブース。
お父さんが仕事しているところでうろうろして、
コットンキャンデーをせしめたりしています。



この女の子は彼のお姉ちゃんらしい。



三笠公園から見えるマクドナルドを逆方向から望む。
満開の桜とアメリカの象徴であるマックのコンボ。
それにしても、このマクドナルド、ものすごく巨大です。
いかにアメリカ人がマックばかり食べているかということが
良くわかります。
ここのバーガーは「アメリカ仕様」で、きっと「月見バーガー」
とかはないんだろうなあ。



構内は広いのでバスが巡回しています。
なんだかお洒落なバスストップ。



ここの子供たち。
よく見ると「どう見てもお母さんが日本人」
みたいな顔をした子が何人か・・。



スターバックスが車で出店しています。
長い列ができていました。



我々がここに来た目的は
「あわよくばイージス艦を乗船見学すること」
だったのです。
12時に見学の受付が終了するというので、
12時15分前にやっとのことで中に入れたわたしたち、
どこで見学の申し込みをするのか必死で探したのですが、
探しているうちに12時になってしまいました(T_T)

で、このドックから帰ってくる人たち、
イージス艦を見学した帰ってきた人たちの群れを
虚しく眺めるだけに終わってしまったのです。

来年はこれを見るためにももう少し早く来ねば・・。

艦船見学ができないのなら、もうここに用はない。
なら帰りますか、と出口に向かいました。



日本では珍しいけど、アメリカにはよくある、
「壁にいきなりATM」。
日本のような犯罪の少ないところには無いのに、
アメリカではこのタイプが主流なんですよね。
後ろから襲われたりしないのかな、とよく思います。




愛想よく笑いながら警備に立っていた兵隊さん。
なかなかかっこいい。



ずらりと人がいますが、わたしたちが帰る12時45分ごろにも、
これから入ってこようとしている人たちが列を作っているのでした。

「なんのために・・・・」

またもや自分がそこから出ていく身でありながら
ついつぶやいてしまうわたし。




これから入ってくる人たちの列と、ものものしく警備している兵士。
防弾チョッキにシェパード。

「なんかあったら犬に襲わせるんだよ」
「なんかって何?」
「ここで銃を乱射したりとか」
「いや、ここ日本ですから」
「何があるかわからないよ日本でも。
この間も中国人がここ忍び込んでたじゃない」


そんな馬鹿話をしながら外に出ました。
滞在時間わずか1時間。
列を作って歩いた時間は1時間30分。

うーん・・・・。




ところで、上空にはヒッチコックの映画を思わせるような
鳶の群れがこのように旋回しており、
サンドイッチやバーガーなどをぼんやり持っている人が
襲われたりしないかなと思っていたのですが、



やっぱり結構襲われているようでした。



海軍基地だった時代からの名残りでしょう。
米海軍基地の桜はそれは見事でした。

思わぬお花見ができたので大満足の米軍基地探訪です。
来年はもう少しちゃんと計画立ててから来ようっと。





或る地方銀行の歴史

$
0
0

先日、この中国地方の地銀の本店に潜入し、
数多の美術品を写真に撮ってくることに成功した
エリス中尉でございます。

何度も言いますが、わたくし銀行のこのような
内部に潜入したのは初めての経験。
従って、これも何度も言いますが、すべての地銀が
このような「行内美術コレクション」を持っているのか、そして
立派な行史展示室があって、その歴史を見ることができるのか、
全く知りません。

知りませんが、なんとなくここは特別なのではないかなあ。

そう思うのは、やはり前回言ったように、ここの初代頭取が
倉敷紡績の生みの親である大原孫三郎であったりするから。

そしてこれだけの歴史もあれば、文化面でも貢献する銀行として
地域に根付いてきたとしても当然のような気がします。


さて、本店内のいたるところに置かれたコレクションの数々を
見ながら歩いていくうち「銀行の歴史資料展示室」
がありました。

ここが、レトロ好きのわたしにとって興味深いものでした。

冒頭写真は「五玉そろばん」。
言われてみてああそうか、と思うのですが、昔は銀行員は
そろばんが達者でないとなれなかったんですね。

うちにもそろばんがあり、習っていた覚えもかすかにあります。
しかし銀行や郵便局の窓口の係がお釣りの計算に
そろばんを使う姿をいつの間にか見なくなりましたね。

今の銀行員はそろばん、するんでしょうか。



さて、そんな資料が展示されている展示室。
まるで一般の美術館のようです。
銀行名の書かれた書は、看板にするためのものでしょう。



現在の当行本社ビル。
行員の方に説明を聞いて印象的だったのは、
この銀行はニューヨークのワールドトレードセンターに
出向していたということ。

みずほ銀行の行員たちが警報を受けていったんロビーまで避難し、
それは「日本の組織らしく実に素早かった」にもかかわらず、
無責任な警備員に「衝突は隣のビルだから戻れ」といわれ、
素直に戻ってしまって犠牲者がでたわけですが、
この銀行の行員には被害はありませんでした。



建て替え前の本店。



焼け野原の中に無傷で立っている本店(笑)
1930年の開業ですから、このときすでにかなり年月が経っていたはずですが。
岡山市内もかなり酷く戦火に見舞われたのですね。
左の白いシャツの人は、ここの住人だったのでしょうか。





現在も残る当行倉敷出張所。
国の登録有形文化財となっています。



その倉敷支店設計図。
建築家の書いた字がアーティスティック。



かつての本店模型。




林野支店。
赤レンガと円柱風の飾りが実に優雅です。
窓ガラスに鉄格子がはまっているのは銀行だから。



かと思えばまるでお寺のような作りの津山東支店。
煉瓦の塀に「お寺らしくなさ」を感じる妙な取り合わせ。

なんとこれは釘を一本も使わず檜で建てられています。
一回は吹き抜けで腰板は花崗岩を使用。
昭和50年までここで業務が行われましたが、
現在は津山洋学資料館となっています。



う、美しい・・・・。
これが銀行。
しかも戦災にも遭わなかったと。
業務机に尽くカバーが欠けられているので、もしかしたら
取り壊し前に最後の撮影をしたのかもしれません。

この柱のモチーフが

 

現在の本店内部にもこのようにあしらわれています。

しかし、どうしてこのような建築物を保存しておけないものか。
惜しいなあ、と思ってしまうのはわたしだけではありますまい。



資料室に残る当時の看板。

昔は銀行って株式会社だったんですか?(驚)
そして、行員さんも法被来て仕事していたと。
今なら大型電気店の店員くらいしかそんな姿見ませんが。



児島郡にあった東児支店の鬼瓦。
ちゃんとこの支店のマークが刻まれています。



これが大原孫三郎。
初代頭取でございます。
1930年の開業から10年間頭取の任にありました。
さすが美術収集家だけあって、肖像画が写真ではありません。



46年から77年まで。
なんと30年も長期政権?にあった守分十。
次の頭取も娘婿です。
この肖像画も孫三郎さんのと同じタッチですね。



面白かったのが昔のパンフレット。
真ん中のはがきですが、俵に小判があしらってあります。

穀物検査しているところなんだそうですが、
今一つ銀行業務との関係はわかりません。

上段すべて倉敷支店の新築記念パンフ。
左の設計図は新行屋の間取り図で、
右側の「新築移転のご案内」は大原の名前で出されています。
大正11年のことです。



これも新築記念のお知らせ。
よほどの大事業だったようですね。



昭和26年当時の本店案内。
まだこの頃も旧字体を使っていたのですね。



現在の本店に移築する前、旧行屋の解体に際し、
カウンターに使われていた大理石(!!)をこのように削って、
ペン立てを作り記念品にしました。
これ、貴重なものですが、果たしてどのくらいの人々が
今でもこれを愛用しているでしょうか。



なぜ桃太郎。
岡山だから?
これも記念品として配られたもの。
桃太郎のはっぴの裾をつかむサルがかわいい。



昔の預金通帳と定期預金証書。
大正14年の200円ですから今の300万弱くらいかな?



と思ったらもっと大金の定期預金証書。
やはり大正14年で7万円!
ということは

9おく6せん6ぴゃくまん。

殿、っていうのはやはり企業名でしょうね。
しかし、そんな大金がこんな紙切れ一枚で・・・。
これ失くしたら9億6千6百万は・・・・・。



第一合同銀行だったころの営業報告書と預金通帳。



最初国立銀行だった八十六銀行は、
私立銀行になり、明治三十年株式会社となりました。



倉敷銀行の通帳。



これも銀行の記念品。
銀行が預金をするといろいろくれるのは、
この時代からの習わしだったのですね。
しかし、当時の記念品の方が値打ちがありそう。
大正年間の第一合同銀行記念品は扇子。



当行設立記念は財布。
開業から三日間、財布が配られたそうです。



設立十周年記念は茶托。
丁度大原孫三郎が退任したときですね。
新しい頭取のお披露目の意味もあったのでしょうか。



総預金100億を目指して士気を高めるため、
優秀なチームに「頭取杯」を出すことにしました。
全員一丸となってこれを目標にした結果、昭和二十五年に目標達成。



大原孫三郎の書。
同心戮力(どうしんりくりょく)。
心を同じうして力を合わせる、という意味だそうです。
当時の「非常時」に際して書かれたとか。
非常時って、やっぱり戦争ですよね?



先日ログにアップした
「うちのTOが作った湯呑」みたいです。
この地方の各銀行頭取が集まったとき、
皆の名前を書いて陶板にしたもの。
で、それがどうした、などと言ってはいけません。



全行員の懇親会?
それにしてもなんだかきれいな人が多いですね。



説明を写真に撮るのを忘れました。
たぶん全行員集めての会合でしょう・・・・
って見ればわかる。



守分十(ひとしと読むらしい)が頭取のころの
業務報告パンフ。



戦時調です。

「戦力強化は貯蓄から」

「必勝の意気 貯蓄で示せ」

決戦時局に即応業務大拡充

なんかよくわかりませんが、貯蓄内容は
あまり戦争とは関係ないような・・・・。
時局ゆえのアオリ文句だったのですね。



国民貯蓄組合据え置き預金証書。

つまり、戦時下で国に資金調達を優先するため、
このような措置を取った模様。
銀行もお国のために戦っていたということですか。



それというのも国債を消化するため。
アメリカでもチャップリンが広告塔になって
「戦時国債」を集めたりしていましたね。

本文三行目、赤文字で

大東亜戦争を勝ち抜くためにも是非ご購入
くださいますようお願ひ致します。

とあります。

しかしまあ、その後この銀行の周辺はがれきの山となり、
ある日突然戦争は終わりました。

そして、いきなりですが、



戦後二十四年。
決戦を勝ち抜くためではなく
「夢を実現するために」希望預金。

そして、なんと

東京オリンピックにご招待!

大口の預金をしたらチケットをもらえたりしたんでしょうか。
今にして思えば、オリンピックや大阪万博は、
このように日本の企業の「業務推進」のネタとして
かなりお役に立ったんでしょうね。

さて、そんな歴史の流れを見てきたこの地銀。



こんな立派な会議室を何部屋も持っておられます。
このような円卓を持つ会議室だけで3〜4室あったような。



テレビ会議対応。
設備は勿論最新式のものです。



しかし地図は何とも世界地図はレトロ。



別の会議部屋には児島虎次郎の絵。
なんて贅沢なんでしょうか。



銀行の玄関前にも美術品がさりげなく。



というわけですべての見学を終え、銀行の公用車で送っていただきました。
運転手さん付きのベンツの後部座席でふんぞり返り、ちょっとしたVIP気分です。

美術品もさることながら、これだけ歴史的資料をそろえ、
いつでも見られるようにしている銀行というのも、
実は結構珍しいのではないかと思いました。

地方に根付いたご当地銀行の底力に
最初から最後まで圧倒されっぱなしの一日でした。





市谷・防衛省ツアー〜三島切腹の場

$
0
0

この防衛省ツアーは平成10年に記念館が移築して
二年後の平成12年から始まりました。

このことを防衛省に確認するついでに
「移築前もツアーはあったのか」と聞いてみると、

「今のような形ではなかったがあった」

ということです。

そこで気になったのが、その旧ツアー、
つまり市谷法廷や三島事件のあった部屋が
その当時のままであったとき、
見学者はそれを見ることができたのか?

そこまで詳しく聞くわけにはいきませんでしたが、
昔のツアーのこと、どなたかご存知ないですか?


さて。


1970年(昭和45年)11月25日、午前10時58分。

三島由紀夫と楯の会メンバー4人は、
市谷の自衛隊駐屯地、陸上自衛隊東部方面総監部の
二階に向かいました。



コッポラの映画「MISHIMA」では、市谷に向かう車中、
彼らが歌(たしか『唐獅子牡丹』)を歌い、
検問では中を覗き込んだ守衛が
「三島先生ですか」
と顔パスで中にいれた様子が描かれていました。

訪問の名目は「優秀隊員の紹介」。
この部屋で増田総監に日本刀を見せることをきっかけに
総監を拘束し、椅子などで扉にバリケードを張ります。



見学者全員その窓から外のバルコニーを一心に見ているの図。

おそらく、皆の心の中にはそのバルコニーに立つ
三島由紀夫の後ろ姿が彷彿としているに違いありません。


さて、現場にもう一度話を戻します。
お茶を出そうとしていた一佐が異変に気づき、通報。
12分後には警視庁から機動隊一個中隊が到着しました。

この総監室はドアが両側に二か所あり、
そのどちらもからバリケードを壊して幕僚たちが突入。
管理職とはいえさすがは自衛官です。
普通の会社組織ではこのようなことはありえないでしょう。

とにかくこの時乱入してきた幕僚を相手に、
三島は刀を振り回してこれを追い出します。





その時ついたと言われる刀傷。
本当は二か所ありますが、写真がボケていました。
orz

この時腕を斬りつけられて重傷を負った幕僚がいるのですが、
この人は

「もし私を殺すつもりなのだったらもっと思い切ってやっただろう。
腕をやられたときには手心を感じた」

と語り、自衛隊の理解者であった三島に対しては

「全くうらみはありません」

と語ったということです。
この時の三島の演説を見ても、三島を糾弾する者がいるとしたら
それは「左派勢力」だろうなと明確に思えます。

自衛隊内部のものの心境は、あとで触れますが複雑だったでしょう。



この後「人質の解放条件」として三島は、

「駐屯地の全自衛官を建物前に集合させること」

と幕僚に要求し、あの「三島演説」が行われるのです。



800名の自衛隊員が招集され、きっかり12時、
三島は「七生報国」の鉢巻を締め、バルコニーに立ちました。

このときの演説内容をわかりやすくまとめてみます。


日本は、経済的繁栄にうつつを抜かしている。
精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけだ。

こんな日本で、本当の日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。
日本の欺瞞を糺す存在であるべきだ。

去年(1969年)の反戦デーのデモが警察に制圧された。
自民党は警察権力をもっていかなるデモも鎮圧するつもりだ。
 治安出動はいらなくなったんだ。
すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が。

このことを以て自衛隊は「憲法を守るだけの軍隊」になったのに
諸君はなぜ気づかないのか。

自衛隊の健軍の本義とは国を護ること。
日本を守ること。
天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。

諸君が立ち上がらなければ憲法改正は無い。
自衛隊はアメリカの軍隊のままだ。

諸君は武士だろう。
武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。
どうして自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。

今の憲法は政治的謀略で自衛隊が合憲だかのごとく装っているが、
自衛隊は違憲なんだよ。
自衛隊は憲法を守る軍隊になったのだ!

俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。
諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。

一人もいないんだな。
 まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。
これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。

天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!


全然わかりやすくまとまってないぞ、って?
なんか、省略しにくくって・・(笑)

まあ、要は

「憲法改正のために立ち上がろう、
自衛隊諸君、俺についてこい」

というクーデター呼びかけですね。
今さらここで言われんでも知ってる、と言われそうですが。

この間、何度も三島は
「静聴せい!」「静かにせい!」「話を聴け!」
と繰り返し、ヤジる自衛隊員を怒鳴りつけており、
自衛隊員は三島に向かって

「なんで我々の総監を傷つけた」

「それでも武士か」

「バカヤロー」

などという言葉を投げかけています。

うーん。

今にして思いますが、これ、主張は全然間違ってなくない?
三島が30分の予定の演説をわずか7分で切り上げたのも
この自衛隊員の反発があまりに酷かったからですが、
黙ってこの内容に耳を傾けている隊員の中には
このように考えた人間もいました。
少し長いのですがウィキからの記述をそのまま掲載します。


バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えを
ちゃんと聞いてやりたい気がした。
ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、
三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。

野次がだんだん増して行った。
舌打ちをして振り返った。
(中略)無性にせつなくなってきた。

現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた
我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、
大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。
まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。
少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。
(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、
たとえ、暴徒によるものであっても、
いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。
こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとは
おこがましいと思った。


この日、三島は勘違いしていましたが、
いわゆる自衛隊の実戦部隊であるところの第32普通科連隊、
つまり精鋭部隊は朝から富士演習場に行ってしまっていたため、
ここで三島の演説を聴くために駆り出された800名はほとんどが、
資材調達、通信、補給などの部隊の隊員でした。

もし、ここに三島の言う「武士」である隊員が数百単位でいたら?

勿論戦後の平和を享受してきた隊員たちが、
たとえ実戦部隊の自衛隊員であっても、この三島の演説に
「武器をもって立ち上がったかもしれない」
と考えるのは今となっては妄想とでもいうべきでしょうが、
少なくとも上記回想をしたある陸曹が感じたように
「惻隠の情」からせめてちゃんと三島の話を聴いたかもしれない、
という気はします。

もっともその場にいた隊員の誰もが、
そのあと三島が割腹自殺を遂げるなどとは思っていなかったからこそ
声をからしてその演説をヤジっていたわけで、
その時の彼らはこれも陸曹の回想にあるように、
「気分は学長をヤジる学生運動家」だったのではないでしょうか。
そして後からそのショッキングなニュースを聞き

「自殺までするなら話を聴いてやればよかった」

と後悔したというのが本当のところかもしれません。


また、こんな話もあります。

三島の遺体が自宅の平岡家にに帰ってきたとき。
遺体の首は綺麗に縫合され、楯の会の制服が着せられて、
外からはその傷さえ見えず、さらに刀がきっちりと胸に置かれていたことが
息子の無残な姿を覚悟して恐る恐る棺を覗いた父親を驚愕させました。

遺族に対しこのとき処置をした警察病院の担当者は、

「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、
特別の気持で丹念に化粧しました」

と語ったということです。






こうして旧一号館と再現された記念館を比べると、はっきりいって
「レプリカ」みたいな感じは否めません。
というか全く別の建物でしょこれは。

しかしながら、この保存に関しては案の定(笑)
「こんなもの残すのは負の遺産でしかないから潰せ」
という左なお方たちからの騒音が物凄かったとか。

どうせ「我々の税金で」なんてことを言ったんだろうなあ。

都合の悪い歴史は無かったことにしようなんて、
「日帝の負の遺産は皆消してしまえ!」
と全ての(現行で使用している施設については見ないふりして)
日本統治時代の名残りを潰したり、桜を切り倒したりする
どこかの国と同じメンタリティじゃないですかー。


あっ、もしかしたら同じ・・・・(察し)




しかし、こういった部分は本物そのまま。
三島が10分足らず立ち、檄を飛ばした
そのバルコニーそのものです。



演説を終えた三島はこの窓から部屋に戻ってきて
恩賜の煙草を吸った後、割腹しました。

同行の森田必勝に向かって三島は「君はやめろ」
と言ったのですが、三島の後森田も割腹し、
介錯で切断された二人の首を残された三人は並べ、涙しました。

拘束されていた総監は三島が腹に刀を突き立てたとき
「やめなさい」「介錯するな」と叫んでいたそうですが、
全てが終わり拘束を解かれて泣いている彼らに向かって
「もっと思い切り泣け」といい、さらに遺体に向かって
「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座し瞑目したそうです。

総監の心の裡で三島の訴えはどのように響いたのでしょうか。



事件の次の日、ある隊員の手で総監室の前に菊が供えられたのですが
一時間も経たないうちにそれは幹部の手で片付けられました。

また、事件後、陸上自衛隊内で1000名によるアンケートが行われました。
大部分の隊員は「檄の考え方に共鳴する」という答をしたそうです。
一部に「大いに共鳴する」という答もあり、そのことが防衛庁を慌てさせました。

つまりは、そのような大事を行うのに三島のやり方は
いかに自衛隊員を納得させる道理があったにもかかわらず、
惜しむらくはあまりにも性急に過ぎたのです。

つまりサラリーマン的に飼いならされた自衛官に対してそのような訴えをしても、
三島の期待したようにはならなかったであろうことは自明の理だったと言えます。

アジテーションに失敗した三島は、その殉教的自己犠牲、
(彼が昔憧れを以て見つめた『矢に射られるセバスティアヌス』のような)
その犠牲があわよくば社会に変革を触発し、改革へのきっかけとなって
憲法が改正されることを期待して自決したのではないか、とも思います。




「ここであの事件が・・」


見学者全員がおそらく同じような思いを持って
この事件のあった部屋に佇んでいたと思われますが、
新しく移築されたときにそのような空気は払拭されたのか、
妙に明るい壁といい、気のせいか映画「MISHIMA」でロケに使われた
部屋の面影は全く感じられませんでした。

ただ。




当時からそのままである廊下側の窓の桟に、
水の湛えられた茶碗がひっそりと置かれていました。

死者の霊を慰めるための水でしょうか。




市谷・防衛省ツアー〜憲兵の無念

$
0
0

細部にこだわって何度かお送りしてきた市谷防衛省ツアー。

今日は市谷記念館の中に展示されていたものを
ご紹介しようと思います。
先日栗林中将の絵手紙をエントリに上げましたが、
これは本物ではありません。
遺族(国会議員の新藤義孝氏)からの寄贈はあったようですが、
ここに飾ってあるのはコピーだそうです。

昨今のコピー技術はすごいので、
ほとんど本物のと寸分違わないものですけどね。

ですから写真は撮り放題。
フラッシュだけは禁止です。
冒頭写真は山本五十六の揮毫による
「常在戦場」の書。
しかしこういうのを見るにつけ、この頃の政治家や軍人文人は
「書」というものに精神性のすべてを込めていた、という気がします。

226事件で鈴木貫太郎を暗殺する使命を受けた安藤輝三大尉。
彼は鈴木との対話を通じて考えに私淑するに至ります。
そして安藤大尉は鈴木に揮毫を求め、贈られた書を自宅に掛けていた、
という話をアップしたことがあります。


このような人物は勿論のこと、昔の人の字を見ると、
兵学校出身者は勿論、若い予科練の人たちも皆異常に達筆。
それもこれも毎日字を書いていたから?
ならば毎日死ぬほど字を書いても大抵の現代人は
あれほど立派な字は書けないのはなぜ。

書は人を表す、という意識が格段に高かったのでしょうか。




ここは士官学校がありましたから、その関係の資料が多数。
その一つ、士官学校卒業アルバム。
昭和5年、陸士42期のものです。
こうして見ると陸軍の軍服も士官のは素敵です。
前にも言いましたが、ポイントの赤が粋。



こちらは幼年学校の卒業アルバム。
左の三人が陸幼の制服着用ですね。
大正15年の撮影だそうですから、この写真の方々は
今ご健在だとしても100歳。



でた。
陸軍行進曲楽譜。

歌ってみましたが、あまり大した歌ではありません(おい)

どうも「第一」「第二」とあるらしく、
右左に別の曲が各々記されています。
どちらも長調(右ハ長調、左ト長調)で書かれていて、
陸軍=短調というイメージを持っていたのですが、
実際はそうでもなかったようですね。

どうでもいいけど、この譜面を書いた人は
「連けた」の記譜法を知らなかったのだろうか。
左の楽譜が読みにくいんですが・・・。



陸軍幼年学校に受かるともれなくもらえる採用通知。
西郷従龍さんは海軍大将の西郷従道の孫。
陸軍少佐になりました。

西郷従道も最初は陸軍軍人でしたが、ご存知のようにその後
最初の帝国海軍大将となります。

そういえば陸幼出身の作家加賀乙彦の「帰らざる夏」には
陸幼に受かるために特化した勉強法で作文などの練習をし、
テンプレートみたいな「少国民の心構え」などという文章の書き方を
ちょいちょいと勉強して入った、なんてことが書かれていました。

海兵にも陸幼陸士にも、「進学塾」があったらしいですね。



ここで従軍画家の作品を。

「敵中落下 海軍落下傘部隊」高橋克 作



「レンネル沖海戦」 松添健


この図録の黙示も展示されており、ほかに

「ラエ沖空中戦」「バリックパパン上空の空中戦」

などという、それどこの台南空、みたいな題の絵もあるようですが
残念ながらそれは展示されていませんでした。



海軍専属の画家の作品ばかりを集めた本のようです。





慰問袋に千人針。

慰問袋には女学生は写真を入れたりしたそうです。
戦地からお礼の手紙が来ることもあったそうですが、
それがどこから来るのかはわからなかったそうです。

「慰問袋をありがとうございました」
そんな文句で始まる手紙はその後何回か続くのですが、
たいていある日を境にふっつりと来なくなるのでした。

写真でしか知らない女学生に淡い気持ちを抱きつつ、
その写真を大事に持ったまま戦死した兵隊もいたのかもしれません。



陸軍士官学校と大本営の看板。
真ん中の板は字が全く消えてしまったものとみえます。



憲兵の腕章。
今日表題にした憲兵。
評判悪いです。
日本の軍国主義の悪玉の象徴として、
あらゆる映画や漫画で悪者扱いされている憲兵。

陸軍の軍人・軍属の犯した罪は憲兵部で処分できたこともあり、
一般兵にとっては、何かとやかましい事を言う「目の上のタンコブ」的存在であり、
またその職務上から高圧的態度をとる憲兵もいたため、
陸軍の中でもそのイメージは良くなかったようです。

ましてや一般人にとって憲兵とは「軍の警察」であり「鬼より怖い」
と恐れられており、戦時中は特に思想弾圧などで悪名をはせました。
映画の描写が決して大げさではなかったことは
例えば「身内に憲兵がいると知れたら村八分になった」
というようなエピソードにもそれが表れています。

因みに日教組の大物でミスター日教組といわれた
槙枝元文は、憲兵中尉でした。
北朝鮮とのつながりは深く、最も尊敬する人物が金日成だった、
というこの人物が憲兵隊にいたことは何か因果関係があるでしょうか。

一般に憲兵はなりたくてなるというものではなかったそうで、
兵科を身体的な都合で務められなかった者が憲兵隊に回される
といったケースが多かったと言われています。

しかも、職務熱心であるほど世間には疎まれる役回り。
しかも戦犯裁判ではその行為が多く糾弾されました。
BC級裁判で死刑になった者の三割が憲兵という説もあります。

権力をかさにきてそれを必要以上に行使する、
サディスティックな人間も異常な社会では必ず現れるものですが、
多くは職に忠実であっただけではなかったのでしょうか。


靖国神社境内には1969年、「憲兵の碑」が建てられました。
人目につかない池のほとりに、ひっそりとそれはあります。

その碑文です。


国破れて山河あり 
靖国の神域昔ながらの荘厳を失わず
国民の尊崇衰えぬは
神州不滅の証左というべきである

憲兵の任務は監軍護法に存したが 
大東亜戦争中は更に占領地の行政に 
或は現地民族の独立指導に至誠を尽くした 
又不幸にして空爆の戦火靖国の神域を襲うや 
挺身神殿を護持したのも憲兵であった

敗戦は不条理な多くの犠牲を我が軍に強いたが
別けても憲兵に対して著しかった 
終戦時戦死又は獄死 自決により或は
謂われなき罪に問われて非命に倒れた戦友
数百名に及ぶ 実に痛恨の極みである

願わくは憲魂死してなお靖国の聖域に留まり 
とこしえに二百五十万余の英霊の衛士たらんことを

靖国神社創建百年の秋に当り 
緑の神域にささやかな碑を建て 
殉国烈士の霊に捧ぐと共に

憲兵昔日の微衷を吐露して
後世の評価に委ねるものである

 

 

葉山に遊ぶ

$
0
0

葉山というと何を思い浮かべます?

葉山御用邸?

ヨットマリーナ?

別荘?

いずれにしてもハイソサエティの香り。
それが一般市民の葉山に対するイメージです。

横須賀の米海軍基地スプリングフェスタに行ったとき、
小旅行を兼ねて前日、葉山に泊まりました。
そのホテルがなかなか良かったのでご紹介。



我が家の(と言うてもマンション敷地内の、ですが)桜が満開。
こんな週末のことです。



車を西に走らせることしばし。
三浦半島西側の葉山に到着。



今日のお宿はここ。



エントランス。
なんかよさそうじゃないですか〜。
まるでニースのプチホテルみたい。



小さなホテルですが眺めは最高。
皆外でお茶を楽しんでいます。



フロントの上は吹き抜け。



角部屋でとても明るい。
まあ素敵、といいたいところですが、
どことなく、少しだけ「安っぽい」感じがしないでもありません。
昔流行った「カフェバー」(笑)みたいな。

部屋の片隅に、部屋面積の割には巨大すぎる
「加湿器兼空気清浄器」があって、これがまずうるさい。
付けても空気が異様に乾燥していて、夜寝苦しい。

このような部分はありましたが、すべての欠点を
この前にある海の景色が補っておりました。



ますますニースみたいです。

実はニースというところは海岸にタマゴ大の石がゴロゴロしていて、
さらにいたるところにまずいものが落ちていたりするのですが、
フランス人はお構いなしでそこにシートを敷き、
暑くもないのにむやみにトップレスになって寝転んだり、あるいは
昼間から周りはお構いなしで恋人たちの世界に突入したりします。

結構「行ってみてがっかりのリゾート地」だった記憶があります。



このホテルは、この目の前の小さな半島?がポイント。



わたしたちもチェックイン後、外でお茶をいただきました。
晩ごはんが控えているのでおやつは控えめに。

これはお菓子みたいなクリームチーズのセット。
桜の季節のアレンジです。



しかしながら日本の景観地が
ニースには決して勝てない部分があります。
即ち「景観全体に対する根本的なセンスの無さ」。

こういうものを見るとそれを如実に感じます。

何なのこの観光客を当て込んで無理やり建てたダサい食堂は。
こんなところに醜い飲食店を立てて、しかも
駐車スペースのためにわざわざ見苦しいアスファルト敷いて。

おまけに潰れた店の廃墟を放置。

全く、こういう「儲かりゃいい」みたいな商売人が
景観を台無しにするの、法律で何とかしてほしい。
富士五湖の周りなんか、こういうので荒れ放題ですからね。

ところで。
わたしたちがここに車で到着したとき、ホテルの方が

「坂の上で車が止まってしまったので、
すみませんがここから上に行けません。
ここに車を停めて歩いていただけますか」

とおっしゃるのです。
なるほど、坂の途中に品川ナンバーのアウディが
エンコしていました。



ここで車が停まってしまったので、ちょうど出るところだった
やはり品川ナンバーの赤いフェラーリと鉢合わせ。

最初はこの二台の事故だと思い

「うーん、なかなかゴーヂャスな事故ですなあ」
「さすがは葉山」

などと感心していたのですが、事故ではなく、
単なるアウディの故障だったようです。



出ようとして鉢合わせになったらしいフェラーリ。

「しかし確かに急な坂だけど・・・・止まるかね」
「いや、昔知り合いがジャグワーに乗っていて、
坂道でパーッと電気系統が切れたってことあったよ。
で、ディーラーに文句を言ったら、
『ジャグワーという車はそういうものなんです』
って言い放ったって」
「アウディは腐ってもドイツ車なのに・・」

いずれにしても、初デートならフラれるかもしれないね、
などとアウディの持ち主に同情していたのですが、
車はずっとうんともすんとも動かず。
ついにアウディの中の人はホテルに入っていってしまい、
ホテルの人が修理が来るまでずっと車の近くで立ち尽くしていました。

ご苦労様なことです。

我々はそれを横目で見ながら、ホテルの敷地内を探索。



裏の山の傾斜を利用して高い部分に教会がありました。



結婚披露宴パーティに力を入れています。



人工の木にミミズク発見。



どうやらここでも結婚式をするらしい。
なぜかウェディング・ベルのある足湯(笑)

足湯は季節限定です。(三月いっぱい)
もしかしたら夏場はスパになるのかな。





この絶妙な高さの椅子に座って、脚をお湯に漬けるわけ。
頼めば飲み物も持ってきてくれます。
寒かったので、レモネードとココアを頼みました。



二羽で遊んでいたカラス。

カラスって遊ぶんですよ。
youtubeで、雪の積もった車のフロントグラスを
コロコロ自分で転がっている映像を見たことがあります。



すっかり夕日が沈みました。



こんな洞窟を半島に発見。
長年かけて波が削って行ったものでしょうか。



ホテル客室は二階にあります。
エレベーターを降りるとこんなお洒落な車いすが用意されています。
エレベーターが小さくて、一般の車いすが乗らないのでしょう。


このホテルは「朝夕食込み」か「なし」か選べます。
ここの売りは「美味しいお食事」だというので食事つきをお願いしました。



予約の時間にレストランへ。
この写真は食事が終わった客が全員出て行った後撮りました。



お酒が飲めないので雰囲気を出すために頼んだ
「カクテルジュース」。
食事のときたいてい我々はガス入りウォーターを飲みます。



三浦半島の野菜は美味しいと評判。



TOが頼んだ前菜。
こうしてみるとまるで目だ・・・・いやなんでもありません。



スープがお得意の模様。
カブやゴボウ、野菜のポタージュがどれも絶妙。



なんとなく昨今の事情から魚には手が出にくく、
メインはカモにしました。
黄色いソースはパッションフルーツ。
これだけ食べると決して美味しいとは言えない果物ですが、
このようなソースにするとその巧みさに呻ります。
カモ肉に掛けられたソースとマッチ。



デザートの一口ゼリー。
グレープフルーツその他。



マンゴーのアイスを乗せたババロア。
下のババロアはフランボワーズだったかな。



抹茶のマカロンとマドレーヌ、生チョコ。
もうこの辺に来るとお腹がいっぱいで肩で息状態。

食事が終わったらもう10時。



開けて翌日、天気予報は雨でしたが、結局晴れました。
この日は横須賀の米海軍基地に行くことになっていたので、
目覚ましを7時にかけていたのですが、起きられず(-_-)



ふと窓の下を眺めれば、昨日大騒ぎしていたアウディが、
修理できたのかパーキングにいました。
ちなみにこの中にエリス中尉の愛車もおります。



昨日足湯をしたところを望む。

 

朝のホテルフロント。

「何も開場までに行くことないよ」

という何の根拠もないTOの甘言に納得し、
寝坊したうえにゆっくり朝食を取り始めました。
今にして思えば、このとき予定通り行動していれば
イージス艦に乗れたんですけどね・・。





まあでもしかし、ここの朝食はそれだけの価値があったのも事実。
ビュッフェなどという無粋なことはいたしません。
ちゃんと一皿ずつサーブされてくる朝食です。



タマゴ料理、温野菜、生野菜。



そしてクロワッサンの美味しかったこと!
クロワッサン評論家(自称)のエリス中尉が厳かに、

「これは台湾のホテル『ラルー』と同等かそれ以上」

と一口食べるなり言い切ったこのクロワッサン。
「エシレ」のバターを使って焼いているそうです。

丸の内にエシレの直売店があり、ここのクロワッサンを頼んで
買って来てもらったことがありますが、やはりクロワッサンは
できてから口に入るまでの時間が勝負。
「買ってきてもらって食べる」
という時点でもう味は台無しになってしまっているんですね。

ですから、焼きたてのものが食べられるホテル宿泊というのは
ある意味、そのホテルのパン作りの実力が一番わかるのです。

焼き上げてまだ温かみの残る上質のクロワッサンが食べられる、
それだけでこのホテルに来た甲斐がありました。

・・・・というくらい美味しかったです(笑)



朝の海の色がグラスのブルーに映えてきれい。



赤と白のカヌーが競争していました。



結局ホテルを出たのは9時過ぎでした。



ホテルをチェックアウトして外に出ると、すぐ、
葉山御用邸があります。



御用邸の警備をする皇宮警察の警察官。
微妙に制服の色が一般警察と違う。



横須賀まで30分。
途中の道は桜と菜の花が綺麗でした。




おまけ。
横須賀探訪の後、自宅に帰ってきて、
近くの公園の夜桜を見て帰りました。

葉山には今回のホテルだけでなく、美味しいレストランや
素敵なホテルがたくさんあるそうです。
さすがは、関東の「別荘地」と言われているだけのことはあります。

「引退後は葉山ってどう?」
「地震が怖い」
「海を見下ろす高台なら津波も来ない」
「地すべりが怖い」
「・・・・そうだね・・・」

関東で地震を怖がっていたらどこにも住めないんですけどね。









市谷・防衛省ツアー〜メモリアルゾーン

$
0
0

この「メモリアルゾーン」見学も、午後のツアーにない行程です。
この写真は見学コースから撮ったもので、
このモニュメントに近づくことは許されません。

これは自衛隊殉職者の慰霊碑です。

「自らの危険は顧みず」任務にあたり、
陸に海に空に、訓練演習、災害派遣の完遂の務めた
自衛隊の幾多の隊員が職務に殉じました。

昭和25年の警察予備隊創設以来、昭和24年6月現在で
その殉職者の数は1800名を超えます。

この殉職者慰霊碑は、このような隊員の功績を永久に顕彰し、
敬意と追悼の意を捧げるために昭和37年建立されました。

しかしながら風化による傷みが目立ってきたため、
遺族の要望を受ける形で昭和55年10月15日、
このモニュメントに建て替えが行われました。

再建のための費用は防衛共済会事業費と、全自衛隊隊員の
拠金(カンパ)によって賄われています。


近くまで立ち寄ることができなかったのが残念ですが、
見学者は30メートルくらい手前の通路からそれぞれ手を合わせ、
祈りを捧げていました。

モニュメントは誰が見てもわかりますが富士山を象っています。
碑銘は当時の首相鈴木善幸の揮毫によるもの。
旧モニュメントの「池田隼人首相の銘石」が、右手に残されました。

この慰霊碑には、歴代防衛大臣などの防衛省幹部の理着任時や、
海外要人の来省の際には献花が行われることになっています。





ところで、このツアー。
何でもかんでも事細かに教えてくれるわけではありません。
もしかしたら聞いたら教えてくれたのかもしれませんが、
メモリアルゾーンに向かう途中に、このような

いかにも何か曰くありそうな


神社があるではありませんか。
しかし説明なし。
この日一日説明を聞いて、どうやら防衛省は

「旧軍にまつわるものはスルーする傾向にある」

ということを見破ったエリス中尉、きっとこれは
何かそのような曰くがあるに違いないと思い調べてみたところ、

これはかつて雄健(おたけび)神社といい、大正5年に
陸軍士官学校の校長の命名により創建されたものでした。

昭和16年予科士官学校の移転に伴い
ご神体は朝霞の振武台に遷されました。
しかし社殿はそのまま遺され、陸軍省・大本営陸軍部・
教育総監部が同地にある状態で終戦を迎えました。

        
戦後は復員省・極東軍司令部などが同地を利用していましたが、
昭和34年防衛庁に移管、陸海空幹部学校や
東部方面総監部などが同地を利用、平成12年には防衛庁本庁がここに移転、
此の間社殿は撤去されずに存在し続けてきました。

平成14年メモリアルゾーンの整備に伴い、少し位置は移されましたが、
現在もなおご神体不在のまま90年の風雪に耐えて現存しています。


今ご神体が無いので、祭祀も行われていないということですね。


この時ご神体を別の場所(朝霞神武台)に移したのは、
やはり進駐軍による接収四散を防ぐ意味があったようです。

ご神体こそないものの、かつて陸軍予科士官生が毎日額づいた場所。
やはりこのような社殿を取り払ってしまうのは勇気のいることらしく、
ここにぽつんとその社殿だけが残されているというわけです。

このように、このメモリアルゾーンには結構いろんな
「軍的な碑」があり、もっとも決して隠しているわけではありませんが、
ツアーでは一切説明はされません。

どんな団体が鵜の目鷹の目で粗探ししに
わざわざやってこないとも限らないからでしょうね。

つまりそういったものを顕彰しているところを左巻きや「市民グループ」
に目を付けられたりすると、皆様の防衛省としては厄介なことになるから、
とエリス中尉激しく勘繰ってみました。

おそらくそうはずれではないと思われます。

例えばこれ。



陸軍幼年学校の碑。

明治30年、明治天皇の御聖旨により設立された
陸軍幼年学校を記念する碑。
昔戸山ヶ原にあった碑ですが、学校発祥の地
市谷に移しました。



砲一碑

野砲兵第一連隊および野砲兵第101連隊の記念碑。
昭和44年に建てられました。



市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

いまいち意味が分かりませんが、まあそういうことです。
後は

大元帥陛下御立所

昭和天皇が士官候補生の馬術訓練をご見学された所

戦史室後の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された
戦史室の跡地に置かれた碑を移設した


戦史叢書の編纂って、国家的大事業だったんですね。


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため、
自衛隊には「自衛隊支援集団」が編成されました。
この司令部に置かれていた碑を移設


とまあ、このあたりは比較的問題?は無いのですが、



これなど、かなり「左翼的に」糾弾し甲斐のある物件かと。

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

陸軍少佐晴氣(はるけ)誠は、
大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦を知り
その責任を感じて8月17日の早朝、この地で自決


ここは当時陸軍省の大正天皇御立所がありました。
晴氣少佐は陸軍大学を恩賜の時計で卒業した秀才でしたが、
サイパン陥落の責任を感じ、絶えず死に場所を求めており、
終戦をきっかけに自決に至ったものと見られています。

妻に残された遺書は次のようなものでした。


戦いは遠からず終わることと思う。
而して、それが如何なる形に於て実現するにせよ、
予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、
戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、
予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。

サイパンにて散るべかりし命を、
今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。

而して予の肉体は消ゆるとも、
我が精神は断じて滅するものにあらず。
魂はあく迄皇国を護持せんのみ。

予は茲にこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、
十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、
予が無二の助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。

又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、
武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。

然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、
何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。

今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、
予が平素の言、其の都度送りし書信に尽く。

三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、
これ以上何もお願いすることはない。

三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、
貴女より予が遺志を伝えられよ。
予がなきあと、予が残したる三子と共に、
更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、
神の加護あらんことを祈る。

予が魂、亦共にあらん。



そして、これです。



陸軍大将阿南惟畿荼毘の碑

阿南大将は敗戦に際し8月15日朝三宅坂の官舎で自刃しました。
その遺体は高等官集会所に安置され、
その後ここ市谷の海軍重砲西側で荼毘に付されました。

荼毘に付されたという本当の場所がどこであるかはわかりませんが、
この碑に加え、

杉山元元帥(昭和20年9月12日拳銃自殺)
吉本貞一大将(昭和20年9月14日割腹拳銃自殺)

の自決の碑(いずれも市谷台で)をこの場所にまとめてしまいました。



あとは

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍の航空部門における戦没、殉職者の碑

など、つまりこのメモリアルゾーン、実は

旧陸軍の死者を顕彰する碑が圧倒的に多い

ということなのです。
せっかくメモリアルゾーンを見学コースに入れておきながら、
旧軍関係の碑については全く触れない。

もちろんこれは「表向き」であって、参加者には全員に
このメモリアルゾーンの碑について説明した冊子を配りますから、
決して「蔑ろ」にしているというわけではないのですが、
わたしはこういう「配慮」(誰に対する?)をする防衛省に対し、
先日少し書いた

「これじゃない感」

が、またもやむくむくと湧き起ってくるのを
抑えずにはいられませんでした。


実際のところ、

「旧軍の名残り」が市谷のあちらこちらに点在しているのは
今後のことを考えても色々と大変だから、
いっそこういうコーナーに皆まとめてしまおう!

というわけで、荼毘の地や自決の地に置かれていたものを
一か所にまとめてしまいたかった気持もわからなくはありませんが、
(晴氣少佐の自決は富士山のモニュメントのすぐ裏なので動かさず、
そのままになっているらしい)
都合上こうやって勝手に集めておいて見学者には何の一言も説明せずって、
だいたい国を憂えて自決した軍人たちに失礼なんじゃないでしょうか。


靖国に対する扱いのように、これほど自分が国のために捧げた命が
ぞんざいに扱われていることを知ったら、
わたしだったらちょっと出てきて文句の一つも言いたくなるかもしれません。



それはあくまでも「ある言論層」への対処であって、実際は
防衛省はそれらを手厚く慰霊顕彰をしている、ということならまあ、
―不満は感るものの―良しとしますけれども。








霧島を行く〜さざれ石の巌となりて苔の生すまで

$
0
0

色々と話すことが多すぎで旅行の話があっという間に
「旧聞」になってしまうのですが・・・。

先日霧島温泉の話をさせていただいたのですが、
今日はその次の日、連れて行っていただいた観光の話。



まず最初に霧島神宮。
日本発祥の地・・・・?

なぜ霧島がここまで豪語するかというと、
ここには「天孫降臨の地」としての神話があるからだそうで。

太古の昔、神々が下界を見下ろすと、きりに煙る海の中に
島のように見えるものがあります」
神々は鉾を差し、島に印を付けました。
それが霧島山の由来です。

あるとき、アマテラスオオミカミの神勅を受けて、
三種の神器を持ったニニギノミコトが、猿田彦の命とともに
高天原から地上に降り立ちます。

天上界から神が地上に降り立ったその最初の一歩が
「高千穂峰」だったということで、
ここが日本の建国のことはじめだと言われているわけ。

天狗は・・・・なぜかわかりません(笑)



参道は階段をかなり上り、しかも遠い。
お参りする人も大変だ。



この参道沿いにあった灯篭。
おお、こんなところに名前を遺せるとはきっと当時のVIP、
などといいながら歩いていると、



・・・・ん?
なんだか見たことのある名前が。



西郷従道さんではないですか!
最初の元帥海軍大将、西郷従道。



参考画像。

そんなVIPの寄進した灯篭がここに!



VIP寄進灯篭もう一つ発見。
公爵島津忠重。



参考画像。
んまあ、この男前は誰?
島津忠重とは全く関係ないのですが(笑)
海兵一期下の栽仁王(たねひとおう)。

兵学校卒業間近に盲腸炎でご逝去。
なんと20歳の若さでした。

(この写真と兵学校出ということを
アップするためだけにこじつけました)






写真を撮りに来ている人多し。



神聖降臨の地であるという碑。
なぜかタンカー霧島丸の進水を記念して建てられました。



さざれ石。

これを読んでわたくし「マジですか?」と言ってしまいました。
皆さん、わが日本国歌の

「さざれ石の巌となりて苔の生すまで」

って、なんだか道理に合わない文句だと思っていませんでした?
わたしも思っておりました。
だってなんで小石が大きくなるのよ。
逆に砕けて小さくなっていくならわかるけど。

しかしですね。

この碑によると

「さざれ石は石灰石が雨水に溶解して
その石灰分を含んだ水が時に粘着力の強い乳状体となり、
地下において小石を終結して次第に大きくなる。
やがてそれが地上に顕れて、国家に詠まれるごとく、
大きくなって苔も生すのである」

「この石はその集結の過程をよく察することができる」

とあるではないですか。

うーん。
今の今まで、さざれ石が本当に大きくなるとは知らなんだ。

というわけで、ここに置いてあるさざれ石は
「苔の生す前の成長過程にあるもの」
であるらしいのですね。

皆さん、ご存知でした?
我が国歌に一毫もの矛盾はなしってことです。



何しろ天孫降臨の地の神社ですから、そのご威光のあること。
伊勢神宮や出雲大社と並ぶ御三家ではないだろうか。
(適当に言ってます。違っていたらすみません)



そこにあるご神木。
最近、対馬の寺から仏像が盗まれ、
盗み先の国である韓国の裁判所が
「返さなくてもいい」なんてトンデモ判決をだし、
靖国神社の放火犯人を「政治犯」だとして中国に帰したことといい、
このことといい、国ぐるみで「愛国無罪」を制法しているらしいことが
あらためて日本人の間に嫌悪を呼び起こしていますね。

実に恐ろしい話なのですが、昨今全国各地で
「ご神木が何者かの異物注射によって枯れる」
という「ご神木テロが起こっているといいます。
突然枯れだすご神木を調査すると、

ドリルで幹に穴があけられ、そこに

薬剤を注射してあるのだそうです。

この10年で被害に遭ったご神木はなんと25本に及びます。

誰が何のために?
と疑問に思っているところに、たとえばこんな「仏像泥棒」
の話を聴くと、この国の人間がどこからかの指示を受け、
やっているのではないかと疑われますね。

お雛様を倒すゲームをしたテレビ局のことを話したとき、
「日本人にはできない」と断言しましたが、
こんなことも普通に考えると
「日本人なら恐ろしくてとてもできない」
のではないでしょうか。

ここのご神木は今のところご無事のようです。
四国を中心に起こっている被害なのだそうですが、
放火や仏像盗難も起こっていることですから、
神社仏閣関係の方々にはくれぐれもセキュリティを
しっかりしていただくしかないでしょうね。

などと心配するということ自体が日本において
「ありえない」としか言いようがないのですが。



神殿に到着。
大修復が済んだばかりらしく、どこもかしこもピカピカ。

しかし、神殿わきにこのようなお知らせ発見。



屋根が老朽化してきたので、リフォームしたい。
よって、その資金集めのために寄進を募集しています。
一枚2000円で、葺き替え用の屋根の銅板に、
住所と名前を墨で書いてもらえるというもの。



西郷従道さんが寄進したように、(桁は違うけど)
とにかく神殿の屋根に名前が記されるわけです。
何百年か後にまた改装したとき、われわれの名前が
後世の人の目に留まるわけです。
それがどうした、という向きもございましょうが、
こういうことにはノリノリになるTOが提唱して、
家族三人分の寄進をさせていただくことにしました。

手続きは社務所で、巫女さんがしてくれます。
寄進者の氏名はちゃんと「社報」で報告してくれるとのこと。



日本の神社も改装したては結構カラフルだということがわかりました。



菊の御紋は、もちろん皇室を意味します。
先ほどの詩碑、



これも、徳富蘇峰の
「皇室を中心とする国」という意味の詩が書かれています。



とても高いポールに高々と揚がる日の丸。
日教組の人たちは、ここには決してお参りに来ないのでしょうね?
お正月も、お宮参りのときも、この「皇室を祀る」
目的のある神社は避けているわけですね?



色々と突っ込みがいのある看板ですが。
霧島温泉について書いたときも触れましたが、
ここは坂本龍馬とおりょうの新婚旅行の地。

池田屋事件の傷を霧島の温泉で癒し、
高千穂の峰でその美しさに「二人で微笑み合った」そうです。
アツアツです。

この新婚旅行、なんと88日間続いたそうです。



写真ではわかりにくいですが、不安定な岩の山の頂上に、
巨大な岩をバランスを取って置いてあります。

いったい誰が何のために?

上に岩を置くのも、どうやってやったのかさっぱりわかりません。
皆「ふーん」と見て何の感想もなく通り過ぎていましたが、
わたしはこの岩をどうやってセットしたのか、
気になってたまりませんでした。
おそらく4〜5人の屈強な男たちでようやく持てるような岩ですよ?



わたしがこの岩山見入っている間に、連れ(家族と案内の方)
はすたすたと先に行ってしまいました。
「待って〜!」
砂利道を走って追いかけるエリス中尉。

この後は新燃岳(のふもと)に行きました。

続きはまたいつか・・・。





横須賀軍港ツアー〜ジョージ・ワシントンとイージス艦

$
0
0

横須賀の米海軍基地スプリングフェスタに行ったとき、
車をショッパーズプラザというモールの駐車場に停め、
とりあえず三笠公園に向かったのですが
始めて来た者の悲しさ、道路へ出る方向がわからず、
商業施設から反対側の港方面に出てしまいました。

その失敗が今回軍港ツアーに参加するきっかけに。

「こっちじゃないよね」
と言いながら反対側に出てしまったわたしたち、
目の前の景色に「あっ」とびっくり。



米海軍旗と自衛隊旗が同時になびくこの光景。



ナンバー181・・・これは観艦式でエリス中尉が乗艦した

「ひゅうが」だあ!

こ、ここはまさに横須賀軍港ではないか!



見渡す港に点在する米海軍のフネ、そして護衛艦。
その中を今まさに出て行かんとする遊覧船。
この遊覧船は、まさか・・・・



そのまさかでした。
こんなツアーがここから出ていたとは!
これはもう参加しろという東郷平八郎元帥のお導き。

一も二もなく参加を決めたわれわれ、最終便の3時発クルーズを予約すべく
この看板の真後ろにある受付に飛び込みました。



この日、天気予報は「午後から雨」。
もし雨が降ってきてしまったら早く帰ってきて2時発に乗ることにして、
二人分のチケットを買いました。

(こんなことしてたから米軍基地に入るのが遅くなったんですね(-_-))

三笠公園からここまでは歩くと結構な距離があります。
米軍基地を出た後、記念艦三笠の見学をして
出港予定きっちり5分前に船着き場に到着。



これが軍港ツアーのクルーズ船。
わたしたちが並んだのは後ろの方でしたが、二階デッキに座れました。
TOは寒がりで「船内がいい」と最初言っていましたが、
わたしが当然のように「じゃ別行動で」というとおとなしく二階に座りました。

1000円で双眼鏡、毛布は無料で貸してもらえます。

ところがいざ出港という時間になって
「まだ予約されたお客様が全員乗っておられないので5分待ちます」
とアナウンスが。

なんだとおおっ。(笑)

フネは一旦出てしまったら追いつけないという鉄の掟をしらんのか。
貴様一人のためにこれだけの乗客を待たせて、
それでも海の男か!(女かもしれないけど)
海軍5分前の精神を知らんのか!

とマニアックに心の中で突っ込んでいたのはおそらく
乗客の中でもエリス中尉一人だったのではないかと思いますが、
そのうちこの客がやってきたらしく、5分遅れてフネは出港。


ツアー参加客には「海軍5分前」の掟を周知させるべきだと
主催会社にこの際提案させていただきます。




ともあれ無事出港、ツアーが始まりました。
いきなり我が潜水艦の横を通過。

番号が見えないのでおやしお型ではないかと思われます。
横須賀にあるのは第2潜水艦隊なので、おそらくは

「おやしお」
「うずしお」
「なるしお」

のうちのどれかでしょう。

それにしてもみなさん。
いきなりですがこの光景、不思議じゃないですか?

この港は「米海軍基地」「自衛隊基地」が別にあって、
こちらは米海軍側なんですよね。
この向こう側は、先ほどまで我々がいた米軍基地につながっています。
そして先ほどの写真、「ひゅうが」の停泊していたのは自衛隊の停泊地。

どうして海自の潜水艦が米海軍側のドックにいるの?


これについて調べたところ、答えが3つ見つかりました。


1、潜水艦を泊めるには特別の施設が必要なのでここに泊めるしかない

2、警備の都合上米軍と一緒にしていた方が楽だから

3、内心米海軍は日本の潜水艦建造技術の実力に恐れをなしているので常に監視している


わたくし個人的には

1、60%、2、30%、3、5%、その他5%

って感じではないかと思いますがいかがなもんでしょう。
まあただ、「潜水艦に恐れをなし」という説もあながちでたらめではない
という気がします。

なぜなら、海自潜水艦隊にはこんな最強伝説が・・・。

海自と米海軍との合同演習での模擬戦中のこと。

米海軍「日本の自衛隊なんぞ楽勝。
ま、一応自衛隊の潜水艦は実戦レベルで探すけどね」

海自「…ポチっとな」

海自の潜水艦からのピンガーで米海軍の駆逐艦は撃沈判定。

海自の潜水艦は遥か遠くからエンジンを停止して、
海流の流れだけでアメリカの駆逐艦の真下に到達。

面子を潰された米海軍が本気で潜水艦を追尾するが悠々離脱する。




そんな潜水艦の舷門の見張りをしている水兵さん。



ミサイル駆逐艦アーレイ・バークII‐A級 ラッセン(LASSEN)

横須賀を母港とするイージス艦です。



アーレイ・バークI型 カーティス・ウィルバー(CURTIS WILBER)



どちらも母港を横須賀とする駆逐艦です。



ここで解説は左の海上自衛隊部分に。
そう、「ひゅうが」ですね。
定係港は横須賀。つまりここが母港です。

この横を船が通過したとき、艦尾で自衛官が皆で
帽振れをしてくれました。
アッと気が付いてカメラをズームしているうちに
撮りそこないました・・・・orz



そのかわり「ひゅうが」艦上の人影を写真に撮ってみたのですが、
・・・・なんだかこれ、一般の人じゃないですか?

もしかしたら、艦船見学できるのかなあ。



そこで米海軍側の岸壁に目をやると
物凄く年季が入った感じの軍艦らしからぬフネ。
APL40って、なんだと思います?

これは「支援艦」。
つまりこのフネそのものが「宿泊施設」なんですって。
かつてはベトナム戦争にも参加し、メコンデルタでは
米陸軍の移動基地として就役していました。

つまり「地獄を見たフネ」ってことですか?

今、このフネに動力部分はついておりません。
ただ、埠頭にぷかぷか浮いているだけのフネ。

修理などで横須賀港でドック入りする艦艇の乗務員が
宿泊するための施設で、中にはカフェテリアやジムも完備。

せっかく港に着いたというのに、艦艇の乗員たちも
オカの上で寝てえ〜!って思ったりしないんでしょうか。



意味なく一部を引き延ばしてみました。
この艦橋は今何に使用されているのでしょうか。

・・・・・トップラウンジ・・・・?

ちなみに自衛隊では運用年数が決められていますから、
このような長期に亘る艦船の「二次利用」は行われません。



アーレイ・バークII‐A型 ミサイル駆逐艦マスティン(MUSTIN)

横須賀には第15駆逐艦隊の9隻の駆逐艦が所属しています。
ところで「第15駆逐艦隊」というのもかっこいいですが、
これ英語で言うと「デストロイヤー・スコードロン15」

うわ〜かっこいいいい!
・・・・・わたしは中学生か。



ところでみなさま。
イージス艦イージス艦といいますが、
イージスシステムを備えているかどうか、どこで見分けると思います?
例えばこの「マスティン」の艦橋、
ほぼ8角形のプレートみたいな金属部がありますね?

これがSPY-1Dというイージスシステム用の多機能レーダー。
単純にこのプレートがあればイージス艦、でいいんです。

イージス艦は200以上の目標を追尾し、そのうち10から20の目標を
同時攻撃することができます。

案内のお兄さんは

「100のミサイルが飛んできたらそれを全て落とすことができる」

と言っておられましたが・・・。
実際はどうなんでしょうか。

ではこの際だから、「イージス艦講座」(初心者向け)をしてしまいましょう。

イージスとは、ギリシャ神話から来ており、全知全能の神ゼウスが
娘のアテナ(知恵、戦略の女神)に与えた楯、アイギス(Aigis)の
英語読みです。

イージス艦とはもともとソ連のミサイル攻撃から主に空母を守るために
開発されたもので、基本「守り重視の艦艇」という位置づけです。
「イージスシステム」=「艦隊防空システム」なのです。

つまり、同時多目標処理能力と対応時間の短さがポイント。
一度にたくさんのミサイルや飛行機に攻撃されても、
それをコンピュータ処理によってさくさくと攻撃し撃ち落とす、
これを可能にするには、衛星や偵察機とのデータリンクが必須です。

データリンクもできないのに
「日本が持っているからうちも持つ(ニダ)!」とばかり
イージス艦の数をとにかく増やそうとしていたどこかの国がありますが、
そのどこかの国は最近ロシアに衛星を上げてもらったので
もしかしたらデータリンクできるようになったのかしら。

どなたかこの辺のことご存じありませんか?




もう一押しアップ。
五色で書かれたHEEEEって・・・・何?

英語でもこれ、意味は「ひええええ」だと思うんですが・・・。



星条旗って美しいですね。



マスティンの甲板に人影発見。
日曜なのにお仕事中。
月月火水木金金。
アメリカ軍も海の男の「艦隊勤務」に土日はない。



近くで見ると結構あちこち錆びたりしています。
手入れがなっとらん。

もしかして・・米海軍、
「サビとか、いちいち細けえことはいいんだよ!」
って主義ですか?

実はこれについては今回知ったある逸話が・・・。
それは巻末のお楽しみ。




OH!

甲板に立っている二人の海軍さん。
なんと双眼鏡でこちらを観察中だ。



タイコンデロガ級 ミサイル巡洋艦 シャイロー(SHIRO)

第7艦隊の水上戦部隊は、この「シャイロー」と「カウペンス」
二隻の巡洋艦と第15駆逐艦隊で構成されます。

シャイローの向こう側に同型艦らしきのがいますが、これが
「カウペンス」かもしれません。(未確認)

右 アーレイ・バーグI型 ミサイル駆逐艦ステサム(STETHAM)

左 ブルーリッジ型 揚陸指揮艦ブルーリッジ(BLUE RIDGE)

ブルーリッジをその意味から護衛艦風に言うと蒼い稜線、つまり
「そうりょう」ってとこでしょうか。




ニミッツ級航空母艦 ジョージ・ワシントン
(GORGE WASHINTON)

でた!
いろいろと話題のジョージワシントン。
うーん。大きい。


アメリカ以外の基地を母港とする唯一の空母。
配備されるというときに反対運動がありましたが、
今はどうなっているのかとと調べてみたら、案の定

「ジョージワシントン4周年配備反対とオスプレイ反対のデモ」
(笑)

なんてのを市民団体(と言う名の左翼)が去年の秋にやってます。

「世界一危険な飛行機オスプレイの配置反対」

・・・・・はい。

それはいいがなぜ横須賀でオスプレイ反対を叫ぶ(笑)
ジョージワシントンに反対するついでに
旬の(マスゴミが取り上げる)案件だからこれも言ってみましたって?

もうあなたたち、デモするならもう少しテーマを絞らなきゃ。
だいたい4年も経って一向に出て行かないんだから、
たぶん今さらデモしてもとあまり意味ないと思いますよ?

そのうち任期が切れるから、それまで待つことですね。

この団体に提案なのですが、デモによる訴えを効率的にするには、
この日やっていた「米海軍基地スプリングフェスタ」、
日本人の観客もたくさんいるんだから、こういう機会に堂々と
基地前に集まってその正当性を叫ぶのがいいんじゃないでしょうか。

そして和気藹々と写真を撮っている米軍人と日本人たちに向かって

「この非国民が!」
「原子力空母は出て行け!」
「ヤンキーゴーホーム!」

って叫べば効果的だと思います。たぶん。



ジョージワシントンはご存知のように横須賀が母港ですが、
やはり一旦出て行ったら半年くらいは帰ってこなかったりします。
今、同艦は、ご覧のように「メンテナンス中」。

いつ横須賀に行っても観られるというわけではないので、
ここしばらくの間は必ず見ることができる「チャンス」らしいです。



全長333メートル(覚えやすい)。
333メートルといえば?
そう、昭和33年にオープンした

東京タワー。(全長333メートル)

東京タワーと全く同じ大きさなんですね。
この錨の重さは30トン。
錨を吊っている鎖の輪一つが162キロ!



作業中の人影発見。
なんか、甲板の上に日本製のプレハブがありませんか?





なにやら白いついたてを立てて目隠ししている。
これは「見られては困ることをやっている」でOK?



真正面から見たところ。
左舷に傾いています。

乗員は士官、兵員だけで3200名。
航空要員(パイロットとか)が2480名。

5000人ったら、何年も同じフネに乗っていたとしても、
一度も会ったことのない人なんていくらでもいそうですね。

一日にこれらの人々が食べる肉の量は「牛三頭分」。
肉ばっかり食ってんじゃねえよ(呆)


ところで、映画「バトルシップ」公開時に、宣伝のため
日本を訪れた出演者と関係者、日本人の浅野忠信とともに
このジョージ・ワシントン上で記者会見を行ったのだそうです。

なぜ?って気もしないでもないですが、
(だってジョージワシントン、別に映画に出てこないし)
配備反対とか何かと問題視する人もいるから、
パブリシティを兼ねてこの際友好的に、って感じでしょうか。

で、その時に浅野くんがぽろっと


「怒られるかもしれないけど、
日本人は真面目だから護衛艦の中は綺麗で。
アメリカの船も綺麗でしたが、ところどころラフな部分があって、
コカコーラが挟んであったりして。
全然違うなと。
それが悪いってことではないんですが(苦笑)」


なんて言ってしまったらしいです。
うーん、浅野忠信、空気読まなさすぎ。

というか、きれい好きではおそらく世界の二本の指に入る
日本の(あと一つはドイツ)、さらに「整理・整頓・清掃」の3Sをモットーとする
我が自衛隊の護衛艦とヤンキーのフネを比べるとは。

そんなことは普通に考えて当たり前、といいたいところですが、
目の当たりにした俳優の浅野くんにはさぞショックだったんでしょう。

すると、ピーター・バーグ監督が慌ててフォロー。
だって、周りにいるのは皆米海軍の皆さん。
ここで気まずくなってはわざわざジョージワシントンを
インタビューの舞台にした意味がないですものね。

「ちょちょちょっと一言補足して良いですか? 
アメリカの船はとてもとてもクリーンで、
日本の船は本当に本当にクリーン、
さらに清潔だったということです(汗)」

念のため英語でこの記者会見の模様をいくつか検索し、
この件が報じられているかどうかチェックしてみたのですが、
こんなことについて書いている英語媒体は見たところ

ひとつもありませんでした(笑) 

 

軍港ツアーシリーズ、続きます。



横須賀軍港めぐりツアー〜さようなら、「わかしお」

$
0
0

横須賀軍港めぐりツアー。
出港してすぐは右手に米海軍基地の岸壁がありますので、
最初はずっと米軍艦艇を見ながら進むことになります。

横須賀湾の入り口を見ながら湾をぐるっと巡るころになると、
米軍でも自衛隊でもない敷地が現れます。



住友重機機械工業工場。

昔ここには浦賀造船所がありました。

日露戦争後、榎本武揚などが中心になって日本は
世界的な海運国になるべく、外国からの指導者を招き
百万円を投じてここ浦賀に造船所を造りました。

ここで戦前から戦後にかけて造られた船は1千隻にのぼります。

日産自動車追浜工場。

追浜というと、ここに海軍技術工廠があり、
あの有人ロケット戦闘機「秋水」が開発されたところです。
また、最初で最後のテスト飛行も、ここ横須賀の
田浦にあった追浜飛行場で行われました。

今ここに見えているのは専用埠頭で、
年間8万台がここから出荷されています。
今、出荷待ちの車が見えていますね。



で、これ。

アイクル、といいます。
リゾートホテル「アイクル」?

いえいえ、これは何を隠そうゴミ処理施設。
正式名称はリサイクルプラザアイクル。

横須賀のシンボル?として市民に愛称を募集したところ、
「リサイクル」と「愛」の造語である「アイクル」が当選。
おそらく日本で一番お洒落なごみ処理施設に違いありません。

このとき、ツアーガイドのお兄さんが

「前の海にたくさん鳥がいるでしょう?あれは餌を求めて・・」

と言うので写真を撮ってみたら・・・



これ、どう見ても鳥じゃなくて、ブイですよね?

今後このツアーに参加する方、もし解説が
「アイクルの前にたくさんの鳥が」と言っても信じないように。

だいたい、ごみ処理施設の前面の海に鳥が餌を求めてきてる、
っていかにもゴミを垂れ流してるみたいに聞こえるじゃないの。


さて、そうこうしているうちに、海自の基地前にやってきました。



5104 ふたみ型海洋観測艦 わかさ

5105 にちなん型海洋観測艦 にちなん


海洋観測艦とは気象・潮流・海底地形など海洋データ収集が任務。
そういうフネだからでしょうか、この「わかさ」は
海上自衛隊初の大型艦女性艦長が勤務したフネです。

この海洋観測船はほかに
「すま」「ふたみ」「しょうなん」の三艦があり、全て湾、海岸。




海洋観測艦のもっとも重要な任務は、
なんといっても海戦の一つの形態である「対潜戦」のために
海底地形や底質、磁気雑音などの自然環境をデータ化すること。

機雷、潜水艦などの戦闘行動の決め手はいかにこのデータを
蓄積しているかにかかってきます。

海底の地形、潮流は勿論ですが、地磁気、そして音響伝播の状況を
把握するために水質(温度・塩分濃度)なども調べるそうです。

軍事目的ですので、魚などの海洋生物については調べません(笑)
補助艦船ですので、通常は武装を持たずに航行します。

この「わかさ」の艦上どこを探してもCIWSや短魚雷などなど、
「飛び道具」はありませんね。

女性が艦長になったというのもこのあたりが考慮されたのかも。
ですから「ひゅうが」のように昨今砲雷長や航海長に女性が進出してきた、
というのは実は画期的なことなのです。





しょうなん型海洋観測艦 「しょうなん」AGS-5106

海洋観測船は基本的に皆横須賀を母港としているようです。
この「しょうなん」は就役3年目。
海洋観測船の中では最も新型の艦となります。

ただ(笑)

ご時世なのかなんなのか、建造の段階で大幅に予算を減らされ、
例えば先ほど停泊していた「にちなん」の半分弱の188億で建造。

日本はこういう「省エネ」「スリム化」は得意なんですが、それにしても
艦を建造するテーマが「節約」というのは・・・・。

これもご時世か、この技術によって静穏化を実現し、さらに
非常に操艦性能が優れているため、海洋観測において
音波の伝播状態をより正確に把握できるようになったのだそうです。

ブラボー日本の技術者たち。

名付け親は当時政務官だった参議院議員岸信夫。

それにしても・・・。護衛艦の名付け親って、
言っちゃなんだけど政務官ごときでなれたりするもんですか?
駆逐艦やヘリ搭載母艦じゃなくて海洋観測艦ぐらいなら、
まあ安倍ちゃんの実の弟だったりするし(!)
やっていただいでも構いませんよということなのかしら。

護衛艦の名付け親・・・・・

うーん、なってみたい(笑)



えのしま型掃海艇「ちちじま」 MSC-605

最初艦番号を調べると1983年、もう30年も前に除籍になった
「しさか」と同じ番号なので混乱しました。

これは我が海自の掃海艇の最新鋭艦。
解説の方が、

掃海艇の艦体はこれまで木造で、昨年竣工した
「えのしま」から、FRP素材(ガラス繊維強化プラスティック)が
日本でも採用されるようになった、という話をし、

「このツヤはプラスティック製だからなんですね〜」

と説明をしていました。



すがしま型掃海艇「つのしま」JDS TSUNOSHIMA MSC-683

桜の花と護衛艦はよく似合います。
「つのしま」型のときにはまだ艦体は木材です。

いまさらですが掃海艇の役目は機雷の敷設と除去、爆破。
重量が軽く、鉄素材を使わない艦体は、
喫水をできるだけ少なくし、かつ機雷に反応しないためにも
必須条件なのです。

「えのしま」型以降はすべてFRPになっていくと思われますが、
この「樹脂で本体を挟み込む」

という工法でつくられています。
簡単に言うと、樹脂で本体をサンドイッチしています。
(簡単すぎ?)

軽さが求められる大型素材、風力発電の羽や航空機の素材に
汎用されている方法です。

木造の艦体より艦の寿命が倍(15年が30年)に伸びるので、
結果からいうとコストパフォーマンスは良いのですが、
これまで木造の掃海艇を造る技術において日本は傑出しており、
その技術がFRP化によって消失することが危惧されているそうです。



「つのしま」艦上。
海中部分だけでなく煙突も非鉄素材。
表面を見てください。
成形した素材の線が浮き上がっていますね。




そんな説明を受けながら「ちちじま」の横を通り過ぎようとしたら、
甲板に当直士官がぶらっと出てきました。

米軍の艦艇では決してやってくれませんが、
(それどころか双眼鏡でこちらをガン見してたし)
基本、自衛艦の乗員は、この軍港めぐりツアーに向かって「帽振れ」してくれます。

ツアーが始まるなりガイドには「帽振れ」の説明を受けるので、
皆、甲板に人がいるとやたら手を振ってアピール。
それに応えて自衛官が帽振れしてくれると大喜びです。



護衛艦の皆さん(とくに士官)には、きっと
「ツアーには任務に差し障り泣ければ帽振れしてやってね」
と通達が出ているに違いありません。
だって、「皆様の自衛隊」ですから。

でも、いくら仕事が忙しくなくても、
一時間に一度来るツアーに毎回毎回楽しそうに帽振れするのは、
結構(気分によっては)面倒なことではなかろうかと
他人事ながらお察ししてしまいます。



ほら、この不承不承な様子・・・。
もしかしたら単なる照れ屋さんなのかもしれませんが。



海洋観測船の「にちなん」「わかさ」、
掃海母艦の「うらが」の艦名が一度に見られた瞬間。




同じ海洋観測船でも搭載設備がずいぶん違います。

「わかさ」の艦尾にはなぜかボートが係留されています。
艦体(『わかさ』と言う字の右側に縄梯子が降ろされていますね。
「にちなん」を通らず、ここからボートで乗り降りしているのでしょうか。

ところで、少し順番を変えて説明しましたが、
この海上自衛隊の基地にやってきてほどなく、
このような不思議な光景が現れました。





あれ?

米軍側岸壁の潜水艦ドックだけでなくここにも潜水艦が?

しかも・・・・・艦船に係留されている。



お母さんと手をつないでる子供、
あるいはペットと一緒?
とにかく、何やら可愛らしさに胸がキュンと萌える眺めです。

しかし・・・・何か変だと思いませんか?

潜水艦ドックでもないところに係留されている

停泊中の護衛艦には必ず揚げられる自衛艦旗がない


そう、この潜水艦はこの3月5日に除籍になったばかりの

はるしお型潜水艦SS587「わかしお」

だったのです。
案内のお兄さんが何度も言うところによると

「このツアーに参加した方はラッキーです。
退役した潜水艦をこのような状態で観られることは
滅多にありませんから!」

このツアーに参加したのが3月17日。
まだ退役して12日しか経っていない状態だったので、
このような状態で係留されていたということのようです。




ここでわかしおの艦体をアップしてみます。
自衛艦旗は付けられていませんが
代わりにこのような黄色いランプがあります。
この同じランプは艦尾にも観ることができます。

これは「退役した艦に付ける標識」。

さらに潜水艦の喫水線を見てください。
本来の喫水線であった部分が、白い線になって残っています。
これはつまり就役していたときの恒常的な喫水線で、
退役が決まり、艦内の「使えるもの」をリサイクルのために
皆持ち出したため重量が軽くなっているということなのです。

退役になった艦は保持されることはありませんから、
「わかしお」はこのあとスクラップにされるのを待っている状態。

しかし、「わかしお」と言えば・・・・・・・。




去年の10月。
エリス中尉が人生で最初の観艦式を見たときに
この「わかしお」はこうやって元気に訓練展示に参加し、
観衆を沸かせていたのです。

このとき「ドルフィン運動」をしなかったということで
やはり観艦式に参加していた読者のさくらさんなどと
この話題について盛り上がったりしたものですが。
(当社比)



掃海艇を見学してから、ツアーの船は少しだけ
来た水路を戻ります。

「わかしお」を係留しているフネは

うらが型掃海母艦「うらが」MST-463

掃海艇のためにヘリを発着させたり、掃海処分具を搭載したり、
掃海員のための減圧室などを装備しているフネです。


つまり、掃海艇たちの「お母さん」。


このお母さんが役目を終えた「わかさ」(よその子だけど)の手をつないで、
最後の日々を一緒に過ごしてやっているように見えて、
ついほろりとしてしまったのは、このツアーの参加者の中でも
おそらくエリス中尉だけではなかったかと思われます。

艦船や飛行機に夢中になる人のほとんどは、
意識するしないにかかわらず、実はこの
「擬人化・萌え」による思い入れが深いということかもしれません。


在りし日の勇姿。




さようなら、「わかしお」。
最後に逢えてよかった。



自衛艦旗のマストにしばし羽を休めていたカモメ。



横須賀軍港めぐりツアー、もうしばらく続きます。






市谷・防衛省ツアー〜南郷少佐と戦時の英雄たち

$
0
0




市谷の防衛省ツアー、記念館の展示についてもう少し。

これは南郷茂男像。
金属供出の嵐が日本中を吹き荒れたときも、
この銅像はどうやら接収を免れたようですね。
胸像としては物凄く大きいので「接収し甲斐があった」
と思うのですが、陸軍としては「これだけは」という思い入れで
どこかに隠していたのかもしれません。

さて、この南郷さん。
「日本軍史上初、兄弟そろってのエースパイロット」
とウィキペディアには説明してあります。
これが茂男なのかお兄さんの茂章なのか、
写真をちゃんと撮らなかったので確認していませんが(←)
飛行服が陸軍のだからたぶん茂男さんだと思います。

それにしても、兄弟がそろって陸と海のパイロット、
しかもどちらも航空隊で図抜けた技量を持っていたという・・・。

やはりこういうのは「才能」「素質」がものを言うのでしょうか。

お兄さんの茂章さんは1938年中国戦線で、
弟さんは1944年1月、ニューギニアでそれぞれ戦死しています。



軍服も本物が。

一番右はネイビーカラーですが、これは
陸軍中将の制服です。
袖の詩集が特殊なので、おそらく皇族用ではないかと。
(これも未確認)



終戦に際し自決した阿南陸相の軍服。



陸軍マント。
フードがお洒落です。
やっぱり軍人さんのマントは陸海問わずよろしおすなあ。
このマントからブーツがすっと伸びて。

ああ、そうだ。

陸軍は、ブーツが「萌え」ポイントなんですよね。
栗林中将も、あのバロン西も。
スタイルの良さがいっそうブーツ姿を際立たせていました。



ロシアのお金。



秦中将とは関東軍参謀秦彦三郎。
ロシア通として知られ、ロシア語を堪能に繰りました。
終戦時は瀬島龍三(どこかで聞いたなこの名前)とともに、
極東ソ連軍総司令官と停戦交渉に当たりました。

どうも上のロシア貨幣も秦中佐の私物であった模様。



戦闘で働きを上げて亡くなった少尉をこのように顕彰しています。
この新聞記事の内容を少し読んでみると、加藤少尉は24歳、
長城戦つまり中国戦線で戦死した小隊長で、
その戦死の模様を戦友が新聞記者に語っています。

「あゝ なんと気高い心構えであろう。
自身は一兵でも多くを欲するときでありながら、
隊の兵力の不足を憂い、健在者六名を復帰せしめた
少尉の崇高な決意に誰か泣かぬものがあろうか。
隊長も機関銃隊長も敵弾熾烈の元で鍔を上げて泣いた」

「隊長は『加藤よ、甘んじて隊のために死んでくれ。
今一押しだ。君の努力で敵はもう浮足立ったようだ』
と傍に居る人に言った」

「血染めの地図を示しながら
『お前は戻って○隊長は生存者六名とともに山上を死守する、
敵は約300名だと報告せよと命じられました』
と涙にむせびながら戦況を報告した。
誰一人声を発するものは無い。
上等兵は遂に耐え切れず『アッ』と泣き伏してしまった」

「加藤少尉以下の壮烈無比なる戦死は皇軍の光彩として
戦史に永久に残るであろう」


当時から新聞は「事実をそのまま伝える」のではなく、
書き手の感想と世間に「こう煽りたい」ということだけを書く、
ということをしていたのだとよくわかる記事ですね。

現在、この加藤少尉について調べても、
何の資料も検索にはかかってきません。
このときその戦死を麗々しく称えた世間が、
加藤少尉の名前を忘れるのは非常に早かったようです。



「加藤喜兵衛少尉」。
今回、この名前で検索しても、ある陸士出身の方への追悼文が
ひとつヒットしただけでした。



歴史的資料。
真ん中の英文の降伏要項は1945年9月付です。
どうやらフィリピンに駐留する軍に出されたものである模様。
(ちゃんと読んでいないので推測。てへぺろ)



先日認識票(ドッグタグ)が話題になっていましたが、
日露戦争の認識票発見。
金色というのは真鍮でしょうか。
それにしても全く劣化していませんね。
まるで小判のようです。



ああびっくりした(笑)
ガラスケースに横たわるこの義足、
実際に見ても本物そっくりです。
皇后陛下から賜ったというものなのですが、さすがというか、
職人の手の入れようが半端じゃありません。

おそらく義足義手に掛けてはトップメーカーが
これを依頼され制作したのではないかと思われます。

肌の色とかシミまで再現されて、もうこれは芸術品。



日露戦争で片足を負傷した歩兵少佐、木下秀四郎。
この人についても少なくともインターネットでは
なにもヒットしませんが、義足を皇后陛下から賜ったのは
この一歩兵少尉(勲4等功4級)であったようです。

なぜこの人だけが、という気もしないでもないですが、
彼もまた「作り上げられたヒーロー」だったのかもしれません。


展示されていたものについて、もう少し続けます。




ブーメラン戦隊ジミンガー〜「憲法クイズ」と「特定日本人」

$
0
0

防衛省の見学に行ったとき、何を隠そう
ブログにアップするだけのネタとしてこの

「日本をトリ戻す!トリ型饅頭」

を購入して家族に白い目で見られたエリス中尉です。

この「政治家饅頭」を作っている「大藤」と言う会社ですが、
「麻生太郎を応援する」と言うコンセプトで
「太郎ちゃん饅頭」
を発売、それで有名になったのでその後「政治家シリーズ」
を続々と売り出している変なお菓子屋さんです。

画像の「トリ型饅頭」ですが、買ってきたものの誰も食べようとしないので
いつまでも戸棚に入っているこの箱を今開けてみると



こ・・・これはっ・・・・・・

銘菓「ひ(伏字)」!

作りが雑で一番左のひよこさんが怖い。



箱の裏隅には安倍総理の出身地、
山口の観光案内。
安倍総理と夫人がまるで「さかなクン」のような
フグの被り物をしているのが泣かせます。



安倍政権の支持率が高いということで
かさにかかって

「アベノミックス饅頭」新発売。

ミルク味とチョコレートの「ミックス」ですねわかります。

しかし、このシリーズ、他の議員と安倍総理の絵が、
全くタッチが違うというか・・・。

似てなくない?


因みに、もうすぐ小泉進次郎議員をフューチャーした

「進次ろうる」(抹茶味ロールケーキ)

が発売になります。
楽しみだなー(棒)


【ニュージミンガー ケンポークイズ・小西】

「日本の足を引っ張るな」
と、民主党議員の揚げ足取り質疑に対して激しく突っ込んだ
「ブーメラン戦隊ジミンガー」シリーズ。
この期に及んで新規メンバーの参入です。

インターネットを見ておられる方はご存知と思いますが、
3月31日の予算委員会質疑で民主党の小西裕之議員が

「包括的な人権規定と言われる憲法の条文は何条か」

などと執拗に質問し、それに対して安倍総理が

「調べればわかることを聞くのは生産的ではない」

と答えると、

「知らないのなら憲法を改正する資格はない」

さらに

「問責に値する」

などと首相を批難するに終わったということがありました。
小西議員は首相から「このやりとりに何の意味があるのか」
などとたしなめられるに終わらず、国民からはこの質疑に対して

「人を指さすなと親に教わらなかったのか」
「予算質疑の時間を無駄にするな」
「態度がなってない」

などと非難され、自身のブログのコメント欄のほとんどが

「議員辞めろ」
「次は落選させる」

という批判的な言葉で炎上しているようです。
本人は今まで全く放置していたブログを毎日更新しているようですが、
またその内容がだらだらと長いだけの

「俺は悪くない。
悪いのは答えられなかった安倍総理だ」

というさらなる言い訳(しかも指摘された箇所は随時訂正、さらに
コメントも承認制にして削除しているらしい)に終始しているため、
さらに皆の怒りを買っているようです。


わたしはこの小西議員の質疑、動画では見ていません。
あちこちに質疑内容が出ていますし、その内容からも
岡田や海江田、玄葉議員の質疑どころではない不快な、
腹立たしいものであることは確実ですので。


しかし、写真で見る限り、この小西議員の表情。
わたしは、この顔を見て

「人間は卑劣なことを行おうとするときには
どんなに表向きまともに取り繕っても表情に表れるのだなあ」

と感心してしまいました。
ご存知ない方は一度見てみましょう。

全く先入観抜きで見たとしても、実にいやな顔です。



さて、何をもってわたしが卑劣かというと、わたしはこの質疑において
小西議員は護憲派として建設的な議論をする気はなく、
単に安倍首相の無知をさらけ出し、4年前にマスゴミが
一斉にネガティブキャンペーンに使った麻生総理の

「ホテルのバー通い」「カップラーメンの値段を知らない」
「漢字の読み間違い」「ホッケが何か知らない」

こういった炎上ネタをあらたに自分の手で生みだし、
安倍または自民党バッシングのきっかけにすることしか
実は考えていなかったに違いないと考えるからです。


そしてそういう意図を持って小西議員が安倍総理にした

「アシベノブヨシ、タカハシカズヒロ、サトウコウジという
憲法学者の名前を知っているか?」

という質問ですがね。

は〜い、わたし一人だけ知ってま〜す(笑)

この中のどなたとは言いませんが、
結婚披露宴で祝辞を賜りました〜!
超ワタクシ事ですが。

でも、もちろんそれ以外の二人は知りません。
特に、高橋カズヒロという学者は知りません。
身内の法曹関係者に聞いても知りませんでした。

高橋カズユキさんなら知っている、と申しておりました。

しかもですね。

ここんところの質問が酷い。

安倍「わたしは安倍「憲法学の権威ではないし、
憲法学を学ぶ学生だったこともないので、存じません」

小西「憲法を学ぶ学生だったら誰でも知ってる基礎知識です」

小西、人の話聞いてるか?

つまり、小西議員は安倍総理から「知らない」と言う言葉を引き出し、
それを非難する、と言うストーリーを練り、脚本を書いて、
それを一夜漬けで叩き込んで意気揚々と質疑したのでしょう。

「わたしは憲法を学ぶ学生ではなかった」
という答えは「想定外」だったというわけですね。


しかも、芦部さんが憲法の教科書に載りだしたのは、
法曹関係者にいわせると90年代以降のこと。
40年前に学生だった安倍総理がいくら法学部でもその時名を知らなくて当然。

え?

憲法改正するつもりなら名前を暗記しているべきだって?
そうかな。
わたし決してそうは思いませんが。
総理の仕事は憲法だけじゃありませんからね。
それこそ経済から教育、社会福祉、文化に至るまで、
国民生活のすべてに対して責任を持つわけです。

何かを変えるにはその条文や名前を事細かに知っていないといけない、
というのなら、

何のためにブレーンや閣僚や官僚、有識者である委員等がいるんです?

総理の仕事はオーケストラに譬えれば指揮者。
たとえばヴァイオリンパートの弓のアップダウン、
指揮者はすべて把握している必要があるでしょうか?
そんなことを統括するため主席奏者がいるわけですから
指揮者は奏者の運弓のことなんか知らなくてもできます。
いやむしろ、そんなことに拘って全体を見ない指揮者であれば
そっちの方がはるかに問題です。


そして当の小西議員が、福島の子供たちの被曝問題を
必死の表情で訴える森まさこ議員の真後ろで

「あくびする」
「熟睡する」
「爪を噛む」
「爪の垢を一心に貪り食う」
「ふらりと出て行ったきり戻ってこない」

こういうアホ動画を同時に流されてしまったので、
はっきりいって説得力も何にもありません。


それもあってインターネット言論は安倍総理ではなく
圧倒的に「小西の態度」をこぞって非難している。
揚げ足取りのための質疑であることを見抜いてしまったんですね。



ネットを見ない層をターゲットにした世論操作で
「民主党に一度やらせてみよう」と大キャンペーンを張り、
バー通いやカップラーメンで「自民にお灸を」とネガティブキャンペーンをし
民主党はマスコミの力で政権交代を成し遂げました。

しかし日本人も馬鹿ではありません。
ネットで情報を得る人口は格段に増えましたし、
中韓の「外交的圧力」に対して配慮しっぱなし、
なにより国益を全く顧みない政治をしていた民主党は
まず選挙で引きずりおろされました。

そしてマスゴミに関してはこの三年間でいろんな「裏」が
あまりにも明らかになり、なんといっても

「民主党と言う不良物件を甘い言葉で押し付けた」

その異常性にネットをしない層も気づきだしたのです。
当のマスコミも4年前とは違い「もはや日本人に工作は効かない」ということを
安倍政権発足早々の「カレー報道事件」で思い知ったに違いありません。

今回の「憲法クイズ」にしても、一応は小西議員は安倍総理をやり込め、
「答えられなかった、やーいやーい」
ととりあえず勝利宣言をしているわけですから、いかに批判の声がネットに溢れても
今までのマスコミだったら

「乗るしかない、このビッグウェーブに」

とばかりに映像を切り張りして小西議員を英雄に仕立てて、
ネガティブキャンペーン第一弾開始、というところだったのでしょうが、
いかんせんキャンペーンネタにするには
あまりにもこの鉄砲玉が無能すぎて「決めて」に欠けてしまった。
質疑の態度が悪くて不快感をまず最初に感じさせてしまったため、
一般世論の後押し(つまり尻馬)も期待できそうにありません。


因みに佐藤幸治先生ですが、皇室典範に関する有識者メンバーで、
いわゆる女帝問題について2005年からかかわってきた学者なので、
安倍総理は、面識があるはずなんですよね。

しかし、もし安倍総理がまともに

「佐藤幸治先生は存じています」

と答えたとしましょう。
おそらく、小西議員は「あとの二人を知らない」ことを責めたでしょう。
それでは安倍総理が

「全員知っている」

と答えたとしましょう。
おそらく、小西議員は

「それでは各学者は何条のことをどう主張しているか」

などと細部に亘ってクイズをしたでしょう。
そう、要するに安倍総理が
『知りません』と言うまで質問を続けるつもりだったのです。
なぜならそれが目的だからです。
あるいは次々と出すクイズにそのうち安倍総理が間違った答えを出す。

それが目的の質疑だったからです。



ほとんど今や国民に嫌悪感を持たれているレベルの民主党、
今回、小西議員はこの虫の息の民主党に引導を渡したようなものです。
文字通り立派な「ジミンガー」のブーメラン使いとしてデビューを飾り、
そして三年後には(長い!)間違いなく消えていくでしょう。




【番外メンバー トクテイニホンジンガー ヨシフ・キムチレッド有田】

「何十年も前に帰化した元朝鮮人から献金を受けている。
国籍ロンダリングで韓国人になった元北朝鮮人の民団メンバーと
仲がいいけど、それがどうした」

となんの酔狂かツイッターで自ら宣伝してしまった、
民主党議員有田芳生(よしふ)。

この人物はやたら民団や総連とのつながりを自ら強調し、
在日朝鮮人に対する各種特権を廃止するためのデモを
「人種差別」
として法律で規制するべく立ち上がりました。

しかし民主党の幹事長、ロチュー・ブルーこと細野モナ男に
はしごを外されたのは記憶に新しいところです。

そして、意余ってついやりすぎて、
在日朝鮮人の特権に反対する正規のデモを起こした日本人に対し、

「特定日本人」

という差別的用語をクリエイトし、ツイッターで発信。
しかし有田議員の意図とはうらはらに、
次の日にはインターネット住民の中でその意味は


「特定日本人」=「反日日本人」あるいは「成りすまし日本人」

であるという定義に180度変わってしまい、さらに有田議員本人が
「特定日本人」であるということになってしまっていました。


美しいまでに見事なブーメランです。




さて、冒頭の「政治家饅頭シリーズ」の会社ですが、
「太郎ちゃん饅頭」などというお菓子を作るくらい、
ここの社長という人は、麻生太郎外相に、
まあいわば「入れ込んでいた」ように思われました。

それでは政権交代によって民主党が与党になってしまったとき、
この会社は、どうしていたのか。

下野した自民と麻生太郎をあくまで応援し、

「陽はまた昇る!政権奪回饅頭」

などを作って忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、
いつか太郎さんが表舞台に帰ってくるのを待っていたのか。

・・・・・どうもそうでもないみたいです。




ま、要は時の施政者であれば誰でもいいのね。
な〜にが「今こそ民主主義の力」だ(笑)







鹿屋航空基地記念館〜復元零戦

$
0
0

霧島行きを一も二もなく決めたのは、
ご案内くださった方(TOの知り合い)の、

「奥様が海軍好き(笑)なのでしたら鹿屋基地見学を
行程に入れますのでいかがですか」

というありがたいお申し出があったからです。
鹿屋基地とは昭和11年にここに海軍航空基地ができてから
継続して稼働し続け、海軍亡き後も警察予備隊、保安隊、
そして海上自衛隊が昭和29年に開隊して今日まで
ずっと現役で稼働し続けてきた航空基地です。

ここには基地資料館があり、昭和20年には特攻を出すことになった
この基地の歴史を今日に伝えています。



殺風景な基地入口。
まだこの時には季節前でしたが、構内には
たくさんの桜の木がありました。

横須賀の米軍基地となっている旧海軍基地もそうですが、
海軍は海軍徽章には錨に桜をあしらっていたこともあり、
桜の木こそ海軍のシンボル、としていたので、昔から
基地や工廠、関係各所の敷地には積極的に桜を植えたのだそうです。

その後知ったのですが、横須賀の港の海沿いに桜があるのは
「海軍の軍港」だったからということのようです。



地元出身でここに「鹿屋体育大学」を誘致した自民の大物、
二階堂進先生揮毫。



昔海軍基地、今海自基地であることを強調するため、
錨のマーク。
勿論ここは航空基地です。



ここが史料館。
前もって案内の方を頼んでおいてくださったので、
元自衛官の館員の方が説明をしてくれました。



エントランスを入ると敬礼してお迎えしてくれる特攻隊員の像。
この像を製作した福島氏は重度身体障害を持っておられますが、
国のために殉じた特攻隊員に捧げるためにその体をおして
この像を制作、完成させ、寄贈されました。



海軍式敬礼。
死に臨んで眉をきりりと絞った、若々しいその面立ち。



エントランスにはこのようなステンドグラスが場を圧するようにあります。

平山郁夫作、夕映桜島。

また平山か、などと言ってはいけません。
こういうところに飾るとなると、この大家をおいて
他に説得力のある画家は現代には(三年前に亡くなりましたが)
いない、ということだったのだと思います。たぶん。



しかし平山郁夫がステンドグラスを仕上げたわけでなく、
この原画をもとにこれは製作されました。
いや、わたしは決して平山郁夫を嫌っているわけではなく、
むしろ大好きといってもいいのですが、それにしても、
このステンドグラスとこの原画、はっきりいって

全く別物

って気がしません?
同じなのは構図だけで、原画よりむしろステンドグラスの製作に
かかった手間と創意工夫の方が称賛されるべきでは、と。

なのに、ステンドグラスの製作者は名前も出してもらえない・・・・。



エントランスのお知らせコーナー。



ついついこういうものに注目してしまうエリス中尉。
やっぱりこういうドラマティックな募集をした方が
現代の若者には受けがいいと狙ってのことでしょうか。

一人ひとりが「主役」になる場所がある

「国を護る」
という意義を強調したり、このように
若者の「自分探しの途中」への呼びかけを狙ったり。

一昔前、盛り場を歩いていたら
「兄ちゃんいいカラダしてるね」
と肩をたたいてリクルートしていたころに比べると
そのアプローチの仕方も世につれ時につれ、の感あり。

余談ですが、またつい最近
「昨今、自衛隊員はモテるらしい」
という話をあるところで聞いてしまったのですが、その人曰く

「モテます。陸自ですらモテます」

ついウケてしまいました。
陸自ですら、って(苦笑)


さて、ここの展示ですが、基本的に写真撮影禁止です。
しかし、このエントランスと復元零戦は撮っても構いません。

で、ここにこのようなものが。



おおおお、二式大艇!
知る人ぞ知る、日本海軍の傑作飛行艇。
敵にも恐れられたというあの「エミリー」が。
ガラスケースの上を見ると

「前方をご覧ください」



おおお、エミリー!エミリーではないか。

なんとここは巨大な二式大艇がどーんと展示されています。
この二式については一項を割いてまた別の日にお話しします。



丹作戦とはもともと源田実が指導したマリアナでの夜襲作戦ですが、
第二次作戦はあの宇垣纒長官の指示による特攻作戦を言います。

第二次丹作戦は、ウルシーで行われました。





このときに24機、762部隊から出撃した「銀河」。



偵察機、彩雲。
最近ふとしたきっかけで、
この時彩雲に乗って偵察をした士官搭乗員の
関係者と知り合いました。
この方についての話もそのうちする予定です。



ヘルキャットとコルセアも登場。
このとき、二式大艇5機が特攻機を誘導しました。
特攻の目的は正規空母で、一艦につき三機の突入が決められました。

丹作戦はその後4次まで計画されましたがいずれも実施ならず、
この二次作戦が唯一の実行された特攻作戦となります。



鹿屋基地生みの親、村会議員永田良吉さん。



なぜかここに貼ってある「いこい」(煙草)パッケージ。
まるでステルスのようなシェイプの日本機。
・・・ってこれ、いったい何なんです?



設立当初の鹿屋基地。



昭和21年、米軍駐留当時の鹿屋基地。
この荒廃した建物はその後修復され、現在も使用されています。

これも現在修復され、海自で使用されています。
リサイクル万歳。



何かよくわからないけど、手抜きっぽいオブジェ。
失礼ですか?

TOがやおらこれだけ写真を撮りだしたので
「なぜ?」と聞くと、
「スカイツリーのデザインした澄川さんの作品だから」

どうやらTOはスカイツリーの関係者と仕事だかなんだかで
結構仲良しみたいなんです。
で、「こんなの観ました」
と言うためだけに写真を撮っていた模様。
エリス中尉、スカイツリーには非常に否定的で、

「あのデザインはよくない」

とかねがね言ってるんだけど、伝えてくれたかしら。



さて、ここの目玉展示、復元零戦。
この丸い「空のドーム」と一緒の写真を、
皆さま一度くらいはどこかでご覧になったかもしれませんね。

右に立っているのが案内してくれた元自衛官。
このときは同行者が全員いて、

「時間の都合で1時間で回りたい。
その後昼食を食べたら
一人だけ戻ってきてその一人はゆっくり見るから」

(何を隠そうその一人とはエリス中尉である)

と言っておいたのに、こういうところの案内をする方は
ついつい熱心にいろいろと語りだしたら止まらないらしく、
わたしが次の予定を心配して
「あの、もう一時間経ちましたが大丈夫ですか」
と言うまでマイペース。

この時時間がかなり押していたのですが、それでも
同行者たちもこの復元零戦にはかなりの興味を示しました。



この零戦は、平成4年、錦江湾と吹上浜から引き揚げられた
零戦の残骸を元に、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所の協力で、

鹿屋基地所属隊員が復元したもの

なのだそうです。



その復元作業の過程。



階段があるので上に上がってみました。
当時の零戦そのままなんだろうなあ。



周りの展示品は撮っちゃダメですが、
零戦は撮ってもいい、というので、
零戦を撮るついでに周りの展示品も一緒に撮ってみました。



撮ってもあまり意味はなかったですが。



下からあれこれ説明をしてくださっています。
本物の部分はあまりないので、係りの人は
本体を触りまくり。
エルロンを手でパカパカ上下させて、わたしに

「フットレバーが動いているの見えますか?」



ちゃんと写せませんでしたが、言われてみると、
フットレバーがエルロンの動きに合わせて動いています。
そう、推力伝達装置はちゃんと復元していると。



ただし、エンジンは全く再現していません。
だからもちろんこの零戦は飛べません。

エンジンもきれいに修復されています。
と言うか、修復と言っても引き上げられたのはほとんど
残骸と言うか鉄の塊みたいなものだったので、
よくぞここまで再現したなあと海上自衛隊の関係者の
熱意と努力に頭が下がります。

エンジンを付けなかったのは「付けてもどうせ飛ばせない」から。
日本の現航空法では、こういう飛行機を飛ばすことができません。
だったら見えるように外に展示しましょう、ってことでしょうか。

アメリカではレストアされた零戦が飛んでいるというのに・・・。



零戦の前部から海軍機が見えたので。



尾翼を撮るふりして展示物。
しかしあまりこれも意味がありませんでした。
(内心がっかり)



ここで、一旦昼食をとるために皆退館。
近くのホテルで食事後、わたしひとりをここに落とし、
皆は近くの滝(なんか有名な)を見物に行きました。

それもこれも「同行者がいたら自分の興味のある部分を
ゆっくり見学できないだろう」という同行者の計らい。

というか、前もって
「わたし一人で見学させてください」
って頼んでたんですけどね(爆)

帰ってきて、まず外にあった展示物を見ました。



下川万衛兵の碑。

昭和16年、零戦の飛行訓練で急回転、急降下すると
尾翼が一部剥離するということがわかり、
実用実験をしたという責任感から、横須賀航空隊隊長の
下川万衛兵が同条件での実験をした結果、
やはり急回転急降下において機体の一部が分散し、
下川機は態勢を立て直すことができず海に突入、
下川大尉は殉職・・・・・・・・

あれ?

この話、どこかで聞いたことあるぞ。



映画の「零戦燃ゆ」劇中、加山雄三扮する下川大尉が
零戦の故障により実験中殉職してしまった、という話。

あの話は実話だったのか。

あの映画は主人公が「零戦」で、その開発から敗戦の際
燃やされてしまうまでが描かれていました。
この、零戦の完成までの段階における貴重な教訓となった
下川大尉の犠牲をエピソードに選んだのは当然かもしれません。


ここには「天山」の名残りもありました。



艦上攻撃機「天山」11型のプロペラ。
鹿屋沖で漁船の網にかかったものだそうです。



その天山艦攻雷撃隊、二五四飛行隊の碑。

そう、一度このブログにも書いたことのある、
飛行隊長肥田真幸(ひださねゆき)大尉率いる天山部隊。
その隊員全員の名前が刻まれています。



生存者が故郷から持ち寄った石が
ここに名前を刻まれて納められています。

「肥田大尉の石」は特別にプレートに乗せられ、
ひときわ大きなものです。

・・・・あれ?画面右下、石が無くなっていませんか?



これは錦江湾で漁船の網にかかった零戦21型のプロペラ。



宮崎県沖で1978年に見つかった紫電改のエンジン。
源田実大佐率いる343航空隊所属のものと分かっているようです。



魚雷アソートセット。



このような説明のパネルもありました。



館内の中庭には九一式航空魚雷。
これは肥田大尉の天山も使用した(ですよね?)航空機用魚雷。
日本は魚雷を作るのが得意だったらしく、この九一式も、
酸素魚雷の九三式も、非常に完成度の高いものでした。




この鹿屋史料館は海自の基地を隣接し、
広い敷地に歴代の海自航空機を展示しています。

それについてはまた別の日に・・・・。




市谷・防衛省ツアー〜竹田宮恒徳王グッズ

$
0
0

この市谷記念館、極東国際軍事裁判が行われたフロアーには
この地が士官学校であった時代からあったものや、
あるいは戦後寄贈されたものなど、
歴史的な資料が多数展示されています。

建物全体の説明を聞いた後、見学者には約20分、
これらを見る時間が与えられるのですが・・・・・。

全く時間、足りません。

一つ一つの解説を読むどころか、
わたしがとりあえずすべての展示物を写真に撮るため
ケースの前を走り回っていたところ、あっという間に時間が来て

「みなさんもうこちらに集合しています」

と呼ばれてしまう始末。



陸軍軍楽隊の制服。
いつも思うんですけど、軍楽隊の帽子についているモップみたいな、
これなんなんですかね。

管楽器の管掃除にこれの細いの使ったりしますが・・・。



サーベル、日本刀など刀の展示多数。



これはどう見ても日本の刀ではない、
とおもったら緬甸刀。
ビルマ刀です。

昭和17年、竹田宮恒徳王がタイのバンコクに出張したときに
献呈された刀だそうです。



おお、仕込み杖。
頭山満などは仕込み杖を携えていたとどこかで読んだことがあります。



出た。青竜刀。

ここにある日本刀は、仕込み杖も含めて
何も手入れしていないはずなのにピカピカで、
今でもスパスパ切れそうな光を放っていましたが、
なぜか青竜刀だけが錆びまくっていました。



やはり「刀鍛冶」が作ったりする刀は、
それだけで焼き付けなどが全くこういう刀とは違うようです。
ここには荒木貞夫大将や梅津美治郎(いずれもA級戦犯で起訴)
の愛用の刀もありました。




明治21年ごろのもの。
なんと日露役回顧写真帖、つまり
「日露戦争に出征した人たちの写真」?

まるで子供のような兵士もいますね。

前から2列目の右から5番目、
髭のえらい男前がいますが、これが「寺内校長」。
これは士官学校で教えた生徒たちでしょうか。





明治時代、士官学校を学習院の生徒が訪問したとき
その記念に撮られた写真のようです。
男前の寺内校長、ここにも健在。(前列右から5番目?)

ボタンの無い制服を着ているのが学習院生ですね。
それにしても訪問した方をこんな後ろに立たせるなんて。
当時の「軍人至上主義」が垣間見える写真です。




終戦の御聖断の瞬間。
おそらく画家は見ていたわけではないので「想像図」です。

一番左で心配そうな顔をしているのが

内閣総理大臣、鈴木貫太郎。

その二人横、海軍大臣、米内光政。

その右、外務大臣、東郷茂徳。

一人飛んで陸相、阿南惟畿。

ではないかと思われます。



勲章。

右側は勲一等旭日大綬章。
国家または公共に対し勲績ある者に授与されるものです。
歴史に残る政治家や軍人は大抵が受勲されています。

先日お話しした栗林忠道大将は、
戦後20年たった1967年に戦没者受勲をされています。

戦後初めてアメリカ人としてこれを受勲したのが、
「草鹿中将の乾杯」というエントリでお話しした
アーレイ・バーク海軍大将。
かなり激しい嫌日で侮日家であったバーク大将は、
草鹿中将と知り合っていらい熱烈な親日家に転向(笑)

戦後自衛隊の設立に多大な強力をした「恩人」となります。
多くの勲章を生前受けていたバーク大将ですが、
彼が亡くなり、棺に横たわったその体には、たったひとつ、
日本政府から送られた勲一等旭日大綬章が付けられていたそうです。

バーク大将はわかりますが、その後日本政府は
あのカーチス・ルメイにもこの勲章を与えているんですよね。

東京大空襲を指揮した「鬼畜ルメイ」。
表向きの理由は「航空自衛隊の設立に寄与」ということですが、
どうやら実際のところは当時の佐藤内閣の政治的戦略で、
アメリカとの関係に絡んだものである、という推測が大勢を占めているようです。

勿論国会を含み世論はこの叙勲に対して批判的でした。

勲一等の授与は天皇親授が通例であるはずですが、
昭和天皇はルメイへの親授を拒否されたということです。





色は鮮やかで、リボンの色も全く褪せていません。
この功に旧金鵄勲章は、今村均中将のもの。



竹田宮恒徳王の軍帽。
この方は陸軍幼年学校出で、陸大まで行かれました。
どうも血気盛んな皇族であられたようで、
日中戦線への出征を希望して周囲に止められ、
満州の騎兵隊にいるときに隊が前線に出ることになると
また周囲が呼び戻そうとするので直談判で隊に残り、
と、何かと「お騒がせ」でした。

この時初めて戦場に立ち、
「弾が飛んでくるのはあまり気持ちのいいものではなかった」
と感想を残しておられます。

・・・・まあ、普通はそうでしょうな。



竹田宮恒久王ご尊顔。
なかなか美男でいらっしゃいます。



ついでにさらに美男のご尊父、
竹田宮恒久王の軍服姿。
凛々しゅうございます。



竹田宮は大本営参謀として、
比島攻略、なんとまあガダルカナルの戦いに参加しています。
「宮田参謀」
というのが参謀としての秘匿ネームだったそうですが、
いくら名前を隠していてもそこは皇族、軍としては何とか
おとなしくしていて欲しいのに(たぶん)、
血気盛んな(笑)恒徳王、ここでも前線視察を希望したり、
危険が多いラバウル視察を(おそらく)周囲の反対を押し切り
強行したりして、周囲をハラハラさせていたそうです。


いわゆる足手ま(略)ってやつですね。
周囲の皆さんの気持ちをお察しします。


上の写真は恒徳王ご着用の陸軍副官が付ける黄色い肩章。
副官の地位というのは世間的にも軍的にも
あまり重要視されていなかったわけですが
(当ブログ『一日副官』参照)
これは王の立場を考慮したうえでの苦渋の配置だったのでは
ないでしょうか。

ところで、わたしは箱の中に入っている
「防虫剤」が気になりました。
今でも効き目は持続しているのでしょうか。



竹田宮グッズ多数。
このシナ茶碗は「カケツギ」をしている?



皇族ともなると水筒ですらこのような木箱に
恭しく納めて保存してもらえます。
これはお父上の恒久王が日露戦争に行かれたときのもの。



皇族ともなると戦地で模様入りの陶器食器で
ご飯が食べられるんですね・・・・。

おまけに大根おろし器持参とは・・・・。
まさかご自分で摩り下ろしたりなさったわけではあるまい。




これも竹田宮コレクション。
なんと、軍艦比叡の進水記念品として配られた模型。
プラスティックではありませんから「プラモ」とは言いませんが、
なにしろ組み立て式の模型です。
スクリューとか魚雷のミニチュアが真鍮で作られていて

これ、欲しい!(笑)



完成品がこれだとものすごく大きくなるので、
文鎮にするにはいかがなものかって気もしないでもないですが。
因みに比叡が進水式をしたのは1912年の11月21日。
第三次ソロモン海戦で自沈しました。

皇族の方に配られるくらいですから、限定セットだったのだと思いますが、
それにしても凝った作りですね。



これも記念品の一環で、おそらく模型の部分だと思いますが、
いったいどの部分なのかまではわからず。
比叡の軍艦プレート(っていうのかな)のミニチュア、
なぜか蓋付きの香炉(たぶん)などです。

実は恒久王、昭和15年(1940)の大観艦式の際、
昭和天皇に共俸し、お召艦だった比叡に乗艦しています。

この時の観艦式は皇紀2600年を奉祝する盛大なものでした。
この観艦式の間に光子王妃が長男を出産され、
王は艦から降りるなり初めてパパになったことを知らされています。



ちゃんと横須賀鎮守府の長官から、
竹田宮に贈った「記念品グッズ」の目録が残されていました。
これ、何人くらいが同じ記念品をもらったんでしょうね。



これは、な〜んだ。(クイズ)

これも竹田宮コレクション。
おそらくこれが何か答えられる人はいますまい。
・・・・・・いや、いるかな?

答えは機関銃の弾倉。
なんとイギリス軍のものです。
これは香港攻略、バトルオブホンコン、日本側作戦名「C作戦」
(なんちゅう安易な名前だ)で、日本軍が香港島の英軍を
わずか18日で降伏させたという大金星の記念。
開戦二日後の12月10日から始まった戦闘です。

つまり敵の落とした弾倉を拾ってきて
「記念品」としてわざわざ竹田宮に贈呈したんですね。

この戦闘についてはいろんなエピソードがあって、
ベルリンオリンピックに出た水泳選手が二人いたので、

この人たちにビクトリア湾を泳いで決死隊にさせようと

したけど、武器を背負っていたらさすがの五輪チャンピオンも
全く泳げないことがわかって断念したとか。

さぞこの二人の少尉(学徒)もホッとしたことでしょう。
にしても、オリンピック選手を決死隊にさせようとするなんぞ、
まともな人間の思いつくことではありません。


この香港攻略のあと、香港はいきなり今まで息をひそめていた
中国マフィアが大手を振って悪いことをしだしました。

また、日本軍の朝鮮人軍属が掠奪や強姦といった不法行為を行いました。

香港市民は朝鮮人軍属を
「一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった」と記録している。
このため、香港市民は日本人よりも朝鮮人を激しく憎んでいたということです。

ただ、日本軍も現地民に対して犯罪行為を行なわなかったというわけではなく、
このような不法行為が起こったのは、憲兵の展開が遅れたためと見られています。

憲兵が嫌われていた、ということを前ログで書きましたが、
軍紀を粛正するという大事な役目をつかさどる機関でもあったのです。

憲兵だからといってゆめ「悪」と決めつけることはなりません。
(というこのエントリの意図はご理解くださいました?)



赤いシャツがお洒落。
肥前官軍のチョッキ、と説明在り。
薩長土肥のころの佐賀肥前軍の軍服ですね。

「勝てば官軍」のあれ・・・だったっけ?




なぜか将校用の下着までが展示されています。
今、靖国神社の遊就館では、今「大東亜戦争70年展」をやっていて
(入場無料)入るといきなり山口多聞少将の軍服が飾ってありますが、
「山口多聞って、小柄だったんだなあ」と実感します。

山口多聞に限らず、展示されている有名な軍人の軍服は
どれもこれも「わたしでも小さいんじゃあ・・・」
と心配になってしまうくらい小さく見えます。

このシャツも、一番右のサイズは38センチ(肩幅)となっていて、
全体的に皆小さかったんだなと改めて思います。




勅令の紋章。
驚くことに、手描きです。
当時、このようなカラー印刷などなかったんですね。
100年経っても印刷と違い、色鮮やかなまま。
「百年プリント」です。


・・・そういえばあのフィルム、「100年プリント」とはなんだったのか。



というわけでほとんどすべての展示品を網羅してきました。
竹田宮恒久王は、戦後すすんで皇籍を離脱し、
一般人となって、皇籍離脱金に群がってくる魑魅魍魎を退け、
スポーツの分野で関連団体の代表を多く務めました。

体育の日を制定に携わり、なんといっても
東京、札幌オリンピックを日本に招致するのに大きな力を発揮。

戦線で周りをハラハラさせた御仁が、戦後は日本のスポーツ界にとって
偉大な働きをする重要人物になったのです。

よかったよかった。

付け加えれば竹田宮の邸宅の在った土地が今の高輪プリンスホテル。
今でもその邸宅は保存されて同ホテル貴賓室となっています。









キャンドル工場を見学した

$
0
0

あちらで仕事、こちらで見学。
相変わらず我ながらフットワークの軽いエリス中尉です。

今回はキャンドル工場を見学してきました!

岡山に行ったとき、最終日に息子とわたしのために
先方が「岡山観光」を予定してくださっていました。
してそのコースとは「瀬戸大橋見学」。

瀬戸大橋は去年ご案内いただいたばかりなので、
できればほかのところに行きたい、と要望を伝えると、
お知り合いのつてを辿って工場見学させていただくという
モノづくりに興味のあるわたしと息子にぴったりのプランが。



全国的にも有名なキャンドルメーカーです。
やはりキャンドルというと「ムード」のものなので、
社屋も洒落ています。



一歩はいると、ボードに我々の名前が!
歓迎されています〜!
これは嬉しいものですね。



説明を最初に受ける部屋には季節の飾り物。
勿論キャンドルを使ったアレンジです。
このときは雛祭り前でした。



ここの商品に「似顔絵キャンドル」というのがあります。
結婚式の披露宴などで、新郎新婦の似顔キャンドルに火を点けたり、
プレゼントにするのに提案しています。

で(笑)

このまさおとたかおの二人のおじさん。
これは会社の社長と常務(だったかな)。
つまり創業者一族です。
なんと双子なんですね。
双子のおじさんが同じ会社で経営をしている、というのは
なんとも世界的に珍しいのではないでしょうか。

世の中にはあまり似ていない双子もいるものですが、
この二人は文字通り(笑)瓜二つ。
髪の毛の減り方まで同じです。

「社員には見分けがつくんですか」

と聞いてみると、

「最初は皆見分けられませんが、
ずっと仕事をしているとわかってきます」

この二人を見分けられるようになったかどうかが、
この会社になじんできたかどうかの目安にもなっていると。



どちらのおじさんだろう?

はい、これは代表取締役のたかおさんですね。
自分自身をキャラクター化しています。
おはようとちゃんとあいさつし合う会社。



今までこういうお仕事の現場に見学に行くと、必ず全員が
立ち上がって「ありがとうございました!」と、
こちらが気恥ずかしくなるくらい真摯な態度でご挨拶くださいます。

日本のこういった小さな工場って、本当にこういう空気を大切にしているなあ。
社長のたかおさんが看板で提唱するように、
「きちんと挨拶をする」
「外の人(顧客になるかもしれない)に対して礼を尽くす」
こんなことを実に一生懸命するんですね。

こういうのって、日本ならではなのかもしれませんね。



商品サンプルが飾ってあります。
仏事用のお洒落な灯明。



アロマテラピーの分野でもキャンドルは必須。
お香代わりにもなる和の香りのキャンドル。



これも仏事用。
まるで雪洞のようなろうそく立て。

この会社は、キャンドルを生活の中でどのように提案していくか、
そんな「実例」を実際に見るフロアを持っています。



広い部屋のコーナーごとにテーマを決めて、
キャンドルのある生活を提案しているのです。
見学者があるときだけ実際に火をつけるのだと思いますが。



これは結婚式の披露宴テーブルのセッティング。



化粧台にもアロマキャンドルを。



日常使いのディナーキャンドル。
勿論ディナー用ですから無香です。

この会社では、ここのキャンドルを使ってこのようなテーブルを作り、
それを写真に撮ってブログで自慢(?)するブロガーが
一定数いることに目をつけ、彼女らに声をかけて会社主催の
「キャンドルパーティ」に招待したりしているのです。

そのときに遠くは北海道から来たブロガーもいるのだとか。

ブロガーというのは基本報酬ではなく「自己顕示」が最終目的ですから、
メーカーにすればこのように「表現したがっている人」を取り込むことで
ネットを媒介とした口コミより強力な宣伝部隊を無料で雇うことができます。



ディナー用テーブルセッティング。



わたしもキャンドルが好きで、
寝室でよくアロマキャンドルを点けます。
ブログに載せるほどのテーブルセッティングは
滅多にしませんが。



「キャンドル葬」。
菊とお線香のではなく、お花とキャンドルの葬儀。
わたしも選べるならこんな葬儀で人生の終焉を迎えたい。

・・・・・なーんて。

最近「無宗教で葬儀をしたい」というニーズに向けて
このような提案をしているのだそうです。



この後、工場見学をしました。
道を隔てて向かい、というところに工場があります。



ここにもウェルカムボード。



震災の犠牲者を追悼するためのキャンドル。



工場入り口にも三つ目のウェルカムボード。
激しく歓迎していただきました。



この会社の社歴。
皆さまは、結婚式でお色直し入場してきた新郎新婦が
一所に火をつけるとそれがハート形に小さいキャンドル伝いに
燃えていき、最終的にメインキャンドルに火がつく、
というタイプのキャンドルサービスを見た(あるいはした)
ことはございませんでしょうか?

この説明がわかりにくければ、写真の左下を見てください。

このハート形キャンドルサービス、じつはこの会社が
開発したオリジナル商品。
一時披露宴ビジネス界を席巻しました。

それが1977年のこと。
今はあまりやらないようですね。



寒さを防ぐためか、埃除けか。
カーテンで仕切られた作業場。



このようなガラス入りキャンドルは、
一つ一つ芯を真ん中に垂らして作ります。
手作業なんですね。



キャンドルの形によって作り方もさまざま。





ん?

どこかで見たホテルのマークが・・・・。
リーガロイヤルホテルですね。



キャンドルに施す彫刻は、コンピュータ制御で
このような機械が自動でやります。
彫刻する刃物は熱で蝋を溶かしながら。



なんとやかんで蝋を溶かしている現場に遭遇。



芯を真ん中に入れるのも、手を抜くと不良品になってしまいます。
作業をする人は慎重に、注意深く行っています。



ここでこのようなお供えを発見。
案内の方は「事故が起こらないように・・・」
とおっしゃっていましたが・・・・これ、違いますよね。

先ほど社史をアップしましたが、その一部に



こんな事故が起こっていることが書いてあったのですが、
もしかしたらこの時に亡くなった方がおられるのでは・・・。

このようなことを訪ねるわけにもいかないので、
単にその時そう思っただけですが。



工場で作業をされている方々も、皆わたしたちを認めると
明るく挨拶をしてくださいました。
会社の雰囲気はこういうところに表れますね。





機械に名前をつけています(笑)
この機械は「なっちゃん」。
これを扱う専任が「なっちゃんは俺の嫁」とか言っていたりして。



芯通し、つまり後からキャンドルに芯を通すための機械。
作業員は皆着帽、マスクをしています。
商品に混入するのを防ぐというより、蝋の粉を吸い込まないように?



ここで蝋のかたまりをふるいに掛けます。



できた小さい蝋燭が貯まっていきます。



芯の出方と炎の大きさを実験する「燃焼台」。
ちゃんと近くには消火器が備えられています。
どうもいつも火をつけておく場所のようですね。



これは、芯になる糸を巻き取っていく機械。
ディッピングして蝋を付着させた糸です。




長い蝋燭は、芯を蝋にざぶんと漬け、
引き上げるという作業を何回か行って作ります。



というわけで工場見学はおしまい。
工場を出るときに、袋いっぱいのキャンドルをいただきました!
アロマキャンドルやディナーキャンドル、缶入りのキャンドルが
たくさん入っていました。

そして、この会社がアイビースクエアに出しているお店に。
工場からは20分くらいかかります。



お店に到着。
右を歩いているのが今日説明をしてくださった社員さん。
クライアントの奥さんの「ママ友」です。
今日ここを見学したのも皆このママ友ネットワークのおかげ。



お店の外にはこんなかわいい雛飾りが。
売り物ではありません。



なぜここに来たかというと、工場見学の一環。
手作りキャンドルに挑戦!というアクティビティのため。
今からキャンドル作りまーす。

 

目の前の百花繚乱の蝋パーツの中から、
決められた数の好きな色の蝋を選びます。
それを白い蝋と一緒にグラスに埋めていきます。

 

できました〜。

すると、お店の人が熱いとかした蝋を注ぎ入れます。
このろうそくは息子の作品。

 

わたしのにも。
わたしは季節を先取りして桜をあしらってみました。



参加者一同、自分の作品を持って記念写真。

このあと、お店でバスキャンドルなども購入。
家に帰ってさっそくお風呂に浮かべて楽しみました。

お土産に戴いたキャンドルもいたるところで絶賛活用中。
キャンドルに火がついていると、無条件で気持ちが
安らぐことをあらためて実感しています。

キャンドルのある生活、なかなかいいものですよ。(宣伝)




市谷・防衛省ツァー〜旧便殿の間と恩賜の銀時計

$
0
0

この建物はかつてはA棟庁舎のところにあり、
「一号館」と称していました。
極東国際軍事裁判が行われたため「負の遺産」
であることから取り壊しを求める声や、逆にだからこそ
保存を求める声が右から左から喧しかったそうです。

ごもっとも。

どちらの意見も尊重した、というところかもしれませんが、
歴史的な意味のある部分だけを資料館として残し、
コンパクトに作り変えたというわけです。



わたしのような「現物主義」には、
このような「作り直されたもの」を見ても、
心底感動できないのも事実。
例えば三島事件の現場なども窓の桟やドアはそのままでも
後は壁も天井も新たに作ったものですからね。



まあ愚痴はほどほどにして。
これは前にもお見せした「大本営表札」。

三島事件の現場とドアを通じてつながっている部屋が
かつて天皇陛下の休憩所であった

旧便殿の間。

この「旧」というのがいつからついた名前なのか
いまいち不明です。
昔は「便殿の間」と称していたということでしょうか。

因みに三島事件の現場になったのは、
旧陸軍大臣室で、事件の10年前からここに置かれていた
東部方面総監部の総監室でした。

総監室で総監を人質に取り、一号館の前に自衛官を集めさせ、
総監室からすぐに出られるバルコニーから彼らに語りかける。

今にして思うとこの計画はいろんな意味でビジュアル的にも、
機能的にも完璧だったのではないでしょうか。

ここまでは。

三島がマイクを用意せず、自衛官のヤジとヘリの音に
その声をかき消されて、全く言いたいことが伝わらなかった、
というあたりから「計画失敗」の感は拭えません。

前も言ったようにサラリーマン的に「専守防衛」が身についていた
自衛隊員がそもそも蹶起する可能性はなかった、
という最大の「計算違い」は仕方がないこととしても、
事件後の自衛官へのアンケートではほとんどが
「三島の意見には賛同できる」と答えたと言いますから、
もう少し計画を最後まで詰めて実行していたら、
少しくらいは結果が変わっていたのではないかと思います。

三島はどちらにしてもその日の朝、車の中で

「あと数時間で死ぬなんて信じられない」

と言ったとされ、自衛官たちの反応がどうであったとしても
切腹による自決という幕切れに変わりはなかったと思いますが。



さてそれはともかく、その隣の部屋、旧便殿の間。
ドアは外開きです。
天皇陛下専用の休憩室だったので、

「陛下が客を迎えることは決してない」

という理由から、ドアは外向き。
そういえばこういうドアは大抵内向きでしたね。



ガイドさん

「ドア上部の網の小窓をご覧くださいませ。
この部屋の壁は非常に分厚くなっていますが、
実はそこは空洞になっていて、地下の冷たい風を送り込み、
この小窓から冷気を出して部屋を涼しくしていました」

クーラーなど無い時代の心遣いです。



窓の桟は材質が紫檀でしょうか。
つやつやとまことに美しい艶を今でも放っています。

この窓の角近く、上部に小さな四角い網が見えますね?
これもまた地下からの冷気を出していた「空気穴」。

すごい省エネ工法です。
全ての家がこのような「地下冷気冷房」を採用したら、
クーラーの排熱は減り、電気の使用量はだだ下がり!

これからの住宅メーカーはこんな工夫もしてみては?



鏡の下はヒーター。
当時最新式のセントラルヒーティングだと思われます。

女性が写っていますが、足元を見てお分かりのように
この記念館は土足厳禁。
皆入り口でスリッパに履き替えます。



光ってしまってちゃんと撮れませんでしたが、
この部屋に掛けてある

「陸軍大演習の全員写真」。

ガラス乾板写真だ、と聞いた気がします。
特に高画質の写真を要求されたため、
ネガを原寸大に焼き付けたとかなんとか。

というわけで、一番後ろにいる人も
「完璧に顔がはっきりと写っている」のだとか。
海軍兵学校の入学写真に是非もこれを採用してほしかったです。

そして、並び方ですが、写真の隅から隅までびっちりと、
真四角になるように人が並んでいるでしょう?
これは、実際は後ろに行くほど人数が多い「扇形」
に整列して撮っているのだそうです。



特別ゲストらしい海軍軍人がところどころ見えますね。
カメラは特別に設置された高い台から撮影していますが、
全員視線はカメラではなく真正面に向けられています。



山本五十六発見。
緑色の光はガイドさんの持っているレーザーポインター。

「演習に参加した士官が全員写っています」

という説明に横にいた年配の方が

「じゃ、下っ端の軍人も写ってるんだ・・・・ええと少佐じゃなくて」
「少尉ですね」

これはエリス中尉。

反射的に隣から口を出してしまいました。(てへっ)
えっ、と驚いたような顔で顔を見直されました。

それより、昨今ではこんな年配の人でも
軍隊の階級のことなど全く知らない人がいるんですね。

(と自分の数年前のことを棚に上げるエリス中尉である)




おお、これは。

これが噂の恩師の銀時計。

陸士で主席次席の二人に与えられる優等賞です。

明治時代から日本では、帝国大学、学習院、商船学校、
陸軍士官学校や陸軍騎兵学校等軍学校において、
各学部の成績優秀者(首席と次席)に対して、
天皇からの褒章として銀時計が授与されました。
元々は陸士などの軍学校がこの制度の発祥だそうです。

裏返せばこの時計には「恩賜」と刻まれています。

成績優秀者に贈られるものは銀時計だけではなく、
海軍兵学校では恩賜の短剣でしたし、
陸士陸大も「恩賜の軍刀」が授与されました。

初期の陸大では「恩賜の望遠鏡」だった時代もあったそうです。
(ツァイス製かしら)

貰えた者は「将来の栄達」が約束されたということで、
これらの授与者を「恩賜組」と称しました。

でも、「ハンモックナンバー」でもお話ししたように、
陸軍海軍問わず恩賜組が必ず順調に出世するわけでもないらしい、
というのもまた人の世の現実です。



さて、いろいろ見たものについてお話ししてきましたが、
防衛庁の見学記、最終回としてあと一回、
ちょっとした雑感などを挙げたいと思います。


 


 

Viewing all 2816 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>