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テレビ番組『HOARDERS』片付けられない症候群の人々・ミリーの場合

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アメリカのテレビ番組、「HOADERS」から、一つの番組中
前回のジョニという元教師と並行して語られていたもう一つのストーリー、
アメリカ国中で推定300万人いるという「溜め込み癖のある人々」
=ホーダーズの一人について今日はご紹介します。

もう一人の溜め込み屋さんの話は、まず彼女の娘の証言から始まります。

「物に執着したり居間を散らかすだけなら好きにすればいいけど・・
とにかく何を言っても右の耳から左に抜けてくのよね」

英語でもこのことを

”go in one ear and out”

という言い方をするんですね。

彼女の名前はミリー。
自宅の庭でガーデニングに勤しんでいる彼女は実に勤勉そうで、
一見花を愛する普通の主婦にしか見えません。

草花の手入れは決してものぐさな人間にできることではない、
というイメージがありますが、花を咲かせるのが好きな人間が
片付けも好きとは限らないわけで。

そういえば、日本でも、家の前にたくさん鉢植えを置いて
草花を育てるのが好きな人が住んでるんだなというお宅がありますが、
得てしてそういううちの玄関はぎっしりと安物のプラスチックの鉢が並んでいたり、
酷いのになると発泡スチロールの箱をプランターにしているなど、
控えめに言っても「素敵」とか「おしゃれ」とは程遠かったりするものです。

もう少し量を減らしてちゃんとしたプランターなどに咲いていれば
通りゆく人々の目を楽しませることもできるのに、もしかしたら
こういう人たちは人の目などより自分さえ楽しめればいいという考えかな、
と残念な気持ちで通り過ぎるのですが、ミリーさんは
アメリカ版のこういうゴーイングマイウェイ型ガーデナーなのかもしれません。

とにかく彼女はガーデニングをしていると「幸せ」だとは言っています。

そして家に一歩入ると中はこの通り。

ミリーの長女、ジェシカさんが証言を行います。

「ドアの中に一歩入ると、そこは物の山よ。
まず中に入るのもたいへんなの。
椅子なんかどこにあるのかもわからないわ」

しかしミリーはここで生活をしているわけですから、
それなりにそこには「けもの道」ができているようです。

彼女の家はアメリカのごく普通の庶民の家です。
前回のジョニさんと違い、彼女の「ホーダー」ぶりは
家の中限定らしく、近所から苦情が来るような事態にはなっていません。

ジェシカさんは、そんな母を全否定しています。
なぜなら

「わたしは自分が本当にイケてる (have some really cool stuff)と思ってる」

からですが、母はそんなことを考えたこともないだろう、とのこと。

これは次女のチェルシーさんの写真です。
こんな写真立てにせっかく娘の写真を入れたのに、それを飾る場所もなく
物の山のうえに置かれているのです。
彼女はいいます。

「わたしの『家の最初の記憶』は、全力で走って、それから
服の山にジャンプする遊びをしたことでした」

彼女は祖父の家で2週間過ごしたとき、気づいたそうです。
うちはおかしい、と。

それから彼女は母にコンタクトを取らなくなりました。
彼女は母を捨てたのです。

これが若き日のミリーさん。
なかなかキュートな女性なのですが、どうも知性的にかなり問題があるようで、
娘が祖父の家に逃げたとき、当然の流れとしてCPSが調査にきたことを

「怖かった」

なんて言っているのです。

CPS(Child Protective Services)とは日本の児童相談所のような組織です。

 

母親のホーディングのせいで、チェルシーは過去6年間の間、
母親のいる自宅を出たり入ったりすることになりました。

そして、ついに母親に最後通帳を突きつけたのです。

「家を散らかすかわたしか、どちらかを選んで」

つまり母親がこのままため込み生活を続けるのなら、わたしは帰らない、
と宣言したのです。

ミリー自身は、彼女のホーディングは彼女自身の早い時期に
その原因があったと信じています。

よくわかりませんが、反抗期があったとか・・・・?

まあしかしその選択は結局彼女自身がしてきたことであり、
現在の状態はその結果ということなんですけどね。

家の中があの状態、そして外ではこうやってせっせと土いじりをする。
彼女の頭の中はやはり何か病的な問題があると見るのが妥当かもしれません。

ジェシカは母親に対してチェルシーよりもおそらく強い怒りを持っています。
彼女が自分のことしか考えていない母親失格であると語り、
自分自身と母親の関係はすっかり破壊されてしまったと断言しました。

チェルシーが母親の更生次第では家に戻るという余地を残しているのに対し、
ジェシカはもうそんな段階をとっくにぶっちぎっているので
チェルシーについても「信じられない」と言い放つ始末。

しかし、今回番組に応募しプロフェッショナルの助けを借りることにしたのは
娘たち二人の考えだったということです。

そこで番組御用達のホーダーズ専門心理学者であるトンプキン博士が登場。

早速彼女と会って「セッション」を始めますが、ミリーは
博士に対しても大変防御的な態度を取り続けています。
投げやりで問題解決しようという意欲にも乏しく、

「いっそこのホーディングの中で死んでしまいたい」

みたいなことを言うのでした。

わたしは部屋を片付けられない(あるは片付けたくない)という人が、

「いっそみんな燃えてしまえばいいのにと思う」

というのを聞いたことがあるのですが、同じ心理ですかね。

ミリーの件に駆り出されたもう一人のプロフェッショナルはこの人。
そう言う仕事があること事態おどろきますが、このドロシー・ブレインガーという女性は
「オーガナイジング・エキスパート」つまりプロの片付け師です。

早速片付け作業に突入したミリーの家ですが、そのドロシーに、
ミリーは娘たちに対する愚痴をぶちまけ始めました。
さらに自分の状態を無茶苦茶にする彼女を「軽蔑する」という言葉まで出てきたので
これはいかんとドロシーはスタッフに一旦作業を中止させました。

この後に及んでミリーさん、処分するものすべてをチェックし、
全てに触れてすべてを調べたいと言い出したのです。

なんならこれも捨てる前に触ってチェックせんかい。って言いたくなりますよね。

そんな母親にジェシカはキレて、

「なんだってわたしがこの家を片付けてると思ってんの?」

という言葉とともに、わたしはあんたの子なんかじゃない、
などとまたしても言い放ちます。

ミリーさん(´・ω・`)←冒頭写真

しかしこの人、感情の起伏が平坦というか、心理学者やオーガナイザー、
娘に何を言われても「右の耳から左の耳」で飄然としています。
自分のことなのにこの他人事感はどういうことなんでしょうか。

そのくせ物を捨てるのにいちいち干渉し、娘たちにも言いたい放題。

「そうよ、でもあなたがわたしの人生を惨めにしたのよ」

なんて我が子に向かっていいますかね普通。

壊れかけたランプを「これは幸福の灯りよ」
賞味期限切れの食べ物も「捨てないで!食べられるわ」

ミシンも置いとくんですか。
どこで縫い物するんですか。庭かな?

一向にが見られないので、ドロシーは物の山を整理するのを手伝うことによって
ミリーを軌道に戻すことを試みましたが、これがなかなかうまくいきません。

なかでも、彼女がこの小さな石さえ取っておくと言い出した時には、
手伝いに来ていた彼女の妹が怒って遠くに放り投げてしまい、
彼女はブチギレるという非常事態?に。

しかし、番組スタッフはその石をもう一度こっそり拾っておいたようです。
何にするかって?それは後のお楽しみ(棒)

そしてドロシーが娘になり代わってミリーを宥めたり透かしたり、
ときには子供のように褒めながら、なんとかゴミが片付きました。

さて、ミリーさんの場合は、ちゃんと片付けるとこまで漕ぎ着けたので、
ここで番組から素晴らしい「贈り物」が用意されます。

モノがなくなった家をプロの手で徹底的に掃除し、
見違えるようにしてくれるというサプライズです。

掃除期間を経て、次の朝」我が家に戻ったミリーの見たものは。

必ず同じ角度からの「ビフォー」を紹介します。

作業の様子もテレビでは放映されますが、電気のシェードや天井まで
くまなく清潔に掃除するだけでなくモデルルームのようにアレンジしてくれます。

なんとこれ、わずか一晩で魔法のように仕上げているのです。

しかし、床の大きなシミは取れないみたいですね。

でたー、アメリカ人の常套句、

「ママを誇りに思うわ」

ここまで片付けたのは母ちゃんじゃないんですがそれは。

「猫みたいな臭いがしないわ」

猫は清潔好きな動物なので、ちゃんと飼っていれば臭わないんですが。
猫に謝れ!

こちら台所でございます。

おっと、キッチンにはアイランド型のカウンターテーブルがあったのか。

マットの色と食器を合わせ、美味しそうにパンを盛って、
なんとディナーキャンドルまで灯されているではありませんか。

シンクも蛇口も磨いただけでこのとおり新品のようです。

本人はもちろん娘たちも感激しまくっています。

洋服で床が見えなかった寝室も・・

この通り。
壁は塗り替え、リネンや窓のカーテンも新調したようですね。
よく見ると鏡の枠まで色を塗り替えてあったりします。

オーガナイザーが見繕ったのでしょうか。カエルのプランターまで。

そしてなんと。

「この寝室はチェルシーさんに住んでいただくイメージで改装を行いました」

つまり、これならお母さんのもとに帰ってこれるでしょう、というわけです。

「まあ、なんてゴージャスなの!」

これですっかり(いつのまにか?)一緒に住むという合意は成り立ったわけで・・

「一緒にいられなくて寂しかったわ」

とハグをしあう彼女らでした。

感激の涙を流すミリー。
めでたしめでたし・・・・・

といいたいところですが。

そのときトンプキン博士が最後に皆を外に呼び集めました。
ミリーに向かってこういいます。

「あなたの娘たちと妹さんが、あなたがため込んだものを始末することができるか、
疑いを持つようになった、とわたしが思った瞬間がありました」

「この石がその象徴だったんですよ」

「いいですか、これは”招待状”なのです。
あなたがこの石を手放すことで、この”旅”を
今後も続けても構わないと思っていることを
みんなに知らせることになるのです。
さあ、これを捨ててください!」

「捨てて!」「捨ててよ」

ところが全く空気読まないミリーさん、この状況で言い放ちました。

「わたし、この石を取っておきたいの」

博士「・・・」
ジェシカ「・・・」
チェルシー「・・・」
妹「・・・」

「だいたい昨日されたことだってまだ怒ってるわ#」

 

・・だめだーこれあ。

トンプキン博士、呆然。
家族も呆然。スタッフももちろん呆然だったでしょう。

ビフォーアフターの映像をバックに、博士は語るのでした。

「せっかくいいエンディング用意してやったのに、
なんだあのBBA台無しにしやがって空気嫁」

・・・・じゃなくて、

「それはわたしにとって大きな失望でした。
ミリーが病気の深淵にいかに深く彷徨い込んでいるかがこの言葉ではっきりしたのです」

 

これだけのサプライズを用意されても、それは彼女の心を
1ミリー(ミリーさんだけに)たりとも変えることはできなかった、つまり
彼女の「病気」はサプライズや心理学の領域ではもはや如何ともし難い
ということがわかってしまったというわけです。

博士はまだ17歳のチェルシーは(そうだったんだ;)
我々がきっかけを与えることで自分を解放し、いつでも元に戻れる場所を得たので、
ミリーが元の生活に固執しない限りは、娘である彼女も
普通の生活を送れる可能性があるだろう、と語りました。
彼女はそうなる価値のある人間だ、と。

まあここまでやったら、他人にはもう手の下しようもありません。
どうなっても彼女ら自身でなんとかするしかないのです。

プロである博士にはおそらくこの後訪れる破綻も見えていると思われますが、
番組としては希望のありそうなことを述べて手を打つしかないですよね。

つまりこのきれいなキッチンが上の写真の状態に戻るのは・・・
そうだなあ、よく保って2週間ってとこだとわたしは思います。

「ミリーはセラピストとオーガナイザーに今後の生活を
維持するためにセラピストとオーガナイザーのアフターケアを受けている」

しかし二人の後ろにいる博士(笑)と娘二人の表情が全てを物語っています。
彼らにはおそらく今後の破綻が手に取るように見えているのに違いありません。

 

終わり

 


「リメンバー・ザ・メイン!」 米西戦争とセオドア・ルーズベルト〜ピッツバーグ 兵士と水兵の記念博物館

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           Theodore Roosevelt Resource Guide: American Memory Collections (Virtual  Programs & Services, Library of Congress)

 

この「ソルジャーズ&セイラーズのための記念博物館」が
1911年に開館するまでの工事過程とその後の南北戦争ヴェテランを招いての
記念式典については一度当ブログでご紹介していますが、ここにきて
もう一度その関係資料が展示されているコーナーが現れました。

ケース後面に貼ってあるのはオリジナルの設計図ブループリントで、
設計会社であるPalmer and Hornbostelから(おそらく永久に)
リースしているものです。
設計図の日付には1907年10月18日と記されています。

 

Henry Hornbostel, architect.jpg

設計者の

ヘンリー・ホーンボステルHenry Hornbostel (1867 –  1961)

は前にも書きましたが今も残るカーネギーメロン学舎のコンペに勝ち、
建築を採用されたのがきっかけで当博物館の建築を依頼されました。

以降ここでは南北戦争ヴェテランのリユニオン(戦友会)が
頻繁に行われていくことになります。

ちなみに白黒写真では全く伝わらないホールの素晴らしさをご覧ください。
当時から寸分変わっていない壮麗な装飾穂の施された内装を。

中段の写真は建物落成後初めてここで行われたGARのリユニオンの様子です。
まだ当時は生存者がたくさんいて盛会であったことがわかります。

下段写真の中二つは、人垣の真ん中を入場(退場?)してくる
南北戦争のヴェテランたちで、ペンシルバニア州のみならず
東部の北軍関係者がかなりの数出席したようです。

ちなみにMKのアパートはここから数ブロックのところで、
わたしがホテルに帰るにはこの前の道を必ず通っていました。

博物館の前庭にあたる緑地帯にはお天気の良い日は
必ずたくさんの学生らしい人たちが座り込んでいます。

COVID19以降学生の社交は外で行われるのが主流のようです。
しかし、今はそれで良いですが、猛烈に寒くなる冬はどうするのか。

MKの学校でもサンクスギビングの休暇以降は、授業を
全てオンラインで行うことが早くから決まっています。

博物館の全景が描かれた(今は道ができ、反対側にビルが建ち、
このような角度からは建物を見ることはできない)
お皿とカップは、開館した最初の年だけ限定で
土産物ショップ(今でも同じところにある)で売られていたものです。

右側のウォーターピッチャーは銀製品で、これも記念品。
「アレゲニー郡メモリアルホール」と刻まれているそうです。

正式な名称が決まっていなかった頃に製作されたものでしょう。

 

 

さて、何回かにわたって南北戦争についての展示をご紹介してきました。
最後にはなぜか「軍隊と動物」というテーマが入ってきたのですが、
続いての展示は時系列どおり米西戦争関係となりました。

日本人には南北戦争以上にピンとこない米西戦争ですが、この

Spanish–American War


は、1898年4月21日から8月13日までの4ヶ月足らずの期間、
キューバ、プエルトリコなどのカリブ海諸国、そして
フィリピン、グアムで起こったアメリカ対スペインの戦争です。

ものすごく簡単にいうと、

「アメリカがスペインの支配下にあったキューバを
独立させるためにという名目でスペインと戦い、
勝ったら独立させずにちゃっかり自分のものにしてしまった」

というジャイアンアメリカの本領発揮な戦争だったわけですが、
これはそれまで内戦でだけドンパチやってきたアメリカさんが、
海外への覇権に乗り出し、その後の帝国主義のきっかけともなる出来事でした。

ところで、どなたも次の言葉のいくつかをきっとご存知でしょう。

「リメンバー・フォートサムター」
「リメンバー・アラモ」
「リメンバー・ルシタニア」
「リメンバー・パールハーバー」
「リメンバー・トンキン」
「リメンバー911」

ちなみに日本人に馴染みのないアラモについてさくっと説明しておくと、

「リメンバーアラモ」1835 Remember Alamo

Remember the Alamo! – Schlock Value


何をリメンバーか;
メキシコの領土であったテキサスに入植したアメリカ人が独立運動を起こし、
アラモ砦でメキシコ軍の攻撃によって守備隊が全滅したこと。

どんな戦争が起こったか;
翌年アメリカはメキシコに勝ち併合、リメンバーアラモを合言葉に
カリフォルニアをめぐってメキシコに宣戦布告

アメリカが勝利で得たのは;
アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、
ネバダ、ユタ、ワイオミングにあたる地域をメキシコから奪取し、
メキシコは領土の半分以上を失った。

それから、アメリカが第一次世界大戦に参戦したきっかけ、
それが「リメンバールシタニア」でした。

Remember the Lusitania!” – MilitaryHistoryNow.com

Recruitment Posters - <i>Remember the 'Lusitania'</i> | Canada and the First  World War

ドイツ潜水艦が無警告で放った魚雷によって沈没した
民間船「ルシタニア」。

これは犯罪であるので我々はこの「悪魔の所業」に対し、
正義の天誅を加えるべく武器を取って戦う、ついては
今日にでも志願して従軍してください、というポスターです。

 

とにかくアメリカがリメンバー言い出したら必ずその後戦争になる、
ということがよくお分かりいただけると思いますが、

この米西戦争の時も

「リメンバー・ザ・メイン」

というのがありました。

Remember the Maine? | History News Network

つまり在留米国人の保護を目的にハバナに停泊していた戦艦「メイン」が、
原因のいまだにはっきりしない理由で夜間爆発し、かわいそうに
当時ほとんどが就寝中だった260名の乗員はほぼ即死するという、アメリカにとって
非常に都合の良い、じゃなくて痛ましい事故がそのきっかけになっています。

ちなみにこの時死亡した中には八人の日本人(コックとボーイ)が含まれています。

当時の大統領マッキンリーは戦争には消極的でしたが、メインの爆発を煽り、
スペインの機雷のせいと決めつけた記事で世論を煽ったのが当時のジャーナリズム。
センセーショナルに報じれば報じるほど新聞は売れますからね。

このとき読者獲得競争で凌ぎを削ったのが、ご存知ハーストとピューリッツアーです。

要するにメディアが国民を焚きつけて戦争へと突入していくという構図は
すでにこのときに発生していたということなのです。

キューバに自治を与えて戦争を回避しようとしたスペインでしたが、
アメリカはそれに満足せず、完全撤退を迫ったのでスペインもキレて、
アメリカとの外交を停止してしまいました。

そこでアメリカはここぞとスペイン領のフィリピンに攻め込みました。

キューバを独立させよと言いながらフィリピンを盗っちまおうとは、
さすがアメリカさん、他の国にできないことを平然とやってのける!
そこにシビ(以下略)

そしてマニラに行く途中にあったスペイン領のグアムにも攻め込みました。
独立戦争の機運を受けて蜂起が起こったキューバにも攻め込みました。

つまり一挙にスペインから独立させるという名目で4カ所を取り上げたのです。
さすがアメリカさん(以下略)

まあいっちゃなんですがそれが当たり前の時代でしたからね。

ここには米西戦争の陸軍の制服が展示されているわけですが、
特筆すべきはOD色、オリーブドラブと呼ばれる色の軍服が
初めて登場したのがこの戦争の時からだったということです。

その直前までアメリカは「ブルーとグレイ」しか存在していませんでした。

この将校用制服の襟の形は我が帝国陸軍のものに似ていますが、
1912年つまり第一次世界大戦の頃には立ち襟に変更されます。

後ろにある説明によると「Undress Blouse」、この言葉は
軍服のジャケットを含むセットのことを指すようです。

ボランティア歩兵師団の制服が着用主の写真付きで展示されていました。
米西戦争ではとにかく新聞が世論を煽りまくったため、志願兵だけでなく
義勇軍などにぞくぞくとやる気満々の男たちが志願しました。


ところでアメリカにも当時の規格で軍服を再現し作るという会社が存在していました。
このサイトの米西戦争のページです。

U.S. Span-Am War Uniform

米西戦争のことを英語では「スパナム・ウォー」と略すんですね。

米西戦争でアメリカ陸軍騎兵隊の少佐として指揮を執った

セオドア・”テディ”・ルーズベルト

です。
彼が率いたのは「ラフ・ライダーズ ’Rough Riders'」という義勇軍部隊で、
米西戦争中最も有名となった「サン・フアン・ヒルの戦い」の勝利に貢献しました。

このことがその後政治家となった彼をニューヨーク州知事、副大統領、
そして第26代アメリカ合衆国大統領に押し上げたと言っても過言ではありません。

もっとも彼が若干42歳で大統領に就任したのが、副大統領時代に
マッキンリー大統領が暗殺されたからでした。

ちなみに、日本人があまり知らないことの一つですが、日露戦争の停戦を仲介し、
そのことによってアメリカ人で初めてノーベル平和賞を受賞しています。

棍棒外交、ホワイトフリートと彼が行った外交政策は、決して
ノーベル平和賞受賞者にふさわしいとは思えないのですが、似たような例は
アメリカ史上初めてアフリカ系として大統領になった人の時にもありましたよね。

ところで熊ってこんな動物だったっけ・・・。
これ中に子供が入ってないか?

 

ついでにルーズベルトの愛称「テディ」はテディベアの語源ですが、それは
大統領となったルーズベルトが熊狩りに行ったとき、同行のハンターが忖度し
「下ごしらえ」としてすでに弾を撃ち込んだ瀕死の熊を、

「大統領、ささ、どうぞ仕上げを」

と差し出してきたので、

「そういうのを撃つのはスポーツマン精神に悖る」

と拒否したのが美談として報じられ、それを知った街の菓子屋が
熊のぬいぐるみを作って「テディベア」と名づけたのが起源です。

なぜ菓子屋がぬいぐるみを作ったのかはわかりませんが。

ただし、彼も熊を狩りに来ていたわけですから、巷間いわれるように、
「瀕死の熊を不憫に思って断った」というのではなかったと思います。

まあ、普通に腕に自信があって、この手の忖度はプライドが許さなかったんでしょうね。

African Americans' Role in the Spanish-American War | Sutori

米西戦争ではアフリカ系の部隊、「バッファロー・ソルジャーズ」が投入されました。
このブログでも何度も紹介してきましたが、しかし当時は白人の義勇軍、
「ラフ・ライダーズ」の方が有名でしたし、メディアも黒人部隊の活躍はガン無視していました。

米西戦争に投入された「トラップドア」ライフル、と説明があります。
正確には、

スプリングフィールドM1873 トラップドア
(U.S.Springfield Model 1873 Trapdoor)

で、最初の標準装備となった後装式ライフルです。
歩兵銃型と騎兵銃(カービン)型のヴァリエーションがありました。

 

 

続く。

ブルー・マックスとディクタ・ベルケ 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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しばらく兵士と水兵のための記念博物館の展示に集中していましたが、
もう一度スミソニアンに戻ります。

というか、早くスミソニアンを済ませてしまわないと、今年の夏見学した
航空博物館にいつまでたってもたどり着かないので・・。

さて、というわけで前回なぜエースというものが誕生したのか、
そして彼らがどのように「利用」されたかという話をしましたが。
今日はその価値観が一般に膾炙したあとについてです。

 

■エースの定義

戦争の初期には何機か撃墜していればエースと呼ばれていました。
その後、空戦そのものが「珍しいこと」ではなくなってくると、
エースになるために必要な撃墜数は増えていくことになります。

そしてその結果、嘆かわしいことではありますが、帳尻を合わせるために
虚偽の撃墜を申告するけしからんパイロットが出て来ました。

そこで各国政府は、全てのエースが国家的英雄とみなされる権利を
正当に得ているということを確認する必要がありました。

撃墜は必ずそれを確認する第三者がいなければならず、
そうでなければその記録は未確認で公認記録とはならない、
というルールができてきたのもこのことからです。

 

■プール・ル・メリット勲章とインメルマン

プロイセンのフリードリヒ大王は1740年、

プール・ル・メリット(Pour le Merite)

という勲章をずば抜けた働きをした陸軍の英雄のために設置していました。

ドイツ政府は、第一次世界大戦になって、このフリードリッヒ大王の勲章を
撃墜数を多く挙げたエースに授与するために復活させたのです。

このメダルのことを別名「ブルー・マックス」といいます。

そういえば昔、ブルーマックスが欲しくていろいろやらかす
下層上がりの野心的なパイロットを主人公にした映画、

ブルー・マックス

 

という映画をここでご紹介したことがあったんだったわ。
今読んでみるとこいつとんでもねえ。

というか、エースの称号欲しさにこういうことをやらかす輩もいたってことなんでしょう。

ところで、なぜこの勲章のことを「ブルー・マックス」と呼ぶかというと、
これを最初に受賞したエースは、インメルマンターンでおなじみ、ドイツ軍の

マックス・インメルマン
(Max Immelmann 1890ー1916)

だったかららしいです。

マックス・インメルマン

襟の中央に燦然と佩用されているのがのちのブルー・マックスですが、
この頃は普通に「プール・ル・メリット勲章」と呼ばれるだけのもので、
まだ勲章そのものの色も「ブルー」ではありません。

勲章がブルー(ドイツ語ではblauer=ブラワー)となり、
名称がブルー・マックスとなったのはマックス・インメルマンが受賞したから、
つまりマックスはインメルマンの名前からきているのです。

彼の開発したインメルマンターンは航空機のマニューバとして
その後も、もちろん現代もその名前のままで使われています。

スミソニアンにあったインメルマンの肖像。
犬はボクサーでしょうか

 

右がプール・ル・メリット、真ん中は大鉄十字章のようですが、中央に
ナチスドイツのマークがなく、『W』と刻印してありますので、
おそらく「1914年章」と呼ばれる軍事功労賞でしょう。

左は航空功労賞ですが、どこのものかはわかりません。

 

プール・ル・メリットは飛行機乗りの究極の目標といわれました。

ルフトバッフェでは、パイロットは最初の訓練を終了すると、
「ファーストクラス」の意味を持つ鉄十字章を獲得することができましたが、
プール・ル・メリットは、さらに、特定の数のミッションを生き残った
熟練の(そして幸運な)パイロットだけにしか授与されることはありません。

その意味するところは、ドイツ将校に与えられる
考えられる限り最高の栄誉とされていました。

そのためには敵機をある程度以上撃墜していなくてはなりませんが、
その数は1918年までに8機以上、と公式に決められました。

 

■「厄介な名機」アルバトロス戦闘機

さて、そんなギャラリーの上方には、カラフルな迷彩ペイントの
複葉戦闘機、

アルバトロス(Albatros) D.va

が空を飛んでいるように展示されています。

1916年、ドイツの航空機製造メーカー、
アルバトロス・フルーク・ツォイク・ヴェルケは、非常に高度な機構を持つ
アルバトロスDIを開発しました。

160馬力のメルセデスエンジンを備えた流線型のセミモノコック胴体と、
機体のノーズにきちんと輪郭が描かれたプロペラスピナーが特徴でした。

D-IIIという小さな下翼を備えた(一葉半)のセスキプラン・バージョンは、
1917年の初めに導入され、急降下で頻繁に下翼が破損する欠陥にもかかわらず、
操縦性と上昇力に優れていたため、大きな成功を収めました。

ちなみにレッド・バロン、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵が乗った
D-IIIも、下翼にクラックが発生しています。

アルバトロスDVモデルには、より強力な180馬力のエンジンが搭載されていましたが、
こんどはどういうわけか上翼の故障が急増していました。

このD.Vaは翼の破損の問題を解決するために機体を強化したところ、
重量が増加し、せっかくの新しいエンジン搭載による利点が
打ち消されるという残念な結果になってしまっています。

DVとD.Vaはまた、以前のD.IIIと同様、空気力学的な荷重がかかると
翼にねじれが生じることから、パイロットは、この機体での
長い降下を行わないようにと指示されていました。

つまり最初から最後まで、アルバトロスという名前のつく飛行機は
皆同じ下部翼の故障の問題を抱えていたことになります。

この問題に対処するために、小さな補助支柱が外側の翼支柱の下部に
補強のために追加されましたが、完全には成功しませんでした。

 

しかしながら第一次世界大戦中、約4,800隻のアルバトロス戦闘機が建造され、
オーストリア=ハンガリーもライセンス生産を行っています。

そして1917年を通じてドイツの航空隊によって広く使用され、
終戦までかなりの数のアルバトロスが活動を続けました。

ドイツのエースの多くは、アルバトロスシリーズで勝利の大半を達成しています。


リヒトホーヘンのアルバトロスD.V

ただし、彼らが評価したのは多くが初期のV.IIIであり、後継のD.Vは
改造後でありながら前より問題があるとして、嫌われていたようです。

たとえば、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン。

彼もアルバトロスD.Vが製造されてすぐ機体を受け取ったのですが、
すぐに下翼の構造上の問題が解決されていないだけでなく、
構造を強化するための重量の増加が操縦しにくいことに気づき、
こんな風に手紙で知人に伝えています。

「イギリス機に比べるとまったく時代遅れで、
途方もなく劣っており、この飛行機では何もすることができない💢」

そこでアルバトロス社はこのD.Vaでパイロットの要望に応えようとしたのですが、
前述の通り、何を思ったか、重くて操縦性が悪かったD.Vよりさらに
機体が重たくなってしまったのです(´・ω・`)

その分はメルセデスの新型エンジンで相殺されるはずが、
結局最後まで同じ問題は存在していたということで、ドイツのエースたちが
もう少し性能のいい飛行機に乗っていたらもう少しエースが増えていたかもしれません。

 

■ 英雄、オスヴァルト・ベルケ

1916年に戦死するまでに、ドイツのエース、
オスヴァルト・ベルケ(Oswald boelcke 1891-1916)は
40機という第一次世界大戦のドイツでももっとも高い撃墜数を上げ、
大衆からの絶大な絶賛を浴びました。

しかし、かれの最も特筆すべき航空への貢献というのは、
戦闘機パイロットの後進指導であり、航空戦術の発明だったとされます。

このため彼は「航空戦術の父」とも呼ばれています。

ベルケはドイツ戦闘機部隊の組織の責任者でもありました。

かれの先駆的な研究は、今日の空中戦の原型を形作ったといっても過言ではありません。
これは、彼の空戦勝利よりもはるかに後世に大きな影響を与えた貢献といえましょう。

空中戦に特化した新しい航空隊長就任の命令を受けたとき、
ベルケが取ったのは当時にして革新的なアプローチでした。

まず、人を育てること。

搭乗員採用にほとんど関与しなかった以前の戦隊司令官とは異なり、
彼は一人一人を面接し、その資質などをチェックした上で、
戦闘機パイロットとして素質と才能をもち、成功する可能性があると
見込んだ男性だけを選びました。

生徒の戦闘スキルを開発する彼の方法も同様に革新的でした。

従前のドイツ軍では戦闘訓練といいつつ飛行することだけを学生に教えましたが、
彼が教えたのは空中戦闘の技術(アート)でした。

彼はパイロットの指導につねに積極的な役割を果たすため、
地上で見ているのではなく、つねに生徒と一緒に飛行し、
彼らのパフォーマンスを彼らと同じ目線で見て評価しました。
(またそれができる教官は彼だけでした)

彼はまた、彼自身の戦闘経験についても非常に論理的に分析し、
空中戦のための最初のルール(dicta)を書きました。

これらの簡単な「基本法則」はすぐに初心者に理解され、記憶され、
新しい戦闘機パイロットの血肉となって、後に続く者たちに受け継がれました。

 

■ベルケのディクタ(Dicta Boelcke)

1. 攻撃する前に常に有利な位置を確保するようにしてください。
 敵の不意を突いて、相手がアプローチする前、または最中に上昇、
 攻撃のタイミングが近づいたら後方から素早く飛び込みます。

2. つねに太陽と敵の間に自分を置くようにしてください。
 これは太陽のまぶしさで敵があなたを視認できなくなり、
 正確に撃つことを不可能にします。

3. 敵が射程内に入るまで機銃を発射しないでください。

4. 敵が攻撃を全く予測していないとき、または偵察、写真撮影、
  爆撃などの他の任務に夢中になっているときに攻撃します。

5. 決して背を向けて、敵の戦闘機から逃げようとしないでください。
  後方からの攻撃に驚いたら、振り向いて銃で敵に立ち向かいます。

6. 敵から目を離さず、敵に騙されないでください。 
 対戦相手がダメージを受けているように見える場合は、
 彼が墜落するまで追跡し、偽装ではないことを確認します。

7. 愚かな勇気は死をもたらすだけです。
 Jasta (戦隊)は、すべてのパイロット間で
 緊密なチームワークを持つユニットとして戦う必要があります。
 つねにその指導者の命令に従わなければなりません。

8. Staffel スタッフェル(squadron)の場合:
 原則として4人または6人のグループで攻撃します。
 戦闘が一連の単一の戦闘に分かれた場合は、
 数人で1人の敵に向かわないように注意してください。

 

今これを見て気がついたのですが、ハリウッドの三流映画、
「ブルーマックス」の主人公の名前は確かスタッフェルでした。
「飛行中隊」という名前だったのね。

まあ、イェーガー(戦闘機)という名前のアメリカ人もいるのでそれもありか・・。

  Fokker Eindeckerシリーズの戦闘機(s / n 216、軍用s / n A.16 / 15 )
ベルッケは、これらの航空機の1つを飛行させる空中戦術を学びました。   ■英雄の死

エースの葬式

ベルケが亡くなったフランスでの告別式には、ドイツ皇太子が出席し、
彼の棺にはカイザー・ヴィルヘルム自らが花輪を捧げました。

ベルケはドイツ国民だけでなく、敵国からも尊敬され崇拝されていました。

このときイギリス軍の航空機が上空を飛行してローレルの花輪を墓地に投下しましたが、
それには、

「我々の勇敢な騎士である敵

 ベルケ大尉の思い出に

 大英帝国王立航空部隊より」

と記されていました。


オスヴァルト・ベルケは1917年10月28日、敵と交戦中、僚機と接触し、
翼が破損した機が墜落して頭蓋底骨折で死亡しました。

墜落したとき、どういうわけか彼はヘルメットを着用しておらず、
安全ベルトも着用していなかったということです。

 

続く。

 

デア・ハウプトマン(大尉)〜映画「小さな独裁者」

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脱走兵がたまたま放置されていた車の中に軍服を見つけ、
それを着込んですっかり大尉になりすまし、
部下を引き連れていく先々で殺戮を行う。

もしそれが実話をベースにしていたと知らなければ、
突っ込みどころ満載の穴だらけの脚本といわれそうな映画です。

しかしそれは現実に起こったことでした。

 

映画でも本名で語られているヴィリー・ヘロルト(Willi Herold)は、
盗んだバイクで走り出し、じゃなくて盗んだ制服で大尉となって
「ヒトラー総統の全権を受けた」と豪語し、敗残兵の部下とともに収容所を支配し、
脱獄囚の処刑や拷問を行ったうえ、収容所が爆破されるとこんどは
放浪しながら戦争犯罪を重ねていったというのです。

いくら制服を着ていたといえ、どうして19歳のガキにことごとく皆が騙されたのか、
軍人は誰も疑いもしなかったのか、それくらいドイツ軍はアホの集まりだったのか、
とこれを読んだだけでつぎつぎと疑問が湧いてきます。

ともかくこんな嘘のような話が現実に起こっていた、ということをを後世に知らしめた点で
本作品はある意味人類史に小さな貢献をしたといえるのではないでしょうか。

 

さて、この映画「Der Haptmann」、英語では「The Captain」。
captainは米海軍では大佐ですが、陸軍と空軍では大尉となるので、
日本語も「大尉」でいいと思うのですが、相変わらず日本の配給会社は

「小さな独裁者」

などと気持ちはわかるがとにかくセンスのない邦題をつけてしまっています。

 

さて、映画のストーリーは冒頭3行の通りです。
なんなら冒頭に描いた絵で全てが網羅されています。

実話なので流石の当ブログもツッコミようがないということもあり、
今回は数少ない資料(ドイツ語のドキュメンタリーYouTubeなど)を参考に、
この映画というより驚くべきこの人物について書きたいと思います。

冒頭の逃走シーン。

1945年3月、ドイツとオランダ国境から近いグローナウをめぐる戦いの途中、
ヘロルトは脱走し、

Deutschlandkarte, Position der Stadt Bad Bentheim hervorgehoben

このだいたい左上くらいのところをうろうろしていました。
(大雑把すぎ?)

道中、ヘロルトは側溝に落ちた軍用車の残骸を発見するのですが、
車中には勲章のついた真新しい空軍大尉の軍服の箱があったので、
それを着込んで将校になりすました、というのがことの発端でした。

しかしこれはあくまでも本人の供述によるもので、本当だったかどうかは
もう永遠に検証されることはありません。

それにしても、逃走中こんなだった人が、

制服を着たとたんこんな風にいきなりこざっぱりしてしまうとは・・

いくらなんでもかなり無理があると思うのですが、どうなんでしょう。

彼がさらに北に向かって歩いていると、敗残兵に呼び止められます。

「部隊から逸れました。指示をください」

その後も北進を続けるうちに合流する敗残兵は増えてきて、
いつの間にか「ヘロルト戦闘団」「ヘロルト衛兵隊」を自称する
30人あまりの軍団になっていったのです。

車を手に入れると、彼はそのうち一人を運転手に指名しました。

映画ではたまたま野戦憲兵が通りかかったように描かれていますが、
実際は検問所を通過する際、ヘロルトは当時

「憲兵による書類提示の要請を拒否したため取り調べを受けたが、
あまりにも堂々とした振る舞いのため、取り調べの担当将校は
ヘロルトを空軍大尉と信じ込み、シュナップスを注いで歓迎した」

堂々としているかどうか以前に、当時19歳のヘロルトが大尉(通常30代?)を名乗っていて
誰もおかしいと思わなかったんでしょうか。

これですよ?
妙に童顔の将校だなー、とでも思っていたのかしら。

パーペンブルグに着くと、付近の収容所が脱獄囚の捜索を行っている、
という報告を受け、ヘロルトは市長および地元のナチス地区指導者と会談。

映画ではかなーり怪しまれているように描かれています。

ここでヘロルトは、

「自分には任務があり法的な些事のために割く時間はない」

として、脱獄囚を即時射殺させています。(つまり自分ではしていない?)

 

4月12日、ヘロルト一行はエムスラント収容所アシェンドルフ湿原支所に到着しました。
ここで行った大虐殺のため、後に彼には

「エムスラントの処刑人」

という別名が与えられることになります。

同収容所にはドイツ国防軍の脱走兵や政治犯が収容されていました。
直前に周辺からの移送があったため、数は3000人を越していたといいます。

ヘロルトはこのとき収容所および地元党組織の幹部らに

「ヒトラー総統は自分に全権を与えた」

と言い切ってこれが信用されています。

嘘は大きいほどバレないということなのか、あまりにも
話が大きすぎてつい信じてしまったのか。

相手がヒトラー総統とくれば、疑わしくても確かめる術がありません。
下手に疑ってもし本当だったら、そのときは自分の命取りになりかねません。

おりしも収容所で秩序が崩壊しつつあり、脱走者を相次いで出すなど、
不祥事に悩まされていた幹部連中は、中央からの、という言葉を聞いただけで
やましさから萎縮してしまい、ヘロルトを疑うこともしなかったらしいのですが、
それを読み解いた(かどうか知りませんが)ヘロルトは機を見るに敏、
状況を読むに長け、ある意味天才的な策略家だったといえます。

ただしその才能らしきものはろくな使われ方をしなかったわけですが。

彼は野戦裁判所を設置して秩序の回復を図ると宣言し、
さっそく血の粛清を行いました。

逮捕された脱獄囚たちは長さ7m、幅2m、深さ1.80mの大きな穴を掘らされ、
4月12日18時00分、高射機関砲の一斉掃射が始まりました。

生き残りがいないか死体を蹴って確認し、念入りに殺人が行われました。

映画ではたった一人、殺人にドン引きしていた部下をわざわざ指名し、
穴に入らせて生き残りを射殺させるという筋金入りの冷酷さ。

この日、日没までに囚人のうち98人が射殺されました。

収容所の将校が一人、ヘロルトの処分を「違法だ」としたうえで
上に報告する、と言っていましたが、その後どうなったのでしょう。

地元国民突撃隊部隊も出動させ、脱獄囚の捜索逮捕および処刑に当たらせますが、
映画では「埋め戻し」を拒否したとして、彼らまで処刑してしまいます。

相変わらず自分の手をあまり汚さず、宴会で余興の漫才をしていた囚人に
わざわざ銃を持たせて撃たせてあげるヘロルト。

ちなみにこの囚人は自分の犯罪について誤魔化して語ろうとしませんでしたが、
相方?が同じように銃を持たされるや自分を撃って自殺してしまったのに対し、
冷静すぎるほど狙いをしっかり定め、一発で逃げる人を撃ち殺してしまいます。

「ただの物盗りですよ」

といっていたけど多分嘘だったんだろうな、と観ている人に思わせる演出です。

実在したのかどうかわかりませんが、これ、いかにも頭悪そうな収容所監督の嫁。
逃げる囚人をいきなり銃で撃ち出すって、なんていうか、お里が知れるわー。

この翌日、4月13日には74人の「処刑」が行われ、もちろんそれは
ハロルトの指示によるものでした。

最初の処刑から1週間後の4月19日、イギリス空軍の爆撃により
収容所は破壊され、生き残っていた囚人は脱走しました。

収容されていた囚人にしてみれば、イギリス軍は神の使いのようにみえたことでしょう。

ヘロルトは敗残兵を集め、収容所の場所から逃走し、放浪しながら
各地で殺人(ヘロルト野戦即決裁判所 Standgericht Heroldという名のもとでの
即決裁判による処刑)と略奪(地元のホテルや商店に供出させ、
通行税と称して道ゆく人々からものを取り上げる)を行いました。

4月20日、ハロルトはパーペンブルクで連合国の到着に備えて白旗を揚げていた
農夫を「逮捕」して即決裁判で絞首刑に処しています。
(映画では英語で『WELCOME』とバナーを揚げている市民を射殺)

続いて2人の男性を逮捕して処刑。

海軍の脱走兵1人と精神障害者1人を処刑。

4月25日、レーア刑務所に収監されていたオランダ人5人の身柄を引き取り、
数分間の裁判でスパイ容疑者として形式的に裁き、墓穴を掘らせた後に射殺。

映画では好みの娼婦を横取りされたのに腹を立て、私的感情から
もっとも自分に反抗的だった部下を「裁き」、路上で処刑していました。

そしてアウリッヒに到着したとき、現地のドイツ軍司令官の命令で
全員が逮捕されることになります。

映画ではご乱行の大騒ぎの翌朝、野戦憲兵に踏み込まれたということになっています。

この野戦憲兵(フェルドゲン・ダルメリー)については当ブログでは
首に独特の鎖をかけている怖い憲兵集団ということを書いたことがありますが、
その鎖を首にかけた一団がどどどっとホテルになだれ込んでくるわけです。

あわててヘロルトは手帳を食べて証拠隠滅をはかるも阻止されます。

これは本物のヘロルトが処分し損なった軍隊手帳?
下の段は「目=青」ですよね。

逮捕の翌日、ヘロルトは海軍軍事裁判所で罪を自白しました。

ところが現実でもヘロルト裁判は不可解ななりゆきとなるのです。

本来死刑になってもおかしくないほどの重罪を犯しているにもかかわらず、
ヘロルトは一種の執行猶予、つまり処刑しない代わりに前線に送られる、
という甘々の判決を受けることになるのでした。

つまりこれは映画でも判事?が言っていましたが、兵隊が足りないので
処刑はしないかわり前線で死んでね、という処置だったということになります。

この執行猶予大隊または懲罰大隊はドイツ陸軍に組織されていた部隊で、
兵役不適格者や軽犯罪者など、「潜在的な厄介者」を兵力として認めたものでした。

これに所属する隊員は最前線において「並外れた勇敢」(außergewöhnliche Tapferkeit)
を示すことが求められ、さもなくば猶予されている刑罰が執行されたり、
一般の犯罪者としてエムスラント収容所に収容されることになっていました。

つまり、ヘロルトは執行猶予大隊でもし「並外れた勇敢」を示さなければ、
自分たちが君臨したエムスラントに送られることになるはずでしたが、
もちろんそこは爆破されてその跡地はそのころすでに畑になっていました。

 

とにかく、案の定ヘロルトは懲罰大隊に大人しく参加するどころか
ちゃっかり姿をくらまして、煙突清掃員(昔の仕事)として潜伏していたのですが、
1ヶ月も経たないうちにパンを盗んで現地のイギリス海軍に逮捕されました。

そして取り調べによってその恐るべき犯罪がもう一度明らかになったのでした。

イギリス海軍の現場検証に立ち会うヘロルト。

ヘロルトと彼の部下の敗残兵たちは集められ、皆で
アシェンドルフの犠牲者の遺骨を掘り返す作業を命じられました。

これは連合軍がよくやる?ドイツ軍に対する「懲罰的作業」で、
強制収容所の看守や軍医、ナチスの幹部が遺体の「片付け」をさせられるシーンが
動画として残されていますのでご覧になったことがあるかもしれません。

その際、彼らは手袋などを着用することを許されなかったそうですが、
ヘロルトらもきっと素手で掘り返しをさせられたでしょう。

裁判中のヴィリー・ヘロルト。

連合軍がドイツ人に対し、戦時中のドイツ人の殺害について裁く、というのは
ちょっと違和感を感じないでもないですが、つまりはそれだけヘロルトは
普遍的、人道的に許しがたい犯罪を犯したとされたのでしょう。

1946年8月、ヘロルトと敗残兵ら14人を裁くための軍事裁判が設置されました。

彼らは125人の殺害について有罪となり、同月29日(判決が早い)
へロルトと6人の敗残兵に対して死刑判決が下されました。
(うち一名は控訴のち無罪)

裁判所におけるヘロルトの写真を見る限り、総統の勅命を受けて
中央から派遣されたものすごい切れ者の空軍将校である、
と田舎のおっさんたちが信じてしまったとしても無理はない、
なんというか、一種「できそうな」雰囲気だけはあります。

ヴィリー・ヘロルトは1925年、屋根葺き職人の息子として生まれました。

演習を無断欠席してヒトラーユーゲントを追放され、
煙突清掃員をしていたそうですが、写真で見る彼は
顔立ちのせいなのか、ブルーカラーの育ちというには上品な感じに思えます。

18歳で空軍に徴兵されて兵役に就き、降下猟兵の連隊で訓練を終えました。
彼が脱走中に見つけた軍服が空軍大尉のものであったというのは、
この経歴から見て偶然の一致すぎる気がするのはわたしだけでしょうか。

さらに映画では、「見覚えがある」といわれた将校との会話で

「降下猟兵だった」

と誤魔化すシーンがありました。

しかし、たかだか1年の軍隊生活で大尉を演じ切るだけの知識を
かれはどうやって仕入れたのでしょうか。

 

ところで、わたしはこの映画を最初に観て歴史上の人物に対しては
ついぞ抱いたことのないほどの激しい嫌悪感を抱き、

「こんなやつは絶対に死刑になっていて欲しい!」

と怒りに任せて検索をしたところ、1946年11月14日、ヴォルフェンビュッテル戦犯収容所で
へロルトは他の5人とともにギロチンによる斬首刑を執行されていたこと、
しかも、彼は尋問中、虐殺の動機について問われると、

「何故収容所の人々を撃ったのか、自分にもわからない」

と答えたということを知りました。

大尉の制服によって自分が濫用できる権力を手に入れたことに気づいた彼は
それを思いつく形で試してみたくてたまらなくなったのでしょう。

おそらく、抵抗できない人間の命が自分の意のままになることが
精神的に未熟な幼児のままの彼には楽しくて仕方がなかったのだと思われます。

 

映画のエンディングシーンで、ヘロルトら一味が現代のドイツに現れ、
チンピラさながら略奪を行う様子が延々と描かれますが、製作者もまた
彼らに対してのこの嫌悪感をどうしてくれよう、とばかりに、怒りに任せて
この一見不可解なシーンを付け足したらしいのがわたしにはよくわかりました。

とはいえ、映画的にこの付け足しシーンは正直全く評価できなかった、
ということもお断りしておきます。

Lilian Harvey - Das Gibt's Nur Einmal

それでは最後に、ヘロルトが大尉の軍服を着込んで調子はずれに歌っていた歌、
乱痴気騒ぎのときにも女性たちと一緒に恍惚として歌っていた、
映画「会議は踊る」の挿入歌「ただ一度の機会」をお聞きください。

その歌詞とは・・

ただ一度だけのもの
二度と帰ってこないもの
それは多分ただの夢

Das gibt's nur einmal,
Das kommt nicht wieder,
Das ist vielleicht nur Träumerei.

 

終わり

「航空戦術の父」第一次世界大戦のエース・オスヴァルト・ベルケ

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スミソニアン博物館の「第一次世界大戦のエース」のコーナーで
ドイツ空軍に最初に登場したエースの一人、
オスヴァルト・ベルケ ( Oswald Boelcke 1891-1916)について書きましたが、
エースとしてではなく、その後の空中戦術の基礎を築いた戦術家であり、
教育者としての面を持つ彼に興味を持ったので、あらためて語りたいと思います。

■ 幼少期

オスヴァルト・ベルケは、ザクセン州の学校長の息子として生まれました。
彼の姓はもともと「Bölcke」という綴りですが、彼はウムラウトを省略し、
ラテン語式の綴りを採用していました。

ベルケは3歳のときに百日咳にかかったせいで終生喘息体質でしたが、
運動神経はよく、成長すると陸上競技に目を向けました。

ベルケの家族は保守的な考えを持っており、 軍の経歴が
いわゆる上級国民への近道だと信じていたということもあって、
ベルケは若い頃から熱烈な軍人志望でした。

結局士官学校にはいきませんでしたが、ギムナジウムに通っていた17歳のとき、
彼は「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍の軍事改革」
「フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵の航空実験前の人生」
そして「初の飛行船の飛行」という3つの科目を選んでいます。

 

■ 空への興味と個人的特性

ベルケの身長は170センチくらいで、ドイツ人としては短身でしたが、
肩幅が広くバランスの良い体格をしており、
なにより敏捷性と「無尽蔵の強さ」を備えていました。 

学校での彼は級友などとはもちろん、教師ともうまく付き合い、
率直で親しみやすい態度のため人から好かれる生徒だったようです。

ブロンドの髪、濃い青い目の彼は、誰にとっても印象的な少年でした。
当時を知る者は、運動能力もさることながら、彼が数学と物理学に
大変熱心で優れていたと述べています。

彼はサッカーやテニスに興じ、スケートをしたり、踊るのも好き。
とにかく運動にかけては何をやらせても群を抜いていて、
学校一の運動神経の持ち主だった彼ですが、水泳とダイビングは
大会での受賞歴を持っており、17歳のときにはアルピニストにもなっています。

カリスマ性のある彼は競技場で人気のリーダーでした。

しかし、決して脳筋などではなく、読書にも親しみ、
民族主義作家のハインリッヒ・フォン・トライチュケを愛読していました。

トライチュケは反ユダヤ主義の論陣を張る思想の旗頭だったので、
ベルケも当然同じ考えだった可能性は大いにあります。

後世の歴史家が、彼はナチスとかかわらずに死んだことを
強調しているようですが、もし彼がもう少し長生きしていたら
ナチスの思想に傾倒していた可能性はあるのではないかと思います。


人生の早くからベルケはこんなことを言っています。

「自然に振る舞い、尊大な上司を演じたりしなければ、
部下たちの信頼を勝ち取ることができる」 



彼はマンフレッド・フォン・リヒトホーフェンの師でもありました。
彼はベルケについて次のようにコメントしています。

「ベルケには個人的な敵はいませんでした。
誰にでも礼儀正しく、人によって態度を変えることをしませんでした」

その謙虚な姿勢は、生涯変わることはなく、戦闘パイロットとして
成功の秘訣を尋ねられた彼は

「対戦相手のヘルメットにゴーグルストラップが見えたときだけ発砲します」

と述べています。

■ 兵役への参入

学校卒業後の1911年、ベルケは電信大隊に士官候補生として加わり、
翌年彼はクリーグシューレ (陸軍士官学校)に通い始めました。

学生時代の彼は、クラスの休みを利用して空いた時間を
いつも近くの飛行場で飛行機を見て過ごしていました。

陸士の彼の卒業時の成績はおおむね良で、とくに
リーダーシップスキルは「優秀」と見なされていました。 

1912年7月に彼は卒業し、同時に任官するわけですが、
電信兵を訓練する毎日のルーチンをこなしながら、このころの生活は

「素敵で、陽気で、活発な生活」

に費やされ、青春を謳歌したようです。

そのころ、彼はフランスの曲べき飛行の先駆者である
アドルフ・ペグードによるパフォーマンスを目撃しています。

1914年、彼は将校だけで行われるスポーツ大会で五種競技選手として
三位を獲得し、1916年に行われる予定だったベルリンオリンピックの出場権を得ています。

この年のオリンピックは第一次世界大戦勃発のため中止になりました。

 

■ 第一次世界大戦

1914年、彼は家族に何も知らせずに空挺部隊への移動を申請しましたが、
なぜかパイロット過程に受け入れられることになり、資格試験に合格しました。

そして第一次世界大戦が8月4日に始まります。

出陣を待ち望んでいたベルケは、兄のヴィルヘルムと一緒の飛行隊に入り、
兄弟で出撃しまくって、他の搭乗員よりも頻繁に長い飛行時間を記録したため、
それは部隊内にいくらかの恨みを引き起こしていたといいます。

天候が悪化し、対抗する軍隊の活動が塹壕戦に停滞し始めたときでさえ、
二人のベルケは全くお構いなしに出撃して飛びまくりました。

その後着任した指揮官は、兄弟を別の航空隊に引き離そうとしますが、
彼らは別々に飛ぶことを拒否し、上に直訴したりして大騒ぎしました(笑)
しかし最終的にそれを承諾し、離れ離れになっています。

兄と別れた弟ベルケはフランスに派遣されました。 
新しいユニットで彼はすでに最も経験豊富なパイロットでした。

この任務は彼にマックス・インメルマンとの友情をもたらすことになります。

 

このころ、フランスのギルベール、ペグードなどの戦闘機パイロットが
「ラズ」またはエースと称賛されるようになってきます。
聴衆にとって、孤独な空の英雄のシンプルな物語は大きな魅力を持っていました。

戦争が進むにつれて、各国政府はそれを大いに利用するようになります。
彼らは新聞や雑誌にプレスリリースを提供し、
人気のある飛行士の写真がプロマイドや葉書になりました。

Oswald Boelcke - Wikipediaベルケの葉書

ベルケとインメルマンはこのころしばしば一緒に飛行しています。
それは 古典的なウィングマンの動きで、互いに補完し合うチーム戦術が
このときに完成を見たと考えられます。

■ エース競争

1915年9月、 ベルケとインメルマンはそれぞれ2機撃墜しました。
不世出のパイロット二人の間に「撃墜競争」が始まります。

 

このころ、フランスの地元の人々が運河に突き出した橋で
釣りをしているのをベルケが飛行中の機上から見ていると、
10代の少年が桟橋から落水しました。

彼はすぐに急降下し、飛び込んで子供を溺死から救っています。
観ていたフランス人たちが皆で彼の勇気をたたえましたが、彼は
ただ濡れた制服のままで恥ずかしそうにしていました。

1915年の終わりまでに、インメルマンは7回、 ベルケは6回勝利を上げました。

 

1916年1月5日、ベルケはイギリス王立航空機BE.2を撃墜。

このとき墜落した機の近くに着陸すると、パイロット二人は生きていて、
彼らはドイツ語を話せる上、ベルケのことを知っていたので、
ベルケは偵察飛行士たちを病院に連れて行ってやっています。

その後、彼は読み物などを持って病院に彼らを見舞いましたが、
彼はすでに当時有名人だったので、このことは新聞の一面で報じられました。


1月12日、ベルケとインメルマンは同じ日に8機目を撃墜し、
ドイツ帝国で最も権威のあるプール・ル・メリテが受賞されることになりました。
インメルマンが受賞したことから「ブルーマックス」と呼ばれるようになった
勲章です。

ベルケは今や国内外で有名になり、うっかり繁華街を歩いたり
オペラを観ることもできなくなりました。

将軍や貴族まで若い中尉と知己を得るのに夢中になり、
皇太子の友人までができました。

1916年、ベルケはフォッカー・アインデッカー試作機の評価を任されました。
彼は、銃の取り付けが不正確であり、エンジンにも限界がある、
と客観的に欠点を指摘し、これを ドイツの空軍が使用するのは
「惨め」なことだと痛烈に批判した覚書を提出しています。

3月12日、ベルケは10勝目を挙げました。
次の日、インメルマンが11勝目を上げて デッドヒートは一週間続きましたが、
結局勝利数12でベルケが上回っています。

 ベルケが1916年5月21日に2機の敵機を撃墜したとき、
皇帝は大尉への昇進は30歳以上とする軍の規制を無視して
25歳と10日のベルケを昇進させました。
彼はドイツで最年少の大尉となっています。

■ エース競争の終焉

エース競争は1916年6月18日終止符が打たれました。
ライバル、インメルマンが17回目の勝利の後に戦死したのです。

当時18勝していたベルケは、たった一人のエースになりました。

立て続けにエースを失うことを懸念した皇帝ヴィルヘルム2世は、
ベルケに1か月間待機するように命じました。
自粛の通達が出る前に、ベルケは19機目を撃墜しています。 

ベルケは飛行停止に大いに不満でしたが、この期間を利用して
彼は経験から有効な戦術と作戦を明文化することにしました。

いわゆるDicta Boelcke(ディクタ・ベルケ)です。

 以前このディクタを当ブログに掲載したときお読みになった方は
その8つの格言は当たり前すぎて当然であるように思われたかもしれませんが、
 ベルケが言葉にする前には全く未知の理論だったのです。

ディクタは、その後戦闘機の戦術に関するオリジナルのト訓練マニュアルとして
広くパンフレットで公開されました。

 

■ リヒトホーフェン

中央、リヒトホーフェンとベルケ。

1916年、ベルケは新しく編成された航空隊の指揮官に任命されました。
自らパイロットの人選を行い、2人のパイロットを採用しましたが、
その一人が若い騎兵士官、 マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンでした。

    

ベルケのFokker D.III戦闘機です。
彼はこの飛行機で1916年8回勝利を納めました。

 9月2日、 ベルケは20勝利目となるR・E・ウィルソン大尉機を撃墜しました。
翌日彼はウィルソンが捕虜になる前に、彼を客としてもてなしています。

 

新基地では施設が建設され、パイロットの訓練が始まりました。
ベルケが指導者としての資質をはっきりと表したのはこのときです。
機関銃の発射とトラブル回避などの地上訓練、また、航空機の認識、
敵国航空機の強みと欠陥について、生徒たちはベルケから講義を受けました。 

ベルケは彼の生徒たち自分が得た戦術をもとに訓練しました。
リーダーとウィングマンをペアリングすること、
部隊でフォーメーションを作り飛行することなどです。

空戦になると彼らはペアに分かれましたが、隊長機は戦闘を控え、
全体を俯瞰することなどもベルケの教えでした。

■ 戦闘

部隊に新しい戦闘機が到着しました。
ベルケのためのアルバトロスD.IIと、5機のアルバトロスD.Iです。

この新型機は以前のドイツ機や敵の航空機よりも優れていました。
強力なエンジンによりより速く、より高速で上昇できるうえ、
機銃を二丁搭載していました。

新型機による初めての空戦で ベルケは27機目を撃ち落とし、
彼の部下たちも4機を撃墜するなど絶好調でした。

出撃前にブリーフィングを綿密に行い、その結果出撃命令が出され、
帰投後は飛行報告をするのもベルケから始まった航空隊の慣習です。

このころのベルケは出撃ごとに必ず撃墜数を伸ばしていましたが、
小さい時に肺を患って以降持病の喘息に悩まされていました。
天候が悪くなると彼の喘息は悪化し、時として飛行もできないほどでした。

 

■ 最後の任務

10月27日の夜、ベルケは見るからに疲れて意気消沈した様子でした。

彼は食堂での大騒ぎについて従兵(batman)に不平を言い、
それから暖炉の前に座って火を見つめていたといいます。
ウィングマンの一人ベームが彼に話しかけ、
二人はその後長い間いろいろなことを語り合っていました。

翌日は霧がかかっていましたが、中隊は午前中に4つのミッションをこなし、
午後にも飛行任務に出撃しました。

この日6回目のミッションで、ベルケと5人のパイロットが、
第24飛行隊RFCの編隊と交戦になり、 ベルケとベームは
アーサー・ジェラルド・ナイト大尉のエアコDH.2を追いかけ、
一方、リヒトホーフェンはアルフレッド・エドウィン・マッケイ大尉の
DH.2を追いかけていました。

マッケイはナイトの後ろを横断し、ベルケとベームを間において
リヒトホーフェンを回避する策をとったため、彼らは二人とも
マッケイとの衝突を避けるために飛行機を上昇させました。

不幸だったのは、そのとき航空機の翼によって互いが見えず、
どちらも相手の存在に気がついていなかったことです。

ベームとベルケの機体は接触し、ベルケのアルバトロスの翼の生地が裂け、
揚力を失った機は螺旋を描きながら墜落していきました。

墜落直後の彼はまだ生きているかのように見えたそうですが、
彼はヘルメットを着用しておらず、安全ベルトも締めていなかったため、
頭蓋骨を骨折しており、まもなく死亡しました。

基地に戻った時のベームは恐怖と後悔で半狂乱になるほど取り乱しており、
着陸に失敗して機体を横転させて負傷しました。

彼はのちに

「運命というのは大抵最悪の馬鹿げた結論が選択されるものだ」

と嘆いています。
公式の調査では、ベルケの墜落は彼の過失による事故ではないとされました。

ベームの着陸の失敗については、負傷の苦痛で心の傷を覆い隠し、
また、自らを罰しようとする気持ちが働いたのではとも言われました。

 

■ 追悼

中隊の搭乗員たちは、ベルケがまだ生きていることを期待して
機体が墜落した陸軍砲兵の駐留地に急ぎましたが、
砲手たちはすでに冷たくなったもの言わぬベルケの体を彼らに手渡しました。

ベルケはプロテスタントでしたが、現地での追悼式は二日後の10月31日に
カトリックのカンブレ大聖堂で行われました。

届けられた多くの花輪の中に、彼と交戦したウィルソン大尉と
捕虜となっていた搭乗員の3人からのものがあり、そのリボンには

「私たちが高く評価し尊敬している対戦相手に」

と記されていました。

また、特別な許可によって、告別式の最中、王立飛行隊が
空中から花輪を墓地に投下していきました。
その花輪には

「勇敢な英雄である対戦相手、ベルケ大尉の記憶に」

と書いてあったといいます。


葬列が大聖堂を離れると、リヒトホーフェンは棺に先行し、
黒いベルベットのクッションにベルケの勲章を飾りました。

棺桶が銃を運ぶための砲車の上に置かれた瞬間、太陽の光が雲を突き抜け、
英雄の死を顕彰する飛行機が墓地の上空を通過しました。

特別に用意された汽車まで運ばれる棺はカラーガードに守られ、
弔銃発射と敬礼の中、賛美歌が響き渡るのでした。

翌日、棺は彼の母教会であるセントジョンズに運ばれました。
そこで祭壇の前の彼の棺にはオナーガードが付き添っっていました。

ヨーロッパ中の王室や後続からからお悔やみ、オナーメダルが殺到しました。
11月2日の午後の葬儀に出席したのはほとんどが王族、将軍、貴族ででした。


■ レガシー

ベルケは空対空戦闘戦術、戦闘飛行隊編成、早期警戒システムを発明した
ドイツ空軍の先駆者と見なされ、 「空戦の父」と呼ばれています。

彼の最初の勝利以降、その成功のニュースは国中の模範でした。
帝国ドイツ空軍が空中戦術を教えるためのスタシューレ (戦闘学校)
を設立したのは彼の提言によるものですし、
「ディクタベルケ」の公布は、ドイツの戦闘機の戦術を基礎付けました。

西部戦線で当初ドイツの航空権を獲得したのは彼の功績によるものと言われます。

第二航空中隊は 、「ヤークトシュタッフェル・ベルケJagdstaffel Boelcke」
と改名され、彼の死後もドイツの最高の戦闘飛行隊の1つであり続けました。

 

ベルケが面接して隊員にした最初の15人のパイロットのうち、
8人がエースになり、全員が戦闘指揮官になり、
そのうち4名のエースは第二次世界大戦中に将軍になっています。

ベルケの最初の「パイロット名簿」で最も成功した、レッドバロン、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンは、ベルケに倣って
「リヒトホーフェン・ディクタ」を制作しました。
彼の作戦戦術マニュアルの冒頭の文章は、ベルケに捧げられています。

 

「ベルケは、ナチスが設立される前に戦死したため、
ナチの大義との関係によって傷つけられなかった
第一次世界大戦の数少ないドイツの英雄の1人だった」

と言われます。
しかし彼の愛読書から推察して、早くに死んだことは彼にとって
幸いなことだったとわたしには思われます。(意味深)

ただ、第三帝国は死後の彼の名声を放っておいてはくれず、
ドイツ空軍の中型爆撃機部隊に彼の名前が付けられました。

彼にちなんで名付けられたドイツ空軍の兵舎は、皮肉にも
後に ミッテルバウ・ドーラ強制収容所の予備キャンプになっています。

■ 今に生きるベルケ

彼の名前は、現在のドイツ空軍の第31戦闘爆撃航空団の紋章に記載されています。
隊員は毎年命日にベルケの墓への参拝を行っています。

Taktisches Luftwaffengeschwader 31 - Wikipedia

ネルフェニッヒ空軍基地飛行場でも彼の名は記念されています。

基地建物の壁画、ホールに肖像写真、そして本部入口に胸像があります。
隊内雑誌の名前は「ベルケ」。

飛行機尾部には、彼の名前とフォッカーの絵が描かれています。

ディクタ・ベルケは、時間の経過しても決して廃れず、
世界中の空軍向けの戦術、技法、およびマニュアルなど広く応用されてきました。

米国合同参謀本部 (JCS)、米国海軍(USN)、米国空軍(USAF)には、
ディクタ・ベルケをベースにしたそれぞれ独自の航空戦術マニュアルがあり、
北大西洋条約機構 (NATO)の後援組織であるUSAFには、
ディクタ・ベルケの末裔となる航空戦術マニュアルが存在します。

そこではドイツ、オランダ、ノルウェー、トルコ、イタリア、
ギリシャの戦闘パイロットが今日もそのディクタを受け継いでいるのです。

 

 

 

 

第一次世界大戦 ”初めて”のパイロットたち(おまけ:ラフベリーとライオン) 〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦当時の軍用機、
ことにエースに焦点を当てた展示から、リヒトホーフェン以外の
当時の飛行家、マックス・インメルマンやことにオスヴァルト・ベルケという
航空史において創始者となった人物の名前を知ることになりました。

今日は、当時アメリカから参加した戦闘機隊や、
ヨーロッパの航空隊に参加したアメリカ人飛行士たちをご紹介します。

■ ”初めて”のパイロットたち

ステファン・トンプソン
Stephern W. Thompson 1894-1977

がミズーリ大学を卒業後、
アメリカ陸軍沿岸砲兵隊U.S. Coast Artillery Corps
に参加したのは1917年のことでした。
すぐに陸軍航空隊の通信部門に転属した彼は、偵察員として
フランスの第一航空部隊で訓練を受けます。

1918年、フランスの爆撃隊の飛行場を訪問していたトンプソンは
病気で休んでいたフランス人の偵察員兼射手の代わりに
爆撃機に乗ってくれないかと誘われて搭乗。

任務から帰投する途中、ドイツ軍の戦闘機が現れ、トンプソンは
そのうち1機を撃墜し、アメリカ軍の制服を着たアメリカ軍人として
初めて公式に「航空勝利」が公式にクレジットされることになりました。

その年の7月の空戦で、彼のサルムソン2A2は、
「リヒトホーフェン・サーカス」のフォッカー eD.VIIに攻撃されました。

トンプソンは機を撃墜しましたが、3機目の弾丸が彼の機関銃を破壊し、
彼の脚に当たりました。
彼の機のパイロットは胃に弾丸を受けましたが、
亡くなる前になんとか飛行機を墜落させ、トンプソンは命を救われました。

 彼らを撃墜したパイロットは有名なドイツのエース、
エーリッヒ・レーヴェンハートErich Loewenhardt ( 1897 – 1918) です 。

絶対ナル入ってる

トンプソンがアルバトロスD.IIIを撃墜したときに着用していた飛行服と
彼の脚から取り出された弾丸は、米国空軍国立博物館に展示されています。 


Fallen World War I Aviator Gets Posthumous Distinguished Flying ...

ジェームズ・ミラー大尉   James Miller 

ジェームズ・ミラー大尉は、米軍の最初の飛行士であり、
第一次世界大戦で最初の米航空の犠牲者となった人物です。

イエール大学卒で成功したニューヨークの投資家だったミラーは、
(道理で着ている服がゴーヂャスだと思った)
1300におよぶ著名な事業に参入していたプロフェッショナルで、
新聞に「ミリオネアー・ルーキー」などと書かれながら、
1915年、軍事科学の勉強をニューヨークのプラッツバーグキャンプで開始し、
その年の後半にはやはり飛行士だった米国鉄鋼社のエグゼクティブ、で弁護士、
レイナル・ボリング (Raynal Bolling )とともに、ニューヨーク州兵の
初の航空製造会社の立ち上げを行っています。

1918年2月、ミラー大尉は最初のアメリカ人戦闘機パイロットを組織した
第95航空団に配属されて前線に赴きますが、翌3月、
彼は空戦に巻き込まれ、アメリカ人飛行士として初めて戦死しました。

ボリング大佐

ちなみに、レイナル・ボリングもハーヴァードロースクール出身の弁護士で、
また裕福な出の実業家でありながら飛行士となった人物です。
ヨーロッパ戦線に赴き、車で移動中ドイツ軍と遭遇し、射殺されました。

ボリングの死はミラーの1ヶ月後で、奇しくもこの二人の実業家は
アメリカ人として初めて空と地上で戦死したということになります。

 

■ラファイエット航空隊とラフベリー軍曹

ジェルヴェ・ラウル・ヴィクター・ラフベリー
Gervais Raoul  Victor Lufbery(1885-1918)

 

この人の写真を当ブログであげるのは3回目となります。
次のコーナーでは

ラファイエット航空隊

の紹介がされているので、フレンチーアメリカンの飛行士である
このラフベリー軍曹の写真が登場しているのです。

この写真で彼は軍服にフランス政府から授与されたレジオンドヌール勲章、
軍事メダル、そしてクロワ・ド・ゲール、十字勲章を付けています。

ラフベリー軍曹はパリのチョコレート工場で働いていたアメリカ人化学者の父と、
フランス人の女性の間に生まれましたが、1歳で母を亡くし、
フランスで母方の祖母に育てられました。

17歳になると彼は放浪の旅を経て父の国アメリカに辿り着き、
陸軍に在籍した後はインド、日本、中国に任務で赴任しています。

フランスの航空会社の整備士として働いていた彼は、
知人がパイロットとして戦死したのをきっかけに訓練を始めます。

訓練中、彼は同僚のパイロットから整備士上がりであることを理由に
ずいぶんいじめを受けたようですが、整備士ならではの忍耐と
機体を熟知し、細部にまで注意を払いそれを飛行に生かすというスタイルで
エースパイロットになることができました。

1916年、アメリカの有志が、フランスの対ドイツ戦を支援するために

「エスカドリーユ・アメリカ」(アメリカ戦隊)

という派遣部隊を結成することを決めました。
この名前は、ドイツから「中立性の違反にあたる」と激しい抗議を受け、
すぐに

「エスカドリーユ・ラファイエット」(ラファイエット戦闘機隊)

と改名されています。
戦隊は、ほとんど飛行経験のない上流階級のアメリカ人で構成されていました。

ここで思い出していただきたいのが、当ブログで以前ご紹介した

フライボーイズ(FLYBOYS)

という映画です。

主人公はジャン・フランコ。

フランス人大佐にジャン・レノという一点豪華主義配役の映画でしたが、



これ、ラファイエット航空隊がモデルなんですね。

で、ドイツ軍の通称ブラックファルコンといういかにも悪そうな奴と
空戦してやられてしまうエースのキャシディ大尉は、
ラフベリー大尉をモデルにしていると考えられます。

主人公のフランコも落ちこぼれっぽい青年でしたし、
銀行強盗したこともあるやつが混じっているあたり、
「上流階級から選ばれていた」という史実に反しますが。

ラフベリーは航空経験を持つアメリカ市民として採用されましたが、
ユニットメンバーとの出会いは決してスムーズだったとは言えませんでした。

労働階級出身の彼の英語には強いフランスなまりがあり、さらに仲間のほとんどは
裕福な家の出身で、全員がアイビーリーグで教育を受けたエリートばかり。
共通点は何ひとつありません。

しかし、戦闘に入ると、たちまち彼は仲間の尊敬と称賛を受けるようになります。

 ある日仲間のパイロットがライオンの仔を購入しました。
ウィスキーを皿に入れて飲むのが好きだったとかで、(!)
「ウィスキー」と名付けられたこのライオンを、ラフベリーは数年間育てました。

 ウィスキーがガールフレンドを必要としていると思われた頃、
たまたま「ソーダ」という名前のメスライオンがやってきました。

(彼は追加でライオンを買ったわけですが、当時のフランスというのは
アフリカからの船で野生動物なんかをバンバン輸入していたようです。

今でもフランスの動物園に行くとその名残が見られます。
決して大きくない動物園にキリンが1ダースいたりとか、ゾウガメがたくさんいたりとか。
当時はさぞや掴み取り取り放題で動物を獲ってたんでしょう)

ソーダはウイスキーよりもはるかに野性的で、人に慣れず、それどころか
隙あらば人に襲いかかる気満々だったのですが、ラフベリーにだけは懐いていました。

最後までウィスキーはペットの犬のようにラフベリーの後をついて回っていましたが、
 彼が亡き後、ペアは自動的にパリ動物園に連れて行かれたということです。

ラファイエット航空隊のメンバーが集合写真を撮ろうとしていたところ、
ウィスキーがやってきてラフベリーにすりすりを始めてしまったので、
写真が撮れないだけでなく、みんなちょっと引いているの図。

 

ラフベリーはラファイエット航空隊で17機の撃墜記録を立て、
エースになりました。

1918年5月19日、ニューポール28で出撃した彼が
攻撃のため敵機に近づいたとき、ドイツの砲手が発砲しました。

 高度が200から600フィートの間を下降している時、
ラフベリーは飛行機から飛び出し、落下した彼の体は、民家の庭の
金属製のピケットフェンスに突き刺さったと言われています。

ラフベリーはフランスにある飛行士墓地に軍の名誉をもって葬られ、
後にパリのラファイエット・メモリアルに運ばれあらためて埋葬されました。

彼の公式撃墜数は17機ですが、彼の仲間のパイロットは、
25機から60機は未確認撃墜をしている、と証言しています。

彼もまた、フランス系アメリカ人として初めてのエースとなりました。

ラファイエット航空隊のパイロット、
エドウィン・パーソンズが着用していた「ケピ」という
フランス軍独特の帽子。

金糸のブレード飾りがフランスらしく粋です。

冒頭の航空機は、ウドヴァー・ヘイジー(別館)にある

ニューポール Nieuport 28C.

です。

著名なフランスの航空機メーカー、

ソシエテ・アノニム・デ・エスタブリセメンツ・ニューポート

は1909年に設立され、第一次世界大戦前に
一連のエレガントな単葉機のデザインで有名になりました。

会社の同名のエドゥアール・ド・ニューポールと彼の弟シャルルは、
どちらも戦前に飛行機事故で死亡しています。

才能のある設計者のギュスターヴ・ドラージュは1914年に会社に加わり、
セスキプラン・Vストラット単座偵察機の非常に成功し、戦時に
ニューポール11とニューポール17は最も有名な飛行機となりました。

ニューポール28C.1は1917年半ばに開発されました。

ニューポールが製造した最初の複葉戦闘機の設計で、上下翼の弦がほぼ同じです。
スパッドVIIとそのころ発表されたスパッドXIIIの優れた性能と競合するために、
セスキプランシリーズで採用されているタイプよりも強力なモーターの使用を検討しました。

より強力で重い160馬力のGnôme製ロータリーエンジンが利用可能になったことで、
下翼の表面積を増やして新しいエンジンのより大きな重量を補うという決定が促され、
典型的なニューポートセスキプレーンVストラット仕様は廃止されました。

1918年の初めごろのフランスの航空界は、より新しい、より先進的な
スパッドXIIIを愛好する派が多かったため、彼らは新しいニューポールデザインを
最前線の戦闘機として使用することを実質拒否していました。

しかし、ニューポール28は新しい「居場所」を得たのです。
それは大西洋の向こうから到着したアメリカの飛行隊でした。

自国に独自の適切な戦闘機がなかったため、米国は、
需要の多いスパッド XIIIをフランスから入手できるようになる前に、
一時的措置としてニューポール28を採用しました。

ニューポール28は、
アメリカ遠征軍=「駆け出しのUSエアサービス」
の最初の運用機として、信じられないほどの性能を発揮することになります。

全米航空コレクションにおけるニューポール28の主な重要性とは、
アメリカの指揮下にあり、米軍を支援するアメリカの戦闘機と一緒に戦う
最初の戦闘機であったということでしょう。

また、アメリカ軍部隊で空中勝利を収めた最初のタイプでもありました。

1918年4月14日、ニューポール28を操縦する第94航空飛行隊の
アラン・ウィンスロー中尉とダグラス・キャンベルは、
それぞれゲンゴール飛行場で直接行われた空戦で敵機を撃墜しています。



続く。

 

第一次世界大戦の航空とダイバーシティ(人種多様性)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦の軍用機ギャラリーの
上空にハングされているこの飛行機の正体を突き止めるのに
なぜかものすごく時間がかかってしまいました。

ヴォワザン Voisin VIII

ヴォワザンタイプ8はフランスの爆撃機ですが、当時の飛行機にして
夜間に使用するために内部爆弾ラック、コクピットライト、そして
着陸灯の設備が搭載されていました。

現物を見た限りではフォッカー などと比べても旧式っぽいのに、
意外なくらい?当時の先取だったわけです。

ガブリエルとシャルル・ヴォワザン兄弟は、二人とも
ヨーロッパを代表するパイオニア飛行士でした。

ガブリエルは1905年、ルイ・ブレリオとヨーロッパで最初の
民間航空機製造会社を設立しましたが、二人はすぐに喧嘩で決裂したため、
弟のシャルルとともに会社を改革し、

ヴォワザン兄弟飛行機会社
(アパレイユ・ダビタシオン・レ・フレール・ヴォアサン)

を設立しました。

1907年に登場した最初の古典的なプッシャー複葉機は
第一次世界大戦前の最も重要な航空機の1つでした。

ヨーロッパを代表する飛行士の多くがヴォイザンを飛行させました。
1912年までには、初期タイプをもとに75機以上の飛行機を生産、
そして同年軍用に成功したバージョンを開発し、契約に繋げます。

フランス軍によって採用されたヴォワザン1912(タイプ1)は
二人乗りのスペースを備えた短いナセルと、後部に80馬力の
ルローヌ9Cエンジンを備えた、二枚の翼が同じ大きさの複葉機でした。

十字形の尾が翼に取り付けられており、着陸装置は四輪式です。

ガブリエル・ヴォアザン - Wikipediaちょっぴりお茶目なガブリエル(右)


ヴォアザン兄弟はその設計哲学において常に保守的でした。

戦時中の機体の設計変更はごくわずかで、性能の改善は、主に、
より強力なエンジンを取り付けることによって行われました。

戦争中、ヴォワザンの「プッシャーシリーズ」は、偵察、大砲発見、
訓練、昼夜爆撃、地上攻撃など、さまざまな任務を遂行しました。

戦争が始まって最初に記録された空中でのヴォアザンの勝利は、1914年10月5日、
フランスのパイロットとその(撃墜)観測者がヴォワザン3から
ホッチキス機関銃を発射し、ドイツのAviatik B.1を撃墜したときのものです。

また、航空機史上最初の専用爆撃ユニットを装備していたことでも注目に値します。

1915年5月26日、ドイツ軍が毒ガスを戦闘に投入したことに対する
報復攻撃を行ったのが、このヴォアザン3の部隊でした。

 

ヴォアザンは、ドイツ国内の標的への日中の攻撃をこのように成功させてきましたが、
1916年までには、新しく、より高い性能を持つドイツの戦闘機に対して、
低速で後方からの攻撃に無防備な機体は、次第に脆弱になってきていました。

しかし、これらの弱点にもかかわらず、基本機体が頑丈で信頼性が高かったため、
まだまだ訓練機として、そして夜間任務に使用され続けたのです。

また、英国、ロシア、イタリア、および米国を含む12か国に
供給またはライセンス生産されています。


スミソニアンにあるヴォアザンのタイプ8は、1916年11月から
夜間爆撃中隊の任務に使われていたものです。

エンジンに220馬力のプジョー8 Aaインラインを搭載したため、タイプ8は、
このより大きくて重いエンジンに対応するために、自ずと胴体が大きく強化され、
翼幅が大きくされる必要がありました。

機関銃は1門または37 mm機関砲が装備されていました。

新しいエンジンは確かに名目上性能を向上させましたが、しかし、
それは決して信頼に足るとは言えなかったので、ヴォアザンは
軽量で強力な280馬力のRenault 12Feエンジンを
タイプ8の機体はそのままに載せたタイプ10を開発しました。

そうしてようやくタイプ10は、射程、速度、爆弾の負荷が改善され、
1918年の初めにタイプ8に取って代わることができたのです。

NASMコレクションのヴォワザン8は、1917年の初めにアメリカ大使を通じて
米国政府が購入した3機のうちの1機でした。

もともとアメリカが技術評価し、その技術を取り入れるために取得したのですが、
機体が米国に送られてきて、さらに飛行デモの準備ができたころには
すでに時代遅れになっていたのです。

そこで陸軍省航空機生産局の中佐は、スミソニアン長官に、
「展示用の時代遅れ機」について書簡を送り、
こいつを引き取って煮るなり焼くなり好きにしてくれ、と頼みました。

申し出は受け入れられ、ヴォアザン8は他の2機と一緒に博物館に運ばれました。
長らく保管されてきた機体は1989年から1991年に復元され、博物館の
第一次世界大戦関係のギャラリーに展示されました。

このシリアル番号4640は、爆撃機として特別に設計された現存する最も古い航空機です。

1916年2月に製造されたときは、内部爆弾ラック、コックピットライト、
着陸灯の設備を備えた夜間爆撃機として装備されていました。

フランスの爆撃戦隊VB 109のマーキングで描かれ、
生産された1,100のタイプ8の唯一の生き残りです。


■ 空の戦争に訪れたダイバーシティ「民族多様性」

 

米国は激しい社会的および政治的激動の時期を経て戦争に参加しました。

南部の田舎へのアフリカ系アメリカ人の移住と、南部と東部の
ヨーロッパ移民の波は、北部の工業都市の人口だけでなく、
確立されていた政治秩序を変えていきました。

一部の政策立案者は、これらの変化に一種の脅威を感じ、

「民族の多様性と階級の分裂が米国の戦争動員を妨げる」

と主張しましたが、実際には、アメリカへの参戦に伴い愛国心が高まり、
それらのうねりは基本的に階級、民族、人種の境界を越えていったのです。

 

第一次世界大戦は、アメリカ社会の人種差別を消し去ることまでは
決して(そして到底)できませんでしたが、結果的にその愛国心が
あらゆる背景の人々を戦争協力と参加へに駆り立てることになりました。

多くのアメリカ人は、特に彼らを飛行士として「空中に送り出す」ことで
連合国の大義に大いに貢献できると考えたのでした。

ジョージ・オーガスタス・ヴォーン二世
George Augustus Vaughn Jr.1897-1989

当ブログでこの人を紹介するのは二度目です。

以前、初期の戦闘機パイロットは名門校出身率が異常に高い、
ということを書いたことがあるのですが、
わたしだけがそう感じていたわけではなく、スミソニアンの説明にも

「アメリカが戦争に突入する前、同盟国のために航空に志願した男性たちは、
アメリカ北東部の名門校出身が不自然なくらい多かったのでした」

と書いてありました。

このジョージ・オーガスタス・ヴォーン二世も、アイビーリーグの雄、
名門プリンストン大学を卒業し、1917年陸軍航空隊に入隊しました。

ちなみにイギリスにわたってから、彼はオックスフォード卒のパイロットと一緒に
飛行訓練を受けています。
イギリスでも当時の航空にはエリート層が多かったということです。

これは、当時の知識青年たちが、新しい航空という科学に目を開かれると同時に
ノブリスオブリージュとしてその危険で愛国的な任務を選んだからと考えられます。

しかも、彼はプリンストン在学中に飛行機の操縦法を
カーティス・ジェニー複葉機を使って学んでいますから、陸軍は
名門大学の学生に優先的に訓練を行える施設を提供していたのでしょう。

しかし、ヴォーン二世は単なるアイビーリーグ卒のおぼっちゃまではなく、
第84飛行隊で13機を撃墜しエースになっています。

彼が撃墜したドイツ人パイロットの1人に、21勝のエースである
フリードリヒT.ノルテニウス 大尉もいました。

 

そしてこちらは"パイオニア"代表です。
エリート大学のぼっちゃまがいるかと思えば、下層とされていた
アフリカ系もいたのが、当時のアメリカ軍航空隊でした。

ユージン・ジャック・バラード 
Eugene Jacques Bullard1895-1961

は粘り強さ、スキル、そして運の並外れた組み合わせを持ち合わせた、
アメリカ航空史上初めての戦闘機パイロットでした。

この人のことも当ブログでは「タスキーギ・エアメン」の項で紹介済みです。

バラード

当時アメリカでは黒人に対するリンチが日常的に行われていました。

ある時バラードは、父親が暴徒に殺すと脅迫される事件に巻き込まれたため、
1911年にアメリカから家族を伴ってフランスに密航逃亡しました。

そして戦争が始まると、彼はフランス外人部隊に入隊し、
その後正規のフランス陸軍歩兵部隊に移送されることになりました。

外人部隊は1915年、多くの犠牲者を出していますが、彼はそこで2度負傷し、
クロワ・ド・ゲール勲章を授与されています。
まず以前ここで話したこともあるベルダン攻防戦で重傷を負い、回復後、
身体障害者であると認定されたにもかかわらず、銃手に志願します。

その後パイロットのトレーニングを申請し、訓練終了後、あの
ラファイエット飛行隊に編入され、爆撃偵察など20以上の任務を行いました。

一度はドイツ機を撃墜したこともあるようですが、未確認とされています。

戦争が終わるとラファイエット航空隊はそのままの形で
アメリカ陸軍の航空サービスにスライドすることになりましたが、
アメリカ国内で黒人は航空機の操縦をすることはまだ禁じられていました。

戦後の彼は、決して戦中の功績を尊重されることはなく、むしろ辛酸を舐めたようです。


同じラファイエット飛行隊を描いた映画「フライボーイズ」で、黒人青年スキナーが

「アメリカより自分を人間として扱ってくれるフランスに尽くしたい」

と言っていましたが、これはバラードの心情そのものでもあったかもしれません。

第一次世界大戦時に発行された公債「victory liberty loan」のポスターです。

「アメリカ人みんなで」とか「皆アメリカ人!」というロゴが踊っていますが、
注意していただきたいのがここに書かれている名前です。
何系であるかは当ブログ調べです。

デュボワ→フランス系
スミス→イギリス、スコットランド系
オブライエン→アイルランド系
チェスカ→ボヘミア系
ハウケ→ドイツ系
パッパンドリコポロウス→ギリシャ系
アンドラッシ→ハンガリー系
ヴィロット→南イタリア系
レヴィ→ユダヤ系
トゥロヴィッチ→ユーゴスラヴィア、ウクライナ系
コワルスキ→ポーランド系
クリツァネヴィッツ→ロシア系
クヌッソン→スカンジナビア系
ゴンザレス→ヒスパニック系

有名なポスターですが、これらの人物を個人的に特定するのは
非常に難しいことのように思われます。
これだけ多様性を持った人々が一つの目的=戦争に向かって
一致団結していくのがアメリカである、ということを表しています。

そのアメリカの理想を絵に書いたようなイタリア系アメリカ人飛行士、
フィオレッロ・ヘンリー・ラ・グァルディア(Fiorello Henry La Guarudia)。

イタリア移民の彼はアリゾナ、ニューヨーク、ヨーロッパで幼少期を過ごし、
自力でロースクールに入学し、1916年には下院議員に選出されています。
その後、飛行機の操縦を学び、1917年、ラ・グァルディアは陸軍航空隊に入隊。

その飛行士としての経験、政治的立場、そしてイタリア語が堪能なため、
ヨーロッパではイタリアの航空訓練学校の司令官に任命されました。

彼のご指導ご鞭撻のもと、406名のアメリカ人がフォッジアで訓練を終了し、
イタリア軍の戦略爆撃隊に参入しました。

ラ・グァルディアの部隊はイタリア人設計技師で航空会社オーナーだった
ジャンニ・キャプロニが設計したキャプロニ爆撃機を使用していました。

写真で右側に立ってにやけている伊達男がキャプロニです。

 

しかし、水を差すようですが彼が成功したのは、
彼が肌の色が白いヨーロッパ系の出自だったからです。

アメリカの旗のもとにドイツ兵に立ち向かっていくのは
肌の色の濃いアフリカ系アメリカ人です。

ひげをはやしてビール腹の比較的爺様ばかりのドイツ軍を
どうやら無茶苦茶にやっつけているようですが、左には

「カラード・メン
前線に我々の旗を立てた最初のアメリカ人たち」

と書いてあります。
これも有名なミリタリーポスターのようですね。

天上からこれを見守るリンカーンが

「自由(リバティとフリーダム)は
決して与えられるものではない」

と呟いております。

アメリカ人はフリーダムという言葉が好きですが、それは
自分の手で、血を流して勝ち取った自由という意味でもあります。

ダメ押しとしてポスター下部には

「フリーダムの真の息子たち」

とアメリカのために戦うアフリカ系を称えているのですが、
これは裏を返せば、黒人として生まれたからには
血を流すことで初めてアメリカ人として認められるという意味でもあります。

しかし今ふと思ったんですが、こういう考え方がDNAに組み込まれている
アメリカ人全般にとって、血を流さず自国をアメリカに守らせようとしている
(ように見える)日本というのは、いうならば「卑怯者の集まり」であり、
したがって真の自由を勝ち得ていない、ということになるんだろうなあ。

まあ、そういう国になったのは外でもないアメリカさんのせいなんですがね。


それはともかく、スミソニアンの歴史家の、このポスターに対する
皮肉な解説は以下の通り。

満たされなかった期待

多くのアフリカ系アメリカ人が軍サービスに志願しました。

しかし、この募集ポスターの画像とは対照的に、
アメリカの遠征軍と一緒に戦闘した黒人部隊はほとんどありませんでした。

黒人兵士がフランス軍の指揮下で歩兵として戦った一方で、
米軍はアフリカ系アメリカ人を港湾労働者や人足、その他
雑用労働者としてサービスするようにと要求していたからです。

海兵隊は黒人は決して入隊させませんでしたし、陸軍は
アメリカ軍の航空隊から当初彼らを除外していました。

「セグレゲート・ユニット」つまり有色人種だけ分離された部隊で
彼らが民主主義の原則のために戦っていたという現実は、
アメリカ社会における理想主義との間の隔たりを強調していました。

 

続く。

 

 

リバティ・エンジン 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦「ウォーバード」ギャラリーは、
当時の参戦各国のエースやアメリカの人種的偏見の歪みなど、
じつに多角的な展示が続いていて、もし時間があって、端から全部
順番に観ていったら、誰でもちょっとした物知りになれそうです。

第一次世界大戦の際に制作された有名な
アンクル・サム(U.Sでアメリカの擬人化)が

「陸軍に君が欲しい!」

と指差ししているリクルートポスターが映り込んだケースの中には、

デイトン・ライト Dayton Wright
デハビランド  De havilnad DH-4
”リバティ・プレーン Liberty Plane"

の16分の1スケールの模型と、

アメリカ陸軍第96航空飛行隊

の部隊徽章が展示されています。
実際の機体はNASMコレクションにありますが、わたしが行ったときには
本体は展示されておらず、この模型だけしかありませんでした。

NASMが所有しているデハビランドDH-4は実戦経験はありませんが、
アメリカで最初の爆撃機の試験機であり、第一次世界大戦で
アメリカ陸軍航空部隊にサービスを提供する唯一のアメリカ製航空機でした。

 

1917年4月6日、アメリカが第一次世界大戦にに参加したとき、
今では信じられないことですが、米航空部隊は
戦闘が可能な航空機をほとんど所有していませんでした。

そこで即戦力となる航空兵器を最短の時間で製造できるように、
以前もお話ししたことがある実業家出身のR・ボリング大佐の指揮の下、
アメリカで航空機の製造を推進する委員会が設立され、
フランスのスパッドXIII、イタリアのカプローニ爆撃機、イギリスのSE-5、
ブリストルファイター、DH-4など、ヨーロッパの航空機などが検討されました。

DH-4が選ばれた理由は、比較的単純な構造と大量生産への適応性の高さです。
また、今日本題となるアメリカ製のリバティV-12エンジンにも適していました。

それでも当時、米国での大量生産を行うには、
元の英国での設計からの大幅な技術変更が必要だったのです。

 

そこで生産が始まったのですが、アメリカで作られたのDH-4には
いくつかの重大な問題がありました。

まず、基本的な設計ミス。
なぜかパイロットと偵察員の席のあいだに大きな燃料タンクがあって、
乗員間のコンタクトを困難にするだけでなく、墜落時に大変危険でした。

リバティエンジンも最初は心配の種でしたが、そちらは問題解決後、
最高速度は当時のほとんどの戦闘機の速度に匹敵するか、
それを超えることができています。

完成後、それは

「リバティ・プレーン(自由の飛行機)」

と呼ばれました。

3つの米国の製造業者が製造を請負いましたが、最大の生産者は、3,106機を製造した
オハイオ州デイトンの(あ、この間行った国立航空博物館のあるところだ)
デイトン・ライト・エアプレインカンパニーです。

DH-4は4か月未満しか戦闘に参加しませんでしたが、その価値は十分証明されました。
第一次世界大戦中の6つの名誉勲章のうち、4つはDH-4のパイロットに与えられています。

そのうち二つは第50航空飛行隊のハロルド・ゲットラー中尉と、

偵察員のアーウィン・ブレックリー中尉が死後受賞しています。

その状況を説明しておくと、二人の乗ったリバティ・プレーンは、
1918年10月8日、敵地上空を繰り返し飛行し、戦闘でで孤立していた第77師団、
通称「失われた大隊」の生存者に物資を届けるという任務の途中、
ドイツ軍の銃撃を受けて両名とも戦死したというものです。

飛行中パイロットのゲットラー中尉がドイツ軍の機銃に撃たれて即死し、
ブレックリー中尉は後部座席の補助装置を使って操縦しようとしましたが、
ゲットラー中尉の体が前に倒れ、操縦桿を押す形になって急降下し、
機体はその後地面に激突したのでした。

これなども、偵察員が操縦席にすぐに乗り移ることができれば
少なくともブレックリー中尉は死なずにすんだのではなかったでしょうか。
つまり、機体の欠陥のために二人は亡くなったことになります。

ブレックリー中尉は機体から投げ出され、発見された直後は
息がありましたが、車で病院に運ばれる途中で亡くなりました。

彼らが命を引き換えにして行った任務は、アメリカによる
初めて成功した戦闘空輸作戦となりました。

DH-4は戦後も汎用性を発揮し長年にわたって任務を続けました。

1918年に航空便が開始されたときにデリバリー用にとなり、
フロントシート(かつての偵察員の席)の部分に郵便物を乗せて飛びました。

丈夫な機体はまた森林火災パトロール航空機として、輸送機、空中救急車、
農薬散布機として使用される例もありました。

NASMコレクションのDH-4は、アメリカ製のプロトタイプで、
引退するまで2,600回以上のフライトテストで使用されました。

1918年5月13日には、オービル・ライトがこのDHに乗り、
ライトモデルBのテストパイロットとして最後の飛行を行っています。

そしてミサイルを持つ赤い悪魔のマークですが、
やはりアメリカ遠征隊としてヨーロッパで展開した、
戦術爆撃隊、第96飛行隊のものです。

80名の大卒、中退者、ボランティア、エリートグループで構成され、
エンブレムのデザインもグラフィックアーティストだった隊員が
赤い悪魔をモチーフに考案したものです。

オリジナルデザインは悪魔が自分の鼻を撫でているもの。

彼らの試用機はブレゲ Bréguet 14爆撃機でした。

総出撃数1149回、戦闘ミッション86回、交戦22回で
死亡者6名、負傷者10名、行方不明者30名、
失われた航空機17機。

部隊の半数以上が死傷するという壮絶な戦いにおいて、
赤い悪魔たちは撃墜14機、撃破14機という戦果をあげています。

「バルブ-イン-ヘッドモーターの鳴る音で、
フンの血生臭い仕事が止まる」

この禍々しいポスター、なんだと思います?

東からやってくることから、「フン族」がドイツ空軍を意味するというのは
以前このブログでお話ししたことがありますね。

「バルブインヘッドモーター」については、当方エンジン関係に滅法疎いので
自信はないのですがおそらく内燃エンジンのことではないだろうかと思うわけです。

つまり、このエンジンが稼働すればドイツ軍を止めることができると。

地面を血塗れで走りながら逃げているのはフン族、じゃなくてドイツ兵。
頭上の敵機は連合国軍機です。

さらにもう一段下にこう書いてあります。

「誰もが知っている バルブインヘッド、それはビュイックのこと」

ビュイックって、あの車のビュイックでしょうか。
つまりこれ、ビュイックの広告なの?

さらにこのポスターの上には、アメリカ製造業協会議長の言葉として、

「ベルリンへの道は空を通っている。
空飛ぶ鷲がこの戦争を終わらせるのだ!」

とあります。
空飛ぶ鷲、つまり軍用機の製造が終戦への道である、
だから頑張って飛行機を作りましょう、と言いたいわけですね。

 

繰り返しますが、アメリカが参戦したとき、国内には
たった50の時代遅れの軍用機があっただけで、
航空業界は正直未熟といっていい現状だったため、
議会は航空機製造のための資金の大幅な増加を充当しました。

となると製造業界は海外への航空サービスの展開に大きな期待をかけます。

そして、アメリカで当時かなりの進歩を遂げていた
自動車産業の大量生産のノウハウを、
航空機や航空機エンジンの製造にそのまま応用することになったのです。

というわけで、製造業界は大いに張り切りました。

彼らは自国の需要だけでなく同盟国のニーズに対応できるくらい、
この「フィーバー状態」で生産が増えることをを熱く期待していたのです。

ここには、リバティ・プレーンが搭載していたエンジン、

リバティエンジンL-8 第一号

が展示してあります。
工場の中という設定の写真のパネルには製造中の車が置かれています。

リバティエンジンは、第一次世界大戦中の航空技術において
アメリカの為した最も重要な貢献だったといえるかもしれません。

設計はパッカード社のジェシー・G・ビンセントとホール・スコット社の
エルバート・J・ホールが1917年、米国政府のために共同で行いました。

4気筒、6気筒、8気筒、および12気筒バージョンの標準設計で、
米国の戦闘機に装備するために迅速な大量生産が可能です。

可能な限り短い時間でエンジンを稼働させるために、
ホールスコットとパッカードの両方の機能を備えた
実績のあるコンポーネントのみ採用た結果彼らは成功し、
最初の8気筒エンジンが陸軍に納入されました。

ここにあるリバティ L-8 は、L-12エンジンのプロトタイプです。
その後L17の15個のプロトタイプは、ビュイック 、 フォード 、 リンカーン 、
マーモン 、 パッカードなどの複数の自動車会社によって製造されました。

ここにあるエンジンは史上第1号生産型となります。

唐突に現れた乗馬ブーツとカウボーイハット。
部隊の記章は、まさに荒馬に乗るカウボーイを表しており、
じゃじゃ馬(飛行機)を乗りこなすカウボーイ(アメリカ人)
ということで、第88航空部隊のエンブレムです。

88th Aero Squadron.jpg

第88航空飛行隊は第一次世界大戦中に西部戦線で戦った航空部隊で、
偵察飛行隊としてフランスの西部戦線で活動し、
敵軍団を近距離から戦術的に偵察し、情報を収集しました。

部隊使用機は、

ソッピース 1½ ストラッター単座爆撃機、

ドランドAR 1および2、

サルムソン2A2

など。
西部戦線には1918年5月24日から11月11日まで参加し、

出撃:1,028回
戦闘ミッション:557回
敵との交戦:13回

戦死:パイロット3名、偵察員3
負傷:パイロット1名、偵察員6名
未帰還:偵察員3名(POW)

喪失機:46機

撃墜:4機
撃破:4 機

という実績を挙げています。

ウィリアム・”ビリー”・ミッチェル将軍 
Gen. William"Billy" Mitchell 1879-1936

ウィリアム・ミッチェルで検索すると、この人より先に
パックマンですごいスコアを出したゲーマーの名前が出てきます(笑)

ミッチェルといえばB-25はまさにこの人の名前が付けられています。

軍艦と違い陸軍機にはあまり人名が付けられたことがないのですが、
それだけこの人が陸軍航空で功績があったと思われていたのでしょう。

ところでさきほどの乗馬ブーツと帽子はミッチェル着用のもので、
この乗馬好きというのが彼の作戦立案に影?を落としていたようです。
というのは、ミッチェルは彼の部下の航空隊飛行士たちを、

「独立した奇兵隊」

と称し、さらに航空戦術立案においても、

「爆撃、追跡、独立した騎兵がそれぞれの任務を請け負ったように、
航空隊もまた独立した任務を行うべきである」

つまり南北戦争で使用された機動戦の経験に基づき、ミッチェルは
飛行機は馬に代わる新技術であるという考えに立っていたのです。

いつかミッチェルについては取り上げるつもりですが、
陸軍航空のパイオニアのこの意見については、当時の若い将校なども、
飛行機と馬は違うんだよなー、オヤジわかってねーなー、
くらいのことは内心考えていたかもしれません。

スミソニアンもその辺は辛辣で、

「ミッチェルは、しかし、自分が期待する作戦通りに作戦が運ぶには
航空機には限界があるということを認めるのに失敗しました」

と評しています。

カーティス Curtiss HS 2L フライングボート

今回初めて海軍機が登場です。

カーチスHSは、第一次世界大戦中に アメリカ海軍のために建造された
単発エンジンの巡視飛行艇で、1917年から1919年にかけて多数が建造され、
フランスの基地から対潜哨戒を行うために使用されました。

1928年まで米国海軍で使用され、その後は民間で使用されています。

HS-1Lは1918年の初めに就役し始め、米国の東部海岸にある
多数の海軍航空基地とパナマ運河地帯から対潜哨戒隊を飛行させていました。

実はこの飛行機、

ドイツのUボートを発見し、これに航空機攻撃を行った

唯一の航空機でもあります。
1918年7月21日、マサチューセッツ州チャタムから飛んだ2台のHS-1Lが、
アメリカ海域でUボートを発見し攻撃を試みたのですが、
投下した爆弾は爆発せず、Uボートには逃げられています。

 

終戦後、ヨーロッパの米海軍航空サービスは大幅に縮小し、
多くの海軍航空基地が閉鎖されました。
その後かなりの数のHSボートは、エンジンなしで200〜500ドルで売却されました。

 

 

続く。


ベルリンの壁〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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今日11月10日はベルリンの壁が崩壊して41年目だそうで、めでたいことです。
そこで、SSMMにあった展示をご紹介しながら、
ベルリンの壁とその崩壊についてなんとなく語ってみたいと思います。

その展示というのは、なんと。

「よろしかったらお好きなようにお触りください」

と記されたベルリンの壁(部分)でした。

 

冷戦下で東西陣営に分裂していたドイツですが、人口の流出を阻止するため、
1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、
西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、そしてできたのがベルリンの壁です。

東西冷戦の象徴であった壁は、1989年11月9日、一人の東ドイツ政府の報道局長が、
勘違いして

「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」

と発表したことからあっという間に崩壊してしまいました。

ちなみにこの「勘違い発言」が午後6時、人々が検問署に殺到し、
どこかの誰かが壁を壊し出したのは日付が変わってすぐのことです。

壁崩壊については一度ここでも語ったことがありますし、
皆様もご存知のことと思いますが、ここの説明を一応翻訳しながら進めます。

■なぜベルリンの壁ができたのか

 

第二次世界大戦が終了したとき、戦前のドイツに残っていたものは、
四つの占領地域に分割され、それぞれが連合国である
アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソ連によって統治されていました。

ドイツの位置

こういうことですね。
わたしが昨年訪れたザルツブルグ もアメリカに占領されていて、
その期間にあの「サウンド・オブ・サイレンス」を
ハリウッドが映画化するという流れが作られていったということも
ここでお話しした通りです。

そこで、ソ連地域占領区の中にあるベルリンをご覧ください。

首都ベルリンはベルリンだけで同じように四分割され、
同じ4カ国に統治したわけですが、その際、連合国は
ドイツの「非ソビエトゾーン」を統合しました。

Occupied Berlin.svg

これはどういうことかといいますと、ソ連地域の赤と別に、
米英仏三ヶ国の「西側諸国」の地域は一つに統合されたということです。

統治が始まって2年以内に、ソビエト連邦とその他の統治国の間に
政治的軋轢が高まっていったため、米英仏はこの統合を行いました。

ここに「ソ連対西側諸国」、東西冷戦の構図が目に見える形で
はっきりと誕生したのでした。

1949年、5月に西ドイツが、5ヶ月遅れて東ドイツが独立します。
しかし、分割統治されたまま独立したので、二つの思想の違う国が誕生したのでした。

東から西への何年にもわたる移民と亡命の後、
ドイツ国内国境は閉鎖され、有刺鉄線のフェンスが建設されました。

壁ができる1961年までは、ベルリンでの東西の往来は自由だったため、
東から西に人々がどんどん流出してしまいました。

なぜかというと、皆がソ連の共産主義を嫌ったからなんですね。

共産主義というのは、そもそも人民の意見を汲み上げる思想ではないので、
それだけ嫌われているのに、その体制に何か悪いところがあるのかも、などと
自省をするようなことはせず、それを抑えるために
いきなり極端な弾圧的行動を取ったりするわけです。

この場合は、国境閉鎖でした。

このことによってベルリンは、たまたまソビエトの支配下に置かれた
東ドイツの人々が、必死になってそこから逃げるための「磁石」と化しました。
そして、大国アメリカとソビエト連邦の間の緊張の引火点となったのです。

「磁石」(magnet)とは上手いこと言うな、と思ったのですが、
それはともかく、「磁石」となったベルリンから西に逃れるには、
張り巡らされた鉄条網と2mの壁を突破しなくてはならず、
そこではいくつもの悲劇が起こりました。

■ ベルリンの壁の犠牲者たち

2010-03-08-berlin-mauer-by-RalfR-04.jpg

最初に犠牲になったのは、ギュンター・リトフィン(Günter Litfin)という
仕立て屋でした。

1961年夏、リトフィンは西ベルリンに引越しするための新居を用意しており、
壁の建設が始まる前日の深夜、新居の整理をしてから東に帰りました。

ベルリンの壁の建設は翌日早朝に始まり、同時に東西のベルリン往来ができなくなり、
リトフィンは用意していた新居も、そして職も瞬時にして失ったのです。

かれは西ベルリンへの移住を断念せず、国境となる運河に飛び込み、
東側の警官に射殺されて亡くなりました。

リトフィンを射撃した警官2名は、脱出を食い止めた功労者として
東ドイツ政府から表彰され、記念品として時計を受け取り、200マルクを得ました。

この2名はドイツ再統一後に殺人罪で起訴されて有罪となりましたが、
執行猶予つきの判決だったため刑務所への収監は行われていません。

ちなみにベルリンの壁での死亡者は、ポツダム歴史研究センターの調査によれば125人、
2009年8月のベルリンの壁記念館などの調査によれば136人とされますが、
この数はどこまでを犠牲者とするかで変わってきます。

たとえば、この死者数には逃亡者や逃亡幇助者などの反撃によって死亡した
国境警備兵8人も含まれているというのです。

逃亡者の射殺を命じられて任務を行った警備兵たちのなかには、
阻止しなければ厳罰を受けるにもかかわらず、明らかに殺人をためらい、
わざと狙いを外したとされる者もいたといいますから、
広い意味で彼らもまた「犠牲者」であったということもできましょう。

Idasiekmannbz.jpg

イーダ・ジークマンというこの59歳の女性は、
壁が建設されてすぐ、西側に脱出しようとして死亡しました。

彼女は東西ベルリンの間にあるビルの4階から西側に飛び降りようとし、
下で消防士がジャンプシートを広げようとしていたのに、気がはやったのか、
それが適切に広がる前にジャンプし、最初の犠牲者となったのです。

Peter Fechter.jpg

わずか18歳で命を失った人もいます。

ベルリンの壁建設の翌年、煉瓦職人だったペーター・フェヒターは、
壁の建設によって生き別れとなってしまった姉妹に会うため脱出を決意。

友人と共に2mの壁をよじ登っているところを警備兵に銃撃を受け、
背中に銃弾を受けたまま壁の東側の有刺鉄線に落ちてしまいます。

この騒ぎに群衆が東ベルリン側と西ベルリン側の両方から集まってきて、
有刺鉄線に絡まったフィヒターが弱っていくのを手の下しようもなく、
アメリカ合衆国の兵士やジャーナリストを含む群衆、東側の警備兵が
彼が死んでいくのを全員で見ているという異常な事態となりました。

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フィヒターが事切れてから遺体を運ぶ東側の兵士。
彼には西側の人々から罵声が浴びせられたといいます。

フィヒターを撃った警備兵たちは統一後裁判を受け、
やはり執行猶予付きの有罪判決がくだされています。

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壁の崩壊するわずか9ヶ月前、当時20歳のクリス・ギュフロイが射撃され、
彼は壁を越えようとして射殺された最後の人物になりました。

彼はスポーツが得意でしたが、東ドイツで「スポーツエリート」になるには
その後国家人民軍の将校になることを意味していたため、
それを拒否した彼はスポーツの道を閉ざされ、ウェイターの職業訓練を受けていました。

彼の友人で西側への脱出に成功した者がいたので、彼もまた
西側でレストランを開きたいと考えるようになったのでした。

1980年代にもなると、出国申請を行えば西に行けるということになっていましたが、
あくまでも特殊例で、うかつに申請などしようものなら、
当局からの差別や嫌がらせを受け、シュタージの監視対象になったので、
彼もまた申請を行おうとは全く考えていませんでした。

彼はある日、国境警備兵の友人から

「国境での発砲命令が失効している」

という情報を聞き、脱出を決心するのですが、これは誤りで、
彼が計画を実行したときにはまだ発砲命令は生きていました。

彼も友人とともに壁を越えようとし、発見されて友人は足を、
ギュフロイは至至近距離から胸を撃ち抜かれて死亡しました。

彼を撃った警備兵は徴兵によって任務についていた電気工の男でした。

 

この事件は、世界中に報道されて東ドイツはその残虐性を批判されました。

当時の東ドイツは経済が停滞しており、西側からの借款に依存していたため、
この殺人について西側からの非難の声が高まったことは政権に打撃を与えました。

当時の東ドイツ首相ホーネッカーは東ドイツの国際的な立場の失墜を恐れ、
発砲命令の撤廃に初めて許可をすることになります。

 

彼を射殺した26歳の電気工始め、27歳と26歳の電気工、
26歳の機械工ら四人はいずれも徴兵によって軍務に就いていました。

彼らは事件直後功労賞と報奨金を与えられていましたが、壁崩壊後、
殺人罪で裁かれることになりました。
被告席に立った4名は怯えきっていて、誰とも視線を合わさず、
何度も涙を流していたということです。

■ 日本分割統治計画

統一後に行われたこれらの裁判は、戦勝国が事後法で敗戦国を裁いた
日本での極東軍事裁判、ドイツでニュールンベルグ裁判を思わせます。

ドイツはニュールンベルグで痛い目にあっていたはずなのに、
壁崩壊後に同じことを同国民に対して行ったということになります。


ところで、分割されたドイツについて書き連ねていると思わずにいられないのは、
戦後日本でもドイツのような分割統治が行われるかもしれなかったという話です。

 

アメリカは日本が降伏する前から、終戦後の日本をどう統治するかについて
すでに計画を立てていたことは有名な話ですが、それによると
日本は分割統治されるものとして、具体的には

ソ連:北海道、東北地方

アメリカ:本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)

中華民国:四国

イギリス:西日本(中国、九州)

となっていました。
ちなみにイギリス連邦による中国地方と四国の占領は実現しています。

子供の頃、わたしの住んでいた近畿地方はアメリカ領になるかもしれなかった、
と聞いたとき、

「(もしそうなっていたとしても)アメリカで良かったー、ソ連よりずっとまともだから」

などと姉妹で言い合った思い出があります。

このアホ発言については子供の言うことなので大目に見ていただくとしても、
これは決して実現不能な架空の話ではなく、もし北海道、東北が
ソ連占領地域に置かれることになっていたら、人々には共産主義教育が施され、
たとえばギュフロイを撃ち殺した警備兵がのちに告白したように、

「幼稚園のころから何をなすべきかを教えられた。
幼稚園のころから西側に対する非難を聞かされ、
それは学校へ通うようになっても、軍隊に入っても同じだった。
そのうちに、西側のやり方はつねに正しくないと思うようになった。
東側の社会主義、もっと正確に言えば共産主義こそ未来なのだ」

というような「東日本人」になっていたかもしれないことを考えると、
(西ドイツの運命と同じになったと思われる)アメリカ領だったらマシ、
という感想はあながち大外れではなかったことになります。


そしてこの占領計画でもっと背筋が凍るのは、

東京は四カ国に共同占領される

となっていたことでしょう。

万が一そうなっていれば、アメリカが選択した如く、日本統治を潤滑に行うために
天皇を残すという必要性もなくなり、したがってその時には中国とソ連の要求により、
天皇陛下は処刑されるという最悪の可能性は大変高かったと思われます。

さらに、ドイツ分割の4カ国は西東が3対1でしたが、東京は

英仏中華民国 対 ソ連

という絶望しかない対立ののち分断が起こり、それこそ
皇居のお堀沿いに「東京の壁」ができていたかもしれないのです。

東京がそうならなかったのは、ベルリンがすでにあったからであり、
四分割統治、とくにソ連への割譲が実現しなかったのは、トルーマンの意向で
マッカーサーがこれをはねつけたからであり、ソ連は日本を諦める代わりに
ブルガリアとルーマニアを差し出されて?納得したからといわれています。

 

もうひとつ、蛇足ですが、この歴史に埋もれていた日本分割計画を発掘したのは、
広島大学の助教授だったあの!五百旗頭真大先生だったそうです。

■ 一山いくらの「ベルリンの壁の石」

さて、冒頭のこの不可思議なオブジェですが、これもまた
ベルリンの壁みやげ?というようなものです。

ベルリンの壁を取り巻いていた鉄条網に壁の石のかけら。

石は触り放題なのに、こちらは「触らないように」。
先端で怪我するから、とアメリカには珍しく丁寧な説明です。

Y字型に組み合わされた鉄の棒は、かつて鉄条網を張るために
西側と東側に向けて立っていた実物だと思われます。

左が東ドイツ、右が西ドイツ、そして真ん中にあったのがベルリンの壁。


わたしは、ここでこれらの「ベルリンの壁グッズ」をみたとき、
壁崩壊の時につるはしをふるって壁を粉砕している人々の映像に

「これ絶対壁のかけら拾って売る人出てくるよね」

というツッコミが入っていたのを思い出しました。

これ(石のかけらを売って)で金儲けしようとする人も必ずいるだろう、
というのは、おそらく世界中の人がことの重大さはさておいて、
あの壁壊しシーンを見ながら心に浮かべたことだったのではないでしょうか。

そして、調べてみると案の定・・・。

ヤフオク ベルリンの壁で検索

これによると、土産用にアクリルガラスに閉じ込めた石の置物が
3,980円というお値段で大量にオークションに出されています。

最近、ドイツのトランクメーカー、リモワの精巧なニセモノが
本物としてネットショップで出回っていると言うことを知り、
我が家にあるリモワを全てあらためてID登録してみて、本物かどうか確認し、
盛り上がったばかりなので、どうしてもそう言う目で見てしまうのですが、
これ、そもそも本当にベルリンの壁だったかどうかもわからないよね?


仮にこれらが本物だったとしても日本人が買う意味が果たしてあるのか?

 


さて、最後にベルリンの壁関係のメディアネタを2件紹介しておきます。

■ ウサギ目線

TRAILER OF RABBIT A LA BERLIN - OSCAR NOMINATION 2010

「 (前略)そんなある日、野菜畑に鉄条網が張られ、
ブロックが積み上げられ、壁が建てられていく。
人びとが争ったり、逃げたり、叫んだりする数日間が過ぎ、そして突然に静寂が訪れた。
恐る恐る穴から出てきた野うさぎたちは、自分たちが
2つの壁の間に挟まれた細長い土地に取り残されていることを知る。

二重の壁の内側はうさぎたちにとって外敵のいない楽園となり、大繁殖。
望むものを手に入れ、周囲の世界への興味をなくし、次第に無気力になっていった。
(略)ある日、突如としてうさぎたちの目の前で壁が次々と壊されていく。
好奇心を取り戻したうさぎたちは、壁を越えて西側へなだれ込む。
しかし、行動の自由を得た代償は小さくなかった。

彼らを待ち受けていたのはさまざまな外敵や困難だったのだ」NHKBSの解説より


■ すきあらばトランプ非難

【現場から、】平成の記憶、「ベルリンの壁」崩壊から30年 今は

ベルリンの壁と不法移民を防ぐ壁を一緒にするな(怒)

それにしてももし民主党政権になったら国境そのものを無くしてしまいかねないですが、
ここの壁だけは作っておいた方がいいんでないか?と他人事ながら思います。

 

 

BMWエンジンとフォッカーD.VII 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦における航空関連展示で、
わたしはアメリカの航空は当時ヨーロッパに立ち遅れていたことを知りました。
そして、それを挽回するために開発した

「リバティ・エンジン Liberty Engine」

が、アメリカの航空製造業の偉大なマイルストーンになったということも。

何事にも初めがあるものですが、ジェット開発においても
先陣を切ったのはイギリスでしたし、アメリカは20世紀前半は
今の姿からは考えられないくらい後追いをしていたということに
改めて驚かされたものです。

 

■ ドイツの航空機工場 1918年ごろ

さて、リバティエンジン第1号型を当時の自動車工場のパネルと合わせて
展示しているコーナーの隣には、こんな光景が広がっています。

工場で布を点検?している女性、横に立っているのは水兵服を着た男性。
後ろには飛行機の骨組みなどが見えています。

壁に貼られたポスターに注目してみましょう。

「Helft uns fiegen!」

我々が飛ぶのを助けてください=飛行機を作ってください、
そのために民間の方々も協力してください、というわけです。

それにはどうするかというと、

「Zeirhnet die Kriegsanleihe」

はい、ここでも出ました。
戦時ローンを購入してくださいということですね。
1917年に発行されたポスターです。

ちなみに後ろで翼部分を作っている工員さんたちは
ほぼ全員がレンズをガン見しています(笑)

 

さて、このちょっと不思議な工場風景ですが、こういうわけです。

1918年までに、アメリカの航空機大量生産プログラムの動きを受け、
ドイツは労働者と航空機産業を限界まで拡大し、
前例のない数の航空機の生産に乗り出しました。

そして生産を維持するために抜本的な措置をとることを余儀なくされました。

熟練していない労働者、その多くは女性と子供でしたが、
彼らはドイツ公海艦隊の下士官兵によって補助を受けました。
補助を行うために動員されたその多くは海軍で熟練した機械工だったのです。

なるほど、それで女性工員の横に水兵さんがいるんですね。

何年か前のスミソニアンの写真を見ると、この二人の男女の人形は
もうすこしちゃちな作りで、割と最近リニューアルされたらしいことがわかります。

手にマニュアルか指導書か何かを持ち、仕事中の女性を
「上から目線」で見ている水兵さん、なかなかリアリティがありますね。

 

ともかく、この方式は生産プロセスに大いに貢献し、
労働力の裾野を増やすことになりました。

ところで、この水兵さんの横にあるエンジンをご覧ください。

エンジンのこの見覚えのあるマーク。
そう、これは、

BMWモデルIII A直列6気筒エンジン
(A19710908000)

なのです。
BMWのマークって第一次世界大戦時からこれだったのか、
と思って調べると、ロゴができたのは1917年10月でした。

この工場風景は1918年ごろの設定なので、
できたばかりのロゴがエンジンにプリントされているわけですね。

エンジン前面には

1875 BMW 3A(型番)

ドイツの航空機エンジンの生産については、ダイムラー・メルセデスベンツ社が
実質独占する状態だったのですが、これは言い方を変えると
他のエンジンの研究開発を阻害したということもできます。

そのため、1916年になって同盟国が新世代の高性能エンジンを導入したとき、
ドイツはダイムラー・ベンツに代わる適切なものを見つけることができませんでした。

 

そこで、ダイムラー・ベンツの設計者であるマックス・フリッツ(Max Fritz)は、
古いメルセデスと同じテクノロジーを使用する新しいエンジンを提案しました。
しかし、彼のアイデアは退けられたため、フリッツはダイムラー・ベンツを去り、
1年前(1916年)にグスタフ・オットーが立ち上げたばかりの自動車会社、
バイエリッシェ・モトーレン・ウェルケ(BMW)に加わりました。

そこで彼は、提案した通り、初期のダイムラー・ベンツエンジンの
6気筒インライン構成を使ったものを設計しなおしましたが、
これは多くの点でダイムラー・ベンツのものより優れていました。

BMW モデルIIIaの燃料消費量は非常に低く(つまりコスパに優れており)
しかも高地では非常に優れた性能を発揮しました。
これは、気化したキャブレターの設定と高い圧縮比の結果でした。

新しいBMWエンジンはフォッカーD VIIなどの航空機に搭載されました。

ちなみに日本語で「マックス・フリッツ」と検索すると、バイク用の
アパレルメーカーのイメージ写真が大量に出てくるのですが、これは
かつてマックス・フリッツがBMWでバイクを開発したことから
このブランドのデザイナーが彼の名前を使用しているのだと思われます。

ところで水兵さんに指導されているこの女性が何をしているかですが、
どうも布を検品しているように見えます。
後ろにかけられているのは出来上がったものでしょうか。

もしかしたら、これですか?

後ろで作っているのは飛行機の翼の骨組ですから、
翼の表面に貼る布ではないかと思われるのですが・・・。

そういえば、「ブルー・マックス」という映画で、主人公が
自分が撃墜した相手の機体の翼から、番号の書いてある部分を
ナイフでざくっと切り取って、隊長に突き出し、

「撃墜確認お願いします」

と言い放ち、皆がドン引きするシーンがありましたっけ。

あまり考えたことはなかったですが、複葉機の翼って
骨組に布を貼っていたようですね。

この翼もカラフル迷彩ですね。
彼女のような工員が作った翼なのでしょう。

フォッカーFokker D.VII(デー・ズィーブン)

ドイツのフォッカーD.VIIは、第一次世界大戦の最高の戦闘機の1つです。

有名な話では、連合軍から出された戦争を終わらせる休戦協定に、

「すべてのフォッカーD.VII戦闘機を直ちに降伏させること」

という要件が入っていたことで、これはこの戦闘機が
いかに高い評価をされていたかを簡潔に証明しています。

1917年の後半、連合国はSE5とスパッド戦闘機で優位に立っていました。
これに対抗するために、ドイツ政府は航空機メーカーに、
単座戦闘機のプロトタイプ設計を提出するように要請し、
その結果10のメーカーからの31機の飛行機が提出されました、

その中から選ばれたのが1基のロータリーエンジン、そして
1基の直列エンジンの設計で、それはいずれもオランダの航空機会社、
アントニー・フォッカー が提供したものでした。

コンペで優勝したエンジンを設計したのは、フォッカー 社の主任設計者、
ラインハルト・プラッツでした。

Reinhold Platz - Wikipediaプラッツ

プラッツこそはフォッカー戦闘機の背後にある真の創造者だったといわれています。
彼は1916年以降、会社の航空機の基本的な設計のほとんどを行っています。

Anthony Fokker - Wikipediaフォッカー 

それではこの伊達男アントニー・フォッカーはというと、彼は
設計技師としてよりもテストパイロットとして天才的な才能を発揮しました。

彼にはいかなる実験機をも難なく繰る天性の勘の良さと、また、
それを成功させるためにどのような改善が必要か知る直感を備えていました。

フォッカーのこの本能的な感覚と、プラッツの革新的な設計を組み合わせることで、
彼らは全ての航空機製造会社にとって手ごわいチームになりえたのです。

 

しかし、写真を見るだけでもなんとなくわかるのですが、(なんていっちゃいけないか)
フォッカーは基本的にエゴイストで支配的な性格をしており、
そのため、真の革新者としてのプラッツの役割を軽視する傾向にありました。

そして彼は全てのデザインにフォッカーの名前を冠したのはもちろん、
自分の功績を過度に喧伝し独り占めするような人物でした。

しかしそれにもかかわらず、プラッツが紙の上に設計したものは
フォッカーの力なくしては最終的に形にならなかったのも厳然たる事実です。

これは、フォッカーD.VIIの場合に特に当てはまりました。

 

フォッカーD.VIIプロトタイプ、V.11は、コンペ直前に完成したため、
フォッカーには事前に機体をテストする時間がありませんでした。

そこで有名なドイツのエース、マンフレート・フォン・リヒトホーヘンが
フォッカーの要求に応じてV.11を飛行させました。

このときリヒトホーヘンは、機体に機動性があり、全体的に性能が良いものの、
特に急降下では操縦が難しく、方向が不安定であると評価しています。

 そこでこれらの問題を解決するために、フォッカーは、胴体を40 cm長くし、
固定された垂直翼と新しいラダー形状を追加し、エルロンバランスを変更しました。

 そこで再びリヒトホーヘンが改良されたV.11を操縦し、機体が扱いやすく、
またデザインも非常にイケているんでないかい?と評価したこともあって、
このコンペではアンソニーフォッカーが最高の成績を収めたのです。

 

フォッカーは、このコンペでは速度や上昇率などの部分的な能力よりも、
戦闘機としての全体的なパフォーマンスの方が重視されているということを
他のどの競合他社よりもよく理解していたといえるかもしれません。

実はこのコンペに出た他社の航空機は、個々の性能パラメーターでV.11より優れていました。

しかし、審査に受けやすい全体的なパフォーマンスだけでなく、
構造上および生産上の問題解決に関しても、完全な意味で戦闘機の設計としても、
フォッカー を超えるものはなかったということです。

結果、コンペティションで優勝したフォッカーは、400機の製造注文を受けました。

しかし工場がそんなに多くの生産をこなせないという考えから、
フォッカーは偉大なライバルのアルバトロスにライセンス生産を依頼し、
アルバトロスは二つの工場で製造を請け負いました。

ところが、フォッカー工場では製造図面を作成せず、アセンブリスケッチから
直接作業するというようなことをしていたため、アルバトロスはしかたなく?
フォッカーから入手した完成した機体に基づいて独自の図面を作成しました。

このため、そこに独自の建設技術と基準が適用されるようになり、その結果
一見似ているようで、三つの生産工場ごとに互換性のない異なる機体が生まれました。

 さらに、アルバトロスによって製造された航空機は、どういうわけだか、一般的に
フォッカーが製造した航空機よりも高品質であると考えられていました。

そのせいなのか、アルバトロスはフォッカーよりも多くの機体を製造しています。

 

フォッカーD.VIIは1918年4月に最前線の部隊に調達され始めました。

当初、D.VIIは160馬力のメルセデスD.IIIエンジンを搭載していましたが、 
先ほど書いたように、最新の連合国の戦闘機に遅れを取ってきたため、
BMW IIIaが装備され、パフォーマンスが劇的に向上することになります。

しかし限られた数しか入手できず、D.VIIFとして知られるBMW搭載モデルは、
ドイツ軍パイロットに渇望されながらも少数しか配備できませんでした。

フォッカーD.VIIが西部戦線に登場したとき、連合軍のパイロットは
最初、アルバトロス戦闘機のような洗練された優雅な機体には程遠い
この無骨なラインを持つ新しい戦闘機を過小評価していました。

しかし、彼らはすぐに認識を改めることになります。

この理由の1つは、連合軍の2人乗り偵察機の保護されていない下面に
機体の下部分から撃ってくるというフォッカー の恐るべき能力でした。

さらにその厚い翼の構造は、飛行機に優れた失速特性を与えました。
機体がほぼ失速した状態から、フルパワーで機首を上げて立ち直ることができ、
この機動を可能にするD.VIIの能力は、戦闘を行う対戦相手の脅威となりました。

D.VIIの翼と胴体は、従来の木材および布を貼ったものとは異なり、
アメリカのカーチスJN-4D「ジェニー」のようなものでした。

支柱とリギングはジェニーの翼と胴体の複雑な内部構造をまとめたものとなり、
対照的に、 D.VIIIのよりシンプルな木材と管状の鋼の内部フレームワークは、
支柱とリギングワイヤーが少なくて済むだけでなく、強度も向上しました。

骨組状態のD.VII。

 

D.VIIの多くの実験的なバリエーションは大戦最後の数か月に開発され、
主にそれらは異なるエンジンを搭載することになって今いた。
 しかし、どれも生産状態にはなりませんでした。

2人乗りバージョンがフォッカーCIに指定されましたが、
ドイツ航空では正式に採用していません。

ところで、アントニー・フォッカー は、終戦時に出身地のオランダに亡命しましたが、
その際、120機のフォッカーD.VII、60機のフォッカーC.Isを
密輸しています。

 

NASMで展示されているフォッカーD.VIIは、アルバトロスの二つの工場のうち
シュナイデミュールで製造されたものです。

機体の入手経緯は以下のような事情によります。

戦争が終了する2日前の1918年11月9日、
ハインツ・フライヘア・フォン・ボーリウ=マルコネ中尉(フライヘア=男爵)は、
アメリカ軍の第95飛行隊の飛行場にNASMフォッカーD.VIIを着陸させました。

中尉は航空機から降りて処分のため機体に向けて発砲しようとしたのですが、
3人のアメリカ人将校によって取り押さえられ、機体は鹵獲されました。

彼が本当に敵基地をドイツ軍基地だと勘違いして着陸してしまったのか、
それとも、戦争が終わることを悟って降伏したのかは謎です。
(本人は間違えたと言っていたそうですが)

 そしてその時鹵獲されたフォッカーD.VIIは戦後米国に持ち込まれ、1920年に
戦争省からスミソニアン協会に供出されました。

1961年に博物館によって完全に復元されたあと、改装を加え、
博物館の新しい第一次世界大戦の記憶となるギャラリーに加えられたというわけです。

ところで、冒頭写真にも挙げたのですが、アルバトロス社の工場で
新しくマウント作業をしているのに立ち会っている将校、
この人が問題の(笑)ハインツ・フォン・ボーリウ=マルコネ男爵中尉です。

騎兵隊将校であった彼は、第10戦闘航空隊立ち上げの際、
なんと、パイロットになる前に部隊に配属されています。

馬に乗れるから飛行機にも乗れるだろうってか?
まあ、この頃はよくあることだったのかもしれません。


工員の後頭部の部分ハゲがリアル・・・ってどこに注目してんだ(笑)

 

続く。

 

戦略爆撃と悲劇のソッピース・スナイプ 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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航空博物館でもあるスミソニアン博物館では、航空の発達を語るにかかせない
戦争と科学技術の発達について、歴史を中立に俯瞰する立場をとっています。

アメリカの国立博物館ではありますが、地方の航空博物館にありがちな
「アメリカ万歳」といったナショナリズムの立場はかなり抑えられており、
こういう立ち位置がつまり「エノラ・ゲイ」事件で退役軍人たちの反感を買ったのか、
とわたしはちょっと考えてしまったのですが、航空の歴史が幕を開けて
ほとんど同時に始まった戦略爆撃についての説明も、なんとこんな人物の、
ある意味、悔恨、懺悔とも取れる言葉を引用して始まっていました。

 

■戦略爆撃 戦争の新しいかたち

「これ(原子爆弾)は決定的なものだ・・・
おそらく、ゲルニカで始まったかもしれないステップの最終段階であり、
ロンドンへのブリッツ、ハンブルクへのイギリスの爆撃、
東京に対するわたしたちの爆撃、そして広島に至った」

これは、マンハッタン・プロジェクトの責任者であり、原爆の父ともいわれる
核物理学者、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーの言葉です。

しかし、この見解にあえて意を唱えさせていただくならば、歴史的に見て
核時代への道はゲルニカと呼ばれるスペイン内戦の都市爆撃からではなく、
第一次世界大戦中に歴史上初めて
都市が爆撃されたときに始まっていたということができるのです。

 

戦略爆撃、つまり航空機を使用して敵の都市、産業、民間人を攻撃する戦術は、
それが戦略によって持続的に実行される前でさえ、すでに予見されていました。

そのため、戦争がまだ始まっていない時期、ドイツの飛行船が飛来可能とされていた
ロンドンやパリなどの都市では、空襲に対する恐怖心が民衆の間に自然に広まり、
時としてそれは集団ヒステリック状態を引き起こすまでに至りました。

アメリカでも、以前当ブログで扱った映画の「1941」で語られた
「ロスアンゼルスの戦い」
(戦っていたつもりだったのはロスアンゼルスの人々だけですが)
ではありませんが、ツェッペリン号による攻撃の恐怖は民衆に遍く行き渡り、
おかげで
ニューヨークを飛行するドイツの飛行船を目撃した!
という誤った情報が当時何度も報告されたりしたそうです。

 

確かに戦争が始まった当初こそ、道徳的、政治的、および技術的な要因により
民間人への攻撃は制限されていましたが、終わらない戦争への絶望と敵への復讐心が、
結局、大部分の戦争勢力を駆り立て、結果的にそれは現実となっていくのです。

たとえばイギリスでは、ドイツ軍による爆撃のあと、市民が政治家たちを動かして
ロンドンにおける地上防衛を改善し、独立した空軍を創設する動機を与えました。

■ ツェッペリン号の不発弾 ロンドン1915年

ツェッペリンの不発爆弾(手前)

開戦当初ツェッペリンが運んだ爆弾は、実戦経験を踏まえず設計されたため、
空気力学的にいっても正確な爆撃を行うことは不可能でした。

「ボウリング・ボール」と呼ばれたこの爆弾は、建物の破壊を目的としており、
投下後焼夷弾によって点火するという仕組みでしたが、かなり不確実なものでした。

その後完成した

P.u.W.爆弾

はドイツの
Prüfanstalt und Werft der Fliegertruppen
プルーファンシュタット・ウント・ヴェルフト・フリーガートルッペン
(テストセクションと航空サービスワークショップ)

によって開発され、「ボウリングボール」型爆弾とは対照的に、
空力的に効率的な設計が加えられ精度も上がりました。
(なぜかフリー素材の写真がないので、検索結果をご覧ください)

しかしその後(1917年9月以降)作戦が夜間爆撃に移行すると、
そもそも闇の中で標的が見えない中、精度などなんの意味もなくなりました。

 

ちなみにこのボーリング型不発弾が落とされた1915年5月31日は
ツェッペリンが行った初のロンドン空襲となりました。

死者7名、負傷者35名を出し、損害金額は18,596ポンド相当とされます。

その後ロンドンのほか、ロンドン近郊のハリッジ(Harwich)、ラムズゲート、
サウスエンド(2回)と計5回の空襲任務で合計8,360kgの爆弾が投下されました。

その後ロンドン攻撃を行ったツェッペリンは、ブリュッセル爆撃の際
ロイヤルエアフォース爆撃機の落とした爆弾によって格納庫ごと破壊されています。

この時の爆撃機パイロットは、爆撃した格納庫に
「にっくきロンドンの敵」がいたことを知っていたでしょうか。

 

■ カイザーシュラハト(ルーデンドルフ総力戦)

当ブログでは、スミソニアン博物館の第一次世界大戦航空ギャラリーシリーズで、
大戦初期で最も大規模で凄惨な戦いになったヴェルダン攻防戦について
「血塗られた」という形容詞をつけてお話ししましたが、
スミソニアンでは、大戦後期で最も規模の大きな戦闘となったところの

「ソンムの戦い」

についても触れています。

照明で光ってしまって肝心のところがよく見えませんが、
手前の兵士は撃たれて今まさに斃れるところ、彼の右側にはすでに
撃たれて倒れているらしいドイツ軍兵士の体が写っています。

それにしてもいつも思うのですが、これらの残された写真は、
誰かがその場にいて撮影したものなんですよね。
これを撮った人はその後生きて帰れたのでしょうか。

彼らはドイツ軍の兵士で、現在連合軍の前線を突破しつつあるところ、つまり
1918年、「春の大攻勢」といわれるソンムでの一コマです。

ドイツの対アメリカ航空計画はその生産目標を当初達成しませんでしたが、
「春の大攻勢」が始まるまでに、航空機を大量に備蓄していました。

 

連合国軍の助っ人としてアメリカ遠征軍がヨーロッパ戦線に到着する前に
これを迎え撃つべく、ドイツは、西部戦線への主要な攻撃である
カイザーシュラハト(皇帝の戦い)
における航空力の強化を計画していました。

カイザーシュラハトは、連合軍からは「ルーデンドルフ総力戦」と呼ばれました。

Erich Ludendorff.jpgルーデンドルフ

作戦名は作戦立案をした参謀次長、エーリヒ・ルーデンドルフの名前からきています。

ルーデンドルフは戦後「総力戦」というタイトルでこの攻撃について
本を著したくらいなので、おそらく会心の作戦だったのかもしれません。

きっと、

「ドイツは負けたが、私の作戦は成功した」

とか最後まで思ってたんだろうな。

 

カイザーシュラハトは1918年3月21日に始まりました。

ドイツはそれまで攻められなかった敵の防衛ラインを突破することを目標に、
航空戦と地上戦を同時に仕掛けたのです。

折しも現地に霧が立ち込めるという条件に恵まれ、陸上部隊を航空部隊が支援、
ガス弾を含む準備射撃と例のシュトゥーストルッペン特殊部隊による浸透戦術、
これらが相まって、ドイツ軍の初動は成功し、大反撃が開始されました。

そしてドイツ軍がパリまであと90キロ、というところに迫ったため、フランス軍総司令官、
ペタン将軍は最悪の事態を覚悟し、ついにアメリカ軍の出動を要請します。

アメリカは要請を受け入れ、6月1日、海兵旅団を含む第二師団を投入、
ドイツ 第7軍の進撃を阻止することに成功。

米国海兵隊は神話の1ページを飾りました。

アメリカ参戦までになんとか勝敗を決したいというルーデンドルフの野望は潰え、
その後の第二次マルヌ会戦でカイザーシュラハトも終了しました。

しかし、カイザーシュラハトでドイツは当初圧勝というくらい巻き返したのは確かです。
ルーデンドルフの作戦は完璧でしたし、彼が戦後「負けなかった」といったとしても
それはあながち嘘ではありませんでした。

ただ、ドイツはすでに対アメリカ計画の最後の戦力を使い果たしており、
一時の戦略的成功によって全体の戦況を覆すには至りませんでした。

 

■ ソッピース「スナイプ」

ソッピース 7F1 スナイプ Sopwith Snipe

一般的に「ソッピース」とくれば、ほとんどの人は上の句に対する下の句の如く
「キャメル」という言葉が出てくるでしょうし、ソッピース社にキャメルの後継としての
「スナイプ」という飛行機があったこともご存じないのではないかと思います。

そしてその一般的な認識は、そのまま現場のパイロットの声を反映した評価でもありました。

ここからは、名機キャメルの影で全く評価されなかった(という意味で悲劇の)戦闘機、
ソッピーススナイプについてお話ししましょう。

 

春の大攻勢に遡ること1年前の1917年の春、イギリスで最も有名な
第一次世界大戦の戦闘機、ソッピース・キャメルがデビューしました。

キャメルの最前線飛行隊への調達が始まった直後に、ソッピースの主任設計者、
ハーバート・スミスが設計した新しい単座戦闘機は、
コクピットからの視認性が向上し、滑らかな操縦性を備え、
初期のソッピースを彷彿とさせるもので、基本性能はキャメルから派生していました。

ほぼ1年の開発期間の後、新しい戦闘機は1918年の春に生産されました。


さて、話は少し巻き戻りますが、1918年初頭までに、RAF(王立空軍)は
4機の新型機を調達しようとしていました。
まず1機目は、

OspreyTriplane.jpg

オースティンの三葉機、A.F.T.3オスプレイ。

Boulton Paul P.3 Bobolink : Boulton Paul

2機目は

ボールトン・ポール、P3 ボボリンク(コメクイドリ)。

3機目はニューポールBN1、そしてソッピーススナイプの計4機です。

これらはすべてベントレーBR2ロータリーエンジンを搭載することになっていました。

 

この3機のパフォーマンスはほぼ同等であると判断されましたが、
スナイプは評価が低く、製作は一番最後にされたそうです。

しかも、それまでソッピース・キャメルに乗っていたRAFのパイロットは
キャメルの優れた戦闘機動性を秘めた「トリッキーな」マウントを乗りこなすことで
実績を挙げていたため、スナイプに乗り換えることに消極的でした。

当時、戦時中のすべての航空機を操縦した経験豊富なテストパイロットである
オリバー・スチュワートは、次のように違いを表現しています。

「スナイプは落ち着きがあり、より品格のある飛行機でした。
それはよりパワフルで全てのパフォーマンスの面で優れていましたが、
キャメルの持っている雷のような操縦特性はありませんでした。

キャメルからスナイプに乗り換えるのは、8馬力のスポーツカーから
8トンの大型トラックに換えるようなものです。
大型トラックは確かにより強力で、より多く、より大きいですが、
8馬力のスポーツカーの軽さと反応の良さは持ち合わせません」

つまり操縦はしやすいが鈍重な機体ということでパイロットには嫌われたようですね。

というわけで、戦争中、スナイプは護衛任務中心に使用され、戦闘機なのに
胴体の下に4つの9 kgクーパー爆弾を装備していました。

そして1918年4月に創立したイギリス空軍にとっては
新設部隊の最初の戦闘機という称号を得ることができましたが、
しかし、それは時期的に戦争での運用に間に合わず(カイザーシュラハトにも)
もちろん戦局に何も影響を与えることのないまま終わっています。

 

戦後、スナイプは夜間戦闘機になりました。

戦争が終わり、戦闘行為が停止すると自動的に航空機の開発もストップしたので、
(開発技術もまた極端に低迷することになったのですが)スナイプは
そのおかげで空軍での運用寿命だけは延びたということになります。

そして1920年代の半ばには退役したのですが、いわば、
最初から最後までパッとしないまま終わった飛行機でした。

さて、今一度スナイプの機体を見てみましょう。

上部と下部の翼を接続する2セットの支柱があり、強度はありますが、
この配置では抵抗力の増加は避けられそうにありません。
スナイプがキャメルに勝る速度を提供できなかったのはこのためです。

ただし、何度もいうように決して悪い飛行機ではなく、キャメルの優れた機動性を受け継ぎ、
逆に「悪質なハンドリング特性」は克服していました。

素人目には操縦しやすく駆動性に優れているならなんの不満があるのかというところですが、
じゃじゃ馬を乗りこなして設計予想以上の性能を引き出すことに喜びを覚えていた(多分)
キャメル・ドライバーにしてみれば、意外性がなく数式通りの結果がでるようで、
やっぱり一言で言って面白くない飛行機だったのかもしれません。

 

NASMコレクションのソッピース・スナイプは1918年8月、
ラストン・プロクターカンパニーで製造されましたもので、
このタイプで世界に現存する2機のうちの貴重な1機です。

米国での最初の記録の所有者は個人の輸入業者で、この業者から買い取った
個人所有者は、スナイプを新しい布地で覆い、木材を再仕上げし、
130馬力のエンジンを取り付けるなど熱心にレストアを行っています。

次に購入した人が地元の博物館に売却し、1966年まで航空ショーなどに出演していたそうですが、
ある日着陸に失敗して墜落したため、それ以来引退して二度と飛んでいません。

そして4人目の所有者が亡くなった後、遺品として博物館に譲渡され、翼を休めています。

 

続く。

 

シュターケンとイリヤー・ムローメツ 第一次世界大戦の大型爆撃機〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦のコーナーに、
この、見るからに大きさを感じさせる飛行機の模型がありました。

これが調べてみてびっくり、ツェッペリン製の飛行機だったのです。

ツェッペリンというと、わたしなど飛行船しか思い浮かびませんが、
実は普通の形の飛行機も作っていたんですね。

 

■ ツェッペリンの巨大爆撃機 

ドイツのイギリスに対する「爆撃キャンペーン」は1917年夏頃になると
いっそうエスカレートしていき、

リーゼンフルークツァイゲ
(Risenflugzeuge=giant airplanes)

巨大飛行機がついにイギリスの市街地に初めての爆弾を投下し始めました。

 

ドイツでは巨大飛行機の頭文字をとって「R飛行機」と称し、
巨大飛行機による爆撃計画を「R計画」と呼び、4気筒エンジンの爆撃機、

ツェッペリン-シュターケン 
Zepperin Staaken R.IV

が「R計画」のR飛行機として使われました。

これはロシアの飛行機設計家であったあの有名な

イーゴリ・イヴァノビッチ・シコルスキー

の設計した

イリヤー・ムーロメツYe-2

にインスパイアされて誕生したといわれています。

Sikorsky, Igor.jpgシコルスキー

これがスミソニアンの模型であるシュターケン。
冒頭写真を見ていただければわかりますが、迷彩柄をしています。

結構大きな模型だった記憶がありますが、写真が不鮮明ですみません。

こちらがR飛行機のモデルとなったシコルスキーのイリヤー・ムーロメツです。

翼はシュターケンの方がわずかに大きく、上下の翼はほぼ同じ大きさですが、
こちらは下翼が小さいデザインとなっています。

この「イリヤー・ムローメツ」というのは人名で、ロシアの叙情詩の登場人物です。
正教を守り国を乱すものと戦ったという伝説英雄であり、ロシア人ならおそらく
誰でも知っている名前なのだと思われます。

日本でいうと須佐之男命とか、そんなかんじ?知らんけど。


このシュターケンを設計したドイツ人は、

アレキサンデル・バウマン

という設計家なのですが、なぜか顔写真が単体で一枚もなく、仕方がないので
シュトゥットガルト大学のHPの「かつて本校に在籍した教授」
というページから拾ってきました。

この人についてはぜひ余談として触れておきたいことがあります。
シュトゥットガルト大学に籍を置いている間となる1925年のこと、彼は

三菱重工業の招きで日本を訪れ、

設計コンサルタントとして、中田信四郎技師、徳永技師と共に
いくつかの日本の軍用機の製作に携わっていたということです。

この間バウマンは

鳶型試作偵察機(2MR1)

鷲型試作型爆撃機(2MB2)

隼型試作戦闘機

などの設計を行っています。

エンジンはいずれもイスパノ・スイザを搭載しており、とくに隼はその後
完成品が九一式戦闘機として制式採用されることになりました。

ですから、日本の戦闘機界にとっては恩人というべき人であるはずですが、
どうしてここまで名前が残されていないのかちょっと不思議です。

このバウマン教授は日本滞在中の1927年、妻が病気という知らせを受け
帰国したのですが、翌年妻が他界すると、2ヶ月後に後を追うように死亡しています。

 

 

さて、ツェッペリン・シュターケン、R飛行機は、第一次世界大戦時に製造された
シリーズのいかなる飛行機よりも大きなものとなりました。

翼のワイドスパン9mという大きさは、のちに登場する
ボーイング727−200ジェットエアライナーより大きかった、
といえば、その大きさがご想像いただけるでしょうか。

最初のR飛行機は1915年ロシア戦線に配備されていましたが、その存在は
実質的に1917年9月28から29日にかけて行われたイギリス各地への
最初の夜間爆撃まで全く知られていませんでした。

そして1917年9月から1918年5月にかけて、28種類のR飛行機がイギリス本土に飛び、
合計1,000キログラムの爆弾をイギリス本土に投下しました。

能力的には爆弾の最大搭載量は2トンまでが可能でしたが、
ロンドンへの爆撃は長距離となるため、これでも重量を抑えていたということです。

 

ここでシュターケンとイリヤー・ムローメツとのスペックを比較しておきます。

ツェッペリン・シュターケン/ イリヤー・ムローメツ Ye-2

全長:   22.10m  /18.8m

全幅:   42.20 m / 34.5m

全高:   6.30 m / 4.72m

翼面積:  332.0 m2 / 220 m2

虚重量:    7,460kg / 5,000kg

全装備重量: 11.460kg / 6,500kg

エンジン: ダイムラーベンツ メルセデスD.IVa×2 / ルノー・エンジン ×4

最大速度: 130km/h / 130km/h

最高到達高度: 3.800m / 3,200m

乗員: 7名 / 4名

 

■ イリヤー・ムローメツ

ところでイリヤー・ムーロメツですが、最初は軍用機ではなく、
豪華旅客機として考案され、建造されたものでした。

航空史上初めて、室温が保たれた旅客サロン、快適な籐の椅子、寝室、
ラウンジ、そしてこれも世界初となる客室内トイレが備えられており、
暖房と電気照明があるという大変ゴージャスなものでした。

機体の両側には開口部があり、整備士は飛行中でも
エンジンを調整するために翼の上に出られるようになっていました。

メインキャビンには両側に外が見える大きな窓が開いており、
奥にはプライベートキャビンがあって、ベッド、小さなテーブル、そして
キャビネットまでが備えられていたのです。

照明は風力発電によって提供され、暖房はキャビンの外を通る
長いエンジン排気管の排気熱を利用するという今のエコ仕様です。

テスト飛行では、サンクトペテルブルグからキエフまでの距離、
1200kmを往復し、当時の世界記録、14時間38分を打ち立てました。

 

しかし、第一次世界大戦が始まると、シコルスキーは機体を再設計して、
軍用に転換すべく、最大800kgの爆弾を搭載し、尾部を含む機体の9箇所に
機関銃を取り付けるという改装を行いました。

機体が大きく航続距離もあるので、爆撃だけでなく長距離偵察も可能。
戦争中イリヤー・ムーロメツは通算400回以上の出撃を行い、
65トンにおよぶ爆弾を敵地に投下するなど大活躍しましたが、
絶え間ない出撃によって機体は目に見えて消耗していき、
最後には最前線に4機しか残っていなかったそうです。

 

このときロシア政府とシコルスキー自身が設計と製造のライセンスを
イギリスとフランスに売却していましたが、ドイツは自国に墜落した
「イリヤー」の残骸から「インスパイアされて」シュターケンを作りました。


また、ロシア革命のあとには、あるイリヤー・ムロメッツのパイロットが、
ウクライナに機体ごと亡命し、結果的に機体が「密輸」されたという事件もあったそうですが、
これなど、昭和の時代、日本を中継にアメリカに亡命しようとして
MiGごと逃げてきたベレンコ中尉(なぜか覚えているこの名前)を思い出しますね。

 

■ その他の大型爆撃機

スミソニアンには当時の大きな爆撃機の機体比較図がありました。
先頭の大きなのがシュターケン、右上がイリヤー・ムローメツです。

ほとんどがイリヤー・ムローメツの後追いだといわれていますが、
各国は競ってこの大型多数搭載エンジンの爆撃機を開発投入しました。

イリーヤ・ムローメツの下のシルエットは、

ハンドレイページ 0/400

ハンドレイ・ページ社は
1909年、フレデリック・ハンドレイ・ページが興したもので、

ハンドレイページ ハリファックス爆撃機

などの名作もうみだしていますが、1970年、
ジェット機時代についていけず、倒産しました。

ハンドレページ0/400は、ハンドレイ・ページ社が作り続けた
重爆撃機で、エンジンはロールス・ロイス社などの双発でした。

(ところでちょうどこれを作成していた日、イギリスのロールスロイス社が
コロナ肺炎による営業悪化のため、五千人をレイオフしたと報じられていました。
名門のエンジン会社がこのような事態になる日がくるとは・・・)

 

このタイプはイギリスでは約700機が製作され、アメリカでは先日ご紹介した
「リバティエンジン」を搭載したものが107機製作されています。

1917年に初飛行し、翌1918年8月から部隊配備され、
8月25日に2機がドイツ本土のマンハイムの化学工場を夜間爆撃しました。

その後、軍飛行場のみを爆撃していましたが、おそらくイギリス都市部の
ドイツ軍の爆撃への報復として、ドイツ本土の都市爆撃を行うようになりました。

戦後は、しばらくイギリス空軍で現役でしたが、
引退してからは民間の輸送機などとして使用されています。

翼の全幅はイリヤー・ムローメツよりわずかに大きく、
19.16mというものでした。

Caproni Ca36 050309-F-1234P-003.jpg

その下にある、P-38のような相胴っぽいシェイプのは

カプロニ  Ca.33

イタリアの航空機デザイナー、ジョバンニ・バチスタ・カプロニが設計した
一連のシリーズの中の重爆撃機です。

ちなみにこのカプロニさん、

Giovanni Battista Caproni cropped 2 GiovanniBattistaCaproniLefteBrother png.jpg伊達なイタリア男

ネクタイ一つ見てもただものでない洒落orzな感じですね。

彼はドイツのミュンヘン工科大学とベルギーのリエージュ大学で
土木工学と電気工学を学び、飛行機設計者となったという経歴の持ち主で、
1908年、なんと22歳で複葉機製造のための会社、カプロニを興しています。

カプロニCa.33は第一次世界大戦が始まり、爆撃機の必要性に応じて
それまで作っていた旅客機の基礎を流用して作った大型機です。

第一次世界大戦中は王立空軍によってCa.3と名付けられていました。
カプロニがCa.33にたどり着く前に、初期Ca.3バージョンが存在しましたが、
こちらはそれとは全く別の飛行機となります。

 

続く。

 

 

 

第一次世界大戦 王立空軍の誕生と無差別爆撃の思想〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦の航空に関する展示も
そろそろ終わりに近づいてきましたが、ここに謎の展示がありました。

ポストが・・・・。
おそらく、1910年代のイギリスのポストではないかと思われます。
たまたま手に入ったので市街地の展示のついでに飾ってみました的な?

■ ロイヤル・エア・フォースの誕生

当時のロイヤルエアフォースの入隊勧誘ポスターです。

「ロイヤル・エア・フォースに来たれ!

そして彼らの栄誉と栄光を共有しよう

年齢 18歳から50歳まで

給与レートは1日につき1/6から12/-まで

自発的にロイヤルエアフォースに加わった場合、
自分の同意なしに陸軍もしくは海軍に移転することはできません」

 

しかしどうも最後の文章が謎ですね。
これどういう意味なんでしょうか。

「自分自身の同意なくして」ということは、空軍に入ったつもりなのに
いつのまにか陸軍で塹壕掘らされたり、海軍でマストに登らされたり、
そういうことには決してなりませんからご安心ください、という意味かな?

なにしろイギリス海軍というのは港港でめぼしい少年を拉致して
むりやり軍艦に乗せて働かせていたというブラックな前科があるもので、
こういう心配をされてしまってるってことなんですかね。
だとしたら海軍も自業自得って気もしますが、ちょっと驚くのが、
これがリクルートの強力な誘い文句になっていたらしいという事実です。


さて、それはともかく、世界最古の空軍がロイヤル・エアフォース、
イギリス王立空軍、RAFであったということをご存知でしょうか。

そしてその形成はというと、ドイツの行ったイギリス都市部への
戦略爆撃キャンペーンのもたらした最も重要な結果だったとされます。

1915年から1917年のツェッペリンの襲撃の間、英陸軍と海軍の司令官は、
国防任務の前線から航空機をそちらに回すことを嫌い、抵抗していました。

しかし、前回までにお話ししてきたような、特に1917年の夏に
行われたドイツ軍の白昼攻撃は、全てのイギリス国民に衝撃を与え、
ここでついに政治家が動きだすという事態になってしまったのです。

大衆の今後の攻撃に対する不安と恐怖、そしてリベンジを望む気持ち。
これらにに応える意味もあって、英国を航空攻撃から守るために、
そしてドイツの都市に報復爆撃を行うために政治主導でRAFは創造されたのでした。

はーそうだったのね。

実はわたくし、これまでドレスデン空襲について、あるいはイタリアの
モンテカッシーノの空襲について、どちらかというと判官贔屓的?に
これら連合軍の民衆虐殺を汚点のように思っていたわけですが、
それは連合軍側に言わせると、先にやったのはどいつだ?ドイツだ!
という・・・つまりやられたからには倍返し、ということだったのですね。

何度もいうように戦争にどちらが悪いも正しいもないと思うものの、
こと都市爆撃については、先にやっちまったのはちょっとまずかったかもしれません。

 

このポスターではRAFとドイツ軍の戦闘機の一騎討ちが行われており、
おりしもRAFの戦闘機の銃弾がドイツ軍パイロットを撃ち抜き、
双手を上げて「やられた」モードになっているところが描かれています。

都市への大々的な爆撃で近しい者を失ったりした場合、この絵のように
ドイツ人に復讐してやりたい、という動機で入隊する男性も
決して少なくなかったのかもしれません。

そして憎しみのエンドレスサークルは形成されていくと・・・。

 

■ 王立飛行隊とパラシュート

RAFが爆誕したのは1918年4月1日。
デビューするなり世界最大の空軍となりました。

それまでの世界では独立した空軍は存在せず、陸軍、あるいは
海軍のもとに航空隊があるというのが趨勢だったのです。

イギリスにはそれまで1912年4月に誕生していた陸軍の

王立飛行隊  The Royal Flying Corps RFC

があり、戦争の初期には砲兵隊への着弾位置を調査する任務、
そして写真偵察によって軍を支援していました。

 

当時、王立飛行隊は5つの飛行隊、つまり観測気球飛行隊と、
4つの航空機の飛行隊で構成されていました。

このころ王立飛行隊の気球隊で使用されていたのは、

カルスロップ ガーディアン・エンジェル パラシュート
the Calthrop Guardian Angel parachute

というその名前も麗しいパラシュートでした。

もちろん素材は違いますが、基本的な形はこのときに完成されています。

この会社の広告には、イタリアの有名なパラシューター(っていうのかな)
シグノール・グラヴァーニャという人が事故で死んだことについて
こんな風に書いてあります。

彼はパラシュートが開かず、2400フィートの高さから落下しました。
広告ではまず、

パラシュートが確実に開く装置と索の絡まり防止機能がないことを、
落下傘で降下する者はいつ気づくでしょうか。
そんな運命は彼らに起こりうる出来事なのか、それとも必然なのでしょうか。
宇宙の法則とは次の通りです。

「起こるかもしれないことは、かならず起こる」

もし誰かのパラシュートが開くのに失敗ししたとすれば、
それはいつかまた必ず起こるのです。

と脅かしておいて(笑)

ガーティアンエンジェル製パラシュートは100%開傘する、
という記録があります。

当社の製品は自動開傘にに失敗したことは一度もありません。
当社特製の「ポジティブオープニング」と、200フィート以上の高さからでも
パラシューターを安全に着地させるために、索には
常に信頼できる「もつれ防止機能」が備わっています。

ガーディアン・エンジェルの理念をご理解いただき、実際に
それらを試したら、もう他社のパラシュートは使わないでください。

「信頼性」 最初も 二度目も そしていつでも

今でも使えそうなコピーですね。
飛行機は落ちても文字通りあなたの「ガーディアンエンジェル」が、
あなたの身をそっと優しく地面に運んでくれるのです。

てか?

 

さて、何故長々とガーディアンエンジェルの話をしてきたかというと、
このガーディアンエンジェルという会社を興した
エバート・カルスロップという人が最初にパラシュートを考案し、
特許を取って王立飛行隊に最初に提供し、テストしてもらったからです。

カルスロップはもともとというか本業は鉄道技術者なのですが、
友人だったロールスロイスの創始者の一人、チャールズ・スチュアート・ロイスが
乗っていたライトフライヤーが墜落して32歳の若さで死亡したことから、
航空機事故でも助かる方法を模索した結果、この発明で特許を取ったのです。

ちなみに、ロイスは動力飛行機事故で死んだ最初のイギリス人となりました。

 

さて、王立飛行隊でのテストは1915年に行われたのですが、なんと
この発明に対する王立飛行隊の見解は、

「パラシュートはパイロットの戦闘精神を損なう可能性がある」

というもので、そのため採用を拒否したというから驚きです。

こう言ってはなんですが、大東亜戦争の時の我が日本軍みたいですね。
イギリス人ってもう少し合理主義的な国民だと思っていたんですが。

そしてこのため、第一次世界大戦中はRFCが海軍と併合して
空軍になってからもパラシュートは最後まで採用されませんでした。

ただし、飛行船では普通に使われ、それで何人もの命が助かっています。
実は飛行機に搭載されない実の理由は、「敢闘精神」ではなく、物理的に
当時のパラシュートは重たくて積み込めなかったというものだったという噂も。

あれ?ということはイギリス人論理的なのか。

 

ついでながら、王立飛行隊は陸海軍によ合同で創設されたので、
当初内部では陸軍ウィングと海軍ウィングに分かれており、
それぞれの指揮官の統率のもとに動いていたわけですが、
海軍は陸軍とまったく優先順位が違ううえ、王立飛行隊内部で
陸軍より大きな権限を持つことを要求したため(やっぱり)
王立飛行隊から分離して「海軍飛行隊」(RNAS、ロイヤルナーヴァルエアサービス)
という別組織となっていました。

空軍創立の際はそれがもう一度統合されることになったわけですが、
さぞかし最初は陸海出身者の覇権争いが熾烈だったのではないかと(´・ω・`)

まあ、どこの国にも見られた「Same Old cliché」ってやつですか。

 

■ ロイヤルエアフォース国防基地

ロイヤルエアフォースのホームディフェンス・エアフィールド、
つまり国防航空基地がここに再現されていました。

さすが第一次世界大戦の頃とあって、全体的にのんびりしているというか、
機械の類がほとんど見られず、空軍基地というより郵便局長の執務室みたいです。

これは1918年5月のある日、という設定となっています。

 

イギリス本土に対するドイツ軍の空襲を受けて、王立飛行隊と
(そこから独立していた)海軍飛行隊が統合され、統一の指揮下に置かれました。

それがロイヤル・エア・フォース、王立空軍です。

RAFの地上統制官(まだ王立飛行隊の陸軍のカーキ制服を着ている)
は、飛来してくるドイツ空襲部隊の飛行機の数、コース、そして
予想されうる爆撃目標についての情報を受け取り、それから
それを基地に待機している戦闘機パイロットに伝えます。

ここにいる女性はWAAC(陸軍女性補助部隊、Women's Army Auxililary Corps)
から転属してきたため、RAFのエンブレムを付けています。
彼女は情報筆記係と派遣するパイロットに連絡を取り続けます。

 

1918年の5月までに、防衛飛行隊は無線送信機を使用して
ドイツ軍の爆撃機を迎え撃つイギリス軍の戦闘機パイロットを
誘導するという実験を行っていました。

当初パイロットは地上から指示を受け取れても応答はできませんでしたが、
戦争が終わるころには戦闘機側無線送信もより範囲が広くなっていました。

■ 航空戦力の「預言者」たち

新世代の爆撃機たちーマーティンB-10を含む新世代の爆撃機は、
戦後約10年で導入されました。

それらの一部の航空機は、空軍力の預言者による未来を実現していました。

戦後、影響力のある航空擁護者のグループの発言が世間に広がりました。
彼らは、戦争についての伝統的な考えはすでに時代遅れであり、
陸上で人を戦わせるような「費用のかかる」世界大戦はもう時代遅れだと信じていました。

ジュリオ・ドゥーエ将軍

「一般に、航空攻撃による『犯罪』は平時の産業および
商業施設などの標的に対して向けられます。
民間および公共の重要な建物; 輸送の動脈線、そして民間人居住地区も同様に」

最初の航空力の預言者、それはジュリオ・ドゥーエ大佐でした。

第一次大戦の限定された戦略爆撃はイタリア軍のドゥーエ大佐に
深い印象を残すことになりました。

ドイツ軍のイギリスとイタリアに対する爆撃キャンペーンは
オーストリア=ハンガリー帝国にも反映されることになり、
この結果、ドゥーエ大佐は、総力戦争のストレス下にある社会は
空爆により崩壊すると結論付けたのです。

そこで彼は空軍で攻撃を行い、地上で防御を行うという戦略を立てました。

航空戦力により空中から敏速に決定的な破壊攻撃を連続し、
敵の物心の両面の資源破壊により勝利すべきという主張です。

これからの戦争は兵士、民間人に区別はない総力戦である。
空爆でパニックを起こせば、自己保存の本能に突き動かされ
民衆は自ずと戦争の終結を要求するようになるだろう。

これが彼の至った理論、つまり無差別爆撃の提唱でした。

Giulio Douhet.jpgドゥーエ(真面目バージョン)

彼の理論は、1921年にイタリア空軍から出版されました。
しかし、彼の理論は爆撃機の破壊能力を誇張し、空襲に耐える
民間人の能力を過小評価していたということもできます。

サー・ヒュー・トレンチャード

「空軍が敵国を倒すために最初に軍隊を倒す必要はありません。
空軍は中間段階を省くことができ、敵の海軍と軍隊を通過し、
防空を攻撃し、敵の戦争努力が維持される人口、輸送、
通信の中心に直接攻撃することができます」

サー・ヒュー・トレンチャード将軍は「王立空軍の父」という人物です。

彼は、王立空軍の司令になった時、次の戦争に生き残るために
イギリスに必要なのは、敵の銃後を破壊するための強力な爆撃機集団であり、
敵住民の戦意と戦争継続の意思を低下させるための爆撃機による攻撃である、
だという主張をしました。

1919年、トレンチャードは、植民地の法と秩序は在来の守備隊よりも
機動力の優れた空軍によるほうが安上がりで効果的に維持できるとし、
植民地での使用の経済的効果にも言及しています。

 

彼ら預言者は、戦争の勝敗が空軍だけで迅速に決定される未来を想像したのです。

彼らの信念は、米陸軍航空隊と英国王室空軍の両方に採用され、
第二次世界大戦における戦略爆撃機の開発を促進していくことになります。

 

 

続く。

スキャパ・フローの自沈艦隊とフォン・ロイター少将の決断 前編

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戦争に負けたらその国の海軍は艦艇を戦勝国に接収されるのが慣習です。

第一次世界大戦が終わった後、敗戦したドイツは休戦規定にのっとって
処分される艦隊を敵国の港に乗員ごと移送したのですが、このとき、
敵の手に落ちる艦隊を自らの手で沈めてしまった提督がいました。

 

ドイツ降伏の1918年11月の後から、最終処分がベルサイユで決定されるまで、
連合国は公海艦隊のほとんどをイングランドのスキャパー・フローに収容すると決め、
その指揮を執ることを艦隊司令の

ハンス・ヘルマン・ルードヴィヒ・フォン・ロイター少将
Hans Hermann Ludwig von Reuter (1869ー1943)

に要請しました。

Overview: Scapa Flow - The German Valhalla - Submergedフォン・ロイター少将

今にして思えば、敵国の司令官に捕虜の管轄を全て任せるようなものですが、
そのあたり、第一次世界大戦ごろまではいわゆる「騎士道精神」に基づく
性善説が生きていたということなのかもしれません。

結論から言うとこの「信頼」は手酷く裏切られることになり、これ以降
敵指揮官に同種の権限が与えられることはなくなったと思われます。

 

さて、連合国は当初誇り高きドイツ海軍公海艦隊司令である
フランツ・フォン・ヒッパー提督に艦隊の移送を指揮させようとしたのですが
提督は、ドイツ艦隊を中立国ではなくイギリスに運ぶ措置に激怒し、
任務を拒否し、自分の後任にフォン・ロイターを指名したということです。

しかし、フォン・ロイターもまたヒッパー提督と同じ考えでした。

ドイツ代表団がベルサイユ条約に署名する最終期限が近づいた
1919年6月21日、彼は74隻ほとんど全ての艦を自沈させてしまったのです。

 

この「自沈艦隊」についての顛末を最初からお話ししましょう。

■ 降伏

第一次世界大戦でドイツの敗戦が決まったあと、海軍で最初に降伏したのはUボートでした。
これらの中には日本軍に転籍したS60、V127のように
外国に譲渡されたものもありました。

その後、艦隊は途中までお出迎えにきた王立海軍のHMS「カルディフ」の先導で、
合計74隻の船がスキャパ・フローに収容されることになりました


ドイツ艦隊を率いるHMS「カルディフ」


「エムデン」「フランクフルト」「ブレムゼ」がスキャパ・フローに到着


■ 収容された”艦隊”

敵港に艦艇ごと収容されたドイツ軍は、敗戦に続くこの軟禁状態に完全に士気を失いました。

規律の欠如、貧しい食糧、娯楽の欠如および遅い郵便サービス。
これらの問題が累積し「一部の艦では言葉では表せない汚物を生んだ」と言います。

 食料は月に2回ドイツから送られましたが、単調で質の悪いものばかり。
乗員たちは気晴らしを兼ねて魚やカモメを捕まえることで、栄養の補給をしていました。


駆逐艦の舷側から釣り糸を垂らすドイツ人水兵たち

 

艦艇の乗員の上陸はおろか、他の艦同士の相互訪問さえ禁止されていたばかりでなく、
ドイツへの郵便は最初から、後に着信も全て検閲されました。

艦艇にはかろうじて軍医が乗り込んでいましたが、歯科医は一人も乗っていませんでした。
(なぜか特攻に行く『大和』には歯科軍医を乗せていたわけですが)

しかしイギリス軍は捕虜艦隊への歯科治療の提供を拒否しました。 
理由はわかりません。

単に人員がいなかったのかもしれないし、イギリス海軍的に
歯科治療は人道上最低限の権利とまではなっておらず、そもそも
歯牙治療に緊急性はないとされていた時代だったとうことなのでしょうけど。

 

それでも捕虜の帰国事業が行われていなかったというわけではありません。

ロイターの指揮下にある乗員の数は、到着した頃の2万人から
継続的に送還されて、徐々に人数が減っていきつつありました。

スキャパ・フロー全景


 ■ 自沈計画決行

1919年5月にヴェルサイユ条約が締結され、艦隊の運命を知ったフォン・ロイター少将は、
彼の艦隊の艦が戦利品として押収され、連合国の間で分けられるという屈辱に絶望し、
艦艇を自沈させるための詳細な計画を準備し始めたといわれます。

それからは秘密裏に、ある一点の目標に向かって静かに作戦遂行準備が進められ、
全艦隊の関係者が心をひとつにして、決行のチャンスを待ち続けました。

そして運命の1919年6月21日がやってきました。

その日スキャパ・フローの艦隊は演習のため不在にしていました。
英艦隊が出航し終わった午前11時20分頃、ついに信号が全捕虜艦艇に送信されました。

「すべての指揮官と魚雷艇の艇長たちに告ぐ
本日付『パラグラフ11』ようそろ  抑留中隊司令」

「パラグラフ11」とは前もってフォン・ロイターが伝えていた艦隊を沈める暗号です。
その文章は、彼が配布した書類の11段目以降に次のように書かれていました。

「われわれの政府の同意無しに、
敵が艦艇の所有権を得ようとした時のみ、
それを沈めるのが私の考えである。

講和において我々の政府がこれらの艦船を引渡す条項に同意したならば、
我々を今の状態に追いやった連中の永遠の不面目という形で
引渡しは実現するだろう」


ちなみに「ようそろ」という文中の言葉ですが、
英語の「Acknowledge」(認知する・知らせるなどの意)を
当ブログ独自に海軍らしくこう解釈してみました。

各艦の間で手旗信号と発光信号が繰り返されると、全艦隊の乗組員たちは
一斉に、しかし静かに素早く行動を起こし、すぐに解体が始まりました。

シーコックとバルブが開かれ、内部の水道管が破壊されました。
舷窓はすでに緩められており、水密扉と復水器カバーは開いたままであり、
一部の艦艇では隔壁に大きな穴が開けられているものもありました。

艦尾から沈む「バイエルン」


艦隊には正午まで見かけに顕著な変化はありませんでした。

そのうち「フリードリッヒ・デア・グロース」が右舷に傾き始め、
すべての艦のメインマストに帝国ドイツ海軍旗が掲揚されると、
乗組員は次々に艦を放棄し始めました。


転覆していく「デフリンガー」

スキャパ・フローに停泊していたイギリス海軍艇はは3隻の駆逐艦でしたが、
そのうち1隻は修理中で、7 隻のトロール船と多数ボートがあるだけでした。

第一戦闘艦隊司令シドニー・フリーマントルは12時20分にこの非常事態の報告を受け、
飛行隊の演習を中止し、全速力で母港に戻りましたが、
彼が到着したときにはすでに浮かんでいるのは大きな船だけでした。

このときの目撃者の証言によると、

「フロッタ島を一周したときに私たちの見た光景は、
まったく言葉では言い表せないものでした」

「ドイツ艦隊のかなりの半分はすでに姿を消していました。
ボート、浮き輪、椅子、テーブル・・・・。
港はありとあらゆる人間の残す残骸の1つの塊のようでありました。

「最大のドイツ戦艦である『バイエルン』の船首は垂直に屹立していました。
と思ったら数秒後、ボイラーが破裂し、煙の雲の中海中に消えていきました」

 

フリーマントル司令は、艦を沈ませないよう、または浜に引き揚げるようにと、
可能な限りの小艦艇に必死になって無線を送り続けましたが、無駄でした。

 

最後に沈んだのは17:00の巡洋艦「ヒンデンブルク」で、その時までに
15隻の主力艦が沈没し、 生き残っていたのは「バーデン」だけ。
結果4隻の軽巡洋艦と32隻の駆逐艦が沈没しました。

この騒ぎで9人のドイツ人が射殺され、約16名が
救命ボートで陸に向かって漕いで戻る途中に負傷しました。


降伏するために岸に向かう途中射殺された水兵たちの墓

その後1,774人のドイツ人が逮捕され、捕虜収容所に送られました。

 

■ フォン・ロイター少将 vs. フリーマントル司令

フリーマントル司令はフォン・ロイターと彼の部下の将校数人を
HMS「リベンジ」(よりによってこの名前)に引っ立て、「無表情」な彼らを前に、

「これは不名誉な行いであり、
貴官らのやったことは敵対行為の再開だ!」

と激しく非難しました。

しかし、そう言いながらも後日個人的な見解として、フリーマントル司令は

「非常に不愉快でかつ屈辱的な立場に置かれていながらも、
尊厳を保ち続けていたフォン・ロイター少将に、私は同情を禁じ得なかった」

とも述べています。
おそらく一人の海軍軍人として通じるものがあったのでしょう。

ちなみに、この場面に遭遇した「リベンジ」乗組のイギリス海軍の若い将校は、

「この1日の最もドラマチックな瞬間は、英独両海軍の提督の会合でした」

と手紙に記しています。

「二人の男性はどちらも同じくらいの背の高さで、
どちらも背が高く、そしてとても見栄えがよかった(good Looking)」

とも。
彼がこの二人の提督の会話を覚えている限り書いているので、
翻訳しておきます。

二人は立ち止まると、ドイツ少将が敬礼を行い、次の会話が始まりました。

フリーマントル「貴官は降伏しにここに来られたのか?」

フォン・ロイター「左様。私自身と部下を降伏させるために来ました。
(急激に沈んでいく艦を払うような仕草をしながら)
他には何もありません」

沈黙

フォン・ロイター(VR)「私はこのことについての全責任を負う。
将校たちや下士官兵には何の関係もない。
彼らは全て私の命令で行動したのです」

フリーマントル(FM)「この裏切り行為(小声で強く非難する口調で)、
基本的な裏切り行為によって貴官はもはや抑留された敵ではなく、
我が軍の戦争捕虜として扱われることを理解しておられるのでしょうな」

VR「完璧に理解しております」

FM「処分が決まるまで上甲板に止まっていただきたい」

VR「Frag lieutenant(秘書官)を同行してもよろしいか」

FM「許可しましょう」

 

 

この世紀の大事件に対して、イギリス側は当然激怒しましたが、世界には
必ずしもそう思わない人たちもいたということをぜひ書いておきたいと思います。

まずドイツのいくつかの艦艇を獲得することを望んでいたはずの
フランス海軍のウェミス提督は、個人的な考えとして次のように述べています。

「私はドイツ艦隊の沈没を本当の恵みだと考えています。
これらの艦が存在していたら起こっていたに違いない
各国の分配についての厄介な問題を、結局、解決したのだから」

ラインハルト・シェアー提督はこう高らかに宣言しました。

「喜ばしいことである。
降伏の汚辱のシミはドイツ艦隊の盾から一掃されたのだ。
艦隊の沈没は、ドイツ艦隊精神が死んでいないことを証明した。
この最後の行動は、ドイツ海軍の伝統に忠実なものだった」

長くなるので二日に分けますが、各提督のお言葉の最後に、わたしの個人的な感想を
一言述べさせていただけるならば・・・

かっこいい。かっこよすぎるわこのおっさん。

 


続く。

 

スキャパ・フローの自沈艦隊とフォン・ロイター少将の決断 後編

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第一次大戦の敗戦後、連合国の戦利品にドイツ艦隊の軍艦が奪われる前に
艦隊司令であるフォン・ロイターは全部自分自身の手で沈めてしまいました。

「スキャパ・フロー」はヨーロッパでは誰でも知っている事件ですが、
こんな歌があるくらいですから、きっとわたし(個人)が思う以上に
この、「自沈艦隊」への決断は称賛されているのかもしれません。

Scapa Flow 1919

爽やかなカントリー風の曲調ですが、作者はスコットランド出身です。

また、現在は武漢肺炎の関係で閉館していますが、
「スキャパ・フロー博物館」というものもあるのだとか。

いずれもフォン・ロイター提督に「してやられた」側のイギリス側ですが、
これは、イギリス人全体の自沈への評価を表していると考えられます。

さて、それでは今日は後編として、沈んだ艦隊の現代にまで至る
「その後」についてお話ししましょう。

 

■ サルベージ

スキャパ・フローにあった74隻のドイツ艦艇は、戦艦16隻のうち15隻、
8隻の巡洋艦のうち5隻、50隻の駆逐艦のうち32隻が沈没しました。


艦腹を見せている「セイドリッツ」

残りは浮いたままであるか、より浅い海域に曳航されて浜辺に運ばれました。
曳航され浜に揚げられた艦艇は後に同盟海軍に分散されましたが、
沈没した艦艇のほとんどは最初はスキャパ・フローの海底に沈んだままでした。

 

なぜ放置されたかというと、当時はスクラップ鋼鉄が大量に余っていたため、
引き揚げの費用は利益にならず、割が合わないと判断されたのです。

終戦後、多くの軍艦が解体されました。

沈没したままになっていた艦艇については、航海に危険であるという苦情が
地元民から寄せられたため、1923年に回収会社が設立され、
沈没した駆逐艦のうち4隻が引き揚げられています。


バーデンで進行中のサルベージ作業

この頃、起業家のアーネスト・コックスなる人物が現れ、 海軍から
26隻の駆逐艦を250ポンド(現在の11,000ポンドに相当)で購入しました。

彼は、ドイツの古い乾ドックを使用して駆逐艦を浮揚させる作戦を開始し、
1年半かけて26隻の駆逐艦のうち24隻を引き揚げるのに成功し、
その後、より大型の船舶の作業を開始しました。

必要は発明の母とはよく言ったもので、彼はこのとき、水中の艦体の穴に
パッチを当て、空気をポンプで押し出して水を押しのけ、
水面に上昇させて牽引できるようにする新しい回収技術を開発し、
この技術を使用して、数隻の船を浮揚させることに成功しました。



しかし、この方法には滅法費用がかかることが判明します。
たとえば「ヒンデンブルク」引き揚げの費用は現在の金額で130万ポンド。


「ヒンデンブルグ」

おりしも1926年の石炭ストライキにより操業はほぼ停止しましたが、
コックスは代わりに、沈没した「セイドリッツ」から石炭を掘り出し、
ストライキの終わりまでそれを使用してに電力を供給しました。

しかし「セイドリッツ」の引き揚げで大惨事が発生します。

最初に浮揚させるための試みの間に再び沈没し、その際、
引き揚げ装備のほとんどが破壊されてしまいました。

しかしコックスは全くめげずにもう一度挑戦し、艦体ががに海面に現れたとき、
ニュースカメラにその瞬間の彼と艦を目撃するためそこにいるように命じています。

コックス

アーネスト・コックスという男はいつもシミ一つないお洒落な衣装で現場に現れ、
ポーズをキメて自分を撮らせるのが常でした。

まあ要するに「そういう風な人」だったということなのですが、
彼の「こんな人ぶり」を表すのがこの経緯です。

コックスがたまたまスイスに休暇に行っている間に、
問題の「セイドリッツ」は皮肉にも偶然浮き上がってきたのです。

するとコックスは、労働者に再び彼女を沈めるように命じ、
それからスコットランドに戻って、自分が見ている前で3度目の浮揚をさせました。
(もちろんニュースカメラもスタンバイさせていたに違いありません)

コックスの会社は最終的に26隻の駆逐艦、2隻の巡洋艦、
そして5隻の戦艦を調達することに成功し、残りの持分を鉄鋼業者に売却し、
その後引退しました。

彼に与えられた最後のキャッチフレーズは

「海軍を買った男」

会社は、第二次世界大戦の勃発により作戦が停止する前に、
さらに5隻の巡洋艦、巡洋艦、戦艦を取得しています。


■ 沈められた艦隊の「価値」

残りの沈没船は、深さ47メートルの深い水域にあり、それ以来、
それらを引き上げようとする経済的動機はしばらくはありませんでした。

しかし現在、彼女ら沈没船の所有権は幾度も変更され、小さな鉄片を回収するために
マイナーな回収がいまだに行われているのだそうです。

というのはこの頃の艦船からは最初の核実験「トリニティ(三位一体)テスト」
が行われた1945年以前に製造された低バックグラウンド綱
(核爆発の影響を受けていない大気中で組成されており、したがって
放射性核種で汚染されていない)が回収できるとわかったからです。

低バックグラウンド鋼はガイガーカウンターなどの
放射線に敏感なデバイスに使用されるため、スキャパ・フローは
限定的な用途とはいえ、宝の山といっても過言ではないのです。

2001年、海底に残っていた7隻は 1979年の古代遺跡および遺跡地域法 によって
保存されており、ダイバーはそこを訪問するためには許可が必要です。

 

ちなみに、前回お話しした、

「艦隊を沈めたロイターを呼びつけ、激怒しながら彼を非難した
フリーマントルとそれを『無表情で』見ていたロイターの図」

というのは1957年に亡くなったイギリス軍人ヒュー・デイビッドの目撃証言です。

David目撃者

当時HMS「リベンジ」乗組で、二人の提督が対峙しているのを、
デイビッドはわずか数フィートの距離で目撃しており、そのときのことを
手紙に残して歴史的な瞬間を記録してくれたというわけです。

デイビッドの証言については、BBCが特集を報道したこともあったようです。

 

最近の動きですが、2019年、3隻の戦艦「マルクグラーフ」「 ケーニッヒ」および
「クロンプリンツ・ヴィルヘルム」は、引退したダイビング業者により
ebayで中東の会社にそれぞれ25,500ポンドで販売されました。

巡洋艦「カールスルーエ」はイギリスの個人入札者に8,500ポンドで売却されています。

 

■100周年記念イベント

2019年6月21日、ドイツ公海艦隊の100周年記念に
2回目となる追悼式が行われ、フォン・ロイターの3人の曽孫が出席しました。

■ 沈没艦隊全リスト

名前  タイプ  沈没/曳航  その後

【バーデン 】戦艦  曳航 1921年に標的として沈没、英軍の管轄下に移送

【バイエルン】戦艦  沈没14:30  1933年9月に引き揚げ

【フリードリヒデアグロース】  戦艦  沈没12:16  回収1937

【グロッサークルフュースト】 戦艦 沈没13:30 1938年4月引き揚げ

【カイザー 】戦艦  沈没13:15  1929年3月引き揚げ

【カイゼリン 】戦艦 沈没14:00  1936年5月引き揚げ

【ケーニッヒ】 戦艦 沈没14:00  引き揚げられず

【ケーニッヒアルベルト】 戦艦 沈没12:54  1935年7月引き揚げ

【クロンプリンツ・ヴィルヘルム 】 戦艦 沈没13:15  引き揚げられず

【マルクグラフ】  戦艦 沈没16:45  引き揚げられず

【プリンツレゲンドルイトポルド】 戦艦 沈没13:15 1929年3月引き揚げ

【ダーフリンガー】 巡洋戦艦  沈没14:45 1939年8月引き揚げ

【ヒンデンブルク】巡洋戦艦  沈没17:00  1930年7月引き揚げ

【モルトケ】 巡洋戦艦  沈没13:10  1927年6月引き揚げ

【セイドリッツ】巡洋戦艦  沈没13:50 1929年11月引き揚げ

【フォンデルタン】巡洋戦艦  沈没14:15  1930年12月引き揚げ

【ブレンセ】巡洋艦  沈没14:30  1929年11月引き揚げ

【ブルマー】巡洋艦  沈没13:05 引き揚げられず

【ケルン】巡洋艦  沈没13:50  引き揚げられず

【ドレスデン】巡洋艦  沈没13:50  引き揚げられず

【エムデン】巡洋艦  曳航 1926年に廃止、フランスに移される

【フランクフルト】巡洋艦  曳航 1921年標的として沈没、アメリカ軍の管轄下に移送

【カールスルーエ 】巡洋艦  沈没15:50  引き揚げられず

【ニュルンベルク】巡洋艦  曳航 1922年標的として沈没、英軍の管轄下に移送

【S32】駆逐艦 沈没 1925年6月に引き揚げ

【S36 】駆逐艦 沈没 1925年4月に引き揚げ

【G38】 駆逐艦 沈没 1924年9月に引き揚げ

【G39】 駆逐艦 沈没 1925年7月に引き揚げ

【G40】駆逐艦 沈没 1925年7月に引き揚げ

【V43 】駆逐艦 曳航 1921年に標的として沈没、アメリカ軍の管轄下に移送

【V44】駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V45】駆逐艦 沈没 回収1922年

【V46】駆逐艦 曳航 1924年除籍、フランスの支配下に移される

【S49】駆逐艦 沈没1924年12月引き揚げ

【S50】駆逐艦 沈没 1924年10月に引き揚げ

【S51 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、イギリス軍に転籍

【S52】 駆逐艦 沈没 1924年10月に引き揚げ

【S53】 駆逐艦 沈没 1924年8月に引き揚げ

【S54】 駆逐艦 沈没 部分的に回収された

【S55 】駆逐艦 沈没 1924年8月に引き揚げ

【S56 】駆逐艦 沈没 1925年6月に引き揚げ

【S60 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、日本軍に転籍

【S65】 駆逐艦 沈没 1922年5月に引き揚げ

【V70 】駆逐艦 沈没 1924年8月に引き揚げ

【73 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、イギリス軍に転籍

【V78 】駆逐艦 沈没 1925年9月に引き揚げ

【V80 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、日本軍に転籍

【V81 】駆逐艦 曳航 ブレーカーに向かう途中で沈没

【V82 】駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V83】 駆逐艦 沈没 回収1923

【V86 】駆逐艦 沈没 1925年7月引き揚げ

【V89】 駆逐艦 沈没 1922年12月引き揚げ

【V91 】駆逐艦 沈没 1924年9月引き揚げ

【G92】 駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V100 】駆逐艦 曳航 1921年に除籍、フランスの支配下に移される

【G101 】駆逐艦 沈没 1926年4月引き揚げ

【G102】 駆逐艦 曳航 1921年に標的として沈没、アメリカ軍の管轄下に移送

【G103 】駆逐艦 沈没 1925年9月引き揚げ

【G104 】駆逐艦 沈没 1926年4月引き揚げ

【B109 】駆逐艦 沈没 1926年3月引き揚げ

【B110 】駆逐艦 沈没 1925年12月引き揚げ

【B111 】駆逐艦 沈没 1926年3月引き揚げ

【B112 】駆逐艦 沈没 1926年2月引き揚げ

【V125】 駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V126】 駆逐艦 曳航 1925年除籍、フランスの支配下に移される

【V127 】駆逐艦 曳航 1922年除籍、日本軍に転籍

【V128 】駆逐艦 曳航 1922年除籍、イギリス軍に転籍

【V129 】駆逐艦 沈没 1925年8月引き揚げ

【S131 】駆逐艦 沈没 1924年8月引き揚げ

【S132 】駆逐艦 曳航 1921年沈没

【S136 】駆逐艦 沈没 1925年4月引き揚げ

【S137 】駆逐艦 曳航 1922年に解散、イギリス軍に転籍

【S138 】駆逐艦 沈没 1925年5月引き揚げ

【H145 】駆逐艦 沈没 1925年3月に引き揚げ

 

ちなみに、日本が戦利品として分け与えられた沈没艦隊のうち
駆逐艦2隻は、いずれも未編入のまま終わっています。

第一次世界大戦で日本が得た艦船で、実際に使用されたのは
「エレン・リックマース」「ミヒャエル・イエプセン」などの汽船で、
いずれも軍用ではなく運送船としてでした。

ドイツの軍艦は使い方がわからなすぎたってことなんでしょうかね。

 

終わり。

 


「航空力の独り十字軍」 栄光なき空軍の父 ビリー・ミッチェル〜スミソニアン航空博物館

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しばらくお話ししてきた第一次世界大戦の航空シリーズ、
今日は、空軍力の必要性を説き、当時は省みられることがなかった
一人の陸軍軍人についての話です。

 

■ 爆撃機と将来の戦争の形

スミソニアン博物館が第二次世界大戦航空についてまとめたコーナを
ここで紹介したとき、例えば東京空襲は明らかに低空から、
一般人への攻撃を目標としていたということについて、

「出来るだけ早く日本を屈服させるために、軍事目標ではなく、
民家を含む都市攻撃へと方針が変わったのだろうと思います」

というご意見をコメント欄でいただいたわけですが、
このことは前回最後に紹介した「預言者たち」、イタリア軍のドゥーエ将軍や
イギリス軍のサー・トレンチャード元帥が提唱したことそのまま同じです。

彼らの意見はそのまま戦略爆撃の方向性に組み込まれていったので、
第二次世界大戦でアメリカ軍が無差別攻撃を行ったのも
この流れに沿っただけ、という言い方もできます。


爆撃されたドイツの民家

 

さて、戦争が終わると、人類最初に行われた空中戦争の教訓と空軍力の可能性、
軍事秩序におけるその優先順位、そして国家政策におけるその役割について、
激しい「戦い」がはじまることになりました。

そしてその議論の中心になったのは、主に爆撃機でした。

第一次世界大戦の結果はごく限られた爆撃機の能力を証明しただけでしたが、
空軍の擁護者は、敵の最前線のはるか後ろにある「ターゲット」に対する
空中攻撃が、将来の戦争で雌雄を決すると信じていたのです。

彼らのこの考え方は第二次世界大戦において「実験」されることになります。

それは、ドレスデンであり、モンテ・カッシーノであり、東京であり、
その最大にして究極の実験が、広島、長崎でした。

1st Aero Squadron - Pilots in Mexico (cropped).jpgゴレル少佐

戦後、アメリカ陸軍航空隊はドイツに対する戦略爆撃の効果を分析しました。

その報告はエドガー・S・ゴレル少佐によってまとめられましたが、
その中に

「ドイツへの戦略爆撃はほとんど物理的な被害を与えなかったが、
戦争を遂行しようという努力をおおきく減退せしめた」

というものがありました。

レポートはまた、

「特定の産業地域への爆撃は、無差別に都市に爆撃するよりも効果的である」

という報告から始まっていました。

彼のレポートが導いた結論は、次の20年間の空軍力についての考えに
大きく影響を与えることになります。

 

しかしここでは、話の流れ上、人類がまだその結論を得ていなかった、
第一次世界大戦直後に時間を戻すことにします。

 

人類が航空機という空を飛ぶ手段を手に入れると同時に始まった
武器としての航空機の利用。

航空という新しい移動手段に人類が踏み出し、それに少し慣れたころ、
偶然というにはあまりにも、大規模かつ長期にわたる戦争が起こったことは、
その利用と技術的な進歩を押し進めることになりました。

しかし・・・・・

■ 軍事航空の不確実性

終戦直後、連合軍の航空基地の片隅に積み重ねられた廃棄予定の航空機です。

別に不具合があったとかいう機体ではありません。
中にはデハビランド のDH-4などという当時の最新鋭機が含まれています。

大戦中、航空機が武器として有用であると証明されたにもかかわらず、
戦争が終わると人々はそれを必要としなくなり、
軍用機の開発ももその歩みを一斉に止めてしまったのです。

そして軍隊の動員が解除され始めると、同時にその育成に多大な費用をかけた
航空隊そのものも「スクラップ」になりました。

戦後、空軍も解散され、軍用航空の将来は先の見えない状態になっていきました。


愛機フォッカー の前で愛犬と共に記念写真に収まるドイツ軍搭乗員

 

戦後の動員解除は特にドイツにおいて大きく航空に影響を及ぼしました。

敗戦したドイツは航空隊を解体され、即座に名機フォッカーD.VII戦闘機始め
2000機の戦闘機と爆撃機を全て廃止するように命じられたのです。

これは連合軍がこの戦闘機にいかに苦しめられたかということでもあります。

 

■ ドイツ戦艦に投下された爆弾

ここでいきなり巨大な爆弾が登場しました。
現地の説明によると、1921年7月21日、ドイツの戦艦

オストフリースラント SMS Ostfriesland

に投下されたアメリカの1000ポンド爆弾です。

オストフリースラントという紅茶の産地があるのは知っていましたが、
戦艦の名前になっていることは初めて知りました。

オスト=東、フリース=フリージア、 ラント=国

で東のフリージアの国という意味で、ここには
潜水艦の故郷ともいうべき軍港キールがあります。


「オストフリースラント」は実験による航空爆撃によって
世界で初めて沈められた戦艦となりました。

そして、その指揮を行ったのが、冒頭写真の

ウィリアム ”ビリー”・ランドラム・ミッチェル将軍
William Lendrum "Billy" Mitchell 1879−1936

です。

彼こそがこの航空不況の状況下、おそらく世界で最も熱心に、そして最も情熱的に
航空機による爆撃を次世代の武力の中心に据えるべきだと訴えていた人物でした。

「オストフリーラント」はドイツ帝国海軍( Kaiserliche Marine )の発注により
カイザーリッヒ・ヴェルフト (帝国造船所)で建造され、1911年就役。
翌年「ウェストファレン」の後継として新しい戦隊旗艦となりました。

第一次世界大戦では「ヘルゴランド湾の戦い」「ドッガーバンクの戦い」
そして「ユトランド沖海戦」にも参加しています。

停戦が調印される2週間前の1918年10月末、「オストフリーラント」は

「ヘルゴランド」「チューリンゲン」「オルデンブルグ」

ら3姉妹とともに最後の艦隊行動をすることになっていました。

しかし、戦争に疲れた多くの乗員たちは、この作戦によって
和平プロセスが混乱し、戦争が長引くことをおそれ、
10月29日朝に出航命令を受けた同じ夜、反乱を起こしたのです。

中心となったのは「チューリンゲン」の乗組員でした。


これでは作戦どころではなく、直ちに行動中止されたのを受けて、
時のドイツ皇帝は

「余はもはや海軍を持たず」

と呟いたといわれています。

反乱から1ヶ月半となる12月16日、「オストフリートラント」は除籍となり、
その後しばらく兵舎として機能していました。

その後、ドイツの航海艦隊はスキャパ・フローに送られて処分を待つ間、
ルードヴィヒ・フォン・ロイター少将の手によってほとんどの艦艇が
敵の手に渡す前に自沈してしまったことは前回述べたとおりです。

ここで注意すべきは、スキャパ・フロー送りになったのは、
艦隊の中でも最新鋭とかそれに近い艦船、つまり連合国側からは
「取得する価値のある」艦艇であったことです。

「オストフリースラント」は老艦であったため、その対象から外されて
粛々と降伏措置を受け、「H」と便宜上名前を与えられて処分を待っていました。

 

■ ミッチェルv.s アメリカ海軍

彼女は戦時賠償としてアメリカに割譲され、本土に連れて行かれました。
行き先はバージニア州のケープ・ヘンリー。

ここで彼女はその生涯を航空機の爆撃目標となって終えることになります。

1921年7月、陸軍航空サービスとアメリカ海軍合同による
一連の爆撃実験が実施されました。

指揮を執るのは「空軍の父」と後年呼ばれることになる(が、この時には
周りからほとんど変人扱いされていた)ビリー・ミッチェル将軍。

ターゲットには、旧戦艦「アイオワ 」、巡洋艦「フランクフルト」 、
そして「オストフリーランド」を含む、動員解除されたアメリカおよび
旧ドイツ軍艦が含まれていました。

実験直前の「オストフリースランド」

ここでぜひお断りしておきたいことがあります。

ミッチェルがなぜこの実験を行ったかということなのですが、
遡ればそれは彼と海軍の摩擦に端を発していました。

彼は海からの攻撃から国土を守るために水上艇基地が必要だとして
海軍にそれを説いていたのですが、海軍では第一次大戦後、
必要がなくなったとして海軍空港組織を廃止してしまいました。

国防組織には陸海軍統合の空軍が不可欠だと言う彼の考えは、
特にルーズベルトを含む海軍界隈から、

「陸軍出身の飛行士には海上飛行の要件を理解できない」

ともっともらしい理由のもとに退けられてしまったのです。

もともとミッチェルは、 「ドレッドノート」級戦艦の建設などは
貴重な防衛費の多くを占め、航空の予算が削られるので言語道断と考えていました。

彼は、航空機の力が、沿岸の銃と海軍艦艇の組み合わせよりも
低コストで海岸線を守ることができる、つまりわかりやすくいうなら

「1000機の爆撃機が1隻の戦艦と同じコストで建造でき、
それを使ってその戦艦を沈めることができる」

と信じていたのです。

そこでミッチェル、「Under War condition」(戦争中と同じ条件)で
捕獲したドイツの戦艦を爆撃する実験をさせてくれたら
爆撃機が船を沈めることができることを証明できると嘯いて
海軍を激怒させることになります。

ミッチェルの戦艦不要論に怒り心頭の海軍は、独立した空軍など不要であること、
そして航空機など海軍機だけで十分であることを証明するため、
この実験「プロジェクトB」(Bは爆撃機のB)の直前、勝手に爆撃実験を行い、

海軍機からの爆撃で戦艦「インディアナ」を沈めた

と発表してミッチェルに実験をさせまいとがんばったのですが、
なんと実際に投下されたのは砂袋で、「インディアナ」には
高爆薬が仕掛けてあったことをバラされてしまったうえ、策士のミッチェルが
先にメディアに実験情報を流したため、協力せざるを得ない状況に追い込まれました。

 

ところで彼は徹頭徹尾海軍嫌いだったわけですが、戦艦不要論者だから
海軍が嫌いになったのか、海軍が嫌いだから戦艦不要論者になったのか。

それは誰にもわかりません(たぶん)

■ プロジェクトB発動

7月21日の早朝、5波にわたって爆撃機が「オストフリーズラント」に攻撃を行いました。
08:52に、最初の陸軍爆撃機が1,000ポンド爆弾を命中させました。
さらに爆撃機4機が続き、さらに2発のヒットを記録しました。

検査官は5回目の攻撃の後に「オストフリートラント」に乗船し、
爆撃が艦体に全く深刻な損傷を与えていないことを確認しました。

しかし、 12:19に、2,000ポンドの爆弾を装備した次の攻撃波が襲い、
6つの爆弾が投下され、至近距離に3発が落ちて爆発。

12:30艦尾から急速に沈み始め、10分後、横転して沈没しました。

テストの結果は広く公表され、ミッチェルはなんとか面目を保ち「国民的英雄」、
そして「航空の預言者」の両方の称号を手に入れました。 

しかし、海軍はミッチェルのやり方にまたもや激怒していました。

海軍の認可していない2,000ポンドの爆弾を勝手に使ったのみならず、
爆撃の合間に艦艇に海軍の査察官が乗り込むことを許可しなかったからです。



しかし、この結果がミッチェルの望む方向には動くことはありませんでした。

ミッチェルの支持者たちは、

「オストフリーラント」は「不沈の超戦艦」だったが、
「老いたるシードッグは大声で泣いた」(沈んだ)

などとドラマチックに語ってテストの結果を誇張しましたが、1か月後に発行された
ジョン・パーシング将軍の(陸軍ですよね)署名入りの陸海軍の協同結果報告では

「戦艦は依然として艦隊のバックボーンである」

と結論づけられ、ミッチェルの主張は退けられる形になりました。

その後の彼は、今や公式見解となった懐疑論と軍事規制を無視し、
「航空力の独り十字軍」となって宗教じみた熱心さで空軍の設立を説いて回りましたが、
どこからも冷たく無視されただけでなく、ついには軍首脳の不興を買い、
陸軍航空隊副司令官の要職を追われ、田舎に左遷されてしまいます。


さらに、1925年に起きた飛行船「シェナンドー」の事故の際、彼はここぞと
「海軍の無能さ」を批難したため、軍事法廷に告訴されるはめになりました。

ちなみに彼を裁いた軍事法廷の最年少の裁判官はダグラス・マッカーサー少将で、
彼は後年、この任務に就くことを

「わたしがそれまでに受けた中で最も不愉快な命令のひとつだった」

と言い切っており、審理では彼の無罪に投票したと告白しています。

世論は彼に同情的でしたが、判決は全ての告発に対して有罪で、
5年間無給、かつ現職を即時停止すること、という無情なものでした。

ミッチェルは1926年2月1日に陸軍を辞任し、その後も懲りずに
10年間にわたり、会う人会う人に空軍力の必要性(と戦艦の不要性)
をしつこくしつこく説いてまわりましたが、引退した「ただの人」では
軍事政策や世論に影響を与える力はもはや残っていませんでした。

 

「空軍力の脅威は非常に大きく、抑止力となりうるし、
もし戦争することになっても、空軍力により勝敗はよりはっきりと、
決定的に、より迅速に決着がつきます。

つまり生命と財産の喪失は減少することにつながり、
文明にとっては明確な利益となりうるのです」

1925年のミッチェルの言葉です。

1926年、皮肉にも彼が任務を停止され、キャリアを終えてから、
その主張は現実に一歩近づきました。

アメリカ陸軍航空隊が創設され、航空部門が陸軍内で
ある程度の自治権を得ることになったのです。

そのことは彼を支持し、彼に続くものたちの決意を確かにしました。

しかし、独立した任務部隊としての真の空軍の独立は、
第二次世界大戦後まで実現せず、かれはそれを見ずに1936年、
56歳の若さで亡くなっています。

准将の死後5年経って生まれた爆撃機B-25「ミッチェル」は、
この栄光なき理想主義者、あるいは預言者の名前から取られました。

アメリカ軍の爆撃機の中で人名のつけられた例はこの「ミッチェル」だけとなります。

 

 

 

 

第一次世界大戦航空の遺産〜スミソニアン航空博物館

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さて、しばらくお話ししてきたスミソニアン博物館展示による
第一次世界大戦の航空シリーズ、今日で最後になります。
今日は、第一次世界大戦が航空のあゆみに遺した影響とその遺産についてです。

 

 

航空戦争としての第一次世界大戦は重要な遺産を創造しました。

軍事、政府、および産業の指導者たちは、戦場でのサポート役としての
飛行機の重要性を認識し、この新興の戦争技術に寛大に資金を提供し始めました。

終戦までに、航空は高度に組織化され、複雑になりました。
空軍は非常に成長し、組織と戦術は進化し、航空サービスが作成され、
生産ニーズは政府と産業の結びつきを強めていったのです。

そして、新しいタイプのヒーローも登場します。
つまり戦闘機のパイロットですね。

マンフレート・フォン・リヒトホーフェンなどは、その技術、
撃墜数、赤いフォッカー にヘアフライ(男爵位)という出自、
加えて華麗な容姿が世界中に喧伝され、敵味方を超えて人気がありました。

第二次世界大戦に参加した搭乗員たちにとってもレッドバロンは憧れで・・・、
そういえば「ラバウルのリヒトホーフェン」というあだ名を奉られていた
帝国海軍のエースもいましたですね。

あれは後世のメディアが、本人の手紙にその名前が書かれていたことから
”キャッチフレーズ”として名付けたものにすぎず、周りがそう呼んでいたとか、
ましてや本人が自称していたなどということはまったくなかったと思いますが。

話がそれましたが、この大戦をきっかけに誕生した、今日まで続く
軍用航空の遺産というテーマで最後にご語ってみたいと思います。

■ 軍用航空が生んだウィングマーク

今では当たり前に存在しているものですが、第一次大戦がきっかけとなって
生まれたものの一つに、独自の部隊章があります。

航空の軍事的な役割が拡大していくに従って、飛行機に乗る搭乗員たちが
戦争における最も有名な英雄として注目を集めるようになってくると、
航空任務の現場では、彼らの飛行士たちを識別するために
ユニークなユニフォームや記章を作成し始めました。

パイロット、偵察員、およびその他の乗務員が着用した独特のバッジは、
彼らのエリートステータスを強調し、誇りの証となったのです。

今日、世界の軍隊の航空搭乗員は共通して「ウィングマーク」という
翼のあるバッジを付けますが、これなども、空中戦が行われることになった
最初の戦争の具体的な遺産なのです。

 

フランス軍航空隊の航空学生バッジは片翼仕様。
まだ半人前だから片翼なのかと思ったのですがどうでしょう。

陸軍航空サービスのパイロットバッジ。
このころはまだ星のマークがありません。

偵察員の紀章。翼の根元は「オブザーバー」の「O」でしょうか。

フランス航空部隊のパイロットバッジ。
翼をあしらったというより鳥そのものが翼を広げたデザイン。

海軍は海軍である印として錨を中央に据え、
翼が生えた錨をデザインしています。

ロシア海軍の士官用帽章です。

ロイヤル・オーストラリアン航空部隊のパイロットマーク。
翼の中央に「AR」があしらってあります。

オーストラリアの空軍は、第一次世界大戦前の1914年3月に
陸軍の組織として航空部門が設立されています。

第一次世界大戦においては、大英帝国の一員として連合国側で参戦し、
ドイツ領ニューギニアで戦闘活動をおtこない、後に中東戦線、
あの西部戦線にも投入されていたそうです。

大戦末期は士官460名、兵員2,234名の規模の部隊でした。

その後オーストラリア航空軍団は、1921年に独立した空軍となり、
同年6月21日にジョージ5世が王立('Royal')の称号を与え、
8月31日より王立オーストラリア空軍に改称されていますので、
このインシニアは1921年以降のものということになります。

 

さて、航空機が生まれて10年やそこらで世界大戦が起こり、人類は
戦争が始まると同時に航空機に新しい役割を担わせ始めました。

戦争開始時、飛行機は主に高い位置から敵の様子を偵察、そして
観測するという役割を担わされていましたが、すぐに戦闘および爆撃、
そして写真偵察とその任務を進化させていきました。

そしてそのうち地上攻撃、海上パトロール、対潜水艦戦への投入が始まります。
目的が多様化すると、新しく制作される航空機はそれぞれの目的のために
少しずつ違う設計が行われてきましたが、

「複座の単発複葉機」「単座の単発偵察機」

が、戦争を通じて使用された2つの基本的なタイプでした。

 

■ 目的特化型航空機ハルバーシュタット

ところで冒頭写真の美しい迷彩の複葉機は、

ハルバーシュタット Harberstadt  CL.IV

といい、特に新しい任務のためにデザインされた飛行機です。

ハルバーシュタットCL.IVは、第一次世界大戦で最も優れた地上攻撃機の1つで、
地上からの攻撃を回避するための優れた機動性は、低空からの攻撃機として機能しました。

敵軍の集合場所を攻撃したり、前進している連合国の攻勢を直接妨害するなど、
支援攻撃や地上攻撃任務を行っていないときは、護衛用の
2人乗り戦闘機として使用されていました。

ハルバーシュタッター・フルークツェウグヴェルケの主任設計者、
カール・ティエス(Karl Thies)は、偵察および写真哨戒機の護衛機となる
2人乗りの航空機低空飛行のハルバーシュタットCL.IIを成功させ、
この地上攻撃の役割をさらに改良したバージョンを設計しました。

CL.IVと指定されたこの新しい飛行機は機体のバランスに優れ、
前作よりもはるかに優れた操作性を実現しました。

後部座席は銃手が乗るのですが、輪っかのような枠が付いています。

CL.IIと同様に、パイロットと同乗者のコクピットは共有で、
視界が良く互いのコミニュケーションが取りやすい設計です。
前と同じ160馬力のメルセデスD.IIIエンジンを搭載し、
省略されたスピナーのため、より攻撃的な外観になりました。

1918年プロトタイプの試験が完了した後、約450機がハルバーシュタットに、
さらに250機が下請業者LFG(ローランド)に発注されました。

 終戦ごろになると、月の出ている明るい夜に、CL.IV中隊は、
ミッションから戻った連合軍爆撃機を迎撃したり、
航空基地に対する夜間攻撃を行っていました。

 

すでに述べたように、第一次世界大戦に参戦したとき、アメリカは
国内に航空産業はほとんど存在していないに等しい状態でしたが、
しゃかりきになって大量の航空機を迅速に生産してのけました。

ここでもご紹介した「リバティエンジン」のプロトタイプを動力とした
エアコーAirco DH-4が設計にかかった時間はわずか4日という伝説が残っています。

 

■ 航空産業

戦争が始まるや否や、航空機産業をフル稼働する必要が生まれ、
フランス、イギリス、ドイツはそれを最優先事項にしました。

しかし、これは一種のアンビバレンツな事象を産むことになります。

各国は、大量生産の必要性と、航空機および機材の技術の進歩を
いかに適合させていくかという問題のバランスをとるのに苦労していました。

つまり、どういうことかというと、新しい技術を導入すると生産が遅くなるので、
ほとんどの生産現場は、多数の飛行機を迅速に生産するために、
技術革新を遅らせたり犠牲にせざるを得なかったということです。

 

■ 航空技術開発

ライト-マーチン航空会社のポスターです。
全部翻訳しておきます。

パワーが命を意味するところ

第一線で活躍するフランス軍のエースは
イスパノ-スイザのエンジンを使っています。
これ以上何をいう必要があるでしょうか。

これらの男たち・・・、フォンク、ギネメール、エトー・・・・
かつて存在した最も偉大な飛行家たち、世界がその名を挙げる彼らが
信頼を寄せたイスパノ-スイザだからこそ、選ばれるのです。

この素晴らしいモーターの性能は彼らの信念を正当化しました。

実に5万回以上の任務を見てきたエンジンは、
フランスにあるだけでも17の工場で製造されています。

男たちがそれを使って空を飛ぶようにになる以前も、
それは素晴らしい自動車用のモーターでした。

基本的に正しい原則に基づいて、航空業界のブレインがそれを
完璧な飛行機エンジンに開発し、それを我が社が製造しました。
最も優れているモーター構造をすべてを特徴付けるその品質は、
このマークが表しています。

軍事航空の最も厳しい要求と企画は、世界で最大の飛行機モーターになって
「スパッドを可能にしたモーター」となったのです。

文中のフランス人飛行士たちの名前のうち、ギネメールは以前
当ブログでご紹介したことがあります。

あと二人は、

René Fonck - Wikipedia

エンテンテ戦闘機のトップエースだった
ルネ・フォンク大佐(Rene Fonck 1894−1953)。

「史上最強のエース・オブ・エース」の称号を持ちます。
動画で動いているフォンク大佐が見られます。

"Ace of Aces" René Fonck with his SPAD S.XIII

そしてアルフレッド・マリー・ジョセフ・オートー。
(Alfred HAlfred Hertaux  1893-1985)

コウノトリ部隊のエースだったオートーは、のちにドイツ占領下のフランスで
レジスタンス運動に加わり、そのため捕まって、悪名高いブーフェンヴァルト
(強制収容所)送りになりましたが、解放されたあと軍サービスに戻り、
准将にまで昇進しています。

 

この広告のフランスのイスパノ〜スイザエンジンは
世界でも最も偉大な技術的進歩の結果の一つでした。
アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、ライト-マーチン航空会社は
ライセンス生産による製造を始めました。

この広告は、エンジンを動力源とする戦闘機ですでに名声を博した
同盟のエースの名前を呼び起こすことによって、会社の新製品を宣伝しています。

 

■ 技術開発

政府と産業界は一体となって多くの航空機とエンジンを設計生産しました。

敵の航空機の性能を上回ることをつねに目標に、軍事航空業界は
航空機の速度、航続性、高度、武装を改善することを目的とした技術革新を
継続的に取り入れて進化していきました。

そのためかつてないほど熾烈な空中性能を追求するための競争により、
航空機の強度、安定性、および操縦性は飛躍的に向上しました。

終戦までに、エンジンはより軽量に、より信頼性が高くなっていき、
出力は初期のパワーと比べて4倍から5倍も強力になりました。

しかし、この進歩のためにかかったコストは、金銭的なものだけではありません。
それはしばしば貴重な人命をも含むものでした。

 

■ 成長する武力

巨大なスケールで行われた初めての世界大戦は、
航空サービスの発展により拍車をかけました。

航空力の戦闘における役割も拡大し、航空機産業もまた拡大し、
技術的革新はより一層政府からの投資を引き出すことを容易にし、
結果、多くの入隊者が集まってくるようになってきました。

第一次世界大戦における連合国において、終戦までに
軍航空サービスに携わった人員の数は劇的に増加していきました。

第一次世界大戦前と大戦後での参加国の航空人員の違いは次の通り。

        1914    1918

🇬🇧イギリス  2,000   300,000

🇫🇷フランス  3,500    90,000

🇺🇸アメリカ  1,400   195,000

 

戦争が終わった後も、戦時中に訓練を受けた何千人ものパイロットたち、
および終戦によって一旦不要となり安価になった余剰航空機の可用性は、
軍用航空のみならず、航空界全体の成長を一層促進していくことになるのです。

 


スミソニアンの第一次世界大戦航空シリーズ 

終わり

 

 

映画「危険な道」〜真珠湾攻撃

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当映画部が最近日独米作品というローテーションで映画を紹介していることに
お気づきの方も、もしかしたらおられるかもしれません。

夏以降、日本海軍の造船界隈を扱った「怒りの海」、制服を盗んで士官になりすまし、
暴虐の限りを尽くした実在の人物をモデルにした「デア・ハウプトマン」、
ときているので、今回は特にスター共演で話題となったハリウッド映画を取り上げます。

 

本作「危険な道」のオリジナルタイトルは「In Harm's Way」。
直訳すると「危険な道」で珍しくも合っています。

翻訳した邦題が正しくオリジナルの意図を伝えている例は、
いうてはなんですが、わたしがこれまで扱ってきた映画では初めてです。

”In Harm's Way ”、この言葉はアメリカ独立戦争の海軍の英雄である
当ブログ的にはおなじみジョン・ポール・ジョーンズの言葉、

I wish to have no connection with any ship that does not sail fast,
for I intend to go in harm's way.

「高速で進まない船とはわたしは関係を持ちたくない。
なぜならわたしは危険を承知で行くのだから」

から取られています。
同名の小説をベースにしたこの映画の監督は名匠オットー・プレミンジャー、
一山いくら状態で有名な俳優がぞろぞろ登場するという豪華版です。

さて、先も長いしとっとと始めましょう。

タイトルとして登場するのはポスターと同じデザインの、
指差す海軍士官の腕を図案化したモチーフです。

ここはハワイのフォード島「コミッションド・オフィサー・メス」
つまり士官のみが使用できる食堂&慰安施設。
おりしも1941年12月6日の夜、ダンスパーティが行われています。

これは史実だったらしく、戦中の日本映画「ハワイ・マレー沖海戦」で、
このパーティの様子を通信で傍受した日本軍が、

「アメさんたち、女子と抱き合って踊っとるんじゃ」

と皆で嘲笑う?シーンがありましたっけ。

軍関係者のパーティらしく、テーブルに整然と並べられた軍帽から
プールサイドで行われているパーティ会場にカメラは移動します。

バンドが演奏しているのは「スリーピー・ラグーン」。
(題名が思い出せなかったので『歌っちゃお検索』で歌って突き止めました)

スローダンスがアップテンポに変わると、一人で酔っ払い、
フェロモンを無駄に撒き散らして周りの顰蹙を買っている美女が登場。
バーバラ・ブーシェ演じるリズ・エディントンです。

「見ておれん」

リズは海軍パイロットであるポール・エディントン中佐の妻ですが、
今宵彼女がハメを外している相手は夫ではなくなぜか紛れ込んだ陸軍パイロット。

それを見てマコーネル中尉夫妻が眉を潜めております。
(マコーネルが老けているので大尉と思っていたらどうも違うらしい)

「エディントンは訓練で海に出てるんだぞ」

それはともかく、女性のファッションや髪型がどう見ても
1950年代のそれで、1941年のものとは思えません。

陸軍少佐を演じているのはヒュー・オブライエン。
彼女をパーティから連れ出すときに、

「海軍は息が詰まる」(It's a stuffy Navy joint.)

とさりげなく海軍をディスっております。

それより陸軍にもこんな白っぽい制服があったんですね。
スーツ襟ですが、これは海軍に対抗するためのパーティ用?

いそいそとご自慢のリンカーンコンバーチブルに乗りこみ、
夜の海に到着するや、このBッチが海岸で全裸になり、
海に入って行くので男も制服を脱ぎ捨て以下略、というありがちな展開に。
(女性上半身後ろ姿ののサービス映像あり)

戦争映画だと思って見始めたらとんでもない出だしじゃないですかー。

明けて12月7日、運命の朝がやってきました。
こちらは本作の主人公である「ロック」、ロックウェル・トリー大佐が
艦長を務める「無名の重巡洋艦」です。

いつもの海軍的ルーチンを行う乗員たち。

「ドミドミドードー ドッドドドミドー
ミソミソミーミー ミッドドミソミー
ソドソドソーソソッソソソドソー(繰り返し)」

これがアメリカ海軍の起床ラッパのようです。

我らが艦長はガウンを着て髭剃り中。

本作はジョン・ウェインの最後の白黒映画となりました。
誰が見てもこの頃のウェインは海軍大佐にしては年寄りすぎで、
しかも年齢のせいばかりともいえない覇気のなさが感じられるのですが、
この頃肺癌と診断され、撮影中ずっと血を吐いていたからでしょう。

病気にもかかわらず彼は撮影中1日6箱のタバコを吸い続け、
撮影終了直後に左肺と肋骨を何本か切除するという事態になりました。

しかしそれでもこのあと彼は闘病しながら映画にも出て15年元気?でした。
本人も納得してただろうし、病気も本望だったのではないでしょうか。

さて、ここでトリー艦長、嫁が絶賛浮気中のエディントン中佐を呼び出し。

エディントン(カーク・ダグラス)は浮気な嫁のせいで任務に身が入らず、
そのせいで航空隊をクビになって船に回されてきたといういわく付きです。

写真立ての嫁の写真を物思わしげに眺めたりして、性悪なのに、
(いやだからこそか)執着せずにいられないようです。

さて、こちら性悪の方は悩める亭主のことなどそっちのけで、
浜辺の一夜を過ごしたものの、朝が来てみると横に転がっているのは
いぎたなく寝ているほとんど知らない男。

ちなみに陸軍少佐を演じたヒュー・オブライエンはちゃんとした?俳優ですが、
あまりにしょうもない役どころのせいか、クレジットなしです。

さて、今からマック(マコーネル中尉)が駆逐艦「キャシディ」に乗り込みます。

ちゃんと乗艦の際艦尾に向かって敬礼しているのが本物っぽい。

甲板で暇つぶしにゲームをしている駆逐艦野郎どもですが、
そのとき、一人が通達文を読んでいわく、

「駆逐艦ワードが哨戒中に潜水艦を撃沈したそうだ」

そう、真珠湾攻撃はこのときすでに始まっていたのです。
しかし、乗員は呑気にトランプを繰りながら

「あーあ、味方の潜水艦を沈めたらただじゃ済まないぞ〜?」

違う節子それ日本の潜水艦や。

さすがに巡洋艦の艦長であるロックはこれを見てすぐさま
ジグザグ航行を命じますが、エディントンは

「またかわいそうなクジラが脂肪を失ったか(直訳)」

とこちらも呑気です。

しかし、飛行機の大群は訓練にしては変だと思い始め、
艦長はジェネラルクォーター(総員配置)を命じました。

「ドドドソミミミドソソソミミドソ、
ドドドソミミミドソソソミドソドー(繰り返し)」

これが総員配置のラッパですが、総員起こしに続き、
アメリカ海軍のラッパは音楽的にイマイチだと思いました(感想)

「This is not a drill, this is not a drill,
General Quarters, All hands man your battle stations.」

使用された巡洋艦は「セントポール」、総員配置につく乗員は全て本物です。

砲の先のキャップを取り、戦闘ヘルメットを被り、皆が甲板を全力疾走。

こちらは駆逐艦「キャ」シディ」のマコーネル中尉。
先任として朝の儀式を行っているところに連絡あり。

「日本語の機内無線らしき音声が聞こえる」

非常時と判断したマックは出航準備を命じました。

この頃砂浜でようやく目が覚めた陸軍少佐。

エディントン嫁はこんなときにコンパクトを見るのに一生懸命ですが、
男はさすがに腐っても飛行将校、日本軍の攻撃だと気付きました。

飛行機からの銃撃を受けながら(これは歴史的に間違い。民間人は攻撃されていない)
転がるように車に乗り込んだ不倫カポー、カーブ道をすっ飛ばしますが、

カーブを曲がったところでなぜか左側を走っていたトラックを避けようとして
車はガードレールを乗り越えて崖を転落。

(-人-)ナムー

この瞬間なぜか車種が明らかに別の車に変わっています。
情報によるとそれまでリンカーンだったのが落ちたのはフォードだそうですが、
このタイプは1946年製で1941年には存在していません。

崖を落ちていくフォードの助手席には軍帽を被った人形が一体載せられていますが、
助手席にリズの姿はありません。
実際に転落に使える車がフォードしかなかったのでしょう。

 

「バーナー挿入」

「系糸装置解除。保護弁開け」

「電気ローラー起動」

そうこうするうちに周りの海面に空爆の水煙が立ち始めました。
艦番号298とありますが、「キャ「シディ」は架空の駆逐艦で、

USSフィリップ Philip DD/DDE -498

が撮影に使用されました。
当時は現役だったので、乗員も全て本物であったはずです。

そこで問題が。

すぐさま出航を命じたマックに向かって乗員が

「Wait the captain」(艦長を待たなくては)

しかし彼は

「Screw the captain」

とすぐさま言い返しています。
字幕では「置いていけ」となっていますが、さすがに海軍という組織で
いくら映画でも一介の中尉がそんな命令をだすとは考えにくいですね。

Screwは文字通りねじ込むという意味なので、

「早く乗艦させろ」

が正しいのではないかと思われます。

結局最終的に艦長は置いていくことになるわけですが。

艦長がいないので独断で爆撃を避けるため出航した「キャシディ」ですが、
後ろから内火艇で艦長と副長が追いかけてきました(笑)

乗員「ハーディング艦長と副長です」

艦長&副長「スピードを落とせ〜!」

マコーネル「みんな、後方に何か見えるか?」

艦長&副長「乗せろー!止まれー!」

乗員「見えたとしたら目がおかしいですな」

同期「スピードを上げるんだマック」

いやー、いろんな映画で真珠湾攻撃のシーンを見てきましたが、
アメリカ側にこんな悲惨さのかけらもないのは初めてだわ。

日本軍の攻撃が続く中、上層部が司令部に集まってきました。
水兵たちが銃を空に向けて撃っています。

状況証拠的に?この真ん中がキンメル提督であることは間違いありません。

ちなみにハズバンド・キンメルを演じたフランチョット・トーンも、
本作撮影中肺癌で闘病しており、直後に死亡しています。

キンメルは到着するなり出航した艦の確認を始め、

「9隻の戦艦のうち1隻も外に出なかったのか?」

と質問しています。
しかし、実際に当時真珠湾にいた戦艦は8隻でした。
(USS『ユタ』はすでに標的艦だったため)

さて、こちらはロック艦長の巡洋艦。

「駆逐艦(tin-can)が出航したと報告がありました」

ロックは巡洋艦3隻と駆逐艦8隻を集め、12隻で艦隊を組みました。
それらの全てがレーダーを装備していないにもかかわらず、
司令部は日本軍を探し出して攻撃せよと命じてきます。

その通達を受けるとき、ロック艦長は長官のことを

「CinCPac」
Commander‐in‐Chief、Pacific Command

と呼んでいます。
太平洋軍最高司令長官の意です。

自衛隊の人が在日アメリカ軍司令官を7Fと呼んでいたのを思い出しました。
全く関係ありませんが、我が政界にも超親中派の2Fという政治家がいますよね。

それはともかく、日本軍追撃を命じられた巡洋艦隊ですが、
問題は燃料の補給ができていないことです。

ちょうどタンカーとすれ違いますが、艦長は一眼で
艦体が浮いていることから補給する燃料は積んでいないと判断します。

ここでロック艦長はジグザグ航行をやめて燃料を節約するという
苦渋の決断を下さざるを得なくなりました。

懸念は敵潜水艦の存在でしたが、そういう時に限っているんだなこれが。

まずマックの駆逐艦「キャシディ」がその存在を発見。

ロック艦長はジグザグ航行の再開を命じ、駆逐艦は爆雷を投下します。

艦長とエディントンの間にいる士官は「バーク」と呼ばれていますが、
わたしのカンによるとこの人のファーストネームは「アーレイ」だと思われます。

ところがそのとき、爆雷にもめげず日本軍の潜水艦が放ってきた魚雷が
見事巡洋艦の横っ腹に命中!

中央部からは応答なく、浸水した模様です。

「損害箇所を知らせろ」

という艦長に、エディントン中佐、(この人の役割って何?)

「(損害箇所は)その腕。多分折れてる」

この一連の会話で、当時のアメリカ海軍では艦長のことを
「オールドマン」(オヤジ)と呼んでいたことがわかりました。
もちろん面と向かっては言いません。

艦内ではエディントンが中心となってダメコンを行い、
巡洋艦はその甲斐あって沈没を免れました。

爆雷で潜水艦を駆逐したと報告を受けたので、ロック艦長は
メガホンで直接やりとりを始めました。

「ハーディング中佐、よくやった」

「ありがとうございます閣下、わたしはハーディング中佐ではありません」

「中佐はどこだ」

「陸(おか)であります」

「誰が指揮しているんだ」

「わたくしマコーネル中尉(Lieutenant)です」

「中尉(Lieutenant Junior grade)と言ったか?」

「兵学校38期のウィリアム・マコーネルです」

「ほー・・・・」

ロック艦長は「キャシディ」以外の艦に帰還を命じ、
マックに巡洋艦の曳航を任せたのでした。

"Oh, Rock of Ages.
We got ourselves another war.
A gut- bustin', mother-lovin' Navy war."

エディントンが顔を合わすなりロックに向かって言うこの言葉、

「ああ、このロック野郎、また戦争にありついたな。
腹が捻れそうな、あのお馴染みの海軍の戦争に」

と訳してみました。

しかし実際は中佐が大佐に向かってこんな言い方をするわけないですね、
適当に敬語に翻訳しておいてください(いいかげん)

 

 

続く。

映画「危険な道」〜スカイフック作戦前夜

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アメリカ映画「危険な道」、二日目です。
真珠湾攻撃で映画は始まったわけですが、この映画は攻撃について、
真珠湾から避難した重巡洋艦と駆逐艦の視点からしか語られません。

腕を負傷しながら帰還した重巡の艦長トリー大佐(ジョン・ウェイン)は、
「CINCPAC1」という役名の実質ハズバンド・キンメル中将に呼び出されます。

なぜ実名を使わなかったのかというと、この後少将に降格されたキンメルが
映画公開時はまだギリ生きていたということかもしれません。

トリーを呼びつけて何をいうかと思ったら、

「君はジグザグ航行を怠った上で査問委員会にかけられる」

いやお待ちくださいあの非常時に日本軍を追えと命令したのは閣下だったのでは?

「燃料不足だったものですから」

「それならなぜ帰港しなかった?」

いやあなたがそれ言っちゃいますか。酷いねどうも。
そして、

「わたしも艦隊を失った責任を取るつもりだ。
お互いに好結果を信じて処分を受けよう」

キンメルは真珠湾の責任を取らされる形で大統領命により降格となり、
CINCPACは2週間の仮任命(ウィリアム・パイ中将)を経て
チェスター・ニミッツに引き継がれることになります。

さて、ここはハワイの遺体保管事務所(というかんじのところ)。
自分の出航中、よりにもよって陸軍少佐と不倫していて事故死した
妻の遺体確認にやってきたポール・エディントン中佐です。

事務所で家族を探しに来ているのは見たところ日系人ばかりの模様。

遺体確認中

「連れの男は?」

つい不倫相手のことを聞いてしまうエディントン。

「AAF(Army Air Force)が二、三日前に引き取りました」

その足でふらふらとバーに行き、陸軍航空隊の軍人の

「女を紹介してやるぞ」

という軽口にキレていきなり殴りかかるという有様。
あれだな、嫁の相手が陸軍だったというのがよっぽど堪えたんだな。

そして陸に上がって帰宅する前に営倉行きに・・・。

こちらは艦長を解任されたロック大佐です。
見送ってくれるのはバーク(アーレイ)中佐のみ。
艦長が艦を去るというのに、誰も振り向きもしません。

帽振れとはいわんけど、サイドパイプすらないのはいかがなものかと。

営倉にぶち込まれていたエディントンの引き取り人になったのは
艦長の任を解かれたばかりのトリー大佐その人でした。

喧嘩程度なら上官がカスタディ(custody)、つまり引き取り人になればOK?

ところで、このカーク・ダグラス、今年2020年の2月に103歳で亡くなっています。
死因は不明ということですが、この年ならもう老衰でいいのでは。

営倉からの帰り、彼らはハルゼー艦隊に加わる新型巡洋艦を目にします。

「AA巡洋艦だ」

AA(対空)砲を積んでいるということでCLAAという類別が与えられたこのクラス、
「アトランタ」級の防空巡洋艦を指しているものと思われますが、
艦番号が82というのはこの種に属していないのでちょっとわかりません。

ロックはうっとりと、

”She 's a tiger."(獰猛なやつだ)

といいつつ、

”A fast ship going In harm's way."(危険な道に突き進む艦だ)

とここでさりげなくタイトルを口にしております。

営倉出立ての部下と左遷されたばかりの上司。
この二人と最新鋭巡洋艦の対比は、ある評論に言わせると
皮肉なメタファーとしての表現なのだそうです。

真珠湾から3ヶ月後、ロックは骨折の予後を見るため海軍病院に出向きました。
レントゲン写真の撮影を手伝うのは医療部隊の看護師中尉です。
結果、腕のギプスは取れることになりました。

ギプスも取れたことだし、官舎のルームメイトである特別情報部員の
パウエル中佐(バージェス・メレディス)とオアフの懇親パーティに繰り出します。

パウエル中佐は女優の妻と絶賛離婚協議中という設定で、
しかもこりもせず同じことを三度繰り返している女好きのようです。
自分のことを「USシビリアン」と言っているので予備士官でしょう。

それにしても、真珠湾攻撃から3ヶ月後なのに懇親パーティとはね。
説明によると、「どこかの金持ち」のひらいたパーティだというのですが、
どちらにしてもアメリカ軍って余裕があったのね。

早速女性と熱烈友好を始めた中佐に置いてけぼりにされ、
一人になったロックに話しかけてきた女性がいます。

どこかで見たと思ったら、レントゲン撮影の時の看護大尉じゃありませんか。

「ジェレマイア・トリー少尉のお父さんでしょ?」

顔を合わせるなり彼女は、PTボート部隊にいるトリー大佐の息子の話を始めます。

まるでそのへんのおばちゃんのようです。

「トリー少尉はわたしの部下でルームメイトとつきあってるの。
彼女は純朴なタイプ(a green kid  from Vermont)だけど
彼は優等生タイプだから(a smooth Harvard type)。
彼女は彼と本気になりそうでそれが心配なのよ(直訳)」

この組み合わせで恋に落ちたとしても何が悪いのか。
っていうか、二人が本気になろうとあなたには全く関係ないのでは?

ところが驚いたことに、トリー大佐ったらこれを聴いて驚いています。
今の今まで息子が海軍に入っていたことすら知らなかったようです。

「息子は妻が育てていたんだ。
海軍に入っていたのか・・・!」

おいおい。
同じ苗字を名乗っているのにいくらなんでもちょっと連絡くらい取っとけよって。

そういえばトリーが艦長室で一人見ていた写真、これは
別れた妻と息子だったというわけですね。

ちなみにこの写真の子供は、映画「シェーン」にでていた男の子役です。
ということは・・・・?

その夜、すっかり暇になってしまったロックはPTボート基地に足を運びました。
PTボートはJFKが艇長を務めていたことで有名な魚雷艇です。

MTB squadrons と看板にかかれています。
MTBとは「モーター・トルピード・ボート」のことです。

トリー大佐は息子のジェレマイア、愛称ジェアが見張りをしていると聞いて
やってきたのですが、息子の顔を知らない悲しさ、赤の他人に

「君はトリー少尉か?」

と尋ねてしまうというお間抜けぶり。

トリー少尉とワッチをこっそり代わっていた乗員はあわてて

「すぐ上に行け、ベタ金だぞ!代理がバレた」

アメリカ海軍ではベタ金(大佐以上)を”Brass”というようです。

「トリー少尉です。サー。お呼びでしょうか。サー」

「わたしは君の父親だ」”I'm your father."

おお、あの映画以外でこの同じセリフが聞けるとは。

「イエス。サー」

「君は・・・母親似だな」

「イエス。サー」

「彼女は元気か」

「元気です。サー」

トリー少尉、全盛期の卓球の愛ちゃんのように律儀にサーサー言ってます。

そして、上官(父)に聞かれるままに指揮官であるブロデリック提督の側近になるため
不本意な任務であるPTボートを志願した、と状況説明します。

PTボートは腰掛けで、大学の専攻であるジャーナリズムの道に進むため、
無益な戦争だがせいぜいこの機会に海軍で広報をやりたい、
と小賢しいことを言い放つ小僧に思わずムカつくロック。

「無益な戦争?」

「これはルーズベルトの戦争ですよ。違いますか」

うーん、ある意味それは歴史的真実をついているがね。
それを軍人が言うことはご法度なのでは・・。

さらに、この生意気な少尉は、ブロデリック提督の作戦「スカイフック」に参加する、
と得意げにいい、それを大佐が知らないことを小馬鹿にするじゃありませんか。
怒気を含んだ声で、

「帰るよ。君をひっつかんで魚の餌にする前にな」

というと、息子はいきなり父の目を睨み据え、

「あなたが母を捨てた時わたしは4歳で全くあなたを覚えていません。
18年間私のことなど思い出しもしなかったくせにどうして今夜来たんです」

いたたた、これはお父さん痛いわ。

「・・・ただ来ただけだから、帰る」

こうして二人の再会は後味の悪いものとなってしまいました。

次の日、テント下でのランチ会場では、近くに座っているのに
目も合わさない父と子二人のトリー。

ロックが情報将校のパウエルからスカイフック作戦について尋ねますと、

「極秘の最高機密だが、誰から聞いたんだ」

「あそこの若い少尉から・・・・実はあれは俺の息子だ」

「ええ〜?話してみたいな」

「やめとけ!」

 

さて、看護師マギー中尉はやる気満々、次のデートを自分から申し込み、
ロックは満更でもなくそれを喜んで承諾しました。

そして看護師の宿舎に迎えに来ると、そこで息子とばったり鉢合わせ。
息子はマギーと同室の看護師と付き合っているのですからあるあるな話ですが。

「気が合うな」

「蛙の子は蛙です(I'm just a chip off the old block, Sir.)」

ん?なんだかお二人さん、ナースたちのおかげで和気藹々っぽい?

さて、マギーさん初デートでいきなり手料理を振る舞うという荒技に出ました。

そして最初の会話が、別れた夫(陸軍大将だった父の補佐官)の悪口ですよ。
これは落としに来ている・・・・のか?

さて、こちらは息子ジェアとガールフレンドのアナリー・ドーン少尉。
行く先は提督の「腰巾着」、オーウェン中佐の宿舎です。

アナリーとダンスのどさくさに紛れてクンクン髪の毛の匂いを嗅いだりして
上司としての役得とばかり「充電」に余念のないオーウェン中佐ですが、
でもこれ女の方にもちょっと問題がありそうです。

明らかに恋人の上司に対する儀礼を超えた誘うような目つき。

そのくせ急用でオーウェン中佐が出て行き、二人っきりになるとジェアを押し除け、

「安っぽいのは嫌なの!」

無自覚なのかわざとなのか。
さっきまでのオーウェンに対する目つきはなんなんだ。
これは誠実にお付き合いしたい男なら怒るよね。

「そうやって焦らせる方が安っぽいよ」

「なんですって?」

こういう「小悪魔Bッチ」はそのうち痛い目に遭うよ?(伏線)

さてこちら熟年カップルのデートの行方はというと、
ロックも、流れでマギーに身の上話を始めました。

別れた妻の家がいわゆる名家であったこと。
息子ができたとき嫁の実家から海軍を止めて会社を継ぐように言われ、
それが別れにつながったこと。
そして海軍に残ることを決めてから妻にも子にも会っていないこと。
(でもなぜか離婚はしていない模様)

互いの不幸話で中年カップルはすっかり盛り上がるのでした。

翌日、トリー大佐はパウエル中佐から、護衛艦が3隻、
元フランス海軍基地のあるトゥルボン島に送られる、すなわち
「スカイフック作戦」についての情報を受け取りました。

B17が着陸することのできる島をおさえることに成功すれば
000マイル四方の近海を制覇できるのです。

トゥルボンは架空の地名です。

トリーが官舎に戻ると、なんとマギーが玄関先で座り込んで待っていました。
明日戦地に出動を命じられ、もう会えないかもしれないという思いが
彼女をこの行動に借りたてたのでした。

「ハロー、セイラー」

トリー大佐もまた同じ作戦に参加することになっていましたが、
そのことは触れないまま、同室のパウエルにいきなり電話をし、

「今夜他所に泊まってくれないか」(=帰ってくるな)

 

マギーはその間もずっとタバコを吸っています。
実はパトリシア・ニールも超ヘビースモーカーで、それが原因かはわかりませんが、
頭蓋内動脈瘤を三度も患っています。


ただし、亡くなったのは2010年なので、タバコが寿命を縮めるという説は
彼女にもウェインにも当てはまっていません。

彼女はウェインと最初に共演した若い頃は彼を嫌っていたそうですが、
このハワイで行われた撮影では二人はとても「うまくいった」そうです。

二人ともいいように歳をとって角が取れていたのかもしれませんね。

話を戻しましょう。

つまりこの二人はこの夜結ばれたということになるわけですが、
二人のビジュアルに(ウェイン58歳、ニール39歳)配慮してか、
ラブシーンはなく、ロックが電話を切ってマギーの名前を呼ぶと、
マギーがナースシューズを脱ぐ足元だけが映り、あとは想像にお任せ、です。

しかし、この頃の39歳の女優って、今の同年齢より老けていてびっくりします。
ウェインの58歳で大佐役というのはサバ読みすぎで論外ですが。

さて、こちらトゥルボン基地のポール・エディントン中佐、
ハワイのカヌーに乗り、間抜けなレイをつけて登場です。

実はポール、基地の敷設隊で本人曰く
「ガソリンスタンドで車が入れ替わるのを見ているような」
つまらない仕事に甘んじています。

まあ、営倉入りしちゃったら、左遷もやむなしですわ。

何しにきたかというと、同基地に到着した看護師部隊のお迎え。

ロックからの言いつけで、マギー・ヘインズ大尉に花輪とバスケットのフルーツ、
そして底に忍ばせたお酒を届けに来たのでした。

そこでおっさん、若くてキュートなアナリー・ドーン少尉を見るなり目の色を変え、
一人の看護師に一旦掛けたレイをわざわざ外して進呈するという露骨ぶり。

こんなだからああいうの(不倫中事故死するような妻)を掴むのだとなぜ学ばないのか。

そして相変わらずアナリー、こちらも相変わらずというか、
自分に関心を持つ男に対し明らかに思わせぶりビームを放出しております。

そんなことしているとあとでろくな目に合わないよ?くどいけど。

さて、ロックはハワイ島内で民間航空防衛の監視所に、
部下のマッコーネル中尉、マックの妻ビバリーを尋ね、
直々にマックが行方不明であることを告げます。

乗っていた駆逐艦は二本の魚雷によって沈没し、中尉は
遺体も見つからないMIA(戦闘中行方不明)になってしまったのでした。

「大佐、夫は犬死ですか?」

彼女は、夫からの手紙にブロデリック提督には作戦を遂行する能力がなく、
この責任は彼にある、と書いてあったことを伝えました。

一介の中尉が提督を無能と文書で批判するのはいくらなんでも不味くないですかね。

その晩、ロックに驚愕の人事が下ります。

司令官邸におけるパーティの席で、キンメルが降格されたあと
太平洋司令官になったCINCPAC2という役名のニミッツ(ヘンリー・フォンダ)が、
ロックを大佐から准将(Rear Admiral)に昇任させるという通達を発表したのです。

ジョン・ウェインが大佐にしては老けすぎてるから?

というのは冗談で、今回ロックが処罰どころか昇任したのは、
ジグザグ航行中止の判断はやむなく、むしろ魚雷を受けた後の対処が正しかった、
とパウエルが処分を覆して昇級を強く主張したからでした。

うーん、パウエル中佐、何者?

准将となったロックに、ニミッツはスカイフック作戦遂行に際し、
有り体に言えばブロデリック提督の能力には疑念があるので、
君を送り込むのだ、と匂わせます。

「リンカーンが、官僚的仕事はできるが統率力のない
ジョージ・B・マクレランに手を焼いたときと同じだ」

残念ながら日本語字幕にはこの名前は翻訳されません。

「そこでリンカーンはグラントという名の”ヤンキー”を呼んだ」

そしてニミッツはトリー准将に自分の襟章を託しました。

 

さて、ロックはトゥルボンで作戦指揮を執り、
「太平洋のグラント」となることができるのでしょうか。

 

続く。

 

映画「危険な道」〜空挺作戦

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映画「危険な道」三日めです。

営倉入りになってからこのトゥルボン島の設営隊に飛ばされた
ポール・エディントン中佐ですが、真昼間から入り浸っている娼館に
ブローデリック提督が迎えを寄越しました。

ロック・トリー大佐がこの付近に派遣されて作戦を行うことに
この議員上がりの提督は危機感を抱き、動向を探るために
エディントンをスパイとして送り込もうというのです。

つい最近までロックの副長だったことを知ってか知らずか、
大佐に昇格させてまでガバブトゥ行きを命じました。

「へ?誰かの人間違いでは?」

「トリー准将の参謀長待遇だ」

腐っていたエディントンには願ってもない命令です。

ガバブトゥにトリー准将を乗せてきた水上機、これは
わたしがサンフランシスコのヒラー航空博物館で見てここで中身までご紹介した

HU-15 アルバトロス 

に間違いありません。

これな

アルバトロス が初飛行を行ったのは1947年ですから
この頃ならおなじグラマンの「グース」G-21かPBY「カタリナ」ですね。

飛行艇からエディントン大佐が迎えるボートに乗り込むジョン・ウェイン、
60近い年齢を感じさせずにはいられないほどもたもたしています。

ポールはロックに陸上で迎えたグレゴリー大佐のことを

「パラ・マリーンズ」

と紹介しています。
パラ・マリーンズとは海兵隊空挺部隊のこと。
そう、この映画、真珠湾の映画かとおもたらなんと空挺作戦が登場するのです。

准将たちを乗せたジープが海兵隊のと列の間を走っていきます。
彼らは本物の海兵隊員ですが、ただしカネオヘ基地の軍楽隊メンバーだそうです。
ちょうど仕事がなくて全隊出動可能だったのかもしれません。

この撮影で彼らは追加の出演料を受け取らなかったということです。

水上艇や飛行機、こういう装備は本物ですが、後半の海戦シーンでは
ほとんど艦船の模型を使ったためか、ウェインとダグラスの大物スターが
出演した作品のなかでは最も制作費が安いのではといわれているようです。

トリー准将、ガバブトゥに着任し、司令部の皆さんにご挨拶しますが、

露骨にオーウェン中佐とトリー少尉(つまりブローデリック一味)を無視。
なかなか大人気ない准将です。

無視されても執拗にコンタクトを取ろうとするオーウェン中佐が、
無理やり握手にこぎつけ、

「提督は前線と密に連絡を取るべきだとお考えですが」

というと、冷たく

「提督との連絡は私を通せ。繰り返す、私を通せ。何か質問は?」

((((;゚Д゚)))))))

続いて作戦会議に入りましょう、というところで空襲が始まりました。

防空壕に避難してロックがが地図を示し説明中ですが、
地図を見なければならないほとんどの人が地図の後ろ側に立っています。

「名付けてアップルパイ作戦。
簡単だからではなく、島を三つにスライスするからだ」

まず島に空挺隊を降下させ、日本軍をおびき寄せて防御を薄くし、
三つのパートから敵の飛行場を襲い、供給を断つということだと思います。

そしてその後議題が「空挺の航空機使用に提督の許可が必要だ」という話になると、
ポールはオーウェンとトリーを会議から締め出してしまいました。

もちろん彼らに聞かれては困るからです。
敵を欺くにはまず味方からってね。

そして、提督に嘘の申請をして許可を取ることを示し合わせました。

というわけで五分くらいで仕事を済ませたロック准将、
ポールを連れて島内の病院に真っ先に駆けつけました。

目的はもちろん看護師中尉マギーに会うことです。

ハワイで最後の夜を共に過ごして以来の再会に胸をときめかせる准将に対し、
マギーの第一声は、

「影になるからどいて!」(`・ω・´)

叱りつけた相手がトリーだと知ると彼女はどぎマギーして、

「朝ならもう少しマシな顔をしてるんだけど///」

「大丈夫だよマギー、十分だ」(ただし綺麗だとは言っていない)

「どう?提督になって看護師を見たご感想は?(直訳)」

「大佐の時と同じさ」

さて、いよいよ空挺作戦が開始されました。

輸送機に乗り込んでいく空挺隊員たち。
もちろん本物の海兵隊空挺隊ですよ。

「大佐、飛行機に同乗してもいいか?」

空挺降下の飛行機に乗りたがる海軍提督というのも珍しいのでは。
まさか自分も飛び降りたいとか言い出さないよね?

こちらはオーウェン中佐とロックの息子トリー少尉。

報道陣を引き連れてやってきたブローデリック提督のお迎えです。

海兵隊に空挺部隊があることはあまり知られていません。
実際、太平洋戦線で空挺隊が空挺降下する場面は一度もありませんでした。

「スタンドアップ(起立)!」

号令により空挺隊員が一斉に立ち上がります。
アニメ「桃太郎 海の神兵」を思い出すなあ・・・。(←独り言です)

「環をかけ」というところ、英語では「フックアップ!」と言っています。
開傘させるために索を飛行機のバーに掛けるやり方は世界共通です。

「グッドラック、大佐」

「レッツゴー、メン!」

という言葉とともに飛び出していく空挺隊員。
それを入り口に座って見ているウェインの図はちょっと間が抜けています。

「🎵あいよ〜り〜あ〜お〜く〜」

この部分は実写ですが、第二次世界大戦時の訓練の映像だと言われています。

海兵隊空挺が登場するアメリカ映画は本作を含めたった二本でだそうです。
もう一つが1944年、戦争中に制作された

「Marine Raiders」

という作品です。
本作「危険な道」は全て架空の地名となっていますが、
こちらはガダルカナルで展開したという設定の空挺部隊の話となっています。

隊員がジャンプ真っ最中、准将のこのこ前方まで歩いてきて、

「戦闘機を2機援護に残してあとは帰還させろ」

なんかすごい勝手にフライトプランを変えさせてるんですけど。

「なんのためですか」

「観光旅行だ」

さてこちらはブローデリック提督、報道陣を集めて得意げに

「名付けてアップルパイ作戦。島を三等分するからだ
山、海岸、丘陵地帯から攻め込み落下傘部隊の降下地点で落ち合う」

ってそれどこから聞いたんだよ。

怒りのポールがジェア・トリーを隣の部屋に引っ張っていき、

「なんで提督があの作戦を知っているんだ!」

このときエディントンはジェレマイアを「ルテナント」と呼んでいますが
トリー息子、いつの間に昇進したんだろう。

昇進したせいか、腕を組んで反抗的なトリー中尉。

「残念ですが知りません、サー。」

「いいか、君らの親子関係がどうなっているかは知らん。
だがこれだけは言っておく。
オーウェンは馬鹿だが君の親父は稀に見る本物のセイラーだ」

「オーウェン中佐が馬鹿だという評価は受け入れられませんね」

「残念だがこちらも君がロック・トリーの息子だとは受け入れがたいな。
多分だれか別の奴がいつの間にか本物の息子と入れ替わったんだろうな」

この部分『親父を陥れるとは』となっていますが誤訳です。
エディントンが言っているのは「息子とは思えない」という嫌味です。
ジェレマイアはこれに激怒し、

「おい、ちょっと待てエディントン!」

「エディントンた、い、さ だ。わかったか?」

こちら降下後の空挺隊員は現地のオーストラリア人に案内されて進軍しております。

そのとき爆音が聞こえてきて瞬時に全員が地面に伏せ。

敵ではなくトリー准将の乗った輸送機と護衛戦闘機2機でした。

トリーは上空から作戦変更の指示を書いた紙をを地上の空挺隊に落としました。
これもブローデリックの裏をかくためですが、何を内部でごちゃごちゃやっているのか。

そんなことでは日本軍に勝てないぞー(棒)

帰還したロックにさっそくマウントを取りにやってきたブローデリック。

記者団を引き連れて、作戦がうまくいっていないことを指摘しようとしますが、
ロックの作戦変更によっていつの間にか日本軍は撤退し島は抑えられていました。

「チッ・・君の親父さんに出し抜かれた」

しかし息子ジェアはなぜか嬉しそうです。
要するに彼は二人の提督の資質の違いを目の当たりにしたのでした。

その後ポールは他のメンバーがいつの間にか(棒)消えてしまったバスルームで、

「腰巾着らしく親分と一緒に帰れ!」

とオーウェンを三発も平手打ち。

怒り心頭のオーウェンですが、悲しいかな武闘派とは程遠く、
ポールがいなくなってから

「軍法会議にかけてやるうう!」

と叫ぶのがやっとです。

しかも、それを冷たい目で見ていたジェアは、オーウェン中佐が
軍法会議の証人になれというのを拒み、さっさと彼の下を去っていきました。

ここで是非覚えておいていただきたいのは、ジェアが
ブローデリックを見限ったのはポールが去ったあとであり、
ポールはそのことを知らないままでいるということです。

敵の情報を探るため、ロックは現地人を敵の視察のために
日本の基地に忍び込ませることにしました。

オージーのオージーさんは、まず潜水艦から深夜ボートで岸に上陸し、

木の上で酒席の会話をこっそり聞くという効率の悪そうな諜報作戦を展開。
ってこのおっさん、そもそも日本語聞き取れるんかい。

日本軍なぜか地面に畳?を敷いて宅飲み真っ最中で、
BGMはお正月のレストランのようなお琴のミュージックです。

しかもこの将校たちの日本語、「日本語でおk」なザパニーズ。
わたしが何回聞き返しても何を言っているのかさっぱり聞き取れないのに、
オージーのおっさんにこれが理解できるわけないと思うがどうか。

こちら、オーウェンに切られてPTボートの任務に戻され、
地道に郵便物を配る仕事をしているトリー少尉です。

病院に行けばガールフレンドのアナリーに会えるのは役得です。
二人はいつの間にか婚約していました。

さて、場面は思いっきり変わってここはサンフランシスコです。
夫のマコーネル中尉がMIAであった妻べバリーが家から出てきました。

ここはロンバードストリート(坂がきついのでここだけ蛇行の道になっている)
の始まるところですが、お節介にも現在のストリートビューを貼っておきます。

驚くことではありませんが、べバリーが出てきた角の家などは昔のままですね。
ここはいつ来ても観光客と「坂降り待ち」の車で賑わっているところです。

家を出てすぐケーブルカーに乗り込みます。(右は2018年)

彼女の向かったのはサンフランシスコ港でした。

MIAだった夫のマコーネルは実は生存しており帰ってきたのです。
おまけに死んでもいないのに2階級特進で少佐に昇進しています。

マコーネルは休暇の後はトリー准将の下で任務に就くことが決まっていました。

さて、こちらはトゥルボン島の看護師たち。

看護師と兵たちの合コンじゃなくてピクニックにでかけるアナリーに、
老婆心ながらマギーが苦言を呈しています。

「エディントンとは会わない方がいいと思うけど。
あなたジェアを選んだんでしょ」

「みんなで行くのよ」

「でもエディントンと一緒になるでしょ」

「たぶんね」

「どうしてジェアにもらった指輪をしてないの」

「ちょっと大きいから失くしちゃいけないと思って」

「そうなの?」

「エディントンにはジェアと婚約したことをいうわ」

「OK」

「マギー、ちょっと楽しみたいだけよ(Just little fun)」

「エディントンと遊ぶのはやめなさい」

「なぜ嫌うの?トリー准将の親友でしょ」

「カンよ。魅力的な男だけど裏に何かある」

「何?」

「”ニジェールの微笑む若い女”を忘れないで」

マギーのいう「ニジェールの若い女」とは、イギリスの詩人、
ウィリアム・モンクハウスの詩からきています。

There was a young lady of Niger
Who smiled as she rode on a tiger;
They returned from the ride
With the lady inside,
And the smile on the face of the tiger.

Thomas Nast Original Cartoon Young Lady and Tiger 1888

つまりこういうことになるわよ、ってことですね。
注意はしましたよ、注意は(マギー談)

なのにああ、アナリーさんったら、そのトラを誘って抜け出し二人っきりになり、
わざわざ自分から服を脱いで海に飛び込み、ご丁寧にも濡れた下着姿を見せつけて、

「こっちを見ないで〜」

なめとんのかおい(怒)

男としては当然こいつ誘っていると思いますよね。

ところがこの後に及んで

「やめて!わたしジェアと婚約してるのよ!」

言うのが遅いよお嬢さん。
ほーら、おじさん目がすわっちゃった。

というわけでニジェールの若い女はトラに食べられてしまいましたとさ。

どう思います?
フェミ的にはこれでも「女は被害者、男が悪い」ってことになるのかしら。

 

続く。

 

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