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「土佐」沈没〜映画「怒りの海」2日目

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戦時中の海軍省後援による国策映画、「怒りの海」二日目です。

未完のままワシントン条約の結果を受けて廃棄処分となり、
今横須賀港を後にする「土佐」。

平賀譲主任ら造船官たちだけは帽子を振らず、ただ自分たちが心血注いだ
「土佐」の引かれていく姿を目に焼き付けるように凝視していました。

そしてすべてを終え事務所に帰ってきた平賀のデスクに、
小間使いが置いて行ったのは、「土佐」廃艦の記念品です。

それは「土佐」を象った文鎮でした。

わたしはこれまで進水記念として配られた軍艦の形の文鎮を
いろんな博物館などで見ましたが、廃艦記念の記念品というものは
寡聞にして知りません。

海軍というのはこういう儀式をきっちりやるところですから、
もしかしたらこういう経緯で廃艦される船に対しても
誠意を尽くして通常艦と同じように最後を見送ったのかもしれませんが。

事務所の全員のデスクに小間使いが記念品を配っているそのとき、
遥か彼方から爆音が聴こえてきました。

艦政本部の造船官たちは粛然と静まりかえり、窓の外を凝視しました。

心臓をえぐるような爆音が起こるたび、人々は動きを止めます。

造船士官の竹中は、ちょうど計算式を書き込んでいた紙に
爆音が起こるたびにチェックを書き込んでいます。

実際には廃艦式典をした直後にいきなり実験が始まるなどは
あり得ないのですが、(土佐も実験艦になったのは2年後)
そこは映画ですのでドラマチックに、事務所にいながら
「土佐」がやられている爆音が手にとるようにわかるという設定です。

同じく造船士官の谷(月田一郎)は、手を止めていましたが、
振り払うように定規で線を引きなおします。

しかし民間人の山岸はたまりかねて耳を押さえてしまいました。

自分たちが生み出そうとしていた「土佐」が、
今この瞬間他ならぬ海軍の手によって葬られようとしているのです。

 

1924から「土佐」は、数ヶ月に渡る実験に従事しました。
実験内容は、亀ヶ首試射場(呉港外)からの砲撃、砲弾や魚雷などに対する防御力強化、
新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究で、この結果得られたデータは
その後の1万トン級巡洋艦、「妙高」型、「高雄」型、「最上」型、そして
「大和」型の設計に生かされることになりました。

そのとき平賀主任が事務所に戻ってきました。

何事も起こっていないかのように、いつも通り竹中に仕事を命じ、
耳を押さえている山岸に目を据えると、

「何の真似だい、山岸」

書類を机に置き、山岸にも概算を命じます。

「はっ・・・今ですか?」

「今すぐだ」

「できません私には!」

平賀は山岸の顔をしばし凝視してから、

「なぜ」

そのときもう一度爆音が起こり、山岸は机を立ち上がります。

「山岸!」

皆そちらを息を飲んで注目しました。

「我々の仕事は土佐や加賀を作るだけですんだわけじゃないぞ」

「わかっております!そりゃあ・・。
しかしあれには、土佐には、わたしどもの魂が籠っています。
土佐を設計したときのあの精魂込めた日々、私たちには
忘れようったて忘れるわけにはいきません」

可愛い我が子も当然の船だ、という山岸の熱弁を皆息を飲んで聞いています。

「竹中さん、そうでしょう?みんなもそうだろう?
主任だってあれを平気で聞かれるはずはありません!」

平賀はそれに何も答えませんでした。
答えられなかったのです。

 

確かに当時の造船関係者の間では自嘲的に

「土佐」が「ドザ」(土左衛門)になった

と口の端に乗せられていたのは事実ですが、造船官たちが
こんなに動揺して嘆き悲しんだというのは若干やりすぎの気がします。

実験結果は造船官にとっても今後の貴重な研究の礎となったわけで、
そもそも当の彼らが実験の意味を知らないわけがないのですから。

 

「土佐」は1925年、2月8日仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行い、
「摂津」とともに佐伯を出発し、翌2月9日、艦名の由来となった
高知県沖の島西方約10海里地点にて自沈しました]

自沈開始は午前1時25分、全没は午前7時頃、自沈地点の水深は350フィートです。

 

ワシントン条約後、つまり手塩にかけた建造艦を
涙と共に廃棄したときから一瞬にして5年が経過しました。
つまり昭和2年のことです。

これから語られるのが同年起こった「美保関事件」のことだとすると、
嵐の中の訓練中、司令官加藤寛治が、旗艦の艦橋でご機嫌です。

「左舷に近づいたのは?」

「第一水雷戦隊です」

「もっと突っ込ませろ」

「なかなか気合が入っとる」

その時、史実の通りだとすれば、「神通」が「蕨」と、
そしてそれを見て避けようとした「那珂」が「葦」と衝突しました。

「神通」は大破、「蕨」の乗員はほぼ全員助かりませんでした。

この事故は、華府条約に伴う軍艦保有数の削減を、東郷元帥のお言葉通り
猛訓練と個艦優秀主義によって補おうとしていた中起こりました。
悪天候を推して激しい訓練を行なったことが原因ともいえます。

しかしここで不思議な展開が。

長官が、

「飛行機は飛ばんのか」

と唖然とするようなことを言い出すのです。
なんのために?

一人がえっ・・という感じで返事を口籠ると、もう一人が
長官に忖度でもしたのか、こんなことをいうのでした。

「長官、飛行機飛ばせます!」

しかし、ここで嵐のシーンはなぜか一旦途切れます。

打って変わって晴天の空を水上機が飛来するシーン。
これは現場に悪天候をおして救難に出動する飛行機が
どんな訓練をしているかという説明のつもりのようです。

ここはおそらく横須賀の追浜。
つまり間違いなく本物の海軍の交通船が登場です。
竿で岩壁を押している水兵さんたちは紛れもなく本物ということになります。

戦中の国策映画でははよく軍協力のもとに本物の兵隊がエキストラをしていますが、
わたしなどそういうのを見るとこの若い人たちはこの後どうなったんだろう、
などと必ず考えてしまいます。

降りてきたのは平賀少将をはじめとするおなじみの造船官たちでした。

早速ここでも考え事に没頭して勝手な方向に歩いて行ってしまう平賀。
平賀には仕事に没頭するあまり周りの些事にかまわず
ちょっとした変な行動をとることが多々あったと言われています。

考え事をしながら歩いていると、顔見知りの軍人たちに遭遇しました。
海軍省検閲済みだけあって、俳優の敬礼はちゃんと海軍式です。

右の人は駆逐艦乗り。

「巡洋艦の方はお進みですか?」

といきなり核心に迫ったことを世間話として口に乗せると、

「小型のね・・・小型でうんと威力のあるのをと思ってね」

すると左の飛行士官が

「ほう・・・写真機で言えば『ライカ』ですな」

当時はライカが「小型で優秀」という代名詞だったんでしょうか。

「早く乗ってみたいですなあ」

「乗り心地は保証できません。あくまでも戦う船なので」

「いや、長屋住まいは慣れてますからな」

そんな和気藹々とした会話を交わす彼らの頭上を旋回していた水上機。
飛行士官も言うように飛行機も激しい訓練中だったのですが、
いきなりきりもみを始めました。

「やった」

このセリフは、じつに現場っぽいと思いました。

さすが現役軍人。
海に墜落した飛行機を見ても、眉を引き締めるだけです。

誰もひとことも発せず、身動きもせず、飛行機の消えた海面を凝視するのでした。

場面は再び嵐の海の上に戻りますが、先ほどの「美保関事件」で
出動した水上機ではなく、今度は複葉機、艦載雷撃機の着艦訓練が行われています。

この頃の複葉機ですから、当然コクピットは外にむき出しで、
前方に申し訳程度のシールドガラスが付いているだけのもの。

しかしこちらは荒天をおして訓練を行ったのではなく、
訓練中に天候が急変してしまったということのようです。

母艦では全機帰還命令を出しましたが、一機が戻りません。

コクピットの澤井少佐は操縦しながらなぜかにやりと不敵に笑うのですが・・。
記事によると、着艦しようとして機体がマストに激突し、お亡くなりになりました。
(-人-)ナムー

場面は変わってこちら平賀邸では書斎で平賀が仕事中です。
合間に「土佐」の廃艦記念文鎮を手にとって眺めつつ・・。

平賀の妻、カズが夫のためにの紅茶を淹れています。

部屋には原節子演じる平賀の令嬢、みつ子が奏でる
ショパンの「雨だれ」が流れています。
インテリで文化的な家庭であることが窺えます。

しかし母親は、夫の邪魔になるとばかり、

「みつ子さん、もう遅いのよ」

「でもお父様まだおきていらっしゃるでしょ」

「ですからお邪魔になるといけないでしょ」

「お慰めしてるのよ。
お疲れの時は音楽ってとってもいいものなんですけど」

「だめですよ。ご趣味のないお父様には」

ショパンの雨だれが聴こえたくらいで気が散るようなタマだろうか、
という気がしますが(笑)
それにしてもこの頃の「山の手言葉」は美しいですね。

妻は仕事中の夫の机に黙って紅茶を置きますが、
夫はその紅茶のカップにタバコの灰を落とします。

右、灰皿。
どうしてこの形状の灰皿を使っている人がカップに上から灰を落とす?
と突っ込みどころ満載です。

今時の妻ならせっかくわざわざ紅茶を淹れたのにお礼もないとか、
カップに灰を入れるなんてとか、そもそもタバコは健康にどうなのとか、
黙っていないところでしょうけど、この頃は違います。

仕事に夢中になるとどうしようもない旦那様、という感じで
彼女は愛しげに笑い声を立てるのでした。

「子供たちは寝たのかい」

「コウイチとみつ子はまだ・・」

「そろそろ学期試験だねコウイチは」

「そうだ、みつ子のピアノはだいぶ上達したみたいじゃないか」

ご興味が全くないってことはないみたいですよ奥さん。

「お紅茶取り替えます」

「はい」

はいじゃないが。あんたが灰いれたんだろうが。一言何かないんかい。

艦政本部での水路実験が行われています。
ここはわたしの記憶に間違いがなければ目黒の艦艇装備庁、
艦艇装備研究所に今でもある実験用水路のはず。

艦体の水の抵抗の実験(らしきこと)が行われています。
岸井さんが悲壮な声で一言。

「だめだ!」

実験結果をもとに平賀先生がお説教。

「君、僕があんなに言っただろう!
要求された〇〇は〇〇せないんだよ!」
(聞き取れなかったのでお好きな言葉を入れてください)

「はあ、しかし、スピードのことを考えますと・・」

「もちろん〇〇33ノット、これは絶対に動かせないんだ。
あちらを立てればこちらが立たんのならば何も苦労はないんだよ。
あちらも立てこちらも立てるのが我々の狙いなんだ」

「大丈夫でしょうか。
自分の設計でも従来のものよりずっと長くなっているんですが」

そこで一般原則に捉われず工夫をしろ、と平賀少将はおっしゃいます。

「とにかくやり直したまえ!」

 

「速力は30ノット以上も出ているんだ。
(次のライン全く聞き取れず)艦体の強度が肝心なんだ。
波に対する抵抗を十分考えに入れてもう一度持ってきたまえ」

実験が失敗して帰ってきた岸井。

「やっぱりあの型じゃ重心が悪すぎるんだ」

急展開した時に倒れるだけでなく、魚雷の発射もできないというのです。

「3000トンで5000トンの威力を持たせるなんて無理なんだよなあ」

ワシントン条約による艦艇激減のしわ寄せは技術者にもきていました。
大型艦の威力を持つ小型の軍艦を作るなど、魔法でもなければ不可能です。
船の形をいくら変えても機関が同じなら何の意味もないですしね。

 

しかし平賀とそのチームは、その不可能に挑戦しようとしていました。

続く。

 

 


艦政本部会議での葛藤〜映画「怒りの海」 3日目

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1944年海軍省後援の国策映画「怒りの海」、三日めです。

 

ある日、平賀少将が議長となって艦政本部の会議が行われていました。
この会議の終着点はただ一つ。

5000トン級の巡洋艦と同等の能力を如何にして3000トン級以下の船に持たせるかです。

平賀はそれが可能だと信じている、と説明を始めます。

排水量に対する裸の船体の占める重さの割合は、
駆逐艦および戦艦がそれぞれ35%程度なのに、
巡洋艦は45%、つまり10%多いわけです。
この点を工夫すればこの程度の重さの節約は十分可能だというのです。

そして排水量に大きく作用する機関、これを駆逐艦並みの速力を出すのに
巡洋艦の重量の割合は駆逐艦より大きいので、この点を・・。

といいかけたとき、

「ちょっと!」

と口を挟んできた軍人(高木少将)がいます。
この人、志村喬ですよね。
すぐに

「いや、やっぱり後にします」

というのですが。

平賀が続けます。

「攻撃力を弱めることなしに排水量を節約するには機関が問題になってきます」

なるほど・・・といったっきり黙り込む面々。
これは理屈はともかくどうしたらいいかわからんと見た。

「で・・・船体の技術的処理はどの程度まで進んでいると?」

「残念ながらはっきりした見通しはついていませんが」

うーん・・それっていまのところ「不可能」ってことでわ?

先ほど口を挟みかけた志村喬がここで、

「機関そのものは軽くなりませんよ?」

 

高木少将、実は機関製作部門の主任だったのです。

痛いところをついちゃった感じ?
全員またもし〜〜〜〜んとしてしまいました。

能力があり馬力の出る機関を軽く作る、
つまりこう言うことなのですが、
それが簡単にできれば誰も苦労しないよね。

防御の点からいっても巡洋艦を駆逐艦並みに軽く作ることはできないのですし。

「改めて機関を設計する側からお願いしておきます。
巡洋艦の機関は攻撃兵器並みに従来必要とされていた割合だけは、
絶対に動かせ、ない!」

志村、いきなりエキサイトして声を張り上げてきました。

「そりゃあ困る。私には肯けない」

「いや、私もこれだけは譲れない!」

「それは君、横車だよ・・私も譲れん!」

地味で派手な場面の全くないこの映画の唯一不穏なシーンがこれです。

「お互いに信念の相違ですから」

「信念?」

「そうです!」

「まあ高木さん」(笑)

しかし二人は構わず、

「不可能です!」

「その不可能を可能にしてくれたまえ!」

とヒートアップしていきます。
ここで言い合っている言葉は残念ながら最後まで聞き取れませんでしたが。

し〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。

取り繕うように平賀が、

「今は言い争っている時ではない。
1日でも早くいいものを作って海に浮かべることなんだ。
そう思わないか」

高木は返事せず、会議は沈黙のうちに終了します。

平賀は自分のチームを集めて宣言しました。
機関を軽くするのが不可能ならば、艦体構造を何とかせねばならない。

皆がどれだけ大変かはわかっているといいながらも、

「事ここに至っては理論じゃない、実行だ。
この上は君たちの経験と気迫とで作り上げる他、道はない。
熱意と誠意とがあれば必ず道は(以下略)」

技術者の割には精神論で来ますなあ。

ここでメンバーの一人、竹中から、

「高木閣下は本当に不可能と言われたのでしょうか?
もう少し機関の方にも何とかしてもらわないと」

ともっともな意見が出ます。

すると平賀閣下は呆れたように

「君ら・・・それでも帝国海軍の造船官か」

と言い放ちました。

「・・・・・・」

「君たちは援護射撃がなければ敵陣に突っ込めんのか!」

次々と犠牲を出した海軍の猛訓練をどう考えているのか、
そんな不平がましい態度で御船を作り奉るのか云々と平賀先生、
大正論を浴びせかけ、皆(´・ω・`)

「主任・・・っ!」

何か言いたげな竹中に次を言わせず、

「頼まん。僕ひとりでやる」

平賀少将、すねて部屋を出て行ってしまいました。

自宅でもそのことを考え続けて平賀少将、思わず

「馬鹿め!」

と独り言が漏れてしまいます。
びくっとする妻(笑)

「お父さんご機嫌悪いわね」

「疲れてるんだよ」

家族も慣れっこになっているってかんじですか。

「ご飯の支度ができましたよ」(みつ子)

これによると、平賀家には原節子の長女を筆頭に
女、男、男、女と子供がいたらしいことがわかります。

ただし、wikiによるとサントリーの佐治圭三氏に嫁いだのが
「三女」ということなので、もう一人この後できたのかも・・。

 

ちなみに平賀には菊作りの趣味があり、その腕はプロ顔負けで
受賞を何度もしているという一面がありましたが、ここで男の子が

「お父さん、今年はだめだね、菊。
お椀みたいなのちっとも咲かないや」

というと、子供相手に平賀は

「抜いてしまえ、咲かんやつは」

と吐き捨てるようにタバコを投げ捨てながら言うのでした。
男の子は嬉々として

「構わないのお父さん?」

とさっそく菊を抜きにかかりますが、もちろん姉に咎められます。

書斎に入って行った平賀は、またしてもそこに
「土佐」の文鎮を目に止めます。

精魂込めて設計したものの建造し終わらぬまま廃艦になった「土佐」。

条約締結によって手足を縛られたに等しい造船官の無念さの象徴を、
平賀はひとり凝視し続けるのでした。

 


平賀の苦難の日々が始まりました。
如何にして華府条約で削減された軍艦保有率を性能で補うための
「重量を減らしつつ防御力もある船」を作るか。

平賀の頭の中は寝ても覚めても艦艇設計のことしかありません。
(ということを表すための映画的表現)

艦艇装備研究所の実験装置の映像がもう一度出てきたりします。

寝ていたかと思うとむくりと起き上がり、目を爛爛とさせて
机に向かい、やおら図面を引き始めるのでした。

このあたりセリフなしで低音の音楽に乗せて平賀の頑張っている様子が描かれます。

しかしいかに天才の平賀といえども、軽くて装甲力があり、
攻撃力のある巡洋艦など、そう簡単にできるものではありません。

火鉢にもたれかかったりため息をついてみたり・・。
そして何をするでもなく夜が明けてしまいましたの巻。

「しゃあない、風呂でも行くか」

この頃は普通に皆風呂屋に通っていて、風呂屋も早朝から開けていたんですね。

「相変わらずお早いですね、先生」

顔見知りの人が子供を連れて入ってきました。
平賀がしょっちゅう朝風呂に入りにきていたとわかるセリフです。

子供が朝っぱらから風呂場に持ち込んだ船のおもちゃを見て、
当たり前のように目黒の実験場の水切り装置を思い出す平賀(笑)

いきなり難しい顔になり、男が

「今年の菊はいかがでした?」

とお愛想をするのも耳に入らぬ様子で、突然湯船から上がってしまいます。

お風呂のおもちゃで何か思いついたのか?
家に帰るなり高速唾つけページめくりで資料に没頭(笑)

そんな父親を気遣って、娘のみつ子はある策略をしていました。

「あたし自信があるわ」

と弟に向かって明るく宣言するのを母親が聞きとがめ、

「何のお話?」

「みっちゃんがね、今日の演奏会にお父さんをお連れするって言うんですよ」

母親は音楽に趣味のないお父さんが行くわけがない、
と決めてかかりますが、みつ子はあきらめません。

丸めた紙を床に放り投げたかと思ったら、拾い上げてもう一度凝視し、
ため息をついて頭を抱え込む。

せっかく銭湯でいい考えが浮かんだと思ったのにドツボにはまってしまう平賀。
こんな調子なので、身体に障るのではと言うのが家族の心配なのです。

あきらめて朝食を取ることにし、居間にやってきた父親をみて、
これはチャンス、と顔を輝かせるみつ子。

「おとうさま!」

床に新聞を置いて読んでいる父に彼女は前から編んでいた
セーターを渡します。

「暖かそうだね。なにかご褒美あげようか」

「ええ!」

実は彼女が狙っていたのはこれだったのです。
なかなか策略かですな。父親似かしら。

なのに父親は

「お母さんからもらいなさい」

するとみつ子、

「あらあん、お父様からいただかなくちゃあ」

「お父さんは忙しくて買いにはいけないよ」

「今日ほんの3時間くらいわたしとご一緒に」

ご褒美にコンサートに一緒に行ってくれ、というのです。
こんな美人の娘さんに一緒にお出かけしてくれと懇願されるなんて
父親冥利じゃないですか。行ってやりなさいよお父さん。

ところがお父さま、話にならんと言う感じで相手にしません。
するとみっちゃんったら、おそらくどんな音楽に興味ない人でも
おそらく知っていることを渾々と父親に向かって説得するのでした。

「でも交響楽にはお父さん、百人前後の演奏者が出るのよ?
とても楽器の種類が多くて、それは複雑な組み合わせになってますの。
ですから指揮者がいて、初めて一つの音楽に纏まっていくんですわ。
指揮者がダメなら、それこそめいめいの演奏者が勝手な調子を出してしまって、
どんな優れた作曲でも魂が抜けてしまいますの」

音楽に興味のない人にこんな誘い方することってありますかね。
もし彼女が父親の今置かれている苦悩を知った上で言っていたとしたら
この娘何者?と思わずにいられない深謀遠慮が感じられるアプローチですが、
もちろんそうではなく、娘は無邪気に父親に息抜きをして欲しいのです。

実はさっきの言葉に十分心動かされている平賀なのですが、
すぐに行くと言ってはなんとなく家族に対する示しがつかんとばかり、

「お父さんは仕事の方が楽しそうだ」

と苦笑いしながらいうのでした。

娘みつ子の策略ははたしてこの頑固親父を動かすことはできるのか?


続く。

「夕張」誕生〜映画「怒りの海」第4日

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稀代の天才技術者、平賀譲の伝記でもある国策映画、
「怒りの海」、4日目になります。

 

コンサート行きをあくまでも渋って見せる平賀でしたが、
しぶりながらもいつの間にかその気になったらしく、次のシーンでいきなりコンサート会場。

考えが煮詰まってしまっているのも平賀をその気にさせた理由でした。

オーケストラはNHK交響楽団の前身である新交響楽団だと思われます。
戦争中は歌舞音曲の類は一切禁止されていたように思っている人もいるかもしれませんが、
交響楽団は普通に活動を行なっていました。

新響は終戦のときにはベートーヴェンチクルスを行なっていたそうですし、
その後演奏会を再開したのも9月からです。

冒頭絵にも描いたこの指揮者がとにかくクローズアップされています。
この指揮者は山田和男、のちの山田一雄の若き日の姿だったのです。

新交響楽団は戦前近衛秀麿の後任としてヨーゼフ・ローゼンシュトックが
常任指揮者に就任しましたが、ユダヤ人だったため、戦争が始まると
彼の出演に制限がかかるようになってしまい、その代役を務める形で
ローゼンシュトックに指揮法の薫陶を受けた(山田はピアノ科卒だった)
山田が振るようになっていたということで、映画出演となったのでしょう。

若き日のヤマカズ

皆の記憶にあるヤマカズ

わたしは晩年の白髪の姿しか知らなかったため、映画を見て
最初これがあの山田一雄とは全く思わず、検索を重ねて
若い時のヤマカズさんの写真を発見したときには驚きの声をあげてしまいました。

曲はバッハ作曲「パッサカリアとフーガ」。

ここでコンサートマスターが映るのが常道だと思うのですが、
なぜかそれがビオラのトップです。
映画スタッフの勘違いかな?

当時のコンマスは女優の鰐淵晴子の父君、 鰐淵賢舟でした。
鰐淵晴子さんは女優として有名ですが、ヴァイオリニストでもありました。
父親とドイツ人の母親の英才教育の賜物だったと言うわけですね。

壮大なフーガを繰り返しながら進む短調の荘厳かつ悲壮な交響曲。

しぶしぶ引っ張ってこられた態の平賀でしたが、
思わずその音の渦に身も心も引き込まれていくのでした。

 

 

複雑で多層的な旋律を奏でる各パート。

そしてその音の流れを棒一本でまとめ上げる指揮者。

同時に平賀は自分の信念を形にするために自分の下で
苦悩し足掻いている部下たちを思うのでした。

交響曲の旋律をバックに林を歩く竹中。
釣りをしながらも
設計が頭から離れない山岸。

相変わらず誰もいなくなった事務所で一人図面に向かい続けている谷のことを。

平賀の脳裏に去来する思いは如何なものなのでしょうか。

楽曲の多層な追いかけ合いが終わり、最終部分で専門用語では追迫部、
ストレッタという大きな一つの旋律となってエンディングに突入したとき、
平賀はたまらず、曲が終わりきらぬうちに席をあとにするのでした。

谷にスタッフを全員集めるように命じたのち、
平賀は何かを決心したふうに資料室に足を運びました。

ちなみにこの廊下を歩くシーンで壮大なフーガは終わりを告げます。

 

そこには艦政本部の会議でやりあった機関設計者の高木(志村喬)がいました。

「おお、あなたもここでしたか」

平賀は何事もなかったように声をかけますが、高木返事しません。
しかし平賀は構わず目当ての資料を本棚から探し出しにかかります。

ちらりと横目で平賀を見ながらも前回のことがあってか
目を落としたままの高木。

資料室には一つしか机がないので、こうなります。
これは気まずい(笑)

互いが互いをチラチラ見ながら何か言おうとして呑みこみますが、
口を開くきっかけがなかなかつかめません。

高木に至っては立ち上がって本棚の間でタバコに火をつけようとしますが、
ライターの調子が悪くカチカチやってあきらめたり、
この一連の名優二人の無言の掛け合いはなかなか見応えがあります(笑)

このときの大河内の演技も、志村のライターが点かないのを見て
一瞬ポケットに手を入れかけますが、志村がタバコ入れをしまうと
すぐに手を出したりして、文字通り「芸が細かい」。

高木が黙って荷物を片付け出すと、平賀はあえて自分のタバコに火をつけてから、
さりげなくマッチを机に置いて、

「はい」

高木はほっとしたように

「ありがとう」

口を聞くきっかけができたので、平賀は早速さりげなく世間話風に

「ご苦労ですな。日曜日まで」

「いや、あなたこそ」

「実はね高木さん、今朝ふっと思いついたことがあってね」

「いやわたしもなんだ。
子供と遊んでるうちに妙にフッといい知恵が浮かんできましてね」

「歳を取るとお互いにセッカチになってねえ」

「はっはっは」「まったくですはっはっは」

話が何だかつながってませんが、二人には多分わかっているか、
あるいはどうでもいいことなんでしょう。
とにかくここまできたらもうあとは親交まっしぐら。

「わたしの方はじつは見通しがつきましてね」

「僕の機関の問題もうまくいきそうなんだ」

お互いが自分の考えを先に披露しようとペンの取り合い。
また喧嘩になるのでは?とハラハラさせられます(嘘)

平賀は先に説明を始めますが、そのシーンはまるまるカットされており、
高木の「機関についてのアイデア」も明らかにされないままです。

シーンはいきなり艦政本部。
平賀が部下を集めて今度は彼らに向かって説明しています。

「つまり、こう・・鰹節のような格好で作るわけだ」

すると見ていた誰かが

「昔の『◯〇〇○型』(聞き取れず)に似てますね」

「そうね・・・
で、波をかぶる舳先から砲塔にかけてはこんなふうに思い切り高くする」

「それからこの機関部のあたりは傾いた時の復原力を持たすために
この程度の高さにするんだね」

「後ろの砲塔から〇〇にかけては波をかぶらない程度に思い切り低くする。
つまり、上甲板がこんなふうに三段の曲線を描くんだ」

さて、これを読んだだけで、「夕張」という名前がすらっと出てきたあなたは
おそらく「艦これ」ファンかさもなくば船屋さんでしょう。

「こう言うふうにすれば船を相当細くしても折れたりすることはない」

「第二の狙いとしては、従来防御だけの目的で
舷側や甲板に張っていた装甲板を、
艦の構造を厳重にするような張り方に工夫するんだ。
たとえばだね」

(書いている手元を映さず、技術者がなるほど、という)

「目方を節約するために『か〇〇〇〇』なんかも出来るだけ沢山あけるんだ」

この5文字がどうしても聞き取れませんでした。

「主任!わたしのカンじゃ今度こそきっとモノになります」

「カンじゃないよきみ、わたしは確信を持っとるよ」

相変わらず負けず嫌いの平賀先生です。

席を外していて平賀の説明を聞いていなかった竹中が戻ってきました。
誰からもなにも言われていないのに平賀の描いた船体図
(ちなみに走り書き)を見ただけで首を振って

「素晴らしい・・・・!」

それでわかるんだ・・。

「世界一の船ができるぞ!」

そしてそれからはスタッフが不眠不休で頑張る様子が描かれます。
眠気と戦いながら計算する山岸。

平賀の走り書きを見ただけでその素晴らしさに気づいた竹中。

時折咳をしながら机に向かう谷。

軽巡洋艦の常識を覆す画期的なデザインで世界を瞠目させ、ジェーン年鑑には
特記項目付きで掲載されるなど注目された「夕張」は、
平賀譲の才能が遺憾なく発揮された、海軍史上特筆される艦とされています。

苦難の末、平賀の名前を造船史に永久に留めることになった
「夕張」の完成後、続々と生み出された軍艦が
実写映像をバックに紹介されます。

気になるのは、1944年当時海軍にこれらの軍艦は
残っていたかと言うことなんですが><

これはおそらく名前の上がったどれかでしょう(当たり前だ)
皆様はこの写真だけで艦名がお分かりでしょうか。

 

さて、そんなある秋の日。
菊作りの腕が玄人並みだったという平賀の作品、
「扶桑秋」が天位(多分特賞のこと?)を取りました。

わざわざその菊を見にきたらしい海軍士官とその妻。

「まあお見事ですこと。
平賀様って菊作りまでこんなにお上手なんですのね」

横から体を乗り出した子供が

「お父さん、あったよあったよ、ここに」

振り返ると、あらそこに”菊作り菊見るときはただの人”であるところの
(これを知っている人はきっと結婚式に何度も出席したことがある)
平賀譲先生ではありませんか。

軍令部に移動になったばかりの浅香少佐でした。
挨拶を交わすや、浅香少佐、

「閣下、今度家内をもらいましてね」

お互いに丁寧に頭を下げ合う両家の女たち。

不忍池の周りをそぞろ歩きながら浅香は平賀に
ロンドン会議に随員として参加することを打ちあけます。

「奴らは我が巡洋艦の優秀な性能に震え上がったと見えます。
しかし我々は覚悟をしております。
断じて閣下ご苦心の危檣(高い帆柱)を奴らの思うままにはさせません」

しかし、平賀はそれに対し、

「我々造船官には心配ご無用です。
なあに、邪魔が入ったらまた新手を考え出しますよ」

女性子供は笑いさざめきながら後ろを歩くのでした。

ワシントン条約決定後、巡洋艦以下の補助艦艇については無制限だったことから、
平賀設計の軍艦群が証明するように、条約の範囲内で最大限の機能を持たせた
「条約型巡洋艦」を建造することで日本は海軍力を維持しようとしましたが、
早い話アメリカとイギリスがその補助艦艇に制限をかけてきたのです。

そんな中夜遅く(9時)まで仕事をしている造船官の谷。

谷の咳き込む声を聞いてハッとする竹中。

心配して皆が机の周りに集まってきます。

そこに平賀主任が帰ってきました。

「どうしたんだ」

「はあ、何でもないんです」

しかし言った端から床に崩れ落ちてしまいます。

しかし谷、大丈夫ですといったその後に続けて

「主任、帝国海軍は身動きできぬほど縛られてしまったのです。
前には主力艦と航空母艦だけでした」

前、というのはもちろんワシントン条約のことです。

「今はもう巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、何もかも制限されてしまったのです!
我々は・・我々はどうしても数を生み出さねばなりません」

「私はまだ働けます。お願いします」

平賀主任は休めともやめろともいっていないんですがそれは。

ワシントン条約に続くロンドン軍縮条約の結果が、
造船の現場に与えた衝撃とショックは計り知れないものがあったと推察します。

 

続く。

「斃れてのち止む」〜映画「怒りの海」 最終日

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昭和19年海軍省後援による情報局制作の国策映画、
「怒りの海」最終回です。

 



場面は暗転し、いきなり英語の放送が流れ出します。

ロンドン条約終了後、アメリカ全権が発表した声明でした。

「我が合衆国代表の目的は、我がアメリカ海軍が
日本海軍を現勢力のまま釘付けにすることであった」

「しかも日本が国民の支持せる三原則案を敢然放棄し、
敵手の跳梁を拱手傍観する如き本条約を承認せる」

いわばアメリカの「勝利宣言」です。
場面はロンドンから帰国する船の船室で、放送を聞いているのは
随員として参加した朝香少佐でした。

「日本が三原則を放棄したことに対し敬意と賛辞をおくる」

とありますが、これは、対米七割を軸にした三大原則のことで、
具体的には

補助艦対米7割、大型巡洋艦7割確保、潜水艦現状維持

という「これだけは譲れないライン」でした。
実際は重巡洋艦保有量が対アメリカ6割に抑えられ、
潜水艦保有量も希望量に達せずに終わったのはご承知の通りです。

ちなみラジオ音声はネイティブの英語話者がいなかったらしく、
どう聞いても日本人の英語です。

立ち上がって船室内のラジオのスイッチを切る朝香少佐の後ろ姿。
そして、このあと何をしたかと言うと・・・・

実際に自刃した随員は草刈英雄少佐で、自刃した場所も汽車の中と
フェイクありで表現してありますが、これは事実です。

草刈少佐の自殺とその後起こった五一五事件について、当ブログで過去、
自分で言うのも何ですが、実に簡潔にかつ面白く整理してまとめておりますので、
よろしかったらもう一度ご覧ください。

草刈英治少佐の切腹と五一五事件

映画では新婚だったとありますが、草刈少佐の妻は自決当時妊娠しており、
生まれた男子は海軍兵学校67期に入学し、父が死んだのと同じ
少佐のときに終戦を迎えました。

草刈少佐の出身地は会津若松だったということですが、
映画で朝香少佐のお墓があるのも、猪苗代湖を見下ろす
丘の中腹という設定になっています。

この墓前に参り花を手向ける平賀の姿がありました。

偶然墓前で平賀は浅香の同期の吉野と出会います。
吉野は大陸に渡って任務に就いていたと説明します。

墓前で吉野が同級生に呼びかけるように

「浅香・・・日本は立ち上がったぞ」

と言います。
これはおそらく、ロンドン軍縮会議から5年後の第二次会議で
軍縮会議から日本が脱退し、それまでの条約も破棄したことを言っているのでしょう。

「帝国海軍は無敵だ」

吉野は平賀に、上海事変の際現地で「夕張」を見た、といいます。

「ほお、そうでしたか」

第一次上海事変を受けて、野村吉三郎中将率いる第三艦隊、
巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、空母2隻(加賀・鳳翔)を派遣しましたが、
その巡洋艦の中には「夕張」が含まれていました。
(その他は平戸、天龍、対馬、那珂、阿武隈、由良)

「あの凄まじい威力に毛唐ども、すっかり度肝を抜かれておりました」

ちょっとお待ちください上海事変なら「毛唐」の「毛」はいらないのでは。
吉野は海外で我が軍艦を目の当たりにしたとき落涙した、と語ります。

「閣下、どうか新鋭艦をどしどし作ってください」

しかし平賀はそれに対し力なく笑いながらこういうのでした。

「海軍の技術力は充実しておりますので、僕なんかが引退してもびくともしませんよ」

「・・・・引退?」

この少し前から平賀は海軍技術者の藤本喜久雄と対立、
この内部対立により、艦船設計の担当部署である艦政本部から
海軍技術研究所の造船研究部長という閑職に左遷されていました。

しかし、海軍後援の本作品では、そういうドロドロはもちろん、
平賀が軍服を脱ぐに至った事情には一切触れずに、
後進の指導に当たることになった、と表面的なことだけ述べます。

平賀の伝記であれば、友鶴事件、第4艦隊事件が起こった後、
平賀が調査委員会を率いてその対策を講じたことも描くべきだと思いますが、
このあたりは海軍的に「触れられたくない」黒歴史なのでこちらもなしです。

東大総長となった平賀先生がさっそく第二工学部を設立せよ!と
鶴の一声を(咳き込みながら)下命しています。

総長就任後、平賀の肝煎で東大には第二工学部が設立されました。
ついでに興亜工業大学(現在の千葉工業大学)を興したのも平賀です。

ついでのついでに、平賀先生、総長に就任するなり
派閥抗争を起こしていた教授を13名追放するという
「平賀粛学」を行っています。

咳を気にして診察を受けるようにおずおずという事務長に
大丈夫だと言っていると、来客がありました。

この士官が誰なのか全く説明がないのですが、彼は開口一番、
浅香の墓前で会った吉野少佐が亡くなったといいます。

なんと、「マライ」でスパイの嫌疑を受け収監され、釈放後、
マラリアに罹ってしまったというのです。

っていうかマライってどこ?マレーのことかしら。

「そうですか・・・」

この人は、なぜだか吉野が生前各国の印象などを書き込んだ手帳を
持ってきて、机の上に置き、

「閣下に読んでもらえば吉野も本望でしょう。
閣下を崇拝しておりましたから」

って、二回しか会ったことがない人の遺品をもらっても
平賀先生も困っちゃいますよね。
というかこのおっさん、なんで人の遺品を勝手に他所に持って行ったりするの。
普通返すならまず家族だろーが。

しかし、この士官の目的は実はこれが目的ではなかったのです。

「わたくしは吉野を連れて行きます」

はて、亡くなった士官を連れて行く・・・?
これは連れて「往く」ということなのでしょうけれど。

「いや、浅香も・・飛行機で死んだ澤井も今度の航海に連れて行きます」

最初に訓練で亡くなった飛行士官ですね。
このシーン、わたしはなぜだか’ぞっ’としてしまったのですが、
士官は湧き上がってくるような不気味な微笑みを浮かべながら笑いを含んだ声で、

「ひょっとしたら、赤道を、超えるかもしれません」

言い終わるとその顔から生気が抜けるように急激に表情がなくなりました。

海軍後援であり情報省が制作に関わった国策映画といいながら、
この士官の表すものはどう見ても闘志や軍人精神ではなく、
まるで魂がすでに幽界を彷徨っているかのような虚脱と諦めなのです。

これは何なんだろう。

「往く」ではなく、「逝く」の意味であることを隠していないのです。

わたしはこのシーンを挿入した制作者の意図について深く考えてしまいました。

「そうですか・・・」

またしてもそうとしか言えず下を向く平賀。
気まずい沈黙が総長室を満たしていきます。

士官の出て行った後、平賀がまたもや「土佐」の文鎮に目を止めると、
その映像に行進曲「軍艦」が重なります。

病の床に伏せっている平賀のために妻がつけたラジオは

「・・敵航空母艦4隻、戦艦1隻、その他1隻を撃沈、
戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を中破し、
敵機200機以上を撃墜せしめたり」

「我が方の損害、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻小破せるも、
戦闘に支障なし、未帰還機15機」

はて、いったいどの海戦の結果なんでしょうか(すっとぼけ)

実は平賀の床の周りには見舞客が来ていました。
周りが寝ているように勧めても

「大丈夫だよ。それほどの病人じゃない」

と相変わらず強気な平賀先生です。

彼らは東大の評議会員でした。
病気の平賀を気遣って、入学式には休むように言いに来たのです。

しかし平賀は相変わらず

「大丈夫だよ。自分の体は自分が一番よく知ってる」

平賀は晩年結核に喉頭を冒されており、それが死因となりました。

平賀、入学式に出るどころか祝辞を読む気満々で
下書きを済ませておったのです。

「読んでくれたまえ」

「新入生諸君。
諸君は国家の期待といちもんきょうとうの輿望とを一身に担うて、
今日帝国の最高の学府に入学したのであります。

諸君がこの栄誉を勝ち得たのはもとより良き指導を受け、
多年蛍雪の功を積んだためとは申しながら、畢竟、
生来のお恵に他ならないのであります。

今や皇国は世界の二大強国を敵とし、総力を上げて乾坤一擲、
一大決戦を敢行しつつあるのであります」

声はかすれた平賀自身の声に代わり、場面は東大講堂になりました。
30歳から晩年までを演じ切った大河内伝次郎の巧さがひときわ光る場面です。

「諸君が安んじて日日の学業に専念できますのは、ひとえに
皇恩の広大無辺なるによるものであります。

さらに諸君は二十幾年、諸君の訓育に心血を注がれたる父母の恩の
三界にも渡ることを回想し、尽きせん感謝の念に絶えぬものがありましょう」

「皇国に学徒たるものの本分は、至誠を持って
’すめらみくに’に仕え奉るにあるのであります」

一言一言区切るように話をしながら身体を手で支えていた平賀総長、
前によろめくと、スタッフが思わずはっと身体を固くします。

「まことの創意とは、まことの独創とは、ただ国家の希求に身を呈し、
皇軍の扶翼に心肝を砕く、尽忠一途ぞ至誠より生るるものであります」

「諸君はよく学生たる本文を忘れることなく、いつにても、何時にても
召さるれば、勇躍戦場に赴き、一死君国に奉ずる決意を固めつつ、
而も、沈着冷静に勉学すべきであります」

この祝辞は、念願だった第二工学部の創設が成った昭和17年4月の
入学式のものであろうと思われます。

昭和18年2月。
死の床にある平賀を見舞いに来たのは、

艦政本部で苦労を共にした竹中と、

山岸でした。
ここに谷がいないのは、彼が早逝したということでしょう。

「どうだね。皆んな元気にやっとるかね」

「はい。皆一生懸命にやっております」

「いいふねが・・・・続々できて陰ながら喜んでいるよ」

「山岸くん。覚えとるかね。土佐を沈めたときのことを」

「は」

「皆・・・泣いたねえ・・・あの気持ちだ。
あの気持ちさえ失わなかったら、日本の海軍は益々無敵になっていくよ」

「君たちがうらやましいよ」

竹中が

「私たち折行ってお願いがあるんですが」

山岸が引き取って、体が回復するまで総長をやめてはどうか、
というのですが、うーん・・この容体はそういう段階かな。

しかしこんな状態でも平賀は、自分が役に立つ限りやめられない、
と弱々しい声ではありますがキッパリというのでした。

「これが最後の御奉公になる」

「先生!」「先生!」

「斃れてのち止む・・斃れてのち止む・・
戦えるよ・・・わしはまだ戦える」

彼の脳裏には大海原を駆ける軍艦の姿がありました。

その艨艟の姿に重なる軍艦行進曲で平賀譲の物語は終わります。

 

平賀は昭和18年2月17日 午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院で
嚥下性肺炎により64歳にて死去しました。

翌日遺体から取り出された脳は現在も東大医学部に保存されています。

 

帰国〜ファースト初体験と成田での自粛失敗

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アメリカから帰国してまいりました。

本来であれば今頃は成田のホテルで絶賛自粛期間だったはずですが、
3日めにしてホテルの缶詰生活に根をあげてしまい、自宅に帰って
おとなしくしているというプランに変更を余儀なくされたのです。

現在の日本政府の指針は、海外渡航から帰ってきた人に対し
空港で検疫検査を行い、陰性であった場合も公共交通機関を使わず
自宅かあるいは対象宿泊施設で自粛することを推奨しているので、
お上から言われたことを真面目に守る我が家としては、夏前にMKが帰国した時も
彼に2週間のホテル生活をさせたわけですが、今回自分がそうなって
隔離された状態の自粛というのがどれだけ精神的に辛いものか思い知りました。

なぜわたしがホテル隔離に耐えられなかったかというと、
まず、外に出ることも制限されるということ以前に、
何の予定もないのにホテルに連泊するということに対する絶望感。

今回、TOが成田でおそらく最もグレードの高いホテルを取ってくれたのですが、
この「良かれと思って」が大変な落とし穴で、なまじ高級を謳っているので
MKの泊まったホテルのように館内にコンビニがないのも問題でした。

つまり、水とかお茶とかちょっとしたスナックとか、そういう買い物ができない。
食べ物は三度三度全てホテル内のレストランかルームサービスのみ。
そのうえちょっとお茶でも、とルームサービスでポット入りを頼むと1,200円。

ホテルのお茶代は場所代込みなので日常であればこの値段でも受け入れますが、
ホテルの部屋で過ごしている身にはなかなか気分的に辛いものがあります。

チェックイン時に、自粛宿泊対象者のためのレストランの食事30%引きチケットや
朝食バッフェ3,600円が2,800円になるチケットも束にしていただきましたが、
ホテルの食事はそもそも旅の非日常に属するもので、重さ的にも金額的にも
普通とはかけ離れていてこれが半月続くと思っただけでげんなりしました。

一番辛かったのはジムが使用禁止であることです。

しかも今回は帰国した日から3日間千葉県では雨が降り続き、外に出られず
仕方がないので、ベッドの上でヨガをしたり、ハウスキーピングが居なくなる夕方に
誰もいないホテルの廊下と非常階段を早足で歩いていました。

昔マドンナが全盛期の頃、日本に来てプールで物凄い勢いで泳ぎまくり、
エレベーターを使わずホテルの非常階段を駆け上っていたところ、
遭遇した従業員が驚いた、という話をふと思い出したりしながら。

これも一日二日なら話の種ですが、2週間続くとなると絶望でしかありません。
二日前までアメリカの広大な自然公園の延々と続くトレイルを
1日1〜2時間歩いていたのに、この環境の急激な変化には心身ともに酷く堪えました。

 

今にして思えばMKは2週間弱音も吐かずえらかったなあ・・・。
しかしわたしは彼ほど堪え性がないのでたまりかねてメッセージでTOに弱音を吐きました。

「ジムが使えないし売店も閉鎖していてホテルで水を買ったら300円だって」

「閉塞感やばい。14日この生活したら確実に死ぬ」

アメリカのホテルで一人で何日いても平気なわたしがここまで弱るとは
さすがのTOにも予測ができなかったらしく、慌てて自宅軟禁、じゃなくて
自宅待機に切り替えることにして、自粛帰宅者対応のタクシーを手配してくれ、
帰ってきたというわけです。

同じ自粛生活でも何でもそろって勝手知ったる我が家では全く精神的に違います。
自分でお茶を淹れたい時に淹れ、自分の食べたい量の食事を作り、
なんといってもピアノが弾けて外が歩ける。

自粛中ということなのでウォーキングは人とすれ違うことの少ない
早朝にマスクをかけて出ることにしました。

 

さて、今回の帰国についてその前日から淡々と語ります。

ピッツバーグでは9月半ばになると急に朝夜の気温がガクッと落ち、
午前中に外に出ると体が温まるまで歯の根が合わずに
ガチガチカスタネットのようになるくらい冷える日が増えてきました。

最低気温4度というと確実に日本の冬並みです。

最後の日の散歩ではMKの学校の横を歩きました。
後で聞いたらこの日は対面の講義(レーザーカッターを使うため)
があったということでした。

滞在後半に近づくほど野生動物を多く目撃しましたが、
これはどうも寒くなって彼らが冬眠の準備をしているせいかと思います。


ピッツバーグ空港からトランジットのオヘア空港までの飛行機は
出発時間が朝の7時だったので、わたしは数日前から5時起きを心がけ、
前日は夜7時半に寝て3時に起き、4時にホテルを出ました。

真っ暗な道を空港まで25分。
ただしその時間だと渋滞の心配もないし、空港のゲートもガラガラで、
朝早い便というのは「あり」だなと思いました。

7時出発の便に乗ってシカゴ・オヘア空港に着くとまだ7時30分でした。
東部時間のピッツバーグから中部時間に巻き戻ったからですね。

乗換便のボーディングまで3時間以上あるので、とりあえず
ゲートをチェックした後は、いつもするように運動のため、長いコンコースを
移動のフリして行ったり来たりして時間を潰そうと思い端っこまで歩いてみたら、
なんとひとつだけユナイテッドのラウンジがオープンしていました。

入ってみると、ここしか開いていないのに人はまばらで、
供される食べ物もパックされた簡単なものやスナックだけでした。

このとき時間は11時、いつもなら人であふれている通路です。

こちらでもコロナのせいで皆不要不急の旅行やビジネストリップを控えているのでしょう。
しかしそれだけで空港というのはこうなるのか、ということが衝撃でした。

搭乗10分前になってゲートに行ってみると・・・やばい。
人がいない。

この写真をTOとMKに送ると、

「ゲート間違えてないよね?」

間違えるも何も他もみんなこんなもんですがな。

搭乗は後方席から順番に行われ、わたしの搭乗順番は最終となるグループ4。

そう、今回のフライトでは
わたし史上初となるファーストクラス体験をすることになったのです。
なぜこんな非常時にファーストになったかというと理由は簡単で、
マイル移行で特典チケットを取ろうとしたらすでにビジネスが満席だったからです。

この便、わたしがFAに尋ねたところ、乗客総数30名ほどでした。

ファーストの席は全部で8隻、そのうち埋まっていたのは4席。
わたしの前にはアメリカから日本を経由して帰国するらしい、
背だけはやたら高いサングラスにマスクのおそらくK POP歌手(か俳優)
真ん中の4席には客はおらず、窓際に二人連れの日本人男性です。

KPOPだかKPOOPの人はわかりませんが、ビジネスの特典席が満員で
この数ということは、ファーストも4名が上限で、つまり乗客のほとんどが
わたしと同じく「マイレージ組」だったのではと思われます。

まあ事情はともかく、記念すべきファースト初体験を堪能することにしました。

どうもこれは噂に聞いていた新型らしく、細部がいかにも今風です。
一見壁のようなパネルを押すとこんな小物入れ(多分メガネ用)が出てくるとか。

シートの横にはヘッドフォン収納のスペースやリモコン入れが
これもパネル方式で面一に収まっており、シートの調整もタッチパネル式です。

ヘッドフォンもファーストはちょっとグレード高め。

アメニティケースはビジネスと同じ、グローブトロッターのトランク型。
これはデバイスのコードやコンセントを持ち歩くのに大変便利です。

それ以外にもザ・ギンザの化粧品セットが用意されていました。

さて、わたしは朝3時に起きて何も食べずに搭乗時刻を迎えたため、
さすがにお腹が空いてきていたのですが、搭乗の際、

「食事サービスについてはお客様の要請があれば行います」

みたいなことを言っていたので、黙っていれば何も出てこないのかと心配して
一応FAに聴いてみたところ、即座にメニューを持ってきてくれました。
さすがはファースト、ってか一人のFAがわたしとKPOOPの専用係として
痒いところに手が届きまくる手厚いサービスをしてくれました。

ビジネスとの違いはメインディッシュの選択肢ですかね。
ビジネスだと洋食でも肉か魚、という感じですが、ごらんのように
「牛フィレ」「チリアンシーバス」「猪の肩」「野菜」
と4種類のメインから選ぶことができました。

昔神戸のホテルで「猪の背肉の団子」を食べたことがありますが、
ジビエはワインをいただかない下戸とははっきり言って相性が悪く、
今回もわざわざ空の上で挑戦するだけの気力も意欲もなかったので、
普通にフィレステーキを選択しました。

ちゃんとした食器とシルバーが出るのがファーストです。
まずアミューズ(アペタイザーではない)に出てきた一皿。
左端のピスタチオをまぶしたチーズボールは、マグロの切り身の上に鎮座していましたが、
残念ながらわたしが死んでも食べられないシェーブル(ヤギ)チーズでした。

サラダかと思ったらこちらがアペタイザーでした。
赤い身はロブスターです。

サラダのドレッシングは洋梨か玉ねぎワサビか選べたので洋梨を選択したのですが、
そのどちらも手違いで載せていなかったらしく、バルサミコ酢になりました。

そしてやっとここでコーンスープが出てきます。
やはりビジネスよりは皿数も多いし3割増しくらい手間がかかっている気がします。
何が一番美味しかったかというと実はこのスープでした。

「メインのステーキには2分お時間をいただきます」

とお断りがありましたが、2分って一体どこから出てきたのか。
レンチンする時間かしら。

さすがにファーストだけあって、今まで機内で出されたステーキの中では
一番美味しかったと思いますが、残念ながら中身に全部火が通ってしまっていました。

焼き加減も聞いてくれなかったし。

デザートはクランブルタルトを選択。

これもビジネスにないサービスで、フルコースの最後のプチフールもありました。

食事が終わってしばらくしたら、FAが空いている隣の席に
ベッドちゃんと作ってくれました。
ファースト席を二人分使うなんてなんて贅沢なのかしら。

リラクシングウェア(品質も悪くない)は持ち帰り自由です。
ありがたくいただいて帰りました。

「よろしければお着替えになっておやすみ下さい。
お着替えの際にはお部屋を用意します」

着替えのお部屋って何かと思ったら化粧室に足台を出すことでした。
ちなみにファースト席には化粧室が4ブースあるので、今回は
トイレを待つ場面が一度もありませんでした。

 

さてそれでは寝みますか、と隣に行ってみるとこの通り。まるで旅館みたい。
下にマットを敷いてあり、ちゃんとしたシーツのかかった布団に
さらに毛布を乗せて端を折ってあるという心配り。

ベッドの寝心地も広さも十分で、(まっすぐ寝ると両手が下に落ちることもなく)
おそらくわたしの機内体験史上、最も快適に、ぐっすり寝ることができたと思います。

降りる1時間前に和食の朝食を頼みました。
器に入れた納豆が出てきたのは初めてです。

さて、というわけで飛行機は無事に成田に到着しました。
飛行機が停止し、「ポーン」という音が鳴っていつも通り立ち上がると、
FAがやってきて、

「しばらく機内でお待ちいただくことになります」

席に座って途中だった「フォードvsフェラーリ」を最後まで観終わりましたが、
まだ一向に案内がありません。

そのうち、乗り継ぎをする客だけに降りるようアナウンスがあり、
前の席のKPOOPがマスクにサングラス、なぜかシリコンの手袋をはめて
出て行った後、さらに30分くらいは待たされたでしょうか。

降りるとわたしを先頭に検疫のラインまで案内されました。
MKが帰国した5月終わりには鼻に綿棒を差し込む方式だったそうですが、
今は試験管状の容器に使い捨ての容器で唾を入れて提出します。

通路では検査方法がビデオ放映されていて、
皆なるほどーという感じで心の準備をしながら待つわけです。

機内では検疫所に提出するための書類を前もって書いておき、
それを要所で見せながら行程をこなすために進んでいきます。

この書類ではアメリカが「特に流行している地域」に指定されていました。
滞在していて体感する限り、世間は日本と変わらない感じだったのですが。

というか、右側に「流行している地域」が書かれていますが、
これ世界中の国なんじゃないかと・・。
むしろ流行していない地域って台湾以外にどこ?

 

採取した唾を提出してからかつてのゲート前に設えた待合室で
与えられた検査番号が呼ばれるまで待ちます。
MKのときには指定ホテルに一泊したそうですが、今では
この待合室でせいぜい1時間待てば結果がわかるようになっています。

ちなみ検疫所や待合室は一切撮影禁止となっていました。

そしてめでたく陰性ということになればこの紙をもらうので、
これを入国審査、そしてホテルのフロントで見せるわけです。

(この検疫マークの錨に注目したのはわたしだけ?)

再入国審査では自動読み取り機にパスポートをスキャンするだけで
審査官と対面することなくゲートを通過しました。
これもおそらく防疫上の配慮と思われます。

税関ではわたしの荷物を眺めて、税関員が

「何しに行かれてたんですか」

と質問してきました。
旅行でもビジネスでもなさそうとなると、目的に疑問を持たれても仕方がないかもしれません。
息子の大学生活立ち上げのための手伝いに、と端的にいうと
なぜか

「ご苦労様です」

とねぎらわれてしまいました。

そして1時間に一本しか来ない循環バスを待ち、やっとのことでホテルにたどり着いたというわけです。
(そして冒頭に戻る)

そうそう、さっき在住地保健所から電話がかかってきました。
帰国後の体調を聞かれ、できるだけの自粛を要請され、もし熱が出たら
保健所の専用の窓口に電話をするように、ということをいうためだけに
帰国者全員に連絡をしているのです。

今回の検疫を体験アメリカへの入国と比べても、日本のコロナ水際対策は
ちゃんとしすぎるくらいちゃんとやってると感じました。

 

おわり


ビーバーの巣作り被害(おまけ:Bakamitai ミーム)〜アメリカ滞在

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事情があって本来の用事が終わっても2週間くらい
アメリカ滞在を伸ばしたのですが、驚いたのは、9月半ばを過ぎたら
ここピッツバーグは急激に冬になったことでした。

9月に入ってもおそらく日本と同様日差しは強く、午前中にウォーキングをしていると
(マスクのせいもありますが)帰ってくると全身汗びっしょりだったのに、
中旬に入った途端、歩き出すときには寒くて歯の根が合わずに震え上がるほど。
確実に日本の冬より急激に訪れると言った感じです。

車で高速を走っていると「エリー/ワシントン」、つまりこの先で北に行けばエリー、
南に行けばワシントンという表示を見るのですが、
このエリーとはあの五大湖の一つのことでなんですね。

ペンシルバニア州がエリー湖を挟んでカナダの真下であることを、
この早い冬の訪れによって実感することになりました。

ちなみにピッツバーグからエリー湖沿いのクリーブランドまでわずか車で2時間、
ワシントンDCまでは先日行ったデイトンと同じくらいつまり4時間という距離です。

この写真はかつてカーネギーのビジネスパートナーだった人の土地を整備して作った
フリックパークですが、この手の公園の中でもここは特に整備が行き届いています。

ここも発見してからは二日に一度の割合で訪れましたが、暑い間間苦労して
木陰の多いコースを開拓したのに、最後の頃は日向が有難いくらいの寒さでした。

寒くなってきたせいか、最後の頃は冬眠する動物たちが忙しそうでした。
こちらではめずらしい黒リスを一度だけ目撃しました。

しかしこういう写真は一眼レフでないと全くだめですね。

なんならシリコンバレーで撮った黒リスの一番レフ写真をどうぞ。

マーモットも後半になってから何度か目撃しました。

アルプスマーモット

やっぱり彼らも冬眠するそうです。
アメリカではウッドチャックとか言われている模様。

 

森の中を歩いていると目の前を鹿が横切るのはしょっちゅうです。
まず1匹、彼(彼女?)は分隊の先遣隊といったところです。

先頭が渡り切ると安心してぞろぞろと続く彼の仲間。

人の姿を見ると慌てて木陰に避難し皆でこちらを見ていました。
そのとき後ろに気配を感じて振り向くと、

群れの1匹が道の反対側からこちらをうかがっていました。
わたしが来てしまったので皆に続いて道を渡りそびれてしまったんですね。

この不安そうな顔(´・ω・`)

 

ピッツバーグに縁ができ、時間が許す限り現地を歩いてきましたが、
やっぱり最初に発見したシェンリーパークは何度歩いても飽きません。

人工的な構造物はありますが、それらは前にもお伝えしたことがあるように
WPAという大恐慌のあとの失業者対策事業のころにできたものなので、
石積みだったりレンガが敷き詰められたりで実に風情があるのです。

シェンリーパークの一角にある公園のビジターセンターも当時の建築です。
カフェになっていて、パーティのために借りることのできる施設ですが、
今年はコロナのせいで閉鎖になっていました。

一度裏口の前を通ったら、この建物の修復にかかった資金は
アノニマス(匿名)の寄付によるものです、と書かれたプレートを見つけました。

おそらくこの資産家(かどうかは知りませんが)も、この公園を愛し、
わたしのようにここでのひと時を楽しんでいたのでしょう。

公園にベンチを寄付したりして自分の名前を好きな場所に遺す、というのは
アメリカ人がよくやることですが、匿名というのはなかなか粋です。

よくある名前より、「アノニマス」という存在の方に人は強い印象を遺すからです。

シェンリーパークの一部は大きく張り出すようになっていて、
MKの大学のキャンパスと小道を挟んで隣接しています。

ここは「フラッグフィールド」といって、国旗掲揚台があるのですが、
それはここにアメリカ星条旗のためのモニュメントがあるからです。

石碑のリースの中に書かれた文言は

「1777−1927
アメリカ合衆国国旗の生誕150周年記念」

その下には

「このモニュメントはアレゲニー郡の163校の学童が
ピッツバーグクロニクル通信社と国旗の日協会の後援により
集めた188万ドルによって建設されました。

1927年6月14日」

とあります。

このモニュメントの右下のプレートにある説明によると、
アメリカ国旗は1777年に最初に制定されてから、その後現在まで
27回もデザインを変えてきました。

このモニュメントはその最初の年から150年目にあたる1927年、
子供たちからペニー(1セント銅貨)を集めて作られました。

現在のアメリカ国旗(50個の星)のデザインは1960年から今日までと
史上最も「長生き」のバージョンとなっています。

 

こういう道が延々と続く公園が身近にある。
アメリカ人がうらやましくなるのはこういうときです。

 

散歩していて他の人とすれ違うと、アメリカ人はよく挨拶をするのですが、
コロナ以降はそれも変わってきました。

ほとんどの人が散歩中でもマスクをしており、狭い道ですれ違うときは
どちらかが脇に避けてソーシャルディスタンスを守ろうとします。

「モーニング」とか「ハイ」とか声を出す挨拶も控え、
手を挙げるだけの人とかが増えてきました。

テレビではいまだにマスクの有用性を啓蒙する特集が繰り返し放映されています。

あんなにマスク嫌いだったアメリカ人が、今ではこの通り。
もちろん散歩の時くらいと思うのかマスクしない人もいますが、
不思議なことにそんな人たちに限って連れと大声で喋りながら歩いてます。

 

さて、そんなアメリカでの変化を肌身で感じていたある日の散歩中、
わたしは二人のおじさんに少し離れた場所から呼び止められました。

イヤフォンで聞こえなかったので外してから何ですか?と聴くと、

「こっちにビーバーが齧った木があるんだけど知ってた?」

いい年したおじさん二人がまるでおもちゃを見つけた子供のように
嬉しそうに指差して教えてくれたのが、これ。

「あいつら一晩でこれくらい齧っちゃうんだよねー」

ビーバーというのは寒いところほどベルグマンの法則により体が大きく、
ヨーロッパでは20キロ、オハイオ州では成獣の平均体重は16.8キロあるそうですから
この辺りのビーバーもかなり大きいと思われます。

昔は体重50キロくらいのビーバーがいたそうですが・・・どんなだよ(笑)

次に行ったら、根元をかじられた木はこの通り倒れていました。

ビーバー1匹で例年結構な被害が?出ていると見た。

なんで木をかじるのかというと、彼らは川を堰き止めるダムを作り
そこに巣を構えるかららしいですね。
ダムには泥も塗って完璧に水を塞ぐんだとか。

おじさんたちに教えられて気づくと、結構被害があちこちに・・・。
葉っぱの枯れ具合からいって何週間か前に倒れたようです。

日本ならたちまち危険だからと倒れる前に木を片付けてしまうところですが、
アメリカの公園ではしょっちゅうあちこちを整備する割に
倒木などは自然のままにしておく傾向があります。

ビーバーが巣を作ろうとしているのならなおさら?

切り株に彫刻刀で削ったような歯の跡が刻まれています。

ちなみにおじさんにビーバーそのものを見たことがあるか、と聞いてみると
一度もないとのことでした。
アメリカに住んでいてもそうそうお目にかかる動物ではないみたいです。

親の仇のようにかじりまくってますね。
どんな奴がやったんだ。

はいこんな奴です↓

アメリカビーバーのオスかわいくねー

 

おじさん二人には、わざわざ教えてくれてありがとう、と丁寧にお礼を言っておきました。

 

それにしても不思議なことがあります。
これだけ木をかじり倒した跡があるのに、どこにもダム巣らしきものが見当たらなかったのです。

wikiによると、ビーバーのダム作りは周辺の木を齧り倒し、泥や枯枝などとともに
それらを材料として川を横断する形に組み上げて作る、ということなので
倒した木はそれなりに川を堰き止めていないといけないはずなのですが、
写真を見ていただく限り、木が倒れているのが明後日の方向ばかりなんですよね。

ビーバーの巣作りは本能的なもので、親のやっているのを見て学習する、
という行動ではないそうですが、もしかしたらこの公園のビーバーは
まだ初心者で木をどう齧れば川を堰き止められるか要領がわかってないのかもしれません。

彼らは何年もかかって壮大なダムづくりを行うということなので
来年にはちょっと巣らしきものができているかも可能性もあります。

来年、機会があれば、このビーバーくんがどれだけ木をかじるのが上手くなったか、
ぜひ確かめに来ようと思います。

 

さて、ここからは全くの蛇足なのですが、散歩の時わたしはBOSEのサングラス式か
ソニーのイヤフォンで音楽を聴きながら歩きます。

今回、この曲をMKに教えてもらい、何度か聴いているうちに
「夏のピッツバーグ」イコールこのイメージに定着してしまったヤバい曲があります。

馬鹿みたいBakamitai (Full Lyrics) (Yakuza 0) - Hamburger Karaoke

MKにいわせると「〇〇ゲー」の類なんだそうですが、ヤクザ戦闘ものゲームの
主人公桐生一馬が歌うこのバブル時代のムード歌謡が、今世界的に
サビ部分のミームを作るのが密かにはやっているのだとか。

安倍前首相とか
FORMER japan pm shinzo abe senpai sings baka mitai

オバマ元大統領とか
obama sings baka mitai

習近平とか
Xi Jinping sings Baka Mitai

映画「シャイン」とか、

第一次世界大戦時の世界のリーダーとか
WW1 Leaders Sings Baka Mitai (Dame Da Ne)

(直前にアメリカが参戦したところで爆笑してしまった・・)

第二次大戦時のとか。
Dame da ne WW2


いろんなバージョン皆競って作ってるんですよね。
日本語でこのカラオケを歌うのも流行っているとかで、もう世界中bakamitaiとしか(笑)

それからMK情報で面白かったのが、なぜかいま、竹内まりやの
「プラスティックラブ」が今世界的にバズってるらしいということ。

なぜ竹内まりや?なぜこの曲?


 

 

南北戦争の野営生活〜ソルジャーズ&セイラーズ記念博物@ピッツバーグ

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日本でだけ「南北戦争」といわれているところのCivil warですが、
その意味はずばり「内戦」です。

日本史上最大の内戦は戊辰戦争であり、最後の内戦は
1877年の西南戦争なので、日米はともにほとんど同じ頃まで
同じ民族同士で干戈を交えていたことになります。

世界が今ほど交流していなかった時代、戦争はおもに
人が歩きや船で移動できる範囲で行われるしかなかったので、
その結果、地続きのヨーロッパはともかくとして、アメリカも日本も、
南北とか藩とかいう枠組みで対立してドンパチやっていたのです。

このことからふと思うのですが、たとえばあの永遠のお花畑ソング、
ジョン・レノンの「イマジン」の通りに世界が「ノーカントリー」になって
「ビー・アズ・ワン」になったとしても、畢竟人類というのは
何かしらの理由を見つけて対立し、戦わずにはいられない動物なんじゃないかと。

つまり今大国同士が戦争せずにすんでいるのは、はっきりいって
核と同盟による抑止力にほかならないということもできるわけです。

 

閑話休題、ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の展示から
南北戦争関係のものを粛々と今日もご紹介していきます。

ピッツバーグルームを出ると、The West Hall、西ホールです。
記念博物館はピッツバーグ市民にとって大切な遺産ですが、
ほとんどの軍事博物館に同じく、「人気のスポット」ではないため、
この日も見学者は実質私一人といってもいいような状態でした。

西ホールには同じ南北戦争関係の資料でも、地元ピッツバーグ出身の
兵士やその家族などにまつわるものが多い、と説明には書かれています。

このケースには1861年から1865年までの北軍の遺品が収められています。

JacobBrunnsPicture

ここアレゲニー郡でユダヤ人として史上初めて将校となった
ジェイコブ・ブラン大尉の大理石胸像です。

ドイツから移民してきたユダヤ人セールスマン、ブランは、
ピッツバーグ出身者の中で南北戦争で死んだ最初の将校となりました。

ユダヤ人に対する差別があった当時でしたが、ピッツバーグ市は
最初の犠牲者となった彼を称えるために宗教の別なく彼を顕彰しました。

軍服はペンシルバニア大77連隊のヘンリー・ケイレブスが着ていたもの。
彼は1863年、テネシー州の戦場で負傷しましたが、生還しました。

左側のサーベルは「ノンコミッションド・オフィサー」、日本軍だと特務士官用です。

同じくケイレブス軍曹の銃とホルダー、ベルト。
銃はM1860コルト製アーミーリボルバーです。

左:南北戦争時の雨具

1844年、起業家であったチャールズ・グッドイヤーがパテントをとった
ゴム引きの布は、たちまち雨天時の防水グッズに使用され広まりました。

アメリカ陸軍がグッドイヤーの発明を採用して何を作ったかというと
兵士たちに配るための「ゴム引きブランケット」でした。

このシートは軽くて薄く、従来のウールの毛布と一緒に畳んで
背嚢で持ち運びするのに大変便利でした。

ちなみにグッドイヤーというタイヤの会社名は彼の名前から取られましたが
会社と彼個人には何の関係もないそうです。

右:ハーバーサック(Haversack)

ハーバーサックは背中や肩にかけるキャンバスの鞄です。
フィールドで個人携帯品を持ち運ぶのに使われました。
こちらも防水布が使われていました。

ゴム引き製品は劣化しやすく、どちらの製品も
本物は現存しておらず、復元品が展示されています。

 

「銃弾が貫通した軍帽」

1863年5月3日、ペンシルバニアの志願歩兵連隊で戦闘に参加していた
ジェームズ・ハービソン大尉は、銃弾を額に受けて戦死しました。

この写真では残念ながら確認しにくいのですが、彼が被っていた帽子には
縦断の貫通した跡がはっきりと残っています。

偶然彼の兄が軍曹として同じ戦場で戦っており、弟の遺品を取得しました。

「ハードタック」

兵士たちの主食は『Hardtack』(堅パン)といわれるクラッカーでした。
呼び名の由来は文字通り硬いからです。

我が帝国海軍では乾パンという伝統の保存食があり、
現在でも海上自衛隊は昔と変わらない乾パンを糧食にしています。

実はわたくし、隊員用の乾パンを試食させていただいたことがあるのですが、
ちゅーるみたいなものから出して塗るジャムと一緒に食べると、
お腹が空いていさえすれば美味といってもいいくらいの味でした。

ただし猛烈に堅かったです(笑)

兵士はハードタックを湿らないようにハーバーサックに入れていました。
中にはベーコンの油でこのハードタックをフライして、さらに砕き、
パウダー状にしてパンケーキを焼くという「工夫」をする兵もいたそうです。

小麦粉が酸化しまくりであまり健康的な工夫とは思えませんが、
まあ戦場で栄養とか言っている場合ではないかもしれません。

写真のハードタックはもっともポピュラーな形です。
南北戦争の間の1861年から1865年まで作られていました。

ガラスのケースに入れられていてわかりにくいのですが、椅子です。

椅子に描かれている肖像はグラント将軍のもの。

南北戦争の北軍司令部でグラント将軍が使っていた椅子に
ハリウッドさんという人が将軍の似顔絵を描き、
それを手に入れて35年間愛用していた人がいたのですが、
彼が死んでから遺族が当記念博物館のオープンを知り、
寄付をしたという経緯でここにあります。

つまり、開館初日から展示されている椅子ということになります。

南北戦争の野営生活を再現したコーナーです。

床に敷かれているキャンバスの布はここが幕営内部であることを意味します。

当時の内戦であるところの南北戦争は、しょっちゅう戦闘が行われる、
というようなものではなく、兵士たちはいつ始まるかわからない戦闘を待つ間、
野営生活で延々と時間を潰さなくてはなりませんでした。

退屈(Boredom)はある意味兵士たちにとって最大の「敵」で、
彼らはそれを克服するためにいろんなやり方を編み出しました。

最もポピュラーだったのはカードゲームで、ドミノ、チェスなどは
自分たちで道具を作って(それだけ暇だったので)行いました。

その辺の木を取ってきて木彫作品を仕上げる兵士や、
日常生活、戦闘の様子をデッサンする「芸術家」もいました。

 

スポーツは気晴らしとしても最適で、その中でも野球は人気があり、
2ベース、3ベース、ときには4ベースでゲームが行われました。

兵士たちは時間があれば手紙を書き、故郷から受け取る手紙によって
彼らは故郷や家族に起こった出来事を知ることができました。
また、回覧される新聞によって最新のニュースを知りました。
彼らは時折カメラマンに写真を撮ってもらい、自分が写っていれば
それを故郷に送って自分の様子を伝えていました。

彼らのほとんどは故郷から持ってくる荷物の中に聖書を入れていたそうです。

バンジョーなどの小さな楽器をたずさえてくる兵士もいて、
伴奏付きで火を囲み皆で歌を歌うなどという夜もありました。

ドラムは軍隊生活の合図、そして戦闘時のほかに、このような
余暇の時間にも大活躍で、もしかしたら軍楽隊のドラマーは
南北戦争機関を通じて食事係とならんで一番仕事をした兵種かもしれません。

トーマス・モーガンさんが自分が新兵として入営するときに
どんなものを持っていったかを自画像とともに書いています。

ホームスパンの毛布
下着2セット
ウールの靴下4足
ハンカチ6枚
新しい靴、靴墨と靴ブラシ
家で作った石鹸2個(レンガくらいの大きさ)
シャツのカラー半ダース
ネクタイ
虫眼鏡
剃刀
シェービングブラシとマグ
ペン一箱
書類やマニュアルのための革製バインダー
ホームメイドのパイいくつか
小さな砂糖漬けハム
ボローニアソーセージ何連か
家族、友人などの写真を収めたアルバム
ピストル
大型ボウイ-ナイフ

この頃の軍隊では軍から支給されるものが限られていたようです。

聖書、手紙、トランプ、新聞の上のフォークやブリキのカップ、
コーヒーフィルター、コーンパイプ、そしてサイコロに当時のお札が並べてあります。

当時はクォーターがお札だったんですね。

喫煙の習慣は南北戦争の時代広がったといわれています。
普通の吸うタバコ以外に嗅ぎタバコや噛みタバコのニコチン製品が
兵士たちによって愛好され、これ以降喫煙人口が爆発的に増えました。

これらのパイプは兵士たちが時間潰しも兼ねて木を切って
それを彫刻して作り、写真のように輪になって喫煙しました。

写真のパイプは通信部隊の兵隊が月桂樹の木から作ったもので、
装飾と製作年月日である1862、9月17日という日付が彫り込まれています。

「サマーキャンプ・ウィンターキャンプ」

南北戦争時代の野営地は巨大なテントの街といった様相でしたが、
これは、テントが移動可能となる夏の間だけで、冬になると
部隊は一つの場所に留まり続ける傾向にありました。
そしてテントでは寒いのでログキャビンが建設され、
兵士たちのごく限られた期間だけの住居となりました。

この上の写真は冬に作られ、戦後放置されたかつての野営跡です。

もともと南北戦争の遺物を展示するための建物ですので、内部は
このように最初から廊下に展示ブースが設置されているという作りになっています。

最初の展示ブースは南北戦争時代の砲弾でした。

もちろんこの妙にグラフィカルなアレンジはごく最近
リノベーションされたものだと思います。

24lbのschenkl caseとあります。
この「シェンケル」または「シェンクル」は南北戦争時代使われた
砲弾の名前であるようです。

中に鉄の小球が収められていて、これが破裂すると飛び散って
人体やものに損害を与えるようなたぐいのものでしょう。

ゲッティスバーグの戦場から見つかったシェンクルケース

様々な大きさの砲弾、いずれも右写真の「アレゲニー・アーセナル」
(Arsenalは兵器廠のこと)の跡から発掘されたものです。

ピッツバーグにも「フォート・ピット・ファウンドリー」という
鋳鉄所があり、ここはアメリカにおける初期の大型兵器製造所でした。

ロッドマンと言われる大型武器もここで製造されています。

砲手象限(四分儀)

1545年に発明された照準装置は非常に基本的なため、その原理はまだ使用されています。

この指矩のようなもの象限、四分儀ともいい、ユークリッド理論によって定義されます。

45度の高さの大砲は、砲身が0度の高さで水平であった場合よりも
10倍遠くまで発砲するため、象限は10個の等しい部分にマークされていました。

したがって、射程が四分円の次のマークまで上がるたびに、射程は1/10になります。
高度0度の20ポンドの鉄球は、最初に200ヤードの範囲にあり、
45度の高度では、10倍または2000ヤードで発砲されます。
もちろん空気抵抗は砲弾に影響を及ぼします。

博物館開館の際、デュケイン陸軍砦に駐留していた部隊から
「チカマウガ Chiokamauga の戦い」のあった戦場の木が寄贈されました。

Chickamauga.jpg

チカマウガの戦いは1863年に行われ、北軍のかけた攻勢でも最後の戦闘でしたが、
北軍は西部戦線では最大の敗北を喫しています。

この絵の左側が北軍で、劣勢を表すようにたくさんの兵が傷つき倒れています。

この戦いでは両軍で34,624名の損失が出たとされています。
北軍16,170名で、勝ったとされる南軍の犠牲は、それよりも多い18,454名でした。

 

続く。

”配給食糧のための誓い” 戦後南北アメリカのジレンマ〜ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館@ピッツバーグ

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面倒がってはいけないのですが、いちいち正式名称を書くのが面倒な
ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム、
兵士と水兵のための記念博物館、略称SSMMは、もともと
南北戦争に参加した軍人たちの慰霊と記念のために設立されましたので、
それらの展示は、開館当時からそのつもりで作りつけにした
フランス窓式ガラスの展示ブースに納められています。

開館して100年以上の歴史では、何度もドアを取り替えたり、
ガラスを張り替えたりしているのだと思われますが、見たところ、
特に最近しつらえられた近代的な装備は、センサーとライティングです。

わたしが訪ねた時にも見学者はほぼわたしだけというような状態でしたが、
いつ来るかわからない見学者のために電気をつけておくのはエコではないので、
博物館ではケースの横にセンサーを取り付け、前に人が立ったら
電気がついてケースの中身が見やすくなるという仕掛けでした。

例によって画面左から進んでいくと、パッと電気がついて
明るくなったケース内の展示です。

展示テーマは「ピッツバーグ騎兵連隊」。

そしてさらによく見ると、アラームシステムも装備されていました。
画面右側のシールはシステム装備のお知らせです。
見張りを置くための人件費を節約した結果でしょう。

クロスしている銃はジョスリンカービン銃52口径で、両脇にあるのが
レミントンのアーミーリボルバー44口径。
画面下はスペンサーカービンという7連装銃です。

ある南軍の兵士がこの銃についてこのように書き遺しています。

「7連装の悪魔の銃は朝から晩まで火を噴いて人を傷つけた」

銃の真ん中の写真の人物は、ペンシルバニア第4騎兵隊の

ジェームス・チャイルズ大佐 Colonel James H. Childs

1862年のアンティータムの戦いの際、部下と「気持ちよくおしゃべりをしている最中」、
彼の右腰から砲弾が命中し、彼は馬から投げ出されました。

自らの死を悟った彼は、苦しい息の下意識を失うまでの40分間で
最初に軍事任務を調整し、引き継ぎを行い、電話で家族に最後のメッセージを送り、
きっちり財産の処分まで指示し終わってからこと切れたということです。

大佐の亡骸はピッツバーグのアレゲニー墓地に埋葬されています。

ピッツバーグ騎兵隊の兵士。
銃を立てかけてサーベルを抜身で持っています。

中央の鞍は南北戦争前に騎兵隊の大尉が特注した
「通気孔付き」で、馬にも人にも快適なデザインだそうです。

このデザインはアメリカ陸軍の騎兵隊に採用されて、
1857年から1948年まで使われていましたが、
騎兵隊はその後廃止されて消滅しました。

手前の黄色い円にアレンジされているのは騎兵隊専用の鎧などです。

南北戦争の騎兵隊による突撃の様子。

次の展示コーナーは「南北戦争時代のピッツバーグ」。
センサーはケース右側に写っています。

当時の女性が着ていたギンガムチェックのロングドレスが目を引きます。
この頃は既成服が手に入った時代ではないので、ドレスは
自分で縫うかテーラーに縫ってもらうかしていたはずです。

画面下のミニ大砲はロッドマン砲。
今滞在している場所から歩いて10分のところにあった
フォートピット鋳鉄所で製造されていたタイプです。

ロッドマンガンは、南北戦争の少し前、火器士官であった

トーマス・ジェファーソン・ロッドマン (Thomas Jefferson Rodman)

がコロンビヤード砲を改良して作ったもので、大型の鋳造物としては
ひび割れその他の損傷を起こしにくいように、鉄を内外から均等に冷やして作り、
外形を滑らかな先細り("soda bottle"と呼ばれる形)に鋳造されました。

 

この風格のある犬は、「ドッグ・ジャック」Dog Jack。

ペンシルバニア第102砲兵隊のマスコットだった迷子のブルドッグです。
戦場で「一緒に戦い」、いつの間にかいなくなっていたそうですが、
このジャックが映画化されていました。

"Dog Jack" trailer

南部の綿花農場から逃げ出した奴隷の黒人少年が、北軍に加わり
かつての「マスター」に銃を向けて兵士となっていくBLMなストーリーをでっち上げ?
それにこじつけで犬を絡ませたという犬迷惑な話。(だと思います。観てませんが)

案の定映画サイトではこのように酷評されています。

あんまりに酷すぎて愛犬にはとても観せられません。
この映画にお金を払った人はみんな返してもらうべきです。
こんなものを観て時間とお金を無駄にしないでください。
第102ペンシルベニア連隊の犬の実話に基づいているといいつつ、
映画製作者は英雄としての彼(犬)の名誉に泥を塗っています。

そこまでいうか・・・。

1862年当時の「キャンプ・ハウ」(Howe)。
現在ここはシェンリー・パークといって、わたしがピッツバーグ滞在時
毎日のように歩きにいく公園になっています。

ジョン・ロジャース作
「誓いを行い食糧の配給を受ける」
"Taking Oath and Drawing Rations"

石膏で彫刻され、砂色に塗られたこれらの小像は、ロジャースの有名な
南北戦争シリーズからのもので、「ロジャースグループ」として大量生産され、
通信販売で全国に販売されました。   この像が表しているのは、

「飢えに強いられた小さな男の子を持つ南部の女性が、
配給を受け取るために北軍将校に忠誠の誓いを行なっている」

そしてこのテーマとは、南軍が敗北したあとの南部人のジレンマに対する
同情、そして共感といったところでしょうか。

 

この「配給量食の誓い」についてまず説明しておきましょう。

南北戦争がコンフェデレート軍の敗北に終わり、南部が連邦軍の管轄下に入った後は、
南部に住む人々は、まず米国憲法と奴隷制度の廃止への忠誠を誓い、
初めて食糧配給を受ける資格を得ることができました。

つまり負けた側の人々は、民衆であっても北軍の軍門に降ると誓わされたわけで、
これを拒否すれば飢えて死ぬしかないという状態に置かれたのです。

かつて奴隷を持ち、裕福な暮らしをしていたこの南部の女性は、
敗戦後、食料を受け取るための誓いをいまや行わんとしています。

彼女の右手は北軍の将校が宣誓を行うために持った聖書に乗っていますが、
その視線は自分のドレスのスカートに隠れている男の子に向けられており、
彼女の決心が自分のためでなく我が子を飢えさせないためだったことを表しています。   宣誓を執行する将校の前の樽の隣に立って食料の入っているバスケットに
肘をついて女性を眺めている黒人少年は、かつての彼女の使用人でした。
  正確には、黒人少年にとって彼女はかつての主人の愛人という設定です。
敗戦によって彼女は奴隷だけでなく、庇護してくれるパトロンも失ったのです。   製作者のロジャースは、南部の女性が彼女の飢えた家族の食糧を確保するために
かつての敵に忠誠の誓約をするときの様子を、   「まるで裁判にかけられたマリー・アントワネットのような」   と評しています。   しかしながら富から貧困へと転落するこの瞬間も彼女は決して卑屈ではなく、
北軍の将校はそんな彼女に敬意を払って帽子を脱いでいます。     南北戦争後、ユニオン(北)軍は援助と引き換えにこのように宣誓を求め、
同時に旅行、政治的役職、物品の購入、または私有財産を保証しました。   Random Thoughts on History:
バスケットの黒人少年はごく最近解放された奴隷で、裸足にボロボロの服、
肩から落ちそうなシャツは彼の貧困がずっと前に始まったことを示唆しています。   彼は不可解な表情で愛人をじっと見ています。     戦後、北軍だったアメリカ人は今まで戦っていた相手と再会するということになり、
かつての敵に対する罰や寛容性が国の進路をどのように導くかを踏まえつつ、
感情的な問題にいかに対処していくかという困難に直面することになりました。   アブラハム・リンカーンは、2回目の就任式で、   「悪意を持たず容認することがこれからの国家にとって何よりも肝要である」   と演説し、それをうけてロジャースは、
南部の尊厳をそのまま尊重する北部の寛大さをこの彫像に表したのです。   彼のこの彫刻は南北どちらの人々にも人気がありました。
  多くの元北軍側の人々は、将校の騎士道的な女性への立ち居振る舞いを称賛し、
元南軍側の人々は、この場面を誇り高い南部の女性への賛辞と考えたからです。   黒人の少年については様々な解釈が生まれました。
ほとんどの人々は、彼が自分の目撃したものの重要性をまだ理解していない、
と感じ、ある執筆者は「少年は愛人の状況の変化に感謝している」と見ました。   もっとも皮肉な見方をする人によると、
「苦い薬を飲み込んでいる間、彼女がどんな顔をするか
真剣に見届けてやろうとしている」
ということになるのですが。
つまり、黒人少年の内心の復讐心をその表情に見たということでしょうか。  

ジェームズ・シューメイカー大佐 
Colonel J.M. Schoomaker (1842- 1927)

南北戦争では連合軍の大佐を務めた人物ですが、戦後
ピッツバーグに最初に鉄道を敷いた会社の副社長となりました。

南北戦争が始まった時ペンシルベニア西部大学(現在のピッツバーグ大)
の学生だったシューメイカーは、13カ月間指揮官として北軍を率い、
その間何度もめざましい戦果を挙げ、叙勲されています。

ピッツバーグに生まれ、ピッツバーグのために戦い、そして
ピッツバーグのために鉄道敷設に余生を費やし、そして
現在はピッツバーグのホームウッドにある墓地で永遠の眠りについています。

 

続く。

 

 


"Sic semper tyrannis"リンカーン暗殺〜ソルジャーズ&セイラーズメモリアルとミュージアム

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ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」、
SSMMの南北戦争の展示には、冒頭写真のリンカーンのデスマスクがあります。

南北戦争の時代にだけ存在した「古残兵部隊」についてご紹介した時、
リンカーン大統領の暗殺者とされる女性を含む4名を処刑したときに
執行をおこなったのは傷病兵から成るこの部隊から派遣された4名だった、
という話をしましたが、今日はリンカーン暗殺そのものを取り上げます。

 

主犯・ジョン・ウィルクス・ブース

1865年4月14日の夕方、有名な俳優で南軍に共感するジョン・ウィルクス・ブースが
ワシントンDCのフォード劇場でエイブラハム・リンカーン大統領を暗殺しました。

ブースは有名な俳優の家に生まれ、自分自身もシェイクスピア作
「リチャード三世」などの舞台を経験しています。

南軍に共感していたにもかかわらず、ブースは南北戦争の間北にいて、
俳優としてのキャリアを追求しました。
そして戦争が最終段階に入ったとき、彼と数人の仲間は大統領を誘拐し、
南軍の首都リッチモンドに連れて行く計画を立てたのです。

しかし計画決行の日にリンカーンは待っていた場所に現れず失敗。
2週間後、リッチモンドは陥落し、ロバート・リー将軍は降伏しました。

ブースはこれに諦めがつかず、南軍を救うための「計画」を思いついたのです。

フォーズシアターのリンカーン

4月14日にワシントン DCのフォード劇場で行われる演劇「我がアメリカのいとこ」を
リンカーン大統領が観覧することを知ったブースは、暗殺計画を首謀しました。

彼と共謀者たちは、リンカーン、副大統領のアンドリュー・ジョンソン、
国務長官のウィリアム・スワード、つまり大統領と彼の後継者の2人を
同時に暗殺すれば米国政府を混乱に陥らせると考えたのです。

リンカーンは開始時刻に遅れてここにある写真のロッキングチェアに座って
途中から鑑賞しましたが、上機嫌で、このコメディ上演中に笑い、
心から楽しんでいるように見えました。

この椅子はリンカーンが暗殺された劇場の同型の別の椅子で、
本物は別の博物館に展示されていますが、よく見ると血痕が確認できるそうです。

リンカーンと一緒にステージの上のプライベートボックスで鑑賞していたのは
メアリー・トッド・リンカーンとヘンリー・ラスボーンという若き陸軍将校、
そしてラスボーンの婚約者で上院議員のイラ・ハリスの娘であるクララでした。

リンカーン暗殺

Lincoln's Assassination | Fords Theatre

10時15分、ブースはリンカーンのいるボックスに滑り込み、
44口径の単発デリンジャー銃をリンカーンの後頭部に発射しました。

同型の椅子の座部には、このときと同じ銃が置いてあります。

すぐに彼に向かって飛びかかろうとしたラスボーンの肩をナイフで突き、
ブースは観覧席からステージに飛び降りて、

「”Sic Semper tyrannis!」(シック・センパー・ティラニス)

と叫びました。
これはいかにも彼が現役の役者であることの「本領発揮」でした。

「ジュリアス・シーザー」にはブルータスのセリフとして
シーザーを倒した後、この言葉が使われました。

このラテン語は、英語ならば"thus always to tyrants "、
「暴君は常にこのようになる」という感じでしょうか。

この劇中写真でそのセリフを言われている左のシーザーを演じているのが
他ならないジョン・ウィルクス・ブースです。


いきなり舞台に飛び降りてきた男がラテン語を叫んだので、
当初、観客は展開中のドラマの一部と解釈していましたが、
バルコニーから響き渡るファーストレディーからの悲鳴から
確実に何か事件であることを皆が察した時には、
ブースは劇場を抜け出した後でした。

彼は舞台に飛び降りたとき足を骨折したのですが、なんとか
馬に乗ってワシントンから脱出していたのです。

観客の中にチャールズ・リールという23歳の医者がいて、発砲音と
リンカーン夫人の悲鳴を聞くやいなやボックスに駆けつけたところ、
大統領は椅子にぐったりとくずれおちて体を麻痺させ、
すでに呼吸困難の状態に陥っていました。

数人の兵士が大統領を通りの向かいの下宿に運び、ベッドに横たえました。
軍医が下宿に呼ばれましたが、もう手の施しようがないと結論づけました。 リンカーンの死と剖検

アンドリュー・ジョンソン副大統領と彼の親しい友人の何人かは、
下院の大統領のベッドサイドのそばで待機していました。
ファーストレディーは大統領の隣の部屋のベッドに横になり、
長男のロバート・トッド・リンカーンが付き添っていました。

銃撃事件の翌日の朝1865年4月15日午前7時22分、
リンカーン大統領は56歳で死んだと宣告されました。

大統領の遺体は一時的な棺桶に入れられ、旗が掛けられ、
武装した騎兵隊によってホワイトハウスまで護衛されて運ばれたのち、
外科医は徹底的な剖検を行いました。

検死の際、メアリー・リンカーンは外科医に、
夫の髪の毛の束を切り取ってもらうよう要求するメモを渡しています。

陸軍の外科医であるエドワード・カーティスは、検死の過程で
死体の脳を除去した際、脳を収める金属の皿に弾丸が
ガチャンと音を立てて落ちたと証言しました。

彼によると医療チームは一様に弾丸から目を逸らしたそうです。

国家による追悼

大統領の死のニュースはすぐに伝わり、その日のうちに
おそらくアメリカ全土が半旗を掲揚し、企業や店舗は閉鎖され、
南北戦争の終結に喜んでいた人々は衝撃と悲しみに見舞われました。

4月18日、リンカーンの遺体は国会議事堂に運ばれ、安置台に乗せられました。
3日後、遺体は彼が大統領になる前に住んでいた
イリノイ州のスプリングフィールドに列車で運ばれています。

数万人のアメリカ人が鉄道の路線脇に並び、遺体を乗せた列車を見送って
倒れた指導者に敬意を払いました。

リンカーン大統領は、1862年に腸チフスのためホワイトハウスで亡くなった息子、
ウィリアム・ウォレス(「ウィリー」)とともに葬られました。

ちなみにリンカーンの嫁のメアリー・トッド・リンカーンは憔悴しきっており、
何週間も床から離れず、葬式に出ることもできませんでした。

 

ここで悲しみに暮れる残された妻を酷評するのもなんですが、このメアリーというのが
経済観念がないうえ嫉妬深く、ヒステリー持ちの結構な悪妻で、

「リンカーンにとって、暗殺より結婚生活の方がずっと悲劇だった」

と言い切る伝記作家もいるというレベルだったのです。
おそらく夫婦仲も冷えていたのではと思われます。

リンカーン夫妻には4人の息子がいましたが、長男を除く3人が若くして死んでおり、
元々精神的に不安定なところがあった彼女は、夫の暗殺を目撃し、
さらに末の息子であるタッドを18歳で無くすと、ますます異常をきたしたため、
長男のロバートにより精神病院に入れられ、息子を恨みながら亡くなりました。


犯人の捜索

This 'Wanted' poster for the Lincoln assassination goes on display at  Harvard - The Boston Globe

ワシントンの戦争省の名前で出された「お尋ね者」の貼り紙には

「我らが敬愛する大統領アブラハム・リンカーンを
殺害した殺人者たちを逮捕したら、報奨金5万ドル、

市の当局または州の幹部から提供された報酬に加えて、
彼を逮捕した者には、加えて5000ドルの報酬が支払われます。

ジョン・ブースの一味であるジョン・スラットの逮捕に2500ドル、
デビッド・ハロルドの逮捕に同じく2500ドル」

報奨金が与えられると金額を強調しています。

ジョン・ウィルクス・ブースの捜索は、史上最大の人間狩りの1つであり、
10,000人の連邦軍、刑事、警察が当時暗殺者を追跡していました。

  ジョン・ウィルクス・ブースの捜索と逮捕

国民が嘆き悲しむなか、北軍はジョン・ウィルクス・ブースの大々的な捜索を
軍を挙げて行いました。

首都から逃げ出した後、彼と共犯者のデビッド・ヘロルドは
アナコスティア川を渡り、メリーランド州南部に向かっています。

ブースの骨折した足を治療するため、まず彼らは医者のサミュエル・マッドの家に立ち寄りました。
(マッドはこのため終身刑となっている)
その後、南軍のエージェント、トーマス・ジョーンズに保護を求め、
その後、ポトマック川を渡ってヴァージニアに向かうボートを確保しました。

4月26日、北軍はついにブースとヘロルドが隠れていた
バージニアの納屋を取り囲み、発砲しました。
ヘロルドは降伏しましたが、ブースはそのまま火のついた小屋に残り、
炎が激しさを増す中、北軍の軍曹がブースの首を撃ち、
ブースは重傷を負った状態で建物から運び出されました。

そして3時間後に亡くなる前、自分の手を見つめ、最後の言葉

“Useless, useless.”(無駄だった)

を発しました。

 

裁判

Adjusting the Ropes: Execution of the Lincoln Conspirators... July 7, 1865:  Adjusting the ropes before hangi ...

 

このときブースと共謀し国務長官を同時に襲ったルイス・パウエル、
ジョンソン大統領を襲撃をブースに命じられたジョージ・アツェロット、
デイヴィッド・ヘロルド、そして彼らのアジトとされた下宿の女将である
メアリー・スラットの4名は暗殺の罪で有罪判決を受け、
1865年7月7日に絞首刑に処されました。

処刑されたうちの一人の女性、メアリー・スラットは、宿屋を経営していて、
そこがブースらの「溜まり場」になっており、彼女は計画を知っていて
幇助したという罪に問われたのです。

彼女はリンカーンの暗殺については全く知る由もなく、自分は無罪であると
最後まで訴えたにもかかわらず、死刑判決を受けることになりました。

ブースの骨折を治療した医師が終身刑だったにもかかわらず、彼女が死刑になったのは
彼女の宿の下宿人だったルイス・ウェイクマン(ヴァイヒマン)という男が

「医師は彼らとは面識がなかった」

「彼女が暗殺グループのために武器を用意していた」

と証言したのが決め手となったようです。

下宿には何度も南軍のエージェントが出入りしており、現に彼女の酒場には
銃や弾薬が隠してあったこともわかっているので、彼女が「何も知らなかった」
というのはおそらく嘘であろうと思われるのですが、それにしても
実行犯と一緒に絞首刑になるほどの罪でしょうか。

ウェイクマンはメアリーの息子のジョン・スラットの友人でもあったのですが、
この証言については、彼が南軍政府でいい仕事をもらうために
北軍側の証言者という立場から内部情報を流していたのではないか、
という疑惑が裁判中から起こっていました。

しかし、それを証明する手立てがないままにスラットは有罪判決を受けます。
9人の裁判官のうち5名が、彼女が高齢の女性であることを理由に
大統領令で寛大さを求める判決を出したのですが、
アンドリュー・ジョンソン大統領はそれを行いませんでした。

のちにジョンソンは減刑についての嘆願は受けていないと言っています。
これが本当か自分の身を守るための嘘かはわかりません。

なぜならこれは世間の意見が女性に対する死刑に対して厳しくなってからの発言で、
「確かに嘆願を大統領に伝えた」という人の証言も存在するらしいので、
かれがこの件が新大統領の地位に影響があると判断し、保身を行った可能性が大です。

処刑

 

7月6日、メアリー・スラットは翌日に絞首刑にされると通知され、号泣しました。
収監生活で彼女の体調は悪化し、苦しんでいましたが、二人の司祭と
娘に付き添われ処刑までの時間を過ごす間も、無実を訴え続けていました。

執行日の朝、娘は最後にホワイトハウスに行き助命嘆願しますが、拒否されます。

 

写真では何人もが傘をさしていますが、この日の処刑場の気温は33°を越す猛烈な暑さでした。

  スラットと一緒に処刑台に上がったのはルイス・パウエルデビッド・ヘロルド
そしてジョージ・アッツェロド です。

処刑を見守っているのは政府高官、米軍のメンバー、被告人の友人や家族、
公式の目撃者、記者を含む1,000人以上でした。

執行前の判決を読む間、彼女は立っていることができず、
二人の兵士と司祭に体を支えられていました。

この場になって、パウエルが叫びました。

「スラットさんは無実です。彼女は私たちと一緒に死ぬに値しません」

パウエルは裁判でもスラットは無実であることを証言していました。

縄を首にかけている執行係に彼女が拘束具で腕が傷ついたというと、執行係は

 "Well, it won't hurt long." (まあ、もう少しで痛くなくなるよ)

と(実にアメリカ人らしい)軽口を叩きました。
彼女の最後の言葉は、

"Please don't let me fall." (突き落とさないで)

でした。

彼女は最後まで命乞いを続けていたのでしょうか。
それとも最後の瞬間くらい自分の意思で死への一歩を選択するという意味だったのでしょうか。

メアリー・スラットは連邦政府によって最初に処刑された女性になりました。

 

 

続く。

 

 

南北戦争のBlack Lives Matter〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

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ここピッツバーグのBLM、ブラックライブズマターについては、
デモなどを見ることはまずないのですが、空き地のフェンスに
これまで警官に命を奪われたとされるアフリカ系アメリカ人の名札を貼って
花が供えてあったり、必ずバイデンの名前とセットで庭に札を立てていたり
おそらく許可を得ていないような場所にデカデカと、

ペイントをする人がいたりして、まあそれなりに一部ムーブメントなんだな、
と感じるものはあります。

この文字の書かれた壁の上にかかる高速道路の橋脚には、
巨大な「犠牲者」の似顔絵がペイントされています。

BLM運動のきっかけになった男性の死亡事件が起こってから
そんなに経っていないのにもかかわらず、ここまでの大作を
一人で仕上げた人がいるわけですね。

大きな運動のきっかけとなったのは5月のジョージ・フロイドの死亡でしたが、
わたしは正直この人が麻薬の常習者で偽札を作っていた「札付き」ということもあり、
警察の対応に問題があったのは確かだけれど、フロイド氏を聖人化して
葬式で天使の輪っかに羽をつけた巨大な肖像画を作ったり、セレブが競うように
彼の遺児に莫大な金額に相当するプレゼントをしたりというのは、
なんだかちょっと違うんじゃないかという気がしたものです。

んがしかし、この絵のブレオナ・テイラーさんという女性の死は
あまりにも理不尽で掛け値なしに気の毒としかいいようがありません。

警察はすでに勾留中の麻薬の売人を検挙しようとして
彼女の家に深夜間違えて踏み込み、警察を不審者だと思った彼女のボーイフレンドが
銃を使ったのをきっかけに、テイラーさんに銃を発射。

彼女はおそらく何が起こったかわからないままに
8発の銃弾を体に受けてほぼ即死したといいます。

大学卒業後救急救命士としてルイビル大学病院に勤務していた
真面目な26歳の女性が、警察の「勘違い」で死亡したのでした。

ただし、警察は、彼女と対面する前に銃声が聞こえたため、
ドアを蹴破って突入し、ほとんど同時に銃を3人で22発撃ったため、
彼女が黒人であることも、女性であることも、銃撃と同時に知ったでしょう。

というか狙いだった麻薬の売人も黒人だったため、家を間違えていても
誰も気づかなかったというのが悲劇です。

彼女は厳密には「黒人だから殺された」のではなく、間違いであったわけですが、
踏み込んだ部屋の中にいたのが白人女性であれば警官はそれでも発砲したのか、
という疑問は当然湧いてきます。

この事件の続報として、ちょうどわたしが帰国してホテルで待機していたとき、
CNNで事件に関与した警官3人のうち2人は不起訴とする大審院の判決に対し、
 抗議運動参加者と警官隊と衝突したというニュースを繰り返し報じていました。

この騒乱で警官2人が銃撃を受けて重傷、銃撃を行った容疑者を含む
デモ参加者127人が逮捕されたそうです。

この騒乱でも銃撃されているのが警官であることからもわかるように、
警察がともすれば容疑者に対してオーバーキルになってしまう理由は、
逮捕の際に犯人に撃たれて殉職する警官が非常に多いからと聞きます。

実に不条理な死ですが、BLMは叫ばれても、OLM(オフィサーズライブズマター)
については決して社会問題になることはありません。

人種がどうのこうのの前に、アメリカを銃を持たない社会にしさえすれば
起きなかった事件ばかりではないの、と日本人としては思ったりするわけですが、
とはいえ、アフリカ系がアフリカ系ゆえに差別以前に命の危険に曝される、
という彼らの危機感は、彼らにしか実感できないものであるのも事実です。

そもそもアフリカ系が堂々と差別されていたのはつい最近までで、
人権が制度上改革されてからまだ100年も経っていないのです。

人心に巣食う差別心はまだまだ払拭できていないのが現実なのでしょう。

 

 

ところがそんな人間扱いされていなかったアフリカ系を軍隊に
登用することは、南北戦争時代から行われていました。

身も蓋もない言い方をすれば、死ぬことが前提の駒としての命は
国家にとって「多ければ多いほどいい」からだともいえます。

彼らの命は戦争を行う国家にとって「有効活用」すべきものでしたし、
そのためには奴隷のように無理やり引っ張っていくのではなく、
彼らに栄誉を与え、彼らの一部には部隊を率いる指揮官として
白人と同じ階級を与えるということもあえて戦略的に行ったのです。

SSMMの次のコーナーでは、南北戦争時代「黒人の命の問題」が
どのような形で扱われていたかを知るための資料が紹介されていました。

「アフリカ系アメリカ人と南北戦争」というコーナーです。

まず、冒頭写真は南北戦争のあとに組織されたアフリカ系からなる部隊、
第24歩兵連隊のポスターです。

第24歩兵連隊は南北戦争が終わった4年後の1869年から1951年まで、
そして再び1995年から2006年まで活動したアメリカ陸軍の部隊で、
1951年の最初の解散前は、主にアフリカ系アメリカ人の兵士で構成されていました。

連隊は、法制度としての人種差別がまだ存在しており、黒人部隊そのものが
「セカンドクラス」として扱われながら、国家に忠誠をつくし
国のために戦ったという点で特筆に値します。

第24歩兵連隊は、ここでも度々お話ししているアフリカ系兵士ばかりの部隊、
バッファロー連隊のひとつです。

南北戦争中に組織された

第38アメリカ(カラード)歩兵連隊(1866年7月24日制定)と
第41アメリカ(カラード)歩兵連隊(1866年7月27日制定)

から編成されました。
いずれも南北戦争のためにほぼ同じ時期に作られた部隊です。

ちなみに、南北戦争時代「カラード(色付き)部隊」と呼ばれる
黒人だけの部隊、連隊はこれだけたくさんありました。

南北戦争中のアメリカ合衆国カラード連隊リスト

このページをスクロールされた方はあまりにリストが長いので驚かれるでしょう。

戦後組織されたこの第24連帯のような黒人部隊に入隊した兵士は、
南北戦争の退役軍人か、あるいはフリードマンと呼ばれる
奴隷から解放された黒人たちのどちらかでした。

ちなみにフリードマンが多く住み着き、コロニーを結成したのはテキサス州です。

もう一人の人形は、おそらく

マーチン・R・ディレイニー少佐 Major Martin R. Delany(1812-1815)

のつもりだと思われます。
彼は南北戦争中に少佐まで昇進した初めてのアフリカ系アメリカ人でした。

奴隷制廃止論者、ジャーナリスト、医師、軍人そして作家、
おそらく彼は黒人ナショナリズムの最初の提唱者で
「アフリカ人のためのアフリカ」という汎アフリカ主義を掲げました。

ディレイニーは、ピッツバーグで白人医師のアシスタントとして医学を学びました。
彼はピッツバーグで3人の医師の元で研究を行いましたが、
彼らはいずれも奴隷廃止論者であったのは勿論です。

1833年と1854年、ピッツバーグでコレラが流行したとき、
多くの医師や住民が汚染の恐れから街を逃れたにもかかわらず、
街に止まって患者を治療し続けました。

37歳のとき、彼は医学部の受験を決心します。

17名もの医師の推薦状を持っていたのにもかかわらず、
ほとんどの大学は申請すらも受け付けようとしませんでしたが、
唯一それを受理し、入学を許可したのがハーバード大学でした。

このときハーバード医学部は彼を含む3名の黒人学生の入学を許しています。

ところが、授業が始まった翌月、白人の学生のグループが

「黒人の入学は我々が供与されるべき福祉や
医学の講義にとって非常に有害である」

という手紙を教授らに送り抗議をしたのです。
彼らの言い分は、

「黒人が教育を受けたり地位を得ることに対して異議はないが、
当大学で我々と一緒に行われることには反対である」

というものでした。
レイシストという言葉は当時はありませんが、要するに
我々はレイシストではないので差別はしないが、
どこか別のところに行ってくれというわけです。

 

3週間以内に、ディレイニーと他の2人の黒人の学生、
Daniel Laing、Jr.Isaac H. Snowdenは、多くの学生や医学校のスタッフが
学生であることを支持していたにもかかわらず退学になりました。

113名のうち27名の白人学生が

「彼らを入れるなら我々がやめる」

と脅迫したので学校側は屈してしまったのです。

医学大学で学ぶ夢を絶たれた彼はピッツバーグに戻りました。
彼は白人の支配階級はたとえ有能であっても有色人種に
社会のリーダーになることを許さないということを確信し、
彼の意見はより先鋭的に、ある意味極端になったと言われます。

Martin Robison Delany (before 1885).jpg

彼はその後奴隷制の実態をを直接観察するために南部を訪れ、
その後出版社を興して本を発行します。
そしてリベリアやカナダなどに在住していましたが、南北戦争が始まると
黒人部隊の編成のためにアメリカに戻りました。

そしてリンカーンのために戦う軍の入隊者を集め、最終的にその数は
北軍全体の10%に相当する17万9千人となりました。

1865年、ディレイニーはリンカーンに会って彼は
黒人将校に率いられた黒人兵による部隊

の設立を提案します。
前述のフレデリック・ダグラスが既に北軍に対し行っていた同様の訴えは
却下されていましたが、リンカーン本人がディレイニーを

「最も並外れたインテリジェントな男」

と評価したこともあって、彼は黒人として最初の指揮官となったのです。

第107カラード部隊の音楽隊。
軍隊における音楽隊の任務はある意味今より生活に密着しており、
重要な働きをしていたといえるかもしれません。

ここでちょっと和みネタを。

おじさんの足元にいるこのぬいぐるみの犬は、
前回登場した北軍のアイドル犬、「ドッグ・ジャック」のようです。

ドッグ・ジャックが寄りかかっているこの立派なおじさん、
残念ながら写真に写っていなかったのですが、おそらくこの人は
元奴隷で、奴隷廃止運動家、政治家にまでなった

フレデリック・ダグラス Frederick Douglass、1818−1895

ではないかと思われます。 
ダグラス(30代)

奴隷として生まれたダグラスの生涯の方向を決定づけたのは、
12歳のときに彼の女主人が見所があると思ったのか、こっそりと彼に
文字の読み書きを教えたことだったようです。

20歳ごろ(自分自身でも正確な生年月日を知らなかったという)
ニューヨークに逃げたのちは奴隷廃止運動に身を投じ、新聞を発行して
人権の平等を訴える活動を行いましたが、彼は急進的な、力で訴える方法には反対で
あくまでも言論で民心を動かしていこうとしていました。

彼の自叙伝「アメリカの奴隷」は、知性に劣るとされた黒人による著書としては
初めてベストセラーとなり、彼の名前は海外にまで有名になりました。

リンカーンや、リンカーン暗殺後はジョンソン大統領とも黒人参政権について協議し、
南北戦争後は奴隷解放救済銀行の総裁を務めています。

しかしながら、南北戦争で自らの血を犠牲にしていくら戦っても
自分たちを取り巻く環境にさほど向上がみられないと多くの感じた
多くのアフリカ系アメリカ人たちは失望し、白人と平等になるという夢を捨て、
白人のいない黒人だけの街を形成してそこで暮らすことでよしとするようになります。

これを見たダグラスは彼らに

「まだ諦めるな」

と説きましたが、理想と現実は違う、と自暴自棄的になった黒人たちに
お前は理想主義者だと非難され、その穏健的な方法が否定されることもありました。

 

南北戦争時代の陸軍駐屯地は、メンバーの個々の歴史が記録される本を保管していました。
ペンシルベニア州にあった15の「カラード部隊」駐屯地の1つである
ロバート・ショー大佐の大隊に保管されていたこの珍しい本には、
ピッツバーグのアフリカ系アメリカ人退役軍人の、
南北戦争サービスに関する貴重な情報が含まれています。

たとえば、ここに示されているのはMatthew Nesbittの身上書です。
ネスビット同志が自分の話を駐屯地の記録係に語りかけているとき、
それはほとんどの同志の身の上を代弁していたといってもいいかもしれません。

「わたしはジョージア州のゴードンカントリーで
ウィリアム・ネスビット氏の奴隷でした・・・・」

興味深いのは、奴隷から解放された後、彼がかつての主人(マスター)
の苗字をそのまま名乗っていたことです。

1898年にネスビットはピッツバーグで大工となり、その後陸軍入隊し、
戦後はこのSSMMの近くに結婚して居を構え、1910年に亡くなりました。


最後に、個人的に気になったこととして、ハーバードの医学部は
その後、有色人種の学生の入学を許可したのかどうかを調べてみました。

すると、リンカーンの奴隷解放宣言の署名が行われた後の1866年、
エドウィン・ハワードというアフリカ系の学生が入学し、
1869年に医学の学位を取得していたことがわかりました。

1888年にはフェルディナンド・オーガスタス・スチュアートが
医学部に在籍し卒業後医学博士となっています。


Harvard Medical Class of 1888

スチュアートの在籍したハーバード大医学部の卒業記念写真。
三列目のほぼ真ん中に、ネクタイ・ベスト着用で写っています。

この頃、ウェストポイントにも黒人の士官候補生が入学しています。

黒人が軍士官学校や名門大学医学部に入学するに至ったことは、
人種的平等をめぐる戦いにおいては重要なマイルストーンとなったのは確かですが、
クラスで唯一の黒人であった彼らは、学校という組織には受け入れられても、
人間関係の中では孤立、孤独、そして完全な拒絶に直面しなければなりませんでした。

 

それは決して彼らのすべての問題の解決策にはなり得ず、
世紀が変わった今日も、根本的に全く同じ根から発生する事件が
BLM運動が広がりを見せる発露そのものを生んでいるということもできるわけです。

 

 

続く。

 

ジョージ・ウェスティングハウス メモリアル:おまけ エジソンクズ案件〜アメリカ ピッツバーグ滞在

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ピッツバーグに縁ができ、時間が許す限り現地を歩いてきましたが、
やっぱり最初に発見したシェンリーパークは何度歩いても飽きません。

人工的な構造物はありますが、それらは前にもお伝えしたことがあるように
WPAという大恐慌のあとの失業者対策事業のころにできたものなので、
石積みだったりレンガが敷き詰められたりで実に風情があるのです。

これはまだ暑い頃に撮った写真です。
フラッグフィールドを周りの道沿いに一周し、丘を下るとそこには
ウェスティングハウス・メモリアルがあります。

ウェスティングハウスとは、あのアメリカの電機メーカーの創始者、

ジョージ・ウェスティングハウスJr.(George Westinghouse, Jr)1846−1914

のことです。

技術者にして実業家でもあったウェスティングハウスは、
電気産業を発展させた先駆者でありました。

メモリアルは、若き日のウェスティングハウスが、彼の全人生における
その発明を記した碑に向き合って立っているというデザインです。

恰幅のいいタキシード姿のおじさんが立っている銅像よりも、なにか
青雲の志みたいな、未来を信じることの大切さみたいな(適当)
そういうメッセージが感じられていいですよね。イケメンっぽいし。

 

ジョージ・ウェスティングハウスは、1846年、ニューヨークで生まれました。

父はマシンショップの経営者ジョージ・ウェスティングハウス・シニアで、
彼の正式な名前はGeorge Westinghouse Jr.だったのですが、彼は
父親の死後「Jr.」をなくしてしまいました。

彼の祖先はドイツのウエストファーレン出身で、ドイツでの名前は
「Westinghousen」つまりドイツ読みだと「ウェスティングハウゼン」となりますが、
移民してきた人の家名の常として英語風に「アレンジ」されています。

技術者として、そして実業家として名を残したウェスティングハウスは、
彼は若い頃から工学ととビジネスの方面に才能を発揮したそうですが、
その土台は父親の所有する工場で子供の頃から働いていたことで育まれています。

老けてませんか

15歳のときに南北戦争が勃発すると、止むに止まれずニューヨーク州兵に志願しました。
正式には志願は17歳からでしたが、その辺は適当だったようです。

軍隊という組織が水に合ったのか、彼は両親が懇願するまで除隊せず、
やっと帰ってきたと思ったら今度は渋る親を説得して
第16ニューヨーク騎兵隊に入隊、18歳で 陸軍を辞めたと思ったら
今度は海軍に加わり、南北戦争の終わりまで、士官として

USS Mascoota(マスクータ、砲艦 ガンボート)

の補助機関士を務めていました。

USS Muscoota.jpgUSS Maccosta

想像ですが、彼はこのときの機関室勤務で、自分が進むべき道と
自分の天才との相性の良さに気づいたのではなかったでしょうか。

彼の膨大な開発品の中には海上推進用の蒸気タービンがあります。

彼は67歳で死去したとき当初はブロンクスの墓地に埋葬されたのですが、
軍歴があったため、翌年棺をアーリントン国立墓地に移し、そこで眠っています。

 

さて、若きウェスティングハウスが熱狂した(らしい)戦争も終わりました。
退役した彼は、スケネクタディ(航空博物館のあったあそこ)の実家に帰り、
ユニオンカレッジに入学しますが、最初の学期を終えずに中退してしまいます。

同じ年に彼はすでに最初の発明となる回転式蒸気機関、そして
「ウェスティング・ファームエンジン」などを考案しているくらいですから、
そんな彼にとって教養大学の授業は児戯にも等しいものだったのでしょう。

21歳で彼は線路の引き込み線の分岐器(リバーシブル・フロッグ)、
また22歳で列車事故を目撃した彼は、即座にそのことから着想を得て
脱線した列車を元に戻すための装置をを発明しており、
このことからも早熟の天才ぶりがうかがえます。

 

 

さて、ニューヨーク生まれ、スケネクタディ育ちのウェスティングハウスの碑が
どうしてここにあるかっていう話なんですが、彼がマルグリット・ウォーカーと結婚後、
ピッツバーグに居を構え、工場を経営して住んでいたという縁によるものです。

彼らが住んでいたところは彼らが退去後荒廃していましたが、
ピッツバーグ市が買い取って現在「ウェスティングパーク」という公園です。

石柱はかつての邸宅の名残でしょう。

Drink It In: The Best Place to Get Drunk on Pittsburgh's History |  Pittsburgh Magazine新婚当初のウェスティングハウス夫妻

ウェスティングハウスは経営者としても才能の塊のような人物でした。
彼の会社は、

1日9時間労働
週通算55時間労働
土曜日は半日労働
労働者に女性を採用

とその後の労働体制の基本となったこれらのことを
初めて取り入れたアメリカの会社となりました。

シェンリー公園にはリリーポンドという可愛らしい名前の池があり、
ここが碑の設置する場所に選ばれました。

坂道の上は現在広大なゴルフ場になっています。
もちろんアメリカのゴルフ場なので柵などありません。

モニュメントの設計俯瞰図。

ウェスティングハウス・モニュメントが完成したのは 1930年、
会社の従業員がお金を出し合ったそうです。

モニュメント全体の主任設計者であるヘンリー・ホーンボステル(左)。
出来上がったばかりの碑の前で。

モニュメントの設計はカーネギーメロン工科大学(当時)の教授で
ノルウェー系アメリカ人のポール・フィヨルドが手掛けました。

しかし落成から100年という年月の間にモニュメントは劣化し、
途中で洪水などもあったため、現地は一時荒廃していました。

ウェスティングハウス財団とメロン財団、そして市が共同で
この部分の大々的なレストアを行い、現在の姿になっています。

地面の敷石はそのときにあらたに設置されたものだということです。

落成当時より周りをあふれるばかりの緑が覆い、よりいい感じに。

若き日のウェスティングハウスが向かう半円形のスクリーンには
かれの業績がレリーフとともに並べられています。

「幹線鉄道の操作が初めて高圧電気に置き換えられる」

「省スペースでハイパワーと素晴らしい低コストによる蒸気タービンは、
普遍的な電力の基本的な供給源になりました」

「ナイアガラの滝のエネルギーを電気に変換する
最初の大きな電力システムは産業帝国を築くことに寄与しました」

「1893年にシカゴで行われたコロンビア万国博覧会では、
安全なACシステムが供給できるという史上初のデモをおこないました」

「ウェスティング・エアブレーキは世界中の鉄道輸送の速度の
安全性と経済性を計り知れないほど高めました」

「安全なスピードでの輸送を可能にした最新の信号システムは、
ウェスティングハウスの先見性の賜物でした」

ジョージ・ウェスティングハウス

北軍兵士
ピッツバーグ市民
ウェスティングハウス創始者
その発明と労働によって人類に恩恵をもたらした人

1846−1914

このメモリアルは、産業という軍隊で彼と一緒に働いた
ウェスティングハウス記念協会の54251人のメンバーによって建てられました

ウェスティングハウスの発明の恩恵を受けた人々の代表である
労働者とビジネスマン二人の後ろ姿も裏に回ると見ることができます。

石碑に金で彫り込まれたウェスティングエアブレーキの展開図。

ところで、ウェスティングハウスといえばトーマス・エジソンとの葛藤が有名ですが、
どうもこれ、読めば読むほど日本では「発明王」として偉人化されているエジソンが
実は偉人どころか悪人じゃないかという気がしてきます。

彼らはウェスティングハウスの交流送電システム、エジソンの直流送電システムで
電流戦争と呼ばれる戦いを繰り広げました。

エジソン「高電圧システムは危険だ」

ウェスティングハウス「いや、管理可能なものであり、利点が多い」

エジソン「よし政治家に働きかけて送電電圧を800 Vに制限する法案を成立させたる!」

→失敗

エジソン「くそっ、こうなったらあいつの理論のイメージそのものを落としたる」

→交流電流で象を公開処刑する実験をおこなう

エジソン「ウェスティングハウスの理論では象ですらこの通り、
人ならもっと簡単に死にますから、処刑に利用するのがいいでしょうな」

→初めて電気椅子を使って人間が処刑される

エジソン「電気椅子の処刑は採用させたぞ。
電気椅子による処刑を『ウェスティングハウスする』 (Westinghousing)
と呼ばせるように扇動してやれ」

ウェスティングハウス「なんて残酷で異常な処刑法なんだ!
失敗した上8分間も処刑者を苦しめるなんて許せん!訴える」

→「コール・ウェスティングハウジング」作戦失敗

→ついでに交流送電システムの信用を傷つけることにも失敗

エジソン・ゼネラル・エレクトリックを吸収合併したゼネラルエレクトリックが
交流用の設備の生産を開始することを決定し、エジソン完敗

この経緯について電気椅子と象さんの処刑シーンを含む
説明映像がありましたのでよろしければ色々覚悟の上ご覧ください。

象だけでなく犬などの動物も実験で処刑したということですが、
今なら動物愛護団体がだまってませんわ。

Westinghouse - Chapter 16 - Battle of the Currents

しかし、エジソン、あのニコラ・テスラにも酷いことしてますよね。

直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、
褒賞として5万ドル払うと提案しておいて、テスラが成功させると
交流を認めたくないがあまり「冗談だった」といって支払いをせず、
テスラは激怒して退社し、ウェスティングハウスのところに行ったとか。

このおっさんどう控えめに言ってもクズです。

どうして日本ではウェスティングハウスとテスラよりエジソンが有名だったのか、
誰か理由をご存知の方いますか?

 

 

 

”空の騎士” 第一次世界大戦の航空映画〜スミソニアン航空博物館

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今日は久しぶりにスミソニアン博物館の展示から、第一次大戦時の
「空のヒーロー」、レッドバロンと当時の文化についてお話しします。

レジェンド、メモリー、そして グレートウォー・イン・ジ・エア

と名付けられたセクションに入っていくことにします。
このギャラリーのテーマは第一次世界大戦の航空機。

World War I Aviation

という英語の後は、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、
そして日本語の記述があります。

スペイン語やましてや中国語での記述がないのは、
世界大戦に航空機を創造し、参加した国限定なのでしょう。

ギャラリーの入り口にある解説はこのようなものです。

 

70年以上もの間、航空機にとって最初の戦争というのは
偉大でロマンチックな冒険として記憶されてきました。

そして多くのファクターがこの認識に貢献しています。

戦争中のジャーナリズムと政府のプロパガンダは、軍用機搭乗員を
あたかも勇敢な「空の騎士」(Knight of the air")のような
イメージを創造し続けてきましたし、さらに重要なことは
1930年代の「空心(そらごころ)」溢れたハリウッド映画や大衆文学は
そのイメージを普及し後世に残す中心的な役割を負い続けたことです。

しばしば航空戦の残酷な現実はロマンティシズムという劇薬によって
和らげられ、作家や脚本家はこぞって第一次世界大戦の航空を
魅力的な記憶に書き換えたのです。

こんにち、それらのイメージはいまだに一般大衆に人気がありますが、
空の戦争の現実については、その真実を知る機会は10年、また10年と
時が流れるにつれて、少なくなっていくというのもまた事実です。

ここでいきなり目を引くのはこんなコーナーです。
以前、当ブログ「ソッピースキャメルに乗る犬」という項で、
この犬のキャラクターについてご紹介したわけですが、
ここでは、犬小屋に乗って

「CURSE YOU, RED BARON!」
(くたばれ、レッドバロン!)

と叫んでいる例のキャラクターなど、一見子供用の
第一次世界大戦航空にまつわるグッズが集められています。

この犬はいつもソッピースキャメルに乗って、フォッカー IIの
「レッドバロン」と戦うことを夢想しているわけですが、
決して本当に戦うことはなく、本当にただ空想しているだけです。

今は懐かしいLPレコードに描かれているのは
「スヌーピーと戦っているレッドバロン」のようですね。
いつも夢想していたレッドバロンとの空戦がついに実現したのでしょうか。

「人生ゲーム」のようなボードゲームの空戦版。
カードを引いて指示に従うというのも人生ゲームと同じ。

ちなみに人生ゲーム(The Game of Life)はアメリカ生まれで、
1860年にはこの原型があったといいますから、
1930年代に同じようなシステムのゲームがあっても不思議ではありません。

ランチボックスにプリントされた漫画は、まず犬が
右向きに犬小屋に乗り、

「彼は第一次世界大戦のエースで、今
ソッピースキャメルに乗って空を駆けている・・」

「最も深刻な緊急の事態しか彼を任務から引き返させることはできない」

子供「夕ご飯だよー!」

(犬、それを聞くなり左向きに)

右の写真は前列前で脚を組んで座っているのがレッドバロン、
マンフレード・リヒトホーヘン男爵とすぐわかります。
主役のオーラというのか、なぜか一人だけコートの色が違うんですね。
あ、それは彼がただ一人の士官だからなのか。

左側はリヒトホーヘンを主役にした漫画のようです。
超拡大したので内容までは読めませんが、英語なんですよね。

アメリカも一応ドイツとは敵国だったと思うのですが・・・。

上はこれも子供用ゲームで「スヌーP vs レッドバロン」。
下の絵本はその題もストレートに「ソッピースキャメル」。
ラクダが飛行機の尾翼をつけ、胴にRAFのマークをつけています。

赤に鉄十字というだけで誰でも「レッドバロン」と思い浮かんでしまいます。
よく考えたらこれってすごいことですよね。
で、さっきの説明によると、彼をこれだけ有名にしたのは、当時の映画やメディア、
ジャーナリズムであったと・・・・・・。

ハンサムな若いドイツ貴族の戦闘機エース、というだけで、
当時の創作者たちにはたまらない逸材だったということでしょう。
また、大衆もそのイメージをこよなく愛したのです。

鉄十字の真ん中にあるのが

「レッドバロン」というレストランのメニュー

その下

レッドバロンの横顔をあしらったデザインのシャツ?

フォッカー をあしらったビアマグ

レッドバロンブランドのピザ(ペパロニ)

映画、ドキュメンタリー、そして赤いフォッカー の模型。

左の赤い部分にあるのが

「大衆化された伝説」

右には

「オリジナルの伝説」

とあります。
右側に書いてあることを翻訳しておきましょう。

1918年4月21日、マンフレート・フォン・リヒトホーヘンが亡くなった時、
彼はすでにレジェンドとなっていました。
多くの人々が、彼がドラマチックな空中でのドッグファイトの末、
80機という撃墜記録を挙げたということを知っていたのです。

事実、彼はしばしばステルス&サプライズ戦法によって
瞬く間に敵機を落としました。

彼が亡くなったのは赤いフォッカー Dr.I 三葉機のコクピットだったので、
彼がこの航空機でほとんどの勝利を収めたと考えられていましたが、
彼が最も多く撃墜記録をあげたのは他の戦闘機です。

戦争中、ドイツ政府はフォン・リヒトホーヘンを国家の英雄に仕立て、
それを「悪用」していたといってもいいのですが、彼が空戦で死んだことで
彼は、同国人はもちろん、敵の心にまで同様に、神話を残したのです。

フォン・リヒトホーヘン記念メダリオン。

それでは左側の部分です。

「彼は正々堂々と、全力を尽くして戦い、相手を撃墜し、
そして相手が強敵であればあるほど、自分のためにそれを歓迎した」

The Red Knight of Germany, 1927

「ドイツの赤い騎士」というこの小説?の作者はフロイド・ギボンズ。
イギリス人かアメリカ人かはわかりませんが、英語です。

ベストセラーになったマンフレート・フォン・リヒトホーヘン本で、
リヒトホーヘンを今日のヒーローとしてその人生を
ロマンチックな伝説風味で書き上げたものです。

公式な記録を元にしているというものの、ギボンズはかなり事実を
フィクショナライズし誇張して創作してしまっています。

1920年代から30年代にかけて、あまりにも多くの若い人が
レッドバロンについてこの本に書かれていることをうのみにし、
それだけならともかく、航空機で行われる戦争というものについて、
この「小説」に書かれた誇張を信じこんでしまったということがありました。

うーん・・・我が国にも全く同じようなエース本があったような記憶が。

戦後の日本で誇張した英雄譚仕立ての戦記があっても、
それはせいぜい「零戦ブーム」なるものを作ったくらいでしたが、
当時はこれを読んでレッドバロンに憧れ、空戦をやってみたくて
航空隊に入るという若者もたくさんいたのに違いありません。

彼らは程なく空戦の真実というものを知ることになったでしょう。

このギャラリーには、フォッカー の三葉機ではありませんが、
鉄十字をつけたドイツ軍の戦闘機が展示されています。
(この機体の話はのちほど)

そして、ここはあたかもアメリカのどこかの街であるかのような外灯と、
映画館のネオンが照らすタイトルが

「ハリウッドの空の騎士 主演 ダグラス・フェアバンクスJr.」

本当にそんな映画があったのか検索してみましたが、
彼のバイオグラフィにはそういう映画は登場しません。

 

リチャード・バーテルメスという俳優の「暁の偵察」ポスターです。
ポスターを見ると、ダグラス・フェアバンクスJr.も出ています。

The Dawn Patrol (1930) - Feature Clip

「レッドナイト」がよっぽどウケたのか、二つの大戦の間、
ハリウッドはやたらと「空の騎士」ものを制作しています。

これらの映画に描かれた飛行士のロマンチックなイメージは
非常に持続的であり、今日まで空中での戦争に対する
わたしたちの認識をかたち作るのに役立ってきたといえます。

「ドイツの赤い騎士」などを読んで航空ファンになってしまった人、
 「ヒコーキオタクの部屋」1935年版が再現されていました。

1920年代から30年代にかけて、第一次世界大戦の航空機というのは
大変人気のあるカルチャーで、マガジンやコミック、新聞などで
栄光の空中戦が取り上げられました。

航空マニアは熱心にストーリーを読み漁り、ラジオドラマを聴き、
空戦を描いた映画を観に行き、果ては飛行機模型を・・・・

あれ?こんな人今でも普通にいるなあ。

このギャラリーの手厳しいところは、こういったマニア連中は
その結果、

「空戦が実際にどのようなものであるかについて、
歪んだ見方をすることになった」

と切って捨てているところでしょう(笑)

一方、この大衆文化の多くは戦闘機パイロットになることができる
(その資格を持つ)若い白人男性を対象としたものでしたが、
そこにとどまらずより広くアピールする魅力があったのも事実です。

女性やアフリカ系アメリカ人にも航空マニアとなる人は多く、
(彼らはミリタリーパイロットになることを禁じられていた)
彼らもまた大衆文化の中のロマンチックな空の戦争に心を奪われたのです。

彼ら彼女らのほとんどが、白人男性と全く変わらない経緯で、
航空マニアになっていきました。
つまり、熱心に航空雑誌を読み、模型を作り、映画を見るというように。

この映画は有名なのでご存知の方も多いかもしれません。

「地獄の天使」Hell's Angels 1930

は、「飛行機オタク」ハワード・ヒューズが監督を務めたパイロットものです。
(ところでヒューズの綴りってHUGHESだったんですね。今知った)

わたしも観たことがないのでwikiからあらすじを抜粋すると以下の通り。

オックスフォードの学友、ドイツ人留学生のカールと、
ラトリッジ兄弟のロイとモンテの3人と戦争を描いた物語である。

兄、ロイは遊び慣れしたヘレンを貞潔な女性と思い込んでいるほどの硬い男で、
一方、弟、モンテは節操の無い享楽主義者だった。

第一次大戦が始まると、兄弟はともにイギリス陸軍航空隊に入った。
ドイツ空軍に招集されたカールは、ツェッペリン飛行船でロンドン爆撃を命ぜられるが、
イギリスへの愛を断ち切れず爆弾を全部池の中に投下する。
(インターミッションはチャイコフスキーの交響曲第5番第2楽章)

兄弟は修理したドイツ軍の墜落機で敵軍になりすまし
敵の弾薬庫を爆撃する作戦に志願し、出撃。
爆撃は成功するが、2人は撃墜されて捕えられた。

助命の代わりに英軍の作戦行動の機密を売れと脅迫され、
弟モンテは死への恐怖から話す決心をするが、それを知ったロイは
情報提供の代わりに拳銃を要求し、その銃でモンテを撃ち、
自らも祖国を裏切ることを拒んで、銃殺場へと連れられて行く。

ジーン・ハーロウ演じる「悪い女」がやたらクローズアップされていますが、
彼女はどうやらパイロットの物語に色を添えるだけのキャスティングだった模様。

筋全く関係なしの過剰サービス画像

撮影には87機の第一次世界大戦当時の英仏独蘭の戦闘機や爆撃機を購入し、
実際に飛行させており、当時としては破格の製作費をかけた超大作で、
この映画の撮影中の事故で3人のパイロットが死亡しているそうです。

(ただでさえ飛行機の安全性には問題のあった時代ですからね)

映画「アビエイター」でディカプリオが演じていましたが、このとき
ハワード・ヒューズ自身も飛行し墜落、眼窩前頭皮質を損傷する負傷を負い、
この怪我が後の奇行の原因になったといわれているそうです。

ところで、冒頭写真の正体ですが、この白黒写真と同じものです。

プファルツPfalz D.XII

「ハリウッドエースのための戦闘機」という説明があります。

このドイツ機プファルツD.XII戦闘機は、ハリウッドの航空映画で長年使用され、
本物の戦争期間よりずっと長い間第一線に就いていました。

1930年代、これらの映画は空中戦というものを形作り、
WW1パイロットのイメージを騎士道精神溢れた
「ナイト・イン・ジ・エア」として永続させるのに役立ちました。

上記の「暁の偵察」でもこのプファルツD.XIIはその赤の色彩、
胴体に描かれた髑髏のマークと鉄十字で映画の虚構を彩っています。

映画ではスタント「エース」だったフォン・リヒターなる人物が
ステレオタイプの恐ろしいドイツ人としてこれを操縦しました。

実際のプファルツが西部戦線に登場したのは1918年です。
第一次世界大戦後は賠償として連合国に多くが接収されました。

「暁の偵察」で使用された機体は、まさにこの時に取得したもので、
ハワード・ヒューズは同じ機体を「地獄の天使」にも登場させました。

その後、この「ハリウッド戦闘機」はパラマウントが取得し、
1938年度作品の「Men With Wings」にも登場しました。

Menwithwings1938.jpg

スミソニアンでは、この機体を使った映画が会場で流されていました。

 

続く。

”西部戦線異常なし” 第一次世界大戦〜スミソニアン博物館

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スミソニアン博物館の展示から、前回は第一次世界大戦に登場した
航空機という新兵器とその搭乗員について、映画や小説を中心足したメディアが
そのイメージを作り上げ、世間が喝采したということをお話ししました。

スミソニアンが、第一次世界大戦の航空について華やかなイメージを
導入部で強調したのは、創造されたパイロットの英雄的なストーリーと
そのワクワクする冒険に心ときめかした彼らは、じつのところ
航空戦の酷い現実などをわかっていなかった、といいたかったようです。

ハリウッドで敵戦闘機役を演じたプファルツと、映画館の入り口のような
掲示板で飾られたコーナーを抜けると、いきなり観覧者は、
こんな写真にお出迎えされて、冷水を浴びせられた気分になるのです。

そう、第一次世界大戦の「塹壕戦の実態」ですね。
ご丁寧その一帯はあたかも塹壕の中にいるような木の枠組みで飾られて。

写真では塹壕が崩れた状態になっているので、
おそらく大攻勢が発動され、敵が陣地戦を破って攻撃してきた跡でしょう。

このころは中国本土からと思われる旅行者の姿も多く見ました。
現在ではもちろんスミソニアンは休館しています。

第一次世界大戦は「塹壕戦」から解説が始まります。

「塹壕での生活」として、

雨が降り、悪臭を放つ泥はさらに酷く黄色くなり、砲弾跡は
緑がかった白い水で満たされ、道路と線路は何インチもの粘液で覆われ、
黒い枯れ木がにじみ出るように汗をかき、砲弾がやってきます。

それらはただ頭上に飛んできて腐った木の切り株を引き裂き、
板の道を壊し、馬とラバを打ち倒し、消滅させ、混乱させ、破壊させ、
そして彼らはみなこぞってこの地の墓に突入してゆくのです...
それは言葉にできない、神も不在の、絶望的な状態です。

イギリスのシュルレアリスム系画家、

ポール・ナッシュ Paul Nash 1889ー1946

が自宅に送った手紙の一節です。

Spring in the Trenches, Ridge Wood, 1917 (1918)

ナッシュは帰還後、戦争と塹壕の自己体験を描きました。

「ワイヤ」1919年

 

1916年、ベルギーでイギリス軍がレーションの食事を取っているところ。

大戦初期から塹壕陣地全体は複数の並行する塹壕線で構成され、
それぞれが連絡壕でつながっていて、警戒用歩哨処、攻撃用砲座などを中心に
将兵が起居する宿舎、便所、救護所など、支援施設が備わっていました。

イギリス軍の塹壕は前方、戦闘区域、後方区域と
三列の塹壕で成り立っていることが多かったようです。

1916年撮影、歩哨に立つフランス軍兵士。
膠着した塹壕戦では歩哨がすこしでも頭を出すと
狙撃兵に狙われるため、体を乗り出さなくても射撃できるように
潜望鏡付きの小銃も開発されましたが、
鏡が一枚だと左右が反対に見えるので狙いがつけにくく、
実用性には乏しいものでした。

1918年、フランス戦線でシラミ退治をするアメリカ兵。

地味に戦闘以外の消耗は兵士の心身を蝕みました。
スペイン風邪が流行っていたこともありますし、コレラ、チフス、
塹壕足(トレンチフット)と呼ばれる凍傷と細菌感染症のダブルパンチなど。

もちろん精神をやられる者は多く、「シェルショック」などと呼ばれました。

ビデオのモニターも、土嚢を積んだ塹壕の壁?にセットしてムード満点です。

"All Quiet On The Western Front"

これがレマルクの「西部戦線異常なし」という小説の英語タイトルです。

主人公の青年が、塹壕から蝶に手を伸ばして狙撃手に殺された日、
最前線の戦況に何の変化もないことから、

「西部戦線異常なし」

と塹壕基地司令が記した報告書の一文が小説のタイトルにされたのですが、
ただしこれも原語はドイツ語で、原作の題名は

 Im Westen nichts Neues

というものです。

直訳すると西部戦線にニュースなし ='Nothing New in the West'
となるわけで、元々えらくあっさりしたタイトルだったわけですが、
「クワイエット」を使った英訳については、レマルク本人が

「ドイツ語とは完全に一致していませんが、お礼を申し上げます」

と出版社に言っており、察するにあまり気に入ってなかったのではないかと(笑)
どちらかというと日本語の「西部戦線異常なし」の方が原作に近い気がしますね。

そしてこのモニターでは白黒の同映画の一部が放映されていました。

スミソニアンの解説は次のようなものです。

地上戦(塹壕戦)をロマンティックに描くことはほとんど不可能だったので、
ハリウッドはそれを取り扱うとき、非常にシリアスに、リアルに表現するか、
さもなければ全く無視するという傾向がありました。

エーリッヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異常なし」をベースにした映画は、
第一次世界大戦を描いたアメリカ映画の中でもベストと言われています。

戦争を些細なこととしてでもセンセーショナルなものとしてでもなく、
淡々とその残酷さと、その中にある普通の人間を描いています。

ここで放映されているシーンは、フランス軍歩兵が手をあげて、
「塹壕の上」に上った途端、ドイツ軍のマシンガンにあっさりと
倒される様子が描かれています。

こちらはその予告編。

ドイツ人が英語を喋り、たとえば主人公のパウルも「ポール」
アルベルトも「アルバート」になっています。
「英語圏でない国の人が英語を話す」映画の走りだったかもしれません。

こちらは1979年のリメイク版。

All Quiet on the Western Front Trailer 1979 film

兵士役で出演しているイアン・ホルムという俳優は、映画「炎のランナー」で
主人公ハロルドのコーチ、ムサビーニを演じた人ですね(←マニアックすぎ)

荷車に乗り切らず、腕に十字架を抱えて運ぶ兵士。

「心配しないで。すぐ帰ってくるから」

これが言葉の通りにならなかったのは歴史が示す通りです。

最初の戦いがマルヌ川とタンネンベルグで始まって2ヶ月で、
誰もがこれが「長い戦い」になることに気がつきました。

長期化の原因は、新兵器の機関銃の登場が生んだとも言える
塹壕戦の深化にありました。

「STALEMATE」

塹壕のイメージで構成されたスミソニアンのギャラリーには
いきなり突き当たりにこの文字が飛び込んできます。

マルヌ河の戦いで敗北してから前進できなくなっったドイツ軍は、
やおら地面を掘り(dig in)始めました。

これによってドイツ軍の現在位置に到達できなくなった連合国軍は、
同じように地面を掘って塹壕を作り出し、そうなると今度は
ドイツ軍が連合軍の反撃を阻止するために急速に塹壕を頑丈に、
かつ(ドイツ軍らしく)凝った構造となり、文字通りのいたちごっこで
最終的には両者の塹壕は延々とヨーロッパの大地を伸びていき、
スイス国境からフランスとベルギーを貫いて北海に達する
「死の迷路」を作り上げて行ったのです。

前線を突破しようとする試みは、ただ、陣地を取ったり取られたり、
という空しいエンドレスサークルをもたらすだけでした。

その犠牲の多さは誰一人として予想できずかつ驚くべきもので、
フランスでは30万人もの命が最初の1ヶ月で失われています。

絶望の中で軍指導者たちは新しい戦法や武器でこの状態を
何とかしようと試みるようになってきますが、この「行き止まり」を
打開するかに思われたのが、航空機だったのです。

ミミズのように土に塗れながら惨めな塹壕戦を戦っている歩兵から見ると、
空を自由に駆け、騎士のように戦って称賛される飛行士は
まさに雲の上の人であり、憧憬の対象だったに違いありません。

たとえその命が一瞬で燃え尽きる儚いものと知っていたとしても、
この身と交換できるなら構わない、と誰しも思ったのではないでしょうか。

右側は、

ピッケルハウベ 

Pickelhaube Pickel(鶴嘴) Haube (ヘッドギア、帽子)

といわれるプロイセンとドイツ帝国の象徴である、
スパイクのついたドイツ軍のヘルメットです。

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 の時代、
1843年にプロイセン軍部隊用に新しく制定されたタイプで、
ここにあるのは竜騎兵(ドラグーン)用です。

模型は初期の軍用機、

Jeannin stahltaube

何と読むのかすらわからないのですが、「タウべ」というのは鳩のことで、
翼の形がはとにそっくりということでこの名前になったようです。

イーゴ・エトリッヒ博士が設計した

「エトリッヒ・タウべ」

というタイプが原型ですが、博士とライセンス契約したルンプラー社が
特許料を払わないので、怒った博士があっちこっちの会社と契約し、
その結果、いろんなバージョンの「タウべ」が500機出回ることになりました。

この「ヤンニン・シュタールタウべ」もその一つでしょう(たぶん)

模型の向こうに見えているのは野戦用携帯電話です。

フォッカー Fokker E.III

フォッカー Eシリーズは、(男前の)アンソニー・フォッカー が開発した
マシンガンとプロペラの同調装置
を装備した世界初の戦闘機となりました。

この経緯については以前お話ししたことがあります。
鹵獲したフランスの戦闘機に装備されていたこの同調装置を
フォッカー が魔改造してしまったんですね。

それまではプロペラに弾丸が当たるのは仕方がないので、
プロペラに当たった銃弾を左右に弾き飛ばす溝をつけ、
パイロットに跳ね返らないようにする方法が取られていましたが、
フォッカー はこの問題をやや解決していたフランス機を手に入れ、
これをヒントに完璧な同調装置を作ってしまったのでした。

フォッカー E.IIIは機体そのものが優れていたわけではありませんが、
この装置のおかげで「フライング・マシンガン」と呼ばれました。
後述する「ヴェルダン攻防戦」では、世界唯一の
同期式マシンガンを持つ航空機としてデビューを飾っています。

次回は、そのフォッカー E.IIIが初登場したヴェルダン攻防戦、
消耗戦の嚆矢であり、第一次世界大戦屈指の激戦として
別名「肉挽き機」「吸血ポンプ」とまで形容された戦いについてお話しします。

 

続く。

 

血塗られたヴェルダン攻防戦 第一次世界大戦〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の展示、「第一次世界大戦の航空ヒーロー」は
一転して地面で行われていた塹壕戦の解説に移ったわけですが、
膠着戦から戦況はここで急に様相を大きく変えていきます。

「SLATEMATE」、つまり行き詰まりを打開したいのはどちらも同じでしたが、
新たな攻撃計画をもって先手を打ったのはドイツでした。

当時のドイツ軍参謀総長エーリッヒ・フォン・ファンケルハイン元帥。
Wikipediaの日本語版だと愛称(じゃないか)は、

「ヴェルダンの血液ポンプ」

「ヴェルダンの骨ミキサー」

ととんでもないことになっていて、どうやらこのおっさんが
このヴェルダンの仕掛け人とされているらしいのですが、
それは、彼が膠着した戦線を打開するために

「消耗戦」

という戦略を史上初めて採用したことからきています。

消耗戦というのは敵をとにかく疲弊させることが目的です。
塹壕戦ではいつまでたっても決戦に持ち込むことはできないので、
回復不可能なほど相手の力を削ぐことだけを目的にしようというわけでした。

ドイツはこの消耗戦の相手をフランスに「選んだ」といわれています。

四方八方と戦争している中で、ロシアは国土が広大すぎて兵力も多く、
消耗戦の相手には大きすぎるし、イタリアは逆に小さすぎて、
消耗させるまでもないし(失礼だな)こちらの犠牲を払うには割が合わない。
イギリス軍も、たとえ消耗させたところで降伏するような相手ではない。
という消去法で残ったのがフランスだったというわけです。

そして消耗戦を実地する舞台として、ヴェルダンが選ばれたわけですが、
ファルケンハインがこの地を選んだ理由は、ここが曰く付きの場所だからです。

フランク王国を独仏伊に三分割する「ヴェルダン条約」が843年に結ばれ、
1648年にはヴェストファーレン条約でフランス領になるも、
1792年にはプロイセンの攻撃を受けて陥落したという因縁の古都。

フランスはおそらくここを攻め込まれたとき、メンツにかけても
防衛戦に全力を傾けてくるに違いないとファルケンハインは踏んだのでした。

彼の読みは恐ろしいくらいに当たりました。
このポスターは、

THEY SHALL NOT PASS!「奴らを通しはせぬ」

と説明があり、それはそのままポスターにフランス語で書いてあります。
(On ne passe pas!)

ヴェルダンには国境の大要塞があり、交通の要所に違いはありませんが、
この地を選んだファルケンハインはそんなことはどうでもよかったのです。
(目的は消耗戦ですから)

フランス軍にしても、ヴェルダンに戦略的価値を認めていたわけではなく、
国内では要塞の価値を問う声もあり、ヴェルダンにそこまで必死にならなくとも、
という意見すら軍部にはあったといわれます。

ところが、前述の歴史的な価値がある地ゆえ、フランス世論は黙っておらず、
(このポスターもその筋のプロパガンダなのかと思われます)
「ヴェルダンにドイツ軍を入れるな」という声が湧き上がり、
この声に後押しされる形でフランスはヴェルダン死守こそ正義、となってゆき、
司令官たちは、不屈の兵士たちを有名なこの言葉で奮起させ、
ドイツの期待通りヴェルダンを死守すべく全力で向かってきたのです。

両軍の要塞攻防戦が始まりました。
戦端が開かれたとき、たがいの戦闘規模は大きくはありませんでした。

まずドイツ軍がこれまでの塹壕戦の常識を破って、塹壕を設けず、
いきなりフランス軍を急襲し、前進基地を奪い取るのに成功しました。

しかし、当時の塹壕は三重に構築されており、そう簡単に
防衛戦を突破することはできません。
ファルケンハインは、砲兵の援護によって歩兵の消耗を極力抑え、
じわじわと攻略していくという戦法をとります。

この頃のドイツ兵はまだスパイクのついたヘルメットを着用していますね。

そして、ドイツ軍はまたしてもフランス軍の不意をついて、
今は戦士の墓となっているドゥオーモン保塁に攻め込みました。

この戦果は、まるで映画「1941」で伊潜がハリウッドを攻撃することを決めたとき
三船敏郎が言っていたように、 攻撃そのものは戦略的に価値は全くなかったのですが、
相手の心理をかき乱すことに成功しました。(え?たとえがあんまりだって?)

事実、フランス側は保塁の陥落で危機感を持ち始め、本気モードになってきます。
そして不調だったジョフル将軍を降ろして、フィリップ・ペタン将軍を投入しました。

ペタン将軍はここで

”On ne passe pas!"

と兵たちの下がっていた士気を鼓舞させ、次々に師団を投入させて
フランス軍の足並みが揃い始めました。
消耗戦を企むドイツ軍には待ってましたという状況ですが、ところがどっこい、
ドイツはドイツで攻勢だったために手を緩めてしまったこともあって、
思った通りに攻撃ははかどらず、文字通りの消耗戦に突入してしまうのです。

もう一つ、ドイツ側で消耗戦ということを意図していたのは、
おそらくファルケンハイン一人だけで、ほとんどのドイツ軍指揮官は
本気でヴェルダンを攻略することを目的として戦っていたため、
この状態になると、こんどはドイツ側の士気が全体に落ちてきました。

Kronprinz Wilhelm 1. Leib-Husarenregiment.jpgヴィルヘルム

ドイツ軍攻撃軍司令官は皇太子ヴィルヘルムでしたが、
彼もまたファンケルハインの計画をつゆ知らず、
一進一退となったヴェルダンから一歩も引かず、
がむしゃらに攻撃規模を増やす指令を下したのです。

攻略に固執して戦力を逐次投入したため多大な損害を出す結果となった。
被害の甚大さを痛感したクノーベルスドルフとファルケンハインは
攻撃の中止を進言するが、ヴィルヘルムは聞き入れず攻撃を承認させ戦闘を続行した。
(wiki)

なんと、首謀者ファルケンハインその人がに中止を進言してますがな。

しかし燃えるペタン将軍は次々に新しい師団を送り込み、前線の部隊と
入れ替わらせていったため、最終的にはフランス軍のほとんど、
78個師団がヴェルダンに参加して、文字通り消耗していくことになりました。

 

また、この戦いが歴史的に重要なポイントとなった出来事は

「歴史上初めて戦争に自動車が本格的に使われた」

ことです。

ヴェルダンには鉄道がありましたが、砲撃があまりに激しく、
使用が不可能になっていたので、フランス軍は貨物自動車で
増援部隊を前線に送り込みました。

これを見ていた各国軍隊は、自動車の軍事的価値を認識することになります。

この自動車で送り込まれたフランス軍兵士は40万人。
そしてその半数以上が死傷したということになります。

そしてその後は取ったり取られたり、押し込んだり押し返されたり、
ファルケンハインもその頃にはすっかりやる気をなくして皇太子に進言したわけですが、
前述の通り皇太子はいうことを聞かず、ペタンもまた撤退の時期を探りながら、
1917年の5月、ようやくドイツ軍を最初の位置まで押し戻すことに成功。

長い長いヴェルダン攻防戦をようやく集結させることができたのです。

さて、地上での戦況ばかりをお話ししましたが、この一進一退には
実は航空機の参加もあることはあったわけです。

写真は、ドイツ軍の将軍(ファルケンハインかどうかは不明)が
フォッカー E. III 戦闘機を点検しているところです。

ドイツ軍はそれまで無敵のフォッカー が空を支配して、
彼らの地上での戦略を後押しし、勝利に導いてくれると信じていました。

The Luftsperre: An Aerial curtain

ドイツ語のルフトスペーレは「航空カーテン」という意味になります。
彼らは敵陣地上空までに航空機を送らずして敵の位置を観察し、
自軍の空域を守ることができると信じていました。

ドイツ軍指揮官たちは空中封鎖、またはルフトスペーレを行いました。
彼らの飛行機は前線を上下に飛行し、(カーテンがあるように)
ドイツの占領地を飛行しようとする連合軍の航空機を攻撃しました。

そして航空機や気球は自軍の陣地上にいながら、
フランス軍に対する砲撃の着弾を観測することができました。

ドイツ戦略の終焉

ところが、ヴェルダン攻略戦が始まるや否や、ドイツ軍の指揮官たちはすぐに
空中で敵を封鎖するには、あまりにも飛行機が少ないことに気がついて愕然とします。

一方フランス軍のニューポールXI戦闘機軍団はフォッカーE.IIIに明らかに数で勝り、
やすやすとドイツ陣地上空に入り込んで飛行機を撃ち落とし、地上の軍隊を攻撃しました。

ドイツ軍の「カーテン戦術」とは対照的に、

「探し出し、追跡して撃ち落とせ」

つまり攻撃的な空中戦略を展開したのです。

絵を見ていただくと、ジャーマン・ラインの上空で、ニューポールが
飛行船やドイツ機を撃墜している様子が描かれているのがわかるでしょう。
中隊、または戦隊を1人の指揮官の下に統合させることにより、
フランス軍はドイツの前線に対する攻撃を組織し、調整することができました。

もうひとつ、あまり語られない航空史のトリビアですが、
この時フランス軍が「エスプリ・ド・コーア」(部隊精神)を養うために、
飛行機の側面に部隊独自のエンブレムを描き始めたのが、
航空機のノーズ&ボディペイントの事始となりました。

エスカドリーユ(戦隊)・ニューポールNo.3、精強とされた部隊の一つは、
Cigogne、コウノトリをあしらったマークでした。
コウノトリはまたアルザス地方のシンボルでもあり、フランス軍は
戦争後ドイツ軍から国を取り戻す希望をこのマークに込めたのです。

また、コウノトリはヨーロッパ全体で幸運のシンボルでもあります。

 

ニューポールNieuport XI(11)の模型も展示されています。
イギリスの飛行機ですが、フランス軍のマークが尾翼に見えます。

右側は同調装置のついた機銃、という説明があるので、
ニューポールではなくフォッカー に搭載されていたものだと思われます。
ヴェルダン攻防戦で出撃したドイツ軍の戦闘機のものでしょう。

それまでの戦線では、圧倒的にフォッカー が優勢でした。
連合軍の偵察機が易々とフォッカー に撃墜される現象を、イギリスのメディアは

「フォッカー の懲罰 Fokker Scourge」

と名付けていた頃もあったくらいです。

ベルギー軍のニューポール 11 C.1

ところが、「ベベ」という愛称を持つこのニューポール11は、
この戦闘で「フォッカー の懲罰」の時代を終わらせてしまいました。

1916年1月にヴェルダンに到着し、その月のうちに90機が投入され、
ほぼ全ての面でフォッカー を圧倒する働きを見せました。

この損失で、ドイツはその航空戦術に急進的な変革を強いられることになります。

 

さて、最初にペタン将軍の言葉として紹介されていた、
「THEY SHALL NOT PASS!」という文字とポスターの隣には、実は
その言葉と対比させるように、こんな言葉とともに同じ大きさの写真があります。

「THEY DID NOT PASS」。

彼らは突破することはなかった

ヴェルダンでは航空機がフランス軍を援護し、ドイツ軍の
手っ取り早く勝利を得るという希望を阻むことに成功した。

しかしながら航空機は地上で起こっている虐殺を防ぐことはできなかった。

1916年の12月に攻撃が終わったとき、54万2千人のフランス兵、
そして43万4千人のドイツ兵の犠牲者が出た。

このうち、死者不明者はフランス軍16万2,308人、ドイツ軍10万人となります。

局地的な戦争で3ヶ月間にこれだけの犠牲がでたというだけでも
第一次世界大戦のヴェルダン攻防戦の熾烈さがわかります。

 

写真の、まるでオブジェではないかと思われるほど整然と積み重ねられた
夥しい人骨は、そのどれもがかつては生きてものを思い、エーリッヒとか
ジョルジュとか呼ばれて、誰かを愛し愛されていた男性だったのです。

写真の上にある、

「THE VERDUN OSSUARY」

は、戦場となったヴェルダンにあるドゥオーモン納骨堂のことで、
小さな外​​の窓から、両国の少なくとも130,000人の戦闘員の白骨が、
建物の下端にあるアルコーブを埋めているのを見ることができます。

MORSという文字が見える気がするのですが気のせいかな。

ヴェルダンの戦いは結局両軍に膨大な犠牲を生み、ファルケンハインの意図した
消耗戦になりましたが、当初こそ成功していたものの、
引き際を知らない皇太子のせいで(たぶん)ドイツは引き返せなくなり、
その結果泥沼にはまってセルフ消耗戦になってしまいました。

つまり作戦失敗です。
ファルケンハインはこの責任をとって参謀総長を辞任しました。

フランスへの影響もまた大きなものがありました。
終わらない戦争にフランス軍の兵士たちもまた極端に士気低下し、
忍耐力は限界に達しつつありました。

1917年、春に行われたニヴェル攻勢で、それはついに爆発し、
113個師団の内49個師団でによる命令拒否、反乱軍が立ち上がるなど
革命一歩手前の状況にまでになりました。

ヴェルダンの英雄となったペタン司令官が着任してこの反乱を収束させ、
その後フランス軍では多数の犠牲をともなうとわかる突撃は避けるようになったそうです。

なお、フランスはこのニヴェル攻勢をとくに恨みに思っていて、
「リメンバー・ニヴェル!」・・・といったかどうかは知りませんが、
とにかくヴェルサイユ条約ではドイツにさんざんこのときの「仕返し」をしたとか・・・。

犠牲者を多数出すより、自軍に叛乱されたことの方がよっぽど応えたようですね。

 

 

続く。

”THE HUN IN THE SUN” 第一次世界大戦の航空戦の現実〜スミソニアン航空博物館

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第一次世界大戦で最初にして最大の激戦となったヴェルダン攻防戦について
地上と航空側面かお話したわけですが、今日もスミソニアン博物館の
第一次世界大戦についての展示をご紹介していきます。

写真が写せなかったもの

「塹壕の後ろ側に這い上がると、わたしは少し高くなった場所に銃を置き、
『ノーマンズランド』に居合わせた英国兵の塊に向けて無茶苦茶に発砲した」

ウィルヘルム・ランゲというドイツ軍兵士の回想より。
「ノーマンズランド」というのは、両軍の塹壕と塹壕の間のことです。

この頃は英国軍に航空写真という偵察手段が登場していましたが、
航空写真では決してドイツ軍の壕の深さと頑丈さ、そしてドイツ兵の
練度のレベルや彼らの士気のいかなるかまで知ることはできませんでした。

地下壕で安全性を確保したドイツ軍守備隊は、偵察できないところで
マシンガンのポストをどれだけ速く動かすことができるかなどと、
技術改善するための射撃訓練に取り組んでいました。

このイメージは、「ソンムの戦い」が行われたソンムを
上空から撮った何枚もの航空写真の典型的な一枚です。

写真は確かに紙に落書きされた飛行士のメモよりは正確でしたが、
このころの航空写真というのははしばしば軍事的価値には値しないものでした。

まず、この頃の貧弱なレンズでは重要な情報を写しとることはできず、
開発の進捗は戦場で十分に役に立つまで追いつかなかったのです。

当時はフィルム現像と印画紙にプリントするのに時間もかかり、
かりに高品質レベルの写真が撮れたとしても、手元に来る頃には
その情報はすでに情報としての価値を持っていないことがほとんどでした。

 

22歳で白髪に・・・搭乗員の精神的影響

野原で座って語らっている軍服の青年たち。
イギリス第三航空部隊の搭乗員たちです。
一人ひとりに手書きで

「Killed」撃墜「wounded」負傷
「missing」未帰還「dead」死亡

という文字が添えられています。

ある第一次世界大戦時の戦闘機パイロットは

「搭乗員という仕事は、人の神経をとことん痛めつける。
航空隊は6ヶ月の勤務を半分こなしたところで、2週間
休暇を取れることになっていたが、ほとんどの人間は
最初の4ヶ月半で壊れてしまうのだった」

と語っています。
もっとも、運が悪ければその前に訓練で事故死するか戦死するか・・。
いずれにしても写真の搭乗員たちの割合で同じ運命に遭うのでした。

搭乗員の生活というのは傍目には確かに楽勝に見えました。
いったん前線に出た後は戦争を離れ、「比較的」とはいえ
暖かくて清潔な飛行基地に戻ることができましたし、
食べ物もなんならお酒も十分与えられ、搭乗員仲間と
カードで遊ぶあいまにちょこっと自分の愛機の手入れなどして
次のミッションまでの間を過ごしていました。

しかし、恵まれている上に自由で気楽に見える生活の下で、
彼らの精神はいつか必ずやってくる「死」への恐怖で蝕まれ、
いかなる量の飲酒や気晴らしも、部隊全体にのしかかる
重圧のようなものを払い除けることはできませんでした。

戦死した友人の代わりにすぐに新しい顔が現れ、
ほどなくその者たちも「西へ行く」、つまりそれは死を意味します。

この生活の中で、苦悩する若者が平常な精神を保つことができず、
瞬く間に髪が白くなる例は珍しくありませんでした。

日本軍の搭乗員も、特に特攻部隊に配置されたものには
同じようにふんだんに酒や食べ物を与えられて、傍目からは
『陽気にやっている』ように見えましたが、
『夜など、一人になるとどうだったかわからなかった』(丹波哲郎回想)

ただし、髪が白くなったという話はあまり聞いたことがありません。

 

航空搭乗員の訓練

特に黎明期の航空機の訓練はそれだけで危険が伴いました。
戦争が始まっても、当時の参戦国には、航空搭乗員を出来るだけ急いで、
しかし安全な方法で育成するプログラムがまだ普及していませんでした。

例えば王立航空師団は戦争が始まったとき、教官の数も足りておらず、
さらにはじゅうぶんな訓練用のフィールドもなかったくらいです。
結果として、最終的に英国軍の戦争中に
失われた航空機の60パーセントは戦闘ではなく訓練中の事故
によるものとなりました。

しかしながら、戦闘で失われる搭乗員の数が増えていくにしたがって、
訓練のやり方はより適切なものに置き換えられてゆき、
急速に改善がなされていったという事実があります。

今なら考えられませんが、第一次世界大戦当時、航空訓練を
「生き残った」搭乗員は、しばしば5時間未満の飛行時間で
実戦に参加することを余儀なくされました。

この準備不足のため、彼らは戦闘に飛び込むやいなや致命的なエラーを犯し、
そして生きて帰ることはできなかったのです。

この漫画?には「THE LAST LOOP」というタイトルがついています。
撃墜されて最後の旋回を行いながら墜ちていくのはドイツ軍機です。

”BEWARE OF THE HUN IN THE SUN"

我々には馴染みがありませんが、英語圏ではこのフレーズは、
航空、特に空戦を語る上で最も有名なものだといわれています。

まず、絵を見ていただければ、それだけで
「太陽を背に向かってくる戦闘機は常に優位に立つ」という
戦闘機漫画で子供ですら知っているセオリーを思い出すでしょう。

第一次世界大戦の場合、(第二次世界大戦でも同じですが)
攻撃に向かう連合国軍は、つねに西から東に飛ぶことになりました。
対してドイツ軍は基地が東にあることから太陽を背にできるので、
連合国軍の編隊に対し常に優位を保つことができました。

特に高高度を飛びながら西から東に向かってやってくる飛行機は
上空の太陽を背にしさえすれば、完全に姿を消してしまいます。

もちろん夕方には彼我の機位は逆転するわけですが、
当時の飛行機では暗くなるとまず帰還も着陸もできなくなるため、
空戦は常に連合軍に不利な時間に行われることになりました。

また、 連合国の飛行機はヨーロッパ独特の西風編成風によって
ドイツ側に押し流される危険性があり、早く現地を離脱しないと
最悪それは自分の基地に戻ることができないということを意味しました。

 

ところでこのフレーズの意味することはわかったけれど、
「HUN」ってなんですか?ということなんですが。

1940年に発行されたスピットファイアのマニュアルには、
「フン族は太陽の方向からやってきた」
ということから最初にドイツ軍が使用した言葉だと説明されています。

これもわたしたちにはピンときませんが、ヨーロッパ人が

アッティラ・ザ・フン

に対して持っている恐怖心というのは凄まじいものがあります。
現在でも、凶暴な者(ひいては横暴な者)のたとえに

「アッティラのような」

などというくらい、5世紀ごろのヨーロッパを震え上がらせた男でした。
異様な風体をしてオーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ロシア南部、
ドイツ、そしてローマと荒らし回った彼らは、

常に東から太陽を背にしてやってきた

ことから、ドイツ軍が自分たちをアッティラとフン族の軍に擬えて、
そのように自称したのが始まりではないかという説もあります。

ちなみに”BEWARE OF THE HUN IN THE SUN”で検索すると、
同名のバトル・オブ・ブリテンの時のイギリス空軍の映画が出てきます。

 

当時、多くの駆け出しパイロットは飛行機の操縦を習う以前に
自動車の運転というものすらしたことがありませんでした。
(それをいうなら年齢的に自衛隊の航空学生もほとんどそうなんですが)

しかし、近代と違うのは、指導の補助となるシミュレーターなどなく、
非常に原子的な方法で練習を始めていたのです。
例えば、イギリス空軍は、飛行中における危険について学ぶ方法が

事故のイラストを見るだけ

だったというのです。

訓練ではプラカードやその他地上で行うあれやこれやを使用して、
飛行機のループや敵機の回避方法を説明していましたが、
もちろんこれらが実際の飛行体験に代わるものはなりえません。

ただ、どこの国もだいたい同じような状況だったので、
この点においてどこが有利だったというようなことはありませんでした。

MARKSMANSHIP ON RAILS

「マークスマンシップ」というのは「射撃術」という意味です。
必要は発明の母と陳腐な言葉を思い浮かべてしまいますが、
戦争のための科学技術の進歩というのは凄まじいもので、
絵を見て飛行を学ぶ時代はあっという間におわり、訓練用の機器、たとえば
レールを走るトロッコから銃撃を行う練習装置が発明されました。

これなどは少なくとも実戦にかなり役立ったのではないでしょうか。

当時のロイヤル・フライング・コーア(イギリス航空隊)で使用された
教科書やノートなどが展示されています。

立てかけてある黒い本には

「国際連邦航空局

大英帝国

飛行船パイロット証明書」

とあります。
分厚い証明書ですね。

操縦法の教科書、ドイツ機の判別のための図解、
そして手前の手書きのノートは何回着陸したとか、
飛行時間の合計がメモしてあります。

左のノートの表紙にはなぜか

「mademoiselle miss」(マドモアゼル・ミス)

とあるのですが、これは意味がわかりません。
イギリス人男性がフランス人女性を差しているのかなという気がしますが。

まさか飛行機のあだ名とかじゃないよね?

左はおそらくプロペラの一部に彫刻を施した看板。
マグのように見えるのも部品をリサイクルしたものでしょうか。
すべてイギリス航空隊の搭乗員の個人的な持ち物です。

第一次世界大戦におけるパラシュートの普及

パラシュートというものが普及し出したのもこの頃です。

当時の技術ではパラシュートの素材はあまりにも分厚く、
特に連合国では飛行機のコクピットに載せることもできなかったので、
使用することができたのは連合国では気球搭乗員だけでした。

しかしながらさすがというか、ドイツ軍とドイツの同盟国は、
1918年にはコンパクトなパラシュートを開発し運用しいました。

写真は気球から飛び降りている搭乗員です。

当時の気球はしばしば火災を起こし大変危険な乗り物でしたが、
この使用によって多くの搭乗員が命を助けられたといいます。

航空機乗員の命を救うパラシュートの普及のためには
集中的に(しかし危険な)テストが繰り返されました。

ドイツ軍がパラシュートのテストをしているところですが、
こんなドームのうえみたいなところから飛び降りて
はたしてパラシュートは開いたのか?と不思議ですね。

と思ったらご安心?ください。
これはまだパラシュートができてすぐのテストの光景で、

「とりあえずパラシュートをつけて飛行機から飛んでみた」

という段階なんだそうです。
下にはネットが張ってあります。

ドイツ軍が導入したパラシュートは、1918年の3月、
航空機の地上員だったHEINEKEが発明した、バックパック内蔵型の
(つまり今も機構的には全く変わっていない)ものです。

最初にテストをした70人のうち3分の1は、ラインが絡まったり、
傘が破れたり、ハーネスが破損したりして死亡しています。
内部にはこんなものを導入するのか、という否定的な意見も出ましたが、
しかし、「何もつけずに飛行機に乗ること」と、3分の2が
助かる可能性を秤にかければ、彼らにとってどうすべきかは明確でした。

ちなみに最初にパラシュートというものを考えたのはレオナルド・ダ・ヴィンチで、
彼が15世紀に描いたスケッチにそのようなものが見られるそうです。

初期のフランスの設計者は、1912年にエッフェル塔からの降下失敗を含む、
飛行機や塔からの実験的なジャンプで実際にテストしていました。

Franz Reichelt’s Death Jump off the Eiffel Tower (1912) | British Pathé

ちなみにエッフェル塔からの降下(落下)映像。
実験というより興業師に金をもらってやった、ということだったと
「映像の世紀」では説明していました。
しかし、このおっさん名前からしてこれどう考えてもドイツ人です。

脱出を余儀なくされた時の搭乗員の生存率を改善するものでしたが、
イギリスは1918年9月までなぜかパラシュートを採用しませんでした。
同じくフランスとアメリカもまた、戦時中はこれを許可していません。

続く。


エースとナショナリズム 第一次世界大戦の航空戦〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の第一次世界大戦コーナーに、
ここで初めて実物大の飛行機の展示が登場しました。

The Royal Aircraft Factory FE8

英国の戦争省直轄の航空機研究施設である、

RAF(ロイヤルエアクラフトファクトリー、
のちにエスタブリッシュメント)

が第一次世界大戦時に設計した一人乗り戦闘機のレプリカです。
最初は偵察用でしたが、前方に機関銃を備えた戦闘機に仕様を変えています。

1915年10月時点で、F.E.8プロトタイプは最先端の設計でした。
王立飛行隊は操縦席からの広い視野が確保され、ルイス機銃を装備した
革新的なこのプッシャー式(推進式とも。プロペラやダクテッドファンが
機体後部に設置されている)戦闘機に多大な期待をかけていました。

しかし、ここで問題が。

当時のRAFにとってこの最新鋭の設計の製造は、明らかに
「Overcommitted」、つまり能力以上のことを引き受けるという
言葉そのままだったため、その結果、生産はかなり遅れることになりました。

1年後にようやく生産した飛行機が前線に到達したときには、すでに
その性能は新しい敵の航空機のほうが上回っているという状態。

というわけで、設計の段階で最先端だったF.E.8は戦線では時代遅れで、
しかもイージーキル、簡単に(パイロットを)殺すことができました。
それは「デス・トラップ」とすら(ここでは)呼ばれています。

って全然だめじゃん。

というわけで、ホームフロント(銃後)における生産の遅れが、
戦線でのパイロットの安全に直接影響するという好例?になってしまった、
とスミソニアンでは身も蓋もない評価ですが、それでも
全く活躍しなかったというわけではありません。

王立航空隊のエースの一人、フレデリック・パウエル(公認6機、
未確認9機)がこのFE8は2番目のFE8プロトタイプで、
1916年1月から3ヶ月の間に未確認含め6機撃墜しているのです。

このため彼はFE8の飛行隊長に就任もしています。

Captain Edwin Louis Benbow (1895-1918) - Find A Grave MemorialEdwin Benbow

また、FE8のエースといえば、

エドウィン・ルイス・ベンボウ大尉(1895−1918)

がいます。
彼はこの機体だけでアルバトロスを公式に5機以上撃墜して
FE8エースとなり、それだけでなく、あのレッド・バロンと
二回対決して、二回目に撃墜しているのです。

ベンボウ大尉の銃弾は相手のタンクを打ち抜きましたが、
リヒトホーヘンはこのとき不時着して命は無事でした。
これがベンボウ大尉の8機目の撃墜記録となっています。

しかし、翌年、彼はドイツ軍エースの
ハンス・エベルハルド・ガンデルドに撃墜されて死亡しました。
奇しくもベンボウ機はガンデルドの8機目の撃墜機でした。

蛇足ですが、あのヘルマン・ゲーリングも第一次世界大戦のエースで、
22機撃墜して「鉄人ヘルマン」とか呼ばれ、ブロマイドまであったとか。

中尉時代

そりゃこれだけ痩せてればねえ(´・ω・`)

 

航空搭乗員の飛行服

ところでいきなりですが、みなさん「トレンチコート」のトレンチって、
第一次世界大戦の時の塹壕のことってもちろんご存知ですよね。

トレンチコートは泥濘地での塹壕戦で耐候性を発揮したことからその名前となり、
一般的に用いられるようになってからも、軍服のデザインを色濃く残しています。

たとえば肩にボタン留めできるエポーレットは、もともと水筒や双眼鏡、
ランヤード(拳銃吊り紐)を吊ったり、ベルトをかけて留めることができ、
戦闘中に仲間が倒れてしまっら、ここを持って引っ張ると大変便利。
(引っ張ってもボタンが取れないようにできていたんですね)

デザインがハードで「正統派」なものほどこの名残が残っていて、
腰回りについているD鐶は、手榴弾を吊り下げるためのものでした。

襟はボタン留めした上で「チンストラップ」というベルトを
上からかけると寒風を防ぐことができますし、手首のストラップも同様です。

右胸に付けられた当て布、ストームフラップは、ボタン留めしたときに
雨だれの侵入を防ぎますが、もともとは銃を構えるときに銃床が当たる場所で、
ガンフラップとも呼ばれています。

軍服繋がりでなんとなくトレンチの話題から始めてみましたが、
ここはスミソニアンなので航空搭乗員の衣装についての展示です。

このコートの広告、言わずと知れたダンヒルのものですね。

初期の航空服は単にピッタリフィットするキャップとダスターコート、
そして手袋といったものでした。
しかし航空機の出番がふえていくにしたがって、防護を重視した
より機能的な服が必要とされるようになってきます。

1914年までにゴーグルと頭部を防護するヘルメットが登場しますが、
パイロットたちは自分たちで飛行服を工夫していました。

そういえば、映画「レッド・バロン」でも、「フライボーイズ」でも、
あの頃のパイロットは飛行機に乗る時に皆バラバラな格好だった気が。

リヒトホーヘンはボトルネックのセーターを着ていたし、
毛皮の襟のついたコートを着ていた人もいたし・・・。
飛行機に乗る時の決まった制服はなかったのね、とわたしなど
ファッションに目ざとい方なのでかなり昔から気付いていました。

そういうわけなので、何千人もの軍飛行士にいよいよ衣服を着せる必要が生じて
初めて、衣料品業界は飛行士用の衣服のデザインと製造を始めました。

この商機をなぜどこも早くから利用しなかったのか、という気もしますが、
飛行機というもの自体が世間とは乖離した存在だったため、
そこに特別の衣服が必要であるなどと誰しも思いつかなかったのでしょう。

そこで、ダンヒルの飛行服です。

WHERE FLYING MEN ARE FITTED OUT
「空飛ぶ男たちが装着する場所」

これは「それこそがダンヒルである」という意味のコピーライトです。

男前のパイロットが身につけているのは、基本トレンチコートのようです。
さすがは英国ブランド、飛行機でもトレンチコート。
襟のチンストラップをしっかりと留め、腰のベルトもしっかり閉めて、
襟を立て、毛皮をあしらった飛行帽を着用しています。

ズボンの上から編み上げ式のロングブーツを履き、
膝までをしっかり革で覆っていますが、これはいざという時
少しでも防護に役に立ったかもしれません。

なんというか、帽子以外は航空服としてふさわしいかどうか
はなはだ疑問ではありますが、当時はトレンチコートは気候の変化に対し
それだけ汎用性があるということになっていたんでしょう。

広告の文章も見てみましょう。

スペシャリスト

初期のモータリゼーションのシーンにおいて、最も厳しい条件下でも
防風性をもち全天候に対応してきたのが専用の衣装です。

Messrs DUNHILLSは航空任務に携わる将校の皆様のための
「ザ」・ハウスです。

私たちの航空衣装一揃えは、最高品質であることはもちろん、
耐久性においても高い評価をいただいており、
さらに、何点か組み合わせていただくことにより
大変お買い得なお値段でのご提供が可能でございます。

カタログには「フライングメンズ・キット」の詳細を掲載しておりますので、
ご希望の方はぜひお求めください。


おしゃれでこだわりのある将校は、やはりダンヒルで揃えたりしたんでしょうね。
我が帝国海軍の搭乗員も、お洒落さんは三越で搭乗員服とか
軍服をあつらえていた人がいたし、「ペチコート作戦」の少尉は
サックス・フィフスアベニューで特別に仕立てていたし、そうそう、
先日聞いた話では、海上自衛隊にもおられるそうですよ。
三越か何処かで制服を誂えておられるというお方が。

ダンヒルはこの広告にもあるように、元々はエルメスのような
馬具製造業から出発した企業でしたが、1902年、
「モートリティ」(motorities、MotoringとAuthoritiesを合わせた造語)
をキーワードに、自動車(オープンカー)に乗る人のための
ゴーグルやコート、レザー製品を販売するようになりました。

だいたい、ダンヒルというのはあまりにもいろんなものを売りすぎて、
何のメーカーだかよくわからないがとにかく高級ブランド、というイメージを
今でも持つ稀有な?企業ですが、このときもその流れで、
おしゃれな将校用スペシャルセットを販売することになったのでしょう。

ただし、すぐに軍の航空隊が制服を採用するようになったので、
この分野におけるダンヒルの商品はそれ以上発展しなかったようです。

ドンマイ。

 

エースとナショナリズム

冒頭に採用したドイツの1917年発行ポスターです。
凛々しい航空搭乗員が航空機のコクピットに立っている絵に、

Und Ihr? (そしてあなたは?)

戦時公債を申し込みましょう

このコーナーには

「犠牲が問われる」

というタイトルが付けられています。

ゲーリングやリヒトホーヘンのブロマイドが売られていた、
という事実からもわかるように、飛行機乗りの浴びる脚光は華々しく、
テレビのない時代、知名度は絶大でした。

そして、第一次世界大戦に参加していた各国はすぐに気がつきます。

エースというスーパースターのネームバリューと、彼らを使えば、
広告塔としてリクルートに役立ち、大衆は熱狂して公債を買うなど、
戦争に喜んで協力するのだ、と。

創造された伝説

ドイツとフランスは、おそらく勇敢な英雄としてエースを喧伝することで
抜きんでいていましたが、他の国にもこの傾向はもちろんありました。

多くの場合、パイロット自身の口から語られて広まった彼らのイメージは
政府とマスコミによってより増幅され、推進されて伝播し、
長くて激しい戦争の最中に、英雄を求める国民の「渇き」を和らげました。

 

大衆紙の役割

フランスの新聞も、エースのヒロイックなイメージを創造するという
重要な役割を率先して担っていました。

そもそも「エース」というタイトルが生まれたのは1915年頃で、
オリジナルはパリの新聞がフランスのパイロット、
アドルフ・ペグー(Adolphe Pegoud)が4機目の撃墜をした後、

「I'as de notre aviation」(我らの航空エース)

として登録?したのがきっかけということです。

George guynemer”The Purest Symbol of the race"

そしてこのメロドラマチックな絵のように、宗教的な香りを漂わせつつ、
時には政治的なメッセージを混ぜながら、言葉よりもカラフルに、
視覚に訴えるメッセージで、彼らの気高い士気を喧伝するのが常でした。

なぜなら広報の対象は字が読めない者にも及んだからです。
カラフルなイラストは、確実に新聞記事よりも広範囲にその魅力を訴えました。

こういった安価で広まりやすいイメージは、長い歴史の中で
常に民意に影響を与えてきたということができます。

 

象徴的な英雄のプロモート

戦争の費用が嵩んでくると、政府も、彼らの宣伝プログラムを
大衆が戦争を支えてくれるようなものへとフォーカスしてきます。

しかし地上の戦争からは適切な英雄は滅多に現れないので、
国としては、大衆の戦意を高揚させるために戦闘機のパイロット、
そのなかでもエースを宣伝に使うのが手っ取り早かったのです。

上の絵はわかりにくいですが、当時大人気だった
フランスのエース、

ジョルジュ・ギヌメール 1894−1917
Georges Marie Ludovic Jules Guynemer,

を称えて描かれたものです。

File:Georges guynemer par lucien.jpg - Wikimedia Commons

エースという存在は、生きている間はもちろんですが、
その最後が悲劇的であればさらに世界に名を知られるようになります。

たとえば上記の絵は、フランスでおそらく最も有名なパイロット、
ギヌメールが戦死してから描かれたもので、彼の魂が
天使によって天国に運ばれているというシーンです。
(わかりにくくてすみません)

添えられた文章も悲壮かつセンチメンタルなもので、

「最も純粋な飛行界のシンボル」

「不屈の粘り強さ、野生的なエネルギーと崇高な勇気」

「犠牲の精神と最も高貴な叙述を正確に示す不死の記憶」

などなど。

彼はフランス空軍第2位の54機の撃墜記録を持つエースで、
1917年ベルギー戦線で戦死しました。

彼がドイツ軍機に撃墜されて墜落したのは偶然墓地でした。
ドイツ軍は彼の死を確認し、遺体を運びだそうとしたのですが、
そのときイギリス軍の砲撃が始まり、戻ってみたらなんと、
不思議なことに、ギヌメールの遺体は消えていました。

彼の悲劇的な最後は人々に語られ、その遺体の謎に対する興味も相まって、
さらに英雄ギヌメールのロマンチックな伝説が作られていくことになったのです。

 

ところでこんな話の後になんですが、拾い物の新聞連載漫画、
「Captain Easy」を最後に貼っておきます。

 

続く。

陸軍スポーツマン大隊とスパッドXIIIのエースたち〜 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館では、第一次世界大戦に生まれた戦闘機の操縦士、
ことにその中でも技能に長けたエースを国家が英雄のように祀り挙げ、
それが国家のプロパガンダに利用されるようになった、
ということがその展示で明確に語られています。

この「スミソニアン史観」については、その客観性においてずいぶん
他の事象(たとえば原爆投下とか)とはスタンスを異にするように思いますが、
よく考えたら、第一次世界大戦とエースという存在の登場については
アメリカはほとんどそれに関与するような立場ではなかったので、
(つまりしょせんは他人事なので)このような解釈も出て来たのかなー、
と若干意地悪な目で見てしまったわたしです。

■ 陸軍スポーツマン大隊

さて、そのスミソニアン史観によると、戦闘機の搭乗員と違って、
地上の戦い、特に第一次世界大戦の塹壕戦での戦闘では、
「適切なヒーロー」が生まれにくかった、ということだったわけですが、
意外な方法でヒーローを「集めた」大隊がイギリス陸軍に存在しました。

戦場の英雄を称えるのではなく、別分野の英雄を戦争に送ってしまおうという考えです。

こちらは1915年のイギリスのポスターです。

スポーツマン大隊が

入隊を募る

ツェッペリン号を滅ぼしたいあなた

そして、ヴィクトリア勲章の欲しいあなた

彼についていこう

そして入隊しよう

スポーツマン戦隊に

中央の写真はロイヤルエアフォースのエースですが、
「エースをリクルートに利用する」というタクティクスを用いつつ、
彼が実はスポーツの世界で名を挙げた選手だった、ということを強調しています。

下に見えるゴブレットはドイツの航空隊において
戦闘に優れた業績を挙げたパイロットに贈られた賞らしいのですが、
出元というのははっきりしていないそうです。

それにしてもスポーツマン戦隊ってなんだ?

と思って検索してみたところ、
こんなわかりやすいポスターが出てきました。

The Sportsman's Gazette: Introduction

 

ボクシング、テニス、ゴルフ、ラグビー、クリケット、
ホッケーにビリヤード(スポーツなのか)ハンティングの人もいますね。

彼らは自分のスポーツ道具を足元に置いて背広に着替え、
軍服を着て銃剣を担ぎ行進していきます。
いまなら「軍歌の響きがー!」「青年たちのミライガー!」と非難されそうなポスターです。

スポーツマン大隊の徽章の中央にある

HONI SOIT QUI MAL Y PENSE

という文言は中世フランスの言葉で、イギリスでは
ガーター勲章のモットーとなっている

「それを悪だと考える人は誰でも恥ずかしい」

という意味で、通常「悪を考える人に対する恥」と訳されます。
当時でも、健全なスポーツマンを兵隊にすることについて
ネガティブな意見を持つ人が存在したという意味かな、
とわたしなど考えてしまいましたが、深読みしすぎでしょうか。

 

スポーツマン大隊は、第23大隊、第24大隊(第2スポーツマン大隊)
とも呼ばれ、第一次世界大戦の初期ごろ組成されたイギリス陸軍の大隊です。

陸軍ではヒーローが現れにくいということから、おそらく陸軍上層部が
発想の転換によってひねり出したアイデアだと思われるのですが、
この特定の大隊は、その名前の通り、クリケット、ゴルフ、ボクシング、
サッカーなどのスポーツやメディアで名を馳せた男性の多くから構成されていました。

最初のスポーツマン大隊の結成式は、当時戦争省長官だった
ホレイショ・ハーバート・キッチナー卿の承認により、ロンドンに現在もある
セシルホテルで行われ、その後は1年半にわたりキャンプで訓練が行われました。

1915年11月にはブローニュに上陸し、その後西部戦線、ソンムの戦い、
デルヴィル・ウッドでの戦闘に参戦しています。
その中には数名の第一線のクリケット選手、ボクシングチャンピオン、
エクセターの元市長、そして作家も含まれていました。

SPORTSMAN BATTALION - RUGBY UNION FOOTBALLERS British WW1 ...

「ゲームをしている場合ではない」(ロバート卿)

ラグビー協会の選手たちは、彼らの義務を果たしている

90%以上が志願した

「昨年国際試合を行った英国に現存する全てのラグビー選手は
国旗のもとに集結している」1914年11月30日の記事より

英国のアスリートたちよ!
この栄光ある先達のあとに続かないか?

ラグビー選手をターゲットにしたリクルートポスターです。

■ スパッド XIIIのエースたち

SPAD XIII  スミスIV

FE8と並んでフロアに展示されているのがスパッドのスミスIVです。

スパッド XIIIは、伝説のフォッカーD.VIIやソッピースキャメルと並んで
第一次世界大戦で最も成功した速くて丈夫な戦闘機の一つでした。
本機は大戦中多数のエースを輩出しています。

前回ご紹介したジョルジュ・ギヌメール、そしてルネ・フォンク(Fonck)。

File:René Fonck en juin 1915.jpg - Wikimedia CommonsFonck

戦後は映画にも出演し、大西洋横断中に行方不明になった
シャルル・ナンジェッセ(Nungesser)。

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/...Nungesser

Coliというパイロットとともにその最後の飛行となる
大西洋横断に出発する直前の生きているナンジャッセの動画があります。

Nungesser and Coli attempt Atlantic crossing in 1927. Archive film 93571

眼帯をしているのがColiで、その前に出てくる若い人がナンジャッセでしょう。

フランス人の母、アメリカ人の父を持ち、アメリカ陸軍のために飛んだ
ラファイエット飛行隊のラオル・ラフベリー(Lufbery)。

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Ger...Lufbery

そしてアメリカのエースだったエディ・リッケンバッカー(Eddy Rickenbacker)。

media.gettyimages.com/photos/captain-eddie-rick...

バリバリの現役時代の動画と、1956年にインタビューを受けるリッケンバッカーの姿。

1956 CAPTAIN EDDIE RICKENBACKER US WW1 ACE OF ACES SPEAKS

 

とにかく、この戦争で最も有名な「エア・ヒーロー」がスパッドXIIIに乗っていたのです。

スパッド航空機製造会社の設計責任者ルイス・ベシェローLouisBéchereauは、
19当時人気のあった空冷式ロータリーエンジンの設計限界を認識し、
はるかに優れた出力重量比、および多くの最新機能を備えている
イスパノ・スイザ・エンジンを搭載したスパッドVIIを設計し好評を博しました。

後継機のスパッドXIIIは、 VIIより革新的な改良バージョンであり、
大きな改良点は、2基の固定式の前方発射ヴィッカース機関銃と、
より強力な200馬力のイスパノ・スイザ・8Baエンジンです。

プロトタイプは1917年4月4日に初飛行し、翌月末までに生産機が前線に到着、
その堅牢な構造と高速での急降下能力、特に空戦においては
最高のドッグファイトが可能な戦闘機のひとつとなりました。

スパッド XIIIは1918年末までに、8,472機製造され、フランスの戦闘艦隊は、
終戦までにほぼ全てがこれを導入していました。

アメリカ遠征軍の一部であったユニットもこれを導入し、
リッケンバッカーやラフベリーのようなエースを産んだのです。

スパッドはまたイギリス、イタリア、ベルギー、ロシア軍にも使用されました。

しかし驚いたことに、それほど多数生産されていながら、現存する
スパッドXIIIは世界にたった4機だけで、NASMコレクションはその一つです。

ここに展示されている機体の「スミス IV」というのはニックネームで、
米陸軍航空サービスのレイモンド・ブルックス少佐の乗機でした。
命名の理由は、彼が代々愛機に「スミス」と名付けており、
この機体はその4番目だったからということです。

Arthur Raymond Brooks, A.E.F. file photo.jpgLt.Brooks

アーサー・レイモンド・ブルックス (1895-1991)の撃墜記録で
最も顕著な戦果の一つは、スパッドXIIIスミスIVを操縦して
ドイツ空軍のフォッカー(オランダ製)の飛行隊に単独で挑んだときのものです。

彼はヒストリーチャンネルの「ドッグファイト」で紹介されたパイロットの1人でした。

「 最初のドッグファイター 」と題されたエピソードは、
1918年9月14日、8機のドイツフォッカーD.VII航空機に対するブルックスの
ソロドッグファイトを描写しています。

この戦闘中、彼は僚機ハッシンガー中尉を失いながらも(ハッシンガーは、
行方不明になる前に2機フォッカーを撃墜した)ブルックスは2機撃墜、
優れた降下技術を発揮して残った4機の敵機の攻撃から逃れることができました。

また、彼は、パイロットの位置とナビゲーション、および空対地通信に使用する
無線航法装置(NAVAID)の開発のパイオニアでもあります。

戦後は航空を旅客輸送事業として商業化するための初期の取り組みに参加し、
アメリカの航空郵便の輸送に関わった、最も初期の商業パイロットの1人でもありました。

ブルックス少佐のスパッドXIIIは、1918年8月に

「The Kellner et Ses Fils piano works」
(ケラーと彼の息子たちピアノ工房)

によって制作されました。
なんでピアノ工房が戦闘機を作っているのか全くわかりませんが、
これについては何の説明もないので、大量生産の際、飛行機工場では
間に合わないのでピアノ工場も動員されたのかと思うしかありません。

まあ、当時の飛行機は木製部分が多かったので、ピアノ制作と
似通った技術でできてしまったということだったのでしょう。

我が国の日本楽器(現ヤマハ)河合楽器(現カワイ)なども
戦争中は軍需工場となり、日本楽器はプロペラ(陸軍機)、
河合楽器は航空機用の補助タンクなどを作っていましたしね。

ヤマハなどその流れで軍からの要請も多くなり、
昭和6年にはすでに金属プロペラを手掛けていました。
その流れで戦後は船作りーのバイク作りーの、
ついでにキッチン作りーの以下略、となったわけです。

ちなみに海軍のプロペラは住友金属が手掛けていました。

 

さて、その後、スパッドの機体は1918年9月に米陸軍航空第22航空飛行隊に割り当てられました。
航空機は、ブルックスが以前に墜落した同じタイプの別の航空機の代替品でした。
ブルックスはこの「スミスIV」で総撃墜数6機のうちの1機を撃墜しています。

戦後、アメリカ陸軍飛行隊が使用していたスパッド XIIIのうち二機が米国に送られ、
リバティ・ボンド(国債)奨励イベントの目玉展示として全米をツアーし、
その後、1919年12月にスミソニアン協会に移管されました。

スパッドXIIIは長年スミソニアンの倉庫で保存されていました。

その間、何のメインテナンスも行われず放置されていたせいで、
1980年代にはそ機体表面は腐ってボロボロになり、
いつの間にかタイヤがなくなっているという状態であったため、
飛行機は展示のためにあらためて修理に入りました。

1984年から2年間かけて完全に復元され、現在はこうして
博物館の第一次世界大戦の航空ギャラリーに公開されているというわけです。

 

つづく。

 

失われた棺のミステリーと戦争未亡人の悲劇〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館の南北戦争関係展示続きです。

冒頭写真の星条旗はおそらくここSSMMが開館した際、
展示のために寄贈されたもので、1861年から1865年までの間
ボルチモアの連隊に掲げられていた本物だということです。

マスケット銃というとイコール南北戦争というイメージですが、
ここには当時使われていたライフルが見本帳のように並んでいます。
上から

1816年モデル スプリングフィールド・マスケット

1842年モデル フランス製マスケット

ベルギー製 69インチマスケット

1863製 スプリングフィールド・マスケット

1832年製 スプリングフィールド・マスケット

1819年モデル フリントロックライフル

1819年モデル Breechloading(後装式)ライフル

1863年モデル  シャープス新後装式ライフル

シカゴの州都であるスプリングフィールドには兵器工廠がありました。

ここには、第102ペンシルベニア志願歩兵連隊の

ジョン・ウィリアムス・パターソン大佐
(John Williams Patterson)

の遺品が展示されています。

戦死した大佐の写真の横には聖書とその横にはさらに
写真で大佐が持っている剣が展示してあるとされます。

しかし、日本人についても言えることですが、
昔の人って今の同年齢より老けてませんか?
パターソン大佐は戦死した時29歳で、写真はそれ以前に撮られているので
確実に20代のはずですが、髭せいなのかとてもそう見えません。

コーナーにはなぜか彼の未亡人の写真まであります。
その理由はパターソン大佐の戦場での負傷ががもたらしたとして

「戦場と銃後の悲劇」

というタイトルでパターソン家の悲劇を紹介しているからです。
それによると、パターソンと妻のアルミラはピッツバーグのサウスサイドに位置する
バーミンガムという地域に住んでいました。

パターソン大佐は1862年5月31日の「フェアオークスの戦い」で胸に銃弾を受け
肺を損傷して重傷を負いました。
翌年1863年の5月、彼と94名の部下はセーラム・チャーチで捕虜になったのですが、
このときあのマスコット犬の

ドッグ・ジャック(Dog Jack)

もついでに一緒に捕虜になっています。
彼らは南軍の兵士と交換というバーターによって1ヶ月後に解放されました。
ジャックも「交換対象」として北軍に帰されています。
おそらく同人数同士の捕虜交換だったと思うのですが、ジャック一匹に対し
北軍は南軍の兵士一人を返還したのかどうかが気になります(笑)

 

さて、捕虜から戻ることができたパターソン大佐ですが、ちょうどこれから1年後、
1864年の5月に、「ウィルダネス(荒野)の戦い」で戦死しました。

パターソンが29歳という若さで戦死して同じ歳の彼の妻アルミラは
三人の子供を抱えて未亡人となってしまいました。

そこで子供たちは当時の習慣に従ってピッツバーグのorphan court
(孤児院)の監視下に置かれることになります。

ちなみにこのオーファンコートというのはペンシルバニア州では
現在でも機能している法設備で、正確には

ペンシルバニア州アレゲニー群第5法管区

に所属し、未成年者の保護者の制定、委任状、親の権利と養子縁組、
民事上の義務、結婚許可証、非営利団体と法人、そして
相続と地所税の問題などを取り扱っています。

働き手をうしなったパターソン家のために、当時の孤児法廷は、
彼女の家と財産類を売却しています。

「孤児法廷セール・不動産売却」のお知らせチラシが残されていました。

アルミラ・パターソンの名前で、

「アレゲニー郡孤児法廷の命令に従ってわたしは公売を行います

3月2日土曜日午前10時より、ピッツバーグ市裁判所
故ジョン・W・パターソン大佐所有の不動産」

以下、正確な住宅の所在地が記されています。

ちょっと驚いてしまうのですが、当時は夫の所有である不動産は
妻に所有権がなかったということなんでしょうか。

まるでこれでは行政が戦争未亡人から不動産を取り上げたようですが、
つまりこれは、夫を失った妻には収入を得る当てがない、ということを
前提にして、不動産を売った金を寡婦年金として彼女に渡し、
彼女の住居は同種の未亡人を収容するための公的住居である
「ウィドウズ・マンション」に定められたということのようです。

それにしても母親が生きているのに子供を孤児院に入れるなんて
どういうつもりの福祉だったのかと暗然としてしまいますよね。

というわけで、アルミラ・パターソンは29歳という若さで「未亡人の家」に入り、
1908年に73歳で亡くなるまでずっとそこで暮らしました。

夫彼女自身12歳で孤児の身の上だったというアルミラは、夫を亡くしただけでなく
夫の死の数ヶ月後には彼女の三人の子供のうち末の娘を猩紅熱で亡くしています。

家を売りに出したときにはすでに彼女は娘を失い、孤児院に入ったのは
上の二人の男の子だけだったということになります。

この頃のアメリカは、兵士の銃後についてほとんど関心を払わず、
行政も今の感覚で見ればですが、理不尽な対応しかしていなかったことがわかります。

 

大佐は生前、軍人らしく自分の身にもしものことがあったときのために
このような遺書をしたためていました。

もし私の身に何かあって戦闘で倒れることがあれば、
最後に任務を完全に遂行するための力を与えてください。

もし私が死ななければならないときには、私はキリスト教徒として、
そして愛国者として相応しい死になることを望みます。
そしてその死によって私の妻、子供たち、そして友人たちが
何一つ悔やむようなことがないように。
そのとき私の名はその任務を気高く立派に果たしたものの一人として
後世に評価されますように。

ジョン・ W・パターソン

自分が国のために忠誠を尽くして戦い、「愛国者として」死んでも、
その国は自分の死後、遺族に相応しい待遇を用意していないと知ったら、
誰が好き好んで軍隊に身を投じようと思うでしょうか。

家族がこんな目に遭うならむしろ死んでもしにきれないと思わないでしょうか。

アメリカは現在軍人とその家族に対して非常に手厚い国になっていますが、
一朝一夕にこのような制度になったのではなく、戦争が起こり、
それに伴う社会問題に対して世論がそれを修正していくことで、
段階を経て今の形にたどり着いたのかもしれないとこの例を見て思わされます。

死んでも死にきれないといえば、南北戦争時代、こんな話がありました。
パターソン大佐の展示と同じケースに地面から引き抜いた跡のある墓石があります。

154 E.Z.HAIL

この墓石にはこんな笑えない「ミステリー」がまつわっているのです。

ユージーン・ゼブロン・ホール(Eugene Zebulon Hall)

はミシガンのデクスターの出身で、ミシガン第20歩兵連隊に志願入隊しましたが、
1864年の6月18日、ピッツバーグで戦闘の末負傷し、4日後亡くなりました。

ホールの家族は彼の遺体をミシガンの故郷まで汽車で送り返してもらうために
費用を支払ったのですが、どうやら遺体の防腐処理がきちんと行われなかったらしく、
折からの猛烈な夏もあって、棺から恐ろしい匂いが漂いだし、
気分が悪くなる客が現れるなど、車内が騒然としました。

ホールの棺はピッツバーグの駅ですぐさま降ろされ、市内随一の大きな墓地であり
今でもそこにあって南北戦争の勇士が何人も眠っているアレゲニー墓地に運ばれ、
可及的速やかに有無を言わせず(って本人は死んでますが)埋葬されてしまったのです。

おまけにその際彼のラストネームは「HAIL」と間違って刻まれました。

彼の遺体がいつまでも到着しないので、駅で待っていた彼の遺族は
なにかあったのかと心配しながら待ち続けたのですが、
当時のこととて連絡もいい加減だったのか、結局遺体は到着しないまま
時間は経過し、おそらくホールを知る親族は全て亡くなりました。

この「ミステリー」が解決したのはなんとそれから130年後の
1994年のことになります。

ホールの遺体の行方に興味を持った彼の子孫が、きっと棺は
ピッツバーグから何かの手違いで汽車に乗ることがなかったに違いないと推測し、
ピッツバーグの関係者を通じて、当記念館SSMMに記録を依頼したところ、

・・・・ビンゴ!


アレゲニー墓地の埋葬記録には確かに

「E.Z.HALL」

という名前が残されていることが判明したのです。
間違っていたのが墓石の名前だけだったのが幸いしました。

そこでホールの子孫は正しく名前の刻まれた墓石をあつらえ、
間違いで130年間ホールの墓の上に立っていたのを引き抜いて、
お世話になったSSMMにお礼方々(かどうか知りませんが)寄贈したというわけです。

こちら、不幸にも異郷で戦死し、故郷に帰ることもできず、130年の間
間違った名前の墓石の下で眠っていたユージーン・ホールさん。

こんな無念な死後、死んでも死にきれない魂が、アレゲニー墓地を
毎夜彷徨っていたとしても全く不思議なことではないような気がしますが、
執着しない人だったのか、それとも彷徨っていたけれど誰にも気づかれなかったのか。

 

いずれにしても130年後に子孫が探し出してくれたので
彼はようやく安らかに眠りにつくことができたに違いありません。

写真の下に手書きの文字が見えますが、これはホールが
故郷の人々に当てた手紙です。
彼の遺体を探し当てた「好奇心旺盛な」(そう書いてあった)子孫は
この手紙を読んで彼のことを知ったということなのでしょう。

 

その内容が抜粋されているので書き出しておきます。
これは当時の奴隷制度のひどさを生々しく物語る資料とも

なっています。

「彼らは皆奴隷を残酷に扱うことを当たり前と思っているようで、
別の日、僕は黒人女性が地面を耕すのに雄牛のツノに縄で縛り付けられて
雄牛と一緒に鋤を引かされているのを目撃しました。

また、黒人の女の子の首に鎖をつけ、大きな木までくくりつけて
とうもろこし用のクワを引かせるのを10回から15回くらいは見たことがあり、
どうやらそれは何かの罰のようでした。

とにかく白人というのはこういうことを何も知りません」

「僕は不幸なことに兵士が持っている唯一の慰めともいえる
ナップサックを紛失してしまいました。
手紙や日記、4月以来の写真、ウールの毛布一枚、防水用の
ゴム引き毛布1枚、シャツ2枚、ソックス2足などが入っていたのに。

思うに多分グリーンビルからノックスビルに移動する車の中で失くしたのでしょう。
僕たちは屋根無しの木の車で移動したのですが、僕はそれを
枕にして寝たりしていて、30マイル移動しているうちに
車から滑り落ちてしまったものと思われます」

記述は短い文章の中にいくつもスペルの間違いがあり、日本語で
「ママ」と書くところの英語の「sic」がこれだけの短い文章に五箇所あります。

それでも当時は字をかけるだけまともな教育を受けたということになります。

実物を見てもこれがなんなのか全くわからなかったのですが、
説明によると、これは第102ペンシルバニア連隊の旗だそうです。

戦闘に入る前に、この旗は石に包まれ、敵に奪われないように
ラッパハノック川に沈められました。(不思議なことをしますね)

その後3年経って旗は浮き上がってきたので、当時の連隊長、
ジェームズ・パッチェル大佐は旗をソルジャーズ&セイラーズに寄贈しました。

3年間水に浸かっていたのでこのような状態になったというわけです。

The Grand Army of the Republic、GAR

は、「南北戦争従軍軍人会」は、南北戦争に参加したユニオン軍の
陸海軍、海兵隊と歳入カッターサービス(のちの沿岸警備隊)のヴェテランの会です。

南北戦争従事者が生きている間は存続していましたが、1956年、
最後のヴェテランであるアルバート・ウールソン Albert Woolson

Albert Woolson (ca. 1953).jpg

が106歳で亡くなった瞬間消滅しました。

彼は重歩兵部隊のドラマーだったということでGARの上層部になりましたが、
実際に軍隊で活動していた時期はごくわずか、誰も彼を覚えていないそうです。

しかし、ほとんどのアメリカ人は、

「そんなことは彼がヴェテランであることに何の関係もない」

として、彼が死んだ時にはアイゼンハワーが声明を出したりしています。

こちらは南北戦争における最後のピッツバーガー、
Joseph CaldwellがGARの催しに参加したときのもの。

カールドウェルは南北戦争ではペンシルバニア砲兵連隊に所属し、
1946年、98歳で亡くなりました。

退役軍人の会はアレゲニー墓地を行進したり(右)
リユニオン(同窓会)などの活動を行なっていました。
左のブルーリボンはメキシコ戦争のヴェテランのものです。

退役軍人会であるGARの「司令官」に就任したのは、

ウィリアム・クローゼン博士 Dr. William B. Krosen

志願歩兵で終戦時には中尉まで昇進した人物ですが、元々医学生で
戦後医師となり、下院議員でもあったという経歴でこの役職となったようです。

GARのケースに展示されていた水筒を、わたしはこの字を見るまで
太鼓だと思っていました。(それくらい大きい)

ペンシルバニア州アレゲニー郡の退役軍人会の名前が刻まれているので
実際に使用されたものではなく、軍人会の記念品として特注されたものでしょう。

「我々は同じ水筒から水を飲んだ」
”We drunk from the same canteen"

という文字が刻まれています。

 

続く。

 

ホールとアレックスまたは人犬一体な野郎ども〜兵士と水兵たちの記念博物館

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ピッツバーグの「ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム」は、
今ではピッツバーグ大学の施設の一つになっています。

どう考えても教育施設ではないので、もしかしたら目当ては、ここの
地下の駐車場をいざとなれば確保するためか、と疑っています。

というのは、ピッツ大ほど古いと、たとえば卒業式などで大量に人が集まるとき、
車を止める場所が学内だけでは足りなくなるんですよね。

たかが駐車場のためにそこまでするか?という説もありますが、
この大学、規模が大きく、その分金持ちなので、全く不思議ではありません。

ちなみにピッツ大は全米でもトップに数えられる医学部を持つ名門校ですが、
その優秀な医学部の大学病院は、市中と郊外に、診療科目単体だけで
少なくとも慶応や北里などよりはるかに大きなビルディングを持っています。

病院全体でいうと89,000人の従業員、8,000を超えるベッドを備えた40の病院、
外来施設や医師のオフィスを含む700の臨床施設、370万人の医療保険部門と、
もはや大学を離れた巨大医療企業となっているわけです。

 

大学関連の施設の多さもたいへんなもので、ダウンタウンを走っていると
目抜き通りに面して日本のコンビニの5倍くらいの床面積のスクールショップ
(大学名のロゴが入った衣料品などを売っている店)がいくつもあったり、
独立した学生用のドーム(ドミトリーから来た寮の呼び方)があったりします。

驚いたのは、わたしがこの夏の滞在のために予約していたキッチン付きホテルが、
短期間の間にピッツバーグ大学に借り上げられて学生寮になっていたことでした。

冬に滞在したのと同じホテルを予約してすぐ、ホテルから「事情があって泊まれなくなりました」
とキャンセルを命じてきたので、急いで他の同系列ホテルを取り、

「隣が養老院なのでコロナのせいで行政指導があって予約をやめたのに違いない」

などと考えて納得していたのですが、真実は斜め上でした。

たまたまこのホテルの前を通ったら、なんとホテルの看板の代わりに
ピッツバーグ大学の学生寮の真新しい看板が立っていたのです。

わたしが予約した後、大学はホテルと契約し、借り上げてしまったのです。
おそるべしピッツ大。

アメリカ滞在中にローカルニュースで、ホテルの部屋に住んでいる
ピッツ大の学生がインタビューに応じていて、

「快適です。なんたってテレビがあるし」

などと言っているのを見て納得しました。
コロナ対策でドームの部屋を一人一部屋にした結果、今までの
2倍以上の部屋が必要になったというわけです。

 

 

閑話休題、そのピッツ大の所有となっているところのSSMMの展示、
開館のきっかけとなった南北戦争の資料をご紹介します。

一つのケースに、ジェームス・マクフィーター大尉という
ピッツバーグ出身の士官の軍服と「ポークパイスタイル」の帽子が展示してあります。

戦闘の時に裾に銃弾が通過した痕があるのだそうですが、
写真では残念ながらそれを確認することはできません。

それより、わたしがまたもや目を止めたのはこのガラスケースの隅っこに、
ポークパイ・スタイルの帽子をかぶった犬のぬいぐるみが
またもや登場したことです。

南北戦争展示の最後に、このようなコーナーが現れました。
犬を中心とした「軍隊と動物」関係の資料です。

と思ったらここにもいた!

タグが見えるように展示されていたことで、この犬がやはり南北戦争時代の
ペンシルバニア連隊のマスコット犬「ドッグ・ジャック」であることがわかりました。

彼の「戦歴」はこのように記されています。

ペンシルバニア第102連隊所属

「ヨークタウン包囲」「ウィリアムスバーグの戦い」

「フェアオークスの戦い」「ピケットの戦い」

「マルバーンヒルの戦い」(負傷)

「第一次・第二次フェレデリクスバーグの戦い」

「セーラムチャーチの戦い」
(捕虜になり、その後南軍との捕虜交換協定により原隊に復帰)

当SSMMではドッグ・ジャックをマスコットにして、このような
ぬいぐるみを販売していたようです。

ジャックありきでこの軍用動物シリーズコーナーができたのかもしれません。

 

古今東西、軍隊という組織にはマスコットがつきものでした。
アメリカの兵士達にとってこれらの友人たちは、
階級社会の中で無償の愛情の対象である特別な存在です。

南北戦争時代、ピッツバーグの兵士たちには第102連隊の
最も有名なマスコット、ブルテリアの「ジャック」がいましたし、
またペンシルバニア第11連隊の「サリー・アン・ジャレット」という犬は
ゲッティスバーグで戦死後、ブロンズ像となって永遠にその名をとどめています。

The Story of Sallie the Dog at Gettysburg

子犬の時から連隊育ちだった彼女は、ゲティスバーグの戦闘で最前線で

「猛烈に敵に吠え」

て戦いました(涙)

部隊で数年間、常に前線にあって負傷しながらも生き残った彼女は
終戦の3ヶ月前、ハッチャーランの戦いについに斃れました。

戦死する前の晩、彼女は不吉を訴えるように鳴き続け、それで
何人もの兵士が眠りから起こされたといいます。
彼女が頭部に弾丸を受けて即死したのは次の朝のことです。

激しい砲火で立ち止まっては危険な戦場にもかかわらず、
数人の兵士たちは彼女の遺体を倒れた場所に埋葬し、目標を置きました。

また、猛禽類をペットにしていた連隊もあります。
ウィスコンシン第8志願連隊では、「オールド・エイブ」(Abe、アベじゃないよ)
というリンカーンリスペクトな名前のハクトウワシをペットにしていました。

エイブは敵に羽を広げて威嚇することで戦闘に参加していたそうです。

その後、アメリカ陸軍に第101空挺隊が誕生した時、
エイブは連隊のマスコットとしてそのイメージが継承されました。

The Story of エイブ先輩。剥製か?

エイブをあしらった第101空挺隊のインシニアが真ん中に見えます。

101st Air Assault 現在の101空挺隊のマーク

南北戦争の間、兵士たちはそれこそいろんな動物を隊のマスコットにしていました。
記録に残っているのは、犬猫鳥以外に猿、ヤギ、レパード、ラバなどです。

猿、犬、ウサギ、鳥?を一人で抱き抱える軍艦の水兵。

 

上に書かれた英語はひとつのことわざで、

「ガチョウにとっていいことはガンダー(雄の鵞鳥)にとっても良い」

雌のガチョウにとって良いことは、雄のガチョウにとっても同様に良いことだ=
女性にとって良いことは、男性にとっても同じように良いはずだ ある人にとって何かが良い場合、それは他の人にとっても同じくらい良いはずだ

という意味があるそうです。なるほど。
まだどうでもいい知識を得てしまった・・・。

 

とにかく、そこに兵士がいる限り、必ず動物のマスコットが存在していました。

そして、それに合わせて?彼らの姿を部隊章に表しました。

Treat Em Rough de Young | 48 hills

たとえばこの尻尾を膨らませ、爪を立てて戦闘態勢の黒猫は、
第一次世界大戦の戦車部隊の

Treat'em Rough(奴らを乱暴に扱え=やっちまえ)

という募集ポスターから生まれました。

第一次世界大戦の時に生まれたアフリカ系ばかりからなる
第92部隊、通称「バッファロー小隊」のマークです。
彼らを最初に「バッファロー」と呼んだのは、彼らが最初編成され
戦った相手のネイティブアメリカンの兵士たちでした。

彼らの髪や肌の色がバッファローを想起させたからということです。

上は1918年、ボルシェビキ革命の後連合軍の一部としてロシアに派遣された
中西部の部隊が使用していた肩パッチで、シロクマのつもりです。

下は走るグレイハウンドを象った第一次世界大戦時の郵便部隊のマーク。

冒頭写真は軍用犬のトレーニングを行う専門の部隊の兵士と犬ですが、
彼と同じ制服がここに展示してあります。
犬の使っていたハーネスやメガネ(毒ガス用?)もマネキンに装着して。

まずこの犬のマネキンが装着している装具の説明をしておきますと、
これらはすべて現在のアメリカ陸軍に所属する軍用犬仕様となります。

換気用ベントが付いた犬専用空冷ベスト

「マット・マフ」(Mutt Muffs)、繊細な犬用イヤーマフ
Muttは犬という意味がある

「ドッグルス」(Doggles) 砂漠地帯での勤務で砂埃から目を守る

「マットルクス」(Muttluks) 肉球保護パット
地面に鋭利なものが落ちているような場所で装着

42nd Dog Scout Dog Platoon One

冒頭写真でケネス・ホーンが着ていた第42斥候犬小隊1の制服です。

ホーンは第二次世界大戦後、占領後のドイツに駐留している時
第42斥候犬小隊(ISDP)に所属して、その間ジャーマンシェパードの
「アレックス」と行動を共にしていました。

連日彼らは訓練と任務を行い、人犬一体の軍隊生活を送ったそうです。

アレックスとケネス

1949年、第42 ISDPは、待ち伏せ、ブービートラップ、その他の
危険な状況を早期に警告する手段として発足しました。

ホーンとアレックスはチームを組んでドイツ国内のアメリカ軍基地を巡回し、
他の斥候犬のためにデモンストレーションを行いました。

もはや夫婦です

軍用犬訓練の基本。

「根気強く同じ命令を繰り返すこと」

「ちゃんとできたら必ず褒めてやること」

「命令を無視したり任務に失敗するのは許されません」

「根気強く行わなくては皆無駄になります」

正装した第42ISDPの人犬一体な野郎ども。

人犬一体な野郎ども部隊全体。
最後列の右から2番目の犬、さりげなくサボってんじゃねー(笑)

 

ここに軍用犬の役割が箇条書きされていました。

「戦闘」

「兵站司令」(Logistics and Command)

「医療救護」

「追跡と捜索」

「斥候」

「見張り」

「法の執行」(Low Enforcement)

「薬物&爆発物捜索」

「威嚇」

「兵站司令」と「法の執行」がよく分からないのですが、最後の
「威嚇」はわかります。
アフガンで囚人にやっていたあれですね。

アメリカ軍では遡れば独立戦争から軍用犬を採用していました。
最初は文字通り「ペット」感覚だったのが、第一次世界大戦では
塹壕でネズミを退治させるなどという「任務」を課すようになります。

第二次世界大戦は多くの犬が軍事行動のサポートを行うようになりました。
アメリカ軍では1万頭が斥候、見張り、伝令、地雷の探索に動員されました。

現在アメリカ軍では全部で200匹の犬がイラクとアフガンに
パトロールと薬物検査を行うために派遣されており、軍全体では
その10倍以上の犬が同様の任務を世界中で行なっています。

911以降、空軍でも検査犬の数を増やし、主に爆博物の探知のために
特別な訓練を行う部隊を創設して対処しています。

 

さて、人犬一体の熱々カップルだったホーンとアレックスが別れる日がやってきました。

楯と首輪、そして櫛だけが、ケネス・ホーンが除隊するときに持って帰ることができた
アレックスの思い出の品でした。

あまり知られていませんが、ノルマンディ上陸作戦にも犬は参加していました。

ボートが近くまで岸に待機して、ちかづいて来る兵士皆にむかって
励ますように吠え、数フィート、彼と一緒に歩いてくれます。

そしてこの場に自分が必要とされていないと感じると、
空のボートまで駆け戻り、そこで自分を必要とする人々をまつのでした。

イラクの自由作戦

空挺犬



戦場に犬がいなかった時代はありません。

ちなみに上の左から2番目の犬は、亡くなった主人(水兵)を悼んでいます。
後ろにあるゴールドスターのバナーは、この家の出征した兵士が
戦死したということを表しているのです。

右上、防空眼鏡にレインコートのシェパード。
ちゃんと尻尾の形にあわせてコートが仕立てられているのが笑う。

ポケット犬

最後に、認識表のことは一般的に「ドッグタグ」と言われてきましたよね。

ドッグついでに説明しておくと、「ドッグタグ」とは1906年、
陸軍が各兵士に個別の金属識別デスクを発行し、それ以来米軍の装備の一部になりました。
それ以前は、兵士には軍の身元を特定する手段がほとんどなかったのです。

この時発行されたメタルの認識票はドッグライセンス・タグを連想させ、
兵士たちはすぐにニックネームとしてこれを「ドッグ・タグ」と呼ぶようになりました。

しかし現在では発祥地のアメリカでも「ドッグ・タグ」という言葉は使われなくなっています。

 

続く。

 

テレビ番組 『HOARDERS 』片付けられない症候群の人々・ジョニの場合

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アメリカに行くたびにチェックする番組があります。
とてつもなく太ってしまった人を医療で救済する「My 600lbs life」、
ジャングルに裸の男女が放置され2週間サバイバルする「Naked and afraid」、
そしてもう一つがこの「Hoarders」です。

Hoarders、というのは「貯め込む人」または「溜め込む人」という意味です。

この番組に出てくるのはモノを捨てられない、片付けられないが高じて、
家がいわゆる「ゴミ屋敷」になり、地域で問題視されたり、家族に見捨てられたりした人を、
テレビ局が救済という名前のお節介をしながら世間に暴露し、これを見た人が、
我が身を振り返って色々と考えたり考えなかったり、という・・・。

いうならば他人の恥を覗き見するというコンセプトに基づいた番組なのです。

今日は何度目かになりますが、この番組をご紹介します。

まず画面には

「強迫的ため込み行為は、たとえその対象物が無価値、危険、または不衛生であっても、
取得して保持するという強迫的な必要観念に駆られることを特徴とする精神障害です」

という説明が現れます。
はっきりと片付けられないのは症候群ではなく「精神障害」と言い切っているわけです。
続いて、

「アメリカではおよそ300万人の人々が脅迫的溜め込み障害であるといわれています。
今日ご紹介するのはそのうち二人のストーリーです」

 

この番組は毎回二人の「ホーダーズ」を交互に紹介していく、
という方法で番組が進行して行きますが、当ブログでは
煩雑さを避けるため一人ずつ項を分けたいと思います。

今日の「ホーダーズ」は、ジョニさん。
彼女はかつて学校の先生をしていました。

アメリカでは軍人でもそうですが、引退後の身分について、
「リタイアード(引退した)教師」「リタイアード・オフィサー」
という言い方で語ります。
今は無職であっても「無職」とは言いません。
これは現役時代のタイトルが生涯「リタイアド」として持ち越される、
という社会慣習によるものだと思われます。

溜め込み屋さんにもいろんなパターンがありますが、とにかくジョニさんは
洋服やジュエリー、雑誌、ありとあらゆるものが「大好き」で、
とにかく買い物をせずにはいられないというタイプです。

買っておいて一度も身につけていないものもたくさんありそうですが、
とにかく言えることはジャンクなものが多いですね。

財布を逼迫せず悩むこともなく買える「お手軽なもの」に手が出てしまうようです。

そして片付けられない。捨てられない。

一つ一つのものは不潔なものではなくても、こんな具合に床を埋め尽くし、
全体的にゴミとなって層を成していくというわけです。

車の中もこの通り。
もう少しでバックミラーから後ろが見えなくなりそうです。

彼女の孫のテレサさんに言わせると、とにかくジョニさんは買い物依存症。
二日と開けず店に通うのですが、例えばガム一箱が安くなるクーポンを持っていっても、
買ってくるのはマカロニアンドチーズ一箱だったりしてとにかく無計画で衝動的。


そして続いては、彼女の長男であるジョーイさんが証言を行います。

「もうとにかく1インチの隙間にも物が埋め尽くされて、歩ける部屋がないんだよ」

「とにかく完璧に『FILTHY』(不潔極まりない)なんだ」

そうこうしているうちに、ジョニさんの家は立派な「汚屋敷」に。
「フィルシー」な匂いは外に流れ出し、近所の人たちが苦情を申し立てるようになり、
市が動き始めました。

最初に市が彼女に行ってきた注意勧告は、

「ファイア・ハザード(火災の危険)」

でした。
電気関係、ガス、それらからいつ火災が起きてもおかしくないというのです。

続いて、サルという男性が証言を行いました。
なんと驚くことにサルはジョニのボーイフレンドだというのです。

いやまあ、いいんですけどね。
汚部屋の住人である小汚い老女にボーイフレンドがいたって。

サルはいいます。

「とにかくそのとき彼女は家が散らかって大変だった。
かといって行くところもないので気の毒に思い、家に住まわせた」

するとたちまち服やジュエリーや雑誌をサルの家で広げ出し、
サルの家を汚屋敷に変えてしまいました。
呆れたサルは彼女に

「どうするつもりなんだ?」

と苛立って詰問したそうです。

「俺も物に押しつぶす気か」

サルも彼女を放り出すには忍びないのですが、このままでは
息もできなくなってしまうため、最後通帳を手渡しました。

つまり、ジョニが家を掃除して、自分のうちに荷物を送り返さないなら
もうこの家から出ていってもらうと。

そうなれば彼女はホームレスになるかもしれません。

ボーイフレンドなら放り出せば済みますが、息子は彼女と縁を切るわけにはいきません。
どんな問題があっても彼女はとにかく母親なのですから。

しかし、この写真を見てもわかるように、子供が小さい頃、
母親は子供を放置していたというわけではなさそうです。

若き日のジョニさん。
学校の先生だったということですが、まともすぎるくらいまともな人に見えます。

しかし息子はこのように証言しているのです。

「子供時代は食べ物に困ったこともないしいつもいい服を着ていた。
欲しいものはなんでも与えられた」

「ただし部屋はいつも散らかっていた」

「ため込み行為」にはトリガーと呼ばれるきっかけがあるといいます。
それはジョニさんにとって早い時期に母親を亡くしたことだというのですが、
それが悪化したのは夫と離婚したことでした。

離婚で夫を失ったことで散らかしたいという気持ちを我慢できなくなった、
彼女は自分で分析するのですが・・。

しかし、この女性が老人になるとああなるのか。
老いとは残酷なものですね。

周りに誰かいたときにはまだ制御できていた彼女の性癖は、
彼女の家族が彼女に業を煮やして離れて行き、一人になることで
とめどなくなっていったのです。

悪影響は子供達にも及びました。
こんな母親ではそうなっても全く驚きませんが、成人した次男のジョーイは
結婚して子供もいたのに麻薬中毒となり、娘の親権を母方の祖母に渡すことになります。

こうやって不幸が再生産されて行くわけですね。


番組では彼らの救済のために何人かの「プロ」を用意しています。
このマット・パクストン氏はプロの「汚部屋片付け人」です。
何をもってそう決まっているのかはわかりませんが、彼のタイトルは

「アメリカでトップのホーディング・クリンアップエキスパート」

彼はこれまで10年の汚部屋掃除経験上、300匹の猫や、
8フィート幅のネズミの巣など、ありとあらゆる「汚いもの」を見てきました。

彼は豊富な経験を利用して、ため込みに苦しんでいる人に対し、
思いやりに焦点を当てた清掃を提供するプログラムを開発し、
日々汚部屋の人々を救済しています。

エキスパートなりのメソッドを彼は持っているようで、まずは
対象者の家を虚心坦懐に(知らんけど)見て、彼女の生活が
どのようなものかをチェックすることから始めました。

どういう意味があるのかはわかりませんが、今住んでいない彼女の家に
夜訪れて中を点検しています。

「ここは玄関です・・・こちらはリビングルーム」

画面ではわかりませんが、臭いもかなりのようです。

そしてついに、マットの率いる「片付け隊」が出動するときになりました。
いすゞのトラックにデカデカと書かれた
GOT-JUNKはそのまま電話番号となっています。

ところが一時が万事というのか、立ち会う約束をしていたもう一人の兄弟、
そして肝心のジョニ本人が時間通りに現場に来ないわけですわ。
現場からせいぜい30分のところに住んでいるにもかかわらず、です。

そうなると勝手に掃除を始めるわけにいかないのですが、
このジョーイというおっさんは

「ちゃんと立ち会いがそろわないと作業が始められない」

という言葉に食ってかかるのでした。

そうこうしているうちにジョニがやってきたので、これ以上
もう一人の兄弟とやらを待っているわけにもいかないね、
ということになったのですが、このおっさんが絡む絡む。

「何がしたいんだ?」

「作業を始めたいだけですよ」

「オーケー、じゃこのゴミはお前のだ、さあやってくれ」

なんか人間として言葉が通じないって感じ。
ネズミの巣や300匹の猫より、マットにとって常に厄介なのは
こういうややこしい人だったのだろうなと思わされます。

ため込みの当事者はもちろんのこと、下手するとその周りにいる人が、
とんでもない”DQN”である可能性は確率から言っても高いわけで・・。

この息子はやたら苛立っていて、母と片付けるモノを巡ってやおら口論を始めます。

「服なんかも全部処分するぜ」

「ちょっとー、それはお父さんよ」

「これが?これが?」

ハート型のクッションですが、これが別れたご主人だと・・・?
わけがわかりません。

しかしこんなおっさんにも少年の頃がありました。(そらそうだ)

母親がこんななので、長男である彼は「家族の長」を任じてきたようです。
しかもそれは彼がまだ幼い頃からで、母親はそんな彼に頼る風でもありました。

しかしこういう場になって、母親の自堕落の蓄積を赤の他人に委ねるという
状態は、おそらく彼を酷く苛立たせているのでしょう。

物を捨てる捨てないで、母と息子の間には険悪なやりとりが交わされます。

「だから、お前がなにか取っておきたいと思うんじゃないかと思って」

「なんのために?お母さんみたいに生きるためにか?」

そのうち、彼は到着しない弟、フランキーの悪口を言い出しました。

「あいつは使えない(No use)やつだ。価値もない(worthless)」

そんなとき、ようやくフランキーとやらがやってきました。
本人の了解が取れなかったのか、フランキーの映像はなしのまま、
二人は喧嘩を始め、その音声が画面の字幕に流れます。

するとそのとき・・・・

 

「突然口論を遮るように騒ぎが通りを横切った」(直訳)

 

なんと、彼らの母親がタイミングよく転倒していたのです(笑)

いや、笑っちゃいけないか。

長年の片付け生活でいろんなものごとを見てきたマットも困惑。
息子二人が大声で喧嘩しているとき、母親が転倒して負傷とは。

マットが長年の経験から推測するに、彼女は何か棒のようなものに躓いて転び、
頭部を地面で強打したものだろうということです。

というか長年の経験がなくてもそれくらいわかる。

すぐに救急車が呼ばれました。
というかそれくらいの怪我をしたということだったんですね。

これってまさか身体を張って兄弟喧嘩を止めようとしたとか・・・はないよね。

 

非常事態なので、マットは彼女なしで掃除を進める許可を得ましたが、
そうなったらなったで、またしてもジョーイの怒りはマットに向けられることになりました。

マットのチームが捨てたもののなかから、ジョーイは
自分の大事な「珍しい花火コレクション」があった、と食ってかかりました。

もう見るからにうんざりしているマット(笑)

「叫ぶのやめてくれます?」

「あんたに何がわかる?
俺たちはゴミを今日一日で6,000パウンドも捨てられたんだ。
それでもってまだやいやい言いやがる」

「俺のコンピュータデスクだって捨てるはずじゃなかったのに。
あれには800ドル払ったんだぞ!」

もう完全に頭抱えてしまってますね。

「あなたの攻撃性は我々の我慢できる範囲を超えてます」

「あんたは自分の従業員のことしか考えてないんだろう。
その(ぴー)な従業員共のな!」

流石のマットもこのオヤジにはうんざりして、この場を引き揚げることにしました。

「気の毒な女性が助けを求めているのに・・」

その女性の救済を彼女が産んだ息子が難んだということになります。
しかしそんな息子に育ててしまったのは当の彼女というわけで・・・。
こういうのもある意味自業自得というのでしょうか。

しかし捨てる神あれば拾う神もいます。

彼女の苦境を救うためにテレビ局は彼女がいるサルの家に
精神科の医師を向かわせ、彼女のこれからについて話し合うことになりました。

「まだ血がでてるんですよ」

おそらく彼女が包帯をすることをテレビ局は許さなかったのでしょう(闇深)

 

精神科医は、こう言ってはなんですが、精神科医でなくても
十分想像のつく結論をしたり顔で述べるのでした。

「彼女が自分の人生そのものに平和を得ることができなければ、
彼女は自分自身を和らげるために溜め込み行為に逃げ続けるでしょう」

精神科医は、根気よく話し合いを行い、彼女はサルの家に住み続けながら
自分の住居の掃除を継続するということに(一応)納得しました。

「家族はまだジョニの家が救われることができると思っており、
彼女がいつか戻るかもしれないという希望を持ちながら片付けを続ける」

と番組のテロップはいうのですが。

あの息子二人、やる気のない弟にやたら攻撃的で麻薬中毒上がりで、
自分自身も「ホーディング」の素質たっぷりの兄、そして
無気力で愚かなこの女性が、この一件後、人が違ったようになって
片付けが進む=ものごとが好転するとはわたしにはとても思えません。

テレビに依頼すれば誰かが何かしてくれるかもしれない、
という胸算用から動き出したに過ぎない彼らが(カメラの前ですら
あのざまだったのですから)撮影が終わり、誰も見ていないところで
誰も世話を焼いてくれなくなったとき、それでもこの困難な仕事を続けるでしょうか。

 

彼らがそれができる人々であれば、そもそもここまでになっていない、
とわたしは誰でも思い至るであろう一つの現実に突き当たります。

 

続く。

 

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