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「従容と義に就く境地」 湯浅竹二郎少佐〜旅順港閉塞戦記念帖

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今日もオークションで手に入れた旅順口閉塞戦記念帖より、
第三次閉塞作戦参加船とその指揮官についてお話ししていきます。

まず冒頭写真は、

第三次閉塞相模丸指揮官

海軍少佐 湯浅竹二郎

湯浅少佐(最終)の名前が現代の資料では「竹次郎」となっていますが、
当時の資料は全て「竹二郎」であることをお断りしておきます。

海軍兵学校は19期、本作戦の指揮官クラスでは最も最弱年が
匝瑳胤次、高柳直夫の26期、最年長が総司令の林三子雄と有馬良橘の12期、
(廣瀬武夫は15期)なので、ちょうど(なにがちょうどかわかりませんが)
作戦メンバーのど真ん中の年代で、参加時は大尉でした。

指揮官として乗り組んだ「相模丸」は第三次作戦の第4小隊の一番船、
二番船がこの後お話しする狄塚太郎大尉指揮の「愛國丸」です。

ネットで公開されている当時の資料を見ていると、こんなのを見つけました。
なぜ第4船隊の船のだけが図面化されているのかわかりませんが、
「相模丸」「愛國丸」が搭載していた水雷落下装置の図面です。

投下のためにはずす掛け金のような装置には「グリース」を塗り、
滑りやすくすること、などと添書きがされています。

それにしても自沈させるのが目的の閉塞船が、なんのために
水雷を積んでいたのかという疑問が湧いてくるわけですが、
これは敵に対する攻撃のためのものではなく「自沈の手段」だったのでは、
と想像されます。

どこの部分にこの落下台が仕掛けられていたかにもよりますが、
爆薬を仕掛けるのではなく、水雷を船上で爆発させて船が沈むように
特別の「落下台」が考案されていたのだと考えれば、辻褄があいます。

でもまあこれもわたしの想像に過ぎませんので、もし違っていれば
ご指摘いただけますと幸いです。

 

さて、第三次作戦に出撃した「相模丸」については、国会図書館所蔵の
当時の報告書の第三次作戦の経緯を踏まえて説明していきましょう。

海軍少佐湯浅竹二郎の指揮せる11番舩相模丸は天候悪にして
各舩相失したるを以て或いは行動中止の命令あるべきかを
注意を加えて続舷せしも終に命令に接せさりしと云う。

報告書では「船」と書かず全て「舩」という漢字を使っています。
出航して四時間後、天候が悪化して波が高くなり、指揮官林中佐は
その時点で作戦の成否より収容が困難になるとの理由で
中止命令を出したのですが、何度もここでいうように、
後続の船に命令は伝わりませんでした。

天候が悪くなって周りに船列が認めにくくなったため、各指揮官、
湯浅大尉ももしかしたら行動中止になるかもしれないと予測し、
注意深く状況を監視しながら航行を続けていましたが、
11番船であった「相模丸」には通信は伝わりませんでした。

閉塞船はこの如く全く混乱の状態に陥り
各船始め任意の行動を取るに至りしが
遠江丸、小樽丸、相模丸、江戸丸、愛國丸の五船は
期せずして次第に不規則なる一段(団)を作成し
互いに前後して旅順口に進み五月三日午後二時三十分頃
黄金山探海灯を正北に見るの地点に達し是より港口に向かいて変針せり。

風と高い波のせいで閉塞船の船列は乱れ、命令を受けて引き返す船、
船の装置の不備で引き返す船、命令を知っても突入する船と、それこそ
各指揮官の判断によって全体がてんでにいろんな行動をとり始めました。

「遠江丸」「小樽丸」「江戸丸」そして「相模丸」「愛國丸」は
偶然合流し、五隻で一団をなして旅順港に進んで行きました。

「探海灯」という言葉がありますが、これは「探照灯」と同じ意味で、
巨大な反射鏡を用いて海上を照らすサーチライトのことです。
探照灯を海上で使用するときはこういう呼び名をするそうですが、
ここでは陸に備えてある探照灯の意味でいいかと思います。

「黄金山の探照灯が真北に見える位置に来たので、
港口に向かうために変針した」

ということになります。

このとき遠江丸、小樽丸、相模丸は殆ど単縦陣となり
江戸丸は少しく其の右方に、愛國丸は其の左方に位置し相並びて
相模丸に続きしが尚他の一船左方より港口に直進するものありしかごとし。

←←←進行方向   

                <江戸丸〕
                <愛國丸〕
<遠江丸〕<小樽丸〕<相模丸〕

←←←←←←←<他の船〕?

無理やり図にするとこういう状態だったようです。

このごとく五隻の閉塞船は江戸丸を先頭として齋しく港口に驀進せしが
城頭山探海灯を左舷正横に臨むの時始めて敵に発見せられ
各所の砲弾一時に轟きて 砲弾雨飛し或いは水面に炸裂し
あるいは頭上に爆発するものあり

ここまで順調に進んできた五隻ですが、先頭の船が悉く作戦を中止して
帰ったり、あるいは後から駆けつけてくる途中にあったということで、
彼らが一番先に敵地に到着し、発見されて一斉砲撃を受けることになりました。

ここで「江戸丸」は敵の砲撃で全損し、行き足もとまったため、
本田指揮官はその場で自沈を行います。

小樽丸、相模丸もまた防材を衝破し 小樽丸は三河丸の直前に出て
船首を約北西に向け老虎尾半島に近く投錨爆沈し
相模丸は佐倉丸に近く船首を約北東に向け爆沈せり。

「小樽丸」「相模丸」も爆沈作業を行いました。

第三次閉塞相良丸指揮官附

海軍大尉 山本親之

中尉職である指揮官附が大尉になっているということは、
戦死認定され死後昇進したということでもあります。

「相良丸」は閉塞船を爆沈させた後、どうなったのでしょうか。

当時の記録には各船の引き揚げ状況の項にこうあります。

朝顔丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸の四船に至りては
一員として我が艦艇に収容されたるものなく全滅もしくは
(全滅という言葉を削除してある)行方不明の恐運に陥りしか
旅順開城の際 小樽丸相模丸の一部乗員は俘虜となりて生存せるを発見し
其の陳述により略両船の行動を知ることを得たり。

此の資料は戦後に記録のため作成されたものらしく、
旅順開城まで「行方不明」となっていた両船の乗員が
実はロシア軍の捕虜になって一部は生存したことがわかり、
その捕虜から亡くなった乗員の最後についてもわかりました。

また相模丸は防材を破りて港口に突進せしが湯浅指揮官は
すでに水道の中央に闖入せるものと認め投錨を令して
爆発の用意をなし一同万歳を連呼して端艇を卸すこと半に及とし時
一弾飛来して「ボートホール」を切断し艇首より破壊したるに持って
更に第二の端舟を卸して之に乗りしが亦須叟にして敵弾に破らる。

どんな切迫した時でも万歳するんですね・・・。

「ボートホール」が何かはわかりませんでした。
脱出用の端艇は一隻だけでなく予備も用意していましたが、
それが次々と敵弾に破壊されていったようです。

此の時指揮官湯浅大尉および指揮官附山本中尉等は
尚相模丸に止まりて爆発に従事し 今其の作業を終えたる時
端舟に乗し本船を離れんとす。
然るに風浪艇を横座して容易に離るること能わず。

哨艇及び砲台よりの機砲小銃等一斉射撃を受け
総員し力を尽くして脱出を図りしも 海水己に艇に満ちて
如何ともし難く 遂に本船の沈没と共に両覆り
煙突と通風筒との間に挟まれて動かず。

爆沈作業まではうまくいっていましたが、閉塞船から
端艇で離れることができず、そうこうしているうちに
閉塞船の爆薬が爆発して巻き込まれてしまったのです。

衆皆之に縋りしが敵弾に傷つくものあり
湯浅指揮官以下多くは戦死し 翌朝敵に収容せられしもの
海軍二等兵曹河野精蔵以下九名に過ぎず。

この中から9名だけが捕虜になることで生還しました。

さて、「相模丸」指揮官の湯浅竹次郎少佐は、当時の海軍発表では
端艇に乗り移ってからその間戦死したことになっていますが、
これには異説があって、「ロシア陸軍少尉だった人物が
日本の知人に送った書簡の内容」という甚だ真偽の怪しい情報によると、
湯浅は他の乗員と同じく旅順にたどり着いたものの、
人事不省となってロシア軍の捕虜になっていたというのです。

捕虜になった九名がそのことをおそらく解放後伝えたはずなのですが、
指揮官が自分の意思ではないとはいえ一時でも捕虜になったなどとは
当時公にすべきでないとされ、秘匿されたのかもしれません。

書簡の情報によると、湯浅大尉は意識回復後に捕虜になったことを知り、
時計の紐で縊死しようとしましたが、それが不可能となると
隙を見て高所から飛び降りて再び自決を図りました。

死ぬことはできず重傷の状態で病院に収容されることになりましたが、
治療を拒否し、食べ物も取らず、ロシア側が注射で栄養の補給を行うなど
延命の措置をとったものの結局そのまま亡くなったということです。

 

また、湯浅竹次郎という名前で検索すると、講道館の歴史記念館に
有段者として其の名前が刻まれていることがわかります。

少年時代に柔道を始め、やはり講道館の有段者だった廣瀬武夫より
柔道については「先輩」だったようです。

34歳で閉塞戦で戦死した際、講道館は戦死時五段だった湯浅少佐に
名誉六段の段位を授けました。

 

湯浅少佐は閉塞戦に出陣前、次のような遺書を残して往きました。

「古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト。
 今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス。
 武士ノ面目之ニ過ギズ」

これは、その後の海軍兵学校において

「従容ト義ニ就ク境地ニ到達センコト」

という精神的な教義となって後世に遺されたといいます。

兵学校時代の有馬正文もこれに感激した一人でした。

 

続く。

 

 


第三次閉塞作戦 削除された「捕虜」の情報〜旅順港閉塞船記念帖

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オークションで手に入れた海軍兵学校昭和2年発行の写真集、
「旅順港閉塞戦記念帖」の写真を挙げながらこのことを調べていますが
調べれば調べるほど、部下を探しに行って戦死した廣瀬武夫以外、
他の死亡した軍人の名前が残されていないことが異様なことに思えてきます。

廣瀬少佐を閉塞作戦の象徴としたのであとは省略、ということなのでしょうか。

しかし、わたしに言わせれば、そもそも廣瀬の行動って
軍隊の指揮官なら普通というか当たり前のことをしただけですよね?

勿論わたしも、その指揮官としての責任感の強さを称賛することに
やぶさかではありませんが、それをいうなら本閉塞作戦中、
行方不明になった人員を探すために必死で船内を駆け回った、
という指揮官や指揮官附はほかに何人もいたわけです。

 

この際だから言ってしまいますが、実を言うと、わたしは昔から
軍神廣瀬について、モヤモヤするものを感じていましてね。

廣瀬は指揮官の当然の義務として足りない人員を探しに戻りましたが、
結局最後は捜索するのをやめて端艇に乗り込もうとしています。

決して自分の生を引き換えにしてまで部下を救おうとしたわけではありません。
端艇乗艇後、たまたま直撃弾を受けなければ、第二次作戦の経緯を見る限り、
無事に生還し、杉野曹長だけが行方不明のうちに戦死認定されて終わったでしょう。

つまり、わたしがかねがね思っていたのは、偶然爆死しただけなのに、
「軍神扱いまでするのはやりすぎではないか」ということなんですが、
今回、こうして作戦全体についての実相を知るにつけ、
その思いはよりはっきりとし、そこに「官製の美談」の匂いすら感じます。

指揮官として当然の行動をとって、その結果偶然死んだ廣瀬が軍神で、
反転命令を受けながらも、他の船が突入していくのを見て後を追い、
その結果戦死した第三次作戦の何人の指揮官が名前も残されていないのは
あまりにも不公平としかいいようがないではありませんか。

しかし、(変な言い方ですが)死んだ者はまだ良かったのです。

日露戦争全体で見る限り、閉塞作戦は序盤の戦いでありました。
この効果がないことが決定したからこそ、陸軍は地上からの作戦、
最終的には二百三高地へと駒を進めることになったわけですから、
長い目で見ればそれもまた勝利への布石の一つではあったといえます。

ですから、閉塞作戦は失敗であったことをよくわかっていた彼らも、
終わり良ければ全てよしで、自分自身を納得させてきたのに違いありません。

 


さて、今日ご紹介する冒頭写真の軍人は

第三次閉塞 愛國丸指揮官

海軍大尉 犬塚太郎

階級が大尉であるのを見て、この人は戦死しなかったのだな、
とちょっとほっとしてしまったわたしです。

Taro Inuduka.jpg

犬塚大尉は兵学校25期。

旅順作戦に参加していた時には「笠置」分隊長という配置にいました。
25期で大将になったのは山梨勝之進だけで、
最終的に中将にまでなったのはこの人を入れて三人だけでした。
そのうちの一人は、閉塞作戦記念帖の発行された昭和2年当時、
海軍兵学校の校長だった鳥巣玉樹です。

犬塚の兵学校でのハンモックナンバーは32名中18位だったそうなので、
中将までいったのは結構な出世であると言えます。

閉塞作戦で生還したあと、日露戦争で皇族武官に任命されたことから
要所で東宮武官、秩父宮別当など皇室関係の役職に就いていたことが
そのキャリアを出世コースに乗せたのではないかと思われます。


さて、閉塞作戦において殿(しんがり)の12番船「愛國丸」指揮官に任命され、
犬塚は五月二日の午後6時、出航を行いました。

天候が不順になり、風浪が激しくなってからの状況から
「愛國丸」について言及している当時の文書を書き出しながら進めます。
極力現代文に翻訳します。

「遠江丸」は前続船が反転して転針したらしいと思い、
西微北に向かって進んだが、ついに僚船に会わなかった
偶(たまたま)前方遥かに二個の灯光を発見したので
速力を増してこれを追跡したところ、敵探海灯の照映により
其の一隻は十一番船「相模丸」であることを知り、
他の一隻は十二番船「愛國丸」であろうと推定した。

 

又、海軍大尉犬塚太郎の指揮した十二番船「愛國丸」は
午後十時三十分頃若干の前続船が針路を反転したらしいと認め
かつ、駆逐艦、水雷艇らしきものが頻繁にと汽笛を鳴らし
発光信号を行いながら高声に叫ぶを聞いたがそのなんたるかを解せず。

この文章から新たな情報がわかりました。

作戦総指揮官から発せられた中止命令は、護衛と作戦後の人員収容のために
現場海域にいた駆逐艦、そして水雷艇にも伝えられたということ。

そして彼らは閉塞船に対して、発光信号だけでなく叫ぶなど、
あらゆる手段で命令変更を伝えようとしていたことです。

しかし、そんな状況でも信号が読み取れないだけでなく、
ましてや声など全く聞き取れず、何かを伝えようとしているようだが
さっぱりわからない、という焦燥の状態だったようです。

よってしばらく前続船の行動を窺い、反航するもの多きを見、
又、一旦回頭したのに更に旅順口に向進した船があるのを認め
反転していたのをもう一度元に戻してその航跡を追った。

これによると、互いが全く見えなくなったわけではなく、
通信を受け取って反転する船、直進する船を見て後を追うため
再反転する船の様子を、犬塚大尉の船は全部見ていたことになります。

犬塚大尉はそこで「愛國丸」もまた旅順口に向かうことを決断しました。

そしてその後、「遠江丸」「相模丸」「小樽丸」「江戸丸」と一団を形成し、
旅順口に向かっていったという話は何度かしてきました。

その後敵に発見され、流弾雨飛の中、

又港口の中央線を直進していた愛國丸は
港口の距る約七鍵の位置に至るや
俄然敵の敷設水雷に羅りて運転の自由を失う。

よって犬塚指揮官は其の位置に爆沈せしと欲し
投錨を命ずるや浸水急激にして忽ち沈没せり。

敷設水雷に「羅った」というのは、一部が爆破された状態で
身動きできなくなったということでしょうか。

この時の「愛國丸」の近くにいたのは「江戸丸」でした。
「江戸丸」は港口に向けて転針しようとしたとき、前方に
「愛國丸」らしき一船を認めた、と証言しています。

そしてこれを追い越ししようとしたのですが、それができず、
後方に付いていこうとしたところ、「愛國丸」は

「俄然沈没する」

に及んだところでした。
この後「江戸丸」の船橋に命中した敵の一弾は指揮官高柳大尉の命を奪います。

高柳大尉に代わって指揮を引き継いだ永田中尉は、その後
「愛國丸」と並ぶ位置に船首を港口に向けて船を爆沈させました。

「愛國丸」が港口に向かうところから、もう一度記述を抜粋します。

愛國丸は突進中敵の敷設水雷に掛かり忽ち進退の自由を失いしが
犬塚指揮官は之を以って砲弾の命中せるなりと思惟し
擱岸せしめんよりは寧ろ其の位置に爆沈するに若かずとなして
投錨の命せり。

船が動かなくなったので、犬塚大尉はそこで爆沈させることを決定しました。
しかし、投錨が終わるか終わらないうちに船尾はすでに沈没し始め、
其の時に初めて敷設水雷に船体がやられていることに気が付いたのです。

犬塚指揮官は直ちに総員退去を命じ、人員点呼を行おうとしましたが、
すでに其の時には海水が上甲板まで迫っていました。

かろうじて一隻の端艇を卸すために「ボートホール」を切断しようとしたところ、
急速に沈没が始まり、わずか1分にも満たない時間で沈んでしまいました。

海に投げ出された乗員を収容したところ、24名のうち8名が欠員していました。

「愛國丸」乗員全24名の写真です。
ほとんどの乗員が長刀、短刀、超銃、短銃いずれかの武器を持っています。
最前列で銃を撃つポーズを決めている水兵さんは助かったのでしょうか。

さて、すぐさま行方不明の8名の捜索が始まりましたが、

「波高くして形影を認めず」

全く行方はわからないままでした。

第三次閉塞 愛國丸指揮官附

海軍大尉 内田弘

 

この8名は指揮官附海軍中尉内田弘と同乗すべき配置なりしを以て
或いは同官と共に退去したるものなるべきかを想い
午前四時十分沖合に向かいしが 内田中尉を始め
海軍中機関士 青木好次以下下士卒六名は竟に
全く其の行衛(ゆくえ)を失えり

「愛國丸」指揮官附の内田中尉は海軍兵学校27期卒。
中尉任官後初の配置であった「笠置」から今回
指揮官附として第三次作戦に指名されてきました。

内田中尉の行方はこの時を境にわからなくなり、
行方不明者のまま戦死認定され、死後大尉に昇進しました。

 

資料には、収容人数についてはこのように記しています。

第三回閉塞は天候の険悪と端舟の破壊とのため
最も悲惨の結果を生じ(この部分削除対象)惨烈をを極め
八隻の乗員百五十八名(内戦死四名負傷二十名)
翌朝敵に収容せられしもの十七名(内一名死亡)に過ぎず。

捕虜になって死亡したのは湯浅少佐と野村少佐の二名ですが、
このときには湯浅少佐が捕虜になったという情報は伝わっていません。

爾餘七十四名は遂に其の失踪を明らかにせざりしが
海軍にその後開城の機会ありし明治三十八年十一月 旅順口白玉山の麓なる
旧露国墓地を発掘し 第三回閉塞隊員の遺骸を検ずるに及び
朝顔丸指揮官向大尉を始め指揮官附海軍中尉糸山真次 
機関長 海軍大機関士 清水雄菟以下
十四名の相接して埋葬せられたるを発見し
この外 白石大尉以下佐倉丸の乗員九名 
湯浅少佐以下相模丸の乗員三名 笠原中尉以下小樽丸の乗員六名
及び氏名不詳の海軍軍人七名(内中尉一名大機関士一名)を発見せしが
五躰の腐乱して其の容貌を識別すべからざるも 其の屍体の状況により
奮闘の状を想見せしむ。

ちなみに「五体の腐乱」という部分は削除線で消されています。

そしてこの後の記述に驚かされました。

又敵に収容せられし小樽丸機関長岩瀬大機関士
及び同船乗組下士卒七名、相模丸乗員下士卒九名
岩瀬機関士は閉塞の当夜頭部を負傷し終に
三十七年十月十九日旅順海軍病院にて没し
他の十六名は旅順開城の際我が軍にて収容せり。

この文章からはごっそりと捕虜になった下士卒たちの情報は削除されました。
棒線がかけられているのは削除部分であり、ご丁寧にも検閲を行った人が、
上の欄に

「注意!!!(!三つ付け)」

と叱責するように殴り書きで読めないコメントをつけています。

ここで閉塞後の各隊の状況に関する記述は終わり、次からは
収容の状況が始まります。

ともすれば閉塞船の戦いと被害ばかりが語られますが、
この作戦で収容のために出撃していた駆逐艦や水雷艇などにも
敵の攻撃で多くの犠牲が出ているのです。

例えば水雷67号艇は「三河丸」の掩護の際被弾した砲弾が
舵機室で炸裂し、機関兵曹と下士官一名に重傷を負わせ、
機雷敷設艦「蒼鷹」では一等水兵が被弾して死亡しました。
他の収容艦も、ほとんどが敵の弾丸の中任務に従容と当たっています。

「愛國丸」の9名の乗員は、「遠江丸」31名の乗員とともに
水雷艇「隼」に収容されて帰還しました。

 

続く。

 

 

匝瑳胤次と水野広徳 二人の軍事ジャーナリスト〜旅順閉塞戦記念帖

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アジ暦公開の当時の資料を見ると、第三次作戦における戦死者は

相模丸 13

朝顔丸 18

佐倉丸 19

愛國丸  8

となっていて、参加全12隻のうち、全滅したのは「朝顔丸」「佐倉丸」。

戦死した指揮官は

向(朝顔丸)、白石(佐倉丸)、
高柳(江戸丸)、野村(小樽丸)、湯浅(相模丸)

の5名となります。

大尉であった5名は戦死後いずれも少佐に昇進しました。

このうち、乗員は帰還したが指揮官が死亡したのが「小樽丸」、
そして、総指揮官の帰還命令を受けて反転したのが

「新発田丸」「釜山丸」「長門丸」「小倉丸」

の4隻で、このシリーズが始まってから再三お伝えしているように、
わたしがオークションで手に入れた海軍兵学校発行の

「旅順閉塞戦記念帖」

という写真集には、これらの閉塞船の乗員の集合写真はあっても、
各指揮官の顔写真は無慈悲にも割愛されているのです。

まだご紹介していない「小倉丸」の乗員写真です。

「小倉丸」は総勢22名と他の閉塞船より「大世帯」でした。
そのうち士官が3名、下士官が2名というのは他船と同じです。

第三次閉塞 小倉丸指揮官 

海軍少佐 福田昌輝 (中央)

は兵学校17期。
大尉が多い閉塞船指揮官の中で少佐でした。
それまでの閉塞作戦について見ていると、総指揮官を中佐とし、
指揮官船に続く2番船の指揮官は、必ず少佐が充てられています。

第一閉塞ならびに第二閉塞における廣瀬少佐が其のポジションで、
参加数が一挙に多くなった第三次作戦では、全体を三つの小隊に分け、
各小隊の1番船に少佐を配置しているのです。

福田少佐は第1小隊の指揮官船に続く2番船の指揮官でした。

そして、何度もここで申し上げているように、第三次作戦では
天候が悪化したため、総指揮官林三千雄中佐は中止を決定。

この理由は、作戦が達成しにくいという理由以前に、
閉塞船自沈後、端艇で海上に逃れた乗員を収容するのが困難になる、
というものだったということです。

人員を死なせないことを第一義にしたこの決定は、総指揮官として
当然であり至極真っ当な決断であったと思うのですが、
実際其の命令に反して命令を無視し、反転した指揮官は
その勇敢な戦闘行動と死を恐れない敢闘精神を讃えられ、
命令を遵守した4隻の指揮官は記念アルバムから省かれるという
屈辱に甘んじることになったということも何度も申し上げる通りです。

「小倉丸」は幸か不幸か、指揮官船の後ろを航行していたため、
指揮官命令が手旗によって即座に伝わりやすい船位にいました。

おそらくは一番最初、発令された20時ごろには伝達を受け、
命令に従って帰還したものと思われます。

 

 

 

 

それでは、各閉塞船の最後に「三河丸」と指揮官を紹介しましょう。
閉塞をとりあえず成功させ、失った乗員もただ1人という
閉塞作戦の中ではもっとも無難に?こなした1人ですが、
彼の場合はその後の生き方についてご注目いただきたいのです。

 

第三次閉塞三河丸指揮官

海軍大尉 匝瑳胤次

「三河丸」も林司令の中止命令が伝わらず、突入してしまった船です。

この司令官の名前をなんと読むのか検索するのに苦労したのですが、
「匝瑳」は千葉県にある地名で「そうさ」、胤次は「たねひろ」とする説と、
どういうわけか「ひさ・たねじ」と読むという説があるらしく、
Wikipediaにはどちらの読み方も書いてあります。(名前なのに・・・)

結論から言うと「三河丸」はラッキーな船で、「朝顔丸」と同じく、
単身突入し狙い撃ちされるも敵弾を掻い潜り、匝瑳はここぞと言う場所で
「三河丸」船体を自沈させ、さらに脱出、収容されて乗員は帰還に成功しています。

第三次閉塞三河丸指揮官附

海軍中尉 大西良輔

旅順港に突入し閉塞作戦を成功させて生きて帰ってきた割に、
その後あまり出世せず、最終階級が少佐、航海長で終わっています。

「三河丸」乗員18名、匝瑳大尉は中列中央、大西中尉は右から2番目です。
このうち一人、四等機関兵姥谷常次郎が戦死し、負傷者は6名でした

匝瑳が指揮官を務めた「三河丸」は第1小隊として「新発田丸」、
「小倉丸」、「朝顔丸」の次の4番船でした。

風が激しくなり、林中佐が中止命令を発し反転したとき、「三河丸」には
命令が伝わらず直進しましたが、汽罐が不調だったため他船に遅れをとり、
置いていかれる形になってしまいました。

しばらく他船と合流するのを待っていると砲声が聞こえたので
匝瑳は突入が始まったと判断し、単独での突入の指令を下しました。

匝瑳胤次は予備役となってから著作家となりました。

そして本作戦についてもいくつかの著書を残しているのですが、それによると、
「三河丸」がロシア軍に発見され銃砲撃を一身に受けたのは5月3日の午前2時。

「煌々タル光ニ眼ハ眩ミ、轟々タル響ニ耳ハ聾シ」(匝瑳の回顧文)

探照灯に照らされ、集中攻撃を受けながらも「三河丸」は防材を突破して進撃し、
周囲の地形を十分確認できないままに好位置に達したと判断し「三河丸」を爆沈させ、
端舟(短艇)で脱出を試みました。

ロシア軍は短艇を狙って追撃してきましたがなんとか脱出に成功。
作戦開始から2時間半後の午前4時30分、「三河丸」乗員を乗せた端舟は
第41号水雷艇に発見され、同艇に救出され、帰還したというわけです。

「三河丸」の乗員からはこのような記念品が兵学校に寄贈されました。
説明によるとこれが「船体の外鈑」だということですが、
縦に「三河丸」と書かれている部分がどこなのかわかりません。

匝瑳胤次大尉の号笛(ホイッスル)も教育参考館に寄贈されました。
本人の説明も付されていたそうです。

写真をよく見ていただくと、吹き口の一部が欠けているのがわかります。

「この笛は閉塞当時使用せるものなり

船湾口に近づくや之を右手の拇指(おやゆび)と食指との間に挿み
『メガホン』を持ち予の右側に佇立せる伝令の肩を軽打して
最後の用意を促しつつありし瞬間
敵の弾片は突如艦橋の『スクリーン』を突破してこの笛を掠り
伝令の咽喉を貫き肺部に入り同人を即死せしめ
この笛亦(また)用をなさざるに至らしめたり

後病院船にて死体検察の際伝令の背部より摘出せる弾片
(片鐵榴弾にして最大幅約一寸五分長約二寸)の一端には
此の笛の真鍮片付着しあり
其の部分亦此の破口と同じく一致するを発見したり」

匝瑳が船橋で伝令に確認を取っていたところ、
飛来した弾片が匝瑳の手にあった笛をもぎ取って、それが
目の前にいた伝令の喉に突き刺さり、彼を死亡させたというのです。

その後、彼の遺体を検視したところ、喉からは笛が、そして
背中から摘出された弾丸には、写真で確認できる吹き口の金属の
「欠けた三角形の部分」が張り付くように付着していたのが見つかりました。

「三河丸」の戦死者は1人ということなので、この伝令が
四等機関兵姥谷常次郎であることは間違い無いと思われます。

 

さてここで、匝瑳胤次という海軍軍人についてわかったことを書いておきます。

大阪の堺市に士族の次男として生まれた匝瑳は、海軍兵学校26期で
野村吉三郎(大将)小林躋造(大将)清川純一(中将)の同期でした。
ただし野村(2番)や小林(3番)と違い、彼の成績はかなり下位
(59人中56番)だったそうです。

それでも閉塞作戦を当時基準で「成功」させ乗員を連れて帰ってきた、
という実績は、その後の出世に大いにプラスになったと見え、
主に艦長職畑を歩き、最終階級少将にまでなっています。

予備役となってから著作家として活発に活動を行い始めましたが、
ちょうどそのころ、世論を二分したロンドン軍縮条約に対する見解で
彼は軍縮反対の立場をとり、昭和7年には

「深まりゆく日米の危機」

という著書で世間にその持論を訴えました。

時流に乗った匝瑳の軍縮反対論は大衆に受け入れられ、彼の著書は
1ヶ月で18版を重ねる大ベストセラーとなったといいます。

 

しかしこのとき、軍縮を受け入れ軍備撤廃すべきであると訴えた
「条約派」のなかに、偶然にも匝瑳の海軍兵学校のクラスメートがいました。

それが水野広徳(卒業時ハンモックナンバー24番)という人物でした。

偶然といえば、この人もやはり海軍軍人をやめた後文筆家になったのですが、
そのきっかけというのが、旅順閉塞作戦に参加した記録をまとめ、それが
全国紙に掲載されたことから文才を認められたことだそうですから、
匝瑳と同じく旅順港が彼の人生を変えたといってもいいでしょう。

その後彼は軍令部の軍史編纂室で日清・日露戦争の部分を担当し、
このこともその後文筆業に進みたいという動機となりました。

そして、偶然というのが歴史の皮肉とでも言うのか。

閉塞を成功させ「三河丸」から短艇で脱出した匝瑳らを救出したのは、
当時水雷艇長として作戦に参加していたこの水野だったのです。

海軍時代の水野広徳

彼はなかなか興味深い人物とその著作なので大いに寄り道します。
水野は第一次世界大戦参戦帰国後、加藤友三郎海軍大臣に

「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして
戦争を避くべきかを考えることが緊要です」

と報告するなど、平和主義者として反戦論を説きました。

その後、軍人に参政権を与えよと書いたことが海軍刑法に触れ、
謹慎処分となってしまったので、執筆活動にはいることを前提に退役し、
評論家としての道を歩み始めたのでした。

そして、仮想の日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した
『新国防方針の解剖』を発表します。

また、リアルな日米仮想戦記『海と空』(昭和5年)では
東京空襲が行われた場合の惨状を、

「逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦 乱離混交 悲鳴の声」
「跡はただ灰の町 焦土の町 死骸の町」

とみごとに「予言」しているのです。

当然彼は情報局から睨まれ、執筆禁止者リストに入れられるわけですが、
アメリカは早くからこの人物の著書を手に入れ、研究していたらしく、
終戦間近の昭和20年、米軍機より撒かれたビラの内容は、驚くべきことに
水野の著作の一部をまるまるコピーしたものだったと言われています。


つまり偶然、閉塞作戦で助け助けられる側になったこの二人が、
軍縮という一点においては敵味方の陣営に別れることになったわけです。


反戦・平和主義で当局から睨まれた水野は、不遇のうちに世を去りました。
しかしながら戦後平和主義者として一部からとはいえ偉人化され、
その反骨精神と思想を讃えられています。

キャッチフレーズは「戦争に反対した帝国軍人」。

一方匝瑳胤次の方は、大東亜戦争遂行のための言論統制を担当していた
情報局の指導のもとに設立された大日本言論報国会という、戦時下唯一の
評論家団体に属し、軍部の庇護のもとで戦争遂行キャンペーンを行いました。

知名度を利して東京市議会議員なども務めるなど、大いに時流に乗り
終戦までは「我が世の春」を謳歌したと思われます。

しかし終戦の昭和20年を最後にぱったりと彼の著書発行暦は途絶え、
その後逝去する昭和35年まで、彼がどういう人生を歩んだのかは
少なくとも調べた限りではどこにも見つけることはできませんでした。

 


ここで、まとめとして、のちの世間的な評価でいうところの
第三次閉塞船における指揮官の「ヒエラルキー」、つまり
「偉い順番」を表にしてみました。

ーーーーー軍神(別枠)ーーーーーーーーーーー

廣瀬武夫

ーーーーー英雄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「朝顔丸」向少佐   中止命令を知っていたが再反転して戦死、全滅

「江戸丸」高柳少佐 中止命令を知っていたが再反転 指揮官のみ戦死

「相良丸」湯浅少佐 中止命令を知っていたが再反転して指揮官戦死(捕虜になり自死)

ーーーーー普通の英雄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「小樽丸」野村少佐 中止命令が届かず突入して指揮官戦死

「佐倉丸」白石少佐 中止命令届かず、突入し閉塞後陸で交戦、捕虜になり病死

ーーーーー普通ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「愛國丸」犬塚大尉 再反転、作戦後端艇から投げ出されるが生還

「遠江丸」本田少佐 命令を知っていたが再反転 作戦後生還

「三河丸」匝瑳大尉 命令知らずに突入 作戦遂行後生還

ーーーー超えられない壁ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「新発田丸」遠矢大尉 反転しようとするも発動機故障で帰還

「釜山丸」大角大尉 発動機の故障 隊員を説得して帰還

 

「小倉丸」福田少佐 指揮官命令を遵守 帰還

「長門丸」田中少佐 指揮官命令を遵守 帰還

 

続く。

 

 

第三次閉塞隊員慰霊碑〜旅順港閉塞戦記念帖

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お話ししてきた昭和2年発行の「旅順閉塞作戦記念帖」シリーズ、
全部隊について説明を終えたところで、最終回の今日は
記念帖に掲載されたその他の写真についてあますところなくご紹介していきます。

まず、冒頭の絵画ですが、当時の白黒写真で撮られているのは、
忘れもしない、舞鶴地方総監部の見学の際、大講堂で見たあの絵です。

これが今現在の同じ絵画。

第二次閉塞作戦で閉塞船「福井丸」を自沈させる直前、姿の見えない
杉野孫七兵曹を探して船内に戻ったものの、ついに捜索を断念した
廣瀬武夫海軍少佐が今から端艇に乗り移ろうとしているシーンを描いたものです。

この絵に緊迫感を与えているのは、この直後に爆死する
廣瀬少佐は舷で部下が先に端艇に乗り移るのを見守っており、
その姿は闇に溶け込んではっきりとしていないことでしょう。

誰もが知る物語だからこそ決定的な表現をあえて避け、
見るものの空想にその後を任せたという表現方法は、
別の言い方をすると、戦後の進駐軍を含む軍事色追放の中でも
「見逃され」、後世にその姿を残すことができた理由かもしれません。

そのことは、かつて省線万世橋駅のたもとにあった廣瀬中佐と
杉野兵曹の像が昭和22年には撤去されたという事実を思うと
あながち間違っていないのではないかという気がします。

昭和2年の記念帖の解説には、

旅順閉塞大油絵額

海軍機関学校所蔵のものにして額縁は蠣殻の附したる
閉塞船船材を以て造られあり。

(原版 海軍機関学校寄贈)

とあります。

わたしが見学した時、案内してくれた自衛官は、この牡蠣の付着した木材が
廣瀬中佐の「福井丸」のものであると断言していたのですが、
この記念帖ではただ「閉塞船」とだけ言及しています。

額縁の一部には、当時船体に使われていた金属の留め金も残されています。

わたしが見学に行った舞鶴地方総監部にはむかし機関学校があり、
大講堂は機関学校のものであったということから、これはずっと
ここにあったと思われます。

「原版海軍機関学校寄贈」

所蔵、ではなく寄贈なので、ちょっと意味がわからないのですが、
原版は機関学校が持っていて写真を寄贈してくれた、
という解釈でよろしいのでしょうか。

もう一つ当時の写真と現在のを比べてみると、黒い金属が
記念帖の写真では絵の上部に見えるのに、今のは下にあるとか、
蠣殻の付着状態が両者で全然違っているとか、相違点があります。

現在は昔の額を額ごと新しい木材で装丁しているので、
もしかしたらその作業の段階で修復が施されたのかもしれません。

第三艦隊下士官兵第三次閉塞参加志願書綴

伊集院第三艦隊参謀の集めたるものにして
大正14年5月27日 皇太子殿下水交社に行啓の際
天覧に供し尚還啓(行啓先から帰ること)の際
特別の思し召しに依り東宮仮御所に御持ち帰られ
皇太子妃殿下の尊覧にに供せられたるものなり。

写真の左半に示せるものは血書なり。

(伊集院海軍少将未亡人寄託
本校参考館所蔵)

第三次閉塞には募集人員に対して多くの志願者が
血書をもって参加を希望してきたことは、
以前当ブログでも書いたことがあります。

志願のため血書をしたためる水兵さんを描いたものですが、
意気込みのあまり椅子から立ち上がって中腰になっています。

当ブログが以前調べたところによると、応募者二千人の中から選ばれたのは77人。
そういえば帝国海軍が生まれてから終戦で終了するまでのあいだに
「海軍大将」は全部で77人でしたよね。
海軍兵学校も77期まででしたし・・・。

でっていう話ですが。

写真の志願書は、まず右側に

平遠艦長 海軍中佐 浅羽金三郎殿

とあります。
志願書を軍艦の艦長に直筆で送ってなんとかなったんでしょうか。

「平遠」は名前からもわかるように、日清戦争で降伏し、
日本海軍に接収後編入されていた装甲巡洋艦です。

「平遠」は旅順港閉塞作戦にも参加し、その後、
旅順攻略戦において哨戒からの帰投中触雷し、沈没しました。

Kinsaburo Asaba.jpg

艦長であった浅羽金三郎中佐はこの沈没で戦死し、大佐となりました。

左のページは血書で認められているということですが、
血書にしては線が妙に安定?しているので、もしかしたら
上の図の水兵さんのように指を切って直接書くのではなく、
ザックリと思いっきりよく切ってどこかに貯めたものを
筆で書いたのではないかと思われます。いたたた・・・。

右者?隻決死隊募集之有候ニ付テハ
決死心ヲ以テ志願仕(つかまつ)リ度候間??
許可相成度??奉祈願上候也

決死者 (住所)高澤善太郎

時々全く解読不明な文字があるのですが、とにかく、
「決死者」として参加を熱望していることはわかります。

高澤善太郎さん、果たして77名の閉塞メンバーになれたのでしょうか。

閉塞後退去するために端艇に乗り移るも、
いつの間にかその姿が失われていた、「相模丸」の指揮官、
湯浅竹次郎海軍大尉の出発前の遺書です。

湯浅少佐

閉塞決行の前日にしたため、家族に送られた遺墨には
こうあります。

古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト
今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス 武士ノ面目之ニ過ギズ

願エレバ最早人事ニ於テ缺クル事なし 
天佑を確信し笑を含んで死地に投ず 愉快極まりなし

三十七年五月一日 

相模丸指揮官 海軍大尉湯浅竹次郎

前半がカタカナ送りで後半が平仮名になっていますが、
これには何か意味があったのでしょうか。

湯浅少佐が使用していた双眼鏡です。
買ったばかりであったのか、本体はまだ光沢を放っており、
ケースも全く経年劣化は見られません。

旅順開城となってから、さっそく閉塞作戦の痕跡の検証が始まりました。
この写真は旅順鎮守府の機関長」が撮影したと説明があります。

右上に見えている水路が旅順港口で、

1 報国丸

2 米山丸

3 弥彦丸

4 福井丸

「弥彦丸」と「福井丸」の間には

5 露国船舶

が沈んでいる、ということです。

なお、不鮮明ですが、福井丸の左に見えているのは
史実によると「千代丸」のはず。

同じ場所を少し角度を変えて撮ったもの。
弥彦丸の右側に小さな船がいますが、煙突から煙が出ているので
航行中の日本船であろうと思われます。

 

ほぼ海抜0地点から撮られた閉塞の状況写真。
こうしてみると、「米山丸」が最も閉塞に成功しているように思えます。

旅順開城当時、現地を見聞して行われた報告をもとに制作された
旅順港閉塞状況の模型です。

構内の軍艦は敗残の敵艦隊にして
港口付近に沈没せる多数の汽船は
壮烈なる我が閉塞船並びに
我が閉塞を妨害するの目的を以て
敵自ら沈置せる船舶なり。

この模型は開城後早速設置されたらしい旅順水交社が制作し、
その後海軍兵学校に寄贈されたということです。

実際の閉塞作戦においてもしこれだけの船が港口を塞いでいたら
旅順艦隊はしばらくの間外に出ることはできなかったでしょう。
しかし説明のように湾内にはロシア艦隊の艦が結構な数放置されていました。

開城後、旅順にはこの模型と同じ閉塞隊の記念碑が建てられました。

旅順に於ける第三回閉塞隊記念碑

第三回閉塞隊戦死者の遺骸を露軍が埋葬せし跡に
久保田金平氏の設置したる記念碑にして
同氏は多年旅順に在りて我が戦死将卒の忠魂を
慰籍するに心力を盡(つく)し毎年祭典を行えり。

「慰籍」という言葉から、詳細はわかりませんが、
この久保田という人は、現地にロシア軍が埋葬していた遺骸を荼毘に附して
内地の故郷に送るというような事業をしていたのかもしれません。

模型は旅順水交社から海軍兵学校に寄贈され、
教育参考館に所蔵されていたそうです。

模型右側の木札にはこのように記されています。

此の記念碑は我が旅順閉塞舩隊員の
壮烈無比の行動に対し 露軍が潔く感動し
その戦死者を厚く葬りたる跡に建てられたるものにして
碑は閉塞舩朝顔丸のプロペラーの一般を用い
その礎石は閉塞舩に搭載しありたるバラスト用石塊なり

説明はありませんが、記念碑の周りに立てられた砲弾も
実物であろうかと推察されます。

ロシア軍が廣瀬武夫海軍中佐の遺体を収容し
立派な葬礼で葬っていたということは、
この記念帖が発行された昭和2年ごろにはわかっていなかった事実です。

 

旅順港閉塞船記念帖シリーズおわり

 

 

映画「Uボート」〜"Mußi denn (別れ)”

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ついにこの映画を取り上げるときがやってきました。

「Uボート」。

なんと公開されたのは1981年、もう40年近く前のことになります。

わたしは当時そんな映画が公開されていたことすら知らなかったのですが、
当時は世界中で大ヒット(といってもハリウッド的なヒットではなく)し、
外国映画が流行るのが稀といわれるアメリカでも、場所によっては
映画終了時に観客が立ち上がって拍手したというくらい評価されました。

戦争映画の枠を超えて、「一度は観るべき映画」として名前が上がることもあります。

わたしもこの世界に足を突っ込んでから初めて観た映画ですが、
まず40年前の映画だというのに古さやチャチさを全く感じません。
そして戦争映画なのに何度も観たくなる作品の一つです。

それでは先も長いことですし、さっさと始めましょう。
映画は第二次世界大戦中のUボートが大西洋に次々と出撃し、
4万人のUボート要員のうち3万人が帰らなかった、という
英語の字幕から始まります。

本作はもともとドイツ製作のドイツ映画ですが、日本で配布されているのは
コロンビアピクチャーズのタイトルとなっています。

日本人はドイツ語を字幕で観ることになんの抵抗もないのですが、
アメリカ人には字幕を読む習慣がないため、ドイツ語の他に
アメリカ配給向けに英語バージョンがわざわざ制作されているのだそうです。

撮影は同じシーンをドイツ語と英語で繰り返して撮っていくという
なんとも手間のかかる方法で行われたのですが、出演者は全員が
英語が堪能だったため、吹き替えなしで行われました。


映画の原作は、実際にU-96に乗り組んで取材を行った小説家、
ロータル=ギュンター・ブーフハイムの小説がもとになっています。

ブーフハイムは映画で海軍報道班員のヴェルナー少尉がやっていたように
写真を大量に撮りまくって記録を残したそうですが、映画化にあたっては
それらの五千枚におよぶ写真をもとに模型が作られ、撮影に使用されました。

 

さて、そこで映画が始まるわけですが、字幕の後、画面が緑色になって
いつまでも変わらないので、CDに不具合があるのかと思ってチェックした途端、
前に観た時も同じ勘違いをしたことを思い出しました。

延々と続く緑の画面から微かに潜水艦のソナー音が聞こえてきて
鯨のような艦体が海中を横切り「Das Boot」というタイトルが現れて映画は始まります。

Uボートがラ・ロシェールから出撃する前夜、壮行パーティが開かれました。
画面手前が本作の主人公でありUボート艦長(役名)です。

演じたユルゲン・プロホノフ(ロシア系?)は、自主映画に出ていた俳優で、
この映画をきっかけに有名になりその後はハリウッド作品にも出ています。

映画のヒットにより監督のヴォルフガング・ペーターセンも
その後ハリウッド映画に進出を果たしました。

士官クラブへの道中、車の前に水兵が立ち塞がり、
すっかり泥酔状態でメルセデスのボンネットをバンバン。

「ボーツマン(乗員)だ」

艦長は全く動じず、道端に並んだ後水兵たちの「水の放列」に見舞われても
平然とメルセデスのワイパーを動かして進みます。

ちなみにこのシーンでは背後から仕込まれたホースが使用されました。

右は艦長と付き合いの長い機関長。
役名は L.I. (Leitende Ingenieur)。
”Leitende”は「主任」 Ingenieurは「エンジニア」で機関長です。


艦長は劇中「ヘア・カーロイ」と呼ばれていますが、
「カーロイ」は「カピタン・ロイテナント」の略でドイツ海軍の慣習です。

艦長はドイツ語のwikiによると、「Der Alte」が役名となっています。
意味は「老人」ですが、ドイツ軍でも艦長を「オヤジ」と呼ぶ慣習があるのでしょう。

左はこの映画の「観察者」であり、原作者がモデルと思われる、
報道班員のヴェルナー少尉。

(わたしの予想によると予備士官で大学は文系、専攻はドイツ文学)

世界中から突っ込まれていた映画「ミッドウェイ」のオフィサーズクラブと違い、
ここは士官ばかりで下士官兵はおりません。
士官なのに(いや、士官だけだからか)皆だらしなくベロンベロンです。

ここに来ている潜水艦野郎たちの多くが明日出港を控えています。

テーブルクロスを引っ張り卓上のものをぶちまける狼藉を働いていたのは
U96の次席士官、 Wachoffizier (II. WO)。

んー?ワッチって英語ですよね。
帝国海軍で当直は「ワッチ」はそのまま使われていたけれど、ドイツもなのか・・。

艦長を見ると慌てて敬礼をして(帽子かぶってないのにいいのか)

「ヘア・カーロイ!」

そうかと思えば踵をカチーン!と合わせる挨拶をしたこの士官は、
クラブだというのに仕事モード全開で

「報告します。燃料弾薬食料補給を終わりました」

「ご苦労」

「まだあります。
ここに来る途中、ひどい目に遭いまして・・
つまり・・あの・・ある者が」

それは酔っ払い水兵たちの『散水車』ですねわかります。

全く冗談の通じなさそうなコチコチのヒトラーユーゲント上がり、
先任当直士官の役名はI WO(Erster Wachoffizier)。

ここで、場内に古株のサブマリナー、トムゼン艦長(大尉)が紹介されます。
トムゼンのUボートは昨日哨戒から帰ってきたばかりで、
彼はその哨戒実績に対し騎士十字章を授与されたのでした。

しかし、煮しめたような汚らしい帽子を被って咥えタバコ、
泥酔状態でスピーチとは名ばかりのクダを巻き、

トイレの床(自分の吐瀉物のうえ)に撃沈。きったねえええ!

ちなみにこの撮影の時、トムゼン役の
オットー・ザンダーは本当に酔っ払っていたそうです。

「ブンカー」とドイツ語でいうところの潜水艦基地のあったのは
フランスのラ・ロシェルで、この歌手もフランス人です。

明日出撃で荒れ放題の男たちがスカートをめくったり水をかけたり、
無茶苦茶するので、多少のことは馴れている彼女もかなりキレ気味・・・。

トムゼン大尉にもモデルらしき実在の人物はいるそうですが、
実際のU-572の指揮官であるハインツ・ヒルザッカーは勲章を授与されたことはなく、
それどころか敵の船を繰り返し避け、敵前逃亡の罪で有罪判決を受け、
死刑が執行される前に自殺しちゃった人なんだとか・・。

それってつまりモデルっていわないんじゃないかって気がしますが。

場面はいきなり変わって翌朝。
ラ・ロシェールのUボートブンカーでは出港準備がはじまっています。

この潜水艦基地はフランスを占領したドイツ軍が建造した本物のブンカーで、
ノルマンディ上陸作戦後、他の都市が開放されていく中、ラ・ロシェルは
最後までドイツ軍が保持した場所の一つでした。

最後に連合軍による包囲作戦が行われています。

昨夜と同じ並び方でやってきた艦長、機関長とヴェルナー中尉。

本物の潜水艦基地に浮かんでいるのは実物大の模型?
トリビアによると、これも小型模型である可能性はあります。

艦長乗艦・・・・ですが、サイドパイプは鳴りません。

潜水艦の艦橋には笑うノコギリザメのマークがペイントされています。
これと同じ実物のマークやバッジをわたしはボストンの博物館で目撃しました。

このマークもU96のものですが、実際のU96の行動と映画で描かれた
この潜水艦の行動とは全く違っているそうです。

U96は、11回の戦闘行動の間も撃沈されず帰還した強運艦でした。

わたしがこの映画の好きなシーンベスト3を挙げるなら
必ず入れたいのが出港前の艦長と乗員の無言の対面です。

あまりに好きすぎて今日の冒頭イラストに艦長のその時の表情を描きました。

ノーカット版ではこのときヴェルナー少尉が隣の(多分)機関長に
大演説が始まるぞ、と耳打ちされるんだとか。

乗員たちの表情からは昨日の自暴自棄な様子はすっかり消えています。

艦長は乗艦してくると整列している乗員の前を歩いて
一人ひとりの目を見るその口元には微笑みの影すら・・・。

その自信に満ちた表情を見るうち、体の中から湧き上がってくるように
表情に昂揚が滲んでくる次席士官・・。

「Na Männer」(では諸君)「Alles Klar」(いいか)

「Jawohl!  Herr Kaleun!」(はい、艦長どの!)

そこであらためて従軍記者としてヴェルナー中尉が紹介されます。

「ドイツ中に報告されるぞ」(字幕では逐一報告されるぞとだけ)

ブンカー跡はそのまま使えますが、映画撮影当時はCGなどという魔法はまだないので、
映っては都合の悪いものは隠すしかなかったそうです。
その手段の一つが「煙」だったそうで、おそらく手前の砂利の下にも
1940年代には存在しなかった「何か」があったのに違いありません。

「アウフヴィーダーゼーン!」

という言葉が飛ぶ中、軍楽隊が演奏しているという設定の曲は、
ドイツ民謡の「別れ」という曲で、日本では学校で歌うこともあります。

♫さらば さらば わが友

しばしの別れぞ 今は

さらば さらば わが友

しばしの別れぞ 今は♫

ドイツ語の歌詞の最初が"Muß i denn"なので、
「ムシデン」とも呼ばれるこの歌がドイツ海軍の「蛍の光」に当たるんですね。

敬礼をしている軍人もいますが、ほとんど皆手を振っています。
日本軍なら「帽振れ」をし、アメリカ軍なら敬礼をして整列しそうですが、
ドイツ海軍、こういう時には案外ラフなんだなと思ったり。

そういえば、艦内での格好もセーターを着たりして結構いい加減です。

ところでこのシーンで艦橋の艦長の隣に結構いい歳のおじさんが見えますが、
この後のシーンには二度と出てきません。

もしやどうしてもどこかに出演したいとごねたスポンサー?

出航の引きのシーンを見ていると、一台の黒塗りの車が埠頭をやってきて、
その右側のドアが開き、一人の人物転がり出てくるのがわかります。

昨日泥酔していたトムゼン大尉でした。
一晩寝て復活したんだね。
寝坊したけどシャツは新品を着込んでいます。

まず両手バイバイで

「無事に帰還するんだぞ!」

そして敬礼を送るのですが、一つため息をつき、

こーんな表情に・・・。(´・ω・`)

乗艦したお客様であるヴェルナー中尉にボーツマン(Bootsman掌帆長、
wikiでは「兵曹長」となっていますが、ここは海軍なので)が
艦内ツァーを行い、ついでに観客にもUボートの案内をしてくれます。

「食料格納庫だ」

と説明しているような字幕になっていますが、ドイツ語では

「魚雷発射管の近くに食料を貯蔵する」

というようなことを言っているように聞こえます。

五十人の艦内にトイレは一つ。
士官も同じところを使ったのでしょうか。

掌帆長である彼には「部屋」があると説明されますが、士官と同じく
部屋といっても独立したものではなくせいぜい「コーナー」です。

潜水艦の「司令室」、英語のコニング・タワーでは
掌帆長の記念写真を。

巨大な肉の塊を吊るしているのにヴェルナーは目を見張ります。

ソーセージの暖簾をくぐれば下士官室。
わたしが「ウンターオフィツィーレ」という言葉を理解できたのも、
オーストリアの軍事博物館について調べたおかげです。

というか、ベッドの上に何も敷かないでパン並べてるんですが・・・。
きったねえええ!

ここで十二人の下士官がベッドを二人で一台使う、という
一部世界の潜水艦業界では常識となっている「ホットベッド」システムが
紹介されて、映画公開以降一般に膾炙していくことになります。

「非番のものがベッドを温めておくってわけさ」

と説明されている間、ヴェルナー少尉はいかにも嫌そうな顔をしていますが、
自分だけは一人でベッドを使わせてもらうことがわかり、ホッとした表情に。

しかし、下士官の寝室でこの温室育ちっぽいヴェルナー、耐えられるのか?

下士官室の後ろが厨房、そしてその奥には・・・

「幽霊のヨハンがいる」

いつも機関室にいて外に出ないので幽霊のように色が白い機関兵曹長。
ちなみに映画の撮影においては、潜水艦員らしさを出すため、俳優は
撮影期間中できるだけ陽に当たらないよう室内に閉じ込められていたそうです。

だからこの海上での撮影は彼らにとって嬉しかったんじゃないかな。
ワッチする隊員の写真を撮りまくるヴェルナー少尉。

まだこの頃は気力も体力もあるので張り切っています。
そんなヴェルナーを皮肉な表情で眺め、艦長が一言。

「降りる時の隊員のために残して起きたまえ。
その頃には全員髭面だ」

映画の撮影は、俳優の髭の成長に合わせるため、時系列順に行われました。
これは普通の映画撮影にはあまりないことです。

しかし、どうしても後から撮り直しをしなければならなくなったとき、
制作は苦肉の策で髭をカットしたり元に戻して付け足したり、
この髭問題は結構なストレスを生むことになったとか・・・。

続いて艦長は、新聞に彼らの写真が載ったら全員子供で驚くから、
といい、こう付け加えるのでした。

「わたしは老人になった気分だ・・・。
皆母親の乳を飲んでるような子供十字軍だからな」

「少年十字軍」が、フランスでは奴隷として売り飛ばされた史実や
「ハーメルンの笛吹き」のイメージの意味で言ったのでしょうか。

この映画に描かれている士官はヴェルナーを入れて5人ですが、
本当はもう一人は士官が乗艦しているはずだそうです。

彼らの食事は決まったところで行われますが、通路にあたる
手前の二人は、人が来ると席を立って道を空けなければなりません。

この食事風景では先任当直士官の几帳面すぎるナイフとフォーク使いが
艦長始め士官連中すらも苛立たせている様子が描かれています。
(ただし、育ちの良さそうなヴェルナー少尉はそれに気づかず、
自分もフォークとナイフを使って食事をしている)

メキシコのドイツ人農園主の養子として育てられたことを
聞かれて答えたあと彼がワッチの任務のため席を立つと、
艦長は

「生真面目な男だ。愚直で・・凝り固まっている」

と居ない者を評論してみせますが、そのくせ次席が
下品な言葉で追従すると、

「それは言い過ぎだ」

食事を終えたヴェルナーが艦橋に上がろうとした途端、

「アラ〜〜〜〜〜〜ム!」

ドイツ語でも警報はアラームなんですね。
警報イコール潜水艦では注水、潜航です。

トイレに入っていたものはズボンも履かずに転がり出て配置につきます。

「全員前へ!」

Uボート名物「人間バラスト」になるべく前部に突入していく水兵たち。
掌帆長に怒鳴られながら狭い管内を転がっていき、前部で団子になります。

特にこれなどそれまでの潜水艦映画では描かれたことのない「潜水艦の真実」でした。

どうみても空母かせいぜい巡洋艦の広さの艦内で皆が天井を見上げている、
それがわりと多い映画での潜水艦内の描写だったのです。

ペーターゼン監督は、閉所によるストレスで精神をやられる潜水艦隊員が
実際にいたことから、撮影の際も俳優に同じストレスを与えるため、
あえてセットも極限まで狭くしたそうですが・・・性格わりー。

潜航していく艦内を緊張が支配します。
流石にお調子者の次席の顔もこわばっています。

そしてこれも潜水艦名物「何も見えないのについ上を見てしまう」

その様子にニヤリと笑い、

「訓練だ」

汗びっしょりになっていたヴェルナー少尉は思わず安堵のため息をつきます。

しかし、せっかくここまで来たのだからとついでに
耐圧テストを命じる艦長。

発令をする艦長の背後では、自分もビビっていたくせに、
シロートのヴェルナー少尉の怯える様子を見て楽しむ次席士官。

銀行員上がりだそうですが、なかなか性格が悪い。

限界を超えたら艦がぺちゃんこになるなどと手振り付きで
ヴェルナーをさらに脅かし、先ほど汗びっしょりで天井を見ていた乗員も
ヴェルナーが脅かされているのを見てニヤニヤしています。

ギシッと艦体の歪む音がすると

「水圧さ」(ニヤニヤ)

「わかってる」

こんどはゴゴーンと大きな音がして、ヴェルナーが次席を振り向くと
なぜか慌てて目を逸らし、思わず目を瞑ったヴェルナーを見てまたニヤニヤ。

 

ようやく艦長が命じた浮上命令にまたしても大きく息をつくヴェルナーを
こんどは掌帆長が向こうからニヤつきながら見ているのでした。

 

続く。

 

映画「Uボート」〜リスト作曲 交響詩「レ・プレリュード」

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映画「Uボート」、二日目です。

今更ですが、当ブログでは解説とツッコミと主目的として
映画をご紹介しているので、基本「ネタバレ上等」という態度です。

特にこの映画に関しては文字通りの微に入り細に入りになりそうなので、
映画をまだご覧になっておられない方は、その点ご了解を賜り、
あくまでも自己責任でお読みいただくことをお願いします。

 

さて、Uボートがラ・ロシェルを出航して一日が終わりました。

初めての夜、寝苦しくて目を覚ました報道班員ヴェルナー少尉は、
向かいのベッドのウルマンが手紙を書いているのに気がつきます。

ウルマンは駐留していた町の花屋のフランス娘と婚約しており、
彼女はすでに自分の子を妊娠している、と告白しました。

オリジナルの小説「ダス・ブート」では、ヴェルナー少尉について
もっと詳しく言及されていて、フランス人の恋人がいるのは
実はこのヴェルナーであり、レジスタンスだったとか・・。

ヴェルナーを演じたヘルベルト・グレーネマイヤーは、ドイツでは俳優より
歌手、作曲家として有名(誰でも知っているレベル)な人なんだとかで、
日本で言えば「戦メリ」のころの坂本龍一みたいなポジションでしょうか。

食事の時も相変わらずネクタイをビシッと締めている先任士官。

まるで解剖のように魚の骨をナイフとフォークで切り分ける先任に
当て付けるように、わざと行儀悪く食べる次席でした。

チャーチルをディスるドイツ本国のラジオ放送を聞きながら、

「そんな男に攻撃されてるんだ」

と艦長。
ところがそれに対し先任士官が生真面目に

「でも我々はやつを屈服させると確信します」

言い返すものだから、ただでさえイラついていた艦長、
彼に当て付けるようにさんざんナチ上層部の悪口を吐いた末、
「お前ティペラリーソングをかけろ!」と命じるのでした。

"It's a long way to Tipperari"(ティペラリへの遥かな道)

はイギリスで1917年作曲され、イギリス軍の愛唱歌になったことから
軍歌のような扱いをされており、現在でも人気があります。

間奏部に「ルール・ブリタニア」(ブリテンは世界を統べる)
が挿入されていますが、歌詞は極めて単純で、

♫ It's a long way to Tipperary, It's a long way to go.
It's a long way to Tipperary To the sweetest girl I know!
Goodbye, Piccadilly, Farewell, Leicester Square!
It's a long long way to Tipperary, But my heart's right there.

♫ティペラリへの道のりは遠い そこには素敵な彼女がいる
ピカデリーよ、ライチェスター広場よさらば!
ティペラリへの道は遠いが 私の心はそこにある♫

「俺たちイギリス兵かよ!」

もちろん節操のない兵隊たちはこれに大喜び。
コーラス部分の英語は簡単なので誰でも歌えます。

「ヒトラーユーゲント青年隊長」に敵国軍のの愛唱歌をかけさせる艦長って一体。
というかなんでそんな曲がUボートにあるんだって話ですが。

なんかわかんないけど僕も歌っちゃう〜♫

おっと一人だけ歌ってない人が(笑)

そこで思い出すのが先日ご紹介したアメリカの潜水艦映画「眼下の敵」。
あの時はアメリカ軍に聞かせるためにUボート艦長がかけたのは
「デッサウアー」というドイツ軍歌でした。

「眼下の敵」は1954年作品ですから、「Uボート」が
「ドイツ軍がみんなで歌って元気になるシリーズ」の元祖として
このシーンを参考にしなかったはずはありません。

睨み合っている敵に聞こえるように大音量で音楽を鳴らす、
というサプライズがあの映画にはありましたが、こちらは
敵の曲を歌って盛り上がるという(観客への)サプライズです。

そういえばあの映画もナチス嫌いの艦長に、部下には一人
コチコチのヒトラーユーゲント上がりがいましたっけ。

ヴェルナー少尉にとって、艦内生活のもっとも辛いことは
もしかしたら下士官と寝室が一緒であることかもしれません。

寝ているものがいてもお構いなしに大声で騒ぎ、節操なく盛り上がる。
しかも、インテリで育ちの良い彼には何が面白いのかわからん下品なネタばかり。

もうこんな生活イヤ・・・・。

そんな艦内の穢雑さを象徴するかのようにデーニッツの写真を徘徊するハエ。
(とそれを眺めるヴェルナー少尉)

澱んだ空気が人の思考能力も奪っていくようです。
新聞のクロスワードをしている機関長が

「体を洗う場所・・・三文字」

「BAD」

「・・・ダンケ」

風呂場という言葉すらすぐ出てこなくなるのか、やる気がないのか。

「くだらない遊びです」

いやまあそうなんですけどね。
相変わらず空気読まんやつだな。

しかし原作ではヴェルナー少尉が皆から嫌われる先任士官の日記を読んで、
彼の「真実」を知り尊敬するに至るというサイドストーリーがあるそうです。

あー、それ映画でもやって欲しかったな。
ノーカット版ではあったりするのかしら。
(実はわたし先任士官の隠れファン///)

エニグマで送られてきた暗号をデコードし艦長に渡す。
次席士官、ちゃんと仕事してるじゃん。
この人のドイツ語はパリッパリのベルリンなまりなんだそうですよ。


ちなみにこのシーンで出てくるエニグマにはローターが4つ見えますが、
このころ(1941年)には海軍はまだ3ローターを使用していました。

エニグマ受信機についての蘊蓄にかけてはこのわたし、
ボストンの第二次世界大戦博物館で実物を見てるのでちょっとうるさいよ?

電文を受け取るなりチャートに向かいコンパスを使いだす艦長。

敵の護衛船団を発見したというU37からの電文ですが、
現在艦位からは遠すぎです。

「くそ(Scheiße)!」

はい、ドイツ人の生(なま)シャイセいただきました〜!
機関長イライラしすぎ。

これってあれかしら、出航の日に奥さんが出産で入院したのに
子供がどうも無事でなかったらしいことと関係あるかしら。

こちらそろそろ仕事でもすっか、と気力を振り絞り、というか
妙なハイテンションで写真を撮り始めるヴェルナー少尉。

魚雷にワセリン?を塗りたくっている魚雷発射室に突入し、
皆の迷惑そうな顔もものともせず写真を撮りまくり。

こんな鉄火場みたいな現場、入るのも憚られそうですが、
ヴェルナー少尉はそれが自分の任務と思っているのでお構いなし。

うわー、迷惑そうな顔^^と思ったら・・

本作ショッキングな場面ベスト3に入るべき名シーン。

「どこからともなく飛んできて顔に命中するウェス」

「あああああああ〜」

ああ・・あれ?さっきのコマと汚れてる場所が違う・・。

「誰だ」「誰がやった!」

ミナシランプリー

右側で顔を逸らしてる奴が怪しい。

というわけでヴェルナー少尉にとってはさんざんな一日が暮れました。
まあ、暮れようが明けようが、潜水艦の中なんで関係ないですけどね。

いざとなる瞬間までは暇なのが潜水艦生活です。
艦内で筋肉を鍛えるのが趣味の下士官、フレンセン。

彼と下品なジョークを言い合うコンビの片割れ「ピルグリム」。

花屋のフランス娘を妊娠させてしまったウルマン君は少尉候補生です。

「Liebe Françoise, ma chère amie!」
(愛するフランソワーズ、僕の親愛なる恋人)

ドイツ語とフランス語の混じった出だしで手紙を書いています。

こちらは日記を書きながら寝てしまったヴェルナー少尉。

「出航して二十日目。(中略)悪臭の中で発狂寸前だ」

臭いはつらいよね・・・お察しします。

翌朝、見張りが艦影を発見し今度こそマジの警報が鳴り響きました。
ただちに潜望鏡の深さまで潜航する命令が下されます。

「スクリュー音・・・遠ざかりました」

しかし艦長は大事をとって潜航を続けることを決定。

「兵士は内面もしっかりと磨かねばならない!」

真面目士官先任がウルマン候補生に「士官心得」を伝授している横で、
次席士官はヘラヘラしながら、レモンを絞って
そこに缶のミルクを入れるという不味そうなカクテルを作り、

「Uボートカクテル・・飲みます?」

ミルクとレモンで凝固しているんですがそれは。

先任の空気読まない堅物さもさることながら、次席の
この無神経な脳天気もそれはそれで苛立たせられるもの。

つくづく潜水艦って人との調和が必要な職場です。

しかし機関長はまたしてもそこにいない先任士官の悪口を・・。

「あいつは出世間違いなしだ。いい気分で講釈たれやがって」

そしてニュースのテーマソングらしきリストの交響詩「前奏曲」が流れてくると、

「消せ!」

とやつあたり。

「物静かで穏やか」なんてキャラ説明と全然違うじゃないですかー。

「(なんなんだよ・・・)」

しかし次の瞬間、艦内が一転急に活気付きました。

「U32から連絡があった!イギリス船団を発見したとな!」

これから前進全速で現地に急行すると聞いて、艦内に歓声が湧きあがりました。
まさに水を得た魚、暇なときとは皆別人のようです。

「30隻以上いるそうだ!俺たちが着くまで待ってろよ!」

まるで魚群を見つけた漁師のようにはしゃぐ艦長。
艦橋で潮水をシャワーのように浴びながらも興奮して、

「俺はUボートが本当に好きだ」

そして、ついでに自分がかつて帆船に乗っていたこと、
帆船は美しく中は教会みたいに広い、などと
意気揚々といった感じでヴェルナーに語るのでした。


しかし、予定時刻となっても船団の影は見えず、
天候は荒れ模様でU32からの連絡もありません。

調音して海中から相手を探すために潜航することにしました。

頼みは調音長の耳だけです。

「艦長、弱い反応が」

「爆雷だ・・・・砲撃している」

艦長は浮上して対船団戦を行うことにしました。

機関室はフル稼働。
「幽霊」のヨハンはエンジンに直接「調音」して調子を確かめます。

海上には船団はおらず、よりによって駆逐艦の艦影が認められました。
こちらに向かってやってきます。

急速潜航して潜望鏡で駆逐艦を捕らえようとする艦長。

機関長は二人の操舵員の肩に両手を置いて、
あたかも合図を与えようとするように待機の姿勢。

「戦闘用意!」

「駆逐艦と戦う気だ・・どうかしてるよ」

「(えーそうなのー?)」

魚雷を発射するために艦の角度を慎重に設定します。

「発射口開け!」

二人の発射員以外はすることがないので皆ベッドに座って見ています。
魚雷の発射準備がなされると艦内の電気が消えてブルーのライトだけになりました。

この沈黙の時間何故か無駄にアップになるフレンセン。

「見失った」

艦長が駆逐艦の艦影を求めて潜望鏡を回していくと・・・

でえたあああ〜!

爆雷クル〜!

(それにしても模型丸出しなどと言わないように。1982年作品です)

最初の爆雷の洗礼を受けたヴェルナー少尉をごらんください。

しかし百戦錬磨の艦長はうっすらと微笑みさえ浮かべて

「潜望鏡を見つけたんだな。この天気なのに」

「ここからが心理戦だ」

小声で送られる情報に間髪入れず艦長は指示を出していきます。

「潜航する。艦首15下げ艦尾10上げ」

「これくらいで慌てるな。落ち着け」

頭をぶつけて血を流しながら泣いているこの人、
「Bibelforscher(聖書研究家?)」というあだ名です。

「高速で敵艦が近づいてきています」

「急接近!」

そこで艦長はもっと深く深度をとることを命令。
160mを超えて目盛りが赤のゾーン180mに突入し艦体は軋み始めます。

そのとき爆雷が降ってきて、艦のあちこちから浸水してきました。

深度を150に戻し浸水をなんとか止めたところで、
なんと別の艦が接近という情報がもたらされました。

どうなるUボート!

続く。

 

映画「Uボート」〜”J'attendrai”(待ちましょう)

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映画「Uボート」三日目です。

爆雷攻撃を仕掛けてきた駆逐艦が去っていったとおもいきや、
また別の艦が現場にやってきたらしいという調音長の報告に
絶望が走った我らがUボートですが、息を殺して待っていると、

なんと遠ざかっていくではないですか。
そして遠くで爆雷の音が聴こえました。

「22発目」

なんと爆雷の数をこの状況下でチェックしている人がいました。
いつも冷静な操舵長です。

浮上して暗視モード(赤灯に黒メガネ)で潜望鏡から捜索した結果、
とりあえずは近くにいないということが確認できましたが、
待ち伏せされている可能性を勘案し、潜航して時間を稼ぐことに。

とはいえ皆の様子にはわずかにほっとした空気が漂います。
音楽が流され、次席士官がめずらしく無邪気そうに

「好きな曲だ♫」

このとき士官たちが食べているのは
プディングにラズベリーを乗せたようなものです。
潜水艦の中なのにちょっとおしゃれなカフェデザート風。


その中でショックが解けずただひとり固まっているヴェルナー少尉でした。

緊張が解かれた艦内は早速下士官主催の
どんちゃん騒ぎで思いっきりハジけております。

どこにメイクの道具があったのかって話ですが、
このダンサーは、当時パリで絶大な人気があったダンサー、
「黒いビーナス」ことジョセフィン・ベイカーをオマージュ(笑)しています。

ちょっと見にくいですが、ちゃんとベイカーのお得意ダンスも取り入れて。
どうやって調達したのかミラーボール風照明まであってムード満点です。

ジョセフィン・ベーカー(1906ー1975) - 空の鳥これですわ

しかし水を指すようですが、「Uボート」原作者のブーフハイムは、
この映画を観たときに、

「本当のUボート乗員はあんな騒ぎ方はしないし、
後ろでそれを囃し立てて喜んだりしない」

と言い切ったそうです。

方や調音室に入り込み、深刻な顔の掌帆長。

イライラしながら帽子をかぶると、下士官バンクに向かって

「おい静かにしやがれ!」

警戒態勢でもないのになんなんだ?と兵たちが黙り込むと、

「5対0で負けた。準決勝は無理だ」

贔屓のサッカーチームが負けて八つ当たりかよ。

こちら医務室(というか医務官のいるところ)。
ゲラゲラ笑われながらパンツを脱いで診察を受けているのは
さっきまで頑張っていた操舵員(左)くんです。

戦闘中はずっとイヤフォンを聴き続けた調音長、
メディックを兼ねているので平時だというのにこのハードモード。
何が悲しくてシラミの発生した人の秘所を見なくてはいけないのか。

そこでなぜかシーンが切り替わり士官の食事がアップになるのでした。
なんなのこの肉・・・。

 

ここでまたしてもハイになったヴェルナー少尉、艦橋で大はしゃぎ。
感情がエスカレーターのようにアップダウンしております。

「あーっはっははは」「少尉、見張りを」「ナニー聞こえないー」

すぐにこうなるんですけどね。

大しけで艦内はこのとおりですが、

仲間の婚約者の写真を盗んでみんなでからかったりして皆元気です。

艦長など、この揺れでもコンパスを使える超人。
船団を追うのが不可能だと航海長に言われると途端に不機嫌に。

潜航して揺れが収まると皆床の上で
ごんずい玉みたいになって安らかにおやすみに・・。

そんな状態でも寝ないのが艦長と調音長。

そこで艦長は「音楽係」でもある調音長に「いつものやつ」
をかけさせるのでした

Rina Ketty - J'attendrai

艦長お気に入りというこの曲はシャンソンの「J'attendrai」、
待ちましょうというリタ・ケリーのヒット曲です。

潜水艦にとって「待つ」という言葉は特別の意味がありますが、
待つのが商売の歴戦の潜水艦乗りがこの曲を愛聴している、というのは
監督の洒落というか皮肉が効いた設定だと思われます。

そういえばこの曲は、ドイツ占領下のフランスで
「自由になる日を待ちましょう」という隠された意味を持って歌われ、
レジスタンスのテーマのようになっていたと聞いたことがあります。

アウシュビッツ収容所の音楽隊のために編曲していた囚人の女性は、
マスネの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の最初の部分がこの
「待ちましょう」に似ていることから、これをナチスのために
演奏するたびに内心快哉を叫んでいたと戦後告白しています。

このシーンにはナチスの海軍である艦長がレジスタンスの愛唱歌を愛している、
という二重の裏の意味が込められているのです。

一方「待ちすぎた」潜水艦乗員たちは夢の中・・。

事件発生。
悪天候下でワッチを行っていた乗員(艦長、次席、毛ジラミ、ピルグリム)
の一人が波にさらわれました。

落ちたのはワイ談コンビの片割れピルグリムです。

幸い海にではなく銃座に落ちたのですが、負傷です。

このシーン、実は元々の台本にありませんでした。
水の中にセットされた艦橋で撮影しているとき、ピルグリムを演じていた俳優、
ヤン・フェダーが手摺りを掴み損ねてが本当にセットから落ちたのです。
一緒に演じていた俳優がすぐさま「人が落ちた!」と叫ぶと、
監督は

「ヤン、それいただき!もう一回やってくれ」

しかしヤン・フェダーは脳震盪を起こし肋骨を骨折していたので、
落ちたシーンをそのまま維持し、脚本を書き直して
ピルグリムがベッドで寝ているシーンを付け加えたそうです。
フェダーは毎日病院から撮影所に通うはめになったとか・・。

おそるべし非情な監督魂(笑)

無茶しやがって・・・。

「ひどいもんだ」

ええ、映画監督ってだいたい酷いもんですよ。
スタントを使わせず俳優を怖い目に合わせたり酷い目に合わせたり、
実際に怪我させたりした監督なんて星の数ほどいますから。
負傷した俳優を病院から担ぎ出すくらいは良心的な部類です。

ってそういう話じゃない?

このあと次席が肉のカビを取る作業をしながら

「肋骨三本骨折、裂傷一箇所」

とピルグリムの怪我についていうのですが、これは
実際のフェダーの怪我について語っています。
レントゲンもないのに肋骨が何本折れているかなんて、さすがに調音長でも
音を聞いたくらいでそこまで診断はできないはずです。

機関長は写真を眺めて物思いにふけっています。

髭面のヨレヨレである現在からは別人のように男前の機関長と
それにふさわしい金髪美人の奥さん。

「何年も雪を見ていない」

メンバーは雪の故郷に思いを馳せるのでした。

次のワッチでなんと別の潜水艦発見。

物凄いドルフィン運動です。

この撮影は実写プラススクリーンかな。

艦長が出てきて興奮気味に「トムゼンの艦だ!」
なんと、涙ぐんでU 96を見送っていたトムゼン大尉のUボートと
大西洋で遭遇するということに。

「どうなってんだ!」

発見したときには大喜びして(かのように見え)発光信号で
「健闘を祈る」などと通信していたのに、
艦橋から降りてきた艦長、むっちゃ不機嫌に。

「だだっ広い大西洋にUボートが1ダースいて
なんでそのうち2隻がこんな近くにいるんだ!」

まあね。
それってつまりどこかが手薄になってるってことですから。

「位置は確かか」

「だいたいは」

「だいたいってなんだ!(激怒)」

「2週間嵐で計測不可能です。カーロイ」

「ぐぬぬ:( •ᾥ•):」

静かな夜はいつまでも続きません。
夜中、気配に起こされたヴェルナー少尉が艦橋に上がってみると、

気色満面の次席士官が5隻の船団を見つけたと報告します。
民間船団は潜水艦にとっていいカモってところです。

ただし護衛の艦がいなければの話ですが。

「護衛艦も駆逐艦も見えません」

「妙だな・・・後ろにいるのかな」

しかし艦長は攻撃を決断しました。
この決断に際しては、操舵長に意見を尋ねています。
寡黙な操舵長を艦長は誰より信頼していると分かるシーンです。

月が雲に隠れるのを見て、攻撃準備命令が下されました。
距離2200の位置まで全速で接近です。

「照準よし」「右舷15微速前進」「発射口開け」

「1番、2番用意」「位置変更63」「目標追尾」

次々と出される命令にワクワクしている風のヴェルナー少尉。

艦内で糸巻きしてるんですけど・・・これ何しているんでしょう。

「発射!」

発射命令を出すのは主席士官です。

1隻目、2隻目、3隻目に次々と魚雷を放ち、4隻目に行こうとしたら

駆逐艦出えたああああ!

手の空いているものはおなじみの「人間バラスト」となって
艦首にぶっ飛び、急速潜航です。

しかし今の総員はそれより撃った魚雷の行方が気になる・・。

着弾予想時間からストップウォッチを作動させ始める
航海長の手元を息を飲んで見つめます。

そのとき衝撃音が響きました。
喉の奥から声にならない声を上げる次席士官。

2発目の魚雷も命中です。

三発目は・・・

三発目は?

爆発音の代わりに聴こえてくるのは駆逐艦のレーダー音のみ。


何人かはあからさまにがっかりしますが、艦長はニヤリと笑って

「2隻撃沈だ」

指揮官たるもの常にプラス思考です。
コップに水が半分残っているのを見て、ある人は半分しかないと考えますが(略)

この頃からすでに挙動不審な幽霊ヨハン(予告)

「奴らはお陀仏だな」

このときそれを聴いた機関長がゆっくりと彼の顔を凝視します。

軍人であるからには敵国の船を撃沈するのは任務ですが、
そのさい失われるはずの「人の命」については考えたくない、
あるいは考えないようにしている、という者もいるでしょう。

この映画の機関長はそういう人間だとわかる描写です。

「お返しが来るぞ」

顔面神経痛のように顔をひきつらすヨハン。

そして第一波の攻撃が襲いました。

「両機関 全速前進!」

第一波が去り、不気味な沈黙の中に駆逐艦のソナー音が響きます。
実戦を経験した潜水艦乗りは生涯この音に夢でうなされるに違いありません。

次席がこれを「ASDICだな」と呟きますが、アスディックとは

Anti-Submarine Division"の略語に 接尾辞-icsをつけたもの

または

Anti-Submarine Detection Information Comittiee

Anti-Submorine Detection Investigation Commitee

などといわれており、つまり潜水艦探査装置のことです。
1910年代イギリスが開発した頃はこの名称で、「ソナー」は」
第二次世界大戦の時のころアメリカが「発明した呼び名」です。

1941年代のドイツではイギリス式の名称で呼んでいたのかもしれません。

蛇足ですが我が帝国海軍はアメリカ式からきた「ソーナー」が正式名称であり、
さりげに海上自衛隊にもこの呼び名が継承されています。

 

ソナー音の中、操舵員の一人が豚野郎、の意味で

「シュバイネン」

と呟きます。
そういえば、アメリカ映画「ペチコート作戦」で、さらってきた豚さんを
酔っぱらった水兵ということにして浴室に閉じ込め、MPに

「彼は飲むと手がつけられない野郎 (スワインSwine)でね」

というシーンがあったのを思い出しました。

潜水艦のことは「ピッグボート」と呼ぶなんて超どうでもいいことを、
わたしはみんなこの映画で知りましたが、「Uボート」監督だって
ハリウッドの潜水艦映画の名作「ペチコート作戦」を観ていないはずはないので、
この一言も無自覚に選ばれたものではないと思います。


息を殺すUボートに降り注ぐソナーの音が大きくなり、
だんだん音の感覚が短くなってきてついにはひっきりなしに・・。

と思ったら第二波攻撃がきて、浸水と火災が発生。
機関長がそれを消し止め、全員にマスク着用が義務付けられます。

艦長は「しつこい奴らだ」と言った後、操舵長に笑いながら

「魚雷は命中した。2隻も仕留めたんだぞ」

流石の操舵長も呆れたように顔を逸らします。

深度を深く取ったUボートにまたしても近くソナー音。

「・・・・・さあ来い」

「機関長、もっと深く潜れ」

そして不敵な笑みを浮かべながらいうのでした。

「逃げてやる」

沈黙の時間が破られる瞬間をいち早く知った調音長、
目の前の装置を慌ただしく動かしていたかと思うと、

「(シャイセ!!!!)」

(ドイツ人の生シャイセもう一ついただきました〜)

「援軍か・・・あいつらめ」

字幕ではあいつらですが、艦長ここでも「シュバイン」と言ってます。

「もっと潜れ」

演習で行った深度を遥かに超えてきました。

「190m」

「200・・・210・・220」

ヨハンにはこの後何が起こるかがよくわかっています。

「ボルトが飛んだ!」

「10m浮上!」

そのとき・・・・

ダメ押しの攻撃にパイプは破れパッキンが破損、機関室浸水。
魚雷発射管ハッチからも浸水。

艦長自ら機関室に突入してダメコンを行い、なんとか浸水を食い止めました。
動揺する皆に向かって

「そのうち奴らも爆雷を使い果たすさ」

そのときです。

機関室の奥から這い出してくる影が・・・。
人か?幽霊か?それとも?

 

続く。

 

 

映画「Uボート」〜”La Paloma"(押し寄せる波のように)

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  映画「Uボート」四日目になってしまいました。
艦長、トムゼン大尉、次席士官ときて今日のタイトル画は機関長です。
登場人物を全員描ききるまで終わらないんではないかという不安が(笑)

さて、散々駆逐艦に翻弄されてそれでも持ち堪えてきたUボートですが、
攻撃の治ったとき、機関室の奥から幽鬼のように彷徨い出てきた影あり。

文字通り「幽霊」という渾名の機関兵曹長ヨハンでした。
機関と暮らし、機関を愛して機関室から外に出てこず現場の主と化し、
スペシャリストとして信頼されていたはずなのに。

 

流石に動揺して「戻れ!」と叱りつける艦長。

ヨハンは9回目の出撃ですが、今回はリミットを超えてキレてしまったようです。

「持ち場に戻れ!」

と艦長が叱りつけてもヨハン、震えながらハッチを上ろうと手をかけます。

しかしヨハンの錯乱よりも乗員がぎょっとしたのは、艦長が
士官室に走って行き、ピストルを手にして戻ってきたことだったかもしれません。

思わず目を伏せる機関長たち。
万が一にでも艦長がヨハンを撃つようなことがあったら、
そのときはどうなっていたのでしょうか。

歴戦の指揮官とて無謬ではないわけですが、このときの艦長は
銃を取りに行くより、説得を続けるべきだったとわたしは思います。

手前にピストル

ショックを受けて静まり返る乗員の視線の中、艦長が呟きます。

「信頼してたのに・・腰抜けめ・・恥を知れ」

そして、聴音員のヒンリッヒが悲痛な顔で
次の攻撃が迫ったことを告げようとすると、静かな声で、

「聴音はいい。聴こえてるよ」

周りの士官たちはその声から艦長の諦めを悟り目を伏せるのでした。

ベテランの潜水艦乗りだからこそ、艦長は今の状況の先に
絶望的な最後しかないことを知っていたということもありますが、
考えようによっては乗員の錯乱に対し思わず銃を持ち出したことで、
潜水艦指揮官として皆を率いる闘志をこの瞬間失ったともいえます。

駆逐艦の不気味なスクリュー音に続き、爆雷が降ってきました。
今までのどの攻撃より激しくUボートを翻弄し、誰もが立っていられないくらいに・・。
このとき激しい振動の中、ヒンリッヒがウルマンと抱き合っているのが見えます。

ヴェルナー少尉は床を這いながら進み、散乱している物の山から写真を
一枚手にしてバンクにもぐりこみました。

機関長が見ていた雪山の写真です。
どうせなら祖国の写真を見ながら永遠の眠りにつきたい・・。

と思ったら・・・・あれ?(BGMペールギュント組曲より『朝』)
俺生きてんじゃん。

周りを見るとちゃんと片付いていて(さすがドイツ人?)
士官たちは食事をした後寝てしまったようです。

あの爆撃の衝撃でも割れなかったらしいワインの瓶は空。
次席士官のかたわらにはなぜか犬のおもちゃが(笑)

茫然と寝床を這い出て音のする方を見てみると・・。

何事もなかったかのように仕事をしている操舵長その他。
ここも昨日は物が散乱していたはずなのに床には何も落ちてません。

艦長の声が操舵長に記録を命じています。

「潜航6時間後に敵駆逐艦は追撃を断念した」

それを聞いて、ヴェルナー少尉は生きて朝を迎えられたわけがわかりました。

「右210度に火災を確認」

「当艦が攻撃を加えたタンカーと推測」

「もう一隻の船」は駆逐艦ではなかったのです。

浮上のため赤色灯を命じた艦長は少尉が起きているのを見て

「よかったな・・・生き延びて」

潜水艦を浮上させ、乗員が目の当たりにしたのは先ほど魚雷を撃ち込んだ船です。
激しく火災を起こしながらいまだに沈んでいません。

ここで艦長はすぐさま止めを刺すための魚雷発射を命じます。

しかしそのうち沈むことがはっきりしている民間船に
とどめを刺すという艦長の判断はあまり実際的だといえません。

そもそも敵国船と一緒にこんな明るいところに浮上していたら
すぐに敵の対潜護衛艦に見つかってしまいます。
本物のごかくにボート艦長なら余計な危険に自艦をさらす愚は決して犯さなかったはずです。

 

「距離650m、深度4、魚雷速度30 照準後部マストの前」

その時です。

「人がいる!」

なんと、甲板から人が次々飛び降りています。

「救助しなかったのか!」

というか、最初に攻撃されてからずいぶん時間が経ってるわけですが、
どうしてこんなに燃えているのに誰も脱出しなかったのか。

「時間は十分あったのに!」

ねえ?

いくら民間船でも救命ボートくらい積んでいるでしょうに。

炎の海に浮かんだイギリス人たちは口々にヘルプミー!と叫びながら
Uボートに向かって手を振って近づいて来ようとして力尽きていきます。

思わず泣き伏してしまうウルマン候補生。

「半速後進」

というような光景を目の当たりにして会話が弾むわけもなく。

なのにこんなときに別の船団発見の知らせが入ると、
すでに戦闘モードを取り返した艦長は行く気満々。

「いやそれは・・・」

2隻撃沈し、死地を潜り抜けたのにすぐさま飛び込んでいこうとする艦長。
機関長と操舵長がどちらも及び腰なのに怒りを爆発させます。

「帰港はいつですか」

すると艦長は長い時間操舵長の顔を睨みつけ、

「俺がそう命令した時だ。ヘア・オーバーシュテウアマン」

ちなみに第三帝国の操舵長は下士官職だったので、これに
「Herr」をつけるのはあきらかに「嫌味」というやつです。

ここで乗員のささやかな期待を踏みにじってみせるのは
艦長が戦時の指揮官としてあえて冷酷に振る舞っていると考えられます。

艦長が行動報告書を書いていると、ヨハンがやってきました。
ちゃんと上着を着て帽子までつけているのが健気です。

「自分は軍法会議に?」

トムゼン大尉のモデル(かどうかわかりませんが)という軍人も
攻撃をせずそれが敵前逃亡とみなされて軍法会議で死刑判決を受けています。

「自分は・・キレちまったんです・・神経が」

「もういい」

「軍法会議は・・?」

つまりヨハンにとって1番の心配事は軍法会議であると。

「寝ろ」

ほっとして引き上げるヨハン。

聴音員ヒンリッヒのデスクには球根(ヒヤシンス?)の水栽培が飾ってあります。
よくあの振動でこわれなかったな。

彼は「極秘電報」を受け取りました。

電報はすぐさま次席士官に渡され、エニグマで解読されます。

「艦長宛です」

それを聞いた途端、艦長はデスクにあった蜜蝋で封印された封書を取り出します。
つまり、前もって指示のあった時に初めて開封する封書が渡されていたのです。

 

このときバックに流れている音楽はドイツのポピュラーソング「ラ・パロマ」。

航海に出て行った男に送る最後のメッセージを白い鳩(パロマ)に託す
残された女性の歌で、その歌詞の一節にこのような言葉があります。

押し寄せる海のように人生はやって来ては去ってしまうもの
けれども誰がそれを知り得ただろう

 

こちら、この後は帰港するものと信じて、帰ってからのプランを語り合い
あれこれと盛り上がるボーイズですが、艦長から悲しいお知らせが。

「イタリアのラ・スペチアに回航する。その前にスペインのビゴで補給」

あからさまに意気消沈するベテラン下士官に

「マカロニ娘も悪くないよ」

「そういう話と違うわー!」

フレンセンはいきなり「聖書屋」の頭を殴りつけ、

「ジブラルタル海峡だぞ!」

狭くておまけに敵がうじゃうじゃいる、というわけです。

静かな凪の夕暮れを航走するUボート。
舳先で語らっているのは艦長と機関長のようです。

操舵長は六分儀を使って天測していますが、知っている人によると
このときの俳優の六分儀の使い方は「たいへん正確である」そうです。

操舵長が天測ついでにジブラルタル海峡を通過することについて

「死にに行くのか」

などというもので、すっかりビビるヴェルナー少尉ですが、
そこに艦長がやってきて、ビゴで機関長と一緒に艦を降りろといいます。

ヴェルナー少尉はゲストなのでそれはわかりますが、重責の機関長をなぜ?

「機関長は限界だ。降ろしたい」

見たところ限界なのはヨハンだと思うんですが。
艦長には長い付き合いである機関長の限界が見えていたということでしょうか。

下艦することが決まったので、ヴェルナー少尉はふと思いついて
ウルマン候補生が彼女に書いていた手紙を預かってやることにしました。

その後ビゴに到着し、夜間静かに浮上した我らがUボート。
ドイツの商船に偽装した補給船と合流する手筈が整えられていました。

艦体を接舷させるシーンは模型の製作手間の関係で音声のみの表現です。

士官のみ要求されて補給船に乗船していくと、そこは先ほどまでとは別の、
真っ白な世界。

彼らの姿を見るなり全員で整列して右手を挙げ、

船長「ジーク!」乗員「ハイル!」
船長「ジーク!」乗員「ハイル!」
船長「ジーク!」乗員「ハイル!」

(ドンビキー)

ところがここで元ヒトラーユーゲントの血がつい騒いだのか、
先任士官がマジモードで前にずいっと出てきたのものだから、

すっかり艦長だと思いこんだ補給船の船長、
ためらいなく握手を求めるので、次席士官は噴き出し、
艦長は憮然として腕組みを・・

「いや、艦長はこちらです」

「これは飛んだ失礼を・・・。
ヴェーザー号へようこそ!ヘア・カピテンロイテナント」

このおっさんがまた、艦長の神経を逆撫でするかのようにはしゃぐんだ。

「武勇伝を話してください。楽しみにしてたんです」

「何隻沈めたんですか?当ててみましょうか」

乾杯の時には、ついつい「我らが総統」とか言いかけると、
なぜか空気読んだ主席士官が咳払いし、それをやめさせると言った具合。

「艦長どの、話を聞かせてくださいよー」(くどい)

艦長は「初めてだ」といいながらイチジクを食べ、ただ一言、

「もてなしに感謝する」

すると船長、

「驚いた・・・諸君、これが英雄の言葉だ!」

「でもお話を聞かせていただきたい」

好き嫌いも聞かず食べ物を皿によそって艦長に渡し、

「どんな感じです?潜航中に上に敵がいるって」

そレでも答えない艦長に代わって機関長と次席士官が返事を混ぜっ返し、
先任士官がそれをうまく取り繕ってはぐらかします。

なかなかいいチームプレイです。

そのとき海軍部から代表がやってきました。
船長もこの海軍部(軍令部のことかな)の代表も、
普通に「ハイルヒトラー!」と挨拶を交わしています。

彼がもたらしたのは海峡を突破するための資料ですが、
ついでにビゴで人員を降ろす件については拒否してきました。

「悪いが二人とも残ることになった」

しかし、彼の後任の機関長に気心の知れない相手がくることを考えると、
ジブラルタルの難局を乗り越えるのにその方が心強いのも確かです。

そしてビゴを出航したUボート。

ジブラルタル海峡は狭く、しかもイギリス軍の港があります。
実際にもここではUボートが少なくとも二隻撃沈されて沈んでいるそうです。

水上艇だけでなく哨戒機も飛んでいる、と艦長は説明します。

「そこを突破する」

ギリギリまで闇に紛れて海上を航走し、それから沈んで
潮流に乗って静かに流れていこうというのです。

「これだと燃料が要らん。どうだ」

艦長はまたしても操舵長に意見を求めました。

「名案です」

先ほどいつ帰港するのかと聞いて叱責され、
意気消沈していた操舵長ですが、不敵にも微笑んでいます。

そしてジブラルタル海峡突入の時がやってきました。

海峡の様子をうかがいながら時は過ぎていきます。

ビゴで補給した食料のバナナをかじっている次席士官。
「ピルグリム」はこんなときなのに「臭いポマード」で髪を撫で付けています。

そのときです。

「アラ〜〜〜〜〜〜ム!」

艦長に指名されて艦橋に出て監視をしていた操舵長が
艦内に向かって叫びました。

「注水!」

なんと敵はマークしていた駆逐艦ではなく哨戒機でした。

哨戒機の銃弾に艦橋にいた操舵長負傷!

ほぼ初めて登場する烹炊担当。

ここで先任士官が「メディックはどこだ!」と叫びます。

負傷兵の手当て担当は通信員のヒンリッヒです。

Uボートは艦橋に艦長を乗せたまま全力で航走を続け、
再び艦長の「アラ〜〜〜ム!」を合図に潜航を開始。

「90mまで潜航」

しかしこんな時に舵輪が動かせず、操舵ができない状態に。

結果として自動的にどんどん沈んでいく潜水艦。
潜航開始の時に例によって前部に向かって駆けて行った「人間バラスト」は
機関長の指示によって今度は全員後ろに移動です。

右往左往する乗員の側では、痛みで暴れる操舵長を二人がかりで押さえ込む
ヒンリッヒと先任士官が・・・・。

「止まらない・・・沈み続けている」

「排水管破損!」

「止まれ!」

震度計の針はレッドゾーンへと・・・

痙攣するように震えながら深度計を見つめますが、
圧壊の恐れのある200米をすでに突破。

喘ぐように呼吸をする次席士官。
深度計の針は全く止まる気配を見せません。


計測できる最大震度の260mを超えてもまだ進み続ける針に
艦内を沈黙と絶望が支配していくのでした。

「マインガッド」(My God)

艦長が呟くと同時にどこかでビスが飛ぶ音が聞こえます。

発令所付きのメルケルが神への祈りの言葉を唱え始めたとき、
艦全体に異音が響き渡りました。

次の瞬間、衝撃がUボートを襲います。
圧壊か、それとも・・・?



続く。


映画「Uボート」〜"It's a long way to Tipperari"(ティペラリ・ソング)再び

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映画「Uボート」、五日目になります。

航空機の爆撃によって機関を破損し、沈み続けたUボート。
深度が計器のリミットを超えて祈りを唱える者が現れたころ、
艦体に大きな衝撃が走りました。

そして死のような静けさが・・・。

「海底だ」

海峡なので深度が浅かったことが幸いし、艦は着底しました。
艦体は深海280mの圧力にも耐えたということになります。

さっそく機関室のチェックを始めたヨハン、浸水箇所を発見しました。

下士官バンクにも浸水が始まっています。

圧力に耐えられなくなったビスが次々と飛び始めました。
魚雷発射管、制御盤、聴音室からも次々と浸水してきます。

総員一丸となってのダメコンの始まりです。
とにかく充填材を破損箇所に入れて浸水を食い止めること。

しかし次々と機関が破損していきます。

「祈っとらんと仕事せんかーい!」

こんな時にもお祈りを唱えていた「聖書屋」は、例によって
フレンセンに殴られております。

機関長は艦長に破損箇所を逐一報告しますが、
それはいずれも絶望的な情報でしかありません。

バッテリーも24個が破損しているので、機関長が下に潜って
つなげる機関を導線で繋ぐという措置が取られることになりました。

お客様として乗っていたヴェルナー少尉ももちろん参加です。

このとき、ヨハンが水没した箇所を修復するために水に潜り、
ヴェルナーに一緒に潜って懐中電灯で手元を照らすことを要求しますが、
この箇所を見て、わたしは映画「U571」を思い出しました。

あの映画では水没箇所を修理するために潜って作業した乗員が犠牲になりましたが、
明らかにこちらの場面から着想を得ていると思われます。

この映画は、のちの潜水艦映画、ことにUボートが登場する映画に
多大な影響を与えたといわれていますが、同時に何をやっても
二番煎じになるという意味での「足かせ」になったということは否定できません。

バッテリーを点検していた機関長。

「繋ぐための針金が必要だ」

すると艦長、焦って、

「高い魚雷はいくらでもあるのにタダ同然の針金が一本もない!」

しかしながらその直後、部下がワイヤをきっちり探し出してくるのでした。
あまり性急に結論を出してうかつなことを言わないないほうがいいですね。

この映画はとにかく艦長を英雄やスーパーマンとして描いていないのがリアルです。

「水圧装置破損、手動でも動きません」

そこに幽霊のように虚脱した風のヨハンがやってきました。

「浸水停止です」

「・・・・・・・でかした」

考えようによってはこの人、早めに?キレておいてよかったかもしれません。
この非常時に覚醒し、こうやって見事役目を果たしたのですから。

「・・・よくやった」

そしてヨハンの肩を叩き、

「服を着替えろ」

このときヨハンと一緒に機関室の兵(助手?)がいるのですが、
彼は一切声をかけてもらえません。

浸水が止まったので次は床に溜まった水をバケツで集めて排水することになりました。
ヴェルナー少尉もバケツリレーに加わります。

導線を持ってバッテリー室に潜っていた機関長から朗報です。
バッテリーは3個修復できたので稼働が可能とのこと。

艦長は報告をパンをかじりながら聞いています。

しかしその一方、先任士官が各所の被害報告を行います。

「コンパス破損。速度計と探深計、無線機も」

「ふっ・・・被害甚大だな」

先任「浮上の・・・可能性は?」

「注気したときの空気をありったけ集めて使う」

細部細部ではいろんなことを言いますが、決定的なところでは
けっして絶望するようなことを言わないのが艦長です。

そうと決まったら浮上のためには艦体を少しでも軽くしなくてはいけません。

機関長の考えたプランによると、手作業で水を中央に集め、
まだ使える動力ポンプで排出し、その勢いでついでに浮上するというもの。
チャンスは一回だけです。

それに失敗したらその時は・・・。

作業を終えるには8時間かかりますが、すでに酸素が減っており
呼吸が困難になる傾向があるため、

手の開いた乗員はマスクを着用して寝ることになりました。
ノーカット版でヴェルナー少尉が乗艦した時、次席士官がマスクを渡しながら

「形だけだよ」

というようなことを言うらしいのですが、これは伏線で、
マスクは実際に彼らの命を救うことになります。

多くの乗員がマスクをして熟睡している中、ヨハンフラフラ歩いてきて、
真っ黒に汚れた手でオレンジを一つ手にして貪りだしました。

彼が事故発生以来何も口にしていなかったことを物語ります。

聴音員のヒンリッヒは負傷した操舵長の看護にかかりきりです。

全てが絶望的な中、かといって艦長に今できることは何もありません。
修理は機関長が全てを請け負っています。

することがないので、懐中電灯を持って艦内を回る艦長、
ウルマンの外れた酸素マスクを直してやったり。

こちら水の中に潜ってライトを照らしていたはずのヴェルナー少尉ですが、
セーターが全く濡れていません。

交換したのかな?

座ったまま寝ている機関長に飲み物がいるかどうか聞くと
いらない、といったのに、瓶を渡すと奪い取るようにしてこの通り。

「艦長は海峡突破の命令を受けたときから生還は無理だとわかってたんだ」

だからこそこの二人を降ろそうとした、というのです。
そして、一か八か潮流に乗って地中海に出るという賭けにでたものの、
それには失敗したと絶望的に語るのでした。

そしてついに艦長の口からももう15時間になるから修理は無理かも、
という言葉を聞いたヴェルナー少尉、思わず詩を口ずさみます。

「わたしは望んだ 一度極限状態に身をおこう
母親が我らを探し回らず 女が我らの前に現れず
現実のみが残酷に支配するところに」

「これが現実です」

このシーンは英語版だと、

They made us all train for this day.
To be fearless and proud and alone.
To need no one, just sacrifice.
All for the Fatherland.

Oh God, all just empty words.
It's not the way they said it was, is it?
I just want someone to be with.
The only thing I feel is afraid.

彼らは私たち全員をこの日のために訓練させました
恐れず、誇りをもち、孤高であること。
誰をも求めず、ただ我が身を犠牲にすること。
すべては祖国のためであると。

ああ、神様、すべての言葉は空虚です。
これは彼らが言ったところのやりかたではありませんね?
私は誰かと共にいたい。
私が今感じるたった一つのことは恐れだけ。

となっています。
日本版はドイツ語バージョンに忠実に訳されています。

そのときです。

機関長が懐中電灯を手によろめきながらやってきて、
これ以上何の悪い知らせだ、とばかりに振り向く艦長に向かい
息を整えてから

「報告します」

「機関修理、完了」

「排水管も」

「排水し終わりました」

「コンパス類、探深計修理完了」

驚きに思わず目を見張る艦長に向かって機関長は微かに微笑み、
艦長は

「よくやった」

と一言・・。

意識朦朧としている様子の機関長に向かって艦長は

「休んでくれ」

といいますが、よろめきながらも機関長は

「まだやることがあります」

機関長をビゴで降ろさなくてほんとうによかったですね。

安堵と感嘆に思わず輝くヴェルナー少尉の顔でした。

何度も苦しげに呼吸を繰り返してから、
やっとのことで絞り出すように艦長は呟くのでした。

「・・・優秀な部下だ」

「俺は幸せ者だ」

そしていよいよ浮上を試みる瞬間がきました。
皆酸素の薄さに肩で息をしています。

「帰港するぞ。成功したらビールをふるまってやる」

全員に笑いが戻りました。
昨夜海峡を突破しようとした時以来の笑いです。

敵はUボートを撃沈したと思っているのでおそらく無警戒だろうから、
その隙に全速力で逃げる、と艦長は言い切ります。

「ナー、メナー、アレス・クラー?」(皆、いいか)

「ヤボール・ヘアカーロイ!」(はい、艦長どの)

出航の時と全く同じやりとりであることにご注意ください。

ちなみにわたしはこのドイツ語がなんといっているのか分からずに、
あちこち調べたのですが手がかりを得られず、最後の手段で
その手のことに詳しそうなウェップスさんに聞いたところ、
2時間くらいで正解を教えていただきました。

この場をお借りしてお礼を申し上げます。

赤色灯に切り替え、操舵手二人が席に着くと、機関長は
いつもの配置に立ちました。

「注気だ」「注気!」

祈るように皆が探深計の針を見つめます。
艦体が海底から離れる振動に続いて、ピクッと針が震え、

「浮いた!」

「ヤーーーー!」

10メートルずつ上がっていく深度をカウントする機関長の声が
喜びに震え、ついに浮上を果たしたUボート。

艦長がハッチを開けた瞬間入り込んできた空気を、
乗員たちはハッチの下に集まって思いっきり吸い込もうとします。

ここからが正念場です。
機関がちゃんと動くかどうか。

「動かせ」

「機関長どの、動きました」

「地獄から脱出だ!ヒャハハッハ〜!」

「いえええい!」

思わず機関にうっとりとほおずりするヨハン(笑)

そして「Uボートのテーマ」アップバージョンに乗って軽快に波を切るUボート。
開いたままのハッチの下では空気を求めて
乗員たちがいつまでも集まって立ちすくんでいます。

時折潮水が入ってくるも嬉しそうに

「しょっぺえな!」

ダメコンで穴を塞いだ角材に持たれながら可愛い機関に

「がんばれよな!頼むぞ!」

と声をかけるヨハンでした。

「敵は撃沈したと思って祝杯をあげているだろう」

おかげでノーマークのままジブラルタル海峡を突破できるというわけです。

いつも髭を剃り完璧すぎる身仕舞いをしていた先任士官、
さすがにすこし髭が伸びています。

ちなみにこのとき、大波が来るたびに先任は波を避けてかがみますが、
艦長はしぶきを避けもせずむしろ大喜びで潮を浴び続けています。

そして・・・・

「♫ティペラリへの道は遠い〜」

調子良く波を切って進むUボートの中では、再び
「ティペラリソング」の大合唱が行われていました。

ちなみにこの映画で使用される「ティペラリソング」の録音はなぜか
ロシア陸軍合唱隊による演奏で、「Uボート」サウンドトラックにも挿入されています。

「故郷に乾杯!」

手前の掌帆長は相変わらずにこりともせず、怖い顔で
『ティペラリソング』をちゃんと歌い(笑)
あいかわらず苦虫を噛みつぶしたような顔で乾杯にも唱和しています。

そういう顔の人なんですねきっと。

大音響にも関わらず、機関にもたれて死んだように熟睡している機関長に
フレンセンが「MARINE」と書いたドイツ版海軍毛布をかけてやるのでした。

艦が海底から生還できた功労賞があれば、それを与えられるのは
文句なしにこの機関長でしょう。(次点はヨハン)

聴音員のヒンリッヒは艦長のためにいつもの
「J’attenderai(待ちましょう)」をかけてあげています。

穏やかな時間。

「まだ陸は遠い・・・・・・」

甘い女性ヴォーカルが流れる中、艦長はベッドに身を横たえ、
独り言のように呟くのでした。

「なんとかなるさ・・・いままでのように」

果たしてなんとかなるんでしょうか。


続く。

 

 

映画「Uボート」〜帰港 (大公アルブレヒト行進曲)

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映画「Uボート」について細々と書いてきましたが、
1980年台に公開され、すでに40年近く経っている作品なので、
いろんなところで語られており、たとえば感想や蘊蓄を交換し合う
専用のスレッドなども百出しています。

そして、どんな評価を見ても、大勢の意見は、この映画が
過去製作された潜水艦映画で最高の部類に属するというところに
落ち着いていると思われました。

潜水艦作品の名作に「深く静かに潜航せよ」が上がることはありますが、
これは当ブログにおいて掲載するにあたり細密にアナライズしたところの
わたしに言わせていただくと、主人公である潜水艦艦長の個人的な
「復讐」を物語の核に据えてしまったあたりで、決して深く静かに共感できません。

また「U-571」は、あるスレッドの投稿者によると「超えられない壁」の
はるか下に属し、全般的にもあまり高い評価とはなっていません。

いきなり敵の潜水艦に乗り移ってあんなにスムーズに動かせるはずはない、
という誰でも気づく矛盾点以前に、わたしが最も萎えたのは
「エニグマ通信機を略奪する」という設定でした。
(作戦の目的として実に非現実的かつ非効率的すぎってことで)

そして潜水艦沈没&レスキューものである「グレイ・レディ・ダウン」は
主人公である原潜の艦長があまりにもいいところなしで、こちらも
共感できないまま終わってしまいましたし、評価の高い「眼下の敵」も
全体としてみるとハリウッド的御都合主義が所々目につきます。

というわけで、

「潜水艦映画にハズレなし」

とはいうものの、この「Das Boot 」ほど良くできた映画は
決して多くはない、というのが今のところわたしの出した結論です。

しかしながら映画のベースとなった「Das Boot」の作者
ロタール・ギュンター・ブーフハイムはこの映画に対して
非常に否定的な見方をしていたことを書いておかなくてはなりません。

彼は「大変失望した」理由として、自分の反戦的なメッセージを監督は

"cheap, shallow American action flick"
(安っぽくて浅薄なアメリカンアクションもの)

"contemporary German propaganda newsreel from World War II".
(第二次世界大戦の現代版ドイツプロパガンダニュースリール)

にしてしまった、と断言しています。

そして、特に登場人物の行動が押しなべてヒステリックで過剰であり、
かつ非現実的であるとも言っています。
(これが非現実的であるとすれば、そのほかの全ての潜水艦映画は
もうSFの範疇に数えられるようなことになりそうですが)

当初この映画化についてはハリウッドのドン・シーゲルが監督を、
そしてロバート・レッドフォード(第二案ではポール・ニューマン)が
艦長を演じる、という案(どんな映画になるかお察し)
があったそうですが、もちろんブーフハイムはこれに拒否感を示し、
ペーターゼンが監督に選ばれて初めて原作の提供を許可しています。

なのに、できてみれば、というわけですね。
ブーフハイムの期待通りならどんな映画になっていたのか
大変興味はありますが、もしそうなっていたら、この作品が
ここまで評価されていたかというと限りなく謎です。

 

そしてここでお断りですが、この映画については語られ尽くされているので、
有名なラストシーン、映画のキャッチコピー風に言うならば

「衝撃のラスト3分半」

についてもネタバレ御免でご紹介することにいたします。

まさかとは思いますが、まだこの映画をご覧になっておらず、
ラストどうなるのか知らないし見るまで知りたくない、
と言う方がおられたら、この先は決して読まないでください。

といいながら本編紹介前に余談です。

「 Das Boot」で検索していてこんな画像を見つけました。
なんとロシア語の映画紹介サイトなんですが、なぜかこれが
「Das Boot」の画像として掲載されています。

ロシア語を翻訳機にかけたところ、全く勘違いして
これが「Uボート」の一シーンとして掲載されたことが明らかになりました。

「Uボート」に日本人出てこないっつの。

そこでUボート艦上の大日本帝国海軍軍人二人、これはどうみても
ドイツに技術武官として派遣されており、ドイツから技術貸与された
図面などを持ち帰る遣独潜水艦作戦でU234に乗り込んだ

友永英夫技術中佐

庄司源三技術中佐

としか考えられません。

日本で彼らのことを描いた映画やドラマがあったというのは
寡聞にして知りませんが、もしこの画像が
外国制作の映画などであったとすれば、ぜひ突き止めたいものです。

どなたかこの画像に関する情報をお持ちの方、
教えていただければ幸いに存じます。

さて、ジブラルタルの海底から蘇ったUボート、
撃沈したと相手が思い込んでくれたことから、無警戒で
不可能と思われたジブラルタル海峡を通過することに成功し、
満身創痍で出向したラ・ロレーヌに凱旋を果たすことになりました。

出航のシーンもこのときもロケはフランスのラ・ロレーヌで行われたので、
エキストラはほとんど全員がフランス人でまかなわれたそうです。

岸壁の出迎えの人々からは「ウラ!ウラ!ウラ!」という声が聞こえます。

艦内と比べれば別人レベルのちゃんとした格好で艦上に立つ乗員たち。

機関室の「幽霊」ヨハンがいます。

真ん中、掌帆長ランプレヒト。

ちなみに彼の贔屓のチームはシャルケ04です。
サッカーファンならご存知、ブンデスリーガ所属の名門で創設は1904年でした。

うしろにいるのは乗員唯一スキンヘッドの魚雷室勤務。
長い艦内生活でもまっったく髪が伸びてません。

ディーゼル機関兵のシュバレ。
艦内の宴会でドラムを披露していた人です。

艦長に渡すためのものか、チューリップの花束を(包んでない)
抱えた毛皮のご婦人や、海軍の偉い人、その副官などが見えます。

迎えの列には子供もいて、到着した潜水艦に花が投げられます。

相変わらず艦長は軍服を着ておりません。

Uボートの乗員は軍服を一切着ないでセーターで過ごすような人が多かった、
という証言がありますが、艦長だって一応出航時は
軍服に鉄十字の勲章をつけ、帽子だって(なぜか夏用ですが)
もっと白かったんだから、やればできる子だと思うんですけど・・。

一般的に海軍、特にUボート乗りはナチスに無関心もしくは嫌いな人が
多かったといい、この艦長もそうであるという表現でしょう。

艦内からは負傷した操舵長を運び出す作業が行われています。
体を袋に入れて上から引っ張ってハッチから出すのです。

作業を行うのは聴音員のヒンリッヒ。

「ダンケ」

「いいさ。太陽が眩しいぞ」

後ろの壁に描かれている、

Wir hauen fur den sieg!

は「我々は勝利を得る」と言う意味です。

操舵長が救急車に乗せられると、基地司令らしき人が
挨拶をするためにやってきました。

司令の向こうにいるのは軍楽隊の指揮者で、彼らが演奏しているのは

「アルブレヒト大公行進曲」

オーストリア=ハンガリーのテシェン公アルブレヒトのために
作曲された行進曲で、第一次・第二次世界大戦を通して
ドイツ軍が多用していた行進曲の一つです。

Erzherzog Albrecht Marsch

司令がラッタルに足をかけるとどこからかサイドパイプが聞こえます。
誰が吹いているのか謎ですが、慣例で言うとUボートの乗員のはず。

そしてスピーチを始めようとした瞬間。
不気味な空襲警報が鳴り出しました。

警報が鳴り出して同時というくらいすぐ、連合軍の飛行機が
爆撃を行います。
観衆は悲鳴を上げて避難を始めました。

腕に腕章をした女性軍人、楽器を抱えた軍楽隊員、
そしてもちろんUボートの乗員はラッタル伝いに岸に上がります。

艦橋から一人、下から二人、計三名が海に飛び込んでいます。

岸壁を走る人たちの中にヒンリッヒ、次席士官(手前)機関長がいます。

すでに地面に倒れている人もいます。

ところでDVDを持っていたら是非確かめて欲しいのですが、
このシーンで死人役のエキストラは、撮影が始まった時思わず目を開けてしまい、
慌てて目を閉じて、次に爆発の衝撃で思わずビクッとしているところが
バッチリ写っています。

監督がボツにしなかったのは、実際に爆破装置を使ったので
やり直しができなかったからではないかと思われます。



空襲シーンでは、200名のフランス軍エキストラと100万発の爆薬が使用されました。

土嚢のところで警備をしていたヘルメットの兵隊が銃撃にやられます。

空中で散開する連合軍機。

イギリス軍はこの頃本国からここまで飛んで帰れるような
爆撃機を持っていなかったらしいので、これらは空母ベースのはずです。

 

撮影では時代考証的に正しいこの頃の英軍の爆撃機は見つからなかったので、
代わりに、フランスにある民間飛行クラブが所有するヴィンテージ機が使われ、
フランスのパイロットが操縦を行っているということです。

ところでわたしはこのシーンを何度も見返してしまいました。
これ艦長とヒンリッヒ、どちらだと思います?
顔面に怪我をしてヴェルナー少尉らしき人に引っ張られています。

艦長だと思う人〜\( ˆoˆ )

後ろから掌帆長が駆け寄っています。

でも、艦長ならさっき艦上でジャケットを着ていたはずだし、
爆撃開始から今までぬいだりする余裕も時間もないですよね。

派手な爆撃シーンも今と違い実際に火薬を使っています。
何でもこの映画、制作費がドイツで製作された映画史上最高額だったとか。

瓦礫の中倒れ込む乗員たちの中に次席士官もいます。
後ろはヨハンでしょうか。

機関長、シュバレ、先任士官の3人は列車の下に逃げ込み爆撃を避けています。
(後でこの3人は助かったことがわかる)

ここでヴェルナー少尉、一人で駆けてきて列車の下に避難しているんですが。
あのー、
さっきまで救助していた人はどうなったんですか?

途中で自分の身が危なくなったのでどこかに置いてきてしまったんでしょうか。

怪我した人を二人がかりで運んでいます。
どの人も一瞬しか映らない上皆髭が伸びているので誰だか見分けがつきません。
ていうかこんな人いたっけ?

炎の中負傷した戦友を肩に担いで走るのはおそらくアーリオ。
ある分析サイトによると、ヴェルナー少尉にウェスを投げたのはこいつだとか。

彼が担いでいるのは間違いなくヒンリッヒです。
そのまま後ろに向かって転倒しますが、ヒンリッヒ役の俳優は
地面に叩きつけられます。

大声で叫んでますが、マジで激痛だった可能性あり。

容赦無く繰り返される爆撃。

潜水艦基地の中に何とか逃げ込むことができたヴェルナー少尉。

なぜか逃げ込んできた乗員全員が、壁でなく
鎖にもたれ掛かっているというこの不自然な構図。

バックに潜水艦を入れるためと思われます。

怪我の激痛で叫び声を上げているのはフレンセン。
コンビのピルグリムが彼を支えて抱いてやっています。

怪我をしないものも虚脱状態で肩で息をしています。

一番奥、重傷者を抱えてやっているのはシュバレ、その後ろは
シュバレと一緒に避難していたヒトラーユーゲント出身の先任士官です。
先任士官は重傷者のためにメディックを呼び、力づけています。

わたしはしつこいですが先任士官贔屓なので発見した時嬉しかったです。

ということは・・・・。
先任士官と一緒に逃げた機関長もご無事だったんですね。

最後に落としていった爆弾がドックの天井一部を崩落させました。
ヴェルナー少尉は外に飛び出します。

フレンセンの苦痛はひどく、彼は獣のようにうめき続けます。
トリアージ的に彼がメディックのケアを受けられるのは
しかしかなり先のことになると思われます。

そこここに炎が燃え盛る中、走り出たヴェルナー少尉は見ました。

機関兵曹ヨハン。

陽気だった次席士官。

恋人に手紙を預かってやれないままになってしまった
少尉候補生ウルマン。

ベンジャミン、潜水オペレーター担当。

決して親しくはなかったけれど、共に生還してきた乗員、
数分前まで生きていた男たちが骸と化しているのを。

ちなみにこの最後のシーンで誰を「殺すか」決めたのは、
ペーターゼン監督の嫁だったそうです。

そしてさらに。先ほど帰還したばかりのUボートが係留している埠頭で
彼が見たものは・・

わたしの特定が間違っていなければですが、ヴェルナー少尉が先ほど
途中で救助を放棄した艦長が、埠頭でボートを凝視していました。

艦長の額には傷が見えますが、先ほどヴェルナーが引っ張っていたときには
全く血が付いているところが違います(だからさっきのは艦長ではないという説も)

沈んでいくU-96。

この沈没は、一度実際に壊れて沈んだモックアップを引き上げて修理し、
水中ケーブルを引っ張ると沈んでいくように改装して撮影しています。

ボートが海面から姿を消すと同時に艦長の目から光が失われ、
同時に彼の命の火も消えていきました。

倒れ込む艦長のセーターに銃痕が数カ所見えます。

革のジャケットを着ていたらこの効果を出すのが難しいので、
ジャケットをいつの間にか脱いでいることにしたのかも、
などということを考えるのはおそらくこの世でわたしくらいでしょう。

これが映画のエンディングシーンです。

 

決して英雄として描かれない艦長、このひたすら虚しい結末。

映画のラストのわずか3分間で、あなたはそうでなかった場合とは
おそらく正反対の感情、観賞後の感想を植え付けられることでしょう。

そしてこの衝撃の3分あればこそ、我々は戦争というものの報われない現実を
片鱗とはいえ、垣間見ることになるのです。

 

原作者は映画がアメリカの戦争アクションに堕したと非難したそうですが、
彼の原作のテーマである「反戦」の意図は、少なくとも
このエンディングがある限り全く損なわれるものではないでしょう。

少なくともわたしを含めたほとんどの鑑賞者がそう感じているからこそ、
この映画は制作後40年の時代(とき)を経ていまだ高く評価されているのです。

映画「Uボート」は、プロデューサーでありライターである
スティーブン・シュナイダーが編集している
「死ぬまでに見たい1001の映画」に最初から改訂版(2015年)を通して
常にランク入りしています。

 

終わり

 

コロナ自粛中の大学キャンパス〜アメリカ滞在記

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というわけで現在アメリカにいます。

少し前、MKの大学は全授業の最初の1週間をオンラインで行うことを決定しました。
それまではとりあえず一部授業のみ対面ですることになっていたのですが。

MKは日本からオンラインで授業を受けるのは時差の関係であまりに辛い、
(夜の8時ごろから朝10時まで起きていなければならない)ということで、
渡米して現地でオンライン授業を受けることにし、
わたしも手伝いのためと称して着いてきたというわけです。

 

ところで、どんなアメリカの大学も学生のために住居を確保していますが、
一般に大学寮はセメスター(学期)ごとに住居の契約が切れるので、
学生は夏休み(下手したらクリスマス休みも)に入るたびにいちいち退去して、
新学期が始まるとまた新たに住むところを探さなくてはなりません。

今回、大学のドーム(寮、ドミトリー)からの返事がコロナのせいか遅く、
しかたなく保険のつもりで徒歩圏内のAirbnbを一旦契約したのですが、
その後ぎりぎりになって空きが出たという連絡が来ました。

おそらくかなりの学生が地元にとどまって授業を受けるため辞退したのだと思われます。

新学期からの住居が確保できたので、あとは引越すだけなのですが、問題は、
「部屋の鍵を受け取る日に引っ越し荷物を受け取る」という日本なら当たり前のことが、
ここでは奇跡に近いミッションインポッシブルなことです。

「ムーブイン」と称するところの部屋の鍵を受け取る日は決まりましたが、
荷物の到着日をどうしても指定することができず、ドームムーバーという名の業者は
「28日から31日の間のどこか」というふざけた返事をしてきているとのこと。


コロナに関してアメリカは州毎に対策が違っていて、ここペンシルバニア州は
カリフォルニアなどほど厳しくないので、たとえば入国に関しては、到着したら
「2週間は自粛を要請する」といった程度です。

 

街の様子で前回と大きく変わったことといえば、日本と同じく外にあまり人がいないこと。

マスクの着用がなければ出入りできない施設がほとんどなので、
さすがのアメリカ人もこの暑さの中、不要不朽の外出を控えているのでしょう。

アメリカ人は外食が好きですが、一部の飲食店を除きほとんどは
営業をテイクアウトだけにしているのもその原因となっているようです。

ちょっとありがたいことのひとつは、日本の首都圏と同じく、
全体的な車の量が減ったせいで名物の渋滞がかなり緩和されていることです。

建物の窓全体を使ってマスク着用を呼びかけています。

いつもなら店の前にずらっと順番待ちの人が並んでいた人気のヌードル店ですが、
ドアを開けたところで(マスク着用必須)注文だけして、外でテイクアウトを待つ仕組み。

外のテーブルのみ予約すればダインインできるようです。

宿泊しているホテルは前にも書きましたが、ナ・リーグ所属である
ピッツバーグ・パイレーツの
ホームグラウンド、NPC球技場の隣にあります。

試合はすべて無観客なので、シーズン中は賑わう周辺地域もこの通り。

「ピープルズ・ゲート(人民の門)」の前にいるのはきっと有名な選手。

と思って調べてみたら「フライング・ダッチマン」(!)と異名をとった
史上最高の遊撃手、ホーナス・ワグナーHonus Wagner(1874-1955)でした。

ワグナーは「ペンシルバニア・ダッチ」=ペンシルバニアのドイツ系だったということで
この渾名となったようですが、もともとあの幽霊船としての
「フライングダッチマン」ってオランダ人のことですよねー?

アメリカ人は「ダッチ」をドイツ人という意味で使うのか・・・_φ(・_・

ドイツ人といえば、ピッツバーグにはヨーロッパ、特に独仏からの移民が多く、
このインクラインも入植したドイツ系があっという間に作ってしまったとか。

現在も稼働しているらしく、ケーブルカーが行き来していました。

球場の搬入口近くの銅像です。
ジム・マゼロスキーBill Mazeroski (1936〜)という往年の名選手が、
伝説のホームランを打ってホームインしようとしているところなんだそうです。

The Greatest Homerun Ever: Bill Mazeroski 1960 Walkoff Homerun

ちゃんとベース踏んでる?ってくらいもみくちゃにされてます。
どこかでホームベース踏むまで他の人がランナーに触っちゃいけない、
というルールがあるとか読んだことがある気がするんですが、違うのかな。

 

遊歩道のある河原にはこの球場の搬入口の横を降りていくのですが、
ある日の無観客試合の後、ここから選手の車が次々と出ていくのを見ました。

ナ・リーグの選手というのがどれくらい年棒を取っているのか知りませんが、
皆RAMなどアメリカの若い男性がよく乗っているトラック型の車で、
ポルシェやフェラーリ、ましてやメルセデスやBMWに乗っている人はいませんでした。

コロナ対策でホテルのジムとプールは予約制しかも1時間、1グループのみ使用可。
使用後は消毒して30分時間を空けるという決まりになりました。

いちいちフロントの人に鍵を開けてもらわなくてはならないので
エクササイズは外を歩くのが中心になりました。
幸いホテルから歩いてすぐ川沿いの遊歩道がありますし、
車で10分走れば去年歩いた公園にもいけます。

早速遊歩道にでてみたところ、川向こう岸にブラックライブズマターの落書き発見。
やたら凝った似顔絵付き・・・これはプロの犯行とみた。

ところで、今回の旅行にわたしはいつものニコンを持ってきているのですが、
ついてすぐにナビ用にiPhone11を買うと、こちらばかり使うようになりました。

カメラが特によくなったという噂の11ですが、ソフトに落としてみると
やっぱり限界があるようで、これを息子にボヤいたところ、

「ちゃんとフォーカス決めて撮ってる?」

画面のフォーカスしたい部分をタッチしないと全体的にボケるそうです。
知らんかった。


「リバーボート」と呼ばれる川下りの遊覧船は週末だけ営業しているようでした。
遊覧船のうしろに変な形の船がいますが・・・・、

丸くて屋根がついていて中央がカウンターになっているティキという遊覧ボート。
バーでいっぱいやりながら流れていく気分を楽しめます。

Tiki Boat Tours Bring Tropics To The 'Burgh

現在は食べ物は提供しておらず、クルーズだけのようです。

パイレーツの本拠地PCパークから川沿いを数分歩いていくと、
今度は地元フットボールチーム、スティーラーズの本拠地である
ハインツフィールドがあります。

昔は同じフィールドを兼用にしていて互いに不満があったため、
思い切って近場にどちらのフィールドも作ってしまった模様。

ちなみにスティーラーズのチームカラーも、パイレーツも、
ついでにピッツバーグのホッケーチームペンギンズのカラーも黄色です。

ハインツといえば、ハインツフィールドやサイエンスセンターと反対に遊歩道を
ちょうど30分歩いたところにハインツの旧本社敷地があります。

煉瓦造りの大変立派な建物ですが、現在は使われておらず、このビルの中央に
でかでかと「入居者募集中」と書いてあるので驚きました。

ハインツHEINZはやはりドイツ系アメリカ人のヘンリー・ハインツが興し、
1890年以来この大規模な工場と会社で操業していました。

ケチャップを主力製品にした世界最初の会社で、現在のアメリカ人を
世界でも無類の「ケチャップ好き」にした張本人といってもいいでしょう。

ただし、我が日本ではカゴメとデルモンテ(キッコーマン)という二大企業が
あまりにも強くて「ケチャップの本家」もこの牙城を崩すことができないそうな。

新しく整備された遊歩道にありがちな傾向として
やたら大きな慰霊碑ができています。

まず朝鮮戦争ヴェテランのための慰霊碑。

こちらはヴェトナム戦争の慰霊碑。
左に立っている人と右の女性はアフリカ系で、帰還してきて
お互い顔を合わせた瞬間のようです。

殉職警察官(Law enforcement officers)の慰霊碑もあります。
ちなみに今専門のHPを調べてみたところ、

2020年殉職警察官リスト

事故で圧倒的に多いのが銃による犠牲です。
3月24日に最初の死亡者が出てからは、その後の警察官の殉職理由のほとんどが
COVID19です。

また、「911関連の癌」で亡くなった警官も多いですね。

下からこの笑い顔の部分だけ見てそうではないかとおもったら、
やっぱりフレッド・ロジャースの像でした。

カーネギーサイエンスセンターの前にある潜水艦USS「レクィン」。
この夏は中を見学できるんでしょうか・・・。

カーネギーサイエンスセンターは予約制で限定的に入場を受け付けているそうですが。

着いてからしばらくして、MKの学校の売店がオープンしたと知り、
偵察を兼ねてキャンパスに行ってみました。

キャンパスには塀がなく、道路のどこからでも自由に入ってくることができます。
んが、一歩敷地に足を踏み入れた途端、

FACE COVERINGS ARE  MANDATORY(顔を覆うことは義務です)

という立て札がお出迎え。
Mandatoryは強制を強いる義務という強いニュアンスです。

バンダナやヒジャブという選択肢もあるため、こういうときには
「マスク」といわずフェイスカバーという言葉がよく使われます。

建物を撮って人が一人も写り込まない状態は初めてです。
去年はこの同じ場所に新入生のオリエンテーションのための巨大なテントと、
内部の冷房の機材が芝生をほとんど覆っていたものですが・・・。

90年代に重さで倒壊するまで、ギネスブックに
「最も塗り替えられた回数の多いフェンス」として記録されていた
大学名物のフェンスは、現在ご時世を反映して

「BLACK LIVES MATTER」

が表裏白黒で書かれていました。
コロナ騒ぎになってからも粛々と塗り替えている人がいるようです。

通路にも人影なし。

わたしはたまたまこのときYouTubeでグレゴリー・ペック主演の
終末ものの名作、「渚にて」(On The Beach)を観たあとだったのですが、
潜水艦「スコーピオン」の乗員が、オーストラリアから北上して
核戦争で人々が死に絶えたサンフランシスコの街を海上から目撃するシーンを
思い出してしまいました。

北半球ではすでに人々が死に絶えているという設定です。

どうしてどこにも荒廃の後や人々の遺骸がひとつもないんだ、とか、
人間って死を前にしてみんなこんなに高潔すぎですか?とか、
科学的な検証以前にいろいろとつっこみどころ多すぎの映画でしたが、
心に刺さる、感動的といってもいいラストシーンですよね。

わたしったら原潜が最後に艦を自沈させるために海を航走するシーン、
あれだけで全てをよしとしまった模様(笑)

創立時からあったオリジナルの建物に右の部分を増設してあります。
左側に見えている壁はかつての外壁だった部分です。
窓ガラスはそのまま残してあります。

椅子と椅子の間がソーシャルディスタンスによって大きく空けられています。

このビルではオー・ボン・パンという東海岸のチェーンベーカリーが
いつもならカフェを営業していますが、もちろんまだやっておらず無人です。

このあと、新学期開始に伴うオリエンテーションや新入生のためのセレモニーは
全てオンラインで行われることになっています。

 

続く(のか?)

 

 

オンラインの入学式〜アメリカ滞在

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アメリカで生活してしばらくになりますが、映画や観劇、
コンサートの類はそもそもこちらでも絶賛自粛中ですし、
ほとんどのレストランはテイクアウトだけの営業なので、
外出は食料品とMKの生活立ち上げのための用品の買い出しか、
そうでなければ外を歩きに行くくらいしかしていません。

しかし、そもそもこれまでも別に遊びまわっていたわけではなく、
特に夜は用事もないので外に出ることは滅多になかったので、
特に不自由を感じているわけではありません。

モールなどお店ではマスク着用が求められているので皆守っていますが、
わたしの観察したところによると、外でウォーキングをしている人、
自転車を漕いでいる人のマスク着用率は50%といったところ。
走っている人でマスクをしている人は見たことがありません。

特に朝早くは人ともすれ違わないのでしなくていい、という
マイルールができている人が多いようです。

わたしも日本よりマシとはいえ、こちらも結構暑いので
歩いていて人が来たらマスクをつけるようにしています。

冬はいろんな色のマフラーファッションを見せてくれる
カーネギー博物館のマスコット?ディッピーくんもマスク着用。

 

到着してすぐ、去年毎日歩いた公園に行ってみました。
元々人が多いような場所ではありませんが、今年は一段と静かです。

何日か時間を変えて歩くうち、一番混雑?するのは
夕方7時ごろからであることがわかりました。
暑いので陽が沈む頃歩きに来る人が多いということです。

公園散歩の後に、一度以前住んだところの近くにあった
ユダヤ人街のベーグル屋さんに行ってみました。
外側から自分の携帯で注文して中から店員が持ってくるのを受け取る仕組みです。

ベーグルそのものが4分の3くらい小さくなっていました。
小さくしすぎて?真ん中の穴がなくなってます(´・ω・`)
わたしは毎回ハラペーニョ・クリームチーズを選ぶのですが、ベーグルが小さくなった分
ハラペーニョの辛さがマシマシになったという気がしました。

ほとんどがテイクアウトオンリーの中、テーブルを一つおきに使用不可にするなど、
ソーシャルディスタンスを配慮しながら営業しているレストランもあります。
ピザの美味しいこのお店もそのひとつ。

この日は日曜日で教会帰りらしいドレスアップしたグループがちらほら。

これがドレスアップ?と思ったあなたはアメリカ人の「普通」をご存知ない。
女性がスカートかワンピースを着れば、それは「改まっている」ということです。

夫婦とどちらかの母親とで教会の後の恒例の?ランチタイム。
ちなみにこのレストランのあるのは高級スーパーや高級養老院があり、
見るからに生活レベルの高い地域です。

前回も書いたようにこちらでiPhone11を買って以来これに頼りっきりですが、
天候などのシチュエーションによって出来不出来はあるものの、
本領発揮というか優秀だなーと思うのが夜景です。

調整なしでパッと撮ってこれくらいなら上出来じゃないですか?

これが買って初めて撮った窓越しの夜景。

夜散歩した時に雨が降り出して真っ暗になったのですが、
オハイオ川にあるリバーレスキュー隊の救難ボート置き場のハッチが
珍しく開いていたので撮ってみました。
ブレることなくちゃんと写っています。

ピッツバーグは今回雷とスコールによく見舞われます。
雷を伴う雨は激しいですが短時間で終わり、焼けつくような晴天、
これが何度か繰り返されます。

前回発見したストリップ・ディストリクトのイタリア街の商店街、
移民系多めな一角のシーフードレストランがダインイン営業中とわかり、
行ってみることにしました。

夕方だったせいかほとんどの店が終了しています。

わたしはここでも当たり前のように「招き猫体質」を発揮してしまい、
並び出した途端後ろが長蛇の列になってしまいました。

長蛇といってもアメリカ人は列を作るのを嫌いますので、
お店の人に名前を言って店の前で適当に待つ感じです。

シーフード料理の店なのでやはりここはクラムチャウダー一択でしょう。
クラム多めでこってりとしていました。

SNS上で評価の高かったロブスターサンドを頼んでみました。
レモンをたっぷり絞っていただくのがよし。

アメリカで外食する時の常として、半分食べたらあとは箱をもらい、
自分で詰めて持って帰って次の日アレンジして食べました。

さて、いよいよ大学の始まりにむけて始動が始まりました。
まず、全員に必ず30分のこのガイダンスを観るように、という通知があります。
内容はCOVID19に対処するための、わりと当たり前な注意なのですが、

このビデオに大学のマスコットである黒いスコッチテリアが大活躍。

至る所に登場して和ませてくれます。

「あー、こんなところにいる」「かわ(・∀・)イイ!!」「 ´д` ;ハアハア」

とか騒いでいると、(英語なんで)肝心のことを聞き逃してしまうわけですが。

制作側も昨今の学生に何がウケるか知り尽くしている模様。



ソーシャルディスタンスは6フィートというのがこちらでは言われていますが、
つまりこれはスコッチテリア6匹分であると。

確かにインパクトありますよね。
(どうして『インパクト』なのかちゃんと聞いていなかったのでわかりません)

ちなみにマスコットが犬であるせいで、当大学のスクールショップには、
犬用のバンダナ、タイニーサイズからXXLまでサイズも豊富な
犬用シャツや首輪が大変充実しております。

こちらはマスコットぽいですがそうではなく学長です。
MKは新入生ではありませんが、もちろんオンラインでの
入学式を見るのは初めてです。

学長に続き、学校関係者がこの後次々と画面で紹介され、
皆が一言ずつ挨拶をしたりしてセレモニー?は進んでいきます。

お約束、各界で有名になった卒業生の紹介タイム。
宇宙飛行士がいたり、普通にノーベル賞受賞者がいたり、

アメリカ陸軍中将閣下もおられるのである。

しかし、正直な話、従来の入学セレモニーを父兄として経験した立場でいうと、
8月の下旬という酷暑の中、キャンパスをあっちにいったりこっちにいったり、
セレモニーに始まりオリエンテーション、親睦会とたらい回しにされるわりに
何もしていない時間の方が長いというあの悪夢の1日に比べれば、
ずっと端的に大学のことがわかり、学長やスタッフの顔を間近に見て、
しかも自室にいながら全てが短時間で済むオンラインは最高です。

ほどなく学生のオリエンテーションも始まりましたが、こうやって
何百人ものクラスメートの顔を見ながら話が聞けるわけです。
もうこれから大学はこれでいいんじゃないの、とさえ思うのですが、
MKによるとやはり科学系の授業はどうしてもそうはいかないのもあるようで。

さて、今日はいよいよムーブインの日。

学校が借り受けているアパートに荷物を搬入するわけですが、
前もって日にちと時間を自分で予約し、指定の時間にオフィスに行って
鍵を受け取り、30分だけ駐車場に車を停めてその間に荷物を入れます。

時節柄混雑と接触を避けるために同じ枠には数人しかアサインされていません。

アパートは築100年は余裕で経っていそうな年代物でした。

ここにもアパート内でのマスク着用を呼びかけるスコッチテリアが。
さすがに室内ではマスクしなくてもいいとことわってあります。

このアパート、全部が大学の寮ではなく、一般の人も住んでいるようです。

エレベーター、これが凄かった。
手動式開閉ドアの内側がフェンス型の二重ドアでこれも手で開けるのですが、
この重たいドアを力一杯手で押さえていないとどちらも勝手に閉まってしまい、
しかも閉まる時ガシャーンとものすごい音を立てるという不親切設計の極みです。

おそらく100年前設置されたもの(ウェスティングハウス製)だと思われます。

マスクの重要性を視覚に訴える学校制作のポスター。

日本でも最近「富嶽」の計算でもマスクの有用性が証明されたとかなんとか。
マスク着用の有用性について相変わらず疑義を唱えている人もいるようですが、
もうとにかくそういうご時世になってしまったんだから、エチケットとして
文句言わずしとけばいいのよ、って感じですね。

平常時は机とベッド、本棚が二つづつ、そしてソファーと椅子のある
20畳くらいの部屋にキッチンとバストイレクローゼット付きの部屋に
二人で住むのがこのドーム(寮)の基本なのですが、なんとびっくり、
今回はどの部屋も一人で占有できるようです。

おそらく、学生の多くがオンライン授業を実家で受けるため、
ドームに住む学生が半分になってしまったということでしょう。
前の部屋より広くなり、しかも一人ということでMKは大喜び。

このあとベッドとタンス、机を彼の考えによって動かしたのですが、
日本の家具と違い、こちらの家具は鉛でも仕込んでるのかってくらい重くて、
このタンスなど全く持ち上がらずほんとうに難儀しました。

室内には寮規則の書かれた紙とともに、マスク3枚(学校と業者から)
消毒シートに消毒剤、体温計のプレゼントが机に置かれていました。
キャンパスに行く前には自主的に測ってくださいということのようです。

部屋はいつもより入念に「ハイジーン」(消毒)されているということですが、
わたしは全く信じていないのでゼロから掃除をやりたおしました。

案の定ベッドの上など埃だらけでした。
ハイジーンとは一体。

古くて饐えたような匂いがするのはちょっといただけませんが、
100年もののアパートなのでなかなか風情があってある意味お洒落です。

元々は普通のアパートなので、キッチンはファミリー向けと同じ大きさ。
大型冷蔵庫に電子レンジ、食洗機になんならオーブンまであります。

学校の「ミールプラン」というのを契約し、食事はオンラインで注文して
大学の指定した近所のレストランに取りに行くことにしましたが、
やはり気軽に行けるカフェがないのでキッチン付きはありがたいです。

次の日聞いたら、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れ(今凝っている)
サラダとサンドウィッチを作って食べたと言っていました。

彼にすれば最初のキッチン付き住居での一人暮らしになります。
もともと自分で何でもできるようにしつけておいたし、
(というと聞こえがいいけど実は以下略)寮生活も三年目になるので
心配はしていませんが、ひとまず安心です。

 

 

 

ソルジャーズ&セイラーズメモリアルホールと博物館〜南北戦争のヴェテラン

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ペンシルバニア州はアメリカでも最も古い州の一つです。
その中でもピッツバーグは古くは鉄鋼で栄えた街で有名で、わたしなども
実際に行くまでは「鉄鋼の街」「工業都市」をイメージしていました。

イメージを大いに助長したのはビリー・ジョエルの「アレンタウン」という曲で、
あの曲の効果音に入っていた鉄鋼を打つ音がどこからでも聞こえてくるような街だと
今にして思えばとんでもない勘違いをしていたものですが、現代のピッツバーグは
アメリカの中でも住みやすい都市としてトップに名前を連ねています。


さて、歴史のある街らしく、古い様式の石造りの教会などが数多く残り、
1700年代に創立のピッツバーグ大学や工学系の名門校カーネギーメロン大学、
自然博物館などが集中するオークランド地区の一角に、

Soldiers and Sailors Memorial Hall and Museum
兵士と水兵の記念ホールおよび博物館

があります。
滞在時に見学して参りましたので、シリーズとしてご紹介していきます。

SSMMはその名前が表すように、アメリカのために戦った軍人を顕彰する
慰霊施設であると同時に、軍事博物館でもあります。

このビザンチン様式絵画みたいなタイルの貼ってあるところが
地下にある駐車場から出てくる階段となります。

わたしが見学した時にはまだコロナ前で、地下にある駐車場は
ピッツバーグ大学のオリエンテーションに参加する父兄の来訪のために
無料で解放されていました。

 

ピッツバーグの歴史的建造物で、かつランドマークであり、
国の歴史遺産に認定されているこの建物は、創設以来
軍事に関わる収蔵品の保存と全ての退役軍人たちを称えるための
会合などが行われてきました。

まずは建物の正面に足を運んでみましょう。

フランスの新古典主義の手法による「ボザール様式」は
1800年代後半から1900年にかけて流行した建築様式です。
イタリアやフランスのバロック&ロココのエッセンスが取り入れられています。

市庁舎やカーネギーメロン大学の学舎など、市内に多くの建築を残した建築家、
ヘンリー・ホーン・ボステル(1867−1961)が設計し、1910年に完成しました。

"Lookout"


まずわたしが足を運んだのは水兵のブロンズ像の前です。

望遠鏡を持ってたたずむそのセーラー服の襟は風になびき、
彼が今海を望む場所に立っていることがわかります。

彫刻家フレデリック・ヒバードが開館して10年後制作したもので、
「Lookout 」(監視、見張り)という題名が付けられています。

"parade Rest"

水兵像とはファサードを挟んで反対側に兵士像があります。

同じヒバードの作品でこちらの題名は「Parade Rest」、
分列行進の「止まれ」の状態の陸軍兵士の姿です。

制作年は水兵像より1年後で、彫刻家がまず水兵像、
続いてこちらを手掛けたことがわかります。

製作年月日から想像するに、これらの像は第一次世界大戦で犠牲になった
兵士と水兵を顕彰するためにここに設置されたのに違いありません。


ところでヒバードの作品には南北戦争関連のものも多く、
 たとえばグラント将軍の像などもあるわけですが、この度のBLM関係で
作品が引き倒されたり落書きされたりということはあったんでしょうか。

”America"

兵士と水兵を従えるようにファサードの中央にあるのは、
剣を携えた女神像で、彫刻家チャールズ・ケック作「アメリカ」。

 

この後館内に入って行ったわけですが、正面から入れると思いきや、
扉は閉ざされていたので建物沿いに歩き、とても博物館の入り口に見えない
小さな入り口をやっとのことで見つけて入館しました。

まずは当ホール建築の写真からご紹介です。

左上、1908年9月11日撮影の工事現場の様子

土台となる部分ができて行っている感じですね。

メモリアルホールの計画は、1891年、南北戦争が終わって14年後、
戦争に参加したヴェテランたちが中心となって起こされました。

設立に際して求められたポリシーは、

記念碑は、私たちの偉大な産業の中心地の富、知性、愛国心を
表せば表すほど、荘重で立派でで印象的なものでなければなりません」

というものでした。

その1ヶ月後の写真が下で、10月24日撮影です。
右上はその2ヶ月後12月28日で、特徴的なギリシャ神殿風の柱がもう取り付けられています。

進捗の早さは流石に鉄鋼の街の総力を挙げたプロジェクトです。

工事を請け負ったのはエイクリー(Eichley)ファームという建築業者で、
現在もピッツバーグで設計・施工・デザインなどのビジネスを行っています。

左上:1909年の3月24日にはもうすでに大まかなフレームは完成。

右下:1910年5月、完成間近。

丘の上と右後ろに見えている建物は現存するピッツバーグ大学関連の施設です。

同じ方向から現在の写真です。

そして、1910年10月11日、晴れて完成相成り、SSMMはオープニングの日を迎えました。
メモリアルホールにおけるオープニングセレモニーの様子が二枚の写真に残されています。

ステージの上には来賓が並び、その中にはゲッティスバーグの戦いで有名な
ダン・スティックルス将軍Dan Stickles始め、
南北戦争に参加した将官(政治家になっていた人あり)が含まれました。

ステージ側から撮られたのがこちらの写真です。
客席を見るとそのほとんどが白髪の老人ばかりで、客席側の出席者もまた
南北戦争のベテランが中心であるらしいのがよくわかります。

実はこの二枚の写真を撮るために、会場に二台のカメラがスタンバイしており、
同時にシャッターが押されたものと思われます。

客席側のほとんどがカメラ目線になっているのにご注意ください。

後ろ側から撮影した写真には、舞台袖側に三脚を立てたカメラマンが
手を上げてこちらを見るようにと合図をしている様子が写っています。

その甲斐あって、ほとんどがこちらを見ているわけですが、
写真のご老人のばかりの中に一人だけ帽子をかぶった女性がいます。

この女性、アンナ・シャープ・マクドウェル(Anna Sharp Mcdowell)は、
ペンシルバニアの陸軍第3連隊にとって不可欠な存在だったといわれています。

彼女の父親が陸軍の退役軍人であった関係から彼女は食事係を務め、そのかたわら
彼らのスケジュール管理などの事務的な仕事をしていましたが、歌が得意だったので
何かしらイベントがあると歌手として喉を披露し皆を楽しませたそうです。

部隊のアイドルというか、マスコットガールみたいな存在だったんでしょうか。

女性であり、さらには南北戦争の退役軍人でもなかったにもかかわらず、
彼女はこの退役軍人会の正規メンバーに認められてここにいるわけです。

記念館が完成して公式にオープンしてから10日後、
SSMM評議員における最初の会合が行われました。

その会合が行われた部屋がこの「ゲッティスバーグの間」です。
ここには、南北戦争の資料の一つとしてゲッディスバーグの戦闘で第二軍を率いた
アレキサンダー・ヘイズ准将の肖像画が(おそらくその頃から)あります。

 

 

そして完成したばかりのソルジャー&セイラーメモリアル前に集合したのは、

National Encampment of the Union Veterans Legion(UVL)

つまり南北戦争のユニオン(北)軍の退役軍人たちで、1911年9月15日の日付です。
全員がスーツに帽子着用なのが時代ですね。

 

今ベテランの会合は、全員ベースボールキャップ(部隊マーク入り)
にボマージャケットか夏ならTシャツの集団になることでしょう。

こちらはさらにその11年後、1922年のUVLの「戦友会」ですが、
さすがに少しだけ人数が減っている感じです。

わたしなどまたしても、

「ブルーのために戦ったのか、それともグレイだったのか」

「ゲッティスバーグの演説を聞いた思い出を彼は語る」

「彼らはいつかこの世からいなくなるだろう。
その時この世界はどんなに寂しいものになるか」

と南北戦争のベテランのことを歌ったスタンダードナンバー、
「オールド・フォークス」(Old Folks)を思い出してしまうわけです。

Carmen McRae / Old Folks

 

ちなみにピッツバーグのあるペンシルバニア州はアメリカ合衆国側(北軍)でした。

我々日本人にはいまいちピンとこない

北軍=ユニオン
南軍=コンフェデレート

という名称ですが、
地図にするとこんな感じです。

薄紫は合衆国にとどまった奴隷州となります。

ちなみにカリフォルニアは北軍側ですが、今回、
サンフランシスコにあったグラント将軍の銅像は、
BLMの皆さんによってきっちり破壊されております。

どうもよくわからないのですが、奴隷解放を旗印にしていたはずの
北軍の将軍も許されないっていうのはどういうことなんですかね。

わたしなどニュースで「風と共に去りぬ」を放送禁止にしようという動きがあると聞いて、
こいつら本当にこの小説を読んだことあるのか?と情けなくなりました。

 

 

名前が書いてあるだけでどういう人たちかわからなかったのですが、
一人ひとり検索してみると、

1937年、南北戦争のベテランであるルイス・マラゼー(一番右)が
85歳でピッツバーグの自宅で亡くなった

というニュースが引っかかってきました。

南北戦争のベテランで、1927年にここで行われた戦友会にやって来たのは
この人たちだけだったとということになります。
ニュースによると、マラゼー氏がなくなったのはこの会合の10年後。

南北戦争が終わったのは1865年ですから、1952年生まれのマラゼー氏は
終戦時わずか13歳の「少年兵」ということになり、最年少組です。

13歳で戦争に参加ってそれはないんじゃないか?
と思った方、南北戦争には普通に子供が参加していたんですよ。

The Civil War's Child Soldiers: "Danny Boy"

海軍の水兵の制服の子、一人だけですがアフリカ系の少年もいます。
おそらく年格好から言って、写真の一人(左から3番目)を除く6人は
ビデオの写真のような「子供連合軍」だったのでしょう。

写真を見ると、下手すると10歳くらいの子供兵士の姿もあります。
だからこそ、南北戦争のヴェテラン=オールド・フォークスは、
第二次世界大戦が始まる寸前まではまだ生存していたのです。


次回からはソルジャー&セイラーメモリアル・ミュージアムの展示を
順にご紹介していくわけですが、展示の目的であったところの
南北戦争関係の資料からということになります。

 

続く。

 

 

ゲッティスバーグルーム〜ピッツバーグ ソルジャーズ&セイラーズ 記念博物館

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南北戦争に参加した全ての軍人たちを顕彰するために
1910年代からここピッツバーグに作られた、
ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム、
略称SSMM、最初に誰もが足を踏み入れるのは、

「ゲッティスバーグ・ルーム」

です。

ここにはSSMMの壮麗な建物の歴史を物語る写真もありますが、
最も目を引くのがこの

アレキサンダー・ヘイズ准将(1819-1864)

の巨大な肖像画です。

ヘイズはペンシルバニア州出身で、この近くの墓地に墓所があるのですが、
南北戦争前、土木建築技師となってピッツバーグ市内に架かる
橋梁建設のプロジェクトに関わったことからこの特別な扱いになったようです。

ヘイズは士官学校の成績が25人中20位だったということですが、
その当時は一学年がそんなに少なかったというわけですね。

ちなみにその後南北戦争が起こり軍役に復帰した彼は
ゲティスバーグの戦いで戦功を挙げましたが、
ポトマック軍との戦いでミニエ銃の弾を頭に受けて亡くなりました。

Alexander Hays.jpg

44歳で准将というのもすごいですが、この写真どう見ても44歳には見えません。

これが「ゲッティスバーグの間」でございます。
絨毯は時々取り替えて天井も塗装し直していると思いますが、
オーク製の凝ったパネル壁面は昔の写真に写っているそのままです。

開館10日後の写真。掛けられている絵も変わっている模様。
この部屋は元々共和国大陸軍(南北戦争の退役軍人)のメンバーのための会議室でした。

部屋の真ん中にある展示物は、「パレードキャノン」(Parade Cannon)。
祝砲などを撃つための大砲というのが定義でしょうか。

パレードといえば、今年の7月4日、ジュライフォースのパレードは
どこも中止になり、花火だけの建国記念日となったところが多かったようです。

それこそアメリカ建国以来初めての事態ではなかったでしょうか。

ゲッティスバーグの間には二つだけ展示があります。
もう一つがこれ、

Limber and Artillery Chest

リンバー=前車というのは、大砲のの架尾や砲弾車(caisson、ケーソン)、
などの後部を支えて、牽引を容易にするため2輪の荷車のことを指します。

どう見ても4輪だが、とおっしゃるあなた、確かにそう見えますが、
実は前車はやはり2輪なのでございます。

この1860年当時の前車とケーソン(砲弾車)、
左側が前車で2輪、やはり2輪の砲弾車と組み合わせて4輪で使用します。

つまり写真は、向こう側の2輪がリンバーで、こちらの「武器箱」は
2輪の車と一体型になったものであるということです。

南北戦争の英雄たちの写真・・・なのですが、我々日本人には
よっぽど有名な軍人でもない限り聞いたこともない名前ばかりです。

この人たちはペンシルバニア州から北軍に参加した将官です。

左から、

デビッド・グレッグ准将 農場主、外交官

David McMurtrie Gregg.jpg

退役後一般人の生活があまりにつまらないので、もう一度
軍隊に入れてくれ!と頼んだけど断られた人。

ストロング・ビンセント准将 弁護士(ハーバード卒)

Strong Vincent.jpg

ミシガン軍との戦いで弾丸が太腿の付け根を貫通しその後死亡。
享年26歳(それで准将って・・)

サミュエル・W・クロウフォード将軍 軍医

Samuel W. Crawford - Brady-Handy.jpg

軍医として軍隊に参加しながらいつのまにか指揮官になっていた人。

ジョン・F・レイノルズ少将 職業軍人

GenJFRenyolds.jpg

北軍で最も尊敬された上級指揮官の1人。
ゲティスバーグの戦闘開始直後に戦死。

レイノルズが首を撃たれた瞬間が版画化されていました。
ほとんど即死状態だったということです。

さきほど「日本人はほとんど名前を知らない」と言い切りましたが、
この4人についてはちゃんと日本語のWikiもあり、どうやら
南北戦争に詳しければ知っているというくらい有名であることがわかりました。

南北戦争当時ここピッツバーグのアレゲニー郡には1814年から100年間
アーセナル(武器弾薬庫)があったのでその関係の資料が集められています。

奥の版画にも描かれているように女性が弾薬を巻く仕事に携わっていました。
男性軍人が監督を務め、作業室は「ラボラトリー」と称していたそうです。

右奥に見えるのが彼女らの「巻いた」弾薬カートリッジ。

南北戦争で北軍が使用した砲弾(Artillery Shell)の断面です。
ここアレゲニー武器弾薬廠で生産されたものです。

Civil War Artillery Projectiles – The Half Shell Book by Historical  Publications LLC - issuu

炸薬で破裂すると、内部に仕込まれた小球が飛び散って
破壊的なダメージをもたらすというわけでなかなかエグいです。

このケースには当時の衣装や装備などが収められています。

当時の士官たちのイケてる軍隊生活の一コマ。

ピッツバーグにはリベラルアーツのDuquesne universityという大学があります。

フランス語式にSは無音で「デュケイン」と読むのですが、この語源は
独立戦争前に入植してきたイギリス人とフランス人(+インディアン)の間で起こった
フレンチ・インディアン戦争(1754〜63)に遡ります。

その戦場となったのが現在のピッツバーグで、その名前も
当時のイギリスの首相だったウィリアム・ピット(小ピット)に由来しているのです。

OlderPittThe Younger.jpgピット

このときイギリス軍バージニア民兵隊を指揮したのは21歳のワシントン少佐。
ポトマック川を上ってフランク・ロイド・ライトの「フォーリングウォーター」のある
フランス軍の「デュケイン砦」を目指したという話が残っています。

その後デュケインは地名として使用されるようになり、この写真の
「デュケイン・グレイ」はこの地域で米西戦争の際結成された歩兵隊の名称で、
制服のグレイが名称に取り入れられています。

色や肋骨服のデザインはウェストポイントの制服に通じるものがありますね。

エポーレット付きの肋骨服にサッシュという正装をした

ジェームズ・S・ネグリー准将(1826-1901)

地元の出身で(ピッツバーグ大卒)、「ストーンズリバーの戦い」では
北軍の勝利に大きな働きをした軍人です。


こちらは1850年ごろ、つまり南北戦争の前のドレスユニフォームで
名称は「ピッツバーグ・ブルー」といいました。
袖章から、軍楽隊のメンバーの制服であることがわかります。

この頃は戦前ということもあり、制服はこのサッシュ(帯)
に見られるように装飾的で軽い着心地を追求する傾向がありました。

ドレスユニフォームの肩に付けるこのような飾りの房を
「エポーレット」(フランス語で”肩”)といいます。

上のシルバーのものは1812年製であることがわかっており、
1850年製の金色のケース入りエポーレットと比べると素朴な作りです。

どちらも初級士官のドレスユニフォームのためのものです。

1800年ごろからペンシルバニアではマスケット銃の生産を行っていました。

この図は、1836年に発行されたマスケット銃による銃撃に必要な
「11のステップ」を図にした歩兵のドリルのためのマニュアルです。

ドラム型の「キャンティーン」つまり水入れです。
ドラム形状の側面は、「スターブ」と呼ばれる木片でできており、
周りを鉄のバンドで固定されています。
内部に水が注がれると、木が膨張してしっかりと密閉されます。

木製のキャンティーンは1800年から1850年くらい、南北戦争前まで
兵士たちの間で使用されていました。

このキャンティーンには「SNY」とペイントされた跡があり、
ニューヨークステイトの意味だということです。

手前の銃はフレンチモデルの42型パーカッションピストルということですが、
ちょっとググったら普通に売買されていてちょっとびびりました。

アンティーク銃売買サイト

安いのは100ドルから上は天井知らず?(とはいえせいぜい1000ドルくらい)
どれも説明を読んでみると、普通に使用できるみたいなんですよね。

まことについでながら、同じサイトで日本の鎧兜を扱っていました。

江戸時代の武士の鎧

兜付きでスタート3000ドル。安いのか高いのか。

続く。

 

ゲッティスバーグ観光記念の「土産物」〜ピッツバーグ ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館

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ピッツバーグの学校地区にある兵士と水兵のための記念館、
そして軍事博物館でもあるSSMMの展示から、最初の部屋
「ピッツバーグ・ルーム」にある展示をご紹介しています。

南北戦争のハイライトでもあるゲッティスバーグの戦いですが、
ゲッティスバーグがペンシルバニア州だったなんて、初めて知りました。
おそらくこれを読んでいる方々もほとんどは考えたこともないのではないでしょうか。


「ゲッティスバーグの間」には戦場で使われたグッズの色々が
壁に貼ったアクリルのケースの中に収められています。

記念館が開館したとき、南北戦争のヴェテランの何人かは
戦中に使用していたものを寄贈しましたが、これらもその一つです。

帽子のクロスした望遠鏡を象ったマークの下に「F」とあり、
F砲台つまり「ハンプトンの砲台」の所属という意味です。

下のバッグは同じ寄贈者からのもので、ベルトと一体にして
ベルトポーチのような使い方をしていたものと思われます。

ゲッティスバーグの戦いに参加したトーマス・ロウリー准将の肩章、
戦場に携帯するためのフォーク、ナイフ、スプーンなどです。

弾丸が埋まった民家の木材部分。

ジョージ・ミード将軍の司令部は北軍の最前線のちょうど後ろにあった
リディア・レイズナーという寡婦の家に置かれていましたが、1863年7月3日、
ピケットラインが攻撃された時に弾丸がめりこみました。

アメリカの家、特にここピッツバーグやボストンなどでは築100年の家に住む例は
全く珍しくありませんが、この家はたまたま取り壊しになった際、
銃弾の埋まった部分を当記念館に寄贈しました。

 

終戦直後から激戦の跡となったゲッティスバーグには、次々と
観光客が訪れたため、土産物を売る業者が現れました。

これはペン立てのついた「デスクセット」らしいのですが、
これらはリンカーンが有名な「ゲッティスバーグの演説」を行った付近や
国立墓地から勝手に拾ってきた石とか小弾丸とか木などをこのように集めて
適当に鷲のマークをあしらっています。

今はそんなものないのかもしれませんが、昔は、観光地の土産物屋に行くと、
「天橋立」とか「白浜」とか書かれた小さな札を立てた、「飾り物」
今思えばあんなもの買って何にするんだろうというようなグッズがありましたよね。

なんかこの「土産物」を見ていると猛烈にあれを思い出したのですが、
この「ゲッティスバーグ土産」も、観光に行って買ってきて、
しばらくは飾ってあるけどそのうち埃に塗れてヤードセールに出され、
というような運命を辿り四散してしまうようなものなんだろうと思います。

具体的には3インチの砲弾跡が刻まれた大理石の墓石、
2つのミニエボールの銃弾が埋め込まれた木、
キャニスターボールの破片が刻まれた花崗岩、などなどが、
馬具のかけらなどとともにリボルバーボールの上に乗っています。

制作されたのは1870年代ということで、おそらく当時は
歴史的史跡などという扱いがされていなかったため、業者が入り込んで
「お宝拾い」をしてはこうやって小銭を稼いでいたのでしょう。

北軍兵のキャップ。

こちらは南軍(コンフェデレート)兵士の使っていたドラム型水筒。 

先ほどのより大きなキャニスター(砲弾)が硬い樫の木に
見事にめり込んで埋まってしまった例。

20世紀になってからゲッティスバーグで発見されました。

 日本の旗のスクエアバージョンみたいなこの旗は、
ゲッティスバーグでルーサー・カルヴィン・フーストが使った信号旗です。

ルーサー・カルヴィン・フーストは現在のワシントン&ジェファーソンカレッジ、
当時のジェファーソンカレッジの20歳の学生で南北戦争に志願しました。

信号隊に配属になったフーストはゲティスバーグの戦い三日目の戦闘で
「ビッグ・ラウンド・トップ」と呼ばれる高地を
北軍が攻略した時にそこに信号兵としてそこにいました。

この旗は、フーストの記憶によると、目的の受信地に到達するまで
ステーション間で信号兵がメッセージをやり取りするのに使用された
二枚組の信号旗のうちの一枚です。

この二枚で1セットとなります。

フースト君はゲッティスバーグ三日目、このようなことを日記に書いています。

「僕たちは昨夜野営した。

今朝には午前中にかなりの小競り合いが行われることが確実になり、
正午に向けて戦いは再び激化し、最も激しく最も熱い砲撃があった。

僕の隣に座っていた男は瞬時にして砲撃で吹っ飛ばされて微塵となり、
数ヤード進むうちにこんどは馬がやられてしまった。

我々は敵のライフル弾が降ってくる中、ここ丘の上に信号基地を構えた。

敵は午前10時にはこの丘を指揮する3つのバッテリーを設置し、
我々は3回前進してそれを奪ったが、最初は撃退されてしまった。

戦いは厳しかったが、我々はそれぞれの地点で彼らを叩いた。
午後1時から2時までの間、砲弾や榴弾が降り注ぐのは目撃していない。

猛暑の間、僕はウォーレン将軍からバーニー少将、
セジウィック将軍、ミード将軍への伝令のために全部隊を回った。

わたしが行こうとすると連中はこちらに怒鳴ってきた。

『やめとけ、通り抜けるなんて絶対無理だ!』

しかし、僕はミード将軍に私の伝令を送らないわけにはいかず、
猛烈な速さで戦場を駆け抜け、でもう少しで馬を殺すところだった。

アイケンというもう一人の伝令は砲撃が収まるまで待つといい、
任務を引き受けなかった。

今日は「悪魔の巣」から狙ってくる狙撃兵によって
わが信号隊のうち7人が死傷することになった。

そして、素晴らしい武器であるはずの榴弾によって
我が軍は何百人もが犠牲になることになったのである」

これは・・・榴弾が自爆してしまったってことなんでしょうか。

さて、冒頭の写真は南北戦争時代の軍楽隊、というか「太鼓隊」です。

写真を拡大してみますが、太鼓を叩いているのも、
その指揮を執っているのもせいぜい13歳くらいの少年ばかりですね。
初回に少年兵について少し書きましたが、彼らは太鼓隊に配属されることが多かったようです。

 

もうこの世には一人も存在していませんが、南北戦争で軍隊生活を送った者は、
この太鼓の響きをまるで心臓の音のように記憶していたことでしょう。

なぜならドラムはこの時期、起床の合図から行進の伴奏にと、
あらゆるコミュニケーションにツールとして使われていたからです。

兵士たちは(そして馬たちもおそらく)食事の合図や就寝、そして
戦闘を表す何百もの異なった合図を覚えることから軍隊生活を始めました。

ちなみに南北戦争時代のドラムは薄い素材の木に蒸気を当て曲げて作りました。
皮は文字通りのカーフスキンを張ってあります。

左:陸軍歩兵部隊の太鼓

政府の依頼でフィラデルフィアの会社が当時一個6ドル75セントで請け負ったドラム。
たった百個しか製作されなかったため、現存しているのは
非常にレアであるということになるそうです。

太鼓の上に乗っているのはビューグル(喇叭)です。

右:ペンシルバニア第6重歩兵連隊の太鼓

ほとんどのドラムには部隊の徽章が彩画されています。

左:捕獲した南軍のドラム

こういうのも「鹵獲」というんでしょうか。
南軍の兵士が使っていた太鼓ですが、その後は北軍が使用しました。

もちろん南軍のペイントは消され、上から描き直されています。

右:砲兵隊ドラム

この砲兵ドラムは、高さを約半分に短く改造してあり、
その際、鷲と13の星の絵を残すようにトリミングしてあります。

なんでそこまで面倒な改造をしなくてはいけなかったのか。

このドラムが切り落とされた理由は不明ですが、
連隊バンドがドラムラインに鋭い音を必要としたか、
このドラムを使用したドラマーが行進の時に演奏する
ケースに合わせるためドラムを切ったかのどちらかだと言われています。

しかし、今ならケースに入らなかった場合の解決法は
「ケースを買い換える」一択ですよね。
サイズが合わないからってドラムを切るなんて考えられません。

この管楽器はB フラット、ドイツ語でいうところのB管(ベーカン)の
サックスなんだそうで、いわゆる現代のサキソフォーンとのあまりの違いに
ちょっとびっくりさせられます。

戦場仕様でホーンを大きくしてあるのかな?

これは馴染みのある形のBフラット管コルネットです。
手書きの紙片がケースに楽器とともに収められており、
それにはこう書かれています。

「音楽・・・ああ! なんとかすかな弱さ
汝の魔力の前に言葉は衰退する
なぜ語りたい気持ちになるのか
彼女の魂をあまりうまく吹き鳴らせないときに」

持ち主は詩人でもあったようです。

右側はジョン・B・クラーク少佐。
アレゲニー市(現在のピッツバーグ北側)に支持者を持つ長老派大臣で、
2週間足らずで10個部隊分の志願兵を集め、
第123ペンシルバニア志願歩兵隊を形成するだけの影響力を持っていました。

この曲「凱旋行進曲」はクラーク少佐を称えて作曲されたものです。

その曲というのがですね。
この「グローリー・ハレルヤ」Glory, Hallelujah。

この曲は皆さんおそらくよくご存知です。
「グローリー、グローリーハーレルーヤー」というあれですね。
 
アメリカ陸軍空挺部隊では部隊歌、
日本では「太郎さんの赤ちゃんが風邪ひいた」、また近年では
大型電気店のCMソングとして知られています。

実は歌詞はこんな内容だったってご存知ですか?

John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
His soul is marching on!

(ジョン・ブラウンの身体は墓の下、彼の魂は行進する)

The stars of heaven are looking kindly forth,
The stars of heaven are looking kindly forth,
The stars of heaven are looking kindly forth,
On the grave of old John Brown!

(天の星は優しく見つめる、ジョン・ブラウンの墓を)

となっています。
ジョン・クラーク大佐を称える歌なのになんでジョン・ブラウンなんだ、
というについてはまた今度説明するかもしれません。

ちなみにジョン・ブラウンとは北軍の兵士に人気のあった
死刑廃止論者だそうです。

ピッツバーグにあった連隊旗などが収められているケースです。


画面の左側に少しだけ見えている白と金色の旗は、1948年、
戦時中に息子を失った母親で構成される組織が
パレードに掲げて行進したものです。

おそらく、戦勝パレードの類ではなかったかと思われます。

また、中央に見えるアメリカ国旗は、星が75個もあります。

「75星出征旗」(エンバーカションバナー)

といい、この旗を窓にかけると、その家の息子は出征していることを表しました。

また、旗に金の星が縫い付けられていれば、彼が戦死したことを示しました。

 

 

続く。

 


ズアーブ兵部隊と古兵予備軍団(傷病兵部隊)〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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「レキシントンの戦い」の再現ショーが見られたボストン、
南軍からの攻撃に対応するために作られたフォートがあったサンフランシスコ、
そしてここピッツバーグでも、南北戦争の痕跡は至るところにあります。

なにしろペンシルバニア州ではあのゲッティスバーグの戦いが行われ、
ピッツバーグには砲兵工廠や陸軍連隊のヘッドクゥオーターがありましたから、
市内には有名な将官の墓所なども普通にあって、車で走っていると

「ここに南北戦争で戦った北軍の誰それのお墓があります」

という立て札を目撃したりします。

南北戦争の兵士を顕彰するために作られた記念博物館、
「ソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム」を、たまたま
コロナ肺炎以前に見学していたことから今回のシリーズ制作となりましたが、
案の定そうやって知識を得ていくと、今まで見逃していたものごとが
急に意味をもってクローズアップされてくるという現象がありました。

歴史家でもジャーナリストでもないわたしがアフォリエイトでもない
無料のブログ(というか逆にブログの写真掲載のために月会費を払っている)で
今までいろんなことを追求してきた意味のほとんどはそこにあります。

今まで曖昧糢糊としていた知識が、ある場所に踏み込んで行った途端
ぱっと開けて旧知のものごとと繋がったときの喜びと興奮は
何ものにも替え難いというほどのものではないにしろ、
当ブログ継続の大きなやる気と動機になっているのは間違いありません。

今回の滞在では当初予約していたホテルから一方的に予約をキャンセルされ、
野球場の道向かいにあるホテルに変更することになったのですが、
これが今にして思えば結構な「あたり」で、ゲームが中止になっているおかげで
シーズンなのに周りが混雑することなく、交通至便であることがわかりました。

川沿いの遊歩道にホテルから歩いて出られて散歩コースにはことかかないし、
ダウンタウンのように夜になると周りに怪しげな人がうろついていることもありません。

 

というわけで毎日せっせとあちこちを探索しているわけですが、
到着して次の週末に遊歩道の公園を歩きにいったら、なんとそこが
「フォートピット」という砲兵工廠があった場所であることがわかりました。

当時の煉瓦造りの建物を利用した博物館があり、おそらくここでは
南北戦争時代の遺物なども展示されているのだと思います。
コロナのおかげで閉館していましたが、こういうのも偶然とはいえ、
たまたま南北戦争について調べていた最中であったことを思うと不思議な気がします。

ここには1754年に構築されたピット要塞の一部が保存されています。
ピッツバーグに残された最も古い建築物と考えられているとか。

南北戦争時代、ここはピット要塞として北軍の司令部ともなっていました。

さて、それでは南北戦争関係展示の続きをご紹介していきます。
ケースごとにテーマがあるようなのですが、ここにはこんなことが書かれています。

「北軍兵士が着用した『普通と違う』ユニフォームのいろいろ」

ほとんどの人たちは南北戦争のユニオン=北軍のユニフォームは
ダークブルーだと思っておられるでしょう。
確かにそれは間違っていはいませんが、その間、ユニオンブルーとは
少し違うタイプのユニフォームを着ていた組織もありました。

この見るからに民族的なユニフォームの男性はズアーブ(Zouave)兵です。
右下のズアーブ兵はノア・パンバーン上等兵といい、ロバートE.リー将軍の正式降伏と
仮釈放に出席するために選ばれた155番目からの小さな派遣団の1人でした。

彼は戦後も連隊のヴェテランとして様々な催しに
ズアーブ兵のユニフォームを身に付けて参加していたということです。

ユニフォームは彼の死後、息子によって当会館に寄付されました。

南北戦争時のズアーブ兵

アルジェリア・チュニジア人が中心となったフランス語を喋る兵隊で、
南北戦争は義勇軍として北軍・南軍のどちらにもズアーブ兵部隊がありました。

第155ペンシルバニア志願連隊は最も有名なズアーブ兵部隊でした。
北軍のブルーをあしらったユニフォームに赤いサッシュベルトをしています。

彼らの民族衣装はファッションにも影響を与え、
ゆったりしたパンツは「ズアーブパンツ」、丈が短くノーカラーで
トリムのあるボレロ 風の上着は「ズアーブジャケット」。
この言葉は今でもアパレル用語として使われています。

ゆったりしたパンツはサルサパンツと言うこともありますが、
ズアーブパンツというのもよく使われる用語です。

エルマー・エルズワース少佐 Elmar Ellswarth

このシリーズが始まってすぐ、「ジョン・ブラウンの亡骸は墓土の下」という歌詞の
「グローリー・ハレルヤ」というタイトルの曲をご紹介したと思いますが、
そもそも、ジョン・ブラウンって誰?といいますと、南北戦争時代、
人種差別=黒人の奴隷制度に反対し、南部の武器組織を急襲して失敗、
死亡した人物であったのです。

いまでもいろんな替え歌ができているこの曲ですが、当時も

「エルズワースの亡骸は墓土の下」

という替え歌がありました。
オリジナルができてから数年後には替え歌ができていたということですから、
あらためにこの曲の汎用性の高さがわかりますね。

そのエルズワースというのがこのエルマー・エルズワース少佐で、
なぜ彼が歌に歌われることになったかというと、彼こそは

「南北戦争が始まって最初に死んだ将官」

であったからです。

Elmer Ellsworth

その写真がなぜこの一角にあるかと言うと、彼はズアーブ士官候補生部隊を率いていたからです。
リンカーンの大親友でご覧の通りのイケメン士官でもありました。

その死に方というのがなかなか不条理なので、説明しておきます。

エルズワース少佐は、占領した南部の街にあったアレキサンドリアホテルに
南軍の旗が掲揚されていたのを見て、オーナーに無断で屋上に上がり、
オーナーに無断で旗をナイフで切り落として意気揚々と降りてきたところを
オーナーであったジャクソンという男にいきなり撃たれてしまったのです。

この版画は階段を降りてきたエルズワースをジャクソンが撃ち、
エルズワースの部下が銃剣を構えてジャクソンに向かっています。

部下であったこのズアーブ兵は上で紹介した写真のフランシス・ブラウネル上等兵で、
少佐がやられた次の瞬間問答無用でジャクソンを倒しました。

リンカーンはこの親友の死を嘆き、彼の遺体は大統領権限で
ホワイトハウスの一室に一時納められていたということです。

Veteran Reserve Corps、VRCの制服です。

日本語で言うと「古兵予備軍団」ですが、実態は、障碍を負っていたり
衰弱した軍人および元軍人からなる部隊で、南北戦争時代、北軍にのみ存在しました。

彼らは前線で必要とされる健常な兵士らに代わって軽作業等に従事していました。

第21VRC歩兵連隊B中隊の兵士

傷病兵軍団のユニフォームは一般部隊とは違うデザインで、ここにもあるように、
ジャケットは空色のカルゼ地、紺色のトリム、
騎兵用ジャケットと同型の裁断、腰/腹部にかかる丈です。
ズボンはジャケットと同じ空色でした。

写真の右袖に見える階級章の裏布はトリムと同じ紺色です。

VRCには将校もいて、空色の布地に襟および袖口に
紺色のベルベットをあしらったフロックコートが支給されましたが、
空色は汚れが目立ちやすいと現場からクレームでもあったのか、
後には通常部隊と同様の紺色のフロックコートの着用が許可されています。

VRCの軍楽隊です。

軍楽隊員というのは当時の基準でいうところの
「軽作業部隊」「invalidな人でもできる部隊」とされていました。

それにしても「古兵」といいつつ若く見える人ばかりですね。
健康そうに見えてもどこかに具合の悪いところがあるのでしょうか。

ここの説明に

”Invalid Corps"=傷病兵部隊

が別名だったと書かれていますが、
実際はこちらが最初の正式名であったのです。

しかし、イニシャル「I.C」が廃品(Inspected-Condemned)を想像させ、
この部隊名が士気に悪影響を与えているということになったので、
南北戦争期間中に名称をVRCに変更することにしたのでした。

2大隊からなっており、一等大隊には障害が比較的軽い者が配属されました。
軽い、つまりマスケット銃を扱えたり行軍ができる程度の能力があれば、
警衛や憲兵(Provost)としての任務に従事できました。

二等大隊はより深刻な、例えば手足の切断やその他の大怪我を負った者が
料理人、倉庫番、看護師、公共施設の警備員の任務に配属されるために組織されました。

古兵予備軍団は24個連隊を擁し、各連隊は1個師団および3個旅団が編成され、
いかに対象となるような将兵が増え続けていたかがわかります。

障害が軽度であるとされた一等大隊員は二等大隊員の2倍から3倍程度いて、
次のような任務に就いていました。

捕虜収容所の看守

徴兵の執行

憲兵隊長(Provost marshal)補佐

前線と後方の間の交代兵員の移送

新規入隊者、捕虜の護送

鉄道の警備

ワシントンD.C.での警邏

動乱の際の市街の防衛

戦争を通じて、60,000人以上の陸軍将兵が古兵予備軍団に参加し、
そのうち1,700人がいわゆる殉職しています。
このうち戦闘における戦死者は24名でした。

連合国軍(南軍)にもこの種の傷病兵部隊が存在したそうですが、
北軍ほど組織化された者ではなかったようです。

 

ちなみに、1865年7月7日、リンカーン大統領を暗殺したとされる
共謀者4人の絞首刑が執行されていますが、これを担当したのは
第14古兵予備連隊F中隊から派遣された4人の兵士でした。

ついでのついでに、よくご存知かもしれませんが、
この時に絞首刑になった4名の顔写真をあげておきます。

Mary Surratt.jpgメアリー・サラット

Lewis Payne cwpb.04208 (cropped).jpgルイス・パウエル

David Herold retouched.jpgデビット・ヘロルド

George Atzerodt2.jpgジョージ・アツェロット

の女性を含む4名で、刑の執行場所はマクネア砦でした。

Here's Where the Lincoln Co-Conspirators Were Hanged in DC 150 Years Ago |  Washingtonian (DC)

処刑台の近くに2名兵士の姿が見えますが、これがVRCから派遣され
執行を行った後の4名のうち2名の兵士であろうと思われます。

リンカーン暗殺とその後の処刑についてはもう少し後で
詳しく説明したいと思います。

 

南北戦争が終結すると、必要性もなくなり、古兵予備軍団の部隊は
1866年までにほとんどが消滅し、残っていた部隊も普通連隊と統合され、
古兵予備軍団は完全に消滅することになりました。

 

続く。

 

アメリカの「カルチャー」〜ピッツバーグ滞在

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9月になりましたが日差しは相変わらず強く、湿気が大気中にたまってくると
猛烈な勢いで雷を伴う雨が降ってまた爽やかさが戻ってくる、これを繰り返して
少しずつ涼しくなっていくのがピッツバーグの晩夏です。

日課のウォーキングですが、今回車で10分くらい行ったところに
トレイル(散歩道)コースがふんだんにある公園、フリックパークを見つけました。

ピッツバーグ最大の広さを誇る市立公園で、2.61 キロ平方メートルという
この公園は、元々一部にアンドリュー・カーネギーのビジネスパートナーだった
ヘンリー・フリックの所有地があったことから始まっています。

フリックはこの土地の購入についてしぶっていたのですが、娘のヘレンが
デビュタントでの「お願い」として公園の維持費用を供出することをねだり、
その結果公園が1927年にオープンしたということです。

父親とその令嬢。
絵に描いたような(って絵なんですが)アメリカの当時の上級です。

フリックはヨーロッパから帰国するためにタイタニック号を予約していましたが、
妻がイタリアで捻挫したため、乗船をキャンセルして難を逃れています。

娘のヘレンは慈善事業家で美術コレクターとして名前を残しました。

アメリカの「公園」とは、日本のと違って(日本のようなのはプレイヤードという)
人が歩く小道を自然の中に作っただけの広大な森林を指すことが多いのですが、
ここは特に最低限の整地をして歩きやすくしているだけで、柵などは基本ありません。

トレイルには全て名前がついていて、ところどころ立て札があります。
Tranquil trail というのはその名前の通り穏やかでアップダウンのない真っ直ぐな道。
何も知らなくてもお年寄りや家族連れ向きだとわかりますし、この
「ローラーコースタートレイル」は、マジでトレーニングしたり、
マウンテンバイクの威力を試したい人向け、というのが伝わってきます。

シェンリーパークの鹿は夕方出てきますが、ここは森が深いせいか
昼間でもよく彼らが歩いているのを見かけます。

この立派なツノを持った鹿とばったり出会いました。

よく見たら木の影から出てこられない小鹿がいます。
彼らは道を渡ろうとしたときわたしがやってきたので
慌てて隠れているつもりなのです。

それにしても父親と子供が連れ立っているのは初めて見ました。

 

それで思い出したんですけど、アメリカって普通に離婚が多いんですよね。
MKの前のルームメイトも母親は後妻で、弟だけが実母のところと実家を行き来しているとか。
子供を引き取るのも必ずしも母親とは限らないのです。

わたし自身もMKの幼稚園で子供をワッチする仕事をしたとき、
その頃ですら(つまり子供がまだ小さいのに)クラスに必ず一人か二人、
親が離婚してどちらもの家を行ったり来たりしている子がいました。

母子家庭の母親が意気投合して二家族で一緒に暮らしているという例もあって、
さすがアメリカ、と驚愕したものです。

2度目に訪れたとき、いきなり墓地に迷い込んでしまいました。

傾斜を利用した「霊廟」というレベルのお墓もありました。
星のマークがついているのはユダヤ教の人々の墓です。

すぐに引き返しましたが、境目になんの案内もないので知らない人は
入って行ってしまうと思います。

 

ある日火事騒ぎ?を目撃しました。
大型ショッピングセンター、「ターゲット」に行こうとしたら、
店の前に消防車が止まっていてお店の前が通れなくなっていたのです。

消防車は梯子を稼働させていますね。

店の反対側にいる赤シャツの軍団は、全員退避中の店員。
幸い大事にはならなかったようで次に通ったら普通に営業していました。

また別の日には、交通事故の生々しい跡を目撃しました。
この写真は現地のテレビ報道のものですが、バイクが車線変更したとき
後ろからきていた車の左側ドア部分に激突、そのままライダーは
側壁に叩きつけられて即死したという事故でした。

壁にもたれて携帯を触っているのが運転手で、わたしが渋滞を抜けて
現場を通りかかった時にはライダーの身体は地面にまだ横たわっていました。

お亡くなりになった方をもろに見てしまったこともあって、
その日のニュースでその人の名前や年齢を調べてしまったものです。

また結構雨が降った週末、教会の前を通りかかったら
ちょうどこれからライスシャワーがあるらしく皆外に出てきていましたが、
さすがアメリカ人、傘をさしている人は二人だけ。

アメリカにも傘を売っていないわけではないのですが、
アメリカ人というのは本当に傘をさしません。
Covid19以前のマスクのように、「それをしたら負け」と思っている節があります。

Covid19といえば、ピッツバーグ最大の医療機関であるピッツバーグ大学医学部病院では
このようなロゴを渡り廊下に示しています。

アレゲニー郡だけで9月10日現在、感染者は10,915人、
死亡者数358人ということですから、感染者規模は大阪府と同じ、
死亡者規模としては東京都と同じくらいです。
街は表面上穏やかそうでも医療関係者は「戦場」になっていることが予想されます。

つい先日もピッツバーグ大学の学生にプチ集団感染があり、MKの大学からも
一人だけとはいえ感染者を出したということを聞きました。
この状態では野球や観劇などのエンターテイメントが再開できないのも当然かもしれません。

こういう危機に陥ったとき、アメリカは第一線に立つ人々をわかりやすく称えます。

日本では武田邦彦氏が、医療関係者はそれをするのが仕事なんだから当たり前、
とおっしゃっていましたが、もしアメリカでこういう発信をしたら、 
非難だけですめばいいねというレベルのバッシングをされるかもしれません。

「日本人の同調圧力ガー」

という枕詞をマスク着用や自粛関係に対する非難する言説に見かけますが、
少なくともBLMやトランプ支持者に対する態度を見る限り、
アメリカ社会の同調圧力の方が極端だと感じます。

MKの学校では授業開始前に全員の検査を行いました。
室内ではなく外で(建物の外廊下で)机を並べ、
学生は各自赴いて自分で綿棒を扱って検査を行っています。

 

COVID19では先日ニューヨーク市の飲食店が集団で市を訴えた、
というニュースがありました。
インダイニングでの営業を禁止し、開業しているところを摘発するなど
厳しい対策を取ったことに対する損害賠償を求める訴えと聞いていますが、
ここピッツバーグではどういう基準になっているのか、
休業している店、デリバリーだけで営業している店、そして
平常と全く変わりなくインダイニングを開けている店と三様です。

感染防止のための対策を厳しく講じた上で許可をとっているのか
その辺は詳しく知りませんが、今いるホテルの近くに
平常通り営業しているバーガーの有名店があると聞いて、行ってみることにしました。

まずチェックインすると、同時に何人目か、待ち時間はどのくらいか
ひとめでわかるアプリを登録させられます。

呼ばれるまでできればどこか他所に行って待ってくださいというかんじ。

この日は晴天の週末、しかも昼時とあて待ち時間は30分あったので、
わたしたち散歩コースでもあるオハイオ川の河原ぞいにちょっと歩いてみました。

下から見ただけでわかってしまったフレッド・ロジャースを確認。
後ろのブリッジの下に立つと、仕込まれたスピーカーから

ミスター・ロジャース・ネイバーフッドのテーマソング、

Watch Mister Rogers Age While He Sings “Won't You Be My Neighbor” (1967 Through 2000)

が聞こえてくる仕組みです。

「Ever Watchful」というのは一つの単語化している言葉で、
あえて日本語にするなら「常時監視」という感じでしょうか。

社会を統治する規則や規範に違反する人々を発見、抑止、更生、または
罰することによって法律を執行するために組織的に行動する一部の政府構成員の活動をさす、

「Low Enforcement」

という殉職警察官の碑にはこんな像がありました。

先日、ピッツバーグでは薬物接種の上路上で全裸になって座り込んでいた
アフリカ系の男性を確保するために後ろから顔に袋を被せた若い警官が
COVID19に感染し、死亡したということが発表されました。

しかし、メディアは相変わらず武器をとるために車に戻ったところを
警官に8発撃たれて死んだアフリカ系の父親の涙の訴えを大きく報じました。

「ラストコール」というのは、警官が殉職したとき、そのセレモニーで流す
殉職警官が生前最後に本署と取った通信のことを言います。

Dave Bray- Last Call (Tribute to Fallen Officers)

このビデオの最後には、配属2時間後に銃撃事件で殉職した
女性警官がその直前に行った「ラストコール」が収録されています。

実はここには「第二次世界大戦記念碑」なるものもあるのですが、
これについてはまたいつか日をあらためてご紹介するかもしれません。

ちなみにピッツバーグは「鉄鋼の街」として、戦争には大いに協力した、
というようなことを主張しているのだと思います(たぶん)

さて、というところで時間が来たのでテーブルに案内されました。

「マスクは食べ物が運ばれるまで外さないようにしてください」

このバーガートリーはちょっと(というかだいぶ)高めだけれど、
ちゃんとした牛肉を使った豪勢なバーガーを楽しみたいアメリカ人に人気の店です。

MKが、ここはシェイクも名物なんだというので、二人で一つ
死んだ気になって注文してみました。

MKにいわせると、ハンバーガーとシェイクという組み合わせは

「アメリカのカルチャーなんだ」

ということで、せっかくハンバーガーというアメリカ文化の真髄のような食べ物を
いただくからには、毒くわば皿まで(ちょっと例えが悪いかな)の精神で
そのカルチャーに敬意を表すべきだと考えたわけです。

ハンバーガーに先駆けてやってきたそれには、タピオカ用のような
ぶっといストローが二本付いていました。

「どれどれ・・・・んっ・・・ズズー(吸い込んでる音」

あの、耳下腺が痛くなるほど吸わないと飲めないんですけど。
っていうかこれ要するに溶けかけたアイスクリームだよね?

「いやー、ウェルカムトゥアメリカって感じですな。
ところでウェイトレスが一緒に持ってきたこのアルミのカップは何?」

「作った時余ったシェイクだよ」

というか、これで作って(クッキーとかピーナツバターと混ぜるわけだな)
グラスに入れるとどうしても残るのでそれも持ってきていると。

「どうも見た目がよくないね・・・ってか余らんように作らんかいって思うんですけど」

「これもカルチャーなんだよ」

お店の壁には本店におけるフローチャートがあって、これが結構面白かったので紹介します。

あなたはバーガトリーにいますか?

           →はい
           →いいえ→いや、あなたここにいますよね(これ読んでるんだから)

あなたがここにいるわけは?

A あなたがたはバーガーに飢えている

「あなたがた」が『Yinnz』というピッツバーグ弁になっている

B フットボールの代わりにシェイクを「スパイク」したい

spikeというのはフットボール用語 でタッチダウン後ボールを地面にたたきつけること。
つまり「キメたい」というようなニュアンスだと思われ。
ご存知のようにここはスティーラーズの本拠地ハインツフィールドのすぐ横です。

C カジノがカードを数えるために追い出されたから

ここから歩いてすぐのところに実はカジノもあります。
もちろん今はやっておりません。

D ファウルボールが飛んでくるのを待っていたらお腹が空いたから

何度もお伝えしているようにここにはパイレーツの本拠地である(略)

E あなたはブラウンズのファンで、心の穴を埋める必要があった

クリーブランドブラウンズはオハイオのフットボールチームで、
おそらく両者は地域的にライバル関係にあるのだと思われます。
負けたと決めてかかってますね(笑)

その下のバーガー、ビール、シェイクについては

バーガーとビール=Righteous(正義)

バーガーとシェイク=Lust(欲望)

ビールとシェイク=Divine(神々しい)

バーガーとビールとシェイク=バーガトリー

決定的な感じですか?→ワインが水に変わりましたか?→

矢印の下がトイレです(笑)

あなたは

ツリーハガー→あなたにはべジーバーガーがいいでしょう

         →気が変わった→ミートハガーへ

肉を使わないベジバーガーが美味しいのでも有名だそうです。

ミートハガー→チキンを所望、あるいは地上の牛の喜び、あるいは蟹を愛好

→シェイクについて話しましょう!→キメろ!あるいは古典的にいきましょう

→食事を楽しんで

→お支払いすみました?→いいえ→汝盗むなかれ(聖書の言葉)
           →はい→またどうぞお越しください

待っている間、隣の(と言っても離れてますが)テーブルの
若い男性と年配の女性と5人の子供に気がつきました。
男女は夫婦ではなく、子供は全員親が違う感じです。

兵士と水兵の記念館の展示から南北戦争について書いた時、
当時は一家の主人を戦争で亡くしたら、自動的に子供は孤児院行き、
未亡人は持ち家を公売にかけて自治体の「未亡人の家」で一生を送った、
ということを知り、かなり驚いたのですが、そのときにできた孤児院が
今でも市内にあって、何度か前を通ったことを思い出しました。

男女二人は孤児院の職員で、休みの日なので子供たちを連れて
河原にあそびに来てここで昼食を食べさせているのだろうと思いました。

というわけで、やっとのことでやってきた注文のバーガーは、
フローチャートにはありませんが、

→あなたは日本人ですか→はい→
ドライエイジドの和牛を使ったバーガーはいかがでしょう

という選択で、ミートユアメイカーという15ドルのバーガーにしました。

肉そのものはバーガーにするにはちょっと上品すぎるかなと思いましたが、
なんとトリュフを加えて(もちろん本物)香り付けをするという力技により
それはそれはリッチなお味に仕上がっており、堪能したことをご報告しておきます。

結論は、

→やっぱりバーガーはアメリカのカルチャーです!

 

 

19年目の9月11日〜アメリカ滞在

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MKの大学も本格的に授業が始まり、さっそく「忙しくなった」そうですが、
初めての自炊生活もなかなかいい出だしのようで、

「もうポットでご飯を炊くのは完璧」

と豪語しております。
なんでも底にコゲを作らない火加減を早くも会得したとのこと。
いざというときのためにトレーダージョーズの中華風オレンジチキンとか、
美味しいかどうかはわからないけど点心とかの冷凍食も用意して、
どんなに勉強で忙しくなってもとりあえず自分で何とかできるように
最低限のことはしたつもりでしたが、期待以上です。

ところが困ったことに、「遅くても8月31日」と予告していたはずの
ドームムーバー(学生専用の荷物預かり&配送業者)が、コロナのせいで
予定を2週間すぎても来ず、さらには連絡を取ったところ

「いつになるのかわたしたちにも全くわからない」

それ荷物なくしたんじゃないの?と疑いたくなりますが、とりあえず
布団とモニターが届かないのは困る、ということで、布団を買い、
モニターのために大きめのiPadを購入することにしました。

こちらのAppleも来店時間を予約してピックアップするシステムです。

何とアメリカのアップルでは今MKのような事態を予想したかのような

「学生証を見せれば一割引のうえ、イヤフォンプレゼント」

というセールを行っていました。
まあ、iPadを注文したらiPadだけでは済まず、Apple Pencil、
お高いApple純正ケースも買うのが普通なので、古い型のイヤフォンをつけても
アップルにすれば痛くも痒くもないわけで。

「イヤフォンは90ドル出せば最新式のモデルにできます」

というセールスもなかなかうまいっすね。

日本ではマスク着用をめぐって機内でトラブルを起こした人がいて
着用そのものについていろいろと問題にしている向きもあるようですが、
何度もいうようにこちらではどんな店舗の入り口にも「マスクガード」がいて、
マスクをしていないとお店に入れてもらえないので嫌も応もありません。

カートを返すとそれを拭いて消毒する係の人も配置されています。

たとえばピッツバーグでは州警察が定期的にコンプライアンスチェックを行い、
認可された施設に不備があればバシバシ警告を行います。

チェックを行う執行局は、抜き打ちで、店に出入りするすべての顧客、
及び従業員が常にマスクを着用しているかどうかを確認します。

また、飲食店ではテーブルやブースに6フィートの間隔、または
物理的な壁があることを確認し、最大収容人数の制限が掲示され、
実施されているかどうかを厳しくチェックするのです。

さて、「アメリカの最も長い日」であった同時多発テロ事件から
今年も19年目の9月11日がやってきました。

今日はこの日1日の911関連番組をご紹介していきます。

まず、朝からFOXでは当時ニューヨーク市長だったジュリアーニ氏を迎え、
(といってもオンラインでの出演ですが)当時の思い出を語らせていました。

ジュリアーニといえば、今回のCOVID 19関係でのNY市の対応が酷いので
彼をもう一度市長にという声が上がっているとか何とか。

ジャック・キーン氏は911当時現役の陸軍大将として事件に関わりました。
退役後、キーン大将はトランプ政権から何度も要職を提示されていますが、
政治の世界に入ることを拒み、ご意見番として活躍しているという人です。

セレモニーに参加する犠牲者の遺族にインタビューをしています。

ご存知の通りワールドトレードセンターの跡地には
フリーダムタワーという名前の高層ビルが建てられました。

トランプ大統領はキャンペーンでペンシルバニアにいましたが、
そこからエアフォースワンでシャンクスビルに向かいました。
わたしも今回改めて気がつきましたが、ユナイテッド93が墜落したとされる
シャンクスビルはペンシルバニア州だったんですね。

ビルに航空機が突入した後の人々の様子。
この子供たちは現在二人とも大学を卒業したくらいでしょうか。

今年の慰霊式はCOVID19のパンデミックを受けて一般公開されず、
例年のようにミュージシャンの生演奏もなく、時間も短縮されました。

大統領選を控えたメモリアルなので、対立候補のバイデンも
同じようにシャンクスビルを慰問したということです。

お互いこのメモリアルをいかに大統領選に有利にするか、あるいは
突っ込まれるようなミスをしないように慎重に、とか、とにかく
そんなことばかり考えているんだろうなー、とわたしは
若干皮肉な気持ちで見ていたのですが。

ファーストレディのメラニアさんの装いは、黒の長袖のコートドレスと
非常にTPOを踏まえた感じのよいものと思われました。

わたしが注目したのは、大統領夫妻が遺族の代表と並んで
花輪を捧げるというセレモニーをこれから行うというとき、
トランプ大統領がさりげなくメラニア夫人の手を握ったことでした。

慰霊式典の行われた会場ではトランプ大統領が去った後、
無人の式台が映されていましたが、日本の国旗があるのに気がつきました。

右側の誰かわからない人が涙ぐみながらコメントをしている画面の下には
ここで墜落したとされる飛行機の乗客の唯一の日本人、
キノシタ・タカシさんの名前がちょうど表示されています。

早稲田大学理工学部の学生で20歳だったという報道がありました。

グラウンドゼロの慰霊碑は犠牲者の名前の横に
花が立てられるような窪みがあるデザインで、
この日は遺族などが訪れ、花を備える様子が映されました。

ここでCMとなったのですが、このロスランドキャピタルという
金融資産運用会社は、退役軍人が戦艦「アイオワ」の主砲の前で
当社の運用がアイオワの一撃のように力強い、みたいなことをいう
パトリオティックなコマーシャルを挟んできました。

事柄が事柄だけに、慰霊追悼番組のスポンサーには
あまりふざけたCFを打っているところは名乗りをあげなかったようです。

夜はヒストリーチャンネルが淡々と事件発生からビルの倒壊までの時間、
カメラが捉えた映像を映し出していくというドキュメンタリーが放送されました。

最初の航空機衝突が起こった直後の市民の様子には
大変な事故が起こったなあという騒然とした様子があるものの、
まだいうならば余裕というか対岸の火事的を見るような呑気さが感じられます。

ハンディカムを持っている人が撮影をしていますが、もし今なら
全員が携帯を構えて撮影をしており、その直後から
全世界に詳細な映像がSNSに溢れたことでしょう。

ビルを見守っている人たちが、高層からジャンプしている人がいる、
と騒然とし出したころです。

「何か落ちてる!」

「紙じゃない、紙ならあんな落ち方をしない」

「オーマイゴッド!」

という会話が録音されています。

そのとき、記録によると最初の衝突からわずか17分後、
南タワーにも航空機が衝突し、撮影者は悲鳴をあげます。

「テロリストだ!」

一機だけの衝突なら事故の可能性もありますが、
もう一つのビルにも直後に突っ込んだとなると・・。

ここで彼らは初めてテロであることに気がついたというわけです。

彼らは悲鳴を上げながら

「逃げなきゃ!」

とカメラを回したままエレベーターに乗り込むのですが、
次々と高層ビルが狙われていると彼らが考えるのもむりからぬことだったでしょう。

9時5分ごろ、別の高層ビルに住んでいる人がベランダから映したものです。

「酷い・・」

「中はどれだけ熱くなってると思う?」

「地獄だ」

事故当時88階にいた人から電話を受けた消防署オペレーターの通話です。
部屋の出口にいるので人をよこして欲しい、と通報者は懇願しています。

通報を受けるなり現場に急行して突入の機会を伺う消防士たち。
通報している人に、今人が向かっている、とオペレーターは説明しています。

皆が煙の吹き上げるビルの上方を凝視しています。

北タワーではすべての非常階段が破壊されていましたが、
南タワーでは一つの非常階段が使える状態で残されていました。

それで避難した人々もいましたし、消防士たちは階段を使って
救出のために上に向かって行ったのです。

「もう人が向かっていますからできるだけ早く助けにいきます」

と言っています。

救出のために現場に駆けつけたニューヨーク市消防局の消防士343人と、
ニューヨーク市警察などの警察官71人がビル倒壊で亡くなっています。

映像には「バタリオン2(第二分隊)入ります」という消防士からの声が残されています。

地上部隊とビルにあがって行った消防士の通信です。
救出を要請している人がいると連絡を受けて現場に着いたら、
もう彼らは飛び降りてしまった後であるという連絡を受け、
それを確かめているのです。

「その人たちはもう飛び降りてしまっていますか?」

「そうです」

ビルは倒壊前であり、次々と救援の消防車が駆けつけています。
ニューヨークの街である消防署前を通りかかったら、この署において
これだけのファイアーファイターが911で亡くなりました、
という慰霊のプラークが貼ってあるのを見ました。

北タワービルの103階から助けを求める人とビルのオペレーターのインターコムの会話です。

そこには100人以上の人々がいて皆が同時に自分のことを伝えようとしていました。
オペレーターは

「煙を避けるために姿勢を低くして待っていてください」

「だからそこにいてください。
わたしは消防士ではありません。
そこにいる消防士たちに伝えますから」

「もし可能なら窓を壊してください。
わたしに言えるのはそこに座って救助を待ってくださいということです。
消防士には救助に行くようにもうすでに伝えてありますから」

と何度も同じことを答えています。

近隣に出店していたファーマーズマーケットの関係者は
すべての商品をそのままにして避難し、誰もいなくなっています。

4ブロック離れたタワーから撮られた映像です。
窓にたくさんの人がしがみついているのを認めたあと、
その中の一人が落ちていくのに「オーマイゴッド」と叫び、

「ワイヤーとメタルが焼けている物凄い匂いが漂ってきている」

街角に佇んでビルを凝視している人々の中の一人が
携帯ラジオの音量をあげて、周りの人がそれに聞き入っています。

二機の飛行機がWTCに突っ込んだのに続き、少し後に
ペンタゴンにも飛行機が突入したというニュースが流れています。

ニューヨークの地下鉄は一部が崩壊したので運行を中止している、
というニュースが続いて流れています。

マンハッタンは閉鎖されたので誰も立ち入らないように、
という警告をアナウンサーが発しています。

「9月11日火曜日の朝、この日を我々は記憶し続けるでしょう」

ここからチームを率いて78階まで救助に上がり、その結果殉職した
オリオ・パーマー消防士が残した通信と、それを聞く地上の消防士たちの
表情が現れました。

「78階まで到達したが壁が崩れているので気をつけなければいけない」

「シャフトに挟まれてしまったら大変だ」

「トミー、(同僚)もうロビーまで戻ったか?
エレベーターロビーに戻ってきましたか?
エレベーターがめちゃくちゃになっているので、
コマンドポストに早くもどれ」

「要救助者が何とかして40階までいってエレベーターを使えるか確認する。
ここにはけが人がたくさんいる」

「火災は二箇所あるがたいしたことはない。
すぐ消火できると思う」

「今何階にいる、オリオ?」

「サウスタワーの南階段だ」

「78階か?」

「消防士を二人ほどこの階段まで要請することになりそうだ」

「わかった、10−4、階段に向かう」

そのとき近隣のビルから現場を見ていた人が叫んでいます。

「ビルが崩れそうになっているぞ!」

午前9時59分、ユナイテッド航空175便の突入から56分後、
ワールドトレードセンター南棟が崩壊しました。

近くで見守っていた人々が迫ってくる煙に追われて全力疾走しています。
この後、

「わたしは69歳だがこの歳で走りまくったよ」

とカメラマンに答えている人がいました。

10時28分、アメリカン航空11便の突入から102分後、
南棟に続きワールドトレードセンター北棟が倒壊しました。

塵芥を吸い込んで咳が止まらず座り込んでしまう人。
ベストをつけているので港湾会社の職員でしょうか。
仲間が水をわたしています。

屋内で係維を見守っていた近隣オフィスの人々が外に出てきました。
なんとかして自宅まで帰ろうとしています。

倒壊直後に止むに止まれない思いで消防隊に差し入れしていた人。
飲み物を入れたコンテナにはフランスの旗がつけられています。

見渡す限り真っ白な塵芥の積もるなか、この男性はどういうわけか
軽装のままビルの方向に向かって走っていくのでした。

見ている人がそっちにいくなと止めています。

 

WTC死者は合計で2763人。

その内訳は民間人2192人、消防士343人、警察官71人、
ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、
ハイジャック犯のテロリストが10人となっています。

ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベーターが停止し、
200〜400人が閉じ込められた状態で死亡したとされています。

また、ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は
最低でも200人と推定されていて、消防士の殉職者のうち1人は
落下してきた人の巻き添えとなっています。


この日街中の星条旗は半旗に掲げられ、「アメリカの一番長かった日」を悼みました。

 

 

 

 

オハイオへの旅〜ミリタリーミュージアムを訪ねて

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MKが学校の新学期からの授業を日本で受けるという可能性もあったため
この夏はそもそもアメリカに行くことができるのかどうか、
ギリギリまでわからなかったのですが、最終的に渡米が決まりました。

その瞬間、わたしはある計画を実行にうつすべくリサーチを始めていました。
実は今度ノースイースト滞在が実現すればぜひ行きたいところがあったのです。

去年、ピッツバーグに滞在している時、coralさんに教えていただいた
ライトパターソン空軍基地に付属するアメリカ国立航空博物館です。

ピッツバーグからオハイオまでは車で4時間くらいかかるとはいえ、
いつもなら何を置いても実行していたところですが、今回はCOVID19を始め
何かと世情が不安定なことがあり、ニュースやHPをチェックしていたところ、
2週間くらい経ってアメリカの様子が基本いつも通りであることと、
博物館はマスク着用とソーシャルディスタンスを取ることを条件に
オープンしていることがわかりました。

さらには借りている車(日産のムラノ)にも十分慣れてロングドライブいつでもOK、
と思われたので、博物館近くのホテルを二泊予約して出かけることにしました。

調べていると、デイトンまで3時間走ったところにあるコロンバスに、
「Mott military museum」という軍事博物館があることに気がつきました。

そこで、一日目をこの「モット」という博物館に使い、
その日の夕方にデイトンまでたどり着いて投宿し、翌日丸一日、そして
翌々日の午前中を予備にして国立航空博物館を制覇することにしました。

というわけで昼頃コロンバスに到着の予定で出発しました。
レストランは当てにならないのでランチを用意して車に乗り込みます。

高速を走っていると必ず視界ににAmazonプライムのトラックが入ってきます。
ステイホームの影響でアメリカでもAmazon大忙しのようです。

前も後ろもAmazonプライム、こんな光景はしょっちゅうでした。

しばらく走っていると、お馴染みの「草ロール」がころがる牧草地が出現し、同時に

「ウェルカムトゥ・ウェストバージニア」

という看板が現れました。

ペンシルバニア州の隣がオハイオ、と思っていたのですが、
実は両州の間にウェストバージニアが「ツノ」をちょこっと下から出していて、
フリーウェイを走っていると一瞬州内を通り抜けることになるのです。

看板を見た次の瞬間、わたしは

「♫ オールモストヘーヴン〜〜ウェストバージニア〜〜
ブルーリッジマウンテーン シェーナンドーアーリーバ〜〜」

と声に出して歌っていました。(実話)
そして、

「♫ ウェストバージニア〜マウンテンマーマ〜
カントリーロー・・・」

「・・・・ん?」

「でたあああああ!」

なんっとウェストバージニアには「カントリーロード」が存在する!

などと一人でも結構ドライブを楽しめてしまう自分でよかった。
と思いつつ、一回の休憩を挟んでコロンバスに到着。

わたしが車の中で持参してきた昼ごはんを食べていると、ガラガラの駐車場に
車が二台止まり、いかにもボランティアらしい爺さんたちが入っていきました。

今までアメリカの各所で見た、規模の小さな軍事博物館、
毎日リタイアした老人たちが趣味のボランティアで維持している
あのお馴染みのタイプのあれだな、と思いながら車を降りました。

建物の横のゲートは扉が閉まっていないので誰でも入っていけます。
航空機が数機、航空博物館というものではなさそう。

この手作り感あふれるアットホームなエントランスを見よ。

入っていくとそこには数人のおじさんたちがいて、
他の小さな軍事博物館と同じように物珍しそうな視線を浴びせてきました。

「10ドルです」

わたしが財布を出していると、レジのおぢさんが
おっと大事なことを聞き忘れたわい、という感じで

「ヴェテランですか?」

と聞いてきました。
あまりにも予想外の質問だったのでわたしが思わず

「は?」

と戸惑うと、

「あ・・・いいです」

このわたしが一瞬でもアメリカ軍を引退した元軍人に見える?
と後でMKに笑い話のつもりでいうと、

「自衛隊にいたかもしれないじゃない」

もしそうだったらやっぱりヴェテラン割引対象だったんだろうか。

展示はやはり南北戦争から始まりました。
リンカーンの死体検案書や髪の毛もあって、ここが
ただの小さな軍事博物館ではないことはすぐわかりました。

続いて第一次世界大戦関係。

ここから両側の通路は全部第二次世界大戦関係です。
左の上にある赤子を抱いている肖像はヘルマン・ゲーリング閣下です。

そのなかでここ「も」ユダヤ人迫害とその解放については
特にこだわっているように見られました。

Dデイ関係、日系アメリカ人の開戦に伴う強制収容なども。

軍服を着た有名人コーナーより。
アメリカ軍人(特に陸軍)って、皆帽子を斜めに被りますよね。

ナバホ族のコードトーカー(暗号通信員)の資料がありました。
これはちょっと珍しい展示です。

左上には、ここでも一度紹介したことがある日本の
「次は本土攻撃だ!」を啓蒙する「日本領地陥落時計」があります。

日本軍関係の資料もなかなか充実しています。

マニラで日本軍が降伏したときの山下中将の写真がありますね。

天井の零戦はもちろん模型です。

エノラ・ゲイとチベッツ少佐の「偉業」を称えるコーナー。

スペースシャトル「チャレンジャー事故」コーナーにあったオニヅカ少佐の写真。

珍しい企画として「戦場カメラマンコーナー」がありました。

ここの内容についてもそのうち詳しく整理して
当ブログでお伝えしていきたいと思っています。

航空機のあるヤードにはいくつかの慰霊碑がありました。

展示を見ている間中、おじさんたちは同じところで歓談していましたが、
わたしがありがとうございました、といって出ようとすると、一人のおぢが

「どうだった?」

と聞いてきたので、普通に感動しました、と言った後、

「外にある大きな”ボマー”の説明がなかったんですが、あれなんですか?」

と聞くと、

「え?なんてった?・・マスク外していいよ」

「だから・・あの大きな飛行機・・」

まわりのおぢたちが

「Dakotaのことじゃね?」

と言い出したので、

「紙に書いてくれます?」

というと

「DC-3 Dakota」

とメモに書いてくれました。

案の定わたしが輸送機を爆撃機と間違えていたことが判明したわけですが、
そりゃボマーとかいきなり言われても何のことかわからないよね。

書いてもらっている間、おぢさんの一人が、

「あんた、コラムニストかなんかかい?」

と聞いてきたので、

「そんな感じ(Kind of)です」

と答えておきました。

博物館を出てデイトンに向けて走っていると、
「スプリングフィールド」という看板が出てきました。
おお、うわさによるとイリノイ州の州都であるところのあれか。

同じ名前の都市はマサチューセッツやその他にもあるせいか、
(シンプソンズの住んでいるのも確かスプリングフィールドだった気が)
イリノイの州都がシカゴだと勘違いしている人は案外多いんですよね。

そういえば、第二次世界大戦のときに捕虜になったある将官(有名な人)に、
アメリカ人かどうか確認する尋問として、

「イリノイの州都はどこですか?」

と聞いた訊問官もその一人で、将官が正しく

「スプリングフィールド」

と答えたのに

「ブー!間違い!さては貴様アメリカ人じゃないな?」

となったことがあったそうです。いい迷惑だ(笑)

 

さて、デイトンに向かう前に現地のホールフーズで
今晩と明日の食料を調達しようとしたら、同じモールに
ときどき掘り出し物が見つかる「オフ・サックス」を見つけてしまい、
ついふらふらと入って行ったところ、これがなかなかの「あたり」でした。

特にファッション関係では同じチェーン店でも地域によって品揃えが全く違うのがアメリカです。
同じオフサックスやノードストローム・ラックでも、ニューヨークとかロングアイランドは
悲しいかなピッツバーグとは比べ物にならないくらいセンスがいいのですが、
それでいうとオハイオの「レベル」はなかなかのもののようでした。

両者は高級デパートのバーゲン品を売ることで、本家のブランドを落とさずに
在庫を捌くための文字通りのアウトレットですが、同じ高級デパートでも
バーゲンを年に2回しかせず、アウトレットを持たない超高級路線の
ニーマン・マーカスは、先日ついに倒産したというニュースを聞きました。

国立博物館から15分くらいのところに取ったホテルは、
COVIDのせいなのか部屋にコーヒーのセットすら置いておらず、
これまでここに泊まる理由の一つだった一階のカフェもやっていませんでした。


窓から見えるモールは閉店してゴーストタウンになってしまっています。
巨大なメイシーズの建物が無人の様子は実に物悲しい光景です。
 
朝方は蒸し暑く大雨が降っていました。

わたしも体調を崩し気味だったのでこの朝はゆっくり過ごし、
昼前になって国立航空博物館に出撃しました。

アメリカ空軍のマークのペイントされた格納庫と、フィールドに展示された
輸送機が見えてくるとテンションが上がってきました。

ここがミュージアムの玄関となります。

この航空博物館の展示機はもともと屋外にあったのですが、
1971年に格納小型の展示室が完成し、今の形になっているそうです。

かつて展示機があった(のかもしれない)フィールドでは
ガチョウの群れが草を食んでいました。

入場口から駐車場まで結構な距離ドライブします。
見学客の少ないうちにということなのか、通路にロータリーを作る工事をしていました。

駐車場の前の緑地はメモリアルパークとして
空軍関係の慰霊碑や記念碑が点在します。

COVID19のピーク時にはやはりここも閉鎖しており、7月くらいに
再オープンをしているようです。
エントランスではマスクをしたライト兄弟がお出迎え。

水飲み場やカフェは廃止していました。

入り口では熱を測るわけではなく、マスクを着用していればOK。
金属探知機の前に荷物検査を受けるのですが、そのとき、

「武器は持っていますか?」

どんな相手にも一応聞かなければならない質問事項のようです。

そしてこのとき驚いたのが入場料が無料だったこと。
さすがはアメリカ合衆国が全面支援している博物館です。

展示場は大きく中で二つの格納庫に分かれており、一つは
航空黎明期のものから第一次世界大戦ごろの航空機など、
もう一つは第二次世界大戦以降ということになります。

アメリカのみならず、世界各国の軍用機も揃っています。
ドイツ軍の飛行機ではあの「コメート」やMe262も所持しています。

各国空軍の制服の展示が充実しているのもここの特色。
海軍の代表的エースとして坂井三郎が紹介されていました。

疲れていたこともあって座り込んで最後まで見てしまった「カミカゼ」紹介ビデオ。
日本人としてはまずこのロゴからツッコミたいところです。

さて、これらの展示について、当ブログでは今後
いろんなアプローチでご紹介していきたいと思っておりますので、
その折にはどうぞよろしくお付き合いください。

 

 

 

華府軍縮会議〜映画「怒りの海」 1日目

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アメリカ滞在中にブログ作成するつもりで画面をキャプチャしたときには、
本作が海軍省検閲済みのいわゆる国策映画であること、主人公は
あの平賀譲であること、ワシントン軍縮条約の結果についての怒りが
映画のテーマになっていることなどがわかったわけですが、
さていつものように情報を集めようとしたら、これがびっくり。

ウィキペディアはない、映画評もない、もちろん解説サイトもない。
おそらくこの映画の知名度はほとんど皆無に近いのではと思われました。

制作は東宝。
立体的な五線譜に「東宝株式会社」という字が流れる、
戦時中のおなじみ東宝映画のタイトルです。



「海軍省検閲済み第48号」であり、もちろん後援を受けており、
「情報局選定国民映画」でもあるというバリバリの国策映画です。

場面は大正10年から始まりますが、この映画が制作されたのは
昭和19年、1944年のことです。

つまり四半世紀昔に遡っているという設定なのですが、
それだけ時が経てば風俗などもずいぶん様変わりしているはず。
そんな時代考証はしているんだろうかとか、昭和19年といえば
かなり敗戦色が色濃くなっていた頃なのに、映画作ってる場合だったのかとか、
これだけでいろんなことを考えてしまいますね。

「ごがいご〜が〜い」

鈴を腰につけて新聞束を持って走っている号外売りが登場。

音声が不明瞭で号外売りの滑舌が悪く、何を言っているのか
さっぱり聞き取れませんが、最初の

「ワシントン軍縮会議でアメリカが」

だけはわかりました。
不思議なことにこの新聞売り、新聞を配るでもなく、手を上げて
走りながら叫ぶだけ(笑)

折しも海軍省(絶対本物)に入っていく黒塗りの車あり。
霞ヶ関の海軍省跡は現在厚生労働省の庁舎が建っています。

海軍省発表の記者会見が開かれました。

「11月12日、ワシントン会議劈頭における合衆国全権、
ヒューズ国務長官の提案中、廃艦の条項について詳細を発表します」

これによると

●アメリカ合衆国

目下建造中の主力艦15隻
「デラウェア」「ノースダコタ」を除く老齢戦艦15隻

●イギリス

未起工であるが既に経費を支出したもの、
「キングジョージ5世」級を除く第1戦艦、老齢弩級戦艦15隻

●日本

未起工戦艦、巡洋艦8隻

既に進水した戦艦「陸奥」建造中の「土佐」「加賀」、
巡洋戦艦「天城」「赤城」その他「高雄」など

ただでさえ聞き取りにくい海軍省の軍人の声に悲壮な音楽が重なり、
余計に何を言っているかわかりません(´・ω・`)

横須賀工廠のつもりでしょうか。
建造中の軍艦「土佐」という設定ですが、これはさすがに模型だと思われます。

誰もいない工廠で「土佐」を前に艦政本部のメンバーが、

「この『土佐』やできたばかりの『陸奥』を廃棄するって
そんな取り決めってありますかね」

「世論だよ。新聞を見たまえ。
世間では陸奥一隻助かるかどうかのヤマカン的興味しかもっていないんだ」

「残念ながら僕には希望的観測は持てん」

と絶望的な会話を交わしています。

さてここで熱心に設計図を見ている後ろ姿の主人公が登場です。
平賀譲を演じるのは大河内伝次郎。

平賀譲という人は兵学校を志望するも近眼のため体格検査ではねられ、
仕方なく東京帝大に行って、卒業後海軍造兵廠に入り、そこで認められ、
この映画の最初のシーン、ワシントン条約締結の頃には造船少将でしたが、
なんとその年齢が聞いてびっくり、32歳なんですよ。

愚痴を言いつつ帰ってきたこのおっさん、山岸は関西本部の民間設計者のようです。
帰ってきた山岸に向かって平賀少将、

「なんだいこの設計は!」

「その先だよその先を越すんだよ君!」

「僕らは帝国海軍11号艦を設計している。そうだろ君!」

何回聞き直してもセリフが聞き取れないところがあるんですが、
平賀少将が君君君君連発しながらダメ出しをしているのはわかった。

しかし、この劣悪な録音一つとっても、お金がない中の国策映画であり、
映画の品質は二の次三の次であったことが窺えようというものです。

これはそもそも作品として歴史に残らないのも当然かと・・・。

 

叱られた山岸は憤懣を隠さず、平賀に向かって
ワシントン条約をどう思うか尋ねますが、平賀はつれなく、

「それが君の仕事に何の関係があるんだ」

「我々造船官はただ脇目も振らず
御船を造り奉ることに努力すればいいんだよ!」

おお、ザ・国策映画ってかんじですな。

なので、平賀が本当に言ったかどうかわからないことを、
しゃーしゃーとセリフにしている可能性が大いにありますが、
このとき平賀先生はちょうど亡くなったあとなので無問題。

というか、平賀譲が亡くなったので追悼の意味で翌年作られた映画なんですねこれ。

しかし、これどうみても32歳の顔じゃないよね?
大河内伝次郎は46歳、32歳から61歳までを演じきって見事ですが、
さすがにこの頃の平賀を演じるには無理があります。

模型を使った廃棄作業の映像には字幕をかぶせて
あまりお金をかけなかった特撮のアラをごまかしております。

「華府」はワシントンの漢字表記で、変換すると出てきます。

「石見」は日露戦争で鹵獲した「アリヨール」です。

日本が設計した当時最大級の戦艦「薩摩」も。

「安芸」は「薩摩」の姉妹艦です。

これらの軍艦を標的とした廃棄作業を行なった海軍飛行隊の
実行部隊パイロットの中には若い頃の大西瀧二郎がいました。

人員削減のためのリストラだけでなく、兵学校でも
入学生の数を大幅に縮小するなどの動きがありました。

さて、そんなことなどあずかり知らぬ「世間」を表すのは
贔屓の芸者衆を三人引き連れてどこかにお出かけする旦那。
彼らが笑いさざめきながら人力で通り過ぎる同じ道で、

対照的な表情の海軍軍人たちとすれ違います。

怒りを含んで彼らの後ろ姿を立ち止まって見送る若い軍人吉野は
すぐに仲間に窘められますが、窘めた軍人もまた苦々しげに、

「大戦景気に浮かれやがって、娑婆の奴らあの体たらくだ」

すると吉野は、

「娑婆か・・・この俺が明日から娑婆の風に当たるんだ」

大戦景気というのは第一次世界大戦による生産業の好景気のことですね。

吉野、じつはリストラ宣告されてきたばかりだったのです。

「飲もうよ。今夜は大いに飲もうよ・・・なあ?」

「貴様はまだ見たことなかったな?矢守の裸踊り」

「そうそう、墨で腹に人の顔を描いてな」

「よし、滅多に公開しない代物だが今夜は吉野のためにご披露するか」

そうそう、海軍軍人は最後までユーモアを大事にね。あまり面白くなさそうだけど。

この後彼らは「加藤閣下」の見舞いに行くことにして歩き出しますが、
見事に四人の歩調が合っているあたりがさすが海軍省検閲済みです。

彼らが通り過ぎたあとには、

「平和記念東京博覧会」

のポスターが映ります。

第一次世界大戦終了を記念し、産業発展のために行われた博覧会です。
折しも彼らが海軍を去る前日、博覧会は佳境に入り、
花火大会が行われていました。

彼らが訪問する「加藤閣下」のお住まい?
加藤閣下とはいったい誰のこと?

おそらく加藤友三郎のことでしょう。

中央加藤

加藤は「八八艦隊計画」を推進した中心人物でしたが、ワシントン会議では
米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成し、
これによって世界の「好戦国日本」の悪印象は一時的ながら払拭され、
各国代表に

「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」(痩せて背が高いため)
「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」

と称揚されました。

その後彼は内閣総理大臣に就任しますが、在任期間に大腸癌に斃れ、
青山南にあった自宅で療養中だったのです。

まるで病院のようなご邸宅ですね。

海軍を去る軍人たちは、口々に平和に浮かれた世間のアメリカ迎合を嘆き、
華府会議の「敗北」は国民の後押しがなかったせいだ、と言います。

いやちょっとお待ちください。
アメリカの提案を積極的に指示したのは目の前の閣下なんですがそれは。

この頃(昭和19年)には、加藤は決定を覆そうとしたということになってたのかな。

しかし加藤は若い軍人たちを噛んで含めるように嗜めるのでした。

「軍艦は減っても海軍魂は減らんはずじゃ・・
東郷閣下はそう慰めてくださった。
それに訓練に制限はない!この意気だ」

「はっ・・・」

そこにやってきたのは平賀譲でした。
加藤は平賀に彼らを

「海軍大学の強情者共でな」

と紹介します。

そして、辞めていく予定の吉野を呼び止め、

「身の振り方は決まったのか」

吉野が首を振ると、

「故郷の温泉にでも浸かったらまたわしのところに来い」

顔を輝かせる吉野・・・でも加藤閣下この一年後お亡くなりになるんですよね。
吉野の運命やいかに(涙)

加藤は、造船官たちが八八艦隊の計画に対し
無理を言う軍部の期待に応えてくれたことをねぎらいつつ、
今回の条約の結果になったことを詫びます。

「あんたがたにも申し訳ない・・わしらの力が及ばんでのう」

それに対して平賀は、戦艦の分は巡洋艦で補い、量より質で戦う、
と力強く宣言するのでした。
加藤はもう戦争は始まっている、と言った上でこう呟くのでした。

「敵はアメリカだ。はっきりと海の向こうに姿を現しおった」

加藤寛治1939年(昭和14年)2月9日、脳出血により薨去。
対米強硬派でしたが、最晩年にはアメリカ、イギリスとの交戦を
避けたいという心境にあったともいわれています。

条約で決定され、廃艦が決まった「土佐」の廃艦式典が
5月19日に行われるという告示を造船所の工員たちが見ています。

進水式後「土佐」は造船会社から海軍に所有が移譲していたので
廃艦式典も海軍主体で執り行われることになったのでした。

神式の式台が設えられた「土佐」甲板では式辞が厳かに奉じられています。

「まさにその威容を太平洋上に示さんとするとき、
建艦を中止するも止むなきに至り、今や帝国海軍の貴重なる実験の碑となりて
横須賀港外に光輝なる終焉を告げんとす。

嗚呼、我ら再びその勇姿を見る能わずと雖も・・・」



そして、直後に実験海域まで曳航されていく「土佐」。
「土佐」は進水式の時に薬玉が割れず、縁起の悪さが囁かれていた艦でした。

実際には「土佐」は廃艦が決まって式典を終えた後、「土佐」は
運用術練習船「富士」に曳航されて長崎港から呉に回航され、
2年後の1924年から6ヶ月かけて実験の標的となって没しました。

ちなみに長崎県端島の「軍艦島」の愛称は、島の形がほかならぬ
この「土佐」に似ていることから命名されたということです。

港湾にいるすべての人々が帽子を振って「土佐」を見送ります。

おそらく撮影当時横須賀に係留されていた実際の軍艦と、
エキストラに動員されたらしい本物の水兵さんたちの帽振れ姿が写ります。

撮影は昭和19年ですが、大正時代の軍艦という設定なので
時代がバレないように軍艦の全体とか艦橋は映りません。

帽子を振る一団から少し離れたところに、
平賀をはじめとする海軍の造船官たちがぽつねんと立っていました。

 

 

続く。

 

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