今日もオークションで手に入れた旅順口閉塞戦記念帖より、
第三次閉塞作戦参加船とその指揮官についてお話ししていきます。
まず冒頭写真は、
第三次閉塞相模丸指揮官
海軍少佐 湯浅竹二郎
湯浅少佐(最終)の名前が現代の資料では「竹次郎」となっていますが、
当時の資料は全て「竹二郎」であることをお断りしておきます。
海軍兵学校は19期、本作戦の指揮官クラスでは最も最弱年が
匝瑳胤次、高柳直夫の26期、最年長が総司令の林三子雄と有馬良橘の12期、
(廣瀬武夫は15期)なので、ちょうど(なにがちょうどかわかりませんが)
作戦メンバーのど真ん中の年代で、参加時は大尉でした。
指揮官として乗り組んだ「相模丸」は第三次作戦の第4小隊の一番船、
二番船がこの後お話しする狄塚太郎大尉指揮の「愛國丸」です。
ネットで公開されている当時の資料を見ていると、こんなのを見つけました。
なぜ第4船隊の船のだけが図面化されているのかわかりませんが、
「相模丸」「愛國丸」が搭載していた水雷落下装置の図面です。
投下のためにはずす掛け金のような装置には「グリース」を塗り、
滑りやすくすること、などと添書きがされています。
それにしても自沈させるのが目的の閉塞船が、なんのために
水雷を積んでいたのかという疑問が湧いてくるわけですが、
これは敵に対する攻撃のためのものではなく「自沈の手段」だったのでは、
と想像されます。
どこの部分にこの落下台が仕掛けられていたかにもよりますが、
爆薬を仕掛けるのではなく、水雷を船上で爆発させて船が沈むように
特別の「落下台」が考案されていたのだと考えれば、辻褄があいます。
でもまあこれもわたしの想像に過ぎませんので、もし違っていれば
ご指摘いただけますと幸いです。
さて、第三次作戦に出撃した「相模丸」については、国会図書館所蔵の
当時の報告書の第三次作戦の経緯を踏まえて説明していきましょう。
海軍少佐湯浅竹二郎の指揮せる11番舩相模丸は天候悪にして
各舩相失したるを以て或いは行動中止の命令あるべきかを
注意を加えて続舷せしも終に命令に接せさりしと云う。
報告書では「船」と書かず全て「舩」という漢字を使っています。
出航して四時間後、天候が悪化して波が高くなり、指揮官林中佐は
その時点で作戦の成否より収容が困難になるとの理由で
中止命令を出したのですが、何度もここでいうように、
後続の船に命令は伝わりませんでした。
天候が悪くなって周りに船列が認めにくくなったため、各指揮官、
湯浅大尉ももしかしたら行動中止になるかもしれないと予測し、
注意深く状況を監視しながら航行を続けていましたが、
11番船であった「相模丸」には通信は伝わりませんでした。
閉塞船はこの如く全く混乱の状態に陥り
各船始め任意の行動を取るに至りしが
遠江丸、小樽丸、相模丸、江戸丸、愛國丸の五船は
期せずして次第に不規則なる一段(団)を作成し
互いに前後して旅順口に進み五月三日午後二時三十分頃
黄金山探海灯を正北に見るの地点に達し是より港口に向かいて変針せり。
風と高い波のせいで閉塞船の船列は乱れ、命令を受けて引き返す船、
船の装置の不備で引き返す船、命令を知っても突入する船と、それこそ
各指揮官の判断によって全体がてんでにいろんな行動をとり始めました。
「遠江丸」「小樽丸」「江戸丸」そして「相模丸」「愛國丸」は
偶然合流し、五隻で一団をなして旅順港に進んで行きました。
「探海灯」という言葉がありますが、これは「探照灯」と同じ意味で、
巨大な反射鏡を用いて海上を照らすサーチライトのことです。
探照灯を海上で使用するときはこういう呼び名をするそうですが、
ここでは陸に備えてある探照灯の意味でいいかと思います。
「黄金山の探照灯が真北に見える位置に来たので、
港口に向かうために変針した」
ということになります。
このとき遠江丸、小樽丸、相模丸は殆ど単縦陣となり
江戸丸は少しく其の右方に、愛國丸は其の左方に位置し相並びて
相模丸に続きしが尚他の一船左方より港口に直進するものありしかごとし。
←←←進行方向
<江戸丸〕
<愛國丸〕
<遠江丸〕<小樽丸〕<相模丸〕
←←←←←←←<他の船〕?
無理やり図にするとこういう状態だったようです。
このごとく五隻の閉塞船は江戸丸を先頭として齋しく港口に驀進せしが
城頭山探海灯を左舷正横に臨むの時始めて敵に発見せられ
各所の砲弾一時に轟きて 砲弾雨飛し或いは水面に炸裂し
あるいは頭上に爆発するものあり
ここまで順調に進んできた五隻ですが、先頭の船が悉く作戦を中止して
帰ったり、あるいは後から駆けつけてくる途中にあったということで、
彼らが一番先に敵地に到着し、発見されて一斉砲撃を受けることになりました。
ここで「江戸丸」は敵の砲撃で全損し、行き足もとまったため、
本田指揮官はその場で自沈を行います。
小樽丸、相模丸もまた防材を衝破し 小樽丸は三河丸の直前に出て
船首を約北西に向け老虎尾半島に近く投錨爆沈し
相模丸は佐倉丸に近く船首を約北東に向け爆沈せり。
「小樽丸」「相模丸」も爆沈作業を行いました。
第三次閉塞相良丸指揮官附
海軍大尉 山本親之
中尉職である指揮官附が大尉になっているということは、
戦死認定され死後昇進したということでもあります。
「相良丸」は閉塞船を爆沈させた後、どうなったのでしょうか。
当時の記録には各船の引き揚げ状況の項にこうあります。
朝顔丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸の四船に至りては
一員として我が艦艇に収容されたるものなく全滅もしくは
(全滅という言葉を削除してある)行方不明の恐運に陥りしか
旅順開城の際 小樽丸相模丸の一部乗員は俘虜となりて生存せるを発見し
其の陳述により略両船の行動を知ることを得たり。
此の資料は戦後に記録のため作成されたものらしく、
旅順開城まで「行方不明」となっていた両船の乗員が
実はロシア軍の捕虜になって一部は生存したことがわかり、
その捕虜から亡くなった乗員の最後についてもわかりました。
また相模丸は防材を破りて港口に突進せしが湯浅指揮官は
すでに水道の中央に闖入せるものと認め投錨を令して
爆発の用意をなし一同万歳を連呼して端艇を卸すこと半に及とし時
一弾飛来して「ボートホール」を切断し艇首より破壊したるに持って
更に第二の端舟を卸して之に乗りしが亦須叟にして敵弾に破らる。
どんな切迫した時でも万歳するんですね・・・。
「ボートホール」が何かはわかりませんでした。
脱出用の端艇は一隻だけでなく予備も用意していましたが、
それが次々と敵弾に破壊されていったようです。
此の時指揮官湯浅大尉および指揮官附山本中尉等は
尚相模丸に止まりて爆発に従事し 今其の作業を終えたる時
端舟に乗し本船を離れんとす。
然るに風浪艇を横座して容易に離るること能わず。
哨艇及び砲台よりの機砲小銃等一斉射撃を受け
総員し力を尽くして脱出を図りしも 海水己に艇に満ちて
如何ともし難く 遂に本船の沈没と共に両覆り
煙突と通風筒との間に挟まれて動かず。
爆沈作業まではうまくいっていましたが、閉塞船から
端艇で離れることができず、そうこうしているうちに
閉塞船の爆薬が爆発して巻き込まれてしまったのです。
衆皆之に縋りしが敵弾に傷つくものあり
湯浅指揮官以下多くは戦死し 翌朝敵に収容せられしもの
海軍二等兵曹河野精蔵以下九名に過ぎず。
この中から9名だけが捕虜になることで生還しました。
さて、「相模丸」指揮官の湯浅竹次郎少佐は、当時の海軍発表では
端艇に乗り移ってからその間戦死したことになっていますが、
これには異説があって、「ロシア陸軍少尉だった人物が
日本の知人に送った書簡の内容」という甚だ真偽の怪しい情報によると、
湯浅は他の乗員と同じく旅順にたどり着いたものの、
人事不省となってロシア軍の捕虜になっていたというのです。
捕虜になった九名がそのことをおそらく解放後伝えたはずなのですが、
指揮官が自分の意思ではないとはいえ一時でも捕虜になったなどとは
当時公にすべきでないとされ、秘匿されたのかもしれません。
書簡の情報によると、湯浅大尉は意識回復後に捕虜になったことを知り、
時計の紐で縊死しようとしましたが、それが不可能となると
隙を見て高所から飛び降りて再び自決を図りました。
死ぬことはできず重傷の状態で病院に収容されることになりましたが、
治療を拒否し、食べ物も取らず、ロシア側が注射で栄養の補給を行うなど
延命の措置をとったものの結局そのまま亡くなったということです。
また、湯浅竹次郎という名前で検索すると、講道館の歴史記念館に
有段者として其の名前が刻まれていることがわかります。
少年時代に柔道を始め、やはり講道館の有段者だった廣瀬武夫より
柔道については「先輩」だったようです。
34歳で閉塞戦で戦死した際、講道館は戦死時五段だった湯浅少佐に
名誉六段の段位を授けました。
湯浅少佐は閉塞戦に出陣前、次のような遺書を残して往きました。
「古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト。
今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス。
武士ノ面目之ニ過ギズ」
これは、その後の海軍兵学校において
「従容ト義ニ就ク境地ニ到達センコト」
という精神的な教義となって後世に遺されたといいます。
兵学校時代の有馬正文もこれに感激した一人でした。
続く。