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「存在と非存在」〜映画「青島要塞爆撃命令」

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1964年東宝映画、「青島要塞爆撃命令」、二日目です。
史上初の航空母艦となった「若宮」(このころは『若宮丸』)から
飛び立った海軍水上機は、ビスマルク要塞の偵察に向かいました。

写真を撮り損ねたのですが、コクピットの高度計には
「JAEGER PARIS」とメーカー名が刻まれています。
モーリス・ファルマンに装備されていた高度計のメーカー、
イェーガーは当時フランス海軍専門の時計製造会社でした。

その後高級時計メーカールクルトとコラボし、現在の高級時計メーカー、
ジャガー・ルクルト(Jaeger-LeCoultre)となっています。

それにしてもこの頃の飛行機は吹き曝しにろくな風防もなく、
皮のスーツは着ていても頭部は毛糸?の被り物だけ。
さぞかし搭乗員は辛かっただろうと思われます、

ドイツ軍の塹壕上空に到着しました。

「イェーガー!イェーガー!」(敵機だ)

「フォイヤー!フォイヤー!」(撃て!)

ちゃんとドイツ人(に見える外人)を配役しているのがえらい。

以前観たときにはなんとも思わなかったシーンですが、
第一次世界大戦が始まって2ヶ月後、ヨーロッパではない青島で
戦争が「深化」するにしたがって洗練されていったというこの
「塹壕文化」がここまで発展していたとはちょっと思えません。

青島攻略の写真を見ても、塹壕というより土嚢を積んだ基地、
と言う感じなので、おそらくこれは映画的演出でしょう。

ここで映画的には大変斬新な?手法で字幕が現れます。

敵地上空で機体の調子が悪くなり、隊長の池部良が翼の上に立って
それを修復しているのを見たドイツ兵たちは、

「敵は勇敢だ!」「底抜けに勇敢だ!」

と攻撃しながら褒め称えるのでした。
第一次世界大戦の頃にはまだ生きていた「騎士道精神」ちうか、
まあのんびりした部分を表しているといえましょうか。

ちなみに字幕はニュース画像にかぶせるように飛び出してきます。

機体の高度が下がってきたので軽くするために煉瓦と釘を落としたところ、
ドイツ兵、それを見ていわく。

「火の玉だ!逃げろ」

ヨーロッパ人がレンガと爆弾を見間違えることはないと思うがどうか。

ドイツ兵、あわててレンガに水をかけております。
これ、やらされているエキストラのドイツ人(役の外人)たち、
「んなあほな」と思いながら演技してたんだろうな。

実際には青島で陸軍機が70mの高度からドイツ艦船2隻に
爆弾を投下し、爆発はしなかったものの、初めてのことで
びっくりした敵艦は逃げ惑ったという記録があるそうです。

「おい、あれだ!化物の正体は」

「ビスマルク砲台だ!」

加山、急いで写真を撮りますが、手ブレ防止機能のない当時のカメラでは
現像してもブレブレで何も写っていなかったのでした(´・ω・`)

そこに迎撃のためのドイツ戦闘機、ルンブラー-エトリッヒ・タウべ登場。
砲台を守備するために配置されていたのです。

Rumpler Taube monoplane.jpgwiki

タウべ=鳩と言うネーミングそのままのシェイプですね。

操縦するのはランゲ大尉とベルゲ中尉です。
機関銃を搭載したタウベは余裕をかまして空中旋回をし、
性能の良さを鈍重な水上機に見せびらかして挑発します。

「こっちもやってやりましょうか」

「馬鹿、そんなことをしたら地獄へ真っ逆さまだ」

これはかなわんと大杉・国井チームは逃げ出しました。

戻って作戦会議の結果、1機がタウべをおびき出し、その間に
2機目が砲台を攻撃することにし、我が航空部隊は
前線基地のある島に移動することになりました。

霊山島基地の司令官は戸田大尉(柳谷寛)。
まるで村の駐在さんのような雰囲気の特務士官です。

目下の問題は砲撃の音で鶏が卵を産まなくなり、
住民が卵の値段をつりあげて困るということ(笑)

上陸するなり真木中尉は警備隊の水兵が現地の娘の服を取り上げ、
セクハラしている場面に遭遇し、助けてやります。

おや、科学特捜隊の「イデ隊員」二瓶正也がいるではありませんか。
このころは二瓶正典が芸名だったようです。

娘の名前は楊白麗。
彼女の美貌に思わず心奪われる真木中尉ですが・・・。

一方、加山雄三の国井中尉は悪いものでも食べたのか、
腹痛で苦しんでいました。

飛行機に乗りたくてたまらない庄司候補生、
代わりに自分が出撃を命じられるかも、と気色満面です。

はりきって甲板掃除の指導をしますが、
海水を汲み上げた桶のなかから手紙の入った瓶を発見。

「猛虎」から「飛龍」に当てて、
日本の飛行機が二機(両架)来たと伝えるメモでした。

「スパイだ!」

戸田大尉のもとに日本語の話せる白麗が村人を率いてやってきました。
村の廟の祭りを開催させてくれというのです。

というわけで賑やかな祭が始まった夜。

飛行隊のメンバーは村人の中にスパイがいるのではと
怪しい動きをする人物をチェックすることに。

スパイはなんと楊白麗でした。
踊りを抜け出して男に現在の日本軍の状況を伝えています。

趙英俊というこの男、飛行機を「若宮丸」を爆破するつもりです。

白麗の兄と言う設定ですがこれっぽっちも似ていません。

火をつけた小舟を若宮丸にぶつけるつもりです。
動力が風だけ、しかも操舵なしでうまくぶつかるかなあ。

そのころ、何も知らない庄司候補生は、いよいよ明日
飛行機に乗れることが嬉しくて、コクピットに座り
喜びを噛み締めていました。

そこに石油缶を積んで炎上した小舟が向かってきました。
庄司候補生、飛び込んで船の進行方向を変え、激突は防ぎましたが、
その瞬間石油の爆発に巻き込まれて爆死してしまいます。

このとき見ている水兵たちがさかんに

「少尉どの〜!」

と叫んでいますが、海軍では階級の後に「殿」はつけません。

この頃は兵学校を卒業したら候補生として遠洋航海等行い、
その後任官となったので、庄司が任官しているとしたら
彼がなぜ兵学校の制服を着ているのかが謎です。

須崎氏も古澤監督もその辺よくわかっていたはずなのですが・・。

白麗の様子を怪しんで後をつけてきた真木中尉、
彼女を捕らえ(思いっきりビンタあり)

彼女が逃がそうとした英俊は、格闘の末
二宮中尉(夏木陽介)が射殺してしまいました。

さて、女性だろうが子供だろうが、スパイは国際法で処刑です。
まさか平和なこの島で処刑執行を命令されるとは・・・。

気の良い戸田大尉、明らかにテンパっております。

そこで上官の権限でしゃしゃり出てくる大杉少佐。

なんと白麗の処刑を飛行隊のメンバーにさせるというのです。

スパイを霊廟の正門の前に立たせて銃殺って、んなあほな。

号令をかけさせられる戸田大尉、緊張マックス。

「撃ち方よーい!」

「てー!」

三人の撃った銃弾は石像の首を落としただけ。

「知ってるか、海軍刑法第123条」

「はっ?海軍刑法は105条までしかありませんが」

「そうか・・しょうがないな。女は大陸に追放するか」

「・・・はっ!海軍刑法第123条により銃殺刑の執行を終了する!」

そして尋問もせずに彼女を釈放してしまいます。
こいつのせいで庄司候補生は死んだというのにずいぶん寛大なことです。

ナチスドイツはSOEのエージェントを女性だからあえて処刑しましたが、
彼女が女性であるというだけで許し、野に放つと言う彼らの大甘ぶり、
これは後で凶と出るのか吉と出るのか?

ビスマルク砲台攻略作戦決行の日がやってきました。
航空隊総員四人が二機の飛行機で総出撃です。

今回は武器も調達しました。
爆弾を紐でたくさんぶら下げておいて・・・、

敵地上空に来ると包丁で紐をトンと叩いて切ることで
投下するという超原始的な方法です。

何発か落としたところで、砲台を守るためにタウベが現れました。

しばらく空戦を繰り広げますが、前回はなかった機関銃で
二宮中尉が銃撃をすると・・・・

弾丸はタウべの銃手ランゲ大尉に当たりました。

しかし、真木・二宮機もエンジンに弾を受け、
煙を吐きながら急降下していきます。

「あっ、隊長!」2号機が・・・!

この後墜落して戦死となるかもわかりません。
二人は悲痛な敬礼で2号機を見送ります。

果たして、ドイツ軍の兵隊が軍歌を歌いながら行進するその近くに、

機を不時着させた二人は潜んでいました。

敵の歩哨の目を逃れて這いずり回っていると、そこに
ビスマルク砲台に弾薬を運ぶ汽車がやってきました。

真木中尉はそれを見て弾薬庫を爆破すれば砲台を破壊できるのでは、
と思いつきます。

弾薬庫の防弾設備はドイツ軍に限らず堅牢であるはずだから、
複葉機に搭載できる程度の爆弾で爆破できるとは思わないけどな。

生きる希望が出てきた二人が山中を彷徨っていると、なぜか
ポツンと民家があり、前に仁丹と福助足袋の看板が立っています。

「雑貨屋だ」

いやいやいやいや、ドイツ軍が進駐しているこの土地に、
なぜ日本人相手の雑貨屋が営業していると思うのか。

しかしここでも人の善意を疑うことを知らない甘ちゃんの日本人二人、
このいかにも怪しげな店で中国人スターターキットを購入。

「この老人、我々に好意を持っていてよかったな」

ほーらいわんこっちゃない。

おっさんは子供に凧揚げで遊ぶように言いつけていましたが、
実は凧をあげることが予め決められていたドイツ軍への合図だったのです。

「日本人がいる」

おっさん、報奨金五万元のために網を張っていたのでした。

捕らえられた二人はドイツ軍基地に引っ立てられてきました。
そこでベルゲ中尉を先頭に葬式に向かうランゲ大尉の棺とすれ違います。

涙を浮かべて無言で敵を見つめ、しかし黙って通り過ぎるベルゲ中尉。
軍人として棺に敬礼せずにいられない二人でした。

軍隊では無帽で敬礼はしない習慣なので、とりあえず
帽子らしきものでも被っていて良かったですね。

隣同士の牢獄に入れられた二人は、さっそく壁越しにツートンを始めます。

「キボウナシ」

「キボウアリ」

「ナシ」「アリ」「ナシ」

ここでキレた二宮、壁を叩いて大声で

「ある!」

真木、負けずに大声で

「無い!」

そこに司令官っぽい将校がやってきて、

「捕虜は何を喚いている」

「はい、こいつ(二宮)が”アル”といったら、
こいつ(真木)が”ナイ”といいました」

「それは日本語で”存在”と”非存在”の意味だ」

いやー、わたし須崎脚本で本当におかしくて笑ったの、
これが初めてかもしれない。

「ザイン・ウント・ニヒト・ザイン」

とセリフでは簡単に言っていますが、

「Das sein und das nicht sein」

で、「存在と無」ですよ。ジャン・ポール・サルトルの。

まあ、こういう自分の笑いのツボを客観視すると、あらためて
笑いとは他者から自己を選別する衒学的な面を持つものでもある、
などとその本質を哲学的に論じたくなりますな(嘘だけど)

獄房の番兵は

「はあ、哲学論でありますか」

そのとき真木の房の前に仁王立ちになった人影がありました。

なんと、三文芝居までして命を救ってやった楊白麗が
目を三角にし金切り声で二人を罵り嘲るためにやってきたのです。

「私の兄を殺した!お前死刑!お前も死刑!」

「俺たちは軍人だ!」

「軍服着てない!だからスパイおんなじ!死刑当たり前!」

ちょっとお待ちください。
スパイであるあなたを死刑にしなかった目の前の二人の立場はいったい。

「ドイツ軍命令死刑!アタシの願い、死刑!あはははは!
(中国語で)馬鹿な男たち!」

要するにスパイの自分を死刑にしておかなかったことを
「馬鹿」といっているってこと?

「日本海軍は1ヶ月の間一体何をしている!」

さて、こちらは日本海軍の青島攻略の進捗が遅い、と
会議で日本軍関係者に文句を言うイギリス軍司令。

イギリス軍の隷下で戦争してるわけでもないのに
こんなことを言われる筋合いはみじんもないわけですが、
まあ映画ですから多少はね?

「幻の艦隊エムデン号率いるドイツ艦隊が太平洋を暴れ回り、
膠州湾に向かいつつある!」(図参照)

しかし、実際の「エムデン」は膠州湾にいたことはあっても、
第一次世界大戦の時の航海図は上の通りで、
インド湾で通商破壊作戦をしていたらしいので、
イギリス軍司令官の言っていることは何かの間違いだと思われます。

海軍では早速それを受けて会議が始まりますが、
その中でビスマルク砲台を航空機に任せたのは失敗だった、
という意見が大勢を占めました。

個人的に航空機賛成派で自分が作戦を主導しただけに、
加藤定吉中将(この人だけ実名)は苦境に立たされることになってしまったのです。

このシーンで沖に見えているのは江ノ島じゃなくて「霊山」です。

 

さて、一方囚われの身となった真木と二宮は、処刑になるのか
移送されるのかはわからないままトラックに乗せられています。

同じトラックになぜか楊白麗が乗り込んでるんですが・・。
この人いったいドイツ軍の何?

そして「馬鹿な男たち」二人の運命は。
恩を仇で返すのか、楊白麗?

続く。

 


ビスマルク砲台弾薬庫を爆破せよ〜映画「青島要塞爆撃命令」

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映画「青島要塞爆撃命令」、最終日です。
飛行機を不時着させ山中を彷徨っていた真木と二宮両中尉は、
牢獄から出されてどこかに連れて行かれることになりました。

なぜか純白のチャイナドレスを着た楊白麗が
ちゃっかり助手席に乗り込んでおります。

「存在と非存在」の将校がなぜか自ら車を運転しています。

まさか裁判もせずに処刑するつもりなの?
軍人なら死刑にはならないし、スパイだと判断されたのなら
その前に情報を聞き出そうとするはずなのですが・・・。

しかし、そこで異変が起こりました。
白麗が何を思ったか横から足を出してアクセルを踏み込んだのです。

崖から乗り出した車を引き上げるために将校は
二人に綱を持たせ、よりによって白麗に自分の持っていた
機関銃を作業の間預けたりします。

ありえねー。白麗、一体どう言う立場?
ってか、車を暴走させた女に武器を預けるって何考えてんの?

知恵の足りない将校のおかげで、二人は無事綱を放して
車もろともドイツ兵たちを谷底に落とすことに成功。

そこでなんと白麗、将校から預かっていた機関銃を二宮に手渡したのです。

もしかしたら二人を助けるつもりだった?

奪った銃で無事全員を射殺し、三人は逃げ出しました。

とにかくこの映画のいかんところは説明が全くないことで、
二人と白麗の間になんらかの意思疎通、

「助けてくれるつもりで牢獄であんなことを言ったのか」

とか、

「兄さんを殺したのはともかく、わたしを死刑にしなかったお礼あるよ」

とかいう会話があって然るべきだと思うのですが、
全ては無言のうちにことが運んでしまいます。

リアリティ?・・・・・それはないか。
おそらく単に尺が足りなかったのだと思われます。

谷間の吊り橋を渡ろうとしたら、渓谷の上からドイツ軍が撃ってきました。

最後の二宮が橋を渡りきらないうちに機関銃の弾が切れ、
橋の向こうにはドイツ軍が迫ってきています。

二宮は橋の上から手榴弾を投げますが、

なんと自分がいる橋を破壊してしまいました。
うーん、二宮、うっかりさんなのかそれとも二人を救うためか。

谷底の水のない渓流に真っ逆さまに落ちていく二宮・・・。
(-人-)

こちら艦隊司令。

「明朝午前8時、朝陸軍の攻撃に呼応してビスマルク要塞にむかって総攻撃を行う!」

ちょっとお待ちください。
なぜビスマルク要塞限定?

それに海軍軍人なら

「明朝マルハチマルマル」

って言わなくちゃ。(お節介)

加藤長官の苦渋の決断で航空攻撃は外されることになり、
呆然とする大杉少佐。
おまけに艦隊幹部がよってたかって

「飛行機など役に立たん」

「役に立たんどころか邪魔になる」

と笑いものにするのです。

「空軍の父」ビリー・ミッチェルも、航空機導入については、
海軍からえらく反対されて邪魔をされたということですが、
第一次世界大戦時にはまだまだ航空機は有効な武器として認められず、
とくに大艦巨砲主義の海軍軍人たちには全く相手にされませんでした。

大杉少佐、飛行機推進派の加藤長官からは

「いや、すまんかった」

とか謝られてしまい唇を噛みしめ涙を浮かべるのでした。

実際には青島に航空機は偵察任務のために投入されていました。
カメラは搭載できないので(ドイツと違ってカメラが高杉で)
偵察員が空から見た図面を書くのですが、陸軍将校に見せても
まったく信用されなかったということです(涙)

しかし、そのとき絶望かと思われた真木がひょっこり、
ジャンク船で「若宮丸」に帰還してきました。
(あれ?白麗はどうなったの?)

大杉少佐、なぜか艦橋デッキでチャートと三角定規を机に並べ、
作戦会議をアウトドアでしている艦隊司令部にやってきて、
帰ってきた真木の情報から、

「ビスマルク要塞の弾薬庫を飛行機で狙うといいんではないか?」

というわりと誰にでも思いつく作戦を具申しました。

「わかった。総攻撃は予定通り行うので『若宮丸』は単独行動せよ」

それって、勝手にやってろって意味よね。

こちら航空隊。
明日8時の艦隊総攻撃が始まるまでに、たった一機の水上機で
どうやったらビスマルク砲台を叩くことができるのか。

「若宮丸」と砲台の間を二往復している時間はありません。
そこで砲台の近くで侵入した補給隊が待機、燃料と弾薬の補給を行い、
あらためて砲台を攻撃するという作戦が立てられました。

補給隊を指揮するのは大杉少佐。
海から上陸するとそこは断崖絶壁なので、それを突破して
敵の監視を掻い潜り合流地点に到達というものです。

これってノルマンディー上陸作戦の「オック岬の戦い」がモデル?

2隻の小船で上陸した補給隊、各自が武器弾薬を背負って
海岸線から進入を始めました。

各自が木の葉っぱを持って移動しているのを見て
映画「1941」を思い出すのはきっとわたしだけでしょう。

「オック岬」と違うのは、合流地点に到達するために
崖を上るのではなく降りていくこと。
これ、本当にやってるんですよね・・。

スタントマンを使っているとは思いますが、なかなかすごい。

 

さて、こちらは若宮丸。
早朝、艦隊の総攻撃の時間にならないうちに、「若宮丸」は攻撃され、
なんと1発の砲撃であっさり沈没してしまいます。

誰が砲撃してきたのか全く説明がないのですが、ビスマルク砲台かな?
砲台が艦隊ではなくわざわざこの船を狙ったのかは謎です。

「総員退艦!」

水上機なので船が沈む前に海上に出ることができます。

沈みゆく「若宮丸」を見守る乗員たち。
ここであまりにもベタな「海行かば」のBGMが流れます(´・ω・`)

そして最後の瞬間敬礼を・・・。
だが佐藤、貴様のその敬礼は陸軍式だ。

ちなみに佐藤充(まことって読むそうです。今までみつるだと思ってた)
の父親は陸軍軍人で、久留米連隊に所属していたそうです。

ビスマルク砲台に戦闘機と会戦するために飛んだ国井・真木の飛行機。

ベルゲ中尉が銃手を務めるタウべと交戦します。

ところが案外あっさりと勝ってしまいました。
たぶんこれも尺の関係で空戦に時間を割くことができなかったのでしょう。

「引き潮だ!」

補給予定だった入江に水上艇が入ってこられるだけの深さがありません。
仕方なく全員が泥の中を沖に向かって歩いていきますが、海軍たるもの、
引き潮の時間くらい織り込んで作戦立案するべきだと思うがどうか。

ぬかるみをよたよた歩いているうちにドイツ兵に見つかってしまいました。

「ヤパーナー!」

上から攻撃されて何人かは倒されてしまいます。

それでも銃弾の飛び交う中、必死で補給を行う補給隊のみなさん。
∠( ̄^ ̄)

そのとき草むらから昼寝でもしていたようにむっくりと
起き上がる人影がありました。

あれ・・・たしかこの人吊り橋から谷底に真っ逆さまに落ちたはずなのに。
あれで生きてたってのも奇跡すぎるけど、なぜこんなところにいるの?
頭に包帯までして。

全体的にこの映画説明省きすぎ。

おまけに二宮、どこから調達してきたのか、ドイツ軍の背後から
マラカスじゃなくてパンツァーハレ、棒型手榴弾を投げて援護を行います。

急にドイツ軍の攻撃が止んだので訝しむ二人ですが、
まさか二宮が援護していたとは夢にも思っていません。

「それでは行ってまいります」(無言で)

だから佐藤、その敬礼陸軍式だってば。

無事補給を終え出撃です。
この後補給隊の皆さんはどうやって、どこに帰還したのか。

0800、艦隊総攻撃の時間となりました。

「全艦湾内に突入せよ!」

マストにはZ旗が翻り、オーソドックスに「軍艦行進曲」が始まります。
映画で「軍艦」を使えた最後の時代だったんですよね・・・。

総攻撃が始まると、実際の青島攻略戦での海軍の援護は、
兵力:巡洋艦6、砲艦4、海防艦9、駆逐艦・水雷艇31、
特務艦艇18隻という陣容であり、さらに艦砲射撃は、

「周防」参加10回 発射弾数349発

「石見」9回 277発

「丹後」7回 160発

「沖島」5回 83発

「見島」2回 44発

「トライアンフ」8回 248発

というものでした。

「トライアンフ」は英海軍の戦艦ですが、他の日本艦は
すべて日露戦争の戦利品としてロシアから召し上げたものです。

それに呼応して火を噴くビスマルク砲台。
実際には砲撃ではなく、水雷艇の魚雷攻撃によって
巡洋艦「高千穂」が沈没しています。

こちら日本軍を迎え撃つドイツ軍陣地。

二百三高地再び。

米、英、仏、蘭、西の観戦武官が日露戦争でミラクルを起こした
帝国陸軍の突入を見守って(監視して?)いるので、実際は
この時歩兵は占領した前進防御基地に配されています。

英国陸軍も混じっていましたが、これは英軍の要請であり、
さらに日本の領土的野心を勘ぐられないための配慮だったといわれます。

青島攻略戦は、実際は二百三高地ではなく、砲撃戦となりました。

もちろん歩兵が突入しやられるといったこともあったと思いますが、
まず砲弾で敵要塞を破壊し、そののち歩兵が突入というやり方で
モルトケ・ビスマルク砲台を占領していったのが実際の作戦です。

ドイツの偉大な将軍の名前を冠した砲台をどちらも落としたドイツ軍は、
負けを悟って残りの砲台を自爆させていったということです。

それはともかく(笑)映画では飛行機が勝敗を決したことにするため、
弾薬を積んだ汽車を攻撃するという作戦が描かれます。

前回よりはアップグレードした爆弾投下装置をインストールし、
汽車を狙って投下していきますが、

敵(ちうかD51の機関士)も必死。
石炭をフルで焚いてスピードを上げ、トンネルに逃げ込もうとします。

彼らの所持する爆弾はたった5発。
この作戦が失敗したら日本が負ける!という背水の陣で、
狙いをすまして(というか当たる確率低そうな装置だけど)
慎重に投下して行った結果、最後の1発が・・・、

トンネルに入る直前の後部車両にヒット。
汽車は爆発を起こしながら格納庫に突入していきました。

格納庫内部に汽車が火種を持ち運んでくれたようなものです。
派手に誘爆を起こし、砲台は大爆発を起こしました。

それを海岸線から観ながら快哉を叫ぶ補給隊の水兵たち。

やるべき任務を果たし、感慨深げにその成果を眺める大杉少佐。
これで青島要塞爆撃作戦は成功し、日本の勝利につながりました。

そしてそれをどこからか眺めている二宮中尉。
彼ら全員がなんとか生還できることを祈るばかりです。

ちなみに日本陸軍の損害は戦死416名、英軍は61名。
これに対しドイツ軍の損害は戦死210名、傷病死等150名で、
残りは全員捕虜となり、対戦終了まで日本で収監されています。

日本軍の戦死者は陸海軍合わせると711名とドイツ軍より多く、
これだけやったなら青島の権益をもらったところで
なんの文句があるのか、といいたいところですが、ヨーロッパや
アメリカ にしてみれば俺たちの帝国主義は綺麗な帝国主義、
日本の帝国主義は領土的野心だってことで、このあと
日本を経済的に追い詰めるために動いて行ったわけですな。

パレ赤の終という文字で映画は終焉します。

ところで楊白麗、いったいその後どうなったの〜?!

 

終わり。

フランツとスティパ ドイツとイタリアのジェットエンジン開発〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館プレゼンツ「ジェットエンジン機の歴史」シリーズ、
日本におけるジェットエンジン開発と橘花にかかわった技術者たちについて
ご紹介しましたので、次は枢軸国のよしみでドイツとまいります。

🇩🇪ドイツのジェットエンジン開発

ドイツのジェットエンジン開発は1936年から始まっていました。
前々回ご紹介したハンス・フォン・オハインが遠心力式のそれを搭載した
ハインケル178を設計したのは1939年のことです。

並行して、軸流式エンジンの開発は、ヘルベルト・ワグナーと
マックス・アドルフ・ミュラーのもとで行われていましたが、
こちらは途中で中止となりました。

この期間で最も成功をみたタービンエンジンの開発は、
1941年、アンゼルム・フランツがユンカー・エンジン社で行ったもので、
それがあのJUMO 004ターボジェットエンジンでした。

開発にあたってはゲッティンゲン大学のチームが助力し、
名機メッサーシュミットMe262に搭載されることになります。

Jumo 004アンゼルム・フランツ

ちなみにアンゼルム・フランツが戦後ペーパークリップ作戦で渡米し、
ライカミング社で開発したT53型は史上最も普及したエンジンの一つとして
UH-1ヒューイとAH-1コブラに搭載されています。

そのライカミングのT53エンジンもスミソニアンに展示されています。

アメリカにとって初めてのガスタービン式エンジンで、
排気ガスによって駆動され、エンジンのドライブシャフトに連結するという設計です。
このアレンジにより、ヘリコプターの操作に有利な、
可変トルクにおける一定の回転数が可能になりました。

 

パルスジェットの開発は1931年、パウル・シュミットによって行われました。
パルスジェットはその後、第二次世界大戦中に使用された
フィーゼラーF1 103”バズボム”
を駆動するのに製造されました。

The Museum's Fieseler Fi 103 on display in the Great Gallery

シアトルの航空博物館に展示されているフィゼラーF1 103です。
HPを覗いてみたら、やはりここもクローズしていて再開の見込みは立っていません。

パルスジェットはこの写真でご覧のような筒の形状で、
アルグスAs 014という名称でした。

わかりやすいパルスジェットの仕組み。

こちらは第二次大戦中、鹵獲したMe262に搭載されていた
フランツのJUMO004ジェットエンジンを検分するカール・スパーズ元帥と、
ハロルド・ワトソン大佐、ジョージ・マクドナルド元帥ら。

スパーズ元帥はアメリカ陸軍航空の生みの親のような人で、
ワトソン大佐はおそらくドゥーリトル空襲のメンバーの一人です。

彼が司令官として戦後ルフトバッフェの航空機を集めたチームは
「ワトソンの魔法使い」といったことを思い出してください。

ハインケルHe 280は、初めてジェットエンジンを搭載した戦闘機で、
1941年4月2日、初飛行に成功しました。
フォン・オハインが開発したHeS 8Aエンジンを翼に二基搭載しています。

He 178に埋め込まれたエンジンの取り付けに関する問題を解決しようとして、
最初初のツインジェット飛行機が生まれたというわけです。

ハインケルHe162 フォルクス-イェーガー

フォルクスイェーガー=国民の戦闘機という名前です。
(シュペーアとゲーリングが主導したという話を前にもしましたね)

橘花に搭載されたNE001エンジンを作る際参考にしたという
BMW003ターボジェットエンジンを搭載しています。

これも橘花の目的同様、大戦末期に、爆撃機迎撃目的で作られましたが、
危険な飛行特性により、それは結局採用されませんでした。

He 162A-1 120067号機 (1945年撮影)

機体は当時のドイツの国内事情を踏まえて、所々に木製部分があり、
熟練工でなくても制作できるようになっていました。
日本が石油不足で悩んだように、ドイツもアルミニウム不足だったのです。

それにしてもまるでちょんまげのように背中にジェットを積んでいるという
たいへんユニークな形ですが、前から見るとこんな・・・・。

スミソニアンではまだ鋭意準備中で展示はされていません。

ところでこの戦闘機の「危険な飛行特性」とはなんだったかというと、
一にも二にも、

「30分しか飛んでいられないこと」

そりゃ問題だわー。

時間切れで墜落し死亡するパイロットがいたばかりか、
10人中人の死亡原因が「機体の不具合による墜落」
だったといいますから、まるであのコメートのような
取り扱い危険兵器であったことがわかります。

ただしコメートはグライダー飛行で帰ってくることができましたが、
(その間敵にそうぐうしなければですけど)
こちらはグライダーの飛行経験がある程度ではとても扱いきれない、
操縦の難しい飛行機でした。

戦争がすぐに終わったので被害はそう多くありませんでしたが、
もし正規に投入されていたら、たとえばヒトラーユーゲントのような
若いパイロットの命が多く失われていたに違いないと考えられています。

 

🇮🇹イタリアのジェットエンジン開発

CAPRONI- CAMPINI カプロニ・カンピニC.C.2 1940

カプロニ・カンピニ。

まるで料理かカンパリ酒の親戚みたいですが、
イタリア人技術者、スゴンド・カンピニによって設計されたものです。

mentiagenti.altervista.org/wp-content/uploads/2...目が怖い

ムッソリーニのファシスト政権は世界初のジェット機だと讃えましたが、
実は1年も前にハインケルのHe178が初飛行を極秘で成功させています。

機構はいわゆるハイブリッドで今でいうモータージェットと、
圧縮機を駆動するイソッタ・フラスキーニ製レシプロエンジン、
どちらも搭載していました。

まずレシプロエンジン駆動された圧縮機によって吸入・圧縮された空気を
機体後部でガソリンと共に燃焼することによってジェット排気を得るという機構で、
カンピーニはこの構造のエンジンをサーモジェット(thermojet)と呼んでいました。

1941年11月30日には、シュナイダー・トロフィーレースで優勝した
第一次世界大戦時代の戦闘機&水蒸気パイロットのマリオ・デ・ベルナルディが
C.C.2をタリエドからグイドニアまで操縦することに成功させました。

Mario de Bernardi - Wikipediaマリオ・ベルナルディ

イタリア初の撃墜王」マリオ・デ・ベルナルディ ―水上機レーサーとして ...絶対自分のこと色男とか思ってるよね

スゴンド・カンピニと飛行前会話をするマリオ

 

1941年の飛行の際、彼は特別の丸い切手を貼った手紙を
到着地に届けたため、これが世界で初めてのジェット航空便となり、
イタリア国内はこの快挙に沸いたといわれています。

余談ですが、マリオ・デ・ベルナルディが亡くなったのは66歳。
そのころも元気に飛行機に乗っていたマリオは、ローマで
自分の飛行機を操縦してデモンストレーションを行っている途中、
心臓に異常を感じ、機体をすぐさま着陸させましたが、
着陸して数分後に心臓発作で亡くなりました。

愛機を墜落させることなくきっちり着陸し飛行機の上で死ぬ。
最後まであっぱれなイタリアンヒコーキ野郎ぶりではありませんか。
本人もこの最後は満足だったんじゃないかな。知らんけど。

また、イタリアには次のようなジェットエンジン研究者がいます。

コジモ・カノベッティ Cosimo Canovetti(1857−1932)

初期のイタリアにおけるパイオニア。(本人画像なし)
1905年にはタービンエンジンについての理論を打ち立て、
1906年に3馬力のモデルを製作しています。

都市計画や土木なども専門で、空気力学的抗力係数の決定でも
実績を残していますが、あるきっかけで土木工学を放棄し、
いきなり空力研究に情熱を傾け始めました。

20世紀の初めに、彼は軽くて操作がシンプル、そして振動がない
飛行船のエンジンを考案しました。
それはイタリアで、そしておそらく世界で最初のターボプロップエンジンでした。

彼の業績は、当時もかなり過小評価されてきましたが、今日でも、
その希少な有為性について知る人はあまりに少ないといわれています。

 

ルイジ・スティパ Luigi Stipa(1900−1992)

Luigi Stipa, un sogno lungo una vita - Editoriale Olimpia - 32,00 €

コールドジェットエンジンをデザインしたイタリアの技術者です。

1920年、スティパは彼の油圧工学の研究を応用して、
航空機が空中をより効率的に移動するための理論を開発しました。

通過する管の直径が減少するにつれて流体の速度が増加するという
ベルヌーイの定理を空気流に適用して、 航空機の働きを
より効率的にすることができると考えたのです。

スティパは何年にもわたってこのアイデアを数学的に研究し、最終的に、
ベンチュリ管の内部を翼のような形状にするという結論を証明するため、
実験的な単発プロトタイプ航空機の建造を行いました。

これを歓迎したのはファシスト政府です。
イタリアの技術の成果を世界にアピールするプロパガンダとして
この事業を承認し、1932年にプロトタイプを作成するのに成功します。

1932年、カプローニ・スティパ実験飛行機の正面図。
中空管の内部にプロペラとエンジンが取り付けられています。

スティパ・カプローニ

かわいい

1932年10月7日に飛行中の実験飛行機。
カプロニ社のテストパイロットドメニコ・アントニーニによって操縦されました。

飛行機の外観は著しく不快でしたが

プロペラがエンジン効率を高め、チューブの翼形も
スティパのコンセプトを証明しました。

同様のエンジン出力の航空機と比較して、上昇率が向上しており、
操縦特性が向上し、飛行中の安定性が高くなっています。

見かけ以外の大きな欠点(笑)は、プロペラの抵抗力が大きく、
設計上の利点のほとんどが打ち消されたことでした。

ただし、スティパはこれをを単なる「テストベッド」と見なしており、
問題にしていなかったようで、開発はすぐに終わりました。

彼はジェットエンジンを発明したわけではありませんが、この設計は
ヨーロッパ中のエンジン設計に影響を与えたと言われています。

 

フランスは、 夜間爆撃機にスティパの管内プロペラ案を、
ドイツでは、ルードヴィヒ・コルトが スティパの管付きプロペラに似た
ダクトファンを発明し、これは現在も使用されています。
また、ドイツのハインケルT戦闘機の設計は、スティパの概念に類似しています。 

イタリアでは、モータージェットを搭載したプロペラのアイデアから
カプローニカンピーニN.1が1940年に登場しました。

スティパは生涯、ジェットエンジンは自分が発明したと信じており、
自分が正当に評価されていなかったことに腹を立てていたと言われます。

しかし一部の航空史家はスティパに少なくとも部分的に同意しています。
なぜなら、現代のターボファンエンジンには、
彼の管内プロペラコンセプトの発展である部分が確かに存在するからです。

 

続く。

 

スェーデン、ハンガリー、ソ連のジェットエンジン開発事情〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空化学宇宙博物館の展示から、
ジェットエンジンの発明とその開発についてお話ししています。

今日はまずこの飛行機から参ります。

🇸🇪 スウェーデン 

サーブ・トゥンナン SAAB-29 Tunnan 1948

サーブというと自動車のイメージが強いですが、航空機から出発した会社です。
SAABという名前も、スウェーデン語で「スウェーデン航空会社」を意味する

Svenska Aeroplan AB=Saab

というくらいで、1937年に創立したのは、軍用機の生産のためでした。

「トゥンナン」というのはスウェーデン語で「樽」を意味し、
この機体の樽っぽい感じをそのまま表しているネーミングです。

王立スウェーデン空軍によってデザインされたSAAB-29は
ヨーロッパで最初の後退翼を持った戦闘機となりました。

基本性能が良く、戦闘、攻撃、偵察のマルチロール機として
サイズの小さなスウェーデン空軍とオーストリア空軍で
1951年から20年間にわたって運用されていました。

翼に三つの王冠を描いた国章があしらわれていますが、
「トゥレー・クローノー」(三つの王冠)
でスウェーデンそのものを指すこともあります。

昔スウェーデンを統治しにドイツからやってきた王様が、
スウェーデン、フィンランド、メクレンブルグを治めるという意味で
三つの王冠を国章にしたという話です。

スウェーデンでライセンス生産されたゴースト、RM 2

動力はイギリスのデハビランド社が製作した遠心圧縮機ターボジェット、

デハビランド ゴースト De Havilland Ghost

を搭載し、安定した排気が供給されていました。
最初の名称はフランク・ハルフォードが設計したH-1に合わせて
H-2となっていましたが、ハルフォードの会社はデハビランドに買収され、
同時に、

H-1→ゴブリン H-2→ゴースト

小鬼と幽霊となったというわけです。

🇭🇺 ハンガリー

György Jendrassik ジェルジ・イェンドラシック(1898−1954)

英語だとジョージ、ドイツ語はゲオルグ、フランスがジョルジュ、
ロシアだとグレゴリーが、ハンガリーではジェルジとなるわけですか。
 

イェンドラシックはブタペスト生まれのハンガリーの物理学者であり
機械工学者で、ベルリン大学ではアインシュタインの物理の講義を聞いています。
卒業後ディーゼルエンジンの開発を経てその道のエキスパートになりますが、
1937年に小さなガスタービンエンジンの研究開発に着手し成功しました。

その後、ガンツ社で軸流式ターボプロップエンジン、
CS-1のプロトタイプを完成させています。

なお研究は第二次世界大戦中でしたが、彼の仕事は
ある意味戦争の影響をほとんど受けませんでした。

イェンドラシシック CS1

1941年に完成したCS-1は1000馬力のパワーを持ち、
航空機用に作られた世界最初のターボプロップエンジンです。

タービンが毎分1万3500回転し、毎分1600回転で
減速装置を介してプロペラを回転させるという仕組みです。

第二次世界大戦が始まって、ヨーロッパでいろんな作業が
中断を余儀なくされたとき、CS-1はちょうどベンチテストに入っており、
試験飛行用に二基のユニットを取り付け、ツインエンジンにする計画中でした。

テスト飛行が1940年に行われ、世界初のターボプロップエンジンになったのですが、
肝心のハンガリー空軍が銃戦闘機としてメッサーシュミットMe210 を選んだので、
CS-1の開発はそこでいったん中止され、工場はしかたなく
Me210に載せるダイムラー・ベンツ DB 605を作っていました。

ここではたと気づいたのですが、第二次世界大戦時代、ハンガリーは
ドイツと防衛協定を結んでおり、一応枢軸国側だったんですね。

その少し前はながらくオーストリア=ハンガリー帝国だったわけですから、
ドイツと併合したオーストリアの右へ倣えするのは当然の成り行きです。

というわけで、ハンガリーにはドイツからの技術協力があったどころか、
いわばミニナチスみたいな、

「矢十字党」
Nyilaskeresztes Párt-Hungarista Mozgalom、NYKP

という極右政党があって、ハンガリー主義なる(ハングリー精神じゃないよ)
民族主義を謳い、ナチスの支援を得て1944年暮れから3ヶ月間だけとはいえ、
ハンガリーを統治したこともあり、しかもその短い間にナチスに倣い、
8万人ものユダヤ人を収容所に送ったりしているのです。

Flag of the Arrow Cross Party 1937 to 1942.svg矢十字

みなさんご存知でした?こんな旗の存在を。

ふっ切ってます

ドイツからはおそらくパシリ扱いされていたハンガリーなので、
ナチスがうちの戦闘機使え、うちのエンジン作れ、と言ってくれば
断るわけにいかなかったのかなという気がしますね。


その後、イェンドラシックはCS-1エンジンを搭載するために

 RMI-1 ヴァルガ Varga

ラズロ・ヴァルガに航空機を設計させました。

Boxart Varga RMI-1 X/H 4 IRMA

写真右がイェンドラシック、左がラスロ・ヴァルガ博士です。
Laszro Vargaという名前はハンガリーによくある名前らしく、
検索したらチェリスト始めたくさん出てきたのですが、
この設計者だけはどこを探しても出てきませんでした(´・ω・`)

Varga.svg

機体の下部にエンジンを抱くような形がユニークです。
個人的には頭にちょんまげ載っけているよりはいいかなと(笑)

ところで、どこを探してもこのヴァルガのRMI-1の写真がないので、
変だなと思ったら、1944年になってCS-1のエンジンではなく
ダイムラーベンツのエンジンを乗せて、試験走行を行い、
さあこれから試験飛行というときに、

連合国軍の爆撃に遭い、
破壊されてしまったのでした(-人-)RIP

まるで日本の橘花の開発経緯とその終焉を見るようです。
敗戦国の技術者というのは本当に気の毒な立場だと思いますね。

 

ソビエト連邦

今日最後はソビエト連邦です。

ボリス・セルゲイビッチ・ステキン Boris S. Stechkin 1891ー1969

は1929年にターボジェットについての論文を書き、
アーキップ・リュルカ(Arkhip M. Lyul'ka1908-1984)もまた、
結果は失敗ながら第二次世界大戦中にジェットエンジン研究を行っています。

しかしながら、初期のソ連が製作したジェットエンジンは、
所詮はドイツのコピーであり、イギリスの動力を使用したものでした。

 

ソ連の科学技術というのは、冷戦以降のアメリカとの宇宙戦争を知っていると
世界でも特に発展していたかのようなイメージがありますが、
ジェットエンジンの研究にも見られるように、第二次世界大戦中は、
(そして戦後も)後進国といってもいい遅れをとっていました。

たとえば、戦争が終わったとき、アメリカが「ペーパークリップ作戦」で
ドイツの技術者や技術、そして航空機や兵器を漁りまくったのを見て、
ソ連はあわててアメリカの真似をし、ドイツのめぼしいものを
手当たり次第集めてきたのですが、大変残念なことに
敗戦直前に作られたドイツの製品は、品質的に劣悪なものばかりでした。

ただしそれらは理論的技術的にあまりにも高度で、ソ連の当時の基礎技術では
それを取り入れ自国のものにするということができなかったということです。

 

冷戦が本格化したのは1946年からですが、その直前、
ソ連に寛容だった当時のイギリス労働党政権が、

ロールルロイスのニーンエンジン(Rolls-Royce RB.41 Nene)

を40基ほど売ってくれたので、ソ連はそれを叩き台にして
RD-45というエンジンを製作することに成功しています。

Rolls Royce Nene.jpg ロールスロイスNene

ちなみに、このとき、金属の組成を調べるために、ソ連技術陣は
「特別製の靴」を履いてロールスロイスの工場見学を行い、
靴の裏で集めた金属粉を分析するということまでやっています。

特別製の靴・・・・磁石でも仕込んでたのかな。

ロールスの人も、ソ連の見学者が、金属屑の散らかったところばかり
選んで進むのになんだか変だなとか思わなかったのでしょうか。

 

このときにコピーしたエンジンは1950年、ウラジーミル・クリーモフ
V. Klimov(1892-1962)によって「わずかに再設計」され(´・ω・`)
クリーモフVK-1としてMiG−15に搭載されることになります。

VK-1エンジン

これを搭載したMiG15は、当ブログでも最近ご紹介しましたね。

繰り返しますが、戦後、イギリスが政権をとっていたのは労働党政権でした。

あの「ゆりかごから墓場まで」で有名な左派政党です。
キャッチフレーズはともかく、共産社会主義が陥りがちな
優遇された労組の度重なるストライキで社会は疲弊し、
このあと政権をとった保守政党は「英国病」ともいわれる
経済制作の失敗による後遺症に苦しみました。

この時のイギリスも、どこかの国の民主党政権がそうだったように、
仮想敵でもあるはずの共産国家に友好的なところを見せようと、
航空エンジンなどという基幹産業の根幹でもある技術を
ホイホイと売り渡してしまったということになります。

皮肉なことにその結果生まれたMiG15は連合国に深刻な脅威を与え、
朝鮮戦争でMiGシリーズは連合国を散々苦しめることになるのです。

ミコヤン・アンド・グレヴィッチ MiG−17

エンパイアステート航空博物館の「MiG三兄弟」で
この17もご紹介しましたね。

Mig 17

MiG−17もクリーモフVK-1ターボジェットエンジンを搭載しています。
MiG15よりさらに翼が薄く、素晴らしい後退翼を持っていました。

ツポレフ Tuporev Tu-104

1955年に初飛行を行なった民間ジェット機です。
二基のミクリンAM-3ターボジェットユニットを持ち、
115名の乗客を搭載することができました。

NATOは「キャメル」というコードネーム で呼んでいたそうです。
ジェットエンジンを使った旅客機をアメリカより早く誕生させ、
フルシチョフがイギリス訪問の際使用し、西側諸国の知るところとなります。

案の定このツポレフ中距離爆撃機のTu-16を作り替えたもので、
旅客機としては居住性が極端に悪く燃費も悪かったうえ、
そもそもエンジンの取り付け方法からそて世界初のジェット旅客機、
イギリスの「コメット」の模倣というものでした。

しかし当時は「コメット」が構造欠陥のために運航停止しており、
まだボーイングもダグラスもジェット旅客機は開発段階であったため、
ソ連が世界で最初にジェット機を就航させていたことに
西側は一様にショックを受けたといわれています。


こうしてみると、ソ連というのは、模倣から入るものの、
その技術を昇華させ応用して追随できないものを作る能力が
特にMiGに関しては大変高かったという気がします。

その点、我が日本の技術発展の傾向と似ているかもしれない、
とわたしはふと思ったのですが、みなさんはどうお感じになりますか。

 

続く。

 

凡庸で偉大なジェット戦闘機 グロスター・ミーティア〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館プレゼンツ、ジェットエンジン開発の歴史、
各国の開発の歴史をご紹介してきましたが、いよいよ残るは
当時の最先端だったイギリスとアメリカのみとなりました。
というわけで今日は大英帝国とまいります。

イギリスの開発については先駆者であるサー・ウィットルの項で
かなり詳しくお話ししているので重複する部分もあります。

🇬🇧 イギリス

イギリスが連合国軍側で初めてジェット機を搭載して飛ばすのに成功した
量産試作型のグロスターミーティア F-1です。

Fは戦闘機のF、その1号機というわけでしょうか。

おもちゃじゃないよ

スミソニアンのHPを検索したらこんな手抜きっぽい模型が
無駄に高画質でアップされていました。

今日はこのミーティアの話を中心にお届けしたいと思います。

 

さて、スミソニアンのコーナー展示を紹介しながら、ジェットエンジンが生まれてから
それが航空機に搭載され始めた頃の各国の技術競争について紐解いているわけですが、
そもそもタービンを使った駆動のアイデアは、いつから実在していたのでしょうか。

歴史を遡ると、イギリスでは1791年に最初のガスタービンが
ジョン・バーバーなる発明家によってパテントを取得されています。

その意味でもイギリスはタービンを発明した国というわけですね。

バーバーはこれを治金作業を効率的に行うために作ったということで、
仕組みは、外部にあるボイラーで木材、石炭、油などを燃やして得られたガスを加熱し、
それを別の部分で冷却し、 シリンダーで圧縮され、燃焼室に送り込まれて
そこで点火され、高圧ガスを生成して機械を駆動するというものです。

燃焼によってジェット=噴流を発生させ、推進に利用するという意味では
仕組みはジェットエンジンと同じといえないこともありません。

ここで確認のためにジェットエンジンの種類を簡単に書いておきます。
まず、広義にはジェットエンジンとは次の二つに分けられます。

1、ターボジェットエンジン

タービンを回して圧縮機で空気を圧縮し、その燃焼によって得られる排気流

2、ターボファンエンジン

ファンのついたターボエンジン
空気をエンジンコアに送り込み、飛行速度と同じ速さで排出する


さらに、

ターボプロップエンジン

エネルギーの大部分をプロペラを回すために消費するエンジン

プロップファン

ターボプロップエンジンに後退角のついた二重反転プロペラをつけたもの

ターボシャフトエンジン

圧縮機を動かすタービンの他にフリータービンを持っている。
ヘリのローターに使用される。

ラムジェットエンジン


吸入した超音速気流をラム圧(ram)により圧縮し亜音速まで減速させ、
そこに燃料を噴射して燃焼した排気の反動で推進力を得る

パルスジェット

単純間欠燃焼型のジェットエンジン。
給湯器などに応用されている。
ミサイルや航空機の推進装置として実用化されたことも。

スクラムジェットエンジン

ラムジェットエンジンと違うのは超音速燃焼が行われるところ。

外部動力圧縮ジェットエンジンジン

圧縮機を外部動力(通常はレシプロエンジン)で駆動する形式のエンジン。
カプロニ・カンピーニ、桜花はこのタイプを搭載していた。

 

さて、それでは次に「ジェットエンジン発祥の地」イギリスにおける
エンジン開発者を続いて紹介していきましょう。

collectionimages.npg.org.uk/std/mw188958/Alan-A...「金属疲労」を最初に見つけた人

アラン・アーノルド・グリフィス 
Alan Arnold Griffith 1893−1963

1926年に彼は

「タービン設計の空力理論」

を発表しました。
彼の初期の設計はターボプロップエンジンの理論につながります。

この頃、前にもここで取り上げた サー・フランク・ウィットルが、
遠心圧縮機を使用したタービンエンジンに関する論文を書いています。

そのとき彼の論文は計算間違いがあったため、航空省に無視されたと書きましたが、
この間違いを指摘し、その排気が推力を提供しないであろう、
とダメ出したのが、他ならぬこのグリフィスでした。

ウィットルは当然失望しましたが、空軍軍人だった彼のRAFの友人たちは
とにかくこのアイデアを彼が追求することを確信し、応援し続けました。

その声に励まされた彼は、1930年にはエンジンの特許を取得し、5年後には
会社を立ち上げて研究を開始したというのはお話しした通りです。

グリフィスは、航空省研究所RAEの所長を務めながら、ここで
逆流ガスタービンを発明しましたが、研究は理論上の不備で中止されました。

RAEのジュニアエンジニアでグリフィスの部下でもあった
ヘイン・コンスタント Hayne Constant  1904-1968 は、
グリフィスを励まし、研究を再開するように勧め、自分自身も
RAEでタービンエンジンの研究を続けました。

これって、友人の励ましで立ち直ったサー・ウィットルを
落ち込ませた張本人もまた技術者として落ち込んでいたところを励まされた、
ということになりますね。

Why Metrovicks? | Thrust Vector師弟愛?

 

そして落ち込んで励まされたグリフィスにダメ出しされたサー・ウィットルは、
その理論を実験によって押し進め、彼を落ち込ませた張本人グリフィスも
その成果を見て彼のスタンスを再評価することを余儀なくされました。

サー・ウィットルのエンジンは、 Me 262にかなり似たデザインになり、
パフォーマンスも向上しましたが、それにもかかわらず、
機構が複雑すぎると考えられ、生産されませんでした。

 

グリフィスは1939年にRAEの主任科学者の職を辞してロールスロイスに転職し、
同社初の軸流圧縮機を使用するターボジェットエンジン、

ロールスロイス・エイヴォン Rolls-Royce Avon

の基本設計を行いました。

Mk.23

グリフィスの研究の中でも最も歴史的に重要なのは、エアジェットを使用した
ホバー内の制御、つまり 垂直離着陸 (VTOL)技術でしょう。
航空機を水平姿勢で空中に維持させるために、グリフィスは小型でシンプルな
軽量ターボジェットのバッテリーを使用することを提案しました。

これが「フラットライザー」です。

 

他にイギリスでジェットエンジンの開発に足跡を残した一人に、
ウィットルやグリフィスとは別系統で

フランク・バーナード・ハルフォード少佐 1894−1955

がいます。

File:Triumph-1922-Ricardo-Frank-Halford.jpg - Wikimedia Commons

第一次世界大戦で王立空軍のパイロットだったハルフォードは、
その後エンジニアリング部門でエンジン設計を行い、バイクのレースに出たり
バイクの製造をしたりというマルチな人生を送っています。

レーシングカーに航空機、動くものならなんでも、という勢いで
ホイホイといろんなエンジンを設計しまくっているうち、
ジェットエンジンにも興味を持ち、デハビランド H-1「ゴブリン」、
そしてあの名作、H-2「ゴースト」を生み出します。

「ゴブリン」も「ゴースト」も、デハビランド のジェット戦闘機、
DH100 「ヴァンパイア」に搭載されることになりました。

この機体はヴァンパイアの F.Mark1で、ゴブリンエンジンを二基、
1400kgの重量で推力を安定させるために搭載しています。

 

ちなみにこの「ヴァンパイア」ですが、富士重工が
航空自衛隊の練習機T-1の参考にするために輸入したため、
日の丸をつけた機体が一機だけ現在浜松で公開されています。

なんかすごい微妙なところに日の丸があるっていうか・・・(笑)

グロスター ミーティア Meteor F.1

ジェット試験機を設計するという仕事がグロスター社にきたのは、
歴史は古いものの、二流メーカーとみなされていた同社が
戦時にもかかわらず暇にしていたためだったそうですが、
たしか日本にもおなじような話がありませんでした?
あれはたしか震電の開発に指名された九州飛行機という・・。

面白いことに、これと同じパターンはアメリカにもあって、
初のジェット戦闘機「FHー1ファントム」開発を指名された時の
マクドネルも当時は新興で暇にしていたのだそうです。

戦中、リスクの多いジェット機の開発は生産ラインに影響を及ぼすので
大手の航空会社ではなく暇そうなところにやらせるというのが理由だったとか。

 

さてこのミーティア、搭載するエンジンでゴタゴタが起き、
ウィットルのW1を積むかどうかさんざん揉めた結果、結局のところ
ハルフォードのH1「ゴブリン」に決まりましたが、戦闘機としての評価は

「機体は革新性皆無の凡庸なもの」

「機動が±2Gに制限されていて対戦闘機戦闘は不可能」

「連合国初のジェット機という存在価値しかない」

と散々でした。(です?)

しかも、ジェットエンジンという先端技術を搭載していたため、
連合軍が機体を鹵獲されるのを恐れて連合国の上だけしか
飛ぶことを許してもらえなかったという・・・・。

 

結局ミーティアがこのエンジンでドイツ上空に出て作戦を行ったのは
ドイツが散々弱ってもうだめぽ、となった最後の数週間だけでした。

もともとミーティアはMe262との交戦を想定して作られましたが、
もしそうなっていたとしても、結果は見えていた気がしますね。

1942年に撮影されたミーティアの姿です。

そんな振るわないデビューだったミーティアちゃんですが、
究極のターボジェットエンジン、ロールスロイスのニーンが誕生すると、
すぐにこれを搭載して、パワーアップし、Me262に同等、あるいは
下手すれば勝つる、というところまでこぎつけました。

しかし時すでにお寿司、ニーンを積んで行った初飛行は1945年5月。

はい、みなさん、ドイツが降伏したのはいつだったですか?
今まで散々性能を馬鹿にされたグロスター関係者は、きっと
このタイミングの悪さに涙を流して悔しがったことでしょう。

しかし、当初から凡庸で革新性のない機体と言われたことは、
逆にいうと潰しが効くというか、中を入れ替えて使いやすいということです。

ミーティアはその後練習機となったり新しく導入する機体の
繋ぎを務めたり、訓練機や連絡機として、そして
次世代エンジン開発のためのテスト機を務めたりと大忙し。
空母運用試験では艦上搭載機のテストのために離着艦を務めたりしています。

実験機としてこんな面妖な姿にされてしまった子もおりました。

グロスター・ミーティアF8「プローン・パイロット」

は、人間の耐Gの限界を解明するため、機種の部分に
伏臥位の姿勢で乗るコクピットを備えていたという実験機です。

伏臥位で操縦したら、より大きなGに耐えられる可能性があるかも、
と仮説を立てたんですね。
それでこんなものを作ってしまったということらしいですが、結果は

後方視認性と射出の難しさは、より高い
「G」効果を維持する利点を上回っていることを証明した

直訳するとこうですが、簡単に言い換えると、

「後ろが見えないし、射出がうまくいかないので、
この問題を解決するくらいならGをなんとかする方が早い」

ってことですよね。
作る前にそれくらいわからなかったのかな。わからなかったんだろうな。

 

しかしミーティア、外国空軍からも「初めてのジェット機」として
大変需要が高く、イギリス連邦以外の多くの国に輸出されました。
ベルギーやオランダなどのようにライセンス生産した国もあります。

まさに凡庸さが使い勝手の良さを生んだという意味では
それなりに偉大な航空機だったといっていいでしょう。

 

 

続く。

プロペラを付けたジェット機? アメリカのジェットエンジン研究史〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「ジェット機の開発史」シリーズ、
いよいよ最後はアメリカについてです。

ジェットエンジンの開発という点において、実はアメリカは
ドイツとイギリスに大きく遅れをとっていました。

ジョン・K・ノースロップは1939年、ウラディミール・パブレッカ
率いるデザインチームとともに、ターボプロップエンジンの建造を引き受けました。

Enter a caption...

このパブレカという人は、日本では全くの無名ですが、 

Straight-8エンジン、ZMC-2、折り畳める翼、フラッシュリベット、
モノコック構造、最初の加圧胴体、最初の大型飛行機での三輪車着陸装置、
電動ヘリアーク溶接トーチ、P-61ブラックウィドウ、
アメリカで最初のターボプロップエンジン取り付けられたプロペラ、
およびスーパーチャージャー

などを開発したおそるべき発明家で技術者でした。

メインは航空機ですが、アポロJ-2ロケットエンジンの設計も行っています。
 コーヒーメーカーの自動抽出メカニズムを発明したのも彼だとか。

また、ネイサン・C・プライス率いるロッキードチームは、
これに一年遅れてL-1000ターボジェットの開発を始めました。

ネイト(右)

 

これらのプロジェクトは1943年、イギリスのジェットエンジン技術が
完成をみてアメリカの製造業者がこれを利用できるようになったとき、
キャンセルされることになります。

この理由は後で説明します。

 

同年の、ウィリアム・R・デュランドが率いるジェット推進特別委員会NACAの創設は、
アメリカの取り組みを大幅に加速し、結果的に世界をリードすることになりました。

1941年2月25日、ヘンリーH.「ハップ」アーノルド航空副首席補佐官が
NACAの委員長であるブッシュ博士に書簡を送り、ジェットエンジン研究のため
特別なグループを形成することを指示しました。

この結果、NACAには陸軍航空隊、海軍航空局、国立標準局、
ジョンズホプキンス大学、マサチューセッツ工科大学、
および3つの米国の代表が参加して研究が行われることになります。

 

サンフォードモス

アメリカにおけるタービンのパイオニアというと、

サンフォード・モス  Sanford Alexander Moss1872-1946

でしょう。

20世紀初頭においてタービンの研究を行い、
第一次世界大戦中にターボスーパーチャージャーを航空分野にもたらしました。

ライト兄弟がキティーホークで最初の飛行を成功させる前に
モスは今日の現代のジェットエンジンとして認識されている原型を
すでに考案していたことになります。

コーネル大学を卒業後、モスはゼネラル・エレクトリックに入社し、
エンジンとタービンの研究を行いました。

第一次世界大戦中に開発したエンジンターボスーパーチャージャーは、
戦闘機がより高高度に達することを目的にしていました。

そしてそれは高度の世界記録を目指す航空機や、
戦艦「ニュージャージー」での高高度爆撃試験に使用されましたが、
彼の仕事は、1939年にB-17にターボスーパーチャージャーが取り付けられ、
9時間14分の大陸横断記録を達成するまで完全に評価されませんでした。

彼はアメリカ国立航空殿堂にその名前を飾られ、第二次世界大戦後、
ターボチャージャーが航空機に広範囲に使用されています。

Gerhard Neumann – The Fallen Ones

ゲルハルト・ノイマン Gerhard Neumann1917−1997

ノイマンはユダヤドイツ人です。

日中戦争で蒋介石が日本との戦いでエンジニアを必要としている、
と知った彼は、香港を経て大陸に向かい、フライングタイガースを作った
クレアリー・シェンノー大佐から中国空軍に支援することを頼まれます。

「ドイツ人ヘルマン」という渾名で呼ばれていた彼は、アメリカ航空隊のために
エンジニアとしてその知識と技術を惜しみなく提供しました。

たとえば、「アクタン・ゼロ」として知られる鹵獲した日本の零戦を
復元して飛行特性を調べあげ評価できるようにしたのは、何を隠そう
このゲルハルト・ノイマンでした。


1948年、ノイマンはマサチューセッツ州リンにあるGEの
ガスタービン部門のテストエンジニアとして働き始めました。

そこで彼は、ジェットエンジンの設計に多くの革新をもたらしました。
 彼の開発したJ79ジェットエンジンにより、たとえば
F-104航空機はマッハ2の対気速度に到達することができました。

 

アメリカという国があらゆる意味で大国になり得たのは、
民族主義に捉われないリベラルさと多様性を受け入れる懐の深さのおかげですが、
つい最近までドイツ人だった彼を、ゼネラルエレクトリックが
副社長にまでしているということも、この表れの一つではないでしょうか。

彼は副社長になってもエンジンのパフォーマンスを理解するために
テストパイロットとしてさまざまなジェット戦闘機を自ら操縦しました。

 

レオナルド・”ルーク”・ホッブス 
Leonard S. (Luke)Hobbs 1896–1977

冒頭写真の

プラット&ホイットニーJ57(JT3)ターボジェットエンジン

こそ、ホッブスが世に出した最強のターボジェットエンジンでした。

画像:ホッブズ、レナードS.

自作のJ57の前に(足をかけて)誇らしげに立つホッブス。

この最初のターボジェットエンジンは、二軸式、重量4536kg、
極めて成功したエンジンの一つで、ノースアメリカンのF100、
ボーイングB-52に動力を提供しました。

J57というのは認識番号で、航空機に搭載するためのエンジン名は
プラット・アンド・ホイットニー JT3Cとなっています。

1951年3月、プラット&ホイットニーJ57を搭載して試験飛行で
初めて空を飛んだボーイングB-50の姿です。

 

ところで、開発が始まったものの、イギリスでそれが完成したので
中断してしまったアメリカのターボプロップエンジン開発についてですが、
戦争が終わった1945年12月にXT-31として試験飛行を行いました。

このT-31がアメリカ最初のターボプロップエンジンとなります。

これはT34エンジンの「テストベッド」(試験機)となった
第二次大戦中のボーイングの爆撃機B-17です。

 

さて、このコーナーに展示してあるアメリカの飛行機はたった一つです。

ベル P-59A エアラコメットAIRACOMET 1942

XP-59Aは最初のアメリカのジェット機です。
実戦に投入される機会はありませんでしたが、米軍空軍(AAF)と米海軍に
ジェット航空機技術の貴重な経験を提供し、より高度な設計への道を開きました。

冒頭にもあるようにアメリカはジェット推進の分野に入るのが遅かったのですが、
その理由は、指導者たちが新しい技術を急いで運用するよりも、
目の前の戦争に貢献するための従来の設計と量産に集中する選択をしたからです。

イギリスのグロスター・ミーティア戦闘機は終戦時にほんの少し参加し、
その頃日本は中島・橘花を2回試験飛行していました。
一方ドイツはジェット推進機で世界を独走している状態で、メッサーシュミット
Me 262ジェット戦闘機とアラドAr 234ジェット爆撃機の両方が
戦中にすでに運用可能な状態だったのはご存知の通りです。

 

しかしながら、1930年代半ばまでに、アメリカの推進技術者は
ジェットタービンエンジンの飛行機への適用の可能性を真剣に検討していました。

 

1941年4月、ハップ・アーノルドはイギリスに赴いてウィットルが設計した
W.1Xターボジェットエンジンを搭載したグロスターE.28 / 39を視察しました。

この結果、GEの新しいエンジンによる戦闘機建造が決定されたのです。
戦闘機の制作はベル・エアクラフトコーポレーションが選ばれました。

どこかで聞いたような経緯ですが、今回もベルが選ばれたのは、当時
航空機の開発と生産に他のメーカーほど忙しくなかったからです。
もう一つの理由は、彼らの工場がGEの近くにあったということでした。

そして、もう一つ評価されたことは、ローレンス”ラリー”・ベルの

「正統でないデザインを飛ばすことに対する熱意と評判」

だったそうです。

Larrybell.gifローレンス・デール・ベル

GEはベル社を新型エンジンの「質の良いカバー」を作る事業として選定し、
1941年9月、ラリー・ベルはアメリカ初のジェット飛行機の設計を始めました。

しかし、肝心のGEがエンジンのテストをなかなか始めず、
事柄が事柄だけに情報がガッチリ機密扱いで、安全上の理由ということで
当初は風洞実験すら禁じられるというありさまだったそうです。

それでもベルはなんとか最初の飛行試験を行うことになりました。

これがその時のエアラコメットですが、ご覧ください。
ジェット機なのにプロペラがついていますね。

ベルはダミーのプロペラを機首に取り付け、胴体を覆い隠し、
エアコメットを別の新しいピストンエンジン航空機に見せかけました。

メカニックは飛行直前に「プロペラ」を取り外し、飛行機が着陸した後
もういちど取り付けるという念の入れようだったそうです。

 

そうして1942年10月1日、ベルのテストパイロット、ロバートM.スタンリーが
XP-59Aを初めて空に飛ばしました。

結果は非公式高度記録を打ち立てるというものでしたが、陸軍は、
ベルの300機のP-59生産戦闘機を受注したいと申し出に対し、
100機だけしか発注できないと答えました。

最終的にベルは10,640 m(35,000フィート)、
最高速度658 kph(409 mph)で飛行する航空機を仕上げることに成功しました。

アメリカ初のXP-59A、AAFシリアル番号42-108784は、
国立航空宇宙博物館に保存されています。(公開はされていない)

アメリカ初のジェット機を博物館に展示するために保存することを思いついたのは
他ならぬベルのエンジニアでした、
実験が完全に終わり、陸軍の許可が降りてから、博物館の倉庫に運ばれたとき、
エアロコメットの飛行時間はたったの59時間55分でした。

1976年に新しい国立航空宇宙博物館がオープンした際、
1945年当時から保存されていたXPー59Aは元どおりの姿に戻されました。

ちなみにこの写真には女性パイロットのマネキンが乗っていますが、
これは、WASPのオペレーションオフィサー、

アン・G ・バウムガードナー・カール
Ann G. Baumgardner Carl 1918-2008

です。

彼女はテストパイロットとして、初めてジェット機を操縦した女性となりました。
ちなみに彼女の夫、ウィリアム・カール少佐はノースアメリカンの
ツインムスタングを設計した技術者です。

続いてアメリカのジェット機について、もう少しお話しします。

続く。

 

ロッキードXP-80 ルルベル〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「ジェット機の歴史」コーナーには、
まず、こんなコーナーがあらわれます。

そしてドイツ・メッサーシュミットのMe262と仲良くならんで、

ロッキード XP-80 ルル-ベル(Lulu-Belle)

が」展示されています。

第二次世界大戦中はジェットエンジンの研究において、ドイツ、
そしてイギリスに大きく遅れを撮っていたアメリカは、
空中戦闘が可能な航空機の必要性を痛感しながらも、
独英が1939年の段階でジェットエンジン研究を終えていたのに対し、
新技術の開発と評価になかなか乗り出せない状況でした。

1941年、ロッキード・エアクラフトが、イギリスのエンジン
「デハビランド ゴブリンH-1B」を搭載したジェット戦闘機を建造する、
という計画について打診されたばかりなのに対し、ドイツはその2年後である
1943年に、すでにジェットエンジンを積んだ
ハインケルHe178を投入し実際に飛ばしていたという具合です。

 

そしてドイツが、1943年までにプロペラ迎撃機での対アメリカ戦略爆撃機の戦闘損失で
優位に立ったうえで、さらに強力なメッサーシュミットMe 262ジェット戦闘機を
配備しようとしているという情報を得たアメリカ陸軍ハップ・アーノルド司令は、
1日も早く新しいより有能な戦闘ジェットを推進するように
大号令をかけました。


そしてロッキードの主任調査研究員だったクラレンス”ケリー”・ジョンソン、
そして設計者と技術者28名の集団はこのプロジェクトに乗り出し、
ジェット航空機の製造をわずか143日という
驚くべき速さで完成させることになるのです。

ケリー・ジョンソンと設計チームは、1943年6月21日、
XP-80「ルルベル」というニックネームのプロトタイプの制作を開始しました。

彼らの作業所は「ケリーのサーカス小屋」と呼ばれ、さらにチームは
自虐ギャグがもとになった「スカンクワークス」がニックネームになります。

「スカンクワークス」も元ネタはコミックですが、この「ルルベル」も、
アル・キャップの "Lil 'Abner"(リル・アブナー)に登場する、
「リトル・ルル」から取られているのです。

リトル・ルル

リトル・ルルそのままだと著作権の問題があったので
ちょっとアレンジしてフランス語の「綺麗な」「美人の」である
『ベル』をつけたんですね。

ルル・ベル、XP-80の初飛行は1944年1月8日と受注の4ヶ月半後でした。

そしてルルベルは時速800kmで飛行したアメリカ初のジェット飛行機となりました。
操縦したのはテストパイロットのマイロ・バーチャムです。

初飛行の後、バーチャムと握手するケリー・ジョンソン(右)
ジョンソンはこの後、

「素晴らしいデモンストレーションでした。
私たちの飛行機は成功しました。
ドイツが長年のジェット飛行機の開発で得た一時的な利点を
一気に克服したほどの完全な成功です」

とその成果を誇らしげに語りました。 

テストフライトでXP-80は最終的に6,240 mで時速808 km の最高速度に達し、
水平飛行で500 mphを超える初めてのターボジェット動力のアメリカの航空機となりました。

ルルベルの革新的な「取り外し可能な尾翼」は、ゴブリンH-1Bエンジンに
簡単にアクセスすることを可能にしました。

ゴブリンエンジンは十分な台数が調達できたわけではなく、
しかも、その後のXP-80の進化形に搭載するには
決して十分なパワーがあったとはいえませんが、その後
戦闘機のほとんど全てがこの形となりました。

 

ちなみにプロジェクトは極秘で進められたため、制作をしていることは
ごく一部の人間にしか知られていませんでした。

ゴブリンエンジンを納入するためにやってきたイギリス人のエンジニアは、
ロッキード社に怪しまれ、警察に勾留されるという目に遭っています。

スミソニアン博物館では当時のままの機体のペイントを見ることができます。
この緑色のため、「ルルベル」は別名「グリーンホーネット」とも呼ばれていました。

スタッフに若い人が多く、当時の「コミック世代」だったってことですかね。

スミソニアンHPより。

第412戦闘機グループのパイロットは、ルルベルを叩き台にして
ジェット機の高度な戦闘戦術とプロペラ駆動機の新しい防御技術を開拓しました。

この写真は、現在スミソニアンにあるルルベルの最終的な状態と同じです。

XP-80の初めてのテストフライトは大成功でしたが、この後、XP-80が
F-80「シューティング・スター」となるまでの実験では
偉大なパイロットが失われるという悲劇的な事故が続いています。

2番目にテストされたXP-80Aと呼ばれるプロトタイプは、アメリカ製で
より大きなGeneral Electric I-40エンジン用に2機設計されたうちの一機でした。

 うち1機「シルバーゴースト」とあだ名された機体をテストした
「ルルベル」のテスト飛行のときのパイロット、マイロ・バーチャムは、

「(XP-80とくらべ)まるでこれは’犬になってしまった’ようだ」

と語りました。

つまりエンジンが大きくなって動きが鈍重になり、パイロットとしては
操作性という点で「面白くない」ということだったのかもしれません。

しかし、1944年10月に行われた3番目のYB-80Aは、テスト飛行の際、
主燃料ポンプの故障により離陸時にエンジンが失火し、
ターミナルの1マイル西で墜落し、操縦していたバーチャムは殉職しました。

Test & Research Pilots, Flight Test Engineers: Milo Burcham 1903-19441903-1944(-人-)RIP

そして、バーチャムが「犬のようだ」と表した「グレイゴースト」もまた、
翌年のテストフライトで墜落し失われましたが、このときのパイロット、
バーチャムの後任、トニー・ルヴィエは脱出に成功し、命は助かっています。

この墜落の原因は、飛行中エンジンのタービンブレードの1つが故障したもので、
航空機の尾部に構造的な障害が発生したために起こりました。

 機体はハードランディングし、ルヴィエは背中を骨折しましたが、
6か月の回復の後、テストプログラムに戻ることができました。

Richard Bong写真の肖像画の頭と肩.jpg

ところで、このブログをお読みになっている皆さんは、おそらく
リチャード・ボングという名前に覚えがあるのではないでしょうか。

リチャード”ディック”・アイラ・ボング少佐
Richard 'Dick' Ira Bong(1920−1945)

は、P-38戦闘機で太平洋地域、ことにポートモレスビーで名をあげました。
日本機を通算40機撃墜し、アメリカ航空隊のエースになった人です。

ラエ基地の日本機を4機撃墜したということもわかっており、
これはあの台南航空隊の所属機であったことは明らかです。

 

アメリカ軍は、多大な戦果をあげた搭乗員に対しては勲章を与え、
褒賞の意味で、後方基地で教官職につけるという待遇に処していたそうですが、
ボングもまた1945年、軍の計らいで一線を退き、戦地から帰ってきて、
戦時国債のための広報活動を行うというような日々を送っていました。

当時婚約者だったマージ・バッテンダールと結婚しおそらく幸せの絶頂だったでしょう。
彼はホームカミングで出会った美人の婚約者が自慢でたまらず、臆面もなく
P-38のノーズに彼女の写真を貼り付け、機体を「マージ」と名付けていました。

Wisconsin's Richard Bong became Pacific aceでれでれっす

しかし残念ながら、彼は飛行機で死ぬ運命から逃れられませんでした。

1945年8月6日ーそれはアメリカが広島に原爆を落とした日ですがー
そのころ、ロッキードでテストパイロットをしていたボングは、
12回目となるP-80シューティングスターのテスト飛行を行いました。

このときすでに彼はジェット機で合計4時間15分の飛行時間を経験していました。

彼の操縦する機体が離陸したとき、主燃料ポンプに不具合が生じます。
しかしボングはなぜか補助燃料ポンプに切り替えることをしなかったため、
機体はすぐさま失速を始めました。

これは、彼が切替えるのを忘れたか、何らかの理由で
切り替えられなかったと考えられています。

すぐさま彼は機体から脱出しましたが、パラシュートが開くには遅すぎ、
地上に落下して死亡し、25歳の生涯を閉じたのでした。

彼の死は全国の新聞のトップ記事で報じられました。
そのニュースはおりしも日本時間8月6日に落とされた
広島への原子爆弾投下の報道とと第一面を共有しました。

 

バーチャムの事故もボングのときも、故障したのは主燃料ポンプでした。

バーチャムのときには、緊急用燃料ポンプのバックアップシステムが
新しく設置されていたことを彼に説明していなかったため、
彼は対処のしようがなく墜落に至ったわけですが、ボングの場合は
本人がこのポンプの電源を入れるのを忘れていた可能性
があるそうです。

このことは、やはり8月6日に飛行した同僚のレイ・クロフォード大尉が、
ボングが以前のフライトで

「I-16ポンプをオンにするのを忘れた」

と言っていたのを聞いていて、このときもそうだったのだろう、
とコメントしたことで裏付けられる結果になりました。

つまり、両者の事故死の直接の原因は機体の不具合ではなく、
どちらもヒューマンエラーであったことになるのですが、
特にボングの場合、手順をミスしただけでなく、事故が起こってから
慎重で冷静なパイロットであればあるいはできたはずの、
最悪の状態を回避するための対処も全く行わないまま死に至りました。

このことをもって撃墜王はテストパイロットの適性に欠けていたと思われる、
というのは亡くなった者に対し少々残酷な評価でしょうか。

スミソニアンでは、Me262に立ち向かうために計画されたXP-80の隣に、
その御本尊であるMe262が展示されています。

戦後、USAAFはP-80とMe 262 Aを比較し、

「総重量に900 kgの差はあるものの、Me 262とP-80は
加速、速度、おおよそ上昇のパフォーマンスは同じである。

Me262は、現在の陸軍空軍戦闘機よりも、抗力の観点から、
明らかに重要なマッハ数 を持っている」

と評価づけました。

結果的にMe262の優秀さを素直に認めたということになります。

 

続く。

9月11日公開 映画「ミッドウェイ」試写会 その1

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今秋公開予定の「ミッドウェイ」試写会参加の話をいただき、
公開に先駆けて観てまいりました。

奇遇にも去る6月4日から当ブログでは「ミッドウェイ祭り」を開催し、
1974年版映画「ミッドウェイ」について語ったばかりです。
特に最近、ともすれば時間と共に薄れてしまいがちな記憶もまだ新しいうちに
2020年版を観る機会をいただけるとはなんという僥倖でしょうか。
わたしは思わず心の中でつぶやきました。

「うむ、今なら大丈夫」

何が大丈夫かというと、今ならばミッドウェイ作戦について
かなりのディティールと全体的な流れががっつりと頭に入っているので、
映画と同時進行でツッコミが入れられるであろうという自信です。

逆にいうとこの試写会がブログ作成前であれば、結構な情報を
気づかずに見過ごしてしまったに違いありません。
その意味でもこのラッキーな機会をいただくきっかけとなった方には
心から感謝を申し上げる次第です。

 

会は前回「空母いぶき」の試写会場だった六本木の「キノフィルムズ」。
ミッドタウン(つまり旧防衛庁跡ですね)の道を隔てて向かいにあります。

ちなみにミッドタウンの道路に面した部分はよくドラマのロケで登場人物が
偶然の出会いをしたりナンパされたり(笑)するときに出てくるおなじみの場所です。

試写会は時節柄マスク着用義務、席を空けて座ること、体温チェックを行う、
入り口で手指消毒を行うなどの諸注意が主催者側から事前に回ってきており、
上映後キノフィルムズの方に伺ったところによると、試写会も従前とは違い
収容人数を少なくするため開催日数をその分増やしているということでした。

 

というわけで、「空母いぶき」のときよりも気合を入れて臨んだわたしですが、
実は事前に試写会メンバーとして紹介してくださった方から
こんな情報を得ており、かなり身構えていたのです。

「中国資本ハリウッド映画なので批判が多いです」

うーむ・・・。
わたしそれでなくても明らかに中国ヨイショのあからさまな資本流入が透けて見える
キャスティングやストーリーにイライラしていたんですよね。
(スターウォーズの誰得な中国系女優とか、オデッセイの”綺麗な中国(笑)”とか)

しかもそのときちょうどアメリカでこんなニュースが報じられたばかりでした。

中国当局の検閲を受け入れるハリウッド映画界 
米議員、政府協力停止の法案提出

リンク先を読んでいただければわかりますが、最近のハリウッド映画は
中国市場で成功を収めるために、中国共産党の検閲に従い、
また、中国企業もそれを目的にハリウッドに投資を行っているのです。

ニュースは、この結果つすっかりつまらなくなってしまったハリウッド映画を
中国共産党の「魔の手」から取り戻そう、と考えるアメリカ人の一人であるらしい
テッド・クルーズという上院議員がこれらを禁じる法案を提出したというもの。
議員が動くほど目に余るということになってきたんでしょう。

ただ彼ら(中国)の巧妙なところは、この「ミッドウェイ」のように、
プロデューサーを全員中国系にして色々とぶっ込んでくるくせに、
自分たちは決して表に出ないってことですね。

パンフレットを見ても、スタッフはほぼ全員白人系アメリカ人であり、
ぱっと見ハリウッド映画のていを保っているのがポイントです。

そして案の定今回の「ミッドウェイ」の内容にも
中国制作側の表現が巧妙に仕掛けてありました。

「空母いぶき」でご意見番として同行いただいた関係で、
今回も招待者側からわざわざ御指名により参加していただいた
当ブログおなじみunknownさんは、上映後キノフィルムズの方と話していて

「クレジットに中国人スタッフが多い割にはそれほど偏った内容ではなかった」

というふうに評価されていましたが、わたしはむしろ、
日本人ですらそう思わされてしまう巧妙さに舌を巻く思いでした。

もう少し後でその点にも触れますが、そう思わせておいて、
実は彼らの目的である「仕掛け」がされている、とわたしは感じ、
そのことはエメリッヒ監督以下ハリウッドのスタッフが
志をもって作り上げた映像や、映画のできそのものに対し、
大変良かった、いう正直な評価をくだした今もまったく変わることはありません。

 

帰宅後、試写会にお誘いくださった方にお礼のメールをしたところ、

「私以外の方は好意的で、見る目がないと自省しております。」

という返事をいただいたのですが、わたしのこの映画に対する評価が
好意的であるのはあくまでもハリウッド製作陣の「志」に対してであって、
むしろ感情的な部分ではこの方と全く意見を同じくしている、
といっても差し支えないかと思われます。

適切な例えかどうかわかりませんが、

坂本龍一(宮崎駿、桑田佳祐でも)の作品を純粋に愛しているが
その政治発言とその立ち位置には全く共感できない

というのと似ていると考えていただければいいかもしれません。

それだからでしょうか。

映画を当ブログで取り上げて評論するとき、おのずと自分の心情は
映画の意図に共感しようと好意的になるのが常ですが、正直なところ
この映画に対しては、どうしてもそういうわけにはいきませんでした。

そこで、

「それはそれ、これはこれ」

な大人の態度に自分の身を置くことにしました。

いっそ「パールハーバー」のように盛大にやらかしてくれた方が
思いっきりやれたのに、という気がしないでもありません(笑)

 

 

監督のローランド・エメリッヒはアメリカ人ではありません。
ハリウッドに招かれて「インディペンデンスデイ」など、
大作をヒットさせてきたドイツ人で、「Godzilla」も手掛けました。

エメリッヒがドイツ人であることはこの映画にとって大きな意味を持ちます。
というのは、エメリッヒ自身が

「ドイツ人としての責任を持って日米双方への平等な視線から見た
ミッドウェイ海戦を描き、戦った人たちへの敬意を表す」

と語っていることからも明白です。
20年間このテーマを扱うことを構想していたというだけあって
個人の表現において不公平だったり印象を歪めたりといった
恣意的な方向付けや角度は感じられず、アメリカでは公開後これに対し

「日米双方を公平な視点で描いているのが何より素晴らしい」

という評価があがったということです。
ただ、わたしに言わせれば、それはアメリカ人から見ての評価です。

エメリッヒの高い志は随所に見えますが、それでも実際は
プロデューサーという名の中国共産党の代理人との間に
結構な攻防戦があったのではないか、とわたしは勘繰っています。

ゲスの勘ぐりってやつですかね。

1974年版では「主人公」というべき人物はガース大佐という
架空の人物で、やはり架空の息子とその日系人の恋人、という
サイドストーリーが映画に色を添えていましたが、
本作には基本的に架空の人物はいません。

一種語り手のようなポジションで登場するこの人物は
情報主任参謀だった
エドウィン・レイトンEdwin Layton1903-1984です。

なぜまたこんなマイナーな人物を、と思いましたが、
日本に駐在武官できていたときに山本五十六と交流があったことと、
それからミッドウェイ開戦前から日本の攻撃を正確に予測していたという史実によるものでしょう。

主人公の一人がパイロットというのは74年版と同じです。
ディック・ベスト Richard Halsey Best(1919-2001)
ミッドウェイ海戦で「エンタープライズ」の爆撃機隊長として

「1日に二隻の空母(飛龍と赤城)を沈めた」

とも言えないことはない?という評価をされているパイロットです。
ベストが映画で俳優によって演じられたのは今回が初めてだそうですが、
実物は凄みのあるエド・スクラインとはかなり違いずっと温厚そうな青年です。

映画では彼を凄腕のパイロットとして描くことよりも、
叱咤激励して一緒に飛んだ部下が亡くなったことを気に病むといった、
指揮官として苦悩する人物であることが強調されます。

 

戦争映画にはつきものの女性は、この映画ではレイトンの妻、
そしてベストの妻が夫の身を案じる銃後の女性として登場。

アン・ベスト(マンディ・ムーア)

ベストの妻は上官のマクラスキーに夫の処遇について食ってかかって
ドン引きさせていましたが、気丈に振る舞いながら、夫の安否を案ずるときも
人目をさけて洗面所に駆け込み一人で泣くというタイプです。

 

ところで、このマクラスキーとベストの妻が同席になるのが
ハワイのオフィサーズクラブという設定ですが、後でunknownさんが
オフィサーズクラブなのに客に下士官がいて大変違和感があった、
とツッコんでおられました。

今でも士官と下士官は全く別のクラブがあり、その分離は厳格にされていますが、
どうしてこの映画では誰もそのことを指摘しなかったのか不思議です。

といいつつ、わたしはこのシーンでステージの歌手が歌っていた

「All Or Nathing At All」

というスタンダードナンバーの歌詞、

「全てかゼロか、どっちかよ
その真ん中の愛なんてわたしにとって意味ないわ」

というのを「ミッドウェイ」(中途)に掛けているのかなどと
一生懸命考えていたので、全くそのことに気がつきませんでしたが。

All Or Nothing At All

ちなみにこの歌は、エンディングでも現れるので、
何らかの意図があって選択されていることに間違いありません。

今回の「実物に似ているで賞」特別賞を差し上げたい、
チェスター・ニミッツ役のウディ・ハレルソン。

映画の最後に俳優の映像が実物の写真に代わり、
「その後この軍人はどうなったか」が説明されます。
わたしが好きなエンディングのパターンですが、だいたい実物は
俳優と大幅に違うのが常で、特にレイトンなど異次元ってくらい似てなくて、
思わず全然似てないやないかいと関西弁でツッコミを入れたくなるほどでしたが、
ニミッツだけは本物に変わっても全く違和感ないくらい似てました。

チェスター・ニミッツ - Wikipedia本物

1974年版「ミッドウェイ」でニミッツを演じたのは、
御大ヘンリー・フォンダでしたが、この映画はとにかく
偉い俳優に偉い軍人を演じさせるというキャスティングだったため、
本人に全く似ていないどころか、皆年齢が本物より行き過ぎていて
その点が不評を買ったと聞きます。

ここだけの話ですが、ヘンリー・フォンダって、正直なところ
口元があまり上品でないせいでお利口そうに見えないので
ニミッツ役にはいまいち、と思っていた(実はニミッツ好きであるところの)
わたしも、この配役には満足でした。

ところで今回ニミッツのシーンでおもしろかったところがあったので
ネタバレ上等で書いちゃいますが、レイトンに案内されて
情報部にニミッツが立ち寄るんですね。

室内に人がごった返す情報局の忙しい様子を見て、

「どうして情報部にこんな人がたくさんいるんだ」

「真珠湾で艦を沈められた軍楽隊の隊員です。
通信を聴きとるのは音楽家ですから皆得意です」

コロナで音楽関係の「不要不急」な仕事は全部なくなってしまった、
という話を直前にunknownさんとしていたことを思い出しました。

そのあと、ニミッツは例の何とかと紙一重の天才、ロシュフォール大佐から
(映画ではロシュフォードと発音していた)
日本軍の通信に頻繁に出てくる例の「AF」について、

「これが次の攻撃地に違いない」

という情報を聞かされるのですが、この時点では半信半疑なわけです。
そして正確な言い回しは忘れましたが、こんなことを言うのでした。

「スリッパ男やチューバ奏者のいうことは信用できない」

終始静かな試写会会場で思わず声に出して笑いたかったシーンでした。

ちなみにロシュフォール大佐役はかなり実物の雰囲気に近く、軍服の上に
汚らしいガウンを羽織ってスリッパを履いただらしなさそうなおっさんでした。

何でもロシュフォール大佐、お風呂も入らないせいでいつも臭かったということなので、
ニミッツがそのことを指摘するかどうか、わたしはドキドキしながら聞いていたのですが、
ついに最後までそのことには触れずじまいでした。

うーん、残念。って何が残念なんだ。

 

次回はわたしと全く違った視点で映画を観ておられたunknownさんのご意見も
紹介させていただきたいと思います。

 

続く。

 


9月11日公開 映画「ミッドウェイ」試写会 その2

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前回に引き続き、試写会で鑑賞した9月11日公開の
「ミッドウェイ」について感想を書いていきます。

日本側の俳優は、有名どころを三人起用しています。
まず一人目。

山本五十六を演じたのはなんとトヨエツでした。
うーん・・・愛してくれと言ってくれだっけ?違う?

役所広司が演じたときには何だかねー、と思ったものですが、
今やトレンディドラマ俳優が五十六世代に手が届く年代になったってことですな。

ちなみに過去山本五十六を演じた俳優は、

映画

「太平洋の鷲」大河内傳次郎
「軍神山本元帥と連合艦隊」佐分利信
「太平洋紅に染まる時」後藤武一
「連合艦隊司令長官 山本五十六」三船敏郎
「トラ・トラ・トラ!」山村聡
「ミッドウェイ」三船敏郎
「連合艦隊」小林桂樹
「パール・ハーバー」マコ岩松
「聯合艦隊司令長官 山本五十六」役所広司
「ミッドウェイ」豊川悦司
「アルキメデスの大戦」舘ひろし

テレビドラマ

「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」古谷一行

とういう面々ですが、三船敏郎とか山村聡とかの「盛りすぎ」は問題外として、
このメンバーではビジュアルは小林桂樹がダントツです。

豊川悦司は坊主頭に本人を意識したと思われる低い声で
ぼそぼそと喋る様子がそれらしいとは思えたものの、
実際の山本五十六は身長が160センチくらいの固太りだったそうなので、
186センチの豊川はイメージ的にはスマートすぎなのは否めません。

ビジュアルといえば、いつもわたしはこんなとき、それなら誰ならイケるか、
などということをよく考えるのですが、荒川良々という俳優さん、どうですかね。
なかなか面白い五十六になりそうだけどな、と思うのですが。
ただあの人も身長は高そうですね。180以上ありそうです。

 

山本五十六の英語のセリフで注意していただきたいのが、字幕には
「アメリカに留学していたとき」となっている部分、実際には
「ハーバードにいた時」と言っていたことです。

やっぱり欧米人にとってヤマモトがアメリカの最高学府、しかも
ハーバードを出たという情報はぜひ押さえておきたい情報なのでしょう。

ディティールとしては例えば山本が下戸で徳利にお茶を入れて飲むふりをしていた、
とかいう細かい情報もセリフの中にさりげなく入れ込まれているので、
そういうトリビアに詳しければ詳しいほど、映画が楽しめると思います。

また、ミッドウェイ前の図演、攻略中に敵空母部隊出現で
日本空母部隊が大被害を受ける結果が出たのに、判定のやり直しおよび
被害下方修正が行われたとされるあの「問題の図演」シーンも登場します。

それから今回も、ミッドウェイ海戦の敗北を聞かされたときの
山本の反応にぜひ注目していただきたいですね。
76年版の三船敏郎演じる山本五十六は、

「陛下にお詫び申し上げるのはわたしだ」

と重々しく「大和」の舷側に立って呟いていましたが、今回も
史実(将棋を指しながら『またやられたか』と一言いっただけ)
に正面から取り組むことは避け、ある意味アメリカ人らしい解釈で
負けを知らされる聯合艦隊司令長官像、というか山本五十六を「創造」しています。

正直、わたしはこの創造されたシーンが大変気に入りました。
それがなぜかはご覧になってのお楽しみってことで。

全体的に山本がハーバード出のアメリカ通であり英語が堪能、
ということがかなり強調されている、というのがヒントです。

 

なるほどねー、と妙に得心してしまったキャスティング、
それが國村隼の南雲忠一でした。

南雲忠一については、非常に「好意的」だった76年版においても
攻撃隊に雷装を転換させたことなど、敗北の原因は主に
南雲の采配にあったというような書き方がされていましたが、
今回はそれに加え、ごく微妙なレベルでの「人格の卑小化」が見られました。

76年版のジョージ・シゲタの南雲は、デバステーター雷撃隊の全滅に対し
涙を浮かべたり、「アメリカにもサムライがいる」などと呟き、
「武士の情け」を知る日本人指揮官を表現していましたが、
國村隼南雲は、その点においてシゲタとは対極の描き方をされていました。

詳細は避けますが、國村には敵の全滅に対し涙を浮かべる代わりに

「アメリカ人が自爆覚悟の攻撃などするわけない」

みたいなことを言わせているんですね。

真珠湾攻撃で第二攻撃を行わず、米艦隊にとどめを刺さなかったという
海軍内でも反発を呼んでいた采配から勝手に解釈され、今回の映画でも
南雲の人格そのものが歪められていたとわたしは残念に思います。

ただ、國村隼という俳優さんは本当に演技が上手く、その点脚本を汲んで
ちょっとのシーンでもその目の色だけで

「動揺」「作戦のミスを後悔」「怯え」「自信の喪失」

そういう心情を完璧に伝えることができるので、
その点製作者の意図は遺憾無く鑑賞者に伝えられることでしょう。

実際の南雲は、確かに航空には疎かったようですが、艦乗り出身で
操艦が巧く、ミッドウェイのときでも自ら指揮して魚雷を回避し、
後ろで見ていた源田実を感心させているなどという一面もあります。

今回の「ミッドウェイ」で描かれた南雲のように
アメリカ人の覚悟を馬鹿にするような軍人ではなかった・・・はず。

というか誰に限らず戦場で相手をみくびるような指揮官は、さすがにいなかったと信じたい。

皆様はどう思われるかわかりませんが、演技巧者國村隼への評価と対照的に、
残念だったのが山口多聞を演じた浅野忠信でした。

ビジュアルが似てない、などということではありませんよ。

どんな似てない俳優でも、「聯合艦隊司令長官以下略」の阿部寛=山口多聞の
事故レベルキャスティングと比べたら、許せてしまいますから。

っていうか、またしても今思ったのですが、山口多聞役に
荒川良々っていう俳優はどうですかね・・・え?もういい?

メルカリ - 荒川良々 切り抜き プラスアクト +act 【アート/エンタメ ...参考までに


荒川良々問題は置いといて、浅野忠信にガッカリ、というのは
今回の多聞役のセリフまわしが棒読み部分が多い割には
感情表現が要所で大袈裟すぎ、

「あれ?」

「この人こんな演技〇〇だったっけ」

みたいな違和感を感じてしまいましたもので。

山口多聞に限らず(というか山口多聞なら尚更)、当時の軍人、しかも指揮官が
いちいち目に見えて不機嫌や不満をあんな風に表さないと思うんですがね。

軍人役って、多少の大根でも定型を踏まえれば形になってしまう、
なんて今まで思っていましたが、大間違いだとわかりました。

浅野忠信、今まで観た映画やドラマでは上手い俳優だと思っていたし、
特にスコセッシ監督の

「The Silence(沈黙)」

の通辞役なんて鳥肌が立つほどいい演技で好きだったんですが。

うーん・・・今回一体何があった。


メインの日本人俳優は以上の三名となります。
この三人で予算を使い果たしたのかもしれませんが、
もう一踏ん張りして源田実くらいは日本人に配役して欲しかったかな。

草鹿龍之介など、配役がなかったせいで登場もせず、おかげで
南雲に「赤城」から退艦するように説得したのが実際の草鹿ではなく
源田実であったということにされてしまっています。

今回源田実の役をしたのはピーター・シンコダという日系人俳優で、
「ファイナルカウントダウン」の零戦搭乗員役みたいに全く喋れない人ではないし、
何よりお手軽にチャイナコリアン系を使うことをせず、
わざわざカナダからこの人を連れてきたというその努力は買いますが、
必要最小限のセリフでも「日本語でおk」なのがわかってしまうのでした。

セリフのない日本人役は、おそらく大量にそちらが採用されていると思いますが、
(そもそも日系人のエキストラがハリウッドであんなに見つけられない)
源田役のほかに東條英機役にも日系人を使ったことは評価します。

しかしドゥーリトル空襲で宮城の天皇陛下が防空壕に避難するシーン、
あそこで昭和天皇をわざわざクレジットもない俳優に演じさせたのはなぜですかね?

「ミッドウェイ」というテーマのこの映画に、昭和天皇のあの登場シーンが
なぜ必要だったのか、そしてあの俳優は一体どこの何人なのか。

そんなところに製作に介入したある「意思」を感じてしまうのはわたしだけでしょうか。


本作の評価は賛否両論というものだったようです。
正直なところわたしのなかでも賛否両論だったので(笑)
この結果には然もありなんと納得してしまいました。

評価の多くを占めたのが

「『ミッドウェー』は現代の特殊効果によりバランスのとれた視点で
有名な物語を再訪するが、その脚本は褒められたものではない。」(wiki)

わたしはこれを読んで、全く同感であると膝を打ちすぎて痛くなりました。

まず、映像的には現代の考えられる最高のものといっていいでしょう。
細部に敬意が払われ、たとえば日本を舞台にしたシーンについては、
ハリウッドのセットデコレーター自らがこのように語っています。

「この映画は異文化に敬意を払っている点で
この戦争を描いた他の作品とは大きく違っている。

日本側の視点から映画は始まる。
日本の文化と名誉と敬意を重んじる世界を見せている。
アメリカ側のキャラクターたちのシーンは
工業的なトーンであるのに対し、日本の軍艦のシーンでは
豊かな色使いにより伝統的なものを感じることができる。

日本の軍艦は第一次世界大戦の頃に作られたもので、
木材が多用されていてブリッジにすら本物の家具が置いてあった。
真鍮やマホガニーなど暖かみがある色から、
将校たちがはめている手袋の白まで、その美しさがわかるはず。

アメリカ人には、軍艦をそういう美しいものとして捉える視点はなかった」


また、同行くださったunknownさんの映像についての視点はこのようなものです。

「艦船や航空機はほとんどCGだろうと思いますが、
非常にていねいに作られています。
艦船では日本の25ミリ連装機銃、アメリカの
12.7ミリや20ミリ機銃の旋回俯仰や発射の動きがリアルでした」

「ミッドウェイ海戦時の『がぶっている』海、
特に波しぶきの切れ方が非常にリアルでした」

波しぶきの切れ方に目が行くとはさすが元本職です。

わたしは、映像に関しては今回CGでしかあり得ない視点を発見しました。

人間の眼というのは、必ず焦点を中心に、それ以外のところは
ボカされた光景を脳内に取り入れます。

フェルメールの絵画が画期的?だったのは、彼は画面上に焦点を定め、
ブラーを採用して人間の頭脳で再現される(はずの)画像を具現化したことですが、
これはこれまでのいかなる高性能な映写カメラであっても同様で、
フォーカスポイント以外は自然に「ボカされ」ているのが普通です。

ところが、この映画における映像、とくに手前に飛行機があって、
艦隊が見渡せるようなシーンでは、全くボケがなくどこまでもクリアな
「焦点だけの景色」、人類が決して見ることのできない景色が
ほぼ完全に再現されているのです。

驚くべきはそれが実にリアルであることです。
これを「現実的ではない」として拒否感を抱く人もいるかもしれませんが、
わたしはある種「神の視点」を与えられたような気がして興奮しました。

ですから、公開されたらぜひ大型モニター、特に映画館で見ることをお勧めします。
(配給会社に気を遣って言っているいるわけではありません)

 

さてそれでは、「現代の特殊効果によりバランスのとれた視点」であることを
認められながら「褒められたものではない脚本」とはどういう点でしょうか。

あくまでもわたし個人の見解により、語ってみたいと思います。

 

続く。

 

 

9月11日公開 映画「ミッドウェイ」試写会 その3

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試写会で公開前に鑑賞させていただいた映画、
「ミッドウェイ」の解説、三日目になりました。

ところで、冒頭画像はパンフレットの1ページですが、この中に
何か違和感のある部分を見つけられた人はいませんか?

ヒントはSBDドーントレスの米陸軍航空隊のマークです。
ほら、何か違いますよね?

そう、飛行機がつけている国籍機マークの赤い中央の円がないのです。

実際にも米陸軍航空隊のマークから1942年5月からは赤丸がなくなったので、
ミッドウェイ海戦の時には確かにこれでもいいのですが、
これがこの映画では真珠湾攻撃やドゥーリトル空襲のB-25まで
同じように赤丸抜きのペイントになっていました。

実際に赤丸が消されたのは日本の航空機に誤認されるのを防ぐためですが、
映画の場合は、製作の煩雑さを防ぐため?ミッドウェイの仕様を
他のシーンにも同じように使ってしまったものと思われます。

 

さて、前回、unknownさんがお気づきになった「波の切れ方」が
いかにも関係者の視点だと指摘したのですが、ファッション関係に目敏い?
わたしとしては、アメリカ軍人の軍服についてぜひ語っておきたいことがあります。

なんと・・・シワだらけなのです!

ハワイにいるニミッツやレイトンクラスの軍人ですら、襟もシャツもシワだらけ。
はて、これはリアリティというやつなのか、と考えていたのですが、
現在残されているアメリカ軍人のどの写真を見てもこんな軍服を着ている人はいません。

自衛隊ならたちまち「プレス不備!」の一言で上陸禁止です。
あ、この人たちは陸軍か。外出禁止です。
ニミッツがロシュフォードのスリッパを非難していましたが、
その前に自分の服のシワをなんとかしろ、と突っ込んでしまいました。

この頃もアメリカでは普通にスターチ(糊)を使ってプレスしていたはずなのに、
まさか当作品の衣装部はそのことを知らなかったのでしょうか。

本作の日本軍人の詰襟の軍服はそんなことはなかっただけにすげー謎でした。

違和感ついでに、わたしは映画で語られる部分でのもっとも重要な、

「日本の最終目的」

が、アメリカ本土への侵攻であるように語られていたのを敏感に聞き取りましたよ。

今では誰でも知っているように、(そして劇中山本五十六もいうように)
日本は最初から長期戦になればアメリカには勝てないと知った上で開戦し、
決定的な戦いにアメリカを引き込んでおいて、6ヶ月以内に終戦交渉を行い、
南方の資源を維持することが目的だったのです。

つまり決定的にアメリカ艦隊、空母を含む攻撃力を脅かすことが必要で、
ミッドウェイはそのために計画された戦いだったとされています。

今更日本の目的はアメリカ侵略だったなんて誰が本気にするんだ、ってなもんですが、
要するに日本の開戦目的が自衛であったという史実を曖昧にしたい、
という「微調整」する力が働いているとわたしは見ましたね。

こういう題材になると、どこからか現れて日本の悪魔化を図る勢力が
作品に介入してくるというのはこの作品に限ったことではありませんが、
映画作品を純粋に作品として評価する評論家たちの多くがこの作品を

「褒められたものではない脚本」

と言い切ったその根本には、これがあるのだとわたしは考えています。

まず、大前提として、この映画は「ミッドウェイ」といいながら
真珠湾攻撃とドゥーリトル空襲に時間を割きすぎています。
ミッドウェイ海戦だけでも十分に映画では語り切れないくらいの
さまざまな駆け引きやドラマがあるはずなのに。

それでは、これらのシーンにはどういう意図があったのでしょうか。

 

まず、真珠湾攻撃。

前半のこの映画のCG映像でクリエイトされた日本軍攻撃のシーンは、
今までどんな写真でも知りようのなかった、そのとき軍艦にいた人々だけが
見たであろう地獄、爆撃によって巻き起こされた業火の中の阿鼻叫喚が
トラウマレベルで悲惨に、そしてリアリティをもって執拗に描かれます。

その中で主人公のパイロット、ディック・ベストの友人であり
兵学校の同級生であった「アリゾナ」のロイ・ピアースが亡くなります。
(遺体がドックタグをしておらず、クラスリングで見分けていたのは謎)
このことをもってベストは敵に対する憎しみを募らせる、つまり映画は

「真珠湾攻撃への復讐心」

をアメリカ軍人たちの戦いの正当性、モチベーションとして据えたかったのでしょう。

 

それからドゥーリトル隊による東京空襲です。
本作ではジミー・ドゥーリトルに「ダークナイト」のハービー・デント、
「ツーフェイス」でお馴染みのアーロン・エッカートを起用。

なんかわかりませんがものすごく気合の入ったキャスティングです。

 

76年版は「東京上空30秒前」から流用した(笑)ドゥーリトル隊の
発艦シーンが現れ、最初に山本五十六がその報告を受けるところから
映画が始まりますが、この映画では延々とこの作戦が描写されます。

わたしがシリーズ初回に

「ミッドウェイにこんなシーン必要ですか?」

と書いたところの宮城の避難シーンですが、とりあえず
クレジットをその後確かめると、「Hirohito」として、
無名の日本人俳優が演じていたことがわかりました。(なんかむかつく)

 

ところで本作のパンフレットには、見開きにページを割いて
「ドゥーリトル空襲 ミッドウェイと日中戦争」というコラムがあります。

それを書いた人の名前を見ただけでわたしは「あ・・・察し」てしまったのですが、
この笠原19司(仮名)なる学者、「その筋」には名高い方じゃないですか。

どんな学者か端的にその業績?を書くと、

日中戦争のとき当時毎日新聞記者がでっちあげた将校の「百人斬り競争」を
学者の立場で?見てもいないのに肯定し断罪している人であり、
日本人でありながら南京師範大学南京大虐殺研究センター客員教授として
南京大虐殺を中国政府の立場からプロパガンダしている人

いやー、マッカッカじゃないですかー。あ、字のことですけどね。
なんだってこんな人にわざわざ解説させたかなー(棒)

案の定この解説、出だしからこんな具合です。

(このシーンは)ドゥーリトル隊による東京空襲が、日本の
天皇制つまり「国体」に恐怖を与えた歴史事実を 
見事に象徴した場面である。

「天皇制」という左翼ワードもさることながら、

天皇制つまり「国体」(カッコ付き)

と軽く言ってしまうこの香ばしさ。


このほかも「拙著」を紹介しながらの解説はツッコミどころ満載。
(ここではやりませんが)もしお嫌でなければぜひ劇場では
パンフレットを購入し、あくまでも自己責任で目を通していただきたいと思います。

さて、ドゥーリトル機のメンバーが中国本土でパラシュート降下し、
中国軍ゲリラに捕まるも英語の話せる教師により日本を攻撃したことがわかって
一同に大歓迎される、(その後重慶までいって蒋介石と宋美齢に歓待される)
というシーンについてこの学者さんは嬉々として書いていますが、
この部分こそ、今回中国資本が介入してねじ込まれたのは明白です。

最近明らかになった事実で、ドゥーリトルらが大陸上陸後国民党の兵士や
村人に救出されたのは事実だそうですが、村の英語の話せる教師
(なんかこの人のキャラ、猛烈にウザくありませんでした?)は
架空のキャラクターであり、真珠湾で死ぬベストの親友ロイも架空の人物です。

ツッコミどころの多いシーケンスに限ってキャラクターが実物ではなく
わざわざ新たに創造されているというところがポイントかな。

そして、わたしにとっての今回の最大のツッコミどころは、
日本軍の中国本土攻撃によって一般人(女性と子供の遺体が積み重なっているシーンあり)
が殺害された様子を見てショックを受けるドゥーリトル。

何度でも書きますが、アメリカ側の媒体では決して触れないけれど、
ドゥーリトル空襲で亡くなった日本人は少人数とはいえ軍人ではなく民間人でした。
だいたい飛行機に手を振った子供に銃撃を浴びせるなんて、どこの鬼畜でしょうか。

然るにドゥーリトル空襲のシーンでは天皇陛下の避難と空中からの
爆撃投下シーンだけ描き、中国本土爆撃では女子供の遺骸をアップにする。
どこが公平に描かれているのか、って話ですよ。
そもそもこれ、ミッドウェイにどう関係あるの?
勿論何事も因果関係でつながっていくので関係ないことはないかもしれないけど、
「ミッドウェイ」という本筋から見るとほぼ「傍論」ですよね。


とプンスカ怒ってばかりもなんなので、この辺でお待ちかね、
わたしと全く違う視点で映画をごらんになっていた
unknownさんの感想を取り上げさせていただこうと思います。

ミッドウェイ海戦は、日本のぼろ負けですが、
アメリカ側に先にミッドウェイ攻撃の意図を読まれていたことや
兵装転換に時間を要したことが日本の敗因であるとは
(個人的には)思っていません。

日米共、ほぼ同じの機数。

搭乗員の練度で言うと、日本が有利だったところ、
アメリカ側が先に日本の機動部隊を発見したことが
アメリカの勝因(アメリカの勝利は偶然によるところが大きい)
だと思っていますが、その観点で見ると、納得の出来る内容
(アメリカがギリギリ勝てたことがわかる)だったと思います。


76年版「ミッドウェイ」でも、帰投後にロシュフォードとニミッツが
その「ギリギリ勝てた」ことについて亡くなったガース大佐(架空の人物)
の口を借りる形で語り合って終わります。

そのときも書きましたが、日本側の「ミッドウェイ」についての記述は
とにかく南雲中将の采配と油断に全ての敗因を被せて悪様に罵るが如きなのに対し、
アメリカ側は自分たちの勝利を必然的なものとは決して思っておらず、
日本軍がこういう時によく言うところの「天佑神助による勝利」と捉えているのです。

今回の「ミッドウェイ」でも、海戦前、相手より少ない空母で不利な戦いに挑む
航空隊のメンバーの様子をはじめ、その「ギリギリ感」がよく出ていたと。


また、真珠湾攻撃が始まった時、ハルゼーが索敵を命じるシーンについても
ツッコミというか疑問をいただきました。
これは、まさに真珠湾に向かっていたときに真珠湾が起こってしまい、
ハズバンド・キンメルがアナポリス同期だったハルゼーに

”commander of all the ships at sea”

を任命したときですよね。

ハワイが奇襲を受けた際、航海中だったハルゼーの空母部隊が、
日本の機動部隊の位置を通信の方向探知で、
ハワイの北側か南側かと推測する場面ですが、
日本からハワイに大圏コース(最短距離)で来れば、
ハワイの北側に来ますが、ハルゼーは南側の捜索を命じました。

史実でどうだったのかわかりませんが、
北か南のどちらかに賭けるとしたら、普通は北に行くと思います。

南に行くにはハワイ諸島を横断せねばならないので、
アメリカ側に見付かる可能性が増します。
奇襲が成功しているのだから、普通だったら、
北側にいると考えると思うんですよね。


映画制作スタッフはそういったディティールは全て資料通りである、
と豪語?しているのですが、どうもご指摘が正しかったのではないかなと思います。

話題が出たので余談になりますが書いておくと、そもそもハルゼーの艦隊が
なんの任務に出ていたかというと、アメリカ側が

「日米交渉が打ち切られたので一週間以内に何らかの軍事行動に出る」

という日本の外交暗号を傍受したことから、これに対応するために
ウェーク島に航空機を輸送していたのです。
で、本人は”何かあったら”そのときは「フリーハンド」にするから
(日本と戦っても構わない)とキンメルに言われて大喜びしていたらしい。

ところが、最悪の形で戦争が始まってしまってハルゼー怒り心頭(笑)

キンメルは、ハルゼーに洋上の全艦船の指揮権を任命し、さらに

日本艦隊の予想避退針路は北西である

との情報をハルゼーに通達しています。

通達を聞く前にハルゼーが情報もなく捜索を命じるはずはないし、
このシーンでそう命じていたのだとしたら(わたしは気づきませんでした)
どうしてそのようにしたのか謎ですね。

 

そうそう、一シーンだけですが、この映画にはそのときミッドウェイ島に
映画を撮りにきていた映画監督のジョン・フォードが登場します。

皆が危ないから避難しろというのにいうことを聞かない爺さんで、
実際にも日本軍の攻撃目標になりやすい発電所の上に立っていたため、
爆弾の破片を足に受けて名誉の負傷をしています。

フォードはもともと海軍贔屓で、開戦と同時に海軍に入隊を志願し、
「表向きは」戦略諜報局の野戦撮影班として映画を撮っていました。

あやしい・・

負傷こそしましたが、頑張った甲斐あってこのときの
The Battle of Midway』はアカデミー短編ドキュメンタリー映画賞を受賞しています。   The Battle of Midway: The John Ford Original   さっき「表向きは」と書きましたが、実はジョン・フォード、
映画監督とは表向きの姿、実態は
米軍戦略諜報局のエージェントだったそうです。
(といわれてもあまり驚きませんけど)

2008年、米国立公文書館が公開した資料によって明らかになりました。     続く。      

9月11日公開 映画「ミッドウェイ」試写会 4日目

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さて、9月11日公開の映画「ミッドウェイ」の試写会を観て、
例によって重箱の隅を突き中国資本の影響とみられる部分を暴き、
あれこれ物申してきましたが、何はともあれこの映画は
エンターテイメントとして見応えのある力作であること、
そして当ブログに来られるような方にはいろんな意味で
見逃せない映画であることは太鼓判を押します。

ですから、ぜひ公開時には映画館でソーシャルディスタンスを保ちながら
鑑賞してくださることをお願いしておきたいと思います。

 

ところでこのときお話しした配給会社の方が、去年は「空母いぶき」、
「アルキメデスの大戦」などがあったものの、今年は「ミッドウェイ」くらいしか
戦争ものがない、とおっしゃっていたのですが、実は決してそんなことはありません。

オンラインではちょうど今日22日、第一次世界大戦を描いた「1917」が公開されます。

劇場公開は2月ごろだったと記憶しますが、コロナ禍の混乱の中、
やったのかやらなかったのかわからんうちに見過ごしてしまったので
わたしとしてはこの早いネット公開を大変嬉しく思っております。

予告になりますが、当ブログではまたしても第一次世界大戦について集中して
航空を中心に語るシリーズを予定しておりますので、皆様、もしよろしければ
「1917」とこちらも合わせてご覧いただけますと幸いです。


さて、映画「ミッドウェイ」2019年版の続きと参りましょう。

左が本作での主人公として語られているディック・ベスト大尉です。

このスティール写真一枚から伝わってくる雰囲気通りのキャラクターで、
パンフレットの紹介にはこのように書かれています。

「親友を真珠湾攻撃で亡くし、
仇討ちに燃えるカリスマパイロット」

まず、前回説明したように、ベストの親友で戦死したという人物は実在せず、
劇中創作された架空の存在であることから、この説明の半分は
全くのフィクションです。

後半の「カリスマパイロット」が本当だったかについては、
彼のバイオグラフィを読んでみましたが、優秀であったことはともかく、
「カリスマ」であったかについては甚だ疑問です。

しかも映画では反抗的でアナーキーな態度を取る一匹狼のようなパイロット、
というキャラクター付けがされているのですが、実際のベストが
そのような軍人であった可能性は「カリスマ」であった可能性より低いと思われます。

今でさえどうかと思いますが、ことにここは1940年代の軍隊で、
彼はウェストポイント出の航空士官であり、こんな反抗的な人間が
そもそも当時の(今もですが)海軍兵学校に入れるはずがありません。

くどいようですが説明しておくと、兵学校に入るには成績もさることながら
人品骨柄について確かな人物であるという推薦を地元の議員か、あるいは
メダル・オブ・オナー受賞者の息子から受けなくてはなりませんでした。

しかもこの頃の米海軍航空隊は、ルフトバッフェのエースハンス・マルセイユみたいに、
操縦の腕さえ良ければ反抗的で怠惰でも多めにみてもらえるような世界ではなく、
秩序に少しでも乱れがあるとそれは全員の生命を脅かす事態に直結するとして
上官への少しの反抗的な態度すら許容されるものではありませんでした。

ネットでは、映画のベストのような士官が現実にいようはずもなく、もしいても
彼はアカデミーで1年を終えることもできないだろうと断言されていました。

ただし、後述しますが、彼と上司であるマクラスキーとの間に
当初摩擦があったというのは事実です。

Richard Halsey Best.jpg

ベストが実際にどんな人物であったかはどこにも詳しいことは書かれておらず、
Wikipediaを読んだだけではその戦歴と退役後の人生しかわかりませんが、
この写真から受ける印象は映画の彼とは正反対の素直で穏やかな好青年という感じ。

わかっていることは、空母撃沈の功績により彼は殊勲飛行十字章ならびに
海軍十字章を与えられたものの、2001年に彼が92歳で死去した時、
当時のある米海軍提督が「一日に2隻の日本軍の空母を攻撃した」として
改めて栄誉メダルの授与のための運動を起こすもうまくいかなかったことです。

彼はミッドウェイ戦闘中に苛性ソーダを吸引したことから誤嚥性肺炎を起こし、
潜在性結核を併発して海軍の任務が続けられなくなり退役しました。

ミッドウェイものにはその存在がかかせないアメリカ軍人のひとりが、
ウェイド・マクラスキーでしょう。

彼はこの戦いにおいて、日本海軍の航空母艦4隻のうち3隻を沈没させた
功労者として、海軍十字章を授与されました。

つまり実働部隊の最高殊勲賞といった評価です。

まず、自分自身の率いる隊が「加賀」にダメージを与えると同時に、
映画でも強調されていたように彼の部下であるリチャード・ベストが
「赤城」をたった4機で攻撃して沈没させ、

一人が統率した1回の攻撃で敵航空母艦を2隻同時に沈没させる

というこれだけでも珍しい戦果をあげ、自身は零戦隊の追撃による負傷後、
「エンタープライズ」に帰還してから指揮を執り続け、この後に出撃させた
「エンタープライズ」及び「ヨークタウン」艦爆隊が「飛龍」を屠ったことで
3隻沈没は全て彼の采配によるもの、とカウントされたのです。

実際彼は作戦の2週間前に「エンタープライズ」の分隊長に着任したばかりで、
前任者は彼のアナポリスのルームメイトであったことがわかっています。

そして、この分隊長交代により、ベストは新分隊長マクラスキーが自分を
「bypassed」(迂回・無視の意味か)していると考え不満を持っていたそうです。

しかし、人間ができているというのか、指揮官として大物というのか、
マクラスキーは自分とうまくいっていない部下にもかかわらずベストを重用し、
高く評価して、結果としては彼に大戦果を挙げさせることに成功しました。

映画ではなぜかベストの嫁にまで食ってかかられ、オタオタする
どちらかというと人の良さそうな?上司として描かれていましたが、
たまたまベストの小隊との連携に失敗した結果が戦果に繋がるなど
その幸運は、辿っていけば、彼自身の指揮官の器の大きさが生んだもの、
と解釈できる内容となっていたと思います。

ちなみにミッドウェイ海戦を勝利に導いたのは、

ウェイド・マクラスキー

リチャード・ベスト

そして、「蒼龍」を沈めたと言われる「ヨークタウン」の
マックス・レスリー中尉の三人の男であると言われています。

映画が終わって外に出ながら、

「あれはないんじゃないか」

とunknownさんと「言い合ったシーンがあります。

それはアメリカ人パイロットが駆逐艦「巻雲」艦上で処刑されるという
ショッキングなシーンで、つまりわたしもunknownさんもこういうことがあった、
という史実をそのときまで知らなかったのですが、実はこの「処刑」、
「艦これ」などをする人たちには結構有名な話で、このせいで「秋風」とともに
「巻雲」は「虐殺艦」と呼ばれることもあるんだとか。


当ブログでは、映画を観て、わたしたちのように「創作にしても酷すぎる!」
などと製作陣に対して怒りの矛先を向ける人がいるかもしれないので、
前もって誤解のないように書いておきますが、このことは防衛省所蔵の
当時の第一航空隊詳報にも記載されている事実なんだそうです。

そこで今回わたしもとりあえず第一航空隊詳報をアジ暦で読んでみました。
しかしながらいつまで経っても当確箇所にたどり着かないので諦め、
英語情報をまず収集してみたところ、以下のようなことがわかりました。

●パイロットであったフランク・オフラハティ少尉( Frank O'Flaherty)は
彼の銃撃手であるブルーノ・ガイド(Bruno Gaido )とともに、
錘を付けられて海に投下されて死んだ。

●ブルーノ・ガイドの最後を含む彼の行動はわずかの違いを除き
映画で正確に描かれている。

映画では彼は日本軍に対し情報の協力を拒む。
実際、日本側の記録によると、彼とフランク・オフラハティは
ミッドウェイの防衛についていくつかの情報を提供したが、
空母については何も喋らなかった。

ガイドとオフラハティはミッドウェイ環礁に行ったことがなかったので、
おそらく彼らは伝わっている情報をもとに適当に供述したのであろう。

●歴史家のステファン・ムーアによると、日本軍の士官である
ヒラヤマ・シレオが彼らが処刑されたことを報告しており、
彼らの最後はその運命を受け入れたかのように落ち着いて
恐れる様子も見られなかったということを書き遺している。

「ヒラヤマ・シレオ」はおそらく「巻雲」航海長だった平山茂男中尉のことでしょう。
兵学校66期で少佐の時終戦を迎えていますから、これらの記述を行なったのは
戦後のことだったかもしれません。

なお、このことは、千早正隆海軍中佐が翻訳を行なった
ゴードン・プランゲ『ミッドウェーの奇跡』にも書かれているそうなので、
とりあえず澤地久枝の『蒼海(うみ)よ眠れ』とともに注文しました。

届きましたらここでお伝えできることもあろうかと思います。

●オフラハティの処刑は彼らの捕獲から実行までかなり迅速に行われているが、
オフラハティ、ガイド共にどちらも数日間艦上で拘束された後に処刑された。

おそらくその数日間、情報を聞き出すための尋問に費やされたのでしょう。
このことからわかるのは、「巻雲」が彼らを処刑したのは、
ミッドウェイ開戦の数日後であったという事実です。


この間何があったか、というか、「巻雲」が何をしたかについて書いておきます。

ミッドウェイ海戦は「巻雲」に取って初陣でした。
戦闘後、彼女は激しく炎上する「蒼龍」の側で乗員救助を行っています。

映画ではミッドウェイ海戦には珍しく?潜水艦「ノーチラス」の攻撃について
言及されていますが、このとき「ノーチラス」に対して爆雷投下したのが
ほかでもないこの「巻雲」でした。

その後大破した「飛龍」のもとに「風雲」とともに駆けつけて
消火活動を行うも、「飛龍」は回航が不可能となり、総員退艦。
「巻雲」は「飛龍」に接舷して生存者と御真影を収容後、

「飛龍を巻雲の雷撃で処分せよ」

という山口多聞司令自らの命令が伝えられます。

「巻雲」は「飛龍」に対し手旗信号で雷撃を伝え、そののち
2発の魚雷を発射し、2発目が命中して「飛龍」は沈みました。

「巻雲」「風雲」は共に最後を見届けることなくその場を退却しています。

 

続いて、日本語での検索による情報を書き留めていきます。

●「エンタープライズ」の雷撃機搭乗員は日本駆逐艦『巻雲』に
救助されたものの、ミッドウェー海戦後海水を入れたドラム缶に
束縛され海に突き落とす形で処刑された。

●「ヨークタウン」のパイロットと無線手は両手両足に石油缶を縛り付けて
海に投棄された。

●敗戦と分かった時、捕虜たちを甲板に引っ張り出して
頭をピストルで打ち抜いたり、空き缶に水を入れて重しにして
手足にくくり付け、海に放り込んだりして殺した。

最後はかなり感情移入しすぎていますが、微妙に間違っていますね。
「敗戦とわかったとき」というのは、前述の「巻雲」の行動から考えて
時系列が全く一致しません。


また、「巻雲」は救助の段階で敵兵をオフラーティら以外にももう一人収容しており、
英語サイトの情報によるとこれはウェズリー・オスムス少尉というパイロットで、
彼もまた錘をつけて海に落とされて死亡したそうです。

 

そこでもう一度拿捕した二人の捕虜のことを考えてみましょう。

誤解を恐れずにいうならば、初陣でこのような凄絶な体験をした「巻雲」乗員が、
全てが終わったあと、目の前の敵捕虜に対し冷静さなど保てなかったというのは、
当然とまでは言いませんが、無理のないことだったような気がします。

映画では真珠湾攻撃で黒焦げになった親友の死体を見て
敵への復讐心に燃えるベスト大尉が描かれていましたが、
戦争というものが憎しみの連鎖というメカニズム製造装置である以上、
味方をやられた復讐心に駆られて相手を人道的に扱わなかったからと言って、
そのことをもってどちらかだけを一方的に責める資格など誰にだってありはしません。

「雷」の敵兵救助は、それが稀なことであったから神話となったので、
日本だろうがアメリカだろうが、同じ立場になったら同じことをするでしょう。
然もなくば自分が死ぬ、それが戦争というものです。

「巻雲」で起こったことはあの戦争で敵味方双方にいくらでもあった
「戦場の日常の一つ」にすぎないのです。


しかしながらこのシーンは、おそらくこれを初めて知ったほとんどの日本人に
ショックを与えるでしょう。

もちろん、あまり知られていないこの事実を、わざわざエピソードとして選んだことと、
この映画が中国資本であるということの間に何の関係もないはずがない、という
苦々しい感情が湧いてくることは否定できないわけですが(笑)
今となってはむしろこれを奇貨として、日米彼我の如何にかかわらず、
観る人全てにこれこそが直視すべき戦争の現実であると捉える
ちょっとした機会になればいい、くらいに考えるようにしています。

(日本側だけにそれを負わせて描くという不公平さには若干もやっとしますが)

今のハリウッドには特に中国資本の影響を受けてあからさまな「日本下げ」、
「日米離反」の意図を隠さない作品がいくらでもあるのですから、
逆にいうと中国資本が絡んでいながらこの映画が「この程度で済んだ」のは
エメリッヒ始め当映画製作フタッフが、日米双方の戦った人々を
敬意を払って描くという志を高くもってくれていたからだろう、
とわたしは(何の根拠もありませんが)そう思い、感謝しています。


というわけで、色々と物を考えさせてくれるというだけでもこの大作、お勧めです。

最後に英語サイトで拾ってきたCGへのツッコミを一つ挙げて終わります。

いくつかのシーンで空母のデッキに駐機されている全ての航空機が
プロペラを一斉にまわしているが、これはおそらく低予算のCGのせいでしょう。

プロペラを回すのはせいぜい先頭から1、2機だけです。
残りが全部回しているのはガソリンの無駄でしかなく、しかも
そんなことをしたらデッキのクルーが危険です!

 

それでは9月11日、是非劇場で「ミッドウェイ」ご覧ください。

 

終わり。

 

”対海軍 第15番目の法則 ”ケリー・ジョンソンとスカンク・ワークス〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館に展示されている初のプロトタイプジェット機、
XP-80「ルルベル」についてお話ししたわけですが、今日は、
そのプロジェクトを引き受けたケリー・ジョンソンと、彼の率いた
「スカンク・ワークス」についての話から始めたいと思います。

Kelly Johnson (engineer) - Wikipedia

"設計エンジニア、メカニック、そして生産者とは顔の見える関係でいたい”

クレランス・’ケリー’・レオナルド・ジョンソン
 Clarence Leonard 'Kelly' Jhonson 1910-1990

B.C(ビフォーコロナ)の現代であれば当たり前のちょっといい発言ですが、
とくにケリー・ジョンソンがこのように発言したということは、必ずしも
1940年代の航空機設計の現場ではそうでもなかったということでしょうか。

 

ところで、アメリカには 全米航空協会 (NAA)から

「アメリカの航空または宇宙飛行において、空気の性能、効率、
安全性の向上に関して最大​​の成果を上げた人、または
昨年度の実使用でその価値が徹底的に実証された航空機など」

に対して贈られるコリアー・トロフィーなる賞があります。

第一回受賞者の水上艇を開発したグレン・カーティス(1922)から 
2018年度の自動地上衝突回避システム (Auto-GCAS)を開発した
空軍研究所 、ロッキード・マーティン、 F-35合同プログラムオフィス、
NASAを含む開発チームまで、それこそ毎年、戦争を行っていた年をのぞき
毎年贈呈されてきた名誉賞ですが、史上一人だけ、コリアートロフィーを
二回受賞した人物、それがケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスです。

そのほかにも数え切れないほどの航空開発に関わる賞を受賞したジョンソンは、
まぎれもなく20世記の最も偉大な航空機設計者の一人でしょう。

彼の経歴は1930年代から始まり冷戦時代に至るまでの期間、
ロッキードエアクラフトに始まり宇宙開発における先端技術、
はてはステルス技術の導入にまで及びました。

彼の革新的で近未来的な設計思想が生み出したののは、

P-38ライトニング
P-80シューティングスター戦闘機、
F-104スターファイター迎撃機
U-2
SR-71高高度偵察機「ブラックバード」
F-117Aステルス戦闘爆撃機「ナイトホーク 」

など、その時代の先端を切り開く機体の数々でした。

 

ジョンソンの成功に鍵というものがあったとしたら、それはたとえば
「ルルベル」を創造する際に、ロッキード内に独立した部門を立ち上げる、
といった、独特のマネージメント法だったかもしれません。

その部門があの「スカンク・ワークス」です。

腕組みするスカンク

公的には「アドバンスド・デベロップメント・プロジェクト」
という名称となっていた、このスーパーシークレット、かつ
高度な機密に守られたチームは、軍用機のデザインとその製作を、
製図するところから実際に飛ばすところまで全部やってしまうのでした。

ジョンソンの合理化された組織は、一口で言うとシンプルであり、
軍事産業への協力や責任ある管理が強調されたものといえました。
そしてそれは当時急速に拡大し、さらにコントロールが難しい
航空宇宙産業で成功するための一つのモデルとなったのです。

ジョンソンが航空工学を学んだのはミシガン大学です。
卒業後23歳で彼はロッキードに入社しました。

ジョンソンという名前からは想像しにくいですが、 両親はスウェーデン人です。
(ヨハンソンとかいう現地読みをアメリカ風に発音していたのかも)
13歳のとき最初の航空機設計で賞を獲得し早熟ぶりを見せた彼は
ミシガン大学で航空工学の 学士号と修士号を取得しました。

彼の愛称「ケリー」についてはこんなストーリーがあります。
ミシガン州の小学校に通っていたとき、彼の「クラレンス」という名前が
からかいの種になり、一部の少年が彼を「クララ」と呼び始めました。

たとえば彼が席を立つと「クララが立った!」という風に。

というのは嘘ですが、ある朝、列に並んで教室に入るのを待つ間、
一人の少年が彼をいつものようにクララと呼んだため、
怒ったジョンソンは彼を躓かせ、骨折させました。

恐れ慄いた少年たちは彼を「クララ」をと呼ぶのをぴたりとやめ、
なぜかその代わりに「ケリー」と呼び始めました。

クレランス・レオナルドのどこにも「ケリー」の要素はありませんが、
当時たまたま

「ケリー・ウィズ・ザ・グリーン・ネクタイ」(緑のタイをしたケリー)

という曲が流行っており、彼が緑のタイをしていたとかいう理由でしょう。
以降、彼は常に「ケリー」ジョンソンとして知られるようになりました。

 

「スカンク・ワークス」の起源についてもくわしく書いておきましょう。

ロッキードの従業員が彼らの組織に与えたニックネームは、
1934年から1977年にかけて放送されたアル・カップの人気コミックストリップ、
「リル・アブナー」(Little Abner)の話に登場する「ビッグ・バーンスメル」が
キッカプー・ジュースなる怪しい飲み物を醸造していたスコンクワークス、
「Skonk Works」(スカンク=Skunkではない)からきています。

 

最初に彼らのオペレーションが始まったのは仮設の建物で、
しかも近所のプラスティック製造工場から漂ってくる匂いが酷かったため、
それに文句たらたらだったエンジニアの一人、アーブ・クルバーさんが、
ある日ロッキードからかかってきた電話をとって、

"SKONK WORKS!”

と応答を始めました。

漫画の中の固有名詞ですが、当時テレビで放映されていて人気だったため、
それを聞けばなんのことか誰でも知っていて、さらに
「臭い=スカンク」とかけていることがすぐにわかったのです。

もちろん真面目なケリー・ジョンソンはふざけるなと叱責したそうですが、
こういう集団にありがちな悪ふざけのノリで、ジョンソンがいなくなると
スタッフは全員が

「スコンクワークス!」

と返事をするようになり、ロッキードの社員もそのうち
彼らをスコンクワークス扱いするようになってきました。

しかしさすがは大企業ロッキード、名前が定着するや、
「著作権で保護された用語の使用に関する潜在的な法的問題を回避するために」
それを「Skunk Works」に変更するように、と命じました。

社命かよ。

そこで彼らのグループ名は本来の?意味である

「スカンク・ワークス SKUNK WORKS」

が正式名称になったというわけです。

P-38 ライトニング Lightning

それでは、ケリー・ジョンソンがその生涯に手掛けた
プロジェクトの成果を紹介していきましょう。

前回、Pー80シューティングスターの試験飛行で亡くなった
テストパイロットのリチャード・ボングがこれに乗って
太平洋戦線で日本機を撃墜し、エースとなりました。

スミソニアン博物館には、別館のスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターに
このP-38が展示してあり、実際に見ることができます。

当時の日本軍にはP-38の3を「ろ」と呼んで「ぺろハチ」とあだ名され、
その駆動性は当時のベテラン揃いの搭乗員にも
「双胴の悪魔」と恐れられたと言います。

ライトニングは若きジョンソンと、彼のロッキードでの設計の上司だった
ハル・ヒッバード(Hall Hbbard)によって考案されたもので、
第二次世界大戦に登場した戦闘機の中でも最も多用途で、
かつ革命的な航空機だったといえるでしょう。

海軍甲事件、聯合艦隊司令長官山本五十六元帥の乗った
一式陸攻を撃墜したのは他ならぬこのP-38でした。

ロッキード U-2

ロッキードU-2は、作成後35年以上も秘密に包まれていましたが、
もともとは戦略的偵察機として設計されており、
冷戦の緊迫した時代に重要な役割を果たしていました。

ケリー・ジョンソンがスカンク・ワークスを率いて作ったU-2は、
これまで生産された中で最も成功した情報収集機の1つでした。

今は貸し出されていてないのですが、スミソニアンのU-2は、
1956年7月4日にソ連を巡る最初の作戦任務に投入された機体です。

冷戦中の1953年、米空軍はソ連と衛星国の軍事活動を監視するために、
1人乗り、長距離、高高度偵察機の調達要求を出しました。

この時までに、フィルムとカメラの技術の進歩によって
迎撃されにくい極端な高度から高解像度写真を撮ることができるようになり、
それに合わせた偵察機を導入することになったのです。

ロッキードは調達を受注し、スカンクワークスは非常に厳しいスケジュールの下、
わずか8か月後に新しいU-2を生産しました。

1955年8月6日初飛行が行われ、1年後にはCIAパイロットの訓練も終了、
ソビエト連邦上空への最初の飛行ミッションを完了しました。

高度な電子機器とカメラ機器が機首と大きな胴体ベイに収納され、
大型の燃料タンクにより、航空機は、2キロ近い高度で
約4,600mを6時間飛行することができました。

運用中のU-2Aは、定期的にソビエト連邦の広大な上空を飛び、
多くの重要なデータを収集し、たとえばいわゆる対ソにおける
「ミサイルギャップ」は神話に過ぎないことを証明しました。

また、1962年8月、U-2はソビエトの中距離弾道ミサイルの存在を確認し、
それがキューバのミサイル危機につながりました。

U-2はまた、1964年7月以降、ベトナムに関する情報収集のため、
1975年のサイゴン陥落まで継続的に活動していました。

U-2の驚くべき高高度能力は、科学的研究のための価値あるツールにもなっています。

NASAはこれらの航空機2基を高高度ミッションブランチで運航しており、
成層圏のサンプリング、特に1980年の山岳噴火後の火山灰の収集を行い、
セントヘレンズ、そして自然災害と水と土地利用の評価に役立てています。

File:Lockheed F-104 Starfighter in Smithsonian.jpg

F-104スターファイター Starfighter

長くてまるで鉛筆のような胴体、Tシェイプの尾翼、
そして小さくて薄い翼。

F-104スターファイターは二回音速を超えた飛行機です。
注意していただきたいのは機体にNASAのロゴがはいっていることで、
これが宇宙飛行士の訓練用に開発された超音速宇宙訓練機だからです。

テストパイロットはあのチャック・イェーガー。
といえば思い出しますね。映画「ライト・スタッフ」を。

いぜんこのブログで「ライト・スタッフ」について書いたときには
特に言及しなかったのですが、宇宙飛行士「マーキュリーセブン」の
「正しい資質(Right Stuff )について描いたあの映画で、傍論のように
登場するスターファイターのテスト飛行は、実はその目的が
宇宙飛行士の耐G訓練だったという深い意味があったというわけです。

映画「ライトスタッフ」世界最高のパイロット

この項で、戦闘機が達する高高度について実用的な意味がない、
などと簡単に評してしまってごめんなさい。

F-104はそれが目的の飛行機だったんですね。

映画でも描かれていた通り、チャック・イェーガーはテスト飛行で
スターファイターのテスト機を墜落させていますが、
不死身の彼はしれっと生還し、残りのテストを成功させています。
(映画によるとどちらも安い給料で)

設計したケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスは、このプロジェクトで
1958年のコリアー・トロフィーを受賞されました。

ちなみに、同映画で描かれた宇宙飛行士たち「マーキュリー・セブン」にも
4年後の1962年、同賞が授与されています。

U-2での高高度偵察が非常にうまくいったアメリカ空軍としては、
さらなる高性能の高高度偵察機を取得すべく、ケリーと彼のチームに
伝説の迎撃&爆撃&戦略偵察機、ブラックバードSR-71を発注しました。

わたしはスミソニアンにある実機、アメリカのキャッスル博物館の戸外展示と
実物を二機見ているのですが、さすがにスミソニアンは、
その異様なシェイプの機体を高い場所から眺められるので圧巻でした。

ケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスはブラックバードの制作で
1963年(マーキュリーセブンの翌年)にコリアートロフィーを受賞されています。

尾翼にはスカンクくんが・・・。

ロッキード F-117A ナイトホーク(Niguhihawk) 

ケリー・ジョンソンは1975年に設計の一線を退きましたが、
彼の設計思想の継承者であるスカンク・ワークスは
世界初となるステルス戦闘機、ナイトホークを生みました。

 

さて、ケリー・ジョンソンのマネジメントがロールモデルになった、
という話を前半にしましたが、彼の提唱したマネジメント14の法則、
というのがありますので、これをお読みの経営者の方々向けに全部あげておきます。

1、スカンクワークスのマネージャーは、あらゆる面で
プログラムの実質的に完全な制御を委任されなければならない。
彼は部門の最高責任者以上に報告する必要があります。

2、強力で小規模なプロジェクトチームは軍と産業界の両方から提供されるのが望ましい。

3、プロジェクトに関わる人数は厳しく制限し、 少数の精鋭。
(いわゆる通常のシステムと比較して10%から25%)で。

4、のちに変更可能な柔軟性があって非常にシンプルな図面を作れ。

5、重要な作業は徹底的に記録。

6、プログラムの完了までに予測される費用を最初から相手に伝えよ。
 突然のオーバーランで顧客を驚かせないように。

7、下請け業者は正式な入札によって決められること。
 入札手続きは、軍事手続きよりもえてして非常に優れているものです。

8、空軍海軍承認による検査システムには問題がある。
より基本的な検査の責任を下請け業者とベンダーに押し付けることになるので
あまり多くの検査を何度も繰り返さない。

9、請負業者には、最終製品をテストする権限も委任されるのが望ましい。
 初期段階でテストができないと設計する能力が急速に失われます。

10、契約の前に十分に合意してハードウェアを選定する。
 当社では意図的に遵守されていない重要な軍事仕様項目と
その理由を明確に記載することを推奨しています。

11、請負業者が政府のプロジェクトのために銀行に出向く必要がないように、
プログラムへの資金提供は時宜を得たものでなければなりません。

12、軍事プロジェクト組織と請負業者の間には、日常的に非常に緊密な
 協力と連絡を取り合い、相互の信頼関係がなければなりません。
 これにより、誤解と対応が最小限に抑えられます。

13、部外者によるプロジェクトとその担当者へのアクセスは、
 適切なセキュリティ対策によって厳密に制御する必要があります。

14、エンジニアリングおよびその他のほとんどの作業に携わる人数は
 わずかであるため、監視対象の従業員数に基づいてではなく、
 給与によって優れたパフォーマンスに報いる方法を提供する必要があります。

 

なお、この続きには口頭でしか伝えられたことのない第15の規則がありました。

"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."

「忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならないことがあります。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるでしょう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」

 

 

続く。

マルチな万能機、シューティングスター〜スミソニアン航空博物館

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世界のジェットエンジン開発史について紹介した後、
ジェットエンジン機のプロトタイプ、XP-80「ルルベル」と、
それを開発した天才ケリー・ジョンソン&スカンクワークスについて
一連のブログ記事でご紹介してきたわけですが、今日は
XP-80を進化させたジェット戦闘機、

T-33 シューティングスター(Shooting Star)

のマルチロールぶりについてお話ししようと思います。

スミソニアンのジェット機リスペクトコーナーの壁画には
歴史的には早い時期を表す左の方で飛んでいました。

 

シューティングスターシリーズは多様性に富み、信頼性があり、
戦時、平時問わずいかなるミッションにも適応しうる力があります。

まず操縦が非常に安易であることで、そのことはかつて
プロペラ機からジェット機に転換する過渡期のパイロットが
何千人もこの機体を使って訓練を行ったことが証明しています。

第二次世界大戦中には操縦する機会が全く用意されていなかったにもかかわらず、
P-80はアメリカ空軍にとって1940年代後半の主要戦闘機になりました。

F-80のノーズには6基の.50口径銃を取り付けることができました。

朝鮮戦争の時代にはF-80として、戦闘任務を帯びて長距離を飛行、
爆撃機援護、近接空中支援、偵察の任務を全てこなしています。

戦争が終わると、空軍はF-80を暫時廃止して行きましたが、
その派生型はアメリカ軍のみならず、他国の空軍に膾炙し、
その時代はもう20年間は続きました。

XP-80A グレイゴースト Gray ghost

以前お話しした「ルルベル」の後継者で国産エンジンを積んだ
「グレイゴースト」は、そのペイントの色からこう名付けられました。

イギリスのゴブリンエンジンを積んでいた「ルルベル」の後継機は
二機作られましたが、どちらも積んでいたのはこのI-40エンジンです。

ジェネラル・エレクトリックの開発したターボジェットで、
ゴブリンエンジンより大型で重量がありました。

以前お話しした「シルバーゴースト」はこの「グレイ」の改名版で、
テストパイロットマイロ・バーチャムが、ルルベルと比べると

「まるで犬になってしまったようだ」

とその駆動性が鈍重であると評価していた機体です。
グレイゴーストことシルバーゴーストは、同じエンジンを積んだ
ルルベルの二機の後継機のうち一機がそのバーチャムを乗せて墜落し、
彼を殉職せしめたあと、別のパイロットを乗せて飛行を行いましたが、
タービンブレードの故障でこれも墜落しています。

ちなみにこのときのパイロットは背中を骨折しましたが復帰しました。

ターボジェットエンジンを胴体の中央部に収め、
機首両側側面のインテークから空気を取り入れて、
ダクトを通じ、機体後部に排気を導いていくスタイル、
そして翼端に備えられた増槽という設計は、
その後のジェット戦闘機の基本形となりました。

エンジンが用意されていて、それを載せる機体を
側だけ注文されたとはいえ、設計者のケリー・ジョンソンは
図面の書き起こしから1週間でこのデザインを完成させています。

 

この写真でシューティングスターのコクピットから笑顔を見せるのは
ジョン・S・バベル大尉。(Capt. John S. Babel)

1946年1月、バベル大尉は4時間23分54秒でこれまでの航空機による
大陸横断速度を大幅に更新する記録を打ち立てました。


そして、戦闘機としてもF-80は

「ジェット戦闘機同士の空戦で史上初めて勝利した」

というタイトルを持っています。
様々なコンビネーションの爆弾、ロケット、そしてナパームを
翼のラックに搭載することもでき、F-80は対戦車、対地、
あらゆる攻撃に対して効果的であることを証明したF-80は
朝鮮戦争に重点的に投入されることになりました。

シューティングスターに乗っていた頃の
第94戦闘機部隊「ハット・イン・ザ・リング」。

94th Fighter Squadron.pngちなみに部隊章。そのまんまです。

94戦闘機隊は第二次世界大戦が終わってすぐ
史上初めて導入されたジェット戦闘機を導入しました。

ロッキード社はF-80Cを練習機に仕立てました。

練習機としては最高の性能を持つT-33、別名「Tバード」です。
T33は、シューティングスターの他のどのバリアントよりも大量に生産されました。

1947年5月、ロッキードは2人乗り練習機の設計を開始し、
3か月後、空軍はP-80Cの機体をベースにすることを決定します。

二人乗りというのは、パイロット以外にインストラクターが座るためで、
スペースを提供するために、胴体の燃料タンクのサイズが縮小され、
翼の前方と後方にプラグを挿入することで、胴体自体が長くなりました。

胴体タンク内の燃料削減を補うために、翼端タンクが追加され、
最終的に改造前と同じ量が搭載できるようになりました。

また、重量を節約するために、内蔵の武装は2門の.50口径機関銃に削減されました。

TP-80は1948年3月22日、トニー・ルヴィエによって初飛行を成功します。
その取り扱い特性はP-80Cと全く変わりのないものになりました。

Tony-LeVier jet af.jpgルヴィエ Tony Le Vier

当初、20機がアメリカ空軍から注文され、すぐに増産されます。
1948年6月11日に名称がTP-80CからTF-80Cに変更され、
1949年5月5日に最終的にT-33Aに変更されました。

TF-80Cには、最終的にアリソン-A-35エンジンを搭載しました。
ロッキード製のT33A-1 / 5-LOは、1958年までに合計5,691機製造され、
ラテンアメリカおよび東南アジア向けのAT-33A-LO、
ドローンディレクター向けなど、他のバージョンも製造されました。

そのほかはこのようなバージョンがあります。

特殊試験機 NT-33A ドローン QT-33A 

写真偵察機 RT33A  海軍用 O-2 / TV-2

海軍ドローンディレクター TC-2D、海軍ドローンTV-2KD

T2V-1 シースターSeastar

海軍に導入された変化形バージョンが今から空母の甲板に着艦するところ。


TV-1シースター(手前)とTV-2。

 

 

T-33Aは、1948年以来長い間USAFの唯一のジェットトレーナーでした。
(1957年にセスナT-37Aと1961年のノースロップT-38Aが出現するまで)

使い勝手の良い機体は計器飛行訓練機、実用航空機、および試験機として機能し、
世界30か国以上ででベストセラー機として使用されました。

特にカナダではロールスロイスのニーンエンジンを搭載した
ライセンス生産版「シルバースター」が、カナダ空軍にされ、
フランスでも同じくニーンエンジンに換装しています。

1950年代初頭に北大西洋条約機構、NATOが創立しました。
ソ連を中心とする共産圏(東側諸国)に対抗するための
西側陣営の多国間軍事同盟であるNATO軍の創設を支援するために、
カナダは自軍の搭乗員だけでなく、数千の連合軍要員にも
訓練を提供することを約束しました。

ジェット機訓練のプログラムのために、カナダは
0機のT-33A-l-LO、さらに10機をアメリカ空軍から貸与しました。

これらは後に米国空軍に返却されましたが、T-33のカナダ製バージョンは
ギリシャとトルコに譲渡されました。

フランス、ギリシャ、ポルトガル、トルコ、ボリビアは
カナダ製のT-33を採用しています。

日本では、航空自衛隊が創立されると同時にF-86Fと共にアメリカから
68機のT-33の供与を受け、翌1955年(昭和30年)からは
ライセンス生産も始まり、278機が生産されました。

操作しやすい練習機ですが、航空自衛隊ではこの278機のうち
59機という少なくない数のT-33が事故で失われており、
そのなかには、かつてこのブログでも取り上げた、
T-33A入間川墜落事故が含まれます。

Tー33はアメリカでは1950年代にはすでに後継機と置き換わっており、
日本でもすでにその頃老朽化していたのですが、そんな中で
行われた年次飛行中故障が生じ、パイロットが墜落にあたって
人のいない河原に機体を誘導したため、脱出の機会を失い殉職したという事故でした。

 

 

こうして少なくとも1,058機のロッキード製航空機が友好国、
あるいは中立国に納入されたため、外国の空軍が所持するT-33は
カナダと日本のバージョンだけではありませんでした。

たとえば相互防衛援助プログラムなどにはアメリカ空軍から
直接海外に転送されています。
いくつかの国で起こった武装反乱の際にはジェット戦闘機としても使用されました。

T-33の最も興味深い用途の1つは、「超臨界」(スーパークリティカル)
翼のおおよその設計を検討するために、アエロ・スパティアーレが
カナダバージョンの翼を建造したときです。
テストウィングの飛行試験は1977年4月13日に始まりました。

スーパークリティカル翼とは、高速機用の低抵抗翼型です。

飛行機の速度が音速のある時点を超えると翼面に衝撃波が発生するので
抵抗を少なくするための形が研究されていたのです。

Supercritical wing

飛んでいる姿を見ることができます。

 

1980年代の初めに、T-33はUSAFを含むいくつかの空軍から引退していました。
一部は直接米国の民間人に転送されました。
導入からほぼ40年たっても、世界では多くのT-33がまだ使用されていました。
天然金属仕上げのものもあり、その他は最新のネイビーグレーペイント仕様で
「エアフォースグレー」に塗装されています。

冒頭写真はわたしが実際にこの目で見た、スミソニアン別館、
スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー博物館のT-33A-5-LOで、
1954年USAFから譲渡されたものです。

航空機は塗装されたことはなく、高度に磨かれた天然金属仕上げです。

F-94Cスターファイア starfire

スターファイアーはTTF-80Cの直接の子孫です。

レーダーの操作と操縦、二人の要員を乗せる複座が必要だったため、
TP-80Cをベースにして開発された夜間戦闘機です。

大出力レーダー(AN/APG-33)と火器管制装置(ヒューズ E-1)、
射撃コンピュータ(スペリー A-1C)、地上データリンク、
武器は無誘導空対空ロケットを装備していました。

朝鮮戦争勃発とほぼ同時のに配備が開始され、夜間撃墜も記録されています。

朝鮮戦争に投入されたときには写真偵察機としても活躍しました。
ノーズのセクションにはカメラを搭載することができました。

 

続く。

 

昭和2年海軍兵学校発行 旅順閉塞作戦記念アルバム

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オークションというものをあまり利用したことがないわたしですが、
何かを検索していてふと、お宝物(と当方には思える)の古書が
ほとんど競り合う相手もない状態で出品されているのをみつけ、
入札して手に入れることがたまにあります。

この「旅順港閉塞作戦記念帳」なる写真集もその一つで、
出品者はよくあることですが古書店でした。

わざわざオークション買いする気になった理由は、この写真帳、
発行元が海軍兵学校となっており、しかも発行月日は昭和2年という年代物だったから。

もしかしたら現在巷に出回っている以外の写真も掲載されているのではないか?
と考え、古書の割にお値段が手頃なこともあって入札することにしました。

何日かして送られてきた本は、ビニールで厳重に梱包されていましたが、
何気なく本を引き出すと、劣化した紙がボロボロと崩れてきて、
ページが一部欠損してしまっている状態でした。

外側の分厚い表紙は触るとそこから乾いた粘土のように欠けていき、
古書の割に安価だった理由に納得がいったというわけです。

とりあえず時間に余裕がある時しか触ることができそうにないので、
機会を窺っていましたが、コロナ自粛も解け、家人が仕事に出るようになり、
(自粛中って家事が無茶苦茶増えませんでした?)アメリカから帰国した
息子の生活も落ち着いたある日の午後、意を決してこの本を広げることにしました。

 

大きなゴミ袋を敷き、埃除けのマスクと手袋を着用、
本の「かけら」や崩れた部分を吸い込むために先にブラシを取り付けたハンディ掃除機、
さらにページを抑えるためのアクリル板を用意し、いざ。

時々真っ黒ななにか(埃がカビ化してそれが固まったらしきもの)
を掃除機で吸いこみ、汚れを取り除いて字を読める状態にし、スキャンしていきました。

幸い劣化で欠損した部分はそれほど多くなく、写真は全部無事でした。

 

というわけで苦労しつつ取り込んだ画像をここで紹介します。

いきなり一番最後のページですが、編集発行が海軍兵学校であり、
内部で配るために作られたのか、非売品となっています。

撮影者となっている稲田写真館については、現在中通りにある
稲田写場という写真館ではないかと思うものの、HPを拝見すると
開業が昭和6年となっていて、それではこの昭和2年、創業より4年前なのに
すでに存在している稲田写真館は別物なのか?と言う疑問も湧きます。

 

ちなみにこの稲田写場HPでは、かつての海上自衛隊や、
呉大空襲で燃え盛る呉の町の写真を観ることができます。

海上自衛隊

リンク先を是非ご覧ください。
昔は教育隊敷地の中に人が入り放題だった模様で、体操している隊員の横で
子供が普通に遊んでいたりしています。
初期のガトー級潜水艦が係留されている光景も残されています。

それから、教育隊の屋根に「(グラウンドに)着陸するな」と書いてあります(笑)

 

「不許複製」はもちろんコピー禁止の意味ですが、製作から70年で
保護期間は余裕ですぎている上、海軍兵学校は存在しないので無問題ってことで。

昭和2年当時兵学校長だった鳥巣玉樹中将が序文を寄せています。
現代語に翻訳して載せておきます。

生徒が帝国海軍の光輝ある歴史に親しみ、さらに
その伝統精神について深く知るため、本校においては従来
重要な戦闘の記念日には教育参考館の特別陳列を行い、
歴戦者の講話を聴取することを恒例としてきました。

本年5月3日もまた明治37−8年戦役における
第三次旅順閉塞戦が行われた日が巡ってきましたので、
教育参考館の陳列を行い、尚広く閉塞戦に参加された方々に
記念品の出品をお願いしたところ、皆様方より
多大の好意を寄せられ、数十点の陳列品が集まりました。
どれも当時の壮烈な戦いを語る貴重な記念品でございます。

即この機会を利用してこれらを撮影し、東郷元帥閣下に
題字をお願いして記念帳を作成しこれを配布することにいたしました。

海軍兵学校長 鳥巣玉樹

 

この年、第三次旅順作戦23周年記念に際し、教育参考館に展示するため、
思い出の品の寄付をそのころまだ健在だった関係者にお願いしたところ、
思ったよりたくさん集まったので、この際写真を撮って記念アルバムを作り、
後世に残すことにしました、ということのようです。

 

目次です。

なにしろ2020年の今日から数えて93年前の本で、おそらくは
蔵書として扱われることなく、蔵の一隅で年を経たと思われ、
湿気が紙を侵食してこのような状態になってしまっております。

しかし、全体を見れば、この部分の被害が一番大きく、
何が書いてあるかわからなくなっている部分は幸運にもごくわずかでした。

「急遽お願いして書いてもらった」という東郷元帥の題字です。

断じて行えば 鬼神も之を避く

これはわかりますが、後半がどうも読めません<(_ _)>

 

ところで、冷徹に作戦として評価すれば、閉塞作戦というのは結果的にあまり
効果がなかった、というのが後世の評価になっています。

戦後23年になっても、この頃の日本、ことに犠牲者を出した海軍では
このことは言ってはいけないことになっていたようですが、
東郷元帥自身がこの作戦をどう思っていたのか、ちょっと気になります。

閉塞作戦が悉く失敗に終わった事から、軍港の戦艦を無力化するには
陸上から攻撃するしかないという認識となり、その後日本軍は
旅順要塞を攻略して旅順のロシア太平洋艦隊を殲滅することができた、
つまり結果よければ全てよしで語られていたのか・・・・・。

 

ちなみにこの前半の「断じて行えば」は第二次旅順閉塞作戦の前に、
発布された聯合艦隊命令の一節として、特に元帥にお願いして
揮毫していただいた、と説明がありました。


つぎのページは第一、第二、第三次にわたる「戦要表」、つまり
参加人数と指揮官、機関長名、参加船のスペックなどの一覧表、
そして実際に閉塞のために沈めた船の位置を記した地図です。

旅順港外泊地に沈没せる閉塞船の位置

露国海軍軍令部編纂露日戦史より採れるものにして、
露国沈没汽船は次後の閉塞妨害の目的を以て沈設したるものなり。

日本側の攻撃の後、ロシア側が日本の閉塞作戦を行わせないように
自分たちで防御のために沈めた船の位置も記されています。

掲載されている写真が不明瞭で字が読めないのですが、
湾口左側には第一次作戦で沈めた「報国丸」、
第二次作戦の「弥彦丸」「福井丸」「千代丸」、
第三次作戦の「愛国丸」の位置が一応その気になれば確認できます。

第一次作戦は2月24日、第三次作戦は5月3日なので、
その間ロシア側が閉塞作戦を防ぐために閉塞を行っっていたんですね。

閉塞には閉塞を、ってか?

余計に自分たちが外に出にくくならないかとか考えなかったのかな。

さて、次のページにドーンと登場するのが有馬良橘海軍中佐の御真影です。

「第一次閉塞隊総指揮官兼天津丸指揮官」

「第二次閉塞隊総指揮官兼千代丸指揮官」

とキャプションがあります。
この有馬良橘については、あの「坂の上の雲」で、司馬遼太郎が散々
無能者扱いし、ついでに歴史をねじ曲げてしまったことについて、
防衛省の資料をもとにその悪行(だよね)を糾弾させていただきました。

旅順閉塞作戦〜その後の有馬参謀


なんなら再読していただければわかりますが、このときに明らかにしたのは、

閉塞作戦を立案したのは有馬良橘か伊集院五郎のどちらかである可能性が高い、
と戦後15年になって財部彪ら海軍大将が語っている

秋山真之は在米中閉塞作戦について研究したが、この作戦に
かかわったり意見を述べたという証拠は全くなく、
全てそれは司馬遼太郎の創作である

ということです。

なのに、今あらためて旅順港閉塞作戦のwikiを見たら、

秋山は(閉塞作戦による)封鎖はリスクが大きいと考えていたが、
二等戦艦「鎮遠」を用いて湾口を閉鎖する作戦を計画し、
有馬良橘中佐は機密で旅順の実地調査を行って封鎖作戦を研究し、
1903年(明治36年)にバラストを満載した古い艦船を湾口に沈め、
幅273mの旅順港の入り口を閉塞する作戦を軍令部に対して提出していた。

ともっともらしいことがかいてあるではないですか。

これ、いっときますけど、財部らは戦後15年になっても、
閉塞作戦の立案者を知らず、有馬の出したという計画書にも
第一案には閉塞作戦が含まれていなかったとか言ってますからね。


加えて「坂の上の雲」をそのまま鵜呑みにすると、閉塞作戦が失敗したので、
有馬良橘が左遷されたような印象操作にまんまと騙されがちですが、
わたしが糾弾したように、そんな事実は一切ありません。

なにより、この記念帳のように、戦後何年経ってもこのように
閉塞作戦参加の勇士は称えられ、後進の模範となっていたわけです。

日露戦争を勝利に導いた閉塞作戦がそもそも「失敗」などであろうはずはないのです。

続いて閉塞作戦の指揮官たちの写真です。

右;

第一次閉塞報告丸指揮官
第二次閉塞福井丸指揮官

海軍中佐 廣瀬武夫

左;

第一次閉塞仁川丸指揮官
第二次閉塞弥彦丸指揮官

海軍大尉 齋藤七五郎

あまりにも有名な廣瀬中佐と並んでいる齋藤大尉は、
兵学校では恩賜の短剣組(3番)、海大では首席という秀才で、
日露戦争では第一艦隊参謀を務め、閉塞作戦の時には
作戦策定の段階から加わっていました。

閉塞作戦の指揮官は海外武官経験者や成績優秀者など、
出世まちがいなしの人材が選ばれていたようです。

齋藤七五郎もこのままいけば海軍大将間違いなしの逸材でしたが、
軍令部次長の時代に胃癌で現役のまま逝去して中将で海軍人生を終えました。

ちなみに廣瀬が第一次作戦で指揮した「報国丸」は
湾口の中央になんとか自沈させることができましたが、進行方向と並行で、
齋藤の「仁川丸」「弥彦丸」は湾口を塞ぐという決定打にはいたりませんでした。

右 第一次閉塞武揚丸指揮官
  第二次閉塞米山丸指揮官

海軍大尉 正木義太(まさきよしもと)

全ての指揮官が第一次、第二次と二回とも参加していますが、これは
東郷元帥の

「唯士官以上は其の請願の極めて切なると、
前回の経験により行動に利する」

つまり、指揮官は事情を良く知る経験者がいいだろうということになり、
士官は第一次作戦従事者がもう一度参加することを決められたためです。

閉塞作戦の後順調に出世していた正木ですが、
「河内」艦長時代、「河内」が徳山湾で爆沈すると言う事故があり、
そのせいなのか、中将で予備役に編入されています。

閉塞作戦では「武揚丸」を沈底させることに成功した、といいたいところですが、
実は第一次作戦においては閉塞隊はロシア軍が陸から照らす探照灯に方向を見失い、
山上の砲台の攻撃を受け、予定場所に自沈させることができなかったと言うのが現実でした。

左 第一次閉塞武州丸指揮官
  第二次閉塞千代丸指揮官附

海軍中尉 島崎保三

ところで、この島崎中尉と、さきほどの齋藤大尉について、
ちょっとお話ししておかなければならないことがあります。

第一次作戦では混乱に陥り、「武州丸」「仁川丸」は一応自沈させたものの、
収容するはずの船が攻撃を行ったりしているうちに乗員を見失い、
聯合艦隊は翌日も捜索を行いましたがみつかりませんでした。


「武州丸」「仁川丸」の乗員たちは砲火を避け隠れながら洋上を彷徨った後、
偶然遭遇して合流し、ジャンク船等を使って清国の煙台にたどり着き、
現地で領事と海軍武官に連絡を取り、帰還を果たすことができたらしいのですが、
このときに清国で齋藤大尉、島崎中尉は、「宣誓帰国」、つまり

「帰国してもわたしは戦闘に参加しません」

と中立国に宣誓したうえで国に戻してもらえるという手続きを踏んで、
帰らせてもらっているのに、ちゃっかり第一次作戦から40日後に
第二次作戦に二人とも参加しているのです。

これって国際法違反なんじゃね?と思うわけですが、当時の軍人にとって、
国際法より東郷元帥の命令の方が絶対ですので(たぶん)仕方なく
(だったかどうかはわかりませんが)続け様に作戦に参加することになりました。

齋藤大尉は普通に第二次作戦でも指揮官として参加していますが、
島崎中尉の方はなにか思うところあったのか、指揮官ではなく
有馬良橘閣下附という配置での作戦参加となっています。

 

ところで、この二人が清国から宣誓中立によって帰国したことは
海外のメディアに嗅ぎつけられてしまい、その結果として全てを報じられ、
陸軍にも秘匿していた閉塞作戦が明るみに出ることになってしまいましたとさ。

 

 

続く。

 

 

機関科問題と閉塞作戦の機関長たち〜旅順港閉塞作戦記念帳

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オークションで手に入れた古本、海軍兵学校昭和2年発行の
「旅順閉塞戦記念帳」というアルバムをご紹介しています。

作戦後、揚収され損ねて清国にたどりつき、そこで戦闘には参加しません、
と宣誓して帰国を許されたのにしれっと第二次作戦に参加していた
齋藤大尉と島崎中尉というキャラも発見し、思ったよりこの仕事で
新しくいろんなことがわかりそうな予感がしてきました。

次のページには何人かの参加者の写真と記念品
(おそらくこのとき兵学校の申し出に応じて寄贈されたもの)
の写真がありました。

まずこの人物は、

第二次閉塞作戦弥彦丸指揮官附

海軍中尉 森初次

まず「弥彦丸」の指揮官というのが例の齋藤七五郎大尉で、
森中尉は齋藤大尉の副官という立場で作戦に参加していました。

先ほどお話ししたように、齋藤大尉は清国から帰ってきたばかり、
国際法違反上等でぶっちぎりの戦闘参加している状態です。

第一回作戦の40日後に行われた第二次作戦に投入されたのは
「千代丸」「福井丸」「弥彦丸」「米山丸」の4隻でした。

そして「福井丸」の指揮官が廣瀬武夫少佐、指揮官附だったのが
士官ではなく、あの杉野孫七海軍兵曹長だったのです。

第二次作戦がどうなったか3行でいうと、

1番船「千代丸」がまず発見され、砲撃を受け港口から100mの地点で自爆。
「福井丸」、その隣で「弥彦丸」も駆逐艦攻撃により沈没。
「米山丸」被雷沈没。
廣瀬・杉野ら15名が戦死。(第一次作戦の戦死者は1名)

ということになります。
船を沈没させるのが作戦目的とはいえ、敵の航路と関係ないところで
撃沈された場合、全く効果は期待できません。

現に旅順艦隊はこの翌普通に湾の外に出ることができました。

森中尉は作戦後揚収され、駐在武官などを務めたのち、
艦隊参謀と戦艦の艦長などを歴任し少将まで出世しました。

兵学校から記念品の寄贈を求められた頃は予備役に入って2年経っており、
おそらく喜んでこの提出に応じたものと思われます。

そして寄贈されたのが閉塞作戦当時使用していた双眼鏡で、
撃沈された「弥彦丸」とともに海に沈み、どういう経緯か、
数ヶ月後に引き揚げられて持ち主の手元にもどってきたようです。

しばらく海に沈んでいたのに全く型崩れしていない双眼鏡ケース。
かなりの高級品と思われます。

当時は海軍が支給するのではなく、士官は自費で双眼鏡を買い求めていました。

兵学校に寄贈された品にはこのようなものもあります。
「米山丸」の指揮官附であった島田初蔵海軍中尉は、
閉塞作戦時、敵の銃弾が左肩を貫通し、負傷しました。


島田初蔵中尉

ところでこの「血染めの胴着」の説明には、

「島田少尉候補生委託」

とあります。

この「島田候補生」は島田初蔵中尉の息子ではないかと考え、
さらに島田中尉について検索したところ、大尉任官後に乗組んだ
防護巡洋艦「松島」が兵学校35期卒業生が遠洋航海で訪れた
台湾馬公での爆沈事故を起こし、死亡していたことがわかりました。

事故が起こったのは1909年ですから、島田大尉は若干30歳です。
そこで計算してみると、昭和2年に候補生となっていた島田大尉の遺児は、
父が事故死したとき、まだ1歳にもならない赤子であったことになります。

おそらく遺児は、写真と母の語る思い出だけでしか知らない父の遺品を
自分が父の意思を継いで入学した兵学校に自分の手から託したのでしょう。

さらに、兵学校卒業生の名簿を検索したところ、昭和6年の59期卒業生に

「島田武夫」

という名前が見つかりました。
閉塞作戦の英雄、廣瀬武夫と同じ名前であることから考えても、
この卒業生が島田大尉の遺児であることは間違いないと思われます。

まことについでのついでながら、島田武夫生徒のその後について調べたところ、
彼は潜水艦乗りになり、昭和19年、艦長として乗っていた伊171が
ラバウル近海で駆逐艦「ハドソン」等に探知され、機雷攻撃を受けて沈没、
戦死後の最終階級は中佐、没年齢はおそらく35歳になるかならないかでしょう。

ところで、この「米山丸」には、岡山県出身の二等兵曹、
塩谷巳之資という人が乗っていて、のちに岡山県教育委員会が発行した
閉塞船についての冊子で思い出を語っています。

塩谷二等兵曹は島田中尉がやられたとき機関銃の配置にいましたが、
島田中尉に代わって自分も体に数カ所弾傷があるのにもかかわらず
血塗れのまま後部の乗員を指揮し、「前後左右に駆け回りて号令」
を行い、皆はこれに励まされ獅子奮迅の勢いで目的地に達し、
予定通り船を爆発し終わることができました。

そして錨を打ち、端艇を下ろすことになったとき初めて傷の痛みを感じ、
指揮官の正木大尉に

「私も負傷しました」

というと、正木大尉は気にも留めない風で

「よろしい」

と一言返事をしただけだったそうです。
なにがよろしいのかわかりませんが、大した怪我だと思わなかったのでしょう。

端艇の舫を断ち、皆で力を合わせて無事にこれを降ろし、
塩谷兵曹は数間の高さから飛び乗り、他の乗員とともに端艇を漕いで
収容艦に乗り移りました。

この頃には塩谷兵曹の気力は衰え、限界に近づいていました。
皆彼の傷の深刻なことに気づくと、彼の忍耐力と勇気を褒め称えました。

左上顎の盲管砲創は、弾片が深く骨膜に達し、その位置さえわからず、
前膊部盲管砲創及び下腿部の傷は、X線(この頃もう使われてたんですね)
で初めて弾片の存在が明らかになったほどでした。

 

そしてこの写真です。

当時の海軍発行の刊行物では異例の措置と思われるのですが、
杉野孫七海軍兵曹長の写真が、島田中尉と森中尉、
二人の士官と同じページに、二人に両側を固められる形で掲載されていました。

わたしは今まで杉野兵曹長のこれ以外の写真を見たことがないのですが、
このアルバムの大きな写真から強烈な違和感を感じました。

この髭・・・・描いてません?(そこかい)

どうも写真全体と髭の色の調和が取れてないんですよね。濃すぎるし。

あくまでも印象に過ぎませんし、もしそれが当たっていたとしても
髭を描かないといけなかった理由に全く見当がつかないわけですが。

 

 

さて、「杉野は何処」の杉野さんがでてきたので、皆様にクイズがあります。
戦前、秋葉原にあった廣瀬中佐と杉野兵曹の銅像などのイメージから、
この二人が上司と部下として強く結びついていたような印象をもちますが、
それではこの二人、指揮官と部下という関係になって、どのくらい年月が経っていたと思います?

正解は・・・・1ヶ月以下2週間程度なんですねーこれが。


わたしがそれを断言する理由は、以下の通りです。

第一次、第二次閉塞作戦の指揮官は全く同じメンバーが選ばれましたが、
下士官・兵については、任務があまりにも危険なことと、参加希望者が
殺到していたことから(皆血判状などをもって応募していた)、
第一次作戦に参加した者は第二次には参加できないということになっていました。

唯一の例外として林紋平二等兵曹という者だけはあまりに熱心に懇願するので
海軍も根負けしてどちらも参加することを許していますが、後全員は、
杉野も含めて今回募集に志願し採用された下士官兵だったのです。


廣瀬少佐が姿が見えない杉野を探しに船に戻り、諦めて戻ってきて、
脱出のための小艇に乗り込んだ途端爆弾が直撃する不幸に遭ったことから、
廣瀬は「部下思いの指揮官」として後世に軍神とまで讃えられたわけですが、実は
廣瀬の杉野についての認識は今回初めて指揮官附きになった下士官、という程度で、
おそらく個人的な会話はほとんどないまま当日を迎えているはずなのです。

そこで改めて思うのが、自分の部下を一人も失うまいと最後の最後まで
危険を押して探しに戻る廣瀬武夫という人の指揮官としての強烈な責任感の強さです。

行方不明の部下が長年の付き合いだろうが最近知り合ったばかりだろうが、
彼のこの時取った行動におそらくなんらの違いもなかったであろう、と考えると
そのことはより一層彼の資質が一流であったことを裏付けるものに思えます。

次のページには5人の写真が掲載されています。

まず、真ん中から。

第一次閉塞仁川丸機関長

海軍大機関士 南沢安雄

右上から下、

第一次閉塞天津丸機関長
第二次閉塞千代丸機関長

海軍大機関士 山賀代三

第一次閉塞報国丸機関長
第二次閉塞福井丸機関長

海軍大機関士 栗田富太郎

左上から

第一次武揚丸機関長

海軍中機関士 大石親徳

第一次閉塞武州丸機関長
第二次閉塞米山丸機関長

海軍少機関士 杉政

ところで、彼らの階級、「大機関士」「中機関士」「少機関士」
って一体なんですか、と思われませんでしたか?

わたしもこの階級表記に注意したのは初めてのことだったのですが、
この名称はいわば機関科に対する兵科の差別の現れであることを知りました。

どういうことか説明しましょう。

この当時機関学校卒士官は部隊指揮にも制限があり、昇進が制約され、
さらに艦上勤務においても機関長止まりとされていました。

この写真の5名は、本作戦参加の機関士官です。
しかしながら、彼らの扱いは特別枠だったとはいえ兵曹長の杉野よりも
後回しになっていることに留意ください。

機関下士官は制度上は一応武官に分類されていましたが、戦闘指揮の資格はなく、
非戦闘員で格下扱いの「将校相当官」(もどきって感じ?)に分類されていたのです。

たとえばこの写真の大機関士、南沢、山賀、栗田の3人は兵科でいうと大尉、
大石中機関士は中尉、少機関士である杉さんは少尉相当です。

ついでに佐官に相当するのが機関大監、機関中監、機関少監といい、
少将相当は機関総監でしたがこれが最高位(つまり少将より上にはなれない)でした。

機関科については最初の頃民間からの採用がなかった(人がいない)ため、
兵学校の成績下位者をほぼ強制的に機関士官にしたりしたことから、
兵科が機関科を蔑視するような土壌が作られてしまったのは否めません。

その後蒸気推進軍艦などの導入で機関科士官を将校に変更することが検討されましたが、
これに反対したのは案の定海軍軍令部であったということです。

 

しかし、実はこの閉塞作戦は、機関科の地位向上に大きく寄与する結果となりました。

作戦参加者の70%を機関科将兵からの志願者が占めたうえ、
さらにこの写真の彼ら機関科士官たちは作戦においても大いに活躍しました。

たとえば、このときに兵学校に寄贈されたこの軍帽ですが、
持ち主は「少機関士」だった杉政さん。

杉海軍少機関士は、第二次閉塞作戦での「米山丸」の機関長でした。

「米山丸」は自沈後乗員の脱出のために2隻短艇を用意しており、
杉少機関士は左舷から海面に卸した短艇に乗員半数を乗せ、
自ら指揮してこれで引き揚げ、連れ戻すことに成功しています。

しかし、引き揚げの際、短艇は敵銃弾を受け、弾孔から浸水を始め、ついに
海水は膝まで浸かるほどになってきました。
杉機関長は自分の首巻を最も大きな弾孔に詰めてこれをふさぎ、
この軍帽で海水を汲み出し、皆を叱咤激励してなんとか帰還を果たしています。

この一件はたまたま23年後、まだ杉機関長が存命で、閉塞作戦記念に
取っておいたこの思い出の品を寄付できたから歴史に残りましたが、
他の機関士官たちは歴史には残されていないまでも、閉塞作戦以降、
日露戦争において専門知識を現場で発揮し、その存在をアピールしました。

機関科士官が実戦において評価された結果、1906年(明治39年)には、
機関科士官の呼称は兵科将校に準じることになりました。

ですから、彼らが「大機関士」と呼ばれていたのは、日露戦争が最後となります。

少将相当しか昇進できなかったのが、改正後は最高位として機関中将がが創設され、
「機関大佐」「機関中尉」など階級名も兵科と同じに変わりました。

それまで禁じられていた軍服のエグゼクティブ・カール着用も認められました。
ちなみにイギリス海軍で機関科のエグゼクティブ・カールが許されたのは
呼称が改正されてから実に12年経った1915年のことです。

Executive curl - Wikipediaエグゼクティブカール、日本語では「蛇の目」とも

 

イギリスも階級社会ゆえ、旧勢力(この場合海軍兵科)がこの動きに
反発するという構図は日本と全く同じであったようです。

アメリカ海軍ですが、さすが移民大国で階級が社会に実質存在しないせいか、
機関科と兵科は1900年までに統合され、アナポリスで教育が行われていました。

そのため兵科士官ポストと機関下士官ポストを行き来し、
どちらも経験する士官が(特に飛行機関係は)いくらでもいました。
こういうリベラルさがアメリカ海軍の強さの一因だったと言えないでしょうか。

 


イギリスで機関科が認められるきっかけが第一次世界大戦であったように、
日露戦争は確かに機関下士官の地位向上に一定の効果はありましたが、
軍令承行に関する改正は、あくまで将校相当官の機関官に対しては不可のままでした。

帝国海軍の最も深刻で根の深い人事問題がこの機関科問題で、
そもそも神様扱いされた東郷平八郎をして機関科のことを

「釜焚き風情」

と言わせてしまったあたりから、解決の見通しは皆無に等しかったのです。

海軍は結局この問題を解決しないまま77年の歴史を閉じてしまいました。

ちなみに杉機関士はのちに海軍機関中将になりました。
そして後年、浸水した短艇に、前述の重症だった「米山丸」の塩谷兵曹を
「臥せしめて」帰ったことを回顧録に記しました。

そこには何十年も前の出来事がこのように書かれていたといいます。

「君の気の毒さ今に忘れず」

 

続く。

 

 

 


「簀巻の人」 栗田富太郎機関長〜旅順閉塞作戦記念帖

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古本屋がオークションに出品した昭和2年海軍兵学校発行の
「旅順閉塞戦記念帳」を最初からご紹介してきましたが、
この写真に行き当たったとき、わたしは他の作戦前記念のそれとは
随分雰囲気の違う場所で撮られたようだと感じました。

フランス窓のある西洋造りの建物の廊下に、士官二人を中央に座らせ、
海軍の序列は守りながらも、何人もが刀や銃を手にし、何人かは
壁にもたれるなど、公式の写真にはない並び方であることや、
何より彼ら全体から立ち昇る「殺気」のようなものが異様です。

あらためて説明を読んでみました。

「芝罘(しふう)帝国領事館に於ける仁川丸及び武州丸乗員

第一次閉塞結構後、両船乗員の乗れる短艇は不幸にして収容に洩れ、
老鐵山(ろうてつさん)南方の北隍城(ほっこうじょう)に漂着し
此処より『ジャンク』四隻にて登州に渡り陸行して
芝罘帝国領事館に至りしものにして幹部は齋藤大尉、
島崎中尉、南澤大機関士、杉少機関士なり。」


それにしても芝罘帝国とはなんぞや。

というかこの漢字見るのも初めてで読み方も「ふ」であろうことしかわかりません。
というわけで、「手書き検索」で調べたところ、

「罘」=ふう・うさぎあみ

と読むことがわかりました。
意味は・・・うさぎを獲る網のことだそうですorz

それでさらに検索すると芝罘とは中華人民共和国山東省煙台の
旧名であったことがわかりました。

つまり、この写真はすでにお話ししたところの、

収容され損なった「仁川丸」「武州丸」の乗員たち

であるということです。
偶然合流することができた両船の乗員たちは、協力して清国に辿り着き、
四隻のジャンク船をチャーターして上陸し、領事館に辿りついて
無事たどり着いた記念に写真を撮ったというわけなのです。

仁川丸・武州丸指揮官

漂流してきたわりには皆こざっぱりと軍服を身につけているのが不思議ですね。


士官の右側は「仁川丸」指揮官の齋藤七五郎大尉。
ちゃんと飾尾のついた軍服で写っています。

この格好のまま作戦を行い、この格好で流されてきたのかしら。

左の人の方が偉そうですが、こちらは「武州丸」指揮官、
島崎保三中尉です。

此処に写っているメンバーの下士官兵は帰国後解散し、
第二次作戦に参加したのはこの二人の士官、並びに
南澤安雄大機関士(機関大尉)、杉政少機関士(機関少尉)
だけとなりますが、前述したように、彼ら4人は
日本に帰国をするにあたって、中立国の清に対し、

「帰国する目的は戦闘の参加ではありません」
(=帰っても戦争には行きません)

と宣誓しておきながら国際法違反していることになります。

首に包帯している人が一人だけいます。
領事館に来るまでの道中、怪我をしてしまったのでしょうか。

それにしても、全員に漲る気迫が凄い。
死地を脱して尚士気盛んな様子が溢れています。

この段階では全員が次回も参加するつもりだったに違いありません。

「報国丸」乗員

第一次閉塞作戦の時の「報国丸」の乗員です。

廣瀬指揮官(中央)

腕組みをしている廣瀬指揮官の隣に機関長がいますが、
実を言うと皆さんよく閉塞作戦の資料で見ているはずの人なのです。

種明かしは後に譲るとして、第一次作戦のときの「報国丸」は
四隻の参加船の中で唯一、湾口に自沈させることのできた船でした。

この写真帳の解説によると、乗員のうち3名、

「角久間二等兵曹」「藤本一等機関兵」「武野二等機関兵」

が負傷したということです。

廣瀬の左側に複雑な怪我をした人が一人、(鼻の下とか)
この人がおそらく角久間二等兵曹、その左の全身包帯の人(火傷でしょうか)
が藤本一等機関兵、簀巻にされて戦友二人が心配そうに見下ろしているのが
武野二等兵であろうと思われます。

海軍はこういう写真も厳密に階級を反映しますから。

第二次作戦後の「福井丸」乗員

そしてあまりにも有名なこの写真です。
説明をそのまま記します。

「第二次閉塞後に於ける福井丸乗員

前列の一人が手にせる小箱の大なるは廣瀬指揮官の肉片
又小なるは杉野指揮官附の遺髪を収めたるもの
簀巻の負傷者は栗田機関長にして、左右の棺は
菅沼一等信号兵曹、小池一等機関兵の遺骸なり」

この写真については以前閉塞作戦についてお話ししたときに
全く同じ情報をここで書いたわけですが、「簀巻の人」が
機関士官であることは今回初めて知りました。

第一次作戦で廣瀬の右側で写真を撮っていた栗田大機関士だったのですね。

栗田富太郎

この栗田機関士についても経歴がわかりましたので書いておきます。

青森県弘前に生まれ、幼少の頃に父を亡くす。
母は再婚を勧められるも応ぜず、遂に自刃した。

東京に出て苦学し海軍を志したが20歳を過ぎていたため
海軍兵学校をあきらめ、明治24年近衛工兵隊として陸軍に入隊した。

翌年、海軍機関学校生徒募集に最優等を以て合格し
初志の海軍への道を歩み始める。

29年海軍機関学校を卒業、日露戦争では旅順港閉塞作戦で
「福井丸」に乗船し、敵弾により重傷を負った。

大正4年、海軍機関大佐に昇進し練習艦隊機関長、機関校練習科長、
第1艦隊と第2艦隊の機関長を経て大正9年、海軍機関少将に昇った。

舞鶴鎮守府機関長を務めて予備役編入となった。
昭和7年11月に62歳で逝去。

閉塞作戦にいかに優秀な機関士官が参加していたかがわかります。
写真は有名ですが、簀巻の人にまで言及している資料がなかったので、
また一つなんの役にも立たないとはいえ知っておきたかった知識が増えました。

 

第二次閉塞作戦総指揮官と「千代丸」乗員

第二次作戦で指揮官有馬良橘が座乗しいていた「千代丸」乗員です。

第二次作戦では「千代丸」は1番船として砲台や敵駆逐艦からの砲撃を受けながら
前進したものの、港口を発見できないまま、港口から100mの地点で自爆しました。

この頃の軍人はどんな写真でもにこりともせず悲痛な顔で写っていますが、
特にこの写真の全員が特に暗いように見えるのは、作戦失敗のせいもあったかもしれません。

しかし、この写真で見る有馬良橘閣下は大変イケメンでいらっしゃいます。
昔、「坂の上の雲」で有馬を加藤雅也が演じたことについて、

「山口多聞を阿部寛が演じる世界だから」

などとあの放送事故レベルのキャスティングと並べて語ってしまいましたが、
この写真を見る限り加藤雅也が演じたって何の違和感もありません。
(というか、むしろモッくんが演じてもいいくらい?)

そして有馬閣下の左は指揮官附である芝罘(しふう)帝国帰りの
島崎保三中尉。
総指揮官が乗っているので「千代丸」に指揮官はいません。

そしてこの短艇は「千代丸」乗組の閉塞隊員17名が
有馬良橘とともに引き揚げに使ったものです。

大きさは正確にはわかりませんが、この短艇で一晩海を彷徨い、
誰一人として脱落せず異国の地に漕ぎ着いて命を存えた
「武州丸」と「仁川丸」の乗員はさすがに凄かったと思わずにいられません。

だてに初等教育の頃から死ぬほどカッター漕ぎさせられてる海軍軍人ではないですね。

 

第二次閉塞「米山丸」乗員たち

「米山丸」だけ、船を中心に全員の写真が残されていました。
指揮官は正木義太大尉、そして指揮官附として島崎保三中尉、
機関長は第一次作戦の時に軍帽で短艇の海水をかい出して
帰還を果たした杉少機関士です。

 

第二次作戦で「米山丸」は港口水道中央で投錨したところ、
被雷し、水道左岸で沈没したとされます。

本作戦における戦死者は15名ということですが、「米山丸」の
乗員の犠牲者が一番多かったのではないかと推察されます。

今回そのことを調べるためにアジ暦の資料を当たったのですが、
どういうわけか廣瀬少佐の姓名だけしか記載がなく、
下士官卒の戦死者については全く記録が残っていません。

それどころか閉塞隊員の戦死者は3名となっているのが大いに謎です。

もしかしたら、その三名とは、

廣瀬少佐(肉片があるから?多分死亡)

菅沼一等信号兵曹と小池一等機関兵(遺体があるから死亡確定)

であり、

残りの12名は記録作成の段階では遺体がない=
行方不明・未帰還扱いでまだ生死不明

という扱いになっていたのかもしれません。

左上は杉機関士が短艇の海水をかい出した軍帽ですが、
それ以外の寄贈品は、「米山丸」の司令官、正木大尉が着用していた防寒頭巾、
下は同じく正木大尉の防寒胴衣です。

この記念帖作成の頃すでに中将になっていた正木氏は、
これらの記念品を兵学校の求めに応じて寄贈しました。

なお、正木大尉は「米山丸」が港口に差し掛かったとき、
敵の銃弾が左耳をかすめ、右肩を貫かれて怪我をしていますが、
帽子と胴着にはそのときの血液が付着しています。

しかし「貫かれた」というわりには血液が少ないような気もします。

右上:廣瀬中佐が兵学校時代所持していた「勅諭寫(写)」

いわゆる軍人直喩のハンディ版?を直喩写といって皆がもっていたようです。

「日本男児百も拝読して急く可からず」

は廣瀬自身が記したものでしょうか。

上中:廣瀬中佐遺書「航南私記」

廣瀬中佐の少尉時代の詩文を集めたもの。

左上:軍艦朝日艦内通達簿

廣瀬中佐以下6名が閉塞作戦のために退艦したことを記録したページ

下:廣瀬中佐から八代海軍大佐に贈った書簡

右上:閉塞船として徴用する際、下船した「福井丸」の船長に
廣瀬が与えた遺墨

下:廣瀬中佐の血潮で染まった栗田機関長の軍服上下。
栗田機関長は廣瀬の隣にいて重傷を置い、廣瀬は直撃弾を受けて死亡した。

左:廣瀬中佐の肉片と血痕が付着した海図

「肉片」「血痕」とわざわざ付箋を貼って説明しています。
今でもこれは江田島の教育参考館に秘蔵されているのでしょうか。

そして東郷平八郎連合艦隊司令長官が閉塞作戦後発した感状です。
いかにも適当な人(あまり達筆ではない)が急いで作った風で、
東郷平八郎の署名もなんだかぞんざい(というかヘタ)なのが気になりますが。

読みやすいように現代文で書き直しておきます。

感状 第二回閉塞船隊

明治37年3月37日、危険を犯して旅順港第二次作戦を決行し、
その目的の一部を遂げただけでなく、特に廣瀬海軍中佐の指揮した
「福井丸」はますます武人の意気を発揮して後世に艦隊の模範を残し、
その無形の効果は実に偉大なものであることを認め、ここに
感状を授与するものである

明治38年1月12日 聯合艦隊司令長官東郷平八郎

 

続く。

第三次閉塞作戦 「悲劇の朝顔丸と新発田丸」〜旅順港閉塞戦記念帖

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ごぞんじのように閉塞作戦は三次にわたって行われ、
後に行くほどロシア側の警戒と反撃も大きくなったため、
日本側の規模を拡大しただけ犠牲も大きくなっていったわけですが、
wikiなどを見ても、第三次作戦の扱いは廣瀬中佐の戦死があった
第二次作戦に比べると記述の量が圧倒的に少なく、簡単です。

「第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。
12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、
天候不順により総指揮官の林三子雄中佐は作戦の中止を決断する。
しかし、中止命令が後続艦に行き渡らず閉塞船8隻及び収容隊がそのまま突入した。
結局それらの閉塞船も沿岸砲台によって阻まれ、湾の手前で沈められた」

wikiでも作戦の推移についてはこれだけ。

しかし、わたしがオークションで手に入れた昭和2年発行の
海軍兵学校発行「旅順閉塞作戦記念帖」には、やはり一番多く
そのページを割いて写真などが掲載されています。

まず、第三次作戦のパート最初に現れるのが、冒頭の

第三次閉塞総指揮官 

海軍中佐 林三子雄(はやしみねお)

で、林中佐は第一次・第二次を務めた有馬良橘中佐の後任として参加しました。

まず、第三次作戦の失敗の原因は、総指揮官であった林中佐が悪天候のため
決定した「行動中止」の命令が全軍に伝わらなかったということです。

しかしどの記述を見ても「後続艦に命令が伝わらず」
としか書かれていないので、当ブログではもう少し深堀りして、
この時の状況を細かく推理してみることにします。

まず、閉塞船間の通信は手旗と発光信号に頼っていたはずです。

後年日露戦争の勝因のひとつ、とまでいわれる36式無線が完成したのは
1903年、本作戦の一年前で、その気になれば搭載できたのかもしれませんが、
そもそも閉塞目的で自沈させる予定の船に最新秘密機器を搭載することは
現実として不可能だったと考えられます。

余談になりますが、欧州発祥の海事手旗信号を日本に最初に取り入れたのは
島村速雄であり、アルファベットだったそれを現在の形にしたのは
なんと第一次・第二次閉塞作戦の指揮官だった有馬良橘その人だそうです。

有馬は、手旗信号に使用する文字は直線で表現できるカタカナが適当と考え、
「セマホア式手旗信号」を基本に、いかに片仮名に適用できるか
種々研究を重ね、実験を繰り返したといわれています。
(wikiの手旗信号の欄に記載されている釜谷忠通はこの後の制定を行った)

 

しかし手旗信号、発光信号の欠点は、天候や波などの条件に成否が左右されることです。

 

そこで三次作戦において指揮官船から後続の船に送られた
「行動中止命令」が順番に4番船まで伝わったところから想像してみましょう。

おそらく指揮官が行動中止を決意するくらいの荒天下であったことが災いして、
後続の船は手旗を受け取れるような船位におらず、そこで連絡網が途切れ、
通信ができなかった5番船以降の閉塞船8隻は、予定通り旅順湾口に進んでいったのです。

不幸だったのは、後続部隊が反転した指揮官船隊すら発見できなかったことで、
これも波風が高く互いの航路が離れてしまった結果でしょう。

そしてこの後です。

前にもこの経緯については当ブログで解説していますが、再び触れておくと、
林中佐は反転したのち後続船が少ないのに気付き、再び反転して後を追いました。
しかし「新発田丸」の舵機の故障で、追いつかないまま全てが終わってしまったのです。

全てが終わった5月3日の午前5時30分、旅順口外で漂泊していた
「新発田丸」が発見され、すぐに乗員が収容されました。

作戦後、上層部は「高砂」に

「新発田丸の舵機を検査し、もし修理の見込みがなければ曳航するように」

と指令を出していますが、「高砂」だけでなく「赤城」も、
「新発田丸」が作戦に参加できなかった理由を報告しているものの、
同船の「曳航の要無きを観て直に帰隊せり」としています。

作戦には参加できないが、取り敢えず曳航はしなくても自航走できる、
という程度の故障であったということでよろしかったでしょうか。

 

ところで突然ではありますが、過去当ブログ記事の訂正とお詫びをしておきます。

前回当ブログで林中佐について書いた時、わたくし、実は
「三笠」艦内の資料を参考に(←この部分大事)

「林中佐は新発田丸で閉塞作戦中戦死した」

と書いてしまったのですが、これは間違いであることがたった今わかりました。
林中佐は閉塞作戦では亡くなっておりませんでした。


林中佐はこの作戦の直後、本来の配置であった「鳥海」の艦長に戻っています。
そして南山攻撃援護戦でロシア軍の砲撃を受けて戦死したことが、
アジ暦で検索できる当時の死亡報告書に記載されていたのです。

何を言ってもちゃんと調べなかったわたしが悪いので言い訳にしかなりませんが、
「三笠」に展示してあったこの林中佐のブロンズ像の説明に、
「新発田丸」の乗員が戦死した中佐を偲んで贈ったとだけ書いてあったので、
てっきり「新発田丸」の帰路戦死したのかと勘違いしてしまったのです。

実際は閉塞作戦直後、自分たちを無事に作戦から連れ帰った指揮官が
戦艦の艦長に戻ってすぐ戦死してしまったので、隊員たちは
林中佐に対する感謝を込めて像を作り、遺族に贈ることにしたというわけです。

うーん、「三笠」の解説はちょっといやかなり説明不足であるような気が・・。

此の写真は指揮官船であった「新発田丸」の乗員一同です。
こういうときの海軍の慣習として、指揮官と幹部は中央に位置します。

つまり、中央の幹部は

「新発田丸」指揮官 遠矢勇之助海軍大尉

指揮官附 中村良三海軍大尉

機関長 河井義次郎機関少監

ということになります。

ところでこの記念帖、全閉塞船12隻の指揮官、そして指揮官付きのうち、
大アップで写真が掲載されているのは8隻だけで、
「新発田丸」の指揮官ならびに指揮官附の写真はありません。

これだけの危険な大作戦に参加したのであるから、
指揮官の写真くらい全員載せてしかるべきだと思うのですが、
どうしてこのような恣意的な選抜が行われているのでしょうか。

このことを推理する前に、第1小隊の3番船だった
「朝顔丸」についてお話ししましょう。

第三次閉塞朝顔丸指揮官

海軍少佐 向菊太郎

わたしが三次作戦について初めて知った当時、最もその悲劇性に胸打たれたのが
「朝顔丸」とこの向菊太郎少佐についての運命でした。

向少佐率いる「朝顔丸」は、指揮官から作戦中止の命令を受け取りました。

そして一旦は帰投に向かいましたが、間違って突入した僚船がいることを知ると、
彼らを置いていくことはできぬと再び反転し、仲間の後を追ったのです。

「海軍少佐向菊太郎の指揮せる二番船朝顔丸は
一旦新発田丸に続航せしも  僚船の依然進行するを見て
再針路を展示単独前進せるものの如く 午前四時過ぐる頃
忽然として鮮生角の南方に現れ港口に向かいて奮進せり。

時に三河丸以下六隻は悉く爆沈し敵砲は専ら隊員の帰路を背撃し
其の勢稍弛まんとするのを観ありしか 

今や朝顔丸の単独突入せんとするや砲火再激甚となり
全要塞の砲弾忽ちこの一舟に集中す。

隊員は猛烈なる十字砲火と強度なる探海灯光とを冒して
港口に驀進せしが終に舵機を破られ 午前四時三十分頃
黄金山低砲台の海岸に擱座して爆発せり。

之の閉塞船最後の爆沈とす」

 

第三次閉塞朝顔丸指揮官附

海軍大尉 糸山貞次

向大佐(作戦時中佐)附きであった糸山中尉(作戦時)は、
このとき25歳という若さでした。

全員が熱烈志願した「朝顔丸」の乗員と向少佐(中央左)。

向少佐の左がおそらく糸山中尉、向少佐の右横が機関長である
大機関士、清水雄莬 同列左端は
二等兵曹、伊藤周助であろうと思われます。

向少佐以率いる18名の乗員は、果敢にも先陣の後を追い、
単身旅順港に突入を試みるも、陸上からの集中砲撃を浴び、
黄金山付近で船は撃沈され乗員全員が戦死しました。

沈没したとされる黄金山下の「朝顔丸」の写真が掲載されていました。

これは閉塞作戦後、ロシア海軍の将校が撮影したもので、その後、
旅順攻撃により「旅順開城」(降伏して敵に陣地を明け渡すこと)成った際、
日本軍が入手に成功した貴重なものです。

岩の向こうに見えている船が「朝顔丸」ですが、その船首部分を
よく見ていただくと、うっすらと「3」が描かれているのがわかります。
これは、閉塞作戦の「三番船」を意味します。

そしてこの部分をさらによくご覧ください。

写真の解説によって初めてわかったのですが、手前の岩には
「朝顔丸」の乗員の遺体が少なくとも2体確認できます。

救命胴衣とともに岩の上に仰臥して倒れている遺体は、
この記念帖の解説によると向指揮官であると「伝えられている」
(おそらく士官の制服と背格好から判断)ということです。

手前の遺体はうつ伏せになっているようですが、この二人は
沈没後脱出してここまで泳ぎ付き、息絶えたのでしょうか。

5月の旅順は決して温暖な気候ではないので、岩にたどり着き
収容を待っているうちに低体温症で力尽きた可能性もあります。

兵学校にこのとき寄贈された向菊太郎司令官の「勤務日誌」です。
もし戦後逸失していなければ、今でも教育参考館に所蔵されているはずです。

数冊の勤務日誌は、この不鮮明な写真からも窺い知れるように、
精緻な筆致で実に丁寧に記載されており、特に旅順港外の地図は
砲台、そして探照灯がどこにあるかという所在まで精細に記入され、
わかりやすいように色が付けられている(開きページ上)そうです。

向少佐の几帳面で周到な性格の一端が現れています。

 

なお、上野の谷中霊園の一角には向家の墓所があり、
「朝顔丸」の手すりの一部が残されて今も見ることができます。
100年以上前の鎖は錆びてしまっていますが、まだかつての形を保っているようです。

谷中霊園 向家の墓

 

さて、もうお分かりいただいたでしょう。

記念帖には名前すら掲載されなかった指揮官船の「新発田丸」指揮官、
遠矢勇之助大尉と「朝顔丸」の向菊太郎大尉(戦死認定、死後少佐)の違いを。

反転命令を下した総指揮官が乗っていたばっかりに(?)、
作戦中止に伴い、戦いもせずに生きて帰ってきた者と、
あえて命令に従わず死地に飛び込んでその結果散華した者。

遠矢大尉にも「新発田丸」にもなんの落ち度もなく、彼らもまた
作戦遂行のためには命を失うことなど厭わぬ覚悟のもとに参じていたはずなのに、
本人には如何ともし難い成り行きの結果、方や国難に殉じた英雄として、
方や生還してきたことを忸怩として恥じずにいられないような
ある意味屈辱的な扱い(なかったことにされるという)を受けたのでした。

そして、此の閉塞作戦の記念帖において、「新発田丸」の遠矢大尉と
同じ扱いを受けた指揮官は何人もいたのです。

 

続く。

 

第3次閉塞作戦 指揮官大角岑生の決断〜旅順閉塞戦記念帖

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さて、今日もオークションで手に入れた「旅順港閉塞戦記念帖」より
中身を紹介していこうと思います。

まず冒頭写真は、

第三次閉塞遠江丸指揮官

海軍少佐 本田親民

本田は海軍兵学校17期。
17期といえば海軍きっての超秀才、秋山真之の同期です。

「秋津州」「比叡」「須磨」「千代田」「橋立」「愛宕」
など艦艇乗組を経て、「富士」分隊長であった少佐時代、
指揮官として「遠江丸」を率い、第三次閉塞作戦に参加しました。

閉塞作戦後、一貫して艦艇任務を続け、少将昇進と同時に待命となり、
その後予備役に入っています。

中央双眼鏡着用が本田少佐、第三次作戦の「遠江丸」乗員全員です。
日差しが眩しいのか顔をしかめている人ばかりの記念写真になってしまいました。

本田少佐の右側は指揮官附の森永尹中尉、左は機関長・大機関士竹内三千雄です。

第三次閉塞遠江丸指揮官附
森永尹海軍中尉(兵学校27期)

 

森永中尉は当閉塞作戦では生還することができましたが、帰還後、
大尉任官して乗組となった巡洋艦「高砂」は、その年の12月12日、
奇しくも閉塞作戦と同じ旅順港外で哨戒中、左舷前部に触雷し約1時間後沈没。

分隊長であった森永大尉も273名の乗員とともに戦死しています。
享年25歳でした。

閉塞戦において、彼らが乗り組んだ「遠江丸」は「江戸丸」「釜山丸」とともに
第2小隊(第1小隊は『新発田丸』『小倉丸』『朝顔丸』『三河丸』)を構成しており、
当初の作戦は、この小隊をもって中央左側を閉塞させることになっていました。

指揮官林三子雄大佐の作戦中止命令を受け、船を反転させましたが、
後述する「江戸丸」、そしておそらく(はっきりした記述がないので類推による)
この「遠江丸」もまた、命令が伝わらず突入してしまった僚船を追って
再び船首を旅順港に向けて進んでいったものと思われます。

「朝顔丸」と向菊太郎大佐について書いたときには、再反転したのは
「朝顔丸」だけと思っていたのですが、少なくとも「江戸丸」「遠江丸」
どちらもがそうであったらしいことがその後の行動から読み取れます。

国会図書館蔵の「旅順口第三回閉塞」という当時の記録によると、
五隻で旅順口に突入してから、敵の砲撃が始まりました。

又敷設水雷は諸所に爆発して潮水を奔騰し
敵の全砲火は今や肉薄しつつある五隻の閉塞船に集中し
隊員の死傷するもの甚だ多し。

然れども各船は弾雨を冒して邁進し
江戸丸の如きは其の機砲未だ発射するに及ばずして己に破壊せられ
船橋に爆裂せる一弾は按針手海軍二等信号兵曹田中太郎吉を傷つけり。

日本軍の二次に渡る閉塞作戦を受けて、旅順艦隊とロシア軍は
当然三度目があるとし見張りを厳となして機雷を敷設し、
閉塞には閉塞をと、予想される進入路にあらかじめ船を沈めるなど、
怠りなく防御すると同時に、火砲も集中させていました。

「江戸丸」の田中太郎吉二等兵曹の「按針手」ですが、「按針」とは
天測や磁石などで船の航行の方向をコントロールする人、となり、
操舵手と同じ意味で良いのではないかと思います。

なぜなら、

是に於いて本多指揮官は自ら代わりて操舵の任に当たり
今や全速港口に闖入(ちんにゅう)せんとする。

「江戸丸」指揮官本多少佐は、負傷した田中兵曹に代わり、
「操舵を行った」とあります。

一刹那敵弾汽罐部を破りて蒸気噴出し前檣を折り舵機を損し
羅針儀を粉砕し大災を起こし同船は宛(あたか)も
座礁したるが如く突然行進を停止せり。

「江戸丸」は敵の攻撃でほぼ全損状態になり、
船そのものが全く動かない状態になりました。

指揮官はすでに充分港口内に達せるものなりと判断し
爆発を命じ船は瞬時にして沈没す。

そこで本多少佐は船の自沈を命じ、これが実行されたのです。

第三次閉塞 江戸丸指揮官

海軍少佐(戦死後昇進)高柳直夫

は兵学校26期、ハンモックナンバー11番で卒業しているので、生きていれば
閉塞作戦に参加したこともあり、将官に出世できたものと思われます。

 

「江戸丸」は中止命令を受けて一旦反転しますが、命令が伝わらず
進んでしまった船があることを知り、高柳もまた再反転を命じました。

旅順港に近づくとロシア軍は陸の砲台と海上の駆逐艦から
雨霰のように攻撃を仕掛けてきました。

日本側も総勢12隻と大幅に陣容を拡大させていましたが、
ロシア側にすればそれは想定内のことであったのです。

敵の砲弾が激しく飛来する中、高柳大尉は船橋で指揮を執り、
目標地点に到達したとして投錨用意を命じました。
そして羅針盤で現在船位を確認しようとした瞬間、敵弾が飛来し
高柳大尉の腹部を貫きました。

第三次閉塞江戸丸指揮官附

永田武次郎中尉

そのとき前甲板にいた指揮官附永田中尉は、投錨作業を行いつつ
命令を待っていましたが、船橋に一弾爆裂後、

「指揮官負傷!」

との声を聞くや、一刻の猶予もならないと両舷の錨を投下し終わり、
指揮を引き継いで端艇を準備させました。

そののち初めて船橋に駆け込んで指揮官が戦死しているのを発見し、
その遺体を端艇に乗せて全員が乗艇するのを待ち、装薬を爆発して

皆で祝声を挙げ(万歳ではなかった模様)

退去に成功しました。

指揮官が死亡していても、作戦さえ成功すれば良しとするのが軍人。
さすが当時の日本人であるとこういう記述を見ると思います。

「江戸丸」指揮官と乗員たち。

中央刀を肩のところで持っているのが高柳大尉、その左が永田中尉です。
高柳大尉の右側は機関長・中機関士興倉守之助。

「江戸丸」の戦死者は高柳少佐と一等機関兵武藤弥七の2名でした。

 なお、高柳少佐の墓所は佐世保東山海軍墓地にあるということです。

 

さて、ここで気がついたのですが、「江戸丸」「遠江丸」にも
指揮官の作戦命令は伝わっていたということですよね。

実は命令が伝わらずに突撃してしまったのはどこからなのか、
当ブログでは個々の船について残されている資料を総合し、
特定する試みをしているのですが、今のところ連絡が切れたのは
「釜山丸」のせい?で、第3小隊以降から後ろが
突入してしまったのではないかと仮定を立てています。

その理由を説明しましょう。

第2小隊の3番船、「釜山丸」の指揮官と乗員17名です。
閉塞作戦の隊員記念写真はどれを見ても皆の士気が凄まじく、
殺気さえ帯びているのですが、特にこの人、



水兵さんなので若いと思うのですが、髭のせいで
ベテランというか牢名主みたいな雰囲気です。

この人も凄いですね。
記念写真の時にどんなポーズを取っても良かったようですが、
精一杯自分の閉塞船に対する意気盛んなところを見せようと、
刀を抜身で持っています。

硬く食いしばった口元、眉間の皺、そして炯々としたまなざし。

 

このアルバムを作戦参加船ごとにまとめていて、ここで
わたしはまた「新発田丸」と同じことに気がつきました。

「釜山丸」指揮官と指揮官附の写真がないのです。

もしかしてキャプチャし忘れたのか?とわたしは
劣化した紙がボロボロ落ちてくるのでもう2度と触らなくても済むように
紙袋に丁寧に保存したアルバム現物を取り出し、崩れてくるページを
そーっと全部めくって探したのですが、やはりありません。

海軍兵学校が旅順作戦記念に制作したアルバムですから、
指揮官の写真を載せ忘れるなどあの組織に限ってあり得ないことですし、
指揮官だけでなく指揮官附まで無いということは、明らかに意図的です。

 

この3人が「釜山丸」幹部です。

左 指揮官附 海軍中尉 井出光輝

右 機関長 中機関士 徳永斌

中機関士とはのちの機関中尉のことです。
そして中央は、皆さんよくご存知(かもしれない)

海軍大尉 大角岑生

だったのです。

大角岑生(おおすみ・みねお)というと、後の海軍大将であり、
わたしなど、海軍大臣時代、伏見宮軍令部長を後ろ盾に
条約派といわれる軍縮条約賛成派、山梨勝之進谷口尚真左近司政三
寺島健堀悌吉、坂野常善ら将官を次々に予備役に追いやるという
粛清人事、「大角人事」を思い出さずにはいられません。

アルバムが作成された昭和2年はそんな大角もまだ?海軍次官で、
閉塞作戦については何か思い出の品を所望されてもいいはずなのに、
なぜ彼とついでに副官の写真までがないことになったのか。

今回のシリーズ中、ある意味海軍の「成果主義」を感じたのはこの一件でした。

どういうことかというと、「釜山丸」はいつの段階かは定かではありませんが、
エンジンの故障のため船団から脱落し、作戦を諦めて帰投しているのです。

理由はどうあれ血書まで書いて作戦に志願した下士官兵については
一応団体写真を掲載していますが・・・。



そこで先程の仮定に戻りますが、林指揮官の戦闘船から発せられた命令が
第2船団まではなんとか伝わったのに、第3船団から後ろに伝わらなかったのは
「釜山丸」が脱落し、船列がここで途切れたからではないかと思われます。

もちろんそれは偶然だったかもしれませんし、その頃すでに折からの風で
互いを見失う状態になっていたのかもしれません。

もちろんこれらはあくまで「推理」ですので念のため。


エンジンが不調になったのちの「釜山丸」についてわかっていることは、
乗員が口々に初志貫徹し旅順港に突入させてくれと懇願するのに対し、
指揮官である大角は彼らを説得し、帰投を決めたということです。

おそらく上の写真の血気盛んな兵たちは泣いて悔しがったでしょう。

 

第三次閉塞作戦の結果、多くの閉塞隊員が旅順に向かい犠牲となりました。

後世はこの作戦を冷徹に「失敗であった」と記しますが、戦争遂行当時、
国民の戦意を削ぐことと、なにより犠牲者を「無駄死に」扱いすることを
なんとしてでも避けたかった海軍は、作戦は成功だったということにして、
東郷司令長官自らが

「第三次閉塞作戦ハ’概ネ’成功セリ」

と「本当ではないが嘘でもない」という玉虫色の発表をし、
真実を確認しようのない国民をメディアごと、あえて言えば騙したのでした。

廣瀬中佐と杉野兵曹長の時のように、このニュースが伝えられるや、
「閉塞隊」「決死隊」などという歌が早速作られ、レコードが発売されました。

「釜山丸」の乗員たちは決してこれらの栄達には与ることができず、
口惜しい思いでこの熱狂を見ていたに違いありません。

調子の悪いエンジンで突入して何の効果が得られるのか、という
大角の冷静な判断はこの熱狂の中では必ずしも歓迎されず、むしろ
無謀と分かって突入して全員が戦死していた方がましだった、
という考えの乗員や海軍関係者もいたかも、いや、いたはずです。


しかしいつの頃からかは知りませんが、大角のこのときの判断は
「適切だった」と再評価されることになりました。

いつ、どのように、誰がそのような評価を下し始めたのでしょうか。
意地悪い言い方をすれば、その後大角が海軍の実力者として出世したから、
過去のこともいわば下駄を履かせてもらったという可能性もあります。

しかし、そういうしがらみと忖度の絡んだ経緯はともかく、
海軍という組織を始めとして、ともすれば科学的なデータに頼って下された
冷静な判断より、滅ぶことを厭わず邁進する姿を重んじるような世の中にあって、
突入中止は大変勇気がいる決断であったことに間違いはありません。


 

続く。

 

第三次閉塞作戦 反転命令に従った指揮官、従わなかった指揮官〜旅順港閉塞戦記念帖

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昭和2年発行の旅順行閉塞作戦アルバムを見ていて、ふと
軍服ではない肖像写真に目が止まりました。

第三次閉塞作戦 小樽丸指揮官

海軍少佐 野村勉

 

「小樽丸」は、12隻の船団のうち第3小隊を構成する閉塞船で、
野村はその指揮官として17名の乗員を率いていました。

ここであらためて、国会図書館の資料から、当時の記録、
「第三回封鎖」の部分を書き出してみたいと思います。
現代文に直しておきました。

二回にわたる旅順港口封鎖の壮挙は敵の士気を挫き心胆を奪った。
しかしなお閉塞の効果は十分とは言えない。
この間我が陸軍の作戦は刻々進捗して遼東半島に上陸の機は熟し、
海上輸送の保安上制海権の獲得を切要するに至った。

ここにおいて前二回の壮挙に比べ、さらに大規模計画を以て
三度港口の封鎖を行うことに決した。

乃ち(すなわち)林海軍中佐を総指揮官率いる

新発田丸、小倉丸、朝顔丸、佐倉丸、相模丸、愛國丸、
長門丸、三河丸、遠江丸、釜山丸、江戸丸、小樽丸

の十二隻より成る閉塞船隊を編成し、実行日を五月二日に選んだ。

閉塞隊は例の如く多数の駆逐隊に掩護せられ一路旅順港に向かって直航した。
この夜天極めて暗く海大に荒れて頗る難航であった。

各船は遂に互いの連携を失い、総指揮官は閉塞決行の不利を認め、
行動中止の命令を発したが、荒天のためにその命令も全隊に通ぜず、
閉塞船中朝日丸、三河丸、遠江丸、江戸丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸、
愛國丸の八隻は三日午前二時三十分頃三河丸を先頭とし、払暁までに
相前後して港口に驀進した。

敵の防備は前二回に比し倍加したばかりか、探照、砲撃共熟練の度を加え、
大小の砲弾は雨霰の如く船隊に集注し無数の敷設機雷は轟然として
周囲に爆発し、忽ち船舷を裂き、加うるに空には電光煌々として闇を破り、
海には激浪淘涌(げきろうとうゆう)奔馬の如く、その凄さ壮烈さは
名伏することが出来ない。

しかし我が諸船は、強射を犯し降雨を潜り衝天の意気を以て驀進し、
何れも港口附近に達して爆沈した。

かくて各船の乗組員は帰途に就こうとしたが、ある隊は敵弾のために
ボートを砕かれ、或は纔(わずか)に破船を艤(ぎ)したものも
澎湃(ほうはい)たる怒涛のために沈没する等壮烈悲愴を極め、
小樽丸、相模丸、朝顔丸の如きは全員還らなかった。

しかし封鎖の効果は前二回に比べて頗る良好であった。


最後の取ってつけたような一文は確かに嘘ではありません。
十二隻も投入し、そのうち八隻が自沈を成功させているのですから、
前と比べて「頗る良好」であることに間違いはないわけです。

 

さて、野村少佐(作戦時大尉)の指揮する「小樽丸」には
中止命令も全く届くことなく、荒天の中旅順港口に向かって行きました。

 

ところで、今回参照した旅順港閉塞の資料の中には、閉塞隊の中に6人いた
岡山県出身者の戦功を称えるために編纂された

「岡山県六勇士」

という教育読本がありました。
六勇士とは、白石 葭江少佐、人見仲造上等兵曹、影山鹿之助三等機関、
監谷巳資上等兵曹、羽原久右衛門一等水兵、そしてこの野村勉少佐の6人です。


そのバイオグラフィによると、野村勉少佐は明治2年3月18日岡山市野田屋町の生まれ。
頭脳明晰にして風姿純朴、全てに飾らない人柄で親孝行、
何事も謹直励行、友人とも穏やか誠実に付き合い、軽薄に流れず、
一旦心に決めたら中途にして挫折しない粘り強さを持っていました。

19歳で海軍機関学生に命じられるも、すぐさま「海軍兵学校生徒を命じられ」ています。
機関学校で優秀なものは兵学校に編入させるという決まりでもあったのでしょうか。
(こういうことからも機関科問題の根の深さが読み取れますね)

卒業後「比叡」で遠洋実習にはトルコへの航海を行い、
日清戦争が起こると「吉野」分隊士として豊島沖海戦に参加、
清国の軍艦「広内」の捕獲に際して戦功賞を与えられました。

第三次閉塞戦では第三小隊の二番船「小樽」指揮官となり、
5月1日午後6時、根拠地を抜錨。
2日午後7時、「小樽丸」は護衛隊と別れて前進を続行。

しかしながら午後10ごろから海が荒れ出し、

怪雲月を呑んで海上暗く怒涛愈々高く
狂乱怒涛と化し、船の操縦意の如くならず

各隊の序列は乱れ脱落するものも多く、閉塞船隊総指揮官林三子雄中佐は
中止の命令を降し、深夜2時に至るまで通信の努力を続けましたが、
その間に八隻の閉塞船は前後して旅順港に突入していきました。

しかしながら、

又海軍大尉野村勉の指揮せる九番船小樽丸は
二、三僚船の反転するを認めしも
尚二隻の前進しつつあるを見て之に隋し

野村指揮官は、帰還する船があるのも目撃しましたが、
命令が伝わらずに直進していく船があるのを見て
彼らを追い、作戦を遂行することを決断したのでした。

そしにて完全に混乱状態に陥った結果、
「小樽丸」「遠江丸」「相良丸」「江戸丸」「愛國丸」の五隻が
期せずして「不規則なる一団を作成し、互いに前後して旅順口を」
目指していくことになります。

その後については現代文に翻訳します。

野村大尉の指揮する九番船「小樽丸」は
港口の適当と思われた地点に達して爆沈を用意した。

指揮官が総員を上甲板に集めて人員を点検したところ、
影山一等機関兵が負傷しているだけで其の他は無事なのを確認し、
爆発を命じ、総員万歳を三唱して退去しようとした。

そのとき散弾が爆発し、一番短艇が奪い去られてしまったので
代わりに三番艇に乗り、指揮官附笠原平治(三郎)中尉が再点呼を行ったところ、
野村指揮官及び兵員二名がいなくなっているのに気づく。

そこで大声で「野村大尉!」などと連呼したが応答はなく、
そのうち浸水はすでに上甲板に及び、狂浪奔騰のため
遺骸を捜索することもできなかった。

爆沈した「小樽丸」の船上からはすでに少佐の姿は失われていたといいます。
あるいは巨弾が飛んできて海中に身体を掠め去ったものでしょうか。

「小樽丸」指揮官附 

海軍大尉 笠原三郎

笠原中尉ら何人かの乗員は「小樽丸」爆沈後、
海中にしばらく浮沈し、寒威凄まじい海中では次第に身体は自由を失い、
虚しく海底に沈んでいった、と「岡山六勇士」には書かれていますが、
これは教育用の資料なので、彼らの一部が捕虜になったことは書かれていません。

しかも、乗艇の浸水がひどく、毛布等を以て破孔を填塞し
総員全力に務めたが効果はなかった。

近くに端艇が浮遊していたので、笠原中尉等は波に逆らって泳進し
これを点検したが、損傷が甚だしく使用不可能だった。

此の間も弾丸が雨のように降り注ぎ負傷するものも少なくなかったが、
破艇を操縦して1時間ほど撓漕していたところ、一瀾(いちらん、波)
が横から破艇に襲いかかり艇体は転覆して十五名の乗員は波間に漂った。
大機関士岩瀬正以下下士卒七名は人事不省のままに翌朝
敵の収容するところとなった。

笠原中尉が発見されることはなく、戦死として大尉に昇進しました。
27歳でした。


「小樽丸」の乗員。
捕虜になった以外は生還せず、当時は「全滅」とされていました。

中列右から三番目が指揮官野村大尉、その左が笠原中尉です。

第三次閉塞佐倉丸指揮官

海軍少佐 白石 葭江(しらいし よしえ)

第3小隊の三番船であったのが「佐倉丸」です。

偶然第3小隊の3人のうち2人が岡山出身だったということで、
白石少佐について国会図書館の「旅順口閉塞岡山六勇士」には
以下のように書かれています。

「佐倉丸」率いた白石大尉の名前「葭江」は、7歳の時に
白石少佐が東京の白石という人に養子にもらわれるまでの苗字で、
彼はもともと「葭江良智」という名前でした。

明治23年海軍兵学校に入学、21期を32名中7番で卒業し、
日露戦争開戦時は大尉として「浅間」分隊長を務めていました。

閉塞隊の隊員は志願者から選ばれましたが、指揮官は
上から選抜され、命令を受けてその任に就いています。

白石も閉塞隊第3小隊佐倉丸指揮官に選ばれ、6時に根拠地を出発、
午後10時に下された中止命令を受け取ることなく、旅順港に突入し、
敵の集中砲撃の中、全速力で港口を目指しました。

ここで少し驚いたのが、白石少佐(とおそらく乗員たち)は
防材を衝破して水道に侵入し、目的地附近で投錨し、閉塞船を
自沈させる作業を終えると、

(上陸後)黄金山砲台に突撃して孤軍奮闘壮烈な戦死

を遂げた、と当時の美文調報告書で書かれていることです。
ところが、実は

その後「佐倉丸」乗員は上陸して露軍と交戦したが、
白石ら重傷者は捕虜となり、白石は旅順開城前に戦病死

していたのです。

白石少佐らが捕虜になり旅順のロシア軍収容病院で死亡していたことは、
日露戦争終結後の1905年に判明しました。

ということはこの本は旅順開城前に発行されたのか、と考え、
念のため「岡山六勇士」の発行年月日を調べてみると、
なんと昭和18年、旅順閉塞戦からほぼ40年後じゃーありませんか。

発行元は岡山県教育会、現代の教育委員会のようなもので、
非売品とあるからにはこれは学校の生徒に向けて教育目的で製作された
「戦意高揚のための教科書」であることは間違いありません。

「生きて虜囚の辱めを受けず」

の戦陣訓(昭和16年発行)との齟齬を生まないようにとの忖度から、
白石少佐らが重症を負っていたとはいえ虜囚の身で死んだことを
糊塗する文章となったのであろうと思われます。

ただし、ロシア軍が白石少佐始め「朝顔丸」指揮官向菊太郎、
「相模丸」指揮官湯浅竹次郎少佐ら36名を白玉山麓に埋葬していたことまでは
隠さずにここでも言及しています。

「佐倉丸」で指揮官附だった

海軍大尉 高橋静

は兵学校27期。
指揮官とともに戦死したときには27歳でした。

 

 

さて、ここで第二小隊の一番船であった「長門丸」指揮官の写真が来るところですが、
またしても「旅順港閉塞戦記念帖」にはそれが割愛されているのでした。

中止命令に素直に従って引き返した、つまり成果を挙げられなかった指揮官か?
とまず疑い、調べてみたところ、やはり「長門丸」は「作戦中止」となっていました。

作戦前の「長門丸」乗員全21名。
刀がなかったのか、出刃包丁を握りしめている人もいますね。(右前)

この撮影日も晴天で、後列の人たちの顔がハレーションのため見えません。

真ん中が

第三次閉塞戦長門丸指揮官

田中銃郎海軍少佐(当時)

左、

 

であろうと思われます。
田中大佐(最終)のデータを調べたところ、

04年5月1日 長門丸を指揮して第三次旅順閉塞に使用

   5月2日 作戦中止

とありました。
この示す意味は、作戦当日中止を受けて帰還したということです。

総指揮官の反転命令を、たまたま近くにいたらしい「長門丸」は
受け取ることができ、命令に従って反転し素直に帰投しました。

実はこの「素直に帰投した」船は、今まで語ってきた中では
「長門丸」だけだったことになります。

その結果、田中銃郎少佐の写真は閉塞作戦記念帖には掲載されず、
ついでに?指揮官附きだった山口毅一中尉も、写真はもちろん、
名前すら「毅市」と誤植されたままであるという(涙)。


田中銃郎少佐はその後中佐まで昇進していますが、最終任務地が
「佐世保測器庫主管」・・・・・・・どう考えても閑職であり、
山口中尉に至っては履歴にすら閉塞作戦参加が書かれていません。
最終階級はやはり中佐、「浅間」の副長が最終任務でした。

作戦中止を決断して帰ってきても、本人の才覚とずば抜けた頭脳、
(兵学校での恩賜の短剣組であったこと)
そしてもしかしたら世渡りのうまさで海軍大将にまでなってしまった
大角岑生のような例は、特殊の類に属すると思われる彼らの「その後」です。

 

もし、反転命令を受けても「朝顔丸」「小樽丸」のように仲間を見捨てず
旅順に向かっていれば、命はそこで尽きたかもしれませんが、その代わり
「勇士」として死後その人格経歴の素晴らしさを讃えられ、さらに運が良ければ?
廣瀬のように軍神として「芳名」を歴史に残すことができたでしょう。

そういう時代であり、軍隊とはそういう組織であるとわかっていても、
閉塞作戦以降の長い長い(そして退屈で屈辱的な)海軍での生活を、
あのとき素直に反転したことを一生心のどこかで悔いながら過ごしたかもしれない
田中少佐のことを思うと、なんともやるせないような思いが過ぎります。

 

続く。

 

 

 

アメリカ滞在〜アメリカ人絶賛マスク着用中

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毎年渡米を恒例としている我が家ですが、今年の渡米がどうなるか
まったくわからない状態を経たものの、結局今
東部アメリカのホテルに到着してこれを作成する運びとなりました。

出発から到着、そして一日目の街の様子すべてにおいて、
これまで見たことのない光景が展開していたので、ご報告です。

まず成田空港に到着したとき、駐車場がガラガラで、ターミナルの中には
不気味なくらい人がいないのにさっそく驚愕します。
電光掲示板に延々と続く「欠航」の文字。

少ない乗客数で便を調整しているため、わたしの乗る飛行機も
何度も変更され、当初の予定の羽田出発が成田になりました。

夏休みに入った土曜日の昼間の成田コンコースがこの有様。
ブランドのブティックは全部営業していないので、廊下が真っ暗。

飲食店もほぼ閉店で、スターバックスはかろうじて営業していましたが、
わたしたちが入ったときには他に客がいないという異様な状態でした。

空港のフリーWi-Fiがとんでもなく早かったのはありがたかったです。

空港会社のラウンジは、ビジネスクラス用を閉鎖していたため、
おかげで初めてファースト用ラウンジを体験できました。
ラウンジを統合していても人はまばらで、ソーシャルディスタンス取れまくりです。

窓から見えるのはミガメペイントの飛行機ははハワイ行き専用の
新型エアバス A380型機「FLYING HONU」(空飛ぶウミガメ)。
新型コロナウイルスの影響で全く飛ぶ機会がなくなってしまったので、
今は成田から約90分間の遊覧飛行という企画に使われているのだとか。

FLYNG HONUによる遊覧飛行企画

真っ昼間にこんなにたくさんの駐機している飛行機を見るのは初めてかも・・。

ラウンジでは麺類をオーダーできるカウンターがあって、
MKはカレーうどんを頼んでいました。

そして搭乗が始まりました。
これまでと違うのは、シートのクラス順ではなく、
後ろの席から搭乗していくことです。

機内での人の密集を防ぐためですが、どちらにしても
人数が少ないのであっという間に登場は完了しました。

食事を機内で配膳するのを控えているせいか、食器は陶器でなく
プラスチックの蓋つきで出てきました。
かなりの時間冷蔵されていたと見えて前菜は味がわからないくらい冷えていました。

MKがステーキの洋食を頼んだところ、数が足りないかもしれないといわれてびっくり。
こんなに人数が少ないのに足りないかも、ってどれだけ搭載数が少ないのか。

メインは流石に暖かいものが陶器で出されました。

アメニティは品質落とさず、リップクリームと保湿剤は「SHIRO」のもの。
最近SHIROの洗剤を愛用しているのでうれしかったです。

ただしスリッパはロゴすら入っておらず、明らかに品質が落ちていました。

航空会社も色々と苦しいのだろうと思われます。

映画は普通にやっていましたが、テレビガイドや本は全て撤去されていました。
以前にここでもご紹介したことのある「世界一いい人」フレッド・ロジャースを
トム・ハンクスが演じた

『幸せへのまわり道』(A Beautiful Day in the Neighborhood)

を観ました。

「聖人」ロジャースのいい人エピソードで感動させるようなありがちな展開とは
ちょっと違った(特にラストシーン)捻りのある、妙に心に残る作品でした。

とにかくトム・ハンクスが演じるミスター・ロジャースは一見の価値ありです。
造形が全然似ていないのに、しぐさや声がそっくりでだんだん本人に見えてくるという。

機内で寝て起きてテレビをつけたら「1917」をやっていたのに気づきました。
しまったー!と慌てて観はじめましたが、途中で到着してしまいました。

ちょうど出発の日からレンタルが開始される予定でしたが、アメリカでは
HuluもAmazonプライムも日本のアカウントでは視聴できない仕組みなので、
帰るまでお預けです。

そして予定より早くシカゴオヘア空港に到着。
通路にこんなたくさんの車椅子があるのを見るのも初めてです。

オヘア空港ではターミナル間の移動の電車すらストップしていました。
どうするかというと、乗客全員バスで移動です。
レンタカー送迎用の椅子のない、やたら運転の荒っぽいバスに乗せられ、
カーブごとに必死で体を支えながら目的のターミナルに移動。

コンコースの人影もまばらです。(冒頭写真もオヘア空港)



ポラリスラウンジはもちろん、すべての航空ラウンジは閉鎖中です。
そういうところで働いていた人はどうなってしまったんだろう・・・。

ベートーヴェンの生誕記念周年だったようですが、演奏会も無観客で行うのでしょうか。

ところがトランジット機が出発してから離陸まで、これが長かった。
エプロンで何機も他の飛行機が行き来するのを観ながら1時間は待たされました。

便数が減っているのにどうしてこんなことになるのか・・・。
そのせいで飛行時間がきっちり2倍になり到着は1時間遅れました。

前回雪で欠航になったオヘア行きですが、この日の気温は28度。

目的地ピッツバーグに到着したのは夜の9時でした。

到着するなりびっくりしたのは道ゆくアメリカ人がちゃんとマスクをしていることです。

冬ごろはまだマスク着用が義務付けられていなかったので、
MKによると東洋人以外は誰もしていなかったそうですが、今となっては
どの州でも建物に入る際、そして搭乗の際、マスクをしていなくては
入場入館搭乗を拒否されるという強い態度を取っているので仕方ありません。

予約したホテルもマスクしていない人は入館禁止になっていました。

たとえばANAでは「お願い」という形でマスク着用を要請しています。
日本人はお願いされれば普通に従うので、強要の必要がありませんが、
アメリカ人にはもともとマスクの慣習がないせいか、そこまでしないと
色々理由をつけて守らないからなのだと思われます。

今回、ANAの機内で食事の後マスクをしないでうとうとしてしまったのですが、
FAさんに起こされて着用を要請されました。

なんと、ホテルの横は野球場でした。
MLBの慣例として7回終了後に流される
♫Take me out to the ball game〜
という歌が通常であれば聞こえてくるほどの近さです。

Covidが蔓延していなければわたしもここには泊まっていませんが、
(前回のところが隣が養老院であるせいで閉鎖になった)
もし通常の状態ならここは絶対に選んでいません。

ゲームがあるたびに周りは人と車で溢れるような場所だからです。

PNCパークはピッツバーグ・パイレーツの本拠地です。
野球音痴のわたしは今回初めてその名前を知ったわけですが。

この日(土曜日)球場では無観客試合が行われていたようで、
その夜テレビを観ていたら、打球をキャッチしようとした選手二人が
激突して一人が意識不明になったというニュースをやっていました。

超濃厚接触です。

選手はさすがにノーマスクですが、審判や監督はマスクをしており、
昼間部屋にいても試合が行われていることなど窺えない静けさでした。

しかし、画像を見ていると、球場内では観客の歓声だけを大音量で流しているようでした。
選手のモチベーションが静かすぎるとダダ落ちするからだと思われます。

ミスターロジャースの映画は彼の番組と同じく模型の街が登場しますが、
その中で欠かせないのがこのケーブルカーでした。
ミスターロジャースはピッツバーグで人生の大半を過ごし、ここで亡くなっています。

部屋からはこのケーブルカーがよく見えます。

着いた翌日アップルにiPhoneを買いに行きました。
借りた車に付いてきたAndroidのGPS(カーナビ)が度々クラッシュし、
怖くてとても使えないので、SIMフリーを買って短期縛りのSIMを買い、
帰るまで使って帰国してから入れ替えることにしたのです。

行って並べばいいだろうと思ったら、予約してくれと言われたので
その場で予約を入れて待ち時間にお昼を食べに行きました。

人気のお店なので予約しなくていいのかな、などと言いながらいくと
なんと、土曜日のお昼なのにこの通り。
アメリカでも飲食業はまだ以前の状態には程遠いようです。

奥では女性ばかりの団体がティーパーティーをしていましたが、
それ以外の客はわたし達ともう1組だけでした。

ブランチサービスがあったので、野菜たっぷりのオムレツを頼みました。
MKのプルドポークのライス乗せも美味しかったようです。

モール入るにもマスク着用が義務つけられています。
モール内では早速マスク専門店があちこちにお店を出していました。

こうなると皆マスクでのお洒落を楽しむのがアメリカ人。
女性はほとんどが医療用ではなくとりどりの柄物をつけており、
男性は拘らない人も多く普通のブルーマスクが多いですが、
アフリカ系の若いお洒落な男性はほとんどが黒いマスクで、
それがまた精悍でワイルドな彼らの雰囲気に良く似合っています。

スターバックスではスマイルマークもマスク着用。

少し前までアメリカ人はマスクをしないのが常識だったのに、
わずか半年で変われば変わるものです。
彼らにとってマスク着用は大きな問題らしく、夜のローカル番組では
あるモールで入り口に立って調査したところ、着用率は93%だが、
まだどうしてもしない人がいる、というようなニュースをやっていました。

マスクをしていない人を捕まえて、

「なぜマスクしないんですか?」

「私マスクが嫌いなのよ」

という馬鹿馬鹿しいやりとりを報じています。
しかし、マスク嫌いでもしないとどこにも入れないので、仕方なく
皆お店の中ではマスクをしているのだとか。

彼らにとって社会からマスクを強要されるという今回の事態は
ある意味大きなカルチャーショックとなっているようです。

日本でもいまだにマスクでコロナは防げないとかいう理由を掲げて
マスク不要論を叫んでいる人たちも一定数いるようですが、
そんな人はとにかくアメリカに来てみるとよろしい。

確かにするしないは個人の自由ですから誰からもとがめられませんし、
マスク警察(民間)もいませんが、そのかわりまず交通機関利用はできず、
店では入り口で入場お断りされ、買い物すらまともにできません。

スーパーマーケットでも入り口で入場制限をしており、
一定数の人が入るとあとは1組出ていくごとに1組入れるシステムで、
入り口にはソーシャルディスタンスを考慮した「停止線」が引かれ、
そこで待つようになっており、皆静かに並んでいました。
場内で使ったカートは出口で係が受け取り、消毒して戻しています。

いったんこうと決めると徹底的にやるのがアメリカ社会です。

 

 

 

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