ボストンに2019年9月まで存在した第二次世界大戦国際博物館の展示紹介、
今日で最後となります。
前回、連合軍がドイツMCR-1というラジオをビスケット缶に忍ばせて
普及させ、BBCの放送から暗号を送っていた話をしましたが、
冒頭のこのベビーカーは、そこが二重になっていて、このMCRラジオを
こっそり隠しておく収納場所になっていました。
今のように赤外線で外から検査することができない時代ならでは。
バイオリンケースにレジスタンス道具一式を収納し持ち歩いていたのは
フランスマルセル・ヴァンデンベルーエというレジスタンスでした。
前回紹介したイギリス製のMCRラジオのほかに、フランスでも
通信用の短波ラジオが作られてレジスタンスに密かに持ち歩かれていました。
この短波ラジオは皮のスーツケースに隠されて持ち運ばれ、
1944年6月のノルマンディー侵攻の前とその最中に、
随時メッセージを受信してレジスタンスグループに情報を伝えたものです。
レジスタンスグループは、連合軍が上陸作戦でビーチに着陸すると同時に、
通信による妨害活動によってドイツ占領軍に混乱を起こし上陸を支援しました。
レジスタンスに命を賭けた人々を顕彰するためのプレート。
この三人の女性は名前もわかっておらず、伝えられていません。
ただわかっていることは、彼女らは1943年6月にフランス北部のリールで、
レジスタンスのメンバーとして射殺されたということだけです。
彼女らの死を示す大理石のプラークの文字、
Reconnaissance「偵察」とは「認識」を意味しますが、
同時に謝辞や感謝という意味を含んでいます。
いわゆる「赤いポスター」としてヨーロッパでは有名な
ナチスドイツが制作したレジスタンス23名と、
彼らの処刑後の遺体写真が掲載された宣伝ポスターです。
「解放者?犯罪集団による開放だ」
という赤い文字が踊っています。
首魁とされるミサック・マヌシャンはフランスのレジスタンスの英雄でした。
赤いポスターの写真
生まれはオスマン帝国で、アルメニアの移民です。
アルメニア人虐殺(1915〜6)の生き残りである彼は
ドイツ支配下のフランスで抵抗運動に身を投じました。
彼は仲間と一緒に、1943年にSSのユリウス・リッター将軍の暗殺を含め、
パリのナチス将校とその根拠地に対してほぼ30回の攻撃を行いました。
しかしながら、彼は1943年11月、フランスのヴィシー警察によって
パリ南部の郊外で捕らえられ、拷問と結果が最初から決まっていた裁判の後、
1944年2月21日に、22名のグループメンバーととも処刑されました。
「赤いポスター」のメンバー写真は、いずれも背景が採石場のような同じ場所で、
全員が悲痛な表情をしていることから、処刑直前に撮られたのでしょう。
彼らの死後、ナチスはパリ周辺でこのポスターを貼りました。
マヌシャンは中央の赤い三角形の先端に描かれています。
このポスターが強調しているのは、マヌシャンはじめ抵抗グループが
フランスへの移民で構成されていたことです。
このことを、ナチスはフランス人の嫌悪を掻き立てる材料にしましたが、
パリの人々はこっそり誰も見ていない時を見計って、
ポスターの下に花を置き、またはフランス国旗を貼り付けました。
フランス人レジスタンスのジョルジュ・ブランの模擬処刑風景です。
レジスタンスとして捕らえられ、逮捕後はダッハウに移送されて、
情報を提供するように何回もこのような「模擬処刑」で脅かされましたが、
がんとして供述を拒み続けました。
彼の表情をアップにすると明らかにニコニコ笑っているのですが、
これは覚悟ができていたのか、それともこれが「模擬」であることを
何回めかの経験でわかっていたからでしょうか。
この写真は彼が微笑んでいることから有名になり、模擬処刑の現場は
今でもそのままの形でみることができるそうです。
フランスで発行された「アンチ・ナチス」ポスター。
「彼に仕える裏切り者」
と書かれています。
彼とはもちろん、アドルフ・ヒトラーのことでしょう。
この紙片は、「1789年の革命家にふさわしい自分を示せ」そして
ドイツのフランス占領を妨害することを人々に求めています。
1789年7月14日はバスティーユ襲撃が起きた日です。
フランスでは7月14日を革命記念日としています。
こちらは、1792年、プロイセン相手に戦い勝利した『ヴァルミーの戦い』を
思い出して立ち上がれ、という檄文が書かれています。
いずれも人々の手から手へ、こっそりと渡されるために印刷されたのでしょう。
イギリスは軍直下の特殊作戦執行部隊(SOE)のエージェントを
占領下フランスに忍び込ませてレジスタンス活動を行わせていました。
この、まるで女優のような美しい女性もその一人で、彼女、
エリアーヌ・ソフィー・プルマン少尉(1917ー1944)は、
占領下のフランスに潜入し活動を行なっていました。
彼女は1943年に特別作戦執行部に加わり、戦闘や武器の扱い、
生存技術や無線通信、爆破装置の使用法について習得した後、
ハリファックス爆撃機から空挺降下によってフランスに潜入、
宅配便業者を装ってレジスタンスが使用する無線機器の輸送を手伝いました。
ゲシュタポに捕らえられた後は拷問を受け、
他の三人の女性SOEエージェントとともに(英国人2、仏人2)
ダッハウまで輸送されて銃殺刑に処せられています。
これはエニグマでもスパイ機器でもありません。
第二次世界大戦中のテレタイプ端末です。
印刷電信機、テレプリンタ(英語: Teleprinter)、TTYともいい、
今日ではほとんど使われなくなった電動機械式タイプライターで、
簡単な有線・無線通信を通じて2地点間の印字電文による
電信(電気通信)に用いられてきました。
メインフレームやミニコンピュータのユーザインタフェース用端末としても使われ、
いわゆるパソコン通信も、TTYによる通信方法を応用したものです。
さて、ここからはナチスドイツの戦時下ポスターです。
「SCHWEIG!」とは「沈黙!」という意味で、もちろん
スパイに聞かれるようなことを喋ってはいけないという意味です。
カフェで楽しそうにドイツ軍の軍人が一般人とおしゃべり。
その横で新聞を読むふりして聴いている人が・・・・。
「スパイに注意!会話をする時には気をつけて!」
スペイン語で
「イギリス、自由の擁護者」
と書いてありますが、どうも状況がよくわかりません<(_ _)>
艦船を狙っている爆撃機がRAFのものであることはわかりますが.
アメリカで戦時中発行された戦時国債原本(一番下)、
架空の主婦キャラクター「ベティ・クロッカー」が呼びかける
戦時中の美味しくてヘルシーな料理の作り方、そして
一番上はアメリカでもあった戦時中の配給チケットです。
「ロージー・ザ・リベッター」現象で、戦地に行ってしまった男性の職場に
女性が進出してきた頃の写真です。
ワシントンでは三人の女性がアメリカ初の女性の郵便配達人になりました。
日本では隣組で竹槍を突く練習をしたものですが(って知りませんけど)
アメリカでは女性でもちゃんと本物の銃で訓練を受けていました。
写真はコネチカットのブリッジポートで、地元警察から
サブマシンガンの撃ち方講習を受ける女性たち。
占領された北ヨーロッパを撃墜した連合軍の航空兵の約5000人が、
地元住民の助けを借りて無事に無事に祖国に帰ってきました。
最大12000人のフランス人が彼らを隠し、傷を治療し、
場所から場所へと渡し、ピレネー山脈を越えて中立的なスペインへと導きました。
写真の女性、26歳のバベット・ロシェもこの「地下鉄道」の一人でした。
英語で「Underground Railrord」というと、単に地下鉄のことではなく、
もとも19世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、
奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした
奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織、また、その逃亡路を指します。
第二次世界大戦時の連合国の逃亡網をこれをとって
「地下鉄道フランスバージョン」と呼びますが、アメリカ人ならわかる言い回しです。
さて、というわけで、これでとった写真の分だけはご紹介を終わったわけですが、
最後にこの閉館してしまった博物館について書いておきましょう。
ボストン空港からマサチューセッツターンパイクで20分くらい走ると、
ボストンのベッドタウンでもあるネイティックという街があります。
1999年にオープンし、第二次世界大戦にまつわる七千点以上の所蔵物、
その中には完全な形で保存された103体のマネキン、ルーズベルトの手書きの手紙、
そして日本の軍艦の旗やドイツ軍のドローン「ゴリアテ」を含み、
それこそ国際的なコレクションにおいては世界一とも言われた、
第二次世界大戦国際博物館(THE INTERNATIONAL MUSEUM OFWORLD WAR II)
は、2019年9月1日、予告なく閉鎖されました。
2017年、つまりわたしが訪問する少し前には、ネイティックの展示場の三倍の面積の
新館に移るための準備をしていたということでだったのですが。
貴重なコレクションの多くは、エスティ・ローダーの後継者であり、
世界ユダヤ議会のプレジデントでもある、
にすでに売却されていたというのが闇の深そうな一件です。
この件を報じるボストングローブ紙の記事を抜粋しておきます。
第二次世界大戦国際博物館は、億万長者のロナルドS.ローダーとの
法的係争中、ある週末に突然閉鎖されました。
「これは突然で非常に予想外でした」
と20年前に博物館を設立したケネス・W・レンデル館長は月曜日に声明を発表しました。
「私は非常に失望し、当惑している。」
コレクションの将来は現在不明です。
2017年、レンデルは、現在の展示スペースの3倍の広さを持つ
新しい建物を調達する計画に失敗しています。
2018年末ローダーはコレクションを購入し、それを博物館側に
貸している形で展示を許すという契約を結んでいたのですが、
どういうわけか急にそれを別のところに移すことを決めたらしいのです。
展示品のほとんどは、レンデル氏とその妻が長年かけて買い集めたもので、
それを富豪でありユダヤ人社会で力を持つローダーに召し上げられた、
ということになり、安定した展示とボストンでの博物館オープンを目指すレンデル側は
約束が違う、として裁判で争っていたのですが、その決着がつかないまま、
ローダー側はニューヨークの第三者に移管すると決めてしまったようなのです。
結局どちらにしても見学者の多くが社会科見学の生徒だった状況で、
寄付によって新しい箱が作れなかったことがこの結末につながったということでしょう。
これらの充実した展示物の行方が気になります。
なんらかの形で公開がされることになるのを祈りましょう。
第二次世界大戦国際博物館シリーズ 終わり