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モニュメンツ・メンとシュレーゲル中佐・ナチスの美術品略奪〜ウィーン軍事史博物館

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2019年4月に公開された映画「ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ」
をご覧になった方はおられるでしょうか。

ヒトラー対ピカソとはまたなんとセンスのないタイトルだろうと思ったら
原題は

HITLER VERSUS PICASSO AND THE OTHERS.

で、原題通りでしたすみません、と言いたいところですが、
「AND THE OTHERS.」を付けていないのでわたし的にはアウトです。
むしろ映画では「そのほか」がヒトラーと対峙する構造が描かれているわけですから、
前半だけ書き出しても原題の意図に添っているとは言い難いと思います。

語尾の「.」も決して無自覚に付けられたものではないでしょう。

あえてそのまま訳せば

映画「ヒトラーv.sピカソそしてその他の人々。」


映画を見れば、「その他」がピカソ以外の画家たちであるという
簡単な話ではないことがお分かりいただけると思います。

予告編

 

タイトルのピカソの名を出してきたのは、彼が、ヒトラーのナチスドイツに
退廃芸術と名指しされた一連のモダンアート(当時の)の作者の一人であり、
映画の最後に、

「芸術家はこの世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ。
無関心では許されない。
絵は壁の飾りではなく敵を攻撃し防御するための手段なのだから」

という彼の言葉をいわば「決め台詞」として使用したからだと思われます。

わたしも、自分の作品と自分自身を政治勢力により迫害されたピカソが、
そのように考えるようになったのは当然だと考えますが、だからといって
政治に無関心な芸術家の作品の価値の有無についてはピカソと意見が異なります。

たとえばアナーキズムから共産主義に転向、はてはフランコ政権に擦り寄った
政治的に無節操なダリの作品はダメなんでしょうか。

つましい地方官吏に一生甘んじた小市民、マグリットの作品には価値がないでしょうか。

そのほとんどが権力者のパトロンを持ち、彼らの肖像を描くことで
その活動の場を得てきたルネッサンス期やバロックの作品は・・・?

ピカソに言わせればたとえば権力者がパトロンとなることで生まれた芸術は
全て失格ということになりますが、わたしはその考えには与しません。

 

それはともかく、この映画は、予告編からもお分かりのように、
ヒトラーとナチスドイツが政権をとっていた時代、ロスチャイルド家や
ユダヤ系から、あるいは美術館から略奪された美術品とその行方、
そして自らの美的思想を取り入れた理想的な国家建設を行うために
彼らがやらかした迫害と、それに立ち向かう人々を描いたドキュメンタリー風作品です。

 

第一次世界大戦後のヨーロッパの美術界にとっての不幸は、
敗戦国ドイツを率いるカリスマ的独裁者が、美術と美術界に対し
アンビバレンツな一種の執着を持っていたことでした。

有名な話ですが、アドルフ・ヒトラーは若い頃画家志望で、
ウィーン美術アカデミーを受験し失敗しており、このトラウマが
その後政治で権力を握ったときに歪な形で発散されることになります。

自らが芸術の庇護者であるという傲慢な自己肯定の下に、ヨーロッパ中の、
ことに迫害したユダヤ系の所蔵美術品を略奪という形で収集したのです。

ウィーン旅行した時に泊まったヒルトンホテルの横に
美術学校があり、ここでもご紹介したのですが、ウィーンを去ってから、

「あそこヒトラーが受けて落ちた学校だよ」

とMKに教えられました。

この学校が、多少下手でも大目にに見てこの受験生を入学させておけば、
(残されている作品を見る限り、建物は描けるが生物がダメだったらしい)
凡庸な画家が一人生まれる代わりに独裁者は誕生しなかったと思うと胸熱です。

 

またやっかいなことに、ヒトラーだけでなく、ヒトラーの右腕ゲッベルスも
(それでヒトラーとの関係が険悪になったというくらい)争うように
芸術に執着し、手段を問わずに美術品蒐集を行っていました。

その強欲さはヒトラーを上回ったといいます。

略奪した「獲物」はまず国家に「上納」され、そこから分配が行われました。
主にロスチャイルド家から没収した美術品から、ヒトラーはフェルメールなど、
40点を受け取りましたが、ゲーリングはその残り、700点を自分のものにしました。
彼の所有するコレクションは今の1800万ユーロ、21億円強相当額に上りました。

ただしちょっと微笑ましいことに?彼はドイツ人特有の几帳面さから、
自分のコレクションの全てを細かく目録にし、作者、来歴、説明、日付、
画商まで事細かに記録していたため、戦後これがニュールンベルグ裁判での
彼の起訴をたやすくしたといわれています。

 

ところで彼らがこのように美術収集に血眼になった理由はなんでしょうか。

それは一種の貴族コンプレックスからきたものと言われています。
いかに政権を握り権勢を誇っても、ヒトラー以下ナチス高官は
出自の点からいって所詮成り上がりにすぎません。
ゲーリングなどはそれを払拭するため、ドイツ貴族の娘を娶っていました。

そんな彼らも、広大な古城を本物の美術品で飾り立て、
狩をして音楽を楽しむというドイツ貴族のような生活をすることで、
自分もその同じ地位に登った気になれたということなのでしょう。

かれらは戦争中、略奪した蒐集品を廃坑などに隠していました。
フェルメールの「天文学者」も、ヒトラーの隠し場所から見つかっています。

そこでふとわたしは「ナチスの略奪」の持つ二律背反に気付きました。

略奪は、組織的にそれらを秘匿することで、連合軍の爆撃から、
結果的に人類の宝を守ったという面もあるのではないか。

 

ザルツブルグにいったとき、観光で訪れた大聖堂で、かつて連合軍が
熾烈で情け容赦のない無差別爆撃を行なったことをわたしは知りました。

アメリカ軍の爆撃で壊滅したというこの大聖堂を案内してくれたガイドは、
わたしが、

「同じキリスト教徒なのに、教会に爆弾を落とせるものなんですかね」

というと、

「アメリカ人はみな教養が低いから」

みたいに言い捨てましたが、これは偏見というものでしょう。
もちろんアメリカ人には

「どうせこいつらみんなナチなんだろ?いやっほーい」

とばかりに爆弾を無差別に落とすバカもいっぱいいそうですが、
彼の国の美点は、どんな状況でも時局を俯瞰し、人類の未来を見据える者が
封じられることなく声を上げることができるというその自由さにあります。

第二次世界大戦中、戦火から芸術品が失われるのを守るために
戦地で命をかけて活動を行なったアメリカ軍の部隊がありました。

映画「モニュメンツ・メン」(邦題”ミケランジェロ・プロジェクト”)

で描かれた「美術品を戦火から守れチーム」は、アメリカ軍に実在した部隊、

MFAA( Monuments, Fine Arts, and Archives)

のことで、美術館のディレクター、キュレーター、美術史家、
志願者で構成され、ハーヴァードやイエール、プリンストン、ニューヨーク大学などの
名門大学の教授も400名のメンバーに含まれていました。

MFAAは1943年に結成され、ヨーロッパ戦線に部隊として赴き、
美術品を見つけて救出、保護を行うという任務にあたっていました。

冒頭映画によると、歴史的に重要な美術品のある場所を地図で特定し、それを
爆撃機のパイロットに渡して爆撃を避けるようにという指示も行ったそうです。

「天文学者」を含むヒトラーの宝を炭鉱から見つけ出したのもMFAAでした。

 

しかしながら、物事には何事にも二面性があります。

ことに戦争というのは、つまるところ利益の相反する国家同士の争いなので、
一つの事象に対し双方からの見方があって、どちらが正しいとは言えないはずですが、
歴史上何が正義かを決めてきたのは戦争に勝った側であることはご存知の通りです。

況や戦後戦勝国によって絶対悪とされたナチスの関わることにおいてをや。

 というわけで「ナチスの成した善」などという言葉は、戦勝国が決めた戦後価値観では
ありえない(あるいはあってはならない)こととされているのですが、
わたしの見学したウィーン軍事史博物館には、敢えてそのあり得ないことを
ひっそりと後世に伝える、こんな展示物が存在します。

ウィーン軍事史博物館の一隅でわたしが対面したこのデスマスクは、
ドイツ国民党のユリウス・シュレーゲル中佐(1895−1958)のものです。

第一次世界大戦時代から様々な戦地を転戦してきたシュレーゲルは、
装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」の修理部門の指揮官として、
1943年秋にモンテカッシーノの戦いに参加することになりました。

 

モンテカッシーノの修道院には、貴重な芸術のコレクションが収蔵されていました。

盲人の寓話

その中には、ラファエッロの「聖母子像」、ブリューゲル(父)の「盲人の寓話」、
ティツィアーノの「ダナエ」パルミジャニーノの「アンテア」なども含まれます。

その他、イタリアの芸術家の油絵と水彩画、70000冊以上の書物。
千年の歴史を持つ図書館には1200の手書きの歴史的文書が所蔵されていました。

 

特筆すべきは、シュレーゲル中佐が美術史家でカトリック教徒だったことです。
つまりモンテカッシーノ修道院の歴史的および宗教的価値についても、
非常に専門的な知識を持っていたということになります。

彼はモンテカッシーノ修道院とその所蔵物が、予想される同盟軍の攻撃波に
損傷なしで生き残れないことを察知し、いちはやく行動を起こしました。

1943年10月14日。

二人のドイツ人将校がモンテカッシーノ修道院を訪れました。
一人はシュレーゲル中佐、そしてもう一人は軍医のベッカー中佐です。

彼らは修道院長に、連合軍がわずか1ヶ月前にすでにサレルノに上陸し、
ローマに侵攻していること、そして彼らの目標までの行動予定線上に
ここモンテカッシーノがあるため、そうなれば爆撃は避けられない、
美術品をここから運び出し避難させるべきだと説得しました。

しかし、ナチスの悪行についてすでに聞き及んでいた修道院長は、
彼らも偽の情報を餌におためごかしに美術品を略奪するのだろうと疑い、
彼らを慇懃に追い返してしまいました。

シュレーゲルが去った数日後、連合国の空襲が始まりました。
修道院僧たちは彼の言ったことが嘘ではなかったことに気付いたのです。

すぐにシュレーゲルに連絡が取られ、所蔵品の避難が始まりました。
写真は修道院長とシュレーゲルです。

そして2ヶ月後の1944年1月11日、シュレーゲルの最悪の予想は的中しました。

修道院の真上で第96爆撃機飛行隊(通称レッドデビル)が、文字通り
赤い悪魔となって地獄への門を開き、B-17フライングフォートレスは
世界最古と言われる修道院を爆撃で完全に破壊しつくしました。

まったく我らがモニュメンツメーンは何をしていたんでしょうか(嫌味)

このときの連合軍は4ヶ月にわたって全くドイツ軍がいない地を攻め続け、
その結果おびただしい町村の壊滅と10万人の死者を生みました。
ドレスデンの空襲とともに、モンテカッシーノは連合軍の汚点ともなっています。

 

さて、モンテカッシーノ修道院は、恩人シュレーゲル中佐に
なんとかして謝礼をしたいと申し出ましたが、彼は当然のことながら
金銭など全く要らぬとそれを断りました。

そこで修道院は、ラテン語で彼の善行を記した巻物を贈ることを決め、
彼はそれを心から喜んで受け取ったのです。

戦後、彼が戦犯裁判で裁かれることになったとき、この巻物と
モンテカッシーノ修道院の僧侶たちの証言が彼を助けることになりました。

めでたしめでたし。

 

さて。

しかしながら、わたしはまたしても余計な発見をしてしまいました。
この美談を大変後味の悪い話で締めることになりますがご容赦ください。

 

映画「ヒトラーv.s.ピカソ」作品中、こんなナレーションがあります。

「オーストリアの山間部にあるアルトアウスゼー岩塩坑
1945年5月 米軍はここでヒトラーの財宝を発見した

6500点の絵画 彫像 硬貨 武器 古書 及び家具である

ミケランジェロの聖母子像もあった
ファンアイク兄弟による「ヘントの祭壇画」もだ
ベルギーの大聖堂から持ち去られていた

中にはヒトラーが切望した絵も
フェルメールの「天文学者」だ
フランス系ロスチャイルド家から略奪した

ヒトラーの貯蔵品の他にゲーリングが集めた作品もあった

今はナポリの美術館にあるが
以前はモンテカッシーノ修道院にあった

ゲーリング師団所属の車がそれを盗み
ゲーリングの51歳の誕生日にベルリンへ運んだのだ」

 

「ゲーリング師団」ってもしかして(もしかしなくても)
シュレーゲル中佐の部隊のことですかい。

シュレーゲルはモンテカッシーノから運び出した美術品を
空爆から守るフリをして実は全部ベルリンに送ってたってことだったんですか?

 

しかし、もしそれが本当だったら、なぜ修道院はシュレーゲル中佐に巻物を贈り、
さらには戦後の戦犯裁判で彼のために証言したのでしょうか。

今となっては真実は闇ならぬ廃坑の中に埋もれたままです。

 

その上で、ナチスを絶対悪と喧伝する戦勝国の皆さん、いまだに
ナチスに奪われた美術品を探し求めている皆さんに聞いてみたいことがあります。

「10万もの作品がいまだに行方不明である」(`・ω・´)

とおっしゃいますが、なぜあなた方はその一部、半分、最悪ほとんどが
連合国の無差別爆撃など作為不作為で失われた可能性を毛ほども考えないのでしょうか。

 

 

 

 


ミズーリ艦上の降伏調印式〜ウェストポイント博物館

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ウェストポイントに併設されている軍事博物館の収蔵品は、
アメリカ陸軍ならではの歴史的にも貴重なものが数多くあるのですが、
ここまできて、わたしたち日本人にとって特に注目すべき展示が現れました。

冒頭写真(残念ながらボケてしまいました)は、1945年9月3日、
フィリピンバギオ市のキャンプ・ジョン・ヘイ(Camp John Hay・元米軍保養地)で、
旧日本軍フィリピン総司令官山下奉文(ともゆき)陸軍大将が署名した
降伏文書で、南西方面艦隊司令長官 大川内傳七海軍中将とともに、
どちらも自分の名前を英語で署名しています。

ネットを検索したところによると、昔はここに山下大将が所有していた
日本刀も一緒に展示してあったらしいのですが、どこにも見当たりませんでした。

単に写真を撮り忘れただけという可能性もありますが、このわたしが
ウェストポイント軍事博物館にきて、日本に関するものを
見逃すはずがないので、おそらく展示されていなかったのだと思われます。
(でも実はあったとかならすみません)

ところで、この写真、皆さんも一度はご覧になったことがあるでしょう。

マッカーサーがミズーリ艦上で日本の降伏調印証書にサインしているところですが、
写真のマッカーサーの右手の横、机の上をご覧ください。

なんか万年筆がたくさん置いてありませんか?

そう、マッカーサーはこのサインを5本の万年筆を使って行ったんですね。
もちろん、それを戦利品として取っておくためにですが、なぜ5本も?

そして、そのうちの一本が冒頭写真に写っている万年筆です。
博物館の説明によると、これが

「マッカーサーが最初に使ったペン」

だというのですが、どうしてここにあるのでしょうか。

 

さて、ここで、「赤城」の巨大模型があったエンパイアステート航空博物館の
降伏調印式のミズーリ艦上での写真を思い出していただきましょう。

ほらこれ、これですよ。

マッカーサーの遁走後、後を引き継いでフィリピン軍の指揮を執り、
その結果、降伏して日本軍の捕虜になってしまったウェインライト将軍。

彼を抱き抱えているマッカーサーは、自分の敗走を棚に上げて
ウェインライトがフィリピンで降伏したことを非難し、
おまけに捕虜待遇における叙勲に反対していました。

で、今回初めて知ったんですが、上のサインしているマッカーサーの
後ろに立っている軍人、この人誰だと思います?

ジョナサン・”スキニー”・ウェインライト大将その人なのです。

 

展示には、

「彼はペンをジョナサン・ウェインライト大将に贈呈し、
大将はこれを『大変素晴らしい贈り物だ』といった」

とあります。
この万年筆はウェインライトの息子と思われる、同名の
ジョナサン・M・ウェインライト五世大尉から寄贈されました。

つまり、マッカーサーは、降伏調印文書にサインした万年筆を
その場でウェインライト大将にプレゼントしたのです。

ウェインライトをミズーリ艦上に呼びつけたのは誰か、もう明白ですね。

 

ここで残りの四本の万年筆はどうなったか見てみましょう。

陸軍士官学校ウェストポイント

海軍兵学校アナポリス

妻ジェーン

そして、

アーサー・パーシバル陸軍中将
(シンガポール陥落の時山下奉文に降伏した司令官)

つまり、おわかりいただけただろうか。

マッカーサーは、降伏調印式に、かつて日本に降伏した敗将二人を呼びつけ、
その二人に万年筆を与えるというアイデアを思いついたというわけです。
それなら最後の一本は妻じゃなくて自分がもらっておけば良かったんでない?

という嫌味はともかく、ウェインライトはもちろん、パーシバル中将だって、
「敗軍の将」枠でわざわざクローズアップされたくはなかったと思うがどうか。

マッカーサーという人をわたしは全ての歴史的人物と同じく、
好きとも嫌いとも思いませんが、この後に連合国軍最高司令官として
赴任した日本を

「私の国」(My country)

と呼んでいたことなどと考え合わせると、この万年筆も
ウェインライトの件も、マッカーサーという軍人の外連味というのか、
おべんきょはできても人望がなかったという噂を証明している気がします。

白洲次郎も、畏れながら昭和天皇もマッカーサー嫌いだったようですが、
(白洲はお堀の横を通っても明治生命ビルからは顔を背けるくらい)
このレベルの方々から見てわかる「邪悪」なものがあったのかもしれません。

うがった見方をすれば、降伏調印式の時も、マッカーサーが
本当に呼びたかったのは自分の弱みを握るウェインライトで、
かといってウェインライトだけ招くのは邪推されるので、
無理やり「敗軍の将枠」を作りパーシバルを呼んだのではなかったでしょうか。

マッカーサーは、ウェンライトが周りに唆されたりして
自分について何か言い出す前に、名誉と勝利を分かち合うことで
懐柔し、口を塞ごうとしたに違いないとわたしは思っています。

 

「どうしてこれがここにあるんだろう」

わたしとTOはこれを前に思わず呟きました。
ミズーリ艦上で調印された公式文書(コピーではない)が
目の前のケースに収められていたのです。

まず、マッカーサーがなぜミズーリ艦上が選んだかというと、

1、洋上であれば式典を妨害されることがない

2、ミズーリが時の大統領トルーマンの出身州だった

3、海軍側に花を持たせるため

でした。

ミズーリはかつてペリーが日米和親条約を調印したときに
旗艦ポーハタン号が停泊させていたのと同じ位置に停泊しました。
これら全てもやはりマッカーサーの演出であったそうです。

演出といえば、式中掲揚されていた星条旗のうち一つは
真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた48州星条旗、
もう一つは、1853年の黒船来航の際、ペリー艦隊が掲げたものでした。

そして、海軍では乗艦している最高指揮官、つまりこの場合は
ニミッツに対する将官旗をマストに掲揚するのが慣例のはずが、
この時にはマッカーサーの要求で陸軍元帥旗も揚げられました。

ご存知の通り、マッカーサーとニミッツは誰もが知る犬猿の仲で、
親の仇ではないかというくらい憎み合っていたわけですが、
この特別措置に対し、ニミッツは内心どう思っていたでしょうか。

 

日本帝国政府を代表して重光葵が、そして大本営を代表して
梅津美治郎参謀総長が署名しました。

ところで、実物の署名を見てわたしが思ったのが、筆跡の乱れです。
両名ともに字はかすれ、梅津大将は書き直しをしているなど、
ご本人たちには不本意な書だったのではと慮られます。

改めて重光全権大使のサインする姿を見て納得しました。
足の悪い重光氏がテーブルに手をついて、立ったままサインしています。

ちなみに右側で重光氏のシルクハットとステッキを持っているのは
内閣情報局第三部長、加瀬俊一氏。
前にも書きましたが、オノ・ヨーコの伯父さんに当たります。

それでは梅津大将のサインしている姿をご覧ください。
やっぱり立ったままで、中腰になってサインしています。

こんな姿勢ではちゃんとした字が書けるわけがありません。
他の代表の署名中の写真を見ると、座っている人もいますが、
この状態を見るかぎり、座るとサイン出来なさそうですね。

東京湾 1945年9月2日0908、
アメリカ合衆国、中華民国、英国、ソビエト連邦、そして他の関連する
対日戦争の連合国において受け入れられる。

連合国軍最高司令官総司令 ダグラス・マッカーサー

「マック」と「アーサー」の間が離れていて最初誰のサインかわかりませんでした。
これは、いうまでもなく、名前を5本のペンで書いたからです。
「ダグ」「ラス」「マック」「アーサー」「tの横棒」
と分けたのではないかと思われますが、どうでしょう。

その後、各国代表者がサインを行いました。
マッカーサーはこのときアメリカ合衆国代表をニミッツにして、
海軍に花を持たせる配慮をしています。

上から順番に、

アメリカ合衆国代表 チェスター・ニミッツ海軍元帥
中華民国代表 徐永昌陸軍大将
イギリス代表 ブルース・フレーザー海軍大将
ソ連代表 クズマ・デレヴャンコ陸軍中将
オーストラリア代表 トーマス・ブレイミー陸軍元帥
カナダ代表 ローレンス・コスグローブ陸軍大佐
フランス代表 フィリップ・ルクレール陸軍大将
オランダ代表 コンラート・ヘルフリッヒ海軍大将 
ニュージーランド代表 レナード・イシット空軍少将

この署名の時、カナダ代表のコスグローブ大佐が、勘違いから
ポカミスをやらかしました。

ここにあるのは連合国用ですが、関係者がもう一種類、
日本用に同じ書式にサインしたとき、コスグローブ大佐、
まちがえて、自分の欄ではなく一段下にサインしてしまったのです。

これが日本用。
カナダ代表の欄が空欄になっていますね。
コスグローブ全権がフランスの書名欄にサインしてしまっています。

Cosgrave CANADA 1945.jpgコスグローブ・只今チョンボ中

その後の流れはこうでした。

フランス代表→気づかずオランダの欄にサイン

オランダ代表→間違いに気づくもマ元帥に言われてニュージーランド欄にサイン

ニュージーランド代表→やはり気づくも仕方ないので欄外にサイン

つまり戦犯?はカナダ代表だったのですが、サインが終わると、
彼は皆とともに祝賀会のため艦内に入っていってしまいました。
(この祝賀会には日本代表は呼ばれなかった模様。当たり前か)

 

気づいていたオランダ代表が祝賀会に向かう前に日本代表に、

「これ、カナダさんが間違えてるんですけど・・いいんですか?」

日本側、困惑。

サザーランド中将「まま、ひとつここはこれで・・・・。
(連合国用には間違いはなかったし、どうせ日本用だから)」

重光葵「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない!」

日本側「もう一度各国代表にサインし直しさせてもらえませんかね?」

サザーランド「皆食事中だしだめですな(そんなこと俺言えねーよ)」

日本側「そこをなんとか・・・・」(必死)

サザーランド「仕方ないなあ、じゃ私が訂正サインしますよ。
  ならいいでしょ。これで我慢して。ね? ちょちょいのちょいと」

というわけで、日本側も納得し、9時半に下艦を行いました。

実物をもう一度見ていただくと、左側にサザーランドのサインが4つあり、
代表の国名も手書きで直してあって、実に適当な感じです。

こういうことに人一倍?きちんとしていないと気が済まない国民性ゆえ、
全権団は、これによって敗戦の屈辱をことさら噛み締めたに違いありません。

 

ちなみに、このとき、ミズーリ上空ではアメリカ海軍機の編隊と、
陸軍のB-29爆撃機が祝賀飛行を行っていたそうですが、
艦上ではそういう騒ぎになっていたため、少なくともサザーランドと
日本代表はこれを見ている場合ではなかったと思われます。

 

続く。

 

ボストン 第二次世界大戦国際博物館〜真珠湾攻撃

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ある年の夏、アメリカに行くと必ず滞在していたボストン郊外の街に
軍事博物館があったことを、偶然インターネットで検索していて知りました。

第二次世界大戦中の軍事資料を一堂に集めた、

The International Museum of World War II

という名前の博物館です。

1999年からあったというのですが、実際にボストンに住んでいた時期も含め、
毎年この地域に滞在しながら全くその存在を知りませんでした。

もっとも住んでいた頃もその後も、軍事博物館などというものを
検索したことなど一度もなかったのでそれも当然かと思われます。

というわけで、存在を知った2018年の夏、東海岸滞在中に
わたしは一度だけここを見学してきたのですが、驚いたことにその後
2019年、突然博物館そのものが閉鎖され、消滅してしまいました。

しかも、わたしが訪問してこの時に撮影できた展示品はごく一部で、
残りはまた次回渡米した時に、と思い開館情報を調べると
閉鎖したというお知らせが出てきて唖然、という次第です。


どちらにしてもコロナ騒ぎで今年の渡米は叶いそうにありませんが、
この、地球上のどこに行っても今は見ることができなくなった
貴重な歴史遺物をご紹介して、ありし日の博物館を偲びたいと思います。

今回は、その展示の中から対日戦に関する資料をご紹介していきます。

とにかくこの博物館に足を踏み入れるなり圧倒されたのが所蔵物の多さです。

時間があれば残らず写真に収めたかったのですが、それも叶わず、
結果として閉鎖によって永久にその機会が失われてしまいました。

さて、画面中央にあるのは、訓練に使われていた
アメリカ海軍の潜水艦の潜望鏡一部分です。

1941年ごろに使われていたものと説明があります。

日本帝国海軍提督用儀礼服も一揃いマネキンに着せてあります。

展示物は数が多すぎてほとんど説明がないのですが、この絵は
まだ日本に本土空襲が行われる前に、

「もしアメリカ軍が本土にやってきたらどうなるか」

ということを予想して描かれたものだと思われます。
その理由は、実際に本土攻撃を行っていないP-38などが描かれていることで、
爆撃されているのは軍需工場や港など。

サラリーマンや子供連れの女性などが山に避難していますが、
実際の空襲は都市を無差別に焼き払うようなものだったため、
工場付近から逃げれば何とかなるというようなものではありませんでした。

空をたくさんのB-24リベレーターが飛んでおり、実際にも
B-24は本土空襲を行っていますが、B-29登場以降はそれが主力となりました。

ちなみに、広島で捕虜になっていて原爆で死亡したアメリカ人は
B-24の搭乗員であったということです。

「時は迫れり!!」

というこの時計の意味するところは・・?

まず、ガダルカナル、ブーゲンビル、タラワ、マーシャル、アドミラルティ、
ニューギニア、サイパン、グアム、パラオ。

全てのかつての日本の領地だった土地に立った日の丸は
この順番に連合軍によって奪取されていったことを表すために
旗竿が真っ二つに折られてしまっています。

5分前にあるのはフィリピンで、フィリピン侵攻に先立ち、アメリカが
攻略したのはパラオ諸島、その直前がサイパン・グアムでした。

この絵が描かれたのは1944年(昭和19年)の10月から3月までの間でしょう。

フィリピンが陥ちれば次は日本本土である、と啓蒙しているのです。
現に、レイテ沖海戦で聯合艦隊壊滅後、日本軍は完全に補給を断たれ、
レイテ島10万、ルソン島25万に部隊が取り残された形となり、1945年6月以降は
ジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなりました。

多くが餓死、あるいはマラリアなどの伝染病や戦傷の悪化により死亡。
大岡昇平の「野火」はこの戦地での惨状を描いたものです。

大正天皇の御真影。
写真を元にレタッチ?されていますね。

「大正三年十一月十四日印刷 同年同月十七日発行
画作兼印刷発行者 日本東京市浅草公園第五区?番地
天正堂 土屋鋼太郎

実写版でリメイクされた「火垂るの墓」で、御真影が燃えてしまったので
責任をとって一家心中する校長先生なんてのが出てきていましたが、
これは少し「やりすぎ」な設定としても、戦時中には
皇族の写真発行については政府が干渉するようになったのも事実です。

皇室のブロマイドや絵画は1890年くらいから市井で大量に売られ、
商業誌や新聞にも掲載されていました。
とくに皇室グラビアは人気があり、商業誌の売り上げにも寄与したそうです。

大正時代には大正デモクラシーなどの影響もあり、イギリス型の
「開かれた皇室」を目指す動きが強まりました。
この写真は御在位されて3年後のもので、この後大正天皇が
病床に伏されるようになると、留学中の皇太子殿下(現上皇陛下)の写真が
グラビアを飾るようになってきます。

日中戦争が始まるまでは、御真影を神の如く崇めるような文化はなく、
この写真風版画も、火事の時にもち出せなければ責任をとって云々、
というような悲壮な信仰の対象にはなっていなかったのは確かです。

しかし日本国民の皇室と天皇陛下に対する敬愛は、戦前と戦後で
根本的に全く変わっていないとわたしは信じています。

左は土屋貞男さんの出征を祝うためののぼり。
アメリカにこれがあるということは、土屋さんは外地で戦死し、
どこかでアメリカ兵がそれを発見し「記念品として」持ち帰ったのかもしれません。

右はおそらく航空兵が敵機を認識するために使われたものです。

飛行するXFM-1-BE 36-351号機 (1937年撮影)

上のベル FM-1「エアラクーダ」は、第二次世界大戦前に
ベル社がアメリカ陸軍航空隊向けに試作した戦闘機ですが、
飛行性能が悪く、開発は中止されました。

にもかかわらず日本にこのようなものがあったということは、
この頃は開戦前でまだ両国の情報は遮断されていなかったということですね。

下のダグラスA-20はエドワード・ハイネマンの作で、
アメリカのみならず連合国で多用された双発攻撃機です。

イギリスでは「ボストン」、夜間戦闘機としては「ハヴォック」、
アメリカ海軍ではBDと呼ばれていました。

こちらは戸松茂さんが入営の際につけたたすきで、
「祈 武運長久」と書かれています。

戸松さんも、どこかの戦地で亡くなったのでしょうか。

向こうに和服のマネキンがいますが、なぜか展示品の中に
着物と帯があったようで、わざわざ黒髪の日本人風のマネキンを調達して
展示しています。

この写真のデータは、残念なことにいくつかの写真とともに
消えてしまい、皆さんにお見せすることができなくなってしまいました。

アメリカ潜水艦の模型(年代物)の向こうには
昭和20年の日付のある寄せ書き。
海軍の部隊で全員が名前を書いたものだと思いますが、
階級などは全く名前に添えられていません。

これも説明がないので断言はできないのですが、左下に
英語で誰かが誰かに寄贈したと思われるサインがあることから、
日本に爆撃を行なった航空機から撮られた写真だと思われます。

「東京上空30秒前」という映画で登場した模型の空撮シーンと
酷似していますが、東京空襲の時かどうかはわかりません。

割れたゴーグルは撃墜された飛行士の遺品でしょうか。

 

そしてここにもあった、真珠湾攻撃をしらせる無線電報。

AIRRAID ON PEARL HARBOR X THIS IS NO DRILL

珍しく説明が添えられているので翻訳しておきます。

「日本軍の真珠湾への攻撃は1941年12月7日、
ハワイ時間の午前7時48分にはじまった。

353機の戦闘機と艦爆と艦攻が6隻の空母から二波に分かれて出撃。
アメリカ軍にとっては全くの不意打ちであった。

銃に人員が配置されておらず、弾薬庫には鍵がかかっており、
航空機は翼を並べて飛行場の格納庫に駐機されていたのである。

きっちり90分間で空襲は終了した。
2,403名が死亡し、1,178名が負傷した。

8隻の戦艦が損壊し、そのうち4隻が沈没、巡洋艦3隻、そして
駆逐艦3隻が損壊あるいは破壊され、188機の航空機が撃破され、
159機がダメージを受けたのであった」

全くの不意打ちであればこれほどやられても当然です。
いまさらですが、ルーズベルトはどうしてこれほどの被害が出ることを予想しながら
知らんふりをしていたのか、理解に苦しみます。

もし極秘にそのことを真珠湾に警告して米軍に迎撃させたとしても、
彼の望み通り、開戦にこぎつけるという結果に変わりはなかったと思うんですが。

 

この電報の横には、日本が中国進出後にアメリカを始め各国から
(ABCDラインですね)禁輸措置を受けて”バーンアウト”したことが
さらっと書いてありますが、そのあとはおおむねこんな風に続きます。

「アメリカ側は日本のステルス攻撃に対する注意が全く欠けていた」

「アメリカ政府は日本が開戦したがっていることを知っていたが、
ハワイが攻撃されることを全く予想していなかった」

「日本の攻撃は予想外(unthinkable)であったため、その前に
日本のミニサブ(潜航艇)が駆逐艦に撃沈されたという報告も、
航空機がレーダーに捕らえられていたという報告も上がらなかった」

「日本軍は全てをきっちりと行い、その運命の朝、
艦船はもちろん航空機もオイルタンクも、ドライドッグも爆破した。

続く戦況も日本が優勢であったが、6ヶ月後、アメリカ海軍は
ミッドウェイで帝国海軍を打ち破ることによって軌道修正をした」

そして、攻撃のおわったヒッカム基地の惨状。
炎上爆発が起こっています。

海軍の写真班によって撮られた真珠湾攻撃の写真。
USS「ショー」DD-373が爆破炎上する瞬間です。

12月7日、 「ショー」はドライドック で 爆雷システムを調整していました。
日本軍の攻撃で、三発の爆弾を受け、 炎上。
必死の消火活動が行われましたが、総員退艦の命令がだされた直後、
前方の弾薬庫がは爆発したのがこの写真です。

その後仮修理を経てサンフランシスコで艦首を取り替え、
1942年8月31日にパールハーバーに戻り、終戦まで活躍しました。

彼女に与えられたあだ名は

「A Ship Too Tough to Die」(死ぬにはタフすぎる船)

というものでした。

説明がなかったのですが、おそらく真珠湾攻撃で戦死した水兵の一人でしょう。

上の写真の意味が全くわかりません。

総員配置のためのメモ

艦尾で育ったサトウキビを食べないように注意してください。
おそらく毒性化合物の扱いです。

????

写真を遠くから撮ったので日本語が読めません><

日本のグラフィックマガジンに掲載された真珠湾攻撃の記事ですが、
なぜかご丁寧に英訳されております。
これも大変読みにくいのですが頑張って翻訳します。

ハワイでのアメリカの太平洋作戦基地への奇襲!

海鷲たちが水平と垂直に空を横切って織りなす猛烈な攻撃で、
厳重に警戒された真珠湾に侵入し、我特殊潜航艇も加わり、
空中と海の両方から猛烈な攻撃が行われた。

我が軍のこの輝かしい成功は、全世界の耳目を魅了した。
さまざまな敵の艦艇や航空機の破壊は、一度に20隻の艦艇、
460機以上の航空機にのぼり、地球を恐怖で震え上がらせた。

見よ!

海鷲たちの大軍勢は港に易々と進入し、無力な敵の多くの船のうち、
まず2隻を屠り、艦攻中隊は小物には目もくれず、戦艦に向かう。
攻撃の雄叫びは朝の沈黙を一瞬にして震えさせた。

今日まで厳重に保護されていた真珠湾は一瞬にしして血塗られ、
アメリカに目に物見せたのである。

本文の日本語と照らし合わせることができないの残念です。

冒頭のハワイ攻撃を報じる第一報に続き、こちらは
日本がアメリカに宣戦布告したというヘッドラインが踊ります。

写真のベッドに寝ている人は真珠湾で負傷した海軍軍人でしょう。

こちらはちゃんと日本語が読めますのでそのまま書いておきます。

海鷲飛躍 ハワイの奇襲

12月8日午後2時、大本営海軍部は宣戦の大詔渙発直後、
早くも大戦果を発表して曰く

『帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し、
決死的大空襲を慣行せり』

と。
あゝ迅雷耳を掩う(おおう)の暇もない世紀の壮挙!
三千四百海里の波濤を蹴ってハワイ付近に達した我が航空母艦から
飛び立った海鷲は、暁の漠雲の中に飛び込む、やがて
断雲の間から島が目に入る、占めた(ママ)布哇だと思うまもなく、
オアフ島の山々が瞭(はっ)きりと見えてきた。

指揮官旗を先頭に機体は山肌すれすれに飛ぶ。
遥か前方の島はフォード島である。

その周囲に黒い小さい艦(ふね)らしきものが點々と見える。
軍艦だ、紛れも無い敵太平洋艦隊である。

なんたる天佑ぞ!何たる神助ぞ!
搭乗員の面はいやが上にも緊張する。

攻撃部隊はこの時あるを期して長年月猛特訓せし神業を縦横に発揮し、
世界第一と称する同軍港の覆滅を目指し、今将(まさ)に
雄渾無比の電撃奇襲作戦を敢行せんとするのである。

こちらにもご丁寧に英訳がつけられておりますが、
漢字に振り仮名の多いのを見ると、この絵と文章は、
子供向けの海軍ファン向け雑誌に載せられたものだと推察されます。

もちろん、ちゃんと海軍省の認可番号が振ってありますが、
まさかアメリカ人もこれが少年雑誌向けとは思っていない様子・・・。

 

続く。

 

ノーマン・ロックウェル連作「四つの自由」〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

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Sell / Auction Norman Rockwell Four Freedoms Posters at Nate D Sanders

2019年に閉館してしまったボストンの軍事博物館、
第二次世界大戦国際博物館の展示物をご紹介しています。

このように展示品はケルビンのボールを始め、16インチの戦艦の砲弾、
日本海軍の対空砲(ホッチキス製)、爆雷(右)などが並んでいます。

アメリカ海軍の水兵がジャケットを着ているマネキンの後ろは
日米戦の舞台となった太平洋地域に絞った地図です。

大東亜戦争のことをアメリカ人が「パシフィック・ウォー」と呼ぶのがよくわかります。

海軍省検閲済みの市販の大東亜鳥瞰図定価40銭。
昭南島(シンガポール)、ハワイ、パナマ運河主要部の地図、
そして戦局写真ち米英海軍勢力一覧表がおまけについています。

これに付されている説明には

「1942年に印刷された太平洋地域のこの日本地図には、
自然資源などの採掘地が記されています。
米国とちがい、自然資源の確保は、日本が経済を近代化し
成長するという野心に不可欠でした。
この地図はゴムその他の生産地が示されています」

とあるのですが、ちょっとこの説明は?です。

こちら普通にハワイの地図ですが、アメリカから見たら、
「日本人はこのような地図を見ながら虎視淡々と以下略」
の証拠にみたいに思えるのかもしれません。

さて、ここからは戦費公債購入を呼びかけるポスターシリーズです。
アンクルサムがバールのような物を持って腕まくりをしつつ、

「ジャップ・・・次はお前の番だ!」

次、というのは第一次世界大戦の次ということでしょうかね。
アンクルサムは『Uncle Sam』つまりUSでアメリカの擬人化です。

バターンとコレヒドールで捕虜になったアメリカ軍人を取り囲む日本兵。
「忘れることのないように」「仕事をやり通せ!」とあります。
敵への怒りと復讐心を掻き立てやる気を煽る戦時高揚ポスター。

「まさか戦争終わってるんじゃないだろうな」

これも公債ポスターですが、兵士の着ている服が微妙すぎて
彼がアメリカ軍なのか日本軍なのかわかりません。

敵地に必死の思いで潜入してきたら、もう戦争は終わっていた
(もちろんアメリカの勝ちで)という意味なのか、
戦争が終わったことを知らずに戦っていた日本兵なのか・・。

こちらは志願兵募集のポスター。
肩にハクトウワシをのせたアンクルサムが上着と帽子を投げ捨て、
腕まくりしながら敵に歩み寄る様子が描かれています。

いわゆる「リメンバーパールハーバー」ポスター。
今でも米軍はヒッカム基地に揚っていた銃痕のある星条旗を保持しているそうです。

「ここでの死者の死を決して無駄にしてはなりません」

左はアメリカ海軍の潜水艦の写真、右は貶しているの褒めているのか?
メガネで出っ歯の人相の悪い日本人が勉学に励んでおります。
こんな顔して勉強するやついないっつーの(笑)

なんて書いてあるかというと

「もしあなたがジャップのように一生懸命頑張れば
私たちは東京をそれだけ早く叩くことができるのです」

ということは、アメリカはとりあえず日本人が勤勉で働き者、
ということを認めてくださっていたってことですかね。

それはいいけどこのポスターの男の顔は酷すぎない?

 American Poster: Save Freedom of Speech............. Buy War Bonds ...

公債購入を呼びかけるポスターは、人気のイラストレーター、
ノーマン・ロックウェルも手掛け、彼の最高傑作とされています。

この「言論の自由」というポスターは、1941年の
ルーズベルト大統領の一般教書演説をテーマに描かれたものです。
ロックウェルは大統領の言葉次のようにアレンジしました。

欲望から解き放たれること (Free=解き放たれる)

恐れから解き放たれること

崇拝の自由

言論の自由

1943年のサタデーイブニングポストに掲載されて以来、再版を重ね、
戦争中には400万という史上最も複製された作品の1つになりました。

戦争債権の販売は、ルーズベルト大統領とモーゲンソー財務長官ののもと、
財務省は全国ツアーで「4つの自由」をうたい、
1億3300万ドルを超える戦争債券を売りあげたといわれます。

公債を売るためにボブ・ホープ、ビング・クロスビー、そして
ジャック・ベニーなどのエンターテイナーが献身的な協力をし、
また、「四つの自由」というタイトルの交響曲も作曲されています。
(今日全く聴かれることはないようですが)

ロックウェルは戦争協力のためのさまざまなポスターを描き、
1977年にフォード大統領から大統領自由勲章を授与されました。

オリジナルはストックブリッジのノーマンロックウェル博物館にあり、
わたしはこの実物を見たことがあります。

Amazon.com: WholesaleSarong Save Freedom of Worship 1943 Buy war ...

同じくロックウェルの「四つの自由」のひとつ「信仰の自由」。
ルーズベルトの演説より、ここに描かれているのは8名の祈る人で、
下段右の帽子の男性=ユダヤ人、ロザリオを持った若い女性=カトリック、
と異教であれどもアメリカ人としてその信仰の自由は保証される、
ということを表しています。

 

「四つの自由」の三つ目、「恐れからの自由」です。

絵は、両親が見守る中、この世界の恐怖に気づかずに
ベッドで安らかに眠っている子供たちをあらわしています。

子供たちの布団を整える母親、そして立っている父親の手には
現在進行中の紛争の恐怖を報じる新聞が握られています。

しかし、彼の注意は完全に彼の子供たちに向けられており、
憂慮すべき見出しには向けられていません。
この 父親は、絵画の中で鑑賞者、つまり

「古典的ないわゆる’ロックウェル・オブザーバー’」

の役割を与えられています。

手には眼鏡があることから、彼はもうすでにこの
「ベニントン・バナー」を読み終えたところでしょう。
新聞の見出しは一部が隠れているものの、

"Bombings Ki ... Horror Hit"

というもので、いずれにしても穏やかでないニュースであることは確かです。

なおこの絵はロンドンの爆撃の最中に描かれたということです。

 

「欲望からの自由」は別名「サンクスギビング・ピクチャー」、
または「I'll be home for Christmas」として知られています。
「4つの自由」シリーズの第三作目で、描かれているのは
バーモントのロックウェル自身の友人や家族で、
それぞれを撮った写真を元に作画されました。

当時も今もアメリカで大変人気のあるポスターですが、戦時中、
飢えと困難に耐えていたヨーロッパでは、ずいぶん反発されたようです。

 

オーブンから出したばかりの七面鳥に釘付けになる皆の目、
テーブルの上のフルーツ、セロリ、ピクルス、クランベリーソースなどは
アメリカ人なら誰でもノスタルジーを感じずにはいられません。

アメリカの繁栄と自由、そして伝統的な価値観を象徴する作品は
アメリカ人には熱狂的に受け入れられました。

ただ、ヨーロッパ人の反発と同じく、欲望からの自由がどうしてこのシーンなんだ、
という説は当時からあったようです><

ガスマスクの使い方に対する広報宣伝です。
絵柄と全くそぐわないのですが、

「あなたのガスマスクを手入れしてください。
ナップサックや枕にしてはいけません」

って、わざわざポスターにするようなこと?

Give 'em both Barrels (彼らにバレルを与えよ)

こちらは兵士ですが、向こうはリベットを持った民間人です。
ジーン・カールの作品で、兵士が前線で戦うことができるように
後方における産業での戦争協力を呼びかけているのです。

 お上はこれが戦争に勝つために労働が重要であることを訴える
良いポスターであると満足していたようですが、肝心の工場労働者の調査によると、
このポスターに描かれている労働者がギャングにしか見えないため、
多くの人がFBIの戦争犯罪を喚起ポスターだと思っていたということで・・・、
つまり画力に若干の問題があったと。

ドンマイ(笑)

ニューヨークセントラル鉄道で、列車修理の仕事に
女性を募集するポスターです。

「男性を戦いにいかせてください」

実にダイレクトです。

潜水艦に爆雷を装填する水兵が、

「奴らにこいつを喰らわせてやれ!」

海軍の志願兵募集ポスターです。

アメリカで発行されたこのリーフレットは、

「わたしは抵抗をしません」

と赤字で書かれており、これを持っている日本人は人道的な扱いを
保証されるとあります。
英文では、

「この紙を持っている日本人をすぐに
最寄りの公務員に連れて行ってください」

とあり、日本語で

「上の英文の内容は、『この人はもはや敵ではなく、国際条約により
完全に身の安全が保証されるべき者なり』ということが書かれている

左図は当方に来ている諸君の戦友の一部」

として、捕虜収容所で笑っている日本兵の写真があります。

日本軍の兵士は捕虜になるのを拒んで自決する者が多く、
通訳の日系二世はその説得が大変だった、とも言われています。

 

ここからは戦時中の人種隔離政策を表す資料となります。

 

上二つの小さな看板はいずれも差別政策に法って、
白人と「カラード」でシャワー室が分けられたもの、そして
「カラード」専用の待合室の札。

下は真珠湾攻撃以降、日本人排斥の法律が正式に発令され、
地域から出ていき収容所に入ることを布告するもの(左)、
英語と日独伊三ヶ国語で書かれた「エイリアン・オブ・エネミー」は
身分証明書を郵便局で申し込むこと、というお知らせ(中)
収容所への入所を勧告する公報(右)です。

 

日系人としてアメリカ軍に入隊し、ヨーロッパ戦線で負傷した
トム・カサイとその妻、ルースの写真。
手紙は、トムがフランスで負傷したことを伝えています。
パープルハート勲章はその時に授与されたものでしょう。

下のニューヨークの病院から発行された通知書によると、
カサイさんは左腿に銃弾を受けたということです。

トム・カサイという人がロスアンジェルス育ちで水泳のチャンピオンだったこと、
陸軍に入隊し、真珠湾攻撃の頃には厨房で働いていたことが書かれています。
彼が軍に入隊した後、妻と彼の両親はアリゾナの強制収容所に入所し、
そこでカサイが負傷したことを知らされ、ルースはニューヨークに駆けつけました。

実家はマーケットを経営していたようです。

左の日系人青年はフランク・マサオ(マス)・イモン。
戦争前はニュースリポーターとして働いていました。

開戦後は諜報局で語学研修を受け、通訳の任務を行いました。
右上の日記には、真珠湾攻撃の報を受けて衝撃を受けたことが記されています。

イモンさんが情報局の訓練で使った教科書には、

「NO TOUCH PROPERTY OF MAS 」(マスの所有物につき触るな)

とシールが貼ってあります。

このケースには敵に配布するためのプロパガンダ・ビラが展示してあります。

どこの国が作成したのかわかりませんが、アメリカ兵に向けて
なんのために戦っているのかとか、命を無駄にするなんて気の毒に、
みたいな言葉を投げかけ厭戦気分を書き立てようとしています。

骸骨化した兵士のイラストが妙にアニメっぽい。

オーストラリアに旗をたて、嫌がる女性を拐おうとしているアメリカ、
ニュージーランドは隣から傷だらけになりながらアメリカを攻撃しようとしています。
どうもこの比喩の意味がわからないなあと思いつつ、次のを見ると、

日本から打ち寄せてくる波に立ち向かい溺れるオーストラリア兵、
後ろで太ったアメリカ人(ルーズベルトらしい)が、
オーストラリアの領土を抱え込んでいます。

手書きの文字は

「オーストラリア人が尊い血を流している間、ルーズベルトは
彼の利己的な目的を予定通りに進めているのである」

オーストラリアは連合国に加わり太平洋における戦争で日本と戦いましたが、
そこに至るまでアメリカの戦争に参加させられることに反対する世論が
オーストラリア国内にもたくさんあったということなんですね。

そりゃ、オーストラリアにしてみれば別に日本に盗られた土地もないし、
アメリカに付き合って戦争するのはごめんだ、というひとがいたとしても
全く不思議なことではありません。

当時の反米論がこんな形でプロパガンダしてたってことになりますが、
今までこんな角度から米豪関係を見たことがなかったのでちょっと新鮮です。

 

そしてここからはどこで収集したのか、日本に関するグッズの展示。

三国同盟が締結された時に提灯行列で祝われたというその証拠、
ハーケンクロイツの印刷された提灯が展示されています(笑)

この大きさから見て戦艦級以上の中将旗でしょう。
割れた先を折りたたまないと床についてしまうくらいです。

詳しい説明はなく、博物館の人に尋ねたのですが、ただ
「長門の中将旗」ということしかわかりませんでした。

この中将旗が博物館閉鎖後どうなっているのか、そして
今後どこでどうなるのかが気になって仕方ありませんん。

 

 

続く。

 

 

バトル・オブ・ブリテン〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

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さて、今日のテーマは、「バトル・オブ・ブリテン」です。

まだ日本が真珠湾攻撃を行う前の1940年7月から、数ヶ月間にわたり、
ドイツ軍がイギリスに侵攻するための前哨戦として、まず
イギリス上空の制空権を奪取するために行った一連の空中戦、
これらを「バトル・オブ・ブリテン」(英国空中戦)と称します。

 

1939年9月。

ナチスがポーランドに侵攻してから2日後に、イギリスはドイツに戦争を宣言しました。
チャーチル首相が、ヨーロッパを征服する計画に干渉するな、という
ヒトラーの要求を拒否するという形になり、ドイツはこれを受けて
1940年7月からイギリス海峡を介してドイツ空軍を攻撃に向かわせたのです。

結果、イギリス空軍(RAF)はドイツ空軍に勝利し、ヒトラーに
第二次世界大戦での最初の大敗をもたらしました。

しかしドイツはこれらの軍事的損失にもかかわらず、イギリスの都市を爆撃し続け、
1941年5月まで「ザ・ブリッツ」(電撃)と呼ばれるキャンペーンを行いました。
(『1941』でダン・エイクロイドが『ドナルドがやったのか?』と言ってたあれです)

これらの爆撃で亡くなった英国市民は4万人から4万3千人に上るといわれています。

当博物館では「バトル・オブ・ブリテン」テーブルと呼ばれているものです。

このテーブルは、バトル・オブ・ブリテンの戦闘期間にRAF戦闘機司令室で使用され、
敵機とRAF戦闘機の位置情報が刻々とをプロットされたその実物です。

レーダーやその他のソースからの情報は、ヘッドホンを介して
このテーブルを担当する専門のプロッターに中継されました。

この情報には、航空機の高度、プログレッシブマップの座標、および
「フレンド・オア・フォー」(敵または味方か)の識別情報が含まれていました。

テーブルにはこのような地図が描かれており、
ドイツ空軍が到達するポイントを座標で表します。

こちらは、イギリス軍の女性部隊Women's Auxiliary Air Force(WAAF)が
プロッターに情報を加えていっている様子。

ロンドンのスタンモアにあった司令部での写真だそうです。

下にいるブロンドのお嬢さんが一人何がおかしいのか笑っていますが、
上の階から見ているおぢさんにも、顔を綻ばせちゃっている人もいます。

真面目にやれ(笑)

テーブルの写真奥に写っているのは、スピットファイアのコントロールパネルです。

これが英独軍の間で行われた空戦を高所から撮影したもの。
ドッグファイトの痕跡が空刻まれた瞬間。

左:RAF戦闘機パイロット

右:RAF戦闘機パイロット(1940年夏)

彼らの足元にある説明は、左を「夏用」としているのですが、
どう見ても右が夏用だと思います。(そうですよね)

RAFというのは皆さんもご存知だと思いますが、

Royal Air Force(英国空軍)

の略です。

 

バトル・オブ・ブリテンは114日間続きました。

その間、RAF並びに同盟国軍のパイロット544人が戦死し、
1880機を超えるドイツ軍機と1550機のイギリスの航空機が破壊されました。

たとえば、RAFの「スピットファイア」パイロットの平均余命は
4〜6週間だったといわれています。

また、この航空戦の大きな特色の一つとして、RAF戦闘機の
500人以上の搭乗員が、外国籍であったことが挙げられます。

イギリス空軍は消耗率の高いパイロット要員を補うため、
イギリス連邦諸国やイギリスの植民地だけでなく、外国からも
パイロットを採用して戦地に赴かせていました。

その内訳と参加人数です。(wikiによる)

ポーランド 145–147
ニュージーランド 101–115
カナダ 94–112
チェコスロヴァキア 87–89
ベルギー 28–29
オーストラリア 21–32
南アフリカ 22–25
フランス 13–14
アイルランド 10
アメリカ 7–9
南ローデシア 2–3
ジャマイカ 1
パレスチナ 1
バルバドス 1

カナダとオーストラリア、ニュージーランドは英連邦繋がりでわかるとして、
なぜポーランドがこんなに多いかというと、ポーランド亡命政府が
イギリス政府と協定を結び、自由ポーランド陸軍とポーランド空軍を
イギリスで編成していたからです。

そして、このポーランド人パイロットたちは戦前には高度な訓練を受けており、
さらに実戦経験も積んでいたベテランで大変練度が高かったといわれています。

たとえば、第303コシチュシコ戦闘機中隊は、他より遅れて参戦したにも拘らず、
バトル・オブ・ブリテン期間の全戦闘機中隊のなかで最高の撃墜数をあげました。

これは、イギリス側の全パイロットの5%にすぎない人数で、
バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を達成したことになります。

この戦いでエースとなったポーランド空軍の

スタニスワフ・スカルスキ(Stanisław Skalski)1915- 2004

は、この時の功績で戦後将軍になっています。

彼の部隊は精鋭揃いで「スカルスキ・サーカス」と呼ばれたそうですが、
熟練の航空隊を「サーカス」(例:源田サーカス)と呼ぶのは
この辺りから出てきたのかもしれないと思ったり。

Josef František.png

チェコスロバキアから参加しエースになった、

ヨゼフ・フランチシェク軍曹(Josef František、1914-1940年10月8日)

没年月日を見ると、空戦で戦死したようですが、事故による墜落で、
ホーカー・ハリケーン戦闘機の墜落原因はわかっていないそうです。

なんでも、
ガールフレンドにいいところを見せようとアクロバット飛行中失敗した
という噂もあるそうで、それが本当ならガールフレンドは一生のトラウマものですな。

ちなみにオーストラリア空軍ですが、バトル・オブ・ブリテンの間に
日本軍が瞬く間に太平洋のイギリス領を占領してしまったため、
自国防衛のために、とっとと切り上げて帰国しています。

まず、右上の時計を見てください。
プロット室の写真に同じのが写っているのですが、これは
RAF戦闘機の司令室で使用されていた時計です。
文字盤には王冠のマークと「RAF」の文字が見えます。

マネキンがきている制服は、

Leicestershire(レスターシャー、イングランドの一地方)の
Home Guard (民兵組織)のユニフォームだそうです。

ホームガードとは第二次世界大戦中のイギリスで編成された民兵組織で、
ナチス・ドイツによる本土侵攻に備えて、17歳から65歳までの男性で組織され、
募集によって総兵力は150万人までになったといわれています。

ナチス・ドイツでいうと国民突撃隊や日本では国民義勇隊というところです。


ドラマ「おじいちゃんはホームガード」より(嘘)

 

ラジオで首相が呼び掛けた直後、政府が見込んでいた15万人を
大きく上回る24万人の志願者が、24時間以内に手続きをしました。

ただし資格者は、むしろ戦場に行かない若年か老年層に限られました。
写真のおじいちゃんも第一次世界大戦のベテランで、昔取った杵柄なのでしょうか。

「素晴らしき戦争」で皮肉られた祖国防衛のための自己犠牲ですが、
あの悲惨な第一次世界大戦を経験していた多くのイギリス人男性が、それでも
いざ国難となったとき、自分の愛する人たちを守るために
立ち上がったという事実を嗤うことはアッテンボローにも許されるものではないでしょう。

写真のユニフォームは「LDV」という腕章をしていますが、これは

Local Defence Volunteers

地域防衛ボランティアの頭文字です。
名称はその後チャーチルの命令で「ホームガード」に改められました。

こちらも同じレスターシャー地方の
Civil Defense Corps (市民防衛軍)の制服。

ただしこれはバトル・オブ・ブリテンにはなんの関係もなく、
1949年に主に冷戦核攻撃などの国家緊急事態が起きたときを
想定して結成された防衛隊です。

隣のレスターシャー繋がりで手に入れた展示ではないかと思われます。

ヨーロッパ全域をカバーできた大英帝国軍の航空勢力図とともに。
RAFの使用した飛行機の写真は、左上から順番に

ハボック  HAVOC 対地攻撃、軽爆撃機、夜間戦闘機

ハドソン HUDSON 哨戒、爆撃機

メアリーレット MARYLET

ホイットレー WHITLEY 爆撃機

マンチェスター MANCHESTER 爆撃機

メリーランド MARYLAND  輸送機

トマホーク  TOMAHAWK 戦闘機 (アメリカではP40ウォーホーク)

リベレーター LIBERATOR 偵察、哨戒 爆撃、掩護

ディファィアント DEFIANT 夜間戦闘機

カタリナ CATALINA   水上艇、偵察、哨戒爆撃機

アメリカで製造された機体が結構多かったことがわかりますね。

 

1940年、英国王室から関係者に送られたロイヤルクリスマスカードです。

バトル・オブ・ブリテンの期間中は、バッキンガム宮殿も空襲を受けました。
この爆撃で宮殿内のスタッフが十五人負傷、一人が亡くなりましたが、
国王ジョージ六世(英国王のスピーチのあの人)と妻のエリザベスは、
ほとんど退避することなくロンドンに留まり、国民の尊敬を集めたといわれます。

その年のロイヤルクリスマスカードには、その年の9月9日に投下された爆弾によって
損壊した宮殿のプールの前に立つ国王夫妻の写真が選ばれました。

撮影した日にちは9月10日となっています。

「クリスマスと新年のご多幸を祈って」

という定型文がなにか別の意味に見えてくる強烈なカードです。

 

続く。

 

ドイツ軍の軍装備〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

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さて、今日はボストンに昨年秋まであった第二次世界大戦国際博物館の
膨大な展示の中から、ナチス・ドイツ軍のものをご紹介していきます。

ドイツ軍コレクションはこの博物館のなかでも多くのボリュームを占め、
まるまる一つの部屋にぎっしりと詰め込まれている感じでした。
そこここに立っているナチス軍人のマネキンは、歴史的にも
間違いのない着こなしがなされているそうです。

この部屋の真ん中を占めている砲はなんなのでしょうか。

パッと見た時これが何かすぐに分からなかったのは、現地に説明がなく、
砲身がなかったからなのですが、小さな砲であるらしいと検討をつけ、
ドイツ軍の装備をかたっぱしから探してやっと見つけたのがこれ。

7.5 cm leichtes Infanteriegeschütz 18

読み方はライヒテス・インファンテリーゲシュツ、でいいと思います。
ドイツ語で「簡易歩兵銃」なんですが、ドイツ語だとなんだか難しそうなイメージ。

で、ドイツ軍のお兄ちゃんたちが海水浴みたいな格好で操作していますが、
これを見て、砲身が前に出ていないのが正しい姿だったのだと知りました。

組み立て式で大変軽く、戦地で二人の戦士がバラバラにして
持ち運べる簡易式(だからライヒテス=簡単なのね)の歩兵銃です。

それにしてもなんでこんなものに測距儀が付属しているんだろう、
とかなり不思議だったのですが、よくよく写真を見たら、
これ、ただ測距儀を適当に上に置いただけではないの。

このタイプの測距儀は陸軍より海軍で使われていたはずなので、
(と思っているだけです違ってたらすみません)展示する人が
あまりわかっていない状態でひょいと上に置いただけの可能性ありです。

歩兵銃の後ろに立っているのはドイツ国防軍の制服で、
普通野戦服と呼ばれ、ナチスが政権をとってすぐに制定されたタイプです。

左の制服は、フィールドグレーと呼ばれる濃い灰色で、
襟の部分だけがダークグリーンになっています。
左だけが初期の制服だとわかるのは、上着とズボンの色が違うこと。

最初はフィールドグレーの上着に少し色が違う(ストーングレーという)
ズボンを合わせていたのですが、これはのちに廃止され、その後は
右側のように上下とも同じ色に変わりました。

ナチスドイツは将校だけがブーツを着用しましたが、
こちらは全員にごらんのような黒いブーツが支給されていました。

乗馬ズボンは将校専用でしたが、戦争も後期になると
それどころではなくなり、将校も普通のズボンへと変わっていきます。

素材もウール100%だったのがだんだん混紡が多くなり、
ヨーロッパの厳しい寒さにはこれが地道に辛かったということです。

我が帝国海軍の純白の第二種軍服もそういえば最後の頃は
「それどころではなくなって」カーキ色の第三種になっていましたっけね。

上着はセンターに裾ベントが入っていました。
それにしても、この、パリ占領後絵を描いているドイツ軍将校の写真、
何か色々と背後のストーリーを感じずにはいられませんね。

進駐してきたドイツ人が「芸術の都」を描くためイーゼルを立てている様子を、
パリの人たちはどんな思いで見ていたのでしょうか。
また、このナチス将校の来し方行く末についても思いを馳せてしまいます。

 

さて、写真で二人の後ろのラックにたくさん積まれているのはマラカス、
ではなくて(二回目のボケすまん)持ち手のついたタイプの手榴弾です。

ドイツが発明した20世紀の歩兵用武器ともいうべきもので、
M24型を基本とする取手付きの手榴弾は、イギリス軍からは
「ポテトマッシャー」と呼ばれていました。

ポテトマッシャー投擲中。
ヘアブラシ型という言い方もあったそうです。

蓋を外し、紐を引っ張ると3〜4秒で爆発する仕組みでした。

これは、2番目の写真の後ろに写っている迷彩柄車両の後部。
フロント部分にスペアタイヤを乗せている独特の形から、
これは、

キューベルヴァーゲン(Kübelwagen)

と呼ばれる、フォルクスワーゲンの原型かと思われます。
設計したのはあのフェルディナンド・ポルシェで、
おなじみフォルクスワーゲンは、これにセダンを乗っけたものです。

メッサーシュミット
MESSERSCHMITT BF 109 PLANE

メッサーシュミットbf109は、第二次世界大戦中の
もっとも先進的な航空機だったと言っても過言ではありません。

最初に登場したのはスペイン市民戦争のころですが、
歴史上最もたくさん生産された戦闘機の一つで、フォッケウルフFw 190とともに、
ドイツ空軍の戦闘機のバックボーンとなる名機でした。

最初に登場したとき、それはすでにオールメタルのモノコック構造、
密閉式のキャノピー、格納式の降着装置を備えていました。

Me109という名称は正式なものではなく、連合軍の搭乗員と
一部のドイツのエースがこう呼んでいたということです。

アイアンクロスの形をしたネックオーダーを着て、左を見下ろす軍服を着た若い男性の白黒写真。ベビーフェイス・ハルトマン

空戦史上最も成功したと言われる伝説の戦闘機エース、
エーリッヒ・アルフレート・ハルトマンが乗ったのもMe109です。

他にも、「アフリカの星」ハンス・ヨアヒム・マルセイ

Star of Africa Hans-Joachim Marseille - Storia‐異人列伝男前かよ

などは連合軍相手にMe109でエースとなりました。
ちなみにこのマルセイさんについてはあまりにもキャラが立っているので
「アフリカの星」という映画が制作されています。

観てみたら突っ込みどころ満載だったので、
マルセイの生涯をご紹介するついでに映画を紹介することにしました。
次回をお楽しみに。

ユンカース爆撃機 Ju188

ドイツのユンカースが開発した爆撃機です。

コクピットと通信手、銃撃手の部分を拡大してみました。
銃撃手はずっとこの姿勢で大変かも・・・。

メッサーシュミットME-262
の操縦パネルです。

何度もこのブログで取り上げてきたドイツ初の軍用ジェット機ですが、
1944年半ば以降に投入されたため、最後の頃には燃料が枯渇して
ろくに飛ばすこともできなかったというのが実情です。

しかし、その画期的なその設計はアメリカの航空機に影響を与えました。
ヒトラーは戦闘機ではなく爆撃機として使用することを主張していたそうです。

ルフトバッフェのパイロットユニフォーム。
膝のポケットに地図がたくさん入るという機能的すぎるデザインです。


前回、バトル・オブ・ブリテンについてお話ししましたが、このナチスマークの
Me-109戦闘機は、1940年、ケント州のチャーリングで撃墜されました。

 

前述のマルセイユ(ドイツ読みではマルセイだと思いますが、wikiでこうなっている)
が初撃墜を記録したのはバトル・オブ・ブリテンの戦闘においてでした。

最初の空中戦で、マルセイユは熟練した敵と4分間の戦いを繰り広げ、
英軍戦闘機はエンジンを射抜かれてイギリス海峡に墜落していきました。
同日付の母親へ宛てた手紙に、マルセイユは、

今日、私は最初の敵を撃墜しました。
私はそれが受け入れられません。
私は、この若者の母親が息子の死のニュースを受けたとき、
どう感じるに違いないかを考え続けています。
そしてこの死の責任は私にあります。
私は最初の勝利に満足するどころか、悲しんでいます。

としたためています。

彼の最終的な撃墜数は158機だったそうですが、その頃には
撃墜した搭乗員の母親のことはすでに考えなくなっていたのでしょうか。
それとも考えるのをどこかでやめたのでしょうか。

さて、それでは次にドイツ軍の武器装備展示からUボート(ドイツ語ではブート)を。
模型の下に置いてあるのはおそらく青少年用の図解ムック本といったところでしょうか。

このマネキンがきているのは戦車の通信手なのだそうですが、
その後ろいあるのは、Uボートが使用した専門のチャートです。

アメリカ東海岸の地図なんですねこれが。

ドイツは、アメリカ東海岸の都市に対してUボートからV-1飛行爆弾
V-2ミサイルを発射する、という計画を盛んにプロパガンダしていました。

これでアメリカ国民は、西海岸は日本の襲来に怯え、東はドイツに怯え、
という状態だったわけですが、実際に西海岸を潜水艦で攻撃した日本と違い、
ドイツ軍がこれらの武器をUボートに搭載したことは一度もなかったらしいと
戦後の調査でわかったそうです。

まあただ、実際にUボートがこんな地図を持っていたということは
なんらかの攻撃を意図していたということではないのかと思ったり。

V-2ミサイルはUボートに載せるのは物理的に無理だったとは思いますが。

U-219の艦内で使われていた潮汐調和定数のアトラスチャート。
潮汐調和定数という言葉の意味は船乗りにしか分かりません(投げやり)

Uボート使用のチャートと徽章。

いずれもUボートで使用されていた遺品。
下の

U boot Flottille (Unterseebootflottille)

は、ドイツ海軍第1潜水隊群のインシニアです。
カール・デーニッツ中佐の下に1939年結成され、
初代司令もデーニッツでした。

カール・デーニッツ(1891−1980)は、第一次世界大戦に潜水艦長として参戦。
1918年、乗艦が潜航中に航行不能となり、急浮上をしたところを
イギリス軍に捕らわれて捕虜になったという経験を持ちます。

Uボートの艦長は絞首刑になるという噂を聞いたデーニッツは、
発狂したふりをして1919年、本国送還となるのですが、
皮肉なことに最もチャーチルを苦しめた「群狼作戦」を彼が思いついたのは
捕虜になっていた間(つまり牢獄の中)だったということです。

群狼作戦とは、潜水艦を一斉に使用して輸送船団を狩り、攻撃するもので、
これは「Wolfpack」(「Rudeltaktik」)
として知られるようになり、大西洋の戦いで大成功を収めました。

第二次世界大戦中、デーニッツは海軍の上級潜水艦士官であり、
1943年からは提督を務め、レーダーの後任として最高司令官を務めました。
デーニッツは、1945年5月に降伏に署名した将軍のの1人です。

でも「ドイツは負けたが我々は負けていない」とか思ってただろうな。

右上の「ロリアン」というのはフランス海軍の基地のあった港湾都市です。

 

手前のがUボート517であることだけはっきりしました。
二度といけないと知っていたら、一つ残らず丁寧に写真を撮ったのですが・・。

ステルス駆逐艦のような近代的なラインですが、1940年のタイプです。
これと比べると同時代のアメリカの潜水艦はかなり旧式っぽいですね。

ドイツ海軍の寒冷地仕様皮の上下という珍しい軍装。
おそらく胸元にはマフラーをしていたのでしょう。

Uボートの艦長専門の軍装です。

ふと思い立ってあらためてえいが「Uボート」を観たら、
艦長が艦上で着ていたのがまさにこのタイプでした。

中尉時代のカール・デーニッツが同じような(昔なのでデザインは違いますが)
革製らしいコートを着て甲板に立っているところ。

いやーなんか・・・いいですねえ(意味なし)

こちらはUボートの乗員(水兵)の基本的なスタイルです。
こちらも上下皮という贅沢仕様。

首からかけているのは救命ベストです。

考えたら皮の軍服というのをみたのは初めてです。
ドイツ軍の軍服も、こんなに多種多様なものが集められているところは
記憶する限りここだけでした。

つくづく惜しい博物館を失くしたものだと思います。

 

続く。

 

映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 前編

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第二次世界大戦博物館シリーズで、バトル・オブ・ブリテン関連の
展示をご紹介しているとき、ドイツの国民的英雄となったエースパイロット、

ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイ
Hans-Joachim "Jochen" Walter Rudolf Siegfried Marseille(1919−1942)

の名前を知り、さらにこの人のことを調べてみると、
その伝記映画までが戦後になって制作されていたことを知りました。

マルセイユという名前はあのフランスの地名と同じスペリングです。
日本語の媒体では彼の名前を「マルセイユ」と読み書きしているのですが、
ドイツ語では最後に「ユ」はつかず、映画でも彼の名前の発音は
「マルセイ」であったことをお断りしておきます。

まあただ、マルセイというとどうも日本ではバターサンドのイメージなので、
本稿も日本的慣習に倣ってマルセイユとします。

ドイツ映画を注文して2日で観られるなんて、便利な世の中になったものです。
昔だったらそもそもこの映画が存在することまで知ることができたかどうか。

タイトルの Der Stern Von Africa、「アフリカの星」、
それがアフリカ戦線でエースとなった彼に与えられたタイトルでした。
ちなみにこの名前は彼がまだ現役中、ドイツで英雄として有名になる段階で
メディアなどによって名付けられたものだということです。

彼は機体の墜落によって22歳の生涯を終えるまでの2年間で、
連合国空軍機を158機撃墜し、エースとなりました。

さて、それでは始めます。
映画制作は1957年ということで、その頃のベルリンの風景が見られます。

ベルリンのルフトバッフェの戦闘機訓学校のシーンから映画は始まります。
実際に彼が戦闘機搭乗員の訓練を受けたのはウィーンだったそうです。

銃撃訓練で目標をことごとく撃破するマルセイユ候補生。
しかし指導官は彼のやり方がお気に召さない様子で、

「誰だあのバカは!」

機体の高度を下げすぎて危険だ、と叱られてしまいました。
マルセイユがしょっちゅういろんな軍紀違反で叱られていたことは、
当時の同期(エースのヴェルナー・シュレーア)が証言しています。

「また怒られたよ・・君まで叱るのか」(´・ω・`)

「これ以上の違反は退学だぞ」(`・ω・´)

上官のロベルト・フランケ中尉は彼の幼なじみで友人でもあります。

と行ったはしから方位飛行の訓練で場所が分からなくなり、
自動車道に着陸して道を尋ねるというお茶目ぶり。
これが実話だっていうんですから驚きますね。

たまたま後ろの車にいてこの様子を見ていた指導官、激おこですが、
ロベルトがまたもかばってくれたため、本来退学になるところを、
4週間の飛行停止で許してもらえました。

場面は代わり、休暇で実家に帰ってきたマルセイユ。

実際のマルセイユはあまりの素行の悪さに、たびたび海軍でいうところの
上陸禁止措置を受けましたが、全く無視していたそうです。

飛行技術がずば抜けていなければ早くに退学だったでしょう。

マルセイユの父は第一次世界大戦で戦死し、母ギゼラは再婚していました。
後年映画「アフリカの星」が完成した際、彼女は招待されて
息子を主人公にしたこの映画を鑑賞しています。

「お花、高かったでしょう」

と聞かれた彼が、

「花屋に彼女がいるのさ」

とさりげなく答えていますが、この人の場合決して冗談ではなく、
それこそあちらこちらにガールフレンドがいて、休みごとに会うのに忙しく、
搭乗員に必要な休息もろくに取っていなかったというあっぱれな噂もあります。

上官で幼なじみのロベルトも休暇で帰ってきていました。
彼はマルセイユ家と同じアパートで新婚生活をしているのです。

さっそくダブルデートでヨットにでかける彼らですが、
(マルセイユの相手は適当な金髪美女)

休暇で遊びにやってきた他の航空学生のヨットから、

「戦争が始まった」

というニュースを知らされます。
ついにドイツがポーランドに侵攻したのでした。

戦争の始まりを示すシーンは世界中の戦争映画と同じく、
実写映像を交えて語られます。

ポーランド侵攻が語られているパートなので、流れで言うとこれは
戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」ということになりますが、
わたしには確定できませんでした。

よろしければどなたかご指南ください<(_ _)>

市街戦で燃え盛る民家も実写映像です。

戦車の影に隠れながら一緒に移動する歩兵。

JU87シュトゥーカ急降下爆撃機でしょうか。
解説ではここからバトル・オブ・ブリテンまでを10秒で済ませてしまいます。

そしてマルセイユ初陣の日がついにやってきました。

1940年8月24日、イギリス上空で、彼は熟練した敵と
4分間のドッグファイトの末、これを撃墜しています。

彼が母親に対し、

「今日、私は最初の敵を撃墜しました。
私はそれが受け入れられません。
私は、この若者の母親が息子の死のニュースを受けたとき、
どう感じるに違いないかを考え続けています。
そしてこの死の責任は私にあります。
私は最初の勝利に満足するどころか、悲しんでいます」

と書き送ったのはこのときです。

ここで事件発生。
この時の空戦で一緒に出撃したロベルトが撃墜されたのです。

そして映画では彼が海に落ちて救出されたということになっていますが、
これは映画上の創作で、実際にそうなったのは実はマルセイユ本人でした。

初撃墜から1ヶ月後の爆撃機護衛任務の帰りに、英軍機と交戦した彼は
被弾した機からベイルアウトし、3時間海を漂ったのち救出されています。

低体温症になりながらも生還できたのは20歳と若くて体力があったからでしょう。

映画ではマルセイユがロベルトを病院まで迎えに行き、慰めています。
この生還劇を、史実通り本人のストーリーにしなかったのはなぜなのか、
わたしには全く制作側の意図が図りかねます。

マルセイユを完璧な英雄として描きたいあまり、彼がこのとき中隊長を守れず
戦死させる結果になって部隊からハブられたことや、その一匹狼的性格が
災いし、嫌われて他の部隊に回されたと言う話をスルーしたのでしょうか。

こういう作り物的な伝記映画だったためか、興行収入はともかく、
映画としての評価は当時からあまり高くなかったということです。

マルセイユの部隊が、アフリカに赴任前パリに立ち寄るという
不思議な設定ももちろん創作です。

実際はマルセイユの部隊は、ユーゴスラビア侵攻で戦闘に参加したり、
前線に移動する際にマルセイユ 自身が機体のエンジントラブルで不時着し、
ヒッチハイクで基地にたどり着こうとしたり、それが無理とわかると
手近な空軍基地に飛び込んで

「明日から作戦に参加しなければいけない」

とちょっとフカし、車で送らせたりと大忙しでパリどころではありませんでした。

ちなみにこの時の手近な空軍基地司令は、
運転手付きの車を彼のために出してやり、別れの際に

「このお返しとしてぜひ50機撃墜を頼むぞ!」

と言ったらしいのですが、このエピソードの方が映画的で
彼のキャラクターも浮かび上がったんじゃないのかなあ。

 

本作のようなパイロットの伝記映画で、実物の方が映画俳優よりイケメン、
という例もあまりないですが、実際の人生の方が波乱万丈で映画的、
というのは創作としていかがなものでしょうか。

こうなったら?心あるドイツの映画関係者に(ハリウッド映画など、
ユダヤ資本が絡むとドイツ軍の描き方が一方的になるのでこれはダメ、絶対)
改めて彼を映画化して欲しいとわたしは今強く思っています。

占領下のパリに新婚旅行気分で嫁を連れてくるロベルト(´・ω・`)

この映画の脚本家の胸ぐらを掴んで問い詰めたい。
どうしてこの映画にロベルトの妻とのロマンスが必要なのか。

実際はプレイボーイだったというマルセイユのその部分を隠すために
ロベルトの恋愛が利用されているだけとしかわたしには思えません。

しかもこの嫁がこんなところに来て

「本当は嫌なんでしょ?戦争」

などと夫の心をかき乱すようなことを言い出します。
いやに決まってるのにこんなことをこの状況で妻が言いますかね。
どこかで見た雰囲気だなあと思ったら、同時代の日本映画ですよ。

ドイツ映画よお前もか。

実を言うとこの映画の制作された1950年代は、ドイツにおいても
(世界中から非難されたせいで)戦争嫌悪の空気が特に強く、
この映画からは極力ナチスを感じさせる表現は省くという配慮がされたそうで、
「ハイル・ヒットラー」といいながら手を上げる軍人などは出てきません。

映画ではパリ市民も妙に友好的で、この爺さんは、マルセイユにドイツ語で
ビリヤードのコツを教えてくれたりします。

実際のところ、占領後のフランスでは国旗の掲揚が禁じられ、
市民の胸中には軍や対独協力者に対する恐れと怒りが渦巻き、
パリ市民とドイツ軍の間には、

「屈辱感を伴った名状しがたい一種の」

「何等共感を伴わない」

「連帯関係」があった、とあのジャン・ポール・サルトルが語っています。

この映画ではドイツ語を喋るこのフランス爺さんが、

「あなたは理想主義者かね。お気の毒に。
理想主義者は善でもあり悪でもある。
理想主義者は価値のはっきりしていない自然演劇の一種だ」

などといいますが、案の定マルセイユは全く理解できない様子です。
実際の彼もこんなことを理解する人物ではなかったに1マルク。

爺さんはなぜか相手が戦闘機パイロットであることを知っているかのように、

「この仕事(撞球家)なら自分も満足し相手を傷つけずに済む」

といったり、彼らが去った後、

「なんと恐ろしい。年老いた私の方ここにいる若者たちよりも長生きするとは」

とドイツ軍将校に独り言のように言ってのけますが、
これは、深読みすれば、フランス人である爺さんの、「名状しがたい、
一種の何等共感を伴わない」「共存関係に甘んじる」屈辱感の現れともいえます。

というわけで本当は色々あったマルセイユの部隊は北アフリカに到着。

映画的にはこれはフラグ。
部隊で犬を飼っている人はのちのち必ず戦死する・・・はず。

北アフリカに着いた直後の4月23日、マルセイユは
Bf109Eメッサーシュミットで初撃墜をあげました。

映画で使われた機体はスペイン空軍が使っていたライセンス生産の
イスパノHA1112だそうです。

実際の写真にも、彼のこのアフリカ仕様半ズボン姿が残されています。

マルセイユ役の俳優(ヨアヒム・ハンセン・ハンス)は長身ですが、
実際のマルセイユは背はあまり高くなく、水着姿を見る限り
どちらかといえば体型はドイツ人としては貧弱な感じです。

清潔好きなドイツ軍の部隊ですから、砂漠の中の基地でも
ちゃんとシャワーが完備しています。

そんな部隊に新しく若い下士官が着任してきました。

「少年部かい?」「小さな飛行機持ってきた?」

ウブなクライン伍長はスレた搭乗員連中の格好のからかいの的に。

その晩、マルセイユは呼び出しをくらい、昼間上官を無視したことや、
彼の戦闘スタイル(敵の編隊の中に単身突っ込んでいく)
に対し、命を大切にしろなどとやんわりと注意を受けます。

しかしこれは司令官の「親心」というやつでした。

「君を少尉に任命する」

ご機嫌です

少尉に任官した翌日、爆撃機の援護任務に出るマルセイユ。

新人のクライン伍長は、撃墜王マルセイユと飛べることに
感激しながらも緊張が隠せず、こわばった笑いを浮かべています。

はい、みなさんもうお気づきのように、これもフラグです。

この護衛任務で敵機と遭遇し交戦中、マルセイユ機は撃墜されて不時着しました。

実際に彼は三度撃墜されており、その都度生還していますが、この時
撃墜したのは英空軍第73飛行隊に加わっていた自由フランス軍のパイロット、
ジェームズ・デニス少尉(8.5機撃墜)のホーカー ハリケーンとわかっています。

マルセイユの機は操縦席付近に約30発の弾丸を受けましたが、
キャノピーを破壊した弾は彼が前屈みになったので数インチでそれました。

マルセイユはこのとき何とか胴体着陸し、救出されました。

ちなみに1ヶ月後の5月21日、デニスは再びマルセイユを撃墜しています。
よっぽどマルセイユにとって相性の悪い相手だったのでしょう。

このときも彼は生還していますが、その後2ヶ月間一機も撃墜できず、
いわゆるスランプに陥ることになりました。

救出されたあと、マルセイユを乗せた飛行機が次に向かったのは、
クライン伍長が撃墜された場所でした。

エースと呼ばれる戦果をあげることができたのはもちろん一握りで、
大半の未熟な若いパイロットは初陣で戦死するのが現実でした。
バトル・オブ・ブリテンでの搭乗員の平均寿命は4~6週間というものです。

クラインの遺体を抱き抱えて基地に戻るマルセイユ。

実際の彼がアフリカでこういう体験をしたかどうかはわかりませんが、
彼は時々、自分が撃墜した連合軍航空機の撃墜地点まで車で出かけて
生存を確認したり、ある時は敵基地まで飛んで撃墜の状況を知らせています。

撃墜したホーカー・ハリケーンの墜落現場に立つマルセイユ少尉、1942年3月30日。


ゲーリングがそれに類する行為を禁止したあとも、案の定通達を無視して、
彼は自分が死ぬまでそれを続けていたということです。

自分が撃墜することによって誰かが死ぬという現実に対する思いは、
100機を越す撃墜後も、彼の中で一切変わることはなかったのでしょう。

 

続く。

 

映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 中編

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「撃墜王 アフリカの星」は、映画としての評価は高くありません。

これが他のパイロットの話だとしても普通に通じるような、いわば
みんなの考えるところのドイツ空軍エースの生涯、という感じに収まっています。

これは前編でもわたしが言い切ったように、映画の脚本が凡庸で
彼の陰の部分を魅力として描くことを放棄し、ロマンスを柱に
女性客を釣ろうとした作戦の失敗と言えるでしょう。

 

ところで、空戦中心のバトル・オブ・ブリテンの期間が長かったこともあって、
生涯撃墜数352機というハルトマンをトップに、ドイツ軍には
100機レベルのエースが多く、マルセイユのランキングは30位に過ぎません。

しかし超のつく美貌を持った彼は、生前から今でいうセレブリティの扱いで、
マスコミは彼を追いかけ、彼の写真は世の女性をときめかせ、
結婚の申し込みをしてくる手紙は引きもきらなかったといいます。

神様というのは時折神々しいほどの美形を生み出したもうものですが、
加えて、稀に秀でた才能までを惜しげもなく与えることもあり、
ハンス=ヨアヒム・マルセイユはそういう祝福された一人でした。

しかし、世の中には奇跡の一枚が評価されている例もあることだし、
(陸奥宗光夫人とか有名な鼓を打つ芸妓さんもそうらしい)
多少写真うつりがいいだけかとと思って探したら、冒頭動画がでてきました。
時間のある方はご覧くだされば、彼の実力?がお分かりいただけるでしょう。

しかも相当自分に自信もあったようで、残された写真の多いこと(笑)
(ちなみに今観たら、一枚この映画のスチールが混入しています)

加えて彼の、ドイツ人なのにマルセイユというフランス系の姓は、
彼の雰囲気作りに一役買っていたのではないでしょうか。

ちなみにマルセイユ姓は彼の父方の先祖がルイ十四世の迫害から亡命してきた
フランス系だからだそうで、学生時代は母親の再婚相手の姓、
ロイターと名乗っていましたが、のちにマルセイユ姓に変更しています。

カーチャンにピアノを聴かせているマルセイユ。

何を弾いているのかわかりませんが、ピアノを弾くドイツ軍将校、
しかもこの男前・・・・・カーチャンも見るからにうっとりですわ。

マルセイユの母は、戦後、映画「アフリカの星」を鑑賞したそうですが、

「息子の方がずっとショーン(美男)だったわ」

とかマジで思ったかもしれません。

ところで、彼のピアノの腕は相当なものだったらしく、あの
ウィリー・メッサーシュミットの家で演奏したこともあります。

ヒトラー、ボルマン、ゲーリング、ヒムラー、ゲッベルスの前で
「エリーゼの為に」を始め1時間くらい弾きまくったマルセイユは、
驚いたことに彼らの前でよりによってジャズを演奏し始めました。

すると、ヒトラーはおもむろに手をあげて、

「もう十分聴かせてもらった」

と言って出て行きました。(大人だねえ)

マグダ・ゲッベルスはこの悪戯を大いに楽しみ、また別の列席者の一人は
ラグタイムが流れた瞬間、「血が凍った」とのちに語ったそうです。

ドイツ軍人でありながらジャズを愛し、自堕落で権威を恐れず反抗的な美青年。
マルセイユは女性はもちろん、男性からみても

「彼には抵抗できない魅力があった」

ちなみに彼の飛行隊長はこんな風に彼を評しています。

「彼の髪の毛は長すぎたし、腕の太さほどもある軍規違反履歴書を持ってきた。
それに何より、彼はベルリンっ子だったため、イメージを作ろうとして、
ベッドを共にした多くの女性について語ることを厭わなかった。
その中には有名な女優もいた。
彼は気性が荒く神経質で御しにくかった。
30年後だったら、彼はプレイボーイと呼ばれただろう」

さて、映画の続きです。
新入りのクライン伍長が戦死した日、基地に帰ってきたマルセイユは、
クラインの遺品から彼の好きな曲(本作テーマの『アフリカの星』)
のレコードをかけます。

この映画の戦争映画らしくないのが軍歌の類が出てこないところで、
このテーマ曲も日本では「アフリカの星のボレロ」としてヒットしました。

生前のマルセイユは「Rumba del sol」(太陽のルンバ)という曲を好んでおり、
これを使うことも検討されましたが、版権の関係で新しく作曲されました。

冒頭動画のBGMに流れているのがこの太陽のルンバですので、
似ているかどうか聞き比べてみてください。

マルセイユが到着した北アフリカの基地には「洞穴バー」がありました。
この映画のカットには、写真に残るシーンを再現しているものが多いので、
このバーも本当に同じようなものが存在したのでしょう。

踊っているアフリカ人は実在の人物で、南アフリカ軍の捕虜でした。
ドイツ人は彼にマテアスと名付け、何かと用事をさせていましたが、
ある日マルセイユに目をつけられ?従兵として彼に仕えていました。

映画では周りが彼に叙勲祝いに「プレゼント」したことになっていますが、
これもなんというか普通に人種差別的な表現ですよね。

本物

それはともかく、マテアスはマルセイユの話し相手になり、
音楽を聴き、一緒に酒を飲んで、普通に友人付き合いをしていた、
という証言が残されています。

今後映画化するなら、メッサーシュミット家でのピアノのエピソードと含めて
この辺りをもう少し深化させてほしいものです。
(映画では踊って見せているだけ)

まるでユダヤ人の囚人服のようなパジャマのまま遊撃に出て
1日に8機撃墜し、大歓声で迎えられ胴上げされるマルセイユ。

撃墜記録54機で最初の鉄十字章を授与されました。

物資不足に多くの敵、苦しい戦いの中で厳しい訓練を自らに課し、
独特な戦法で相手に挑むマルセイユの撃墜数は大きく新聞にも報じられました。

基地にも報道陣がやってきて彼の周りを取り囲む毎日です。
彼はカメラマンにとっても格好の絵になる被写体でした。

そんな日々のうちにも、仲間は次々と戦死していきます。
黒い犬を飼っていた搭乗員もまた・・・(やっぱり)

マルセイユと撃墜数を争っていた(最初のうち)搭乗員。
虚無的なタイプで、こういうときに何かわけのわからないことを
つぶやいてみせるというキャラ設定です。

「その先(僕らは皆いずれ死ぬ)を言えるか?いいさ、構わない。
僕らはみんな・・・君も僕もロベルトもその言えぬ言葉なんだ。
神様でも口籠るほどのね」

翻訳がかなり変ですが、ドイツ語なので
英語みたいに検証できないのが辛いところです<(_ _)>

明日をもしれない戦いの中で、ある日マルセイユは
飛行隊長のクルーセンベルグ大尉に語りかけます。

自分が撃墜した航空機の数、それとほぼ同じ人数が
自分の行為によって亡くなったこと。
そして彼自身もいつそうなってもおかしくないこと。

「突然死んだらそこに自意識はあるのでしょうか」

そんなことを聞かれても隊長だって死んだことがないので困ります。
適当なことを言ってはぐらかそうとすると、マルセイユが

「答えられませんか?」

と絡んでくるので、仕方なく

「どんな国の人間でも理性のある人は戦争を憎む。
しかし何一つできないのだ」

答えになっておらず、マルセイユは不満げに帰って行きました。

休暇でドイツに戻ったマルセイユは実家で機嫌よく目覚めました。
十字勲章はネクタイのあとに着用するんですね。

故郷でも彼は話題の人として大忙し。
まずは新聞協会でドイツ青年の輝かしい手本として褒められ、

続いて母校での講演会に出席。

生徒たちは英雄を憧れの眼差しで見つめています。
しかしマルセイユの担任だった先生は、学生時代の彼について聞かれ、

「彼は・・・あの・・・その・・・
いつでも元気いっぱいの少年だったので・・」

よほど目立たないか、困った生徒だったに違いありません。

彼は校長から「冒険談」を求められましたが、訥々と、
アフリカの部隊の同僚飛行士たちについて話し始めました。

実際の彼も弁舌が達者なタイプではなかったようですね。

そんな彼の稚拙なスピーチを暗い顔で聞いている女教師がいました。

自分の教室を訪れ、懐かしげに座ってみるマルセイユ。
一番前の席にいたということは、彼は学生時代から
小柄な少年だったに違いありません。

すると先ほどの女教師がやってきます。

「まだ学生ですが教師が不足しているので教壇に立っています」

マルセイユはまだこの頃22歳、女教師が相手だと
確実にとかなりの年上になってしまうからこそのこの設定でしょう。

ベルリンで女優を含めいろんな女性と関係していたという
彼の行状は一切描かないのは、彼を聖人化するというより、
本作をラブロマンス仕立てにしたかったからだと思われます。

Hans Joachim Marseille and Hanne-Lies Küpper | マルセイユ ...

それに実際のマルセイユも案外素朴で、本命の女性に対しては
外見より内面を重視していたのかな、と考えさせられるのが
彼が婚約者のハンネと一緒に撮ったこの写真なんですよね。

ハンネ嬢には失礼な言い方かもしれませんが、美男というのは案外
恋愛相手の容貌に拘らないのかもしれないと思ったり。(失礼だな)

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右側がハンネさんですよね。
もしかしたらハンネも女教師だったのかもしれません。

それにしてもマルセイユの水着姿、いけてな〜い(笑)

彼女にすっかりお熱のマルセイユ、戸惑う彼女に
畳み掛けるようにアプローチし、自分のペースに巻き込んでおります。

後ろは有名人のマルセイユに気がついたガキンチョの群れ。

壁ドンならぬ木ドンで迫ってみたり。
ポイントはデートにいつも制服を着ていることでしょうか。

水着姿を見る限り実物も「制服マジック」で底上げしてたと思うがどうか。



さっそく自分の友人であるロベルトの嫁に紹介します。
これもわたしに言わせると全く無駄なシーン。

ロベルトの嫁マリアンネと二人きりになると、ブリギッテは

「時間がないのに彼がグイグイくるんで困っちゃうけど
そんなこといってたらだめよねー」(意訳)

と「マルセイユを夢中にさせたいけないワタシ」をアピり、
マリアンネは

「時間は後で作れるわ。あなた心配じゃないの」

などとこちらもマウントを取りにきます。
男の預かり知らぬところで女の戦いが始まっていました。(´・ω・`)

とわたしが思ったのは決して深読みしすぎでもなく、
この後マリアンネと二人になったマルセイユが

「彼女どう?」「君にわかるかな?」

と感想を聞いているのに彼女はそれに答えず、

「馬鹿な話だが僕今幸福なんだ。わかる?」

と聞かれて初めて

「ヤー」

と一言だけ答えるということから、彼女が
夫の友人であるマルセイユを取られそうで
面白くないと思っているのを隠している感満点です。

電話から帰ってきてマリアンネが去るのを見届けた二人は・・。
お嬢さん、ついさっき

「彼を好きだけどわたしには時間がないの」

とか言っていましたが。

「明日はローマだ。
ムッソリーニ首相が金牌を授与することになった」

マルセイユは撃墜王として勲章をもらった後は、それこそ
ナチ上層部の前でピアノを弾いたり、講演をしたり、
宣伝映画に出たりと最大限プロパガンダに協力をしたようです。

マルセイユは1942年7月、ヒトラーの手からオークの葉を持つ騎士の十字架の剣を受け取ります

1942年7月、死の2ヶ月前ヒトラーから勲章を受け取り握手するマルセイユ。

プロパガンダの一環、ヒトラーユーゲントに囲まれるマルセイユ。

ほのぼのドイツ軍 on Twitter: サインするときもカメラ目線

1942年9月16日、ロンメルはドイツ空軍で最年少のハウプトマンになったことをマルセイユに祝福します

ロンメルと握手するマルセイユ。
1942年9月16日、死のちょうど2週間前に撮られた動画です。

 

続く。


映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 後編

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ルフトバッフェの撃墜王、ハンス=ヨアヒム・マルセイユの伝記映画、
「アフリカの星」、最終回です。

冒頭画像は映画のシーンでも、主演俳優でもなく、またしても
マルセイユ本人の写真を参考に描きました。

ほとんど影をつけなくてもいい彼のシワひとつない顔から
22歳というあまりにも早い死をあらためて思うとともに、なぜか、

「一人のモーツァルトの影には百人のモーツァルトが死んでいることを忘れるな」

という、昔読んだ原口統三の「二十歳のエチュード」の一節が、彼の時代
若くして死んだ無数の名も無きパイロットの存在を思い起こさせるのです。

 

さて、ムッソリーニから勲章を受賞されることが決まり、
ローマに向かうことになったマルセイユ。

ベルリン駅まで見送りに来た彼女のブリギッテの手をとり、
強引にローマ行きの列車に乗せてしまいました。

相変わらず強引な壁ドン男っぷりです。

「でも学校が・・・」

「おばさん、彼女の学校に休むと伝えておいて」

もちろん彼女は旅行の準備はもちろん、旅券も持っていないのですが、
胸に憲兵を表すプレート、「フェルドゲン・ダルメリー」をかけた
野戦憲兵が英雄マルセイユを知っていたのをいいことに、
見逃すようにちゃっかり頼むという俺様ルールで押し切ってしまいます。

有名人の特権濫用ガー!

二人が投宿したのはエクセルシオール・ホテル。
現在はウェスティンホテルの傘下になっている老舗高級ホテルです。

何も持ってこなかった彼女に、靴やドレス一切合切をプレゼントしますが、
いくら英雄でも給料は皆と同じだったと思うのよね。

 

マルセイユが実際にムッソリーニから軍事賞を授与されるために
ローマに行ったのは、死の直前である1942年8月のことでした。
北アフリカに戻る旅に、ローマまで彼が婚約者を同行していたのは事実です。

映画では二人の恋人たちのロマンチックな姿が描かれるのでした。
というか、後半のほとんどがこの恋愛を語るのに費やされています。

ところで、マルセイユ役の俳優ヨアヒム・ハンセンは27歳、
マリアンネ・コッホは26歳です。

実際のマルセイユの恋人ハンネも年上っぽいので、女性はいいとして、
最後までマルセイユの老けぶりが気になって仕方ありませんでした。
これ22歳に見えないよね。

ちなみに補助教師であるブリギッテを演じたコッホは、医大在学中
俳優になるためにキャリアを中断したのですが、その後キャリアを積み
グレゴリー・ペックやクリント・イーストウッドと共演するという
西ドイツを代表する女優となりながらも、もう一度大学に戻り、
44歳にして博士号を取得して医師となりました。

ホテルにお迎えに来た現地エスコート係の黒シャツの皆さん。
入ってくる時、ちゃんと手を上げてファシスト党の挨拶しています。

このときマルセイユが授与されたのは、イタリアで最高の軍事賞、
軍事的勇気の金メダル(Medaglia d'oro al valor militare )でした。

毎日式典と歓迎会、公式行事の毎日にうんざりしたマルセイユは
軍が取ったホテルをこっそり逃げ出し、彼女とローマ観光を楽しみます。

ここはトレビの泉かな?

コモ湖畔では彼女が飛行服のマフラーにするシルクのスカーフをプレゼント。

「お守りにするよ!」←フラグ

生バンド付きのディナーの最中、ブリギッテの顔はどんどん曇っていき、
ついには席を立ってしまいました。

彼がアフリカに帰ってまた飛行機に乗るのが彼女は耐えられないのです。
それは何ヶ月か以内に確実に死ぬということと同義だからでした。

ついに彼女は、ローマから二人で逃げて亡命しようとまでいいだすのですが、
これは実際の経緯を知っていると、「ああ」と察するラインです。

実際マルセイユがローマでやらかした?ことは以下の通り。

「彼はローマで行方不明になり、当局はローマ警察署長だった
ゲシュタポのヘルベルト・カプラーに、捜索と報告を行わせた。

噂によると、彼はこのとき一人のイタリア人女性と逃走するも、発見され、
説得されて部隊に戻ったのだが、このことは例外的にどこからも叱責されず、
その軽率さに対し罪を問われることはなく不問にされた」

なんとマルセイユ、ゲシュタポのカプラーの手で確保されなければ、このとき
婚約者のハンネではなく、現地の女の子と脱柵?していた可能性もあったのです。

 

彼が北アフリカで死亡したのはこの事件から1ヶ月後です。

映画でも主人公が次は自分が死ぬ番だと苦悩を告白していましたが、
この時のマルセイユが、目も眩むような栄光と我が身に迫った死の間で
今の自分も婚約者も放棄し、どこかに行ってしまうことを考えたとしても、
彼の前科を考えれば、決してありえないことではなかったかもしれません。

ただ、常人と違うのは、彼がそれを実行したことです。
そして彼が常人ではなかったからこそ、逃走はなかったことにされたのです。

この映画の不思議なところは、このロベルトをここでまた出してくるところです。

「ちょっと旅行で寄ったんだ」

この人も北アフリカに帰らなくてはいけないのに、なかなか呑気なことです。
ロベルトが現れたことでブリギッテは逃げようとまで迸らせた激情に
いわば水をかけられた形となり、観念したように

「行くのね」

と呟くのでした。

実際マルセイユはローマから直接北アフリカに戻り、婚約者は
ローマで彼を見送っています。

マルセイユが自分を放置して行方不明になったこともさながら、
見つかったときに女の子と一緒だったことを知らされた彼女が、
彼を相手にどんな修羅場を演じたか、他人事ながらちょっと心配になります。

ただし、彼は前線に戻ってから、ハンネと結婚するためという理由で
クリスマス休暇を申し出ているので、二人の仲が破綻したわけではなかったようです。

アフリカに戻ったマルセイユは、8月23日から戦闘に復帰しました。
映画でも描かれていますが、帰ってからの彼は絶好調で、
9月1日には連合軍機を17機撃墜という新記録を打ち立てています。

空戦で、マルセイユの当初のライバルだった
ヘルデンライヒ中尉が撃墜され、重傷を負い死亡しました。

「僕は君を羨んでいた」「でも好きだった」

部隊に戻ると、見慣れない男が同僚の中に混じっていました。

「彼は誰だ」

「ブラウン大尉だ」

「彼を落としたやつだ」

同僚のヘルデンライヒを落とした敵が確保されていたのです。

それにしても驚くのが、敵のパイロットだというのに、このときも
テントの中でイギリス軍がみんなに混じってタバコなんぞ吸っていることです。

パイロットの捕虜の扱いって第二次大戦中でもこんなだったんですかね。
彼は彼で、マルセイユに

「君はマルセイユだな。君が僕を落としたんだ」

 

実際にはマルセイユは9月3日、かつて自分を一度撃墜した
カナダ王立空軍のエース、ジェームズ・フランシス・エドワーズ
再び撃墜されています。

エドワーズはマルセイユの親友の一人を撃墜しており、もう一人も
この頃行方不明になったことから、人生最後の数週間、彼は
ほとんど誰とも話をせず、いつも陰鬱な様子で、戦闘の緊張から
夢遊病やPTSDのいくつかの症状を併発していましたが、
本人はそのことを全く自覚せず、自分の行動を覚えていなかったそうです。

 

もともと圧倒的な物量差の中でドイツ軍はかなりの劣勢でしたが、
その中でマルセイユというスーパースターの超人的な勝利は、
部隊の精神的な支えだけでなく、彼がいる限り負けないというくらいの
根拠のない自信にまでなっていため、部隊は彼の死後、
「マルセイユ・ロス」で士気が極端に落ち、1ヶ月アフリカから撤退しています。

マルセイユの個人技量は優れていましたが、指導者ではなかったため、
他のパイロットは生前の彼を補助するだけの役割に甘んじ、ゆえに
後継者もあらわれず、その死は大きな空洞を組織に開ける結果になったのでした。

そして、映画でも彼の最後の日が描かれます。
1942年9月30日の護衛任務です。

当時指揮所から任務を支持していたエドワルド・ノイマンはこう証言しています。

「わたしは指揮所にいてパイロット間の無線通信を聞いていました。
すぐに深刻なことが起こったことに気づきました。

飛行中の彼らがマルセイユを領土内に誘導していること、
そして彼の飛行機が大量の煙を放出しているということです」

 

基地に戻る間、彼の新しいメッサーシュミットBf 109 のコックピットは
煙で満たされ始め、視界を失った彼はウィングマンに誘導されて
ドイツ領空内に到着しましたが、すぐに機体はパワーを失い、流されて行きました。

彼は仲間に、

「脱出する。もう我慢できない」

という最後の言葉を残し、急降下する機体からベイルアウトしましたが、
後流に巻き込まれ、脱出時に左胸を垂直尾翼に強打し、
おそらくそれで死亡したか、あるいは意識を完全に失ったと考えられています。

彼はそのためパラシュートに手もかけない状態で地面に落下しました。

マルセイユ の遺体の検死を行った医師の報告書にはこのように記されました。

「パイロットはまるで眠っているようにうつ伏せに横たわっていた。
彼の腕は彼の体の下に隠されていた。
近づくと、彼の押しつぶされた頭蓋骨の側面から血の塊が見え脳が露出していた。

また、腰の部分のひどい傷が目に入った。
これは落下によって生じた傷ではないことは確実だった。
脱出時にパイロットが機体に激突したことは確かである。

死んだパイロットを慎重に仰向けにしフライトジャケットのジッパーを開けると、
柏葉と剣の騎士の十字架が現れ、すぐにこれが誰であるかがわかった。
死んだ男の時計を見ると、それは11:42で止まっていた」

そしてラストシーン。
音楽の授業中、校長先生がやってきてドアを開けます。
校長は無言ですが、ブリギッテはその顔を見ただけで全てを察しました。

そして彼女も一言も発することなく、教壇に突っ伏しました。

歌うのをやめ、けげんそうに彼女の泣く様を見ている子供たち。

マルセイユ の100機撃墜の記念に入れた数字と、100機以降の撃墜数を表す
58の線がペイントされているメッサーシュミットの尾翼が、
砂漠の風に吹かれているカットで映画は幕を閉じます。

 

 

ところで、後世の人々、マルセイユを称賛する伝記作家は、
彼がナチス嫌いだったことをなんとか証明しようと、あたかも
証言をかき集めているようにみえます。
たとえば、ヒトラーと謁見したマルセイユが、

「総統は相当変わったタイプだ」

といったという話。

まあ、20歳のヤンチャ坊主がヒトラーと会った後、
そういう軽口を叩いたとしても、それはよくある話でしょう。

また、授賞式の席でナチに入党するつもりはないかと聞かれた彼が、
よりによってヒトラーの前で声も憚らず

「魅力的な女の子がたくさんいるなら入ってもいいっすよ」

といったとかいう話も。

これも彼のように、上から怒られることをなんとも思っておらず、
自分がエースでいるのをいいことにやりたい放題ならあるあるでしょう。

また、ユダヤ人迫害について、ある人物は、パーティでその噂をしていると、
マルセイユが横で聞いていたので彼は知っていたはずだ、と述べました。

マルセイユは、たとえば自分を取り上げたかかりつけの医者を含め、
自分の周りのユダヤ人が一体どこに行ってしまったのか、
ということを人に尋ねたこともあったそうですが、知人の一人は、
彼がエースとして有名になり、持て囃されて上に近づくのと反比例して
国の大義に対する態度は微妙に変わっていき、いつのころからか
その話題を一切口にしなくなったのに気がついた、と証言しています。

 

学校を出たらすぐに飛行学校に入り、飛ぶことだけを考えてきた彼は
政治的なことに関しては全く定見というものを持たぬまま、
国の英雄としての立場を自然に受け入れていたようにわたしには思えます。

人種差別を嫌い、黒人であるマテアスと友達のように付き合ったのは
ナチス嫌いの彼の反発のあらわれだった、などというのは
後世の「ある」人々がそうであって欲しいと願っただけの後付けの考察に過ぎず、
奇しくもパリのビリヤード爺さんが喝破していたように、彼は
自分がそこに生きて存在することを始め、全てをあるがままにただ眺めながら、
そこで認められることを願う、無邪気な理想主義者にすぎなかったのではないでしょうか。



終わり

 

日独の占領制作と戦後の核、冷戦問題〜ウェストポイント軍事博物館

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ウェストポイント併設の軍事博物館より、今日は
戦後世界について、敗戦国の占領と戦後の核に関する展示をご紹介します。

冒頭写真は、連合国最高指揮官ダグラス・マッカーサーが
第一生命ビルを接収して置いたGHQ指令本部から出てくるところです。

第一生命ビルはGHQに接収され、返還後、再開発プロジェクトで
第一生命ビルのオリジナル部分を一部残して建て替えられ、現在は
DNタワー21という名称のビルに代わっています。

DNのDは第一生命、Nは同居している農林中金の頭文字から取られました。

 

ドイツの占領

第二次世界大戦が終了してから、アメリカ陸軍関係者の大半は、
ドイツと日本の占領に何らかのかたちで関与することになりました。

まず、ドイツですが、連合国は1945年のヤルタ会談とポツダム会談で
すでにドイツに対する共通の占領政策を打ち出していました。

特にヤルタ会談は、まだ戦争の勝敗が決まっていない2月に行われながら、
その内容は、戦勝国における利害調整会議であったことでも知られます。

その結果、ドイツはアメリカ、イギリス、ソビエト、フランスの軍隊によって
占領されていくつかのゾーンに分けられ、軍政統治されることになりました。

ドイツの位置ドイツ全土占領地図

Occupied Berlin.svgベルリン市占領地図

 

連合軍司令官アレキサンダー・M・パッチ将軍の指揮下にあるアメリカ領土で、
陸軍がまず行ったのは、ドイツ軍の武装勢力の動員解除です。

Alexander Patch portrait.jpg パッチ将軍

その占領区で、アメリカ軍は軍事政府のシステムを確立。
そして、地方政府と国政から、とにかくナチの影響を根絶しました。

軍政は恒久的ではなく一時的なものであることが決定しているので、
占領側は、ドイツ政府が将来自治を行うことができるように再教育し、
戦争でズタズタにされた経済の回復を支援しました。
(展示説明ママ)

さらに、アメリカ陸軍はその一部の野戦部隊を、そのまま
特別な米国警察に再編成しなおしました。
これは、アメリカ軍地帯でのみ移動可能な警察部隊として活動しました。

「コンスタンブラリー(Constabulary)」

という珍しい響きの単語は、このとき編成された
巡査で構成されるアメリカ警察部隊のことを指し、
同時にアメリカ陸軍が第二次世界大戦後、西ドイツで
組織した陸軍軍人からなる警察組織の固有名詞でもあります。

写真は占領下の西ドイツ人にはおなじみとなった、
コンスタンブラリーの独特の制服です。

1952年に合衆国警察隊、コンスタンブラリーは歴史の幕を閉じました。

近代アメリカ陸軍の歴史でもで最も多彩で、効果的な役割を果たした、
とここの説明には書かれています。

その組織は、最初の司令官であるアーネスト・N・ハーモン少将、
装甲師団のエネルギッシュで短気な元司令長官が作り上げた努力の産物でした。

「ernest harmon general」の画像検索結果ハーモン大将(最終)

その歴史は5年にも満たないものでしたが、コンスタブラリーは
西ドイツの人々をある時には恐れさせ、この世代の人々に
決して忘れられることのない強い印象を残しました。

コンスタブラリー戦隊は、1946年、第1および第4装甲師団から
退役軍人部隊を引き抜き、その後ドイツで占領任務にあった
複数の騎兵隊と統合して編成されました。

そしてここに残されている独特のユニフォームが与えられました。
黄色・青・黄色のトリプル・ストライプのヘルメットライナー、
「サンダーボルト」記章付きの肩当て、および黄色いナイロンスカーフ。

「constabulary insignia US army」の画像検索結果サンダーボルト

彼らのジープ、戦車、その他の乗り物には、全て独特の
黄・青・黄色の縞模様が付けられていました。

このため、コンスタブラリーにはドイツの村人から
カルトフェルカファー(kartoffelkäfer、ジャガイモカブト虫、
あるいはコロラドハムシ)という愛称を付けられました。

「kartoffelkäfer」の画像検索結果似てるかも

重武装をし、カラフルな制服を着た騎兵はすぐにドイツ国民の注目を集めました。

3人乗りのパトロールジープはすべて口径30の機関銃を搭載し、
各警察部隊は37ミリの大砲と口径50の機関銃を搭載した装甲車を装備。
軽戦車部隊と騎馬小隊が各政権本部に配置されました。

コンスタブラリーのヘルメット(左)。
右は第511空挺部隊の「ファティーグ・キャップ」です。

コンスタブラリーのモットーは「機動性、警戒、正義」。

選り抜きの隊員によって構成され、起こりうるいかなる状況下にあっても
民間人と兵士を問わず対応できるような訓練をされていました。

部隊組織はニューヨーク州警察をお手本にモデル化され、
隊員は可能な限り困った人々に対し、親切にするように教えられており、
実際に彼らは常に義務の遂行をしようと努めていました。

このように、新世代のドイツ人に希望と安心感を与え、
民主主義の理想についての感覚を植え付けることができたコンスタブラリーでした。

 

・・・・というのは、アメリカ陸軍のテキストブックから抜粋した文ですが、
それではドイツ人に恐れられていたというさっきのはいったい・・・。

まあ、物事には良い面ばかりではないのは皆さんもご存知の通りです。

警察組織であったコンスタブラリーはむしろそれを取り締まる側だったと
信じたいですが、軍政下のドイツで無秩序なアメリカ兵との間に
望まぬ子供が多く生まれて社会問題になっています。

しかも子の認知およびその生活費の支払いを請求する訴訟は禁止されており、
西ドイツ法廷ではアメリカ軍兵士を裁くことはほとんど不可能でした。

占領下で父をアメリカ軍兵士として生まれてきた子供のうち約3パーセントが
アフリカ系アメリカ兵との子供であったといわれていますが、この場合、
たとえ男性に責任を取るつもりがあっても、アメリカ軍の規則で
異人種間婚姻が禁止されていたため認められず、俗に
「Negermischlinge」ニーガーミシュリンゲ(黒人混血児)
と呼ばれた彼らは特に悲惨な人生を辿ることになりました。

 

これはドイツに限らず、日本でも起こったことですし、ドイツを占領した
各国の中ではアメリカはまだマシな方で、こういった規制は他の国では
全く顧みられていなかったので、結果は推して知るべしでした。

 

日本の占領

日本の占領はドイツの占領とは大きく異なる線をたどりました。

日本と戦った11か国を代表する極東諮問委員会がワシントン州に設立されましたが、
戦後政策を実施する真の力は、東京にその司令部を持つGHQの最高司令官、
ダグラス・マッカーサー将軍がほぼ一手に握っていました。

ここにあった説明をそのまま翻訳しておきます。

「占領下でのアメリカの軍隊は、主に警察の役割を果たしていましたが、
占領軍は、主に戦後におけるの日本の復興をを支援しました。

1947年半ばまでに、新しい国会が自由選挙により選出され、
急速に憲法上の君主制、実質民主主義に変えるための措置が講じられ、
その結果、現在の日本は世界の経済大国の1つとなっています。」


占領の綺麗な面だけ見るとこうなるんですねわかります。
日本が経済大国になったのは、国民的資質の賜物というだけでなく、
かなりの部分アメリカのおかげ(日米同盟で保障を依存していたから)
という意味ならばその通りだと思いますが。

ここの展示で存在感を特に放っていたのは、この看板です。

 The High Commisioner Of The Ryukyu Isrands
琉球列島高等弁務官

1945年、アメリカ軍が沖縄に上陸すると同時に、アメリカはここに
米国政府を置きました。
USCAR(ユースカー)と呼ばれた琉球列島米国民政府です。

琉球列島高等弁務官は、陸軍中将の高等弁務官をトップとし、
その権限は強大で、しばしば下部組織である琉球政府の政策に介入しましたが、
このことが沖縄住民の反発を買い、復帰運動が激化したということがあります。

琉球米国民政府が沖縄返還と同時に閉庁し、高等弁務官も
六人の高等弁務官の施政を経て1972年に廃止されることになりました。

このマークは、鷲が右足に月桂樹?を、左足に矢を持っており、
おそらく武力と平和の均衡を意味しているのではと思われます。

六枚の絹を重ねた琉球着物を着た琉球人形がありました。
琉球政府の”与良Chobyo”という人物が、最後の高等弁務官を務めた
(第6代)ジェームズ・ランバート陸軍中将に贈ったものです。


病院を視察するランパート中将。
陸軍士官学校の校長を務めたこともあります。

 

戦後の核抑止力

「第二次世界大戦の終わりに最初の原子爆弾が爆発し、
戦争の新しい時代が到来しました。」

と書いてあります。この他人事感ぱねえ。

戦争後の4年間、米国は原子兵器を世界で唯一有する国でした。
これに対し、ソビエト連邦は同等の能力を確保しようと国力を投じました。

当時、原子力兵器の存在というのは、いうなれば
従来の戦争の可能性を排除した新しい国力のバランスを生みました。

第二次世界大戦が終わろうとしている頃、すでに2つの主要な大国であった
米国とソ連は、互いの幅広い国際問題に関する対立に気付いていました。

その決して和解できない両国の齟齬の原因は、対立する国益とイデオロギーです。
この対立は「冷戦」として知られるようになりました。

 

ソビエト連邦は1949年の実験を成功させ独自の原子爆弾を所有するようになり、
世界には二大大国による軍事的均衡(緊張)が生まれることになります。

両国の戦略的思想家は、この変化した世界における新しい解決策を模索していました。

(左、ファットマン)

彼らの出した結論は、最終的に抑止力と呼ばれる均衡状態の支える平和です。

西洋の思想家は、従来の軍隊の運用しながら、かつ
核保有を拡大していくという計画を打ち立てました。

1945年に国連が創設されましたが、これが多くの人々が期待するような
安心感を世界に提供することにはならず、むしろ失敗だったと言えましょう。

その結果、北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ協定など、
いくつかの地域安全保障協定が確立されていくことになります。

 

しかし国際機関も地域の安全保障協定も、第三世界の多くの地域において
戦前から勃興していた民族主義運動と共産主義運動の再発を防ぐことはできませんでした。

 

中国では、日本との戦争終結後である1926年、
民族主義者と共産主義者の間に内戦が起こっていました。
1949年までに、毛沢東の共産党は、蒋介石の中国民族主義軍を破り、
フォルモサ島(台湾)に強制的に撤退させました。

軍事的、政治的、心理的な原理と技術を組み合わせた革命戦争。
毛沢東の「文化大革命」は、20世紀後半の他の革命戦争のモデルになりました。

中国での共産党の勝利は、1950年に中国がソビエト連邦と結んだ
友好と同盟の条約と相まって、共産主義があたかも一枚岩であるように思わせました。

中国での共産党の勝利と東ヨーロッパ諸国におけるソ連の傀儡政権の創設により、
西側は、彼らの考えるところの世界共産主義の拡張を封じ込める、
という問題に対処することを余儀なくされていったのです。

これらの認識は、朝鮮半島とインドシナの出来事に対して
西側諸国がとった軍事的対応に生かされたということができるでしょう。

 

原子爆弾の投下スイッチ

 

続く。

 

 

 

ロング・グレイ・ラインと「フライドエッグ」〜ウェストポイント軍事博物館

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今日は最後に近づいたので、ウェストポイント軍事博物館の展示から
ウェストポイントそのものの歴史に関する資料をご紹介します。

あらためて博物館エントランスを入ったところから。
博物館のオープンは1854年、世界で最も古い軍事博物館です。

入ったところには伝統のグレーの肋骨服を着た
カデット(士官候補生)のマネキンが立っています。

1800年代前半ごろの制服。
どう見てもブルーですが、陸軍的にはこれもグレイなのかもしれません。
世界の海軍が黒の軍服を「ネイビー」と言っているように。

最初にウェストポイントに軍隊を置いたのは、イギリス植民地支配に
対する反乱軍である「大陸軍」でした。
ジョージ・ワシントンは大陸軍の軍の最高司令官です。

冒頭写真に、ここウェストポイントの前を流れるハドソン川の
S字にカーブした部分をイギリス海軍の遡上を防ぐのを物理的に阻止した、
「ザ・チェーン」の一部が写っています。

陸軍士官になるための初級訓練は1794年からここで行われ、
その主な訓練は砲撃ともっぱら工学の研究でした。

 

最初に軍事アカデミーを成立する法案を通したのは、
あのアレクサンダー・ハミルトンであり、設立を指示したのは
時の大統領、トマス・ジェファーソンです。

ヨーロッパで、ナポレオン率いるフランスとイギリスの間に
次第に戦雲が立ち込めてくるような状況になってくると、
そこにアメリカが巻き込まれる可能性が濃くなってきました。

そこでジェファーソンは大統領として、アカデミーの初期の開発を
慎重に指図し、民主的価値と国家の基礎を築くために不可欠な原則に
献身することができる入学候補者を厳選したのです。

これらの選ばれた若者たちは陸士を卒業後、国家の軍事指導者としての
階級を与えられ、より貴族的で保守的なメンバーとして他の将校の上に立ちました。

ジェファーソン個人は科学に並ならぬ関心を持っていたため、
新しい共和国における科学事業の発展を奨励するという観点から、
1802年3月16日、アメリカ合衆国初の工兵隊を成立させました。

7人の司令官と10人の士官候補生で構成された工兵隊は、そのまま
ウェストポイントに配置されて、最初の軍事アカデミーの祖となったのです。

あー、本当にこんな人だったんだろうなあ、と思う肖像画ってありますよね。

ジョセフ・ガードナー・スィフトJoseph Gardner Swift
(1783−1865)1802年卒

は最初のウェストポイント卒業生10名のうちの一人です。
士官学校成立が間近というとき、ジョン・アダムスはこの優秀な若者を
工兵隊にスカウトし、彼は初めてのウェストポイントの卒業生になりました。

10名の中でおそらく一番優秀だったようで、彼は25歳で少佐、
29歳で陸軍最高技術者、30歳で陸軍士官学校の学長にまでなっています。

開校した頃の陸軍士官学校。

右は、最初の陸軍士官学校最高責任者、
ジョナサン・ウィリアムズ大佐(1751−1815)。

この人が、最初のウェストポイントの十人を育てた教授の一人です。

 

この真ん中の肖像もスィフトです。
左は、オルデン・パートリッジ(Alden Partridge)1806年卒。
この人も初期の卒業生で、卒業するなりウェストポイントの教授になりました。

パートリッジは士官候補生のユニフォームを最初にグレーのものに、
そしてレザーのドレスキャップを制定した人です。

陸軍士官学校の「ロング・グレイ・ライン(長い灰色の列)」
という言葉はこのときに生まれることになったのです。

ここに展示してあるプレートは、新しく制定された
シャコー帽と言われる庇のある円筒形の帽子の飾りに使われました。

この時代から、帽子につけるプレートを、アメリカ陸軍では

「フライド・エッグ」🍳

と呼ぶ習慣が生まれたということです。


海上自衛隊では正帽の庇の金の刺繍を「カレー」と呼びますが、
この習慣もたどっていくとこのあたりから始まっているのかもしれません。

真ん中のがシャコー帽、金のプレートはフライドエッグです。
左は南北戦争の頃の帽子に見えます。
右の軍帽は、世界的に1900年代初頭まで使用されたタイプですね。

当時アカデミーで使われていた実験道具などなど。
左から:

プリズム投射機、顕微鏡、ダニエル湿度計

ガラスの提灯のようなものは、フランスで買ってきた発光装置。
一番右は物理の授業で実験に使われた「ダブルコーンと傾斜面」と言う機器。

Double Cone and Plane

ダブルコーンを傾斜面に置くとあら不思議、登っていくではないですかという実験ですね。

実験道具の上の額に入っているのは、1923年卒業生の卒業証書(ディプロマ)です。
こんなでかいものどうやって受け取ったんだ・・・。

1827年に描かれたウェストポイントの様子です。
画家ジョージ・カトリン(1796-1872)は1827年にハドソン川沿いに
ウエストポイントにやってきてアカデミーのこの絵画を制作しました。

上は北向きの方向で、訓練する士官候補生が描かれています。
下は南を見たところで、砲撃の訓練が行われているところです。

 

画面右に見えるオベリスクは、1812年独立戦争の戦闘で戦死した
エリエイザ・D・ウッド大佐(1806年卒)を顕彰するために建てられました。

 

写真が一部欠けてしまいましたが、ギルバート屈折潜望鏡です。

どうやってつかうかというと、これですよ。

「ギルバート屈折潜望鏡」の画像検索結果

特に塹壕戦でお役立ちだったんですね。

アカデミーの形成期には、多くの科学機器や教科書を
パリやロンドンから取得する必要がありました。
理由は単純で、この国ではまだそれらは入手できなかったからです。

この屈折望遠鏡は、1816年頃にロンドンの会社から
自然および科学実験クラスのために購入されました。

「westpoint diploma」の画像検索結果

上に写っている卒業証書のちゃんとした画像をどうぞ。
この屈折望遠鏡は、現在もウェストポイントの卒業証書の
デザインにあしらわれています。(右側太鼓の上)

ここからはカデット生活をご紹介していきます。
1900年、絵画クラス。
陸軍士官学校に美術のクラスがあったとは驚きです。
当時は絵を描けると作戦立案にいいことでもあったのでしょうか。

1905年、エンジニアリングの授業。

測量のクラス、1907年。
陸軍の場合砲撃に測量は大変重要な技術です。

1905年、実験中。
みんな授業中でもやけに姿勢がいい。

いきなり時代は遡って1869年の小クラス授業中。

カデットが在学中に描いた「オールドノースバラック」校舎。
ペンと水彩で紙に直接描いたものです。

これを描いたアルバート・ニスカーン候補生(1886年卒)は
最終的に准将にまで昇進しました。

「albert decator kniskern」の画像検索結果准将になったニスカーン

「ラリー・オン・ザ・カラーズ」(結集された色)

というタイトルの、写真をもとに描かれたイラストです。
ルーファス・ゾグバウム Rufus F. Zogbaum(1849−1925)は
アート・スチューデント・リーグという、
現在もニューヨークにある名門美術学校で勉強しました。

この学校に学んだそうそうたるアーティストにはイサム・ノグチ、
ベン・シャーン、ノーマン・ロックウェル、ジョージア・オキーフ、
ジャクソン・ポロック、ロイ・リキテンスタイン、ピーター・マックス、
そして高村光太郎、葉祥明などがいます。

ゾグバウムは特に陸軍、海軍などを題材に描いた画家でした。
このイラストは、1887年、ハーパース・ニュー・月刊マガジンのために描かれました。

「Rufus F. Zogbaum」の画像検索結果

ゾグバウムの作品、ハーパースに掲載されたもの。
後ろに見える戦艦は第一次世界大戦ごろの艦影ですね。

「Rufus F. Zogbaum」の画像検索結果

これもルーファスの作品。
南北戦争の一シーンを描いたものです。(´;ω;`)

「westpoint army cadets uniform」の画像検索結果

ついでに?今回検索していて見つけたお宝?写真。
これ、だーれだ。

今アメリカの政治家である意味最もホットな🔥(熱い)男、
マイク・ポンペイオ国務長官のウェストポイント時代のお姿です。

ウェストポイント卒業時の成績はトップで、卒業後は機甲部隊に所属、
その後ハーバード大学ロースクールで博士号を取得しています。

ちなみにポンペイオの名前の発音について、ある議員が、
「ぱんぴーお」でないと誰のことかわからない!と
なぜか激怒していましたが、どっからどう聞いてもポンペイオです。

Mike Pompeoの発音

ポンペイオ長官、今ではご存知の通り、
金書記長と似たり寄ったりの体型になっておられますが、
さすがにウェストポイント時代はスマートですね。

 

続く。

 

ウェストポイントの体力錬成〜ウェストポイント軍事博物館

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ウェストポイント軍事博物館の展示より、今日もウェストポイントの歴史に関わるものをご紹介していきます。

現在も残る校舎、「セントラルバラック」前に整列するカデットたち。
1900年撮影。

同じ頃、砲術の訓練ですが、指揮官が馬の上にいることに注意。

わたしが撮った写真に写っているバトルモニュメントが遠くに見えています。

ウェストポイントには、ハドソン川の流れを望む高台があり、
大砲や記念碑などが展示してあるトロフィーポイントという一角があります。
映画「長い灰色の線」でもしょっちゅう出てきたところですが、
そこで1870年に撮られた写真です。

南北戦争真っ只中といった時期ですが、ご存知の通り
この戦争は、同じアメリカ人の間で起こった戦争であるので、
その間ウェストポイントの候補生たちがどのようになっていたのか、
日本人のわたしがどれだけ検索してもインターネットではわかりません。

かなり古い時代(1800年ごろ?)点呼を取っているところでしょうか。
後ろの人があくびしています。

1873年、サマーキャンプの一コマ。

今はコロナでそれどころではなくなっているのですが、
平常であればアメリカの学制は9月から6月までです。
この3ヶ月もの間が夏休みということになるのですが、その間学生が
何もせずに遊んでいられるわけではありません。

子供は子供でサマーキャンプに通わされますし、大学生になれば
夏は大学の主催する集中講義やあるいはインターンシップで
企業に就職して実地経験を積み、それが大学の成績にも反映されます。

夏の間のキャンプや講座は「別腹」なので、当然費用も別にかかり、
日本のように1ヶ月だけ休みになる方が親にとっては楽だといえます。

話がそれましたが、陸軍士官学校でももちろん夏の間
遊ばせてくれるわけではないということですね。

ところで、この写真の後列一番左に写っている候補生をよく見てください。
不鮮明ながら彼がアフリカ系であることがわかるでしょう。

Cadet Henry O. Flipper in his West Point cadet uniform. It has three larger round brass buttons left, middle and right showing five rows. The buttons are interconnected left to right and vice versa by decorative thread. He is wearing a starched white collar and no tie. He is a lighter-colored African American with plated corn rows of neatly done hair. He is facing the camera and looking to the left of the viewer.

ヘンリー・オシアン・フリッパー
Henry O. Flipper1856-1940(1877年卒)

は、以前も
バッファロー大隊(黒人ばかりの陸軍部隊)の件で紹介したことがあります。
彼はアフリカ系としては史上初めてウェストポイントを卒業し、士官になりました。

ただし、不当な差別の連続でついには不名誉な解雇をされており、
彼の名誉が回復されたのはクリントン政権下でのことです。

 

1800年後期、候補生ジャケット。

右側、候補生フル・ドレスコート。
日本では「肋骨服」と呼んでいたもので、現在のフルドレスも
基本的にはこの頃と変わっていません。

1896年ごろの士官用バヨネット、つまり銃剣の先です。

MModel 1896、鞘付き。
士官候補生用ライフルが導入されると同時に同数の特別な銃剣も作られました。

これらの長い銃剣は、審美的な理由と、パレード使用のためのサイズと重量
といより実用的な理由でから、1963年まで使用され続けました。

この長期間にわたる光沢のある鋼の連続研磨は、
銃剣に有害であったため、最終的にクロムメッキされました。

 

フルドレスで捧げ銃する候補生。1905年撮影。

左から右に

フルドレスのcadet First classmen、1923年。

海軍兵学校では最上級生の4年生を「1号」といいましたが、
ウェストポイントでも最上級生を「ファーストクラスメン」とします。

1899年ごろの野外戦闘服、cadet private。

cadet first sergeant

陸軍には陸軍候補生隊という学生部隊がありますが、
リクルートに始まって9段階のランクのうち
ファーストサージャント(軍曹)は下から五番目です。

Cadet Officer のサマードレス(インディアホワイト)1875年。

Cadet Corporal夏用フルドレス、1875年。

「アーミー」のAを刺繍したカデットのフットボール用セーター。
ガラスに映っているのは陸軍候補生隊の制服ファッションショーです。

野外の砲撃訓練中。おそらく第一次世界大戦ごろ。

同じく銃撃順連。

1870年ごろの候補生用「ドレッシングガウン」。
左袖のB・O・ベイカーは所有者の名前。
ローブの裾には陸軍士官学校と海軍兵学校の間で行われる伝統のゲーム、
アーミー・ネイビー・ゲームの1930〜33年のスコアがプリントされています。

 

文武両道の陸軍士官学校ですから、体力錬成は大事な日課。
説明には Calisthenics(徒手体操)とあります。
全員が今のアメリカ人より痩せている気がします。
っていうか絶対に皆痩せてるよね。

「おいっちにーさんしー」という声が聴こえてきます(嘘)

写真が撮られたのは1904年のこと。
日本は日露戦争真っ最中のころです。

冬なのか、地面が凍り付いているように見えますね。

ウェストポイントにフットボールが導入されたのは1891年でした。
彼らは初めて結成されたフットボールチームのメンバーです。

1896年に行われた校内フットボール大会で優勝した
1898年クラスに授与された記念のトロフィーボールです。

候補生フェンシングチーム、1900年。
軍隊なので、偉い人は座っています。
髭が顧問の先生で、左はキャプテンかな。

フェンシングチーム使用のフェンシングジャケットもありました。
1908年ごろ使用されていたもので、寄贈した持ち主は
アルバート・スニード准将(1908年卒)です。

 

ところで、ウェストポイントとアナポリスの間には因縁のライバル関係があり、
とくにフットボールは「アーミー・ネービー・ゲーム」として有名である、
ということについて、当ブログではかつて熱く語ってみました。

Go Army! Beat Navy!〜アメリカ陸軍士官学校ウェストポイント

歴史を遡れば、史上初のアーミーネイビーゲームが行われたのは
1891年の11月29日のことです。
最初の試合は海軍のボロ勝ちで、24対0。陸軍は手も足も出ませんでした。

この年に一度の試合は、そのうち二つの軍事アカデミーの間の
ライバル関係を象徴する最も知られたイベントとなって今日に至ります。

今年はできるのかなあ・・・・。

「ジェームズ・ホイッスラー」の画像検索結果ホイッスラー画

昔、ジェームス・ホイッスラーというのちに有名な画家になる生徒が
ウェストポイントに何かの間違いで入ってしまい、
すぐに退校になった話をしたことがあるかと思いますが、彼は 
このアーミー・ネイビー・ゲームにしばしば起こる「場外乱闘」について、

「士官候補生たるもの、フィールドの外で蹴られたボールのために
他の大学などと争いが起きるなどということは厳に慎まなくてはならず、
それらは常にアメリカ合衆国の将校の尊厳の下に行われねばならない」
キリッ(AA略)

などと言っていたようです。

途中で候補生不適合のためやめてしまったホイッスラーですが、
こういうことについては不寛容でいられないほどには
軍将校に対してはっきりとした理想を掲げていたらしいことがわかります。

こちら、同じ画家によるアナポリスのプレーヤー。
背景がなぜか帆船です

フットボールのみならず、全てのスポーツ試合において、
アナポリスとウェストポイントは昔から、そして未来永劫ライバル関係にあります。

ライバル関係が拗れて(というかおそらくそういうことにした方が盛り上がるから)
試合前に相手のマスコットの動物を盗み出すという暴挙に出たり、
試合前に一人ずつ捕虜を交換して牽制し合うなどといった慣習については、
当ブログでも書きましたので、ご興味のある方は是非そちらをご覧ください

この一角にあった凛々しい女性士官候補生の肖像画。
1996年に卒業したクリスティン・ベイカーは、史上初の女性士官候補生です。

彼女は候補生隊で4,400名からなる旅団を率いていました。
女性だから大目にみてもらっていたのではなく、マジで優秀だったようです。

「Kristin Baker USMA Wiki」の画像検索結果

現在、彼女のランクは陸軍大佐、カーネル・ベーカーです。
部下には、

「イエス、マム!」

とか言われてるんだろうなあ。

「女性か男性かはあまり関係がないと思います。
軍服を着て任務に当たる限り、ストレスに順応し、
対処する能力に男女の差はなく、もしあるとしたら個人差です」

と彼女はインタビューで語っています。

続く。

 

チャーリー・アルファ(ヘリボーン強襲)〜ウェストポイント軍事博物館

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さて、しばらくご紹介してきたウェストポイント軍事博物館シリーズ、
最終回は、今までご紹介に漏れた展示を挙げていきます。

シッティング・ブルのライフマスク

シッティング・ブルことタタンカ・イヨタケ(1831ー1890)は、
ネイティブアメリカンのスー族の戦士であり呪術師です

イヨタケさん

アメリカ大陸の先住民族であるインディアン部族は、白人の西進に伴って
開拓の障害として駆除され、隔離され、その領土が強奪されていきました。

戦士であったシッティング・ブルの部族は彼らを皆殺しにすることを
政策に掲げる合衆国の侵略に立ち向かい、そのため一族は
絶滅対象部族
の指定を受けることになります。

しかし、先頭に立って戦う勇士シッティング・ブルの姿は、部族員だけでなく
いつの間にか白人たちからも一目置かれるようになっていきました。

白人との戦いの中でカナダに亡命するも、寒さと飢えに耐えきれず、
アメリカ合衆国に投降し、保留地で捕虜になってからは、
有名人ゆえに興行師に騙されて見せ物になるなどの辱めを受け、
最終的には保留地で難癖をつけられて射殺されました。

享年59歳。

ライフマスクが取られたのはシッティング・ブル49歳の時です。

ベトナム戦争

ベトナム戦争のコーナーより。

黒丸が(ほとんど沿岸沿い)アメリカ軍のベースだったところ、
赤丸が北ベトナム軍基地、薄赤で塗られたのがベトコンの潜んでいた地域で、
赤い線は敵(アメリカの)の補給ルートとなっていました。

M21スナイパー・ウェポンシステムです。
精度を考慮して作られたライフルで、ベトナム戦争中は陸軍のスナイパーのために
昼用スコープ、夜用ナイトビジョンのスコープがついていました。

ステン短機関銃MkII

なぜここ(ベトナム戦争コーナー)にあるのかわかりませんが、
この「ステン・ガン」は、第二次世界大戦中のイギリスで生産されました。

銃床が極力省略されたデザインが目を引きます。
低コストで大量生産されたMkIIは、その軽さ、組み立て式であることから
粗製濫造ともなりました。
英軍将兵からは「ステンチ(悪臭)ガン」とか「パイプガン」と呼ばれたそうです。

ウェストポイント1965年卒のロバート・ジョーンズ大佐が
ベトナムで捕虜になっていたときに着用していたシャツ。
囚人にストライプの衣装を着せるという習慣がここにも。

なんだかラグビーのユニフォームみたいですね。

ヘリ部隊が夕暮れのベトナム上空を飛行している写真には、
「チャーリー・アルファ」という題が付いています。

チャーリー=C、アルファ=Aというフォネティックコードですが、
CAつまりCombat Assault、強襲攻撃と訳せばいいでしょうか。

ベトナム戦争の間、第1機甲部隊(空中機動部隊)は、ヒューイ、
HU-1ヘリコプターを使って様々な任務に当たったことで有名になりました。
その任務の一つが「チャーリーアルファ」、空挺強襲でした

Charlie Alpha:  A Helicopter-borne Combat Assault in Vietnam


武器兵器展示場

歴史的資料のケース展示を見終わったところに、武器兵器だけを集めた
アメリカ最古の武器展示コーナーがあります。

当軍事博物館の創始は、ウェストポイント開校とほぼ同時に
収集されてきた「トロフィー」やこれらの武器の展示が元になっています。

もちろん、ここもじっくり見れば大変興味深い軍事資料の宝庫なのですが、
いかんせん、わたしたちが参加した学内ツァーはその日の最終出発で、
閉館の時間が迫っていた上、体力を使い果たしてヘロヘロだったため、
一番最後のパートであったこの部分はほぼ駆け足で通り過ぎてしまいました。

今にして思えば残念ですが、また次の機会があることを祈りましょう。

その中からかろうじて撮ったごく一部の写真をご紹介します。
右から;

第二次世界大戦中のドイツ軍士官用サーベル

ヨーロッパのアーヘンで降参したドイツ軍部隊の司令官、
ゲルハルト・ヴィルック少佐佩用のもので、戦利品として
アメリカ軍が持ち帰ったものです。

真ん中二振りの刀;

1900年、中国で採取されたもの。

左;

オスマントルコ帝国、ヤタガン(Yataghan)

この形の刀はフランス軍、イギリス軍を始めとして全世界に広がリ、
銃剣の他に砲兵刀(砲兵が装備した、近接戦闘用の大型の戦闘用ナイフ)
として用いられるほど影響力がありました。

幕末の日本にも各種の小銃と共に伝来し、明治期初期の日本陸軍でも、
“ヤタガン形銃剣”、“ヤタガン式銃剣”等として使用されていました。

下;

1810年、ハノーヴァーで使われていた将官用軍刀

速射兵器を設計する試みは16世紀に始まりましたが、
ジェームズプッケの1718年の銃の前に建造されたことを示唆する証拠はありません。

この英国の発明は完全に手作業、シリンダーはロックを解除し、
回転させ、それから再びロックし、独立してコックしなければなりませんでした。
そのため、銃弾を装填するマスケット銃を使用する熟練した銃士よりも、
振る舞いの速度がはるかに大きくなることはありませんでした。

パーカッションシステムの開発後、実用的な迅速な消防銃が
現実の可能性になりました。
ボレー銃と連続式消防銃は1850年代から1860年代初頭に製造されましたが、
適切な自吸式金属カートリッジが使用可能になった
1865年まで完全に成功しませんでした。

1890年までに、2つの企業が世界中で使用されている
ほとんどの高速消防銃を生産していました。

コルトファイアアームズは、リチャード・ジョーダンガトリングが設計した
回転式のマルチバレルモデルを製作しました。
これは、人間がクランクを回せる速度で発砲することができますが、
通常は1分間に300発未満です。

イギリスのMaxim-nordenfelt Companyは、スウェーデンのデザインした
マルチバレルボレーガンを製造しました。
一度に1つのバレルを発射するガトリングシステムとは異なり、
Nordenfeltはすべてのバレルを同時に発射するように調整でき、
Nordenfeltはすべてのバレルを同時に発射するように調整できます。

10バレルモデルでは、毎分1000発の発砲が可能です。1
910年までに、カートリッジから生成されたエネギーを動力源とする
単一のバレル自動機関銃は、筋肉動力の機関銃に取って代わりました。

小さく、軽く、より安く、1940年代に動作するために
必要な人間のエネルギーが少なかった。

1960年代に、回転機銃が再導入されました。
それとは異なり、それらは電気モーターによって駆動され、
1分あたりの回転数が可能でした。現在も使用されており、
口径によるとヴァルカンおよびモーンガンとして広く知られており、
実際には電気モーターを備えたガトリングガンです。

カルロス・ゴーンもびっくり、オレンジと緑のカラフルな戦車はルノー製。
FT軽戦車は、アメリカが最初に導入した戦車でした。

中身はこうなっています。
人類の戦争に初めて戦車が投入されたのは第一次世界大戦でしたが、
このルノーFT戦車も1918年に完成し、実用化されました。

終戦後は世界に輸出されていますが、我が帝国陸軍でも
二個戦車隊の数(はっきりとした数は不明)輸入して運用していました。

満州事変でも投入され、兵士からは「頼れる戦車」として人気があったそうです。

第二次世界大戦時に活躍した軍用ジープ。

装飾入りの曰くありげなピストルは、金メッキされており、
ナチ党のメンバーからヒトラーにプレゼントされたものです。

砲身に文字が刻まれており、(写真のものとは違うと思われ)

「共産党を赤い戦線からこちらに入れないように。
そしてわたしたちのヒトラー総統を護るために」

というものだそうです。
ただし、ヒトラーが自決したのはこのピストルではありません。

さて、これで残らず撮ってきた写真をご紹介し終わりました。
開館時間ギリギリまでいて、外に出るとこのようなベンチあり。

「WEST POINT MUSEUM」

と字が透かし彫りしてあります。

駐車場でカンカンに熱された車に乗り込み、わたしたちは
とりあえず何か食べようということになったのですが、
まず思い出したのは、この日学内ツァーで案内してくれたボランティアの男性が、

ウェストポイントの候補生は(多分先生も)これがないと生きていけない

と言っていた、学校の校門後近くに(本当に近い)ある
マクドナルドに行ってみることにしました。

どこにあるかというと・・・・ここです(笑)

学校の校門近くにあるのは日本では駄菓子兼文房具屋と決まっていますが、
アメリカではそれがマックなのです。
彼らはこっそりマックを夜にデリバリーして「人間らしさを取り戻す」
らしいのですが、そもそも軍学校にそんな宅配していいのか?
と心配になってしまいますよね。

でも、聞いているとマックの配達はどうもお目こぼしにあっているというか、
陸軍士官学校御用達マックとして、堂々とやっている節もあり。

今時のアメリカのマックですから、注文は入り口にあるモニターで行い、
(写真付きのメニューなので外国人とごちゃごちゃしなくていいので
従業員にとってもストレスフルなシステム)番号をもらって待っていると、
カウンターに用意されているというわけ。

日本であろうがアメリカであろうが、マクドナルドでバーガーを食べること自体
何年に一回というレベルであるわたしですが、ここで注文した
バッファローランチベーコン(チーズトッピング)はマジで美味しかったです。

アメリカのハンバーガーって、不思議にどこで食べても美味しいと感じます。
伊達に国民食を標榜していないなあと実感。

さて、食べ終わったところで家路に向かうことにしましょう。
ウェストポイントはほとんど山の中にあるので、
フリーウェイにたどり着くまでは延々とこんな景色が続きます。

ギリシャ神殿のような立派な学校ですが、これはニューヨークの
ニューバーグという街にあるブロードウェイスクールという
ミュージカル系の仕事を目指す本格的な学校らしいです。

ウェイトリミットは5トンです。(意味なし)

 

というわけでアメリカ合衆国陸軍士官学校ウェストポイントについて
見学してきたものを全てお伝えしました。
見学に予約は不要、その日に申し込めば学内ツァーに参加可能です。
わたしたちはショートツァーしか選択の余地がなかったのですが、
1日費やすつもりならばロングツァーに参加して、さらには
博物館も隅から隅まで見学するのがよいでしょう。

そうそう、帰りにはカデット御用達のマクドナルドに行くのをお忘れなく!

 

シリーズ終わり

ボストン 第二次世界大戦国際博物館〜真珠湾攻撃

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ある年の夏、アメリカに行くと必ず滞在していたボストン郊外の街に
軍事博物館があったことを、偶然インターネットで検索していて知りました。

第二次世界大戦中の軍事資料を一堂に集めた、

The International Museum of World War II

という名前の博物館です。

1999年からあったというのですが、実際にボストンに住んでいた時期も含め、
毎年この地域に滞在しながら全くその存在を知りませんでした。

もっとも住んでいた頃もその後も、軍事博物館などというものを
検索したことなど一度もなかったのでそれも当然かと思われます。

というわけで、存在を知った2018年の夏、東海岸滞在中に
わたしは一度だけここを見学してきたのですが、驚いたことにその後
2019年、突然博物館そのものが閉鎖され、消滅してしまいました。

しかも、わたしが訪問してこの時に撮影できた展示品はごく一部で、
残りはまた次回渡米した時に、と思い開館情報を調べると
閉鎖したというお知らせが出てきて唖然、という次第です。


どちらにしてもコロナ騒ぎで今年の渡米は叶いそうにありませんが、
この、地球上のどこに行っても今は見ることができなくなった
貴重な歴史遺物をご紹介して、ありし日の博物館を偲びたいと思います。

今回は、その展示の中から対日戦に関する資料をご紹介していきます。

とにかくこの博物館に足を踏み入れるなり圧倒されたのが所蔵物の多さです。

時間があれば残らず写真に収めたかったのですが、それも叶わず、
結果として閉鎖によって永久にその機会が失われてしまいました。

さて、画面中央にあるのは、訓練に使われていた
アメリカ海軍の潜水艦の潜望鏡一部分です。

1941年ごろに使われていたものと説明があります。

日本帝国海軍提督用儀礼服も一揃いマネキンに着せてあります。

展示物は数が多すぎてほとんど説明がないのですが、この絵は
まだ日本に本土空襲が行われる前に、

「もしアメリカ軍が本土にやってきたらどうなるか」

ということを予想して描かれたものだと思われます。
その理由は、実際に本土攻撃を行っていないP-38などが描かれていることで、
爆撃されているのは軍需工場や港など。

サラリーマンや子供連れの女性などが山に避難していますが、
実際の空襲は都市を無差別に焼き払うようなものだったため、
工場付近から逃げれば何とかなるというようなものではありませんでした。

空をたくさんのB-24リベレーターが飛んでおり、実際にも
B-24は本土空襲を行っていますが、B-29登場以降はそれが主力となりました。

ちなみに、広島で捕虜になっていて原爆で死亡したアメリカ人は
B-24の搭乗員であったということです。

「時は迫れり!!」

というこの時計の意味するところは・・?

まず、ガダルカナル、ブーゲンビル、タラワ、マーシャル、アドミラルティ、
ニューギニア、サイパン、グアム、パラオ。

全てのかつての日本の領地だった土地に立った日の丸は
この順番に連合軍によって奪取されていったことを表すために
旗竿が真っ二つに折られてしまっています。

5分前にあるのはフィリピンで、フィリピン侵攻に先立ち、アメリカが
攻略したのはパラオ諸島、その直前がサイパン・グアムでした。

この絵が描かれたのは1944年(昭和19年)の10月から3月までの間でしょう。

フィリピンが陥ちれば次は日本本土である、と啓蒙しているのです。
現に、レイテ沖海戦で聯合艦隊壊滅後、日本軍は完全に補給を断たれ、
レイテ島10万、ルソン島25万に部隊が取り残された形となり、1945年6月以降は
ジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなりました。

多くが餓死、あるいはマラリアなどの伝染病や戦傷の悪化により死亡。
大岡昇平の「野火」はこの戦地での惨状を描いたものです。

大正天皇の御真影。
写真を元にレタッチ?されていますね。

「大正三年十一月十四日印刷 同年同月十七日発行
画作兼印刷発行者 日本東京市浅草公園第五区?番地
天正堂 土屋鋼太郎

実写版でリメイクされた「火垂るの墓」で、御真影が燃えてしまったので
責任をとって一家心中する校長先生なんてのが出てきていましたが、
これは少し「やりすぎ」な設定としても、戦時中には
皇族の写真発行については政府が干渉するようになったのも事実です。

皇室のブロマイドや絵画は1890年くらいから市井で大量に売られ、
商業誌や新聞にも掲載されていました。
とくに皇室グラビアは人気があり、商業誌の売り上げにも寄与したそうです。

大正時代には大正デモクラシーなどの影響もあり、イギリス型の
「開かれた皇室」を目指す動きが強まりました。
この写真は御在位されて3年後のもので、この後大正天皇が
病床に伏されるようになると、留学中の皇太子殿下(昭和天皇陛下)の写真が
グラビアを飾るようになってきます。

日中戦争が始まるまでは、御真影を神の如く崇めるような文化はなく、
この写真風版画も、火事の時にもち出せなければ責任をとって云々、
というような悲壮な信仰の対象にはなっていなかったのは確かです。

しかし日本国民の皇室と天皇陛下に対する敬愛は、戦前と戦後で
根本的に全く変わっていないとわたしは信じています。

左は土屋貞男さんの出征を祝うためののぼり。
アメリカにこれがあるということは、土屋さんは外地で戦死し、
どこかでアメリカ兵がそれを発見し「記念品として」持ち帰ったのかもしれません。

右はおそらく航空兵が敵機を認識するために使われたものです。

飛行するXFM-1-BE 36-351号機 (1937年撮影)

上のベル FM-1「エアラクーダ」は、第二次世界大戦前に
ベル社がアメリカ陸軍航空隊向けに試作した戦闘機ですが、
飛行性能が悪く、開発は中止されました。

にもかかわらず日本にこのようなものがあったということは、
この頃は開戦前でまだ両国の情報は遮断されていなかったということですね。

下のダグラスA-20はエドワード・ハイネマンの作で、
アメリカのみならず連合国で多用された双発攻撃機です。

イギリスでは「ボストン」、夜間戦闘機としては「ハヴォック」、
アメリカ海軍ではBDと呼ばれていました。

こちらは戸松茂さんが入営の際につけたたすきで、
「祈 武運長久」と書かれています。

戸松さんも、どこかの戦地で亡くなったのでしょうか。

向こうに和服のマネキンがいますが、なぜか展示品の中に
着物と帯があったようで、わざわざ黒髪の日本人風のマネキンを調達して
展示しています。

この写真のデータは、残念なことにいくつかの写真とともに
消えてしまい、皆さんにお見せすることができなくなってしまいました。

アメリカ潜水艦の模型(年代物)の向こうには
昭和20年の日付のある寄せ書き。
海軍の部隊で全員が名前を書いたものだと思いますが、
階級などは全く名前に添えられていません。

これも説明がないので断言はできないのですが、左下に
英語で誰かが誰かに寄贈したと思われるサインがあることから、
日本に爆撃を行なった航空機から撮られた写真だと思われます。

「東京上空30秒前」という映画で登場した模型の空撮シーンと
酷似していますが、東京空襲の時かどうかはわかりません。

割れたゴーグルは撃墜された飛行士の遺品でしょうか。

 

そしてここにもあった、真珠湾攻撃をしらせる無線電報。

AIRRAID ON PEARL HARBOR X THIS IS NO DRILL

珍しく説明が添えられているので翻訳しておきます。

「日本軍の真珠湾への攻撃は1941年12月7日、
ハワイ時間の午前7時48分にはじまった。

353機の戦闘機と艦爆と艦攻が6隻の空母から二波に分かれて出撃。
アメリカ軍にとっては全くの不意打ちであった。

銃に人員が配置されておらず、弾薬庫には鍵がかかっており、
航空機は翼を並べて飛行場の格納庫に駐機されていたのである。

きっちり90分間で空襲は終了した。
2,403名が死亡し、1,178名が負傷した。

8隻の戦艦が損壊し、そのうち4隻が沈没、巡洋艦3隻、そして
駆逐艦3隻が損壊あるいは破壊され、188機の航空機が撃破され、
159機がダメージを受けたのであった」

全くの不意打ちであればこれほどやられても当然です。
いまさらですが、ルーズベルトはどうしてこれほどの被害が出ることを予想しながら
知らんふりをしていたのか、理解に苦しみます。

もし極秘にそのことを真珠湾に警告して米軍に迎撃させたとしても、
彼の望み通り、開戦にこぎつけるという結果に変わりはなかったと思うんですが。

 

この電報の横には、日本が中国進出後にアメリカを始め各国から
(ABCDラインですね)禁輸措置を受けて”バーンアウト”したことが
さらっと書いてありますが、そのあとはおおむねこんな風に続きます。

「アメリカ側は日本のステルス攻撃に対する注意が全く欠けていた」

「アメリカ政府は日本が開戦したがっていることを知っていたが、
ハワイが攻撃されることを全く予想していなかった」

「日本の攻撃は予想外(unthinkable)であったため、その前に
日本のミニサブ(潜航艇)が駆逐艦に撃沈されたという報告も、
航空機がレーダーに捕らえられていたという報告も上がらなかった」

「日本軍は全てをきっちりと行い、その運命の朝、
艦船はもちろん航空機もオイルタンクも、ドライドッグも爆破した。

続く戦況も日本が優勢であったが、6ヶ月後、アメリカ海軍は
ミッドウェイで帝国海軍を打ち破ることによって軌道修正をした」

そして、攻撃のおわったヒッカム基地の惨状。
炎上爆発が起こっています。

海軍の写真班によって撮られた真珠湾攻撃の写真。
USS「ショー」DD-373が爆破炎上する瞬間です。

12月7日、 「ショー」はドライドック で 爆雷システムを調整していました。
日本軍の攻撃で、三発の爆弾を受け、 炎上。
必死の消火活動が行われましたが、総員退艦の命令がだされた直後、
前方の弾薬庫がは爆発したのがこの写真です。

その後仮修理を経てサンフランシスコで艦首を取り替え、
1942年8月31日にパールハーバーに戻り、終戦まで活躍しました。

彼女に与えられたあだ名は

「A Ship Too Tough to Die」(死ぬにはタフすぎる船)

というものでした。

説明がなかったのですが、おそらく真珠湾攻撃で戦死した水兵の一人でしょう。

上の写真の意味が全くわかりません。

総員配置のためのメモ

艦尾で育ったサトウキビを食べないように注意してください。
おそらく毒性化合物の扱いです。

????

写真を遠くから撮ったので日本語が読めません><

日本のグラフィックマガジンに掲載された真珠湾攻撃の記事ですが、
なぜかご丁寧に英訳されております。
これも大変読みにくいのですが頑張って翻訳します。

ハワイでのアメリカの太平洋作戦基地への奇襲!

海鷲たちが水平と垂直に空を横切って織りなす猛烈な攻撃で、
厳重に警戒された真珠湾に侵入し、我特殊潜航艇も加わり、
空中と海の両方から猛烈な攻撃が行われた。

我が軍のこの輝かしい成功は、全世界の耳目を魅了した。
さまざまな敵の艦艇や航空機の破壊は、一度に20隻の艦艇、
460機以上の航空機にのぼり、地球を恐怖で震え上がらせた。

見よ!

海鷲たちの大軍勢は港に易々と進入し、無力な敵の多くの船のうち、
まず2隻を屠り、艦攻中隊は小物には目もくれず、戦艦に向かう。
攻撃の雄叫びは朝の沈黙を一瞬にして震えさせた。

今日まで厳重に保護されていた真珠湾は一瞬にしして血塗られ、
アメリカに目に物見せたのである。

本文の日本語と照らし合わせることができないの残念です。

冒頭のハワイ攻撃を報じる第一報に続き、こちらは
日本がアメリカに宣戦布告したというヘッドラインが踊ります。

写真のベッドに寝ている人は真珠湾で負傷した海軍軍人でしょう。

こちらはちゃんと日本語が読めますのでそのまま書いておきます。

海鷲飛躍 ハワイの奇襲

12月8日午後2時、大本営海軍部は宣戦の大詔渙発直後、
早くも大戦果を発表して曰く

『帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し、
決死的大空襲を慣行せり』

と。
あゝ迅雷耳を掩う(おおう)の暇もない世紀の壮挙!
三千四百海里の波濤を蹴ってハワイ付近に達した我が航空母艦から
飛び立った海鷲は、暁の漠雲の中に飛び込む、やがて
断雲の間から島が目に入る、占めた(ママ)布哇だと思うまもなく、
オアフ島の山々が瞭(はっ)きりと見えてきた。

指揮官旗を先頭に機体は山肌すれすれに飛ぶ。
遥か前方の島はフォード島である。

その周囲に黒い小さい艦(ふね)らしきものが點々と見える。
軍艦だ、紛れも無い敵太平洋艦隊である。

なんたる天佑ぞ!何たる神助ぞ!
搭乗員の面はいやが上にも緊張する。

攻撃部隊はこの時あるを期して長年月猛特訓せし神業を縦横に発揮し、
世界第一と称する同軍港の覆滅を目指し、今将(まさ)に
雄渾無比の電撃奇襲作戦を敢行せんとするのである。

こちらにもご丁寧に英訳がつけられておりますが、
漢字に振り仮名の多いのを見ると、この絵と文章は、
子供向けの海軍ファン向け雑誌に載せられたものだと推察されます。

もちろん、ちゃんと海軍省の認可番号が振ってありますが、
まさかアメリカ人もこれが少年雑誌向けとは思っていない様子・・・。

 

続く。

 

チャーリー・アルファ(ヘリボーン強襲)〜ウェストポイント軍事博物館

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さて、しばらくご紹介してきたウェストポイント軍事博物館シリーズ、
最終回は、今までご紹介に漏れた展示を挙げていきます。

シッティング・ブルのライフマスク

シッティング・ブルことタタンカ・イヨタケ(1831ー1890)は、
ネイティブアメリカンのスー族の戦士であり呪術師です

イヨタケさん

アメリカ大陸の先住民族であるインディアン部族は、白人の西進に伴って
開拓の障害として駆除され、隔離され、その領土が強奪されていきました。

戦士であったシッティング・ブルの部族は彼らを皆殺しにすることを
政策に掲げる合衆国の侵略に立ち向かい、そのため一族は
絶滅対象部族
の指定を受けることになります。

しかし、先頭に立って戦う勇士シッティング・ブルの姿は、部族員だけでなく
いつの間にか白人たちからも一目置かれるようになっていきました。

白人との戦いの中でカナダに亡命するも、寒さと飢えに耐えきれず、
アメリカ合衆国に投降し、保留地で捕虜になってからは、
有名人ゆえに興行師に騙されて見せ物になるなどの辱めを受け、
最終的には保留地で難癖をつけられて射殺されました。

享年59歳。

ライフマスクが取られたのはシッティング・ブル49歳の時です。

ベトナム戦争

ベトナム戦争のコーナーより。

黒丸が(ほとんど沿岸沿い)アメリカ軍のベースだったところ、
赤丸が北ベトナム軍基地、薄赤で塗られたのがベトコンの潜んでいた地域で、
赤い線は敵(アメリカの)の補給ルートとなっていました。

M21スナイパー・ウェポンシステムです。
精度を考慮して作られたライフルで、ベトナム戦争中は陸軍のスナイパーのために
昼用スコープ、夜用ナイトビジョンのスコープがついていました。

ステン短機関銃MkII

なぜここ(ベトナム戦争コーナー)にあるのかわかりませんが、
この「ステン・ガン」は、第二次世界大戦中のイギリスで生産されました。

銃床が極力省略されたデザインが目を引きます。
低コストで大量生産されたMkIIは、その軽さ、組み立て式であることから
粗製濫造ともなりました。
英軍将兵からは「ステンチ(悪臭)ガン」とか「パイプガン」と呼ばれたそうです。

ウェストポイント1965年卒のロバート・ジョーンズ大佐が
ベトナムで捕虜になっていたときに着用していたシャツ。
囚人にストライプの衣装を着せるという習慣がここにも。

なんだかラグビーのユニフォームみたいですね。

ヘリ部隊が夕暮れのベトナム上空を飛行している写真には、
「チャーリー・アルファ」という題が付いています。

チャーリー=C、アルファ=Aというフォネティックコードですが、
CAつまりCombat Assault、強襲攻撃と訳せばいいでしょうか。

ベトナム戦争の間、第1機甲部隊(空中機動部隊)は、ヒューイ、
HU-1ヘリコプターを使って様々な任務に当たったことで有名になりました。
その任務の一つが「チャーリーアルファ」、空挺強襲でした

Charlie Alpha:  A Helicopter-borne Combat Assault in Vietnam


武器兵器展示場

歴史的資料のケース展示を見終わったところに、武器兵器だけを集めた
アメリカ最古の武器展示コーナーがあります。

当軍事博物館の創始は、ウェストポイント開校とほぼ同時に
収集されてきた「トロフィー」やこれらの武器の展示が元になっています。

もちろん、ここもじっくり見れば大変興味深い軍事資料の宝庫なのですが、
いかんせん、わたしたちが参加した学内ツァーはその日の最終出発で、
閉館の時間が迫っていた上、体力を使い果たしてヘロヘロだったため、
一番最後のパートであったこの部分はほぼ駆け足で通り過ぎてしまいました。

今にして思えば残念ですが、また次の機会があることを祈りましょう。

その中からかろうじて撮ったごく一部の写真をご紹介します。
右から;

第二次世界大戦中のドイツ軍士官用サーベル

ヨーロッパのアーヘンで降参したドイツ軍部隊の司令官、
ゲルハルト・ヴィルック少佐佩用のもので、戦利品として
アメリカ軍が持ち帰ったものです。

真ん中二振りの刀;

1900年、中国で採取されたもの。

左;

オスマントルコ帝国、ヤタガン(Yataghan)

この形の刀はフランス軍、イギリス軍を始めとして全世界に広がリ、
銃剣の他に砲兵刀(砲兵が装備した、近接戦闘用の大型の戦闘用ナイフ)
として用いられるほど影響力がありました。

幕末の日本にも各種の小銃と共に伝来し、明治期初期の日本陸軍でも、
“ヤタガン形銃剣”、“ヤタガン式銃剣”等として使用されていました。

下;

1810年、ハノーヴァーで使われていた将官用軍刀

速射兵器を設計する試みは16世紀に始まりましたが、
ジェームズ・パックル(James Packle)が1718年に発明した

パックルガン(Puckle Gun)

銃がおそらく初めてではないかとされています。

この英国の世界初マシンガンは完全な手動式で、シリンダーはロックを解除し、
回転させ、それから再びロックし、撃った後はその度リロードしなければなりませんでした。

そのため、熟練の射手が銃弾を装填する機構のマスケット銃を使用するのと比べ、
銃撃の密度が大きく違ってくるということはありませんでした。

実用的な、迅速な射撃が行える銃が登場したのは、
1850年代から1860年代初頭に製造されたボレー銃以降のことです。

1890年までに、ほとんどの高速銃をを生産していたのは二つの企業です。

コルト・ファイアアームズは、リチャード・ジョーダン・ガトリング
が設計した回転式のマルチ・バレル型を製作しました。
これは、人間がクランクを回せる速度で発砲することができますが、
通常は1分間に300発未満です。

イギリスのマキシム-ノルデンフェルト社は、
マルチバレルのボレー銃、ノルデンフェルト機銃を製造しました。

一度に1つのバレルを発射するガトリングシステムとは異なり、
ノルデンフェルト製ははすべてのバレルを同時に発射するように調整でき、
10バレルモデルでは、毎分1000発の発砲が可能でした。

カルロス・ゴーンもびっくり、オレンジと緑のカラフルな戦車はルノー製。
FT軽戦車は、アメリカが最初に導入した戦車でした。

中身はこうなっています。
人類の戦争に初めて戦車が投入されたのは第一次世界大戦でしたが、
このルノーFT戦車も1918年に完成し、実用化されました。

終戦後は世界に輸出されていますが、我が帝国陸軍でも
二個戦車隊の数(はっきりとした数は不明)を輸入して運用していました。

満州事変でも投入され、兵士からは「頼れる戦車」として人気があったそうです。

第二次世界大戦時に活躍した軍用ジープ。

装飾入りの曰くありげなピストルは、金メッキされており、
ナチ党のメンバーからヒトラーにプレゼントされたものです。

砲身に文字が刻まれており、(写真のものとは違うと思われ)

「共産党を赤い戦線からこちらに入れないように。
そしてわたしたちのヒトラー総統を護るために」

というものだそうです。
ただし、ヒトラーが自決したのはこのピストルではありません。

さて、これで残らず撮ってきた写真をご紹介し終わりました。
開館時間ギリギリまでいて、外に出るとこのようなベンチあり。

「WEST POINT MUSEUM」

と字が透かし彫りしてあります。

駐車場でカンカンに熱された車に乗り込み、わたしたちは
とりあえず何か食べようということになったのですが、
まず思い出したのは、この日学内ツァーで案内してくれたボランティアの男性が、

ウェストポイントの候補生は(多分先生も)これがないと生きていけない

と言っていた、学校の校門後近くに(本当に近い)ある
マクドナルドに行ってみることにしました。

どこにあるかというと・・・・ここです(笑)
まさに陸軍士官学校御用達の名誉あるマクドナルド。

学校の校門近くにあるのは日本では駄菓子兼文房具屋と決まっていますが、
アメリカではそれがマックなのです。
彼らはこっそりマックを夜にデリバリーして「人間らしさを取り戻す」
らしいのですが、そもそも軍学校にそんな宅配していいのか?
と心配になってしまいますよね。

でも、聞いているとマックの配達はどうもお目こぼしにあっているというか、
陸軍士官学校御用達マックとして、堂々とやっている節もあり。

今時のアメリカのマックですから、注文は入り口にあるモニターで行い、
(写真付きのメニューなので外国人とごちゃごちゃしなくていいので
従業員にとってもストレスフルなシステム)番号をもらって待っていると、
カウンターに用意されているというわけ。

日本であろうがアメリカであろうが、マクドナルドでバーガーを食べること自体
何年に一回というレベルであるわたしですが、ここで注文した
バッファローランチベーコン(チーズトッピング)はマジで美味しかったです。

アメリカのハンバーガーって、不思議にどこで食べても美味しいと感じます。
伊達に国民食を標榜していないなあと実感。

さて、食べ終わったところで家路に向かうことにしましょう。
ウェストポイントはほとんど山の中にあるので、
フリーウェイにたどり着くまでは延々とこんな景色が続きます。

ギリシャ神殿のような立派な学校ですが、これはニューヨークの
ニューバーグという街にあるブロードウェイスクールという
ミュージカル系の仕事を目指す本格的な学校らしいです。

ウェイトリミットは5トンです。(意味なし)

 

というわけでアメリカ合衆国陸軍士官学校ウェストポイントについて
見学してきたものを全てお伝えしました。

見学に予約は不要、その日に申し込めば学内ツァーに参加可能です。
わたしたちはショートツァーしか選択の余地がなかったのですが、
1日費やすつもりならばロングツァーに参加して、さらには
博物館も隅から隅まで見学するのがよいでしょう。

今はこんな時期で閉館しているようですが、もし事態が好転して、
前と同じ形ではないにしてももう一度公開されることになれば、
人生に一度は訪れることをおすすめしたい見学ツァーです。

そうそう、帰りにはカデット御用達のマクドナルドに行くのをお忘れなく!

 

シリーズ終わり


「ドーリトル空襲とミッドウェイ海戦」 第二次世界大戦航空史〜スミソニアン博物館

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前回までのスミソニアンシリーズでは、博物館別館に展示されている、
第二次世界大戦時の貴重な日独の軍用機をご紹介してきました。

それに続き、当ブログでは、スミソニアン博物館キュレーターの手による
「ドイツ空軍史」つまりドイツ空軍の敗戦までの歴史年表をご紹介したのですが、
今回は同じ方法で、真珠湾攻撃から終戦に至る主に日米戦を中心とした
第二次大戦航空史をご紹介していきます。

ドイツ軍航空史のときとと同じように、それはこのような、
大きなパネル三面にわたって、まとめてありました。

 

第二次世界大戦航空史

 

昨日、1941年12月7日―この日は汚名と共に記憶されることであろう。
アメリカ合衆国は、大日本帝国の海軍の航空部隊によって
意図的な奇襲攻撃を受けた。

パネルはルーズベルトの「汚名演説」(Infamy Speech)から始まっています。

 

そのずっと前から中国にはシェンノートのフライングタイガースがいたとか、
そもそもルーズベルトは日本軍の動きを知っていたのに情報を握り潰した話は、
東京裁判の段階でも弁護側からつっこまれていたくらいで、戦後もアメリカの内部から
色々と黒い噂も出てきていますし(フーバーの回想録、ヴェノナ文書)
ルーズベルトとアメリカにはいろいろいわせてもらいたいことはありますが、
はっきりしているのは真珠湾攻撃によって日米戦争が始まったということです。

この事実は動かしようがありません。

 

さて、本稿では、スミソニアン博物館の資料をできるだけ
そのまま翻訳しておつたえすることにします。 

それによると・・・・、

1941年の真珠湾攻撃によって第二次世界大戦の幕は開けられた。
太平洋と欧州という二箇所での戦争に直面し、アメリカは勝利を得るために
人的、産業的リソースを広く動員させることを余儀なくされる。

そしてその勝利には航空力の組織的な活用が不可欠とされ、
そのための戦略が打ち立てられることになった。

この戦争が契機となって大きく飛躍した航空機設計と性能改善の技術は、
航空戦の性質を根本から変えたと言っても過言ではない。

たとえばノースアメリカンのP-51ムスタングのような
金属製の戦闘機の導入は、第一次世界大戦で主流だった
木材と布の複葉機とは際立った対照をなすものであった。

第二次世界大戦は「三次元」での戦いにおいていかに空中を制御するか、
壮大な追求をおこなう世界的規模の広大なアリーナとなったといえよう。

ヨーロッパの「戦略爆撃」はナチスドイツを叩くための強力な手段となり、
太平洋ではたとえば「アイランド・ホッピング」(飛び石)戦略のように、
米陸軍、海軍、そして海兵隊が点在する日本軍に対抗するために
「機動部隊」(タスクフォース)を編成することになった。
機動部隊の戦略思想は、空母に搭載した艦載機の戦力を柱としている。

1944年6月、ドワイト・アイゼンハワー将軍がD-デイを経て
ノルマンジーに達した時、このように述べている。

「空軍がなかりせば、わたしは今ここにいることはなかったであろう」

 

「国家は全面戦争に動員された」

つまり国家総動員です。
兵士が歩いているポスターに入っているロゴは

「AAFに入って航空を学ぼう」

AAFとU.S. Army Air Forcesの略です。
下のポスターはワーナーブラザーズのプロパガンダ映画、

「Wings Of The Navy」(海軍の翼)。

 

主人公は、偉大な父と優秀な航空士官の兄に劣等感を持つ潜水艦士官。

彼ら兄弟は一人の女性を巡って三角関係にあります。
このヒロインを演じるのが当時の人気女優オリビア・デハビランド。
ある日、パイロットの兄は航空事故で体が不自由になり、
海軍を引退せざるを得なくなったので、いろいろあったけど
彼は航空士官として海軍に入隊、なぜか兄が設計した新型の飛行機に
テストパイロットとして乗ることになるが・・・・という話。

残念ながら日本でDVD化はされていないようです。

イケメンパイロットとその恋、パイロットの事故。

この映画制作から47年後、アメリカ海軍は「入隊ツール」として
このようなエレメンツを組み合わせた海軍プロパガンダ映画、
「トップガン」を世に放ち、それは絶大な効果をあげました。

 

真珠湾と「汚名演説」はたちまちアメリカ人の心を一つにしました。
官民一体、挙国一致で、基礎体力の余った成金の新興国が
戦争という目標に全力をあげたのですから、怖いものなしの状態です。

ドイツの智将ロンメルもこう言いました。

「米国の圧倒的な産業能力が戦場を席巻するようになってからは、
たとえその戦場で『究極の勝利』があったとしても、
それはもうもはや戦況をくつがえすきっかけにはなり得なかった」

 

ルーズベルトは、真珠湾攻撃をいかにも寝耳に水のように驚いて見せましたが、
枢軸国への正式な宣戦布告がおこなわれるより何ヶ月も前から、
アメリカ国内の産業は、さまざまな航空機を製造する用意を始めていました。

1940年に開始された法改正によって軍の人員数は拡大され、
この時点で男女合わせて1600万人を上回っていました。
これはどういうことかというと、ハワイに爆弾が落とされた時点で
すでにアメリカは戦闘準備を整えつつあったということなのです。

現に戦争前夜、ルーズベルト大統領は、陸海海兵隊のために
1年に五万機もの航空機の生産を大号令で要求しています。

ちなみに、これらの記述は、全てスミソニアンによるものです。

 

この並外れた目標によって、1943年一年間だけで、米国の航空工場は
約9万6千機を上回る航空機を軍に納入することになりました。

自国の軍で使う航空機だけではなく、アメリカは
「レンドリース援助プログラム」を通じて、米国は英国に2万9千機、
ソビエト連邦に1万1千機以上を供給しています。

このことを、スミソニアン博物館ではこのように記していなす。

「アメリカは民主主義の兵器庫になった」

特にとりあげようと思ったことはないのに、いつの間にか
何度もこのブログで名前を扱うことになってしまった、

ヘンリー・H・”ハップ”・アーノルド元帥(最終)

は、1938年から引退する1946年まで、陸軍航空隊を指揮しました。
彼の戦時におけるリーダーシップは、特に航空技術の発展に発揮され、
その後のアメリカ空軍の基礎を築いたといえましょう。

左の写真は、テキサスのランドルフ航空基地で、航空士官候補生に
訓示をしているアーノルドです。

このアーノルド中将(当時)のもとで、補助部隊として
女子航空隊が設立されることになった経緯についても
このブログで何度もお話ししてきました。

いわゆる「ロージー・ザ・リベッター」(リベット打ちロージー)
に象徴される、「働く戦時下の女性たち」です。

たとえば、平時なら男性が行っていた電柱の電球取り替え(左上)
や工場での労働も、男性が戦場に行ってしまってからは
女性が進出することになりました。

左下はB-17 の胴体がずらっと並んだ航空工場ですが、
男の職場だった船舶、航空機工場にも女性の姿が見られるようになります。

「勤労動員」「女子挺身隊」は日本だけではなかったのです。

 

オープニング・ラウンド

ラウンド開始、というタイトルがついています。

■ドーリトル空襲

パールハーバー以降のアメリカにとって「暗い」数ヶ月間、
日本はアジアと太平洋における領土の拡大をさらに推し進めていました。

 そこで防戦一方だったアメリカは、日本の太平洋でにおける
プレゼンスに挑むべく、大胆な対抗戦略を採用したのです。

それが、「ドーリトル空襲」でした。
写真は、「ホーネット」艦上の離艦前のB-25です。

 

1942年4月18日、ジェームズ・H・”ジミー”・ドーリトル中佐は、
海軍の空母「ホーネット」から離艦した16機の中型爆撃機、
B-25ミッチェルで東京を爆撃する作戦を指揮しました。

スミソニアンはこう記述します。

ドーリトル爆撃隊は東京とその周辺都市に存在する
いくつかの軍事基地と軍需工場を攻撃した。

・・・・ちょっといいですかー?

映画「パールハーバー」でもそういうことになっているみたいだけど、
いまだにアメリカはこのときの戦果についてどこか正直になれないようなので、
ちょっとたいへんでしたが、彼らが攻撃したものを一覧表にしておきます。

1、民間家屋50棟、学生含む民間人二人死亡(隊長機)

2、西那須野駅舎 阿賀野川橋梁

3、香取海軍飛行場(爆撃)

4、横須賀軍港(改装中の『大鯨』火災)

5、民間人をかたっぱしから機銃掃射(手を振った子供含む)

6、漁船多数

軍事施設と呼べるのは赤字だけ。
なのに、アメリカでは民間人の犠牲には昔から、
スミソニアンですら、(いやスミソニアンだからか)
頑としてなかったことにしようとしているようです。

たとえ突っ込まれても、真珠湾では民間人も犠牲になったんだから
おあいこ、くらいの口答えをするつもりかもしれません(棒)

 

しかし、日本にとって、空襲の被害そのものは

「ドゥー・リトル(ちょっとだけ)、ドーリトルだけに」

と陸軍が発表したように大したことはなくとも、
いきなり本土空襲されたことは衝撃的なできごとであり、
そのショックと比例して高まったのがアメリカ人の士気でした。

ちなみに、この「ドゥリトル」を聞いていた真珠湾攻撃の航空隊長、
淵田美津雄は、

「陸軍にしては洒落たことをいうなと感心した」

とそこにだけ食いついています。

 

それはそうと、この空襲について、あの映画「パールハーバー」で、

「この時を境にアメリカ人は進み、日本は退いた」

と言っていましたが、あながち間違いでもなかったということです。
(あのときは重箱の隅をつついて揚げ足を取ってごめんなさい)

 

ドーリトル爆撃隊は、日本空爆後は、友好国であった
中国大陸に着陸することを目標にしており、
ドーリトル中佐本人を含む乗員たちのほとんどは成功しましたが、
1機はウラジオストックに緊急着陸し、メンバーのうち3人は
中国上空でベイルアウトしたのち捕らえられました。

この3人は軍事法廷において有罪となり処刑されています。
有罪の理由は、一般人への意図的な機銃掃射による殺害でした。

日本で捕らえられたのは全部で8名で、3名は脱出の際死亡し、
4名が捕虜として生き残り戦後生還しました。

 

 

■ミッドウェイ海戦

 

1942年6月4〜7日、アメリカ海軍航空隊は、
ミッドウェイで帝国海軍航空隊と対峙しました。

冒頭の絵画は、ミッドウェイ上空で日本の空母を攻撃する
SBDドーントレスの姿を描いたものです。

日本海軍の艦隊は、ミッドウェイ海戦に臨むにあたり、
連合国に暗号を解読されていることに気づいていなかった。

ダグラスSBD ドーントレス艦上爆撃機は日本の空母に襲いかかった。

ミッドウェイ海戦を勝利に導いたのは、チェスター・ニミッツ提督の
卓越したリーダーシップによるところが大きい。

太平洋地域における総司令官として、彼はガダルカナル島、
タラワ、クェゼリン、エニウェトク、サイパン、テニアン、
グアム、ペルルイ、硫黄島、そして沖縄などの
海軍と海兵隊による「アイランド・ホッピング」を主導した。

このことをスミソニアン博物館は「日米のターニングポイント」としています。

写真は、沈没直前炎上する空母「飛龍」。

日本は四隻の空母をこの「運命の海」で失い、アメリカは
これ以降太平洋における攻勢を強めていくことになります。

部隊の全員が一人を残して全滅してしまった隊もありました。
写真は、パールハーバーの海軍病院に入院するジョージ・ゲイ少尉。

この人は映画「ミッドウェイ」でも特に名前付きで登場していました。

「日本ミッドウェイで殲滅」

というタイトルのミッドウェイ海戦を報じる新聞を読んでいる彼は
全滅した第7航空隊の唯一の生存者でした。

当ブログでは映画「ミッドウェイ」1976年版を近々取り上げる予定ですので
どうぞお楽しみに。

日本軍兵士の寄せ書き実物は、各地の軍事博物館で見ることができます。

この寄せ書きが、出征に際して家族や知り合いがメッセージを記し、
お守りとして戦地に携行する、ということが説明されています。

このパネルの近くのガラスケースには、戦地で手に入れたものらしい
日本軍兵士の持ち物が展示されていました。

まず、木箱に入った塗りの杯。
説明には「ライスボウル」と書かれています。
これを酒杯だと理解するのはアメリカ人には難易度高かったかな。

右側は、日本軍の携帯風速計のようです。
日本人はこのような装置を使用して、気球上昇中に測定値を取りました、
とあるので、陸軍が気球を使用していた頃のものだと思われます。

透明のケースの中に太陽光から温度を測ることができ、
たいていは気球の天井に取り付けて使いました。

ガラスケースにはジミー・ドーリトルのユニフォームもありました。

空襲直後、ドーリトル中佐は攻撃がうまくいったとは思えず、
悲観していたのを部下に慰められたという話があります。

帰国してアメリカ国民が空襲に勇気づけられ鼓舞され、
自分がとんでもない英雄として歓迎されていると知った時、
彼は心底驚いたのではなかったでしょうか。

 

続く。

「太平洋の翼」 第二次世界大戦航空史〜スミソニアン博物館

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スミソニアン博物館プレゼンツ、「第二次世界大戦における航空史」
二日目です。

太平洋の空の戦争

1942年の終わり、アメリカ軍は反撃に出ました。
海軍と海兵隊の兵力をガダルカナル島とソロモン諸島に上陸をさせ、
日本軍を防戦一方に追い込む作戦です。

1943年には、アメリカ軍の対日本オペレーションは
総稼働状態といってもよく、ダグラス・マッカーサー率いる米陸軍は
オーストラリアの同盟軍とともに日本軍が占領していた
ニューギニアの北海岸を占領し、後にフィリピンを開放した。

一方、チェスター・ニミッツ提督は、それと並行して、ギルバート、マーシャル、
マリアナ、キャロライン諸島を経由し、太平洋中央部への進出を推し進めた。

いわゆるHoppingーisland(飛び石)作戦ですねわかります。

航空戦における圧倒的な勝利は、1944年の夏、マリアナ海沖海戦での

「マリアナ海の七面鳥撃ち」

で、これ以降アメリカ軍は制空権を得ることになりました。

1944年以降、マリアナ諸島のテニアン島から出撃した
B-29スーパーフォートレスによる戦略爆撃は、
1945年8月の広島と長崎への原子爆弾投下をもってその頂点に達した。

 

太平洋戦線(パシフィックシアター)に出撃した、陸海空海兵隊の
代表的な航空機が紹介されています。

まず、ノースアメリカン、B-25ミッチェル。

水煙が立っていますが、下に見える駆逐艦は日本軍のものでしょうか。

ヴォート F4Uー1Dコルセア。

スミソニアン所蔵のコルセアはまるで空を飛んでいるようです。

グラマンF6F−3ヘルキャット。

ヘルキャットもここでは空を飛んでいます。

ロッキードP-38ライトニング。

わたしはスミソニアンでライトニングの実物を始めて見ました。

広島に原子爆弾を落としたB-29「エノラ・ゲイ」の下に、
まるで寄り添うように置かれていたのがP-38です。

太平洋戦線ではめざましい活躍をみせたP-38の、いわゆる
「大金星」は、1943年4月18日、

「真珠湾攻撃を計画した山本五十六元帥の乗った三菱G4M
『ベティ』(一式陸攻)を撃墜した」

ことでした。

アメリカ側は山本長官の乗った機の飛行予定を暗号解読していましたが、
ブーゲンビルを飛び立った山本長官機を捉えるためには
秒単位のタイミングが必要でした。

この攻撃を可能にしたのは、何事も時間通りに計画を遂行する
日本軍の「慣習」であり、アメリカがそれを信頼していたことです。

 

P-38は日本軍の搭乗員に「ペロハチ」とあだ名をつけられていました。

「P」を「ぺ」、「3」を「ろ」とあえて読んだこの名前は、
日本軍の搭乗員がベテラン揃いだった最初こそ

「ぺろっと食える(撃墜できる)」

という意味だったのですが、激しい空中戦で徐々にベテランが倒されるうち
主客逆転し、「ぺろっと食われる」側となってしまいました。

したたかなP-38は太平洋で他のどの戦闘機よりも多く日本機を撃墜し、
リチャード・ボングらのエースを輩出しています。

スミソニアン別館のP-3Cの近くには、やはり同じ双胴の

ノースロップP-61 ブラックウィドウ

も展示されています。

ロンドンへの夜間爆撃を受けて対抗するために開発された夜間戦闘機、
ブラックウィドウは、終戦間際に日本への攻撃を行ったことがあります。

現存する機体は3機であり、これはそのうちのひとつです。

コンソリデーテッド PBYカタリナ。

飛行艇PBYは、雷撃や救難艇として太平洋で活躍しました。

PBYはスミソニアンにはありませんが、同時代の水上艇、
ヴォート-シコルスキー OS2U-3キングフィッシャー
なら見ることができます。

キングフィッシャーはアメリカ海軍の初期の艦搭載型水上艇で、
第二次世界大戦中は偵察機として運用されていました。

太平洋では多くの搭乗員を海から救出しましたが、その中の一人に
第一次世界大戦時のアメリカのエース、

RickenbackerUSAF.jpg

エディー・リッケンバッカー(1890〜1973)

と彼が乗っていたB-17の搭乗員がいます。
リッケンバッカーは機が撃墜されて海を漂流しているところを
23日目にキングフィッシャーに救出されました。

リッケンバッカーはのちにイースタン航空の社長になっています。

ここにヘリコプターの写真が出てきてちょっとびっくりです。
第二次世界大戦中はヘリコプターの運用はなかったと思っていたので。

シコルスキーR-6A ホーバーフライ

は、1944年に陸軍に納入され、砲兵部隊の着弾観測任務、
そして連絡用に使用されていたということです。

 

ヨーロッパにおける空の戦争

 

ドイツ空軍、ルフトバッフェはヒトラーのヨーロッパ、北アフリカ、
ロシア征服の野望のために重要な役割を演じた。

しかしそのルフトバッフェは、1940年夏と秋のドラマティックな
「バトル・オブ・ブリテン」で最初の大きな逆転に苦しめられることになる。

ロイヤル・エアフォースの戦闘機は、ヒトラーのイギリス侵略のための
いかなる計画をも阻止し、ドイツ軍を駆逐した。

ホーカー・ハリケーンとスーパーマリン・スピットファイアーは、
イギリス製の最新兵器早期警戒レーダーの助けを借りることで、
1940年のバトル・オブ・ブリテンにおいて
ドイツの爆撃機に対抗することが可能になったのでした。

 

1943年、イギリスとアメリカはドイツの産業および
都市の中心地に対する複合爆撃攻撃を開始した。

写真は、1943年8月、B-24爆撃機がロマーニャの
ポロースキーにある油田を攻撃しているところです。
大変費用のかかったといわれるこの攻撃は、ドイツの戦時工業から
主要な製油所の一つを奪うことを目的に戦略的に行われました。

 

ボーイングB-17フライングフォートレスとコンソリデーテッド
B−24リベレーターは、ヨーロッパにおける日中高高度からの
爆撃作戦に最も多く運用された航空機です。

そのうち航続距離の長い戦闘機が爆撃機をエスコートすることで
攻撃の効果が高まり、さらには搭乗員の生還率も大きく上がりました。

ドイツ上空で爆撃を行うB-17。

爆撃機は常に対空砲の脅威にさらされていました。
何百機ものB-17、B-24、そして何万人もの航空機乗員が、
ヨーロッパにおける戦略爆撃の任務中に失われています。

 

第二次世界大戦中の戦略的航空力

このように、戦略的爆撃は敵の軍事的、戦時的、および経済的基盤に
強力な打撃を与えることができました。

加えて空軍は、戦略的に敵の軍事通信線に対し、
直接(近接支援)および間接(妨害)となる攻撃を実行しました。

「ポスト・ノルマンディ」としてヨーロッパを超えて
その掃討がドイツに及んだとき、アメリカの戦術航空機、
とくにリパブリックP-47サンダーボルトは、アメリカ軍の
空中優位性を獲得する上で重要な役割を果たし、
同盟国の勝利への道を開きました。

中型爆撃機マーチンB-26マローダーは、同盟国陸軍の進攻を
近接支援するのに非常に集中的に投入されました。

最強の連合軍司令官と言われた
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(左から二番目)が
ノルマンディを視察しているところ。

左からハップ・アーノルド将軍、ジョージ・マーシャル将軍、
オマー・ブラッドリー将軍、そしてアーネスト・キング提督です。

カール・”トゥーイ”・スパーツ将軍(左)は
ヘンリー・アーノルド将軍からもっとも信頼された指揮官でした。

ノルマンジー進攻、Dデイでは航空攻撃の指揮を取り、
アイゼンハワーからの直接の信頼を受けた知将です。

ちなみに彼は戦後創設されたアメリカ空軍の初代参謀総長に指名されました。

ちょっと手抜き?ハーケンクロイツの写真。

1945年の4月30日、ヒトラーは自殺前に、
カール・デーニッツを首相に指名しましたが、
5月7日に、彼はドイツの全面降伏をアイゼンハワーに宣言します。

翌日、5月8日が「V-Eデイ」対ヨーロッパ勝利の日とされました。

最後の日々(THE FIINAL BLOWS)

1944年後期、日本に対する戦略爆撃は、降伏を早めるための
非常に効率的なツールとされた。

ヨーロッパでの高高度日中攻撃の象徴となったB-29スーパーフォートレスが
日本の主要ターゲットを爆撃するのに投入されるようになるのである。

しかしながら、強力なジェット気流は、彼らのノルデン照準器の効果に
妥協を生むことになり、1945年3月、カーティス・ルメイ将軍は
夜間の低空からによる無差別爆撃を行うことを決定した。

何百機ものB-29が日本本土の上空を覆い尽くした。

おお、そうだったんですか!
東京空襲などの大々的な民間人殺害は、B-29のジェット機流のせいで
爆撃の照準器がうまく作動しなかったから仕方なく行われたと。

そうですか。それは知りませんでした。(棒)

鬼畜ルメイ

 

そして1945年8月6日朝9時、第509航空群の
特別仕様のB-29が、この戦争における最後の戦略爆撃を行った。

広島に一発、ついで長崎に一発の原子爆弾が投下され、
その数日後日本は降伏することになる。

これが広島に落とされた「リトルボーイ」(使用前)です。

「リトルボーイ」のアーミング・プラグ実物は、ここスミソニアンに
展示されています。

原子爆弾を搭載した直後、帰投してきたばかりの「エノラ・ゲイ」の乗員たち。

クルーはパイロットで隊長のポール・チベッツ以下、
士官4名(副操縦士、爆撃、ナビゲーター)、そして
銃撃手、フライトエンジニア、アシスタントエンジニア、
レーダーマン、通信士の合計9名でした。

全員激しい緊張の後といった様子が隠せません。

カミカゼ

日米戦におけるアメリカの優位が動かしようもなくなり、
自暴自棄となった日本はその最後の日、
カミカゼと呼ばれる自殺攻撃ユニットを投入した。
カミカゼ攻撃は1945年4月に集中して行われ、
そのころのアメリカの艦隊に深刻な打撃を与えることになる。

沈没した艦船は21、ダメージを受けた数は217を上回った。

また、当博物館にも展示されているジェット推進の「バカ」は、
カミカゼのミッションを航空機で行うために設計されたものだった。

「桜花」を「バカ」とだけ呼ばわるセンス、何でもかんでも
「カミカゼ」でくくってしまう大雑把さはさすがアメリカです。(投げやり)

第二次世界大戦の終了

日本は1945年9月2日に東京湾に浮かんだ戦艦「ミズーリ」艦上で降伏した。

ダグラス・マッカーサー将軍は式典で指揮をとり、
チェスター・ニミッツ提督がアメリカ合衆国を代表して
降伏調書に署名したのであった。

 

さて、というところでシリーズ終わりです。
あえて私自身の感想は最低限に抑えましたが、みなさんは
スミソニアン史観による第二次世界大戦の航空史を
どのようにご覧になったでしょうか。

 

次回からはまたボストンの第二次世界大戦博物館の展示に戻ります。

 

 

ノルマンジー上陸作戦〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

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昨年惜しくも閉館してしまったボストンの軍事博物館、
第二次世界大戦国際博物館の展示から、今日は
ノルマンジー上陸作戦に関する展示物をご紹介していきます。

まず、冒頭のわかりやすい形の戦車はシャーマンです。

シャーマン戦車は北アフリカに遠征したパットン軍で最初に使用されました。
1945年の段階でアメリカは日本への本土侵攻を計画していたため、
それに備えて、幅広のトレッドが装備され、火炎放射器が付加されました。

アーミーナイフが三本見えますが、いずれもノルマンディ上陸作戦の時に
参加した兵士が携えていたものです。
下は、南北戦争の時に誂えられたもので、由来はわかりませんが、おそらく
祖父の遺品などではないかと思われます。

上はハチェット(hatchet)ナイフで、空挺部隊が電線や電話線を切断するために
身に付けていたものです。

右写真は、Dデイでめざましい働きをした397大隊のリチャード・バイエル
(ドイツ系ですね)の功績を称えて勲章が与えられているところです。

マネキンがきているのはアメリカ軍のレンジャー部隊の軍服です。
間話梯子やロープなど、全て実際にDデイでレンジャーが使用したものです。

鍵のついた道具を「グラップリング(ひっかけ)・フック」といいます。
アメリカ軍のレンジャーは、上陸作戦のひとつPointe du Hoc、つまり
「オック岬の戦い」で海際にそびえる30mの崖を登るのにこれを使いました。

こんな崖

ノルマンディ上陸作戦のことを多少でもご存知の方は、

「オマハビーチ作戦」

という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。
オック岬は、オマハビーチ侵攻の際、アメリカ軍のレンジャー部隊8個中隊が
崖を登ってその上のドイツ軍要塞を攻略したポイントです。

Call of Duty 2 (日本語化)オック岬の戦い

ゲームの映像ですが、この崖が想像しやすいのでぜひご覧ください。
このとき、「ブラッディ・オマハ」と言われたほど米軍は多くの犠牲を出しました。

崖の上で防衛をしていたドイツ軍は精強部隊だったのに対し、米軍は
海岸線から5キロも手前で戦車の進軍を開始するというミスを犯したため、
シャーマン戦車32台のうち27台は2mの波をかぶってしまい、
水陸両用であるのにもかかわらず、上陸に大変な困難をきたしたこと、
また、上陸する兵士の多くが船酔いと緊張、疲労、そして濡れた戦闘服のため
砂浜を走って移動することもできなかったといわれます。

このことについてアメリカ軍の公式記録には、

「上陸用舟艇のタラップがおりた瞬間、先導の中隊は活動不能、
指揮官不在、任務遂行不能となった。
指揮をとる全ての士官と下士官はほぼ死亡もしくは負傷した。
部隊は、生存と救出のためもがいていた」

と記されています。

ここに投入された第二レンジャー大隊の攻撃目標は、崖上のコンクリート要塞でした。
彼らは敵の熾烈な砲火の飛び交う中、ロープと梯子を用いて高さ約30mの崖を登り、
ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊せんとしました。

この戦いで精強で鳴らした225名のレンジャーのうち半分以上が戦死し、
作戦終了後に生き残ったのはわずか90名でした。

最終的にレンジャー部隊は到達に成功し、敵の砲を破壊することに成功しました。

 

また、この戦闘で、現地のフランス人がドイツ軍の補助を行ったとして、
戦闘後、アメリカ軍は彼らを民間人にもかかわらず処刑しています。

ちなみにこれが現在のポワン・デュ・オック。
上から敵が狙いを定めているのに、よくこんなところから
攻めようと思ったなとおもうレベル。

General of the Army Omar Bradley.jpg

この戦いの指揮官はあのオマー・ブラッドレー将軍です。

ヨーロッパ戦線参加国兵士たちの軍服一覧。壮観です。

右、英国軍空挺隊員軍装。

イギリス陸軍第16空中強襲旅団隷下の空挺部隊で、パラシュート連隊とも。

左、英国軍グライダー操縦士。

英国軍は、一箇所にまとめて兵力を着地させられることから、落下傘よりも
強襲揚陸にはグライダーを有用としていたようです。

マーケット・ガーデン作戦中にアーネムに着陸したハミルカー

戦車も持ち運べる大型のグライダー、ハミルカー。
ゼネラルエアクラフト社の製品で、これはマーケットガーデン作戦で
畑に着陸したハミルカーを別の航空機から撮ったものです。

ノルマンディ上陸作戦にもハミルカーは投入されました。

どちらも第82空挺部隊降下兵。

恐れを知らない精強部隊を謳うこの師団のあだ名は
「オール・アメリカン」🇺🇸。
師団創設時、出身者が全州に及んだことからこの名前がつきました。

「スクリーミング・イーグルス」というあだ名の
第101空挺師団とともにノルマンディ上陸作戦、マーケットガーデン作戦に参加しました。

アメリカ軍空挺隊が使った落下傘からは、ダミーの降下兵がぶら下がっています。
このダミーも実際に降下を行いました。

ノルマンディ作戦の嚆矢はトンガ作戦と名付けられた空挺でした。

まず上陸部隊の開始に先立って、「オールアメリカン」「スクリーミングイーグル」
の米空挺部隊、そしてイギリス第6空挺師団が、降下を開始。

英軍第6師団は第一波パラシュート、第二波グライダーで強行着陸を試み、
内陸侵攻に必要な橋を確保したものの、砲台の攻略は困難を極めました。

米軍空挺師団はコタンタン半島に降下しましたが、こちらもまた、
パイロットの経験不足で部隊は広い範囲に散らばってしまいました。

前もって連合国軍の侵攻を予期していたドイツ軍は、空挺部隊の行動を阻むため
川を堰き止め一帯を沼状にしていたため、多くの兵士が沼に落下して溺死、
輸送機から降下するのが遅れたものは海に降下して溺死していきました。

 

輸送機は西から東へ進んだのだが、半島を横切るのに12分しかかからず、
降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。

…ある者は飛び降りるのがおそすぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら
英仏海峡へ落ちて溺死した…

いっしょに降下した兵士たちはほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、
そのまま沈んだきり上がってこない者もあった。
         

— コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」

 

真ん中、イギリス海軍のコマンドー(奇襲特殊部隊)、ブリティッシュ・コマンドス。
右はフランス軍特殊部隊です。
フランス軍第1海兵歩兵落下傘連隊がノルマンディに参加しています。

Men wading ashore from a landing craft

この写真はノルマンディ上陸作戦を行うブリティッシュ・コマンドス。
緑のベレーを被った隊員たちが舟艇を降りて海岸に向かっています。

イギリス陸軍歩兵。

横に自転車がありますが、自転車部隊は主に枢軸国の専門だったようです。
我が日本の自転車部隊は「銀輪部隊」と呼ばれていたとか。
自転車部隊じゃあまりかっこよくないから付けられたような名前ですね。

ちなみにこれが自転車に乗ったドイツ軍の伝令兵。
自転車の前にある柄の長いマラカスみたいなのは(笑)
パンツァーファウストといって、携帯対戦車擲弾発射機です。

後ろにあるのは上陸を報じる新聞などですが、
後ろのポスターはオランダ語で、

「侵略 連合国の墓地」

と書かれています。
オランダはもちろん当時連合国側だったわけですが、
(交戦勢力を見ると、12カ国対ドイツでひでー、って思います)
オランダ国内に向けてドイツが行っていたプロパガンダだと思われます。

Dデイ以前、ドイツは大西洋沿岸「大西洋の壁」は連合軍を防ぐための
強力な防御施設であるとして、

「ドイツの背後を突こうとする連合軍を大西洋に突き返す」

と内外にプロパガンダしていました。

上陸作戦で使われた武器のいろいろ。
マシンガン、手榴弾からナイフ、何に使うのか黄色い「危険」の旗。

地雷を埋めたところに目標にしたのでしょうか。

上は無反動砲の祖先みたいな感じですね。
対戦車砲ロケットランチャーかなんかでしょうか。
細かい説明は現地にありませんでした。

右下は、第377師団のエドワード・ボール一等兵がイタリア戦線で
戦死したことを、ケンタッキーのハニービーに住む母親、ローラに向けて
通知をした戦死告知で、タイプされた部分は消えてしまっているものの、
手書きの部分だけが残っていて、そこから

「Instant Death」(即死)

「By Bomb Fragments In Stmach.」

「Killed By Fragment 」「duties well」

という文字が微かに読み取れます。

左は第18歩兵のリチャード・コンリー中尉が、「勇敢に」
「敵のストロングポイントを破壊し敵を排除しながら進んでいったが」
「レジスタンスの抵抗に遭い、重傷を負った」ことに対して叙勲されたときの
表彰状とシルバースター勲章です。

イギリス軍の空挺団が上陸作戦に携行していた手榴弾など。

さて、ここからはドイツのノルマンディ上陸作戦までのプロパガンダポスターです。

映画をもじって

「紳士はブロンドがお好き・・・でも」

「ブロンドが好きなのは強くて健康な男。
決してcripples (不具)ではありません」

「あなたは本当に幸福になれると思いますか?
それはそのことはたくさんの不具者たちがそうなるまで考えていたことです」

これらのポスターは上陸した連合国兵士にばらまかれたものです。
「あなた」とは、今のところ五体満足な兵士たちで、戦争に行けば
ブロンド娘に好かれることなどなくなるよ、と脅しているのです。

「あなたのヨーロッパでの最初の冬」

厳しい寒さの中鎌を持って迫ってくる死神。嫌な予感しかしません。

Dデイにひっかけて、「D(EATH)マーチ」は死の行進・・。

「あなたをお待ちしています」

待たれたくない・・・。

「お父さん、おうちに帰ってきて・・・・・」

こんな年頃の女の子でもいれば、思わず国に帰りたくなってしまうこと請け合いです。

WAITING IN VAIN - FRONT

故郷で帰りを待つ愛しい女性。
戦地で彼女を置いて死んでいくことの虚しさ・・・。

情報の極端に少ない状況でこのようなプロパガンダビラは
絶対と言わないまでもネガティブな心理的効果を与えるのに
そこそこ効果的であったと考えられます。


ドイツ軍は侵攻後の連合国軍兵士の戦力を少しでも削ぐために
情報戦としてこういうことまでしていたということなんですね。

なぜこんなポスターがここにたくさんあるかというと、
それはアメリカ兵が向こうで取得したのを持ち帰ってきたからです。

歴史的資料というか、戦地「土産」にするつもりの人もいたでしょう。

 

続く。

 

ヒトラーヘイトグッズとホロコースト〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

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ボストン西部のネイティックにあった第二次世界大戦博物館から、
今日はナチスとヒトラーディスカウントに関する展示をご紹介します。

まず冒頭の写真は、アメリカで第二次世界大戦中出回っていた
ヒットラー関連グッズのうち、トイレットペーパーホルダーで、

Wipe Out Hitler

とヒトラーの似顔絵が最初にだけ印刷されたトイレットペーパー付き。
ワイプアウト、というのはそのまま壊滅させるという意味ですが、
ワイプ=拭く、とかけているというわけです。

チョビ髭を生やし、黒い髪を横分けにしておけば
とりあえず全然似ていなくてもヒトラーだと思ってもらえることから、
当時のアメリカではこういう愚にもつかないヒトラーグッズが
次々と生まれたり、盛んにカリカチュアが描かれたりしたようですね。

上のスカンクの木彫りの人形は、顔だけがヒトラー。
いったいこんなもの誰が買うと思って作ったのか。

左の絵はがきは、米中ソ英の軍隊が旗を立てて祝う日、
それはヒトラーが絞首刑になり、枢軸国の首脳が牢屋に入るとき・・・、
という図です。

前にも書きましたしこの絵を見ても思うのですが、
ヒトラーとムッソリーニはそうと分かるとして、それでは
日本の首脳って・・・・・これ誰ですか?

眼鏡をかけつり目で出っ歯、というステロタイプの日本人は
アメリカ人が独裁者呼ばわりしていた東條英機にも、ましてや
わが天皇陛下にも金輪際似ていません。

そもそも日本はドイツやイタリアと違い、独裁政治の国ではないので、
こういうときにヒトラーやムッソリーニと一緒に出てくるのは国民感情抜きにして
「解せぬ」って思うんですけど・・・まあアメリカ人にはどうでもいいのか。

ヒトラー総統、そうかと思えばロバにもなってしまいます。
Jackass、ジャッカスとは「間抜け」とかいう意味なのですが、
このゲームは、

「アドルフのお尻に尻尾を打とう」

って、全く意味がわかりません。
ヒトラーを馬鹿にしたい気持ちだけは大いに伝わってきますが。

その上のカードは、ヒトラーが便器から顔を出して、
「BENITO!」(ベニート、ムッソリーニのファーストネーム)
と枢軸国の中間を呼んでいます。

臭いもの同士一緒に入りましょう、ってか?

何かと下ネタを絡めてくる傾向は、アメリカ人の子供っぽさを表しています。

ヒトラーがお尻を突き出している人形、これはどうもピンクッションらしいですね。
ここに針を打つたびに「このヒトラー野郎!」とか罵ってやると一層効果的です。

上の金属プレートはもしかしたら車のフロントに掛けるものかもしれません。

「ヒット・ヒットラー 、ボイコット・ドイツ」

さしずめ日本語ではヒットラーをひっとらえろ、みたいなノリですかね。

左下はヒットラーの肖像画に「殺人罪で手配中」と添えてあります。
もしかしたらバッジかもしれません。(誰がつけるんだこんなもの)
ちょっと注意していただきたいのは、このバッジにさりげなく

アドルフ・シックルグルーバー、通称「ヒトラー」

とありますが、この「シックルグルーバー通称ヒトラー」は訳ありで、
というのは、ヒトラーの父アロイスは、もともと
シックルグルーバーという姓の未婚女性の私生児でしたが、
その名前を嫌って母の再婚相手の「ヒードラー」を名乗り、
それがいつのまにか「ヒトラー」になったという経緯があるのです。

つまりヒトラーというのはいきなり彼の父が創作し名乗った「通名」で、
ヒトラーの法律的な本名はシックルグルーバーだったということを、
当時のアメリカ人が知っていたということになります。

このなんとも言えない響きの本名を揶揄しているというわけですが、
わたしも昔読んだナチス本のなかに、

「このこと(父親がヒトラー性を”創作”したこと)は、
将来のドイツ国民にとって幸福だったと言えるだろう。
国民が手を挙げて『ハイル・シックルグルーバー!』と叫ぶ様を想像してみるが良い」

というようなことが書いてあった覚えがあり、大いに同感したものです。

思うんですが、もし仮に彼の名前がシックルグルーバーだったなら、
あそこまでカリスマ的指導者となり強大な権力を掌握できたでしょうか。

 

ちなみに、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」のテーマになったり巷間囁かれていた
ヒトラーが実はユダヤ人だった、という説は今日では否定されています。

アンクル・サム(米)熊(笑・ソ連)英国紳士が、
ヒトラー著、「我が闘争」(MEIN KAMPF) のページに
枢軸国首脳を挟んで押し潰してしまおうとしております。

ここにも眼鏡つり目出っ歯の謎の日本人が登場します。
だからこれ誰なんだよ!

しかし、この絵の中で戦後アメリカの敵となるのは熊だけだなんて、
このときは何人たりとも思っていなかったでしょう。

当博物館閉館のローカルニュースを見ると、そこには
いわゆるホロコーストを生き延びた94歳の生存者から
当時の話を聞く社会科見学の生徒たち、という記事がありました。

ここには、大変充実したユダヤ人絶滅収容所などホロコースト関係の展示があるからです。

当博物館の展示品を実業家にしてユダヤ人議会の大物、ロナルド・ローダー
(エスティローダーのトップ)が買い取ったというのも、
この所蔵品が目当てだったのかもしれないという気がします。

 

まず、壁にかかっているのが囚人を打った鞭各種。

右側の囚人服を着ていたのは、ヨーゼフ・ヴォルスキーというポーランドの人で、
彼はアウシュビッツ、マウトハウゼン、ブーフェンヴァルトにいた、とあるのですが、
三つの収容所はそれぞれポーランド、オーストリア、ドイツに存在するもので、
本人が嘘をついていたのでなければきっと何かの間違いではないかと思われます。

Nur für Arier!
Juden unerwünscht!

(アーリア人専用!ユダヤ人禁止)

という看板は第三帝国では公園、遊園地、劇場、あらゆるところにありました。

ナチス国家にとって、ユダヤ人の隔離政策は不可欠とされました。
ナチスの反ユダヤ主義の最も重要な側面の一つは、彼らを
肉体的にも排除していこうとする徹底した政策を実現したことです。

1937年から38年にかけては、ユダヤ人と非ユダヤ人の間で
物理的な接触が起こらないようにする措置が奨励されました。

アメリカの政治家にはユダヤ人が入り込んでいる、というプロパガンダ。

左、バーナード・バルークはルーズベルト政権の顧問として力を持っていた政治家で、
メリルリンチの共同経営者、「影の大統領」とも呼ばれた政界の黒幕です。
「冷戦」という言葉の生みの親であり、またマンハッタン計画にもかかわり、
京都への原子爆弾投下を強く主張していた人物でもあります。

中、ヘンリー・モーゲンソーはルーズベルト政権の財務長官を務めました。
戦後、ドイツから農業以外の全ての産業を奪うという「モーゲンソープラン」は
あまりにユダヤ人としての私怨が絡んでいて実現性にも欠け、却下されています。

右、フェリックス・フランクフルターは法律家で、
アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事を務めました。
民間人でありながら、ドイツに対する攻撃的な姿勢が買われて
陸軍航空軍の長官を務めたスティムソンのもとで弁護士を務めました。

スティムソンは日本に対しても強硬派で日系人の強制収容を推進し、
また、原子爆弾の製造と使用の決断を管理する立場にありました。


このほかにも、ドイツのジャーナリズムは一斉に反ユダヤ的な
キャンペーンを行い、政権を後押ししました。
戦後ドイツはその責任の全てをナチスに押し付けていますが、
あそこまで徹底的なことができた背景には、もともと国民のなかに
根深いユダヤ人嫌いの傾向があったのは否定できません。

たとえばミュンヘンで発行された新聞、「デア・シュテュルマー」は、

「ユダヤ人は我々の不幸である」

という反ユダヤのスローガンを掲げました。

「ドイツの女性よ、少女たちよ!
ユダヤ人はあなたたちを破壊する」

この過激なキャンペーンは、すぐさまドイツ国内のみならず、
世界中で有名になり、新聞のコピーは瞬く間にアメリカ、ブラジル、
カナダ、その他のドイツ移民集団に行き渡りました。

もちろんそれはキャンペーンを非難するうねりとなって帰ってきました。
主に猟奇的な性犯罪を論って激烈で下品な煽動をおこなったため、
他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ
批判の声が上がっていたといわれています。

Bundesarchiv Bild 146-1997-011-24, Julius Streicher.jpgムッソリーニリスペクト?

このキャンペーンを張った「デア・シュトルマー」紙の発行者、
ユリウス・シュトライヒャー(1885-1946)は、戦後捕らえられ、
ニュールンベルク裁判でユダヤ人迫害の煽動をした罪で絞首刑に処せられました。

シュトライヒャーが処刑されたのは、彼が単に新聞発行者ではなく、
ナチス党員の指導者的な立場でもあったからです。

昨年夏、アメリカで借りていた部屋で無料の映画などを見まくったのですが、
その中にアメリカのテレビが制作した

「ヒトラーの子供たち」Hitler's Children

という番組がありました。

Hitler's Children - Education Episode 3 of 5

動画の26:24と27:12に、この器具でSSの医師に
頭蓋骨の形を計測されているドイツの子供の映像が出てきます。

ナチスのアーリア人至上主義に始まる人種政策は、
身体的特徴が人種を示すという概念を含む「疑似科学理論」に基づいており、
こういった道具や、映像にも出てくる瞳の色を調べるチャートなどを使い、
人種のカテゴリーを分類するためのテストを行いました。

彼らの思うところのアーリア人種的要素が多ければ多いほど、
優秀なドイツ人であるとされたのです。

このことはアーリア系の選民意識をくすぐると同時に、そうでない人種を蔑み、
彼らを排除する政策になんの疑いももたない子供が育っていきます。

戦後の戦犯裁判で、ユダヤ人収容所での殺害で起訴されたドイツ人は、
かなり上の位の将校クラスであっても、口を揃えて

「ユダヤ人を絶滅させることはいいことだと信じていた」

と証言しています。
全てがこういった似非科学に基づく教育と宣伝の賜物でした。

左の木の看板は劣化している上亀の甲文字で読めなかったのですが、
「ユダヤ人と、ここなんとか」と書いてあります。

その下の絵は収容所から自由になった囚人たちが描かれていて、
オランダ語で、

ハッセルトの元戦士の団結した戦線、都市の政治犯に感謝
(直訳)

とあります。
なんかようわからんが自由になったオランダ人囚人が描いたと見た。

 

ちなみに、所蔵品のリストを見る限り、こういったホロコースト関係の
囚人服や遺品などの展示物は全部展示できないくらいたくさんあるようで、
わたしが見たのも全体のごく一部のようです。

1933年、ナチスが政権を握ったとき、彼らは

「ユダヤ人は人間以下であり、社会から完全に排除されなければならない」

という信念に基づいて、一連の法律と社会的措置を実行に移しました。

まず、法律の適用を外し、経済的に、そして社会生活から
徐々にユダヤ人を排除していくという方法が取られます。

そして、ドイツの侵攻と東ヨーロッパとソビエト連邦の占領をきっかけに、
大量処刑が行われた後、大規模な最終解決のための強制収容所が設立されました。

戦争の陰で、600万人のユダヤ人の男女、子供たちが、
ドイツ国家の意図的な行為によって組織的に殺害されたとされます。

チクロンBのラベルも当博物館の展示の一つです。
チクロンはドイツ語発音に近く、英語では「ザイクロン」と発音しているようです。

もともとチクロンBは1920年代に開発されたシアン化合物ベースの農薬でした。
1941年8月、アウシュビッツでソ連の捕虜を部屋に閉じ込め、化学物質を注入し、
処刑したのが、捕虜を殺す方法として用いられるようになったのです。

そしてアウシュビッツービルケナウ、マイダネック収容所などに
特別なガス室が建設され、いわばより効率的な殺害プロセスが可能になりました。

戦時中にはユダヤ人を含む約100万人がチクロンBで殺害されたとされます。

 

続きます。

 

 

 

「秋の日のヴィオロンの」 エニグマとMCRラジオ〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

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新しい戦争形態である「ブリッツクリーク」への準備段階で、
ドイツ軍は陸軍部隊があまりにも速く前進するのに対し、
ケーブル式通信では間に合わず、その結果として、
短波の無線に頼らざるを得ないことを認識し始めました。

しかしその形では誰もが短波で送信されたモールス符号を聞くことができるため、
今度は情報の漏洩が懸念されるようになります。
そのため新しく完璧なコードシステムと送信する暗号機が開発されました。

それがエニグマ(Enigma)です。

1918年に特許が申請されて以来、軍が軍用エニグマを完成させ、
運用を開始したのが10年後の1926年のことです。

ドイツはエニグマ暗号機のシステムに絶対の自信を持っており、
それが決して破られることはないと終戦まで信じていました。

血の滲むような努力によって解読に成功したあとも、
連合国側は解読した事実をドイツ側に悟られないように、
ときには自軍の犠牲をもみて見ぬふりをするという徹底した方針をとり、
ドイツ側を安心させて使い続けさせていたのです。

基本的に、陸軍版エニグマには3つのローター(暗号円盤)があり、
これらのローターの順序は指示シートに従って毎日変更されました。

写真のエニグマは、ドイツ海軍で使用されていた4ローター式のエニグマで、
1942年まで使われていたタイプです。

ローターは奥に見えている4つのスロットに収まった歯車状のもので、
手前がキーボード、本体手前もまたキーボードです。

パソコンの単体キーボードのように使っていたのかもしれません。

これは予備の持ち運び用ケースに入ったローターです。
蓋についているコードについては後述します。

 

キーボードとローターの間にあるのが「ランプボード」で、
キーボードで平文の一文字を打ち込むと、ランプボードの一つが点灯し、
それが暗号文字として表示されます。

逆に暗号文を受け取った時も、キーボードで暗号文を打ち込むと、
あら不思議、ランプボードには平文の方が出てくるという仕組みです。

これさえあれば、全く頭を使わずに暗号の発信と受け取りができるというわけ。

一つのローターで、アルファベットの数26!の多表が得られるので、
3つのローターエニグマで可能な設定の数は、2 x 10から145の累乗となります。

エニグママシンは、極秘の指示シートに従って最初にセットアップする必要がありました。

この指示シートがエニグママシンと一緒敵の手に渡るとコードが危険にさらされるため、
(実際に撃沈したUボートの乗員のポケットからこれが見つかったことがある)
各メッセージに独自のコードが含まれるように、間違いのないシステムが考案されました。

 

それでは、エニグマの暗号の送り方を簡単に説明しておきましょう。

1、送信オペレーターはランダムな3つの文字を選択します。

2、続いてローターをそれらの文字に設定し、これらをモールス符号で
受信する側のエニグマオペレーターに送信します。

3、受け取ったオペレーターはローターをこれらの3文字に設定します。

4、送信者は先ほどと違う3つの新しいランダムな文字を選択し、
それらを自分のエニグマに入力して、3つのエンコードされた文字を得ます。

5、彼はこれらをもう一度無線で送信し、受信側のエニグマオペレーターは、
これらの3つのエンコードされた文字を自分のマシンに入力します。

6、受信側のエニグマオペレーターは、3つのローターを設定し、
送信側と受信側の両方で、マシンを同期させます。

 

これも後述しますが、このオペレーターが人間であるのが災い?し、
「癖」とか「手間省き」という慣れから来る運用の雑さがでることで、
連合国は解読の手がかりをつかんだという面もありました。

ドイツ軍人は、エニグマの機械が敵の手に落ちることを
決して許さないように厳しく指導されていました。
オペレーターは、敵軍に囲まれた場合、または艦艇や潜水艦の乗組員は、
艦が沈没することになれば、必ずエニグマを破壊して脱出しました。
(うっかりポケットに入れたままつかまってしまった人もいますが)

このエニグマは、どういう状況かまではわかりませんが、
ドイツ軍の手によって破壊されたものです。
ローター部分は持ち出して別に破壊したらしくその部分は空洞になっています。

 

このエニグマの前面には数字の打たれたプラグ穴がたくさん開いていますが、
この部分を「プラグボード」といい、後から追加されたシステムです。

プラグボードは野戦で使用される暗号機が盗まれたり鹵獲されたりする事態に備え
後期型に追加されたシステムで、ご覧のようにアルファベット26個分の
入出力端子がついていて、こんな使い方をします。

wiki

任意の二組のアルファベットを、ケーブルで繋ぐと、
文字を入れ替えることができる仕組みで、たとえばこれは
「A」と「J」、「S」と「O」を入れ替えている図です。

戦争中、エニグマのローターに対するオーダーとプラグボードの基本設定は、
8時間ごとに、その後1時間ごとに変更され、また、
ローター設定、個​​々の文字は、すべてのメッセージごとに変更されました。

これは展示されていたエニグマ。
プラグボードにあらん限りのコードを突っ込んでみましたの例。


ちなみにエニグマ本体の上に乗っているのは専用プリンターです。
このプリンターを載せることで、ダイレクトに紙テープにコードがプリントされました。

現存しているエニグマ用プリンターは世界でたった3機で、
ここにはそのうちの一つがあるというわけです。

 

関係各位の努力の結果、エニグマは初期型からすでに解読と、それを知った
ドイツ側がプラグボードなどの追加で暗号を強固にしていくという
いたちごっこと、波状攻撃の繰り返しが延々と行われました。

冒頭に挙げたこのエニグマ暗号機は、なんと10ローター式。
T-52というタイプで、ジーメンス社が制作を請け負いました。
使用者も軍の最高司令部とスウェーデン・スイスの大使館に限られていました。

ここにあるのは、世界で現存する5機の同タイプのうちの一つです。

ローターが3つ、及び4つのマシンで送信されたメッセージを
デコードするのにかかる平均時間は1時間でしたが、
このマシンで送られたメッセージのデコードには4日かかったそうです。

左は3ローターのエニグママシン。右は4ローター式です。
右の4ローター式は海軍で使用されていたものです。

 

さて、繰り返しますが、ナチスの絶対的な自信にもかかわらず、
イギリスは1941年にメッセージを解読することに成功しました。

これは、1932年に初期のエニグマ解読を行った若干27歳のポーランド人
数学者、マリアン・レイエフスキの貢献が大でした。

マリアン・レイェフスキ - Wikipediaマリアンだけど男です

連合軍の指導者たちは、最終的にはイギリスのブレッチリーパークにあった
政府暗号学校(特にアラン・チューリング)の解読が
二次世界大戦の勝利に貢献したと信じています。

ドワイト・アイゼンハワー司令官は、エニグマ解読が勝利を決定づけたとし、
ウィンストン・チャーチルは、イギリスのシークレット・インテリジェンスサービス
(SIS、またはMI6)の責任者であるスチュワート・メンジーズを、
国王であるジョージ6世を紹介したとき、彼を自分の「秘密兵器」を紹介し、
エニグマ解読チームが「戦争に勝つためのツールだった」として賞賛しました。

ヒンズリー(左)

ブレッチリーパークでチューリングとともにコードブレークを行った
ハリー・ヒンズリー卿は、彼と自分の同僚が、戦争を
「2年以上、おそらく4年」短縮したと主張しています。

彼は、第二次世界大戦後、イギリスの諜報活動の歴史の専門家になりました。

 


戦争が終わったとき、連合軍が最も恐れたのは、ソ連がこちらより早く
エニグマの機械を捕獲し、中身を改良して利用することでした。

ですから彼らは、エニグマのマシン提供に7500ドルの報奨金を提供し、
博物館に寄贈される予定にないマシンのすべてを破壊したとされます。

 

ところで、エニグマが解読された理由やきっかけはいくつもありましたが、
その一つが先ほども述べたように

「エニグマ運用の際の心理」

を追求することによって突破口が開いた例でした。

特にドイツ側ではエニグマが決して破られることはないと安心していたため、
送信オペレーターは、ついつい油断して、これらすべてのランダムな文字を
毎回新しく設定する必要はないと考える傾向にありました。

彼らは、自分にとって日常的なルーチンをこなしているこの瞬間にも
暗号解読は試みられていることに気づいていなかったのです。

というわけで、ドイツの送信オペレーターが無意識に選んでいた
最も一般的な「ランダム」な6文字ベスト3はというと、

HITLER

BERLIN

LONDON

だったそうです。
全然ランダムじゃねーじゃん!
とおそらく連合国のコードブレーカーは心の中でツッコんだことでしょう。

ある「怠け者の」オペレーターなど、よっぽど変えるのが面倒だったのか、
戦争中ずっと「TOMMIX」の六文字を一度も変えずにを使用していたそうです。

これ自分の名前からとった(トーマスとか)とかだったら笑うな。

クレジットカードは取得された時に備えて、暗証番号に
推測されやすい誕生日などを使っちゃダメ、と今でもいいますが、
こういうことなんですよね。

さて、話題を変えて、こんどは連合国軍側の暗号についてです。

ナチスに征服された国の一部の市民はその支配を受け入れましたが、
受け入れがたいとした人々は、占領者に抵抗するために
レジスタンスとなって大きな個人的リスクに身を置きました。

同盟国はさまざまな方法でこれらのレジスタンスグループと連携し、
彼らを外からサポートしようとしました。

イギリスの特殊作戦執行部(SOE)やアメリカの
戦略サービス局(OSS)などの諜報機関は、
秘密裏に支援をおこないつつ、敵に関する情報を密かに収集しました。

第二次世界大戦で戦った両陣営は互いに心理戦を行いましたが、
特にこの手の技術に優れていたのイギリスだったそうです。

彼らはあたかも本物のようなドイツの新聞、配給カードや文書を制作し、
敵を撹乱し騙すことにかけてはヨーロッパ一ともいわれていました。

さすがのちのスパイの本場です。
ところでこんな話をしていたらふと、

「ジェームスボンドになりたかった男・イアンフレミング」

をまた観たくなりました。

ヨーロッパ全土のレジスタンスグループは、BCRブロードキャストと
それらに含まれることがあるコード化されたメッセージを聞くために
MCR-1ラジオなるものを利用しました。

MCRラジオは特殊作戦執行部隊(SOE)のジョン・ブラウン大佐が開発した
秘密受信機です。

SOEと特殊部隊による使用を目的としており、水密に密封された
缶詰スチールビスケット缶で配布されたため、
「ビスケット缶レシーバー」というニックネームが付けられました。

信頼できる定期的なコミュニケーションを確立することは、
ドイツの占領に対するレジスタンス活動にとって不可欠だったので、
第二次世界大戦中、MCR-1は多くのヨーロッパ諸国で、
レジスタンスグループに非常に人気のある受信機になりました。

BBC放送の受信、英国首相のスピーチ、およびその他の国の首脳の言葉。
多くが占領下のヨーロッパに向けて密かに発信されました、

レジスタンスのためにメッセージをコード化して
放送中に紛れ込ませて伝えるということもありました。

たとえばVIPの到着や次の爆撃の確認などです。

有名な話では、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の際、
SOEがフランス各地のレジスタンスに工作命令を出すための暗号放送として、
ヴェルレーヌの「秋の歌」の冒頭が使われたというのがあります。

具体的には「秋の日の・・・」が何かの形で朗読されれば
「近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦がある」
後半の「身にしみて・・・」なら、
「放送された瞬間から48時間以内に上陸作戦が行われる」。

そのことは前もってこのMCRラジオを通じて連絡されていました。

「秋の日の」は6月1日・2日・3日、それぞれ午後9時のBBCニュースの中で
「リスナーのおたより」として流され、「身にしみて」は
6月5日午後9時15分から数回にわたって放送されました。

こんなに何度も同じ詩のフレーズを短期間に紹介すれば気づかれるのでは?
しかも秋の日でもなんでもない6月に。

と思ったのはわたしだけではなく、もちろんドイツ側は暗号を解読しており、
ラジオをチェックしていた軍は上陸作戦の暗号だと察知しました。

しかし、詰めが甘いというのか、いくつかの部隊に連絡がついたものの、
肝心のノルマンディー地方にいた第7軍に連絡がつかず、
一番大事な警報が伝えられるべきところに伝えられなかったそうです。

・・・・・ドンマイ。

 

続く。

 

 

 

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