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映画「1941」はスピルバーグの’黒歴史’か その2

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映画史にその名を残さなかった(笑)スピルバーグの「1941」。

その世間的な評価は決して高くないものの、前回から検証するように
この映画には「わかる人にはわかる」隠しネタが散りばめられています。

特にアメリカ人であれば、わたしが今回検証して知ったことだけでなく、
いたるシーンからそれらを簡単に見つけることができるのでしょう。

しかし、1975年当時、この映画を映画館で見た日本人のほとんどは
そういうギミックについて知る術もなく、したがって、
単におふざけと悪ノリのすぎる駄作と評価したとしても仕方ありません。

ただでさえ、英語字幕では、ネイティブならわかるツボが
(笑いに限らず)全く伝わらないのが翻訳物の常なのです。

 

というわけで、前半検証してきて、すっかり映画に好意的になったわたしですが、
それでもアメリカ人にすらそれほどウケなかったという理由について
何度も繰り返して観るうちに(いやこれがなかなか大変で)確信を持ちました。


その一つが、盛り沢山すぎる人間関係と、これなんのために出てたの?的な
キャラクターのあまりに多いことです。

とくに、白人の娘と、彼女の恋人であるダンサー、娘に惚れて
しつこく追いかける戦車中隊の伍長、さらにそれを追いかけ回す女性、
という恋模様は、文字通り物理的に追いかけあうドタバタですが、
見ていて5分で飽きてくること請け合いです。

 

さて、続きと参りましょう。

西海岸ではおりしも、太平洋戦線に投入される兵士たちが
壮行会を兼ねたダンスパーティが開かれることになり、
地元の若い女性がUSOに集められて、彼らの慰安を命じられます。

「ミスなんとか」と呼ばれるマナー講師みたいなおばちゃんが、
女性たちに居丈高に言うには、

「パーティに民間人男性の入場は禁止、女性は全て、
彼らの士気を高めるために貞操観念は捨てること」

「好みのタイプじゃない兵隊さんにも優しく微笑むこと」

「下品な人とも上品に会話すること」

「体にタッチされても我慢して踊ること」

ヒロイン、ベティは、父親からも遠回しに

「彼らを楽しませてやれ」

と因果を含められて嫌な顔をしたばかり。
彼女には軍人ではない彼氏がいるのですから当然ですね。

 

そこに目を血走らせた兵隊たちが雪崩れ込んできました。
しかし、逆に彼らに目の色を変える女の子もいます。

「あいつら、ウォーキーカーキーだ」

ウォーキーカーキーとは、軍服フェチの女性のこと。
当時、時節柄軍服を着ていれば女の子にモテモテでしたが、
逆に軍人に嫌われるファッションというのがありました。

ベティの彼氏、ウォーリーはめかしたズートスーツで
会場に乗りこむものの、軍服の群に摘み出されます。

そして喧嘩が始まってしまうのですが、これは、実は

「ズートスーツ騒乱」という歴史的な事件を元にしています。

ズートスーツというのは、ハイウエストで裾の広いカフ付きのペグパンツ、
幅広のラペルと肩幅の広いロングコート、帽子の組み合わせで、1940年ごろ、
アフリカ系、ラテン系、フィリピン系、ヒスパニック系アメリカ人の間で流行りました。

つまり、これを着ているイコールマイノリティということでもあったのですが、
白人系と軍人は、彼らへの差別もあって、非常時に多くの布を使う
この手のスーツを着るのは非国民だと非難し、小競り合いが頻発していました。

そんな1943年6月、事件は勃発しました。

その直前に起こったズートスーツ族(パチュコ)が起こした殺人事件がもとで
ヒスパニック系移民への反感が高まりつつある中、一部の水兵が
パチュコを「制裁」したのがきっかけになりました。

兵士、水兵、便乗した白人がズートスーツを着ている若者を
かたっぱしから引きずり出して暴行を加え始めたのです。

ところが、当時の地元マスコミは、この暴行を非難するどころか、

「クレンジング(洗浄)効果」

と呼び、

「ロサンゼルスから悪党と愚か者を排除するためだ」

と称賛しました。
議員ですら、

「ズートスーツは今や愚か者の目印になった」

などといい、ズートスーツの着用も禁止されたのです。

しかし、当時敵国人である日系を収容所に放り込んでいたため、
労働力の多くを安価なヒスパニック系に頼っていたカリフォルニアでは
たちまちメキシコとの関係に困り、さらにはエレノア・ルーズベルトが
事件1週間後に非難声明を出したこともあって、政府は
事態の早急なる収束を余儀なくされます。

中には、どさくさに紛れて、

「これは米国とラテン系の不破を煽るナチスの機関の工作だ!」

という「人のせい」で治めようとした専門委員会もあったとか。

なんでもかんでもナチスのせいにしてんじゃねー(笑)

というわけで、この騒乱が男女の追っかけっこを交えて延々と
続くわけですが、冒頭イラストにも書いたように、
はっきりいってこの人たち、映画そのものにまるっといらなくね?と
わたしなどは思ったりするのです。

 

また、当時は人種差別ネタも今からは想像もできないくらい露骨で、
差別を描くためだけにキャストされたらしい黒人兵は、
白人から顔に白いペンキを塗られたりしております。

今これをやったらどんなことになるのか((((;゚Д゚)))))))
っていうかこれも全然笑えないんですが。

ところで、ジョン・ウェインとチャールトン・ヘストンから断られたという
ジョセフ・スティルウェル少将の役ですが、アメリカ人から見ても
これは似ていると言われているようです。

「ジョセフ・スティルウェル少将」の画像検索結果

いうほどかね、と思ったりしますが、ジョン・ウェインよりは似てるかな。

で、今宵スティルウェルがやってきたのは映画館。
大好きなディズニーのアニメ「ダンボ」を観ようっていうのです。

丘の上からの伝令が、

「山上のマッドックス大佐が(イラストの少佐は間違い)
敵らしい怪しい動きを発見したというのですが」

と伝えても、

「大佐は『マッド』だからな」

の一言でスルー。
いそいそと映画館に入っていきました。

「ダンボ」については全てのセリフを暗記しているほどです。

そして涙を・・・・。

スピルバーグはこのシーケンスをスティルウェルの
回顧録からヒントを得たと語っているそうですが、その映画が
本当に「ダンボ」だったのかどうかは謎です。

しかし、ジョン・ウェインが断るはずだわこの役(笑)

 

さてさて、ズートスーツ騒乱と並んでこの映画の核を成しているのが、
実際に起こった、

「ロスアンゼルスの戦い」

です。
映画館に入る前に、伝令がスティルウェルに伝えたのは

「上空に飛行物体が多数出現した」(かもしれない)

という情報でした。

海戦直後の日本軍潜水艦による通商破壊作戦も功を奏し、
西海岸一帯が、この映画でも随所に語られているように
「第二の真珠湾」に戦々恐々としていた、1942年2月のことです。

ルーズベルト大統領は、もし日本軍が空襲を行なってきたら
大規模な上陸は避けられないとして、ロッキー山脈で、
もしそれに失敗したらシカゴ中西部で阻止することを計画していました。

潜水艦の進入に備え、防潜網や機雷を敷設し、防空壕を作り、
ガスマスクを配布するなどということがなされました。

こうして書いてみると、どう見ても日本の戦力を買いかぶっていた、
としか言いようがないのですが、それだけ真珠湾攻撃とは
アメリカ人に驚天動地の大衝撃を与えたということでもあります。

何しろ西海岸では、遊園地、映画館、ナイトクラブの夜間営業を停止し、
灯火管制まで行なっていたのです。

本作で、最後に子供が照明のスイッチを入れてしまい、
観覧車を含むその辺一帯があかあかと照らされるシーンがありますが、
これは、当時遊園地が営業停止になっていたということを表します。

しかし、そんな厳戒態勢下にもかかわらず、日本の潜水艦による
サンタバーバラ石油施設への十三発の砲撃は実際に行われました。
このとき、アメリカ軍は潜水艦に対してなんらの反撃もできず、
やすやすと施設の破壊を許してしまったといいます。

それが2月23日の夜のことです。

 

翌2月24日夜、未確認飛行物体がカリフォルニア南部で確認され、
連続して警戒警報が発令されました。

海軍のインテリジェンス機関は、10時間以内に攻撃が始まると予想し、
警戒態勢に入りましたが、攻撃はなく、アラートは解除されます。

しかし、翌25日の早朝、陸軍のレーダーは、ロスアンゼルス沖
西120マイル地点に機影を認めた「気」がしました。

0215、対空砲は発射大破準備完了、迎撃機を地上に待機させ、
レーダーは近くターゲットを追跡し、灯火管制を行います。

その後、忽然となぞの物体はレーダーから消失します。
なのになんということでしょう、情報センターには

「敵機来襲」

の報告があちこちから殺到するのです。
例えば、この映画で取り上げられたのは、沿岸砲兵部隊の大佐が

「ロスアンゼルス上空1万2千フィートに敵機約25機」

を発見したというこの時の事実に基づいています。
映画でのスティルウェルは

「ああ、マッドなマドックス大佐か」

と情報を一蹴しましたが実際には迎撃が行われ、

「サンタモニカに気球が襲来し、四連の対空砲が発砲した」

「その際、ロサンゼルスの空気はまるで火山のように熱かった」

という報告がなされています。


しかし、実際にはそれらは全て誤報でした。

戦後になって日本側から、そのころ航空作戦は行われていなかった、
という証言が得られたので、空襲が勘違いだったと実証できたという有様。
今では、サーチライトに捕らえられた対空砲の破裂そのものが
敵機と間違えられたのではないか、ということになっているようです。

全て壮大な疑心暗鬼が作り出した幻影だったということになりますね。
後日、ロスアンゼルスタイムズは写真に「未確認飛行物体が写っている」
として、

「地球外生物、UFOが襲来していたのではないか」

という説を挙げたのですが、これはタチの悪いいたずらで、
素人にもわかる修正が加えられていたのだそうです。

いいのか(笑)

しかし、残念ながらこの騒ぎの渦中、興奮して心不全を起こし、
少なくとも一人が亡くなり、一人が投下管制された暗い道で
交通事故を起こすという悲劇があったそうです。

リメンバーパールハーバー(笑)

さて、ズートスーツ関係の喧嘩はいったん収まりました。

ウィリーは友人のハービーが海兵隊の貸衣装を身に付け、
女の子にモテモテなので、一人の水兵のセーラー服を強奪し、
自分も偽軍人になって堂々とベティとダンスを。

もともとダンサー志望ですから、彼らは注目の的。
そこで天敵シタルスキ軍曹に殴られ、さらに軍服を盗んだ相手に殴られ、

それがなぜか陸軍対海軍の戦いに発展してしまいます。
海兵隊はどっちだったの?海?

さて、こちらは敵機を発見したという山頂の防衛軍基地です。

飛行機に乗ると欲情する元カノ、ドナをその気にさせようと、
スティルウェルの副官は、山頂にあったリベレーターをうまいこといって
ろくに操縦もできないのに借り出すことにせいこう、いや成功。

まさかと思っていたのに本当に飛んでしまいます。

一方戦車隊のダン・エイクロイド演じるトゥリー軍曹は、
USOで起きている喧嘩を止めるために戦車を出動させました。

争乱の最中、トゥリー軍曹はいきなり無反動砲をぶっ放します。
ここのところ、字幕に翻訳されていないセリフを翻訳しておきます。

「なにをやってるんだ!?
トージョーの群れみたいに騒ぐんじゃない!
貴様ら、ヤマモトをホワイトハウスに招待するつもりか?
枢軸の連中はスライムみたいにヨーロッパを這い回ってるぞ!
信じられない、アメリカ人同士が戦ってどうする!
まるでフン族の集まりじゃねーか!」

「勘違いするな!ジャップは決して降伏しない。
彼らの考えがわかるか?
諸君や諸君の家族、母親を、恋人を、ペットを殺し、
世界征服まで殺し続ける!」

「みんな、サンタクロースが好きか?」

「いえ〜」\(^o^)/

「日本人はサンタを信じてない!」

「の〜!」👎

「クリスマスケーキの代わりに生魚の頭や米なんて食えるか?」

「の〜!」👎

「ドイツ野郎(クラウト)はディズニーを信じてると思うか?」

「いえ〜!」\(^o^)/

「え〜と、じゃフランスのブリッツクリークはミッキーマウスがやったのか?」

「の〜!」👎

「ポーランドはプルートがやったか?」「の〜!」👎

「パールハーバーはドナルドダックか?」「の〜!」👎

訳がわかりませんが、演説大ウケ。

何を言っているか全く意味不明だけど説得力だけはある。
こういうのが「カリスマ性」というんでしょうか(棒)

 

ちなみに、実際の撮影の際、これらの騒乱シーンはあまりにも煩くて、
スピルバーグ監督の「カット」が皆に全く聞こえなかったので、
監督はアクションを止めるため、このときの軍曹が手にしていた
プロップ機関銃を、ダン・エイクロイドのようにぶっ放したそうです。

 

続く。

 


映画「1941」はスピルバーグの’黒歴史’か〜その3

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スピルバーグの「1941」を考察する企画、三日目です。

この映画の製作費は3,500万ドル、ざっと39億6千万ですから、
当時の貨幣価値からみても結構なお金がかかっています。

ジョン・べルーシが乗り回すウォーホークを始め、駐機してあるB-18は本物。
その他、登場してくる第二次世界大戦時の飛行機などのレプリカを作るだけで
巨額の予算が必要となったでしょう。

で、これに対し興行収入は9,490万ドル、約4分の1くらいです。
つまり興行的には失敗だったということになるわけですが、
それは決して「flop」(映画・興業の失敗)ではないという意見もあります。

 

この映画のエピソードは決して無自覚に盛り込まれたものではなく、
そのほとんどが歴史的なトリビアに精通している人に限り
ニヤリと笑うことができる、(逆に無知な人にはわからない)というものですが、
そんな「選ばれた民」から(のみ?)擁護されているのかもしれません。

まあでも、そんな「選民」だけに受け入れられる映画が
人気のあるエンターテイメントになるわけがありませんよね(笑)

さて、それではもう1日頑張って続けます。

ところでみなさんはもう忘れてしまったかもしれませんが、前半で
クリスマスツリーに変装し上陸した伊潜乗員に拉致られた、
ホリー・ウッド氏のその後についてどうなったか書いておきます。

→お菓子のおまけに磁石が見つかる

→これでハリウッドに行けると皆大喜び

→そうはさせじとウッド、それを飲み込む

→無理やり下剤を飲まされる

→皆が見ていたら出るものも出ないと言って一人になり、脱出を図る

→潜航中のハッチから無理やり外に出てしまい海の中←いまここ

こちら演説の後、なぜか「あかりを消す」ことがミッションだと思い込み、
戦車で電線を切ろうとして巨大なサンタを倒し、それが頭にあたって
昏睡状態になったトゥリー軍曹。

さっきまでセーラー服だったダンサーのウォーリーは、
どさくさに紛れてかっぱらった軍曹の上着を着ていたため、
周りに代わりに指揮を執るように要請されます。

「軍曹、どうしましょう?」

「よし、灯りを消すんだ!」

すっかりやる気になったウォーリー、ベティともハッピーエンドに。

こちら飛行機フェチのドナと彼女をなんとかしたいために
飛行機に乗せて飛び立ったバークヘッド大尉。
操縦中についそちらに夢中になっているうちに・・・

ビル・ケルソー大尉に敵機と思われ撃墜されてしまいました。
墜落する機内で、決死の不時着を試みる大尉。

「ウィ・キャン・ドゥー・イーーット!」

「ユー・キャン・ドゥー・イット!」の画像検索結果

不時着したところがなぜか恐竜の模型がある化石発掘地。
恐竜の出現に怯える二人の姿に、現代のわれわれはスピルバーグの

「ジュラシック・パーク」

を思いださずにいられない訳ですが、同映画が公開されたのは
この映画の14年も後のことになります。

 

こちら、庭先が迫撃砲基地にされてしまったダグラス家。
当家の奥方がバスを使っていると何やら外が騒がしく・・・。

大喜びでそれを見物している艦長以下伊潜の皆さん。

「敵襲だ!」

慌ててウォード・ダグラスが銃を構えるのを見る艦上では、乗員が

「あれはウィンチェスターの散弾だけですよ」

などとしゃべっております。

そこで、陸軍から「触らないように」といわれていた庭の対空砲を
引っ張り出してきて、砲撃を行おうとするウォードですが・・。

どうみても無理ゲー。

さて、民間防衛の一翼を担うため、この有志二人(と腹話術人形一体)は、
ずっと観覧車に乗って武装し敵の来るのを待ち構えていました。

そこにやってきたのがジョン・べルーシのケルソー大尉のウォーホーク。

「わかったわかったわかった!あれは中島の97型だ!」

いや、ウォーホークと97式、これっぽっちも似た要素はありませんが。
おそらくわたしでもこれは間違えないと思う。

彼らは果敢にも攻撃を行い、ウォーホークを撃墜してしまいました。

 

ミタムラ艦長「よくやった!」

乗員「(あれ?俺撃ってないけど)・・・・どもありがとございます」

USOの前の路上にウォーホークを不時着させたケルソー大尉は
潜水艦に仇を打つため盗んだバイクで走り出し、方やど素人の
ウォーリーが引きいる戦車は、恋人の家が戦闘中ときいて海岸に急行。
ペンキ工場に突入し、派手にペンキを撒き散らします。

ものすごいシーンですが、当時ですからもちろんスタジオで撮影されたものです。
このセットだけできっと1千万はかかってるな・・・。

伊潜の上では、フォン・クラインシュミットが、ミタムラ艦長に
潜航させるべきだと強弁し、銃を突きつけて脅します。

「やっぱり総統は正しかった!
第三帝国には黄色い豚のための場所などない!」(ドイツ語で)

しかし、

「大日本国海軍は、貴様の命令など聴けん!」

ミタムラ艦長、クラインシュミットを海に投げ落としてしまいました。

「ザッツオールライ!」∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)

そのときになって、ウォード家の庭から渾身の対空砲が着弾しました。

「戦闘用意!左15度!」

「発射ヨーイ!・・・・・・ん?」

その時、観覧車の二人を助けにきたつもりのウォード家のガキが、
適当にスイッチを押してしまって、灯火管制で真っ暗だった遊園地が
赤々と照らされてしまいました。

それをみて感極まった航海長イトウ大尉、

「は〜りう〜っど〜〜〜お」(ToT)

全裸美女目撃の最初から最後まで彼の台詞はこれだけ(笑)

クリスマスツリーに変装して上陸作戦を行った時には
最先任として一人だけツリーに飾りをつけております。

この俳優さんは清水宏といい、今でも芸能活動されている様子。
それにしても三船敏郎にビンタを張られる役なんて、役者冥利すよね(笑)

「右35度軍需工場!」

目標の「ハリウッド」に向かって行われた伊潜の全力攻撃で
民間防衛の二人(プラス人形)が乗っていた観覧車が
外れて転がり出し、海に落ちてしまうという大スペクタクル!

このシーンはミニチュアを使って特殊撮影が行われ、
実際の車輪を転がして合成したそうです。

「やったやった!」

艦体をバンバン叩いて喜ぶミタムラ艦長。

「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/

「ハリウッド〜お・・・・」

こちら陥落する映画の都「ハリウッド」に落涙してしまうアシモト中尉。
ミタムラ・アキオという俳優さんが演じています。

そのとき桟橋に駆けつけた?ダンサーのウォーリー率いる戦車を、
桟橋を魚雷で破壊することで撃破した帝国海軍伊17潜、意気揚々と、

「帝国海軍はアメリカ合衆国軍隊と交戦し、
敵に大損害を与え、多大なる戦果を収む。
只今より、基地に帰投する!」

そして潜航を始めたところ・・・・・・。

盗んだバイクで桟橋を疾走し海に飛び込んできたケルソー大尉が!

「待て!まだ潜るんじゃない!」

潜水艦に乗り込もうとしているではありませんか。
そんなケルソーに海上にぷかぷか浮きながら敬礼を送るトゥリー軍曹。

やはり海上で偽軍人のウォーリーは、

「おい、やっつけたのか?」

と聞かれて、

「と思う。沈んでいく」

潜水艦だからそら沈むがな。

潜航していく潜水艦のハッチをいとも簡単に外から開け(笑)
突入していくケルソー大尉。

「俺はワイルド・ビル・ケルソー様だ!!!

・・・・おっと・・・・」

「オーライ、もしついでがあったら東京まで連れてってくれない?」

スピルバーグのファンにとっても、べルーシのファンにとっても、
見てはいけないものを見せられたような気まずい気持ちになるシーンです。

これを演じさせられたジョン・べルーシは、映画出演後のある日、

「スティーブン・スピルバーグ1946〜1941」

とプリントしたTシャツを着ているのがハリウッドで目撃されました。
これが稀代のコメディアン、べルーシのこの映画に対する評価の全てでしょう。 

まあただ、べルーシが黒沢と三船敏郎をパロディにした

「サタデーナイトライブ・サムライ」シリーズ

のいくつかは、このときのオチレベルにスベってるようですが・・。

Samurai Hotel - SNL

パワーワードは「ユア・ママさん」(笑)

サムライ離婚法廷

これもなかなか。
子供の手を引っ張り合うところで大岡裁きがくると思ったらまさかの・・。

こちらのパワーワードは「ガッジラ」。
彼らのインチキ日本語を聞くと、フランソワーズ・モレシャンに

「フランス語みたい」(だけど意味がわからない)

と言わせたタモリの4カ国語麻雀芸はすごかったんだなと思います。

 

明けて翌日。

戦いの最前線となったダグラス家の庭。
朝のニュースではいまだに、

「アメリカ本土に初めて敵機が来襲、爆撃はありませんでした」

などと報じています。
そこにスティルウェル少将がやってきました。

「損害は?」

「戦車一台と観覧車です」

「敵の船は沈みました。この目で見ました!」←ウォーリー

 

そこで少将の前にリースを持って進み出るウォード氏。

「サー、我々は昨夜敵発見後奮闘しました。
我々は団結し、アメリカ魂を見せてやった!」

「今から平和のシンボルとしてリースを玄関にかけます。
誰にも平和を、そしてクリスマスを我々から奪うことはできない!」

トントン (リースを釘で打ち付ける音)

ゴロゴロ〜(家が転がり出す音)

がらがら〜〜(崖から転がり落ちる音)

CGなどない当時、この撮影には本当に海沿いの斜面に
最後に落とすことのできる家を作りました。
レールを転がって落ちる仕組みになっていたそうですが、
莫大な制作時間(費用はもちろんですが)がかかりました。

待たされてキャストとスタッフは、撮影開始がいつになるか賭けをし、
その結果、ダン・エイクロイドがピッタリ賞で勝利を収めたということです。

ちなみにエイクロイドはカナダ人で、今回がアメリカ映画初出演でした。

初出演といえば、子供の後ろの戦車隊の兵隊はミッキー・ロークが演じています。
ご紹介した航空博物館のあるスケネクタディ出身で、これがデビュー作となりました。
一言も台詞はありません。

 

公開当時、映画館でこれを見たというアメリカ人の感想を見つけました。

映画が終わった時、不気味な沈黙が満員の会場を支配した。
一人が

『一体何だったんだ?』(What a hell WAS that?)

と叫ぶと、一同がどっと笑い転げた。

 

上質なエンターテイメントを求めて映画館に足を向けた観客の多くは
このように、がっかりさせられたということなのでしょう。

しかし、最初にも書いたように、ごく一部の「物知りな」人たちには、
この映画はたまらないネタの宝庫であることも事実です。

とくに、ロスアンゼルスの土地と歴史をよく知る出身の人々にとっては、
この映画に映るハリウッドブルーバード、サンタモニカの観覧車など、
ノスタルジアを掻き立てる懐かしいものが満載なのだといいます。

つまり、ねじれたユーモアを持つロサンゼルス出身の歴史愛好家、
という限りなくニッチな層にとっては、たまらない作品なのです。

 

敵として登場していた潜水艦の国の人にとってもしかり。

わたしもまた、この映画における伊潜と三船敏郎の描き方には
細部にまで見入ってしまったわけですが、「ロス愛好家」がそうであるように、
「海軍愛好家」にとっても、この映画は非常に好感が持てるものでした。

もちろん結果的に彼らが全力で攻撃し打撃を与えたと思ったのは、
無人の遊園地であり、アメリカにとってはなんの損害にもなっていない、
という壮大な「オチ」はありますが、敵であった日本を卑しめたりせず、
彼らを「愛すべきおばかさん」として描いていますし、そしてなんといっても
伊潜攻撃のシーンは実に真面目です。(軍事的に正確かどうかはともかく)

特に三船のカットには特に彼の「名声」を傷つけないようにか、
細心の注意が払われていると感じます。

 

さらにアメリカ人のコメントを読むと、
好きか嫌いか、評価は真っ二つに分かれているようです。
嫌いな人はくだらないといい、好きな人はわかる人にはわかるといい・・。

わたしも好きか嫌いかでいうと、「好き」のほうですが、
じゃあ面白いか?というと(ブログ冒頭に戻る)

いろいろあった評価の中で、わたしが一番自分の感想に近いと思ったのが、
スタンレー・キューブリックがスピルバーグに直接言ったといわれる、

「Great, but not funny.」

でしょうか。

そして、特筆すべきは音楽をあのジョン・ウィリアムスが担当していること。
テンポが良くキャッチーなフレーズは、もし映画がヒットさえしていれば
もっと有名になっていたに違いないと思わせるものがあり、
スピルバーグ本人は

「全ての自分の映画音楽の中で一番好きだ」

と言っていたそうですが、これはちょっと意地になって言っているような気が。

1941 March Soundtrack (John Williams)

 

というわけで、今回当ブログを読んで映画を観ようと思った方は、
事前にわたしがブログで書いたような、当時の歴史的背景や事件などを
ちょっと頭に入れてからご覧になることをお勧めします。

エンディングは、崩れ落ちたダグラス家上空を空撮したシーン。
ここに心温まる?オチが隠されていました。

ちょうどJHONのOの字の下に黒い部分があるのですが、
ここになぜか海から泳ぎついて捕獲されたナチス将校、
ヴォルフガング・フォン・クラインシュミット少佐
が連行されているらしいのです。

伊潜から突き落とされたあと、岸に泳ぎついたんですね。
よかったよかった。

それではこの映画では死んだ人はいなかったんだ。

 

・・・・え〜と。

ちょっと待てよ?

ホリー・ウッドさん・・・この後どうなった?

 

終わり。

 

 

 

アメリカ軍機の略称規則〜エンパイアステート航空科学博物館

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ニューヨーク州グレンヴィルのスケネクタディにある
エンパイアステート航空科学博物館は、二棟からなる展示室、
公開されているハンガー、そしてエアフィールドの航空機展示から成ります。

本館の外に軍用機が展示されているところは
アグネタ・エアパークと名前が付けられています。

看板が掲げられたこの構造物は、昔監視タワーか何かで、
上を切り取ってしまったものではないかと思われます。

上って行けないように階段に板が貼り付けてあります。

それでは、何回かに分けて展示機をご紹介していきます。

ベルエアクラフト UH-1 イロコイ Iroquois (Huey) 

日本でもこのタイプのヘリのあだ名は同じく「ヒューイ」です。
アメリカで運用された初期の偉大なヘリコプターで、
最初に陸軍に導入されたのは1959年のことでした。

生産は1976年に終了しましたが、それまでの間、
アメリカでは陸軍、海兵隊、空軍、海軍で採用され、
生産された1万6千機は、他国のエアフォースでも使われています。

多用途ヘリとしてありとあらゆる任務に投入され、
それだけに多種の使用目的に応じたバージョンが生まれました。

搭載エンジンはライカミングT53ターボエンジン、
これは歴史的にも最初に製造されたターボエンジンの一つです。

ヒューイといえば、そのイメージは「ベトナム戦争」です。

ニュース映像や数知れないくらい多くの映画の画面、そして写真。
ベトナム戦争を描いたものでヒューイの姿を見ないことはなく、
それは名実ともに一つのベトナム戦争のアイコンになったと言えるでしょう。

戦争中、ヒューイは輸送機として(あだ名は”Slick”。巧みとかいう意味)、
攻撃ヘリとして(あだなは”Hog”、豚という意味)、そして
救難機として(あだ名は”Dustoff”負傷兵搬送というそのものの意味)
フルに活躍し、投入されたうち2,500機が戦闘や事故で失われました。

1980年代になってより大型で速くパワーのあるシコルスキーの
UH-60ブラックホークが現れるまで、UH-1は
真に航空機のレジェンドとして第一線で活躍を続けました。

アメリカでは近年(2008年)になって、残っていたバージョンのヒューイが、

空軍宇宙軍団 Air Force Space Command:AFSPC

で採用されることになってファンを喜ばせたそうです。
AFSPCは軍用機として戦闘機の類は保有せず、人員輸送のためだけに
ヘリを運用しているので、復活が実現したのでしょう。

窓の外からコクピットを撮っておきました。
シートは破れて中身が露出しています。

後部には一人用の小さな椅子がありました。

そうそう、宇宙軍団といえば、我が空自が

航空宇宙自衛隊

に名前を変えるとかなんとか、先日ニュースで見ましたが、
なんだかワクワクしますね。

ここにあるUH-1は、Hモデルで、1964年に生産され、
ベトナム戦争にも陸軍機として参加したものです。

「ミッドウェイ」の飛行甲板に展示されていた同機について、
「イントルーダーのツノ」としてその給油プローブについて
熱く語ってみた(熱く語るな)ところの、

グラマンA-6E イントルーダー

基本的に艦載機は翼を畳んだ状態で展示されています。
イントルーダーは当時最も効果的な攻撃ヘリとして、長期にわたり
海軍で使用されてきた名機です。

1950年代の甲板からA-1スカイライダーと置き換えられる形で普及しました。

ツインエンジン、二人乗りで艦上爆撃機として海軍と海兵隊が
空母で運用するのに多用されています。

イントルーダーを最も特徴付けるのは、重量の大きな爆弾を搭載でき、
かつ航続距離が大変長いうえ、夜間もオッケーで全天候型、という
使い勝手の良さだったといえましょう。

製作はロングアイランドにあったグラマンの「アイアンワークス」が行い、
700機が1963年から海兵隊に配備され始めました。

船舶用語で、船の造波抵抗を打ち消すために、喫水線下の船首に
設けた球状の突起のことを

「バルバス・バウ」

という、という話を以前ここでもしたことがありますが、
このイントルーダーのインテイクを備えたノーズのようなのも、

「バルバス・ノーズ」

といい、この場合は空気抵抗を打ち消すためのものです。

タフなだけでなく、トラッキングレーダーと、レーダー高度計、
ナビケーション内蔵、ジャミング装置と盛り沢山に搭載し、
A-6は当時運用されていた航空機の中で最も高価だったといわれます。

機体は改良を重ねられ、1970年にグラマンが導入したA-6Eになると、
その信頼性は一層増し、整備にかかる時間も縮小されるようになりました。

 

ところで、この空の色と雲を見ていただければおわかりでしょうが、
この日のスケネクタディはとにかく猛烈に暑かったです。
日差しが強いというわけではなかったのですが、
外で写真を撮って歩く時間はまるで我慢大会さながらでした。

見学者もいないわけではありませんでしたが、少なくとも
わたしたちが外にいる時間、他の人は一人も見ていません。

 

A-6は誕生するなりベトナム戦争に導入され、戦争中ずっと
特に北ベトナムでは夜間の要所攻撃に出撃しました。
1968年にF-111が登場するまで、世界唯一の全天候型攻撃機、
という地位にあったのです。

最後の頃は1991年から始まった湾岸戦争にも参加しています。

プラットアンドホイットニーのJ52ターボジェットという
パワフルな動力を備えたA-6は、典型的な攻撃ミッションでは
二つの増槽をフルにして、さらに6,000ー12,000lbsの楽団を搭載し、
何度となく空母艦上から空対地爆撃に出撃するのがデフォでした。

やっとのことで引退したのは1997年。
F/A−18ホーネットの誕生で後を譲ることになったのです。

このA-6hは1967年製造、Eタイプのスタンダードバージョンで、
92年に退役するまでずっと空母勤務を「エンジョイして」いました。

その空母とはUSS「アメリカ」「ニミッツ」「サラトガ」、そして
あの火災で有名な「フォレスタル」だそうです。

機体のマークは、最後のサービスを行った「フォレスタル」の
第176攻撃中隊のものがそのまま残されています。

あと、給油プローブに鳥が止まらないように、
これでもかと針が仕込んであるのには個人的にウケました。

ノースアメリカンT-2 バックアイ(Buckeye )

当たり前の話なんですが、航空機の名称で最初に「T」がついていれば
それは「トレーニング」なので、当然練習機です。

航空機に詳しい方なら当たり前の知識ですが、当ブログは
そうでない人に向けてお話しすることも重視しているので
(何しろブログ主の知識があやふやなことが多いため)
ここでアメリカ軍用機の記号規則の表をあげておきます。

A:Attack - 攻撃

C:Cargo - 輸送

D:Director - 指揮(無人航空機管制)

E:Special Electronic Installation - 特殊電子装備

F:Fighter - 戦闘

H:Search and Rescue/Medevac - 捜索・救難 / MEDEVAC
       Help aircraft

K:Tanker - 空中給油

L:Cold Weather - 寒冷地仕様

M:Multimission - 多用途

O:Observation - 観測

P:Patrol - 哨戒

Q:Drone - ドローン(無人)

R:Reconnaissance - 偵察

S:Antisubmarine - 対潜 Surface warfare

T:Trainer - 練習

U:Utility - 汎用

V:VIP transport - 要人輸送

W:Weather - 気象観測

タンカーがKなのは、Tが練習機と重なるので、
Tanker のKなのだと思われます。

バックアイは中間ー高等練習機で、ジェット機の操縦訓練、
とくに艦載機として航空母艦の離発艦の練習に使われました。

航空自衛隊の練習機T-4はその機体の丸みから
「ドルフィン」というあだ名がありますが、シェイプから言うと
こちらのバックアイの方が丸っこくてイルカ感満載です。

 

 

続きます。

 

不死身のイボイノシシ(A-10)〜エンパイアステート航空科学博物館

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個人的な事情で少し更新が滞ってしまったことをお許しください。
しかも、前回の冒頭写真に本題に出てこないF-101を挙げてしまったのは
全くのミステイクで、F-101についての記述は今日になります。
お節介船屋さんが見事名前をお当てになったのは本当に驚きました。

さて、ニューヨークの通称ESAM、エンパイアステート航空科学博物館の
アグネタ・エアパークに展示してある軍用機をご紹介しています。

入り口からずっと艦載機が続いています。

リパブリック F-84F サンダーストリーク( Thunderstreak)

たしかこれもサンフランシスコの「ホーネット」博物館で
見た覚えがあるのですが、F-84は直線翼のバージョンもあり、
これが「サンダージェット」、偵察型は「サンダーフラッシュ」といいます。

アメリカ海軍はこの研究をなんと1944年から始めていたそうですが、
戦争中なのに(戦争中だから?)次世代のジェットエンジン搭載機の計画を
着々と進めていたなんて、つくづくとてつもない国力ですよね。

 

ともあれ、この「サンダー」シリーズは、アメリカの最初のジェット機で、
空軍に次配備された丈夫で多彩な機能を持つ戦闘機です。

 直線翼の「サンダージェット」のデビューは戦後の1947年でした。
リパブリック社は、1949年に後退翼機の開発に乗り出し、
ノースアメリカンのF-86セイバーに匹敵するような
ハイパフォーマンスの戦闘機を産み出そうとしたのですが、それが
このF-84Fサンダーストリークだったと言うわけです。

1950年の完成を目的とされましたが、デザインそのものをはじめ
エンジン、生産ツールとあちらこちらに問題が続出し、
早々に配備は1955年からと先延ばしされることになりました。

そうこうしているうちに1960年代になって、もうそのころには
次世代の超音速機が次々と現れ、置き換わられることに(涙)

というわけでアメリカでは空軍が200機ほど運用したにとどまりましたが、
決して性能が悪い飛行機ではなかったらしく、製造された
2,711機のサンダースリークは、アメリカ以外、ベルギー、フランス、
デンマーク、ギリシャ、イタリアなど13か国に普及することになりました。

ここにあるサンダーストリークは最初空軍に配備され、
最終的にはオハイオのナショナルガードで引退したものです。

マクドネル F-101B/F  ヴードゥー(Voodoo)

この名前は知りませんでした。
ヴードゥーったら中米とかアメリカ南部で信仰されていた
呪術のあのヴードゥー教ですよね。

同時代の戦闘機としては最も大きな機体をもつF-101は、
小さな翼と排気量の大きなエンジンを搭載し、
一発の銃弾を撃つことがなかったにもかかわらず、
その名前は対ソ戦でアメリカをソ連の爆撃機から防衛し、
冷戦の象徴ともなった戦闘機です。

当初は、1940年代後半に、戦略的な空軍司令部爆撃機用の
単座 護衛戦闘機として考案されました。

このミッションが実現することはありませんでしたが、
F-101の最終生産バージョンである2人乗りの「B2」は、
アメリカ空軍の防空司令部(ADC)で長寿命を享受し、
北米の空域を守る任務を負うことになったのです。

1959年から62年まで、ヴードゥーは最も数多く普及した
戦闘機で、70もの航空隊が編成されたといわれます。

ヴードゥーは速力に優れ、トップスピードはマッハ1.8。
最大速度1,825 km/h になり、4基の空対空ミサイル、
AIR-2ジニー(Genie)ミサイルなどを搭載することができました。

このジニーミサイルは核弾頭付き無誘導空対空ロケット弾で、
北米空域に侵入しようとするソ連の爆撃機を破壊する
背水の陣というか、最後の手段として開発配備されたものです。

しかし、ヴードゥー将、要撃機として大変重用されていながら、
実他の戦闘機と効果的に交戦できるタイプではありませんでした。

後退翼で機体が重く、マニューバリングに優れているわけではなく、
操作そのものもメインテナンスも大変気難しいため
操縦をパイロットの操作性に頼る部分が多く、上手い人でないと
乗りこなせない的な機体で有名になってしまったとか。

そのせいで、普及したのはアメリカとロイヤルカナダ空軍だけでした。

このF-101は1959年にアメリカ空軍に配備され、
ナイアガラフォールズ空港にある、
ニューヨークエアナショナルガード・第107戦闘要撃グループを
最終の奉公先として引退したものだということです。

さて次は、と行手を眺めやると、そこには迷彩の機が。
せっかく真横から全体像をみることができる展示がしてあるので、
近づいていく前にちゃんと撮っておきます。

というか、超馴染みがあるんですがこの機体。

マクドネル-ダグラス F-4 ファントム(Phantom)

なんだー、日本ではつい最近までバリバリ現役だった
ファントムさんではありませんか。

しかし、ここにある説明をみると軽く驚きます。

「F-4ファントムは海軍の空母で運用する要撃機として
1950年台に設計が行われた」

これが70年近く前のことだったという事実もさながら、
元々の目的は艦載機だったというのですから。

ファントムは第二次世界大戦当時からのアメリカの戦闘機の中で
もっともたくさん生産され、改良を重ねられてきた機体で、
海軍のみならず空軍、そして海兵隊でも運用されていました。

F-4が最初に海軍のサービスを始めたのは1961年で、
翌年には空軍も導入を行いました。
そして生産が終了したのは1979年。

この間5,000機が生まれ、アメリカのみならず、
10か国もの外国の軍隊で採用されました。

エンジンはジェネラルエレクトリック社製の
J-79ターボジェット。

このおかげでF-4は当時最もパワフルで、かつ
重量の大きな戦闘機として、

AIMー7スパローミサイル

AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル

を各4基搭載することができ、地上攻撃任務には
1万5千ポンドの爆弾を運ぶこともできました。

ほとんどのF-4は内部に銃は装備されていませんでした。
近接でのドッグファイトの際不利になるからです。

F-4は、その運用経歴中、ベトナム戦争と密接に関連しており、
「Jack-of -All Trades」戦闘機として、制空権奪取、
地上攻撃、敵防空網制圧、および偵察任務を遂行しました。

この「ジャック・オブ・オール・トレード」というのは、おそらく
「なんでもやる奴」という言い方の俗語なんだと思います。

アメリカでは1996年になって、F-15 イーグルやF-16
ファイティングファルコンに置き換えられる形で引退が始まりました。

空軍では何機かが空軍で無人機仕様にされています。

我が日本では最終的に引退は2019年となったわけですが、
当博物館の説明には

「ドイツ空軍はこの偉大なる戦闘機の最後のユーザー国の一つ」

つまりまだ使っていると書いてあります。
同盟国なんだから、うちらの名前も書いて欲しかった。

こちらにあるF-4は、”D"タイプで、最初に空軍に配備されたものです。
ベトナム戦争時はニューメキシコの空軍基地に展開しており、
1972年からは、スティーブン・ケイン大尉の愛機となりますが、
このケイン大尉は、退役してからESAMのボランティアとなって、
展示の際のF-4の修復作業に多大なる協力を惜しまなかったということです。

これは今まで行ったことのあるアメリカの博物館の
どこでも見おぼえのない機体です。

フェアチャイルド・リパブリック A-10 サンダーボルトII

機体種別番号がAということは攻撃機だと思うのですが、
それにしても明らかにグラマンとかマクドネルと違う、
異様な機体のラインをしております。

この形状から、人をしてウォートホッグ(イボいのしし)とか
簡単にホッグ(ブタ)とか呼ばせていたというんですが、
それも納得の独特なずんぐり感がありますね。

というわけでこのイボイノシシさんは、ベトナム戦争の後、
近航空支援 close air support role (火力支援目的の作戦)に
必要とされて生まれたということになっております。

この任務は、友軍にごく近接して地上の標的を攻撃することを含み、
ジェット戦闘機によって行われてほんの少し成功を見ました。

戦闘機には速度という強みはあるものの、戦場での耐久力の欠如、
地上火災に対する脆弱性、および重弾薬の負荷に耐えないことは
弱みと言ってもいいでしょう。

したがって、1976年、A-10は米国で運用サービスを開始しました。
空軍が近接航空支援任務のために特別に開発された唯一の飛行機です。

見かけの通りA-10は高速でも流線型でもありませんが、
非常に機動性があり、任務を確実に遂行する能力はもはや伝説的です。

1990年になると、スピードもないA-10は、そろそろ引退?
みたいな雰囲気になっていたのですが、そこに湾岸戦争が起こります。

A−10はさいごにブリリアントすぎる活躍で一花咲かせるのですが、
そこで新しい「やりがい」を得たイボイノシシさんたちは、
空軍の歴史においても最も価値のある遺産を遺すことになりました。

生産された800機のうち350機現役および予備部隊で
未来に向けてサービスを継続を決定されたのです。

近くによってみましょう。
この機体の特徴はノーズに咥えたように突き刺さっている
30mmGAU-8 ガトリング砲です。

とにかく頑丈でタフな機体を持ち、湾岸戦争においては
参加機のうち半数にあたる約70機が被弾しながら、被撃墜は6機。
喪失率は10%という驚異の生還率を誇りました。

「384箇所の破孔を生じながら生還、
数日後には修理を完了し任務に復帰」

とか、

「イラク戦争でSAMによって右エンジンカウルを
吹き飛ばされながら生還」

など、それどこの舩坂弘、みたいな不死身伝説をもっているのです。

湾岸戦争におけるアメリカ空軍のパイロットの死者は約120人でしたが、
その多くはF-16搭乗者であり、A-10パイロットはわずか1名でした。

しかもその死因は食中毒だった

という(とほほ)

湾岸戦争ではこのいかにも凶悪そうな30mmガトリング砲で
イラク軍Mi-17ヘリコプターの撃墜も記録しているのですが、
これはたまたまそういう機会があったというだけらしく、
基本的にAー10には近接戦闘は求められていませんでした。

 

 

続きます。

 

 

 

アメリカの"レジェンド"〜エンパイアステート航空科学博物館

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ESAM、ニューヨーク州の北部にある小さな空港、
スケネクタディ空港に併設された航空科学博物館の
外庭に展示されている軍用機をご紹介しています。

グラマン S-2トラッカー(Tracker)

現地にある説明を読んで一番驚いたことが、
このトラッカーを導入したことのある国のなかに
我がじゃぱ〜んが入っていたことでございます。

そうなんだっけ、と日本での運用の歴史を見てみると、
日本では「あおたか」と呼ばれていたあれですってね。

それならわたしは鹿屋で実物を見たことがあるんだったわ。
全くアメリカで見ているのと結びつかなかったけど。

S-2は海上自衛隊に米海軍から軍事無償援により60機、
昭和32年から供与されていたそうです。

その前に海自は訓練を受けるための派遣隊を編成し、
対潜空母「プリンストン (CV-37)」で発着艦とや整備作業の研修を行い、
到着したノースアイランド海軍航空基地において訓練を受けています。

受領した航空機はアラメダから最終的に鹿屋航空基地に届き、
まず鹿屋基地に航空隊が編成されました。 

米国に派遣されたパイロットには、空母への離着艦の訓練も行われました。
これは、艦載機の訓練のマニュアル上そうなっているから、
アメリカ海軍としてもその通りに実施しただけだと思われますが、
このため、海自の中の人たちは

「S-2と一緒に空母が供与されるかも?」(((o(*゚▽゚*)o))ワクワク

と期待半分で噂していたそうです。
今にして思えばありえない話だったんですけどね。

というかいくらなんでも空母をおまけにくれるほど
アメリカさんだって気前良くないだろうて。

このトラッカー、アメリカではあちこちで見てきましたが、
いつ見てもこの翼の畳み方が無理やりだなあと感じます。
もう少し翼がなんとかきれいにたためなかったんですかね。

歴史的なS-2トラッカーの位置付けとしては、これが
最初に生まれた対潜戦の機能を持つ軍用機だったということです。

トラッカー以前の「ハンターキラー」=対潜水艦掃討作戦といえば、
それはグラマンの「ガーディアン」とか「アベンジャー」の役でした。

トラッカーは冷戦における対ソ連潜水艦戦のアイコンとなったのです。

そのためにソノブイと捜索のためのブーム、サーチライトを持っており、
サーチアンドデストロイ のための魚雷と爆、ミサイルを搭載していました。

その中には時節柄原子力のものも含みます。

ロッキードがジェット機S-3「バイキング」を開発後、
置き換えられて引退していきましたが、2008年になって
カリフォルニアで大規模な火災が発生した時、なんと
まだ動ける何機かのトラッカーが、老骨に鞭打って800ガロンの水と
化学消化剤を運ぶという活躍をしています。

ここにあるトラッカーを横から撮ってみて気がつきました。
「イントレピッド」と書いてあります。

 

この機体は最後の頃練習機になっていたそうですが、
ニューヨークの博物館「イントレピッド」に展示されるために
名前が入っているのだそうです。
おそらくイントレピッド航空博物館から借りているのでしょう。

ダグラス A-4 スカイホーク(Skyhawk)

皆さんは「brainchild」という英語表現をご存知ですか。

頭脳の子供=人の頭から生み出されたもの

という言い回しで、新機軸だったり新発明だったり、
とにかく頭抜けた才能の持ち主によって生み出された、
というものをあらわす時にこの言葉が使われます。

This variation of rice omelet was the brainchild of
Juzo ITAMI and was developed by Taimeiken,
the old establishment of yoshokuya
(restaurants serving Western food) in Nihonbashi, Tokyo.

などという文章に使われたりする言葉ですね。
(しかしあの、ナイフでカットして卵を広げるオムライスが
伊丹十三のアイデアだったとはしらなんだ)

とにかく、何が言いたかったかというと、このスカイホークは
鬼才エド・ハイネマンの「ブレインチャイルド」といわれていた、
ということです。

いうまでもなくハイネマンはアメリカの航空デザインの世界で
最も有名で最も成功した設計者でした。

「スクーター」というあだ名もあったというこのA-4は、
種別記号はAでありながら、爆撃機よりも戦闘機に似ています。

おそらくこの小さな入れ物に、これだけ盛り沢山に
機能を詰め込んだ攻撃機はかつて存在しなかったでしょう。

まずその堅牢な構造により、戦闘ダメージを吸収する能力。
これはまさにレジェンド級といわれました。

A-4のオペレーションは1956年に開始され、生産は
1979年まで、生産台数は約3,000機、派生型は
17種類に及び、アメリカ海軍、海兵隊、そして
いくつかの外国海軍に配備されました。

もっとも活躍したのがベトナム戦争時代です。

戦争中は全天候型機として飛び、海軍が1970年になって
レンジが大きく、より重量の爆弾をロードでき、さらに
洗練されたアビオニクスを搭載したA-7コルセアに
次第に置き換えて行ったのですが、特に海兵隊は最後まで
この「スクーター」を気に入ってギリギリまで使い続け、
そんなこんなで一番最後のA-4が引退したのは2003年でした。

A-3は亜音速で、最高速度670 mphを達成することができましたが、
爆弾を搭載し、低空で密な待機状態で飛行している場合、
まるで止まっているかのように見えました。

典型的な搭載武器は5000発の爆弾で、あとは内蔵された
2基の20 mm砲と、1つか2つの外部燃料タンクがありました。

ESAMにあるスカイホークは、海軍所有だったもので、
ベトナム戦争時にはUSS「ハンコック」の艦載機でした。

最後の配置はバージニア州の海軍基地で、
アグレッサー(敵の役)をしていたのだそうです。

A-4は非常に駆動性に優れた機体であるため、
ブルーエンジェルスに採用されていたことがありますし、
F-14戦闘機は空戦の技術を軽快なスカイホークに学びました。

ノースアメリカン RAー5C ビジランティ(Vigilante)

「ミッドウェイ」のハンガーデッキ展示でも見ることができるので、
このビジランティについては以前もお話ししたことがあります。

1958年に初飛行を行った、当時の戦略爆撃機で、最初は
核爆弾を積んで飛び回っていた、というあれですね。

当時ヴィジランティは超先進的な技術をこれでもかと取り入れた
イノヴェーティブな近未来の代名詞のような存在でした。

揚力コントロール機能として、たとえばエルロンの代わりに
ウィングスポイラーを搭載するとか、ヒンジ付きの方向舵の代わりに
一体成型の垂直尾翼が使用されているとか言った具合です。

「ミッドウェイ」艦上で実際に見た時も、その平べったく
うっすーい機体はただものでないといったたたずまいでしたが、
高度なパフォーマンス能力を持つその滑らかでかつ壮大な機体。
ヴィジランティは、空母艦載機として史上最大の大きさでした。

しかし、こうやって真正面から見ると後退翼のせいで
いうほど大きく見えません。

動力はGEのJ-79を搭載し、トップスピードはマッハ2.1です。

1963年のことです。

アメリカ海軍は突然航空機での核爆弾の運用を取りやめました。
このことによって、その日から

A-5は仕事がなくなってしまいました。

しかし捨てる神あれば拾う神あり、折しも当時
ベトナム戦争が激化していたため、戦況に必要とされていたのが
空母艦載型のハイパフォーマンス型偵察機です。

結果として、すでに配備されていたA-5と、48機の
新しく作っられたばかりのA-5は、急遽偵察機使用に改装され、
その名前もRA-5Cと変えました。

可変的なスピード、そして長い航続距離、最先端のレーダー。
もともと持っていたこれらの強みが、RA-5Cを
偵察機として比類のない存在に変えたのです。

いやー、こういうのを「至る処青山あり」というんでしょうか。
ちょっと違うかな。

爆弾を搭載するためにあった胴体下のカヌーと呼ばれるポッドには
横向き空中レーダー(SLAR)、赤外線センサー、そして
カメラが搭載されることになりました。

写真は「カヌー」の一部、カメラ搭載部分だったところ。

 

これはカヌーの下に潜り込んで後脚を撮ったもの。
なぜこんなところにベンチがある(笑)

ベトナム戦争の間、RA-5Cは、爆弾の効果を評価するミッションを
行っていましたが、 そのうち対空防御が専門になりました。

生産された130機のビジランティのうち18機は
全てそのときの任務遂行中に喪失しています。

ESAMの偵察型RA-5Cは海軍の偵察部隊第5偵察隊のもので、
USS「レンジャー」艦載部隊としてトンキン湾の
「ヤンキーステーション」にいたことがあります。

その後退役して「イントレピッド」航空博物館が所蔵していました。

リパブリック F-105G サンダーチーフ(Thunderchief)

「サンダー」(雷)の「チーフ」なので、雷の親玉。
そんな名前がついたサンダーチーフ先輩。

アメリカ人の作成した説明は、どうもなんでもかんでも
「レジェンド」にしてしまう傾向があるわけですが、
このサンダーチーフパイセンも、

「ベトナム戦争の最も伝説的(レジェンダリー)な飛行機」

と高らかに称賛されております。

ここにあるサンダーチーフは滑らかな機体にシャークマウスの
マーキングを施された印象的な一つの見本です。

 

アメリカ空軍が運用していた単発エンジンの軍用機の中で
最も大きな機体をもち、また最もパワフルでした。

小さな翼のエリアに強力プラットアンドホイットニーJ-75
ターボジェットエンジンを内蔵し、低空でのミッションにも
最適化されただけでなく、会場でマッハ1、
3万フィート上空ではマッハ2を出すことができました。

F-105 は1958年に運用が開始され、わずか6年後の
1964年には800機を製造し空軍に配備して生産終了します。

機種指定としては「F」がついていますが、デザインは
どちらかというと爆撃機よりで、特に原子力ミサイルを搭載し、
対ソ戦略でヨーロッパの基地から音速で飛ぶことを目的としていました。

ベトナム戦争が起こると、それらは急いで従来の爆弾を
搭載できるようにモディファイされ、タイの基地に配備されました。

F-105は北ベトナムにおいて非常に危険なミッションの
ほとんど矢面に立っていたため、生産された400機のうち
およそ半数が戦没しています。

ESAMのF-105は1964年に空軍に配備され、長い間
その任務を全うしていたラッキーな機体の一つです。

ベトナム戦争の時には第355戦闘機群の一員として
嘉手納基地をベースに飛び、戦争が終わってからは
ジョージア州のエアーナショナルガードに所属していました。

 

 

続きます。

 

 

ウィーン攻勢とオーストリアの独立〜ウィーン軍事史博物館

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長らくお話ししてきたウィーン軍事史博物館シリーズ、最終回です。

今回一番残念だったのは、ちゃんとした予備知識なしで行ったため
全部を効率的に見ることができなかったことですが、もし前もって
計画を立てて臨んだとしても、おそらく膨大な展示を全て網羅することは
不可能であったと思われます。

展示は一箇所ではなく、何箇所にも分かれているのですが、まずその一つが
「大砲ホール」という、550もの銃砲が展示されている部分です。

全てを見学し終わって、疲労困憊しながら博物館を出て、
死ぬほど暑い日差しの中をまた駅に向かって歩き始めた時、
博物館のウィングと思しきこんな回廊状の建物が見えました。

遠目には回廊のスクリーンで当博物館の展示品などの写真を
イメージ風に見せているのだと思っていたのですが、
この写真を拡大すると、回廊の内部に何か見えています。

実はこれがウィーン軍事史博物館の「大砲ホール」だったのです。

博物館HPより。
第一次世界大戦中の大砲のコレクションはかつて1000を越したそうですが、
第二次世界大戦中は鉄を調達するためにその多くが供出され、溶かして
あらたな大砲を作るために失われました。

見られなくて残念だったもう一つの展示パート、パンツァーハレ。
この戦車は常設展示のある建物の庭から見えるところにあったものですが、
パンツァー、戦車をまとめて観ることができるゾーンは、
本館を出て少し歩いて行った別のところにあるのです。

ウィーンアーセナルのパンツァーホール

ただ、この日のタイトなスケジュールと外の猛烈な暑さを思うと、
もしパンツァーハレがあることを知っていたとしても、
果たしてここまで行くだけの気力があったかどうか・・・。

本館の外には、航空機も展示してあります。
これも例によってあまりの暑さに近くに行く元気もなく、帰り道に
望遠レンズでなんとかこれだけ撮ったという体たらくでした。

ウィーン軍事史博物館には、航空機だけを集めた別館があります。

航空博物館ゼルトヴェク「ハンガー8」

なぜここがハンガー8(アハト)なのかはわかりませんが、
ザルツブルグにあったレッドブルのCEOが道楽で作った
飛行機のコレクションを展示する博物館の「ハンガー7」は
ここにかけたネーミングであるのは確実。

ここにはもし次の機会があったら必ず行きます(`・ω・´)

というか、今はそんな日が来るといいね、ということになってしまいましたが。

 

さて、ウィーン軍事史博物館はオーストリアが戦争をしていた頃の
軍事遺産を展示し次世代に残すことを使命としていますので、
それは第二次世界大戦の敗戦まで、ということになるわけです。

このゾーンには、ドイツ敗戦後にオーストリアで起こったことを表す
資料が展示されていると思われます。

まず目につくのは「MP」(ミリタリーポリス)のヘルメットとキャップ。
オーストリアが分割統治されたときのアメリカ(イギリスかも)軍のものです。

右上のポスターはウィーンの有名な劇場で行われる
「国際見本市」の告知のようですが、日付は1945年5月7日となっています。

これは、5月7日にはオーストリアには連合国の進駐が始まっていたということです。
わたしも含めて、オーストリアという併合国がどのように終戦を迎えたか
あまり認識していない方が多いと思いますので、今日は最終回として
このことを書いてシリーズの締めとしたいと思います。

 

ヒトラーが地下壕で自殺してからドイツでは各軍の降伏が相次ぎました。
国が降伏するのではなく波状的にあちらこちらで降伏が始まったのです。

ドイツ軍全軍が降伏したのは降伏文書に署名した5月8日でしたが、
オーストリアは多少事情が異なります。

アンシュルス(併合)によってドイツの一部となっていたオーストリアですが、
連合国四カ国、つまりアメリカ、イギリス、ソ連、中国の、
今考えたらすごいメンツで集まって出された「モスクワ宣言」において、

「オーストリア併合は無効である」

と宣言が行われ、戦後はオーストリアを元に戻す、ということを
周りが寄ってたかって決定したのです。

つまり、オーストリアは併合され無理やり戦わされていたので、
併合を解除してドイツから解放してあげるからね、というわけです。

このモスクワ宣言は前年の11月に出されましたから、
ドイツが早々に敗戦することを見越してのものであったことになります。
戦争継続中であったため、オーストリアがこれに呼応することはありませんでしたが、
やはり内部では終戦に向けた模索がされていたに違いありません。

そして1945年4月、ソ連赤軍がウィーンに侵攻してきました。

これをウィーン攻勢といいますが、このとき攻めてきた陣容がすごくて、

4個軍:85個師団、3個旅団
ソビエト赤軍:644,700名
ブルガリア軍100,900名

これを迎え撃ったのがウィーンに残存していたドイツ国防軍。

戦闘は市街戦に及び、ほぼ全ての部分が包囲され攻撃を受けました。
疲弊しきったドイツ軍はリンツまでの撤退を余儀なくされ、この間
ウィーンは歴史的な建造物がいくつも失われ、市内は荒廃し、
警察がいないのをいいことに盗みが多発、侵攻してきたソ連赤軍は
暴力・略奪・強姦を数週間行いました。

余談ですが、ドイツでも赤軍は暴虐の限りを尽くし、
ここでも紹介したあのウィーンの歌姫、田中路子は、
ベルリンの自宅に自作の日の丸を高々と掲げ、そこは
庇護を求めて駆け込んでくる文化人のサンクチュアリになっていました。

Hildegard Knef

そのうちの一人がドイツの女優、ヒルデガルト・クネフです。

若き日ゲッベルスに目をつけられたこともあるという美貌の女優は、
赤軍がベルリンに進駐してきたとき、恋人とともに兵士として
戦闘に加わっていましたが、捕らえられ、収容所に入れられます。

そこでロシア兵から彼女の身に加えられた体験は非常に過酷で屈辱的なものでしたが、
囚人仲間に手助けされて脱出してから、髪を切り男の姿に身をやつして、
天鵞絨で作った日の丸の翻る田中路子邸に転がり込み、命を永らえました。

田中路子はナチス嫌いだったそうですが、それよりも侵攻してきたロシア軍は
どこの国でも特に女性には鬼畜のように恐れられる存在だったようです。

満州における日本女性の受けた苦難も、そのことを証拠付けています。

 

後ろに掲示してあるこの告知をアップにしてみましょう。

「オーストリア軍事政府」の制定事項の告知のようです。
ソ連が侵攻してきたと同時に、オーストリアでは

カール・レンナー(1870年12月14日 - 1950年12月31日)

を首班とする臨時政府が成立しました。

Karl Renner 1905.jpg

社会民主党の議員としてアンシュルス(オーストリア併合)には反対していたレンナーは、
ドルフス政権の独裁によって投獄されていたという経験を持ちながら、
併合以降、彼の理想とする修正的社会主義の考え方から、容認発言をし、
後世の歴史家からは日和見主義的と批判されているようですが、
初代大統領になったことで「オーストリア建国の父」とも呼ばれています。

これがどういう経緯かというと、なんとレンナー、田舎でくすぶっていたところを
侵攻してきたソ連に呼び出されて、

「新政府の樹立をしてくれないか?」

と要請されてその気になったというんですね。
ソ連にしてみれば、八方美人と思われていたレンナーを
本格的な親ソ政権ができるまでの「つなぎの傀儡」にしようというところです。

まあ、神輿に担ぐには切り捨てやすいヤツがいいと思われたんですね。

併合廃止後、新しい政府を自分の手で作り上げることができるチャンスに
レンナーは張り切って独立宣言を行いました。

これが1945年4月27日のことです。

同時にオーストリアは、連合国による分割統治を受けることになりました。

前にも一度上げた統治国地図ですがもう一度。

首都ウィーンはこんな状態に細分化されていました。
やはり最初に攻め込んだソ連が最も広い占領地を獲得しています。

この占領統治は軍政によるもので、先ほどの告知にあった

Militärregierung(ミリターレギエルンク)

これら連合国の軍事政府のことを指します。
英語とドイツ語で表示してあったのはそういうことだったんですね・

ウィーン攻勢で市内のいたるところに残された兵士の所持品など。

その後、連合国の元に成立した連合国委員会が誕生し、国政選挙の結果、
結局レンナーが当選し、初代首相となったというわけです。

ソ連は傀儡政権までのつなぎにしようと思っていたレンナーですが、
どうも英米が疑うほどソ連寄りではなかったらしく、
連合国統治後、ドイツのようにオーストリアが東西に分けられそうになると、
領土拡大を密かに狙うソ連に領土は二つに分けさせないと警告しました。

分割統治以降、ソ連軍の占領以来の略奪行為と法外な賠償要求は、
左派支持者も含めた国民のみならず、他の連合国もこれにはドン引きし、
選挙でもソ連を支持する共産党はぼろ負けしたというのが、
オーストリアがそのままの形で独立を果たすことができた一因でしょう。

我が日本を事後法で裁く極東軍事裁判でも、ソ連兄貴ったら、
日本に対して、

「日露戦争の復讐をしようとして」

他の国をすらドン引きさせていますからね。

「それ一体いつの話よ?」

って感じで(笑)

そして、西側世界的にはそれまで悪役だったナチスが滅びたので、
こんなソ連を悪にして心置きなく冷戦にのめり込んでいったという構図です。

 

そうそう、わたしが偏向だと断言するNHKの「映像の世紀」の七不思議の一つですが、
なぜかソ連のこういう一連の暴虐ぶりについては一切何も言わないんですよね。

「映像の世紀」といえば、一部には大変評価が高いのですが、わたしに言わせれば
日本の安保反対学生暴動を、あの赤軍派を全くスルーした上で
「反戦」「民主化」への動きに位置付けたり、必要以上にチェ・ゲバラを礼賛したり、
日本が出てくるとやたらリベラルに立って批判に走ったり、そうそう、
アラビアのロレンスの件もアレだし、そのほかにも政治的な立場が偏りすぎていて
一見まともだけに悪質です。

いつか気力があれば「映像の世紀」糾弾をやってみたいのですが、
当分は折に触れてチクチク文句を言うにとどめておきます(笑)

 

というわけで、長らくお話ししてきたウィーン軍事史博物館シリーズ、
後1日だけ「余談」を残しますが、とりあえずこれでおしまいです。

次に行くことがあったら、(あるといいですね)今度はもう少し
ちゃんと予習をして臨み、できれば今度は家族抜きで見学して
ゆっくり写真を撮ってきますので、そのときにはまたお付き合いください。

 

終わり。

 

国難と桜〜アメリカの大学を通して見るパンデミック

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世間が驚天動地の非常事態で大騒ぎになっているのに
というか、だからこそ平常運転を心がけてきた当ブログですが、
この辺で少し新型コロナ肺炎こと武漢肺炎について近況報告しておきます。

まず、住んでいる地域周辺についてですが、学校が閉鎖になってから
近隣にある公園は連日週末並みの賑わいを見せていました。

子供が走り回っているのはもちろん、高校生、大学生などがグループで訪れ、
女子大生が公園の芝生で「箪笥長持ちどの子が欲しい」とか
文字通りの追いかけっこをしているなどという、こんなことでもなければ
見ることもなかったであろう光景が展開していたのです。

桜の名所でもあるその公園に、桜が満開になった日散歩に出たところ、
公園事務所が

「飲食を伴う花見は控えてください」

とアナウンスしているのにもかかわらず、外にテントを張って
家族単位で物を食べているグループがあまりに多いので驚きました。

いわゆる人と人の距離2メートルというルールは一応守られているのですが、
ベンチで並んで風の強い中コンビニ弁当を食べているおばちゃんなどもおり、
飲食禁止のお達しはあまり守られていない模様。

インターネットで見るニュースの混乱がまるで別世界ではないかと思うほど
公園内は何がなんでも花見したいマン&ウーマンで埋め尽くされています。


マスク不足については、我が家では高みの見物で、というのは
こんなことになる前から冬場はマスクを常用する傾向にあったため、
なんなら半年分くらいのPM2.5対応とかいう鳴り物入りのブツを
箱買いしてあったうえ、それを洗濯してリユースしているからです。

ところで、先週のことですが、実家の母が倒れました。
妹から肺炎の症状が出て、人工呼吸器を付けるかどうか聞かれている、
という知らせを受け、とりあえずそれはしないことを打ち合わせ、
新幹線に飛び乗った(飛行機は間引き運行で満席だった)のですが、
コロナの検査は陰性と出たあとも病院側は警戒して、
母とはガラス越しにしか対面できず、一時は家族全員覚悟を決めたほどです。

幸い、経過観察の結果コロナの疑いは晴れ、しかも驚異の回復を見せて
今ではベッドに腰掛けてリハビリを行うまでになりました。
あのとき慌てて人工呼吸器をつけていたらと思うとゾッとします。


さて、今ニューヨークを中心に感染が拡大し大惨事になっているアメリカですが、
東部の大学に留学している息子のその後について書いておきます。

アメリカがまだ今ほど大変ではなかった時期、それはまだ春休みシーズンでしたが、
ほぼ全ての学校が早々と閉鎖を決め、「帰省先から帰ってくるな」と通達を出しました。

息子は無人となった寮に一人で住んでいましたが、
3月11日に学校から大体こんなメールが届きます。

3月16日(月)から少なくとも3月30日まで、
コロナウイルスの新しい疾患であるCOVID-19から
コミュニティの健康と安全を守るため、
大学はすべての対面教育を一時停止し、
オンラインおよびその他の代替手段に移行します。

キャンパスは、一部のサービスのためにオープンのままです。
ソーシャルディスタンスを守るため、
学生はこの期間中に学内に戻らないでください。

学校に留まる必要のある学生も、遠隔で指導を受けます。

あと、イベントの停止、学校単位での旅行の禁止などが通達されています。
この時点では大学は5月23日に平常に戻る計画を維持しています。

翌日3月12日、WHOがコロナ疾患をパンデミックと宣言しました。
同時に大学は、学校の寮とギリシャコモンズ(大学の社交クラブ)
からの即時立ち退き要求を行いました。

問題は中国から来た留学生です。
祖国が大変なことになっていて帰国したらもう戻ってこれないばかりか、
インターネット情報が遮断されているので授業も受けられません。

だからといって寮を出て行くところもないわけで、
どうやってここから脱出するかSNSで騒然となる彼らは
まるで「ダンケルク前夜状態だった」(息子談)そうです。

わたしたちは早速スカイプで家族会議を行い、対処を検討しました。
Airbnbで部屋を借り、わたしが渡米して車で移動するという案も出ましたが、
先行きが不明なのでそれは危険すぎるだろうということになり却下。
実行していたら今頃わたしが帰れなくなっているところでした。

息子のルームメイトは、あまり社交的なタイプではない彼が、
学校で唯一?というくらい波長の会うアメリカ人学生なのですが、彼、
ゲイブことゲイブリエルが、サンフランシスコの実家に誘ってくれていたので、
最終的に息子はここに長期滞在させてもらうことを決めました。

彼の父親は有名なシリコンバレーのIT関連企業のオーナーです。
当人たちは一度も話題にしたことはないそうですが、
息子は早くからwikiのその人物だと特定していました。

今回、息子を泊めてもらうお礼を送るために住所を聞いたので
検索してみたら、これがまたとんでもない豪邸でした。

家の前にある長細いのは、プールなんだろうなあ。

ちなみにこの邸宅は人里離れた山中で、しかもプライベートのセキュリティが
常駐しているので、たとえ「暴動が起きても安全」だそうです。

今現在、彼のご両親も外に出ず、自宅で過ごしてしているそうですが、
ゲイブも一人っ子らしいし、これだけ広ければ
息子一人くらい増えてもキャパ的には全く問題はなさそうです。

 

3月14日。

大学の学生部長からメールが来ました。

親愛なる学生諸君、

私たちは、安心を提供し、冷静でいることを奨励するために、
この困難な瞬間にもあなたに手を差し伸べています。
春学期の計画が大幅に変更されましたが、新しい学習・生活環境に適応すると、
今度はその調整が必要となってくるでしょう。

私たちのアドバイスは「手放す」ことは、けっして
却下することと同義ではないことを理解し、
とにかく今は不安を手放す方法を見つけてくださいということです。

それは、物事をあるがままに受け入れるということでもあります。
あなたは、制御できない現実であってもそれを受け入れ、また
この状況でもあなた自身に投資することを決して怠らないでください。

例えば、健康的な活動を楽しみ、それをいつものように続けること。
また、今各自に要求されているソーシャルディスタンスを踏まえたうえで、
友人と安全に社交できる創造的な新しい方法を見つけることも大事です。

今学期を最大限、今後の人生に生かしてください。学ぶために学ぶのです。
これは決して大学のカリキュラムには含まれない大きな教訓となるでしょう。
この世界的な危機を乗り越えることが学ぶべき人生の教訓となるはずです。

変化が避けられないのは事実です。これほど単純な真実はありません。
しかしながら、この事実は、学生一人ひとりに、知的に俊敏で、
多文化的な洗練された感覚を持ち、グローバルな視点を通して行動する
能力を吹き込むという当研究所の目標の背後にある原動力のひとつです。


なんかこういうのを読むと、戦争中のアメリカがどんなふうに
国民を鼓舞していたか、うっすら想像できる気がしますね。
国難という意味では戦争も今回も事態は同じであるわけですが。

 

ところが、この直後、こんなメールが届きました。
学生の一部がこの場に及んで皆で集まっていたのがバレたようです。
メールの送信者のタイトルはMDで、大学の健康担当ディレクターです。

親愛なる学生、

まず、ソーシャルディスタンス(6フィート)を実践してきた皆さんに
感謝したいと思います。
CDCとWHOが報告したように、この慣行は

中国ウイルスの

曲線を劇的に平坦化するのに役立っています。

しかし、最近、学生の多くがレジデンスホールで集まっていたことを
わたしは学生から直接知らされました。
レジデンスホールが今日まで開いていた唯一の理由は、学生が持ち物を梱包し、
家に帰る手配をするのに十分な時間を与えるためであったと繰り返します。
社交するのに集まる場所を提供したものではありません。

• CDCの分析によると、入院するのに十分な病気の人の38%が55歳未満であった。

• 米国でコロナウイルスで入院している人の最大20%は、20~44歳の若年成人。
さらに、ICUに入院されたことが知られている121人の患者のうち、12%が20〜44歳。

• 若者が協力せずにこの病気を止めることはできません。ご協力ください。

3月23日。

2020年春学期の成績採点方法を一時的に変更するという通知。
試験が教室でできないので、論文提出に代えるというような感じです。

 

3月25日。

TOが留学していた大学の学長がコロナにかかったとメールが来ました。

このことは日本でもニュースで報じられたようです。

コミュニティの親愛なるメンバーへ

今日、アデルと私はCOVID-19の検査で陽性反応が出ました。
日曜日に症状が出始め、最初は咳、悪寒、筋肉痛が始まり、月曜日に医師に連絡を取りました。
昨日検査を受け、ちょうど数分前に結果を受け取ったところです。

私たちはできるだけ早く皆さんとこのニュースを共有したいと思いました。

私たち二人ともウイルスにどこで感染したのかわかっていません。
良いニュースは、最近私たちと接触した人数は通常よりもはるかに少ないことです。

私たちは、3月14日に自宅で仕事を始め、社会的隔離勧告に従って、
他の人との接触を完全に制限していました。
今後はプロトコルに沿って、過去14日間に密接に連絡を取った人に連絡を取ります。

私たちは、自宅で2週間安静をこころがけ、回復するために必要な時間を取るでしょう。
私は素晴らしいチームに恵まれていますし、たくさんの同僚が
アデルと私が健康になることに心を砕いてくれているので、責任を持って
回復に努めますが、もし私たちに連絡をくれていた方はメールできなくてすみません。

このウイルスは、誰でも簡単に罹患するので、私たちは皆、
他の人との接触を制限し、ガイドラインに従う必要があります。

世界はこのウイルスを打ち負かすために、あなたたちの勇気、創造性、
そして知性を必要としているのです。

ラリー

 

 

3月26日。

息子の学校から、卒業式はオンラインで行うと通知がありました。

今回の事態に鑑み、私たちの伝統的な方法で卒業式を行うことができないという
残念なニュースを共有しなければなりません。
しかし現在の状況下で可能な限り最も特別な方法で卒業生を称えるため、
オンラインセレモニーで、卒業生に正式に学位を授与します。

私たちは一緒に卒業生を祝い、彼らの成功に誇りを表し、
彼らが私たちの社会を守るために払ってくれた犠牲に感謝します。

Oh・・・・・。
 

3月28日。

5月23日学校再開予定はキャンセル。
学期末まで遠隔授業を行うことが決定され通知されてきました。

アメリカはさらに死者数も感染者数も爆発的に
増えているため、全く先行きの見えない状況です。

 

今日も近くの公園は花見の客で賑わっていました。

外国人にはさぞこの光景が異様に見えるのでしょうが、
多くの人々はこんなときだからこそ桜を目に焼き付けることに
いつも以上の意味を見出しているように見えます。

多くの日本人にとって、桜は命の儚さと生と死の境を象徴するものであり、
その年の桜は必ずそれぞれにとっての「人生の区切り」でもあるからでしょう。

来年の桜が咲く時、この世の中はどうなっているのか。
わたしは、そして私の愛する人たちは無事でこの世に存えているのか。

意識しているとしていないにかかわらず、だれもが今年の桜を見ながら
それに近いことを心に過らせているのでは、という気がします。

皆様も御身大切に。皆でこの曲面を乗り越えましょう。

 

 

 

 

スチームデーモンとブリック(艦内牢獄)〜空母「ミッドウェイ」博物館

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いろいろとここでお伝えしたい資料はあるのですが、とにかく
終わらせていないネタが多すぎて頭の痛いところです。

そこで、在庫処分ではありませんが、とにかく大長編
「ミッドウェイ」シリーズをなんとか終わらせることにしました。

前にも紹介した箇所も、新しく撮った写真があれば再掲します。

前回はCICの思想がSFの「レンズマン」からきている、という
開発者の衝撃的な話をご紹介することができました。

これが前回撮った写真ですが、このと誰もいない
右手前の

「トラック・スーパーバイザー」

のコンソール前に人が増えていました。
すごいなあ、ミッドウェイ博物館。来るたびに展示が充実している。

ところで前回「ミッドウェイ」のCICについてログをあげたとき、
コメント欄で

「海上自衛隊では、防衛秘密の中でも秘の度合いが高い特定防衛秘密で、
これが置かれているCICが関係者以外立入禁止となっている」

ところの

NTDS(Navy Tactical Data System)コンソール

と呼ばれるCICの中核を担う装置が、誰でも見放題触り放題になっている、
という情報が某所から寄せられて驚いたということがありましたが、
それはもしかしてこれもですか。

マネキンが飾ってある部分とは別に、座って体験?できるコーナー。
男の子の座っている席には「SWC」とあります。

「Surface Operations」の機器がある、という意味でよろしいでしょうか。

クルーのコーヒーコーナーも前からグレードアップしていました。

こちら前回のコーヒーコーナー。
紙カップよりは各自の名前の入ったカップだろう、ってことで。
ちなみに、このリニューアルはわずか1年の間に起こったものです。

USポスタルサービスというのはアメリカの郵便局で、
正式には郵政公社、わたしたちも普通に「USPS」と称します。
国の組織なので、軍艦の中でも郵便事業を行うわけです。

オフィスで働く係はおそらく軍属という立場ではないでしょうか。

彼の左手が置かれているのは到着便ですが、
この宛名書きの簡単なこと。

CPO J. NISH USS MIDWAY FPO NEW YORK, NY

軍艦勤務の乗員に送るには、船の名前と寄港地の都市だけでOK。

船名の後のFPO はFleet Post Office 、
艦隊に送る軍事郵便の記号です。

こちらも前に紹介した「メタルショップ」。
「ミッドウェイ」ほどの規模の空母ともなると、必要な金属部分を
なんでも艦内で作って現場に調達できてしまうのです。

そしてここからは動力関係、エンジンルームとなります。
右上にあるレイティングの紀章は、右側が

「Boiler Technician ボイラー科」

左が

「Machinist's Mate 機関科」

ここで働いていた乗員たちのものです。

機関科お仕事風景。

ワッチの割り当て表もありました。
写真は1971年当時の「ミッドウェイ」エンジンルームで、
ノリノリでお仕事するスロットルマン、デビッドさん。

「ロープレッシャー・タービン」(低圧タービン)

とあります。
パイプに描かれた

THE PRIDE OF THE PACIFIC(太平洋の誇り)

の字体は、なぜかアメリカでは「オリエンタル風」字体だと
信じられているものです。
これは「ミッドウェイ」の日本駐在が長かったことを表します。

推進と蒸気システムについての系統図です。
これによると、今わたしがいるのは、ボイラーから送られてくる
メインストリームが、高圧タービンを経て低圧タービンにいくところ、
ということを説明してくれています。

窓を覗くとタービンが(もちろんうごいてません)見えるようになっています。
右側は亀裂から飛び出してきたような文字で

「THREE ENG」

と書いてありますが、これはここ、ナンバースリーエンジンルームのこと。

低圧タービンとはなんぞや。
それがこの図でわかるようになっています。(たぶん)

この部分の中央にある巨大なダクトからは、高圧タービンから
送られてきたスティームが真上から送り込まれる、これはわかる。

それではAstern steam(後進蒸気)とはなんでしょうか。

もしかしたら低圧タービンはそのものが後進をかけるための仕組み?

低圧タービン内部。

マシニスト・メイトの紀章に舵輪を両手で動かす
水兵さんの後ろ姿が描かれています。

ロープレッシャータービン横から。

この流れで言うと?こちらがハイプレッシャータービンということになります?

左側に、赤い矢印と「AHEAD ASTERN」(前進 後進)という文字が見えます。
左回りが前進、右回りが後進という意味ですね。

ここにはボイラーテクニシャンも働いていました。
ボイラーがあったわけですが、その全体が図にしてありました。

なるほど、さっき水兵さんが両手で回していたのはこれか。
ここはエンジンルームのオペレーション配列システムというそうで、
各部分の状態がここで全て把握できるように集約されています。

右側のボードには、時間おきにチェックを行うためのシートが見えます。

ボイラー科のマスコットは

「STEAM'IN DEMON」

という赤い悪魔で、持っている杖はボイラー科の紀章です。
英語としてこの(’)は要るのかどうかという気がしますが。

ただ一部分が置いてあるだけなのでよくわかりませんが、
解説によるとこれは「バーナー」だそうです。

さて、次のコーナーに進むと、いきなりこんな光景が!
手錠をはめられ、閻魔さまの前に引き出されて御沙汰を受けます。

そののち収監されるわけですが、ここは何度もお話ししているように
ブリッグ(Brig)と呼ばれていました。

米国海軍には 

Master-at-Arms (MA)

というレイティングがありますが、これは海軍内で
法執行を行う権利を持ちと部隊保護の責任を負う組織です。

1970年代までは軍艦内に組織される海兵隊の所掌でしたが、
その後MAの管轄になりました。

「ミッドウェイ」のブリッグの修復に対して、サンディエゴの
ある基金団体が協力をしたらしく、記念盾が贈呈されていますが、
これをみたところ修復が行われたのはごく最近であるようです。

そういえばこの一帯に来るのは2度目ですが、前回はありませんでした。

ということで問題の独房です。
独房内はトイレと手を洗うタンク、ベッド、以上。

四六時中外から見張られている状態は、非常に辛いものと思われ。

シーマン、D・トッチ、一体何をやらかしたのでしょうか。

ここに入る罪状は窃盗や喧嘩などはもちろんですが、
脱柵、不敬、反逆、といったものは船の上なら特に重罪となります。

悪意はなくても出航に間に合わず艦に乗り遅れることも
海軍では厳しく処分されました。

これも一応マイルドな脱走と見なされたわけですね。

もちろんバックミラーは展示用です。

「ミッドウェイ」には独房が2室ありました。
独房に収監される「囚人は、

「Bread and Water Panishment」

つまり水とパンしかもらえない比較的重い罪状の者です。

とはいえ、収監中はシャワーを浴びることはできました。
カルロス・ゴーン氏は日本での収監中毎日シャワーさせてもらえなかった、
と辛さを語っていたそうですが、体臭のない日本人と同じ扱いは
ゴーンさんにとってずいぶん堪えただろうなと思います。

アメリカ人でも艦内では誰でも毎日シャワーを浴びることはできませんが、
それでも囚人の区画には彼らの施設が備えてあります。

ドアはもちろんシャワーカーテンもなかったようですが。

ここも一応囚人?用の部屋なんだそうです。
6人用の「Holding Tank」と説明がありました。

おそらく喧嘩とか、酔ってやらかしちまったなどの
軽犯罪を犯したものが入れられたところだと思われます。

ホールディングタンクは、監房の俗語です。

6人部屋のトイレはこのような・・・。

「スレーター」ではありませんが、プライバシー皆無。
あれは皆で並んでるだけましかもしれません(知らんけど)

トイレに座っている時ももちろん監視付きです。
もう悪いことはやめよう、と心の底から反省しそう・・。

独房のドアだけが展示してありました。
ドアの下から食事が差し入れられたのでしょう。

なぜこんな角度で設置してあるのかなと思ったら・・・、

写真をSNSにあげてくださいというインスタ映えコーナーでした。
なるほど、ここなら檻を掴んで

「出してくれー!」

なんて素敵な思い出の写真が撮れますね!

先ほどの6人部屋より狭い、こちらは乗員の寝室。
ここには機関科の乗員の寝室があったそうです。
少しでも職場に近いところに、というわけですね。

床に赤い矢印がありますが、これは非常口につながる目標です。

雰囲気イケメンなシーマンが、何やら書き物をしています。
デスクの上には医学関係の本など。

ここは「集中治療室」Intensive care unit ICUとされています。

「ミッドウェイ」など軍艦というのはスペースがないので、
ICUはたった一人しか収容できません。
ここに入るのは、病院船に一刻も早く移送するか、あるいは
ヘリなどで搬送するというレベルの患者が一旦容体安定した時、
という限られた場合だけでした。

というわけで、ここからは以前にもご紹介したメディカルゾーン。
これで、「ミッドウェイ」艦内で訪れたところを全てご紹介しました。

最後に歯科受付の「サルタ」さんのナイススマイルをもう一度ご紹介して
「ミッドウェイ」シリーズを終わります。

 

ただし、あともう一回だけ艦外編がありますので続く。

 

 


MiG三兄弟〜エンパイアステート航空科学博物館

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ニューヨーク州スケネクタディ空港に併設されている
航空博物館、ESAM展示の航空機についてお話ししています。

かつてはGEの航空実験場であった滑走路やエプロンなどを
現在はこのように航空機展示に利用しています。

基本アメリカの航空博物館は置きっぱなしになっていて
柵を設けて機体に触れないようになっているところは少なく、
ごらんのようにステップにのぼって上から覗き込んだり、
その気になれば触り放題。

アメリカの、こういう地方の航空博物館は
基本おおらかで放任主義、日本よりずっと
「性善説」に基づいているといつも思います。

アメリカには案外たくさんのMiGが存在しています。
今まで何度も見る機会がありましたが、ここにも・・・!

Mikoyan -Grevich MiG -15


MiG−15は、ソ連の名作ジェット戦闘機です。
MiGという名前は、もちろんのこと製造したのが

「ミコヤンとグレビッチ・ デザインビューロー」

Stamp of Armenia h331.jpg

アルテム・イヴァノヴィッチ・ミコヤン(1906-1970 )

と、

「ミハイール・イォーシフォヴィチ・グリェーヴィチ」の画像検索結果

ミハイール・イォーシフォヴィチ・グリェーヴィチ(1893-1976)

ミコヤンとグレビッチ、二人合わせて「ミ・グ」というわけです。

 

MiG-15は単発エンジン単座の戦闘機で、最初の任務は
アメリカの戦略爆撃機を迎撃することでした。

当時にしてこのデザインは大変先進的なものであり、
特にこの後退翼のデザインは、第二次世界大戦中の
ドイツの研究結果からアイデアを得たといわれています。

これはアメリカさんから言わせると(ここの説明に書いてあった)

「現代史上最悪の軍事過失の1つからも恩恵を受けた」

ということらしいです。
ドイツの研究は軍事過失ですかそうですか。

ドイツ人科学者を血眼になって探して根こそぎ引っ張ってきて、
なだめて脅して宇宙計画に協力させたアメリカさんがなにをいうやら。

ところで前にも書いたことがありますが、このときイギリスは
ロールスロイスのエンジンを提供し、ソ連はそれを元に
クリモフVK-1ターボジェットエンジンを作りました。

このことについても現地の説明は「驚くほど喜んで提供した」などと
微妙に感情を挟んできていますが、これは邪推すれば
アメリカがMiGに結構苦しめられたことの恨みかもしれません。

MiG−15のオペレーションが始まったのは1949年のことです。
こちらは1万2千機異常がソ連で生産され、6,000機が
いくつかの国でライセンス生産されています。

デビューしてすぐ、MiG−15は朝鮮戦争に参加しました。
戦争が始まったのが1950年、ソ連の同盟国軍は、おそらく
時代遅れの ’rag-tag’(ぼろぼろの)コレクションで構成された
北朝鮮空軍に対する優位性をおおいに楽しんだことでしょう。

MiG-15の戦争への突然の参加は衝撃的でした。
最初に運用したのは中国空軍で、それは世界を驚かせました。

それは同時代の名だたる戦闘機、ピストンエンジンP-51 ムスタング、
ジェットエンジンのロッキードFー80シューティングスター、
リパブリックF-84サンダージェット、そしてイギリスの
グロスター・ミーティア、それらのどれよりも、
優れていることを実戦で証明したのですから。

MiGは特に迎撃の機能に優れていて、多くのB-29 が餌食になったため、
B-29はMiGが出没しない夜間にしか運用できなかったくらいです。

しかし、栄枯盛衰、驕る平家は久しからず。
MiG−15が空の王者だった期間はわずかでした。

ノースアメリカンの傑作亜音速戦闘機、
F-86セイバーが極東に登場したのです。

ちなみにこのセイバーの後退翼のアイデアも、
ナチスドイツの膨大な実験データをもとにしています。
さっきの言い方で言うと「最悪の軍事的過失から得た成果」
ということになりますが、まさにお前が言うなですね。

朝鮮戦争で当初「金日成のラグタグコレクション」相手に
余裕こいていたアメリカ軍は、MiG登場によって危機に瀕し、
眼には目を、後退翼には後退翼をちうわけでセイバーを投入。

それまでMiGは、高い場所から戦闘を行うかどうか、そして
いつ行うかを決定するだけの余裕を持っていましたが、
MiGより視界がよいキャノピーを持ち意思決定力の速さで勝る
セイバーが登場すると、俄然旗色が悪くなります。

F-86セイバーの対MiGのキルレシオ(撃墜被撃墜率)は
10:1と圧倒的な優位性を誇りました。

MiGの2発の強力な23 mm砲と37mm砲は、
非機動爆撃機の攻撃には非常に効果的ではあったものの、
発射速度が比較的遅く、対戦闘機には理想的とはいえず、
この点F-86の6つの50口径機関銃の方が優れていたのです。

 

ただし、F-86のMiGに対する優位性は、アメリカの戦闘機が
常に遠隔地から飛行し極限を飛んでいたことを考えると、
あまり意味があったとはいえません。

一方、MiGは米軍機を発見すると、中国の鴨緑江の
すぐ西にある保護基地から離陸することができました。

翼には中国軍の認識マークがつけられていました。
この機体のカラーがなんとなくチャイナ風だなと思ったり(笑)

 

Mikoyan-Gurevich MiG -17  フレスコ(Fresco)

この機体の「フレスコ」もいわゆるNATOコードです。

朝鮮戦争時代のMiG-15の直系の子孫であり、歴史上最も
プロファイリングされて広く輸出された戦闘機の1つになりました。

1952年からソビエト人民空軍に導入されるようになってから、
なんと1万機以上のMiG−17が生産され、30か国に輸出されました。

1950年代、そして60年代は、いわゆるワルシャワ協定国では
基準の戦闘となり、ソ連国内と同じくらいの台数が
ポーランドと中国で生産され、冷戦時代の象徴となりました。

当博物館では今塗装をやり直しているらしく、
このような途中経過の作業工程が見られました。

なんと翼に縦のスポイラー(っていうのかな)が!
こんな仕様の戦闘機は始めて見ます。

戦闘機としてそれは厳密には短距離インターセプターであり、
アビオニクスや全天候型の機能はほとんどありませんでした。

 ほとんどのソ連の戦闘機がそうであるように、MiG−17もまた
大変丈夫に作られており、簡単に製造できて、操縦も
非常に単純であったといわれます。

単座の戦闘機で、極端な後退翼を持ち、動力は
クリモフVKー1ターボジェットエンジン、
最高速度は696mph、そして、通常の武装は、
二基の23ミリ、そして一つの37ミリ砲でした。

1950年代後半に超音速戦闘機が登場し始めると、
MiG 17は時代遅れになり、最前線で
ソビエト空軍のミグ19とMiG21に置き換えられ始めました。

しかしながら、その陳腐化にもかかわらず、MiG17は
北ベトナム空軍にも配備されて広範な任務に就き、
ベトナム戦争中のはるかに洗練された、より高性能の
アメリカの戦闘機に対して決して引けをとりませんでした。

低い翼装甲と銃装甲により、近距離の空中戦でも
機敏な敵であり続けたということです。

しかし最後に出撃した中東戦争(エジプト、シリア、および
イラクの空軍がイスラエルと戦った)になると、さすがに
イスラエル空軍のファントムIIには力及ばなかったようです。

当博物館のMiG−17は、ポーランド空軍が運用していたものです。

展示には階段がつけられていて、どうも体験デーには
このコクピットに座らせてもらえるようでした。

MiGのコクピットに座れるチャンスがあるなら行ってみたい。

Mikoyan -Gurevich MiG 21 フィッシュベッド( Fishbed)

 なんとこの博物館には、15、17、21と、三代にわたる
MiG三兄弟が全て展示されていることになります。

NATOコードで「フィッシュベッド」と名付けられたMiG-21は、
古今東西最も成功した戦闘機の一つと評価されています。

第二次世界大戦以来最も生産性の高い戦闘機として1万台以上
製造されたという記録を保持していますが、この理由の一つは
21型の後継機であるMiG-23が、どういうわけか、なかなか
MiG-21を超えることができなかったということもあるそうです。

実際、MiG-19譲りのMiG-21の格闘性能は非常に高く、
これを全面的に凌ぐ機体はアメリカのF-16ファイティングファルコン、
そしてMiG-29フルクラムの登場を待たねばなりませんでした。

フルクラムMiG−29。
なんだかツヤのあるファルコンって感じですね。

MiG−21は1959年に初めてソビエト空軍でのサービスに導入され、
その後、優秀な機動性が評価されて、最終的には
50か国もの外国空軍に供給されています。

機体性能としては特に推力対重量比に優れ、
高い上昇率とマッハ2に近い最高速度を誇りました。

ベトナム戦争では、にベトナム北部で広く使用され、
より重量に勝り、より洗練されたF-4ファントムに対しても、
ある程度の成功を収めることができました。

このMiG−21とは、

「ヒットエンドランの短距離インターセプター」

いうなれば、

ロングレンジのレーダーと高度なアビオニクスがないファントム

というのが当時の評価でした。

とはいえ、当時のファントムと比べると、より機動性があり、
近距離のドッグファイトで有利であったことは否めません。

MiG -21はまた無理やり投入された17とは違い、
中東紛争において、かなり活躍をしたようです。

ソビエト空軍では、時が経つにつれて、徐々に高度な
MiG-23 FloggerとMiG-29 Fulcrumに置き換えられましたが、
その後近代化改修が段階的に加えられて長期間使用されました。

この理由は、なんといってもMiG-21は、超音速戦闘機としては
他に類を見ないほど構造が簡単で維持しやすかったということがあります。

ちなみにこれが「鞭打ち役人」(笑)という名前をつけられた
MiG−21フロッガー。
こちらはなんとなくファントム風味・・・・?

ここESAMのMiG-21はポーランド空軍で運用していたもので、
型番はフィッシュベッドEであり、胴体の背中に沿って
アビオニクスベイを備え、限定的な全天候型機能を有しています。

 

前にも書きましたが、MiG、とくにこの21は生産台数が多く、
そのためアメリカだけでなくヨーロッパでも、兵器類を取り外して
払い下げられた機体や練習型など非武装タイプの機材を個人が所有し、
娯楽目的で飛行させているケースがあるそうです。

「趣味のMiG」を楽しむ人たちが世界中にいるってことなんですね。

こういうところにもシンプルで操作性がいいという
原点回帰のような作りが、影響を及ぼしているというわけです。

 

続く。

 

シミターとコンコルド〜エンパイアステート航空科学博物館

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ニューヨーク州のエンパイアステート航空科学博物館展示シリーズ、
最終回です。

ご覧の通り、この日の博物館には見学者は皆無ではありませんが、
少なくとも露天にある航空機展示を見ていたのはわたしたちだけ。
つまり何をしても見られることすらないという状態です。

基本航空機はお触りし放題ということになっていますが、
作業中の区域はご覧のように立ち入り禁止になっています。

博物館は夏季期間中は月曜定休ですが、冬場
(レイバーデイからファーザーズデイまでの期間)
は金曜から日曜までの週三日しか営業していません。

おそらくこの地域も冬場は降雪で人があまり来ないのでしょう。

おそらく現役で使われているトラックだと思いますが、
形が古いのでここがGEの実験飛行場だった頃のものかもしれません。

スーパーマリーン シミター(Supermarine Scimitar)

駐機場でも一際目立っていたのはロイヤルネイビーの
艦上戦闘攻撃機、シミターでした。
もちろんアメリカでこの機体を見るのは初めてです。

偶然だと思いますが、前回紹介したMiG三兄弟も、このシミターも
後退翼を持っており、その採用は、戦後になって流出した
ナチスドイツの後退翼に関する研究結果から取り入れたものでした。

ここでは基本艦載機は翼をたたんだ状態で展示されており、
それが一眼でわかるようになっています。

艦攻なので機体は大型ですが、単座です。
迎撃機、地上攻撃機、そして偵察と多機能にわたるミッションをこなす
マルチロールとして設計され、初飛行は1954年のことでした。

スーパーマリーンというのは艦船に詳しければご存知の、
あのヴィッカース社の航空機部門で、第二次世界大戦中の
伝説の名機、スピットファイアを作った会社でもあります。
シミターを開発したのを最後にヴィッカーズに吸収されました。

1958年に運用が始まった当時、シミターは、
同時代の航空機の中でも時代の先をいく先端でした。

イギリス海軍機史上、最初に後退翼単座を取り入れ、
これも史上初となる、核兵器搭載能力を有した爆撃機でもあります。

2つのロールスロイスエイボンターボジェットを搭載した
シミターの最大速度は1174km/hで、航続距離は2250km以上。

空母搭載型戦闘機としては実際見てもわかるように比較的大きく、
最大離陸重量は17トンという力持ちでした。

シミターの離陸の仕組みは非常にユニークでした。

カタパルトでブライドルを取り付けられると、(現場の説明のスペルが
なぜか” braidal"になっていた)テールスキッドに載せられると、
前輪がデッキから完全に離れたとたん、より高い迎え角になりました。

 

シミターはパイロットに人気のある非常に有能な打撃戦闘機でしたが、
滅多にないはずの事故での高い損失率に苦しめられています。

その理由はこの大型でパワフルな機体を、比較的小型の空母しか持たない
ロイヤルネイビーの艦隊で運用することの相性の悪さにつきました。

その結果、生産された76機のうち39機、つまり50%以上が、
空母への着艦事故で失われることになりました。

まさにそのときのニュース映像が見つかったので貼っておきます。

A Supermarine Scimitar aircraft falls into the Atlantic Ocean while landing aboar...HD Stock Footage

1958年から、シミターの空対空迎撃の任務は、デハビランド社の
シーヴィクセン(Sea Vixen)に置き換えられ始めました。

2009年の航空ショーで飛行するシービクセンFAW.2

「海の女狐」シーヴィクセン、これはまるでペロハチいやなんでもない。

その後まもなく、ブラックバーン・バッカニア
艦隊航空部隊の主要爆撃機として登場しています。

武装は、内部に30 mm砲を装備していました。
対空戦闘のために、アメリカ製AIM-9サイドワインダーミサイルを
4基、翼の下のパイロンに搭載することができ、
地上攻撃には4000kg爆弾か無誘導ミサイルを搭載することができました。

ESAMのシミターは、世界に現存する3機のうちの貴重な一つです。

グラマンF-14トムキャット

「後退翼はドイツの技術をアメリカが戦後没収して開発された」

と何度も書いてきましたが、F-14トムキャットを特徴づけたのは
後退翼をさらに可動式にした可変後退翼で、その技術は、元々
ドイツが「メッサーシュミット P1101」のために研究していたものです。

 

1945年4月29日、ちょうどヒトラーが自決する1日前のこと、
アメリカ軍歩兵部隊がババリアン地方の
「オーバーアマーガウ」の施設群を発見しました。

「メッサーシュミット P1101」の画像検索結果

放置された研究機は連合軍の皆さんの撮影スポットに(笑)

可変翼の研究はじめ、関係文書が接収されましたが、肝心な部分は
処分されたり、マイクロフィルムに撮影されてフランスに渡ってしまったため、
機体そのものをアメリカに送り、ベル・エアクラフト社が
あのベルX-5を作ったのです。

当博物館のエアパーク配置図は、航空機のシルエットで
展示位置を示していますが、F-14のシルエットはこの、
もう一つの可変翼である主翼付け根のグローブベーンを展開開いた
デルタ形をしています。

上から見られないのでなんとも言えませんが、この状態は
デルタ形に翼を広げているのではないでしょうか。

グローブペーンとはこれはマッハ1.4以上になると
主翼付け根前縁から展開される小さな翼です。

超音速飛行で揚力中心が後退するのを打ち消すためのものでしたが、
その後飛行特性にほとんど影響を与えないことがわかり、
廃止されています。(前にも書きましたね)

 

トムキャットの命名は、当初グラマンとしてはF-14に
「シーキャット」(ナマズ)と付けようとしていたそうですが、
この採用を推していたトム・コノリー大将に敬意を表して

トムの猫(Tom's cat)→トムキャット

となったというのが正しいところのようです。

トムキャットの一部。(さてどこでしょう)

A-7Eコルセア(Corsair )

コルセアについてはこれまで何度も書いているので、
ここには「いた」と言うことだけご報告します。

というか、せっかくここ独自の説明があるのに
赤いテープで近づけないようになっていました。

まあ誰もいなかったので写真を撮るためだけに
入っても差し支えなかったとは思いますが、
そこはそれ、日本人としてはそれがどうしてもできません。

初めて見るただものでない黒い機体、これは

ノースロップ F-5E タイガー(Tiger)

1950年代の後半に普及したシンプルで安価な戦闘機で、
海外の空軍にも輸出されました。

初飛行は1959年、F-5は世界の航空史でも最も多く、
広く世界30か国に向けて4000機が生産されています。

操縦が安易で整備が簡単でシンプル、そして安い、多用途。
F-5は実に25年間にわたって生産され続け、
いろんなシーンで活躍し続けました。

オリジナルのF-5は実に「ノーマルな」音速機で、
単純なアビオニクス、ジェネラル・エレクトリックのJ-85
ツインターボジェットエンジンを搭載し、余計なものはなく、
あっさりマッハ1.6の速度を出すことができました。

ここにあるEは1972年にデビューした最も発展したタイプで、
武装は20ミリ砲2基とAIMー9サイドワインダー空対空ミサイル、
そして対地攻撃のために7,000lbs爆弾をパイロンに5基積むことができました。

F-5は、小型で優れた操縦性を備えているため、
空対空戦闘の攻撃側練習機としても理想的でした。

米海軍での位置付けは決して対空戦闘機ではありませんでしたが、
海軍はあまりの操作性の良さに、F-5Eの小さな戦闘機隊を作っています。

アメリカ海軍の多くのパイロットが、より重く、より複雑な
F-4およびF-14、そして今はF / A-18の操縦訓練において
Fー5先生を相手にドッグファイティングスキルを磨いたのです。

ESAMのF-5は1974年に建造され、2007年に就役し、
米海軍の攻撃中隊第13飛行隊の航空機として
ファロンネバダ海軍航空基地で勤務しました。

ところで、伝説の航空機であることに加えて、このF-5は
映画「トップガン」で、ソビエト軍のMiGに扮して
スクリーン上でもその伝説を残しています。

同じ黒でも、こちらは打って変わってずんぐりとした、

ダグラス F-3D スカイナイト(Skyknight)

しかしこう見えても「F」とついているだけあって、
双座で双発の、立派な戦闘機です。

1952年から運用が始まり、当初海兵隊の陸上基地用でしたが
海軍で空母運用されることになりました。

 

第二次世界大戦中およびその後は、
航空機のの設計、推進、および航空電子工学が
急速に拡大していた期間でした

最初の空中捜索レーダーの1つを装備したスカイナイトは、
APQ-35火器管制レーダーで夜間も敵機を迎撃できたため、
その乗組員とともに「ナイトファイター」と呼ばれていました。

第二次世界大戦中に導入されたこれらの初期のレーダーは大きく、
そのためより大きな戦闘機を必要とすることになります。

 

製造されたのは237機のみでしたが、F-3Dは朝鮮戦争中に
夜間戦闘機としてある程度の成功を収め、北朝鮮の標的への夜間襲撃で
米国B-29爆撃機の護衛として頻繁に使用され、MiG-15とも交戦しています。

そして1952年11月2日夕刻、北朝鮮上空で、スカイナイトの乗組員は
ソビエトが建造した最初の夜間戦闘機と交戦し、勝利を達成しました。

F-3Dは1960年代初頭まで運用され、ベトナム戦争中には
電子戦機としての任務も果たしています。

ただし2基のウェスティングハウス J34ターボジェットは
ややパワー不足と見なされ、最高速度は965km/hでした。

武装に関しては、スカイナイトは機首の下に
4つの20mm大砲を装備していました。

ESAMのスカイナイトは、伝説のグラマンF-14トムキャット戦闘機用に
開発された空中レーダーのテストに使用され、実際に
ゼネラルエレクトリック・フライトテストセンター(現在のESAM)
のスケネクタディ空港から実際に飛行されたことがあります。

ところで、「タイガー」のコクピットを撮るために
上がった階段からこんな景色が見下ろせます。
いつになるのかわからないとはいえ、展示のために
ボランティアが作業を続けているのだと思われますが・・・。

これが何かは、そこから離れたところに転がっている
ノーズを見てわかりました。
なんとこの針のようなノーズはコンコルドじゃありませんか!

コンコルドの特徴であるデルタウィングは影も形もありません。
もしかしたらこれもその一部なのかもしれませんが、
まったくどこの部分か想像もつきませぬ。

おそらくコンコルドのパーツが散乱しているんだと思います。
その向こうに、車輪のない状態で展示されているのは・・・

ジェネラルダイナミクスFー102 デルタ ダガー

冷戦が始まり、アメリカは、ソ連の核武装爆撃機要撃の目的で、
新型迎撃機の検討に着手しました。

ペーパークリップ作戦で引き抜いてきたドイツ人技術者、
リピッシュのコンセプトをとりいれたデルタ翼の戦闘機です。

固定機銃はなく、AIM-4 ファルコン空対空ミサイルを搭載し、
空対空ロケット弾24発を発射機に搭載することが可能でした。

デルタ翼機の特徴として燃料搭載量が大きく、超音速機としては
空中給油の援助なしでも滞空時間が長く哨戒任務には適しましたが、
加速性・上昇力に劣り、ドッグファイトは厳に禁じられていたそうです。

空戦ができない戦闘機なんて。
水平飛行で音速を突破できない戦闘機なんて。
空軍は失望しました。(そらそうだ)
そのため改良も行いましたが、結果は思わしくなく・・・。

結局当初の目論みである実用戦闘機との兼務は放棄され、
単座型と同じアビオニクスは搭載せず、慣熟飛行の訓練用になりました。

そんな感じだったので、後継のF-106が配備されるようになると、
早々に同盟国に供与されるようになりましたが、ただ1か国、
トルコ空軍のF-102は1974年のキプロス島侵攻作戦中に起きた
ギリシャ空軍との戦闘で、2機のF-5戦闘機を撃墜する戦果をあげた、
ということになっているそうです。

ただし、ギリシャ空軍側にはF-5の損失記録は無いそうです。

まあ空戦の世界には古今東西よくある話ですね。

その後アメリカ空軍に残っていたF-102は、200機以上が
PQM-102A無人標的機として次々と撃ち落とされ、
消費されて完全に姿を消しました(-人-)

 

 

というわけで、ESAMの全ての展示機の紹介を終わりました。

ニューヨークから3時間の場所ながら、ちゃんとした展示がされ、
ボランティアによるイベント活動なども細々とながら
着実に続いているというこの地方博物館に敬意を表しつつ、
シリーズを終わります。

コンコルドが展示されるころ、もう一度見に行ってみようかな。

 

 

「ボブ・ホープと兵士たちに捧げる国民の敬礼」〜サンディエゴ・ミッドウェイ博物館

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何年にもわたってでれでれとお送りしてきた「ミッドウェイ」シリーズ、
ようやく最終回にたどりつきました。

ハンガーデッキには体験型のアトラクション始め、空いたスペースに
実際の艦載機などのイジェクトシートに座れるコーナーなどもあります。

ヘリコプターや戦闘機のコクピットの部分だけを輪切りにして、
乗り降りのためのステップを設けて子供でも簡単に
操縦席に乗り込むことができるようにしてあったりとか。

国内最大級の空母型軍事博物館は、保存団体や企業、
もちろん海軍と国からの支援もふんだんにあるらしく、
いついっても保存状態がよく、最新の状態に保たれて
歴史を次世代に伝える証言者としての役目を十分に果たしていました。

ベテランや地元の有志からなるヴォランティアの働きによるところも大きいでしょう。

日本での任務を終え、ここに帰ってきたときには、まだ見られるのは一部分で
それから今日までの間、少しずつ展示を拡大していったそうですが、
その試みに終わりはなく、常に進化を続けている、それが
「ミッドウェイ博物館」なのです。

 

さて、3度目の来訪で満足いくまで艦内を見尽くしたわたしは、
「ミッドウェイ」が係留されているピアの隣に突き出した、
「ツナ・ワーフ」という名前の公園にいってみることにしました。

ここにはいくつかのウォー・メモリアルが設立されています。
前にご紹介できなかったこれはレイテ島海戦「タフィー3」の碑。

レイテ沖海戦で功績のあった、

クリフトン・スプレーグ中将

の胸像のまわりに、艦艇の名前がひとつづつ描かれた石が
まるで波の重なりのように並んでいます。

護衛空母

「ホワイト・プレインズ」「カリーニン・ベイ」「キトカン・ベイ」

「ファンショー・ベイ」「セント・ロー」「ガンビア・ベイ」

駆逐艦

「ホーエル」「ジョンストン」「ヒーアマン」

護衛駆逐艦

「ジョン・C・バトラー」「レイモンド」

「デニス」「サミュエル・B・ロバーツ」

 

これらは「Taffy 3 」という愛称を持つタスクユニットの艦艇です。

レイテ沖海戦ではいろいろあって、「ジープ空母」といわれる小型空母と、
「ブリキ缶」と呼ばれる駆逐艦からなるタフィー3は、栗田艦隊の

戦艦4隻(18インチ主砲大和含む )、6隻の重巡洋艦、2隻の軽巡洋艦、
11隻の駆逐艦

を迎え撃つことになってしまったのでした。

結果、「ホーエル」沈没。

「ジョンストン」沈没。

「ガンビア・ベイ」沈没。

「サミュエル・B・ロバーツ」沈没。

「セント・ロー」沈没。

しかし、彼らは返り血を浴びせるような戦いで栗田艦隊に
「鳥海」沈没を含む大損害を与え、スプレーグ中将は
その果敢な指揮ぶりを後世まで讃えられることになりました。

とくに、1時間にわたって戦艦「鳥海」に近づき、攻撃を加えて
傷を負わせ、最終的に沈没にいたらしめ、最後は、「雪風」ら
駆逐艦四隻に集中砲弾を受けて沈没した、

「サミュエル・B・ロバーツ」

は、

「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」

という尊称を与えられています。

さて、そのあとは、巨大な「戦勝記念日のキス」が立っている
公園の先端に向かって歩いて行きました。

「ミッドウェイ」の左舷を眺めることができます。
日本なら海に落ちないように柵をつけてしまうところでしょう。

ついでに、「スケートボード禁止」「遊泳禁止」という看板が
変なイラスト入りで立てられるのはまずまちがいありません。
基本的にアメリカは、(ヨーロッパもそうですが)

「こんなところで落ちるのは落ちる奴が悪い」

という自己責任論が徹底しているので、誰が見ても危険なところに
危険と書くようなアホな注意喚起の類は一切行いません。

スケボーやってて海に飛び込んでも、こんなところでやったら
落ちるのは誰だってわかるよね?というのが「普通」の考えだからです。

訴訟大国ゆえ、どんなに予防しても訴える人は訴えるので、
いちいち先回りして対処していたらキリがないと思っているのかもしれません。

時間があってサンディエゴの猛烈な暑さが気にならない人は、
写真の人のように水際に腰掛けて、より高くそびえ立って見える
「ミッドウェイ」を眺めるのもなかなかおつなものでしょう。

こういう軍事遺産が普通に観光用に展示されているアメリカという国が、
日本人のわたしからはとても羨ましく見えます。

「V.J デイのキス」の彫像があるコロナド側に向かって歩いて行きます。
ところでわたしは考えたこともなかったので当然チェックもしていませんが、
女性のスカートの下に立つと、どんなことになっているのでしょうか。

この元ネタとなった写真については、以前

V.J-DAYの勝利のキス@タイムズスクエア

というエントリーで詳しくお話ししたことがあります。
そして、対日戦勝利の日を、V.J-DAYということ、また
この巨大な像のことを

”Embracing Peace" Statue

というと書きました。

そのときには知らなかったのですが、今回地図を検索していて、
この像の正式名称は

Unconditional Surrender (sculpture)

ということを知り、軽く驚いたものです。
この像に「無条件降伏」という名前をつけるとは・・・。

そして、これもちょっとした驚きだったのですが、この像、
スワード・ジョンソンという彫刻家の作品で、ジョンソンは
有名になったアイゼンシュタインの写真ではなく、同じ瞬間を
別の角度から撮っていた海軍写真班のヨルゲンセンのカットを
参考にして作っているということでした。

上半身をアップにしてみます。
全長7.6mといいますから、彼のセーラー服の襟の上に人が立ったら
帽子の上辺に手がかけられるような感じでしょうか。

わたしが最初にこれを見たとき、よくこんな大きなものを
オリジナルの写真通りに作れたなと驚いたものですが、
やはりコンピュータ技術がそれを可能にしていました。

ジョンソンはまず等身大のブロンズの像を制作し、
7.6mの発泡スチロールでモックアップ?を作り、
発泡スチロールは5千800万円、アルミニウムを1億円少し、
青銅で作ったものを1億2千300万円で売りました。

ここにあるのは青銅製のものです。

 

しかし全ての人がこの巨大な「キス」を良としたわけではありませんでした。

わざわざ「ミッドウェイ」の前に建てられたということで、
この真似をしてインスタに載せるカップルには喜ばれても、
その品質が隠しようもなく「チープ」で「kitsch」だ、と
審美的な点から槍玉に上がったのです。

ある否定的な意見の人は

「キッチュというのもキッチュに失礼かと・・。
ただ有名な写真をコンピュータで起こして立体的な漫画にしただけ」

キッチュというのはドイツ語です。
お洒落な意味合いを持っていると勘違いしている人もいますが、
決して良い意味ではなく、「まがいもの」とか「悪趣味」「どぎつい」
「俗うけ狙いの安っぽい映画」などで、いい意味など一つもありません。

(そういう渾名の左翼芸能人がいたけど、あの人はわかってたのかな)

「どんな擁護もまるで土産物用の工場から出てきたような品質で全て覆される」

あまりにも大きなものが海軍基地を望む海辺に建っている、
ということが、美的ではない、と考えた人も多かったということでしょう。

 

わたしの最初に見たときの感想は、こんなでかいものを置く場所があるのは
さすがアメリカいう程度でしたが(日本ではお台場のガンダムもすぐ無くなったし)
今回彫刻に作者がつけた題を見て、作者の無神経さにドン引きしました。

さて、ツナパークを海辺に歩いていくと、
「ボブ・ホープ」という文字が目に入りました。

同時に目に飛び込んできたこれらの彫刻群。
まちがいなく、戦地や部隊で慰問演奏を行う
コメディアンで歌手、ボブ・ホープ(1903〜2003)です。

以前、慰問ツァーで「思い出にありがとう(Thanks For The Memory)」
という持ち歌を歌うボブ・ホープを紹介したことがありますが、
生涯でおそらくもっとも多く軍に慰問に行った芸能人でした。

パフォーマンスの内容は漫談と歌。

戦争が始まったとき入隊しようとして、

「入隊するより慰問するのが君の仕事だ」

といわれた、と日本語のWikiにはありますが、英語の方には
そのようなことは全く書かれていないので、要出典です。

むしろ、英語の方には、ホープが戦争を憎むあまり、ときとして
パフォーマンスで軍隊批判をやっちまって、会場は騒然、
ブーイングが乱れ飛ぶことも何度かあったと書かれています。

両手で兵隊さんが掲げ持っているボードには

「THANKS FOR THE MEMORIES  BOB」

と書いてあります。
「メモリー”ズ”」とあるので、彼の持ち歌の題名にかけて、
「思い出をありがとう」とボブにお礼を言っているんですね。

U.S.O. Bob Hope Troupe entertains U.S. soldiers on Bougainville during World War ...HD Stock Footage

座っている進行係?のワック、パイロット、傷病兵。
消防服を着ている人、上半身裸のアフリカ系。

この彫刻の題は

「National Salute to BOB HOPE and The Military」

ボブ・ホープと軍隊に対する国民の敬礼、という感じでしょうか。

サンディエゴ市、ホープの遺族、そして第二次世界大戦の
レイテ湾の生存者である海軍獣医(というのがいたのだなあと驚き)
によって2009年に寄贈されました。

ポケットハンド、片手に杖?
これもホープのいつものスタイルでしょうか。

拍手する兵隊さんの向こうに看護師とキスする水兵が(笑)

ここにくると、観光客は彫刻の間を歩き回り、
兵士たちと好きに写真を撮って楽しみます。

違和感なく馴染んでます。

ボブ・ホープを囲む兵士の数は15人。
傷病兵が多く、ホープは病院に慰問に来たという設定でしょうか。

ご存知のように、彼は「名誉軍人」とされただけでなく、一般人では
けっして与えられない、海軍艦にその名前を付されるという栄誉
(USNS『ボブ・ホープ』車両貨物輸送艦T-AKR-300)を与えられています。

ここに来ると見ることができる「ミッドウェイ」の錨。
「ミッドウェイ」艦体は固定されており、この錨が打たれることは永遠にありません。

ツナパークから見るとその巨大さはいや増して見えます。

 

ところで、現在横須賀に係留してある「ロナルド・レーガン」は、
これよりも全長にして36mも大きな空母であるわけですが、先日、
日本のある国会議員が、「いずも」の写真を「ロナルド・レーガン」だと
確信を持って説明していて、そのあまりの無知さに驚きました。

艦橋の形からして次元の違うもんだろうっていう・・。

サンディエゴに一度でも来てアメリカの空母群を実際に見たことがあったら、
(この人はジャーナリストとして軍事の『事情通』を任じているので、もちろん
ないはずはない)間違えるはずがないのですが・・・・。

ミリオタ並の知識は要求しないけど、議員がこれは恥ずかしくないですか?

しかもこの人、紹介していたのは「自分で撮った写真」なんですよ。

ロナルド・レーガンがいつでも簡単に写真を撮れるような場所に
係留されていると思い込む時点で、横須賀の米軍基地について
基本的なことすらわかってないってことじゃないか。議員なのに。

 

「ミッドウェイ」をバックに、国旗のはためく下で
パンフルート?の演奏をしている人がいました。
おそらくリュートのために作られたバロックの作品です。

しばらく聴きましたが上手かったのでお金をカバンに入れました。

パフォーマンスもこういう場所では「愛国」を強調すると
受け入れられ易いのかもしれません。

というわけで、「ミッドウェイ」の右舷全景がみえるところまで帰ってきました。

次があるかどうかもわかりませんが、もしサンディエゴに来ることがあれば、
わたしは何度でもこの場所に帰ってくるだろうと思います。
おそらくその度に彼女は新しい顔を見せてくれるに違いありません。

それに、「ミッドウェイ」は、彼女がその生涯のほとんどを過ごした
かつての母港、日本から来た訪問者を心から歓迎してくれそうではありませんか。

 

 

「ミッドウェイ」シリーズ 終わり

 

米国陸軍地形技術隊(開拓時代から南北戦争まで)〜ウェストポイント博物館

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少し前にアメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントを見学し、
学内見学ツァーについてここでお話ししたことがあります。

もう昔のことなので記憶にない方のためにもう一度、
ウェストポイントを外側から見た景色をご紹介しておきます。

かつて歴史的なシャーマン戦車が飾ってあるこの門は、
いわば一般見学者が誰でも入っていけるようになっています。

本当の学内に入るには、許可を得たもの以外は、見学ツァーだけで、
彼らは必ず専用のバスで入場しなくてはなりません。

もちろん、当たり障りのないところを回るだけなので、
名前や所属などの申告を行う必要はありません。

見学ツァー申し込みは前もって行う必要はなく、現地に行けば、
ツァー受付のあるこの建物に入っていって、申し込むだけです。

この建物にフレデリック・マレクと名前がありますが、これは
かつてのウェストポイント卒業生です。

「frederic malek」の画像検索結果

マレク(1936−2019)は陸士卒業後ベトナムでは空挺団に勤務、
帰還後ハーバードビジネススクールで修士号を獲得し、
のちにマリオットホテルやノースウェスト航空の社長を務めるほか、
共和党所属の政治家として活躍しました。

彼の名前が付されているのは、彼がウェストポイントの
訪問者委員会の会長を務め、ビジターセンター設立のための
基金キャンペーンを行ったからですが、彼自身その年の卒業生の中で
特に優秀だったという理由もあります。

というわけで、わたしは全く知らなかったのですが、わたしが訪れた時
このビジターセンターは1年前に設立したばかりだったというわけです。

ビジターセンターには、かつての卒業生が寄付した博物館があり、
訪問者は見学前にその展示によってウェストポイントへの理解を
深めることができるという仕組みになっています。

学内ツァーが終わった後、わたしたちは学校内に併設されている
ウェストポイント博物館の見学をガイドに勧められました。

ここもビジターセンターの近くにあり、誰でも入館できます。

博物館の歴史は大変古く、最初にコレクションが公開されたのは
1854年だったそうです。
当時はそれこそ武器コレクションだったわけですが、時代を経るうちに
軍事史にまつわる遺物が集まって現在の形になったのです。

武器などのコレクションは学内の様々な場所を転々としていましたが、
現在の場所で公開されるようになったのは1988年以降です。

展示は大まかに分けて

「アメリカの戦争」

「米軍の歴史」

「戦争の歴史」

という流れになっています。

まず、独立戦争頃のアメリカ軍の制服からご覧ください。
モップみたいなのをもっていますが、これは砲に
弾薬をこめるための大事な兵器です。

右側上は、憲法制定について描いた絵で、真ん中に立っているのが
もちろんあのジョージ・ワシントンです。

アメリカ合衆国成立後、創設された軍隊についての展示です。
左は、1785年、最初のアメリカ軍の太鼓手です。

最初のアメリカ軍人の制服は、独立戦争のときに大量生産された
ストライプの布の余切れで作られたということですが、
言われてみれば、赤白のストライプが基調になっていますね。
ただし全員ではなく、この目立つ色は「軍楽隊」専用でした。

このころは、フランス革命に参加したベテランが帰国して、
独立戦争に関わることになりました。

右側は合衆国で最初に成立した軍隊の歩兵(二等兵)です。

右側肖像画の軍人は、アーサー・セントクレアという当時の政治家です。
独立戦争では、タイコンデロガで戦った経歴がある軍人ですが、
この人が知事になってやったことの一つに、
インディアンとの戦争(というか土地を奪うための迫害)があります。

「懲罰的遠征」と称する侵攻部隊を編成しますが、
このときマイアミ族、ショーニー族との戦いに破れ、
「セントクレアの敗北」として歴史に残ることになりました。

この絵はどちらも、セントクレアの敗北でけちょんけちょんにやられているアメリカ軍。

顔に網をかぶっているようですが、顔中に刺青を入れ、
頭頂を残して髪を剃り上げ、残った髪に羽などの飾りを結び付けています。
このイロコイ族の戦士の姿は当時の絵画に残されていたもので、
写真が残っているわけではないようです。

十七世紀の「バフコート」と呼ばれる皮のコートで、
分厚い皮を使用することによって簡単な鎧の役割を果たしました。

刀はもちろん、矢もある程度は防ぐことができたようです。

1847年の米墨戦争で編成された第3ドラグーン連隊の二等兵。

中央メキシコへの遠征に割り当てられ、ベラクルスに上陸して戦いました。

何か海軍的なものがあったので、注目してみました。

「地形技師」(トポグラフィックエンジニア)のドレスコートだそうです。

1841年ごろ、アメリカ陸軍には、士官学校卒士官による

「米国陸軍地形技術隊」 US Army Corps of Topographical Engineers

というのが組織されており、国家的土木工事となる東大や沿岸要塞、
航海路の制定を行うという任務にあたっていました。

南北戦争の前には工兵隊に統合されましたが、そのころには
五大湖の湖沼調査などの仕事なども行っています。

ウェストポイントで教育を受けた選り抜きの技術者だけで編成され、
大変社会的地位は高く、通常の兵科士官よりもランクは上とされました。

この「軍団」の軍事遠征は当時秘境であったアメリカの開拓を行う
「探検隊」のような任務を負っていたということもできます。
たとえば・・・・。

レッドリバー遠征!(1806)

ミシシッピ川の源流を探せ!(1806)

アーカンソーとレッド川の源流を探せ!(1807)

ミシシッピ川探検!(1817)

あの!イエローストーン遠征(1819)

秘境!テキサス国境探検(1842)

カナダ国境、前人未到の秘境を訪ねて(1846)

大陸横断鉄道ルートを探せ!(1855)

ほか多数(川口浩探検隊風に)

上の測量機もおそらくこのために開発されたものでしょう。

「リングゴールド陸軍少佐の死」

と題されたドラマチックな版画です。
サミュエル・リングゴールドはウェストポイント卒の砲兵少佐で、
1846年に行われた米墨戦争で両足に銃撃を受けてにもかかわらず
持ち場を離れることを拒否し、三日後に死亡したという人物です。

アメリカはこの人物を英雄として称え、「リングゴールドの死」
という歌も作曲されたということですが、
我が日本でいうところの「勇敢なる水兵」三浦寅次郎、広瀬中佐、そして
陸軍の肉弾三勇士的位置にあったというわけですね。

ここからは南北戦争関係の展示です。

以前、ジャズのスタンダードナンバーで、
「オールド・ピープル(昔の人)」という、南北戦争を経験した
当時の老人たちを歌ったナンバーがあることをご紹介しましたが、
その歌詞に、

「ブルーのために戦ったのか、それとも灰色か」

という一節がありまして。

南北戦争、英語でいうところのシヴィル・ウォーは、ご存知のように
アメリカ国民が南北に分かれて戦ったわけですが、
そのため、南北戦争そのものが「ブルー&グレー」とも呼ばれています。

つまりここにあるブルーの制服は北軍のものですね。

上の絵画は、南北戦争の兵士を描いたもので

「カードに興じる少年」

当時は戦争に年齢制限はなかったので、この絵のような
子供もまた、戦争に参加していたということのようです。

南北戦争といえばご存知ゲディスバーグの戦いですね!

なぜ有名かというと、この戦いが南北戦争の決戦となったからです。
両軍の総力を結集したこの戦闘によって、アメリカ合衆国軍の優勢が決まり、
アメリカ国軍の敗北、そして消滅につながりました。

ちなみに、アメリカ国軍を「南軍」合衆国軍を「北軍」というのは
日本だけで、南北戦争というのも日本独自の呼び方なんですよ。

ご参考までに。

南北戦争の起こった1861年当時、医学は戦争という
過酷な現場で役に立つほど進歩していたわけではありませんでした。

この戦争によって、まず野戦病院のテントが開発され、戦場近くの
ホテル、学校、倉庫、工場、住居が病院として供出されました。

この戦争における全戦死者に対する病気での死者は数%で、
最も多い死因は下痢と赤痢によるものだったと言います。
戦場における非衛生的な滞在が原因です。

そして当時の外科医は、彼らのカウンターパート同様、
無害な生物と病気の原因となるものを区別することもできませんでした。

そして、どちらの軍においても、外科医は
「Sawbones」と兵士から呼ばれていました。

「骨を見る人たち」、つまり、医師の治療とは怪我をした部分を
ただ切除するしかなかったことからきています。
当時の医療ではそうするしか方法がなかったということですが、
問題は切断したからと言って死なずに済むとは限らなかったということです。

麻酔とクロロフォルムはどちらも頻繁に利用されましたが、
それによって死ぬ人も多く、麻酔は痛みを和らげるよりも
安楽死に多く必要とされることになりました。

しかし、戦争も後期になってきた頃には治療もオーガナイズされ、
救急車(写真一番上)などが投入されるようになって、連合軍は
まだましな医療を受けられるようになったといいます。

 

いずれにせよ、どちらの軍隊にとっても、本当の英雄とは、
死んだ人ではなく、病人や長引く負傷の苦痛に耐え抜いた人だった、
と当時有名な軍医も言っています。

 

上の写真の人がいるテントは「野戦病院」で、一番下は
テントを並べた野戦病院での治療の様子です。

南北戦争で戦場において使用された医療箱です。
当たり前ですが、全ての入れ物は瓶です。

右側、当時の手術道具、左はそれを運ぶ鞄。
手術道具と言いつつ、ノミとトンカチがあるのが怖い。
(まあ今もそうですけど)

当時の医学的資料で、負傷した骨の見本。
右は多分大腿骨かどこかだと思いますが、すっぱりと下で切られています。
左はこれどう見ても銃弾を受けた頭蓋骨ですよね?

これらは全て死んだ兵士の死体から研究のために切り取られたものだそうです。
((((;゚Д゚)))))))

黒人ばかりで組織された部隊「バッファロー・ソルジャー」は、
アメリカ史上初、正規のアメリカ陸軍の平時の黒人だけの連隊として、
議会によって創設され南北戦争にも参加しました。

バッファロー大隊については、当ブログで取り上げていますので、
詳しいことはそちらでどうぞ。

バッファロー大隊

当ブログ的にはものすごく見覚えがあるこのシェイプ、
南北戦争で使われた浮遊機雷じゃなかったですか。

「インファーナル・マシン」(地獄のマシン)

という厨二的な名前がついていたという記憶もあります。

わざわざ金色のプレートに

「南軍の魚雷」

と書いてあります。
石炭魚雷という名前のこの魚雷は、中に爆発物で満たされた
中空の鉄の鋳物が入っており、南軍のシークレットサービスが 
北軍の蒸気機関車による輸送に害を及ぼすことを目的に作られました。

石炭の間の火室にシャベルを入れると爆発を生じるもので、
機関車のボイラーに損傷を与え、エンジンを動作不能にします。

最悪の場合、壊滅的ボイラー爆発によって火災を起こし、
さらには船を沈めることもできました。

魚雷とありますが、必ずしも海でなく、陸で使われるもの、
地雷と現在定義されるものも全て当時は「トルピード」と呼んでいました。

ただいま治療中。

米西戦争の後、陸軍が占拠駐在していたキューバで黄熱病の流行がありました。

黄熱が蚊によって媒介されるという仮説を立てたのはキューバの医師でしたが、
陸軍軍医のウォルター・リード少佐はこのことを実験と観察によって確認、
研究を残し、その功績を称えられました。

死後、メダルが贈られ、1938年には「イエロージャック」という映画にもなっています。
発見したのは実はキューバの医師ファンレイだったのに、とは言わない約束です。

続いて、ウェストポイント博物館展示をご紹介していきます。

 

 

続く。

 

映画「スパイと貞操」前編

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タイトルを見て、また一部から猛烈に呆れられそうですが、
またしても東宝の憲兵ものを取り上げてしまいます。

前回は「憲兵と幽霊」、「憲兵とバラバラ死美人」という、
題名を見ただけでキワモノとわかるエログロ三流映画をあえて取り上げ、
陸軍憲兵という「悪の存在」が戦後の自虐史観の中で、特に創作物の中で
リプロダクトされてきたことを熱く語りつくしたつもりでしたが、
先日DVD戦争映画コレクションの中にこれを見つけたとき、
「あの路線」がまだあったことに驚き、早速観てみることにしました。

驚いたのは、まず、DVDをいれたとたん、

「続きから見るか最初から見るか」

と聞かれたことです。

つまりわたしはこの映画をかつて観たことがあったのに、
そのことを、題名も含めてきれいさっぱり忘れていたのです。

よっぽどつまらん映画だったんだろうなあと思いながら2回目を観て、
やっぱりつまらんかったと納得することになったわけですが、
とにもかくにもわたしには、というか当ブログには

「誰も観たことがない戦争映画にツッコミを入れる」

という独自の使命があるので、今回も粛々とこの作品を紹介していきます。

ではさっそく参りましょう。
事件はホテルの一室で、男がキャバレーの女給とが心中したことから始まります。

ただの情死なら管轄外ですが、問題は死んだ男性が陸軍憲兵少尉で、
彼が軍機密漏洩事件を内偵していたということでした。

東京憲兵隊本部が事件の捜査を行うということになりました。

軍ではおりしも頻発していた横須賀線内での軍将校の鞄窃盗事件とともに
一連のスパイ行為であるとし、捜査本部を結成したのです。

陣頭指揮を取るのは小坂少尉(沼田曜一)。
この「小坂」とは、一連の憲兵ものの原作となった作品を書いた、
元憲兵将校、小坂慶助の名前をそのまま採用しています。

この欄で紹介した「憲兵シリーズ」で主人公の小坂少尉を演じたのは
中山昭二でしたが、このころ中山は東映に移籍していたので、
その代役が前回幽霊を演じた沼田に回ってきたというわけです。

海軍情報部で筆生(筆写をする人)をしている清川虹子は、
ある日、街角で偶然一人の男性と知り合います。

男性は貿易会社の社長、山野直二(細川俊夫)。
一眼で女性の美貌に心を奪われる山野ですが・・・。

後ろ姿をボーッと見送っていたら、目の前で車にはねられてしまいました。
タクシーに乗っていたのは憲兵隊の小坂少尉。
今なら大変なことになりますが、当時警察の現場検証はしなかったんでしょうか。

道に落ちていた彼女の手荷物から、山野は
彼女が海軍に勤めていることを知ってしまいました。

というわけで、通りすがりに過ぎないのに、わざわざ彼女を
病院まで見舞いあれこれと気遣うのでした。

そこで小坂憲兵少尉とバッティング。
二人の間には微妙な空気が流れます。

山野は秘書の田宮摩美に、絹子へのプレゼントを
病院まで届けるように命じました。

プレゼントは高級コンパクト。
立派な箱にコ収められていて、このころはコンパクトというものが
単体で宝飾品のように売られていたということがわかります。

「こんな高価なものを頂くわけには・・・」

「私はただの使いですから」

戸惑う清子。
そりゃゆきずりの人にここまでされたら怪しいと思いますよね。

こちらは横須賀線内の将校鞄盗難事件捜査班。
わかりやすく参謀飾緒をつけた海軍将校とともに
囮捜査を開始しますが、なかなか収穫はありません。

場面は変わって、心中した女給が働いていたキャバレーシーンでは、
毎回、

「神月春光とコロニアンズオーケストラ」

という看板とともにこの女性歌手がクローズアップされます。
黒岩三代子さんというジャズシンガーで、20年〜30年代に活躍したとか。

'S wonderful. Miyoko Kuroiwa 黒岩三代子

お年を召してからの演奏が見つかりました。
勢いとノリはともかく、失礼ながら英語が残念過ぎです。

神月春光(こうづきはるみつ)は当時のジャズピアニスト。
米軍キャンプ回り出身のバンドリーダーだったそうです。

このキャバレーに小坂はコジマと偽名を使って潜入中。
陸軍中野学校卒スパイならやりそうですが、はたして
憲兵将校がそんなけしからん捜査を行っていたのでしょうか。

小坂、鼻の下を伸ばして女給さんたちに大盤振る舞いしています。
そのお酒代も領収書をもらって憲兵本部に請求するのかな?

小坂、ここで、女給の中にいるかもしれないスパイに

「もうすぐ戦車ができるかもしれない」

と餌を撒きますが、どうなることでしょうか。

 

このとき小坂は偶然井上少尉の遺留品のタバコ入れ兼ライターの中に
小さく折り畳んだ紙切れを見つけます。
記されていたのは、

「芝浦港湾 水俣テーラー 365」

さっそく芝浦港湾会社を張っていると、社員が金庫から何やら取り出し、
それを怪しい男に渡すではありませんか。

たまたま人の会社に忍び込んですごいシーンに遭遇しましたね!

尾行する小坂少尉。
昭和35年当時の東京の風景が見られます。

「芝浦港湾」の男は球場で義足の男にそれをわたし、
義足の男はそれを持って「水俣テーラー」に入っていきました。

テーラーは受け取ったフィルムを二階に持って上がりすぐに現像。
浮かび上がってきたのは、軍艦の写真でした。

左は空母のようです。
昭和14年ごろ最新鋭だった空母というと飛龍ですが、
これが飛龍かどうかはわたしにはわかりません<(_ _)>

現像した写真をテーラーは義足の男に渡し、男は車に乗り込みます。

小坂少尉、男の後を追うためタクシーに乗り込みましたが、
その様子はテーラーに見られていました。

タクシーは都内の住宅地を縫って走る車を追うのですが、

そこになぜか会社社長の山野が運転する車が
割り込んできました。

「やあ、奇遇ですなあ」

山野がしれっと挨拶をするうち男の乗ったタクシーを取り逃します。

そのころ横須賀線内で地道に囮捜査を続けていた
捜査班に収穫がありました。
海軍参謀に扮した憲兵のカバンを網棚から盗もうとする男を
現行犯で捕まえたのです。

 

さて、山野は退院した清子をその日のうちにデートに誘いました。
生まれて初めてのシャンペンとダンスに酔う清子。

「明日ドライブにお誘いするのはまだ早いですか」

「・・・いいえ(*⁰▿⁰*)」

いや、早いよ。展開が早すぎて詐欺を疑うレベルだよお嬢さん。

 

こちらは東京憲兵隊本部別館拷問室。

横須賀線でカバンを盗もうとした男、武井の取り調べ中です。

「誰に頼まれた!」(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

やってるよ。ザ・拷問やってるよー!

「憲兵=拷問」というイメージを戦後メディアがしつこく
刷り込んできたことについて、わたしは歴史を公平に見る観点から
前回のシリーズで否定的に論じてみたわけですが、
モノホンの特高が書いた本の映画化でもこんなことしてるんだもんなあ。

読んだわけではないのですが、小坂慶助の著書では拷問は出てこない由。

 

ここでちょっと小坂の名前が出たついでに解説をしておきます。

小坂慶助は憲兵の中でも「特高」つまり特別高等警察の出身です。

高等警察とは、

「国家組織の根本を危うくする行為を除去するための警察組織」

と定義されるものです。
つまり、法益が個人に対してではなく、国家に及ぶ場合に生じる
警察作用で、現在の公安警察と同様の機能を有します。

皆さんが戦後「特高」という名前で記憶する
この高等警察に、当時の日本には憲兵も勤務していたのです。

つまり、特高の中に「特高憲兵」たる者がいたということになりましょうか。

 

特高の取締り対象は、

「大逆、政治、思想、騒擾(そうじょう)、暴動、
その他『私利私欲を離れた犯罪』」

となっていました。
スパイ行為は「私利私欲を離れた犯罪」といえないと思うのですが。

ところで、勅令によって動くこともある特高憲兵は、軍組織だけに
当時の特高警察より法の縛りを受けない捜査が可能だったので、
拷問も普通にありということだったのかもしれません。

「優しい憲兵」だった中山昭二の小坂少尉とは違い、
沼田の演じる小坂は、巨悪を暴くためには
実にオーソドックスな特高的方法による尋問を行います。

竹刀でシャツが破れるほど殴られても口を破らない容疑者に
顔色一つ変えずアルコールのバーナーをカチッと付けて見せたり。

「いやあああそれだけはいやあああ><」

火を観たとたん陥落する容疑者。
最初から火で脅せば手間がかからなかったんじゃないかな。

「ま、一本吸えや」「へい」(´・ω・`)

今まで息も絶え絶えだったのにタバコ吸えるのか・・。

男が自白していうことには、競馬場で知り合った
「王さん」に奢られているうち、いつのまにか運び屋にされていたと。

ついで武井は明日両国駅で受け渡しを行う計画を自白しました。

場面は変わって、ガラス越しにシャワーを浴びる美女の姿。
出てきたその人は、山野の秘書ではありませんか。

「武井が捕まった・・・・」

顔は写りませんが、これが今回の黒幕っぽい。

その翌日、会社社長の山野は、左ハンドルの自家用車に
清子を乗せて箱根にドライブにやってきました。

昭和14年当時外車を自家用車で乗り回す人など、大会社の社長にも
そうはいなかったと思いますが、山野はおまけに
ごらんのようにバリっとした舶来のスーツを着こなすイケメンです。

海軍省でしがない事務職に甘んじる清子は、
玉の輿チャーンス!とばかりにどんどん山野に惹かれていくのでした。
たぶんですけど。

山野には下心があるわけで、このドライブも任務として
ボスから命じられたようなものなのですが、彼は
一目惚れした清子に、つい自分の過去を打ち明けたりします。

「僕は純粋な日本人じゃないんです。
父は親日家の中国人で上海で大きなデパートを経営していました。
僕が京都の大学を卒業した頃上海事変が起こりました」

そしてそのとき、両親や妹、全てが

「日本の軍隊に殺されたのです」

いやいやいやいや、ちょっとお待ちください山野さん。
上海事変は、日本軍の軍人が中国人に惨殺されたのをきっかけに
軍事衝突となったわけですから、もし死んだとしても
それは巻き込まれたということだったのでは・・・

まあ、殺されたという言い方をしたくもなるでしょうけど、
言っときますけどきっかけは中国側ですからね。

ともあれ、この告白は何を表すかというと、彼、山野が
そのことによって、日本軍と日本を憎んでおり、
現在の日本に仇なす行為もすべて復讐心からなることだ、
と映画的には説明しているのです。

あ、言っちゃいましたけど、もう皆さんもお気づきですよね。
山野は日本の軍事秘密を黒幕に言われて売り渡しているスパイで、
清子に近づいたのは彼女が海軍情報部に勤めているからでした。

それに対し、清子は張り合うように?

「父は上海陸戦隊の士官で、戦死しました」

山野は感慨深げに、

「僕の肉親もあなたのお父さんも同じ上海の土になったんですね」

そして、ほぼ初対面の彼女に、誕生石であるエメラルドの指輪を贈ります。
もうここまできたら詐欺を疑わない方がおかしいレベル。

それにしても、未婚の娘が最初の食事の翌日に
富士屋ホテルでお泊まりデートとは・・・。

富士屋ホテルは創業1871年、写真に見える棟が完成したのは
1891年で、大正5年までは外国人専用ホテルでした。

昭和14年当時、もちろん日本人も宿泊することはできましたが、
客層はかなりの上流に限られていたはずです。

何か悪いことでもしないと小さな貿易会社の社長クラスでは
こんな豪勢なデートはとてもできそうにないのですが・・・。


続く。

 

映画「スパイと貞操」 後編

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映画「スパイと貞操」、後半です。

それにしてもこの映画の題名ですが、スパイはともかく後半の
「貞操」ってなんですか、と誰しも思うに違いありません。
そして、実際見てみると、さらに謎は深まります。

映画の中で貞操をどうこう言われそうな立場にあるのはただ一人、
上海陸戦隊の士官だった父を亡くした海軍省勤務の絹子ただ一人ですが、
この女性、事故を契機に近づいてきた大金持ちっぽい男に
花とプレゼントであっさり心を許し、即日デートに応じた上、
二度目のデートで何もかも許してしまうというフリーダムさ。

そもそも貞操を辞書で引くと、

女として正しい操(みさお)。妻として操を守ること。 また、男女が性的関係の純潔を保つこと。

とあるのですが、この映画にそういった事案は全くなく、また、
山野と絹子の恋愛も、決して貞操を問われるべきものではありません。

そこでこの映画の制作事情を調べてみると、こんなことがわかりました。

もともと企画段階での映画の題名は

「憲兵と女間諜」

であったそうです。
つまり、今日のタイトルには登場していませんが、山野を好きになって
彼のためにスパイ行為に手を染める絹子のことです。

当時東宝では、脚本の段階でボツになった、いくつかの
「憲兵とスパイもの」があったのだそうです。

たとえば、

「太平洋の薔薇」

日本で教鞭をとっていたアメリカ人教授の娘と、
彼女をスパイとし暗殺せよと指令を受けた憲兵の恋物語。

「太平洋戦争と幽霊戦士」

中野学校出の将校がスパイを捕らえてみたら中野の同級生で、
スパイと思って殺した中国娘は無実だったので、やけになって
終戦後も酒とアヘンに溺れ、浮浪者として行き倒れる。

どちらも面白そうですね(棒)

いずれの作品においても憲兵は「殺人者」として描かれていたのですが、
正義の憲兵というテーマに回帰した企画が、

「憲兵と女間諜」

だったのです。

この企画に登場する男女の恋に焦点を当てた結果、タイトルが
「スパイと貞操」に変わってしまったというわけなのですが、
これはどう考えても、センセーショナルなタイトルに釣られる
一定の層の受けを狙った制作会社の下心からくるものでしょう。

さて、スパイの一人武井に拷問して自白させた情報により、
憲兵隊捜査班は、彼を囮に機密の受け取り場所である
両国駅で張り込みをしますが、憲兵の目の前で受取人もろとも
むざむざと射殺させてしまいます。

犯人はホーム向かいの建物の中から二発で二人をしとめる、
まるでシモヘイヘみたな凄腕のガンマンです。

さて、海軍省勤務の絹子は、上司の目を盗んで
せっせと書類を盗み出しておりました。

しかし、実際に書類を抜いてガーターベルトに挟み、
持ち出すという素人丸出しの仕事ぶり。

これではばれるのは時間の問題です。

そこで山野は彼女にマイクロカメラを与えました。
なるほど、これで効率的に情報が盗み出せますね!

さて、今日もキャバレーに潜入捜査中の小坂に
一人のホステスがお誘いをかけてきました。

部屋に連れ込んで小坂を毒殺する指令が降ったのです。

女は小坂に毒入りの酒を運んできますが、自分のグラスにも
毒が仕込まれているとは思いもせず、一気に飲んでしまいます。

一方、小坂は自分は飲まずに女にだけ酒を飲ませ、
死んでしまった女に寄りかかって死んだフリ。

殺したはずの小坂の持ち物を漁りにきた人物を捕らえてみると・・・。

なんと、山野の秘書、田宮摩美さんじゃありませんかー。

さあ、捕らえたスパイは女ですよみなさん。

「女なら女のような調べかたがある。
恥ずかしい思いがしたくないなら今のうち吐くんだな」

この三流サスペンスみたいなチープな脅し文句、
ベタすぎて逆にワクワクしますね!

 

それにしても、小坂憲兵隊長の捜査のカンは冴えまくっています。

まず、田宮摩美が着ていたスーツを作った仕立て屋を突き止めます。
そこに聞き込みに行くと、店主が、

「田宮摩美はもう一着スーツを注文している」

そして別の仕立て師がその仕事を請け負っていると聞いた途端、

「そのスーツの襟をといてくれ!」

と命令するのですが、なんと襟の中にフィルムが縫い込まれていました。
どうしてそこまでわかったのでしょうか。

小坂は受け取りに来る人物を捕まえることにしました。

さっそく海軍の諜報部を呼んでフィルムの撮影会。

なんで海軍かと言うと、海軍から盗まれたものだからです。

「戦艦大和の設計図の一部です!」

砲塔部分ですから、これが本当に盗み出されていたものなら
大変な国家機密が漏れたことになります。

ただし、いくら海軍の人間でも、設計図を見た途端、
「大和です」と即答することはあり得なかったでしょう。

昭和14年というとまだ大和は建造中でしたが、
名前は最終的に天皇陛下のご裁断を仰ぎ、
昭和15年に「大和」「信濃」の二つの選択肢から選ばれたので、
このときは何人たりとも新造艦の名前など知る由もありません。

知っていたとしても「1号艦」あるいは「A140-F6」という仮称だったはずです。

しかも、大和建設は極秘裏に行われ、設計者に手交された
任命書すらその場で回収されたという(それでも配ったんですね)
くらいですから、諜報部とはいえ一軍人が知っていたはずはありませんし、
たとえ百歩譲って知っていたとしても、軽々に艦名を
陸軍軍人に伝えるなどということはなかったでしょう。

というわけで、せっかく海軍に関係あるエピソードだと思ったら、
歴史的考証は無茶苦茶でがっかりしてしまったのですが、
まあしょせん東宝の「スパイと貞操」ですから、こんなものに
史実を求めてもね、ってことで気を取り直して次に参ります。

海軍の情報が通信前に漏洩しているらしいと報告を受けた憲兵隊は、
絹子の勤める海軍省のオフィスで抜き打ち検査を行います。

そこでは山野の意を受けた絹子がスパイ行為真っ最中でしたが、
彼女はとっさに小型 カメラをゴミ箱にいれて乗り切りました。

「わたし、精一杯お芝居しましたわ!」

「ありがとう!それで絹子さん、
ぼくは明日から香港に行って帰ってこられないかもしれない」

「えっ・・」

でも僕は一時の気まぐれであなたを恋したのではない。
僕の生涯で心の底から本当に愛したのは絹子さんだけです!」

「山野さん、香港に連れて行ってください!」

「・・・・ありがとう!行こう、一緒に!」

(´・ω・`)えええ〜?

山野は翌日、絹子を使ってフィルムが仕込まれているはずの
背広をとりにいかせます。

なんだー、やっぱりそういうことだったのねー。

絹子、張り込んでいた憲兵隊に取っ捕まってしまいました。

車の中で彼女がスーツを取ってくるのを待っていた山野は、
その様子を見て両国駅でのように、彼女を射殺しようと銃を構えますが、
あと少しと言うところでどうしても撃つことができません。

まさか山野さん、絹子のことを本当に愛していました?

(-_-)/~~~ピシーピシー

さて、こちらでは女スパイ田宮さんの拷問真っ最中。

「上級機関は誰だ!」

田宮さんなかなかしぶとくて吐きません。

半裸の田宮さんに水なんかもかけたりします。
拷問にもかかわらずスパイだと自白してしまわないのは、
忠誠心というより、スパイだということが決定すれば、
当時の日本では問答無用で銃殺になることを知っているからでしょう。

本作のベースとなった「憲兵と女間諜」には、
男に籠絡され、軍機密を漏洩していた女性(本作における絹子)が
軍事裁判で銃殺の判決を受ける様子が描かれているそうです。

連行してきた絹子には、あらかじめ田宮摩美の拷問の様子を
外から見せて、自白を促すという手が取られました。

さんざん拷問を見せつけておいて、「ホトケの小坂」が、
こんこんと、しかしその良心に訴えるという方法で
彼女を落とすという手練手管です。

「あなたの愛している山野さんも利用されているだけなんだ。
用がなくなればきっと彼も殺される」

そして絹子は、メモの「365」が「熱海の365番」、
つまり王の電話番号であることを自白するのでした。
しかしなぜ彼女が上部機関の電話番号を知っていたのでしょうか。

憲兵隊は電話番号から割り出した王の家に乗り込みます。

こちら、スパイ組織「王機関」の元締め王徳元。

演じているのは江見俊太郎、「憲兵とバラバラ死美人」で
美人を殺す陸軍軍人を演じていた俳優です。

早稲田の政経卒で、学徒出陣で特攻隊に編成されたことがあります。
トップスターではありませんでしたが、演劇一筋で、舞台のほか
時代劇や特撮ものにも多く出演し、のちに俳優連合の副理事長、
芸団協常任理事、東京芸能人国保理事長として俳優の権利向上、
生活向上のための諸活動にも取り組んだという人でした。

 

さて、熱海の王の家では、テーラーや港湾会社社員などの
「手下」とともに王が香港にトンズラしようとしていたら、
そこに憲兵がやってきました。

浜辺から船で脱出しようとする一味を追って、
小坂率いる憲兵隊一個中隊は熱海の海岸にやってきました。

一人また一人と憲兵隊に仲間を射殺され、浜辺を全力疾走する王機関の人々。

逃走用の船を用意していた義足の男と一緒にいたのは・・

「山野さん!」

「絹子さん!」

銃弾の飛び交う中、衣子はハイヒールで砂浜を駆け出し、
転んで靴を脱ぎ、また走り出すのでした。

男もまた思わず駆け出していきます。
心の底から本当に愛した(らしい)女性を抱きしめるために。

そんな二人を王の凶弾が襲いました。

「やまのさん・・・・」_(:3 」∠ )_

「きぬこさん・・・・」_ノ乙(、ン、)_

瀕死の山川が胸から取り出したのは、絹子が置いて行った
プレゼントのコンパクトでした。

その山野の手にエメラルド の指輪をつけた絹子の手が伸ばされますが、
ついに二人の手か重なりあうことはありませんでした。

そこで、王らをすべて射殺し終わった小坂少尉が、
お節介ながら二人の手を重ねてあげることにしました。

「これでよしっと」

もし死なずに済んでもどちらも銃殺は間違いなしだったので、
彼らにとって最良のハッピーエンドと言えるかもしれません。

 

ところで、原作者である元憲兵、小坂慶助ですが、
特高として捜査に加わった事件は、

甘糟事件・虎ノ門大逆事件・田中義一大将事件、三百万円機密事件
三一五事件・四一六事件・濱口首相狙撃事件・十月事件・五一五事件
相沢中佐事件・二二六事件・宮城内局寮放火未遂事件

などなど、もし全部本当だとしたら昭和史そのものの只中にいたことになります。

そして終戦間際に外地に出征し、帰国してきた途端、上海の軍事法廷で
死刑求刑、結果禁固三年の刑に服しています。

出所後は、憲兵についてのいくつかの著書を上梓ししましたが、
その後の行方や没年等、一切不詳のままだそうです。

ソッピースキャメルに乗る犬・第一次世界大戦〜ウェストポイント博物館

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アナポリス、アメリカ陸軍士官学校内のアナポリス博物館、
その展示から、今日は米西戦争以降のものをご紹介していきます。

それでは参りましょう。
もしかしたらこれにすごく似た写真をご紹介したことがあるかもしれません。
説明はありませんでしたが、

「コースタル・ディフェンス」(沿岸防衛)

と名付けられたこのパートの写真は、まず間違いなく
サンフランシスコのバッテリーと呼ばれる沿岸の砲台を写したものです。

彼らの軍服を見てもおわかりのように、沿岸部分の防御は
真珠湾攻撃より遥か昔からおこなわれていました。

南北戦争の時には、南からアメリカ連合が攻めてくるかもしれない可能性、
そして、それが済んだら今度は、米西戦争で、
南から海沿いにスペイン軍が攻めてくる可能性を危惧したのです。

模型は1892年ごろの「シーコースト・ガン」(海岸線砲)。
沿岸防衛のために特に設計された砲で、サンフランシスコには
このタイプが当時設置されていました。

1902−1905年の間と言いますから、ちょうど日露戦争の頃です。
当時の陸軍重砲兵部隊の軍服です。

第一次世界大戦の航空

その頃になると、ライト兄弟の発明した飛行機が
さっそく最新鋭の兵器として軍隊に導入され始めました。

この不安定な空飛ぶ兵器にチャレンジして、死んでいった軍人は数多です。
たとえばこの写真のトム・セルフリッジ大尉は、ウェストポイント卒、
1908年には、近代飛行機を操縦した最初の米軍将校になりました。

ちなみに海軍第1号は「天空に投錨せよ」でご紹介した
セオドア”スパッズ”エリソン大尉ですが、彼の初飛行は1911年。
こちらは海軍なのでその必要性から陸軍に遅れを取ったと考えられます。

まだ実験段階だった航空界で航空部門に配備された彼は、
自分でも動力飛行機を設計するほどのパイオニアでした。

写真で無残にも墜落しているのは「ライト・フライヤー」号です。

そう、その名前からもお分かりのように、オービル・ライトの設計した
初期の飛行機ですが、この実験飛行の際、セルフリッジの操縦する機体は、
右プロペラの破損によって墜落し、その際、セルフリッジ大尉だけが
骨組みの支柱で頭蓋底を骨折、3時間後に意識を取り戻すことなく亡くなりました。

ちなみに操縦していたのはオービル・ライト、セルフリッジは同乗者でした。

オービルの証言によると、プロペラが破損した瞬間、セルフリッジ大尉はそれを見て、
一度二度、オービルの顔を不安げに覗き込み、そして
さらに機体が地面に向かって降下を始めたとき、”Oh!”と一言叫んだそうです。

Thomas selfridge smoking pipe.jpgセルフリッジ大尉

墜落の結果、オービルは無傷で、セルフリッジ大尉だけが亡くなりました。

もしこのとき、彼が頭部を保護さえしていれば死は避けられたはずで、
このことから、アメリカ陸軍のパイロットは、フットボールのギアのような
革製の重い帽子を着用することになったのでした。

そういう意味でも、彼は航空界に身を以て貴重な提言を行った
「パイオニア」となったのです。

第一次世界大戦ごろの陸軍飛行隊。
左手に並んでいるのはスペアの翼でしょうか。

陸軍航空隊着用のウール製オーバーコート。

第一次世界大戦時の寒冷地用フライトジャケットです。

 

大戦が始まって1ヶ月というもの、飛行機は偵察のために使われ、
1916年までに空中写真は戦争に欠かせない情報戦のツールとなりました。

そのうち航空機同士の会敵の危険性も増え、航空機の武装が始まります。
最初はパイロットがピストルやライフルを機上に持ち込み、
二人乗りの場合は一人を銃撃手としていました。

そのうち、想像力豊かなフランス人パイロット、ローラン・ギャロスが、
飛行機前面に取り付けた機銃でプロペラの回る隙間から弾を撃つ、
という超画期的なアイデアを思いつきましたが、そのころの機構ではどうしても
10発銃弾を撃てばそのうち1発はプロペラに当たってしまうので、
プロペラに防弾板を取り付けて、なんとか凌いでいたそうです。

ローラン・ギャロス

戦闘機パイロットとして自作の銃撃システムを搭載した
飛行機に乗って3機を撃墜したギャロスでしたが、ある日、
ドイツ領空内で撃墜されて彼の発明はドイツ軍の手に渡ってしまいました。

さっそくドイツはその飛行機をオランダ人の航空機エンジニア、
アントニー・フォッカーのもとにを持ち込み、
フォッカーは即座にプロペラ同調装置を搭載した、

パラベルムMG14機関銃

を発明してドイツ軍に納入し、その後の航空戦を有利にします。

無駄に超イケメンのアントニー・フォッカー

フォッカーはその後、同時期で最も有名な航空機製造メーカーとなり、
あのマンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵や、弟のロタールが
愛用した名機フォッカーDr.Iなどを世に出しています。

ちなみに、ドイツ領土に着陸して捕虜になってしまったギャロスですが、
収容所を脱走してフランスに戻り、再び空軍に復帰して戦い、
30歳を翌日に迎える日の戦闘で撃墜されて戦死しました。

合掌。(-人-)

 

先日陸軍の気球についてお話ししたことがありますが、
第一次世界大戦では「気球エース」(気球をたくさん落とした人)
というのがいたというくらいで、偵察には普通に使われていました。

左上の模型は、イギリス空軍のソッピース・キャメルです。
ところでこれをご覧ください。

 

「The World War 1 Flying Ace」の画像検索結果

ウェストポイントの展示にあったわけではありませんが、
「ソッピース・キャメルと第一次世界大戦」といえば、こんな漫画を知っていますか?

カリフォルニアの地方空港に、この漫画の作者の生地があり、
空港に併設された航空博物館ではこの犬がフィーチャーされていたものですが、
実はこの主人公の犬は、

「ソッピース・キャメルを駆る第一次世界大戦のエース」

になりきる空想をするのが大好きというキャラ設定になっています。

ゴーグル付き飛行帽を被り、マフラーを締めた姿で、
「フォッカー三葉機(フォッカー Dr.I)」に乗るライバルの
レッド・バロンとの空中戦を繰り広げる。
夜になると小さなカフェ(マーシーの家。給仕はもちろん彼女)へ行き、
ルートビアを楽しむ。

ウッドストックが担当整備兵やレッド・バロンの助手“ピンク・バロン”として、
また、マーシーがフランス娘役で登場することもある。(Wiki)

そこでお節介ですが、上の漫画を翻訳しておきます。

(パイロットの皆さん!ここにポケットの物を出してください)

犬「おはよう地乗員の諸君!」

「今は第一次世界大戦。
パイロットがソッピースキャメルの横でポーズをしているところ・・・」

「コンタクト!」

「さあ、哨戒に出るぞ!我々はレッドバロンを探し出し撃ち落とす!」

「今敵前線を横切っている・・・敵の塹壕が見えるぞ」

「突然フォッカー三葉機が雲からあらわれた!レッドバロンだ!」

「太陽を背にして急降下、全ての対空銃が僕を狙っている!
彼を照準に捉えたぞ!僕は・・・」

子供「   」

子供「だだだだだだっ!」犬「ああう!」落ちる

犬「多分僕、民間のエアラインの方が向いてるんだろうな・・・」

うーん・・

漫画としては面白くもおかしくもないですが、
犬の分際でフォッカーとかレッドバロンとか言うのがいいんでしょう。多分。

上の右下写真のように、前線を歩む第一次世界大戦の兵士たちは
空を飛ぶ航空機を羨望と脅威と、憧れをもって見つめました。

 

 

第一次世界大戦の軍装

前にも書いたことがありましたが、第一次世界大戦が始まった時、
多くの兵は防具を全くつけない布の服で戦場に赴きました。
中には戦場でステッキをついていた者もいたといいます。

そのうち多くが頭部に負傷するようになったので、
消防士のヘルメットを参考にした鉄兜が登場しました。

最初導入したのはフランス軍です。
アメリカ軍は遅れて参戦したときにイギリス仕様のヘルメットを導入しました。

(第一次世界大戦のアメリカ陸軍兵が、イギリス軍と同じ
平たいヘルメットをかぶっていたわけがたった今わかりました)

ここに展示してあるのは中世の鎧ではなく、全て第一次世界大戦中のものです。

説明板の左にある鎖帷子のようなマスクは、アメリカ陸軍の
戦車操縦をおこなう車長が着用していました。

第一次世界大戦に参加した各軍の制服コレクションです。

左から

ドイツ陸軍 二等兵

 分厚いウールでできたコートで、開戦後に着用されたものです。
 ヘルメットはこの頃からドイツらしいですね。

イギリス軍第42歩兵 二等兵

 第42歩兵師団は「ブラックワッチ」という別名があります。
 スコットランドで1740年代に組織された師団で、
 彼らは家系に伝わるタータンとは違う、政府を表す
 特徴的な格子柄の制服をもともと着用していました。

 同師団は全ての大英帝国の戦争において戦線に立ってきました。
 イギリス陸軍はこの戦争の始まる直前にオリーブドラブ色の
 制服を導入しています。

オスマン帝国トルコ軍 軍曹

 トルコは、脆弱なオスマン帝国の長としての地位を維持するために
 ドイツ軍の同盟国という立場で大戦に参戦しました。
   第一次世界大戦の敗北が帝国の運命を決し、結局トルコは
 近代的な民主主義の道に舵を切ることになりました。

 第一次大戦においてトルコ軍は1915年のガリポリの戦いで
 侵攻してくるイギリス軍から国土を防衛し、
 その勇気を称えられることになりました。

左;

イタリア陸軍「アルディーチ」(砂漠の軍)

      塹壕戦の急襲に特化したエリート特殊部隊です。
   この種の特殊部隊としては近代戦になって初めて組織されたもので、
   敵から最も恐れられることになりました。

アルディーチについてはまた後日詳しくお話ししたいと思います。

右;

フランス陸軍 軍曹

  ブルーのコートに同色のヘルメット、  
  襟の先に赤のポイントとオシャレ度高し。

  この色は「ホライズンブルー」と称し、お洒落のためのみならず、
  フィールドで見つかりにくい色とされていました。

  第一次世界大戦ではいろんな新兵器が導入されましたが、
  フランス軍の制服は基本的に1800年台から変わっていなかったとか。

うーん、さすがおフランス、デザインにかなりのこだわりありだ!(適当)

 

続く。

 


アルディーティとシュトゥース・トルッペン(突撃歩兵)〜ウェストポイント博物館・第一次世界大戦

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アメリカの陸軍士官学校、ウェストポイントにある軍事博物館の展示から
第一次世界大戦に関するものをご紹介しています。

第一次世界大戦の白兵戦

まるでマンガの原始人が持っているようなトゲつきの棍棒、
各種ナイフ、鉄条網カッター、そしてバックミラーになる剣。

これらはすべて第一次世界大戦参加国軍隊が塹壕戦で使用された武器です。
ミリタリーナイフも、塹壕における白兵戦で用いられるためには
特別の仕様を必要としました。

ドイツ軍とオーストリア軍は従来のデザインのナイフを使い続けましたが、
塹壕では戦闘時を除いて役に立たなかったといわれます。
展示されているアメリカ軍のナイフ(左端)とベルギー軍のナイフ(右端)は
どちらも「刺し」専門です。

いずれにしても相手に肉薄したときには、ナイフよりも拳銃、銃剣、
なんならトゲつき棍棒の方が有効だったと言えるかもしれません。

事実、塹壕陣地の制圧のためには歩兵による白兵戦がまだしも有効で、
したがって、ナイフや銃剣、スコップといった、まるで
中世と変わりない武器がまだまだ現役の状態でした。

 

この中では一番新しいのが右端のアメリカ製で1917年タイプ。
このライフルは第二次世界大戦でも引き続き使用されました。

そして、下に脚を立てて置いてあるのがフランス製の軽機関銃です。


第一次世界大戦には近代兵器が次々と投入されました。
迫撃砲。航空機。ガス。

しかし、ヨーロッパ全土を覆い尽くすような塹壕が前線となったとき、
技術的にも未熟なそれらの武器で戦況を打開することはできませんでした。
まず、塹壕そのものが時を経るに従い、鉄条網で強固に守られていったこと、
そして塹壕陣地を防衛する、恐るべき兵器が登場していたからです。

第一次世界大戦に参加した人々が初めて遭遇した恐るべき兵器、機関銃です。

機関銃と塹壕

写真下は、第一次世界大戦で使用された機関銃、
ルイス軽機関銃です。
下の菊の御門みたいなのは弾薬マガジンで、
弾薬が5発消化された状態で展開して展示してあります。

機関銃による弾幕射撃の中、突撃する歩兵は易々と倒されていきました。

人海戦術など、生身の人間が行う限り、この新兵器の前には
全く無力であることがあらわになったのです。

そのため、戦線は膠着し、いたずらに人命だけが大量に失われていくばかり。
第一次世界大戦が、開戦時は想像もされていなかった総力戦となり、
長引いて終わらなかった原因の一つは、機関銃にあったのかもしれません。

 

シュトゥース・トルッペン(ドイツ突撃歩兵)

さて、前回、イタリア軍のアルディーティという特殊部隊の制服をご紹介しましたが、
すこし、このことについて詳しく触れておきたいと思います。

突撃歩兵(Stoßtruppen シュトース・トルッペン)

という言葉は、パンツァー関係に萌える層でも馴染みがないかもしれません。

 

繰り返しますが、第一次世界大戦の象徴ともなる塹壕陣地は、
野砲による攻撃、航空機、戦車、毒ガスなどという新兵器をもってしても
戦局を打開する決め手になりませんでした。

その頃ドイツ軍がその硬直した塹壕戦を制すべく生まれたのが、

「浸透戦術」(Infiltration tactics)

と連合軍の呼ぶところの戦法でした。

その戦術の思想をあえてひとことでいうならば、

「正面突破ではなく、弱いところから浸透するように突破する」

特に選抜されたメンバーによる小隊が、迅速に塹壕に肉薄し、
敵を制圧しているうちに残りの軍勢が全体に攻勢をかけるという方法です。

さらに具体的には、

「攻勢直前に歩兵を最前線に集結させる」

「毒ガス弾を混ぜた短時間での急襲(砲撃)」

「強点を避けて弱点を攻撃する」

というのが攻撃のポイントでした。

1918年にドイツが最後に攻勢をかけ勝利した春季大攻勢では、
突撃歩兵隊は、敵の抵抗の中心を避けて弱いところに回り込み、
それに成功したのちは、真っ先に通信所、そして指揮所を破壊しながら前進。

この戦法で相手(イギリス軍)はたちまち士気を崩壊させられ、
大敗走することになり、前線は大きく後退させられることになりました。

 

この立役者、突撃歩兵が編成されたのは春季大攻勢の3年前のことです。

工兵の中から特に体力に優れ、俊足の若者という条件で
選び抜かれた、超エリート特殊部隊でした。

彼らの任務は、相手の機関銃から自分の身を守るため自ら弾幕を構成し、
敵陣に素早く肉薄したのち、塹壕内を掃射し、制圧すること。

そのためにドイツが開発したのが、彼らの身を守るための短機関銃、
写真の兵士が手にしているベルグマンMP18でした。

この牽制射撃によって援護された突撃歩兵が敵陣まで疾走し、敵に近づけば
短い射程の拳銃をもってしても十分制圧が期待できました。

春季大攻勢の大勝利は、突撃歩兵とMP18のおかげだったといえましょう。

少なくともこの戦いでドイツは大きく前線を前に進めることになり、
その結果、ドイツ軍はパリを列車砲の射程に収め、砲撃を行うに至りました。

人々がこの戦いを「皇帝の戦い(カイザーシュラハト)」と呼び、
国内は戦勝祝賀ムードに包まれたというくらいの圧倒的な勝利でした。

ただし、追い詰められていたドイツは、兵力不足の上機動力も足りず、
この大勝利を有利な戦局へとくつがえすほどの余力もなかったため、
敗戦を迎えることになったのは、皆さんもご存知の通りです。

 

アルディーティ(イタリア特殊急襲部隊)

そして、イタリアの特殊部隊、アルディーティについてもご紹介しておきます。

アルディーティの編成理由も、ドイツと同じく塹壕戦の打開でした。
シュトゥース・トルッペンはエリートを選抜して編成されましたが、
こちらはさらに選ばれたエリートに訓練を施して養成したため、
結成はドイツより2年後の1917年となっています。

1万8千人の訓練された兵士、「アルディーティ」の初陣は1918年6月15日。
イタリア王国軍がオーストリア=ハンガリー軍とピアーヴェ川を挟んで対峙した、
「ピアーヴェ川の戦い」です。

特殊訓練された兵士は、口にレゾルザ・ナイフを咥えて川を泳いで渡り、
向こう岸のオーストリア=ハンガリー軍の陣地を攻撃しました。

「arditi」の画像検索結果

アルディーティの旗は、髑髏がナイフを咥えている意匠。
もちろんこのときの史実に基づいたデザインです。

「COMSUBIN」の画像検索結果

現在のイタリア軍にはCOMSUBIN(潜水奇襲攻撃部隊)という
特殊部隊が存在しますが、そのマークは「刀を咥えたカイマンワニ」。
もちろんアルディーティの勇士を称えたデザインです。

 

アルディーティは、体力、技術力、そして精神的な強さを考慮して選ばれ、
武器の使用と白兵戦における近接戦闘など攻撃戦術の特殊訓練を受けました。

手榴弾、火炎放射器、射撃などの訓練中に何人もの兵士が殉職しています。

中世の騎士ではありません。
ファリーナというヘルメットを付けたアルディーティの兵士です。

アルディーティがあまりにもカッコ良かったので、バッジやシンボルの多くは
のちにイタリアに生まれたファシスト政権に多用されることになりました。

「黒シャツ隊」の黒も、アルディーティのシンボルカラーから取られています。

 

第一次世界大戦=毒ガス戦

第一次世界大戦というともう一つそれを印象付けるもの、
それは毒ガス戦でした。

写真はドイツ軍のガスマスクと防ガス服。
粘膜を糜爛させるガスがあったため、皮膚を覆い隠す必要がありました。

イギリス軍使用のガスマスク。

ガスを発生させるタンクと、持ち運びのためのバッグ。
小さい魔法瓶のようなものもガスタンクです。

当時、すでに毒ガスの使用はハーグ陸戦条約違反だったのですが、
1914年、ドイツ軍は、それを無視して侵攻したベルギーの小さな村、イーペルで、
風上からイギリス軍陣地に塩素ガスを散布し、前線が崩壊しました。

そのあとは条約などなし崩しに無視されることになったため、
ガス兵器を使用したのはもちろんドイツだけではありませんでしたが、
科学者フリッツ・ハーバーを擁し、化学工業の発達していたドイツで
もっとも多くの毒ガスが製造され、使用されたというのも事実です。

ちなみに、以前もお話ししましたが、マスタードガスは
最初の使用地であるイーペルから取られた

「イペリット」

という名前が広く認識されて今日に至ります。
イペリットは毒ガスの中でも特に浸透性が高く、防護も困難で
前線の兵士たちに恐れられました。

わたしがかつて訪れたウサギ島、大久野島にはかつて毒ガス工場があり、
ここではイペリットも製造されており、日本人はこれを
「きい剤」と呼んでいた、という話をここでしたことがあります。

 

第一次世界大戦の情報戦

第一次世界大戦では、大規模な軍隊が投入されたため、
命令を伝達するのも部隊を統制するのにも、通信が重要な力を発揮しました。

通信方法、それは電信、手旗信号や旗旒信号など目に見えるもの、
通信将校、そしてメッセンジャーなどです。
しかしながらこの戦争の間に革新的なが登場しました。

無線、伝書鳩などです。

塹壕戦では旗旒信号や手旗信号はたちまち敵の狙撃手の的になるため、
電話が主な通信の手段となりました。

 

通信のためのケーブルは塹壕を掘った地面、六フィートの深さに敷設されます。
しかしこれでも依然として大砲の着弾に対しては脆弱だったため、
システムを確立するためにバックアップシステムが設置されました。
そのために注ぎ込まれた時間と労力は莫大なものがあったそうです。

ただし、これらも敵の集音機器によって音を拾われ、
通信が傍受されるという可能性は依然としてありました。

この問題を解決するためには、振動をあえて混合させて聞き取りにくくするため、
当初、ケーブルはいくつかがまとめられて拗られていましたが、
のちにダミーのバイブレーターが取り付けられ、傍聴の問題は解決しました。

また、原始的な無線機はそのものが大きくて、明らかなターゲットとなり、
使用が限定的になっていました。
さらに、壊れやすいという問題も最後まで残ったと言います。

ここに展示されていた電話機は、ドイツ軍使用のもの。

ガスマスクをした兵が、野外に設置した通信機を使って
通信し、その伝令をメモしているところです。

 

 

続く。

 

 

パットン将軍を救った男とボーナス・アーミー〜ウェストポイント軍事博物館

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ニューヨークのハドソン川沿いにある陸軍士官学校、ウェストポイント。
ここにある軍事博物館は、一般に公開されていますが、本来の目的は
士官候補生たちの教育用であり、彼らは必要とあればここにきて
祖国と世界の軍事史について学ぶことができるようになっています。

それだけに、展示は軍事について体系的に知ることを核としており、
添えられた解説も当たり前ですが大変しっかりしたもので、
かつ歴史観においても、ニュートラルを心がけているように思えました。

さて、今日のコーナーは、

「第一次世界大戦終了後から第二次世界大戦まで」

として、まずこのようなポスターから始まる展示をご紹介します。

女神の下に並ぶのは、独立戦争、インディアンとの戦争、米墨戦争、
南米戦争、米西戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦の兵士たち。

おそらく、第二次世界大戦が始まる前、つまり本日のテーマで語られる
出来事が起こった頃に製作された、プロパガンダポスターでしょう。

 

ボーナス・マーチ(進軍)

第一次世界大戦後、アメリカの軍隊は急激に動員を解除していきました。
そして、ヨーロッパ諸国に対して、基本不干渉を原則とする

「モンロー主義」

が外交の姿勢となっていました。
ジェームス・モンローが不干渉の演説をしたのは米墨戦争の頃なので、
この孤立主義はアメリカのいわば外交の基本姿勢だったはずなのですが、
なぜかアメリカは第一次世界大戦に参加したわけです。

わたしにはこの時期の孤立主義回帰は、戦争がすんだばかりのアメリカが
単に賢者モードになっていただけ、という気がします。

多分ですけどね。

しかも南北アメリカのあるアメリカは、権益は守るために、
こちらからは不干渉だがそちらからも干渉するな、という態度。
これこそがアメリカの孤立主義の正体だったんじゃないんでしょうか。

 

さて、1932年、フーバー大統領の時代に、第一次世界大戦の退役軍人、
そしてその家族、関連グループが、年金の早期償還のために必要な
在軍証明書を要求するために大規模のデモを行いました。

Bounus March、Bonus Army

また、第一次世界大戦の遠征軍(American Expeditionary Force)をもじって

Bonus Expeditionary Force

と呼ばれた4万3千人のデモ隊を率いたのは、第一次世界大戦に従軍した
アメリカ軍軍曹、ウォルター・ウォーターズでした。

「walter w. waters」の画像検索結果先頭:ウォルターズ

第一次世界大戦の退役軍人たちは大恐慌によって尽く職を失い、
困窮して、即時現金払いを政府に求めるためにワシントンに乗り込んだのです。

「ウォータイム・ミリタリー・ボーナス」

と呼ばれる軍人年金は、1776年には始まっていました。
どういうものかというと、兵士が入隊していなかった場合に獲得していたはずの給金と、
実際に得た給与の差額を、政府から返してもらえるという制度です。

特に身体障害を負った退役軍人への補償を目的に開始されたもので、
ボーナスは地域によっては工作可能な土地を含むこともありました。

さて、ワシントンまで「進軍」してきたボーナス・アーミーは、
フーバーヴィルにこのようなシェルターを作って住み着きました。
さすがに元軍人たちだけあって、キャンプの統制はしっかりしており、
道路整備や衛生施設の建設を行った上で、毎日パレードを行いました。

キャンプへの参加資格も厳密に検査され、実際に
第一次世界大戦に参加してしたという証明がないとできなかったほどです。

ボーナスを出す法案は下院を通過しましたが、キャンプの人々が見守る中、
上院では62対18票で大敗してしまいました。

 

その1ヶ月後にあたる7月28日、フーバー大統領は、
抗議者たちに解散を命じ、実力行使を行います。

軍隊を動して、騎兵、歩兵、戦車、機関銃でもってワシントンから
ボーナスアーミーたちを強制排除しようとしたのです。

軍隊はいわば同じアメリカ軍のベテランに対し銃口を向けたのでした。
彼らにとってそれは決して愉快でもなければ大義名分もない仕事でしたが、
軍隊として粛々と出動したのです。

この時出動したのは第12歩兵連隊、第3騎兵隊。
総指揮官はダグラス・マッカーサー将軍です。

真ん中マッカーサー

そして、ジョージ・パットン将軍が指揮する6基のM1917 軽戦車の砲口が、
第一次世界大戦に参加した退役軍人たちに向けて設置されたのでした。

ボーナス・マーチャーズたちは、これら軍隊は自分たちに敬意を払うために
行進しているのだと信じ、かれらに喝采を送っていましたが、
パットンが戦車隊に装填を命じた途端、それが自分たちに向けられていることを悟り、

「Shame! Shame!」(恥!恥!)

と軍隊に向かって罵りだしました。

しかし、騎兵隊の突撃に次いで、歩兵は銃剣と催涙ガスを携えて
キャンプに突入し、退役軍人とその家族を追い出したのです。

キャンプ中人が川の向こう岸に逃げたところで、フーバー大統領は
攻撃を止めることを命じましたが、ダグラス・マッカーサー将軍は
大統領命令を無視してさらに追い込むように新しい攻撃を命じ、
その結果、55名の退役軍人が負傷し、135人が逮捕されました。

この結果、退役軍人の妊娠中だった妻が流産し、12歳の子供が
催涙ガスの攻撃に巻き込まれた後に病院で死亡しましたが、
政府の調査では彼は腸炎で死亡したという報告がなされました。

しかも病院側の報告は完全に政府寄りで、催涙ガスの効果はなかった、
と断言する忖度しまくりのものだったということです。

ちなみに、後の大統領アイゼンハワーは、当時マッカーサーの補佐官でした。
彼は、自分のアリバイ作りのためか、このときの退役軍人への攻撃について、

「陸軍最高位の将校としてこれは間違っているので、
役割を果たさないようにとマッカーサーに強く忠告した」

とのちに語ったそうですが、ほんまかいな。

そういいつつも、公式な報告書の上ではマッカーサーの判断を
支持する立場をとってるんだよな。このおっさん。

まあ、立場上そうせざるを得ないのが組織人というわけで、
良心と組織としての立場の板挟みでなかなか辛かったということでしょう。

知らんけど。

 

さて、同じような試練はパットン将軍にも起こりました。

Joseph T. Angelo.jpg

ジョー・アンジェロは第一次世界大戦のヒーローです。

彼はヨーロッパ戦線で傷ついたパットン大佐を引きずって
安全な位置まで避難させて命を救い、その功労に対し
功労十字賞を受け取った、パットンの「命の恩人」でした。

この二人がそれから14年後、ワシントンで再会しました。

一人は大恐慌で職を失い、政府に年金を要求するデモ隊の一員として。
一人は政府に命じられて彼らを排除する軍隊の指揮官補佐として。

軍隊とデモ隊の間に起こった乱闘で二人の退役軍人が死んだ日、
アンジェロは戦車隊の指揮をするパットンを見つけ、
面会を求めましたが、パットンはすげなくこれを拒否しました。

このときにパットンはこう言ったと歴史に残されています。

「わたしはこんな男など知らない。
この男を何処かに連れて行き、そして二度と戻ってこさせるな」

そして、その上で周りの将校たちに向かってこう言ったそうです。

「あの男は戦火の中わたしを塹壕から引っ張り出して引きずり出した。
だからあの男に勲章を与えたんだ。

戦争以来、わたしとわたしの母は彼を支えてきたつもりだ。
金を与えたし、何度か就職の世話もしてやった。

諸君はもし私たちがあの時言葉を交わしていたら、
今朝の新聞の見出しがどうなっていたか想像できるかね?
もちろん、私たちは彼の面倒を見るよ。これからもね」

 

このエピソードは、ボーナス進軍騒ぎの本質を表しているとされています。

アンジェロは、落胆した忠実な兵士としてパットンと再会しました。
そのパットンは、アンジェロの献身的な忠誠あったからこそ命存えたのです。

しかし、パットンはアンジェロとの面会を拒否しました。

つまり、自らの犠牲によって献身的に国に尽くしたはずの退役軍人たちが、
その国と軍から否定された、というのが事件の全てだったということです。

 

この事件でむしろ退役軍人に対して国より無情だったのは、
経緯を見る限りマッカーサーであり、陸軍だったとわたしは思うのですが、
当時のアメリカ国民はは軍人に対してではなく、なぜか最初に命令を下した
大統領、フーバーを断罪し、次の大統領選の結果に影響を及ぼしました。

彼の不幸はこの直後に大統領選挙を控えていたことだったでしょう。

フーバーの判断ミス?のおかげで大統領選に滑り込んだルーズベルトは、
妻のエレノアを護衛なしで退役軍人のキャンプに送りました。

彼女は、歌を聞かせてもらったりして融和的に接し、退役軍人たちに
市民保全部隊(CCC)(後述)での地位を約束しました。

一連のニューディール政策でルーズベルトは調整報酬を可決し、
退役軍人と彼らを見捨てない態度を評価した人々によって支持されたのです。

 

市民保全部隊(CCC)と雇用促進局(WPA)

退役軍人たちの自尊心をくすぐるために?「部隊」としたのでしょうが、
実態は恐慌後の失業対策プログラムでした。

ピッツバーグのシェンリー公園という市中の広大な自然公園にかかる橋に
WPAというマークが入っていて、この公園の整備は

雇用促進局 (Work Projects Administration)WPA

によって雇われた失業者の手で行われたことをここでも話したことがあります。

ブレホン・バーク・サマーヴィル将軍(1892−1955)

将軍になってからではなくなぜ士官候補生の写真なのかというと、
多分ウェストポイント時代の彼の方が男前だったからではないでしょうか。

それはともかく、このパートになぜこの人の写真があるかというと、
彼は工兵隊卒機関指揮官として、ラガーディア空港の建設を含む
一連のWPAプログラム事業推進の指揮官として腕を奮ったからです。

 

結果この大プロジェクトを見事に取り仕切った彼は、ワシントンポストから
「米国陸軍が産んだ最も有能な将校の一人」と称えられることになります。

アメリカ陸軍需品科の司令官となって彼が指揮した一連のプロジェクトで
最も有名なのは、アメリカ国防総省ペンタゴンの建設でしょう。

 

CCCはそれよりも対象を若年労働者とし、職業訓練を兼ねて
道路建設、ダム建設や森林の伐採、国立公園の維持管理作業を行いました。

どちらもルーズベルトのニューディール政策に則ったものでしたが、
性質としてどちらかといえばWPAの方が職種に幅があったかもしれません。

その中にはたとえば失業した芸術家に対する救済プログラム
(フェデラル・ワン)とか、数百人以上を共同で対数表の作成に参加させた
歴史上最大かつ最後の人間計算機プロジェクトである、

対数表プロジェクト(Mathematidal Tables Project)

などというぶっとんだ失業対策もありました。

これが何の役に立ったかは、また別の日にお話しします。

 

 

続く。

戦時における科学技術の発達とマンハッタン計画〜ウェストポイント軍事博物館

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陸軍士官学校、ウェストポイントの軍事博物館の展示をご紹介しています。

 

第一次世界大戦後に起こった退役軍人たちのデモ、ボーナスマーチは
第二次世界大戦の勃発によって完全に収束することになります。

国民はまた新たな戦争に向かって歩み出したのでした。
戦争と戦争の間に起こったボーナスマーチ以外に、アメリカでは
着々と次の戦争に備えて戦時体制が整えられていきました。

 

予備将校訓練隊(ROTC)


予備将校訓練課程(Reserve Officers Training Corps)ROTC

一般大学を卒業した者が任官し将校になる精度、予備将校制度は、
アメリカでは1800年代後期には制定されていましたが、1918年、
私立の陸軍士官学校を前身として設立された大学に
将校養成のカリキュラムが制定されたときから本格的になりました。

 

わが日本では、普通大学を卒業後、自衛隊入隊してから幹部候補生となり、
訓練を経て士官将校になるわけですが、アメリカでは少し違います。

特定の州立・私立大学のなかに士官教育課程があるのです。

このカリキュラムを終了すれば、海軍士官学校、陸軍士官学校卒と同様
卒業と同時に任官することができ、大学の卒業式には、
立派な士官の制服を着て帽子投げなんかもできちゃうというわけです。

 

息子の留学している大学でも、入学式のガイダンス期間、陸海空軍が
ブースを構えて、日本の地本に相当する軍人が受付をしているのを見ましたが、
四軍ともに予備学生はSTEM(科学、技術、エンジニアリング、数学)
を専攻していることが合衆国国民であることの次に採用前提条件となります。
特に原子力専攻の学生は喉から手がでるほど欲しいようです。

そのとき(息子は全くの対象外にもかかわらず)パンフレットを取ってきたので
わたしも知ったのですが、もし予備学生プログラムを選択した学生は、在学中
学費の一部又は全額を国が払ってくれる上、奨学金数百ドルを受け取れるのです。

大学の成績を維持しつつ、陸海空海兵隊の訓練を受ける義務が生じるとはいえ、
学費を負担してくれる予備士官育成過程は平時でも人気がありますが、
特に911などの国家的危機があると、任官志望者が増える傾向なのだとか。

 

現在のアメリカ軍における一般大卒の士官は40%と多く、
優秀であれば最高指揮官になるのにも何の障害もありません。

ちなみに、ROTC出身の有名な人物にはカーチス・ルメイ、コリン・パウエル、
ジェームズ・マティス、ドナルド・ラムズフェルドなどがいます。

訓練を受ける一般大学軍事課程の学生たち。

ROTC在学中の候補生たちが身につける記章です。
ちなみにROTCというのは陸軍に進む課程の名称で、
海軍と海兵隊はNROTC、空軍はAROTCです。

もう一つお節介ついでに書いておくと、陸軍の士官候補生を「カデット」、
海軍のそれを「ミシップマン」と呼びますが、それでは空軍と海兵隊は?

答えは、空軍が「カデット」、海兵隊が「ミシップマン」なんですよ。

 

たとえば海軍の予備士官プログラムを選択すると、大学の授業が始まる前、
あるいは終わってから軍事訓練や講義などを受け、夏休みの間には
訓練のための航海などに参加する義務がありますし、海兵隊は
陸自の「山に行く」というのを休みのたびに繰り返したりします。

予備学生には所属先から軍服も支給されます。

基本のユニフォームはポリウールカーキですが、サマーホワイトと
サービスドレスブルー(一般にSDBとして知られています)は、
大学のキャンパスでもよく見られます。

海軍作業服も支給され、学内で着用することを奨励されます。
そういえば息子の大学で軍服で歩いている学生を何度か見たことがあります。

 

 

第二次世界大戦の医療

第二次世界大戦時に救急医療チームが戦地で使用していた救急キットです。

戦争は兵士と民間人どちらもに多くの痛みと苦痛を齎しましたが、
その反面、多くの医療サービスと技術の発展をも加速させたのも事実です。

 

たとえば、はしか、インフルエンザ、髄膜炎などの伝染病の治療は
第二次世界大戦の期間に大きく進歩を遂げることになりました。

具体的には戦地となった太平洋地域における抗マラリア薬、
キニーネの代替品としての合成薬、アタブリンの開発と大量生産です。

軍事医療の主要問題の一つである脳神経外科においても、また、
戦傷による欠損を修復するための整形外科、プラスティック再建術、
そして顎顔面外科において、二度の世界大戦を経て技術は急速に発達しました。

また、火傷の外科的および臨床的治療も研究がなされ、進歩を見ました。

苦痛緩和の分野においては、新しい麻酔薬とプロカインにより、
外科医は体の広い領域の痛みをブロックすることができるようになり、
この技術はすぐに無痛分娩のメソッドに生かされることになりました。


さらにサルファ材とペニシリンの大量生産と使用により、
術後感染が大幅に減少しました。

物理療法の技術と義肢の素材、技術の発達も外科的治療の補完となり、
戦傷による四肢欠損者、あるいは重傷者を治療するために新しい方法が生まれます。

また、傷病者の輸送手段も大きく変わりました。
救難航空機の使用など新しい避難技術により、患者を
迅速に、安全に医療施設まで輸送できるようになりました。

 

しかし、戦争によってもたらされた最も重要な医学的進歩の一つはというと、
米国での広範な献血システムの確立に違いありません。

陸軍およびその他の政府機関の医療サービスのアドバイスと技術支援により、
アメリカ赤十字社は、戦争中、毎週5万リットル以上の血液を
自発的に献血によって集めることのできるシステムと施設を全米に設置しました。

それに伴って、大量の血液、乾燥血液、外科用フォームの生成に使用される血液副産物、
および血漿の輸送、処理、貯蔵のための新しい技術と施設も開発されていったのです。

このときに確立された大規模なネットワークは、戦後も
赤十字の血液バンクとして国民のために存続し現在に至ります。

第二次世界大戦中、傷病兵の手当てをする衛生兵。

写真は、第二次世界大戦中の戦地で、赤十字の旗をロープにかけた
簡易救護所で負傷兵の手当てを行なっている5名のメディック。

周りの地形から見て、硫黄島での一コマではないでしょうか。

さて、その下にあるブーツですが、男物にしてはなんだか華奢ですね。
そう、これは陸軍女性隊(WAC)の着用したフィールドブーツです。

 

陸軍女性部隊(Women's Army Corps)

1945年5月、マサチューセッツ州議会議員の
エディス・ノース・ロジャース名誉議員は、
女性陸軍補助隊(WAAC)を設立する最初の法案を導入し、
議会は即座に承認しました。

その二日後、オヴィータ・カルプ・ホビーはWAACの総司令への就任宣誓を行いました。

「ovita culp hobby」の画像検索結果宣誓中

WAACの最初の訓練センターがアイオワ州のフォート・デモインに開設され、
1943年までには20,943の女性がWAACに入隊しましたが、
彼女らの軍的ステイタスはあくまでも「補助」であり公式なものではありませんでした。

ワックさんたちフィールド訓練中。

1943年7月1日、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは
女性隊の名前をWAACから「補助」を抜いたWACに変更する法律に署名しました。

WAC入隊者数は爆発的に増え、最終的には9万9千288名に達しています。
第二次世界大戦の間、アメリカ陸軍の女性はあらゆる任務に赴いて
そこで愛国心を示し、苦難に耐え、戦争の全ての現場で見識を持って奉仕しました。

補助部隊として、航空機を輸送するなどという技術職、あるいは
航空整備、車両整備などの後方支援には多く女性が携わりました。

もちろんその中には戦争によって犠牲となった人たちもいます。

女性部隊が力を発揮した兵種の一つが、医療関係でした。
陸軍は

陸軍看護士部隊(Army Nurse Corps)

を1901年には組織していました。

看護士部隊の募集ポスターです。
やはり美人を使ってますね。

ここには、アーミーナースコーアの軍服が展示されています。

これを着用していたのは、ジュリア・ケール陸軍大尉。
ヨーロッパ戦線から帰還したのちは北アフリカ、再びヨーロッパと転戦し、
朝鮮戦争、最後にはベトナム戦争にも参加した歴戦の勇士で、
彼女の陸軍でのサービス歴は30年以上に及びました。

 

マンハッタン計画

マンハッタン計画とは第二次世界大戦中、原子爆弾を開発、
建造するための陸軍のプログラムに与えられた名でした。

1942年の秋、レスリー・R・グローブス代将はマンハッタン計画の
総司令官に就任します。

レスリー・R・グローブス(1896−1970)

陸軍士官学校1918年卒。


ここに展示してあったのはグローブスのクラスリングと
彼のエンジニア記章です。

 

この研究は化学研究開発局や他の前身組織の管理下、
さまざまな政府や大学の研究所で実施されていました。

たとえばコロンビア大学、カリフォルニア大学、そしてシカゴ大学など、
一般の大学の研究室での研究結果が一つの目的のために集約されます。

それはまさにアメリカ国民の頭脳をかたっぱしからあてにするといった風であり、
前回もお話ししたように、失業対策として立ち上がったWPAプログラムで

対数表プロジェクトMathematical Tables Project

もそのなかのひとつでした。
コロンビア大学から提出された資料の中には、450人の失業者
(といってもその全員が大学の教授や学位を持つ数学者で
中にはアインシュタインの助手もいた)を対数表プロジェクトで採用して、
指数関数、対数、三角関数などのより高度な数学関数を集計したものもありました。

これらのデータは、 LORANナビゲーションシステム、マイクロ波レーダー、
爆撃、衝撃波、伝播などを解析するもので、ほとんどが軍事技術に役立ちます。
もちろんこの計算式がマンハッタン計画にも取り入れられたのでした。

 

核分裂性物資を製造し、核分裂性ウランを生産するため、
テネシー州のクリントン・エンジニアワークス、
プルトニウム製造のためにワシントンのハンフォード・エンジニアワークス、
ニューメキシコのロスアラモス研究所が研究と開発を行いました。

マンハッタン計画に関わった労働者はのべ12万9000人。
最終的には2億ドル以上が投入されました。

そして1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードでの実験に成功しました。

原子爆弾の実験結果として資料になっている飲料缶(左)とリンゴ。
80年経ってもリンゴが丸い形を止めているのが不思議です。

 

そして、翌月初旬には、世界初の原子爆弾が日本の広島、ついで長崎に投下されます。
プルトニウム爆弾も開発されたのでそちらを落とすために決定されたのが長崎でした。

戦時下のプロジェクトに関連した科学的研究は
医学や公益事業などの多くの平時の分野での進歩を加速させることになったのです。

なぜかここにあったドイツのカイザーヴィルフェルム研究所の看板。
フリッツ・ハーバー、アルベルト・アインシュタインが在籍したことで有名ですが、
世界で最初にウランの核分裂に成功した、オットー・ハーンと
フリッツ・ストラスマンもここで研究を行っていました。

この成功を受けて、原子力発電の研究がまず立ち上がったのですが、
その後第二次世界大戦が始まると関心は原子爆弾の開発へと移ります。

科学者たちの関心が原子炉にあるうちに、アメリカでは
国家総力を上げて人類の上に投下するためにこれを完成させたのでした。

 

 

続く。

 

 

 

アメリカ陸軍 空挺師団とレンジャー部隊〜ウェストポイント軍事博物館

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ウェストポイント併設軍事博物館の展示は、時代を追っておらず、
単発的なテーマでまとめられていることが多いので、
当ブログが記事も全体から写真を集めてくるのが大変でした。

今回は、第二次世界大戦に関する展示をご紹介します。

陸軍航空隊が創設され、第二次世界大戦の各場面に参加するまでを一面にまとめました。

 

左から、このブログではもうおなじみ(多分)ハップ・アーノルド将軍、
(1907年クラス)「できる男」カール・スパーツ将軍(1914年クラス)
一番右はホイト・サンフォード・ヴァンデンバーグ将軍、
いずれも陸軍航空隊の重鎮です。

アーノルド将軍は陸軍航空軍総司令官、スパーツ将軍は、
アーノルド将軍の引退後、第二代総司令官となり、
戦後にアメリカ空軍が創設されると、初代空軍参謀総長に就任。

ヴァンデンバーグはスパーツの後を継いで第二代空軍参謀総長となりました。

 

ここで陸軍航空隊の歴史をざっとご紹介しておきます。

1947年空軍が創設されましたが、だからといって陸軍の、つまり
ウェストポイントの卒業生の航空分野への貢献が終わったわけではありません。

1943年から1946年にかけて、1000人以上の士官候補生が
陸軍航空隊に任命され、その後多くの卒業生が、航空隊黎明期には
参謀長から個々の駆け出しのパイロットまで、空軍初心者として
陸軍士官学校の印章を手にしました。

空軍の創立と同時期に陸軍航空隊も独立をします。
小型飛行機は当初は野戦砲兵隊が弾着を観測するため、
のちに偵察や救急搬送に使われました。

朝鮮戦争に陸軍はL-19とH-13ベルヘリコプターで参戦しました。

ヘリコプターは1951年1月に医療搬送に最初に使用され、
すぐに移動式陸軍外科病院(MASH)ユニットの主力となりました。

(テレビドラマM⭐︎A⭐︎S⭐︎Hの意味を今初めて知りました。
”スーサイド・イズ・ペインレス”(自殺すれば痛みなし)
という歌はよく知ってますが)

Johnny Mandel 映画「MASH(マッシュ)」 Sucide is painless

ヘリコプターが最初に朝鮮戦争に投入されたのは、
カール・I・ハットン准将(1930卒)航空学校が
アラバマ州フォートルーカーに移転したときです。

また、1960年代、ハミルトン・ハウズ将軍(1930卒)が率いる
ハウズ委員会の指示と指導により、ヘリコプターは
ベトナム戦争のあらゆる場面に投入されてそのイメージともなりました。

 

アメリカ空挺部隊に継いての展示です。

この大きなパネルの写真は、第503パラシュート歩兵連隊が
C−47輸送機からコレヒドール島に空挺を行った時のものです。

Billy Mitchell.jpg

1918年10月、ビリー・ミッチェル将軍は、第一次世界大戦で
膠着する塹壕戦を打開するために、ドイツ軍の後方にパラシュート降下し、
敵塹壕を後方からを急襲することを提案しました。

ドイツ軍もイタリア軍も、屈強な男たちに生身で塹壕に切り込むことを
真剣に実行していたのに、さすがはアメリカ兄貴、スケールが違う。

そして空挺部隊を結成し、試験を開始してから1940年まで、
ウィリアム・T・ライダー(1936年卒)大尉(のち将軍)が、
事実上の空挺部隊の基礎を作り上げ、訓練を行いました。

ナイスガイ・ライダー

ライダーは「アメリカ最初の空挺兵」であり指揮官です。

なぜ彼が指揮官に選ばれたかというと、200人以上が志願した
史上初の空挺隊小隊メンバーの資格筆記試験で、試験時間2時間のテストを
わずか45分で終え、しかもそれがトップスコアだったからです。

 2番目に高い得点を取ったジェームス・A・バセットが小隊長になったのですが、
面白いのは空挺隊の指揮官がペーパーテストで決められたというこの事実です。


ライダー大尉は、訓練生がジャンプを練習するために高さ10mの
「Ryder's Death Ride」を考案し、その他にも
空挺隊育成のための厳しい資格付と訓練プログラムを生み出していきました。

 

1940年8月16日、ライダー大尉と小隊の10人のメンバーが
ダグラスC-33から初めてジャンプしました。
この瞬間、ライダーは、飛行機を降りた最初のアメリカ人となりました。

その年の10月、第501歩兵大隊はジョージア州フォートベニングで
米陸軍の空挺部隊創始者と言われている司令長官、
ウィリアム・M・マイリー少佐(1918年卒)のもとに組織されました。

Image-William Miley.jpg99歳まで生きたマイリー少将

陸軍士官学校の卒業生の多くが空挺訓練とその実戦任務を行いました。
空挺部隊には第二次世界大戦の戦いの中で生存するために必要な
厳しい訓練、資質が最低限必要とされました。

アフリカからヨーロッパ、ニューギニアからコレヒドール、
そして数年後の朝鮮半島にアメリカ陸軍空挺師団は投入され、
勇気、スキル、戦術的な熟練度で精強集団であることを証明しました。

Dーデイ、ノルマンジー上陸作戦前日、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、
C47から降下した第82空挺師団のメンバーを前に話をしているところ。

屈強な兵士揃いの第82空挺師団は「オール・アメリカン」とも呼ばれていました。

1944年ドイツ占領下のオランダへの攻撃の前に、
空挺団の兵士が輸送機に搭乗する準備を行っているところ。

ウェストポイント在学中は学生隊の隊長であり、アメリカ陸軍レンジャー部隊の
最初の指揮官となった、ウィリアム・オーランド・ダービー准将(死後)を
記念して同級生が寄贈した記念盾。

レンジャー徽章とダービー大佐使用のアーミーナイフです。

ウィリアム・ダービーブルース・ウィリス似のダービー大佐

米陸軍が1942年にレンジャー部隊を結成することを決めた時、
ダービーは最初のレンジャー部隊「ダービーのレンジャーズ」を組織し、
厳しい訓練を施して精強部隊に錬成しました。

スコットランドでイギリス軍のカウンターパートと共に訓練を行い、
第1レンジャー大隊は1943年、アルジェリアに初めて投入されました。

ダービー中佐は、強力に構築された敵の陣地の後方から
夜明けに奇襲攻撃を行った。

中佐はつねに指揮官先頭で常に部隊の先頭に立ち、
重機関銃と大砲の火に直面しながらも敵のラインに対する攻撃指揮し、
接近戦で手榴弾を巧みに使用してレンジャー攻撃の猛威を奮った。
 
3月22日、ダービー中佐は大隊を指揮し、敵の何人かを捕虜にし、
敵陣の自走砲を破壊した。

その後もダービー中佐率いるレンジャー部隊は
並外れた勇気ある戦闘行動を発揮し続けます。

ダービー中佐は1基の37ミリ銃で敵を撃退するだけでなく
戦車1基を破壊することに成功した。

その後、そのイニシャティブと勇気、献身にたいし、
ダービー中佐はシルバースター勲章を生きている間に授与されます。

これらの功績により若干34歳で大佐に昇進し、陸上任務、および
陸軍省の参謀に任命されることになったところで彼に悲劇が訪れました。

戦闘指揮官としてではなく、陸上勤務が決まってハップ・アーノルド将軍と
イタリアに視察のために再びヨーロッパの土を踏んだダービー大佐は、
イタリアにいる期間に第10山岳師団の補佐官が戦死したので、
予定外でしたがその代わりを引き継ぎ、急遽指揮を執ることにしたのでした。

1945年4月30日、脱走するアメリカ第5軍を指揮してトルボレに到着、
指揮をとっていた組み立て式の壕に砲弾が命中し、ダービーと
軍曹一人は直撃弾を受けて戦死したのです。

レンジャー訓練に使用された近接戦闘訓練(ナイフあり)
のためのテキストブックより。

高級鋼の刃は、柄から先端までの断面がダイアモンド型をしています。
柄、ハンドル、ノブはブレードにしっかりと取り付けられた
三つの別々の真鍮でできています。
ナイフは特別な鞘に装着されており、ベルトの上、または
下に着用できるように設計されています。

上部と下部の一つのスロットを使用することで、鞘を任意の位置に傾け、
身体のあらゆる部分にぴったりとフィットし、
どちらの手でも取り出すことができます。

目的:

戦闘ナイフは近接戦闘用の武器であり、ステルス攻撃に優れていますが、
全ての目的で使用するようには設計されていません。
ナイフは両刃で、貫通または切断両方に使用することができます。

 

 

冒頭の写真は、ナイフを使った近接戦闘の訓練風景です。

 

続く。

 

「ジャパニーズ・ミリタリー・タビ」〜ウェストポイント軍事博物館

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アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの軍事博物館より、
第二次世界大戦に関係する部分をご紹介しています。

太平洋戦線が一眼でわかるように地図に書きこまれています。
まず、赤い点線--------は1942年7月までの日本の防衛線。
赤で記された部分は日本が1942年7月に日本が占領していた土地です。

この解像度では全く見えませんが、日本が勝った戦闘は赤、
アメリカ連合国側は黄色の星印のようなマークが付けられています。

赤い星はパールハーバー、シンガポール、ジャワ海、香港、バターン、
そしてウェーキ島、キスカ、アッツ島に付いていますが、黄色い星は、
ミッドウェイ、ガダルカナル、珊瑚海、ブーゲンビル、カビエン、ニューギニア、
レイテ、タラワ、エニウェトク、サイパン、テニアン、グアム、ペリリュー、
フィリピン海、硫黄島、そして沖縄と、列記された地名を見るだけで
くっらーい気持ちになってしまうところに付けられているわけです。

キスカとペリリューはミッドウェイ海戦の陽動作戦で攻略したものの、
あとからきっちりアメリカに取られていますが、星の色は赤になっています。

将軍アイク

こちら、ドワイト・アイゼンハワー(1915年卒)のサービスコート実物。
アイゼンハワーは、軍人、教育者、政治家として国に奉仕しました。

第二次世界大戦中はヨーロッパ軍作戦指揮官として、またのちに
連合軍ヨーロッパ最高司令官として指揮を執っています。
彼の統率力とカリスマを持ち合わせながら気取らない気さくな性格は、
アメリカ人の最高に良い面を代表していると言われています。

どのように気さくだったのか、ジッポーライターで兵士のタバコに
火をつけてあげていたくらいしか知らないのですが、まあ、なんというか
マッカーサーなんかと比べれば段違いに親しみやすそうではあります。

アイゼンハワーは最高司令官としてD-デイ、ノルマンディー上陸作戦を成功に導き、
ひいてはヨーロッパ戦線での究極の勝利をもたらしたといっていいでしょう。
1953年に第34代合衆国大統領となり、冷戦という難しい時期に二期を務めました。

引退後はペンシルバニアのゲティスバーグに農場を持ち、1969年に死去。
この軍服は1952年ごろ着用していたもので、
ファイブスターランクの記章と勲章がそのまま付けられています。

ついでに、アイゼンハワーの奥さんマミー、芳紀16歳ごろ。
グレタ・トゥンベリさんかと思った(笑)

身長179センチだったアイゼンハワーの愛妻の身長は155センチでした。

 

また、アイゼンハワーは参謀長時代、原爆投下に対しては
「原爆を使用しなくても日本は降伏する」
と強く反対していたという話が有名ですが、これは
決して人道上の理由からではなく、現役の軍人としては
軍隊だけで勝ったことにしたかっただけだと思います。

制服の右側に展示されているのは、アイク使用のピストル、カリバー380。
ジャケット下のウェストバンドに装着されていたものです。

海兵隊と看護候補生隊

海兵隊のブルードレスといわれる上着(コート)です。

第6海兵隊部隊の一員として太平洋戦線に参加した
オットー・カー二世が着用していたものです。

第6回兵隊部隊は1944年の9月にガダルカナルに展開し、
その後の主な任務は沖縄への侵攻、その後は日本の諸島への侵攻でしたが、
終戦後の1945年10月、第1師団として中国に派遣されました。

そこで日本の地方の政府の降伏を受け入れ、共産主義者らが
日本国内を混乱させることを阻止すべく任務に当たっています。

1946年4月、師団はアメリカ本土で奉仕することなく解散しました。
戦後、カーは予備士官プログラムを推してして陸軍士官となり、
その後はMPオフィサーとしてベトナム戦争に参戦しています。

第二次世界大戦中、17歳から35歳までの全ての人種の女性が
看護医療隊で戦地医療の訓練を受けるプログラム、

カデット・ナース隊(Cadet Nurse Corps)

が組織されました。
この制服は、ずいぶん身体の大きな人のものだったらしく、
パッと見にはわかりませんでしたが、女性用です。

新しく看護学校が作るのではなく、既存の看護師養成学校が
このプログラムを受け入れ、そこで士官候補生を育てる、
という形でカデット・ナース隊は編成されました。

A model posing for a recruiting poster in the cadet winter uniform – gray with red shoulder straps – and a gray beret

募集ポスター。
誇りを持てる専門職に入隊する!
アメリカ陸軍士官看護部隊へ来れ!
などというタイトルが踊ります。

やはりその上で、お洒落でかっこいい制服を用意するのは
古今東西同じリクルートの手法です。

日本軍の遺品

三丁の銃のうち、右側だけがアメリカ製、左二丁は日本軍のものだそうです。
そしてその下にあるのは日本陸軍の鉄兜ではありませんか。

展示の説明にはただ「日本兵の個人用国旗」とありますが、
出征した兵士が故郷を出るときにもらう国旗のように寄せ書きがないので、
わたしはこれは小隊の旗手が携えていた部隊用国旗だと思います。

日本軍歩兵の上着(二等兵用)、としか説明がありません。
先ほどの鉄兜はガダルカナルで採取されたもののようです。

陸軍の南部式短銃、7ミリ口径。

ジャパニーズ・ミリタリー・タビ。(原文通り)

日本軍の捕虜となって

日本軍のアルミ食器の類ですが、WRIGHTと名前が書いてあるのは、
これが捕虜になったジョン・M・ライトJr.中将が使用していたからです。

ライト中将はコレヒドールの戦いで捕虜になり、5年間の捕虜生活をしました。

第二次世界大戦中、日本海軍が「鴨緑丸」という民間船で捕虜を輸送中、
1944年12月、「ホーネット」の艦載機ががこれを爆撃したため、
アメリカ人捕虜がこれによって270名死亡するという事件がありました。

ライト中将はこれに乗っていて奇跡的に助かった一人です。

アメリカ側の記述では地獄船といわれた収容環境で捕虜が苦しんで死んだこと、
沈没後、助かった捕虜が酷い扱いを受けたことを怨みつらつら書いていますが、
なぜかハルゼーが、捕虜を運んでいるのを知っていながら攻撃させたことは
まったくスルーしております。

POW研究会「鴨緑丸」

同じく日本軍の捕虜になっていた、ウィリアム・ブレイリー大佐の着用していた靴下。
穴を繕った後がたくさんあります。

ブレイリー大佐は、戦後捕虜体験を
「The Hard Way  Home」(困難な帰路)という本に表しました。

The Hard Way Home : William C Braly : 9781495271045

きっと辛い目にあったんでしょうねー(棒)

ブレイリー大佐が捕虜時代着用していたシャツ。

これもブレイリー大佐使用グッズ。
この人、捕虜時代の私物を何もかも持って帰ってきたんですかね。

民間防衛組織

真珠湾攻撃以降、空爆または砲撃の可能性が存在するとして、アメリカでは
民間防衛部隊が大幅に編成されることになりました。

(実はルーズベルトの下で真珠湾攻撃以前から国防評議会が活性化していましたが)

民間航空パトロール隊や、市民防衛隊は、1000万人ものボランティアで組織され、
火災、化学兵器攻撃後の除染、応急措置、などを行う訓練を受けました。
市民防衛のメンバーは、写真のようなヘルメットを着用する資格を持ちました。

民間防衛組織は第二次世界大戦後も継続して活動を行い、
次に来た零戦の市民防衛の基盤となりました。

戦後、特別な民間防衛ヘルメットが製造されました。
ヘルメット前面のデカールは間違った方向を向いていますが、
それでも空襲監視員の記章です。
内部のマーキングは、このヘルメットが
ニューヨーク州マンハッタンで使用されたことを示しています。

民間防衛軍空襲監視員の紀章アップ。

戦後の市民防衛の一番の関心は「原爆が落とされても生き残る」。
人の国に2発も落としておいてよう言うわ。

電撃戦

なぜか一面がブリッツクリークコーナーになっていました。
ブリッツクリーク、電撃戦とは機甲部隊の機動能力を活用した
戦闘の教義となっています。

おそらく士官候補生の学習向けにまとめてあるのかと思われます。

図解でブリッツクリークの手法らしきことが説明してありますが、
細かい字が撮れなかったので、解説はご容赦ください<(_ _)>

ドイツ空軍の士官のサービスコート。

1939年から1941年までのドイツ軍戦車と戦闘車両。

左前:PzKpfw I 軽戦車

左後ろ;PzKpfw II 軽戦車

右前; SdKfz 軽走行個人用輸送車

右後ろ;弾薬車

右側の帽子は、ポーランド陸軍士官用軍帽です。
ポーランド陸軍では制服の仕様を長らく変更していなかったので、
このデザインも十八世機から受け継がれてきたタイプでした。

ポーランド騎兵隊のドレスユニフォーム。

第二次世界大戦の騎兵隊長が着用していたものです。

左側;ドイツ陸軍従軍牧師の正帽。

ここの説明はおおむねニュートラルな態度に終始しているのですが、
たまにこんな感情的な?記述も見られます。

「ナチスの戦争犯罪にもかかわらず、ドイツ軍の兵士は
自分自身をキリスト教徒と見なし、
当時のすべての軍隊にはチャプレン軍団がいた。」

いやー、それをいうならキリスト教徒のくせに、あなたがたアメリカ人も
ヨーロッパの中世から伝わる教会を、わかってて破壊してますよね?
ザルツブルグなんてあなたたちのせいで人類の遺産がだいぶ失われましたよ?

あまりこういうこと言わない方がいいと思うの。お互い様だから。
だいたい、それをいうならキリスト教の名の下にどれだけの人命が
奪われたのか、って話になってしまいますよね。

 

それはともかく、この牧師の帽子は、その軍団の紫色の枝の色(waffenfarbe)
で装飾されていますが、ほとんどの牧師のユニフォームに共通する十字はありません。

右側;SS士官正帽

このキャップは、敵に恐れられたシュッツ・スタッフェル「SS」組織、
ナチの残虐行為と同義となった「死の頭」の装飾が施されています。

(またまた〜略)

戦争中の3つの連隊から38以上の師団までの武装親衛隊は、
通常のドイツ軍と並行して稼働していました。

Waffen-SSのメンバーシップは、元々は人種的に優れていると考えられていた
ドイツ人男性に限定されていました。
しかし、戦争中には多くの外国人ボランティアが受け入れられました。
戦後、Waffen-SSは戦争犯罪に関与した犯罪組織であると判断されました。

 

どうもアメリカ陸軍士官学校、歴史観は極力ニュートラルにあろうとしながら、
ナチスについてはディスりまくっておkというのが正式な態度である模様。

なぜならナチスは国ではなく、戦後公的に悪魔化された存在なので、
現在のドイツに気兼ねなく叩きまくれるというわけですね!

そうそう、次回はウェストポイントの展示をいったん離れ、
そのナチスが第二位世界大戦に略奪した美術品についてお話ししたいと思います。

 

 

 

続く。

 

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