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「トリエステの鷲」ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵〜ウィーン軍事史博物館

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前回、オーストリア海軍の階級について少し説明しましたが、
ドイツ軍とはまた少し違う呼称を採用していることがわかり、
興味をお持ちの方もおられると思いますので、挙げておきます。

Admiräle(アドミリール 将官)

提督(Großadmiral グロスアドミラル)

大将(Adomiral アドミラル)

中将(Vizeadmiral バイゼアドミラル)

少将(Konteladomiral コンテルアドミラル)

短い海軍の歴史ゆえ、オーストリア=ハンガリー帝国海軍には
提督と呼ばれる海軍軍人が5人しかいません。

テゲトフは伝説的な勇将でしたが、若くして40代で亡くなったので
生きていればこの数は6人になったところです。

アントン・フォン・ハウス提督(1851-1917)

18歳で海軍に入隊し、北京の義和団の乱の平定にもきていたという
ハウスは、そこでの功績を認められて中将に昇任。

第一次世界大戦が始まると、同時に勃発した国内の内乱を抑えつつ、
イタリア海軍相手に戦略家ぶりを発揮し、ドイツ海軍から
唯一?その能力を認められていたといわれる軍人です。

彼が提督に任命されたのは1916年で、つまりK.u.K海軍にとって
最後の提督ということになります。

ウィーン軍事史博物館にはハウス提督を讃える絵画、そして
彫像もあったというのですが、そこにいる時にはこの人が
それだけの人物とは思わず、わたしは写真を撮りませんでした<(_ _)>

少将を表す「コンテルアドミラル(Konteladomiral)のコンテルですが、
もともとフランス語の「コントルアミラル」(コントルアミラルで
大将に対する統制を行うというような意味)から来ており、ドイツ語化しています。

繰り返しになりますが、佐官と尉官も挙げておきます。

Stabsoffiziere(佐官)シュタフスオフィツィール

 大佐(Linienschiffskapitän リニエンシッフスカピタン)

 中佐(Fregattenkapitän フレガッテンカピタン)

 少佐(Korvettenkapitän コルベッテンカピタン)

Oberoffiziere(尉官)オーバーオフィツィール

 大尉(Linienschiffsleutnant リニエンシッフスロイテナント)

 中尉(Fregattenleutnant フレガッテンロイテナント)

 少尉(Linienschiffsfähnrich フレガッテンフィンリッヒ)

少尉だけが名称が何度か変わっており、なぜかフレガッテンが付きます。

Offizieranwärter(士官候補生)オフィツィールアンヴェーター

 Seefähnrich(ジーファーリッヒ)

 Seekadett(ジーカデット)

 

以下、下士官兵も。

Unteroffiziere(下士官)ウンターオフィツィーレ

 Oberstabsbootsmann (甲板長  オーバーシュタブスボーツマン)         

 Stabstelegraphenmeister(通信長 シュタッブステレグラフェンマイスター)

 Stabsbootsmann(ボースン シュタッブスボーツマン)

 Stabsgeschützmeister(水雷長 シュタッブスグシュツマイスター)

 Unterbootsmann(甲板員 ウンターブーツマン)

 Untergeschützmeister,(水雷士 ウンターゲシュツマイスター)

 Untertelegraphenmeister (通信士 ウンターグラフェンマイスター)

 

Chargen(兵 )チャーチェン 

 Bootsmannsmaat(甲板員 ブーツマンズマート)etc,

これによると、甲板長、通信長、水雷長は下士官だったことになります。
水兵は配置名の下に「マート」がつきます。

また水兵、つまり船乗りは Matroseマトローズとなります。

マトローズはいわゆる「マドロス」のドイツ語です。

 

さて、と説明したところで、今日のテーマの紹介に参りましょう。

冒頭写真は、このゾーンに展示してあった肖像画です。
背景を見ていただければ、彼らが海軍航空隊に関わる人物だと想像できます。

まず、この真ん中の人物です。

Gottfried von Banfield.jpg

ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵
Gottfried Freiherr von Banfield (1890-1986)

タイトルにFreiherr (フライヘア)とついていますが、これは
神聖ローマ帝国における貴族、「男爵」のことです。

ドイツ語圏ではバロンといわずフライヘアを使うそうなので、
マンフレード・フォン・リヒトホーヘン男爵も、自国では
バロンではなく「フライヘア」をタイトルとしていたはずです。

バンフィールドはオーストリア海軍でもっとも優れた戦闘機パイロットで、
第一次世界大戦では飛行艇で敵機を落とし、エースとなっています。

その飛行技術は、余人をして、

'Eagle of Trieste’(トリエステの鷲)

と呼ばしめたほどでした。

ところで、バンフィールドという名前がどうもドイツっぽくないな、
と思っておられた方、あなたは鋭い。

バンフィールドの名前を持つ父親はイギリス人でしたが、
息子のゴットフリートはモンテネグロにあるオーストリア艦隊の母港で生まれ、
彼自身はオーストリア国籍を取得したのです。

代々祖先が軍人の家系に生まれた彼は本人もその道を志し、
軍事中学を出てフィウメの海軍兵学校に入学しました。

士官に任官したのち、ウィナー・ノイシュタットにあった飛行学校で
パイロットの訓練を開始し、オーストリア海軍が募集した
最初の海軍航空隊に操縦士として入隊を果たしたのでした。

オーストリア海軍の軍港プーラで彼は水上艇の訓練を受けますが、
着陸の事故で足を骨折し、一時現場を遠ざかっていました。

そして第一次世界大戦が始まります。

バンフィールドは戦艦「SMS ズリーニ」の偵察機部隊乗組となり、
ローナー飛行艇E21の搭乗員として、カッタロの基地から出撃して
モンテネグロまでの空中作戦に偵察のため参加しました。

SMS Zrínyi.jpgズリーニ

イタリアが参戦した後はトリエステの水上艇基地の指揮官に就任。

1915年6月からトリエステ湾における伊仏軍との空中戦を幾度か行い、
すぐに初撃墜を記録しています。

この戦争で彼にとって辛かったのは、彼かつて操縦の教えを受けたことのある
フランス人の教師と戦場で出くわすこともあったということでしょう。

飛行士の戦死率が大変高かったこの時期、しかし彼は
負傷しながらも最後まで戦死することはありませんでした。

バンフィールド大尉がこの時乗って撃墜記録をあげたのはこの飛行機です。

Oeffag Mickl Type H
Blaue Vogel

ブラウエヴォーゲルとは「青い鳥」という意味です。

バンフィールドの撃墜記録は確認9機、未確認11機。
最も成功したオーストリア=ハンガリー海軍の航空機搭乗員となりました。

が、このことを、

「彼が空戦したのは北アドリア海上で、そのため本当に相手を
撃墜したか確かめるすべがなかった(=水増しされていたはず)」(wiki)

というのはなんだかちょっと失礼な気がします。
ちゃんと確認した人の名前も残ってるんだし・・・ねえ?

これらの戦功により、彼はマリアテレジア勲章を授けられた
最後の軍人となり、フライヘア、男爵位を叙爵されたのです。

 

冒頭画像の絵画は、

カール・シュテラー(1885−1972)

の作品で、題名は

「ゴットフリート・フライヘア・フォン・バンフィールド大尉と
彼のトリエステにおける列機パイロット、
フリードリッヒ・ウェルケ少尉とヨーゼフ・ニーダーマイヤー少尉」

となっています。

しかし、オーストリア=ハンガリー海軍は敗戦によって消滅し、
トリエステに基地を駐在していたバンフィールド大尉は、
戦後イタリアによって捕らえられ、投獄の身を託つことになります。

海軍消滅によって、彼もトラップ少佐のようにおそらく
心に深い喪失の悲しみを抱えたことでしょう。

・・というのは余人の考えに過ぎず、なんとこのおっさん、
自由の身になるや、どこでそうなったのか、トリエステの公爵家令嬢である
マリアと結婚してとっととイギリスに移住を決め、
裕福な嫁の実家の海運会社を経営するという逆玉人生を爆走し始めました。

そして「イル・バローネ」とか「アワ・バロン」とか呼ばれて、
地元では結構な有名人で、もちろん名士ともなったというじゃありませんか。

この男前で海軍軍人、パイロット、しかもエースだったりしたからなあ。
きっと全方位にモテモテで困るMMK人生だったんだろうなあ。

1927年と言いますから、彼37歳の時には、地元のテニス選手権で
優勝したりしていますし、彼らの間に生まれた息子は
のちに有名な作曲家になり(ラファエロ・デ・バンフィールド)、
本人は晩年にレジオンドヌール勲章をもらうなど、
側からはイージーモードに見える人生を送り、おまけに長生き。

彼が亡くなったのは1986年。96歳は大往生といってもいいでしょう。

ただ、ひとつ、不思議なことがあります。
バンフィールド大尉、結婚してイギリスに定住していたはずなのに、
なぜか亡くなったのはトリエステとなっていることです。

 

かつてオーストリア=ハンガリー海軍の最後の海軍士官として空を駆け、
「トリエステの鷲」と呼ばれたことと、ここが彼を最後に呼び寄せ、
彼の終焉の地となったことには、やはり関係があったのでしょうか。

 

続く。

 


陸上自衛隊中央音楽隊 ビッグバンドジャズコンサート @ さくらホール 前半

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先週末、今週末と続けて不幸があり、告別式に参列しました。

ピアノの恩師の本葬に出席するために関西に出向き、
日帰りで帰ってきた同じ週に義母が逝き、こちらは嫁として
知らせを受けて直ぐにまた関西に飛ぶことになったわけです。

10年以上無沙汰していた恩師との無言の対面に、わたしは
自分で思っている以上に落ち込んでしまいました。

夜中に目が冴えてそのまま寝られない日があったかと思うと、
目が覚めたらいつもの起床時間を二時間オーバーしていたりの繰り返し。
当ブログのアップやコメント管理にも影響は少なからずあったようで、
自分が思っていたよりずっと「死」に不慣れだと実感したものです。

恩師の死でただでさえ鬱々としていたところに、なんと身内が亡くなり、
一連の死者を送るための儀式あれこれに参加することになると知った時、
メンタルダウンどころか崩壊するのではないかと我ながら危惧したのですが、
意外なことに、救いは、会場のスタッフはもちろん、湯灌師から隠亡まで、
葬祭業界で働く人たちのプロフェッショナルな仕事ぶりでした。

彼らが職業的な慇懃さのうちに実にてきぱきと物事を進めていくのを
茫然と見るうち、人の死もまた世の常というありふれた真実に気付き、
受け入れる心の準備ができていった気がします。


そんなとき、知人からこのコンサートのチケットをいただきました。
なんと、自衛隊音楽隊で初めてのビッグバンドジャズコンサートです。

場所は渋谷区の文化総合センター大和田、さくらホール。

陸上自衛隊中央音楽隊内にジャズバンドが存在すると知ったのは初めてです。
おそらく、選抜されるか志望者によるジャズの素養のある隊員によって結成されて、
「本隊」とは別に活動しているのだと思われます。

プログラムによると、1951年に陸自中央音楽隊が警察予備隊音楽隊として結成されて
間もなく創設されたのがこの

「サージャント・エース・ジャズオーケストラ」

で、なんと65年の歴史を誇っているのだそうです。
サージャントというネーミングが陸自ですね。

その長い歴史において、

サックスのリー・コニッツ、ツゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)
森寿男率いるジャズバンド、ブルー・コーツ、世良譲、笈田敏夫、
日野皓正、歌手は大野えり、チャリート、ケイコ・リー

などそうそうたるメンバーとの共演歴もあります。


♫ Take The A Train

ビッグジャズといえばこれ、という「A列車で行こう」。
カウント・ベイシーのおなじみのイントロから始まるあれです。

ニューヨークは地下鉄の路線にABCと名付けていますが、

「Aラインに乗らないとハーレムに行けないよ」

というのが曲の大意で、なぜハーレムに行くかというと、
そこは「heaven」=ジャズの天国だから、というわけです。

ちなみに「ヘブン」を発車時刻の「セブン」と韻を踏んでいます。

 

♫ Seven Steps To Heaven

会場のPA担当が出動してきて、トラブルを解決し、ようやく始まった二曲目は、
マイルス・デイビス以外で聴いたことがないこのbebopの名曲です。

Miles Davis - Seven Steps to Heaven (Original) HQ 1963

「ソ・ド・ミ・レ・ドードード」

というAリフだけが耳に残りあとは全部アドリブというこの曲、
上島珈琲店にいくとよくかかっていますよね。

ジャズバンドの恒例として、各パートが順番にソロを取るのですが、
短いパートでも実力とセンスがあらわになってしまうので
奏者にとっては腕の発揮しどころであると同時に怖い瞬間でもあります。

わたしが最初から「おお!」と注目していたのは、この日
サージャント・エースと合同演奏をしていた、アメリカ空軍の

パシフィック・ショウケースのサックス奏者、ジェイコブ・ライト上級空兵でした。

「オール・オブ・ミー」を歌った歌手が「陸自のシナトラ」と呼ばれている、
と紹介されていましたが、このライト上級空兵は見た目がシナトラの若い頃と
フレッド・アステアを足して2で割った感じの小柄なタイプで、
演奏以外の時も雑事に全く心動かさないマイペースな雰囲気の人でしたが、
もともとジャズ畑の奏者なんだろうなと思わせる練れた巧みさがありました。

自信もたっぷりという感じで、かっこよかったです。

 

♫ エミリー

女性の名前をタイトルにしたバラードでは、わたしの一番好きな曲です。

多くの名曲と同じくブロードウェイのミュージカル挿入歌で、
「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」を世に出したマンデルとマーサー、
二人の「ジョニー」によって書かれました。

Bill Evans "Emily"

「エミリー、エミリー、エミリー」

という名前の連呼に

「ミ↑シ↓ソ〜 ミ↑シ↓ソ〜 ミ↑シ↓ソ〜」

というメロディを持つ歌バージョンも素敵です。

中間二曹がメロディを取ったトランペット奏者に

「奥さんの名前を♫なおみ〜なおみ〜なおみ〜と♫心の中で呼びながら
演奏してたんじゃないですか」

と会場を笑わせていました。
昔トリオで仕事をしていたとき、必ずこの曲をリクエストしてくる男性がいて、
みんなでその人のことを

「エミリーおじさん」

と呼んでいたのを思い出した(笑)
みなさん、「常連」のあなたをスタッフは大抵あだ名で呼んでいます。

 

♫ A Flower Is A  lovesome Thing

「花はすてきなもの」とでも訳したらいいでしょうか。
パシフィック・ショウケースからの参加者は全部で6名、
そのうちの一人はなんと女性歌手でした。

アリシア・キャンセル上級空兵は、ニューヨーク出身、
父や兄もエアフォースという空軍一家で、本人は
歌手として空軍に奉職することを志したということです。

"A Flower is a Lovesome Thing" -Ella Fitzgerald

この曲は、「A列車」の作曲者、ビリー・ストレイホーン(P)の手によるもので、
非常に複雑で高度なメロディラインを持っており、
「ラッシュライフ」とか「チュニジアの夜」がそうであるように、
一度聴いただけでは鼻歌で繰り返せるような曲ではないのですが、
歌手はこの曲をドラマティックに、かつメロディアスに歌いこなしていました。

ところでこの曲のときバンドの演奏が混乱して?思ったのですが、気のせいでしょうか。



♫ ALL OF ME 

「一度心を奪ったのだから私の全てを奪ってちょうだい!」

と迫る、まるで映画「海軍」の三田佳子が演じた女性のセリフみたいな歌ですが、
シナトラのバージョンが有名です。

ジャズ歌詞で英語学習 01 "All Of Me" フランク・シナトラ 英語日本語訳

和訳付きを見つけました。

この曲を歌ったのが、バンドのトランペット奏者で、この方も見覚えがあると思ったら、

音楽まつりで歌手を務めた右側の方でした。

で、「陸自のシナトラ」と紹介されていたのですが、
メロディにコブシ風ビブラートが効いていて、シナトラというよりは
「ジャズを歌う陸自の五木ひろし」が近いのではないかと思われました。
(ほめてますよ?)

 

♫ Pomp And Circumstance(威風堂々)

これをジャズで一体どうやって、と興味津々です。
と思ったら、同じバージョンの演奏が見つかりました。

威風堂々第1番 武蔵野ビッグバンド・ジャズ・フェスティバル2013~SPJO

なるほどそうきたか、という納得のアレンジ。
各奏者のソロも堪能できて無茶苦茶楽しかったです。

この曲を知ることができたのは今回の大きな収穫でした。

 

♫ JAZZ POLICE(ジャズ・ポリス)

前半にプログラムされていたのですが、「かっこいいから」という理由で
後回しになっていたこの曲、ジャズポリスって聴いたことあります?

アメリカで正しい寿司を出しているかどうかチェックする機関、
「寿司ポリス」を作ろうという話が昔あったじゃないですか。
コリアンやチャイニーズのインチキすし屋が猛反対して立ち消えになりましたが、
こちらのポリスは、

「ジャズはこうあるべき」

という根拠のない(たいていそう)教条というかドグマに基づき、
巷のジャズシーンを「パトロール」して、演奏スタイルにケチをつけたり、
ライブハウスで奏者をいじめたり文句を言ったりする人のことです。

あーいるよねそんな人。

目の前の演奏者に向かって、マイルスはどーの、エバンスはどーの言ったり、
わかったようでわけのわからないジャズ論をぶってみたり、
相手が絶対できないであろうリクエストをして、できないと馬鹿にしたり。

作曲者のゴードン・グッドウィンは、おそらくそんな人たちを皮肉って
こんなタイトルをつけたんだと思います。

The Jazz Police / Gordon Goodwin

この曲が4ビートではなくジャズロックで書かれているあたりに、
その皮肉が現れているとわたしは思うのですが。

 

長いと怒られてしまったので二日に分けます。
後半に続く。

 

陸上自衛隊中央音楽隊 ビッグバンドジャズコンサート @ さくらホール 後半

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冒頭写真は本日の紅一点、パーカッション奏者ですが、
彼女は一曲目が終わった時からマイクを持ちMCを務めました。

彼女の顔に見覚えがあると思ったら、昨年の音楽まつりで
合同演奏のとき舞台中央でカホンを演奏していた打楽器奏者、
中間綾美2等陸曹でした。(冒頭写真)

 

そのときの演奏姿を見ていても彼女の明るい人柄は伝わってきましたが、
この日のコンサートをより一層明るく楽しいものになったのは、
そんな彼女のMCの力が大だったと言っても過言ではありません。

しかも、二曲目に移ろうとしたところ、ギターのアンプにトラブルが発生し、
演奏に入れなくなったのですが、中間二曹は動揺しながらも話でつなぎ、
その場を乗り切って、自衛隊の危機管理力の高さを見せてくれました(笑)

 

さて、前半が終了し、ここで20分の休憩となりました。

ところで、新型コロナウィルスの感染がじわじわと拡大する中、
たくさん人が集まるところには警戒して行かない、という人も
多いかと思ったら、この日のさくらホールはほぼ満席でした。

しかし、バンドマスターの遠藤敬二等陸尉(トロンボーン)によると、
中央音楽隊には本日の演奏会が行われるのかどうか、という
問い合わせが結構たくさんあったそうです。

そしてちょうどこの日、コンサートをご紹介してくださった方から、
東部方面音楽まつりが

「感染拡大防止のために不要不急な集まりをなるべく自粛する動き」

を受けて中止になったというお知らせをいただきました。
また同じ方によると、追浜の海洋研究開発機構(JAMSTEC)での
深海潜水艇公開イベントも中止になりましたし、また、
2月21日現在、翌週に予定されていた横須賀音楽隊の定期公演も、
担当者から中止する旨、直々に電話連絡を受けたばかりです。

目黒の幹部学校で行われる海軍大学セミナーも一般聴講は中止、
セミナーそのものも取りやめになる可能性あり、ということでした。

そういえばこの日コンサート前に、車を停めたセルリアンホテルで
食事をしたのですが、館内が前に来た時と比べ静かすぎて驚きました。

また、昨日は東京駅前を車で通り過ぎ、丸の内を歩きましたが、
なんと近辺にオフィスワーカーらしき人しかいないのです。
広場に原色のパーカーやダウンの集団がいません。
人口密度はまるでフィルムに残る100年前の東京駅みたい。

「うーん・・・・なんて清々しいんだ」

この期に及んでここだけの話、わたしは思わず呟いてしまいました。

そういえば京都も今ガラガラで、地元に住んでいる人はもちろんのこと、
ストーカーやお触りする外国人がいなくなって舞妓さんが喜んでいる、
という噂もありましたが、それどころか日本全体が萎縮していきそうです。
花見までこの状態(感染の拡大ではなく中国人の団体旅行禁止)
が続いてくれれば、ぜひ地元の観光業応援のためにもぜひ行きたい、
なんて思っていましたが、事態はもっと深刻なのかもしれません。

 

 

♫ In The Mood

さて、気を取り直して続きと参りましょう。

後半の始まりも、いわゆるビッグバンドの代名詞的な曲からです。
グレン・ミラーオーケストラの「インザムード」。

ところでみなさん、グレン・ミラー物語って観たことあります?
陸自音楽隊がグレン・ミラーを取り上げるのはある意味ぴったり。

Glen miller.jpg

グレン・ミラーは陸軍軍人として戦没しているのです。

第二次世界大戦の勃発にともない1942年に陸軍航空軍に入隊、
慰問楽団を率いて精力的に慰問演奏を続けていたのですが、
1944年12月、イギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、
乗っていた専用機(UC-64)がイギリス海峡上で消息を絶ち、
戦死と認定されたので、昇級して最終階級は少佐となりました。

「ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が
上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落した」

「イギリス軍機の誤射で撃墜された」

「無事にパリに着いてから翌日娼婦と事に及んでいる最中に
心臓発作で亡くなったのを隠蔽するために行方不明にした」

いろんな説がいまだに飛び交っているそうです。

2014年、『シカゴ・トリビューン』は、消息を絶った原因として、
上のどれでもない「乗機のUC-64に特有の故障」という説を挙げました。
それによると彼の搭乗したUC-64は、エンジンキャブレターに欠陥があり、
冬期に凍結し、それが原因で墜落する事例が他にも複数発生していたそうです。

 

♫ Old Devil Moon

あなたの瞳の中に「オールドデビルムーン」が見えて、
引き込まれそうになってしまうのアタシ・・・みたいな曲。

「オールド」は「古い」ではなく、「いつもの」「おなじみの」
という意味でしょうね。

「あなたが空から盗んだOld Devil Moon 」

とあるので、怪しいほど神秘的な光が瞳に輝いてるんでしょう。
目力があるというより、一昔前なら「目千両」な役者というか
杉良太郎とか(どういう人選だ)・・そんな感じ?

Frank Sinatra - Old Devil Moon (High Quality - Remastered) GMB

 

♫  I Love Being Here with you

ペギー・リーというと「センチメンタル・ジャーニー」とセットで
名前を記憶している方もおられるかもしれません。

peggy lee/i love being here with you

「ニューヨークのため息」

とあだ名されたのはヘレン・メリルでしたが、この古き良きスタンダードを
生まれも育ちもニューヨークという歌手のアリシア・キャンセル上級空兵が歌いました。

 

♫ It's Only A Paper Moon

「紙に描かれたお月様も、モスリン布の海も、キャンバスに描かれた空も、
あなたがわたしを信じてくれればみんな本物になる」

という歌詞ですが、長年この曲を熟知していると思ったわたしが
知らなかった蘊蓄をこの日のMCで教えていただきました。

1900年代初頭、写真スタジオには紙の大きな三日月があって、
そこに座って写真を撮るのが庶民の間の流行りだった、というのです。

そしてこんなのを見つけました。

It's Only A Paper Moon - Abbie Gardner

当時の流行に乗っかってお月様と写真を撮った庶民のみなさんです。

 

♫ New York, New York(ニューヨーク、ニューヨーク)

同名の映画はこれを歌ったライザ・ミネリとロバート・デニーロの共演です。
これを、陸自のシナトラとアリシア上級空兵がデュエットしたのですが、
二人ともオリジナルキイで完璧に歌い上げて、思わず鳥肌が立ちました。

New York, New York Official Trailer #1 - Robert De Niro Movie (1977) HD

なんなら映画の予告編をぜひご覧ください。
ミネリの絶唱は何度聞いても文字通りの鳥肌ものです。
デニーロも若くてスマートでイケメンですよね。

 

♫ Samba  Del Gringo

手塚治虫の未完作に「グリンゴ」というのがあったのご存知ですか?
グリンゴというのは南米のスペイン語圏で「よそ者」、つまり
彼らに撮っては白人を差す蔑称だったりするのですが、手塚作品では
異邦で戦う日本人を描こうとしていたようで、この場合は単に
ヒスパニックにとっての「よそ者」という意味だったのでしょう。

で、この曲ですが、そんな暗さは微塵も感じさせないキャッチーなサンバです。

Gordon Goodwin "Samba Del Gringo" - JGSDF Central Band

ご本人たち、サージャントエースの演奏が見つかりました。
10年前の演奏なので、ずいぶんメンバーも変わっているのかもしれませんが。

どうも昔から当バンドのキメ曲となっているようですね。
とにかくサビのメロディがかっこよくて、ソロを取る人は
きっと気持ちも張り切ってしまうことでしょう。

この曲でもジェイコブ・ライト上級空兵は確かフルートに持ち替えて
バリッとしたリフを聴かせてくれました。
MCによると、去年のコンサートではライト上級空兵、
「モーニン」で漢(おとこ)っぷりを見せたということです。

自衛隊音楽隊のジャズでは、時々プレイヤーがアドリブではなく
書いた譜面をそのまま演奏していることがあるのですが、
米軍楽隊の奏者はまず間違いなく、インプロビゼーションが
最初から人並み以上にできる人しかこういうのには出てきません。

それは、アメリカという国がジャズ発祥の地であり、
ジャズという演奏形態における裾野が広いということでもあるでしょう。

 

ところで腕の見せ所といえば、この曲の功労者はなんといっても
パーカッションの中間二曹だったとわたしは思います。
パーカッションソロそのものもさることながら、観客を巻き込んでの
楽しい演奏、可愛らしい最後の「いえー」という掛け声、
すっかり彼女のファンになってしまった人も多かったのではないでしょうか。

 

♫ Ya Gotta Try Harder

面白いビデオを見つけました。
コンサートの最後に、メンバー紹介を兼ねて演奏されることもある曲で、
これをなんと陸海空合同バンド、

「自衛隊GMOジャズオーケストラ」

がやっています。

これが大盛り上がりのうちに終わり、アンコールを一曲、
(あ、なんだったか忘れてしまった・・・)
終わった頃にはすっかり会場内の空気が上昇したかのように思われました。

会場にはマスク着用の人も多かったのですが、楽しいコンサートを聴いて
心から楽しむことによって、おそらく免疫力もアップしたことでしょう(笑)

個人的には、わたし自身も喪失の傷みからほぼ立ち直れた気がします。

 

「ああでもねえこうでもねえ」と意見を交わしながら、(MC談)
この日のコンサートを作り上げたというジャズオーケストラの皆さんには、
心からその労にありがとうございましたとお礼を申し上げます。

 

なお、次回のジャズバンドフェスティバルは、6月6日、
すみだトリフォニーホールで予定されているそうなので、
興味をお持ちになった方はぜひ申込なさってはどうでしょうか。

その頃には事態が収束していることを祈るばかりです。

 

 

 

呉鎮守府開庁130周年記念 海上自衛隊呉音楽隊第50回定期演奏会

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令和2年2月22日という綺麗に2が並んだこの日、呉音楽隊の演奏会が
呉信用金庫ホールにおいて行われました。

タイトルにあるように、去年、平成元年に、呉地方総監部庁舎は、
呉鎮守府として開庁してから130年目を迎え、それにともなう
記念イベントなども去年の秋に行われていたと記憶します。

しかも、令和2年は、呉音楽隊創設以来50年というきりの良さ。

今回のコンサートはそんな節目を記念するため、
特別な企画もあるということで、楽しみにその日を迎えました。

 

今回の懸念は、新型肺炎の流行にともなうイベントの自粛でしたが、
まだ広島地方では一人も発症が見られなかったこともあり、
無事に当日を迎え、開催されることになりました。

その前日、わたしは横須賀音楽隊の定演中止のお知らせを受けていましたし、
そのほかにも幹部学校での海軍大学セミナーの一般聴講、
東部部方面音楽まつりの中止などが伝えられており、
伝わってくるニュースが日々深刻さを増してくるのも相まって
気持ちが暗くなりがちだったので、これは本当に喜ばしいことでした。

 

しかし、コロナ騒動は悪いことばかりでもありません。
今回、ぎりぎりだったにもかかわらず、ホテルズドットコムで
今まで画面にすらでてきたことのないクレイトンベイホテルが取れました。

しかも記憶に残るここの従来の価格よりずっと安価です。
何度も呉にきていながら今までご縁がありませんでしたが、
初めて泊まることができたクレイトンベイホテルは、他の宿泊客も少なかったらしく、
部屋はエグゼブティブフロアの一階下でこの眺望の良さ。

自衛隊基地を含む呉の港が一望できます。
手前は造船所の「パーツ置き場」となっている浮き桟橋。

奥にいるのは輸送艦「しもきた」で、今お食事中です。

支援艦「くろべ」と「てんりゅう」が仲良く並んでいます。
甲板に無人標的機などの道具はどちらも積んでいません。

江田島との間を結ぶ連絡線「古鷹」の乗客も少なそうです。

沖に投錨して停泊しているのは掃海母艦「うらが」でした。

その日の夜は、館内の和食レストランで穴子の御膳を頂いてみました。

クレイトンベイホテルには、温泉風のスパが併設されており、
行ってみたところ、どうも地元の常連らしき人たちが利用しているようでした。

リラクゼーションルームには最新式のマッサージ機があって、
全く待たずに使用できましたが、マッサージチェアというものが
今時の技術ですごいものに進化しているのに驚かされたり。

地元の人たちもきっと空いていて快適だわなどと思っていたでしょう。

 

もともと呉はそれほど多くの外国人観光客がいたとも思えませんが、
これはつまり流行のフェーズが上がり、この日あたりから
週末にもかかわらず日本人も不要不急の外出を控えた結果だったのでしょう。

帰りに乗った広島発羽田便も怖いくらいガラガラで、
ダイヤモンドクラス(最初に乗れる人たち)が3人、
プレミアムクラスも全部で10人足らずで、わたしの取った席は
横並び三列の通路側で、予約の時にはすべて満席だったのに
乗ってみると横二つ空いたまま。乗機率は10%くらいでした。

演奏会は翌日1400からのスタートでした。

気がついたのは、会場のホールの名前が呉文化センターから
企業名を冠した呉信用金庫ホールに変わっていたことです。

昨年の三月末から呉信用金庫がネーミングライツ(命名権)を得て
この名前に(呉文化ホール)をつけることにしたのだとか。

看板や入り口のプレート以外特に変わったところはありませんでしたが、
ただ、館内では携帯電話の電波が強制的にカットされる仕組みで、
間違っても携帯を鳴らしてしまう事故が起こらないようになっていました。

この仕組みは最近音楽ホールなどで増えている

「携帯電話抑制装置」

でエリア内の携帯電話の電波をあえて“圏外”にさせるものです。

専用の機械を設置すると携帯電話の基地局と同じ周波数の電波を
基地局よりも強く出すことで、そのエリア内の携帯電話が
基地局と通信することができなくなるという仕組みのようです。

つまり、空っぽの強い電波を出し基地局になりすまして
強引に圏外にしてしまう、というわけですね。

 

さて、コンサートが始まりました。

いつからでしょうか、コンサートマスターが「コンサートミストレス」、
つまり女性に変わっています。

コンマス(コンミス)はオーケストラなら左側の最前列舞台寄りに座っている
第一バイオリン奏者が務めますが、吹奏楽ではクラリネットです。

 

またプログラムを見て気がついたのは、今回

「呉造修補給所員」「呉基地業務隊員」

いうメンバーが加わっていたことです。
呉基地業務隊は、呉地方隊の敷地内にあり、厚生、会計、給養、
車両、施設及び海上予備員の収容その他の業務をおこなうところです。

楽器の素養のある隊員が特別出演していたのでしょうか。

さあ、それでは一曲目からです。

♫ セレモニアル・マーチ 酒井貴祐

ものすごく聞き覚えのある曲だと思ったのですが、
持っている自衛隊のアルバムに入っていたかもしれません。

本日の記念すべきコンサートの幕開けに相応しく、きらびやかな
ファンファーレから始まるテンポのいいマーチです。

吹奏楽 セレモニアル・マーチ 坂井 貴祐作曲 陸上自衛隊第1音楽隊 Ceremonial March

一曲目が終わって、もう呉のコンサートでは「顔」といってもいい、
司会の丸子ようこさんが出てこられました。

「丸子ようこ」の画像検索結果

前回のコンサートで、音楽童話「ごんぎつね」の
語りを聞かせてくれた記憶はまだ新しいところです。

♫ 風の谷のナウシカ Highlights 久石譲

統計的に?呉音楽隊はアニメ、特にジブリ作品をよく取り上げている気がします。
ところでこの「ハイライト」がなぜわざわざ英語なんだろうとおもったら、
どの演奏でもそうなっているようで、これがオリジナルなのだとわかりました。

風の谷のナウシカ / arr. 真島俊夫

イントロの後ピアノソロで「風の谷」から始まるメドレー、
編曲は吹奏楽曲作曲家の真島俊夫氏が手掛けました。

クシャナの侵略〜メーヴェとコルベットの戦い〜ナウシカ・レクイエム〜
鳥の人(エンディング)

という内容です。
どの曲もすっかり聴き慣れてしまっていて、もはや久石のジブリナンバーは
映画音楽に止まらないスタンダードだと思わされます。

こういう機会でもなければ吹奏楽の生演奏でジブリを聴くこともないので、
心ゆくまで楽しんで聴きました。

♫ 稲穂の波 福島弘和

福島弘和氏は日本の吹奏楽曲作曲家の第一人者の一人ですが、
その数あるナンバーの中から今日選ばれたのは、
群馬県の田園地帯を音で描写したこの曲でした。
今調べてみたら福島氏は群馬県出身で、幼き日にみた稲穂の実る
黄金の田園風景を表したのだと知れます。

年表の一番最初にあり、最初に吹奏楽コンクールで入賞したときの
作品のようですね。

【吹奏楽名演】福島弘和「稲穂の波」〔常総学院:1998年度全日本吹奏楽コンクール〕

そして、その翌年の吹奏楽コンクールの課題曲となり、
優勝したのがこの常総学院の演奏というわけです。

♫ 生業(なりわい)宮川彬良

忘れもしない、昔横須賀音楽隊の演奏会で聴いた曲。
ああー、横音の演奏会、中止になってしまったんだよなあ・・・。
としみじみ思い出しながら聴きました。

宮川彬良氏はご存知宮川泰氏の御子息でおられます。
わたしの息子くらいの年のお子様をお持ちの方でしたら、
「クインテット」というNHK教育の人形劇で、
スコア、フラット、アリア、シャープという四人組のパペットと
ピアノの「アキラ」として共演していたのをご存知かも知れません。

この曲は、

I . 上昇志向

II.  発明の母

III. 易〜生業

から成っていて、見ていてとても楽しいのは第三楽章。
パーカッション奏者が、なんと易者が使う筮竹を使って演奏します。

占う前に、両手でじゃらじゃらと筮竹を鳴らすでしょう?あれです。

 

というところで、第一部は終了。
この日の観客は、招待客も一般応募客も欠席はなく、
会場はほぼ満席となっていたのではないかと思われます。


ファンファーレ「天と大地からの恵み」八木澤教司

この日の特別企画というのは、外でもないこの八木澤氏に
呉音楽隊が委嘱した作品の初演だったわけですが、第二部の最初は
同氏のファンファーレで幕を開けました。

FANFARE - The Benefaction from Sky and Mother Earth

2019年11月9日、天皇陛下ご即位奉祝式典の国民祭典で、
天皇皇后両陛下をお出迎えするときに演奏されたというおめでたい曲です。

組曲「宇宙戦艦ヤマト」宮川泰

組曲『宇宙戦艦ヤマト』 Space Battleship YAMATO

前半では息子さんの、後半ではお父さんの世界的名曲が演奏されました。
このビデオは、指揮者の衣装といい楽団員のネクタイといい、
何かと頑張っているのでそれに免じて挙げておきます。

わたしはこのバージョンを生で聴くのは初めてでした。
いわゆる皆が「宇宙戦艦ヤマト」だと認識しているところの歌が
あまりに早めに出てくるので、どう盛り上がるのか心配でしたが、
後半はゆったりと壮大なエンディングに繋がってさすがの宮川泰でした。

ところで、2007年に宮川氏が逝去した時、本人の遺言によって葬儀には
「ヤマト」が吹奏楽で演奏されたそうですね。

つい先日の話なのでついわたくしごとを話してしまいますが、
先日の親族の葬儀会場では、到着直後から終了までずっと、
アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」がエンドレスで流れていました。

故人と家族からなんのリクエストもない場合、その会場では
これが自動的に流れるらしいのです。

めぐり逢い-アンドレ・ギャニオン

こだわりのない人には受け入れられやすい妥当な選曲だと思いますが、
こと音楽に関しては同じ曲を繰り返されるのが何よりも苦痛に感じるわたしは、
今後人生で何かのはずみでこの曲を聴いたら、自動的にこのときの気持ちを
思い出してしまうんだろうなあと思うと、それだけで気が重くなりました。

その点、ピアノの恩師の葬儀では、バッハの平均律クラヴィーア曲集の第1巻が
最初から流れていて、それは介護施設に愛用のグランドピアノを寄付した彼女が、
まだ元気な頃はロビーで平均律を弾いていたという理由で、遺族が選んだものでした。

宮川泰氏もまた知人の葬式の帰りに、何かを思ったらしく、息子彬良氏に

「俺の時は”ヤマト”な」

と言い遺したそうです。
音楽にこだわりのある人は、自分の葬式に何を流すか、
さりげなく周りに伝えておくというのも終活の一つかもしれません。

余談ですが、何かと不幸の際に登場する名曲のひとつに、
バーバーの「弦楽のためのアダージオ」というのがあります。
サミュエル・バーバー本人は、

「わたしは葬式のためにあの曲を書いたのではない!」

と常日頃ぼやいて?いたそうですが、彼が亡くなったときには
やっぱりこの曲で送られたということでした。

弦楽のためのアダージョ / Adagio for Strings Op.11 / Samuel Barber

大正義サイモン・ラトルとベルリンフィルでどうぞ。

曙光の波をきって 八木澤教司

お待たせしました。
本日最後に演奏されたのは、

日本遺産「呉鎮守府」開庁130周年記念
海上自衛隊呉音楽隊委嘱作品

世界初演となったこの曲は、呉音楽隊長石田敬和一尉から
コンセプトが作曲者に提出され、それをもとに作曲されたそうです。

曲の中には朝夕の自衛艦旗掲揚降下の際に吹鳴される
喇叭譜「君が代」がモチーフとして挿入されそこここに顔を出します。

喇叭譜がモチーフとして使われている曲は今までいくつかありましたが、
今回は「君が代」だけが使われていました。

第1章 街のいしずえ

明治時代の穏やかな海辺、のどかな田園地帯だった呉が、
鎮守府を開くために集まってきた人によって姿を変えていく様子、
そしてその後が描かれています。

石田隊長の

「戦争で破壊され産業も経済も大きな被害が出ましたが、
呉の人たちの弛まぬ努力と助けあいで瀕死の街から活気ある街へと発展しました。
海軍から自衛隊へと変わり、国民を守る防人が住む街になりました」

という言葉から受けたインスピレーションによって作曲されたそうです。

第2章「渚のひかり」は瀬戸内の情景の描写、そして
第3章「造船と職人」では、石田隊長と八木澤氏が実際に
呉の造船所を見学し、間近でみた造船の作業にインスパイアされたものですが、
圧巻はラストに響く「二十一発の礼砲」でした。

八木澤氏の織りなすメロディは、ちょっとだけ専門的に言えば、
係留音とその解決を実に気持ちの良いところで使ってくれるというか、
聴いていてそれが非常な快感なのですが、この曲のクライマックスも
誰が聴いても理解できる安易さを持ちながら、それでいて、
心に食い込んでくるような「八木澤節」が炸裂しておりました。

そして、礼砲を模した太鼓の連打が始まりました。

拍の頭をときどきわざと外し、半拍遅らすことによって、
より一層本物らしさを表すという心憎い演出です。

二十一発の礼砲は、等級で言うと最高級にあたり、
国旗、元首、そして天皇、国王、大統領、皇族にしか用いられません。

曲が終わった後、会場にいらしていた八木澤氏がコールされましたが、
二階からは全く見えなかったので、二つ隣の女性が

「あら、どんな人か顔を見てみたかったのに残念」

と本当に残念そうに言っておられました。
ステージに上がっていただいても良かったかも知れません。

 

♫ 行進曲「軍艦」瀬戸口藤吉

海自音楽隊の演奏会では必ずアンコールにこの曲が演奏されますが、
ここ何回か、呉音楽隊に限りそうではないので、このあとにも
何か「しかけ」があるのではないかと期待していたら・・・

♫「パプリカ」米津玄師

わたしは知りませんでしたが、この曲は2年ほど前、ダンスと相まって
「社会現象」になったのだそうです。

「軍艦」が終わると、会場の前2列を締めていた女子高生が
舞台に上がり、袖で楽器を持って登場してきました。

去年は高校生軍団と「宝島」をやったと記憶しますが、
ことしは、この「パプリカ」を、呉高等学校の生徒たちと
一緒に演奏してくれました。

米津玄師 MV「パプリカ」Kenshi Yonezu / Paprika

PVの最初のイラストはまるで昔の呉のようですね。

社会現象になったというダンスは、高校生たちと
音楽隊から有志が前で踊って会場を沸かせてくれました。

会場の出口ではいつものように音楽隊のみなさんが
この日ホールにやってきた人たちを見送ってくれ、
楽しかったコンサートも終了しました。

最後に、今回呉地方隊訪問の記念にいただいた
開庁130周年の記念品です。
ボールペンの柄に海上自衛隊のマークと、呉鎮守府庁舎が
蒔絵風に描かれた大変美しいものです。

最後に、今回の演奏会参加に際してお心遣いをくださった
海上自衛隊呉地方隊の皆様方に心からお礼を申し上げて終わります。

ありがとうございました。

 

 

 

”Manned And Ready !"〜映画「眼下の敵」前編

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恥ずかしながらこのわたし、割と最近まで、この
「眼下の敵」を飛行機乗りの映画だと思っておりました。

原題が「The Enemy Below」であると知っていれば、
それはニュアンス的に空中でなく「海面下」であり、
敵は潜水艦のことであると悟ったと思うのですが、
「眼下」って、この映画の内容を知った今でも、
航空機から観た地上というイメージだと思うんですよね。

まあ、タイトルで全てを伝えようとして、その結果
たいてい失敗している日本の映画配給会社にしては、この
「眼下の敵」はまあ頑張ったかなという気もしますが。

って、この上から目線何様だよ。

とセルフツッコミしたところで始めます。

マレル少佐(ロバート・ミッチャム)が指揮するバックレイ級(実在)
護衛駆逐艦「ヘインズ」が大西洋に展開しています。

艦上の水兵が日常業務をしているところから始まります。
残飯を海にぶちまけ、

「サメだらけだ」

いやそれは残飯を撒くからでは?

それから仲間内で新しい艦長の噂話が始まるのですが、
マレル少佐が民間人出身であることに不信感を持つ水兵もいます。

「スレーター」シリーズで、アメリカには
マーチャント・マリーン、アメリカ合衆国商船組合に所属する
商船海兵隊将校は、国防総省から軍の将校に任命されることもある、
と書いたのですが、マレル艦長はまさにこのパターンだったようです。

士官室でも新艦長の評判は良くありません。
むしろ兵学校出からなる士官たちが民間人の上司を疎ましく思うのは
全く不思議なことではありませんね。

「よそよそしい艦長だな」

「部屋に篭って出てこないのは船酔いかな」

ここで事情を知る軍医が、マレル艦長は乗っていた民間船が
魚雷で撃沈され、25日間漂流して助かったばかりだと説明します。

「楽な船で彼はラッキーだ」

「たまには戦闘してみたいくらいだ」

などと呑気ですが、そんなことを言っているととたんに
レーダーに艦影が発見されました。

その艦影とは、ナチスドイツのダス・アンダーゼー・ブート、
シュトルベルク艦長(クルト・ユルゲンス)率いるUボートでした。

この映画も「K-19方式」というのか、「カピタン」とか「ヤボール」とか
要所要所にドイツ語を混ぜていますが、ドイツ人が全員英語を喋っています。

こちらでもレーダーに敵艦らしき存在を発見していました。

Uボートの任務は味方の艦船と落ち合い、
そこで英国の暗号書を瀬取りするというものです。

こちらアメリカ軍。

レーダーで得られる情報がプロッティングボードに書き出されます。
(スレーターについて書いているとき、この映画はとても参考になりました)

「目標 左舷に変針、20度です」

ここから、相手の動きを読み合う心理戦ははじまっていました。

マレル艦長は、全艦放送で追跡開始を宣言しました。
明日の朝には戦闘となる可能性もあります。

「戦闘となっても慌てないように」

誰もがUボートと戦うのは初めてです。
乗員の間では未知の敵について不安げな会話が交わされます。

マレル艦長の戦略で位置を変えずに動かない艦影について、
Uボート艦長は「ダミーかもしれない」と判断しますが、
それでも油断せず、ジグザグ航行を命じます。

さすがは第一次世界大戦からの古参で叩き上げだけのことはあります。

艦内のダクトには、

「Führer Befiehl Wir Folgen」(総統が命じ我らは従う)

というゲーリングが提唱したナチスドイツのスローガンが書かれていますが、
シュトルベルグ艦長は乱暴に自分の汗を吹いたタオルを
ダクトの文字の上に引っ掛けるというアナーキストぶりを見せます。

特に海軍には実はヒトラー嫌い、みたいな軍人が多かったそうですが、
シュトルベルグ艦長は、真面目にヒトラー式敬礼をする若い少尉を

「新人類だ。機械みたいだ」

と苦々しく言い捨て、ついでに昔のアナクロな潜水艦はよかった、と回顧し、
今の戦争には人間味がない、と嘆き、おまけにこの戦争について

「大義がない」「勝っても意味がない」

ということまで酔った勢いで言っちまいます。

アメリカ人から見た「良心的ドイツ人」というわけですな。

ちなみに日本の資料では一切触れられていませんが、艦長の本名は
フォン・シュトルベルグで、貴族あるいは準貴族という設定です。
第一次大戦の戦功によって騎士叙任されたという設定でしょう。

しかし彼は息子二人を戦争で失い、もはや旧人類の自分が何のために戦うのか、
疑問を感じながら、1日も早く陸に上がる日を待ちかねています。

次に駆逐艦上ではマレル艦長と軍医が会話を始めます。
ちなみにこの軍医は、そういう役割を負わせるためのキャスティングで、
実際の駆逐艦クラスには軍医は乗っていませんでした。

軍医は皆から孤立している艦長を気遣って、彼の人となりを探るため、
機会をうかがっていたようです。

そこで艦長が大西洋航路の先任の出身であること、自分の船に新婚の妻を乗せていて、
彼女が潜水艦の魚雷で真っ二つにされた船の片方と共に沈んでいくのを
なすすべもなく見ているしかなかった、という告白を聞きました。

「だから潜水艦を追いかけるのですか」

という軍医の問いに、彼はそれは私怨ではない、と言い切るのでした。

「私は任務を遂行するだけだ。そのときのUボートの艦長と同じように」

 

映画で「ヘインズ」を演じたのは駆逐艦USS「ホワイトハースト」DE-634です。
「ハースト」はこの後1971年4月に魚雷の標的艦となって沈められました。

映画には実際の「ホワイトハースト」の当時の乗員が出演しています。

原作はイギリス軍の元軍人D・レイナーの小説です。

”All hands, man your battle stations!!

「ヘインズ」では総員配置が発令されました。
食事中や就寝中だった乗員が脱兎の如く跳ね上がり駆け出します。
トリビアによるとここで各配置に登場するのは本物だそうです。

「修理班配置よろしい(manned and ready. condition able.)

「機関配置よろしい。全てのボイラー準備よろしい」

ちなみにこの機関将校を演じているのは「ヘインズ」を演じている
USS「ホワイトハースト」のかつての艦長だそうです。
この人は本作で技術アドバイザーを務めました。

「操舵手キローガ、配置よろしい」

「操舵手スペンサー、表示器に配置よろしい」

これも本名と思われ。

「ソナー配置よろしい」

「弾薬庫(マガジン)」配置よろしい」

危険物を扱う部署のヘルメットは大型で赤。

「スカイワン、第33砲座配置よろしい」

「スカイワン、第32砲座配置よろしい」

以下略

「全ての銃配置よろしい」

「ホワイトハースト」は定係港がパールハーバー、
第二次世界大戦にも出撃したベテラン艦だったということです。

艦長は早速副長に、

「この艦は『スマートでクィック』だな」

とお褒めの言葉を。
それに対し副長は、

「やる気満々の悪童(bunch of boys)がそろってますからね」

艦長はUボートの追跡のために前進全速を命じました。

「ホワイトハースト」は一部ダズルカモフラージュ塗装が施されていなす。

ちなみに裏話ですが、この映画撮影中、ロバート・ミッチャムは、
ギャングウェイで転落し、重傷を負いました。
撮影は延期され、回復後ミッチャムは背中にコルセットを着用して
撮影に臨むことになりました。

そしてついに両者が対峙する瞬間がやってきました。
こちらはUボート艦内。
アラームが鳴り響き、乗員が潜航のために一斉に動きを早めます。

しかし、この映画のUボート艦内は広くて綺麗すぎで、
いまいちリアリティに欠けます。
1981年の「Uボート」でその実態が世間に膾炙することになりますが、
実際のUボートには通路も個室もなく、さらに壮絶に臭かったそうです。

その理由は、機構上の仕組みで潜水中はトイレを使えなかったため、
乗員はそれをバケツにいたしていたわけですが、(『まるゆ』方式ですね)
魚雷発射などの時にはそれらはほとんど外にこぼれることになり、
狭い艦内は阿鼻叫喚の匂いが充満していたからだとか。

Uボートが基地に戻り、メンテナンスを行う港湾労働者の多くは
この匂いに耐えられず、さらにボートは彼らの吐瀉物に塗れるハメに・・・。

 

続きます。

 

"KILLER-SUB versus SUB KILLER"〜映画「眼下の敵」中編

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映画「眼下の敵」中編です。

本作収録DVDには、映画のオリジナル予告編が収録されていて、
その字幕には

「KILLER-SUB versus SUB KILLER」

「ABOVE OR BELOW THE SEA!」

とあり、誰が上手いこと言えと、というかんじです。

大西洋上で対峙した米駆逐艦「ヘインズ」とUボート。
まだ見ぬ敵との交戦を前に、両者は極度に緊張してそのときに備えます。

 

Uボートが潜航した後、艦長は航行速度を落とすように命じました。
ジグザグ航行もしないという命令に、乗員たちは不満顔です。

「これじゃい相手のいい標的だ」

まだ艦長は乗員の信頼を得られておりません。
民間出身ということで、乗員の見方にもバイアスがかかってしまっています。

このマレル艦長の作戦は、海中のUボートに、駆逐艦が去ったと思わせるためでした。

しかし、実際の海戦だとすれば、この件は操舵手らの方が「正しい」のです。
ここが実は脚本の穴というべき部分で、もし、マレル艦長が下命したように
スピードを落としプロペラ速度を下げても、実際に遠ざからない限り、
音が聴こえなくなることにはなりません。

つまり、どんな初心者のソナー員でも、これをもって

「遠ざかっていった」

と騙されることはないので、作戦として成り立たないはずなのです。

しかしこれは映画なので、Uボートはまんまと騙されそうになります。
諦めて駆逐艦が去っていった可能性もなきにしもあらず、しかし
慎重なUボート艦長はそれを確かめるためにじわじわと浮上していきました。

艦長自ら潜望鏡をのぞいて相手の艦影を確認すると、
ほーら、やっぱり駆逐艦まだそこにいるし。

「煙突1、艦首と艦尾に3インチ砲、中央部に対空砲、(魚雷発射)チューブなし」

さっそくその目視をもとに艦種を「バックリー級」だと判定します。

しかし実際には「バックリー級」には煙突のすぐ後ろに
トリプルマウントのチューブ(魚雷発射管)が装備されていました。

Uボートは再び潜航し、戦闘を開始することにしました。

こちら駆逐艦上。

艦長はUボートが魚雷を撃ってくるのは潜航10分後だろうと予測します。
そして予想通り、きっかり10分後にUボートが撃った二本の魚雷が向かってきました。

(ただし映画に登場するUボート”タイプVII” には艦尾の発射管は一つしかありません)

艦長はすぐさま取舵いっぱいを命じ、見事魚雷をかわします。

通り過ぎていく魚雷を見送ったあと、右側の男前副長は、
さりげなくヨットマンだった過去を自慢。

「マイアミヨットレースではこんなことは起こらなかったな」

ともあれ、艦長の操艦指示で駆逐艦は魚雷をかわし、
これで艦長の来歴に否定的だった乗員も認めることになりました。
さっきまで文句を言っていた操舵手も手のひら高速返しで褒め称えます。

そして、方や近距離の魚雷を外されたUボートでも、

「相手は素人じゃないな」

ここから、駆逐艦からはソナーを下ろし、潜水艦の中からは
見えない上方を見上げての、おなじみの光景が展開します。

爆雷の深度がセットされ、伝令が行き渡る中、艦尾のローラーローダーでも
投下の準備を始めていました。
爆雷中央にあるストッパーを外していくのです。

いったん深度を掴ませておいて、ギリギリになって
その場から脱出し、空振りをさせようというのがこちらの作戦です。

しかしマレル艦長は相手の動きを読み、即座に爆雷の深度を変えさせました。

リセットされたKチャージ発射管から爆雷が投下されました。
「スレーター」のときに書いたように、爆雷と一緒に
アーバーと呼ばれる支えも一緒に飛ばされていきます。

派手にあがる水しぶきは、撮影の際本当に爆雷を使用したとか。
国防総省と海軍の協力を受けています。

初めての実戦に浮き足立ったらしい後部爆雷配置の水兵、
なんとリリースレバーを解除するのにラックに手を置いたまま・・・・。

しかしその作業をするとき、普通手は上のバーに置かないかしら。

あぶな〜〜〜い!!

このシーン、本当にわざとらしく置いた手の横を爆雷が転がり、
あまりにもリアルで思わず息を飲みます。

そして、

痛い痛い痛い痛い痛い

 

画面では本当に手が挟まれたようになっているので、
意地悪なわたしとしては写真をよくよく確かめたところ、

「掌の部分、ラックに直線の不審な影が見える」

「ブルーダンガリーの袖の折り返しが役者のと全く違う」

「手を置く角度がほんのり不自然」

「その前のシーンでは全くなかった影ができている」

このことから、撮影に際して

「手の模型をラックに固定してその上から本当ににローラーを動かした」

のであろうと想像されます。
手の下に見える不審な影は、模型を固定するためのツールではないでしょうか。

この間も海面では「ホワイトハースト」から発射された爆雷が景気良く
海面に巨大な水しぶきを上げていきます。

これに対しUボートは煙幕を貼って逃げ延びようとします。
なんと大胆にも駆逐艦の真下を逆行し死角に紛れるという作戦。
この辺で駆逐艦にも「やるな」という空気が流れ始めます。

戦闘はしばらくお預けとなり、艦長は負傷した乗員を見舞います。

軍医「指を切断(Amputated)しました」

起き上がろうとする乗員に

「寝ていろ、セイラー、君はたった今任務を解除された」

「わたしは重傷ですか」

「君は指を失った。私の責任だ。
ラックをあんなに急いで動かすべきではなかった」

「いえ、私がレールに手をおいてしまったから・・・。
多分興奮してたんでしょう」

「トリニダードに戻り次第飛行機で帰国だ。
そうしたらすぐに元の仕事に戻れるさ」

「時計職人だったんです」

「・・・・・・・・・・・・」

 

駆逐艦とUボート、両者の対決は小休止となりました。
駆逐艦上では、情報部から送られてきたデコーダーを解読しています。

こちらも食事などしながらホッと一息。
相変わらず空気読まないクンツ少尉が

「見事な指揮でした。総統もお慶びになるでしょう」

などといって艦長をイラッとさせております。

間をおかず「ヘインズ」は攻撃を仕掛けてきました。
Kガン、つまりディプスチャージ投下です。

 

どうですこの実弾の上げる派手な水しぶき。

不利と見たUボートは深海での鎮座を決定します。
パイプの継ぎ目から水が噴き出し艦体が軋みますが、
なんとか無事に着底し、

「ドイツの潜水艦って超イケてるよな!」

と自画自賛。
そういえばUボートを乗っ取るという設定の
「U-571」でも、こんな台詞がありましたなあ。

潜水艦が存在を消したので、駆逐艦の方もエンジンを停止、
ここで本格的に両者は睨み合いに入りました。

皆思い思いに(ただし静かに)艦内で過ごしています。
声を出さなくて済む簡易オセロをしたり、本を読んだり。
甲板に出ているものも声を極力出さず、釣りをしています。

つまづいて「いてっ!」と言いかけた乗員には皆で

「シーーーーーッ!」

この、いかにもインテリそうな水兵さんが

「ローマ帝国の興亡」

を読んでいるかと思えば、

機関長は「孤児アニー」(アニーの原作)の漫画を読んでいます。
この人はかつて実際にこの「ヘインズ」を演じている「ホワイトハースト」
の艦長をしていたことがあり、当映画の技術顧問を務めました。

じつはUボート、駆逐艦の乗員がたらした釣り糸のずーっと先、
つまり真下にいたりします。
こちらの方も駆逐艦の行方を見失い、音無の構え。

ナチ信奉者のクンツ少尉はスローガンの前で「我が闘争」を読んでいます。

そんなクンツ少尉を忌々し気に見遣り、先任士官に目で合図。
先任士官は肩をすくめてみせるというのが無言で行われます。

ヒトラー嫌いなのはわかったけど、一応あんたもドイツ軍人なんだからさ。

 

「もう敵は行ったでしょうか」

「変だな。わたしには彼らが待ち受けているとわかる」

Uボートは無音先行を開始しますが、「ヘインズ」のソナーマンは
キャビテーション音を鋭く聴きとり、駆逐艦は攻撃を開始するために
エンジンをかけました。

「悪魔みたいな野郎だな」

お互い相手が只者でないことを察知し始めていました。

駆逐艦では艦長が士官とCPOを集めて会議を始めました。

前半で派手に爆雷を使ってしまい、残りは3分の1しかなくなってしまった。
Uボートと合流する予定の敵艦に万が一遭遇したら、装備の上では劣る
この「ヘインズ」ではおそらく彼らに絶対に勝てない。

そこで、1時間ごとに近づいては爆撃、そして退避、また近づいて爆撃、
と相手を足止めして敵駆逐艦とのランデブーを阻止するという作戦が立てられました。

 

このままではUボートの不利は確定ですが、百戦錬磨の
フォン・シュトルベルグ艦長がここで終わるはずがありません。

どんな反撃に出るのでしょうか。

 

続く。

" I Think You Will."〜映画「眼下の敵」 後編

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映画「眼下の敵」(The Enemy Below) 後半です。

ところでみなさんもお気づきの通り、この映画はゴリゴリに硬派で、
舞台は駆逐艦とUボートの中、そして海の上のみ。
米駆逐艦「ヘインズ」がUボートを見つけ、両者が対決する
24時間の出来事を書いており、回想シーンもいっさいありません。

マレル艦長の妻は、自分が船長をしていた民間船に乗せたがために、
潜水艦に撃沈されて死んでしまったということですが、それも
回想シーンはなく、艦長が静かに物語るだけ。

クルト・ユルゲンス演じるUボート艦長フォン・シュトルベルグの妻も、
写真がちらっと写るだけです。

ちなみにこの写真は、ユルゲンスの実際の妻、女優のエヴァ・ノヴァクで、
ちょうど撮影の時期に結婚していたことから「特別出演」させたようです。

ユルゲンスは生涯に5回結婚していますが、ノヴァクはその中でも
結婚から離婚まで1年という最短記録を誇っています。

 

さて、駆逐艦の足止め作戦が始まりました。

きっかり一時間置きに繰り返される爆雷攻撃に、
すっかり翻弄されるUボートの中の人たち。

攻撃が5回目を超えたとき、中の人の一人がパニックを起こし、
レンチを振り回して無言で大暴れするという事態になってしまいました。

ハッチに近寄っては開けて外に出ようともがきます。

「我々には手が出せません!」

しかしあら不思議、艦長が、

"Komm her, Sohn.”(お節介ながらドイツ語翻訳でお送りしております)

と一言いうと、ナウシカを噛んだキツネリスのように大人しくなりました。

「死も我々の任務の一部だ。しかし我々は死なん」

さすがはカリスマ艦長、言うことが違うわ。

そして何を思ったか、先任伍長のハイニにレコードをかけさせます。
艦長、気でも狂ったかー?

「歌うんだ!」

この曲の元歌は、ドイツの「デッサウア」と言う行進曲で、
「So Leben Wir」( それが私たちの生き方)という歌になっています。

Marsch «Der Dessauer»

「♫友のために、みんなのために、人生に乾杯!
笑って歌おう、高らかに力強く」

「♫ジョッキはビアで満ち、唇には泡
友情に乾杯 叫べ ”ヤボール”!
ローレライの姿に心奪われ 愛に乾杯!命ある限り」

どうだ、聴こえるか、と上を見上げる不敵な艦長。
いつの間にか後ろでマイクを握って歌ってるクンツ少尉(笑)

副長「我々がおかしくなったんでしょうか」

「いや、まともだよ。そうでないことを祈るところだが。
それでは攻撃用意だ、副長。
ワルツの途中で彼らを真っ二つに引き裂いてしまおう」

あのー、お言葉ですが艦長、この曲四拍子なんですが・・・。

字幕では、

「ワルツに伴奏してやろう」

となっていますが、実際の方が容赦ない感じです。

歌に遠慮なく始まった次の攻撃で、Uボート燃料パイプ破裂。

そこでUボート艦長は燃料を捨てて反撃に出ることにします。
爆雷を1度撃つと、必ず駆逐艦は転舵して次の攻撃のために向きを変える。
その数分の間にこちらから攻撃を仕掛けようと言うのです。

「フォイアー!」(お節介ながらドイツ語に翻訳してお送りしています)

いきなり向かってきた四本の魚雷は避けようもありません。
そしていきなり駆逐艦が模型になって映像もチャチに!

前部ボイラー室と機関室浸水!

「1時間も保ちません!」

そこで艦長は、

「マットレスに油をかけ甲板で燃やし火事に見せかけろ」

と命令します。

「こちら艦長、最後の反撃に出る!
敵は必ず浮上してくるから、保全班と第31砲座以外は
総員離艦せよ!」

表から見ると火事を起こしただけのように見せて、
実はもう沈むしかない艦に敵を引き寄せ、
浮上したところをやっちまおうというのです。

反対側では退艦が始まりました。
ホエールボートには10名ほどが乗り込んでいます。

ついにUボートが「餌にかかって」浮上してきました。
Uボート艦橋からは、紳士的に発光信号で、

「5分後に沈めるのでよろしく」

と合図が送られてきました。
駆逐艦の方は卑怯にもこの5分で相手をやっつけるつもりなんですけどね。
それでも一応礼儀正しく、

「了解 感謝する」

と返答します。

準備を整えて撃ってきた駆逐艦に、Uボートも時間を早めて攻撃。

「フォイアー!」(お節介ながら再びドイツ語に翻訳してお届けします)

しかし駆逐艦は真っ直ぐこちらに向かってくるではありませんか。

艦長はしかし真正面から駆逐艦を見据え、逃げようとしません。
彼の「友人」である先任伍長が艦内に爆薬を仕掛けに行って
まだ戻ってきていなかったのです。

駆逐艦はUボートにのしかかってしまいました。
潜水艦が浮力を保っているのが物理的にありえないんですが・・・。

艦内に先任伍長を助けに戻る艦長。

救命ボート上の乗員は、自艦の乗員がボートにしがみついているのに、
Uボートから脱出してきた敵を拾って乗せてやっています。

やさしい世界・・・

そのとき、駆逐艦の艦橋から出てきた艦長と、
Uボート上の艦長が初めて遭遇しました。

一目で互いを認識し、敬礼を送るフォン・シュトルベルグ艦長。(冒頭絵)

アメリカ人らしく投げつけ式答礼をするマレル艦長。
好敵手同士が対峙した瞬間でした。

自分も退避しようとしてふと思い返し、マレル艦長は
Uボート上の二人に向かってロープを投げてやります。

瀕死の先任伍長の体を結びつけ、Uボートから脱出!
急がないと、仕掛けてきた時限爆弾が爆発してしまいます。

自力でロープを伝って駆逐艦上に上がってきたUボート艦長。
撮影では、もうすこし体重の軽そうな人がスタントをしています。

驚異的な体力にマレル艦長が驚きの目で眺めると、再び不敵な目で
傲然と見返してくるのでした。

この後がちょっと笑えるんですが、マレル艦長が

「英語わかるか?」

と話かけるんですよ。
今までペラペラ英語で喋ってたっつーの。

ホエールボートから助けに来た乗員に担がれて、
文字通りの呉越同舟になったところでタイミングよく時限爆弾爆発。

「ヘインズ」もUボートも爆発炎上して仲良く海の藻屑に。

しかし先任伍長は救出後、亡くなってしまいました。

救出に来た駆逐艦艦上では彼の海軍葬が行われ、フォン・シュトルベルグが
ドイツ語の祈りの言葉を唱え、捕虜となったドイツ軍兵士が歌を歌います。

この歌は「Ich hatt 'einen Kameraden 」(私の同志)という
フリードリッヒ・シルチャーの曲で、今日でもドイツ軍では、
葬列で演奏される儀礼曲となっています。

Ich hatt' einen Kameraden (German and English Lyrics)

ドイツ語の上に英語訳が出てきますので、良かったら読み比べてみてください。

かつて同志がいた
良き同志が
太鼓は私たちに戦いを呼びかけた
彼は私のそばを同じ歩調で歩いていた

弾丸が飛んで来た
私の番か それとも彼か
彼は倒され 私の足元にいた
まるで私の一部であるかのように

彼はわたしに手を差し伸べていた
わたしが銃に装填をしているそのときも
だから今は彼の手を握ることはできない
同志よ、君は永遠の命にとどまる
私の良き同士よ

その曲がリフレインする中、軍医が艦長にしみじみと語ります。

「わたしは希望を見つけましたよ。
変わった場所、海の中で・・・しかも戦いの最中にね」

Uボートの乗員は捕虜になったわけですが、普通の乗員のように
そのへんをうろうろしております。
いいのか。

マレル艦長は好敵手だったフォン・シュトルベルグ艦長に近づき、
だまってタバコを勧めます。

タバコが「悪」でなかった時代は、こうやって男同士の
「連帯」「友情」「尊敬」いろんなものが表現できたんですよね。

「太陽にほえろ!」でも、タバコとタバコを近づけて火を移す、
と言うシーンがありました。(はずですよね。知りませんが)

しかしフォン・シュトルベルグはマレルからタバコを受け取って
自分で火をつけています。

さっきまで死闘を繰り広げていた二人が顔と顔をくっつけるのは
いくらなんでもやりすぎ、ってことになったのかもしれません。

そして最後に二人はこんな会話を交わすのです。

「私は何度もしに直面し、その度に生き残ってきた。
今回は君のせい(fault)で」

「知らんがな。
それなら次はもうロープを投げるのはやめておく」

するとフォン・シュトルベルグは煙を吐き出してから、

「君は次もそうするよ」

 

実はこの映画、映画のようなエンディングが元々の著書になかったため、
二通りの結末が考案され、実際に撮影されて、最終的にどちらにするか
モニターに見せ、評判の良かった方が結果全員一致で選ばれました。

それがこの「ハッピーエンディング」だったらしいのですが、
それではもう一つはどんな結末だったのかというと、

マレル艦長は海に転落した(か飛び込んだ)フォン・シュトルベルクを
救出するために自分も海に飛び込み、二人の指揮官はどちらも死ぬ(-人-)

 

わたしがモニターでもこっちは選ばなかったと思います。

 

 

終わり。

 

エンパイア・ステート航空科学博物館(ニューヨーク州スケネクタディ)見学

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やっとUSS「スレーター」のご紹介をおわったので、次に
同じニューヨーク郊外にあった航空博物館、

「エンパイアステート航空科学博物館」
Empire State Aerosciences  Museum

で見学したものについてシリーズでお話ししていくことにします。

ネットで軍事博物館を検索していて探し当てたのは、
ニューヨーク州といっても州都オルバニーをさらに
ハドソン川に沿って五大湖に向かって遡上していった、
グレンヴィルという街にある空港利用型の博物館でした。

1984年、ニューヨーク州の教育省によって企画された非営利の博物館で、
グレンヴィルに昔から存在した

スケネクタディ郡空港(Schenectady County Airport)

の一角にある土地にあります。
この「スケネクタディ」という地名ですが、最初に見たとき、

「なんて読むの?『すけ・ねくたでぃ』でいいのかな」

「変な名前」

などと言い合ったものです。
アメリカの変な地名あるあるとして、この名称もネイティブアメリカン、
つまりこの場合はモホーク族の言語です。

「松の木々の向こう側」

と言う意味なんだとか。

もともとモホーク族の土地だったところに、オランダ人が入植し、
その後原住民たちは、フランス軍と、フランス軍に協力した
他部族のネイティブアメリカンによって、多くが殺害されたそうです。

高速道路を降りて長閑な風景を見ながらしばらく行くと、
エンパイアステート・エアロサイエンスミュージアム、
通称ESAMが見えてきます。

なぜに名称が「エンパイアステート」なのかですが、博物館が
存在するのがグレンヴィル、空港はスケネクタディということで
どちらの地名も使うことができず、かといって
「ニューヨーク」という冠を被せるのはちょっと規模の割に畏れ多い、
ということでこのイメージ的な名称になったと想像します。

実際に訪問してみて、規模といい展示といい、
博物館として立派なものだと思われましたが、営業は毎日でなく
金土の10−16時、日曜は正午ー4時までのみ。

非営利ではないので、従業員の確保が難しいのかもしれません。

ちなみに画像の国旗が半旗になっていますが、これは
この年にジョン・マケイン議員が亡くなったからです。

ところでこのメインハンガーですが、現在はESAMの所有で、
かつてジェネラル・エレクトリック社がスケネクタディ空港から
貸与されていた土地に建てたものです。

素材の中心はコンクリート。
右側の写真は1946年に行われたエアショーの様子で、左下には
ウィルソン大統領、GGのお偉いさんと共に、あの
ドーリトル爆撃の指揮をとったジミー・ドーリトル准将が写っています。

当時の最新武器だったヘリコプター、シコルスキーR-5の姿もあります。

1943年にGE社レーダーと武器統制システムを研究する実験室を
ここで操業していました。
1945年には航空実験部隊がGE社の一環として創設されたため、
それにともないこのハンガーが建造されたのでした。

戦後1946年から1964年までは、

GEスケネクタディ・フライトテストセンター

として、30タイプの基本形から60タイプの派生系に上る
飛行機が40種類のプロジェクトによってここから生まれました。

テストされた機器は、ジェットエンジンからミサイル誘導システムまで、
テスト結果は世界中および世界中の他の現場にもたらされました。

ほとんどのプロジェクトは軍事用で、その目的は
ソ連との冷戦に投入されるためのものでした。

さて、それでは中に入ってみることにしましょう。
チケットは大人8ドル。
非営利型の博物館でも、維持費のために入場料は取ります。

入ると最初のバリアフリー型エントランスは、このように
まるで滑走路のような雰囲気を醸し出しています。

スケネクタディ空港初期、複葉機時代の資料、
そして気球などが最初の部屋に見えてきました。

フロアには第一次世界大戦時の戦闘機、天井にもたくさん展示機が。

最初の部屋でまず目に着いたのは、女流飛行家
アメリア・イアハートのマネキンと彼女の愛機ロッキードでした。

彼女が最後に挑戦した「世界一周」の航路が地図で示されています。

女性飛行家として数々の快挙を成し遂げたイアハートは、
1937年5月21日、赤道上世界一周飛行に飛立ちました。

ご存知の通り、それが彼女にとって最後の飛行となるのです。

わたしが昔見学したことのあるオークランドの飛行場から
(ここも航空博物館を持っていた)東回りに、マイアミから
南アメリカに飛び、アフリカ大陸、そしてインド洋沿岸を周り、
○で囲んだ27番、ニューギニアに到着したのが6月30日。

2日後、彼らは「28」のハウランド島を目指して出発しましたが、
数時間後の無線通信を最後に連絡を断ち、永遠に姿を消しました。

彼らの乗っていた機体は残骸も見つからず、いまだに彼女の死は
航空史上の大いなる謎の一つとなっています。

1994年、ダイアン・キートン主演で

「最終飛行(ザ・ファイナル・フライト)」

というテレビドラマになっていました。
で、どうしてこのポスターがここにあるかといいますと・・、

ここにあるロッキード・エレクトラのモックアップは
上記の「ザ・ファイナル・フライト」の撮影に使われたものです。

カリフォルニア州からここスケネクタディまで空輸されてきたのだとか。
左の電話を耳に当てると解説が聞けたようです(が聞いてません)。

モックアップは前の部分だけ。

ナビゲーターのフレッド・ヌーナンが座っていた席。
テーブルの上には地図や製図器など、足元にはカバン。
「Western Electric」(ウェスタン・エレクトリック)の木箱は
通信機器が入っているという設定でしょう。

アメリカにかつて存在した電機機器開発・製造企業で、
1881年から1995年まで、AT&Tの製造部門でした。
現在はノキアが事業を後継しています。

壁に女性3人の飛行士の写真がありますが、一番左がイアハート、
そして真ん中は、彼女の同時代のライバルだったルース・ニコルズです。

ニューヨークの名家に生まれ、ウェルズリー大学を卒業後は
メディカルスクール(医学部)も出ているのに、空への夢捨て難く、
水上機の免許を取得した世界最初の女性となった人です。

お嬢様だったため、あだ名は「空飛ぶデビュタント」。

2度にわたる航空事故でその度重傷を負いながらも飛び続け、
57歳の死の2年前、TF-102Aデルタダガーに同乗し、
時速1600km、高度15,545mという新記録を樹立しています。

翌年、つまり死の前年になりますが、彼女はNASAのマーキュリー計画の
宇宙飛行士テスト、遠心分離、無重力試験を受け、パスはしませんでしたが
女性の宇宙飛行士への適合性については期待を裏切らない結果を出しました。

しかし、その翌年、彼女は極度の鬱に苦しみ、バルビツール酸の過剰摂取で
亡くなり、法律上彼女は自殺をしたことになっています。

ロッキードL-10エレクトラは全金属レシプロ双発機。

「エレクトラ」とはプレアデス星団にある星の名前から取られています。
イアハートが乗ったのはそのうちの10Eで、15機製造されたうちの1機でした。

ロッキード社に保存されていたらしい航空機の
所有証明書(エアクラフト・レジストレーション)。

これによるとシリアルナンバーは1055、
エンジンモデルはWasp S3 H1、
取得日は1936年の7月24日。

最後の「最終機位」についての文章を訳しておきます。

「ナビゲーターのフレッド・ヌーナンを同行し、37年7月2日、
アメリア・イアハートは、ニューギニアのラエを、ハウランド島に向け
午前10時に2550マイルの航路を出発した。
携行したのは1100ガロンの燃料、75ガロンのオイル。
消費燃費は1時間に約53ガロン。
ハウランド島までの到着予定時間は20時間16分であった。

操縦者は「残り燃料30分」という通信を最後に消息を絶った。
航路を見失い、海に墜落したものと考えられている。」

 

彼女が消息を経ったのは日本軍に捕らえられて処刑された、
というまことしやかな噂はいろんなところから出てきていましたが、
ひどかったのは、ヒストリーチャンネルが、入手した一枚の写真の
どこかの埠頭に写っている男女をイアハートとヌーナンだと決めつけ、
なぜかそれを日本軍が彼らを拉致した証拠とした事件です。

連行された彼らを遠くから撮ったもの、という結論ありきの推理でした。

これが全くのデマであることは、一人の日本人が国立図書館で
観光案内として掲載されていた全く同じ写真を見つけ、
その本の発行がイアハート事件より10年も前だったことで証明されました。

この方には同じ日本人として心からお礼を申し上げたいですね。

捏造といえば、イアハートのいとことかいう人物も、

「日本軍に捕らえられ、ヌーナンは斬首されてアメリアは獄死した」

と何の根拠もないのに言っていたそうですが、それにしてもその時期、
日本軍が民間飛行人をこっそり処刑する理由がどこにあるんだか。

 

手回し式ジェネレーター(発電機)。

プロペラモーターと赤灯用だそうです。
ここにあるクランクを回せば、後ろの小さなプロペラが回り、
右側のライトが点灯するのでしょう。

当ブログでも紹介したことがある映画。
ヒラリー・スワンクがアメリア・イアハートを、
干される前のリチャード・ギアがイアハートの夫を演じました。

映画「アメリア 永遠の翼」ラストフライト

人気絶頂で彼女をコマーシャルに使った企業の製品は
「アメリア・イアハート効果」と言われるほど売り上げが上がりました。

最後に、 ニュース映像を混えた彼女の「ラストフライト」について
映像を上げておきましょう。

Amelia Earhart's Final Flight

おや、この人物は、あの

チャールズ・リンドバーグ(1902−1974)

ではありませんか。

「リンドバーグがやった!パリまで33時間で、1000マイル、
雪とみぞれの中、フランス人は飛行場で彼に歓声を送る」

というニューヨークタイムズの新聞記事ヘッドラインがあります。

なぜ彼らに言及しているかというと、これらの飛行家たちが
一度はここスケネクタディ空港に着陸したことがあったからです。

まず、1929年に、アメリア・イアハートは、「史上初の女性の乗客」として
リチャード・バード機長の操縦する飛行機でここに降り立ち、
歴史的快挙を成し遂げたのち、ラジオ放送を行いました。

また、リンドバーグはこの2年前の1927年、82都市をめぐる
ツァーの一環としてここに着陸を行っています。

「ラッキー・リンディ」を一眼見ようと、そのときスケネクタディには
2万5千を超えるファンが詰めかけたのでした。

 

ところで、当航空博物館では、日曜日の朝食を用意して、
楽しく皆で食事をした後に元パイロットや航空機についての識者、
歴史家、航空ジャーナリストと言った人々の話を聞き、
そのあとはヘリコプターに乗ったり、館内ツァーをしたりする
名物イベントが長きにわたって開催されているそうです。

楽しみにしている地域の常連もたくさんいそうですね。

 

続く。

 

 


ニューポール17と第一次世界大戦〜エンパイア・ステート航空科学博物館

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ニューヨークの超郊外、グレンヴィルというのは風光明媚な田舎です。
わたしたちはここに行ったとき、小さなモールに隣接した
それは立派な建物の一階にある良さそうなレストランに行ったのですが、
その建物は医療機関付きの高級老人ホームでした。

建物の一階には高級品を扱うちょっとしたブティックや販売店があり、
なんと驚くことに画廊が入っていたりするのです。
はたしてこのレストランに入ってみると、周りは老人と
彼らに会いにきたらしい家族ばかりでした。

「面会に来た家族と食事をするためのレストランなんだね」

わたしたちが客層を見てヒソヒソ話をしていたのですが、そのうち
隣のテーブルに座った中年男性が、その母親らしい女性に対し、
実にぶっきらぼうな態度、子供を叱るような口調なのに気がつきました。

男性はアメリカ人らしくショートパンツというラフな格好をしていましたが、
眼鏡をかけてみるからに高学歴な雰囲気を漂わせており、こんな高級施設に
親を預けるくらいですので多分富裕層でもあるのでしょう。

しかし、歳をとって不明瞭なことを喋る母親に対する苛立ちを隠そうともせず、
ぞんざいな態度で接しているのが外国人の我々にもわかりました。

わたしはまず、アメリカ人にも人前でこんな態度を見せる人がいるのに驚き、
自分の学歴や今日の地位、経済力なども、その目の前の母親が
一生懸命彼を育ててきたからこそ形成されたはずなのに、
そのことに対しては何の感謝もないかのように思える彼の態度に
他人事ながらうっすらと不快にすらなったものです。

こんな至れり尽くせりの施設に預け、自分一人だけでとはいえ、
週末に面会に来ているからには、彼なりに母親を愛しているのでしょうけど。

 

話がいきなり脱線しました。
ESAMの説明に戻りましょう。

イアハートのロッキードの向かいには、

Nieuport (ニューポール)17C.1 

があります。

ニューポール(Nieuport)はフランスの航空機会社で、
第一次世界大戦や戦間期の戦闘機を製造したことで知られています。


1902年にニューポール・デュプレ(Nieuport-Duplex)として
ニューポール兄弟により創設され、自動車用電装品の製造を始め、
その後航空機の分野にも乗り出しました。

ちなみにこのニューポール兄弟は、どちらも飛行機事故で亡くなっています。

のちに設計者となったギュスターヴ・ドラージュは「10」を製作し、
第一次世界大戦が始まると、これをフランス陸軍などに売り込みました。

その後、イギリス海軍航空隊が購入し、その有用性が証明されると、
フランス海軍やロシア帝国軍も納入を始めます。

詳しいスペックと歴史などが書かれたノートも置いてあります。
ニューポール社によって開発製作された、いわゆる一葉半タイプの複葉機で、
従来の11タイプよりもエンジンが強力で翼も大きくなっていました。

すごくリアルな搭乗員のマネキン。
翼の上に置いた地図を見て、作戦を確認しているようです。

1916年に配備が始まり、これまでフランス軍が配備していた
11型に置き換えられました。
イギリス戦闘機よりも優れていたため、イギリスの陸軍航空隊、
海軍航空隊からも発注を受けたということです。

この年、フランス航空部隊の戦闘機隊がすべて、
一斉にこの一種類の飛行機を使用していました。

また、敵側のドイツ軍も、鹵獲したニューポール17の機体を
国内の航空機製造会社(ジーメンス)にコピーさせたこともあります。
ただし、これは西部戦線に投入されることはありませんでした。

ところが、これだけヨーロッパ中に普及したニューポール17、
大変残念なことに、機体に設計上の問題がありました。

傑出した運動性と優れた上昇率を誇ったものの、一方
その「セスキプラン」と称する特徴的な一葉半の主翼の下翼は
単桁構造のため大変脆弱だったということです。

このためその機体はしばしば

飛行中に分解する

ことががあったというのです。

この壁に描かれた飛行機がどんな事情で落ちたかわかりませんが、
いずれにしてもこの頃の飛行機の安全性は大変低く、
搭乗員はほとんどが初陣で戦死するか、長生きしたとしても
せいぜい何週間かのうちに事故で亡くなったと言われています。

負傷したパイロットを女性の看護師が手当てしています。

第一次世界大戦の時には日本国内で志望者が募られ、その結果
実際に看護「婦」を派遣されたという記録が残っているそうです。
どんな活動をしたかが全く伝えられていないのは残念ですね。

 

また、壁画の手前の犬と一緒にいるライオンの絵をご覧ください。

映画「フライボーイズ」でも描かれていたように、
アメリカ陸軍航空隊から参戦したフランス系アメリカ人の

ラオール・ラフベリー少佐(1885−1918)

は、ラファイエット航空隊でライオンをペットにしていたのは有名な話です。
ちなみにペットの名前は「ウィスキー」と「ソーダ」だったとか。

ペットを飼うと映画的にはフラグである、という法則の通り?
ラフベリー少佐は17機を撃墜したエースでしたが1918年、
飛来したドイツ機をニューポール28で迎撃した際被弾し、
燃える機体から飛び降りて戦死しています。

翼にイギリス空軍の国籍マーク、ラウンデルが見えます。

国籍マークは国旗の色を使うところが多いですが、
イギリスは仲の悪い(笑)フランスと国旗の色が同じなので、
同じデザインで赤と青を入れ替えて使っています。

ちなみにドイツ軍は鉄十字を国籍マークとして使っています。
ナチスドイツ時代にもこのマークは普通に使われていたのですが、
どこかの国は、日本の旭日旗には文句をつけるのに、
こちらには一向に何も言わないのは不公平だと思います。

 

さて、ライト兄弟が初の動力飛行を成功させたのが1903年。
2時間以上の滞空飛行に成功したのが1908年。
同年、アメリカ陸軍が飛行機の導入を決め、1911年には
イタリアとオスマン帝国間の戦争で史上初めて
航空機が偵察=戦争に投入されました。

翌年1912年にはイギリス軍が航空機に機銃を積むことを考え出し、
翌年にはメキシコ革命軍が世界初の航空爆撃を行いました。

第一次世界大戦は、国と国との間の戦争で初めて
航空機による戦闘が行われることになったのですが、これは、
なんと人が動力飛行で空を飛び出してからわずか13年後なのです。

現在の13年は、テクノロジーの発達に十分すぎる時間ですが、
この頃はまだまだ人命の犠牲の上に技術の発達を負う側面が強く、
そのため、有名な飛行家の多くが栄光と引き換えに命を落としました。

そんな危険を承知で、人類が登場したばかりの航空機を
戦争に投入し始めたのが、ちょうどこの頃だったのです。

この頃のパイロットの平均寿命は17日と言う説もあれば、
イギリス空軍では配属後2週間で死亡は間違いなしと言われ、
経験の浅いパイロットのそれは11日とされていました。

 

ここに掲示していあるニューポールはイギリス空軍仕様であることから、
ニューポール17の翼の上に設置してあるのはルイス機銃だと思われます。

複葉機の銃はこのように翼の上に設置されて、操縦席から
操作することができるような仕様になっていました。

この架台は「フォスター銃架(マウンティング)」と呼ばれるもので、
イギリス陸軍航空隊のフォスター軍曹が1616年に考案しました。
写真に見られるケーブルは銃の発射を操作するものです。

しかし当時のパイロットというのは、空中で戦闘を行うために、
この超不安定でいつ空中分解してもおかしくない未開の機体を
制御した上で、手動で銃の狙いをつけて撃ち、それを当てた上、
自分は相手の攻撃を避けて初めて生き残っていられたんですね。

そりゃ平均寿命が11日でも無理ないですわ。
だいたい、ほとんどが実戦では初陣で戦死したそうですからね。

 

そしてこの謎の槍(笑)

現場で見た時も帰ってきてからもこの正体がわからなかったのですが、
この先代ニューポール11を見て気がつきました。

翼の支柱に槍が・・・。
これは、

ル・プリエールロケット(Le Prieur crocket)

という空対空焼夷ロケット弾で、飛行船や気球を攻撃する武器です。

金属製の弾頭には黒色火薬200gが充填されており、
空気抵抗軽減のために先端部には三角錐のコーンが被せられていました。

パイロットが掴んで投げるのかと思ったのですが、もちろんそうではなく、
コクピットで点火スイッチを入れると発射される仕組みです。

弾道は不安定で有効射程は短く、命中させるのは難しかったそうですが、
一旦命中すれば、機関銃よりも気球や飛行船には効果的なダメージでした。

どんなことにも「名人」というのが現れてくるものですが、
このル・プリエールロケット攻撃が異様に得意な搭乗員がいました。

Willy Coppens

ご本人の回想です。

「想像していただきたいのですが
わたしは電気式のボタンを押して点火を行いバルーンを探して撃った」

みたいなことを言っているのが聞き取れます。

このバルーン攻撃が得意だった人はウイリー・コッペン(Willy Coppens)で、
32基の観測気球を撃墜しています。
動画には彼が撃墜したらしいバルーンが燃え落ちるのが映っています。

なぜ彼がこの技術にこれだけ長けていたのかわかりませんが、
そのため彼は「バルーン・エース」と呼ばれていました。

ニューポール17登場の頃にはこの攻撃は盛んではなくなっていましたが、
それでも稀にル・プリエールを搭載したタイプも存在したそうです。

「フライボーイズ」にもアメリカから操縦士として第一次世界大戦に
参加した青年たちの群像が描かれていましたが、このヘルメットと
ゴーグルの持ち主であった

ジョージ・オーガスタス・ヴォーン・ジュニア
(George Augusutus Vaughn Jr.)1897−1989

は、その一人であり、戦闘機のエースであり、
平均寿命2週間と言われた当時の空中戦を生き抜いて、
92歳で天寿を全うしたというスーパーヒーローでした。

検索するとebayでサイン入りの写真が出回っていたり(笑)

前回ご紹介したイアハートのライバル、ルース・ニコルズも、
名門ウェルズリーを出て医大を卒業していましたが、彼もまた
プリンストン大学を卒業して飛行士になったという経歴です。

第一次世界大戦時のアメリカのエースの経歴を見ると、

プリンストン(ランシング・ホールデンJr.、チャールズ・ビドル)

コロンビア(ゴーマン・ラーナー、チャールズ・グレイ)

イエール(ウィリアム・バダム、ウィリアム・タウ二世、
     ルイ・ベネットJr.、デイビッド・インガルス)

コーネル(ローレンス・キャラハン、ジョン・ドナルドソン)

ハーバード(デヴィッド・パトナム、ポール・イアカッチ)

など、(特にイエール大学卒業者多すぎ)そうそうたる学歴の
いわゆるエリート層が競って航空隊に身を投じた様子が窺えます。

イギリス空軍第84中隊空軍に派遣された彼は、ここで
7機撃墜(空戦勝利)を記録しました。

1918年になると彼はアメリカ陸軍の航空部隊に参加し、
ソッピースキャメルを愛機として、さらに6勝を挙げています。

ヴォーンは、戦争で生き残ったアメリカで2番目のエースでした。
記録は4機ドイツ機撃墜、7機共同撃墜、気球撃墜1基、撃破1機。

第一次世界大戦時のアメリカ陸軍航空隊の軍服など。

ふと天井を見ると、なんだかお茶目な人が自転車を漕ぐように
空を飛んでいました。

ディピショフ (DePischoff)

1922年にフランスに搭乗した「空飛ぶ自転車」です。
1975年、地元の高校生が制作したレプリカなんだとか。

エンジンを積んでおり、翼幅は5m足らず。
飛べたのか?というとそうでもなかったような・・。

まあ、お遊びで作られた程度だったんではないでしょうか。

1923年には世界で初めて空中給油が行われました。
918 DH-4Bが同型機に対して給油を行ったものです。

その世界初の空中給油をなぜか模型にして展示してありました。

 

続く。

 

帝国陸軍気球部隊〜エンパイア・ステート航空科学博物館

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ニューヨーク北部グレンヴィルにあるスケネクタディ空港、
その一角にある航空博物館、
「エンパイアステート航空科学博物館」ESAMの展示物を
ご紹介しています。

まず冒頭の写真は、

Curtis Model D Curtis Pusher

通称カーティス・プッシャーと言われる初期の動力飛行機です。
この名前には当ブログ的にめっぽう聞き覚えがあるわけですが、
それもそのはず、

「最初に飛行機で甲板から飛び立ち、最初に甲板に降りた男」

として何度かここで紹介した、

ユージーン・バートン・イーリー(1886-1911)

はこのカーティス・プッシャーに乗っていたからです。
しかし、昔わたしが彼について書いたときには
日本語で彼について言及した資料が一切なく、
彼の名前「Ely」をどう読むのか(エリーかイーリーか)
あちこち調べなくてはいけなかったものですが、
あれから時がたち、いつのまにか日本語のwikiができていました。
いやめでたい。

当ブログでは、彼の海軍でのテスト飛行における栄光と死を

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始

として紹介しました。
しかし、こうやって実物を見ると、こんな布と竹で作った飛行機で
よくも甲板への離着艦などやろうと思ったものだと、
その無謀さにはつくづく感心してしまいます。

イーリーはこんなものを操縦して曲芸飛行もやっていたと言いますから、
怖いもの知らずというか文字通りの飛行馬鹿だったのでしょう。
もちろん、何人もの飛行馬鹿のおかげで、飛行機は
短期間に凄まじい発達を遂げ、今日の姿があるわけですが。

イーリーは民間人でしたが、海軍軍人として初めて空を飛び、
ついでにイーリーと同じく空で死んだ

”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉

も、このカーティス・プッシャーに乗っていました。

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始その2

もう一つついでに蘊蓄話を書き加えておきますと、
日本の航空史において最初に国内の航空機事故で亡くなった人も
このカーティス・プッシャーに乗っていました。

武石浩玻(たけいし・こうは)1884-1913

アメリカに渡り、職業を転々としながら放浪を続け、
イェール大学に入学するも中退。
現地で行われた国際飛行大会でフランスの飛行家
ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志しました。

グレン・カーチスが経営する飛行学校で操縦資格を得て
ここでもお話ししたことがある滋野清武近藤元久に次ぐ、
日本の民間人として三番目の飛行家となりました。

1913年(大正2年)現地で購入・改造した飛行機と共に日本に帰国し、
愛機で兵庫県の鳴尾競馬場から京都への都市間連絡飛行に挑み、
久邇宮邦彦王をはじめ数万人が注視する中で深草練兵場への着陸に失敗。

享年28。合掌。

ちなみに同門だった近藤元久はその前年度の1912年、
彼に先駆けてアメリカで航空事故死し、
「最初の航空事故で亡くなった日本人」
の称号を得ることになりました。

1910年の「パイオニア時代」の飛行機のモックアップには
なんと実際に腰掛けてみることができます。
往年の飛行機の操縦席を体験してもらうために、わざわざ
博物館が模型を作ったようですね。

このカラフルでポップな色使い、コロンとした可愛い機体、
遊園地の飛行機型ライドでしょうか。

と思ったら、これには

13 Link Trainer (リンク・トレーナー)

という立派な名前がついていました。
リンクというのは会社の名前で、トレーナー、つまり
これは飛行士養成用のフライトシュミレーターであると。

「ブルーボックス」"Blue box"とか「パイロットトレーナー」"Pilot Trainer"
とも呼ばれていたようで、開発したのはエドウィン・リンクという人。

1929年に技術が発明されてのち、このシミュレータは、
第二次世界大戦中のあらゆる参戦国のほぼ全てが
パイロットの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用しました。

リンクはもともとオルガンとジュークボックスを作っていた人です。
それらに必要なポンプ、バルブ、ふいごに関する知識を利用して、
パイロットの操縦に反応し、装着された計器を正確に読み取るという仕組みの
フライトシミュレータを思いついたというわけです。

50万人以上のアメリカ合衆国のパイロットがこれでで訓練を受け、
オーストラリア、カナダ、ドイツ、イギリス、イスラエル、
そして日本、パキスタン、ソ連へとこの仕組みは伝播しました。

日本ではフライトシミュレータメーカーの東京航空計器(現TKK)が
ライセンスを受けて製造を始め、最初の推定製造数は40 - 50機。

戦時中は陸軍、海軍に「地上演習機」として納入しました。
海軍予科練では「ハトポッポ」と可愛らしい名前で呼ばれていたようです。

戦後同社は1970年まで陸海空自衛隊、航空局、航空大学校に納入していました。

ちなみに御本家のリンク・フライトトレーナーはアメリカ機械工学会により
歴史的機械技術遺産(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に選定され、
現在はL-3 コミュニケーションズ社の一部となり、
宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

L-3って、リーマンブラザーズのことらしいんですが、リーマンが倒産しても
この名前は変えてないようですね。

ここで唐突に現れる南極観測隊シリーズ。
NYANG Ski-doo というスノーモービルの製造会社は
今でもバリバリのスノーモービルメーカーです。

なぜ航空科学博物館にこのようなコーナーがあるかというと、
何かのつてでこのスノーモービルが寄付されたからじゃないでしょうか。

氷を模した壁まで作って本格的です。
この人たちは今から家を作るんじゃないかな。

ここに、「知っていましたか?」としてこんな説明がありました。

●南極のドライバレーでは100年以上雪が降ったことがない

●南極の氷のマントルの大部分は水の下にあるが 
南極の氷と雪の大部分の下には土地がある

●大陸分裂前、緑豊かな植生と先史時代の動物が南極大陸に存在していた

●南極のマウント・エレバスは活火山である

●南極には海の魚を食べるペンギンを除き動物はいない

●氷河は氷が十分に厚ければこれを遡ることができる

●南極の氷は一年に30フィートずつ南アメリカの方向に動いていっている

●南極は隕石を発見するのに最適の場所である

●ペンギンは海の水を真水に変えることのできる臓器を眼の上部に持っている

すべてわたしの知らないことばかりでした。
なぜ航空科学博物館でこの展示を?という気もしますが、
この部分を持って「科学」のパートということにしているのかと。

 

アメリカの南極観測隊が滞在するのはマクマード基地です。

1956年にアメリカ海軍が設営したもので、現在は
アメリカ国立科学財団南極プログラム(USAP)が保有し、
レイセオン・ポーラー・サービス社によって運営されており、
南極点にあるアムンゼン・スコット基地への補給中継点となっています。

レイセオンというのは、もちろんあの武器会社の関連企業です。

さすがはアメリカの施設だけあって、マクマード基地の規模は南極でも最大。
建物は100以上あり、夏季1000人、冬季200人の駐在員を収容します。
海側にあって港を備えているほか、3本の滑走路があります。

中心となるのは鉱山技師たる科学者ですが、彼らをサポートするために
アメリカではあらゆる職種の駐在員が送り込まれています。
調理人はもちろん、床屋や掃除人、運転手も専門職ですし、
新聞記者やジャーナリストなどのメディアも駐在します。

写真のパラシュートは、上空から物資を調達するためのもののようです。

この一室には航空黎明時代、第一次世界大戦時の航空、
そしてアメリア・イアハートを中心とした女性飛行家、
そしてなぜか南極探検コーナーがあるわけですが、
その黎明期時代のジオラマがケースの中にありました。

説明の写真を撮るのを忘れたのですが、これは
気球にガスを注入している作業の様子を表しています。

南北戦争のときに気球隊を創立したタデウス・ロウは
軍事用気球のために携帯用の水素ガス発生器を開発させました。

馬で息せき切って駆けつけている人がいるのですが、
伝令が何か戦況をもたらしにきたのかもしれません。

こちらは陸軍の気球部隊。
そのころの格納庫というのは気球を安置するため、こんな縦長で、
しかも天井から吊り下げていたということを初めて知りました。

ヨーロッパでの気球航空部隊について書いたことがありますが、
日本にも「気球連隊」と言われる陸軍部隊があったそうです。

ほえええこんなかっこ悪いものを・・・。
しかし当時から日本の航空識別マークはこれだったんですな。

日本陸軍でも倉庫は呆れるほど背が高いですね。

日本で最初に軍用気球が飛ばされたのは、1877年(明治10年)、
西南戦争でのことで、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に投入するため
実験を行ったときのことですが、実戦には間に合いませんでした。


1904年(明治37年)、日露戦争の際には戦況偵察の目的で
旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に役立ったので、その後陸軍は
気球隊を創設したという流れです。

1937年(昭和12年)には南京攻略戦に参加。
その後タイ、仏印、シンガポール作戦にも使われましたが、
航空機にその存在意義を奪われていたところ、終戦間際に
アメリカ本土を攻撃するための風船爆弾の計画が持ちあがり、
気球聯隊を母体とした『ふ』号作戦気球部隊が編制されたのでした。

いわゆる風船爆弾です。

 

人員は3000名に増員され、3個大隊で編制された気球部隊は、
茨城、千葉、福島から1944年11月から半年の間に
約9300個の風船爆弾を太平洋に向けて放っています。

そのうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、
アメリカの記録では285発とされています。

戦果といっていいのか、ピクニックに来ていて、木にひっかかった
風船爆弾の不発弾に寄せばいいのに触れたため、爆死した
オレゴン州の民間人6人だけが、風船爆弾による被害者となりました。

ただし、日本軍の方も実質的な戦果を期待したものではなく、
目的は心理的な撹乱効果を起こし、パニックを起こすためであった、
というのが本当のところです。

アメリカ軍は日本側の意図を読み、パニックの伝播を恐れて
徹底した報道管制を布き、被害を隠蔽したため、
この「戦果」が日本に伝わることもありませんでした。

風船爆弾のせいで起こった山火事や停電なども実際にはあったらしいのですが、
あまりにも厳重に秘匿されたため、日本はもちろんアメリカ人の間でも
その存在すら知られていなかったということです。

第一次世界大戦時、陸軍の気球隊の目的は偵察でした。
航空隊司令部の隷下にあったとはいえ、気球のサービスは
編成された企業によって運営されていたということです。

ここに登場する人々は全員が陸軍の軍人に見えるのですが、
ということは彼らは軍属のような立場だったのでしょうか。

それにしてもこの手前に立っている人が斜めなのが気になります(笑)

 

続く。

 

 

軍艦香取征戦記念写真集〜楽しき哉、征戦!

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第一次世界大戦に派遣された軍艦「香取」が、任務を終え、
帰国してから制作された記念アルバムである

「軍艦香取征戦記念写真集」

を、新橋駅前の古本市で手に入れたわたしは、その前半部分を
参加士官などをご紹介するかたちで、ついでに
当時の日本がどうして第一次世界大戦に参戦したのかについて、
紐解いてみました。

さて、今日はいよいよアルバムの後半です。
参加メンバー全員の集団写真が続いた後、「香取」が
「征戦」で訪れた地で撮った写真が紹介されています。

ところで、ウィキペディアによる「香取」の艦歴によると第一次世界大戦で

1914年(大正3年)10月14日、第一次世界大戦において香取は中部太平洋に進出、
マリアナ諸島サイパン島を占領した。
この時に艦内神社から分祀をおこない、同島ガラパン町に香取神社を創建した。

ということが書かれているだけです。

しかしアルバムを見る限り、寄港したのはサイパンだけではありません。

まず出航準備(中央)そして出航(右)

「満々たる大洋を航して征途に向かう」

とあります。
おそらく横須賀港を出ていくところでしょう。

左には

「南鳥島の鳥」

と、洒落なのかなんだかわからないカラスの写真がありますが、
「香取」が最初に寄港したのは南鳥島でした。

■ 南鳥島

アルバムの記事には、各寄港地についてのデータが、
大正3年10月現在の情報をもとに記載されています。

まず、上陸場のコンディションについて。

「島の南方どこそことあそこに二箇所あるも、東北のは使用されていない」

「桟橋は長さ30メートル、甚だ粗造なり。
上陸する船はまず浮標に達し、索をたどり着陸すること」

「水深は小艇には十分である」

にはじまって、潮流、天候、地質、水について述べられています。

「井戸二個あれども塩味を帯び雑用にも適せず。
住民は天水を使用している。
簡単な蒸留器を旱魃の際に使用しているという」

えーっと、つまり当時南鳥島には人が住んでたんですね。

そこであらためて南鳥島の歴史を調べてみると、

1864年(元治元年) - アメリカ人が来訪し、マーカス島と命名

1879年(明治12年) - 日本人斉藤清左衛門が初めて訪れる

1896年(明治29年)-水谷新六ら46人が移住し、集落に「水谷」と命名

1898年(明治31年) -「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される

1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカの領有権を主張
               それに対し大日本帝国も軍艦「笠置」を配置し、牽制した(南鳥島事件)

 

という経緯で、大正3年当時は日本の領土となっていたわけです。

さらにアルバムによると、大正3年現在の島の人口は

42〜3人(うち女性9名、子供3人)だが、4月から8月までは80人になる

で、家屋は15軒。
季節労働者が東京で雇われて滞在していたようです。

というのは、東京に本社を持つ

「南鳥島合資会社」

というのが

「鳥糞を採掘し、余力を以て鳥類鰹を捕獲」

していたからだそうですが、それにしても不思議な会社ですね。
鳥の糞を集めるのが主事業・・・肥料にでもしてたのかな。

この「鳥糞」についても記述があって、

「鳥糞は島の中央部一面にあり、地下五尺まで採掘する。
レールを海岸倉庫まで通し、これを運搬する。
一年で役3000トン、時価15〜20円分が産出される」

だそうで、結構な産業だったらしいことがわかります。

軍艦ファンにはちょっと興味深いカットかもしれません。
太平洋を航行している「香取」の甲板を、艦橋から撮ったものです。

「香取」は前にも述べましたがイギリスのヴィッカー製で、
動力は当時のものならば当然ですが石炭。

航行中のスタックからは黒煙が立ち昇っています。

左上は、サイパンに到着した後、香取が出した作業艇と、
サイパンの「土人」のボートが並ぶ様子。

右は登江丸という補給船が煉炭を補給しているところです。

■ サイパン


ガラパン地区というのは今でもサイパンの繁華街となっているところですが、
この頃から島の中心として建物がそれなりに立ち並んでいた様子がわかります。

さて、戦艦「香取」はこのときサイパンを「占領した」となっていますが、
それまで領有権を持っていたドイツと交戦したなどの記録はありません。

これはどういうことかというと、ドイツは、領有権を有していながら
本国から遠く離れたこの島の開拓、および先住民への教育政策を一切せず、
同島を罪人の流刑地にしていただけだったので、
チャモロ人とスペイン入植者が少数いるだけの荒廃した島となっており、
留守宅に入るが如き無血占領だったのではないかと推察されます。

冒頭写真は「マリアナ群島占領地『香取』守備隊員」とありますが、
これってつまり「香取」の乗員の選抜メンバーですよね。

ということはこの写真の花型の写真の真ん中は、「香取」艦長、
ということになろうかと思います。

守備隊は、サイパン入ると、なぜか病院で記念写真を撮っています。
士官3名、軍医1名、下士官2名、水兵4名。

写真に写っている誰一人としてにこりともしていないので
彼らがどんな心境で占領軍?幹部と一緒にいるのかは謎です。

ちなみにここはガラパンにあった病院で、占領軍は
ここを長官舎にしていました。

サイパンにはチャモロ人(画像はチャロム土人とある)、
カナカ土人という先住民族が在住していました。

右下はガラパンにあったドイツ語学校です。
ウィキの情報の通りであれば、これは原住民のためではなかった、
ということになりますが、ドイツ人の子供がいたとは思えないので
やはりこれは原住民にドイツ語を教えるための学校だったのではないでしょうか。

 

不思議に思ったわたしは、ドイツ語でサイパン島がどう書かれているのか
検索してみようとして驚きました。
ドイツ語ウィキペディアがないのです。

ドイツ人、自分とこの領土だったことそのものを全く忘れてないか?

 

そこでアルバムの資料をみると、当時の住民内訳がありました。

日本人 27

ドイツ人 13

スペイン人 8

カナカ族 1362

チャモロ族 1310

サモア族 67

オレアイ族 40

ドイツ領のはずなのに、ドイツ人が13人て・・・・。
その内訳はといいますと、

島司令 ドイツ人(ベーメー、測量士出身)

副司令 ドイツ人(フワッケル、所掌は警察、軍、税務、土木)

病院長、教師二人、郵便局長もドイツ人です。
そして、収監されていた囚人が15人。

おそらく住民の13人は純粋な居留者で、囚人は含まれないのでしょう。

そのほかにもサイパンにはサモア人が住んでいたようです。
日本人の目から見ても当時のサモア人は「美人」に見えたのでしょうか。

ちなみに後年、トラック島の原住民の娘と結婚した実在の男の話が

「私のラバさん酋長の娘 色は黒いが南洋じゃ美人」

という歌に歌われました。

 

そして商人「アントニー」の家、と説明のある豪邸。
おそらくチャモロ人の実力者で島一の富豪の家でしょうか。

瀟洒な仕立ての背広を着てドレスを着た娘たち、そして
息子と写真に収まる「アントニー」に、占領軍幹部が
皆で表敬訪問に行ったらしい様子がうかがえます。

ちなみにアルバムの解説には「土人生活状態」として次のようにあります。

 

「チャムロ」族は土人中の優等族にして皆上着及び袴を穿ち
多く帽子を戴けり
婦人中には白粉を用いるものさえあり

性質従順にてまた勤勉なりという

朝は早く起き洗面し朝食としてコーヒーとパン(豪州より輸入)を取り
正午ごろ昼食をなし3時ごろ茶を喫し6、7時ごろ夕食をなす 
食べ物は支那米及びトウキビを粉にしたパン魚獣の肉にて野菜は多く食せず

酒は麦酒1日一本はチャムロ族に限り許可せられ居れり

結婚期は女子は18歳より20歳を最多とす
この種族の処女は結婚するまで頗る品行厳格なるも
一度結婚後は宗教上離婚すること能わざる

「カナカ」等の種族は男は褌一本のみ女は腰に布を巻く他
全く裸体にして(略)

耳の下部に穴を穿ち貝殻・ビンロウズ・鼈甲の輪を嵌めおれり

女子は12歳より結婚し14歳より子を産するも児童の発育悪しく
夭死する者多きを以て結婚期の遅きチャムロ族の方が
却って繁殖力大なりという

右下はサイパンのラウラウ湾に停泊する「香取」から上陸する小艇上。

真ん中は上の「アルペン」の家族と記念写真を撮る士官たち。
バン・アルペンはラウラウ湾付近に住んでいたドイツ人で、

年齢四十六従順なる男なり

6年前この地に移住し開墾に従事する

とわざわざ記述されています。

占領したといっても、現地のドイツ人とは友好的で
なんのトラブルもなかったらしいことがわかります。

 

右下に、かつてドイツ守備隊がガラパンに上陸したとき、
という写真があります。
どうしてこんな写真が手に入ったかというと、実は
米西戦争でサイパンを占領したアメリカがドイツに売却したのは
1899年、つまりドイツ領だったのはたった15年だったのです。

その間、ドイツがほとんど開発や定住を行わなかったので
日本は無血占領することができたということなんですね。

■ ロタ・グアム・パラオ・トラック

マリアナ群島守備隊、征戦をそれなりにエンジョイしております。
無血占領で一発も使わずにすんだため余った銃弾を消費すべく、
ロタ島に鹿狩り隊を編成して上陸し、戦果をあげました。

グアムにも寄港したようです。
下の写真は

「椰子の浜辺に涼風薫として苦熱を忘る」

トラック、ボナペ、パラオの島々。

「香取」は寄港したのではなく、通過しただけだったと思われます。

■パガン島

マリアナ諸島守護隊として、「香取」はパガン島という
北マリアナ諸島の面積48㎢の島にも寄港しています。

マリアナ諸島を「香取」が出航したのはいつかわかりませんが、
帰国したのは12月5日とはっきりしています。
つまりこの征戦とは9月19日出航から3ヶ月のことであり、
マリアナ諸島を占領したのは10月14日、滞在期間は
およそ1ヶ月しかなかったということになります。

■ 小笠原諸島

「香取」は帰国途中、小笠原諸島に立ち寄りました。

大将時代の練習艦隊の遠洋航海アルバムをご紹介したとき、
やはり小笠原諸島の「正覚坊」という亀園の写真がありましたが、
当時すでに東京都となって長かった小笠原には日本社会が根付いていました。

アルバムでは当時の人口を、群島全て合わせて4,000人ほど、としています。

当時はパパイヤもバナナも国内では手に入らない珍しい果物でした。

そして左の写真。

「内地に帰着し久しぶりの上陸
累々として前に置かれたるは征戦中の記念品」

とあります。

この書き振りから推察するに、「香取」のマリアナ諸島占領には
全く戦争に往ったという悲壮感はありません。

何もせずに敵地を占領、現地では住民との親交を深め、
珍しい土地で見たことのないものを見て、狩をしたり
ボートレースをしたり、ドイツ人家庭で歓談したり(多分)
乗員一同にとって、実に楽しい「征戦」だったのではないでしょうか。

 

ところで、この6年後、パリ講和条約の結果を受けて、マリアナ諸島が
日本の正式な委任統治領となるわけですが、この歴史的事実に対し、
第二次世界大戦後、戦勝国の側はもちろん日本国内のメディアが

「日本は権益目的で第一次世界大戦に参加し、
ヨーロッパで皆が戦っている隙に青島始めマリアナ諸島を盗んだ」

なんて鬼の首とったように断罪しているのは、前にも説明したように
日本の第一次世界大戦参戦の経緯からみても、
なんだか日本に対してのみ悪意ありすぎじゃない?と思います。

本当に日本のメディアって、日本嫌いだなあ・・・。

「映像の世紀」、おめーのことだ。

 

軍艦香取征戦記念写真集シリーズ 終わり

 

気球からF-16まで・アメリカの女性飛行家たち〜エンパイア・ステート航空科学博物館

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エンパイアステート航空科学博物館の展示をご紹介しています。

航空黎明期の気球の資料を案内するコーナーには
「コントロールイズエブリシング」(制御が全て)
としてこのような展示がありました。

まず一番左のロープについては「ドラッグロープ」(引綱)として
以下の説明があります。

引綱は初期において気球の自動操縦の一つの形態と見做されることがあります。
長時間の飛行で低空の場合、安全な高さをキープしていることを
確かめながらバラストやガスの排出が行われているか確かめるため、
航空士の訓練にしばしば長いロープが使用されていた時代がありました。

気球から垂らしたロープの一部が地面にあるときは普通にこのシステムは働き、
気球が浮きすぎても空中のロープの重量によりうまく沈んでくれます。

これはなかなか良いシステムで水上ではうまく機能しましたが、
陸上ではご想像の通りロープが何かしら物体に巻き込まれることもありました。

その右は「錨」(The Anchhor)です。

気球の着陸は飛行で最も危険な瞬間です。
無風、微風では難なく気球を着陸させることができましたが、
風速20mphもあると、気球と籠はその影響をもろに受けることになります。
着地の瞬間籠の前方への動きは一時的に停止しますが、
ガスバッグは放り出され続け、バルーンが収縮するまで引きずられます。

これを解決するにはどうしたらいいでしょうか。

前進を止めるには牽引したフックが引っかかればいいのですが、
その際フックは籠ではなくガスバッグを囲むネットに
結び付けられていると有効であるとされました。

そしてその横のゴンドラに乗ったロングスカートの女性です。

彼女の名はメアリー・ブリード・マイヤーズ(1849ー1932)。
プロの気球乗りで、

「レディ・エアロノー・カルロッタ」

として知られていました。

気球そのものが珍しかった時代、女性の航空のパイオニアとして
気球で単独飛行を行い、多くの記録を樹立しました。

写真には彼女が当時のメディアに

「The Intrepid Lady 」(勇敢な淑女)

と讃えられたということが書かれています。

彼女は夫と共に旅客用の気球を製造販売するビジネスを営んでいました。
彼らは自社製品に搭載した空中ナビゲーションでいくつかの特許を取り、
各地で展示デモを行うことで宣伝を行っていたのです。

日本でもどこぞのホテルチェーンでは嫁が宣伝をして有名ですが、
実はこの「女流バルーニスト」はあの女社長のように、いわば
イメージガールの役割を演じていただけで、彼女の栄光のほとんどは、
この夫のカール・エドガー・マイヤース(1842−1925)
の実力のおかげといってもよかったようです。

ドイツ系のマイヤースは小さい頃から発明に没頭し、独学で
科学的原理を学び、趣味の発明でベンチャー企業家となりました。

配達代理店、請求書収集家、銀行員、大工、化学者、電気技師、
ガスフィッター、整備士、写真家、配管工、プリンター、電信士、
そして作家と、名乗った肩書は数知れず。

銀行で働いていた時には偽札に興味を持ち、研究して偽造技術を学び、
偽造貨幣の鑑定の専門家になったりしています(笑)
この鑑定方法は現在の鑑定手法の基礎になっていると言いますからすごいですね。

写真ギャラリーを経営していた25歳の時にメアリーと出会い、
結婚してから、彼は水素ガスと気球に俄然興味を持ち、
嫁を助手にして研究、製造そして販売を一気に開始しました。

気球に水素ガスを用いることを最初に実施したのは何を隠そう彼らです。
気球の布素材の研究、水素ガス製造装置の開発によって、
マイヤーズは

「フライング・ダッチマン」

というあだ名で呼ばれていたそうです。
彼はドイツ系でありダッチとは何の関係もなかったのですが。

そのうち彼は空中散歩のできる飛行船『スカイサイクル』を開発し、
それを嫁に操縦させて、一気に有名になりました。

嫁、空中散歩中。

彼女は操縦可能な飛行船に乗った最初の女性となり、
「カルロッタ」の名前で有名になりました。

ところで、当ブログとしてはマイヤースと軍の関係にも触れておこうと思います。

マイヤーズはヨーロッパの気球技術が米国よりもはるかに進んでいて、
欧州のいずれかの国がもしその気になれば、ニューヨーク、
または米国北東部の主要都市を全滅させることができると主張していました。

彼は次の戦争は空が舞台になると予言していたのです。
(予言は当たることになりますが、主役は気球ではありませんでした)

マイヤーズは、欧州の主要国が全て秘密裏に航空機器を
兵器に用いるために研究をしているとした上で、政府にこれを認識し、
この潜在的な脅威に対して適切に準備するよう奨励していました。 

そして、これを迎え撃つための発明に取り組んでいることを強調したのですが、
メディアは彼を「ジンゴイスト」(自国の国益を保護するためには
他国に対し高圧的・強圧的態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)
も厭わないとする極端なナショナリスト)だと非難の論調だったということです。

1902年、彼は海軍の軍事演習のため11個の水素気球を作りました。
10個は偵察目的、 111番目の大型気球は乗員2名、観測機器を搭載し、
敵軍艦を監視する高高度観測プラットフォームとして信号隊によって使用されました。

この気球は、海軍船につながれて持ち運ばれ、これを用いて
敵の情報を収集し、これを陸軍に伝えることができました。 

のみならずマイヤーズは、敵艦隊、要塞、または軍隊を破壊するための
「戦争船」を作ることできると主張していました。
彼は、もし国家からその資金が提供されるなら、それが地球を支配すると予測しました。 

つまりこういうものですね。
飛行船が魚雷を投下しているの想像図。

マイヤーズの予想は、1903年にライト兄弟が発明した動力付きの
飛行機によって、空想のままに終わることになりました。

気球そのものを武器として敵の爆破を曲がりなりにも行ったのは
彼の国ではなく、東洋の敵国日本だったというのは
彼にとって何とも笑えない皮肉という気がしますが、
幸い彼も妻のカルロッタも、それを知らずに亡くなりました。

さて、次のコーナーにあったこの女性は、
映画脚本作家でもあった女性パイロット、

ハリエット・クインビー(Harriet Quimby)1875−1912

で、彼女はドーバー海峡を横断した最初の女性となりました。

ちょっとこの絵では彼女の魅力が伝わりにくいので(失礼)
写真を挙げておきますと、

おお、なかなかの別嬪さんでいらっしゃる。

彼女は企業のイメージガールをしたこともありますし、
サンフランシスコでジャーナリストをしていたり、
劇評家であり映画脚本も書くなどの才女でしたが、
その映画に自分も女優として出演しています。

彼女の飛行家としてのスタイルは、常に女性らしさを強調したもので、
そのため、大衆からは大変人気があったということです。

カナダのフランス系飛行家ジョン・モアザン(モアソン?)と
親しくなったことから、彼の飛行クラブでライセンスを取り、
最初にパイロットライセンスを得たアメリカ女性となりました。

わたしは、過去このシリーズを当ブログで取り上げてきて、
『最初に免許を取ったアメリカ人女性』について何回も書いた気がするのですが、
免許を最初にとった女性は何人もいても(笑)
最初にドーバー海峡を横断したのは彼女だとはっきりしています。

ただ、彼女に撮って不幸だったのは、
彼女の挑戦が1912年の4月16日だったことでした。

その前日の4月15日、世界最大の客船タイタニック号が沈没したため、
彼女の快挙は誰にも顧みられることはなかったのです。

そして、そのわずか2ヶ月半後の7月1日、彼女はボストンで行われた
航空大会で300m上空を飛行中、機体がピッチングを起こし、
240mの高さから同乗者と共に空中に投げ出され、死亡しています。

享年37歳。合掌。

この写真、見覚えありませんか?
そう、当ブログでも「お転婆令嬢」として紹介した

ブランシュ・スチュアート・スコット(1885-1970)

じゃーありませんか。
自分の記事を探し出して読んでみたら面白かったので、
これも再掲しておきます。

女流パイロット列伝〜空飛ぶトムボーイ

なんてこった、この人も当ブログで取り上げたことがありますよ。

おそらくその日この博物館を訪れた客で、彼女らの名前を知っていたのは
米人外国人含め、わたしだけだったんじゃないかって気がします。

エリノア・スミス(1911−2010)

展示ではまだ生きていることになっていますが、彼女は
99歳没と長生きだったので、同年代の彼女のライバル、

ボビ・トラウト(1906-2003 )

と、「まるでこの世の滞空時間を競っているようだ」
ということを締めに、彼女らの関係性を語ってみました。

ボビとエリノア「プレーンクレイジーとフライングフラッパー」

サンビームガールズ

このときにもお話しした、エリノア・スミスの

「ブルックリンブリッジ始めニューヨークの4つの橋の下を飛ぶ」

というチャレンジの絵が描かれていますね。

ノーマ・パーソンズ 州兵中佐

1956年8月1日、空軍第106戦術病院で看護師の資格を取った彼女は、
エア・ナショナルガードに加わりました。

ニューヨーク議会が、看護その他の医療分野で働く場合にのみ、
女性が士官として州兵軍に参加することを認める公法845を制定したのは
その二日前のことで、彼女は初めての女性州兵士官となったのです。

空軍に入隊する前、パーソンズ中佐は、中国-ビルマ-インドで
陸軍と空軍に勤務し、また朝鮮戦争が始まると、
韓国空軍の看護師として勤務していたということです。

で、どうして航空科学博物館でパイロットでもない彼女が
紹介されているのかといいますと、若干こじつけっぽいのですが、
空軍の看護師として、彼女の「飛行時間」が3,000時間を超えたからだとか。

彼女との関連でこれも航空博物館とは関係ありませんが、
1941年から終戦まで存在した

 United States Women's Army Corps 

のポスターが貼ってありました。
この行進は、USWAC創設3周年記念に、パリのシャンゼリゼで
1945年5月14日、無名兵士の墓に敬意を表して行われたものです。

「無名兵士の墓」は、第一次世界大戦で死んだ身元不明のひとりの兵士を
戦死した全ての兵士の象徴として凱旋門の直下に葬り、
祖国フランスのために命を捧げた人々の共通の記念碑としています。

その流れで、ここには「女流飛行家紹介コーナー」がありました。
言わずもがなのアメリア・イアハート、そして、
ここで何度もご紹介している

ジャクリーン・コクラン(1906-1980)

彼女の履歴は、ここにあるような上っ面だけのものではなく、
自分で言うのも何ですが、その出自から語った当ブログの方が
よくお分かりになると思います。

ジャクリーン・コクラン「レディ・マッハ・バスター」

 

3人とも当ブログで取上げ済みです。

キャサリン・チャン「Great Expectations」

ベッシー・コールマン「ブラック・ウィングス」

ルイーズ・セイデン「タイトル・コレクター」

こちらは宇宙飛行士の女性3人。

サリー・クリステン・ライド(1951−2012)

1983年女性としては初のスペースシャトル乗組員に、そして
テレシコワ、サビツカヤに次ぐ3人目の女性宇宙飛行士になりました。
米国人女性としても初の宇宙飛行士であります。

シャノン・マチルダ・ウェルズ・ルシッド (1943ー)

アメリカの生化学者であり、NASAの 宇宙飛行士。
アメリカ人だけでなく女性による宇宙での最長滞在期間の記録保持者です。

1996年のミール宇宙ステーションでの長期ミッションを含め、
彼女は5回宇宙飛行を行っています。
科学者としても実績を持ち、2002年、 Discover誌は
彼女を科学分野で最も重要な50人の女性の1人として認めました。 

ニコール・マーガレット・エリングウッド・マラホフスキ(1974ー)

 元アメリカ空軍将校であり、「サンダーバーズ」として知られている
USAF航空デモ隊のメンバーに選ばれた最初の女性パイロットです。

彼女のコールサインは「FiFi」。
デビューは2006年、彼女はダイヤモンドフォーメーションの
第3ウィングを機を務めました。

CNN - Nicole Malachowski

航空自衛隊のブルー・インパルスに女性飛行士が加わる日は
来るのだろうか、とふと考えました。

オフィスの壁には第二次世界大戦時の「公債を書いましょう」
とか、戦意高揚ポスターが貼ってあります。

ここスケネクタディ空港が戦争中稼働していた頃、
男性が戦地に出てしまって、女性がかつての男性の仕事、
航空管制や見張りなどを行うようになりました。

 

この事務所の屋根から顔だけ出して見張りを行っていたようです。

 

続く。

 

 

 

自粛直前!K氏の木更津駐屯地見学

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新型コロナウィルス対策で今世界がちょっとした戒厳令状態になっています。
今日、息子が留学しているアメリカの大学からこんなメールが来ました。

コロナウィルス(COVID-19)の二つのケースの確認に続いて、
コミュニティ内でのウィルスの拡散を防ぐために、
私たちはすぐに隔離プロトコルを制定しました。
現時点ではキャンパスで確認または疑われる症例はありません。

・外部の個人の参加を含む50人以上のイベントはキャンセルします

・外部スピーカーによる全ての内部セミナーは、産業医及び
学生戦隊からの意見を取り入れ、ケースバイケースで検討します

・学内の全てのコミュニティメンバーは、地域の
大規模な外部イベントに出席しないように求められます

・これらのプロトコルは、研究所によって取り消されるまで継続します
全ての授業は通常のスケジュールでおこなわれます

学生と地域社会のメンバーの健康と安全は最優先事項です。
当大学は、米国国務省、疾病管理予防センター(CDC)、州保健省、
及び世界保健機関(WHO)と引き続き協力し、ガイダンスに従います。

コロナウィルスの状況は流動的であり、公衆衛生勧告と健康予防措置は
ほとんど予告なく変更される可能性があります。
旅行を計画している人は、目的地の勧告を頻繁に確認する必要があります。

大学の全てのコミュニティメンバーは、研究所のポリシー、プロトコル、
及び旅行制限に関する最新情報について、
 COVID-19Outbreak Communication Webサイト
を確認することをお勧めします。

全ての個人は警戒を続け、以下を含むCOVID-19の拡散を防ぐため
必要な予防措置を講じる必要があります。

●咳やくしゃみをするときには鼻と口をティシュで覆う

●使用済みのティッシュは直接ゴミ箱に捨てる

●咳とくしゃみをする時にティッシュがなければ肘で口と鼻を覆う

●石やくしゃみをしたあと食事の準備、食事をする前に
石鹸と水で少なくとも20秒間手を洗う
アルコールベースのハンドクレンザーが効果的

   

息子の大学では先日大学院の学生がインフルエンザで死亡するという
ショックな事件があり、しかもその学生が中国人だったことから
地域のニュースにまでなったそうです。

彼は瀕死の状況で911を呼んだのですが、自分の住所を伝えることもできず
意識を失ってしまい、消防が出動し付近までいったものの、
部屋が分からなくて彼を救出できず、学生は部屋で死んでいるのを
帰ってきたルームメイトに発見されたということでした。

「実はアメリカではコロナよりインフルの方がたくさん死んでるんだよね」

と息子は言っていましたが、その学生もその一人になってしまいました。

アメリカ人はマスクをめったにしません。
学校のアナウンスを見ていただいても、マスク着用については何の言及もないように、
彼らははマスクでウィルスを防ぐことはできないと考えていようです。
日本人が自分の身を守るためにマスクをするというのは奇異に感じるとか。

基本マスクは自分がかかった風邪を人にうつさないためにするだけ、
と考えているので、こんなことになってもマスクをして歩いているのは
ごくわずか、いても必ず東洋系だということでした。

ニューヨークで中国系が殴られたという事件があったそうですが、
(殴ったらうつるのでは?)今東洋系というだけで警戒されるので、
悪意から身を守るという意味で装着しているのかもしれません。

 

 

さて、今日は、いつも写真を提供してくださるKさんが、
イベント自粛の嵐が吹き荒れ始めた頃、かろうじて決行された
木更津駐屯地のヘリ体験搭乗に参加してこられたので、それをご紹介していきます。

ヘリ体験搭乗が行われるという話はうかがっていましたが、
次々と催しものが中止になっていきかけたころだったので、
ご本人も決行されるかどうかは心配しておられました。

ちょうどわたしが陸自中央音楽隊のジャズコンサートに行った後くらい?
まだ政府が自粛を呼びかける前に、かろうじてそれは決行されましたが、
残念なことに天候は雨。

この隊員さんがKさんの乗ったチヌークの乗員でしょうか。
通信機を背負ってヘリに歩み寄る姿が無駄にドラマチック!

CHの横に控えている隊員さんもマスク着用です。

今から乗り込んでいくCH-47内部。
座る席は奥の方ですね。

おお?あちらこちらでヘリが飛び立っておる。
チヌーク2機に、こちら側はAH-1かしら。

状況について全く伺っていないので想像するだけですが、
もしかしたらこれ全部体験搭乗中・・・・?

いくらなんでもコブラには乗せてもらえない気はしますが。

そして、りりーく!

Googleアースで確かめると、木更津駐屯地の滑走路は、
海側から斜めに南北を走っているわけですが、ここに写っている
「02」は滑走路エンドの印なので、この写真は
離陸後すぐに撮られたものだということがわかります。

滑走路脇にある旧軍の掩体壕跡らしい構造物も、
Googleアースで確認することができますが、
横から見るとこんな風になってたのか・・・。

もともとここは帝国海軍の木更津基地のために埋め立てられた土地で、
東日本の防衛を担う木更津海軍航空隊が駐留していました。
開隊は昭和11年で、横須賀鎮守府の隷下にありました。

中国大陸の渡洋攻撃はここから出発したことでも有名です。

戦後は米軍の駐留を経て、昭和36年に航空自衛隊が、
その後空自が入間に移ったため、陸自が転入して現在に至ります。

つまり、海ー米ー空ー陸と住人を変えてきた飛行場なんですね。

この掩体壕は先ほどのものの近くにあります。
草木が前面を覆い隠してしまっていますね。

駐屯地は羽田空港の対岸、アクアラインの根本に
近いところに位置しています。

なんと羨ましい、お昼ご飯も駐屯地で出された模様。
とてつもなく具沢山に見えますが、カレーかハヤシライスどちらでしょう?

午後からは格納庫の中の整備中のヘリを見学だったようです。

そういえば、ある民間の航空製造会社を見学に行った時、
請け負っている自衛隊の飛行機の写真は一切撮らせてもらえませんでした。

スケルトン状態のAH-1。
ちなみにノーズの頭の上にトゲのようなツノが出ていますが、
これなんだか知ってます?
電線とかが絡まる前にこれで切ってしまうためのものらしいんですが、
わかっていても、これを見るたび

「その前にローターに巻き込まれるんじゃ」

といつも思ってしまいます。

展示用のAH-1に隊員さんが乗って見せてくれています。
冒頭の写真を見ていただければおわかりのように本当にこのヘリ薄い。
内部は幅90センチしかないとか聞いたことがあります。

戦闘ヘリですが、確か2年ほど前、女性パイロットが搭乗することが
決まったというニュースを読んだことがありました。
戦闘ヘリに女性パイロットが乗るのはこの時が初めてだったはずです。

えっと、こちらもしかしたら第4隊戦車ヘリコプター隊所属の
OH-1でしょうか。

こんな風にカバーがかけられているヘリを見るのは初めてです。
カバーもちゃんと迷彩になっているんですね。

OH-1の現時点での総台数は34機ですが、機体が高価なので
調達は今後も行われることはないということです。

コクピットの写真ですが、説明がないとわたしにはどのヘリのものかわかりません。
これは大きいからCHかな?

白いヘリの写真を見て、海自か?と一瞬勘違いしてしまいました。

よく見ると一部が青いこのヘリ、少し前の空挺団降下始めで
要人を運んできたVIP専用機じゃありませんか。

ユーロコプター EC 225 シュペルピューマMk II

皇室、首相、国賓などの輸送任務向けに3機保有し、
陸上総隊第一ヘリコプター団特別輸送ヘリコプター隊において
運用されています。

ウィキには

東日本大震災の津波により仙台にて整備中の1機が損失

とあるのですが、先ほど「写真を撮らせてもらえなかった」
と書いた整備会社は、まさにここのことだったことに、たった今気がつきました。

見学の時に震災の被害について会社の方から詳しく伺いましたが、
そのときに修理ハンガーにあった飛行機のほとんどは
海水に浸かり流されて破損したということでした。

これは狭いのでAH-1のコクピット?

二人横並びなのでこちらがチヌークかな?

さて、この日は天気が悪かったため、体験搭乗は基地の上を
ぶーんと一周するくらいで終わってしまったそうですが、
Kさん、去年の十二月には入間でも体験搭乗に参加されてます。

こちらがその日Kさんが乗った空自チヌーク。

こんなところを撮っても良かったんでしょうか。

わたしがP3-Cの体験搭乗をしたときには、カメラどころか
携帯までボッシューされた記憶があるのですが、
あれはP-3が偵察機だからで、基本輸送がメインのチヌークは
コクピットくらいたいしたことないっすってことなのかな。

心配なのでKさんに伺ったら大丈夫とのことでした。

チヌークではバブルウィンドウから外の写真を撮るのが正しい。

東京タワーだ!と思ってよく見たら三つありました。
ただの鉄塔のようです。

東京の街がまるでミニチュアのように・・・・。

そして、さらに素晴らしい写真をいただきました。
もし今回晴れだったら、こんなところを飛んでいたはず・・だとか。

一昨年の同じ木更津体験登場の時の写真。
木更津航空隊の皆さんは「富士山ヨーソロー」とか言ってたんだろうな。

海ほたるよーそろー。

こんな角度から撮れるのはヘリコプターだけ。

いやー、今年は本当に残念!ってことだったんですね。

そして、もう一つうらやましついでに、木更津のお土産は
迷彩柄のマスク(三枚セット)だったそうです。

 

この体験搭乗も、もし今頃に予定されていたら中止になったかもしれません。
いずれにせよ、またもとの日本に一日も早く戻って欲しいものです。

 

 

帰還パイロットのための自家用飛行機〜エンパイア・ステート航空科学博物館

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今朝、アメリカの息子からスカイプが入りました。
大学では春休みに入り、国内の学生は地元に帰っているのですが、
今教員レベルに出回っている情報によると、国家発令の非常事態を受け、
国内海外を問わず、帰省している学生には

「大学に戻ってこないように」

という告知が出されるかもしれないと。

「授業はどうなるの」

「オンラインでするんだって」

今時のアメリカの大学なのでそのあたりは全く問題なさそうです。

ただ息子のルームメイトは西海岸出身なのですが、オンライン授業になると
時差があるので帰校禁止令が出ても帰ってくると言っているとか。

感覚として、このアメリカでの動きは、きっちり日本の2週間遅れ。
日本だけでなく世界を出先の見えない巨大な不安が
しだいに覆い尽くしていく様子を目の当たりにしている気がします。

 

 

さて、それではテーマに戻りましょう。

ニューヨーク州の北部、グレンヴィル、スケネクタディにある
エンパイア・ステート航空科学博物館。

アメリア・イアハートのロッキードから始まった展示室は、
航空黎明期の気球や空中自転車に始まり、第一次世界大戦の戦闘機
カーティス・プッシャーなど、そして女性飛行家たちの紹介でした。

部屋は隣のハンガーにつながっています。

最初にも触れましたが、この格納庫は1945年の夏頃から
GEがテスト滑走路にするために建造したものです。
ざっとその時から75年経過していますが、格納庫というのは
躯体さえしっかりしていればとりあえず古くても使用に差し支えないので
今日ではESAMのレストア中の航空機を仮置きしたり、
一部で展示するなどといった活用をしているというわけです。

見学者がなぜか翼に超接近しているこの真っ赤な飛行機は

Folland Gnat F.Mk 1 (フォーランド ナット)

イギリスのフォーランド・エアクラフト社が1955年、
制作した戦闘機・練習機のひとつがなぜかここにあります。

この戦闘機の名前があまり知られていないのは、本家のイギリス空軍が
8機だけ試作させておいて結局実戦機では採用しなかったからです。

フォーランドという名前もわたしは今回初めて知ったのですが、
のちにホーカー・シドレーになったと聞いて納得しました。

受注段階ではとにかく小型の戦闘機、というのが目標だったようで、
どれくらいかというと、極限まで軽さを追求した
日本海軍の零式艦上戦闘機が目的だったとかなんとか・・・(噂です)

実際に機体のサイズはほぼ零戦と同じらしいですね。

ちなみに零戦の全幅は後期型で11m、重量は54型で2,150kg、
こちらは翼幅: 6.73 m、重量: 2,175 kg ということなので
同じといってもそれでも少し大きいことになります。

零戦とは違ってジェット世代ですが、音速を超えることはできなかったようです。

現地の説明に書いてあったのですが、イギリス空軍では
重量が不足しすぎて練習機にしか採用しなかったこの機体は
他の国、ことにインド空軍に滅法気に入られ、
インド国内の「ヒンドゥスタン・エアロノティックス」という会社に
ライセンス生産までさせて調達したということです。

どうしてインド軍がやっきになってこれを取得したかというと、
ちょうどこの頃インドはパキスタンとの間で
第一次印パ戦争(1947−1949)に続く紛争、

中印戦争(1959ー1962)

に突入していたからです。

我々日本人にはピンときませんが、実は
インドとパキスタンというのはとにかく仲が悪いらしいですね。

隣り合った国同士で仲の良い例はない、といいますが、
両国はイギリスから分離独立した途端、カシミール地方の領有を巡り
武力衝突を繰り返しているのです。

で、この中国との戦争ですが、インドがソ連を支援しており、
印パ戦争では中共がパキスタンを支援したために起こりました。
まあ、いわばパキスタンの代理という感じです。

両者の緊張は全く解決の糸口を見せず、去年もパキスタン軍が
時刻領内でインド空軍機2機を撃墜したりしています。


ところで、日本国内にあるインド料理店って、ほとんどが
パキスタン人がやっているって聞いたことがあります。
日本はインドとは大変有効な関係だと思うのですが、
日本国内でインド人とパキスタン人ってどうやって付き合ってるのかな。

ここにある赤いフォーランド・ナットは、おそらく練習機として
ホーカー・シドレーが制作、イギリス空軍が採用し、戦技チームである

「レッドアロー」

が13年使用していたバージョンではないかと思われます。

Folland Gnat

ちょっとノーズがT-4のドルフィンに似ている気がします。

 

モノプレーン(単葉)の飛行機です。
この由来についてはここESAMにこれがやってきたときの
航空マガジンの記事のようなものが現地にありました。

「The Huntington Chum」(ザ・ハンティントン・チャム)

と名付けられた飛行機は、1995年、ESAMに到着しました。
たった2機だけ制作されたうちの1機で、

なんでも1931年のある航空ダイジェストには、一面記事で
この飛行機が1750ドルで売られていたそうです。

このタイプの飛行機はすぐに市場から姿を消しましたが、
これだけは残って、1980年に持ち主が整備をして
49年ぶりに空を飛ぶことができたということですが、
その持ち主は、自分の死ぬ前に機体をESAMに寄付しました。

こちらも個人使用型の飛行機で、

Mooney M-18 Mite

"mite" というのはダニという意味もあるのですが、そちらではなく、
「小さい子供」とか「小さなもの」という意味だと思います。

格納式の三輪着陸装置を備えた、低翼の単葉機です。
製造会社は「ムーニー・エアクラフトカンパニー」、
デザイナーは同社オーナーのアル・ムーニー。
初飛行は1947年で、1954年まで283機生産されました。

生産が始まったのが第二次世界大戦終戦2年後からですが、
ムーニーは、戦地から帰ってきた戦闘機パイロットが乗るために
これを企画したといわれています。

同じ戦後でも日本との違いに改めてしみじみとしてしまうのですが、
敗戦した日本が、戦闘機に乗っていたという帰還兵に対して、
「特攻崩れ」とか死に損ないとか戦犯とか、とにかく負けた鬱憤を
戦争に行った人たちにぶつけていた頃、アメリカでは、
戦闘機に乗ってバリバリ戦って戦争が終わり生きて帰ってきて、
かつての空を飛ぶ快感を平和な世に味わってみたい、と懐かしむ人向けに
個人飛行機が販売されていたってんですからね。

そういう立場になったことがないので想像するだけですが、
自分が操縦して空を飛ぶという経験をしたもののほとんどは
そこから「足が洗えない」くらい魅入られてしまうようです。

もう一度軍に入る気はないが、空を飛んでみたい、自分の操縦で、
という一般人のために、コストはできるだけ押さえて販売されました。

この機体には「Holland Farms」とマークが入っていますが、
これはおそらくここのことじゃないかと思うんだ。

Histry of Holland Farms

操縦席の下に入っている

「ジョン・ピアスマ パイオニアパイロット
オリスカニー・ニューヨーク」

という名前を検索したところ、ホランドファームは彼の家業で、
飛行機のインストラクター、検査官でもあったそうです。

ちなみにHPをのぞいてみましたが、砂糖の塊のようなジェリーバンズ、
白黒のとにかく甘そうなクッキー、従業員全てが糖分とり過ぎ体型、
これぞアメリカのベーカリー!という感じでした。

ちなみに縦に吊られている青と黄色の飛行機は、

 Fisher FP-303

というカナダ製のキット飛行機(ホームビルト)。
1980年代に200機ほど生産されて民間に流通していました。

Kantor Strat M-21 (NX74106)カントー・ストラト

「ロシア生まれのエンジニア、ミーシャ・ストラトが設計制作した
モノプレーンで、1949年に初飛行をしました」

「彼がメッサーシュミットでの訓練の影響を受けたのは明らか」

とある見学者が書いているのですが「ストラトエアクラフト社」は
コネチカットのストラトフォードにあるからこの名前になったと考えられ、
さらにミーシャ何某の名前も出てきませんでした。

というか、ストラトフォードを通り過ぎたとき、航空会社を見ましたが
それは「シコルスキー」という名前だった記憶が・・・。

この情報で正しいのは名前と初飛行年月日だけかもしれません。

  Aeronca 65 TC

これを特定するのに結構時間がかかってしまったのですが、
もっとも似た機体があったので

アーロンカL-3 (Glasshopper )

の派生型の「Chief 」だと判断しました。
1941年ごろからアメリカ陸軍が連絡用として開発していたもので、
日米開戦後は、第一次世界大戦における観測気球の役割を負いました。

それにしてもこの独特なノーズの形。
「グラスホッパー(バッタ)」とはよく名付けたものでだと思います。

軍での使用以外にも民間で練習機として大変人気があったそうです。

現在修復中でどこにも名前が見つからなかった機体。
小型旅客機のようですが、正体は分からず。

この上にある白いグライダーは、

Rensselear RP-1(レンセラー)

といいます。
レンセラー工科大学は日本では有名ではありませんが、ニューヨーク州にある
全米最古の工科大学で、アメリカ人にはRPIといえば通る名門です。

STEMに教育に特化しており、卒業生の企業への就職率の高さ、
またそこで得る卒業生の平均年収の高さでは全米でもトップ10に入るとか。

ここにあるのは低翼、一人乗りの足で起動するグライダーですが、
NASAが一部資金を提供し、同大学が制作したモデルです。

航空機の重量はわずか53キロ、着陸装置はメインのスキッド、
テールにあるスキッド(車が見える)によって構成されています。

 

近くに寄ってみることもできたようですが、

航空エンジンを展示しているコーナー。
手前のエンジンは、

Ranger 6-440 C-2

といいニューヨーク州のフェアチャイルドエンジン、
エアプレーンコーポレーションのレンジャーエアクラフトエンジン事業部
が生産した6気筒直列反転空冷航空エンジンです。

主に1930年代半ばにフェアチャイルドの訓練機向けに製造されました。

ハンガーの中はこんな状態。
手前にバリケードのようにものが積んであって、
その向こうには立ち入ることができないようにしてあります。

それにしても、この汚さにはびっくりです。
仮にも航空博物館と名乗って一部に人を入れているのに、
こんな恥ずかしい状態を人目に晒すというのは
どうも我々日本人には理解し難い感覚といえましょう。

掃除する人手もないのだと思いますが、それにしても・・・・。

あー、一番向こうにある飛行機、なんだろう。
近くまで行って見てみたい・・・。

 

続く。

 

 

幻の垂直離着陸機・ XV-5A~エンパイア・ステート航空科学博物館

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 ESAMの名物といえば「飛行機といっしょに朝ごはん」=
”ESAM Fly In Breakfast ”という企画ですが、
昔から堅実に続けられて地元の人たちの楽しみになっているようです。

月一回、日曜日の8時半にこの航空博物館を訪れると、
コーヒーとマフィンといったいわゆるアメリカンな朝食が用意されており、
それを楽しんだ後はその日の企画に参加し、見学を行うという趣向。

たとえば2月15日の企画は、戦史に詳しいDonna Espositoさんを囲んで
「第二次世界大戦時のアメリカ海軍の秘密のドローン」とか
「大戦前の名前のない飛行機たち」とか、
「南太平洋で対日戦に投入する予定だったドローン秘密部隊」とか、
(これ聴いてみたい)「海軍士官の家族にドッグタグを返した話」とか、
「戦闘で失われた3人のパイロットに共通する三つの偶然のミステリー」
などという話を聞かせてもらうそうです。

第二次大戦に投入されそうになっていたドローンの話、聞いてみたいですね。

で、このエスポジートさんが何者かというと、どうも
「航空&戦史マニア」で本も1冊書いたというアマチュアのようです。

さて、ギャラリー1の展示とそれに併設されたハンガーの中を
見学し終わると、次はギャラリー2の展示です。

ここはかつてGEのエンジンなどのテストを行うための設備を持っていました。
ギャラリー2の入り口には、ここで実験されたプロジェクトなどの写真と
その歴史がパネルにされて展示してあります。

真ん中の写真は、1953-1954 の「プロジェクト・サーチ・アロー」。
付属レーダーを使用して戦闘機のレーダーの捜索範囲の
可能性を広げるために行われた空軍のプロジェクトです。

下左は1955-1963の「アトラスICBM誘導装置」の実験。
CGM/HGM-16 アトラス (Atlas) は、アメリカ空軍で開発され、
ジェネラル・ダイナミクス社のコンベア部門で生産された
大陸間弾道ミサイル (ICBM) のことです。

アメリカ合衆国で初めて開発に成功したICBMであり、
1959年から1968年にかけて冷戦中実戦配備されました。

左側の写真はアトラス計画中滑走路を移動するコンベアC-131。

一番上の写真は1956ー1963のT58エンジンのテストプログラムです。
先ほど内部見学してきたハンガーが写っていますが、ここで
シコルスキーのHSS-2ヘリに標準的なラジアルエンジンから
T58デュアルエンジンを付け替えるという作業ののち、ここで
フライトテストが行われました。

中左:F106超音速インターセプターに新型コントロールシステム、
GESACが搭載されたとき。1960年。

中右:1951−1958行われていた初期の自動操縦のテストです。

 

当時GEは、民間航空機製品の事業から外れて(外されて?)いました。
会社としても軍需の仕事を航空機のためにも確保したかったのですが、
結果としてそれは成功せず、このシステムは最終的に
一般に販売されることになりました。

下:ボーイングKC135改装。1961-1963。

上段はジェットエンジンの航空機、中段電子関係、
下段はミサイル関係の製品とジャンル分けされています。

下段左、1957年から行われたのは、デコイミサイルの実験でした。

ここからはXV-5Aプロジェクトのコーナーです。

当時、多くの国が様々な構想で垂直離着陸機を実験していましたが、
この幻の機体XV-5Aもその一つでした。
GのジェットエンジンをTF39を搭載していました。

同機は、15名のテストパイロット(通称『XV-5Aファンクラブ』)
によって試験飛行が行われましたが、まず1965年4月27日、
初試験飛行で墜落し、テストパイロットルー・ライアンが殉職します。

彼は機体からの射出を試みましたが、システムが故障しており、
パラシュートがテールに引っかかり、機体とともに地面に激突したものです。

墜落の原因は、パイロットがリフトジェットのドアを開ける際
高度がありすぎたことだったといわれていますが、
続く2番目の試験飛行でも墜落を起こし、今回もイジェクトシートが
地面に激突後に作動したため、この時のテストパイロット、
デイビッド・ティトル少佐は重傷を負いその後助かりませんでした。

このときは救難機としての実験のため、マネキンを負傷者に見立て、
スリングで吊り上げるという操作をしていたのですが、
そのスリングがファンに巻き込まれてしまったのです。

F 2032 Ryan XV-5A Vertifan VTOL Accident/Crash Footage Pilot Bob Tittle

 

XV-5A実験の際に起こった事故の映像が見つかりました。

着陸と同時に機体から何かが放出されていますが、
不思議なことに駆け寄った人たちがそちらに見向きもしていません。

さらに、この事故のパイロットはボブ・ライアンだと記載されているので、
上記の2件以外にも事故が起こっていたということになります。

写真のモニターで喋っている男性は、おそらく当時
『ファンクラブ』のメンバーだった元テストパイロットでしょう。
諦めずにライアン社が次に作ったのがXV-5Bだったわけですが、
陸軍にも空軍にも相手にされず?結局買い手がつかなかったため、
この垂直離着陸機は幻のままで終わったのです。

右上に、

「チームメンバーはハリアーを競争相手としてみていた」

と書いてありますが、その後アメリカ海軍と海兵隊は、
ホーカーシドレーとともにそのハリアーを完成させ、
海兵隊用に導入を行いました。

 

MALTA TEST STATION 

と書かれた看板。

あの地中海のかと思ったら、ニューヨークのマルタでした。

1945年に設立された旧米軍の燃料および爆発物のテスト施設で、
米国陸軍の「 プロジェクトヘルメス 」用ロケットエンジン、
燃料、爆発物のテスト、原子力研究にも使用されています。 

 GEがここで実験を行っていたのは1972年までのことになります。

GEが制作したらしい1955年のカレンダー。
この博物館でまだ使われているハンガーの中です。
かつてフライトテストセンターとしてGEが使用していた頃で、
絵のタイトルは

「空の実験室」(Laboratories in the sky)

となっています。

X-405エンジン、ショックレスノズル搭載。

ヴァンガード・ロケットの一段目の動力に使用されたロケットエンジンです。

このロケットが最初のアメリカの人工衛星の打上げに選択された時、
マーティン社が主契約社として契約を結んだのですが、
最初に提案したタイプは必要な水準の推力が不十分と判断され、
GEの提案の方がリスクが少ない選択であると考えられたため、
マーティンはGEと推力構造体、ジンバルリング、エンジン部品、
エンジン始動器具を含む自己完結型のX-405エンジンの契約を交わしました。

この結果、12基のX-405が生産され、そのうち11基が
ヴァンガードに搭載されて飛行したとあるので、ここにあるのは残る1基?

ここからはいきなり第二次世界大戦の航空機についての展示になります。
スミソニアン博物館にも展示されていた、カーティスのウォーホークですね。

第二次大戦に参加したこの地元出身のパイロットたち。

左上の人相の悪い人は、(すみませんなんていうもんかい)

ジャック・ニューカーク  ”Scarsdale Jack" Newkirk
(1913-1942)

「スカースデール(彼の出身地)ジャック」とあだ名された
フライング・タイガースのリーダーです。

彼は、前回ご紹介したニューヨークのレンセラー工科大学に、
航空工学を学ぶため入学するも、恐慌のため学費が払えず退学。
しかし、その期間に飛ぶことを学び、苦労して海軍搭乗員になります。

ウォーホークP-40は彼がフライング・タイガースで乗っていた愛機で、
彼のフライング・タイガース入隊は、

「日本人の中国人に対する残虐行為への怒り」

が動機だったということになっております。
まあ、そういうことでいいですけどね(なげやり)

彼の写真の下にある旭日旗から推察するに、
彼は日本機を7機撃墜したようですが、彼の最後は
ビルマで間違って木に激突し、投げ出されたというものでした。

しかし、アメリカのメディアはいち早く彼を英雄として祀り揚げ、
ディズニーがフライングタイガースの徽章をデザインするなどして、
大いに戦意高揚に彼の死は利用されたようです。

ちなみに彼の遺体は、日本人によって埋葬されたということです。

その下は、バトル・オブ・ブリテンでアメリカ人として
RAFに参加し、(じつはそれ、非合法だったわけですが)
ホーカー・ハリケーンでルフトバッフェの戦闘機と交戦、
戦死した、

ビリー・フィスク ’Billy ' Fiske 1911-1940

彼は撃墜王とかではなく、冬季オリンピックにも出場した
ボブスレーの選手でした。

Funeral Of Fiske (1940)

イギリス軍が行った彼の葬儀の様子が映像に残っています。
棺はアメリカ国旗で包まれています。

左上はミッドウェイー海戦のヒーローとして

クラレンス・ウェード・マクラスキー・ジュニア
(Clarence Wade McClusky,Jr.,)1902-1976

「エンタープライズ」の艦載機パイロットだったマクラスキーは、
ミッドウェイ海戦の際、このとき参加した日本海軍の空母のうち
「赤城」「加賀」「蒼龍」の攻撃を指揮し、結果的に沈没せしめたため、
この功績に対し海軍十字賞を与えられています。

左:P38の偵察型で偵察中行方不明になり戦死認定された
ジョン・マンチーニさん。

右:最初にニューヨーク出身で第二次大戦の戦闘機パイロットになった
ジョン・オニールさんは、ニューギアナで日本機を6機撃墜しました。

左:「ポップコーンが弾ける音を聞くたび、機銃に狙われたことを思い出す」
と語るのは以前ESAMでボランティアをしていたというパイロット。
「遠すぎた橋」で描かれたマーケットガーデン作戦に参加したそうです。

右:空戦で乗っていたB-17からベイルアウトしたという人。
「空中に投げ出されたときには、ドイツ人の履いている靴に
触れるかと思ったよ」
彼はフランス軍に救出されて生き延びました。

ここに書かれているところによると、勝利は油の生産と
「パイロット」(の質量)によるところが多いそうです。

「ドイツと日本はアメリカや同盟国と比べて
航空機の生産と燃料、そして搭乗員の育成の点で劣っていた」

はい、その通りです。
どっちもお金がなかったのでね。

航空機動隊の輪切りには旭日マーク(つまり撃墜数)が5つ。

これはB-25に搭載されていた機銃のターレットです。
ここに貼られている旭日旗のデカールは、実際にも
もしガナーが敵機を5機以上撃墜した場合には、このように
ターレットの部分にマークを貼ることが許されました。

爆撃機の機銃手も「エース」が名乗れたのです。

こちらは同じくB-25の爆撃手が狙いをつけるために覗き込むサイト。
爆撃機のノーズにあって、爆撃手は腹這うように覗き込みます。

このコーナーにはまるで実際の航空機の座席にいるような
振動を味わえるシミュレーターがあって、ボランティアのおじさんが
「ヘイ、乗って行かないかいキッド」とかいいつつ誘っていたのですが、
この子供にはつれなく断られていました。ドンマイ。

 

続く。

 

 


「トラ・トラ・トラ!」 の空母「赤城」模型〜エンパイアステート航空科学博物館

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アメリカから帰ってすぐにこのESAMこと
エンパイアステート航空科学博物館についてお話ししたとき、
なぜかここに鎮座している空母「赤城」の巨大モデルについて
写真で少しご紹介したことがありますが覚えておいででしょうか。

 

「赤城」模型を展示してある部屋を、ESAMは
「TORA !TORA! TORA!」コーナーとして、真珠湾攻撃について
取り上げていたので、今日はその周辺の展示についても
触れながら模型の細部を紹介していこうと思います。

わたしはこの博物館についてなんの予備知識もなかったため、
展示室2に入った途端、場を圧して存在する「赤城」モデルに
思わず息を飲み、声を上げて驚いてしまいました。

部屋の壁一面に海原と朝焼け(これから真珠湾攻撃に出撃する、
という設定らしく)を描き、ライティングもそのような色をしています。

飛行甲板の向こう側に雲に隠された太陽の光が見えますが、
旭日旗と同じ光が描かれているのがおわかりでしょうか。

映画「トラ・トラ・トラ!」で、九七指揮艦爆に乗った指揮官、
淵田美津雄中佐(田村高廣)が、真珠湾に向かう途中、

「見てみい、旭日旗や」

というシーンがありましたよね。
あのシーンはもちろんアメリカ映画ですからちゃんと翻訳されて、
真珠湾攻撃の指揮官がそう言ったことになっているため、
ここでもリスペクトされているのでしょう。

そう、なぜならこの「赤城」模型は、まさにその映画、
「トラ・トラ・トラ!」の撮影に使われた本物の模型なのです。

 

この映画制作については、アメリカ側のかける意気込みはすごいもので、
国防省、国務省の大乗り気、真珠湾フォード島の全面ロケ許可、
実際に格納庫爆破もおk、艦隊や航空機も貸しまっせ、という具合。
とにかくお金に糸目はつけませんということでしたので、
映画の最後に数分映るだけの「赤城」全景を撮るために、
この豪勢な模型を作らせてしまったというわけなのです。

ところでこの模型について、

「日本の業者が、実際の『赤城』の設計図を参考にし
100万ドルかけて制作された、とESAMの係の人は言っていた」

と記述しているサイトがあったのですが、それは間違いです。

 

そもそも、どうしてこの模型が、失礼ながらニューヨークの田舎の
あまり人に知られていない航空博物館にあるのかというと、
映画が終了した後、セットに使用した模型の類は全てオークションで
売却され、「赤城」は人手を経て最終的にここにやってきたようなのです。

The Ships Of TORA!TORA!TORA!

映画で使われた模型とオークションの様子が見られるサイト。
阿武隈が「AKUBUMA」となっているのはご愛嬌です。

オークションでは「阿武隈」はたった800ドルだったようですので、
「赤城」も比較的安価で手に入れることが出来たのではないでしょうか。

ちなみにこのサイト中央にはこの「赤城」の写真があり、
「30フィート」と紹介されていますが、実際は32フィート(約10m)、
1/27モデルということになります。

しかし、わずか数分の撮影のためにこんなものを作ってしまう、
ハリウッドのお金の使い方ってすごくない?

 

我が日本の映画界は、ご予算の関係で決して大きくない模型を使って、
「ハワイ・マレー沖海戦」を撮影し、それがあまりに本当っぽかったので、
てっきり本物のフィルムだと勘違いした戦後進駐軍に没収されてしまった、
というくらいの特撮の腕を持っていました。

仮定ですが、もし日本がこんなものがいくらでも作れるような国だったら、
円谷英二のような特撮の天才は現れなかったかもしれません。

この「赤城」ルームは、模型の反対側に階段で登るデッキを作り、
このように高い場所から全体を眺められるようになっています。

模型は巨大な上車付きの台に乗ったままであり、
普通の高さからはこのように飛行甲板を見ることができません。

甲板の上には正確な縮尺による零戦と97式爆撃機、そして
99式艦爆がかなり正確な位置に並んでいるので、
これを見るだけでも価値があります。

映画「トラ・トラ・トラ!」についての説明のパネルがありました。
まずこの記事の左側の写真は、日本軍の攻撃によって甲板が焼け、
ボロボロになった状態のアメリカ海軍「ネバダ」の模型です。

もちろんその状態のままでオークションにかけられたわけですが、
手に入れた人は熱烈な「ネバダ」ファンでもあったのか、
自分の手で新造艦の状態に改装しなおして所持しているのだとか。

そして右側写真はもうお分かりのように当博物館にある「赤城」の艦尾です。

ここではハリウッドが「トラ・トラ・トラ!」のために必要とした
巨大なこれらの模型についてが語られています。

これらの模型は巨大に作られたからこそ映画でより本物らしく見える上、
その後オークションで買い取られて余生を過ごしている博物館においても、
そのディティールの細かさで十分に展示として価値のあるものとなっています。

 

映画を制作するにあたり、フォックス社の技術陣から協力を要請されたのは、
アメリカのミリタリーマガジン、チャレンジ出版でした。
この写真入りの記事はチャレンジ出版の雑誌に掲載されたページです。

「エアクラシックマガジン」「シー・クラシックマガジン」

という雑誌にこれまで掲載された膨大なファイルは
艦船や航空機の模型の構築をする際に参考にされました。

 

当時、映画における戦闘場面を徹底したリアリズムで生き生きと見せるには、
模型を最高の品質とディテールにする必要ありきでした。
この点でフォックス社は費用を惜しみませんでした。

この模型制作に携わったスタジオの模型チームは80名、
6ヶ月というもの、休みなしで仕事をしたといいます。
彼らはボルトやナットに至るまで詳細に、正確なミニチュア艦隊を作り上げました。

先ほども、どこかのサイトが「日本で作られた」という誤った情報を
流していたという話をしましたが、このような状況で「赤城」だけを
日本に任せるはずがありませんよね。

 


さて、模型制作は、まず、残された写真とブループリント(青設計図)から
軍艦の外型を起こすことから始まりました。

最初のステップは、足場と外殻のモックアップを作ることです。
フォックス社の「石膏部」が、下型(メス型)の制作を手掛けました。

安定した操作で樹脂とガラス繊維を絞り出すための道具、「ガン」が、
わざわざこのためだけに開発され、優れた船体強度を提供することができました。

そしてガラス布素材の布を使うことによって、モーター装置など
電気器具を実際に配置できる強力な中空の船体をまず作り上げました。

デッキと上部構造物の木材やメタルは、手作業で細心の注意をもって接着されます。

航空基地のシーンのためには、梯子、通風口、アンテナ、レールなど、
気の遠くなるほどの鋳型を作り、それを根気よく取り付けていきました。

ミニチュアの細部は、星の数のリベットを再現するに及びました。

 

そして完成。
塗装の後、模型艦隊の軍艦たちは、浮力と、モーターを動力とする
推進プロペラが実際に稼働するかのテストが行われました。

ここからは特殊効果技術者、別名「魔法使い」の出番です。

アメリカ側の艦船はフットスケール3/4"、日本軍は
この「赤城」もそうですが、すべて1/2"で作られています。

模型艦隊はマリブにあるフォックス所有のの船着場に運ばれ、
撮影の準備が行われました。

まず、「艦隊」が撮影されるスケールの分数が決定されました。
重要なのは、フォックスのタンクを航行する連合艦隊のすべてが、
いかに高速で海原を進んでいるように見せることができるか、です。

特殊効果技術者たちはここで巧みの技というべき技術力を発揮し、
その結果、聯合艦隊がパールハーバーに向かって進んでいくシーンは
映画の中でも特に優れた出来栄えのシーンのひとつとなったのです。

 

劇中の攻撃シーンは、模型を使用して撮影したシーンに、
実写のインターカットを交えて作り上げられました。

真珠湾が攻撃されるシーンでは、撮影カメラは、日本軍のパイロットが
浮かぶ戦艦の列に急降下したときに見たものを再現しています。
このために、真珠湾の大部分を模型で完全に作り上げました。

監督の命令で、突然「破滅」に見舞われたアメリカ艦隊の模型は、
爆弾や魚雷の爆発で転覆する様を忠実に再現するため、
特別なジンバルを備えたマウントにわざわざ設置されました。

攻撃は容赦無く?行われたため、その破壊的な影響は、
多くの精巧で繊細な模型に、実際と同様の損傷を齎すことになりました。

たとえば吹き飛ばされた戦艦「アリゾナ」は本物と同じく損壊し、
「ネバダ」は実際に炎の酷いダメージを受けることになり、そして
戦艦「カリフォルニア」、「メリーランド」も、お察しの通りです。

プロパンに包まれて炎と油煙が発生した「フォックス真珠湾」は、
まるで実際の空襲を受けたようで、目を覆うほど悲惨な状態でした。

 

もうひとつ特筆すべきは、フォックスはは実際に映画用に
31体の正確な航空機レプリカを作成したことでしょう。

ここではジーク(零戦)ケイト(97式艦攻)ヴァル(99式艦爆)
とコードネームでそれらが紹介されています。

これら日本機の製作については「エアークラシックマガジン」と
「スポーツフライングマガジン」の膨大なデータが助けとなりました。

 

そしてついに模型シーンの撮影は終了。

映画制作の過程がフィルムカッターと編集の手に移ったころ、
模型艦隊は引退して、フォックスのマリブランチに保存されました。

彼女らの「カウンターパート」である実際の軍艦たちと
同じ悲惨な姿になってしまった米国艦と、彼らをそんな姿にした
無傷な聯合艦隊の軍艦たちは、「呉越同舟」ならぬ日米同港状態で、
肩を寄せ合ってマリブの港に浮かんでいたのです。

これはすごい。連合艦隊の「霧島」。
船殻は金属、上部構造物は木材で作られています。

大きさはこれも大体全長10mくらいで、450kgの重さがあります。
なんと、デリックは実際に動かせるらしいのですが、それにしても

「一体何のためにそこまで」

とつい呟いてしまいますね。

 

1971年の初頭、フォックス社はスタジオの小道具大道具など
装備品を一斉にオークションにかけるということを発表しました。
「トラ・トラ・トラ!」の模型もその中に含まれていたのです。

酷い目にあったアメリカ艦隊と違い、聯合艦隊は
綺麗な形のままオークションにかけられました。

 

2分の1スケールのアメリカ海軍タグ(左)。
実際に動力を備えていて動かすことができるそうです。

 

右側は映画使用モデルのオークション会場です。
実際に競り落としたい人や冷やかしがたくさん詰めかけました。

記録によると、この時何千人ものファンや愛好家が、
実際にあの「トラ!」艦隊を一眼見ようと来場したそうです。

そして巨大なサイズの艦船模型が評価されるために水から揚げられました。

一体誰が、10mの大きさで重さは何トンになるかわからないような
日米の軍艦模型などを買うんだろうか?

競売が始まると、見ていた人たちはすぐにその答えを知りました。
最も巨大な模型、空母と戦艦は、大手ショッピングセンターの
デベロッパーが競り落としました。
彼は模型を改装して綺麗にし、ディスプレイに使うと語りました。

小型船の大部分は個人の手に落ちました。
彼女らが受けるに値する注意と関心が与えられることを願いましょう。

左:USS「ワード」。

真珠湾攻撃において、最初に戦闘を行い沈んだ船というのは、
実は特殊潜航艇だったのですが、それを沈めたのが「ワード」です。

でもこのシーン、確か映画では出てきませんでしたよね?

ところが現場の誰かが(監督?)このシーンを急に撮影したくなったらしく、
聯合艦隊の駆逐艦(つまり日本の船)になる予定の艦体を改造して、
「ワード」が急遽作られることになりました。

ところが、せっかく作ったのに、土台が聯合艦隊用だったせいか、
スケールが小さくて(十分大きく見えますが)どうも画面映りが悪いよね、
という理由で、そのシーンの撮影そのものがボツになってしまったそうです。

つまり、「ワード」の出番もなし。
なんとも豪気というか、もったいないことをするものです。


この詳しい報告を掲載したチャレンジ出版は、幸運にも「ワード」と、
それから、3機の「ジーク」と「ヴァル」を手に入れたそうです。

 

ところで、日本人のわたしとしてはどうしても気になるのが、
淵田美津雄が真珠湾攻撃のとき、

「観てみい、旭日旗や」

と本当に言ったのかどうかですが、ご本人の自伝をあらためて見てみると、

午前6時半となった。日出である。

脚下は真綿を敷き詰めたような、ばくばくたる白一色の雲海であった。
東の空がコバルト色に光り始めたと見る間に、
大きな太陽がのぞけてきた。
燃えるような真紅であった。

やがて陽光が燦々として、あたりに輝き渡る。
ちょうど軍艦旗が空いっぱいに広がったようであった。
私はこれを日本の夜明けだと受け取った。

この太平洋の旭日を見て、私は思わず、

「グロリアス・ドーン」

とうなった。
英語であった。

当時、日本では敵性語として、英語は追放であったが、
私はアメリカと戦う以上、英語は必要だと、
内々勉強していたので、つい出た次第であった。

 

もし「トラ・トラ・トラ!」で淵田司令のセリフを史実通り

「グロリアスドーン!」

にしていたら、これを観たアメリカ人はどう思ったことでしょうか。

 

続く。

 

「汚名として残る日」〜空母「赤城」模型・エンパイアステート航空科学博物館

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エンパイアステート航空科学博物館、ESAMに展示されていた
空母「赤城」の模型が、あのフォックス映画「トラ・トラ・トラ!」で
真珠湾に向かう聯合艦隊のシーンを撮るために制作されていたこと、
そして、当時の映画会社の特撮にかける情熱について、初めて
現地にあったミリタリー雑誌の記事を通して知ることができました。

ここであらためて聯合艦隊航行シーンを観てみましょう。

Tora!Tora!Tora! model boat scene compilation

CGのない時代、模型と特撮でこれだけやってしまえるのはすごい。
流石にアメリカ、国力がありすぎです。

それと、とにかく聯合艦隊がかっこよすぎで、アメリカでは議会で

「日本軍の卑劣な攻撃を賛美しているように見える」

という文句が出て関係者が言い訳したなんて後日譚にも納得してしまいますね。

というわけで、アメリカではお金をかけた割には収益が上がらなかったので、
その徹を踏まないように、後日制作された「ミッドウェイ」では、
アメリカ人のプライドに水を差さないような配慮がなされました。

「トラ」では日本軍人の描き方もかっこよすぎで不愉快だったらしく(笑)
「パールハーバー」などでは彼らが醜悪に見えるように、そして
日本軍が滑稽に、前近代的に見えるようなおかしな演出が相次ぎ、
それは当ブログ映画部に大いなるツッコミどころを与えてくれたものです。

しかし、このアメリカ映画なんだからアメリカ人に受ければいいのよ、
という媚びた態度は歴史的なリアリティを歪めることになってしまい、
作品価値そのものはかなり失われたという面もあるのではないでしょうか。

日本軍を矮小化して描くことで、劇場に脚を運ぶ大部分のアメリカ人の
カタルシスは得られても、作品として後世に評価されないと
それは製作者にとって本末転倒というか、黒歴史になりませんかね。

さて、動画を観ていただくと、ここESAMにある「赤城」も
実に迫力ある姿で登場しています。

模型っぽさが出てしまったシーンがあるとすれば、
旗艦に揚がる信号旗のなびき方が、大きな旗ではあり得ない
ちゃちい感じが隠せなかったことでしょうか。

お時間のある方は、冒頭のブリッジの写真と、動画の
1:04からの映像を比べてみてください。

ここにある「赤城」にはちゃんとZ旗が揚っていますが、
映画では戦闘旗として海軍旗をマストに揚げているものの、
Z旗はどこを探してもありません。

それから、このシーンで探照灯が点く直前に、その前にいる
水兵の人形の腕あたりが操作をしているように動いているのをみて
思わずその芸の細かさにうなってしまいました。

どうやって動かしたんだろう。紐で引っ張ったのかな。

さて、今日はこの部屋の展示と「赤城」の細部について
もう少しご紹介していきましょう。
まず、甲板が高い位置から展望できるプラットフォームには
こんな資料が飾ってありました。

右側は12月7日の真珠湾の図。
左の滑走路のある部分がヒッカム基地です。

フォード島だけをアップにしてみました。
赤で表された「SUNK」は沈んだ艦、そして
白はほとんど壊滅的な被害を受けた艦。

名前がないのでお節介にも説明しておくと、手前の
「一部損壊」だった「ネバダ」の左側が、
最初に轟沈した「アリゾナ」です。

あとの赤いのは「テネシー」「ウェストバージニア」で、
白が「メリーランド」「ヴェスタル」であろうと思われます。

地図の横には「アリゾナ」のポスターがあります。
この艦体が「アリゾナ・メモリアル」として、今でも
沈んだままの状態で艦の慰霊碑になっているのはご存知の通り。

左下には、ルーズベルト大統領の「パールハーバー演説」に有名な

"A day that will live in infamy "(汚名として残る日)

という言葉の下に、こう書かれています。

1941年12月7日0600、オワフ島北230マイルから、日本の
聯合艦隊の五隻の空母などから第一波として183機の航空攻撃を行った。

雲の上を飛び、第一陣の戦闘機と爆撃機が攻撃を開始した0705、
第二陣の167機は空母から飛び立った。

15分で全ては終了していた。
戦艦「アリゾナ」「カリフォルニア」「ネバダ」「オクラホマ」
そして「ウェストバージニア」は沈没。
「メリーランド」「ペンシルバニア「テネシー」も壊滅的な打撃を受けた。

2,400名のアメリカ人がこの攻撃で死亡、1,178名が負傷した。

直後に制作されたジョン・フォード監督の映画では、
ほとんど軍艦の被害はなかったということになっていたようですが、
真珠湾攻撃が軍事的に「大成功」だったことは
これらの数字が示すところです。

「アリゾナ」といえば淵田美津雄自伝によると、攻撃の様子は以下の通り。

フォード島東側の戦艦群に一大爆発を認めた。
メラメラっと真っ赤な焔が、どす黒い煙とともに500米の高さにまで立ち昇る。
(略)
「松崎大尉、右を見ろ、敵艦の火薬庫が誘爆したらしい」

松崎大尉が、風防を開いて、これを眺めたとき、口をついて出た言葉は

「バカヤロ、ザマミロ」

であった。
この轟沈は戦艦アリゾナであった。
加賀爆撃第二中隊が投下した八百キロ徹甲爆弾二発が命中して、
その一弾が二番砲塔の横に命中したと見る間に、大爆発が起こったと
加賀第二中隊長の牧野秀雄大尉は確認している。

 

この後、淵田機は、まだ無事だった「メリーランド」に狙いをつけ、
「ゾクゾクするスリルを感じながら」命中を見届けています。

しかし、現代に生きるアメリカ人にとっても、いまだに真珠湾攻撃は
「汚名として残る日」に違いないのかな、とわたしは思いました。
現在の日本との仲がどんなにうまくいっているとしても、
それはそれ、これはこれ、でとにかく面白くないできごとなのでしょう。

映画「トラ・トラ・トラ!」がアメリカ人にあまり受けなかったのも、
その失敗を踏まえて作られた「パールハーバー」「ミッドウェイ」が、
とにかくアメリカ=正義、日本=悪として描くことに異様に拘っているのも、
彼らの負けず嫌いと、この「面白くない」感情に忖度しているのです。

ルーズベルトはそれまで国民から「戦争屋」と呼ばれて、

「あなた方の息子を戦地に送ることだけはしない」

などとと言い訳していたのに、この「卑怯な攻撃」を
「汚辱の日」と位置付けた「パールハーバー・スピーチ」で、
アメリカ世論を一気に味方につけ、無事戦争へと舵を切ることができました。

わたしは、そうせざるを得なかった当時の国際社会における日本の
諸々の切羽詰まった事情を抜きにしても、
こちらから戦争を始めてしまったことは、単純にいって

「アメリカ人の負けず嫌いを甘くみすぎた失敗」

と残念に思っていたりするわけですが、アメリカが近年になって
常にといっていいくらい間断なく戦争をしているのは、
交戦的というより、「やられたらやりかえす」という負けず嫌い、
そして勧善懲悪的なヒロイズムに動かされやすい国民性を
上から下まで等しく持っているからではないでしょうか。

ついでにその対極にあるのが、自国の領土を実効支配されても取り返しに行けず、
領海侵犯されても武力攻撃できないどこかの国かもしれません。


真珠湾の敵をミッドウェイで取る。
そう、こういうヒーロー的行為にアメリカ人は熱狂しちゃうんですよね。

この絵画のタイトルは

 "WE WON'T TURN BACK"

2機のダグラス・ドーントレスSBD-3Sが「赤城」を攻撃した図で、
どちらの機も翼の下の弾薬ラック並びにボムベイは空になっています。

このセリフは、VT-8「ホーネット」の艦上攻撃機TBC隊の隊長、
ジョン・ウォルドロン少佐が沈黙を破って発した命令です。

「行くぞ。我々は後戻りはしない。
従来の戦術はもう使えない。
攻撃あるのみ!幸運を祈る(good luck)」

同じく「ホーネット」から飛び立ったドーントレスが
「赤城」を攻撃しているの図。

ちなみにこの下命を行い出撃したウォルドロン少佐は、
ミッドウェイ海戦で15機のデバステーターを率いて
零戦の哨戒機と交戦し、戦死しました。

この日出撃したデバステーターは全機が撃墜され、
30名の搭乗員は、海上に不時着した1機のパイロットを除き、
全員が戦死しています。

 

「赤城」に負けじと?展示されているアメリカ軍の航空機と爆弾。

左からグラマン・ワイルドキャット、ヘルキャット、
そして右がヴォートのコルセアです。

「赤城」甲板には零戦の姿あり。
滑走路の端のランプが点灯しているのがお分かりでしょうか。
艦体も、溶接した鉄板の筋がリアルな大きさだったり、
ものすごく細部に拘っている様子がわかります。

艦内に灯が灯っているのがわかるように、
展示室は全体的に明かりを落として暗くしてあります。
聯合艦隊が真珠湾攻撃に向かうときを設定して作ってあるので、
ここでも同じ時刻ということにしてあるんですね。

艦首甲板の舫がきれいに巻いてあるのは日本海軍らしいですが、
実際にこんな巻き方をしていたのかどうかは謎です。

出撃を待つ九七式艦上攻撃機は迷彩塗装。
制作したフォックス映画では、これを「ケイト」と呼びましたが、
同機は制作を三菱と中島飛行機どちらにも依頼しており、
コードネーム「ケイト」は中島飛行機製。
三菱重工の機体は「メイベル」という名前になっていました。

(この外見の違いが相変わらず全く見分けられないわたしである)

真珠湾攻撃の頃には全てが中島製になっていたようです。

数えてみたら、甲板にいる零戦は10機、九七式観光は6機。
艦爆がどこを探しても見つからなかったのですが、
例のフォックス映画主催のオークションの時、「赤城」は
艦載機込みで売られていたわけではないらしいので、
他の何機かは個人が競り落としているのだと思われます。

飛行甲板下のデッキには、ボートが何隻も並んでいて、
ここまでやるかと呆れてしまいましした。
天井部分には夜間の赤灯がともっています。

いっときますけど「赤城」登場シーンでこんなところ絶対映らないんですよ?

このディティールをもってすれば、特殊撮影の「マジック」をかけて
必ずやリアリティのある映像になることは間違いありません。

帝国海軍が舫をこんな状態で置いておくかなという部分がありますが。

「赤城」はもともと巡洋戦艦として起工されましたが、
途中で三段式空母として就役し、その後近代化改装を施されて
一段全通式空母に生まれ変わりました。

実際に搭載できる航空機数は66機だったそうです。

続きます。

 

 

「ヨークタウン」に描かれた「赤城」の航空標識〜エンパイアステート航空科学博物館

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いよいよESAMの「赤城」模型シリーズ最終回です。

「赤城」ルームのガラスケース展示をまずご紹介していきます。
これは状況的にどうみても真珠湾攻撃真っ最中ではないでしょうか。

こういうシーンを第二次世界大戦50周年記念のポスターにする、
というセンスはいかがなものかという気もしますが、
まあ要するにリメンバーパールハーバーってことなんだと思います。

右側にチラッと見える解説によると、炎上しているのは
「ウェストバージニア」と「テネシー」ということです。

ということはその前に展示してある模型はそのどちらかだと思うのですが、
わたしには見分けがつかないので鑑定はあきらめます<(_ _)>

絵の両側に祀られている砲弾形状のものは、

エアクラフト・フロートライトMk.4

第二次世界大戦中に使われていた水上用の信号ミサイルです。
軍用機などから投下され、位置を知らせるための
フレア&スモークシグナルです。

この写真ではわかりにくいですが、素材は先端がメタル、ボディは木製です。

説明がないのでわからないのですが、迷彩塗装の日本機があることから
どこか南方の日本軍基地(小屋の前には国旗が揚っている)でしょう。

なかなか力作ですが、なんのために作られたのでしょうか。

ボーイングB-29スーパーフォートレスです。

「太平洋戦にはテニアン、サイパン、グアムから出撃し、
低空から焼夷弾を落とすなどの戦略に用いられた。
B-29は広島と長崎に原子爆弾を落とすことで
都市と産業に壊滅的な打撃を与え、そのことが
1945年8月に戦争を終わらせることになった」

その夜間攻撃と2都市への原爆投下で失われた民間人の命については
全くなかったかのようなこのシラの切り方、いや淡々とした記述。

スミソニアン博物館で起こったB-29「エノラ・ゲイ」の展示をめぐる騒動で、
こと原子爆弾についてはどこの博物館も異様なくらいディフェンシブになり、
このような態度に終始するしかないのも、またアメリカという国の一面です。

そしてなぜか唐突に現れる日本降伏調印の後の記事。
1945年9月2日付けサンフランシスコエグザミナーという新聞のものでもので、
まずヘッドラインは

「日本降伏調印;
マッカーサー指揮を執り完全なる応諾を要求」

その下に、

「裕仁正式に我が国のルールに屈する」

左の写真は、捕虜になっていた痩せさらばえたアメリカ軍人を
カメラの前で抱擁して見せるマッカーサー。

捕虜の名前はジョナサン・ウェインライト中将。
タイトルに「リユニオン」(同窓会)とありますが、
彼はウェストポイント出の将官でフィリピンにおけるマッカーサー将軍の
補佐を行っていた人物です。

1941年12月に始まった日本のフィリピン侵攻に対し、連合軍は、
バターン半島とコレヒドール島に撤退することになりました。

その後マッカーサーが敵前逃亡し、 オーストラリアで

"I shall return." 私は必ず帰ってくる

という有名な負け惜しみを言ったわけですが、マッカーサーの後を
引き継いでフィリピンの連合軍司令官になったのがこの人でした。

 5月5日、バターンに続き日本軍はコレヒドールを攻撃したため、
ウェインライトは人員の損失を防ぐため日本軍に降伏します。

このときの彼の選択は、もしマッカーサーが敵前逃亡しなければ
彼に委ねられていたはずのものだったってことですわね。(ここ注意)
もしかして、その後のウェンライトの運命もまた、
マッカーサーが負うものであったかもしれないと言うことでもあります。

 

コレヒドールで降伏後、ウェインライトは日本軍の捕虜となります。

アメリカ人は彼の痩せ細った姿から、日本軍が将軍すら(中将)
ちゃんとした扱いをしなかったということで、もう怒り心頭でした。
この新聞の記事でも、

「ジャップはアメリカ軍の将軍を拷問した」

という見出しになっています。
トーチャーといっても、「幽霊とバラバラ死美人」の憲兵隊みたいに、
逆さ吊りにして水責めというようなものではなかったはずですが、
アメリカ人はウェンライトがこれだけ痩せてしまったことをもって

「拷問されたも同じだ!将軍なのにろくに食べ物も与えずに」

と怒っている訳です。

しかし、わたしがここで言い訳してもしょうがないのですが、
ただでさえ食料がなかった太平洋の基地で、日本軍の捕虜になっていた人が、
これだけ痩せていたってなんの不思議があろうか、って思いません?

だいたいウェンライトの元々のあだ名って「スキニー」ですよ?
もちろん中将ともあろう人に、ろくな食料も(出したとしても日本食なので
あまり太れなかったと思うけど)与えなかったことはお詫びするしかないですが、
この人、もともとこんなあだ名がつくくらい痩せていたってことですよね。

 

さて、「ミズーリ」における降伏調印式では、誰が仕組んだのか
(わたしはアメリカのマスコミだと思う)ウェインライトを連れてきて
わざわざマッカーサーと対面させたわけですが、これだって、
両者の因縁関係を考えればどうなのよという気がしないでもありません。

だいたいがマッカーサー自身、敵前逃亡についてはウェンライトに対して
かなり疚しく思っていたはずなのです。
「アイシャルリターン」も結局口だけ番長になってしまったわけですし。
ましてやウェインライト中将の方が、内心

「おめーがオーストラリアに逃げたおかげで俺は酷い目に」

と恨み骨髄であったとしてもなんの不思議がありましょうか。

周りの人間が何を期待してこの二人を会わせたのかわかりませんが、
(おそらくヘッドラインの写真を撮るためだけだったと思う)
それでも記事に残されているこのときの二人の会話からは、
これらの邪推が当たらずとも遠からずではないかと思えてきます。

”Hello, Jim, I'm grad to see you."

”Good to see you,too."

なんですかこの英語教科書のの最初のページみたいな会話は。

 

ウェインライト中将は自分が降伏したことをずっと恥じていたそうです。
(ね?こんな人がマッカーサーの敵前逃亡をよく思う訳ないですよ)
そして「国民を失望させた」と、捕虜生活中忸怩としていたのに、
ここにきて、あなたはアメリカの英雄だと言われてもうびっくりですよ。

マッカーサーもまたそんなウェインライトを英雄として称えるかのように
彼を抱き抱えているわけですが、こういう事情を踏まえたうえでもう一度見ると、
ウェインライトはどちらかというとマッカーサーの態度に戸惑っているようです。

古狸の彼はおくびにも出さなかったでしょうが、マッカーサー、
実はウェインライトが捕虜になった1942年、

彼に捕虜のまま叙勲するという案に、激しく反対

しているのです。

なぜか。

反対の理由は、コレヒドール降伏は失敗であり、その責任は
全て指揮官が負わねばならないのだから、叙勲などとんでもないというわけです。

こうして叙勲案はマッカーサーその人の拒否が理由で中止になりました。

 

おそらく救出された後、ろくに栄養状態も回復しないまま
「ミズーリ」艦上の調印式にに引っ張り出されていたウェインライトは、
マッカーサーが自分の失敗を詰り、叙勲を握り潰したことも知っていたはずです。

それならば、そもそも早々に敵前逃亡したくせに、とか、
フィリピンの責任を押し付けてきた張本人がどの面下げて、
ぐらいのことは目の前の男に対して思ったに違いありません。

終戦後、ウェインライト中将にもう一度叙勲の案が持ち上がります。
マッカーサーは当然ながらこれに反対せず、
何食わぬ顔でウェインライトを祝福しました。

 

真珠湾関係の展示が中心のはずのこの部屋に、なぜか
朝鮮戦争で名誉の戦死を遂げたアフリカ系航空士官、

Jesse Leroy Brown (ジェシー・リロイ・ブラウン)
1926-1950 

を顕彰するケースがあったりします。
ブラウンはアフリカ系とチカソー、チョクトーを祖先に持つ、
紛れもないマイノリティであり、そんな中から初めて誕生した
近代プログラムによる訓練を受けたパイロットでした。

苦学しながらオハイオ州立大学で優秀な成績を収めたかれは、
米海軍航空隊に入隊し、訓練を受けて航空士官の道を掴みます。

朝鮮戦争開始後、コルセアのパイロットであった彼は、
中国軍に捕虜になっていた米海兵隊を救出する作戦に投入され、
6機編隊でチョシン貯水池に出撃しました。

任務は3時間にわたるサーチ・アンド・デストロイです。

任務中、彼のコルセアは地上からの小火器の攻撃を受け、
機を制御できなくなった彼の機は谷に激突しました。
機体は衝撃で破壊され、彼は脚を機体の一部に挟まれて動けなくなりました。

上空を旋回してその様子を見ていた彼の列機のうち、
トーマス・ハドナー・Jr.は、自分の機をあえて激突地点に墜落させ、
戦友の体を機体から引き出そうと試みました。

そのうち連絡を受けた救助ヘリが到着し、痛みで意識の朦朧とした
ブラウンの「脚を切ってくれ」という頼みを実行しようとさえしましたが、
ハドナーとヘリパイが45分にわたって行った救助活動も虚しく、
日没になり、現地に彼を置いていくしか方法はありませんでした。

意識を失う前に彼が最後に言った言葉は、

「デイジー(妻)に愛していると伝えてくれ」

だったそうです。

現地を引きあげたハドナーは、ブラウンの救出の継続を
上司に頼みますが、ヘリの不安定さを理由に許可されませんでした。

零下9度の山頂では生存している可能性もなかったからです。

彼が確実に死んだとされる二日後、米軍は機体が敵の手に渡ることを
防ぐために、彼の体ごと上空からヘリをナパーム弾で焼却しました。

パイロットは上空からブラウンの身体が炎に包まれるのを報告し、
主の祈りを無線で唱えたといわれています。

その後、彼の遺体も、機体も、回収されないまま現地に残されました。

仲間を救うために現場にコルセアで勇気ある着陸を行った
列機のハドナーは、ブラウンの遺骨を墜落現場から回収するために
2013年になって平壌を訪問しています。

(交渉中のハドナー:右)

驚いたことに、北朝鮮当局はこれを許したそうです。
その際彼は、天気が予測可能な9月に行うようにと言われています。

 

さて、それでは「赤城」模型の残りの写真をご紹介していきましょう。
展示は「真珠湾攻撃に向かう途中」という設定なので、
艦尾には深夜につける赤灯と、グリーンのライトも見えています。

プールを実際に航行させて撮影をしているので、これは模型でありながら
実際の船と同じ機能を持っているのがすごいところです。

小さな船を糸で引っ張って特撮するなんてのと訳が違います。
言うてみれば10mのフルハルバージョンですな。

流石に喫水線の下までは映らないので、
微妙に(というかコメント欄によるとだいぶ)
本物とは違うようですが、結構いい線いってますよね。

ちなみに黄色いのは電気コードです。

はえ〜こんなところまで。
艦尾下甲板の銃マウントはもちろん、舫杭など
細部まで抜かりなく再現されています。

これは艦尾側に立って航空甲板の高さから撮ってみました。
「赤城」航空甲板は後部で下に向かってカーブを描いています。

そのままカメラを下に向けるとこのような眺めが広がっています。
一番左のボートがデリックにかけられているんでしょうか。

小さな階段まで再現されています。

この写真を点検し、以前いただいたコメント欄での御指南により、
あらためて空母の作業艇の運用についてわかりました。

制作には当時のお金で1000万円かかったということですが、
総製作費が25億円のなかでまあなんてことはないかなと(笑)

ちなみに興行収入は14億5千万くらいだったそうで、完全に赤字です。

そしてさすが、視覚効果賞でアカデミー賞を獲得しています。
完全に模型と特撮チームの獅子奮迅の努力に対する評価です。

ところで、映画劇中でもアップになっていたこの艦橋ですが、
最初の段階で何かおかしいと思ったあなた、あなたは素晴らしい。

実は模型ファンであればとっくにお気づきだと思いますが、
「赤城」の艦橋は左舷側にあるはずなのに、この模型では
堂々と右舷側に存在しているのです。

その理由は、フォックスが聯合艦隊の航空母艦上の撮影に、
なんと退役直前の本物の空母「ヨークタウン」を
「赤城」と、ついでに「エンタープライズ」に使い回ししたからです。

「ヨークタウン」の艦橋が右舷にあったため、模型も
同じようにするしかない、とフォックス制作部では考えたらしいのです。

しかしそんなところで整合性を取る必要って果たしてあったのかな。

世の中に、果たして「赤城」甲板でのシーンでは右に艦橋があるけど、
聯合艦隊航行のシーンでは左に変わっている!と気づく人って
どれくらいいると思います?(多分わたしも初見では気づかないと思う)

そもそも映画のこのレベルの矛盾シーンなんていくらでもあるんだから、
それなら模型を史実通りに作った方が良かったんじゃないかって気がします。

ちなみにこちらが映画出演時「赤城」に扮した「ヨークタウン」。
みなさん、甲板に描かれた「線」をよく見てください。

飛行甲板の前部に、日本海軍空母の特徴の一つである風向標識が
映画撮影のために同じように描かれたときにとられた写真です。

しかし、実際の空母と比べるとなんだか飛行機のアス比が随分違うような・・・。

模型展示でも探照灯が点いています。
これは艦橋のシーンで探照灯をつける瞬間があったからで、
映画では艦橋にちゃんと人が並んでいました。

ここでは誰もいないのに探照灯だけが点いているという
怖い状態になっています。((((;゚Д゚)))))))

というわけで、お話ししてきた模型「赤城」のシリーズは終わりです。
熱烈な模型ファンの方、ニューヨーク北部にいくことがあれば、
ぜひこの航空博物館に脚を伸ばして実物を見てください。

オルバニー国際空港からなら車で20分くらい、
ニューヨークJFK、ボストンからはどちらも3時間くらいです。

ちょっと現地まで大変ですが、実際に行ってみる価値は大いにあると思います。

 

続く。

 

サンフランシスコ 海洋哺乳類保護センター〜プラウシェアの剣

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今日はアメリカの話なのでついでにご報告しておきますと、アメリカ人が
コービッド(COVID)-19と呼ぶところの新型コロナ肺炎の広がりに伴い、
非常事態宣言が出されると同時に、息子の大学でも学校閉鎖となり、
即刻寮から退出して23日から始まるインターネット授業に備えること、
というお達しが出ました。

家族でスカイプ会議した結果、カリフォルニア在住の彼の友人が
家に来るように誘ってくれたので、お言葉に甘えることになりました。

5月までの2ヶ月、試験もオンラインで行うそうですが、どうなることやら。

 

さて、今日はサンフランシスコで訪れた隠れた観光名所?をご紹介します。

その日わたしはアメリカ在住の友人とサンマテオで待ち合わせし、
まずお昼を食べることにしました。
中国系がやっているインチキジャパニーズの類ですが、ちょっと珍しい
しゃぶしゃぶの専門店です。

お店の名前は「SHABU-WAY(シャブウェイ)」。

この日は私の車でゴールデンゲートまでいくことになりました。
途中でわたしが昔住んでいたタウンハウスが見えてきます。

広大な敷地に町一つが全部業者の管轄なので、
いつも絶え間なく入居者募集をしているのですが、
今回はまた一段と広告が派手になっていました。

わたしが住んでいた頃でも家族用が二千ドルだったのだから、
今はもっと値上がりしているだろうし、きっと入り手ないんだろうなあ。

今日の目的は、ゴールデンゲート国立保養地です。
以前ナイキサイトというナイキミサイルの基地跡をご紹介しましたが、
ナイキミサイルサイトはちょうど画面の上側に位置します。

この写真で橋のように見える部分は砂州で、ロデオビーチといいます。
ロデオ・ラグーンを望む山の上にやってきました。

今日の目的はここ、「マリーン・ママル・センター」。
海洋動物センターです。
インターネットで見て一度来てみたいと思っていたのです。

海洋動物センターは、ナイキミサイルサイトと違い、
基本的に休みなしで営業しています。
民間の非営利団体ですが、会員からの寄付とボランティアで成り立っており、
内部のツァーで得られるお金は運営のために不可欠なのです。

センター創立は1973年。
海洋哺乳類、およびその環境についての研究を行っていますが、
メインは負傷、病気、放棄された海洋哺乳類を保護し、手当てして
リハビリ、そしてリリースすることが大きな目的です。

入り口でお迎えしてくれるのは巨大なゾウあざらしの実物大模型。

寄贈される作品も海洋哺乳類の姿を象って。

鯨の背骨や、頭蓋骨、首の骨がさりげなく転がっています。

 

ツァーの案内をしてくれれるボランティアはローラさん。

案内ツァーが始まりました。
ここは水族館ではないので、入館する、イコールツァーなのです。

当センターの使命の一つに「教育」があり、海洋哺乳類と人間の関わりや
彼らの命を脅かすもの、そしてどのように傷ついた生物を確保し、
自然に返すかということについてのレクチャーを行うのです。

まずボランティアの解説員が皆を連れて行ったのが、漁網で作った
「ゴースト」でした。

ベイエリアのアーティストが作ったという「ゴーストネットモンスター」。
驚くなかれ、これらのネットやロープは、全てクジラが飲み込んでいたものです。

プロジェクト・カイセイ(Project KAISEI)=海星

という日本語を取った、海洋ゴミ対策をおこなう組織が、
鯨の体内から回収しました。

ボランティアは、アザラシの毛皮を持ち出しました。

子供を選んで持たせ、手触りや重さなどについて感想を言わせます。

ついで、通報を受けて海洋センターがかけつけ、
浜辺にいる傷ついた海洋哺乳類をどうやって確保するか、
ぬいぐるみを使って実演してくれました。

「レスキュー中」と書いたシールドのようなものをもって取り囲み、
何人かで追い詰め、ケージの中に逃げ込むようにするのだそうです。

その際、できるだけ人の姿を後ろに隠すのがポイントです。

捕獲すると、病棟に入院させるわけですが、
かならず彼らには識別のために名前がつけられます。

このイルカ「ベーカーB」は、回復後衛星トランスミッターを
装着されてリリースされました。
彼はその後ロスアンゼルス沖のチャンネル島付近で、
100頭以上のイルカの群れに混じって泳いでいるところを
確認されているのだそうです。(´;ω;`)

患者になった動物にはタグが装着されるのですが、
どの動物にはどんなタグをつけるのか、
ゲーム形式で学べるコーナーです。

単三電池そのものに見えますが、こんなの付けてだいじょぶなの?

4種類のタグをそれぞれベルクロで正しく写真にくっつけましょう、というゲームです。
冗談のようですが、アザラシには頭の上につけます。
どうやってつけるんだろう・・・。

カリフォルニアアシカのフェアリーさん♂。
カメラ目線です。

サンタクルーズのヨットクラブで釣り針を口に引っ掛けているところを
見つかり、さらに肝臓にレプトスピラ菌が感染していました。

そこで捕獲され、入院となったそうです。

レプロスピラ菌にかかった動物は抗生剤を投与して治します。

また、水分補給と電解質の補充を助けるために
皮下注射なども行われます。
いちばん下は感染たアシカに新鮮な水を与えているところ。

また、このバクテリアは人にも感染するので、スタッフは
防護服を着たり、接触の前後に入念な消毒を行なっています。

頭の上に認識タグをつけられたアザラシが可愛すぎる。
彼らがここにくることになるきっかけは

「育児放棄された」「栄養失調」「いじめ」「犬に噛まれる」

などです。
カリフォルニアのハーバーシールだけが斑点を有しているとか。

また、育児放棄された子アザラシを見つけたら、決して触らずに
距離を保って24時間いつでもホットラインに電話してください、
と電話番号も書いてあります。

この向こうに「病棟」があるので、静かにしてください、という看板。

周りに、入院している患者の写真と、「VICTEM」(犠牲者)という文字、
そして「叫び声に対するトラウマ」「飢え」「迷った」「孤児」「怪我」など、
収容されるにいたった直接の原因とともに、

「アダプト・チッピー!」「アダプト・レオ!」「アダブト・ポピー!」

「アダプト」は普通に養子にすることですが、この場合は
指名制で寄付を募っているわけです。

病気の哺乳類を捕獲することもあります。
レプロスピラ菌の感染は治せますが、ガン(左から二番目)はどうでしょうか。
当センターの研究によると、動物のガンも遺伝からくるものや
あるいは環境汚染からくるものがあると考えられ、
カリフォルニアアシカの17%がこれで減少したと考えているそうです。

そしてヘルペスですが、ストレスがきっかけになることが多いので、
人との接触やその他のストレス要因をへらすことで、
ウイルスが健康に与える影響を減らすことができます。

そしていちばん右はドモイン酸中毒。
海藻によって発生する中毒で、それを食べた魚を食べると
アシカの脳にダメージが起きるのだそうです。

「ヒューマンインパクト」も彼らの脅威です。
赤丸で囲まれたのはゴミが首に巻きついてしまったアザラシ。
紐やロープ、ネットなどが絡みついたら彼らは自分で取り外すことはできません。

また、真ん中のレントゲン写真は、散弾銃で撃たれたアシカです。
そんなひどいこと、とお思いになるでしょうが、かなりの頻度で起こっています。

また、排水から海に流される不法投棄の薬品やオイルなども
生態系に大きな悪影響を与えています。

 

ツァーは室内に案内されました。
ここは清潔な状態で患者のための餌を調合する「キッチン」です。

ときには自分で魚を捕まえることもできないくらい弱っている
患者のために、流動食を導入する方法も取られます。

人間と同じですね。

そして病棟を見学・・・なのですが、ここは動物園ではないので、
入院患者を近くで見ることはできません。

黄色くペイントされたプールのある病室一つにつき患者一頭。
空いている病室もたくさんあります。

たまたまいちばん手前に入院している患者がいましたが、
ご覧の通り、ネットのフェンスが邪魔で写真の撮りにくいこと。

もしかしたら顎の下を怪我しているのかもしれません。

寝ているだけかもしれませんが、病人?と思ってみれば
元気がなさそうにぐったりしているように思えてきます。

早く元気になれよ〜。

この展示は当センター管轄の手術室を再現したものです。

この展示で初めて知ったのですが、この手術室は、
「サラ・ハート・キンボールサージェリーセンター」といって、
以前ご紹介したナイキミサイルサイトのあった陸軍用地の
使われていないかつての兵舎の一角を利用しているのだそうです。

海洋生物に対する専門のスタッフは、ここで小型大型の
アザラシやオットセイなどの手術を臨機応変に行います。

右下の写真はアザラシが脳波測定をしていますが、しばしば
彼らに対する治療には人間のメソッドが使われます。

土産物ショップもあります。
ショップにラッコのぬいぐるみが、と思ったら剥製でした。

これらの剥製は、自然死した動物のものです、と断っています。

当センターのボランティアがどんなことをするのか、
それを知ってぜひ参加してください、という募集を兼ねています。

右側は、海洋哺乳類を捕獲する方法を実習で学んでいるところ。
病院に搬送したり、世話をしたりといった方法も教えてもらえます。
今日のガイドのように、解説をするという仕事もあります。

ボランティアにとっていちばん嬉しい瞬間は、快癒した動物を
リリースするときでしょう。
その瞬間を見ることができるだけでも、ボランティアに参加する
意義を感じる人は多くいるに違いありません。

現在ボランティアは800人が登録しているそうです。

出口にあった寄付金箱。

出口で手を振ってお見送りしてくれているポスター。
実物が可愛いの下手なイラストなんか必要ありませんよね。

さて、建物を出たところにあっと驚く情報がありました。
ここ海洋哺乳類センターの敷地は、かつてナイキミサイルサイトだったのです!

対岸に今でも一つ残されているナイキミサイルサイトのご紹介をしたことがありますが、
ナイキミサイルは冷戦のために約20年間ここに設置されていました。

冷戦終了後の1972年、ミサイルサイトは稼働を終了し、
3年後に跡地にこのセンターを開設したというわけです。

本日タイトルにした、

「プラウシェアの剣」

という言葉は、ここから取りました。

「剣を叩いて鋤(プラウシェア)に変えよ」

という預言者イザヤの命令 (イザヤ書第2章4節)の言葉で、
兵器・技術の軍需が平和的な民間の用途に変換される軍民転換のことです。

ミサイル基地の跡地を転用して動物たちの命を守る、
究極の平和的な施設にしたということが言いたいようですね。

何度も訪れていながら、わたしも友人もこの存在を知りませんでした。
すっかり満足して、ポイント・ボニータをドライブして帰ろうとしたら、
週末ということでこの混雑です。
前の車は全く列が動かないのをいいことに外に出ています。

やっと渋滞を抜けると、サンフランシスコと反対方向はガラガラ。
夕暮れの道を走り、かつての戦跡に友人を連れて行って見せました。
日米間が緊張していた頃に作られた防空壕です。

誰もいないピクニックエリアを通り過ぎようとしたら、
みたことがないけだものが二匹遊んでいるのを見つけました。 

「なにあれ?」

「コヨーテかジャッカルかな・・・」

「イヌ科には違いなさそうだけど・・・・」

なんとなくコヨーテに違いない、ということになったのですが、
わたしと友人はその姿にうっとりとしてしまいました。

「綺麗だねえ・・・・」

わたしたちが車を止めて車窓から見ているのを知っているのに、
彼らは悠然として毛繕いなどしています。

後から、北アメリカにはジャッカルはいないことを知り、
これがコヨーテであることが確定しました。

彼らは肉食で、ネズミやウサギ、プレーリードッグ、そして
時々は魚も獲って食べ、雑食でもあります。

ピクニックエリアをうろうろしていたのは、もしかしたら
人間の残した食べ物を狙ってやってきたのかもしれません。

コヨーテは犬のように遠吠えするそうです。

海洋哺乳類センターのあとコヨーテとの遭遇。
野生動物についてなにかと縁があった一日でした。

 

この日の夕日が太平洋の水平線に沈んでいきます。

 

映画「1941」はスピルバーグの”黒歴史”か その1

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真珠湾攻撃直後、西海岸の住民は一様に、太平洋の向こうから
日本軍が本土に攻めてくるかもしれないと色めきたちました。

ここでもご紹介したことがありますが、サンフランシスコでも
太平洋側に向けて砲台をハリネズミのように設け、
「第二の真珠湾」に備えたものです。

 

本作は、真珠湾攻撃後西海岸に現れ、ハリウッドを攻撃目標にする
帝国海軍の潜水艦、それを迎え撃つ「ごく一部の」アメリカ陸軍、
たった一人の戦闘機パイロット、民間防衛に巻き込まれた人々が
上を下へのてんやわんやになるという、「スクリューボール・コメディ」
(スピンがかかってどこに飛ぶかわからない)です。

 

 

 

さて、とにかく始めましょう。

映画は「北カリフォルニア」とありますが、一眼で
サンフランシスコとわかる海岸から始まります。
この砂浜に、

「ポーラーベア(シロクマ)スイミングクラブ」

と背中に描かれたガウンを着て車で乗り付ける美女。
ガウンを脱ぎ捨て一矢纏わぬ姿で夏でも冷たい海に飛び込み、
泳いでいると、真下から浮上するのが帝国海軍の潜水艦。

 

泳ぐ美女、海底から現れる怪しい何か。スピルバーグ。

このセットで、あなたはあの映画を思い浮かべるでしょう。
そう、「ジョーズ」です。

美女は海中から持ち上がってきた伊19の潜望鏡につかまったまま
宙に押し上げられてしまいました。

「きゃああ〜〜〜!」

この美女を演じているのはスーザン・バックリニー。
何を隠そう、この4年前に大ヒットした「ジョーズ」の冒頭、
最初にサメの犠牲になる女性、クリシー・ワトキンスだった人です。

動物のトレーナーの資格も持っていたという彼女は、
現在はスタント業は引退して、会計士として働いているそうです。

しかし、もう最初っから、自分の作品のパロディを入れ込んでくるなど、
スピルバーグ監督、ノリノリです。

浮上して砲撃の準備までしておきながら、すぐに潜航する潜水艦。
配置についた砲術員たちは口々に、

「なんだ砲撃しないのか」「砲撃しないのか」

兵隊がこんなこと普通いわねーよ。

潜航間際にハッチを閉めようとした航海長は、潜望鏡に抱きついている、
全裸の美女の姿を束の間とはいえしっかり拝んでしまいます。

「ハリウッドー!バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」

ハッチから引き摺り下ろされ、艦長に頬を殴られても目の焦点が合いません。
なぜハリウッドかというと、艦長の思いつきで、当潜水艦の攻撃目標は、

「攻撃すればアメリカ人の戦闘意欲を削ぐ効果はある」

ハリウッドに決まったばかりだから。

艦長以外の潜水艦乗員役は、何人かを除いて南カリフォルニア在住のアジア系で
ノートによると

「彼らはlaid-back(のんきな、怠け者)で、演技訓練を受けた者は一人もおらず、
軍隊経験のある三船は、とても軍人に見えない彼らの態度に腹を立て、
スピルバーグ監督になんとかしてくれとたのんだ。

そしてその後、かれらは一列に並ばせ、一人を平手打ちにして、
『これが日本人の訓練のやり方だ!』といい、そのあとは問題がなくなった」


今だったら大問題になりそうですが、このとき三船に殴られた人は
結構そのあと自慢できたんではなかろうかと。

 

さて。

これら最初の部分だけ見て、今まで知らなかったけどこりゃ面白そうじゃないか、
と思ったあなた、わたしも確かに導入部の段階ではそう思っていました。

この後の登場人物も、

ガソリンスタンドにウォーホークで乗り付けてきて、
気に入らないことを言われると銃をぶっ放す飛行機乗り(べルーシ)とか。

飛行機に乗ると激しく欲情する女性ジャーナリストとか。

それを利用して彼女とどうにかなりたい元彼とか。

本物そっくりのスティルウェルとか、どう見ても期待できそうです。

 

しかし、皆さん、そもそもこの映画ご存知でした?

わたしは全く知りませんでした。
監督がスティーブン・スピルバーグ、伊号潜水艦の艦長に三船敏郎、
ダン・エイクロイドにジョン・べルーシが出演、それなのに
この映画の無名なことったら・・・・。

なぜなのでしょうか。


綺羅星のような監督とキャスト、権威に弱いわたしは
何も考えずにこれだけでDVDを購入してしまったわけですが、
一度観て、どうしてこの作品が世間的に無名なのか、

よーくわかりました。

最初に言ってしまいますが、まずギャグを盛り込みすぎ。
さらには、エピソードを盛り込みすぎ。モブシーン長すぎ。

全てがツーマッチで、うんざりしてくる、というのが正直な感想です。

 

しかし、純粋なエンターテイメント作品としての評価を抜きにして
細部をじっくりと眺めれば、そこには、スピルバーグの
荒削りな実験や、冒頭の「ジョーズ」のような自作へのパロディを発見し、
彼のそれまでの作品、その後の作品を知るものにとっては、
宝探しのような面白さが見えてくることもわかりました。

つまり「スピルバーグのネタ帳」という位置付けで観るべき映画なのです。
 

まず、はちゃめちゃな展開に見えて、この映画に挿入されているイベントの多くは、
実際に起こった、歴史に基づく事件から採用されています。

たとえばこれ。

サンタモニカの海岸沿いの一軒家に、突然ダン・エイクロイド扮する
陸軍軍曹と彼の率いる戦車師団が現れて、家主に淡々と申し渡します。

「敵を迎撃するのにあなたの所有地を有利地点と認め、
敵機に対する高射砲を設置して陣地にすることになりました」

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍は実際に一般住民の庭を接収して
対空砲を設置したことがあります。
実際は西海岸ではなく、メイン州だったらしいので、日本軍ではなく
ドイツ軍が空からくることを想定したのかも知れません。

そして、話の核となっている伊号潜水艦の本土攻撃。

真珠湾以降連戦連勝だった日本軍は、1941年12月から翌年春にかけて、
太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた潜水艦による通商破壊戦で、
タンカーや貨物船を10隻以上撃沈しています。

中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、
日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈したこともあったそうです。

この映画は、真珠湾攻撃後の12月14日から15日までの1日を描いていますが、
同じ頃、日本軍は実際に複数の潜水艦で一斉砲撃作戦を計画していました。

ただし、この作戦は、上層部の

「クリスマスくらい静かに過ごさせてやれ」

との意見で中止されたそうです。

翌年、1942年2月23日午後7時、「伊号第一七潜水艦」が、
サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行いました。

これはアメリカにとって、1812年戦争以来、30年ぶりに本土に受けた攻撃であり、
住民の受けた衝撃と恐怖は大変なものであったといいます。

高射砲を置かれた家の子供がこんなマスクでスープをすすっていますが、
真珠湾直後のアメリカ人は、子供やペット用のガスマスクまで登場し、
有事に備えたという記録があります。

この頃はまだ第一次世界大戦の記憶が新ただったということでしょう。

それから、前半のデパートのシーンで、警報のような音(何かのモーター音)
が鳴っただけで、一人が

「ジャップス・・・ジャアアアアアアーップッス!」

とパニックを起こすと、デパートの客が騒乱状態になりますが、
これも実際に起こった騒ぎを元にしているということです。

さて、帝国海軍の潜水艦には、なぜかナチスドイツの将校が
見学のために乗り込んでおり、なにかというと口を挟んでくるので、
艦長以下日本人乗員たちに煙たがられております。

この役をしているのがクリストファー・リー。
ドラキュラ伯爵の役で有名になったイギリス出身の俳優ですが、
この映画では全編を通じてドイツ語を喋りまくっています。

90歳まで現役で俳優を続けたリーですが、語学に関しては
ドイツ語、フランス語、スペイン語は非常に堪能、
そのほかにもスェーデン後、ロシア語、ギリシャ語ができたそうです。

字幕ではリーのドイツ語はほとんど翻訳されないのですが、
ミタムラ艦長が「ハリウッドを攻撃する」といったとき、

「ハリウッドは海から遠い」

とドイツ語で言ったあと(ここだけ翻訳される)

「ワカリマシタカ?」

と日本語で付け足しております。

三船とリーの会話はドイツ語と日本語で、三船も同じように
語尾に時々ドイツ語を加えていますが、その会話が
普通に通じているらしいのが実にシュールです。
これは設定として、

「互いの言語を使うと、互いに『面子を失う』から」

ということにしてあったようです。

 

さて、帝国海軍潜水艦、ハリウッド攻撃を決めた途端に
折り悪しくも航法装置が壊れてしまい、水も漏れてきました。

ミタムラ艦長は激昂し、

「キャプテン・クラインシュミット!
貴官の国は一体なんという潜水艦を我々に売りつけたんだ!」

するとクラインシュミット、

「本艦の計器は全部スイス製である。問題は乗組員だ。
ドイツではヒトラーユーゲントでも10歳までに簡単な羅針盤くらい扱える。
諸君は本国に帰って、あとは第三帝国に任せろ」

ミタムラ「アメリカ本土を攻撃するまでは断じて本国へは戻らん!
航海長!上陸班を編成してハリウッドの現在位置を確認せよ!」

クラインシュミット「艦長、頭は大丈夫か?」

「わたしの部下はいずれもサムライとニンジャの子孫だ。
捕まるようなヘマはせん!」(キリッ)

変装して上陸記念に写真撮影。

「チーズ!」「ちいいいいいいーず」

 

アメリカにはクリスマス用にツリーをファームで育て、
シーズンに売る専門のファームがあります。

夏の間通りかかると、30センチくらいの小さいものから
年代物の大きな木まで、各種育てているのを見ることができます。
11月終わりから1ヶ月間の商いで業者が1年食べていけるというくらい、
アメリカでは生木を飾るのが普通の習慣になっています。

 

今回潜水艦乗員が扮したのはツリーファームのもみの木でした。

そこにやってきたのがツリー農場のオーナー、ホリス・’ホリー’・ウッド。
斧で切り倒そうとしたツリーに逆襲され、助手席のラジオもろとも
潜水艦に拉致られてしまいます。

Pine Woodも「ハリウッド」と読んでしまう英語力の日本人乗員は、
Hollis ’Hollie' Woodというトラックの名前を見て

「ハリ・・・・ウッド。ハリウーーーーッド!」

「バンザーイ!バンザーイ!」\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/

とっつかまったホリー・ウッド氏、一人のアメリカ国民として
敵に情報を一言ももらさじとがんばります。

「ソーシャルセキュリティナンバーなら教える!106・・・」

SSNは事実上の国民総背番号で、身分証明にもなります。
外国人にも与えられるので、うちも滞在中は持っていました。
そんな番号を日本軍が知っても何の意味もないわけですが。

そこでミタムラ艦長がおもむろに英語で、

「Where Hollywood?」

三船はここで簡単な英語をしゃべっていますが、実際には
話すことはまったくできなかったようで、自伝によると
後年、自分が英語を勉強しなかったことを後悔していたそうです。

それに答えて、ウッドが

「 Right here. ここだよ」

「What? 何?」

「You're looking at him. だから俺がそうだ」

「Who? 誰が」

「I'm right here.だからここにいるって。
Shoot, can't ya understand plain English?
チッ、簡単な英語もわからないのかよ」

中略

「Look.  Where Hollywood? South? North?
見ろ。ハリウッドはどこか?北か、南か」

「あーハリウッドか。ハリウッドの場所を知りたいのか。
そりゃ簡単だ、ハリウッドは・・・・いや、教えねえよ!
また真珠湾みたいにやるんだろ?
ジョン・ウェインの家を爆破するつもりか?」

ちなみにジョン・ウェインには最初スティルウェルの役がオファーされ、
特別出演を引き受けていましたが、台本を見せると病気を口実に断ってきました。
そして断りの電話でついでのように、

「この映画はやめておいた方がいいんじゃないか」

と進言したそうです。
そのときスピルバーグは、

「こんなものはアメリカ映画じゃない、作るだけ時間の無駄だ。
真珠湾では何千人も死んでいるのに不謹慎だ」

とまでいわれた、と述懐しています。

ここでセリフに「ジョン・ウェインの家」がでてきたのは、
ちょっとしたスピルバーグの意趣返しだったかもしれません。

 

さて、ヒーロー、ホリー・ウッドが

「拷問するならムチでもローソクでももってこい!」

見栄を切ったそのとき、タワーのラッタルを降りてきたのは
ナチス将校、ヴォルフガング・フォン・クラインシュミットでした。

拷問・ナチス・スピルバーグ。

これらから連想される、ある映画のシーンに思い当たる方はいませんか?
そう、「インディアナ・ジョーンズ・失われたアーク」で、
こんなシーンがありましたでしょ?

「indhiana jhones Nazis  toture」の画像検索結果

シャキーン。

実はこのアイデアの初出は、このときでした。
フォン・クラインシュミットが冷酷な顔つきで取り出した杖。
皆が息を飲むと、彼はそれを引き伸ばしてハンガーにし、
自分の上着をかける・・・・。
こんなシーケンスが撮影されていたのです。

結局ボツになったのですが、スピルバーグはこのギャグを捨て難く、
後年、インディアナ・ジョーンズでお蔵から出してきたというわけです。

 

「ジーザス・パロミノ!ナチだ!わかったぞ!お前らグルだな?」

いや、グルも何も、わたしら同盟国だったりするんですが。
「パロミノ」(Palomino)というのは栗毛の馬のことですが、
よく聞くと何度も言ってますので、このおっさんの口癖なんでしょう。

「ミスター・ハイニ・クラウト!(ドイツ野郎)
前の戦争ではお前らをさんざん痛い目にあわせたった!ざまーみろ」

「ハイニ」はアメリカ人の思うところの典型的なドイツ人の名前、
「クラウト」は「U-571」でも出てきたように「ザウワークラウト」です。

 

続いて行われたウッドの身体検査で、キャラメル味のポッパージャックの箱から
オマケの小さなボタン型磁石がでてきました。

「うむ・・・十分使用に耐えるな」

「これでハリウッドに行けるぞ!」

「バンザーイ!バンザーイ!」

ところが、これはいかん!とウッドさん、隙をついてそれを
飲み込んでしまいました。

乗員はウッドに無理やり下剤を飲ませて強制排除させようとするのですが、
そのとき彼に、

「もしもしかめよ〜かめさんよ〜」

と歌いながら下剤をかける士官が、俳優の六平直政そっくりです。

ね?

でもこの映画のとき六平直政はまだ15歳なのでそんなわけはないか・・。

それからもう一つ。
ホリー・ウッドの車から奪ってきた大きなこのラジオ、
どう頑張っても潜水艦のハッチから中に入りません。

そこでこの乗員が日本語では

「図体もでかいがラジオもでかいなあ。
誰が作ったんだこんなラジオ・・」

といいますが、英語の字幕ではこうなっていたそうです。

”We've got to figure out how to make these things smaller! "
「こういうのを小さくする方法を考えないといかん!」


日本が戦後、世界の市場を席巻することになる、
トランジスタラジオのアイデアが生まれた瞬間であった。

てか?

 

続きます。

 

 

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