前回、オーストリア海軍の階級について少し説明しましたが、
ドイツ軍とはまた少し違う呼称を採用していることがわかり、
興味をお持ちの方もおられると思いますので、挙げておきます。
Admiräle(アドミリール 将官)
提督(Großadmiral グロスアドミラル)
大将(Adomiral アドミラル)
中将(Vizeadmiral バイゼアドミラル)
少将(Konteladomiral コンテルアドミラル)
短い海軍の歴史ゆえ、オーストリア=ハンガリー帝国海軍には
提督と呼ばれる海軍軍人が5人しかいません。
テゲトフは伝説的な勇将でしたが、若くして40代で亡くなったので
生きていればこの数は6人になったところです。
アントン・フォン・ハウス提督(1851-1917)
18歳で海軍に入隊し、北京の義和団の乱の平定にもきていたという
ハウスは、そこでの功績を認められて中将に昇任。
第一次世界大戦が始まると、同時に勃発した国内の内乱を抑えつつ、
イタリア海軍相手に戦略家ぶりを発揮し、ドイツ海軍から
唯一?その能力を認められていたといわれる軍人です。
彼が提督に任命されたのは1916年で、つまりK.u.K海軍にとって
最後の提督ということになります。
ウィーン軍事史博物館にはハウス提督を讃える絵画、そして
彫像もあったというのですが、そこにいる時にはこの人が
それだけの人物とは思わず、わたしは写真を撮りませんでした<(_ _)>
少将を表す「コンテルアドミラル(Konteladomiral)のコンテルですが、
もともとフランス語の「コントルアミラル」(コントルアミラルで
大将に対する統制を行うというような意味)から来ており、ドイツ語化しています。
繰り返しになりますが、佐官と尉官も挙げておきます。
Stabsoffiziere(佐官)シュタフスオフィツィール
大佐(Linienschiffskapitän リニエンシッフスカピタン)
中佐(Fregattenkapitän フレガッテンカピタン)
少佐(Korvettenkapitän コルベッテンカピタン)
Oberoffiziere(尉官)オーバーオフィツィール
大尉(Linienschiffsleutnant リニエンシッフスロイテナント)
中尉(Fregattenleutnant フレガッテンロイテナント)
少尉(Linienschiffsfähnrich フレガッテンフィンリッヒ)
少尉だけが名称が何度か変わっており、なぜかフレガッテンが付きます。
Offizieranwärter(士官候補生)オフィツィールアンヴェーター
Seefähnrich(ジーファーリッヒ)
Seekadett(ジーカデット)
以下、下士官兵も。
Unteroffiziere(下士官)ウンターオフィツィーレ
Oberstabsbootsmann (甲板長 オーバーシュタブスボーツマン)
Stabstelegraphenmeister(通信長 シュタッブステレグラフェンマイスター)
Stabsbootsmann(ボースン シュタッブスボーツマン)
Stabsgeschützmeister(水雷長 シュタッブスグシュツマイスター)
Unterbootsmann(甲板員 ウンターブーツマン)
Untergeschützmeister,(水雷士 ウンターゲシュツマイスター)
Untertelegraphenmeister (通信士 ウンターグラフェンマイスター)
Chargen(兵 )チャーチェン
Bootsmannsmaat(甲板員 ブーツマンズマート)etc,
これによると、甲板長、通信長、水雷長は下士官だったことになります。
水兵は配置名の下に「マート」がつきます。
また水兵、つまり船乗りは Matroseマトローズとなります。
マトローズはいわゆる「マドロス」のドイツ語です。
さて、と説明したところで、今日のテーマの紹介に参りましょう。
冒頭写真は、このゾーンに展示してあった肖像画です。
背景を見ていただければ、彼らが海軍航空隊に関わる人物だと想像できます。
まず、この真ん中の人物です。
ゴットフリート・フォン・バンフィールド男爵
Gottfried Freiherr von Banfield (1890-1986)
タイトルにFreiherr (フライヘア)とついていますが、これは
神聖ローマ帝国における貴族、「男爵」のことです。
ドイツ語圏ではバロンといわずフライヘアを使うそうなので、
マンフレード・フォン・リヒトホーヘン男爵も、自国では
バロンではなく「フライヘア」をタイトルとしていたはずです。
バンフィールドはオーストリア海軍でもっとも優れた戦闘機パイロットで、
第一次世界大戦では飛行艇で敵機を落とし、エースとなっています。
その飛行技術は、余人をして、
'Eagle of Trieste’(トリエステの鷲)
と呼ばしめたほどでした。
ところで、バンフィールドという名前がどうもドイツっぽくないな、
と思っておられた方、あなたは鋭い。
バンフィールドの名前を持つ父親はイギリス人でしたが、
息子のゴットフリートはモンテネグロにあるオーストリア艦隊の母港で生まれ、
彼自身はオーストリア国籍を取得したのです。
代々祖先が軍人の家系に生まれた彼は本人もその道を志し、
軍事中学を出てフィウメの海軍兵学校に入学しました。
士官に任官したのち、ウィナー・ノイシュタットにあった飛行学校で
パイロットの訓練を開始し、オーストリア海軍が募集した
最初の海軍航空隊に操縦士として入隊を果たしたのでした。
オーストリア海軍の軍港プーラで彼は水上艇の訓練を受けますが、
着陸の事故で足を骨折し、一時現場を遠ざかっていました。
そして第一次世界大戦が始まります。
バンフィールドは戦艦「SMS ズリーニ」の偵察機部隊乗組となり、
ローナー飛行艇E21の搭乗員として、カッタロの基地から出撃して
モンテネグロまでの空中作戦に偵察のため参加しました。
ズリーニ
イタリアが参戦した後はトリエステの水上艇基地の指揮官に就任。
1915年6月からトリエステ湾における伊仏軍との空中戦を幾度か行い、
すぐに初撃墜を記録しています。
この戦争で彼にとって辛かったのは、彼かつて操縦の教えを受けたことのある
フランス人の教師と戦場で出くわすこともあったということでしょう。
飛行士の戦死率が大変高かったこの時期、しかし彼は
負傷しながらも最後まで戦死することはありませんでした。
バンフィールド大尉がこの時乗って撃墜記録をあげたのはこの飛行機です。
Oeffag Mickl Type H
Blaue Vogel
ブラウエヴォーゲルとは「青い鳥」という意味です。
バンフィールドの撃墜記録は確認9機、未確認11機。
最も成功したオーストリア=ハンガリー海軍の航空機搭乗員となりました。
が、このことを、
「彼が空戦したのは北アドリア海上で、そのため本当に相手を
撃墜したか確かめるすべがなかった(=水増しされていたはず)」(wiki)
というのはなんだかちょっと失礼な気がします。
ちゃんと確認した人の名前も残ってるんだし・・・ねえ?
これらの戦功により、彼はマリアテレジア勲章を授けられた
最後の軍人となり、フライヘア、男爵位を叙爵されたのです。
冒頭画像の絵画は、
カール・シュテラー(1885−1972)
の作品で、題名は
「ゴットフリート・フライヘア・フォン・バンフィールド大尉と
彼のトリエステにおける列機パイロット、
フリードリッヒ・ウェルケ少尉とヨーゼフ・ニーダーマイヤー少尉」
となっています。
しかし、オーストリア=ハンガリー海軍は敗戦によって消滅し、
トリエステに基地を駐在していたバンフィールド大尉は、
戦後イタリアによって捕らえられ、投獄の身を託つことになります。
海軍消滅によって、彼もトラップ少佐のようにおそらく
心に深い喪失の悲しみを抱えたことでしょう。
・・というのは余人の考えに過ぎず、なんとこのおっさん、
自由の身になるや、どこでそうなったのか、トリエステの公爵家令嬢である
マリアと結婚してとっととイギリスに移住を決め、
裕福な嫁の実家の海運会社を経営するという逆玉人生を爆走し始めました。
そして「イル・バローネ」とか「アワ・バロン」とか呼ばれて、
地元では結構な有名人で、もちろん名士ともなったというじゃありませんか。
この男前で海軍軍人、パイロット、しかもエースだったりしたからなあ。
きっと全方位にモテモテで困るMMK人生だったんだろうなあ。
1927年と言いますから、彼37歳の時には、地元のテニス選手権で
優勝したりしていますし、彼らの間に生まれた息子は
のちに有名な作曲家になり(ラファエロ・デ・バンフィールド)、
本人は晩年にレジオンドヌール勲章をもらうなど、
側からはイージーモードに見える人生を送り、おまけに長生き。
彼が亡くなったのは1986年。96歳は大往生といってもいいでしょう。
ただ、ひとつ、不思議なことがあります。
バンフィールド大尉、結婚してイギリスに定住していたはずなのに、
なぜか亡くなったのはトリエステとなっていることです。
かつてオーストリア=ハンガリー海軍の最後の海軍士官として空を駆け、
「トリエステの鷲」と呼ばれたことと、ここが彼を最後に呼び寄せ、
彼の終焉の地となったことには、やはり関係があったのでしょうか。
続く。