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映画「戦場にながれる歌」〜”命ヲ捨テテ”

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北支戦線での戦闘において戦死した者の慰霊式が行われることになりました。

♬命ヲ捨テテ

彼らは戦友の亡骸を荼毘に付す葬送で、「命ヲ捨テテ」を演奏します。
戸山学校での遺骨の出迎えの時にこの曲を使わなかったわけはこれでした。

弔銃発射に続き、荘厳な儀礼曲が奏楽されます。

まさか同じ軍楽隊員を早々に演奏で見送ることになるとは
誰も思っていなかったはずです。

クラリネットのチンドン屋出身鷲尾。

相撲取り出身の青田。

クラリネットの新井准尉。北支での隊長です。

トロンボーンの安田上等兵。

トランペットの毛利上等兵。小川安三が演じています。

いろんな映画に出演した脇役で、「海底軍艦」ではムウ帝国人(笑)、
「今日も我大空にあり」では郵便屋、「太平洋奇跡の作戦 キスカ」では
砲撃兵、「日本のいちばん長い日」では巡査役、「日本海大海戦」では
サバニ船で敵艦の存在を知らせた久松五勇士の一人を演じました。

「死にたくないから軍楽兵を志願した」

と言っていたフルートの中平はこの戦闘で戦死しました。

「中平の馬鹿野郎。
あんなに死にたくない生きて帰るんだって言ってたやつが・・」

「命ヲ捨テテ」が礼式曲として制定されたのは明治25年。
真珠湾の九軍神の遺髪が帰国した時も、同曲が演奏されましたし、
記録にはありませんがおそらく山本五十六大将の葬儀でもそうだったでしょう。

軍神や元帥だけでなく、名もなき兵士であっても等しく戦死者は
この曲をもって送られました。 

 

さて、前回も指摘したように、本作では、
中国人が日本人に向ける敵意がどこまでも執拗なまでに強調されます。

♩愛国の花

を演奏し「宣撫工作」を行う音楽隊ですが、

彼らが行ってしまうとぞろぞろと立ち去ったその壁には・・・、

はい、こんなスローガンが(笑)

道中、牛さんの群れに遭遇し、追い払うために楽器をフル活用する音楽隊。

雪深い農村で車のシャフトが破損し、足止めを余儀なくされた御一行様。
大事な楽器を雪の斜面で転がしてしまうというアクシデントもあり。

近くの民家に助けを求めに行くと、なんとこんな人が出てきてびっくり。

この中国人が雪深い田舎の一軒家でなぜ京劇の化粧をしているのか謎ですが、
それよりもこれを演じているのが森繁久弥ってんでこちらがびっくりです。

森繁久弥、スッピンで顔出しできない理由でもあったんでしょうか。

娘も、田舎の雪に埋もれた一軒家で父親と二人きりなのにバッチリ化粧をして
イヤリングやリボンをつけているという謎。

現れた娘の婚約者に、二人を人質にしてシャフトを買いに行かせている間、
京劇おやじは(どうやってそんなことを知ったのかは謎ですが)、

「あんたたち日本兵は南京で罪もない2万人の人を殺しました」

などと言って日本兵を責めたりします。

東京裁判で松井石根が訴追された原因の一つ、いわゆる「南京事件」が、
当時どのように世間に認識されていたことがわかるセリフです。

この6年後、朝日新聞に本多勝一の「中国の旅」が連載され、そのあまりの内容に
朝日新聞の読者ですら違和感を覚えて(特に当時は戦争に行った人もたくさんいた)
抗議が殺到したそうですが、朝日新聞はこれを一切否定せず今に至ります。

その後中国にこれを政治カードとして利用され続け、彼らの主張する犠牲者数は30万人、
すでに当時の南京市の人口を超えてとどまるところを知りません(笑)

脅迫されながらも約束どおりシャフトを手に入れてくれた娘の婚約者に
疑った軍楽兵たちが平謝りすると、婚約者はキリッと決め台詞を。

「あなたたちのためにやったのではない。私たちの幸せのためだ!」(`・ω・´)

無辜の中国人を殺しておいて、むやみに人を疑うなんて悪い日本兵たちよねー(棒)

彼らの出発直前、現地を離れる汽車を待つ間も、目の前で日本兵が
無益に中国人を殺しまくるというこれでもかのおまけ付き。

中国人たちの憎悪の目、仲間を暗殺され、爺さんの説教、そして匪賊と戦って仲間戦死。
軍楽隊にとっては一つもいいことがなかった「中国の旅」でした。

さて、ここでまたしても急展開。
新井隊は天津からいきなりフィリピンに配属されることになりました。

ここで彼らは、空襲で目をやられたという小沼中尉(加山雄三)に再会します。

トランペットの毛利上等兵は、小沼中尉の世話をしていた戦争孤児の
フォリピン人少女の服についていた大きな蜘蛛を取ってやったのを
娘に勘違いされ、いきなり頰を殴られますが、

彼女の美貌は毛利の心をも殴りつけることになりました(笑)

真理アンヌ、当時17歳。
どう見てもご本人の素性どおりインド系の容貌ですが、フィリピン人の設定です。
彼女はこの前年、「自転車泥棒」でデビューしたばかりでした。

その晩行われた演奏会は、フィリピン人の好きそうなラテンの曲メインです。

曲に合わせて踊り出す陽気な町の人々の影から、トランペットを演奏する
毛利上等兵をじっと見つめる娘の姿がありました。

ところで、北支にいた音楽隊がフィリピンに直接転属というのは
どうも無理のある設定に思えるのですが、どうしてこうなったかというと、
おそらくですが、中国戦線で日本軍が悪辣だった、ということを強調しすぎて
ロマンス的な要素を入れにくくなったからではないでしょうか。

松山監督は中国人女性を被害者としてのみ描くことに執着していたようで、
彼女らの一人が鬼畜のような殺人集団である日本兵と恋に落ちては、
中国で日本軍が悪いことをしたという表現に水を差すことになります。

それから、後半アメリカ軍の捕虜になるという展開を思いついたので、
どこか太平洋戦線に舞台を移す必要があったんですね。

さて、その後、どうやってコミニュケーションを取ったのか謎ですが、
毛利と娘の仲は人のいない海辺でデートをするまでに進展しております。

彼らのセリフは一言もなく、映像だけでその淡い恋が描かれます。

が、映画的に見ると、こういうのは「フラグ」というんですね。ええ。

小沼隊長が25名の隊員を集めて訓示を行いました。
彼らは音楽隊としての使命を終え、これからは迫撃砲小隊に加わって戦闘を行うのです。

シンガポールなど他の太平洋戦線に派遣された音楽隊は全て玉砕したことが伝えられ、
伝令によって予定されていた最後の演奏会も出撃のため中止になることが判明します。

 

移動途中で激しい攻撃に遭う音楽隊、いや今や迫撃砲小隊。
迫撃砲なんて一体どこにあるんだ状態なわけですが。

このシーンは、さっきまで俳優が顔を出していた部分を爆発で吹っ飛ばすという
大掛かりなセットで撮られています。

そこでフラグが立った毛利上等兵、戦死し二階級特進。
なぜなら彼らは迫撃砲に編入される段階ですでに一階級ずつ昇進していたからです。

呆然と顔を見合わせる残りの軍楽兵たち。

この後、転がる日本兵の無残な遺体を見ながら進んでいきます。

いく先々で水漬く屍草生す屍を目撃し、絶望が支配し始めた一行が
海辺に到着したとき、彼らの耳に音楽が聴こえてきました。

 

♩アヴェ・マリア シューベルト作曲

まるで地獄のような世界に突如降り注いだ天上の調べに、
軍楽隊員たちは衝撃を受けて思わず立ち止まりました。

チェロとピアノによる「アヴェ・マリア」。

彼らが今いるこの地獄のような戦場で聴くには
あまりにも現実離れした、天上から降り注ぐようなその響きは
彼らを呆然とさせるのに十分でした。

その音は天上からではなく、海上から聞こえてきます。

アメリカ軍の船が、逃げ隠れしている日本兵に投降を呼びかける
宣撫工作を行っていたのです。

「日本の兵隊さん 戦争は終わりました

マネラはもちろんコレヒドーの要塞も落ちました

むいきな抵抗は やみましょう

アンメリカは 捕虜になった人を殺しません

ふにで日本に送ります

日本では おとさんやおかさんが あなたのかえいを待っています

今からでもおっそくない むいきな抵抗は やみましょう」

というわけで彼らは投降し、捕虜と呼ばれる身になったわけです。

軍楽隊が捕虜になったことをどうして知っているのか、
毛利上等兵を好きだったフィリピン娘は、収容所の柵の外から
ブーゲンビリアの花を持って彼の姿を探し続けていました。

音声はありませんが、彼女の口は

「モウリ」「モウリ」

とつぶやいているのがわかります。

しかし、捕虜になって労働をする軍楽隊の中に、彼の姿はついに見つかりません。

娘は毛利の運命を察して、思い出の浜辺に一人佇むのでした(´;ω;`)

 

 

続く。

 


映画「戦場にながれる歌」〜”ロングサイン”と”星条旗よ永遠なれ”

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冒頭画像にタイトルを「戦場に流れる歌」と書いてきましたが、
ここに至って本当は「戦場にながれる歌」だったことが判明しました。
漢字にするか平仮名にするかの選択は創作者の強い意図だと尊重し、
タイトルだけはなんとか訂正しましたが、画像はそういうわけにもいかず、
「流れる」のままになっていることをご了承ください。

捕虜としての労働は過酷なものでした。

「ニッポンジン、レイジーバスタード!」(怠け者野郎)
と罵られながら行う野外での重労働。

片目をやられた小沼中尉も捕虜としての身を託っております。
こんな姿に身をやつしていてもイケメンですが。

一旦移動させたドラム缶を元に戻させる、というような
「シーシュポスの神話」みたいな命令をされても、

「イエス!」

と絞り出すように返事をする小沼中尉でした。

 

捕虜たちはとにかく飢えていました。
アメリカ軍はそれなりに糧食を与えたと思うのですが、そこはそれ、

残飯から拾ってきた魚の頭を焼いて食べるなどということになると、
皆目の色が変わるわけです。

タバコと交換してもらえないので、この兵隊は目の前の魚の頭をひったくり、
怒った持ち主にシャベルで殴り殺されてしまいます。

(-人-)ナムー

ゴミの山の中にはさりげなく人間の脚が混じっていたり。

それを見て息を飲むテナーサックスの芦原。

同じくトロンボーンの千田伍長。

こちら、チューバの青田とトロンボーンの多胡。(東銀長太郎)
米兵のパイ缶を盗みだすことに成功。

むさぼり喰っていると、

「Hey, you! Is it good?」

罰として「私は缶詰泥棒です」と書いたダンボールを背負わされ、
空き缶ぶら下げて基地内を練り歩かされることに。

船長の昼ごはんのうどんをこぼした猫を思い出した。

猫と違うのは、こちらは各部署でサインをもらってこなくてはいけないこと。

アメリカさん結構楽しんでるだろ〜。

このシーンでは、後ろに米軍の放送として、英語で東條英機はじめ
A級戦犯への連合国の裁判の訴追内容を報じるラジオの音声が聴こえます。

その時、田胡が米兵の荷物にトランペットを発見しました。

一瞬にして目で合図し、合意成立。

変な踊り(どじょうすくい)で一人が目を引いている間に、
トランペットをパクっちまおうという作戦です。

「おーい!トランペットだぞ!日本の歌を吹いてくれ!」

彼らがトランペットを鈴木に渡すと、彼は一瞬息を飲むようにして受け取り、
日本のメロディを吹き始めます。

♬ 出船

「今宵 出船か お名残惜しや 暗い波間に 雪が降る」

メロディの流れる中、涙を流す兵隊も。

皆が息を飲んで日本の歌に聴きいりますが・・。

音楽に苛立つ人も。

「てめえみたいなチンドン屋が日本を滅ぼしたんだ!てめえらが何をしたんだ」

「人を殺すだけが戦争じゃない」

しかし、彼はトランペットを踏み潰してしまいます。

ゴミ処理場で働かされていた軍楽隊、一人がビンを拾って音を出すと、

たちまちそこにいた何人かが音程の様々なビンを手にして合奏するという
ミュージカル展開に(笑)

♩ 夕焼け小焼け

米兵の監視はなかったんでしょうかね。

こちら小沼中尉、砂浜に空き缶を埋めて演奏するのは

♪ ふるさと

おっと、聴こえてくる音はどう聞いてもバイブラフォーンです。

「どうしてこの前まで一緒に戦っていた日本人同時が憎しみ合うんだ。
今こそ音楽が必要なんだ」

日本人捕虜同士で殴り合いの喧嘩は当たり前。
ついに崖の上からそのうち一人が転がり落ちて死ぬという事故が起こりました。

皆が駆けつけてくる中、絶望的な目をしてそれを見守る捕虜たち。

その時です。
機械の立てる騒音に紛れて音楽が聴こえてくるではありませんか。

「おい!」

「どうした」

「聴こえないか?」

「何が?」

「トランペットの音!」

「聴こえる!聴こえる!」

「トロンボーンの音!」

「軍楽隊だ!」

「行こう!」

皆、シャベルを放り出して駆けていきます。
あのー、捕虜の監視は一体・・・。

音が聴こえてくる方向に彼らが浜辺を駆けていくと、海辺から見上げる
崖の上で、米軍軍楽隊が演奏していました。

ロケ地は横須賀とか・・・・?

♪星条旗よ永遠なれ

貪るように音を聴きながら、ただ上を眺めている彼ら。

軍楽隊である彼らが今もっとも飢(かつ)えていたものは、軍楽の調べだったのです。

このシーン、在日米陸軍音楽隊が特別出演しております。

彼らの顔は輝き、ある者は涙ぐみながらかつての敵国の「第二の国歌」を聴いています。

恥ずかしながら、このわたしも、このシーンで聴く「スターズアンドストライプス」の
破壊力にはあらがうこともできず、落涙してしまったことを告白します。

チューバのもっとも目立つフレーズでは、下で聴いていた青田、思わず
息を吹き込むような表情をしてしまいます(冒頭挿絵)

ここで写真を点検していてわたしは発見してしまいました。
彼らの左肩についている鳥居のエンブレムに(笑)

多分キャンプ座間からエキストラに呼んだのだと思います。

チンドン屋出身鷲尾は、合わせてクラリネットを吹くポーズをとりますが、
しっかり腰が揺れております。

音楽を聴きながら彼らの瞳に戻ってくる生気。

今ではもうこの人たちも現役ではありません。
このとき演奏した米陸軍軍楽隊のメンバーは、故郷に帰り
余生を送っているか、あるいはもうこの世を去ったかもしれません。

この演奏スタイルがやたらカッコイイ大太鼓奏者も。

彼らは矢も盾もたまらず、投降前に楽器を隠しておいた場所に走っていきました。
どうやって捕虜がそこに行けるのか?とかツッコんではいけません。

そして、土の中から楽器を掘り出して手に取ります。

こんな状態なのに、米軍が一曲終わるまでには楽器は全て使用可能になっていますが、
これも深くツッコんではいけません。

「星条旗よ永遠なれ」は、いつの間にか彼らの頭の中で
「陸軍分列行進曲」に変わっていました。

全員がスタンバイOKとなり(主人公の太鼓は流石に無理だったようですが)
加山雄三の隊長が、トランペットで

♪ 蛍の光 (オウルド・ロング・サイン)

のメロディを吹き始めます。

小沼中尉は確か打楽器奏者と言っていた気がしますが、まあイイや。

半分欠けた状態なのに朗々とエコー付きで響き渡るトランペットの音。

次のフレーズから、サックスが低音パートをつけ始めるという有能さ。

全員がこれに加わろうとしたその時。
崖の上からそれに和する吹奏楽の響きが降ってきました。

丘の上で演奏していた在日米陸軍軍楽隊のみなさんが、一緒に演奏していたのです!

日米双方の軍楽隊が共に奏でる一つのメロディ。
捕虜収容所の皆はいつの間にかそれに耳を傾けていました。

日本軍の捕虜も、米軍の監視たちも・・・。

その瞬間すべての人々が手を止めて聞き入っていました。

そんな捕虜の一人にあっと驚く大物がいました。

役名は「伍長」で名前もありませんが、あの小林桂樹です。
小林はその音楽を聴き、何事かを思うように目を潤ませます。

捕虜同士の喧嘩になった時、楽器を踏み潰した兵隊が言った、

「日本なんかもうどうなっても構うもんか。
俺たちはどうせもう生きてなんか帰れないんだ」

という投げやりな言葉を、音楽が否定したのかもしれません。

ラッキーストライクの殻が落ちている海辺を歩いていく
一人の男(これが誰かはわからない)の姿で映画は終了します。

太平洋の彼方を見据える男の後ろ姿。
音楽によって彼の裡には故国への想いと、帰郷への希望が生まれたに違いありません。

捕虜がどうして監視に咎められることもなく海に入っているのかは謎ですが。

 

最後に、団伊玖磨氏の証言によると、戦後、多くの元軍楽隊員は
米軍基地や米兵用キャバレーでジャズを演奏するようになりました。
その豹変ぶりは団氏を驚かせるに十分であった、ということです。

ただし、皆がアメリカ人の厳しい演奏要求に答えられたわけではなく、
その中で生き残った実力派は、戦後日本のジャズの「祖」となりました。

海軍音楽隊出身の原信夫氏(シャープスアンドフラッツ指揮者)などもその一人です。
ちなみに原氏は1926年生まれ。2020年1月現在93歳でご健在です。

 

終わり。

 

ピッツバーグの "メリークリスマス"

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新年早々アメリカに行ってまいりました。
今回の訪問先はペンシルバニア州ピッツバーグです。

お正月明けの 成田発だったので、仕事始めで高速が混むかも、
とお迎えの車にはいつも出発4時間前にきてもらうところ、
余裕を見て5時間前にしました。

ところが、高速はいつもよりガラガラです。

週末は帰国ラッシュだったはずなのに、どうも世間では
まだ仕事を始めていないものらしい。
7日から開始という職場が多かったのかな?

今回は諸般の事情により、往復共にプレミアムエコノミーという
フラットにならないまでもピッチが広いクラスで予約をしたのですが、
行きに機械でチェックインすると、ビジネスクラスに空きがあったので
マイレージを使ってアップグレードしました。

というわけで長い待ち時間もラウンジで過ごせます。
成田のユナイテッドのラウンジは初めてです。

ところで、受け付け機でアップグレードしたので、
手荷物預けをプレミアムクラスのカウンターでしようとしたら、
カウンター入り口前に立っていた日本人の年配女性係員が、

「ああ、エコノミーはこっち」

と馬鹿にしたような口調で阻止するわけですよ。

「ビジネスですけど」

というと、チケットを見て

「あー、じゃこっち。ごめんねえ」

謝ったもののこんな態度だったので、大抵の無礼には何も言わないMKが

「さっきのなにあれ」

と呆れたようにいいました。

プレミアムクラスは機械受け付けなど通さずにカウンターに行くので、
エコノミー客だと思われたのでしょうが、ANAでもJALでも
内心どう思っていようと客にあんな態度を取る地上係員はおらんぞ。

 

手荷物検査の係員の若い女性にもちょっとこれはどうか、な人がいました。

流した籠から荷物をピックアップしていると、前で睨みながら待っていて、
いかにももたもたしてんなよこっちゃ忙しんだ的なオーラを放ってくるので、
(ラインはガラガラ)その態度にカチンとしながら荷物を取り上げると、
次の瞬間籠を奪うように乱暴に抜き取るわけ。

なんだこいつ、とあらためてご尊顔を拝見すると、物凄い顔で
ぎりぎりっと睨み返してきて、こえ〜〜〜となった次第です。

お正月死ぬほど働かされてキレていたのかもしれんね。

ユナイテッドの国際線ビジネスに乗るのは初めてです。
ユナイテッドではプレミアムシートを「ポラリス」と称していて、
シカゴ空港にあるラウンジと同じ名前です。

小物を収納できる棚の中には水のボトルが用意されていました。
ANAと違ってコンセントがわかりやすいところにあって使いやすそう。

ビジネスクラスでもらえるポーチに何が入っているかは
航空会社によって違いますし、ポーチのデザインも毎回代わります。

今回のユナイテッドはスターウォーズとタイアップ。
ポーチの中の靴下はスターウォーズ的デザインでした。

紙ナプキンにすらスターウォーズが。

食事はなかなかおいしかったです。
わたしの座ったのは直前で取った席なので、ビジネスクラスの
一番後方の席(プレミアムエコノミーの前)だったせいか、
注文を聞きにきたときには肉、鶏、魚の肉は品切れでした。
(隣の人がステーキを頼んで断られていた)

飛行機の中でアイスクリームは食べない、と決めていたのですが、
紙カップではなくボウル入りのアイスにトッピングを選べるワゴンが回ってきたので、
誘惑に負けていちごソースがけを頼んでしまいました。

ちなみにMKはエコノミーでしたが、3人がけの真ん中で、
ほとんど後ろに倒れない小さな座席だったそうで、

「真ん中だからフライトの間一回トイレに行っただけ。腰が痛い」

と後で泣き言を言っていました。

さて、ピッツバーグに到着したのは夜9時だったので、
その日は空港近くのホテルに一泊し、次の日からは
市内のレジデンスイン・バイ・マリオットに移動しました。

気温は昼間でも1度くらいなので、テラスに人影はなし。
滞在中何度かタバコを吸いに出ている人の姿を見ました。

こちらはテラスは同じですが、全く別のビルで、実は養老院です。
何日かは時差ぼけもあって朝4時くらいに起きていたのですが、
毎日必ずその時間に灯をつけてテレビを見ている部屋がありました。

お年寄りなんで早く起きてもすることがなくテレビを見てるんでしょうか。
こちらからは画面しか見えませんでしたが、いつ見ても画面が白黒で、
もしかしたら古い映画を放映するチャンネルをつけっぱにしているのかと思ったり。

というわたしも、PCをしながらテレビをつけてみました。
朝4時にやっている番組ってどんなだろう。

フォックスチャンネルで、お料理教室みたいなのをやっています。
なんとこれ、「ザ・ドクターズ」というトークショーの一場面でした。
もう放映されて12年になろうとするロングランで、医療専門家を招き
専門的な話からプライベートから、語っていただきましょうという番組。

このコーナーでは、ゲストのドクターの得意料理?あるいは
健康のため取っているものを作ってもらいましょうというもの。

左側の若い男性、トラビス・ストークは番組のホストで自身も救急救命医です。
こんな番組で司会をしているくらいだからたいした医者じゃないんだろうと思いきや
デューク大を優秀な成績で卒業し、バージニア大でメディカルの学位を取得、
普通に医者としても優秀で、身長193センチのイケメンという、
医療ドラマに出てきそうな医者、かつトークもうまく賞ももらっているとか。

一番右側の男性が「今日のゲスト」ドクターのようですね。

トークショーのメインである「ドクターの処方箋」コーナー。
ここでゲストの医療に関する取り組みなどを伺います。

真ん中のアシスタントは代替わりしていますが、かつては
ここにも女性医師を据えていた時代があったんだそうです。

「健康のためにはヘルシーなスナックを少しだけ食べること」

なんて言葉になぜか瞳を輝かせていますが、それよりもわたしが気になったのは、
スタジオでかぶりつき、熱心に見学している一団が、全員女性、
しかもこのような気合の入りまくった若い女性ばかりだったこと。

うーん・・・これはストーク博士のおっかけなのか?

それも終わると、今度はテレビ法廷番組、
「アメリカズ・コート・ウィズ・ジャッジ・ロス」。

アメリカのテレビ番組は、こういった「絵になる」判事が
番組上で一般人の訴訟を扱うリアルな法廷ショーがたくさんありますが、
これもその一つ。

彼、ロス判事は引退した元判事で、番組そのものは正式な法廷ではありませんが、
当事者の了解のもとで下された判決は実際に法的拘束力を持っています。

しかし驚くのは、医者といい判事といい、こんな人材が
次から次へと現れてくるアメリカの人間の層の厚さです。

今日の原告はこの人。なんかすごい怒っているっぽい。

訴えられているのはなんと尼さん二人だ。
ちゃんと見なかったので詳しい事はわかりませんが、
女性がチャリティーで何かをしたことに対して
この二人の尼僧が取った行動に問題があったとかなんとか。

まあ、他人にとってはどうでもいい話ですが、そういう
少額訴訟を扱うのもこの手の番組の特色です。
額の問題ではなく、人間関係のドロドロ、変わった訴訟が好まれるようです。

このケースのポイントは、「尼さんが訴えられた」だと思うんだな。

ペンシルバニア州はわりと銃規制が緩く、長銃についても
拳銃についても州による規制はありません。

この日は、だれかが銃撃したのでそれが原因で
車が横転事故をおこし、3人が病院に搬送されたようです。

 

そういえば余談ですが、MKの在学している大学で起こった事件。
中国からの留学生が(とんでもない金持ちだったらしい)
何を思ったかピストルを購入しようとガンショップに行ったそうです。

お店の人は外国人なのにもかかわらず売ってしまいました。
銃の販売先は当然書類でお上に報告がされることになります。

すぐに学校にCIAが現われて(全員サングラスに黒スーツだったらしい)
大騒ぎになり、留学生は即刻退学処分になり、
当然のことながら強制帰国させられたということでした。

彼は今後アメリカに入国することすらできなくなったわけです。

さて、アメリカでも連日ゴーンのことが報じられています。
ちょうどこのときは日本から逃走後、初めて公の場に
姿を現したときでした。

「Great Escape」というのはスティーブマックイーンの
「大脱走」とかけているだけで、深い意味はありません。
(もしかしたら相手が日本なので『進撃の巨人』かも?)

どうもアメリカ人はこの件を野次馬的に面白がっている模様。

これはその時の会見の様子でしょうか。
偏見抜きに行っても人相が悪いですよねこの人。

「Lavish」というのは「贅沢な」という意味で、ゴーン前会長が
日産のお金で贅沢な生活を(”シャチョー号”とかね)恣にしていた、
ということを説明しています。

やっぱり世界中のどこも、あのベルサイユ宮殿の結婚式
(しかも糟糠の妻を捨てて再婚)には冷淡というか冷笑的だなと(笑)

 

実はゴーン氏の子供のうち一人はMKと同じ学校を卒業しているので、
うちにはカルロスゴーンの写真が載った卒業アルバムがあります。
(この卒アルは毎年幼稚園から高校生まで掲載され、卒業生が一人1ページ、
プライベートな写真を貼って家族や友人への感謝を表すということになっている)

その頃はゴーンさんは多くの日本人から愛されていたと思いますが、
同じ頃にサッカー日本チームの監督だったトルシエ氏と、
日本で活躍するフランス人同士ということで会談が持ちかけられると、
あからさまにトルシエを馬鹿にして断ったと言う話を聞いて、
やっぱりそんな人だったんだと妙に納得した覚えがあります。

日本語も絶対に覚えようとしなかったと言うし、おそらく
日本人を基本的に蔑んでいたんでしょうね。
これは彼自身がフランスで移民として「蔑まれる」側にいたことと
無関係ではないと思います。

ゴーン氏は、わたしが骨折するまで通っていた乗馬クラブに
ときどききていたそうですし、MKの学校では一度、
講演会も行っているのですが、ついに実物は見ないままでした。

ここにきたら食べたいものリストの一つ、
ユダヤ人街にある人気のベーグルショップの
ハラペーニョ入りチーズクリームのセサミベーグルを買いにいきました。

ハラペーニョが入っているのに、激辛などではなく、
独特の香ばしい香りがしてこれが滅法美味しいのです。

夏場散歩をしたシェンリー公園の同じ場所で車を止めて
朝ごはんがわりにベーグルをいただきました。

夏には全く見えなかった「サーペンタイン・ロード」(蛇通り)が
冬になって樹々が裸になり一望できるようになっています。

夏に訪れた有名なフィップス植物園。

ここのショップで買った石鹸がものすごく好みの匂いだったので
もう一度と思ったのですが、もうすでに扱っていませんでした。

そのかわり、前回家族全員に好評だったルバーブといちごのジャムを見つけ、
日本にお土産に買って帰ることにしました。

あとTOから頼まれたのはシリカ(鉱物)のロールオンデオドラント。
持ち歩きには重いけど、結構効き目があるそうです。

アメリカでは1月過ぎにはまだクリスマスツリーが飾ってあります。

冒頭の家全体をラッピングしたようなデコレーションも
ホリデーシーズンの演出なのですが、(どうやってあるのか何度見てもわからなかった)
いつ片付けるという日は決まっておらず、だいたい2週間くらいが目安ではないか、
とわたしは思っています。

最近、アメリカではポリコレやなんやかんやで、メリークリスマスは祝えず、
ハッピーホリデーとしかいえない、などという噂も日本ではあるようですが、
街角ごとにキリスト教の教会がある古い街では、普通に「メリークリスマス」です。

多民族国家になってもアメリカは基本キリスト教国ですからね。

 

続く。

 

アンディ・ウォーホル美術館〜ピッツバーグ滞在

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ピッツバーグに着いて用事を済ませたあとは、もはやなんの予定もないので
気の向くままに街を楽しみましょうってことになりました。

うちには便利な息子がいて、こういうときネットで情報を探し、
いろんな提案をしてくれるわけです。

「アンディ・ウォーホル美術館なんてどう?」

実は昨年の夏滞在したときにも現地在住の知人にお勧めいただいてましたが、
わたし別にアンディ・ウォーホル好きでもなんでもないんでね。
キャンベルやマリリンモンローのリトグラフなんて、いまさら生で見たって
それが何?ってかんじでスルーしたんですが、今回はなんとなく、
他に行くところも思いつかなかったので、行ってみることにしました。

劇場などがある町の中心部から美術館に行く途中にあるブリッジは
「アンディ・ウォーホルブリッジ」といって、橋桁ごとに
リトグラフのウォーホル自画像がお出迎えしてくれるという趣向。

ちなみに橋が黄色いですが、ここピッツバーグのカラーは黄色。
市内にかかる黄色い橋はいくつもあります。

何故黄色なのかはわかりませんが、ただひとつたしかなことは、黄色は
地元のフットボールチーム「ピッツバーグ・スティーラーズ」のチームカラーで、
ゲームデイには町中が阪神タイガースの試合があるときの
阪神電鉄甲子園駅周辺みたいになることです。

スティーラーというのはもちろん「スチール」から来ているわけで、
かつてピッツバーグが鉄鋼の町だったことが語源です。
強いディフェンスが出たときには「スティールカーテン」と呼んだり、
なかなかチーム名としては使い勝手の良い名詞だと思います。

スティーラーズの熱狂的なファンは、チームカラーの黄色いタオルを
「テリブルタオル」と称して振り回して応援を行います。

また、日本人女性磯百合子さんがかつてアスレチックトレーナーをしていた、
ということでも日本人には馴染みのあるチームです。

スティーラーズ支える女性トレーナー、初の大舞台へ

この建物がアンディ・ウォーホル美術館。
ウォーホルが死んでから2年後に建ったという美術館は、
単一のアーティストのものとしては北米最大といわれています。

ここに美術館があるからにはウォーホルはここの出身だろうと思ってましたが、
生家というのが、夏に家を借りたシェンリーパークの近くの、
まさに借りたのと同じような作りの家であることが判明しました。

右側がそれらしいんですが、普通に今でも誰かが住んでます。
夏にわたしが借りた家みたいに、少し盛り上がったところに建っていて、
地下にランドリーや寝室があったりするこの辺独特の建築です。

さらに、今までわたしは「ウォーホール」と呼んでいたのですが、実は
彼はチェコ系の移民の息子で本名は「ウォーホラ(Warhola)」、
したがって「Warhol」はウォーホルと読むのが正確であると知りました。

アングロサクソン系だと勝手に思い込んでいたのですが、意外です。

小さな時の落書きから始まり、大学(カーネギー工科大学)
卒業後、ニューヨークで仕事を始めた頃の絵など網羅しています。

ちなみに右側は大学卒業後自費出版したイラストブック、
「25 Cats Name Sam and One Blue Pussy」より。

美術館は最初にエレベーターで7階まで上がり、そのあとは
下に歩いていきながら各階を見学していくようになっていました。

ニューヨークでイラストレーターをしていた頃のアンディ。
さすがイラストレーター兼広告マン、おしゃれです。

ティファニーのクリスマスカードのためのデザイン。

1956年には東京に観光に来ています。
上はウォーホルがその頃知り合った写真家の
エドワード・ウァロウィッチ。
彼もピッツバーグの出身でやはり移民の息子です。
二人は意気投合し、彼の写真とのコラボを行いました。

皇居二重橋前の写真では右から2番目がウォーホルですね。

 

有名な「あれ」の偉大なモデル。

左にハインツがありますが、ハインツもここピッツバーグがお膝元です。
ウォーホルによって有名になったのはキャンベルとハインツだけでなく、
金属たわしのブリロがあります。

企業がウォーホルにお金を払ったわけでもないのに、
彼は勝手に?身近にあるこれらをアートにしてしまったというわけです。

この香水「ミス・ディオール」の広告は、巨大な板に描かれた絵で、
香水の瓶のところはくり抜かれて本物が入っていました。

ミスディオール、一度気の迷いで買ってしまったことがあるけど、
実際に使ってみたら全然好きじゃなくて、トイレの芳香剤がわりにしてた(笑)

初期の映像作品で、右の椅子に座った人の顔を映し続けたもの。

一般公開された映像作品「チェルシーガールズ」。
ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、
その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ
適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続けるというもの。

右側は若い男性と中年男性がベッドでだらだら話をしていますが、
いきなり窓がアップになったりして訳がわかりません。

左側も家族が罵り合っているだけで、訳がわかりません。
しかし、これが全米で公開され大ヒットとなったらしいです。

1963年の「ホワイト・バーニング・カーIII」という作品です。

シルクスクリーンで、ウォーホルの「デス・アンド・ディザスター」シリーズの一つ。
警察と自殺した男の報道写真、事故った車を素材にした作品で、
5回以上画像を重ね刷りしているのだとか。

車はひき逃げをして逃走していた車が路上のポールに激突して
大破炎上したもので、運転をしていた24歳の漁師という男は
激突の際投げ出されてclimbing spike(塀や扉の上に侵入禁止のために仕掛ける
鋭利な先端、いわゆる『忍び返し』)に突き刺さり、死亡した、
という新聞記事も添えられています。

ウォーホルが描いた人物たち。

日本人キミコ・パワーズさん。

「kimiko Powers」の画像検索結果

2013年のキミコさん。
世界有数の有名な美術コレクターで、芸術家のパトロネスだそうです。

後世に残る肖像を手がけてもらえるのはパトロンの特権ですね。

どれだけ大きな作品か比較対象がいてわかりやすいですね。
「ラファエル・マドンナ $6.99」という作品なんですが、
値段のように見えていたのは本当に値段だったのか・・・。

意味は・・・・多分ないと思う。

「シルバークラウド」(SILVER CLOUDS )という作品です。
部屋の中にヘリウム入りのシルバーの風船がふわふわしていて、これは
見学者が触ってもいい展示です。

「もう絵は描かないよ。
一年前にやめて映画を始めたんだ。
同時に二つのことはできたけど、映画の方がエキサイティングだったし、
絵を描くというのは僕にとって単なる段階だからね。

今、僕は『浮遊彫刻』をやっているんだ。
爆発させて浮かぶシルバーの長方形だよ。」

ウォーホルはこんなことを言っていたようです。

いくつかは天井の送風機に固まってくっついていましたが、残りは
こんな感じでぼよんぼよんとその辺を浮遊しています。

「部屋から出て行ったらどうなるんだろうね」

と言っていたら、その端から一つが部屋から出ていきそうになり、
そのとたん係員が飛んできて連れ戻していました。

1日風船が出て行かないか見張っている係にとっては、
夢に出てくる光景なんじゃないでしょうか(笑)

「これは・・・」

「どうみてもあれでわ」

なぜアンディ・ウォーホル美術館にキース・ヘリングの象がいるかってことなんですが、
アンディとキース・ヘリング、そしてジャンミシェル・バスキアが仲が良かったと。

「basquiat andy warhol keith haring」の画像検索結果

そういうことなんですな。
ちな1958年生まれのキースはわずか31歳でエイズで死に、
ウォーホル死後、キースより若かったバスキアも、アンディの死の翌年、
わずか27歳でヘロイン中毒で死んじまったという・・・。

なんだかアンディが二人を気に入って連れて行ってしまったみたいな。

アンディ・ウォーホルの愛犬だったばっかりに、剥製にされてしまいました。

ウォーホル本人の希望なんでしょうねえ。
いくら往年の姿を留めておきたいと言っても、
中身のことに思いを馳せないのはなんといいますか。

日本に行ったときに買ってきたらしいお土産の般若や大黒様能面があったり。
もうこの辺は本人も覚えていないような持ち物の展示です。

よく物を捨てられない人が、

「将来俺の博物館ができたときに飾るためにとってある」

なんてことを言いますが、(例*TOの兄、MK)
ウォーホルも持ち物をいやっというほどためこんでいたようです。

彼の場合は本当にそのつもりだった可能性はありますね。

ウォーホル、香水はエキゾチック系がお好きだった模様。
「オピウム」も一時日本で流行ったことがありましたよね。

カルバン・クラインのサイン入りカルバン・クラインのパンツ。

「バックトゥーザフューチャー」を思い出した(笑)

この部屋はまだまだあるらしい所蔵品倉庫らしいのですが、
その隅っこにライオンの剥製がありました。

この箱の全ては本人が梱包してしまったものらしいです。
開けるに開けられないのかも。

これはなんだろう、と注目したらたんなるスイッチでした。

宗教関係の作品。
実はああ見えて?ウォーホルは敬虔なキリスト教徒でした。
教会に毎週行くとかそういう方向の敬虔ではなかったような気もしますが。

巨大な「最後の晩餐」は何を思ったか一枚のスクリーンに二枚刷ってあります。

というわけで、7階から1階まで降りてきて全部を見終わった訳ですが、
先入観で面白くないと決めつけてしまってすみません、と思いました。

彼の作品そのものよりもその人生を浮き彫りにするような展示が多く、
実に興味深くてまたいろんなろくでもないことを考えさせられました。

ピッツバーグにくると、こういう売店に必ずある
「ミスターロジャース」のグッズ。
晩年を過ごしたのがピッツバーグだったということのようです。 

「ミスターロジャースのネイバーフッド」という番組は、
わたしたちがアメリカに住んでいた頃放映されていたので
MKと一緒にわたしもずっと観ていました。

亡くなったとき、「アメリカの一番良い人」と言われていたのが忘れられません。

ヘリング、バスキアがゲイだった関係か、
LGBTについて理解を深めるための絵本があったりします。

しかし、「子供のためのゲイとレズビアンの歴史」っていうのも
すごいタイトルだなあと思ったり。
ちなみに表紙の写真一番左はハーヴェイ・ミルクですね。

わたしたちが住んでいた頃はまだ、面と向かって
あなたはゲイですか、と聞くのはマナー違反だということになっていましたが、
今はどうなんだろう。
ずいぶんその頃に比べるとオープンになってきたという気はしますが。

ここにきたら訪れたいリストの一つ、「ヌードルヘッド」にいきました。
「ヌードルヘッド」とは「ヌードル好きすぎて辛い」(意訳)という意味です。

わたしはいつものパッタイを頼みました。
ここの素晴らしいところは具に入れるものが鶏、エビ、肉から選べて、
さらに辛さをゼロから3までの段階で指定できることです。

わたしはこのときゼロと言ったはずなのですが、間違えたらしく
赤いものが混入していて結構辛かったです。

アメリカの飲食店はたくさん出てきますが、食べ残しても
紙パックをくれるので、持って帰ることができます。

この日のパッタイも次の日ホテルで加工して食べました。

また別の日、MKがお勧め?のアレゲニー川沿いの一角に行ってみました。
昔この辺を汽車が走っていた頃、生果卸売市場があったところです。
ストリップ・ディストリクトといい、商店街になっています。

これはセント・スタニスラスチャーチというカトリック教会。
聖堂が建築されたのは1891年だそうです。

1月すぎても街にはこのようなキリスト生誕の人形があちこちにあります。
「キリストをクリスマスまでキープしてください」
と看板にありますが、過去持って行かれたことがあるんでしょうか。

イタリア系移民がやっているピザレストランに期待していきました。
ここのピザクラストはフワッフワでまるでパンのようです。
ちょっとトマトが酸味がきつかったですが、おいしかった!

続いてお茶の専門店を覗いてみました。
信じられないほどの種類のフレーバーコーヒーの豆を売っていて、
紅茶の葉も扱っています。

店内でもお茶が飲めるので、わたしはカフェオレを飲みながら
紅茶の葉を物色し、ディカフェインのバニラティーというのを選びました。

知らない土地の街歩きで良いお店に出会えるのが気ままな旅行の醍醐味です。

 

続く。

 

カーネギーサイエンスセンターのUSS「レクィン」〜ピッツバーグ滞在

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ピッツバーグに着いて何日目かにローカルニュース&情報番組を
見るともなく見ていると、女性のレポーターがライブで

「カーネギーサイエンスセンターで展示されている潜水艦」

を紹介していました。

「これは行かねば・・・・・!」

わたしは色めき立ったのですが、わたしが色めきたてばたつほど
反比例して行く気がなくなるらしいMKは

「え〜〜〜〜⤵️」

とやる気のない返事をするのです。
しかしこの滞在でどこに行くにも運転するのはこのわたし。
わたしこそが主導権を握っているので、なんなら
彼をホテルに放ったらかしででも見に行ったる!と
わたしは虎視淡々そのチャンスをうかがいました。

そして、滞在もあと1日となった最後の日曜日、

「今日いきたいところある?」

「別にないかな」

「じゃサイエンスセンター行こう。
『マミー』(ミイラ)ってのもやってるみたいだし、
潜水艦とマミー見たらさっさと出てくればいい」

有無を言わさず車をカーネギーサイエンスセンターに向けました。

写真に写っている人が半袖を着ていますが、この日のピッツバーグは
何が起こったのか気味が悪いほど暖かい日で、気温は20度近く。

この少し前には夜外を歩いただけで耳が千切れそうに寒かったのに
なんとも不思議な感じです。

気温が高くなると、とたんにアメリカ人は半袖半ズボンで外に繰り出します。

一般にアメリカの家屋というのは寒冷地ほど内部は暖かく、
外で雪が降っていても家の中ではTシャツで過ごす人が多いのですが、
外が少しでも暖かくなると、部屋着のままで外にでてきてしまうのです。

なんでも日本人とは寒さを感じる皮膚感覚が違うらしいんですが
Tシャツが彼らの民族衣装となってしまったのもそのせいかと(笑)

 

カーネギーサイエンスセンターはいくつかあるカーネギー博物館の一つで、
1991年に設立されました。
子供向けの展示が多いですが、もちろん大人も楽しめます。

この日は日曜だったので駐車場は混雑気味でしたが、それでも
すぐに止めることができました。
駐車場は館内で一律料金(8ドルくらい)を払います。

 

吹き抜けの大きなラウンジに面したガラス窓の向こうに
わたしの目的である潜水艦が見えました。

「わーい、見に行こう!」

階段を降りようとしたら、そこに悲しいお知らせがありました。

「潜水艦は本日公開しておりません」

日曜日だっていうのに?

「雨が降って川の水の流れが早くなって揺れるからとか?」

いずれにしても、いつもは公開している内部の見学は
雨天の場合は中止になるらしいことがわかりました。

しかし、近くに行くことくらいはできそうです。
階段を降りていくと、潜水艦関係の資料が展示されていました。

そういえばテレビの中継もここから行われていた気がします。

まず、潜水服ですが、古色蒼然としたこの仕様は、

Mark V

という1916年に開発されたスーツで、なんと
1964年まで使われたというロングランでした。

深海作業を行う時に用いられたもので、素材はゴム引きの綿キャンバス、
真鍮のヘルメット、手袋そしてウェイトブーツ(錘靴)など。

ダイバーはこの下に保温のためにウールのボディスーツを着用しました。
(それでも全くと言って良いほど保温にならなかったと思います)

また、錘としてウェイトのあるベルトも装着していました。

余談ですが、この防水スーツのキャンバス布を発明したのは
チャールズ・マッキントッシュというスコットランドの化学者です。

マッキントッシュというコートのブランド名はこの名前から取られました。

① シグナルガン(信号銃)

照明弾、発煙弾を発射する銃です。

ところで、ディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」って
モントルー・ジャズフェスティバルで観光客の一人が信号銃で撃った照明弾が
カジノに引火して燃えているのを目撃してその光景を歌ったものですってね。

「どこかの馬鹿がフレアガンで地面に火をつけた」
「スモークオンザウォーター、ファイアーインザスカイ」

そういやこんな歌詞でしたわ。
ロック史上一番有名なイントロを持つこの曲の誕生にになったのだから、
「どこかの馬鹿」の犯罪行為にも功績という一面があったわけだ。

② USS「レクィン」のデッキ

当時の潜水艦のデッキに使われた木材は密で重く、
万が一戦闘で破壊された時にも浮いてこないくらいのものでした。

沈んだ潜水艦の位置がわかるようにするという意図で、
わざと浮きやすい素材を使うこともありました。

③ Mk3、Mod 0 六分儀(セクスタント)

目視で現在位置を知ることができる六分儀。
現在の艦船にはGPSが搭載されていますが、どんな船も
必ず停電したり衛星がダウンする可能性を踏まえて
この六分儀を搭載しており、使うことができるようになっています。

④ 非常灯

潜水艦のパワーがダウンした時にも使える非常灯。
大抵はフラッシュライトよりも明るく広範囲に照らすことができました。

⑤ クォーターマスター(操舵手)のスパイグラス(一番右)

潜水艦が海上を航行している時最もよく使われるのがこれ。
完全防水で滑りにくいグリップを持ち、皮とゴムでカバーされていました。

⑥ 潜水艦徽章 ペナント など

「レクィン」とはサメを意味しますが、それをあしらったパッチ、
その他いろいろは、かつての「レクィン」乗員からの寄付です。

⑦ 「レクィン」のワードルームにあった灰皿

艦長や士官の居住区を「ワードルーム」といいますが、そこにあった灰皿です。
70年間行方不明でしたが、最近元乗員が倉庫で見つけたのだとか。

っていうか自分で盗っておいて忘れてたんと違うんか〜い!

⑧ ライオネルコーポレーション テレグラフキー タイプJ36

汽車会社のライオネルが第二次世界大戦中の個人アイテムとして
開発したテレグラフキー。

 

海を模したブルーのガラスごしに展示された潜水艦模型。
まずこちらは

USS H-1(SS−28)

アメリカ海軍最初の潜水艦であり、シーウルフと名付けられました。

1911年に就役し、哨戒任務にあたっていましたが、1920年、
マグダレナ湾沖の浅瀬で座礁し、脱出した艦長始め
4名が岸に泳ぎ着くまでに死亡し、その後艦体は沈没しました。

つい最近の2019年、艦体がバハカリフォルニアの南で確認されています。

そしてこちらは、

USS「ピッツバーグ」(SSN−730)

アメリカ海軍のロサンゼルス級原子力潜水艦の33番艦。
艦名はもちろんここペンシルベニア州ピッツバーグにちなみます。
この名前を持つアメリカ海軍で4隻目の艦となりました。

1983年進水、1985年11月に就役。

2002年には地中海に展開するため出撃し、「イラクの自由作戦」で
トマホークを発射し、2003年4月27日に帰投しています。

母港はコネチカット州のグロトンで、昨年2019年8月退役しました。

モニターでは「レクィン」の内部紹介ビデオが放映されていました。

1968年に海軍から除籍になったとあります。
これは魚雷チューブだと思います。

1969年に無力化され、予備訓練艦として、フロリダの
セント・ピータースバーグに係留されました。

クルーメスのテーブルにはバックギャモンなどのゲーム盤プリントが。
モニターはおそらく見学者のためのものでしょう。
展示されている場所が場所だけに、内部見学もかなり期待できそうです。

こんどピッツバーグにもし行くことがあれば、必ず見てきます。

ちょうどこのピッツバーグ滞在の頃、アメリカで見た駆逐艦の
爆雷についてのエントリを制作していたので、一眼でわかりました。
さらに、帰ってきてから(今更のようですが)、あの名作

「眼下の敵」(The Enemy Below)

を観たもので、尚更タイムリーです。

Mk.9 Mod 3 Depth Charge

という型番で、もちろん艦上から落とすタイプの対潜兵器。
爆発する深度を設定でき、ターゲットに「 爆発的ショックウェーブ」
を与えるというものです。(つまり直接当たらなくても良い)

このタイプは投下してから海中を速く落下するため
シェイプを研究開発されたことが説明されています。

こちらは潜水艦が搭載する魚雷を解剖して置いてありました。

「レクィン」のアンカーチェーンの一部。
アンカーのタイプは「シャンク」、フルーク型だったそうです。

外に出てみました。
サイエンスセンターはピッツバーグ市内を流れるオハイオ川に面しています。
向こうに黄色いブリッジが見えてきますが、そこから川は
以前飛行機が飲み込まれたと書いたモノンガヒラ川に名前を変えます。

ピッツバーグは川に囲まれていて、市内中心地には
どこから来るのにも橋を渡らなければなりません。
しかもその橋は必ず前に横たわる山をぶちぬいたトンネルとつながっているので、
特に朝夕の通勤時間、高速道路は猛烈に渋滞します。

そういうわけでここでは空港に行く時間が全く読めません。
飛行機に乗る前には必ず橋の向こう側の空港近くのホテルに泊まるようにしています。

艦尾が係留されている大きなブイは、サイエンスセンターオリジナル。
川の深度がわかるようになっているようです。

潜水艦見学のために特別に制作されたらしい長いラッタル。

中学生のグループが潜水艦を覗き込んでいました。

ものすごく堅牢そうなしっかりしたラッタルです。
おそらく子供や老人なども見学できるよう配慮したのでしょう。

USS「レクィン」SS-481 「テンチ」級
1945−1968

海軍初のレーダーピケット潜水艦に乗艦いただき、
80人の乗員が専門的スキルと、ユーモアと、類稀なる創意工夫で
荒々しい冒険的な艦上生活をいかに刻んでいったかを、
そして冷戦時代の防衛やその科学的ミッションについてを学んでください!
その中のいくつかの知恵は今日にも活かされています。

展示にあたって塗装を引き受けたのがPPGペイント社。
本社をここピッツバーグに置ガラス製品・化学製品・塗料の製造会社大手です。
日本にもPPGジャパンという名前で進出しています。

自社の宣伝かたがた、この塗装にどれくらいの時間や手間がかかり、
どれくらいの塗料を要したかについて説明されています。

それによると塗料は全部で240ガロン(908リットル)、
労働述べ時間960時間。

そのおかげで毎年「レクィン」には平均15万5千人の来訪者があるということです。

わたしもその一人になりたかったのですが、残念です。

1945年4月に就役した時には、まだ対日戦争真っ只中だったので、
「レクィン」は、当時計画されていた九州侵攻作戦である

ダウンフォール作戦

に投入され、沿岸攻撃などで上陸支援を行うという予定をしていました。
そのためロケットランチャーなどの重武装を積んでいたということです。

他のこの時期に建造された多くの艦船と同じく、
彼女もまた日本と戦うために生まれたということなんですが、
幸いなことに就役して4ヶ月で戦争は終了しました。

彼女が終戦までの4ヶ月間なにをしていたかというと、
それは「退屈な任務」であるソナー学校の訓練艦でした。

その後レーダー哨戒潜水艦への転換が行われました。
このため、後方の魚雷発射管4門は取り除かれ、
5インチ艦砲と後部甲板の対空砲も同様に撤去されています。

ところで2代目艦長となったのはジョージ・L・ストリート三世中佐といいまして、

ストリート中佐は大戦中の功績で名誉勲章を受章していますが、
当ブログ「サブマリナーの肖像」シリーズで取り上げた人です。


終戦後は西大西洋での作戦活動を再開し、1947年には北極圏を横断しています。
(『アドルフに告ぐ』じゃないけどこのタイプでは寒かっただろうて)

1948年に船体分類記号が SSR-481 (レーダー哨戒潜水艦)となり、
レーダーピケット改修を施されました。

1953年には近代化オーバーホールが行われ、この近代化で
最後の対空砲は撤去されることになりました。

 

1959年全てのレーダー設備が撤去され、船体が流線型化、
「フリート・シュノーケル改修」が施されると同時に、船体番号は
「SS-481」 へと再変更され、退役まで通常の攻撃潜水艦として従事しました。

「レクゥイン」は1963年9月20日5,000回目の潜航を達成しています。

その後、1968年5月28日、行方不明となった原子力潜水艦「スコーピオン」
(USS Scorpion, SSN-589)
 の探索に参加したのち実験潜水艦となり、
不活性化、そして退役、海軍予備役兵の訓練艦となっていました。

そして最後の最後に IXSS-481 (雑役潜水艦)に艦種変更されています。
雑役潜水艦というのが何をするのかわからないのですが、文字通り
訓練から何からなんでもやっていたのかもしれません。

除籍後「レクィン」はフロリダ州タンパで観光名所にされていましたが、
援助および資金不足のため公開は取りやめられ、4年間桟橋で放置されていました。

1990年、ジョン・ヘインズ・三世上院議員(もちろんあのハインツの三代目)が
この潜水艦をカーネギー・サイエンス・センターで展示する上院議案を提出。

彼女は一旦タンパの造船所でリペアを行い、ルイジアナ州バトンルージュから
艀に乗ってミシシッピ川およびオハイオ川を遡上しピッツバーグにやってきました。

そしてカーネギー・サイエンス・センターに到着し、現在に至るまで
博物館の展示品として公開されています。

 

余談ですがヘインズ上院議員は、「レクィン」がピッツバーグにやってきた
その半年後、飛行機事故で現役のままわずか52歳の生涯を閉じました。

 

続く。

「世界のミイラ」と「ミニチュア鉄道&ヴィレッジ」〜カーネギーサイエンスセンター

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さて、せっかくなのでピッツバーグで見た
カーネギー・サイエンスセンターの他の展示についてもお話ししましょう。

潜水艦以外にわたしたちが見るつもりをしていたのが
現在の当博物館の特別展示、「マミーズ・オブ・ザ・ワールド」、
世界からミイラを集めてきてお見せしましょうというもの。

特別展示で部屋が別なので、このエキジビジョンを見るのには
通常の入館料に加えて専用の入館チケットを買わなくてはいけません。

博物館のメンバーであれば20ドルの入館料はただですが、
ビジターが特別展示を見ようとしたらコンボで一人32ドル必要です。

アメリカの博物館にしては異例の高さですが仕方ありません。

で、観ましたよ。『世界のミイラ』。

Mummies of the World

最初の部屋で、「見学の注意」みたいな短いビデオを見せられます。
そこでは、展示館内での写真は禁止であることや、展示されているミイラは
かつて生きていた人々だったので敬意を払って見学するように、
みたいなことを言っていました。

写真は撮れませんでしたが、内容はこんな感じです。

一番最後の「干し首ミイラ」は、写真ではわかりませんが、大きさは
わたしのこぶしくらい。
人間の頭がこんなに小さくなるものか、と驚愕でした。

「どうやってこんなにちいさくしたんだろうね」

とMKにいうと、

「そこに書いてあるよ」

読んだところ、頭部から頭蓋骨を抜き取ったあとは、茹でたり、
熱した石などを中に詰めたりして徐々に乾燥させるうちに
だんだん小さくなっていくということでしたが、なんでも
結構な数の干し首は土産物として制作されていたとかなんとか。

なお、ここに展示されているミイラの皆さんについては、
カーネギーサイエンスセンターの科学的チェックを受け、
いつ頃、何歳くらいで、という資料に残された情報以外に、
なんの病気で亡くなったかなども公開されています。

紹介ビデオに登場する「家族のミイラ」ですが、確か女性は
亡くなったのが38歳で、胃からピロリ菌が見つかった、
などと書かれていたような記憶があります。

いずれにせよ、一か所の展示でこれほどたくさんのミイラ
(しかも完璧な状態で)観たのは初めての経験でした。

 

さて、これでここにきた目的は果たしました。
実はここにくることがあまり乗り気でなかったMKに、

「潜水艦とミイラだけ見たらすぐに出てこよう」

とその気にさせるために言って連れてきたので、潜水艦の後は
すぐに博物館を出るつもりをしていたら、なんとMK、

「せっかく来たから他のところも観てみたい」

 

いつも出だしを渋る割には必ず現場に来てからこういうことになるんだな。
思うにこれは彼の超保守的で変化を嫌う性格から来ているようです。
足を踏み出すのに躊躇するけれどその場に来てみれば今度はそこから動かない的な。

まあわたしも高い入館料の分ちゃんと見学するのに異論はありません。

 

長いスロープになっている回廊式の階段を上っていくと、
サイエンスセンターの目玉常設展示らしい、こんなコーナーがありました。

「ミニチュア・レイルロード&ヴィレッジ」という大ジオラマです。
広い部屋全部がジオラマの街。

ピッツバーグやペンシルバニア近郊の実在の地域を表現していて、
50年以上、地元の人々に親しまれているアトラクションなのだそうです。

舞台はペンシルバニア州西部、1880年から1930年までの光景です。

1954年12月1日以来、毎年サンクスギビングの初日に公開され、
ホリデーアトラクションとして人気を博していましたが、ここ
カーネギーサイエンスセンターでは、年に2ヶ月のメンテナンス期間を除き、
一年中展示を見ることができます。

当時の町や村の様子なので、車もそのころの型ですし、
子供の遊びは木の枝に吊り下げたブランコだったりします。

ブランコはゆっくりと揺れています。

鉄道模型なのでこのように常時列車が走り回っています。
これはかつてペンシルベニアにあったシャロン製鉄所を再現したもの。
実際の製鉄所の設計図から起こして構築したそうです。

西部開拓時代っぽい服装に馬車。
よりリアルに近づけるために、ジオラマには最新のコンピュータシステムを投入し、
レイアウトの制御を行っています。
システムはNASAやディズニーワールドに制御モジュールを提供している
Opto22という会社が提供しました。

今回は荷物になるので、一眼レフではなくニコン1のV3に、
広角レンズだけつけて、それで全てを乗り切りました。

ISOを調整しないで撮ったら列車が物凄い勢いで疾走してます(笑)

広い会場を右回りに歩いていると、だんだん暗くなりました。
なんと、昼夜をタイマーで表現しているのです。

この照明システムを開発したのはハーバード大のある研究室で、
実際の太陽光の動きが表現されるようにコンピュータ制御しています。

画面が暗かったので露光を上げすぎて画像が荒れてしまいました。
手前にはウェスティングハウスの研究センターがあります。

シェンリーパークの中にジョージ・ウェスティングハウスの
若い頃の銅像が建っているように、彼はここピッツバーグに住んでいました。

そして川の向こうにあるケーブルカーをご覧ください。

サイエンスセンター上階から潜水艦「レクィン」を撮ったものですが、
川の向こう岸に・・・。

これがそのケーブルカーでございます。
「モノンガヒラ・インクライン」といい、1870年に開通した
全米最古の連続式ケーブルカーなんだそうです。
(多分世界最古はザルツブルグのあれだと思うけどどうでしょう)

なんでも昔、山上に住み着いたのがドイツ系移民だったため、彼らが
祖国にあったこの同じタイプのケーブルカーを作ったということです。

夏に滞在した時、この山頂のレストランがお勧め、という
情報をいただいたのですが、ついに行けずじまいでした。

秋の夕陽に照る山紅葉。

というわけで、ジオラマは場所によって春夏秋冬が変わり、
フランク・ロイド・ライトの「フォーリングウォーター」
(落水荘)は紅葉の中にたたずんでいます。

ピッツバーグのジオラマに川は欠かせませんが、このジオラマの自慢は
水が全て本物であること。
フォーリングウォーターに流れるベア川の水も本物です。

ピッツバーグ市民には見覚えのある建物や光景ばかりなのでしょう。
子供はもちろんですが、大人たちも目を輝かせて見学しています。

冬の景色の中に採石場がありました。
作業員がドラム缶の焚き火で暖まっています。

ジオラマを一周してくると、最後は冬の冠雪した山々が現れます。

なんでも、サイエンスセンターではサンクスギビングの2ヶ月前に
展示を閉鎖して、その期間にクリーニングはもちろんのこと、
毎年新しいモデルとシステムがインストールされることになっているのだとか。

しかし、このジオラマももとはといえば、一人の第一次世界大戦のベテランが
先天性心疾患の闘病の合間に自宅で始めたモデル作りがきっかけでした。

彼が毎年クリスマスに自宅を公開して見せていた評判のジオラマが、
場所を受け継いで最終的にここにやってきたのは20年前のことです。

さて、別のフロアに行くとそこはロボティクスコーナーでした。
ここではロボットアームとエアホッケーの対戦が楽しめます。

アームは無駄な動きを一切しないので、相手の打ったパックの動線が
シュートにつながらないと判断するとピクリとも動きません。

そして確実にヒットしてくるので、人間はまず勝てません。

このコーナーは「歴史的ロボットの殿堂」。

この妖艶なロボットの名前は「マリア」。
ドイツの名匠府フリッツ・ラング監督の1927年度作品
「メトロポリス」で描かれた未来の都市に存在するヒロインです。

超かっこ悪いこのロボットは「ゴート」(Gort)。
1951年の映画「地球が静止する日」The day the earth stood still
に登場したロボットです。

惑星からの訪問者、クラトゥという名前の人型エイリアンが連れている
8フィートのロボットというのがこのゴート。

The Day the Earth Stood Still (2/5) Movie CLIP - Gort Appears (1951) HD

この頃はアメリカでもこの程度のSFしか作れなかったんだなあ。

当ブログでも一度取り上げた、1999年のアニメ、
「ザ・アイアン・ジャイアント」。

わたしに言わせると手塚治虫の「鉄腕アトム」リスペクトのストーリーです。
地球を守るために我が身を犠牲にしたのがこのロボットでした。

説明は要りませんね。
C-3POもR2-D2も、1977年生まれで、もうすでに生まれてから
43年ということになります。

最新作にももちろん登場していますが、もし「スターウォーズ」が
40年前でなく2020年に初めて生まれていたら、登場するロボットは
こんなのではなくAI型美空ひばりみたいなのだったんでしょうか。

なんかそれ嫌だなあ。

ヤスデみたいなアームにバスケットボールを拾い上げ、えいやっと投げれば
必ずシュート成功、成功率100%です。

向こう側に人間が試すことができるバスケットゴールがありますが、
これは、自分でやってみて人間のダメさを思い知るためのもののようです。

次のコーナーはメディカルな分野。
内臓や神経の模型がありましたが、これらは、あのいわゆる
「人体の不思議展」と同じ手法(プラスティネーション)だと思われます。

ここでもやったことあるんですよね。人体の不思議展。
開催に際しては当センターのキュレーターが

「遺体の中国における取得方法について同義的な疑問がある」

として、辞表を提出するという騒ぎになったようです。

The Carnegie Science Center unveils Bodies
... The Exhibition ... but what are you seeing?

子供向け体験型科学的プレイゾーンでは、水を使うので
滑り止めのマットが敷かれていますが、こんな
バナナ型の注意喚起看板?があって和みました。

このあと昼食はフードコート型レストランに行ってみました。

メキシカン料理のカウンターにあったポキ丼。
見かけは美味しそうですが、如何せん味が辛すぎでした。

ブラウンライスは炊き方が堅かったし、ホワイトライスの方が良かったかな。

その日の晩ご飯がピッツバーグ最後なので、これもMKのリストにあった
「ポーチ」というちょっとハイセンスなレストランに行ってみました。

「ホールフーズ」などがある高所得者向けの住宅街の中心に
新しくできたショッピングモールの一角にあります。

MKのお目当てはこれ、スモークドウィングス・ブルーチーズソース添え。
ピリッと辛味がついていてウィングの肉付きもよく、最高です。

というわけで次の朝、ピッツバーグ空港に無事チェックインしました。

乗り換えのシカゴ・オヘア空港行きの小さな機に乗り込み、
1時間半寝るつもりで枕を首に巻いて窓に寄り掛かり、
うとうとしていたら、機内アナウンスがあって、皆がざわざわしています。

なんと、シカゴが天候不良で飛行機が飛ばせませんというのです。
ハブ空港なのにそんなことってある?と思ったのですが、
シカゴ空港の風の強さというのはかなりパイロット泣かせなんだとか。

そういえば昔シカゴに到着した便のパーサーが

「風が強くて大変でしたけど・・・これがシカゴです!」

とアナウンスしていた覚えがあるなあ。

待っていたら飛ぶんかいな、と外に出て時間を潰していたら、
いきなり電光掲示板に「キャンセル」の絶望的な文字が・・・!

カウンターに行って、

「国際線乗り継ぎがあるんですが・・・」

というと、

「お気の毒ですがシカゴには今日飛びません」

と本当に気の毒そうに言われてしまいました。

仕方がないので次の日の同時刻便とシカゴからの国際便を確保してもらい、
とりあえず今晩泊まるホテルをiPhoneから確保し、
そしてレンタカーのカウンターで一泊だけ車を借りました。
どちらにしても全てが手元で行える便利な時代で良かったです。

一泊だけ借りたこの車、キャディラックの新型SUV、エスカレードといいます。
怪我の功名というのか、おかげですごい車に乗れました。

何がすごいって、まず安定性が異様なくらいあって、
滑らかでかつ重厚な走り、まるで包み込まれるような居住性は驚きでした。

機能も充実していて、例えば右側の車線をタイヤが踏んだら、座席の右側が
ブルブルっと震えて「お尻に注意喚起」してくるのには笑いました。

こういうお節介は日本車の専売特許だと思っていましたが。

次の日、無事シカゴ空港に着いて、つい入ってしまったインチキジャパニーズ。
でもおいしかったです(くやし涙)とくに右側のアボカド巻き最高でした。

シカゴ空港は一つのコンコースがまっすぐ長いので、
待ち時間カートを引きながら三往復くらいテクテク歩いて、
Apple Watchに課されている1日のノルマ歩数を稼ぎました。

なぜかコンコースに陸軍と海軍のバナーがかかっています。

空港の所々に、ヴェテランリスペクトのプラークがあったり、
前にもご紹介したオヘアの紹介や、タスキーギ・エアメンのコーナーなど、
国防に携わる人たちに感謝する目的の展示がアメリカの空港には多々観られます。

帰りのシートは変更不可で、問答無用のプレミアムエコノミー。
でも隣が空いていたので超ラッキーでした。

そしてなかなかおいしかったトレイの食事。
というか、お皿を分けて出てくるだけで味は一緒なんだから、
量だけならこちらで十分って気はしました。

ここの問題はシートがフルフラットにならないことです。
無駄に神経質なわたしは真っ直ぐなところでないと熟睡できないのですが、
今回はそんなこともあろうかと、アメリカで買っておいたメラトニン10mgを
摂取して強制的に自分を眠らせる作戦を取りました。

そして帰ってきて1週間になるというのに、いまだに8時に眠くなり
4時に起きてしまうという健康的な時差ボケ生活を送っています。

 

終わり。

 

護衛駆逐艦USS「スレーター」博物館見学

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皆さんはカリフォルニアの州都がサンフランシスコでも
ロスアンジェルスでもなく、サクラメントであり、
ニューヨーク州はニューヨークではなくオルバニーであると
ご存知だったでしょうか。

どちらもアメリカ建国後の拠点だったり当時の最大都市ですが、
その後経済の動きに伴って人口移動が行われ、また
産業構造も変化することによって新たな大都市が形成されると
州都と有名な大都市が一致しないという現象が生まれます。

カリフォルニアの州都は何度か移転していますが、オルバニーは
ニューヨークに港が整備されてここが入植者の入り口となり、
その後ここが巨大都市に成長しても首都機能を維持し続けています。

ちなみにアメリカの州で州都と州最大都市が一致しているのは、

アリゾナ(フェニックス)アーカンソー(リトルロック)
コロラド(デンバー)ジョージア(アトランタ)
アイオワ(デモイン)インディアナ(インディアナポリス)

などで、アトランタ以外は州GDP低め?みたいなところが多い気がします。
州都以外にに大都市が存在する、というのは、あらたな経済活況が生じた、
という証明でもあるわけですからこの傾向も偶然ではないかもしれません。

もう一つついでにこのGDPがダントツに高いのはカリフォルニアで、
国別のランキングでも

1、アメリカ

2、中国

3、日本

4、ドイツ

5、カリフォルニア

と5位に食い込んでくるのですから驚きますね。
ちなみに国内ベスト5は2位以下テキサス、ニューヨーク、
フロリダ、イリノイ州となります。

そういえばイリノイ州の州都もシカゴではなくサクラメントです。

 

さて。

ニューヨークで空母「イントレピッド」が展示されていたのも、
陸軍士官学校ウェストポイントがあったのも、ビリー・ジョエルが
グレイハウンドで渡ったのも、サレンバーガー機長が着水したのも
ハドソン川という世界で誰も知らぬ者のない河川であるわけですが、
わたしは東部に滞在していた2年前、オルバニー市のハドソン川岸壁に
駆逐艦「USS スレーター」が公開されていることを知りました。

ダウンタウンからすこし離れたところにある住所をナビに入れ、
到着したのはこんな場所。

USS「スレーター」の姿が岸壁に見えます。
手前にあるスペースはどこに停めても無料の駐車場。

ちゃんとくる前にオープン時間と休館日でないか確かめてきました。
「スレーター」は週5日、10時から4時までだけのオープンです。

もしかして住んでるんじゃないかというくらい家っぽい船が。
クーラーの室外機といい、屋上のスペースといい、充実してます。

Dutch Apple II

で検索してみると、なんとこの船、貸し切りもできるクルーズ船で、
最大150人のクルーズパーティもできるとか。

ただの遊覧船として乗るなら、27ドルくらいでハドソン川周遊ができます。
物好きにもイベントカレンダーまでチェックしてしまったのですが、
11月から3月までは営業をしていない模様でした。

ニューヨークはとにかく冬寒く、この辺りも1月の最低気温で
マイナス10度くらいなり、ハドソン川が凍ることもあるそうです。

「スレーター」の見学も冬季は行っていません。

「オランダリンゴ」(ダッチアップル)の上流側ごく近くに
USS「スレーター」は係留展示されています。(ここ伏線)

近づいてみました。
起工が1943年3月、44年2月進水式、2ヶ月後の同年5月就役、
と戦争に投入するために超スピードで建造された駆逐艦で、
もう76歳になろうとしているだけあって、艦体は
痩せ馬仕様というのではなく、経年劣化による凸凹だらけ。

11月には早々に閉ざされてしまうハドソンリバーですが、このときは
まだ8月のシーズン真っ最中で、ごらんのように
自家用モーターボートで楽しむ人たちの姿もありました。

ちなみに船首に乗っているのは年配の女性です。

第二次世界大戦中に、アメリカはそれこそ駆逐艦を
時間単位で建造していたわけですが、この「スレーター」は
そのうちのDE、「キャノン」級護衛駆逐艦72隻のうち一つです。

今まで駆逐艦は「ギアリング」級の「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」
を見学したことがありましたが、遠目にも全く佇まいが違う模様。

だいたい艦体の左舷に二本立っている煙突みたいな構造物は何?

ちょっと遠くで正確にはわかりませんが、40ミリ対空砲?
ナンバーがステンシルされたテッパチもちゃんとあります。

この頃の駆逐艦特有の爆雷( Deapth Charge)ラックです。
傾斜になっていてゴロゴロ転がって落ちるという省エネ投下機構。

50口径3インチ砲、アンタイ-エアクラフト・ガン(対空砲)。
この対空砲は日本近海で突入してくる特攻機を攻撃した経歴があります。

デッキの上にはまるで海軍軍人のような格好をした
ボランティアが始業前の点検作業を行っている様子が見えました。

これは何だろうとまじまじ見てしまったのですが、
銃が取り付けられていない銃座なのかな?

何年も人がここに立ち入ったりした様子はなく、
拡大すると照準などにも蜘蛛の巣が張っていました。

当時の救命ボートはそのものが甲板上階に固定してあって、
いざとなればこれを解いて海に落としたようです。
一刻を争う際にこんなにたくさんの留め具を外していて間に合うのか。

つい最近見た映画「眼下の敵」の戦闘シーンで、
駆逐艦艦長のロバート・ミッチャムが総員退艦を命じたあと、
このボートが海に落とされて海に飛び込んだ乗員が乗り込んでいました。

いたるところに対空砲。
40ミリボフォースMK51の二連装マウントです。

信号旗の読める方がいたら右はわかりそうですね。
多分片方は「スレーター」を表しているのだと思いますが。

護衛駆逐艦は、第二次世界大戦開始時に大西洋における
対潜水艦戦への必要性から大量に建造されました。
「スレーター」はこの時期建造された563隻の駆逐艦の一つです。

対潜戦に加え、対空兵器と当時最新の電子機器が搭載され、
さらに高速で長い航続距離を持つ新型駆逐艦が
迅速に建造できるような構造設計によって次々に生み出されていきます。

護衛駆逐艦は、特に危険であった補給船などの船団護衛、そして
沿岸基地攻撃、機動部隊のレーダーピケット艦などの役目を果たしました。

 

「スレーター」は1944年5月に就役した後は大西洋で船団護衛を、
5月8日にヨーロッパ戦線で連合国が勝利した後は6月にパナマ運河を経て
太平洋での船団護衛を命じられました。

終戦の日、「スレーター」は特攻機の攻撃を受けているのですが、
危うく難を逃れ、戦後はフィリピンで任務を続けて1946年に帰国しました。

 

そのわずか1年後、1947年の5月には除籍となっていますから、
まさに戦時用にとりあえず調達された駆逐艦という位置付けだったのです。

仕切り柵に取り付けられた「スレーター」のシルエット。
「スレーター」がここに展示されるようになったのは1997年からです。

たまたまそのような話(スレーターを展示艦にする)が許可になったとき、
「スレーター」は戦後ギリシア海軍に譲渡されてその任務を終え、
クレタ島で廃棄処分になるのを待っているところでした。

その後ギリシャから大西洋を曳航されてニューヨークに到着し、
準備が整うまでの4年間「イントレピッド」の隣に係留されていたそうです。

これを見て、先ほど「銃が取り付けられていない銃座」と
言い切ってしまったところに

「GUN DIRECTOR 」

と書かれているのに気がついてしまいました。
銃手に敵機の方向を指示するための機器だったようですね。

またこれによると、ゴム筏ではないボートを「ホエールボート」と称しています。

この図とともにあった解説には、護衛駆逐艦が当初太平洋で
ドイツ軍のUボートから輸送船団を守るために投入された経緯から、
シップネームの由来、戦争中の任務、戦後から現在に至るまでが
実に詳しく書いてありました。

まだ博物館はオープンしていませんでしたが、この頃になると
何人かの見学希望らしい人たちが集まってきていました。

そしてゲストハウスのようなところからブルーのダンガリーシャツに
ジーンズ、黒のベルトというまるで昔の水兵のような格好の人が、
艦尾に星条旗を揚げ始めました。

すでに海軍籍にはないので、敬礼もありませんしラッパもなしです。
アメリカの博物艦は、海軍籍になくとも艦尾に旗をあげることが許されているようです。

海軍旗と国旗が同じであるからこそできるということですね。
かつて「スレーター」の艦尾に揚っていたのは海軍旗でしたが、
今ボランティアの手によって掲揚されているのは国旗というわけです。

国旗を揚げ終わると、ボランティアはスタスタと戻っていきました。

星条旗がハドソン川沿いの緑に映えて「スレーター」の艦尾に美しく翻りました。

ところで、今回「スレーター」について調べていたところ、わたしが
この見学をしてから1年後、つまり今年の9月10日に、先ほどご紹介した
クルーズ船「ダッチ・アップル」衝突されていたことがわかりました(笑)

なんでも原因は「ダッチ・アップル」のエンジントラブルだったそうですが、
そりゃ「スレーター」は動けないんだからぶつかった方が悪いに決まってるがな。

幸い、大事にはならならず「スレーター」も「ダッチアップル」も
営業を続けていたようでなによりです。

もう1日後だったらアメリカ人にとって洒落にならない日だったので、
そういう意味でもいらない話題にならずにすんだといえるかもしれません。

入館料は大人9ドルと激安ですが、ちょうどこのとき、
艦内ツァーが行われるということを聞き、参加することにしました。

当ブログではこれからしばらくUSS「スレーター」と駆逐艦について
お話ししていこうと思います。

 

続く。

 

「国内でもっとも洗練された修復」〜USS「スレーター」

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ニューヨーク州都オルバニーに係留展示されている、
駆逐艦「スレーター」を見学することになりました。

ちょうど艦内ツァーが始まることを知り、売店を兼ねた
ゲストハウスに立ち寄ってみることにします。

スレーターのシルエットとネーム、エンブレムが入ったオリジナルシャツ、
オリジナルキャップもあります。

唐突に自慢ですが、わたしは先日ある自衛隊基地に見学に行った時
お土産にMOCSのキャップをいただきました。
鍔にちゃんと将官用飾りがついているのは大変嬉しいのですが、
帽子のサイドに(普通配置が書いてあることが多い)バッチリ
フルネームが漢字で刺繍されていて、使用する場所を選ぶのが問題です。

アメリカ滞在時専用にしようかな・・。

ワッペンやピンバッジなど、自衛隊内売店と同じような感じ。

1940年代に作成された「正しい水兵帽のかぶりかた」。
「スクエア・ユア・ハット!」は「きちんとかぶりましょう!」みたいな意味かな。

まわりは水兵さんの帽子の被り方あるあるなんですが、
これにつけられたキャプションがスラング多め。
しかし頑張って知識を総動員しいい加減にさっくりと訳していきます。

左上から時計回りに:

「呪いをかけられて縮んだんだね」

「何も聞きたくない」

「首の細すぎるタイプ(帽子をかぶるのに時間かかりそう)」

「洗ってだめにしてしまいましたタイプ」

「これはうざい。(Salty!)前見えてんのか?」(右上角)

「ポール・リビア(独立戦争の英雄)スタイル」

「前後水平(グレイビーボウル)スタイル」

「右舷に傾いてる(特に丈夫な耳を持っていれば可)

 「ここになーんにも考えてない奴がいます」(右下角)   「カレッジ・ジョー、あるいはスポーツモデル風」   「フローアフト(後流)スタイル、時々巡洋艦左舷スタイル」   (字が欠けて読めず)(左下角)   「翼みたい」

「ライフガードのかぶりかた。鼻の日焼け防止によい」

「小隊長、あるいはセンター陥没タイプ」

絵がいまいちなのでよくわかりませんが、水兵さんなら
これをみてあるあるにウケてしまうのかもしれません。

 

フェーズ11993−1997

さて、開始を待つために外に出ると、そこには「スレーター」が
ギリシャから廃棄処分を免れてアメリカに帰国し、
展示艦になるまでが写真で紹介されていました。

左)

ギリシャで「アエトス01」として就役していた「スレーター」が
曳航されてニューヨークに到着したところ

中)

凸凹の艦腹になった「スレーター」の塗装の用意が始まる

右)

飛行ブリッジから天井が取り外されている

USS「スレーター」がギリシャからニューヨークの「イントレピッド」
博物館横に帰ってきたのは1993年8月27日でした。

最初の到達目標は、まず艦の浸食具合などを調べ計画を立てることです。
修復の目標は彼女を1945年6月1日の姿に戻すこと。

当時の内装や設備などをしらべ、ギリシャ海軍によって改装されていた
内部は、すべてボランティアによってかつての姿に近いものに戻されました。

修復にかかる費用は、護衛駆逐艦水兵協会が集めた寄付で捻出し、
ボランティアはコネチカットとニュージャージー州の住人から募集しました。

作業はまずギリシャ海軍の仕様を取り除くことから始まり、
この間、艦内の電気システムと空気圧力システム交換するために
飛行ブリッジの屋根を外すという大工事を行いました。
艦体の全ての部分の塗装を行ったことで費用は大変嵩みました。

 

フェーズ2 1997年から2001年まで

右:ジェネレーター(発電機)ビフォー&アフター

左:飛行ブリッジビフォー&アフター

左:兵員用洗面所ビフォー&アフター

右:CICビフォー&アフター

隣の「イントレピッド」博物館内に置かれた執行部では、
「スレーター」の次の「定係港」探しが行われ、その結果、
1997年10月27日、彼女はハドソン川を遡ってオルバニーまで運ばれました。

ここで待ち構えていたあたららしいボランティアグループは、
マンハッタンで行われていた作業を引継ぎ、次の仕事に移りました。

オルバニーに着いたからには、一刻も早くオープンして
客を集めることが次の目標です。

修復のフィロソフィーは、その安全、そして清潔の許容基準を念頭に置き、
なによりも「卓越性」(=いい仕事)を優先させることでした。

 

「スレーター」が現役時代備えていたすべての機器や細々したものを
備えた区画を完全に復元する目標は、段階的に実現されていきました。

まず最初のステップは各コンパートメントにすでに存在するものを記録すること。
それからなにが必要かを調べる作業に進みました。

続いての作業プロセスは、ギリシャ海軍時代の改修跡をを削除、つまり
古い塗料を落とし、セラミックタイルの分厚い層と糊をはがし、
彼らが付け加えたスペースを取り壊すことです。

その後、第二次世界大戦時代に実際に使われていた
ブラケットと棚が手に入ったことで金属を加工する仕事は完成しました。

電気の配管関係はコード関係も全てカスタムメイドされ、照明器具は
第二次世界大戦時代の「オーセンティックな」パーツが取り寄せられました。

各コンパートメントはスプレーによる塗装が施され、
新しく設置された機器などはすべて清潔に修復されることを優先しました。

そして最後にデッキが修繕&塗装されて一般に公開されたのです。

フェーズ3 オルバニー 2002〜現在

左から:

ーホエールボートのモーター修理が行われている

ーホエールボートの修理完了

ー海水の浸食で鍍金の4分の1が剥がれた「スレーター」艦腹修理前

 

艦体の修理は全ての段階において骨身を惜しまぬ努力が払われ、
パーツの調達、設置、装備の改装などは、ボランティアによって
細部に至るまで敬意を払って行われました。

特に「スレーター」のホエールボートは新品のようになりましたが、
これは当時の護衛駆逐艦が運用した26,000ほどの同タイプで
現存する最後のボートとなりました。

2007年に行われた最後の工程は、SL海面探索レーダーと
CICのオペレーターコンソールにインストールする作業と、
マストにアンテナを設置する作業でした。

爆雷を保管するラックと、それを海に落とすための
爆雷プロジェクタのローラーローダーは、ギリシャ海軍が
取り外してしまっていたので、2008年になってメンバーはそれを探す仕事、
そして艦尾の機械室の修復に取り掛かりました。

2010年には艦首側の乗員用トイレ(ヘッド)、そしてデッキの板張り替え、
オリジナルのTBL通信トランスミッターを備えた通信室が完成します。

これらのプロセスによって、「スレーター」は国内でも数少ない
完璧な状態に修復された歴史的軍艦のひとつとなったのです。

それにとどまらず、関係者は決して終わることのないメインテナンス作業を
続け、完璧な状態を常に目指しているということです。

 

修復開始当初の問題は、「スレーター」の海面にある艦体部分の修復で
ドライドックに上げるためにファンドを立ち上げる必要があることでした。

そのプロジェクトは300万ドルの予算を必要としましたが、
しかし、従来の入館料や寄付などによる収入ベースではそれを見込めず、
関係者としては頭の痛いところだったのです。

艦船の海面下の修復には艦体をドライドックに上げる必要がありますが、
やはり問題となったのは一にも二にも資金です。

「スレーター」が最後にドライドックに入ったのは1993年、
ギリシャ海軍籍にあったときで、それから20年以上経っています。

政府の支援が全く見込めない中、寄付だけで資金集めを行い、
「護衛駆逐艦歴史博物館」は なんとか1400万ドルを得て、
スタテン島のキャデルドックで修復を行いました。

船殻は圧力洗浄され、耐腐食剤が塗布され、海面下部分も新しく塗り直されました。
艦体の塗装には新しいパターンが採用されました。

作業はオルバニーに移転してからもさらに行われ、
タンクの洗浄、ビルジのメインテナンスまで完成し、完璧な状態になりました。

新しいカモフラージュペイントは、完成の日に向けて施されました。
このペイントは地形と同じようなパターンで、目立つようですが、案外
艦体を背景に隠し見え難くする効果があり、艦体の大きさが視認しにくいそうです。
つまりそのことによって魚雷の狙いを外しやすくするという狙いがあるんですね。

 

とにかく、このこだわり抜いた修復の全ては、かかわった人たちの
熱意と完璧なものを作り上げたいという執念のなせるわざだったといえましょう。

 

さて、というところがわかったところで、見学ツァーのスタートです。
心して見せていただきましょう。

 

続く。

 


ダズル・カモフラージュと神風特攻〜USS「スレーター」博物館

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さて、朝一番にニューヨーク州オルバニーのハドソン川沿いに
係留されている駆逐艦「スレーター」の見学にやってきました。

入場料を支払うと、艦内ツァーの第一陣が出発するまでその辺で待て、
といわれるので、説明の看板を見たりしながら時間を潰します。

平日の朝でしたが、このあたりは観光客もそこそこ多いのか、
二十人以上が待機しています。
見学者はわたしたち二人以外は全員が中年から初老の白人でした。

第二次世界大戦時に大量生産された無名の駆逐艦などに興味を持つのは、
自分の身内がなんらかの形で第二次世界大戦に参加していたような層か、
あるいはわたしたちのようなモノ好きな日本人くらいかもしれません。

時間まで皆、わたしが前回のシリーズで紹介した「スレーター」
展示までの経緯についての掲示板などを見て過ごします。

わたしは岸壁からもう一度全体の写真を撮っておくことにしました。
「スレーター」艦体は特殊な迷彩柄にペイントされています。

このペイントは実際に「スレーター」がアメリカ海軍の軍籍にあった
1945年当時の仕様をそのまま再現してあります。

「ダズル・カモフラージュ」というこの迷彩は濃淡をつけた色のパターンで、
敵の船、そして特に飛行機にとって艦種が特定しにくくなっており、
移動中もその方向がわかりにくいという効果があるといわれていました。

魚雷などを発射する時、照準は敵艦船までの距離を測ることで決定しますが、
それに必要な船の大きさ、速度、そして現在の向いている方向は
それらの計算に必要な要素となります。

そのとき、艦影を小さく勘違いしたり、艦首の角度を見誤ると
正しい情報が得られなくなり、的中率は極端に低くなる、という理屈です。

しかしながら、1945年以降は採用されなくなりました。
その理由は、この塗装は雷撃の目標はそらすことができても、
日本軍の神風特攻隊のパイロットたちの目はごまかせなかったからです。

むしろ肉眼では見つけることが容易であったため、この塗装は
かえって彼らの目標にされやすいらしいということがわかってからは、
アメリカ海軍のほとんどの艦船はシンプルな塗装へ回帰していったのです。

いわゆる一般的にいうところの「甲板」のことを
英語では「メインデック(デッキ)」といい、上部構造物のことを
「スーパーストラクチャー」といいます。

艦首部分は、メインデッキ、スーパーストラクチャー、そして
スーパーストラクチャーの「二階」にあたる部分の「ブリッジ」、
最上階の「フライングブリッジ」、全てに必ず武器が装備されています。

これはスーパーストラクチャー前方に設置された

3"/50 Caliber Gun(Mk22)50インチ口径3インチ砲

の砲身部分を斜め後ろから見たところです。

スーパーストラクチャー、上部構造物の両舷を防護する

20mm Anti-Aircraft Machine Gun(20ミリ対空機関砲)

は、スイス・エリコン社の対空砲です。

対空機関砲はこの階の前方に2基、中央に4基設置されて
まるでハリネズミのように航空攻撃から最も敵から防護したい
重要な部分(『スレーター』はここにCICがある)を守っています。

舫で吊り下げられているこの物体は、縄梯子状のラッタルだと思われます。

上部構造物を守っているのは20ミリ機関砲だけではありません。
後方に向けてアイランドのようなところに設置されているのは 

Twin 40 mm Gun with MK51(40ミリボフォース機関砲と射撃指揮装置)

Mk.51 射撃指揮装置(Mark 51 Fire Control System, Mk.51 FCS)というのは、
アメリカ海軍の艦砲用射撃指揮装置(GFCS)です。

高速で接近してくる航空機に対して近距離で即応できるシステムで、
移動目標を目視照準・追尾すれば、自艦と目標との相対的な角速度変化を検出し、
さらに見越し角を自動算出することができるというスグレモノです。

一人で操作する比較的お手軽なFCSであり、このボフォース 40mm機関砲などと
ともに使用されていました。

高圧のため危険というマークのついたこの魚雷のようなものは
なんだかわかりませんでした。
おそらく甲板の武器に電源を供給するものか電圧システムだと思います。

上部構造物の最高層にあるのがフライングブリッジです。
カバーがしてあるこれはレンジファインダー、光学式距離計、
つまり測距儀だと思われます。
測距儀の設置されている場所をレンジファインダー・プラットフォームといいます。

岸壁レベルから撮ったので一部しか見えませんが、フライングブリッジ。
ここには航空観測台(スカイルックアウト)と海面の観測台があります。

スカイルックアウト・ステーションは遮るものが全く無く、
空を監視することができるように配置されています。 

レーダーが出現する前は、見張りが重要な役割を果たしていました。
これらの見張り任務のために、第二次世界大戦中、双眼鏡、
ベアリングダイヤル、および標高インジケーター付きの椅子が開発されました。

この椅子は艦体の四方にに1つずつ、左舷に2つ、右舷に2つ設置され、
艦内電話で甲板士官とCICにに連絡を取ることができます。

艦が海上にあるときは一日24時間、かならずこれらのステーションは
見張りが立つことになっていました。

こちらは岸壁に展示してあったコーナー。
よくわかりませんが通信機器であることは確かです。

駆逐艦の乗員が使用していたヘルメットはとにかく重たそうです。
航空攻撃から頭を守るための分厚さですが、20ミリが命中したら
こんなものを被っていたところでなんの役にも立たないでしょう。

魚雷か爆雷か・・・。

いずれにしてもこれらは博物館を立ち上げたメンバーが、アメリカ中から
探し出してきたもので、「スレーター」の装備ではありません。

逸失してしまってありませんが、正しい姿は両腕の上に赤と緑のボール
(鉄の補正球)を乗せているナビゲーション機器です。

昔「マサチューセッツ」の艦内でみたこのジャイロコンパスの名称を
英語で「ビナクル」(Binnacle )というのである、と説明したのですが、
日本では全く受け入れられていない名称のようで、いまだに「ビナクル」で
検索しても日本語インターネッツにはわたしの記事しか出てきません(笑)

そもそもわたしはこの「ケルビンのボール」を両手に持ったジャイロの
日本名を全く知らないのでそうとしか言いようがないのですが、
日本の船舶関係者の方はこれをなんと呼んでいるのでしょうか。

普通に「ジャイロコンパス」?

ヘルムスマン(舵輪)の横に装着してあるのもジャイロレピータでしょう。
「スレーター」にはフライングブリッジにジャイロレピータを装備していますが、
これをここでは「パルラス」(Pelorus )と呼称しています。

沿岸近くで操艦するときに周囲に存在する艦船の位置を知るのに
この「パルラス」は重要な役目を果たします。

探照灯も売店の外に展示してあります。
「スレーター」のためにかき集めてきたものの、搭載しなかったようです。
設置してあるのを見るより、このようにその辺に置いてあると
こんなに大きなものだったんだ、と驚くのが探照灯です。

時間になり、その辺で時間を潰していた我々が入るように言われたのは
ここ・・・・「Head」(海軍用語でヘッド=トイレ)ではなく、

その隣のこちらの部屋でした。
わざわざブリーフィング・ルームと銘打っていますが、トイレの横です。

ここでツァー参加者一同は「スレーター」の歴史などについてレクチャーを受けます。

部屋には「スレーター」の元乗員のらしい写真が飾ってありました。

用意されたビデオを見せてもらい、ちょっとした解説員の説明が終わると、
いよいよ艦内に入っていくことになります。

落下防止のネットが下に張られたラッタルを渡っていくわけですね。

駆逐艦の煙突は一本。英語では煙突のことをStack(スタック)といいます。
「積み重ねる」という意味ですが、なぜか汽車や船の一本煙突に限り
この名称を使うようです。

スタックの横には20ミリ機関銃のマウントが二つ並んでいますが、
マウントの高さを変えて干渉し合わないような設計になっています。

どこで撮ったのか全く思い出せない写真(笑)

説明を見る限りコンパスの使用法が書いてあります。
制作した会社の名前が「アナコンダ・ワイヤ&ケーブル会社」・・・。

調べたところ、この会社は第二次世界大戦中はミサイルケーブルを
生産しており、戦後はプラスチックやゴムの絶縁素材を使い、
ワイヤーを製造するというように転換を図ったもののの、
1982年に工場は閉鎖になったということでした。

ラッタルは艦体中央部分と艦尾にもかけられていますが、
艦尾の方は関係者専用らしくセーフティネットも張ってありません。

「全米で最も洗練された改装」と保存と博物館展示に関わった関係者が
胸を張るところの「スレーター」は、どこをみてもいい加減なところ、
放置され傷んだようなところが全く見当たりません。

ボランティアの手によって毎日手入れがされている様子が見て取れます。

下を覗き込むと、彼らのご自慢でもある現存する「最後のホエールボート」が、
ピカピカの状態で係留してありました。
単なる飾りではなく、外壁の清掃などに日常的に使われています。

さて、いよいよ我々のツァーが艦内に入っていくことになりました。



ラッタルを渡ったところにストレッチャーが掛けてあります。
展示というより昔からここにあるのでしょう。

この貫禄のあるおじさんがわたしたちのツァーの解説者、
ボランティアのリチャード・ウォラースさん。

この博物館が、ナショナル・ヒストリック・ランドマークであること、
そして、保存された歴史的な艦船としては、アメリカどころか
世界でも最も保存状態のよい見本であるということを
高らかに宣言して、いよいよツァーを開始しました。

 

続く。

 

 

ギャレーとヘッジホッグ〜USS 「スレーター」

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ニューヨークのハドソン川河岸に係留展示されている博物艦、
駆逐艦「スレーター」。

長々と外から見た様子について描写してきましたが、ようやく
見学ツァーの一員として乗艦するときがやってきました。

ラッタルを渡ってから一行は舷門のところでこの艦の歴史的な価値、
多大な努力によって完璧な姿で保存されていることなど説明されます。

そのあと左舷側の舷側に沿ってコースを進んでいくのですが、
すぐにこのような初めて見るコンパートメントを発見しました。

「エスケープハッチ」(脱出用ハッチ)というのが正式名称です。

非常用のハッチといいながら、上部に滑車と鎖があり、ここから
ものを出し入れしていたらしいことがわかります。
内部で火災が起きた時にはここからホースを入れることができるように
消火栓も近くに設置されています。

上部構造物の壁にはアプリケーターがセットされています。
この部分、青いですが、ダズル・カモフラージュの濃部分です。

ツァーに同行していた一人の男性のTシャツが気になって仕方ありません(笑)

「YAMATOって何〜!」

さりげなく後ろに忍び寄り、写真を撮っておきました。
どうも「倭(やまと)」という和太鼓グループがこの年アメリカで
ツァーを行い、この男性はそのコンサートでTシャツを購入したようです。

「人の輪の真ん中に太鼓」

という日本語が書かれていました。

最初に見学したのはギャレーです。
メスドックという水兵用の食堂の一階のデッキにあり、ここで
212名の下士官兵の食事を用意しました。

この時の説明によると、ギャレーというのは平時一番危険な場所だそうです。
波高が高い時、あるいはヘビーな横揺れに見舞われたりすると、
熱湯でもあるスープ類が鍋からこぼれたり、熱された鍋の蓋が飛んで
調理人を直撃することもあるからです。

スープやシチュー類を煮込むために三つの巨大な鍋があり、
これは「コッパーズ」(Coppers)と呼ばれていました。
見たところ女性の後ろの大きな鍋は銅製ではありませんが、
慣例的にそう呼ばれていただけなのかもしれません。

このタイプはアメリカ海軍のスタンダードで皆同じ形をしています。
鍋は低圧の蒸気を使って料理を行う仕組みですが、
この蒸気は艦を動かす補助ボイラーから取られていました。

食材はメスデッキの階(階下)の倉庫に収納されており、そこへは
前方の乗員の洗面所内にあるハッチでいくしかありませんし、
野菜などの倉庫は逆に一階上の上部構造物デッキにあり、
パンの棚は廊下にあると言った具合に散らばっていました。

駆逐艦は小さいのでこれは仕方がありません。

食事の時間になると、重い鍋や食べ物を手で持った人が
前方の梯子を使ってそれらを毎回階下に手で下ろしました。

本日のメニューは

「ドライビーフのクリーム和え」

まず「ドライビーフ」というのが既に謎ですが、ローストビーフとは
全く別物だろうし、まさかビーフジャーキーのことじゃないよね?

まさか高級ステーキ店で出てくる「ドライドエイジドビーフ」のことかしら。

クリームというのは、ミルクを温めてそれに脂と小麦粉をぶちこみ、
ねるねるねるねしてそれに胡椒をぶちこんだもの。
うーん、ハーブを使えとは言わんが、味付けに胡椒だけってどうなんだろう。

左に半分見えているのがオーブン。
オーブンではいつもパンを焼いていて、ことに夜になると
切れ端などをお目当ての乗員たちの人気のスポットでした。

粉を混ぜる「ドウミキサー」はホバートのA-200モデルです。

ギャレーは物資が持ち込まれ、海の状態がそんなひどくない限り、
乗組員に十分な栄養を与え続けることができました。

しかし、駆逐艦乗組員の多くは、北大西洋の船団勤務中、
戦闘ステーションに貼り付いているか、荒天でキッチンの火が使えず、
コーヒーとサンドイッチだけですませていた記憶しかないそうです(涙)

 

説明が終わり、ギャレーを出るとき、わたしは解説の人に

「スレーターにはアイスクリームメーカーはあったんですか」

と聞いてみました。
すると彼は、その質問待ってました、という調子で、
わたしというより見学者全員に聞かせるように、

「スレーターにはアイスクリームメーカーはありませんでしたが、
第二次世界大戦中の軍艦、とくに大きな艦はほとんどが
アイスクリームが食べられるようになっていました。
潜水艦はキッチンが小さいですが、任務がハードなこともあって
アイスクリームメーカーを持っていることが多かったのです」

と説明しました。
ここで説明したこともありますが、駆逐艦の場合、護衛する戦艦や空母に
ゲダンクと呼ばれるアイスクリームショップがあるので、たとえば
海に落ちた飛行機の搭乗員を助けたら、その搭乗員の体重と同じだけ
駆逐艦に対しアイスクリームが振舞われるという風に、
ご褒美兼『餌』にされていたという報告もあります。

そんなアメリカ人のアイスクリーム愛をかつてここでご紹介したことも。

米海軍アイスクリーム事情〜ハルゼー提督とアイスクリーム艦

ギャレーを出てそのまま艦首に向かって歩いていくと、
艦首旗を掲揚する

Bow Jackstaff

部分に近づきます。
ここには錨鎖などがあるため、立ち入ることはできません。

現在ここに掲揚されている旗はユニオンジャックです。
伝統的に、アメリカ海軍の軍艦が港にいるときに揚げられます。

ユニオンジャックとともに、かつての「スレーター」艦首にて。

「ミッドウェイ」の内部見学で、空母ではトレーニングジムにもなっている
広い「フォクスル」=艦首楼(Fo'c's' le=Forecastle)
をご紹介しましたが、駆逐艦の場合はこの部分がフォクスルということになります。

ところで、このフォクスル=Forecastleですが、なぜこう呼ぶかというと、
帆船時代の名称の名残です。

その時代、船首部分は最初に敵の船と交戦するための城、つまり
「前方の城」だったことに由来します。

ここには通常錨鎖とそれを止めるペリカンフック、チェーンストッパーがあり、
アンカーを上げ下げするために使用される電気駆動式の油圧ホイスト、
アンカーウィンドラス(巻き上げ機)があります。

今はどうかわかりませんが、「スレーター」では一度に
一つのアンカーしか処理することができなかったので、
二つ目のアンカーを使用する場合には、最初のアンカーを固定してから
切り替える必要がありました。

フォクスルの後方には弓形の囲いがあります。
「Gun No.1」の周りを取り囲むようになっていて、
エッジには銃座から見ての角度が10度ごとに刻まれており、
配置につく前にかぶる鉄帽がフェンスに人数分掛かっています。

ここには3"/50 口径対空銃が設置されています。
駆逐艦の主砲としては5”/38 口径の銃を装備することになっていたのですが、
生産不足のため、この台座タイプが主砲として、
最初の駆逐艦4クラスに採用されました。

そのうち生産が需要に間に合うようになり、最後の「ラドロウ」級、
「ジョン・C・バトラー」級に5”/38 口径が搭載されるようになりました。

装填は手動で行い、昇降ギアによって銃弾は運ばれます。
ここでは実際に使用していた弾を見せてもらえます。

俯角のリミットは13度、仰角は85度。

「上部構造物に射線が当たらないように設計されています」

どんなに夢中になって撃ちまくってもこの部分には絶対に当たらないので安心ですね。

「スレーター」ではより正確な銃撃のために、ディレクターコントロール
(射撃制装置)を使用していました

「注意:カバーの取り外しの際にはシフトレバーを元の位置に戻すこと」

と書いてあります。

ディレクターコントロールから送られてくる情報通りに
ここを覗きながら角度を調節するためのスコープだと思います。

「ちょっと持ってみますか」

言われて一人の男性が持たされ、

「重いなこりゃあ」

男性の腕の筋肉が重さで緊張しているのに注意。

#1ガンの後ろには、
MK 10 ヘッジホッグプロジェクターが設置されています。

ヘッジホッグは、先日江田島の第一術科学校に展示されていたのを
ご紹介ついでに説明もさせていただきましたが、繰り返しておくと、
この「ハリネズミ」は、爆雷攻撃の欠点を克服するために、
イギリスで開発された攻撃方法です。

 

第二次世界大戦時、ソナーは船の前方でしかスキャンできなかったため、
潜水艦がいると分かっていてもソナーに引っかからなければ、
爆雷は当てずっぽうに落とすしかなく、攻撃の精度が下がりました。

もっとまずいことは、一度爆雷攻撃を行うと、ノイズと乱流が発生するため、
ソナーがそのあと30分間は使うことができなくなるのです。

この点、艦首近くに設置されたヘッジホッグは、潜水艦をソナーで捉えている
(つまり艦の前方にいることがわかっている)とき、そこに向かって
攻撃を行うということを可能とします。

ヘッジホッグとは、24門の迫撃砲からなり、艦の前方
250メートル先をミサイルで攻撃するものです。
潜水艦の潜むエリアに向けて、迫撃砲は円形、または楕円形をなして
落下していき、潜水艦を取り囲むように海中に落ちてこれを殲滅します。

ヘッジホッグ発射後、海面で水しぶきを上げるミサイル。

こちらは戦後のヘッジホッグの発射跡。

各ミサイルには35ポンドのトーペックス(Torpex、英国で開発された
魚雷用の爆薬でTorpedo Explosiveの略語)あるいはTNT爆薬が含まれます。

ミサイルの推進力はロケット式ではなく、無煙パウダーのインパルスチャージです。

ミサイルは先端に接触性のヒューズが付けられており、潜水艦などの
水面下の物体に信管が当たった時に飲み爆発する仕組みでした。

ヘッジホッグには後方に蓋のようなものがありますが・・・・・、

これがそのヘッジホッグの裏側。
コントロール装置一式があり、これ全体がシールドにもなっています。

そしてこれがヘッジホッグのクレイドル、つまり設置されている台。

第二次世界大戦中は護衛駆逐艦とイギリス海軍のフリゲート艦だけが
これを装備していました。

第二次世界大戦中、ヘッジホッグの攻撃を受けて
生き延びた潜水艦はないと言われます。

 

続く。

 

オフィサーズ・キャビンとワードルーム〜USS「スレーター」

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USS「スレーター」の艦内ツァーは、まずメインデッキ階の
前方の第一銃座とその後ろのヘッジホッグを見学し、
次のセクションに移動が始まりました。

非常時に鳴り響いたであろうベル。

第一銃座のフェンスにはこのような識別表が貼ってありました。
一段目左上から、

戦闘機

P-38「ライトニング」P-29「エアコブラ」
P-40「ウォーホーク」P-47「サンダーボルト」

二段目

戦闘機 P-51「マスタング」

軽爆撃機 A-20「ハヴォック」あるいは「ボストン」

重爆撃機 B-17「フライングフォートレス」

重爆撃機、輸送機 B-24「リベレーター」

三段目

中型爆撃機 B-25「ミッチェル」B-26「マローダー」

輸送・グライダータグC-47「スカイトレイン」
 C-53「スカイトゥルーパー」

輸送機 C-54「スカイマスター」

さすがにこれだけ長いこと軍用機について語っていると、
これらの名前で聞いたことがないのが一つもないのですが、
問題はライトニングとかはともかく、機体の形が見分けられないことですね。
興味の問題というより、人には得手不得手があるんだとしみじみ思います。 

海にものが落ちた時にはこれを接続して伸ばし、拾う。
多分間違っていると思いますが、本当は何にするものでしょうか。

ポンプに使うホースのストアージ(収納場所)だそうです。

赤くペイントされているのでおそらく火災に関係のある器具。
仮置きされているように見えます。

ここは先ほど見学したギャレーの裏側にあたり、このアクセス・ハッチから
下に降りるとクルー・メス(兵員食堂)です。
先ほどのキッチンでできたものはここから手で運んで下におろしていました。
キッチンのクルーの苦労が忍ばれます。

ギャレーの艦首寄り部分全体が、士官の居住区となります。
ここ全体を「オフィサーズ・キャビン」といいます。

一番艦首寄りにある部屋は士官の4人部屋。
駆逐艦では士官といえども二段ベッドで寝ています。

おそらくこの部屋は初級士官の寝室でしょう。

デスクは蓋収納式で、航海中は閉めておくようになっています。

ロッカーの上に二人分の士官用正帽を置くスペースが。

クリフトン・W・ウォルツ中尉とコルトン・P・ワグナー大尉の二人部屋。
オフィサーズ・キャビン左舷側は二人部屋が並んでおり、
そのうち一室は機関士官の部屋となっています。

「スレーター」は一度ギリシア海軍に譲り渡され運用されていたので、
これらの写真は後から展示のために集めてきたものだと思われます。
つまり、この写真は本当にここの住人であった可能性あり。

おそらく航海長らの部屋。洗面所付き。

この一角にシャワーとトイレは一箇所あります。
おそらく艦長以外の士官15名は全員ここを使用したと思われます。

オフィサーズ・キャビンはこのような廊下をはさんで、全部で4部屋居室があります。
右側には「X.O」つまりエグゼクティブ・オフィサーの部屋があります。

この一角で一番階級が高いのはこのエグゼクティブオフィサー。
日本語で言うと副長です。
副長だけは洗面台付きの一人部屋をもらえます。

いくつかの海軍映画では必ずそうであるように、階級的には
副長は艦長と同じということになっているようです。

航海長や船務長にあたる役職の士官は、二人部屋。
おそらく先任が下のベッドを使えるのではないでしょうか。

デスクライトは机に作りつけですが、それにしても変わった形です。

艦の前方にキャビンが固まっていますが、その後方には
「オフィサーズ・ワードルーム」があります。

しかしなぜ「バトルドレッシング・ルーム」と書いてあるのでしょうか。

それはこの士官食堂が、非常時には傷病者の看護室になるからでした。

テーブルにはクロスがかけられ、陶器の食器とシルバーが並びます。
駆逐艦でも潜水艦でも、オフィサーはこういう食事を取るのが慣例。
これは大航海時代の帆船のころからあった慣習です。

ワードルームの壁には、この駆逐艦の名前となった「スレーター」の写真があります。
スレーターとは1920年、アラバマ生まれのフランク・オルガ・スレーター。
海軍入隊後、1942年4月4日から

USSサンフランシスコCA-38

の乗員でした。
ご存じのように巡洋艦「サンフランシスコ」は1942年11月12日〜13日、
ソロモン諸島で日本軍と交戦しますが、このときスレーター水兵は
20ミリ対空砲の砲手として、死の瞬間まで持ち場で攻撃を続けました。

アーリントン国立墓地にある彼の墓石にはこのように刻まれています。

彼は1942年11日、12日、13日にソロモン諸島地域で、
USS「サンフランシスコ」の砲手として並外れたヒロイズムを発揮した。

攻撃しながら突撃してきた日本軍の戦闘機に直面しても、
彼は自分の持ち場を放棄するなく勇敢に戦い続けた。

我が身の安全を省みることもなく冷静に迎撃を続け、
敵航空機が炎のように急降下攻撃を行い、
彼の持ち場に激突する瞬間まで、攻撃をやめることはなかった。

そして自分の任務のために死に直面しながらも献身的に義務を果たした。
彼は祖国の防衛のために人生を投げ打って勇敢に戦ったのである。

 

左下 ニミッツ提督を表紙にしたライフ

右上 報道雑誌「コリアーズ」

「コリアーズ」は1888年から54年までアメリカで発行されていた週刊誌で、
表紙のイラストには当時一線だった画家が作品を提供していました。

中央の新聞は、イタリアが降伏したときのニュースが掲載されています。

「バトルドレッシング・ルーム」と日本語で検索しても、それが
戦闘時負傷者の応急手当てを行う軍艦の場所のことであるという
説明がされているのは残念なことに当ブログだけです(笑)

つまり、日本語では全く流通していない名称ということになりますが、
その思想はしっかり受け継がれています。

たとえば我が自衛隊の護衛艦などには、必ず
幹部用の食堂テーブルの上部にこのような医療用無影灯が設えてあって、
いざという時にはテーブルの上で手当て(手術)が行われる、
ということを見学の際説明を受けてご存知の方もおられるでしょう。

その「いざ」というときのため、ワードルームの一角には医療品の棚もあります。

左、「スレーター」の生まれ故郷である「ベツレヘムスティール」のポスター。
戦争中、造船所はフルスピードで「スレーター」のような
「戦死した乗組員の名前シリーズ」を量産していました。

一隻の駆逐艦を23日と8時間で建造、というのは「新記録」です!
と誇らしくポスターにも書いているわけです。

右側の戦意高揚ポスターは、当時の造船担当の中将のことばで、

護衛駆逐艦の装備の生産者の皆さん:大西洋の戦いは時間の戦いです。
Uボートの「ウルフパック」は攻撃を待ってはくれません。
我々の護衛駆逐艦「ウルフ・ファウンド」を待たせないでください。
しっかり働いてあなたたちの役目を果たしてください!

と書かれています。
ナチスの潜水艦作戦「ウルフパック」(群狼作戦)に対抗して、
対戦駆逐艦を「オオカミ探し屋」と呼称しているわけですね。

このポスターを「スレーター」に寄付したのは、面白いことに
このアルバニー地域にある「元潜水艦乗りのベテランたち」の協会です。

テーブルの上の食器にはことごとくアンカーのマークが刻まれています。

レコードを何枚もストックして順番に演奏することができる
当時最新式の蓄音器も士官室食堂ならでは。

右側は「ベルボトム・トラウザーズ」(ラッパズボン)なるレコード。
これは、ギイ・ロンバルドという歌手のヒット曲です。

Bell Bottom Trousers - Guy Lombardo

かつて隣に住んでいた女の子 彼女はセーラー服の三歳の少年を愛してた 今、彼はセーラー服を着て戦艦に乗ってる もう「立派な船乗りだけど 彼女は彼をかわいいと思ってる (ベルボトムズボン、紺のコート付き 彼女は水兵を愛し、彼も彼女を愛してる) 船乗りたちがオカにあがると、みんな彼女に夢中でも、彼にとっては彼女が本命さ彼らは笑顔で水兵帽を傾けてウィンクする彼女はただ微笑んで頭を横に降り、そっとため息をつく 彼女のセイラーが海に行く  そこで何をみたんだろう 2番には、 「ほうれん草を食べるとたちまち彼は大きくなった」なんて、それどこのポパイ、みたいな歌詞もあります。

キッチンにはいまでは滅多に見ることのないコーラの瓶が。

 

コーラの瓶で思い出した余談ですが、昔、まだ息子が2歳くらいの時、
アメリカに住んでいたわたしたちは、西海岸のカーメルという街
(クリント・イーストウッドが市長をしていた)にドライブで立ち寄って、
そこで小さな古いホテルに泊まったことがあります。

フロントでチェックインをしていたら、その間しばらく
一人でテラスのところで庭を眺めていた息子が、部屋に入ってからずっと、

「お姉ちゃんが車に轢かれたの」

「お姉ちゃんは死んでしまってお父さんが泣いてる」

「そのときにコーラの瓶が割れたの」

と語り出し、ことに最後の「コーラの瓶が割れた」を
何度もくりかえしたので、夫婦でゾッとしたことがありました。

なぜなら2歳の息子はコーラというものを飲んだこともないし、当然
「コーラの瓶」など一度も見たことがなかったのです。

あのとき、一人で庭にいた彼に(というか彼の脳内に)何が起こったのか、
今でも不思議に思うことがあります。

先日ふとその時のことを聞いてみたところ、全く覚えていませんでした。

さて、「スレーター」の修復には莫大なお金がかかりましたが、
ほとんどは寄付で賄われました。

現在の維持費も常に寄付を募っています。

かつての「スレーター」乗組員の写真。
一緒に写っているのが若い女性ばかりなので、ダンスパーティのときのものでしょう。

当時のダンスパーティのBGMの定番はグレンミラーです。
男性が何かを手に持っていますが、基本的に展示は
どこを触っても咎められるようなことはありません。

「スレーター」の第二次世界大戦中の行動範囲と
当時の姿が額に入れられていました。

第二次世界大戦中の全ての行動を線で表したものですが、
大西洋側は船団護衛任務で大戦初期、後半は
タオ併用側に進出したことがわかります。

このシリーズを始めてから、読者の方々からもその保存と
維持の努力には称賛の声が上がっていますが、電話の後ろの盾は、

「The Amerikan Welding Society 
Historical Welded Structure Award 」

(アメリカ溶接業界:歴史的溶接構築物大賞)

このアワードは地域社会で溶接のイメージを向上するのに
模範的な献身を示した個人と組織が表彰されることになっています。

歴史的な艦船の復元を溶接業界に高く評価されたということですね。

 

続く。

 

 

 

CPOと下士官用クルー・メス・デッキ〜USS「スレーター」

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USS「スレーター」、メインのギャレー、艦首を周り、
メインデッキのオフィサーズ・アイランドを見学しました。

メインデッキの士官用ダイニングには、専用のキッチンが
カウンター越しに隣接しています。

駆逐艦は小さいですが、下士官兵と士官は食堂はもちろん、
食べ物を作るキッチンも別にあります。
そもそも士官は食べるものが別なのですから当然ですね。

士官居住区域の部屋は「ステートルーム」と称しますが、要は
寝室兼ラウンジ兼オフィスのことです。
彼らの居住区は必ず下士官兵より上の階にあることになっていて、
士官特権を享受していることになっていましたが、実際には
大して差はないのが普通です。

広いとはお世辞にもいえないスペースに衣類全部、ライフジャケット、
任務用のマニュアル、ヘルメット、そして故郷に残した女の子の写真、
そういったものを詰め込めば、息もできないほど狭くなるのですから。

かろうじてカーテンで仕切られたベッドがプライバシーの保てる唯一の空間です。

また、海軍士官にとってペーパーワークというのはなかなか厄介な仕事で、
たいていは消灯後に行われましたが、狭いスペースではライトは暑いし、
訓練や戦闘、その他諸々の出来事を毎日日報に要約して書くのは大変です。

加えて、スケジュールや要請する物品の目録なんてものも、
この小さなオフィスで全てを仕上げて提出しなくてはいけません。

しかもペーパーワークだけやっていればいいというわけでもないので、
彼らは故郷に手紙を書く時間もろくに確保できないのが普通でした。

士官のオフィサーズ・アイランドのあるメインデッキを一階下に降りると、
そこは「ファースト・プラットホーム・デッキ」です。

前方から「ボースンズ・ロッカー」と呼ばれる掌帆長の倉庫、
後ろにあるウィンドラス・ルームに繋がる索を収納する倉庫があります。

その後方は

その後方にあるのが、チーフ・ペティ・オフィサーズ・クォーターです。
英語でCPOといい、裁定10年から20年という長期間にわたる勤務経験、
優れた評価スコア、筆記試験のパスを経てのみ到達する下士官の最上級階級。
アメリカ海軍では

「CPOは神である」

と自称してしまうくらい(笑)実権を行使する存在です。
一般の工場の人事に例えると、「職工長」がいちばん近いでしょうか。

彼らは豊富な経験を生かして下級の指導を行うほか、士官と兵の間で
両者の橋渡しをするような役も担います。
賢明な士官は、彼らの存在を立てて、重要な決定をする際には
意向を尊重するのが海軍の重要な倣いになっているのです。

たとえば「スレーター」のような駆逐艦には「チーフ」は
技術を要する各所につき一人ずつ配置されていました。

掌帆、銃撃手、水雷、通信、書記、操舵、倉庫管理、購買部、
ソナー、信号、消防、電気関係、機関、エンジン。
つまり、この全部のトップですから十四人ということになります。

しかしながら戦時は人手が不足するので、しばしばCPOではなく
その下の一等、あるいは二等海曹がこの役割に就くケースも多かったのです。

彼らが食事をするスペースはCPOメスといいます。
小さな調理オーブンと冷蔵庫、シンクが装備されていて、
彼らはここで調理されたものを同じ場所で食べていました。

食事には、下士官兵が使用していたあの金属製のメストレイではなく、
士官が使うような海軍マーク入りの陶器の食器を使っていました。
食器が陶器か金属かというのは、彼らにとって大きな違いだったようです。

 

CPOの居住区は、下士官兵のそれと比べるとかなり独立していて
「つまみにするくらいは」プライバシーが保たれていました。

ただし、寝台のスペースに関しては私用共用の境目は曖昧でした。
特に変わりやすい海象における任務は規則的ではなかったからです。

海軍には洋の東西を問わず面白い隠語がたくさんあるものですが、
そのひとつとして、「ゴートロッカー」というものがありました。(あります?)
CPOの寝室のことをほかの乗員が称していたもので、どういう意味かというと、
まず、チーフ・ペティ・オフィサーの連中のあだ名が「ゴート」。

ヤギという動物は英語圏では強情で気が強く、目的には
まっすぐ頭ごと突っ込んでいくイメージがあるのですが、CIC連中は
まさにこの「オールドゴート」の集団、というわけです。

その強情なヤギさんを収納しておくところだからゴート・ロッカー。

実はヤギというのは早熟で繁殖力が強いことから、「好色」の意味もあり、
また、古代ユダヤ人によると、原罪を持ったまま世に放たれた存在だったり、
ヒツジとは対照的に破壊的な性質を持っているから悪魔的、というイメージもあります。

まあ、そういう色々を含めてCPOってヤギっぽいよね、ということに
いつの間にかなっていったのではないかと想像されます。

しかしながら、だからこそ海軍にはなくてはならないバックボーンとして
機能してきた実力集団であったのも事実です。

ちなみに、このCPOには「manly」なイメージを誇示するためか、
髭を立てている人がものすごく多いわけですが、我が日本の海上自衛隊でも
髭が無茶苦茶サマになっている先任海曹を時々お見かけします。

そしてその後ろにあるのがクルーメス、乗員のダイニングです。
このコンパートメントには乗員のバンク(寝床)がありますが、
ここは乗員といっても「エンリステッド・セイラー」、下士官の居住区です。

こちらは下士官用のギャレー。
流石にコーヒーカップは陶器のものが使われていたようです。

そしてこのテーブルと座りにくそうな長椅子が、彼らの寛ぎの場所。
フネが時化たら皆すべっていきそうです。

各自のライフジャケットなども持ち運び式のものが用意されていました。
下士官たちはこの三段のキャンバスで就寝していました。

皆で閲覧する雑誌や新聞なども用意されていました。

USS「スレーター」の下士官たち、同じ場所で撮られた写真です。
右の二人は銃の使い方について情報交換でもしているんでしょうか。

バンクの上のU.S NAVYと書かれたものは多分海軍毛布だと思います。
これも、大西洋の船団護衛勤務ではもっと分厚いものが支給されたでしょう。

各自の持ち物を入れるロッカーは、ベッドの下段のこのスペースだけです。
CPOは縦型のロッカーをもらえたので大きな違いがあります。

乗員の数に対してスペースが狭いのでいつも混雑し、
混乱する(あ、だからクルー・『メス』なのかなんて)居住区ですが、
航行中は夜でも「ワッチ」と呼ばれる見張り業務に3分の1が勤務し、
残りの乗員でベッドを使うというのが常態となっていました。

ワッチは深夜0時と朝の4時に交代します。

乗員は交代のときにはほかの乗員を起こさないように
できるだけ静かに、素早く暗闇の中で衣服を身に付けます。

こういった環境下では、互いの配慮が、生活状況をできるだけ
耐えやすくするための最も重要な留意点でした。

船乗りたちの眠りを妨げないために、夜は赤灯だけが点灯されていました。

下に物入れがある上、さらに食事の際に腰掛けるので、
ベッドの下段は毎日跳ね上げて使っていたようです。

ただし、これらの設備は本当に「スレーター」で使われていたのではなく、
全面的な改装を行った時に全米から集めてきたものです。

なぜ根本的な改装工事をしなければならなかったかというと、
「スレーター」はいちどギリシャ海軍に譲渡されて使い倒された末、
廃棄が決まって放置されていたのをアメリカが買い取ったからでした。

1993年、ギリシャからアメリカに帰ってきた時の「スレーター」、
改装前の艦内各場所の写真が展示してありました。
海軍違えば軍艦も違う、というわけで、ギリシャ海軍時代に
手直しされて使われていた部分がけっこうたくさんあったのです。

当時の雑誌が見開きでおかれていましたが、なぜこのページなのかは不明。

壁のサーチライト、スピーカー、説明の紙。
これらもすべて改装後に設置された「どこかの船のもの」です。
ギリシア海軍時代のものは全て取っ払って箱の状態にし、
それからアメリカ国内で集められた第二次世界大戦中の内装設備を
吟味して取り付け、今日の形になりました。

こちらは下士官用の食事テーブル。
食事テーブルはいくつかに分かれています。

最初に見学したギャレーで作られた料理は、梯子で下ろされて
ここに運ぶことになっていましたが、荒天の航海中においては
日常的でありながら簡単な作業ではありませんでした。

しかし、のちにこの問題は改善されました。

従来の駆逐艦クラスでは、ギャレーとメスデッキの間に
密閉された通路がなかったため、メスのコックは
食材とともに波のうねりに耐えなければなりませんでしたが、
そのうち艦体の長い護衛駆逐艦が現れ、そこでは
メインデッキに通路が設置されており、料理人は
食べ物を梯子で運ぶ必要がなくなったのです。

めでたい。

何かあった時に閉めるハッチやドアのマークですね。

日本でもおなじ記号が使われているようですが、
◯でかこんだ『W』だけは見覚えがないような気がします。
(忘れているだけかも)

XのときはXだけ閉めればいいけれど、YのときはXとY、
ZのときにはX、Y、Zと閉めることになっている、という法則が
わかりやすく表にされています。

メスデッキの係はつねに交代制だったので、マニュアルが一から記されたものが
つねに目につくように貼られていました。

コンロは電気式。
この蚊取り線香みたいなぐるぐる渦巻のコンロは、今でもアメリカでよく見ます。
最初に住んだアパートのキッチンもこれだったなあ。
アメリカでは火事を防ぐためなのか、オール電化の住居が多い気がします。

その向こうにあるのはコーヒーサーバーですね。

各寝台はカーテンで囲むことができて、そこが
トイレと並んで唯一の「プライバシー空間」となります。

ところで、この区画には海軍式ハンモックが吊られていました。

旧日本海軍の艦船では皆ハンモックで寝ていて、この吊り床は
日露戦争の日本海大戦の絵でも、畳んで筒状にしたものを
艦上の安全クッションにして使っていたようですが、アメリカ海軍の展示では
帆船以外では初めて見るものでした。

居住区は常に混雑しているため、メステーブルをギリギリまで長く
たくさんの人数が座れるように作らねばなりません。
そこで、ここで寝なくてはならない人もでてくるわけで。
その可哀想な係のためにハンモックが取り付けられていました。

ハンモックの上には帽子、制服、靴、本、トランプなど
乗員の「全財産」が積み重ねて置いてありました。

メスデッキの仕事はこんな具合に割が合わないので、
海軍では勤務期間を4〜6ケ月と決めており、彼らがスキルを学び、
上から評価されると、ここの仕事はようやく「免除」になりました。

これは、海軍が乗員のやる気を失わせないための
ちょっとした工夫ということになりましょうか。

 

続く。

 

「フォックス」を監視し続けるラジオ・シャック(無線室)〜USS「スレーター」

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USS「スレーター」の見学が続いています。

いわゆる甲板階から一階下の「ファースト・プラットフォーム」にある
CPOと下士官の居住区兼食堂であるワードルーム、クルーメスを見学し、
もう一度甲板階=メインデッキに上がってきました。

最初に見かけた時にも何かわからなかったこの物体ですが、
クォーターデッキの後方に位置しており、先端から線につながっていること、
「ハイボルテージ」と書かれていることから、電源を後方の装置に
供給するためのコンデンサではないかと想像します。

「クォーターデッキ」は、帆船時代はメインマストの後ろのデッキのことで、
ここで船長が指揮を執り、船旗が揚げられていた場所です。

日本語では普通に「後甲板」と呼んでいますが、これを英語で調べたところ、
なぜか我が海上自衛隊の、いまは亡き「かとり」の写真が出てきました。

わたしはこの部分をいままで「舷門」だと思ってきたのですが、
英語Wikiの説明によると、

Quarterdeck of a Japanese warship.
Note the watchstanders in dress uniforms, the wooden plaque,
and the proximity to the accommodation ladder.

日本の軍艦のクォーターデッキ。
特筆すべきはドレスユニフォームを着用した見張りが立っていること、
木製のプラーク(艦名が書かれた看板)があること、そして
通常のラッタルが近くにあることである。

ちなみに、どういうわけか「Quarterdeck」のWiki日本語はありません。
せっかくですのでこの部分の日本語訳を載せておくと、

今日、 クォーターデッキとは特定のデッキではなく、儀式エリアとなっていて、
艦が港にある時にはレセプションエリアとして使用されます。
帆船の時代からの伝統で、そこでは艦長が特別な権限と特権を持ちます。

港では、クォーターデッキが艦船の最も重要な場所となり、
その主要な活動すべての中心的な制御ポイントですが、航海中は
ブリッジが艦のコントロールを行うため、ここでの重要性は減少します。

クォーターデッキでは清潔さと外観に特別な注意が払われています。
ここに立つ者は、 「ユニフォーム・オブ・ザ・デイ」といって、その日
上級士官によって決定され、指示された制服を着用しますが、彼らは
特に清潔さとスマートな外見を呈している必要があるとされます。

「その日の制服」を着ていない乗員は、任務上必要でない限り、
クォーターデッキを横断することを避けるのが決まりです。
また、このエリアに制服を着た人員が入ると敬礼しなければなりません。

司令官によって特別に許可され流ようなことがない限り、クォーターデッキでの
喫煙およびレクリエーション活動は禁止されています。 

ところで、岸壁に係留されている自衛艦でのレセプションに参加した方は
ご存知だと思いますが、デッキには二箇所ラッタルが掛けられますよね。

このラッタルも名前がついていて、岸壁から見て右側を「starboard」
左側を「port」とアメリカ海軍では呼んでいるようです。
また、ラッタルのような船の乗り降りに使う通路の名称は
「ギャングウェイ(gangway)」なので、左なら「ポートギャングウェイ」と呼びます。

そして右側、スターボードギャングウェイは、通常、
士官とその訪問者専用、左のポートギャングウェイは他の全員、
と使用できるラッタルは階級で決まっているのですが、
悪天候の場合は階級に関わりなく全員が風下にある方を使用します。

小さくてギャングウェイが一つしかない場合はこの限りではありません。

その下にあるのが時鐘。
風で鳴らないようにベルを固定してあります。

15世期から船の上では鐘によって時間を知らせる方法を取っていました。
30分おきにひとつづつ鐘の音が増えていく方法です。
たとえば時間区画でいう「モーニング」は0430の1点から始まります。
その後、

2点鐘 0500 

3点鐘 0530

4点鐘 0600

5点鐘 0630

6点鐘 0700

7点鐘 0730

8点鐘 0800

8点鐘が鳴らされる4時間を一塊りとして「モーニング」。
その次は「フォアヌーン」としてまた1点から始まるという具合です。
ワッチを行っている乗員は、8回鳴らしたら仕事は終わりです。

ただし、「ドッグワッチ」と呼ばれる1600から2000までの間は、

「ファーストドッグワッチ」4PM-6PM

「セカンドドッグワッチ」6PM-8PM

と分けられて、この時間にワッチ勤務に当たった人も、
夕ご飯を食べ損なうようなことがないようになっています。

このワッチのシステムがアメリカで法制化されたのは1915年のことです。

それ以降、100総トン以上のすべての米国商船は、法律により、

「乗組員を3つのグループにに分割し、4時間オンと8時間オフで任務につくこと、
そしてドッグワッチを『ワッチ一回分』と数えること」

と決められたのです。

またドッグワッチについては、この時間が1日のうち一番、
人が疲労のため気が緩む「魔の時間帯」で事故が起こりやすいので、
全員の気を引き締めるために変則にしているという話もあります。

我々はそのクォーターデッキ付近を歩いています。
後ろに見えているのは#3の 3″/50口径砲。

ちなみにこの砲はまだ生きていて、砲撃が可能です。
展示されているハドソン川河岸で今火を吹く50口径。

軍艦の上にも潤いを。

ここでわたしたちは階段を上がってスーパーストラクチャーと呼ばれる
構造物の2階に案内されました。

メインデッキの一階上にあたるスーパーストラクチャーに設置された
ボートダビッドです。

ホエールボートと呼ばれる作業艇を収納しておくところですが、
この時ボートは仕事を終えたばかりで岸壁にいました。

駆逐艦におけるホエールボートの役割というのはパイロットの救助です。
また、艦同士の連絡や、外側のペンキ塗りにも活躍しました。

もちろん艦が沈む時にはライフボートになります。
スペック上22名が最大積載人員数ですが、それは最悪の場合に限られます。

ボートダビッドの説明を聞くツァーの人々。

HPより。ここにボートが吊られている時の状態。
ご覧のようにたくさんの索を必要とします。

ここに見える索の全てはホエールボートを繋ぐために必要です。
もやい結びかどうかわかりませんが、結び目が無数にありますね。

さりげなく砲弾がありましたが、この形からみて
これは砲弾のラックであった可能性高し。

スーパーストラクチャーの上は、いろんなものがひしめいています。
ダズルカモフラージュの二色に塗り分けられたスタック(煙突)は右。
左は20ミリ二連装マシンガンのシールド(銃座)です。

実はこの手前に、本当は野菜の倉庫があったらしいのですが、
改装後の「スレーター」にはありません。

スーパーストラクチャーデッキの前方にあるのは
レイディオルーム、無線室です。
入ってすぐのところには安全のしおりが貼ってありました。

一般にラジオルームまたはラジオシャックと呼ばれる
メインラジオセントラルは、無線送信機と受信機を備え、
艦の長距離および短距離の電子通信を行っていた部署です。

通常、3人の乗員(オペレーター2、指揮官)が配置されていました。
一般的に、軍艦は無線沈黙下で運用され、必要な敵情報のみを送信します。

今は知りませんが、海軍本部が全艦隊に向けて送ってくるメッセージを、
「ザ・フォックス・スケジュール」と称していました。
(アメリカのフォックスニュースがこの意味と関係あるのかどうかは知りません)

この、ほとんど絶え間なく流れてくるメッセージを一言も聞き漏らすことなく
捉え続けることを“Guarding the Fox”(フォックス監視)といい、
それは決して終わることのないプロセスでした。

艦船は一般的に電波のない静寂の下で運航されていたため、
メッセージをすべて受信したかどうかの確認は全く期待できませんでした。
しかし、少なくともそれを聞き逃すということは
艦は主要な行動に参加できなくなる可能性があるのですから、
フォックス監視は艦の命運をも握る重要な任務だったのです。

第二次世界大戦中、無線オペレーターはタイプライター、または
「ミル」(mill)に座って、暗号化されたモールス信号で
受信機に届いたメッセージをタイプアウトしていました。

艦宛てのメッセージは通信担当者に引き渡され、通信担当者は
「暗号化」マシンのコードルームで解読し、艦長に渡しました。

それがこれです。

 

昔はもちろんこのようなクリップなどはありませんでしたが。

 

続く。

 

海に還った「スレーター」艤装艦長〜USS「スレーター」

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第二次世界大戦中の護衛駆逐艦「スレーター」艦上見学ツァー、
甲板階(メインデッキ)から一階上に上がり、
「スーパーストラクチャー・デッキ」(上部構造物階)にやってきました。

ここを「01レベル」ともいいますが、この艦首寄りには、
ラジオシャックと呼ばれる無線室があり、シップズ・オフィス(事務室)、
そこに隣接してキャプテンズ・ステートルーム、艦長室があります。

まずはオフィスをご覧いただきましょう。
ここは「ヨーマン(Yeoman)」と呼ばれる書記下士官と、
「パーソナルマン」ら事務職員たちが仕事を行うスペースです。

パーソナルマン(PN)は、人事スペシャリストであり、入隊した人員に、
海軍の職業、一般教育と職業訓練の機会、昇進の要件、権利と
福利厚生に関する情報とカウンセリングを提供しました。

また、入隊者とその家族が特別な問題や個人的な困難を抱えていたら、
それを解決する手助けを行うのが任務です。

もう一人の事務職員である「ヨーマン」ですが、
米国海軍と米国沿岸警備隊では、陸上・海上に勤務し、
管理および事務作業を行う係です。

彼らはプロトコル、海軍からの指示、勤務評価、士官の健康レポート、
海軍からのメッセージ、訪問者、電話と郵便(通常と電子の両方)を扱います。

ファイルを整理し、オフィス機器を操作し、オフィス用品を注文して配布し、
ビジネスレターやソーシャルレター、通知、指示、書類、レポートを書きます。

具体的に言うと、給与記録、訓練記録、未払休暇手当など。
つまり乗組員のすべての人事記録がここで処理されました。

 

ところでヨーマンは、すべての艦乗りが友人になりたいと望む人気者です。
なぜなら、「リバティ・パス」を発行するのは彼だからです。

リバティ・パスってなんですか?
というと、それはあなた、あれですよ上陸許可。

リバティ・パスは、つまり就業しなくていい許可のことです。
パスの種類は二種類あって、まずそのひとつがレギュラーパス。

通常の勤務時間後に発動し、翌勤務日の勤務時間の開始時に停止します。

土曜日と日曜日はこれに含まれないので、週末と合わせると
最大4日間まで連休を取ることができます。
(ただし4日をこえてはいけない)

4日の休みをとったときたとえばそれが土日月火だった場合、
月曜日は有給休暇であるとみなされるそうです。

もう一つのパスがスペシャル・パスです。

上司は、有給休暇、再入隊、特別な承認などの理由があれば
このスペシャル・パスを付与します。
このパスの最長期間は3日間または4日間です。

「liberty pass」の画像検索結果

こちら、USS「シアトル」のリバティパス。
最後に

「このカードをなくしたら懲戒対象です」

と怖いことが書いてありますね。

「liberty pass」の画像検索結果

こちらUSS「ノースキャロライナ」。

「許可された上陸以外に使ったり、記名されている者以外の使用は犯罪です」

ですって。

「liberty pass」の画像検索結果

なんと不思議な、艦名(USS『カリフォルニア』)が手書きになってる。
このリバティパス、どうも好事家のコレクション対象になっているらしく、
オークションなどでしょっちゅう取引がおこなわれているようです。

「タイコンデロガ」とか「ミズーリ」などのビッグネームだと
同じカードでも値打ちが高くなるとか、そう言う世界かもしれません。

 

ところで乗員がヨーマンからいただいたパスで機嫌よく上陸しているときも、

「リコール(帰隊命令)」「ユニットアラート」「ユニットイマージェンシー」

などの運用上のミッション要件が発生した場合、直ちに帰隊せねばなりません。

これは自衛隊でも全く同じ条件だと思います。
自衛官は許可なく海外旅行をすることはできませんし、
たとえば横須賀勤務だと、いざと言う事態が予想されるときには
東京にすら行かないと決めていた自衛官の話を聞いたことがあります。

そして、これも自衛官の皆様なら常識ですね。

「公務を不在することを許可されているときにも
常に身分証明書を所持している必要があります」

「トッカグン」の「自衛隊の彼女あるある」でいってましたが(笑)
自衛官の彼氏は身分証明書をいつも確認しているんだそうですね。
なくしたりしたら大変なので、パスケースをいつも肌身離さず
鎖などで繋いで持っていたりするんだとか。

 

さて、「スレーター」のオフィスに話を戻しましょう。

艦艇の航路、速度、位置、その他諸々のデータを記録して
それを最終的に決定版として仕上げた「スムーズ・ログ」がここで入力され、
司令官の通信も処理されました。

もうひとつついでに、この「ログ」についても説明しておきます。

まず一般的に航海日誌のことを「ログブック(logbook)」といいますが、
それとは別に「船のログ(ship's log)」には艦艇の運行データの記録として、
天候とか、日常業務の内容、突発的な出来事の記録、乗務員の交代、
寄港した場合などの日時が記されます。
これらは毎日一回以上記入されることになっています。

これらは万一、船の無線通信、レーダー、今日ならGPSが故障しても
航海が続けるために必要な情報となる他、海難事故などの審判があると、
詳細な記録の全てが重要な証拠として提出されることになります。

海軍艦艇も民間船と同様に、まず、航行などに関わるデータを
「ラフ・ログ(rough log)」「スクラップ・ログ(scrap log)」
と呼ばれる下書きに記録し、それを「スムースログ」に書き写して
決定版を作ることになっています。

「スムース・ログ=オフィシャル・ログ」
となる最終版なので、その記述を消去するなどということは許されません。
万が一、変更や修正が加えられる場合には、権限のある者、
たとえば「スレーター」なら艦長が自分の名前の頭文字を入れて
訂正部分や消去した部分がわかるようにして残すのが規則となっています。

もしかしてこのオフィスが艦長室の隣にあるのは、このためかもしれませんね。

ちなみに艦のオフィスはこんな感じで仕事が行われていました。
みなさんいかにも文系武官らしい雰囲気です。

 

また艦内にはサプライ、つまり補給部門事務所が別の場所にありました。
(『スレーター』では展示されていない)
ここでは、補給処が艦上で重要な物流と供給サポートを処理したり、
弾薬やスペアパーツから食料や衣服まで、補給のすべてを管理していました。

 

信号旗、何かわからないけど何かに空気を入れるための器具、
製図道具など、じつにいろんなものがここにありました。

ここは通信室と呼ばれるコーナーだと思います。

これはピッツバーグの「レクィン」の展示をみに行ったときに
展示してあった、信号銃です。
「スモークオンザウォーター」の元になったあれですね。

下にイコンがありますが、ロシア正教の乗員がいたんでしょうか。

 

 

さて、事務室のとなりにあってひとまわり大きな部屋。
もちろんここがキャプテンズ・ステートルーム(艦長室)です。

艦長室はもちろんのこと、全キャビン(乗員居室)中最大の広さです。
自分だけが使えるバスルームと独立した「ヘッド」(トイレ)、
シンクもシャワーもすべて艦長専用です。

その特権は「ウルトララグジュアリー」の貴族階級にも等しいものでした。
とにかく「ヘッド」を独り占め(ベッドじゃないよ。トイレだよ)
というのが羨ましがられる点です。

トイレとバスは残念ながら見学者には見えませんが、
艦長室より艦首寄りに、独立した個室として設置されています。

艦長居室は執務室としても機能しますから、立派なデスクも完備。
デスクには必ずといっていいほど家族の写真が飾ってあります。
キャビネットも制服を収納する大型の洋服ロッカーももちろんあります。

戦時中「スレーター」は6隻からなる護衛師団の旗艦を務めたことがあります。
その際、この個室は艦隊司令によって使われることになりました。

そうなると艦長は選択の余地なく、士官たちを彼らのキャビンから追い払って
自分一人でそこを占有しました。(艦長と他の士官との同居はあり得ないのです)

もちろん追い出された士官たちは再編成され、
あちこちに分散して寝ることになりました。

 

「コマンディングオフィサー」(CO、司令)は通常「キャプテン」と呼ばれますが、
大抵の場合ランクで言うところのキャプテン=大佐ではなく、
予備中佐(Reserve Liutenant Commander)または中佐(Senior Liutenant )でした。

第二次世界大戦中を通して「スレイター」の艦長を務めたのは
ニューオリンズ出身のマーセル・ブランク中佐でした。

Marcel Blancqという名前はフランス語圏がルーツでしょうか。

紹介のページには

「彼はプランク・オーナー(The PLankOwner)であり
1945年秋、『スレイター』が日本勤務になるまで指揮をとった」

とありますが、この「プランクの所有者」の意味は、
アメリカ海軍で艦艇乗務経験があるか、沿岸警備隊で
カッターに乗っていた者に対する尊称のようなものです。

もともとは艦の艤装に関わった乗員だけに適用されましたが、
最近では範囲が広くなり、艦艇に限らず、新しく発足した部隊、
あるいは新しく創設された軍事基地の最初のメンバーを指したりします。

つまり、ブランク艦長はプランク艦長(シャレ?)、
つまり「スレーター」艤装艦長でもあったということを意味します。

 

上の艦長室の写真でベッドの上を見ていただくと、
そこにはブランク艦長に敬意を表して、彼の写真が飾ってあるのが確認できます。

デスクの上の写真はブランク艦長の妻と娘のものです。

戦争が終わった後、ブランク艦長は海軍から
マーチャント・マリーン、アメリカ合衆国商船組合で
民間商船にキャリアを移し、海の上の任務を再開しました。

マーチャントマリーンに所属する限り、戦時下においても、
彼らは米国海軍の補助機関となり、
軍隊に兵員や資材を届けることを義務としています。

また、商船海兵隊将校は、国防総省から軍の将校に任命されることもあります。
ブランク艦長はこの逆コースを行ったわけですね。

 

マーセル・ブランクが亡くなったのは2002年のことです。

家族はブランク艦長の遺灰を「スレーター」の甲板から散骨し、
生涯「海の男」だった彼を海に還してその魂を悼みました。

 

続く。

 

送られてきた潜水艦「とうりゅう」の支鋼

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先日、わたしには全く覚えのない個人名の不在配達が入っていて、
はて、いったいどなただったかしら、と思いつつ受け取ると、
送り主は昨年秋に命名・進水式に立ち会った
潜水艦「とうりゅう」の艦長でした。

そりゃ名前に記憶がないはずだ。
今まで出席した進水では、潜水艦の名前が刻まれた
しおりなどの小さな記念品が頂けることもあったのですが、
「とうりゅう」の方々は、年が明けてから
何か送ってきてくださったようです。

この記念品をご紹介します。

これは命名式の日もいただいたのですが、記念絵葉書です。

パッケージはクッション入りの封筒だったのですが、
中から出てきたのがこれ。

「潜水艦 闘龍」

とあえて艦名を漢字で表記してあり、

「支鋼」

と書かれています。
木箱の大きさは、へその緒を入れるものと同じ。
外径9cm×7cmの箱の蓋を取ると、蓋側には
冒頭写真のカードが貼り付けてあります。

木箱の内寸にきっちり合わせて縮尺したらしく、
字が明確に写っていませんが、元々ですので念のため。

ここに

「支鋼の由来」

として、説明があります。

志鋼とは、初めて艦を海に浮かべる儀式(進水式)
において直前まで大地に支えておく鋼のことです。

艦の進水式は、人の誕生に等しく、
母なる大地を巣立ち大海にその雄志を現したときから
艦の一生が始まります。

志鋼は、艦にとり「へその緒」ともいうべきものであり、
無事に進水した艦の支鋼は、誕生にもちなんで、
安産のお守りとされております。

ここに納めている支鋼は、令和元年十一月六日に進水した
潜水艦「とうりゅう」の支鋼の一部です。

 

なるほど、まるでへその緒の入れ物みたい、と思ったはずです。
それは偶然ではなかったということだったんですね。

そしてこれがそのときの支鋼(の一部)というわけです。

蓋を開けてみたときにはもやい結びのレプリカかな、
と軽く考えてしまったのですが、とんでもない、
進水式の時に「とうりゅう」を支えていた支綱、
山村海幕長が切断しその艦体が進水台を転がり落ちる寸前まで
あの巨体を支えていた(厳密には違いますがここは空気読んで)
本物の支鋼の一部です。

一度使用した支鋼が再利用されることはないので、それは
しばしば小さく刻んで安産のお守りにすることがある、
という話は今まで調べたなかで知っていたことでしたが、
まさかその実物を実際に頂けるとは!

支鋼は3センチくらいの大きさにしっかりと結んであり、
現物がそうなのかどうかはわかりませんが、まるで
防水加工がしてあるようなロウ引きの感触です。

結んだ一つ一つを紅白の布を貼った台に付ける作業も
きっと手間のかかったことでしょう。

こういう作業は造船会社がしてくれるものでしょうか。
それとも業者が?
もしかしたら乗員の方々が・・・・・?

潜水艦マークの(線描きのマークは初めてみた気がします)
入った「とうりゅう」艤装員長からの手紙も同封されていました。

これもせっかくですので本文をご紹介します。

謹啓

向春の候、皆様におかれましては益々ご清栄のことと
心よりお慶び申し上げます。

さて、第八一二七号艦は、去る十一月六日
川崎重工業株式会社神戸工場において「とうりゅう(闘龍)」
と命名され、無事進水致しました。

ぎ装業務開始以来、一方ならぬご厚情を賜り、
誠にありがたく謹んでお礼申し上げます。

今後は、皆様のご期待にお応えすべく、令和二年度末の就役に向け、
最高の潜水艦造りに邁進する所存ですので、今後ともご指導、
ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

末筆ながら、皆様益々のご発展と一層のご活躍をお祈り申し上げます。

謹白

令和二年二月吉日 とうりゅうぎ装員長

「最高の潜水艦造りに邁進する」

という言葉が淡々とした定型の挨拶の中で光って見えます。


「とうりゅう」の乗員の方々のアイデアによるものでしょうか。
進水式という艦の誕生の瞬間を幸運にも目の当たりにした者にとって、
この贈り物がいかに感動的なものであったか。

それを読者の皆様にお伝えしたく、ご紹介させていただいた次第です。

「とうりゅう」乗員の皆様、どうもありがとうございました。
「最高の潜水艦造り」に向けて、頑張ってください。

 

 

 


"K"砲(ディプスチャージ・プロジェクター)〜USS「スレーター」

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ハドソン川沿いに係留されて冬期を除き公開されている
USS「スレーター」の見学ツァーで見たものをご紹介しています。

ところでなぜ冬の間見学がクローズになっているかというと、
ここオルバニーは内陸部で冬は猛烈に寒く、零下14〜5度になるので、
ハドソン川もその時には凍ってしまうからだそうです。

川が凍るくらいなら、軍艦の展示ぐらいできるのでは?
と思ってしまったあなた、あなたはニューヨークの寒さを甘く見ている。

年末に洗濯機を買うために大型電気店を歩いていて、
ついいつもの癖でカメラのコーナーで立ち止まって商品を見ていると、
「零下10度の気温でも大丈夫」という宣伝文句のカメラがありました。

つまりそれは日本のカメラの中では特に寒さに耐える仕様らしいのですが、
零下10度が限界では楽勝でオルバニーでは使えないという意味だとわかり、
ちょっと愕然としてしまったということがありました。

川が凍る、というのは我々のような亜熱帯に住む人間にとって、
肌感覚すらとても想像できないくらいのバッドコンディションです。
たとえばその間軍艦の上など歩こうものなら、たちまち凍りついた
デッキやラッタルで転倒する人続出は間違いありません。

公開する方も毎日の仕事を氷を割ることから始めなくてはいけませんし、
いかにボランティアでもそんな仕事をしてくれる人がいるとは思えません。

 

たとえばこの部分を制作したのはペンシルバニア州のピッツバーグ、
シカゴ行きの飛行機の出発を待っていたときなのですが、
冬のピッツバーグは夏しか滞在しないわたしには異次元でした。

朝ホテルを出て車に乗ろうとしたら、フロントガラスが
ガチンコに凍りついているわけですよ。

そのとき、レンタカーの後部座席に置いてあった棒切れ
(片側が小さい熊手、反対側がブラシ)の正確な用途を知りました。

真っ白になっているフロントグラスをまず熊手で掻いてみましたが
細く筋ができるだけで何の役にも立ちません。
反対側のブラシで撫でてみても当然のことながら何も起こりません。

そこで、車内に戻り、パネルを凝視したところ、フロントガラスを温める
スイッチの「マックス」というのがあるのを見つけたので、

「テー(撃て)!」

とばかりにこのモードのスイッチを乾坤一擲で押すとあら不思議、
凍りついていたグラスがあっというまに溶け、3分後には発車準備OK状態に。

ピッツバーグは五大湖の一つエリー湖に近いだけあって猛烈な寒さなので、
車も寒冷地仕様に工夫を凝らしているようで、たとえば車に乗ると
何もしないのにハンドルの持ち手(手で握るところ中心)が
じわあ〜〜っとあったかくなってくるという体験を初めてしました。

よく、

「日本には四季がある」

ということを日本特有のものとして誇らしげにいう人がいますが、
世界レベルで見ると決してそんなことはありません。

ビバルディの住んでいたイタリアだって、四季があったからこそ
彼だってあの名曲を残したのですし、ボストンもニューヨークも
そしてここピッツバーグも、普通にはっきりと春夏秋冬があるだけでなく、
どちらかといえば大抵が日本よりその寒暖差は激しくてメリハリがあります。

ある程度北にあるのに「四季がない」サンフランシスコのような土地こそが
むしろ珍しいと言ってもいいのではないでしょうか。

さて、上部構造物階後方の20ミリ、そして40ミリ砲座を見学し、
ツァーはガイドに導かれてふたたびメインデッキに降りました。
わたしはラッタルを降りる前にこの写真を撮りましたが、
もし冬だったらこういうところは凍りついていて上がれなかったでしょう。

見学の二人の頭上にある救命ボートは、万が一の場合
緊縛を解いて海上に滑り落とせるようにラックが斜めになっています。

現在、艦と艦が並んで「目指し」に接舷する場合、間に入れる防舷物は
硬化ゴムの風船のようなものですが、そういう便利なものがなかった時代には
このような民芸品の佇まいを見せる舫を編み込んだクッションを使ったようです。

この「スレーター」博物館のすごいところは、どんなディティールも疎かにせず、
こだわり抜いて本物の展示品を集めてきたというところです。
どんな防舷物を第二次世界大戦時に使用していたかなんて、おそらくは
誰も気づきもしないし興味も持たない些末なことに違いないのですが、
それをあえてやってのける、それに痺れる憧れるう(棒)

メインデッキ後方には大きな打ち出の小槌状の武器が
舷に面していくつも並んでいました。
これまでいくつかアメリカで軍艦を見てきましたが、
もしかしたらこれは初めて見るかもしれません。

(わたしのことですので忘れている可能性もありますがそこはそれ)

これは日本語でいうところの爆雷投射機、英語でいうところの
ディプスチャージ・プロジェクターです。
たしかこれの両舷投入タイプが江田島の第一術科学校に展示してあって、
そこで説明したことがあったかと思いますが、ここにあるのは片舷から
爆雷を投入するタイプなので「K型」つまり英語でいう「Kタイプ」です。


MK6ディプス・チャージ・プロジェクターは、一度に発射できる
数を増やすことにより、広範囲を攻撃することができるように開発されました。

艦尾の後部から投下するドロップラック方式の爆雷は、
第一次世界大戦で有用な戦略でしたが、第二次世界大戦の頃になると、
既に潜水している潜水艦は後部からの爆雷を回避できるようになりました。

海面下の見えない敵を爆雷で攻撃するためには、一方からの投下でなく
より広範囲に、様々なパターンでアプローチを行う必要があったのです。

この問題を解決するためには、いわばディプスチャージの「カーペット」で
敵潜水艦を包むような状態を作ることが有効とされました。
そのために、爆雷を多く、できるだけを遠くに投げ込む方法が模索されました。

この目的のために第一次世界大戦の後半開発されたのが

「K砲」(K-gun)

です。

これは左右両舷から同時に2つの爆雷を発射するプロジェクターでした。

従来の「Y砲」は、その名の通りYを形成する2つのバレルで構成されます。
各バレルには爆雷の投射プロジェクターが設定され、艦から数百フィートの距離に、
装薬を装填して投射するというものでした。

これは対潜水艦戦の実に効果的な対策でしたが、欠点もありました。
必ず艦の中心線に機器を備え付けなければならないわけですが、たいてい
そこは何かと装備が多く、スペースを確保するのが難しかったのです。

そのためY型のシングルバレルバージョンである「K砲」の登場となったのです。

メインデッキの両舷に沿っていくつも搭載できるという省スペース型で、
一台につき1発の爆雷を投下することができました。

投射できる爆雷の数が重要なので、一般に駆逐艦ではこれを
メインデッキの両舷に4基ずつ、合計8基装備されることになりました。

さて、案内のおじさんがかっこよくディプスチャージの前に立ちました。
これから何か実演してくれるようですよ。

まず、腿の高さのところにある蓋を開けます。
普通にあければいいのにわざわざ体にひねりを入れるあたりが
この解説員の美学みたいなのを感じさせないでもありません。

やって見せてくれているのは爆雷投下までの過程です。
投入しているのは「カートリッジ」だと説明していました。

この切り株のような部分は「ブリーチ・メカニズム」という名称です。
銃尾とか砲尾のことを英語で「Breech」(bleachではない)といいます。

カートリッジには標準重量の黒色火薬が装填されています。

下の丸い部分は「エクスパンション・チャンバー」。
ここで火薬の爆発を起こしエネルギーに変えるようです。

正確なメカニズムについてはよくわかりませんでしたが、
紐を持つ=蓋を開けている間はカートリッジは支えられているようです。

紐から手を離すと、カートリッジがチャンバーに投下され、
点火されることで爆薬が投下される、ということのようです。

爆雷を支える左のアームの部分は「アーバー」といい、この底部に対する
推進薬の作用により、ディプスチャージが発射されます。

アーバーは円柱状の装薬に取り付けられたままですが、
爆雷はその度にティアドロップモデルから解放され投下されます。
したがって、アーバーは深層装薬が発射されるたびに消費されます。

一回撃つと次の投射にはこの部分を取り付ける必要があるというわけですね。

ふぁいあー!と本当に射撃しているようにみえますが、
これは爆薬をセットしていない空砲です。

この写真を見ておわかりのように、「スレーター」では
このように時々本当に点火してみせてくれるようです。

この写真で実演を行っている人の持っている紐は、
ここで見た点火のふりデモンストレーションの十倍くらい長いものです。

デモを見ている時にはなぜ紐で閉めないといけないのか
わからなかったのですが、これを見て初めて納得いきました。

デモンストレーションであっても紐が短ければ
至近距離で爆発が起こることになり大変危険だからです。

K砲は、砲尾機構を備えた拡張チャンバーに取り付けられた
滑らかな穴のバレルで構成されています。
砲尾のプラグには、甲板で行う投げ込み式、またはブリッジから制御される
電気的発射によって発射できる発射メカニズムが搭載されています。

プロジェクターは固定されていますが、インパルス電荷の重量を変えることで
爆雷を投げ込む範囲を変更することができます。
範囲は60ヤード、90ヤード、および150ヤードが選択できます。

彼らが爆雷のプロジェクターの説明を聞いているその後ろには
従来型の艦尾から転がして落とす爆雷のラックがあります。

これは駆逐艦タイプの艦で運用されていた戦前の主な対潜兵器で、
このラックは、基本的には爆雷が置かれた傾斜レールのセットであり、
一度に一つのの爆雷を放出するように配置されていました。
典型的なラックは、MK6爆雷の最大搭載数12のものです。

爆雷は自重で後方に転がっていき、後戻り止めに支えられます。
投下の際はリリースレバーを操作すると、後戻り止めが押し下げられ、
最初のチャージがラックから水の中に投下されるというわけです。

1発目の投下と同時に前方の戻り止めが上昇し、2番目以降の爆雷を止めます。
ラックコントロールが元の位置に戻ると、戻り止めが逆方向に移動し、
次の爆雷が落下位置に移動し投下の順番を待つ状態になります。

ところで、帰ってきてからふと思いついて「眼下の敵」と言う映画を観ました。

ドイツのUボート(艦長がクルト・ユルゲンス)と戦う駆逐艦上で、
乗員がこの爆雷の転がるラックに手を挟んでしまうシーンがあり、つい
「痛っ!」
と画面に向かって叫んでしまいましたが(皆さんもそうだったでしょ?)
実際にそんな事故が起こる可能性があるのか、これを実際に見ると
ちょっと不思議ではあります。

実戦中でパニクっていてやらかしちまったということなのかもしれませんが、
この乗員は結局手を切断することになってしまって気の毒でした(-人-)

 

ラック内の爆雷は、油圧操作レバーを介して2つの場所から投下できます。
駆逐艦で最も一般的な場所は、2つのリリースレバーとサージタンクが配置された
フライングブリッジの右舷側からでした。

ディプスチャージは、各ラックのすぐ隣にあるリリースレバーによって
局地的ににリリースすることもできます。
投下する前に、潜水艦の推定深度に基づいて、爆雷の爆発メカニズムを、
ブリッジからの命令に従って手動で事前設定する必要がありました。

また追加のディプスチャージは艦尾ハッチの下に積み込まれ、
人力で引き上げて積み込むことができました。
しかしこれはなかなか骨の折れる労力を要するプロセスだったようです。

それが引き揚げられたのがこの甲板中央のハッチからです。
一階下の武器庫からダビッドで弾薬を吊り上げました。

右側のスピーカーからはジェネラルクォーターズが鳴り響きました。

「ジェネラルアラームがなったら各自の持ち場に行け」

と赤のパネルに書いてあります。

メインデッキの後方、ディプスチャージ・プロジェクターと
ディプスチャージ・トラックの間には、20ミリ砲のマウントが二つ、
背中を合わせるように並んで装備されています。

ディプスチャージは対潜戦のための武器ですが、ここに唯一ある
対空戦の武器ということになります。

アームにぶら下がっているように見える袋は、おそらく薬莢が
自動的に取り込まれるものだと思われます。

 

さて、後甲板にある武器の説明が終わりました。
艦内ツァーの最後は、この一階下にある部分です。
そこには何があるのでしょうか・・・・?

 

続く。

 

CIC 「主よ 我迷えり」〜USS「スレーター」

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駆逐艦「スレーター」艦内ツァーは、上部構造物階にある
無線室と艦長室、そして事務室の見学を終え、もう一階上の
ナビゲーティング・ブリッジに上がっていきました。

ここは02レベルとも呼ばれていて、先端には
20ミリ機関銃の銃座が備えられています。
かつての「スレーター」にはここに銃座が二つあったそうです。

その後ろが「パイロットハウス」、操舵室ともいいます。
そしてCIC、そしてシグナルブリッジがあります。

まずはコンバット・インフォメーション・センター、CICから見学です。

CICには対空、そして海上のレーダー装置が備えられています。
写真のテーブルは「プロッティング・ボード」。
その上部にあるスピーカーのついた機器は21MCといって、
インターコムであり別名「スコークボックス」。
右側にはステイタスボードが見えています。

ところで皆さん、レーダー「RADER」という名詞が

RADIO DETECTION AND RANGING

つまり「電波を利用して、目標物の距離・方位を測定する装置」
の頭文字から来ていることをご存知のことと思います。
レーダーは第二次世界大戦時の「秘密兵器」のひとつでした。

ここでレーダーの歴史を紐解くつもりはないですが、歴史的には
イギリス軍がドイツ空軍の空爆を阻止するために使用したのが始まりです。

一部の人々はその信頼性と軍事兵器として使用することに疑問を呈しましたが、
やがてこの秘密兵器は空と海での戦い方の様相を変えることになります。

少々専門的になりますが、説明しておくと、レーダーは
マイクロ波ビームを空中に直線で送信するものです。
これらのビームが物体に当たると、反射エネルギー(エコー)が
レーダーアンテナに戻り、レーダーアンテナで捕捉されます。

サーチレーダーの有効範囲は、マストの上部に
サーフェスアンテナと空中アンテナを配置することにより拡大されます。

目視できないターゲットを補足できるレーダーはまるで「神の目」でした。
この反映された情報は、ターゲットの存在位置をレーダースコープに表示します。
レーダー員はこの情報を「追跡」または分析し、その結果を使用して、
ターゲットのコースと速度など、重要な情報を判断することができるのです。

戦闘情報センター(CIC)は、この新兵器を採用し、プロットテーブル、
内部・外部通信機能、およびその他のさまざまなステータスボードと
プロットボードを収容する一室として設置されるようになったのが最初です。

今日でも、自衛艦内見学でCICが公開されることはあまりありません。
少人数で身分がわかっている場合、公開されることは皆無ではありませんが、
その際も要所はマスキングされて写真撮影はできないのが普通です。

それだけここには貴重な軍事的情報が密集しているためです。

レーダー室として登場したCICは、名実ともに「情報センター」になりました。
あらゆるソースから収集された情報は分析、評価され、必要な各所に伝達されます。

対空、対水面の対象を追跡し、その進路と速度を報告することに加え、
CICは基地の維持、火災管理、沿岸砲撃、航行、捜索、救助にも役立ちます。

航行中の艦船にとって夜間、昼間、霧、雨、雪、または晴天のときは
常に神経の中枢であり、「艦の目」の役目をはたすのです。

第二次世界大戦当時、CICは

「Christ, I'm confused.」

(主よ、わたしは混乱しています=主よ、我迷えり)

と呼ばれることもあったようです。
迷える子羊たちを導いてくれる聖なる存在だったのですね。

右側の機器がPPI、左は対空レーダーです。

「ミッドウェイ」しかり、「マサチューセッツ」しかり。
展示されている軍艦のCICの中は常に暗くされていました。
これは運用中のCICを再現した状態です。

実際に運用されているCICはノイズの多い機器を多く含むため、
室内はかなりの騒音で満たされていたということです。

 

レーダーマンは海上、空中、補助用のレーダーセットを
装着した機器で情報を常に聞いています。

かれらはまた、ステータスボード上の空中および海面における
コンタクト対象を追跡します。
「JA」音声通信回線に配属されたCIC士官とレーダー員は、
いつもDRT(推測航法トレーサー)と海面プロットテーブルの前で
パネルを見つめ続けていました。

彼らは、CICで収集された情報を分析し、ブリッジの指揮官または
デッキの士官に助言を伝えました。

時折、音声無線トラフィックが、他艦のブリッジの「Squawk Box 」
(スコークボックス)との間で送受信されるのを聞くことができました。

「Squawk Box navy」の画像検索結果

ちなみにこれがスコークボックス。

これが先ほどから話題になっている「プロッティング・ボード」です。
ここにレーダーの海面または空中で接触した相手の情報が記され、
敵か味方かが特定されました。

さて、CICのつぎはパイロットハウスです。
ここにあるのは「ステアリング・ステーション」操舵装置です。

ボランティアの解説員のおじさんが張り切って説明してくれていますが、
彼が手をかけているのは上部が、

「エンジン・テレグラフ」(Engine Order Telegraph)

速力通信機、そしてその下の部分は

「エンジン・ターン・レボリューションズ」
(Engine turn revolutions)

という操舵装置の一部です。

操舵手が立つ足場には必ずこのようなラティス状のマットがあります。
長時間立つので疲れを軽減させるとかいう機能があるのでしょう。

今日自衛艦の同じ場所にはシリコン?のような
衝撃吸収のマットが敷いてあります。

天井にあるのは伝声管だと思われます。

エンジンテレグラフ・レボリューションズの右側の機器は

エンジン・オーダー・テレグラフ・レピータ
(Engine Order Telegraph Repeater)

そしてこの長年の使用でピカピカに磨き込まれたのが、

ヘルム(Helm)操舵

です。
操舵手のことを「ヘルムスマン」といいます。

いま解説員が手を置いているところに

マグネティック・コンパス

があります。
コンパスの内部が見えるように外側をカットしてあります。

操舵手の補助を「The Lee Helmsman」といいます。
リー・ヘルムスマンは、エンジンオーダーテレグラフを使って
正確な1分あたりの回転数を示す「ノブ」を機関室に命令を送ります。

解説員と彼が手を置いているマグネティックコンパスの間に
少しだけ見えているのが「レピータコンパス」です。

あとで大アップにして撮っておきました。

ヘルムスマンのように操舵装置に手をかけて記念写真。
こちらに見えているのが「ノブ」で、
「前進全速」など伝達される速度表示が書かれています。
ここで示される速度の種類を書き出しておくと・・・。

Flank ahead (1940-) (USAのみ) Full Ahead(全速前進) Half Ahead(半速前進) Slow Ahead(微速前進) Dead Slow Ahead Standby Stop(停止) Finished With Main Engines Dead Slow Astern(後進) Slow Astern(微速後進) Half Astern(半速後進) Full Astern(全速後進) Emergency Astern ( 1940-)

同じパイロットハウスの前方部分。

パイロットハウスの艦首側にはチャートデスクがあります。
この場所から撮ったらしい写真がありますが、物凄い時化ですね。

今同じところから見えるのは波一つないハドソン川の流れです。

パイロットハウス外側には20ミリ機関銃座が一基設置されています。

外側にあるのがシグナルブリッジです。

シグナルブリッジは、「スレーター」から発信される視覚信号の中心です。
信号は艦長または甲板士官から発せられ、信号機によって他の艦に中継されました。
これらの信号は、3つの方法のいずれかで中継されました。

まずその一つは手旗信号です。
英語ではSemaphore、セマフォといい、コンピュータ用語では全く別の意味です。
手旗信号は昼間しか使用できませんが、最も素早い通信手段です。

二つ目は信号旗を使っての通信。

信号旗はアルファベット順に大きなキャンバス布で覆われて
「フィンガー」と呼ばれるフックに掛けられています。
フィンガーに掛けることで空気を循環させ、カビの発生を防ぎます。

シグナルマンは必要な旗を一緒にクリップしてメッセージを作成し、信号を上げます。

信号旗は、コースと速度の変化を示すために使用されます。
旗艦は指揮官旗を揚げます。

艦隊の附属艦は同じ信号旗を揚げて指令を受け取ったことを示します。
指令が実行されると、旗艦はホイストを落とし、周囲の船は規定の操縦を実行します。

そして三つ目の通信手段が発光信号です。

船舶は、12インチおよび24インチの信号灯を点滅させ、
モールス信号を送信する昼夜システムを使用していました。

これは迅速なコミュニケーションの方法でしたが、夜間は、
自艦の位置を明らかになるためほとんど使用されず、
そのかわり赤外線フード付きレンズで光をマスクしていました。

 

実はこの一階上にはフライングブリッジがあります。

レベル03であるここはキャプテンズブリッジとも呼ばれています。

この前方には「サウンドハット」(サウンド小屋)、別名
ロイヤルネイビーの薬棚(意味不明)があり、そこには
ソナースタック、タクティカルレンジレコーダー、
攻撃プロッターなどがあります。

外側の隔壁には、目標方位指示器、ジャイロコンパスレピータ、
インターコムなどの船舶制御用の計装が搭載されています。

 

さて、このあと、見学ツァーはもう一度メインデッキに降りました。

続く。

30ミリ、40ミリ砲のターゲット〜USS「スレーター」

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パイロットハウス(操舵室)とCICのある02レベルを見学し、
さらに最上階に上がった駆逐艦「スレーター」の見学ツァーは、
もう一度スーパーストラクチャーデッキ(上部構造物デッキ)を
歩くことになりました。

下に降りるのは梯子式のラッタルです。

ここにはベントの他、ボートダビッド、中央にスタック(煙突)があり、
両舷には機関銃の銃座が物々しく並んでいます。

中央に見えるのは3インチローディング(装填)マシーンだそうです。
「スレーター」にはもともと、この装填機の後方に
三連装の魚雷発射マウントがあったといわれています。

しかし、第二次世界大戦後期ごろには、水上艦よりも
駆逐艦にとって差し迫った脅威は航空機の攻撃ということになっており、
魚雷発射管は、慣熟航行(シェイクダウン・クルーズ)の直後に
4基の40ミリ対空砲に換装されました。

これは、煙突の後方にある20ミリ連装砲の左舷側マウントです。

真珠湾攻撃前までは、対空防衛に利用できる唯一の重機関銃は
ブローニングM2重機関銃でしたが、射程と火力が不足していました。
これに代わるには火力は高く、しかし手で扱うには十分に軽い銃が必要でした。

このために選択されたのがスイス・エリコン社の20mm砲です。
この砲は当時すでにイギリスで使用されており、戦前の段階で
米海軍での採用が検討されていたものです。
最終的に、1940年11月、米国内での生産が承認されました。

銃座の足元にコードのようなものがぐるぐる巻きになっています。
これがもともとのものなのか、電源コードなのか(違うと思う)
材質を確かめる術がないのでわかりませんでした。

 

20ミリ砲はブローニングの代用品として熱狂的に迎えられました。
しかし、最初の数ヶ月はすぐに置き換えるための生産が間に合わず、
ほとんどの対空戦は古いブローニングに依存せざるを得なかったそうです。

各マウントには、4名の乗員が配置されていました。

「砲手」「サイト(レンジ)」「セッター」「バレル一つにつき一人の装填手」

です。
サイトというのは日本軍でいうところの「照尺手」セッターは「旋回手」でしょうか。

この銃はもともとスイスでエリコン社によって設計されたため、
メートル法で設定されており、アメリカ人のため仕様変更されました。

ちなみにこれが20ミリエリコン銃の図ですが、
砲身根元上に二つのドラムマガジンが装着されていますね。

ドラムマガジンはマウントの後ろにあるロッカーに収納されています。
内部には60発弾薬が装填されています。

20ミリ砲は「スレーター」に搭載された最も小さな対空砲です。
一つのマガジン(バレル)あたり毎分450発射できました。

長時間発射(約240発)したあとは、素手で触れないほど熱くなるので、
アスベストの手袋を着用した装填手がバレルを交換しました。

熱くなったバレルは、銃座の横に溶接された冷却タンクに入れ、
予備のバレルと交換されます。

導入当初、これらは単装で装備され、リング状の照準器で
狙いをつけて撃っていたのですが、1942年以降、
精度が高まり、1945年には連装でのマウントが標準になりました。

 

煙突より後尾をみると、そこには人員輸送用の「鳥籠」がありました。

艦と艦の間で人を送るときにはこれに乗るんですよ。
一応シートベルトはついてますが、座席はツルツルしてそうだし、
海が荒れているときにロープ一本で運ばれるのは怖いと思います。

20ミリ砲のキャリアはそう長くはありませんでした。
1942年から44年半ばまでは、並外れた成功を収めましたが、
その衰退の原因は、意外や彼らが「カミカゼ」と呼ぶところの特攻隊でした。

航空機体当たり攻撃の前には、20ミリはあまり有効ではなかったのです。

たとえば「スレーター」には最初パイロットハウスの前方と01デッキに4基ずつ
単装砲があっただけでしたが、これは、相手を認め発砲したときには、
体当たりするつもりの特攻機はすでに接近しデッキに激突する体勢であったため、
たとえ銃弾がヒットしたとしても何らの防御にもならないであろうとされました。

そして実際に実戦を体験した誰もがそのことを感じていました。
しかし、なぜか20ミリがなくなってしまうことはありませんでした。

理由は偏(ひとえ)にどんな形であってもとにかく、
敵を迎撃しているという乗員の心理的安心感に尽きます。

かつての「スレーター」艦上で敵が現れるのを待って空を見つめる砲撃手。
1944年の写真です。

 

20ミリ単装が効果的ではないということになって、連装と4連装銃が
いくつかの艦に取り付けられました。

1945年のV-Jデイ(対日戦勝利)の段階で、「スレーター」は
これらの連装砲マウントを9基(パイロットハウスの前方に3基、
この01デッキレベルに4基、艦尾に2基)備えた状態でした。

 

「スレーター」上部構造物デッキには、20ミリのほかに
40ミリ連装砲のマウントが左右に1基づつ2基備えてあります。

1944年に引き渡しされたとき、「スレーター」はこの01レベルの
上部構造物階後部にMk51ディレクターとともに40ミリ砲を
1基だけを搭載していました。

最初は煙突のすぐ後ろに魚雷発射管が置かれていました。

1944年6月、慣熟航行(シェイクダウンクルーズ)の直後、
魚雷発射管は取り外され、同じ場所に40ミリ砲のマウントを
4基設置して、対空戦に備えることになりました。

これは1945年に太平洋に進出するに先駆けて
行った訓練で標的艦を務める「スレーター」艦上です。
ここには換装された40ミリ砲マウントが写っています。

コンピュータサイト持つMK51銃統制装置を備えた
2つのツインマウントに置き換えられているのが確認できます。

アメリカ海軍の優れた点は、絶えず問題点を洗い出し、アップデートを常に繰り返し、
変化する脅威に対応するためには労を惜しまなかったというところでしょう。

裏側から見た40ミリのマウント。
ラックがあって、そこに40ミリ銃弾が設置されているのがお分かりでしょうか。

弾薬は、鋼鉄の防壁である「ガンタブ」に溶接されたラックに保持されていました。
弾薬が使い果たされると、それらは下階から補充されます。

ただし、40ミリにも多くの特攻機がが標的にダイビングしてくるとき、
それを衝突するのを止めるほどの破壊力があったかというとそれは疑問です。

オリジナルの40ミリ単装砲はスェーデンのボフォース社製です。
おそらく第二次世界大戦中の軍艦が採用した武器としては、
最も効率的で有効な近接防空兵器として評価されるものでしょう。

最初にこれを採用したのはアメリカ陸軍で、1937年に
バレル式の空冷バージョンを検討しました。

1940年、アメリカの三大自動車メーカーの一つである
クライスラーコーポレーションが、アメリカで使用するために
これらの銃の製造を請け負いました。

ツインバレル使用のサンプルはフィンランドを経由して
スェーデンから到着し、イギリス軍とオランダ軍の仕様を踏襲したものを
ヨークロック&セーフ社が海軍ように製造することになりましたが、
どういうわけか1941年6月になるまで、肝心の
スェーデンからの正式なライセンスをうけていうけていませんでした。

その問題は(おそらく)解決され、1942年に、最初の連装ボフォースが
生産を開始し、4月には4連装バージョンも登場しました。

ボフォース銃は瞬く間にアメリカ海軍の艦隊全体に普及し始めましたが、
1944年の中頃までは需要が満たされた状態ではありませんでした。

「スレーター」も、45年5月までそれを待っていたということになります。

 

砲弾を手にして説明する解説員。

連装40ミリのそれぞれは、1バレルあたり毎分160発、有効射程約4000ヤードです。
マウントでは7名の乗員(指揮官、照準、トレーナー、第1装填二人×2)
構成されていました。

 

第二次世界大戦最後の9ヶ月の神風特攻との攻防まで、
40ミリ砲は全ての近接防空先頭に有効であることが証明されました。

装填から射撃までの過程を説明してくれています。

さて、40ミリが特攻に対してそれほど有効ではなかったと書きましたが、
それでは何が効果的であったかというとそれは、VT(近接信管)です。

これは、砲弾が目標物に命中しなくとも一定の近傍範囲内に達すれば
起爆させられる信管のことで、近くで砲弾を炸裂させることで
目標物にダメージを与えることができるというものでした。

これで特攻機への命中率を飛躍的に向上させることができました。

最大の長所は目標に直撃しなくてもその近くで爆発することにより、
砲弾を炸裂させ目標物に対しダメージを与えることができる点にあります。

現在の正式な呼称は "Proximity fuze"といいます。

「VT信管」(Variable-Time fuze) というのはアメリカ軍の情報秘匿通称からきた
名称ですが、

「兵器局VセクションのT計画で開発された信管」

ということからではないかという説もあります。
また「マジック・ヒューズ」という呼称することもあったようです。

40ミリは近接ヒューズの電子回路を処理するには小さすぎたため、
76ミリ銃は破壊的な発射体を処理できる最小の武器でした。

それにもかかわらず、ボフォース40ミリは、日本が降伏する瞬間まで
小型船舶の主要な近接対空兵器として主役だったのです。

この上部構造物階には、もう一つの武器が艦尾に向かって設置されています。
主砲となる50ミリ砲で、使用される弾薬の最大水平範囲は約12,000ヤードで、
最大天井範囲は約21,000フィートです。

「スレーター」の砲の照準器は銃の左側にあります。

ここにあるものは戦後の修正を受けており、上部構造物階上部にある統制機の制御下で
自動的に移動できるようになっています。

ここにある銃のほとんどは展示の際にどこからか調達してきて
取り付けられたものばかりです。
ですから由来はわからないのですが、どの艦船に搭載されていても
その銃が1945年の終戦までの間、そのターゲットにしていたのが
実はほかでもない日本の特攻機であり、彼らにとってその脅威は
艦体の武器システムを変えなくてはいけないものでもあったということを
いまさならがらアメリカ人の中に混じってかんがえてしまったわたしでした。

艦尾にたって艦首側を望む。

さて、この後ツァーはもう一度メインデッキに降りていったのですが、
当方のミスからそちらはもうご紹介してしまったので
次がシリーズ最終回となります。

続く。

 

クルー・ヘッド の"トラフ"は流れる〜USS「スレーター」

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ニューヨークのハドソン川流域に係留されている展示艦、
USS「スレーター」の見学記も最終回になりました。
甲板の爆雷投射機の説明を受けてから、わたしたちは
ツァーのコースの最後のパート、

ファースト・プラットフォーム・デッキ

をもう一度別の部分からのアプローチで見学することになりました。

この階のさらに下にあるのは

セカンド・プラットフォームデッキ

です。
ここは見学者の立ち入り禁止になっており、公開されていません。
この階は三つのパートに分かれており、エンジンとモーターの機関部以外は
艦首側、艦尾側には倉庫になっています。

この倉庫の中には果物や野菜などの生鮮品倉庫や、冷凍室もありますが、
多くの面積を占めるのが40ミリ砲の弾薬倉庫です。

駆逐艦の場合は、最下層階を

Hold 4Foot Waterline

と呼び、キールの上に当たります。
一般的に「ビルジ」と呼ばれているところでもあり、
ここもまた「倉庫」「機関部」「倉庫」の三つに分けられます。

ここには水中音響室、ロッドメーター室、ヘッジホッグ収納マガジン、
その他の武器貯蔵用マガジンなどの倉庫の他には
水のタンク、そして爆雷の弾薬倉庫があります。

というようなことを説明している解説のボランティアのおじさん。

まず最初に目に入ったのがダメコン用の素材です。
艦壁が戦闘などで破損し水が侵入してきたときを仮定して
海軍では日頃からダメージコントロールの訓練を行います。

どんな艦船も設計にあたっては一定の安全率が考慮されているので、
浸水があってもある程度の時間は沈むことはありません。

特に軍艦の場合は、船体構造を強固にしたうえで、各種被害を
最小限に防ぐための区画配置が計算されています。

水線下に損傷を受けると、損傷区画位置によっては艦体が傾斜を起こすので、
対側の区画にあえて注水して復元させるということもあります。

正確な記憶ではないのですが、確か戦艦「大和」の最後の戦闘で
片舷側が破孔したので、わざと反対側に魚雷を受けて、
この方法で復元させようとしたところ、意に反してびくともしなかった
(のでこの後に及んで中の人びっくり)という話があった気がします。

 

もし艦体に破孔やクラックが生じた場合、遮防作業が必要となります。
その際、破孔に毛布・マットや箱パッチを当てて、その上から当て板を当てます。
さらに縦方向の支柱を立てて、当て板との間に突っ張りをし、水圧に対抗します。

ここにあるダメコン素材はそのときにこそ必要なものです。
艦内に備えられてある木製の角材を必要な長さに切り出して用います。

特殊な判断として、損傷が小さなクラックであった場合は、
傷の両端にあえてドリルで穴を開けることもあります。
これは艦体が航行によってねじれても割れが拡大しないという効果があります。

つまり、どうすれば1秒でも長く艦を保たせることができるか、
それがダメコンの奥義だと思うのですが、それには
まさに現場で正しい判断ができるヴェテランが必要となってきます。

そして、そういう技術を体得し現場で采配を振るうのが
CPOという実力者たちでした。

「スレーター」のタメージコントロールの説明には

「The Invisible Advnattage」(目に見えないアドバンテージ)

として、以下のようにあります。

「スレーター」の乗員は三つのダメコンチームに分けられていました。
自分の艦について知り尽くした名も無きヒーローたちは
それが危機に見舞われたときにはなにをすべきかを知っていました。

ジェネラルクォーターが発動すれば、人々は器具、ポンプ、ジャック、
そしてメンテナンスと補修作業に必要なものを持って動き出します。
彼らは砲弾による破口をふさぎ、裂け目を溶接し、消火活動をし、
そして水を汲み出すのです。

彼らは自らの命も危うい状況であっても、そう、
たとえ水が腰まで来ていたとしても果敢に作業に当たりました。

watertight compartmentation (水密区画)はダメコンにとって
最も重要な要素です。
ジェネラルクォーターによって、全てのハッチは閉鎖され、
一連の水密区画はそれによって密閉されます。

もし戦闘や衝突などの衝撃でそのうち一つや二つの区画が破損しても、
密閉された水密区画が艦体に浮力を与えるので沈むことはありません。

かつて護衛駆逐艦の乗員を構成した男たちは、
現在全てが祖父の年齢となりました。

彼らのほとんどブートキャンプを経て、そしてその前は
あるものは高校から、あるものは農村から、工場からやってきて
職場では入門レベルの仕事をしていた10代後半の若者たちでした。

そのうち10パーセント弱は生まれてから海を見たこともありません。
そんな彼らを海の男にするために、真の意味の「オンザジョブ」
(現任訓練、実務をさせることで行う職業訓練)が行われ、
200名の男たちが短期間でチームとして鍛え上げられました。

まあ、ただでさえ命がかかった「仕事」で、おまけに
戦時中とあらば、真剣さが違って当然かもしれません。

「スレーター」博物館が発行した非常時のやることリストが貼ってありました。
今現在のダメコンがここに書かれているというわけです。

1)艦尾側のアラームを切る(赤灯が点灯しアラームが鳴る)

2)すぐに淡水を確実にバルブで船に送る

3)ポンプをアクティベートし、スタートボタンを押して浄化槽から水を送る

4)もし警報ベルが鳴ることでタンクからの組み上げがダウンした場合は、
  淡水バルブを再度開いて出荷し、通常の操作を再開する

5)もしアラームがならなかったら、ポンプも壊れていると過程されます
   洗面所に独立した送水が行われるまで水を確保し続けてください

6)使っていいのは岸壁側のトイレだけ

7)ティムの家に電話してください(電話番号)

ティムというのが責任者のようですが、常勤ではないようです。

クルーヘッド(乗員用トイレ)はこのような有様です。
「你好トイレ」というものが中国には存在しますが、プライバシーの点では
これも似たようなものかもしれません。
少なくとも、神経質な人には耐えられそうにないこのオープンな作りです。

しかし、150名の水兵が皆で一箇所のトイレを使うわけですから、
優先順位はおのずと効率性が先にくるのは致し方ないことでしょう。

しかしご安心ください。
よくしたもので「スレーター」のヘッドは、幸いというかなんというか、
トラフ(桶?)の一方の端から反対の端に、
海水が連続して流れる「自然水洗トイレ」仕組みになっていました。

もちろんこれは当時のアメリカ海軍の駆逐艦の兵隊用で、
ギリシア海軍時代にはもう少し別の仕組みが採用されており、
博物館に改装した際に復元したものと思われます。

しかし、アメリカ軍も兵隊さんはなかなか大変な生活をしていたようで。

ここに再現されているのは「スレーター」の装備そのものではありませんが、
だいたいが2〜3人が並んで腰掛けるトイレが両舷に並んでおり、
それとは別に4つの小便器、そしてたった4つのシャワー(!)、
洗面台が7つ、これが全てでした

アメリカ海軍では起床ラッパのことを

Reveille(レヴェイユ)

といいますが、このレヴェイユが鳴り響くと、一斉に
30〜40名の水兵たちがいちどきに洗面、髭剃り、歯磨きのために
洗面台の前にラインを作ります。
後ろにそれだけ並んでいるのですからゆっくりやっている時間はありません。

シャワーも貴重な真水を使うので、一人3分と決まっていました。
水不足が懸念されるときにはそれも叶わず、体を洗うのは冷たい海水で行い、
最後にバケツいっぱいでリンスすることしか許されませんでした。

南洋に展開しているときは雨が降れば皆大喜び。
甲板に各自が石鹸を持ち出し、思う存分天然のシャワーを浴びました。

シャワー室とトイレはスペースとしても広いものではありません。
ここを水兵たちが全員で使っていたと聞いて、思わず目を見張る見学者たち。

洗面台の鏡の上には

ストレッチャーが掛けられていました。

ここに「エンジニアリング・デパートメント・ログルーム・オフィス」があります。
艦体中央の右舷通路にあるのが普通でした。

ディーゼルエレクトリック推進システム操作法に関する全ての記録が保存されており、
機関部のヨーマン(書記)がログブックとマニュアルを管理しています。

今ではそれら全てがコンピュータ一台で済んでしまうので、部屋は必要ないかもしれません。

ここはまた、海軍工廠や各設備製造会社から送られてきたマニュアルの
ライブラリーとしても機能しており、艦に関することであればどんな小さい部品についても
ここにくればわかるようになっていました。

武器に関するメインテナンス法も、このログルームで管理しています。

かつて乗員にお知らせを貼る掲示板には、戦時中のポスターや、
ネジの種類を図解にしたインデックス(当時のもの)などが貼ってあります。

下の写真は改装前の「スレーター」の姿だろうと思われます。

残念ながらファーストプラットフォームデッキの見学はこれで終わりでした。

ここにはそのほかにもランドリー、

カーペンターショップ、サプライオフィスなどがありますし、
医務室=シックベイ、

エンジンルーム、

メインエンジン、

ステアリング・ギア・ルーム

など、見るところがほかにいっぱいあるはずなのですが、今回の見学では
そこまで案内はされず、残念です。

これらの部分も公開されているはずなので、いつか実際に見に行きたいものです。

上に上がってくると、売店がありました。
シャンプー、石鹸、剃刀、ヘアトニック、歯磨きなどの日用品、
べルトや靴紐なども売っています。

アメリカ人大好きチューインガムはミントとフルーツの三種類。
タバコは「キャメル」か「ラッキーズ」(ラッキーストライクのこと)
紙巻きの他にパイプ用、噛みタバコなどもあり。

手紙のセット、靴墨、シャンブレーのシャツやダンガリーズボンも
新しく買う人がいるようです。

メインデッキに上がってきて、ツァー一行は乗艦した左舷側に帰ってきました。
かつて「ジェネラルクォーターズ」を告げたこのスピーカーも、
今はまったく沈黙しています。

ここで最後に「スレーター」と日本との「戦い」について触れておきます。

大西洋における船団護衛の任務が終わると「スレーター」は
神風特攻の脅威が米国と連合軍の船に多大な被害を与えていた
太平洋戦線での新しい敵との戦いに備えて、その兵器に変更を加えました。
ブルックリンでのオーバーホールの後、
日本侵攻に備えて対空兵装の増強を受け、
ニューヨークを出港後はパナマ運河を通過し、サンディエゴに到着。
そしてその3日後、真珠湾に向けて出航しました。
ところが「スレーター」が太平洋に到着したとき、
ちょうど日本に原子爆弾が投下されました
(投下したのはもちろんアメリカですが)

そこで「スレーター」はフィリピンに送られることになりました。
日本が降伏した8月15日、「スレーター」は神風特攻の攻撃を受け、
これを間一髪で避けることができた、といわれています。

ただ、日本側に残る正式な特攻隊員の名簿には
フィリピン方面でその時期特攻隊は出されていないはずなので、
この情報はどこかが間違っていると思われます。

その後「スレーター」は日本とキャロリン諸島への護送団護衛任務を行い、
その仕事を最後にアメリカ海軍を退役することになり、
ノーフォークで不活性化後、予備役となりました。

ギリシア海軍に譲渡されたのはそれからさらに後のことです。

 

まあ要するに日本とは「戦わずに済んだ」駆逐艦なんですね。
日本人のわたしとしてはこれはなんとなくほっとする事実でした。

ちなみにHPには「シップ・ログ」がありますので、
ご興味のある方は覗いてみてください。
マニラなどにおける写真はありますが、日本での写真は
滞在がわずか1泊だったせいか一枚もないのが残念です。

最後にガイドの方は、かつての駆逐艦の姿をこれだけ完璧な姿で
現在に残すために、関係者各位がいかに努力をしたか熱く語りました。

そこで見学者が退艦となったのですが、わたしたちが降りる前に
寄付を投入するボックスに20ドルを投入すると、ガイドさんは

「おお、ありがとうございます。寄付は大歓迎ですよ!」

と残りのみんなに聞こえるような大きな声で言ったので、
わたしたちの後の人たちはあわててお札を出しはじめました(笑)

見学したときにはそれほどとは思っていなかったですが、
こうやって調べれば調べるほど、博物館として「スレーター」を維持するのに
絶え間ない資金投入が不可欠であることがよくわかりました。

また機会があったら訪れて、彼らの維持の努力に対し少しでも助力したいと思います。

USS「スレーター」シリーズ 終わり

グッドウィルに寄付された海軍迷彩の謎〜ニューヨーク滞在

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今日は昨年の9月から10月までを過ごしたニューヨーク郊外でみたものを
今更ですがなんとなく写真を貼ってご紹介していきます。

ハドソンリバー沿いにあり、南北戦争の時には戦場になったこともあるこの一帯は、
早くから発展し、 19世紀に建てられたいわゆるビクトリアンハウスが残ります。

ビクトリアン様式とは、ビクトリア女王時代(1837~1901)の美術・工芸様式で、
中世回帰の風潮に乗ってゴシック様式の手法を取り入れたもので、具体的には
従来の石や煉瓦(れんが)などに加え、鉄・コンクリート・ガラスといった
当時の新しい工業的材料を積極的に採用しているのが特徴です。

外面的には細かいところに装飾がなされていて、なかなかにロマンチックなもので、
アメリカでは国内に残るこのビクトリアンハウスを、保存維持していこうという団体もあります。

わたしが借りた家は、そんなビクトリアンハウスのアパートの一室。
重い二重扉を内側に押して入ると、一階の部屋と階段があり、
二階にある2室のうちの一つが通りに面した窓を持つ部屋です。

内部はもちろん何度も階層を重ねていますが、木でできた窓のブラインド、
そして居間とキッチンにある暖炉は昔のまま残されています。

今はサーモスタット付のセントラルヒーティングが通っていて、
暖炉はいつのころからか知りませんが使われていません。

ニューヨークの家なので、ドアは自動ロック、鍵の上にラッチがあり
二重に中から施錠できるようになっています。

インターネット環境は最高、ネットテレビも普通に見られます。
わたしはこの滞在中、この画面でyoutubeを見ながら
広々とした居間でヨガを続けておりました。

向こうで買ったマットを持って帰ってきて、日本でも継続しています。

キッチンから見たダイニングと居間。
一人で住むには広すぎるくらいです。

コーヒーメーカーとトースターのある窓の向こうは隣の家の壁。
ニューヨークの家らしく、窓から非常脱出のための梯子が出ています。

この梯子、うまくできていて、上から降りることはできますが、
最後は飛び降りるようになっていて、下から昇って来ることはできません。

隣の家も19世紀のもので、フランス積みの煉瓦建築。
100年以上の風雨に耐えてきた煉瓦の表面はかなり削れています。

隣の家の丸窓はステンドグラスです。
そういえばこの地方のいくつかの教会には、あの「ティファニー」の
ルイス・ティファニーが手がけた窓が現存しているそうです。

キッチンの前にはワゴンを置いてアイランドキッチンにしてくれているのが
大変使いやすく、便利でした。

ベッドルームは一つ、ソファーもベッドになるので、スペック上は
三人が泊まれる部屋、となっています。

オーナーはこの近所に住む白人系の夫婦で、子供が二人。
ビルディング全てを所有して賃貸にしており、わたしの部屋は
借り手がない空室を遊ばせないためAirbnbに出していたようでした。

部屋を出る時に完璧に元どおりに掃除をし、洗濯をして出たところ、

「彼女は部屋に敬意を払ってくれた。今後いつでもお貸ししたい」

とのコメントを頂きました。
Airbnbは、宿泊が終了してから互いに評価を付け合いますが、
自分が評価をしてからでないと相手の評価が見られない仕組みです。

低評価を付けられたので仕返しにこちらもやったる、というような
醜い争いにならないようにという配慮なんでしょうね。

今回初めて知ったのは、「泊まる側も評価される」ということ。
ちょっと調べてみたら、ほんのたまに、

「彼女と彼女のBFは部屋の使い方が汚く食器も全く洗っておらず・・」

と文句を言われているカスタマーがいました。

住んでいる間、ここでも散歩できるトレイルを探しました。
アメリカの凄いところは、こういう広大な空き地に何も建てずに
長年公園として散歩する人のためだけに維持し続けていることです。

道を切り開いてウォーキングのためのコースをいくつか作り、
立木にマークを付けて迷わないようにしてくれているところが多いです。

このコースは野趣溢れすぎてところどころ足元が歩きにくく、
木立の間を歩くと虫が追いかけてくるので一回歩いただけでした。

今回一番気に入って後半はほぼ毎日行っていたのがこの散歩道。
廃線になった線路を塗りつぶして長い歩道にしてしまったというものです。

ここでは近隣の家から遊びに来ていたらしいこの猫さんに数回出会いました。
猫は同じ時間に同じ行動をしていることが多いので、
同じ時間に行くと必ずと言っていいほど同じところにいるのです。

夫婦で散歩している人たちも必ず1日に1組は目撃しました。
このカップルは車を降りてからずっと手を繋いだままで歩いていました。

歩いていると道と渓流が並行して走る部分があり、絶景です。

これが昔線路だった名残りの鉄橋。

列車に乗った人はこの鉄橋を通るときの眺めを楽しみにしていたことでしょう。

歩いているとよく遭遇した毛虫くん。
秋になると大量に出没して道路を横切るのだそうです。
「イサベラ・タイガー・モス」という蛾の幼虫だとか。

この道のさらに上に掛けられているのは高速道路のための橋。

さて、ここでも「宝探し」感覚でよくモールを探検しました。
今までアメリカの各地で見てきた経験から言わせていただくと、
ことファッションに関しては、同じ系列のストアでも、品揃えがよく
良い品質の物が見つかるのは東はボストン郊外、西は米エリアです。
あとはロングアイランドの「お金持ち地域」にある店とか。

住環境がよく、教育レベルが高いピッツバーグはその点いまいちで、
どんな店に行ってもなんだかピンとこないものしか見つかりません。

ここニューヨーク郊外は、ファッションに関してはピッツバーグよりましですが、
ボストンやサンフランシスコほど洗練されていないと言う感じ。

この日は、あるアウトレットファッションストアに行ってみました。

基本的に全シーズンの売れ残りとかサイズがなくなって
有名デパートから流れて来るものがおおいのですが、このように
このセンスはいかがなものか、みたいな変なデザインのものもあります。

まあ、こんな服も金髪のモデルが着ればそれなりなのかもしれませんが。

同じスーパーの男性用売り場にあったNASAのシャツ。
各国の国旗は、これまで宇宙飛行士を輩出した国のようで、
ちゃんと日本の国旗もありました。

ここにも増えてきている(西海岸ほどではないですが)中国系のために
中華チックなデザインを取り入れてみました・・・的な。

ちなみにボストンのアウトレットモールには
「極度乾燥しなさい」のブランドが入っていますが、この間みてみたら
中国人観光客に媚びてか、中国語バージョンが登場していました。

また別の日。
全米最大のリサイクルショップ、「グッドウィル」があるのを知り、
話の種に?行ってみることにしました。

写真の男性はグッドウィル・インダストリーの創始者、エドガー・ヘルムズ牧師。

ヘルムズ牧師は、富裕層の住む地域で廃棄されている使用済みの家庭用品や衣服を収集し、
それらを修復し修理するために失業者または貧困者を雇い、訓練を施しました。
製品は困っている人に再配布されたり、修理を手伝った人に配られました。

現在は、無償で寄付されたものをアズイズ(そのままの形)で欲しい人に売り、
寄付に対しても税金控除の一助にするなどのメリットを持たせています。

今日、グッドウィルは年間48億ドル以上の収益を獲得し、毎年30万人以上の職業訓練と
コミュニティサービスを提供する国際的な非営利団体となっています。

ただし、どれもいらなくなったので(売るのではなく)引き取ってもらう
というものばかりなので、綺麗なブランド品などは絶対に存在しません。

ハロウィンのかぼちゃや変身用ヅラなど、それこそ不用品の山です。

たぶん動かないけど、ディスプレイとしてはどうだろう、
と言う感じの電化製品とか。

なんでこんなソンブレロ買っちゃったかな。
あのユーミンですら安くされてもいらないわと言えたのに。

意外とたくさんあるのがウェディングドレス。
しかもこれ、値札がついているではないですか。

どう言う事情で値札のついたウェディングドレスをドネートしたのか・・・。

本物の毛皮(シェアードミンク)もちらほら。
毛皮はアメリカではアウトオブデートなので滅多にみませんが、
先日シカゴのオヘア空港で、物凄いみるからに成金な黒人の母子がいて、
そのカーチャンの方がやたら嵩張る毛皮のコートを着ていました。
息子はルイヴィトンとひと目でわかるジャケットとか、とにかく
わかりやすく金目のものを持ちたい人たちのようでしたが、
逆に言うと毛皮はもはやそう言う人の選ぶアイテムになってしまったってことです。

こんなところで二束三文で売られていても不思議ではありません。

ハロウィーン用の衣装もここにくれば必ず何かしら見つかります。
多分だけど、これ暗いところで光ったりしそう。

今回のグッドウィル・ハンティング(笑)で一番衝撃的だったのがこれ。
アメリカ海軍では制服を変換しなくていいんでしょうか。

アメリカ海軍潜水艦隊のメイヒュー1等軍曹、(原潜らしい)
なんと退役してから海軍迷彩を名前付きのままグッドウィルに出しております。

アメリカ海軍の迷彩の材質を知るために買って帰りたかったのは山々ですが、
かさばりそうだし、どう言う経緯でここにきたのかわからないものを
家に置いておくのも躊躇われたので、買わずに帰りました。

っていうか、これを買う人って果たしているんだろうか。

 

 

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