Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2815 articles
Browse latest View live

希望の歌、喜びの歌〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

$
0
0

 

令和元年度の自衛隊音楽まつり、自衛太鼓が終わると
その盛り上がりは最終章のフィナーレにつながっていきます。

その前に、これも音楽まつり恒例となった、演技支援隊の紹介があります。
大きな楽器の出し入れやステージ途中のセッティング、カラーガードが
使用する小物を手渡すなどという細々とした仕事も行います。

東部方面隊から選抜された隊員12名とそれを率いる隊長からなり、
会場のアナウンスでは、

「自衛隊在職中に一度あるか無いか。
ほとんどの自衛官は経験せずに過ごすこの機会を
自分の進化の糧として変換し、幕を閉じるまで
この音楽まつりの進行を支えてまいります」

と紹介されていました。

最終章のテーマは

「ディスティネーションー到達へのひびきー」

演技支援隊の敷いた赤い絨毯を指揮者がまっすぐに指揮台に向かい、
敬礼をすると、スポットライトには4名の奏者が浮かび上がりました。

曲はモーリス・ラヴェルの「ボレロ」。
本来はヴィオラとチェロのピチカートとスネアドラムの刻む、

タン・タタタ・タン・タタタ・タンタン

の繰り返しから入るこの曲ですが、吹奏楽なので
ハープが弦楽器の代わりを行います。

そして、フルートがまずメロディを16章節奏でるのが原曲ですが、
本日のは8章節で別の楽器に交代するという変則アレンジです。

フルート、クラリネットときて原曲には無いユーフォニウム、
そしてトランペットに受け継がれていきます。

リズムの上に執拗にメロディが繰り返されるあいだ、
全部隊はボレロのリズムである三拍子で静かに行進し、
最初のフレーズがリピートされたときには整列を済ませていました。

それと同時に、第302保安警務中隊が音楽まつり参加各国の
国旗を掲げ、入場してきました。

国旗を持つ旗手は赤絨毯の上を、銃を携えた「ガード」は
その横を護衛する形で肩を並べ、進路の両側を
青と白の制服に身を包んだ儀仗隊に守られて歩いていきます。

後ろに見えるコンバス奏者は呉音楽隊からの出張だと思われます。

 

ところでわたしはこの4カ国の旗が入場するのを見るたびに、
4カ国のうち全てが、この旗の下にお互いかつて干戈を交えたことがある、
という事実に思い当たり、感慨を覚えずにはいられませんでした。
アメリカに至っては、他三ヶ国全てが「かつての敵国」です。

平和な時代に生まれるって本当に素晴らしいですね。

曲が盛り上がり、カラーガードがステージ前方に位置すると、
ちょうどそのとき曲は転調し、エンディングへと向かいます。
もちろんステージ用に短くアレンジしてあります。

そのとき、音楽隊以外の全部隊(自衛太鼓、カラーガード、防大儀仗隊)
などが速足で入場してきて、音楽隊の周りに整列しました。

始まる前、どうして太鼓があるのだろう、と思っていたのですが、
このときに謎が解けました。
ラスト4小節、ハ長調に戻ってクライマックスを迎えるところで、
銅鑼とともに自衛太鼓が演奏に加わったのです。

全部で5打、トゥッティ(総員演奏)の大音量の中で
二台の大太鼓の音ははっきりとその存在を主張し、
視覚的にも音楽的にも目を見張るような効果となりました。

そして、このとき、防大儀仗隊の列員が銃を構えています。

ラストサウンドを振り終わった指揮者が、挙げた両手のうち
左手だけをさっと振り下ろすと、儀仗隊の銃が号砲を発射。

銃声は一斉にというわけではなく、
「パパパーン」という感じで三音聴こえてきました。

しかし、この写真を見ると、全部が空包入りではなく、
もしかしたら弾が入っているのは一人置きで、あとは
文字通りの「エア撃ち」なのか?という疑問がわきますね(笑)

「ボレロ」への拍手が止むと「喜びの歌」のメロディが始まりました。
いわずと知れたベートーヴェンの第9交響曲「合唱」の第四楽章です。

今回は何かとベートーヴェンづいていますが、その理由として
ドイツの軍楽隊を招聘するということがあったのでしょうか。

そこで自衛隊の歌手が出場です。
ただし、メロディは「喜びの歌」でも、これはクラシックの人がよく知っている

「♫フロイデ シェーネル グッテル フンケン トフテル アウス エリージウーム」

というあれではなく、

「希望の歌~交響曲第九番~」FULL

という、藤澤ノリマサの曲です。

藤澤バージョンのオリジナル出だしを歌うのは、海自東京音楽隊の男性歌手。
9小節目からは同隊歌手の中川三曹がこれに絡みます。

そのとき、ステージ後方には空自の歌手がペアで。

陸自のペアも後ろでサビの部分(喜びの歌のメロディ)を歌います。

「あなたが笑顔でいられるように みんなが笑顔でいられるように」

日本語にしてみると、なんてこのメロディにぴったりの歌詞なんだろう、
とそのハマり具合には感心せずにはいられません。

どちらかというと日本語歌詞の

「晴たる青空 漂う雲よ 小鳥は歌えり 林に森に」

よりも、なんというか言葉が人ごとではない感じがあります。

演奏をしない部隊は決められた振り付けでステップ踏みながら拍手。

ワンコーラス終わると、後ろにいた空自ペアが前に出てきて二人で歌います。

管楽器奏者は普通に歌が上手い人が多いので、
音楽まつりの歌手も人材に事欠きません。

男性歌手、みなさん本業ではないにもかかわらず大変お上手です。

海自の二人はその間後方にお目見え。

そして陸自の二人が引きついで2コーラス目の最後を。
その間彫刻のように身動ぎもせず立ち続ける302。
「ボレロ」で行進してきて、音楽が止まった時に立ち止まってから
一度も整列し直していないにもかかわらず列に全く乱れがありません。

恐るべし第302保安警務中隊。

ほとんどの人が笑顔なので見ていてこちらが嬉しい。
「エガオノチカラ」です。

どさくさに紛れて? ハイファイブしている人たちもいるよ。

3コーラス目は歌手六人全員で熱唱。
東京音楽隊の中川三曹は得意のハイトーンでオブリガードを。

今年の男性歌手は体型と背丈がわりと揃っていますね。
三人でコーラスグループ(名前は”J’s-ジエイズ-”とかね)組めそう(笑)

カラーガードと自衛太鼓が交互に並んでいます。

最終章の指揮を行うは海上自衛隊東京音楽隊長、
樋口好雄二等海佐。

先般の即位礼に伴う国民祭典では自衛隊音楽隊が大活躍でしたが、
黛敏郎の作曲した「黎明」を指揮したのは陸自中央音楽隊の
樋口孝博一佐、そしてこちらの樋口好雄二佐がファンファーレを指揮しました。

また、そのときの陸海空合同音楽隊での「威風堂々」の指揮は
空自中央音楽隊長松井徹生二等空佐でした。

「希望の歌」が感動のうちに終わりました。

楽器を持っていない人は両手を大きく振って・・。

全出場部隊の退場曲が始まりました。

「君が代行進曲」です。

両手バイバイで退場していく出演部隊。
手前の陸自隊員は「千本桜」のボイスパーカッション奏者じゃないかな?

全員がはけて暗くなった会場に、ピアノの音が流れました。
「ベートーヴェンコラージュ」で演奏した太田沙和子一等海曹です。

東京音楽隊の歌手、中川真梨子三等海曹が歌う
「瑠璃色の地球」が始まりました。

このとき会場のスクリーンに映し出されていたのがこの映像。
この組み合わせにグッときて熱いものがこみ上げてきたわたしです。

暗い会場に蛍のような光が舞い、スクリーンに映し出された
銀河系の映像と相まってうっとりするような効果を醸し出していました。

歌が続く中、最終章の指揮を行った樋口二佐が赤絨毯をまっすぐ歩み・・、

最後のピアノの音と同時に静かに敬礼を行いました。
この瞬間音楽まつりは終了します。

代々木体育館の会場入退場は、二つの入退場口から一方通行で行います。
その点武道館よりも人の流れがスムーズに行われるのですが、
箱が大きいだけに入場者数も大幅に増やしたらしく、
終わってから体育館を出るまでが大変でした。

ようやく会場の端までたどりついたとき、演技支援隊が
これからお仕事らしく整列しているのが見えました。
真ん中に立っているメガネの隊員が確か隊長だったと記憶します。

最後に紹介されていた隊員は全員ではなかったんですね。

最後にフロアをのぞいてみたら、赤絨毯にカーペットクリーナーをかけてました。

最初の日、体育館の外に出た人たちは皆、NHK通りのイルミネーション、
「青の洞窟」のブルーの灯に歓声をあげていました。

今回縁あってここ代々木で自衛隊の奏でる音楽に酔いしれた人々にとって、
イルミネーションでブルーに輝く並木は、令和最初の音楽まつりを
思い出深く彩る最高の舞台装置となったに違いありません。

 

 

終わり。

 


三机・九軍神慰霊の旅〜愛媛県伊方町

$
0
0

やっと音楽まつりのご報告が終わりましたが、その音楽まつりが
始まってからというもの、阪神基地隊の年末行事、旧軍軍人英霊の慰霊祭、
人間ドック、上原ひろみのコンサートとやたらと行事が集中してしまいました。

ドック入りは本来アメリカから帰ってすぐに予約を入れていたのですが、
今回は事情があって帰国する日を伸ばしたため、予約を取り直してもらい、
こんな忙しい師走に病院で二泊三日(うち1日はPET )過ごす羽目に。

 

今回入渠を行った千葉の亀田クリニックは、病院らしくない病室に、
病院らしくない房総の海を眺める絶景レストランと、辛くて面白くない
検査がほんのりリゾートスパ気分で受けられる数少ない総合病院で、
病室から「ルームサービス」もできるレストランには、和洋中スィーツ、
鉄板焼きコーナーもあって、フィレミニヨンステーキは焼き加減を聞いてくれます。

しかしいかに洒落orzなレストランといえど病院なのでクローズが8時。

というわけで、二日目は最初の食事が午後4時だったのに、
夕ご飯は7時に食べなくてはならなくなってしまいました。

もっともお腹が空いていなければ食べなきゃいいんですが、
食事もお高いドック代に含まれているとなると、パスするのも惜しく、
一応行って、指定の定食(和食洋食から選べる)を頼みました。

前の食事から3時間しか経っていないのにこんなのぜってー無理。

 

さて、ドックの結果は何の異常も認められませんでしたが、
ただ今回、自分で低めと思っていた血圧が、そんなものではなく、
異常に低かったことを思い知りました。

元来わたしは上限100超えることはまずない筋金入りの低血圧。
今回測定をした看護師さんは、数値を見てえらく驚き(50−84)、

「いつもこんなんですか?」

「はあ、こんなもんですねー」

「いや、ちょっと低すぎるのでもう一度測りましょう」

しゅこしゅこしゅこしゅこ・ぷしゅ〜〜〜

「・・・・測らなきゃよかった」

「やっぱり低いすか」

「上が70台です」

「大丈夫です。それくらいは普通というかよくあります」

「ちょっと・・・あの、低すぎるかと。生活に支障は?」

「急に立ち上がったら立ちくらみするくらいですが、
小学校の頃からそんなですし、朝は普通に起きてます。
そんなに珍しいですか」

「珍しいです」(きっぱり)

どんなことでも珍しいといわれるとちょっと嬉しいのはなぜ。

さて、ドック前の週末は阪神基地隊の年末行事に行ってまいりました。
ただし、参加できたのはラスト30分だけです。

いつも週末飛行機に乗るときには空港駐車場が混むので早くきて、
出発時刻までラウンジでゆっくりすることにしているのですが、
この日だけは何を思ったのか、飛行機の便まで早めに取っていたのを
すっかり忘れ、ラウンジで青汁牛乳割りをのんびりと飲んでいるうちに
取った便は出発してしまっていました。

こんなこともあろうかと、変更可能なビジネス切符にしておいたので、
あわててその次の便の空席(最後の一席)に乗ったのですが、
この日の羽田は何があったのか大変な混雑で、出発が30分遅れる始末。

伊丹に着いて車を飛ばし、30分で阪神基地隊に到着しましたが、
基地正門では警衛の隊員さんに、

「今からですか」

と不思議そうに聞かれてしまいました。

到着したら、阪神基地隊司令寺田一佐の前に挨拶の列ができていたので、
様子を見てご挨拶しようと思いつつ、ふと脇のテーブルを見ると・・・、

今回は木下と臼を見ることすらできなかった餅つき大会の成果、
搗き立て餅の盛り合わせセットがありました。

受付で五千円(値上げしたっぽい)参加費を支払ったことでもあるし、
せめてお餅くらいはいただいてみようと写真を撮っていたら、
そんなわたしに声をかけてこられた方がおられます。

「あのー、ブログをやってらっしゃる方ですか」

当ブログ読者キタ━━━━━(゚∀゚;)━━━━━・・・・・????

さすがにこう同じようなことが起こると以前ほど動揺しなくなりましたが、
それにしてもなぜわかったのでしょうか。

「髪の毛が長くてカメラを持っておられるので・・・」

なるほどー。それはいいところに気がついたね。

声をかけてこられた方は水交会と自衛隊家族会の会員で、
やはり息子さんが海上自衛官。
名詞の裏側の写真は、カメラがご趣味の父上が撮った
息子さんのこれまで乗った艦と山岳写真でした。

肩にCanonのEOS を下げておられる方でしたが、当ブログに掲載している
写真を褒めて頂き、望外の喜びでした。(その辺全く期待していないので)

なんでも、当ブログに挙げた自衛隊活動写真に、息子さんが
通算3回も写っておられたということで、偶然とはいえ
そんなこともあるんだ、と驚いたものです。

また登山を趣味とされており、関西出身者なら一度は耳にしたことがある
「六甲縦走」(須磨浦公園から六甲尾根を丸一日縦走する登山コース)
を何回もなさっているという方だったので、そんなお話や、
自衛官の息子さんのお話を楽しく伺っているうちに、
あっという間にお開きの時間になってしまいました。

遅れてきたので誰だったのかわかりません。
政治家の先生の最後のごあいさつだけを拝聴しました。

盛会だったようで何よりです。

関西で行われる艦上セレプションでは食べ物がすぐなくなる、
と何度もネタにしてきましたが、艦上でない場合には
料理もたっぷり用意されているせいか、そのようなことはありません。

テーブルの上のお菓子をせっせとカバンに入れている人は見ましたが。

というわけで、帰りに基地司令、先任伍長らにご挨拶する以外は
一人の方とお話しするだけで終わってしまった行事でしたが、
楽しかったからヨシ!

阪神基地隊の庁舎は全面改装中でした。

ところで、最近伊丹空港のリニューアルが完成して、
飲食店が増えただけでなく、航空会社ラウンジもきれいになりました。

フリークェントカスタマーは専用のセキュリティゲートも使えるのですが、
わたしがアメリカから帰ってきてからというもの、このセキュリティが
やたら厳しくなって、コートはもちろんジャケット(カーディガン状のも)
まで脱げと要求され、ブーツは必ず脱がされるようになりました。

女性の場合、カーディガンの下がキャミソールだったりして
脱げないこともあるのですが、そういうと、全身くまなくボディタッチされ、
スリッパでぺたぺた歩かされるという辱めを受けます。

そんなことをしているのでセキュリティにやたら時間がかかり、
週末の朝など、プライオリティゲートですら長蛇の列ができています。

一度、ゲートの係員に

「何だか最近厳しいですね」

というと、国土交通省からの指導があったからだと答えました。
いったんそういうことになると、例外を認めず、長蛇の列ができようが
女性のカーディガンまで脱がせてきっちりやるのが日本の公的機関です。

年末年始の国内移動時はどんな地獄になることやら。

さて、阪神基地隊年末行事の次の日のこと。
夕方に帰宅したわたしは早々に就寝しました。
なぜなら、次の日、愛媛県松山空港に行く飛行機が
朝7時に出発するからです。

松山だったら神戸から行けば近かったんじゃね?
という説もありますが、飛行機の切符は片道で取ると
二回往復するより高くなるという不思議システムなので、
いったん家に帰るしかなかったのです。

昨日のような間違いを二度とすることのないように、
何度も出発時間を確かめ(笑)4時起きして空港には
1時間前に到着。

飛行機がタキシングしているとき、

「三興丸」

という、三興運油の運油船が航行しているのを見ました。

今回は珍しく窓際を選択したのですが、ラッキーなことに
雲のない晴天だったので写真を撮ってみました。
東京湾にかかるベイブリッジ、スカイツリーもはっきり見えます。

景色を見るために右側の席を予約しておきました。
晴れているとアルプス山脈(だと思う)がこんなに見えます。

まるで白い絨毯のような分厚い雲。

瀬戸内海上空に差し掛かりました。
たくさん島がありすぎて名前を特定することは不可能でしたが、
どうもこの島はリゾート開発でもしているようです。

島と島を結ぶ橋。

こんな景色を見るうちに松山空港に到着です。
本日の目的は愛媛県の西端に細長く伸びる角のような半島の
原子力発電所と同じ名前を持つ伊方町の三机です。

この名前をみて、すぐに歴史的な出来事を思い出すのは
一部の戦史に造詣の深い人だけに違いありません。

昭和16年12月8日、海軍のハワイ奇襲によって大東亜戦争が始まった日、
同時に5隻の特殊潜航艇による真珠湾攻撃が行われ、捕虜となった
酒巻中尉をのぞく九人の乗組員は、攻撃の翌年、大本営発表によって
全員戦死を遂げ、「九軍神」になったとされました。

ここ三机には昭和15年ごろから特殊潜航艇の訓練基地があり、
真珠湾突入の十人のほか、シドニー湾に突入した松尾敬宇大尉、
あるいはのちに「回天」の開発を行った黒木大尉といった若者たちが
この三机で極秘の訓練を受けるために滞在していました。

わたしは、毎年地元青年団が主宰する慰霊祭に深く関わってこられた
ある海上自衛隊OBの方にお誘いをいただき、今回初めて
12月8日の真珠湾突入日を命日として行われる九軍神の慰霊祭に
参加させていただくことになったのです。

松山空港から現地までは途中までしか鉄道の便がないので、
わたしは空港でレンタカーを借りることにしました。

「時間があれば瀬戸内海沿いの道を通ると風光明媚です」

と教えていただいていたのですが、レンタカーに乗って
ナビを入れると、到着予定時間が慰霊祭が終わった時間だったので、
風光明媚は諦めて高速道を選択しました。

高速を降りて197号線を走っていると、伊方到着直前、
いきなり「みかんの花が〜」のメロディが聴こえてきてビビリました。

「何だ今のは」

思いながら走っていると、「佐田岬メロディライン」という看板がありました。

車のタイヤと道路の振動でメロディが聞こえるような設置がされているのです。

佐田岬メロディライン R197 「みかんの花咲く丘」 愛媛県 伊方町 

道路に細かい溝が刻まれていて、一定の速度(50km)で走ると
その幅の違う溝が音程をつくり、メロディに聞こえるのだとか。

メロディラインには三曲が設定されているそうですが、行きに
一曲しか聴こえなかったのは、速度が50キロを超えていたのでしょう。

ナビの案内通り1時間半走って、指定時間まであと10分、
というとき、ちょうど車は山を越えて三机港を見下ろす道に出ました。

本当に小さな小さな漁村です。
特殊潜航艇の訓練が行われていた頃、三机村だったこの地は、
昭和30年に伊方町に統合されましたが、現在の人口も3千人くらいです。
地図で調べたところ、三机には小学校しかなく、中学校は山を越えたところに、
高校はどこが近いかわからないというくらいの過疎地です。

慰霊祭の主宰は青年団ということですが、こういう土地で
逆によく若い人が残っているものだと思ったりしました。

鉄道はいまでもありませんが、昔は海上交通が盛んでした。

待ち合わせに指定された「町民センター」に到着したのは 
ぴったり海軍5分前。
1時間半ドライブして、こんな正確に到着できたのも
英霊のお導きではないかとふと思ったりしました。

比較的近代的な(おそらく平成初期の建築)町民センターの向かいは
間違いなく九軍神がここに滞在していたころからあった民家。

町民センターの向かいのこの家は、松本旅館。
細部は改装を重ねていますが、躯体は当時のままだそうです。

こちらには特殊潜航艇の乗組員のうち、艇附であった下士官
(横山薫範、佐々木直吉、上田定、片山義雄、稲垣清兵)
が宿泊していたと後で聞いて驚きました。

そして、この上から二軒目があの「岩宮旅館」です。
岩宮旅館には、隊長の岩佐直治大尉以下、横山正治中尉、
古野繁実中尉、広尾彰少尉、そして酒巻和男少尉ら
海軍兵学校卒の士官たちが宿泊していました。

慰霊祭の前、そして慰霊祭終了後の直会の後にも、
わたしたちは岩宮旅館の玄関にある資料を前に、
説明を伺うことができました。

岩宮旅館は戦後建て替えを行っていますが、
場所は全く同じで変わっていないそうです。

岩宮旅館の隣の家は開業医がいたらしく、
すっかり錆びた看板がまだ残されていました。

昭和15年に訓練が始まった頃には、1ヶ月おきにやってきて、
その度に1週間から10日ほど滞在していたそうですが、
日米開戦が近いと目されていた昭和16年の春からは、
両旅館に泊まりこみになったということです。

その間、メンバーの誰かがこの医院にかかることなど
一度くらいはあったかもしれません。

慰霊祭の時間が近づきました。
わたしは参加者の海自OBの方が乗ってきた車に乗せて頂き、
山上のドライブウェイから見えていた砂州のようなところにある
須賀公園の駐車場までやってきました。

ここから歩いて公園の奥まで行くと、そこが慰霊祭会場です。

例年慰霊祭は青年団が開催するため夕刻からの開始になるのですが、
今年は12月8日が週末だったため、昼に行われることになりました。

「かなり寒いので防寒対策をしっかり行ってください」

と脅かされて?いたのですが、思っていたほどの寒さはなく、
むしろ日差しが強くてじっとしていると暑いくらいです。

ただ、この公園に来てみると、風の強さには驚きました。

車を止めたところから慰霊碑まで歩いて行く途中に咲いていた小菊。
名前は知りませんが、供花にされる種類ではないでしょうか。

慰霊祭はこのあと12時から開始となりました。

 

続く。

 

真珠湾攻撃 九軍神慰霊祭〜酒巻少尉の写真

$
0
0

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇で突入した艇長と艇附、
士官と下士官9名の英霊「九軍神」の慰霊祭にお誘いいただいたとき、
どのような経緯で12月8日の慰霊がこのようなところで行われてきたのか、
全くその経緯についてわたしは知識がありませんでした。

参加の意思を伝えてから、茶封筒にボールペンの手書きで
三机からの案内状が届いたのですが、何日かして追いかけるように届いた
もう一通には、先の案内状の電話番号の訂正だけが書かれていました。

どうして今時メールという通信手段を使わないのだろうと思いつつ、
その丁寧さに驚いた、と誘ってくださった提督にお伝えすると、

「会えばわかりますが、茶髪やピアスをした普通の青年です。
ただ子供の頃から九軍神の話を聞いて育ち、自分たちと同世代の若者の生きざま、
自己犠牲の精神には尊敬の念を持って自然な形で代々慰霊祭を続けています。
我々海自OBは銃数年前にそのことを知り、陰ながら応援しています。」

という返答をいただきました。

戦史にその名を仰ぎ見た九軍神の慰霊に参加できる感激もさることながら、
今の若い人たちがどんなふうに英霊の顕彰を受け継いで、
後世に伝えようとしているのかぜひ見てみたい、と思ったのはそのときです。

街全体の面積に比してこの須賀公園というのは広すぎる気もするのですが、
もともとあったらしい八幡神社を中心に、キャンプ場や炊事場、広場を作り、
ここをちょっとしたレジャー地にしようとしたようです。

九軍神慰霊碑はここにもしっかりその名称が記されています。

整備の際に設置されたと思われるプール。
ということは、こんな静かな内海なのに海水浴はできないのでしょうか。

砂浜がない、ということはとりもなおさず海の深さを表しています。

かつてこの三机で特殊潜航艇・甲標的の乗組員が訓練をしていたとき、
この三机湾の沖には母艦「千代田」が停泊し、その威容を見せていました。

真珠湾攻撃の半年前の昭和16年春になると、十人の男たちは
三机の旅館に泊まり込みとなり、毎朝8時になると、旅館の女将が作った
弁当を持って出て行き、夕方6じごろには戻ってくるという
まるでサラリーマンのような生活をしていたそうですが、
地元の人々との接触はなく、もとより村の人々も、彼らが
何をしているのか尋ねることもなかったということです。

訓練終了後の潜航艇には厳重にカバーで覆われ、村の人々は
彼らが何をしているかわからないなりに、厳しい訓練を行っているらしいと
なんとなく察していましたが、同年の11月中旬、十人の軍人が
休暇から帰ってきてすぐに、三机湾沖の「千代田」は突如姿を消しました。

そしてほどなく、大東亜戦争開戦の知らせがこの小さな漁村にも伝わりますが、
まさかその海戦にあの軍人たちが関わっているとは誰も思わなかったといいます。

大本営が酒巻少尉を除く九人が特殊潜航艇で真珠湾に突入し、
戦死を遂げて「軍神」となったことを発表したのは、翌年の3月6日。
その日、三机村の人々は、あの軍人たちがここで何をしていたのか、
初めて知ることになったのでした。

強い潮風から護られるように周りを深い木々で囲まれた広場に
「大東亜戦争級軍神慰霊碑」はありました。
注連を巻かれ、清酒や供物が供えられています。

慰霊碑の前には、九軍神の写真が並んでいます。
海軍の慣習に倣って、全員の真ん中に隊長の岩佐直治中佐(海兵65期)。
その両脇に67期の古野繁実・横山正治少佐。

横山少佐は、わたしが再々ここで扱っている獅子文六の小説、
「海軍」のモデルとなりました。

兵学校68期の広尾彰大尉は、古野少佐の左。
本来なら横山少佐の右には酒巻少尉が二階級特進して
酒巻大尉となり、並ぶはずでした。

四名の両側に、下士官であった五名の艇附の写真が並びます。
映画「海軍」では、艇附が中年のおじさんになっていましたが、
最年長であった岩佐大尉の艇附、佐々木直吉少尉ですら28歳、
酒巻艇の艇附稲垣兵曹長26歳、あとは25、24、23歳と
全員が二十代前半の若者たちでした。

海軍という組織の不思議なところで、艇附は必ず艇長より年上です。
年齢が上でも士官と下士官では士官が上級であり先任ですが、
この組み合わせは、海軍での経験豊かな優秀な下士官を
士官の補助に付け、実質指導させることが目的だったと思われます。

 

本日は慰霊祭なので慰霊碑前に遺影が飾られていますが、
ここにはふらりとキャンプなどで訪れる人たちにも
慰霊碑の示すところの意味を広く知らしめるべく、このような
立派な説明のプレートが設置されているのでした。

この碑は、昭和16年12月8日大東亜戦争の先陣として
ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊として散った
九人の軍神を慰霊するために建立されたものである。

軍神は戦いに赴く前に、三机湾を真珠湾にみたてて
極秘の訓練を受けるために、この地に滞在したが
同地方の人々との交流も深く、彼等の逸話美談が
今も町民の間の語り草となっている。

この解説板の背景の九本の柱は、
軍神のみたまの数をあらわしたものである。

金属のプレートは、この日の青空と緑とともに、
彼らのみたまを表すという九本の柱を映しています。

この下線部分は、「秘密保持のために交流はなく」
とされた先ほどの記述と正反対なのですが、これは矛盾するものではなく、
彼らは村人に礼儀正しく、旅館の人々などには青年らしさを見せながら
訓練については厳に口を謹んで一言も言わなかったということなのでしょう。

わたしが解説の前に立ち、写真を撮っていると、
髭を蓄えた紳士が近づいてきて解説板の足元にある大理石を指差しました。

「ここには、何年か前まで酒巻少尉の写真があったんです」

えっ、とわたしは息を飲みました。
全員が戦死した甲標的の乗員の中で、たった一人生き残った酒巻和男少尉。

ジャイロが故障し(というか出撃前からわかっていたらしい)
目標を見失った甲標的で迷走したのち、艇附の稲垣兵曹とともに
艇を捨てて海に飛び込んだ結果、自分だけが砂浜に打ち上げられ、
米軍の「捕虜一号」となった酒巻少尉については、当ブログでも
何度となく折に触れて語ってきました。

真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が公表されて以降、
群馬、鹿児島、福岡、佐賀、鳥取、島根、広島、岡山、
そして三重と、見事に一つも重なっていない彼らの故郷には
軍神詣での人々が絶えなかったということです。

しかし捕虜、そして「真珠湾で死に損なった男」として、ある意味
他の誰よりも過酷なその後の人生を送ったのが酒巻少尉でした。

酒巻和男という人間の立場から見ると、「九軍神」という称号は
捕虜になってしまった彼の存在をなかったことにするものであり、
これこそ海軍によって日本中に膾炙された残酷な欺瞞でもあります。

酒巻少尉の写真を最初に九軍神の碑の足下に供えたのは誰だったのだろうか。

そして、それはいつからあって、なぜある日突然無くなったのか。

いくら問うても、誰が、いつ、なんのために、という疑問が湧くばかりで、
それでは何が正しいのか、どうなるべきなのかに対する答えは見つかりません。

何よりもわたしが考えずにいられなかったのは、
この地を慰霊のために訪ねてきたという酒巻和男氏
(戦後ブラジルに渡りトヨタ・ブラジルの社長になった)は、
ここに置かれた自分の写真を見ることがあったのか、ということです。

おそらく彼ならば、自分の写真がここにあることを望むまい、
とわたしは漠然と思うだけですが、いずれにせよその疑問に対する
答えが明らかになることは永久にないでしょう。

慰霊碑の横には飛行機のプロペラが飾ってありました。
夜間戦闘機「極光」のものです。

陸上爆撃機「銀河」を夜戦用に改造したB29迎撃用の
レーダー付き双発重戦闘機で「月光」を応援して夜間
B29に対する本土防空戦に参加することになっていたが、
性能不足で活躍の場がなかったという悲しい運命を持つ

全長15メートル 全幅20メートル 乗員三名
全重量 1350 最大速度毎時282キロ

武装20ミリ旋回銃二挺 20ミリ機銃1挺

「悲しい運命を持つ」という一文がなんかじわじわきますね。

なぜここにプロペラがあるのかの説明はありませんが、
石碑とともに設置されたのは平成2年のことだそうです。

慰霊碑の後ろには九軍神の名前と階級の下に、碑文があります。
カタカナで書かれているのを読みやすく直してここに掲載しておきます。

臆 殉国忠勇平和礎石の九軍神 昭和16年12月8日未明
大東亜戦争の先陣として ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊第一号
面目躍如輝く戦果を揚げ また能く我が空軍爆的の烽火(ほうか=のろし)
となり 海空呼応壮絶無比 一大緒戦を展開

自らは従容艇と運命を与にし 壮烈湾深きところ 浪の華と散行きし九軍神
三机湾は 当時日本の真珠湾として 緒勇士と特殊潜航艇が一心同体
生死諦観 決死の猛訓練基地となり 海軍を哭かしめる門外不出の秘境であった。

17年3月 九軍神の勲功氏名の発表せらるるや 沈黙果敢天晴の最後に
驚嘆し 三机の人々は感涙した。

当時若桜の九軍神 マダガスカル・シドニー等で散華した緒勇士が
三机に遺した逸話美談は 一斉に花と咲いた。

歌書よりも軍書に悲し三机湾も 今や戦争の真珠湾から平和の真珠湾に衣更え
日米を真珠で結ぶ山紫水明の平和境となり 観光客も次第にその数を増しつつある。

九軍神は戦争の犠牲となり また平和の礎石ともなる
戦争放棄 平和憲法治下 国土平安民生安定の福祉国家として
新生日本はたくましく前進する。

嗚呼 芳しきかな護国の英霊 瀬戸町有志は広く浄財を募って
軍神由緒の地に 慰霊碑を建立して その功績を敬仰する。

旧軍神の英霊永久に冥せられよ。

昭和41年8月吉日健之

前半がまるで戦時中のような語調だったのが、後半にきて
いきなり「戦争放棄」「平和憲法」というのが不思議といえば不思議ですが、
まあつまりこれが昭和41年ごろの日本国民というものかもしれません。

石碑の土台には瀬戸町長をはじめ建設委員であった
当時の町会議員の名前が刻まれていました。

おそらくは当時の町長、町議会議員のほとんどが
三机で訓練を行っていた軍人たちを記憶に止めていたことでしょう。

知らない者に対しては、その逸話を知る者たちが、彼らがいかに礼儀正しく、
また地元の人々に対し「美談」が生まれるほどの印象を与えたかを語りました。

現在の瀬戸町の若者たちも幼い頃から彼らの物語を聞いて育ったのです。

慰霊式の時間直前になって、青年団の若い人が
国旗と自衛艦旗掲揚のやり方を自衛官に指導してもらっています。

毎年の慰霊祭には海上自衛隊から派遣されて自衛官が出席し、
烏帽子に直垂の装束を纏った神主までいて大変立派なものです。

慰霊碑の前にしつらえられた椅子に参加者が揃ったところで
定刻となり、いよいよ九軍神慰霊祭が開始されることになりました。

 

続く。

 

ベイエリア トレイル三昧〜サンフランシスコ

$
0
0

今年の夏は当初東海岸から西海岸に移動し、そのまま日本に帰るという
動線的に美しい予定を立てていたのですが、急遽ニューヨークで
所用ができてしまったため、サンフランシスコ滞在の日を少なくしてまた再び
東海岸に飛ぶというアクロバティックな旅程になりました。

大好きなベイエリアの滞在期間が短くなったのは残念ですが、その分
勝手知ったる第二の故郷を存分に楽しむことを決意。

そこで、今まで訪れていながら知らなかった場所を歩いてみようと、
地図上で「Trail」と示された場所に片っ端から行ってみることにしました。
わたしが家を借りていたバーリンゲームから車で行ける距離だけでも、
アメリカにはとんでもない数の「トレイル」が存在します。

まずここは住宅街の中の公園で、近所の人が犬の散歩に来るような、
トレイル評論家のわたしに言わせると星ひとつランク。

写真の老夫婦は歩いている間ずっと手を繋いでいました。

ここはメインが球技などのグラウンドで、なんとローラースケーター用の
本格的なリンクがあるのですが、施錠されていないので、セキュリティのため
監視カメラが常時作動しているようです。

「SMILE YOU'RE ON CAMERA」

さすがベイエリア、なかなかキレッキレの警告です。

また別の日、サンフランシスコベイを臨む海辺のトレイルに行ってみました。
湾に沿った部分はほとんど全域にトレイルがあり、
とても10日では制覇することは不可能です。

水辺のカモメが今何か食べられそうな貝をゲットしました。

アメリカの鳩は日本より目つきが可愛らしく色が茶色よりです。

釣り専用の桟橋がわざわざ設置してあるあたりがベイエリア。

散歩道と公園、そしてマリーナがいたるところに。
地図で検索して出てこないようなところにもハーバーが点在しています。

ゴルフもそうですが、アメリカではヨットを持つこともその気になれば
日本より簡単に、しかもお手頃価格で可能。

ヨット以外のウォーターアクティビティの敷居が近いのも
アメリカという国の羨ましいところ。

ちょっとこの地に観光できただけの人が、その日の思いつきで
カヌーに乗ってベイに漕ぎ出すこともできるのです。

トレイルを歩くときにはいつも、30分歩いてUターンし戻ってくる
「1時間コース」、3キロ歩いて戻ってくる「6キロコース」、
気力があって天候状態がよければ「2時間コース」を
その日のスケジュールや体調と相談しながら決めます。

この日のベイエリアは日差しが強く、1時間コースがやっとでした。

帰ってくると、最初のポイントである岩を積み重ねた突堤で
旅行者らしい二人が仲良くサンマテオ橋をバックに自撮りをしていました。

さて、また別の日には、少し足を伸ばしてグーグル本社の近くの
マウンテンビューのショアラインパークに歩きに行きました。
いつもは夏休みで子供達のキャンプが行われているショアライン湖ですが、

♪今は 暦の上ではもう秋 誰も いない海〜

ということで湖面は観光客の足こぎボートが見えるだけです。

ここに来れば、比較的人馴れしたカリフォルニアジリスに会えます。

今年はスタンフォードのディッシュには寄れませんでしたから、
ジリスを見た唯一の機会です。

ここで何度も紹介していますが、カリフォルニアジリスは
地面に穴を掘って住み、天敵である蛇と戦って生きています。

いつものように足元のリスにカメラを向けながらふと気がつくと、
この反対側のかなり広い部分に柵が張られ、何か建てるのか
地面が掘り返されているではありませんか。

確かそこにもたくさんリスが生息していたはずですが、
地面の彼らの巣は一体どうなってしまったのか・・・・。

そしてそこに住んでいたリスたちの運命は・・・?

リス地帯を通り過ぎ、ショアライン湖の横を抜けると、そこからは
スラウという湿地帯が広がっています。
カリフォルニアではここを「バーズサンクチュアリ」、保護地区に制定しています。

ここの主のような存在であるペリカン。
ここには昔からペリカンの一大コロニーがあります。

ペリカンは水上で数匹単位で行動することが多いようです。

みんなで魚を追い込むとか、そういう高度なことはしないのに、
なぜ一緒にいるのか。

例えばこのうち一羽が獲物を見つけたらしい動きをしますと・・・、

全員が同時に首をつっこむのです。
つまり、お互いが「相手が見つけた魚を横取りしちゃる」
という下心の元に行動を共にしているということなんですね。

そう思ってみると、仲良く一緒に泳いでいる彼ら、実はお互い
相手の一挙一動に神経を集中しているらしい様子が窺えます。

単独で空を飛び、獲物を見つけると急降下して水にダイブする
アジサシ。
水に飛び込んでいくところです。

入水角ほぼ90度。
実際に見ると目にもとまらない速さで弾丸のようです。

首が着水した瞬間。
生きていくために1日に何回もこんなダイブを繰り返します。

何年か前はカリフォルニアの深刻な水不足のせいで、この一帯に
水が全くと言っていいほどなくなってしまい、ペリカンのような
体の大きい鳥は姿を消してしまったことがあり、心配したものですが、
今年行ってみると水量はほぼ従前通りになっていて安心しました。

この日は友人と会うことになっていたので、湖を望むカフェを指定したのですが、
レイバーデイとやらでものすごい人だったので彼女が車を停められず、
仕方なくスタンフォードのベーカリーカフェに移動しました。

ここもブランチを楽しみに来る人で混雑していていずいぶん待たされましたが・・。

やっとありついた遅い朝ごはんは、スペイン風オムレツです。

サンフランシスコ市内にも何度か足を向けました。
これは、うっかり間違えて一番渋滞するルートに入ってしまった時。
左も右も恒常的に大渋滞するポイントです。

この日、市内で信号待ちをしていて道路脇にホームレスの群れ発見。
サンフランシスコのダウンタウンは、うっかり道を間違えると
昼間でも道端に転がるホームレスを見ながら昔の駅のトイレみたいな
臭いの中を身構えながら歩いていかなければなりません。

しかし街の外れに生息する皆様はずいぶんお道具持ちでいらっしゃる。

どこかのお店のカートは基本ですが自転車にトランク、テントまで!

何より彼らのきている服の綺麗なこと。
ダウンタウンのホームレスより明らかに『いい暮らし』をしているらしく、
首輪をつけた犬まで飼っているという・・・・。

今いるニューヨークの郊外の街も、散歩に行くために高速を降りると、
そこでいつも爽やかに手を降っているホームレスがいるのですが、
明らかに身なりはさっぱりしていて、時々ホームレスではない人が
横に立って世間話をしているので不思議でたまりません。

最近アメリカではホームレスが増えたのは体感的に事実ですが、
皆が皆悲惨な生活をしているわけではないらしいんですよね。

ダウンタウンまで来たときにいつも通る高速の入り口の倉庫に
「One Way」ならぬ「One Tree」があるのはここでもお話ししたことがありますが、
今回初めて渋滞をいいことに通り過ぎてから写真を撮りました。

昔は矢印の先に木が位置していたのに、明らかに違う方向に育っています。

バーリンゲームで見た交通違反らしい車とそれを停めたパトカー。
車に近づいて声をかけるとき、警官は色々と身構えている様子がわかります。
おそらく右手は銃のホルダーにかかっているものと思われ。

日本と違って、停めた車の運転手がヤバいやつ、あるいは見つかったらヤバいものを
持っているとか言う場合、問答無用で警官を撃ってくることがあり、
それで何人もの警官がこれまで命を落としているわけですから。

昔サンフランシスコ在住だったときに住んでいた家の近くです。
霧の多いときには夏でもこんな空になり、気温は低くなります。
とてもノースリーブやTシャツ一枚で歩ける地域ではありません。

滞在中一度だけゴールデンゲートブリッジを眺める自然公園、
クリッシーフィールドに歩きに行きました。

この日のブリッジはご覧のように上が全く見えない状態です。

スワンの浮き輪は役に立ったのでしょうか。

クリッシーフィールドはゴールデンゲート下を流れる海に面していますが、
そこと一部で繋がった「マーシュMarsh」、沼地の部分には、
サギ(右)とかシギ(左)などの淡水で生息する水鳥がいます。

こちらは海鳥。
すげー変な顔なのでちょっと調べてみたら、

Surf scoter (アラナミキンクロ)

という渡り鳥であることがわかりました。

オスは全身が濃い黒で、額の大きな角斑と後頭部の大きな白色の三角が特徴的
嘴に黄色、橙色、黒色、白色の4色の模様がある(wiki)

いつ見ても観光客でいっぱいです。
(観光客は大概買ったばかりのトレーナーを着ていたり、無謀にも
Tシャツのままで来てそのまま過ごす豪快さんなのですぐわかる)

水上機が飛来しました。

機体番号が判明したので調べてみると、ミルバレーにある

「Seaplane Adventures」

と言う飛行機ツァーの会社の飛行機であることが判明しました。
HPによると、30分間ゴールデンゲートブリッジ近辺を遊覧するツァーは
大人一人189ドルだということです。

ここでのウォーキングは、GGブリッジの下まで行って
元来た道を帰ってくること、と決めています。

ご存知のようにこのGGブリッジ下にはかつて守りの要所だった
フォートポイントがあり、このようなかつての兵士のコスチュームで
イベントを行ったりしております。

GGブリッジの下のフォート内部は博物館になっていますが、わたしはここに
何年か前から「中国万歳」な展示が増えたとご報告したことがあります。

サンフランシスコ市内の「慰安婦像」設立に向けた動きなどもそうですが、
最近は市内のどこかに「抗日博物館」的なものもできたとか。
なぜかGGブリッジのフォートで中国の獅子舞をやっている写真がありますが、
相当チャイナマネーが入り込んでるなあと感じます。

いつも私は歩きから帰ってきてから朝食(というか昼?)を食べるのですが、
この日は散歩の途中にカフェで食事をすることにしました。

カモメの向こうの小屋が「ウォーミングハット」(温め小屋)というカフェです。

パンの種類も選べるターキーサンドイッチはアメリカンサイズ。
半分食べてお腹がいっぱいになったので、持って歩いていたら、
途中で砂の上に落としてしまいました(´・ω・`)

残りを食べるのを楽しみにしていたのに・・・。

カフェの売店にあった「ChocStars」シリーズ。
本人から文句の出なさそうなキャラばっかりですが、配慮してか
左から

「メキシコ」「朝食」「女王」「ラップ」「ポップ」

ここにある他にも

「スープ」(キャンベルね)「GG」(レディ)「ベガス」
「レゲエ」

などがあり、実在の人物ではない

「アンクルサム」

だけが実名?となっています。

というわけで今年も無事にアルカトラズ島を見届けてきました。

そして、帰りにちょっと寄り道をして、昔住んでいたときに
息子を通わせていた幼稚園の前を通ってみました。

看板は新しくなり、外壁も金網の外に木材を貼って目隠ししています。

しかし、この階段などあの頃と全く変わっていません。

この階段を一緒に上がって送り迎えをした息子の姿は
まだあの頃のままはっきりと脳裏に浮かぶのに、その同じ息子が
大学生となっているわけですから、時の経つのは早いものです。

 

 

 

FIRST TO DIE〜真珠湾攻撃 九軍神慰霊式

$
0
0

九軍神慰霊祭は、主催の青年団や地元の人たち、岩宮旅館の関係者、
自衛官(陸自隊員の姿もあった)、自衛隊OB、そして
旧軍に関心が深く遠隔地から慰霊に訪れた(わたし含む)人、
そしてごくわずかの報道関係者(産経新聞記者)、さらには
高松の金刀比羅宮で行われた掃海隊殉職者追悼式でお見かけした
戦史研究家の久野潤氏の姿もありましたが、当初想像していたよりも
ずっと小さな規模で、参加人数も決して多いものではありませんでした。

しかし、昭和41年からずっと今日まで、この慰霊祭は
途絶えることなく続いてきているのです。
わたしはその理由をこのように考えました。

 

日本が敗戦し、三机から「九軍神の聖地巡礼」の人々の姿が
かき消すようにいなくなったあとも、おそらく三机では
国のために命を捧げて散った若者たちに対する敬慕の耐えることなく、
彼らがこの小さな漁村に遺していった物語の数々は親から子へ、
子から孫へと語り継がれていったのでありましょう。

そんな三机に時は流れ、昭和40年、九軍神の遺族がこの訪れたのをきっかけに、

「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」

浄財によって須賀の森の一角に慰霊碑が建立されました。

GHQによるWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)のせいで、
昨日まで称えていた軍神を、戦犯と掌を返して罵るような風潮が日本中を席巻しても、
戦後世代が旧軍は悪とし慰霊を旧軍懐古として日本そのものを否定しても、
三机の人が、地元に伝わる軍神たちの物語を大事にしてきたからこそ、
このささやかな儀式も、ごく自然に世代を超えて受け継がれてきたのでしょう。

 

慰霊祭開始の挨拶をしたのは、青年団の責任者という人です。
出席者はおおむねスーツなどだったのに対し、青年団のメンバーは
普段のスタイルで参加しており、この催しが彼らにとって
決して特別なものではない日常の延長にあることを窺わせます。

先ほど自衛官から手ほどきを受けていた青年団メンバー二人の介助で
国旗と海軍旗の掲揚が行われることになりました。

慰霊碑横に置かれたプレーヤーから流れる喇叭譜君が代。
日の丸と旭日旗が自衛官と地元の青年の手で掲揚されます。

掲揚が告げられたとき、わたしは旭日旗のことを海軍旗でも
自衛艦旗でもなく、「鎮魂旗」と称しているのに気がつきました。

ここに揚げられているのは海上自衛隊の自衛艦旗ですが、
九軍神のみたまにとっては海軍旗と言わなければなりません。

しかし戦後の日本で自衛艦旗を「海軍旗」と称することはタブーとなっているため、
どちらでもない「鎮魂旗」という言葉が生み出されたのでしょう。

なぜタブーなのかと考える時そこに忸怩たる思いをもたずにいられませんが、
いずれにせよこの名は慰霊にふさわしいと思われました。

鎮魂旗掲揚台を寄贈した海上自衛官、そして作家であり
呉市海事歴史科学館、通称大和ミュージアムの館長、戸髙一成氏の名前も見えます。

寄贈されたのは今から11年前のこの日、12月8日でした。

続いて神主が「修祓の儀」を行いました。
修祓とは、神式の行事に先立って、罪穢れのない
清浄な世界を作り上げるための「清めの儀式」です。

罪穢を祓い去ってくれる四柱の神々を祓戸大神(はらいどのおおかみ)といい、
神官は神々に祓詞(はらいことば)という祝詞を奏上しお願いをします。

そして次に神官は罪穢れを祓い清めるため、大麻(おおぬさ)を
慰霊碑、次に神饌物(捧げ物)を振りました。
それが済むと、起立低頭した列席者の頭上で御祓が行われます。

そして、神官が九軍神となった死者の魂に「誄詞」(るいし)といって、
死者を偲び、その生前の功績をたたえ哀悼の意を表わすことばを捧げました。

この三机における慰霊祭で毎年変わらず捧げられている言葉なのかどうか、
初めて出席するわたしにはわかりかねましたが、その誄詞中の、

「誰一人結婚することなく若い命を捧げた」

ということを悼む文言は、ことにわたしの胸に刺さりました。

映画「海軍」では、艇附の下士官が最後の出撃前に妻を呼び寄せ、
狂おしく抱き合う様子が描かれていましたが、実際には全員が
独身のまま若い命をあたら散らしていきました。

26歳の隊長、岩佐直治中佐には郷里の前橋に婚約者がいましたが、
休暇で帰郷した際、親にも相手にも理由もいわず婚約を破棄しています。
その話がなぜ今日に伝わっているのかというと、岩佐大尉は訓練時
宿泊していた岩宮旅館の女将、チヨさんに

「死んでいくのに結婚しては、相手を傷つけることになるからね」

そう打ち明けたからでした。

婚約者が理由も告げぬ突然の婚約破棄にショックを受け、一時悲嘆に暮れても、
自分が任務を果たしたとき、必ず戦死の報とともに誠意は彼女に伝わり、
やがて自分を許してくれるだろう、と思ってのことに違いありません。

しかし、岩佐大尉のように誰かに打ち明けたりしなかっただけで、
他の軍人たちも多かれ少なかれ、密かな思いを心のうちにあきらめたり
別れを告げたりして、この世との未練を断ち切って逝ったたものと思われます。

「死ぬことよりも、自分がこの世に血を残さずに往くのが辛い」

とは、「回天」乗組員が遺した言葉ですが、誄詞の一文は
それだけが心残りであろう御霊を慰撫しているように聴こえました。

参列者が順次神前に歩み出て、献花を行い、
二礼二拍手一礼を行いました。
まず青年団のメンバー。

十名の特殊潜航艇乗員が投宿していた岩宮旅館、そして
松本旅館の関係者。
右側は岩宮旅館の現女将です。

続いて自衛隊関係者、わたしを含むその他の参列者が献花を行いました。

最後に参拝を行ったのは、陸自と海自のOBからなる豫山会の皆様です。
豫山会とは、愛媛県出身の軍人会を母体として継続している
一般財団法人の団体で、明治45年創立、かつてはあの
秋山好古もその名を連ねていました。

その歴史を見ると、陸軍が中心の軍人会だったようですね。

戦後は、青少年に対する社会教育活動の振興助成や体育の奨励、
青少年の育成事業を行っているということです。

正面で参拝しておられるのが豫山会代表理事河野氏(陸自OB)
後ろの四名は全員が海自OBで、こういうときにも
最先任が中央に、つまりかつての序列通りに並んでおられます。

豫山会の方が追悼の言葉を捧げられました。
この方も海自OBです。

コメントにもありましたが、海上自衛隊の練習艦隊は、例年
江田島を出航したのち、三机にに寄港して九軍神の碑に献花を行います。

平成26年度海上自衛隊練習艦隊 九軍神慰霊碑献花式

中畑康樹海将が練習艦隊司令の時ですね。
献花式には地元の中学生も参列しているようです。

というわけで式次第は滞りなく終了しました。
再び国旗と追悼旗が降下されることになり、神主さんが
プレーヤーのスイッチを押す係に(笑)

掲揚の時と同じメンバーの手で両旗が降納されました。

最後に神職が霊前に挨拶をして慰霊式の終了です。

式終了後、皆で椅子を片付け、談笑している出席者。
だいたいここに見えているプラス数人が全出席者数となります。

例年夜夕方6時(当然真っ暗)から行われる慰霊祭が
今年昼間になったのは、12月8日が日曜日に当たったからです。
いつもは執行を行う青年団が自分たちの仕事を済ませてから準備を行っているので
夕方から始めざるを得ないということでした。

陽が沈んでからの須賀公園での慰霊祭はかなりの厳しい寒さになるらしく、
わたしは前もって防寒対策をしっかり行ってくるように、
といわれていましたが、幸いなことに晴天に恵まれた昼間だったため、
寒いどころか陽に照らされて座っていると暑ささえ感じました。

この日は直会終了後、車で松山まで帰りましたが、夕方開始のときには
ほとんどの参加者は岩宮旅館に宿泊をするのだそうです。

慰霊碑の正面にあたる岸壁から三机湾の内海を臨む。
参加していた自衛官に写真モデルになってもらいました(嘘)

いつから慰霊祭に自衛官が派出されるようになったのでしょうか。
彼らにすればこの日など休日出勤ですし、例年は残業となります。
何人かにうかがってみたところ、呉地方総監部から、あるいは
愛媛地本からきたという自衛官もいました。

さて、慰霊祭の後の直会は、先ほど待ち合わせした町民会館の集会室?
というかキッチン付きの和室で行われました。

開始前、わたしをこの慰霊祭にお誘いくださった提督が、町民会館の
二階フロアに、特殊潜航艇関係の展示があるといって
ご案内くださったのですが、驚いたのがこの写真です。

ガラスケースの上に九軍神となった若者たちの顔写真を引き延ばし、
一人ずつ額に入れて飾ってあったのです。

「普通の市民会館でこんなのはまずないでしょうね」

いずれも真珠湾の特殊潜航艇突入を扱った英字新聞です。
左の九軍神の写真を掲載した署名記事のタイトルは

「FIRST TO DIE」

死を第一義として、というようなニュアンスでしょうか。
右二つは2009年の発行で、ハワイ湾突入の「最後の一隻」の残骸を
調査潜水艇が発見した時のニュースを報じるものです。

なぜこんな大発見を日本の新聞がこれと同じような一面トップどころか
ほとんど無視し報じなかったのかが不思議でたまりません。
(もちろんその理由はわかっていますがこれは嫌味で言ってます)

真珠湾に侵入した特殊潜航艇のうち4隻は、目標に到達できず
座礁したか、沈められたか(そういうアメリカ側の報告もある)、あるいは
打ち上げられていたのを発見されたわけですが、この時発見された一隻は、
アメリカでの最近の研究によると、魚雷二本を「オクラホマ」に命中させ、
撃沈せしめたということが明らかになっています。

この日の追悼式での誄詞による文言でも、攻撃は全く成功しなかった、
というようなことがいわれていましたが、「オクラホマ」の沈没原因を
検証したうえで、アメリカの研究者がそう発表したからには、
かなりの真実に近づいた結果に違いないと少なくともわたしは信じています。

攻撃の結果は彼らに対する崇敬の念になんの変化ももたらすものではありませんが、
それにしても日本側がその研究結果にどうしてここまで無関心なのか、
わたしはこれを知った日からずっと違和感を抱き続けているのも事実です。

こちらは九軍神の慰霊を続ける三机の人々の姿を報じる新聞記事。
ちなみに朝日新聞です。

「戦死の報で真相知り涙」

というのは、岩宮旅館で彼らの世話をした岩宮旅館の、
現在の女将の伯母という人が取材に答えていった言葉です。

11月の末に休暇から戻った彼らが三机から母艦「千代田」とともに
姿を消してから3ヶ月後、大本営発表によって彼らが軍神となった、
と知ったとき、日本中の誰よりも驚いたのがおそらく
彼らの滞在した旅館の人々だったと思われます。

故人となった女将の伯母は、

「新聞の写真を見て家中で泣きました。
一人ひとりの顔が脳裏に浮かんでは消えました」

と記者に語りました。

新聞などの媒体が当時「九軍神」の遺影に使った元写真です。
海軍の報道部にとって都合のよかったのは、捕虜になってしまった
酒巻少尉は一番右(前列)にいて加工しやすかったことでしょう。

この写真は甲標的の整備員も揃って写っている貴重なものです。

同じメンバーが「千代田」艦長原田覚と写した写真。
「千代田」の先任である士官とともに岩佐大尉だけが(右から2番目)
前列に座っています。

シドニー湾に特殊潜航艇で突入した伴智久、八巻悌次、
松尾敬宇、中馬兼四大尉、そして、マダガスカル攻撃で雷撃を成功させ、
英軍艦2隻に大きな打撃を与えたものの、その後陸上で英軍と交戦、
戦死した秋枝三郎(海兵66期)が写っています。

Midget submarine crews (AWM P00325-001).jpg

wikiの鮮明な写真も貼っておきます。
各人の後ろにいるのが彼らの艇附です。

開戦2ヶ月後に撮られた第4期のメンバーです。
この中に「回天」開発の黒木弘大尉がいるのではないかと思うのですが、
(左から2番目?)名前がなかったのでわかりません。

直会は青年団の皆さんが心を込めて用意してくれた寄せ鍋でした。
冬の味覚である牡蠣まで入っています。

わたしの近くには予科練だったという92歳の方が座っていて、
皆にその元気ぶりを感心されていました。

出席者の一人、久野淳氏の竹田恒泰氏との共著、
「日本書紀入門」。

会もたけなわの頃、青年団のメンバーの一人が誕生日
(12月8日!)であるということで、身内からケーキが贈られ、
皆で「ハッピーバースデー」を歌うことになったとき、

「こんな日なのにハッピーはいいのかどうか」

という声もあがったのですが、別の人が、

「いいんだよ、ハッピーで」

とひとこというと、全員が納得していました(笑)

ホールケーキにしたかったのだけど、何しろ地元の小さなケーキ屋で
予約しないと無理、といわれてしまったのでショートケーキ詰め合わせです。
誕生日ケーキなのにサンタが乗っています。

この時の話によると地元の青年団でも若い人が少なくなって
人材不足は深刻なのだそうですが、そんな中、手作りの慰霊祭を
毎年欠かさず続けてくれている彼らの誠意には敬意を払わずにいられません。

和やかなまま直会がお開きになり、わたしはここを離れる前に
もう一度岩宮旅館によってみることにしました。

そこには九軍神始めここで訓練をしていた特殊潜航艇乗員たちの
生きた証が史料館として展示されているのです。

 

続く。

 

 

 

「青年の感激 思ひ出の三机」〜真珠湾攻撃 九軍神慰霊祭

$
0
0

この写真は九軍神慰霊祭の行われた三机のある瀬戸町民センターの
二階に掲示してあった「千代田」乗組員の総員写真です。

全員の顔が見えるように甲板はもちろん、煙突や砲塔にまで
人が鈴なりになっている様子は壮観です。

「千代田」は「千歳」型水上機母艦の2番艦として開発されましたが、
就役して1年半後の1940年5月、甲標的(潜航艇)母艦として
ハワイ攻撃のための特別訓練を行うため三机に停泊していました。

その後再び航空母艦に改造され、レイテ湾沖で戦没しているので、
艦種カテゴリは空母ということになるのですが、そこでわたしは
戦後海上自衛隊が、潜水艦救難艦として「ちはや」とともに
二代にわたって「ちよだ」の名前を引き継いだということに気付きました。

艦種名こそ「潜水艦救難艦」ですが、つまりこれは「千代田」と同じ母艦です。
甲標的を載せるため三年間潜水艦母艦になっていた「千代田」の名前を
海上自衛隊が潜水艦救難艦に引き継いだことから、わたしは関係者の
ある「想い」を感じるのですが、それは考えすぎでしょうか。

今日は、三机の岩宮旅館にある史料館をご紹介します。
いわゆる九軍神となったハワイ攻撃の甲標的乗組員はじめ、
三机で訓練を受けるために滞在していた海軍軍人たちの写真、
直筆コピー、遺品などが、旅館の玄関横のスペースに展示されています。

ガラスケースの上部には、特別注文らしい横長の額に、九軍神の顔写真、
その下には岩佐中佐の遺書(複製)が掲げられています。

出撃前に故郷の両親に宛てた遺書で、文中の

「大和民族の擁護者として 大和氏族の推進者として

現下の時局に対処しうるは 直治最大の栄誉なり

まして選ばれて軍身(?)湾に突入以て

直撃一撃に敵(?)を打破し 大和正義を(?)せしめ

氏族の(?)を 世界平和根本の大任を(?)ぶにおいてをや」

という文言に続き、最後には

桜花 散るべき時に散りてこそ
          大和の花と賞らるるらん

身はたとえ 異境の海にはつるとも
          護らでやまじ大和皇国を

という辞世の句が記されています。

大本営の発表後、世間はことに岩佐中佐を称え、
毎日新聞が募集した詩に、東京音楽大学が曲をつけた
「軍神岩佐中佐」という曲までできたということですが、
その曲が世間一般に広く知られるには至らなかったようです。

ガラスケースの展示で目を引かれたのは、岩宮旅館に残された
三机滞在中の海軍軍人たちの見せるオフの姿でした。

旅館の人々によって記された彼らの階級は、潜航艇で突入後
二階級特進したものではなく、ここ三机でのものです。

左の写真はまるで修学旅行の学生のような雰囲気ですが、
捕虜になった酒巻和男少尉とシドニー湾突入の松尾敬宇中尉の他にも、
加藤中佐、そして下士官も一緒に写っています。

右は三机湾を後ろに撮ったもの。
「千代田」が停泊して訓練が行われていた16年夏の写真で、
当時は港に銃を持った衛兵が立って機密保全をしていたということですが、
とてもそんな港の物々しい様子は彼らの表情からはうかがえません。

左の写真の「講習員」とは、甲標的の訓練を受けたことを意味します。
「呉丸」の船上で撮ったものということですが、揺れる船上で
中馬兼四少尉の頭に伴少尉と横山少尉がふざけて手をかけています。

「やーめーろーよー」

とか言ってそう(笑)

彼らは同じ年頃の岩宮旅館の姉妹とは大変仲が良かったようで、
この左側のような写真も残されています。

後方真ん中が酒巻少尉、右端で笑っているのが横山少尉です。
獅子文六の「海軍」のモデルになった横山少尉は、九州の出身なのに
りんごのように頬っぺたが赤く、そんな彼が日焼けすると、

「焼きリンゴ」

とからかわれたそうですが、この写真からもそれがうっすらわかります。

「呉丸」というのは地元の屋形船か何かだったのでしょうか。
いろんな写真を見る限り、酒巻少尉はどうもかなりの照れ屋さんのようです。
右側はまるで臨海学校の写真のような雰囲気ですが、三机湾から離れた
海岸で行われた水泳訓練での一コマのようです。

ここに写っている酒巻少尉以外の青年たちは、終戦までに全員が
戦地に散って逝ったことになります。

昭和16年12月の真珠湾攻撃ののちも、訓練がつづいていたことを
表す写真ともなっています。

いずれも岩宮旅館の前で撮られたということですが、
講習員であった「太田中尉」「佐藤少尉」が
岩宮家の人々と、赤ちゃんを抱いたりして写っています。

いわゆる「九軍神」と酒巻少尉らは第1期講習員でした。
ここに写っているのは第13期の講習員として訓練をしていた軍人たちです。

展示ケースには、海軍が三机を実験場にするために
下見に来たところから、その歴史が写真入りで記されています。

海軍がここを甲標的の訓練場に選定したのは、湾形が
真珠湾に似ていることと、交通が少なく機密が保全されるからでした。

左の上は、「千代田」艦長であった原田覚大佐の写真が見えます。

「海兵41期、第33特根(?)司令官
セブにて甲標的隊を指揮 多大の戦果をあげたが
20年9月25日 戦病死・中将」

写真下二人は甲標的の試作艇の試乗を行った
関戸好密大尉(海兵57期)と堀俊雄機関中尉。

そして目を引くのが、ここに滞在した甲標的搭乗員たちが
出撃前に岩宮旅館の人々に残していた遺墨の数々です。

「轟沈」「男命の捨て所」「一誠」

など、当時の軍人たちが遺していく書の「流行り」でもあった言葉がならんでいます。

その中で、「回天」開発者だった黒木博司機関中尉の書に
目が奪われました。
説明をしてくれていた先ほどの慰霊祭の宮司さんに訊ねると、
黒木中尉はこれを左手で書いたのだそうです。

「裏側じゃないんですよ」

岩宮旅館の女将は笑いながらそう言いました。

そういえば昔、左手で裏向きの字を書く遊びをやりましたっけ。
黒木中尉はそれを遺墨でやってしまっているわけですが、
さすが墨で書き慣れている昔の軍人だけあって、
裏向きながらなかなかの達筆に見えます。

回天の開発後、指導者として黒木中尉の遺した逸話から
部下にはもちろん自分にも厳しい人物のようなイメージでしたが、
これを茶目っ気でやったとすれば、意外な一面です。

旧軍軍人の遺した遺書は達筆が多く、それをもってある人は
「今の若者とはレベルが違う」などと言ったりしますが、
全てを見る限り、決して全員が全員そうではなく、やはり達筆もいれば
そうでもない人がいて、その割合は今も変わらないのではないかと思います。

違うことがあるとすれば全員が毛筆がきに慣れているかどうかだけでしょう。

顔マークを添える人あれば、「男一匹」などとスカした一言の人もいて、
「青年の感激 思ひ出の三机」など、純情な青年らしいことを書く人もいます。

ここにも左手で「馬」という字を「裏向き書き」をした人がいます。
人が歩いている絵には

「ナイト・バイ」

と意味不明な言葉が添えられていますが、仲間が見たらわかったのでしょうか。

書の下にはここで訓練をしたその後や、いつ書を認めたか、
三机に滞在したおそらく全ての軍人たちの詳しい紹介が添えられていました。

たとえば第4期講習を昭和17年に受けた艇附の鹿野明兵曹長は、
昭和17年春に寄せ書きを遺し、その後昭和19年5月29日、
サイパン北方で戦死していますし、その他に名前が見える軍人たちも
読む限り全員が生きては帰らなかったようです。

軍神たちの物語は、幾度かテレビがドキュメンタリーに取り上げたようで、
2015年8月15日の深夜1時35分放送というマイナーな扱いで放映された
ザ・ドキュメントの「軍神ー忘れられた英雄たち」という番組や、
「50年目の鎮魂歌〜姉妹と軍神たちの青春」が録画されたCD-ROMが見えます。

わたしとしては、同じCD-ROMに録画されている

「呉での慰霊祭にて 酒巻少尉との会話」

というのをぜひ見てみたいのですが・・・。

左側の青年の立ち姿の写真は、わたしが見せていただいた
町民会館の二階の展示ケース前です。
ロケを行った俳優でしょうか。

その町民センターに掲示されていた写真です。
遺品の多くは靖国神社に寄贈されていますが、たとえば
シドニー湾に突入した松尾敬宇少佐艇から発見された
(ということはオーストラリアからの返還ということになる)
小さな小さなキューピー人形は、現在、江田島の
第一術科学校の教育参考館に展示されて見ることができます。

ケースの前に集まった「三机初体験」の数人(久野潤氏含む)のために
九軍神と特殊潜航艇の訓練を行った若者たちについて語ってくれたのは
先ほどの慰霊祭を執り行った宮司でしたが、その方は
昔地元の役場に務めておられたころ、ここに慰霊にやってきた
酒巻少尉を役場内で見たことがあったそうです。

「そのときはわたしも若く、声をかけることもできずに遠くから見るだけでした」

そういう宮司さんも岩宮旅館の6代目女将、山本恵子さんと同い年。
(わたしは思わず女将さんがお若く見えるのに驚いてしまったのですが)
「軍神たち」をお世話した岩宮旅館の人々もすでに亡き人になりました。

しかし、ここに岩宮旅館があって、一年に一度、彼らやここで訓練を受け、
その後南の海に散って行った若者たちのための慰霊祭が続けられる限り、
彼らは人々の記憶から消え去ることはないのでしょう。

例年は参加者は旅館に一泊するのですが、今年は昼間に終了したため、
何人かは松山までその日のうちに移動しました。

わたしは海自OBの参加者お二人をお乗せして運転手を引き受け
瀬戸内海を臨む海沿いの道を走っていましたが、夕日が傾いてきた頃、
こんなビューポイントに差し掛かったので、お二人を車に残したまま
外で写真を撮らせてもらいました。

夕日に照り映える海と岸壁をファインダーの中に見ながら、わたしは
かつてここに若き日の一途で純粋な思いを一日一日と燃やし尽くした青年たちがいて、
この同じ海の色を見ていたであろうことを思わずにはいられませんでした。

 

終わり

 

ジーマハト・オストライヒ(オーストリアの海軍力)〜ウィーン軍事史博物館

$
0
0

ウィーン軍事史博物館の展示についてこれまでお話ししてきたわけですが、
お待たせいたしました。

ようやくこのブログ本来の役目である海軍関係について語る時がやってきました。

当博物館ではこのコーナーを

Seemacht Österreich 

英語では

Austria as a naval power

どちらも「オーストリアの海軍力」という訳でいいと思いますが、
ドイツ語の方が「海軍の力」を強調している感じがします。

1800年代から軍事博物館としてオーストリアの軍事史資料を
展示し、後世に残すことを使命としてきた当博物館ですが、
海軍にまつわる資料はかつてオーストリア=ハンガリー帝国の時代、
軍港としていた地域に存在していたものの、ここウィーンでは
近年まで陸軍関係のものしか扱っていませんでした。

オーストリアに存在した海軍についての展示が加わったのは、
第二次世界大戦終了後、博物館が大幅に改装された以降のことです。

 

海なし国であるオーストリアはいわゆるブルーウォーターネイビーを持たず、
それが組織的に統合されたのはカール大帝の息子、あのフリードリヒの時代、
つまり1800年初頭ということになりますが、もちろんそれまで
オーストリアが海軍的軍事力を持っていなかったというわけではありません。

なぜなら、ハプスブルグ帝国時代にはその帝国内に沿岸を持ち、さらには
ドナウ川という交通の要所ともなる河川に対して水軍力は必要だったからです。

17世紀まではそれで良かったのですが、1794年、ナポレオン戦争で締結された

「カンポ・フォルミオ条約」

によってオーストリアは割譲されたベネツィアを手に入れることになり、
そこで決定的に海軍という組織を受け入れることになったのです。

帝国の領土拡大によって「海なし国」とか言っていられなくなったんですね。

 

その後、帝国海軍の軍港となったのが現クロアチアのプーラとカッタロです。
軍港時代のプーラの帝国艦隊の写真が残されています。

「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物のモデルとなった帝国軍人、
フォン・トラップ少佐は、潜水艦勤務時代ここに居を構え、最初の結婚をして
子供を7人作っています。

 

写真は主砲の形から見て第一次世界大戦ごろの軍艦だと思います。

ちなみにプーラは帝国の崩壊後、イタリアに返還されましたが、
ムッソリーニの政権下、非イタリア人は文化的迫害を受け、ほとんどが国外に脱出、
かと思ったら、今度はイタリアの敗退によって敗走するイタリア軍の代わりに
ナチス・ドイツ軍がこの地に侵攻してきたため、パルチザンの疑いを受けた
多くの市民が逮捕・追放・処刑される悲劇の都市となりました。

古い映像や画像で、この地で行われたナチスによる市民処刑のシーンを
皆様も一回くらいは歴史アーカイブなどで見たことがあるかもしれません。

 

もう一つの軍港、カッタロは現在のモンテネグロに位置します。

カッタロ軍港に係留するオーストリア海軍の水雷艇。

いずれも君主制の終焉とともに両軍港からオーストリア海軍は姿を消すことになります。

次にオーストリアが海軍の必要性を重要視することになったきっかけは
イタリアにおける国民国家の爆誕でした。

国民国家の定義ろは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=国民)
として統合することによって成り立つ国家、ということになります。

ここで皆さん、突然ですが、

「イタリア・イレデンタ」

という言葉をどこかでお聞きになったことがありますでしょうか。
「茹で残しのイタリア」ではありません。
セルフツッコミをしますが、アルデンテではなくイレデンタ=未回収という意味です。

オーストリア、ウィーンの街を歩くと、至る所にイタリア、
ことにローマの影響を色濃く受けた史跡や建造物、構造物を見るのですが、
かつて帝国支配で民族とは関係なく国境がゆるゆるに存在していた時代の名残です。

 

国民国家の成立を目指した統一運動によって1861年成立したイタリア王国は、
かつてのオーストリアだった地方についてこれを「未回収」とし、

「それ、うちのものだ(なぜってそこにイタリア人がいる)から返せ戻せ」

と主張し、オーストリアとの間に対立を生んだというのです。
そこにはヴェネチアも含まれました。

余談ですが、この国民運動の流れとして、ムッソリーニのファシスト政権は

「イタリア語を話す地域は全てイタリア」

という主張の下に未回収の地を全て「回収」し、イタリアにしようとしましたが、
戦争に負けた時点で放棄させられたという経緯があります。


それはともかく、イタリアとの摩擦をきっかけに、ハプスブルグ帝国は
海軍力をパワーアップせざるを得なくなったということをご了承ください。

オーストリア海軍の名将たちの肖像画、そして
歴代海軍将軍の軍服の数々です。

奥にある肖像画の右上の軍人は、

ヴィルヘルム・フライヒャー・フォン・テゲトフ
Wilhelm Freiherr von Tegetthoff、1827 - 1871

帝国海軍で言うところの東郷平八郎元帥と考えていただいていいでしょう。

 統一したばかりのイタリア海軍と、オーストリア海軍の間で行われた

リッサ海戦

でオーストリア軍を勝利に導いたのがこのテゲトフ中将です。
日本のwikiにはなぜか最終階級のところに「軍事省海軍部長」とあるのですが、
それは階級じゃなくて役職だろうっていう(笑)

海戦中、艦隊を指揮するテゲトフ中将(真ん中)。

この絵がオーストリア的には我が日本の旗艦三笠艦上の
ロシア艦隊に挑む東郷平八郎と海軍上層部を描いた、東城鉦太郎画伯の
あの絵のような位置付けになっているのかと思われます。

ポケットに手を入れて指揮を執っていたというのも実話なんだろうか。

この時の戦闘の内容を一言で言うと、

「木造船は衝角戦で装甲艦に勝てないが、相手の練度が低く、
編成されたばかりの海軍力であった場合は戦争に勝てる」

と言う感じでいいんじゃないかと思います。(適当)

イタリアの装甲艦「レ・ディ・ポルトガロ」に衝角戦を仕掛ける
オーストリア海軍の木造戦列艦「カイザー」。
この時「カイザー」は船首を破損し、有効な攻撃にはなりませんでした。

こちら、沈没するイタリア海軍の旗艦「レ・ディタリア」。

「レ・ディタリア」は初戦から集中砲火を受けていたところに装甲艦
「フェルディナンド・マックス」に衝角戦を仕掛けられ、喫水線下に
開けられた破口から浸水して、数分で横転し沈没しました。

このとき旗艦に座乗していた指揮官のカルロ・ペルサーノ提督は、
助かった上、帰国してからの虚偽報告で勝利を捏造しようとしたため、
敗北と捏造の責任を問われて退役に追い込まれています。

イタリア海軍の「パレストロ」の艦長カッペリーニは攻撃を受けて
沈むことがわかった自艦に残ることを決め、それを知った乗員たちも
全員が艦長に付きそって「パレストロ」と運命を共にしただけに、
ペルサーノ提督の往生際の悪さは対比されて今日まで悪名を残しています。

 

余談ですが、カッペリーニの名前は「コマンダンテ・カッペリーニ」として
のちに潜水艦名になり、さらに余談の余談ながら、この潜水艦、
イタリアが連合国に降伏したあとはドイツに接収されていました。

ところが(笑)

いや、笑い事じゃないんですが、ドイツ軍艦として日本に寄港し、
神戸の三菱重工業で整備を受けているとき、ドイツが降伏してしまい、
それでは、と日本がありがたく接収させていただき、

「伊号第五百三潜水艦」

として、Uボートだった「五百一潜水艦」の三番艦になりました。
ただし終戦直前の再編だったため、幸か不幸か戦闘を経験せず、
シンガポールにいるときにイギリスに接収されてマラッカ沖で沈められました。

 

この大作は、説明の写真を撮るのを忘れたのですが、状況証拠的に
リッサ海戦の時を描いたもので間違いないと思います。

画面の手前にいるのは全てオーストリア海軍で、向こうがイタリア軍ですね。

オーストリア海軍の軍艦を模型で展示するコーナーも。
これは木炭船ではないかと思われるのですが・・・・。

「SMSテメス」Temes 1903

河川用監視艦として建造された「テメス」級の一番艦です。
動力は蒸気エンジン、時速13ノットで、乗員は86名です。

第一次世界大戦には投入されています。

というか、オーストリア海軍は第一次世界大戦に敗戦後は
解体されて消滅してしまったので、軍艦は全て第一次世界大戦までです。

装甲艦

「SMSクローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ 」

Kronprintz Erzherzog Rudolf 1887

「ルドルフ」とはあのヨーゼフ一世と皇后エリザベトの間に生まれた
ルドルフ皇太子で、何度かここでも説明しておりますように、
30歳そこらで女性と無理心中してオーストリア皇室を失意のずんどこに陥れた、
あのルドルフのことなんですね。
しかもルドルフが死んだのは、この軍艦がプーラで完成したその同じ年でした。

それだけでもう縁起悪っ!と後世のわたしどもは思ってしまうわけですが、
とりあえず事故はなく、戦争もなかったので何事もなく10年過ぎ、ただし、
その間に早々と陳腐化してしまったというのが不幸といえば不幸でしょうか。

K.u.K海軍がアドリア海沿岸の警備のために建造した装甲艦で、
機関はヤーロー式。

クルップ35口径を主砲としていました。

SMS「ブダペスト」Budapest 1896

こちらも沿岸防衛船です。
そういえばこの頃は「オーストリア=ハンガリー帝国」だったので、
こういう名前が付けられるわけですね。

歴史的なことをいうと、彼女はアメリカのマルコーニが無線機開発し、
これを初めてイタリアが導入したとき、実験艦となって、
海軍で最初の無線通信を行った船ということになっています。

第一次世界大戦が始まると基地防衛のために出動し、
モンテネグロ砲兵隊と砲撃戦を行なっています。

第一次世界大戦ではイタリアの航空機の空襲を受け、
その後66ミリの対空砲を追加装備しています。

第一次大戦中にすでに寿命が来ていたので宿泊船になっていた彼女は
敗戦により、1920年にイギリスに戦時賠償として引き渡され、
翌年には廃棄処分になっています。

SMS「アルパド」Árpád 1901

戦艦「アルパド」は「ハプスブルグ」級戦艦の二番艦として建造されました。
「アルパド」は10世紀ごろのハンガリーの軍事指導者の名前です。

ここにあるのは1:50モデルです。

設計図が見つかったので挙げておきます。
上から見ると構造物が右舷側に偏っているように見えるのですが、
主砲とバーベットでバランスを取っているんでしょうか。

「アルパド」は姉妹船の「ハプスブルグ」とともに、戦後
イギリスに接収され、すぐさまイタリアでスクラップにされています。

「ブダペスト」もそうでしたが、イギリスって、どういうつもりなのか
敵国艦を接収するだけしてさっさと廃棄処分にしてしまうんですよね。

廃棄するためにわざわざ取り上げるのがなんかすごく嫌な感じです。

SMS「エルツェルツォークカール」Erzherzog Carl 1903

オーストリア=ハンガリー海軍最初の、最大の、そして最後の戦艦、
それが「エルツェルツォーク カール」級でした。

総排水量10472トン、最長126.2m、武装はシュコダの40ミリと
当時のオーストリアの海軍力を結集して建造された戦艦です。

しかしながら、同時代の「ドレッドノート」級と比べれば、
(そんなもんと比べてやるなという話もありますが)スケールはもちろん、
近代的なタービン推進力において全く敵うものではありませんでした。

なかなかかっこいいんですが。

「ドレッドノート」の画像検索結果

ちなこれが「ドレッドノート」。(だから比べるなと言ったら)

 

うちわの水兵の反乱を抑えるなどの働きはしていますし、大戦初頭には
砲撃戦にも参加しているようですが、あまり戦果などの記録がありません。

最後は姉妹船のように戦後補償に接収される前に、座礁して廃棄されました。

 

ちなみに艦名の前に付いている「SMS」はショートメールサービスのことではなく、

Seiner Majestät Schiff (ドイツ語の"His Majesty's Ship")

のことです。 

 

続く。

 

 

引き揚げられたU-20〜ウィーン軍事史博物館

$
0
0

「ジーマハト・オストライヒ」(オーストリアの海軍力)という題で
ウィーン軍事博物館にわずかの間存在していたオーストリア海軍の資料を
前回紹介させていただきました。

今日は、いわばこの博物館の海軍的目玉展示をご紹介します。

その前に、前回ご紹介できなかった河川警戒船であろうと思われる写真をどうぞ。
SMS「テミス」に似ていますが、わかりません。

訪問までオーストリア海軍についてなんの前知識もなかったわたしは、よもや
ウィーン軍事史博物館でこんなものに出会えるとは思ってもいませんでした。

この時にはまだ「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐のモデル、
フォン・トラップ少佐が潜水艦乗りだったということも全く夢にも知らず、
さらにはオーストリア海軍が潜水艦を持っていたことも知らなかったので、
部屋に入り、それが潜水艦であることがわかった途端、動悸が早くなったほどです。

展示されていたのはオーストリア=ハンガリー帝国海軍のU-20でした。

第一次世界大戦の開戦後、プーラ海軍工廠で建造が始まり、
1916年進水を行なっています。

U-20と英語で検索すると、上にドイツ海軍のU-20が出てきますが、
同じドイツ語の「ウンターゼー・ブート」の『U』を使っていても
この二隻は同じ命名基準による艦名ではありません。

どういうことかというと、K.u.K海軍のU-20は、

U-20級

のことであって、U-20級は全部で4隻造られているため、
正式にはこれは、

U-20級の1番艦

であり、同級がかつては他に3隻存在していたのです。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、第一次世界大戦の発生を受け、
喫緊の必要性に駆られて潜水艦を造ることになりました。

そこで、設計の手間を省いて、国内の造船会社ホワイトヘッド・フューメが
以前デンマーク海軍のために作った、

ハフマンデン型潜水艦

をそっくりそのままの仕様で建造するという形で進められました。

リンク先を見ていただくと、

After the outbreak of World War I, the Austro-Hungarian Navy 
seized plans for the Havmanden boats from Whitehead & Fume Co.
and used them as the basis for its four U-20-class submarines.

とあるのがおわかりいただけます。

「seized」という言葉には「奪い取る」「押収する」という意味合いがあるので、

「KuK海軍はホワイトヘッド社からハフマンデンの設計を『押収』し、
それをもとにU-20級を4隻作った」

という感じで書かれていることになります。


「ハフマンデン」

オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、時代遅れですでに陳腐化していた
この潜水艦に決して満足していたわけではありませんが、何しろ急だったので、
とにかく潜水艦の形さえしていれば背に腹は変えられないといったところでした。

 

というわけで1918年、完成したU-20の1番艦は、さっそく公試試験に入りました。

しかし好事魔多し、その潜行試験で1番艦はオーストリア=ハンガリー帝国海軍の
軽巡洋艦「アドミラル・シュパウン」に衝突して破損してしまうのです。

 

「潜水艦の形さえしていればいい」などと失礼なことを言ったので
(いったのはわたしですが)その言霊がよくない影響を及ぼしたのでしょうか。

それは違います。

問題は、4隻のU-20潜水艦が、オーストリアの造船所とハンガリー王国の造船所で、
2隻ずつ、二箇所で並行して建造されていたことにありました。

なぜそんなことをしていたかというと、当時両国は「同等」の立場だったため、
特に国家事業については平等に利益分配しなければならなかったのです。

生産ラインが一元化していないと、たとえば設計の技術的な問題が表面化しても
修正が簡単にいかないため、結局工期は大幅に遅れる結果になります。

公試試験の事故も、二つの造船所同士のすり合わせがうまくいかず
根本的な問題の解決に至らなかったのが原因だったと言われています。

Admiral Spaun.jpg

講師試験中のU-20にぶつかったという、

SMS「アドミラル・シュパウン」。

ちなみにこの「アドミラル・シュパウン」も、第一次世界大戦敗戦後、
イギリスに賠償艦として接収され、1年後には廃棄されています。

この時の衝突で、潜望鏡、司令塔に損傷を受けたU-201番艦は、
ドックに戻って7ヶ月間かけ、修理を行いました。

そして就役を行なったわけですが・・・・。

ちょっと待ってください。

この状況を鑑みるに、U-20、その後沈没していたようですね。
ってそれは見ればわかる。

近づいていくと、塗装の全く剥落し錆びた状態の艦体と、
長らく海中にあったらしい牡蠣がらの跡が生々しく残っているのが見えます。

敢えて塗装や修復を行わず、引き揚げられた時のありのままの姿で
ここに展示されているらしいことがわかりました。

それでは、U-20はどういう経緯で沈んだのでしょうか。

 

1918年7月4日、つまり2月に就役してから5ヶ月後のことです。
U-20の指揮をとっていたのはルードヴィッヒ・ミュラー大尉。

この人のおかげでオーストリア海軍の階級がわかったので得意になって書いておくと、

Linienschiffsleutnant(リニエンシッフス ロイテナント)

が大尉に相当するランキングとなります。

ただし、これはオーストリア=ハンガリー海軍だけの階級です。
同じUボートに乗っていてもドイツ海軍とは全く違いますので念のため。


ちょっと面白いので寄り道して説明しておくと、KuK海軍では、階級の前に

少「コルベット」中「フリゲート」大「ライン」

と、乗る船のクラスが付き、リニエンシッフスとは、「ラインの船」という意味です。
この意味がよくわからないのですが、おそらく巡洋艦以上のクラスのことでしょう。

「ロイテナント」は尉官です。
これらを「カピタン」、つまり佐官で説明すると、

Korvettenkapitän OF -3(少佐)コルベッテンカピタン
Fregattenkapitän OF -4(中佐)フレガッテンカピタン
Linienschiffskapitän OF-5 (大佐 )リニエンシッフスカピタン

というわけですね。
尉官クラスは中尉と大尉のみこの法則で呼ばれ、
少尉だけ「コルベッテン」は付けられません。

 

閑話休題。
それではU-20撃沈までの経緯を説明します。

このミュラー・リニエンシッフスロイテナントが艦長を務めるU-20は、
1918年7月4日、アドリア海を航行中、
潜行していたイタリア海軍の潜水艦F-12に発見されました。

U-20は海面を航行しており、これを海中から発見したF-12は
潜行したまま、相手に見つかるまで近づいていきました。

この航跡図からは読み取れませんが、F-12は最初は潜行して、
そして途中からは浮上してU-20を追跡し続けました。

F-12の浮上の理由は、U-20が浮上していたためです。
魚雷を撃ち込むには、こちらも最後の瞬間に海面に出る必要があります。

 

図でいうと、おそらく、2105のポイントから魚雷発射しようと近づいていき、
発射するために浮上したところU-20が転舵したのではないでしょうか。

(海戦の知識がないので単なる想像です)

魚雷を発射するには艦首を相手に向けなくてはいけないので、
F-12は相手に艦首を向けるためになんどもターンを行っています。

そして2243、ついにチャンスを捉えて攻撃しました。

射程距離は590m、撃ち込んだ魚雷はことごとく命中し、
U-20は乗員の脱出を全く許さないまま、瞬時に海中に没しました。

海面には残骸はなく、ただ油膜だけが浮いていたそうです。

沈没したU-20の艦体がアドリア海で発見されたのは、1962年のことです。
イタリアはこれを引き揚げることにしました。

おそらくその当時は我が国の伊33潜水艦の時に行ったような
ロープを艦体に回して吊り上げる方法(提灯式)で引き揚げられたのでしょう。

作業を行う前か行った後かわかりませんが、(おそらく事後)
潜水具の脱着をやってもらっているところです。

ロープで牽引したU-20(おそらく艦尾部分)がクレーンで吊り上げられ、
44年ぶりに海面に姿を現した瞬間です。

イタリアがなぜこの引き上げを行うことになったのか、その理由は
どこにも書かれていませんが、沈没の状態からいって
まだ中には乗員全員の遺体が残っていると判断したからではないでしょうか。

オーストリア政府と連絡をとって、費用を出させた可能性もあります。

引き揚げは前部と後部に分けて二日がかりで行われ、
内部に残っていた乗員の遺体は、オーストリアに運ばれて
現在唯一の士官学校であるテレジア陸軍士官学校の敷地に埋葬されました。

コニングタワーと艦体中部はウィーンに運ばれ、ここに展示されています。

艦内から見つかった遺品もすべてここに展示されています。

分厚い書物は、40年以上海水に浸かっていたのに、まだ字を読むことができます。

そして、士官が持っていたのでしょうか、いくつもの懐中時計。
第一次世界大戦では時間を合わせて行動を行うために腕時計が普及しましたが、
それは陸戦を行う部隊だけの事で、海軍では懐中時計が主流だったことがわかります。

1918年の海軍年鑑は驚くほど原型をとどめています。
まだ中身は読めるのではないでしょうか。

本の上に置かれた左のバッジは帝国海軍のインシグニアです。

靴。フォークにスプーン。
錨の絵の書かれた本は「ビーコン」(LEUCHTFEUER)というタイトル。

40年の時を経て、乗員の亡骸は祖国に戻ることができ、
彼らの魂はせめて少しでも安らかに眠っていると信じたいですね。

コニングタワーの周囲には見学用のデッキが設置されていました。
こういう風に真横から見学できる階層と・・。

艦体を真下に見下ろすことのできる高い階層も。

ハッチの部分は内部が見えるように透明のガラスに変えてあり、
内部にはおそらく当時と同じ場所に電灯が灯っているのが確認できます。

写真にはうまく写すことができませんでしたが、肉眼では内部の様子はわかります。
ここをかつて潜水艦の乗組員たちが行き来していたのだな、
と思うと、いつまでもその内部を見ていたいような気持ちになりました。

オーストリア=ハンガリー海軍士官用コート。
金色のサッシュは暗殺されたフェルディナンド皇太子の遺品にもありました。

下に写真がありますが、だれか有名な軍人が着用していたのでしょうか。

艦砲ですが、残念ながらスペックを表す説明がありません。
前回ご紹介した模型のうちどれかのものであることは間違いないところです。

帝国海軍水兵の冬・夏用軍服と私物など。
今度行くことがあれば、この部分も詳細に写真を撮ってきます><

潜水作業用のスーツで作業をする人。

というわけでオーストリア=ハンガリー帝国海軍について
この展示を通して新たに知ることになりました。

また行く機会があれば、その時にはここから見学することをお約束します。

 

続く。

 

 

 


令和元年 年忘れ映画挿絵ギャラリー

$
0
0

なにがといって、今年は御代がわりがあり、平成が終了し
令和が幕を開けたことほど大きな出来事はなかったでしょう。

新しい年号開始が始まったのは五月一日からであったため、
「令和元年」と口に乗せるのも晴々とするこの響きを
半年ちょっとしか楽しめなかったというのが残念と言えば残念ですが。

今年はいつになく映画をたくさん取り上げたので、恒例の絵画ギャラリーは
映画の挿絵だけでけっこうな数になりました。
大晦日の今日は、今年アップした絵をふりかえって年忘れ行事とします。

今日も我大空にあり

1964年度公開の航空自衛隊映画です。
「本物よりも司令らしかった」と本物にいわせた、浜松基地司令役の
藤田進はじめ、隊長役に三橋達也、そして佐藤充、夏木陽介と
当時の人気男優を主役に据えて撮影された意欲作。

なんといってもこの映画には航空自衛隊が全面協力しており、
主人公たちがそうであるところのブルーインパルスや、
当時自衛隊の期待の新戦闘機、F-104が惜しげもなく登場します。

F-104「スターファイター」については、日本だけでいわれていた
「最後の有人戦闘機」というキャッチフレーズにツッコませてもらいました。

 

脇役もこうしてみるとたいへん豪華なキャスティングです。
この中で令和元年現在健在なのは、この映画のオーディションに合格し
これが映画デビュー作となった酒井和歌子(70歳)のみ。

ちなみに本作脚本須崎勝彌氏で、結婚式当日、新婦に電話で
自分が出席できなかったことを謝りもせず、

「君は二号で愛機が一号」

などという台詞を言い放つといった、今ならフェミニズム以前に
ポリコレで炎上しかねないシーンもあります。

若大将シリーズなどで有名な監督の古澤憲吾は、タイトル文字に
こだわり抜いた日の丸の赤を使っていましたが、現場では
この赤のことを「パレ赤」と呼んでいました。

「パレ」とは何を意味するのか書くのを忘れたのでここで言及しておくと、
大東亜戦争初期に陸軍落下傘部隊が降下した「パレンバン」のこと。

本人が「パレンバン降下作戦の勇士だった」と自称していたことから、
まわりも気を遣ってか「パレさん」と呼んでいたらしいのですが、
本人は陸軍ではなく海軍航空部隊出身ですし、しかも入隊したときには
パレンバン侵攻はとっくに終わっていたわけで、つまり

全くの嘘

だったということが海軍航空隊だった松林宗恵監督(予備士官)などの
証言からも明らかになっています。

ただ、古澤は戦時中(昭和19年)の『加藤隼戦闘隊』の助監督をやっていて、
劇中、パレンバン降下作戦の再現シーンに落下傘部隊員役で出演しており、
この体験をもって「降下作戦の勇士」と自称していたと考えられます。

「白い巨塔」で財前五郎役をした田宮二郎が、晩年飛行機の中で
ドクターコールに真面目に名乗り出てきて皆困惑、という実話がありましたが、
昔の映画人の中には映画と現実の境界線が曖昧になってしまうくらい
のめり込むタイプがいて、古澤監督もその一人だったのかもしれません。

 

「憲兵と幽霊」「憲兵とバラバラ死美人」

東宝から再編後すっかり変な路線に舵を切った新東宝の
本領発揮というべきエログロナンセンス映画から
軍に関係があるという理由だけで取り上げた「憲兵シリーズ」二作。

一部の読者にはなぜか大変ウケた企画です(笑)

天知茂と中山昭二が両作で主役を取り換えるという
新東宝の使い回しシステムがよくわかる比較となりました。

良い憲兵は中山昭二、悪い憲兵はもちろん天知茂、そして
いわゆる創作物の憲兵の典型(拷問上等)を細川俊夫が演じています。

とくに「憲兵とバラバラ死美人」は、原作となった実際の事件を描いた本が
実在の憲兵だったことで、当たり前のことなのですが、
良い憲兵がいれば悪い憲兵もいるというような描き方をされていたため、
シリーズの主眼を

「戦後憲兵という悪のイメージが流布されてきたという事実」

とし、どちらも話そのものは熱く語るようなものでもなんでもないですが、
憲兵に被せられた歴史的な汚名を雪ぐことを目的として語ってみました。

ちなみに後で聞いた話ですが、昔は女性が殺されると
メディアは扇情的に被害者を「美人」と煽るのがお約束だったそうで、
酷い場合には「首なし美人死体」なんてのもあったそうです。

 

U-571

戦闘中、諸般の事情でU-571、つまりUボートを操艦して
敵と戦わなければならなくなったアメリカ海軍潜水艦乗員の話。

ドイツの暗号機エニグマ争奪というお好きな方にはたまらない
ワクワクする要素を盛り込んだ荒唐無稽な戦争映画です。

潜水艦もののあるあるとして、狭い艦内なので、人間関係が
濃密に描かれるという傾向がありますが、本作は戦時中の設定なので、
人間関係というよりは、おのおのの能力や危機に際しての対処の仕方、
たとえば主人公のマシュー・マコノヒーが艦長になれずに腐っていて、
戦闘を経験するうちに覚醒するという成長の過程が主眼となっています。

ところで潜水艦ものといえば、海上の敵と戦うシーンでは
必ず潜水艦乗員は上を見つめますよね。

この映画でもふんだんにそのシーンがあったので、絵に描いてみました。

また、劇中、海上に取り残された艦長(ビル・パクストン)に、
あの「グラウラー」の艦長ギルモア少佐が、自分を艦外に残したまま
潜水艦を潜航させよと命じたときの

「Take her down !」

という言葉を言わせてトリビュートしています。

また、マコノヒー演じるタイラーは、いざとなったら部下に
非情な命令を下すことができるかが指揮官昇進のポイントだったのですが、
実戦で生還か全員戦死かという場面に遭遇して初めて、彼は
この「テスト」に合格します。

ところで、この映画をドイツ海軍の元軍人に観せたところ、
「Uボートが大西洋にいたこと以外全部嘘」
と一蹴されてしまったようですが、アメリカ映画だしまあ多少はね?

 

日本破れず

「日本の一番長い日」、つまり終戦のご詔勅に向けて
そのとき政権の中心にいたものたちがどうふるまったかを
戦後初めて映画という媒体で描いたのがこの「日本破れず」です。

わたしは創作部分が多い映画そのもののできというより、阿南惟幾を演じた
当代の名優早川雪舟の存在感だけで、この映画を高く評価しています。

東郷茂徳をヒーローのように描いていたり、米内光政が
まったく実際の雰囲気と違っているのは大いに気に入りませんが。

ちなみに阿川弘之の「米内光政」には、米内の風貌については

「軍港芸者たちは、ただでさえうっとりするような彼の美男ぶりに
辶(しんにゅう)をかけて(物事をいっそう甚だしくすること)
惚れ込んでしまう」

「威風堂々、長身の身に黒いスーツをきて歩く姿は魅力があった」

「うわア、偉人さんみたいなよか男」(by佐世保軍港芸者)

なんて言葉を尽くしてその男っぷりが称賛されているわけで。
東郷茂徳=山村聡ほど下駄を履かせなくてもいいですが、せめて
もう少し鼻の穴の小さな俳優さんに演じさせていただきたかったかなと。

あくまでも個人の感想です。

微妙に史実とは違うストーリーなので、映画は役名を採用していますが、
当ブログはそれを一切無視して本名で表記しました。

若々しい宇津井健、ガリガリに痩せた丹波哲郎、そして
沼田曜一、細川俊夫といったこのころの主流俳優が出演し、
実在した反乱将校たちを演じています。

終戦の際、実は一番反乱を沈めるために活躍したのは
歴史的にはあまり著名ではない田中静壱大将でした。

この映画では、田中大将を藤田進が演じ、存在感を見せています。

そして、陸軍の暴走を抑えるためにあえて閣僚にとどまり、
最後まで陸軍の総意を体現する「ふり」をして事態を収集しようとしたのが
阿南惟幾だったということができます。

早川雪舟が天皇陛下のご聖断を賜り滂沱の涙を流すシーンを描いてみました。

「地球防衛軍」

日本のSFもののレジェンドである「地球防衛軍」を取り上げました。
こういう荒唐無稽ネタは語っていても絵を描いていても楽しめます。

エントリを制作するのに調べると、登場する武器などが
独立したウィキペディアのページで説明されていたりして驚かされました。

もとはといえば、東京裁判で日本の被告の弁護人を担当した
ジョージ・ファーネスがエキストラをしているということで
矢も盾もたまらず購入したのがこの映画のDVDでした。

ファーネスは本作で国連の方から来た科学者、
リチャードソン博士を演じています。

ところで、映画を見ているうちに、わたしはタイトルの「地球防衛軍」とは、
何を隠そうこの日本国の軍隊であることに気がついてしまいました。

つまり、「地球防衛軍」=現日本国自衛隊なのです。

劇中地球外生物「ミステリアン」と戦うのはこの日本国防衛軍。
このころの作戦思想として領域横断作戦はまだ採用されていないため、
残念ながら劇には陸軍と空軍しか登場しません。

この防衛軍の司令には、司令といえばもうこの人しかいない!藤田進。
隊長にも小隊長?にも中丸忠雄らイケメン俳優を使っていてなかなかよろしい。

 

「原子力潜水艦浮上せず」

潜水艦救難艦DSRVをとにかく宣伝したいアメリカ海軍の協力で
チャールトン・ヘストンという大御所を起用して作ったにもかかわらず、
いまいち脚本に海軍に対する造詣が足りない感が拭えなかった作品。

コメントでは「変な映画ですね」とまでいわれてしまいました(笑)

それは登場人物、ことに主人公の艦長に、海軍軍人なら当然こうあるべき、
というか、実際にも選択するであろう軍人としての覚悟が全く見られないことです。
チャールトン・ヘストンともあろうものがよくこんな役引き受けたなっていう。

周りの人々の犠牲のおかげで生還したのに、救難艇から乗員を差し置いて
最初にのこのこ現れる艦長に、

「なに呑気にコーヒーなんぞ飲んでんだよ」

と思わず突っ込みたくなること請け合いです。

潜水艦の艦長ともあろう者が、我が身を挺して艦を救うという役割を
仲が悪かった(しかもそんな覚悟もなさそうに見えた)副長に
おめおめと取って替わられてしまうという設定もかなりイタい。

ミニ潜水艇で沈没した潜水艦を救助するのに自らの命を懸けた
ドン・ゲイツ大佐の心意気とは対照的です。

この挿絵は、オリジナルの映画ポスターと自分で作画した絵を
合成させていただきました。

ポスターに描かれているのは、外国の商船と衝突する瞬間の潜水艦です。

ゲイツ大佐の開発したミニサブは、一人が潜水艦の「目」となるため、
このように床に寝そべって監視をするという設定でした。

潜水艦の中なのでちょっと画像に赤みを加えてみました。

というわけで、今年ご紹介した映画は全部で七作。
来年もこれくらいのペースで絵を描くことも楽しみながら
自分視点で探した映画をご紹介していければいいなと思っています。

 

というわけで、みなさま、良いお年を。

 

 

 

新春企画・平成30年度自衛隊参加行事〜おまけ:救難飛行艇US-2の女性搭乗員

$
0
0

みなさま、あけましておめでとうございます。
日記のように思うがままにつづってきた当ブログも、2010年の開設から
今年2020年をもって、なんと足掛け10年になろうとしているのです。

いやもうとんでもないな(笑)

単なる趣味と言いながら10年。

10年一昔といいますが、このディケイドは、わたしにとって
まさにネイビーブルーに恋し、時々オリーブドラブとスカイブルーにも
ときめきながら、東に練習艦隊の出航あれば行って激励してやり、
西に退官する自衛官があれば、行ってその労をねぎらい、
南で潜水艦の引き渡し式があれば、行って予想した名前と違ったと言い、
北で当ブログ読者に声をかけられれば、なぜ分かったのかと必要以上に動揺し、
日照りの総火演では涙管閉塞した右目から涙を流し、寒さの降下始めでは
終わってからふらふら歩き、みんなにモノ好きと呼ばれ、褒められもせず、
たぶん苦にもされず、そういうものにわたしはなっていたという気がします。

 

最近になってgooブログがアップデートされて機能が変更になり、
(少し前に書き込みできないというメールをいただいたことがありますが、
どうやらこのとき工事中だったらしい)
昔の古い記事から見ることもできるようになったので探してみると、
わたしが最初に自衛隊の行事に参加したのは2012年。
知り合いの紹介で呉教育隊と「さみだれ」を見学したのが7月、
そして同じ年の10月に初めて観艦式に参加しています。

以来幾星霜、数々の自衛隊行事に参加してきたわけですが、
新春企画として、このお正月は、昨年1年間にわたしが参加した
自衛隊行事を振り返ってみたいと思います。

陸上自衛隊 平成30年度 降下始め

毎年1月の上旬に習志野駐屯地で行われる空挺部隊の降下始めです。

寒さの降下始めではふらふら歩き、と書きましたが、冗談抜きで
体感温度0度の草地に携帯椅子で座っていると、立ち上がったとき
体が固まってしまって冗談抜きで足がいうことを聴かないのです。

それに気づいた次の年から、わたしは必ず何分に一度かは立ち上がり、
軽く足踏みなどをしてこれを防ぐようにしています。

とにかく1年間で一番寒い時期に、遮蔽物もない原っぱで
空から降ってくる落下傘を眺めるためにじっとしているのですから、
イベントの要忍耐力の点では夏の総火演と双璧かもしれません。

毎年少しずつ筋書きというか展示が変わるのがこの降下始めです。
この前年度はとにかく降下を行う人数が大量でしたし、
全く戦車の登場しないときもあったりで同じであったことがありません。

新しくなった装備がお目見えするのも楽しみの一つです。
C-1の後継機である輸送機C-2が降下始めに登場したのを
わたしはこのとき初めて見たような気がします。

ただしわたし自身毎年必ず降下始めに行っているわけではないので、
このときが初めてだったかどうかはわかりません。

降下する空挺隊員は両側のドアから同時にジャンプしますが、
こんなふうに接近してしまうと怖いだろうなと思います。

実際、空挺降下はどんなベテランでも飛ぶ前は怖いのだそうです。

大量に降下した年、落下傘の索が絡まって、つながったまま
予備傘を出して降りてきた二人を見たことがあります。

C-2に置き換えられる予定のC-1もまだ残っています。

戦術輸送機C-130Hハーキュリーも空挺降下を行います。

アメリカ陸軍の空挺部隊の参加は最近恒例になっています。
肉眼では見えませんでしたが、写真に撮ってみて
空中でこんなドラマがあったことを知りました。

降下中、接近しすぎて傘が絡みそうになった二人の米軍降下兵。

上にいる方が思いっきり相手の頭を蹴って反動で体を離しています。

そして何事もないように並んで降下していきました。
あれは空中で接触しそうな時のマニュアルなのかもしれません。

一降下でばらまかれた落下傘の列が降りきらないうちに、別の輸送機が
別の落下傘をばらまき、さらにその上に別の落下傘の列ができていきます。
こんな光景が見られるのは降下始めだけ。

わたしが辛い寒さも覚悟の上で習志野に向かう理由です。

ヘリコプターから降り立つギリースーツの狙撃兵を見られるのも
降下始めならでは。

チヌークCH-47からリペリング降下で人が降りたり、
迫撃砲や車を降下させたりするのも恒例の展示。

一眼レフカメラを手に入れてからはこんな写真が撮れるようになり、
一層参加が楽しみになりました。

ただし、今年は年明けにアメリカに行くことになってしまったので
降下始めには参加できないことがすでに決定しています。

ヘリからのリペリング降下を撮るチャンスは一瞬です。

招待客の観覧席前では近接格闘の展示が行われました。
わたしのところからは望遠レンズでないと何もみえません。

ヘルメットを被っている人が、次々と襲ってくる敵をやっつけていきます。
うしろで立て膝している人たちは、自分の順番を待っています。

スキンヘッドの人が武器を持って襲ってきました。
このスキンヘッドも数秒後には他の人のように地面に倒れる運命です。

おっと、相手は銃を持っているぞ。

しかし、隙を見て銃を奪い相手をねじ伏せてしまう。
まるでランボーのようなヘルメット隊員です。

習志野の地元では第一空挺団というだけでヤクザも手出しできない、
という伝説を聞いたことがありますが、みんながこんな強かったら
そりゃ誰もからんだりしてこないだろうっていう。

模擬戦闘で最後に相手を制圧した陸上部隊でした。

 

「かが」体験航海

「かが」でドック入り前の体験航海が開催され、参加しました。
前日から呉入りし、「かが」に乗り込んでわずかの航海を体験します。

「かが」が呉にやってきたときから係留されている姿は見ていましたが、
乗艦するのは初めての体験となりました。

艦内での行動はグループごとにエスコートがつき、
ちゃんと決められているので、自分で行き先を考える必要がなく
ある意味とても気が楽な見学となりました。

出航作業を見るために最初に艦橋に案内していただけたのも良かったです。

ランチには乗員食堂でカレー(牛乳パック付き)をいただき、士官室で
艦長にデュテルテ・フィリピン大統領乗艦の時の写真を見せてもらうなど、
何かとお得感のある体験航海となりました。

「かが」がドックに着岸してから、艦内のハンガーデッキでは
自衛官の「宣誓式」が行われ、それに立ち会うこともできました。

 

海上自衛隊岩国航空基地訪問

何か見学したい飛行機はあるか、と訪問前に聞かれて、
瞬時に「US-2」と即答したため、岩国では
あの!救難艇US-2のコクピットに座らせていただくことができました。

 

搭乗前に、US-2については前もって予習していましたが、
現場のパイロットやクルーから聞く話は驚きの連続でした。

波打つ海面に着水するときは、どんなベテランでも、
さらに何回やっても「怖い」のだそうです。

どんな飛行機乗りも自分の乗っている飛行機を愛するのは当然ですが、
US-2乗りの愛は、相手が一筋縄ではいかないじゃじゃ馬だけに一入という印象です。

「わたしにUS-2のことを語らせたら数時間でも終わりません」

とこのとき航空隊の隊長から聞きましたし、江田島にいた
US-2出身の自衛官も片言隻句違わず全くおなじことを言っていました。

 

ところで、その江田島のUS-2乗り(今回の移動で『古巣』に戻られた)
と話していて、US-2にも女性パイロットが誕生していたことを伺いました。

週刊海自TV:海自女子】救難飛行艇「US-2」パイロット

興味を示したところ、その幹部から「航翔会」という、
海上自衛隊航空学生の「同巣会」が発行している会誌をいただいたのですが、
そこに、この女性パイロット岡田めぐみ三尉が手記を載せているので、
ここでご紹介させていただきます。

 

小学生の時に「ヤクルトレディになるのが夢」だった少女がいました。
彼女は長じて目的もなく大学にいくよりはと航空学生に出願しました。
そして救難飛行艇を見た瞬間衝撃を受け、

「これに乗りたい」

と思ったのだそうです。
しかし、自衛隊内で誰にそれを言っても、返ってくる言葉は、

「女性は難しいかもな」

 

ある日、救難飛行艇の機上救助員と話す機会があったので
救難飛行艇を希望しているというと、顔をしかめてこう言いました。

「ふざけたこというな。
俺はあんたみたいな女の子に飛び込めなんていわれても飛び込まないよ」


それでも自称「諦めの悪い」彼女は、P3-C部隊で研鑽を積み、
第71航空隊に転勤願いを出してそれが認められるに至りました。

初めてUS-2を操縦して着水したとき、海面が近づいてくる恐怖心、
1秒が数倍に感じられるような緊張感で、彼女の手は震えていました。

「着水したんだ・・・」

泣きたくなるほどの感動で言葉がでてこない彼女に、

「ボーッとしてないで早くcrewに指示を出せ!」

と叱咤する声が飛んできました。
しかしその日、飛行作業を終え、汗臭い飛行服の彼女に、
一緒に飛んだRS(機上救難員)がこう声をかけてきたのだそうです。

「あなたも飛行機乗り。仲間ですね」

冊子「航翔会」には、第71期航空学生の所感が掲載されています。
そのなかで、岡田三尉のYouTubeを見て入隊を決めたという
女性航空学生が

「US-2のパイロットである岡田めぐみさんに、
岡田特別指導官として会えたので、パイロットになるという
目標を見失うのではないかという不安は払拭された」

ということを書いていました。

世界で一人である救難飛行艇のパイロットを目指すにあたり、

「後に続く女性隊員の道を閉ざすようなことになってはいけない」

と考えていた岡田三尉の心配も、現実には払拭されたということでしょう。

PS-2の前型、PS-1が1989年退役するとき、全機で行った記念飛行。
おのおのの機体に機長が自筆でサインをしています。

このときの見学で大変ラッキーだったことのひとつは、
2017年に退役処分になって廃棄を待っているUS-1/1Aの姿を
最後にカメラにおさめることができたことです。

続く。

 

卒業式〜新春企画・平成30年度自衛隊参加行事

$
0
0

昨年1年間、平成年間に参加した自衛隊行事を振り返っています。

 

昨日、第71航空隊の女性パイロットをご紹介させていただいたところ、
彼女の存在を教えてくれた自衛官から、

「彼女はとても元気な女子。
救難艇に『恋をして』飛行艇乗りになったと本人が言ってました」

という追加情報をいただきました。
また、救難艇の困難さについて、

着水は怖いですが、もっと恐れるのは離水です。
着水はやり直しが出来ますが、離水は一発勝負です。
離水タイミングを計りますが波は複雑で、
彼らを味方にしようとしますが、じゃじゃ馬で毎回手なずけるのが大変です。

とパイロットとしての体験からこのように書いておられます。

わたしは飛行艇そのものを「じゃじゃ馬」と表現したのですが、
実はパイロットにとって飛行機を乗りこなすのは第一歩で、
実戦に出れば波という読めない相手(こちらのいうことを全く聞いてくれない)
の方がずっと難題だというわけですね。

いずれにしても女性であることは救難艇パイロット始め、男性でも
毎回恐怖を感じるような職種を目指す者にとってメリットにならないどころか、
いまだにパイオニアとして茨の道を歩むが如き覚悟が必要なのかもしれません。

しかし、そんな困難に臆せず夢を叶えようとするする女子は実に男前です。

 

江田島第一術科学校訪問

さて、岩国基地でUS-2を見学したあとは、そのまま一気に
江田島まで車を走らせ、第一術科学校に駆けつけました。

幹部候補生学校と第一術科学校の両校長、ならびに
幹部の皆様に表敬訪問を行うためです。

訪問時間が夕刻だったため、こんな江田島を見ることができました。

水害の時に地元の有志によって設置されたという
「がんばろう江田島」の文字。

赤レンガ二階にある応接室で表敬訪問をさせていただきました。

呉までの帰りは小用からの最終のフェリーに飛び乗る?ことができました。
このころまだ建造中だった「ピンクのコンテナ船」が写っています。

 

「いかづち」帰国行事 平成30年1月16日

第31回海賊対処行動を終えて帰国した「いかづち」を出迎えました。
場所は横須賀地方総監部です。

この日横須賀港では日曜日だというのに潜水艦が出航作業を行っており、
地方総監部に向かう途中、まだ雨も降っていなかったので
一部始終を写真に収めることができました。

この日の横須賀は冷たい雨の降る寒い日で、しかも傘を忘れたわたしは
入港してくる「いかづち」を待つ間、震え上がりました。

しかしソマリア・アデン湾から帰国した乗員にとって、
愛する家族の待つ久しぶりの日本なのですから、この雨でさえ
もしかしたら、懐かしく心地よいものに感じられたかもしれません。

「いかづち」が到着するまで夢にもしりませんでしたが、
この度の派遣部隊司令は初の女性司令となった東良子一佐でした。

海賊対処行動のため、「いかづち」には海上保安官も同行しています。

ところでわたしは昨年度、幹部候補生学校の見学をさせていただいたとき、
エスコートしてくれた自衛官と話をしていて

「横須賀に『いかづち』をお出迎えに行ったことがあります」

というと、

「ありがとうございます!わたし乗ってたんですよ」

とお礼をいわれてしまいました。

幹部は短期間で転勤するため、例えば名刺交換しても
次に同じところにいくとすでに本人はいなくなっているのが常ですが、
こういう「再会」もあると、なんだかとても嬉しいものです。

帰国式典ではその任務に対し防衛省から特別賞状が授与されました。

防衛副大臣参列による式典終了後、護衛隊司令から
個人に対して賞状が授与されています。

 

幹部候補生学校見学

幹部候補生学校のお招きで江田島見学をしました。
到着したとき、ちょうど総短艇がかかり、候補生が
グラウンドを全力疾走していくのを目撃しました。

これは卒業前の最後の総短艇だったそうです。

練習艦隊出国行事の際一人の実習幹部にこのときの結果を聞いたところ、
偶然彼はこのときに勝利をおさめたチームにいた人でした。

このとき総短艇をおこなっていた候補生たちも、その後
遠洋実習航海を経て、もう各自が自分の任地で自衛官としての
第一歩を歩き出しています。

この時の見学では、「陸奥」の砲塔の中に入らせていただきました。
戦後進駐軍はこの内部をわざわざ爆破したと聞きショックを受けました。

 

英国海軍「モントローズ」見学

翌日アメリカに出発という日、ロイヤルネイビーのフリゲート艦
「モントローズ」が晴海に寄港していたので見に行きました。

自衛隊イベントというわけではありませんが、外国海軍の艦艇が寄港したときには、
必ず海自がエスコート艦を出して隣で一般公開を行うのが恒例で、
このとき「モントローズ」のカウンターパートに選ばれたのは
同等のクラスである護衛艦「むらさめ」だったのでご紹介しておきます。

この頃、相次いでイギリスから艦船が派遣されていた表向きの理由は、
北朝鮮の瀬取り監視というものでしたが、一説によると、日英両首脳会談で
「日英同盟再び」とばかりに両国が防衛の面で協力する動きがあり、
イギリスはブレグジット後の自国のアジアにおけるプレゼンスを、
日本との連携を通じて強化していきたいという狙いがあったようです。

日本としても瀬取り監視は喫緊の課題でもあったので、
両者の利益は合致した、とこういうことだったみたいですね。

他所の国の軍人さんを間近で見ることができるまたとない機会です。
男性はほとんど全員刺青を二の腕から手首にかけて入れており、
女性も男性軍人と同じ部署で同等に任務についていました。

 

幹部候補生学校卒業式 招待行事

おそらくわたし史上最初で最後の機会だと思いますが、
幹部候補生学校の卒業式に海幕長招待枠で参加しました。

卒業式前日から招待者の艦艇見学ツァーが行われます。
このときは掃海母艦「ぶんご」に案内していただきました。

まずコーヒーをいただきながらスライドを見て
ブリーフィングを受けてから艦内を案内してもらいます。

ツァーご一行様は基本的に政治家を始め世間的にいうところの
上級国民的な(笑)肩書きの人ばかりでした。
ここになぜわたしが混じっていたのか、自分でも謎です。

減圧室も見学しました。
わたしは何度も見ていますが、他は初めての方ばかりだった模様。

「ぶんご」では帰りに機雷型のキーホルダーとか、(トゲがついていて
刺さると大変危険なのでウケ狙い以外の使用には適さない)
タオルとか手拭いとか、お土産をたくさんいただきました。

掃海隊からいただくタオルはいつも使いやすくて重宝しています。

その後マイクロバスで海自史料館に移動。
掃海母艦で機雷掃海について学んだ後、歴史的な機雷掃海作業を
資料で実際に見るという趣向です。

このツァーでは自衛官がたくさん同行していたので、
質問があったらその辺にいる誰かを捕まえれば、
誰でもある程度のことは答えてくれて大変便利。
いわば参加者よりガイドが多い状態でした。

その晩は宿泊していたホテルの宴会場で海幕長主催のパーティが行われました。

壇上は、次の日の卒業式で、幹部候補生が任官した瞬間、
号令なしで行動を取るようになるのでその変化に注目して欲しい、
と「見所」を解説している幹部候補生学校長南海将補です。

アメリカ海軍第七艦隊の司令も出席していましたが、スピーチは
米海軍の雇った通訳によってすべて同時通訳されていました。

明けて翌日、呉のホテルから江田島までバスで移動し、
幹部候補生学校卒業式に出席しました。

招待客の控室は赤煉瓦の一室です。
候補生たちが授業を受けていた部屋の一つです。

幹部候補生学校における成績優秀者五名は、昔の兵学校のように
短剣こそもらいませんが、最初に名前が呼ばれ、大変晴れがましいものです。

しかし、たとえばこのあとの遠洋航海でも成績がつくわけですし、
長い自衛官人生で最初のトップが最後にトップとは限りません。
海将や海将補になった方々にうかがってみると、防衛大学校や幹候で
普通だった(あるいは全然たいしたことなかった)とおっしゃる方が
案外多いのに気付きます。

こちら側に立っているのがこの年の「赤鬼」(か青鬼)。
候補生にとって怖い存在なので昔からこのように言われていますが、
先日ある若い自衛官の父上から聞いたところによると、
候補生たちは案外ドライというのか、江田島での生活も
それなりにうまく気を抜きながら乗り切っているようです。

アルファブラボーのことも無闇に恐れるわけではなく、たとえば
何かの折に候補生一同で贈り物をしたら『泣いた赤鬼』になったので、
それをみて皆ほっこりしたり、という具合です。

卒業式では必ず第七艦隊司令官の祝辞が行われます。
それにしても勲章がたくさんで重そうだー。

このとき二階バルコニーから撮った卒業式中の写真です。

江田島名物、表門(港)までの卒業生の行進。
午前中の卒業式で任官した彼らは、祝賀昼食会には
三尉の制服に着替えて出席し、その姿で出航していきます。

毎年一人いるタイ王国からの留学生は、遠洋航海にも参加します。
練習航海の帰国行事で声をかけてこられた方の息子さんは
このタイ留学生ととても仲が良かったとおっしゃっていました。

ちh

表桟橋から船に乗り込んだ新幹部たち。
向こうに見えているのは「かしま」ですが・・・・、

このとき、「かしま」の錨が泥に埋もれて上がらず、
先頭に立つはずが艦隊の最後になるというアクシデントがありました。

後で「かしま」艦長に聞いたところ、前進と後進を交互にかけて
揺するようにして泥から引き揚げたということでした。


このことを梶元司令は水交会の会誌に書いておられます。

それによると錨が上がらないという報告は前甲板から上がり、
その報告を司令は艦橋伝令から聞き、錨鎖が切れる危険性を察知し、
甲板から実習幹部を引かせる決定をしたのは艦隊司令だったそうです。

「後知恵ですが、当日一度錨をあげてみるなど、
念には念をいれるべきであったと反省しております」

とも書いておられますが、このことは本年度の練習艦隊に
失敗から学ぶ知恵として伝えられていくに違いありません。

 

このとき将官艇に乗ることができたのも忘れがたい経験です。

海峡のところでは帽振れをして練習艦隊を見送る学校関係者の姿を
海上から写真に撮ることができました。

これが村川海幕長が見送った最後の練習艦隊ということになります。
第七艦隊司令もこの後交代し、この二人が制服姿で並ぶのを見るのは
最後の機会になりました。

その後山村新海幕長には市谷に表敬訪問させていただいたのですが、
市谷では写真を自粛したため、証拠写真はありません。

ちなみに山村海幕長の印象をひとことで表現させていただけるとすれば、
旧海軍でいうところの

「フレキシブルワイヤ」

という感じでした。

 

続く。

 

 

観桜会〜新春企画・平成30年度自衛隊参加行事

$
0
0

みなさま、お正月はどのようにお過ごしでいらっしゃるでしょうか。
わたしは今年正月明けにまたアメリカに行くことが決まったので、
三ヶ日は珍しく家にいて家族とすごしました。

元旦は東京駅前の「駅前ホテル」にお節をいただきにいきました。

枡酒が元旦のお屠蘇がわりに振る舞われ、ビュッフェテーブルの端に置かれた
「末廣」の樽は、外国人観光客の自撮りスポットになっていました。

このホテルは和食レストランを持たないので、例年お節は
どこかに外注していましたが、今年はキッチンのシェフが頑張ったそうです。

北海道などの食材をベースにした洋食をメインにしているキッチンが
作っただけあって、伝統のお節料理とは違う創作的な品が多く、
たとえばマカロンの間にフォアグラとジャムを挟んであったり、
パイケースにリエットを詰めてあったり。
田作りも数の子も辛さを抑え、海老には味がついています(笑)

MKは甲殻類を食べないのですが、わたしたちが前回お節を食べたのは
2年前だったのに、しっかり情報がプロファイリングされているらしく、
彼のお重にはエビがありませんでした。

その後、我が家行きつけ?の虎ノ門金刀比羅神社に初詣に参りました。

夜は家族の希望で「スターウォーズ」のレイトショーにいくことになり、
晩ご飯は「一蘭」というラーメン屋を初体験。
カウンターでもブースに囲まれているので個室気分で飲食ができ、
隣の人どころか従業員の顔も見ることがありませんし、
なんなら筆談で全く喋らずに従業員とコンタクトを取ることができます。

ラーメン屋に偉そうに叱られるタイプの店とは正反対のコンセプトで、
女性が一人で入ることもできるのがウリだとか。

スープのあっさり度、麺の硬さも五段階で選ぶことで
好みに寄せたラーメンになるのがいいですね。
世間の評価はどうなのかわかりませんが、わたしは美味しいと思いました。

「スターウォーズ」は9時から開始だったため、わたしは
前半いつの間にか寝てしまったのですが、後で聞くと、わたしが寝ていた時間は
ちゃんと観ている人にとってもわりとしょうもなかったということなので、
レイとカイロ・レーンの対決の前に起きて正解だったと思います。

 

 

さて、昨年1年間に参加した自衛隊行事を振り返る企画、
三日目となりました。

潜水艦「しょうりゅう」命名・引き渡し式
3月18日

川崎重工業において引き渡された「しょうりゅう」が
出航していくのをお見送りしました。

練習艦隊神戸港寄港 3月18日

実は川重での潜水艦引き渡し式の同日朝、わたしはすぐ近くの神戸港にいました。
練習艦隊が寄港してくるのをお出迎えするべく駆けつけたのです。

このとき、やはり昼前からの潜水艦引き渡し式に参加よ予定であった
村川海幕長は、ホテルからここまで文字通り「駆けつけて」いました。

お供と一緒に走ってやって来られたのです。
ジャージを着て海将オーラを消し、埠頭の端に立って練習艦隊を見つめる
海幕長の姿はとても感動的でした。

このとき、呉地方総監や海幕の先任伍長も海幕長と一緒でした。

神戸のお迎えは阪神基地隊の主催であることから、
お出迎えは仮面ライダー「的な人」と、神戸のご当地アイドルでした。

新幹部たちにとって宝塚のショーと同じくらい印象的な出迎えだったと思います。

続いて行われた大阪における地元水交会主催の壮行会。
ここでは毎年宝塚歌劇団の激励ショーが行われます。
「海を行く」や「糸」などの歌唱に新幹部たちは感激の様子でした。

練習艦隊「かしま」艦上レセプション

大阪での壮行会の返礼として、寄港中の神戸港では
練習艦隊主催の艦上レセプションが行われました。

 

関西でしか見られない、名物「レセプション料理のラップがけ」。
こうしておかないと、開式前に料理を食べ始めてしまう人がいるからです。

乾杯も済まないのに食べるのはいかがなものかと思っていても、
誰か一人勇者が食べ始めてしまうと、もう一人が食べ始め、

「行儀が悪い連中やなあ。でも今食べへんかったらなくなってまう」

と三人目が思うことによって決壊したように皆が食べてしまう。
メカニズムとしてはそういうことだと思うのですが、疑問は、全国の
どこの港にも現れないその「最初の一人」がどうして関西にのみ出現するのか、
ということなんですよね。

練習艦隊の艦長たち。
右から「かしま」艦長、「いなづま」艦長、そして「やまゆき」艦長です。

そして乾杯の次の瞬間、乗員がラップを取ると同時に
客が横から箸を突っ込んできております(笑)

わたしの横の人もスマホにこの瞬間を収めていますね。

夕日の沈む神戸港における自衛艦旗降下。

 

呉地方総監部 観桜会 3月29日

三月末に行われるので、毎年桜があるかどうかは微妙なところ。
呉地方総監部の観桜会、平成最後は残念ながらほとんど桜なし。

まあ、全く咲いていないというわけではありませんでしたが。

しかしその残念さを補って余りあるアトラクション?
呉地方総監自らのラッパ演奏による自衛艦旗降下が行われました。

もうすでに公示になっているのでご存知の方も多いと思いますが、
杉本海将は令和元年12月の人事で横須賀地方総監に転勤されました。

自衛隊の人事はずいぶん前に決定され、(わたしに移動を報告してくれた
ある自衛官は、11月中にそれを既に知っていた)その結果はあっというまに
人から人へと伝わっていくもので、わたしはこのことを12月に入ってすぐ、
海自OBのお歴々から聞き及んでいました。

わたしがそのニュースを知って真っ先に思ったのは、
杉本海将の自衛艦旗降下ラッパはもう聴けないだろうということです(涙)
その後お話ししたとき、

「二度とやらないなんておっしゃらずまた聴かせてください」

とお願いしておいたので、呉勤務が続けば可能性はあるかと思ったのですが、
横須賀ではなんというか、総監がラッパを吹くような雰囲気じゃなさそうなので・・。



江田島 第一術科学校観桜会 3月30日

呉の次の日に行われた江田島の観桜会。
呉では全く咲いていなかった桜ですが、こちらでは
かろうじて咲いていないこともない、という状態になっていました。

江田島では皆が桜に「咲け〜!」「咲け〜!」と声をかけたそうですが、
もしかしたらその叱咤激励の賜物かもしれません。

ここでの観桜会は昼間のイベントとなりますが、午前中には
構内の見学ツァーが催されます。

ここをもうすぐ取り壊すと聞いていたので、写真を撮っておきました。

赤煉瓦横の大戦中からある校舎の取り壊し理由は
「歴史的価値はないから」だそうですが、この言い方はどうなんだろう。

海軍兵学校の頃からあったというだけでも、立派に「歴史的価値」はあると
わたしは思うんですけど、まあわたしは廃墟フェチといわれるくらい
古い建物に執着するタイプですので、わたしのようなひとに決定させたら
古いものには何も手をつけることはできなくなるでしょう。

この年の秋訪れたときには覆いがかけられ、取り壊し作業にかかっていました。

構内で一番立派に咲いていたのが、この「第二の同期の桜」です。

この日の懇親会で供された第一術科学校お手製のケーキ。
「平成最後の桜」と名付けられていました。
チョコレートは桜の幹、周りのブルーのゼリーは江田内を表します。

ちなみにこれは幹部学校訪問で校長ら幹部の皆様といただいた
会食のデザートにでてきた手作りのお菓子です。

デザートのために下に敷いた紙にお花を手描きしたのではないかと思われます。
いつも彼らの心遣いとおもてなしの気持ちには感動せずにいられません。

 

海上自衛隊八戸航空基地 観桜会 4月25日

北の桜は連休の頃満開になります。
日本列島が南北に長いことを、わたしは八戸の桜を見て
改めて実感することになりました。

後少しで御代がわりという4月下旬、海上自衛隊八戸基地の
観桜会あらため意見交換会に行ってまいりました。

なぜ観桜会といわないかというと、このわずか2週間前の4月9日、
近隣の空自基地、第302航空隊のF-35が墜落して、まだ
自衛隊では全部隊を上げて機体を捜索中という状態だったからです。

乾杯も祝辞も行われず、八戸基地第二航空群司令の瀬戸海将補は、

「隣同士であり空自と海自の違いこそあれ同じ航空基地の仲間なので
このニュースは我々にとっても本当に心が痛むものです」

というようなことをスピーチされました。

その後事故原因はパイロットがバーディゴ(空間失調症)に陥り、
平衡感覚を失って、自分が墜落しているとは認識しないまま、
時速1,100kmの速度で機体ごと海に突っ込んだらしいことがわかりました。

 

漁港でもある八戸は、特に海産物が安くて美味しい土地ですので、
この意見交換会における料理も品数豊富でおいしかったです。

昔ここには陸軍の飛行場があり、陸軍少年飛行隊が置かれたこともあります。
旧軍の基地駐屯地だった場所には必ずといっていいほど
桜の木が残っていて、かつてのようにみごとな花を咲かせています。

しかし、この日の八戸の桜は、天気のせいなのか、心痛む殉職事故のせいか、
いつにも増して儚げな、もの哀しい色をしているように見えました。

 

続く。

 

新春企画・令和元年度 参加自衛隊行事

$
0
0

平成30年4月30日、偶然わたしの誕生日をもって平成は終わり、
次の日から元号は令和と代わりました。

元号が発表されたとき、わたしは家族と車で移動中でしたが、
滅多につけないラジオに切替えて、その瞬間を待っていました。
そして、

「令和」

の発表。

「れいわ」「令和かあ」「令和ねえ」

と全員がまるで吟味するように口に乗せて繰り返したものです。
おそらくリアルタイムで発表の瞬間を見ていた人たちのほとんどが
同じように口にしてその響きを確かめたのではなかったでしょうか。

最初は聴きなれず見慣れない「令和」は、新しい服がなじむように
自分たちの生活のそこかしこに関わってくるようになると、
最初のちょっとした違和感などどこかにいってしまいました。

そういえば、「平成」のときも、ほとんど今回と同じような経過で
年号はしっくりと馴染んでいったような記憶があります。

 

さて、今日は元号が令和に替わってから参加した自衛隊行事についてです。

練習艦隊旗艦「かしま」艦上レセプション 5月12日

この年度の練習艦隊行事には、3月の卒業式、神戸の寄港をお出迎えし、
大阪の壮行会に参加、さらに神戸での艦上レセプションにお呼びいただき、
ほとんど追っかけといってもいい密着参加をさせていただきました。

 

練習艦隊は帝国海軍時代から江田島を「ロングサイン」で送られて出港後、
国内巡航を何ヶ月か行い、その最後に横須賀から出国していくのが倣いです。

レセプションのテーブルには、さっそく鶴亀をあしらった
「令和」の文字入りスイカカーヴィングが登場。

「かしま」の給養が腕を奮うレセプション料理も、心なしか
横須賀が一番豪華で品数も多いような気がします。

今年は神戸でも横須賀でも、隣に接舷した「いなづま」を解放して
会場を二隻に分けて行われていました。
招待人数がどちらも多かったということなのでしょう。

「かしま」艦上で挨拶を行う練習艦隊司令梶元海将補。
後ろの暖簾は「いなづま」からもってきたものと思われます。

会場を二手に分けることで、ご覧のように余裕ができました。
「かしま」だけではBGMを演奏するバンドも入れられません。
甲板に余裕があって、この決定は参加者にとって大変ありがたかったです。

艦上レセプション中の一種の「アトラクション」となっている
(乗員にとっては日常ですが)自衛艦旗降下は、今回
「いなづま」の方で見学しました。

練習艦隊出国行事 令和元年5月21日

練習艦隊が遠洋航海に出航する日、横須賀は大変な雨でした。
出国のための行事は体育館で行われることに。

レインコートを着ていてもこれは大変そう・・・。

梶元司令の手記によると、1週間前から当日を中心として
前後1日は悪天候が気象予報によって予想されていたため、
毎日その予報ができれば前にずれることを願っていたそうですが、
それもかなわず、どんぴしゃりで当日に当たってしまったのとか。

出航していく「いなづま」。
これは船乗り的に「暴風雨」というべき天候だったそうです。

気の毒だったのは練習艦隊の出航の間ずっと舷側に立っていた
横須賀港定係自衛艦の乗員の皆さんでした。

彼らですら顔を伏せてしまうくらいの雨が遠慮会釈なく吹き付けています。

 

 

そして「かしま」も出航となりました。
この日の房総沖は波高5mにも達し、艦隊は高波高域とともに
当面東進することを余儀なくされたということです。

出航直後からハードモードに見舞われた練習艦隊。
航海に不慣れな実習幹部たちにとって初めての「洗礼」です。
4.5mから5mの高波高域は出港後まる4日続きました。

このため練習艦隊司令は、出航直後から下艦を申し出る者がいるかもしれない、
と懸念していた、と書いておられます。
(何年に一度かはそういうことをいう人がいるというなのことでしょうか)

幸い、今回は全員が無事にその困難を乗り越えました。
大変そうな人(寝たきり状態になってしまっている人)には、

「ベッドに横になっているときにでも次第に体が揺れに順応し、
慣海性が涵養されていく」

といって安心感を与えたということです。

それにしても「慣海性」という言葉は初めて目にしました。
船乗りの世界ではポピュラーな言葉なんでしょうか。

 

掃海隊殉職者追悼式 にともなう
「うらが」艦上レセプション 5月27日

毎年5月の海軍記念日(27日)前後の週末、高松の金刀比羅宮で
戦後機雷掃海に従事し殉職した掃海隊員の追悼式が行われます。

ここ何年か、追悼式とその前日に高松港で行われる
掃海母艦のレセプションにご招待いただき出席してきました。

この季節、高松港に浮かぶ掃海母艦の甲板で行われるレセプションは
大変風情のあるものです。

甲板からは瀬戸内の島々の間に沈む夕日を眺めることができます。
こんな艦上レセプションは高松でしか体験できません。

広い掃海母艦で日課の自衛艦旗降下が行われるときも、
他のレセプションと違い(笑)おじさんが幹部と旗の間に
強引に割り込んでくるようなことは決してありません。

この日の「うらが」艦上で目撃した謎の飾りもの。

 

掃海隊殉職者追悼式 5月25日

機雷掃海活動で殉職した自衛官の慰霊碑は、
金刀比羅宮の参道途中の森を切り取ったような小さな広場にあります。

ここに、殉職隊員の遺族の方々をお呼びし、追悼式を行うのですが、
年々参加する遺族の数は減っていっているようです。

昔は遺族の方々のあと来賓が先に献花を行っていたこともありますが、
ここ何年かは掃海隊部隊をはじめとする「自衛官ファースト」です。

阪神基地隊サマーフェスタ 6月1日

阪神基地隊のサマーフェスタ。
たまに他の基地から護衛艦が多数来場していることもありますが、
このときはここを定係港としている掃海艇が展示されていました。

冬は餅つき、夏は鏡割りをアトラクションにしている阪神基地隊。
当時の阪基司令深谷一佐(中央)始め政治家の先生方が着用している法被は
阪神基地隊公式アイドルという噂のコウベリーズのお嬢さん方が着せかけたもの。

カレーだけでもたしか三種類出品されていて、食べ比べができました。
ミニカレーフェスタといった感じです。

観艦式前フリート・ウィーク

東京オリンピックの資材置き場に陸自の朝霞駐屯地が使われる、
という事情のため、順番が変えられて令和元年となった観艦式。

観艦式のために集結してくる全国の各海自基地からの艦船が
横須賀にその艦檣を並べる様子は壮観です。

観艦式そのものよりも、この風情を楽しむファンも多いのではないでしょうか。
「フリートウィーク」というのは、ニューヨークにアメリカ海軍の艦隊が終結し、
街中にネイビーが溢れるその時期をいうのですが、日本のフリートウィークも
お好きな方々にはなんとも心ときめく期間です。

わたしは今回観艦式ぎりぎりに帰国したため、これらの光景を
一切見ることがありませんでしたが、いつも写真をお借りしている
Kさんが、横須賀に日参して写真をいっぱい撮って送ってくれました。

しかし、わたしがまだアメリカにいる時から、観艦式本番前後は
おそらく台風になるだろうという心配の声が上がっており、
参加予定者と地本勤務の自衛官の必死の祈りもむなしく、
予定されていた三日間に台風が直撃。
令和最初の自衛隊記念日行事は中止となってしまったのです。

観艦式中止にともなう艦艇公開

観艦式に予定されていた日、横須賀基地ではいくつかの艦艇が
観艦式のチケットを持っている人たちに公開されました。

当日旗艦に予定されていた「いずも」にも、本来乗れなかった人たちが
乗艦することができたということもできます。

観艦式で訓練展示を行ってから帰港するまで、艦内では
乗員が工夫を凝らしたイベントを行うのが常ですが、
「いずも」甲板では消防士が張り切ってポーズを取ってくれていました。

イージス艦の豪華そろい踏みが見られるのもこんな機会ならでは。

ずらりと艨艟の檣が並ぶ様子は圧巻です。

今回は中国人民海軍の軍艦も招待されていましたが、中止が決まった途端
あっという間に帰国してしまったそうです。
シンガポール海軍やインド海軍などは、のんびりと滞在しており、
内部の公開こそしませんが、乗員が甲板に出てきている様子を見せてくれました。

シンガポール海軍のRSS「フォーミダブル」甲板にて。

練習艦隊帰国行事 10月24日

約半年前横須賀基地から見送った練習艦隊が帰ってきました。
行きは暴風雨でしたが、この日はかろうじて曇り。

この二日前、即位礼正殿の儀が行われ、国民は降り続く雨が
即位礼の直前に止み、虹が現れるという奇跡を見たばかりでした。

梶元司令の手記によると、今年の実習幹部は途中骨折して
手術のためグアムから帰国した一人をのぞき、大きな事故も
トラブルもなく無事全員が実習を終えることができました。

また、ラバウルやパラオなど、戦跡を訪れ、慰霊を行うとともに
先人たちの果てしない努力、苦労、そして覚悟を学んだということです。

自衛隊記念日 殉職隊員追悼式 10月25日

呉地方総監部で行われる殉職自衛官の追悼式にも、
ここ何年か列席させていただいています。

自衛隊記念日式典 10月26日

呉教育隊の体育館で行われる自衛隊記念日式典とその後の
昼食会?に参加しました。

その前に起こった千葉の台風被害に配慮して、祝賀会という言葉を使わず、
乾杯も行われませんでしたが、来賓はお構いなしに、スピーチのとき
おめでとうございます、と言ってしまっていました。

第一術科学校 オータムフェスタ 10月27日

呉に二泊三日で滞在し、その三日目に江田島のオータムフェスタに行きました。

自衛隊記念日の最大のイベントは、幹部候補生らで行う行進です。
術科学校校長は、あとから

「今年の行進は上手くいったでしょう」

とご満足のご様子でした。

このときは来賓としてご招待をいただいたので、
これらの分列行進を指揮台のある正面から観覧させていただきました。

懇親会のあと、皆が花火の開始を待っているところで
自衛艦旗降下が行われました。

花火を待つためにグラウンドで寛ぐ位人々。
かつてここで幹部候補生として訓練を受けていた人が見ると
「とんでもない」光景だそうです(笑)

江田内の海上に舟を浮かべて打ち上げる花火。
秋の花火は風情といいコンディションといい最高です。

潜水艦「とうりゅう」命名・進水式と祝賀会
11月16日

川崎重工業での新型潜水艦「とうりゅう」の命名進水式に出席しました。
山村海幕長が支鋼切断の儀式を行いましたが、あとでうかがったところ
「心臓がバクバクするほど」緊張されたということです。

「とうりゅう」はリチウムイオン電池を搭載しており、従来型より
長時間の潜水が可能となっています。

自衛隊音楽まつり 

先日ご報告をようやく終えたばかりの音楽まつり。
当日になって急にチケットが舞い込んできた予行演習を含めると、
三日間の公演に全て参加することができました。

ご手配をいただいた関係者の皆様には、心からお礼を申し上げるとともに
当ブログ掲載を持ってご報告に変えさせていただきたいと存じます。

実はもう一件、たいへん重要な自衛隊イベントに参加しているのですが、
それはそのうち機会を見てご報告をすることにいたしましょう。
(間違えて途中でアップしてしまったので読まれた方もおられるかも)

というわけで昨年一年中に参加した自衛隊行事のご報告を終わります。

今年もそのような機会をいただければ、万難を排してでも参加し、
粉骨砕身見学を行いここでお伝えしていきたいと思っておりますので、
そのときにはどうかよろしくお付き合いください。

 

 

キュリオデッセイ(CuriOdyssey)の動物たち〜サンフランシスコ

$
0
0

バーリンゲームに住んで毎日のように新しいトレイルを探し、
歩きにいったのですが、その中で今回最も「当たり」だったのが、
バーリンゲームからは西側に位置するクリスタルスプリングス貯水池ぞいの

ヒストリック・セイヤー・トレイル(Sayer Trail)

でした。

キャンプ場もあるという散歩とサイリングのために作られた道。
全長17マイルあるので、自転車ならともかく、歩く人は
途中でUターンして帰ってこなくてはいけません。

周りは路駐が可能で、近くにはハンディキャップ用のスペースがあります。

さて、早速歩き出しますか。
貯水池は南北に細長く、その東側に沿って道があります。

ここにもマウンテンライオンが出るようです。

「近づかないこと、しゃがんだり走ったり、急に動いたりしないこと」

「トレイルに立って、出来るだけ体を高く、大きく見せること。叫ぶ」

「子供がいると抱き上げると、より大きな人に見せることができます」

シルエットを見ると、まるで子供を盾にしているように見えるんですがそれは。

絶えず施設の追加や修復が行われているそうです。
地方自治体からの支出だけで賄えているのでしょうか。

日本人には羨ましい限りです。

車は通れませんが、サイクリングの自転車がしょっちゅう行き来するので、
歩く人は邪魔にならないように出来るだけ端を歩きます。

後ろから来る自転車は、軽くベルを鳴らすか、あるいは

「Your left!」

などと声をかけて通り過ぎていきます。

おそらくこれまで人間がが歩いたことがない場所?

歩いていてふと動くものがあったので目を向けると、
柵のすぐ向こうに鹿がいました。

カメラを向けると、ずっとこちらを凝視していました。

これだけではありません。

新しいトレイルに行くときには必ずカメラ持参なのですが、
この日、向かいから来た人が、わたしのカメラを見て、

「そこの茂みの向こうに今鹿が来ているわよ」

と教えてくれたので、どれどれ、と茂みの向こうに
カメラを入れるようにしてみると・・・・、

親子の鹿がいました。

身体は小さいですが斑点がないので、もしかしたら成体かもしれません。

この日は1時間歩いて帰ってきました。
入口に

「リングを拾ったので電話かテキストをください」

と番号のメモがあります。
アメリカでは携帯メールのことをテキストというので、高速には

「テキストしながらの運転は罰金いくら」

というように書いてあります。
こちらでも運転中の携帯メールでの事故は深刻なんですね。

この散歩をしたのは9月4日だったのですが、この84歳の老人は
この時点で10日くらい行方が分からなくなっているというのです。

夕方、歩いてくるといって出ていってそれから帰ってこないと・・。
猫がいなくなったという張り紙はよく見ますが、人間は初めてです。

おじいちゃんはdementia、認知症だと最後に書いてありますが、無事なのでしょうか。

というわけで、この日もAirbnbの部屋に帰ってきました。
わたしの部屋はこの右側の扉を入っていったところです。

サンフランシスコ最後の日、ふと思いついてコヨーテポイントにいきました。
夕方でしたが、週末なのでウォータースポーツを楽しむ人々が。

右側にサンフランシスコ空港が位置します。
時刻のせいか、風が強く、内海にしては波があります。

しかし、そんな海で(きっと冷たい)泳いでいた根性のある家族。

ここに立っていると、空港に着陸する直前の飛行機が間近に見られます。
何年か前サンフランシスコ空港に墜落したのは確かここの飛行機でしたね。

出入り禁止になっていないようで何よりです。

こちらはそれと対照的に大変評価が高いシンガポール航空。

過密空港なので二機が同時に飛ぶこともしょっちゅうです。

今日の目的はここ、コヨーテポイントにあるキュリオデッセイです。

キュリオシティとオデッセイの造語である自然博物館で、
主な用途は、子供の自然教室だったりします。

動物園もあるらしい、と昔知ってから、一度いきたいと思っていたのですが、
散歩の時間には開いていないので、この日ようやくチャンスがきました。

まずは小さな水槽から。

western toad、セイブヒキガエルは南北アメリカ大陸にのみ生息するカエルで、
ペットとしてに飼育されるそうです。

カエルって懐くんでしょうか。

鳥籠だけど室内ではないケージにいる猛禽類の皆さん。

写真を撮っていたら睨まれました。
ゴールデンイーグルという種類です。

ここには他にも普通のカラスとか、ヒメコンドル(Turkey Vurchre)

「Turkey Vulture」の画像検索結果

などがいます。

昼間はおやすみ中でお姿は見えませんでしたが、こんなのもいるみたいです。
飼育員のメモによると、このフクロウは年間1300匹のげっ歯類を食べるそうです。
一日平均4匹くらいってところでしょうか。

ちなみにこのバーンオウル、夜の間ナイトカメラで生態が観察できます。

https://curiodyssey.org/animal-cams/barn-owl-cam/

アシカ?と思ったら違いました。
水上からとガラス越しに水中の生態を見ることができるのは

ノースアメリカン・シーオッター(北アメリカカワウソ)

狭い水槽を際限なくものすごい勢いで行ったり来たり。
もしかしたら狭くてストレス溜まってるんじゃないだろうか。

このカワウソ君はワシントン州の個人の池に或る日突然現れたもので、
池の所有者はカワウソを放置して面倒を見てやっていたそうですが、
自然に返すためのリハビリセンターに連絡を取り、ここにくることになりました。

じゃあ自然に返してやれよ、と思うのですが、カワウソは大食で、
下手に新しい場所に放すと自然体系を壊すこともあるというのです。

というわけで、彼はここで今後も過ごす予定のようですが、
うーん・・・・どうなんだろう。

カワウソくん・・・楽しい?

ノースアメリカンラクーン、キタアメリカタヌキです。

この時タヌキはどう見ても2匹しかいませんでしたが、実はメス2匹、オス2匹がいて、

その全部がどこかの動物園とか、個人のペットだったということです。
持て余し、貰ってくれるところを探す飼い主もいるってことでしょうか。

確かに可愛いです。

こ両足を開いて、その間に両手をきちんと揃えて置くのが基本姿勢。

ラクーンも毛皮にされてきた歴史がありますが、最近アメリカでは
毛皮というのは完璧に時代遅れ&顰蹙アイテムみたいです。

おしゃれなブランドが出すファーは限りなく本物に近いフェイク。
最近は技術が進んで、本物と見分けがつかないフェイクファーもあります。

キュリオデッセイの一番人気といえば、ボブキャット。
2匹が一緒に入れる吊るしたカゴに一緒に入っていました。

名前はカーロとフランキーだそうです。

カーロはまだ子猫(っていうのかな)の時に肺炎で死にかけのところを
なんとか生還した子で、フランキーは運動障害でした。

どちらも2009年生まれで、生まれた時からインプリンティングを
人間で行ってしまっているので、自然には返せないと判断され、
ここにいるのだそうです。

1匹が出て「猫伸び」をしました。

体は大きくとも仕草は猫です。
爪を立てています。

写真を撮っているとじっと見つめてきてハートを射抜かれました。

ちなみにボブキャットもライブカメラで生態観察ができます。

https://video.nest.com/live/78WkLzkrr6

これはライブカメラの映像をスクリーンショットしたものですが、最初、
この状態で動かないのでライブじゃなくて写真かと思ったら瞬きしました。
ネコ科は夜行性なので夜見るとうろうろしているのが観察できます。

この場所は彼(か彼女が知りませんが)のお気に入りの場所らしく、
しばらくいないと思っても、次に見たら帰ってきていました。

(ついずっと見てしまった)

最近フクロウに目覚める人が多いらしく、全国に
フクロウカフェなるものができているそうですが、流石にこの

「グレート・グレイ・オウル」

はそういうところにはいないでしょう。(いたらごめんね)

カナダの動物園が4年前孵化させた個体が譲られたものです。

てことはこのフクロウは4歳ってことになります。

檻の隙間から入り込んであわよくば餌を盗む気満々のリス。
カリフォルニアジリスではなく、これはトウブハイイロリスです。

キュリオデッセイでは常に「アダプト・ミー!」として
飼育にかかる費用などの寄付を募っています。

ボブキャットのパトロンになろうかなー、と一瞬本気で
HPをチェックしてしまったわたしでした。

 

 

 

軍艦香取征戦記念写真集〜士官室士官、士官次室士官の肖像

$
0
0

さて、古書店で手に入れた「軍艦香取征戦記念」。
「香取」が第一次世界大戦でマリアナ諸島に派遣された、
というところまでわかりました。

ついでに、第一次世界大戦についてさらっとおさらいでき、
さらには日本がどのような形で参戦に至ったのかあらためて確認しました。

今まで全く知識の及ばなかった分野なので、この写真集をきっかけとして
また色々と勉強できそうな気がして嬉しい限りです。

さて、アルバムを開くと、昔の装丁らしくなぜか薄紙が二枚挟んであり、
その次にはこんな書が現れます。

ちなみにこちらは最初にブラザーのコピー機でスキャンした最初のページ。

「同心協力」

という達筆の書は、「香取」艦長近藤常松海軍大佐が、
大正3年12月に揮毫したものです。

近藤常松大佐の写真は、ネット上ではほぼ見ることができないため、
これがもしかしたら唯一出回る肖像になるかもしれません。

 

香取艦長近藤大佐は兵学校15期卒。

同期の「出世組」は、こんなメンバーです。

大将:小栗孝三郎・岡田啓介・財部彪・竹下勇
中将:浅野正恭・中野直枝・永田泰次郎・布目満造・森越太郎・山中柴吉
少将:九津見雅雄

クラスヘッドは、のちに統帥権干犯事件で左遷されることになる
財部彪ですが、わずか80名と人数が少なかった割にはのちの総理大臣(岡田)
を出していますし、このクラスで少将まで行った近藤は、
クラスの上位15名くらいには入っていたんではないでしょうか。


しかし、15期で最ものちに有名になり軍神とまで呼ばれたのは、
成績がトップから程遠かったと言われる広瀬武夫です。

対してほぼ無名の近藤常松は、軍神広瀬の話のついでに
「同級生の近藤がこんなことを書いているが」
という形で海軍史にかろうじてその存在を残しているだけです。

持つべきものは軍神の級友ってことですね。

 

余談ですが、広瀬武夫の兵学校でのハンモックナンバーは、現在でも
「とにかく下の方だった」ということくらいしかわかっていません。
これは、わたしにいわせると、当時の兵学校資料、
ハンモックナンバー順の卒業名簿が存在していないからです。

15期のハンモックナンバーは首席財部、次席岡田ですが、

「卒業者中学術試験に最高点を得たる財部彪は機関砲一班を、
岡田啓介は水雷一班を講演せり」

とだけ記載があるものの、名簿の最初は彼らの名前ではありません。
かと行ってあいうえお順でもなく、全く謎の名簿となっているのです。

兵学校の名簿が成績順になるのは、当ブログの調べたところによると、
明治27年卒業の兵学校21期からのことです。

ちなみに、広瀬や近藤が卒業した明治22年、学術優等として
特に賞を授与されていたのが、当時二号(三年生)だった
秋山真之、三号だった加藤寛治、そして四号からは
前にアルバムを取り上げた練習艦隊司令官だった百武三郎でした。

 

そして艦長と同じベージに並んで写真が掲載されている副長。
艦長と副長を同格にするあたり帝国海軍のリベラルさが窺えます。

副長は菅沼周次郎海軍中佐。

しかし中佐の割に若くないですか?この人。
まあ、自衛隊の二佐にはこんな感じの人普通にいそうだと考えると、
髭がないせいでこの頃の軍人にしては幼く見えるだけなのかもしれません。

髭=貫禄

ということで、偉くなると皆普通に髭を立てていた時代、菅沼中佐は
何を思って副長という職にありながら髭なしを選択したのか。

ちなみに冒頭の士官室士官の集合写真で、菅沼副長は、
二列目真ん中の艦長の左側にいますが、遠目に見ても若い。
調べてみるとwikiがありました。

旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸に生まれる
兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた

兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り

ちなみに兵学校26期は59名クラス、同期には

大将:小林躋造・野村吉三郎
中将:清河純一
少佐:高柳直夫

などがいます。
菅沼は成績は43位とどちらかといえば後ろに近いですが、
最終的にクラスのトップ9入りして少将になったわけですから、
軍人になってから実力を発揮した人なのでしょう。

ちなみに中将になった清河純一は、日露戦争の時に第一艦隊参謀だったので、
東郷司令と一緒の写真に清河大尉として写っています。

関連画像

右上、清河大尉。

わたしは早くから清河大尉のイケメンぶりに目をつけていたのですが、
実はそれは当時も周辺では自他共に認めるところだったらしく、
11期下の井上成美などが「気障だ」といって嫌っていたとかいう噂も。
(あくまでもネットの噂ですので念のため)

今回ネット検索していたら、イタリア人が選んだ日本のイケメン侍、
というランキングこの写真の中から三人、つまり

東郷平八郎、秋山真之、清河純一

の名前が上がっているのには驚きました。
日本人でもほとんど知られていない清河純一の美貌に目を付けるとは、
さすがはアモーレ至上主義のイタリア人。

 

それはともかく、清河の同級生の菅沼中佐です。

日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍

1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、
佐世保市助役に推されたが辞退し、退官翌年の1925年(大正14年)
「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校
校名と校章は当時の佐世保鎮守府司令長官伏見宮博恭王より下賜を受けた

1963年(昭和38年)12月26日死去。従四位勲三等功五級

菅沼が創立した西海学園高等学校は、今でも佐世保の名門校で、
wikiによると、校歌は創立当時、

海軍軍楽隊が作曲・贈呈(歌詞は地元の作詞家)

したということです。
海軍式の厳格な教育をモットーとしていましたが、流石に今は
HPを見る限りそういう感じではなさそうです。

ただ、wikiによると、

運動部や体育授業の駆け足号令も、旧海軍同様に
「1ー!2ー! 1、2!(ソーレ!)」
を用いている

そもそもこれが旧海軍の号令だったとは知りませんでした。

ちなみに現在の理事長は菅沼さんとおっしゃる方で、
写真を見る限り菅沼少佐のご子孫であることは間違いなさそうです。

さて、それでは次に士官名簿をご覧ください。

その後の軍歴などもついでに記しておきます。

藤井精次 台湾総督府港務官

秋吉照一 「桜」「能登呂」「朝潮」艦長

海津良太郎 「高崎」「鳳翔」「赤城」艤装員長・初代艦長

(おそらく写真上段右から二番目)

入江淵平 「高崎」「音戸」艦長 三重海軍航空隊司令

脇田四郎 第65駆潜隊司令 44年クェゼリンで戦死

真崎勝次 兄は陸軍の真崎甚三郎、戦後政治家

(おそらく上段左端)

 

ここまでが士官室士官、大尉以上です。
海軍では大尉以上を士官室士官、中尉以下を士官次室士官、
ガンルーム士官と称していました。

 

有馬直 「保津」「汐風」「磯波」艦長 第26駆逐隊司令

藤城錦之助 1922年「新高」沈没時に殉職(33歳)

防護巡洋艦「新高」は、大正11年8月26日、カムチャッカ半島で
台風に遭遇し、座礁後転覆し、この時に藤城さんも亡くなりました。

艦長の古賀琢一大佐以下300余名のうち、生還したのは、
水兵一人、艦内から救出された機関兵15名だけだったそうです。

そして皆さん、気づいた方も多いと思いますが、
ガンルーム士官名簿の最後には、

東郷實

の名前があります。
言わずと知れた東郷平八郎元帥の次男ですね。

学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。
「香取」は東郷少尉最初の赴任先でした。

40期は中将大繁殖?の期で、有名人を多出しています。

中将:宇垣 纏 ・大西瀧治郎・左近允尚正 ・醍醐忠重 ・ 山口多聞 

40期は卒業者144名、東郷實は後ろから数えて三番目の成績ですが、
最終的には少将にまで昇進し、上位25名となりました。

東郷元帥の息子だったから出世したのか、それとも
勤務についてから優秀だったからここまでこれたのかはわかりません。

現代でも防大や幹部候補生学校での成績が奮わなくとも、
任官してから実力を発揮して将官になる自衛官は陸空海ともに存在します。

 

ところで士官次室士官の写真のどこに東郷少尉がいるでしょうか。

彼はガンルーム士官の中でも最も「下っ端」ですから、
おそらく真ん中の列ではなく、前列に座っている可能性高し。

わたしはこの前列真ん中の男前がそうではないかと思うのですが、
どうでしょう。

Hyo Togo.jpg

ちなみにこちら東郷實の兄、東郷彪(ひょう)。

父親が日露戦争の功労者として得た侯爵位を継ぎ、
貴族院議員となって昭和22年亡くなりました。

ちなみに今回得た情報ですが、東郷彪は黒猫が好きだったらしく、
黒猫の絵、黒猫の像を集めまくっており、
黒猫グッズの蒐集マニアとしても有名だったそうです。

でっていう(笑)

 

続く。

 

 

 

 


軍艦香取征戦記念写真集〜特務士官と分隊

$
0
0

さて、第一次世界大戦に参戦した日本がマリアナ諸島に派遣した「香取」。

わたしが偶然手にした写真集は、戦争が終結し、帰還した「香取」乗員
総員に記念として配られたものであったと思われます。

名簿の最初には、大正3年11月30日現在のものであるとあり、
これは「香取」が日本に帰国する5日前のステイタス、つまり
まさに征戦に参加したメンバーの名前が刻まれているとしています。

配られた何百冊もの「征戦記念写真集」のうち、失われることなく
令和の世になって奇しくもわたしの手元にやってきたこの一冊は、
間違いなく第一次世界大戦に参加した「誰か」が所有していたものです。

そして、わたしはその持ち主の手掛かりがうっすらとわかる書き込みを
辛うじて二箇所、見つけることができました。

まず、士官の名簿、楠岡準一中尉の名前の上に、

「分隊士」

と鉛筆で書かれています。
海軍の艦船は、何名かごとの分隊に分けられ、士官が
分隊士という名称の指揮官として割り振られていました。

楠岡中尉はガンルーム士官の最先任なので、おそらく、
彼の担当は第一分隊であったと想像されます。

つまりこの写真集の持ち主はこの中にいるということになりますね。

それにしても、海軍軍人に限らず、昔の人は写真を撮るとき
なぜか全くレンズと明後日の方を見る人が多いですね。
この写真でもなぜか前列の下士官が皆それをやっています。

こういう写真で笑うのはご法度だったらしく、誰一人として
楽しそうにしている人はいませんが、よくよく見ると、左下に
背中の後ろから手を回して、水兵さんを抱きかかえている
下士官がいたりします。(どちらも真顔)

第8分隊の人数を数えてみると、きっちり50名でした。
それにしてもこの分隊、誰一人としてレンズの方向を見ていないんですが、
特に二列目の下士官グループは、示し合わせたように海の方を向いています。

男がレンズを見てましてやにっこり笑う、なんてかっこ悪い、
という感覚の時代だったのかもしれません。

この第11分隊は38名、特に下士官グループの顔の角度が徹底してます(笑)
たまに海を見ていない人が(前列真ん中、二列目右から三人目)いますが、
その二人はなぜか全く逆の方向を見ていたりして・・・。
どういう意味があったんでしょうか。

 

それはともかく、分隊は全部で11あります。
士官次室士官、ガンルーム士官、つまり中尉と少尉は11人。
彼らが11個分隊の分隊士となったということでもあります。

そして、あの東郷平八郎元帥の息子、東郷實少尉が
分隊士を務めたのは、この第11分隊だったはずです。

 

写真集の最初にある乗員名簿は、これが即ち階級順となっています。
艦長から東郷少尉までの士官に続いては

「機関長」

として、機関中佐大須賀久以下機関将校7名。

「軍医長」

として軍医中監、中軍医、少軍医。
軍医の場合は、一般で言われているように「軍医中佐」ではなく
軍医中監、軍医中尉、軍医少尉ではなく中軍医、少軍医といいます。

そして

「主計長」

として海軍主計中監、軍医と同じように中主計、少主計。

それらが全部紹介されてから、初めて下士官となります。

 い

下士官の最高位、准士官として写真に写っているのは15名。
この中で勲章の数が多いのが兵科、機関科の兵曹長で、
全部で五名いました。
あとは上等兵曹、そして機関兵曹です。

 

持ち主が、兵学校出の士官より特務士官を深く尊敬していたのでは、
と思われる書き込みが准士官室の写真にありました。

特務士官各位(兵曹長)

熟練技術者

とわざわざ言わずもがなの解説をしているのを見て、
なんとなくそんな気がしただけですが・・・。

准士官、特務士官は、いずれも下士官兵から昇進した、
いわゆる「叩き上げ」の士官です。
叩き上げという言葉が泥臭すぎるというなら、現場で経験を積んだ
専門性を持ったベテランとでも言いましょうか。

軍艦の運用には高度な専門知識が各部に求められます。
装備品、機関、兵器のどの扱いも、「熟練技術者」が実質的な
運用の要(かなめ)となって初めて全てが上手く回るわけですが、
残念ながら帝国海軍は兵学校偏重が行き過ぎて、特務士官を
「スペシャル」からきた「スペ公」などという蔑称で呼び、
下に見る傾向があったのは恥ずべき因習だったと言えましょう。

その点アメリカ海軍は、CPOを完璧に士官とは別の、
専門技術集団として扱い、それなりの待遇と地位を与えていたので、
逆にCPOの方が実権を握ってブイブイ言わせていたようですね。

「ミッドウェイ」にもCPOのアイランドがちゃんとあって、そこは
彼らが逆に士官を揶揄して言うところの

「シルバーのフォークとナイフとナプキンでマナーのお稽古」

をするような仰々しさはないものの、彼らのプライドを満たすに十分な
立派な設備が用意されていましたし、そこにあった「クレド」?には、

「CPOは神である」

ということまで書かれていたものです。

「ミッドウェイ」のシステムは戦後のものですが、戦前もまた同じく、
戦艦「マサチューセッツ」には、CPOだけが使用できる特別食堂があり、
そこではちゃんと給仕がついてシルバーとナプキンで食事ができました。
やはり彼らの軍艦における待遇は大変良かったということを表します。

我が日本海軍のCPO、兵曹長、先任伍長は、その専門性の高さでいうと、
少尉や中尉が赤子とすれば大人というくらいの実力差でしたが、
袖に桜が三つつくこの軍服を着ているだけで軍隊では下級となります。

 

名簿の順番はこのあと、

一等兵曹 二等兵曹 三等兵曹

一等機関兵曹 二等機関兵曹 三頭機関兵曹

一等看護手 三等看護手

一等筆記 二等筆記 三等筆記

一等厨宰 二等厨宰 三等厨宰

一等水兵 二等水兵 三等水兵 四等水兵

二等木工 三等木工

一等機関兵 二等機関兵 三等機関兵 四等機関兵

一等看護 二等看護

一等主計 二等主計 三等主計 四等主計

従僕 給仕 剃夫 割烹

一番下は民間人だと思われます。
理髪師のことを剃夫と言ったんですね。

 

ところで、阿部豊監督の映画「戦艦大和」で、出撃に際し、
「大和」を降ろされた年配の下士官に、若い士官が

「親父のような年齢のお前に命令することになってしまったが、
これも軍隊だ。許せ」

声をかけられた下士官は涙を堪えながら敬礼し、

「武運長久をお祈りいたします」

と答えるシーンがあります。

わたしが選ぶ戦争映画の名セリフのうちの一つですが、
これほど、士官と下士官における階級と実力経験のねじれという矛盾のなかに
生まれた互いへの尊敬と愛情を表す切ない会話はまたとないのではないでしょうか。

しかし、実際においてはそのような美しい関係は理想論に過ぎず、
士官が父親のような年齢の下士官を「スペ公」と呼ぶような
蔑視とそれに対する反感などが日常的に渦巻いていたのかもしれません。

この写真集の持ち主が、わざわざ特務士官の集合写真にこのように書き込んだのは、
やはり彼にもそういう海軍のあり方に対する反発があったからかもしれない、
と考えても、あながち間違いではないという気がします。

続く。

 

映画「戦場にながれる歌」〜國ノ鎮メ

$
0
0

 

ディアゴスティーニ配信の戦争映画シリーズには、音楽ものが2作あります。

一つが以前ここでも取り上げた古川緑波主演「音楽大進軍」で、
「我らがテノール」藤原義江始め、当時の日本の第一線音楽家が出演する
「慰問音楽団」をテーマにした映画でした。

本作「戦場にながれる歌」は、陸軍音楽隊を養成する陸軍戸山学校に入隊した新兵が、
殆ど初めて楽器を持つレベルから演奏可能にまでシゴかれて戦地に出征、
そして迎えた終戦後に捕虜となるまでを描いた本格的な軍楽隊映画です。

 

海軍音楽隊ものでは、日露戦争で「三笠」に乗り組んだ軍楽隊を描いた
沖田浩之主演「日本海大海戦 海ゆかば」を取り上げた事がありますが、
陸軍音楽隊映画を観たのははわたしにとっても初めてのこととなります。

♩行進曲「青年」

どう聴いても戦後の作曲という曲調のテーマで映画は始まります。
この「青年」という曲、iTunesの陸自行進曲集DVDに収められていて、
耳なじみだけはあったのですが、今回この映画のために作曲されたことを知りました。

作曲者は団伊玖磨。
本作の脚本の骨子となったのは、戸山学校出身だった團伊玖磨のエッセイです。

それではまいりましょう。
昭和40年度芸術祭参加作品というせいか配役が異様に豪華です。

最初のシーンは、陸軍戸山学校軍楽隊に志願した新入隊者が、
雨の営庭に整列して最初の訓示を受けるところからなのですが、

音楽隊長小沼中尉を演じるのが当時人気絶頂だった加山雄三。

クレジットも一番最初だし、ポスターにもでかでかと写真があるので、
誰でも加山が主人公だと思ってしまいますが、実はそうでもありません。

しかしこの頃の加山雄三ってとんでもないイケメンですよね。
加えて世紀の二枚目俳優の御曹司、ヨットを乗りこなし音楽の才能ありと、
(ディナーショーで自作のピアノ協奏曲のさわりを弾いているのを見た限りは
あながち嘘でもないと思った)当時はスーパースター的存在だったとか。

本作では加山は戸山学校の校長で陸軍中尉ですが、軍楽隊で士官になるには
かなりのキャリアが必要なはずで、それにしては若すぎないか、と思います。

音楽隊軍曹を演じるのは名古屋章。

戸山学校入隊の日、楽器が決まっていない新兵には、軍曹が
名簿を見ながら適当に割り当て楽器を決めていきます。

え?軍楽隊に来る人の楽器が決まっていないってどういうこと?

そう、当時は今と違い、西洋楽器ができる者など滅多におらず、
軍楽隊員を募集したら、音楽学校の生徒以外はほとんどがアマチュア、
それどころか楽器など見たこともないようなのが混じっていたのです。

二瓶正也演じる鷲尾のようにチンドン屋でクラリネットを吹いていたという
「プロといえばプロ」という者ももちろんいましたが。


決め方は適当といえば適当だったようですが、身体の大きなものはチューバ、
歯並びが良いからフルート、といったように、ある程度適性は考慮していたようです。 

「作曲をやっておりました!」

この児玉清演じる主人公の三条孝が団伊玖磨という設定です。
団は東京音楽学校の作曲専攻学生でしたが、徴兵されるよりはと、
音楽で役に立てる軍楽隊を志願し戸山学校に入隊したのでした。

音大で団と同級生だった芥川也寸志も他14名の同級生と共に入隊し、
戦時中で8ヶ月に短縮された新兵訓練が終了した時には、
250名の中のトップの成績だったということです。(ちなみに団は4番)

「作曲う〜?あんなのは基地外のやることだ!打楽器!」

なぜ、とかどうして、とこの不条理に問い返すことはできない世界(笑)

映画には合いの手のようにところどころにこんな五線譜が現れます。
何かそれまでのシーンと関係あるのかと思って見ていましたが、
ほとんどはまっっっっったく関係ありませんでした。

新兵生活は何事も音楽の訓練、ということで歯磨きもランニングも4拍子で。
全てを指揮棒を見ながら行います。

下手すると自分の楽器の名前も知らない手合いがいるので、訓練は楽器の持ち方から。

楽器を持つこと一つとっても、軍隊式に怒鳴りつけられながらです。
右は教官役の桂小金治。

管楽器というのは全くの初心者にとっては音を出すことすら難しいのです。

「風が吹いても鳴る」サクソフォーンや、クラリネットは比較的簡単に音は出ますが、
オーボエやホルンなどは息を思いっきり吹き込んでも鳴るものではありません。
(経験談)

トロンボーンで四苦八苦している田胡を演じるのは当今長太郎。
「今日も我大空にあり」でフラれるパイロットを演じていた人ですね。

「この曲の音階名を言うてみい」

「ドーレーミーファー」

「このヤロー、ドレミファとはなんだ!軍楽隊では全てフランス語だ!」

(ソプラノで)「ユトーレーミーファー、やってみろ!」

いや、確かにフランス語のドレミでは

「ut re mi fa sol la ti 」

で、「ユト」を使うこともないではないですが、いくらフランス人でも
ドレミは普通にドレミだけどな。

余談ですが、なぜ「ド」が「ut」なのかというと、もともと音階は

Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes

というラテン語の聖ヨハネ賛歌の頭文字から取られているからです。
ユトって言いにくいのでドにしたんですね。

しかしなぜにフランス語?陸軍が軍隊の基礎をフランス式を導入したから?

当時日本はドイツイタリアと同盟だったのだから、イタリア式「ドレミ」か、
ドイツ式の「アーベーツェーデー」で全く問題なかったはずなんですが。

ちなみに日本の音大では、伝統的に音名にはドイツ語を使用します。
それだと例えばドミ♭ソの和音=ツェーエスゲーなどと瞬時に言えるからで、
もちろん三国同盟とはなんの関係もありません。

シャバで相撲取りだった青田は「大バス」を与えられました。
大バスとはチューバ、小バスはユーフォニウム、そして
スーザフォンはそのままスーザフォンと称しています。

スーザってアメリカ人なんですがいいんですか?

軍楽隊は戸外での演奏が主になるので、風が吹こうが雪が降ろうが、
常に営庭で立って練習が行われました。

教官を演じるのちの東京都知事、青島幸男。
「いじわるばあさん」がハマり役になるのはこの後です。

 

ところで海軍軍楽隊の人が書いた追想記にも、

「時として練習室の壁が血で染まった」

(海軍は部屋の中で練習できたらしい)とありましたが、
間違えれば棒を持った教官に叩かれ、殴られ、蹴り倒されるのが当たり前。
団さん曰く、

「そのせいで上達は皆驚くほど早かった」

音楽ってそんなもんじゃないだろう?と今の感覚では誰しも思いますが、
恐怖心からくる必死さは案外早く結果を生むものなのかもしれません。

このせいなのかどうなのか、中村紘子氏が書いていたところによると、
昔は間違った生徒を「叩く」ピアノ教師というのが結構いたのです。
叩くといっても頰を殴打するのではなく、間違えた手をピシャッとやるのですが。

戦争映画の陸軍上等兵というと「いじめ役」というイメージですが、
この映画も、新兵をしごき、難癖をつけて殴る上等兵だらけです。

三条は婚約者の写真を私物点検で発見され、三連符の練習と称して

「三津子さん、三津子さん、タタタタン、タタタタン」

と言いながら太鼓を叩かされる羽目になりますが、
インテリにはこういういじめが一番堪えるんですよねえ・・・。

(ex. 映画『わだつみの声』

ちなみに児玉清、この短いシーンで絶望的なリズム感の無さを暴露していますが、
三条は作曲専攻という設定なんでこれはかえってリアリティあるかなと(笑)

 

♬ 國ノ鎮メ

新兵たちがようやく音階練習に入った頃、全員に呼集がかかりました。
戦地から軍楽隊員の遺骨が白木の箱に入って帰還したのです。

 

「國ノ鎮メ」は戦前から陸軍軍楽と海軍儀制曲に共通する儀礼曲で、
現在海上自衛隊では「命を捨てて」とともに慰霊の式にしばしば用いられています。

が、

実はこの曲、「今日の祭りの賑わいを」などという歌詞を見ても
お判りのように、もともと葬送曲ではなく、元始祭や新嘗祭など、
どちらかというとおめでたい皇室行事に用いられてきた曲なのです。

もし、軍楽隊員の遺骨が帰ってくるようなことがあれば、
その時には陸軍でも海軍でも「命を捨てて」が演奏されたはずです。

なぜここでこちらが採用されたかは、映画後半で判明します。

画面には戦死した軍楽隊員の実際の遺品が映し出されます。

遺骨は満州から帰ってきたものでした。

「軍楽兵も戦死するんだな」

「俺たちにも手榴弾の投げ方とかもっと教えるべきだよな」

実際に戦死した軍楽兵の楽器の破片が遺品として存在するのかはともかく、
このシーンは軍楽兵を目指す彼らの衝撃をよく表していました。

彼らが呟いたように、実際にも、戦闘しないので死なずに済む、
と考えて軍楽隊に入隊した人も少なからずいたのです。

さて、場面は変わり。室内でのパート練習風景。
カメラは上から俯瞰で各部の練習の様子を映していきます。
彼らがパート練習を行なっている曲は、スッペ作曲「軽騎兵序曲」。
曲のいろんな部分が聴こえてきてなかなか面白いシーンです。

チンドン屋出身の鷲尾は、ただでさえ現役のクセが抜けず、
クラリネットを吹くと腰がどうしても揺れてしまうと叱られているのに、
反省するどころか、開き直ってチンドン屋のレパートリーをふざけて吹き、
そんな態度に真面目にやっている同僚がブチ切れます。

「先輩が遺骨で帰ってきた日になんだ!」

たちまち全員が巻き込まれる乱闘騒ぎに。

早速軍曹がやってきて、まず喧嘩の当事者がきっちり殴られ、
原因を作った鷲尾はまず問題の流行歌を皆の前で吹かされます。

そして全員が楽器を上に抱え上げ、鷲尾の演奏に合わせて腰を振らされる羽目に。

楽器を上に抱えてずっとその姿勢を保つ、という日本の軍楽隊特有の罰直、
誰が考えたのか、陸海軍軍楽隊どちらもが行なっていたようですね。

小さなフルートだろうが大きなスーザフォンだろうが御構い無し。
この不条理が軍隊というものなのです。

全編通じて音楽と現れる譜面が一致していたのはここだけ。
音符もゆらゆら揺れていました。

ちなみにこの譜面、最後のドの音にタイを付け忘れています。
団伊玖磨はこの演出には全くタッチしてないな(笑)

さて、新兵たちが待ちに待った休暇がもらえることになりました。
軍曹が点検時に皆に行き先を聞くと、皆一様にこう答えます。

「東郷神社に行き、靖国神社で参拝を・・・・」

しかし、真面目に靖国参拝をしたのはトランペットの鈴木だけ。

あとは・・・

「ムフフ・・」「おい入るか」「よし」

若い男の考えることなんて似たようなものです。

女郎屋に入るなり∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)

靖国神社に行くとおっしゃていた軍曹殿となぜかお店でバッティング。
(海軍じゃないのでコリジョンとは言いません)

さもなくば食い気。
相撲甚句が上手いので軍楽隊に入隊したという青田は、
古巣のの相撲部屋でちゃんこ鍋に舌鼓を打っていました。

親方「楽器はなんだ」

青田「大バスです」

親方「なんだおめえ、運転手やってるのか」

青田「バスじゃありません。大バスです。楽器です」

親方「もう番付乗ったのか?」

青田「軍楽隊に番付はありませんよう」

三条は婚約者の美津子さんとお花見・・・・なのですが、
行くところがなくて(´・ω・`)としていたので連れてきた
フルートの中平が一人で喋りまくってすげー邪魔。

中平は入隊一週間前に結婚式を挙げた男でした。
この男も、死にたくないからと軍楽隊に入ったクチです。

「あなたが死んだら私も死ぬ、なんて言われたらさ、
嘘とわかっていても気持ちがいいもんだぜえ」

三人がお花見している後ろでは、なぜか騎馬を行う音声が流れています。

「お前黙ってろよ。俺、美津子さんと話がしたいんだ」

邪険にする三条ですが、後日、この日を涙とともに思い出すことになるのでした。

 

続く。

 

30ミリ、40ミリ砲のターゲット〜USS「スレーター」

$
0
0

パイロットハウス(操舵室)とCICのある02レベルを見学し、
さらに最上階に上がった駆逐艦「スレーター」の見学ツァーは、
もう一度スーパーストラクチャーデッキ(上部構造物デッキ)を
歩くことになりました。

下に降りるのは梯子式のラッタルです。

ここにはベントの他、ボートダビッド、中央にスタック(煙突)があり、
両舷には機関銃の銃座が物々しく並んでいます。

中央に見えるのは3インチローディング(装填)マシーンだそうです。
「スレーター」にはもともと、この装填機の後方に
三連装の魚雷発射マウントがあったといわれています。

しかし、第二次世界大戦後期ごろには、水上艦よりも
駆逐艦にとって差し迫った脅威は航空機の攻撃ということになっており、
魚雷発射管は、慣熟航行(シェイクダウン・クルーズ)の直後に
4基の40ミリ対空砲に換装されました。

これは、煙突の後方にある20ミリ連装砲の左舷側マウントです。

真珠湾攻撃前までは、対空防衛に利用できる唯一の重機関銃は
ブローニングM2重機関銃でしたが、射程と火力が不足していました。
これに代わるには火力は高く、しかし手で扱うには十分に軽い銃が必要でした。

このために選択されたのがスイス・エリコン社の20mm砲です。
この砲は当時すでにイギリスで使用されており、戦前の段階で
米海軍での採用が検討されていたものです。
最終的に、1940年11月、米国内での生産が承認されました。

銃座の足元を覗き込んでみると、コードのようなものがぐるぐる巻きになっています。
これがもともとのものなのか、電源コードなのか(違うと思う)
材質を確かめる術がないのでわかりませんでした。

20ミリ砲はブローニングの代用品として熱狂的に迎えられました。
しかし、最初の数ヶ月はすぐに置き換えるための生産が間に合わず、
ほとんどの対空戦は古いブローニングに依存せざるを得ませんでした。

各マウントには、4名の乗員が配置されていました。
「砲手」「サイト(レンジ)」「セッター」「バレルに一人の装填」
です。

この銃はもともとスイスでエリコン社によって設計されたため、
メートル法で設定されており、アメリカ人のため仕様変更しました。

ちなみにこれが20ミリエリコン銃の図ですが、
ブリーチの上に二つのドラムマガジンが装着されているのを見てください。

マウントの後ろにあるロッカーにドラムが収納されています。
内部には60発弾薬が装填されている丸いドラム缶です。

この20ミリは「スレーター」に搭載された最も小さな対空砲です。
このケースに収納されているのは20ミリの「バレル」ですが、
20ミリ砲は1バレルあたり毎分450発射できました。

長時間発射(約240発)したあとは、素手でさわれないほど熱くなるので、
アスベストの手袋を着用した装填手がバレルを交換しました。

熱くなったバレルは、銃座の横に溶接された冷却タンクに入れ、
予備のバレルと交換されます。

導入当初、これらは単装で装備され、リング状の照準器で
狙いをつけて撃っていたのですが、1942年以降、
精度が高まり、1945年には連装でのマウントが標準になります。

 

煙突より後尾をみると、そこには人員輸送用の「鳥籠」がありました。

艦と艦の間で人を送るときにはこれに乗るんですよ。
一応シートベルトはついてますが、座席はツルツルしてそうだし、
海が荒れているときにロープ一本で運ばれるのは怖いと思います。

しかし、20mmのキャリアはかなり短いものでした。
1942〜44年半ばまで並外れた成功を収めたわけですが、
その衰退の原因は、彼らが「カミカゼ」と呼ぶところの特攻隊です。

体当たり攻撃の前には、20mmはもはやさして有効ではなくなり、
実際にそれを体験した誰もがそのことを感じていました。
しかし、20mmがなくなってしまうことはありませんでした。
理由は偏に的を迎撃しているという乗員の心理的安心感に尽きます。

かつての「スレーター」艦上で空を見つめる20ミリ砲撃手。
1944年の写真です。

 

というわけで連装と4連装銃がいくつかの艦に取り付けられました。

1945年のV-Jデイ(対日戦勝利)の段階で、「スレーター」は
これらの連装砲マウントを9基(パイロットハウスの前方に3基、
この01デッキレベルに4基、艦尾に2基)備えた状態でした。

しかし最初の頃は、パイロットハウスの前方と01デッキに4基ずつ
単装砲があっただけで、これらは、特攻隊に対して無力でした。

これは、相手を認め発砲したときには、体当たりするつもりの特攻機は
すでに接近しデッキに激突する体勢であったため、
たとえ銃弾がヒットしたとしても何らの防御にもならなかったのです。

「スレーター」上部構造物デッキには、20ミリのほかに
40ミリ連装砲のマウントが左右に1基づつ2基備えてあります。

1944年に引き渡しされたとき、「スレーター」はこの01レベルの
上部構造物階後部にMk51ディレクターとともに40ミリ砲を
1基だけを搭載していました。

最初は煙突のすぐ後ろに魚雷発射管が置かれていました。

1944年6月、慣熟航行(シェイクダウンクルーズ)の直後、
魚雷発射管は取り外され、同じ場所に40ミリ砲のマウントを
4基設置して、対空戦に備えることになりました。

これは1945年に太平洋に進出するに先駆けて
行った訓練で標的艦を務める「スレーター」艦上です。
ここには換装された40ミリ砲マウントが写っています。

コンピュータサイト持つMK51銃統制装置を備えた
2つのツインマウントに置き換えられているのが確認できます。

アメリカ海軍の優れた点は、絶えず問題点を洗い出し、アップデートを常に繰り返し、
変化する脅威に対応するためには労を惜しまなかったというところでしょう。

裏側から見た40ミリのマウント。
ラックがあって、そこに40ミリ銃弾が設置されているのがお分かりでしょうか。

弾薬は、鋼鉄の防壁である「ガンタブ」に溶接されたラックに保持されていました。
弾薬が使い果たされると、それらは下階から補充されます。

ただし、40ミリは多くの特攻機がが標的にダイビングしてくるとき、
それを衝突するのを止めるほどの破壊力があったかというとそれは疑問です。

オリジナルの40ミリ単装砲はスェーデンのボフォース社製です。
おそらく第二次世界大戦中の軍艦が採用した武器としては、
最も効率的で有効な近接防空兵器として評価されるものでしょう。

最初にこれを採用したのはアメリカ陸軍で、1937年に
バレル式の空冷バージョンを検討しました。

1940年、アメリカの三大自動車メーカーの一つである
クライスラーコーポレーションが、アメリカで使用するために
これらの銃の製造を請け負いました。

ツインバレル使用のサンプルはフィンランドを経由して
スェーデンから到着し、イギリス軍とオランダ軍の仕様を踏襲したものを
ヨークロック&セーフ社が海軍ように製造することになりましたが、
どういうわけか1941年6月になるまで、肝心の
スェーデンからの正式なライセンスをうけていうけていませんでした。

その問題は(おそらく)解決され、1942年に、最初の連装ボフォースが
生産を開始し、4月には4連装バージョンも登場しました。

ボフォース銃は瞬く間にアメリカ海軍の艦隊全体に普及し始めましたが、
1944年の中頃までは需要が満たされた状態ではありませんでした。

「スレーター」も、45年5月までそれを待っていたということになります。

 

砲弾を手にして説明する解説員。

連装40ミリのそれぞれは、1バレルあたり毎分160発、有効射程約4000ヤードです。
マウントでは7名の乗員(指揮官、照準、トレーナー、第1装填二人×2)
構成されていました。

 

第二次世界大戦最後の9ヶ月の神風特攻との攻防まで、
40ミリ砲は全ての近接防空先頭に有効であることが証明されました。

装填から射撃までの過程を説明してくれています。

さて、40ミリが特攻に対してそれほど有効ではなかったと書きましたが、
それでは何が効果的であったかというとそれは、VT(近接信管)です。

これは、砲弾が目標物に命中しなくとも一定の近傍範囲内に達すれば
起爆させられる信管のことで、近くで砲弾を炸裂させることで
目標物にダメージを与えることができるというものでした。

これで特攻機への命中率を飛躍的に向上させることができました。

最大の長所は目標に直撃しなくてもその近くで爆発することにより、
砲弾を炸裂させ目標物に対しダメージを与えることができる点にあります。

現在の正式な呼称は "Proximity fuze"といいます。

「VT信管」(Variable-Time fuze) というのはアメリカ軍の情報秘匿通称からきた
名称ですが、

「兵器局VセクションのT計画で開発された信管」

ということからではないかという説もあります。
また「マジック・ヒューズ」という呼称することもあったようです。

40ミリは近接ヒューズの電子回路を処理するには小さすぎたため、
76ミリ銃は破壊的な発射体を処理できる最小の武器でした。

それにもかかわらず、ボフォース40ミリは、日本が降伏する瞬間まで
小型船舶の主要な近接対空兵器として主役だったのです。

この上部構造物階には、もう一つの武器が艦尾に向かって設置されています。
主砲となる50ミリ砲で、使用される弾薬の最大水平範囲は約12,000ヤードで、
最大天井範囲は約21,000フィートです。

「スレーター」の砲の照準器は銃の左側にあります。

ここにあるものは戦後の修正を受けており、上部構造物階上部にある統制機の制御下で
自動的に移動できるようになっています。

ここにある銃のほとんどは展示の際にどこからか調達してきて
取り付けられたものばかりです。
ですから由来はわからないのですが、どの艦船に搭載されていても
その銃が1945年の終戦までの間、そのターゲットにしていたのが
実はほかでもない日本の特攻機であり、彼らにとってその脅威は
艦体の武器システムを変えなくてはいけないものでもあったということを
いまさならがらアメリカ人の中に混じってかんがえてしまったわたしでした。

艦尾にたって艦首側を望む。

さて、この後ツァーはもう一度メインデッキに降りていくことになりました。

続く。

 

映画「戦場にながれる歌」〜北支の”愛国行進曲”

$
0
0

陸軍戸山学校時代の団伊玖磨と芥川也寸志が肩を組んでいる写真を見つけ、
絵を書かせていただきました。

カコミはそれぞれの約10年後といった感じでしょうか。
お互い第一線の作曲家として活躍していた頃とはいえ、
このヨレヨレの服にメガネの少年のその後とは思えない洗練ぶりですね。

 

作曲家団伊玖磨の随筆をもとに書かれているこの脚本ですが、
それは昨日までの戸山学校でのた訓練生活までで、団も同級生の芥川も
昭和20年の6月に教育期間を終え、そのあとは終戦まで内地にいたため、
映画のように戦地に出ることなく上等兵とかせしての生活を終わっています。

4月には戸山学校が空襲で全焼したため、浅草に移転したあとは、
団も芥川も演奏ではなく吹奏楽の編曲ばかりをやらされていました。

二人は作曲科でしたので、これはありがたいばかりか、
大変やり甲斐のある楽しい軍楽兵生活だったのではないかと思われます。
演奏がなければ殴られることも少ないわけですしね。

東京中が空襲で焼け野原になり、音楽どころではなくなってくると、
皆は畑を作り、東京湾で貝を取かり、千葉方面に闇の買い出し、
というのが陸軍軍楽隊の任務になり、練習場はあたかも
集団農場のようになっていきました。

そして畑がもう少しで収穫できるという直前、戦争は終わりました。

 

つまり、この映画の次のパート「軍楽兵の見た戦争」の内容は、
団伊玖磨の体験ではないことをまずお断りしておきましょう。

 

♩ 軽騎兵序曲

パート練習していた「軽騎兵序曲」がやっと形になりました。

演奏シーンにはほとんどが実際の奏者がエキストラで出演しているようで、
そのところどころに俳優が混じっている状態。

撮影にあたっては、俳優のほとんどが楽器は未経験だったそうですが、
撮影1ヶ月前からNHK交響楽団の団員に指導を仰ぎ、
各自がそれらしく見えるように猛練習をして臨んだということです。

このシーンでも、一瞬だけとはいえ、指などの動きは完璧にシンクロしてます。
児玉清のスネアドラムもぴったり本職と揃っていました。

 

♪ 陸軍分列行進曲

ここまでが、「立ったまま演奏する練習」。
ここからは、行進しながら演奏をする段階です。
最初なので、楽器がくわえられなかったりつまづいたり、
楽器を隣の人に当てたり(トロンボーン)とトラブル発生。

「陸軍分列行進曲」を演奏しながら歩く隊員たちのシーンですが、
真ん中で二人話しながら立っている人、隊長と中隊長は一体何を・・・?

山本音楽隊長を演じるのは加東大介。

「アブラゲはね、焼いて大根つけて食べるのがこれ一番旨いよ」

「そらうまそうですね。今晩やってみましょう」(大真面目)

全体的にシリアスな展開の映画で謎のシーンです。

訓練期間の8ヶ月が終了しました。
本来なら2年かかる教育を短縮し、楽器を持つところからなんとか、
行進しつつ音楽を奏でるレベルにこぎつけたのです。

「諸君は恒例により全教官と共に九段の靖国神社より市内の繁華街を通り、
宮城前へ向かって大演奏行進を行う!」

♬ 行進曲「青年」

「この行進は諸君の技術・学術の総決算であるばかりでなく、
市民の士気を高揚する重大な任務を持つものである」

靖国神社の拝殿から出発。

チューバのはずがいつの間にかスーザフォンに変わっている青田。

山門を出たところで転びますが、俳優さんは結構怖かったと思います。

相撲部屋から親方と弟子たちも応援に来ているよ。

「あいつ番付に乗ったんだな!」

靖国の参道両側を埋め尽くす割烹着と日本の旗の波。

ドラムメジャーは加東大介ですが、歩くだけで何もしていません。

大村益次郎の像をバックに。
この大村益次郎像は双眼鏡を持ち、自分が指揮をとって彰義隊と戦い、
これを鎮圧した上野公園の方角を見るように立っています。

人波の中を、太鼓を叩く婚約者三条を追いかけて走っていく美津子。
藤山陽子が演じています。

海底軍艦で神宮寺大佐の娘をやってた人ですよね。

音楽隊が行進する街にはなぜか紙吹雪が舞い、窓窓には標語が・・・。
幾ら何でもこんな大仰なイベントだったんでしょうか。

5月27日の海軍行進は風物詩として都民に親しまれていたそうですが。

この行進が行われたのは、19年10月に入隊した団伊玖磨の回想録によれば、
20年の2月で、「分列行進曲」ができるようになったのは1月ごろでした。

陸軍戸山音楽隊は、3月10日の東京大空襲の翌日、都民の士気を鼓舞すべく、
焼け跡を演奏行進したそうですが、それを聴いて心が慰められた人よりも
苛立った人の方が多かったらしく、市民からはレンガを投げつけられたそうです。

 

さて、映画ではこの演奏行進のあと、軍楽隊は北支戦線に出征することになりました。

 

北支に派遣された彼らが見たものは、中国人を暴虐のままに扱う
日本軍の姿でした。

駅で荷物を運んでいた苦力が日本兵が殴られ、線路に落ちて汽車に轢かれたり、
便衣兵か民間人かわからないが夜中に民間人の格好をした中国人を銃殺する、
というシーンがいきなり続き、それを見る軍楽兵たちはドン引きします。

銃殺シーンではご丁寧にも射殺される中国人に

「マ〜〜〜〜〜!(お母さん)」

と叫ばせております。

昭和40年作品であること、監督の松山善三が、当時の「流行」でもあった、
日本軍の中国大陸での「悪行」を暴く的な正義感で書いたことがよくわかり、
わたしはこの部分から、あの「戦争と人間」と同じ匂いを嗅ぎ取りました。

(NHKは最近でも『坂の上の雲』義和団事件や高陞号事件でやらかしてますが)

特に中国での日本軍の行いを無条件で悪、中国人は被害者、
という決めつけのもとに執拗に一定の方向性をもって描写する姿勢は、
あの大左翼映画「大日本帝国」「戦争と人間」に通じるものがあります。

松山善三監督は団伊玖磨と一つ違いですが、終戦時医学生だったので
全く軍隊経験がなく、当然ながら外地での日本軍の所業というのも、
戦後に喧伝された媒体から採用したことばかりであることは
この映画を観るうえで知っておいたほうがいいかもしれません。

この作品が、戸山学校の訓練部分とそれ以降とでは全く雰囲気が代わり、
取ってつけたようにいきなり日本軍批判をする爺さんが現れたりするのも、
つまりそこを境に語り手が別人に交代するからなのです。

わずか10ヶ月とはいえ陸軍に入隊した団と、全く知らない松山の語る部分は、
圧倒的に前半にリアリティがあり、後半は絵に描いたような日本の悪魔化。
監督本人がそこまでアレだったかどうかはわかりませんが、この後半からは、
当時の多くの映画人がそうだったところのDUPESの匂いがします。

山村を車で認知まで移動中、ピータンを食べてお腹を壊した隊員(青田と鷲尾)が
用足しに出かけると、そこで日本軍の小隊に出くわします。

主演クラスの俳優を脇役に豪勢に使っている本作品ですが、その一人、佐藤充。
山中で匪賊を待ち受けていたのに、音楽隊の出現で邪魔をされたとお怒りです。

♪ 愛国行進曲

北支の小さな村に着いた彼らは、早速そこで演奏会を行っていました。
そこで演奏されているのが長い前奏を持つ吹奏楽アレンジの「愛国行進曲」。
中国の山村の農民にはちょっとどうかなという選曲です。

ところがここで急展開。

この村人の中に抗日の兄妹プラス一人がいて、演奏を聴いていた日本兵に
女が微笑みかけて注意を引くや、兄が後ろから刺殺してしまいました。

何回見てもこの中国人たちの意図がわかりません。
こんなところでこっそり一人日本兵を殺して何がしたかったのか。

それに意味もなく兵を殺されたら、当然日本軍としても犯人を制圧しようとしますよね?

というわけで兵隊の銃が火を噴き、中国人たちは逃げ惑いますが、
射殺されたのはきっちり刺殺犯の男性二人のみ。

これってすげー日本軍優秀ってことじゃね?

ところが兄を射殺された犯人の女が遺体に取りすがって泣きながら言うんですよ。

「神様!どうしてこんな酷い目に合わなければならないのですか?」

はあ?ちょっと待てよ。
どうしてってそりゃあんたらが罪もない日本兵を刺し殺したからだろうが。
死んだ日本兵のセリフだよそれは。

「坂の上の雲」もそうでしたが、こういう制作物に共通するのは、徹底した
「日本軍は悪」「かわいそうな中国人無罪」という印象操作です。

今急に思い出しましたが、当時のアメリカでは、まさに

「かわいそうな中国人」

がパワーワードになっていたようですね。
誰かも書いていましたが、アメリカ人が中国にある種の動物を可愛がる的な意味の
同情を寄せていて、日中戦争に介入していったのは、あの宋美齢が
皆の前で泣いたりして日本への「懲罰」を求めたからだという説があります。

そしてまた、戦後の自虐史観においても、共産主義を礼賛する確信的左翼や
松山監督のようなデュープスは、一様に

「純粋で無垢で日本人に虐げられたかわいそうな中国人」

のイメージを再生産しては日本人に罪悪感を与えたとわたしは思っています。

というわけでもうこの辺でウンザリしてしまったのですが、めげずに続きを見ました。

この映画のトリッキーなところは、音楽隊は軍隊の一部ではあるが、
戦闘を行う、つまり中国人にとって恐ろしい相手ではなかった、
ということを強調しているこんなシーンでしょう。

中国語が堪能な伍長の無害アピールに信じられないものを見るような中国人たち。

つまり、本作品では軍楽隊は中国で殺戮をしまくっている日本軍とは
全く違う存在であり、むしろこれに戸惑い反発する『良心』であり、
言い方を変えれば戦争に巻き込まれた被害者であった、という色付けです。

彼らが北支に向かう道中見たのは、ただの山村で行われたらしい大規模な銃撃戦の痕でした。

「戦争と人間」では、日本軍が総力を挙げて小さな村の人々を皆殺しにしていましたが、
日本兵が死んでいることから、これは八路軍との戦闘だったようです。

音楽隊御一行様はここで匪賊に襲われ、逃げ惑いますが、
さすがお金がかかっているせいか、この爆破シーンがやたら派手です。

燃え盛る川(なんで?)を大脱走するという派手な展開に。

もう全滅か?という時、友軍が到着しましたが、この激しかった戦闘で
何人もの戦死者が出ました。

もちろん軍楽隊員の中にもです。

 

 

続く。

 

 

令和元年 年忘れ映画挿絵ギャラリー

$
0
0

なにがといって、今年は御代がわりがあり、平成が終了し
令和が幕を開けたことほど大きな出来事はなかったでしょう。

新しい年号開始が始まったのは五月一日からであったため、
「令和元年」と口に乗せるのも晴々とするこの響きを
半年ちょっとしか楽しめなかったというのが残念と言えば残念ですが。

今年はいつになく映画をたくさん取り上げたので、恒例の絵画ギャラリーは
映画の挿絵だけでけっこうな数になりました。
大晦日の今日は、今年アップした絵をふりかえって年忘れ行事とします。

今日も我大空にあり

1964年度公開の航空自衛隊映画です。
「本物よりも司令らしかった」と本物にいわせた、浜松基地司令役の
藤田進はじめ、隊長役に三橋達也、そして佐藤充、夏木陽介と
当時の人気男優を主役に据えて撮影された意欲作。

なんといってもこの映画には航空自衛隊が全面協力しており、
主人公たちがそうであるところのブルーインパルスや、
当時自衛隊の期待の新戦闘機、F-104が惜しげもなく登場します。

F-104「スターファイター」については、日本だけでいわれていた
「最後の有人戦闘機」というキャッチフレーズにツッコませてもらいました。

 

脇役もこうしてみるとたいへん豪華なキャスティングです。
この中で令和元年現在健在なのは、この映画のオーディションに合格し
これが映画デビュー作となった酒井和歌子(70歳)のみ。

ちなみに本作脚本須崎勝彌氏で、結婚式当日、新婦に電話で
自分が出席できなかったことを謝りもせず、

「君は二号で愛機が一号」

などという台詞を言い放つといった、今ならフェミニズム以前に
ポリコレで炎上しかねないシーンもあります。

若大将シリーズなどで有名な監督の古澤憲吾は、タイトル文字に
こだわり抜いた日の丸の赤を使っていましたが、現場では
この赤のことを「パレ赤」と呼んでいました。

「パレ」とは何を意味するのか書くのを忘れたのでここで言及しておくと、
大東亜戦争初期に陸軍落下傘部隊が降下した「パレンバン」のこと。

本人が「パレンバン降下作戦の勇士だった」と自称していたことから、
まわりも気を遣ってか「パレさん」と呼んでいたらしいのですが、
本人は陸軍ではなく海軍航空部隊出身ですし、しかも入隊したときには
パレンバン侵攻はとっくに終わっていたわけで、つまり

全くの嘘

だったということが海軍航空隊だった松林宗恵監督(予備士官)などの
証言からも明らかになっています。

ただ、古澤は戦時中(昭和19年)の『加藤隼戦闘隊』の助監督をやっていて、
劇中、パレンバン降下作戦の再現シーンに落下傘部隊員役で出演しており、
この体験をもって「降下作戦の勇士」と自称していたと考えられます。

「白い巨塔」で財前五郎役をした田宮二郎が、晩年飛行機の中で
ドクターコールに真面目に名乗り出てきて皆困惑、という実話がありましたが、
昔の映画人の中には映画と現実の境界線が曖昧になってしまうくらい
のめり込むタイプがいて、古澤監督もその一人だったのかもしれません。

 

「憲兵と幽霊」「憲兵とバラバラ死美人」

東宝から再編後すっかり変な路線に舵を切った新東宝の
本領発揮というべきエログロナンセンス映画から
軍に関係があるという理由だけで取り上げた「憲兵シリーズ」二作。

一部の読者にはなぜか大変ウケた企画です(笑)

天知茂と中山昭二が両作で主役を取り換えるという
新東宝の使い回しシステムがよくわかる比較となりました。

良い憲兵は中山昭二、悪い憲兵はもちろん天知茂、そして
いわゆる創作物の憲兵の典型(拷問上等)を細川俊夫が演じています。

とくに「憲兵とバラバラ死美人」は、原作となった実際の事件を描いた本が
実在の憲兵だったことで、当たり前のことなのですが、
良い憲兵がいれば悪い憲兵もいるというような描き方をされていたため、
シリーズの主眼を

「戦後憲兵という悪のイメージが流布されてきたという事実」

とし、どちらも話そのものは熱く語るようなものでもなんでもないですが、
憲兵に被せられた歴史的な汚名を雪ぐことを目的として語ってみました。

ちなみに後で聞いた話ですが、昔は女性が殺されると
メディアは扇情的に被害者を「美人」と煽るのがお約束だったそうで、
酷い場合には「首なし美人死体」なんてのもあったそうです。

 

U-571

戦闘中、諸般の事情でU-571、つまりUボートを操艦して
敵と戦わなければならなくなったアメリカ海軍潜水艦乗員の話。

ドイツの暗号機エニグマ争奪というお好きな方にはたまらない
ワクワクする要素を盛り込んだ荒唐無稽な戦争映画です。

潜水艦もののあるあるとして、狭い艦内なので、人間関係が
濃密に描かれるという傾向がありますが、本作は戦時中の設定なので、
人間関係というよりは、おのおのの能力や危機に際しての対処の仕方、
たとえば主人公のマシュー・マコノヒーが艦長になれずに腐っていて、
戦闘を経験するうちに覚醒するという成長の過程が主眼となっています。

ところで潜水艦ものといえば、海上の敵と戦うシーンでは
必ず潜水艦乗員は上を見つめますよね。

この映画でもふんだんにそのシーンがあったので、絵に描いてみました。

また、劇中、海上に取り残された艦長(ビル・パクストン)に、
あの「グラウラー」の艦長ギルモア少佐が、自分を艦外に残したまま
潜水艦を潜航させよと命じたときの

「Take her down !」

という言葉を言わせてトリビュートしています。

また、マコノヒー演じるタイラーは、いざとなったら部下に
非情な命令を下すことができるかが指揮官昇進のポイントだったのですが、
実戦で生還か全員戦死かという場面に遭遇して初めて、彼は
この「テスト」に合格します。

ところで、この映画をドイツ海軍の元軍人に観せたところ、
「Uボートが大西洋にいたこと以外全部嘘」
と一蹴されてしまったようですが、アメリカ映画だしまあ多少はね?

 

日本破れず

「日本の一番長い日」、つまり終戦のご詔勅に向けて
そのとき政権の中心にいたものたちがどうふるまったかを
戦後初めて映画という媒体で描いたのがこの「日本破れず」です。

わたしは創作部分が多い映画そのもののできというより、阿南惟幾を演じた
当代の名優早川雪舟の存在感だけで、この映画を高く評価しています。

東郷茂徳をヒーローのように描いていたり、米内光政が
まったく実際の雰囲気と違っているのは大いに気に入りませんが。

ちなみに阿川弘之の「米内光政」には、米内の風貌については

「軍港芸者たちは、ただでさえうっとりするような彼の美男ぶりに
辶(しんにゅう)をかけて(物事をいっそう甚だしくすること)
惚れ込んでしまう」

「威風堂々、長身の身に黒いスーツをきて歩く姿は魅力があった」

「うわア、偉人さんみたいなよか男」(by佐世保軍港芸者)

なんて言葉を尽くしてその男っぷりが称賛されているわけで。
東郷茂徳=山村聡ほど下駄を履かせなくてもいいですが、せめて
もう少し鼻の穴の小さな俳優さんに演じさせていただきたかったかなと。

あくまでも個人の感想です。

微妙に史実とは違うストーリーなので、映画は役名を採用していますが、
当ブログはそれを一切無視して本名で表記しました。

若々しい宇津井健、ガリガリに痩せた丹波哲郎、そして
沼田曜一、細川俊夫といったこのころの主流俳優が出演し、
実在した反乱将校たちを演じています。

終戦の際、実は一番反乱を沈めるために活躍したのは
歴史的にはあまり著名ではない田中静壱大将でした。

この映画では、田中大将を藤田進が演じ、存在感を見せています。

そして、陸軍の暴走を抑えるためにあえて閣僚にとどまり、
最後まで陸軍の総意を体現する「ふり」をして事態を収集しようとしたのが
阿南惟幾だったということができます。

早川雪舟が天皇陛下のご聖断を賜り滂沱の涙を流すシーンを描いてみました。

「地球防衛軍」

日本のSFもののレジェンドである「地球防衛軍」を取り上げました。
こういう荒唐無稽ネタは語っていても絵を描いていても楽しめます。

エントリを制作するのに調べると、登場する武器などが
独立したウィキペディアのページで説明されていたりして驚かされました。

もとはといえば、東京裁判で日本の被告の弁護人を担当した
ジョージ・ファーネスがエキストラをしているということで
矢も盾もたまらず購入したのがこの映画のDVDでした。

ファーネスは本作で国連の方から来た科学者、
リチャードソン博士を演じています。

ところで、映画を見ているうちに、わたしはタイトルの「地球防衛軍」とは、
何を隠そうこの日本国の軍隊であることに気がついてしまいました。

つまり、「地球防衛軍」=現日本国自衛隊なのです。

劇中地球外生物「ミステリアン」と戦うのはこの日本国防衛軍。
このころの作戦思想として領域横断作戦はまだ採用されていないため、
残念ながら劇には陸軍と空軍しか登場しません。

この防衛軍の司令には、司令といえばもうこの人しかいない!藤田進。
隊長にも小隊長?にも中丸忠雄らイケメン俳優を使っていてなかなかよろしい。

 

「原子力潜水艦浮上せず」

潜水艦救難艦DSRVをとにかく宣伝したいアメリカ海軍の協力で
チャールトン・ヘストンという大御所を起用して作ったにもかかわらず、
いまいち脚本に海軍に対する造詣が足りない感が拭えなかった作品。

コメントでは「変な映画ですね」とまでいわれてしまいました(笑)

それは登場人物、ことに主人公の艦長に、海軍軍人なら当然こうあるべき、
というか、実際にも選択するであろう軍人としての覚悟が全く見られないことです。
チャールトン・ヘストンともあろうものがよくこんな役引き受けたなっていう。

周りの人々の犠牲のおかげで生還したのに、救難艇から乗員を差し置いて
最初にのこのこ現れる艦長に、

「なに呑気にコーヒーなんぞ飲んでんだよ」

と思わず突っ込みたくなること請け合いです。

潜水艦の艦長ともあろう者が、我が身を挺して艦を救うという役割を
仲が悪かった(しかもそんな覚悟もなさそうに見えた)副長に
おめおめと取って替わられてしまうという設定もかなりイタい。

ミニ潜水艇で沈没した潜水艦を救助するのに自らの命を懸けた
ドン・ゲイツ大佐の心意気とは対照的です。

この挿絵は、オリジナルの映画ポスターと自分で作画した絵を
合成させていただきました。

ポスターに描かれているのは、外国の商船と衝突する瞬間の潜水艦です。

ゲイツ大佐の開発したミニサブは、一人が潜水艦の「目」となるため、
このように床に寝そべって監視をするという設定でした。

潜水艦の中なのでちょっと画像に赤みを加えてみました。

というわけで、今年ご紹介した映画は全部で七作。
来年もこれくらいのペースで絵を描くことも楽しみながら
自分視点で探した映画をご紹介していければいいなと思っています。

 

というわけで、みなさま、良いお年を。

 

 

 

Viewing all 2815 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>