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朝礼と国旗掲揚〜江田島 幹部候補生学校見学

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というわけで、わたしにとって初めての

「生(なま)総員起こし」

見学は終わりました。
朝起きるなり一連のルーチンを問答無用でこなす集団生活。

幹部になるという目的のために自ら志望してこの場にいるとはいえ、
一般人のなかでも自他ともに認めるユルい毎日を送っているわたしにとって、
そんな彼らの姿というのは、見ているだけで、

「生まれてきてすみません」

と我が身を省みて罪悪感に苛まれるほどに眩しいものでした。

ネイビーブルーに恋して幾星霜、それなりに内部潜入体験を重ねてきた結果、
決して自衛隊というものに必要以上の美化も理想化も加うるものではありませんが、
それでも、このような精神教育によって日々人材が錬成される組織が
我が国の国防の任についているということを、わたしは心から頼もしいと思うのです。

 

さて、甲板清掃と言われる掃除を終えると、候補生たちは朝食をとります。
朝食の時間は30分と短いですが、まあ普通の人もそれだけあれば十分でしょう。

わたしたちも一旦見学を中断して、校内の控え場所で朝ごはんを頂きました。

部屋に、今回のエスコート役である三佐が、シルバーのトレイに乗せて
持ってきてくれたのは、昨日のうちに買っておいてくれたらしいサンドイッチと飲み物で、
料金については宴会代等とともにもう徴収されているとのことでした。

ちなみにこの三佐はアメリカ(企業)での駐在経験を持ち、その経歴からも
相当優秀なのではないかと思われる幹部でしたが、ただ優秀なのではなく
不断の努力もされているようで、たとえば、スカイプで
英会話のレッスンを毎日25分欠かさず続けているということでした。

「今朝もお迎えの前に(レッスンを)済ませてきました」

ちょっとまて。
あなたがばりっとシワひとつない制服を着込んで
ホテルにお迎えに来たのは確か6時25分ではなかったか。
一体朝何時に起きているのだ。

まあ、そんな人でなければ偉くなれない世界とはいえ
(というかこのあたりは一般の会社と全く同じかも)
その向上心がやっぱり幹部と言われるだけのことはある、と感心しました。

わたしなどそれに刺激されて、自分もスカイプでの英語レッスンを受けようかと
今真剣に検討しているというくらいです。

 

朝食を食べ終わると、控室から出たところにお迎えの車が停まっていました。
それに乗って今度は大講堂前に移動です。

●整列

大講堂前の階段の上から、今度は朝礼を一部始終見学することになりました。
先ほど甲板清掃によって目立てが付けられたグラウンドには、すでに
幹部候補生が全員整列して再び点呼を行っています。

よくわたしたちは、式典などの自衛官が長時間立ち続けているだけで
その忍耐力に目を見張りますが、彼らにとっては立ち続けることなど
教育訓練時代から日常的に行っている「普通のこと」なのです。

彼らの整列が整ったころ、大講堂と赤煉瓦の間から学生隊の幹部が現れました。
階級は学生隊長の一佐を始め、二佐が前列にいて、あとは二尉です。

学生隊は第1、第2、第3と3隊に区分されます。

1=A幹(防衛大学校卒、一般大、医科歯科幹部候補生、公募幹部)
2=B幹(部内選抜、航空学生、)
3=C幹(幹部予定者=海曹長以上准尉以下)

であり、この隊を統率するのは第1学生隊長(一佐)と、
慣例的に第2・第3兼務となっている学生隊長(一佐)です。

この二尉のなかには、いわゆる「赤鬼・青鬼」と呼ばれる幹事付、つまり
候補生たちにとって怖い「アルファー・ブラボー」もいるに違いありません。

「女性もいますね」

「女子隊員もやはり女性の上官にしか言いにくいことなどがありますから」

そういった説明をしてくださっていたのは実は何を隠そう学生隊幹事。
全学生隊の生活から規律、服務を指導するのがこの学生隊幹事で三佐です。
「幹事付」というのはこの幹事の下で働く「実行部隊」というわけです。

ということはあれだな。
赤鬼青鬼の上司と一緒にわたしたちは歩いていたということか。

道理ですれ違う候補生たちの態度がシャキーン!となると思った。
まあ、誰と一緒でも彼らはきちんとふるまうのだとは思いますが、
鬼の親分となれば緊張感も増し増し、ってところでしょう。

 

そして、整列が整ったところで幹部候補生学校長が登場します。

しかし、普通の学校の校長先生とは違い、ここの校長は
「こうちょうせんせいのおはなし」は行いません。

まず、日本国自衛隊の部隊として、大事な任務、国旗掲揚を行うのです。

 

●国旗掲揚

前日の宴会において、幹部候補生学校として明日はわたしたちに朝礼と
国旗掲揚を見ていただく、という話をしていたときでした。

「あっ、明日は休み明けなのでラッパ隊がいません」

一人の幹部が言いました。
休みの日には寛大にも江田島では外泊が許可されており、したがって
休み明けには国旗の掲揚は生ラッパではなく君が代は放送になるのです。

うーん、せっかく初めて見る朝礼なのにそれは残念。
するとハイボールをお飲みになっていた第一術科学校長が、

「今から呼び戻せ」

そんなこといくらなんでも無理に決まっていましょうが(笑)

それに、わたしはこの間のオータムフェスタで、フル喇叭隊付きの
国旗降下を間近で観ているので大丈夫でございます。

 

国旗掲揚が始まる前にそれまで大講堂前にいたわたしたちは、
候補生たちの左側をまわって掲揚竿の比較的近くに移動しました。

そして「時間」。

国旗を掲揚しているのは海曹一人で、放送の「君が代」が流れ、
高い竿に日の丸が揚っていくとき、わたしは、わたしたち以外の
すべての人々が国旗に向かって敬礼していることに感動していました。

わたしの感動の源泉は、そう、ここがあの江田島であるということです。
同じ場所の同じ時刻、同じ喇叭譜によって、明治21年から
戦後の10年をのぞき毎日、同じ儀式が行われてきたということ。

今日という日もまた、その重ねられてきた歴史に加えられる
あらたな一日であることを、実際にその場にいて音を聞き、
朝の芳しい空気の中国旗に敬礼する制服をまとった人たちを観て初めて、
わたしは実感することができたのでした。


「国旗が掲揚された後、校長があそこに立って『おはよう!』といいます」

前もって説明を受けていたわたしたちは、学校長に注目しました。
普通の学校の校長先生はもちろん、大会社の社長であっても、
「おはようございます」といいますが、ここでは違います。

学生幹事が先ほどから敬礼する候補生たちに返していた、独特の
「おはよう!」は自衛隊ならではの上官からの部下への挨拶だったのです。

「おはよう!」

決して張り上げているのではないけれど、広いグラウンドの隅々まで
響きわたるような深みのある声で、学校長が挨拶をしました。

根拠はありませんが、代々幹部候補生学校長に補職された幹部自衛官は
この「おはよう!」をいう瞬間、格別の想いを持つのではないでしょうか。

そしてこの朝の挨拶も、いつからかここ江田島で行われ、
受け継がれてきた海軍の遺産に違いありません。

 

●5分間講話

海上自衛隊には(陸空自衛隊でもやっていると思いますが)朝礼の際、
5分間、分隊の前で決められた一人が講話を行うという行事があります。

これは、幹部自衛官として部下に命令などの意思伝達を行うための
技術(言葉遣い、内容、論旨の組み立て、姿勢や言語の発音等)
を習得するというのが大きな目的であろうと思われました。

内容は基本的に自由ですが、よくあるパターンは、部隊を長年経験した
部内選抜や予定者などの候補生が、A幹部に、自らの体験した
現場での出来事やそこでの任務について講話するというものだそうです。

「このグループの講話者がそうです」

学生幹事はわたしたちをそのグループの横に連れて行ってくれました。

「すみません、話の内容も聞かせてもらっていいですか」

TOが言い、わたしもグループの前の、少々年配の候補生が
A幹部に対して、自分の出身である潜水艦隊における初期訓練について
話しているのを聴きました。

そしてそれが終わると、その講話を講評する係が出てきて、
トータルの時間を発表し、内容や話し方について評価します。

これも、聞いたことに対し自分の考えを口にして発表する、
というトレーニングの一環であるわけです。

日本の学校教育に足りないものはスピーチだと、わたしは
かねがね思っているのですが、ここでは学校教育で行わなかった
人前で話すという(実は大事な)訓練が補完されているのです。

●行進

朝礼が終了しました。

候補生たちが課業はじめで校舎まで行進していきます。
最初にグランドに黄色い旗が立てられ、これは行進の際
学生隊長に敬礼をするポイントとなります。


候補生たちがずっともったままのカバンには、これから始まる
課業に必要な教科書や人によってはパソコンも入っています。

「重そうですね」

それに、右手で敬礼するので左手がかなり辛そうです。

「昔は本だけだったのでもっと重かったと思いますが、
最近はペーパーレスが進んでいますから」

でも、パソコンが入っているとそれだけでかなり行きそうです。

ちな海軍の昔は彼らが教科書を包むのは風呂敷だったんですよ。

台上に立っているのが第一学生隊長です。
各隊の最前列右側で行進をリードする候補生は、
黄色い旗の手前にきたら旗通過時にピシッと敬礼を行い、
全体が頭右をおこなうように号令をかけるのです。

これは日常的な行進と観閲官への礼の仕方の訓練でもあります。

この様子を教官たちは皆じっと見ていて、黄色い旗に
少しでもタイミングが合わないと、とたんに

「遅い!」

などという注意が飛びます。

もしこの日の行進になんの瑕疵もなければ、わたしも知ることはなく、
普通の行進だと認識していたと思いますが。

またこのとき一人、全員が頭中しているのに、号令を欠けた本人が
敬礼をせずに通過しようとしてしまい、わたしの横の学生幹事が

「〇〇、敬礼しろ!」

と大きな声で注意するというシーンを目撃しました。
初めての役目で緊張してしまったのでしょうか。

 

学生幹事の話によると、やはり候補生学校においては、特に行進などは
初体験となる一般大学卒と、4年間みっちりと体に叩き込まれてきた
防大卒とでは大きな「差」があるのだそうです。

そんな両者を合同で訓練し、1年間という決して長くない期間で
同じゴールにたどり着かせるのですから、幹部候補生学校というのは
預かる方にとっても大変な重積だということになります。

もちろん、任官して長い自衛官人生を歩む上で、どちらの出身かは
昇進に影響がなくなっているというのが現状で、現に現在の
第一術科学校長は、一般大学(大阪外語大学)の卒業です。

 

黄色い旗と号令のタイミングがちゃんとしているか見るのは週番です。
真横の至近距離から、足の踏み出しをじっと見ているのです。

最後に行進してくる団体は、予定者といわれる部内選抜の候補生です。

 

 

わたしたちはこの後、幹部候補生学校長みずからの案内で、
江田島ディープツァーを行っていただきました。

 

続く。

 

 

 

 


映画「原子力潜水艦浮上せず」〜”Roger, Mother Hen. This is Baby Chick!"

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映画「原子力潜水艦浮上せず」二日目です。

冒頭画像は三日目のために製作した二つのバージョンのうちの一つですが、
DSRVがバックに入っているので捨てがたく、当初の二日目の挿絵を引退させて
採用しました。

しかし、二日目もせっかく製作したので、無理やり載せてしまいます。

ミニサブに乗り込む際、「眼」となりマニュピュレータの操作をする
「相棒」は、床に腹ばいになって、ずっとそのままの姿勢でいなくてはなりません。

バチスカーフ「トリエステ」でもこんな無体な体勢を強いられることはなく、
これは映画ならではの演出かもしれませんが、本当にこんなのもあったんでしょうか。

霧の多い海上に浮上した際、貨物線と衝突し、沈没した原子力潜水艦
「ネプチューン」は、苦労の末地上と連絡を取ることに成功しました。

潜水艦救出チームが結成され、出動を始めたということは、彼らにとって
助かるかもしれないという大きな希望となったのです。

助かることがわかった乗員たちは娯楽室で「ジョーズ」なんかを観ております。

海底で鎮座しており動力がすでに失われたこの状況で、映画とはいえ
電気を使うのはちょっと自殺行為という気がするんですがどうなの。

案の定すぐに音声が聴こえなくなり、皆は面白がって無声の画面に
てんでにアテレコしたりしていますが、誰もこれが
電力に問題が起きたせいだと考えないのがちょっと呑気すぎです。

 その時、またしても崖崩れが起こり、艦の上部に岩が落ちてきてしまいました。

それにしても、艦大の一部が裂けているのに、大きな岩がのしかかっても
ビクともしない艦体、さすがはゼネラルダイナミックス社製です。

ベネット大佐の指示で艦長が艦体を内側から叩いて調べたところ、
ハッチを含む艦体上部を、まんべんなく岩石が覆っていることが判明。
これではDSRVを艦体に接続することができません。

潜水艦隊司令など海軍の上層部が海軍長官との会談を行っております。

長官の関心事はただ一点。
もし限界を超えて潜水艦が沈み、圧壊した時の各自この危険性です。

「核は漏れないように設計されています」

それを聞くと、長官は思わずニッコリと微笑んでしまっています。

あ、前回ご紹介した映画「地球防衛軍」で原子力を動力とした
β号が撃墜されたのに、核事故を全く考慮していない、と突っ込んだのですが、
もしかしてα、β号共に核は漏れないように設計されていたのか!

本多猪四郎監督、すみません<(_ _)>

 

そこで、30時間以内に艦体上部から岩を取り除くために

小型潜水艦の出動が許可されることになりました。

「シューバジェット」(低予算)で作った実験段階の小型潜水艇「スナーク」。
それは開発した若い海軍士官だけが操縦することができるというものです。

それがこのゲイツ大佐。(デビッド・キャラダイン)
潜水艇の乗組で開発時からコンビを組んできた相棒の下士官、
ミッキーが走っているゲイツ大佐を迎えにきました。

「原潜事故で海軍長官からスナーク出動の要請です!」

「ナッソー」にゲイツ大佐とミッキーのコンビが着任しました。
このヘリコプターはシーナイトとかかな?

本人に続いて、彼らの乗る「スナーク」がやってきました。

これは、バチスカーフ「トリエステ」のノリですね。

スナークを甲板に降ろす時に乱暴に扱われたので気を悪くしている
ゲイツ大佐ですが、いきなりベネット大佐に

「指揮はわたしに任せてもらいたい」

と上から目線で言われてさらに(−_−#)

どうしてこんな時にマウンティング取りたがるかね。
このベネットとゲイツの二人も、海底の二人のように「ウマが合わない」ようで
いきなり空気は険悪に。

「わたしとミッキー↑が乗ります」

なのにベネット大佐、

「ブルーム大尉と潜ってくれ。
彼は潜水艇の専門家で我々のチームの一員だ」

自分の部下を無理やり小型潜水艇に乗せようとします。
操作はベネットですが、もう一人は潜水艇の「眼」となるので、
息の合ったチームであることがこの際重要なのですが・・。

ゲイツはスナークが特殊で、ミッキーと二人で建造したものであること、
他の人間とは乗れないことを訴えるのですが、ベネット聞く耳持たず。

この非常時に、潜水艇の乗り方からマニュピュレータの動かし方まで
説明しないといけないというね。

海上にスナーク投入と同時にダイバーが三人飛び込み、装着した
索を取り外して潜水の準備を行うという仕組み。

スナークの潜水の深度が報告されるのを皆で聴き入る乗員。

息を飲むように・・・・皆無言です。

「みんなリラックスしろ」

「リラックスね」「してますしてます」「みんなしてます」

「見つけました!」

しかし、彼が見つけたのは前回ソナーテストのために投下した廃車でした。
ゲイツ大佐はものも言わずに帰投することを決めました。
やっぱりミッキーと一緒でないとダメだってことですねわかります。

「ブルーム大尉はこの辺の海層や地形を知っている。それに、
彼の体型からしてふさわしいと思えん!」

超失礼なベネット大佐ですが、ちょうどそのとき、DSRV を搭載した
「ピジョン」が海面に到着しました。

もう言い争っている場合ではありません。

スナークに乗り込むゲイツ大佐に、ベネットはニッコリと笑って
親指を立てて見せますが・・・、

ゲイツはそれに対し、親指を横に振る挨拶。
意味はわかりませんが、バカにしているのはほぼ確実なような。

「むかーっ」(−_−#)

あんたらさあ・・。

さあ、ゲイツ大佐とミッキーのゴールデンコンビは、
「ネプチューン」を発見することができるのか?

ゲイツ大佐の開発したミニサブ、「スナーク」は、沈没した原潜を捜索するため、
もう一度、今度はゲイツの相棒ミッキーを乗せて潜行を始めました。

「スナーク、聞こえるか」

ベネット大佐の呼びかけに対し、普通に答えればいいものをこいつは、

「了解、ニワトリお母さん、こちらヒヨコ。
トランスミッションの準備はできてるよ」

やれやれ、という顔をするミッキー。

「・・・・・・・・💢」

左の少尉役はこの映画が初出演、同年の「スーパーマン」でその後
スーパーマン俳優となるクリストファー・リーブです。

こちら「ネプチューン」。
衝突前にワッチを行なっていたマーフィーは同僚に尋ねます。

「なあ、もし君だったらどうしてた?
衝突コースに船舶を見つけて・・・」

この事態についての責任をひどく感じているようですね。

艦内の不安な乗員たちの耳に異音が聴こえてきました。
ミニサブの優秀な「眼」であるミッキーが沈没した「ネプチューン」を発見し、
潜水艦甲板に「着艦」して潜水艇の床を金属棒で叩き信号を送っていたのです。

「DSRVが助けに来るぞ」

DSRVの装着を容易にするため、「スナーク」はマニュピュレータで
艦体上部の岩や泥などを取り除こうとします。

ベネット大佐は「ピジョン」に連絡を取るのですが、この
携帯型無線機、今ではこんなの使いませんよね。

「合図をしたらDSRVを潜行させろ」

「了解」

「ピジョン」は実在の艦なので、もしかしたらこの艦長も本物かもしれません。

そのとき、地滑りが起こり、潜水艦左舷側に土砂が流されて、
艦体は右に向かって70度度傾いてしまいました。

ハッチも岩に塞がれ、DSRVの連結は不可能になっているようです。

もうだめぽ、と全員が絶望感に打ちのめされそうになったとき、艦長が
「高校の物理の応用で」艦体を元に戻すアイデアを思いつきます。

緊急バイパス弁を引いて下のバラストタンクの水を排出すれば、
上の水の重みで艦体が回転し戻るのではないだろうか、というのです。

「それをすれば空気を全て消耗します」

しかし、他に代案はないのでやるしかありません。

ところで副長はこの直前、いきなり艦長に

「すみませんでした」

とさっきの態度を謝っていますが、一体何があったんだろう。

さて、艦長がいよいよ「科学の実験」を実行しようとしたそのときです。
それまでハッチから水が漏れていた区画についに異変が起こりました。


ハッチから急激に海水が浸入してきました。
この区画を閉めないと全員の命がありませんが、かといって、
バイパス弁はここにあるのです。

「わたしがやります!」

一旦避難しかけていたマーフィーが踵を返し弁に駆け寄りました。 

「デイブ!(副長)出るんだ」


さあ、副長とマーフィーの運命は・・・?

 

続く。



映画「原子力潜水艦浮上せず」〜That Other May Live

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「ピッツバーグでであった動物たち」で、わたしがネコ語で猫と会話して、
と書いたところ、そのネコ語に対して質問がありましたので、
その時の会話をYouTubeにアップしておきました。

コメント欄で告知しましたが、そんなところまで読まんという人のために
ここに貼っておきます。

アメリカのネコにネコ語で話しかけてみた


さて、気を取り直して、 映画「原子力潜水艦浮上せず」、後半です。

 

とっさに二人は自分を犠牲に他の者の命を救う選択をしたのでした。
しかし、衝突に責任を感じていたマーフィーはわからないではありませんが、
最初から艦長に反抗的で沈没のの責任は艦長にあるとして責めていた
この副長が、そういう行動に出るに至る心情などが全く表されていません。

副長はマーフィーにも脱出を促しますが、彼はレバーを握った手を放しません。

そして副長は、

「ドアは重くて外(艦長のいる方)から閉められません!」

そういって副長は艦長の差し出した手を払いのけ、
下からドアを持ち上げて自分とマーフィーを浸水する側に締め出そうとしました。

「ヘルプミー、サノバビッチ!」(手伝え、こん畜生!!)

躊躇っていた艦長は、副長のこの言葉に思わず手を差し伸べ、
ドアを閉めて彼らを永久に艦から締め出しました。

 

 

「何が何でも生きて帰りたい」

と公言し、事故の責任を艦長に押し付けて非難していた副長を。

自分が海中に没してもレバーを引き続けるマーフィ(´;ω;`)

途端に艦体は復元し始めました。

深海でハッチ一つで水をせき止めているだけだというのに、これで
まだ隔壁がビクともしないなんてさすがはゼネラルダイナミクス製です。

しかし、一難去ってまた一難、復元しようとした艦体の軌道に
大きな岩が挟まっていて、角度はまだ60度に傾いたまま。
当然DSRVの装着はこのままでは不可能です。

さて、こちら閉鎖したドアの前の艦長。
ドアの向こうはもう海水で満たされています。

ここでよせばいいのに艦長、丸窓をのぞいてしまいました。

そして見てしまったのです。

艦長は艦と運命をともにする、という海の男の不文律がありますが、
ブランチャードはとっさにそれを選択することができず、その結果
部下である副長を死の任務に就かせることを余儀なくされました。

しかし、自分が犠牲になるべきところを部下にその役目を替わられ、
しかも目の前で彼が死んでいくのですから、海軍指揮官ならば
むしろしっかり最後を見届けてやるのが筋ではないかと思うのですが、
ここで描かれたブランチャード艦長の一連の反応は、はっきりいって
ど素人のそれです。

まず、次の瞬間窓から目を背け、転がるようにドアを離れ、
顔面蒼白になって縺れる足で艦長室に逃げ込みます。

「キャプテン、何があったんですか?」

「どうしたんですか?」

皆が心配するのを振り切って艦長室に入り、ドアを閉め、

そのまま座り込んで膝を抱え震えながら涙ぐむのでした。

”艦長だけど涙が出ちゃう。人間だもん”

ってか。

一般に、潜水艦映画に出てくる艦長というのは、意志が強く精強で
人間的な弱さを決して部下に見せない理想の軍人というのがテンプレですが、
本作における、結構キレやすく(反抗する副長に食ってかかったりする)
感情的で(『どうしていいか俺だってわからん!とか部下の前で叫んだりする)
そして副長の最後を見てしまったことに恐れおののくという弱さを持つ艦長像は
等身大の一人の人間であることをあえて描いているのかと思われるシーンです。

というかですね。

製作者は軍人がぎりぎりの場面で選択するであろう徹底した職業的自己放棄、
そのためにこそ彼らには長年にわたって訓練が繰り返されてくるのだということを、
全く知らないのか、あるいはあまりにも甘くみておらんかね?

ましてやブランチャードのような司令官クラスでこれはない。(断言)
内心いかに動揺していようと、決して表に見せないのが軍人というものです。

もはや救出の打つ手なし、と思われたとき、ベネット大佐が思いつきました。
「スナーク」で指向性爆薬を岩にセットし、岩を爆破するという作戦です。

もはや無茶苦茶ですが、ここまできたらやらないで死なすより
何かやって死なせたほうがまし、と考えるのがアメリカン。(たぶん)

海軍の爆破チームがすぐさま呼ばれました。
航空機からパラシュートで海面に着水するという派手な着任です。
爆破のスペシャリストである大尉がミッキーの代わりに乗り込むことになりますが、
流石のゲイツ大佐もこの専門家を拒むことはできません。

こんな状態でもチクチクやりあう二人。

ベネット「ゲイツ、落ち着け」

ゲイツ「うるさいやつだ」

マニュピュレータで爆薬設置完了。

スイッチを押せるのは潜行艇に乗った大尉だけです。
爆破1分後にはDSRV出動という流れ。

ここでゲイツ大佐、一人で「スナーク」を操縦し、
現場に戻って爆破を見届けると言い出します。

「わたしが先ですよ」

ミッキーが必死にいうのをかるーくあしらって、ゲイツはハッチを閉めてしまいます。

「テイク・ハー・ダウン」(潜行させろ)

そしてあの指を立てて左右に振る挨拶をして行ってしまいました。

(´・ω・`)とするミッキー。

 

流石の専門家、爆破は成功し、艦体から岩だけを取り除くことに成功しました。

こちら唯一顔が映るDSRV乗員。
ほとんどが「ピジョン」の乗員のエキストラだったということですが、
もしかしたらこの人だけが俳優だったのかもしれません。

前にも説明したことがありますが、艦体の中央に設置してあるDSRVは、
センターウェル(井戸)という部分から海面に降ろされます。

DSRVを搭載している潜水艦救難艦は中央がこのようにくり抜かれた状態で、
ここからDERVが発進し、また揚収されます。

海中の潜航中DSRV。海軍大サービスです。
真ん中か下部に見えるのが潜水艦とドッキングするスカートとなります。

DSRVが接触する衝撃を感じた艦長は、早速与圧された外の音を聞き、
ハッチを開けました。

「サラダとコールスローとチキンをお届けにあがりました」

こういう時にこういうジョークをいうのがアメリカ映画の定石ですが、
海軍でもやはりこういうノリなんでしょうか。
これに答えて艦長は、

「コールドターキーもな」(”Cold turkey, too.”)

なんて答えています。

字幕ではこれを意訳して、

「遅かったじゃないか」

となっていますが、コールドターキーにはちょい否定的な意味があり、
(日本語だと『冷飯』に相当する)艦長はジョークに対して
ちょっとした皮肉まじりのジョークをかまして応酬したということです。

そして、救難艇は怪我をした者を優先して乗り込ませ、無事出発しました。


しかし、両者を至近距離で見ている潜航艇のゲイツは気が気ではありません。
再び潜水艦が擱座している地盤では地崩れが始まっていたのです。

ベネット大佐は「ピジョン」に移乗しました。
DSRVが帰投するのを迎えるためです。

センターウェルにDSRVが浮上。

この作業をしているのはおそらく間違いなく本物の乗員。
ペグのようなものを差し込んで艇を固定しているようです。

早速負傷者のためのストレッチャーが運び込まれました。
後ろの人たちもまず間違いなく「ピジョン」乗員だと思われます。

乗員がDSRV上部で補助を行うために駆け上って行きました。

生還第一号は副長にサプライズを企画したカルーソです。

拍手で迎える本物の「ピジョン」乗員たち。
給養の人までいますね。

重症の乗員も無事救助されました。

しかしすぐさま現場に戻ったDSRVが残りの乗員を救出し始めたとき、
ついに「ネプチューン」艦体が地滑りを起こし始めたのです。

そこでゲイツのとった驚くべき行動とは。
「スナーク」を艦体の下に潜り込ませ、その動きを止めることでした。

DSRVが救出を終え、潜水艦から離脱するのを待っていたかのように
すぐに「スナーク」は潜水艦に押しつぶされ、
潜水艦とともに地滑りを起こして海底に沈んでいきました。

それはゲイツ大佐の命が絶たれた瞬間でもありました。

画面を見守っていた人々は無言でミッキーの周りを離れて行きます。

ゲイツ大佐、我が身を呈して艦を守った副長と若き士官マーフィー。
彼らは”That others may live”を体現したのでした。

彼らの犠牲のうえに第二弾のDSRVも無事に帰投しました。

最初に乗艦したのは「ネプチューン」艦長ベネット大佐です。
「ピジョン」には鐘が2回ずつ鳴らされ、艦長がハシゴを降りるとともに
「ネプチューン・アライビング」というアナウンスが流されました。

「ポール」

ベネット大佐は旧知のブランチャードをまずファーストネームで呼びますが、
次の瞬間敬礼をして、

「ウェルカム・アボード・キャプテン」

「ピジョン」の乗員が皆集まってきて握手を求め、その中の一人は
早速艦長に熱いコーヒーを手渡しました。

命からがら死地から脱出してきた人にいきなりコーヒーを渡し、
もらった方も美味そうにそれを飲むというのが、いかにもアメリカです。
一口コーヒーを口にした艦長の表情は、しかし悲痛なものでした。

エンディングには、こんな字幕が流れます。

米海軍のDSRVは今日実在している。
世界中どこの海であろうと、アメリカ海軍の潜水艦から
乗員を救出することが可能である。


米国のDSRVは原子力潜水艦「スレッシャー」の沈没事故(1963)
をきっかけに開発されました。

「ミスティック」級DSRVが完成したのは1970年、
運用が正式に始まったのはその7年後となります。

この映画が制作された1978年は、運用が始まってすぐの頃で、
アメリカ海軍としては「スレッシャー」のトラウマから立ち直り、
深海でも潜水艦救助ができるということを世に広く膾炙させるために
全面的な本作への映画制作協力を行ったのではないかと思われます。

 

 

終わり。

 

フォクスル再び〜空母「ミッドウェイ」博物館(おまけ 「スレッシャー」沈没事故)

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一度ミッドウェイ博物館のフォクスルなる区画について説明していますが、
もう一度、前回よりマシな写真をご紹介させていただくことにします。

フォクスル(FOCS'LE )は船首楼のことで、立派な日本語があるため
この言葉を日本人がそのまま使うことはまずありません。

船首楼、文字通り船首にある区画のことで、大型の船は「ミッドウェイ」のように
アンカー関係の装具が備えてあり、帆船時代は船員の居住区になっている部分です。

「forecastle」=前方のお城

が元々のこの部分を指す名称ですが、なんでも短縮する海の上では、
これを縮めて「フォクスル」(英語だとフォクソー的な)と称するわけです。

これは、右舷側を後方から歩いてきて、フォクスルのある区画にきた時、
最初に目にするプレートで、「ミッドウェイ」現役の頃から設置されていました。

「艦首楼 関係者以外の立ち入りを禁ず」

として、

「錨と係留具(Mooring )が放出されている時には厳守せよ
エクササイズは2000から0600までの間のみ許可される
その際部署および部隊は大尉に必ず使用許可を得ること」

となっています。

ここでいう「エクササイズ」というのが文字通りこの場所を使った
体力錬成のことなのか、不思議だったのでちょっと検索してみると、

Sergeant William Schultz, engineer squad leader with 2nd Combat Engineer Battalion, Battalion Landing Team 3/8, 26th Marine Expeditionary Unit, performs exercises during a cardio class in the ships foc'sle while in the U.S. Navy 5th Fleet Area of Responsibility, Oct. 1, 2010. 26th MEU is currently embarked aboard the ships of Kearsarge Amphibious Ready Group operating in the U.S. Navy 5th Fleet Area of Responsibility.

出てくるわ出てくるわこの手の写真が。
これはキアサージュに乗り組んでいる海兵隊のエクササイズ風景ですが、
全天候型で広いフォクスルは昔から運動に利用されてきたんですね。

皆が同じ艦首方向を見ながら体を動かしているようですが、
やはり感覚的に皆そうしてしまうのかなと思いました。

さて、冒頭のフォクスルの写真は、展示用にペイントされたキャプスタンに
周りに展示物を配した現在の「ミッドウェイ」博物館の様子で、
とても現役当時の現場の雰囲気ではないと思いますが、それでは
実際の錨の揚げ降ろしはどんなふうに行われていたのでしょうか。

Aircraft Carrier Anchor Drop – Forecastle Anchor Room

これはやはり空母の錨揚げ降ろしシーンなので、ほぼこんな感じだったと思われます。
土煙のようなものが上がり、(巻き上げられていた錨鎖に付いていた海底の泥か)
火花が上がるのも見えます。
引き揚げのときには比較的周りに人が近づいて作業を見守っていますが、
投げ下ろしのときには距離を置いて離れて見ているらしいのがわかります。

フォクスルのある部分は艦首の突き出た部分なので、下階がなく、
下は海で、その床には、錨鎖を海面に落とすための穴が空いています。

人一人ならすっぽりと抜け落ちる(鎖があるので簡単ではないですが)
大きさなので、展示のためにアクリルガラスで覆われています。

ここからかつて投げ落とされた鎖は、「ミッドウェイ」が日本勤務中の
約18年間というもの、その錨で横須賀の海に彼女を係留していたと考えると、
我々日本人にはなかなか感慨深いものがあります。

最後にここから錨鎖が落とされたのは、2004年のことです。
それまで係留されていたブレマートン海軍基地から自力ではなく、
曳航されてやってきて、サンディエゴの海に錨を打ち、それから
半年後には博物館としてオープンしてしまったそうです。

最初から、博物館として完成するのは10年後、としながらも、
とりあえずオープンさせて、それから色々とやっていく(資金集めとか)
というイージーゴーイングなやり方は、アメリカならではで、
軍事遺産に対して官民共にその保存に協力的であることを表しています。

オープンした当初は、ほとんど現役のままの姿をしていて、
公開される場所も非常に限定的であったということですから、おそらく
フォクスルが一般人に見せられる状態になったのも随分後のことでしょう。

ここは艦首右舷部分で、繋留する為の舫のリールと投げ落とす為の穴が、
ハッチを開けた状態で下を覗き込むことができるようになっています。

舫を出す穴の横にはそれを確認する為の舷窓と、その下部にも窓があります。

かつてこの窓の外にあったのは横須賀の港でした。
今はその向こうにサンディエゴの海軍基地を臨みます。

写真を撮っていたら向こうからやってきた漁船には、数え切れないほどのカモメが
おこぼれをもらうために、周りを取り囲んでいるのが見えました。

この写真は、フォクスルに最初に足を踏み入れたときに現れる部分です。
今わたしが立っているのは艦首で、艦尾側を見るとこのようになっているわけです。

艦首側を見ながら後ろに向かって進んでいくと、こんな通路が現れます。
ドアのない通路には、保護のため分厚い補強がされているのにご注目。

この部分には、かつてここで使われていた装具がこのように展示されています。

「デタッチャブル・リンクス」(取り外し可能な連結器)

としてここにある説明をそのまま翻訳しておきます。

船の錨に繋がれている錨鎖の長さは「ショット」と呼ばれる道具で連結されます。
標準的なショットは「15ファソムズ(90フィート)」の長さです。

海軍で使われている連結具のタイプはここにある「Cシェイプリンク」を
二つの連結プレートで挟み込むようにして使われるものです。

「テーパード・ピン」で各部を固定し、「リードプラグ」で固定します。

知っていたからどうなるというわけではありませんが、
連結するときにこれを手作業で行うというのがすごいですね。

最初にサンドレットを投げて岸壁に細いもやいを渡すと、それを引っ張るうちに
細い舫には艦体を岸壁の舫杭と結ぶための太い舫が繋がってきますが、
「ミッドウェイ」ほどの艦体の大きな船にもなると、こんな太いものになります。

今ふと思ったのですが、今のところ全く一般に公開されていない
「いずも」「かが」などのフォクスル、艦首楼部分にもやはり、
「ミッドウェイ」とほぼ変わらないようなシステムが設置されているのでしょうか。

ところで、これ、何かに似ていると思ったら、あれですよあれ。
ケバブに入れるお肉を焼く、なんていうの?あのスタンド。
ぐるぐる回して肉を削ぎ取って・・・。

特別な垂直の串に肉をどんどん積み重ねて塊を作り、
あぶり焼きにしてから外側を削ぎ落としていくという仕組みで、
昔は珍しかったのですが、最近では日本にもトルコ人が結構いるのか、
どこの夜店にも一つはケバブスタンドが見られるようになりました。

横須賀の年越しでも見たし、富山のスキー場のランタン祭り会場にさえも(笑)

これは壁に直接描かれた絵です。

1963年4月10日に起こった原子力潜水艦「スレッシャー」の乗員全員を悼み、
当時の「ミッドウェイ」乗員の手によって制作された「メモリアル」で、
ここが改装された後にも手をつけず、上部をアクリルで保護して残しています。

先日映画「原子力潜水艦浮上せず」をご紹介したばかりなので、
この映画でテーマになっていた当時最新鋭のDSRV誕生のきっかけになった
この痛ましい潜水艦沈没事故についてちょっとお話ししておきます。


事故当時の艦長は、ノーチラス号の北極点通過航海にも参加した経験も持つ
ベテラン海軍軍人であるハーヴェイ少佐でした。

事故直前、海中救助船スカイラーク(USS Skylark, ASR-20)は、
マサチューセッツ州コッド岬付近でスレッシャーからの通信を受けました。

「・・・小さな問題が発生、上昇角をとり、ブローを試みる」

スカイラークはその後、隔壁が壊れる不吉な音を聞き取りました。
乗組員と軍及び民間の技術者、合計129名全員の命が失われた瞬間でした。

その後、バチスカーフトリエステ、海洋調査船ミザール (USNS Mizar, AGOR-11)
および他の艦船を使用して行われた大規模な水中探索の結果、スレッシャーの残骸は
2,560mの深海で大きく6つの部分に分かれて発見されました。

「スレッシャー」急激に沈没した時の状況がwikiにありました。

機関室への浸水により原子炉が停止した

→緊急浮上を試みた

→ジュール=トムソン効果により
バラストタンクの弁が氷で詰まってしまい排水不能に陥る

→浮上できず機体は艦尾を下にして沈没していった

という経過がGIFで表されています。

「スレッシャー」は急激に沈没する過程、おそらく海深400~600mの間で
艦のコンパートメントが内側に向かって潰れ、全乗員はほぼ即死、
どんなに長くとも1~2秒以内には死亡したと考えられています。

わずかに慰めがあるとすれば、「小さな問題」から全員の死亡まで
あっという間で、全員が恐怖を感じる時間が短かったということでしょうか。

前回には気づかなかったものに目が行くこともあります。
これらはここの住人が使っていたらしいツールで、下は

「Turnbuckle Wrenches」(回転レンチ)

これはなんとなくわかりますが、上は

「Rousting Hook」

ラウスティングというのは人を寝床から追い出すという意味ですが、
起きてこない水兵をベッドから追い立てるための・・・まさかね。

 

続く。




ナチスドイツの降下猟兵と野戦憲兵〜ウィーン軍事史博物館

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20世紀初頭、ハプスブルグ家の最後の皇帝が執政の場を去り、
革命によって共和国が誕生するも、第一次世界大戦後の混乱の中で
国民はドイツ帝国の一員となることを自ら選び、併合が行われた。

 

今なら今北産業で説明できることを、なんとなく関心と知る機会がなかったため
これまでぼんやりとした認識しか持たなかったことを猛烈に反省しています。

しかし、ウィーンに旅行に行き、軍事博物館を訪問したことで、一気に
オーストリア併合についての知識を整理することができました。

人生でまたひとつわからなかったことが減って、嬉しい限りです。

 

その上であらためて疑問が湧いてきました。

ドイツと日本が敗戦した時、やはり日本の一地方であった大韓民国は、
戦後すぐに戦勝国の立場に立ち、日本に賠償させようとしましたが、
英米ら連合国に、お前ら日本と戦ってねーだろーが、あん?と一蹴されています。

そこで韓国は日本と直接補償交渉を始め、賠償を迫ってきたわけですが、その際、

「日本による朝鮮統治は強制的占領であったし、
日本は貪慾と暴力で侵略し自然資源を破壊し、朝鮮人は奴隷状態になった」

と激しく主張し、この時交渉に当たった外交官久保田貫一郎参与の、

「韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない」

「日本は植林し鉄道を敷設し水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えた。

日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろう」

という言葉に対して「妄言だ」と猛反発し、その報復として
李承晩ラインを設定し、竹島を占領して現在に至ります。

しかも、その後締結された日韓補償交渉で解決済みとされた問題を、
自国の裁判で覆して補償のお代わりをさせようとしているのは周知の通り。

 

 

さて、疑問というのは、韓国と似た状況でドイツに併合されていたオーストリアは
一体どのように補償問題に合意したのかということです。 

よく韓国人は日本を歴史問題で非難するのに、

「ドイツは賠償した」「ドイツは罪を認めた」「ドイツを見習え」

とドイツを引き合いに出すようですが、それでは当初からドイツは
オーストリアに対しすべての条件を飲んで補償を行なったのでしょうか。

 

調べてみたところ、そもそもオーストリアは戦後すぐに連合国によって
こんな風に分割統治されていました。

ザルツブルグを舞台にした「サウンド・オブ・ミュージック」が
ハリウッドによって制作されたのは、かつてこの地方が
アメリカによって統治されていたことと無関係ではなさそうですね。

それはともかく、この分割統治が終わったのは1955年。
日本は1952年ですから、さらにそれより長かったことになります。

なぜこれほどに独立が遅かったかと言うと、小さな国の悲しさで、
連合国側がドイツとの平和条約を優先したことに加え、そうこうするうちに
冷戦が始まってしまったからだといわれています。


そして、この1955年に締結された「オーストリア国家条約」で、
オーストリアはドイツ政府及びドイツ国民に対する請求権を放棄しているのです。

プロパガンダがあったとはいえ、国民投票で圧倒的な支持を得た上での
オーストリア併合だったので、さすがに国家賠償を求めることは
誇り高いオーストリアにはできなかった・・・と言うわけではなくて、
実は、オーストリアは、

「ドイツのオーストリアに併合に対する賠償は必要ない。
しかし、我々は当時ドイツ国民であったわけだから、ナチスの人道上の犯罪については
ドイツ国民と同じように補償を受ける権利がある」

つまり同じナチスの被害者として賠償せよ、と主張したのです。

うーんそうきたか。

これはドイツ政府の「意図」とも合致する請求でした。
というのは、当時のドイツ政府は、基本的に

「ナチス犯罪はヒトラーとナチスによって行われたもので、
ドイツ国民に支持されたものではなく、したがってドイツに責任はない」

というのを各種補償問題の落としどころにしようとしていたからです。

つまり、ドイツ政府の補償はあくまでも「ナチス不正」に対する補償であって
直接の「人道に対する罪」や「戦争責任」に基づくものではなかったのです。

「ドイツ民族の名において行われたナチスの不法については謝罪するが、
一般のドイツ人にはこれは関係ない。
補償は法的責任に基づくものではなく、道義的な義務に基づくものである」

とドイツは戦後一貫してこの態度を貫いています。

その結果、1961年に結ばれた条約で、オーストリアに対する補償は

「オーストリア政府がナチスの被害者に対して国内で補償する

この資金はドイツ連邦共和国政府が(9600万マルク)提供する」

という形に決まりました。 
ひらたく言うと、

「オーストリア政府の名前でお見舞金を出すから、そのお金はドイツが払え」

ってことです。

というわけで、韓国人のいうところの

「ドイツは罪を認めた。さらにこれに対し賠償した」

というのは、全く見当違いだということですね。

どうしてドイツがあくまでもこれらを認めないかについては、おそらくですが、
一旦認めてしまったら、そこで終わりにはならないのが世界の常識だからでしょう。

現に、かつての統治国が何度謝罪してもこの問題を終わらせようとせず、
飽くなき執念深さでこれを政治問題に絡め、あの手この手で
賠償を永劫させ続けようとする国が地球上には存在するわけですから。

さて、ということが改めて理解できたところで、展示にまいります。
こちらは「共和国と独裁」というテーマの、つまりハプスブルグ崩壊から
アンシュルス成立までのコーナーにあった兵器です。

右側:2cmFlak 38 

「 Flak」というのは対空砲のことで、

Flugabwehrkanone(対航空機砲)

の略称です。
ルフトバッフェで1939年に使用されていたものです。

左は探照灯だと思います。
その左の半月形の物体はわかりません<(_ _)>

冒頭画像のこれも対空砲で(って見たらわかりますが)
クルップ社の「8.8cm Flak 36 in Feuerstellung」です。

口径が88ミリで、これをドイツ語では

「Acht-Acht アハト・アハト」(88)

と称していました。
ドイツ語の武器装備の名前のかっこよさは異常。
ちなみに「フォイアシュテルン」と読むようです。

あまりにでかいので操作が難しく目標に当たらないんじゃないかと思いましたが、

旋回角 360度 発射速度 15-20発/分 有効射程 14,810m(対地目標)
7,620m(対空目標) 最大射程 11,900m(対空目標)

 

というスペックで、対戦車砲としても有用であったため、1930年台から
ヨーロッパの戦場では活躍したということです。

順不同に写真を紹介していきましょう。
ドイツ軍の空挺部隊は、陸軍ではなく空軍が擁していました。
ドイツ語では、降下兵のことは

Fallschirmjäger

おそらく「ファルシムイエーガー」と読むんだと思います。

Fallschirm=落下傘、Jäger=猟兵(軽歩兵)なので、
ドイツでは空挺兵と言わず、「降下猟兵」(こうかりょうへい)

という名称を充てるようです。

空挺作戦というと、わたしなぞ「遠すぎた橋」で描かれた
マーケット・ガーデン作戦くらいしか思いつかないのですが、
実は、このマーケット・ガーデン作戦で、Dデイ以来負けなしだった
快進撃の連合軍が勝てなかったのは、そのたくさんある原因の一つに、

連合軍の効果予定地にドイツ軍の降下猟兵軍が駐留していたから

と言われているらしいんですね。

ルフトバッフェの降下猟兵は第二次世界大戦において初めて、
大規模な降下作戦を行った部隊であり、降下作戦が行われなくなってからは
精鋭無比の歩兵部隊として活躍したということです。

空挺スーツの胸右側には鷲がハーケンクロイツを運んでいる
降下猟兵のマークが刺繍されています。


鉄兜を被った兵隊が胸から下げているタグには、

Feldgendarmerie(野戦憲兵)

と書かれています。
現物はこれです。

Feldgendarmerie.JPG

これは「フェルドゲンダルメリー」と読めばいいんでしょうかね。

その名の通り、ドイツ陸軍の憲兵組織で、警察権を有する部隊です。
優秀な人材を選抜するため試験は大変厳しいものだったそうですが、
写真の憲兵は、憧れの野戦憲兵になり、母親に晴れ姿を見せているのかもしれません。

野戦憲兵隊の任務は国防軍に同行し、前線占領地の治安を維持することです。

警邏、交通管制、市民の統制、パルチザンおよび敵敗残兵の捜索・逮捕、
そして処刑も彼らの任務とされていました。

日本の憲兵もそうでしたが、警察権力を行使する憲兵は一般兵から嫌われ、
煙たがられ、軍紀維持のために脱走兵を銃殺するようなことが増えてきた
終戦直前は、写真の金属プレート(ゴルゲットという)をいつも首にかけているため

「ケッテンフンテ」(Kettenhunde、「鎖付きの犬」)

などと軽蔑を込めて一般兵から呼ばれていたそうです。

国防軍以上に恐れられたのが親衛隊野戦憲兵隊(SS-Feldgendarmerie)で、
彼らは命令違反者や脱走兵など「敗北主義者」を逮捕、処刑する権限を持ち、
その冷酷なことから、こちらは

「コップイエーガー」(Kopf Jäger, 「首狩り族」)

という異名を奉られていました。

 

日本の憲兵がその「悪名」を戦後再生産されてきた、と言う件について
以前映画「憲兵とバラバラ死美人」のついでに語った経験からいうと(笑)
こういう話には必ず伝聞やその誇張が悪評を作り上げた部分があるはず。


・・・なのですが、そんなわたしも、こと相手が外でもないナチスの憲兵となると、
これらの風評を無条件に信じてしまっているらしいのは困ったものです。

 

 

続く。

ナチス党の軍服と国防軍無罪論〜ウィーン軍事史博物館

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アドルフ・ヒトラーが最高権力者に上り詰めて最初に何をしたかというと、
ナチス党の制服のデザインを熱意を込めて制定することでした。

そのミッションに直接関わり指揮したのが宣伝相だったゲッベルスです。

ゲッベルスは貧相な小男で、外見の魅力に恵まれていなかったこともあってか、
自分を包む服装については執念とも言える完璧さを求め、なんでも1日として
同じスーツを着ないというくらいのお洒落さんだったそうですが、その彼が

「みすぼらしい軍服では人々に畏怖を感じさせることはできない。
完璧な美を誇る制服なら、着るだけで長身で堂々とした体躯に見せることができ、
強い軍隊であるというイメージを植え付けることができるのだ」

という考えで選びに選んだナチスの制服は、その完成度の高さと、
人の心を掴んで離さない魅力で、のちのファッション史にまで影響を与えました。

その制服を作っていたのが今もある紳士服ブランド「ヒューゴ・ボス」の創始者、
フーゴ・フェルディナンド・ボスであることもここでお話ししたことがありますが、
巷間言われるように全てをボスがデザインしたわけではありませんので念のため。

今日は主にウィーン軍事博物館に展示されていた併合時代の、
オーストリアナチス軍の制服を中心にご紹介していいきます。

まず、アンシュルス以降、第二次世界大戦が終わるまでのオーストリア軍の制服が
このように並べて鉄兜や鞄などの装備とともに紹介されています。

その前に、ガラスケースの上部にみえる

「OPFER DER AGGECION」(侵略の犠牲者)

の下には、わざわざ赤い文字で

ソ連
北アフリカ
ギリシャ
ユーゴスラビア
フランス
オランダ
ベルギー
ルクセンブルク

とドイツ語の国名が書かれています。
侵略とはもちろんナチスドイツが行ったことでしょう。

制服の展示の上の部分にスペースが余ったからといって
わざわざこういうことを書くというのはどうかと思いますが、
これが当博物館の姿勢の表れかもしれません。

右側のプロペラは戦闘機

メッサーシュミット Me 109

のものです。

Messerschmitt Me 109 engine start (original sound)

このプロペラが回っているだけの映像を見つけました。
この次のバージョンではきっと本当に飛ぶんだと思います。

画像左側の制服は、国防軍の将校(士官より将校という言葉がぴったり)
のものですが、ちょうど先日、作業をしながら流していたyoutubeの映画、

「フランス組曲」

で、フランス系ユダヤ人の主人公と恋に落ちるナチス将校が
まさにこの制服で(当たり前か)出てくるのを見たばかりです。

映画『フランス組曲』予告編

前に一度「なぜ戦争映画にはピアノを弾く将校が出てくるのか」というテーマで
その「事始め」となった映画と「シンドラーのリスト」を紹介したことがありますが、
この映画でも、ナチス将校は娑婆では作曲家だったというありがち設定。

進駐し接収した女性の自宅で自作の美しいピアノ曲を奏で、
女性は人妻でありながら彼に惹かれていく、という、
もうこれだけでなんというかお腹いっぱいのシチュエーションでした。

ナチス将校を演じるマティアス・スーナールツという俳優が、
背の高いモッくんに見えてしょうがなかったのですが(笑)
とにかくこの軍服が似合うタイプを抜擢したと見た。

ところで、余談ついでに、あらためて「シンドラーのリスト」
の将校ピアノシーンをYouTubeで見つけたので貼っておきます。

Schindler's List (4/9) Movie CLIP - Bach or Mozart? (1993) HD

きっとスピルバーグ監督は金髪でドイツ風イケメンの音大生かなんかを
エキストラで呼んできたんじゃないかと思います。

というのは、彼の指の動きを見る限り本当に弾いています。
吹き替えでないことは、ちょうど彼が映った瞬間、(1:45)
左手をミスることでも明らかです。(鬼の首とったように)

ちなみにこの曲(バッハのイギリス組曲前奏曲)最後まで音が止まることがなく、
それだけにミスなしで弾き切ったときの達成感が半端ありません。
おそらくこのナチス将校も、ちょうど任務中にピアノを見つけたので
練習中のこの曲を弾きたくてたまらなくなったのではないかと想像できます。

もちろん監督のシーン挿入意図は全く別だと思いますが。

前から空軍のいわゆるトゥーフロックというわれるジャケット、同じく空軍、
海軍水兵、海軍士官で一番向こうは海軍のカーキの制服のようです。

赤いラインが入った制服は、国防軍士官用でしょう。
この辺、だいたいの予想で言っていますので、もし間違っていたら教えてください。

国防軍の制服各種とその装備のいろいろ。
迷彩服がとっても今風でびっくりです。

ドイツ国防軍は昔から鉄十字を使用しており、それは
ナチスの鉤十字とは違うものとして現在もドイツ軍のシンボルです。

国防軍とナチスについて、ちょっと整理するために書いておきますが、
ドイツ軍にはいわゆる「国防軍無罪論」が存在します。

これは、

「ドイツ国防軍は国家元首であるヒトラーの命令に従っただけで、
戦争に関する責任はない」

と国防軍の軍人がニュールンベルグ裁判で主張したことに端を発します。

ドイツ国防軍は非政治的なヒトラーの道具に過ぎず、あくまでも
国家元首に服従しただけであり、またユダヤ人やスラブ人に対する残虐行為は
ナチ親衛隊によって行われたもので、ドイツ国防軍は通常の戦争を行ったに過ぎない、
として、ナチズム体制と国防軍を明確に分離するのがその主張です。

「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐」の画像検索結果

「ワルキューレ」でトム・クルーズが演じたヒトラー暗殺計画の首謀者、
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らも国防軍でした。

国防軍はプロフェッショナル集団であり、政治に関与していなかったとされたのです。

 

しかし、だからといっていわゆる戦争犯罪を糾弾されなかったわけもなく、
東部戦線で国防軍がユダヤ人の組織虐殺を行っていたことも戦後明らかになりましたが、
これを

「純粋に組織的な犯罪とするか」

「国防軍もまたナチスの犠牲者か」

については、今でも議論がなされている状態なのだそうです。

 

ソ連軍兵士の制服も紹介されています。
兵士の制服一つとってもやはり洗練度においてイマイチな気がします。

言わずと知れたSS、親衛隊の黒い制服です。
ちょうど光ってしまって見えませんが、軍帽の真ん中には
トーテンコップ(髑髏)帽章があしらわれています。

SSに黒いスーツが採用されたのは1932年からで、黒という色はドイツにとって、
神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、
象徴的な色であることから、「高貴な部隊」を意味していました。

圧倒的にデザインの評価が高いのがこの黒に褐色のシャツの取り合わせですね。 

アメリカ軍の装備やフライトスーツ一式も展示されています。
曲がった機銃やB-17の部品など、これらは撃墜された機体のものでしょうか。


前面にあるものは、

1945年5月7日「Ostmark」の降伏証明書

ドイツ語と英語による

と書かれています。
「オストマルク」ってどこの地方のこと?と思われるでしょう。

オーストリアという国は、ドイツに併合された後、ドイツという帝国の
「一つの州」ということになったのですが、1940年からプロパガンダ的に
地域名称も「 Land Österreich」から「Ostmark」に変更されていました。

ヒトラーが地下室で自決したのが4月30日、その一週間後には
オーストリアは降伏したということになります。


続く。

 

 

 

フランク・ロイド・ライト「フォーリングウォーター」

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うちの玄関ホールには、MKがレゴで作った世界の建築シリーズの
「帝国ホテル」を中心に「グッゲンハイム美術館」そしてライトの
「フォーリングウォーター」が飾ってあります。

ピッツバーグ滞在の時、知人に車で2時間ほど郊外に行けば
この有名な歴史的建築が見られると知人に教えてもらい、
最初の週末に早速家族で行くことにしました。

しばらく郊外に向かって走ると、農村地帯が現れました。

何だろうこのロールは・・・。

草のないところに転がっているのが何か意味があるんだと思いますが。

ピッツバーグを出てフリーウェイを約1時間半。
フォーリング・ウォーターに続く道は山の中の一本道になりました。

見学は前もってインターネットで申し込むことができます。
HPには見学ツァーの空き情報が公開されていますから、そこから予約し、
ゲートにあるセキュリティでその予約番号を照合してもらって入場し、
駐車スペースに車を停めて現地まで歩いていきます。

たくさんの人が見学に訪れるため、観光客用の受付&待機場所が設置されています。

見たところごく最近リニューアルされたのではないかと思われました。
受付にチェックインすると、ツァーの出発時間までここで待ちます。

奥に立っているグループのいるところが、ツァー出発場所です。
ここからグループは現地まで約5分間の距離を歩き、現地に待っている
ボランティアのガイドの案内で見学を行うというわけです。

早く着いてしまいツァー開始まで時間を潰す人のためにショップも用意されています。
こんなところで買う人がいるのかどうかわかりませんが、ライトの照明器具、
有名なタリアセンも売っていました。

ライトのぼんやりとしたファンであるところの(笑)我が家は、このランプを
カード会社のポイントを貯めて手に入れ、常夜灯として愛用しています。

流石に建築を見に来る人に向けてのショップなので、センスのいいものが多く、
旅行先でなければ目の色を変えて見てしまいそうなお洒落なグッズであふれています。

今回アメリカのこの手のお土産物屋で、幾度となく目撃したのがこの
フリーダ・カーロの人形。
画家として有名というよりキャラクターみたいになっていて、
一目でフリーダだとわかる人形がいろんな趣向で販売されていました。

アメリカ人にとってのフリーダ・カーロって一体・・・。

 

わたしはちょうどマウスパッドが欲しかったのを思い出し、
記念にフォーリングウォーターのプリントされたのを買いました。

時間になり、集合場所に行くと、そこにいるボランティアが、

「ここを歩いていくとガイドが待っています」

といって送り出します。
この同じグループの人たちとは1時間余りずっと一緒にいるので、
終わる頃にはすっかりお互い見知った仲になっていて、
ちょっとお互い話をしたりすることもあります。

前を歩いている三人のうちとてもよく喋る左の女性は、MKに

「中国人?」

と聞いてノー、と一言ぴしゃりと返されていました。

どこの観光地にも中国人が溢れかえっている昨今ですが、流石に
ピッツバーグから1時間半離れたここでは、爽やかなくらい?
中国人団体観光客の姿を見ることはありませんでした。

たまに東洋人を見ても、それは現地に住んでいる人たちです。

今回インターネットで調べたところ、日本ではいつの間にか
フォーリングウォーターを「落水荘」とまるで鬼怒川温泉の宿みたいな名前で
呼ぶのが正式(wikiもそうなっている)であるらしいことがわかりました。

いちいちタイプするのが面倒というわけではありませんが、
当ブログもそれに倣って落水荘とします。

さて、落水荘前に到着すると、番頭が・・じゃなくてガイドが現れ、
ツァーの前に外観の説明から始めました。

この屋敷は「ベア・ラン」(熊走り)という名前の川に続く
名前のない小川と滝の上にまたがるように建築されています。

家の中から画像左手の階段を降りると水面に降りることができるのですが、
さて、果たして住人がこの階段を水辺に行くために降りたことが
何回あったんだろう、と思うほどの非実用的な建築です。

もっとも、この家はピッツバーグで財を成した百貨店経営の
エドガー・カウフマンが、当時工業が盛んで、工場の出す肺炎などで汚れた
ピッツバーグの空気にうんざりし、週末だけでも自然の中で過ごしたい、
という希望のもとに依頼されたものだったので、
実用的かどうかなどということは最初から度外視されていました。

建築されたのは1935年、それから今日までの間に、
ライトの手によって新しく切り開かれ、構造物が構築された場所には
自然がそれを包み込むように木々の枝や緑が覆って一体となっています。

このあとわたしたちは内部を見学したのですが、最初に見たのがこの写真の
下の階にあったダイニング&リビングルームです。

大きな鍋を仕込むファイアプレースを中心とした広い空間ですが、
アメリカの家にしては天井は低めでした。

そして、思ったのが夏はともかく冬は相当寒かっただろうなということ。
ガイドの話によると、やはり住んでいる人たちは冬の間、
皆出来るだけ上階の(水面から離れた)狭い部屋しか使わなかったとか。

歴史的かつ革新的なデザインの建築であり、スミソニアン曰く

「死ぬ前に訪れるべき28の場所のライフリストの一つ」

また、タイム誌曰く

「フランク・ロイド・ライトのもっとも美しい仕事の一つ」

である代わりに住んで心地の良い住まいではなかっただろうなと
わたしは予想できていたことながら実物を見て確信しました。

フォーリングウォーターが建設される前の現地の写真です。
少年が抱えている「ベア・ラン」というのはこの地方に流れる川の名前で、
現在はこの一帯に広がる自然保護区の名称ともなっています。

カウフマン家の夫妻とその息子が、新築の家で撮った記念写真。
真ん中の建物の写真がカウフマン家が経営した百貨店、カウフマンズです。

名前からもお分かりのようにドイツから移民してきたユダヤ人の息子で、
イエール大学を出て叔父が創業したカウフマンズの経営に参加し、
実業家としたのちは芸術に惜しげも無く援助を行いパトロンとなりました。

右側は彼の最初の妻であったリリアン。
彼らはいとこ同士(リリアンはカウフマンズ創業者の娘)だったので、
ペンシルバニア州では結婚できず、わざわざニューヨークに行って
そこで結婚をしたということです。

左側のイケメンは、彼らの息子エドガーです。
居間には息子のエドガー・カウフマン・ジュニアの若い頃の肖像画がありました。

https://fallingwater.org/wp-content/uploads/2017/09/Collections-FW-198973-FallingwaterLivingRoom-500x500-1.jpg

長身のイケメンで富豪の一人息子、さぞかしモテただろうなどと思いますが、
彼は生涯独身で、1989年に亡くなったときにはパートナーのポール・マイエンの手で
遺灰をフォーリングウォーター敷地内に散骨されました。

ちなみに、このマイエンという人は、先ほどわたしたちが通過してきたカフェ、
ギフトショップ、受付のあるパビリオンの建設を監督したという人物で、
死後は彼もここで散骨されてパートナーと共に眠っているということです。

 

ところでこのジュニア、わたしたちがピッツバーグに来る前滞在したウィーンで
宿泊していたホテルの近くにあり、いつも通り過ぎるときに見ていた
ウィーン応用美術学校で若き日に留学して勉強していたことを知りました。

モノンガヒラに沈んだ爆撃機の話に続いて、この二都市間に関係のあるちょっとした
エピソードを知り、またしても不思議な気がしたものです。

それはともかく、この美大出のジュニアがライトの自伝を読んでファンになり、
彼の工房で少しインターンをしたのが、落水荘誕生のきっかけとなります。

エドガーとリリアン夫妻は、息子の職場を訪ねて工房に立ち寄り、そこで
初めて彼らはこの世界的な建築家と出会うことになります。

大気の汚れた当時のピッツバーグから週末「ハイドアウェイ」するための
別荘の建築を、フランク・ロイド・ライトに任せたいという希望は
もともとカウフマンの思いつきでしたが、ジュニアはそれをつよく支持しました。

ライトがこの地に建築を任されたとき、志したのが「自然との調和」でした。
その思想の一端をここに典型的な例として見ることができます。

元からある自然構造物を出来るだけそのままに、そこに調和させるように
建築物を付け足していく。
この部分など、大きな岩の強度なども考慮した上でそこに楔のように基礎を打ち込み、
建物と繋げてあります。

 

こうして見ると、よくぞここまで設計を、と驚愕します。

そもそも、滝に跨るように家を作る、というライトの思いつきは、
滝に面した川の南岸に位置する家を静かな求めていたカウフマンの想像を遥かに超え、
当初彼はそのアイデアをとんでもないと激怒したとまで言われています。

経年劣化による剥落などの修復をいつも行う必要があるらしく、
見学コースの最後には専用の部屋に集められ、是非ともご寄付を・・、
というようなお願いがありました。


劣化が激しいのは湿度と日光への露出の大部分が原因で、雪解け水のため
外壁は頻繁な塗り替えが要求されます。

また、バスルームに使われたコルクタイルは、水がしみて破損するため、
コルクを取り替えて修復し続ける必要があります。

この写真にも見られる片持ち式の梁は経年とともに激しくたわみ、 
一時は支える部分が破損限界に達したため、重量を支えるための支えを設置しました。

これらの崩壊を防ぐため、高強度のスチールケーブルが
ブロックとコンクリートの外壁に通され、恒久的な強度を保っているそうです。

家を支える構造物は、切り開かれた岩の壁に刺さるように取り付けられています。

ライトが石を積み重ねた柱のデザインの着想を得たのは右側の岩層からです。

彼はこの依頼を受けた時もう67歳、建築家としての評価はもう終わっていました。
しかし、この、芸術に対しては鷹揚すぎるほどのパトロンからの依頼は、
天井知らずに経費がかかる彼の芸術魂に火をつけ(笑)、結果として
それが70歳になったライトの代表的な作品となったばかりか、これ以降彼には
依頼が殺到して、それはとても本人が生きている間には終わらないだろう、
というくらい売れっ子になってしまったというから人生わかりません。

ライトの年表を見てみると、帝国ホテルから10年間の間、全く作品がなく、
それと対照的にフォーリングウォーター完成から1年の間に
有名な作品だけでも13にも上る量をこなしています。

ライトはフォーリングウォーター設計の最中、
かかるコストも天井知らずになり、流石にそこまでは、ということで
アイデアを諦める場面もあったそうですが、芸術家にとって
そのインスピレーションを形にするのにはパトロンが必要である、
という事実を、これほど具体的に表した例はないのではないでしょうか。

室内は完璧に撮影禁止でしたが、外観からは撮り放題。
フォーリングウォーターを望むベストポジションから。

内部の見学では、いくつかの部屋に日本の版画が飾ってあるのに、
日本人であるわたしは大変誇らしい気分になりました。

フランク・ロイド・ライトは日本滞在中浮世絵などをたくさん買い求め、
持って帰って依頼主に家ごと売っていたようです。

ボランティアも彼の自然との調和する作品のコンセプトは
日本と深く結びついている、というようなことをいっていましたし、
この地を訪ねた安藤忠雄氏もこういっています。

「ライトは日本の建築から建築の最も重要な側面、空間の扱いを学んだと思います。
フォーリングウォーターを訪れたとき、わたしは両者に通じる共通の感性を見出しました。
しかし、ここにはさらに魅力的な自然の音が加わっています」

先ほども書きましたが、極寒のペンシルヴァニアの山中にあるこの家は、
特に冬の間寒く、人々は上の階に固まっていたそうです。

わたしはモルジブで海の上に立つコテージに宿泊したとき、夜、
波の音がうるさくて寝られなかったことを思い出しました。
波の音でああなのに、勢いよく流れる滝の水音が夜どうだったか(笑)

週末の隠れ家だからこそ我慢?できたということかもしれません。

カウフマン家は、その人脈からあらゆる有名人を招待し、
ゲストハウスとしてここに宿泊させました。 

カウフマンの妻、リリアン。

馬術と自然を愛し、ベアランではそれらを存分に満喫しました。
美術愛好家としては、メキシコの画家ディエゴ・リベラの作品を蒐集し、
邸内にはいたるところでそれをみることができます。

ディエゴ・リベラはフリーダ・カーロの夫でもありました。
(なるほど、それでフリーダ人形が売店に)

しかし、傍目から見て何の不自由もないこのセレブリティ夫人は、1952年、
セコナール(不眠症治療薬)の過剰摂取で亡くなっています。

夫人の死後、カウフマンもまた、

「長年の愛人であった秘書と結婚し、7ヶ月後に骨がんで死亡した」

とあるのですが、これらの淡々とした事実から、決して彼らの夫婦生活が
上手くいっていなかったような匂いを嗅ぎとるのはわたしだけでしょうか。

しかしながら、カウフマンは死後、リリアンとともに
フォーリングウォーター敷地内の霊廟に眠っています。

カウフマン家の三人は、死してなおフォーリングウォーターに
魂を留めることを選んだということになります。

それにしても、カウフマンの後妻はここに眠ることを許されなかったのに、
息子のパートナーという男性が、ちゃっかりここに
遺灰を撒いてもらったというのは、便乗しすぎ?と思いました。

絶景ポイントには人だかりができていました。

皆順番にいい場所で自撮りをしたりしています。

多額の寄付をしたドナーでしょうか。
ベンチに刻まれた名前を検索してみたら、ピッツバーグの篤志家のデータが出てきました。

タイムズ紙の言うところの「人生で一度は訪れるべき場所」の一つ、
といえるのかどうかまではわかりませんが、今回ここに来られたのは
大変ラッキーなことだったと思います。

だって、わざわざこれを見るためにピッツバーグに行くことなんて
アメリカ人か安藤忠雄でもない限り普通思いつきませんよね。

 

 

オーストリア軍の武器装備〜ウィーン軍事博物館

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ウィーン軍事史博物館の不思議なところは、第一共和国の成立(1919)
からアンシュルス、オーストリア併合、そして第二次世界大戦の終わりと
これだけの期間が一つの展示室に収まっていることです。

ただでさえドイツ語中心の説明でパッと見区別がつかないのに、
こんな微妙な期間を一緒くたにしてしまうのは如何なものか、
とわたしは写真の整理上思ったりしているわけですが、武器装備的には
それほどの変化はなかったということだったんだと思います。

というわけで今日はこの部分に展示してあった装備品をご紹介していきます。

Fieseler Fi 156 Storch(シュトルヒ)

ナチスドイツ軍の連絡機、フィーゼラーの「ストーク」(コウノトリ)です。

フィーゼラーはドイツのパイロット、ゲルハルト・フィーゼラーが創始した
航空機会社で、彼自身がナチス党員だったため、ナチスが政権を握ると
この「ストーク」を生産し、会社は発展しました。

フィーゼラー(左)と美人パイロット。

フィーゼラーは第一次世界大戦では19機撃墜の記録を持つエースでしたが、
戦後は曲芸飛行のパイロットとしてショーで活躍していました。

Fieseler and the F2 Tiger - 1st World Aerobatic Champion
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1912年に行われた飛行大会で優勝したときの、フィーゼラーの
華麗なる曲技が動画に残されています。

この時に乗ったF2タイガーもまたフィーゼラーの最初の製品でした。

カモフラージュ塗装されたバイクはやはりBMW製で、

BMW R 12 motorcycle

と説明があります。

バイクの横にあるのはカバンですが、毛皮があしらってあります。
お洒落でやっているのではないと思うのですが・・・。 

これらの兵器の前には

rüstungsgüter aus der Zeit des"totalen Kriegs"
「完全戦争の時代の兵器」

とあり、この「トータレン・クリーグス」の意味がわからなかったのですが、
立てかけられた大きな看板に書いてあるのは

「Fristenstelle Rampobau」

でさらに意味がわかりません。
「Fristenstelle」は締め切り、「Rampsbau」は船体建設という意味です。 

左のほうに、ユダヤ人絶滅収容所の囚人の制服があります。

アンシュルス後、オーストリアではユダヤ人指導者の逮捕、シナゴーグの破壊、
商店へのボイコットなどの弾圧が政策に沿って行われました。

オーストリア在住のユダヤ人たちは、1938年8月にアドルフ・アイヒマンが
指揮をとりユダヤ人の追放を大々的に行ったため、亡命を余儀なくされました。

しかし、ヨーロッパの他の国に亡命したユダヤ人たちは、
そこに侵攻してきたナチスの手で強制収用所で命を落とすことになります。

アンシュルス前には17万人強いたウィーンのユダヤ人は、終戦となった
1945年の5月には5512人しか残っていなかったそうです。

こちらはメッサーシュミットMe262のエンジン。
JUMO004という型番だそうです。

メッサーシュミットの「シュバルヴェ」(燕)については、
同じコンセプトで制作を企画された「橘花」と一緒に、
スミソニアン博物館の展示を元にお話しさせてもらったことがあります。

「橘花と燕」

なんかすごく綺麗で劣化が見られないんですが、これはもしかして
終戦直前に作られ、全く使われたことのないエンジンだったのでしょうか。

それでこちらです。
家族と一緒だとどうしても写真を丁寧に撮ることができず、展示室の写真の多くが
細部、特に肝心の説明のところがブレてしまい、このシリーズのエントリ制作は
もうとてつもなく大変な作業をしているわけですが、この蓮の実みたいなのも
当初諦めかけた難物です。

しかし、軍事博物館の英語版wikiに、ここには

「V-2ロケットのエンジンの破片」

があると知り、画像検索してみて、これがそうではないかと思いました。

 

V-2ロケットについては、特に戦後、アメリカとソ連が、この技術を獲得するために、
ドイツ人技術者の囲い込みを「ペーパークリップ作戦」などで行った、
という話を何度かここでしてきましたが、今回初めて知ったことは、
このV-2ロケット、ミッテルバウ=ドーラ強制収用所で作られていたということです。

この収容所はユダヤ人絶滅収容所とされるものではなく、収容者は
フランスとソ連の捕虜、つまり軍人がほとんどだったということですが、
敵国の軍人に武器を作らせたということに不思議な感覚を抱きます。

ミッテルバウ=ドーラ収容所の日本語wikiの説明にはわざわざ
「ミッテルバウにガス室はなかった」と書いてあるのですが、
強制労働が目的の収容所に普通ガス室はないだろうっていう。

ZiS-3 76mm野砲 ソビエト連邦の野戦砲です。第二次世界大戦には対戦車砲として運用されていました。

なんたる感激、ゴリアテの実物をこの目で見ることができました。
感激のあまり画像がブレてしまいましたが、あの!ゴリアテ。

ライヒター・ラドング・ストレガー・ゴリアテ
(Goliath Light Charge Carrier)

でございます。

Image

戦後これをドイツで見つけたアメリカ軍兵士が喜んで遊んでいるの図。
本当はこんな風に乗って移動するものではありません。

ゴリアテはドイツ国防軍が使用した遠隔操作式の軽爆薬運搬車輌で、
高性能爆薬を内蔵し、有線で遠隔操作され無限軌道で走行・自爆する自走地雷です。

地雷原の啓開や敵の陣地軍用、車両の破壊を目的に運用されました。

つまり使い捨てってことなんですが、これ、コストパフォーマンスの点で
どうなんだろう、って誰でも思いますよね。

案の定一台が高すぎたのと、時速9.5 kmと移動速度が遅かったこと、
段差が11.4 cm(細かい・・)以上あると決して乗り越えられないという
使い勝手の悪さに加え、ケーブルを切断されるとコントロールできなくなるとか、
装甲が弱くて銃で撃破されてしまうとか、まあそういった理由で(涙)
武器としてはけっして成功したとはいえません。

にもかかわらず有名なのは可愛いからじゃないでしょうか。(私見です)

山岳地用トラクターです。

1942年冬、東部戦線での馬の不足がますます顕著になり、
ドイツ軍の自動車でさえも割り当てられた任務をこなすことが難しくなりました。

Steyr-Daimler-Puch AGが開発したのがこのトラクターです。
寒冷地である東ドイツの国防軍のニーズに対応しキャタピラー仕様になりました。

ここに示されているRSGは、ウィーン美術館の所蔵品を疎開させるため
アルタウッセの塩鉱山まで輸送るのに使用されたものだそうです。

プロトタイプはわずかしか生産されておらず、貴重なものです。

クーゲルブンカー(Kugelbunker)

クーゲルとはドイツ語で「ボール」のことです。
見ての通りボール型の壕のことで、空襲の多い工場の敷地内に
小さな避難用シェルターとして設置されていました。

この壕は、ナチスドイツが世界大戦中に築いたいわゆる
「南東の壁」の東地域で1人の避難所として建てられました。

ボルグヴァルトIV

ヘビーロードキャリアバージョン です。

当初は弾薬運搬用として1942年から使用されていましたが、
そのうち、ゴリアテのように遠隔操作で爆弾を爆発させるために運用されました。
見ればわかりますが、ボルグヴァルトはゴリアテよりはるかに重く、
その分ペイロードも大きくなりました。

ちなみに、ボルグヴァルトは会社名で、ゴリアテを作ったのもこいつです。
ゴリアテは有線だったのでそれが切れたらおしまいでしたが、
ボルグワードIVは無線で操作されます。

車体前面に傾斜したスロープ様の爆薬搭載部があり、
ここに収められた台形の箱に入った450kgの爆薬を搭載して目標に接近し、
接地地点で充電の電気を切り、爆薬をスロープから前方斜め下に投下し、
運転手は本体を安全圏まで後退した後に起爆させるという仕組みです。

目標まである程度の距離までは人間が搭乗して操縦し、
離脱も行うので運転手は大きな危険にさらされました。

車両は装甲されていましたが、1942-43年までにその装甲は不十分であり、
しかもゴリアテよりもサイズが大きかったため、発見されやすかったそうです。
この車両は、2010年3月31日、ウィーンの市街地での解体、
および土工作業中に他の戦争遺物とともに発見されました。

 

進駐軍が残していったジープも展示してあります。

最後に印象に残ったこの絵をご紹介しておきましょう。

Die Befreiten「解放された」

という題の、ハンス・ヴルツ(1909−1988)の作品です。
ヴルツは第二次世界大戦中、1940年から1944年まで戦線にいて、
そこでイギリス軍の捕虜になっていたという経験を持ちます。

彼が解放されたのは35歳の頃ということになりますが、前列の
皆がこうべを垂れている中で一人面を上げて空を見ているのは
ヴルツ本人でしょうか。

 

続く。

 

 


ワールド・イン・ユニオン〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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自衛隊恒例の秋の音楽イベント、自衛隊音楽まつりは
今年令和元年、いつもの武道館から場所を国立代々木競技場に移し、
予行練習を含めて三日の日程を無事終了しました。

各方面からのご好意により今年も参加して参りましたので、
しばらくの間ご報告させていただきたいと思います。

何度か武道館での音楽まつりに参加して、順番待ちのタイミングとか
駐車場とかどこから入場するのがいいかなどにすっかり詳しくなり、
それなりに場所取りのエキスパートとなっていたわけですが、今回は
全く勝手がちがうのでどうなるか見当もつきません。

澁谷という世界一駐車場が高いこの地域で車をどこに停めるかからして
まったく未知数です。

本番を明日に迎え、そういったことに対する楽しい?心配をしていたら、

「今日の晩(11月29日)の予行演習のチケットがあるんですけど
わたしは行けないのでいかがですか」

と知人からいきなりメールが入りました。

すぐさま用意をして、都内でチケットを受け取り、駆けつけたときには
会場のほとんどが埋まっている状態でしたが、そんなことがあったので、
結局わたしは今回合計三回音楽まつりを観る幸運に恵まれました。

このNHKの写真は、二日目の朝、1日目にタクシーの運転手さんに
教えてもらった上限二千円の超穴場パーキングに車を停め、
歩いて代々木競技場に向かうときに撮ったものです。

真ん中に写っている得体の知れない物体はドーモくんです。

NHKホールの横の並木道を通り、競技場裏にあるフットサルのコートの
ゲートから入って行くという道で現地までたどり着きました。

これは同じ並木道の昨夜の様子です。
今この道は「青の洞窟」と称してライトアップしています。

競技場の駐車場はOD色のトラックがずらりと並んでいました。

代々木競技場の中に入るのは初めての経験です。
昔漫画の背景にこれを描いたことがあったなあ(遠い目)

外側がアシメトリーなのに内部は長方形で富士山を象った天井が
両側にシンメトリーになっていることを初めて知りました。

会場には武道館とは比べ物にならないくらい最新型の大型モニターが
真上からのカメラ映像を放映していました。

今年のテーマは「EVOLUTION 変革の響き、進化への除幕」です。

これは三日目の開始前で、防衛大学校の儀仗隊が練習をはじめました。

キャップ、トレーニング用ジャージ、ジャンパー全て儀仗隊のネーム入り
ユニフォームをあつらえているんですね。
トレードマークは交差させたガーランドです。

練習ですが皆の表情は真剣です。

これは11月30日の第三回公演が始まる前ですが、すでに彼らは
今日二回の本番をこなした後であるはずなのに、合間に
体育館の横で練習をしているのです。

彼らの演技は今回も完璧でしたが、その影にはこのような
努力の積み重ねがあってこそなのです。

ちなみに、練習が終わったあと、スタミナドリンクのような
小さい瓶が配られ、皆がそれを飲んでいるのも目撃しました。

自衛隊オリジナルドリンク「元気バッチリ」かもしれません。

二日目に席についた時の場内の様子です。
どんだけ早く来てるんだ、と思った方、あなたは鋭い。

とにかく二日目だけは気合入れました。

その甲斐あって、この日は、早く来た黄色チケットの人に限り、
VIP用の赤いソファーを独占できるという嬉しいサプライズがありました。

席に着くとすぐに自衛官が、

「この席では飲食は禁止となっておりますのでご注意ください」

と言いにきました。
絨毯にジュースや食べ物をこぼされては敵いませんからね。

次の日は招待席で選択の余地なく反対側に案内されましたので、
1日だけでもそんな場所から鑑賞できてうれしかったです。

最終日はここに偉い人が来ることになっているので、
SPのみなさんが打ち合わせ(談笑?)をしています。

赤いシートの周りは国会議員などの招待席となっていたようです。
最前列に有村治子議員(東郷平八郎の縁戚にあたる)、そのうしろに
佐藤正久議員の姿が見えました。

あれにみゆるお姿は彬子女王殿下ではございませんでせうか。

開始前のステージ、台上には各音楽隊のリズム隊楽器が整然と並びます。

招待日、席には出口海将がご挨拶に来られました。
この日、こちら側には陸海空幕僚長招待席となっていました。
気のせいか陸幕長招待席が一番たくさん人がいたようです。

音楽まつりは実は陸自が主体なんですね。

左のブロックは海外駐在武官や大使館などの招待者席。

モニターではいつものように広報ビデオも繰り返し放映されていました。
このときに一緒に行った人に聞いたのですが、AAAVに乗る水陸機動団、
隊員の特別手当ては出ないそうですね?

「陸自はお金がないんですよ」

陸に限ったことではないとは思いますが、こんなものに乗るのに
特別手当てなしとはちょっと気の毒ではないですか。

ビデオを見ていて、某所でお世話になったことのある方が
TACOだったと知って物凄く驚きました。

音楽まつりの練習に励む隊員たちの素顔も紹介されます。
海自のカラーガード隊ですが、この海自明細の映像からは、
ミニスカートで白いブーツ、キラキラのついた舞台メイクをしている
あの華やかな一団と同じ人たちとは思えません。

ステージ上ではいつものようにハープ奏者が調弦を始めました。
ハープというのはとてもセンシティブな楽器で、気温と湿度によって
音程が変わってしまうので、しょっちゅう面倒を見なければいけません。

「ハープを持っているというのは赤ちゃんがいるのと同じ」

とも言われています。
あるオケの演奏者は、

「ハープ奏者の良し悪しは調律の上手い下手と同義」

ともいっておりました。

開始前に防衛省の代表として防衛大臣政務官が挨拶しました。
自民党の渡辺孝一氏です。

誰もいない会場に最初のセレモニーを指揮する
航空中央音楽隊隊長が登場しました。

武道館との大きな違いは、出演者の出入口が長方形のエンドに
二箇所あることです。
そして、武道館が一面に向いていればよかったのに対し、ここは
会場の両側に「見せる」ステージにしなくてはいけません。

オープニングセレモニーの入場からして、これまでとは全く違う構成です。
陸海空音楽隊が右側と左側に整列を行いました。

さあ、いよいよ音楽まつりの開始です。

いつも心湧き立つような曲がオープニングには選ばれますが、
今年は「アベンジャーズのテーマ」でした。

 

いきなりかっこよさにゾクゾクしてしまいました。

スクリーンでは「平成」という文字が「平和」になり、そして
「令和」に変わるという誰が上手いこと言えと、な文字が浮かび、
三自衛隊音楽隊は人文字を描いていきます。

これは「乙2」ではありません。
どちらから見ても「2」が見えるようになっています。

ステージの両側に、陸海空の歌手が登場し、歌声がいきなり会場に響きました。
キリ・テ・カナワなども録音を残している「ジュピター」の英語替え歌、
「World In Union」です。

航空中央音楽隊からはピアニスト兼任、森田早貴一等空士。

陸自中央音楽隊の松永美智子陸士長。

もちろん海自東京音楽隊の中川麻梨子三等海曹もいたのですが、
三回ともライトが顔に当たってしまい撮れませんでした。

しかし、この日中川三曹は最初、真ん中、最後と大活躍でした。

It's the world in union

The world as one

As we climb to reach our destiny

A new age has begun

連帯によって世界は一つになる

運命をつかむために高みにのぼるとき

あたらしい時代が始まる

 

この曲は皆様もご存知と思いますが、今年日本中を沸かせた
ラグビーワールドカップのオフィシャルソングでもありました。

【ラグビーワールドカップ】この感動は一生に一度だ / オフィシャルソング 『World In Union』 / 吉岡聖恵(いきものがかり)

 

続きます。

「陸軍分列行進曲」〜令和元年度自衛隊音楽まつり

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例年ならまだ音楽まつり全日程が終了しないうちから、我慢できずに
写真をアップしてしまうわたしが、今年はなぜエントリアップまで
実質2日かかってしまったかといいますと、それはパソコンのトラブルでした。

トラブルと言っても何のことはない、大量にRAW画像をアップロードしていると、

「もうHDに空き容量がなく読み込めません」

ということをPCから宣言されてしまっただけなんですが。
しかしここでわたしはよせばいいのにせっせといらないデータを捨てたりして
自力で何とかしようと格闘を始めてしまったのです。

同じことになった方はもしかしたら経験がおありかもしれませんが、
(わたしだけかな)手作業でそんなことをしてもほぼ焼け石に水。
それどころか必要なファイルを見分けることもできず、作業は行き詰まり、
もはやこれまで、と専用アプリを導入したら一瞬で仕事が終わりました。

これが本当のタイムイズマネーです。

しかし、今回、驚いたのは自分で撮った写真の多さでした。
たかだか一回のイベントで、わたしはRAW画像1400枚、
1時間につき700枚、1分間に70枚、つまり

1秒毎にかならず一回以上シャッターを押していた

ということになります。
・・実際に目で見るよりファインダーを覗いていた時間の方が長かった?

 


さて、オープニングが終わり、音楽まつり、次はセレモニーです。

第302保安警務中隊の儀仗隊が入場してきました。
隊長を入れて28名、全国から推薦されて入隊試験を受け、
それに選ばれたその中からの選りすぐりのメンバーです。

保安警務中隊の写真を見ていつも思うのですが、どんな訓練をしているのか
彼らの動きは写真というコンマ秒の瞬間においても常に完璧に揃っています。

肉眼で見た音楽隊の行進やマーチングは、もちろん一般レベルで言うと
段違いに訓練された団体のそれですが、やはり写真に捉えた瞬間は
この「肉体と規律のスーパーエリート集団」に敵うものではありません。

第302保安警務中隊は役職で言うと「ミリタリーポリス」ですが、
国家行事の際に国賓を迎えるという「日本の軍隊の顔」であるので、
ロンドンのバッキンガム宮殿の近衛兵さながら、容姿チェックがあります。

ただ厳密には個々の目鼻立ちというより、全体的に並んで立ったときに
規格から外れていないかが選考のポイントなのではないかと思われます。

眼鏡をかけることも許されないようですが、視力の悪い人は応募できないのか、
それともコンタクト着用と言うことで許されるのか、どちらでしょうか。

純白に日の丸レッドのパイピングが施された制服に身を包んだ
カラー(国旗)ガード(護衛)に運ばれて入場してきました。

国旗入場の前に観客には起立を要請するアナウンスがかかります。

第302保安警務中隊の制服は昨年度刷新されました。
52年間着用されていた前の白いスーツ襟のも好きでしたが、わたしはこの
「日の丸カラー」の新しい制服は近年にない名作だと声を大にして言います。

コシノジュンコ氏は間違いなくこのカラーガードをイメージして
この制服のデザインを行ったのに違いありません。

そして、詰襟にベルト、斜めのパイピングというデザインも
世界的に見ると華奢な日本人にはよく似合うと思います。

去年、武道館で行われた音楽まつりで、よりによって
大臣展覧の招待公演で国旗旗手が台から足を踏み外し、
万座が息を飲むという「事故未満」があったのを思い出しました。

あの後、おそらく警務中隊全員で(参加してない人も)正座して(しらんけど)
徹底的な反省会になったと思われるのですが、それにしてもあのとき
足を踏み外しても旗手がバランスを崩さず、もちろん国旗を落とすことなく
瞬時に体勢を立てなおしたのには驚嘆させられたものです。

あの咄嗟のリカバーこそが、彼らが日頃行っている
厳しい訓練の賜物だったといまでもわたしは思っています。

しかし、自衛艦旗事件のように、しばらくの間は音楽まつりで
同じ光景を見るたびにあのシーンが脳裏をよぎってしまうのは、
あれを目撃した人にとって、もうこれはどうしようもないことです。

やっぱり一緒に目撃した人とはその後何度かその話をしましたし、
何よりも当の旗手は二度と同じ徹を踏まない覚悟で臨んでいることでしょう。

続いて国歌斉唱が行われました。
去年は前奏に続いて斉唱となっていたと記憶しますが、今年は

「前奏はありませんので」

にまた戻っていました。
うーん・・・・なぜに?

前奏がないと最初の「き」を誰も歌わないんですよね。
わたしは指揮者の動きを見て歌おうとしたのだけど、
体育館は広いので指揮のタイミングより音が聞こえてくるのが
遅くて、やっぱり最初からは歌えませんでした。

ステージ前のスタッフもこと自衛隊行事とあって全員が起立しています。
カメラマンは自衛官であっても敬礼しなくてもいいんですね。
これは「任務中」と言うことなんだと思います。

昔練習艦隊の艦上レセプションで案内してもらっていたら
喇叭譜君が代が始まったのですが、

「立ち止まって敬礼しなくていいんですか」

と聞いたら、

「任務遂行中はしなくていいことになっています」

と言っていました。

わたしごときを案内する任務なんてどうでもいいから
立ち止まって敬礼してくれ!と内心思っていましたが。

第302保安警務中隊は国家吹奏中捧げ銃をします。
訓練ではこの足の開き方の角度まできっちり測られるそうですよ。

選ばれたメンバーの中からさらに選抜された28名、
その指揮官になるというのは一体どういう自衛官なのでしょうか。

階級は三等陸尉ですが、これはつまり、彼らは防大卒ではなく
陸曹から選抜され、その隊長が任官すると言うことだと思います。

流石にそんなメンバーを率いる隊長だけあって動きが美しい。
剣の敬礼動作から鞘に収めるまでの一挙一動も全て絵になっています。

序章とオープニングの指揮を行ったのは航空中央音楽隊隊長、
松井徹生二等空佐です。

この後、

「東京オリンピック ファンファーレ」

が陸海空4名のトランペット奏者によって演奏されました。

 

このファンファーレはオリンピック委員会とNHKの公募に
寄せられた作品から選ばれたアマチュア作曲家の作品です。

初演は1964年10月10日、東京オリンピックの開会式において、
陸上自衛隊音楽隊の副隊長玉目利保三佐指揮による
隊員総勢30名によって初演されました。

このファンファーレとセットで想起される古関裕而作曲の
「(東京)オリンピック・マーチ」とともに全隊が退場すると、

東京音楽隊のハープ奏者演奏による、坂本龍一作曲、
映画「ラストエンペラー」のテーマが暗い会場に流れます。

モニターとナレーションでは、自衛隊音楽隊の歴史が紹介されました。
警察予備隊、海上保安庁において式典などの必要性から
音楽隊が発足するまでの経緯を説明したものです。

この時初めて知ったのは、航空中央音楽隊の発足時、
音楽隊準備要員として陸上自衛隊中央音楽隊からまず三人、
移籍して2年後、「臨時航空音楽隊」がその三人をコアに発足し、
現在の名称になったのは昭和57年になってからということです。

ということは最初の三人は陸自から空自にコンバート?
したということになるんですね。

最初の出演は陸上自衛隊中央音楽隊です。
「陸軍分列行進曲」が会場に響きわたったとき、全身に鳥肌が立ちました。

 

同じブルーと白のセレモニー用制服を中央音楽隊が世間に披露するのは
おそらくこれが初めての機会だったのではないかと思われます。

陸自中央音楽隊には、陸自だけが保有する第302警務中隊とともに
国賓等の歓迎行事における演奏を行うという同隊だけの任務があります。
その特別任務のためにこの度衣装も誂えたということなのでしょう。

手前のモニターに総火演のヘリの映像が見えていますが、この間
会場には土をけたてて進む戦車や水陸機動車、レンジャー訓練など
次々と広報映像が流され、音と視覚が多面的に織りなす効果は
それはもうとてつもなく効果的でした。

今回も観艦式と同じく、募集対象者を中心にチケットを捌いたそうですが、
わたしがもし入隊を考えている対象者だったら、これを見ただけで
陸自に入隊を決めてしまったかもしれません(笑)

右肩にはホルンを模した金糸のマークが見えます。
音楽隊の制服としてもなかなかいいものです。

ただ夏の公務にはまさかこれを着ることはないと信じたい。

曲は渡辺俊幸作曲 祝典序曲「輝ける勇者たち」です。

渡辺俊幸氏というと、わたしはNHKの「大地の子」のテーマを思い出します。

中央音楽隊が行う第302保安警務中隊のドリルとの競演は、いわば
「陸軍分列行進曲」に象徴される「ミリタリースタイルの追求」そのものです。

そういえば、第一章のテーマは

「トラディションー伝統と伝承の響きー」

でした。

従来の武道館での演奏の違いで言うと、圧倒的にマーチングが
動きのある、ダイナミックなものになっていたということです。

ブラスバンドの本質から言うと、広い体育館であるここは
彼らにとって見せ甲斐のあるフィールドとなったのではないでしょうか。

三方向に音楽隊を配して中央で儀仗隊が一糸乱れぬドリルを行います。
このシーンは、銃を持ち替えたり構えたり、左脇に抱えて
パートごとに敬礼をしていくというドリルをしているところ。

敬礼の角度のシンクロ具合がすごい・・・。

クライマックスでカンパニーフロント(一列になって全員が前進)
を行うのが音楽隊ではなく儀仗隊とドラムメジャー。
後ろから一線になって進み、前方でドリルを行ったのち、
銃剣を下に向けるポーズでエンディングに備えます。

 

ラストサウンドで銃剣を空に向け、フィニッシュ!

陸自中央音楽隊と第302保安警務中隊、
相変わらず期待を裏切らない質実剛健ながら花のあるステージでした。

 

続く。



ピアノソナタ「悲愴」〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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令和元年自衛隊音楽まつり、第一章の一番手である陸自中央音楽隊が
第302保安警務中隊と競演した最初のプログラムが終了しました。

すると、ステージに迷彩服の演技支援隊がアクリル製の
透明なピアノを設置し始めました。

うむ、東音は今回主力武器としてピアノを投入するつもりだな?

わたしは初回だけは何も知らない状態でステージの進行を見守り、
何が起こるか同時進行でワクワクしたいので、前もってプログラムを見ません。
そしてこの光景を見たとき胸が高鳴るのを感じました。

しかもどこから調達してきたのか、カワイのアクリル製透明ピアノ。
昔一度この透明ピアノで演奏の仕事をしたときに、
鍵盤を全く見ずに指を置こうとしたら蓋が閉まっていた
(透明なのでうっかり)という冗談のような体験をしました。

また、この日の同行者に

「音はいいんですか」

と訊かれて、ビジュアル重視なのである意味良いわけがない、
と答えましたが、今日のような用途だときっとマイクを使うはずだし、
そのレベルの音質などまず関係ないとも思われます。


それにしても、このピアノと迷彩の集団というビジュアルのインパクトよ。

演奏部隊がスタンバイを始め、ピアニストが席についてからも
支援隊のセッティングはぎりぎりまで行われています。

場内アナウンスが、

「2世紀半経っても色褪せることのない至高の音楽」

と呼んだのは、そう、楽聖ベートーヴェンの作品のことでした。

Beethoven Collage

と題された作品メドレーをピアノ中心に行うとわかり、この
素敵な企みに対し、わたしは内心快哉を叫びました。

ピアノ協奏曲第5番 作品73「皇帝」第一楽章

の最初の音が響き渡りました。
原曲はもちろんオーケストラですが、ブラスによるこの最初の
変ホ長調の和音は一層輝かしく迫力に満ちて体育館を満たしました。

先日来日したベルリンフィルでついに聴くことが叶った「エロイカ」と、
この「皇帝」は、第5番「運命」と並んでわたしが愛する
ベートーヴェン作品のベスト10には入っています。

「英雄」と違い「皇帝」は作曲者本人が名付けたものではありませんが、
そのタイトルはこの曲のイメージそのものです。

写真をアップにして初めて気づきましたが、弦のところに
マイクロマイクが2基仕込まれていますね。
あまりに小さいので会場にいたほとんどの人には見えなかったはずです。
しかし技術の進歩はこんなことまで可能になったんですね。

一昔前なら、ピアノにスタンドマイクを噛ますしか増幅の方法はなく、
それに必要なコードがマーチングの邪魔になるので、
そもそもこんな計画は最初から不可能とされたでしょう。

さらに、武道館ではグランドピアノを配してその周りで
マーチングをするスペースもここほど十分ではないはずなので、
このチャレンジは代々木競技場ならではだったのではないでしょうか。


東京音楽隊が今回このような企画を打ち出したのは、前述の
条件が満たされたことはむしろ後付けで、最初から

「ピアノ奏者ありき」

であったことは明らかです。

何しろ東音には、コンサートピアニストとしての経験と実力を持った
「技術海曹」が在籍しているのですから。

皆が意表を突かれたとすれば、ホールのステージで行う定演とかではなく、
マーチングと競演する音楽まつりでこれをやってしまったということです。

アレンジによる「皇帝」が盛り上がる中、まず前方に
カラーガード隊とバナー隊、ドラムメジャーが整列。

最初の敬礼(実際に敬礼しているのはドラムメジャーのみ)です。

広報ビデオで海自迷彩を着て練習していたカラーガードは、
自衛艦旗を中心に、東京音楽隊の旗、女性隊の旗(紫)などを掲げます。

 これまでは前方だけ向いていたカラーガード隊も、
ここ代々木競技場では後方を向いて姿を見せてくれます。

交響曲第7番イ長調 作品92第1楽章

あまりにピアノの音とマッチしていたので、

「はて、これピアノ協奏曲だったっけ」

と一瞬勘違いしそうになりました。

上半身正面を向いたまま横(左)に動くレフトスライドという歩き方。

そうして全体がピアノの形になりました。

もちろんこの間も場内スクリーンには音楽に合わせて
海自の広報映像が映し出されています。

ちょうど先日日本から任務に出発したばかりの「しらせ」の姿が。

音楽に合わせて、といえば、音楽と完璧にシンクロさせて魚雷や
P3CのIRチャフフレアが炸裂しているのが凄かったです。

ピアノソナタ第 14番嬰ハ短調 作品27−2
『幻想曲風ソナタ』第3楽章

というより「月光」第3楽章といった方が通りがいいかもしれません。
テンポが速くなるのでステップも超高速です。

このときとても目立っていたのがパーカッションの皆さん。
この曲ににタカタカタカタカ、とスネアドラムを合わせるアイデアは斬新です。

このベートーヴェンコラージュのアレンジをした隊員に心からの賛辞を贈りたい。


「エリーゼのために」

この曲に移行するときにちらっと「運命」が聴こえてきたのですが、
クラシック通というわけではない人もこれには気づいたのではないでしょうか。

ピアノソナタ8番ハ短調作品13「悲愴」

ヴォカリーズの「悲愴」第二楽章が、ピアノの調べに乗って
甘やかに聴こえてきました。

おりしもフォーメーションはハート型。

「悲愴」というタイトルの三楽章からなるソナタの中で、
激しく激情を滾らせるかのような第一楽章に続き、優しく、切なく、
慰めと祈りを思わせる第二楽章のメロディに合わせたのでしょう。

歌うのは現在東京音楽隊所属の歌手、中川麻梨子三等海曹。

去年は三宅由佳莉三曹とのデュエットを行いましたが、
現在三宅三曹が横須賀音楽隊に転勤になっているため、
今年は彼女がソロで出演となりました。

今年は中部方面音楽隊の出演がなかったので、同隊所属歌手の
鶫真衣三曹も顔を見せることはありませんでした。


今年の音楽まつりは全体的に歌手の出演ボリュームを減らし、いつもの
「歌姫競演」とはちょっと違う方向性を目指したのではないかと思われます。

三音楽隊で歌手を採用していたのも海自だけでしたし、しかもそれが
器楽的なヴォカリーズ(歌詞なしの旋律)であることからそう思ったのですが。

兼ねてから中川三曹の安定した歌唱力には定評がありましたが、
今回写真に撮ってみて、歌手としてのステージングもビジュアルも
以前と比べて段違いに磨かれてきたように思われました。

やはりセントラルバンドの歌手という重責を経験することによって
研ぎ澄まされてくるものがあるのかもしれません。

彼女の本領であるドラマチックな高音も遺憾無く発揮されました。
難なく響かせたラストのEs音ではまたしても全身に鳥肌が(笑)

 

指揮は東京音楽隊副隊長、野澤健二二等海曹。
呉地方隊隊長から同隊副隊長に転勤するとご本人に伺ったとき、

「それなら音楽まつりで指揮をされることになりますね」

とお声がけしたのを思い出しました。

そして恒例の行進曲「軍艦」(または錨を回せ)です。

今年はピアノがあるので、あれどうするんだろうと思っていたら、
何のことはない、ピアノを中心点に錨が回転しております。

「軍艦」にピアノのパートがあったことにこの日初めて気がつきました。
なぜなら、ピアノコンチェルトモードで音量もそのままになっていたため、
「軍艦」なのにピアノの音が無茶苦茶聴こえてきたのです。

やっぱり海自の音楽隊は最後に「これ」がないと。

そういえばこのステージも、

第一章 トラディションー伝統と伝承の響きー

でした。

前半はどこよりも斬新な企画で、かつ圧倒的な才能ある人材(編曲者含め)
を繰り出し、いつもよりさらに進化したステージを見せてくれた同隊、
最後はやはり伝統墨守に倣い本来の姿で終わり、というこの心憎い対比。

米海兵隊のドラムメジャーは演奏中何もしないことで有名ですが(笑)
自衛隊のドラムメジャーは一般的に大変よくお仕事をします。

時々は指揮者の反対側で裏指揮をしているくらいです。

ドラムメジャーは藤江信也三等海曹。

「軍艦」のエンディングはいつもとちょっと違いました。
ここでもちょっと洒落を効かせてベートーヴェン風に華々しく終了。

ところで皆さん、ステージ左に迷彩服の集団が潜んでいるのに注目!

代々木競技場は広いので、どの音楽隊も、エンディングとは別に
退場の時のテーマソング的な曲が必要になります。

陸自中央音楽隊の退場は、入場の時に演奏した「陸軍分列行進曲」の
中間部に当たる「扶桑歌」が選ばれました。

海自が選んだのは「錨を揚げて」(Anchors Aweigh)です。

これには会場に招待されて来ていた第七艦隊関係者も喜んだのではないでしょうか。

指揮者とピアニストが並んで退場。

音楽まつりでは歌手であっても個人名は紹介されず、
プログラムにも載りませんが、この日太田沙和子一等海曹は
最後に指揮者、ドラムメジャーとともに名前がコールされました。

敬礼をするのかと思ったら、お辞儀したので一瞬?となりましたが、
よく考えたら彼女は正帽を着用していなかったので当然ですね。

演奏中ステージの影で待機していた演技支援隊が飛び出してきて
皆でピアノを移動し始めました。

こんなシュールな光景が見られるのは世界でも自衛隊音楽まつりだけでしょう。

 

続く。

 

 

ボヘミアン・ラプソディ〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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オープニングに続き陸海自衛隊音楽隊の演奏が終了しました。
第一章のテーマは

トラディションー伝統と継承の響きー

なので、続く外国バンドも日本に長らく駐在している
米海軍軍楽隊もそういう意味ではここにカテゴライズされるでしょう。

ところでわたしは夏前に映画感想エントリをまとめて作成したのですが、
その中に團伊玖磨の自伝を基にした「戦場にながれる歌」という
陸軍軍楽隊ものがあります。

音楽まつりが終わったら関連テーマとしてアップする予定なのですが、
この映画、後半に当時の在日米軍軍楽隊が大活躍?するのです。

映画では終戦直後の外地における捕虜収容所の専属バンドという設定でしたが、
撮影に参加していたのはまさしく1952年からキャンプ座間に展開した
米陸軍軍楽隊のメンバーでした。
(そのため色々と映像とストーリーに矛盾が生じていたのですが、
そのツッコミも含めてどうぞアップをお楽しみに)

わたしはその制作の過程で映画のためにキャプチャした写真を観ながら、

「ここに写っている軍楽隊員のほとんどは下手したら生きていないかも」

という感慨を持ったものですが、つまり在日米陸軍はそれほどに
今日まで長きにわたって根を降ろしてきたということでもあります。

Selections From Queen

海上自衛隊が楽聖ベートーヴェンのメドレーを行った後に、
こちらはロック界のレジェンドであるクィーンのメドレーです。

昨年はなぜかクィーンがフレディ・マーキュリーの自伝映画、

The Untold Story 

リリースとともに大ブレイクし、そのおかげで全世代に彼らの音楽が
懐メロという位置づけではなく浸透しました。

「ボヘミアン・ラプソディ」の冒頭アカペラの導入部分を
トランペット奏者がソロで演奏し、それにトロンボーンが絡みます。

ハイトーンのメロディはトランペットには難しそうですが、
わたしの観た回は3回のうち2回はノーミスでした。

その部分をイントロとして、曲は

「Crazy Little Thing Called Love」
(愛と呼ぶところのクレージーで些末なもの)

に代わり、ボーカルが加わります。

 

東京音楽隊がピアニストありきで今回ベートーヴェンメドレーを選んだように、
米陸軍音楽隊も彼がいるからクィーンをすることにしたのではないかと思いました。

マイケル・ジャクソンやフレディ・マーキュリーなんて、そもそも
似ているとか以前にまともに歌える人そのものが滅多にいない気がします。

白人、東南アジア系、東洋系、アフリカ系。
同音楽隊リズムセクション+キーボードは多様性に富んでいます。

もう一度「ボヘミアン・ラプソディ」に戻り、ラストの4拍3連部分、

「So you think you can love me and leave me to die?」

のところではリズムに合わせて全員で腰をアップダウン。

総じて米陸軍音楽隊のマーチングはラフな部分多めで、
全員でライトスライドでぐるぐる回るけど全く整列しないとか、
ただ上半身揺らしてるだけとかいう状態から、いつのまにか
高速移動してちゃんと整列しているというようなのがお得意です。

アフリカ系の年齢は他民族からはわかりにくい(そう思うのはわたしだけではなく、
アメリカの法廷ドラマ『グッドワイフ』でもそんなセリフがあった)のですが、
彼の場合袖の洗濯板は6本あるので、勤続18〜21年未満のベテランです。

階級は二等軍曹(スタッフサージャント)、自衛隊でいうと普通に二曹となります。

曲は「Somebody Loves Me」。

日本語のタイトルはなぜか「愛に全てを」なんだそうですが、どう考えても
「誰かがわたしを愛してる」ですよね。
ジャズのスタンダードに同名タイトルの曲があるのであえてそうしたのかな。

Queen - Somebody To Love (Official Video)

 

実際に映像を見ていただければ、このヴォーカルが持っているマイクのスティック、
フレディのトレードマーク?だったことがおわかりいただけます。

これについてはなんでもフレディがまだ学生の頃、当時のある日のステージで
スタンドマイクを振り回しながら歌っていると継ぎ目のところで半分に折れてしまい、
本人はなぜかスティックだけになったそれをえらく気に入って、
その後自分のトレードマークにしてしまったという伝説があります。

ところでこのスティック、いったいどこで調達してきたんでしょうか。
ネットを検索すると「100均でなりきりスタンドマイクの作り方」
なんてのが出てくるんですが、まあ陸軍なら、いくらでも金属加工くらい
施設科かどこかでやってもらえるかもしれませんね。

ちなみに100均で作ると、ポールはプラスティックになりますので念のため。

「 Find me somebody to love」のリフレイン部分になると、
全員が楽器をお休みし、自分たちも歌いながら客席に向かって

「一緒に歌え」

と手振りで強要してくるのでした。

ボーカルも

「エブリバディ!」(歌え)

とか言ってるし。

だがしかしここはジャパン。
このフレーズをこの場で一緒に歌える人は、おそらくこの代々木競技場の
五千人の観客の中でクィーンのコンサートに通ったレベルのファンとかの
一人か二人、せいぜい三人くらいだったとわたしは断言します。

というわけで皆手拍子はすれども歌は歌わず。
ユーフォニアムのおっさんが

「あ?聴こえねーぞコラ」

ってやってますが、歌えんものは歌えんのだ。わかってくれ。

というわけでクィーンの曲で最後まで押し通した在日米陸軍、
エンディングはもう一度「ボヘミアン・ラプソディ」で締めます。

あくまでもフレディスタイルでフィニーッシュ!

指揮はリチャード・チャップマン上級准尉。
今回米陸軍はドラムメジャーが出演しませんでした。

そういえばアメリカ軍の軍楽隊隊長は必ず上級准尉です。
軍楽隊に士官はいないということなんでしょうか。

米陸軍の退場は王道の「星条旗よ永遠なれ」に乗って行われました。

 

続いては米海兵隊第3海兵機動展開部隊音楽隊の登場です。

「伝統と伝承」といえば、海兵隊音楽隊の歴史は古く、
独立戦争中に創設された海兵隊が1797年に再建されたとき、
歴史上初めて大統領の前で演奏できる軍楽隊として生まれたものです。

彼らの制服が詰襟なのも、大航海時代「首を刃物から守るため」
カラーにレザーを使用していたことからで、一般的に今でも
海兵隊のことを「レザーネック」という慣習は残っています。

音楽まつりに出演する海兵隊部隊は沖縄のフォート・コートニーに駐在し、
アメリカ以外に本拠地を置く唯一の海兵隊音楽隊として活動しています。

演奏タイトルは「Peace Across The Sea」。

ブルース風のリズムを持つ曲ですが、検索しても同名の曲は見つかりません。
もしかしたら隊員のオリジナルだったりして・・・・。

ピースマークを全員で描いて、解散したところ。

彼らは海外に展開する唯一の音楽隊として、日本を中心に
アジア全域で活発な演奏活動を行なっており、
年間300くらいのコンサートをこなしているそうです。

ところで音楽まつりのとき彼らはどこに寝泊りしているんでしょうか。

ゆったりしたピースフルな曲がワンコーラス終わると、続いては
海兵隊名物、ドラムセクションの乱れ打ちが始まりました。

ステップしながらの演奏では隣のドラムを叩いたり、
時々スティックをクルクル回してみたり。

映像をご覧になることがあったら、ぜひこのときのシンバルの人の
謎の動きにも注目してみてください。
この奏者、後半演奏がない時もシンバルを振り回して目立っております。

そして時折このようにニッコリ笑いあったりしているわけですな。

「お、ボブお前やるじゃん」「まあな」

みたいな?

ちなみに彼らは全員三等軍曹です。

ところで大変不甲斐ないことに、わたしはこのパーカッションの後、
前半とは雰囲気をがらりと変えたハンス・ジマーの映画音楽風の曲の題名が
どうしても思い出せず、アメリカにいるMKにSkypeで尋ねたところ、

Two Steps From Hell - High C's 

であるという答えとともに即座にYouTubeを送ってきました。
何度も聴いた覚えがあると思ったらわたしアルバム持ってました。

いやー、便利な息子を持ったものです。

前半のゆるふわなままで終わるわけがないと思ったら、
やはり後半は雰囲気を変えてきました。
構成としては前半がピースで後半が「地獄の戦い」ということになりますが。

それにしてもどうしてプログラムに曲名を載せてないんでしょう。
英語のタイトルが長すぎてスペースに収まらなかったからとか?

海兵隊名物、怖いドラムメジャーは今年も健在です。
軽々と回しているようですが、バトンって重そうですね。

ドラムメジャーはロバート・ブルックス一等軍曹。
これは何人かやってる顔ですわ。

新兵に「サー、イエス、サー!」とか言わせてるんだろうか。
それとも黙って一睨みするだけで泣く子も黙るみたいな?
先ほどの「地獄からの二歩」のミュージックビデオに出てくる人みたいな?

海兵隊は例年「アメリカ海兵隊賛歌(Marines' Hymn)」で退場します。
海自の「軍艦」陸自の「陸軍分列行進曲」みたいなものですね。

 

というわけで、在日米陸軍と米海兵隊、伝統のアメリカ軍楽隊のステージが終わりました。
楽しかった〜!

 

続く。

通信機器とテレグラフ「真珠湾に空襲 訓練にあらず」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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音楽まつりの報告の途中ですが、本日日本時間の12月8日は
日本軍が真珠湾攻撃を行い、日米が開戦した日ですので、
こんなテーマを取り上げてみます。 

ちなみに、本日アップは、日本時間8日午前3時22分 、
日本海軍の航空機隊が真珠湾上空で全軍突撃を行い、
攻撃司令淵田美津雄が旗艦「赤城」に対してトラ連送、

「トラ・トラ・トラ」

つまり「ワレ奇襲ニ成功セリ」を打電した時間にしてみました。

でっていう。


さて、メア・アイランド海軍工廠に展示されていた通信関係の資料です。

わたしの最も苦手な分野なのでスルーしたいのはやまやまですが、
歴史的に意味を持つ通信機がここにあるとあっては話は別です。

珍しく機械に説明のカードが付けられていました。
今までアメリカの軍事博物館を数多く見てきましたがこれは初めてです。

まず、上段の機械。

Beat Frequency Oscillator

を日本語で調べると「BFO」て・・・。
そんなの見たらわかるつーの。

気を取り直してBFOを調べると、「うなり発振器」。
余計わかりません。

受信機においてCW信号やSSB信号を復調する際に用いられる電子回路である。

CW信号もSSB信号も復調もわからないので、検討もつきません。
どれくらいわかっていないかというと、音楽に全く詳しくない人が、

「ドミナントがトニックに進行するときに導音は常に主音に解決される」

と言われるのと同じくらいわかっていないと思われます。

説明には第二次世界大戦時に使われていたものだと
(もちろんそれだけではないんですが)あります。

この機械の正式名称は

The General The General Radio 913The General Radio 913ーA
Beat Frequency Oscillator

右側のは

BC-348-3 Radio Receiver

こちらはコンパクトなタイプのラジオ受信機で、陸海軍共通の規格をもち
第二次世界大戦時航空隊によって運用されていたタイプです。

その機能については割とどうでもいいのでここでは触れませんが、
重要なことは、この受信機が航空機に搭載されていた

AN/ARC-8 システム

の一部分として、広島に原子爆弾を落としたB-29爆撃機、
「エノラ・ゲイ」に搭載されていたということです。

今日、この受信機は

ビンテージアマチュア無線愛好家

(そんな人たちがいるんだ)の垂涎の的らしいです。

このビンテージ無線愛好家の記事を少し読んだのですが、

「コンデンサの放電中、片手を必ずポケットに入れておくのが基本」

なんて書いてあります。
そうしないと感電してしまうってことですかね。

左の緑色の機械は

The model 80 Signal Generator(標準信号発生器)

The Gilfillan Brothers(ザ・ギルフィラン兄弟社)製

ギルフィラン、という名前は、例えば日本だとNHKの放送博物館で
ラッパのついた蓄音機や鉱石ラジオを見るときに認識されるでしょう。

ギルフィラン兄弟社はロスアンジェルス発祥のラジオ(のちにテレビも)
製造会社です。
ミシンのブラザーや、日本の大阪金属のように、ギルフィラン社もまた
第二次世界大戦中は軍用機器の製造を行なっていました。

ちなみに日本で現在標準信号発生器を作っているトップメーカーは
アンリツ株式会社ですが、ここでも一度述べたようにアンリツは
日露戦争の時に「敵艦隊見ゆ」を打電した三六式無線のメーカーです。

1916年には世界初の無線電話を製品化していますし、
国内初のテレビを作ったのもこの会社。
そのほかにも、国内初の公衆電話、世界で初めての光パルス試験器を開発、
と何かとすごい会社です。

このギルフィランの標準信号発生器は。レーダーシステムの試験や、
あるいは主に潜水艦のサービスに搭載されていました。

右側はThe AVCO社製のラジオレシーバー&トランスミッター。
朝鮮戦争、ベトナム戦争時に運用されていたタイプです。

U.S Army Signal Corps BC-1031 Panoramic Adapter

第二次世界大戦中、連合国によって共同運用されていました。
スペクトラムアナライザの初期のタイプです。

New London Instrument Co.と製作会社の銘がありますが、
これはコネチカット州の潜水艦基地のお膝元で、
いわばコバンザメ商法というやつではないかと思われます。

 

右側の携帯用の器具は、

Wheatstone Bridge(ホイートストーンブリッジ)

といいます。
物体の歪みを測定する機器のことを

歪みゲージ(ストレインゲージ)

といいますが、ホイートストンぷリッジはこのひずみゲージの
抵抗測定に使われる回路をさします。

ちなみにこのひずみケージの世界ナンバーワンのシェアを占めるのが、

ミネベアアツミ株式会社

という長野県にある日本の会社です。

この機器の近くにあった写真は、メア・アイランドにあった
海軍のラジオ・トランスミッター・ステーションとタワーです。

外から見ると、普通のうちとなんら変わりはありませんが、
よく見るとセーラー服の水兵が警護に立っています。

イーゼルの上に丸い輪っかを乗せたような不思議な器具がありました。
その辺の床材とか、適当にものを積み重ねてあってぞんざいです。

なんの説明もありませんでしたが、こんなフダがついていました。

Direction Finder (方向探知機)

しかし、木製の台にアルミのリングと、時代的にいつのものか
全く見当がつきません。

ふと、こんな写真を思い出しました。

女流飛行家のアメリア・イアハートがおどけて顔を出しているこれ、
この方向探知機のリングアンテナですよね?

この写真のキャプション、

「Amelia Earhart Holding
Bendix Radio Direction Finder Loop Antenna」

から、これがベンディックスの製品であることがわかりました。
こんなことも書いてあります。

「ヌーナンとイアハートのそれは非常に使用が困難で、
かつ彼らがモールス信号についてあまり知識もなかったことは
彼らの失踪のファクターの一つとなった」

検索すると、イアハートがこのループアンテナを気に入って?
一緒にやたら写真を撮っているようなのですが、なんと彼女は
この機械を

「積んでいたのに使えなかったことが失踪の一因となった」

ってことになるのです。

当時この機械が発明されたばかりで、電波が微弱であったことや、
連絡を取る軍艦に搭載された受信機がバッテリー切れを起こしていた、
という話も目にしましたが、このキャプションによると、

CAPTION:
Earhart's lack of familiarity with the Bendix radio direction finder
was a significant liability.

(リングで写真を撮りまくっていた割に)機械に熟知していなかったと。
つまりもし遊んでいる間に使い方をもう少しちゃんと勉強していれば、
方向探知はできたはず、ということなんでしょうか。

さて、この無線関係の機器の中で、もっとも衝撃を受けたのがこれでした。
まず、

CIH-46159 A

海軍のTCSトランスミッターと受信システムの一つです。
この機器はハミルトン・ラジオ社の製作となります。

このデスクの上の受信機&トランスミッターのシステムは
歴史的に象徴的な役割を果たしています。

冒頭の写真をもう一度見ていただけますでしょうか。

1941年12月7日の午後、ほとんど全てのアメリカ人は、日本軍の飛行機が
真珠湾を攻撃しているという知らせを自宅や職場のラジオで聴く事になりました。

攻撃が始まったのはハワイ時間の朝7時48分、例えばここカリフォルニアでは
10時48分です。

ニューヨークではWORがジャイアンツとドジャースの試合の実況を中止して、
午後2時25分東部時間にCBSがこのニュースを報じ、
CBSでは有名アナウンサーのジョン・デイリーが4分遅れで報じました。

一番最初にこれを報じたのはホノルルのKGU局でしたが、当初
まだホノルル上空を通過していく飛行機が日本軍のものであるとは
確認できない状態だったといわれています。

まだ日本軍の攻撃が続いている時、KGUラジオのスタッフは、
ビルの屋根の上に登って攻撃の様子を確認し、マイクを手にして
NBCに電話を通じて最初の目撃証言をライブで伝えました。

「戦闘はほとんど3時間続いています。
冗談ではありません!これは本当に戦争です!」

その時記者はこのように叫びました。

この時、ホノルルの電話交換手がイマージェンシーコールのために
この場に電話してきて邪魔をするという一幕もありました。

 

ところが個人的にものすごく驚いたことに、ここにあった説明には

この攻撃は、大日本帝国が、南西アジアとフィリピン諸国を
欧米列強の支配から防ぐ、という目的を持って行われ、
航空攻撃は2波、六隻の空母から飛び立った353機の飛行機によって行われた

と書かれていたのです。
いやー・・・・・誰が書いたんだろうこの文章。

続いて、

この攻撃によってアメリカ海軍は4隻かの戦艦を失い、
ダメージを受け、3隻の巡洋艦、3隻の駆逐艦、機雷敷設艦、
188機の航空機、死亡2402名、負傷1282名の損害をうけ、
日本側は29機の航空機と潜航艇が5隻失われただけ、
死者は65名、捕虜1名という軽微な損害に終わった

とあります。

それはともかく最後にちょっと突っ込んでおくと、

「日本軍は一人の水兵が捕虜となった」

いや、それ水兵ちゃうし。
それ海軍士官学校出の少尉(酒巻和男)だから。

で、冒頭写真の人物ですが、1941年12月7日に真珠湾攻撃の
テレグラフを受け取る、メア・アイランドのシニア通信士、
ヴァン・B・デイトン氏。

今テレグラフから紙がでてきてますね。

それがこの紙(もちろん実物)です。
緑の部分には

URGENT 7 DEC 1941

FROM CINCPAC

TO PACFLT 

HOSTILITIES WITH JAPAN COMMAND
WITH AIR RAID ON PEARL TOR 1111-Y

 

 真珠湾に空襲 X これは訓練にあらず 1112Y

このテレグラフが歴史的なものになることはその瞬間からはっきりしました。
そしてメアアイランド工廠ではこの一枚の紙を後世に残すことにしたのです。

 

 

 

千本桜〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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在日米陸軍軍楽隊と海兵隊音楽隊のステージが終了しました。
ここで「トラディション-伝統と伝承の響き」と銘打った第一章は
フィナーレを迎えることになりました。

トランペットのソロで幕開けです。

「ラーラーソーソーラソソミー レードレドレドミソ〜」

というフレーズ、聴いたことあるようなないような。

二方向あるエンドの片側には今演奏を終えたばかりの海兵隊が。

反対側には米陸軍音楽隊が。
軽快なラテンのリズムに乗って第一楽章に出演した
全音楽隊が演奏を行うようです。

その間海兵隊ボーカルが見かけによらない軽快なダンスをして
わたしの周りのおばさま方に大いにウケていました。

脚の動かし方が実に独特です。

全部隊がステージに上がったところで、躍りまくっていた彼は
中央に全力ダッシュを始めました。

中央で先ほどクィーンメドレーでフレディの歌を熱唱した
陸軍軍楽隊の歌手とガッチリ握手。

抱き合っている時もあり、その時の空気で何をするか決まるようです。

陸軍と海兵隊二人の指揮者が指揮をしています。
同じゲストバンドとしておいでいただくうえ、階級も同じ上級准尉の
指揮者、あちらを立てればこちらが立たずになるため、(たぶん)
自衛隊としては苦し紛れに二人を指揮台に立てることにしたのだと思います。

海兵隊と陸軍が仲が悪いという話は特に聞きませんが、
だからといってこういうことが遺恨になってもいけないからですね。
完璧に想像で言ってますけど、普通に考えて指揮が並んで二人なんて
全く音楽的に無意味だし、そんなこと以外理由がほかに考えられません。

指揮者が二人ならボーカルも公平に二人、ツインボーカルです。

リッキー・マーチンの「The Cup Of Life」が始まりました。

ここでボーカルを二人にした理由もおそらく指揮者のと同じ。(たぶん)

ここでの歌唱は正直二人ともプロレベルとまではいかないものでしたが、
勢いで行ってしまう感じと、ハモっていたのはよかったです。

ボーカルが歌う間にも人が出てきてはハイファイブしたりして、
全軍友好をアピールするのが本パートに課せられたミッションである模様。

ちなみにこれをする役は決まっているらしく、毎回同じ組み合わせでした。

ソロパートも公平に陸自と海自のトランペット一人ずつが出て、
アドリブ対決?のあとやはりハイファイブでお互い健闘を称え合います。

旧軍時代にこんなイベント、せめてアメリカのように士官学校同士の
スポーツ交流(という名の代理戦争)でもあったら、勝てないまでも
もう少しいい線いったのではないかと(略)

♫Here we go  Ale, ale, ale

♫Go, go, go  Ale, ale, ale

というサビの部分が一度聴いたら(耳について)忘れられないこの曲ですが、
タイトルの「カップ」というのはコーヒーカップのことではなく、
優勝カップの方の意味のようですね。

つまりタイトルの意味は「人生の優勝杯」ってことです。

 

米陸軍のピッコロ奏者に美人さん発見ー!
アメリカ人って一般に、この人痩せてたらきれいなのにもったいない、
という人がとても多いのですが、軍人は仕事量が多く滅多に太らないので、
きれいな人がきれいなままで保存されやすい職場の一つではないかと思ったり。

アドリブ対決をするとき、周りには人が集まって応援します。
ソロを演奏する人はピンマイクを搭載していますね。

これが本当の音楽まつりです。

出演部隊の正面がどちらからも見えるように、二手に分かれてのエンディングです。

皆、ちゃんと指揮者を見て演奏していますね。

「カップ・オブ・ライフ」は、1998年FIFAワールドカップ
フランス大会の公式曲で、スペイン語の「La Copa de la Vida」
を英訳したものです。

二人の指揮者、と先ほど書きましたが、本ステージには
実はもう一人、東京音楽隊の野沢副隊長も後ろで指揮をしていました。
つまりトリプルコンダクターだったことになります。

しかし野沢副隊長は後方の指揮を受け持っていたため、
音楽進行上必要不可欠な場所にいたことになります。

武道館より広いここ代々木競技場では、よくみるといろんなところに指揮がいて
マーチングでどんな方向を向いても棒が見えるようになっており、
ライトに照らされる演奏者のために、小さなライトを振っていました。

容れ物が変わると、こういう工夫にも若干の変化が生じてくるようです。

さて、ここからは第二章に突入します。

イクスパンションー広がりの響きー

と題されたステージのトップは、陸上自衛隊北部方面音楽隊。

1952年(昭和27年)、前身となる警察予備隊第二管区音楽隊として
札幌に発足し、札幌オリンピックでは中心的音楽隊として活躍しました。

映画「ベン・ハー」より

Parade of the Charioteers(御者たちのパレード)

 

音楽まつりを見ていない方はぜひ最初のところだけでも聴いて欲しいのですが、
この「御者たちの行進」、まるっきり和風の曲調ですよね?

この曲を演奏しながら同隊が行進を始めたとき、わたしは
(プログラムを見ていなかったので)大河ドラマのテーマかと思いました(笑)

勇壮な「ベン・ハー」の勝利のパレードの曲が終わると、
6名のサクソフォーン奏者によって「千本桜」のサビが演奏されました。

次の瞬間、同隊隊員による超絶ボイスパーカッションが始まり、
会場はそのインパクトに大きくどよめきました。

ボイスパーカッションは実は「ボイパ」(笑)などといわれて
けっこうメジャーなものなのですが、文字通り声のドラム、
「マウスドラムス」、「口三味線」ということもあります。

マイケル・ジャクソンなどもときどきやっていましたが、
今ではボイスパーカッションのやり方などがネット上で出回るなど、
静かな広がり?を見せているこのジャンル。

いやしかし、まさか自衛隊音楽まつりで聴けるとは思ってなかったわ(笑)

「♫ 少年少女 戦国無双」

という全く意味不明の歌詞の部分を演奏するのもサックス6名。

この「千本桜」は、ボーカロイドの初音ミクが歌って
インターネット空間で広がりを見せた曲です。

作曲したのも同人音楽グループだったり、歌詞が意味不明で
内容も耽美主義というより厨二病的なのがいかにもですが、
わたしは、メロディと「和楽器バンド」の演奏をちょっといいなと思ったとき
ふとしたはずみと勢いで携帯の待ち受けにこれを入れてしまいました。

後悔はしていませんが、そろそろ変えるべきと思いながらも
忙しいのと変え方を検索するのが面倒なのでそのままです。

もし巷でこのサビ部分の待ち受けを鳴らしている人がいたら、
それはわたしかもしれません。

なぜ同隊がボイスパーカッションをフィーチャーしたかについて、

「飲み会のカラオケで披露してたら、『お前次これやれよ』とかいわれて
正式に演奏者としてやることになったんじゃないでしょうか」

わたしは同行者とそんな会話をしました。

口だけで千本桜 / Human Orchestra 2

「千本桜」をご存知ない方のために。
この人は何から何まで一人でやってしまっています。

「千本桜」が終わると、お仕事終了ですたすたまっすぐ歩いて行く
「ボイパ」奏者。

どこに行くんだろう、と目で追っていたら、後方ステージに上り
帽子を被って何事もなかったかのようにティンパニを叩きだしました。

うーむ、本業もパーカッションだったか。

ここからラストまで演奏されたのは「ベン・ハー」からの曲で

Fanfare To Prelude

のプレリュードの部分だと思います。(多分プログラムは順番が違う)

 最後に「ベン・ハー」のプレリュードでカンパニーフロント。

指揮は佐藤文俊三等海佐、ドラムメジャーは古舘正夫一等陸曹でした。

 

さて、令和元年度自衛隊音楽まつり、つづいての「イクスパンション」は?

広がりは海外にフィールドを移し、外国からのゲストバンドが登場します。

 

 

続く。

 

ベトナム〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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ところで、読者のあざらしロビさんが、どうやらわたしと同じ日に
音楽まつりに出撃されていた模様です。

矢印のところにおられるのがロビさんと奥様。
(右は夫妻肖像画)

ちょうどその向かい、貴賓席にわたしが座っていたことになります。
この写真で言うと、左側のふたりボックス席の右側がわたしです。

そうそう、後ろに座った人が黒い上着を掛けてきたので
目障りだなあと思っていたりしたんですよね(笑)



さて、音楽まつりの第二章2番目に登場したのは、
ベトナム人民軍参謀部綺麗弾軍楽隊でした。

ベトナム社会主義共和国の国防を担当する軍事組織で、事実上、
国の正規軍として機能すると共に、ベトナム共産党が指揮する
「党軍」としての側面も併せ持っているため「人民軍」と称します。

ベトナムでは2年間の徴兵制を布いているので、陸軍だけでも
兵力は(あの小さな国で)46万人、海軍4万5千人、空軍3万人。

かつては総兵力170万あったそうですが、それでも日本の二倍であるのは
やはりベトナム戦争を戦っただけのことはあります。

ご存知とは思いますが、我が自衛隊は陸海空合わせて24万7千人です。

 

 

本日出演の軍楽隊は参謀部儀礼団ということなので、ベトナムとしては
常日頃国際儀礼などに音楽を提供するもっとも権威のある?
軍楽隊を投入してきたのではないかと思われます。

もちろんのこと音楽まつり初参加となります。

最初の曲は「ベトナム」。
すごいタイトルですが、もし我が国に「日本」という曲があっても、
こんな感じにはならないんじゃないかという気がしました。

いわゆるアジアンポップス調で、歌詞の最初に「ベトナム」という
言葉が入っているのが聴いていてその場でわかります。

彼女は専属の歌手のようですが、軍服を着用しているので
アメリカ軍のように技術曹として採用されているのかもしれません。

歌が始まって8小説目には全体が星の形になりました。
これはもちろんのこと、ベトナム国旗の星を表しています。

赤い旗に黄色い星、中国と同じく共産党による一党独裁なので、
国旗からもわかるように「ミニ中国」という面もあります。

まあ、親分と違って覇権主義でもないし民族弾圧もしてませんけどね。

おそらくベトナム軍には、会場がこんなに広いことは
伝わっていなかったと思われます。

広い会場の真ん中でマーチングも控えめ、アトラクション?
というのが、この新体操のリボンを綺麗どころがクルクル回すだけ。

ちなみにこの写真は予行演習の時のものです。

こんな広いところで固まらなくても、と初日見ていて思いましたが、
他ならぬ彼ら自身も他のバンドと比べて俺らちょっとしょぼくね?
と気づいたらしく、最終日に向けて少しずつ変化していくさまが見られました。

同軍楽隊はブラスバンドとして見た場合、ステップ一つとっても演奏そのものも、
正直言って「発展途上」という言葉が過ってしまうレベルでしたが、
それを補って余りあったのは、クルクルリボン隊のお嬢さん方の「レベル」でした。

二日目。どうよこれ。

音楽隊とは関係ないところから綺麗な人を選抜して
吹奏楽先進国であるアメリカと日本のステージに対抗しようとしたのか、
それは知りませんが、会場のカメラマンは楽団員には目もくれず(そらそうだ)
このお嬢さん方の写真を撮りまくっていたと思われます。

こちらもなかなかよろしい。
彼女はHoang Thi Dungさんとおっしゃいます。

わたし的に一押しの美女はリー・チー・ドゥンさん。
っていうか皆同じ名前なのはなんでなんだぜ。

全員が全員、完璧な歯並びを惜しげもなく見せるため、
にっこりと微笑みながらお仕事をしています。

まあしかし、望遠レンズを覗いているカメラマン以外には、
あまりにも会場が広すぎてそもそも女性が綺麗かどうかもあまり伝わらず。

しかも予行練習日は、何を思ったか、お嬢さん方、
軍服のパンツスーツという空気の読めなさ。

彼らが儀礼用の全身白の制服で演奏したのはこの日だけでした。

こちらが二日目の同じパートの写真です。
自己反省したのか、どこかからご指導が入ったのか、
楽団は赤いベレーにライン入りの制服に着替え、
タンバリン隊はミニスカートということにしたようです。

まあ普通そうなる罠。

 

二曲目のタイトルは「ライスドラム」。

イントロはまるでディキシーランドジャズみたいな出だしなのに、
それに続くのは

「♫と〜れとれ ぴ〜ちぴち かにりょおり〜」

みたいなフレーズで、西洋風音楽理論に拘らない(笑)形式の曲。
ベトナムで有名な民族音楽だと思われます。

ベトナムはフランス領の時代が長かったので、特に料理は
大変洗練されていると聴いたことがありますが、音楽は
古来より伝わる雅楽などもいまだに継承されているそうです。

このバンドの演奏で全てを推し量るわけではありませんが、
音楽については民族色の強い傾向が浸透しているように見えました。

しかし、音楽まつりではむしろこういうのを聴きたいですよね。

最後に全員で円を描き、手を胸にお辞儀をしましたが、
ベトナム軍の赤い帽子で描いた円、そしてこの日本式挨拶は
日本に敬意を表した演出だったと思われます。

指揮は音楽隊長ファン・トゥアン・ロン中佐。
袖の二本線は全員がつけているので階級章ではありません。
階級は肩章で表されます。

クルクルリボン隊は中佐が敬礼をしている時もクルクルしていましたが、
そのまま回しながら退場していきました。

さて、3回目の最終日の同隊ステージです。

二日目が終わって、「まだまだいかん」と鳩首会談を行った結果
(たぶん)彼らは演技にさらなる軌道修正を加えることにしたのでしょう。

最終兵器のアオザイを投入してきました。

長いパンツはもちろん、ミニスカートでもまだパワーが足りない!
ここは世界で最も女性をセクシーに見せるといわれるアオザイで一発逆転や!

ということになったのだと思われます。

一応衣装は一式持ってきていたけど、様子見してたんですかね。
それともベトナム同胞の集まりのために用意してきたのを出してきたか。

全てを覆い隠しながらも体の線を際立たせずにいられないデザイン、
切れ込みが脇の下まで入って素肌がチラリズムというのもあざとい、
いや、心憎い。

椰子の木の下でデートをする二人。伝統的な模様なのでしょうか。

三曲目の「勝利の行進曲」は、8×5に並んだ部隊が8小節ごとに
向きを四方に変えて演奏をするという今時珍しいフォーメーションでした。

いや、フォーメーションというものでもないか。

というわけで日程後半にいくほどある意味評価うなぎ上りだった(多分)
ベトナム人民軍参謀儀礼団軍楽隊の演奏でした。

さて、続いての最終外国招待バンドはドイツからの出演となります。

 

続く。


ヨルク軍団行進曲〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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さて、令和元年度自衛隊音楽まつりに出演する
最後の外国ゲストバンドが入場を始めました。

ピッコロが軽快なメロディを奏でる行進曲に乗って

ドイツ連邦参謀軍軍楽隊

の入場です。

こちらも同じく参謀軍ですが、この参謀軍軍楽隊は
国家儀礼の式典での演奏も担当する、つまりそれだけ
技量があるということなのだろうと思われます。

全体的にガタイのいいおっさん多め、バイキング風髭多め、
制服の色といいこのドラム隊といい、いかにもドイツの楽隊です。

実力も軍楽隊の中ではトップらしく、ベルリンフィルと年次コンサートを
合同で行うほどの実力があるそうです。

昨年、ヨーロッパからの初の参加国となったのはフランスでしたが、
今年はそれに続く2カ国目ということでドイツからの招聘です。

この勢いで来年はぜひイギリスかイタリアから呼んで頂きたいですね。

指揮者は最初の曲「プレゼンティア・マーチ」に合わせて、
ゆったりとした足取りで指揮台に歩みます。
自衛隊音楽まつりでは最初から指揮台に指揮者がいて全員が入場、
というのが通例となっているので、ちょっと珍しいパターンです。

「パンパカパッパ パンパカパッパ パッパッパ!」

でぴたっとゲネラルパウゼ(ドイツ語の全停止)。
そして

「ジャン!」

で恭しく全軍お辞儀(もちろん日本式)。

先ほどのベトナム軍もやっていましたが、この日本式お辞儀、
我々日本人が思っているよりずっと海外の人には特殊な仕草なのです。

だからここは彼らとしてはむしろウケて欲しかったと思うのですが、
観客の日本人たちはお行儀よく拍手を送るのみでした。

きっと彼らは後で、

「あそこで真面目に拍手してくるのがヤパーナーだよな」

と言い合ったに違いありません。

この人は軍楽隊のシンボルである(正式になんというか知りませんが)
重そうなものを持って歩くのがお仕事。

房だけでもかなりの重量がありそうです。
黄色い小旗に描かれた鷲、なんだとおもいます?

これ、実はドイツ連邦の国章で、フィールドは黄色ではなく金色、
黒い鷲は「アドラー」といいます。

鷲はヨーロッパでは強さ、勇気、遠眼、不死の象徴であり、また、
空の王者、最高神の使者と考えられ、キリスト教圏ではよく使われます。

わたしが長らくここでお話ししたオーストリア=ハンガリー帝国や、
ナチスドイツの国章に使われていたことでも有名ですが、現在でも
オーストリア、ポーランド、ルーマニア、チェコ、スペイン、そうそう、
忘れちゃいけないアメリカの国章に鷲があしらわれています。

ドイツの鷲は8世紀なかば、カール大帝のころからも用いられ、
神聖ローマ帝国では「双頭の鷲」が国章と定められました。

ハプスブルグ家の紋章が双頭の鷲なのは、それを引き継いでいるのです。

ベルリンフィルと共演するだけのことはあって、
特に金管セクションの音色は重厚で輝かしく、流石の風格です。

まあただ、言わせて貰えば、うまいのはいいけどゴリゴリの正統派で
しかもドイツドイツした曲ばかりセレクトするものだから、
あれこれと人心の好みに忖度したサービス満点の日米軍と比べると、
初見のとっつきは悪いかなという気はしました。

まあしかし、こう言うのがお好きな方にはたまらないと思います。

二曲目は「ヨルク軍団行進曲」。

German Military March - Yorckscher Marsch ヨルク軍団行進曲

 

ヨルクってなんぞや?


というところから始めなければいけませんが、これはドイツ人なら
誰でも知っているプロイセンの将軍で、ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵

冬将軍に負けたナポレオン遠征に多国籍軍として参加していた部隊を
指揮官として早々にロシア側と相談し撤退させた(つまり裏切った)人です。

で、驚くべきことに、この曲を作曲したのは、ベートーヴェン。
海上自衛隊東京音楽隊といい、今回はベートーヴェンづいてますね。

しかし、ベートーヴェンがナポレオンに見切りをつけたから、
同じくナポレオンを裏切った将軍を称えてこの曲を作った、
ということでもなく、作曲したときには全く違う題名(ボヘミア守備隊行進曲)
だったのが、いつの間にか演奏されていくうちにこうなったとか。


余談ですが、リンク先でお分かりのように、フォン・ヴァルテンブルグの子孫、
ペーター・ヨルクは、映画「ワルキューレ」でも描かれた1944年の
ヒトラー暗殺計画の首謀者として人民裁判でナチスに処刑されています。

ドイツでは「独裁者を裏切る家系」と言われているに違いない(確信)

お国柄を表すっていうんでしょうか、行進も正確で狂いなく。

演技支援隊が次の曲のためにセッティングをする中、
「ヨルク軍団行進曲」で全体が形作った人文字は・・・

♡日本

でした。
真面目に演奏しながらしっかりサービス、これがドイツ風。

おう、次はイタリア抜きでやろうぜ!(本気にしないでね♡)

「十字軍ファンファーレ」

ドイツの国章をあしらった太鼓とファンファーレトランペットの演奏。
この曲がもうおもいっきりプロイセ〜ン!なんですわ。

「ドイツの瀬戸口藤吉」とでも呼ぶべきドイツ軍楽隊の父、
リヒャルト・ヘンリオンが作曲した行進曲の数々は、ドイツ人にとって
古き良き皇帝のドイツを懐かしむ心の音楽なのだそうです。

そのうちの有名曲、「十字軍ファンファーレ」は、カラヤンも録音を残しています。

ベルリン・フィルハーモニー・ブラスオルケスター
ヘルベルト・フォン・カラヤン

交差したサーベルはドイツ軍の印?
太鼓のカバーの房も赤黄黒のフラッグカラーです。

ファンファーレトランペットは式典用で、信号ラッパと同じく
口の形だけで音を吹き分けます。

使用されている楽器は、1980年代にヤマハがザルツブルグ音楽祭に出演する
ウィーンフィルのために制作したタイプであろうかと思われます。

演奏時は足を前後に開いて左手をベルトに差込み、体を斜めが基本形。

指揮はラインハルト・キアウカ中佐。
聴き慣れない名前ですが、ドイツには同名の歌手もいます。

さて、一応演奏は終了をコールされ、隊長が敬礼しましたが、
ここからがちょっとした見ものでした。

退場曲は「ベルリンの風」(ベルリナー・ルフト)。

こちらは「ドイツオペレッタの父」と呼ばれるパウル・リンケの作品で、
ベルリンの非公式の「市歌」というくらい人々に馴染みのある曲です。

先ほど貼ったカラヤンの録音にもありますので、興味のある方はどうぞ。
ベルリンでのコンサートでこれをやるととてもウケるようです。

マーチングの技術もさりげにすごいと思わされたのはこれ。
全員で形作った国章の鷲のシルエットが、
行進しながら羽ばたいているように見えるのです。

羽部分を作っている人たちは一拍につき二歩ずつ、
向きを変えて翼の羽ばたきを表現。
頭と胴体、尾の人たちは一拍につき一歩ずつ。

そして途中でまたもやゲネラルパウゼしたかと思ったら、

「アリガトウ、ニッポン!」

全員で叫んで、万場は拍手喝采。🇯🇵🇩🇪日独友好。

いやー、もうこういうの嬉しいですね。
ぜひ次はイタリア抜きで(もうええ)

そして最終日。

どこで調達してきたのか(多分オフの日の観光中)軍楽隊長が
🎌日の丸の扇子🎌を打ち振りながら退場していくではありませんか。

さすがセンスあるう!

 

・・・続きます。

 

スローン・ルーム〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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外国招待バンドのステージが全て終了しました。
最後に出演した自衛隊音楽隊は航空自衛隊航空中央音楽隊です。

紹介でいきなりクロスドメイン、つまり陸海空の領域を超えた
防衛の新世紀の姿を言い表すために、

「宇宙」「サイバー」「電磁波」

といった空間に言及しました。

これは、同隊の選んだ本日のテーマ、「スターウォーズ」につなげるための
実に適宜な導入だったといえましょう。

平たくいうと、誰が上手いこと言えと、というやつです。

空自中央音楽隊の選曲については、いつも個人的に
ピンポイントでわたしの好みを突いてくることに驚きますが、
今日もまた、その嬉しい予感が当たりそうです。

プログラムによると、本日のテーマは

「スターウォーズ〜Tribute to Prequel Trilogy〜」

恥ずかしながらわたし映画「スターウォーズ」、観たり観なかったりで、
映画の細部については全く詳しくありません。

あらためて調べたところ、この「宇宙オペラ」(オペラだったんだ)は
最初の三部作を「旧三部作」とし、本日取り上げるところの
「プリクエル・トリロジー」は、旧三部作制作以降しばらくお休みしていた
ルーカスフィルムが、何かのきっかけで急にやる気になり、
アナキン・スカイウォーカーを主人公として過去編を作ったということです。

三部作は

「エピソード1 ファントム・メナス」

「エピソード2 クローンの攻撃」

「エピソード3 シスの復讐」

から成り、エピソード1発表当時は評価に賛否が巻き起こったとか。

ファンファーレで始まるステージは、おなじみのカラーガードが
赤と黒、シルバーの旗を持って登場します。

音の出ないビューグルを使う「喇叭隊」カラーガードも健在です。
彼女らも各部隊から推薦や自薦で応募し、選抜されるのでしょうか。

赤いフラッグは炎を表し、激しい戦いの曲などに用いられます。
照明もその時は赤が中心となります。

プレクエル・トリロジーのいずれかの映画の戦闘シーンの音楽なのでしょう。
場内のあちらこちらで、フラッグ隊ふたり一組による「バトル」が行われます。

一眼レフで撮影するようになってから初めて写真を見てわかったことですが、
彼女らの持っているフラッグには、持つ時目じるしにあするためのテープが
いくつも巻かれています。
このバトルの時も、旗の柄の握る位置は厳密に決められている模様。

「美は細部に宿る」という言葉を思い出しますね。

ところで、ご存知の方も多いかと存じますが、この音楽まつりの期間、
空自百里基地では航空祭が行われておりました。

わたしの知り合いは音楽まつりと航空祭、どちらに行こうか
迷った結果、百里を選んだそうです。

わたし自身も、実は12月1日に「いせ」の体験航海にお誘いいただいて、
すっかり行く気になっていたのですが、お願いしていたチケットが
どんぴしゃりで12月1日の招待公演だったため、体験航海をあきらめた、
というくらいの「イベントウィークエンド」でもあったのです。

一対一のバトルで思い出したので、この日航空祭に参加してこられた、
いつものKさんのブルーインパルスのコークスクリューの写真を貼っておきます。

トレイル隊形でしたっけ?
これをパッと見て「変だな」と思った方、あなたはブルー通です。
Kさんのご報告によると・・・。

ブルーの編隊を、よ~く御覧下さい。
実は一機欠けているんです。
離陸直前に3番機に不具合が発生して5機編成になっちゃいました。
普段なら予備機が代替するのですが、
前日に4番機にも不具合が発生していて、
既に予備機を投入済みなので已む無く5機での展示飛行となりました。
一部の演目はチョット残念な出来映えでした。
それでも中止せず4番機が3番機のポジションに臨時で入ったりして
飛んでくれたクルーに感謝です。

ということでした。

せっかくの航空祭に出演できなかった3番機ブルーは残念でしたね。

そういえば思い出しませんか?

空自中央音楽隊のステージは、毎年最後に全部隊の上を
ブルーインパルスを描いた布が通過するという演出をしていましたが、
2年か3年前にやめてしまいました。

ただ、あれが今でも続いていたとしても、今年の代々木体育館では
広すぎて布の幅が足りず、できなかったと思われます。

激しい調子のバトル的音楽が(題名はわかりません)終わると、
雰囲気は一転し、カラーガードは青い旗に持ち替えました。

この旗の受け渡しを行うのも演技支援隊の隊員です。

ハープのアルペジオから始まる切なげな曲は、

「Attack of the Clones」の「Across The Stars」。

 

その調べに乗ってふたりのカラーガードが旗を降り踊ります。
ちなみにこのときハープの演奏をしていたのは男性隊員でした。

彼女らの動きはここでも完全にシンクロしています。
適当に旗を振っているのではなく、振り付け通り。

二人で始まった踊りに他のカラーガードも加わって。

なびく白とブルーの旗とメランコリックなメロディの調和。
空自中央音楽隊お得意の選曲のセンスが遺憾なく発揮されています。

曲調がドラマティックに盛り上がった瞬間、会場を照らすライトが
赤く染まるという演出も大変効果的なものでした。

(でも正直赤いライトって写真に撮るといまいちなんですよねー)

そして、誰でもが知っている「スターウォーズのテーマ」が始まりました。

ビューグルのEXILEをしているカラーガード(笑)

外に並んでいる時、このカラーガードさんが舞台メイクをしたまま
出てきて、知り合いに声をかけているところを見ましたが、
ライトで飛んでしまうため青いシャドウをこってりつけていました。
目の下にはキラキラ光るスパンコールも付けています。

こんな機会でもないと今時普通の女性はまずしないという舞台化粧ですが、
彼女らにとってはコスプレ感覚で楽しんでしまえそう。

音楽隊と違い、カラーガードのお嬢さん方にとって音楽まつりのステージは
自衛官生活でたった一度限りの経験となるわけですから、
練習の期間も含めて、得難い一生の思い出となることでしょう。

ビューグル隊を真ん中に挟んで両側から互いに旗を投げ受け取る、
という、これも空自恒例のフォーメーションが始まります。

ビューグル隊は邪魔にならないように立て膝できっちりと静止。
これも日頃鍛えている自衛官だからブレずに姿勢を保てるのかもしれません。

時間にすれば一瞬なのですが、今回連写しまくったので、
写真をここぞとたくさん掲載してしまいましょう。

この投げ渡し、いつも彼女らは軽々と投げ、失敗なく受け取っています。
これまでの音楽まつりで同じフォーメーションを何度となく見ていますが、
旗を落としたのを一度としてみたことがありません。

そもそも、投げ上げた旗が隣とぶつからないだけでもすごい。

飛んでくる旗を受け止めようとする彼女らの真剣な表情をご覧ください。
それにしてもどれくらい練習を重ねるのでしょうね。

投げ渡しのあと、

「♬ド〜ソ ファミレド〜ソ、ファミレド〜ソ〜ファミファレ〜」

の一番盛り上がるメロディが。

その次の瞬間、次のフォーメーションに向かってダッシュ!

フィナーレに向かって全隊が気持ちを高めていきます。

そして空自中央音楽隊、今年もやってくれました!
わたしの全スターウォーズ曲中モストフェイバリットであるところの、

「スローン・ルーム」(Throne Room)

でのカンパニーフロントを。

日本では「王座の間」というタイトルだそうです。

誰かその理由を教えて欲しいのですが、ただ人々が演奏しながら
横一列に歩いて行くことが、なぜこんなに感動を誘うのでしょうか。

スターウォーズ NHK BSプレミアム 『王座の間とフィナーレ』

ましてやこの「スターウォーズ」一の名作とわたしが信じる
この曲とカンパニーフロントが一緒になったときの破壊力と言ったら・・・・。

今回、三回見て三回ともこの部分で涙腺を緩ませてしまったのですが、
こんな人はわたしだけだったでしょうか。

そして大感動のうちにステージは終わりを告げます。
わずか6分間だったとは思えないくらいストーリー性に富んだ
素晴らしいパフォーマンスでした。

指揮は芳賀大輔三等空佐、ドラムメジャーは島田祥宏三等空曹でした。

 

さて、陸海空自衛隊とゲストバンドが全てのステージを終えました。
次は前出演音楽隊による親善ステージです。

 

続く。


打ち上げ花火〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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 航空中央音楽隊の演奏をもって、全音楽隊のステージが終了しました。

真っ暗な会場の一隅からドラムの音が響きわたり、会場は
スポットライトに照らされた音のする方を注目します。

バルコニーのようになった部分には陸自中央音楽隊の打楽器陣が
まるで戦いを挑むかのようにドラムを連打していました。

それが終了すると、別の一隅から海自東京音楽隊の打楽器が
呼応するように聴こえてきます。

これは面白い。陸海「ドラム合戦」です。
ドラム合戦といえば思い出すのは「嵐を呼ぶ男」ですね。(わたしだけ?)
石原裕次郎演じる主人公が敵役のチャーリー(笈田敏夫)と、
交互にドラムを叩いてやっておりましたね。ドラム合戦。

左手を怪我していた裕次郎が痛みに顔を歪めるとニヤリと笈田が笑ったり、
苦し紛れに裕次郎がスティックを右だけで持って、

「♬オイラはドラマー ヤクザなドラマー」

と歌うとなぜか試合に勝ててしまうという展開に大いに笑わせてもらったもんです。

というのは余談もいいところですが、このドラム隊、
長方形の会場の対角線上に位置していたため、音は聴こえても
どこにいるのかわからないという人も多かったと思われます。

わたしも予行演習の初日、陸自は後ろから二人が見えただけ、
海自は大きなスクリーンに隠れて全く見えませんでした。

陸海ともに独自性を出していて、陸の叩き方はまるでドラムを叩く人形のような。
いつもスティックが地面と平行になっている感じの奏法です。
ところで今この画像を見て初めて気付いたんですが、後ろには北部方面音楽隊もいます。

海自は頭を深々と下げ、スティックを縦にして。
応酬が一頻り済むと、(位置が遠いので難しかったと思いますが)
両者が同時に演奏を行いました。

さて、またしても唐突にこの日行われていた航空祭の写真です。

わたしの知り合いは、音楽まつり常連ですが、日にちが重なった今回、
百里基地を選んだ理由をこう言っていたそうです。

「ファントムが飛ぶのを見られるのはおそらくこれが最後だから・・」

アメリカの航空博物館に行くとすっかり過去のヴェテラン機として
長いことお疲れ様状態で展示されているところのF-4ですが、
我が航空自衛隊ではアップデートにアップデートを重ね、今日まで現役でした。

随分前からもう最後といわれてきましたが、今回は本当に最後の展示となります。

このシャークペイント、アメリカでよく見るタイプです。
でも明らかにペイントが日本の方が丁寧でキマッています。
向こうのは時々シャークの顔がヘンだったりするんですよね。

空自大サービス、各種ペイントを施してのサヨナラフライトでした。

ファイナルイヤー塗装(赤い鷲)のF-4。
長い間お疲れさまでした!

さて。

暗い会場にスポットライトが浮かび上がらせたのは、
陸自の迷彩服を着た隊員の姿です。

自分が座っている木の箱を打ち鳴らし始めました。

この木の箱は「カホン」という打楽器で、このように座って叩くのが正式です。
跨って演奏するのがペルー式カホンだそうです。

カホンのリズムにピアノのイントロが絡んで始まった曲は
米津玄師の「打ち上げ花火」。

DAOKO × 米津玄師『打上花火』MUSIC VIDEO

アニメが素晴らしいですね。
風景の美しさに見入ってしまいました。

出だしのメロディを海自のサックス奏者が取ると、陸自がそれを受け継ぎ、
ワンコーラスだけの演奏が行われます。

と思ったら、アニメ「天気の子」の挿入歌、RADWINPSの
「愛にできることはまだあるかい」のメロディをベトナム人民軍が演奏しながら登場。

愛にできることはまだあるかい

RADWINPSといえば、「HINOMARU」という曲で左翼(と自称する日本嫌い)
に非難轟々だったという事件を思い出しますが、彼らはすでに
そんな炎上などなんの瑕疵にもならないくらいの評価を築いています。

反対側からはドイツ連邦軍の女性奏者が吹きながら輪に加わります。

ソロを受け渡しながらカホン奏者を中心に四重の輪ができました。

曲は同じRADWINPSの「グランドエスケープ」にかわりました。

【天気の子】グランドエスケープ(RADWIMPS) / めありーfeat.カタムチ cover

そういう効果を狙ったのかもしれませんが、このステージの三曲は
どれもよく似た曲調で、全く知らない人には違いがわからないかもしれません。

というより、三曲のYouTubeを見ればおわかりのように、本ステージの曲は
全てアニメの挿入歌から選ばれているのです。

いまや日本独特の文化として世界に認知されているアニメの曲を
外国バンドを加えた全員で演奏するということがテーマだったのでしょう。


曲を変えながら人の輪は一つ、二つと増えていき、最終的に7重にまでなりました。

これが入場して輪を形作っている時の楽器の持ち方基本形。
ところで一番後ろのクラリネット奏者のズボンにはなぜラインがないんだろう。

ちなみに彼らの階級は前から伍長(コーポラル)、軍曹(サージャント)、
一等兵(プライヴェート・ファーストクラス)で、真ん中の女性が最先任です。

 「グランドエスケープ」の

♬ 夢に僕らで帆を張って 来るべき日のために夜を超え
いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと肩を組んだ

の部分をアカペラで全員で歌うという趣向です。

会場に拍手を求め、歌える人は歌ってね、みたいなひととき。
ただしここの部分、外国招待バンドの隊員さんたちには歌えないと思うのですが、

ほんのたまーにいるんだよ。一緒に歌っている人が。
ドイツ連邦軍のこの人は、偶然口を開けていただけかもしれませんが、
在日米軍の中には真面目に紙を見ながら歌ってる人もいるのでびっくりです。

駐日しているうちに日本語が堪能になったとか?奥さんが日本人とか?
音楽家は耳がいいので歌詞くらいなら覚えて歌えてしまう人もいるのかも。

ついドイツ連邦軍の皆さんはこの場を楽しんでいるかしら?
と、わたしは目で追ってしまうのでした。

謹厳なドイツ人にはこういうのって肌に合わないんじゃないかと・・・。

あ、よかった。問題なく楽しんでおられるようです。

初めての日本での公演、彼らにとって、いい思い出になればいいですね。

あと、ベトナム人民軍参謀部儀礼団軍楽隊の皆さんは、この出演を糧として、
他の軍楽隊のステージパフォーマンスからいい刺激を受け、さらなる発展をして欲しいです。

アメリカ陸軍軍楽隊には何もいうことはございません。
どんなときでもその場の空気を読んで盛り上げてくれます。

というか、彼ら自身が本当に楽しんで音楽をやっているって感じ。

そのあと、一瞬会場が静かになり、「ひゅう〜〜〜〜」と音がしました。
会場の全楽隊が手をかざして上を見上げると、スクリーンでは、
そう、「打ち上げ花火」が。

花火が炸裂したあとは、最初に戻って「打ち上げ花火」を演奏します。

一番外側の列には海自と空自のカラーガード隊も加わっていました。
全部隊出演ということですが、流石に第302保安警務中隊はおりません。

いわゆるスイッチオフの姿は決して人前で見せないのが保安警務中隊なのです。
(でも正直ちょっと見たい気もする。彼らのそういう姿を)

「打ち上げ花火」を全員で演奏しながらフォーメーションを変えていきます。

その間32小節。
曲が終了した時には・・・・

ピースマークの顔が二つ、会場のどちらからも顔がちゃんと見えるように
向きを変えてできていましたとさ。

 ベトナム軍の左側のかたまりがピースくんの右目となります。
こんな大々的な人文字を描けるのも代々木体育館ならでは。

最初の日は音が遠くに聞こえるような気がして、
「やっぱり武道館の方が迫力があっていいなあ」と思ったものですが、
こういうことができる広さは効果の点で替え難いですし、武道館より
「いい席とそうでない席の格差が少ない」という公平さもあります。

なにより、今回人の出入りを管理しやすかった、と自衛隊が判断したら、
もしかしたら来年から会場はここになるかもしれません。

 

さて、このステージで皆がピースマークを作りだしたとき、
ステージには後ろに防衛大学校の儀仗隊が進入してきていました。

防大儀仗隊、ファンシードリルの始まりです。

 

 

続く。

 

 

波〜令和元年 自衛隊音楽まつり

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自衛隊音楽まつりの第三章が始まりました。
テーマは、

「ジェネレーションー世代を超えてー」

第一章の「インセプション」から「トラディション」「イクスパンション」
ときて、「最後にションの付くシリーズ」ということでこの選択です。

「開始」「伝統」「増大」ときての「世代」ですから、ここだけ状態を表すものではなく、
おそらくこの企画をした人は防大儀仗隊と自衛太鼓のステージに
どんな「ション」が当てはまるのか、少し苦労なさったのではないかと思われます。

自衛太鼓が「世代」というテーマを名付けられたわけはのちに判明しますが、
防大技状態の始まりに、世代を超えて受け継がれているあるものが登場しました。

先ほどのステージで演奏をしていたトランペット奏者が、

♫ドードソードミーミドーミ ソーソミードソーソソー

♫ドードソードミーミドーミ ソーソドーミソーソソー

と「起床ラッパ」のメロディを演奏しました。

「自衛隊の朝を知らせる起床ラッパ。
この起床ラッパは、自衛官と、まだ学生という組織の違いはあれど、
防衛大学校においても、同時刻、同内容にて構内になり渡ります。

そして、自衛官未満である彼ら、彼女らは、次の世代の国防を担うという
重要な使命のもと、幹部自衛官になるための育成期間を過ごしています。

世代を超えて受け継ぎ、発揮される若き力。
防衛大学校技状態によるファンシードリルです!」

なるほど、ジェネレーションと銘打ったので、ラッパを関連づけたのね。

さて、今回、公演と公演の間にも外で練習している様子、そして
最終日の早朝に会場でウォーミングアップしている様子を目撃し、
彼らが寸暇を惜しんで練習を行っていることを知りました。

本番で失敗なく見せる彼らのドリルが、不断の努力の上にあることに
いまさらながら感心させられたものです。

防衛大学校の生活は、防大漫画「あおざくら」に見るまでもなく、
大変ハードなものだということですが、彼らは主人公の近藤くんのように
課業と役職をこなしながら、課外活動でさらにこれほどの研鑽を積んでいるのです。

世の中に楽な道はいくらでもあるというのに、あえてこのような学生生活を選び、
自衛隊指揮官を目指している若い人たちがいるのだと知ることは、
国民のひとりとして感謝に絶えません。

さて、今回場所が従来の武道館より広くなったわけですが、
儀仗隊の人数は20名プラス打楽器隊と従来と同じです。

それではフォーメーションに変化があるのでしょうか。
そんなことも楽しみにしながら観覧しました。

 あまりに動きがシンクロしているせいで遠目にはわかりませんが、
今年もメンバーの中には女性隊員が混じっています。

最初の敬礼した状態から二列に分かれ、それがX字となる。
このフォーメーションは去年と同じではないかと思われます。
演技はいつも同じことをするのではなく、少しずつ変わるようですが、
基本的なやることはだいたい毎年定型にのっとっているようです。

袖に桜のマークが三つ付いているのは最上級生の4年です。
やはり3年4年とやっている者の練度が高いので、音楽まつりには
上級生がほとんどを占めるようですが、1年2年も出ないわけではないそうです。

二軍三軍ができるほどの隊員数もいないってことなんでしょうか。

X字がダイヤモンド型になり、さらにもう一度、と目まぐるしくチェンジします。

手袋をつけるのは素手だと擦れて痛いし手が傷つくから、ということですが、
素手より銃を滑らせて取り落とす確率が増えるとおもいます。
儀仗隊員は最初から手袋着用で、手袋が第二の皮膚のように思えるまで
練習を繰り返すのでしょう。

自衛隊音楽まつりのDVDを作成している会社のカメラマンでしょうか。
今回は会場が広いので、カメラも数台出撃させたかもしれません。

今年出演している学年は4年生が64期で、以下65、66、67期となります。
もっとも自衛官は防大の卒業年次ではなく、幹部候補生学校の卒業年次を公称するようですが。

横から見たら「<<」のようなフォーメーションは、去年はしなかった記憶があります。
これは、くの字の二列隊形が歩み寄ってすれ違う瞬間ですが、
ぶつかる直前に体を横にかわしてまた元の直線状の進路に戻るという、
簡単そうで実は結構難しいんじゃないかと思われる動きをしています。

この交差も新しい技だと思われます。

今年この陣形が加わったのは、会場が代々木になったからでしょう。
儀仗隊の演技は、客席の両側どちらから見ても正面が見えるように
その点を考慮してフォーメーションを組んでいました。

ウェーブのように動きを列の端から時差で行うことを、
儀仗隊ではどうやら「波」と呼んでいることがわかりました。

ちなみに、去年「HPがいつまでも鋭意工事中だった」と書いたのですが、
たった今見に行ったらリニューアルされていました。

防衛大学校儀仗隊HP

隊長の挨拶は音楽まつり以降にアップされたもののようです。

これによると、儀仗隊の創設は1955(昭和30)年。
その頃の儀仗隊員は、今の隊員たちのお爺さん世代にあたります。
親子二代で儀仗隊員、もしかしたら親子三代で、という例も
あったかもしれませんし、これからもあるかもしれません。

これぞ本当の「ジェネレーション」を超えて受け継がれる伝統です。

先日、自衛官の集まり(一佐以上海将補以下)に混じって話をしていたら、
その世代の少なくない自衛官のジュニアが防大やあるいはもう部隊にいて、

「あいつの息子はお父さんより出来がいい」

「わたしの息子もどうやらわたしより出世しそうです」

とかいう話で盛り上がりました。

先日練習艦隊帰国行事でお会いした新幹部の父上も自衛官でしたが、
家業でもないのに父親の働く背中を見て自分もやってみたいと思う例が
思っているより多いのにちょっと驚いたものです。

今回、比較的近かった二日目の貴賓席からの写真です。
本体はブレず、銃だけが動きのある画像が撮れてなかなか嬉しいです。

今回レンズは1日目は28−300mmでしたが、思ったより被写体が遠かったので、
二日目は70−300mm一本で(ニコン1の広角と両持ち)がんばりました。

ハイアマチュアの知人が盛んにレンズ沼に足をひっぱろうと、

「そろそろ400買いませんか」

と囁いてくるのですが、いくらなんでも、ねえ。
(でもそういえば総火演も400があればいいよね、とか考えて
中古の値段を調べてしまったわたしである)

銃を回すとき、完璧に手から銃が離れている瞬間があるんですよね。

防大儀仗隊ホームページによると、音楽まつり後、新体制での休日練習始めは雨だったそうです。
雨が降ったら銃を用いずに歩く練習を重点的に行う模様。

全員が横一列に並びました。

今年のパーカッションにも女性が4名いると思われます。
去年も女性が多かった記憶がありますが、ここまでではなかったかと。

そうそう、女性で思い出しましたが、ついにイージス艦の艦長に
女性が就任しましたね。

女性初のイージス艦長が就任

unknownさんが早々に教えてくれましたし、
先日、ある旧軍軍人の慰霊祭に行ったところ、そこにいた海自OBが、
このことを話題にしていてわたしもそれを聞きました。

「みょうこう」もこんなのにしなくては・・・!

今回、防大儀仗隊の公式ツィッターで、このように横一列で
左から右に、右から左に技を時差で繰り出していくウェーブ状態を
そのものずばりで「波」という技名がつけられていることを知りました。

銃を回す技が左から送られてくると、最右に立っている隊員は、敬礼しながら
左手で銃を回し続け、ぐるりと会場を見回します。

これにはいつも会場はどっと受けるのですが、今回、最終日に
わたしの横の招待席に座っていたアメリカ軍人らしい人が、
これを見ながら目を輝かせて喜んでいるのを目撃しました。

アナポリスやウェストポイントでこんな儀仗隊があるというのは
聞いたことがないので、純粋に珍しいのかもしれません。

ちなみに、防大で「校友活動」(でしたっけ)と呼ばれるところの
課外部活動を、アメリカのウェストポイントでは

「マッカーサータイム」

と呼ぶそうです。
ウェストポイントの見学しかしたことがないので海軍は知りません。

「波」で彼らが順番に銃床を床につけていくとき、その音が
だらららららっ!
と規則正しく聴こえてきてそれがまるでドラムのようです。

「波」のフィニッシュは銃の投げ上げ。
正面から見て左端の隊員が、銃を思いっきり高く投げ上げます。
投げ上げながらその場垂直飛び。

銃が落ちてくるのを待つ間の彼の姿勢をご覧ください。
ちゃんと手をグーに握っています。
さすがは自衛官。

しかもギリギリまで手を出さないという。

ちなみに去年はこの「波」の陣形は馬蹄形となっていました。
今年は広い会場なのでまっすぐ横一列です。

最後は二列に向かい合った隊員が互いに銃を投げ渡す中、
隊長がその中を歩いていく「蹴り渡せ」です。

多少のプログラムの変化はあっても、必ずこれは最後に行われます。

去年までわたしはこれを「銃くぐり」と勝手に名前をつけていましたが、
去年正式な(これが正式なのだとしたら)名称を教えてもらいました。

去年は「蹴り渡せ」の「蹴り」がいまいち理解できなかったのですが、
今年ははっきりとわかりました。
この写真を見ていただければお分かりのように、銃を投げる前に
必ず足を蹴るように前に出しているのです。

つまり「蹴り」、そしてその後「渡せ」です。

列員のなかで便宜的に使われてきた名称で、こんなふうに大々的に
外の人に言われることを想定していなかったのだと思われます。

上手い「渡せ」をする二人の時には、銃がこんなきれいに並びます。

隊長が通る寸前に一回、そして通り過ぎてからもう一回。
これで元の自分の銃になります。

去年コメントにいただいた話によると、この技はやはり決して簡単ではなく、
隊長は一回踏み出すと、戻ることができませんし、(そらそうだ)
たとえば手元が狂ったり隊長が何かでつまづいただけでも3キロ近い銃が
顔を直撃することになり、かなり緊張する技なのだそうです。

最後に行われるだけに一番の見せ場でもあります。

それから、防大HPで知ったことですが、4年生の「退団」は12月1日。
つまり音楽まつり最終日なのです。

隊長はもちろん、出演している最上級生はこの日の演技をもって
防衛大学校で最後の儀仗を終えることになります。

毎年のようにこの瞬間を撮っていますが、彼らの裡は
最後に迫った儀仗隊列員生活に対する感慨とともに、
悔いなく最後までやり遂げようという強い意志で満たされているのでしょう。

今回も完璧に全ての演技をミスなしで終えました。
最後は全員が銃を回しながらの敬礼。
隊長は抜刀して剣の敬礼です。

大太鼓は右手で敬礼。シンバルは右手が空かないので頭中。

隊長とドラムメジャーの二人だけが、鍔飾りのある帽子を着用できます。

指揮は田中優基学生、ドラムメジャーは東瀬滉一学生でした。
四年間お疲れ様でした。

防大儀仗隊のファンシードリル、今年も三回とも素晴らしい出来でした。

さて、「ジェネレーション」の2番目は自衛太鼓です。

 

 

続く。

炎輪(えんりん)〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

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防大儀仗隊の演奏が終わると、音楽まつり名物、自衛太鼓です。
ところでこのとき、アナウンスで英語の「自衛太鼓」のことを

「Japan Self-Defense Force Japanese ナントカ」

と言っていたのですが、「ナントカ」」は「ドラム」ではありませんでした。
聞き取れなかったので気になって仕方がないのですが、
どなたかここが聞き取れた方、ご教示いただければ幸いです。

参加はこれまでの音楽まつり史上最高となる15チーム、総勢250名。

去年の音楽まつりで、開場を待つ列の前に自衛太鼓のOBだったという方がいて、
その方から自衛太鼓の選抜方法や練習について色々とお聞きしたものですが、
そのときに一番驚いたのは、陸自の場合多くの駐屯地がチームを持っていて、
音楽まつりに出られるのは選抜された一部だけだということです。

しかし今年はフロア面積がほぼ二倍?くらいの代々木体育館になり、
出演できるチーム数が増えたので、毎年当落の知らせに一喜一憂する
「ボーダライン」のチームにとっては朗報となったことでしょう。

今年の自衛太鼓のテーマは「炎輪」(えんりん)。
文字通り炎のように激しく燃え上がる太鼓の輪を意味します。

自衛隊には実に多岐にわたる職業がありますが、このテーマを考える人と、
艦艇の名前(特に潜水艦)を考える人は大変だろうなといつも思います。

自分の考えた言葉が大々的に広報されることになるので、
どちらも大変やりがいがあるでしょうけれど。

早速最初の「炎輪」が中央に形成され、演舞が始まりました。

予行演習でわたしのとなりにいた女性たちは、初めてらしく、
大音響と振動ににびっくりしていましたが、わたしは、武道館での、
あの建物全体が震え上がるような、地鳴りのなかに体を埋めているような
異世界的体験を思うと、明らかに別物に感じられました。

ただ、こちらの会場での自衛太鼓が良くなかったというわけではありません。
広い会場を得て出演チームを増やした今回の自衛太鼓は、
もし今後こちらでの公演が継続されれば、さらなる進化を遂げるだろうという
予感を感じさせるに十分なものでした。

真ん中にできた一つの輪の周りに、両側に見えるように太鼓が並んで
「どどんど ・どどんど・ どんどんどん」
という連打から始まります。

出演各チームが工夫を凝らしたユニフォームで登場しますが、
これらの活動は自衛隊の任務とは全く関係がないので、
ユニフォームや太鼓などを調達する資金も自分たちで補っているはず。
(たまに地元の篤志家の寄付という例もあるかもしれませんが)

全体で叩いていると、観客席からはほとんど見えませんが、
写真を撮ってみると、こんなことしてたんだとわかることがあります。

連打の合間にバチをくるっと宙で回転させています。

演舞にはときどき全員による「やあー!」という掛け声が入ります。
自衛官というのは日頃から大きな声で話す訓練を受けているのに、
その声の大きなひとりひとりが腹の底から声を上げるのです。

現在女性自衛官は自衛官全体の10%だそうですが、自衛太鼓においても
ほぼ同じ割合で女性奏者の姿を見ることができます。

平常の勤務では後ろで小さくお団子にしている髪を、ステージでは
和風のまとめ髪にして櫛をあしらっているのが艶やかです。

こちらの女性自衛官も、ユニフォームに合わせて”くのいち”風ヘアで。

去年伺った話によると、チームが音楽まつりに選ばれても、万が一
一人の隊員が不祥事を起こしたら、即出場停止だそうです。
音楽まつりは「自衛太鼓の甲子園」である所以です。

最初のパートが終了すると、小太鼓の連打が続く中、
配置転換が行われます。

最初の輪の周りにあっという間に小太鼓で二つの輪が形成され、
三つの輪が並びました。

今年のテーマの「輪」という文字はここから生まれたのでしょう。

大太鼓はその両側に文字通り「ドラムライン」を形成します。

5つのチームごとに一つの輪が形成されている状態。
炎がたぎるような演舞を続けている三つの輪の中に
各チーム名を記したのぼりが立てられました。

「やあー!」

という全員の一声をもってこのパートが終了すると、
次からは恒例の各チームごとの演舞になります。

最初は熊本西特連太鼓。

熊本市にある西部方面特科連隊(野戦特科部隊)に所属するチームです。
西部方面隊唯一のFH-70を装備する部隊だとか。

同部隊は2018年の再編まで第8特科連隊といい、太鼓チームは
「熊本八特太鼓」という名称だったそうですが、部隊新編のため
「熊本西特連太鼓」と改称しました。

「八戸陣太鼓」

は陸上自衛隊八戸駐屯地に所属するチームで、音楽まつり常連の一つです。

八戸駐屯地は第4地対艦ミサイル連隊、対戦車ヘリ隊などが所属する
陸上自衛隊の駐屯地です。
海上自衛隊八戸基地とは滑走路を挟んで向かい合っています。

ここも常連チーム、朝霞振武太鼓。
練馬、朝霞市、和光市、新座市の全てにまたがる朝霞駐屯地の所属です。
陸自の観閲式はいつもここの訓練場で行われるのでご存知の方も多いでしょう。

観閲式のあとは必ず朝霞振武太鼓の演舞が披露されます。

千歳機甲太鼓は、千歳にある第11普通科連隊所属でです。
この駐屯地に太鼓が誕生したのは昭和62(1987)年のことで、
当時の師団長の発案だったということです。

HPを是非見ていただきたいのですが、さすが北海道のチーム、
雪と氷に囲まれてノースリーブで演奏という無茶をしまくっています。
(しかも夜まで・・)

わたしの記憶ではここ何年かで初めての出場だった気が。
山口維新太鼓は第17普通連隊に所属するチームです。

かつては陸軍の駐屯地だった同駐屯地の歴史を見ると
「日露戦争出兵」から始まっていてなかなか感慨深いです。

ところでこの維新太鼓を調べていて知ったのですが、
山口には航空自衛隊の「防府天陣太鼓」そしてなんと、海自の
「関門太鼓」なる海空太鼓チームが事実上存在していて、
この維新太鼓と三隊合同で演奏することもあるらしいのです。

海自に太鼓がない理由は「陸にいないから」だと思っていましたが、
考えたら陸上勤務のメンバーだっているわけだし、あってもおかしくないですね。

調べていたら、この海自関門太鼓は下関基地隊所属で、

オリジナル太鼓衣装「ドドーン」

という会社で衣装をおあつらえしていたことが判明しました。
「山口維新太鼓様」もここのお客様のようです。

太鼓着の背中には「雲海」と書かれています。

滝ヶ原雲海太鼓は富士総合火力演習、通称総火演でお馴染み
静岡県御殿場の駐屯地で、ここには防衛大臣直下の部隊、富士学校、
そして航空学校などと、東部方面隊隷下の東部方面航空隊などがあります。

駐屯地としての規模が大変大きいため、太鼓に参加する人数も多く、
それが常連チームであり続ける理由でしょう。

そういえば、音楽まつり出場全チームは、御殿場で本番前の総練習をする、
と去年のOB氏が言っていた記憶がありなす。
駐屯地が大規模なので、全部隊を収容する入れ物にも事欠かないのかもしれません。

「さつまかわうちえんじだいこ」と読んでしまいましたが、「川内」は
じつは「せんだい」だったことを調べて初めて知りました。
薩摩川内焔児太鼓の所属は陸上自衛隊川内駐屯地(鹿児島県薩摩川内)。

ところで画面の右上をご覧ください。
出番を待つ奏者たちは、皆四つん這いでじっと顔を伏せています。

陸自川内駐屯地は陸自第8施設大隊の根拠地なので、主要装備が
地雷原爆破装置だったりドーザだったりします。
おっと、あの機動支援橋もありまっせ。

船岡さくら太鼓が所属する宮城県柴田郡の船岡駐屯地も、
主要部隊は第二施設隊と後方支援の部隊だそうです。

グリーンとオレンジのユニフォームも毎年お馴染みの、
北富士天王太鼓。

北富士駐屯地は山梨県にあって、第1特科隊などが駐屯する部隊です。

背中に描かれた五重塔ははもちろんその名の通り善通寺のはず。
善通寺十五連太鼓。
香川県の善通寺駐屯地に駐屯する第15普通科連隊なので「十五連」です。

善通寺駐屯地は陸自の呉地方総監部みたいな感じで、
陸軍時代の建物が保存されており、一部は史料館として公開されています。

同駐屯地は陸軍時代から四国地方における最大・最重要駐屯地とされ、
さらには近い将来発生が予想される南海トラフ大地震の際の最重要地域でもあるので、
近い将来に施設の近代化や、拠点としての機能拡大を行う予定だそうです。

滝川しぶき太鼓は陸自滝川駐屯地の所属チームです。
ちなみにこれも「たきがわ」(それはクリステル)ではなく、
「たきかわ」と読まなくてはいけないそうです。

北海道の滝川という、よそ者にはどこにあるのか見当もつかないところから、
一年に一度の音楽まつりに選抜されて参加してきました。

滝川駐屯地には第10即応機動連隊が駐屯します。
即応機動連隊とはなんぞや?ということからしてよくわかりませんが、
多分、いろいろ装備を取り揃えていて、一つの駐屯地で全てが完結する
パッケージ的駐屯地なんだと思います。(違っていたらすみません)

長野県松本駐屯地の松本アルプス太鼓。
松本駐屯地は長野県に唯一存在する自衛隊です。
第13普通科連隊などが駐屯していて、広い範囲をここだけでカバーするため、
山岳の活動に強い精強部隊として知られているということです。

陸自ばかりの自衛太鼓の中で数少ない空自部隊太鼓、
航空自衛隊入間基地の入間修武太鼓、今年も出場です。

いつも小さい鐘や篳篥、踊りを加え軽妙な単独演舞を行うチーム。
必ずこんな女性が混じっているのも空自らしさとでも言いましょうか。

一昨年の航空祭の見学にいったので、今ならどこにあるかわかる。
(関西の人間には芦屋と言うと兵庫県芦屋しか思いつかない)
そう、福岡は遠賀郡芦屋基地の「太鼓隊」(こう呼ぶらしい)
芦屋祇園太鼓。

おっと、最後に空自の太鼓チームがふたつも続きましたね。

ここも女性が目立ち、さらに単独演舞に軽妙さと楽しさが感じられます。
太鼓にも一般人でもわかる「陸自らしさ」「空自らしさ」があるものです。

さて、単独演奏のトリを取るのは北海自衛太鼓と決まっています。
その理由は、北海自衛太鼓が自衛太鼓の「祖」だからです。

自衛太鼓発祥の歴史については去年詳しく書きましたので、
ご興味がおありの方はこちらをご覧ください。

自衛太鼓 彼らは如何にしてここまで来たか

良く見ると三人一組でまるで千手観音みたいなことをやっていました。

北海自衛太鼓は 陸自幌別駐屯地に所属する太鼓隊です。
幌別駐屯地は室蘭港にも近く、海自との関係もある陸自駐屯地で、
所在地は登別。

前にも書きましたが、自衛太鼓の出演チームは、ここに指導を受けるため
代表を一人送り込んで演技を体に叩き込み、原隊にそれを指導します。

1チームごとの単独演舞が終わったら、いよいよフィナーレです。
全太鼓チームが一体となって叩く太鼓の音は、今回
代々木体育館の遥か外で待っている者の耳にも届いてきました。

広いフロアにくまなく人員を配置しての総員演舞です。

武道館のように身体全体が太鼓の響きに包まれるような臨場感こそありませんが、
過去最大の参加人数による演舞は、太鼓という楽器の持つ力によって
プリミティブな感覚が揺さぶられるような感動と興奮を誘いました。

さて、第三章の「ジェネレーション」と自衛太鼓の関係付けについてです。
これだけたくさんの自衛官が出場するとなると、出演している年齢層は広く、

下は18歳、上は53歳。

今回の出演者の中には父子で参加している例もあるのだとか。
そう、これぞまさに「ジェネレーション」を超越して奏でる一つの音です。

太鼓指導は北海自衛太鼓のリーダー、高橋直保陸曹長。

高橋陸曹長はリーダーになって三年目となります。
自衛隊音楽まつりで自衛太鼓が演じる曲を作曲?するのは、
実はこの北海太鼓のリーダーの責務となっているのです。

そして、自分で作った曲を、音楽まつり参加チームに伝達し、
実技を指導し、音楽まつりの本番で自衛太鼓を成功させるまでが仕事です。

この責任ある北海太鼓リーダーの任務は、退官するその日まで続きます。

 

 

続く。

 

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