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いずも甲板〜2019年度観艦式中止に伴う一般公開

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朝9時からまず乗艦予定だった「あけぼの」の停泊している
船越岸壁のある一般公開会場に乗り込み、傘を差したり差さなかったりして
全ての見学を終えたので、今度はお馴染みの逸見岸壁です。

基本楽をしたいわたしはタクシーに乗ってしまいたかったのですが、
全く通らなかったので、てくてく京急田浦まで歩き、二駅乗って
もう一度メルキュールのある横須賀中央まで戻って、そこから
さらにヴェルニー公園横を歩いて横須賀基地まで行きました。

逸見岸壁には母港が呉である砕氷艦「しらせ」がいたようです。
「しらせ」といえば、今年の春頃、自衛隊が運用を止めるかも、
というニュースが流れましたね。

その理由は一にも二にも海上自衛隊の人手不足。

海自が運航し、研究者らの観測隊員を乗せ約5カ月かけて、
日本と南極を毎年往復しているのですが、乗組員は約180人、
護衛艦1隻分に匹敵する規模で、隊員の定員割れや、
南シナ海などの任務に対応するという考えによるものです。

しかも任務が任務だけに優秀な人材を必要とし、特に
艦長経験者を3〜4人乗艦させないといけません。

ただ、わたしはかつて「しらせ」の乗員自らが

「南極に行けるなんて海上自衛隊だけじゃないですか。
わたしはそのため海自に入ったようなものです」

と行っているのを聞いたことがあります。
人手不足に対応するために、海上自衛隊でしかできないことを
求めている人に対してまでその可能性を閉ざすことになり、
これは完全に本末転倒のような気がするのですが・・・・。

まあ、今のところ自衛隊法でも南極観測への自衛隊の協力は
明記されているので、これを改正するかから議論せねばならず、
今日明日の問題ではないわけですが、こんな法律改正だけは
さっさといつの間にか行われていた、ということがないように、
なんとか打開策を含め検討していただきたいものだと思います。

ヴェルニー公園沿いを歩いていくと、まず「いずも」が見えてきました。
対岸の公園からは、今日観艦式のチケットを持っていない人たちも
いつもより多くが集まって写真などを撮っているように見えます。

基地に入ると、いつもするように金属検査のゲートを潜り、
鞄の中を開けて中身を自衛官に見せ、さらにこの日の
チケットを見せて入場を行います。

自衛隊の金属探査ゲートは空港などよりゆるいらしく、
わたしは今まで止められたことはありません。

余談ですが、今回ローガン空港で、金属片を一片も身につけていないのに、
あの頭上で腕で菱形を作り足を開くポーズの探査機で、
なんと革製のサッシュベルトが引っ掛かり、身体検査で
女性係官に太腿から足の付け根までを触られるという辱めに遭いました。

こういう時の空港の女性職員は例外なくサディスティックで、
偉そうで居丈高で嫌な思いをさせられます。

もちろん我が自衛隊でゲート検査において嫌な思いをしたことは
ただの一度もありません。

もちろん最初に「いずも」から見学することにしました。
左のテントに列ができていますが、これは何かというと、
確かアンケートに答えるとかいうコーナーだったと思います。

なぜ自衛隊のアンケートにこれだけ並んでいたのか謎ですが、
もしかしたら入隊志望の人たちがたまたま団体でいたのかもしれません。

「いずも」の舷門には当直の隊員たちが並んで
∠( ̄^ ̄)で一人ひとりをお迎えしてくれます。

この段階ですでに気付いた方もおられると思いますが、
「いずも」には女性乗員が大変目立ちました。

就役時には自衛隊初となる衛生士(准看と臨床検査技師の資格あり)
として女性が乗り込んだ大型艦だけあって、
女性隊員のための区画も充実させていると聞きました。

「いずも」に乗ると最初にして今回は最後にもなるイベントは
艦載機用エレベーターで甲板に上がることです。

今エレベーターは甲板階にあり、乗る人たちが待っている状態。

エレベーターが降りてきました。

これから乗る人も、乗っている人も、そのほとんどが
スマホを構え動画を撮っているという・・・・・。

二回前の観艦式ではまだ見られなかった光景です。

昔「かが」で見学者がエレベーターの隅を覗き込んで下に落ち、
当時の艦長らが刑事責任を問われるという不条理な話がありましたが、
それから以降、ヘリ搭載型護衛艦の見学の時にはエレベーターの周囲に
ご覧のようにネットを張り、端に近づけないようにしています。

その二回前の観艦式でわたしは「ひゅうが」に乗りましたが、
その時にはこのようなネットは貼られていなかったと記憶します。

雨が降るとエレベーターのウェルにはこんなふうに
激しく雨水が落ちてくることを知りました。

大雨の時にはパレットは使わないと思いますが、
それにしてもこの水はどこに溜まりどこから出ていくのでしょう。

エレベーターのパレットは四隅に4本まとめたワイヤーで吊られ、
上げ下ろしがされています。

甲板階にいるこの海曹がおそらく手動でエレベーターを動かしています。
稼働中は何があっても対処できるように受話器を耳に当てて。

甲板階に到着〜。
アナウンスで傘を差さないようにと注意されていましたが、
言われずともこの頃には傘が必要ない状態になっていました。

その時、「いずも」左舷にYO40、つまり油船40号がいるのを発見。
今から燃料を補給する作業を行うようです。

油船40号は、まず艦隊から垂直にまっすぐロープを引いていきます。

そして半円を描くようにロープを引っ張って艦首に向かいます。

給油作業の際には油が海面にこぼれることがあっても
それが広がっていくことがないように柵を貼りますが、
油船が自分でこんなふうに準備をするのを初めて見ました。

これをオイルフェンスといいますが、「いずも」では一度、
ヘリコプターの昇降機の油圧系と思われる故障で、停泊中に
油圧作動油が海上に流出するという事故が起こったことがあります。

この時には事故発覚後にオイルフェンスを張って拡散を防ぎ、
吸着マットで漏れ出した油の大部分を回収したそうです。

「いずも」の見学は甲板とハンガーデッキだけでしたので、
それだけではサービスが足りないと思ったのか、
「いずも」ではホースを持った耐火スーツマンが登場。

八戸の航空基地で見たので知っているのですが、このスーツ、
靴とパンツが一体化していて、非常時には足を突っ込み、
そのままパンツをグイッと引き上げて瞬時に着用が可能です。

カメラを向けるとポーズをとってくれました。
自衛艦旗をバックに決まってるぜい。

思いっきり脚を開くのはホースを持つ時の基本姿勢?

自衛艦では火災が起こった時全員が対処できるように、
乗員は須く消火訓練を受けることになっています。

また機関科の第3分隊に配置されている応急士たちの
いざという時の全滅を避けるために、応急待機所は
艦体の前、中央、後部と三箇所に分散させているそうです。

彼の横にずらりと並んでいるのは広い甲板を持つ
「いずも」ならではの艦載型消防車のようですね。

「いずも」甲板後部からはこの日公開されていた護衛艦たちが
このように一挙に望めて壮観です。

手前から話題の「あさひ」「たかなみ」「はるさめ」。

岸壁を挟んで艦首をこちらに向けているのは

「むらさめ」「こんごう」「あたご」

です。
岸壁のこちらと向こうで艦首を向けていたりいなかったりは、
おそらく観客サービスではないかと思うのですがどうでしょう。

護衛艦の見学もあることだし、と退艦することにしました。
お?もしかしてこの一段はアメリカ海軍の皆さん?

今日見学をしているってことはチケットを持っていたのよね。

黄色い車、片方は3人乗り。
ヘリをトウイングする車?にしては大きいような。

そこに艦長らしき自衛官が海曹に案内されるように出てきました。
一緒にいた方が、

「話しかけてみます?」

「いや・・・なんかお忙しそうですし」

「ありあけ」の艦長のように皆とお話しするために立ってくれたら
近づいてみようと様子を窺っていたら、そのまま艦橋に入ってしまいました。

「通過しただけだったんですね」

「そもそも『いずも』の艦長かどうかもわかりませんよね」

さて、というわけであまり待つこともなく昇降機に乗ります。 

今回も受話器を耳に当てながら昇降機を作動させていました。

ハンガーデッキも基本的に観艦式の時にはすっきりと片付いていて、
展示用のヘリが一機、そして荷物の積み下ろしに使う
「カーゴスリング」というものが展示されているだけです。

このヘリ、なぜ尻尾がない?と思ったのですが、
よく見ると向こう側にたたんでありました。

究極の省スペース。

荷物の積み下ろしなどを行う艦体横のハッチから外を眺めたところ。

退艦です。
乗艦側では相変わらずお迎えの敬礼をしている自衛官たちがいますが、
女性自衛官が一気にいなくなり、全員男性に変わっていました。


ところでKさんの写真で潜水艦のブリッジに立っていた乗員の敬礼が
どうも陸自っぽい?というcoralさんのご指摘がありましたが、
「いずも」舷門での敬礼はご覧のようにお手本のような海軍式です。

ヘリの尻尾を極限までたたむように、海自の敬礼は特に艦内では
省スペース型の、肘をたたんだ形になるようです。

さて、というわけで「いずも」を下艦しました。
なんと、こんなところに見学者が近寄らないように
見張りに立たされている乗員がいました。

油船はオイルフェンスを張り終わり、給油作業中です。

さて、それでは向こうの岸壁の護衛艦群を見にいきますか。

 

続く。



イージス艦とシンガポール海軍「フォーミダブル」〜2019年度観艦式中止に伴う一般公開

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海上自衛隊観艦式中止に伴う艦艇一般公開の様子をお話ししています。

ところで、このシリーズでわたしが「外国艦艇」についてアップした日、
滅多にブログアクセスランキングなど確認しないわたしが、たまたま
数字に目を止めたところ、289万2953存在するgooブログ中、
いつもは大体100位前後をウロウロしているアクセス順位が、
いきなり大躍進して17位になっていました。

こういう現象が起きるのは、必ず過去にあげたテーマが話題になったり、
映画やテレビドラマで取り上げられたりした時なのですが、
この日バズったのは一般公開について書いたページでわけがわかりません。

思い当たるのは、「外国艦艇」という言葉と、それから文中、
中国海軍を「人民海軍」と記し、また軍旗にある「八一」という文字を書いたことです。

検索ワードに「日本小人潜水艦」とどうも日本語でなさそうなのが
1件だけとはいえ混じっていたし、これってもしかして、
某国当局のネット検索に引っかかったのか・・・・・・?

それにしても一つの記事に一日で4千回を超えるアクセスがあるのは
なんだか不気味に思えて仕方ありません。

おまけに、その翌日(昨日ですね)はアクセスランキングこそ
30位台になっていたものの、くだんの「外国艦艇」のページは
アクセス数5623と、なんと前日よりバズっているではないですか。

怖いよ怖いよ(棒)

さて、「いずも」の見学を終え、次はその奥の突堤で全て公開されている
護衛艦群を見に行くことにしました。

岸壁に近い方から

「たかなみ」「はるさめ」「あさひ」

ほぼ同じ大きさの駆逐艦群が係留されています。

皆の注目となりそうな新鋭艦「あさひ」にはまだ
この頃にはあまり人の姿はないようでした。

反対側の岸壁には「むらさめ」と「こんごう」「あたご」。
この3隻の艨艟たちがもう壮観でした。

何がって、艦首をこちらに向けたイージス艦と駆逐艦、
こんな角度から一気に3隻並んでいる光景など、こんな時でないと
一般人には目にすることもまずないゴージャスなこの眺め。

「むらさめ」と「こんごう」が舳先を並べているのも素敵ですが、

これですよこれ。イージス艦のツーショット。

金剛家と愛宕家、名門の長女である御令嬢がその容姿を
競い合うように並んでいる様子は来場者の注目を集め、

「おお!この眺め最高!」

「俺、こういうの好き」

などといいながら熱心にファインダーを覗く人たちで
桟橋が空く瞬間がなかったくらいです。

間近で真正面から護衛艦を見るチャンスはありそうでありません。
ところでイージス艦「こんごう」は、2007年、平成16年度予算で搭載された
イージスBMD 3.6システムでのミサイル迎撃実験をカウアイ島沖で行いました。

それはさておき、それよりわたしが注目せずにいられなかったのが、

「Stellar Kiji」(ステラー・キジ)


というこの時の実験名です。
アメリカのナーバルインスティチュートのサイト内にイージスシステムの父、
アラン・ヒックス少将についての記事があり、そこにはこの実験について、

Stellar Kijiのテストイベントで、日本の誘導ミサイル駆逐艦Kongoは、
Aegis BMD兵器システムでPMRFから発射された中距離弾道ミサイルを正常に検出、
追跡、および大気圏外の迎撃による破壊を成功させました。

JFTM-1は、日本の護衛艦が弾道ミサイルを発射した最初のイベントでした。 
これは、日米間の成長し続ける協力関係における大きなマイルストーンとなりました。

と記述されています。

2008年には

「ちょうかい」が「JFTMー2 ステラー・ハヤブサ」、
「みょうこう」が「JFTM-3 ステラー・ライチョウ」、
2010年には

「きりしま」が「JFTM-4 ステラー・タカ」を
いずれも成功させています。

探してみたら、「こんごう」のステラー・キジ作戦の映像がありました。

Japan Aegis BMD (JFTM-1) Stellar Kiji Quicklook

発射のとき、「ファイアー」とも言っていますが、最後はやはり「テー!」です。
最後には「ステラー・キジ」のペナントが映し出されています。

イージスシステムについてご存知でない方、ぜひご覧ください。
この時の「こんごう」乗員、さぞ燃えただろうなあ・・・・・。

 

本当かどうか正確なところは知りませんが、イージス艦の乗員には
優秀でないとなれないと聞いたことがあります。

艦長が他の護衛艦と違い一佐であることもそれを裏付けていますが、
加えて「身元が確かな隊員」が優先される配置かもしれません。

それを思うのは、かつてこの「こんごう」は、改修の際

イージス艦情報漏洩問題

で米海軍の信用を失い、一時的に改修に必要なソフトウェア、
文書等の供給を停止されたという事件があったからです。

外国人と結婚している隊員はまず確実に乗れなさそう・・・。

さて、隣の岸壁の向こう側には、今回こちら側(逸見)で唯一、
岸壁に係留してその姿を見せてくれていたシンガポール海軍のフリゲート、

「フォーミダブル」(RSS 68 Formidable)

が衆目を集めていました。

「フォーミダブル」級フリゲートのネームシップで、艦体はフランス製。
フランス海軍の軍艦を建造する

CCNS(Direction des Constructions Navales Services)

という企業の工廠で2007年に就役しました。

ご覧になればお分かりのように、ステルス仕様です。
一緒にいた方が、艦体の表面を見て、凸凹すぎる、とディスるので、

「いやこれは痩せ馬仕様といいまして」

とシンガポール海軍にはなんの恩義もないのですが、一生懸命
技術が不足しているからなったわけではない、これは艦体の軽量化と
ご予算の関係で云々と説明して差し上げたのですが、それでもガンとして

「いや、日本の護衛艦と比べると酷すぎますよ」

とにべもなく言い切るので、悲しくなりました。

痩せ馬が目立つのは、艦体がステルス仕様で、面が多いからで、
これはもう如何ともし難い宿命なんではないかという気がします。

この写真は向かいの「ちょうかい」の甲板から撮ったものですが、
ちょっと新鮮だったのは艦体にくり抜かれた積荷用の大きな窓、
どうもここは「蓋がない」ように見えるのです。

蓋の代わりに御簾のような網戸のようなスクリーンで閉ざされています。
うーん、なんたる画期的な軍艦デザイン。

これは虫除けとかの目的ではなく、レーダー波を吸収する役割があります。

「艦体とマストや主砲の色が微妙に違いますね」

「二色展開なんですかね」

わざとやっているとは思えない微妙な色違いで、同じ灰色でも
青っぽいところとそうでないところが分かれているという・・。

 

シンガポール海軍は、1971年にイギリス軍が撤退した後に編成されたので
まだ歴史は浅いですが、何しろ国が金持ちなので、規模は小さいながら
近代的な装備を備えた少数精鋭です。

職業軍人もいますが、全部で2万人くらい。
そのため国民には2年間の徴兵義務があります。

小さな海軍なので大型の戦艦やもちろん空母は持たず、
このフリゲートが戦闘艦としては最大級になります。

つまり、「フォーミダブル」は星海軍の主戦力ってことですね。

見れば見るほど余計なものが一切外に出ていない断捨離仕様。
家族が床に座ってご飯を食べている家を思い浮かべてしまいます。

それもこれも、ステルス性向上を徹底しているため、艤装を全て
艦内に収容してしまっている上、先ほどの開口部のスクリーンのように
徹底してレーダー波を吸収させる作りになっているのです。

舷側の部分が煮込む前のにんじんみたいに面取りされているのもステルス目的ですし、
なんなら錨も係留装置も、艦内にきれいさっぱり仕舞い込んでしまいます。

もしかしたらこの謎の二色展開も、ステルス的に意味があるのかも。

主砲は見慣れない形ですが、これもオトーメララ製品で、
ステルス型砲塔を持つ「スーパーラピッド」という砲です。

艦橋構造物の上に乗っているのは多機能レーダー。

これもフランスのタレス社の「ヘラクレス」というフェーズドアレイで、
ピラミッドのような形のレドームの中にアンテナが内蔵されており
これが中で毎分60回転して全周を捜索する仕組みです。

おお、乗員が格納庫に姿を見せました。
どこの国も海軍軍人というのはスマートな人が多いですね。

後ろにある在艦ボードによると、艦長、副長以下、
幹部はほとんどが在籍しています。

階級は分かりませんが、この二人も士官っぽい。

絶対これ、「ちょうかい」の上の見学者を見て喋ってるよね。

ちなみに左の人はライナーさんとおっしゃいます。

シンガポール海軍の海軍旗は、国旗に激似しています。

Flag of Singapore.svg

ちなみにこれが国旗。
下半分が白です。
軍艦旗は白い部分に赤い星があるわけですね。

中から副長(根拠はないけど多分)が出てきました。
シンガポールという国は中華系が74%でほとんどを占めますが、
複合民族国家なので、他民族が共生して居ます。

この副長(多分)は全体の7.9パーセントを占めるインド系のようです。

後ろで作業をしている水兵さんですが、なんか自衛隊にいそうな顔ですよね。

目を転じると、迎賓艦(厳密には特務艇)「はしだて」がそこに。

わたしが一度乗せていただいたことのあるこの「はしだて」ですが、
調べたら1999年11月に就役していたことがわかりました。

つまり、1999年10月25日生まれのMKとほぼ同年齢なのです。
早いもので、我が愚息ももうすぐ20歳となりますが、
人生これからの彼と違い、船の20歳といえばもうご老体。

過去の特務艇「ゆうちどり」「はやぶさ」「ひよどり」、
いずれも20年も経たないうちに引退していることから、
「はしだて」もそろそろ、という時期だと思うのですが、
今の自衛隊は迎賓艦を新調している場合ではない・・・かも。

 

 

続く。

 

 

 

 

「はるさめ」「たかなみ」そして「あさひ」〜海自観艦式中止に伴う一般公開

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さて、観艦式中止に伴い行われた一般公開の見学ご報告、最終回です。

観艦式の後、有本香さんの出演する「虎ノ門ニュース」に出演していた
佐藤正久議員が、この一般公開について、中止になったものの
たいへんな盛況であったと報告しておられました。

有本さんは実施されていたら「ちょうかい」に乗っていたそうです。
蛇足ながらわたしは予行演習には観閲付属部隊の「しもきた」、
そして本番と同じ「あけぼの」の券を持っていました。

今回青少年の応募に対しては優先的に枠を作っていたため、
ギリギリまで券が出てきませんでしたが、いつものように
ただで手に入れた乗艦券をオークションにかけて商売する輩が
いたのかどうか、今奥で調べてみたら、4件だけありました。

いずれも10月7〜8日の日付で、「むらさめ」「しもきた」「さみだれ」
の乗艦券に5万円の即決価格で出品したようですが、
なんとこれを実際に買った人がいた模様。

この頃にはもう台風は確実に来るということになってたはずなのに・・。

この日、3〜5万円で予行のチケットを買った人(少なくとも4人)は
せめてそのチケットで一般公開に見学に来ることができたでしょうか。

イージス艦「あたご」の正面からさらに向こうにも、
横須賀から出航する予定だった護衛艦が係留されています。

船越見学のあとここまでとほで来たため、かなり疲れていましたが、
「ちょうかい」の向こうの「フォーミダブル」を近くで見たかったので、
行ってみることにしました。

 

「ちょうかい」には前回の観艦式の時に乗っているし、もし一人だったら
外から写真だけ撮って済ませていたかもしれませんが、残念ながら?
この時にはやはりカメラ持ちの連れがいて、

「どうします?」

「やめときますか?」

「でも、フォーミダブルの写真を甲板から撮れますよ」

「あーそうですよね。じゃ行きましょう」

という同調圧力かつ自縄自縛的会話の結果、やめることもできず、
粛々と「ちょうかい」のラッタルを上っていきました。

「フォーミダブル」の写真を撮って甲板をぐるっと周り、
隣の「はたかぜ」に流れていく仕組みです。

イージス艦というのは甲板のほとんどをVLSのセルが占めるので、
前回の観艦式で乗った時もほんとうに居場所がなくて大変だった記憶があります。

あのとき後半からは左舷ウィングに陣取って艦橋で入港作業を見届け、終わってから
ウィングに出てきた「こんごう」艦長の写真を撮らせてもらいました。

昨日ご紹介したミサイル迎撃実験、「ステラー・ハヤブサ」では、
まさにここにあるセルから迎撃のためのVLSが発射されたわけです。

Japan Aegis BMD (JFTM-2) Stellar Hayabusa, B-Roll

悲しくなるくらいいいねの少ない動画ですが、それはともかく、
この動画に写っているVLSが射出されているセルとここが同じ場所だなんて、
ちょっと不思議な気がするのはわたしだけ?

「こんごう」型イージス艦のVLSセルは前甲板に29、
後ろに61、計90筒配置されています。

「ちょうかい」も内部の見学ができたのですが、
「フォーミダブル」の写真を撮るために上がってきたようなものなので、
艦橋に続く列の外側を通り抜けました。

ここで、一人ならまっすぐ通り抜けて出てきてしまうところですが、

「降りますか。はたかぜよく知っているし」

「でも、はたかぜが見られるのって最後かもしれませんよ」

「あーそうですね。じゃ行きましょう」

という同調圧力かつ自縄自縛的会話の結果、やめることもできず、
粛々と「はたかぜ」へのラッタルをわたっていきました。

手前から「あたご」「こんごう」「むらさめ」の甲板。

「はたかぜ」というと、去年の海上保安庁での観艦式で、
白にブルーの巡視船や小さな巡視艇が一頻り続いた後、
現れたその艦体の大きさと威容に、胸を震わせたことを思い出します。

ところが、あのときあんなにも巨大に見えた「はたかぜ」が、
今回イージス艦と比べるとむしろ華奢で小さ句さえ見えるのに驚愕しました。

1986年に就役して今年で33年目の老艦である「はたかぜ」は
2020年に「まや」が就役すると同時に練習艦に種別変更され、
呉に行くことになっています。

「はたかぜに乗れるのは最後」

という想像は当たっているかもしれません。

「はたかぜ」とともに観艦式で祝砲を撃っていた「しまかぜ」は、
観艦式の後の15日と16日、このとなりの「ちょうかい」、
そしてカナダ海軍の「オタワ」\(^o^)/とともに、
関東南方海空域において

日加共同訓練(KAEDEX19-2)

をに参加し、対潜戦訓練、対水上訓練射撃等を実施しました。

 

 

さて、そんなこんなであっというまに時間は1時をまわりました。
朝から歩きっぱなしで疲れてきたうえ、お腹が空いてきています。

正直「むらさめ」「こんごう」「あたご」を見るだけの気力はすでに残されておらず、
もし一人だったらここで帰っていたかもしれませんが、同行者との

「お腹空きましたね」

「足も痛くなってきました」

「でもやっぱり『あさひ』は見ておきたいですね」

「そうですよねー」

という同調圧力かつ自縄自縛的会話の結果、やめることもできず、
わたしは粛々と「たかなみ」のラッタルを上っていきました。

「あさひ」を見に行くのに艦上を通過させてもらったような感じです。
「たかなみ」さんと「はるさめ」さんには大変失礼なことをしてしまいましたが、
とにかく疲れていたのだとご理解ください<(_ _)>

「はるさめ」の溺者救助用人形をこんなところに発見。
やっぱり顔(しかもかなり上手いっぽい)が書いてある・・。

昼過ぎということで来場者が増え、舷側に沿って歩く見学者の列は
他の艦艇よりも進む速度が遅くなっています。

見学者はやはり若い男性が多いようです。

「はるさめ」舷側を歩いていると、発光信号のデモが始まるとアナウンスがありました。

前の列に従って黙々と歩くだけの時間なので、
このような広報イベントは皆が目にすることができますね。

「あさひ」の艦橋です。

そういえば、わたし建造中の「あさひ」の甲板を歩いたことがあります。
それがどうしたという話ですが、体験航海の護衛艦「あきづき」が佐世保に入港したとき、
なぜか「あきづき」は岸壁でなく「あさひ」に接舷し、中を通って下艦したので、
おかげで初めて「あさひ」に乗艦した一般人になれたというわけです。



ところで我が国が「あさひ」という名前の護衛艦を持つのは初めてではありません。

USS Amick (DE-168).jpg「あさひ」

連合国占領下、日本に海上自衛隊の前身である海上警備隊が創設された際、
アメリカ海軍から周辺警備のために貸与された艦艇のうち、

キャノン級護衛駆逐艦

USS 「アミック」(Amick DE-168)

が「あさひ」型護衛艦「あさひ」となり、

 USS「アサートン」(AthertonDE-169)

が二番艦の護衛艦「はつひ」

として就役しています。

ちなみに「あさひ」も「はつひ」も自衛隊のあとは
フィリピン海軍に譲渡され、「あさひ」など、なんと2018年まで

「ラジャ・フマボン」BRP Rajah Humabon (FF-11)

として元気で働いていたそうです。

BRP Rajah Humabon (PF 11).jpgラジャ・フマボン

就役が1943年なので、なんと75年間現役だったことになります。
2017年には「きりさめ」と親善訓練も行ったそうです。

きっと「きりさめ」の乗員も、なんというか、爺ちゃんを見るような
温かい目でフマボンの戦術運動を見守ったんだろうなあ。

冗談抜きで、彼らのお爺さん世代が海上警備隊時代乗ってた艦なんだし。

「あさひ」は5000トン型の「あきづき」型を基本としているため、
「たかなみ」「はるさめ」と並んでいても明らかに艦体の大きさが際立ちます。

ここでそれを検証してみましょう。

海上自衛隊の汎用護衛艦整備の歴史的にいうと、「はるさめ」は第二世代で、
4,400トン型、その後4,600トン型に増やしたのが「たかなみ」。
さらにそれから5,000トン型に大きくしたのが「あきづき」型であり、
「あさひ」はこの「あきづき」型と同じということになります。

左から第3世代、第2世代、そして第5世代の三種類。
少しずつ大きさが違う護衛艦が並んでいて大きさ比べができるという趣向です。

・・・って、そこまで考えて並べたのではないと思いますが。

 

 

やっぱり最終回にならなかったのでつづく。

 

 

「あさひ」のスマホ収納庫〜2019年度観艦式中止に伴う一般公開

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天皇陛下の即位の礼、みなさまご覧になりましたでしょうか。

朝から降り続いた陰鬱な雨が、式典の始まる少し前から晴れたことに、
人智を超えた神秘的な力を感じた方は多かったでしょう。

巷にこれを「天皇晴れ」と呼ぶ向きもあるそうですが、
わたしはやはり天照大神の御意志を思わずにいられません。

このような奇跡のような存在である象徴を戴く国に生まれたことを
こころから嬉しく、有り難く感じさせてくれた一日でした。

 

さて、今日こそは最終回の観艦式中止に伴う艦艇一般公開シリーズです。
9時前から船越に始まり逸見の基地を4時間休みなしで歩き、
さすがのわたしも疲労を覚えつつ最後に乗艦した三隻の護衛艦。

「はるさめ」の甲板を舷側に沿ってできた列に並びながら歩いていたとき、
となりの「あさひ」艦橋の窓に人影を認めました。

一人の海曹さんが見学客の現在状況を確認しているようです。
理由はすぐにわかりました。

なかなか前に進まない列に粛々と並ぶ多くの乗艦客に向けて、
「あさひ」艦橋ではウィングからパフォーマンスを行うことにしたようです。

先ほど来客状況を確認していたのとは違う海曹がMCを行い、
「総員起こし」に始まるラッパの展示を行いました。

終わると、

「みなさま拍手をお願いします」

というコールに対し、並びながら皆素直に拍手を送ります。
続いて「食事」のラッパに続き、アナウンスの人が

「それでは陸自の食事のラッパをお聴きください」

予定になかったのか、ラッパ手は一瞬え?とためらっておられましたが、

「どっどどどっど みっみみみっみ どーみどーみそっそっそー」

「みなさん、こちらはコマーシャルで聴かれたことありますよね。
そう、正露丸です!」(商品名バッチリ)

正露丸はもともと日露戦争のとき「征露丸」(ロシア征伐のお供という意味)
として売り出されたもの、ということをこの海曹くんは知ってるかな?

続いて、「課業はじめ」、そして、ラッパ的に難しいらしく、
時々失敗してしまうこともある「出航ラッパ」が演奏されました。

そのとたん、後ろに並んでいた女の人が、

「あ、この人上手い」

とわたしが思ったのと同時に言いました。

「ドミソドー、ドミソドー、ドミソドッミソッソソー」

という音形はゆっくり吹けばたぶんなんでもないのですが、
出航のシーンにちんたら吹いていてはいけない!と気が逸るのか、
たいていの人は急ぎ過ぎて失敗しているようにお見受けします。

【出港らっぱ10連発】いろんな護衛艦の「♬出港よ~い!!」集めてみた

ちょうど面白い(そして画質がいい)出航ラッパ特集を見つけました。
初ラッパなのか超失敗して動画を撮っている人が笑ってしまっている艦あり。(-人-)

「あさひ」のこの上手なラッパ手さんはベテランの余裕でしたが、
誰でも最初に吹く出航ラッパは、とにかく緊張するものとお察しします。

ところでこのビデオで一番上手いの、みなさんはどの艦だと思われますか?

わたしは決して速すぎず、最初のドミソが潰れず、最後のソーに伸びがある
「かしま」を推します。

「ふゆづき」は最後の「どみそどっみそっそそ〜〜」のあとの「ド」が
わざとなのか間違いだったのかで評価が分かれるところです。

 

「あさひ」の舷門にたどりつきました。
なぜ列がなかなか進まないかというと、ラッタルは安全上一人しか乗れず、
前の人が渡り切るまで待たなくてはいけないからでした。

就役してまだ1年半の「あさひ」の看板は木肌も新しい感じです。

新鋭艦だけに、舷門脇には電光掲示板があるという充実ぶり。
ちょうど「ださい!」となっていますが、狙ったわけではなく偶然ですよ?

近接武器システムは「むらさめ」以降一貫してファランクス。
本体の右側に見えているレンズ状のものは赤外線センサーです。

「あさひ」甲板から「はるさめ」甲板に並ぶ人たちを見たところ。
こちらより混雑しているように見えますがその通りで、「はるさめ」でも
艦内見学を実施していたため、艦橋に上る列の外側に
通過して「あさひ」に行きたい人の列ができていたからです。

 

「あさひ」の主砲はアメリカ海軍製のMk.45 5インチ砲。

自衛隊では「あたご」以降の汎用DD、つまり「あきづき」型、
この「あさひ」型(『あさひ』『しらぬい』)、そして
現在公試試験中の「まや」型にこのMod4を搭載します。

「あさひ」艦首部分。

せっかくここまで来たので、中も見学することにしました。
艦橋やその他の見学はできませんが、当たり障りのなさそうな食堂の階は公開しています。

現在はまだ2代目で余白の方が多い歴代艦長の名簿、そしてまだ艦歴は始まったばかり。

平成30年3月1日 第二護衛艦隊 第二護衛隊に編入

令和元年5月17日〜6月3日 日米豪韓共同訓練(PV19-1)

令和元年6月19日〜7月2日 G20大阪サミット支援

これだけです。

まだまだ廊下もいたるところに巡らされたパイプの類もピカピカです。

艦内神社の神棚も白木も芳しい状態ですが、写真に撮ってみると・・・

「あさひ」には御祭神がまだ座しておりません。

祖神のないままの神棚というのは初めて見たわけですが、
特に御祭神を定めず鏡を御神体としているとか・・・・?

休憩所の案内プレートは・・・大正モダニズム?

食堂を通り抜けるのになぜか列が全く動かず、時間がかかるので、
何があるのだろうと思ったのですが、本当にただみんな
中を通り抜けているだけでした。

休憩所として開放していたらしく、テーブルには何人かがすわっています。

ロッキードマーチン社では、弊社VLSをお買い上げくださった皆様に
もれなくVLS使用中の想像画を豪華額縁入りでプレゼントしております。

MK 41 Vertical Launching System (VLS)

ついでにRM社のVLSイメージビデオをご覧ください。

新鋭艦ならではの最新機器を発見しました。
ダイヤルキー付きのスマホ収納ケースです。

任務中スマホを持てないことが若い人の募集の支障になる、
という自衛艦勤務ですが、こんなふうにチェックしやすくなっていれば大丈夫。

・・・・かな。

格納庫には艦尾に揚げるための大きな自衛艦旗が
「撮影スポット」となっていました。

そこに現れたのが特別警備隊らしき隊員の皆さん。
警備と臨検などを行う特殊部隊なので銃を携えています。

観艦式が実施されていたら、特に旗艦には重点配備されていたのでしょう。

「あさひ」では、インスタ用ボード(手作り)を投入。
船務長がシャッターを押してあげています。

 そして、護衛艦艦上で入隊を決めたらしい若者が。
この日艦上でどれくらいの申し込みがあったのでしょうか。

この公開がすこしでもたくさんの募集につながったことを祈るばかりです。

「あさひ」からは「はるさめ」「たかなみ」の後甲板を通って退出します。

「はるさめ」格納庫内に飾ってあったバナー。
DSPEとは、

派遣海賊対処行動水上部隊 (DSPE)
Deployment Surface Force Counter Piracy Enforcement

のことで、「はるさめ」が参加したのは2009、2012、
そして一番最近では2014年でした。

ソマリアの海賊対処なので、髑髏をあしらったんですね。

ここにもインスタボードをスタンバイしている隊員さんがいます。
春雨さんボードも、ある種の人々に向けての広報効果を期してのことでしょうか。

ところでこの画面の左に写っている女性が持っているバッグは、
この日の「観艦式土産」ですが、これが非常にセンスがよろしくてですね。

このようなデザインの布巾でした。
船越と逸見、どちらでももらいましたが、いくつあっても困らないので大歓迎。

 その他、訪問した艦艇ではパンフレットと「艦艇カード」を配っていましたし、
「はるさめ」では、ファイルケースを全員にプレゼント中。

一人一つづつということなので、二種類のうち最初潜水艦柄を選んだのですが、
よく考えたら同じのを持っていたので、取り替えてもらおうと、

「すみません、やっぱりUS-2に変えてください」

と持っていくと、

「いいですよ、返さなくて。どっちもお持ちください」

と結局二種類頂いてしまいました。

 ところで、観艦式のチケットがオークションで売られているかどうか
確認するために某オクを知らべたら、なんとこのお土産バッグが
オークションに出され、それに何千円も出して落札している人がいました。

売る方の神経も買う方の意図も全く理解できないんですがそれは。

ところで、先ほど乗艦したとき給油作業を始めていた油船ですが、
「あさひ」艦上で見ると、給油の真っ最中。

そして艦艇見学を終えて出口に向かうころには、作業が終わり、
ちょうど給油ホースを片付けているところでした。

引き揚げながら真水をホースにかけて塩分を洗い落としています。

自衛隊には実にいろんな仕事があると基地を訪れるたびに思います。


こうして令和元年度の海上自衛隊観艦式は終わりました。

海上での観艦式が実施されなかったことは残念でしたが、
一堂に集まったこれだけの数の護衛艦を、いわば自分が観閲官となって
その全部を巡るなんて、通常の一般公開では体験できることではありません。

次回の観艦式の時に海上自衛隊がどうなっているのか、そのときには
どんな形で、どんな艦が、誰によって観閲されるのか。

そんなことを予想しながら待つのも、また一つの観艦式の楽しみと考えながら
横須賀基地をあとにしたわたしでした。

観艦式中止に伴う一般公開シリーズ 終わり。



令和元年海上自衛隊練習艦隊 帰国行事 その1

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わたしが江田島の卒業式に出席し、将官艇でお見送りをし、そして
神戸港への入港をお迎えし、大阪と神戸と横須賀でレセプションに出席し、
雨の横須賀で見送った令和元年卒業の新幹部たちが、約半年の航海を終え、
また横須賀に帰ってきました。

ここ何年か練習航海関連行事には参加していますが、これほどまでに
フルで立ち会った期はわたしの追っかけ歴でも初めてです。

御代が平成から令和に代わり、今上天皇が即位礼正田の儀において
日本国の内外に即位を宣明されてほんのすぐ後、
練習艦隊は横須賀に帰港し、帰国行事が行われました。

この日お話しさせていただいた新任幹部のご家族によると、
練習艦隊は一度着岸してからまた沖に出ていたそうです。

まさか接岸の訓練のためってことはないと思いますが・・・。

先日観艦式が中止になったあと行われた一般公開できたばかりの
ここ横須賀基地逸見岸壁にわたしが到着したのは、
式の行われる1時間前くらいだったでしょうか。

幹部の家族はかなり早くから基地内に入場し、
「かしま」艦内を見学させてもらうことができるようですが、
このころにはすでに幹部が岸壁に降りる準備を始めました。

「かしま」から行進曲と共に降りてくるのは、ラッタルが危険なので、
(たぶんね)ヘリパッドのある付近岸壁から行進してくるようです。

儀仗隊が定位置に着き、準備を始めました。

左のお髭の海曹は海幕の先任伍長ではなかったかと記憶します。

  

儀仗隊は海曹と海士で構成され、ほとんどがセーラー服の海士ですが、
各列の左端は4人とも海曹です。

これは、横一列の

分隊海曹1、海士8

合計9名がワンセットでこれを一個分隊とし、こういう礼式では
4個分隊で儀仗隊を構成することになっているからなのです。

今回の儀仗隊には女性隊員は入っていないようです。

この時間にはまだ招待出席者はほとんど来ていないので、
この間にせっせと会場の写真を撮ります。

「かしま」と「いなずま」の間には「しらせ」がいます。

幹部や隊員の家族の椅子席はこの一角です。
座らずに招待者席の後ろで立って見ている家族もいます。

実はこの日、横須賀は大変な強風が吹き荒れていました。
後ろの「いなづま」の自衛艦旗を見てもおわかりでしょうが、
どのくらい強かったかというと、プリーツスカートを着てきたのと
髪の毛を纏めなかったことを心から後悔したくらいです。

練習艦隊が一旦沖に出たのは、強風のせいだったのでしょうか。

「かしま」マストには練習艦隊司令官である海将補を表す
桜二つの海将旗が揚っています。

横須賀音楽隊がスタンバイしました。
風が強いのでほとんどの人は帽子の顎紐を下ろしています。
ところで女性隊員の帽子に顎にかける紐はついていないようですが、
風の強い艦上などでどうしているのでしょうか。

音楽隊の演奏は儀仗礼や観閲などの礼式曲以外では、
「聖者が街にやってくる」と、エドワード・バグリーの
「国民の象徴」二曲だけが待っている人たちのために演奏されました。

自衛隊音楽隊は何かというと最初にこの「国民の象徴」を演るのですが、
途中に「星条旗よ永遠なれ」がちらっと顔を出すので、
もしかしたらアメリカ海軍関係者が出席するときには必ず演奏する、
というきまりでもあるのかもしれない、と思います。

わたしのように早く来て会場の様子を観察するという目的でもない限り、
招待客は皆開始ギリギリに会場入りします。
特に最前列は国会議員などの席なので始まるまで空いたまま。

このころから袖線の太めな自衛官が次々と入場してきました。

招待客の前を通るとき、彼らは職務上顔見知りの多い招待客の前で
立ち止まって挨拶をしていきます。

前列はまだガラガラですが、新任幹部の行進が始まりました。

数ヶ月前、同じ岸壁から出航し、各地で様々な体験を重ねてきた新幹部たち。
今年は大きな事故もなく無事で帰ってこられてなによりです。

行進と整列も遠洋航海の間数え切れないくらいくり返したせいか、
明らかに出発前、神戸で見たときよりも『こなれ』が感じられます。
一人ひとりの重ねた経験が生む自信が、その姿勢にわずかながら
余裕のようなものを与えているのかもしれません。

彼らのほとんどが胸に緑と白の徽章を付けています。
どこかの国でもらってきたものでしょうか。

ほひーほ〜〜〜〜〜♪

とサイドパイプが鳴り響きました。
練習艦隊司令官と「かしま」「いかづち」の両艦長下艦です。

全体の一割いるという女性新幹部も整列を行いました。
右端に見切れているのはタイ王国からの留学生です。
ここのところ連続で、タイ留学生が遠洋航海に参加しています。

わたしの前には第七艦隊司令官マーズ中将が座っておられ、
ときどきこのような親密さを自衛隊の将官に表していました。

マーズ中将はまだ9月に第7巻隊司令になったばかりなのですが、
この写真だけ見るとずいぶん昔から旧知の仲だったみたいです。

マーズ中将の向こうにいるのは女性の副官で、前第7巻隊司令と同じく、
中将も通訳の女性を同行していました。

前司令は通訳を後ろの席に座らせ、同時通訳させていましたが、
今回至近距離にいたのをいいことに会話を耳ダンボにして聴いていると、
通訳の女性は、

「ウィリアム、わたしは向こうからインターカムで話しますから」

みたいなことをいって、副官と一緒に全く別のところに座りました。
インカムで同時通訳を行うというのもですが、通訳が仕事相手を
ファーストネームで呼んでいたのにもちょっと驚きました。

アメリカ人でも「お堅い」人はミスターとかタイトルで呼ばせますが、

「コールミー、ウィリアム」

と本人が言えば、そこから先はファーストネーム呼びになります。

司令官と両艦長が立ち、帰国式典が始まります。

最前列の国会議員などが全員到着し、防衛副大臣が到着するまでの間、
皆は不動の姿勢で待ちますが、この時の梶元海将補はバッチリカメラ目線(笑)

まず、無事で帰ってきたことを報告する「帰国報告」が行われます。

そして、到着した防衛副大臣がまず「栄誉礼」を受けます。
栄誉礼は、この日のように音楽隊がいる場合は、黛敏郎作曲の

栄誉礼「冠譜」及び「祖国」

が演奏されますが、たとえば自衛艦上でラッパしかいない場合は

らっぱ隊100名による栄誉礼  -陸上自衛隊第1師団らっぱ隊 / 練馬駐屯地創立記念行事2016

最初だけ同じのこの曲が吹鳴されます。

そして巡閲のときも、幹部たちは全員行われている方向を向いて
敬礼を続けますが、なぜか海曹がこれを行いません。

何かちゃんとした意味があるのだと思いますがいつも不思議です。

栄誉礼と巡閲を終え、防衛副大臣がやってきました。
第4次安倍改造内閣の防衛副大臣は原田憲治氏に代わり、
1975年生まれと若い山本朋広氏です。

副大臣の後ろを歩くのは横須賀地方総監、渡邊剛次郎海将。

ここからは来賓の挨拶と訓示など。

山本議員は、あるとき海上自衛隊の海外派遣部隊で護衛され、
本当にあの時は心強かった、という一般人からお礼を言われた、
というご自身の体験を紋切り型ではない言葉で語りました。

さすがは政治家だけあって、カンニングペーパー一切なしです。

山村海幕長の訓示は、紙に書かれたもので、

「諸君は夕日に映える広大な太平洋に心奪われ、時には荒れ狂う厳しい海を体験したであろう」

「本日からそれぞれ部隊勤務へと旅立つことになる。
海上自衛隊の全ての活動の基本が海の上であることを念頭に置き、
遠洋航海で学んだことを生かし」

といった、なんか去年も聴いたなー的な素晴らしい内容です。

ちなみに後で海幕長にご挨拶申し上げましたら、こちらが何も言わないのに

「毎回同じような内容ですみません」

と思っていたけど決して口にはできないことを向こうから言われてしまいました。
しかし、遠洋航海は毎年何かしら違うイベントがあるので、
こういう挨拶はある叩き台があってそれを毎年微調整しているのです。
今年の訓示には

「日本人移民120周年となるペルーなどを訪問し、パラオなどでは激戦地を巡り、
戦争の歴史と日本人としての自分を再認識したことだろう」

という一文が添えられていました。

本年度の練習航海での訪問国は11か国に上ったそうです。
来賓には外務大臣政務官も来られ、主にそういうことについて
外務省の立場から労いと感謝を述べました。

続いて来賓の紹介です。
政治家は三浦のぶひろ、迫真くん、須藤元気(敬称略)ら。
わたしの前は第三管区海上保安本部長でした。

本部長は、

「お疲れ様でした!現場でお会いしましょう」

と挨拶をされ、おお、と思いました。

今年9月に着任したばかり、ウィリアム・マーズ中将。
アメリカ海軍も司令官配置はだいたい2年くらいで交代するようです。

マーズ中将は潜水艦出身だそうで、横須賀には第7巻隊の
潜水艦隊司令官の経験もあるそうです。

続いて、司令官、艦長、幹部代表に花束贈呈が行われました。

笑顔で花束を受け取る梶元大介海将補。

「かしま」艦長、高梨康行一等海佐。

江田島出航の際「かしま」の錨が泥に埋まり動けない状態から
前進と後進をかけて抜け出した時のお話にはしびれました。


何度かの壮行会やレセプションで言葉を交わした顔も見えます。
日本への帰国直前、自衛官となって歩む進路を決めるともいえる
最初の配置発表があり、この日横須賀で帰国行事を終えると同時に
それぞれの任地に向かうのです。

 

続く。

 

令和元年度 海上自衛隊練習艦隊帰国行事 その2

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令和元年の練習艦隊が遠洋航海から帰国し、帰国行事が滞りなく終了しました。

式の最後に梶元司令、艦長高梨一佐、國分二佐、新幹部代表に対し
花束が贈呈されました。

あとは山本防衛副大臣が退場していくのを待つのですが、ここで
山本副大臣が予定にない行動をとりました。

マイクもなかったのでわたしのいるところからは全く聞こえませんでしたが、
新幹部、練習艦隊乗員の家族が多くいる席に向かって歩いていき、
そこで急遽自衛官の家族に対する謝意を述べたようです。

それらの進行状況を確認している梶元司令。
その他艦長と新幹部たちは微動だにせず正面を向いて整列したままです。

渡邊横須賀地方総監も、大臣旗を持つ旗手も、副大臣の予定にない行動に、
即座に何事もないように対処します。

さらに山本副大臣、招待客の一部と握手などしながら退場。
大臣が退場して初めて式は終了となりました。

岸壁では海幕長や艦隊司令に挨拶をしたり、記念撮影をしたり。
大きな旗を持って参加していたのは横須賀水交会の皆さん。

このチャンスに、わたしも海幕長と練習艦隊司令にご挨拶ができました。

そしてここからは練習艦隊の遠洋航海の終わりを締めくくる「かしま」からの下艦、
そして海軍時代から伝統の帽振れというセレモニーに移ります。

艦隊司令、両艦長が舷門手前にまずスタンバイ。

下艦する新幹部は順次一列で舷側を行進してくるため、一旦
後甲板で整列待機しますが、ここで何かあったようです。

笑い声と拍手が起きました。
こちらからは何が起こったのか確かめようがありませんでしたが、どうも
仲間の一人がうっかりしてどこか別のところにいってしまったとか、
なんかそういうミスをして、頭をかきながら戻ってきたように見えました。

こういう様子から垣間見えるのは、彼ら全体の仲間意識とか空気です。

昔海軍兵学校で毎年学年ごとに全く生徒の雰囲気が違い、「お嬢さんクラス」とか
「ネーモー(獰猛のこと)クラス」とかいうあだ名があったように、
幹部候補生学校もその年によってカラーがあるのは当然です。

今年の期生を艦隊司令が大阪の壮行会でくしくも言い表した

「行き足がある」=元気で明るい

という言葉を思い出させた瞬間でした。

行進曲「軍艦」の調べに乗って行進が始まりました。
ただし今回の「軍艦」は、横須賀音楽隊がすでに本日の任務を終了し
帰ってしまったため、艦内スピーカーから流れるCDです。

舷側に立つお見送りの幹部たちは、先頭の人がやってきてから最後まで
敬礼の手を降ろすことはできません。
いつも見ていて手がだるくならないのだろうかと心配になります。

敬礼をしながらまっすぐ歩いてきた新幹部は、艦長と艦隊司令の前で
立ち止まり、激励を受けます。

そしてラッタルの上で自衛艦旗に向かって敬礼をし、
それから150日あまりを過ごした「かしま」を後にするのです。

岸壁には東京地本の職員も馳せ参じ、激励していました。
ちなみに横断幕のトウチくんはゆりかもめですよー。

長きにわたる遠洋航海で得た様々な思い出、
そしてこれから始まる自衛官としての勤務に対する期待と不安。

それらに対する思いとともに彼らは「かしま」を後にします。

幹部の家族たちは、ラッタルがよく見えるところで我が子やきょうだい、
あるいは孫が降りてくるのを見守ります。

我が子の名前を大きく書いた「おかえり」の手作りのバナーを
このようにずっと高く掲げている家族もいました。

海軍式敬礼もすっかり板について。

希望の部隊配置になったかどうかは皆それぞれです。
帰国直前、彼らは配置の発表を聞いたばかりなので、
希望の配置だったかどうかは悲喜交交のはず。

ずっと見ていたら、自衛艦旗ではなく艦首に向かって敬礼する
何人かがいたので、不思議に思いました。
あの一団だけ何があったのでしょうか。

「かしま」乗員が「ご安航を祈る」の信号旗をウィングにかけました。

「ご安航」にはすなわち新しい配置に船出していく新幹部たちの
「航海」が順調でありますように、という意味が込められています。

この頃になると列が全く進まなくなり、後ろの方の幹部は、敬礼したまま
見送りの乗員らと足踏みしながらずっとお見合いしている状態になります。

まだまだ長丁場なので、わたしはちょっとだけこの場を離れ、
「かしま」艦首の方に行ってみることにしました。

「かしま」艦体は入港前に手入れを行ったのか、とても綺麗でした。

「いなづま」は遠洋航海中のサビが目立ちます。
今年は去年のような幹部が随伴艦の前に行進していきそこでも帽振れをする、
というイベントは行われませんでした。

ああいうのは特にどうすると決まっているわけではなく、その年によって
アレンジが加わったりするものなのかもしれません。

「しらせ」の写真は撮っておかなくては。

「しらせ」は第61次南極観測協力で、11月中旬に出航、4月に帰国予定です。
観測隊員は飛行機でフリーマントルまでいき、そこで「しらせ」に合流。
約1ヶ月かけて昭和基地に到着するということです。

「しらせ」には越冬中に成人式を迎える隊員が必ずと言っていいほどいて、
彼らの成人式は雪原の上で行われることになります。

南極で成人するなんて体験、自衛隊に入らないとできるものではありません。

「かしま」前方の撮影を終わって帰ってきました。
幹部の離艦儀式はまだまだ続いています。

敬礼する後ろ姿も良いものです。

あらためて新幹部を送り出す艦隊司令の様子を見ていると・・。

両艦長はにこやかに敬礼する幹部を敬礼で送り出していますが、
司令は一人ひとりの手をしっかり握っていました。
時間がかかるはずです。

練習艦隊司令は、自分の元から巣立っていく新幹部が
自らが艦乗りの先達としてこの航海を通して示したことを
受け止めてくれたかを確かめるように、一人一人の目をしっかり見て、
どちらかというと厳しい表情で彼らを送り出していました。

女性幹部の列がようやく見えてきました。

自分たちが送り出した若い幹部たちを艦上から眺める艦隊司令ら。

「帽振れ」

この伝統の帽振れをもって、彼らの遠洋航海実習は終わりを告げます。

梶元海将補、高梨一佐、國分二佐も帽振れ。

 

さて、ちょうどこの後、わたしの横に一人の女性がたち、
声をかけてこられました。

「ブログをやっておられる方ですか?」

見知らぬ方に当ブログのことをいきなり聞かれたとき、わたしは
予想外のことが起こったときの人間が本能的に取る典型的な
フリーズ状態におちいり、とっさに何のリアクションもできなくなります。

「は・・・」

フリーズしているわたしに、その方は確信を持って

「エリス中尉・・・ですよね」

その固有名詞が出るからには何かの確たる証拠?があるに違いない。
こんな場合に人間が取る典型的な次の行動として、わたしは
目の前の人物と過去の自分の接点を情報を総動員して知ろうとします。

そしてその結果、その方の下げているタグに目を止めました。

「ご家族の方ですか?」

その方によると、今回実習幹部として遠洋航海に参加された息子さんは
海自の艦乗りでおられた父上の影響で強く志望して自衛官になったので、
母親としては海上自衛隊のことをもっと知りたいと、当ブログを読んで

「勉強していました」

という大変もったいないお言葉です。

ただ、防大生や自衛官の子女を持つ親御さん読んで下さっていた、
という例は過去何度か体験しているので、そのことには驚きませんが、
問題はなぜわたしをブログ主だと特定したかです。

その方によると、江田島の卒業式でも同じ横須賀の出航行事でも、
わたしに声をかけようかと迷っておられたそうで、詳しく特定の
決定的な理由までは聞きませんでしたが、おそらくは写真の画角とか、
現場でニコンのカメラを持っていたとか、時々アップする
集団写真から判断されたのでありましょう。

さらに驚いたことに、その方にはまるで歳の離れた姉妹にみえるほど
そっくりなお嬢さんがいて、彼女は技官として陸自に勤務中。
かつて護衛艦勤務でおられた夫君、とまさに「国防一家」ではないですか。

そんな方々が「ストーカーするほど」(ご本人談)ブログ主に関心を持って
読んでくださっていたとは、まさに冥利につきるというものです。

艦橋ウィングからは「ご安航」の信号旗が消え、その代わりに
「かしま」乗員が激励の自衛艦旗をうち振っていました。

公式に下艦した新幹部たちが荷物を出すためにまた艦内に戻っていき、
今度はこの航海のあと「かしま」を降りる乗員とのお別れです。

こちらも「帽振れ」。

もちろんまだ「かしま」に残る乗員もいます。
知人が聞いたところによると、今回帰ってきた乗員の中に、
来年の世界一周となる遠洋航海にも参加する予定という人がいるそうです。

この中の何人かは来年の遠洋航海にも参加するのでしょうか。

練習艦隊司令部もいよいよ退艦です。
まずは「かしま」艦長、「いなづま」艦長。
ただし、二人が両艦の艦長でなくなったというわけではありません。

各艦長とも任期は1年なので、遠洋航海が終わってしばらくすると
次の艦長に任務を交代することになります。

こちらでは段ボールに入った荷物を下ろす作業に入っています。

声をかけてくださった当ブログ読者の息子さんは、荷物を
着払いで(笑)実家に送ってくる予定だということですが、この段ボールは
実家だったり、新しい任地に向けて配送されるものでしょう。

幹部たちは艦を降りるとその日のうちに新任務地に移動します。
その息子さんの勤務は横須賀基地の艦艇ということでこれは最もラッキーな例。

中には横須賀から北海道まで移動しなければいけない人もいますし、
自分の乗る艦艇がたまたま地方にいれば、そこまで追いかけていくそうです。

「変な話ですが、そこまでいく交通費は出るんですか?」

「全部自費なんですよ」

まあそのためにお給料ももらっているわけですが・・。

練習艦隊司令官梶元大介海将補が副官とともに下艦します。
練習艦隊司令官の任期は1年で、12月の辞令で着任しますから、
梶元海将補も今年の12月中旬まではまだ「艦隊司令」のままです。

遠洋航海について報告し次につなげるための提案を行う任務がまだ残っているのです。


ちなみに、声をかけてくれた方の息子さんである新幹部の遠洋航海を終えての感想は、

「すっげえ楽しかった!!」

だったそうで、何よりです。

こういう話を聞くと本当に嬉しくなりますね。

この息子さんはもちろん、ご縁あってここまで見届けた本年度の新幹部たちに、
これからの自衛官人生に幸あれと心からエールを送らせていただき、
令和元年度練習艦隊帰国行事のご報告に替えさせていただきたいと思います。


*おまけ*

この日横須賀から有料道路に乗ると、料金所で

「後ろからエライ人の車が来るからね」

と言われました。
合流地点でふとバックミラーを見ると、黒塗りの車が後ろを走っています。

即位礼で来日中のアメリカ政府関係者が、米海軍基地を訪問していたのでしょう。

 

 

 

 

令和元年度 自衛隊記念日 殉職自衛官追悼式

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横須賀で練習艦隊の帰国をお迎えした翌日、わたしは4時起きして
朝一番の広島行きANAに乗り込み、そこからはえぐり込むように、
殉職自衛官の追悼式、呉地方総監部の自衛隊記念日式典、そして
江田島の第一術科学校でのオータムフェスタを全てこなすという、
自衛隊追っかけイベントを全てこなしました。

そのツァーの合間を縫って練習艦隊帰国行事の写真現像とブログの
二日分をなんとか仕上げることができましたが、そこで気力が尽きたため、
広島での行事については家に帰ってきてやっと着手できたしだいです。
コメントへのお返事も滞ってしまい、大変申し訳ありません。

 

ところで、ツァー移動中に知人の元自衛官が、前回のブログ最後の記述、

「練習艦隊解散後の赴任地までの交通費は自費かどうか?」

について元経理補給幹部であるその方の同僚に聞いてくださったのですが、
その返事は

「時代により種々解釈はあるものの、解散〜休暇先は私的なので支給なし、
休暇〜赴任地は支給されるというのが基本である」

ということだったそうです。

「じゃつまり普通に支給されていて、わたしがお話を伺った方の息子さんは、
たまたま横須賀勤務なので出なかったってことなんですかね?」

と聞くと、そうではないかとの答え。

ところがunknownさんにいただいたコメントは、こうでしたよね。
unknownさんもどなたか中の人に聞いてくださったようでしたが、

「遠洋航海が終わった時点で休暇で、明けに着任という扱い」

「だから任地まで自腹」

つまりこちらは遠洋航海〜任地の移動は「休暇に行って帰ってきただけ」という解釈。

でも、聞いたところによると解散地の横須賀から任地までは即日移動らしいですから、
つまりそこに休暇はまったく挟まれていないということになりませんか?

だいたいごく普通に考えても佐世保や北海道(函館にも基地がありますからね)まで
自腹ってのは、あまりにも関東圏勤務の人に比べ不公平すぎない?
いくら釣った魚に餌はやらない自衛隊でもこれはないのではないかという気がします。

ちなみにunknownさんはご自身のことについては

「昔は遠洋航海が終わった時点で発令で、旅費はもらえた気がします」

とおっしゃっていますが、この元自衛官氏は

「私自身ですが、確かにこの時期は給料と手当てが手付かずで残っている、
生涯でもっともリッチな時ですので、
赴任旅費がどうこうなんて気にもしてませんでしたねー(๑・̑◡・̑๑)」←文字化け済

つまりこちらは全く覚えていないというわけですわ。

これだけ情報が錯綜していて当事者の記憶が曖昧な事例も珍しいんですが、
この件を明確にする中の人のタレコミがぜひ欲しいところです。

さて、一連の自衛隊記念日行事が開始されるのは今年は10月25日。

わたしが20年前、三日三晩聖路加の出産室で過ごした末、(普通は1日)
外に出るのを嫌がる息子を七転八倒しながらなんとか世に送り出した日ですが、
そんなことはどうでもよろしい。

この日はかつて日本海軍が初めて組織的な特攻隊を出撃させた日で、
初の特攻隊長関大尉の故郷松山市でいわゆる五軍神の慰霊式が行われます。

5月の金比羅神社で行われた掃海隊殉職者追悼式に参加したとき、
慰霊式の執行役?をなさっている元海将とお近づきになったご縁で、
10月25日にはぜひ参列させていただきたいと思っていたのですが、
今年は自衛隊殉職者追悼式と重なったのでそちらは見送ることになりました。

 

今回は長丁場で江田島訪問の予定もあるので、荷物の置き場や交通の便等、
様々なことを勘案した結果、レンタカーを借りての呉入りです。

呉地方総監部の表門、つまり海側の方のゲートを通るとき、

「追悼式出席なのですが、レンタカーなのでナンバー告知してません」

というと、それだけであっさり入れてくれました。

横須賀はその点厳しくて、事前にナンバーを通知していない車両は
絶対に入れてくれません(そう招待状に書いてあった)。

今回わたしは、練習艦隊帰国行事のために届ける車のナンバーを、
アメリカにいるときにTOに聞かれ、寝起きだったためか、
忘れないように海軍記念日と同じに設定した527をなぜか528と口走ってしまい、
横須賀基地で名簿とナンバーの照合をしていた警衛の自衛官に

「(ナンバーが)一つ多いですね」

と笑われ、つい、

「人に書類を任せたもので・・・」

ととっさにTOのせいにして誤魔化しましたが、名簿の名前はかろうじて
間違っていなかったため、追い返されることにはなりませんでした。

まあ、横須賀と違って、呉にはそこまでピリピリするほどの脅威もない、
ということなんだと思います。

入場後は自衛官の指示に従ってグラウンドに駐車します。
停めたのは呉教育隊の訓練で使うカッターのデリックが並ぶ岸壁でした。

真っ先に気がついたのは、長らくここからの眺めにいやでも入り込んできた
ピンクの巨大船が完成したらしく、いなくなっていたことです。

残る1隻はまともな色の船に隠れて煙突しか見えません。

あれはワン・グラース、ワン・コルンバという14,000トンクラスのコンテナ船でしたが、
あんな大きなものでも半年くらいで完成してしまうと聞いて驚いたものです。

会場の慰霊碑前にはテントがしつらえてあり、その横にはすでに
参列するためにだけそこにいる自衛官たちが整列しています。

立ってじっとしているのも仕事とはいえすごいなあと思いながら
ぶらぶらと彼らの後ろを歩いてテント下に行こうとしたら、

「先に受付をお済ませください!」

と追いかけてきた自衛官に声をかけられました。

ちょうどわたしの座っている席の横の一団は、こんな早くから待機して
式の進行に沿って敬礼したり気をつけしたりしていましたが、
つまり2時間近く同じ場所で立ち続けていたことになります。

その間、普通の人のように決して体の芯がぐらぐらしたりせず、
さすがは日常鍛えているだけのことはあると内心感嘆しました。

来賓席には政治家、歴代呉地方総監、水交会や家族会のトップ、
防衛団体代表、そして基地モニターの代表などが前から順に座ります。

今年出席された歴代地方総監は、30代谷氏、31代山田氏、34代道家氏、
43代池氏といった方々でした。

いつもお顔を拝見する方が見えなかったりしましたが、それはこの日、
自衛隊記念日行事がいろんなところで行われていたためです。

ほとんどの元司令官は何箇所かを週末に転々とされたのではなかったでしょうか。

殉職自衛官追悼式の式次第はこのようになっています。

殉職隊員の霊名を記した礼名簿は、式の最初に呉地方総監が奉安し、
式の間慰霊碑の前に座していただいている状態で、最後に降納を行います。

呉地方総監は恒例の追悼文を捧げますが、その文中にある

「尊い任務を遂行して亡くなられた自衛官は、家庭にあっては
掛け替えのない夫であり、兄弟であり、そして御子息でした」

という一節を聞くと、いつも胸にこみ上げるものを感じます。


まるで隠し撮りしたみたいですが、そうではありません。

わたしは現地の写真を撮るためにカメラを一応持参していたものの、
式の最中の撮影は厳に慎み、席を立つ度に座席に置いていましたが、
献花で立ち上がり席に置いたときにシャッターが切れたらしく、
あとで見たらこんな写真が撮れていました。

席についてから、自衛官から耳栓を渡されました。

「弔銃発射のとき大きな音がしますので・・・」

おお、なんという心遣い。
しかし、まわりの元自衛官のお歴々は、

「こんなの要らないよね」

といってほとんどが使用されていませんでした。
わたしも何度か弔銃発射を経験しているので、根拠なく大丈夫な気がして
使わなかったのですが、最初の一発目、衝撃の凄さに思わず飛び上がりそうになり、
甘く見ていたことを思い知らされました。

弔銃発射は伝統に則って、まず「命ヲ捨テテ」が捧げ銃の状態で演奏され、
そのあと同じメロディがアップテンポで繰り返されるのと交互に
空砲が合計三度発射されます。

続いて「慰安する」という曲が始まると呉地方総監杉本海将が献花を行い、
全員が一人ずつ前に出て霊前に白菊をたむけていきます。

献花の順番は、地方総監に続き遺族の方々、政治家、歴代総監。
そのあとが例年と少し違っていて、部隊指揮官、幹部、海曹、海士代表と
自衛官が一般人より先になっていました。

 

そして呉音楽隊の追悼演奏では、一曲目の「海ゆかば」のあと、
トランペット奏者が「巡検ラッパ」を吹鳴しました。

アナポリスの見学記で、アメリカの巡検ラッパである
「タップス(TAPS)」の響きを聴くとき、候補生たちは誰しも
この国を思い、この国のために戦って斃れた命について思いを馳せる、
という卒業生の言葉を紹介したことがあります。

自衛官たちもまた、この三音で構成された静かなメロディを聴くとき
生きている自分と彼岸の人々を繋ぐ同じ防人としての思いを想起するのかもしれません。

巡検ラッパはラストトーンが途切れると同時に行進曲「軍艦」へと変わりました。

 

国旗が降下されてから、最後に遺族の代表の方が挨拶をされました。
代表に立たれたのは去年と同じ女性です。

「国を守るという尊い任務のためとはいえ、愛するものを失ったことは
筆舌に尽くし難い悲しみがございました」

「皆様のお力をいただき、悲しみを乗り越え、元気に生きていきます」

挨拶の中の言葉も、去年とおそらく寸分違わぬ同じものでありましたが、
却ってそれが何年経とうと身内の死が風化することなど決してないのだという
遺族の方々のやるせない思いを表している気がしました。

そして令和元年度の追悼式が終了しました。

遺族の方々は歴代地方総監、呉地方総監部幹部とともに記念写真を撮り、
その後は一緒に昼食を囲む会が催されたそうです。

 

わたしはホテルのチェックインまで時間があったので、
知人を呉駅まで送って行ってからクレイトンホテルで昼食を取りました。

クレイトンホテルは海自とのコラボメニューが充実しています。
その前日横須賀港でお出迎えした「かしま」カレーは豪華な牛タンカレー。

ヘリ搭載型護衛艦「かが」カレーはビーフカレーですが、なんと
それにカツが乗っているというこれでもかの力技カレー。

味の調整を「愚直たれ」で行うことになっています。

そうそう、その「愚直たれ」ですが、「かが」の味調整としても、
がんすバーガーのソースとしてもまだまだ現役です。

「愚直たれ」は、その生みの親である池太郎元呉地方総監によると、
なんと、今年になってから商標登録されていたのです。

商標登録検索結果 愚直たれ


これによると、出願されたのは池総監が在任中の2018年12月19日、
商標登録は今年の7月12日、権利者は呉地方総監部とあります。

海軍が商標登録を行うなど、世界ではどうだか知りませんが、少なくとも
我が国では鎮守府開庁以来の歴史でも初めてのことに違いありません。

というわけで、最初はがんすバーガーを食べようと思ったのですが、
この衝撃的な写真とコンセプトに激しく惹かれたわたしは、
海自とは関係ありそうでなさそうなクレイトンホテルオリジナルの
潜水艦カレーを頼んでしまいました。

 運ばれてきたものを見て思わず絶句した(って一人でしたが)ほど、
そのビジュアルは潜水艦と海を忠実に再現していました。

潜水艦は黒い、黒いは潜水艦、潜水艦は沈む、沈むは潜水艦。

といわれるくらい黒いのが当たり前の潜水艦ですが、まさかイカ墨で
これを実際に表現してしまうとは。

そして、海は海でもこれは絶対にフィジーとか地中海とかだろー、
というくらい、エメラルドグリーンを通り越してマラカイト色の海。

この色の正体は最後までわからなかったのですが、食べてみると味は
いわゆるココナッツの効いたタイカレーです。

青い海には泳ぐちりめんじゃこまでいるという念の入れよう。
で、意外なことですが、この潜水艦カレー、マジでおいしかったです。

インスタ映えどころではないインパクトなので、もし皆様、
クレイトンホテルのCôte d'Azurで昼を食べることがあったら、
ぜひこのマラカイトカレー、試してみてください。

あ、おやつなら愚直たれ使用がんすバーガーをオススメですよ!←配慮

 

カフェ入り口には「華麗なる愚直たれ」ポスターを始め、各種海自シリーズ認定証などが。
呉という街が海自とともにあるということを改めて実感させていただきました。

 

 

続く。

 

 

呉地方総監部自衛隊記念日式典と懇親会

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呉地方総監部で殉職自衛官追悼式に参列した翌日は、
自衛隊記念日に伴い行われる感謝状贈呈式と懇親会が予定されています。

昨日羽田空港に到着したときには豪雨の降る荒天で、出がけに
一旦部屋に戻ってレインコートを羽織ってきたわけですが、
追悼式の間、お天気は曇り気味といえなんとか持ちこたえました。

さらに夜には降り出し、次の早朝にもまだ降り続いていたため、
傘をトランクから出して用意していたら、開始時刻前には抜けるような青空が!

今回は練習艦隊のお迎えから始まって、雨の方が回避してくれているという感じ。
昔はわたしが呉に行くと必ず雨が降るというジンクスがあったのですが、
ついにこれを克服する日がやってきたようです。

少しだけ早めにホテルを出て、アレイからすこじまに車を走らせました。
昔からの赤煉瓦の倉庫街が残されている街並みと、潜水艦基地。

呉に車で来ると必ず一度はここに立ち寄ることにしています。

このレンガの建物はかつての呉海軍造兵廠、呉海軍工廠のさらに前身が
ここにあった1897~1903(明治30~36)年建てられたものばかりです。

窓枠などはアルミサッシに変えられていますが、基本昔のまま。
かつては海軍工廠の電気部がここを使用していたということです。

煉瓦の建物の並びには普通にコンビニがあるのが日本らしいですが、
このコンビニのウィンドウにこんなポスターが貼ってありました。

劇画「アルキメデスの大戦」

が映画化されるという話は実は昔に関係者から聞いていたのですが、
私がアメリカにいる間に公開も終わっていたので驚きました。

で、山本五十六が舘ひろしですって・・・(ざわざわ)

映画化されたら笑福亭鶴瓶そっくりの造船会社社長鶴辺清は
絶対本人が演じるだろうと思っていたら、やはりそうでした。

不思議な縁というのか、鶴瓶さんのお舅にあたる人は、
戦艦大和の菊花紋章の金箔を貼る仕事をしたらしいですね。

コンビニに車を止めさせてもらい、水のボトルなど買ってから、
写真を撮るために道を渡ってアレイからすこじまの桟橋前にきました。

アレイとは英語のAlley(細い道)の意味があり、「からすこじま」は
昔ここ呉浦にあった周囲3~40mの小さな島の名前だそうです。

烏小島は大正時代に魚雷発射訓練場として埋立てられて無くなりましたが
名前だけがこのように残されています。

この桟橋は「男たちの大和」の大和出航のシーンのロケが行われました。
映画のセットとして警衛ボックスが立っていましたね。

 

桟橋にはれレールの跡のようなくぼみが突堤の先まで続いています。
映画では、この先にあるポンツーンから大和乗員が船に乗り込んでいました。

潜水艦のむこうにみえるのは潜水艦救難艦「ちはや」です。
潜水艦救難艦はDSRVを内臓するためのウェルを内部に持つので
前から見ると艦橋の幅が広く、ほとんど船殻と同じなのが特徴です。

この日は土曜日なので、流石の潜水艦もお休みなのでしょうか。
岸壁には当直らしい士官と海曹がいますね。

4隻が係留されていますが、全部「しお」型です。

これも「しお」。
川重で建造されたことを表す丸いセイルのドアを開けていると、
ここが耳とか目とかにみえて可愛らしいです(萌)

「かが」のこちら側の艦番号229は護衛艦「あぶくま」です。

航行中の民間船は呉の貨物船、「山城丸」。

潜水艦の向こうに見えている2隻は掃海艇だと思いますが、
だとすれば「あいしま」「みやじま」でしょうか。

ところでわたしはその奥の艦影と番号をみて驚きました。
二日前、横須賀で遠洋航海からの帰国をお迎えしたばかりの「かしま」です。

帰国行事をおこなった次の日1日で横須賀から母港に戻っていたのね。
二日前に見たばかりなのにこんなすぐに再会できるとは。

ここからは見えませんが、同じ練習艦隊の「いなづま」も一緒に帰ってきて
呉港のどこかに錨をおろしているのでしょう。

アレイからすこじまで艦ウォッチを堪能していたら、ちょうど良い時間となり、
自衛隊記念日式典会場である呉教育隊に移動しました。

この建物は旧海軍時代からのもので、おそらくは倉庫だったのだと思いますが、
今でも使っているのかどうかはわかりませんでした。

ここに来るたびについ写真を撮ってしまう旧兵舎跡。

呉鎮守府開庁と同時に創設された呉海兵団の兵舎として建てられ、
戦後の進駐軍による接収を経て、変換された後は自衛隊が使用し、
東京オリンピックの年には水泳チームの強化合宿宿舎になったりしました。

その後は呉地方隊史料館として一般にも公開されていましたが、
平成16年の台風18号に被災し、建物は破損してしまいます。

明治38年の芸予地震でも昭和20年の呉大空襲でも被災したものの、
持ち堪えていた建物が、老朽化もあってついに保存不可能になってしまいました。

しばらく被災した建物はそのまま放置されていたようですが、
平成20年になって海上自衛隊の機動施設隊の手で解体撤去されました。

その際、入り口の部分だけを建築当時と同じ場所に残すことが決まり、
往時をしのぶよすがとしてその姿を留めています。

受付では懇親会の会費三千円を支払い、入場します。
昔は無料でしたが、確か今年の4月1日付けで飲食を伴う会は料金徴収になりました。

これについては様々な意見があると思いますが、かねがね
自衛隊のお振舞いによる飲食については、豪華であればあるほど、
税金でここまでしていいのかな〜?と心配だったわたしとしては賛成です。

壇上には政治家などが座り、前方に自衛官という式典会場の配置です。

来賓より自衛官を前に、追悼行事で献花の順番を先に、という
「自衛官ファースト」の傾向は少なくともわたしが呉地方隊で定点観測する限り、
ここ最近顕著になってきていますが、自衛隊内で行う行事において
主体はあくまでも自衛官となるわけで、来賓はそれを見てもらうために招待する、
という本来の趣旨を考えると、これも正しいと思います。

式典が始まりましたが、いかんせんわたしのところからは
自衛官の頭越しにこのような光景が垣間見えるだけでした。


杉本呉地方総監は、挨拶冒頭、台風19号の犠牲者に対し哀悼を捧げられました。
大きな災害があると、式典やそれに続く祝賀会は全て謹慎ムードになり、
乾杯も自粛、おめでとうも禁句となってしまうのが昨今の風潮ですね。

もちろん災害発災と同時に大量の人員を現地に派遣し、今もまだ被災地で
活動を続けているという自衛隊側のこういう配慮はもっともですが、
一方、日本のようにしょっちゅう災害の起こっている国では
いちいち自粛していたらきりがないんじゃないか、と思ったりもしました。


それはともかく、杉本総監は、我が国を取り巻く安全保障状況について
「差し迫った脅威」「力を用いた一方的な現状変更」という言葉を用い、
ますます海上自衛隊の日頃の備えと即応力が問われていることを強調しました。

また、杉本総監によると、令和元年の今年は呉鎮守府が開庁して130年目。
海上自衛隊呉地方総監部は、そのちょうど半分の長さにあたる
65年前に誕生したという節目の年なのだそうです。

ちょうど半分といっても、実は終戦から10年間は進駐軍が駐留していたので、
内訳は

海軍=55年、進駐軍=10年、自衛隊=65年

となります。
自衛隊はいつの間にか旧海軍の歴史を超えたんですね。

自衛隊記念日の恒例行事として、自衛隊に貢献のあった一般人に
感謝状が贈られる表彰式が行われます。

今年は「呉海自カレー」事業が、自衛隊の広報に多大な貢献があった、
ということで表彰されていました。
この追悼式の前日も呉ではカレーフェスタが行われいてたようです。


そして最後に呉音楽隊が演奏を行いました。
一曲目の「海をゆく」は歌なしの演奏でしたが、

♫ おお 堂々の海上自衛隊(じえいたい)

の部分では、周りから一緒に歌う小さな声が聴こえてきました。

式典が終了すると、隣の体育館に移動し、通常は祝賀会になりますが、
今年は「懇親会」として、乾杯も献杯もないまま開式となりました。

が、自衛隊側の配慮にもかかわらず(笑)壇上で挨拶をした来賓も、
紹介された来賓も、普通に「おめでとうございます!」と叫んでいました。

いつも料理が豪華なことで定評のある呉地方隊の懇親会ですが、
舟盛り(鯛のお頭つき)は最前列のテーブルだけです。
それでも練習艦隊の関西寄港艦上レセプションとは違い、舟盛りはもちろん、
料理が空になるのを最後まで見ることはありませんでした。

元海上自衛隊出身者や支援者、関係者ばかりの会場のせいか、食べ物より
本来の目的である社交が中心という、日本のパーティでは稀な例となり、
わたしもこの日は元から顔見知りの方、思いがけず再会した方、
初めてご挨拶させていただいた方と話すうち、あっという間に時間が経ちました。

とはいえ、やっぱり外せないのが海軍カレーの味見ですよね。
この日会場で振る舞われたのはとてもまろやかな味のビーフカレーでした。

配膳してくれていた自衛官は、わたしがカメラを向けると
おたまを持つ手をピタリと止めてポーズ?してくれました。

この日会場には特別に借りてきたという呉の歴史写真パネルが展示されていました。
昔の写真と海軍の歴史には目のないわたし、狂喜です。

まず130年前の開庁時の軍港全図と呉鎮守府オープニングスタッフ。

現在の呉地方総監部のあるところにはかつて亀山神社がありましたが、
鎮守府建設のため遷座したという歴史があります。

左下が開庁当時の鎮守府庁舎です。

今の中通を知っていると、海軍のあった昔の呉の方が
よっぽど街として賑わっていたのではないかと思われます。

人が車に乗らず全員歩いているのでそうみえるだけかもしれませんが。

現在の庁舎が完成したのは1907年(明治40年)のことです。
当時の庁舎には地下があったという話ですが、今はどうなってるのかな。

呉在住の人にはこの写真が今のどこかわかるのでしょう。
海軍だけでなく、東洋でもトップクラスの規模を誇る
海軍工廠があったのですから、街も繁栄していたと思われます。

今も残る「大和の大屋根」建造中の貴重な写真(右上)。
繁華街では水兵さんが肩で風を切るように歩いていました。
街中に海軍旗がはためく「海軍の街」の様子が偲ばれます。

終戦間際の数次にわたる大空襲で呉は壊滅的な被害を受けました。

長らく閉鎖されていましたが、池呉地方総監時代に整備され、
一般に公開された呉鎮守府の地下壕は、英連邦占領時代、
電話交換所と通信連隊の司令部として使用されていました。

占領後に使用するため、連合軍は海軍の建物をほとんど破壊しませんでした。

左下の緑の部分は呉地方総監部のグラウンドと同じ場所でしょうか。

壇上で挨拶される杉本呉地方総監。

歴代地方総監や水交会元会長が紹介されました。
ここにいる紳士方のほとんどはかつての海上自衛隊の将官です。

左に見切れているのが今メディアでご活躍中、「伊藤提督」ご夫妻。
その右側も元呉地方総監です。

ところでわたしは杉本地方総監にご挨拶する機会に、兼ねてから気になっていた

「杉本総監の楽器歴」

について伺ってみました。
前回の呉地方総監部主宰観桜会で、自衛艦旗降納の際、
喇叭譜「君が代」を女性海曹と一緒に演奏して皆を驚かせた杉本海将ですが、
もし全くラッパの経験がなかったらあんな無謀なことを思いつくまい、
とわたしは当時から確信があったので、そこのところを確かめてみたのです。

結果はビンゴ。

やはり杉本海将、小学校4年から5年まで、吹奏楽部で
トランペットを吹いていたことがあると白状?されました。

「(あれに懲りずに)こっそり練習してまたチャレンジしてください!」

と心の底から力一杯激励させていただきましたが、さて、
地方総監の強権発動によって、杉本海将がラッパ手の仕事を奪う日は
果たして再びやってくるのでしょうか。

乞うご期待。


続く。



江田島散策〜第一術科学校-江田島市共催オータムフェスタ

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 令和元年度の自衛隊記念日に付随する呉地方隊の行事が終わりました。
いつもならそこでわたしの自衛隊記念日も終了なのですが、今年は

「まだだ、まだ終わらんよ」

第一術科学校の行事にお誘いをいただいたため、呉滞在3日目、
わたしはガンダムのクワトロ・バジーナのセリフを脳内に浮かべながら
江田島小用港行きのフェリー乗り場へと車を走らせました。

すると、乗り場には待っている車どころか人影もなし。
少し早めに来たからかな?と思いつつそこにいた係員に聞いてみると、
なんとたった今フェリーは出航したばかりというではありませんか。

「じゃ10時40分発というのは」

「それは小用発呉行きですね」

うーむ、我ながら時刻表もまともに読めない奴だったとは。

自分で自分に心底呆れながら、そこはそれ、こんなこともあろうかと
借りていた燃費の良いプリウスで地道コースをGo!

ちなみに今回借りたのはまだ納車されて6ヶ月の新車でしたが、
そのおかげで広島空港⇄呉⇆江田島と3泊4日運転しても、
最後までガソリン残量のケージは一コマも減らず。
最後に満タンまで給油して料金は600円で心底驚嘆しました。

前もって送っていただいた駐車カードを見せながら進むと、
一般公開出発コースになっている建物の裏に誘導されました。

 

テントの下の受付コーナーに受付票を見せると、ここではなく
大講堂の中で受付してくださいとのご指示が。

写真に見えている車寄せから一歩中に入ると、
制服と制服でない人がいっぱい待機していて、そこで受付をし、
懇親会の会費を支払い、代わりにリボンをつけてもらえます。

その後待合室となっている一階の応接室に通されたのですが、
誰もおらず、続いて誰かが来る様子もまったくありません。

ひっろーい応接室に、わたし一人です。

とりあえず現副校長と明日から任期交代する新副校長、他にも
顔見知りの自衛官のみなさまにご挨拶をすませましたが、
この辺でわたしは少々早く着きすぎたのではないかと思い始めました。

今回の行事、初めてご招待いただいたので勝手がわからず、とりあえず
開始時間の11時に行けば良いだろうと車を走らせてきたのですが、
そもそもこの日のオータムフェスタは、地元と第一術科学校を繋ぐ
触れ合いの機会として設けられた、いわば文化祭とか普通大学なら
大学祭みたいなノリのお祭り。

それが開門になるのが11時であり、来賓客というのは2時から行われる
この日の目玉イベントである観閲行進に間に合うように、
鷹揚にご来臨するものであることに遅まきながら気づいたのでございます。

「うーん・・・・」

まさかここでお茶をすすりながら式典開始まで待てるか?いや待てない。
ちょうどご挨拶に来られた総務の一佐に外に出た方がいいですよねー?と伺うと、

「もちろんです。
構内はそのすっばらしいカメラで写真をお撮りになるべき
ポイントがたくさんありますし、今日は大講堂の前に特設ステージが設けられ、
そこでもうすぐミュウージックが披露されます」

「ミュウージック」にツッコむべきかどうか一瞬迷いましたが、そこはスルーして、
わたしは集合までの2時間半、江田島を散策することにしました。

一佐が始まるとおっしゃった「ミュウージック」はまだで、このとき
ステージ上ではこの日の司会進行のお二人がMCを行っていました。
この右手にある屋台は人がいっぱいでしたがステージ前はご覧の状況。

ちなみにこの日江田島のお天気は日差しの強い夏日で、湿度も高く、
秋らしくセーター・マフラーに帽子といういでたちでキメてきた女性司会者は、

「暑いですけどわたしこれ脱がずに頑張ります」

と宣言していたものの、かなり辛い状況だったんではないかと思われます。
彼女の装いはおそらくこの日の花火大会に照準を合わせたのでしょう。
この時期江田島は陽が沈むと海から吹く風で寒くなるのだそうです。

自衛官が自分の家族や彼女?を案内しているらしい光景も見ました。
防大開校記念日もそうですが、制服姿の恋人や婚約者にエスコートされると、
制服マジックもあって惚れ直してしまいそうですね。しらんけど。

それにしても暑いのう、と思いながら日陰で写真を撮っていると、
写真に写っている自衛官がわたしが暇を持て余しているのを見抜いたのか、
すたすたっと近づいてきてお話相手になってくれました。

この自衛官が江田島で何をしているかというと、「教官の教官」、
つまりここ術科学校で先生をする予定の自衛官に、

「教え方を教える」

という仕事です。
技術的なことは自分の専門についてよく知っていても、それを
他人に教えるというのはまた全然別のことなので、ということでした。

「どのくらいのタームで授業するんですか」

と聞くと、

「常時開講です。自動車学校みたいなもんですから」

授業をする方もしょっちゅう自らが講義を受けているってことね。

ちなみにこの日のオータムフェスタで海自迷彩を着て、
あちらこちらに立っている自衛官のほとんどがこの教官なんだとか。

「自衛官の仕事って本当にいろいろあるんですよ」

ええそれはよく知ってますともさ。
自己完結が自衛隊の本領ですからね。

ところで、この自衛官氏は学外の近場にお住まいということでしたが、
自転車で四国をほぼ一周したりはしょっちゅうなのだとか。
そのとき近くをたまたま通りかかったEODの先生を呼び寄せて、

「この人は毎日呉から自転車で通ってきてますからね」

「呉から橋を二つこえて?どれくらい時間かかるんですか」

「2時間です(`・ω・´)」

「てことは通勤時間に4時間・・・?」

「アホですよねー」

いやアホとは思いませんが、自衛官って皆こんなのなの?

「いや、さすがにそんなのはわたしたちくらいですが」

そうなのか?

ちなみにEODの教官に聞いたところによると、現在
EOD訓練を受けている女性隊員は3人もいるそうで、資格試験も
体力的な条件に全く男性と差をつけないで受けるのだとか。

岩国の第31航空隊には女性のUS-2パイロットが誕生しそうですし、
潜水艦乗員、掃海艇長と、今まで男性しかいなかった職場に
次々と女性が進出しており、海上自衛隊は政府の提唱する
女性参画推進計画のロールモデルにならんばかりの勢いです。

 

この光景を見ていつもとの違いに気づいたあなたは江田島通です。
江田島見学では、一般コースは徒歩、ちょっとディープになるとマイクロバス、
と移動の方法は違いますが、そのとき絶対に足を踏み入れないのが芝生。

この日は一般に解放されていて歩き放題どころか、夕刻に予定されている
花火大会ではここで完全に寝そべったりできるのです。

というわけで赤煉瓦の校舎も芝生の上から写真が撮れます。

第一術科学校の玄関前には指揮台が置かれ、その左右に
式典と観閲行進を展覧するための来賓席が並べられています。

迷彩の自衛官が立っていますが、芝生を歩く人たちに

「ここから向こう側には立ち入らないようにしてください」

と注意する係です。

なぜ向こうを歩いては行けないのか。

最初、砂地部分に目立てをしてあるからかと思いましたが、そうではなく、
政治家の来賓席にみだりに人を近づけないようにだったのでしょう。

表桟橋はついにリニューアルに踏み切ったらしく、工事中でした。

桟橋が工事中の関係で、陸奥の砲塔一帯もロープから向こうには行けません。

この時間すでに夜6時から始まる花火大会の場所取りをする人あり。
観閲行進があるのでまったく意味がないんですがそれは。

せっかく芝生を堂々と歩くことができる機会なので、
この旧校舎も姿を留めているあいだに全景を撮っておきましょう。

芝生を時計回りして古鷹山と校舎が皆収まる場所までやってきました。

いつもマイクロバスの中から見ていた「明石」のマストを間近で。

巡洋艦明石(3,000t)は明治32年に国産鋼鉄巡洋艦「すま」型の
二番艦として就役、日露戦争参戦後、大正時代には地中海方面で
駆逐艦の旗艦として活躍し昭和3年廃艦となった。

という説明の看板があるのを初めて見ました。

細かいことを言うようですが、まず、「すま」型というのは
旧軍艦の「須磨」型の間違いですよね。
そして、「大正時代に地中海方面で」とありますが、これ、

第一次世界大戦で青島攻略戦に参戦

となぜもうすこし正確に書かないんでしょうか。
何に、さらに何のために配慮しているのか全くわからん。

かつてはここで海軍兵学校の生徒が棒倒しをしたり、
何重もの大きな円を作って「軍歌演習」を行ったものですよ。

って、いろんな媒体で再現されたものや当時の写真を見ているうちに
すっかり見たことがある気になっているだけなんですけど。

こんなものが展示されていることも知りませんでした。
ボフォースの4連装対潜ロケット発射装置とその弾薬。

「たかつき」「やまぐも」「みねごも」「いすず」、そして
「ゆうばり」型に搭載されていたとありますが、恥ずかしながら
ニワカのわたしには実際に見た護衛艦はどれ一つとしてありません。

ここにあるランチャーは平成22年に除籍になった「ゆうばり」が
搭載していた、ということなので、かろうじてこのブログが
始まった頃にはまだ現役だったようですが・・。

後ろの建物は自衛官の宿舎だったりするんでしょうか。
建物に人が近づかないように警備している自衛官は、写真に写ってもいいように?
ばっちりマスクで顔も警備しています。(たぶんね)

写っている不思議な装備は、

54式爆雷投射機「K砲」

なるもので、対潜爆弾を艦体側方から飛ばして撃つ投射機です。
こっちから見たらわかりませんが、横から見ると「K」の字状なので
「K砲」、艦体の両側に同時に投射するのは「Y砲」だったそうです。

海上警備隊発足直後、米軍からの貸与艦に搭載されていました。

この形状をみればヘッジホッグであることは、アメリカで軍艦を
なんども見てきたわたしにはすぐにわかりました。(←自慢している)

これは自衛隊初、いや日本初の対潜ミサイル搭載型であり、後世の護衛艦の
艦体設計、機関設計に対して多大な影響を与えたといわれる、伝説の護衛艦

「あまつかぜ」

が搭載していたものです。

この54式対潜発射機で、一度に24発の対潜弾を発射すると、
対戦弾は潜水艦を取り囲むようにして落下していきます。

24発のうち一発でも命中、炸裂すれば、振動によって
全弾が連鎖的に炸裂して破壊力を増大させるという、
潜水艦にとっては実に嫌な仕組みの武器でした。

まあでも、これがなくなったということは、その後の対潜武器には
これを遥かに凌駕する確実性と破壊力があるってことなんですが。

グラウンドではサッカー教室が行われており、その横では
訓練支援艦「くろべ」が積んでいるチャカIIIが展示されていました。

このとき初めて知ったような気がするのですが、チャカって、
「CHUKAR」っていうスペルで鳥の「イワシャコ」のことなんですってね。

なぜ「チャカ」という名前になったかというと、(鳥の話ですよ)

「チャック・チャック・チャカー・チャカー」

という鳴き声だからということですが、

 

途中から「チャカ」っぽく鳴いています。
ペットにしている人もいるようですが、鳴き出したらなかなか煩そうです。

ちなみにノースロップ社がなぜ標的機に「チャカ」と名付けたかというと、
欧米では(今は知りませんが)ウズラの種類がかつてスポーツとしての
猟銃の目標にされていたことから来ているようです。

柵の向こうはテニスコート。
コートハウスはどうみてもかなりの年代物です。
物置として現在も使用されているようです。

ちゃんと登録がされているらしく、種目は「事務所建」、
建物番号は257番と札が貼ってあります。

海上自衛隊創設期の国産護衛艦「いそなみ」主錨。

「教育資料として昭和63年に現在位置(旧海軍軍艦
千代田艦橋跡)に設置した」

とあるのですが、ということはかつてここに
千代田の艦橋があったこともある、ってことですね。

 

調べてみると、かつてここには、晩年に兵学校の練習艦を務めた
巡洋艦「千代田」の艦橋部分が置かれて、戦前戦後を通し
号令台となっていましたが、敗戦後撤去されたのだそうです。

「千代田」が標的艦となった時の演習は、お召艦「山城」から昭和天皇が、
「長門」からは高松宮宣仁親王が少尉として天覧されるというもので、
「千代田」にとってはある意味名誉な、華々しい最後だったといえましょう。

グラウンドを一周して帰ってきても集合時間にはまだまだ間があります。
さて、このあとどうやって時間を潰しましょうか。

 

続く。

 

 

自衛隊記念日・江田島オータムフェスタ〜自衛隊資料室

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さて、オータムフェスタに早く着きすぎてしまったわたし、
そのおかげでいつもはバスの車窓から見るだけのグラウンド南側を
歩いて(しかも芝生の上を)回ることができました。
しかしそれでも時間はまだたっぷり残っています。

となると、一階に売店のある江田島クラブに行くくらいしかありません。

普通の自衛隊ショップにもないようなグッズを探すのもまた楽しいものです。
幹部候補生学校では昔と同じく陸戦訓練も行いますが、それに必要な
陸自的装備もここで調達することができます。

足ゴムとか弾帯止め(100円って安っ)など、どう使うのか想像できないものも。

ちなみに幹部候補生学校の陸戦訓練は専用のフィールドで行うそうです。

江田島を訪れた時の故菅原文太、小西博之の写真あり。

この売店、模型も飾ってあります。
小型潜水艇を搭載している伊号16潜水艦出撃の図です。

前回、術科学校グラウンドに展示されているヘッジホッグの話が出ましたが、
伊16はまさに米海軍の駆逐艦「イングランド」から5回にわたって投下された
24発ずつのヘッジホッグによってソロモン諸島で戦没しています。

力作です。
坊ノ岬沖海戦、天一号作戦に出撃する「大和」艦隊。

輪形陣と呼ばれる艦隊配列ですが、若干駆逐艦の数が足りてません。

第一術科学校の見学コースは毎日3回(祝祭日は4回)
行われており、所要時間は1時間半。
大講堂、教育参考館だけでなく、不定期に今では
表桟橋と陸奥の砲塔を見せてくれる日もあるようですが、
一般コースでは見られない建物や施設、碑など、
写真が江田島クラブの一階に展示してあります。

「海軍兵学校の碑」

「赤城戦死者の碑」

「従道小学校記念碑」

はわたしもまだ見たことがありません。

「水交館」「高松記念館」は見学しましたが写真公開不可。
「理化学講堂」も向かいの学生舎から中を覗き込んだことはありますが、
まだ実際に中に入ったことはありません。

ところで理化学講堂には「出る」という噂が絶えず、ついにクレーム?が出たので
当時の幹候学校長が神職に御祓してもらって今はもう大丈夫なんだそうです。

しかし、これだけ色々と歴史を重ねた(しかも何かと出る要素が多そうな)
江田島のなかで、どうして理化学講堂だけが問題となったのか不思議。

 

さて、売店を見終わったあと、自衛隊資料室があるのに気がつきました。
いつの間にか江田島クラブ二階に開設されていたのです。

階段を上がっていくと、海上自衛隊出身の宇宙飛行士、
金井宣茂「軍医大尉」のポスターがありました。
潜水医官から宇宙飛行士を目指し、平成29年、ソユーズに乗り込み、
長期滞在を終えて昨年無事帰還してきたことが報じられましたね。

金井氏は医官として7年間務めてきましたが、自衛隊呉病院と、
ここ第一術科学校の衛生課での勤務の経験もあるということです。

ところでアメリカの場合、軍人が宇宙飛行士になっても軍籍はそのままですが、
自衛隊の場合それができないので、金井氏は宇宙飛行士採用と同時に退官しました。

しかし、NASAは金井飛行士をアメリカ人宇宙飛行士の例に倣い、公式にも
「大尉(Lieutenant)」の称号で呼び、軍人として扱っていたということです。

ポスターのISS 54/55は、国際宇宙ステーション第54次・55次滞在を意味します。

史料館には第一術科学校のジオラマが展示されていました。
江田内を大護衛艦隊が航行していますが練習艦隊にしては多すぎるような。

一般公開に来る人のために作られたジオラマなので、一般見学コースを
紅白のラインで示し、自分がどこを歩いてきたかわかりやすく示しています。

展示室入口には、昔当ブログで希望者に送らせていただいた、
兵学校と幹部候補生学校の今昔写真集

「伝統の継承」

のページが展示してあります。
兵学校の写真は1943年、カメラマンの真継不二夫氏が、
幹部候補生学校は真継氏の娘美沙さんが手掛けました。

起床、食事、教務、実習、点検、短艇、遠泳・・。

兵学校時代と幹部候補生学校、今昔の写真を見比べると、
海の武人としての教育は時が移り変わっても変わることがない、
ということをあらためて思います。

10分の1サイズのエアークッション艇模型です。
なんと第二代LCAC艇隊の隊長だった町田三佐が、隊員の教育用に

段ボールだけで

制作したという超力作です。
教育用って、これ絶対町田三佐の趣味だろっていう。

説明をそのまま書いておくと、

「輸送艦『おおすみ型』に搭載して運用する
ホバークラフト型の輸送艇。
通常は第一エアークッション艇隊に所属し、整備・訓練を実施、
輸送艦が運行する際に2隻搭載され任務にあたる。

輸送艦後部ランプを開いて発進、エアークッション艇なので上陸地の
地質などにあまり影響を受けずに揚陸できる。

最大速力40KT、陸自の90式戦車2両、人員約30名、
重量にして約50トンの積載能力がある」

90式が2両運べるって凄すぎない?
本当に訓練で戦車を載せたことはあるんでしょうか。

どちらも教練用の弾薬砲(3インチと5インチ)です。
中にカプセルみたいなものがぎっしりと詰まっています。

「対空戦コーナー」として、冷戦時、対艦ミサイルから身を守るため、
砲や対空ミサイルなどの武器をシステム化することにより、自動的に
迅速、かつ正確な防御がおこなえるようにした、という説明とともに、
シースパローミサイルが展示してあります。

 

こちらにあるのはM2444魚雷(展示用)。
哨戒機やヘリが行う対潜戦について、

捜索・探知 (ソナーなどによる)

攻撃(魚雷、ロケット型飛翔魚雷による)

などの説明付き。

対潜戦で用いられるソノブイ。使い捨てです。
P-3Cなどから投下し、海中でマイク(左下の黒いの)から
潜水艦の音をとらえ存在を航空機に伝達します。

最深70mまで潜水可能な潜水服。
錘が入っているらしい靴が凄まじいですね。

ここで使われていたようなのですが、平成12年度教育終了、とあります。

右側にあるのは米軍の使用していた昔の潜水ヘッドです。
ヘッドギアの横と上部にどちらも視界を確保するための窓があります。

ペルシャ湾の掃海派遣で海上自衛隊の掃海部隊が破壊した機雷。
機雷の上に置かれたプレートには

「誇り高きペルシャ湾の勇者に

1991.6.5~9.11

掃海派遣部隊」

と刻まれています。

 モールス号表の下に置かれた練習用の電鍵。

この説明には

「1985年にマルコーニが無線通信装置を実用化」

とありますが、これはもちろん1895年の間違いです。

ながらくモールス信号は無線通信の中心でしたが、昨今は通信衛星、
そしてデジタル技術の発達によってその座を退きました。

船舶における通信手段も通信衛星が登場したため、日本では1990年代に
モールス通信は廃止されています。

ただし、アマチュア無線、漁業無線、そして自衛隊では現在も
モールス符号を使った通信が行われています。

第一術科学校ではここにあるのと同じ電鍵を用いて
通信技術の研鑽が日々行われているということです(-人-)

アネロイド気圧計。
電源を用いず、真空の容器が外気圧との差で伸縮する動きを
針に変換して気圧を表示します。

水銀(液体)を用いた気圧計に対し、こちらは
液体(ネロイド)がない(ア)というギリシャ語からきた名称です。

右は

「通信制限付き 船舶時計」

で、色がついている秒に針があるとき、特定の周波数の電波を
使ってはいけない、と規制する意味があります。

遭難信号が確実に受信されることを目的としています。

左はおなじみ信号ラッパ。
ご存知とは思いますが、ドミソ三種類、ドソドミソ5音しか音が出ません。
この三音を組み合わせた曲で、自衛隊は号令を伝えます。

右は天測を行うために使う六分儀です。
天体の高さをはかることで現在位置を知ります。

操舵磁気羅針儀(マグネットコンパス)、操舵装置、テレグラフ、
自衛艦の外に設置されている速力信号標、そして艦長席、司令官席。

このコーナーには「ゆき」型の艦橋が再現されていて、
今本艦が航行しているのは音戸の瀬戸だと思われます。

自衛艦見学で舷側を歩いているとよく目にするこの赤いパイプの
正式名称を初めて知りました。

アプリケーターといって、先端の孔から低速の霧が噴霧され、
消火活動時に人員を防護したり、甲板や外板の冷却をするとき、
ノズルの先に取り付けて使用します。

「たちかぜ」型の2番艦、「あさかぜ」の時鐘と艦名プレート。
「あしがら」の就役と同時に除籍され、2010年に廃艦になりました。

昭和30年度計画で建造された「あやなみ」型のネームシップです。
術科学校校庭に展示してあったヘッジホッグを搭載しています。

ヘッジホッグ。艦橋の前に設置されていたんですね。

昔の護衛艦は甲板の真ん中に魚雷を積んでいたと_φ(・_・

観艦式の訓練展示では必ずミサイル艇のIRデコイ発射を行います。
水の噴水みたいで今回これが見られなかったのも残念でしたが、
そのミサイル艇「はやぶさ」「おおたか」「くまたか」の先輩、
ミサイル艇1号「わかたか」の模型がありました。

ミサイル艇って、転倒防止に水中にこんな脚を伸ばしていたんですね。

 

ここの説明で初めて知ったのですが、ミサイル艇は、
北海道沿岸の対艦ミサイルを搭載する「外国艦」に対抗するため、
魚雷艇の後継として建造されたのだそうです。

そして驚いてはいけない、この30分の1模型を制作したのも、
あの町田三佐なのだそうです。

クッション艇を制作したのは「隊員の教育用」だったようですが、
この模型はもう退官されたらしい町田元三佐が、この展示室のために
「余暇を利用して」(←わざわざ書く必要あるかな)作製したものです。

しかし、これだけ力作を提供してくれたのだから、「町田三佐」の
フルネームをせめてちゃんと掲示すべきと思うのはわたしだけ?

今年の呉地方総監部における自衛隊記念日では、呉海自カレーが
感状を授与されていましたが、このアイデアは、海上自衛隊にとって
多大な広報効果があったことは間違いありません。

右下はいまでも自衛艦内の隊員食堂で使われている食器ですが、
初期のカレースタンプラリーでは全カレー制覇したらこのトレイを
プレゼントにもらえる、という企画でした。

わたしはゴルフ場の中や離島のレストランまでカレーを食べに行き、
見事これをゲットしたという奇特な方を知っています。

 

 

江田島クラブの入り口にあった自衛隊音楽まつりのポスターと、
てつのくじらをフューチャーした呉市観光ポスター。

音楽まつり、今年は武道館が工事中なので代々木体育館で行うんですね。


さて、というわけですっかり充実した時間潰しが終わったので、
まだ少し早いですが、控室に戻ることにします。

 

続く。

国旗国歌に対する儀礼〜自衛隊記念日式典 江田島オータムフェスタ

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オータムフェスタというのは直訳すれば秋祭り。

秋祭りだと神事のようなので日本語にしなかったわけはわかりますが、
第一術科学校とカ幹部候補生学校がある江田島で行われるのに
なぜ「学校祭」と銘打たないかというと、自衛隊の単独主宰ではなく、
江田島市の多大なる支援を受けているからではないかと思います。

江田島市が観光名所でもある第一術科学校を借りて地域を盛り上げ、
海上自衛隊はこの日だけは内部を開放する代わりに、行事を
一般に公開し、広報活動につなげるWin-Win✌️✌️というわけですね。

しかし、そのために、敷地内ににステージは立つわ屋台は出るわ、
芝生には皆がズカズカ入り放題、シートを引いて寝そべったり飲み食いするわで、
unknownさんもショックを受けておられたように、その日一日だけは、
もし海軍兵学校を知る人が見たらかつての聖地が卒倒しかねない有様になります。

地元の人々に親しみを持ってもらう試みそのものは大いに結構ですが、
わたしとしてはこういうのは年一回だけに留めて頂きたいという気もします。

さて、早く来過ぎてしまい、グラウンドを一周してから
江田島クラブにある自衛隊史料室を見学して時間潰しをしたわたしですが、
それでも控室となっている大講堂の応接室はまだこんな状態。

応接室には山本五十六の書の下に、聯合艦隊司令部が
岩国の海軍航空基地で真珠湾攻撃のための作戦説明会議を行った
昭和16年11月8日の集合写真が飾ってありました。

「凌雲気」の書は、山本長官が揮毫し、岩国の海軍旅館「久義萬」の主人に
贈呈されたのと同じ文字ですが、もしこれがレプリカでなければ、
旅館が廃業したあと、江田島に寄贈されたのでしょうか。

「凌雲気」は文字通り「雲を凌ぐほどの気」、つまり俗世の全てを超越した
覚悟や意気、というものを表していると思われます。

今度機会があったら、これが本物かどうか確かめてこようと思います。

 

さて、誰もいなかった控室も1時半にはすっかり人で埋まり、
隣の方と名刺交換をしたり、知り合いと挨拶したりしていると、
控室に集う人々に、バスに乗るようにという指示がありました。

こういうときに、さすが序列社会である海軍の末裔だと感心するのは、
海上自衛隊の式典ではこんなことまでというくらい、席次とか
順番とかが前もってきっちりと決まっていることです。

式典に到着すると、まずホッチキスで止めた分厚い紙束が配布されるのですが、
それはおどろくなかれ、本日行われる全ての場面別席次表なのです。

バスに乗る際も、前もって色のついたカードが紙束と別に渡されていて、
赤いカードをお持ちの方はこちらにお乗りください、といった具合。

日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)

海軍では集合写真を撮る時も車に乗る時も、序列により場所がきまっています。
たとえばこの岩国の写真では、山本大将がきっちり真ん中に座り、
前列に座っている8名は全員が中将、後ろがが少将と大佐です。

(ところで、この前列一番右が井上成美中将ってご存知でした?)

というわけで、その伝統を引き継いでいるところの海自でも、
公式の写真は必ず椅子に名前が振ってあり、立食パーティのテーブルや
花火の見学まで席をきっちり決めないといけないようなのです。

この順番を考える係の自衛官には心からお疲れ様と申し上げたい。

ここで史料館の江田島ジオラマを活用させていただきます。

バスでの移動は、通常大講堂からだと赤煉瓦前を通り、グラウンドを
時計回りする青い線を通りますが、この日は青い線のところに
屋台が出ていて人がたくさんいるため、赤線コースを通ることになりました。

なんどもここには来ましたが、初めて通る道です。
古い建物は自衛官の官舎のようでしたので写真は控えました。

コース途中にはこのような廃墟マニア垂涎の年代物建築もあり。
スロープで車のついた用具を出し入れしていた倉庫かもしれません。

グランドが見えてくると、そこにはすでに観閲行進を行う部隊、
そして指揮官部隊が整列していて壮観です。

グラウンド内の出入りはとくに制限されていないらしく、
自衛官が持つ黄色いロープのぎりぎりで見学することができます。

乗っているバスが第一術科学校前の式典会場来賓席に到着しました。
さっそく小冊子?を頼りに自分の名前を探して席に着きます。

最前列は国会議員、市長、町長、県会議員など。

指揮台の前に並んでいるのは術科学校副校長始め、
指導官といった立場の幹部と海曹の一団です。

朝から立ち入りを禁止していただけあって、指揮台前は
まだ目立てがきれいに残っている状態でした。

広いグラウンドなので観覧席からはかなり遠くに見えます。
観閲行進の先頭部隊は呉音楽隊。

呉音楽隊といえば、呉地方総監部で行われた自衛隊記念日の演奏で
お伝えするのを忘れていたのですが、「海をゆく」に続く二曲目は、

「月月火水木金金」

でした。
作曲者江口夜詩の息子は海軍兵学校2年で終戦を迎えています。
この曲の演奏時も「海をゆく」と同じように

「うみーのおっとこのかんたいきんむ、げ(略)」

の部分ではやはり小さくメロディを歌う声が周りから聞こえてきました。

まず第一術科学校長、丸澤伸二海将補が壇上に上がり、挨拶と訓示。

公明党の幹事長、斉藤鉄夫氏が挨拶。

続いて挨拶した参議院議員の森本信治氏は、民主党から民進を経て国民民主、
それだけでもわたし的にはアウトで政治主張にも全く賛同しませんが、
祖父が海軍兵学校卒で南方にも出征したという話には思わず聞き入りました。

ただし、氏は護憲派の立場上そのことにはプロフィールでは一切触れていません。
つまり、ここに来たときだけ披露するとっておきのネタというわけですねわかります。

シニカルな言い方をすると政治家の挨拶なんてそんなもので、
たいていはその場にいる有権者にアピールする目的しかないですが、
そんな中で江田島市長明岳周作氏の挨拶だけは、

「江田島市はこれからも海上自衛隊とともに歩んでいきます」

など、いつもわりと真に迫っています。

呉市もそうですが、江田島にとって海軍遺跡とそれを継承する海自は
大事な観光資源でもあるのですから、真に迫るのも当然のかもしれません。

観閲部隊はこちらから見て左に音楽隊、そして幹部候補生隊が並びます。

海側に向かって海曹、つまり部内選抜の幹部候補生、
海士の部隊、そして一番右が喇叭隊です。

海士の行進部隊を率いる小隊長も海曹です。

学校長や来賓の挨拶のとき、最初に敬礼を行い、
しばらく気をつけの姿勢でいますが、壇上の訓示者が
「休め」「休んでください」というと、「整列休め」の号令が降り、
手を後ろに組み、銃を持つ者は地面に銃床を置いた姿勢で立ちます。

一連の式典開始に先立ち、幹部候補生から選抜された隊長と
女性候補生一人を含む5人が、指揮台前で報告を行います。

指揮官と部隊の間にも始まりの挨拶が交わされ・・。

観閲行進部隊は銃に着剣を行います。

これは何に対しての着剣かというと、国旗と自衛艦旗に
捧げ銃を行うための準備となります。

我々参列者も国旗と自衛艦旗に敬意を払って起立します。

このあと、国歌斉唱が行われました。

自衛官は国旗掲揚のとき敬礼をし、斉唱は気をつけで行います。

国旗と自衛隊旗を持つこの一団は、自衛隊ではなんと呼称するのか知りませんが、
一般的には「カラーガード」の範疇に入ります。

マーチングバンドでも旗、銃、サーベルを用いるパートを
「カラーガード」といいますが、この「カラー」にはまさに
国旗と軍旗(日の丸と自衛隊旗)を意味し、それをガード、
護衛するというのがこの名称の語源であり、旗の両脇、
そして後方を着剣した銃で守って歩くというわけです。

旗が移動中、壇上では第一術科学校長、幹部候補生学校長が敬礼を、
江田島市長が左胸に手を当てていました。

この左胸に手を当てる仕草は、サッカーの三浦カズ選手がやり出してから
(だと思います)特に最近日本でも同じようにする人が増えましたが、
もともとはアメリカの「忠誠の誓い」であって、日本の作法ではありません。
日本では国旗国歌の際直立不動というのが正しい姿です。

善意で解釈すれば、他の二人が敬礼しているのに、自分だけ空手で
ぼーっと立っているのもなんなのでやってみました的な?

厳しい言い方かもしれませんが、スポーツ選手ならノリで許されても、
この立場の人間がこれは物知らずという指摘は免れません。

仮にも日本国の自治体の長たる者、もうすこし勉強された上、
正しいプロトコルに則った所作で臨むべきではないでしょうか。

国旗・自衛隊旗は右回りに移動して指揮台に正対しました。
これから観閲官による巡閲が行われます。

ここで観閲部隊の総指揮を行う隊長が一人、進み出ました。
一挙手一投足をここにいる全ての人に注目される華々しい役目です。

指揮台前に到着した巡閲用のオープンカーの前に立った指揮官は、

「お供いたします!」

というようなことを力強く宣言し、それに促されて
前の車両に第一術科学校長、後ろの車両に幹候校長が乗り込み、
江田島市長は幹部候補生学校長と同じ車の後部座席に座りました。

広大なグラウンドなので、全部隊の巡閲は車で行われるようです。

 

続く。

 

観閲行進〜自衛隊記念日 江田島オータムフェスタ

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観閲行進に先立ち、観閲官たる第一術科学校長、そして
幹部候補生学校長と江田島市長が観閲用の車に乗り込みました。

「先導いたします」

と指揮台前で宣言した観閲部隊指揮官は、先行の車両右側に着座して、
部隊の目の前を通過する際に部隊側を向くように座っています。

 

わたしが「お供いたします」といったように勘違いして覚えていたのは
同じ車に乗り込んで座る=お供と記憶が改変されたからに違いありません。

自衛隊法の細目によると、部隊指揮官は

執行者の目の前に進み、部隊指揮官の氏階級と人員等の報告後に
「ご案内します(どうぞ)」と右手を伸ばし誘導する

とされています。

音楽隊の演奏する「巡閲の譜」の調べがグラウンドに響く中、
全部隊を「閲兵」する観閲官。

練習艦隊などの場合は観閲官(防衛大臣か副大臣、政務官)が
儀仗隊の隊列を歩いて巡閲します。
巡閲を行う者を受礼者といい、このとき受礼者は隊員一人ひとりの
容儀、姿勢、眼光などに表れる気迫を通して、練度や士気を
確認するという意味があります。

これらの細目は全て自衛隊法の実施要項によって定められ、
指揮官は基本三尉から三佐まで、ということになっています。

幹部候補生はまだ任官しておらず海曹長という階級なので、
厳密にはこの基本から外れることになりますが、本式典は
あくまでも第一術科学校内での観閲行進なのでこれはありです。

海曹が指揮官になっていたことで前回unknownさんが
違和感を感じておられましたが、これが校内における行進で
さらに指揮官が海曹長であることを考えれば、
これもありなのではないか、と思われますがどうでしょうか。

いずれにしても旧海軍時代にはありえなかったリベラルさです。

巡閲終了。

「受礼者」に対し、この観閲部隊指揮官を「立会者」と称しますが、
立会者である部隊指揮官の

「巡閲終わります」

の報告で、巡閲は終了します。

ダビッドの前を普通に歩いている自衛官が気になる・・・。

部隊指揮官の

「観閲行進の態勢を取れ」

の号令により、各部隊が用意を行い、そののち
部隊指揮官が先頭となり観閲行進を指揮します。

しかし先頭を歩くのは実は行進曲「軍艦」を演奏する
音楽隊だったりします。

続いて幹部候補生隊(二大隊)、海曹部隊、海士部隊、
最後に喇叭隊が行進を開始します。

候補生部隊はもちろん全生徒が参加しているのでしょう。
隊列はグラウンドを右回りに行進し、芝生を取り囲む
観客の前を通過して術科学校の正面まで戻ってきます。

音楽隊が正面にさしかかりました。
部隊が通り過ぎるたびに盛大な拍手が観客席から起こります。

さすがはマーチングが本領の音楽隊、足の角度が皆ぴったり同じ。

音楽隊の先頭は全ての先頭ということになりますが、
このバトンを持った役目をドラムメジャーといいます。

ドラムメジャーは背の高い人しかなれませんが、それは
見栄えの問題というよりは背が高くないと、この
長いバトンを扱いにくいという実質的な理由があります。

海曹部隊の行進が始まりました。

そしてその頃観閲部隊指揮官を先頭とする指揮官部隊が通過。

続いてカラーガード部隊です。

「国旗が前方を通過するときにはご起立をお願いします」

というアナウンスがありました。
わたしの周りの来賓は当然皆立ち上がっていましたが、
昔防大の開校記念祭で、グラウンドを国旗が通過する際、
規律を促すアナウンスがあっても頑として立たない防大生の父兄らしい人や、
立ち上がったら後ろから

「(撮影の邪魔になるから)立つな!」

と怒鳴る連中がいて、茫然としたことがあります。

カメオタと呼ばれる中に得てしてとんでもない非常識さんがいるのは
あちこちのイベントで散見してよく知っていますが、
自分の子供が自衛官になるかもしれないのに国旗に敬意を払わない、
というのはいかがなものなんでしょうか。

候補生観閲部隊が観閲台前にさしかかりました。

こちらは候補生部隊の第二大隊。

部隊指揮官は、観閲台の手前(数十メーター)に隊列がさしかかると、

「頭(かしら)〜」

の号令を発すると同時に右手を伸ばします。

そして、その後、

「右!」

の号令で観閲台に向かって敬礼を行います。

旗を持って行進している旗手は「旗の敬礼」。

右手で旗ざおを垂直に上げ同時に左手で右脇で旗ざおを握り、
次に旗ざおを水平に前方に倒して行なう敬礼です。

このとき旗がちゃんと下に垂れるようにするのは難しそう。

銃を持って行進している部隊は、敬礼の代わりに、
「頭右」だけを行います。

ただし、一番観閲台寄りの列だけがまっすぐ向いたままです。
理由は知りませんが、多分全員で右を向いたら
列がまっすぐ進まないからじゃないでしょうか。

続いての海曹部隊旗手はすらりと背の高い女性隊員。

行進している海曹は、幹部候補生としてここ赤レンガで幹部を目指す、
「部内選抜一般幹部候補生」と言うことになろうかと思います。
このグループを「B幹部」といい、そのほかにも「C幹部」といって、
海曹長・准尉の中から試験で選抜された候補生もいますが、
履修期間は12週間だけですので行進に加わってはいない気がします。

防衛医大などの出身である医科歯科幹部候補生もいますが、
観閲行進にさんかしているかどうかについてはわかりませんでした。

最後に行進する海士の帽子には「第1術科学校」の金文字入り。
今見えている海士の全員が海士長(旧海軍の上等兵)です。

行進している海士のこちら側にも海士が立っていますが、
観閲行進が始まると同時に観閲台の両脇にたち、
いわば観閲官を「警護」しているという役割です。

この頃には音楽隊はグラウンドから建物の向こうに姿を消し、
音楽はまったくない状態がしばしあったわけですが、すぐに
最後尾の喇叭隊が「速足行進」の演奏を始めました。

このとき演奏されていたのは「速足行進その1」だと記憶します。

喇叭隊は二つに分かれ、メロディを交互に吹きます。
吹いていない時はこうやって右脇にラッパを抱え、
自分の吹く番になるとさっと構えるのです。

この行進&演奏を見ていて、わたしは最初に江田島にきた時を思い出しました。
毎日行われている第一術科学校の一般公開に参加したときです。

教育参考館の見学が終わり、ここにさしかかったとき、ちょうど
喇叭隊が行進していくところ(つまり行進部隊の最後)を目撃したのです。

そのときの見学グループを率いて説明してくれた
もと自衛官が、もうすぐ何々があるのでその練習です、といっていたのですが、
今にして思えばあれは自衛隊記念日の観閲行進の練習だったのですね。

同時に初めて見た自衛隊の行進に感激した気持ちまでもが蘇ってきました。

あれから幾星霜が流れました。

あの時行進していた自衛官のうち誰一人としておそらくここにおらず、
同じ制服を着ている自衛官もまずいないでしょう。

なによりも、いつの間にか同じ自分が、同じ場所で、その観閲行進を
観覧席に座って見ていることがなんだか不思議でした。

 

続く。

 

 

潜水艦「とうりゅう」進水式 於 川崎重工業株式会社

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江田島のオータムフェスタ参加レポートの途中ですが、
神戸の川崎重工で行われた新型潜水艦の進水式に行って参りました。

潜水艦の行事は造船所内で撮影が厳しく禁じられているので、
いつものように写真を元にということはできませんが、
この貴重な行事を目撃するという特権に預からせていただいた以上、
そのときの様子を微力ながらご報告させていただこうと思います。

 

前回潜水艦関連の行事にご招待いただいたのは、今年3月、
やはり同じ川崎重工で行われた「しょうりゅう」の引き渡し式です。

潜水艦の艤装は進水式を行ってから1年半で完成するので、
だいたい今の季節に進水式を行い、3月に引き渡し式となります。

この日進水を行った平成28年度計画により建造された8127艦は、
(この数字は自衛隊が建造した艦艇の通算数でしょうか)
令和3年の3月に引き渡しが行われる予定です。

潜水艦行事の招待者は、構内で受付を済ませると、自衛官が
待機するための社屋の前まで連れて行ってくれます。

無言で歩くのもなんなので、

「良いお天気でよかったですね」

と話しかけると、

「本当です。三菱の進水で雨が降ってあの時は大変でした」

川崎重工では、潜水艦の艦首の部分に向かい支鋼切断する
命名者はじめ、立ち会っている者全てが屋内にいるので
雨が降っても大丈夫ですが、三菱では潜水艦の右舷側に
艦体と並行に観覧席があるので、屋根がないのです。


受付ではパスカードをもらい、それを建物の入り口で
駅の改札のようにピッとゲートにかざして入室します。
さすがは軍需産業、セキュリティは大変厳しいものなのです。

通常この部屋でお呼びがかかるまで待つのですが、
この日わたしは時間を潰してぎりぎりを見計って到着し、
待合室に入ることなくバスに案内されました。

バスから降りて結構長い距離を歩き進水ドックまで到着すると、
スロープを上って組み立てられた観覧台です。

絶望するくらいひどい図面ですが、macにカタリナを入れたら
途端にいろんなものが今まで通り使えなくなり、スキャンはできないわ、
ワコムインストールはペンタブレットのクッキー調整で行き詰まるわで、
恥を忍んで超やっつけ仕事の手書きの図で失礼いたします。

わたしが観覧したのは左側の招待客ゾーンでした。
観覧席はすべて自衛隊旗の意匠で覆われた艦首と向き合う形です。

わたしたちのいる席の一階には川崎重工の社員たちが、
音楽隊のこちら側には自衛官が並んでいたようです。

 

到着してしばらくすると、呉音楽隊が演奏を始めました。
これが一曲目かどうかは最初に入場したわけではないのでわかりませんが、
それが「君が代行進曲」だったのにわたしはいたく満足しました。

川崎でも三菱でも、旧海軍時代から変わらぬこの伝統の進水式において、
演奏されていたにちがいないこの曲が流れるのは、海軍時代から受け継がれる
潜水艦魂を受け継ぐ海上自衛隊潜水艦にとって大変良いことだと思えたのです。

演奏のおよそ半分は「国民の象徴」などのアメリカ製マーチでしたが、
そのあと、これも海軍時代の進水式で必ず演奏されていたであろう曲、

/ "Patriotic March" by Tokyo Band chor
 

「愛国行進曲」が演奏され、わたしは内心快哉をさけびました。

演奏の合間に、場内には待ち時間を利用して潜水艦の説明などや
撮影をしないこと、携帯の電源を切るかマナーモードにするようにという
諸注意がアナウンスされました。

アナウンスはまず今日進水する潜水艦のスペックからです。

「潜水艦の全長は84メートル、幅9.1メートル、深さ10.3メートル、
基準排水量は2,950トンでございます」

なんでも本型は、戦後我が国によって建造された潜水艦の中で
最大級の大きさなのだそうです。

「主機関は川崎12V25・25型ディーゼル機関、2基、
および推進電動機、1基1軸を搭載しております」

「ソナーなどに最新の設備が施されているほか、船体には
強度を高めるための高張力鋼を使用しています」

マンガンを添加したり、熱を加えたりして引っ張りに対して
強い鋼材のことを高張力鋼、ハイテン鋼といいます。
強度が高いのに薄いので船体の軽量化にとっても欠かせません。

とにかくこの最新鋭艦は安全性にも万全の対策が施されている、
というようなことが説明されました。

ところでわたしの描いた図で、潜水艦の脇にある「浮き」と書いた
四角いものは、現地で見ると黒い箱状の羽のように取り付けられていて、
進水後の揺れを抑える役目をするものだそうです。

ただ、この名称をいうときアナウンサーが言葉に詰まり、
正確になんといっているかわかりませんでした。
たしか「バル・・ジなんとか」と聞こえた気がします。

 

わたしの立っていた左の招待席(といっても全員立っている)
の横が、命名者である海幕長始め、本日の進水式の「当事者」となる
自衛隊と川崎重工関係者(偉い人)の立つ席です。

わたしたちのところにも隣にも、床は赤い毛氈が敷かれていましたが、
隣の席にはこれもまたきっちりと、立ち位置に名札が貼ってありました。

両脇の観客が全部位置についてから、真ん中の人たちが入ってきました。
その中には河野元統幕長はじめ、元自衛官がおり、その中の何人か、
現役時代潜水艦だった将官は、川重の顧問という肩書きで参加しておられます。

解説を挟み、音楽隊は長時間立って潜水艦の頭とお見合いしているだけの
人のために、最後まで心躍るようなマーチを聴かせてくれましたが、
一番最後に演奏されたのは「宇宙戦艦ヤマト」でした。

潜水艦の式典のために作曲された委嘱作品、「てつのくじら」は
この日聴けなかったのですが、もしかしたらわたしが到着する前に
すでに演奏が終わっていたのでしょうか。

 

 

さて、いよいよ命名者である海上幕僚長が入場し、式典の始まりです。

まずは命名者たる海幕長が

「本艦を『とうりゅう』と名付ける」

と力強く宣言すると、同時に艦体上部にある幕が取れて

「とうりゅう」

という文字が皆の前に現れます。

わたしは潜水艦の命名式に呼ばれるたびに、次は何になるだろう、
といつも遊び半分に名前の想像をして楽しむのですが、この
「とうりゅう」も一応は今回の想像の範囲内にありました。

ただし、どういう漢字を当てるのかは祝賀会までわかりません。

 

さて、国歌演奏により国旗が掲揚されてから進水式にうつります。

進水の準備、つまり支鋼一本だけで船体を支えている状態になるまで
その支えを「排除」していく作業が始まるわけです。

これが始まる時、最前列台の上には工場長(かどうか知りませんが)
が立ち、ホイッスルによる「始め」の合図を送ります。

そこから先は、残念ながらわたしたちのいる観覧台からは
潜水艦の影で行われているため、全く見えません。

ですので、「ちよだ」のときに三井造船でもらった資料を出してきます。
艦体を支えている盤木は、ピンの隙間から砂をおとすことで離れます。

そのことで船の重量は盤木から離れ、今や滑走台にかかりました。

進水する船は生身?で台を転がるのではなく、水際までは
滑走台というものに乗って進水台を転がり落ちていきます。

準備段階ではこの滑走台を止めているつっかえ棒の土台、
「ジャッキ」をおろし、つっかえ棒を外します。

そして、最後の最後に「トリガー」から安全ピンを外します。
このとき支鋼切断の数十秒前。

上の図に支鋼が見えていますが、今船体が動くのを止めているのは
この鋼一本なのです。(実際は違いますが一応こう言っておきなす)

そこまで作業を終えると、台の上で笛を吹き、手を上げたり下げたり
指差しポーズをしていた人(1)は、台の右手にいる人に

「進水準備作業完了しました!」

すると、その人(2)は、自分の後ろにいた人に

「進水準備作業完了しました!」

すると、その人(3)は、山村海幕長に

「進水準備作業完了しました!」

皆おなじところにいるんだから最初の人が海幕長に直接
完了しましたといえば済むことじゃね?という気がしますが、
そこはそれ、進水は「儀式」なのですから、こういうことも
昔から伝わる慣例通りにやらなくては意味がないのです。

すると、それを受けた海幕長が台に進みでて、このために作られた
銀色のまさかり状のオノで、自分の前に張られている支鋼を
一刀両断に?叩くと、支鋼はまず、上部で支えられていたシャンパンの
紅白の布で包まれたビンを艦体に叩きつけ、次の瞬間、
自重で艦は滑走台ごと進水台を転がり落ちていくというわけです。

 

ところで「支鋼一本で支えられている状態」といいましたが、
さすがに重量が全部一本の鋼にかかっているわけではありません。

最後の瞬間滑走台を止めているのは、実はこの図の三色のトリガーです。
支鋼は青いトリガーの下にあって、これが重力で下に落ちるのを止めているのです。

支鋼を切断すると、まず青のトリガーが下に落ち、続いて赤が落ち、
最後に黄色が外れて滑走台を止めていたものが全てなくなるというわけです。

 

この後の祝賀会で支鋼切断を行った海幕長とお話ししていると、

「自分でやっておきながらどういう仕組みであれが(支鋼を切ると)
ああなるのか(船体が転がり落ちていく)全くわかりませんでした」

とおっしゃっていたのですが、つまりこういうことなんですよ。

艦体がほとんど音もなく滑り出すと同時に、音楽隊の
行進曲「軍艦」の演奏が始まり、どこから放たれたのか
色とりどりの風船が舞い、薬玉が割れて中からリボンが翻りました。

(あとから映像を見たら、風船を放す係の人がいた)

何回見ても心躍る瞬間です。

サンテレビのニュース映像が非常に簡潔にこの日の式典とともに
「とうりゅう」のスペックについても簡潔に報じています。

リチウムイオン電池搭載 川崎重工で新潜水艦の進水式
 

潜水艦が台を滑り降りていってからしばらくしても、周囲には
シャンパンの放つ香りが強烈に漂っていたのが印象的でした。

 

このあと、バスに乗り込んだわたしは、神戸駅前の川崎重工ビルで
関係者を招き華やかに催された祝賀会に参加しました。

 

続く。

 

 

 

潜水艦「とうりゅう」進水祝賀会 於 川崎重工業株式会社

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川崎重工業における新型潜水艦「とうりゅう」の進水式が終わりました。
進水式が行われたドックから引き込み線沿いに、
クレーンを見上げながらバス乗り場に戻ると、バスはそのまま
神戸駅前にそびえ立つ川重のビル向かい空き地まで行ってくれます。

この日写真を撮ったのはいつもバッグに入れているコンデジなので、
ビルのてっぺんまでフレームインしているか眩しくてわかりませんでした。

この日の神戸は、船出を行った「とうりゅう」の行手を祝福するような
雲ひとつない青空で、後で祝賀会席上、呉地方総監杉本海将が、

「わたしは晴れ男ですからね!」

と自信たっぷりに自慢しておられたくらいです。
そういえば、幹部候補生学校卒業式の前日夜半まで降っていた雨を
てるてる坊主の力で見事晴天にした実績がおありでした。

「あんまり(晴れ男)言うと、降ってしまうのでやめときます。
あちらには今年の観艦式を雨にした張本人がいますが」

👉→→→山村海幕長

「しかし『雨男』は今禁句ですから(いいません)」

現体制の海上自衛隊も、この杉本海将といい山村海幕長といい、
海軍伝統のユーモア受け継ぎまくりとお見受けします。

川崎重工での祝賀会は、いつも本社ビルの三階ホールで行われます。

自衛隊主催の祝賀会と違うところは、会費が要らないことと、
会場に入ると、夜会巻きにロングスカートのコンパニオンが
おしぼりを渡したり飲み物を注いでサービスしてくれることです。

時計はすでに祝賀会開始時間の1330になっていますが、
おそらくこの頃まだ海幕長が工場見学をしておられたのでしょう。

会場を出たところには正帽置き場が設置してあります。
潜水艦の祝賀会ではあまり見たことがない女性幹部の帽子もあり。

陸自はおそらく伊丹駐屯地から招待されて来ていたようですが、
副官らしき自衛官がなんといまだにOD色の旧型制服を着ていました。

ここでは帽子置き場のスペースは十分にあるらしく、副官の帽子の上に
ボスのが重ねて置いてあるというおなじみの光景は見ることはできませんでした。

前回来た時と少し内容が変わっていて、まず、中華チマキがなくなり、
そのかわりに大きな魚(タイ?)の揚げ煮つけ料理がどーんと登場。

このお料理、味見してみたい気持ちは山々だったのですが、
微妙に取りにくそうだし、汁が滴れそうなので手が出せず、
どのテーブルでもほとんど減っている様子がありませんでした。

そして今回ちょっと残念だったのは、いつもの
潜水艦の名前をラベルにしたお酒の瓶がなかったことです。

微妙に緊縮財政気味なのかな、と感じたのはこれだけでなく、
本日と前回冒頭画像に使った絵葉書入りパンフレットも、
いつもはテーブルに無造作に置かれ、その気になれば
いくつでも持って帰れたのですが、今回は会場に入る時
欲しい人だけに一枚ずつ渡していたことからもでした。

小さなことにすぎませんが、これは実に氷山の一角であって、
お節介船屋さんがコメントでも書いておられるような、
造船業、特に防衛計画を請け負う業界の置かれた苦しい状況を
わたしのような部外者ですら嗅ぎ取らずにはいられません。

そしてさらにその根本原因をたどっていくと、どうしても
自衛隊が憲法で保障されていないということにたどり着くのですが、
そういう考察はまたの機会に譲ります。

 

 

さて、開式にあたり、まず川崎重工業社長よりご挨拶がありました。
少し長いですが書き出しておきます。

「本艦は平成29年1月27日に起工して以来、防衛省関係諸官の
ご指導とご支援のもと、建造を行い、本日めでたく
海上幕僚長、山村浩様により「とうりゅう」と命名されました。

上幕僚長の見事な支鋼ご切断により、(なぜか笑いが起きる)
多くの関係者の見守る中無事進水し、神戸の海に其の勇姿を浮かべました。

命名ならびに支鋼切断の大役を賜りました山村海上幕僚長、ならびに
海上幕僚監部代表、藤装備計画部長、防衛省庁代表、佐藤装備官、
そして本式典を執行されました杉本呉地方総監に厚く御礼申し上げます。

ご臨席賜りました高島潜水艦隊司令官、牛尾近畿中部防衛局次長をはじめとする
防衛省防衛省関係の諸官、吉田国土交通省運輸管理部長、
ならびにご来賓の皆様方にこころより御礼申しあげます。」

 

「本艦は昭和35年6月にお引き渡ししました戦後初の国産潜水艦、
「おやしお」の建造から数えて当社29隻目の潜水艦となります。

これまでの「そうりゅう」型潜水艦とことなり、新たに水中動力源として
大容量リチウムイオン電池が搭載されました。
さらなる水中潜航能力の向上が図られております。
当社は現在本艦を含む2隻の潜水艦の建造を進めております。

また、修理の分野では年次検査、定期検査の工事にくわえ、
潜水艦増勢に向けた延命工事を施工してきております。

日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中、
潜水艦の建造修理に携わる者として国防の一翼を担うと言う責務の元、
「とうりゅう」建造におきましても、当社の建造技術を結集して
基礎工事を進め、防衛省どののご期待にお答えし得る潜水艦として、
令和3年3月には慣行のお引き渡しをする所存でございます。

なお、当社は潜水艦以外にも航空機、ガスタービンエンジン、
各種推進機関など数多くの製品分野にご用命いただいております。

この新たなご要求にお答えし得るように、
さらなる研鑽を積んで参る所存でございますので関係各位殿より
一層のご指導ご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます」


「見事なご切断」で一部から笑いが起きたのは、おそらくですが
近くにおられた山村海幕長がそれに反応されたのでしょう。

じつは、この後海幕長とお話しさせていただいたとき、
支鋼切断のとき緊張されませんでしたか、と伺ってみたのです。

即答でした。

「無茶苦茶緊張しました!」

「進水式といっても自分が何かするわけでないので
こーんな( ̄σ・ ̄*) ←感じで横にいればいいのかと思ったら、
副大臣が出られなくなって自分がやらなくてはいけないって・・。
もう心臓バクバクでした」

海幕長のような方でもいまだに心臓をドキドキさせる場面があるとは、
海上自衛隊ってなんて刺激の絶えない活気のある職場なのかしら。

ちなみにこの前にお話しした杉本海将は、今回、
潜水艦の進水というものを自衛官になって初めてご覧になったそうです。

「初めてですか!」

思わず驚いてしまったのですが、よく考えたら固定翼機出身の自衛官は
海幕長か地方総監、しかも川崎三菱のある神戸がお膝元である
呉地方総監部にならない限り、潜水艦進水式には縁がないものなのですね。

このとき総監に指摘されたように、自衛官は自分の分野以外は
同じ海自のことでも未知の世界のまま終わるもので、
わたしのような物好きな一般人のほうが、よっぽど自衛隊について
外から見える部分に関しては詳しいものなのかもしれません。


また、山村海幕長はそのご挨拶の中で、「とうりゅう」は、
幕末の詩人梁川星巖(やながわせいげん)の七言絶句によって、

「白波雲の如く立ち水声夥(おびただ)し」

とうたわれ、巨龍の躍動に似たところから名づけられた
兵庫県加古川にある名勝、闘竜灘から取られていると説明されました。

闘竜灘は、川底いっぱいに起伏する奇岩、怪石に阻まれた激流で、
この新型潜水艦の荒々しく闘う姿にその名を被せたのです。

「とうりゅう」の配備先はまだ決まっていないそうですが、
この命名由来からいうと阪神基地隊がいいのでは?

宴たけなわ、会場ではあちこちで挨拶が行われております。

そうそう、この日祝賀会会場でわたしがお話しした自衛官が、たまたま
当ブログを読んでくださっていたのですが、この方が例の

「自衛官の旅費問題」

に中の人としての証言をしてくださったので触れておかなくてはなりません。

ちなみにこの自衛官が遠洋航海に行ったのは10年前。

「そのときは任地までの旅費は出ました」

そのときも遠洋航海から帰り即日赴任だったそうですが、もしかしたら
それまで海自では、遠洋航海の後すぐに任務ではかわいそうだから?
着任までの間休暇を挟むこともあったのではないか、という推測でした。

その方の任地は青森(ってことは大湊ですかね)だったということで、
艦を降りてから同じところに着任する何人かで一緒に移動されたとか。

ちょっと遠洋航海の延長みたいな感じで楽しかったかもですね。

 

それから、最後に河野元統幕長とお話しすることもできました。

「虎ノ門ニュースに出られた時のは全部聞かせていただいてます」

河野さんといえば、有本香さんの関係で何度か同番組に出演され、
憲法改正についても韓国との関係についても、気持ちの良いくらい
本音で語り、現役の自衛官もこう言う風に考えるんだ、とある意味
瞠目させていただいていたこともあってぜひそれをお伝えしたかったのです。

「もうやめたので、好きなこと言ってやろうと思って」(笑)

統幕長の立場だった方がこうおっしゃるのですから嬉しいではありませんか。

「是非お願いします。これからも期待しております」

お愛想でもなんでもなく、心からこのような言葉が出ました。

もうすぐお開きというとき、先ほど支鋼切断に使われた斧が
川崎重工株式会社より山村海幕長にプレゼントされました。
通例この斧は切断を行った本人に贈呈されます。

アリガトゴザイマシタ┏o  o┓ドウイタシマシテ

山村海幕長、満面の笑顔です。
きっと内心「うれぴー」と思っておられるに違いありません。

・・・・・いえ、単なる空想ですよ?

斧と切断した支鋼(右の木製のものは何?)は
しばらく会場に飾ってありました。
支鋼がまず「鋼」ではなかったことがこれでわかりました。

海幕長は、

「ほら、斧って先がこんな風に丸いじゃないですか。
その先端がうまく当たるかどうか心配で」

とおっしゃってましたが、確かに。
でもこんな洗濯ロープみたいなのなら、難なく切れるような気しません?

ところが、このとき伺ったところによると、過去、
名前は秘しますが、一回で切れなかった方もいたとか・・。

わたしが、

「外国の艦艇だとシャンパンを艦体に叩きつけて割りますが、
これが失敗すると船にとって縁起が悪いとまでいいますよね」

というと、海幕長、

「先にそのお話を伺わなくてよかったです。
聞いてたらもっと緊張したでしょう!」

またまたー、そんなことくらいよくご存知でしょうに。

 

この斧は「とうりゅう」の進水のためだけにつくられたものです。

進水式でこのような形の斧をつかうのは日本だけで、外国では
切断を行うのは槌とのみを使っていたそうです。

日本で初めて古くからの縁起物である斧を使って進水したのは
1907年、佐世保海軍工廠における防護巡洋艦「利根」でした。

なんでも、軍艦の進水式なのだから西洋式の槌とのみではなく、
日本古来の長柄武器であるまさかり状の器具を支綱切断に用いるべき、
として考案されたのがこの形の斧だったということです。

というわけで「とうりゅう」進水を祝う祝賀会も終了です。

実は現在の安全保障分野における最前線にいるのが
潜水艦であり、原子力を使わない潜水艦分野ではその技術と
海上自衛隊潜水艦隊の実力は世界のトップクラスと言われています。

その評価をさらに高めるであろう「とうりゅう」の完成が心から待たれます。

 

終わり。


懇親会〜海上自衛隊オータムフェスタ

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さて、「とうりゅう」命名・進水式のご報告も終わりましたので
江田島のオータムフェスタの続きと参ります。

観覧席に座っていた招待客は、術科学校学生館へと案内されました。
中でなにかあるというのではなく、懇親会会場が行われる食堂には
この中を通り抜けるのが近道なのです。

わたしもこの中に入るのは初めての経験です。

この学生館は、平成17年にそれまでの旧西生徒館と呼ばれていたものを
全面的に建て替えたものですが、やはり旧兵学校の関係者から
自分たちの思い出の西生徒館を壊して作り変えることに対しては
かなりの反発があったと言われています。

それらの意見と、歴史的な価値などを勘案した結果、建て替えられたものは
一見以前の建物と変わらないそっくりなものとなりました。

生徒館の廊下には、術科学校開校時の歴史的な写真が展示されていて、
かつての術科学校の様子をしのぶことができますが、この、
昭和31年5月16日に行われた術科学校開校式の写真には、
昭和13年に竣工した西生徒館が写っています。

現在の写真と細部を是非見比べてみてください。

窓枠は木製、建物の屋上はかつて洗濯物干場があったそうですが、
そこから人がひとり式典の様子を眺めているのが確認できます。

術科学校は昭和31年江田島に移転してくるまで横須賀にあり、
正式に「第一術科学校」と言う名称になったのは1958年(昭和33年)
のことなので、この写真のキャプションは「第一」のない

「術科学校開校式」

となっているのに注意です。

訓示を行っているのは第二代海上幕僚長・長澤浩海将。
海軍兵学校49期卒の長澤海将にとって、術科学校が自分の赴任中に
古巣である江田島に帰ってくることは望外の喜びだったのではないでしょうか。

ついでに、後ろに写っているアメリカ海軍の軍人ですが、
おそらく当時第7艦隊司令であった、

スチュアート・H・インガーソル中将(1898〜1983)

ではないかと思われます。

インガーソル中将はここでも散々お話ししたことがある、
ハルゼー&マケインコンビが指揮して無謀にも台風に二度も突っ込んだ
あのハルゼー艦隊の軽空母「モントレー」の艦長だった人物です。

このときインガーソル中将は、台風で大破した「モントレー」艦長として
総員退艦の指揮官命令に背いた上で必死の修復作業を指示し、
結果、艦と貴重な人命を救うという英雄的行為を成し遂げ、
その功績に対して十字勲章を授与されています。

同じ日の術科学校にて、国旗掲揚の様子。
台上はおそらく術科学校校長だと思われます。

このときの術科学校長、小國寛之輔海将補は海軍機関学校卒でした。
術科学校なので適任として任命されたのだとおもいますが、
機関卒士官が校長になるなど、兵学校時代には考えられなかったことです。

同じ日の祝宴では、なんとびっくり、大講堂で飲食をしています。
当時はこれだけの人数が一挙に集まることができる場所が
ここしかなかったということなのかもしれません。

席についている招待客はここに写っている限りでは全員男性。
立食ではなくテーブルに配膳される形式の食事のようですが、
ところどころにいるスカートを履いた女性はウェイトレスでしょうか。

それから、皆が座っている長椅子は、海軍兵学校の食堂で
学生たちが食事をしていたのと同じものだと思われます。

昔の大講堂の照明はいまのようなものではなく、
吊り下げ式のボールランプであったこともわかりますね。

この日は江田島の商店街を音楽隊を先頭に行進したようです。
長らく占領軍が駐留していた江田島ですが、これをみて
現地の人々は、

「兵学校が帰ってきた」

と歓迎したのでしょうか。
当時は道路がまだ舗装されていなかったらしいのもわかります。

この写真に写っているのはここかなと思ったのですがどうでしょう。

さて、誘導されるままに第一術科学校の中を歩いていきます。

先ほど喇叭行進をしていた航海科の女子隊員たちが
二列に隊列を組んで引き揚げていく後ろ姿です。

この右側は四方を囲まれた中庭テラスになっていて、
どこかでみたことがあると思ったら、防衛大学校でした。

防大ではここで棒倒しの最後の練習をしていましたっけ。

会場はいつもの食堂です。
前回は観桜会のときにここで宴会が行われました。

ここでも自衛隊記念行事に伴う懇親会となっています。
そしてこの横断幕なんですけど、どうみても毛筆の手書きに見えます。

観桜会の時にも

「得意分野は洋菓子です」

という女性の給養員が平成最後の桜をモチーフにした
四角いケーキをひろうしてくれたのですが、今回は
なぜかダンボをプリントしたケーキとブルーのケーキ。

なぜダンボか、なぜブルーかについての説明は特になく、
最後までどう言う意味が込められていたのかわかりませんでした。

もしアナウンスされていたのにわたしが聞いていないだけなら
どうもすみません<(_ _)>

まず第一術科学校長丸澤海将補がご挨拶。

「先ほどの観閲行進をみながら、三十?年前を思い出しておりました。
その時指揮隊長だったのが渡邊剛次郎という男でした」

おお、丸澤海将補は横須賀地方総監と同期でいらっしゃいましたか。

続いて恒例の給養員紹介コーナー。

宴会の料理にも基地柄がでるといいますか、江田島は
呉とは全く違う路線で、海に囲まれた地ならではの刺身舟盛りは基本として、
焼きそばとかコロッケパン?みたいな庶民的なお料理も顔を見せます。

ちなみに、舟盛りのこちらにあるお盆の上の白いものは、
大根のツマというのか、網大根といわれる飾り切りしたもので、
それがなぜかラップがかかったままごろんと置いてあるので、
まわりの人たちが

「これ、なんなんですかねー」

「大根ですか」

(大根なのかどうかもわからない形状だった)

「なんでこんなところにあるんでしょう」

「きっと刺身の乾きどめにするつもりがかけ忘れたんでは?」

などと話題にし、すっかり会話のきっかけと成り果てていました。

刺身のツマなので刺身と一緒に食するためのものであるはずですが、
どうもこの網大根、一切れが大きくて、誰も食べるものと思わず、
最後までラップのかかったまま放置されておりました。

お話ししていた自衛官が屋台からカレーをとってきてくれました。
第一術科学校カレーは、大豆とジャコが入っているのが特色です。

味というより主に食感に歯応えを与えるために混入しているようですが、
これがまたいけるんだ。

会場入り口に展示してあったケーキもいつの間にか切り分けられ、
これも持ってきていただいたのでいただいてみました。

ホームメイド風で(ってホームメイドなんですけど)おいしかったです。

会の締めの挨拶をされたのは幹部候補生学校長大判海将補。
前第一術科学校長だった中畑海将とは防大の同期だそうです。

この間政治家の挨拶が行われたのですが、その中に
河合克之法務大臣の妻、河合案里氏がおられました。
河合氏が出席できなかったので代理で挨拶をしたようですが、
皆さんもごぞんじのように、その直後、河合氏は他ならぬこの
案里氏の公職選挙法違反に責任を取る形で法相を辞任しています。

「政権への打撃か?」

などとマスコミと野党が任命責任ガーで大騒ぎしていますが、
その理由はというと、ウグイス嬢に二倍の日当を払っていたというもの。

規則を破ったからといわれればそれまでですが、現実問題として
今時既定の何千円かで1日いいウグイス嬢が雇えるんでしょうか。

現政権が安倍一強で崩す手立てがないので、牙城を案里ならぬアリの一穴から
(だれうま)法務大臣を辞任させ、その調子でとにかく閣僚を三人刺して
「政権に打撃を与えたい」といういずこからの悪意のある意図を感じさせませんか。

まあ、その辺りの政治的な裏読みはともかく、少なくともこの日、
壇上で挨拶をしていた案里氏の様子からは、自分が原因で
夫が危機に陥っていることにたいする動揺のようなものは微塵も感じられず、
つまり公職選挙法の話が出たのはこの後だったのだろうと思われます。

ちなみに週刊文春がこの問題を報じたのは10月30日、
河井克行氏が法相を辞任したのが10月31日、オータムフェスタは11月27日でした。

さて、懇親会も終わり、6時半から始まる花火大会までには
まだ間があるということで、わたしはまた外を散策してみました。

懇親会の出席者の一人から、江田島は海からの風が吹くので
昼間は暑くても花火大会の時は寒いかもしれない、と伺い、
車の中に置いてあったコートを取りに行こうと思いつき歩き出すと、
国旗掲揚台の下に自衛官が整列していました。

国旗降下の日没時間が近づいていたのです。

最前列には先ほど喇叭行進を行ったのかもしれない
航海科の海士君たちが喇叭譜「君が代」を吹鳴するために控えます。

しかし、今更ですがやはり若い人たちのセーラー服姿はいいものですね。

幹部・海曹の制服は時代とともに変化していっていますが、
海士のセーラー服だけはそれこそ海軍時代からほとんど変化しておらず、
それなのにいつ見ても時代から取り残された古臭い印象が全くありません。

服飾のデザインとしても完璧ということなんだと思います。

掲揚台の下には当直の海曹が国旗を降ろすために索を持って控えています。

この日、令和元年11月27日の日没時刻は1723。
それまでの、待っている我々にはとてつもなく長く感じられる何分間か、
彼らは微動だにせず発動の時刻を待っています。

 

続く。

 

 

 


秋の花火〜海上自衛隊オータムフェスタ

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オータムフェスタのためこの日江田島の第一術科学校を訪れた一般人は、
国旗掲揚台に国旗降下のために整列し静止している科員に注目しています。

自衛隊においては太陽の出入りに伴って毎日行われるルーチンワークですが、
一般人にとっては非日常的なアトラクションみたいなものです。

わたしを含め、その場の人々は今か今かと発動の瞬間を待っていますが、
待っているものにとっては大変長く感じる時間となります。

掲揚された旗の索を掲揚台から外し、立っている海曹のもとに、
もう一人、違う腕章をつけた海曹が木箱を捧げ持って近づきました。

これは降下した国旗を明日の朝まで収納しておく収納箱です。
今まで気がつきませんでしたが、竿の根元にはこれを設置する専門の台があります。

掲揚台足元に二人がそれぞれ索を手に立ちました。
江田島の国旗掲揚竿は長いので、護衛艦などの自衛艦旗掲揚降下とちがい、
揚げ下げのペースを思いっきり早くしてやっと間に合うという感じです。

自衛隊の旗掲揚降下は何度もみていますが、ラストサウンドがきたときに
ぴたりと上に揚っている状態にするために、索を繰る速度については
あれでなかなか遣うものではないかといつも思います。

自衛隊のことだから、早すぎても遅すぎても厳しく指導が入るでしょう。

右側の海曹が索を引き、左がその補助と言う形です。
これも海自のことなので右側が先任だったりするのかもしれません。

左の海曹は索が地面を擦らないように、まとめて持っています。
細部の細部までその行動に意味のないことは全くない、それが海上自衛隊。


ところで、わたしはこのオータムフェスタがすんでから、わけあって再び
江田島第一術科学校に訪れ、朝の国旗掲揚を見る機会がありましたが、
そのときの掲揚は喇叭隊なし、君が代は放送、旗を降ろすのも一人でした。

毎日この形で行われているわけではないことを改めて知った次第です。

緊張感の漂っているのは隊員のいるところだけで、
人々は完全にリラックスムードでこの様子をみています。

別にどんな格好でも構わないと思いますが、国旗掲揚台のすぐ脇で、
シートを広げて座って国旗にお尻を向けたままというのは、
いくらなんでも、と言う気がしないでもありません。

「時間」

この号令で国旗降下発動です。
航海科からなる喇叭隊がラッパを構えました。
左端の自衛官は敬礼のためにちょうど右手を挙げたところです。

索を取るために大きくクロールのように手を動かす自衛隊独特の動き。

海軍兵学校の時代から国旗掲揚台は変わらずこの場所にありました。

このときふと思ったのですが、戦後役10年間、つまり昭和31年に
術科学校がここに帰ってくるまで、この掲揚台に日本国旗ではなく、
占領軍の国旗が揚がったことがあったのだろうかと。

終戦後、広島・呉地方にはアメリカ軍ではなく、イギリス連邦軍が
アメリカの補助という形で(というかソ連などの介入を防ぐため)
駐留しており、その本部があったことは前にもお話ししました。

このイギリス連邦軍とは、

オーストラリア・ニュージーランド・イギリス・カナダ

の四カ国からなります。
その場合、軍隊駐留地での国旗掲揚はどうであったかというと、

こうなるわけですね。

これは呉からイギリス連邦軍が撤退する日の写真です。

呉鎮守府庁舎を接収した連合軍が、自衛隊音楽隊が演奏する
イギリス国歌に合わせて四カ国の国旗を降下しているシーンですが、
これによると、占領期間、庁舎前には国旗掲揚台が5竿あったようなのです。

4カ国なのに竿が一本多いのは親玉であるアメリカのためだろうと思われます。

というわけで、おそらく兵学校跡においても、イギリス連邦軍のために
掲揚竿が5本あったと想像されるのですが、それらしい写真はありません。

実際のところ、連邦軍は昭和23年以降はほとんど兵力を減らし、
実質この地方に進駐していたのはオーストラリア軍だけだったといいますから、
もしかしたらここ江田島の象徴的な国旗掲揚竿には、
31年まで豪州旗が揚げられていたという可能性もあります。

 

話を戻しましょう。

索を引いている右側の海曹が国旗を手にします。

ラストサウンドのあと、行動の終わりを意味する

「ドッミド〜」

まで、国旗を胸に抱えるような位置で保持し、そのあとは
丁寧に旗を畳んで箱に収納し、その場を引き上げます。

じつにいいものを近くで見せてもらいました。

さて、続いてはいよいよ江田島名物秋の花火です。

赤煉瓦の前の芝生にもシートを敷いて花火大会の場所をとっている人多数。
手前では子供が地面に転がってるし。

いつもの江田島しか知らないみなさん、この光景にびっくりでしょ?

花火大会は夕刻6時30分から開始されます。
なにしろグラウンドは広いし、どこに座っても確実に見えるので、
よくある有名な花火大会前の殺伐とした雰囲気は皆無。

訪れた人々はのびのびと芝生の上でくつろぎながら始まるのを待ちます。

招待客のためにパイプ椅子が並べられています。
この席も例の席次表によってきっちりとどこに座るか決められています。

花火大会の頃には帰ってしまう来賓もけっこういたので、
かなりの空席が見られました。

序列を大事にする海自の決めた席次ですので、花火の見物席も
最前列は学校長と政治家だったりしますが、
はっきりいってどこに座っても見え方はまったく同じです。

ところで、この日花火があるとわかっていながら、二泊三日の旅行で
間に慰霊式をはさみ荷物が多い移動とあって、わたしは
花火撮影には必須である三脚を持ってくることを全く考えませんでした。

しかたがないので、設定をバルブにし、あとはできるだけ
カメラを動かさないように、脇を閉めて胸の前に持ち、
ファインダーも全く覗かないでMEKURA撃ちすることにしました。

そして撮れたのが案の定こんな写真です。
手ブレは防げていても端っこが欠けているというね。

まあそういう次第ですので、真剣に撮った写真だと思わず見てください。
花火は江田の沖に浮かべた船の上からあげられ、どこにいても
江田島名物の真っ直ぐ伸びた松の木がこのようにシルエットに入ってきます。

会場には、小さい女の子が花火が上がるたびに

「たまやー」

(かぎやはなし)

と叫んで、周囲の暖かい笑いを誘っていました。 

夜には風が強くなるので、花火の煙がすぐに消えて空がきれいになるのも
この季節に花火を行うメリットの一つかと思われました。

しかし、去年は海側から強風が吹いてきて、花火の煤や殻が、
皆グラウンドの方に流れてきて、次の日掃除がたいへんだったとか・・。

今年はその点でもベストな状態だったのではないでしょうか。

小花の開く花火は、打ち上げられてからいっぺん沈黙?して、
忘れた頃ぱっと花開くので、わたしの前の第一術科学校校長は

「失敗したのかと思った」

と幹部候補生学校長に話していました。

赤一色の小花。
こういうのを「千輪菊」というそうです。

ところで、なぜここではオータムフェスタに花火が行われるのでしょうか。

その理由は、昨年夏西日本を襲った水害でした。
例年江田島ではサマーフェスタで江田内の花火を売り物にしてきたのですが、
豪雨災害の復旧作業に呉の自衛隊が全出動し、さらに被害の大きさに
イベントは全て自粛され見送られて花火大会もなくなりました。

しかしご存知のように、花火というのは賞味期限?があるので、
夏にやるつもりで調達していた花火は早く使い切る必要があるから
オータムフェスタにそれを上げてしまおうということになり、
昨年初めて「秋の花火大会」が行われたのでした。

ところが実際にやってみると、夏場より参加者は快適だし、
陽が落ちるのが早く、そのため早く開始でき早く終わるので、
参加できる人も増え、おまけにもう花火などどこでもやっていないので
オリジナリティという意味でも名物になりそう、といいことだらけ。

というわけで、今年から江田島ではオータムフェスタに花火大会を行う、
ということに決まったということでした。

花弁がひらひらと散っていくところが表現されています。

吹いてくる風の冷たさのせいでしょうか。
秋の花火は夏とはまた違う切なさをはらんでなかなかの風情でした。

というわけで花火大会は無事に終了。
皆が一斉に外に向かいます。

夜の第一術科学校の中は、関係者でもないと
まず立ち入ることはできないのではないかと今まで思っていたのですが、
江田島市民にはその特別な景色をみる特別な場が提供されていました。

ただし、この後現場から帰り着くまでが長かった。

まず、一つしかない出口からたくさんの車が出るのに、
歩いている人優先で車が堰き止められ、校内から出るのにたっぷり30分かかり、
さらにはフェリーが終わっているので、皆が同じ道を
同じ方向に進むしかなく、一本しかない道が大渋滞。
呉のホテルに帰るのにたっぷり1時間半かかってしまいました。

しかし、さすがは自衛隊だけあって、人と車を捌くのも非常に慎重ながら
手際がいいせいか、現地での混乱のようなものは全く起こりませんでした。

当たり前のことのようですが、事故もなくこれだけのイベントを
無事円滑に運営できるのも、自衛隊という組織ならではです。

というわけで今年も自衛隊記念日一連の行事に無事参加できました。
ご招待をいただきました海上自衛隊の皆様には心よりお礼を申し上げます。

 

自衛隊記念日シリーズおわり。

 

 

第一共和国の崩壊とアンシュルス(併合)〜ウィーン軍事博物館

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さて、一連の自衛隊記念日行事のご報告も終わりましたので、
もう一度ウィーン軍事博物館展示の紹介に戻ります。

 

「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台であるザルツブルグ滞在をきっかけに、
あの映画でモデルにされていたフォン・トラップ少佐(映画では大佐)が
K.u.K海軍の潜水艦乗りであったことをお話しするついでに、
作品の背景であるアンシュルスについても少し触れてみました。

ここからは、ウィーン軍事史博物館の第一次世界大戦後の世界からで、
ドイツと合邦となるアンシュルス成立まで存在していた

第一共和国とアンシュルス

について関係資料とともにお話しします。

ちなみに「アンシュルス」とは「接続」という普通名詞で、
同時にこの時代行われたオーストリア併合を指す固有名詞です。

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は大きく変わりました。
68年間の長きにわたって帝国を統べてきたたハプスブルグ家の皇帝、
フランツ・ヨーゼフ1世が戦争中の1916年死去したのです。

元はといえばサラエボ事件を受けてセルビアに宣戦を決めた当人が
まだ戦争が継続しているうちに亡くなったことになりますね。


当初3ヶ月で終わると信じて政府を支持して戦ってきた帝国内の諸国民も、
多民族国家で言葉の統一さえできていないKuK軍が案外弱っちくて、
いきなり初戦でセルビアに負け、あとはドイツに頼るのみ、みたいな
情けない状態に陥ったこともあり、すっかり倦厭のムードが蔓延していました。

そのムードを決定的にしたのは、1917年のアメリカ参戦でしょう。

なぜ、アメリカは第1次世界大戦に参戦したのか?

超イケイケの新興国、歴史はないが基礎体力は余りまくりの
アメリカが参戦したことで、戦争は大きく終焉に向かいました。

アメリカの参戦についての建前は、自らを民主国家と位置づけたうえでの

「封建主義との戦い」

でしたが、封建主義と名指しされたKuK諸国民自身も、アメリカの快進撃を前に、
帝国主義ってもうダメじゃね?な自虐とともに厭戦気分が高まり、
国家は民主的連邦制に向けて大きく舵を切らざるを得なくなったのです。

カール・ヨーゼフ亡き後、最後の皇帝となったカール1世。
彼は、サラエボ事件で暗殺された兄の代わりに、望まぬことながら
皇太子に指名されていましたが、皇帝の崩御に伴い皇帝の座につきました。

 

当時、オーストリア=ハンガリー帝国は、戦時中特例として議会を廃止し、
皇帝が大権を発動する体制になっていたのですが、戦時下の国内では
これを不満として、あるいは直接的には生活の困窮により、
労働者の大々的なデモが発生することとなります。

そのことが不承不承皇帝の座についた(と思われる)カール1世を
決定的にメンタルダウンさせ、戦後まもない1918年には、
彼は皇帝としての権利を放棄し亡命してしまうのです。

その瞬間、何世紀にもわたって続いてきたハプスブルグ帝国は崩壊します。

そして生まれたのがオーストリア第一共和国でした。

ウィーン軍事史博物館の次のコーナーは、このオーストリア革命後の
共和国時代の展示です。

この一番下のポスターをご覧ください。
新しく生まれた赤ちゃんを夫と子供に見守られながら抱く女性。

良い子には平和とパンが必要です

だからこそ女性たちよ、選択してください!

 

国内で厭戦気分が蔓延していた頃、ロシアではボリシェビキ革命が起きました。
別名十月革命のそのモットーが「パンと平和」でした。

共和国となったばかりのオーストリアには、このような
十月革命をお手本にしたようなメッセージが溢れていたのです。

右上の社会労働党のポスターも、実にソ連っぽいですね。
いわゆるオーストリア革命後、国政の主導権を握ったのがこの社会労働党です。

ここでわたしのこれまでの浅薄な知識では予想外の?ことが起こるのです。

この政権下では、かつて帝国下にあった諸国が独立してしまい、
これではオーストリアだけで一国を更生するのは難しいとして、
指導者たちはやはり敗戦したドイツとの合邦(アンシュルス)を目指したことです。

これって、併合を目指すのは右左でいうと左派だったということですよね。
民族主義と労働党というのはなんとなく無関係のような気がしていたので、
しばらくこの関係を把握するのに時間がかかってしまいました。

それはともかく、案の定国内は一枚岩ではなかったので、ナチス政権が誕生すると、
オーストリアは合邦の是非で真っ二つに割れることになります。

 

当時の二大政党は、左派の社会民主党と保守系のキリスト教労働党で、
大統領はキリスト教労働党出身のエンゲルベルト・ドルフスでした。

くどいようですがもう一度書いておくと、社会民主党が併合賛成派、そして
ドルフスのキリスト教労働党は反対派ですので念のため。

こちらは博物館所蔵の肖像画。
肖像画なのでちょっと割増しに描かれているようです。


写真だとこんな人物でした。

・・・・もしかしたらこの人ものすごく背が低いんじゃね?

と思ったら、要求される最低身長に2センチも足りずに、
軍隊に志願するも入隊できなかった悲しい過去があることがわかりました。

この写真はのちに別の手で入隊を果たし、堂々と誇らしげに軍服を着る
ドルフスの姿です。


さて、一足飛びに結論からいうと、彼はドイツとの合邦に反対だったため、
その後オーストリア・ナチスの手によって暗殺されています。

それがきっかけでオーストリアはアンシュルスに向けて舵を切ることになります。

ここになぜかドルフスの暗殺された日を記した石碑があり、
そこには、

連邦首相 博士

エンゲルベルト・ドルフス

+1934年7月25日

新しいオーストリアの憲法を正義の精神において制定す

と書かれています。

この憲法というのは実はイタリアファシズムに倣ったものなのですが、
この碑文からはそのようなことは読み取れません。

 

ナチスに暗殺され、その後オーストリアがアンシュルスに傾いたことから、
ドルフスは独裁と戦った民主主義者、
と勘違いする人も多いようですが、決してそうではなく、彼もまた、

オーストロ・ファシズム

と呼ばれる独裁体制で共和国を統一しようとしていたのに過ぎません。

戦後のハリウッドが、あのフォン・トラップ少佐を自由陣営側に祀り上げ、
悪のナチスの独裁と対峙したかのように、いかにもアメリカ人らしい
善悪二元論で描いた映画「サウンド・オブ・ミュージック」について
わたしは、

「フォン・トラップ少佐はオーストロ・ファシズム支持の側であり、
ナチスとの合邦に反対した理由は、ナチスと共和連邦政府、
この間で行われた独裁者同士の『てっぺんの取り合い』に負けた方、
つまりやはりファシズムを支持する同じ穴の狢」

とツッコんだのを覚えておられるでしょうか。

ドルフス政権の思想は、やはり独裁体制のムッソリーニのファシスト党と
大変近かったわけですから何をか言わんやです。

 

ただし、ここでお断りしておきたいのは、「独裁」という言葉の定義です。

現在の価値観ではヒトラーとムッソリーニ、スターリンのせいで独裁が悪となっていますが、
NHKの映像の世紀でも言っているように、帝国主義が崩壊したこの時代、

「世界的に人々は強い指導者=独裁者を求めていた」

という背景を念頭におく必要があるでしょう。

現にドイツの経済をV字回復させたヒトラーを、国民は強く支持していたのです。

 

 

 

 

続く。

 

「革命」〜アンシュルスと民族主義の行方〜ウィーン軍事博物館

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ウィーン軍事史博物館の展示を元にヨーロッパの戦史について学ぶシリーズ、
(そうだったのか)第一次世界戦の勃発とともにオーストリアが巻き込まれた
帝政の終焉と、そのあと革命を経て彼らがなぜナチスと同化し、
アンシュルスの道を選んだかというテーマでお話ししております。


さて、ここで少し時をドルフス暗殺前に巻き戻しましょう。

ドルフスは、政権を握ると、1933年に議会を廃止しました。
自分の独裁体制確立のために、社会民主党の声を封じる手段を取ったのです。

前回も言いましたが、このことを現在の価値観で論じるべきではないでしょう。

ドルフスが世界恐慌のあおりで起こった経済危機をなんとか乗り切ろうとしたとき、
独裁体制が一番手っ取り早かったということであって、オーストリアの覇権を、
とか、世界征服を目指していたとかいう話ではないのです。

「歴史には善悪はない」

と当ブログ主はよく言いますが、帝国主義の時代の植民地支配が
悪ではなかったように、この時代、激動のヨーロッパで人々が
強い独裁者を求めたのはある意味当然でした。

石坂洋次郎だったか、昭和20年代の学校を舞台にした青春小説に、
主人公の女先生が、冗長な職員会議の間あくびを噛み殺しながら、

「夏の帽子のリボンの色を決めるのに何時間も会議する。
こんなときはついヒトラーは偉いなと思ってしまう」

と、今ならポリコレで問題視されそうな感想を持つシーンがありました。
独裁主義の良さというのは、何と言っても「話が早い」ことです。

夏の帽子のリボンの色だって、ヒットラー総統が一言、
「ピンク」といえばピンクになり、誰からも異論は出ません。

戦後の世界では、民主主義が善、ということになってしまっていますが、
当然ながら民主主義にもおのずと欠陥と限界があります。

衆愚政治

多数決が良くて、皆が選挙で選んだ一人が決めるのがなぜダメなのか、
納得できる理屈をご存知の方、ぜひ教えて欲しいと思います。


さて、写真をご覧ください。

第一共和国下の軍服の向こうに見えるポスターには、

HEUTE ROT-MORGEN TOT
(今日の赤は明日の死)

として、赤い人の後ろに骸骨が影となって同じポーズをしています。
社会民主党の政治活動の場を奪ったドルフスは、続いて
自分の独裁体制を脅かしかねない、
オーストリア・ナチスの活動を停止しました。


さて、ここまでやると、当然ながら反動というのが予想されます。
ドルフス首相の運命やいかに。

って、暗殺されるんですけどね。

こちらは共和党の軍事組織、「防衛同盟」の制服です。

ナチスの鉤十字と骸骨の組み合わせのポスターが見えます。
革命前夜、両陣営のプロパガンダ合戦も熾烈だったのでしょう。
ナチスと組むことは死に通じる、反対派はこう気勢を上げました。

もちろんオーストロ・ファシズムの旗手であるドルフス大統領も
こちらの側です。

ドルフスは、社会民主党と社会主義者たちの団体「防衛同盟」に対して
活動を停止したり解散命令を出すなど圧力をかけ続けたため、その結果、
1934年、社会主義者たちはついに武装蜂起を行いました。

Gemälde von Maximilian Florian: ”Die Revolution”

オーストリアの画家、マキシミリアン・フローリアンが描いた「革命」原画が
ここウィーン軍事史博物館には展示されています。
画家マキシミリアンは1934年の2月、この武装蜂起の目撃者となりました。

赤いドレスを着た女性は赤い人たち、つまり「革命」を表していますが、
彼女は死にかけている人によって後ろから抱きつかれています。
そしてこれから、死者と負傷者が重なる部屋の奥に引きずり込まれるのです。

このことから想像するに、マキシミリアンが立っていたのは現政権側、
つまり「社会主義者ではない方」ということになりますが、だからといって
この革命を起こす側がナチス支持派かというとそうとも言えなかったのです。

なんでもそこに落とし込むなと言われそうですが、オーストリア含め
欧州情勢はとにかく複雑怪奇(by平沼騏一郎)だったのです。

 

その後、この絵の示唆するように、防衛同盟・社会民主党のの武装蜂起は鎮圧され、
蜂起を指導していたバウアー外相ら社会民主党の指導者は亡命を余儀なくされます。

この暴動の結果、1,000人以上の市民が死傷し、1,500人が逮捕されました。
防衛同盟のうち9名が裁判にかけられその後処刑されています。

革命によって雨降って地固まるというのか、社会民主党やその系列の労働組合は壊滅し、
ドルフスの権威主義的独裁体制はこの瞬間確立されたのです。

しかし、その政権は短命に終わりました。

4月30日に、イタリアファシズムに倣った憲法を制定し、国号を

「オーストリア連邦国」

とした3ヶ月後の7月25日、ドルフスはナチスの一派によって暗殺されます。

後ろの布告は全くフラクトゥールが読めず、ほとんどお手上げだったのですが、
なんとか大きな文字だけ読んでみると、

宣言 憲法の優位性について

という声明が暗殺事件後、一種の戒厳令状態となったウィーンで
市長の名前で出されていたことがわかります。

 

ドルフスが暗殺されたのが直接の原因ではありませんが、
結果としてこの後オーストリアは併合に大きく傾いていくことになります。


アルバムで軍隊の視察をしているのは、クルト・シュシュニックです。

ドルフス内閣で法相を務めていた彼は、ドルフスが暗殺されると、すぐさま
後任として首相に就任し、ドルフスの路線を引き継いで、
オーストロ・ファシズム=独裁体制を維持しようとしました。

そのやり方とは、ドルフスが実施した国民議会の停止や社会主義者への弾圧、
大量の(1万3,338人)政治犯を逮捕し、さらには

「オーストリアの評判の保護のための連邦法」

を制定して海外メディアの報道を統制するといったドルフス路線の強化です。
その上で経済統制も行なっています。

 

ヒトラーはシュシュニックに、露骨に圧力を加えて併合を迫ってきますが、
ドルフスと同じくナチス嫌いだったシュシュニックは、まず、
オーストリアの独立を訴える演説を行った上で、

24歳以上の国民に対し併合の是非を問う国民投票

を行うということを決めます。
なぜ24歳かというと、当時ナチスはオーストリアの10代、20代前半に
絶大な人気があり、支持されていたため、その層をカットしたのでした。

(投票を呼びかけるシュシュニック)

その下にあるのが国民投票前に行われたプロパガンダのポスターだと思われますが、
ここで下の写真の帽子を被った青年は

「首相、あなたは自分自身を信頼することができます。
あなたの若者たちはあなたのためにはいと言います」

この時シュシュニックが提唱した国民投票は、

「自主独立」か「ドイツとの併合か」

という二択でした。

隣のデスマスク(つまり死んだ人)も、

Auf dass er lebe,
stimmen mir mit "Ja!"

「彼は生きていれば私と共に”はい”と投票する」

なんかよくわからんコンセプトのポスターですが、まあそういうことです。

ヒトラーはこの国民投票に激怒し、カイテルに軍隊を出動させ、
やめなければ武力を振るうと脅迫を行いました。

シュシュニックは脅しに屈して辞任、その後、ドイツ軍はオーストリアに無血入城。
その上で行われたのが、新たな国民投票だったのです。

そう、アンシュルスはこのような形で「合法的に」成立しているのです。

これが国民投票のときに使われた用紙です。

「あなたは1938年3月13日に制定されたオーストリアと
ドイツ国の再統一に賛成し、我々の指導者、
アドルフ・ヒトラーの党へ賛成の票を投ずるか」

併合に誘導する質問に対し、「ヤー」か「ナイン」に印をつけるのですが、
実に露骨に「はい」は大きな丸、「いいえ」は小さな丸であることに注意。

オーストリアとドイツで同時に行われたこの投票で、
99パーセント強の両国民がアンシュルスに合意しました。

無記名とは言えナインに票を投じた勇気ある人々も1パーセントはいたわけですが。

アドルフ・ヒトラー総統の横顔の下には、ナチス党の有名なスローガン、

Ein Volk Ein Reich Ein Führer
(1つの民族、1つの国、1人の総統)

が記されています。
このスローガンはどなたも一度は見るか聞くかしたことがあるでしょう。

しかし、ここまでの経緯を振り返ると、このスローガンが、
オーストリア併合によってオーストリアがドイツの州となり、
ゲルマン民族(一つの民族)による一つの国が生まれたことを
明確に述べていたのにあらためて気づきます。 

繰り返しますが、この時、国民の99パーセントが併合に賛成しました。
しかしこの時、ドイツ人はともかく、オーストリア国民の99パーセントが
本当に自分の心に嘘をつくことなく「ヤー」に丸をつけたと思いますか?

 

合併直後から、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や、そして
反ナチス的愛国主義者、知識人などへの弾圧と粛清が始まりました。

もし正直に「ナイン」に印をつければ、そのことで自分たちの命が脅かされるとして
心ならずも「ヤー」に投票した人も多かったと思われます。

オーストリア軍への粛清は特に厳しく、合併に反対した将軍が暗殺され、
そんなことからナチスに忠誠を誓うことを嫌って亡命する軍人もいました。

ゲオルク・フォン・トラップ少佐もその一人でした。

ナチス・ドイツのオーストリア統治は、従属を強要するものであり、
オーストリア人は「二流市民」として扱われて、汚れ仕事、典型的なのが
ユダヤ人迫害に関する仕事に動員されたりしたという話もあります。
(この部分証拠資料に基づいて書いているわけではないので念のため)

 

「サウンド・オブ・ミュージック」でも語られていたように、
オーストリアは戦後一貫して「ドイツによる侵略の犠牲者」という立場で
国家再建を行ってきました。

粛清をちらつかせた国民投票など、我々の意思ではなかった、あれは
あくまでも強制されたものだった、という立場を取ったのです。

それは、そうすることによって分断されたドイツの巻き添えを避けるという
現実的な保身からきたことではありましたが、これなど、国家経営とは情緒ではなく、
筋を通したり自分の過去に誠実である必要もなく、ある時にはなりふり構わず
国益を優先することもありうる、と教えてくれる一つの例ではないかと思います。


しかしながら、喉元過ぎればとでもいうのか、移民問題に揺れる現在のヨーロッパで
本家のドイツにこれらを排斥しようとする動きが起こるのと呼応するように、
オーストリア国内でも、昨今はドイツ的民族主義が台頭する動きがあるのだそうです。

例えば、2013年にオーストリア国民を対象として行われた世論調査では、
4割がナチス政権下の生活はそこまで悪くなかったとし、
6割が強い人が政府を動かすべきであり、
5割以上がナチス党が再び認められれば非常に高い確率で議席獲得する
と信じているという結果が出たそうです。

 

歴史に善悪はない。
この結果を見てあらためて確信するのは決してわたしだけではないでしょう。

 

続く。

 

 

ピッツバーグで出会った動物たち

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アメリカに来ると、野生の動物が多いのに最初は驚きます。

ピッツバーグのように、いわゆるダウンタウンから車で数分で
ちょっとした森林地帯でもある巨大な公園があるところならなおさら。

ただし、このことは、アメリカならではの問題も引き起こしていて、
車の犠牲になる野生動物の数は半端ではありません。

特に東部でフリーウェイを野生動物が轢かれて死んでいるのを見る頻度は
毎日走っていて3回に1回くらいの割合になるでしょうか。

わたしなど、何度遭遇してもこれには慣れず、道路の脇に
それらしいものを遠目に発見したが最後心臓がバクバクして
できるだけ見ないように目を背けるのですが、しばらく気分は落ち込みます。

今回ピッツバーグに着いてすぐ、フリーウェイ合流点で轢かれた鹿を見ました。
カーブを曲がったところに迷い込んだ鹿を避けようがなかったのでしょう。

同じくわたしもカーブを曲がった途端、遺骸をもろに見てしまい、
思わず小さく悲鳴をあげて家族を驚かせてしまいました。

しかも、衛生局が出動するのにまる三日はかかり、やっと片付いたと思っても
その後いつまでたっても道路に夥しい血が生々しく残っていて見るのも辛く、
そこを通る時にはいつも心の準備をしたものです。

さて、初っ端から気分の滅入る話をしてしまいすみません。

ここからはピッツバーグで遭遇した動物たちをご紹介します。
アメリカには日本の野良猫並みにあちこちにいる野うさぎ。
このウサギは大学のキャンパス内をウロウロしていました。

そして散歩していると3回に一度は遭遇するのが鹿。
これは斑点があるので子鹿ですが、その割にひねた顔をしています。

斑点のある子鹿は、大抵親に連れられて子供二匹という組み合わせで
行動していますが、子鹿だけで歩いているのも何度か見ました。

ピッツバーグ市内にあるシェンリーパークには天敵がいないらしく、
人にもある程度慣れていて、あまり近づかない限り逃げません。

子鹿二匹連れてきて、子供は掘ったらしで食べるのに夢中だった母さん鹿。

夜の8時くらいにMKが大学の研究室にお茶のボトルを忘れたというので取りに行き、
ついでに研究室の中を見せてもらって出てきたら、公園に鹿の群れがいました。

右側席のMKにカメラを渡して撮ってもらいました。

アメリカにはどこにでもリスがいます。
特に都会ではほとんどドブネズミの扱いなんだそうで、SATCでも
自称シティガールの(といってもあの四人全員30〜40なんですけど)
キャリーが「田舎大好き男」のショボい山の中のロッジに連れて行かれて
窓にリスが来るたびにギャーギャー騒ぐというシーンがありましたっけ。

 

この辺りのリスは小さくてシマシマで、しっぽがネズミのように細く、
地面を忙しく横切る姿をなんども目撃しました。

こういうリスを英語では「チップモンク」と呼び、尻尾のふさふさした
「スクヮレル」とは別の種類に区別しているようです。

地面にはこんな蜘蛛も走り回っていました。
日本の「イエユウレイグモ」に似ていますが・・。

アメリカに着いて二日目の散歩に出た日、家に帰ってきたら隣の芝生に
大きくて物静かな犬が座っていました。

彼の写真を撮りまくっていると、バックヤードから飼い主が戻ってきました。
1ヶ月だけお隣さんになりますのでよろしくね、とあいさつすると、
おじさんは自分がジョンだと名乗り、

「2週間くらい前にこのうちを買って引っ越してきたばかりなんだ」

と嬉しそうに言いました。

ジョンはちょうど「ウォーミングホーム」のための作業の真っ最中で、
毎日新しい家を住みやすくするため忙しく立ち働いていました。

アメリカでは家を買うときお仕着せのリフォームを好まず、
修理からペンキ塗りから全部自分でやってしまう人が多いのです。

その後、ジョンがポーチに飾り付けをしたり、クーラーを付けたり、
周りの土を耕して花を植えたりと毎日忙しく働いているのを目撃しましたが、
この物静かな犬にはこの時だけでその後二度と遭遇することはありませんでした。

このときも吠えもせず、かといって尻尾もピクリとも動かさず、
じっとわたしたちを見送っていました。

なんだか悟りきったような、賢人のような趣を讃える犬でした。

別の日のこと、家のまえの芝生でやはり憩っているネコ発見。

ネコだネコだとわたしたちが騒ぎ出すと、うるさいなあと言わんばかりに
立ち上がって行ってしまいました。

が、あくまでも追いかけて行って後ろから写真を撮るわたし。

「野良猫がいるのかな、この辺」

後日判明したところ彼女は野良ではありませんでした。

ある日キッチンで夕食の支度をしていると、外から猫の声が聞こえたので、
それっとばかりカメラを持って窓辺に近寄ると、この灰色の猫が
別の黒猫を威嚇して追っ払っている最中でした。

威嚇の態勢なので尻尾を巻き込み、後脚は爪先立ち?しています。
黒猫は身体は大きいのにすごすごと逃げて行き、彼女は満足して
このあとここに座り込み、しばらく天下?を満喫していました。

冬の寒さが半端ではないここピッツバーグでは
おそらく猫どもも外で越冬することはできないと思われますので、
彼らもどこかの飼い猫だったりするのかもしれません。

また別のある日、二軒隣の家の窓にサビ猫がいるのを発見。
ネコだネコだとまたしても近寄っていくと、伸び伸びポーズをしてくれました。

この日、この家の住人が若い男性で、白黒の犬とこの白黒猫、そして
窓際のサビ猫、合計犬猫三匹を飼っていることを知りました。

この白黒の「ソックス」は(多分そういう名前だと思う)、飼い主が
犬の散歩に行っている間、外に出してもらえて、
彼らが帰ってくる頃、家の前をうろうろして待っているのです。

このあと、白黒の犬と主人が帰ってくると、ソックス猫は、
おかえり〜、とばかりに尻尾をピンと立てて二人をお迎えし、
一緒に家に入って行きました。

犬も白黒、猫も白黒で柄が一緒。

偶然なのか意図的に犬猫の柄を揃えたのか、ぜひ聞いてみたかったのですが、
飼い主の若い男性とはそれっきり会うことはありませんでした。

ところでこのソックス猫ですが、ある日わたしが猫語で話しかけると、
確信的にずんずんと近寄ってきました。

この時のわたしとソックス猫の会話?は現在でも動画に残してあります。

わたしが呼びかけると彼女が明らかに反応し、返事をする、わたしよびかける、
猫返事、とちゃんと双方向の会話になっていて意思疎通できているみたいです。

ネコも人間の呼びかけにちゃんと返事してくれることを実証してくれた感じです。

猫といえば、シェンリー公園でこんな張り紙を見ました。
彼女がいなくなったらしい、ウェスティングハウスの銅像の近くの
トレイルを中心に、飼い主は何枚もポスターを貼っていました。
マイクロチップを埋め込んでいるというのに見つからないのでしょうか。

別の張り紙には、

「多分お腹をすかせています」

「見つけてくれた人には謝礼の用意あり」

などと書かれていて、飼い主の心配ぶりに心が痛みました。

ピッツバーグは冬になると五大湖に近いだけに猛烈な寒さなので、
まだ夏場でよかったというものの、何日に一度かは
猛烈な雷雨が降る天気が続いたので、飼い主も気が気ではないでしょう。

キャットフードしか食べたことがないネコは、そうなった時
一体何を食べたらいいのか自分でなんとかできるまで時間がかかりそうです。

1日も早く飼い主のもとに帰るか、そうでなければリビーくんに野生の本能がめばえ、
バリバリ狩をして新鮮な獲物を口にし、そのおいしさに

「今までむさぼっていたのは食べ物ではない。
あれは家畜の安寧にすぎなかったのだ」

と気づくか・・・いずれかの結末を祈るばかりです。



さて、そのうちAirbnbで借りた家をチェックアウトする日がやってきました。

MKの入寮まで三日ありますが、オーナーが次の予約を入れていたので、
取り敢えず地元のホテルで待機することになったのです。

Airbnbのチェックアウト時間は10時ということだったので、
前の夜から用意しておいて、朝に最後のゴミ出しをし、リネンを
オーナーに言われたように全部剥がして袋に入れるなど忙しく動きまわり、
それも済んだので車にトランクを積むために外に出たところ・・・・・、

ソックス猫の同居猫が、また窓側にいて外を見ていました。

このネコにもソックス猫にしたようにネコ語で話しかけてみると、
やはりいちいち返事をしてくれます。

そして、会話の最後に猫伸びポーズをしました。
どうも彼女にとって、このポーズは

「暇だから付き合ってあげたけど飽きたからもう終わりにゃ」

という意思を意味しているようでした。

そして横になったままこちらをじっと見つめていたので、わたしは
彼女に丁重なお別れの言葉を述べ、ピッツバーグを後にしました。


そして月日が経ち、ニューヨークでいつも通りわたしが現地のトレイルを探し、
日課の散歩をしていたある日のこと。

トレイルの脇から猫の影が現れたので呼び止めてみました。
もしやあなたはピッツバーグで行方不明だったアビーさん・・・なわけないか。 

 

終わり。


映画「原子力潜水艦浮上せず」〜"Congratulations, Skipper!"

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気がつけば潜水艦ものを選んでいる当ブログ映画部ですが、
今回もチャールトン・ヘストン主演の原潜ものを取り上げます。

「原子力潜水艦浮上せず」。

原題は

Gray Lady Down 

灰色の淑女沈没す、ってなところでしょうか。
一口で潜水艦ものといっても、これは今までお話ししてきたのと
少し毛色が違っていて、潜水艦救難をメインに描いたものです。

当時最新装備だったDSRVと潜水艦救難をアピールしたかったらしい
米海軍と国防総省、ついでに撮影に協力してもらった
「カユーガ」と「ピジョン」の乗員に深く感謝する、という
字幕から映画は始まります。

アメリカ軍の原子力潜水艦「ネプチューン」は潜水艦の故郷てある
ニューロンドンに帰投しようとしていました。

潜行状態から浮上の命令を下してから、艦長のブランチャード(ヘストン)は
この任務が終わったら自分が艦長の座を渡す副長のサミュエルソンに

「艦長にコーヒーを」

と軽ーく注文します。
1度目は見流してしまったシーンですが、一度観終わった後は、
この「コーヒー」にちょっとした意味があったことに気がつきました。

てか副長にコーヒー淹れさせるなよっていう。(これも伏線)

艦を降りるのは艦長ですが、この度は副長にサプライズをするようです。
乗員同士が偽の喧嘩をして慌てて止めに入った副長に、

「サプラーイズ!」

「あっ・・・・騙された」

乗員一同からのプレゼントはサイドパイプでした。
艦長になる人にサイドパイプとはこれいかに。

「月曜日に新しい艦隊司令が着任するときに使いますよ」

そう、ブラッチャード大佐は月曜から艦隊司令に昇任するのです。
でもやっぱり艦長はサイドパイプ吹いて貰う立場で、吹く人じゃないけどな。

このセンスのないプレゼント考えた人は誰?

そのとき、ちょうど運悪く霧の中レーダーが故障したノルウェーの船が、
(なぜかブリッジでは全員がなまった英語で会話)接近していました。
艦長も甲板に上がり回避行動を支持するのですが、
ワッチの士官マーフィーの初期の判断が霧のため甘かったせいもあって、
船は「ネプチューン」の艦体に激突してしまいます。

衝突したのはちょうど機関室のある部分の艦腹でした。
なんの予兆もなくいきなり浸水していくエンジンルーム。

パイプが裂け、蒸気をかぶって叫び声をあげる機関室の乗員と壮絶です。

この映画の不思議なシーンの一つですが、潜水艦なのに乗員のバンクが
寝ている人で上から下までぎっしり詰まっているところです。

潜水艦って交代制で寝るからこんな普通の軍艦みたいなことはないよね?

それはともかく、事故は深夜起こったため、バンクの乗員たちは慌てて飛び起き、
浸水していない前方に必死で移動を行います。

艦長は、まだ亀裂箇所に人が残っているのがわかっていましたが、
浸水を止めるため苦渋の決断でドアを締めさせました。

悲惨なのがドアを閉められた機関室。
海水とパイプの水が同時に彼らを襲います。
こんな状態なのに同僚を助けようとする人もいますが、彼らの顔は
見る間に熱で焼けただれていくのでした。

機関室、完全に水没。

「ネプチューン」は機関室と制御室を失いました。
これは全く自力で動くことができなくなったということであり、
海底に向かって速やかに沈没していくのを手を拱いて見ているだけです。

「ジーザスジーザスジーサス!1200フィートで潰れます!」

若いだけにテンパるのも早いハリスくん。

目盛りがものすごい速さで深度の変化を告げています。

800フィート、250m付近まできてしまいました。

海底の岩礁が迫ってきていました。

「衝撃に備え!」

衝撃の瞬間、あちこちで叫び声が上がりました。

1450フィートの海底に鎮座しても一部が破れた潜水艦が無事であるというのは
ちょっと奇跡のような状態かもしれません。

「頑丈に作ってくれたな」

ここでさり気なく艦長、

「ジェネラル・ダイナミクスに感謝しよう」

と製造会社(スポンサー?)の宣伝をするのですが、日本語字幕ではただ

「製造者に感謝しよう」

となっています。

とりあえず損傷個所を調べ、負傷者の手当てをすることを命じますが、
軍医は艦尾にいたため殉職してしまっています。
傷の手当は看護士資格のある衛生兵ペイジ一人の手にかかってきました。

そのとき上の階からふらふらと降りてきた副長。

「デイブ、俺はてっきり・・・」

生きていたことを喜んだ艦長に向かっていきなり、

「コングラチュレーションズ、スキッパー」

これが言葉通りの意味ではないことは誰だってわかるでしょう。
副長、なんかすごい怒ってます。

(なんなんだこいつ・・・・)

艦長は返事をせず顔をこわばらせるのでした。

さて、こちら大西洋連合軍司令部。
ノルウェーの船から通報を受けた当直士官は、沈んだ原潜が
「ネプチューン」らしいという見当をつけ、対策に入りました。

早速主要な司令官などに電話連絡をするのですが、これが面白い。
「バーンズ提督」と書かれたカードにパンチ穴が打ってあり、
それを差し込むと自動的にダイヤルをするという仕組みです。
短縮ナンバーなどがない時代の最先端テクノロジーです。

バーンズ提督のゴーヂャスなお部屋に連絡が入りました。

初期の段階で乗員の約半数、52名が失われたことがわかりました。
生き残った乗員にも怪我人多数、一人は脳挫傷で意識不明の重体です。

原子炉は失われ、機関室も浸水しましたが、隔壁はほとんどが無事。
空気清浄器が一台故障しただけという奇跡的な状態であることがわかりました。

しかしこれで艦内の空気が汚れる1日半の間に脱出しなければならなくなりました。

司令部には早速「ネプチューン」を救出する対策チームがおかれました。

救出はできるが、「ネプチューン」のいる場所は狭い大陸棚の斜面なので、
一度地滑りが起きたら海底まで落ちてしまい助からないだろう、
という結構悲観的な結論が出たので、救出チーム司令のベネット大佐は
まず自分の妻のリズに電話で事故を知らせます。

「ブランチャードの細君に言ってくれ。
何が起ころうとも必ず彼を助け出すと」

潜水艦救難隊ユニットの格納庫からDSRVが運び出されました。

「緊急事態だ。原子力潜水艦が大西洋で沈没」

艦長がペイジに呼ばれてバンクに行くと、脳挫傷を起こした乗員が
もう死にかけていました。

「(死んだら)どうします?」

「布をかけておけ」(あっさり)

士官寝室の前を通りかかると、フルートが聴こえてきました。

開けてみると、見張り士官だったマーフィ。
フルートは故郷のナッシュビルで習ったといい、皆素朴な人たちで
海軍兵学校に入った自分を誇りにしている、と彼はいいます。

「また帰れるでしょうか」(;_;)

「帰れるさ」(´・ω・`)

( ;  ; )

映画的にいうと、こういうの(楽器をする、動物を飼うetc.)
は「フラグ」ということを皆さんももうお分かりですね。

それに、なんとも縁起悪いことに、彼の名前はマーフィ。
世に「マーフィーズ・ロウ」というものがあってだな(略)

こちらニューロンドン。
テニスをしていた艦長の妻ですが、ベネットの妻の顔を見るなり呟きます。

「He's down, isn't he?」 (沈んだのね)

さすがはサブマリナーの妻。察しがよろしい。

DSRVの積み込みが開始されました。

なんとアメリカではDSRVを輸送機でフネまで運ぶようです。

輸送機内部。海軍大サービスですね。

艦長は先ほどの副長の態度が気になっていました。
早速艦長室に呼びつけ、艦内に落ちていたというサイドパイプをわたしますが、
副長は冷たく、

「これは本来クルーの持つものでしょう」

と突き返してきました。

ほらー、プレゼント、やっぱり気に入ってなかったんだ。

字幕ではこの部分、「艦長のものです」という日本語訳になっていますが、
これはおそらく翻訳した人が、サイドパイプというものが
海軍の船でどんな位置付けのものなのか理解していなかったのだと思われます。

案の定これに続く艦長のセリフも、おそらく苦し紛れに意訳してあります。
(DVDの翻訳って、案外いい加減なものだとこの作業を通じて実感します)
お節介ながらここを英語で言っている通りに訳しておくと、

副長「これは本来クルーの持つものでしょう」

艦長「そうさ、だから皆が君に贈ったんだ」

副長「彼らは全部”あなたの部下”だからね」

となります。

つまりどういうことかというと、「ネプチューン」乗員にとっては
尊敬する艦長はブランチャード大佐だけであり、新しく着任する自分は、
せいぜい大佐をサイドパイプで「お見送り」するのがお似合い、という
彼らの皮肉が込められたプレゼントなんだろう、と言っているわけですな。

被害妄想もいいところですが、それも平時であれば内心抑え込むところ、
こういう事態になったので爆発してしまったということなんでしょう。

さらに副長、ブチ切れついでにさらに言いつのるのでした。

「あの時浮上しなかったらあんなことにならなかった!
あなたは自分の勇姿をひけらかすために浮上したんだ!
”みんな見ろ、艦長が最後にブリッジに上がるぞ!”ってね。
もう終わりだ!」

艦長は流石に平静ではいられず、

「そのクソみたいな暴言を今すぐやめないとシックベイに放り込むぞ」

その時、轟音が聴こえてきました。
鎮座している場所の上部が雪崩を起こし土砂が降り注いできたのです。



ようやく無線が上部に到着した「ナッソー」とつながりました。
「ナッソー」には救難隊司令のベネット大尉が乗り込み指揮を執ります。

艦長はベネット大佐に現状を報告。
DSRVが1400には到着するという知らせに乗員は喜びに湧きます。

「夕飯までに帰れるぞ!」

その後、要員以外は司令室から出すことを命じた艦長は、
司令室から統率の邪魔になると判断して追い出した副長が
自分を見て嘲笑しているのに気がつきました。

こーんな感じ。

ウマが合わないというのか、内心なんとなく気にくわない間柄でも、
平常時にはなんの問題もなく付き合うのが社会人というものですが、
不幸にして、非常事態がその亀裂を表面化し悪化させることがあり、
この艦長と時期艦長は、実はそういう関係だったというわけです。

しかし、軍隊、特に潜水艦などという職種の軍人たちは、いわば
常にその「非常事態」を想定すべき環境に生きているわけですし、
特に艦長クラスになればいざという時、自分の精神状態をまず
制御するための訓練を若い時からやってるはずなんですけどね。

原潜の艦長になるほどの軍人がこの非常時にメンブレ起こすなど、
実際にはまずあり得ないと思いますが、まあ映画だから仕方ないか。


 

続く。

 

 

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