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カール大公とその息子たち〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館の展示、ハプスブルグ家の次のホールは

「NAPOLEONIC WAR」

と名付けられています。
この「ナポレオニック」という英語はもちろん「ナポレオンの」
という意味であり、ナポレオン戦争を意味するのですが、同時に

「ナポレオン1世のような野心満々の」

という形容詞にもなっています。

というわけでこのホールに現れた堂々の巨大な像、わたしはてっきり
帽子の形から、ナポレオンだと思い込んで写真を撮りました。

しかし、帰ってきてからあらためて写真を見て、
これナポレオンに全く似てなくね?と思ったわけです。

そこで今更のようにハッと気がついたのですが、ここはオーストリア。
ナポレオンはオーストリアにとって英雄ではなく「敵」でした><

 

「ナポレオン戦争」(1796-1815)とは、ナポレオンによって起こされ、
展開された一連の戦争をいいます。

革命後のフランスは混乱に乗じてイギリスとオーストリアが干渉してきたので、
総裁政府はこれを迎え討ち各地で戦争が始まりました。

この段階ではフランスの戦争は防衛戦争であったことは間違いありません。

ナポレオンはこの戦争に最初から加わり、指揮官として頭角を現していきます。
この戦争の一環、イタリア遠征で真っ先に彼が叩いたのがオーストリアでした。

その後、ナポレオンがフランスで最高権力者となり、戦争による領土拡大に
野心を燃やすことで、次第に侵略戦争の様相を呈してきたのは歴史の語る通り。

つまりナポレオン1世はフランスにとっては英雄ですが、オーストリアにとっては
侵略者であり憎き敵側だったわけです。
当然こんなどでかいナポレオン像を大事に飾っているわけありませんよね。

それではこの像は誰のものなのでしょうか。

そこで同博物館所蔵のこの絵をご覧ください。
描かれた人物、ブロンズ像にそっくりじゃありませんか?

彼の名は、ナポレオン戦争時に活躍したオーストリアの軍人であり皇族、

カール・フォン・エステンライヒ= テシェン(1771-1847)

カール大公

として有名な軍人です。
(説明はありませんでしたが、状況証拠からこの人だということにします)

 

カール大公は早いうちから軍事に興味を示し、軍人の道を選びました。
そして20歳でフランスとの戦いに従軍し際立った働きを見せました。

25歳で神聖ローマ帝国陸軍元帥となり、ライン方面軍司令官として
フランス軍相手にドイツでは連戦連勝の戦果をあげます。

一方、イタリアではナポレオンのフランス軍が連戦連勝でした。

これを食い止めるためにカール大公の部隊が派遣されると、ナポレオンは
こう述べたといわれています。

「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、
これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」

そう、ナポレオンにもこれだけ実力を認められていたカール大公こそは、
ナポレオンの同世代における最大の敵であり、そしてライバルでもあったんですね。

1800年から9年間、二人は敵国同士で対峙し、お互いの国を相手に
勝ったり負けたりしたわけですが、ガチンコの直接対決は1809年。
結果は初戦こそカール大帝の勝利でしたが、最終的にはナポレオン軍が
ワグラムの戦いで勝利をおさめ、シェーンブルンの和約によって終戦に至ります。

このナポレオン戦争の期間、カール大公はその働きに付随して

 

神聖ローマ帝国宮廷顧問会議の軍事首席拝命

帝国会議が「ドイツの救世主」の称号を授けようとしたが辞退

1805年

全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣を拝命

1808年

スペインと西インドの王座に招請されるが、辞退

軍人として最高の栄誉とされる地位に上り詰めましたが、
赤字で示したように、単に肩書きが立派になるとか、王位に就くとか、
そういったことは軍人としての美学が許さなかったのか、
きっぱり断っているあたりが実に男前です。
 

しかしカール大公は、宿敵ナポレオンとの戦いで敗北したのみならず
撤退する際負傷したことを武人として自分で許せなかったのでしょう。

軍隊の指揮とすべての役職を辞してウィーンに帰還してしまいました。

 

確かに歴史的知名度はナポレオンに霞んでしまった感はあるものの、
指揮官としては多少運に恵まれなかったとはいえ超優秀で、
軍事思想家としてもその著書は高く評価されています。

ちなみに、軍事を語る人が必ず一度は口にするあのクラウゼヴィッツ、
(中にはクラウゼヴィッツ言いたいだけ違うんかいという使い方をする例も)
彼と同時代並び称される軍事思想家でもありました。

その軍事思想は、

「古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在」wiki

アメリカのアルフレッド・マハンの海軍戦略思想は、むしろ
クラウゼヴィッツよりカール大公の影響を受けているといわれます。

ナポレオンから野心と功名心を取ったらカール大帝になる、というのは
わたしの個人的な感想ですが、そう外れていないと思います。

 

ところでこの騎馬姿のカール大公の絵の構図、どこかで見覚えがありませんか?

言わずと知れた、このナポレオンの肖像に似ていません?

もちろんこちらを描いたのはあのダヴィッドですし、ドラマチックさで
圧倒的に(本人と同じく)こちらの方が有名なのですが、実はこの構図、
カール大公の騎馬像に影響を受けたといわれているそうです。

「カール大公のアレをもう少しカッコよくアレンジしてくれないか」

とナポレオンがダヴィッドに頼んだかどうかは定かではありません。

このホールにあった特大の肖像画、もちろんこれもナポレオンではなく、
カール大公とその家族の肖像でした。(後で知りました)

所得wikiにもこれが「カール大公とその家族」としか書かれていないのですが、
注意深く見てみると、この絵には彼の妻はいません。

最初、カール大公が肩に手をかけている女性を妻だと思い込んで、

「おお、さすがは高名な将軍、若い美人の奥さんをもらったんだな」

しかしそれにしても子供が大きい割に奥さんが若すぎます。
そこでさらに探してみると、奥さんらしいのが後ろの彫像となって
ちゃんと家族の肖像に参加しているではありませんか。

 

そこで調べてみたところ、妻ヘンリエッテは、末の男の子(左端)を生んで
2年後に亡くなっていたことがわかりました。

この肖像画はもしかしたら、ヘンリエッテが亡くなったあと、彼女を偲ぶ
彫像が完成したので、その記念に描かせたものなのではないでしょうか。

そう思ってあらためてみると、カール大帝の表情には心なしか憂いが見られ、
周りの子供たちは失意の父をいたわるように彼を見つめています。(末っ子除く)

というわけで、ここからはカール大帝の子供たちについてお話ししていきましょう。

美形の長女、

マリア・テレジア(1816年 - 1867年) - シチリア王フェルディナンド2世妃

は、母が亡くなってから、5人の兄弟の母親がわりになって面倒を見ました。

黒コートの少年、
アルブレヒト(1817年 - 1895年) - テシェン(チェシン)公

Albrecht Austria Teschen 1817 1895 marshal.jpg

のちにオーストリアおよびドイツ帝国の陸軍元帥になりました。

画面右端でひざまづいている、

カール・フェルディナント(1818年 - 1874年)

Albrecht&Karl Ferdinand Austria.jpg左は兄アルブレヒト

も、兄と同じく軍人に。
ちなみに息子のフリードリヒは第一次世界大戦時の陸軍最高司令官です。

そして、皆様、お待たせいたしました。

本日冒頭画像のイケメンはだれ?とお思いになった方、

この少年、カール大公の三男である

フリードリヒ・フェルディナンド・レオポルド(1821年 - 1847年)

の海軍士官姿なのです。

彼の父カール大公は、オーストリア陸軍の最高指揮官の大権をもってして、
帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組みました。

つまり、オーストリア帝国陸軍の基礎を作ったといってもいいかもしれません。

そしてこの若者は、オーストリア海軍軍人になりました。
二人の兄が陸軍に行ったので、ちょっと違う道を選んでみたのかもしれません。


16歳で海軍に入り、すぐに指揮官となって、19歳の時には
ムハンマド・アリ・パシャの「エジプト-トルコ戦争」における
イギリス軍共同作戦に参加し、その指揮ぶりは際立っており、
その功績に対しマリアテレジア勲章を授けられました。

この画像の制服にはたくさん勲章が下がっていますが、
マリアテレジア勲章は右上から二番目に見えます。

月並みですが、蛙の子は蛙ということなんでしょうか。

関連画像

男前なのでついサービスで次から次へと画像を上げてしまいたくなります(笑)

この、短いメスジャケットに白いズボン、というのは
のちの世界の海軍の制服にも見られるパターンですね。

この凛々しい海軍士官姿を、父カール大公は目を細めて見たのではないでしょうか。

1844年には、フリードリヒ、

23歳で海軍最高司令官・海軍中将に

昇進します。
カール大公の息子だからということももちろんあったでしょうが、
本人が優れていないとこの年齢でこの地位はまずありえないでしょう。

オーストリアには18世紀の終わりまで、正式の海軍はなかったのですが、
彼は最高司令官になるや数多くの改革と、当時のヴェネツィア志向だった
オーストリア海軍を変革し、その基礎を築きました。

これなど、父がかつて陸軍で行ったことそのままです。

1845年、24歳の彼はマルタ主権勲章を授けられました。

しかしながら、ここまで彗星のように人生を駆け抜けた彼は、
わずか26歳で結婚もしないまま病死してしまう運命にありました。

若くしてこれだけの才覚があり、地位もあり生まれも良く、
ついでに美青年のフリードリッヒ、もし長生きしていたら、
父のような軍事指導者になったことは間違いなく、
その後のオーストリア海軍の形は変わっていたかもしれません。

死因は黄疸だったということですが、黄疸は徴候の一つなので、
すい臓がんとか劇症肝炎とかいう病気だったのでしょうか。

何れにしても惜しい若者を失くしたものです。


さて、絵に戻りましょう。
この肖像画には描かれていない子供もいます。

ルドルフ

1822年に生まれ、夭折しました。

マリア・カロリーネ(1825年 - 1915年)

彼女はわずか4歳で母を亡くしました。
彼女はのちにいとこのレイナー大公と結婚しますが、二人の間には
子供が生まれなかったこともあって慈善事業など社会活動に一生を費やし、
国民からは夫妻ともに大変人気があったということです。

レイナー大公夫妻

最後にこの末っ子君です。

ヴィルヘルム・フランツ・カール(1827年 - 1894年)

彼は父と長兄二人に同じく、陸軍軍人になりました。
そして、このウィーン軍事史博物館の熱心な後援者でもありました。

当博物館は1856年からアーセナルの建物として存在し、
1869年に初めて一般公開されましたが、1880年代には、
皇室コレクションの再分類に博物館は混乱します。

その後博物館の新しい内容を担当する委員会が構成され、
彼はその副議長として尽力しました。

ヴィルヘルムは皇帝を始め、彼の家族、貴族、ブルジョアジー、
そして戦争省の支援をバックに博物館のためのコレクションを行い、
その熱心さのおかげで、蒐集物がたくさん集められました。

1891年、新しく陸軍博物館が開設されましたが、これは、
彼の仕事なしでは不可能だったと言われています。
つまり、当博物館の生みの親といっても過言ではない人物だったのです。

つくづくカール大帝の一族超有能。

続く。

 

 


アスぺルンのライオン〜ウィーン軍事史博物館

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「ナポレオニックウォー」と英語で訳されるところの、
ウィーン軍事史博物館の展示物をご紹介しています。

 

◼️フランス革命軍航空部隊の航空兵器

フランス革命後、ナポレオンがヨーロッパの覇権獲得のために起こした
一連の戦争を「ナポレオン戦争」といいますが、この博物館には
そのときに用いられた武器なども展示されています。

銃や火砲などはもちろんですが、特に目を引くのがこの気球です。

ところで皆さん、世界で初めて航空部隊を所有したのはどの国で
それはいつのことだったと思われますか?

それは人民革命時のフランスで、発明されたばかりの気球を使う
「compagnie d'aérostiers」(カンパーニュ・ダエロスティー)
という偵察を目的とした航空部隊を所有していたのです。

新しい発明があると、軍事利用によって技術は昇華され、発展していく、
というのは世の常ですが、フランスもまたこの新機軸の気球を自在に操縦し、
意のままに動かして軍利用することを考えました。

そして企画者は、ジャン・マリー・ジョセフ・クーテルという化学者を
プロジェクトのために軍に派遣しますが、軍司令官

ジャン=バティスト・ジュールダン

は、

「オーストリア軍の攻撃が差し迫っている時に
必要なのは気球ではなく大隊である」

とこれを嘲笑し、導入を拒否しました。

しかしその後、関係者の熱意によって、実験はそれなりの成果を出したため、
1794年、ついにフランスは航空部隊を創設する法律を作るまでにこぎつけ、
化学者クーテルとその助手は、自動的に陸軍将校になりました。

ここでウィーン軍事史博物館所蔵の気球を改めて見てみましょう。

よくまあこんなものが空を飛ぶことができたなという重々しさに満ちているのですが、
これでも一応空に浮かんだのは、炉で発生させた水素を浮力にしたからです。

開発責任者が科学者でなく化学者だったのは、つまりそういうことだったんですね。

さて、というわけでフランス航空隊の航空兵器、気球は完成しました。
いよいよ実戦投入です。

1794年5月、フランスの航空部隊は、かつて気球のプロジェクトを嘲笑した
あのジュールダン司令の部隊に気球とともに合流しました。

現場で水素を発生させる炉を建設し、敵の砲撃の偵察に投入するのです。

ただし合流するまでがもう大変。
気球は20人ばかりの兵士に引かれて50kmほどを陸上移動し、運ばれました。
その様子が絵に残されています。

気球移動中。

左下の横顔のおじさんが、開発者の化学者クーテルさんですね。
今や肩書きは「コマンダン」となっているのにさりげなく注意。

これ、もしかしてというかもしかしなくても、50キロという距離を
こんな感じで運んでいったってことですよね。

しかも、運んでる人、皆走ってませんか?
いつの時代も兵隊は辛いものだのう。

50キロ歩こうと思ったら、平均時速5km/でも10時間。
きっと朝早く出発して着いたのは深夜だったんだろうと思います。

現地に着くと、気球は三日間にわたって上空から敵地を観察しました。

四日目に戦闘が始まると、クーテルと助手は気球に乗って敵地の偵察を行い、
それをメモして地上に落とし、連絡を行いました。

気球の偵察は9時間にわたって続けられたということです。

気球戦闘参加中。

気球は無事に上がり、偵察も首尾よく行うことができて、デビュー成功、
そしてこのフリュリュスの戦いにフランス軍は勝利しました。

しかし、

その勝利が気球のおかげだったかどうかは、微妙なところでした。
具体的に偵察報告がどう戦果に寄与したかどうかの記録がないので、ここは
現場の意見を聞いてみましょう。

ルイ・ベルナール・ギトン(化学者)

「 大変効果はあったと思います。
でも、私ならもっといい気球が作れます」

ジャン・バティスト・ジュールダン(司令官)

「あんなものなくても我が軍は勝てた。
大した効果はなかったし、偵察で役に立った情報もそんなになかった。
最初から私は胡散臭いと思っていたんだ」

ちなみに、ギトンは戦闘が終わってから円筒形の気球Martialを製作し、
航空部隊に与えたが、不安定で使えなかったというオチつきです。

 

航空部隊は、その後本隊とともにベルギーに転戦しましたが、
運用の労力の割に大した活躍はできなかったといわれています。

しかし、航空隊関係者は地道に航空隊の拡張を続け、
補充兵を訓練する学校も組織されるなど、地道に努力を続けました。

 

ところで、ここまでお読みになって、どうしてフランス航空部隊の気球が
ここウィーンにあるのだろう、と思われませんか?

 

1796年9月に行われたヴュルツブルクの戦いで、フランス軍は
オーストリア軍に敗北したのですが、その際、一緒にいた航空部隊も
捕虜になってしまたので、自動的に気球も鹵獲されてしまったのです。

というわけで、この気球mL'Intrépideは、それ以来
ウィーンの軍事史博物館で大事に保存され展示されています。

会場の気球模型の横には、綺麗な状態の気球が畳んで展示されています。

航空隊はその後、1798年にナポレオンのエジプト遠征に参加しましたが、
気球の設備を積んだ輸送船がナイルの戦いで沈んでしまったので、
航空部隊は何かはわかりませんが、別の仕事をしていたということです。

この件で、運用が大変な割に役に立たないという評価が固まったせいか、よく年
気球部隊の解散をさせる法律が作られ、エジプト残存部隊が帰国した3年後、
気球を使った航空偵察部隊は解散することになりました。

 

◼️カストラム・ドロリス

あまりにも展示物が多く、その全てを写真に撮るわけにいかないので、
なんとなく目についたものだけをご紹介しています。

このランプのような髑髏をあしらったものは、説明によると

「カストラム・ドロリス」

という葬祭用の装飾のようなもので、元々は霊廟のように
中央に遺体を安置するものから始まったということです。

「1814年と1815年、ライプチッヒとドレスデンで戦って死んだ者のために」

とあり、ナポレオン軍を迎え撃ったライプチヒの戦いの戦死者を
顕彰して制作されたことがわかります。

 

◼️ナポレオン二世

この右側の絵は流石にナポレオンで間違いないとおもっていましたが、
ドイツ語でも「ナポレオンと息子」と書いてあったので安心?しました。

ナポレオンはウィーンにとって敵、前回そのように書いたわけですが、
平沼首相の言うように欧州情勢の複雑怪奇なところで、ナポレオンの息子は
ハプスブルグ家の血を引いており、敵の息子でありながらオーストリアの皇子。

ナポレオンそのものの彫像や絵画はありませんが、ナポレオン2世のだけは
このように展示があるというわけです。

 

ところで単純な疑問ですが、ナポレオンはなぜ、マリア・テレジアのひ孫にあたる
オーストリアの皇女と結婚したのでしょうか。

その理由は単純で、まず古女房のジョゼフィーヌに子供が生まれなかったこと。
そして、ハプスブルグ家と血縁になって血統に箔をつけたかったからでした。

もちろんハプスブルグ家の方はナポレオンを毛嫌いしていたはずですが、
戦争で勝った勢いでメッテルニヒを味方につけ、彼を仲介にして
ナポレオンはマリー・ルイーズを差し出せと迫ったため、彼女は
泣く泣くかつての敵の嫁になってフランス皇后の座に着いたのでした。

ところが、男女の仲というのはわからないもので、結婚してみれば
この二人、相性が良かったのか、愛し合うようになり、
大変仲の良い夫婦に(いっときとはいえ)なったというのです。

そんな二人に生まれたのが、このナポレオン二世、フランソワでした。

ただし、マリー・ルイーズ、ちゃっかりしているというのか、ナポレオンが
落ち目になってエルバ島に流されてしまうと、あっさり彼を忘れ、ついでに
その息子のフランソワにも、全く関心がなくなってしまいました。

パルマ公国の統治者として再婚し、子供まで作った彼女は、実の息子フランソワが
21歳で結核に罹って死んだときも、周りが頼むまで顔を見にもきませんでした。

一般的にこと終わった恋愛に関しては女性の方が切り替えが早いといいますが、
自分が産んだ子供にも関心がなくなるものかねえ、という気がします。


フランソワ・ボナパルトが亡くなったのは、シェーンブルン宮殿の一室で、
亡骸はウィーンにあるハプスブルグ家の霊廟であるカプツィーナー寺院に
納められていたのですが、1940年になって、ナポレオンに心酔していたヒトラーが、
ゲシュタポを寺院に送り込んでかなり強引に、フランソワの遺体を強奪していきました。

ナポレオンの遺体が亡くなったセントヘレナ島からパリに返還されて
ちょうど100年経ったので、親子を一緒に葬ってやろう、という
ヒトラーの「好意」から出たことで、フランソワはその後も
父の傍らで永遠の眠りについています。

カプツィーナー寺院公式サイト

ちなみに、ウィーンのカプツィーナー寺院は観光名所にもなっています。
今回行けなくて少し残念だったのですが、ほぼなんの知識もなく見るより、
今回ハプスブルグ家についてある程度調べて知識を得てから
見学した方が、ずっと意味があると思うことにしました。

このホールには、シュバーロフのコートと言われる展示があります。

パヴェル・アンドレイエヴィッチ・ シュバロフ
はロシアの外交官です。

絶頂期を極めたナポレオンがマドリードで初めての敗戦をしたのを見て、
オーストリアは巻き返しを図り、抵抗を強めていく一方、
ロシアが封鎖令を破ってイギリスと貿易を始めたので、
ナポレオンは怒ってあのロシア侵攻を決行します。

ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフ。
老獪な彼は、いまナポレオンと直接戦えば確実に負けると判断したため、
広大な国土ひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧を
すべて焼き払う焦土戦術を取って、フランス軍を疲弊させ、敗退に追い込みます。

それを見たパリではクーデターが起こり、各国はここぞと反ナポレオンに動きました、

ライプツィヒの戦いではナポレオン軍は同盟軍に包囲されて大敗し、
フランスへ逃げ帰ったのです。

しかし、同盟軍がフランス国境を取り囲む大包囲網を築き上げ、
1814年ついにパリ陥落。

ナポレオンは将軍連に反乱を起こされて、結局エルバ島に追放になりました。
このとき、フォンテーヌブローからエルバ島までナポレオンを護衛したのが
このシュバロフ将軍でした。

シュバロフは、ナポレオンが人目につかないようにロシア軍の将校のコートを
彼に着せて、移送を行なったのですが、そのコートがここに展示されています。

 写真を撮り忘れましたが、ここにはウィーン郊外の
アスペルンという街にあるライオン像のオリジナルがあります。

"Löwe von Aspern" (アスペルンのライオン)

と呼ばれているこの像は、ご覧のように横たわるライオンがモチーフなのですが、
このライオンの表情をアップで見てください・

このライオン像は、1809年の5月20日、21日にここで繰り広げられた
"アスペルンの戦い"で亡くなった戦士たちを追悼するために建造されました。

フェルナン・コルモン005.jpg

破竹のナポレオン軍をオーストリア軍が初めて破った戦いであり、
ナポレオンにとってもフランス皇帝の座に就いて最初の敗北でもあります。
この戦争の指揮を執っていたのが、先日お話ししたあのカール大公でした。

この戦いの戦死者は、たった二日間で4200人という激しいものでした。
負けたフランス軍の死者は5631人に上ります。

このライオン像は、戦争から40年ほど経ってから、カール大公の息子、
アルブレヒト大公が父のために制作を行ったものです。 

このライオンは、一説によるともう生きておらず、戦いに斃れた
亡骸となってなお、このような苦悶の表情を浮かべているのだそうです。


  

続く。

 

 

 

 

シナゴーグ襲撃事件の起こった街で考えたこと〜ピッツバーグ

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ピッツバーグを走っていて、シナゴーグ(ユダヤ教会)の前を通り過ぎた時、
MKが、

「今の教会で銃撃事件あったんだよね」

と言い出したのでかなり驚きました。

「いつ?」

「去年の10月」

あまりにも頻繁に起こるので、またかと思ってニュースを
聞き流していたのですが、その銃撃事件はなんと、今回借りた
Airbnbのあるユダヤ人コミニュティのなかで起こっていたのです。

シナゴーグ銃乱射事件

 

家から息子がインターンシップをしている大学までの道沿いには、
いくつもシナゴーグがあって、土曜日になると、朝から猛烈に暑い日でも
黒いスーツに白いシャツをネクタイなしで着て頭に丸い帽子を乗っけた男性、
正装した女性、その子供たちが家族で教会に向かう姿が見られました。

スクウェレル・ヒルの繁華街にあるスターバックスの窓には、ユダヤ人の象徴、
ダビデの星が大きくペイントされ、流石の異教徒であるわたしたちも
到着して二日目には、ここがユダヤ人街であったことに気がついた次第です。

「やっぱり同民族で集まって住むと何かと便利なのかな」

「人が先に住み着いたのか、教会があるから住み着くのか・・・」

そこでふと、わたしはふとこんなことを考えました。

「やっぱりあれかな。
ドイツ系の人なんか、こういうところには近づかなかったりするのかな」

アメリカ社会は、明文化されてはいませんが、どの地域も
かなりセグリゲート化していて、民族ごとのコロニーができているのが普通です。

サンフランシスコだと、サンセットには中国系、サードストリートには黒人、
ミッションにはゲイ(これは民族じゃないか)といったように。

しかし、今までわたしはユダヤ人街というのはニューヨークにしかないと思っていたので、
ピッツバーグでたまたま選んだ場所がそうであったことに驚きました。

この街に到着した直後から、わたしは家々の窓に掲げられている

「NO PLACE FOR HATE」

という文字が書かれたボードの存在に気が付いていました。

事件を知る前は、これもまたユダヤ教の教義に類するメッセージと思っていたわけですが、
実はこれ、デモに使われたプラカードで、昨年の銃撃事件を受けて行われた大々的なデモで、
参加者が持って歩いたものだったことがわかりました。

 

猫の後ろに写り込んでいるのがそのプラカードです。

ちなみにこの家は子供二人のいる若い夫婦が住んでいて、
父親は仕事を終えて家に帰ってくると、毎日裏庭で子供の遊具を
手作りするため大工仕事を熱心にするような良きパパでした。


このシナゴーグでの銃撃事件では11名もの人命が失われ、
戦後最大のユダヤ人憎悪事件となったわけですが、連鎖するように
つい最近の4月26日にも、シナゴーグでユダヤ人を狙った銃撃事件が起きています。


そして、たまたまこの身近で起こっていた事件について調べていたところ、
わたしは例によって、アメリカのメディア、それを受けた日本のメディアが、
これらのユダヤ人に対する憎悪犯罪が起こったことを、なぜか
トランプ政権のせいにしている、ということに気がついたのです。


日本では朝日新聞を筆頭としたメディアがスクラムを組んで森友加計問題で大騒ぎし、
むしろ国会議員を焚きつけるようにして倒閣運動をしていましたが、
アメリカのメディアも、トランプを弾劾するためにロシアンゲート事件を焚きつけ、
結局「なんの証拠も出てこなかった」というところまで同じということがありました。


アメリカ在住の友人によると、こちらも今やトランプを表立って支持すると
袋叩きにあいかねない雰囲気がメディアによって醸成されているのだそうで、
そのメディアはとにかくファクトなど御構い無しに、

「トランプ批判に繋げられれば嘘でもなんでもいい」

とばかりになりふり構わない印象操作とレッテル貼りの報道を行います。

この事件についても、事実報道に続いて行われたのがこの手の印象操作でした。
例えばある西海岸の地方紙がこの事件についてこんな記事を書いています。

事件が起きた時、真っ先に思い浮かんだのが、
移民らを非難し憎悪を煽るようなトランプ氏の発言だ。

デモに参加したユダヤ人にインタビューして書かれた記事の冒頭です。
一人の白人が「ユダヤ人は死ね」と言いながら銃を乱射したという事件なのに、
いきなり移民排除発言のトランプを思い浮かべてしまうんですね。
日本の「アベガー」な人たちを彷彿とさせます。

どれだけトランプ好きなんだよっていう(笑)


祖父母が欧州で経験したホロコースト (ユダヤ人大量虐殺)
と同じことが、今、米国で起こりつつあると感じる。

うわ、出たよ。

日本でも先日、日韓友好を呼びかける集会で、在日三世の女性が、

「日本産まれ日本育ちで韓国語は喋れません。
なので韓国に帰れと言われても帰れません。(中略)
在日は資産を凍結されて収容所に送られる事も想像してるし、
ナチスみたいにガス室に送る事もきっとこの国はやると思ってます」

とスピーチしたということがありましたが、そっくり同じ匂いがしますね。

 

言論の自由が保障されているこの国で、在日三世が何を思いどう言おうと
それは人の自由ではありますが、それでもこの発言を聞いたとき、
むしろこれは日本に対するヘイトスピーチというものではないかと思いました。

一方、いくらホロコーストが歴史的事実だったからと言って、
今のアメリカで「ホロコーストが起こりつつある」とは、
こちらもまた、どこの並行世界にお住まいですかと聴きたくなります。

しかもトランプ氏の移民排除の政策のせいでホロコーストが起こるかもしれない、
と心配しているのは、ユダヤ人ではなく、全く第三者である新聞記者なのです。

 

さらに不可思議な記事の続きをどうぞ。

「トランプ氏は移民を侮辱し、銃保有の権利を擁護するが、
犯人は移民ではなく、誰も必要としないライフル銃を持っていた」

と憤る。

わかりにくい文章ですが、元々が稚拙なのですみません。
これはインタビューに答えた人が憤っていた、ということでしょうか。

もしこの記者が嘘をついていないのなら、インタビューされた男性は、
犯人が移民でなく、かつ銃を持っていただけで、
これがトランプのせいで起きた犯罪だ!と憤っていたことになります。


そもそも、今回の犯人の憎悪対象は「ユダヤ教徒」に絞られており、
トランプ大統領が排除しようとしている「不法移民」ではありません。

それをいうなら、移民大国であるここアメリカにおける全ての人種は
もともと何処かの国からの「移民」なんですけどね。

つまりこの筆者は、何が何でも

「この事件の犯人は、トランプの移民排除などの発言に触発されて
このような憎悪犯罪を起こした。つまりトランプが悪い」

という結論に持っていきたいあまり、間違いを故意犯的に放置しているのです。

メディアリテラシーのない層や、トランプ憎しの民主党支持者などが
やはりこの間違いを見てみないふりをして怒ってくれることを期待して。


銃撃犯のロバート・バワーズは、トランプの信奉者どころか、
SNSでトランプ発言についてあれこれと激しく非難していたということも、
メディアは「報道すれども言及なし」でスルー状態です。

都合の悪いことは報道しない自由を駆使するマスコミ、何やら日本と似ています。


報道はさらにこのように続きます。

ユダヤ系の人権団体によると、トランプ政権1年目の昨年、
ユダヤ人に対する嫌がらせなどは前年比で6割近くも増えた。

随分はっきりと言い切っていますが、これだけ断言するからには
その相関関係についてもう少しファクトに基づいた考察が欲しいところです。

それでは、ここピッツバーグでも、トランプ政権発足後、
ユダヤ人に対する嫌がらせとやらは増えたということなのでしょうか。

それが、次を読んでびっくりですよ。

だが、住民によると、多くのユダヤ人が暮らすピッツバーグでは
宗教が異なる人々が共存し、これまで目立ったヘイトクライムは
起きていなかったという。

前文と全く論旨が繋がっていません。

トランプの発言が民族ヘイトクライムを誘発したという事実はなく、
ただ一人の反ユダヤ主義の男が個人的な嫌悪犯罪を起こした、
というのがこの事件の実相だと報道自体が証明しているのです。

なのにどうして一人の反ユダヤ主義の男の犯罪責任を大統領に押し付けるのか。


そして案の定、このピッツバーグのユダヤ人社会にも反トランプ派がいて、
どうしてもトランプの一連の発言がこの事件を引き起こしたことにしたいらしく、
弔問に訪れたトランプに抗議するため、大挙して押し寄せました。

それを朝日新聞が嬉々としてこのように報じています。


事件を受け、トランプ大統領は30日、メラニア夫人や
ユダヤ教徒の長女イバンカ氏と夫のクシュナー氏を伴い、
現場の礼拝所を訪れ、犠牲者を追悼した。

一方で礼拝所の周辺では、数千人の住民らが訪問に抗議した。

集まった人たちは、口々にトランプ氏の排外主義的な言動が事件を誘発した、
などと批判。

「あなたには事件の責任がある」

「大統領、白人ナショナリズムを非難せよ」
「我々は壁ではなく、橋をつくる」

といったプラカードを掲げた。
11月6日の中間選挙に向けて「投票しよう」という声も上がった。

礼拝所近くに住むユダヤ教徒の元技術者ボブ・ウィーナーさん(78)は

「米国民を引き裂こうとする人たちに結束を見せるために来た」
という。
トランプ氏の訪問は

「政治的で、彼のうぬぼれを増幅させるものだ」

とし、

「中間選挙は自分たちを守るために極めて重要だ」

と語った。

 

トランプ大統領はこの事件を受けて、すぐに犯人に対する非難声明を出し、
さらには「死刑の法律を強化」すべきだと述べ、

「こういう連中は究極の代償を払うべきだ。
こういうのはもう終わりにしなくては」

と強調したというのですが、それでもこの人たちは大統領に対し、
弔問に訪れたことを含めて憤らずにはいられないようです。


ところで気がついておられましたか?

トランプ氏の娘婿って、ユダヤ教徒なんですよね。

トランプ氏を非難するユダヤ人たちは、そのこととユダヤ人排斥との間に
どういう整合性を見出すのでしょうか。

 


今回アメリカに住んでいる友人と話したところ、メディア、特にCBSなどは
それこそ反トランプの運動体のようになっているそうで、そのためには
日本とこれも同じく、トランプのすることなすこと否定し、
ストローマン理論や報道しない自由など、ありとあらゆる方法を駆使して
とにかくトランプを非難することしかしていないということでした。

「他の国の報道写真なんか見ると、トランプの写真がまともで驚く。
アメリカのメディアはわざとだろうってくらい写りの悪い写真しか使わないから」

「そこまでするんだ」

「いじりやすいというか、悪口が言いやすいからだと思う」

「是々非々ってのはないの」

「誰もやれなかった対中国に対する経済戦争については、
内心喝采しているアメリカ人も多いと思うけどね」

「あー、チャイナマネーが入っているメディアほどトランプを叩くんだ。
で、誰も表立ってトランプがいいと言わないけど、大統領になった・・。
多分次の大統領もトランプになるんじゃないの」

「そうなんじゃないかな。
表面上見ていると一体だれが支持しているのかわからないのにね」


奇しくも日米で全く同じような、国民が選んだ指導者に対するメディアの
「打倒運動」が起こり、反政府活動がもはや現象のようになっているというわけです。

日本でも現政府への支持率は50パーセント位を維持しているようですが、
この現象とメディアの論調との乖離は一体何を意味するのでしょうか。

 

ところで冒頭画像は、モールの中の「As Seen On TV」という、
テレビの深夜番組で紹介していたおもしろ&便利グッズの店で撮ったものです。

テラコッタの像に水をかけていたら、髪の毛(何かの芽)が生えてくるのです。
サンダースはともかく、トランプこんな髪型してねーし、と思いながら
ここで紹介するためにこっそり写真を撮っていると、
お店の人が話しかけてきたので、何か言わなければいけない気がして、

「こういうの買う人ってどんな人なんでしょうね?
好きだから買うのかアンチだから買うのか」

というと、お店の人(多分中国系)は

「わたしは嫌いな人にお勧めしています。
生えてきたら思いっきりむしってやってくださいと言って」

あまり英語が上手でない彼はおそらく移民一世なのだと思いますが、
案の定、その最後に

「わたしは嫌いなんですけどね、トランプ」

と付け加えるのを忘れませんでした(笑)




 

”エンリステッド・バーシング”〜空母「ミッドウェイ」博物館

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また久しぶりに空母「ミッドウェイ」の話題に戻ります。


「ミッドウェイ」博物館、ハンガーデッキから入館して右手に向かって進んでいくと、

「ミッドウェイ・ユニバーシティ」

と書かれた階下に続くハッチが開いているコーナーがあります。

これはCOXという私企業がスポンサーになっている教育センターで、
アメリカでは6月から9月までの間、ちゃんと数学、理科、社会科、歴史など、
授業をしてくれるサマースクール(小2〜中2対象)が運営されたり、
週末のお泊まりプログラムを企画したり(対象は家族やグループ)、
また、学校の先生に勉強してもらうためのセミナーも開いているようです。

こういうのを普通に軍艦でやってしまえるあたりが羨ましいですね。
まあ、日本の場合そもそも軍艦というレガシーがほとんど残っていないので、
横須賀の戦艦「三笠」の館内がセミナーなどに貸し出されるくらいですが。

レガシーといえば、「レガシーの始まり」として、「ミッドウェイ」が
爆誕した時の写真がパネルにしてありました。

このパネルを読んでちょっと驚いたのは、1945年3月20日、
進水式の際にシャンパン瓶を割る儀式を行なったバーバラ・コックス嬢は
先ほどの企業COXの創立者の娘であったということです。

コックスは現在でも、自動車、そしてメディアに進出している
アメリカのコングロマリット企業です。

彼女の右側に立っている軍人はジョージ・ゲイ海軍大尉、
1942年のミッドウェイ海戦で全滅した部隊の唯一の生還者です。

第二次世界大戦の太平洋戦線における重要な勝敗逆転のきっかけとなった
ミッドウェイの名を受け継いだこの新鋭空母は、しかしながら
デビューから一週間前にその戦争が終わってしまいました。

そこで何をいうのかと思ったら、

「コックス社はミッドウェイととも国家に対する奉仕を行い
伝説を作ってきました」

つまりコックス社の宣伝だったんかい。

しかし、よく考えたら「ミッドウェイ」、そのサービスのほとんどを
かつての宿敵日本で過ごすことになり、その艦体は「ほぼ日本製」というくらい
どっぷりと染まって、ついでにたくさんのアメリカ軍人が
日本から妻を娶って帰っていったわけですから、縁は異なものです。

さらに進んでいくと、ハンガーデッキ中央に、艦名の元となった
ミッドウェイ海戦を解説するムービーが観られるシアターが現れます。

入り口には当時の戦闘機などを配し、ついでにミッドウェイ海戦時の
帝国海軍航空隊の搭乗員の実物大人形などを飾っておりますが、
この搭乗員、日本人から見ても

「どうしてこの人なの」

と言いたくなるような微妙な風貌なのがモヤっとします。
アメリカでよく知られている坂井三郎氏のイメージかもしれません。

このシアターで終日繰り返し放映されている映画

「ボイス・オブ・ミッドウェイ」

は、ほぼ全部youtubeで閲覧することができます。

Voices From Midway, Destination Point Luck (Pt 1 of 9)

日本からの見学客が来ることも考えてか、決して「アメリカ万歳」的、
かつ敵国を貶めるようなものになっていないのが評価できます。

日本軍のあまり知られていない映像を観ることもできて、大変興味深いものです。

 

ミッドウェイ海戦に投入されたSBDドーントレスが、

「四隻の日本の空母を沈めた航空機」

として展示されています。
翼の下のパンチング穴がいまいちラグジュアリー感がありませんが、
これは、鈍足のドーントレスが精強なダイビングを行うための

「ダイブブレーキ」

だと現地では説明されていました。
この反対側にはF4Fワイルドキャットがいます。

 

さて、シアターを左に見ながら右舷側に沿って艦首に向かって進んでいきますと、
前回お話ししたカタパルトの動力を作る蒸気アキュムレーターのタンクが現れ、
続いてクルーのバンクなどがある階におりて行く階段があります。

そこにあるのが売店。
営業は年中無休で、1100から1300まで、1600から2000までと
乗員の勤務時間を考慮しているのか、実に変則的です。

にこやかに接客をしているのはトンプソンさん。

ここに売っているのは、レジスターの後ろにもあるような石鹸や髭剃り、
櫛や靴墨、咳止めドロップなどの日常トイレタリーなどはもちろん、
ちょっとしたスナックやタバコ、時計なども買えたりします。

もちろんアメリカ人には必須のチューインガムもね。

それから、昔は今と違って女性乗員はいなかったので、男性御用達の
写真多めな雑誌なら買えたそうです。

それから、ここには在庫はないようですが、テレビやステレオなどの
家電製品も買うことができたようです。
(テレビなんか買ってどこで見るんだろう)

彼の後ろには「インディアナ・ジョーンズ」の第二作目、「魔宮の伝説」
(1984年公開)のポスターが見えます。

おそらく売店はレンタルビデオ屋も兼ねていたのではないでしょうか。
当時主流だったVHSビデオが棚に並んでいますね。

ポスターも貼ってあるコメディ映画、

「裸の銃を持つ男」

の他には、

「ホットショット」「フットルース」「シャレード」「ポリスアカデミー」
「ロクサーヌ」「The Story Of Jazz」「クリスマスストーリー」
「007ダイヤモンドは永遠に」「ドクター・ノオ」「ボディ・ダブル」
「007は2度死ぬ」「ミックスドナッツ」(クリスマス映画)

「ミッドウェイ」クルーは007がお気に入り?

戦争ものは思ったよりも少なく、

「硫黄島の砂」(ジョン・ウェイン主演)

「ダウン・ペリスコープ(インザネイビー)」

「Men of the fighting lady」

くらいしか見当たりません。
ただなぜか

「パットン将軍」「グリーンベレー」

はあります。

インザネイビーはここでもお話ししたようにトンデモ映画ですが、
本職がみんなで観ながら

「こんなんねーよwww」

とか笑うのが正しい鑑賞法だったりしたんですよね。
最後の「ファイティングレディ」は、朝鮮戦争時代のF9Fの話のようです。

「ホットショット」は、優秀なパイロットだった主人公が、
父親に対する負い目と度重なる軍規違反で除隊処分となり、
とあるネイティブアメリカンの部落で静かに暮らしていたある日、
重要な作戦の為に軍への復帰を求められるが、
集められた他のメンバーは一癖もふた癖もある連中で・・・

という話なので、一応軍隊ものです。

「アンディフィーテッド」というタイトルがあったので戦争ものか?
と思ったら、アメリカンフットボールのノンフィクションだそうです。

タイプライターは軍仕様で重そうです。
壁にはタバコのポスターが各種。

タバコが悪とされているアメリカ社会では、喫煙率が自殺率にも関係する、
という調査が出て以来、軍の中での喫煙も減らして行く傾向にありますが、
「ミッドウェイ」全盛の頃はまだそこまでではありませんでした。

それどころか当時はフライトデッキ、ハンガーベイ、そして通路以外では
どこでもタバコを吸うことができたのです。

今でも禁止というわけではないと思いますが、士官は吸わない人の方が多そうです。

何度かご紹介していますが、バンクのある兵員用寝室です。
呉の「てつのくじら館」のあきしおのベッドより気持ち大きいかなという感じ?

体の大きなアメリカ人は、よくベッドから脚が丸ごとはみ出していたそうです。

バンクとバンクの隙間には、寝台に書かれているのと同じ番号の
ロッカーがあって、そこに私物をしまっておきます。
縦型ロッカーはハンガーになっていて、服をかけておくのですが、
この薄さなので、衣装持ちさんは入りきらずに困ったそうです。

たまにロッカーにエレキギターを内蔵している文字通り
「ロッカー」もいたそうですが、ギターを入れたとしたら、おそらく
他のものは全く収納できなかったのではないでしょうか。

向こう向きに寝ている人がいました( ˘ω˘ )

「ミッドウェイ」ではこの寝室区画を

「エンリステッド・バーシング」=Enlisted Berthing

別名「棺桶ロッカー」と呼んでいました。

自衛隊でもそうですが、カーテンを引いて眠ることができます。
自衛隊では、夜中のワッチ交代の時にカーテンに頭を突っ込んで

「ワッチでーす」

という人がいるそうですが、アメリカではどうなんでしょう(笑)

艦内では一人になれる場所というのがほぼトイレの個室以外皆無なので、
カーテンを閉めて「自分だけのスペース」ができると、クルー達にとっては
大変嬉しいものだったのだそうです。

手紙を書いたりヘッドフォンで音楽を聴いたり、それからポータブルDVDプレーヤーで
映画を観たりできましたが、ただし好きな姿勢でくつろぐのは
一番上のベッドの人の特権でした。

コンパートメントは基本食事時間以外は電気が消され暗くされていました。
赤色灯だけが点いていて、誰かが必ず寝ていたからです。

各コンパートメントにはテレビが設置されていましたが、
赤色灯が付くと同時に消されました。
ということは食事時間しかテレビは観られなかったってことですね。

ベッドの下は各自の収納庫にもなっています。
愛犬を抱いた写真はこのバンクの主でしょうか。
荷物が少ない割に、靴クリームが二個もあったりしますが、日本同様
アメリカ海軍では(というより世界中の海軍が基本そうかな)身だしなみ、
靴の磨き方に異様にうるさかったりするので、減りも早いのでしょう。

また、寝室にはいざという時に持ち出す

Emargency Escape Breathing Device (EEBD)

透明のフード付きで顔を覆うようになっていて、
15分間だけ酸素が吸える火災時の脱出用コートのようなものが
オレンジの箱に入れて人数分用意されていました。

潜水艦よりはマシですが、それでもやっぱり軍艦の内部は狭い。
こんな通路で人がすれ違うことはできませんし、起床時間など
皆どのようにして混乱を解消していたのでしょうか。

何しろ「ミッドウェイ」には同じ船の中で4500人が生活していたのです。

ところで今この写真を見ていて突如気がついたのですが、この兵員用バンク、
どこを見ても上に上がるためのはしご的なものがないのです。

考えられるのは、一番下のバンクにある吊り下げ型の赤い手すりのようなものに
第一歩目をのせ、しかるのち上のベッドの縁を掴んで体を持ち上げ、
さらに真ん中のバンク縁に設置された赤いところに2ステップ目を乗せ、
一番上に体を横たえるという方法です。

だいたいベッドの割り当ては、一番下は背の低い人、上は高い人、
となっていたそうですから、脚の長さ次第では上に登るのに
結構大変、というケースを考慮したものと思われます。

もちろん一番人気のあるのは真ん中の段だったそうです。

 

わたしが大変気になったのは、靴を寝るときだけ脱ぐ彼らが、
いつどこで靴を脱いでベッドに上がったかと、脱いだ後の靴は
持ち主が寝ている間どこにあったかです。

いくらアメリカ人でもベッドに靴のまま上がったとか・・・。

そうではなかったと言ってくれ。

 

続く。

 

 

喧騒のモーツァルトコンサート〜ウィーン・ムジークフェライン

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夏のヨーロッパ旅行ではヨーロッパらしさを味わえない、
とはよく言われることです。

なぜかというと、夏の間ヨーロッパはいわゆるバカンスシーズンで、
皆こぞって避暑地に民族大移動してしまい、地元はいわば抜け殻状態で
本来の雰囲気を構成する要素である地元民の数が激減するからだとか。

我が家ではアメリカ在住の間、夏が来るとパリにアパルトマンを借りて
月単位で住んだものですが、Airbnbもない時代、なぜその間家が借りられたかというと、
住人が留守の間、サブレットなる住居を貸し出すシステムが昔からあったからです。

パリ市内に住んで街を存分に味わうことができた貴重な体験でしたが、
いかんせん、お目当の飲食店に行ってみたら張り紙があって、

「バカンス中なので一時閉店しています」

ということが多く、何度もがっかりさせられたものです。


ウィーンは観光で成り立っている街なので、飲食店に関しては
そのようなことは一度もありませんでしたが、こと文化面、特に
せっかく音楽の都にきたのだからコンサートをぜひ、などと考えていると、
音楽が好きな人ほど、失望することになります。

夏はオフシーズンなので、そもそもまともな演奏会は行われないのです。
超有名どころは、ザルツブルグ音楽祭に集結してしまっていますし、
そうでない人たちもほとんどが絶賛バカンス中で地元にいません。

しかし、今回、そんな夏のウィーンのコンサートにあえて行ってきました。

ウィーンでガイドをお願いした日本人のガイドさん(ウィーン音大卒声楽家)が、
歩いてインペリアルホテルまで案内してくれた時、話の流れで、
楽友協会で行われるコンサートのチケットを取ってくれることになったのです。

ウィーン楽友協会(ヴィエンナ・ムジークフェライン)

はヨーゼフ一世の時代、音楽家の団体の請願によって爆誕したコンサートホールで、
ウィーン・フィルハーモニーのホームグラウンドであります。

映画「のだめカンタービレ」では、演奏会シーンのロケが行われましたから、
記憶にある方もおられるでしょう。

 

というわけで、このコンサートに行くことになりました。
繁華街で客引きがチケット売っているような演奏会、逆に興味が湧くではないですか。

バウチャーを見ると、そこには

「モーツァルトコンサート」

としか書かれていません。
誰が演奏するのかというと、全くのノーバディです。
つまり、寄せ集めオケであることは火を見るより明らかってことですね。

プログラムは何かも全く告知されません。
とにかくモーツァルト、なんだそうです。

もう聴く前から観光客向けの見世物コンサートであることがわかり、
いつも演奏会の前に必ず感じる心地よい緊張感など皆無の状態、むしろ
怖いもの見たさでとりあえず会場に向かいます。

この日は朝からマルクト、三つ星レストランシュタイレレック、軍事博物館、
そしてコンサートと地下鉄のチケットがフル活躍です。

ウィーンの地下鉄の優先座席のマークは・・・わかりやすい。

少し早めに現地に着きました。
買ってもらったのはバウチャーなので、これを座席表と変えなくてはいけません。

それにしてもこのコンサートホール前の人々の色彩がですね・・・・。

昔ウィーン留学中の友人が楽友協会の写真を見せてくれたのですが、
冬のコンサートということで、友人も毛皮など着込み、周りの人々にも
なにやらゴージャスでハイブロウなかほりが漂っており、当時のわたしには
大変敷居の高い場所であるようなイメージだったその同じ場所が、
幾星霜を経て、今ではこんなチープ<チーパー<チーペストな世界に。

めげずに周りを歩いてみることにしました。

楽友協会の同じ建物の一角にはあのベーゼンドルファーのショールームが。
世界のコンサートピアノの趨勢はいつの間にかスタインウェイとヤマハですが、
ここウィーン生まれのベーゼンドルファーを支持するピアニストは多く、
あのフランツ・リストがご愛顧していたという話は有名です。

確かリストはベーゼンドルファー家の誰やらの愛人だったとか
どこかで読んだ記憶がありますが、それだけが理由でもないでしょう。

こちら、ウィーンフィルハーモニーコーナー。
もう営業?は終わっていたようですが、外側に向けてウィンドウがあり、
演奏家の写真などが見られるようになっています。

いつまでも歳を取らないリッカルド・ムーティ。
もう80歳近かったと記憶しますが・・・。
彼が現在のウィーンフィルの実質首席指揮者です。

12月のチケットをもうこの時期に発売していますね。

舗道には、ハリウッドよろしく楽友協会にゆかりのあった
著名な音楽家の肖像とそのサインが刻まれた星のプレートが。

アントン・ブルックナーは1896年ウィーンで亡くなりました。
シュタッドパークの銅像にもなっていましたね。

指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

「フルトメンクラウ」
なんて使い古されたシャレを知っている方はここにはまさかいませんね?

ベルリンフィルの指揮者だったがためにナチス政権時代、うっかり
ヒットラー総統の誕生日コンサートで第九を振ってしまって、
戦後ナチス協力者なんて糾弾されたという気の毒な経歴がありましたが、
彼はナチスに心酔していたわけではなく、むしろヒンデミット事件を境に
ナチスと対立する立場からベルリンフィル音楽監督を辞任しています。

何処かの誰かの評論で「政治的には全く無知だった」という実に無責任な
人物評を読んだことがありますが、この人物には、お前ならあのナチス政権下で
ゲッベルスに楯突いて自分の地位を投げ出すことができたのかと聞いてみたい。

最終的にフルトヴェングラーはナチスの弾圧を逃れスイスに亡命しています。

そしてフルトヴェングラーは、ウィーンフィルハーモニーにとっては命の恩人。
アンシュルスのあとナチスによって解散させられそうになったのを阻止したのは
ドイツ最高の指揮者であった彼だったのですから。

オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・エイネム。
この人の名前を知っている方は相当のクラシック通です。

ご存知フランツ・シューベルト。
楽友協会の資料室には、シューベルトの交響曲の交響曲の自筆楽譜が
第五番以外全て所蔵してあるそうです。

そのまま建物の周りを一周してみました。

「ゲイゲンバウマイスター」はヴァイオリン職人のことで、
ウィーンフィルの弦楽器の修理などを一手に引き受けている
ヴィルフレート・ラムザイアー=ゴルバッハ氏の名前であり、
その工房がここにあるということのようです。

一周回って正面玄関に戻ってきました。
このポスターは、ムジークフェラインが建造された1870年から
ちょうど150年目の節目が来年やってくるという予告でしょう。

観客が入場を始めました。
予想通り、ウィーン在住のクラシックファンなどおそらく皆無。
観客の全てが中国人主体の観光客というこの異様な光景です。

夏のコンサートに来るのはお上りさんだけだよ、とウィーン留学組から
聴いて知っていたつもりでしたが、ここまでとは。

そのほとんどがこういう出で立ちです。
そういえば三越お得意様限定旅行で防大見学をしたとき、
ツァーで同行した三越おばさまが、このムジークフェラインで毎年行われる
ニューイヤーコンサートにやはり三越の企画で行かれた話をされていましたが、
正装でドレスアップしているヨーロッパ人や日本人の中で、
(わたしの知り合いの銀行会長の奥様はとっておきの着物で臨んだらしい)

「中国の方達だけがラフな格好で来ますのよ。ジーンズとか」

とえらくお怒りでした。

かのごとくTPOをわきまえないのが中国人の中国人たるところですが、
最近はSNSの発達もあって少しは彼らも自覚があるのか、たまには
コンサートらしくドレスアップしたつもりで来る人もいました。

ただし、彼女らのほとんどが残念ながら「ツーマッチ」。
ロングドレス、結い上げた髪にシルバーのパンプスとか。

いや、これはニューイヤーコンサートではありませんから・・。

まあ、ヨーロッパからの観光客も似たようなものです(写真参照)
観客をできるだけ詰め込むため、ステージの両後ろ側に、観客からも見られる
特別席がありましたが、どうもここは安い席らしく、そこに座る客は
服装はもちろん態度がラフすぎるのが気になりました。

別名「黄金のホール」とも言われているこの大ホール、開演前は写真もOK、
とホールの係員に確かめ、わたしも安心して内部を撮影しました。

「黄金の」という言葉には、あのブルーノ・ワルターも絶賛したという
音響の素晴らしさへの賛辞が込められているということです。

東京オペラシティのタケミツメモリアルはここと同じシューボックス型ですが、
まさにムジークフェラインをお手本にしたのではないでしょうか。

全く確かめていませんが、おそらくそう間違ってないと思います。

ここではバルコニーですら音響を計算して設置してあるのだそうです。
高い天井の裏にも空間が設けてあり、床も木でできていて、まさに
巨大なヴァイオリンのなかで音楽が奏でられているような感じです。

こういう、人間が柱の役目をして頭でエンタブラチュア
(柱頭の上部へ水平に構築される部分)を支えているような装飾を
カリアティード(caryatid)といいますが、ここではこの
女神たちもまた、音波を理想的に反響させるために存在しているのです。

そういえば、日本は明治時代に西洋風建築の手法を取り入れて
各地に趣のある建物を作りましたが、西洋と決定的に違うのは、
この「人体および頭部使用率」であろうかと思われます。

日本は神話の根付いた土壌ではないので、西洋風の人間は
建築の装飾としてフィットしないと判断されたのでしょう。

何もかもが金色。オケの譜面台も椅子も全て金です。

始まる前には皆会場の中を撮ったり、記念写真を撮ったり、自撮りしたり。
そして、いくら観光客向けのお手軽なコンサートといえども、
コンサートが始まったら撮影禁止、と各国語で放送されました。
携帯電話の電源を切るように言われるのも世界共通です。

そして、オケが入場してきました。

これはS席チケットを買った人にもれなく付いてくるCDジャケですが、
出演者は全員、男性はもちろん女性も、モーツァルトのようなカツラをかぶり、
この写真と同じようにあの時代の服装に身を包んでおります。
コートの色は一人ずつ違い、全体で見ると実に大変華やかで目を楽しませる趣向です。

プログラムは怒涛のモーツァルト攻撃。抉りこむようなモーツァルトのラッシュです。

観光客相手ということでその選曲もポピュリズムモーツァルトの極地で、
例えば「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」なども一楽章だけ。
たとえ有名でも緩徐楽章をじっくりやるというようなかったるいこともしません。
そして何をやっても速い。超速い。

なんでも速すぎと言われていたカラヤンもびっくりの超スピードで、
もはやそれは速さをサーカスのように見せびらかしているだけの演奏でした。

メンバーにはこの道一筋、みたいな年配の奏者もいましたが、見たところ、
各首席は固定メンバーで、後はほとんどエキストラで固めた感じ。
そのトラは一夏の契約でウィーン音楽大学から学生がバイトで来ている、
というような若い人が多く、そのせいか女性の混入率が大変高かったです。

しかし、「のだめカンタービレ」でのだめもやっていましたが、若い女性が
モーツァルトの格好をしているのはとても可愛らしいものでした。

 

ただし彼らの名誉のために言及しておくと、彼らはある意味プロ中のプロなので、
エンターテイメントとしての質の良い音楽を景気よく提供するという姿勢は
ビシバシ伝わってきました。

トルコ行進曲をオケに編曲してやったり、男女の歌手がちょいちょい現れて
おなじみのオペラのアリアを歌ったり、素人を飽きさせない工夫満載です。

次から次へと矢継ぎ早に(本当にそうとしか言いようがなかった)演奏される
全ての曲はこの日の観光客にとっても馴染みのあるものばかりだったのではないでしょうか。

いかにモーツァルトがその短い人生で名曲を書きなぐったかということですね。

 

さて、わたしたちの座ったS席の前列の通路前の席は、
楽友協会の係員に案内されてくる特別招待客用だったのですが、
そのど真ん中の二席の客が二、三曲遅れて入って来ました。

男性は高級そうな黒スーツを着ていましたがものすごい猪首のプロレスラー体型で、
女性はモデル並みに背が高くすらっとして真っ黒黒助に日焼けしており、
側頭部の髪の毛を剃り込んだアバンギャルドなヘアースタイルに、
むき出しの肩には見事な刺青がびっしりと入っているという、どう見ても
カタギではない人々に思われました。

「どういう人たちだろうね」

「マフィアの用心棒とその情人(おんな)」

「またそんな身も蓋もないことを断言する」

特別席の客は休憩時間に特別なご招待があるらしく、案内されて
どこかに消えていましたが、帰ってきたとき、わたしの予想は
当たらずとも遠からずではないかというちょっとした出来事がありました。

帰ってきた用心棒は(決めつけてるし)なんとさっきまで自分が
どこに座っていたかわからなくなったらしく、しばらく椅子を黙視していましたが、
二つ隣の席に間違えて腰を下ろしたのです。

彼の情人も彼の間違いに全く気付かず、間違った席に腰を下ろしたので、
本来の席の人が係員に連れられて帰ってきたときに、

「あの、お客様の席は一つ向こうなんですが」

と注意されて二人で席を移動する羽目になっていました。
さっきまで自分が座っていた席を忘れるほどの知能って一体・・・。

というわけで、やっぱりマフィアの用心棒(レスラー出身)というのは
間違いないところでは、と内心勝手に決めつけてうなずいていた次第です。

 

休憩時間にトイレを利用しましたが、そこでは案の定中国人が
人の頭越しに大声で会話するといったような喧騒を繰り広げており、
日本のコンサート会場での整然とした静かな列が本当に懐かしかったです。


そして、中国人といえば!

わたしたちの左隣は中国人の一家(小学生の女の子二人)でした。
S席前列を4席取るくらいですので富裕層に属するらしく、
全員が見るからに高価な衣服を着用し、奥方は美人でセンスもよかったのですが、
こいつらが、演奏中大人しくしてないんだよ。

女の子二人はトルコ行進曲が始まると自分が知っている曲だとはしゃぎ、
母親に話しかけて母親はそれに答えてやり、情操教育に余念がありません。

てか演奏中にしゃべるなよ。情操教育は後にしようよ。
一緒に歌ったり指揮のふりをするのもやめさせてくれ。

それでなくても、禁じられているのに入場してきたオケの写真を撮ったり、
演奏中喋ったり、お菓子の袋を開けたりという聴衆に囲まれて、
一体なんなのこの人たちは、と呆然としていたわたしたちですが、
この中国人一家には演奏中ずっとかなりイライラさせられました。

しかし、もっと驚いたことに、休憩が終わって後半が始まったら、

その一家は戻ってこなかったのです。

「戻ってこなかったし」

「多分飽きたんでしょうな」

「しかし勿体無いことをするねえ」

どんなお金の使い方をしてもそれは人の勝手ですが、いくら観光コンサートとはいえ、
S席のチケットは決して安くもないのに、散々騒いだ上、飽きたから後半はもういいや、
と帰ってしまう、こんな浪費をしてはばからない人の心は実に貧しく下品に思え、
他人事ながらなんだか情けない思いをしました。

いくらお金を落としても中国人が嫌われるのは、こういうところなんだろうな。

というわけで、ほとんど動物園を見ているような観客席模様でしたが、
エンターテイメントとしてのモーツァルトコンサートが終わりました。

「いやー、なかなか面白かったよね。いろんな意味で」

というと、MK、

「でも俺、自分がモーツァルトが好きじゃないことはよくわかった」

と身もふたもないことを・・・。

まあ、よく考えたら、わたし自身、モーツァルトはもちろん嫌いではありませんが、
そもそも好きか嫌いかなんて、この人生で考えたことはなかったかもしれません。

何故なら、モーツァルトとは太陽や月のように「そこに在る」ものだから・・?

「死とはモーツァルトが聴けなくなること」

といったのはアインシュタインですが、そのアインシュタインだって、
モーツァルトが好きで好きでしょうがないっていう意味でいったんじゃないと思う。
知らんけど。


しかしMK、この日のモーツァルトをもってモーツァルトを語るなよ(笑)

 



 

レルヒ少佐のスキー〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館はホールごとにテーマが決まっており、
それでいうとナポレオン戦争に次いでハプスブルグ家の三代に亘る資料、
その次には、

「ラデツキーのホール」

があります。
ただし、わたしはここでなぜか呆然としてしまい、写真を全く撮っていません。
これだけ膨大な資料があると、取捨選択にも大変な集中力がいるのですが、
ナポレオン戦争で緊張が途切れてしまったものと思われます。

なので、ちょっとだけ説明しておきますと、ラデツキーというのは
あの「ラデツキー行進曲」のラデツキーです。

どちらかというとこのシュトラウスの行進曲ばかりが有名ですが、
ここオーストリアでは東郷平八郎並みに知られた軍人なのです。

いや、陸軍だから乃木希典か。

Radetzky-von-radetz.jpg

ヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・ラデツキー伯爵。

ヨハン・シュトラウス1世が1848年に作曲した『ラデツキー行進曲』は、
北イタリアの独立運動の鎮圧に向かうラデツキー将軍を称えて作曲されました。

また、ウィンナーシュニッツェルは、ラデツキーがミラノから持ち帰った
「ミラノ風カツレツ」が元になっているんだとか。

このホールには、ラデツキーの退位証明書などが展示されています。

 

続いては「フランツ・ヨーゼフ1世のホール」です。
ヨーゼフ二世についてお話しした日に挙げた絵に登場していた少年、
覚えておられますか。

白馬に乗ったのがヨーゼフ二世、左端の灰色のジャケットが、
のちのフランツ・ヨーゼフ一世です。
このヨーゼフ一世の子供、フランツ・カールを父親として生まれたのが
フランツ・ヨーゼフでした。

つまり、ヨーゼフ一世の孫なので、最初はフランツ・ヨーゼフ二世と名乗りましたが、
皇帝の座についてから1世とあらためました。

えらくイケメンですが、オーストリアの青年にはこういうタイプが多い(マジ)
のを今回確認した私に言わせると、本当にこんなだった可能性は高いです。

ただし、前にも書きましたように、オーストリア青年の美貌は
歳をとると割と跡形も無くなって普通になってしまう、いわば
瞬間芸みたいな儚いものである模様(ロシア女性もこんな感じかも)。

Emperor Francis Joseph.jpg

晩年のフランツ・ヨーゼフ一世。
息子のルドルフは30歳で愛人と心中してしまいますし、皇位継承者であった
フランツ・フェルディナントはサラエボ事件で暗殺されています。

このフランツ・ヨーゼフ一世の嫁というのが、あのエリーザベトでした。
この肖像画家はデッサン力に少々問題があるような気がするのですが、
まあ、それはさておき、皇帝夫妻は誰もが認める美男美女のカップルだったわけです。

このエリーザベト皇后も後年無政府主義者にやはり暗殺されていますから、
もうフランツ・ヨーゼフ一世、お祓いが必要なレベルで周りの人が
次々と、しかも普通でない理由で死んでいったことになります。

戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされ・・。
しかしその忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、
晩年には帝国内のすべての民族に慕われ、治世期間が長かったことから、
「最後の皇帝」と呼ばれています。

フランツ・ヨーゼフ時代のK.u. K、つまり
オーストリア=ハンガリー帝国軍の双眼鏡とケースです。

ヨーゼフ一世の時代、ウィーンは大改造計画によって都市から
旧城壁が撤去され、国内では大々的な鉄道敷設工事が行われました。
これは1896年に撮られた敷設工事現場です。

軍隊で使用していたであろう当時の携帯電話。

ちなみに、フランツ・ヨーゼフ一世という人は、18歳で戴冠し、
長い間帝国のトップにあったとせいなのか、保守的で、新しいもの、すなわち
「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、拒否し続けました。

自動車については77歳の時に、イギリス王エドワード7世の求めに応じて
1度だけ彼と同乗したことがあるそうですが、電話は1度も使っていません。

今ならさしずめどんなに言われても携帯を持ちたがらなかったり、
インターネットを拒否する爺さん婆さんみたいなものですか。

ただし、電信機だけは気に入ったのか、どのようなことも電報で通信し、
シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも使っていたとか。

1900年当時の最新型カメラです。
フランツ・ヨーゼフ一世には写真による肖像が残されていますし、
なんなら亡くなってベッドに横たわっている写真もあるくらいなので、
写真は全く拒否していなかったようですが。

こうなるとどこからOKでどこからダメなのか、基準がわかりませんね。

自動車もダメなら、きっと飛行機などは機会があったとしても
決して乗ろうとはしなかったでしょう。

説明の写真を撮り損なったのですが、この時代にオーストリアでも
飛行機の開発が行われていたようです。

いきなり現れたのがスキーの展示。
なんとなく興味を惹かれて近づいていくと、わたしたち日本人にとって
馴染みのある名前が写真に記されていました。

Major Theodor Edler von Lerch

このスペルでぴんと来なければ、

レルヒ少佐

ではどうでしょうか。

 

右側にあるレルヒ少佐の写真の下には、

「Instruktionsoffizier in kaiserl, japanischer Army.」

「Er fuhr in japan den modernen schilauf ein.」

とあり、日本陸軍のスキー指導員として日本に行き、
近代スキーを指導した、と書いてあります。

左側のスキーを履いた四人は全員が日本女性であり、写真の説明によると、

「レルヒの生徒だった陸軍将校の妻たち」

だそうです。
皆スキーを履いて、ストックは一本だけ構えていますが、
レルヒ少佐が日本に伝授したのは、この一本杖の手法でした。

Theodor Edler von Lerch.jpg

レルヒ少佐がなぜ日本でスキーを教えることになったかというと、
そもそものきっかけはあの

八甲田山雪中行軍遭難事件(1902年)

でした。

日露戦争で大国ロシアに勝った日本の軍事力には、当時世界中が注目し、
オーストリア=ハンガリー帝国でも、日本陸軍を研究するため、
交換将校という形でレルヒ少佐は日本に滞在していたのです。

レルヒ少佐がインスブルックの部隊で参謀をしていた頃、スキー術の研究をしており、
本国では有名なスキーヤーであることを知った陸軍は、彼を教師に陸軍に
スキーの技術を導入することを企画しました。

当時、八甲田山事件ののショックがまだ陸軍内に尾を引いており、
あのような事故が再び起こったとき、スキーを活用すれば何らかの形で
最悪の状況は防げるかもしれない、と考えたのです。

そして1912年、1月12日。

日本で初めてのスキー教室がこの日に開催されました。

場所は現在の新潟県上越市、生徒はのちに日本スキー連盟の会長になる
鶴見宜信大尉はじめ、14名の陸軍軍人で、この14名はその後
指導員となってレルヒ少佐直伝のスキー技術を陸軍に伝授しました。

ウィーン軍事史博物館には、レルヒ少佐が実際に使用していたスキー用具が
このように展示されています。

日本に教えたのは一本杖の方法でしたが、それは地形を考慮した結果で、
レルヒ少佐本人は二本のストックを使って滑っていたようです。

束ねたロープの左側にあるのが一本杖スキーで使う道具ですね。
日本で言うところのカンジキ、雪上履があります。

面白いのは、このカンジキ、日本では縄文時代から使われていているそうですが、
その原理と形はオーストリア製と全く違いがないことです。

スキー靴を止める器具の部分を拡大してみました。

こちらスキー靴。
レルヒ少佐の足は結構大きかったようです。
スキー板と靴は、布のベルトで止めたんですね。

これはオーストリア陸軍のスキー部隊のフル装備。
スキーを持ち、背中にはカンジキを背負っています。

というわけで、意外なところで日本に関係のある人物を見て嬉しくなったのですが、
さらに今回調べてみて、驚愕の事実が判明しました。

2009年、スキー発祥100周年を翌年に控えたこの年、
新潟県観光キャンペーンのゆるキャラ、レルヒさんが爆誕していたのです。

レルヒさんオフィシャルサイト

身長は270センチメートルで、各地のゆるキャラの中でもっとも背が高く、
キモカワイイをウリにして結構グッズも売れているそうです。

100周年記念キャンペーン終了後は、「元祖スキー天国新潟」である
新潟県PRキャラクターとして日本国内各地で宣伝活動も行うレルヒさん。

また、2012年2月に新潟市内在住の小学生女子3人組からなるユニット、
「シュプール音楽隊」によるCD「レルヒさんのうた」も生まれました。

レルヒさんのうた

全部真面目に聴いたら脳髄が溶けそうなゆるさですが、
途中に、オーストリア式ということで、男性はチロリアンハット、
女性は矢絣の袴姿でスキーを履いて一本杖を持っている写真があり、
これなどは歴史を忠実に再現している(つもりだ)と思われます。

ちなみに、レルヒが初めて日本でスキーを教えたことになっている
1月12日は、「スキーの日」となっていて、イベントも行われているようです。

 

というわけで日本スキーの父でもあるレルヒ少佐ですが、
帰国した後の消息も少しお伝えしておきましょう。

レルヒ少佐、まず帰国後勃発した第一次世界大戦に陸軍軍人として参加します。
しかし西部戦線に向かう途中の戦闘で負傷し、退役を余儀なくされ、
その後は日本を題材にした公演を行ったり軍事評論などをして
糊口をしのぎますが、やはり敗戦国となったオーストリアでは
軍人の恩給も出ず、晩年は貧困に苦しんだ、というのです。

日本はまさかレルヒ少佐がそんな状態になっているとは夢にも思わず、
昭和5年、レルヒ少佐が最初にスキーの指導を行なった高田で
「スキー発祥記念碑」を建立する運びになり、本人を除幕式に招待したのですが、

「身体の具合が思わしくなく、日本に行くのは財政的に厳しい」

という理由で来日を断って来たのです。

驚いた日本人、関係者にお見舞金を募り、同年、当時の金額で1600円
(現在の貨幣価値で600〜800万円相当)をレルヒに寄付しますと、
レルヒからは、礼状とともに自筆の油絵と水彩画が送られてきました。


日本では恩人として尊敬され、慕われていたのに、本国に帰ってから
特に評価されずに不幸な晩年を送ったというのは、横須賀のドック建設に
尽力した、フランソワ・レオンス・ヴェルニーを思わせます。


レルヒ少佐が(最終階級は少将)日本に滞在していたのは、
長い76年の生涯のたった3年間でした(41歳〜44歳)が、
その短い期間に受けた恩義を日本はそれからもずっと忘れず、
100年経ってもゆるキャラまで作って()功績を讃え続けているのです。

もし時空を超えて、レルヒ少佐の名前が「レルヒさん」として
今でも日本人に愛されていることを知ったら、彼は一体どう思うでしょうか。

 

続く。

 

 

 

サラエボ事件・なぜ皇太子夫妻は暗殺されたのか〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館の中でもっとも有名で注目を集める展示、
それは間違いなくサラエボ事件関連のものでしょう。

「サラエボ」と名付けられたこのコーナーには、皇帝の後継者だった
フランツ・フェルディナンド皇太子が皇太子妃と共に暗殺されたときに乗っていた、

1911年式グラーフ&シュティフト 28/32 PS
「ドッペルフェートン」

が展示されています。

車は石畳を模した展示スペースに、壁全体を当時の写真で囲まれた状態で
展示されており、誰もが足を止め食い入るように説明文を読んでいました。

わたしも、あの、第一次世界大戦のきっかけとなった重大事件が
この車の上で一瞬のうちに行われたことが、何か信じられない気持ちで
タイヤの汚れやどこかに傷がないかなど、細部を凝視しました。

さて、サラエボ事件が皇太子夫妻暗殺事件で、それが第一次世界大戦の
引き金となった、ということはどなたもご存知だと思いますが、
そのディティールについて、展示物をご紹介しながらお話ししていくことにします。

そもそも、オーストリア皇太子夫妻はなぜ暗殺されなくてはいけなかったのでしょうか。

オーストリア皇太子夫妻、フランツ・フェルディナンドとゾフィー・ホテク。
先日お話しした「最後の皇帝」ヨーゼフ一世(エリーザベトの夫)とは
弟の子、つまり伯父と甥という関係になります。

これもお話しましたが、ヨーゼフ一世の息子は30歳にして自死、つまり
女性と無理心中してしまったため、ヨーゼフ一世の後の皇位継承者は、
皇帝の弟であるカール・ルードヴィヒに指名されました。

ところが、カール・ルードヴィヒは、皇太子になって7年後に病死したため、
その息子であるフランツ・フェルディナンドが皇太子になったのです。

 

ここで、当時のオーストリア=ハンガリー帝国と、事件の起こった
現ボスニア=ヘルツェゴビナの関係はどうだったかについて触れておきましょう。

まず、ハプスブルグ帝国軍の最高司令官にして天才軍人、プリンツ・オイゲンは、
1697年にこの地を襲撃の末制圧しており、ほとんど壊滅状態になった国土は、
長らく復興することさえできない状態が続いていました。

これだけでもオーストリアに対する反感が育つには十分な理由ですが、
1850年台には正式に?オーストリア=ハンガリー帝国に統治されています。

ボスニア=ヘルツェゴビナは民族的にスラブ系で、どちらかというと
ゲルマン系よりオーストリアの天敵であるロシア寄りになっていたので、
火種がくすぶる原因はもともとあったのです。

帝国側から見ると路面電車を敷設するなどのインフラ整備を行ったり、
融和的な政府によって、併合は表面上うまく行っているようでしたが、
軍隊も議会も取り上げた状態がテンプレである統治という形態について、
された方が全面的にそれを良しとするとは限リません。

いまだに統治した国のうち一つに絶賛一千年恨まれ中のわたしたち日本人が
身につまされている歴史のあるあるですが、それだけではありません。

フランツ・フェルディナンドは、即位後にボスニアをハンガリーと同じく帝国にして、
オーストリア=ハンガリーの「二重帝国」を「三重帝国」にしたい考えだったので、
反オーストリアの民族派にとっては、抹殺すべき人物と目されていたのです。

皇太子夫妻がサラエボ訪問を行ったのは、ヨーゼフ一世の命にによるもので、
予定されていたボスニアでの軍事演習を視察するのが目的でした。

このとき、皇太子である大公が「軍人として」軍事演習の視察に行った、
ということはこの事件を知る上で重要な情報ですので、頭に置いておいてください。


この写真は、夫妻がセルビア市庁舎に到着した時のものです。
この後、市庁舎内で何事もなかったかのように歓迎会が行われたのですが、
実は、この直前、皇太子暗殺を目的としたテロはすでに起こっていたのでした。

英語でも説明してくれているので助かります。

皇太子夫妻を乗せた車は画面左手から市庁舎に向かい緑色の矢印の通りに進んで、
10分後、画面左手の「チュムリヤ」という橋の黒丸の地点に差し掛かったとき
待機していた暗殺グループが車列に向かって爆弾を投げました。

皇太子夫妻の車を狙って、民族主義者の暗殺グループのうち、
チャブリノビッチという20歳の青年が(のち獄死)投擲したもので、
狙いは外れましたが爆発し、後続の車に乗っていた人が負傷します。

皇太子夫妻の車はそのままスピードを上げて現地を離れ、
残りの暗殺グループは何もすることができませんでした。
車はその後赤で印された市庁舎に向かい、予定通り歓迎式典が行われました。

式典では何事もなかったかのように祝辞が始まったため、当然ながら皇太子は
なんでこんなことがあったのに普通に祝辞などやっているのか、という調子で
市長の挨拶を遮ってテロに言及したそうですが、ゾフィー妃に
耳打ちされて黙ってしまったということです。


歓迎の式典が終わりました。
ここで、皇太子が爆弾事件の負傷者を見舞うと言い出したため、
黄色の線を通って病院に行くというルートに変更されました。

ところが、皇太子夫妻の車の運転手にその連絡をするのを忘れた人がいて、
車は本来のコース(紫)に右折して行ってしまったのです。

それが運命が決まった瞬間でした。

皇太子夫妻の車に同乗していたセルビア軍総督が、それに気づき、
車を停めさせたのが、運の悪いことに、暗殺グループの一人だった

ガブリロ・プリンツィプ

が諦めて食事をしていたカフェの前(🔴地点)だったのでした。

 (ちなみに食べていたのはサンドウィッチだったということです)

ここでもう少し時間を戻します。

この写真は、市庁舎から出て車に乗り込もうとしている大公夫妻ですが、
先ほどのテロ未遂の後なので、表情は堅いことが見てとれます。

ここで、不幸につながる偶然の連続と見えるこの事件が、
ある意味防げた事故であり、人災であったと思われる部分について述べます。

 

このとき、ボスニア側では、帝国に融和的な国民を刺激するとして、
もともと要人警護を目に見えて手薄にしていたとうことがありました。

しかし現実に皇太子を狙うという凶悪なテロが起こったのですから、本来ならば
そのあとの予定は全部中止にして残党の暗殺計画に対処するべきだったのです。

ところが、このとき、ボスニア側のポティオレク総督は、事件の再発を心配し、
市庁舎に止まるべきだと進言した大公の侍従に、

「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた(wiki)

というのです。

Potiorek oskar fzm 1853 1933 photo2.jpgポティオレク総督

それにしても、このオスカル・ポティオレクという総督なんですが、
どうも、この人のやることなすこと事件の発生を後押ししているんですよね。

どういうことかというと、

● 皇太子夫妻の訪問に対して厳重な警備を行おうとしなかった

● 最初のテロ事件が起こった後も、警備を増援しなかった
理由は、「演習の途中なので兵士がちゃんとした制服を着ていない」というもの

● 車のルートが変更になったことを運転手に伝えるのを忘れた
前の二台を追いかけさせるため車を停めさせたらそれが犯人の前

 

最後のは偶然というか至極当然の行動だとしても、これだけ重なると、
この人の責任も問われてしかるべきでは、って気がしませんか?

総督が何か一つ危機管理に留意していただけで、この事故は起こらず、
従ってその後の世界の運命は全く違ったものになっていたことになります。

事件が起こった瞬間を描いた当時の新聞の挿絵です。
皇太子が首を抑え、ゾフィー妃の腹部に銃弾が当たった瞬間を描いたものです。

犯人のプリンツィプが、車に駆け寄って発砲していますが、
目の前で停止した車の踏み板に乗って、まさに至近距離からー
外しようのないくらいの距離からー銃撃したという説もあります。

皇太子の着ていた軍服は絵のような白ではなく、青色です。

博物館には、暗殺当時皇太子が着用していた軍服が一式飾られています。

暗殺は6月であったことと、すぐに上がった写真が白黒だったため、
挿絵画家は色を判別することができず、とりあえず夏服を描いたのでしょう。

首を抑えていたことからもわかるように、銃弾は皇太子の頸静脈に当たりました。
軍服の内側のカラーには頸部からの出血の跡がはっきりと見え、さらに
銃弾がかすったと思われる傷と血のシミがまだ残されています。

犯人は続いて皇太子妃ゾフィーの腹に一発を撃ちましたが、これは意図してではなく、
同乗していた総督を狙ったが外れたものだと裁判で述べたそうです。

博物館公式HPより。
軍服の裂け目は袖にまで至っています。

軍服だけでなく、皇太子が身につけていた装飾品のほとんどが展示されています。
左にある緑色の羽は、大公が被っていた帽子の飾りですが、
百年以上経ってこれだけ色を残しているということは、当時は
鮮やかな緑色をしていたのでしょう。

そして、透明の板に乗せられた軍服の下の寝台ですが、これは
皇太子が銃撃を受けた後、寝かされ、息を引き取ったものです。

赤い生地なのでよくわかりませんでしたが、おそらくはここにも
血液の染みが見られるのに違いありません。

それを見せるため、このような展示方法を取っているのでしょう。

大公が着用していたのはK.u.K アーミー、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の
将軍の軍服となります。

わたしが驚嘆したのは、寝台の足元に置かれた皇太子着用の靴。
その皮がなんとも滑らかそうな、仕立ての良さがありありと表れているブーツで、
今でもちょっと手入れしたら普通に履くことができそうなくらいです。

皇太子は銃弾を受けたのが静脈だったせいで即死せず、銃弾を腹部に受け、
すぐに意識を失った妃に向かって、

「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」

と声をかけて、自分自身については

「大したことはない」

となんども答えていたそうですが、総督公邸に到着してから10分後、
意識混濁のまま亡くなりました。

ということはこの寝台の上でまさに息を引き取ったのかもしれません。
そして、もしかしたら皇太子は自分が亡くなるとは最後まで
思わないまま、二度と意識が戻らなかったのではないでしょうか。

 

さて、次回はゾフィー妃のことについてもお話ししてみたいと思います。

続く。

 

 

サラエボ事件・なぜ皇太子妃は暗殺されたのか〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館のサラエボ事件関係の展示について、
前半では事件が起こるに至った背景と、事件そのものの経緯を
絡めながらご紹介してきました。

後半では、博物館展示の写真から、もう一度事件発生前に戻ります。

フランツ・フェルディナンド皇太子夫妻の訪問を迎えるため、
大きな花束が用意され、贈呈係の少女が受け取っているところです。

サラエボ側の役人たちは全てトルコ帽を着用し、フラワーガールも
トルコ風のバルーンのようなシルエットのパンツを履いています。
どういう関係で抜擢されたかわかりませんが、可愛いですね。

皇太子夫妻の車列に手榴弾が投げ込まれましたが夫妻は難を逃れ、
皇太子の車はスピードを上げて現場から走り去ったため、歓迎のために待っていた
これらの人々が、事件の発生によって待たされることにはなりませんでした。

市庁舎前に博物館に今日展示されている車が到着しました。
運転席にいる運転手は、動画によるとこの後車を降りて、
爆発の影響がないか車体を調べていたようです。

比較のためもう一度車の写真を上げておきます。
今回確認のために「映像の世紀」の車の映像を見たところ、
ただ車がポツンと隅に置いてあるだけで、今のような演出は
全くありませんでした。

現場では気づかなかったのが痛恨の極みですが、この車体には
後部に弾痕の跡が残されています。

その後フランツ・フェルディナンドは、爆弾によって負傷した人々を見舞うため
歓迎会の後の予定を変更して病院に向かうことにしました。

このことが、皇太子本人が射殺されるきっかけを作ることになります。

視聴者の階段を上っていく皇太子夫妻。
運転手は点検のために運転席から立ち上がっています。

歓迎会が終わり、サラエボ側は先ほど起こったばかりの暗殺未遂に対し
なんの危機感もなく、対処しないまま、皇太子は出発することになりました。

博物館に展示されていたこの写真には、ドイツ語で

「暗殺の5分前、市庁舎を退去」

とあります。

DER MOMENT DES ATTENTATES「暗殺の瞬間」

とキャプションがありますが、犯人の姿は写真では確認できません。

右からゾフィー妃、隣がフランツ・フェルディナンド皇太子、
その左がこの直前車を停めさせたポティオレク総督。

運転手にコースの変更を伝え忘れたのは他ならぬこのおっさんだったのですが、
前の二台が川沿いをまっすぐ行ってしまったのに、この車だけが右折したため、
車をバックさせて二台のあとを追いかけるように伝えていました。

車は完全に停止した状態で、この近くのカフェで食事をしていた犯人にすれば
まさに天佑天助とでもいうべき千載一遇のチャンスだったのです。

もう一度写真をみてください。

近くに立っている人の中には、まだ異変に気づいていない人もいますが、
至近距離の二人の紳士が凝視しているのは犯人の姿であろうと思われます。

おそらく犯人のプリンツィプは今まさに車に銃を持って駆け寄り、
ステップに足をかけようとしているのに違いありません。
それを思わせるのが、総督の被っている帽子の房で、激しく揺れており、
これは総督が不審者の接近に気付いて反応したことを意味しています。

弾痕のありありと残る車のフロントガラス、そして犯人が使った銃。
制帽と真ん中のものは何かわかりません。
(説明部分の文字がぶれていて判読不可能でした)

博物館HPより。

フロントグラスを取り外したのは、おそらくですが、
移動の際にガラスそのものが破損してしまう可能性を考慮してのことでしょう。

過去何度か飛び石事故でフロントガラスを取り替えたことのある経験からいうと、
亀裂の入った面の大きなガラスは、少し車体がねじれたくらいの圧がかかっても
いとも簡単に全損してしまうものなのです。

プリンツィプが撃った銃弾は一発は妃の腹部、二発目は皇太子の頸部を傷つけ、
本人はそのあと自分を撃って自殺するつもりが取り押さえられたとありますが、
車体左側、そしてこのガラスに残る弾痕から見る限り、犯人は
銃を撃ちながら車に近づいていったということかもしれません。

博物館では公開されていないようでしたが、HPにこんなものもあります。

暗殺されたときに皇太子が身につけていた白いシャツです。
袖口以外は白いところがないくらい血で染められています。

関連画像

前回見ていただいた軍服の血のシミは、年月を経て薄れてしまっていますが、
事件直後に撮られた写真によると、こんな状態でした。

事件でほぼ即死したゾフィー妃、そしてしばらくは意識を保っていたものの、
次第に混濁し、死亡に至った皇太子、二人の遺体は、総督公邸に安置されています。

二人とも清拭され、衣装も着替えさせられて、まるで寝ているようです。
皇太子が着替えるための代わりの軍服も即座に用意されたのでしょう。
その胸には、暗殺の時と同じ勲章が清拭されて付けられています。

ゾフィー・ホテク(1868〜1914)

は、チェコの貴族出身で、ハプスブルグ-テシェン家の妃の女官でした。
二人がチェコのプラハで出会ったとき、フランツ31歳、ゾフィー26歳。

恋に落ちた二人がテシェン家の別荘でこっそりと逢っていた頃、
ちょうど帝位継承者であった彼の父親、カール・ルードヴィヒが病死してしまいました。

順序からいって次の帝位継承順位はフランツ・フェルディナンドとなるのですが、
ちょうどこの頃、内緒にしていた二人の恋愛は、テシェン家の妃に怪しまれ、
フェルディナンドが時計の裏に仕込んでいたゾフィーの写真を見つけられてしまい、

「おのれ、わたしの娘を狙っていたと思っていたのに、よりによって女官とは!」

と大騒ぎになってしまいます。

ゾフィーの身分を問題視したヨーゼフ一世は、フェルディナンドに向かって

「廃位か結婚か、どちらかを選べ」

と迫ったそうですが、彼は、どちらも手放さない、と断言しました。

もしこのとき彼が帝位を諦めていたら、その時は彼の弟に話がいったはずですが、
フェルディナンド、どうもこの弟が嫌いだったらしく、
(自分の宮殿より弟の方が大きな所に住んでる!あいつムカつく、とか、
本人が帝位に野心はないといったのに、それを鼻であしらうとか)
弟への対抗心から帝位に執着したと言う考え方もできますね。


結局彼は、ゾフィーがダメなら誰とも結婚しない、といって意志を貫き、
1900年6月28日、結婚を強行しました。

ところで、6月28日といえば、1914年のこの日はなんだったでしょうか。
そう、サラエボで二人が暗殺されたまさにその日です。

 二人は結婚記念日に共に命を絶たれたことになります。


さて、皇帝のヨーゼフ一世は結婚を許したものの、結婚式への出席を拒否し、
彼の側の親族にもそれを禁止したため、結局二人の結婚式は、写真の通り、
ゾフィー側の関係者だけの、あまりにもささやかな式となりました。

しかも、彼らはヨーゼフ一世から、結婚は許すが、ゾフィーを皇族扱いしないこと、
生まれた子供には決して帝位を継がせないこと、という約束をさせられていました。
皇太子夫妻としての公式行事に参加することも禁止です。

 

そんなヨーゼフ一世が事件について第一報を聞いたときの第一声は、

「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。
余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」

というものであったといわれています。

つまり、彼らの貴賤結婚は「神に対して逆らうこと」と同等であり、
二人揃って殺されたことは、その「報い」であると皇帝は言い切ったのです。

さらには、身分の低いゾフィーとフェルディナンドが結婚することによって
古い秩序が破壊され、自分はそれを止めることはできなかったが、
神の下した罰によって彼らは破滅し、古い秩序は取り戻されたのだ、と、
聞きようによってはまるで暗殺を喜んでいるようにも取れる発言です。

たとえそうでなくとも、彼らの道を外れた行いに対し天罰が降った、
とヨーゼフ一世が考えていたことは確かなところでしょう。

 

ちなみにフェルディナンド大公が死亡することによって次期皇帝の座には、
彼が毛嫌いしていた(に違いない)弟のカール一世が指名されました。

詰め寄る兄に『自分は帝位への野望はない』と言ったのに、信じてもらえなかった
このカール一世ですが、本当に野望どころかやる気もなかったようで、
ヨーゼフ一世崩御後、オーストリア=ハンガリー皇帝になるも、すぐに国事不関与を宣言し、
その日のうちに自ら宮殿を去り、最後のハプスブルグ皇帝となってしまいました。

ハプスブルグ家がオーストリアから去っていく絵の最後には
ヨーゼフ1世に続いてカール一世が振り返りながら退場していく姿が・・。

ただしこれはカール一世のやる気の問題ではなく、時代の趨勢ということでもありました。

もしヨーゼフ1世がフランツ・フェルディナンドの貴賤結婚を許し、
その子どもたちに帝位を継がせる可能性を与えていたとしても、
遅かれ早かれハプスブルグ家の帝国は、世界の帝国主義とともに崩壊していたのです。

ゾフィー妃の私物もいくつか展示されています。
手書きのメモが添えられたかつては色鮮やかだったであろう押し花。
白いレースはハンカチでしょうか、スカーフでしょうか。

 

これも説明を撮影しなかったので何かわかりませんが、手編みのレースで作ったものです。

ところで、ゾフィーがフランツ・フェルディナンドと結婚する条件の一つに

「公の場に二人で出席してはいけない」

というものがあった、と先ほど説明しましたね。

身分の卑しい彼女が夫の一族からはまるでいない人のように扱われるのは既定路線でしたが、
それでは今回、なぜ二人は公的行事に一緒に現れたのでしょうか。

本来ならばゾフィーの帯同は許されなかったのですから、暗殺があったとしても
少なくとも彼女は暗殺されることもなかったはずなのです。

 

ヨーロッパ貴族の常として、フランツ・フェルディナンドは軍人でもありました。
この日も、サラエボに赴いたその理由は、軍人の立場で軍隊を閲兵することです。
彼はこの頃、ヨーゼフ一世に変わり、軍の最高指導者の立場にいたのです。

そして、暗黙の了解というか、抜け穴と言うべきなのか、ゾフィーは
皇太子としての大公とは同行出来ませんでしたが、ただ、

「夫が軍人として公務に参加するときだけ」

一緒に歩き、共に並んで立つことがなんとか許されていたのです。


わたしの想像ですが、二人は結婚記念日に当たるこの日、煩いウィーンを離れ、
晴れて夫婦揃って公務に出席することを心から喜んでいたに違いありません。

そして、昼間の公務が終了した後には、14回目の結婚記念日を祝うための
二人きりの祝宴を囲むつもりをしていたのではなかったでしょうか。

二人は晩年まで仲睦まじい夫婦でした。
この時、ゾフィー妃は46歳でしたが、懐妊していたとも言われています。

海軍の軍服を着用した皇太子

軍人としてのフランツ・フェルディナンドは、当時の陸軍優位の帝国軍で
唯一海軍の増強を提唱していた人物で、そのこともあって、暗殺された後の遺体は

戦艦フィリブス・ウニティス (SMS Viribus Unitis) 

に乗せられ、海路でイタリアのトリエステまで運ばれました。

そのあとは特別列車でウィーンまで運ばれているので、海路を乗せたのは
全くの遠回りとなるのですが、海軍が彼に敬意を表したということなのでしょう。

事件の後のことについても少し書いておきます。
この写真は、日本のウィキでは暗殺直後に撮られたもので、捕まっているのは
犯人のガブリロ・プリンツィプであるかのように説明されていますが、
軍事博物館によると、これは後日、プリンツィプの学校の友人である
フェルディナンド(フェルド)ベーアが逮捕されているところだそうです。

犯人グループのうち、5名が絞首刑の判決を受けましたが、
皇太子夫妻を撃ったプリンツィプはまだ20歳になっていなかったlこともあり、
懲役20年の刑を科され、テレジェンスタットで獄死しました。

オーストリア=ハンガリーから見ると殺人者ですが、セルビアから見ると
彼らの行為は英雄的で、今でもプリンツィプの記念碑がどこかにあるそうです。

これも我々日本人には既視感のある光景ですね。

暗殺事件が起こって数時間後から、反セルビア暴動が連鎖的に発生しました。

暗殺当日の夜は、セルビア系住民に対する虐殺も行われたと言いますが、なんと
それらの暴力行為は、直接間接的に暗殺を後押ししたとわたしが断言するところの

ポティオレク総督本人によって組織され、また扇動されていた

と言われています。

このおっさん、最初から最後まで怪しすぎね?

さらに、サラエボ市の警察は暴動を抑制するために何一つ動きませんでした。
そのためサラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、
1000件に及ぶ住宅、店舗、学校、施設は破壊されるがままでした。

ベルタ・フェリツィタス・ゾフィー・フライフラウ・フォン・ズットナー
(Bertha Felicitas Sophie Freifrau von Suttner, 1843- 1914)

は、オーストリアの小説家です。
急進的な平和主義者で、ノーベル平和賞を受賞した最初の女性でした。

ズットナーは1889年に小説「Die Waffen nieder!(武器を捨てよ!)」
を発表し、平和活動の先駆者となりました。

このコーナーでは、急進的な平和主義者だった彼女が死んだのは、
サラエボの事件のわずか一週間前だったこと、ゆえに彼女は
それが世界的な大戦につながることも知らずに世を去った、とあります。

 

サラエボ事件が、つまり一発の銃弾が世界大戦のきっかけとなった、とは
よく言われることですが、それは具体的にどういうことなのでしょうか。

 

次回は、少し視点を変えて、我が日本の海軍が第一次世界大戦に参加した
という視点からお話ししてみたいと思います。

 

続く。




写真集「軍艦香取征戦記念」〜”日独交戦状態ニ入ル”

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以前ここで大正13年度の帝国海軍遠洋練習航海について、
新橋の古本市で手に入れた記念アルバムを元にお話ししたことがあります。

それを買った古本屋の主人が、何万円もする旧軍の写真集をほとんど
即決でお買い上げしたわたしを、戦史研究家か、あるいは
ノンフィクション作家だとでも勘違いしたのか、
他のブースを物色し立ち読みしているわたしのところにこっそりやってきて、
横から

「もしよろしかったらこんなのもありますが・・・・」

と差し出したのが、この写真集、

「軍艦香取征戦記念」

でした。

「買ってくれるんなら半額にしますよ」

という巧みなセールストークについ乗せられ、こちらも
その場でお買い上げとなったわけですが、新シリーズとして
この写真集をご紹介していくことにしました。

前回の練習航海アルバムの写真をブログ用にアップしたとき、
一枚一枚ファクシミリ機でキャプチャして、それを取り込み、
写真ソフトで加工するという面倒な方法でやっていたのですが、
「香取」のアルバムになかなか手をつけられなかったのは、
この作業をするのが家でないとならず、さらに面倒臭すぎて、
億劫が勝ってしまっていたことにあります。

ところが、今回それをやろうとしていたところ、帰国していた息子が、
「カムスキャナー」というデータ読み込みソフトを使用すると
iPadから写真を撮ることでデータ化し、取り込むことができる、と
教えてくれました。

コピー機に挟めないくらい大きな地図のようなものでも、
椅子の上に立つとかして、全体をとにかく撮影さえできれば、
歪みも修正でき、写真としての色もそのまま残すことができます。

「はあー便利になったものだのう」

感心しながらパシャパシャやっていたら、MK、

「でもさ、なんかこないだ撮影してデータにする道具買ってなかったっけ?」

あーそういえばスタンドライト型オーバーヘッドスキャナ買って、
ソフトのダウンロードをしないまま放置してたんでした。

「あれ、ダウンロード用のCDがサイズ小さくて」

「オンラインでダウンロードできるはずだけど」

でも、こんな簡単な方法でスキャンできるのがわかったら、
今更面倒くさいセッティングなんてする気も起こらないよね。

まあただ、どんな贔屓目に見ても画質はそんなに良くありません。
本シリーズ掲載の写真で、画像が甘いものがあったら、それは
このスキャナで撮ったものだとご理解くださいますようお願い申し上げます。


それはともかく、そういう理由で中身を無事ダウンロードし、
ここで紹介していくことになったわけです。

ここでもう一度アルバムの写真を見ていただくと、黒地に金文字が打たれた
大変立派な紙を使用してはいますが、綴じ方はページに穴を開け、
当時は黄色であったらしい紐で結わえて束ねるという手作業です。

黒の表紙は、エンボス加工がしており、それは椰子の木に島という、
「香取」が「征戦」を行なった南の島をあしらったデザインとなっています。


さて、ところで今更ですが、ここでいう「征戦」とはなんでしょうか。
いきなりですが、アルバム巻末には、

「大戦日誌」

なる年表があります。

大正3年(1914年)6月28日

墺国皇太子および同妃塞国一兇漢の為めに射殺さる

そう、つい最近ウィーン軍事史博物館で見た資料をもとに
ここでも詳しくお話ししたばかりのサラエボ事件ですね。
つまり「香取」が第一次世界大戦に征戦したという記録なのです。

塞国はセルビアのことで、セルビアは

塞爾維亜
塞爾維
塞耳維
塞爾浜

などと漢字表記されます。

ところで、どうしてオーストリア皇太子がセルビアで暗殺されると、
それが世界規模の大戦になるのか、不思議ではありませんでしたか?

それを考察する前に年表を見てみましょう。
ここには事件1ヶ月後からの世界の動きが実に端的に書き表されています。

7月28日 オーストリア、セルビアに宣戦す

8月1日 ドイツ、ロシアに対し宣戦す

8月2日 ロシア、ドイツに対し宣戦す

8月4日 イギリス、ドイツに対し宣戦す

8月9日 セルビア、ドイツに対し宣戦す

8月10日 フランス、オーストリアに対し宣戦す

8月13日 イギリス、オーストリアに対し宣戦す

8月15日 帝国、ドイツに対し最後通牒を送る

8月23日 日独交戦状態に入る

 

帝国とはもちろん我が大日本帝国のことです。
一応参戦前に通牒を送って確認をしているわけですね。

 

ここでもお話ししたように、皇太子の貴賤結婚に反対し、暗殺されたことを
『神による秩序の回復』とまで言ったオーストリア皇帝ヨーゼフ二世でしたが、
皇太子暗殺に対しては筋として?報復のため宣戦布告を行いました。

これはわかります。

問題はサラエボ事件から三日後になぜドイツがロシアに宣戦したかです。

これは、ロシアが領土的野心を持つセルビアを支持する側に立ち、
ニコライ二世はオーストリアに対して兵士を総動員したことに端を発しており、
ドイツはこれを取りやめるよう要求して断られ、武力で報復をすることにしたのです。

そしてそんなドイツに対立する形でイギリスが参戦、と、
瞬く間にワールドワイドな規模になってしまったわけですが、
もっとわかりやすくいうと、この対戦の構図は

「ドイツ・オーストリア対英仏米日露その他大勢」

ということでいいと思います。
当時は国同士がなんらかの形で同盟となっていましたから、
ヨーロッパ中が呼応する形で名乗りを上げていったのは自然の成り行きでした。


それは日本についても言えることでした。

今これを製作しているニューヨークの家には、Huluなどのネット番組が見られる
ROKUというテレビを導入してくれているので、おかげでわたしは久しぶりに
どこかの中国人がアップした「映像の世紀」「新映像の世紀」を通して観ました。

(いちいち中国語字幕が入っているのがうざいんですが、中国が映像に映ると
途端にシーン・・となってしまうのが露骨でちょっと笑えます)

そして気がついたのですが、もう20年以上前に制作された元祖たる
「映像の世紀」では、日本が第一次世界大戦に参加した理由を

「中国の青島での権益が目的だった」

としか説明していないのです。

今回久しぶりに観て、昔はなんの疑問も感じず言葉どおり受け取っていたこの部分が
明らかに大事な事実を意図的に伝えていないのに気がつきました。

それだけでなく「映像の世紀」制作陣は、日本の第一次大戦参戦が、あたかも
中国大陸だけに向けて行われたことしか伝えていませんが、ことの経緯を見ると、
決してそれが「中国の権益が第一目的」ではないことが見えてくるのですが。


それはこういうことです。

当初、日本は遠いところで始まったこの紛争に高みの見物だったのですが、
戦闘が始まり、ドイツ軍が無制限潜水艦作戦と称して、
Uボートで連合国の輸送船をそれこそ無制限に攻撃し始めるようになると、
手を焼いた英国が日英同盟の締結国である日本に、
輸送船の護衛作戦に参入するように、と再三要請をしてきたのです。

 

ところで、湾岸戦争の時、お金だけ出して日本は汗をかかない、と非難されたとか、
感謝広告に日本だけ国名がなかったとかいう話がありましたね。

あの日本に対する冷たい扱いは、実は裏でアメリカが画策していたいう噂もありますが、
その真偽はともかく、国家が自分の国と関係ないところで起こっている戦争について
ギリギリまで静観を決め込むのは、国家としてまったく普通の態度だと思います。

しかし、その戦争に巻き込まれているのが同盟を結んだ国となると話は別です。

同盟国が危害を加えられたとあらば、トランプ大統領に言われるまでもなく
双務的義務を果たすべく、こちらも血を流す覚悟を決めなくてはいけません。

その覚悟がないなら最初から同盟など結んではいけないし、日本はアメリカと
同盟国である以上、アメリカに守ってもらうだけというのは「契約違反」となります。


アメリカ側がこの現状に言及したことは、日本がアメリカに守られながら、
その一方で、

「アメリカの戦争に巻き込まれる!」

などという国内の意見を利して実質軍隊の手足を自ら縛ってきた戦後体制を、
あらためて正す、そのための憲法改正のきっかけになっていくのかもしれません。


話を元に戻しましょう。

野党や左派、メディアやアンチ安倍な人たちから散々非難されたことが
記憶に新しい集団的自衛権ですが、皆さんは、この第一次世界大戦において、
当時の日本がいわゆる集団的自衛権による出動を要請され、当初これを断って
連合国から非難されていたという史実があったのをご存知だったでしょうか。

 

サラエボ事件後、欧州中が宣戦布告のエンドレスサークル状態になった時、
日本はイギリスから陸軍のヨーロッパ戦線への投入を要請されましたが、
先ほども言いましたようにこのときはこれを断っています。

もしこの時に日本政府が陸軍派兵を行なっていたら、

「西部戦線異常なし」

の日本版が誰か日本の文学者によって書かれたかもしれません。
第一次世界大戦の陸戦はわたしたち日本人にとって遠い世界の出来事のようですが、
当時の政府の対応次第では当事者となっていた可能性もあったということなのです。


しかしそれだけではありません。
ドイツのUボートに手を焼いたイギリスは、なんと日本に対し、

「金剛型戦艦をイギリス軍に貸せ」

と言ってきて、日本はこれをはねのけているのです。

Kongo 1925-28.jpg

個人的に腹がたつのは、「第三戦隊を派遣せよ」ではなく、
「金剛型を貸せ」という上から目線のイギリスの態度ですね(笑)

これらを建造したのは確かにイギリスのヴィッカースでしたが、だからと言って
我々が使うから貸せ、というのはあまりにも日本に対し失礼と言えます。

もっともイギリス海軍、帝国海軍のことは大東亜戦争が始まって
「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」がマレー沖で
沈められるまで見くびり切っていたと思われるので、仕方ないでしょう。

このとき陸軍と金剛型の貸与を断ったことは、日英同盟の観点から
連合国、イギリス側からおそらく非難されたと思われます(調べてません)。

 

しかし、結局のところ、同盟の契約を無視することなどできなくなり、
ついに日本はドイツに宣戦布告を行い、参戦することを余儀なくされました。

なぜドイツかというと、イギリスがドイツと戦争していたからです。

ちなみに、今世紀に入って新たに制作された「新・映像の世紀」でも、
サラエボ事件を扱っていますが、続く各国の参戦についての説明において、
連鎖的に各国が参戦に雪崩を打って突入したことは、

「列強は安全保障のため軍事同盟を結んでいた。
イギリスはフランスとロシア、ドイツはオーストリア、オスマン帝国と結び、
二大陣営に分かれた。
政争を望まない他の国々も、軍事同盟に縛られ、
30カ国を超える国々が戦火に巻き込まれていく」(ナレーション)

なるほど、戦火の拡大は軍事同盟の縛りがあったからで、
望まない国も参戦せざるを得なかったと・・・。

わかってるじゃん!

ところが、日本についてはこうです。

「日本はイギリスとの同盟を理由に連合国として参戦。」

「映像の世紀」を制作したのって、本当に日本人なんですかね。
なんなんでしょうか、この一行に感じる違和感。


他の国には「望まない」という情緒的な言葉すら使って、軍事同盟に縛られ
参戦せざるを得なかった、と同情的に言いながら、日本だけは
『軍事同盟を中国大陸の権益を得るための口実にした』とでも言いたげです。

最近のNHKについてその左傾化、反日本的な態度を糾弾する人も、
「NHKにはいい番組もある」ということを付け足すのが常です。
わたしもそれは否定しませんが、少なくとも彼らが挙げるいい番組に
この「映像の世紀シリーズ」は入れるべきではないと思います。

歴史的事実を伝えているようで、彼らの意図はある方向への誘導は明らか、
特に日本が登場する箇所には中立とは言えない視点の”歪み”が目につきます。

 もし、昔この番組を観ていい番組だと思っていた人がいたら、もう一度
youtubeで観てみてください。

もしわたしの感じたように、前回気がつかなかったNHKの巧妙な、一種の
「角度」に気がつくことがあったら、この期間にあなたを変えたものは、
それはおそらくインターネットという新たなツールのもたらした情報です。


 

8月23日 宣戦の詔書発せらる

さて、ドイツと交戦することになった日本、開戦4日後には
あの第二艦隊が出動し、早速膠州湾(山東省)を閉鎖。
陸軍が上陸してドイツの租借地だった即墨区を占領することに成功しました。


我らが軍艦「香取」が出動したのはこの頃、9月19日です。
「香取」の任務は、マリアナ諸島サイパンを占領することでした。

年表によるとマリアナ群島占領は10月14日となっていまんす。

このアルバムは、まさにその一連の出征を、無事勝利を収めて帰ってきてから
思い出の写真を編集し参加者に配られた記念品であった、というわけです。

ついでにこの年表について、最後まで説明しておくと、

10月19日 「高千穂」敵駆逐艦「エス」九十号の水雷を受け沈没す

Japanese cruiser Takechiho.jpg

防護巡洋艦「高千穂」は、あの映画にもなった「青島攻略戦」において、
当時すでに老朽艦でありながら参加し、補給用の魚雷を輸送している時に
小型駆逐艇「S90」に魚雷2発を受け、轟沈しました。

「高千穂」は海軍創設以来、敵との交戦で最初に沈没した軍艦になりました。

11月1日 南米チリコロネル沖において、独艦隊のため
英艦「グッドホープ」「モンマス」の両艦撃沈せらる

HMS Good Hope.jpgグッドホープ

いわゆる「コロネル沖海戦」です。
「グッドホープ」を指揮していたのは、あの

マキシミリアン・フォン・シュペー中将

でした。

11月9日 敵巡洋艦「エムデン」、英艦「シドニー」のために
インド洋ココス島に撃破せらる

「エムデン」艦長 カール・フォン・ミュラー

この頃のドイツ軍の士官は皆名前に「フォン」がついていますが、
貴族でなかった者も戦功を挙げ貴族を叙されることもありました。


「エムデン」は「シドニー」からのフルボッコ状態になり、
ミュラー艦長は「エムデン」をわざと座礁させ白旗を揚げました。

座礁したボロボロの「エムデン」。

そして日本における第一次世界大戦派出は終わりました。

12月4日 加藤定吉第二艦隊司令長官東京に凱旋す

12月5日 香取着

12月8日 栃内司令官東京に凱旋す

第二特務艦隊は任務において多くの戦死者を出し、しかも
敵に怯まず任務を遂行したため、英議会ではこれを称えて
『万歳」が日本語で行われ、英国人をして彼らを

「地中海の守護神」

と呼ばしめた、という事実はもちろん「映像の世紀」では決して扱われません。
彼らにとって日本の戦争は領土拡大と権益獲得のための野心だけが理由であり、
国際貢献を認められ世界に賞賛されたなどという事実はおそらく都合が悪いのでしょう。


同日 スタディ中将の率いる英国艦隊はフォークランド島沖において
独艦「シャルンフォールスト」「グナイゼナウ」「ライプチヒ」を撃沈す

いわゆるフォークランド沖海戦です。

沈没する「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」。
コロネル沖海戦でイギリス軍に打ち勝ったシュペー大佐は
やはり同じ海戦に参加していた二人の息子と共に戦死しました。

この海戦で「シャルンホルスト」の乗員は全員が戦死しています。

さて、この年表は、キャプチャしなかった次のページの

12月8日 青島攻撃軍司令官神尾中将東京に凱旋す

で終わっています。

 

 

続く。

 

 

サラエボ事件と暗殺者プリンツィプの記念碑〜TVシリーズ「第一次世界大戦」より

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前にも書いたことがありますが、アメリカ滞在の最終地、ニューヨークで
借りているAirbnbの部屋です。

一体いつまでアメリカにいるんだ?と知り合いに言われてしまいましたが、
観艦式にはなんとか間に合うように帰る予定です。

ここで観ていたインターネットTVの見放題映画チャンネルでは、
あまり人気がないと思われる歴史ドキュメンタリーや戦争映画が見放題。

20年ぶりくらいにアウシュビッツの音楽隊を描いた「プレイング・フォータイム」
(バネッサ・ウィリアムズ主演)を観ましたし、今作業の合間に流しているのが
「ヒトラーズ・チルドレン」というテレビシリーズ(全5回)。

第一次世界大戦関係の映像も豊富で、今回のウィーン軍事史博物館の
サラエボ事件を書くのに大いに勉強させてもらいました。

今日は、その番組でキャプチャした映像とナレーションをご紹介します。
一度説明したことも繰り返すことになりますがご了承ください。

サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナンドの説明です。
繰り返しになりますが、父親である皇太子が病死したので、次の継承権を持つ
フェルディナンドがその地位を継ぐことになっていました。

これは写真に残る皇太子の胸の勲章のアップ。

ところがその頃、ハプスブルグ家の女官だったチェコ生まれの貴族、ゾフィーと
フェルディナンドは熱烈な恋愛をしていました。

フェルディナンドは反対する周りを押し切り、彼女を皇族扱いせず、
子供達にも帝位継承はさせないという条件で結婚を果たします。

フェルディナンドはゾフィーとの結婚を一度として後悔したことはありませんでした。

「私のしたことでもっとも賢明だったと思われるのはゾフィーとの結婚だった。
妻は私のよき助言者であり、私の主治医であり、守護天使だ」

 フェルディナンドは最後までこのように妻を絶賛していたのです。

サラエボの市庁舎に向かう彼らの車に暗殺グループの爆弾が投げられました。

画面右側に見えているのがサラエボ市庁舎です。

画面手前の橋袂が、皇太子夫妻の車に最初に爆弾が投擲されたチュムリヤ橋です。
車はスピードを上げて右側の車路を市庁舎に向かいました。

この字幕の意味は、この日セルヴィアが「聖ヴィトゥオスの日」という祝祭日で、
民族的に重要な宗教行事が行われる日を選んだのはフェルディナンドのミスだ、
というような意味です。

日にちの指定を皇太子本人がするはずがねえ、と思うんですが、この日、
二人の記念日だったことを思い起こせば、もしかしたら二人は、
軍事視察という、二人が堂々と公式行事に並んで出席できる機会と
結婚記念日が重なることを密かに企画していたという可能性もあります。

さらに、フェルディナンド自身がいっていたように、ゾフィーが彼の助言者で、
このことも彼女が提案したという可能性だって無きにしも非ずです。

何れにしても、彼らにとっての絶好の日が、運悪く統治先の民族派の
聖祭日であることは「バッドリー」なことだったのです。


この日のサラエボは聖祭日のため旗が通りの軒にはためいていました。

 

この日が1300年代オスマン帝国がコソボにした日とも重なっていた、
ということを反感の理由の一つとして述べている媒体(wiki)もありますが、
これはグレゴリオ暦に換算したもので、正確な日付はこの日ではありません。

民衆の間にはこのことが不満となっていた、というわけですね。

「そして彼の銃は火を噴いたのである」

二人はまずサラエボ駅に汽車で到着しました。

懸念される要素があるにも関わらず、警備は大変薄いものでした。
前に書いたように総督が言うところの

「併合に融和的な人々を刺激する」

と言うこともあったでしょうが、それよりもわたしはこの日が
聖祭日であったからではなかったかと思います。

皇太子夫妻を乗せて運んだのはグラーフ&シュティフト「ドッペルフェートン」でした。

幌を開けてオープンカー状態で車を走らせたのは、他ならぬ
フランツ・フェルナンドの要求であったそうです。

しかし、ここでまたしても思うのですが、爆弾投擲の後は
安全を考えてせめて幌を畳んで走行すればよかったのに・・・。

これはウィーン軍事史博物館の展示ですが、わたしが観たときには
このような荷物はありませんでした。


出たよポティオレック総督。
わたしに言わせるとこのおっさんが元凶を作りまくっていたわけですが。

ポティオレックは日記をつけていて、その日記によると、皇太子は
最初の爆弾投擲テロが起こり、車が急発進してその場を離れた時、静かに
提督に向かってこういったそうです。

「わたしは常にこういったことが起こりかねないと思っていたよ」

そして彼らを乗せた車がセルビア市庁舎に到着しました。

このときに、歓迎側が普通に祝辞を行なったので、興奮した皇太子が、

「あんなことがあったのに普通に祝辞をするなんてどうなんだ」

と食ってかかりました。
当然ですが、皇太子は皇太子妃に諌められて黙ってしまいました。

犯人のガブリロ・プリンツィプ。
裁判では

「私はユーゴスラビアの民族主義者であり、ユーゴスラビアの統一を目指している。
どのような形態の国家も気にしないが、オーストリアから解放されなければならない」

と述べています。

彼はこの事件の首謀となった急進的な民族団体「ブラックハンド」のメンバーで、
最初は背が低いのを理由に入会を断られたにも関わらず、熱心にテロの練習を行い
この日に及んだと言う人物でした。

ただし、テロのために公園で銃撃の練習をしていたメンバーの中では、彼は
もっとも下手で、仲間に笑われていたということです。

プリンツィプは最初の爆弾投擲の時に、側道に立って、他の暗殺グループと
行動を共にしていましたが、この時の爆弾は外れ目的を達しなかったので、
とりあえず自分は無関係のふりをして現場を離れ、この日の実行を諦めて
帰宅するつもりでたまたまデリカ(カフェと最初に書いたのですがこの説もあり)で
サンドウィッチを買っていたところ(食べていたという説もあり)
目の前に路を間違えた皇太子夫妻の車が止まったのです。

この時車が完全にギアがロックされ、静止した状態になったので、
それを知るや彼は駆け寄って銃を撃ちました。

おそらく彼は考えるより先に行動を起こしていたのでしょう。

ブラックハンドに入団する前から、彼は学生にして熱烈な闘士でしたから、
昨日今日暗殺を思いついたようなものではなく、その思想は筋金入りで、
これまでの人生はこの瞬間のためにあったと感じたに違いありません。

ここがドキュメンタリーでの事件現場の橋のたもとです。
画面右から皇太子の車はやってきて間違えて右折し、静止したところ、
右側の角にあったデリカテッセンから出てきたプリンツィプが
車に向かって銃弾を放ったのでした。

ちなみに現在のグーグルマップで見た付近の様子。

画面奥から来た車は、青い車の位置で停止し、そこで
銃撃を受けたと言うことになりますが、今ここは駐車場になっていて、
ドキュメンタリーが作られた頃とも全く違う様相になってしまっています。

非常に荒廃した感じの街並みで、この国が近年になって
内戦という激しい戦火に見舞われていたと言う事実を思い出させます。

ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦は約4年間続き、サラエボ包囲では、
死亡者12,000人が、負傷者50,000人、うち85%は一般市民でした。

ミリャツカ河の付近には河を挟んでセルビア軍の戦車が並び、対岸の
スナイパー通りでは、女子供も全てが狙われたといいます。

建物が無くなっているのはNATO軍の爆撃によるものかもしれません。

第一次世界大戦のきっかけとなった街角は、それから100年も経たぬ間に
第二次世界大戦後最悪の戦場となったのでした。

しかしわたしの予想通り、ここ暗殺現場には、何度も記念碑が置かれては
その都度すぐさま撤去されるということが繰り返されているのだそうです。

まずは事件直後の1917年、柱が建てられましたが翌年破壊され、
第二次世界大戦が終わってから、

「ガブリロ・プリンツィプがドイツの侵略者を追い払った」

という碑が現れましたが、もちろんこれもすぐに撤去。

事件の際、プリンツィプが歴史的な銃撃を放った場所に、
足跡がエンボスされていた時期もありましたが、こちらは
ボスニア戦争においてたまたま爆弾が命中し、破壊されています。

事件から100年が近づくと、暗殺現場にはこんな碑が設置されました。

「1914年6月28日、この場所からガブリロ・プリンツィプは、
オーストリア=ハンガリーの皇太子フランツ・フェルディナンドと彼の妻
ゾフィーを暗殺しました」

そして、同年4月にはプリンツィプの胸像がベオグラードで除幕され、
セルビア大統領は

「プリンツィプは英雄であり、解放思想の象徴であり、
また暴虐なる殺人者でもあり、ヨーロッパを長らく覆っていた
隷属社会からの解放の思想を持つものであった」

とスピーチを行なったということです。

支配されていた側から見ると、こうなるんですね。

 

続く。

 

 

最後通牒とクルーザー上の皇帝ヨーゼフ1世〜TV番組『第一次世界大戦』

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今回ウィーン軍事史博物館でサラエボ事件で皇太子夫妻が凶弾に倒れたとき
乗っていた車の実物を見たばかりのわたし、どうもこういう銃痕は記憶にないので、
不思議に思って観ていたのですが、ふと気がつきました。

銃弾を受けたばかりの車の塗装がこのように剥落することはありません。
つまり、ここに展示されている間に次第に剥がれてきてしまったもので、
わたしがアメリカで観たこの番組が撮られた頃はこのような状態だったのを、
その後出来るだけ事件当時の姿に戻すための修復が行われたのでしょう。

フロントガラスを取り外したり、塗装を当時のままに塗り直したり、
保存のための努力がなされているということのようです。

わたしに言わせるとこの事件のきっかけを作ったに等しいセルビア総督、
ポティオレックの日記には事件の瞬間のことがこう書かれています。

「その瞬間、わたしはピストルの破裂音を聞いた。続けざまにもう一度。
そのときわたしの右手前方で立っていた男が人々に地面に押さえつけられ、
警備の光るサーベルが彼に突きつけられているのが見えた」

この番組製作時にはこれがプリンツィプだとされていたようですが、その後
彼の学友が連座の疑いをかけられて連行されているところだと判明しました。

インターネットの発達って素晴らしいですね。

「閣下の口から右の頬に血が吹き飛んだ。
公爵夫人はそれを見てこう叫んだ。

『ああ神様、あなたに何が起こったの』
(In heaven's name, what was happend to you?)

「彼女の体はシートから滑り落ちて車のフロアに横たわった」

「おそらく彼女はこのときもう意識を失っていただろう」

彼らはフェルディナンドとゾフィーの子供たちです。

「そしてわたしは閣下がこういうのを聴いた。

『ゾフィー、ゾフィー、死んではダメだ。子供達のために生きてくれ』

わたしは閣下に痛みはあるかと尋ねたところ、彼はとても静かに落ち着いて

『なんでもない』

と答えた」

自分も銃弾を受けながら妃の身だけを心配していた皇太子の言葉は
ポティオレック総督の日記によって後世に残されたということですね。

総督の日記によると、彼らはまず病院に運ばれたということです。

ここからは事件後サラエボを襲ったセルビア人に対する虐殺と
民衆の暴動の写真です。

サラエボは多民族国家だったので、この事件は日頃の
民族間の対立を一夜にして浮き彫りにさせたと言えるかもしれません。

いたるところで車がひっくりがえっていて凄まじい様相です。
繰り返しますが、この暴動を組織、扇動していたのは
他ならぬポティオレック総督であったことが明らかになっています。

考えようによっては、警備を手薄にした時から総督はセルビア系の犯罪を
誘発し、その報復までを意図していたのではないかと取れる行動ですね。

民衆のセルビア系に対する怒りは膨れ上がり、暴動に発展しました。

セルビア人の店、学校、協会に至るまでが破壊され、
彼らの家具が、衣類が、本が、積み重ねられられ、歩くこともできなくなりました。

そして200人以上のセルビア人が、セルビア人というだけで逮捕されました。
地方公務員は絞首刑になり、そうでない人も投獄されました。

「Pogrom」という言葉はロシアにおける「ホロコースト」のことで、
ユダヤ人に対する大量虐殺を意味しますが、ここでは
セルビア人に対する虐殺をさしています。

これを見て思ったのですが、ここまでされた民族の怒りというのは凄まじく、
おそらく100年経った今でも根底には尾を引いているものではないでしょうか。

現在の大統領がプリンツィプを「英雄」というのもまあ仕方がないかなと。

フランツ・フェルディナンドとゾフィーの棺は、まず総督公邸から
壮麗な馬車に乗せられ、オーストリア=ハンガリー海軍の軍港があった
トリエステまで運ばれました。

それは7月4日であったということですが、この時期にポティオレク総督は
各国政府に向けてオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに
報復措置を取ることを宣言していました。

「我々はセルビアを叩くたことができる最初の機会を利用して、
君主制に穏やかな内的発展を与えなければなりません。
セルビアは今一度思い知らねばならんのです」

当然ですが、セルビア総督は完璧に帝国側の人間だったわけです。

棺は海軍軍人の手で戦艦「フィリブス・ウニティス」に乗せられ、
プーラまで、そのあとは汽車でウィーンまで運ばれました。

特にこの戦艦が役目を引き受けたのは、このラテン語である

「フィリブス・ウニティス(SMS Viribus Unitis)」

は「力を合わせて」という意味であり、この言葉が
ヨーゼフ1世のモットーであったことと関係あったかもしれません。

ウィーンにははハプスブルグ家の人々が眠る

「カプツィーナー納骨堂」

がありますが、ゾフィーはここに葬られることが許されていなかったため、
二人が死後一緒に眠ることを希望していたアルトシュテッテン城に運ばれました。

ナレーションは、

「彼は生きている間戴冠を待つ皇太子だったが、その死が戦争の原因となった」

と言っています。

オーストリア=ハンガリーの軍人、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは
ポティオレク総督に同意しました。

「今回の事件は一人の狂信的な者による犯罪ではない。
セルビアのオーストリア=ハンガリーへの宣戦布告だ。

この機会を逃せば、君主政治は民族主義の暴発による被害を受けることになる。

我が国は政治的理由で開戦するべきである。
平和の象徴であるセルビアと共存していくためにも。」

敵の有利な戦争開始を防ぐためにこちらが先に戦争を仕掛けることを
「予防戦争」と言いますが、ヘッツェンドルフは、サラエボ事件を受けて
セルビアに対しこの予防戦争を仕掛けることを提唱した人間となりました。

「彼は死すことで開戦の理由を作った」

国際的な緊張は7月初頭まではまだ高まっていませんでしたが、ウィーンで
オーストリア=ハンガリー帝国首脳はセルビアに対し、その強力な友好関係を
刺激せずに報復を行う方法が模索されていました。

再びポティオレク日記。

「セルビアとの開戦は避けられない、とわたしは皇帝閣下に奏上した。
すると閣下はこう御下問された。

『しかしどうやって?
もしそうなればヨーロッパ中が、特にロシアが攻撃してくるのではないか』

するとヘッツェンドルフ閣下がそれに答えて、

『私たちにはドイツが付いております』

皇帝閣下はわたしに探るような視線を向け、

『それは確かなのか?』

と再び問うた」

 

オーストリアはすぐさまドイツにこのことを確認しました。

「ドイツ政府は友好国である帝国の側に常に立っており、
帝国との同盟に対し常に忠実であろうとするだろう」

これがドイツ側の返答であり、バルカン半島で起こった戦争が
世界大戦に発展した瞬間だったのです。

バルカン半島というのは大国に挟まれて小国がひしめく地域で、
ここの諸国は大国に支配されるのが宿命となっていたのですが、
サラエボ事件の少し前にロシアがクリミア戦争で負けていたので、
オーストリア=ハンガリーに吸収されるか、トルコに吸収されるか、
というところだったのですが、民族的にはセルビアはスラブ系なので
オーストリアには反感を持っていたという事情がありました。

バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたのは
こういうことだったのです。

当時ヨーロッパは二大勢力に分かれていました。

一方がドイツ、オーストリア、ハンガリー、そしてイタリアであり、
対してフランスとロシア。
このどちらかで戦争が起これば、それに呼応するのが当然の構図だったのです。

しかし、バルカン半島の国に何か起こった時、ロシアがどう反応するか、
つまりセルビアを守るためと言う理由でオーストリアに挙兵するのか、
そうなるとドイツがオーストリアを守るために宣戦布告するのか、
今でこそ明らかなこの対立構図ですが、当時の当事者にはわかっていなかったのです。

サラエボ事件の犯人を裁く裁判の様子です。

裁判では、彼らを幇助したのがセルビア軍の将校だったと言う証拠が出され、
軍人が4人銃殺刑に処せられました。

実行犯となったプリンツィプは20歳未満だったため死刑を逃れましたが、
事件の首謀者のうち5名が銃殺刑の宣告を受け、そのうち3名が刑を執行されています。


 最後通牒が発令されたのは1914年の7月23日でした。
その途端街は騒然とし、街は不安な市民で溢れました。

政府は戦争を回避するつもりがあるのだろうか。

これに対し、世界の外交官たちは呑気にもバカンス中で街におらず、
パリは絶賛街がもぬけの殻状態。
イタリアの外交官はアイルランドに旅行中という状態でした。

そしてもっとも驚くことに、皇帝はこの時予定通りバカンスに出かけています。

ロシア駐在の外交官は、ロシアは革命のことがあったのでそれどころではないし、
また、セルビアがロシアの挙兵に対し拒否感を示すだろうから
おそらくそれを考慮してもロシアが宣戦してくることはないだろう、と報告していたため、
皇帝は戦争は起こらないだろうと楽観していたのではないかと言われています。

(前回の、報復の戦争を起こしたのは『皇帝が』『筋を通した』とした
わたしの考察は微妙に間違いで、暗殺事件を理由に、軍人たちが戦争を煽った、
というのが真実により近いように思われます)

このときオーストリアがセルビアに突きつけた最後通牒は、
セルビアにとっては受け入れ難いほどに極端で屈辱的な要求でした。
あえて受け入れられない要求をし、相手に拒否させて開戦に踏み切ることを
最初から目的としたもの、そう、ハルノートみたいなものだったのです。


最後通牒が届けられた時、ヨーゼフ1世はノルウェイでクルーザーに乗っていました。
映像ではこの時デッキで皇帝が愛犬をかわいがっている様子が映し出されています。

側近の一人が最後通牒について皇帝に報告したときのことをこう証言しています。

「皇帝はいつもの通り朝食を終えるとデッキでわたしにこういった。

『それ(最後通牒)はたまたまそんなに強い表現になったのだね』

『そうかもしれません』

わたしは答えた。

『しかしこれは戦争を意味します』

しかし皇帝は、此の期に及んでも、セルビアが戦争という危険を冒すとは
考えていなかったと思われる」

 

その後の展開は、歴史の示す通りです。

セルビアがロシアに助けを求め、それに呼応して世界中が参戦を決め、
多くの国が同盟国の戦争に参加し拡大して第一次世界大戦へと繋がっていくのです。

 

サラエボ事件シリーズ終わり

 

 

 

日系人執事タガ・テイキチ〜ファイロリガーデン・サンフランシスコ

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今回は当初の予定を途中で大幅に変更したため、6月に日本を出発して
帰国が10月という異例の長さになりました。
ビザで海外滞在できるギリギリまで海外にいたことになります。

今いるのは最終地のニューヨークで、来週には帰国しますが、こちらは
先週まで日中は暑かったのに、雨が振ってからは急に気温が下がり、
日本のクリスマスくらいの寒さになって、風邪をひいてしまいました。

幸いこちらの薬はドラッグストアで買えるものでも大変強力なので、
二日でなんとか直し、観艦式に臨む予定です。


というわけで今となっては遥か昔のことのような気がしますが、
サンフランシスコでの出来事をご報告します。

今回はアメリカでの宿泊先を全てAirbnbで調達しました。
特にサンフランシスコは最近ホテル代がとんでもなく値上がりし、
キッチン付きというだけでオンボロホテルでも一泊200ドル近く取るので、
比較的短い滞在期間でも泊まれる部屋を探したら、これが大当たり。

サンフランシスコ空港に近い閑静な住宅街の一軒家の
独立した一室が借りられることになったのです。

冒頭写真は今回借りた家の全景ですが、借りた部屋には、右側のドアから入り、
中庭に面したところにある専用のドアから入室します。

オーナーの家とはテラスを通じて隣り合っているので、顔を合わせるのが嫌、
という人には向きませんが、向こうも気を遣って全く干渉してきません。

Airbnbのプロフィールによるとオーナーは若い女性でしたが、到着した時に迎えてくれ、
その後のケアをしてくれたのは彼女のお母さんでした。

彼女は英語にヒスパニック系の移民らしい訛りがある美人で、そういう人が
ベイエリアでも屈指の高級住宅街のプール付きの家の主になっていることは
わたしにいろんな人生のストーリーを想像させました。

今まで、このような地域を通過するたび、立ち並ぶ家の中はどんなのだろう、
と想像していただけだったので、今回その一つに泊まれたのは
わたしのアメリカ体験でも特記すべき出来事の一つになりました。

サンフランシスコといっても空港近くのバーリンゲームという街は、
市内のように霧で寒いということもなく、普通にカリフォルニアです。

しかし気候的には今年はいつもより暑く、アリがキッチンに出没するので
ごめんなさいね、とオーナーは最初に済まなそうに言いました。

予想外の単語を出された時に、英語の苦手な人は聞き取れないのが常で、
わたしはこの時彼女の「ants」(しかも発音が’エアンツ’でなく”アンツ”)
が理解できず、なんども聞き返してしまいました(´・ω・`)

アメリカの豪邸に欠かせないのがプール。
アメリカ人の豊かさの象徴みたいなもので、広い敷地があればアメリカ人は
庭園ではなく、プールを作るのがデフォです。

このお宅はプールサイドのパティオに大画面の薄型テレビまで設置してあります。
水面は使っていない時には全面的にカバーしていますが、この日は週末で
息子さんがパーティをするからということでお母さんが掃除をしていました。

「今日パーティをするのでもしうるさかったらごめんなさい」

彼女はそういっていましたが、パーティといってもその日のは
プールサイドでバーベキューをしてビールを飲むという定番のもので、
はしゃいで泳いだりしている人はいなかったようです。

アメリカ人にとっての自宅のプールは、あくまでも「舞台装置」で
真面目に泳ぐものではないのかもしれません。

着いた次の日、アメリカ在住の友人と連絡が取れたので部屋に来てもらい、
どこかに行くことになったので彼女が知らなかったという
「FAILOLIガーデン」に連れて行きました。

前にもここで紹介したファイロリは、金鉱の持ち主である大金持ちが
ちょうど第一次世界大戦の頃建設した庭園付きの豪邸です。
その後売却され、今では国の史跡に制定されているということです。

今回は裏から入っていったので、キッチンから見学することになりました。

前回来た時と明らかに展示が変わっています。
サーバント、使用人の個室が公開されていました。

わたしたちが邸に入った時、ピアノの生演奏が聴こえていたのですが、
ピアニストはわたしたちが部屋に入った途端、演奏をさっさとやめて
部屋を出て行ってしまいました。

初老の白人女性で、最後に弾いていたのはキャッツの「メモリー」。
腕前からいってプロではなく、ボランティアではないかと思われました。

これも前回はなかった展示です。
籐でできた車椅子とナースの制服。
車椅子の座席には持ち主の愛読書がさりげなく置かれています。

当邸でナースをしていた人が紹介されていました。
1921年ごろ、脳卒中で歩行ができなくなった当主ウィリアム・ボーンは
フルタイムで勤務する看護師を二人雇いましたが、そのうち一人が
マリ・ダンレヴィというミズーリ出身の女性で、彼女は結局15年間ずっと
ボーン氏の看護をしていたことになります。

ボーン氏は大変プライドの高い人物で、ベッドや車椅子にいるところを親しい友人、
家族、そして看護師以外には見られるのを嫌がったので、フォーマルな席では
彼の腕の届く距離でスタッフがいつもスタンバイしていなくてはならなかったそうです。

ボーン氏が庭を見たいとなると、スタッフは彼を車椅子ごと庭に降ろし、
金属の鳥かごのようなものにネットを張ったものを彼の周りに置いて虫除けにしたそうです。

 

ボーンし、無理やり手を伸ばして犬の頭を触っているの図。

どうしてたくさんいたナースのうち彼女だけが紹介されているかというと、
ボーン氏の最後を看取った看護師の一人で、特に気に入られていたからでしょう。

彼女には、ボーン氏の遺言によって終生(彼女が死ぬまで)
年間600ドル(現在の9千ドルなので、100万円くらい?)
が支払われていたということです。

わたしはこの日本人バトラー、タガ・テイキチさんの説明には
日本人として無関心ではいられませんでした。

「テイキチ・タガは使用人というだけでなく、夫であり、父親であり、
日本人捕虜のサバイバー(生還者)となりました。
1906年、タガは日本からサンフランシスコに移民としてやってきて、
洗濯屋の仕事を始めます。」

「二つの祖国」の主人公の父(NHKでは三船敏郎が演じていた)もそうですが、
日本人移民の多くは手先の器用さとこまめさを活かせるクリーニングで生計を立てました。
そして丁寧で誠実な仕事ぶりがアメリカ人にも信頼されていたのです。

ちなみに現在のアメリカでコリアンのクリーニング屋が多いのは、このころの
日系人の評判をちゃっかり利用してきたということのようです。

 

「1912年、タガはマットソンーロス家に雇われ、彼らのために働きました」

「第二次世界大戦の間、米国政府は11万人もの日本人を
故郷から追放し、連行して強制収容所に収容しました。
二世、三世もその対象となったので、アメリカで生まれた彼の娘も対象となりました。

投獄されたときタガは62歳であり、マトソン・ローズ家のために20年間働いていました」

収容所から解放された後、タガ夫妻はロス家所有のサンフランシスコのアパートで
管理人の仕事をして暮らし、引退後にはゴールデンゲートパーク近くの家で
夫婦ともに余生を静かに過ごしたそうです」

収容所に送られる彼に対して何もできなかった雇い主でしたが、解放された後、
70近い老人にアパートの管理人という仕事を与え迎え入れたのです。

多くの日本人が同じ目にあったのですが、タガさんはその中でも
心のある主人に仕えられたわけで、非常に幸運だったと言えましょう。

   

東洋趣味の置物なども前回はなかった気がします。

友人は、

「お金があるのはわかったけど、なんだか成金って感じ」

とセンスを全く評価していない風でしたが、特にこの絵を見て、

「えらく美男美女に描かれてるけど・・あー、サージェントか」

わたしは前回サインをちゃんと見なかったので気づかなかったのですが、
なんとお金持ちだけあって、当時上流社会の人々の肖像画を描かせたら
当代一の人気画家だったサー・シンガー・サージェントに
増し増しで描かせた肖像画であったことがわかりました。

「サージェント好きだけど・・・誰を描いても”サージェント風”だよね」

「その人をモデルにサージジェント風味に描きましたみたいな」

ちなみに彼女は絵本作家で、彼女の作品は日本でも輸入盤が売られており、
ついでながら夫は有名なゲームのビジュアルデザイナーです。

そんな彼女のいうことは、特に絵画関係に関してはわたしはいつも
「ははー」と意見を拝聴するのが常ですが、今回も彼女が、かねてからわたしが
散々心の中で貶しまくっていたこの部屋の暖炉の上の絵をちらっと見るなり、

「酷いね」

と言い放ったので安心しました。

「なんでこんなの飾ってるんだろう」

「孫がプレゼントで描いたとかじゃないの」

もう言いたい放題です。

 足元の犬も初めてお目見えします。
というか床全体がリニューアルされてないか?

スタインウェイのフルコンピアノが小さく見える大理石のステージ。
なんと今回、当家にはあのバデレフスキーが訪れていたことがわかりました。

IgnacyJanPaderewski.jpg

特に髪型が女性のハートを鷲掴みにし、当時アイドル並みの人気があった
イグナツィ・パデレフスキー(1860−1941)。

「パレデフスキーのメヌエット」という曲をご存知の方もおられるでしょうか。

ピアニストで有名になりながら政治活動に身を投じ、
第一次世界大戦終了後の1919年にはポーランドの初代首相になりました。

おそらくパデレフスキーもここで演奏をしたと思われます。
後、有名どころでは、あのアメリア・イヤハートも当家の客となっています。

時間が少しだけあったので、庭も見てみることにしました。

木の枝が傘のように全周囲に伸びて地面に垂れている木。
内側には写真の真っ黒黒助の色違いみたいなのが吊り下げられていました。

鳥が巣を作るために用意されたものでしょうか。

庭園の様式はイギリス風を取り入れた「アングロアメリカン」風だそうです。

「でもあまり洗練されてるって感じじゃないよね」

あくまでも辛辣なわたしたち。

その後庭を歩いていたら物陰に動くものが・・・。
ワイルドターキーです。

「庭園に孔雀じゃなくてワイルドターキーがいるあたりがアメリカだねえ」

その時反対側にやはり動くものを認め振り向くと、そこには鹿が。

猛烈にお食事中。
鹿って、今回思ったんですが、写真に撮ると可愛くないのね。

先ほどのワイルドターキーが飛び上がって柵の向こうに消えました。

のぞいてみてびっくり、そこにはワイルドターキーの大群が・・・。

ちなみに彼らの歩いている所の向こうからが敷地外になります。
カリフォルニアの気候では何も手入れをしなければ土地はこうなってしまいます、
という見本が見られるというわけです。

「こんな所にこんな庭園を作ること自体場違いだったのでは・・・・」

放っておいたらこうなるわけですから、この庭園を維持し続けるのが
いかに大変かがわかるというものです。

ところで、このワイルドターキーですが、ググると「七面鳥」となります。

Gall-dindi.jpg

七面鳥ってこれだろ?と思うでしょ?

今回ショックだったのは、これは七面鳥のオスが「ディスプレー」
しているところで、常態はここで見た皆さんと同じだと知ったことです。

今の今までワイルドターキーと七面鳥は別の種類だと思っていたぜ。

それともこれは全部メスだってこと?
扇子みたいに尾っぽを開いているのを見たことないんですけど・・・。

その日は友人と、海沿いのレストランで食事をしました。
彼女の提案で、何品か頼んで全てをシェアします、とオーダーすると、
スープは最初から二皿に分けて持ってきてくれました。

真ん中にあるのはカマンベールチーズのフライ、こちらがグリンピースのサラダ。
向こうは「テリヤキライス」なる謎の料理ですが、どれも美味しかったです。

 友人を連れてAirbnbの部屋に戻ると、オーナーの猫がお出迎え。
猫好きには最高のAirbnb体験でした。

 

 

 

「素晴らしき戦争」と「1917 」〜ウィーン軍事史博物館・第一次世界大戦

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さて、サラエボ事件が起こったところまで無事(?)たどり着いたので、
ここからはそれを原因に起こった第一次世界大戦のコーナーです。

 

リチャード・アッテンボローの「素晴らしき戦争」(OH, What a Lovely War)
をご覧になったことがあるでしょうか。

この映画でも描かれていたように、戦争というものを長らく経験してなかった
ヨーロッパの人々は、セルビア事件のあと起こった戦争に付いて、
なにかスリリングでロマンチックな冒険のように考えていたようです。

あの映画の、綺麗な女性がステージで「戦争に行って」と媚態を見せれば、その場で
ホイホイと徴兵に応募する若者のように、イギリスの若者も、ドイツの若者も、
こぞって軍隊を志願し、そうでもしなければ仲間に顔向けができないし、
女の子にいい格好できない、と競うように志願を決めたものだそうです。

そして皆が戦争は何ヶ月かで終わると考えており、戦線に赴く際には
クリスマスには帰って来るよ、というのがおきまりの挨拶でした。

Good Bye-ee From Oh What A Lovely War!

映画のこの楽しげな出征シーンなど、彼らの当初のピクニック気分を
皮肉に表していますが、もちろん戦争に息子を送り出す母の本能的な懸念は
どんなに楽観的なせそうでも同じ。

最後に彼女が見せる表情が、当時の兵士たちの母親の心情そのものです。

ここに見られる写真と私物は、オーストリア=ハンガリー帝国が、
サラエボ事件発生後宣戦布告した7月28日以降、戦地に赴いた
当初のオーストリアの人々の「出征記念パーティ」の集合写真だったり、
戦地に持ち運ばれたものであろうと思われます。

帽子を花や羽で飾り立てるのが当時の「出征兵士へのはなむけ」だったようですね。

ハーモニカやまだヴァイオリンはわかるとしても、戦地に持ち運ぶのに
この大きなオルガンは一体、と不思議に思ってよく見ると、鍵盤には
実音と関係のないアルファベットが記入されていました。

(黒鍵に長短がなく、左からABCD〜並びに1234)

鍵盤の前にリールがあることから見ても、通信機のようです。

よく見ると?周りに置いてあるのは楽譜ではなく「戦闘報告書」。
戦場で本部に通信を送るための機械だったようです。

この頃のヨーロッパの革製品というのはとにかく鞣しと仕立てが丁寧で、
フランツ・フェルディナンドの靴もそうでしたが、100年経っても
完璧な形とツヤを保っているので感心するばかりです。

ここにあるのはオーストリア軍の鉄帽のようですが、第一次世界大戦開始時、
連合国兵士は信じられないくらい軽装備で戦争に臨みました。

しかし、この戦争から本格的に登場した機関銃によって様相は一変します。
革製のヘルメットで(ステッキをついている人もいた)銃剣を持って突撃しても
生身で相手の陣地にたどり着くことは不可能であることに、彼らはやっと気づくのです。

突撃していった人々がマシンガンでなぎ倒されて初めて、彼らは
身を隠すためのシェルターや塹壕を構築し始めました。

そうして第一次世界対戦は「塹壕戦」となった経緯があります。

 

彼らがお祭り気分で浮かれて参加した戦争が、やはり映画でも描かれていたように、
毒ガスと機関銃、巨大砲の登場で洒落にならない大量抹殺の現場となり、
数ヶ月で終戦どころか、戦場でクリスマスを4回も迎えなければならなくなるとは、
平和ボケしていた当時のヨーロッパ人には想像もできなかったのでした。

英語では「キューポラ」と説明されているこのドームは、塹壕の弾除けに使われた
シェルターの「蓋」で、アントワープ付近の戦場に設置されていました。

砲弾が弾着してできた金属の裂け目が戦闘の様子を物語ります。

立てて展示してある砲弾は1911年モデルです。

キューポラの内部に入って天井を見上げることもできます。
展示では何本もの柱で支えられていますが、現場では
地下壕の上に蓋をするように置かれていたものと思われます。

 


実は今これを作成しているのはニューヨークで借りているAirbnbなのですが、
サンフランシスコに続き、今度のエアビーにもネットTVが装備されており、
Huluなどは個人で登録していなければ観られませんが(日本のhuluとは別)
その代わり、Tubiなどの無料映画チャンネルがあって、なぜかどのチャンネルでも
第一次世界大戦ものと第三帝国もののドキュメンタリー映画が異常に充実していたので、
此れ幸いと毎日大画面で勉強させてもらっています。

第一次世界大戦ものには「The First World War」というシリーズがあって、
ネットには上がっていない映像や画像もタイムリーに観ることが出来ます。

「The First World War」より。
ちょうどこのシェルターのエピソードが紹介されていました。

ベルギーでのシェルター&壕の建造中の写真です。

元軍人の談話を引用して、シェルター戦について現場の声を紹介していましたが、
どうも空調設備はうまく行かなかったようなことを言っています。

ジェネレーターの空調すら閉鎖されてしまった、とのことです。

そんなところに砲弾が直撃したら中の人はどうなるでしょうか。

一度壕に直撃弾があると、やすやすとそれは破壊され、同時に下に居る
250名の人員はほとんどが死傷することになりました。

空調の悪いシェルターの中は、コンクリートのダストが立ち込め、
惨憺たる有様になったそうです。

「彼らはもはや人間の様相をしていなかった」

この写真は、当時地下壕に展開した部隊の指揮官だそうです。
直撃弾を受けて亡くなりました。

ちなみにドイツが参戦後、ベルギーに侵攻して、8月16日までには
リエージュにあった全ての防空壕は砲弾によって破壊し尽くされました。

もう少し小型の壕のドーム。
おそらくここから砲撃が行われたのだと思われます。
ここに砲弾が直撃し、分厚い鋼鉄が抉られ、ひびが入りました。

ポーランドのプシェムイシルという都市にあった装甲キューポラです。
この真下にいた人々は果たして無事だったのでしょうか。

「生存者はゾッとするような火傷を負うことになった」

この戦争は、ちょうどこの頃発明された大量殺人兵器になんの予備知識もないまま、
いきなり人間が生身で対峙して、多くが命や健康な身体を奪われた最初の戦争でもありました。

その空前の戦死傷率は、ヨーロッパ全体に後々まで残るトラウマとなり、
自らを「ロスト・ゼネレーション」(失われた時代)と呼ぶ向きもあったほどです。

発明されてまもない飛行機が兵器として初めて登場したのも、
この第一次世界大戦でした。

KuKで広く用いられていたのがこの複葉機のプロトタイプ、

アルバトロス(Albatros )B II

です。

木製のプロペラ、まるで自転車のそれのようなタイヤ、こんなもので
空を飛ぶに止まらず、機銃を持ち込んで銃撃戦を行っていました。

その中で撃墜王レッドバロンことマンフレート・リヒトホーヘン男爵のように
技量に秀でた空の英雄も現れましたが、大抵は飛行機に乗って数ヶ月で
パイロットは墜落死する運命にありました。

そのリヒトホーヘン自身も、常に自分が死の隣り合わせであると感じながら
飛び続け、わずか26歳で撃墜されて死亡しています。

誰かも言っていましたが、人間はまだ空を飛ぶのに不慣れだったのです。

木の幹に取り付けて銃座を回転させる銃なども発明されました。

ダイムラー社の開発した航空エンジンです。
ちなみにこのダイムラーでエンジン開発を行ったのが、オーストリアの生んだ
天才技術者、フェルディナンド・ポルシェでした。

(ポルシェをドイツ人だと思っていた人はいませんか?)

それまで飛行機のなかったオーストリアに開発が始まったのは、
飛行機の将来性にいち早く気づいたポルシェの主張によるもので、
第一次世界大戦前からダイムラーの航空用エンジンの優秀性は
すでに世界に知れ渡っていたのです。

プロペラ回転の隙間を縫って機上から弾が発射されるという設計も、
ポルシェによって発明されたアイデアでした。

ポルシェはオーストリア皇帝よりフランツ・ヨーゼフ十字勲章と軍功労十字勲章、
1917年にウィーン工科大学から名誉博士号を授与されています。

ポルシェはたたき上げの技術者で大学を出ていませんが、しばしば
「ドクトル」と称されるのは、この名誉学位授与によるものです。


ハウザー砲、

Škoda(シュコダ) 380 mm
Model 1916 howitzer

です。

日本、アメリカでいろんな軍事博物館に行きましたが、艦砲を除いて
こんな巨大な砲を間近で観たのは初めてです。

現場で撮った写真ではどうも近すぎて全体像がよくわからないので、
wikiの写真をご覧ください。

こんなものを撃ち込まれたら、鋼鉄のシェルターの下もひとたまりもありません。

オーストリア=ハンガリーの誇るこの包囲砲は、1916年5月、
南チロル攻勢に投入するために、開発されました。

38センチの砲弾の重さは750kg。
油圧空気圧で発射し、発射頻度は5分に1度。
最大射程は1万5千メートルといいますから、15キロ、
東京から撃ったら千葉くらいの感じですか。

問題は精度ですが、これはろくなものではなかったと思われます。

このメガトン砲の組み立てから装填までの写真が展示してありました。
 

弾砲は、砲身、架台、および発射プラットフォームの半分ずつ、つまり
4つに分けて輸送されました。

これらは8輪の電動トレーラーで運ばれました。(写真右側)

その電力も、ポルシェが設計した砲兵発電機M. 16によって供給され、
ガソリンエンジンで最高速度時速14キロで移動することができました。


右側がセッティング済みの砲で、レールに乗っています。
レールに乗せるときにはソリッドゴムタイヤは取り外し、トラックでレール上を牽引しました。

運搬する距離が長ければ、普通の機関車が牽引することができます。

弾薬を牽引し持ち上げるためのアームと鎖は標準装備。
これに人力で砲弾を乗せて装填口まで運び、(左)
トレイルに砲弾を乗せて装填を行うというわけです。

しかしながら、実際にこの武器がどの程度の戦果をあげたかについては
どこにも書かれていません。
戦後までに8基は製造されたということですが・・・。

Tubiの番組では、もう少し小型の砲が装填から発射を行う様子が
動画で紹介されていました。
こんな至近距離で砲撃を行うのに、なんの装備もしていません。


近代兵器が人間の体に与える影響に対してあまりにも無知だったこの時代、
戦地から帰った多くの者に、「シェルショック」症状が現れました。

The Effects of Shell Shock: WWI Nueroses | War Archives

 

もう誰も戦争を「ロマンチックでスリリングな冒険」と考える人はいませんでした。

 

と、ここまで制作してから、MKに、今年12月アメリカで公開になる
本格的な第一次世界大戦映画、

「1917」

のことを教えられ、驚愕しました。

1917 - Official Trailer [HD]

わたしがウィーンに行き、サラエボ事件に始まる第一次世界大戦について
勉強しだした途端にこれですよ。
過去、何度かあったブログと現実との不思議な符合が再び?

偶然といえば、使用されているテーマ曲がわたしの死ぬほど好きな
アメリカ民謡、

Wayfaring Stranger(彷徨える異邦人)

であることで、これも符合の一つのように感じています。
わたしが大大絶賛中のピーター・ホレンスのバージョンをぜひお聴きください。

Poor Wayfaring Stranger - Peter Hollens feat. Swingle Singers
 

完全アカペラです。
ドラムのように聴こえるのも『口三味線』ですので念のため。


1917 - In Theaters December (Behind The Scenes Featurette) [HD]

メイキング映像も興味深いですね。
日本で公開されたら何をおいても観にいくつもりです。

 


続く。

 

 

 

毒ガス戦と「名前のない1914年」〜ウィーン軍事史博物館・第一次世界大戦

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ウィーン軍事史博物館の展示より、第一次世界大戦のパートをご紹介しています。

右側の帽子は、帝国下ウクライナ兵のもの。

左は第一次世界大戦当時のKuK、オーストリア=ハンガリー帝国軍の軍服です。
ポケットのフラップの装飾に特色があります。

この写真は、2011年に最後の皇帝カール1世の息子、ハプスブルグ家の

オットー・フォン・ハプスブルグ(1912−2011)

が亡くなった時の葬列で行進する帝国軍時代の兵士たち。
このときには現在はドイツの国歌となっている、ハイドン作曲の

「神よ、皇帝フランツを守り給え」

も演奏されました。

Gott erhalte Franz den Kaiser (Kaiserhymne; Gott erhalte, Gott beschütze)

ドイツ国歌(東ドイツ国歌だった)って、替え歌だったんですね。

どれも帝国下アラビア志願兵の軍服です。

帝国海軍の水兵軍服など、海軍関係の展示です。

右上にある丸いものは、KuK海軍に撃沈された
イギリス海軍のM30の船窓だそうです。

KuK海軍の軍帽には舫を模した飾りがあるのに注意。

砂漠地仕様の軍服色々。

KuKの狙撃兵のスタイルです。
左の壁にあるのは望遠鏡ではなく、「パイプグレネード」だそうです。

絵に描かれている兵士も、このパイプ式爆弾らしきものを手にしています。

第一次世界大戦は「塹壕戦」だと言われています。
先ほども言いましたように、機関銃が大規模運用されたこと、そして
正面突撃を完全に破砕しうる火線が完成したことで、兵士の身の防御のためにに
塹壕に頼らざるを得なくなりました。

そして、敵も同じように塹壕を掘り進めてくるため、側面に回り込まれること、
包囲されることを避けるように前線は次第に広がり、連続的な線を形成するに至ります。

前線のいくつかの部分では防御のため、それは数キロメートルの深さに達しました。

両軍の前線の間の地帯は「ノーマンズ・ランド」と呼ばれ、
有刺鉄線で両側から隔離されていました。

塹壕を掘り進めて防御をまず第一とした先頭の形態は、戦線の膠着を生み、
このために戦争は当初の予想を大幅に上回って長期化したのです。

例えばドイツ軍の塹壕のさらに地下まで坑道を掘り進め、爆薬を仕掛けて
塹壕ごとドイツ兵を1万人一度に殺傷したイギリス軍の作戦には、
土の中を掘り進むという地味な準備になんと2年間を要しています。

第一次世界大戦を塹壕とともに後世に強く印象づけるのが「ガスマスク」です。

この時代に兵器として登場した毒ガスは、塹壕戦を打開するためのもので、
これもまたドイツ軍が西部戦線において初めて使用しました。

 

比重の重い毒ガスは塹壕内や地下壕内の歩兵部隊に被害を与え、
多くのイギリス兵が視力を失ったといわれています。

全員が視力を失った英陸軍第55連隊。

 

戦争の初期には塩素系の催涙ガス程度で止まっていましたが、
だんだんそれはより効果的な殺傷力をもつものに進化していきました。

このガス兵器の開発を行った中心人物は、あの、

Fritz Haber.png

フリッツ・ハーバー(1868-1934)

という科学者です。

彼の妻もまた優秀な科学者でしたが、彼女、クララは、
非人道的な夫の毒ガス研究に強く反対していました。

NHKの「新・映像の世紀」で紹介されていたので、
ご存知の方もおられるかもしれませんが、彼女は夫の毒ガス製造に反対し、
抗議のピストル自殺を遂げたということになっています。

ドイツ語のwikiですら、それが原因だと限定しているのですが、
調べてみたところ、夫婦の仲は冷め切っており、夫には愛人がいて、
自殺した夜に行われたパーティに同伴していたということから、
わたしは「抗議の自殺」とだけ言い切ることもできないと思います。

そもそも、彼女が抗議しようが、夫は毒ガス研究をやめようとはせず、
実際に自分が軍隊に参加してその結果を見届けるため予備隊に入隊し、
大尉になっていますし、彼女が死んだ後も平常通りだったようです。

夫の研究に異論を唱え始めたから仲が悪くなったのか、
夫婦仲が冷え切るのが先だったのか、これは余人には知るすべもありませんが、
どちらか一方の理由だけなら彼女はおそらく死ななかったのは確かです。

 

彼女の自殺は後世の平和団体に利用され、その名を冠した賞は

「個人的な不利にもかかわらず、戦争、軍備、人権侵害に反対する人」

に与えられているというくらいなので、その理由を突き詰めていくのは
顰蹙を買うことになりそうですが・・・。

ちなみに、ハーバー博士の考えは、原爆投下したアメリカの首脳陣と同じく、

「それによって戦争が早く終わる」

というところに尽きたということですが、ユダヤ人だった彼はその後皮肉にも、
ドイツから逃れるため国外亡命を余儀なくされることになります。

 

さて、毒ガスは、当初塩素系だったので、ガスマスクをかぶれば
命に別状はなかったのですが、だんだんそれが殺傷力を増すものに
グレードアップしてきた、と先ほど書きましたね。

その中でも一番危険で深刻な被害をもたらしたのが、マスタードガスでした。

wikiに載っているマスタードガスを浴び皮膚が糜爛した人ですが、
この写真はまだ「ましな方」です。

Mastard gas burns 

で画像検索すると、人間の皮膚がどうしてこうなってしまうのだろう、
と目を覆うばかりの第一次世界大戦の負傷者の写真が出てきます。
(自己責任で閲覧をお願いします)


海に浮かぶうさぎの島がかつては毒ガス製造の島だった、
という話題を、島の訪問記としてアップした時に、このマスタードガスを
黄色であることから「きい剤」、あるいは

「イペリット」

と呼ぶという話をしましたが、このイペリットの語源は
1917年の7月31日から11月10日まで戦闘が行われたベルギーの
イーペル(Ypel)からきているということを知りました。


第一次世界大戦に参加した動物も紹介されていました。

当時のフィルムを見ると、やたら犬が写り込んでいるのに気づきます。
戦争に参加した動物については、かつて当ブログでも集中して取り上げたので
よろしければそちらもご覧ください。

専門の道具まで作って犬に荷物を引かせていたんですね・・・。

雪の降る山岳地帯で展開するための装備です。
それにしては薄着すぎないか、って?

第一次世界大戦が起こった最初の年、ほとんどの兵士が
冬装備を全くしないままヨーロッパの厳しい冬を迎えたのですから、
これはまだましな方と言えましょう。

雪上で的に見つかりにくいように白をまとっています。

看板には

「雪雪崩に注意!距離を保って!」

などと書かれています。

レリヒ少佐の私物でも見られた雪上履。全て白で統一。

天井から大砲を吊るして展示してありました。

ここからは第一次世界大戦の悲惨な戦地での様子が続きます。
1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ兵士6千万人のうち、
800万人が戦死しました。

ちゃんと棺が用意され、従軍牧師が立ち会う戦地での告別式。
司令官クラスの人物が亡くなったのではないかと想像されます。

第一次世界大戦は多くの創作物に表されました。
戦地から帰ってきた画家は、自分が見てきたものをキャンバスに表し、
戦争画家は例えばアルヴィン・エッガー・リエンツのように
独特の世界で戦争を描きました。(左)

「名前のない1914年」(»Den Namenlosen 1914«)

ロシア戦線で亡くなったルードウィッヒ・ホルツハウゼン(誰?)
の十字架など、本物の墓碑がいくつもここには展示されています。

プロペラに腕を乗せ、あたかも磔刑のキリストのようなポーズをした
青年は、フェルディナンド・ザウバー・フォン・オクロッグという
kuK海軍の士官候補生の姿を表したもので、1917年、19歳で亡くなりました。

 

ガスの被害以外でも、戦後に重い障害を抱えた人はたくさんいました。
700万人が永久的な身体障害者になり、1,500万人が重傷を負いました。

なお、第一次世界大戦での死傷者は130万人、うち死者は9万人に上るという
毒ガスなどの化学兵器は、当初猛烈な世界の忌避感を引き起こし、
1925年、ジュネーブ議定書においてその使用が国際法上は禁止されます。

第二次世界大戦ではそれに加え、報復攻撃を受ける可能性が抑止力となって
使用は控えられていましたが、だからと言ってガス兵器の製造が無くならず、
その後もその開発は続けられているのは皆様ご存知の通り。

 

ところで、毒ガス開発をしたハーバー博士の話を蒸し返すようですが、
NHKの「新映像の世紀」では友人で同僚でもあったアインシュタインが、

「君は才能を大量虐殺のために使っている」

とハーバーに向かって言ったとかいう話が紹介されます。

これの裏をとるため英語やドイツ語のサイトをいくつか当たったのですが、
この話は出てこず、日本語だけで検索が可能という状態でお察しです。


同じ科学者でも妻のクララはともかく、アインシュタインがそういうことを言うか?
とわたしはこの「ストーリー」に激しい違和感を感じずにいられません。

なぜなら、アインシュタインって、第二次世界大戦が勃発する1カ月前、
アメリカの大統領フランクリン・D・ルーズベルトに宛てて出された
原子爆弾の開発を進めましょう、という内容の手紙にサインしているんですよね。

まさか原子爆弾は大量虐殺に使われると知らなかったわけではあるまいに。

これがきっかけでアメリカはマンハッタン計画に舵を切ったのですから、
毒ガス程度で大量虐殺だなんてどの口が言うのか、って感じです。


当時の科学者の宿命と言いますか、ことにこのテーマでは彼らは皆ある意味
同じ穴の狢みたいなところがあると思うんですよ。
科学がどんな小さな発明でも戦争に利用され発展してきたという事実は、
いわば彼らの背負う十字架みたいなものでもあったのですから。

だから、そういう事実に対し真摯な科学者なら同業者を責めたりできないはずで、
もしこの話が本当だったら(わたしは嘘だと思っていますが)
アインシュタインっていうのはとんでもない偽善者、ということになります。

 

 

続く。

フリートウィーク〜海上自衛隊観艦式を迎えて その1

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観艦式に間に合うようにアメリカから帰るため、ボストン空港に向かうその日、
帰る気が全くなくなるような悲しいお知らせが届きました。

https://www.mod.go.jp/msdf/release/201910/20191008-1.pdf

なんと、事前に行われる体験航海が台風のため早々に中止を決めたのです。
なんでほぼ一週間前に台風直撃がわかるんだよ、と驚いたのですが、
送っていただいた天気図によると、こんな感じでした。

日本に帰ってきてこれを制作している現在の予報によると、
最接近は12日ということのようですが、その勢力が結構大型で、
いかに精鋭の自衛艦隊でもそんな時に海に出れば第四艦隊状態になるのは確実。

しかも一般人が乗艦するイベントということで、海上自衛隊としては
涙を飲んで二日の航海を中止することを決断したのでありましょう。

今年は、前にもブログ上でちらっとお知らせしたかと思いますが、
青少年、つまり入隊の可能性のある若い人たちへの広報に重きを置き、
一般にはあまり乗艦券を出さないという方針で準備されていたので、
それだけに海自の特に広報や地本の方々は落胆されているに違いありません。

かくいうわたしは12日と本番の14日にいずれも観閲艦乗艦の予定でしたが、
12日も、そして知り合いが手に入れてくれる予定だった13日も無くなり、
なんだか気が抜けたような、一面ほっとしたような気分です。

(早朝の順番待ちに始まって家に帰るまでがなかなかハードなので、
楽しみな半分、苦行のような面もあるわけでして)

unknownさんによると、過去にも天候により中止になり、
停泊したまま一般公開が行われ年があったそうです。

というわけで、今日は長らく海外生活をしていてお伝えできなかった
海上自衛隊の観艦式前のフリートウィークについてです。

と言いましてもわたしは何しろ帰ってきたばかりですので、
観艦式前の横須賀に繁く通い艦隊の様子をお伝えくださった
Kさんの写真を今日は一挙にご紹介していこうと思います。

まず、フリートウィーク突入で、艦艇が続々と横須賀に集結してきました。
10月3日のご報告より。

この写真、どこから撮られたのでしょうか。
当日旗艦となる「いずも」がメインの係留岸壁に。

潜水艦はどこの所属か見ただけではわかりませんが、
おそらく呉から来た艦もいるのでしょう。

この岸壁にはいつも係留されているのは2隻だったはず・・・。

左から「こんごう」「いかづち」「はたかぜ」「はるさめ」。
イージス艦ってやっぱり大きいんですね。

「あきづき」「むらさめ」「てるづき」。

「あけぼの」「ありあけ」。

実はわたしも本番は横須賀から乗艦することになっており、
この三枚の写真のいずれかにその艦が写っています。

Kさんが今回ゲットしたチケットは全て受閲艦隊の方だったそうですが、

「従前は身内・納入業者・製造会社関係者が受閲部隊。
一般招待客は観閲部隊・観閲付属部隊でした。」

わたしは招待枠でしか行ったことがないのですが、そういえば
いずれも観閲部隊だったような気がします。

「多分、入隊適齢者(青年券組)が観閲および観閲付属部隊で
地本の隊員が艦内でリクルートするのではと思います。
三連休開催にして、地方からの青年が乗れるように
配慮しているようにもみえます」

地本で募集して引き連れて行くというパターンもありそうですね。
それだけに予行が中止になったのは痛恨の極み。

観艦式前ならではの光景です。
艦体をお化粧直しして観艦式に臨む海軍は、世界広しといえども
日本だけではないかとわたしは思っているのですが。

舞鶴、呉、佐世保、大湊など他所の港から来る艦艇は、
前に目撃したところによると、母港で手入れしてからやってくるので、
これはおそらく横須賀係留の艦艇だと思われます。

岸壁からカメラに手を振ってくれたようですね。

「此方の撮影に気付いた女性幹部2等海尉が手を振ってくれました。
左の2尉は左胸の防衛徽章がチョットしかないので新米二尉ですね。
右の2尉は航空徽章だから飛行機乗りのうえビックリ、
体力優秀徽章まで着けてるWonder Woman
帯剣しているので観艦式で儀仗を仰せつかって練習中だと思います。
ガンバレ❢」

こういう観艦式の楽しみ方もあるんですね。

ところで冒頭の写真ですが、素晴らしい!
これは、10月5日、フリートウィークの行事の一環で
横須賀で係留されていた「こくりゅう」のブリッジだそうです。
この二等海尉の敬礼に海上自衛隊の全てが表れていますよね。

そしてはためく自衛艦旗の目に染みる美しさよ・・。

10月6日にも横須賀に出撃したKさん、
横須賀沖に遊弋中の「そうりゅう型」潜水艦を発見❢❢

この日は横浜に回航される「いずも」をお見送りされたそうです。
大きな「いずも」の甲板に人がいるのが見えます。

台風が来る前に乗れたこの方たちはラッキーでしたね。

ベイブリッジの下を堂々通過する「いずも」。

「出航合図から此処まで離岸するのに30分さすが2万トン巨大艦。
「いずも」を電車で追い駆けてベイブリッジへ。
突如現れた❝鋼鉄の艨艟❞に赤レンガ倉庫に居た人たちは大騒ぎ」

だったそうです。

 

別名「人の褌で相撲を取る」シリーズ、続く。

 


フリートウィーク〜海上自衛隊観艦式を迎えて その2

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さて、「Kさんの写真でフリートウィークを語る」シリーズ続きです。

こうしている今も台風19号は関東地方を直撃しております。
なんでもアメリカではこれを「スーパータイフーン」と呼び、
ハリケーンの従来のカテゴリーでは最大級と言われているとか。

ニュースを見ているとまじで怖くなってくるのですが、
14日には台風も通り過ぎ、災害派遣の要請もなく、無事に
観艦式本番が行われることを祈るばかりです。

さて、Kさんの写真をお借りしてお送りするシリーズ第二弾、
本番一週間前の土日に開催された

「祝 天皇陛下御即位 令和元年観艦式付帯広報行事 横須賀基地開放」

の様子です。

横須賀基地では艦船12隻の大公開、一昔前を思い出させる大判振る舞いで
広報活動も盛況であった模様。

この写真は岸壁に係留した「いずも」の上からでしょうか。

乗員がブリッジで敬礼している意味は・・・もしかしてポーズ?

満艦飾に飾り付けられた「てるづき」と向こうは「あさゆき」かな?

「てるづき」の主砲はアメリカ海軍開発のMk.45 5インチ砲。
オトーメララ社の丸っこいのとは全く違うスッキリしたシェイプです。

砲口の錨マークにはちゃんとネーム入り。

むむ、これは「てるづき」のではないみたいだけど・・・。

「ちょうかい」も佐世保からやってきたんですね。
それにしても、

「金剛」「霧島」「妙高」「鳥海」

イージス艦のこんごう型の名前ってなんてかっこいいんだろうか。

ここで「お・・・・おう」という写真が。
どうも「ちょうかい」ではミスワールド日本代表の世良マリカさん(16)に
一日艦長を任命した模様。
ちなみに彼女が代表となった2019年ミスワールドのコンテスタントには、
なんと!元自衛官がいたっていうんですが、もしその人がミスになっていれば、
元自衛官の一日艦長が見られたということになります。

惜しい(笑)

右側は艦これの鳥海さんですが、今回漏れ聞いたところによると、
一般公開のとき、「こんごう」艦上で自衛官に向かって

「(自衛官のくせに)艦これ知らないの?」

と詰っていた見学者がいたそうです。

わたしはかつて一般人に「ジパング」の話を延々とされて全く反応できず
困惑している自衛官の図も目撃したことがありますが、自衛官といっても
艦これのキャラを同名艦に採用するという「お好きな方」もいれば、
当たり前ですが、艦これ、なにそれ、な人もいるのです。

くれぐれも自衛官だからこう、と決めつけないようにしましょう。

掃海艦(掃海艇より大きい)「ひらど」と後ろは掃海艇「ちちじま」。
掃海部隊が単縦陣で波を蹴立てて進む姿を、楽しみにしているわたしです。

いつもはわずかに自衛艦旗の赤と白が色彩を放っている黒鉄の基地も、
この日ばかりは満艦飾と訪れた一般人の装いによって一気に色付きます。

昔鎮守府であった旧軍港でも、観艦式の前にはこのように
色とりどりに飾られ、胸を弾ませた一般客が集ったに違いありません。

「てるづき」「あさゆき」「こくりゅう」ごしに横須賀の街を望む。

昔「ショッパーズプラザ」としてイオンなどがあったショッピングセンターは
現在全面改装のため取り壊しが予定されています。
これが完成したら横須賀の街のイメージもずいぶん変わりそうですね。

ちなみに。

なんとKさん、勢いあまって磯子のマリンユナイテッドにも出撃されました。
しかしよくここまでよく見えるポイントを把握しておられますよね。
これ一体どこから撮られたんでしょうか。

今JMUのドックには「きりしま」が今入渠中です。

手前は「はぐろ」。
そしてその向こうにいるのが「まや」です。


「まや」は幾度か試験航海を実施済みで来春配備予定。
「はぐろ」は再来年春の配備予定です。

予定通りであれば観艦式直前の横須賀軍港の様子を山上から。

昨日の横須賀港は、 まるで日本時間1941-12-08の真珠湾。 此れだけで韓国海軍なんぞは一捻り。 横須賀本港の周囲から観艦式に集結中の海上自衛隊を。 此れだけのフネですので、 艦名は省略しま~す。

だそうです(汗)

韓国海軍といえば、今まで多少の問題はあっても誠実にお付き合いしてきた
自衛隊を完全に前回の自衛艦旗降ろせ事件でキレさせたため、
今回の観艦式には呼んでもらえませんでしたね。

前回の観艦式に参加した時の韓国海軍については、わたしもかなり
しっかりと彼らの様子を観察したものですが、そのとき思ったのは、
観閲されている艦のくせに、自衛隊の情報を取るのに必死な様子が
傍目にも露わになっていたということです。

どういうことかというと、艦上に大きなカメラを配して動画を撮ったり、
皆が見えるところにカメラマンがいて写真を撮りまくってたり、それだけでなく
指揮官クラスがスマホでこちらを撮影しているのが見えたのです。

お行儀が悪いなあ、と思うと同時に、なりふり構わず日本の自衛隊の
回遊式観艦式の技術を盗む気満々なのが一般人にもわかりました。

(映像に撮ったからって盗めるようなものではないと思いますが・・)

彼らは今回、日本が今までのように自分たちがなにをやっても
国内の「国同士の問題はあっても軍同士は仲良くすべき」という意見が
勝って、観艦式には参加できると思っていた節があります。

日本側が「招待しない」と表明してからのちも、

「観艦式には招待があれば行く」

としてこちらを探っていた様子がありましたよね。

退官された河野前統幕長などの仰ることを聞いても、自衛隊は
すっかり一連の事件で業を煮やしてしまったように見えます。

わたしも「軍同士は常に顔を見せ合うべき」という考えを持っているものの、
流石に昨今の韓国海軍の非道ぶりには、忍耐強い日本が韓国疲れによって
キレたとしても無理はない、と思っております。

甲板に誰もいない「いずも」。

「いずも」は今回観閲部隊旗艦として総理大臣を乗せます。
今まで旗艦を務めた「くらま」よりヘリコプターでの乗降はしやすく、
広いので、同乗した見学者も従前よりは不便はないでしょう。

実はわたくし、今回こんなご招待をいただきました。

防衛大臣招待というからにはてっきり「いずも」に乗るものだと思って、
知り合いにもそう吹聴したのですが、実は違っていたことが後で判明しました。

今まで観閲艦に乗った人の話を聞くと、艦内では何かと立ち入り制限があり、
脚を止められるのでなかなか不自由だよ、というものだったので、
「いずも」でなかったことはよかったのかもしれません。

でも、おそらく安倍総理大臣と同乗できる機会は二度とないだろうな。

手前に見えているのが輸送艦「しもきた」のお尻。
その向こうに「あたご」「こんごう」、その向こうもおそらく
同型のイージス艦だと思われます。(『みょうこう』かな?)

「しもきた」のこちらに「てるづき」、「あさゆき」。
満艦飾の代わりに電飾が設置されています。

見に行きたかったけど、今は台風に備えて外してるだろうな。

数えてみたらここに写っているだけでも10隻います。
外国からの招待艦はもう到着しているとのことですが、どこにいるのかな。

「いずも」の艦首には国籍旗が掲揚されています。
国籍旗は日中、停泊時にのみ掲揚されます。

国籍旗が国旗を兼ねることがありますが、アメリカ海軍は
軍艦旗が国旗と同じであるため、国籍旗として、
「ファーストネイビージャック」を揚げます。

Naval jack of the United States.svg

これが「わたしを踏むな」のガズデン旗になる時もあります。

ちなみにアメリカ海軍は国籍旗をメインマストにあげるようです。
観艦式の時にはそういうことも注意してみられると楽しいのではないでしょうか。



観艦式本番には台風が通り過ぎていることを祈念するシリーズ、続く。

 

 

フリートウィーク〜海自観艦式を迎えて その3

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台風一過とはよくいったもので、絶賛時差ボケ中で4時に起きたわたしが
窓を開けると、そこは爽やかな鳥の声とともに晴れ渡った観艦式前日の朝でした。

おお、この分だと本番も晴天間違いなし、と思いつつパソコンを開くと、
ちょうどこのシリーズの写真提供者のKさんが

伊勢湾・大阪湾に退避していた海自艦が続々と横須賀へ向かって動き出しました。   何故か東伊豆に「まや」が公試運転中です。   水色の表示を御探し下さい。

とこのURLを送ってくださっていました。

https://www.marinetraffic.com/jp/ais/home/centerx:136.7/centery:33.8/zoom:7

13日7時ごろの画像をキャプチャしたもの。
大島沖の艦は、先頭から

海保巡視船「いず」「はるさめ」「たかなみ」「あさひ」、

少し離れて「あけぼの」「ありあけ」。

下北半島の左で南下している先頭が「あさゆき」「しもきた」。

「まや」は伊豆半島の伊東市沖にいます。

とりあえず艦艇は港に向かっている、それはわかった。

観艦式が行われるのかどうか、しばし各方面をチェックしていたところ、
悲しいお知らせがきました。

令和元年観艦式の中止について


というわけで、今年の観艦式は終了しました。
この項を目にする皆様は既にご存知のことと思います。

 

しかし、せっかくなのでフリートウィークシリーズを最後までやってしまいます。

これは10月10日、観艦式直前の横須賀基地の様子です。
ところで、読者のunknownさんが、事前の体験航海で
「こんごう」に乗ってこられたそうです。

おそらくiPhoneで撮った写真を送って下さいました。

なんどもお伝えしているように、今年は募集対象年齢が最優先で、それ以外の年の人は
基本的には券はもらえない状況でunknownさんもあきらめていたそうですが、
直前に声がかかったということです。

乗員の家族を優先した体験航海なので、あの大きな船体に乗客は40数名!
本番は700名となり、ご存知の方はご存知の通りの芋の子状態になります。

この時の体験航海は、参加艦艇が少ないせいか、今までとかなり
やり方が変わっていたということで、


「今までは観閲部隊(総理大臣が乗る方)が西航する中、左右両側に受閲部隊が東航し、
観閲が終わった時点でお互いに反転。
その後、ヘリコプター発艦やP-3からの爆雷投下等の訓練展示でしたが、
今回は逆に観閲部隊と観閲付属部隊が二列に分かれて、
真ん中を受閲部隊が通過するようになっていました」

観閲付属部隊は訓練展示はやらないのでこの時参加した数は勢少なくなり、
そのため本番通り訓練展示を行う数も少なく、こうなったんだと思う、とのことです。

また、

「期待のDDHですが「ひゅうが」と「いせ」欠で「いずも」と「かが」が参加です。
『いずも』は観閲艦(総理大臣乗艦)で『かが』は受閲艦。行き会いますが、
並んで走るところはないのかなと思っていたら、ほんの短時間、並走しました。」

これはどういうことかというと、おそらく総理大臣や各国武官に二隻を見せるためで、

「『いずも』と『かが』は、反航で通り過ぎた後、訓練展示に参加する船は反転しますが、
参加しない船はそのまま直進します。
ヘリコプター発艦はなく「かが」は直進して「いずも」と同航になり、
先の方で速度を落としていて、訓練展示終了後の観閲官(総理大臣)訓示の時に二隻が並びます」

ということだったのです。

ところで、観艦式でどの艦に乗るかは、特に訓練展示を見る上で大きな問題ですが、

「旗艦に近い観閲艦が一番良い」

と言われています。
つまり、今回でいうと先導艦、「いずも」の後ろの「こんごう」だったということになります。

(全て過去終了形で語らないといけないというこの虚しさ・・・)

ちなみに、この時スマホで撮ったタイムラプスの映像も頂きました。

観閲

さて、粛々とKさんの写真をあげていきましょう。
予行の2日前、Kさんはなんと横須賀軍港めぐりに参加されたそうですよ。

新鋭艦「あさひ」とちゃんと自衛艦旗を付けた哨戒艇?

なんとっ!

潜水艦基地に豪華四連メザシの潜水艦が!

追加で送られてきた潜水艦メザシ、こちらはなんと4連だ!

潜水艦隊の人たちにとっても、4連は滅多にないのではないでしょうか。

一番右側の潜水艦、もしかしてラダーを動かしてますか?

「あさひ」「はるさめ」「たかなみ」、桟橋の向こうに
「ちょうかい」「こんごう」「あたご」。

こんな景色は、観艦式前の船の上からしか見られません。

観閲部隊の「いずも」の対番艦?として受閲部隊に参加、「かが」。

一番向こうの132は「あさぎり」「せとゆき」。
桟橋横はなんだろう?

正解は「てるづき」でした。

「ふゆづき」「さみだれ」「ありあけ」。
「さみだれ」と「ありあけ」は同じ「むらさめ」型護衛艦です。

台風の間、艦艇は皆湾外に続々と出て、沖で避難していたわけですが、
ニュースでは中国の軍艦も中国艦艇も出航したことを伝えました。

中国海軍新鋭ミサイル駆逐艦052D「太原」横須賀を出港する 2019年10月10日

アメリカ海軍艦艇も外に出ていたそうです。
伊勢湾沖でバッティングしてドンパチが始まらなくてよかったですね。(大真面目)

ここからは「横須賀の艨艟たち」というメールで送られてきた写真です。
イージス艦姉妹の「ちょうかい」「こんごう」「あたご」。
それにしても海面の光を映す艦体の、どれも美しいこと。

この三姉妹、お肌のお手入れは完璧と見た。

これは・・・もしかしたら湾を出て行く「かが」かな?

体験航海中らしく一般人の姿が艦上に見える、「えんしゅう」。

「えんしゅう」は「灘」の名前を艦名とする多用途支援艦「ひうち」型の
5番艦で、横須賀所属です。

多用途支援艦とは各種射撃訓練の支援、自走不能になった僚艦や標的艦の曳航
火災を起こした艦艇の消火、各種救難そして物資輸送を多用途に行う船です。

また例えば離島で起こった災害に対して派遣されることもありますし、
新装備を洋上で試験するときにも活用されるという何でも屋さん。

自走不能になった僚艦を曳航することも想定しているので、機関出力は5,000馬力、
排水量に対してかなり強力になっています。

ましゅう型補給艦も単艦で曳航することができるくらいなので、おそらくは
「大和」「武蔵」でも曳航することができるに違いありません。

ロナルド・レーガンはどうかな?

手前にいるのはアメリカ海軍の哨戒艇です。
後ろの潜水艦、変わった形だなあと思いよくよく見ると、
オーストラリア海軍の潜水艦らしいですね。

そして海軍旗、これわたし初めて見ましたよ。

Naval Ensign of Australia.svg

 

この国旗とネガポジの白地に青い星が海軍旗。
そして、ブリッジに揚がっているのは国連旗?

Kさんのご指摘によると、北朝鮮哨戒任務ではないかということでした。

ちなみにオーストラリア海軍には

「オベロン」「コリンズ」

の二つのクラスがあるそうで、これは「コリンズ」級ではないかと思われます。

迎賓艦「はしだて」が出航しております。
91は、海上自衛隊の艦艇の中で唯一100番未満の艦番号。

「はしだて」には一度パーティにご招待いただき乗艦したことがありますが、
豪華客船のキャビンのような絨毯、木目の内装と、あらゆる点で異質でした。

潜水艦のブリッジ越しに見えるCH-47チヌーク。
この日は木更津と横須賀の間を何度も陸自ヘリが往復していたそうです。

ここからは旭日旗シリーズです。

台風襲来・予行中止は誘われなかった韓国の怨念か?

まっさかー、と思いましたが、結局本番も中止になりましたからね。

なんでも旭日旗越しに撮ると構図として決まってしまうという・・・。
写真を撮る人には旭日旗はありがたいアイテムでもあります。

本番でも旭日旗越しに海上自衛隊の「艨艟」をカメラに収めたかった・・・。

ほう、横須賀ではこんなお酒が買えるんですね。

此れから荒れる空を睨みつつ盃を重ねようと思っています。

Kさん、今夜は残念なお酒となるのでしょうか。

とはいえ、朗報です。
実は明日、乗艦券を持っている人に限り、一般公開をするようです。

ホテルをキャンセルせずに(できずに)取っておいたので、今夜は
横須賀の夜を楽しんで、明日は艦艇見学を楽しむつもりです。

しかし、これらの写真がなければ、フリートウィークのにぎわいも
横須賀の様子も知ることがなく観艦式が中止になっていたわけですから、
今回写真の提供を快く許してくださったKさんと
体験談を送ってくださったunknownさんには御礼を申し上げるばかりです。

それでは、引き続きフリートウィークの最終回「見学編」をお楽しみに。

 

あ、当日出るはずだったお弁当は行けばもらえるのかな?(真剣)

 

「しまかぜ」のお昼はカレー〜2019年海自観艦式中止に伴う艦艇公開

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本来昨年度行うはずだった海自の観艦式は、オリンピック開催の
陸自基地利用の関係で1年先延ばしにした結果今年になりました。

去年素直にやっていればおそらく中止にはならなかったと思うのですが、
さらに今回、いつもと違って予行を本番を連休の三日間に連続して行うことにし、
運の悪いことにそこにピンポイントで台風が来てしまったので全滅したわけです。

後からならなんとでもいえますが、開催日を一週間くらいに分散して
リスクを分散しなかったツケを負う形になってしまいました。

聞くところによると、連休の三日連続で予行と本番を行うことにした理由とは、
今回海自がイベントを新隊員募集の広報活動と位置付け、
学校が休みの日に開催して学生に参加してもらおうとしたからだそうですが、
まさかこんな形で裏目に出ることになろうとは。

というわけで今回一番がっかりしたのは地本の自衛官ではないかと思われます。

 

もちろんわたしもがっかりしたのに違いないのですが、実は、
ニューヨークで最終週に風邪を引いてしまって治ったばかりだったので、
12日と13日が中止になったというニュースを聞いたとき、正直なところ
ほんの少しだけほっとする気持ちもあったのです。

それで体力を温存して14日の本番に全力投入と意気込んでいたのですが、
・・・その後の顛末は皆さんもご存知の通り。

中止が決まったので、前日は装備も軽めに用意も適当にして、
家で夕飯まで食べて、それから寝るためだけに横須賀に向かいました。

次の朝、ホテルのレストランから横須賀軍港を眺めていると、
フリートウィークの最終日には4連メザシになってた潜水艦基地から、
一隻が出航するところでした。
カメラを持っていたらよかった、と思いながらiPadで撮ったのがこれ。

おそらく呉からやってきて、フリートウィーク期間中訓練に参加し、
本番がなくなったのでとっとと母港に帰るようです。

しかもこの天気、昨日の台風一過が嘘のようにまた曇天です。
激しい雨の中艦艇見学は辛いなあ、と気持ちが挫けそうになりながらも、
まずは船越岸壁から攻略しようと、タクシーに乗りました。

 

さて、ここでちょっと、事前演習に参加したunknownさんの動画をご紹介します。

その場回頭

おお、確かにその場で回頭しておる。

飛行艇着水

US-2の着水です。

ちなみに当日の航行予定表がこれです。
従前の観艦式とは大きく方法が変わっていますね。

観閲艦に乗っている人たちは、右舷にいても左舷にいても、
これを見て今気がついたのですが、13日の朝、海自艦艇と一緒に移動していた
海保の巡視船「いず」は、観艦式に参加する予定だったんですね。

今年もブルーインパルスの航行が予定されていましたが、これは
安倍総理が特にお好きだからという理由もあったそうですよ。

さて、それでは当日観艦式のチケットを持っている人のために行われた
艦艇一般公開の様子を粛々とお伝えしていきましょう。

9時から開門ということで15分前に船越に到着すると、入場を待つ人の列が
思ったより長くできていました。

この日のために予定を空けていた人、地方から泊まりがけで来ている人が
思ったより多いのにちょっと驚きます。

しかし、開門すると列は普通の一般公開よりずっとスムーズに進み、
あっという間に基地の内部に入ることができました。

誘導される通り歩いて行くと、対岸に珍しい艦艇がいます。

手前で潜水艦を押し船が移動させていますが、これがどこに行くつもりかは
後でわかりました。

まず見えてくるのが掃海艇「えのしま」。

掃海母艦を先頭に進む小さな掃海艇の単縦陣、観艦式でわたしは
これを見るのを楽しみにしていたのですが。

今年の観艦式は掃海母艦「うらが」を先頭に、「ひらど」「はつしま」
「あいしま」「ゆげしま」の計5隻が参加することになっていました。

「えのしま」はもともと横須賀が定係港です。
「うらが」も他の掃海艇たちも、各港に帰ってしまったのかもしれません。

入場すると、岸壁に沿って指示された道を歩いていきます。

まず皆の前に現れるのは潜水艦救難艦の「ちよだ」。
今回「ちよだ」もですが、潜水艦救難艦は観艦式に参加予定はありませんでした。

「ちよだ」というと、三井玉野で行われた引き渡し式のとき、
自衛艦旗がなかったという事件を思い出してしまうわけですが、
彼女にとっての不幸は、その名前を見るたびに、わたしのように反射的に
事件を思い出す人がいて、このことを一生言われ続けてしまうことに他なりません。

ちよださんは何にも悪くないのに・・・・。

もともと観艦式参加予定もないことから、見学も行っておりません。

どんどんと歩いて行くと、2〜3隻ずつメザシ状態にして公開している
観艦式参加艦艇岸壁にたどり着きました。

そこでは、入隊を志望する「金の卵」たちを引き連れてきた地本の自衛官たちが
(ほとんどが陸自)一塊りになって記念写真を撮っていました。

観艦式がなくなっても、見学にここまで来てくれる若者は入隊の可能性大です。
これまで自衛隊が集積してきた人誑しのあの手この手なりふり構わないテクニックで
(人聞きが悪いな)一人でもたくさん入隊につなげたい!という気合が、
彼らの背中に漲っているような気がして、わたしは目頭が熱くなるのを覚えました(嘘)

さて、それでは見学開始です。

今回わたしが本番で乗るはずだった観閲部隊の5番艦、「あけぼの」を見つけ、
ここから攻略して行くことにしました。

とはいえ、甲板を舷側に沿って歩くだけの見学なので、
あっという間に隣の「しまかぜ」にやってきてしまいました。

当日の艦艇配置はご覧のような密集形です。
3連メザシの外側から出航して行くことになるので、
「あけぼの」に乗っていたら出航までずいぶん待つことになったでしょう。

これは「あけぼの」から「しまかぜ」に移って、その前甲板からとったもの。

ところで「しまかぜ」といえば、観艦式ではいつも「はたかぜ」とともに、
祝砲発射をするのが任務で、今回もそのようになっていました。

unknownさんが送ってくれた祝砲発射前?の「はたかぜ」と「しまかぜ」。
171が「はたかぜ」、後ろの172が「しまかぜ」です。

 

祝砲を撃った後の白煙が残っていますね。
こちらは「しまかぜ」。

どちらもミサイル護衛艦と呼ばれターターD・システムを搭載しています。

船越岸壁の対岸にある先ほどの変わった艦ですが、遠くから見ると
英連邦ということだけしかわかりません。
写真に撮って艦名を拡大し、これがインド海軍の

「サヒャディ SAHYADRI」シヴァリク級フリゲート

であることが初めてわかりました。
「サヒャディ」はまだ運用されて7年しか経っていないのだそうですが、
それにしては艦体のサビが目立つような気が・・・・。

この状態で観艦式に参列するつもりだったのか・・・?

手前にいるのは、最初の写真に全体像が写っていますが、
対潜コルベット艦で、

「キルタン」INS Kiltan (P30)

です。
もしかしたらインド海軍は練習艦隊として日本に寄航したのでしょうか。

「あけぼの」もその外側の「しまかぜ」も、甲板だけの見学となります。
「しまかぜ」の右舷を歩いていると、先ほどの「しお」型潜水艦が、
艦体を見せるため「しまかぜ」に横付けしているところでした。

横付けするにあたって、まずはハッチの周りをブースで囲み、
開けているハッチが見えないようにしています。

雨が入らないだけでなく、潜水艦の機密の一つである外殻の厚さが
ハッチの厚みからわからないように、ってことなんですね。

ブリッジのドアが四角いので、これは三菱重工で作られた潜水艦です。
ちなみにここが丸いのは川崎重工製。
型が全く同じなので、ここでどちらか見分けるためにそうしているのです。
多分ですけど。

この潜水艦が観艦式で航行する時には、ここに艦長が立って∠( ̄^ ̄)します。
掲揚竿にはもちろんのこと、旭日旗が翩翻と翻ります。

ところでこの写真を見て、雨の強さがわかっていただけますでしょうか。

もし台風の被害がなく、観艦式が決行になっていたとしても、この天気では
けっこうタフな見学になったに違いありません。
わたしなど雨が降ってもきっとデッキで頑張っていたと思いますから、
まず間違いなく風邪をぶり返してえらい目に合っていたことでしょう。

潜水艦は自分で名乗ってくれないと「しお」か「りゅう」かしかわからないのですが、
この潜水艦はちゃんと見学者に見せるために

SS 599「せとしお」

の看板を出してくれていました。

「せとしお」は潜水艦部隊の唯一の「しお」型代表で航行する予定でした。
母港がここ横須賀であることから、このサービスをしてくれているのでしょう。

ちなみに参加予定の潜水艦は

「しょうりゅう」「こくりゅう」「せとしお」

と、わずか3隻だけでした。
4年前でもう記憶があまりないのですが、いつもはもう少し多くて、
『潜水艦部隊』として航行してましたよね?

 

開門直後でまだ艦上は閑散としています。
雨はこの頃が一番強く降っていたかな。
護衛艦の上では傘を刺すのを許してもらえました。

観艦式で航行中の甲板では確か傘は禁止されていたと思います。

 「しまかぜ」の後甲板から「ちよだ」はこんな位置関係にありました。

ところで、「あけぼの」からラッタルを渡って「しまかぜ」に移ると、
途端に美味しそうな昼ご飯のカレーの匂いが漂ってきました。

見学者で周りにいた人たちは皆、鼻を動かし、

「カレーだ」「しまかぜのお昼カレーだ」「いい匂い〜」

と騒然と?なっているのがおかしかったです。

衝撃的だったのは、海自では金曜以外にもカレーを食べていることでした。
昔体験航海の時にお昼に向かう隊員さんたちに、

「好きなメニューはなんですか」

と聞いてみたら、全員が示し合わせたわけでもないのに

∠( ̄^ ̄)「カレーです」∠( ̄^ ̄)「カレーです」∠( ̄^ ̄)「カレーです」

だったくらいなので、週二回カレーでも大歓迎なのかもしれません。

ちなみに、他の護衛艦に

「なんでも質問してください!なんでも答えます」

というプラカードを持って立っている人がいたので

「今日のお昼のメニューはなんですか」

と聞いてみたら、

「えー・・・」

と絶句してしまわれました。
なんでも答えますのなんでもにお昼のメニューまでは含まれていなかった模様。

他の艦艇見学を済ませてもう一度「あけぼの」の近くを通った時、
CIWSと主砲を動かす展示をしていました。

これはオトーメララの砲身が思いっきり下を向いた瞬間です。
甲板に人の姿が全くないのですが、皆右舷側から見ていたのかな?

 

続く。

 

 

横須賀軍港の外国海軍艦艇〜2019年度観艦式中止に伴う艦艇公開

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昨日の一般公開ブログをアップしたところ、フリートウィークの写真を
拝借させていただいたKさんから、船越に並んでいるところ写真をいただきました。

人の影でかろうじて写っていませんが、Kさんとわたし、
至近距離で並んでいたことが判明しました。

この日の公開は9時から4時までと長い間行われたので
朝イチで来る必要性というのは全くないわけですが、そこはそれ、
やはりこの日観艦式にあさ6時7時から乗艦するつもりだった人たちは、
こうやって並んでしまうわけですよ。

さて、1番に見学した「あけぼの」と「しまかぜ」とは斜めに位置する岸壁に、

「さみだれ」「ふゆづき」「ありあけ」

の駆逐艦三娘が連結した状態で公開になっていました。
この三連メザシ、一旦「さみだれ」に乗艦すると
自動的に全部見学しないと出て来ることはできませんが、
途中で出たい人は自衛官に申し出ればショートカットできます。

「さみだれ」は駆逐艦「五月雨」からその名前を継承しているので、
艦これの艦娘(’かんむす’で変換できてしまった・・・恐るべし)
五月雨ちゃんが大々的にマツリアゲ状態で鎮座していました。

わざわざ等身大のポスターをえらい人の部屋用のマットに乗せて・・。
これは「さみだれ」乗員に提督がいるな(笑)

ちなみにかつて帝国海軍で「五月雨」とは「白露型」の同型艦だった
「村雨」「春雨」「夕立」は、ご存知のように海上自衛隊で
「むらさめ」型護衛艦としてどれも名前が引き継がれています。

続いて護衛艦「ふゆづき」です。

「ふゆづき」は艦内も公開していました。
下の賞状ですが、定係港である舞鶴市で、「献血の推進に積極的に貢献」し、
なんと市長から感謝状が艦長名義で出されたようです。 

「ふゆづき」艦内神社の御祭神は豪華三社建です。

福岡の天照皇大神(あまてらすすめおおかみ・てんしょうこうだいじん)

高倉神社(全国にたくさんありますがおそらく舞鶴の神社)

石清水八幡宮(京都府八幡市)

艦内神社の御祭神はどうやって決めるのでしょうね。

機関室も公開されていたのですが、なぜか内部は写真撮影一切禁止のうえ、
物凄い混雑だったので見学は諦め、代わりといっては何ですが、
外のダメコン用木材の写真を撮っておきました。

機関室の外にあった興味深いパネル。

「海洋生物付着防止装置 制御盤」

なんと、今時の軍艦は付着を科学の力で防ぐことができるのか!
海洋生物といってもイカとかコバンザメのことではなく、
フジツボやムラサキガイなんかのことですが、どうやって防ぐのか、
と思って調べてみたところ、船殻に着いてしまうのは防げないものの、
航行に支障の出るシーチェストや海水管系統だけに特化して、

電極型銅イオン発生方式

電極型次亜塩素酸方式

その他薬液方式

で付着しにくくする、という方法が取られていることがわかりました。
このパネルからは「ふゆづき」がどの方法で付着を防いでいるのかわかりません。

非常口のシルエットもちゃんとテッパチにカポック着用。

赤い星に「八一」は人民海軍の印。
なぜ「ふゆづき」が中国海軍から盾をもらったのか、
来歴を調べたのですが不明でした。

左の「TSD」はトレーニングサブマリンディビジョン、
第1練習潜水隊のことで、呉にある「潜訓」、
潜水艦教育訓練隊が潜水艦の実習訓練を行うための練習艦、
「あさしお」と「せとしお」が所属していた潜水隊です。

「せとしお」というとさっき「しまかぜ」に横付けしていたのと
同じ名前ですが、こちらが初代で、2001年には退役しています。

 

真ん中はサイゴン・ニューポートとあります。
サイゴンニューポート社はホーチミン市の港を管理する
国防省の傘下企業で、港とコンテナターミナルの開発も行っています。

 

右側はインド海軍の「シャクティ」(A57 Shakti)の銘板。
「シャクティ」は「ティーパク」級補給艦の二番艦で、
海自でいうと「ましゅう」型と同クラスです。

日本とインドの外交が始まってちょうど60年目にあたる2012年、
「シャクティ」は

JIMEX 2012(日本-インド海事演習)

に参加し、北西太平洋でインド初の日本との二国間海事演習に参加しました。
このとき海上自衛隊 (JMSDF)は、

2隻の駆逐艦、1隻の哨戒機、およびヘリコプター

が参加したとあり、その1隻が「ふゆづき」であったことになります。

このとき「シャクティ」は他の4隻とともに東京に来て3日間滞在しています。

右側の盾に書いてある第15駆逐戦隊というのは、
横須賀の第7艦隊のアーレイバーク級駆逐艦の戦隊なのです。

設立が1920年という歴史のある戦隊で、横須賀でお目見えする

「バリー」「カーティスウィルバー」「ジョン・S・マケイン」「ステサム」
「ベンフォールド」「ミリウス」「マッキャンべル」「マスティン」

らで構成されています。

「ふゆづき」は平成29年度派米訓練としてグアム島方面に派遣され、
米海軍と共同で洋上訓練を実施し、続くマルチセール2018では、
ミサイル巡洋艦「アンティータム」、ミサイル駆逐艦「カーティス・ウィルバー」
「ベンフォールド」、「マスティン」 とともに
対空戦、対水上戦、対潜戦、射撃訓練等を実施しています。

艦内にあるこういう記念盾からも、艦暦がわかりますね。

左はやはりインド海軍の「サヒャディ」・・・・

あれ、さっき「しまかぜ」の上から見ませんでした?

この日わたしの近くで見学しておられたらしいKさんの写真をどうぞ。

Kさん、この日は外国鑑定を求めて基地を探索された模様。

これ一体どこから撮ったの?

「サヒャディ」(右)「キルタン」(左)どちらにも艦体にはペインティングが。
インド海軍の慣習なんでしょうか。

わたしはこれ気づきませんでした。
ロイヤルネイビーの

「エコー」級海洋観測船 エンタープライズ(H-88 Enterprise)

おそらく海洋観測船は観艦式に出るつもりでここにいたのではないでしょう。

カナダ海軍、ハリファックス級フリゲート「オタワ」\(^o^)/

オーストラリア海軍「ホバート」級駆逐艦「ホバート」。

冒頭写真のかっこいいのは、シンガポール海軍の
「フォーミダブル」級フリゲート「フォーミダブル」です。


ところで、今回出席予定だった中国海軍の船は台風がやってくるなり離岸して、
あっという間に帰っていってしまいました。

さて、「ふゆづき」見学に戻ります。
この日「ふゆづき」は艦橋の公開もしていました。

ふと環境の窓から見ると海保の巡視船「夕月」がパトロール中。
今回、観艦式には祝賀航行部隊兼護衛として、(たぶんね)
巡視船「いず」が外国海軍艦艇の後ろを航行することになっていました。

前の観艦式では周りを警戒のため猛スピードで航行する巡視船を見ましたが、
祝賀部隊として参加するのはわたしが見る限り初めてです。

これは、昨年度行われた海保の観閲式に、海自の「はたかぜ」が
招待されて参加したことへの答礼の意味もあるのではないでしょうか。

さて、「ふゆづき」艦橋です。
一般公開用のウェルカムボード、このフォントいいなあ。

艦橋は大盛況。
こうして写真に撮ってみるとやっぱりほとんどが男性です。

艦橋から見る横須賀港の眺め。
おそらく昔ここに係留されていた軍艦の艦橋からも
全く同じ景色が見えていたのでしょう。

見られては困ることろはさりげなく隠しつつ、お仕事紹介もしています。

艦長気分で。

艦橋内には館内の各所をモニターできる画像が常時示されています。
この時映っていたのは格納庫でした。

注意書きにこういう写真を使ってしまうセンスが羨ましい(真剣)
ボートが牽引されている部分とその近くのデッキには立ち入り禁止です。

ネザネヒネトミザミヒミトセリザチョリザヒリザ。

これらが何か全部わかった方は立派なマニアです。
「ネ」は燃料、「ミ」は水、「ザ」は在庫。
これさえわかれば全部わかる・・・かな?

ところで、この究極の略語、海軍伝統であることはご存知だと思いますが、
隠語とかではなくて、海幕のご指導によるれっきとした公用語なのです。

海上自衛隊の部内の通信において使用する略語について

いやー、これ、ここまでするかってつい呆れいや感心してしまいました。

異状なし=イナ
お願いする=オネ
関係なし=カナ
当直を撤する(せよ)=トヤ

「お願いする」というとき、海自の人は

「おね!」

と一言で済ませているんでしょうか。

「異常なしか?」

「イナ!」

(陸自とか空自の人)

「否、ってことは異常あったんだな」

やっぱりこれ一種の隠語ですよね。

 

観艦式中止に伴う艦艇一般公開における「ふゆづき」の見学、続きます。

 

艦長として観艦式に参加すること〜2019年度観艦式中止に伴う一般公開

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観艦式中止に伴う艦艇一般公開の様子をお伝えしています。

艦橋を見学し、上甲板階に降りてくるとおなじみ艦長以下幹部の写真。
ところで先任伍長のバックは旭日旗のどの部分?

外国海軍の記念盾コーナーらしく、アメリカ、インドネシア、カナダ、
それからインド海軍の艦艇や都市から贈られたものが並んでいます。

左上の記念銘板は空母「セオドア・ルーズベルト」のものです。
この空母の形のプレートは米海軍の空母のスタンダードで、
「ミッドウェイ」艦内でも見たことがあります。

金属プレートのしたに書かれた「ルーズベルトのモットーは、

”Speak Softly and Carry α Big Stick"

「大きな棍棒を携えて穏やかに話す」

これはもともと艦名となった大統領セオドア・ルーズベルトの

「棍棒外交」

と呼ばれる当時の外交方針を表した言葉です。

ルーズヴェルト政権ではこの政策に基づいて、カリブ海域の
「慢性的な不正と無能」に対してアメリカの武力干渉を正当化し、
海上兵力を背景に南米地域での権益を確保し、
ヨーロッパ諸国の干渉を排除するというアメリカ帝国主義を実行しました。

というわけで、どこかの国なら軍靴の足音が聴こえる的な
今時穏やかでない文言ですが、この名前を戴く空母は
アメリカにとって

「大きな棍棒」

であることに違いはないので、モットーとしてはありかもしれません。

そういえば、わたくしこの「ふゆづき」が引渡しされ、
自衛艦として誕生した瞬間を目撃しているんですよね。

忘れもしないあれは三井造船玉野、大変な豪雨の日でした。

あの時に雨に打たれていた「ふゆづき」初代艦長や初代副長、
乗員の皆さんの様子はまだはっきりと覚えています。

海上自衛隊儀礼曲 「海のさきもり」 護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式

この歴代艦長を記したパネルの前を通りかかったとき、
その日付を確認したら、2014年3月、なんと5年も前のことでした。

この時に副長だった方はその後呉で陸上勤務をしておられましたが、
今年の練習艦隊で飛行学生を乗せた練習艦の艦長となられ、
中国で行われた観艦式に参加しておられました。

偽装艦長、初代艦長は調べたところ現在ここ横須賀の
実験艦「あすか」の艦長をしておられます。

5年という月日は自衛官の配置にとっても大きな変化があります。
5年前と同じところで同じことをしている、という自衛官は
特に幹部ではあり得ないといっていいでしょう。

「ふゆづき」甲板から海を眺めると、何隻もの釣船が浮かんでいました。
連休ということで、どの船からも釣り人が糸を垂らしています。

「ジャマーランチャーとは投射型静止式ジャマーを
目的場所に投射する装置です」

ジャマーとは定位置で音を発し続け、海中で
音響探知型の魚雷を妨害する装置のことです。

ジャマー(jammer)はジャミングするものの意で、
文字通り「邪魔するもの」です。

「邪魔」の語源は邪な悪魔のことですが、
「ありがとう=オブリガード」のように、意味が一緒で
発音も似ている偶然の一致ってあるもんなんですね。

観艦式が行我たらここについ座ってしまう人もいるに違いない、
という予想のもとにわざわざ舫の籠に張られた注意書き。

舫も籠も観艦式に備えて新調したらしく、ピッカピカです。

それにしてもバランスボールのような絶妙のこの形と大きさ、
艦内で落ち着く場所がなければ、つい座ってみたくなる人はいると思う。

ところでいつの間にか「ふゆづき」から「さみだれ」に移っていました。
「さみだれ」はわたしが初めて個人的に艦艇見学をさせてもらった
思い出の護衛艦です。

艦内を回っていたとき、オトーメララの発射速度
(55-65発/分)を聞いて、何も考えずに

「さみだれ撃ちですね!」

と脊髄反射でツッコンでしまい、案内してくれていた艦長に
聴こえないフリをされたというほろ苦い思い出のある艦でもあります。

というわけで「さみだれ」から隣の「ありあけ」に移動です。
「さみだれ」のマークは「Mighty Pegasus」。

「ありあけ」も艦橋はじめ艦内を公開していました。

雨が降っているので見学者にもしもの事故が起こらないように、
艦橋内は分刻みで床を掃除していました。

例えば艦内各部の出っ張りに黄色と黒のテープを貼ったり、
赤いリボンを結んだりするなど、目に見えている以上に
自衛隊という組織がどれほど一般人の安全に配慮しているか、
そんなことを知ることができるのも一般公開ならではです。


三連メザシの端っこの「ありあけ」艦橋から見た前甲板。
ちなみに今回の観閲式で、彼女らは受閲艦隊として参加する予定でした。

先導艦「あさひ」受閲部隊旗艦「かが」につづき、護衛艦群は

「はるさめ」「さみだれ」「ありあけ」「あたご」「ふゆづき」

「ちくま」「やまゆき」「はたかぜ」「しまかぜ」

続いて補給艦などが航行します。

「ありあけ」の艦橋横のデッキにあった見張要表なるマニュアルです。
こんなパネルがデッキにあるのを初めて見たような気がします。

右下の、「艦型の距離に対する分画表」というのは、
自衛艦の型(つまり大きさですね)によって「分画」が変わってくる、
と理解すれば良いのだと思いますが、それにしても分画って何?

この日いくつか艦艇の内部を見学しましたが、
艦長室を公開していたのは「ありあけ」だけでした。

ベッド毛布のたたみ方まで見られてしまうので、
艦長によっては公開を嫌がる人もいるかもしれません。

自衛艦で唯一、一人でお風呂にゆっくり浸かれるのが艦長です。
この感じだと手足を伸ばしてのびのびというわけにはいきませんが、
それでも船の上でこの空間はとんでもない贅沢。

あまり奥まで見るのは憚られたので確認しなかったのですが、
身体は右側の簀子の上で洗うんでしょうか。

艦長室は自由にものを置くことができるので、そこには
おのずと艦長のご趣味とか人柄みたいなものが透けて見えます。

この部屋のポイントは、艦長さんがこれまで交流した
国内外のネイビーとの間で交換されたチャレンジコイン。

チャレンジコイン、わたしもこれまで交流した日米海軍関係者から
それなりにいただいてコレクションしていますが、さすが
艦長ともなると所蔵の数は比較になりません。

チャレンジコインは各々の部隊章やモットーなどが刻印されており、
ごく親しい友人や部隊を訪問したVIP等に手渡されます。

わたしがもらう場合は後者の条件に当てはまりますが、
コインの正式な渡し方、

「握手をする右手に隠し持ち、握手をした瞬間相手の掌中に渡す」

というサプライズ演出で渡されたことは、残念ですが
今まで一度もありません。

実際に目の前でこれを見たのは、練習艦隊の艦上レセプションで
当時の練習艦隊司令官だった真鍋海将が下艦の際挨拶した
unknownさんに握手のついでに渡したときです。

片方に全くその予想がないと、このサプライズはしばしば
失敗し、コインが転がり落ちることもこのとき知りました(笑)

チャレンジコインの大きさは大体直径4センチくらいですが、
手渡しの時手からはみ出るような大きさのものもあります。
(この写真では前の方に並べられていますね)

なぜ「チャレンジ」と呼ぶかというと、兵士たちがチャレンジと称して
バーなどで仲間同士でコインを持っているかチェックしあい、
持っていないと罰としてその場にいる全員に酒をおごる風習からです。

河野防衛大臣は就任してすぐ在沖アメリカ軍のクラーディ4軍調整官と面会し、
そのときにチャレンジコインを渡されています。

艦橋から降りてくると、幹部の写真コーナーが。
なるほど、先ほどの寝室の主がこの方ね、と思い写真を撮って
その後甲板に出ると、そこには・・・・

ご本人がおられました。

一緒にいた知り合いと一緒にしばしお話しさせていただいたのですが、
興味深かったのは、艦長が、今回観艦式が中止になったことを
とても残念がっておられたことです。

「艦長として観艦式に出る機会は、自衛官にとっても
一生に一度あるかないかなんですよ」

海軍では海軍兵学校1号(最高学年)とともに艦長は
「夢の配置」と言われたそうですが、海上自衛隊でも
楽しいこれらの配置、(防大4年が楽しいかどうかは知りませんが)
艦長職の任期はせいぜい1年間です。

その間に三年に一度の観艦式が巡ってきて、しかも、
自分の乗っている艦が観艦式の参加部隊に選ばれる、という
大変低い確率を経て初めて、艦長として観艦式に出られるのです。

わたしたちは今回のように天候で中止になったとしても、
生きてさえいれば()次の観艦式に参加することができますが、
各参加艦艇艦長にとって最初で最後かもしれない機会が
天候不順で奪われるということは、わたしたちが想像するよりずっと
残念なことであろうと思うと、あらためて同情せざるを得ません。

ただ、朗報は、外国艦艇も参加しての事前訓練だけは
無事に行われ、海上自衛隊に経験値がまた蓄積されたことでしょう。

さて、船越で公開されている艦艇の見学が全て終わりました。
出口に向かう途中で「ちよだ」の前を通りかかると、
先ほどは閉ざされていた扉が開けられて、中から
DSRV(しんかい救難艇)が頭を見せていました。

開発群の建物の前には、初代システム艦である
「たちかぜ」の錨が展示されています。

「たちかぜ」は2007年に退役し、標的艦となって八丈島海域に沈みました。

反対側には海上自衛隊初の試験艦「くりはま」の錨。
現行試験艦「あすか」の前級となります。

多用途支援艦「えんしゅう」を見ながら船越の岸壁を後にする頃には
雨はなんとか止んでいました。

この後わたしは逸見岸壁の見学に向かいました。

 

続く。

 

 

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