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映画「日本破れず」〜”一死以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル”

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映画「日本破れず」最終回です。

冒頭画像は、天皇陛下の御聖断を受けて御前会議で早川雪洲演じる
阿南惟幾が涙を流すシーン。
映画では「川浪惟幾」となっているのですが、この映画の謎なところは
関係者を全てわかりやすい仮名にしていることです。
今と違って検索回避などという理由もないのに、なぜこんな配慮をしたのか。

予想されうる理由は、初めて終戦と終戦に向けての長い一日が描かれた
この映画が制作されたのはまだ戦後10年で、関係者が存命だったこと、
そして映画のストーリー上創作があったことなどですが、
例えば誰でもこれが阿南であると理解して観ている映画で、仮名を使うのに
なんの意味があるのかという気もします。

近衛兵を動かして本格的に反乱を起こそうとしたものの、
森師団長に拒否され、これを殺害した反乱将校たちは、
天皇陛下の終戦の御詔勅が録音されたということを聞き及び、
もう寸時の猶予もならぬと行動を起こしました。

彼らがなまじ?小中隊を動かせるクラスの軍人だったことが、
事件を拡大させたということもできるでしょう。

ちなみに、森師団長は映画ではきっぱりと拒否していましたが、
流石に実際は殺気立った若い将校たちを目の前にしては身の危険を感じ、

「明治神宮を参拝した上で再度決断する」

と約束したそうです。
ところが、畑中少佐と上原大尉はおそらくそれを口実と判断し、
無言で師団長を殺害したというのが事実です。

そして史実と大きく違うのが、彼らが玉音盤を奪取する為にNHKに乱入、
局員に拷問まがいの尋問をしたというこのシーンです。

陸軍部隊が職員をホールに集め、玉音盤の在り処を聞くという設定ですが、
実際にはこれは終戦後8月24日に起こった

「川口放送所占拠事件」

をよりドラマチックに創作として挿入したものだと思われます。

ただ、実際にも近衛歩兵が第一連隊の中隊が放送会館に派遣されています。

彼らは近衛師団長が決起し、陸軍大臣もこれを認めたことにして
近衛歩兵第二連隊を動かそうとしていました。

劇中では滝川となっている徳川義寛侍従。
録音が無事に終わり、日本放送協会の幹部と明日の放送が無事に行われることを
互いに祈念し合うのですが・・・。

徳川が皇居から送り出したNHK国内局長の矢部謙次郎らは
上原大尉(実際は近衛歩兵連隊長)によって拘束されてしまいました。

彼ら(実際は数名)が近衛司令部に監禁されていたのは史実です。

畑中は矢部に録音盤のありかを聞きますが、矢部はすでに手元にない、
宮内省に渡した、と答えます。

「誰に渡したか名前は知りません」

と答えた矢部は、宮内省の職員を集めたところに連れて行かれます。
つまり名前を知らないなら顔を見ればわかるだろう、というわけです。

前列の徳川と矢部の間に視線が交わされました。

立ち止まってじっと一人を眺めていれば、すぐ気づかれるよ?

目を上げて矢部の顔を凝視する徳川。

目だけで合図を送る矢部。
だからそんな顔していたらバレるってば。

「ここにはおりません。多分録音後交代したのでしょう」

詰め寄る椎崎に毅然と拒否の態度をとり、突き飛ばされる徳川。

実際にも徳川侍従は第一大隊の軍曹に殴られていますが、後日この軍曹は

「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、
このままでは侍従が殺されてしまうと思った。
それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」

と親族に語っており、直接の殺意や害意は無かったと説明しました。

さて、こちらは阿南惟幾邸。
映し出されているのはどうも小松宮彰仁親王の書だと思われます。
上衣、正帽、軍刀を綺麗に揃え、遺書を認める阿南のもとに、
義弟の竹下中佐が訪問してきました。

映画では竹下は決起を早々に断念したように描かれていますが、実際は
畑中に言われて阿南の決心を翻すように説得しにいったところ、
阿南はちょうど自刃しようとしており、結果として彼は
これを止めずに見守ることになった、ということのようです。

阿南の自決については、これを見ていた竹下が「大本営機密日誌」として
これを書き残し、文芸春秋社の半藤に閲覧を許したところ、半藤が
それをもとに「日本のいちばん長い日」を書き上げたので、
同作品に書かれていることが最も真実に近いところにあるのは確かですが、
この映画製作時にはまだ同著は影も形もありません。

 

この頃(1954年)にも確かとされていた事柄は、

●阿南割腹の現場に義弟の竹下がおり、井田正孝も来たが帰らされた
(井田は自分も自決すると言ったところ往復ビンタされたという話も)

●一緒に直前酒を飲んだとされる

●飲みすぎを心配する竹下に「血の巡りがよくなった方が上手く死ねる」と言った

●竹下が介錯を申し出るが断る

●遺書「一死以って大罪を謝し奉る」

●割腹後阿南は長時間苦しんで絶命した

これくらいでしょうか。

竹下は次の間に下がらされており、こんなに近くにはいなかったと思います。
また、映画では竹下は苦しむ阿南に手を合わせていますが、ここは
やっぱり敬礼ではなかったでしょうか。

また、この最後のとき、阿南は

「米内(光政、海軍大臣)を斬れ」

という言葉を残したとされ、今日までいろんな解釈を生んでいるようです。

さて、もう一人の本作の主人公のようになっているのが藤田進演じる
田中静壱大将で、この人は実質的に終戦の反乱を止めた男、とされています。

森師団長が畑中らによって殺害され、宮中が占拠されていることを知った田中、
自らが立ってこの混乱を収拾する決意をしました。

そして陸軍大臣阿南自決の知らせが。
この映画での田中にはそぐわないとされたのか、採用されませんでしたが、
実際田中は自殺が割腹であったことを聞いたとき、

「腹を斬るのは痛そうだな」

と呟いたとされます。
田中は川口放送所占拠事件を鎮圧した後、拳銃で命を絶ちました。

録音盤の在り処を吐かせようと焦る上原大尉は、徳川侍従に

「たとえ知っていてもあなたたちに話すつもりはない」

と言われて、ついカッとなり、

徳川侍従を射殺してしまいました。
このシーンを観たとき、わたしは本作に実名を使っていないわけがわかりました。
実際の徳川侍従は生きて戦後事件の顛末を書き残しています。

こちらもしつこく尋問を続ける畑中少佐ら。

そこに怒りの田中大将が乗り込んできました。
入ってくるなり、

「貴様らに話がある!みんなを集めろ!」

とお怒りです。

「陸軍の特色は天皇統率の下に厳正なる軍紀を維持することにある。
陛下のご意思に背き師団長を射殺、軍の統制を乱すことは、
国軍の最後に最大の汚点を残すことになるぞ!」

そして。

「陸軍大臣は先ほど自決されたぞ」

呆然とする将校たち。

実際にこの時の田中の働きは凄まじく、報を受けるや否や、
近衛歩兵第2連隊司令部に

「師団命令は偽物なので従うな」

と伝達、すぐさま反乱将校は駆逐されていますし、
その後数名の護衛のみで近衛第1師団司令部へ乗り込み、今度は直接

「その命令は偽物なので出動中止」

を伝えて、電話でチャチャっとNHKの占領も解除したため、首謀者は
完全に行き場を失い、クーデターはほぼ未然に解決を見たのです。

この功績のため、8月15日の午前中に天皇陛下から拝謁を賜った田中は、
然し乍ら24日、つまり川口放送所占拠事件を収束させた後、自決しました。

決起を抑えきることができず、その結果帝都が陥った混乱の
責任を取ったのだろうといわれています。

辞世の句は、

聖恩の忝(かたじ)けなさに吾は行くなり

この映画の田中と将校たちの会話は次のようなものです。

「わしも軍人としてどこまでも戦い続けたい。
しかし、陛下が大和民族の存続を熟慮されてのご聖断となったのだ。
我々軍人の至らなさ、陛下と国民に対して誠に申し訳ない次第だと思っておる。
ことに命令一下死んでくれた部下やその家族に対して、
我々が腹を切ったくらいではお詫びにならんのだ。

な。わかってくれ。お前たちの命をわしにくれ。
お前たちばかりを死なせはしない」

「閣下!」

「お前たちは往生際が悪い。
負けたとなると潔く責任を取るのだ。
それが真の日本の武士道だ
お前たちは今後の行動を誤ってはならんぞ。いいか」

言葉の終わらぬうちに一人が走り出たと思うと、拳銃の音が・・・。
いや、だから行動を誤ってはならんと何度言ったら(略)

実際の椎崎と畑中は、田中の説得にも関わらず最後まで諦めきれなかったのか、
球場周辺でビラを撒いたそうですが、結局、二重橋と坂下門の間の芝生
(それってもしかして皇居宮殿前ってことなんでは)で自決しました。

わたしの知り合いの、当時陸軍士官学校を卒業したばかりの人は、
8月15日の午前中、つまりご詔勅のまだ降らない頃から、皇居前で
二人どころか、驚くほどたくさんの軍人が自決しているのを見た、
と証言しています。

映画ではまだ夜明け前のようですが、実際は玉音放送の始まる
1時間前の11時が二人の自決の時間だったといわれており、
知人の見た自殺する人たちの中に彼らもいたかもしれません。

そして玉音放送が始まりました。

この頃は玉音放送をそのまま使うことは憚られたのか、
テープの使用許可がまだなかったのか、放送は役者にご詔勅を読ませています。
なので、「忍び難きを・・・・忍び」というあの「間」がありません。

そのことに違和感を感じることで、我々日本人はあの玉音の音声を
何度も何度も耳にしてきたのだということを改めて思いました。

それにしてもエキストラが集まらなかったのか、人が少ない。

日本中の人々が、いろんな場所でこれを聞きました。

映画では、陸軍病院の負傷兵たちが立ってこれを聞く様子や、
靖国神社の石畳に、正殿に向かって座る「愛国婦人会」の女性たち、
南方の戦地で整列した航空部隊の兵士たちの姿も描かれます。

他の映画と違うのは、玉音放送が最初から最後まで全て朗読されることでしょう。
そして、その音声にかぶせて、焼け跡のトタン屋根のあばら屋で
新しい命が生まれ出たことが語られます。

そして10年。
この映画製作時、終戦に生まれた子供達は10歳です。

「彼らこそ日本再建の担い手だ」

映画は戦後生まれの子供たちに未来を託すかのようなエンディングを迎えます。

が、しかし、この後の占領期間を経て、このころの子供たち、すなわち
団塊の世代が受けてきた戦後教育によって、また近年再び、多くの日本人が
国家観を見失ってしまっているという苦い現実を認識している目には、
このシーンはある意味皮肉なものとして映ります。

ともあれ、あの大東亜戦争が終わるに至る長い長いあの一日に、
様々な人々が己の信じるところに向かって行動しました。
しかし、いかなる考えで行動を挙したにしても、各自の思うところは
日本の国体を将来に残すためという一点に変わりはなかったのだろうと思います。

本作は宮城事件といっても反乱将校を非常に限定して描いているため、
「日本のいちばん長い日」のようなエクストリーム展開はありませんが、
阿南惟幾、田中静壱の二人に焦点を当てることで、決起した反乱将校の
心情にも寄り添う努力がなされていると思われました。

 

一言で言って、阿部豊の阿南と田中に対する愛が溢れている作品。
この二人の軍人を演じた早川雪洲と藤田進の演技を見るための映画です。

 

 

終わり。

 

 

 


モノンガヒラ川に飲み込まれたB-25ミッチェル〜ハンガー7@ザルツブルグ

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今回のオーストリア旅行は、飛行機代を安くするため、あえて
世界一周プランを選択し、たまたまウィーンに直行便があったので行った、
という経緯だったため、特にわたしなど、旅行前に

「何か見たいモノある?」「行きたいところある?」

と幾度となく旅行主催者に聞かれていたのにも関わらず、忙しいのにかまけて
真面目に観光について調査しなかったのですが、ウィーンの軍事博物館と、
ザルツブルグの航空博物館、ハンガー7だけはぜひ行きたい、と希望しました。

ザルツブルグには二泊三日しかいられないので、ガイド付きツァーの翌日、
わたしが運転してザルツブルグ飛行場の近くまで車を走らせました。

32分くらいでハンガー7(ジーブン)に到着しました。
ザルツブルグが旧市街のような古い建物ばかりだと思ったら大間違いです。
いわゆる保護地区は建物の改築も撤去も許されませんが、それ以外は
普通に近代風の建物が立ち並んでいる街です。

ハンガー7は何もない場所を開発したらしく、街灯すらオブジェのようです。

 

ハンガー7は、オーストリアの飲料会社、レッドブルのオーナー、
ディートリッヒ・マテシッツが個人的にコレクションした歴史的航空機、
そしてフォーミュラ1のレーシングカーなどを一堂に集めた博物館です。

F1関係者でいちばんの資産家というマテシッツの慈善的な事業の一つで、
ハンガー7は無料でコレクションを展示しているだけでなく、
イベントの企画、有名なシェフを招聘したレストランによる食の提供、
画期的な建築などによって総合的な文化の中心となっているのです。

そう行った予備知識なしでとにかくたどり着いたハンガー7。

とりあえずまずは何か食べようということになりました。
入り口で尋ねると、中の展示を見ながら食べられるカフェと、
オープンエアでがっつり食べられるレストランがあるとのこと。

このオブジェとスタイリッシュな倉庫の向こうがレストランです。

そこまで本格的に食べなくても良かったので、カフェに入ることにしました。
片面がガラスで展示ハンガーと仕切られています。

窓ガラスには航空機のシルエットのシールが貼ってあります。
こ、この形は・・もしかしてペロハチ?

後から知ったのですが、P-38もハンガー7のコレクションの一つだそうです。

ふと天井に目をやると、宇宙ドームのようなガラス張りの部屋があり、
人の姿が見えるではありませんか。

ここはThreesixty Barといい、鳥瞰を楽しみながらお酒が飲めるスペース。
バーというからには夜間営業もしております。

眺めを確保するために床まで透明にしてしまっているわけですが、
日本だと、下からの視線が気になったり、気にすることに気を遣ったり、
軽犯罪の発生を危惧したり、とにかくいろんなつまらない理由で
企画段階でポシャりそうなコンセプトだと思いました。

何しろ予備知識がないわたしたち、普通のカフェに入ったつもりでお茶を注文したら、
これだけのものがトレイにセットされてきたのを見て驚愕しました。

「ザルツブルグで南部鉄瓶に遭遇するとは・・・・・」

セットされてきた砂時計は、3分、4分、5分と計れるようになっており、
一人に二つカップがついてきて、違う濃さで入れたお茶を別々に楽しめる仕組み。

当たり前のように小さなマフィンも付いてきて、これはオーストリア人好みに
甘く仕上げてありましたが、テイストは「お茶」。

チキンラップを注文したら、野菜たっぷりのラップが二本、味付けのレモン、
カリカリすぎるベーコンと共に出てきました。

カフェでこの頑張りよう、もしかしたらレストランも?と思い後から調べてみると、

ハンガー7レストランのシェフとお料理の数々

オーストリアを代表する大企業のCEOが、マーケティング、つまり
仕掛け人出身であり、趣味人であったことが、この贅沢な
コレクション自慢ついでに文化の発信もしてしまおう的なハンガー7を
生み出したのだといえましょう。

ついでに、世界的な大富豪であるマテシッツ氏は、

 DeepFlight Super Falcon

なる個人用潜水艦を所有しているそうです。
フィジーの彼の島に遊びに来た人はこれに乗せてもらえるんだそうです。
つくづく乗り物が好きな人なんですね。

「Dietrich Mateschitz」の画像検索結果

ちなみにちょっと気になった人のために、マテシッツ氏の近影を。
おお、75歳でこれだと、若い時はさぞかしイケイケだったんでしょうな。
隣のお姉ちゃんはガールフレンドで妻ではありません。
彼は一度も結婚したことがありませんが、子供はいるそうです。

食事もそこそこに、まだ食べている二人を置いてハンガーに出たわたしですが、

「・・・・暑い ; ̄ー ̄A 」

壁面が総ガラス張りのドームは、夏の昼間、太陽の熱でとんでもなく熱くなる、
そんなことは誰でも分かっているわけですが、不思議なことに、
ハンガー内の展示場には全く空調はされていないようで、とにかく暑い。

これだけ色々と先端を行っている施設なのに、しまり屋さんなのか、
あまり客が多くない日は冷房も入れないという主義のようです。

この水上機はセスナの「キャラバン」。

アメリカから大西洋を越えてヨーロッパにシングルエンジンで飛行しています。
わたしたちが帰りに立ち寄った美しいヴォルフガング湖では、一年に一度
この「キャラバン」がイベントで姿を現し、湖面に舞い降りるのだとか。

なぜかクライスラーのイエローキャブが。

トヨタ・カムリレーシング仕様。
そういえば、私事ですが、最初にアメリカに住んだときの車が中古のカムリ。

CAMRY→MYCAR→MY CAR

という宣伝をちょうどやっていたときでした。
西海岸に引っ越したとき、車専用の引越し業者に頼んで大陸横断して
持ってきてもらい、二束三文で売っ払って帰ってきました。

F-1に詳しくないので専門的になんというのかは知りませんが、
とにかくレースカーを誘導するための車であることは確かです。

本体はアストンマーチン、タイヤはピレリのようです。
AT&TはアメリカのNTTみたいな感じの会社ですかね。

さて、ここからは航空機が続きます。

見たことがあるようなないような、このトラ塗装の飛行機は何?
と思ったら、これは

アルファー・ジェット

ダッソー、ブレゲ、ドルニエ三社の共同開発による軍用機で、
ポルトガル、エジプト、モロッコ空軍および他の5つのアフリカ諸国では
現在でも運用されているそうです。

卓越した飛行特性と操縦性の良さでパイロットから評価の高い飛行機で、
その機体は美しく、空力的にも完璧と絶賛されているんだとか。

マテシッツ氏がよっぽどお気に入りだったのか、ドイツ空軍が運用中止し、
資産を売却したとき、ハンガー7はこれを結局5機購入し所有しています。

もちろん所有の際には非武装化し、航空ショーに出演しています。

ハンガー7の凄いところは、ただ歴史的な航空機を集めて展示するのではなく、
メンテナンスを行って実際に飛行させているということです。

B-25J「ミッチェル」

わたしが今までにアメリカで見た機体はどれも非活性化され、
ただ機体を展示されているだけでしたが、ここのは違います。
このピカピカの機体を見てもお分かりのように、「ミッチェル」は
今でも、ザルツブルグのハンガー7から飛び立つことができるのです。

マテシッツ氏が乗り物オタだったことは、世界の旧軍機ファンにとっても
大変な恩恵であったということに間違いはないでしょう。


ところで、ハンガー7のHPに記されている「B-25の物語」面白かったので、
これを二つ紹介しておきます。

というか、その一つ目は映画「パールハーバー」でも描かれていた話ですが。

1942年4月18日、ドゥーリトル空襲が行われることになりました。
指揮官のジェームズ・H・ドゥーリトルの名前を冠した日本本土攻撃作戦です。

作戦は、16機のB-25ミッチェルが空母「ホーネット」から出撃して
海を渡り日本へと向かうことになっていました。
しかし、B-25の重量は15トン。
空母は爆撃機が発艦するように作られていません。
そこで重量を減らすために、ドゥーリトルは「ミッチェルから服を剥ぎ取り」、
いや、不要な部品と大きなタンクを取り除いたのです。

機関銃は敵を欺くために塗装された黒いほうきに置き換えられました。
結局、これらのB-25は空母から発艦した最初の爆撃機となりました。

滑走路の長さはたった250メートルです。

 

そして二つ目ですが、ちょっとこれを読んでびっくりしてしまいました。
今これを制作しているのはペンシルバニア州ピッツバーグ。

前にもお話ししたことがあるかと思いますが、ピッツバーグは元鉄鋼の街で、
街の中心を流れる川にいかつい鉄橋がいくつもかかっており、それが
ピッツバーグの象徴と言われています。

川の名前は、おそらくネイティブアメリカンの命名によるものだと思いますが、
「モノンガヒラ川」といいます。
ハンガー7のHPにこの「MONONGAHERA」の文字見たとき、偶然に驚愕しました。
さっきこの川に掛かる橋を渡って帰ってきたばかりなので(笑)

そして、ザルツブルグからピッツバーグに移動したこの夏、
このタイミングでしか知りようのなかった、以下のストーリーがあったことを
不思議な思いで噛みしめることになったのです。

 

20万ドルの価値のあるミッチェルが、わずか10ドルで人手に渡りそうになるも
新しい持ち主はその受け取りを結果的に”拒否された”という話があります。

1965年1月31日、一機のB-25が、燃料不足によるエンジン故障の後、
ペンシルベニア州ピッツバーグのホームステッド・グレイズ橋すれすれに、
モノンガヒラ川の氷の上にに緊急着陸することを余儀なくされました。

劇的な救助任務のすえ、4人の乗組員は無事救助されましたが、
機体は2キロ下流に流されていって、17分後に沈んでしまい、
大々的な捜索活動にも関わらず、機体は見つかりませんでした。

事故から9か月後の11月9日、B-25の所有権が競売にかけられました。
現在なら機体が逸失したままとはいえ、おそらく何百万ドルの価値があるでしょう。

しかし、ピッツバーグ水上飛行機パイロットのジョン・エヴァンスが落札した
ミッチェルの入札額は、数ドル。
つまり彼しか手を挙げた人間がいなかったということになります。

数ドルの投資でもし機体が見つかれば、ハイリターン間違いなし、というわけで、
彼は行方不明のミッチェルを見つけるため惜しみなく費用をつぎ込みました。

彼の雇ったダイバーはモノンガヒラの隅々までくまなく調べ、
B25のものとみられる多くの破片を見つけましたが、不思議なことに
15トンもの機体は結局最後まで見つからなかったのです。

それは、”as if it never existed”.
あたかも最初から存在しなかったもののように。

一つのありうべき可能性としては、「モン・リバー」(地元の人はこういう)
と街のアンダーグラウンドに別の川が流れており、そこに飲み込まれたという説です。

多くの”ピッツバーガー”は、今日でも、行方不明のB-25が
この神秘的な川に飲み込まれ、そこで最後の休息場所を見つけたと信じています。

 

この話を、ピッツバーグに在住して20年になるという夫妻に話したところ、
二人とも聴いたことがない、と驚いていました。

もはやそのセンセーショナルな事件を知るのは、当時ここに住んでいて
不思議な話に首を傾げた人たちだけになってしまったのでしょう。


続く。

 

ノーメン・エスト・オーメン(コブラは体を表す)〜ハンガー7@ザルツブルグ

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ザルツブルグ空港近くにある、レッドブルオーナーの航空機、レースカー、
バイクなどを展示するハンガー7で見たものをご紹介しています。

水上機仕様のセスナの上部を見ていただくと、面白いイラストがあります。
ここはアートの発表の場としても注目されているのです。


 ビーチT3「メンター」

その名前とトレーニングのTからも、練習機であることがわかります。

レッドブルの「フリート」(航空隊)、「フライング・ブルズ」に加わった
最新の航空機が、この「メンター」です。
航空自衛隊の戦技研究班「ブルー・インパルス」の使用機体が、
T-4という練習機であることからもわかるように、一般的に練習機は
大変操縦性が良く、特にこのメンターは練習機のヒット作品で
二十カ国以上の国の空軍で使用されてきたというレジェンドですから、
フライング・ブルズでもパイロットたちはメンターを使って曲技を行います。

アメリカ空軍がメンターの運用を停止し、フライング・ブルズが取得したとき、
ここで要求される高い操作性を満たすため、エンジンとプロペラを交換し、
さらに細心の注意を払って修復が行われています。

練習機だった時代にはおそらくなかったであろうセクシーなノーズペイント。
アメリカ各地の航空博物館であらゆるノーズペイントを見てきたわたしに言わせると、
このレベルのペイントは現場ではありえないので、おそらく、レッドブルが獲得してから
ザルツブルグのアーティストによってアメリカ風に描かれたものだと思われます。

どの機体もペイントは基本元の所属に敬意を払い、変更は行なっていません。

HPに解説がなかったので検索してみると、時計会社のハミルトンと
レッドブルの航空機がカンヌのエアレースに出場し、

「次は日本の千葉県で会いましょう!」

と投稿しているインスタが見つかりました。
さらに調べてみると、2003年に始まり、以後毎年行われてきた

「レッドブルエアレース」

は、その他のレッドブルの催しほど注目を集めることができなかった、
という理由で、千葉大会を最後にもう行われないことがわかりました。

ちなみに、開催日は9月7、8日。
会場は幕張で、砂浜での立ち見席なら8,000円、リクライニングチェア付きなら
二日通しで三万円というお値段でチケットが絶賛発売中でございます。

フェアチャイルドPT-19

米陸軍航空隊の主要練習機として開発されました。
1939年の提案入札で17社の競合他社に勝ったフェアチャイルドの練習機は
当時主に木材と布地から構成されていました。

木製の翼が鋼管のフレームで構築された胴体に取り付けられており、
着陸が容易になる工夫がなされていて、訓練パイロットにとって
キャリアの習得がし易く、操縦者から高い評価を受けています。

PT-19は、1943年にデビューし、6.141ドルで米軍に売却されました。
1952年、軍から買い取った個人がスポーツ用に所有していましたが、
その後イギリスに渡り、 2007年、フライングブルズが買い取りました。

この写真を撮ったとき、誰かがコクピットに座っていましたが、この人が
関係者なのか、特別に座らせてもらった見学客なのかはわかりません。

とにかくこれを見てもお分かりのように、キャノピーがないため、
現在でもPT-19は「コンバーチブル」として空を飛んでいます。

こんな古い飛行機でも飛ばしてしまうあたりがものすごい執念ですが、
この時代の航空機のスペアパーツは現存していないので、
保存し続けるのには並大抵でない苦労があります。

AS 350 B3 + "ÉCUREUIL"(エキュルイユ)

エキュルイユというのは英語でスクウィレル、リスのことです。
余談ですが、今ピッツバーグで住んでいる街はスクウィレル・ヒルといって、
日本語風にいうと「リスヶ丘」ということになろうかと思います。
街の入り口の看板にはリスの絵が描いてあって大変和みます。

それはともかく、これはエアバスヘリコプターという種類のもので、
期待に描かれた等高線のような模様はハンガー7を取り巻く
オーストリアのシュタイネスメーア山脈に似ているのだそうです。

レッドブルは自分たちのテレビ局を所有していますが、このヘリは
そのカメラクルーが撮影飛行を行うのにこれまで使われてきました。

ユーロコプターEC-135

このヘリのフライングブルでの役目はレースの中継カメラを載せることです。
カメラはヘリコプターの機首にあり、低空で、カーチェイスを撮影します。
2006年のワールドカップで、王者フランツ・ベッケンバウアーが1つのステージから
別のステージへ移動する姿を捉えたのはこのユーロコプターでした。

 

ユーロコプターEC135は、最先端の多目的機です。
2つの異なるエンジンを搭載しており、そのうち1つは、カナダの製造業者である
プラット&ホイットニーが製造したターボエンジンです。

EC135のようなテールローターをシュラウド式と言いますが、この
シュラウドの1つの利点は、事故のリスクが低いことです。

最先端の航空電子機器も最先端のものを搭載し、さらに、すべてのフライト、
エンジン、ナビゲーション、およびラジオの情報が最新の多目的画面に表示されます。

ユーロコプターの1,000以上のモデルがEADS(欧州防衛宇宙会社)を始め。
58か国に出荷されました。

ADAC Air Rescue、ドイツ国境警察、ドイツ軍、
オーストリアのÖAMTCAir Rescue、フランスのSAMU Air Rescue、
および米国の多くの企業で使用されています。

常に改良され、新しい分野で新しい目的に使用される最先端のヘリだといえましょう。

ブリストル BRISTOL 171 SYCAMORE(シカモア)

シカモアの名前は、かえでの一種に由来しています。
なぜでしょうか?
このヘリコプターがゆっくりと回転しながら舞い降りる様子が
落ちるセイヨウカジカエデの種子の動きに似ていたからです。

第二次世界大戦の終わりごろ、イギリスのブリストル社は
革新的なタイプのヘリコプターの開発を始めました。

Mk 1プロトタイプは1947年に初飛行で離陸しました。
これはイギリスにとって最初のヘリコプターとなりました。

メインローターは、ブレードを片側、つまりリアブームに向かって
折りたたむことができるように設計されていますが、これは、
海軍艦艇に搭載するにおいて貴重なスペースを節約するための工夫です。

この機体は1957年に建造され、1969年までドイツ空軍が運用していました。

しかし、フライング・ブルズの前のオーナーとなったワイン畑の所有者が
かつてロイヤルエアフォースのパイロットだったことで、機体には
いまだに敬意を評してRAFのエンブレムが描かれています。

ワイン畑のオーナーの切なる願いは、シカモアがその滞空性を維持することでした。
彼は、フライングブルズにシカモアを移譲する際、自分が集めた
膨大なシカモアのスペアパーツを、機体と一緒に渡したと言います。

ブルの専属パイロット、ブラッキー・ブラックは、この尊敬すべき機体に
我が身が乗ることに有頂天になっていましたが、それにしても
木製のローターを持つヘリの信頼性というのはどんなものだったのでしょうか。

グラーツ工大で行われた興味深い飛行試験の結果は驚くべきものでした。
残されている部分全てが「新品同様!」だったのです。

パイロットはこのヘリに乗る気満々だそうですが、何かと難しいヘリなので、
今の所、計画があるという時点に止まっているのだそうです。

ベル コブラ BELL COBRA TAH-1F

日本人のわたしには馴染み深いヘリです。

サクッと分けると、ヘリコプターには商用モデルと軍用がありますが、
AH-1コブラは史上初の

Full Bladed (生粋の・血気盛んな)

戦闘ヘリコプターとして設計されました。
「コブラ」という愛称は、その攻撃的な外観にぴったりです。
この名前はパイロットやエンジニアの間で人気で、すぐに公式名称になりました。

ラテン語の「Nomen est Omen」=「名前は象徴」は、
まさにコブラのためにあるようなことわざですね。

コブラのタンデムコクピットもまた、完全に前例のない機能です。
パイロットと銃撃手が互いの仕事を引き継ぐことができるように、
パイロットの座席はわずかに高くなっています。

現在、後発のヘリの多くは、コブラの特徴であるエッジの効いた
薄いデザインの影響を受けています。

しかしデビュー当初、誰もコブラがどれほど成功するかを予測できませんでした。

1962年、ベル社は米軍にモックアップモデルを導入しましたが、
当初それは関係者を納得させることはできませんでした。

しかしベル社は自作のヘリを完成させるべく粛々と開発を続け、
3年後の1965年、初飛行の準備にこぎつけたのです。

しかし、コブラの成功はその技術的な卓越性のみならず、偶然にも、
ロッキードによって開始されたAH-56(シャイアン)と競合することになり、
その結果シャイアンの問題点が明らかになることでこれに打ち勝ち、
採用されるという「運」にも恵まれていたようです。

コブラの評価は、ベトナム戦争でトラックの空中護衛として使用された
1960年代後半と70年代前半にピークに達しました。

かさばるだけでなく火力が弱かった、ロシアのMi-28NおよびKa-52とは
対照的に、コブラはより高速で機敏です。

フライングブルズ所有のコブラはもちろん非武装化されており、
GEのタービンエンジンにより通常300km / h、最高350km / h以上の速度がでます。

ただし、Power is moneyという英語のことわざ通りで、コブラのエンジンは
1時間あたり400リットルの燃料を飲み込む「金食い虫」。

本物の女王様は決して慎ましくなどあらせられないのです。

このレーシングカー、なんだか変わった模様だなあと思ったら・・・。

写真がいっぱい貼り付けてありました。

サイドカー付きのバイクというとついナチスを思い出しますが、これは違う?

セバスチャン・ベッテルがこれでグランプリに優勝したというアストンマーチン。
さりげにホンダのマークも見えますね。

巨大なプレデターをかたどったオブジェ。
向こうに見えているのはイカロスというレストランです。

いろんなメカのパーツで作った「レッドブル」。
売店もあって、子供用のレーシングスーツやパーカーが売っていました。

ドーム内があまりに暑く、わたしも写真を撮るのが精一杯、
TOなどはカフェから売店に行っただけで全く見学せず、
ハンガー7を後にしました。

ところが、車に乗って柵越しにわたしは信じられないものを見たのです。

「これ・・コルセアじゃない!」

二人はぼーっとしていましたが、わたしは大興奮。
なんと、ハンガー7ではコルセアを所有し、今でもこれを飛行させているのです。

CHANCE VOUGHT F4U-4 "CORSAIR"

なんどもここで書いていますが、コルセアはチャンス・ヴォート社の傑作です。
コレクターアイテムとしては非常に珍しく、当然高価です。

しかも、この機体の完全性を再現するには、メカニックの精度が重要で、
材料には惜しげも無く投資するしかありません。

優れた軍用機の歴史はコルセア無くしては語れません。
現在、チャンス・ヴォート社によって製造された4機だけが
ヨーロッパの空を舞い、世界中合わせて15機現存しています。

コルセアは最小限の空気抵抗で最高速度に達するように開発されました。
すべてのスタッドは面一に取り付けられ、トランジションは空力的に完璧であり、
すべての脚とハンドルはボディのアルミニウムスキンに溶け込みます。


プロトタイプは1938年に開発されました。
このモデルはPratt&Whitneyの18気筒ダブルラジアルエンジンから
約2000 HPを供給することを目的としていました。

プロペラの直径を4mと大きくしたため、翼をガルウィングにして、
比較的短い軽量の脚を取り付けることができる設計です。

最初のモデルは670 km / hに達することができましたが、
1952年までに最高速度は700 km / hに達しました。
コルセアの信じられないほどのパフォーマンスは、プロペラと
エンジンの内部冷却を担当する水噴射装置の改善から生まれました。

コルセアは、空母の限られたスペース用に設計されました。

しかし高トルクとプロペラの大きさから、空母への着陸と離陸は非常に困難で、
パイロットはコルセアの離陸速度を慎重に決定する必要がありました。
速度が速すぎると、プロペラに機体が振り回され、遅いと離陸できません。

米海兵隊と米海軍は、主に第二次世界対戦中太平洋でF4Uを使用しましたが、
爆撃のためにはコンパートメントを新たに追加しました。

爆弾を投下した後も、戦闘機そのものが重かったわけですが、
特に速度があったため、コルセアを負かすことは大変困難と言われました。

これが、コルセアが機動性のある日本の三菱戦闘機「零式」に挑むことができた理由です。

そして50年代初頭の朝鮮戦争でもこのモデルはまだ使用されていました。

今日、シングルシートのこの歴史的傑作機は、フライングブルズのチームによって
ヨーロッパ中のさまざまな航空ショーで曲技飛行を行なっています。

 

さて、超近代的なハンガー7を後にし、ホテルのある旧市街に戻っていくと、
岩を掘られたトンネルが現れます。

このトンネル、穴を掘るついでに石門風の彫刻もしているという。
手前のオベリスクも岩から切り出したものでしょうか。

「なんかこれすごくない?」

「彫刻も岩から掘り出したんだろうか?」

これは帰りに撮ったもので、つまり旧市街に入って行くときに
通り抜ける「ジークムントスター」というトンネルです。
18世紀に建てられ、オーストリアに現存する最も古いトンネルだそうです。

昔は路面電車が中を通過していたそうですが、今もトロリーバスが通ります。

交通の便を良くするため、ザルツブルグでは崖に穴を開けて
通路を作る計画が持ち上がり、1765年工事が始まりました。

トンネルの高さは135m、幅5.5m、高さ7m。

彫刻を施したのはヴォルフガングとヨハン・アゲナウアー。
聖ジギスムント像の下部にアゲナウアーの名前が刻まれていて、
この一連の謎の暗号を解読すると、

「Johann(Baptist)Hagenauerが(石から) 作り出し 、完成した」

となるそうです。

 

このトンネルは、わたしにとって、中世の世界と、最新の設備と考えうる限りの
近代的なセンスをほこるハンガー7をつなぐタイムトンネルのようでした。

 

 

 

メンヒスベルグ・崖の上のレストラン〜ザルツブルグの街を歩く

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さて、「過去と今をつなぐトンネル」を通って、中世ヨーロッパのゾーン、
ホテルザッハに戻ってきたわけですが、夕食に出るまでに時間があったので、
思わず腰に手を当ててそこに立ち、人々の群れを睥睨しながら

「・・World is mine・・・・」

と悪の帝王風につい呟きたくなるようなホテルのテラスから外を眺めていました。

ホテルの前のザルツァハ川の岸では、旅行者らしいカップルが
川の水に脚を浸して休憩中。

今回は時間がなくて見学できませんでしたが、大聖堂の向こうには
ザルツブルグ一の歴史的遺産であるホーエンザルツブルグ城がそびえています。

これは、1077年、当時の大司教が、皇帝派の南ドイツ諸侯の

カノッサの屈辱への報復を恐れて

市の南端、メンヒスブルク山山頂に建設した防衛施設です。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世"バルバロッサ"がザルツブルグを
焼き討ちした時にも、失われることなく現在に至ります。

15世紀後半になるとハプスブルク家など反乱に備えて強化され、鐘楼、
薬草塔、鍛冶の塔、囚人の塔、武器庫、穀物貯蔵庫等が建設され、
防壁が強化されていきました。

城の右側からはどう見ても線路のようなものが下に向かって伸びており、
ホテルにチェックインしたときから気になっていたのですが、
これは

ライスツーク(独: Reißzug、英: Reisszug  Reiszug)

といい、城への貨物搬入を行うための鉄道でした。

正確な敷設年は明らかになっていませんが、少なくとも1500年前後には
もうここにあって利用されていたようで、声にもが本当ならば
これが世界最古の鉄道となると言われています。

運用形式はフニクラー、つまりケーブルカーのようなもので、
当初レールは木製、牽引は麻のロープでされていたとされます。

1910年までは、人間または動物の力によって動かしていたそうですが、
その後何度も改修され、今日では、鋼製レールとケーブルを使用し、
電気モーターによる牽引が行われています。

最新のアップデートによって、運行を監視するために
閉回路テレビ・システムが使用されているところまできていますが、
動力は手動で、片道5分かかるそうです。

さて、その後、わたしたちはホテルから歩いて、メンヒスブルグ山頂にある
レストランに行くことになりました。

レストランに行くには、やはり山頂に繋がるエレベーターを利用します。

エレベーターに乗るには料金が必要です。
無料にしてしまうと、景色を見るためだけに人が押しかけるので、
已む無い措置だと思われます。

チケットは自動でなく、恐ろしく愛想のないおじさんが
1日に何千回も同じことを言わされているせいか、無表情に
エレベーターの乗り方を説明してくれました。

エレベーターは崖の岩を山頂までくり抜いて60mの高みに達しています。
最上階?に到着すると、エレベーターホールの天井も壁も、
岩肌がそのままの状態になっていました。

メンヒスベルグ山は、昔からこれをくり抜いてトンネルを作ったり、
崖に寄り添うように家屋が建っていたりしますが、よほど地質が堅牢で
崩れることがないということなのでしょう。

この眺めは、ガイドさんによると「ザルツブルグ一番」だそうです。
もちろん、向かいにあるホーエンザルツブルグ城からの眺めもなかなかですが、
そちらからだとお城が見えませんしね。

帝王カラヤンの生まれたという家の全体像も手に取るように見えます。

「愛の南京錠」のおかげですっかり色づいて見える橋もこの通り・・・・
あれ・・・?

ザッハホテルのテラスから下に見えていた川岸のカップルが・・・。

さっき、下を見たら熱烈な愛の交歓中だったんですが、まだやっとる(笑)

ちなみに、わたしがテラスから写真を撮って、歩いてメンヒスベルグまで行き、
頂上に登って展望台にたどり着くまでに軽く1時間半は経っております。

仲良きことは美しき哉。

というわけで、この、ザルツブルグ旧市街らしからぬ建築が近代美術館です。
今日予約したレストランはここの一階にあり、テラス席から見る夜景が売り。

ザルツブルグの観光案内をしてくれたガイドさんが、

「時間がなくて立ち寄ることができない方にはお教えしません。
なぜなら、羨ましがらせるだけであまりに気の毒なので」

と言いつつオススメしてくれた絶景レストラン。
彼女はお願いすると、その場で次の日の夜に予約を取ってくれました。

昔、このメンヒスベルグ山頂には「カフェ・ウィンクラー」なる有名なカフェがあって、
実に何十年もの間、ザルツブルグの名所として人気を博していました。

しかし、ザルツブルグ郊外にあるバロック式宮殿の「クレスハイム」に
カジノが入ることになると、そちらに観光客が流れ、すっかり山上のカフェは
閑古鳥が鳴く状態になってしまったのです。

そこで再開発の計画がたち、建築のデザインをコンペで決定し、
2004年にここに近代美術博物館ができることになりました。

レストランはメインというわけではないのですが、
ザルツブルグを一望できる絶景ポイントとして人気を集めています。

恋人、友人同士はもちろんのこと・・・、

おそらく会社ぐるみで来ているらしい団体のテーブルもありました。

わたしたちの近くのテーブルは、中年のオーストリア男性と、
アジア系の若い女性のカップルでした。

女性はこちらが気まずくなるくらい男性に媚びていて、何かと言えば手を
男性の身体においては耳元で囁いたり、二人の写真を5分おきに撮ったり、
ボーイさんに二人の写真を撮らせたりと大忙しでしたが、
何かそうしなければならないよっぽど切羽詰まった事情でもあったのでしょうか(棒)

などと、周りの様子を見ながらメニューを選び、待っているうちに日が暮れてきました。

パンはサワドー、無塩バターにザルツブルグらしく塩の付け合わせです。

ミートボールの一つ混入したスープですが、やはりこれも辛めでした。
オーストリアの人は塩辛いものを辛いと認識しないのかもしれません。

鮮やかなエディブルフラワーをあしらった前菜。
これを頼んだのはTOですが、花を食べ残そうとするので、

「これは食べなくてはならない花である」

と説得して無理やり食べさせました。

「味がない」(´・ω・`)

だから、食べることができるんだってば。

TOにいわせると、魚は結構いけたそうです。
わたしは珍しくビーフのアントレを頼んでみましたが、
ちょっと、いやだいぶ硬いかなという歯ざわりで、感激するほどではありませんでした。

「これが一番美味しいような気がする」

という声が上がった、マッシュドポテトトリュフ添え。

TOが頼んだスープです。
上にかまぼこのような天ぷらのようなものが乗っていますが、
これがなんだったかは聞きそびれました。

さらに日が落ちると、屋内のバーは赤い照明が点灯されました。

オーストリアは日没が遅いので9時近くになってもこんな明るさです。
ここは、レストランを出てエレベーターに向かう途中にある場所で、
街を一望できるこの展望を楽しみに来る観光客でいっぱいです。

ただしわたしの見たこの日は全員が中国人でした。

エレベーターにはこの中世風石畳の通路を通って行きます。
帰りのエレベーターのチケットはレストランがくれました。

純粋な感覚を超えた色の輝度 眼は必然的にこれを問う あなたはなぜこれを赤と青と認識し記憶しているのかと あなたにとって赤と青の色は何を意味するか どこが赤の始まりでそして終わりであるか 青の始まりで終わりであるか そしていつそれらは混じり合い一つになるか と書かれたこれも近代美術館所蔵の作品の一つです。

夕刻のザルツブルグの街を高みから堪能した後は、
ブラブラと歩いてまた「愛の南京錠」の橋を渡りました。

この頃になってようやくこの街は太陽が沈み、夕闇が迫ってきています。

明日は最後のザルツブルグ観光をし、ウィーンに戻ります。

 

続く。

 

ザンクト・ペーター寺院のカタコンベ〜ザルツブルグを歩く

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いよいよザルツブルグ最後の日になりました。
車で来ているので、時間の制限はありませんが、MKが車なら
ウィーンからこちらに来る途中に見た湖に寄ってみたいと言い出したので、
午後には出発することにして、午前中を最後の観光に当てました。

ホテルのバルコニーから改めて写真を撮っていたのですが、見れば見るほど
メンヒスブルグの岩山を垂直に切り取って作った人口の「壁」がすごい。

ろくな重機もない昔どうやってこんな狂いなくまっすぐに崖を
切り取ることができたのか、不思議でなりません。

街に出たものの、特に目的があるわけではないので、
気になったお店にふらりと入って買い物を楽しみました。

ここではお店の人に相談して、紅茶を三種類選んでもらい・・・・、

ここでは調味料を見ましたが、収穫はなし。

外から見ていかにもセンスがいい物を置いているように見えたので、
地元のブティックにも入ってみました。
ちょっとカルチャーショックだったのは、ジーンズなども置いていながら、
オーストリアの民族衣装、ディアンドルなるドレスも扱っていたことです。

アルプスの少女ハイジが来ていたようなあれですが、オーストリアでは今でも
晴れ着としていろんな場で活用されていることがわかりました。

日本人が買って帰ってもコスプレでもしない限り着る機会もないので、
その代わり一着、普通のロングカーディガンを購入しました。

モーツァルトの像のある広場に出てきました。
後ろのピンクの建物は、モーツァルトの未亡人コンスタンツェが、
銅像ができるのを待ちながら住んでいたとガイドさんは言っていました。

結局広場から遺跡が出てきて工事が遅れ、銅像の除幕式
(ってのがあるのかどうか知りませんが)を待たずして彼女は亡くなります。

MKが学校のツァーで来た時にここで食べたジェラートが美味しかった、
というので広場のテーブルで一休み。

カフェのテーブルの下にはザルツブルグスズメがいました。
アメリカのスズメより日本のに似ていますが、頭が灰色です。

ザルツブルグにいわゆる郊外型モールがあるのかどうか走りませんが、
旧市街の本屋さんは大型書店ではありません。

ドイツ語で本屋を「ブッヒャー」と言います。

洒落た埋め込み式看板は「ホテルヴォルフ」。
小さなホテルだと思いますが、部屋もセンスが良さそう。

と思ったらやっぱり。

ホテル・ウルフ画像

この「ヴォルフ」、狼というより、ザルツの街を作ったという、あの
ちょいワル大司教のヴォルフ・ディートリッヒから来てるんだろうな。

こちらはカフェ黒猫、ガット・ネロ。

トースト、フランクフルトソーセージ、ヌードルサラダ、
モッツァレラ入りサラダ、バゲット、うーん、美味しそう!

崖の下の通りに差し掛かると、少し異質な赤い傘とカフェテーブル登場。

「MANEKINEKO・・・・招き猫、ですと?」

「もしかしたら日本人の経営かな」

もしかしたら、と疑ったのは、海外で堂々と日本語の店名を名乗っていても
中国人や韓国人が経営していて変な日本料理を出している
インチキジャパニーズレストランは普通に存在するからです。
特にアメリカではこれに散々嫌な思いをさせられているので、
すっかり疑り深くなっているわけですが・・・・。

「中国人だね」 ( ゚д゚)、ペッ

わたしはこの、一見日本のゆるキャラ風を装った招き猫(皆ソーラー内蔵で
ゆらゆら揺れている)を見て、一目で断言しました。

腹掛けにひっくり返した「福」の字を使うのは、倒した福、
「倒福」=タオフー=「到福」(福がやってくる)
と中国で言われているからで・・・つまり日本人ではありません。

よく見ると招き猫が持っている小判も地面に置かれておらず、
さらにその小判の「百万両」の百の字が簡体字だというね。

はいそして極め付け、決定的な状況証拠。
どこの世界にこんなたくさん蒸籠を使う日本料理があるよ?

通り過ぎながら食べている人の料理とメニューの字を見たところ、
シェフのおすすめは「Bento Box」。弁当ですよ。
台湾では弁当はもう日本語から台湾語になっているそうですが、それでも
弁当と書いて(ベンタン)と読むわけだし。

案の定、覗き込んだベントーボックスには、餃子とか点心とかが・・・。
もうね、頼むから文化の剽窃、盗用、そして侮辱はやめて下さい。

それも大嫌いな日本語の店名を名乗るなんて、あなたがたにプライドはないの?

とプンスカ怒りながら街のはずれにやってきました。

「justizgebäude salzburg」=正義の建物ザルツブルグ

ってことでザルツブルグ裁判所のようです。

裁判所からUターンしもう一度広場に戻ると、
巨大な金の玉の上に人が立っていました。

噂ではこの金の玉上おじさん、ホーエンザルツブルグ城を睨んでいるとか。
アートなのか?

MKが突然、確信を持ってある方向に歩き出しました。

「ザルツブルグの墓地、確かこっちだったと思う」

お城の鉄道のふもとに当たるところに、水車があります。

 この左側には世界最古のパン屋があり、水車は
粉を挽くために使われていたのだとか。
パン屋さんは今でもちゃんと営業しているそうです。

「あった。ここだ」

MKが連れて行ってくれたのは、ザンクト・ペーター教会の墓地でした。
どこの国に限らず、よその国のお墓というのは大変興味をそそるものです。

ヨーロッパの墓は色とりどりの花を植えて花壇のようにしていることも多く、
墓地といっても公園のような雰囲気が漂います。

ビーデンバーガー、マルナー、シュルツといくつか名前がありますが、
皆一族のようです。
こちらでは結婚して名前が変わっても元のお墓に入るんでしょうか。

DDが何かわかりませんが、ドクトルでいらしたようですね。

時間がないので中を見ることはありませんでしたが、これが聖ペーター教会。
1401年創建と記してあります。

左胸に忠誠を誓うポーズで立つ兵士、墓石の上のヘルメット。
これは武人の墓に違いありません。

DAS OFFICERS CORPS DES K.K.INFANTRIE REGIMENTS N

LIX EHRET 

DAS ANDENKENDAS ANDENKEN SEINES OBERSTEN

UND REGIMENTSUND REGIMENTS COMANDANTEN

これを直接翻訳にかけても正確には出てこなかったのですが、
とにかくこのお墓の主であるフランツ・なんとかベルグという人物が、
歩兵連隊の指揮官であったことだけはわかりました。

お墓の状態から見て第一次世界大戦の頃の人でしょうか。

ザンクト・ペーター教会には、崖をくりぬいて作ったカタコンベがあります。
まるで岩に張り付くような状態で建物が見えますが、この内側は
岩を掘って作った階段の通路が続いているのです。

カタコンベというからには岩の中にお墓があって、そこに葬られている
死者がいると思われますが、そもそもこここがカタコンベだとわかったのは
19世紀になってからの調査の結果なんだそうです。

死者が葬られていたのは3〜4世紀ごろのことです。

右側に、もう文字も定かでない墓石のようなものがはめ込んであります。
墓石の上部には

「DAS ANDANKEN 」「ZUM ANDNAKEN」

とあり、これがドイツ語の「イン・メモリアム」らしいとわかります。
そして、もし映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見た方がいたら、
最後にトラップ一家が逃げ込み、隠れた墓場を思い出してください。

それがここという「設定」です。(もちろんあれはセットです)

いくらハリウッドでも、実際のお墓で夜ロケをするなんて罰当たりな真似は
できないし、そもそも許してもらえなかったと思われます。

わたしたちがぼーっとここに立っていると、急に係員がやってきて
人が中に入って行きました。

「あ・・・中入れるんだ」

「え?行く?」

「行きたい」(わたし)

というわけで、偶然中に入る時間に居合わせたので内部を見学しました。

カタコンベがあるとわかるまで、ここには人が住んでいたということですが、
信じられないくらい歩きにくい階段が続いています。

よくまあこんなところに窓枠をはめ込んだもんだ。
内部から眺める外の墓地。

少し広い石室には祈りを捧げる祭壇がしつらえられています。

カタコンベの中から見る聖ペーター教会とザルツブルグ大聖堂。

割と最近作られたらしい鐘楼がありました。

さらに進んでいくと、もう一つの祭壇が。
このチャペルでは今でも祈りが捧げられているということです。

おそらくこのカタコンベができた時からあるラテン語の経文が書かれた岩。

見学できるのはここまでで、これを見終わると元来た道を帰ります。
カタコンベというからにはお墓があるはずなのですが、
その部分はおそらく岩の内部にあって発掘されていないのかもしれません。

パレルモのカタコンベみたいなのだったらどうしようと思っていたので、
内心ちょっとホッとしました。

カタコンベに眠る人々の墓石なのでしょうか。
これらの墓石を見ると、ほとんどが1800年代の死者で、
「ここに眠る」と書かれているので、もしかしたらこの裏側に
本当にお眠りになっているのかなとも思ったのですが・・。

板に描かれた「死の物語」。
翻訳しようとしましたが、ラテン語と亀の甲文字で挫折しました。

というわけで思ってもいなかったカタコンベ見学が終わり、
チェックアウトのためにもう一度ホテルザッハに戻ります。

「愛の南京錠」の橋には、昨日はなかった近代美術館の
新しい展覧会のポスターが。

「ゼログラビティ」

なかなかこの橋にマッチしています。

荷物を取りに来てもらい、ホテルに別れを告げました。
改装して天井がガラスになったせいで、こんなに明るい空間になっています。

ホテルザッハのマスコットであるザッハくん(多分)がお仕事中の写真。
ザッハくんはホテルマンで、この制服から見てどうやらフロント係なのですが・・・。

なぜベッドで寝ているー!(笑)

さて、わたしたちは車でザルツブルグを後にしました。
これから、帰路途中にある湖を目指します。

 

続く。

アキュムレーターとカタパルト〜空母「ミッドウェイ」博物館

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しばらくヨーロッぱ旅行記が続いておりますが、ここで
久しぶりに、空母「ミッドウェイ」についての話題をお送りします。

 

かつて空母「ミッドウェイ」勤務で、もちろん横須賀にその期間駐留し、
日本人の奥さんをもらった元海軍軍人、「ミッドウェイ」の著者ジロミ・スミス氏は
2004年、サンディエゴで13年ぶりに「ミッドウェイ」に再会しています。

スミス氏は「ミッドウェイ」に特別な思いを持っていました。

「俺とお前の間柄は他の奴らとはちと違う。
俺とお前にはお互いに日本人の血が流れていて、日本人の血を持っている。
だから特別な間柄だ」

はて、「ミッドウェイ」に日本人の血が流れているとはどういうことでしょうか。

母親が日本人で日本語も堪能なスミス氏は、空母「ミッドウェイ」が
18年間にわたる日本での勤務中、実に一度もアメリカ本国の港に入らなかったことや、
自分のように日本人の妻を持った乗員がたくさんいて、何よりも空母の艦体が
この期間ずっと、日本人の技術者や、港湾労働者に支えられてきたをして、
「日本の血が流れている」と解釈しこのように思い入れを持ってくれていたようです。


さて、そんな「日本人の血を持つ」「ミッドウェイ」でしたが、任務を終え、
横須賀を出航して初めてアメリカの港に入り、その後、
サンディエゴで空母博物館として半永久的にその姿を留めることになりました。

久しぶりの「ミッドウェイ」との邂逅。
舷門をくぐる時、もうそこで敬礼をしなくてもよくなったことに
違和感と一抹の寂しさを感じながら、スミス氏はハンガーデッキに足を踏み入れます。

「格納庫前方の左舷、右舷の両側には、ジェット機を発艦させる時の
カタパルトを動かす巨大なアキュムレーターも当時のまま設置してあった。

このアキュムレーター、ジェット機が発艦する食べ、耳をつんざくような
シューっというものすごい音を出し、その周辺の温度は軽く50度を超えた。

私の仕事場は、このアキュムレーターのすぐ横にあった。
恐ろしく暑くて、ものすごい騒音が一日中、時には一晩中続いていた」

これが「空母ミッドウェイ」のチャプター1の終わりの部分です。

わたしは結局三年続けて「ミッドウェイ」を訪れ、ここでもお話しする途上、
スミス氏の著書をかなり参考にさせて頂いておりますが、最初に読んだ時、
この「アキュムレーター」の記憶が全くなく、今度訪問したら
ぜひその写真を撮ってこようと楽しみにしていました。

ハンガーデッキから入場し、右の前方に向かって進んでいくと、
「STARBOAD、スターボード(右舷)」と書かれた俵形の大きなタンクが見えてきました。

ワクワクしながら(こんなものを見てワクワクするのはわたしくらい以下略)
近づいていくと、小さく「スティーム・アキュムレーター」という字が見えます。

 

アキュムレータ(hydraulic accumulator)を一言でいうと、圧力を蓄える、
すなわち蓄圧器のことで、電気で言うところの充電式電池のようなもの。

流体の圧力を利用して仕事に供給する高圧流体を蓄えておく装置で、
この「ミッドウェイ」における「流体」とはすなわちスチームのことです。

カタパルト発進には途轍もないエネルギーが必要なので、その動力には
安定した圧力が必要ですが、アキュムレーターはこのために
過剰蒸気またはボイラー水を熱水として蓄え、高負荷時にボイラーに送り、
ボイラー蒸発量を増加させる方式でそれを得るという仕組みです。

もう少し平たく言うとアキュムレーターとは、

「圧力を溜め込んでおいて、いっぺんに解放することでエネルギーを得る」

装置、といえば良いでしょうか。

アキュムレーター図解

近年の日本の企業が作っているアキュムレーターは縦型が多いようですが、
昔は写真に見える「ミッドウェイ」のそれのように横に寝かせる形が一般的でした。

「ミッドウェイ」のカタパルトは最初は油圧式で、大改装後、
  蒸気式のC-11型3基を搭載することになったそうですから、それこそ、
このアキュムレーターは日本で、日本の技術者によって換装された
と言うことになりますかね。

アキュムレータは蒸気の負荷変動を吸収することができるので、
常に安定した圧力を供給し、これを回転エネルギーに変換します。

高速回転する滑車でワイヤを動かし、カタパルトのレール(シャトルトラック)
のうえを、シャトルが高速で動くわけですが、その際、ブライドルと言う
使い捨てのワイヤによってシャトルと航空機を繋げておいて、
航空機を「放り投げる」形で空中に射出するのです。

 

これはWikipediaページの「ジョン・C・ステニス」のスチームカタパルト。
最終チェックをしているところですが、まるで雲に乗っているように
蒸気がレールの間から吹き出しているのにご注目ください。

スティームカタパルトは、シャトルを高速で移動させると、
レールの下からものすごい量の蒸気が噴き上がってきます。

Steam Catapult VS EMALS, Electromagntic Aircraft Launch System
 

面白い動画を見つけました。
前半は従来の蒸気カタパルト。
後半はイーマルス(EMALS)、電磁式カタパルトの航空機射出です。

航空機じゃないので赤い台車がカタパルトの後派手に海に落ちていきますが、
思わず「あああ〜」と声が出てしまいます(笑)

イーマルスの実験は2017年に終わったばかりで、
「ジェラルド・R・フォード」に実験的に搭載されたそうですが、動力に
原子力などを必要とし、電力が失われたら射出できなくなると言う欠点があります。

2019年、今年の春に横須賀の第7艦隊を訪れたドナルド・トランプ大統領は、
イーマルスについてはっきりと

「以降の空母には使用しない」

と断言したということなので、アメリカではこれ以上の発展はなさそうです。

いかなる理由でそのことをわざわざ日本に来て横須賀で言明したのか、
その経緯がよくわからないのですが、コストパフォーマンスの点で
あまり意味がないということになって打ち切りが決まったばかりなのでしょうか。

 

こちらにはタンクの穴のようなものがありますが、これは
手前の赤いリールに巻いてある黒いホースを繋げるのでしょう。

ボイラー水を供給するためのホースだと思うのですが、わたしのことですから、
例によってとんでもない勘違いをしているかもしれないので、
断言はしないでおきます(笑)

USS「ミッドウェイ」において

FODをしなかった日は■日

最後にFODをしたのは■月■日

CRUNCHがなかった日は■日

最後にCRUNCHがあったのは■月■日

 

FOD(Foreign Object Debris/Damage)とは、甲板を皆で
並んで歩きながら小さなゴミを回収するという空母ならではの慣習です。

ここではデブリス(ゴミ)ではなく『ダメージ』と言っていますね。

小さなゴミでも航空機のインテイクが吸い込むことで、
大事故が起こるため、このFODは徹底して行われます。

クランチ、というのはわたしもこれで初めて知ったのですが、
航空機同士の接触や航空機が構造物にハンガーデッキで当たることです。

私見ですが、航空用語というわけでもなく、「クランチ!」という言葉は
金属同士がぶつかった時の音のイメージから来ているんじゃないでしょうか。

ハンガーデッキで牽引車の操作をしていた人の証言です。

「数え切れないほど、トラクターを運転している時、わたしは
自分がトウイングしている航空機を振り返って見たものです。
そしていつも運転するとき、センターラインのエレベーターが
降りている時には、大きな穴に落ちてしまいそうでものすごく怖かった」

自分だけ落ちるならまだしも、その時には何億ドルもする航空機と一緒。
ただでさえ事故の起きがちな空母での仕事には、何回やっても慣れは禁物で、
また何回やっても怖いものなのに違いありません。

しかし、どんな作業一つとっても、そこには、アメリカ海軍が
USS「ラングレー」以降積み重ねて来た、気の遠くなるような体験と
そして失敗による犠牲のうえに築き上げられたノウハウが集約されているのです。


 

続く。



ヴォルフガングゼーまでの道〜ザルツブルグ- ウィーン

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ザルツブルグを後にし、国道158号線、通称ヴォルフガングゼー通りを通って
車でウィーンに戻ることになりました。

ヴォルフガングゼーというのは、ザルツブルグからウィーンにいく途中にある
ヴォルフガング湖のことです。

UボートのUは「ウンターゼー」で「海の下」、ゼーは「海」という認識でしたが、
ドイツ語では潮の有る無しに関わらず、水が溜まったところは「ゼー」のようです。

整備されていて、高速並みに走りやすい一般道路です。

もともとウィーンからザルツブルグまでは汽車で移動するつもりでしたが、
出発の日気まぐれを起こし、車で行くことになったため、帰りにはこれも思い付きで
車ならではの自在性を生かし、湖のほとりの街に立ち寄ることになったのです。

鉄道の旅を選んでいたらそれなりに楽しい体験ができたとは思いますが、
こちらは車で来ていなければ一生縁がなかったかもしれませんん。

さあ、それではヴォルフガングゼーに向かって、
ヴォルフガングゼー・シュトラーセを Lass uns gehen!

ザルツブルグ市内を抜けたらもうそこは普通に田舎で、
道路脇で牛さんが草を食んでいたりします。

オーストリアの牛はご覧のように茶色〜白い毛並みです。

ホテルを出て20分も行かないうちに、わたしは道路脇に戦闘機がいるのに驚き、
助手席のMKにカメラを渡して走る車から写真を撮らせました。

さりげに向こうに見えている重機がボルボ製なのにもちょっと驚きますが、
それにしてもこの戦闘機は一体・・・・なんでしょうか。

画像を調べてみたものの、またどうせ当たらないのは確実なので、
ヨーロッパの兵器に詳しい方々に特定をお任せしたいと思います。

でもF35のノーズにちょっと似てるよね?(言ってみただけですのでお気になさらず)

ところでこの建物、この写真に「museum」と写っていたので調べてみたら、
ここは

「マンロー・クラシック アウト・ウント・ムジーク・ムゼウム」

といって、フェラーリやメルセデスなど、ヴィンテージ・カーの
博物館であるらしきことがわかりました。

ムジーク、音楽については、見てみましたがなんだかよくわからない展示です。

ヤマハピアノ

なんかもしかしたら、単なる個人のコレクション自慢、つまり
レッドブルオーナーのコレクション自慢ハンガー7のしょぼいバージョンだったりして・・・。

それにしても博物館の内容に全く戦闘機関係ないのでワロタ()

この戦闘機以降、MKにカメラを渡して窓の外を適当に撮ってもらいました。
まるで絵のような一本道の突き当たりにある家は現在新築中。

写真を拡大してみたら人が働いていました。
冬は雪に覆われるので、工事は夏の間に終わらせるのでしょう。

さらに走っていくと、岩山の山脈が見えてきました。

オーストリアのバス停はガラス張りの三方囲まれたブースで、
雪の降る冬でもバス待ちが辛くないように工夫されています。

国道沿いのレストランも日本人の目にはどれもおしゃれな作りに見えます。
右側にある「ギムセンヴィルト」というレストランはハンガリー料理だそうですが、
スープが辛そうなのと、デザートの巨大さで、オーストリア風だと思いました。

GIMSENWIRT

この辺りには結構とんでもない形の岩山が多いです。

ザンクト・ギルゲンという街に差し掛かりました。
日本からはオーストリアの観光地としても有名です。
観光の目玉は・・・・・・・、

そう、ロープウェイ。
可愛らしい数人乗りのゴンドラが行き来しているのが車道からも見えました。
ゴンドラは4人乗りで、家族やカップルだけで乗ることも
空いている時なら可能ですが、大抵は相乗りになるようです。

ゴンドラは小さくて、大人四人のるとかなりキツキツだとか。

建物に「Zwölferhorn-Seilbahn」とありますが、これが乗り場です。
開業して60周年を迎えたと書いてありますね。

黄色と赤の二色のゴンドラが可愛らしい。

ザンクト・ギルゲンのロープウェイは10分くらいかかるので、
長い間空中散歩が楽しめるそうです。

子供連れはもちろん、恋人同士や新婚旅行のカップルに超おすすめです。

地図を見ると、こんな長い距離(赤い点線)の路線でした。
右側はヴォルフガングゼー。

終点は山の頂上で、今の季節は問題がないですが、冬は雪に覆われています。
そこからはスキーコースになっているので、地元のスキーヤーには
板を履いて山頂まで自力で登り、一気に滑り降りたりする人もいるとか。

道の横が切り立った崖で、上まで1.2kmあり、岩が落ちてくるかも、
という立て札ですが、こんな垂直の崖の上から岩が落ちてきたら
注意していてもどうしようもないと思います。

程なくヴォルフガングゼーに到着しました。
信じられないくらい水が透明で、深いところは濃いエメラルドグリーンです。

この辺の地形は、切り立った岩山が屏風のようにそびえており、湖は
その岩山の合間に細く切り込まれるような形で水を湛えているのですが、
つまり、湖の底質は泥ではなく岩石多めなのでしょう。

水に濁りのないのはおそらくその岩質も白っぽいからだと思われます。

対岸はすぐそこに見えていますが、これは湖が細長い形をしているからです。
湖を気持ち良さそうに泳いでいる人が。

水の色を見る限り、彼の泳いでいるところはとても深そうです。

湖の周りは全く護岸など人の手が加わっていない状態で、
湖岸の芝生には、多くの市民が湖水浴を楽しんでいました。

この地方もこの季節日向は猛烈に暑いですが、湿度が低く木陰は清涼で、
湖水もおそらくは温度が低いのだろうと思われます。

海水浴と違って真水の、しかも飲めそうに綺麗な水ですから、
シャワーなども必要ありませんし、もちろん入場料も要りません。
ついでに、車は道路沿いにパーキングスペースがあって、無料。
それほど人も多くないのでのんびりできます。

こんな週末の楽しみ方があるなんて、羨ましい限りです。

 

また車に乗って走り出しました。

「あんな岩山の頂上、今まで誰も登ったことないんだろうね」

「それがあったりするんだよ」

「なんのためにあんなところに登るの?」

「イーサン・ハントが休みの日ににロッククライミングするんだよ」

ウィーンに帰る前に、早めに給油しておこうとガソリンスタンドに寄りました。
ところがこのガソリンスタンドというのが・・・

こんな農場の一角にあったりするわけです。
ガソリン入れながら牛の群れを眺めるこの不思議な体験。

そのうち、お食事タイムが終了したらしく、牧童が牛を追い立て、
彼らはお行儀よく一列に並んで歩き出しました。

わたしたちはアメリカに行くと、いつも「ホールフーズ」という
全米チェーンのオーガニックスーパーを利用していますが、肉を買うとき、
値札に書いてある

「グラス・フェッド(grass fed)」

「グレイン・フェッド(grain fed)」

を必ずチェックします。

一般的には牧草を食べて育った牛は、
穀物を食べた牛より肉が美味しいので、高価だとされます。

これは、安い肉牛を扱っている畜産場の管理の問題でもあり、
穀物の持ちを良くするために保存料を入れたり、ひどい場合には
飼料桶の手入れが悪く、腐ったような餌を食べている牛だと、
当然ながらその肉は安いが劣悪であるということになっているからです。

ちなみにホールフーズの場合、時としてそれらの値段は同じですが、
つまり、ここと契約している畜産場は、穀物を食べさせているとしても
管理がしっかりしていて飼料はノーケミカルであるという意味でもあります。


それにしても、高価といっても日本の一流店で食べれば
いくらするかわからないようなテンダーロインが、たっぷり三人分
(日本の四人分)30ドルくらいで買えるのですからたまりません。
これをレアに焼いて食べるとめっぽう美味しいので、我が家ではこの夏、
家ではかつてやったことがない「ステーキ祭り」が開催されております。

このヴォルフガンブゼーの牛さんたちが乳牛なのか肉牛なのかはわかりませんが、
きっと牛乳も肉も美味しいのだと思われます。

余談ついでに、わたしがアメリカに来るといつも選んでいる、
ケリーゴールド社のアイリッシュバターをご紹介しておきます。

今まで、何の気なしに選んで、ただ美味しいからと買っていたこのバター、
気づけば有名なグラスフェッドの発酵バターだったのです。

日本で見る真っ白なバターと違い、色は本当のバター色。
食欲をそそる色をしていますが、これは牛が牧草を食べているからだとか。

 日本でも買えるそうですが、一箱1000円くらいするとか。

さて、ヴォルフガングゼーの

ザンクト・ヴォルフガング・イムザルツカンマーグート

に行くためにを湖を左回りに回り込んでいく途中に
湖沿いにあるシュトローブルという街に差し掛かりました。

ところどころ山がトラ刈りにされています。

「まさかスキー場?」

「あんなところ滑れないよ」

「だとしたら超上級者向けゲレンデだ」

そういえばゲレンデってドイツ語ですよね。
調べてみたら、この近くにはスキー場がいくつかあるようです。

 

続く。

 

ザルツ・カンマーグートの老人会〜ザルツブルグ-ウィーン車の旅

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わたしたちがザルツブルグからウィーンの帰りに立ち寄った
ヴォルフガングゼーの湖岸には、

ザルツ・カンマーグート

というオーストリアでも有名な観光地があります。
今回の移動は車だったので、帰りにここに寄ってみることになりました。

ザルツからザルツカンマーグートまでは、細長いヴォルフガング湖沿いに
ずずいーっと右回りに回り込んで、向こう岸にたどり着きます。

しかし羨ましいのは、都会(ザルツ)から少し車を走らせただけで、
すぐにそこは田舎の風景になり、あふれんばかりの自然の中で
保養地を楽しんだり、冬は日帰りでスキーに行くことができること。

「観光地」「休暇」という言葉の持つ意味が、日本人とは全く違うのです。
日本国内は移動に時間とお金がかかる上、どこにいっても日本人でない観光客で溢れ、
大型連休になると争うように国外に出るのが風物詩となっている我が日本。

素晴らしい自然に恵まれた愛する祖国ですが、海外でこういうのをみると、
世界第3位の経済大国という地位ってそんなにいいもんなんだろうか、
などと根源的な問いが浮かんできてしまうので困ったものです。

さて、ザルツカンマーグートに到着しました。
名物の登山電車に乗ってみたかったのですが、時間がないので諦め、
湖の近くで遅昼を食べることにします。

ちょうど、ウォーターフロントに面した良さそうなカフェがあったので
入ってみたのですが・・・

ランチのピークが過ぎたせいか、従業員は一人だけ。
テーブルは二つだけ埋まっていて、彼らはとりあえずビールを飲んで
待っていますが、なかなかオーダーが来ないようです。

「もしかしたらこの人一人で料理も作ってるんじゃない?」

しかも、メニューを見ると、軽食しかありません。
しばらくオーダーを取りに来る様子もなかったので、さっさと見切って
店を後にし、他のレストランを探すことにしました。

一周車で街を回りましたがわからないし車が停められないので、
この、駐車場だけは超大きな「大型店」に行くことにしました。

店内はテラス席と内部に分かれていて、好きなところに座れ、と言われ
一応中を見てみたら、びっくり。

広い店内の半分が埋まっているのですが、座っているのが老人ばかり。
彼らの前ではヴァイオリンとピアノという「楽団」が生演奏していて、
お年寄りのカップルが何組か音楽に合わせて踊っているではありませんか。

「なに?この老人率の高さ・・・」

しかもこの盛り上がり方は・・・・お昼なのになにごと?

どこでも好きな席に座っていいと言われたのですが、どう見ても
わたしたちは完璧な異邦人でしかも彼らの雰囲気にはなじみません。

とりあえずその老人団体の近くは遠慮することにして、
テラス席に座ることにしました。

観察していると、どうもこの老人たちは一つの団体で、
音楽家も自前のようです。

「何だろうあれ・・・同窓会?」

「老人ホームの慰安旅行じゃない?」

「にしては皆元気すぎるんだよなあ・・・」

「趣味の会じゃない?」

オーストリアの老人の趣味って何だろう。
チェスとか、チロルのダンスとか、ヨーデル愛好会とか?

音楽に合わせて何組かのカップルはフロアに出てダンスをし、
その他のみんなは手拍子を取り、一緒に歌って楽しそうでした。

オーストリアでは結構喫煙者が多く、屋外のテーブルでは皆吸うので
各テーブルに灰皿が置いてあります。

瓶のドリンクは「EIS TEE」=アイスティのドイツ語です。

テーブルに座ると、オーストリアの男性の民族衣装、
レーダーホーゼン(革のズボンの意)を女性用にアレンジした
革のショートパンツの制服を着た女の子が注文を聞きに来ました。

オーストリアでしか食べられないことだし、と、MKは
チキンのシュニッツェルを注文しました。
やっぱりクランベリーのソース付きです。

わたしは、ここが湖の近くであることから、マスを注文しました。
横のヴォルフガング湖で今朝釣れたばかりではないかと思ったのです。
おそらくその想像は当たっていたようで、バターで炒めたマスは
全く匂いがなく、レモンをかけていただくと最高に美味しかったです。 

ちなみに、わたしたちが食べているときに老人たちは一挙に出て行き、
駐車場に停めているバスに全員が乗り込んでいきました。

昼食後は街を散策してみることにしました。

1976年、ヴォルフガングという人が司教になってからちょうど1000年目に
記念としてこの看板が制作されたようです。
おそらく、聖ヴォルフガング以降の大司教の名前でしょう。

年代が飛び飛びになっているのはなぜかわかりません。

ツタのからまる建物のアーチ状の入り口には、

SEERESTAURANT KAISERTERASSE

とあり、ここを歩いていくと湖畔のレストラン「カイザーテラス」があるようです。

「Weißen Rössl」というのは「白い馬」なので、「白馬亭」という感じでしょうか。
白い馬が立ち上がっているモニュメントが見えます。

ちゃんとテーマソングもあるようで、大々的に建物に書かれた歌の歌詞は

「♪ヴォルフガングゼーの白馬亭は幸せ溢れる〜♫」

 

このあと街の名前となった聖ヴォルフガング教会の内部を見学。
内部は撮影禁止となっていました。

教会を出るとそこは湖を望む回廊になっています。

ちゃんと調べていませんが、危険だからここに上ってはいけません、
とドイツ語で絶対書いてあるはず・・・・・・なのに、この窓の左側には、
若い中国人女性がスマホでのイメージフォト撮影に余念がありませんでした。

窓枠に座り、片膝を立てて片足をできるだけ長く伸ばし、
身体をそらして片手を後ろに付き、片手を髪に添えるようにし、
満面の微笑みを浮かべて・・・・・。

彼ら彼女ら中国人が写真を撮るとき、見ていて恥ずかしいくらい
気合を入れるのはフィルム時代の昔からのことですが、デジカメ時代になって、
その傾向は一層過熱気味にあり、ある統計では都市部の女性は、
1日平均三回自撮りをするのだそうです。

日本人にも特に若い女性は自撮り好きの人がいっぱいいますが、
自己愛が強いと見られるのを照れる傾向にある日本人と違い、
中国人はそれに加えて「全く人目を気にしない」傾向にあります。

まあ、ポーズを取るのに夢中になって事故が起こっても、
おそらくヨーロッパでは全て自己責任で片付けられるので無問題。

 

下を覗き込んでみると、湖畔にプールのようなものが見えました。

湖畔の上に設えられたサンデッキには、プールとジャグジーがありました。
後から地図で調べたところ、このデッキは先ほどの白馬亭のもので、
ここに泊まれば、こんな特等席で楽しむ事ができるのがわかりました。

湖を泳いでいる人もいます。
ボートにはちゃんとオーストリアの国旗が。

ザルツブルグからウィーンまで田舎道を走っていると、民家の窓には当たり前のように
インパチェンスのような花が咲き誇っていました。

オーストリアの主婦は窓辺に花を咲かせられなければ一人前ではない、
というような習慣でもあるのかと思ったくらいです。

「Seehotel」(ゼーホテル)は湖畔の宿、といった感じでしょうか。
先ほどのホワイトホース・インはだいたい一泊310ドル、
こちらは随分お手頃な165ドルくらいの宿泊料です。

和風の提灯を釣ったアルプスの小屋のようなレストラン。
お店の名前は「マネキ」ですが、中華料理です。

なぜこんなところで日本の名前をわざわざ名乗る?

街歩きを楽しみ、適当な時間にザルツカンマーグートを出発しました。
車中から見る珍しい地形も楽しみです。

しばらく山の中を走りました。
オーストリアはキロ表示なので助かります。

しばらく行くと、岩山と湖畔という、まるでセガンティーニの絵に出てきそうな
風景が現れました。

「車が停められそうだったら降りてみようか」

道路脇の駐車スペースに車を止めて岸まで行ってみると、ここも
驚くほどの水の透明度です。

岸辺にいた鴨軍団が集まってきました。
人の姿を見ると何かもらえるのではと期待するようです。

目をキラキラさせながらこちらを見上げていましたが、
期待されても彼らにやれるようなものは持っていません。

人間なんかから変なものをもらわずとも、ここには普通に
小魚がいっぱいいるんじゃないのかしら。

ウィーンに行くには途中で高速に入りますが、それまでは
農村地帯を延々と走っていきます。

この牧場では、ドイツとフランスの牛を飼育しているようですね。
もちろん全てグラスフェッド、放牧放飼で育ているはずです。

ウィーンに入る手前で日が沈みだしました。

市内に入り、シェーンブルン宮殿前を通る頃にはすっかり夜です。

さあ、明日は最後のウィーン滞在を楽しむことにしましょう。


続く。




「シュタイレレック」でナマズを食す〜ウィーンの三つ星レストラン

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さて、ウィーンを観光できるのも最後の1日となりました。
わたしたちは今日という日をできるだけ有効に使うべく、
朝からホテルを出て地下鉄に乗ることにしました。

これがホテルの前にあったウィーンミッテ、ウィーン中央駅。
オーストリアは地下鉄が大変発達していて、路線が集まる駅は
地下鉄なのにこんなに立派な駅舎を使っているのです。

地下鉄のチケットシステムはある意味性善説に立ったもので、
チケットを買うと、もうそこで機械式の改札に読ませるだけ。

また、その日一日、何回乗ってもどこまで乗ってもOKの
フリーきっぷを買うと、きっぷさえ持っていたら改札を通らずに
ホームに行って電車に乗ればいいのです。

「しようと思ったらタダ乗りできるってことだよね?」

その辺は時々抜き打ちで検査があって、不正が見つかったらもう
社会生活ができないくらいの罰則が待ち受けているのでは?
と想像してみたのですが、実際どうなのかはわかりませんでした。

駅前のストリートミュージシャンは、さすがウィーン、バスーン奏者です。
そういえばこの近くには名門ウィーン音楽大学もありましたね。

仲間が応援に来ているようですが、なぜ彼は路上で演奏を?

ウィーンには今でもULFという路面電車が活躍しています。

ウィーンのULF(Type B)

もうすぐ廃止になるという話ですが、現在の車両はポルシェデザインなんだとか。

ウィーンの地下鉄は1976年に開業ということなのでそう古くありませんが、
大阪地下鉄のような古びた感じがあります。

路線図

路線は全部で6本、駅は104で、大阪地下鉄が100ですから規模としては
同じくらいの感じでしょうか。

カールスプラッツ駅で降りたら、駅舎前にパトカーが停まっていました。
オーストリアのパトカーはフォルクスワーゲンを採用しています。
さすが国民の(フォルクス)車(ワーゲン)です。

サイレンを鳴らす時には上のライトが点灯するのですが、これが青。
彼の地では、バックミラーで赤ではなく青いランプが点灯したらギョッとして、次に

「やられた・・・・・」

と落胆するというわけですねわかります。

こちらがかのウィーン工科大学でございます。

ドップラー効果のクリスチャン・ドップラー、建築家のオットー・ワーグナー 、
ヨハン・シュトラウス2世 (在籍するも音楽に専念するために中退)
ヨーゼフ・シュトラウス (ヨハンの弟。卒業後に技師になるも、やっぱり音楽家に)、
先日お話しした映画監督、フリッツ・ラング、
シュタイナー式教育のルドルフ・シュタイナー などが在学あるいは卒業しています。

それにしても、シュトラウス兄弟、二人とも何やってんだ・・・。

カールスプラッツで降りたのは、ナッシュマルクト、路上市を見るためです。
露店といってもちゃんと建物が建っていて、普通に商店街な訳ですが。

昔は地元の人が食材を手に入れる文字通りの市場だったそうですが、
今や観光客目当ての店ばかりとなってしまったため、住んでいる人は
滅多に立ち寄ることもないのだとか。

店と店の間の通路を歩くと、商売人たちが試食をさせようと
ショーケースの向こうから盛んに声をかけてきます。
見たところ、お店の人は移民が多いようでした。

このパン屋のケースにもさりげなくバクラヴァが混入していますが、これも
オーストリア人には寿司屋でキムチを出しているようなものなのかもですね。

ちなみにオーストリアに多い移民はトルコ人だそうです。
どうりでケバブの店があっちこっちにあると思った。

マルクトの端っこまで歩いてみましたが、特に買いたい物もなく、
本当に冷やかしだけで通り過ぎてしまいました。

観光客向けということがわかっただけではなく、とにかくこの日は
日差しが暑くて蒸し暑く、外を歩くのがただ辛かったせいもあります。

東京では40度近くに気温が上がったとニュースで見ましたが、
ウィーンもザルツブルグも今いるアメリカも、今年はどこも暑いですよ。
日本で暑さに耐えている皆さん、ご安心ください。

どこも夜と日陰が凌ぎやすいことだけは日本よりマシかもしれませんが。

マルクトの端っこまで来ると、あの歴史的な花柄の建物を見て、
そこから折り返し、カールスプラッツ駅まで戻りました。

暑い中、わたしたちは自然と無口になり、ただ歩いていましたが、
わたしはその上途中でお気に入りの髪留めを落としてもう気分は最悪です。

しかし粛々と次の予定に突入。
先日飛び込みで素敵な朝ごはんを食べたシュタットパーク、市立公園の
「メイエレイ」(乳製品という意味)は、別の名前のレストランを併設しています。

というか、こちらの方がメイン、ウィーンの有名な三つ星レストラン、
「シュタイレレック」、本日のランチを予約しているお店です。

なんでも世界有数のレストランの一つに数えられるといい、
この建築は、これも有名な建築家チームPPAGの手によるものです。

日本語で今回見つかったシュタイレレックの説明には、

開口部を市立公園に向けで設計しました。
メタルでできたファサードには公園が映り、天気のいい日には窓が全開にされ、
まるで緑の中に座っているような気分です。

とあります。
公園に向けてというより、これ、実際に公園のど真ん中にあるんですが。

蒸し暑い炎天下から涼しくひんやりした、しかし明るい世界に入ってホッと一息。
いよいよ楽しくちょっとスリリングな食の体験の始まりです。

飲み物をいただきながらメニューを選び、さっきまでの沈黙が嘘のように
話に花を咲かせながら待っていると、パンのカートがやってきました。

係の人全てのパンを説明し終わるのに1分半くらいかかったかと思います。

どれも美味しそうで迷いますが、そこをなんとか二種類くらい選び、
指差したり、「イチジク入りのパン」などというと、それを
鮮やかな手つきで切ってサーブしてくれます。

聴きものは怒涛のようなその説明トークで、英語がとにかく上手い。
MKによると、彼の英語はネイティブで、スコットランド人だろうということでした。

料理を待つ間に、驚くべき量のアミューズが運ばれてきました。
これを食べているだけで少食な人はお腹が膨れてしまうくらい。

MKの頼んだのは魚だったのですが、この料理のパフォーマンスがまた見ものでした。
日本の組み木のような作りでできたトレイの中央に魚の身が乗っているのですが、
ウェイトレスがわたしたちのみている前でこれに熱い蜜蝋をかけていきます。

見ている間にこれが固まっていきます。
固まっていく間、ずっとこのトレイはわたしたちの横に置いてありました。

そして、完全に固まってから蝋を剥がすと、魚身がこんな感じに。

「これをお出しします」

そして出てきたのがこれ。
蝋を掛けたのは身を蒸し上げるためだったようですね。

食べたMKによると、「とにかく絶品」だったそうです。

ブロッコリというのは生では食べられないし熱を通しすぎると不味くなり、
結構美味しく食べるのが難しい食材だと思うのですが、先の部分だけをフライにして
クリスピーにしてソースを絡めるという方法はこの食材の欠点を補っています。

もらった料理説明カードによると、ソースはアプリコットやヘーゼルナッツオイル、
黒ニンニク、ライムなど、とにかく素材にこだわり抜いたものを使っているとか。

これもMKが食べたものなのでなんだか忘れました<(_ _)>
春巻きのようにした野菜の何かと何かの肉だと思います。

これは・・・・焼き芋ではなくってナスと何か。
(こんな説明したらシェフが激怒しそう)

これはわたしが食べたものなので、ちゃんと説明できます。
ガナッシュしたキャットフィッシュのカラマンジー、メドラーとカムートです。
といわれてもなんのことかさっぱり、という方がわたしを含め多いと思いますので、

cat fish ナマズ

calamansi フィリピンの柑橘類 (ナマズの上に乗ってる)

medlar 西洋カリン

Kamut コーサラン小麦

前方のカムートと混ざっているものもナマズの身の一部分だと思われます。

わたしの記憶ではこの人生でナマズを食べたのは初めての経験ですが、
想像していた通り、少しオイリーな白身魚といったお味だと思いました。

やっぱり海底でじっとしていて、地震の時だけ暴れるような魚なので、
身が締まっていないのかなと思いました。知らんけど。

しかし食べておいてなんですが、普通ナマズなんかわざわざ料理するかねえ。

というわけでメインまで来たわけですが、デザートにあたっては
またまた面白い演出をやってくれました。

この丸い葉っぱ、ナスタチュームといって、昔育てたことがあるので知ってますが、
花も葉も食べられるものですが、これを鉢ごと持ってきて
可愛いハサミでちょきんと切って、デザートにあしらってくれるのです。

これはTOが頼んだアイスクリームだったと思います。
切りたてのナスタチュームの葉ををあしらってございます。

わたしの頼んだシソのソルベ。

上に乗せてあるのはメレンゲで、エルダーフラワーの味です。
ゼラニウムのシトロネラオイルがかかっています。

MKのお皿のこの黄身みたいなの、なんだと思います?
ひっくり返してもらってびっくり、枇杷(ビワ)でした。

日本以外で枇杷のデザートなんてものを見ようとは。

小さなアミューズブッシュも出され、お茶も出ておなかにもう何も入りません、
となってから、ボーイさんが黒い映写機のケースのようなものを
運んできて、中から取り出したのは・・・。

小さなチェリーチョコレートでした。

向こうには金柑、ほおずき、ブラックチェリーなどがあり、どれもデザート。
この入れ物のセンスもそうですが、かなり日本のエッセンスが感じられます。

説明には、

伝統的なレシピーを現代風にアレンジし、今ではほとんど忘れられている
地元の食材を使うことで、シュタイレレックでしか味わえない料理を提供します。

とありますが、ビワなどもその一つなんでしょうか。

画像にもあるカードには、「食のカルチャー」として、

「ウィーン料理は世界でただ一つ、都市名に料理がつく料理です。
それは200年も前に、『ウィーン会議』が行われた頃からあります。
様々な料理が平和的なハーモニーのうちに混じり合い、彼らの味覚や伝統が
ウィーンの料理の栄光をいや増しました」

とあります。
前衛的な手法のように見えましたが、基本はウィーン伝統に則っている、
とシェフは高らかに宣言しております。

ニュースを見ると、日本から有名シェフが表敬訪問していたりするので、
そういった食の異文化をウィーン会議の時の(キッチンの)ように取り入れて、
発展させていくことを目標としているレストランなのに違いありません。

 

 というわけで、世界でも有名な(らしい)三つ星レストラン、シュタイレレックの
食は、知的な興奮を掻き立ててくれる「美味しいカルチャーショック」でした。

 

 

続く。

アーセナルと三十年戦争〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン滞在最後となった日の我々のスケジュールは過密でした。
朝からマルクト(路上市)見学、三つ星レストランシュタイレレックで昼食、
そして夜には、観光客向けのモーツァルトコンサートと、それだけでも
三日分のスケジュールなのに、この合間にわたしの強い希望により
ウィーン軍事史博物館を無理やりねじ込んだのですから。

せめてこの一日、車があれば随分移動も楽だったと思うのですが、
ザルツブルグから帰ってきてレンタカーを返してしまったので、
移動は全て地下鉄の一日券で行うことに。

軍事史博物館は、地下鉄のカルティエベルベデール駅で降り、
そこから路面電車かバスに乗るのが便利、と後からわかったのですが、
非常に残念なことに、その時わたしはツァーの一切合切をTOに丸投げして、
ただ三歩後ろをついていくだけの妻と化していたため、その結果、
酷暑の炎天下をヒーヒー言いながら歩く羽目になってしまいました。

日本の皆さん、今暑いのはあなたたちだけではありません。
オーストリアの夏も猛烈に厳しいです。

公園の中を通り抜けるようにしてようやく見えてきたのが軍事史博物館。
これはまるで中世のお城のような・・・・・・。

HEERESGESCHITLICHES MUSEUM

というのがドイツ語でのウィーン軍事史博物館という意味です。

Heeres=軍、Geschicht=物語 LICHES=ロイヤル

で、略称HGMということなので、今後当ブログでもそういうことにします。

この煉瓦造りの古城ですが、入り口に「アーセナル」とありますね。
アーセナルというとわたしはどうしてもブラスバンドの名曲を思い出してしまうのですが、
ここは1850〜1856年にかけて、実際に「武器庫」として使われていました。

門を入っていくと、外型の部分は外壁であることがわかりました。
本当に武器の納められている部分は外壁によって守られていたのです。

もちろんアーセナルというのは武器とそれを扱う軍隊がいてこその名称です。
しかし、それは短期間で、この建物はその後改装を経て武器美術博物館となりました。

入ってすぐ右にはレストラン「アーセナル・スチューベン」がありますが、
ここももしかしたら博物館となった時から飲食施設だったのかもしれません。

しかし、ここに来ればオーストリアの軍事史を全て俯瞰できるわけではありません。
膨大な資料を収めるにはここはあまりに制限が多く小さいと考えられました。

戦車を展示している場所は外側にあり、これは大変残念ながら、閉館中で
今回観ることはできなかったのですが(涙)軍用機などは全く別の場所に
「ハンガー8」なる展示館があることがのちに判明しました。

今回わたしはザルツブルグで「ハンガー7」というレッドブルCEOのコレクションを
展示する博物館に行きましたが、実はこのネームは、この
「ハンガー8」のシャレだったのでは、と今になって気づいた次第です。

ハンガー8の存在を知っていたところで、今回は時間が足りなかったのですが、
また機会があればぜひ見学してここでご紹介できればとは思っています。

入り口のこの像が誰なのかはわかりませんでした。
おそらく、開館に尽力したハプスブルグ家の末裔ではないかと思います。

 

ここはその後オープンしてから長らく「陸軍博物館」として親しまれましたが、
第一次世界大戦勃発に伴って、一時閉鎖されていました。

しかし、博物館としてその活動までやめてしまったわけではありません。
戦争遂行の真っ只中も、博物館は虎視眈々と(?)可能な限りの
緻密な収集活動に励み、その赤字を補うべく努力していました。

第一次世界大戦そのものの原因となったサラエボ事件で、オーストリア皇太子夫妻が
暗殺されたときの車をはじめ、一級の資料がここには展示されているわけですが、
その陰にはこのような博物館側の努力があったことは想像に難くありません。

終戦後、1921年に博物館は満を辞して再開を果たしました。

 

1938年のドイツ帝国によるオーストリア併合「アンシュルス」の後、
陸軍博物館はベルリンの陸軍博物館の所長の管理下に置かれ、さらに
1940年からは、第二次世界大戦のキャンペーン、
つまり戦意高揚を目的とした特別展示に使用されました。

「vienna military museum arsenal airraid」の画像検索結果 

その後はウィーンの他の博物館と同様、貴重な目録を疎開させましたが、
1944年9月10日のアメリカ軍の空襲で、建物の北のウィングが破壊されました。

「vienna military museum arsenal airraid」の画像検索結果

その後も連合軍の空爆は何度もウィーンを襲い、博物館は
1945年4月の爆撃で建物だけでなく避難させた展示品も
被害を受け、ついに、略奪も行われました。

1946年になって博物館が再建されるにあたっては、名前を軍事史博物館に改名し、
陸軍博物館の頃より統合的に、歴史的出来事を記録する構成が試みられました。

陸軍の資料だけだったのが、第一次世界大戦後消滅した海軍についても、
ヨーロッパ全体の海軍史を補完することによって展示を充実させ、
文化博物館、美術館、技術科学博物館、自然科学博物館としても
数千ものオリジナルの展示物を所有し、大変貴重な世界の遺産となっています。

入り口で入場料を払いますが7ユーロと大変お安くなっています。
19歳まで、60歳以上と障害者、軍人は制服を着ていれば無料です。

エントランスにはこれでもかと石像が林立していますが、
きっとヨーロッパ史に詳しければ誰でも知っているような軍人なのでしょう。

壁画と天井画はカール・ブラースという有名な画家が行いました。
これを見てもわかるように、芸術的に優れていることはもちろん、
その題材はあくまでもオーストリアの軍事史に基づいていなければなりません。

壁画は1872年に完成しました。

子供の見学も大歓迎。
当博物館ではキッズクラブがあり、その名も「オイゲンズ・キンダークラブ」。
オイゲンというのはもちろんのこと、あのプリンツ・オイゲン公のことです。

ここでキンダークラブのお子さまは、自分の好きな衣装を選び、
男の子は騎士、女の子はお姫様となって博物館の中を探訪することができるというわけ。

わたしが行った時にも子供の博物館ツァーのグループがいましたが、
男の子が皆騎士のマントを着ているのに対し、女の子は素のままでした。

 

今いるアメリカでも博物館や美術館に行くと、子供のキャンプが
見学に来ており、その際必ず彼らはこんな風に床に座り込んで説明を受けます。

家の中で靴を履いている人たちの感覚はわたしたちとは大いに違い、
彼らは外で座り込むことも家と同じように平気なのです。

展示は中世の騎士の鎧などから始まるわけで、日本人でヨーロッパの歴史など
非常に疎いわたしには、ああ中世ね、で終わってしまうわけですが、
実はこの展示が始まるのは

三十年戦争

からなのです。
三十年戦争、歴史の時間に聞いたことがあるような・・と思ったあなた、

「ウェストファーリア条約」

という言葉なら聞き覚えはないですか?

一言でいうとこれはカトリックとプロテスタントの宗教戦争でしたが、
三十年にもわたってヨーロッパ全土でドンパチやっていたというのが凄い。

この戦いでカトリック側を率いたのが神聖ローマ皇帝。
相手のプロテスタント側はフランスのブルボン王朝とネーデルラント。

この時カトリック側、オーストリアとスペインのハプスブルグ家は敗北しました。

求心力をなくしたハプスブルグ家に取って代わったのがホーエンツォレルン家。
この名前にも記憶があります。
学校の授業で習うことって、案外無駄でもないってことですか。

三十年戦争の頃の兵隊の出で立ち。
人形の表情は極力簡略化されていますが、遠目には雰囲気出てます。

三十年戦争の頃にはもうマスケット銃などが登場していました。

ここに中世らしいのっぺりした暗殺の絵があったので写真を撮りました。

三十年戦争の間、ボヘミアの傭兵隊長として神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世に仕え、
帝国大元帥・バルト海提督・フリートラント公爵となって位人臣を極めた、

アルブレヒト・フォン・ワレンシュタイン

の暗殺シーンを描いたものです。
ヴァレンシュタインは戦略家で戦争がうまく、瞬く間に取り立てられて
小貴族でありながら帝国諸侯まで成り上がったことで僻まれ、
軍税制度を利用して占領地から取り立てを行なったたことで恨みを買い、
結局造反を心配した皇帝の命令で暗殺されたと見られます。

彼が暗殺されたのは夜間、寝室で、寝間着を着ている時だったようですね。
絵にはスピッツのような小型犬がいますが、本当だったのでしょうか。

彼は1634年2月、50歳のときエーガーの居城で皇帝軍のスコットランド人と
アイルランド人の将校によって暗殺されました。

典型的な出る杭は打たれるってやつだと思いますが、それにしても
雇い主に寝首をかかれるなんて、せっかく頑張ってきたのになんだったのっていう。

ワレンシュタイン関係で近くにある血染めの手紙が目にとまりました。

全体的に説明書きがあまりなく、あったとしてもドイツ語だけなので、
現地ではとにかく何が何だかわからないで全てを見ていたわけですが、
これはとりあえず撮り、帰ってきて自動翻訳にかけてみました。

ワレンシュタインのパペンハイム元帥への手書きの手紙。
血で染まったページの表には、こう書かれています。

敵がここに進軍し、主人がすべてを置き、何もせずに横たわり、
明日私たちを見つけることができるように

A(アルブレヒト)H(公爵)Z M(メクレンブルグへ)

1632年11月15日

しかし、私は主に仕えたいと思っています。

彼はすでに昨日パンがなくなったパにいます。 逆に緊急の注意: 
Cito,Cito, Citissume, Cito.
(ラテン語で早く、早く、できるだけ早く)

とほほ、自動翻訳酷すぎorz

これは暗殺とは全く関係なく、1632年のリュッツェンの戦いにおいて、
指揮官だった彼が、野戦を敷きスウェーデンのプロテスタント軍団と戦ったとき、
膠着状態と兵糧不足に陥り、パッペンハイムに増援を要請した手紙です。

パッペンハイム

3時間後の午後2時、パッペンハイム率いる騎兵隊が戦場に到着しました。
これを見たヴァレンシュタインは

「あれぞ我らがパッペンハイムだ!」

と叫んだといいます。
パッペンハイムは5度にわたって敵陣に突撃を敢行し、
皇帝軍の劣勢を立て直すことに成功したものの、午後3時、
五度目の突撃の際に銃弾を受けて負傷し、翌17日に死亡しました。

この手紙はそれ以上の説明がないので想像するしかないのですが、
突撃したパッペンハイムが懐に持っていたもので、血は
パッペンハイム自身のものであろうかと思われます。

ちなみに、のちにヴァレンシュタインが暗殺されたのも、この時の
失態が遠因だったということのようです。

30年戦争の頃の鎧の一つ。
顔面を完璧に防御しつつ、下方を見ることができる工夫がなされています。

しかし、先ほどのリュッツェンの戦いでスウェーデンのグスタフ二世が
戦死する時のシーンを見てみましても、

こんなフルアーマーの人はどこにもいないんですよね。
絵だから顔を見せるために鎧なしで戦ってるんでしょうか。

 

続く。

 

 

オーストリアの英雄 プリンツ・オイゲン〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しています。
展示は三十年戦争に始まり、テーマごとに部屋が分かれています。

次の戦争は「大トルコ戦争」。
全く聞き覚えがありませんが、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの
「神聖同盟」とオスマン帝国の間に起こった戦争で、この結果、
オスマン帝国が衰退していったというものだと理解しておきましょう。

ご覧の鎖帷子はかなり位の高い武人のものらしく、
いたるところに宝石まで飾りとして縫い付けられています。

帽子からオスマン帝国軍かなと思ったのですが、説明が読めません(T_T)

このトルコ戦争で神聖同盟のハプスブルグ帝国軍を率いたのが、かの

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

日本ではプリンツ・オイゲン(ちゃん)の名前で有名です。
この博物館の子供向けキャラクターが「オイゲンくん」であることからも、
この人物はオーストリアで最も有名な武人であることがわかります。

博物館チルドレンズクラブのオイゲンくん

三番目の展示は、このプリンツ・オイゲンに関する資料です。

博物館はこの「高貴なシュバリエ」に敬意を評し、ホール全体を
プリンツ・オイゲンにまつわるもので埋め尽くしているのでした。

まず、プリンツ・オイゲンを描いた巨大な肖像画が現れました。

絵の右下にカツラが飾ってあるので、もしかしたらプリンツ・オイゲン着用の
カツラなのか?と思ったのですが、単に消火器カバーのようです(´・ω・`)

さて、ここでせっかくの機会ですので、なぜプリンツ・オイゲンが、
オーストリアならずヨーロッパ全土で英雄と呼ばれているのか、
どういう経緯でヨーロッパ史上最高の軍事司令官と讃えられるのか、
兼ねてから気になっていたところをちょっと調べてみることにしました。

 

日本の我々、特に艦これ関係の方は、プリンツ・オイゲンがドイツ人だから
その名前がドイツの巡洋艦に付されたのだと思っているかもしれませんが、
実は彼はフランス生まれで、19歳までフランスで育っています。

フランス語読みによる名前は

プランス・ウジェーヌ=フランソワ・ド・サヴォワ=カリニャン。

ウジェーヌ=オイゲン(ユージーン)は1663年、パリに生まれました。

貴族の生まれですが、一説にはルイ14世の落とし胤という噂もあるそうです。
なぜなら、彼の母オランプ・マンチーニはルイ14世の愛人という噂があったからです。
彼はルイ14世の宮殿で8人兄妹の末の男の子として育ちましたが、

その貧弱な体格と立ち振る舞いのせいで

小さい時は聖職者にでもなれれば儲けもの、といわれていたそうです。
当時の聖職者って、そういう職業だったんですかね。

彼の父親となったソワソン伯は「勇敢だが魅力のない男」だったそうですが、
落胤の噂が噂に過ぎなかったすれば、彼は父親似ということになるのでしょうか。

彼の容貌についてある夫人はこう評しました。

「彼は決して容姿が優れているとは言えませんでした。
眼は決して悪くありませんでしたが、鼻がそれを台無しにしていましたし、
大きな二本の前歯がいつも口から見えていました」

Savoy.PNGのPrinz Eugene

確かにわたしもプリンツ・オイゲンの肖像画を見て、ここだけの話、
勝手にがっかりしたことがあるのですが、大出世してからの、
フォトショ以上に修正の可能な肖像画でこれだとしたら、おそらく本物は、
不器量に加え、今でいう隠キャで坊主になるしかなさそうな()
冴えない少年期を過ごしたのでしょう。

ちなみにわたしが一番お気に入りのオイゲン像はこれ。
確かに本人ですが、随分とかっこいいではないですかー。

ちなみにこれが描かれたのは1700年のことで、おそらく
これはその三年前、ゼンタの戦いにおけるオイゲンだと思われます。

「Portrait of Prince Eugene of Savoy (1663–1736) c. 1700. Flemish School」の画像検索結果

もひとつついでに、これはカツラで顔を隠しすぎたで賞。

 

さて、19歳の時、彼は軍人を志すことを決めました。

ところが、ここに彼のお騒がせカーチャンが、ルイ14世の愛人、しかも
自分が紹介した愛人を毒殺しようとしたというスキャンダルが持ち上がったのです。

Olympia Mancini by Mignard.pngオランプ・マンチーニ

ルイ14世はそのスキャンダル以降、彼女や彼女の子供たちにも冷淡で、
ウジェーヌが直々にルイ14世にフランス軍に入隊したいと言いに来た時、
請願に来た時の態度が、

「請願の内容は控えめだったが、彼の態度は控えめではなかった。
誰もわたしに対して向けたことがないような無作法な目でわたしを見た」

というものであったこともあって、フランス軍への入隊を許可しませんでした。

 

しかし結果的にこの時の太陽王ルイ14世の判断は、20年後、彼とフランスに
しっぺ返しとなって返って来ることになります。

スペイン継承戦争におけるベレンハイムの戦いで圧倒的な軍事力と政治力により
フランス軍を打ち負かしたのは、彼が追い出したウジェーヌ=フランソワ改め、
ハプスブルグ帝国軍司令官オイゲン・フランツだったのですから。


フランス軍への入隊を王直々に拒否されたウジェーヌは、オーストリアに移り、
ハプスブルグ帝国の軍人となって忠誠を誓いました。

フランス人だった彼がある日突然オーストリアで名前の呼び方を変え、
言語を変えてかつての祖国と戦うという感覚は、現代に生きる人間、
ことに非ヨーロッパ人にはわかりにくいですが、そもそもヨーロッパは
ハプスブルグ家を中心に全土に血縁を築いてそういう意味では
国境というより血族、といった概念が成立しており、オイゲンの家、
サヴォイ家も、スペインやイギリス皇帝の孫の血が流れていたので、
自分が何人かということは問題にしていなかった可能性があります。

あと、気になるのは言語です。
彼はいきなり異国に行って、言葉は困らなかったのでしょうか。

実際に彼はマザータングであるフランス語を好んではいましたが、
レオポルド1世はフランス語を話すことができるのに決して話さなかったため、
なんとイタリア語でコミニュケーションしていたそうです。

そして、軍人としての彼は、全てをドイツ語で行いました。
機能的で軍隊の指揮には向いていると言われるドイツ語を習得するのは
彼にとって極めて簡単なことであったようです。

彼がオーストリア軍人になったのは1683年、二十歳の時でした。
初陣はトルコ戦争でしたが、すぐに軍人としてめきめき頭角を現し、
若くして隊長に任命されるや、その才能は開花しました。

彼がどんなに優れた軍人であったかは、

22歳で少将、24歳で中将に任命された

ことにも表れています。
ある軍人は、

「この若者は必ずいつか世界の偉大な軍人の列に名を残すだろう」

と称賛しました。

そしてその統率力が最大に発揮されたのは36歳の時。
同じトルコ戦争の1697年「ゼンタの戦い」で若き帝国軍司令となった彼は、
神聖同盟の総指揮官としてオスマントルコ軍に対し目の覚めるような勝利を挙げたのです。

ウィキはこの結果を「神聖同盟の圧勝」と記します。

レオポルド1世のもとで彼は重用されました。
オイゲンは生涯結婚せず子供も成しませんでしたが、その理由はともかく、
かつて隠キャ扱いされたその容貌は、レオポルド1世の「陰鬱な」宮殿では逆に
禁欲的で軍人らしいとむしろその評価を高めていたといいますから、
人生何が幸いするかわかりませんね。

オイゲンも、その新たな忠誠心をこのような言葉で誓いました。

「私は、全ての力、全ての勇気、そしてもし必要とあらば
最後の一滴の血に至るまでを皇帝陛下に捧げます」

彼は軍人として名誉の負傷もしています。
1688年、ベオグラードの包囲中、膝にマスケット銃の球を受け、
1年間戦線を離脱することになりました。

冒頭写真のような膝頭まで覆う鎧を着ていれば防げたかもしれません。

ゼンタの戦いは彼を英雄にし、有名にしました。

皇帝から与えられたハンガリーの土地は彼に多額の収入をもたらし、
彼はそれによって芸術と建築の趣味に磨きをかけることができました。

しかし、彼は裕福となっても家族とのつながりとは無縁でした。
彼の4人の兄弟は1702年までに全員早世していましたし、
3人の姉妹のうち生きていた二人も、オイゲンは全くつながりを持とうとせず、
結局悲惨な暮らしの中に死んだといいます。

 

1701年からオイゲンはスペイン継承戦争の指揮をとることになります。
スペイン継承戦争はその名の通り、スペインのハプスブルグ家が
断絶しそうになっているところにルイ14世が色気を出し、
権力争いにヨーロッパ中が巻き込まれたというもので(簡単すぎてすまん)
これも実に14年間も続いています。

ここでオイゲンはかつて自分が志望したフランス軍と戦うことになりました。
苦戦が続きましたが劣勢からトリノでの包囲を破ってフランス軍を倒し
彼はこの功績によってミラノ総督に任命されています。

その後も、彼はスペイン継承戦争の結果オーストリア領となった
ネーデルラントの総督となり、後にはイタリアにおけるオーストリア領の副王、
晩年までオーストリア軍の将軍として生き続け、その功績により
政治的にも大きな発言力を有していました。

彼が没したのは1736年、72歳というのは当時の政治家として長命でしょう。


彼のもう一つの顔は、芸術の庇護者となったことでしょう。
潤沢な資産をベルベデーレ宮殿などの建築に投じ、パトロンとして
学者を応援し、膨大な美術品をコレクションしていました。

オイゲンは相続人となる子をもうけなかったので、莫大な財産と
美術コレクション、建築物はすべてハプスブルク家の所有になったということです。

戦火に生き、いくさをその住処とし、生涯戦場に生きた男。
ヨーロッパ史上最高の名将とその名を謳われたプリンツ・オイゲンは、
血族を信じず、血縁を断ち切って、たった一人でこの世から去りました。

彼の唯一の愛は、彼をプリンツ・オイゲンたらしめたオーストリアと
その帝国、そして皇帝への忠誠の中にしかなかったということなのでしょうか。

そこで世間には当然、彼が同性愛者であったという噂も存在するわけです。

近年の歴史家には、パリ時代の彼が、まるで同世代の有名な女装の男、

フランソワ・ティモレオン・ド・ショワシー

Abbé de Choisy.jpg

のように少女の格好をしていたという説をあげていますし、
同年代の男性で有名人、超優秀な軍人、お金持ちでありながら、
女性との話が一切なかったというのは怪しいといえば怪しいかもしれません。

オルレアン公爵夫人という当時のウジェーヌを知る人の証言によると、

「他の不良王子、『マダム・シモーヌ』とか『マダム・ランシェンヌ』などと
あだ名のある若い人たちと女装をし、彼の役は『下品な売春婦』だった」

うーん・・・これは一体どういうことなんでしょうか。
女装趣味があったということですが、失礼ながらあまり似合っていたとは
お世辞にもいえなかったのでは・・ってそういう問題じゃない?

そして彼はどんな女の子よりも同性を好み、その不品行ゆえに
聖職者になることを拒まれていたというのです。

なんと。

フランス軍に入る以前に、聖職者もダメ出しされてたんじゃないですかー。

しかし、そんな彼が今やオーストリアで一番有名な武人なのですから、
むしろ同性愛はこの世界では歓迎される要素なのかなと(苦笑)

このホールにはプリンツ・オイゲンが実際に着用していた衣装が展示されています。
右のコートのようなガウンのような服は、下半分が欠損していたので
博物館の方で修復し展示しているものと思われます。

ナポレオンは彼を歴史の7人の最高司令官の一人と見なしました。
異論を唱える人もいるようですが、少なくとも彼は間違いなく
オーストリア史上最高の将軍でした。

 彼は、戦闘の優位性と、攻撃を成功させる適切な瞬間をつかむのに
天性のカンを持っており戦略家、および戦術家としては天才と言われました。

しかし、天才にありがちなこととして、彼は後継を育てるということに
一切興味がなかったらしく、これだけ長く軍のトップにいながら、
将校を育てる教育機関を作ろうとはしませんでしたし、軍隊そのものを
機能的に動かすためのシステムづくりにも不熱心でした。

つまり、全て自分がやればいいとでも思っていたのか、
自分なしで機能する軍隊を残して行かなかったのです。

 

彼は戦場において無為な残虐行為は拒否しました。
戦場で部下に要求したことはただ勇気のみ、あとは彼ら自身の判断に任せました。

彼の下での昇進は社会的地位は全く関係なく、いかに彼らが
戦場で命令を遂行するのに勇敢だったかに尽きました。
評価してくれるカリスマ指揮官のもとで、彼の部下たちは
彼のためなら死も惜しくはないという戦いぶりを見せたに違いありません。

ただし、帝国戦争評議会の大統領としての彼ははあまり評価されていません。
得意分野はあくまでも戦場での采配だったということでしょうか。

 

ウィーンでわたしが見たプリンツ・オイゲンの巨大な騎馬像には
彼の功績を記念して、こんな言葉が刻まれています。
一方の台座には三代にわたる皇帝に仕えた彼を称え、

「三人の皇帝の賢明な顧問へ」

もう一方には

「オーストリアの敵の栄光を征服したる者へ」

 

 

続く。

 

 

 

ウィーン発、ピッツバーグ着

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ブログでオーストリア滞在中のことについてお話ししているうちに、
実際にはアメリカ国内を移動する時期がやってきて、
今これを製作しているのはサンフランシスコです。

今日はウィーンからアメリカに移動した日のことをお話ししたいと思います。

ウィーンでザルツブルグの3日を挟んで宿泊したヒルトンともお別れです。
目の前にスタッドパーク(市立公園)があり、交通も便利でした。
もしウィーン旅行を考えている方がおられたら、おすすめです。

 

ホテルから空港まではフラットレートのタクシーをホテルに頼んで
呼んでもらい、三人分の大荷物(トランク10個くらい)を積み込み、
さあ、出発、という時に、TOが運転手さんに向かって

「ウィーンエアポート・プリーズ」

そこまでは良かったのですが、どこの航空会社か聞かれて、

「オーストラリアン・エア」

「おい!」

わたしとMKが同時にツッコみ、運転手さんは苦笑していました。

「オーストリアにカンガルーはいません」

という自虐Tシャツが売られているほどに、オーストリア人にとって
この手の間違いをされるのは日常茶飯なのでしょうけど、
まあ本当にオーストラリアン・エアに乗る人もいるかもしれないし、
しっかり間違いはただしておきました。

というわけでオーストリア空港のオーストリアン・エアにチェックインします。
シンボルカラーは赤なので、ユニフォームは真っ赤なスーツに濃いブルーのスカーフ。

ウィーン空港は割と最近リノベーションしたらしく、とても今風です。

なかなか攻めているオーストリア航空のコーナー。

ラウンジに用意されている食べ物も果物多めでなかなかよし。

滑走路が二本だけということでそんなに大きな空港ではありませんが、
特に冷戦時代は中立国だったせいで、ハブ空港となっていました。

右側に見えているのは中国の海南航空機です。

滑走路の向こうに謎の建物発見。
空港周辺の草刈りをする道具でも置いてあるんでしょうか。

見たことのない塗装の飛行機を発見。
コレンドン航空はトルコの航空会社です。

オーストリア空港の利用は初めてです。
目の前のモニターでは、ウィーンの観光案内のイメージビデオ風が流れています。

インテリアは制服の色よりも随分落ち着いた感じの赤があしらわれ、
Cクラスの席は今時当たり前ですがフルフラットになります。
寝るとANAのシートのように両手が下に落ちてしまうこともありません。

ウィーン発の便では、特に視聴の需要が多いのでしょうか。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」を放映していたので、
ここでお話しする為に全編通して観ました。

これはザルツブルグ大聖堂。
映画の至る所で観光案内をしているのに今更気がつきます。

この登山電車が出ているのがザルツ・カンマーグートで、できれば
乗ってみたかったのですが、今回は時間がなく断念。

次いでお楽しみの機内食ですが、さすがというかなんというか。

これはアボカドやラディッシュのサラダなのですが、
土台?にお皿のように敷いてあるのはカテージチーズです。
シンプルにオリーブオイルとバルサミコ酢で味付けされていて、
この組み合わせは機内食と思えないくらいの完成度でした。

メインはチキンを選択しました。
外側をパリッと焼いた骨つきチキンはローズマリーと焼いたレモンをあしらい、
付け合わせの野菜もまるで一流レストランで出てくるようなあしらい方です。

パンは日本やアメリカの航空会社のようにレンチン()していないらしく、
パサパサになっておらず、それにバターとハムスのようなペーストが添えられて。

わたしが今まで乗った航空会社の食事の中で最高でしたし、もしかしたら
オーストリア滞在を通じて取った食事の中で、シュタイレレックに次ぐくらい
高級感がありかつ美味しかったと言っておきます。

ブレてしまいましたが、こんな本格的な格好をしたシェフみたいな人が乗っています。
とにかくオーストリア航空、食へのこだわりがこんな演出からも窺えます。

 

ところで、今回「世界一周周遊プラン」を選択した我が家は、

「地球を同じ向きに三大陸めぐり、各都市で24時間以上滞在」

という条件を満たすべく、大西洋からアメリカに渡りました。
もしこれを読んでいる方、近々例えばアメリカに行く予定がおありなら、
そして時間の余裕がちょっとだけあったら、

日本ーヨーロッパーアメリカー日本

と寄り道するだけで、航空運賃がアメリカと往復するより、下手すると
半額近く安くなるというこのプランをぜひ検討してみてください。

エコノミー、ビジネス、おそらくファーストクラスに関わりなく条件は同じです。

このプラン、知らない人が多く、こんなのがありますよと教えてあげると
皆一様に知らなかった、とえらく驚かれます。

わたしたちは全日空が直行便を飛ばしていたので今回ウィーンを選択しましたが、
別に他の大陸(アフリカとか)でもいいんですよ。

さて、というわけで飛行機は大西洋を飛び越してダレス空港に到着。
ここで乗り換えです。

アメリカの空港はどこでも必ずといっていいほど、軍人を讃え、
その功績を紹介するコーナーをいろんな形で持っています。

日本は子供連れとハンディキャップのある人が優先搭乗させますが、
アメリカの空港では「ミリタリーサービス」が優先的にコールされます。

昔、海外から帰還してきた軍服の軍人の一団と一緒になったことがあり、
機長はどこそこで中流の任務を終わったなんとかキャプテンのグループ、
と彼感謝の言葉とともに彼らを紹介し、機内から拍手が起きたものです。

最近のアメリカの空港は、人手を減らし、効率的に注文を取るために
このようにタブレットで注文する形式が増えてきました。
外国人も多い空港では、言葉の問題もなく、双方ハッピーです。

ピッツバーグに到着し、レンタカーをピックアップします。

いつもわたしはフリークェントカスタマーの特権である「プレジデントサークル」、
つまりハーツ的には余って乗り手のない車、どれでも好きなのに乗っていってください、
というコーナーに案内されるので、今回もたかをくくってそうなると思いこんで、
フルサイズクラスのセダンを予約していたところ、なんとピッツバーグのハーツでは
なぜか普通のカスタマー扱いされ、律儀にセダンが割り当てられていました。

こちらは三人で、合計10以上のトランクがあるのにも関わらずです。

「あー、これじゃ全部荷物載らないね」

「プレジデントサークルで大きな車を選べると思っていたのに・・・」

仕方なくスウィッチ(車の交換の時にはチェンジではなくこう言います)
をお願いしたら、なんとこんな車が出てきました!

クライスラーの「ノーチラス」。

ノーチラス、名前がまたいいじゃないですか(・∀・)!!
大きい割には燃費も良く、操作しやすくてアクセルのレスポンスも早く、
さすがはクライスラーと感心しました。

今回の滞在では巷で「エアビー」と呼ばれているところの民泊を予約しました。

MKが今回大学の研究室でインターンシップをすることになったため、
アメリカに戻ってきたのですが、アメリカの大学というのは、
夏の間寮を利用することができないため、民泊を借りて、ついでに
わたしも彼の生活の手助けをしつつ滞在を楽しんでしまおうという考えです。

後でわかったのですが、この辺りはユダヤ人街で、シナゴーグがあり、
周りの住人はほとんどがジューイッシュのようでした。

わたしたちの部屋のオーナーもユダヤ人で、彼女は昔、
小さいときに鎌倉に住んでいたことがある、といって、挨拶の時
携帯の白黒の写真を見せてくれました。

土曜になると、その辺を黒いスーツに帽子、丸いパンケーキを頭に乗せた
ユダヤ教徒の皆さんが歩く様子に最初は驚きました。

わたしたちの泊まった部屋は、向こうの棟の一階(地下付き)です。

軽く築100年くらいはいっているのではないかと思われます。
とにかく、アメリカの家は大きいのでその点は助かります。

最初の日は猛烈に暑く、次の日には大雨が降り洪水警報が出ました。
窓付け型のクーラーは、とりあえず掃除が必要だったのですが、
三日目から稼働してどうなることかと危ぶまれた生活がなんとかスタート。

わたしがうっかりしていてwi-fiがないのを見落として契約してしまったのですが、
こちらで携帯用wi-fiを買うことでこちらの問題も解決。

ありがたかったのがキッチンの広さと食器の多さです。
コンロ台が二つ、オーブンが二つとよくわからない品揃えですが、
これだけ余裕があり、鍋もお皿もいくらでも使えるので、滞在期間
工夫と手間をかけた料理を作ることができました。

料理を作るのが好きなMKがレシピを提案し、買い物をして
日本で使ったことがないような食材を使って作るのです。
他にもそうめんやラーメンなども、工夫して出汁から作ったり、
おかげで夏中思わぬ「お料理大会」が開催されることになりました。

キッチンの後ろには、アメリカの家にはよくあるように、バックヤードがあります。
バックヤードには仕切りがなく、基本的に集合住宅に住む人が誰でも通れるのですが、
暗黙の了解があって、人の家の前をウロウロつする人はいません。

しかし、朝、リスはもちろん、ウサギが来ていたこともあります。

MKのインターンシップが始まりました。
初日なので父兄参観を決め込み、中を見せてもらいました。

差し障りがあってはいけないので写真の紹介はこれだけにしますが、
工科大学の研究室というのは、とにかく機械類に囲まれていて、
分野違いの人をもワクワクさせる「何か面白いことが起こりそうな」
知的な空気に満ちていて、いつ見てもいいものです。

ところでこの紫の物体は、もしかしたら泊まり込むためのものの・・・・?

 

さあ、これからアメリカでの生活の始まりです。

 

続く。

ハプスブルグ家の皇位継承と男系断絶(1)〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しています。
前回のプリンツ・オイゲンのコーナーでは、そうと知っていたら、
オイゲンの着用していたという鎧などもちゃんと写真に撮ったのですが、
展示の説明がドイツ語の上、外国人には非常に読みにくいフラクトゥール
(亀の甲文字)であるため、概要すら理解しないまま見学し、
記憶の片隅にある知識を呼び起こしながら歩くという体たらくだったので、
写真を撮ったものもごくごく一部ということになります。

ちなみに展示写真は個人使用(ブログもOK)についてのみ許可されております。

その展示から、二回に分けてハプスブルグ家の皇統問題について語ってみます。

 

 ◼️マリア・テレジアが子供を多産した理由

プリンツ・オイゲンの時代(1700年)から進んで、次のホールは
オーストリアの偉大な女帝、マリア・テレジアの特集です。

女帝とその夫、フランツ・シュテファン、そして女帝の手を握っている
男の子が、のちの皇帝ヨーゼフ二世です。

マリア・テレジアについては、20代から40代にかけて、
とにかくお腹が空いている時期の方が少ないというくらい子供を産みまくり、
同時に執政を行なったと前回もここで述べたわけですが、彼女にとって
子作りとは、彼らをヨーロッパ中の王室と婚姻させることで縁戚関係を結び、
それをもって同盟を作り上げるという、「政治活動」だったのです。

この頃は子供を産んでも大人になるまで育つ確率が今より格段に低く、
無事に育ったとしてもいろんな理由でその目的に至らない可能性を鑑み、
いわば執政の一環として、自らの子を産めると言う機能を最大限に活かした、
というようにわたしは解釈していたわけですが、今回、また違う側面から
マリア・テレジアの戦略に止まらないある「願い」が見えてきた気がしました。

今日はそんなことをお話しします。

 

さて、このコーナーは三つのパートに分かれており、

カール6世

マリア・テレジア

ヨーゼフ2世

という三代に亘るハプスブルグ家の時代が俯瞰できます。

 

フランツ・シュテファンと結婚したマリア・テレジア(1708-1765)は、
偉大なる父親カール6世の死後、いわゆるオーストリア継承戦争(1740-1748)で
ほとんどすべての隣国から国土を守るという重い任務を負うことになりました。

「マリア・テレジア」の画像検索結果

◼️初恋を実らせた奇跡的な結婚

サービス画像、マリア・テレジア芳紀16歳ごろ(想像)。
しかしのちの女帝は若い頃とんでもない美女ですなあ。
これがいわゆる「お見合い写真」に相当するものであり、肖像画家の
割り増しを差し引いたとしても、美しかったのは間違いありません。

ちなみに女帝の肖像画を見ると、彼女はこの肖像画のようなブルーグリーン、
深い緑がかった青のドレスを選んでいることが多かったようです。
上の家族肖像で着用しているのも、織りにブルーが入っています。

海外のドラマを見ていると、俳優たちが瞳と同じ色の服を着ていることが多く、
それがとてもお洒落に見えて羨ましいのですが、マリア女帝も
残された肖像画から察する限り、深いグリーンの瞳をしていたようです。
 

しかしここで改めて知って驚くのが、あのプリンツ・オイゲンが、
彼女とプロイセンのフリードリッヒ2世を結婚させようとした、という話です。
オイゲンは政治家として皇室の婚姻問題に積極的に関わっていたようですが、
この時の話はこのような理由で流れました。

まず、フリードリッヒ2世は、ハプスブルグ家と結婚するのに必要な
カトリックへの改宗ができなかったこと。

二つ目は「小さなレースル」ことのちのマリア・テレジア女帝は
6歳の時から婚約者となる9歳上のフランツに恋していたこと。

 

彼女の婚姻は当時の王族にはありえない奇跡的な「恋愛結婚」であり、
しかも相手は彼女の初恋の相手であったわけで稀少な例でした。

 

フランツ1世も彼女を憎からず思っている「相思相愛」でしたが、
その結婚生活は、次第に彼にとって面白くないものとなっていきます。

異国のフランスから嫁いで、じゃなくて婿入りしてきたがゆえに、
宮殿の人々にあからさまにバカにされ、無礼や嫌がらせを受けるなど。
公私にわたる屈辱を味わううち、彼はせっせと浮気に精をだすようになります。

女帝の夫としての「公務」である子作りの合間を縫って。

58歳で亡くなったときにもフランツ1世には愛人がいました。
当時のフランス宮廷などでは特に、恋愛というものは夫婦同士でするものではなく、
政略結婚をしておいて、他に愛人を作るのが「粋」という時代だったので、
誰が誰の愛人などという話は公然として皆の知るところとなっていました。

しかし倫理観というのが今日とは全く違うことをさておいても、愛人の正妻が
ハプスブルグ家の血の継承者で国のトップとなれば話はちょっと違ってきます。

案の定、葬式の席で、フランツの愛人であったその夫人は、周りが女帝に忖度して、
誰も近づかず遠巻きにされていたのですが、女帝は自ら近づいて彼女の手を取り、

「わたしたち二人は、お互いにとても大切な人を亡くしてしまいましたのね」

と声をかけました。

女性の施政者には、権力握ったらその力を利用してライバルを惨殺する
呂夫人や西太后みたいなのがいました(西洋にもいますよね)。
その相手が政敵や論敵ではなく「恋敵」であるあたりが権力の濫用です。

彼女はこのとき43歳、まだ若く、夫の浮気には心悩まされていたでしょうし、
相手の女性を憎む気持ちもきっとあったに違いないのですが、
女帝であるが故の誇りと抑制が、嫉妬を遥かに凌駕したのでしょう。

自分の言動がどんな小さなことも歴史に記されるものであることを、
何よりも自覚していなければできることではありません。

夫の亡き後、彼女はドレスを全て女官に与えて自分は死ぬまで喪服で過ごしました。

喪服のマリア・テレジア

◼️男系断絶したハプスブルグ家

ところで、ここからが本稿の本題です。

女帝とよく言われますが、マリア・テレジアは正式には女帝ではありません。
なぜなら当時女性が皇帝になることはできなかったからです。

 

これは今現在、我が国の皇室を巡って巻き起こっている議論と
まさに本質を同じくしている例なのですが、つまりこういうことです。

時の皇帝カール6世は男の子供をもうけることができませんでした。
そこで彼は、娘であるマリア・テレジアに皇位を継がせようと、
生存中に根回しをして、女子の相続を認める国事詔書を発布し、
フランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせようとしたのです。

しかし、やはりそれでも制度上女性が皇帝になることはできないので、
彼女が結婚したフランツ・シュテファンが即位する、ということにしたのでした。

つまり、夫を「お飾りの皇帝」に付け、娘であるマリアを
実質的な施政者にすえようとしたわけです。

これどういう意味かお分かりでしょうか。
カール6世の思惑によって、何が起こったか。

フランツ・シュテファンが皇帝になるということは、ハプスブルグ家は
カール6世が崩御した瞬間、

男系が断絶

して同時に王朝もそこで終了してしまうことを意味します。

 

◼️我が国の皇位継承問題について

ここで大変畏れ多いのですが、今我が日本国の皇室にこのことを置き換えて
ちょっと考えていただきたいと思います。

あくまでも仮定でありフィクションですが、今の日本で天皇陛下が
皇位継承に決定権を持っておられたとしましょう。

その陛下夫妻には皇位継承者の資格を持つ男児は生まれていません。
そこで、何が何でも自分の娘である親王殿下を時期天皇にしたい、
として、天皇陛下御自ら皇位継承の順位を変えてしまわれたとしたら?

カール6世がしようとしたことはそれと同じことでした。
自分の娘を、前例のない女性皇帝の地位に付けようとしたわけです。

カール6世にはカール1世である兄がいましたので、もし彼に男児がいたとしたら、
後継者は文句なくこの男児に決まっていました。

再び畏れながら現代の日本の皇統は幸運にも同じ形による継承者が決まっております。

しかしカール1世には男児は生まれず、自分の娘婿に皇位を継がせることを
「根拠がない」として退けましたから、こちらでも結果男系は断絶していました。

 

カール6世は自分にそのうち男の子ができるだろうと楽観していたそうですが、
年齢的にももうその可能性がないとわかった時、手立てを他に求めず、
安易に自分一人の判断で男系を終了させるという選択をしたことは、
なんというか、非常に見通しが甘かったという他ないでしょう。

現に、根回ししたにも関わらず、カール6世が急死した後、
ヨーロッパ諸国は女性が皇位を継ぐことに猛反対して、全土にわたる

オーストリア皇位継承戦争

が巻き起こる結果となったのですから。


ところで、余談のようですが、ついでにこの件についてもう少し言及すると、
昨今、我が国の皇統問題について、男系の保持を理由に女系天皇に反対する意見を、

「女性差別」

などという理由で「排除」しようとする

側から見ると革新的な自称保守

の方々がいます。
共産党や左派メディアなどがそれを後押ししているということで、
それだけでも「あ・・・察し」なのですが、それらを抜きにしても
どうもこの考えの人たちの言説は、

「男系カルト」「男系論者打倒」「議論を放棄するんじゃないよ」

などと、不必要にアグレッシブで挑発的なのがいただけません。
彼らの論理性にも言わせていただければちょっと問題があって、
あるジャーナリストを自称されている方などは、

「現在の皇位継承順位の変更を前提としなければ、
安定的な皇位継承など望めない」

などと主張しておられ、大変失礼ながらこれには呆れかえりました。

まず、なぜ「皇位継承順位の変更をしなければ皇位継承ができなくなる」のか、
そもそも現行の皇位継承順位に則ることの何が一体それほどの問題なのか、
わたしにはまずこの意味がさっぱりわかりません。

しかも、わたしに言わせればこの一行、前半と後半で見事に矛盾しています。
つまり、仮に彼らが望むような

「皇位継承順位の変更」

が実現すれば、その時点で現在の皇統は途絶え、

「安定的な皇位継承」

とやらは終わりを告げるのです。

女系天皇擁立論はその意味において一種の「革命思想」であり、
目的とするところは体制を打ち倒し、現在の皇室を実質消滅させるとイコールであると
気づいていないのか、それとも気づいた上でやっているのか・・・。



ところで、冒頭の「なぜマリアテレジアが子供をたくさん残したか」
ですが、これは政略結婚のためにその「胤」は多いほうがいいとする
この頃らしい戦略であったのは間違いないところですが、男系が断絶し、
彼女から新しい「王朝」が始まったと知ってこの件をあらためてみると、
こんな可能性もあるのではないかとわたしは思うようになりました。


つまり彼女は、祖となった自分とフランツの子孫、ロートリンゲン家を
せめて後世に末長く伝えるため、父の代で途絶えたハプスブルグ家の轍を踏まぬよう、
出来るだけ多くの命を世に送り出すことを決めたのではなかったでしょうか。

それはまさに、女性である彼女にしかできない方法で。



さて、次回はそのオーストリア皇位継承戦争と、彼女の息子である
ヨーゼフ二世についてお話ししてみたいと思います。       続く。

ハプスブルグ家の皇位継承と男系断絶(2)〜ウィーン軍事史博物館

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さて、前回に続き、ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しながら
ハプスブルグ家の皇統問題について語っていきたいと思います。

男子が生まれなかったので、自分の娘であるマリア・テレジアを
実質的なハプスブルグ家の「施政者」にしようとしたカール6世。

念のため、カール6世のwikiを引いてみたところ、こう説明がありました。

「ハプスブルク家最後の男系男子であり、
狭義には同家最後のローマ皇帝である」

カール6世はも血の繋がった娘に神聖ローマ皇帝の地位を譲るために、
自分を最後に男系を断つことを選択したのでした。

しかしこれを、皇帝ではなく一人の父親のしたものと見た場合、
婿となったフランツ・シュテファンのことは息子同然に気に入っており、
さらにフランツは、娘と相思相愛の仲だったわけですから、
この時の選択は公より私を選んだ人間的なものであったと解釈されます。

その後、マリア・テレジアは待望の男児を産み、その子は
のちのヨーゼフ2世となりますが、彼はハプスブルグの血ではなく、
ロートリンゲン家の男系男子として皇帝になったということになります。


◼️オーストリア皇位継承戦争

しかしながら、カール6世の選択は、諸国に反対理由を与え、それがきっかけで
全土に飛び火し8年にわたる戦争に発展することになります。

これがオーストリア皇位継承戦争(1740ー1748)です。


このオーストリアの継承戦争における諸国の反対理由は、
日本で女系天皇も女性天皇も一緒くたにした人たちが声高に叫ぶような、
「女性差別」などではありません。

もちろん、女性に基本的人権はなかったかもしれませんが、そもそも
「人権」などというのは、誰のに限らず、つまみにしたくとも
どこにもない時代です。

ジャン・ジャック・ルソーらの天賦人権説が生まれたのはやっとこの頃で、
この思想はやがてフランス革命に繋がっていくことになります。


諸国の女帝継承への反対理由は、ズバリ、男系が終了するからです。

ただし、それはハプスブルグ家の存続と弥栄を願ってのことなどではなく、
常にすきあらば権益を凌ぎ合う当時のヨーロッパ諸国にとって、
いちゃもんをつけあわよくば国益をかすめるための建前に利用されたのです。

この件を最大に利用して、ハプスブルグ家の弱体を狙ったのがフランスでした。

そして、一歩間違えていたら彼女が結婚していたかもしれないプロイセンの
フリードリッヒ2世は、マリア・テレジアの夫が即位することを認める条件に、
シュレージエン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めてきました。

オーストリア宮廷がもちろんこれを拒否すると、プロイセン軍はバイエルン、
フランス、そしてザクセンなどの支持を準備して、1740年12月16日、
オーストリアの不意を突き、シュレージエンに侵攻を行いました。

マリア・テレジアはフリードリヒ2世の侵略に激怒します。

Friedrich2 jung.jpgフリードリッヒ2世

 

ちなみにこの時マリア・テレジア32歳、フリードリッヒ2世38歳。

前回なぜこの二人の婚姻が実現しなかったか、理由を説明しましたが、
改宗問題とマリア・テレジアに想い人がいたという阻害原因さえなかれば、
この結婚は成立したでしょうか。

答えはナインです。(一応ドイツ語で)

フリードリッヒ二世は若い頃、イギリスの王女と結婚させられそうになって
脱走を図ったことがあるのですが、この時に逃亡を手伝い一緒に逃げたのが
近衛騎兵少尉、ハンス・へルマン・フォン・カッテという人物です。

フリードリッヒ2世の側近であり「親友」でもあったという青年で、
この二人は同性愛であったとも言われています。

つまり、プリンツ・オイゲンに続き?このヨーロッパの武人として名高い
フリードリッヒ二世にも限りなくゲイ疑惑があるのです。

その後も結婚はしましたが、相手の女性には全く関心を示さなかったとか、
ヴォルテールに入れ込んでたとか、部下に膝枕してもらったとか、
目をつけられた部下はお声がかかったらお相手しないといけなかったとか、
本当かどうかはわかりませんが、そんな話はたくさんあったそうです。


ところで、息子の脱走事件に激怒した父フリードリッヒ・ヴォルテール1世は、
カッテ少尉を処刑し、それを見ることをフリードリッヒ二世に強要しました。

「許してくれ、カッテ!」

「私は殿下のために喜んで死にます」

窓から手を伸ばしているのがフリードリッヒ2世です。
その後、彼は父帝の命令で長らく幽閉されていました。

しかし、こんな父子の仲を取り持って、最終的に
息子が父の後継となれるようにしたのは、何を隠そう、
マリア・テレジアの父カール6世だったのです。

要するにマリア・テレジアの父もフリードリッヒ二世が
どういう性癖かよく知っていたことになるので、そんな男と愛娘を
結婚させるつもりは万に一つもなかったに違いありません。


とにかく、そんな二人を首長とする二つの国がぶつかり合うことになったのです。
マリア・テレジアは2万の兵を出兵させますが、結果はプロイセンの圧勝。

バイエルン、フランス、スペインの三国に加え、プロイセン、ザクセンが
同盟を組んで、オーストリアは八方塞がりになってしまいました。 

◼️オーストリア=ハンガリー帝国爆誕

ハンガリー女王マリア・テレジア

そこで彼女がどうしたかというと、ハンガリーに救いを求めたのです。

兵力を出してもらう代わりに自分が女王となって特権を与える、
というのはいまいちよくわからない同盟ですが、とにかくこれで
オーストリアは精強なハンガリー軍の兵力を手に入れることになりました。

そして 特筆すべきは、マリア・テレジアはこの頃、第4子である
カール2世を出産していたということです。 

 

オーストリア継承戦争は1748年のアーヘンの和約によって終結しました。

その結果、オーストリアはハンガリーと組んだのが幸いして、各国に勝利し、
侵攻された土地はすべて奪い返しました。
これによってマリア・テレジアは実質的な神聖ローマ皇帝位も確保したのです。

この時、フランスはここぞと相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やして
オーストリアの弱体化を図ったわけですが、逆に失敗し、それが
フランス革命で自らの滅ぶ遠因を作ることになりました。

イギリスなどもこの戦争において利益を得ることはなく、最終的に
一人勝ち状態だったのがプロイセンのフリードリヒ2世です。

彼はこの戦争でシェレージエンをオーストリアから奪うことに成功した上、
数々の戦闘で軍事的才能を発揮し「大王」と謳われることになりました。

 

個人的にちょっと好きなので()もう少し書いておくと、フリードリッヒ二世は
哲学者でもあり、ヴォルテールと親しく、哲学書を著したのみならず、
芸術にも秀で、あの音楽家クヴァンツに薫陶を受け、サロンには名だたる音楽家を集め、
バッハ親子とも知り合いで、フルートをプロ並みに吹き、自分の楽しみのために
たくさんのフルート曲などを作曲したという才能の塊のような人物で、
ついでに大変な美食家でもありました。

ちなみに、セバスチャン・バッハの有名な「音楽の捧げ物」という曲集は、
バッハがフリードリッヒ大王に謁見した時にもらった「お題」をもとに
作曲されたものを集めています。

 

 

◼️ ヨーゼフ二世

いわずとしれたマリア・テレジアの長男。
神聖ローマ帝国皇帝です。

ヨーゼフ二世というとわたしが思い出すのが、映画「アマデウス」です。

「ヨーゼフ二世というと思い出すのが、映画「アマデウス」」の画像検索結果

これが似てるんですよね。本物に。 
映画は英語のセリフでしたが、特に皇帝が

「ふん・ふん↑?」

と鼻で返事するのが、なんとも皇帝っぽくて(英語ですが)最高でした。

ヨーゼフ2世とレオポルト2世

衣装はこの絵を参考にして同じデザインで作っていますし、
俳優は絶対この絵に似た人を選んでると思います。

ヨーゼフ二世に対する後世の評価は、

啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした
啓蒙専制君主の代表的人物であった。
その政策と思想はヨーゼフ主義と呼ばれ、その急進的改革ゆえ
「民衆王」「皇帝革命家」「人民皇帝」などのあだ名がある。(wiki)

など、決して悪くありません。

ただ、何がきっかけはわかりませんが、彼はフリードリッヒ2世の熱烈なファンで、
よりによって母親の天敵をヒーローのように崇拝していました。

マリア・テレジアにしたら、これは決して許せないところだったでしょう。



ところで、この大作には、下に一人一人の名前が全て記載されており、
全員が実在の人物であったことを表します。

右からハンガリー軍のアンドラス・ライヒスグラフ・フォン・フタク伯爵、
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン元帥、
白馬に乗っているのがヨーゼフ二世、
フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー伯爵(元帥)、
フランツ・ヨーゼフ1世リヒテンシュタイン公。

そして、一番左の少年は、のちの神聖ローマ皇帝フランツ2世です。

ヨーゼフ二世にも男子が生まれなかったため、甥にあたる
トスカーナ大公の息子である彼をフィレンツェから呼び寄せ、
後継者として教育していました。

フランツ2世は、のちにオーストリア帝国を再編し、自らを
フランツ1世と改名しております。

彼の業績で特に有名なのが、あの「ウィーン会議」を開いたことであり、
メッテルニヒを採用したことでしょうか。


 

◼️ヨーゼフ二世の命を奪った澳土戦争のマラリア

ヨーゼフ二世の時代、オスマン帝国との間に澳土戦争が起こりました。

オーストリアがなぜ度々トルコと戦争しているかというと、
地図を見ていただければお分かりのように、こ国土が隣り合っていたからなんですね。

この時、最前線のオーストリア軍はマラリアなどの病気に襲われ、
「エピデミック」の様相を呈し、軍の半分が罹患していました。

この時ヨーゼフ2世は戦時中は最前線にいたため病気に罹り、
これがもとで1790年2月20日に死亡しました。

澳土戦争時代に使われていた槍の各種。

軍楽隊の楽器も展示されています。

そしてここに展示されていた絵の一部。
前線になぜ女性や子供がいたのかはわかりませんが、
兵士が銃剣を突きつけているのは間違いなく平民です。

 

◼️ もう一度皇統継承問題

ハプスブルグ家

オーストリアハプスブルグ家の系図を改めてご覧になってください。
神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に始まった家系は、
マリア・テレジアとその夫フランツ1世で途絶えています。

彼ら二人のなした子供たちは、すでにハプスブルグ家の血を弾いておらず、
フランツの家系であるハプスブルグ=ロートリンゲン家に属することになり、

つまり彼らをもってハプスブルグ家は終わり、彼らから新しい家系が始まった

ということが一目でわかるでしょう。

 

最後に。

我が国の皇位継承問題について、特に現行の継承順位に物申す人たちに
ぜひ伺ってみたいことがあります。

現行の制度を改革し、

「男系論者を排除・打倒する」

というのは具体的に何をなさるおつもりなのでしょうか。

マリア・テレジアの時代なら戦争も辞さない不穏さです。
何しろ「打倒」ですから。

たとえそれが言論という手段を意味していたとしても、彼らが好む
まるで階級闘争のような物言いは、少なくともこの問題を論じるに相応しくありません。

政府見解として出されたのに同じく、

「皇室についての議論は静かな環境で行うべきではないか」

 と、わたしは臣民の一人として彼らに提言したいところです。

 

 

続く。

 

アップルウォッチ(とBOSEのサングラス)でピッツバーグを歩く

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日本でも出来るだけiPhoneの歩数を気にしていたわたし、
アメリカに来てから、アップルウォッチデビューをしました。

日本でもそうかと思いますが、こちらのAppleでは、製品を買うと
パッケージを自分で開けさせてくれます。
アップル製品の箱はものすごくよくできていて、開けたり
製品を取り出したりするときになかなか気持ちがいいのです。

どこまでもきっちりと収まっている感じ、滑らかな材質、
シャープな箱のエッジ、全てがある種の快感を呼び起こすのです。

今まで携帯を持っているときにしか歩数が測れなかったのですが、
これなら一日の総歩数がわかる上、このリングモードにすると、

赤→ムーブメント(総歩数)
緑→エクササイズ時間(基本設定は30分)
青→スタンディング時間(12時間)

が完成すると輪がつながり、チャリーン!と音がして、
時計がメダルをくれたり、メッセージで褒めてくれたりします。

どういうセンサーなのか知りませんが、座っていると時々、

「立ち上がって1分動きましょう」

と教えてくれますし、やはりじっとしていると、

「1分間深呼吸しましょう」

などと言ってきます。
一度、呼吸アプリを押して何か用事があってやらなかったら、
あなたやってませんね、みたいなメッセージが来てビビりました。

というわけで、すっかり時計に支配される生活になっているわけですが、
これがなかなか快感で、やめられません。
今のところ買ってから連続リングをつなげることに成功しているので、
それでモチベーションが維持されているという感じです。

というわけでピッツバーグでも恒例のウォーキングが捗ります。
MKを大学に送って行ってから、早速学校の近くの公園に歩きに行きました。

 

もちろん音楽は欠かせません。
Apple Watchは、iPhoneに入っている音楽とリンクしていて、
いちいち携帯を取り出さなくても音量やスキップが手元できて便利。

加えて、今回、わたしは散歩のお供としてこんなに心強い奴はいない、
というくらいよくできた、BOSEの新型サングラス型イヤフォンを手に入れました。

これはウィーン空港から出発する直前、空港のショップの前を通りかかって
見つけた瞬間お買い上げを決めた運命の商品ですが、今まで愛用していた
オークリーのサングラス型イヤフォン(イチローが使ってたやつ)が
生産中止になって、今持っているのが壊れたら修理もままならないのでは、
という状況だったため、飛びつきました。

買ってみるとこれがなかなかの優れものです。

サングラスを裏返して置いたツルの部分です。
ゴールドのボタンをぽちっとすると、

「バッテリ−100%、コネクテッドトゥNYAN CAT'S PHONE」

と聴こえ、電源を切るには、サングラスを外して裏返しにするだけ。
ちなみにNyan cat's phoneはわたしのiPhoneの名前ですが、
このメガネ、これを

「ナイヤン・キャッツ・フォン」

と発音します。

耳にかける部分にイヤフォンが付いていたオークリーと違い、
サングラスのフレーム部分に小さなスピーカーの穴が空いていて、
ここから聴こえてくるのですが、近くにいる人には全く聴こえませんし、
何より耳の穴を塞がないので、サングラスをしたまま人と普通に会話できるのです。

ピッツバーグの中心部には、シェンリーパークという広大な緑があり、
その中はいたるところにトレイル(散歩用の小道)が設けられています。
到着してから1週間は、毎日歩きやすくて日陰が多く、
森の中を通るコースを探して色々歩いてみましたが、あまりに選択肢が多く、
これぞというコースを極めたのは最後の日でした。

どこを歩いても、だいたい1時間で車を停めたところに帰って来られます。

管理はしっかりできていて、トレイルの整備もしょっちゅう行われますが、
こんな感じに倒れたような木は基本放ったらかしのまま朽ちさせています。

あくまでも自然のままに任せる方法で森を維持しています。

最後の日に極めた「至高のコース」は、こんな道をずっと通って
木陰を歩き、一周して帰ってくるというものでした。

公園の中には川が流れ、こういう池があったりします。

ピッツバーグも最近は雷を伴う土砂降りが多く、地元の人は
今までこんなことはなかった、と訝っているそうですが、何か
地球規模でそういう傾向にあるようで・・・何が起こってるんでしょう。

この日は前日の雨で池が泥に濁っています。

公園のあちらこちらには、古めかしい雰囲気の橋や階段があり、
そのどれにも

WPA 1939 

と刻印があります。

今ではトランプの悪口などが落書きされていますが。

WPA( Works Progress Administration)

は、あの大恐慌で失業した人たちに対する救済プログラムで、
ここピッツバーグでは1938年から1939年にかけて、
公園内の橋や階段を設置する工事に人が集められました。

「昨日まで葉巻をくわえてガウン着てた人たちが、
ツルハシ持って頑張って作ったんだね」

 恐慌後の失業者対策で、特にアメリカ東部には各地に
このような公共事業によって作られたものが点在するそうです。

WPAの事業一覧

公園の中にはサッカー競技場、陸上トラック、テニスコートやゴルフコース、
ありとあらゆるスポーツの施設が含まれます。

この時には女子サッカーのチームが練習をしていました。

冒頭写真は公園の高みからピッツバーグ大学の塔を望んだところ。
塔を見下ろす丘には、いくつかのこのようなメモリアルがありました。

この「フロー・ジェイミソン・ミラー」という女性は、
南北戦争時代に結成された

「ナショナル・ウーマンズ・リリーフ・コーア」

という愛国団体のプレジデントだった人物です。
戦争に女性が参加しなかった時代なので、彼女らの任務?は
戦死した兵士の墓に飾る花輪を子供たちと一緒に作ることなどでした。

公園のいたるところには銅像がありますが、この後ろ向きの像は、
発明家ジョージ・ウェスティングハウスの若い頃です。

またそのうち取り上げますが、エジソンと同時代の発明家で、
ライバルでもあった彼は、のちにエジソンと電気椅子を使った処刑を巡って
反対の立場から対立したことでも有名です。

福島の原子炉がウェスティングハウスであったことは皆さんご存知ですよね。

車をいつも停めるところにあるネイティブアメリカンのメモリアル。

カテカッサ(ブラックホーフ、黒い蹄)1740–1831

は、ショーニー インディアンの酋長でした。
イギリス系アメリカ人の入植者とショーニー族との戦いで、
勇者として知られた人物です。

現地の碑には、ブラックホーフが、白人に宥和政策を取り、最終的には
同士となったようなことが書いてあり、確かにそれで戦闘を止めたようですが、
実際は1812年の戦争の直後に実施したインディアン排除の方針に抵抗し、
条約に署名せず、1831 年にオハイオ州で死ぬまで部族を率い続けました。

最終的には西側への移住を余儀なくされたということなので、なぜここに
碑があるかというと、モノンガヒラの戦いで戦ったから、ということらしいです。

碑の上の丘に(周りはゴルフコース)ポツンとある家。
まさかインディアンが住んでたってことはないと思いますが、
1800年代からあるのはおそらく間違いのないところでしょう。

街の外れにあって、誰でも立ち寄ることができ、車を停めさえすれば
延々と広がる緑の芝やこんな眺めを楽しむことができる広大な公園。

お金をかけずに自然を身近に感じることができる公園がどんな都市にも
必ずあって、散歩できるトレイルが整備されているのがアメリカのいいところです。

 

 


カクタス・コリジョン〜USS「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」博物館、巨大な右舷側のアキュムレーターを見ながら
艦首に向かって進んでいくとこんなコーナーに出ました。

アキュムレーターほどではありませんが、ここにも大きなタンクがあります。
「リクィッド・ナイトロジェン」とあり、ニトログリセリンのタンクです。

ニトロのタンクはO2N2タンクを構成する一部で、酸素とニトロは
空母艦載機や地上サービスなどに使用されるためにあります。

ニトロは空母艦載機のタイヤを膨らませるためや、例えば非常時に
キャノピーを吹き飛ばす時などに使用されます。

液体酸素は何に使うかというと、高高度飛行中のコクピットへの酸素供給です。

写真のグリーンシャツは別名「トラブルシューター」とも呼ばれており、
艦載機部隊の整備員です。

フライトオペレーションになるとそれぞれの部隊から一人ずつ
フライトデッキに待機していて、機体にトラブルが発生するとすぐに対応するのです。

足元の緑色のタンクは液体酸素の貯蔵ボトルで、航空機に注入され、
代わりに溜まった呼気ガス(汚れた空気)と交換するのです。

さて、今日は「ミッドウェイ」がその艦歴上見舞われた最悪の衝突事故で、
この液体酸素のタンクが破壊され、乗員の命が犠牲になったという話をします。

前にも少しだけ触れたことがありますが、「ミッドウェイ」は
軍艦の割には比較的平穏だったその人生で、一度だけ衝突事故を起こしています。

1980年7月29日、フィリピンのパラワン島とボルネオ北部の海岸の間を
「ミッドウェイ」は、いつも通りの訓練を終えて航行していました。

そのとき、EMCONアルファと呼ばれるレーダーも無線も切った状態の
商船が「ミッドウェイ」に近づいてきていました。

前方の船はパナマ船籍の貨物線「カクタス」で、そのデッキには束ねた木材が
搭載されていました。

そして、ミッドウェイのEMCONが一連の誤った解釈をしたため、
そのため2隻の船はどちらもが回避行動を取らなければならないほど接近したのです。

2000少し過ぎ、「カクタス」の船首が「ミッドウェイ」のフライトデッキの
大きくせり出したところに滑り込んでいきました。
この際「カクタス」の上部構造物の高いところは完璧に破壊され、
フライトデッキにあったファントムII3機と、プラットホームにあった
フレネルレンズが破壊されて落下しました。

最悪だったのは、LOXプラント(液体酸素プラント)でした。

それは「ミッドウェイ」のサイドから張り出しているようにあったため、
衝撃によって完璧に破壊され重いプラントの基礎部分が裂けて、
液体酸素とニトロが噴き出してしまったのです。

運悪くちょうどここにいた機関兵のダニエル・マーシーとクリスチャン・ベルガンは、
この時に液体酸素を被って死亡、三名が負傷しました。

二隻の衝突した船を引き剥がすとき、「ミッドウェイ」の乗員は、
漏れたジェット燃料を確保し、液体ガスを回収するために迅速に働きました。
もしこの二つが混じることがあったら、大爆発によって何百人もの命が失われ、
そしておそらくは「ミッドウェイ」を破壊したでしょう。

引き剥がした後の「カクタス」。

「ミッドウェイ」は修復のためにスービック湾に着岸し、
そしてその修理は何日かで完成したということです。

 この事故の時、17歳で「ミッドウェイ」乗員だった人がこんな回想を残しています。

 

私が鮮やかに覚えているのは、明らかにミッドウェイで経験した最も暗い日だった。
1980年7月29日。なんてひどい夜であったことか。

その日の早い頃、私たちはスービック湾を出て、ゴンゾー・ステーションを航行していた。

(ゴンゾーはセサミストリートのキャラ。ミッドウェイの俗語で北アラビア海のこと)

夕方の2200年頃までに、私たちはマラッカ海峡を通過していた。
聞いたところ、船のレーダーもまたオフだったということだった。
私はVA-115下の停泊区画の乗組員のラウンジにいたことを覚えている。
故郷への手紙を書いているところだった。

その時艦体の真下でまるで地震が発生し、艦体のあちこちが震えているような感覚があった。
突然、艦内に衝突警報が激しく響き渡り、それに続いて
一般警報とそれに続く指示が続いたが、それはいつもとは全く違っていた。

"GENERAL QUARTERS! GENERAL QUARTERS!
ALL HANDS MAN YOUR BATTLE STATIONS!

- THIS IS NO DRILL!" 

皆が固定するものをボルトで固定し、自分の持ち場に駆けていくのが見えた。
ハンガーデッキに到着したとき、金属同士がこすり合わされるような音が聞こえた。
私は音がどこから来ているのかを注意深く探ってみた。
それは航空機エレベーター3の近くの左舷側の後部エリアからだった。

その時のことだ。

私は実際にミッドウェイの下を通り過ぎる別の船を見た。
当時、私のGQマスターステーションは、船の前部のフライトデッキの真下の
VA-115パイロットの士官室と同じところにあった。
私と他の何人かがそこに着くとすぐに、士官が私達に

「ハンガーデッキに戻って皆と一緒にいるように」

といい、また、総員退艦命令の可能性もまだあると告げた。

ハンガーデッキレベルに到着したとき、私は恐ろしい光景に凍りついた。
死んだ二人の男のうちの一人の体が灰色の海軍毛布で覆われていたのだった。

私を怖がらせ、そして私の脳にその瞬間から今日まで植えつけられた恐怖の理由は、
そのストレッチャーに乗せられた毛布の形だった。
毛布に包まれているのが通常の人間なら、デッキの上のそれは
頭から脚に向かって傾斜を描いているはずだが、それはただ真っ直ぐだった。

今に至るまでなぜそんなことになっていたのか確かめる術はないが、少なくとも
このかわいそうな男の頭が通常の形をしていなかったから、としか思えないのだ。

遺体を見て凍り付いていた私の後ろにいた仲間が、

「レオナルド、見るな!止まらずに歩け!」

と叫んでいたことも、今でもはっきり覚えている。


その後ハンガーデッキに着くと、そこにいた全てのものがカポックを着ていた。

 開いている航空機のエレベーターのドアから、いつ来たのか護衛艦が四方を囲んでいて、
ミッドウェイは觀照燈で明るく照らされているのが見えた。

そこでわたしたちは、被害者がもう一人いたが、死んだということを聞かされた。
ミッドウェイが受けた被害はあまりに大きなものだったのだ。

事故は、ミッドウェイと同じ方向に向かっていたパナマの貨物船、
「カクタス」に艦体の左舷側後方エリアに衝突され田というものであったが、
そのとき、その衝撃で航空機エレベーター3機が軌道から外れ、
文字通りそのケーブルだけででぶら下がっているのを私は目撃した。

「カクタス」のの船体はミッドウェイによって完全にスライスされており、
ウォーターラインの下の左舷側に50フィートの亀裂が生じていた。
貨物船の船首が激突した左舷のキャットウォーク、LSOプラットフォーム、
そして左舷のフレネルレンズも損傷していた。

フライトデッキのコルセアとファントム(VF-161のほぼ全ての航空機)
のいくつかは完璧に破壊され、何機かは単に姿をーフライトデッキから海にー消した。
しかし、これだけならまだミッドウェイの被害はましだっただろう。

最悪の被害は、ほぼ中央部、左舷側のハンガーデッキで発生した。
ミッドウェイの 5000ガロンの液体酸素(LOX)プラントが破裂し、
内容物が外に漏れてしまったのだ。

さらに、左舷側を走っていたディーゼル燃料ラインも切断され、
そこから燃料も漏れていた。

LOXは、熱、他の化学薬品、またはディーゼル燃料など、
その他の石油剤と接触すると、非常に揮発性が高くかつ可燃性の薬剤であり、
この時にもこれらは大惨事を引き起こしていた。

 

ダメージコントロールチームは、すぐさま動いた。
2つの装備の間に、通常は構造火災に使用される軽量フォームのバリアを張り
作業域を確保して両者が混じらないようにした。

考えられる最悪のシナリオは、5000ガロン液体酸素が爆発を引き起こし、
水密区画をも破壊して艦体に回復不能なダメージを与えることだった。

もしそうなれば、文字通りミッドウェイは真っ二つに破壊され、
それは「ミッドウェイ」の死を意味しただろう。

私は今でもあの時のミッドウェイのダメージコントロールチームに感謝している。
彼らがその夜、彼女達に乗っている私達全員を救い、伝説を築いたのだ。

 

その後、艦長が

「現在ミッドウェイは周りの駆逐艦によって牽引されている。
我々はこの後スービック湾に戻って、少なくとも1ヵ月の間海軍艦船修理施設に入る」

と発表を行い、歓声が艦内のいたるところで沸き起こった。

艦長はまた、悲劇的な死を遂げた二人の乗員に対しお悔やみを述べた。
乗員たちの噂によると、そのうち一人はやはり頭部を失っていたそうだ。
私は自分が見た毛布の形を思い出し、やはりそうだったかと思った。

しかし、ああ、もう一人の運命については、噂が真実でないことを願いたい。
プラントが破裂したとき、彼はたまたま液体酸素タンクのすぐ近くにいたため、
彼は液体酸素をもろに被ってしまったと言われていた。

液体酸素は温度がマイナス300度。
それを被った彼の体がどうなったか、考えるのも恐ろしいが、
本当ならば彼の体は瞬間で結晶化してしまったと思われる。

ミッドウェイが着岸したあと、乗組員の多くは損害を見るために上に上った。
まるで戦争映画の直後のシーンのような惨状だった。
左舷のキャットウォークはもうそこには存在しなかった。
アングルデッキの左舷から伸びる着陸灯は、LSOステーションと共に消え、
三番エレベーターはハンガーデッキレベルから下に落ち、その巨大な、
油っぽい吊り上げケーブルによってのみ、かろうじて艦体にぶら下がっていた。


フライトデッキと格納庫デッキで撮影することは厳しく禁じられた。
実際、被害を撮影しようとした人は皆カメラを没収というペナルティを課せられた。

私たちがスービック湾に戻るまでの数日間、記憶がないわけではないが、
これが実際にミッドウェイに起こったと信じるのは困難なことだった。
乗組員全員とミッドウェイ自身がショックを受けているかのようだった。

そんな彼らが、誰いうともなく、この悲劇的事件の数週間前、
乗組員の間でしきりにささやかれていた予言の的中を再び口にしだした。

それは全米でも有名な霊能者、ジーン・ディクソンの予言で、

「1980年代にアメリカ海軍の艦番号41の軍艦が
海上で悲劇的な事故を起こす」

 というものだった。
もちろんUSS ミッドウェイのサイドナンバーは、41である。

我々の身に現実に我々に起こったこの悲劇と、ディクソン女史の予言が
偶然の一言済ませることは誰にもできなかった。

ただし、彼女の予言には最後に続きがあって、それは

「この時事故によって失われた軍艦は同じ名前でもう一度建造される」

というものだったが、こちらははずれ、これからも実現しないだろう。

私は心から神に感謝せずにはいられない。


数日後、私たちは海軍の修理施設で入港期間に修理を完全に済ませるため
にスービック湾に戻った。
約5週間後、船は完全に修理され、すべての破壊された航空機は交換された。
そしてミッドウェイはゴンゾー・ステーションでの長い3ヶ月の滞在を終え、
WESTPACに向かうための航海に出発したのだった。

 

 

 

続く。

映画「地球防衛軍」〜ミステリアン登場!

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いつかは取り上げようと思っていた日本の戦後SF作品、
「地球防衛軍」です。

前回そのつもりで鑑賞したところ、パッケージに同梱されていた
「海底軍艦」に本作以上のショックを受け(笑)、どうしても
そちらについてお話しせずにいられなかったため、
先送りになっていたのですが、ようやくその時がやってきました。

色々とツッコミがいのある作品なので、前置き無しでとっとと始めましょう。

ここは富士山麓にある村。
ここでは夏祭りが行われていました。
(提供:森永チョコレート)

祭りの人混みをそぞろ歩く美男美女。
天体物理学者の白石亮一(平田昭彦)、その同僚の渥美譲治(佐原健二)、
女性は白石の妹で渥美の恋人江津子(白石由美)、それから
白石の婚約者だった岩本弘子(河内桃子)。

白石はこの村に住んでおり、妹は東京からわざわざ富士山麓まで
浴衣姿でやってきたようです。

実は、この直前、白石は弘子との婚約を破棄したいと公言していました。
ならなんでダブルデートしてるんだって話ですが。

弘子はまだ諦めておらず、浴衣姿でアピールすればワンチャンあるかも?
と思って張り切っていたのかもしれません。知らんけど。

その時対岸火事が起こりました。

火を消そうと駆けつけた村の衆を引き止める白石。
彼はそれがただの火事でないことを知っているようでした。

その後火は燃え広がり、村は全滅してしまいます。

天文学者白石が研究していたのはミステロイドという星の存在でした。

白石の恩師、科学者の安達博士(志村喬)は今更論文を見て訝ります。

「あの自尊心の強い男が論文を投げ出しているよ」

その時、白石の住む村に大きな山崩れが起こったと知らせが入りました。
少々の地震では倒れないはずの鳥居もいとも簡単に崩れていきます。

この時に崩れていくジオラマがはっきりそうとわかるくらいちゃちい。
特技監督は円谷英二で、当時の最高技術のはずなんですが・・・。

そして、白石はその日を境に行方が知れなくなってしまったのでした。

「現場に強い放射能の反応が見られるんです」

「え・・・ほんとですか」

「何しろあっという間に一部落全滅し、犬一匹助かっていません」

それでは白石も助からなかったということなのでしょうか。

左にいる人はどう見ても自衛隊員なんですが、ここでお断りしておくと、
この日本に自衛隊なるものは存在しておりません。
じゃあなんなのかというと、名称は「防衛軍」なんですよ。

中丸忠男が演じているこの人、役名は山本二尉となっていますが、
つまり、防衛軍二尉ってことなのです。こりゃ驚いた。

ということは「地球防衛軍」って、つまり自衛隊のことだったんかい。

ところがとここには「富士防衛隊」などと書いてあったりして、
軍なのか隊なのかどっちやねん!と思わず問い質したくなります。

富士山麓からいきなりこんなんでましたー。

この巨大な生物は実はロボットで、「モゲラ」というそうです。
そういえばちょっとモグラ的な風貌をしているかな。

光線を出して車を破壊するという特技あり。

わかりにくいですが、これがこの世界の警察官の制服です。
警察と渥美(なぜこんな若造の一天文学者がここで出張ってくるのかわからず)
は、いよいよ「防衛隊」への派出要請を決めました。
この頃も非常時の出動要請は知事が行うことになっていたはずですが。

その時、モゲラが静岡県の市街地に出現したという知らせが入りました。

タイミングよくお風呂に入っている白石の妹江津子さん。
モゲラが送電線を切りまくったのでお風呂は真っ暗に。

これもサービスシーンってやつでしょうか。
彼女は兄の身を案じて東京からやってきて旅館に宿泊していたのです。

「江津子さん、早く着替えて!」

夜になって暴れ出すモゲラ。
なぜか火事があちらこちらで発生し、消防署が出動してモゲラに放水しますが、
蛙の面に水、いやモゲラの面に水、逆にこちらに迫ってくるので
消防隊員はホースを捨てて逃げ出し、ここで防衛隊の出動となりました。

そのとき伊福部昭先生作曲の名曲「地球防衛軍マーチ」が高らかに始まりました。

【30分耐久】地球防衛軍マーチ【伊福部昭】

おそらく、富士、板妻、滝ヶ原からの防衛隊であろうかと思われます。

本物の銃を撃つシーンを陸上自衛隊、じゃなくて防衛軍は撮らせてくれたんですね。
そのほかにも無反動砲をトラックから下ろすシーンが見られます。

しかし彼らはすぐに、銃ぐらいではこの怪物に太刀打ちできないことを
思い知るのでした。
怪物の出す熱線は、防衛隊の装備をも無残に破壊していきます。

それでもめげず、迫撃砲、M2火炎放射器で対抗する自衛隊、じゃなくて防衛軍。

防衛線である陸橋から全て人々を避難させた後、
防衛軍は陸橋ごと爆破するという方法でようやくモゲラの脚を止めました。

やったね防衛庁。

早速召集された非常国会で、一天文学者である渥美がなぜか
一連の事件について発表しております。
いやそこは師匠である安達博士だろう、と思いますが、
この世界では学者村も超リベラルということのようです。

一連の事件については何もわかっていないことを発表する渥美。
わかったことは、怪物はロボットであり、地球で作られたものではないことだけ。

「それでは宇宙から来た地球外生物の仕業ってことですか」

「それもわかりません」

その頃安達博士は。

「白石報告書のいう通りだ。月の裏側に不思議な現象が起きている」

ソ連が人類初めて月の裏側の撮影に成功したのは1959年。
つまりこの映画発表の2年後なんですが、この頃日本の一科学者が
どうして望遠鏡で月の裏側が見られたのだろう、と思ったらそうではなく、
不思議な現象とはUFOが月の裏側から現れていること。

「とにかく写真を撮ってくれ給え」

月の裏側から出てくるUFOを捕らえることができる写真機って?
この研究所はハッブル望遠鏡でも持っているのか?

しかしいとも簡単に研究所員は暗室で現像したフィルムを持ってきて

「できました!」

うーん、超有能。

安達博士は早速全世界にそれを発表しました。
日本の田舎にくすぶっていた一科学者が世界的にその名を轟かせた瞬間です。

全身白のスーツでキメた安達博士が白石報告書の円盤発着現場となったらしい
湖を訪れたその時、

謎の構造物がなぜか地中から盛り上がって出現しました。
これぞミステロイドと白石が名付けた星からきた地球外生物の宇宙船だったのです。

ミステリアンはいきなり放送で要求を始めました。曰く、

安達博士、渥美、野田博士(左)幸田博士(右)川波博士の五人を
宇宙船に招待して話し合いをしたい。

「どうして我々の名を」

それはこちらもぜひ知りたい(笑)
山本二尉が

「五人の安全を保証するか」

と肉声で尋ねると、

「アンシンシテ ドウゾ」

これで相手を信用するというのも日本人のおめでたいところなんですが。

しかし山本二尉、本部に連絡を取るや否や、

「直ちに攻撃体勢に入ります!」

M4A3E8中戦車、通称シャーマンかしら。

その前方に待機する可愛らしいM24軽戦車。
あー、この既視感、まるで総火演を見ているような・・・。
ロケ地は東富士演習場ですかね(棒)

五人に何かあったら、その時には総攻撃をかけるぞ、という威嚇のつもり。

さてこちら科学者五人組。

「中は寒いですからマントを着てください」

といわれて大人しく変なマントを羽織り、お互いを見て吹き出すことも無く
長い廊下を進んでいきます。
わたしはここで「注文の多い料理店」的展開を期待したのですが、
耳にクリームを塗ることもなく、彼らは中にたどり着きました。

途中に立っているミステリアンが、「こちらへどうぞ」という
地球人しぐさをちゃんとマスターしているのに感動です。

おもてなしの精神は今や宇宙ワイドまで。

ドームの住人登場。
ドームが寒いのは彼らが冷涼な気候でないと生きていけないからなのですが、
それならマントとか脱げばいいのにと思うのはわたしだけ?

早速地元民に与えた被害について幸田博士がついつい嫌味を言うと、
ミステリアンの親玉は

「あれは戦争を避けるための小さな犠牲デス」

と言い放ちました。
あーなんだろうこの既視感再び。

「9条を守る為には戦いも辞さない」

って言うサヨクフレーズ?

「我々の科学力を示し戦うことの愚かさを知ってもらいたかったのデス」

抑止力ってことですかい。
すでに行使したものを抑止力とはいわないと思うがどうか。

彼らの要求はシンプルっちゃシンプルで、半径3キロの土地を貸して欲しい、
ということなんですが、問題はもう一つの要求。

「ミステリアンと地球人の女性の結婚を認めていただきタイ」

つきましてはこの女性を・・・とどこで撮ったのか祭りの写真を。

ミステリアンはストロンチウムのせいで生まれてくる子供の80%が
異常児で捨ててしまうので、地球人との間に子供を作りたい、
と無茶苦茶なことを言います。

ツッコミどころ多すぎ。

●異常の原因はミステリアンの男性にもあると思うが、地球人と交われば
まともな子供ができると思うのはなぜか

●ミステリアンに女性はもういないのか

●そこまで科学が発達しているのに、どうして異常児を捨ててしまうのか
染色体を操作するなり、生まれた後にケアする方法をどうして模索しないのか

だいたい、異星人との間に子孫を残さなければ、もう未来はないという
この切羽詰まった状態で、女性の外見を選り好みしてんじゃねーよ。

しかも、この祭りの行われた村って、あんたたちが殲滅させたんじゃなかったっけ。

ここで呆れるのはまだ早い。

ミステリアンのスカウト、しっかり白川由美と河内桃子という
二人の美人にも目をつけてピンポイントで名指し。

優秀な子孫って、つまり外見だけのことだったんですね。

防衛庁長官の会見が行われ、地球人としてはミステリアンの要求は
とても受け入れることはできないので、これを排除すべしとなりました。

緊急ミステリアン防衛対策は決定され、野戦特科部隊は東富士演習場に集結。
当時の105ミリ榴弾砲や迫撃砲がバンバン映ります。

こちら東京の白石の実家。
こんな事態だというのに、テーブルにはお紅茶とケーキが並んでいます。

「驚かないでください。
ミステリアンはあなた方を指名してきました」

その時茶の間のテレビに襟付きマントを着た白石が現れ、
彼らに話しかけてきました。

白石はいつの間にかミステリアンの手先になっておったのです。
その恐ろしさについて警鐘を鳴らすべき人物がなぜ?

これがこの映画のもっとも不可解なツッコミどころなんですが、
どうも白石、ミステリアンの高度な科学力に魅せられ、心酔し、
すっかりシンパになって変なマントを着るまでになってしまったようです。

「どうやっても地球人の科学では勝てっこないんだし、わずか3キロ半径の土地を
彼らに貸すくらいなんでもないじゃないか、攻撃はやめろ」

しかし、今現在進行形で中国がやっている「サラミ戦術」を知っている人は
その「わずか3キロ」の要求がどんどん侵略の度合いを深めていくのを
よくご存知ですよね?

しかし地球防衛軍の攻撃は始まってしまいました。
防衛軍航空隊の偵察機が偵察を行います。

「攻撃開始!」

防衛軍総司令(藤田進)の攻撃開始の命令が降りました。

要塞と化したミステリアンドームに雨あられ砲弾が撃ち込まれます。

シャーマンはこのシーンでは模型に変わっていました。

これは本物。もう今は退役した当時の装備だと思われます。

百里からF8Fセイバーが発進。

迫撃砲の装填は本物です。

その様子を見守るミステリアン(可愛い)
真ん中の赤いのが一番偉くて、黄色がその次、青は下っ端です。

こんなもので我々に勝てるかい、とほくそ笑むミステリアン。

セイバーが爆撃を行うも、逆にやすやすと撃墜されてしまいました。
その中の一機は火を噴く機体ごとドームに特攻を行います。
なるほど、自衛隊といわず防衛軍とした訳はこれか・・・・。

MGR-1オネスト・ジョン地対地ロケット弾まで。

最新鋭機のスターファイターも火を噴きました。

果敢に突き進んでいく一台の戦車も・・・・

地滑りを起こされ地中に消えました。

現在の日本の国力ではこれが限界ということがわかり、(´・ω・`)とする司令部。
この時、ミステリアンの爆弾の威力を「関東大震災の破壊力と同じ」
というのですが、これって少し変な例えじゃありませんかね。

「原子爆弾の」とは当時の世情では言えなかったのかな。

すかさず宣撫工作を行うミステリアンの飛行体。

「我々の要求はわずか3キロメートルの土地です。
ミステリアンは地球の平和を願うものです」

散々やらかしておいて今さらどの口が言うのかって話ですが。

さてどうなる日本。

(提供:森永チョコレート)

 

続く。

映画「地球防衛軍」〜空中戦艦アルファ号登場!

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「地球防衛軍」で検索すると、映画より先にゲームが出てくるので、
最近同名のゲームが大変人気なのだと知ったわたしです。

さて、この映画で「防衛軍」と呼んでいるところの自衛隊が
総力をあげてミステリアンのドームを攻撃しましたが、
逆にドームからの攻撃によって、航空機は撃墜され、戦車や高射砲は
ことごとく熱によって溶かされてしまいました。

周りを火事にせず鋼鉄の武器を溶かしてしまうとは、
一体どのような仕組みの武器をミステリアンは使用したのでしょうか(棒)

当然勇敢に戦った自衛隊じゃなくて防衛軍の軍人たちはほぼ全滅に近い
打撃を受け、君の瞳に完敗状態です。

しかし、さすがは自衛隊、こんな日のために若い人たちが科学兵器を
考案し形にしていたことがわかりました、

設計図?を見せられた統幕長藤田進は、

「電子砲?」

と呟きますが、一切の説明はありません。
サイクロトロンという字が見えるので、加速器を使った砲の一種のようです。

日本は自分たちだけではとてもミステリアンに対抗することはできないと知り、
国連を通じて世界に協力を呼びかけることにしました。

なぜかそれを呼びかけているのが防衛大臣でもない一科学者の安達博士です。

「ミステリアンは地球の生活に見通しがつけば大挙して移住してくるに違いありません」

それで地球人の女性、しかも人間の目から見て美人ばかりを拐われたら、
もう地球人の滅亡は必至ですね。
つまり、ミステリアンに居住を許した瞬間、地球を乗っ取られることは確定です。

こちらミステリアンドーム。
一番偉い赤マントが黄色マントを伴って登場。

「富士山麓に500時間あれば基地が完成する。
これさえ完成すれば東日本は我々の意のままダ」

ふーん、東日本だけかー。案外欲がないのね。

ミステリアンの姿に身をやつしていても、鼻筋だけで
平田昭彦だとわかってしまうのだった。

さて、ここでわたしには大変興味深いシーンが始まります。

日本政府が国連の方から招聘した科学者二人、リチャードソンとインメルマン両博士。
このリチャードソンを演じているのがですね。
前にも当ブログで一項を割いてご紹介した、東京裁判の日本側弁護士、

ジョージ・ファーネス

なのです。
ファーネス弁護士についてはご関心がありましたらリンク先の
当ブログをお読みください。
そもそもわたしが「地球防衛軍」のDVDを購入した理由は、
ジョージ・ファーネスが出演しているのを確認するためでした。

藤田司令とファーネスの間にいる通訳の役は大川平八郎、別名ヘンリー大川です。

燃える大空で31歳にして少年兵を演じていた大川ですが、
若き日にコロンビア大学に留学し、ハリウッドで飛行機のスタントをしていた、
という経歴を持ち、英語が堪能なため、この役に抜擢されたようです。

ヘンリーとジャック

セリフは、リチャードソン博士の言った

「将軍、アメリカはアリゾナから人工衛星を打ち上げました。
かなりの貴重な情報を期待できるでしょう」

という通訳を行なっているのですが、なぜか後半の音声が消されています。

今やミステリアン側についた白石をジュネーブの会議で見たことがある、
というのはインメルマン博士。
これを演じているのはハロルド・S・コンウェイという俳優で、
その経歴はわかりませんが、日本に住み、多くの映画に「外人役」で出演した人です。

同じ本多猪四郎の「宇宙大戦争」にもインメルマン博士役で出ていますし、
「狂った果実」「グラマ島の誘惑」「月光仮面」「モスラ」「日本海大海戦」
「トラ!トラ!トラ!」テレビでは「キイハンター」などにも。

渥美博士、

「白石と話をしたくありませんか」

と立ってテレビのスイッチを入れます。(リモコンのない時代)

するとテレビにはよりによってこんな番組が。

「オー!ジャパニーズエンゲイ、ファンタスティーック!」

とかいっていると(嘘)

すぐに白石の姿がテレビに映し出されました。
白石、いつ呼ばれてもいいようにテレビの前でずっと待っているのか?

白石はいいます。

このままでは原水爆で20年もすれば地球は亡くなってしまう。
同じ経緯で自分たちの星ミステロイドを失ったミステリアンが
地球人に変わって地球を支配すればそれを回避できると。

「そんなアホな」

「地球を征服するのはミステリアンか?地球人か?
いえ、科学です。
ミステリアンはすでに宇宙の制空権を握っているのです」

科学者の白石は、ミステリアンの科学力に心酔し、すでに自分を
名誉ミステリアンと思い込んでいるようですが、こういう裏切り者は
得てして侵略が成功した暁には真っ先に粛清されちゃったりするんですよね。

急遽東京都内の国会議事堂が見える場所に、地球防衛軍司令部が爆誕しました。

ダッジでやってきたのはアメリカ代表。

イギリス代表はジャグワー?(適当)
降りてくるのは全員軍人です。

ソ連代表はビュイック。

このあと乗り付ける国の旗がどうも台湾に見えるのですが・・。

そうか、この頃日中はまだ国交正常化してなかったんですね。

世界会議で演説する防衛軍総司令、藤田進。

ミステリアンが熱に弱いのでそういう攻撃をする、とか、
現場で司令官が命令するようなことを演説しています。

こういう会議では軍人ではなく、政治家が演説するのが筋なのでは?

こちら富士山麓のミステリアン基地。
地中に潜っていたドームがまた再び地表に現れました。

セイバーが整列している向こうに見えるのは、我が地球防衛軍が所持する最新鋭機、
アルファ号。(ベータ号もいるよ)
こんなんもってるなら最初から使えばいいのに、って気もしますが。

アルファ号はいわば「空中戦艦」で、翼のないロケット型の航空機です。
翼なしでどうやってコントロールするのか、とかあまり追求しないようにしましょう。

動力は原子力。(なので滞空時間は無制限ってこと?)
武装はこの巨大な機体のノーズに一つだけついた速射砲です。

それでは内部をご覧いただきましょう。

アルファ号はVTOL機のように垂直にゆっくり上昇するので滑走路いらず。
内部は非常にゆったりしていて、機内は完全与圧式らしく、
パイロットに耐圧スーツの類は全く不必要のようです。

コクピットの下の階は観覧デッキになっていて、そこにはサロンのような
ゴーヂャスな椅子が置いてあり、ここから外の眺めを楽しむことができます。

って、遊覧船なのかこれは。

「円盤は現れませんなあ〜」

安達博士、川波博士と一緒に乗り込んでいるのは防衛軍空軍司令、杉本空将。
α号が旗艦だからということらしいですが、フネならいざ知らず、司令部は
こんな危なそうなものには乗らず地上から指揮を執るものではないでしょうか。

ベータ号は護衛に現れた三機の円盤にまず攻撃を行い、
搭載したミサイルをミステリアンドームに投下しますが、
その攻撃でダメージを受けたのは地下壕に待機していた渥美博士御一行様。
地盤が沈下して地下壕が崩れてきたのです。とほほ。

「攻撃を続行せよ」

杉本空将の命令に従い空中を飛来していたベータ号に、
ミステリアン基地から攻撃が行われました。

ベータ号撃破。防衛軍無念の殉職です。

「3000度の高熱で叩いてもビクともしない。
一体あのドームは何でできているんだろうか」

ベータ号を失い、わかりやすく全員悲痛な表情に。

もう地球防衛軍になすすべなし。
っていうか、ちょっと聞きたいんだけど、国連の協力を取り付けたのに、
相変わらず日本だけで戦ってるってどういうこと?

ミステリアンは、地球人が自分たちを攻撃したことを逆手にとって、
半径3キロといった当初の要求を大幅にエスカレートさせてきました。

「半径120キロの土地を占領スル」

軒を貸してもいないのに母屋を取りに来ようってか。

もう原水爆の使用しかないか?というところまで追い詰められた日本。
120キロ占有されれば、首都陥落は目の前です。

その時、インメルマン博士が

「Good news!Good news!ミナサンヨロコンデクダサイ!」

と言いながら駆け込んできました。

この二人の国連の方から来た科学者は、これまで何もしていなかったのですが、
ここに来てやっと役に立ったということになります。

この新兵器、マーカライトファープは、直径200mの巨大なパラボラを付けた装置と
キャタピラ付の高さ140mの4脚によって構成されており、
ミステリアンドームの破壊光線を反射して相手に撃ち返せるだけでなく、
同等の光線を照射することが可能。

目標地点までは専用のロケット、マーカライトジャイロによって輸送され、
空中で投下された後に下部のロケットエンジン4基を用いて降下します。
無人兵器であり、α号からの電波で遠隔操作されます。(Wikipedia)

欠点は射程は1.5キロメートルで、作動時間が75分間のみに限られていること。
これはちょっと使いでが悪すぎませんかね?

そこでいきなりアメリカ空軍のC-124C戦略輸送機が登場しました。
通称グローブマスターというどでかい奴ですね。

軍事航空輸送部所属の機体で、何をしているかというと、
マーカライトファーブや第二β号の建造に必要な物資を搭載しているのです。

これから材料を運んで間に合うのかという気もしますが、何、
空母「ミッドウェイ」の改修を半年で完璧にやり遂げた当時の日本の技術陣なら
死ぬ気でやれば一週間くらいでなんとかなるでしょう(適当)

すげー!

物資の搭載のため、機首下部と機体後部の両カーゴドアを開放しています。

撃墜されてしまったβ号の後継機もあっという間に完成しました。
さすがは高度成長期に突入した頃の日本の技術陣です。
機体には「ワールドエアフォース」と書かれています。
α号にはマーラカイトと同じ塗装を施し、相手の攻撃を防ぐ仕様にして臨みます。

こちら、地球存亡の危機だというのに、呑気に夕食の支度をし、
楽しげにお膳を運ぶ渥美の彼女と白石の元婚約者。

二人ともミステリアンに花嫁候補として指名されたにも関わらず、
全く危機感もなさそうです。

というかこいつらどうしてこの二人にそんなにこだわるのか。
東京には他にも綺麗な女性はいっぱいいるよ?

ひよひよひよ〜という音とともに静かに庭に降りてくるミステリアンその1。

驚く弘子さん。

上空にUFOが飛来しているのに、門の前の警官は全く気付かず。

「異常ありません!」

って、相手がミステリアンだとわかっているならちょっとは空を警戒しろよ。

ミステリアン1号、まず白石の元婚約者を円盤に拉致。
この人は、白石の婚約者だったのに、白石がミステリアンに帰依したため、
突如フラれてしまったという辛い過去があるわけですよ。

そのお嬢さんを拉致するということは、そうか!
ミステリアンとなった白石ともう一度結婚させてやろうとか、そういう考え?

「弘子さん?」

宇宙人に狙われているのに窓を開けっ放しで食事するか普通。
あっさりと一人さらわれ、残る江津子さん(白石の妹)も、

後ろから見ると大きめのヘルメットをかぶった作業員にしか見えない
ミステリアン2号にやすやすとさらわれてしまいます。

宇宙人に狙われているのに簡単に庭に出るから(略)

こちらもよく考えたら、彼女は白石の妹なわけですよ。

ということは彼女を拉致したのは、もしかしたら白石に再会させ、
弘子とともにミステリアンの嫁になって皆で幸せに暮らせばいいよね、というような
良かれと思っての拉致だったとは言えませんでしょうか。

だとしたら、なかなか味なことをするなあミステリアン。

なすすべもなくその様を見守る家族と警察。

この拉致シーン、ロープで吊った二人を持ち上げて撮ったようですが、
なんというか、今ならこんな間抜けな絵にはしないだろうな。

でも、60年前にはこれが超画期的でショッキングな映像だったのに違いありません。
今のCG技術で「地球防衛軍」「海底軍艦」のリメイクしたのを見てみたい(笑)

 

続く。

 

映画「地球防衛軍」〜第二ベータ号発進!

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映画「地球防衛軍」、最終日です。

今日は本作で「防衛軍」と呼ばれているところの自衛隊的組織に属する
軍人たちを描いてみました。
制服はいずれも実在しない軍なので映画の衣装部が用意したものです。

藤田司令らが着用しているサンドベージュの通常服なのですが、過日、
市ヶ谷に海幕長の表敬訪問に行ったら、幕僚長がこれとほぼ同じ格好をしていました。

「これが噂の新しい制服ですか」

実際見ると、本当にこの映画のにそっくりです(笑)
陸自チックに思えましたが、幕僚長によると、米海軍を意識しているのだとか。
ネットでは不評のようでしたが、米海軍と言われると、確かにその通りで、
途端になかなか宜しいような気がしてきました。

 

さて、従来の攻撃法では今のミステリアンに勝つことはできないことを
いやっというほど思い知らされた地球防衛軍ですが、
国連の方から来た科学者のご指導ご鞭撻と、アメリカ軍が本土より
巨大戦略輸送機で運んできた物資のおかげで、
なんとか互角に戦うことができる光明が見えてきました。

防衛軍司令部では、地下要塞の完成を阻止するために、とりあえず
マーカライトファープで攻撃を実施することが決定されました。

ただ、ここでわたしは大変なことに気がついてしまいました。
すでに何人か女性が人質に取られ、昨日も二人拉致されたばかりだというのに、
彼女らの身の安全の担保について言及する関係者が一人もいないのです。

民間人の安達博士ですら冷酷にもこんなことを言い放ちます。

「江津子さんや弘子さんを犠牲にするには忍びないが、かといって
助け出すことは不可能じゃないかな」

これはあれかな。
米軍の捕虜がいるのがわかっているのに広島に原爆を落としたアメリカ的な?

半径120キロの住民(静岡県、山梨県、神奈川県一部)が
続々と避難を始めました。

実に空気抵抗の多そうなイケてないデザインですが、これが
噂のマーカライトファープを輸送するマーカライト・ジャイロです。


英語では、

Marker-light FAHP(FAHP は Flying Attack Heat Projector )

何しろこの兵器、有効射程がたった1.5キロしかないので、これを
近くに持っていくロケットとセット販売されているのです。

本体は中央に組み込まれていて、設置する上空にきたら
ロケットのように部品を切り離してファープだけを目標に落とします。

「攻撃開始!」

旗艦α号に座乗した司令官とインメルマン博士。
なぜかインメルマンがファープ切り離しのスイッチを入れます。
α号とファープはデータリンクしてるってことなんですねこれはすごい(棒)

切り離されたファープは、自力で着地しました。

光線が発射されるディッシュ部分がターゲットに照準を当てます。
それはいいんですが、特撮の仕事が甘くて、このディッシュの形状が・・。
ハンダ加工がうまく行っておらず、エッジがデコボコしていて手作り感満載。

飛来するこの謎の物体に、ミステリアンたち、顔を見合わせています。

マラカートファープ、ドームに攻撃開始。
もちろん従来の攻撃ではドームを破壊することはできません。

この武器の特徴は、相手の撃ってきた光線をレンズで反射させることにあるのです。

ここで、科学者の一人渥美博士がとんでもない暴走を始めました。
「人も二本脚、ミステリアンも二本脚」という独自理論に基づき、
生身で基地に潜入し、単身人質を救い出す決心をしたのです。

確かミステリアンドームの地下道への入り口は本栖湖の湖底から
繋がっていたと記憶しますが、渥美博士はなんの道具も使わず、
あっさりここまで潜入することに成功しました。

畳み掛けるように地球防衛軍、略して地防軍は実在の武器、
MGR-1「オネスト・ジョン(正直者ジョン)」を撃ち込みます。

ドーム付近の地面が穴だらけになるほどふんだんに。
あーもうこれ、ドームは無事でも地下要塞は陥没してるかも。
当然捕虜の命は全く考慮していないようです。

ミステリアン部隊に非常呼集がかかりました。
しかし、ドームが意思を持って勝手に戦っている設定のミステロイド軍で、
この雑兵たちがなんのために集められ、これから何をするのか全く謎です、

思った通り、ミステリアンは科学力は高いけれども、個人の能力は大変低く、
渥美ごときの力でもあっさりと警衛を(と言っても立ち話してただけ)倒し、
武器を奪って深部に潜入を許すほどでした。

これにはちゃんとした理由があって、彼らは地球より重力の軽い火星で
幾世代にもわたって生活してきたせいで、地球上では人類より動きが鈍いのです。 

攫われてきた地球人女性たちは、とりあえず今のところ、
結婚させられた(婉曲表現)様子もないようで何よりです。

そこに一人のミステリアンがやってきました。

「わたしと一緒に来なさい」

白石の妹さん、この声に聞き覚えはないんですか?

白石の元婚約者さん、あなたも、この声聞いたことありませんか?

この時、地上では地防軍とミステロイド軍の激しい攻防が行われているのに、
地下は嘘のように静かで、防音設備は完璧。
流石の技術力の高さを感じさせます。

オネストジョンとマーカラートファープの波状攻撃を受け、
苦し紛れにミステロイド軍はα号を攻撃しますが、おっと残念、
α号の機体にはマーカライトが塗布されており、光線を跳ね返すのでノーダメージです。

ただしですね。

「マーカライト半減」

映画でこのセリフだけを聞いた人は、きっと意味がわからなかったことでしょう。
劇中説明もされませんが、マーカライトの有効時間は75分だけなのです。

一体どういう物質やねん。

そもそもα号は巨大なので、マーカライトを塗り始めてから塗り終わるまで
余裕で75分くらいかかりそうなんですが。

しかし出演者は大真面目です。

「アトニジュップン!」

マーカライトの効き目が切れる時間をカウントするインメルマン博士。

「トゥエンティミニッツ!」

東京裁判の日本側弁護士だったジョージ・ファーネス。
もう少しちゃんとしたセリフを喋らせてやれよって思いました。

膠着状態をなんとか逆転せんと、司令は前回撃墜されてしまったβ号の後継機、
第二β号の発進を命じますが、まだ電子砲が装着できていないとの答え。

防衛軍技研、仕事が遅いよ仕事が。

ドームが沈んだり浮いたりしているのは苦しんでるという表現?

「すぐに攻撃中止の要請をスル。
攻撃中止しない場合は報復手段をトル」

ミステロイド軍の不思議なところは、戦っている現場が全く映らないことです。
ドームから光線を出す指令を出しているのは一体どこなのか。

それはともかく、日本側が攻撃中止するから即時退去せよ、と迫りますと、
ミステロイド軍司令兼大統領兼王は片手をかるーく上げました。

次の瞬間海底が持ち上がり、本栖湖の水が溢れ出すではありませんか。

唖然。これで捕虜が生きていると思う方がおかしいというものです。

大量の水は村々を襲い、なぜか此の期に及んで避難していなかった
(買い物かごを下げて歩いている人あり)人々を飲み込んでいきます。

橋を渡って逃げている人も。

東京電力の看板がなぜか何回も登場します。

その様子を見て楽しんでいるミステリアンの皆さん。
ふっふっふ、と笑っている様子が肩の動きに表れています。

ところが突然館内が停電しました。

その原因は渥美博士。
ミステリアンから奪った銃で辺り構わず破壊行動を起こしておったのです。

ミステリアン基地に忍び込むのにチロリアンハットをかぶって、襟には
イカしたスカーフまで覗かせているあたり、お洒落へのこだわりが見られます。

この直後、銃が弾切れ(光線切れ)を起こし、あっさり捕まってしまいました。

マーカライトの効果あと5分、という時になって、ようやく
第二β号が発進しました。

先端のレドームには電子砲を搭載しています。

渥美一人がちょっと紛れ込んだくらいでもう基地内はてんやわんや。
科学技術が発達しているという割に身近な危機管理ができていない組織と見た。

こちら謎のミステリアンに導かれた拉致乙女たち。

「皆を連れて早く逃げろ」

その声にようやく婚約破棄された元婚約者が気づいて

「亮一さん!」

気づくのが遅いよ。

「兄さん!」

だからあなたたち、今まで元婚約者と兄の声にどうして気づかなかったの。

「俺は絶対に帰らない」

白石は渥美に研究の残りの論文を託しました。

「ミステロイドの研究は完成したよ」

ミステリアン体験のみならず、連中のスポークスマンまでしたんだから、
そりゃかなりのことがわかったでしょうさ。

「この大要塞が完成すればボタン一つで大東京が灰になる。
俺はミステリアンに騙されていたんだ」

学者って、基本世間知らずのせいか、とりあえず目の前の人の
いうことを聞いて信じ込んでしまうような人が多いそうですね。

騙されていることに最後の最後まで気づかないみたいな。

ほら、誰とは言いませんけど元首相経験者にもそういう人がいるじゃないですか。
元学者のあの人も、実際に会って話した人は皆いい人なんですよって言うもんなあ。
きっと人が良すぎて周りに利用されまくってるんだろうなあ。

「俺にはまだやらなければならないことが残っている。さよなら!」

そういって基地に戻っていく白石。
ああ・・・と皆が見送っていると、

「早く逃げろ!ここはすぐにぶっ壊されるぞ」

じゃみなさん逃げましょうか、と言う雰囲気になったら、その時、

「ミステリアンの悲劇は地球にとっていい教訓だ。
高度な科学もその使用を誤ると悲惨だ」

え?まだなんか言ってるよと皆が思った時、

「地球はミステリアンの悲劇を繰り返すな!」

いいから早く行けよ。

ようやく白石の姿は消え、書き割りの奥からは爆発のような光が!

何をやった白石。

β号の機長は、電子砲を考案した科学部隊の隊長(右)です。
どうやら地球防衛軍の制服は、空軍がグレー、陸軍がサンドベージュ。
個人的に残念ながら、海軍は全く作戦に参加しておりません。

この時代にはクロスドメインという概念はまだ防衛軍には無いようです。

ところでこの隊長、電子砲で相手にダメージを与えたとわかった時、

「(よっ)しゃあ!」

と叫んじゃったりして、なかなかかっこよろしい。
自衛官なら絶対こんなこと言わないと思いますが。

マーカライト効果はあと1分で消滅です。
間に合うのかβ号。

その頃基地内は反乱を起こした白石のせいで惨憺たる有様に。

電子砲がドームに照射されました。

地下からはモゲラが出てきました。(生きとったんかい)
マーカライトファープを足元から掬って地道に倒していく作戦です。

ちなみにこのモゲラの中の人、中島春雄というスーツアクター兼俳優は、
本作でミステリアン幹部/防衛軍幹部/戦車から飛び出す自衛隊員と
一人4役をこなして演じているそうです。

中島さんはゴジラの中の人をやったことでも有名です。

ミステリアンは今や寝返った白石に次々と虐殺されていきます。
最初から味方を裏切るような奴を信用するからこんなことになるんですよ。

ミステリアンの肉体は核戦争の後遺症で異常を来たしており、
顔面にはケロイドが浮いているのが標準なのです(wiki)

電子砲の攻撃はドームの基幹部を破壊し、それだけでふらふらになった
基礎体力のないミステリアンたちは、宇宙ステーションに退避を始めました。

洞穴から外界に脱出した拉致乙女らと渥美は、大きなキノコ雲のあと、
何処へともなく飛び立つ数機の円盤を目撃しました。

β号の勇猛な隊長は、去っていく円盤を2機撃ち落としますが、
残りの5機は夕暮れの空に消えていきました。

安達博士は呟くのでした。

「彼らは永遠に宇宙の放浪者です。
我々は決して彼らの轍を踏んではならない。

「妖星ゴラス」にも同じ映像が登場したという人工衛星の図。
これが、アメリカが打ち上げたという偵察衛星のようです。

「彼らは二度と地球に近づくことはできないだろう」

終わり。

ところで、白石亮一はその後一体どうなったの?
ミステリアンを撃ち殺していたので、今更仲間になって
円盤に乗って行ったとも考えにくいし・・・・・。

やっぱり基地を破壊された時に死んでしまったのでしょうか。

 

それから、どうしても突っ込んでおきたいことが一つ。

α号、β号の動力は原子力ということなんですが、第一β号が撃墜され
空中で木っ端微塵になってしまうという展開において、
特殊な原子炉を保護するカプセルでも発明されていなければ、
原子炉も同時に破壊されたかもしれなかったのです。

それについて何も言ってないので多分大丈夫だったんだと思いますが、
それにしても安達博士のいう、

「彼らの轍」

とは、核が地球を滅ぼす危険性にのみ仮定が限定されていて、その実、
自分が今まさに乗っているところ原子力兵器になんの問題もなく、
その兵器が破壊されてもかけらも影響について心配していないらしいのが、
なんだかスッキリしない結末でした。

って、真面目に心配するなって話ですが。

終わり。

 

No Wi-fi, No Life〜ピッツバーグ雑感

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今回ピッツバーグで滞在したのは民泊であるAirbnbだったので、
到着してしばらくは生活を快適にするためにどうしてもいろんなものを
買い集めなくてはなりませんでした。

一番困ったのが、wi-fiがない家だったことです。

契約するとき、まさか今時wi-fiの設備が全くない宿泊所があるとは思わず、
ことさらチェックしなかったのですが、到着してすぐ、それに気づきました。

早速オーナーの「おばあちゃん」に連絡を取ったところ、

「Airbnbにはwi-fiはないって書いておいたんだけど・・・・」

何事につけてもインターネットで調べることが当たり前になっているため、
例えばそのwi-fiを調達するのにもwi-fiが必要だということに気づき、
わたしたち家族は初日にして呆然としてしまいました。

No wifi, no life とはよく言ったものです。

初日の仕事は、とにかくインターネットを繋がる状態にすることでした。
幸いアメリカというところは、スーパーマーケットやカフェ、デパートやモールに至るまで
サービスでインターネットが使えるので、そこでどうするか作戦を練り、
いくつか携帯会社のショップを回ってみましたが、わたしたちのニーズに
ぴったり合うようなものはどこに行ってもありません。

 

試行錯誤の末、最終的にBestbuyというこちらの大型殿下ショップで
モバイルwi-fiを購入し、オンラインで契約することで問題解決しました。

ただ、問題があって、かつては取り扱っていた無制限プランがなくなり、
ギガ数が少ないので、三人で使っていると気が狂うほど遅く、
画像をアップロードするのに異様に時間がかかるくらいなので、
動画は当然観られません。

今はTOも日本に戻り、MKは学校が始まったので、わたし一人で
持ち歩き用に使っていますが、おかげでレンタカーのナビゲーションは
自分のiPhoneで行えるため、大変便利です。

最初にwi-fi問題を解決し、ようやく街に買い物に出ることができました。

ピッツバーグ市内を走っていて見つけた古いビルには、ここがかつて
「ベル テレフォン」出会ったことを表す表示がありました。

現在のAT&Tがベル電話会社を買収したのは1899年の12月だったので、
このビルはベル社が発足した1877年から22年間の間に建てられたことになります。

wi-fiを調達したBestbuyで最初に買った、ダイソンの空気清浄機付き送風機。
到着したときにあまりのピッツバーグの暑さに、暗澹たる思いをしていたのと、
Airbnbの部屋が古いので、少しでも空気を良くしようと買ってしまいました。

1ヶ月の間、三つの寝室を転々としてフル活動してくれましたが、
ピッツバーグ滞在が終わったときに日本に送りました。

アメリカという国は、アラスカでもハワイでも、巨大チェーンが展開していて、
初めて行った場所で例えば電化製品を買おうと思ったらベストバイ、
ベッドやキッチン周りのものは「バスビヨ」こと「Bed bath & beyond 」、
それらを合わせて、洋服、家具、食料品全てが揃うのはターゲット、と
困らないようになっています。

ターゲットはダーツの的のような赤い二重丸がシンボルで、
最近特にどこにでも新しく出店している勢いのあるスーパーです。

今回もサンフランシスコで新しく出店したターゲットを二店舗目撃しました。

ピッツバーグのこのターゲットは、特に新しくて他の店舗より敷地が広く、
マスコットの「スポット」くんこと「ブルズアイ」の人形が飾ってあります。

いわゆるインスタ用というか、並んで写真を撮ってください的な、
これが本当のスポットなのですが、お行儀の悪いアメリカ人は、
持ち歩いていた商品をぽいっと置いて行ったりする場所にしてしまっています。

可愛いので本物の写真を貼っておきます。
ペイントに使われている塗料は無毒であると説明されています。

アメリカのお店はどこでも「ナウハイヤリング」として、
常に従業員を募集していて、ターゲットも例外ではありませんが、
ここは従業員を「チームメンバー」と称しているようです。

ディズニーリゾートの「キャスト」みたいなものでしょうか。

ターゲットは独自ブランドの洋服も出しており、大抵は素材もペラペラで
冬物などほとんど安っぽすぎる傾向があるのですが、夏物、
特にデニムやシンプルなワンピースなどは掘り出し物が見つかります。

最近ターゲットではデブ、じゃなくて「ウーマンサイズ」
(日本でいうところのクィーンサイズ)の方々にも心置きなく、
堂々と買い物していただこうということか、ご覧のように
マネキンにウーマンサイズボディを登場させました。

マネキンだからちょっと違和感がありますが、実はアメリカ人の半数が
こういう体型だったりするので、実にプラクティカルというか商売上手。

アメリカではSサイズはむしろ少数派です。

「バスビヨ」に行ったときに見つけた変な商品。
良く見たわけではないので仕組みはわからないのですが、
マッサージ機能のある軽石付き足洗い機のようです。

足くらい自分で洗えよ、と思ったのですが、これも良く見ると
「フレッシュフィート」というこの商品のすぐ下に、

「足を洗うのに体を曲げたりストレスを感じなくて済みます」

つまりこれもアメリカならではで、体を曲げることさえできないくらい
太っている人のためのものなんじゃないでしょうか。

去年か一昨年、「 Emoji Movie」という、全く面白くなさそうな映画が
アメリカで上映されていましたが、その後すっかり市民権を得た
「Emoji」の・・・わからないので調べてみたら、Bluetoothスピーカーだそうです。

しかも商品名「jamoji」って何なんだよ。ジャパニーズの絵文字か?

ちなみにこの邪文字、いちいち名前がついていて、
左から「トラブル」「LOL」「JUST KIDDING」「KISS」
そして「チョコレートスウィール」なんだそうな。

チョコレートスウィールがプランジャーとなって登場。
プランジャーというのは、トイレが詰まったときに使う、日本では
ラバーカップと呼ばれているあの道具です。

商品名「Poo plunger」・・・・あのさあ・・。

アメリカには、地域に必ず一つはモールがあります。
露天型と室内型があり、全天候型のモールは人気があり、アメリカ人は
休みになると何となくモールに行ってわけもなくぶらつく習慣があるようですが、
必ず一つのモールに最低でもデパートが二軒、大型専門店なども入っていて、
レストランの他にご覧のようなフードコートを備えています。

このモールにはルイヴィトンとかTUMI、Apple、そしてテスラのショールームと
アメリカ人の考えるところの「この辺りでもっともグレードの高いモール」。

でもフードコートはしょせんアメリカ、謎のジャパニーズフードとか
ファイブガイズなんていうどうでもいい食べ物屋が基本だったりします。

「それにしてもこのジャパニーズ、サークって何?」

「まさかとは思うけどSakuraが何かの間違いでこうなったとか」

「まさかー」

まあ、経営にも日本人は全く関わっていないことは確かです。

ファイブガイズといえば、先日、どこかのファイブガイズで、
二人連れと三人連れ、合計5名のファイブガイズが大げんかになり、
警察沙汰になったということが話題になっていたそうです。(アメリカ限定)

心の汚れたわたしはその話をMKから聞いて即座に

「それヤラセだと思う。
ファイブガイズがファイブガイズで喧嘩。
実際話題になったしすごい宣伝効果だよね」

と決め付けました。

「でもその五人、実際に警察に捕まったんだよ?
ヤラセでそこまでする人がいるかなあ?」

確かに、それがバレたときのリスクを冒してまでファイブガイズが
宣伝のためにそこまでするかというと大いに疑問ですが。

日本でのタピオカブームは終息したんでしょうか。
タピオカランドなるものができて黒い丸いバッジを売っている、と
聞いたとき、わたしはブームの終わりを確信したのですが。

ここアメリカでは、日本にも出店しているらしいチャタイムがあって、
それなりに流行っていますが、何時間もの列ができることはありません。

ここには滞在中なんどか行ってしまいましたが、必ず注文するのは
ほうじ茶(ローストティ)の砂糖なし、タピオカ入りミルクティでした。

昨日スタンフォードに行って友人とランチを食べたのですが、
同じモールに人がえらく集まっている一角があるので何かと思ったら
boba(タピオカ)の店で、ここは結構行列ができていました。

アメリカの友人によると、ブームはアメリカの方が早かったということです。

日本式ラーメンもアメリカで今人気です。
ここサンフランシスコにも雨後の筍のようにラーメン屋ができていますが、
そのほとんどは中国人がやっているのではとわたしは踏んでいます。

ピッツバーグのダウンタウンで見つけたラーメン屋の店構えに
ちょっと期待してしまい、よせばいいのに入ってしまいました。

『トンコツ』なんてのも今や日本語で通じる時代、トンコツラーメンを頼んだら
出てきたのがこれ。
チャーシューにナルト、メンマ、もやしにゆで卵とまともでしょ?

しかし、一口食べてわたしはおごそかに宣言しました。

「これは・・・・ラーメンではない。中華そばだ」

日本式ラーメンのつるっとした感じが皆無な、粉っぽい感じ、
舌越しがモゴモゴするような麺で、全く美味しくありません。

気が付いてみれば店で働いているのは全員が中国人で、
店内のBGMは中国語のポップス。

シェフ?は客が途切れたのか、店内の空いた椅子に行儀悪く座って
何か食べながらスマホを見ています。

「全く隠す気がありませんなあ」

「わたし、こういうインチキが一番許せないんだよね」

腹が立ったのと不味かったこともあり、わたしは食べる気をなくし、
ほとんど食べずに残して店を出ました。

ちなみにMKの食べた担々麺は割と美味しかったそうです。
そりゃそっちはもともと中華ものだし。

その点、他のアジアンの料理などだと、おそらくは
間違いなくその国の人が作っているはずなので、安心です。

ここは、フォーが食べたくなって行ったベトナム料理屋さん。
たっぷりのもやしが添えられているのが嬉しい。
アメリカの普通のスーパーで売っていない野菜の一つがもやしです。

あと、しそや大葉、ミョウガも売っていません。
ついでに、豆腐はどこでも買えますが、納豆は日本食スーパーにしかありません。

滞在中二階行ってしまったヌードル専門店、「ヌードルヘッド」。
MKによると、この「ヘッド」はクレイジーのような意味があり、
「ヌードルヘッド」で「麺キチ」みたいなイメージだそうです。

いつ行ってもたくさんの人で賑わっていて、人気があるのは、
基本的にどこの料理、と国籍をくくらず、いろんなヌードルが食べられるからでしょう。

インド風カレーのスープにヌードルとか、タイ風とか、ベトナム風とか。

これもラーメンですが、味はフュージョンだったそうです。

わたしがここで滅法気に入ったのがパッタイ。パッタイは正義。
量が多いので、大抵アメリカのレストランで食べたら、パッケージをもらって
持ち帰ることができるのですが、このパッタイ、持って帰って
野菜を足して加工してもなかなかの美味しさでした。

みなさま、お待たせしました。
「ザ・アメリカのケーキ」でございます。

クリームに24色全ての色を使用してしまうという感覚がまず、
我々日本人には(多分他の国の人も)受け入れられないものですが、
不思議なのはブルーとか紫とか黄色で飾り付けられたケーキを見て
彼らが「美味しそう」と思っているらしいこと。

わたしがよく行くホールフーズやTrader Joe'sには置いていないので、
今回パッキングに必要なペンを買いにピッツバーグの「ゴールデンイーグル」という
大型スーパーに行ったとき、ここぞと撮ってきました。

真ん中四つのケーキは実はカップケーキを集めた上にクリームを乗せて
四角いケーキ風に見せているんですね。

なるほど、これならわけて食べやすい・・・ってそういう問題か?

土壌の真ん中が空いているケーキは、注文の時に名前を入れてくれるのでしょう。
それにしても、男の子の誕生日用にミニカーを乗せた芝生と道路を模ったケーキ、
どうしてケーキでこれを再現しなければならなかったのか。

というか、このミニカー、ちゃんと綺麗に洗って使ってる?

アメリカというのは、ケーキ屋さん、パティスリーがありません。
あってもせいぜいベーカリーといったところ。

「アメリカには、日本みたいにフランスで修行してきたパティシエが
自分のお店を持つ、みたいなビジネスモデルはないの?」

わたしが聞くと、彼女は

「たまにセンスのいい個人がそういうティールームを開いても、
アメリカ人には人気がなくてすぐに潰れてしまうのよ」

と身近な例を二件挙げて答えました。

まあ、こういうセンスのものがケーキだと思っているのが大多数なら
それも致し方ないのかなという気がします。

陸自のパーティなら右下の迷彩柄ケーキなどあれば盛り上がりそうですが、
これらは全て「卒業おめでとうケーキ」というわけで角帽があしらってあります。

しかし、こういうのを見ると、アメリカ人にとってケーキは
「味わうもの」ではなく「見て楽しむもの」なのがわかりますね。

ところでこれを撮ったのは8月だったわけですが、2019年の卒業シーズンは
もうこの時にはとっくに終わっていたという・・・。

最後に、ピッツバーグの家ではキッチンが充実していたので、
よく凝った料理をした、と書きましたが、その一つ。
MKがネットで探してきたレシピなのですが、このチキン、一晩
バターミルクに色々とスパイスを混ぜ込んだものに漬け込んで
味を染み込ませてから焼き上げたものです。

 

MKによると、バターミルクを使ったフライドチキンというのが
アメリカでは割とポピュラーな料理なのだそうですが、流石に
ディープフライはできないということでオーブンローストに切り替えました。

日本ではバターミルクなどふんだんに使うことができないので、
私にとっても初めての試みでしたが、一晩マリネードしたチキンは
味が深く染み込んで柔らかく、わたしたちはこのチキンに舌鼓を打ちました。

 

続く。

 

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