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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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ウィーン到着〜出国前の大騒動とスタッドパーク

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みなさま、長らくコメントに対する返事等全くできずに申し訳ありませんでした。

色々あって、現在日本から遠く離れたウィーンにおります。
今年の出国は7月半ばになり、そのおかげで散々日本ならではの
蒸し暑い梅雨を味わうことになったわけですが、今、
日差しは適度にあれど湿度の少ないオーストリアに身を置いて、
出国までのスリルとサスペンスに満ちた日々を思い出しております。

出発は7月某日の羽田空港、25時発。
ラウンジに着いたとき、深夜発のせいか人の少なさにまず驚きます。

そして、同時にここに辿り着けたことに心からホッとしたわたしたちでした。

今回、MKが

「パスポートがない」

と言い出したのは、出国予定日の11日前のことです。

まず、家の中どこを探してもないことを確認したのち、警察に電話。
遺失物の届け物のなかにないことを確かめると同時に。翌日の朝一番で
戸籍のある文京区に車を飛ばしてパスポート発行のための戸籍謄本を取りに行き、
そのまま住居地のパスポートセンターで再発行の手続きを怒涛のように行いました。

出国まで時間がないので、もう探している余裕はありません。

彼の場合、パスポートだけでなく、アメリカ大使館からビザを受け取り
パスポートに添付しないとアメリカ入国できないのですから、
探すことを放棄して、一日も早く再発行することを選んだわけです。

パスポートセンターの窓口の係員(仕事できそうな感じ)は、

「どんなに急いでも4日が最短です」

と恐縮しておられましたが、待っている間にすることはあります。
まず、大使館への面接の申し込みを優先してもらうための色々。
学生ビザを貰うには、大使館で面接を行うことになっているのですが、
普通に申し込むと、面接をしてくれるのは17日後、完全にアウトです。

そこで、HPに入ってからイマージェンシーを選択し、面接を早めるために
知人二人にレター(これこれこういう理由で彼は何日までにMKは
アメリカに行かねばならないのでよしなに、という内容)をお願いしました。

一人はMKがインターンシップをしていた日本の会社の社長、もう一人は
アメリカの大学の研究室の教授で、このお願いは皆TOがしてくれました。

そして、4日後。
朝一でパスポートを受け取ったらすぐに家に戻り、パソコンで
大使館に申込み、その後出発の5日前に面接が決まりました。

そして面接当日、6時半に家を出て、ホテルオークラに車を停め、
朝食を食べて時間を待ち、面接に突入。(わたしはずっとカメリアで待機)

面接の時、MKは、一応ダメもとで

「パスポートを出来るだけ早く送ってもらえないだろうか」

と言ってみたそうですが、返事は、

「我々には面接を早くすることしかできない」

そして、ビザの添付されたパスポートは通常通りなら
5日以内に届くであろう、というものでした。

5日で届いたとしても、それは出発の日の朝ということになります。
もうギリギリもいいところです。

その日から週末まで家を空けないようにし、トラッキングで
今どこまでパスポートが来ているか1時間おきにチェックさせました。

そもそも、パスポートが来なかったら、大変なことになるのです。

と言いますのは、今回我が家は、三大陸周遊チケットといいまして、
地球を同じ向きに移動しながら、たとえばわたしたちのように

日本ーヨーロッパーアメリカー日本

と各地24時間以上滞在すれば要件を満たし、二都市間往復の
ほぼ半額くらいの値段で世界一周ができるという航空券を取っており、
秋学期のためにアメリカに戻るMKも、

アメリカー日本ーヨーロッパーアメリカ

というアメリカ起点での同じ周遊システムで移動する予定だったのですが、
もし予定の便に乗れなければ、最悪、彼だけが米国までの片道を
ほぼ正規料金で買って、1週間後に単身渡米、アメリカで落ち合うことになるのです。


そして、パスポートが今日本郵便の手に渡った、というトラッキングにより、
どうやらなんとか間に合いそうだ、と安心しかけたその朝のことでした。

出入りのクリーニング屋さんが、仕上がった服と一緒に、

「これ、入ってたんですけど・・・」

と半笑いで渡してきたのが、MKのパスポート。

なぜ?

彼の着ていたコートの内ポケットをチェックせずに
(まさか内ポケットがあるなどと思ってもいなかったため)
クリーニングに出したのは他ならぬこのわたしですが、もし業者が
洗濯がすんだ彼のコートと一緒に2週間前に届けていてくれさえすれば、
MKが紛失したと気づく前にことは終わっていたのです。

どうしてコートの配達を終えてからさらに2週間の間、パスポートという
誰が考えても大切なものを取得しておきながら、届けてくれるどころか
一言の連絡もくれなかったのか。

わたしは自分の過失を棚に上げてクリーニング屋の気の利かなさに呆れました。
そして、

「クリーニングに入れたまま出してた・・・」

平謝りしながら家族にそのことを話したのでした。


今回の事件で、今になって本当に良かったと思ったのは、パスポート紛失が
確実となったとき、わたしもTOも、MKに向かってそれを
一言も責めたり、怒ったりするようなことを言わなかったことです。

モノを紛失した人間に対して、不注意を咎めても出てくるわけでもなく、
もちろん自分自身も山ほどそんな経験をしてきているわけだし、
なんといっても、人を責めている間に、再発行に向けて、家族一丸で
ことに当たらなければならない時に、そんなことで互いを傷つけても、
なんの生産性もない、とそんな時我が家では全員が考えるのです。

果たして、パスポート紛失はわたしのミスだったことがわかっても、
TOもMKも、わたしを一言も責めませんでした。

わたしたち以上に人間ができているところがあるMKなど、

「いいこともあるよ。
今回更新したから大学在学中にパスポート作り直さなくて良くなった」

と超前向きな発言をしていたほどで、全くいい家族を持ったなあと感謝した次第です。

今回の便でもらえる機内セット、提供はグローブトロッター社です。

今回、もし彼のパスポートが一日遅れていたら、家族三人とも便を遅らせる、
という案もありました。
我が家ではMKが高校生になってから、親とは別に彼だけエコノミーですが、
どうしても一緒に行くならわたしたちのビジネスクラスが確保できなくなるのです。

しかも、その際、ビジネスクラスの料金を払っていながら、
差額返却なしでエコノミーと聞いた途端、わたしは非情にも、

「やっぱりそれは辛いからそうなったらMK一人で飛行機乗ってね」

と言い放ちました。
わたしがMKだったら、てめーが失くしたんだろうがてめーが!
とキレていたかもしれません。
しかしMKは人間ができているので、母親に向かって
そんな暴言は決して吐いたりしませんでした。(-人-)

とにかく、結果良ければで無事に予定した便に同じクラスで乗れたため、
わたしは非情な(しかも勝手な)母親にならずにすみ、しかも
このオリジナルポーチを手に入れることができたというわけです。

今回は25時発なので、機内に入ってからの食事はありません。
到着3時間前に朝ごはんが出てきました。

出発したとたんすぐに眠りについて、起きたら時間は
朝の9時半、という理想的なフライトで、体はとても楽です。

みなさん、ヨーロッパ行きの深夜発はおすすめですよ。

機内では映画を一本だけ観ました。
クリント・イーストウッドの「運び屋」。
イーストウッドに仕事をやらせる麻薬の売人のレベルが、
次々とレベルアップしてきて、ラスボスが出て来る頃には
最初に出てきた(それでも最初は怖かった)売人たちが
可愛く見えて来る、という興味深い演出あり。

エンディングに少し不満はありますが、いい作品だと思います。

年老いてゆく全ての人々に送る応援歌みたいなエンドロールも👍。

到着寸前に窓の外を見るとこんな景色が。

この辺の畑全てを所有しているハンスさん(仮名)の豪邸です。

ヨーロッパに来るのは本当に久しぶり。
しかも、これまでの渡欧は全てアメリカ経由だったので、
日本から直接飛んだのはこの人生で初めての経験になります。

空港のドイツ語表示も、駐機している機体も珍しいものばかり。

空港からは、荷物が多いのでタクシーに乗りましたが、
前もって調べておいた(TOが)定額タクシーのブースにいき、
大型車を手配してもらいました。
ウィーン空港から市内のホテルまで43ユーロです。

ウィーン市街も、いたるところこのような落書きにあふれています。

ホテルは「スタッドパーク」という彫刻のある公園の前です。
「キャノン」という彫像があるので、

「もしかしてキャノン砲と関係ある?」

と色めき立ったのですが、こちらは画家でした。
スタッドパークの彫像は芸術家ばかりのようです。

ウィーン空港に着いたのは朝の6時でした。
街角を歩く人影はまばらです。

ホテルはヒルトン。
予約を決めたTOによると、便利で割と安かったそうです。

ロビーに、ヒルトンを訪れたセレブリティの写真がありました。
ダライ・ラマの左の男性は、ロジャー・ムーアだそうです。

ヒルトン家のご令嬢パリス・ヒルトン。
左はオーストリア出身の俳優シュワルツネッガーが、
最初の映画に出た後、ホテルで記念パーティをした時に
シェフがザッハトルテ風チョコレートケーキを焼いたとか。

ホテルを一歩出たとたん、オーストリア出身のレハールのオペラ、
「微笑みの国」のポスターがありました。
この衣装を見てもわかりますが、オペラの舞台は中国です。

さすがはウィーン、しょっちゅうレハールなど、典型的な
ウィーンオペレッタの公演が行われているんですね。

ホテルのチェックインまで時間があったので、荷物を預け
前のスタッドパークを散歩することになりました。

池を泳いでいた母艦と駆逐艦のカモ艦隊。

ウィーンのカラスは首が灰色です。

ものすごく変な彫像発見。
近くのモダンアートスクールの生徒の仕業か?

シュレティンガーといえば猫、猫といえばシュレディンガー。
その理論物理学者、

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー

がオーストリア出身だということは今回初めて知りました。

アントン・ブルックナー。
第四番交響曲「ロマンティック」がわたしは特に好きです。

シュレディンガーもそうですが、なんとなくドイツ人だと思っていたのが
実はオーストリア出身だった、ということがよくあります。
アドルフ・ヒトラーも実はオーストリア出身ってご存知ですよね。

顔だけ黒いシャネルズみたいな鳥さん。

有名人の像ばかりではなく、ペンギンもいます。

花時計?葉時計?の向こうにはレストランがあります。

ここにあったんだー!

のヨハン・シュトラウス像。
「名曲アルバム」の画像で何度これを見たことか。

本当にこんな顔をしていたんでしょうか。

ものすごく楽しそうな周りにあしらわれた人たち。

この後、歩いていくと、女性がヨハンシュトラウス像はどこですか、
と英語で話しかけてきました。

わたしが後から、今の人イギリス人の英語だったね、というと、MKが

「アイリッシュだったよ」

「あれだけの会話でそこまでわかるんだ・・・」

「まあ日本人も関西人かどうかすぐにわかるもんね」

公演は市民の憩いの場となっており、木陰には
大学生のサークルが語らいを楽しんでいました。

フランツ・シューベルトもウィーン出身です。
今回、ウィーンでお願いした個人ツァーのガイドさんから、
シューベルトの身長がわずか157センチしかなかったことを聞きました。

魚に当たって腸チフスとか、梅毒の薬の水銀のせいとか
言われていますが、それにしても低身長な上、31歳で死んでしまうとは。

モーツァルトも35歳で若死に、身長も163センチだったとか、
いや150センチしかなかったとかいわれていますがとにかく低身長。

栄養状態というよりはモーツァルトの場合、物心ついた頃から
ほとんど一生涯馬車で旅をしていたので、つまり成長ホルモンが
潤滑に分泌されていなかったせいであるともいわれていますね。

ウィーン市内を走る「はとバス」的二階建て観光バス。

午前中にホテルの部屋にいれてくれそうにもないので、
近くの近代美術館の中にあるカフェでウィーン名物、
ウィンナシュニッツェルを食べてみました。

ポークに衣をつけて薄く焼いたもので、レモンをかけ、
クランベリーソースを乗っけていただきます。
美味しかったですが、案の定量が多すぎでした。

この美術館、窓をガラス張りのドアに変えた時にくり抜いた部分を
作品としてその前に展示してあります。

これからウィーンとザルツブルグに計一週間滞在します。
このブログ的にお話しすべきところも見学してくるつもりですので、
またよろしくおつきあいください。

 

 


ハインケルHe219「ウーフー」とルッサーの法則〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

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スミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター。
この世界最高峰の航空博物館展示から、第二次世界大戦時のドイツ機について
お話ししてきましたが、最終回です。 

 


ハインケル He 219 A ウーフー(Uhu )
ウーフーって可愛いですが、ワシミミズクのことなんだそうです。
夜間戦闘機だったため、こんなあだ名がつけられたというわけですね。
わたしが訪れた時には、まだ組み立て前で、バラバラにした状態で置いてありました。
設計したロベルト・ルッサーは自身もパイロットで、第二次世界大戦中
ハインケル、そしてメッサーシュミットで数種類の名作戦闘機を生み出しました。
 

メッサーシュミット Bf 110

ハインケル He 280

ハインケル He 219

フィーゼラー Fi 103

  「robert Lusser」の画像検索結果   ルッサーは最初ハインケル社に入社、メッサーシュミットに移り、
またハインケルにはいんける、といった具合に航空製造会社を
行ったり来たりしています。   He219は先進的な夜間戦闘機でしたが、あまりにも革新的な機構なので
量産は難しいという理由で、また、He280はメッサーシュミットMe262と
競合して負けたため、どちらもドイツ空軍省からは却下されてしまいました。   エルンスト・ハインケルはこのためルッサーをすぐさまクビにしてしまい、
彼はその足でフィーぜラー社にいって、無人飛行機Fi103を設計しています。

戦後は多くのドイツ人科学者とともにアメリカに渡り、アメリカ海軍の
ジェット推進研究所で6年間働きました。   その間に得た経験から、
各部品段階での信頼性の向上はシステム全体の信頼性の向上に寄与する
ということに着目した信頼性に関する法則を数式化し、これは現在   「ルッサーの法則」   として知られています。
  さて、「機構がややこしすぎて量産できない」と言われたHe219ですが、
夜間戦闘機なので、追尾レーダーを二基、射出のためのイジェクトシートも
搭載していたとか、武器の搭載が凝っていたとか、そんな感じです(適当)   機体は例の「ワトソンの魔法使いたち」が行なった「ラスティ作戦」により
ドイツ国内で接収され、アメリカに運ばれてテストを受け、その後
SFUHセンターに展示されて今日に至ります。   ドイツでは大変信頼が高かったそうですが、アメリカ軍の試験では
エンジンの出力不足が指摘されあまり高評価ではなかったとされます。 当初の設計に対し色々後からお道具を積みすぎたといったところでしょうか。   ちなみに「ラスティ作戦」のラスティですが、わたしは昔、
サイパンだったのホテルで、出稼ぎに来ていたフィリピン人のホテルマンと 雑談をしていて、ガールフレンド関係の話になり、彼が   「僕この間あなたはラスティね、って女の子に言われたんですよ(´・ω・`)」   と言ったのが唯一耳にした機会で、その言い方から、
あまりいい意味じゃないんだなと思っていたわけで、この作戦名を
とりあえず無理やり「元気作戦?」と訳して書いておいたのですが、
今回この機体のことを調べていて、LUSTYが    LUftwaffe Secret TechnologY(ルフトバッフェ秘密の技術)   の略であることがわかりました。
多分「Lu」を頭につけることを前提に単語を考え、
こじつけでこんな作戦名にしたんだろうと思います。         どうもこの展示は組み立て途中というのではなく、これが完成形のようです。 ダイムラー・ベンツDB603の二基のエンジンを見せるための。   現地の説明を翻訳しておきます。   8基の砲という重武装とそれを誘導するレーダーを持つ
ハインケルHe 219「ウーフー」(イーグルオウル)は、ルフトバッフェの
最強の夜間戦闘機でした。   ドイツの航空機としては最初にノーズホイールを搭載した機体で、
イジェクトシートを備えていたという意味でも画期的です。   最初のミッションは1943年、一機のH219が、少なくとも
5機のロイヤルエアフォースの爆撃機を撃墜したといわれます。   博物館に展示されている機体は正確にはそのA-2型で、
1944年の後半に作られた現存する唯一のタイプです。   戦争中の運用に関しては現在もあまり知られていません。   1945年5月イギリス軍がデンマークでこの機体を捕獲し、
ワトソン大佐のチームを通じてアメリカに渡りテストを受けました。   機体について分かっていることは、スミソニアンに来るまでに
飛行時間は13時間にも満たないということだけです。    
第二次世界大戦中のドイツ機コーナーの隅にこんな小さな飛行機を見つけました。 まだ展示前なので(天井から吊るつもりかな)説明も何もなく、
模型か実機かもわかりませんでした。

ということで、第二次世界大戦時のドイツの航空機についてお話ししてきましたが、 初戦では相手を圧倒し、有利かに思われた戦況が、時を経るに従い、
物量のアメリカと作戦立案の巧妙なイギリスにじわじわと押されて敗戦、
という経過が、ある意味日本の敗戦までに酷似していることに改めて驚きました。
もちろん、後年ドイツの敗因としていわれるところの
「技術力を過信しすぎて負けた」
と同じかというと、日本の技術はまだまだで、過信したものがあったとすれば
それは精神的なものだった、という決定的な違いはありますが。
この点、もし「ヘタリア」や「ポーランドボール」ならば、両国は

「だからもしお金があったら絶対負けてなかった」
などいうセリフを言わされるところで、ある程度それは正しいかもしれません。   もっとも、お金があればどちらも戦争なんて始めてないんですけどね(笑)  
スミソニアン博物館のドイツ航空機については、このあともう少し、
ルフトバッフェの栄枯盛衰について展示をご紹介するつもりです。

続く。    

シェーンブルン宮殿のパンダ〜ウィーンの街を歩く

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ウィーンに到着した次の日、ガイドをチャーターして観光をしました。
初めての土地に来たときによくやる方法で、最初にツァーで見所を抑え、
ガイドに残りの日に自分たちだけで行くべきところを教えてもらうのです。

朝10時にホテルからチャーターした車で待ち合わせ場所の
シェーンブルン宮殿前に行くと、そこで待っていたのは
日本の音大を出て若い頃ウィーンに留学し、それ以来ここに住んで
音楽活動の傍らガイド業をしているという男性でした。

ヨーロッパ留学組で現地に骨を埋める音楽家のうち多くが、
ガイドを兼業して生計を立てているというのはよく聞く話ですが、
まさか実際に観光地で遭遇するとは思いませんでした。

ハプスブルグ家の夏の離宮として建造されたというこの宮殿には、

●御前演奏をした神童モーツァルトが、マリー・アントワネットに求婚した

●ヨーゼフ一世が宮殿の一室で息を引き取った

●マリア・テレジアがウィーン少年合唱団の団員だったシューベルトの
声変わりした声を聴いて、アレは辞めさせろと言った

●「会議は踊る」で有名なウィーン会議の会場。座長はメッテルニヒ。

と、有名な逸話がそれこそ星の数ほどあります。

ハプスブルグ家の紋章である鷲があしらわれた門柱。
現在のオーストリアの旗は赤白二色のシンプルなものですが、
1945年、ナチス・ドイツによる併合が終わってから
再び国章は鷲の意匠になりました。

ヨーロッパの建造物には、やたらと人間があしらわれています。
これは天使のようですが、普通の子供ですね。

庭園のランプ越しにグロリエッテという戦勝記念碑を臨む、
ガイドオススメの撮影スポットだそうです。

どんなスポットにも中国人観光客が写り込んでくるのは
もう世界中どこの観光地でも逃れようがありません。

階段を上り、かつて宮殿の住人たちが姿を現したバルコニーから
庭園と戦勝碑が左右対称の完璧な姿で見えます。

庭には惜しげも無く大理石を使った彫刻が規則的に配されています。
ちなみに、ウィーンはこの時期日中の日差しの強さはかなりのものなので、
外を歩く人は帽子が欠かせませんが、なぜか中国人の中老年女性は、
折りたたみの雨傘を日除けにしてどこでも闊歩しています。 

シェーンブルン宮殿は、それ自体がオーストリアの「観光のドル箱」
(ユーロ箱?)で、稼ぎ頭です。
観光用に公開されている40室を全部歩いただけで、その広さに驚きますが、
実はシェーンブルン宮殿には部屋が1441室あって、かつては侍従や使用人が住んでいた
「普通の部屋」は、貸し出されて一般人が住んでいるのだそうです。

シェーンブルン宮殿が住処というのは話のタネとしては洒落ていますが、
何しろ昔の建物なので、不便すぎてウィーンっ子にはあまり人気はないそうです。

かくいうわたしも現在、アメリカはペンシルヴァニア州の、おそらく
100年くらいは経っているに違いない家を借りていますが、空調や水回り、
細かいところの経年劣化など、外見がたとえ趣があって美しくとも、
実際に住むとなるとなかなか辛いものがあります。

今世紀に経った普通の家でもこうなのですから、築269年の元使用人の部屋は、
いくら歴史的建築物の一隅でも住みたいと思う人は少ないでしょう。

ウィーンの街は観光用の馬車が現役です。
広大なシェーンブルン宮殿の庭を全部見て回るのは、歩くより
馬車に乗るのがいいかもしれません。

オーストリアは乗馬が盛んで、オリンピックでもいつも
上位入賞をするのですが、歴史も裾野も広く、ウィーンには

「ウィーン・スペイン式宮廷乗馬学校」

という、貴族階級のために作られた乗馬学校があります。
訓練された白い馬だけがいる特別の乗馬学校ですが、同じ白馬でも

「出来の良くない馬」

は、馬車に売られてしまうのだそうです。
それでも、白馬というだけで馬車界に行くと大事にされるようです。

手前の白馬仕立ての馬車が他の馬より高いのかどうかは聞きそびれました。

宮廷の一階エントランス部分にあったブロンズ像。
殴られているかわいそうな怪獣の口は「手洗い場」だったとか。

床の材質は木です。
六角形の杭を縦に埋め込んでいって、まるで敷石のように見せています。
なぜここまでするかというと、ウィーンの冬は大変厳しく、
大理石の床では人間が耐えられないからなんだそうです。

宮殿の内部は撮影は一切禁じられています。
海外の展示にしては珍しく、大抵はフラッシュ不可でも撮影は可ですが、
絹の調度品や洋服など、光が当たらないように細心の注意を払って
管理しているものが多い関係で、そのようになったようです。

最初にハプスブルグ家の家計を示すパネルがあったので、わたしが
ガイドにふと、

「ハプスブルグ家の唇っていいますけど、こういうのですか」

と一人の写真を指差して聞きますと、特に醜かったとして、
カルロス2世の肖像を指し示し、

「血族を維持するために近親婚を繰り返したせいだと言われています」

こちら、ウィーン市内の三位一体像の中に登場する、レオポルド1世。

「ハプスブルグ家の唇じゃなくてこれは顎ですね」

「皇帝レオポルト1世」の画像検索結果

同一人物です。肖像画補正が入っていてもこれ。

しかし、ガイドによるとハプスブルグ家はフランスの王家のように
贅を貪ることもなく、市民に宮殿を公開し、国民とふれあい、
革命どころかたいへん慕われた王家だったということです。

そんなハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは、娘マリー・アントワネットが
フランス王室に嫁いだあと、国民の困窮をかえりみず贅沢をしているらしいと
肖像画や周りの報告によって聞き及び、大変心配していたそうですが、
彼女の心配は杞憂に終わらず、その贅沢が娘を死に追いやることになります。

女帝にとって幸せだったのは、娘が自分の心配通り、革命によって
断頭台の露と消えてしまったことを知る前に死んだことでしょう。

丘の上にある「グロリエッテ」の近くにももちろん行けますが、
ツァーの内容には含まれていません。
個人ツァーなので、ガイドの采配で時間配分が自由に変わるのですが、
宮殿の内部見学でそれはそれは熱心に話をしてくださったので、
外に出た時には大変な時間オーバーとなっていました。

現在のオーストリアの国章は普通の鷲ですが、かつて
ハプスブルグ家のオーストリア=ハンガリー帝国の紋章は
双頭の鷲で、頭が二つありました。

それにしても思うのは、若い人は国籍を問わず自撮りに命かけてますね。

この写真に写っている二人は、まるでモデル撮影のように気合をいれて、
日本人なら人目があるところでは恥ずかしくてとてもできない
恥ずかしいポーズ(腰に手を当てて片方の手を高く上げ、斜めモデル立ちをして
ウィンクするというような)を次々と決め、相手にシャッターを押させて
それを熱心に確認し、またもう一度、と飽きることなく繰り返していました。

シェーンブルン宮殿も庭園も、素敵なわたしを引き立てる背景に過ぎないのでしょう。
きっと自撮りが許されない宮殿な内部の見学はさぞ辛かったことと思います。

 

彼女らがポーズを研究しているこの街路樹の間をまっすぐ歩いていくと
シェーンブルン動物園があります。

昔、メナジェリーという「宮廷の小動物園」として設立したものが
今でもシェーンブルン動物園として営業しているのだそうです。

神聖ローマ帝国のヨーゼフ二世(マリー・アントワネットのお兄ちゃん)
の時代には、動物を捕まえるためにアフリカとアメリカに遠征隊を派遣し、
その結果連れて帰ってきたキリンが、当時ウィーンに「キリンブーム」を起こしました。

皆が挙ってキリンのデザインのファッションを身につけ、戯曲家パウエルは
「ウィーンのキリン」というお芝居まで作ったそうです(笑)


その後、当動物園が話題になったのは、パンダの飼育かもしれません。
当動物園では、ヨーロッパでは初めて、自分たちで生まれた仔を育てることに成功。
ジャイアントパンダの飼育にかけては世界でも貴重な技術を持っているそうです。

おかげで最初のパンダは中国に返してしまい、中国共産党の「パンダ外交」に
乗っかる必要もまったくなくなった訳で、これはめでたい(嫌味です)

しかし、その反面、当動物園は、

● 2002年、ジャガーが給仕中に飼育員を襲い、入園客の目の前で彼女を殺害
園長は救助を試みたが、腕に重傷を負った

● 2005年2月20日、若いゾウのアブが飼育員を圧死させた

などという(これだけではないらしい)悲劇に見舞われています。
どんなところか今回は見ていないのですが、飼育するケージの広さとか、
動物にストレスを与える環境が何かあるのでしょうか。


続く。

 

 

べートーヴェンハウスと「第三の男」のドア〜ウィーンの街を歩く

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シェーンブルン宮殿でなぜかヒートアップし(笑)解説が長すぎて
大幅に時間を食ってしまったとガイドさんは恐縮しています。

幸い、次の予定のスタッドパークはすでに見学を独自に終えていたので、
そこを飛ばして本格的な街歩きに突入しました。

「ベートーヴェンの住んでいたアパート、見たいですか?」

個人ツァーなので、ガイドさんはこんな風に意向を聞きながら
案内先を即興で決めていきます。

途中で見せてくれた10年前のコンサートのパンフレットによると、
もうお歳は70歳くらいになっておられるはずですが、
案内に半日歩き回るなど、大変お元気です。
むしろ、ガイド業で歩くから元気なのかもしれません。

「この階段を上ったところなんですが、階段脇のこれなんだと思いますか?」

「非常脱出用の滑り台」

(無視して)「これは、上に住んでいる人が汚穢を捨てたんです」

つまりあれですか、家の中で用足しをツボかなんかにしておいて、
溜まったら一気にドバーッと流してああスッキリ、って、
そんなことをしたら町中が大変な匂いになるやないかい!

とツッコむも虚し、昔のヨーロッパちうのは基本それがスタンダードだったのです。

あまりにショッキングなヨーロッパのトイレ史

これを見る限り、我が先祖の日本人って衛生観念においては当時から
世界の最先端だったようですね。

ベートーヴェンがここに住んでいた1804〜1815年ごろというのは、
ペストの流行(1830年)より前なので、当然のことながら、
のちの楽聖も窓からブツを捨てていたということになります。

階段を上っていくと、ハウスの前でランチを食べている人がいました。
昔のヨーロッパだったらとてもこんなところで物を食べられません。
ロンドンでの話ですが、

「夜10時以降に窓から捨てちゃダメ」

という法律があったそうです。
ということは昼間なら普通に上からバンバン降ってきますわね。
シェーンブルン宮殿で傘をさしていた中国人のおばちゃんの話をしましたが、
そもそもヨーロッパでパラソルを持つようになったのも、元はと言えば
上から降ってくるものを避けるためだったと言いますから笑えません。

という話はさておき、これがベートーヴェンの住んでいたパスクァラティハウスです。
ウィーンでは史跡となる建物には赤と白の旗が飾ってあります。

パスクなんたらというのは大家さんでありベートーヴェンのパトロンだった人です。

4階にベートーヴェンの部屋があるのでご自由にどうぞ、とあります。
 ヨーロッパでは日本の一階はグランドフロアで二階から一階、と数えますから
ベートーヴェンは5階に住んでいたことになります。

入り口の脇にあるこれは馬車を繋いでおくための杭だそうです。
無人で停めておくこともよくあったということでしょうか。

ここでベートーヴェンは34歳から45歳までの間間を開けて住んでいました。
この時期彼が作曲した作品は交響曲第三番(エロイカ)に始まって、
ロマン・ロランいうところの「傑作の森」の樹々を成します。

ただし、ベートーヴェンは引っ越し魔で、生涯に70回住居を変え、
大家兼パトロンがこの家をキープしてくれている間も、
いろんなところを転々としていたということですので、
この家で何が作曲された、とかはわかっていないかもしれません。

「どうしてそんなに引越しばっかりしてたんですかね」

「家賃が払えなかったみたいですよ」

それって食い逃げならぬ住み逃げってやつなのか。
後世に名を残すような人物はもう少し偉人の自覚を持つべきだと思うがどうか。

一階には案内所とちょっとしたグッズを売っているスペースがありました。
案の定ベートーヴェンのシルエット入りのマグとかそんなものです。

中庭から建物全体を見上げてみました。
他の部屋には普通に人が住んでいます。

こういう中庭付きのヨーロッパの建物を見ると、

中村紘子著「ピアニストという蛮族がいる」

で紹介されていた大正期の女流ピアニスト、久野久が、ウィーンの
ホテルの中庭に身を投げたという悲しい逸話を思い出します。

当時日本で最高のピアニストと煽てられ、ウィーンに乗り込むも、
当地でレッスンを受けたエミール・ザウワーに技術を根本から否定され、
彼女は絶望して滞在先のホテルで38歳の命を絶ってしまったのでした。

「これ、何をするものかわかりますか?」

アパートのドアの前の馬蹄形のものは、靴の裏を擦り付け、
家の中に泥や雪、何より道に落ちている色んなモノを、
持ち込まないようにする工夫です。

主に一番最後のモノのためにわざわざ作られたと見た( ̄▽ ̄)

なぜか奥にレッドブルの空き缶が捨て置かれていますが、実は
レッドブルってオーストリアの企業だってご存知でした?

オーナーが航空機収集を会社ぐるみでやっていて、ウィーン空港の近くに
「ハンガー・ジーブン」という航空博物館を持っています。

今回はそれも見てきましたので、またここでご紹介します。

ベートーヴェンの部屋はこの螺旋階段を上っていった最上階です。
健脚とはいえ70歳のガイドには5階まで階段を登るのは辛いらしく、

「上ってみられますか?わたしはちょっと下で待ってます」

それでは、と階段を上りだして、この同じ景色を、
あのベートーヴェンが見ていたんだなあという感慨に浸る間もなく、
下から呼ばれました。

「すみません、今日は休館日で営業してないそうです」

わたしはすぐに踵を返しましたが、NKは一応ドアの前まで行って
そこから中庭の窓ぎわで寝ていた猫の写真を撮ってきていました。

内部にはベートーヴェンのピアノなどもあったそうですが、
これはまたいつかのお楽しみ。

ヨーロッパ人は建物に人間をあしらうのが好き。
INLIBLIという何かを持っている人(女性)の像がシュールです。

ベートーヴェンの部屋のある建物を左に見ながら石畳を下っていくと、
ガイドさんが、

「第三の男、って映画観ましたか」

「観ましたが・・・」

「オーソン・ウェルズが演じるハリー・ライムが、暗闇の中
このドアに佇んでいるシーン、覚えていますか」

「いえ、さっぱり・・・」

「とにかくそのシーンでオーソン・ウェルズが立っていたのがここです」

全く覚えていなかったので、このシーンだけ動画で探してみました。
石畳の形や様式も違いますが、映画が撮影された1949年から
70年の間に少しずつ整備されたのかもしれません。

暗闇の中佇むハリー・ライムの足元に、猫が近づいてきます。
この猫がどういう由来で映画に出演したのかわかりませんが、彼女は
歴史的な名画の、重要なシーンに登場する映画史上最も有名な猫になりました。

猫はオーソン・ウェルズのピカピカの靴を熱心に舐めだします。
どうも靴に何か猫の喜ぶものが塗ってある模様。

靴の大きさとの比較で、まだ小さな猫とわかります。

ハリーは恋人のアンナ(アリダ・ヴァリ)の部屋を見張っています。

実際には、オーソン・ウェルズの立った場所の向かいにはアパートはありません。
これは全く別の場所で撮られたシーンだと思います。

ピカレスク映画の印象的な悪役として名を馳せたウェルズの、
世紀のキメ顔。歴史に残る名シーンの一つです。

当時の映画ポスターはこのシーンを採用していたようですね。

わたしはこの映画のハリー・ライムのセリフを昔から、
というかここしか記憶にないくらいはっきり覚えています。

Remember what the fellow said…

覚えておくといい。こんなことを言ってたやつがいるんだ。

…in Italy, for thirty years under the Borgias, they had warfare,
terror, murder, bloodshed, but they produced Michaelangelo –
Leonardo Da Vinci, and the Renaissance…

イタリアでは三十年間のボルジア家の時代、戦火、恐怖、殺人、
流血に見舞われたが、一方彼らはミケランジェロやダ・ヴィンチなど
ルネサンス文化を生み出した。

In Switzerland, they had brotherly love.
They had five hundred years of democracy and peace,
and what did that produce?…The cuckoo clock.

スイス国民は同胞愛ってのを持っていてな。
彼らは五百年間というもの民主主義と平和を謳歌してきたが、
その結果何を生み出した?・・・鳩時計だよ。

 

ボルジア家はルネサンス文化のプロデュースをしたか?
というとそうでもない気がしますが、その根拠のない断言も
おそらくはハリー・ライムという悪人の独善性を表す演出だったのでしょう。 

後ろに見えている「KUDAS」という字の書かれた家が、冒頭写真の
女性が出てきている扉部分に当たります。

TOは、オーソン・ウェルズの立ったドアの前に立ち、
写真を撮るといいと言われて本当にやっていました(笑)

あの映画のシーンに登場する場所に実際に行って以来、
「第三の男」をもう一度みてみたいと思っています。

ウィーンは観光都市なので、特に今の時期、暑い中市街を歩いているのは
ほとんどがお上りさんばかりです。
市内観光の方法として、わたしたちのようにとにかく歩き回るか、
さもなければこんなオープンカーで回るという手があります。

冬はとんでもなく寒いそうですが、冬の観光客もこれに乗るんでしょうか。

馬車に乗って街をガイド付きで回るというのも楽しそうです。

馬車は普通に車道を闊歩するので、ただでさえ狭い道は塞がれて
車が渋滞する原因になっていますが、ウィーンっ子は慣れているのか、
こんなものだと思って諦めているのか、粛々と馬車と同じ速さで
車をのんびりと走らせていました。

 

続く。

 

プリンツ・オイゲンの像〜ウィーンの街を歩く

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ガイドをチャーターしてウィーンの街を歩くツァーが続いています。
シェーンブルン宮殿はホテルから離れているので、車の送迎がありました。
ウィーン中心部に向かう途中は車窓からの観光です。

この壮麗なギリシャ神殿風の建築物はオーストリア国会議事堂。
現在大々的にリノベーション工事中で、完成は2021年。

工事の囲いからにょっきりと女神像が突き出していますが、
本来ならこうなっているところです。

像の足元は広場になっていて市民の憩いのスペースだったんですね。
改装が完成するまでは議事堂見学ツァーもお休みです。

そのあと、車から降りて町歩きに突入したというわけです。

最初はブルクガルテン、ブルク公園です。
あちこちに銅像や石像がある庭園で、フランツ1世が1819年に建造させました。

これはもちろんマリア・テレジア女帝。
何がすごいって、20歳から39歳までの19年間の間に、
16人の子供を産んだという、「子供製造機」でありながら、
君主の座について施政を行なっていたということです。

驚くべきことに、数字を見る限り、妊娠していなかったのはわずか3年間だけ。
まあ、産身さえすれば、あとは周りが育ててくれたわけですけど。

彼女の夫、フランツ1世は生涯あちこちで浮名を流していたと言います。
奥さんが妊娠中に夫が浮気、というのは決して許される話ではありませんが、
結婚生活のほとんど妻のお腹が大きければ、それも致し方ないのかな。

決して共感はしませんが、理解できない気もしないでもありません。

それでも合間合間に出来るだけ子供をたくさん産みたいという女帝の希望に
ちゃんと付き合って任務を果たしたのだから、それはそれで大したものです。


 

子供の名簿を見ていて気がついたのですが、16人の子供のうち、
死産または幼少期で死んでしまったのは女の子三人だけで、
不思議なことにそのうち二人の名前は「マリア・カロリーナ」です。

よりによってその名前をつけた女の子だけが早逝したなら、
普通の感覚ではこの名前は縁起が悪いからもうやめよう、ってなりません?

ところが、マリア・テレジアはチャレンジ精神旺盛な人物だったので、
二人目のマリア・カロリーナ死去から3人目に生まれた女の子に、
またしてもマリア・カロリーナと名付けているのです。

三度目の正直、彼女は成長してナポリ王に嫁ぎ、しかも
50歳とまあまあ長生きしたようで、ジンクスは破られたのでした。

こちらカール大公像。

カール大公といいましてもいろいろいるわけで、確か
ガイドはカール2世と言っていたような気もします。

この彫刻のポイントは、何と言っても造形の素晴らしさで、
馬の後足二本だけで立っているのがバランスの妙だそうです。

カール大公が右手で持っている旗で絶妙なバランスを取っているとか。

「それに比べてこちらは今ひとつ躍動感に欠けるでしょう」

そうガイドが言ったこちらの像は、プリンツ・オイゲン。
プリンツ・オイゲンという名前は、海軍とか艦これとかに興味があれば、
誰でも知っているわけですが、意外と当人がどんな人だったかまでは
知られていないのではないでしょうか。

ちなみに、「プリンツ・オイゲン」で検索すると、真っ先に出てくるのが
重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」で、ナチス風味のミニスカ軍服を来た
「プリンツ・オイゲンちゃん」の絵だったりします。

かくいうわたしは、以前、模型展見学の報告のため検索していて、

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

プリンツ・オイゲン

というかっこいい響きからルードヴィッヒ二世みたいなのを想像していたら、

Prinz Eugene of Savoy.PNG

こうだったことがわかり、勝手にがっかりしたものです。(すんません)

像の説明を受けている間、ゴミ捨て場のサンドウィッチの袋に
ウルトラC技で挑戦していたウィーンのカラス。

日本のと羽の色は違いますが、やっていることは全く同じです。

ウィーンの町は、建物が通り抜けできるため、通りに対して横に
なんなと近道ができるので大変便利です。
このファサードにお店が並んでいることも少なくありません。

入り口にお餅のような丸い石が設置してありますが、これは
かつて馬車もここを通行したため、車輪が建物にぶつかることを
防ぐためのガードの役目を果たしています。

寺院や普通の建物の上部には、彫像などとにかく人の姿があしらわれています。
この少年は誰だか知りませんが、錨を持っているので撮っておきました。

そういえば、ウィーン少年合唱団の制服ってセーラー服ですよね。

海無し国なのになんで?と思われるかもしれませんが、昔調べたところ、
ウィーン少年合唱団再建のとき、ヴィクトリア女王が気に入って
子供に着せることでヨーロッパ中にセーラー服が流行していたからなのです。

この少年がなぜ錨を持っているのかはわかりませんでした。

たぶん・・・・ライオン。
でも、顔が微妙に猿っぽくて変です。王冠かぶってるし。

「EINBAHN」=アイン・バーンが一方通行であるのはすぐにわかりました。
そういえばわたし少しだけドイツ語勉強したことがあるんだよな。

昔からの建物と、最新式の建築が混在する街。

「これでツァーはおしまいです」

ガイドさんは最後にウィーンでも有名なカフェ、
「ツェントラル」(セントラル)に入っていき、内部を紹介しながら言いました。
時間を見ると、少し遅めのお昼の時間です。

日本人であれば、ここで如何あっても儀礼的に

「よかったらお昼ご飯をご一緒しませんか」

と誘わざるを得ない雰囲気です。
後から考えると、あれはガイドさんの作戦で、ほとんどの観光客は、
そこではいさようなら、とならないのを経験上知っている感じでした。

まあ、カフェで頼むべきものを教えてもらったり、音楽について
雑談したり、楽しく過ごせたので、こちらはむしろありがたかったです。

入り口で案内してもらうまでちょっとだけ待ちました。

それにしても、最近は日本人より中国人の方がいわゆるブランド好きで、
この写真に写っている女の子二人もおそらく20歳そこそこですが、
二人ともグッチにサンローランという、学生には変えないような
ブランドバッグ(しかもこちらで買ったらしく新しい)を持っています。

バブルの頃の日本人みたいです。

ガイドさんが「ニワトコのジュースが美味しいですよ」と教えてくれたので、
頼んでみました。
少し甘いですが、スッキリしたジュースですっかり気に入りました。
後日、別のカフェで同じものを頼もうとして、

「はて、ニワトコってドイツ語でなんていうんだろう」

すぐさまネットで調べたところ(便利な世の中です)、
エルダーフラワーのことだと判明しました。

ちなみにオーストリアではサービス業は間違いなく全員が
完璧な英語を喋るので、ドイツ語は全くわからなくても大丈夫です。


この時食事をしながらガイドさんの身の上話?を聞きましたが、
お父さんが劇団S季の創立者だったとか、お祖母さんの出自を辿ると
やんごとない某所で止まってしまうとか、なんかすごい人でした。

息子さんはウィーンに育ち、オーストリアで一番有名な大学の医学部を出て
今大学病院で勤務しておられるという話で、本当に世の中には
いろんな人がいるんだなあと感慨深くそんな話を伺っておりました。


ついでにこのとき思ったのは、世の中には自分の話をする人としない人がいて、
自分の話をする人は、必ずと言っていいほど相手に質問をしない、つまり
相手のことを知ろうとしない傾向にあるということです。

わたしは自分のことは聞かれるまで喋らないタチで、会話はほとんど
相手に向けての質問ばかり、つまりタイプで言うと「自分の話をしない人」です。


ウィンナシュニッツェル(MK)ソーセージ(TO)サラダ(わたし)
というメインのあとは、3人で二つデザートを注文しました。

こちらがアプフェル・シュトゥルーデル。
ドイツ語のアップルにはなぜかFが入るので「アプフェル」です。

ケーキ本体が甘いので、甘くないクリームで中和して食べるというノリ。
アメリカ人ほどではありませんが、ウィーンの人も甘いものを好むように思われました。

カフェ裏にある中庭のようなところを案内してもらいました。
このバルコニーでウィーン少年合唱団が演奏することもあったそうです。

元々はお城だったので、お城の偉い人がここから演説するために作られたとか。

お昼をご馳走したせいか、「ここで終わり」と言いながらガイドさんは
午後も延々と観光案内を続けてくれました。

街角の教会に差し掛かると、ひょいとドアを開けて(教会というところは
基本どこでも出入り時自由という開かれた祈りの場なので)
スタスタと中に入っていきます。

ミノリーテン教会のなかで彼がわたしたちに指し示したのは
なぜかレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」でした。

本物の「最後の晩餐」も、わたしたちは息子がまだ2歳の頃、
ミラノで実際に見学していますが、こちらはレプリカなので、
あそこのように厳重なセキュリティの下、時間を制限されて
なんとか網膜に焼き付けようとする的な鑑賞ではなく、心ゆくまで
前に佇んでキリストと使徒の姿を眺めることができます。

そして本物の「最後の晩餐」とこれを比べて決定的に違うところ、それは

「食堂のドアを作るために消してしまった」

キリストの足が、この絵にはあると言うことです(笑)

このレプリカは、ナポレオンが依頼して制作させたもので、
気に入ったのでレプリカを手元に置いておきたかったのか、
パリに持ち帰るつもりをしていたようですが、
なんらかの理由でここに留め置かれたままになっているのです。

わたしたちはやりませんでしたが、絵の横にあるお賽銭箱に
硬貨を入れると、絵にライトが当たる仕組みになっていたそうです。

まあ、この絵ならモザイクだし、ライトを当てようがシャッターを当てようが
全く劣化する心配はないのでやりたい放題ってところです。

ガイドさんは奥様と時々電話で話をしていましたが、彼女が

「女性が(わたしのこと)いるのならプチポワンにお連れすれば」

といったとかで、ウィーン宮殿の女性たちが気の遠くなるような暇な時間を
利用して技術を昇華させたという刺繍の店に案内してくれました。

わたしはフェイラーとかキルトとかにも、刺繍にも全く興味はないし、
そもそも身に付けるものに過剰な飾りがあると落ち着かないタチなのですが、
この刺繍が、

拡大鏡を使用して手刺繍で 1 平方センチあたり
121-225 目のステッチ施したもの

と聞いて、それはそれで大したものだと感心しました。
スマホのない時代、宮廷の女性たちの考え出した究極の暇つぶしです。

wikiには、

「近年では、安価な韓国製機械刺繍のものが多く出回っている」

と書いてありますが、ガイドがここのお店のは皆本物だと太鼓判を押すので、
ちょっと遠目にはエルメスのエマイユにも見えるバングルと、
ト音記号を刺繍したキーホルダーをお土産に購入しました。


それにしてもガイドさん、午前中でツァーの時間は終了しているはずなのに、
この後もずっと案内する気満々です。

「スワロフスキーも行ってみますか?割引券ありますよ」

うーん・・・・一体このツァー、いつ終了するのでしょうか。

 

続く。

 

 

グラーベンの三位一体像(ペスト記念柱)〜ウィーンの街を歩く

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契約の時間はとっくに過ぎているのに、一向にツァーを終わらない
ガイドさんの案内で、ウィーンの街を延々と歩いております。

「サウンド・オブ・ミュージック」などを見ていても出てくるのが、独特な形の
教会の尖塔ですが、これらも、屋根の瓦も、全てハンドメイド。
最初からこうなっていたのか、経年の影響でこうなったのかわかりませんが、
写真に撮ってみると、屋根の瓦が波打っているように見えます。

石塔の内部はこのように壮麗な装飾が施されているものが多いですが、
ここでは鳩除けに、ネットが張られていました。

丈夫で軽い素材が開発されるまでは鳥の団地と化していたに違いありません。

「ウィーン建築」という言葉があるくらい、この地には独特の建築文化が、
オットー・ワーグナーアドルフ・ロースなどによって花開きました。

この花模様のビルは、オットー・ワーグナーのマジョリカハウス、右側は
同じくメダイヨン・ハウスと称する1800年代後期の作品です。

マジョリカハウスの花の彩色は、マジョリカ焼といって、
スズ酸化物を釉薬に加えて焼いたものなので、120年近くたっても
その鮮やかさが全く変質していないのです。

この歴史的建造物にも普通に人が住んでいます。

ウィーンのコールマルクトは、宝石店などが並ぶリッチな商店街です。
ここにある「ガードナー」宝飾店は、現代建築の巨匠だった
ハンス・ホラインによって、1982年設計されました。

こちらもホライン設計。
ガイドさんはなぜか、

「私はこの人とはあまり合わなかったです」

と謎の一言をつぶやいていました。
どういう知り合いだったんでしょうか。

ユリウス・マインルはウィーンの高級スーパーです。

「ユリウス・マインル二世は62歳の時に22歳の田中路子と結婚したんです」

ガイドさんの一言で、わたしはオーストリアで活躍した日本のオペラ歌手、
田中路子の最初の夫の名前を思い出しました。
昔、田中路子の伝記を読んだことがあって、かなり鮮明に覚えていたのです。
そこで、

「で、二度目に結婚したのがデ・コーヴァだったんですよね」

(ヴィクトル・デ・コーヴァはオーストリアの俳優。
彼女は夫のことを『デコちゃん』と呼んでいた)

とつぶやくと、えらく驚かれました。

「ええっ、よくご存知ですね!」

東京音大で齋藤秀雄と不倫の噂が立って、逃げるようにウィーンに留学、
そこで社交界にデビューし、40歳年上の富豪の妻になり、
その財力で歌手デビュー、数々の男性と浮名を流し、カラヤンやベーム、
超大物政治家にもタメで付き合いがあったという伝説の女性で、
有名指揮者がステージから客席の彼女にわざわざ挨拶したり、
死ぬ直前まで年齢不詳の若さを保っていたりと、とにかくすごい。

今でもウィーンで最も有名な日本人女性かもしれません。

田中路子

「田中路子」の画像検索結果

レッスンをする田中路子、45歳。

わたしもガイドさんに本で読んだネタを教えてあげました。

「付き合っていた男たちの中で最低だったのは早川雪洲って言ってたそうです」

「へえ、知りませんでした」

ガイドさんのウィーン音大の友人だか知り合いは、亡くなる直前、
田中路子の「かばん持ち」をしていたそうですが、きっと
下の者にはすごい気難しい人だったんじゃないかという気がします。


1670年代、ヨーロッパでペストが流行しました。

ペストは元々ネズミなど齧歯類の罹る病気で、ノミがネズミの血を吸い、
そのノミが人間の血を吸うと、その刺し口から菌が侵入して感染します。

かつては高い致死性を持っていて、大流行した14世紀にはペストのせいで
地球の人口が1億5千万人減ったというくらい猛威をふるいました。

罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれていたそうです。

ペストはだいたい100年に一度くらいの割合で流行を繰り返していますが、
この時ウィーンでは死者10万人が亡くなっています。

なんとかその流行も過ぎ去った時、時の施政者レオポルド1世は、

「ペストを終わらせてくれて神様ありがとう」

という意味を込めてこの賑やかな像を建造しました。

ごちゃごちゃしていてわかりにくいですが、ここに
「父と子と精霊」、つまり神(玉を持っている)とイエスキリスト
(十字架を持っている)、そして精霊(多分周りにいっぱいいる人たち)がいて、
この部分が

「三位一体」

を表しているのだということでした。

マリア・テレジアのお祖父さんというレオポルド1世が、
ペストを終わらせてくれてありがとう、とお礼を言っております。

レオポルド1世の下の部分には、天使によって、突き落とされている
醜い老婆の姿があって目を引きますが、これがペストを擬人化したものです。

なぜペスト=老婆なのか、現代の感覚ではちょっと考えてしまいますね。
疫病=老いた醜い女、ってどういう偏見なのっていう。

何でもかんでもポリティカル・コレクトネスの洗礼を受けずに済まされない
昨今なら、たちまち人権活動家の槍玉に上がること間違いなし(笑)

 

続く。

 

 



皇女エリーザベトの憂鬱〜ウィーンの街を歩く

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さて、ウィーン街歩きシリーズ、最終回です。

午前中で終わる予定が、カフェ・ツェントラルの昼食を挟んで
まだ延々と続いており、これは昔の日本人らしく義理堅いガイドさんが
昼食をご馳走したことに対するお礼のつもりだったのでしょう。

 

70歳のガイドさんは、外地にあっても、いや、多くの在住外国日本人が
そうなるように、ある意味日本国内に住んでいる人より強烈に
自分のアイデンティティを意識して来られた方のようで、
この日、一緒に歩いていて、こんな出来事がありました。

路上に店舗の立ち並ぶ混雑したところで、観光客か現地人かわかりませんが、
親に放置されて走り回っていた子供が、ガイドさんを見るや、

「チャン・チョン・チン!」

と笑いながら叫んだのです。

何年か前の夏、サンフランシスコ空港でアシアナ航空機が墜落した時、
どこかのテレビ局のインターンシップが、機長の名前として

Sum Ting Wong=Something wrong (なんか変だぞ)
Wi Tu Lo=We're too low (俺ら低過ぎね?)
Ho Lee Fuk=Holy F○○○(説明なし)
Bang Ding Ow(バン!ドン!ワー!)

とテロップを出し、騒ぎになったことがあります。
アメリカ人ちうのは、コリアンもチャイニーズも一緒くたなんだなあと
変なところで感心したものですが、とにかくエイジアンを見ると
非アジア人の程度の悪いのがやるのが、「チャンリンシャン」とか、
(あのシャンプーの宣伝、今なら絶対に問題になってると思う)
目を横に引っ張ってつり目にして見せるとか、
\ /←こんなマークをスタバのカップに書くとかいうイタズラ。

わたしの同級生もドイツ留学中、子供に吊り目ポーズをされたそうですが、
その人は普通のヨーロッパ人より目の大きな人でした。

とにかく、それを聞いたガイドさんは、通り過ぎずにくるりと後ろを向き、
二、三歩子供の方に戻って、わたしのドイツ語の能力でも聞き取れるくらい、
はっきりと子供に向かって、

「今、チャン・チョン・チンって言ったけど、それはとても失礼だよ。
それに、わたしは日本人(ヤパーナー)だ。中国人ではない。
君たちはアジア人を見れば皆中国人のようにいうが、それも失礼なことだ」

と言ったのです。
悪ガキどもは、(男女合わせて三人いた)気まずそうに黙り込みました。

もしかしたらドイツ語がわからない旅行者の子供だったかもしれませんが、
少なくとも自分が叱られたことだけははっきりと自覚したでしょう。

彼らが今後そういう悪ふざけを慎むかどうかはわかりませんが、
子供相手に正面からそれは間違っている、と叱るガイドさんに、
わたしは海外で生きる日本人の気概のようなものを見た気がしました。

都市開発で地面を掘ったらローマ時代の遺跡が出てきた模様。
わたしたちにはピンときませんが、ウィーンというのは
古代ローマの時代に都市国家として誕生した地なので、
街全体が遺跡の上に立っているようなものなのだそうです。

街のところどころに、レンタルのキックスケーターが設置してあります。
どういうシステムかは知りませんが、ネットとカードで予約する模様。

ガイドさんは音楽家なので、楽譜屋さんにも連れていってくれました。
店先にはグレゴリオ聖歌っぽい(適当)アンティークの楽譜が
実に無造作に飾られています。

ホテルの入り口にワーグナーの彫像を見つけました。

1875年の終わり、ワグナーと彼の家族は、オペラ「タンホイザー」と、
「ローエングリン」の公演の準備のために、ほぼ2ヶ月間、
このホテルに滞在しました。

ワグナー死後50周年記念に当たる1933年に制作されました。

ところで、この時ガイドさんから聞いた音楽家ネタを一つ。

ウィーンの歌劇場の近くで、辻音楽師がロッシーニの曲を演奏していたところ、
自分のオペラが演奏されるので当地にきていたロッシーニ本人が通りかかりました。
黙って通り過ぎることができない彼、辻音楽師に

「その曲はもっとゆっくりやったほうがいいよ」

「なんでそんなことを言うんですか」

「私が作った曲だからさ」

次の日、同じところをロッシーニが通りかかると、昨日の音楽師、
早速こんな看板を掲げておりました。

「私はロッシーニの弟子です」

ロッシーニという人は、自分の像が建つという運びになった時、
その製作費用を聞いて、

「それだけお金をくれたら私がずっと立っていても構わない」

とぼやいたというくらい、ユーモアのある人物だったそうですが、
この時は商魂たくましい音楽師にしてやられたというところです。

パリでもそうだった気がしますが、花屋というのはヨーロッパでは
街角に花を所狭しと並べているものです。

冬の間はどうなっているのか気になります。

わたしたちはどんどんと歩いて、インペリアルホテルまでやってきました。
ツァーの途中で日本人にはザッハトルテは甘すぎて不評だ、という話になり、
それならばインペリアルに行けば甘さ控えめのが買えるので行きましょう、と
てくてくここまで歩いてやってきたわけです。

ウィーンの帝国ホテルは非常に由緒正しい歴史を持ち、畏れながら
我が日本国の天皇陛下はもちろん皇族の皆様方は、当地にお越しになった際、
必ずここにお泊りになるそうで、インペリアルホテルの英語版ウィキペディアには
わざわざ日本の天皇陛下、皇后陛下がお泊りになった・・と書かれています。

ガイドさんはロビーを通り抜け、二階を案内してくれました。
元々は大公夫人の宮殿だったそうですが、1873年、売却された建物を
万国博覧会のためにホテルにしたのが当ホテルの始まりです。

大理石の円柱の立つ吹き抜けの階段の正面にはライトアップされた女神像。
天井の装飾も、シャンデリアも豪華すぎて息を呑むほどです。

シェーンブルン宮殿も、ザルツブルグのザッハホテルもそうでしたが、
宮殿仕様の階段というのは段差が以上に小さく、上り下りがが楽です。

お年寄りや、裾の長いドレスのご婦人が毎日行き来するので、
まだエレベーターのない時代に建てられたこれらの宮殿は
ストレスフリーの設計としてこの手法が好まれたのでしょう。

ちなみに、世界で初めて電動式のエレベーターを開発したのは、
ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンス(シーメンスの創業者)で、
このホテル開業7年後の1880年のことです。

二階にあったオーストリア皇后エリーザベト(相性シシィ)の像。

彼女もシェーンブルン宮殿の住人で、かつての居室には、
彼女が膝まで伸ばしていたという髪の毛を解いて立っている
マネキンが後ろ向きに置いてありました。

髪の毛は一ヶ月に一度しか洗えなかったそうです。

エリーザベトの正気の沙汰ではない美容法の数々

一ヶ月に一度の洗髪、庭で用を足していたフランス貴族並みの不潔さです。
そして浪費という点でも、彼女はフランス貴族並みだったそうです。

エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、
若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアの島に絢爛豪華な城
「アキレイオン」の建設、あらゆる宮殿・城・別荘の増改築、
彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていた。
だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、
乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。(wiki)

尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、
皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみ
ほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によって
ヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、
自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。
当時のベルギー大使夫人は、
「この女性は本当に狂っています。
こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、
この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。(wiki)

それでもやっぱり美化されて宝塚のお芝居になったりするのは
彼女が美しかったから・・・なんでしょうねきっと。
もちろん彼女が慕われる理由はそれなりにあった説もありますが、
興味があれば調べてみてください(投げやり)

ガイドから聞いた話で面白かったのは、彼女が姑から

「歯並びが悪くて歯の色が黄色くて汚い」

と言われた瞬間、鬱っぽくなって人前で話さなくなったという話。
彼女があと100年遅く生まれていたら、なんとでもなった悩みでした。

あと、最初は彼女の夫ヨーゼフ一世は姉の見合い相手だったのに、
エリーザベトを見初めたため彼女が皇后になったという話を聞いて

「じゃ予定通りお姉さんが皇后になっていたら彼女は暗殺されなかったのかも」

というと、ガイドは

「殺した方も無政府主義者で誰でも良かったみたいだからどうでしょうか」

確かにこの場合のイフはあまり意味がないかもしれません。

 

ところで、肖像画が若くて美しい頃のしか残っていないので、わたしは
てっきり彼女は若いうちに暗殺されたのだと思っていたのですが、この時聞くと、
レマン湖で死んだ時、もう60歳になっていたそうですね。

年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと
革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、
それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。
(wiki)

「エリーザベト 晩年」の画像検索結果

(写真を撮られそうになって必死で顔を隠しているエリーザベト)

若い時に美人と称えられた人ほど、歳をとって容姿が衰えることを
受け入れられないという話はよく聞きますが、彼女もまたそうだったのでしょう。

しかもこんなことまで書かれてしまうなんて・・・これも美人税ってやつでしょうか。
(しかしこれも、今の美容技術なら彼女の悩みはほとんど解消されたと思われます)

かつてヨーロッパ皇室一の美貌を謳われたがゆえに、
老いた姿を人目にさらすことが耐え難かったらしい彼女にとって、
永遠に若いイメージだけを後世に残して亡くなったのは、
望むところだったというべきかもしれませんし、
亡くなった年齢の60歳というのは、それ以上歳を重ね、いやでも
人前に老いた姿を晒す場面が永遠に訪れなくなったという意味で
変な言い方ですが、ぎりぎりのタイミングだったように思います。

 

ちなみに、彼女は傲慢で横暴、感情を爆発させ激怒するタイプで、
お付きの者は皆、彼女の機嫌を損ねるのを畏れてビクビクしていたそうです。

やっぱり綺麗でなければここまで持ち上げられてないよなあ。

 

 その日の夕食は、家族で相談してスイス人が経営している
フォンデュの店に行ってみました。

店内はこれでもかとスイスの旗の模様があしらわれております。

サラダとチーズフォンデュ二人前を頼んだら、店主らしいおじさんが、

「もうそれくらいで十分だよ」

とオーダーを止めてくれました。

チーズフォンデュの右側に見えているパン籠が一人分で、
同じ大きさの籠がもう一つこちらにあります。

「こりゃ確かに多いわ」

三人でせっせと食べても、一つの籠すら空にすることができませんでした。

アメリカではいつも超少なめにしても食べきれないほどでてきますが、
ウィーンでも日本人には一人前は多すぎることが多かったです。

でも、オーストリアの人、太ってないんだよなあ。
それどころか、初めてドイツ語圏の国に来て思ったのですが、
若い男に美形が多いんですよ。

移民らしいなに人か分からない人はともかく、いわゆる
ゲルマン系の男性に限り、金髪碧眼、背が高く肌の色は明るく、
神様は本当にうまいこと彼らを造形されたものだと感心せずにはいられません。

そしてそういう見栄えのいいのがザッハとかインペリアルとかのフロントに
惜しげもなく配置されているわけですが、中年以降の男性を見る限り、
オーストリア男性というのは、若い頃はいかに美しくとも、
歳をとると普通に皆世界基準値のおじさんになってしまうようです(笑)

 

さて、ウィーン二日の観光の後、わたしたちは車でザルツブルグに移動しました。

 

続く。

 

 

最強のルフトバッフェ〜ドイツ軍航空機史・スミソニアン航空宇宙博物館別館

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ここからは、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンタープレゼンツ、

「World War II German Aviation」

というパネルのご紹介をしていこうと思います。
これでわたしも第二次世界大戦時のドイツ空軍について詳しくなれるはず。


それでは、現地展示パネルの翻訳から参りましょう。


1939年の9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった。
ルフトバッフェは戦争が始まった頃の航空攻撃の主導を握り、それによって
翌年まではドイツの「ブリッツクリーグ」(電撃戦、機甲部隊を使った攻撃)は
西ヨーロッパのほとんどを征服するに至った。

これら初期の成功は、ルフトバッフェを含むドイツ製造の武器兵器の優秀さに
負うところが多く、ほぼ無敵といっても良い状態であった。

 

うーん・・・日本もね。最初は強かったんですよね。

日本の場合は兵器の技術力というよりも、人間、特に
下士官兵がとにかく優秀だったって説もありますよね。

「世界最強の軍隊とは」

なんてお題でも、

アメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官兵で構成された軍隊

逆に世界最弱の軍隊は、

中国人の将軍、日本人の将校、イタリア人の下士官兵

なんて民族ジョークになっているくらいなので。

 

しかしながら、6年も経たぬうちに特別に開発された航空機や武器をもってしても、
ドイツは総合的に負けを喫し、空軍も敗色が濃くなってきた。

ルフトバッフェの勃興と凋落のストーリーは決して航空力を効果的に用いたり、
工業力による生産が困難な状況だっただけでなく、軍の戦略の失敗、
航空機調達のプログラムの管理に失敗したことによって決定づけられた。

それはまた、圧倒的な連合国の数と物量の優位性に直面しても

高度な技術が敗北を防ぐことができるというドイツの信念の敗北

でもあった。

 

まあ、敵だったアメリカの言うことなので話10分の9くらいで聞くとしても、
ドイツが後半から敗北の坂を転げ落ちたのは、自国の技術力への過信だった、
そういう解析は非常に正しいのではないかと思われます。

三国同盟を締結した頃、一般の日本国民は、技術国を標榜するドイツと
いかにも精強そうなナチスドイツ軍が実に頼もしく見え、
これで日本は絶対に勝てる、くらいに思っていたといいますが、冷静に考えると
同じドイツはその少し前、第一次世界大戦でぼろ負けしていたわけですから、
(しかも日本は対独戦争での戦勝国という位置付けだった)
もう少し疑ってかかってもよかったかもですね。

日本もドイツと同じく「国民総過信」のせいで負けが込んでも軌道修正できなかった、
とはよく言われることですが、ドイツが過信していたのが「技術」と言うのに対し、
日本の場合これが「軍人精神」とか「神風」と言った精神論だったのが少し辛いところです。

ドイッチュ・ルフトポストって、「空飛ぶ郵便局」みたいな煽りでしょうか。

1930年代には、ルフトバッフェは大きな航空的進歩の変革を行いました。
複葉機に乗っていたパイロットはすぐさまそれらを捨てて最新の飛行機、
例えばメッサーシュミットBf109などに乗り換えました。

ドイツエアメールサービスが制作したこのポスターでは、ヘインケルHe IIIが
高速郵便物運搬を行なっているように描いているばかりか、
機体がまるで中型の爆撃機であるかのような表現をしています。

もちろん、戦時体制に協力する郵政省のイメージポスターだと思うのですが、
本当にこんなもので郵便物を運んでいたのならすみません<(_ _)>

「ルフトバッフェの創立」

1933年に政権を握ったアドルフ・ヒトラーの優先事項は、
ドイツが空軍を持つことを禁じる
ヴェルサイユ条約の規定を回避することでした。

そして、彼の主任補佐官、航空大臣ヘルマン・ゲーリングの元で、
軍用機の開発と生産、パイロット訓練、
および航空研究の秘密のプログラムが開始されます。

1935年にルフトバッフェの存在が明らかにされるまでに、
ドイツは技術的に進歩した空軍の基礎を拡大し、また、
ナチスドイツ軍の教義を発展させ始めました。

1930年代後半に起こったスペイン南北戦争へのルフトバッフェの関与は、
独空軍が第二次大戦の前夜に前例のない攻撃能力を開発するのを助け、
豊富な運用体験を得る絶好の機会となったのです。

写真はルフトバッフェの創成に寄与したヘルマン・ゲーリングとヒトラー。

ゲーリングは戦争期を通じて指令を行い、ドイツの航空産業に
航空大臣命令の順守を強要し、また、ユンカースやアラドのような会社を
国の管理下に置くよう強制しました。

この「強要」「強制」は、スミソニアンの解説によるものですが、
どうもアメリカ側から見た感情論みたいなものが混入しているようです。

戦時体制に入れば企業、特に航空機製造業などは国の管理下に入ることは
なにもドイツに限ったことではないし、ことさら企業側が
意思に反して政府に協力させられた、と強調することはないと思うのですが。


スペイン市民戦争で戦闘を行うルフトバッフェ、コンドル軍団の
ヘインケルHe 111。
この戦争はルフトバッフェの搭乗員たちに貴重な空戦の経験を与えました。

バトル・オブ・ブリテンで墜落したA JUA JU88爆撃機

ユンカースJUA JU88は中型双発爆撃機で、第二次世界大戦中のドイツにおける主力爆撃機です。

ところで、ちょっと気になったのですが、次の解説を読んでいただけます?

グレート・ブリテンの侵略の前に、英空軍打倒を任務としたドイツ戦闘機は、
500以上の防御航空機を撃墜したものの、航空優位性を確立することはできなかった。

ドイツの爆撃機は航空基地を攻撃し、それから
ロンドンや都市部の日中攻撃へとシフトしていったのである。

莫大な被害がヒトラーに突きつけられ、侵攻を諦めざるを得なくなっても、
イギリス市街地への爆撃は夜も続けられた。

「ブリッツ」部隊はロンドンの市街を破壊し、5万人もの市民に被害が出たが、
イギリス人の「モラル」までを破壊することはできなかった。

ちょっといいですかー?

まるでドイツ軍だけが都市攻撃をしたみたいな言い方ですね。
そして特に最後の一節、これ何が言いたいのでしょうか。

連合国が壊滅させたドレスデンと、アメリカ軍が広範囲を焼き払った
東京の人々がモラルの破壊以前にどんな目にあったか知っているか、
とこれを書いたアメリカ人にぜひ聞いてみたいです。

 

シュトゥーカ乗員たち

Ju 87シュトゥーカは、ユンカース社が建造した急降下爆撃機です。
隊長を囲んでたくさんの搭乗員達の姿がありますが、爆撃機は二人乗りなので、
おそらく電撃戦で編隊飛行に出撃する前のブリーフィングかと思われます。 

愛称の「シュトゥーカ」は、なんとなく女子っぽくて可愛らしいですが、実は
急降下爆撃を意味する 

「Sturz KampfFlugzeug」(シュトゥルツ カンプ フルクツォイク)

を縮めたもので、日本では「スツーカ」と呼ぶ人もいるようです。

急降下爆撃を行うシュトゥーカの翼が立てる音がまるでサイレンのように響き、

「悪魔のサイレン」

などと恐れられると、彼らは調子こいて本当に機体にサイレンを取り付け、

「ジェリコのラッパ」

と自称して文字通りブイブイ言わせ、敵を怖がらせて喜んでいました。 

そして、ドイツ軍はロシアとウクライナに侵攻する際、1,000機以上の
ルフトバッフェの航空機を投入して圧倒的な勝利を収めたのです。

 

この時、彼らは事実上、無防備なソ連空軍を全滅させたといっても過言ではありません。
あらゆる意味でこの時がルフトバッフェ最強の頂点でした。

  

 

続く。

 


潮目が変わるとき〜ドイツ軍航空機史〜スミソニアン航空宇宙博物館

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ドイツ国防軍空軍司令だったエルハルト・ミルヒです。

「のだめカンタービレ」でミルヒー・ホルスタインと言う仮名を使う
(本名フランツ・フォン・シュトレーゼマン)指揮者がいましたが、
ドイツの地名のホルスタインはともかく、ミルヒー(ミルク)なんて名前あるか!
と思っていたら、本当にいました。すみません。

 しかもミルクのドイツ語Milchそのまんまの綴りです。

 んでこのミルヒーですが、ヒトラーお気にのアルベルト・シュペーアとともに
軍需生産で中心的な役割を果たした人物です。

「アルベルト・シュペーア」の画像検索結果ヒトラーお気に入りのシュペーア

戦後はニュールンベルグ裁判で終身刑に処せられましたが、
刑期途中で恩赦となり、出所後は経営コンサルタントをしていました。

ちなみにシュペーアは建築家で、そのためヒトラーの寵愛を受けました。
ミルヒーはヒトラーから、

「私が愛しているとシュペーアに伝えてくれ」

というメッセージをことづかったという関係です。




さて、前回技術力を背景に優秀な搭乗員達が経験を積み、
ルフトバッフェ最良の時を迎えたというところまでお話ししました。

しかし、あるきっかけが、この世界最強航空隊をV字失墜させていきます。

ヒトラーは、対ソ侵攻開始直前の1941〜42年の冬の期間に、
陸軍の師団をロシアに駐留させるとの計画を立て、
その際必要となる冬季用装備についても陸軍側で手配を完了させていました。

ところが、冬に入る前にソ連国内で鉄道輸送網が過密状態に陥っており、
用意された冬季用装備は、ポーランドのワルシャワで山積みになったまま、
物資を輸送することができなくなったのです。

それにもかかわらずドイツ軍は広大なソ連を東に移動する計画を遂行し、
あのナポレオン・ボナパルトをも倒したロシアの冬将軍のせい
たちまち補給が滞ってしまったのです。

ヒトラーも、ナポレオンに挑戦するようなマネをせず、他の季節に
攻め込めばなんとかなったと思うんですが、これはつまりひとえに
彼の作戦が拙速だったということなんではないでしょうか。

 

この空軍大臣ミルヒーについて、スミソニアンの説明では、
スターリングラードの敗戦の後ゲーリングが失脚し、
それに取って代わったように書かれていますが、wikiには、

「ミルヒーがスターリングラードの補給に失敗し、ゲーリングの信頼を失った」

とあります。

あまりドイツ軍の歴史に詳しくないわたしですが、ロジスティックスの失敗で
失脚した責任を問われた、というwikiの説明の方が正しいような気がします。


とにかく、終戦時にはすっかり凋落していたのに、ニュールンベルグでは戦犯となり、
外国人を労働させたという罪で有罪判決を受けた不運な人、それがミルヒーです。

この人の写真の上にあったコーナーがこれでした。

航空機生産危機(The Aircraft Productin Cricis)

1943年にルフトバッフェが被った多大な損失を受け、ドイツ空軍省は
航空機生産企業により先進的なデザインの航空機のさらなる補給を要求した。

ミルヒー将軍が注文したのは、連合軍の爆撃に対応することにフォーカスした
戦闘機の集中的かつ継続的な補充であった。

彼はより多くの労働時間に加え、残業のシフトを増やすよう現場に要求して
救出用の航空機を除く全ての航空機の再生産力を強化しようとした。

ミルヒーはまた、連合国の爆撃を偵察し、それを防ぐためのジェット機生産を
特に最重要とし、急がせていた。

彼は労働省と掛け合って、生産に従事する労働者の数を増やし、さらに
占領している外国から労働者を集めることができるようにした。

なるほど、ミルヒーはこれが戦後戦犯として訴追される理由になったわけですね。

彼は航空機生産について対策したが、燃料不足、戦略的材料、そして
適切に訓練された航空機搭乗員の不足に対処することができず、失敗に終わった。

フライングフォートレスの翼ごしに見えるメッサーシュミットMe410戦闘機

連合国の戦略爆撃に対し、ルフトバッフェは防御を行った。
ドイツ人は迅速に反応し、イギリス軍を夜間攻撃するための夜間戦闘機を開発、
そして別の戦線でアメリカ軍の日中細密攻撃と戦っていた部隊を呼び戻したのである。

ドイツ戦闘機隊は1943年、その出撃によって国土の防衛に寄与したが、
そのために熟練の搭乗員を数多く失うという重い犠牲を払うことになった。

 

恥ずかしながら今知ったところによると、これはドイツがまさに
日本の戦闘機隊と同じ道を歩んだということではないのでしょうか。

ドイツ戦闘機隊が、大戦前に経験値を上げたスペイン内乱に当たるのが
日中戦争であり、その時から飛行機に乗っていたベテラン搭乗員が
戦争初期には活躍し、相手を圧倒したものの、戦況が長引き、
本土防衛(日本の場合は南方戦線)で次々とベテランが失われていった。

示し合わせたように両国は同じ経過を辿ったということになります。


The Tude Turns 

潮目が変わった、という言い方が英語でもあるのにちょっと驚きです。

1941年の末にはソ連侵攻はその速度を落とし、ドイツは新しい、
そして恐るべき敵の出現に直面することになった。
アメリカ合衆国🇺🇸である。

自分で言うか、と言う気もしますが、事実だから仕方ありません。
ミルヒーが失脚したスターリングラードの記述が重なりますが、
ここでもう一度スミソニアンの解説です。

戦線は地中海沿岸と北アフリカに拡大し、連合国の爆撃作戦は
1942年1月にはルフトバッフェを追い詰めることになる。

ヒトラー総統はどんどん少なくなる労働人口と、原材料の不足を鑑み、
ついに航空機生産の減少を命ずるに至った。


夏に行われた南ロシアへのドイツの攻撃は、
ドイツ軍の物資調達システムの限界まで広げ、
その限界点が1943年のスターリングラードの戦いで、
ドイツ軍は包囲され、降参を余儀なくされた。

補給の不足の問題は地中海戦線でのルフトバッフェの空戦での喪失率を上げ、
さらには南アフリカとシシリアでの陸軍の敗北を生んだといえる。

ドイツの空軍力は連合軍がイタリアのサレルモに上陸した時に予測されており、
それは実際にイタリアの降伏を早めた。

ここでこの戦争の潮目は完全に変わったといえよう。

帝国日本軍も、補給線を考えずに兵站を伸ばしてしまい、それで
負けた部分が大きいかと思いますが、つまり

戦争の勝敗は、ロジスティックスが握る

ということが両国の敗因で実際に証明されたといえますね。

 

続く。

 

ルフトバッフェの敗北 ドイツ軍航空機史〜スミソニアン航空宇宙博物館

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さて、前回に続き、第二次世界大戦から終戦までのドイツ航空機史を
軍事分野に限って解説するシリーズ、続きです。

スミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの
キュレーターによる解説を翻訳したものを中心にお送りしています。

 

ロシア戦線にあるAユンカースJu52輸送機

スターリングラードでドイツ陸軍がソビエト軍に包囲されたとき、
ゲーリングはヒトラーにルフトバッフェが人員輸送することで
戦線が維持できると断言した。

三ヶ月の間千単位の種類の輸送機と爆撃機がスターリングラードに飛び、
陸軍に物資の輸送を行い続けた。

しかしながら、天候や事故、そしてソ連の戦闘機の銃撃などで
(おそらく女性を含む狙撃兵の攻撃も)兵力は磨耗し、
1943年2月2日にはそれも限界に達した。

およそ10万人の生き残った兵士たちがソ連軍に囲まれることになったのだ。

 

メッサーシュミットBf109の生産ライン

帝国防衛 (Defending The Reich)

1944年の初頭までにルフトバッフェは連合国空軍からの防衛にかかりきりでした。
米英の爆撃機隊にはかなりの喪失がもたらされましたが、
アメリカに新たに導入された長距離エスコートファイター(護衛戦闘機)は、
逆にドイツ側に大打撃を与えました。

(このエスコートファイターとは、時期的にいうと、
ロッキードP-38ライトニングではないかと思われます)

その年の春までには連合国軍はヨーロロッパ全土の制空権を確立し、
このことがノルマンディ上陸作戦の成功の決定的な要因となりました。

Dデイの後の数ヶ月で、前線のルフトバッフェの戦闘機隊は事実上壊滅しました。

イギリス海峡沿いのレーダーサイトはロイヤルフォースの戦闘機に指示を与え、
そのためドイツの夜間戦闘機は効果を上げることができませんでしたし、
連合国軍は燃料工場を重点的に狙ってきました。

たちまち燃料不足はルフトバッフェのオペレーションに困難をきたし、
次世代のパイロットを訓練する余裕すらなくなってきたのです。

連合国軍の爆撃にが激しくなり、ドイツの航空産業は戦闘機の製造を
減らすしかなくなり、外国人労働者を一部採用して費用を安く上げるなどしました。

ジェット機や他の先進的な武器は地下や窪地などで工場を移し、
しまいには強制収用所の囚人を労働者として使うしかなくなっていたのです。

 

Gun Camera Footage Luftwaffe FW 190 & Bf109 / Me109 Fighters Shot Down WW2 GSAP Newsreel

 

左はここSFUHセンターに世界で唯一の機体が展示されている、
アラドのAr 234 Ar 234 ブリッツ、ジェット爆撃機。

右はこれも日本の「橘花」と並べてお話ししたメッサーシュミットの
Me262ジェットファイターです。

そして、Me163コメート、ジェット戦闘機です。(≧∇≦)
30ミリ砲を搭載しており、相手が低速の爆撃機だったりした場合には
大変有効だったということです。

右側の写真は、航空機製造に従事させらていた「スレイブレイバー」(奴隷労働者)
製造中の機体を守るため地下に置かれていた製造工場の様子。

閉所&暗所恐怖症の人にはおすすめしません。

フォッケウルフ Ta152 H 高高度偵察機

当時にして世界最速のプロペラ推進高高度爆撃機。

こんな状況でも単体としてみれば画期的だったり革新的だったり、
超高速だったりする飛行機をどんどん開発できるんですから、
ドイツ人が自国の技術力に過信していたとしても仕方ありますまい。

ハインケルHe162 ”人民の戦闘機”Volksjäger

戦闘機のことをドイツ語で「イエーガー」(jäger)というらしいのですが、
そういえば同じ名前の伝説のパイロットがアメリカにいましたよね。

チャック・イエーガーは若き日にイギリスに派遣され、それこそ
ドイツ軍の「イエーガー」とどんぱちやりあっております。

彼は音速を破る前に、戦闘機パイロットとしてドイツ機を11機と半分撃墜した
エースでもあり、メッサーシュミットのMeBf109を1日に5機撃墜しているほか、
Me262シュワルベの初撃墜という記録も持っています。

この写真のフォルクスイエーガーは見るからに変なものを背負っていますが、
なんとこれ、単発ジェットエンジン(BMW製)です。

連合国の止まらない攻撃を少しでも食い止めるため、
ゲーリングとシュペーアのコンビが「国民の戦闘機」を計画し、
試験段階では905km/hというとんでもない速度を記録しました。

実戦にも配備され、何機かを撃墜したという記録もあるのですが、
配備された46機のうち13機が瞬く間に墜落したり撃墜されて、しかも
30分しか飛行できないという特性のため、時間切れで二人が帰還できず死亡、
という結構大変な飛行機だったようです。

が「フォルクス」とつけただけあって、ドイツはこれを急造し、
600機くらいを配備する予定だったようです。

もしこれが実際に配備されていたら、確かに連合国は苦労したでしょうが、
ドイツ側にも未熟なパイロットの犠牲がかなり出たであろうと予想されています。

まあ、こういう武器に頼るしかなかったというのが、ドイツがもう
いろんな意味で敗戦に直面する時期に来ていたという証拠でしょう。

特攻に頼るしかない状況だった敗戦直前の日本を思わせるものがあります。

 

 

敗北

1944年の終わりには、連合国の爆撃は事実上ドイツの燃料工場を壊滅させ、
交通網を完全に麻痺させてしまっていました。

航空機製造のための設備はそれでも建造を続けていましたが、
燃料の絶望的な不足と、ルフトバッフェにはもうまともな搭乗員は残っておらず、
それは連合国の攻撃以上に深刻な問題だったのです。

ドイツ戦闘機部隊は1945年の1月1日、最後の大掛かりな攻撃を西部で行いました。
それによって200機もの航空機が失われましたが、効果は僅少でした。

ドイツ軍の前線での崩壊に伴って、生き残ったルフトバッフェの部隊は
混乱のまま再配備され、彼らの航空基地になだれ込んでくる連合国を
劣勢の中迎え討たねばならなかったのです。

まだドイツの支配下にある地域に避難できなかった航空機は、
破壊または放棄されました。

そして、ドイツが降伏したのは1945年5月8日。

かつては最強と言われたドイツ空軍の残党は、すでに
ドイツ全土に散り散りになってしまっていました。

破壊され放置された ユンカース Ju88

地上航空員は連合国軍に囲まれたと知ると、侵攻してくる前に
とくに最新式だった航空機を破壊し、飛べないようにしてしまいました。

破壊されたユンカースのJu88Gは、時速630kmを誇り、終戦まで
夜間戦闘機としては無敵といわれていました。

Me262戦闘機の野外組み立て場

工場が爆撃の対象になり、メッサーシュミットの最終的なMe262の組み立ては
こんなところで行われていました。

飛行機はできるとここからアウトバーンをタキシングして部隊に配備していたのです。
これはアメリカ軍の侵攻部隊が1945年4月に撮った写真です。

アメリカに向かうドイツ航空機

以前ここでもお話ししたことがある「ワトソンの魔法使い」こと
ワトソン大佐とそのチームが集めたルフトバッフェの飛行機は
1945年7月、HMS「リーパー」に載せられ、ニューアークに向かいました。

そのうち7機が海軍の飛行テストを受けるためにフェニックスリバーに、
残りは陸軍の評価を受けるためライトフィールドに分配されています。

 捕獲したMe262とドヤ顔で写真を撮るワトソン大佐

アメリカ軍に任命され、アメリカに持ち帰るドイツ機を集める仕事をした
テストパイロットでもあるハロルド・ワトソン大佐。

彼のチームは「ワトソンの魔法使い」と呼ばれ、多くのドイツ製
戦闘機を操縦してシェルブールに集め、そこから本国に送りました。

きっとテストパイロット的には楽しい仕事だったろうと思います。

スミソニアン博物館の倉庫@パークリッジ

各地で評価を受けテストされたあと、ドイツの捕獲機は、スミソニアンが
希望を出した機体のみの倉庫まで輸送されてやってきました。

かつてダグラスの工場があったオヘアフィールドのパークリッジに
格納されたドイツ機の写真です。

それらはメリーランドへの倉庫移転を経て、今ではその全てが
ここスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターで展示されています。


 


 

 

終わり。

 

 

アド・ブルーって何?〜ウィーン-ザルツブルグ車の旅

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オーストリアには合計1週間滞在し、中三日ザルツブルグに行きました。
今日ウィーンを出発しザルツに移動という日の朝のことです。

ホテルのコンプリメンタリーの朝食にも飽きてしまったので、
外で食べようということになり、スタッドパークに沿って流れる川の
辺りにあるレストランに行ってみることにしました。

おしゃれなウィーンっ子に人気(でも観光客はあまり来ない)、
「メイエレイ」Meierei(乳製品という意味)は、ウィーンの三つ星レストラン、
シュタイラーエックに併設されたカフェ風レストランです。

朝食にもいくつかのコースがあり、三人ともそれを頼んでみました。
飲み物に紅茶を頼むと、可愛らしい牛乳瓶に入れた温めたミルク、
紅茶の葉を入れた袋がポットのお湯とともに出てきます。

卵料理、ハムなどの肉料理、普通のレストランではとても朝食に出ないような
手間のかかった繊細な料理が、アフタヌーンティ用のトレイで出てきます。

店内で爽やかに立ち働いているのは金髪碧眼の若いゲルマン系の男女ばかり。
全員容姿端麗で完璧に英語が話せます。

オーストリアは他の豊かな国と同じく、移民の多い国ですが、
やはり高級な店ほど人は国産にこだわっているようです。

ポーチドエッグのトッピングにあしらわれた穀類、
ヨーグルトにもチアシードとレモンをあしらい、目にも楽しい朝食です。

後から、ここの朝食はいつも予約でいっぱいで、たまたま
通りかかってテラス席が空いていたのは偶然だったと知りました。

川の向こう岸では、スタッドパーク散策で見た変な彫像の下で
市の清掃員が池の水を抜い掃除を始めていました。

カップルの犬が水入りたがっていたところですが、
清掃員に追い出されています。

池の底の栓を抜くと、水は横の川に流れ込む仕組みです。

朝食に満足して川沿いの道を戻る途中、ホームレスに説教している
犬の散歩途中のおばちゃんがいました。

近くを通りかかりましたが、言葉はわからないなりに、
おばちゃんはホームレスにあれこれと質問し、彼の行く末について
あれこれとお節介焼いているらしいのがわかりました。

おばちゃんのお節介は世界共通ですが、日本のおばちゃんは
流石にここまでやらんだろうなあ。

橋の欄干で追いかけっこをしていた鳩のつがい。
カメラを向けると急におとなしくなりました。

ザルツブルグにはホテルに荷物を預けて汽車で行こう、
ということになっていたのですが、朝食からの帰り、ホテルのロビーに
地元のレンタカーが店を出していることを知り、急に思いついて
わたしが運転して行くことになりました。

ヨーロッパでは何も言わないとマニュアル車になることがあるので、
とにかくオートマチックね、と強調したところ、割り当てられたのは
なんとジープでした。

オーストリアなのでBMWかアウディになるかと思っていたのですが。

ナビに従って高速道路に乗り、しばらくして気づいたのですが、
他の車のスピードが速い(笑)

それもそのはず、高速道路の制限速度は130キロ。
運転される方は、日本で130キロを継続して出すことは
不可能であることをよくご存知だと思いますが、ここではとにかく
道路が非常に機能的に作られているせいか、なんの問題もないのです。

三車線ある一番右をトラックなどの速度の遅い車が走り、
真ん中を走る車はだいたい130キロくらいで走行、
追い越しをする車は一番左側を140〜50くらいで走ります。

ニューヨーク郊外のフリーウェイでも皆が飛ばすので驚きましたが、
それでも130キロは出ていなかったと思うので、これは
ちょっとしたカルチャーショックです。

もっと驚いたのは、可変式の電光掲示板に制限速度が記載され、
工事をしていたりその他の理由によって、頻繁に
スピードリミットが変わることでした。

130で機嫌よく走っていると、前に「100」と出てきます。
右側にトラックが停まっているとか、工事をしているとか、
そういう事情で制限速度を集中管理しているセンターが変えるのですが、
カーナビとも連動していて、制限速度をオーバーするとたちまち
ナビゲーションが音声で、

「制限速度をオーバーしています」

と警告してきます。
周りを見ると皆真面目にこのシステムを守っているようで、
わたしももちろん厳密に規制を守って走っていました。

オーストリアはドイツではありませんが、(両者の感情的なものは
我々には伺い知ることはできませんが、どうもいる間に知ったところ、
オーストリア人はドイツ人を田舎者と思っているらしい)
ドイツのアウトバーン方式というのか、交通システムは実に機能的で、
やはり同じ民族なのだなとうっすら思わされました。

大型車に多いメルセデス・ベンツ製。
これもドイツ文化圏ですから当たり前です。

機嫌よく走り出してすぐ、わたしはフロントパネルの警告に気がつきました。

それは、禍々しくも大きな文字で、

「今すぐDEFを補給してください。

あとXキロで車のエンジンを切ってからリスタートできなくなります」

車の中は騒然となりました。

「DEFって何〜〜〜!?」

「今すぐレンタカーに電話して!」

「えー、次のガソリンスタンドで聞けばいいんじゃないの」

「アメリカみたいに人がいないかもしれないでしょ?」

こういう時に聞き間違いがあってはいけないので(笑)息子に、
(わたしは運転しているのでもちろんできませんが)電話させると、

「”ブルーを入れるんだ”って言ってるけど」

「ブルー?」

「ブルーって何〜〜〜!?」

次に出てきたガソリンスタンドには、確かに「アドブルー」という
何かを補給するガソリンスタンドみたいのがあります。

案の定人がいないので、中で売店の人に聞くと、

「ここはトラック用のスタンドだから普通のところに行って」

としか教えてくれません。

とにかくアドブルーがなんなのか、どうやったら買えるのか、スタンドで
点検してみても全く見当がつかないので、わたしたちはパーキングエリアの
建物の中に入ってwi-fiでアドブルーのなんたるかを調べるところから始めました。

とほほ。

そしてなんとかわかったことによると、アドブルーとは、
ディーゼル車の排気を抑えるための尿素水であるということ。

ヨーロッパ車は普通にディーゼル車のガソリン注入口の隣にDEF口があるのです。

「というか、自分が乗っているのがディーゼル車だって知らんかった」

DEFとはディーゼルエグゾーストフルード(Diesel exhaust fluid)で、
ディーゼルエンジンが排出する窒素酸化物(NOx)を浄化する機能を持ち、
ガソリンと同じように走行によって消費され、無くなると
警告にも出ていたようにエンジンがかけられなくなるのです。

「はえ〜こんなシステムが世の中にあったとは」

またしてもカルチャーショック。
いや、世界は広い。旅行は見聞を広めると言いますが、その通りです。

そこまではわかりましたが、問題はアドブルーはどんな形で売っていて、
どうやって車に注入すればいいのかです。

「仕方ない。とにかくガソリンスタンドで聞いてみよう」

「アイス食べていい?」

「・・・・・」

一刻も早くザルツブルグに着いてホテルを満喫したいTOは
アドブルーのあたりから珍しく超不機嫌になっておりましたが、
唐突にアイスを食べたがる息子に黙って買ってやっていました。

ちなみにオーストリアのパーキングエリアはアメリカと違い、
ものすごくちゃんとしたレストランがあります。
アイスクリームをすくってくれるのもシェフコート着用の人だったり。

アイスクリームを持ってレジに並んだところでわたしは目を疑いました。
この棚にあるのは全てタバコのパッケージなのですが、どれにも
グロテスクだったりショッキングな「タバコの害」が印刷されているのです。

心臓麻痺、奇形、白内障、舌癌、うつ病、不妊。

ありとあらゆる、考えられる限りのデメリットがこれでもかと。
どうやらこれは、日本のタバコ会社が

「健康のため吸いすぎに注意しましょう」

とパッケージに書かされているのと同じ目的のもので、
これでタバコを吸うことをためらわせる目的があると思われます。

「つまりこれを印刷したパッケージでないと売らせてもらえない・・・」

「そうなんでしょうな」

「でも、吸う人はこれでも吸うんだ」

「どうしても吸いたい人には焼け石に水でしょう」

でも、タバコを手にとるたびにこんなグロ画像を目にしていたら
とても美味しくタバコを吸うことはできなさそう。

 

さて、先ほど立ち寄ったガソリンスタンドにもう一回いき、
お店(アメリカと同じでガソリンスタンドにはコンビニが併設されている)
の女性店員にアドブルーのことを聞くと、案の定一人は英語が喋れず。

若い人に聞いて、店先にある1リットルタンクを20ユーロで購入しました。

「しかし、レンタカーなのにこれくらいちゃんと補充しとけよな」

TOはプンスカ怒っていましたが、このアドブルー、ガソリンと一緒で
頻繁に補充しないとならず、その割にパネルでは残量がわからないため、
点検のときに残が少ないことに気がつかなくても無理はありません。

レンタカー屋は、アドブルーを購入したらレシートを取っておいてくれ、
返金するから、と言ったらしいのですが、TOは何を思ったのか、
アドブルーの空のタンクを一緒に窓口に持って行って見せたようです。

(こういうとき、そんなの意味ないんじゃね?と内心思っていても、
何も言わず好きにさせておくのが長年の夫婦生活で得たわたしの知恵です)

とにかく購入後、苦心してタンクを開け、同梱されているホースで
ガソリン補給口の隣にあるDEF用注ぎ口から投入して警告が消えたのを確かめ、
わたしたちはようやく全員肩で息をつきました。

都会から次第に周りの景色は田園風景になってきました。
高速道路脇にはこのようにソーラーパネル畑?もありましたし、

丘陵一帯に風力発電機が生えている地帯もありました。
オーストリアは1960年以降、国内に二つの原子力発電所を有していましたが、
反原発運動の流れで行われた国民投票によって、わずか2万票差で
反原発に舵を切った「脱原発国」でもあります。

車体中がひよこで埋め尽くされたトラック。
上のドイツ語を翻訳機にかけたところ、

「オーストリア発の七面鳥のひよこ」

だそうです。
シチメンチョウってひよこの時こんななの?
と思って調べてみたら、その通りでした。

「七面鳥 ひよこ」の画像検索結果

 大きくなるとシマシマができて、あのトサカも生えてくるんですね。

のち

ウィーンを出てアドブルー騒ぎを含め4時間後、ようやくわたしたちは
ザルツブルグに到着しました。

TOは

「せっかくホテルにアーリーチェックインできるように頼んでたのに」

とえらくおかんむりでしたが、わたしにはスリリングでとっても楽しかったです♫
違う文化に驚いたり戸惑ったり、解決法を探して右往左往したり。

これが旅の醍醐味ってやつですよね?

 

続く。

 

 

 

ザッハホテルで戴くザッハトルテの恐怖〜ザルツブルグ滞在

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ウィーンから車で休憩と「アドブルー」なる窒素材の補給をしながら
約4時間でザルツブルグにたどり着きました。

こちらが本日のお宿でございます。
ホテル・ザッハ・ザルツブルグ。

ナビが指し示すザルツブルグでのホテルの入り口は、
一流ホテルという割にはこじんまりした構えです。

旅行企画者曰く、今回ウィーンでリーズナブルなホテルにしたのは、
ザルツブルグでこのザッハに泊まることになっていたからでした。

一極集中型、一点豪華主義と言うやつですね。

ロビーもそれほど広いというわけではありませんが、その真ん中に
人の背丈より高い花器がそびえ立っております。
フラワーアレンジメントの気合いの入り具合がいかにも五つ星のロビー。

昔はきっと、もっと重厚な天鵞絨張りの椅子が配されていたのでしょう。
オープン以来、政治家や各界の有名人がこのロビーに姿を表しました。

特に、ザルツブルグ音楽祭の期間中は、このホテルに、綺羅星のような
名だたる演奏家が宿泊してきたはずです。
ホテルのすぐ隣が生家であったという、ヘルベルト・フォン・カラヤンも勿論。

ロビーの上部は天井までの吹き抜けになっており、しかも天井は
ガラス張りの灯り取り仕様になっています。

いつのことかは知りませんが、この写真で見える左の窓のない部分、
つまり最上階は後から増設した部分だということなので、その時に
思い切って屋根をサンルームのようにしてしまったのに違いありません。

改装前はきっともっと室内は暗かったと思われます。

わたしたちが今回宿泊したのは、改装前の最上階になります。
右奥に今荷物が運び込まれています。

部屋の前から見た同じ場所。
この上階の部屋は、「カール・ベームルーム」とか、「カラヤンルーム」とか、
そういう名前のついた「特別室」ばかりだそうです。

もしかしたら、その名前の本人が泊まった部屋なのかもしれません。

ホテル内の壁紙はモーツァルトの自筆楽譜をデザインしたもの。

グランドフロア(日本の一階)にはこのような会議用の部屋もございます。

そしてこちらがわたしたちが泊まった部屋でございます。
広くはありませんが、とにかくインテリアがゴージャス。

ただし、ここに家族三人が無理やり泊まることになったため、
三つ目のベッドはメインの足下にくっつけて置いてありました(笑)

インターネットのスピードは残念ながら極遅で、部屋ではPCはできませんでした。

なんと、部屋にはウェルカムフルーツと、支配人からのお手紙。

一人一つづつ、名物のザッハトルテが用意されていました。
いうまでもないですが、ザッハトルテはホテルザッハーの創業者の父が
もともと菓子職人で、そういうチョコレートケーキを作っていたので、
ホテルを開業した息子がホテルの名前を冠して名物にしたというものです。

「明日の朝10時からティールームでザッハトルテを食べる予約入れたんだけど」(´・ω・`)

「わざわざ予約しなくてもここにあるじゃない」

「キャンセルする」(´・ω・`)

「じゃインペリアルトルテを持ってきたから今夜は食べ比べだ!」

「おー!」

部屋の中を点検すると、さすがは一流ホテル、アメニティの充実半端なし。

あとで使ってみて驚いたのは、シャンプー、リンス、ボディソープ、
ボディローション、その全てがチョコレート味?だったこと。

チェックアウトの際には皆トランクに入れて持って帰りました。

洗面台に一輪刺しに入れて飾ってあった見事な薔薇。

そして窓からの眺めです。
昔のホテルなのでバルコニーに出る扉は大きくないのですが・・。

バルコニーに立つと、思わず歎声が漏れました。
目の前は、ザルツブルグの資源を国内に輸送する役割を担ってきた
重要な水上運送の要、ザルツァハ川です。

で、わたしたちのこの部屋なんですが、

あとで外に出てから、

「もしかしてわたしたちの部屋って、ザッハーって字の下?」

「ど真ん中じゃない?」

「いやー、そんなはずは・・・バルコニー、丸かったっけ」

そんな会話をしておりましたが、結局赤丸のところだったことが判明しました。

いやー、なんかすごい部屋をアサインしてもらったみたいで悪いわー。

実はわたしたちがザルツブルグを去った次の週には、かの有名な
ザルツブルグ音楽祭が行われ、それこそザッハーホテルはVIPで満室となるので、
その直前ということで比較的空いていて、こんな部屋にしてもらえたのでしょう。

部屋から見える橋には、なにやら遠目にきらきらひかる鍵が、
それこそ無数に取り付けられているのが見えます。

タピオカミルクティー並みにごく最近のブームなんだそうですが、
橋に恋人同士で鍵をつけて、恋愛成就を願うのだとか。

部屋のバルコニーから見た、ザ・ザルツブルグな眺め。
そういえば、「サウンド・オブ・ミュージック」のザルツブルグのシーンは
ちょうどこの角度から見る景色で始まっていましたっけ。

アドブルー騒ぎで昼食を食べ損ねたので、ルームサービスを取ってみました。
バーガーは冗談のようですが「ザルツバーガー(Salzburger)」と言います。

ザルツブルグにeをつけると、普通に「ザルツブルグ人」のことですが、
ハンバーガーのburgerでもあるので、当地ではシャレで英語読みしてバーガー、
これをご当地食として売っているのです。

もともとハンバーガー(hamburger)って、ハンブルグが語源なわけですし。
ペテルスブルグにペテルスバーガー、ザクセンブルグにザクセンバーガー、
アウグスブルグにアウグスバーガーフライブルグに以下略、
という風に、現在ではほとんどの土地にあっても不思議じゃないね。

ザッハーホテルのザルツバーガーは大変美味しかったですが、
MKは「佐世保バーガーの方が美味しかった」と言い切っておりました。

問題は下のスープです。
なんだか色が不穏な濃さだと思いませんこと?
これを一口啜ったTO、途端に

「辛っ」

続いてMK。

「辛っ!」

わたし。

「かっらー!辛いわこれ!」


とにかく辛い。塩辛いのです。

「いやー、これ何かの間違いじゃないのかな」

あまりに辛いので、つい人を呼んで何かの間違いではないか、
と聞いてみたのですが、

「当ホテルのスープはお味を濃いめにしてあります」

とのこと。
納得いかないままに三口だけ食べ後を残して持って帰ってもらいました。

シェフが奥さんと喧嘩して家を出てきていると料理が辛いとか言いますが、
そういうレベルではなく、度はずれに辛かったです。

まさか、ザルツブルグのザルツは「塩」という意味だから・・・?


三人でバーガー1個、スープ一口ずつをお腹に入れて、そのあとは
町歩きにいき、帰ってきてから本格的に夕食をとりました。

当ホテルのメインダイニングということで、一応気を使って
TOなどジャケットを着て行ったのですが、通されたのはテラス席で、
周りの人たちはおしゃれではあるけれど半ズボンとか(笑)

一流ホテルといえども、夏のアウトドアではカジュアルになるんですね。
で、それはいいんですが、困ったのがハエの多さ。
食事をしている間、止まりに来るハエを払うのに、ずっと手をひらひらさせて
動かしていないといけないという・・・・。

日本やアメリカの一流と言われるホテルなら、なんとかハエが出ないように
根本から衛生状態を改善するとかしそうなんですが。

この滞在で、文化の重みはともかく、衛生とか清潔とかいうことになると、
ヨーロッパは決して我々が満足するような状態ではないと知ることになりました。

パリで十分そのことは身にしみていたのですが、ドイツ語圏なので
清潔好きの民族性に期待していたんですがねえ。

あらためて(トイレの歴史を考えても)世界一清潔なのは日本だと確信したものです。

そしてお料理。
さっきのスープの件があったので、嫌な予感がしていましたが、
例えばこのトビコをあしらったサラダなども少し、いやかなり辛めでした。

デザートは取らず、夜、部屋に戻って、ザッハトルテ一つを三人で食しました。
最初に食べたTO、

「甘っ」

続いてMK、

「甘っ!」

わたし。

「あっまー!甘いわ!」

いやー、日本人には甘すぎと聞いていましたが、ここまでとは。

「もういらない」

「もう結構です」

「勘弁してください」(泣)

ここまで言われるザッハトルテって。

この小さな塊で大騒ぎしていた日には、ロビーで売っていた
このワンホールザッハトルテはどうなる。

「これ全部食べたらただにしてあげるって言われたら食べる?」

「食べない」

「お金あげるって言われたら?」

「多分相当もらわないと無理」

ここまで言われるザッハトルテって一体。

そこで、ガイドさんにオススメしてもらったインペリアルトルテですよ。

同じようにチョコレートケーキとマジパンを積み重ねてカットし、
それにチョコレートをかけて仕上げているのですが、
こちら、特にガイドさんの奥様オススメのラズベリー味のトルテは、
羊羹のように2ミリくらいの厚さに切っていただくと、
特に甘くないお茶と一緒に食すとなかなかのものでした。

が、これでも一つ丸々食べるのは、普通の日本人には少し辛いと思われます。

「日本人はよく”甘くなくて美味しい”なんて言いますけどね。
お菓子はもともと甘いもんなんですよ。
甘いのが嫌いならお菓子なんて食べなきゃいい。
だいたい、甘すぎ甘すぎって言うけど、何でも砂糖で味付けして、
甘くて仕方がない日本料理を食べているくせにねえ」

ウィーンのガイドさんは日本人の「甘いもの嫌い」に苦言を呈していましたが、
いや、ザッハトルテの甘さははっきり言ってそういうレベルじゃないっす(笑)

 

続く。

ボーイング B-29 スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館別館、ダレス国際空港の近くにある
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター歴史的に意味がある展示を
たった一つだけ挙げよと言われたら、おそらく、ほとんどの人が
この爆撃機の名前をあだ名で答えるに違いありません。

ボーイング B-29 スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」。

いうまでもなく、この爆撃機が搭載した一発の原子爆弾は、
史上初めて人類を殺戮するために広島上空から投下されました。

スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターは、巨大なハンガー風で、
そのハンガー部分には世界中から集められた歴史的な航空機が、
ハンガーから突き出たような部分にはスペースシャトル始め、宇宙に行った
数々の飛翔体が展示されています。

航空機を展示したハンガーは、上部に通路が廻らされていて、
空を飛んでいるように天井から吊られた航空機も、全て
上から眺めることができるようになっています。

一番高いところに登って見渡すと、その中で特に目を引く大きな航空機が二機。
一機がエア・フランスのコンコルドであり、もう一機が「エノラ・ゲイ」です。

展示は、だいたい国別、時代別に並べられていて、「エノラ・ゲイ」は
日本の紫電改や屠龍などの隣に、ホーカーやP-38と翼を並べています。

あまりに巨大なので、全体を撮るにはかなり離れないといけませんが、
ここスミソニアンでは広さについては何の問題もありません。

広大な国土を持ち、しかも歴史的軍事遺産の保護については
惜しげも無く国費を投入できる国だけのことはあると羨ましくなります。

この角度で撮られた、かつての写真が見つかったので貼っておきます。

同じ飛行機ですから当たり前ですが、寸分違いありません。
この写真は、原子爆弾投下後、テニアンで撮られたものだそうです。

機体のノーズを至近で眺められるように、ブリッジに鼻面を寄せてあります。
このブリッジは、おそらく「エノラ・ゲイ」のために設置されたのでしょう。

その巨大な翼は、第二次世界大戦で彼らが戦った帝國海軍の戦闘機、
「紫電改」を覆い隠すほどです。

この写真にもブリッジの上で足を止め、その歴史的な役割を果たした
爆撃機を熱心に見ている多くの人々の姿が写っています。


後述しますが、「エノラ・ゲイ」の機体は、論争を経て展示にこぎつけたので、
現在でも破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、
不用意に機体に近づく不審者に対しては、監視カメラが自動追尾し、
同時に警報が発生するシステムが採用されており、また2005年からは
映像解析装置も組み込まれて厳重な管理下のもとで展示されています。

現地にいたときには全くそのことを知らなかったのですが、
特に一階から機首を見上げるように撮った冒頭写真の撮影の時など、
おそらくわたしの様子は監視モニターに集中追尾されていたのでしょう。

こんな大きな機体なのに、わざわざ黄色いジャッキの台に置いて
持ち上げているのは、ブリッジから観覧するためだと思っていましたが、
実のところ、機体に直接アプローチできないように宙づりにする意味があったのです。

おそらく、黄色い脚台にはカメラやセンサーが仕掛けてあり、
これを登ろうとしたら瞬時に警報が鳴る仕組みに違いありません。

このコクピットの左席には、機長のポール・チベッツ大佐が座っていました。

スーパーフォートレスの形状を特徴付ける機首の並んだ窓、
その下段右から二番目に機長席があるということです。

広島に出撃する前にテニアンで撮られたというこの写真には、
現存している機体の窓枠を囲む赤い「切り取り線」と、

「非常時救出の際にはここのガラスを割ること」

という注意書きはありません。
「エノラ・ゲイ」の機体は、三日後の8月9日、当初原爆の投下目標だった
北九州の小倉に偵察飛行を行っており、その後、カリフォルニアの
トラヴィス基地にいたそうですから、その時期に書かれたものでしょうか。 

ベトナム戦争についての記述は、自国に対してシニカルというくらい
客観的にその経緯を書き記していたスミソニアン博物館ですが、
「エノラ・ゲイ」と彼女が行ったことに対する説明はどうなっているでしょうか。

まず、展示機前にある説明板です。

ボーイングB-29スーパーフォーレスは、第二次世界大戦中最も洗練された
プロペラ推進式の爆撃機で、与圧式のコンパートメントが採用された最初の機体です。

もともとヨーロッパ戦線に投入されるために設計されましたが、
様々な用途で太平洋戦線にも投入されました。
様々な、とは従来の爆弾、焼夷弾、そして2個の原子爆弾です。

1945年8月6日、このマーチン製造B-29-45-B-29-45-MOは、
人類初の核兵器を日本の広島に投下しました。

三日後、「ボックスカー」(オハイオ州デイトンの空軍基地博物館に展示)
が、二つ目の原子爆弾を長崎に投下。

その際、エノラ・ゲイは天候偵察のため、現地を飛行しています。
3機目の同型機「ザ・グレート・アーティスト」は、
確認機としていずれの攻撃の際も同行しています。

なんだこれだけか、というくらい当たり前のことしか書いてありません。

その理由は、ここに至るまでに、「事件」と呼ぶくらいの騒動が、
「エノラ・ゲイ」の展示に伴って巻き起こったことによるものです。
その経緯とは。

戦争終結後、歴史的価値を考慮された「エノラ・ゲイ」は、機体保存が決定され、
まず、メリーランド州アンドルーズ空軍基地において解体保存されていました。

1995 年、スミソニアン航空博物館(本館)において、歴史的背景だけでなく、
原爆による被害についての資料含めたエノラ・ゲイの特別展示が計画されました。

展示にあたっては、広島市も被爆資料などを提供する予定になっていたと言います。

ところが、この計画が公にされると同時に、全米退役軍人会などが反発しました。

「原子爆弾は日本の降伏を早めることで、結果、それ以上の犠牲者が出ることを防いだ」

というのが、「原爆に対する公式見解」となっているアメリカですが、
この時彼らが行ったのは強い抗議のみならず、展覧会そのものの中止でした。

それにしてもわたしは大変不思議なのですが、この時、彼らは一体
どのような主張のもとに抗議を行ったのでしょうか。

何処かの国が主張する市民虐殺事件や軍による女性強制連行事件と違い、
アメリカが原子爆弾を二回にわたって日本の上に落とし、
大量の一般市民が死んだのは紛れも無い事実です。

「そのことはよく知っているが、戦争を終わらせるためにやったことなのだから、
自業自得で亡くなった日本人の遺体写真なんて見たくもない。
そんな展示は国のために戦った軍人たちの英雄的行為を貶めるということに等しい。
リメンバーパールハーバー!」

とでも主張したのでしょうか。

結局、スミソニアン側は抗議の声に屈しました。
展示されたのは機体だけで、原爆被害やその歴史的背景には一切触れられず。

現在の、スミソニアンにしては実に不自然に言葉少ない掲示板が、
その時の騒動とスミソニアンが受けたトラウマの大きさを表しています。

何しろ、一連の騒動の責任を取って、当時の館長は辞任したというくらいでしたから。

スーパーフォートレスの乗員は全部で12名。
最後の生存者であった乗員の一人、セオドア・ヴァン・カーク氏は、
2014年7月に亡くなりました。

この窓から航法士であったカーク氏が顔を出していたかもしれません。

「奪った命より多くの命を救った」

「日本の国に起きたこと全体としては、気の毒とは思わない」

カーク氏が原爆投下について語った言葉だそうですが、おそらくこれが
スミソニアンの展示に抗議した人々に共通の考えだったでしょう。

何事につけ、自省と自虐が習い性となっている日本人には
彼らのこの強弁にドン引きする人も多いかと思います。

それでも彼らの立場で考えてみると、軍人として行ったことが間違っていた、
と一部でも認めることは、自国と自分自身を否定することになるわけですから、
これらの言辞も致し方ない、とわたしは遣る瀬無いながらも理解します。

「エノラ・ゲイ」が、機長であったポール・チベッツ大佐の母親の
エノラ・ゲイ・チベッツの名前から取られたことは誰でも知っていますが、
機体番号44-86292号機(つまりエノラ・ゲイ)の司令官であり、副操縦士だった

ロバート・A・ルイス

はこのこと(大作戦に参加する航空機に母親の名前をつけること)
に対し、強い不快感を表したと言われています。

ちなみにこのルイス氏は、戦後、テレビ番組で、被爆時広島にいた
ドイツ人の伝道師、ヒューバート・シファー牧師、被爆牧師として
アメリカでも公演を行なった谷本清氏と対面して(させられて)います。

左、シファー牧師、右、ルイス

テレビ番組の司会者がルイス氏にその運命の瞬間を覚えているか、
と質問すると、彼はこう答えました。

「あとでこう書き残しました。”神よ、我々は何をやったのか”と」

 

ブリッジの上から窓ガラスを通して、鮮明にではありませんが、
チベッツとルイスが座っていた操縦席が見えます。

このシートベルトは、副操縦士だったルイスの席のものでしょう。

2003 年 12 月 15 日、スミソニアン航空宇宙博物館別館である
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターの開館に合わせ、
「エノラ・ゲイ」は同別館に常設展示されることとなりました。

ちなみに、最後の搭乗員だったヴァン・カーク(左)チベッツ、(中)
そして電気回路制御・計測士だったモリス・ジャプソン氏の三人。
SFUHセンターの「エノラ・ゲイ」の下で撮られた写真です。

ジャプソン氏は、原爆投下について

「多くの人々が死んでいるのはわかっていた。喜びはなかった」

としながらも、オバマ大統領の広島訪問には不快感を示しました。

原爆使用の「道義的責任」に言及したオバマ大統領に対し、

「原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための唯一の選択だった」

「(オバマは)原爆を使用した米国を罪だとしており、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言だ」、

「(米大統領が被爆地を訪問する事になると)とても悪い気分になるだろう」

などと非難しています。

ピトー管、レーダーとバブルウィンドウが見えます。

プロペラにメルセデスのマークらしいのがあるので、まさか?
と思いよくみると、展示に当たってプロペラを寄付した会社のマークでした。

配属当初、「エノラ・ゲイ」には「12」が割り当てられたが、
垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である
「第6爆撃隊」表示である◯の中にRというマークに変更更したため、
誤認防止のため「82」へ変更された。

 

とwikiには書かれていますがどうも意味がよくわかりません。
12がなんなのか、なぜ82になったのか。

原子爆弾投下作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島で、
ビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元の、
◯に左向き矢印という従来のマークに戻されています。

展示に当たっては、原爆投下時を再現しています。

SFUHセンターの展示の一つ、これはリトルボーイの

「 Arming Plugs 」アーミング・プラグ。

ミサイルや爆弾に取り付けられていて、計器や人員の安全のために
飛行前に作動させないようにするプラグです。

リトルボーイを投下する前、このプラグは人の手によって取り外されたのです。

スミソニアンの展示に退役軍人会らが抗議し、大幅に縮小された、
ということを皮肉るカートゥーンを売店で見つけたのでこっそり撮ってきました。

「何か本当にとても大きな出来事が1945年この飛行機によって起こされた・・これだけ?」

「それが我々が同意できる史実の全てなんですよ!」

思わずニヤリとしてしまいますが、スミソニアン側にとっては冗談ではありません。
抗議されて大幅に内容を自粛しただけでなく、館長の首が飛んだのですから。

「エノラ・ゲイ

虐げられた女性労働者によって建造され、
権力側の白人男性によって操縦された。
エノラ・ゲイのミッションは、日本文化を破壊することだった」

”思うんだけどさ、スミソニアンって歴史修正しすぎだろこれ”

エノラ・ゲイの展示に文句をつけたのは退役軍人会だけではありません。
核廃絶を提唱するアメリカの平和団体は、全く逆の立場から、
核のもたらした被害に触れないスミソニアンに抗議しています。

「20万人の命を奪った飛行機を展示する厚かましい国が他にあるか。
抗議のため開館時に一緒に訪れた被爆者の落胆が忘れられない」

広島市は、スミソニアンの展示に対し、

「単に航空機の科学技術の進歩を示す」だけではなく、あるいは
「原爆の威力の誇示や原爆投下の正当性を示す」ものにすることなく、
原爆被害の説明を加えることで「核兵器廃絶と世界恒久平和を願う」
内容にしていたただくよう要望を継続的に行なっている

ということですが、広島市の要望が聞き入れられることは今後もないと思われます。

スミソニアン博物館は、歴史的事実を後世に残そうとして、いわば
退役軍人一派と反核&被害者団体の板挟みになってしまったというわけで、
結局のところ、どちらにも配慮した結果、

「原爆投下を正当化はしないが、被害があったことにも全く触れていない」

という現在の異常に言葉少ない説明に落ち着いているのでしょう。

 

しかし、原爆を投下された広島・長崎の人々はもちろん、落とした
エノラ・ゲイとボックスカーの搭乗員たちも、ついでに
スミソニアン博物館も、誰一人として幸せではなかったというのは事実です。

「神よ、我々は一体何をしたのか」

前述のルイスならずとも、「エノラ・ゲイ」と「ボックスカー」乗員の全員が、
多かれ少なかれこれに似た思いを持ち、自分のしたことの意味を
なんらかの形で神に問いかけたことは間違いないと思います。

そしてその上で、彼らは自分という個と、その個が存在する
アメリカという公のために、こう自分を納得させざるを得なかったのです。

「あれは任務だった。原爆投下は戦争を終わらせるために仕方がないことだった」

彼らもまた戦争の犠牲者だったといえば、彼らの誇りは傷つけられるでしょうか。

 

 

 

ザルツァッハ川の「愛の南京錠」〜ザルツブルグを歩く

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さて、ザルツブルグに到着し、ホテルザッハに投宿したわたしたち、
夕暮れのザルツブルグを散歩してみることにしました。

今いるアメリカもそうですが、オーストリアも夏の日没は遅く、
だいたい9時前にようやく夕暮れになるという感じです。

昼間の観光客のざわめきも消えて、広間の人影はまばら。

わたしたちもMKがこのくらいの時、ヨーロッパを連れ回しましたが、
残念ながら現在の彼にはほとんど記憶がないそうです。

ただ、パリで地下鉄の移動が辛かった(階段しかなかったりする)ことや、
興味のない美術館で退屈したというネガティブな思い出はあるようで。

記憶になくとも、小さいうちに子供にいろんなものを見せて
それを原体験にしてあげたい、という思いで、世界の親は
こうやって子供連れでいろんなところに旅行にいくわけです。

荒ぶる馬の石像と恋人たち。

ホテルのテラスから見るザルツァハ川は、橋や川岸の遊歩道の
ライトアップに浮かび上がり幻想的です。

崖の上の変な建物は、今ザルツっ子に大人気の絶景レストラン。

それはともかく、この橋桁が一本しかなく、しかもそれがどうみても

歪んでいる

のにわたしたちは不安を覚えました。
大丈夫なのかこれ。

あけて翌朝、楽しみにしていたホテルザッハの朝ごはん。
保温された銅のフライパンに麦が敷き詰められ、
「10分卵」と称するゆで卵が並んでいます。

一つとってみたところ、10分卵の正体は固茹で半熟半々くらいでした。

小さなお客さま用のワゴンもございます。
色とりどりの食器、動物をかたどったパン、ハムや卵は
子供にも手が届く高さにセットしてある心配り。

驚いたのは、朝ごはんなのにケーキが出されていたこと。
フルーツケーキ、クグロフ、そして・・・・、

ザッハトルテがっ・・・・・!

「朝からザッハトルテ食べるとは・・・」

「今朝も食べた人がすでに何人もいる・・・」((((;゚Д゚)))))))

建物の壁に打たれた杭の下には、

調査マーク
破壊、損傷、または除去することは禁じられています!
通達:
ザルツブルク治安判事
Vermessugsamt

とプレートがありました。
最後のは判事のお名前かしら。

さて、この日はガイドをお願いしてザルツブルグツァーをしました。
ロビーで待ち合わせたガイドさんは、ウィーンの民族衣装を着た女性。
午前中歩き回る予定なのにヒールのサンダルを履いていたのでびっくりです。

わたしはもちろん、履き慣れたスニーカーという万全の体制で臨んでおります。

ホテルから出てすぐのところに、ピンクのモーツァルトハウスがありました。
モーツァルトの生家は市街地の中心にあって、「モーツァルトハウス」として
中に資料が展示されているのですが、こちらは外から見ただけ。

生家が手狭になったのでモーツァルトが17歳の時にこちらに引っ越し、
家族四人で住んでいたのですが、母親が5年後亡くなり、
姉は結婚し、モーツァルトはウィーンに引っ越してしまったので、
父親のレオポルドが一人で住んでいたそうです。

そういえば映画「アマデウス」では、ウィーンの喧騒の中、
夜遊びして放蕩の生活をしているモーツァルトの元に、ザルツから
父ちゃんが現れると、音楽が急に暗く、険しくなり、息子は父に怯える、
という演出があったのを思い出します。

モーツァルトの家のすぐ近くに、これも有名人の住居がありました。

なんと、クリスチャン・アンドレアス・ドップラーの生家です。
1803−1853とありますが、ドップラーがそんな昔の人だったとは。

ドップラー効果というものは誰でも知っていますが、ドップラーが
どこの人でいつそれを発見したか、案外知らないんじゃないでしょうか。
もしかしたらわたしだけ?

ちなみに彼がドップラー効果を数式にしたのは1842年のことです。

蛇足ですが、ドップラー効果は、オランダ人の学者バロットが証明しました。
1845年、列車に乗ったトランペット奏者がGの音を吹き続け、
それを絶対音感を持った音楽家が聞いて音程が変化したことを確認したのです。

その音楽家の名前は歴史に残らなかったんでしょうか。

「ドップラーの両親は隣がモーツァルトの生家だと知ってたんでしょうか」

「もちろん知って借りたと思いますよ」

ザルツブルグというところは本当に偉人を多出しています。
ザッハホテルの隣、橋のたもとにあるこの家ですが、誰の家だと思います?

ヘルベルト・フォン・カラヤン 1908−1989。
カラヤンの生家です。

前庭には指揮をするカラヤンの青銅像があります。
2001年にチェコの彫刻家、アンナ・クロミイが制作したものです。

遠目にもちょっとシワ多すぎね?って思うんですけど。

ツァーの途中、ビルの外壁を掃除している業者がいました。
石の壁が多いザルツブルグでは、外壁は高圧の水で汚れを落とすんですね。

ちょっと立ち止まって見てしまいましたが、スプレーを当てたところは
嘘のように綺麗になっていきます。

ツァーで最初に案内されたのは、ミラベル宮殿の庭園。
ここを有名にした映画が、これでした。

「サウンド・オブ・ミュージック」。

この画像は、ウィーンからアメリカに行く飛行機の機内で放映していた
同映画の画面を撮影したものです。

家庭教師のマリアが子供たちと「ドレミの歌」を歌うシーンですね。

この階段の上で、ガイドさんは、わたしに

「指を一本立ててポーズをとってください」

と言って、無理やり写真を撮らせました。
自分の写真をほとんど残していないわたしですが、

「ここでは恥ずかしくても、いい思い出になるんです!」

と強調されて、ついやってしまいました。(写真自粛)

庭園の隅に、入浴中という設定の半裸の女性像がありました。
これがこの庭園の主、ザロメ・アルト。

なんと当時の司教が愛人を囲うために建てたのがこの宮殿だったのです。
愛人の像なのでこんな艶かしい意匠にしたということでしょうか。

壁面をすべて蔦が覆い隠してしまっています。

肩や頭に乗せた鳥の口から水が噴き出しているという・・。
昔の水芸みたい。

「ニシカワフミコさんって知ってます?」

聞き覚えがないので知りませんと答えましたが、ニュース女子に出ている
西川史子さんのことだったかもしれません。

「あそこで結婚式をあげたんですよ」

「昔はこんな立て札、なくても誰も入らなかったんですが、
中国人が増えて(はっきりとそう言った)写真を撮るために
皆が芝生に入るようになったので、仕方なく最近立てられました」

その口調は、わずかながら苦々しげでした。

向こうに見えている白いドームはメッシュになっており、
昔は中で鳥が飼われていたということです。

ミラベル宮殿は現在市役所として普通に使用されていますが、
普通の市役所のように結婚式を挙げることができます。

西川さんはここで式を挙げ、あの宮殿のようなお城で披露宴をしたのかもしれません。

ここでまたしても、結婚した時には、この「天使の階段」に立ち、
二人で写真を撮るのだと強く説得され、仕方がないのでTOと撮ってもらいました。

庭園の藤棚?の前でガイドさんが立ち止まります。

「サウンド・オブ・ミュージック」に出てきた撮影場所です。

「ドレミの歌」のシーンですね。
フリードリッヒとかいう男の子が走ってきます。

さて、その後、ホテルの部屋から見えていた橋を渡って行きました。
ザルツァハ川の河原は京都河原町鴨川沿い状態です。

普通の鍵もありますが、わざわざそれ用に作られたハート型のもの、
二人の名前を刻んだものなどがぎっしりと。

今いるピッツバーグでも、気づけば街のあっちこっちに錠前がかけてあります。

わたしは全く知らなかったのですが、日本にもすでにこの「流行」は
伝播してきていた(しかもいつの間にか終わっていた)らしいのです。

Love Lock

英語ではラブロック、フランス語はカデナ・ダモール、
それなりにロマンチックですが、我が日本では

「愛の南京錠」

というそうです。
よりによって「南京錠」・・・・・・(´・ω・`)

流行り物にはすぐ飛びつく日本であまり爆発的人気にならなかったのは
このネーミングのせいだと思うがどうか。

「美しき青きドナウ」という曲の題名ではありませんが、とにかく驚いたのは
ザルツァハ川の水は翠。翡翠の翠です。

流れも速く、水を滔々と湛え、水上交通で流通の要となったというのがわかります。

皆さんは一度くらい、ウィーン土産に「モーツァルトチョコレート」なる
丸くて美味しくないチョコレートを見るか貰うかしたことがあるでしょう。

ガイドさんに言わせると、あのほとんどは「偽物」なのだとか。
何が本物で何が偽物なのか、その基準がわからないんですが、
モーツァルトチョコレートの元祖はここではないらしいです。

どうでもいいですが、まあ、確かなのは「名物に旨い物なし」ってことです。

それにしても、この美化されたモーツァルトと一緒の謎の美女、だれ?

戦後、ここにもアメリカ軍が進駐しましたが、その時にこの地産の人形を
米軍兵士が気に入って、競うように買い求めて子供の土産にしたため、
小さい時にこれが家にあった、という記憶のある年配のアメリカ人は結構いるのだとか。

冒頭写真はザルツブルグの目ぬき?通りであるゲトライデ通り。

この商店街の看板は、昔から装飾的な鉄細工のものを
通りに向かって見せるように出す習わしです。

これはマクドナルドの看板ですが、ゲトライデ通りに出店する際、
随分反対の声もあったというので、マクドナルドは恐縮し、
周りの雰囲気を壊さないように、ひときわ立派な、しかし象徴である
「ゴールデンアーク」はとっても控えめにした看板を作りました。

しかし、蔦が装飾されたガチョウの首がリボンで加えるゴールデンアークの月桂樹、
その根元には王冠をかぶったライオン、色々盛り込みすぎてわけわからんことに。

案の定、ザルツブルグっ子にはこの盛りだくさんな真鍮看板、
「やりすぎだ」とバカにされているんだとか。

・・・ドンマイ、マック。


続く。

 

 

モーツァルトハウスとドップラー効”菓”〜ザルツブルグを歩く

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ザルツブルグでチャーターした女性ガイドは、アラベル庭園で、
石像の表す自然調和の意図を説明しながら、

「今の地球はどうですか?火、水、地、空が汚されていませんか?」

という質問に無理やり賛同させようとして、その手のアピールが大嫌いな
わたしとMKを内心ドン引きさせたものの、その後は彼女もプロらしく
空気を読んで、和やかに案内を続けていました。

このガイドが、ウィーンの男性ガイドと同じく、音楽の勉強に来て、
そのまま現地に住み着いてガイド業をしている人だったと知ったのは、
ツァーが終わって解散するとき、彼女がわたしたちに自分が歌った
CDをプレゼントしてくれたときのことです。

昨今の音大卒業生も経験を積むためにウィーンやドイツ、パリに
留学をするのでしょうが、現地のオケに就職するとかいうならともかく、
ずっとヨーロッパに住んで歌の修行、という人はあまりいない気がします。

彼女やウィーンのガイドさんが若かった頃は、まだまだ芸術に関しては
ヨーロッパ至上主義で他の選択肢がなかったということもあるでしょう。


歌手のアンネット・一恵・ストゥルナートはその中で唯一日本人として
ウィーン国立歌劇場の団員になれたという人ですが、それでも彼女は
オーストリア人に激しい人種差別といじめを受け続けたといいます。

カラヤンが彼女を認める発言をしてからは、虐めだけは収まったそうですが、
最も成功した例でもこんな茨の道だとわかっているのに、あえて、
オーストリアなどという土地で歌手になろうというのは、今時の日本人には
あまり魅力的なチャレンジだと思われていないということかもしれません。

わたしも、楽器、特にピアノやヴァイオリンなどの個人技はともかく、
ヨーロッパで東洋人が歌手として認められるのはかなりハードルが高いと思います。

日本人が主役を張れるのは、かろうじて蝶々夫人かミカドだけ、
というのが常識となっているヨーロッパでは、おそらく今後も
どんなに上手くても東洋人がオペラの主役になることはないでしょう。

「オペラレイシスト」のわたしに言わせると、これは差別でもなんでもなく、
オペラとはそういうものだからです。

歌舞伎や京劇に女性がいないように。宝塚歌劇団に男性が入団できないように。

その点、ダイバーシティをゆるゆるに配慮してしまったアメリカのミュージカルは、
「レ・ミゼラブル」のコゼットアフリカ系(両親はどちらも白人)が登場し、
冷静になって見ればその世界にめまいを覚えるようなところまで来ているわけですが、

まあ、これは観る方も

「何かの事情があってコゼットが黒人でも仕方がない」

という暖かい理解の目で鑑賞することをよしとしているという前提なので、
百歩譲ってよしとします。(よくないけどな)

しかし、わたしは来日したオペラに東洋人を無理やり混ぜてくる一部の
「謎の勢力」には断固異議を唱えるものです。

例えばあなたが「椿姫」を観にいったら主演が金正日みたいな
チビデブ韓国人のアルフレードだったとしましょう(実話)。

それでもあなたは

「ヨーロッパ貴族を韓国人が演じるなというのは差別だ」

「金正恩似のシークレットブーツ男でもオペラの主役を演じる権利がある」

だからこのチケットに何万円も支払うことになんの痛痒も感じない、むしろ
金髪碧眼のゲルマン系を韓国人に演じさせるという既成の常識破壊に
喜んで出資しよう、わたしは人権侵害はいかなる場合も許さないから。
そう考えるわけですかね?

見た目の不自然さ以前に、

「そういうことに昔から決まっているから」

の一言でどんなポリコレも手を出せない世界があるのだとなぜ思えない?

さて、そんな話はどうでもよろしい。
ガイドさんが例の南京錠の橋を渡って最初に案内したのは、

「Mozart Gebursthouse」

と大きく書かれたモーツァルトの生家でした。

ここでモーツァルトは生まれ、ここが家族四人で手狭になって
川向こうのピンクの家に引っ越しするまで住んでいました。

入り口の脇にあるこの取っ手、なんだと思います?
モーツァルトの時代の「呼び鈴」(正確には違うけど)です。

どうするかというと、目当ての家の表札の下にある取っ手を
引っ張ると、鉄線が引っ張られることになります。

その鉄線は、目当ての家の窓をノックする金具に繋がっています。
窓がコンコンと鳴れば、それは誰かが来た印。

ここからモーツァルトハウスの見学が始まりました。
階段を上っていって、途中にあるブースでチケットを買います。

モーツァルトのお父さん、レオポルドをフィーチャーした特別展のお知らせ。
音楽家であり、マネージャーであり、先生であったレオポルド無くしては
天才モーツァルトはこの世に生まれなかったので注目しましょう、という企画です。

館内はほとんど撮影禁止ですが、展示室の外にある台所だけは
ガイドさんも撮影して構わないと教えてくれました。
ここでモーツァルト家の食事が作られていたようです。

中庭を覗き込んでみました。
おそらくビール瓶やゴミ箱以外は、モーツァルトが見た同じ光景。

館内には、見学するのに1時間はかかるほど資料が展示されていました。
当時のピアノ、楽譜、写真、絵画、家具や持ち物など。

全て館内では撮影が禁止されています。
しかし、いるんですよね。スマホで撮影する不届き者が。

(一人は中国人、一人は白人の中年女性)

わたしたちのガイドさんは、そういう人を見ると、
誰にでもわかるように

「ノーフォト!」

と手を振って注意していましたが、撮影するような人は
わかっていてやっているのですから、その時はやめても
彼女が後ろを向いた途端、平気でスマホを作動させるのです。

「今日はお行儀の悪い人が多いですね」

「そんなにしてまで撮って何がしたいんでしょうね」

話しながら先に進むと、何人かわかりませんが、観光客の小さな子供が
わたしが肩から下げているカメラを指差して、

「写真撮っちゃいけないんだよ!」

というようなことを注意してきました。

「Of course, I won’t.」

わたしは思わず英語で答えましたが、わかったかな?

最後に例によってモーツァルトグッズや楽譜グッズが
お土産用に置いてあるコーナーがあり、その近くにこんなかまくらのような
オーディオブースがありました。

足も疲れていたことだし、とガイドさんを含め全員で座って、

流れてくるモーツァルトに耳を傾けました。

「この曲、ご存知ですか」

ガイドさんが聞いてくるので、

「ピアノ協奏曲の23番イ長調ですね」

と答えると、彼女は自分の横にあったこの説明を見て

「すごい。当たってます!」

いやまあ、昔レッスンで弾いたことがあるし、普通に有名だし、
ある意味知っていて当然なんですが、彼女はえらく驚いてくれました。

モーツァルトハウスの後は街歩きです。
ザルツブルグも、ファサードを抜けていくと中庭にお店があって、
露店が出ていたりするので、それを冷やかしながら歩いて行きます。

ガイドさんが、「モーツァルトチョコレートの元祖」といったお店。
モーツァルトチョコレートはこのブルーの店が始めたそうです。

ここでわたしたちがアメリカ在住の知人(科学者)へのお土産に買ったのが、
ドップラーチョコレート。


クリスチャン・ドップラーがザルツブルグ出身であることを知りましたが、
ここではちゃんと

ドップラー・エフェクト(ドップラー効果)

に引っ掛けて、

Doppler Kon(Ef)fect

コンフェクトはドイツ語のお菓子ですから、あえて日本語でこじつけると

ドップラー効菓・・・

無理やりですね。すみません。

ヴォルフ・ディートリッヒ・フォン・ライテナウという名前は
日本では知られていませんが、ザルツブルグの大司教で建築家で、
王家の血筋を引いたサラブレッドで、結構なワルでした。

ローマで贅沢三昧の日々を過ごしたのちザルツの大司教になった彼は、
聖職者でありながら(いや、聖職者だからかな)妾を囲い、
彼女との間にできた子供を住まわすために、前回ご紹介した
「ドレミの歌」のミラベル宮殿というのも建てたり、もっさりしていた
田舎町に過ぎなかったザルツブルグのをイケイケにかっこよくした張本人です。

というわけでこのお菓子屋さんは、

「ヴォルフ・ディートリッヒ煉瓦」

というザルツの有名人シリーズを販売しています。

ところで、「第三の男」のハリー・ライムは、ボルジア家ではなく、

「ヴォルフ・ディートリッヒは悪政をしたが、そのおかげで
ザルツブルグの街はこのように整備され美しくなったのだ」

といえば、もう少し賛同されたし、ついでに学があるアピールできたかもしれませんね。
でも、そもそもこの人のことを誰も知らないか。

 

続く。



ザルツブルグ大聖堂爆撃とその復興〜ザルツブルグの街を歩く

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ザルツブルグ到着の翌朝お願いしたガイドツァーが続いております。

泊まっているホテル・ザッハの近くのミラベル庭園という、昔風にいうと
お妾さんが囲われていた宮殿は、現在市役所だそうですが、例の
ニシカワフミコさん始め、日本人も、ここでザルツブルグ市役所公認の
結婚式を行うカップルが多いのだということです。

まあ、お妾さんの屋敷といってももう今は誰も気にしないかもしれませんが。

歩いていると、レジデンツ広場に出てきました。
中央には荒ぶる馬のいる「アトラス神の噴水」があり、正面は
現在州庁舎となっている宮殿です。

宮殿であったかどうかは、外壁に紋章があるのでわかります。

それにしても、昔の建築物はこうして拡大してみるとレンズの収差では
こんな風にはならないという歪みが目立ちます。

遠目に見るとなんの問題もないのに、不思議です。

州庁舎の屋上には「グロッケンシュピール」という鐘楼があり、
35個の鐘が一日三回、モーツァルトの曲を演奏します。

今は電動、あるいはコンピュータ制御かもしれませんが、昔は
人が鳴らしていたのかもしれません。

レパートリー?は51曲あるそうですから、とりあえずモーツァルトの
有名どころはほとんどカバーしているという感じでしょうか。

大聖堂の壁に沿って馬車の駐車場になっていました。

広場の奥には「ザルツブルグの息子」モーツァルトの像があります。
モーツァルトの妻コンスタンツェは、夫の死後、奥のピンクのアパートに住んで
銅像のできるのを待っていたそうですが、掘ってみたらローマの遺跡が出てきて、
色々やっているうちに亡くなってしまい、銅像完成を見ることがありませんでした。

広場に面しているザルツブルグ大聖堂の裏側にはスタンドが建てられています。
おそらくこの次の週に行われたザルツブルグ音楽祭の準備だったと思われます。

中に入ってみました。
1628年ということは、400年近く前に建てられた壮麗なバロック建築による聖堂です。

それではこの祭壇も4百年前からのものなのか、と思われた方、
残念なことにそうではありません。
戦災により大聖堂は一度崩壊しているのです。

1600年代からここにあった教会なので、当然ながら、
ザルツブルグ出身のあの人もこの人も、ここに通った可能性があります。

モーツァルトは例えばここで洗礼を受けました。
そして、オルガニストとしても仕事をしていたそうです。

モーツァルトのオルガンの腕前は、

「文字どおりオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在」

と、同世代の音楽家からも絶賛されるほどでした。

ところで余談ですが、バッハやベートーヴェンの時代、
オルガンを使った「音楽試合」があったというのをご存知でしょうか。

誰か偉い人(司教とか)が、最初のフレーズをお題として発表すると、
二人の音楽家が、それぞれそのテーマでフーガを即興演奏し、
どちらが優れているかジャッジが勝ち負けを決めるというものです。

 

フーガというのは、一つのテーマが4声とか5声の各声部に、形を変え、
前のテーマを追いかけるように次々と現れてくる形式の楽曲ですが、
基礎を学ぶため、音大でも作曲科なら必ず授業で4声のフーガを書かされます。

これがまた一言でいってパズルのような緻密な調整が必要な作業なんですわ。
これを即興で、しかもオルガン(足ペダルももちろん使う)でやるなんて、
昔の音楽家マジ天才ばかりなんじゃないだろうかと思ったくらいなんですが、
例えばベートーヴェンなど、このフーガ勝負に滅法強かったとか。

わたしは勝手に宮本武蔵みたいな剛腕のイメージをベートーヴェンに
持っているわけですが(笑)その伝でいうと、モーツァルトは天才らしく、
涼しい顔して天使のように無邪気に、大胆に、そして華麗に
テーマを展開させていったんだろうなあと想像しています。

ところで、大聖堂だけあって、オルガンが一つや二つではありません。
まるでボーズのスピーカーのように、四面の角に一つづつ、
計4台のパイプオルガンがあるので驚いてしまいました。

この4台が全部いっぺんに使われるなんて場面があるんでしょうか。

「モーツァルトが弾いたのはどのオルガンなんでしょうね」

ガイドさんに聞くと、そこまではわからないとのことでした。

祭壇左側前方のこれはきっと必ずモーツァルトも弾いたに違いありません。

震災で先生のご都合が悪くなったのでやめてしまいましたが、
わたしはしばらくの間パイプオルガンを習っていたことがあります。
(バッハの小フーガト短調を弾くところまでは行きました)

壁を向いて演奏するパイプオルガンには、必ずバックミラーがあるのですが、
探してみたら、ここのオルガンにもちゃんとありました。

「オルガン台の下に監視カメラが仕込んでありますね」

ガイドさんにいうと、彼女はとても驚いて、

「えっ、どこですか?あ、ほんとだ。知りませんでした」

何十年もの間見てきて、いつの頃からかカメラが付いたのに
今日気づいたということで、感謝されました。

ここまでかなり歩いたので、椅子に座ってしばし脚を休めていると、
横に設えられた階段状のステージに黒いワンピースの女子が並びました。

出演前、用意しているときに小耳にした会話によると、彼女らはアメリカから来た
学校の聖歌隊で、教会を回ってボランティア演奏をしているようです。
「グロリア」をはじめ聖歌の演奏が電子ピアノの伴奏で始まりました。

うちの息子の高校も、去年夏ウィーンとザルツブルグに来て、ウィーンでは
彼女たちのようにオーケストラ演奏をしています。
こちらの教会はそういう場を貸すのにとても協力的なんですね。
日本の学校の修学旅行も、そういう企画をすればどうでしょうか。

ザルツブルグ大聖堂の入り口正面には、こんなパネルがありました。

1944年10月16日、ザルツブルグをアメリカ軍の空襲が襲いました。
尖塔に爆弾が命中し、大聖堂は損害を受けています。

教会上部から見た被害の様子。

「どうしてこんなところを爆撃しなければならなかったんでしょう。
アメリカ人だってほとんどはキリスト教徒なんじゃないんですか」

わたしが遣る瀬無い思いについこう尋ねると、ガイドさんは、

「あの人たちはほら、自分たちに歴史が無いから文化に敬意もないんですよ」

と、軽蔑したような言い方で答えました。

日本の都市部に爆弾を落としたときに、彼らは

「日本では家内工業で家庭でも武器の部分を作っているから」

などと民間人を殺戮したのを正当化しましたが、ザルツブルグの
300年以上歴史のある教会をわざわざ狙ってこれを破壊したことについて、
彼らは一体どんな言い訳ができたというのでしょう。

単に戦争だから、任務だったからで済まされる話ではないような気がします。

この大聖堂爆撃については、アメリカさんもそれなりに汚点と思っているらしく、
ほとんど英語での記述が出てこないのですが、wikiでも

The Salzburg Cathedral was damaged duringWorld War II 
when a single bomb crashed through the central dome
over the crossing.

なんとなく自然発生的な、攻撃した人間の存在の見えない書き方。
決して狙って破壊したのではない、とでも言いたげなニュアンスです。

戦後ハリウッドが、ザルツブルグを舞台に、あのミュージカル映画
「サウンド・オブ・ミュージック」を製作したとき、現地の人々は
驚くほどこの映画に対して冷淡だったという話がありますが、その理由の大部分は、
この破壊がアメリカ人に対する拭いきれない嫌悪を残したからではなかったでしょうか。

しかし、我が日本の皆さんにおかれましてはご安心ください。
このパネルの左上、一番目立つところには日本語でこう書かれているのです。

「献金をありがとうございました」

ザルツブルグ大聖堂は1959年に爆撃で崩壊した聖堂を立て直し、
その年の5月18日に戦後初めてのミサが行われていますが、
このパネルには、その修復費用を寄せた国の言葉でお礼が書かれているのです。

日本語が真っ先に書かれているというのは、おそらくですが、
日本から教会の信徒などを中心に多額の浄財が寄せられたのではないでしょうか。

お礼の下には、

「入り口の門にはつぎの三つの年号がご覧になれます」

774年 最初に聖堂がこの地建てられた

1628年 現在の元となった大聖堂が完成した

1959年 戦後の復元が完成した

わたしは、ザルツブルグ大聖堂再建のために、戦後の豊かでない生活の中から
捻出したお金で献金を行なったのあろう当時の心優しい日本人たちに、
心からありがとうございましたと心の中で頭を下げずにはいられませんでした。

そして、ザルツブルグの人たちがそんな日本に向ける思いの一端を、
わたしたちは最後にガイドさんが連れて行ってくれた小さな教会で知ることになります。

「この教会は、東日本大震災が起こったとき、日本の人たちに向けて
鎮魂のミサを特別に取り行ってくれたのです」


瓦礫の中から記念に保存されている部分は、何を意味するのでしょうか。

さて、このザルツブルグ祝祭劇場前で、ガイドさんはツァー終了を告げました。

しかしまあ、大聖堂の司教様も昔とは様変わりしているようです。
ポケットに手を入れて歩きスマホとは(笑)


続く。

 

 

ゲオルグ・フォン・トラップ海軍少佐の軍歴〜ザルツブルグの街を歩く

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ザルツブルグの観光案内が終わり、歌手だというガイドさんに
自作のCDを記念に頂いて彼女と別れたのは、
マックス・ラインハルト広場というところでした。

この左にあるのがモーツァルト祝祭小劇場、右に向かって
ウィーンフィルハーモニー通りという道が通っています。

マックス・ラインハルトはユダヤ系オーストリア人のプロデューサーで、
ザルツブルグ音楽祭の原型となる催しを1920年に創始した人です。

彼は1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)したのを
きっかけにアメリカに亡命し、5年後、客死しました。

ユダヤ系オーストリア人の芸術家といえば思い出すのが、昔「ヒトラーと映画」
という本で知った、映画監督フリッツ・ラングの亡命劇です。

ラングはある日、宣伝相のゲッベルスに招かれ、ラングを名誉アーリア人として
扱うので、ナチスの宣伝映画を撮って欲しい、と頼まれます。

その日のうちに銀行からお金を引き出してアメリカへの亡命をするため
国外脱出をしようとしていた彼は、土曜日のこととて、
銀行が閉まるまでに宣伝省を辞去するつもりでしたが、
興に乗ったゲッベルスが、ラングの次期作品について夢を語り出してしまい、
結局、解放されたときにはすでに銀行は閉まっていました。

ラングは仕方なく、着の身着のままで現金を残したまま国外に脱出、
危ういところで命永らえた、というのですが、後年、ナチスに背を向けたとは
本人が言っているだけで、実はラングはゲッベルスに自分を売り込んでおり、
その後色々都合が悪くなって亡命しただけ、という説が浮上しているそうです。

さらに歩いていくと、グシュテッテン通りというところに出ます。
この通りには、ご覧のようなうっす〜〜〜い建物が、まるで
崖に張り付くようにして並んでいます。

通りに面しているのはレストランやバー、パブなどですが、
どうも上階には普通に人が住んでいる風なんですよね。

黄色いビルの上部には、「1418 黄金の太陽 1968」
と金色の文字でありますが、まさかこれらの建物、そんなに古くから・・・?

グシュテッテン通り近くを歩いていると、ウィンドウにこんな写真が。
「映画サウンド・オブ・ミュージックショップ」とでもいうんでしょうか、
まあ一種のキャラクターショップみたいなもので、写真や関連本、
あの映画に関したグッズ、民族衣装などを売っている店のようでした。

前回、ザルツブルグ大聖堂に爆弾を落として破壊したせいで、
ザルツブルグの人たちはこの映画に冷淡だった、と推測してみました。

実際の理由はそんな単純なものではないかもしれませんが、
このハリウッド映画がドイツ語圏では全く受け入れられず、
ザルツブルグを除いてオーストリアでは21世紀に至るまで
一度も上映されていないことからみても、冷淡といより無関心、
というのが実際のところかもしれません。

 

ここで映画をご存知ない方のために一応説明しておきますと、

妻に先だたれたやもめの海軍大佐、トラップとその7人の子供の元に
修道院から派遣されてきた家庭教師のマリア。
彼女は子供たちの心を掴み、彼らの父親トラップ大佐と恋に落ち結婚。
トラップ一家合唱団として活動を始めるが、ナチスへの協力を求められ、
コンサートの夜、一家は亡命を図る・・・

というもので、ザルツブルグに実在した一家をモデルにしています。

右側のヒゲの男性がトラップ氏。中央がマリア夫人。

写真には10人いますが、もちろんこれは全員トラップ家の子供たち。
7人が先妻との間の子、3人がマリアとの間にできた子供です。

結婚したとき、トラップは47歳、マリアは22歳という年の差婚でした。

Georgvontrapp.gif

ところで、今日のタイトルが、旅行記の割には本来の当ブログらしいのは、
「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物、

バロン・ゲオルグ・ルードヴィッヒ・リッター・トラップ

が海軍軍人で、今日はこの人のことをお話しするつもりだからです。

この映画について書かれたものは多いですが、トラップ氏の海軍での
軍歴についてフォーカスしたものはあまりないようなので、やってみます。

それでは参りましょう。

 1894年(14歳)海軍兵学校に入学

オーストリアというのは海なし国であるわけですが、かつて
オーストリア=ハンガリー帝国時代には海軍が存在しました。

この時代は海運が盛んだったため、その保護を目的として海軍が創設され、
これが結構強かったようなのです。

普墺戦争ではイタリア軍を撃破していますし、北海まで行って
デンマーク海軍とも交戦しているくらいなので、当然ながら
優秀な青少年を教育する兵学校も存在しておりました。

トラップ少佐が兵学校に入学したのは14歳だったことになりますが、
高等学校の段階で士官教育を施すシステムだったようですね。

ゲオルグは、海軍軍人だった父の跡を継いで、自分も同じ道を目指し、
フィウメにあった(現在はリエカ)海軍兵学校に入学することになります。

兵学校では士官教育の一環として、楽器を専攻させられました。
当時の海軍士官は(今もある程度はそうですが)紳士教育とともに
外交官ともなる社交教育もされており、音楽はその一環だったのです。

14歳のフォン・トラップはヴァイオリンを選びました。

4年後、兵学校を卒業すると、彼は士官候補生として、
練習艦コルベットSMS 「ザイダ II」に乗り組み、2年間の訓練航海を終えます。

この頃は帆船での航海であり、当時のオーストリア=ハンガリー海軍は
二回に渡る遠洋航海を行なっていたのです。
そのうち一回の航海は、オーストラリアでした。

今回、オーストリアで、

「オーストリアにカンガルーはいません」

と書かれたTシャツを目撃しましたが、自国と名前が似ている
この国について、フォン・トラップがどう思っていたのか知りたいところです。

練習航海で各地を訪れたフォン・トラップは、ついでに聖地巡礼を行い、
ヨルダン川で7本の水を購入して帰りました。

この水は、後に生まれた7人の子供たちに洗礼を施すために使われました。

(ということは、フォン・トラップは士官候補生時代、結婚相手もいない頃から
自分は子供を7人作ろうと決めていたということになります。
もちろん、水が7本あるので7人作ることにしたという可能性もありますけど)

それはともかく、最後の水を使う頃には水は腐っていたのではいやなんでもない。

 

1898年(18歳)任海兵隊少尉

オーストリア=ハンガリー海軍の略称はK.u.K。
 kaiserlich und königlich (帝国と王国)を意味します。
もちろんこれはオーストリア帝国とハンガリー王国のことです。

1900年(20歳)防護巡洋艦「ツェンタ」乗組

トラップ少尉の乗り組んだ「ツェンタ」は、この年に発生した義和団の乱で
中国大陸に出征しています。


皆さんは皆北京市内の居留民保護を目的とした八カ国同盟軍、覚えてますか?

この写真、教科書にも載ってましたよね。
背丈の順で我が日本国は堂々一番右ですが、ただし、この時の日本軍は
強く正しくたくましく、その精強さで世界を驚嘆させたことも覚えといてください。

左から英・米・英領オーストラリア・英領インド・独・仏、
そしてオーストリア=ハンガリー、イタリア、日本軍。

記念写真は士官ではなく、全員兵士を選抜して撮られたようです。
オーストリア=ハンガリー軍の兵隊のいでたちは水兵ですね。
つまり海軍が派遣されていたことがわかります。

小型巡洋艦ツェンタ

防護巡洋艦「ツェンタ」の艦歴によると、義和団の乱の前年まで彼女は

日本(長崎、佐世保、鹿児島)

を訪問していましたが、義和団発生の報を受けて本国に呼び戻され、
75名の乗員を乗せて天津に向かいました。
この中に我らがトラップ少尉が海兵隊員として乗っていたのです。

「ツェンタ」は装甲巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア
と合流し、両艦の乗員160人がドイツの海兵隊を支援し戦闘を行いました。
この時の戦闘は激しく、「ツェンタ」艦長は戦死。
参加した両艦の乗員の一員として、トラップ少尉も勇猛勲章を受勲されています。

1903年(23歳)Fregattenleutnant の試験に合格 任海軍少尉

フレガッテンレウテナントとは、オーストリア=ハンガリー海軍の階級で、
英語で言うところのフリゲート・ルテナント。
海軍の階級でいうと、サブ・ルテナント、海軍少尉ということになります。

 1908年(28歳)航海科に転科 中尉任官 潜水艦隊に配属

 海兵隊員として10年間海軍に奉職したトラップは、潜水艦乗組になります。

ゲオルグ・ルードヴィッヒ・フォン・トラップは、海軍を志した時から
潜水艦に魅せられ、潜水艦隊の一員になることを希望していました。

1908年、新しく編成された海軍の潜水艦隊、Uブート・ヴァッフェに
転属するという願っても無いチャンスを掴んだトラップは、
その資格となる昇進試験を受け、

Linienschiffsleutnant 中尉

に任官しました。

 

オーストリア=ハンガリー海軍潜水艦隊は、特に第一次世界大戦において
「アドリア海での連合国軍の動きを抑圧した」(wiki)精強部隊だったとされます。

1910年(30歳)新造潜水艦U6「アガーテ号」の艦長に就任

オーストリア=ハンガリー海軍でも、潜水艦はUボートです。
同じドイツ語で「ダス・ウンターゼー・ブート」なのは当たり前ですね。

ここでトラップ(多分少佐)に運命的な配置が行われます。
彼が初めて艦長になったU-6は、数字から見てもわかるように
K.u.Kが所持した6番目の潜水艦で、その愛称「アガーテ」は、
「ホワイトヘッド魚雷」、つまり魚雷の発明者とされるイギリス人技術者、

ロバート・ホワイトヘッド

の孫娘が進水の儀式を行い、命名者になったことから与えられたものです。

おそらく「アガーテ」の艦長になったことが、縁を引き寄せたのでしょう。
翌年、トラップ少佐(多分)は、その当人と結婚することになります。

1911年(31歳)アガーテ・ホワイトヘッドと結婚 

「ロバート・ホワイトヘッド アガーテ・ホワイトヘッド」の画像検索結果 

二人は海軍基地のあった街、プーラに住んで、その後7人の子供をもうけました。
が、1922年、トラップ少佐が海軍を退官してからのことになりますが、
アガーテは、長女の猩紅熱の看病をしていて自分が罹患してしまい、
32歳の若さで夫と子供を置いて亡くなってしまうのです。

それで「サウンド・オブ・ミュージック」の話につながっていくわけですが、
ここはトラップ少佐の軍歴について続けます。


1914年(34歳)魚雷艇54号の艦長に就任

サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、
第一次世界大戦が勃発しました。

今回は、ウィーンで軍事博物館の見学をしてきたのですが、その中に
サラエボ事件の資料などもあったので、いつかお話しするつもりです。

トラップ少佐は、魚雷艇の艦長に任命され、それと同時に海軍基地のあった
プーラ(現在のクロアチア)からザルツブルグに転居します。 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命 

ここからが本格的なトラップ少佐の軍歴となるのですが、続きは後半で。



 

英雄フォン・トラップ少佐とトラップ家亡命の真実〜ザルツブルグを歩く

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さて、ザルツブルグの旅行記をお送りしていたつもりが意外なところで海軍軍人、
しかも潜水艦艦長の軍歴について紹介するという、当ブログ本来の
役目?を思いっきり果たすことができて大変嬉しく思っております。

さて、本編の主人公、トラップ少佐についてですが、正式な名前は

Baron Georg Johannes Ludwig Ritter von Trapp
バロン・ゲオルク・ヨハンネス・ルードヴィヒ・リッター・フォン・トラップ

です。
バロン(男爵)およびリッター(騎士号)を叙任されたため、名前にフォンがつきます。

騎士号は一般的に貴族階級のように生まれ持って家が相続しているものではなく、
例えば戦功を挙げた武人に授けられる勲章のような称号で、その場合は
「フォン」も一代限りとなるのかと思っていたのですが、たとえばトラップ家の
子供達も、男女全員が「フォン・トラップ」名を相続しています。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの父親は騎士でしたが、もともと
カラヤン家は17世紀から貴族に叙せられていました。

さて、フォン・トラップ中尉は第一次世界大戦勃発後初めて
二度目となる潜水艦艦長職に就くことになりました。

 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命

SMU-5 Erprobung.jpg

前回艦長だったU-6もそうでしたが、このU-5も、進水の儀式は
彼の妻となるアガーテ・ホワイトヘッドが行なった潜水艦でした。

彼女は彼女は魚雷を発明したホワイトヘッドの孫で、妙齢の独身女性だったため、
新造艦進水式にこの頃引っ張りだこだったのではないかと思われます。

冒頭画像は、U-5の艦橋にいるフォン・トラップ艦長。

サブマリナー、フォン・トラップの本領発揮はこの艦長になって以降です。
年表にはありませんが、この頃もう彼は大尉に任じられていたと思われます。

まず、4月27日、オトラント海峡で、澳=洪海軍をアドリア海に封じ込める
作戦に従事していたフランス海軍の装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」に、
フォン・トラップ艦長のU-5が、二発の雷撃を行いました。


レオン・ガンベッタ

雷撃された時、地中海において潜水艦の脅威が増大していたにもかかわらず、
「レオン・ガンベッタ」は護衛を伴っていなかったといわれます。

二発の雷撃で「レオン・ガンベッタ」は10分で沈没し、乗っていた821名中
ヴィクトワール・セネ少将を含む684名が死亡し、生存者は137名でした。

同じU-5で、トラップ少佐はこの年、イタリアの潜水艦「ネレイデ」も撃沈しています。

Regia Marina Nereide.jpgネレイデ

澳=洪海軍は偵察機によりイタリアの潜水艦「ネレイデ」の存在を確認し、
ゲオルク・フォン・トラップ艦長の潜水艦U-5が急遽派遣されました。

「ネレイデ」が浮上して停泊していた沖にトラップ艦長のU-5が沖に浮上すると、
まず「ネレイデ」は魚雷発射し、これを外したため潜水を試みました。
U-5は潜水中の「ネレイデ」に魚雷1本を発射し命中。
ネレイデは全乗員とともに沈没しています。

1916年(36歳)U14艦長就任

 An Austro-Hungarian wartime postcard of the submarine in Austro-Hungarian Navy service as SM U-14.U-14

前艦長の病気でU-14の艦長に就任したのがフォン・トラップでした。
彼が艦長になってから、U-14は爆雷を受けていますが、損害箇所の修理とともに
近代化を施したU-14を、再びトラップ艦長が指揮し、
世界最大の貨物線ミラッツォなど、11隻の撃沈記録を打ち立てます。

U-14はその後、艦長が二人交代しましたが、この二人をもってしても
トラップ艦長の戦績を超えることはできなかったということです。

U-14の、全てフォン・トラップ艦長の指揮による戦果をあげておきます。
これらの戦果は全て撃沈で、撃破はありません。

Vessels sunk while in command of U-14 DateVesselNationality  28 April 1917 Teakwood  United Kingdom   3 May 1917 Antonio Sciesa  Kingdom of Italy   5 July 1917 Marionga Goulandris  Greede   23 August 1917 Constance  France   24 August 1917 Kilwinning  United kingdom   26 August 1917 Titian

 United kingdom

  28 August 1917 Nairn  United kingdom   29 August 1917 Milazzo  Kingdom of Italy   18 October 1917 Good Hope  United Kingdom   18 October 1917 Elsiston  United Kingdom   23 October 1917 Capo Di Monte  kingdom of Italy

1918年(37歳)Uボート基地指揮官としてカッタロに転任

37歳で潜水艦隊司令というのは異例の昇進の速さだと思いますが、
トラップ艦長が打ち立てた戦果の賜物です。

潜水艦隊司令なのに少佐だったというのも、年齢が達していなかったからでしょう。

11月11日、第一次世界大戦終結

大戦中のフォン・トラップ少佐の撃沈記録は、総数12隻(45,668総トン)。

叙勲された勲章は以下の通りです。 

マリア・テレジア軍事勲章騎士十字章

レオポルト勲章騎士十字章

プロイセンの一級鉄十字章

オットー戦功章 

カール勇猛章等ドイツ領邦の勲章も受章

そして、これらの功績により、騎士に叙せられました。

 

ゲオルク・フォン・トラップ少佐は海軍の、いや国の英雄だったのです。

この軍歴と功績を踏まえた上であの映画の「トラップ大佐」を改めて見ると、
かっこいいのは外見と階級だけで、実に滑稽な演出によるカリカチュアされた
軍人像(例えば子供達に軍隊式に行進させたりとか)に当てはめて表現されており、
マリアはもちろん、子供達も、フォン・トラップ少佐の海軍の同僚も、
とにかく本人をよく知る者は一様にショックを受けたというのがよくわかります。

特に、海軍時代の少佐の部下の一人は、養老院でこの映画を初めて観て、

「フォン・トラップがコケにされているように感じ」

怒りを覚えた、とまで言っていたというのです。

しかも実際のトラップ少佐は、家庭においてはとても優しい人で、映画のような
軍隊式の厳しい教育パパとはかけ離れていたため、妻のマリアは、
映画製作中、何度も夫の描かれ方について脚本を書き換えるよう頼みましたが、
最後までそれは聞き入れられることはありませんでした。

 

繰り返しますが、家族ならずともザルツブルグの人々は、
「サウンドオブミュージック」という映画にずっと冷淡な目を向け続けました。

アメリカ人視点で語られている併合下のオーストリアについての描き方も、
ヨーロッパの人々がこの映画に反発する大きな原因です。

自由な民主主義国家のオーストリアを虐げるために併合したナチス、
そしてフォン・トラップはそのナチスと戦う善、のような描き方は、いかにも
善悪二元論で無条件にナチスを悪者にするハリウッドならではだと思います。

オーストリア併合・アンシュルスの現実は、決してハリウッドの善悪論などで
全てが語れるような単純なものではありませんでしたし、
もっと根源的なことを言えば、フォン・トラップはオーストリア軍人で、彼自身は

「オーストリア・ファシズムの立場からナチスと権力争いをしてその結果破れた側」
(wiki)

に立っていたに過ぎず、映画に描かれていたような「自由オーストリア対ナチス」
と言う構図は全く当てはまらないといえます。
もっとわかりやすく言うと、アメリカから見たならば、ヒトラーとトラップ、
どちらも同じ穴の狢と行っては何ですが、政治的方向性は同じくしていたはずなのです。

さらに皮相的な推察をさせていただければ、当時ヒットラーは、オーストリアの英雄、
フォン・トラップ少佐を客寄せパンダ的に我が方に取り込みたかったのに対し、
トラップはオーストリア人でありながら併合と言う形で祖国を裏切ったヒットラーを嫌悪しており、
かつ隷属的な立場に降ることを拒否し、亡命を決意したという見方もできるかと思います。

 

以上のことから、我々日本人は、トラップ一家が亡命したという結果だけを見て、
アンシュルスの実態に目を向けないままハリウッドの「歴史修正」を
単純に信じ込まされてきたという見方がなりたちます。

だとしたら、あの映画が歴史音痴の日本人に与えた「悪影響」は計り知れません(笑)


蛇足ですが、イタリアで「サウンド〜」が上映されなかったのは別の理由によるものです。

海軍軍人フォン・トラップは、彼らから見ると、自国の商船を何隻も沈めた極悪人で、
しかも、当時の同盟国ドイツに対し自由のために戦うという「善」として
英雄のように描かれているのが許せない!というのがイタリア人の見方だそうです。


何が言いたいかというと、こんな面倒臭い案件を、独善的なストーリーで
映画にしてしまうアメリカという国を、当事者含めヨーロッパの人々は
いかに苦々しく見ていた(見ている?)か、ということなんですね。

ヨーロッパ人に「アメリカ嫌い」が多いのも宜なるかなといったところです。


さて、ザルツブルグの通りにあった「サウンド・オブ・ミュージック」ショップですが、
つまり当時を知る人がいなくなって、観光客向け(しかも、あの映画のおかげで
昔から『聖地巡礼』に訪れる日本人は昔から多いとか)に稼ごうと考える
商売人も現れつつあるということなのでしょう。

誤解がないように書いておくと、オーストリア人はハリウッド映画は無視しましたが、

西ドイツではこの映画の9年前、トラップ一家の物語を題材とした映画『菩提樹』、
『続・菩提樹』が制作されており、ドイツ語圏でのハリウッド映画の不評とは対照的に
『菩提樹』は「1950年代で最も成功したドイツ映画のひとつ」とも言われている (wiki)

ということなので、トラップ一家が嫌われているというわけでは決してありません。


それより、当ブログ的に最後に触れておきたいのが、K.u.K、
オーストリア=ハンガリー海軍の消滅です。

もともと海のない国に生まれた海軍でしたが、第一次世界大戦に敗戦し、
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、海軍の艦艇や軍人は
分裂した諸国や戦勝国へ分割されてしまい、消滅することになりました。

「一度消滅した海軍が復活した例は日本だけ」

と云われるように、オーストリアには以降海軍と名のつく組織はありません。

フォン・トラップ少佐が、それ以降の長い人生で、特にアメリカに亡命した後も、
海軍時代のことはもちろん亡命についても一言も語らなかったことが、
彼の深い悲しみと海軍消滅がその人生に落とした影を物語っているような気がします。

続く。

 

 

映画「日本破れず」〜”海軍は負けたが陸軍は負けていない”

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今日は日本が終戦を天皇陛下の御詔勅によって知らされた
1945年昭和20年から74年目になります。

本当に日本が終戦となったのはポツダム宣言を受諾し、
降伏文書にサインをした9月2日なのですが、一般には
この日を「終戦記念日」と呼んでいます。

74年前、この御詔勅を巡る「日本のいちばん長い日」がありました。
今日はその記念企画として1954年作品「日本破れず」を取り上げます。

監督は阿部豊。
バイリンガルで、ジャックアベという名でハリウッドでも活動しており、
「燃ゆる大空」「南海の花束」「戦艦大和」などを撮っています。

終戦の日を扱った映画としては「日本のいちばん長い日」ばかりが有名で、
この映画についてはほとんど評判を目にする機会もなかったため、
あまり期待して観始めたわけではないのですが、見終わって個人的に
もしかしたらこのテーマで描かれたものの中で一番ピッタリくるというか、
最も心情にフィットしているような気がしてきました。

その理由は一つ、阿南惟幾を演じた早川雪洲の存在感です。


早川雪洲については若い時はハリウッドでもてはやされた
「アメリカのアジア系セックスシンボル第一号」で、映画
「戦場にかける橋」に出ていた、ということのほかに、ヨーロッパで活躍した
日本の歌姫田中路子が付き合っていたことがあって、なぜか
彼女には「最低の男」呼ばわりされていたということしか知りません。

田中路子女史にとっては最低だったかもしれませんが、とにかく
阿南惟幾を演じるのにこれほど相応しい俳優は現れていない、
と断言してもいいくらい、わたしははまり役だと思いました。


冒頭画像左下の鈴木貫太郎総理、これは小津作品でおなじみの斎藤達雄、
東郷外相(作品では南郷)は山村聡が演じています。

どちらも実物よりビジュアルが底上げされているのは映画だから仕方ありませんが、
特に山村聡が無駄に男前すぎて、ちょっと東郷には勿体無い感じ。
(わたしは東京裁判での東郷が、開戦責任を海軍に押し付けるため
偽証したことを全く評価していないので、点が辛いことをご了承ください)

右下はそれとは逆の意味でビジュアル的に不満だった米内海相。(柳永二郎)

映画「聯合艦隊司令長官山本五十六以下略」における
女好きということだけフォーカスしたデレデレだらしない柄本明よりは
まだマシですが、それにしてももう少しなんとかならんかったのか。

つまりこの映画、東郷茂徳に結構美味しいセリフを言わせて持ち上げており、
主役級俳優山村が配役されているとわたしは理解しています。

「日本のいちばん長い日」では山村聡が米内を演じていましたが、こちらの方が
「金魚大臣」なんてあだ名が(悪い意味で)ついてた米内にある意味合ってる、
と思うのはわたしだけでしょうか。

さて、始めましょう。

映画は1954年、戦後9年たった繁栄する東京の街並みが映し出されます。
思わずおお!と目を皿のようにして見入ってしまいました。

銀座中央通りを一丁目から観ている感じでしょうか。
右側のビルが和光で、その手前は工事中。
その手前の白いビルは今アップルになっています。

同じく中央通り、「ワシントン靴店」が1954年からあったとは。
さりげなく「ペニシリン」の看板が出ているのが時代を感じます。
右側奥の一番背の高いビルが三越です。

「教文館」は今もありますが、一階は現在マイケル・コースの店舗です。

銀座を歩く女性たち。おしゃれです。
今は日本人より外国人の方が多いのは皆さんご存知の通り。

観光地として楽しんでくれるのは一向に構わないのですが、
道端でトランクを開けて荷物の整理をするのと、声が大きいのと、
それから「ハナマサ」の横の広場でものを食べてゴミを散らかしたまま
平気でバスに乗って行ってしまうのは本当にやめてほしいです。

「地球防衛軍」にも登場した森永の地球儀ネオンの場所には、今ユニクロのビルができ、
毎日のように中国人観光客が目の色変えて押しかけています。

ナレーション。

「戦前にも見られなかった軽薄華美な姿が眼に映る」

戦中派阿部豊の感想ですので念のため。

「私たちは有史以来初めて味わった敗戦の苦しみを、また、
無血終戦へと導いて再建への基盤を作った人々の勇気と良識を
長く噛みしめる必要があるのではなかろうか」

これには全面的に賛成です。

場面は昭和20年、敗戦の色濃くなってきた戦地の映像となります。
サイパン、硫黄島、比島を席巻した米軍はいよいよ沖縄に上陸しようとしていました。

そして、5月23日の東京大空襲です。

空襲の次の日の朝、川には飛び込んだ人々の遺体が浮かんでいました。
水面には明らかに油が浮かんでおり、真に迫っています。

東京は1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けましたが、
特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、
5月25日-26日の5回は大規模で被害も大きかったそうです。

焼け跡のシーンがたくさん出てくるのですが、どうもセットじゃないみたい。

このシーンも本当に火をつけたところにエキストラを走らせてるんですよ。
皆大丈夫だったんだろうか。

開始からたっぷり7分まではこんなシーンが続き、国民はすでに
戦争に疲れ切っているということが描かれます。

そんな中、陸軍大臣阿南(映画では仮名の川波ですが、面倒なので以降
全員実在の人物名で説明します)は、荒尾興功軍事課長に
空襲の被害などについて報告させていました。

竹下正彦中佐(沼田曜一)、畑中健二少佐(細川俊夫)とともに、
いわゆる「宮城事件」に関わる軍人たちです。

ちなみにこの竹下中佐が書いた宮城事件までの顛末を
半藤一利が元にして書いたのがあの「日本のいちばん長い日」です。

竹下は戦後陸上自衛隊に入り、陸将になって幹部学校長を務めました。

空襲を受け、鈴木首相と東郷外相はお見舞いに参内。
皇居の門は今とあまり変わっていない気がします。

沖縄が陥落し、いよいよ本土決戦が現実のものとなってきました。

皆で竹槍の訓練。おそらくこの中の何人かは本当にやったことがあるでしょう。

配給は芋や豆ばかりになり、食糧難は本格的に。
そんな頃、連合国は日本に降伏の条件を提示してきました。

ポツダムでの米英支三国宣言というやつですね。

当時はまだ2枚目のかほりがうっすらと残っている安部徹。
軍事課長荒尾は、ポツダムにおける三カ国が突きつけてきた降伏の条件、

「日本軍国主義を抹殺する」

「日本領土を保障占領する」

「日本領土は本州、北海道、九州、四国にこれを限定する」

「日本国軍は連合国軍の手によって武装解除する」

「戦争犯罪人は連合国の名において厳重に処罰する」

「国民の言論、宗教、および思想の自由、基本的人権を尊重する」

を説明します。
歴史を振り返れば、連合国はほぼこの通りの占領政策を敷きました。

「日本に無条件降伏を突きつけているんだ!」

宮城事件首謀者の一人で、8月15日二重橋と坂下門の間の芝生で
畑中健二少佐と共に自決する椎崎二郎を演じるのは丹波哲郎。

「さらに問題なのは新しい政府をつくるということだ」

竹下中佐は阿南陸相の親戚(義弟)でもあります。

彼らは本土決戦における徹底抗戦を行うべく意思を固め、
ポツダム宣言を受諾しないように働きかけよう、と決します。

彼らは阿南陸相を捕まえて直訴しますが、阿南は
確たる返事をせず、閣議に出席するといって場を去ります。(1回目)

鈴木首相を首班とする閣議の議題はポツダム宣言について。

東郷外相「むしろ有条件講和として解釈する。受け入れるべき」

阿南陸相「軍は無条件降伏と解釈するので厳しく反撃すべき」

首相「外交的手段を講じている今挑戦的態度は取るべきではない」

米内海相「総理に同感」

東郷と阿南は特に軍の対応への考で意見が真っ向から対立します。



そして広島と長崎に原子爆弾が投下されました。
日本が降伏に応じない限り、各都市にこれを落とすぞ、という脅しです。

このキノコ雲はアリゾナの実験の時のものではないかと思いますが。

打ちひしがれる人々に追い討ちをかけるように、ソ連参戦のニュースが。
このおばあちゃんたちは、戦争の辛さを9年前までいやっというほど味わった、
戦中真っ只中時代。
息子が戦地に取られたという人たちではなかったでしょうか。

国民はもうどうにでもしてくれの状態。
かといって負ければ男は皆殺し、女は辱めを受けて国が無くなる、
と皆は思い込んでいますから、絶望的です。

原爆投下とソ連参戦を受けて行われた閣議で、阿南は
日本が降伏を受け入れるとしても、条件がある、と述べます。
天皇の存続を柱として、戦争犯罪人は日本側で処置する、
としたのが大きな主張で、これを連合国が受け入れない限り
戦争をあくまで遂行すべき、というものでした。

ここで東郷が、

「天皇の存続以外は拒否されるから絶対条件以外は受け入れるべき」

というのですが、実際には天皇の存続を連合国が認めるかどうか、
この段階では全く日本側には予測できなかったはずです。
天皇処刑論も連合国の一部の国からは出ていたのですから。

米内海軍大臣は、阿南のいう「本土決戦」について、

「戦争は陸海軍の統合が必要だが、今の日本にその力はない」

と焦土となった日本の現状を踏まえて反対するのですが、
陸軍の考えとして、一億玉砕を覚悟すれば何らかのチャンスがあるはず、
と本土作戦への意欲をにじませ、「戦局は五分五分である」という阿南に対し
米内は

「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、
レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」

といいます。
これは史実に残る閣議の発言そのままです。
ただし、これに対する阿南の

「海軍は負けたが陸軍は負けていない」

というのは本当に言ったかどうかわかりませんでした。
阿南自身がそう思っていたことは確かだと思いますが。

何れにしてもこの二人は映画だけでなく実際も終始対立し、のみならず
個人的にも反発する間柄であったことは皆が書き残しているところです。


この映画では畏れ多くも天皇陛下のお姿を俳優に演じさせるという
不敬なことはせず、御前会議のシーンも「おられるという設定」です。

カメラアングルも天皇陛下視点(笑)

陛下が、忍び難きを忍び万世の民に平和の道を開きたい、と
最後に仰せられたあの御前会議です。

阿南は陸軍の首脳部を集め、御前会議の結果を報告しました。
国体の護持を条件にポツダム宣言を受諾することに決まったと。

徹底抗戦を主張する陸軍軍人たちは騒然とします。

荒尾大佐、畑中少佐以下一派は、降伏絶対反対で行動を起こすことを決定。
このとき畑中がこういいます。

「たとえ大和民族が絶滅したっていいじゃないか。
国体を守るために殉じた精神は世界史の一ページを飾る」

おっと、この言葉ものすごいデジャブがあるんですけど・・。
そう、日本丸腰論の森永卓郎氏ですよ。

「軍事力をすべて破棄して、非暴力主義を貫くんです。
仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に
『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれれば
それはそれでいいんじゃないかと」(2011年1月1日)

徹底抗戦と丸腰を唱える両者の到達点がここまで一致するって、
・・・・・・何かの悪い冗談ですか?

まあ、そういいつつも

「戦争になったら自分はアメリカに逃げる」

などとも放言している森永氏と比べるのは、そもそも
この軍人たちに失礼というものかもしれませんが。

陸軍航空士官の上原重太郎を演じるのは宇津井健。

市ヶ谷の防衛省見学ツァーに参加した人は、上原大尉が自刃した場所にあった
慰霊碑が慰霊ゾーンに置かれているのにお気づきだったでしょうか。

上原大尉は、宮城事件で近衛師団長森赳中将を殺害した後、
修武台の航空神社前で自決した人物です。

 

 

続く。


映画「日本破れず」〜”阿南君は暇乞いに来たんだね”

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終戦記念日シリーズ「日本破れず」二日目です。

再び閣議。
この映画、最初から最後まで閣議と御前会議の繰り返しです。

東郷外相は日本側の条件は理解されたとして進めたい考えですが、
阿南は国体の護持は担保されていないとして反発します。

 

この映画は、阿南vs東郷という対立を軸に進めていて、
海軍内の終戦工作などについては一切割愛しているので、
東郷茂徳役を主役級山村聡に持ってきたのだと思われます。

米内大臣も受諾条件を飲むべきと主張し、またも場は険悪に。

鈴木首相も一緒になって大御心を錦の御旗に阿南を攻撃するので阿南はキレて、

「まるで大御心を盾にして陛下のお影に逃げる卑怯な態度」

とまで言い募るのでした。

梅津美治郎参謀総長もどちらかといえば阿南に賛成。
豊田副武軍令部総長も「再交渉すべき」という考えです。

そこに軍務課の荒尾課長以下将校たちが、外務大臣に抗議しにきました。
降伏を撤回せよ、と叛乱の可能性までチラつかせて迫りますが、
東郷はこれをはねのけます。(かっこよくね)

「総理も軍人です!兵隊の気持ちはお分かりのはず」 

「あなた方の考えはわかった。がわしの考えは違う。
わしは、日本は滅亡しないという確信があるのだ」

二・二六事件で叛乱将校たちに命を狙われ、死地から生還した
鈴木首相、もう恐れるものはないとばかりに彼らを睨み据えるのでした。

 

八千万の命を救うには降伏の屈辱も止むを得ない、という考えの外相。
その晩外相邸で謎の爆発事故が起こります。(事実ではない)

「たとえ我々が死んでも、平和のバトンは受け継がれるよ」

と東郷、決め台詞を。
ちなみに実際の東郷は原爆投下について早速外相として世界にこれを訴え、

「非人道的行為においてはナチスの数倍において」 

とキャンペーンを張ることを指示しています。

こちら、蹶起の実力行使に向けて計画を練る陸軍将校たち。
各地から行動を起こす部隊の情報が入ってきていました。

荒尾は阿南陸相にクーデターの承認を迫ります。
その内容は、宮城を占拠し、天皇陛下を首班に立てて新政府を・・・・

・・・あれ?なんかデジャブが・・・・。 

「クーデターに訴えるのは御前会議まで待て」

またしても会議を言い訳に引き延ばしを図ります。(2回目)

阿南は森赳近衛師団長と(劇中では林)田中静壱東部軍管区司令を召喚し、
各部の動きについて意見を聞きました。 

田中静壱大将を演じるのは藤田進です。

オックスフォード大卒で駐米武官だったことからマッカーサーとも親交があり、
知米派軍人だった田中は、結果的に宮城事件の叛乱鎮圧に貢献し、
最後の反乱事件となった川口放送所占拠事件を収束させた夜、
司令官自室で拳銃を用いて自決しました。 

映画では田中(役名は中田)に

「大御心を無視して暴挙を起こし軍内部の内部を画するが如き不逞の輩は
この田中、身命を賭して対処するつもりです」 

と言わせています。

 

ここにも押しかけてきてクーデターの承認を迫る畑中たち。

「陛下を別の場所にご案内し閣僚を拘束すべきです!」

しかしまたしても阿南、

「御前会議が終わるまで待て」 

会議を理由に引き延ばしを図るのでした。(3回目)

そして阿南陸相が戦争継続を訴える陸軍将校たちを待たせる言い訳にしてきた
会議も4度目となりました。

しかも今度は2回目の御前会議です。
日本に突きつけられた降伏条件を飲む飲まないで意見が一致しないので、
畏れ多くも天皇陛下のご聖断を仰ぐことになったのです。

次の瞬間御前会議は終わっておりました。
畏れながらまるで3分間クッキングのような展開です。

陛下は内外の諸情勢を察せられ、外務大臣の意見に賛成され、
降伏を受諾するほか無し、と仰せられたのです。

”このまま戦争が続けば国土は焦土と化し、国民の苦難は続く。
どんな形でも国民が残る限り復興の光明も見えてこよう。
ご自身はいかになろうとも国民の命を救いたい。

国民に呼びかけるのがよければ進んでマイクの前にも立とう。”

そのお言葉を首相の口から聞く閣僚たちの目には涙が・・・。

御前会議は宮中の防空壕ともなっている地下で行われました。
閣僚たちは続いてこれについて話合う会議をもつ予定です。

史実によればこの御前会議が行われたのは8月9日です。

御前会議では滂沱の涙を流した阿南陸相、ゆっくりと窓辺に歩み寄ります。
この一連の早川雪洲の演技は、ある意味多くの俳優が演じてきた
阿南惟幾の原型になっているのではと思われる圧倒的な存在感です。


この映画は、戦後初めて終戦を描いたものであり、阿南が
俳優によって演じられた最初の作品となりました。

わたしは「日本のいちばん長い日」(三船敏郎)「大日本帝国」(近藤弘)、
「日輪の遺産」(柴俊夫)、「日本のいちばん長い日」(役所広司)を観ていますが、
男前すぎて感情移入しにくい三船、左翼映画の添え物だった近藤(だれ?)、
荒唐無稽なトンデモ阿南だった柴、マイホームパパの役所とどれもイマイチなため、
文句なくわたしには早川雪洲の阿南が最も相応しく適役だと思われました。

ついでに、音楽担当は「ハワイ・マレー沖海戦」「加藤隼戦闘機隊」、
「雷撃隊出動」「勝利の日まで」「姿三四郎」を手がけた鈴木誠一で、
声楽的な旋律を重厚な和声の弦楽器が盛り上げ、感動的なシーンを作り上げています。

阿南が涙を浮かべているところに押しかけてきた軍務官一同。

クーデター計画を立案して持ってきたのですが、それを読み上げようとするのを
阿南は、

「待て」

と一言で遮り、

「もう何事も遅い。皇軍はご神裁のもとに進むことを見た」

最も急進的な畑中は、阿南に辞職することを提案します。
そうすれば内閣は瓦解するので、終戦詔書に陸相がサインしなければ
終戦の合議も成立しないと。


この辺りのことを史実に照らして説明しておきましょう。

実際には、阿南は鈴木内閣を支えていく決意をしていたとされ、
6月に和平を望む米内光政が鈴木内閣を辞任しようとした時には、
大嫌いな(はずの)米内に手紙まで送ってこれを翻意させています。

この映画からもうっすら読み取れることですが、阿南惟幾は
陸軍の将という立場から戦争継続を主張していたものの、それは
あくまでも陸軍の暴発を押しとどめるためであり、その真意はむしろ
終戦工作を進めることにあったといわれており、鈴木首相もそのことは
よく理解していたというのです。

もし阿南が表面上そう思われていた通り、継戦を望んでいたのだとしたら、
畑中のいう通り自分が辞職さえすればそれは実現したはずですが、かと言って、
最初から降伏を認めていれば、強硬派が後任の陸軍大臣に取って代わることになり、
やはり鈴木内閣は解散を余儀なくされ、日本は泥沼の戦争になだれ込んだかもしれません。

阿南は全て見通した上で陸相の座に付いたまま陸軍の総意を主張することで
悪役を引き受け、終戦に到るまでの「引き延ばし」をしたのではなかったか、
というのが、迫水久常など近くで見てきた人たちの見立てです。

この「腹芸」こそが、阿南惟幾という軍人が後世に評価されている理由でしょう。

そして追いすがる彼らをまたしても閣議があるからと後にし(4回目)ます。
残された将校たちは口々に

「陸相に裏切られた!」

「もう俺たちだけでやろう!」

といいますが、中でも竹下、稲葉正夫の二人は少しここで思いとどまる様子。

今回の閣議のテーマ、それは玉音放送をいかに行うかの一点です。

深夜に録音した御詔勅を何時に放送するか、外地の将兵に聞かせるための
告知の徹底などが話し合われ、その結果、昭和20年8月15日の正午に
玉音放送が行われることに決定されました。

彼らだけでなく、この時、終戦への動きを受けて各地で反乱の動きがあり、
厚木航空隊が決起したという噂が彼らの耳にも届きます。

今や決起する彼らは、陸相の訓示をブッチします。

阿南の、

「最後の断は降ったのである。
不服の者あればまずこの阿南を斬ってから行動せよ」

という訓示を聞いた軍務官は、荒尾課長、竹下、稲葉の三人のみ。
涙を浮かべる彼ら三人に向かって阿南陸相はいうのでした。

「お前たちは思いとどまれ。思いとどまれ」

そして、南方から来たという珍しい葉巻を持って鈴木首相を訪ねます。
映画では、このとき交わされたという二人の、

「終戦についての議が起こりまして以来、
自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、
本来お助けしなければいけない総理に対して
ご迷惑をおかけしてしまいました。
ここに謹んでお詫びを申し上げます。
自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで
他意はありませんでしたことをご理解ください」

「それは最初からわかっていました。
私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。
しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、
私は日本の未来を悲観はしておりません」

「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」

という会話がほぼそのまま登場します。

また、映画にはありませんが、鈴木は阿南が去った後、彼の決意を察して

「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」

とつぶやいています。

映画で描かれていたように、東郷茂徳外相は阿南と最も激しく対立しましたが、
最後と思われるときには阿南は東郷に、

「色々と御世話になりました」

と丁寧に挨拶をしています。
しかし、米内海相に対しては、切腹中、

「米内を斬れ」

などと口走っていたそうです。
米内光政の方も、阿南に関しては

「よくわからない人だった」

と言っており、これはもう理屈ではなく、陸海軍の不仲をそのまま
体現し合っていたということなのかなという気がします。

畑中は東部軍司令官田中静壱軍司令官のもとに決起を訴えに来ますが、
田中は彼をにらみすえ、(・∀・)カエレ!! と一言。

さらに彼らは、陛下が終戦の御詔勅を録音することに聞き及び、
これをなんとしてでも奪い取り放送を阻止することにしました。

こちら、14日の深夜、陛下の玉音を録音するのにスタンバイするNHKのみなさん。

日本放送協会国内局長、矢部健次郎を演じるのは佐々木孝丸です。
右側のタキシードは徳川侍従。

こちら近衛師団長執務室。
森赳師団長に畑中らは玉音テープを奪取するため近衛師団を決起させよ、
と迫りました。

それを毅然と跳ね除ける森師団長(高田稔)。

「御聖断はすでに降ったのである」

大変素晴らしい演技ですが、そのことを言うときにそっくり返っているのがアウト。
普通こう言うときには背筋を正しませんかね。

それはともかく。

陛下直属の部隊をご意志に反して決起させるなどとんでもない、
と言うのが真っ当な森師団長の意見ですが、畑中は、陛下の
周りを取り囲んでいる重臣をとりのぞくべき、と言い張り、
またしても(・∀・)カエリナサイ!!と諭され、男泣き。

畑中が泣いていると・・・

さらに血気にはやった航空士官の上原重太郎大尉(宇津井健)が
飛び込んできて、一言交わすや、

たまたまそこにいた第二総軍参謀白石少佐を惨殺。
ほぼ同時に畑中が森師団長を銃で射殺します。

史実では、上原大尉が飛び込んできてから畑中が森を撃ち、
さらにその後上原が森を斬りつけてとどめをさすと言う展開でした。

「貴様ら、軽率に行動して国家を誤るな!」

瀕死で言い残す森。
実際は銃弾を受けた後上原によって肩を斬られているので、
何かを言い遺すということは可能ではなかったと思われます。

無言で武器を収めた畑中らは、

森師団長と白石少佐の遺体に敬礼をし、去って行きました。


続く。

 

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