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「ミートボールで着艦を」フライトデッキ雑景〜空母「ミッドウェイ」博物館

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懸案だったアイランド・ツァー参加を果たし、ホッと一息。
朝一番のオープンと同時に飛び込み、さらに今回のサンディエゴはわたし一人旅、
時間をどう使おうが全くの自由で、時間はたっぷりあります。

前回見たところも、見落としたところもとにかくもう一度
新しくなったカメラで撮りまくろう、とハンガーデッキに降り立ちました。

アイランドのフライトデッキ階には、前にも買いたことがありますが、
フライトデッキ・コントロールルームがあります。

英語で「こっくりさん」を意味する「ウィジャボード」という名の
(フランス語のOuiとドイツ語のJa、はいという言葉の組み合わせ)
ハンガーデッキでの航空機の現在位置をミニチュアの模型で表します。

今ではウイジャボードの代わりにデジタルの画面が使用されているのでしょう。

PINOLOGYという言葉の意味がそもそもわからないのですが、
おそらくウィジャボードに使用する航空機以外のマークでしょう。

Jack spot なんて全く想像もつきませんが、ジャックポット(大当たり)
とかけているのかな。

「ファウルデッキ」は、デッキが航空機によって占有されているとき、
他の航空機が着陸するのを防ぐことを指す専門用語です。

さて、フライトデッキに出てきました。
まだあまり人がデッキに出てきていません。
A-6イントルーダーが鬼のように両側に吊っているミサイルが壮観です。

さすがは全天候型爆撃機、よく見たら胴体の下にもミサイルが。

イントルーダーの向こうでは、映像を交え元艦載機パイロットが
空母へのランディングについての薀蓄を語るイベント、
「ベテランズ・トーク」が始まっており、盛況です。

♫♪ 今は、もう、動かない〜おじいさんのカタパルト~🎵

というわけでカタパルトのレールは塞がれていますが、レールのあったところに
飛行機を打ち上げるためのカタパルトのクレイドルがポツンと置かれています。

空母の脇にある通路兼退避場所をキャットウォークといいます。
もともと高所にあるネコの通り道のような形状のものをこう呼び、
ファッションショーのランウェイのこともなぜかキャットウォークと言いますが、
こちらは高所だからというよりモデルさんが歩くからのような気がします。

何についていたか忘れましたが(ファントムIIだったかも)、
翼のAIM-9サイドワインダー空対空ミサイル。

HEATSEEKERとありますが、サイドワインダー光波誘導型、
つまり赤外線誘導弾です。

甲羅を背負っているけど前から見たらスヌーピー。
E-2ホークアイは、プロペラ機です。

大きなレドームを乗っけている上、横方向の操縦を行う垂直尾翼の動翼が
左右非対称(4枚ある垂直尾翼のうち、左から2枚目にだけ動翼方向舵がない)
なので、操縦は大変難しく、「じゃじゃ馬」と呼ばれているそうです。

さて、ヘリの展示は昨年見たときと大幅に変わっている部分がありました。
このH-60シーホークのコクピットには・・・

去年はいなかった美人すぎるTACOが!
「ミッドウェイ」現役の頃も、アメリカ海軍には女性のパイロットが
(主に輸送機)少数とはいえ存在していました。

「空母ミッドウェイ」という回想録にも、綺麗なトレーダーのパイロットに
トイレに入っている間見張りを仰せつかるという話がありました。

シーホークの後部です。

内部のほとんどを占めるのが牽引のための巻き上げ機という感じですね。

こちらはSH-2シースプライトですが・・・、

このコクピットにも去年はいなかったイケメンすぎるパイロットとコパイが。
ちなみにヘリコプターの場合は固定翼機と違い、右席が種操縦士だそうです。

汎用ヘリで、艦載機としてはトンボ釣りなどが重要な任務だそうですが、
ガンシップのように見える武器も搭載しております。

エンジン部分を綺麗に塗装して見せてくれています。
これも去年には見られない展示方法でした。
「ミッドウェイ博物館」にいかに資金が潤沢に投入されているかがわかります。

去年中を見学しそこなったHH-46 シーナイト、中から人が出てきました。
入ってみることにします。

軽量化のためキャンバスを張っただけの椅子。
シーナイトはバートル社のCH-46です。
日本ではこの派生型川崎重工製品が陸海空すべてに導入されていました。

海自では対機雷戦用「しらさぎ」という名前で運用されています。

ベルのようなものがたくさんくっついた部分は
非常用の脱出口のようですが、上に「消火器」の表示もあり。

このベル、なんだろう。

まさかとは思うけど、いざとなったときドアを噴き飛ばす爆破装置とか?

後部から見たシーナイトのコクピット。

丸窓上部の装備はほぼ新品に見えるので、多分再現されたものでしょう。

エンジンが小さいので陸軍からは敬遠されていたのを、エンジン換装して
海兵隊が採用したことで「シーナイト」として軍利用されるようになったそうです。

アポロ計画で活躍したことでも有名なSH-3シーキング。
期待には誇らしげにリカバーしたカプセルの数が5個マークされています。

この内部にも入ることができるようになっていました。

コクピットには侵入できないようにアクリルの衝立が全面的に張られ、
さらに「バリアーを越えないでください」とわざわざ断り書きがありました。

インスタ蝿が入り込んで写真をアップしたことでもあったんでしょうか。

アポロ計画で帰還した宇宙飛行士たちが乗り込んだシーキング機内。
ジム・ラベル船長もこの赤いキャンバスの椅子に座ったと思うと胸熱ですね。
おそらく本物は張り替えられてしまったと思いますが。

「シースプライト」という名前を爽やかな炭酸飲料のように思い込んでいたけど、
実は「海の小鬼」だと知ってちょっとびっくりした、と前にも書いたSH-2。

まあ、おそらく炭酸飲料の方は「妖精」という意味で採用したのだと思われます。

ここにも乗員がアサインされていました。

シースプライトの機体のスコードロンマークに採用されているのは、
海事用語で「ファウルド・アンカー」と呼ばれる意匠です。

先ほど「ファウル・デッキ」で調べた時に「ファウル(Foul)」という言葉が
海事の専門用語で、「難しい」とか「間違い」という時に使う単語、
ということがわかったばかりなのですが、もともとは
錨に鎖が絡みついた状態=「ファウル」から派生しています。

例えば、底質のよくない海底のことを「ファウルボトム」、
帆船が目的の進路を維持できないくらいの風を「ファウルウィンド」、
そして空母の甲板がビジー状態でもうこれ以上着艦できない状態を「ファウルデッキ」。

あと、「ファウルホーズ」(Hawse-錨鎖孔)というのが

「二つの錨で舫がクロスするその上に船が横たわること」

という状態だそうです。
よくない事態であることはわかりますが、具体的にどんな状態か全くわかりません。

空母の航空機着艦に「ミートボール」が使われるということをご存知でしょうか。

ここには「フライング・ザ・ボール」とあり、さらに

「ランディング・ウィズ・ザ・ミートボール」(ミートボールで着艦)

としてこんな説明があります。

フレネルレンズ・オプティカル・ランディング・システム
(FLOLS、日本語では光学着艦装置)は、
今日のハイスピードな航空機の着艦にも使われています。

着艦態勢に入ったパイロットは「コール・ザ・ボール」を行い
「ミートボール」と呼ばれる明るいオレンジの縦ライトを頼りにします。

パイロットから見て飛行機がグライドパスより高い位置にあるときは
ボールは基準ライトより上に、低いときは基準ライトより下に見えるのです。

飛行機が危険なほど低すぎる場合は、ボールは下端で赤く、
飛行機が高すぎる場合、ボールは上端で点灯し警告を与えます。

前にも紹介しましたが、「ミッドウェイ」アイランドのてっぺんで
(目もくらむような高所です)工事をしている人がいました。

ハーネスをつけているようですが、高所恐怖症にはとても務まりますまい。
このように、毎日どこかしらの補修・改修を行なっているのがミッドウェイ博物館です。

ミートボールの近くに、レディルーム、パイロットの控え室に続く階段を見つけました。
これも三年目にして初めてたどり着くことができた展示です。

早速階段を降りて行ってみることにしましょう。

 

続く。




ファントムII のレディルーム#6〜空母「ミッドウェイ」博物館

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朝一番に切符を買い、その日一番のアイランドツァーに参加し、
フライトデッキの新しくなった展示の写真を撮って「ミートボール」まで来た時、
わたしはキャットウォークに降りていくことができるのに気がつきました。

この階段を降りたところは、かつてのレディルーム、搭乗員控え室に繋がっているのです。

一人乗りのボートが「ミッドウェイ」の左舷後方すぐ横を走って行きます。
わたしがもしここでボートに乗るなら、同じコースを航走してみるでしょう。

中に入っていくと、まずメイルボックスが現れました。

「郵便物のピックアップは入港時 0730と1800

海上では通知のあった時に行われる」

ポストのあるホールの右側にはレディルームのドアがあります。
ドアのポスターには

「注意 ここからは戦闘機の領分(カントリー)です」

入ってすぐ左はまっすぐ艦体を左舷から右舷に抜けられる通路となっています。
突き当たりに見えるのが右舷側の区画というわけ。

レディルームは、左側に偉い人の机やロッカーのあるコンパートメントがあります。

角にあるデスクは置いてある帽子から推察してシーマン、右側は
士官が使用しているとわかります。
ダイヤルキー付きの金庫状のもの、書類ロッカーなども。

どの椅子にも占有者の上着がかけてあるのがいかにも使用中って感じ。

士官の机の上にはパイロットを象ったブロンズ像、そして
洗面器のような

「1975年 ミグ撃墜アワード(MIG KILLERS)」

のカップが。
以前、「ミッドウェイ」艦載機部隊が撃墜したミグについて、
いかにそれがずば抜けていたか実際の数字をあげてお話ししたことがあります。

ミッドウェイ戦闘機隊 vs.MiG〜空母「ミッドウェイ」博物館

1975年というのはベトナム戦争終結の年ですから、
戦争が終わって、もっともミグを撃墜した艦載機部隊に
このカップが授与されたということなのでしょう。

さらにその横には着艦信号士官(LSO)の白いベストとゴーグル、
そしてヘッドフォンとヘルメットなどの装備一式が展示されていました。

このレディルームすぐ上にあった「ボール」または「ミートボール」こと
光学着艦装置と無線を駆使して、白いベストを着た着艦信号士官(LSO)たちが
全ての艦載機の着艦をモニターし、着艦しようとする機の各パイロットに
進入角度や速度が適正であるかどうかなどの指示を送ります。

無事に着艦させればそれでおしまいというわけではなく、LSOは着艦を評価し、
フライトオペレーション終了後にパイロットにブリーフィングで
よかった点や改善点をしっかりと確認するのです。

そんなLSOは、飛行隊に所属する現役のパイロットでもあります。
LSOになるには、パイロットとしてすぐれているのはもちろん、
指導者としての資質も要求されることになります。

なるほど、レディルームにLSOの「シマ」があるのは、つまりここで
パイロット達にアフターブリーフィングを行う必要性があるからなんですね。

  ところで在日米海軍のツィッターに書いてあった情報で驚いたのは、
艦載機パイロットには常に「空母に着艦する資格の更新」というのが必要で、
それも、最後に着艦してから29日経つと、自動的に消滅してしまうということ。 昔から、そして今でもそうですが、空母の着艦には高度な技術が必要なので、
29日経つともう腕が鈍るという理由からです。   着艦資格を得るには陸上で模擬空母に着艦する試験を受けますが、
それを採点するのも、この着艦信号士官、LSOなのです。   LSOはもうお判りのように、Lはランディング、Sはシグナルの意味ですね。

レディルームを前に立って全体を眺めたところ。
男の子とそのお母さんを案内してきたのはボランティアの元軍人。

もしかしたら自分のこの日のエスコートが、将来、有望な
海軍軍人を一人増やすことになるかもしれないわけですから、
説明に力も入ろうというものです。

この部屋は「レディルーム#6」といい、かつてあった
F-4 ファントムII戦闘機隊の控え室を再現したものです。
ここにある金色のプレートには、レストアに当たって寄付をしてくれた人の
名前や団体名、家族名が刻まれています。

寄付をした人の中には当然ですがパイロットもいるようで、
名前に

「ホークアイ」「コンドル」「キラー」「フィンガーズ」「10G」

などのかつてのタックネームを付け足しています。

そして壁にずらりと並んだ歴代航空隊のエンブレム。壮観です。

左から順番に

VF-14「トップハッターズ」、VF-21「フリーアンサーズ」、
VF-31「トムキャッターズ」、VF-32「スウォーズマンズ」、
VF-33「ターシャーズ」。

どれもF-4ファントムIIの部隊で、最後のTARSIERとは
「メガネザル」のことです。

右から

「ビジランティス」(自警団)「ブラックナイツ」
「チャージャーズ」「エーシズ」「サタンズ・キティーズ」

ここでなぜか「ブルーエンジェルス」が挟まって、

「レッドライティングス」「ブラックライオンズ」

ブルーエンジェルスも含め、全てファントムIIの部隊です。

右より、有名な

「ジョリーロジャース」、「シルバーキングス」
「ファイティング・ファルコンズ」「グリム・リーパーズ」
「ダイヤモンド・バックス」「スラッガーズ」、

そしてあの

 別名日の丸やっつけ隊、「サン・ダウナーズ」!

そして「ピースメーカーズ」。

一番左は戦闘機学校のマークです。
これら全てファントムII時代の部隊です。

この鐘とプラーク(銘板)は、フィリピンのバターンにあった
「キュビ・ポイント」士官クラブのバーに飾ってあったものだそうです。

第213戦闘機部隊「ブラックライオンズ」の初級士官たちが
1967〜8年の「ウェストパック・クルーズ」において、
当地に訪れた空母「キティホーク」に持ち帰ったもので、
祖国への任務に命を捧げたファントム機乗りたちの慰霊の鐘となっています。

「ファントムの真実」とは。

「マクドネル・ダグラスのF−4ファントムIIは20年以上にわたって
アメリカの戦闘機の第一線にありました」

はいそうですね。
もっと長く使っていた国も東洋にあるわけですが。

1957年から79年にかけて、5,057機が生産されました。

これは月平均にすると72機が生まれていたことになります。
ファントムはアメリカ海軍、海兵隊、空軍にも使用され、
同時に多くの同盟国でも活躍しました。

また、海軍の「ブルーエンジェルス」、空軍の「サンダーバーズ」など
アクロバット飛行部隊でも
この機体が使用されているのはよく知られるところです。

 

ファントムは高速かつ駆動性に優れているうえ大変丈夫でした。
攻撃型戦闘機としてだけでなく、大型の武器を搭載して敵地にやすやすと進入し、
目的を果たして帰還して来ることができました。

ベトナム戦争時代は海軍、海兵隊、空軍で同じファントムに乗っていましたが、
海軍の戦闘機隊は空母から発進し、トンキン湾においてキルレシオ13:1という
ダントツの記録を打ち立てています。

典型的な空母への着艦のパターンが図解で記されています。

黒いリボンの右側から空母の上を左旋回して、高度を落としながらアプローチ。
ここでフラップを下ろす、とか、ここでは高度600フィート、とか、
とにかく最後の瞬間まで細かく決められています。

もしウェイブオフやタッチアンドゴーの事態になったら(点線)
向こうまでまっすぐ行って、帰ってきてもう一度同じアプローチをするようです。

パイロット用の教材に書かれているような図解がパネルになっていました。

左はイジェクション・シート、脱出シートの詳細。
右側はファントムのコクピット周りの説明のようです。

我が航空自衛隊の現役パイロットには、今でもこれが
完璧に理解できる人がいっぱいいるはず。

「LOOSE DEUSE 」というのはチームでタッグを組む空戦のスタイルで、
そのマニューバだと思うのですが、どうも「タリホー」とか「ボギーズ」とか
「コブラ」とかの意味がわかりません。

説明を読む限り、「タリホー」はこれから交戦する、「ボギーズ」は敵、
「コブラ1」「コブラ2」はこちらの味方ではないかと(適当)

どなたかこの言葉についてご存知でしたら教えてください。

左は敵地に急降下爆撃を行う際のアプローチの仕方。
敵の防御ラインを突破し、的確に爆撃をおこなて離脱する方法が図解で示されています。

下に「RIO」とありますが二人乗りのファントムの「レーダー・インターセプト・オフィサー」、
つまり「ファントム無頼」でいうと栗原航空士のことです。

下の図のように急降下爆撃を行うときに航空士は的確な高度をモニターします。

右はミサイルなどを発射するときの角度などについて。(適当)

こちらも着艦のアプローチの方法だと思います。
巨大な扇風機が邪魔だったので説明はなしです。


続く。

カデット・チャペルと「長い灰色の線」〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

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もう随分と昔になってしまった気がしますが、ウェストポイントを見学し、
見学者向けの「ウェストポイント紹介ミュージアム」について
ようやく話が終わったところまでこぎつけました。

考えたら校内ツァーの前で終わってしまい申し訳ない。
ということで、見学者が訪れるツァーデスクに12ドルくらい出して申し込んだ
バスで巡る見学に出発するところから始めたいと思います。

ツァーバスは案内デスクの外側から出発します。
たまたまわたしたちが到着したとき、ツァーが始まる20分前くらいで、
しかもその日最終だったのは大変ラッキーでした。

いくら物好きでもこんなところにもう一度来るとは思えないしね。

バスに乗り込むと、案内のおじさんが、

「今からゲートを通りますが、絶対に写真は撮らないように」

と気のせいか怖い顔をして言い渡しました。
軍学校なのでゲートの写真が世の中に出回ってはセキュリティ上問題ありなのです。

わたしはその雰囲気に大変緊張してしまい、ゲートを通過し、おそらく
もう写真を撮っても問題のないところに来ても、カメラを取り出せませんでした。

今にして思えば撮っておけばよかったと思うのが、入ってすぐのところにある
いかにも築何百年クラスの花コウ岩建築による、セイヤーホテル。

Thayer-hotel.jpgwiki

学校内部にホテルがあるとはさすがはアメリカ陸軍の士官学校です。

ところでわたしは、前回までの当ブログエントリで、一度マッカーサーと
その息子離れできない過保護の母親について話したことがあるのですが、
可愛い息子のボクちゃん(=マッカーサー)が心配のあまり、母親はずっと
ウェストポイントのホテルに住んでいた、という史実を知った瞬間、
このホテルのことだと納得がいきました。

学校の近くではなく、学校の中に住んでいたわけです。

その証拠写真

「macarthur's mother」の画像検索結果

これによると、母親のメアリー・ピンクニー・マッカーサーは
13歳まで息子を学校に通わせず、自分で教育を施し、さらには
ウェストポイントで近くに住んでいただけでなく、息子が行進するときには
一緒に行進を行い(!)、息子がデートするときは付いてきて、1935年に
マニラに転勤になったときには一緒にフィリピンに行っています。

おかげでマッカーサーは、開校以来の超優秀な成績だったにも関わらず、
アンチからは

「カーチャンと一緒に士官学校を卒業したマザコン」

と死後も言われてしまうことになりました。
ちなみにフィリピンに母親が付いていったのは、これによると、

「彼が母親と離れたくなかったから」

だということですが・・・どっちもどっちってやつですか。

マッカーサーは第一次世界大戦ののちウェストポイントの校長を勤めていますが、
そのときにホテルの拡張工事を行なって部屋数を増やしています。

死の二年前にはウェストポイントに帰ってきてあの、歴史的な演説を行いました。

「生い先短い思い出で、私はいつもウエスト・ポイントに戻る。
そこでは常に『義務・名誉・祖国』という言葉が繰り返しこだまする。
今日は私にとって諸君との最後の点呼となる。
しかし諸君、どうか忘れないでいただきたい、
私が黄泉路の川を渡る時、最後まで残った心は士官候補生団と、
士官候補生団、士官候補生団とともにあることを。

では諸君、さらば!」

このときに滞在したホテルも、もちろんセイヤーホテルです。

わたしたちの乗ったバスは、こんなよく言えば壮麗で歴史を感じさせる
ゴシック建築っぽい建物の前にやってきました。
見学コースその1は、ウェストポイント内にある教会です。

ところで皆さん、前回まとめてウェストポイントについて書いたとき、

「ロング・グレイ・ライン」

が陸軍士官学校を象徴的に表す言葉だと説明したことがありますが、
そのときに同名の映画(邦題は『長い灰色の線』)があるということも
話題にさせていただいたのを覚えておられますでしょうか。

陸軍士官学校で体育教官をしていた実在の人物、マーティ・マーをタイロンパワー、
その妻をモーリン・オハラが演じた1955年、ジョン・フォード作品です。

このタイトルシーン、後ろに写っているのがこの教会となります。

ところで1975年(昭和50年)防衛大学校を卒業したという方から聞いた話ですが、
そのかたが在学中、防大でこの映画を鑑賞するということがあったそうです。

それにしてもこの教会の立派なこと。

アメリカにはニューヨークでもボストンでも、街角には
古くから伝わる教会が取り壊されずに残っているのですが、
それらのどれよりも立派で大きい気がします。

感覚としては、パリのノートルダム寺院くらいの規模でしょうか。

ここが軍施設となったのは1778年のことであり、陸軍士官学校となったのは
1802年と言いますから、もう200年を余裕でぶっ超えてるわけです。

ここは「カデットチャペル」と呼ばれ、1902年に建造されました。

チャペルは映画のシーンを見てもお分かりのように、キャンパス(っていうのかな)
の比較的高いところに位置しています。

なので、このチャペルの横に立つとこのような眺めが展開しているわけです。

敷地面積は65万キロ平方メートル、校内にはゴルフ場、スキー場、墓地、
なんなら原子炉まであったりします。
とにかくおそらく世界で一番広い士官学校であることは間違いありません。

すごい偶然ですが、我が日本国の士官学校である防衛大学校は、
その面積65万平方メートルです。

防大ってウェストポイントと同じ大きさじゃないか!!

と驚いた人、もちつけ(笑)

見学した日は、ボンネットで卵が焼けそうなくらい暑い日でしたが、
このキャンパス(っていうのかな)の灰色な重苦しい世界をご覧ください。

重厚といえば聞こえがいいけれど、重々し過ぎて軽佻なところ皆無。

アメリカ社会の「軽さ」みたいなのを日頃いやっというほど見ていると、
思わずこれを刮目して見よ、とどやしつけられている気分になります。
ああ、これもまたアメリカなのね。

噂によると同じ士官学校でも、空軍はもちろん海軍のアナポリスは
この灰色の世界に比べるととんでもなく「チャラい」のだとか。
もちろん比較の問題だとは思いますけどね。

ところでこれも「長い灰色の線」の一シーンです。
上の写真とは別の建物のようですが、実に似た感じの灰色の建物。
制服の灰色もつまりこのキャンパス(っていうの?)の色彩と合わせているのでは。

何をしているかというと、罰則として歩かされているのです。
飲酒が見つかったとか、門限に遅れたとか、そういう
倫理委員会にかけられるまでもないチョンボに対しては、
とにかく歩け歩け歩けば罪は軽くなるとばかり歩くのが陸軍流。

やっぱりこれは陸軍の基本が歩兵だからだと思うんですが、
それならアナポリスはどうなっているのか知りたいですね。

我が海上自衛隊の幹部候補生学校では走らされたり腕立て伏せだったりでしたが、
どうやら今ではパワハラに当たるとかで体罰はなくなっているとか。

他の学校ならともかく、そんなことで軍隊の指揮官が養成できるのか、
と外部の者は単純に疑問なんですが、その話はともかく。

 

ところでこの写真は、タップス(就寝前のラッパ)が鳴るときに、
部屋に帰らず、パーティに遅れてきた彼女と別れを惜しんでいた生徒が、
マーティが見てみないふりをしてやったのにも関わらず、
自己申告して自ら罰を受けているシーンです。

ウェストポイントにやってきたばかりのマーティは、

「黙っていれば誰にもわからないのに」

というのですが、生徒は

「それでも自分は規則を破ったことを知っているから」

と答え、マーティを感動させるのです。

この映画は、スコットランドからウェイターの職を求めてやってきて、
士官候補生を間近でみているうちに彼らを深く愛し、いつの間にか体育教師となって、
その生涯をウェストポイントに捧げた人物を描いているのです。

チャペルのかなたに広がる山麓にポツンと建っていた豪邸。
ここもウェストポイント関係の設備だと思うのですが、わかりません。

別の年代に建ってつぎはぎ状態になっている建物同士を
無理やり行き来するための空中回廊をつけてしまった例。

どうみても使われている様子がありません。

さて、チャペルの中に入ってみました。
ここに写っているのは同じバスで見学した人たちです。
年配の夫婦が多く、この左は東洋系のアメリカ人家族。

ツァーは1日に何度かおこなわれるようで、アメリカ人にとって
ウェストポイント見学は観光にもなっているらしいことがわかりました。

壮大なステンドグラスは圧巻です。
聖人といっても左のほうの人のように戦いの神みたいなのが多い気がします。

ところどころに文字が見えますが、

「FAITHFUL ONTO」

「DEATH AND I WILL」

「CROWN OF LIFE」

など、聖書に詳しくないとわからないのかもしれません。

説明の人が壁のランプを指し示しました。
砲弾の形を象っているそうです。

チャペルの一角では何やら運動部が集まって準備の真っ最中。

教会の壁にはアメリカ国旗(12星)と陸軍の旗が交互に並んでいます。
昔ならともかく、多民族国家のアメリカで士官学校といえども
キリスト教ばかりではないはずなのに、と思ったのですが、これも説明によると、
構内にはシナゴーグ(ユダヤ教会)もカトリック教会も別にあるのだそうです。

流石にその他の宗教まではカバーしていないようでした。

大礼拝堂なので、パイプオルガンも壮大なものです。

演奏者席がどこかまではわかりませんでした。

映画「長い灰色の線」ではこのオルガンの音色を劇中聴くことができます。

そして、この祭壇も映画に登場します。

まず、カデットチャペルのシーンはこんなカットから始まります。

礼拝が始まるや、伝令が校長など偉い人のところにメモを持って走ってきます。

校長が司祭に何事かを伝え、周りの何人かが立ち上がって、
なぜか騒然と教会を出て行きます。
司祭は皆に向かって

「今日の早朝、日本軍の航空機が真珠湾を攻撃しました。
公式な発表はまだですが、我が国は日本と交戦状態に入りました」

と発表します。

「ジャパン」

という司祭の言葉が終わるや否や、全員がなんの合図もなく立ち上がり、
イギリス国歌の「ゴッド・ブレス・ザ・クィーン」のメロディーの賛美歌を
パイプオルガンの伴奏で歌い始めるのが実に映画的。

この曲は聖書の曲ではなく、

"America" ("My country 'tis of thee.")

という詩がつけられた「替え歌」です。

時々思い悩むように口を動かさなくなる彼は、マーティが最初に指導し、
第一次世界大戦で亡くなった生徒の息子です。

マーティとその妻が引き合わせて彼の父親と結婚させたのでした。
愛する夫に続いて息子もまた戦争に行かなければならないことを知り、
母親の顔は悲痛に曇ります。

ちょうど海戦の時に士官となり、マーティは父親に続いてその息子を
戦争に送り出すことになったのです。

という映画の撮影が行われた頃から何も変わっていないチャペルの内部。

ただしこのシーケンスには大きな矛盾があって、真珠湾攻撃が起きたのは
ローカルタイム0755。

司祭は「今朝真珠湾で」と言いますが、攻撃が起きた時、すでに
ウェストポイントのニューヨーク時間は12:55となっていたのです。

椅子には聖書が備え付けてあります。

士官学校卒業生がここで結婚式を挙げることは多く、シーズンには
結婚式ラッシュとなるそうですが、軍学校の常として、
映画のような開戦の他、戦争に出て亡くなった卒業生のミサも行われるわけです。

日本人であるわたしたちにはちょっと現実味がないのですが、
アメリカという国は実際になんども戦争を行なっており、
その度に陸軍士官学校からは戦死者を出しているのです。

戦争に行く可能性が大きくなれば自衛隊に入隊する人数が減る、
などというどこかの日本とは、軍に身を投じる人の意識は全く違う。

戦争による「死」が可能性として確実にあるとわかっていても、
優秀な頭脳の持ち主が難関をくぐり抜け毎年1200人も士官学校の門をくぐる。
このアメリカという国には昔から一貫してブレない「愛国の発露」たる国防の形がある。

そんなことを考えずにいられなかったカデット・チャペルでした。



続く。



「長い灰色の線」マーティ・マーとは〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

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アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学記ですが、
今回は、陸軍士官学校奉職しその人生をウェストポイントに捧げた
実在の人物マーティー・マーを主人公にしたジョン・フォードの映画、
「長い灰色の線」の一部をご紹介しながら話してみたいと思います。

本物かどうかわかりませんが、映画は士官学校候補生が、グレイの制服に身を包み、
皆で校歌?らしきものを合唱するシーンから始まります。

タイトルの「グレイ」はまさに彼らの制服の色であるわけですが、
彼らのアイテムである火薬にちなんでいるらしいですね。

帽子の黒、ジャケットの灰、飾りなどの黄色、全て火薬の色とか。

なんかこじつけとしか思えないんですが、まあ海軍のように錨とか、
海を表すブルーとか、一目でそうとわかるシンボルがないものでね。

 

世紀のイケメン、タイロン・パワーが若者から退職時までを演じる
マーティ・マー(Marty Maher)とはそれではどんな人物だったのか。

「marty maher west point」の画像検索結果

Martin "Marty" Maher、Jr. (1876年6月25日 - 1961年1月17日)は
アイルランド生まれ、 1899年から1928年まで
アメリカ陸軍士官学校で水泳のインストラクターを務めました。

ウェストポイントの士官候補生やスタッフに非常に尊敬され、
賞賛された彼は、三回クラスの名誉会員に選ばれています。

84歳で亡くなった後、ウェストポイント墓地に埋葬されました。

最初の二年間、彼は候補生食堂のウェイターでした。
候補生食堂で、ウェストポイントの「下級生しごき」の一種、
いきなり「レザーとは何か」という質問をぶつけられ、

「動物の皮を剥ぎ毛や脂などを除去しタンニン酸に浸したもの!
するとゼラチン質が非腐敗性の物質に変成し水に強くなる!それが皮です」

ととてつもない早口で答えているプリーブ(一年生)を
不思議そうに眺めるマーティ。

陸軍入隊を決めたマーティ。
担当の大尉はジョン・パーシングといいます(本物)

皿を割ったりしてあまり楽しくないウェイター生活。
マーティは2年後陸軍に入隊し、キーラー大佐のもと、
体育のインストラクターになります。

彼はウェストポイントの給養だった同郷のメアリーオドネルと結婚。
子供は映画でも描かれているように生まれて数時間で死亡してしまいます。

二人は候補生たちを子供と思ってウェストポイントで生きて行く決心をし、
そして、任官し戦争に赴く教え子たちの幾多の死を見届けることになる・・・
というのが映画のストーリ。

さて、わたしたちのツァーはチャペルの見学を終えました。
校内見学ツァーのためにこんな立派なバスがあります。

コースはロングコースとショートコース。
わたしたちのは短い方でした。

走るバスの窓からもいろんな軍学校ならではの施設が見られます。
こんな石碑だとか・・

トレーニング中の女子学生とか。
自衛隊と同じく暇さえあれば校内を縦横無尽に走り回る模様。
友人同士らしい二人のアフリカ系女子学生、辛そうです。

フィジカルデベロップメントセンター、それはすなわち体育館だと思われ。

体育館がこんなに広いわけかい、と今更ながらに驚きます。
先ほどの資料によるとウェストポイントは某大の千倍の広さですから、
体育館も単純にそれくらい大きいと考えると納得です。

某大だってここと比べなければかなか立派な施設だと思うんですけどね。 

ところでマーティ・マーですが、経歴によると、陸軍入隊後、彼は
体育教官として軍曹待遇で仕事を始めました。

今はそんなことはないと思うのですが、当時の体育教官(の偉い人)
キーラー大佐の引きがあったからだと思われます。

そして割り当てられたのが、水泳のインストラクター。

ところが彼は実際にも泳ぐことはできなかったのですから驚きます。
ものすごい原始的な方法で水泳の訓練を行うマーティ。

みんなの前で教官らしく取り繕うマーティ。
ところが実際のマーティ・マーは、教官としては大変優れていたらしく、
自分が泳げないのにどんな指導をしたのか、泳げなかった士官候補生も、
彼の元を去るときには泳げるようになっていた、というから驚きます。

オーストラリアから来た兵隊上がりの士官候補生は、水泳の腕は抜群でしたが、
学科についていけなくて悩んでいました。

マーティはそんな彼を自宅に呼び、家庭教師をつけてフォローしてやります。

この生徒はのちに家庭教師と結婚し、二人の間に生まれた男子は
長じて士官学校に入学することになるのでした。

うっかりプールに落ち、泳げないことがバレてしまいました。
でも候補生たちの彼に対する信頼と愛情は揺らぎません。

彼がいかにウェストポイントで愛されていたかは、まだ彼が生きているうちに
この自伝的映画が制作されたことに表れています。

マーティ・マーはタイロン・パワー演じる自分の映画を観ているのです。

サッカーグラウンドの向こうにそびえ立つオベリスク。
その頂上の天使像はハドソン川を眺めるように立っています。

バスの中からグラウンドにヘリコプターが降りたのに気がつきました。
系統としてはフライング・エッグの進化系ですかね。
ドアには陸軍のマークが描かれ、VIP専用機であることがうかがえます。

ヘリの乗員らしい人に候補生が話しかけていますね。

偉い人が用事を済ませるまでここで見張りをしているのだと思われます。

キャンパスのいたるところには迷彩服に大きな黒いバックパックを背負った
士官候補生たちの姿を見ることができます。

ここウェストポイントはニューヨーク州のハドソンリバー沿いにあり、
夏はこの日のように死ぬほど蒸し暑くて冬は凍死するほど寒いお土地柄。

いずれも外に出たくない過酷な環境という、軍学校としてはこれ以上ない
「鍛錬の場」であるからかもしれませんが、
どこかのアナポリスのように地下道で建物同士をつなげたりしないのです。

当然、罰則の「歩け歩け運動」も、この人に優しくない天候のもと粛々と行われ、
いやでも反省が骨身にこたえるという効果があるというわけです。

某大で第4大隊に当たったくらいで遠いの損だの思っている人、世界には
上には上があるということを覚えておくと、ちょっとは気持ちも楽に・・

ならないか(笑)


続く。

ビートネイビーハウスにようこそ〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

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アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学記です。

見学コースはバスで広い構内をまずチャペル、そしてグラウンドまで
案内の人の説明を聴きながらやってきました。

その中で、

「勉強がついていけなくて辞めざるを得なかったり、
自分の意思で中途退学した場合、莫大な費用を返還しなければならない」

という話がありました。

ウェストポイントでは最下位の成績のことを「ゴート」といって、
毎年華々しく名前が発表されるいう羞恥プレイがあるのですが、
ゴートは最下位とはいってもとりあえず卒業できたわけですから、
ついていけなくて辞めた人(結構多い)と比べれば「偉い」のです。

どちらかというと、退学させられずに最下位になるのは至難の技かも。

そのため、ゴートは卒業生全員から1ドルずつの
これ以上ない暖かい?施しを受けることができます。
(卒業生は1000人はいるので、ちょっとしたお金持ちになれます)

しかし、途中で辞めて行く者には冷たい、しかしそれが国が経営する
軍学校というものです。

我が日本国の士官学校である防衛大学校は、2012年から任官辞退者に
250万円、任官6年以内の自主退官者からも年数に応じて償還金という名で
返還を求めるということになっています。

ところで、成績最下位ドンケツが「ゴート」と呼ばれる理由なんですが、
わたしは、ライバル校である海軍士官学校アナポリスのマスコットがヤギ、
「ビル・ザ・ゴート」であることと関係あるのでは?と思ってます。

そのアナポリスの最下位成績者ですが、やはり華々しく名前が公表され、
こちらは「アンカーマン⚓︎」というそうで(笑)

バスは広大なグラウンドの通路にやってきました。
これはきっと名のある軍人さん。

と思って調べてみたら、

ジョン・セジウィック少将(1813−1864)

うーん、日本人には全くあずかり知らぬ名前であったわ。

何をした人かというと、南北戦争で弾が飛んでくる中歩き回り、

「そんなふうに弾から逃げる諸君らが恥ずかしい。
彼らはこの距離では象でも当てることはできないだろう」

といった数秒後に左目の下に弾丸を受けて死んだ人です。
弾に当たりさえしなければ豪傑の英雄譚で終わったのに・・・。

ちなみに、銅像の靴の後ろの拍車を夜中、誰にも見られずに回すと
何かいいことがあるという噂もあるそうです。

ま、候補生にとっていいことなんて、落第しないくらいしか考えられませんが。

さて、セジウィック少将の向こう側のサークルはなんなのかな?
え・・・?もしかしたら皆ゴルフやってます?

こりゃ驚いた、ウェストポイントは体育の時間にゴルフをするのね。
まあ確かに構内にゴルフ場があったりするわけですから、
体育の時間に基礎を叩き込んだら、コースに出ることもあるのかもしれない。

しかし士官候補生の体育のゴルフ、かなり本気っぽい気がします。

もしかしたら将来政治家になって、まかり間違って大統領になったりして、
日本の首相との外交で必要になるという場面もあるかもしれないですから、
基礎をやっておいて損はないかもしれません。

ところで、グラウンドの向こうの国旗が半旗になっていますが、
これはマケイン・ジュニアが亡くなったことに対する弔意だと思います。

亡くなった人の位に応じて、半旗を揚げる期間は決まっているらしいですが、
軍学校はそれとは関係なく長期間に亘って行っているように思われました。

授業でゴルフをやるということは、全員の分のクラブなりなんなりがあるってことです。
それも、ちゃんと校庭にホールが設けてあるわけですから。

彼らが練習をしているのはサッカーグラウンドです。
グラウンドはもちろん、それ以外のところまできれいに芝が敷かれています。

業者による手入れを行なっていないとこんなきれいになりません。

さて、こちらでは体育の授業でサッカーが行われています。
体が資本の陸軍ですから、サッカーの授業なんて遊びみたいなもの。
やっぱり楽しいのか、彼らの表情は授業だというのにやたら明るい。

よく見たら女子生徒がいるではないですか。
体格がほぼ男性と同格なので、髪の毛が長くなければ気づきません。

皆でたくさんのボールを蹴りあって、試合でもないしこれは楽しそう^^

さて、前回もお話ししたウェストポイントの人気者、体育教官だった
マーティ・マー軍曹を描いた映画「長い灰色の線」には、
1913年に行われたという実際のフットボールの試合が登場します。

ウェストポイントの相手はノートルダム大。

「まるで教会みたいな名前だな」

とマーティたちはすっかり勝つ気。

教会みたいも何も、キリスト教系大学なんです。
ノートルダムの応援バンドは尼僧の指揮する小学生だったりします。

確かに前半は勝っていたのですが、後半になって、
相手が予想外の「フォワードパス」という戦法を使ってきたので、
ウェストポイントは35対15で大敗を喫してしまいました。(実話)

しかしこのころのフットボールの装備って・・・・。

(´・ω・`)ショボーンとするウェストポイントチーム。

コーチは、今日のゲームは新しいタイプのものだったことを告げ、
さらにこう言います。

「士官として出陣する時戦場では予想外の事態が続出するものと肝に銘じよ」💢

Notre Dame vs. Army 1913 - The Game

フットボールのことを知らないので、映画を見ても、何が新しくて
どう変わった戦法に出られたのか全くわからないままなのですが、
検索したところ、この試合はカレッジフットボールの歴史を変えたというくらい
画期的なものだったらしいことがわかりました。

1913年 フォワード・パス

youtubeの最後には、試合後に相手の検討を称え合う両校のコーチの手紙とともに、
それ以降アーミーvsノートルダムがゴールデンゲームとなったとも紹介されています。

ところでこのパスがなぜここまで意表を突く作戦で、歴史的なものになったのか、
どなたかお分かりの方、素人にもわかるように教えていただけませんでしょうか。


 さて、チャペル見学を終えてグランドに移動するバスの車窓から、
こんな昔風の(でもアメリカにはよくあるタイプの)家を見ました。

建物の前には、

「ビート・ネイビーハウス」

とあるではありませんか(笑)

スポーツの試合における海軍アナポリスとのライバル意識は、
「ビートネイビー!」が寝言にも出てくるくらいカデット(士官候補生)の
脳髄に叩き込まれるという話を以前もさせていただいたことがあります。

Go Army! Beat Navy!〜アメリカ陸軍士官学校ウェストポイント

相手のマスコットを深夜盗み出したり、人質がスパイをしたり、
シャレにならない両者の相克があるわけですが、はてさて、
この「ビートネイビーハウス」って何?

検索してみると、

「チェックイン4時、チェックアウト11時」

なんとベッドアンドブレックファーストではないですか。

ビルディング109、ビートネイビーハウスにようこそ!
陸軍を象徴するという意味で重要な役割をする歴史的ホテルです。
各スウィートルームは最近新しく改装された共用のフルキッチンにアクセス可能です。
(HPより)

なんと!誰でも泊まれたりするのかしら。
例えば「ビートアーミー」関係の人でも。

ビートネイビーハウスの隣にあった家。
もしかしたらこれもホテルの一つかもしれません。

実はこの家、「長い灰色の線」に登場しています。
映画を見ていて気がつきました。

なんと、マーティ・マー軍曹がメアリー・オドネルと結婚し、住んでいた家という設定です。
実際には二人は別のところに住んでいたということですが、
撮影が行われたのはまさにここだったのです。

この家は映画の最後のシーンにも出てきました。

30年ウェストポイントに務め、慕われたマーティのために、
ウェストポイントではその退職の日、分列行進を行います。

「誰のための分列行進です?」

「きみだよ。候補生たちが君のために行進をしたいと申し出たのだ」

呆然と感動しつつ長き灰色の線を見るマーティの目にはいつの間にか涙が・・。

真ん中は学校長、一番右の人も手袋で目をぬぐっています。

戦争で死んだマーティの教え子の妻とその息子。
息子も第二次世界大戦で南方に出征しましたが、
名誉の負傷で帰国しました。

「皆に見せたかったな」

「いいえ、みんなここに来ているわ」

マーティの目には見えていました。
自分を引き上げてくれた体育教師のキーラー大尉が。
出征を見送り、そのまま帰って来なかった彼の教え子たちが。

 

そして、この家で静かに息を引き取っていった妻のメアリーオドネルが。

分列行進の音楽はアイリッシュ風のメロディの行進曲から、
「マイティー・マー」の歌に代わり、最後には「オウルド・ロング・サイン」になります。

ちなみに、映画の撮影は行われましたが、妻メアリーが息を引き取ったのも
ここではなく、当時二人が住んでいた家のポーチだったということです。

 

 

続く。

 

 

トロフィーポイント〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

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アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学ツァーは、チャペルに始まり、
将来の陸軍指揮官がゴルフやサッカーをしているスクールヤードまできました。

バスを停めたまま、ガイドの男性は皆をハドソン川の見える河岸に案内していきました。

ウェストポイントの象徴ともいえる石碑が見えてきました。
これは「バトルモニュメント」といい、南北戦争のあと、戦死者の顕彰を目的として
生き残った退役軍人などの出資で建立されました。

ハドソン川を臨む峡谷の上一帯を、「トロフィーポイント」と呼びます。
昔のまま残る芝の上、樹齢を重ねた大木が作る爽やかな日陰には、
ご覧のようにアメリカ陸軍が使用した大砲などが展示されているのです。

トロフィーポイントは、

「1812年の戦い」

「独立戦争」

「米西戦争」

などのエリアに分かれていて、各ゾーンには
その戦争で使用された武器などが置かれています。

看板に書かれた説明によると、大砲はほとんどが戦争で鹵獲したもので、
ここにある中で一番古いのは1812年の「サラトガの戦い」のものだそうですが、
残念ながらそれがどれかまではわかりませんでした。

独立戦争へと繋がっていく「アメリカ革命」の頃には、ここウェストポイントには
160もの大砲があり、武器研究に使われた後は候補生部隊が訓練のために使用しました。

ゾーンごとにいつの戦争の武器か決まっているということですが、
個体には何の説明もついていません。

この一帯を「トロフィーポイント」というのは、キューバ、フィリピン、
そして米西戦争で得たトロフィーが置いてあるから、という説明ですが、
ここでいう「トロフィー」というのが具体的にどれかはわかりませんでした。

第一次世界大戦以降のトロフィーは、この後見学したウェストポイント博物館に
全て展示されている、ということでしたが・・・。

アメリカの学校組織は同窓会を「クラスオブ〇〇年」と呼び、例えば
このモニュメントを寄贈した「クラスオブ1934年」はその年に卒業したという意味です。

入学した時からこの名称が付与されるので、今年2019年に入学した学生は
その瞬間「クラスオブ2024」と呼ばれることになります。

1930年に入学したこのクラスは、1984年、全員が70を超えて、
ここトロフィーポイントに記念碑を寄贈しました。

彼らはその後第二次世界大戦で、欧州に、そして太平洋で戦い、
少なくない指揮官が戦死したことでしょう。

この碑文中、「かつて我々が卒業したALMA MATER」
とありますが、このアルマ・マータとは、ギリシャ語由来で、
欧米では「自分を育んだ母校」という時に(主に文章で)使われます。

ここは米西戦争のエリアです。
この隣にあった説明を読んで、初めて「トロフィー」が何かわかりました。

「ここには三つのトロフィーがあるが」

つまり、戦闘で獲得してきた相手の武器をもって「トロフィー」と言っとるのです。

それを念頭に”trophy”をあらためて検索してみると、我々日本人のイメージ、
『コンテストなどでもらえるカップ』というのは一つの派生的な意味に過ぎず、

戦利品; 戦勝[成功]記念物 《敵の連隊旗,シカの角,獣の頭など》

こちらが第一義となる意味だったのです。

なるほどー、戦利品か。
俗に「トロフィー・ワイフ」などというあれは、こちらの意味なのね。

ご存知ない方に説明しておくと、トロフィーワイフとは、男性が社会的に成功してから
その地位なり財産なり名声なりを利用してゲットする若い美人妻のことです。

ちなみに日本ではトロフィーワイフのために糟糠の妻を捨てる男は
女性からはもちろん男の側からもあまり評価されないようですね。

女性に対しても「金と地位目当て」という眼が向けられるのは、これはもう
ご本人たちには気の毒ですが、致し方ないかなという気がします。

ということは、これはスペイン軍の大砲なんですね。

米西戦争は、キューバに侵攻したスペイン軍が現地でやらかしたのをネタに
アメリカがハーストなどのジャーナリズムを使って煽り、国民を焚きつけ、
まず世論を形成しました。

当時キューバとフィリピンに権益のあったアメリカの実業界は開戦を望んでいたのです。
ちょうどその時偶然()ハバナでアメリカの戦艦「メイン」が謎の爆発を起こしたので、
アメリカは、ここぞと、

「リメンバー・メイン!スペインを地獄に!」

を合言葉に戦争に突入しました。
(アメリカ史をご存知の方は、この『リメンバー』が真珠湾だけでないことを
よおおおおっく知っておられると思います)

ここは独立戦争のエリアです。

ここにはハドソン川を閉鎖するために使われた防鎖が展示されていて、
これがウェストポイントにとって独立戦争のシンボルとされています。

「ハドソンリバー・チェイン」とか「グレート・チェイン」と言われるこの鎖は、
イギリス軍のハドソン川帆走を防ぐために河に渡された文字通り「防鎖」です。

ここにチェーンが実際に渡されたわけです。

これが現在のウェストポイントとハドソン川。
ここに残されている以外にも、コネチカットのコーストガードアカデミーに
鎖のごく一部が展示されているのを見たことがありますが、
ほとんどは使用後、溶解されてリサイクル処分になったということです。

全体的に綺麗すぎるので、砲筒以外の部分はレプリカかもしれません。

ハドソン川を臨むポイント付近では業者がメインテナンスを行なっていました。

見学客に「グレートチェーン」の説明をしているツァーガイドは
退役軍人で、かつてここで訓練生活を送っていた人です。

アメリカでは軍人恩給があるのでリタイア後は悠々自適ですが、
ボランティアとしてツァーガイドを引き受ける人は多そうです。

ガイドに案内されて、ハドソン川を臨むビューポイントに近づいていきます。

この一帯は1812年戦争のエリアのはず。

1812戦争とは、アメリカとイギリスの間に起きた戦争のことです。
米英が奪い合った土地がネイティブインディアンの土地でもあったことから、

アメリカ対イギリス・カナダ・インディアン連合軍

の戦いとなりました。
多くのインディアン部族は虐殺され、その土地はアメリカの植民地になります。

先ほどフィールドに舞い降りたヘリは、陸軍の偉い人が用事をしている間、
ここでひっそりと帰りを待っている模様。

かつてチェーンが張られたポイントを一望できる高台に展望所があります

「イギリス艦隊は二度とウェストポイントに接近することも
鎖を突破することを試みることもしようとしなかった」

1938年に卒業したクラスの生存者によって建造された岸壁の碑文には

「祖国のために戦い傷つき、あるいは捕虜となって死亡した旧友の魂が
この自然美に囲まれた神聖な我々の魂の故郷にとどまらんことを」

対岸は「コンスティチューション島」。
島というより突き出した半島ですが、根元が水路で絶たれているので一応島です。

ここに見えている家屋は、グーグルマップで確認する限り廃屋のようです。
ついでにグーグルマップには同じポイントのこんな瞬間が捉えられていました。

船着場近くの簡易トイレを待つ候補生たち。

解説を受けている間に近づいてきたのはカリブ海のイギリス連邦、
アンティグア・バーブーダ船籍の貨物船です。

クラスツリーとして、記念植樹をするクラスもあります。
1981年に卒業したクラスが卒業記念に植えました。 

 独立戦争で交戦したイギリス軍が降伏した時に召し上げた戦利品の一部。
1779年7月16日という日付がかろうじて読み取れます。

AMPHITHEATERとはローマの円形劇場のことですが、ここにもそれがあります。
野外コンサートが行われるようです。

バトル・モニュメントを近くで見ました。
南北戦争が終わってから、戦死者を顕彰するため1897年に建てられました。

「長い灰色の線」にも登場します。
「星の降るクラス」の卒業式で証書をもらうアイゼンハワー。

日本と開戦が決定してすぐに士官に任官するクラスの「宣誓式」もここで。

根本にある大砲には、南北戦争での有名な戦いの名前がつけられています。

「長い灰色の線」で、上級生がプリーブ(新入生)にいきなり質問する慣習が
描かれていますが、このバトルモニュメントについての質問も定番で、

"How are they all?"

(彼らは全員どうしている?)

"They are all fickle but one, sir."

(一人を除いていなくなりました)

"Who is the one?"

(その一人とは誰か?)

"She who stands atop Battle Monument,
for she has been on the same shaft since 1897;" 

(バトルモニュメントの上に立っている彼女であります。
彼女は同じ円筒の上に1897年からずっと立っています)

というやりとりがされたものだそうです。
『たった一人ずっと経ち続けている彼女』とはもちろんモニュメントの上の女神のこと。
今はそういう「問答」そのものが行われなくなったらしいですが。

これで構内ツァーは終わり。
出口のウェストポイント博物館までバスで移動です。

車窓からは士官候補生が戦闘服で移動している姿を見ることができました。
今見えている二人は男女ですが、ウェストポイントは学内恋愛は奨励されないがOKだとか。

降りる時にツァーガイドにチップを渡すとたいそう喜んで相好を崩し、

「チップは大歓迎ですよ」

アメリカ人は意外とこういう時お金を出さない傾向にあります。

帽子をかぶらずに私服で歩いているのは一般人だと思われます。

この中世の城のような校舎の佇まいにも見覚えがあります。

マーティ・マーがアイルランドからウェストポイントにウェイターとして就職する最初のシーン。
胸に値札のようなものをつけていますが、これは当時の「入場証」だと思われます。

いろんな事務所が入っているビルです。

「スタッフ・ジャッジ・アドボケートオフィス」

候補生の処罰などを判定する事務所?

「クレームなどの法律センター」

「一般市民のアドバイザリーセンター」

「ソルジャー・フォー・ライフ」

「運送関係オフィス」

などなど。

一棟全部がボウリングセンター。

 

さて、これで見学を終わり、次に連れて行ってもらったのは
ウェストポイント博物館でした。

 

続く。

エクストリーム・クーポニング〜アメリカのテレビ番組

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うちにはテレビがありません。

20年近くそうやって暮らしていますし、ホテルに泊まったときでも
映画を観るときくらいしかテレビというものの存在すら思い出さないのが普通です。
たまにホテルで映画を見ようということになって、モードを変える前、
バラエティ番組の音声やナレーション流れただけで、申し訳ありませんが
ものすごく不快な気分になるというくらいのアンチテレビ派なので、
当然ながらタレントや俳優の名前と顔はほとんど一致しません。

それで不便なことなどまずないので、これからもそうだと思いますが、
アメリカにいるときだけは、テレビを付けて、流行りの番組をチェックします。

全てはネタとしてここでお話ししようという下心あってのことです。

長寿番組で、ネタゲットの意図を抜きにしても、付けてしまったら
何とく観てしまうのが、「Ninja Warrior」。
日本の番組「サスケ」のアメリカ版です。

番組でよく「ミドリヤマにいくぞ!」と行っているのですが、それは
本家「サスケ」の収録場所である緑山スタジオ・シティのことらしいですね。

この日はご覧のように超イケメンの日系アメリカ人が登場したので撮っておきました。

「サスケ」ではどうか知りませんが、アメリカでは出場者のバックグラウンドや
ストーリーを加えて散々盛り上げて本番というのが定石です。

彼の場合、いとこがガンの治療を受けたということが、
わざわざエピソードとして紹介されております。

こういうのに出てくる人は大抵何か専門のスポーツをやっているのですが、
このトシオさんの場合はロッククライミング、柔道、大道芸など種目多数。

チャレンジが始まると、たとえ最後までいっても数分で終わってしまうので、
バックグラウンド紹介などに時間をかけないと番組が保たないのです。

ガタイもいいし、平井堅風というか彫りが深くエキゾチックですが、
アメリカ人から見ると一目で「アジア系」に属する風貌となります。

そしてほとんどのアメリカ人女性は彼のようなタイプを

「キュート!」

と評するに違いありません。

ここで初めて彼がトシオ・シドニー-アンドウであることが明らかになりました。

Toshio the Ninja Warrior.mp4

調べてみたらこんなYouTubeが見つかりました。
いやー、肉体エリートというのはいるもんですね。

さて、お次。
英語でおめでたのことを「エクスペクティング」と言いますが、
これは「期待する」「予定する」という意味合いです。

それに否定の「UN」をつけることで「予期せぬ妊娠」。

そのつもりがないのに赤ちゃんができてしまい、産むことを選んだ女性を取り上げ、
現在進行形でその周りの人々や起こる出来事を描くドキュメンタリー。

マッケイラさんは17歳で母親になることを選択しました。

しかし化粧がケバい。
お母さんと病院にいく車の中で、なぜか

「駐車の仕方なんてわからないのよ!ちゃんと習ってないし」

としょうもない喧嘩をしておりますが、撮影のカメラがあってもお構いなしなんですね。

駐車の仕方がわからない、という話ですが、確かにアメリカの免許の実技は
どこか駐車場とか空き地などで同乗者を横に乗せ練習して受けにいくと、
これもモールの周りを警官が同乗して一周するだけでもらえるというものなので、
パーキングに入れられない初心者は多いと思われます。

妊娠している17歳が車の運転をする、というのは日本ではあまりない例かもしれません。

マッケイラさんもあと13年くらいでこうなってしまうのか。(しみじみ)
彼女の心配はもちろん父親も17歳であることです。

これがお父さんですよ〜。

なのでこれから大変、というような話がデレデレと続きます。
が、ここまでしか観なかったのでこの話はおしまい。(投げやり)


さて本題、今日ご紹介するのは、新聞やパンフレットに印刷されている
クーポンを駆使して、安く買い物することに命をかけている人を
紹介する、

「エクストリーム・クーポニング」(EXTREAMING COUPONING)

という番組です。
クーポンを使うという意味でクーポニングと言っているのでしょう。
もちろんクーポニングという動詞は存在しません。

そして今日もクーポニングに命をかける人たちが買い物にやってきました。

アンジェリークさんはとにかくクーポンが使えるものだけを買う主義。

アメリカのスーパーマーケットは、このように子供を乗せられる
バギータイプのカートがあります。
普通のカートも大きくて、一週間分の食物を搭載するのは楽勝です。

食べ物が終わったら次は日用品。
ちょっと待って?なんで歯磨き粉をそんなにいっぱい買うの?

爪磨き(エメリーボード)毛抜き(ツィーザー)まで買い込んで、
今のところ合計は約380ドル。(4万円くらい)

これはまだまだ途中経過ですので念のため。

アンジェリークさん、ドキドキのお勘定です。(そこですかさずコマーシャル)

オーマイガー、合計15万円7千円になりました。

彼女らの持ってくるクーポンとはこんな感じのものです。

別の家族ですが、やっぱり「クーポニング」のある主夫の家庭では、
家族全員がハサミでクーポンを切ることを強制されています。

おばあちゃんは娘にクーポンを切ることを強制されていて、
手を休めると文句を言われるのだとか。
老後の生活をこんなことに忙殺されて一体何を思うのか。

というかこのおばあちゃんのTシャツが・・・

「危険 次の5分で機嫌が変わる!」

このシャツ、アメリカでは結構流行っているようです。

「というわけで、合計は2123.5ドル(約23万6千800円)です」

スーパーマーケットで何を買えばそんなに・・・・。

ここにクーポンを入力していくわけですな。
いつの間にかスーパーの従業員が集まってきて皆で見物する騒ぎに。

ほとんど息を飲んでレジを凝視しております(笑)

「トータルはマイナス33.64ドルになりました」

マイナス?
クーポンを使えば、マイナスもありなんですか?
マイナスが出たらそれはどうなるかというと・・・。

なんと、ギフトカードをマイナス分もらえるらしいですよ。
どうして金額がまた増えて57ドルになっているのかはわかりませんが。

20万分買い物してさらにギフト券をもらえてしまう、こんなのなら
誰でもやってみたいと思うのかもしれません。

周りに詰め掛けて見物していた従業員一同が拍手。
みなさん仕事はもうしなくていいんですかね。

レジ係も彼女をハグして検討を称えます。ってなんでやねん。

荷物をお店のオーナーらしき人物は車に運ぶのを手伝ってくれます。
クーポンのシステムというのをよく知らないのですが、お店にすれば
別に損にはならないということなんでしょうか。

こちら別のクーポンマニア、ミッシーさん。
たった18ドルでこれだけのものを手に入れたの、とご満悦です。

ミッシーさんはどうやら右側の女性と同棲しているLGBTな方である模様。
今日は集めに集めたクープポンを持ち満を辞してのお買い物です。

「クーポン783枚あるのよ」「ええ〜」

そのうちスキャンできないクーポンは775枚。
ということは彼女らはそれを手打ちしないといけないということです。

(-人-)ナムー

とりあえずお勘定ですが、941ドル40セントとなりました。
さっきと比べると大したことないと思ってしまいますが、10万くらいです。

長く伸びたレシートで遊んでおられますが・・・。
そういうこともあって閉店後に撮影したのかな?

クーポニングの結果、お代金は30ドル85セントになりました。

 

ただちょっと気になりませんか?
スーパーで何にそんなにお金を使えるのでしょうか。

 

わたしがこのクーポニングを冷笑的に見てしまう理由がこれです。
とにかく彼女らは、同じものを大量に買い込んでいるのですが、
12個のプロテインバー。これはわからんでもない。

もちろんわたしは1本以上同時にバーなど買ったことがありませんが。
(それもなぜか食べると胃が痛くなるのですぐにやめた)

しかしこれはどうなのと。
40本の痛み止めクリーム。
どこの痛みに使うものかは知らないけど、そんなもん40本もいるか?

全身が痛むならともかく、痛みがある患部にだけ塗るためなら、
おそらく一生かかってもなくならないのでは?
それに一応消費期限てものもあるよね?

95の生理用品。というかカゴにものを放り投げるんじゃない!

おそらくこれも使い切らないうちに・・いやなんでもない。

それそんなにたくさん必要?と思えるものばかり買い込んでるわけです。
586ドルが30ドルになれば確かにマニアとしては嬉しいかもしれませんが、

メントスとかリーズとか、こんなに溜め込んでどうするの?
毎日これを一つづつ片付けていくの?

でも、アメリカ人はそんなことまで考えていません。

とにかくスポーツの試合のように、クーポンによって多額の買い物が
マイナスにでもなろうものならそれでグレイトなのでしょう。

見物していた従業員やお客が拍手するのもそういったスポーツ観戦的な感覚です。
このテレビショーはたちまち有名になり、人気が出たそうなので、
撮影を皆が楽しんでいるようです。

戦利品に囲まれてうっとりするニコルさん。
しかし2000個のライナーを使い切る前にまたクーポンで買い物してしまいませんかね。
毎日使ったとしても6年かかるわけですが、そもそもライナーって
毎日洗濯するのなら滅多に必要になんかなりませんよね?

こんな馬鹿げた買い物に皆が喝采するのも、アメリカの家が広くて、
そういったものを収納するストアージのスペースに困らないからに他なりません。

「ミニマリスト」や「断捨離」などという言葉が流行る日本では
全く理解できないテレビ番組であることだけは確かです。

この洗剤を見てわたしはやっぱりこいつら理解できん・・・と思ってしまいました。
2800回分ってことは、毎日洗濯しても8年・・・。

いや8年前の洗剤っていくらなんでも品質的にどうなのよ。

 

というアメリカ人の煩悩のありようをあからさまに見ることができる番組ですが、
実は、もっと「変な番組」が次々と登場しているのがこの国の恐ろしいところなのです。


また日をあらためてご紹介しようと思います。

 

 

「晴嵐」に刻まれた落書き〜スミソニアン航空宇宙博物館

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いきなりですが、このブログでお話しした映画「海底軍艦」の
ストーリー設定を覚えておられるでしょうか。

敗戦を受け入れない海軍軍人たちが終戦後、伊号403で南方に向かい、
そこで海底軍艦轟天号を秘密裡に建造するというもので、
彼らが乗り捨てた伊号403は敵となるムウ帝国に鹵獲され、
その神殿に神々しく飾ってあるというものでしたね。

海底軍艦「轟天号」のインスピレーションの元となったのは
実在した日本海軍の潜水艦伊400型であることになっていたわけです。

伊四〇〇型潜水艦は第二次世界大戦中に就航した潜水艦で最大であり、
特殊水上戦闘機「晴嵐」を3機搭載することが可能な潜水空母でした。

2012年、人民海軍の032型が竣工するまで史上最大だったこの潜水艦は
理論上地球を1周半航行可能であり、日本から地球の何処へでも
攻撃を行なって日本にまた帰ってくることが可能とされていました。

終戦間際に三隻が完成しましたが、連合国はその存在を知らず、
終戦を受け入れて内地に帰る時に2隻の四〇〇型を拿捕したアメリカ軍は
その大きさにさぞ驚愕したことと思われます。

400 submarine 

帰投命令を受けアメリカの駆逐艦「ブルー」に接収され、
横須賀に回航中のフィルムが残されているのでこれをご覧ください。

「ブルー」の甲板から写した伊400には多くのアメリカ軍人が乗り込み、
士官から説明を受けている様子も見ることができます。
拿捕された伊400の艦尾には星条旗が揚げられていますが、
日本海軍の旭日旗は降ろさずにそのまま並べて揚げたままです。

これをわたしはアメリカ海軍軍人たちの敬意の表れと見ますがどう思われますか。

さて、アメリカ人が驚いたのは伊四百型の大きさだけではありませんでした。
航空機を搭載し、敵地近くまで潜行して行き航空攻撃を行う。

同じことをするのにアメリカが何万人もの兵士の命を犠牲として
サイパン、グアム、そして硫黄島を奪取しようとしたわけですが、
この攻撃法はそんなアメリカにしてみれば

「その考えはなかったわー」

というべき視点に立った武器だったと言えます。

さて、それではスミソニアンの解説はどうこの潜水艦搭載型
水上戦闘機を説明しているでしょうか。

愛知 M6A1「晴嵐」CLEAR SKY STORM

愛知航空機のチーフエンジニア、尾崎紀男は、潜水艦に搭載し
作戦展開させる爆撃機の要件を満たすためにM6A1 Seiranを設計しました。

アメリカ本土やパナマ運河のような、日本から数千キロ離れた
戦略目標に潜水艦空母の艦隊で近づき直接攻撃するための航空機です。

この航空機/潜水艦システムは航空技術と海洋技術を巧妙に組み合わせたものでした。

米国が第二次世界大戦に参加する前に、日本海軍はすでに潜水艦から
偵察機を運航しており、そのうちの1つは実際にアメリカ本土を爆撃しています。

1942年9月9日、潜水艦伊-25からカタパルトによって打ち上げられた
横須賀工廠E14Y1 グレン(連合国コードネーム)偵察用水上機が、
オレゴン州沿岸の森林に4つの即席リン爆弾を投下したのです。

その5か月前、日本海軍は伊新しい潜水艦空母伊四〇〇型の製造を命じました。
海軍の計画では大艦隊を想定していましたが、最終的には
伊-400、伊-401、伊-402の3機しか完成しませんでした。

この3隻の潜水艦は1962年に原子力潜水艦「USSラファイエット」ができるまで
かつて建造された最大の潜水艦でした。

伊-400潜は6,560トン、巡航速度は18.7ノット。

それぞれ3機の「晴嵐」を防水コンパートメントに搭載し
60,000 kmの航続距離を持っていました。

AMクラス(伊13型)と呼ばれる、より小さな日本の潜水艦も
2機の「晴嵐」を運ぶために改装されました。

この巡潜甲型(旗艦)を建造していたのも改装したのも、
神戸の川崎重工業株式会社です。 

それにしても改めて驚くのは「晴嵐」の機体の大きさです。
隣にはB-29の翼の下に紫電改がいますが、どう見てもこれより大きい。

これを折りたたんで3機も搭載できた潜水艦の大きさとは、一体・・・・。
って感じです。 

伊-400プログラムを開始した直後、海軍は愛知航空機に
プロトタイプ特別攻撃機M6A1の開発を指示します。
最高技術責任者の尾崎は、ここで野心的な挑戦に立ち向かいました。

つまり250 kgの爆弾または800 kgの魚雷を牽引し、投棄可能なフロートで
少なくとも時速474 km、フロートなしで559 km出せる航空機。

海軍はまた、3台の「晴嵐」を組み立てて飛ばすのに
30分以内でなければならないと規定しました。

尾崎は機体が直径3.5 mの円筒形の格納庫の中に収まるように、
2つのフロートを取り除いたときに主翼桁が90度回転するよう設計しました。
翼を回転させた後、胴体に対して平らになるように折りたたむことができ、
水平尾翼の両側の約2/3も、垂直尾翼の先端と同様に折り畳めます。

すげー!(笑)

いやー、細かい工夫、特に省スペース技術にかけては日本人に勝るものはない、
と兼ねてから思っていましたが、まさに本領発揮って感じです。

ちなみにフロートなしの「晴嵐」を搭載する場合、機体は回収できないので
一旦射出すれば使い捨て、ということになります。

日本の美しい言葉「勿体無い」はどうした、とつい問い質したくなりますし、
その場合搭乗員はどうやって帰還させるつもりだったのか・・。

 

愛知航空機は1943年10月に最初のプロトタイプを完成させ、
11月に飛行試験を開始しました。
1944年2月、2台目の試作機がテスト飛行を行なっています。

初期の結果が満足のいくものだったため、海軍は
愛知が残りの試作機を納入する前に生産開始を命じました。

しかし、1944年12月に発生した大地震(昭和東南海地震、震度6震源津)
が生産ラインを激しく混乱させた後、進捗は事実上停止しました。
さらにB-29爆撃機が空襲を行うようになり、プロジェクトはさらに混乱。
1945年3月には戦況がさらに悪化したため、潜水艦計画は縮小されました。

最初の伊-400は1944年12月30日、伊-401はその1週間後に完成しました。

しかし、伊-402は潜水艦の燃料タンカーに改造され、
実質作業は伊-404と405で終了することになったので、
自然と「晴嵐」の生産計画もまた縮小されることになりました。

最終的に26台の「晴嵐」(プロトタイプを含む)と「晴嵐」を陸上機化した
「南山」2機、合計28機が生産されています。


ちなみに地震大国の悲劇というのか、戦争中でもおかまい無しにこの国は

鳥取大震災(昭和18年9月10日)マグニチュード7.2

東南海地震(昭和19年12月7日)マグニチュード8

三河地震(昭和20年1月13日)マグニチュード6.8~7.1

と短期間に三つの大地震に見舞われています。
まさに泣きっ面に蜂。
三河地震は特に軍需工場地域が被災し、まともな被災者数も
情報統制で明らかにされませんでした。

 

海軍上層部は、伊-400と401、2隻のAMクラス潜水艦、伊-13と14、
そして10機の「晴嵐」爆撃機から構成される第1潜水艦艦隊と
第631航空隊を編成し、指揮官にキャプテン・タツノケ・アリズミ
(有泉龍之助大佐のこと)を配置ししました。

海上試運転の間、部隊は「晴嵐」の組み立て時間を
少しでも減らすために猛訓練を行い、最終的に、乗組員は15分以内に
3機の航空機を(フロートなしで)発射させることができました!

スミソニアンの解説には本当に「!」が付いています。
揺れる潜水艦上でネジ一本無くしても成り立たない航空機の組み立てを
分単位でできるような日本人の器用さなど一切持ち合わせないアメリカ人にとって、
何十年も経った今でも、この事実は驚異でしかないのでしょう。

ここで、わたしが先ほど呈した疑問への答えが出てきます。

この作戦の欠点は、「晴嵐」はフロートがないと安全に着水できない事です。
その場合、パイロットは潜水艦の近くで飛行機を捨てて水に飛び込み
救助を待つしかありませんでした。

やっぱり・・・・。

 

伊四百型と「晴嵐」の運用はおそらく第二次世界大戦中でも
最も野心的な戦略だったといってもいいでしょう。

日本海軍は、第1潜水艦小艦隊に搭載した第631航空隊を使用して、
パナマ運河を破壊することを考えました。
計画立案者は6つの魚雷と4つの爆弾でガトゥン閘門を攻撃するために
「晴嵐」を10機割り当てました。
パイロットは真珠湾を攻撃する前に彼らの前任者がしたように、
運河の閘門の大きな模型をつくり重要な特徴を記憶しました。

しかしそうこうしているうちに英米の艦隊は移動していることがわかり、
目標はウルシー環礁に停泊しているアメリカ軍艦隊の攻撃ということになります。

1945年6月25日、有泉は「光作戦」の命令を受けました。
この計画は6機の「晴嵐」と4機の 偵察機「彩雲」を必要としました。

これは結果的に特攻作戦でした。

伊-13と14はそれぞれ2機のMYRT「彩雲」を運び、それらをトラック島で降ろします。
偵察機はウルシーのアメリカ艦隊を偵察し標的の情報を「晴嵐」に伝えると、
6機の「晴嵐」が最も重要な標的、すなわち
アメリカの空母と輸送船団に対して神風攻撃を仕掛けるのです。

しかしこの作戦はトラブルに見舞われます。

2機の「彩雲」が乗っていた伊-13は、空爆で損害を受け、
その後アメリカの駆逐艦に撃沈されてしまいます。
伊-400は旗艦からの重要な無線を逃し、間違った合流点に行ってしまいました。

そうこうしていた1945年8月16日、有泉司令は終戦の知らせを受け取ります。
乗組員は「晴嵐」のフロートに穴を開け、海中に投棄しました。

この時、伊−400の乗組員は10分で「晴嵐」3機を組み立て、
エンジンを停止し翼を畳んだ無人のまま射出したそうです。

有泉司令は弾薬、秘密書類を投棄させた後、艦内で自決しました。
自室の机には真珠湾攻撃で戦死した九軍神の写真があったということです。

国立航空宇宙博物館のM6A1は、最後に作られた機体(シリアル番号28)で、
今日でも唯一の現存する「晴嵐」です。

アカツカカズオ海軍中尉は福山から横須賀までこの「晴嵐」を輸送し、
そこでアメリカの占領軍に引き渡しました。
航空機はアメリカに輸送され、カリフォルニア州アラメダの海軍航空基地で
定期的に展示されていました。
その後1962年11月にメリーランドのガーバー倉庫に到着しましたが、
屋内の表示/保管スペースが利用可能になるまで12年間屋外で保管されたままでした。

修復作業は1989年6月に始まり、2000年2月に終了しましたが、これらは
スタッフの専門家チーム、多くのボランティア、そしてGarberと日本で働いている
何人かの日本の関係者の傑出した作業のおかげです。

製造図面は残っていなかったため、修復チームはいくつかの欠けている部品を
正確に再現するために様々な航空機システムの徹底的な調査を行いました。

彼らは、独創的なものから不条理といえるようなものまで、
「晴嵐」に組み込まれた興味深い設計機能を見つけました。

この遺産はまた、戦争末期に日本の航空業界を悩ませていた
「困難な労働条件」を表していました。

つまり、働き手を戦線に奪われたために専門職の労働者が不足し
現場で作業に当たっていたのが女子高校生だったりして、
品質と技量は深刻なくらい劣化しているのが明らかな上、
工場が爆撃に度々見舞われていたことを示す証拠さえありました。

例えば、工場が爆撃されてできたらしい金属製のフラップの損傷が
布のパッチで応急的に覆われていた、などということです。

またスタッフは燃料タンクの内部に書き損じが貼られているのを発見しました。
部品の基本的な装着と配置もあちらこちらで不十分と見られました。

翼からは誰か・・おそらく作業をした学生でしょうが、彼なり彼女が
引っ掻いて記した完璧な英語のアルファベットが見つかりました。
のみならず機体のさまざまな場所から
工場で彼らが刻んだらしい落書きが見つかっています。


そして、驚くべきことに、フロートが「投棄可能である」となっていた
設計者の主張にも関わらず、実際の機体からはフロートを切り離すことができる
という証拠はどんなに精査しても見つけることはできませんでした。

愛知航空機は、「晴嵐」生産終了間際には、すでにこの機能を廃止し、
フロートは投棄しないことにしてしまったのかもしれません。


徴用されて労働していた学生たちは、自分の組み立てる機体に
作業の合間にこっそりなんと落書きをしたのか。
戦争中で、しかも軍の飛行機を作っているのにやっていることは
子供っぽく、まるで今の高校生みたいだなあとスミソニアンの修復員たちも
苦笑したのではなかったでしょうか。

 

続く。



イントルーダー・レディルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

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ファントムII乗員のための最初の搭乗員控え室、
「レディルーム#6」という展示を見てからさらに進んでいくと、
別の部屋が現れました。

「イントルーダー・レディルーム」。

言わずと知れたA-6「イントルーダー」部隊の搭乗員控え室です。
「intruder」は「侵入者」という意味なので、それを表すマークは
いかにも侵入を図ろうとする者の鋭い眼をデザインしたものとなっています。

ちなみに同型の電子戦型は当ブログでもおなじみ?「プラウラー」です。
今気づいたのですが、戦闘機が「侵入する人」電子戦機が「うろうろする人」、
「グラウラー」(噛みつく人)と、これ「変な人」シリーズだ(笑)

「ムーミン」に出てくるようなキャラが書かれたボードは
先ほど見た「レディルーム#6」の看板だと思われます。
どうしてここにあるのかわかりませんが、ムーミンの人は間違いなく
「ファントム」で、しかも『II』のマークがついていますね。

その横には「SDO」=Squadron Duty Officerの説明があります。

SDOは司令官の直属の代理ともなる役割で、
レディルームの中では、航空隊のジュニアオフィサーが割り当てられ、
24時間交代のローテーションで任務に当たることになっています。

入港時にはSDOは全ての航空隊員の動向を把握しており、
また空母内の各部署との連絡も取り調整を行うと言った具合です。

ワッチや他の任務についている各自についても全て確認し、
緊急時には全ての人員を必要に応じて招集する権限を持ちます。

それだけの任務を、交代でジュニアオフィサーが行うというのも
航空隊らしいといえばらしいですね。

さて、今度のレディルームは、一部をガラスで囲み、
かつてのブリーフィングの様子を活写する展示となっていました。

この展示にあたっては、改装の過程が写真で記録されており、
ビフォーアフターがわかるようになっています。

左下の白黒写真が、1980年代初頭ごろのこの部屋の実際の様子です。

 

直訳すれば「イントルーダーの飛行」という映画があったようです。
ウィリアム・デフォーは一番右かな?(若すぎてわからん)

調べてみると、日本では案の定

「イントルーダー 怒りの翼」

ってことになっておりました。何が怒りだよ。

Flight of the Intruder - Trailer

ベトナム戦争時代のイントルーダー乗りの話なので、
敵地に不時着してバディを担いで脱出、みたいな話もあるようです。

当時の映画評は低予算のためか散々だったそうですが。

ブリーフィングのデスクは下にオーディオなどのスイッチがあり、
本物であろうと思われます。

コカコーラを瓶で飲んでいるところが時代を感じます。
鉛筆は耳に乗せたかったのだと思いますが、うまくいかなかったようです。

搭乗員となっているのは、後ろの鋭い目の人を見ても
ファッションマネキンではなく、明らかにここ用に作られた人形ですね。

VA-115、ストライクファイター・スコードロン部隊の歴史は長く、
1942年にTBFアベンジャーの部隊として発足し、最初の戦隊章は
ウォルト・ディズニーがデザインしたことでも有名です。

ヘルメットにゴーグルをした天使が魚雷を投げているという・・。

ここで見学記をあげたこともある空母「ホーネット」の艦載機部隊として
沖縄、そしてレイテ島の戦いに参加したという部隊でもあり、
朝鮮戦争を経てベトナム戦争時代はこの「ミッドウェイ」をベースとしました。

その後、湾岸戦争で「ミッドウェイ」が「砂漠の盾作戦」「砂漠の嵐作戦」
に参加した時もここから展開し、その後はホーネットの部隊となって
その後「ロナルド・レーガン」艦載機部隊としてまた再び横須賀を定係港とし、
厚木、そして現在は岩国基地に移動しております。

非常に日本と縁の深い航空隊だということになりますね。

そのうちイントルーダーに乗っていたのは1970年代ということになります。

後ろの三人はマネキン出身らしく男前ばかり。
ホワイトドレスの部屋でサングラスをかけている士官は
ルテナント・ジュニアグレード、つまり中尉であります。

机の上にこれ見よがしに置かれている本はなんと

「LOST INTRUDER」

パーキンソン病を患った元A-6乗りの海軍軍人が、墜落した
イントルーダーをダイビングによって探すというドキュメンタリー。

 

中尉、カッコつけてるけどズボンが短いです!(笑)

奥にある「グリーニーボード」Greenie boardというのは、先日説明した、
LSOによる着艦の際の「評価表」というようなものです。

「フォックス」「ジッパー」(笑)「ボールズ」(笑)「カウボーイ」
「ノットソー」「パグ」(笑)といったようなふざけたパイロットのタックネームが
左端に書かれ、右に着艦の評価が色で表されます。

緑はOK。ちょっとした逸脱があっても修正ができた。

黄色は普通。理由のある逸脱をカバーできれば良い。

茶色はグレードなし。安全性に欠け平均以下の着艦。

ほとんどがグリーン(のはず)なのでグリーニーボード、というわけですが、
ちょいちょい茶色が混じってしまっている人もいるようです。

それ以外の色についても説明しておくと、

赤はウェイブオフ、つまり着陸していない。

自分の空母を間違えて降りようとしたパイロットに向かって、

「ウェイブオフ!ウェイブオフ!」

と叫ぶのでご存知かと思いますが、甲板にはタッチせず、
着陸態勢に入ってからなんらかの理由でやめて通り過ぎることです。

ゴーアラウンドという言葉も同じ意味ですが、海軍では必ずウェイブオフと言います。
日本語では着陸復行といいますがこの言葉が使われたかどうかは謎です。

海軍は戦争中も「ゴーへー」(ゴーアヘッド)とか、ナイスとか、
公に私に英語を使いまくっていたので、「タッチアンドゴー」は使ったようですが、
(元艦上航空機乗りの人が書いていた)着陸復行のことはなんといっていたのでしょうか。

ちなみにウェイブオフをする理由とは、

視界不良で滑走路が見えない
背風(テイルウインド)または横風(クロスウインド)
滑走路上に障害物や離陸機などがある

といったところで、成績的には「ノーカウント」です。
着艦をやめた航空機がその後どこに行くのか気になりますが。

そして、

青は着陸失敗(ボルター)

これはアレスティングフックが引っかからなかった場合。
着陸許可はLSOから出されますが、この場合は自己判断でタッチアンドゴー、
もう一度着艦をやり直すことになります。

例えばこのグリーニーボードの一番下の「パグス」パイロットは、
いきなりボルターをやらかして動揺したのか、再着艦(次のコマ)では
茶色の「ノーグレード」となってしまいました。(-人-)ナムー

また、

赤を緑でサンドウィッチは「完全なパス」、降りる様子もなかった
白はグライドパスを使った「コンピューターによる着陸」、
このうち⚫️がついているのは夜間着陸となります。(点数高い?)

耐圧スーツにヘルメットのフル武装のパイロットは今降りてきたのでしょうか。
赤いシャツはORDNANCE、武器搭載などを行う係です。

こういう人たちがこの部屋にいたんですよ、という展示でした。
このような着艦の評価は、戦争中でも同じように行われたのでしょうか。

イントルーダーを作っているグラマン社によるポスターには、

「A-6イントルーダー。
パワーを知るものはごくわずかです。
そしてそれを手にする者も。

それができるのはグラマン社だけ」

みたいな?(曲訳です)

「ベトナム戦争空戦戦死者」「イントルーダー発進」

「チェリーストリートの少年たち-大学の狂気の純真さがベトナム戦争で無垢を奪った」

ほとんどがイントルーダー乗りだった作家ステファン・クーンツの作品です。
クーンツは司令官まで海軍軍人を務め、退役後コロラド大学で資格を取って
弁護士となりましたが、作家活動をはじめ、現在に至ります。

イントルーダーの模型自慢コーナー。
海軍のイントルーダー、海兵隊仕様(左下)、給油中、そして
一番右のは試験機でしょうか。

 NAVY/MARINES

と機体にペイントされています。

イントルーダーで使われていたコクピットの装備色々。

「高度計」「ウェットコンパス」(航空機用コンパス)

「攻撃角度のためのインジケーター」

「爆撃ナビゲーター用のradar slews tick」(ロック機能付き)

「”オールドスクール”のフライトコンピューターマニュアル」

離発着に関係する部品。

「『ロナルド・レーガン』のアレスティングギアワイヤ一部」

「仕様&未使用のA-6カタパルトのカタパルトと機体を連結すもの」

「A-6Eなどのジェットエンジン”ブーマー缶”」

bumar canエンジンというのがわかりませんでした。

 

上左から:

「VA-15ブーマーズ」「52ナイトライダーズ」「VWA121グリーンナイツ」

「224ベンガルズ」

下段左から:

「VA-205グリーンファルコンズ」「VA-304ファイヤーバーズ」

「VA-95グリーンリザード」「VMSJ-2プレイボーイズ」

プレイボーイズはヒュー・ヘフナーの許可を得たのでしょうか。

実際のイントルーダーコクピットが再現されていました。

空母「キティホーク」にアプローチしようとしている
イントルーダーの爆撃手目線だそうです。

バニーちゃんがお酒を運んでいるマークのイントルーダー部隊。
これは海兵隊基地を見たことがある私に言わせると本物で、
実際に基地に掲げてあったものだと思われます。

ウェストパックということは、ミッドウェイが横須賀に定係していた頃ですね。

 

続く。

 

「POW MIA」あなたたちを忘れない〜空母「ミッドウェイ」博物館

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空母「ミッドウェイ」の搭乗員控え室展示を順番に見ています。

「イントルーダー」の記念展示室にあった「チェックオフリスト」。
スプリンクラーや換気バルブ、消火栓や消火ホースそれぞれの場所が
艦内での現在位置を表す番号で示されており、
それぞれは定期的にちゃんと稼働するかどうか点検が行われます。

これは本当にここにあったチェックリストらしく、最後にチェックした
1991年9月15日の日付と担当CPOのサインが確認できます。

「ミッドウェイ」はこの半年後の1992年4月に退役しました。

 

最初のレディルーム展示のあった「レディルーム#6」に入った時のことです。

入ってすぐのところにあるオーディオツァーの説明には、なぜか
「POW Story」(捕虜物語)として、
ベトナム戦争時に捕虜になったパイロットについての説明がありました。

さらに、レディルームの出口にはこのようなパネルがありました。

名前と階級の間にはパープルハートやネイビークロスなどの勲章が飾ってあります。

左のシンボルには、「POW MIA」「あなた方を忘れない」

まず「POW」は「Prisnor of war」戦時捕虜、そして
「MIA」とは「Missing in Action」戦闘中行方不明を指します。

監視塔と鉄条網、そして捕虜のシルエット。
これが戦時捕虜と行方不明者の家族会のマークとなっています。

ベトナム戦争で捕虜になったり、あるいは行方不明になって帰ってこなかった
兵士は、2017年現在で1,611人もいるのです。


ファントムIIに乗っていたパイロットも、多くが命を失いました。
右側に並ぶ名前は全てパイロットで、名前の横の
KIA(キル・インアクション)は空戦中に撃墜されたとされる人、
そしてPOWは捕虜になってそのままいまだに行方不明の人です。

この場合のPOWは、MIAも含み、

「捕虜になった、あるいは状況的に捕虜になったと考えられる」

人たちのことです。


アメリカ軍ではパイロットは全て士官なので、この名簿もその階級は少尉から中佐まで。

Lieutenant Commander (LCDR) 少佐 [O-4]
Lieutenant (LT) 大尉 [O-3]
Lieutenant Junior Grade (LTJG) 中尉 [O-2]

という「働き盛り」の階級が中心です。

数えてみたところ、1965年の4月から72年の8月にかけて
106名のパイロットが戦死あるいは捕虜となり、
二度と帰ってこなかったということになります。

さらに内訳は、

空戦戦死 64名、捕虜あるいは行方不明 42名

となり、戦死とわかっている割合が多いのに気がつきます。

 

ベトナム戦争は1955年から始まっていますが、
ファントムが運用されるようになったのは1960年からですから、
この飛行機は新兵器デビューするなり実戦に投入されることになりました。

また、前回お話ししたA-6イントルーダー戦闘機も1963年生産開始なので
戦時生まれの実戦デビューとなります。

イントルーダーのレディルームにはこのような展示があり、目を引きました。

レディルームには、かっこよさや強さを賛美するばかりでなく、
こんな「負」の展示もあります。

地上に激突して粉々に砕け散ったイントルーダーの機体の破片です。

イントルーダーを一目でそうと認識するアイコンでもある、
特徴的な「ツノ」型の燃料プローブがかろうじて原型をとどめています。


先日のF-35の墜落事故でわたしたちは改めて思い知ったばかりでもありますが、
航空機、特に戦闘機の訓練は平時戦時を問わず常に危険と隣り合わせです。

特に、戦争継続中に航空隊に編入されたイントルーダーパイロットに対しては、
何時間にも及ぶ全天候下での空戦技術や、低空での飛行、
数え切れないくらい繰り返される爆撃シミュレーションなどの訓練が
短い期間(通常1ヶ月だったといわれる)の間に集中的に行われたため、
当時150名以上の海軍と海兵隊のイントルーダー乗員が
その訓練中に事故による殉職をしたといわれています。

このイントルーダーの破片は、オレゴンの訓練場でクラッシュし、
バラバラになった二機の残骸です。(個別の事故によるもの)

どちらのイントルーダーも、事故発生時は夜間低空飛行での訓練中でした。

まるで紙くずのようになってしまったイントルーダーの破片がここにも。

詳しいことはそれ以上書かれていないので、この二機のイントルーダーが
同時に事故を起こしたのか(接触などで)、それとも別の事故なのかわかりませんが、
二機のうち一機のパイロットは生還し、もう一人は殉職したとだけ書かれています。

先ほどの展示に書いてあったように、確かに対MiG戦キルレシオ(撃墜比率)は
駆動性の高いと言われるMiGを相手に大変高かったわけですが、
イントルーダーの場合一度のクラッシュで乗員2名が失われるため、
彼我の戦死者の数はこちらが確実に多かったとされます。

先ほどのファントムII乗員の犠牲者名簿も、ABC順の記載なので判別できませんが、
同じ日付で亡くなった、あるいは行方不明になった二人は
同一の航空機に乗っていたという可能性もあるということです。

ちなみに今ちょっと名簿を探してみると、たとえば

1967年5月19日に未帰還になったスティア中尉とアンダーソン中尉、
65年12月29日に空戦戦死したローズスローン大佐とヒル大尉、
67年4月4日に空戦戦死したツェイラー大尉とマーチン少尉

というように、必ずと言っていいほど同一戦死日時によるペアができます。

 

次回は、航空機が撃墜された後、もし海上に着水したら?
というサバイバルについてお話しします。

 

続く。

ブラッド・チット〜空母「ミッドウェイ」博物館

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さて、今日はイントルーダーなど、空母艦載機搭乗員の
サバイバルにまつわるレディルーム展示室の展示からお話しします。


航空機搭乗員は航空機事故や不時着に備えて、
対策するための装備を航空機に搭載しています。

ここには「パーソナル・サバイバル・ギア」としてこんな説明がありました。

航空機から脱出して海上あるいは敵の陣地に降下することになると
搭乗員は救出される、あるいは脱出できるまで個人でなんとかせねばなりません。

携帯サバイバルギアには、このような機能が求められます。

● 応急手当てができる

● 信号を送る&通信する

● 長期間生存が可能である

ここに展示してあるアイテムのほとんどはA-6イントルーダー乗員のものです。

上段左上から

搭乗員サバイバルのための用具とそのテクニック スタディカードセット

楽しくカードでサバイバルについて学ぼう、というものでしょうか。
遭難してからカードを見ているようでは間に合わないのでは・・・。

航空機、救命いかだ用食物 賞味期限1982年6月3日

中の食べ物がなんなのか一切書いていないのが不親切。
賞味期限がたとえ切れていても遭難したら食べるでしょうけど。

サバイバルナイフ

素っ裸でジャングルに放り出される体験型番組ネイキッド&アフレイドでも、
たった一つ持ってきてもいいガジェットにナイフを持ってくる人がほとんど。
サバイバルの基本です。

懐中電灯

頭につけることも(無理すれば)できそう。

下段左から

携帯トイレ

PIDDLE-PAKというのが商品名です。
エチケット的には必要なのかと思いますが、海上を遭難している時、
なぜわざわざパックに用足しをするのか、ちょっとわかりません。

まさか、飲(略)


サバイバルプラントの知識 スタディカード

これもカードで楽しく学べるシリーズです。
食べられる植物、食べてはいけない植物が図解になっていると見た。

乾電池

オリーブドラブの紙ケースに入っています。

超小型サバイバルの知識カードと鉛筆

鉛筆は案外あると便利かもしれません。

下段左から

エアマスク的なもの

カッター

救急救命マニュアル

アメリカ国旗

最後は使用に関して注意が必要です。
どこでもこれを出していいかというとそうでもなかったりします。

しかし、アメリカ人であることを伝えてなんとか助けてもらえそうなら、
その時にはこれを出してみましょう。

これは、右側の説明にあるように

BLOOD  CHIT (ブラッドチット)

というもので、イントルーダーの乗員は敵のテリトリーに飛ぶ際、
必ずこの布を身につけていました。

みなさん、「ブラッドチット」って聞いたことありませんか?
ほら、アンジェリーナ・ジョリーの旦那の。


それはブラッドピットや、と即座に突っ込んでいただきありがとうございます。

チットは小さなメモのことで、イギリス英語が語源です。

ブラッドチットは撃墜されたパイロットが、地上に降りたとき、
そこで遭遇する可能性のある一般市民に助けを求めるためのものです。

わたしはあなたたちにとって危害を加えるものではない
アメリカ軍の軍人であるが、もしわたしを助けてくれたら
わたしの国はあなたに報酬を支払う用意がある


というようなことが書かれているのが通常です。
ブラッドとあるのは、搭乗員の血液型などが書かれることもあったからでしょう。

日本軍ではその類いのものは一切用いられませんでしたが、
アメリカ軍は日中戦争であのフライングタイガースがこれを用いていました。

漢字だと我々には意味がよくわかりますね。

来華助戦 洋人 軍民一體 救護

「この外国人は戦争の努力を手助けするために
中国にやって来ました。
軍民は一体になって彼を助け、守るべきです」

こちら朝鮮戦争のブラッドチット。

日中戦争のブラッドチットには、当たり前のように

「わたしは日本人の敵です」

と書いてあったそうですが、この度は日本語でも記述があります。

わたしはアメリカ合衆国の航空兵です。
わたしの飛行機が撃墜されたので困っております。
しかしわたしは帰って、世界平和のために
また帰国のために再び戦う覚悟です。
もしあなたが最寄りのアメリカ軍基地に
連れて行ってくださればあなたの為にもなるし、
アメリカ政府はあなたにお礼を致します。
お互いに助け合いましょう。

誰か日本人に作成してもらったのだと思いますが、
あまり文章力のある人ではなかったって感じ?

「困っております」とかはなんだか微笑ましい?ですが、
「あなたの為にもなるし」ってなんでそんな上から目線なんだ?
とムッとする人もいるかもしれません。

「お礼をするのであなたにもそれは利益になりますよ」
って言いたかったんだと思いますが。たぶん。

 

さて、ここにあるイントルーダー乗員の持っていたチットには、
漢字でこんな風に書かれています。

我是美國公民、我不會説中國話、我不幸要求幣我獲得食物、

住所和保護、請ニイ(あなた)領我到能給我安全和儲法送

我回美國的人那裡 

美國政府必大大酬謝ニイメン(あなたたち)

中国語ではとにかく謝礼を強調し、助け合いましょうとかはなく、
世界平和などには一切触れていないのが、なんとなくですが
中国人をアメリカ人がどう思っているかを表している気がします。


続く。

 

 

マグニフィセント・ライトニング「震電」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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以前、戦艦「マサチューセッツ」の内部にあるちょっとした航空機コーナーに
「震電」の模型を見たとき、後ろと前を間違えてしまったことがあります。

わたしの類稀なる機体音痴を棚にあげるわけではありませんが、
それくらいこの日本海軍が試作していた局地戦闘機は特異な形状をしています。

 

まずはスミソニアンが所蔵している「震電」の完全形をご覧ください。
博物館の説明によると、

九州飛行機 J7W1「震電」(Magnificent Lightning)

日本海軍のJ7W1「震電」は、第二次世界大戦中生産注文された戦闘機中、
唯一の「カナード(Canard)翼」を備えた航空機でした。

カナードはフランス語を英語読みしたもので元々の意味は明らかではありませんが、
航空設計関係者の間で使われるようになった言葉です。

 

日本ではカナードは前翼のこととされており、ウィキペディアの
「震電」の解説でも「前翼型」と説明されています。
カナードをもつ固定翼機には「エンテ(Ente)型」という呼び名がありますが、
このエンテというのはフランス語の「Canard」と同じく「鴨」を意味します。

わたしはフランスに行くと、デリやレストランでも、
フォアグラを取るために肥育させた鴨の胸ササミの部分である

「マグレ・ド・カナール」

があると目の色を変えて注文してしまいます。
適度にさっぱりしていて美味しいんですよね。

というのは全く関係なくて、その飛ぶ姿が鴨に似ているから、
という理由でそう呼ばれているそうですが・・・ほんとかしら。

ところでこの白黒写真ではカナードもエンテも全くその存在がわかりません。

Wikiにわかりやすい「震電」のイラストがありました。
真上から見た「震電」のノーズに、小さな尾翼みたいなのがありますが、
これが「前翼」であり、カナードもしくはエンテと呼ばれるものです。

というところで、初めてスミソニアンの「震電」をご紹介するわけですが、
残念ながらこんな部分だけ、全く修復なしの状態で放置されています。

「震電」の躯体が転がらないように黄色い移動用を兼ねた展示ラックが
ちょうどカナードの生えていた部分を串刺しにしております(T_T)
前翼がまっすぐではなく若干弓形カーブを描いていたことがわかりますね。

博物館の説明です。

「カナード」とは、胴体の後部に主翼を取り付け、機体前部に
小さな翼を固定した航空機を表すためのことばです。

アメリカでは、カーチス-ライト社と陸軍航空隊とがカナード航空機、

Curtiss XP-55 Ascender (アッセンダー、上昇する者の意)

を使って実験したことがあります。

Ascender

しかし、J7W1「震電」はもっと進歩していました。

「アッセンダー」も「震電」も、いずれも革新的で珍しいものでしたが、
いずれも試作の初期段階に至ることはありませんでした。

スミソニアン別館にはこのような状態、「晴嵐」の翼の下に
庇護される雛鳥のような状態で置かれています。

それにしてもスミソニアン修復スタッフが「晴嵐」修復に
えらく力を注いだというのがこれを見るとよくわかりますね。

さて、従来型戦闘機の常識を覆す革新的な前翼型戦闘機は
空技廠(海軍航空技術廠)の技術大尉、鶴野正敬が考案したものです。

再びスミソニアンの解説です。

日本海軍の技術者の一員として、鶴野は既存の航空機よりも優れた性能を持ち、
連合国の航空機に対抗するための急進的なデザインを思い描きました。
当初から鶴野は、ターボジェットエンジンが究極の推進力になると信じていたのです。

基本的なコンセプトを証明するために、横須賀に拠点を置く空技廠のスタッフは、
木製のMXY6カナードグライダーを3機設計製作し、試験を始めました。

主翼のエルロンの内側に2つの垂直尾翼表面を持った後退翼機。(イラスト参照)
実験機のうち1機には小型の4気筒エンジンを搭載しました。

 

一連のテスト飛行は好結果だったので、試作の前段階に当たる
プロトタイプを製作することになりました。
製作を請け負った九州航空機にはそういったオーソドックスな航空機の
生産経験が欠けていたにも関わらず、海軍は九州飛行機に
高性能のカナード迎撃機を設計するように命じたのです。

なぜこのとき九州飛行機が選ばれたかというとその理由というのが

「九州飛行機が他に比べて暇だったから」

海軍は零式艦上戦闘機が既にデビューから時間が経ち、当然
敵からは研究され尽くしているだろうと考えていました。

零戦に変わる画期的な戦闘機を模索していた源田実軍令部参謀と、
同じ考えから「震電」を構想した鶴野大尉によって、1日でも早く
新兵器を開発しようということになったのでしょう。

スミソニアンによるとこうです。

専門性ではなく稼働できるかどうかが選択の決め手となりました。
より能力の高い企業はすでにフル稼働しており、
まったく新しい航空機の設計には対応できませんでした。
海軍は九州の設計スタッフを、鶴野を含む追加のエンジニアで
補強しなければなりませんでした。

全方面からその能力をディスられる九州飛行機さん、かわいそす。

しかし結局作業は1944年6月に始まり、2機の試作品のうち最初のものは
10か月後に完成しています。
ドイツから指導のため技師を招聘し、通常なら1年半はかかるところを
6000枚の図面を書き上げるのを半年で済ませてしまったのですから、
この点は大したものだと褒めて差し支えないでしょう。

この制作にあたって、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、
熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制に備えました。
その数は最盛期には5万人を超えたといいます。

 

「震電」のコクピット。

エンジンは胴体の後ろ半分の内側後方に取り付けられました。
星型の空冷式エンジンが動かす6枚翅のプロペラは機体の後部に、
ノーズの下に1つの車輪と支柱を、翼の下に2つの車輪からなる
三輪車の着陸装置が装着されました。

今日、この配置は一般的ですが、第二次世界大戦中は
ほとんどの戦闘機が尾輪を採用していたのです。

補助ホイールは各垂直フィンの底部に取り付けられました。
2つの補助装置を含むすべての5つの車輪は、収納式。
武装はノーズの中に4基の30 mm五式固定機銃。
これらの銃の重さは胴体の後ろでエンジンとプロペラの重さと
のバランスをとるのを助けました。
各銃は毎分450発砲することができました。

コクピット左側のレバー類。

「脚」とは車輪のことで、レバーには

下ゲルー中正ー上ゲル

と書かれています。
「中正」とはニュートラルのことでしょう。

 

戦争による危急の必要性から、異例のこととはいえ、海軍は
初飛行も行わないうちに「震電」の生産を現場に命じ、
2つの生産工場で毎月150台の機械を生産することが計画されました。

しかしエンジン冷却に問題が生じたこと、空襲による機材調達の遅れ、
および航空機業界のあらゆる部分で発生した全国的な混乱により、
「震電」は初飛行となる1945年8月3日まで空を飛ぶには至りませんでした。

昔、愛知の航空工廠で聞いた「零戦の部品を牛車で運んだ」という話ではありませんが、
この「混乱」の具体的な理由は、九州飛行機が疎開を行い、その際
部品の運搬を夜中に牛車で行なった、いうことなどです。

初飛行後、8月6日、そして9日、つまり人類史上二発の原子爆弾が
日本本土に落とされたその両日にテスト飛行が行われ、そして
それきり「震電」が空を飛ぶことはありませんでした。

鶴野大尉は終焉が近づいていることを感じたかもしれません。
しかし彼は慎重で、保守的なテストパイロットでした。
彼は「震電」が飛行中の計45分間、最後まで
ランディングギアを上げることはありませんでした。

そしてこの短いフライトで、「震電」にはいくつかの
深刻な問題が潜在していることが明らかになったのです。

日本のwikiはこのあたりを簡単にこう記しています。

1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。
続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し
三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

この「問題」とは、

飛行中プロペラの関係で期待が右に傾く

機首が下がり気味

エンジンの油温の上昇

降着装置が脆弱で荒れた航空路では使用できない

などで、しかもベテラン搭乗員がことごとく戦死していた当時、
未熟なパイロットにこの難しい「震電」が
果たして操縦できるのかなどという問題も残っていました。

 

ところで、レシプロエンジン機さえ問題多発だったことから、その実現性には
かなり疑問は残りますが、海軍は将来的に「震電」を「震電改」とし
ジェット機にするという壮大な構想を持っていました。

この計画を聞かされた技術者は、

「震電の発動機の配置からすれば、ジェットエンジンへの換装は
そんなに難しいことではない」

とその時思ったことを述懐しており、スミソニアンでもまた、

九州飛行機は戦争が終わったとき、設計のトラブルシューティングを行い、
ターボジェット推進バージョンの計画を進めていた。

と記述しているのですが、これは若干の買いかぶりというしかなく、
実際にはエンジンの開発は全くそんなレベルを視野に入れるまで進んでおらず、
というか当時の日本には耐熱金属を作るための希少金属が枯渇していたことから、
(というか日本はそのために戦争したようなもんですからね)
試作にこぎつけることは現実的には難しかったのでは、というのが後世の評価です。

 

スミソニアンに展示されている「震電」の胴体は最初の試作品です。

アメリカ海軍諜報部の技術者は日本でこれを解体し、1945年末に、
テストと評価のために他の約145の日本機と一緒にアメリカに送りました。

しかしJ7W1「震電」を誰かが操縦したという記録はどこにも残っていません。

  それにしても、試作で終わってしまったため、コードネームを持たない
「震電」に「壮大な稲妻(マグニフィセント・ライトニング)」などという
曲訳にも程がある(笑)命名を行なったのは一体誰だったのでしょうか。       続く。

 

ライトアタック・レディルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

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 空母「ミッドウェイ」、フライトデッキの一階下にある、
搭乗員の控え室展示、三番目のドアにやってきました。

AD/A1 スカイレイダー

A-4 スカイホーク

A-7 コルセアII

とその搭乗員に関する展示室ですが、わたしは

NAVY/MARINE LIGHT ATTACK

という表示に気がつきました。
はて、「ライトアタック」=軽攻撃とは?

調べてみると文字通り軽い飛行機での攻撃のことですが、
(それでは「重い攻撃」はあるのかな?)英語のwikiを検索してみると、
Light Attackは「武装偵察」=Armed Reconnaissanceと並べて

LAAR(軽航空機での武装偵察)

と四文字の言葉で表すことがわかりました。


ところでみなさん、コルセアIIのデビューについてですが、
アメリカ軍でスカイホークの後継機を選定する段階で浮上した

「VAL 計画」 Heavier-than-air, Attack, Light competition

がそのきっかけになっていることをぜひ覚えてください。

「ヘヴィアーザンエアー」とは空気より比重が重いという意味ですが、
これは

「空気より少し重いけどとにかく軽い飛行機」

という意味で、コンペティションとついていることからもお分かりのように
このときアメリカ軍は次世代軽飛行機選定に先駆けてコンペを行なったのです。

しかしてこのときのアメリカ軍の要求条件はとは次のようなものでした。

「スカイホークの二倍の武器を搭載でき、
かつ艦載機として空母から発進することができること、
沿岸から最大で520~610kmの内陸部まで進出でき、
地上部隊を支援することができる」

その結果、各社からは以下の通り、

LTV(ヴォート)F-8 クルセイダーの胴体短縮型V-461A-6 

ダグラス A-4の発展型A4D-6

ノースアメリカン FJ-4 フューリーの発展型

グラマン イントルーダー艦上攻撃機の簡略化型

といった既存の機体の軽量化した案が出てきましたが、
最終的に採用されたのがLTV社案で、クルセイダーの短縮型。
これがのちの

A-7 コルセアII 

となったというわけです。

ですからこのライトアタックという称号は、コルセアII以前の
スカイレイダーとスカイホークには当てはまらないということになりますが、
いずれも軽量であったことからこのように括っているのでしょう。

スカイホークはあのエド・ハイネマンが、

「軽量、小型、空力的洗練を追求すれば自ずと高性能が得られる」
とのコンセプトに基づき、海軍側の見込んだ機体重量14tの
半分に満たない6.7tという小型かつ軽量な機体に仕上げた(wiki)

ことから、典型的な「ライトアタック」と呼んで差し支えないでしょうしね。

さて、それではドアの中に入っていきましょう。
長い廊下が搭乗員控え室に繋がっています。

かつてスカイレイダーの航空隊が「ミッドウェイ」艦上から展開していた
1958年8月から1959年3月までのメンバーの名前が書かれています。

10年ほど前、かつての乗員からなる協会が制作して寄付しました。

スカイホーク協会も展示に協力しました。 

廊下を少し行くと。搭乗員のロッカールームが現れました。
フル装備のパイロットがスタンバイ(冒頭写真)しています。

昔、岩国の海兵隊基地で、わたしはホーネットドライバーのブラッドに
まさにこんな感じの搭乗員控え室に入らせてもらったことがあります。
息子はほんものの耐圧スーツとヘルメットを付けてもらい、興奮気味でした。

無理かもしれませんが、自衛隊がもしここまですれば、
青少年の志願者が少しは増えるのではないかという気もします。

この部屋は「レディルーム3」と名付けられています。
かつて実際に使われていたレディルームの椅子を、これまた
海軍航空隊に実在したパイロットの名前入りの椅子を設えました。

椅子にはメンバーの名前が背中に、タックネームが背もたれの上部に、
大きくパッチされています。

中央に見えている「マイク・エストシン」は1967年4月26日、
空母「タイコンデロガ」から発進して火力発電所の攻撃に向かう途中、
地対空ミサイルの攻撃を受けて乗っていたスカイホークが撃墜されました。

当初彼のウィングマンの撃墜報告に基づいて戦死扱いになっていたところ、
ハノイから実は彼は捕虜になっている、という報告が上げられました。

しかしその後24年も経った1993年になって、やはりそれは間違いで、
彼が撃墜されていたということがようやく明らかになったのです。

気の毒だったのは被撃墜を認定した列機のジョン・ニコルスでした。
彼は実に四半世紀の間というもの、自分が撃墜認定を誤って、救助任務を行わず、
そのためエストシンを見殺しにしたと思い込んで罪悪感に苛まれていたそうです。

エストシンは死後大尉に昇進し、ネイビークロスやフライングクロス、
パープルハートなどの各種勲章を授与されています。

ニコルスにとってわずかによかったことがあるとすれば、生きているうちに
自分があの時エストシンを見殺しにしたのではなかったと知ったことでしょう。


彼の左席の緑のカバーには名前とともに例の「POW MIA」という字が見えます。
エストシンは違いましたが、これは捕虜になった(POW )あるいは
ミッシングインアクション(MIA)未帰還となったパイロットのことです。

当時のアメリカはまだ公の場で喫煙することが許されており、
「ミッドウェイ」でもハンガーデッキ、フライトデッキ、そして
廊下以外では基本どこでも喫煙することができたので、
ブリーフィングルームのチェアにも灰皿が付いていたりします。

Fighting red cocks というのは現在はF/A-18Fスーパーホーネットの戦隊で、
ベトナム戦争時代はスカイホークとコルセアIIに乗っていました。

トレードマークはロードアイランドの戦う赤い雄鶏で、コールサインは
「ビーフ」と「ビーフ・イーター」を交互に繰り返すというものだそうです(笑)


デザイン的にはイケてませんが、艦上で目立つためのテープが貼られた
この派手なつなぎが着艦誘導係の基本スタイルです。

わたしは勝手に「うちわマン」と呼んでいるのですが、
(多分ラインマンとかいうのだと思う)着艦の際に目で見る誘導を行う係です。

かつての艦載機部隊パイロットの私物が記念として展示されています。
ヘルメットなどはおそらくアメリカ軍でも返却することになっているのだと思います

ヘルメット左の「サバイバルラジオ」は防水仕様になっています。
紙バインダーに挟まれているのは通信記号の色々。時代ですね。

A-4のコクピットにあったガンサイト。
これだけ単独で作られています。

これらの所有者であるかつてのA-4乗りオーウェン・ウィッテン氏が
2008年に亡くなったとき、家族がここに寄付した遺品のようです。

写真上段は現役時代のウィッテン氏。

 

コルセアII、スカイレイダー、スカイホーク「ライトアタック戦隊」の
スコードロンが使用していたオリジナルカップ。
真ん中のコーヒーサーバーは彼らにとって懐かしいものに違いありません。

このケースは海兵隊戦闘機隊の展示です。
説明ではいきなり、

「海兵隊航空隊は(海軍とは)違う!」

として、彼らの任務は

「陸海の攻撃隊をサポートするためにそこにいること」

一言で言うと「クローズ・エア・サポート」です。
帆船時代に船に乗り込み警備を行っていた頃から海兵隊の存在意義は変わっていません。

スコット・マクゴーの「USSミッドウェイ アメリカの盾」の付記には、
「ミッドウェイ」就役から退役までの亡くなった乗員名簿がありますが、
ここにあるのは海軍と海兵隊の軽戦闘機パイロットの殉職者名簿です。

付記にはMIA(ミッシングインアクション)とされている死亡理由が、
ここではさらに細かくこんな記号で表されています。

AAA=Antai-Aircraht Artillery 敵機の銃撃

SAM=Surface- To-Air Missle 対空ミサイル

MiG=Enemy Aircraft MiGに撃墜された

A/C=Aircraft 航空機

DAP=Died As Pow 捕虜になり死亡

その他、事故などの原因を列記していきます。

Own Ordnance  搭載武器の自爆でしょうか。

Collosion 衝突

Fall / Deck Fall デッキから、またはデッキへの転落事故

Sea Inpact 海に墜落

Catapurt Mishap カタパルト事故

Landing Mishap 着艦時の事故

Terrain わかりません。機位を失い帰還できなかったか?

Malfunction 機体不具合

Unknown 実はこれが非常に多い

先ほどのスコット・マクゴーの名簿には、パイロットだけでなく
死亡乗員の名前とその死因が掲載されています。

死亡原因ではないですが、日本滞在中に病気で亡くなったらしく
「横須賀海軍病院」と書かれた人もいます。

切ないのは、ほんの時々「溺死」とか「オートアクシデント」があること。
艦上の車の事故とは、すなわち牽引車によるものではないのでしょうか。


ところで、湾岸戦争に参加した1990年代の殉職者理由には、

Flying Squad Fire

というのがありますが、もしかしてスカッドミサイルにやられた?

聖書の一節が書かれた写真盾は、「ミッドウェイ」乗員だった
アムサー・エドガー・セス・ムーア・ジュニアさんの家族が、
「ロスト・アト・シー」つまり海に落ちて行方不明になった際、おそらく
捜索に当たった第56戦隊に、彼の死後10年を記念し贈られたものです。

 

殉職パイロット名簿の下段にはこんな言葉が書かれています。

主よ、偉大な空の高みを飛んだ男たちを守り給え

嵐の闇の夜も、朝の光さす時もともに座し給え

嗚呼、我らの祈りを空に消えていった男たちに聞かせ給え

続く。

 

 

 

「トップ・ガン」コーナー(presented by Cubic)〜空母「ミッドウェイ」博物館

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「ミッドウェイ」の搭乗員控え室、レディルームを利用した展示を
三部屋観たあと、こんなコーナーに出てきました。

トップガンコーナーです。
字の下にあるのが何かはこれを見終わったらわかることになっています。

1968年、ベトナム戦争で、海軍航空隊の搭乗員は、空戦記録において
キル・トゥ・ロス・レシオ(キルレシオ、撃墜対被撃墜比率)
2:1という数字しかあげられませんでした。

朝鮮戦争で12:1だった圧倒的な数字がここまで落ち込んだ理由は
空戦となった時、ミサイル万能論の時流に乗って機関砲を搭載していない
アメリカ海軍の航空機が、旧式のMiG17の機関砲にやられたことにありました。

この結果を重く見た海軍は、ミサイルのあり方を見直すとともに、
CNO(チーフ・オブ・ネイバル・オペレーション)は、
フランク・オルト大佐に報告書を提出させました。

世に言う「オルト・レポート」です。

オルト・レポート。

 

レポートの主眼は、空対空ミサイルの能力についての研究でした。

仕様通りに設計および製造された高品質の製品が提供されているか 海上および陸上の航空隊の戦闘機ミサイルは最適の状態で稼働しているか 戦闘員はミサイルシステムの能力を完全に理解し活用しているか  空対空ミサイルシステムの修理は万全であるか

このレポートから浮かび上がってきた問題点の解決策として、海軍は

ネイビー・ファイター・ウェポンズ・スクール

つまり「トップガン」を設立することを決定したのです。

当時F-4ファントムIIの訓練を行なっていたVF-121を「たたき台」にして
カリフォルニアのミラマー基地にトップガンが誕生したのは、
1969年3月3日、奇しくも日本ではひな祭りの日でした。関係ないか。

 トップガンの生みの親、オルト大尉。

英語で調べても、彼の経歴は「トップガンを創設した」と言うことしか触れられておらず、
つまり特にこの人が軍人として秀でていたというわけではなさそうです。

たまたまその配置にいて、命じられた仕事を真面目にやり(オルトレポート)
その結果から対処法を考えたところ、(トップガン創設)それが大当たりしたと。

そんな気がします。

右側のを愚直に翻訳しておくと、

-レーダーで互いにコンタクトを取る

-角度 待ち伏せ

-太陽を利用する

-相互協力

-コミニュケーション

-素早く一人の敵(ボギー)をやる(KILL)

その他

-合流後#2を見失う

-#1がエネルギーを放出する

-タイマンでの空戦

-#1のむき出しのテイルパイプを攻撃

-燃料の状態

後半がどうもよくわからないんですが、おそらく
戦闘機パイロットならわかってしまうのでしょう。

トップガンの目的は空戦のマニューバや戦法そのテクニックなどを
ごく限られた優秀な搭乗員に教え、それを全体に広めることでした。
そのためトップガンはソ連軍のMiG -17や21のペイントをした
戦闘機を使って、空戦の訓練を行なっていました。

トップガンは、航空隊で最も優秀とされる搭乗員が選ばれました。
厳しい訓練を終え、卒業して元の部隊に戻ると、彼らは自らが教官となり、
自分の得た技術を部隊に伝え、全体の技術の向上をはかったのです。

これを聞いて、わたしは途端に思い出したことがあります。

自衛隊音楽まつりにおける、自衛太鼓の練習方法です(笑)

各部隊から一人、代表を太鼓の総本山である北海道の駐屯地に送り、
彼が学んできたことは彼が教官となって自分の部隊に伝授し、
そして全員がその技術を自分のものにしていく。

そうか・・・自衛太鼓は「トップガン方式」だったんだ・・・。

空戦における操縦の範囲とは、として、
通信やトラッキングなどの設備との関係を図で示しています。

 

最初の頃(1970年初頭)のトップガンのみなさんです。
後列真ん中のツナギを着た無帽の人物がオルトだと思われます。

前の四人はいかにもできそうな雰囲気の人ばかり。
右から二番目がマーベリック、一番左がアイスマンってとこですかね。

ちなみに当ブログでもちょっと煽ってみた「トップガン2」は、
なんとマーベリックが乗るのが今更のF-15だったため、

「なんでF35じゃないんだよ!」

と主にアメリカ海軍と空軍(と海兵隊)の間で騒然となってるらしい(笑)

ベトナム戦争時代のトップガンは、時代を感じさせるヒゲと長いもみ上げスタイル。
MiGを撃墜したトップガン、ヴィック・コワルスキ大尉(左)とジム・ワイズ中尉。

クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」で、イーストウッドは、
ベトナム帰還兵だったコワルスキーを演じましたが、この名前など
彼からとったのではないかとふと思いました。

こちらヒゲのないコワルスキとワイズ。
どちらが撃墜直後の写真かはわかりません。
二人がMiGを撃墜したのは、1973年1月12日のことでした。

1990年代にミラマーからネバダのファロン基地に移るまで使われていた
訓練支援用のコンソール。
このディスプレイを見ながら模擬空戦にあれこれとご指導するわけです。

今表示されているのは1980年代のある日レコーディングされた訓練です。

2005年にキュービックディフェンスアプリケーション社が寄付し、
それをきっかけにこの「トップガンコーナー」が作られたということのようです。

一番右は実際のコンソール使用中。
真ん中はブリーフィング中。
左の壁には敵機のシルエットが脳髄に刻まれるように描かれています。

1990年代にミラマーから移転したネバダ・ファロンのトップガン講義中。

これがファロンの海軍戦闘機兵器学校、トップガンのエントランスです。

アドバーサリー(敵役)F-18ホーネットを務めるトップガン。

 

キュービック社が提供したコーナーですので、でかでかと宣伝を。
モニターにはトップガンの歴史ビデオを放映していました。

 

ジョン・リーマンは共和党の議員で、レーガン政権下の海軍省長官でした。

老いたる「ミッドウェイ」を生き返らせて現場復帰させるという

「600艦隊構想」

を推し進めたのは実はこの人です。
ちなみに潜水艦建造の不具合を記載した書類を偽装したという件で、
あのハイマン・リッコーヴァーに引導を渡したのもこの人です。

海軍省長官としては異例の若さ(当時39歳)だったリーマン、
おそらくこの時にはトップガンの視察にミラマーに訪れたのでしょう。

もみ上げから見て(笑)ベトナム戦争時代の「ミッドウェイ」艦上戦闘機で
MiGを撃墜したとかそういうパイロットだと思います。

「ポッド」の中身がわかるように展示されています。
ポッドとは、飛行機に搭載する様々な目的の計器を収める入れ物で、

デジタル・プロセッサー・ユニット(DPU)

デジタル・インターフェース・ユニット(DIU)

パワーサプライ・ユニット(PSU)

トランスポンダー・ユニット

エア・データ・センサー(ADS)

などの種類があります。(説明略)

ポッドを調整製作する拠点はユマの海兵隊基地内にありました。

ポッドもキュービック社の寄贈したもののようです。

右の説明には、ミラマーからファロンに移転した理由が書いてあります。
新しいコマンド「ストライクU」と呼ばれる海軍航空機開発システムがトップガン、
そして「TOPDOME」空母早期警戒武器学校と同居することになったからとかなんとか。

トップガンが去った後のミラマーは海兵隊航空基地となりました。

近年、キュービック社のICADSというソフトウェアによって、
戦闘訓練計画を作成しアップロードすると同時に結果を示すことができます。
ビデオスクリーンから双方のラップトップで、情報を共有することができるのです。

部屋の大きさほどのコンソールが必要だった時代からIT化時代を経て、

もはやポッドはジェット戦闘機の翼の下から姿を消しました。

ステルス性のあるF-35のような最新の航空機の武器は全て内蔵され、
昔ポッドを翼に搭載していた姿は完璧に過去のものになりました。

もっとも先端の航空機用情報システムは小さなモジュールユニットとなり、
いとも簡単に航空機の内部に装備することができるようになっています。

 

 

 

アメリカ軍の軍事技術の発展とともに変わっていく訓練の姿。
キュービックディフェンスアプリケーションは、これからも
戦闘機パイロットがそのミッションに必要とする製品の供給と、
皆様が無事におうちに帰れるよう、粉骨砕身努力いたします。

 

最後はキュービック社のあからさまな会社宣伝でした(笑)

 

できる子フォッケウルフと偵察機アラドの無念〜スミソニアン博物館

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ワシントン・ダレス空港近くにあるスミソニアン博物館別館、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの航空機展示で、
おそらく多くのアメリカ人は、第二次世界大戦中の帝国日本軍と、
ナチスドイツの軍用機に大いに興味を持つことと思われます。

ドイツ軍機は、通路を挟んで日本軍機と並べて展示されています。

スミソニアンを訪れる日本人は、誰しも大なり小なり、ここに来て
自国には現存していない自分の国のかつての軍機を生まれて初めて見ることに
非常に複雑な思いを抱くものだと思うのですが、ドイツ人はどうなのでしょう。

そんなことを考えながら、ここからはドイツ軍の航空機を紹介していきます。

フォッケウルフ190Focke-Wulf Fw 190 F-8/R1

テストパイロットでもあった設計者クルト・タンクによってデザインされた、
ビュルガーWürger(百舌)と呼ばれるFw 190は1941年に就役し、
第二次世界大戦中はスピットファイアや米軍機を実戦で圧倒する名機でした。

 

ラジアルエンジンを搭載したドイツで唯一のシングルシート戦闘機で、
電動ランディングギアとフラップを装備していたことでも唯一です。
低高度で高性能を発揮することができ、さらには機体が頑丈だったため、
爆撃任務に向かうとき同機の掩護につけられたF型、G型フォッケウルフの搭乗員は

「あっちのが性能いいし掩護の意味なくね?」

とぼやいていたとかなんとか。

連合国側の戦後の調査による評価も、

「第二次世界大戦時におけるドイツ最良の戦闘機」

とべた褒めというようなものでした。
イギリス空軍では、このとてつもなく強い戦闘機の秘密解明のため、
「オペレーション・エアシーフ(空の泥棒作戦)」を計画、なんとかして
190を盗みだしたる!とまで思いつめていたのですが、なんたる棚ボタ、
飛んで火に入る夏の虫。

ある日、ルフトバッフェのファーベル大尉という、ドイツ人にしては緊張感のない
パイロットが(個人の印象です)間違えて英空軍基地に降りてしまいました。
ご丁寧に、ピカピカの出来立てほやほや工場直送の機体で。

喜び勇んで鹵獲した190を操縦したロイヤルエアフォース、驚いたね。

内部が広く、コクピットの配列はドイツ人らしく機能的で完璧、
上昇性能、効果性能、速度、横転速度、全てにおいてスピットファイアに勝り、
特に速度と上昇性能は連合国の戦闘機で勝てるものなし。

当時においてすでに、パイロット脱出の際にキャノピーを火薬で爆発させ
脱落させるという仕組みを搭載していたと言いますから凄い。

クルト・タンクがもし「トップガン」を観ていたら、グースの死に方に
激しくツッコミを入れていたことだろうと思われます。

「1940年代ですでに我がドイツ軍ではこんな事故は起こり得なかった!」

ってね。

さて、盗んででもフォッケウルフFw190が欲しい!と思いつめた英空軍に対し、
日本では、同盟国のよしみで普通にこの機体を輸入して、
あの黒江保彦少佐がテスト飛行を行なっています。

ただし、旋回性能はあまり良くなかったため、「飛燕」「疾風」と
旋回戦を行なったところ、その点だけでは「勝負にならなかった」とか。

現地の説明によると、Fw 190は連合国の日中爆撃に対する防御で
最もよく知られている、とあります。

B-17やB-24を迎え撃つために設立されたのが、Fw190の

突撃飛行隊(Sturmgruppen・シュトルムグルッペン)

でした。
彼らは可能な限り敵編隊に肉薄し、必要とあらば体当たり攻撃も辞さずに
敵重爆撃機を撃墜することを宣誓させられていましたが、強制ではなく、
多分に士気高揚のための儀式的な面もあったようです。

体当たりも、日本のような自死を伴うものではなく、
大きな爆撃機の主翼に軟着陸して翼を切断したり、尾翼にプロペラやエンジンを
衝突させるというもので、丈夫なFw190でこれを行なった場合、
搭乗員はパラシュートで脱出することは十分可能でした。

技量的に優れた搭乗員も多く、「大空のサムライ」ではありませんが、
一航過で12機を屠った部隊もあったと報告されています。

このFw 190 F-8はもともとFw 190 A-7戦闘機として製造されました。

ドイツの降伏後、インディアナ州フリーマンフィールドに出荷され、
その後1949年にスミソニアンに移送されました。 。
1944年にSG 2で部隊で任務を行っていたときと全く同じ仕様です。

アラド ARADO Ar 234B2 Blitz(ブリッツ・雷)

アラドなどという名前は生まれて初めて知りました。

ジェット推進戦闘機の開発は他でもありましたが、こちらは
世界初のジェット推進爆撃機です。
本当にこのころのドイツというのは技術立国だったんですね。
もちろん今でもそうですが。

搭載していたのは2基のユンカースJumo004ターボジェットエンジン。
最高速度は時速780km、そのスピードのおかげで、ブリッツは
同盟国の戦闘機の攻撃から容易に逃れることができました。

同時代のメッサーシュミットの名声のせいで目立ちませんでしたが、
ブリッツは特に偵察機として優れた働きを提供したということです。

ちょっと奇妙な写真ですが、360度パノラマで撮ったコクピットです。

1 爆撃照準器 2床の銃 3酸素システム 

4 角度コントロール 5爆弾投下ボタン 

6 自動操縦設定ノブ 7非常消火ポンプ 8爆撃スコープ

アラド・ブリッツは偵察機として大変高い能力を備えていました。
敵地上空に難なく入り込み写真偵察を行い、敵戦闘機からは悠々と逃れて生還し、
ドイツ軍に貴重な情報を幾度かもたらしたのですが、ここで皆さんに
大変残念なお知らせがあります。

ブリッツがいくら頑張って敵をやっつけることができる情報を取ってきても、
その頃のドイツには、それを活用するだけの戦力は残されていなかったのです。

こういうのをなんていうのかしら。絵に描いた餅?猫に小判?違うな。
骨折り損のくたびれもうけ?

タイトルの「残念兵器」というのは、アラド・ブリッツの名誉のためにいうと、
機体そのものが残念だったのではなく、せっかく優秀だったのに残念だったね、
という意味です。念の為。

ここにあるブリッツは、世界で現存する同型機の唯一の機体です。

ノルウェーでイギリス軍が鹵獲したもので、戦後はアメリカに運ばれ、
オハイオのライトフィールドで試験飛行を行っています。

機体の修復はスミソニアンに到着した1984年に始まり、1989年2月に完了。

スミソニアンへの航空機の移送の前にドイツ軍仕様の塗装は全て取り除かれたので、
修復の専門家は8./KG 76の典型的な航空機のマーキングを再現しました。

KG76とはブリッツが所属していた最初の爆撃機ユニットです。 
1993年にダウンタウンのスミソニアン博物館で、

「Wonder Weapon?The Arado Ar 234」

という展示が行われた時にはそちらにありましたが、 現在は、
ウドバーヘイジーセンターで展示されています。

 

 

続く。

 

 


残念兵器ドルニエ ・プファイルとバッハ・シュテルツェ〜スミソニアン博物館

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ドルニエDo335A-0プファイル(Dornier Do Pfeil)

今日タイトルの「残念兵器」というのは、「アラド」のように、機体は
優秀な部類だったが、時期的に残念な存在だった、ということではなく、
失礼ながら性能その他も残念だったし、製造時期も残念だった、という
文字通りの意味です。


さて、残念兵器その1、ドルニエDo335はその速さから
「プファイル=矢」という愛称を与えられました。
レシプロエンジン機としては、時速770kmを誇る「最速のプロペラ機」でした。

これができた頃のプロペラ機の最高時速は755kmでしたが、プフィルは
水平飛行で846km/hを記録した、といわれています。

「アマイゼンベア」(オオアリクイ)という別のあだ名が表すこのユニークな機体は、
コクピットを挟んで前後にエンジンを積むという機構を持っていました。

設計者のクラウディアス・ドルニエはこの画期的なレイアウトで特許を取っています。
採用されたのはダイムラー・ベンツ社のシリンダーエンジンで、二つのうち
どちらかが動かなくなっても、一つだけで航行が可能でした。

当時超ハイテク技術だった脱出用のイジェクトシートが装備されたのは、
後ろにあるエンジンのプロペラに搭乗員が巻き込まれる可能性があったからです。

着陸用の三輪車を最初から装備しているという形です。
冒頭の写真を見ていただいてもわかりますが、脚は大変長く、その下を
ドイツ人男性が頭をかがめずに歩いて通り抜けられるほどでした。
車輪も大きく、脚はいかにも頑丈そうですが、折りたたむことができます。

当時、ドイツの要求していたのは制空権のないところに高速で侵入して
爆撃する機体でしたが、「高速性能」に加えて運動性能が良かったので、
設計を変えないまま多用途重戦闘機にジョブチェンジしています。

「重」と付いているのは機体が大きく、重量があったからです。

 

プファイルは、確かに高速でしたが、実験してみたら案外欠点が多く、
その重量のせいで、飛んでいるときはともかく、着陸に頻繁に失敗しました。
こんなに丈夫な脚をつけていても、耐えられないくらい重かったってことです。

加えて、後ろ側のエンジンがなぜかしょっちゅう加熱したことも不安材料でした。

しかしジリ貧のドイツにとっては高速爆撃機は頼みの綱的存在だったらしく、
最重要量産機の指定を受けて大量発注され、がっつり量産体制に入ったところ、
連合国の爆撃で生産していた工場が壊滅し、生産は中断を余儀なくされました。

青息吐息で工場再建し、なんとか35機を生産した時点で終戦に(-人-)

終戦間際に、ロイヤル・エアフォースの飛行隊が、プファイルが飛んでいるのを
目撃した、という記録がありますが、それがそのうちの一機だったのでしょう。

 

戦後、連合国は二機のDo335を取得しています。
どちらも3年間にわたって飛行試験を受けたあと、そのうち一機は
飛行機の保存と補修を行っていたドイツのドルニエ工場に戻されました。

工場で働いていた人々のほとんどが、戦中からの労働者でしたが、
彼らはDo335プファイルの尾翼と後部プロペラに、パイロット脱出時に
爆破によってそれらを吹き飛ばす爆発性のボルトがまだ付いているのに
驚いた、とスミソニアンのHPには書いてあります。

爆発物をつけたままにしてその技術に敬意を払うアメリカに
ドイツ人びっくり、みたいな話ってことでOK?

これらはパイロットが後部プロペラと尾翼にぶつかることを避けるため、
イジェクトの時にキャノピーが外れるのと同時に作動する仕組みでした。

このため、ドルニエはプファイルをレストアして2年後のエアーショーで
空を飛ばせてお披露目をしてから、ミュンヘンの博物館に展示されたそうです。


それでは、最後にもう一つのドイツ「残念兵器」を紹介しましょう。 

フォッケ・アハゲリス Focke-Achgelis FA 330A
バッハ・シュテルツェ(Bachstelze)

後ろの航空機ではなく、手前のカゲロウちっくな飛翔体に注目してください。
これはヘリコプターの前身ともいうべき回転翼凧で、
フォッケ・アハゲリス社が開発したバッハシュテルツェ(セキレイの尾)、
というあだ名がついており、Uボートの艦載偵察機として使用されていました。


昔、海上すれすれを潜望鏡を出して航行する潜水艦の悩みは洋上での視界の狭さでした。

見つかったが最後、爆弾を落としてくる駆逐艦に出会わないためには、
向こうより先に相手を確認して対処する必要があったのです。

これを解決するために組み立て式の飛行機を載せてしまったのが帝国海軍ですが、
ドイツ海軍はそこまで変態ではなかったので、偵察用の小さな飛翔体を開発しました。

帝国海軍が潜水艦に積んでいた水上機をその場で組み立てていたように、
こちらも、甲板で二人掛かりでその都度組み立てて使っていました。
帝国海軍の元潜水艦乗りは、「ネジ一本無くしてもおおごとだった」と
その組み立て作業に極度の緊張を強いられたことをのちに述懐していますが、
こんな細かい作業を潜水艦の上でやろうなどと考えるのは、世界広しといえど
日本人とドイツ人しかいなかったということでもありますね。

だいたい不器用なアメリカ人や大雑把なラテン系の国なら、まず
そんなことをしようなどとハナっから考えたりしません(断言)

 

ところで、そもそもこれはどんな風に使用されていたと思います?

Uボートの甲板で組み立てが終わったところのようですが、
これ、実は「凧」だったと先ほど言ったのを思い出してください。

そう、バッハシュテルツェは150mのケーブルでUボートに係留され、
Uボートが航走すると、ローターが回転して空を飛ぶ凧だったのです。

German submarine launched Autogyro Fa330 

凧には一人だけ操縦員兼偵察員が乗っていて、偵察を行います。
偵察員は、牽引ケーブルに沿わせた電線で潜水艦と通信を行い状況報告しました。

約120mの上空からなので、かなりの視界が確保でき、ナイスアイデアでしたが、
かわいそうに、もし敵に見つかったあかつきには、艦長判断で
索は躊躇なく切られ、偵察員は機体とともに見捨てられることになっていました。

その後、ちゃんと敵の船が捕虜として海から助け上げてくれればいいですが、
おそらくはそのほとんどのケースが海上に残され、時間の問題で沈んでいく運命です。

せっかくUボートの乗員になったのに、何が悲しくてこんなものに乗って
海に置き去りにされ、艦長を恨みながら海のもずくとならねばならないのか。

きっとくじ引きで負けた操縦員兼偵察員は苦悩したことでしょう。知らんけど。



さて、我が帝国海軍の伊号に搭載された水上機は、立派に敵地攻撃をしていますが、
それでは盟友ドイツのバッハシュテルツェの戦果はどんなものだったでしょうか。

悲しいことに、1943年8月6日、U-177に搭載されていたFa330がギリシャの蒸気船
「エイサリア マリ」を発見し、撃沈した、というただ一回の戦果があるのみです。

民間船でしかも蒸気の船というあたりがもの悲しいですね。

 

これ、なんでだと思います?ほとんど戦果がなかった理由。

wikiは「その優位性にも関わらず」とすっとぼけておりますが、理由は歴然としています。
まず、揚収に時間がかかりすぎたんですよ。

組み立ては4人がかりなら3分くらいでできたらしいのですが、
使い終わった後の収容・分解・収納には急いでも20分はかかったといいます。
これ、その間、確実に海の上に浮いていなければならないってことですよね。

こんなのなら、多少早く敵を見つけたとしても、それから駆けつけることになり、
20分も経てば潜水艦では追いつけないところに行ってしまってませんか?

本来の目的であった天敵駆逐艦を上空からいち早く発見するということに成功しても、
凧を揚収しているこの20分間に向こうに存在を察知されれば、
つまりお片づけの時間で相殺されて全く意味がなかったんじゃ?

とつい真顔でツッコミを入れてしまいたくなります。

スミソニアンの説明によると、これを使っている間は他の潜水艦を
(レーダーでも、視覚的にも)見つけることができないという理由から、
Uボートの艦長たちもこの兵器を嫌っていた、とあります。

水上の敵を探していて敵潜水艦が真下にいてもわからなかった、じゃ
シャレにならんのです。戦場はそんなに甘くないのです。

思うに、バッハシュテルツェの戦果がほぼ皆無だった一番大きな原因は、
実戦でこれを使おうとしたUボートの艦長がいなかったから
なんじゃないでしょうか。

 

 

続く。

 

 

ホルテン兄弟の夢ードイツ軍の全翼機〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

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 スミソニアン航空宇宙博物館別館にある、

「第二次世界大戦中のドイツの軍用機」

別名勝ったアメリカが、戦後ドイツでで嬉々として集めまくった
戦利品シリーズの一角には、大変目を引くこのような飛行体の残骸、
とでもいうべきものが展示されています。

スミソニアンでこれを見たアメリカ人の多くは、
こんな時代からこんなものを研究しておったのかドイツは、と、
今更のように技術立国ドイツにそこはかとない畏怖を抱くことでしょう。
知らんけど。

特に下のこれなんかもすごいですよ。

リピッシュ Lipish DM1
アカフリーク・ダルムシュタット&アカフリーク・ミュンヘン

 

この、第二次世界大戦中にしては近未来的な飛翔体の話をする前に、
まず、ドイツのホルテン兄弟の話をしなくてはなりません。

ヴァルター・ホルテン(1913ー1998)とライマール・ホルテン(1915ー1994)
はドイツの航空エンジニアで、全翼機、無尾翼機を開発したことで知られています。

二人の名前には「ドクター」とありますが、どちらも正式な航空工学などの正式な
学問を修めたというわけではありません。
四人兄妹の二番目と三番目だったヴァルターとライマールは、ヒトラーユーゲントだった
少年期からグライダーや全翼機に興味をもち、10代から自分で設計をし
それを飛ばして競うグライダー競技会の常連優勝者でした。

非行少年ならぬ飛行少年だった頃のヴァルター。なかなか美少年です。

 

長兄のヴォルフラムと共にルフトヴァッフェに入隊した二人は、パイロット、
そして飛行教官として勤務しながら、当時無尾翼機の研究を行なっていた

アレクサンダー・リピッシュ博士

の指導を受け、全翼機の設計と製作を続けました。

リピッシュとという名前に聞き覚えがありませんか?
あのロケット推進ジェット機、

メッサーシュミットMe163、コメート

の原型をデザインした人です。

ルフトバッフェの肝いりで、十人の科学者を率いてメッサーシュミットに乗り込み、
画期的な機体を開発したリピッシュですが、ただし、このデザインを巡っては、
メッサーシュミットとの間に埋められない亀裂が生まれたということです。

メッサーシュミット自身はあまり認めていなかったってことなんですかね。

彼らの師匠のリピッシュ博士が作ったDM1は、グライダー実験機です。

グライダーと言いつつもラムジェットエンジンを動力とした
局地防衛戦闘機を目標としていました。

鋼管。合板。ベークライト含浸合板を機体に用いた機体は
母機に背負われるか、曳航された状態から射出する仕組みです。

1944年から制作が始まりましたが、作っている間に敗戦に。
現地に侵攻したアメリカ軍は、この工場を接収するやいなや、これが
アメリカ空軍に重大な利益をもたらすと確信し、その後も
現地の工場に建造を継続させ、完成させてからアメリカに移送しました。

ドイツでの製作中、チャールズ・リンドバーグが一度工場見学をしています。

戦後、コンベア社とアメリカ空軍は、この機構にアイデアを得て、
最初のジェット推進デルタ翼機、

コンベアXF-92AB-58 ハスラー

を開発しました。

ホルテン Horten H III H

さて、ホルテン兄弟は、リピッシュの薫陶を受けながら、
全翼機を精力的に生み出していきました。
HIから始まって、三番目に作ったのがこのH III Hです。

一人乗りのモーターグライダーで、実験では20回にわたる飛行で、
飛行総時間14時間17分を記録し、パイロットによればその操作性は
大変優れているというものでした。

 

ホルテン Horten Ho III f

二階のテラスからは、ほぼ完璧な形のホルテンHoIIIFが飛翔しているように
天井から吊られて展示されているのを見ることができます。

基本的な疑問なんですが、これ、着陸する時どうやって降りたんだろう。
と思ったら、動画が結構たくさん見つかりました。

Horten Ho-2 Flying Wing Test Flight 1935

Ho-2のものですが、まあだいたい同じような感じじゃないでしょうか。

リピッシュもそうですが、ホルテン兄弟は大学を出ていません。

 1933年、HIを作り始めた時、ヴァルターは20歳、ライマールは18歳で、
このH III Hのときには25歳と23歳です。

彼らは、グライダー競技会の成績を知った現地の司令官に引き立てられて、
航空機の設計に加わるようになったと言いますが、普通に考えて
なんの学問的ステイタスもないのに、研究現場に押し上げたドイツ空軍というのは
実に懐が深いというか、才能を育てるだけの鷹揚さがあったといえます。

 

うちのMKは現在アメリカの大学でエンジニアリングを専攻していますが、
高校時代と違って、自分のやりたいことに必要なことしかやっていないので、
大学では勉強が楽しくて仕方がない、といっています。

自分のやりたい勉強をするために大学に入るのに、嫌いな科目の点も
取れなければいけないというのが学制の辛いところでもありますが、
ホルテン兄弟の場合は一貫して、もうただただ少年時代から好きなことだけやって、
名を成し、それを突き詰めた幸せな人生だったと断言してもいいでしょう。

おそらく彼らは終戦まで、ナチスは自分たちの夢を叶えてくれる
物分かりのいいスポンサーであり、絶対的な庇護者と思っていただけで、
言い方は悪いですが、ドイツ軍にいながら象牙の塔の住人だったようなものです。

 

ただ、ヴァルターはパイロットとして若き日にはバトルオブブリテンに参戦、
7機撃墜の実績もあったということで、終戦後、ドイツ連邦空軍の将校となり、
ライマールはアルゼンチンに渡って生涯全翼・無尾翼機を創り続けました。 

ホルテン Horten Ho 229V3

ホルテン兄弟が開発した全翼機の中でもっとも先進的で、革命的だった
全翼機が、このホルテンHo229だったでしょう。

何が革命的だったといって、当時にしてジェットエンジン推進、しかも
塗料に炭素粉を使用するなどして世界初のステルス機だったのです。

兄のヴァルターが30歳、弟のライマールが28歳の脂の乗り切った時期、
(といっても彼らの場合は人よりだいぶ早いですが)防衛大臣だったゲーリングが

「時速1,000キロで
1,000kgの爆弾を搭載して
1,000km飛ぶ爆撃機」

を作るという「プロジェクト3×1000」(Projekt 3000) を提唱しました。
いかにも派手なことが好きなゲーリングらしいぶち上げ方ですが、
面白いのが、この計画をドイツ政府はコンペで決めようとしたところです。

早速ホルテン兄弟は、グライダー競技会のノリで(かどうか知りませんが)
「ホルテンIX計画」を作り上げ、コンペに応募し、見事採用されました。

Horten 229 worldwartwo.Filminspector.com

お偉方に229V3の説明をしているライマール。
ドイツ人としてもかなり長身だったようですね。

左に写っているのはゲーリングっぽいですが、わかりません。

The Horten Ho 229: Secret German Jet-Powered Flying Wing Aircraft of WWII

だいたい2分くらいから、3000キロ計画の説明があります。

ビデオ内では三つのクエスチョンが前半で問いかけられ、

1、H0229の機体にステルス性は本当にあったか?

2、B-2爆撃機はHo229の影響を受けていたか?

3、もしHo229が完成していたらドイツは戦争に勝てたか?

後半で答えがあります。
面白いのでぜひ最後まで見てみてください。
おそらくどの答えも皆さんの想像通りです(笑)

尾翼に鉤十字が描かれていますが、これは捕獲した時にはなかったそうです。
つまり、戦後にわざわざアメリカ側が描き込んだということで、そもそも
ホルテン兄弟の飛行機は鉤十字は「垂直尾翼に」描かれていたという

ってか垂直尾翼を持っていた全翼機ってあったっけ、って話ですが。

ゲーリングが構想した3000計画の飛行機の目的はそれではなんだったかというと、
ズバリアメリカ本土に原子爆弾を落とすことでした。

結局制作途中でドイツは敗戦したので、ビデオではありませんが、もしドイツが
Ho239を大量生産できたとして、まるで戦争末期の日本のように、アメリカが
市民が灯火統制を行い、防空壕を掘り、空襲警報に怯えることになったかどうかは
永遠の謎になってしまいました。

(ちなみにビデオではその可能性は明確に否定されています)

説明はありませんが、これ、ホルテン兄弟ですよね。

ノースロップN1M「ジープ」

ドイツ機と日本機の展示してある区画のすぐ近くに、
黄色いノースロップのグライダー的飛行体が展示してあります。

てっきり近年のものかと思ったら、実はこれ、ジャック・ノースロップが
1940年に作った全翼機だったのでした。
ホルテン兄弟が全翼機を作るようになってから7年経っていますが、
これがアメリカで初めて作られた全翼機で、偵察用として開発されました。

この初代全翼機そのものは、重量が重くパワー不足で、
ダッチロールを起こすこともあり、成功とは言えませんでしたが、
あのハップ・アーノルド准将は、歴史的に価値がある発明だと絶賛しました。

そして、N-1Mの思想は、その後

Northrop YB-35

YB-49

へと受け継がれていくことになります。

このノースロップN−1Mを制作する時、ジャック・ノースロップに
ホルテン兄弟の一連の全翼機を参考にする意図があったかどうかは
どこにも語られていませんが、わたしは先ほどのビデオ風に言えば、

"Yes, most likely. "

という答えを選択したいと思います。

 

 

続く。

映画「U-571」〜"He torpeded me ! "(撃沈された気分だよ)

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「U-571」というタイトルを見て、「Uボート」以来のドイツ潜水艦映画かと
ワクワクしながらクリックしてみたら、そうではなくアメリカ映画で、しかも
エニグマ暗号機が絡んでいるらしいと知り、全く別の興味が湧いて、
結局観てみることにしました。

わたしはアメリカで第二次世界大戦時の軍艦を見学していたとき、どこかに
(戦艦『マサチューセッツ』だったと記憶)ぞんざいに展示してあった
このエニグマ暗号機を実際に目にしたことがあります。

当時まだ予備知識がなかったわたしには、現在進行形で見ている
「タイプライター」があのエニグマだとは信じられませんでした。

ただ、ドイツではエニグマは3万台以上発売しされ、軍のみならず
政府や国営鉄道などにも普及していましたから、そのうち一つが
戦後アメリカの軍艦内に展示されていても、不思議ではないのかもしれません。


エニグマを題材にした有名な映画は、

『エニグマ奇襲指令/ベルリン暗殺データバンクを強奪せよ!』(1982年英仏)

エニグマ』(2001年ドイツ/イギリス)

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年、英=米)

などがありますが、これらがエニグマの解読を主題としているのに対し、
本作「U-571」は、暗号機本体を強奪する作戦を描いた異色作です。

ただ、しょっぱなからなんですが、エニグマの解読は、運用が始まってすぐ
イギリスを中心に試みが始まり、主にスパイ活動によって鍵と暗号が盗まれて、
各国がしのぎを削ってきたのであり、Uボートから本体を盗みだすことで
解読が捗った、というような単純なことではないのです。

そもそも、1941年5月に暗号機を手に入れたのはイギリス軍であり、
アメリカ海軍の潜水艦がUボートから捕獲した史実もありません。

残念ながら、物語の核となるエニグマ強奪は架空の作戦であり、
アメリカの潜水艦をヒーローとして描くための創作である、
という冷徹な事実(笑)を最初にお断りした上で始めましょう。

1942年の春、ドイツのU-571艦長が潜望鏡を覗き込む
👁←こんな眼球のアップから映画は始まります。

開始から何分かは、まるで「Uボート」をみているかのような、
ドイツ海軍の潜水艦の描写をお楽しみいただけるというサービスシーン。

イギリスの貨物船を撃沈して、声を殺しながら喜ぶUボート乗員たち。

勝利を喜んだ次の瞬間、U-571にロイヤルネイビーの駆逐艦が迫ってきました。
ここからのカメラアングル、錘になる乗員たちが、全員でだだーっと
艦首に向かって突進していく様子、まさに「Uボート」そのままです。

Uー571のギュンター・バスナー艦長を演じているのは、トーマス・クレッチマン。
「ヒトラー最後の十二日間」や「ワルキューレ」「戦場のピアニスト」で
ナチの軍人を演じています。

雨あられと景気よく落とされる爆雷でU-571はもうぐちゃぐちゃに。
機関室は全滅、エンジン一部故障、電気系統故障・・・。

そこで、艦長はベルリンにエニグマで救援を要請することにしました。

雰囲気は一転、白い軍服に身を包んだパーティ会場に場面が変わります。
場面設定は5月ですが、全員が夏の白い軍服を着ています。

これは、潜水艦内のシーンばかりが続くこの映画の中で、唯一、
白い軍服の軍人さんたちやドレスアップした女性が出てくる華やかな画面で、
S-33の水雷長ラーソン少尉のウェディングパーティも兼ねています。

(少尉がウェップス?というのには突っ込まないように)

美しい花嫁とダンスするイケメンのラーソン少尉を見ながら場を持て余す、
あまり女に縁のなさそうな水兵くんたち。

左から”タンク”、マッツォーラ、”ラビット”。

S-33の副長、アンドリュー・タイラー大尉はクサっていました。

副長就任後、艦長のダーグレン少佐の下で頑張ったつもりなのに、
艦長は彼を艦長に昇任するための推薦状を書いてくれなかったのです。

パーティ中にも関わらず艦長に文句を言いにいく、空気読まないタイラー。
(マシュー・マコノヒー。艦長は”アポロ13”に出ていたビル・パクストン)


米海軍の昇進システムについて知らないのでなんとも言えませんが、
艦長に昇任するのに別の艦長の推薦状がいちいち必要なんでしょうか。
まあ、英語のサイトでも、これについては誰もツッコんでいなかったので、
そういうこともあるのかもしれません。

ただ、これだとひとりの上司に嫌われたらもう出世はできないってことよね。

艦長に食い下がるも、(っていうか、今更撤回させることができると
本気で思っていたとしたらかなり認識が甘いのでは・・)

「話は終わりだ(It's done.)」

とまで言われてしまったタイラー、やけくそで飲んでると、
年功章を洗濯板のようにつけたCPOのクラウ伍長(ハーヴェイ・カイテル)が

「どうしました」

「撃沈された気分(He torpedoed me, chief.)

「また他にチャンスはありますよ」

「え・・知ってたのか?」(動揺)

スチュワードのカーソン(演じるのもテレンス・カーソン)にも、

「次は艦長になれますって」

「え・・知ってたのか?」

あー、なんなんだこの状態。なんで皆オレが艦長なれなかったって知ってるの。
もしかしたらオレ、みんなに同情されてる?

そこにいきなりMPが乱入してきて、パーティズオーバー。
出撃を命じられ、岸壁にいくと、S-33はなにやら改装工事の途中です。

「まるでナチの潜水艦みたいだ」

正解ですエメット大尉。
ナチの潜水艦に見えるように工事してるんですよ。

右側のピート・エメット大尉はアンディのアナポリス同期。
ジョン・ボン・ジョビが演じています。

艦長はこの任務が特殊であることだけを総員に告げます。

ちなみに、艦長の訓示が終わると、副長が「気を付け」と号令をかけますが、
この時英語では、

「アテーーーンション!」

といっています。

艦長命令でタイラーがウェンツという水兵を資材室に連れて行くと、
そこには海軍情報部から来たというハーシュ大尉が控えていました。
そこにいた潜水艦隊司令に、いきなり

「He's the boss.」(彼に従え)

とかいわれて、またしてもムカッとする(多分)タイラー。

ハーシュ大尉は、いきなりウェンツにドイツ語で話しかけてきました。
ウェンツもそれにペラペラとドイツ語で答えてタイラー大尉唖然。

これは今回の任務に必要なドイツ語が話せるかどうかのテストだったのです。

ちなみにハーシュ役のジャック・ウェーバーはロンドン生まれ、ウェンツの
ジャック・ノーズワージーはボストン生まれのボストン育ちで、二人とも
ドイツとはなんの関係もありません。

ウェーバーはジュリアード音楽院、ノーズワージーはボストン音楽院卒で、
「ジャック」以外にも音楽共という共通点があるようですが。

この時、ウェンツは自分がブラウン大学(超名門校!)を出ている、といいます。

作戦のために、海兵隊からクーナン少佐なる偉そうな人も乗り込んできます。
そしていよいよ出航。
潜水艦初体験の彼らは珍しそうに潜行作業を見守っています。

出港後早速潜行することになり、ここで先任伍長が

「ダイブ・ダイブ・ダイブ!」

と三回いいますが、普通は二回だけだそうです。

沖に出てから乗員に作戦の全容が明かされました。

「昨夜エニグマを使って信号を打ったU−571を確認した。
我々はドイツの補給潜水艦のふりをして内部に乗り込み、
制圧後、エニグマ暗号機を奪う」


ここで、Uボートの乗員が、昨日撃沈したイギリス船のボートを
銃撃して殺すというシーンがあります。

しかし、基本Uボートの乗員は条約を遵守し敵を殺しませんでした。
大戦中におけるUボート行動記録の数千時間中、海上で撃沈した
敵を殺したという記録はわずか一件のみだったそうです。

わたしのアメリカ人知人(GEの偉い人)の父親は、海軍予備士官として
乗っていた船がUボートに撃沈され、漂流したのち、命からがら生還した、
という壮絶な経験を持っていたそうですが、父親の話によると、
総員退艦後乗り込んだ救命ボートの近くに船を沈めたUボートが浮上し、
艦長が艦橋から、

「君たちの船を沈めてすまなかった」

と英語で丁寧に謝っていったということです。

Uボートの艦長は、救命艇に水は持っているのかと聞いたものの、
くれるわけでもなく行ってしまったそうですが、Uボートにしても水は貴重だし、
ましてや潜水艦に捕虜を収容するスペースなどあるわけがありません。

洋上の救命ボートの上ではこれから壮絶な生きるための戦いが始まるのです。

このシーンでバスナー艦長は救命艇の敵を射殺する命令を下しますが、
考えようによっては彼らに対する慈悲だったということもできるでしょう。

そして、このシーンは、のちの展開に対する伏線にもなっています。

バンク(兵員用ベッド)では、水兵たちが女の子の話をしたりしていますが、
中には潜水艦事故の話をして仲間を怖がらせるヤツも。

「ノーフォークのテストでS26は400フィート沈んでこうさ」(卵グシャ)

あー、いるよねこんなヤツ。

これは史実ではなく、実際のS26はパナマ沖で駆逐艇と衝突し沈没しています。

それはともかく、当時の潜水艦における食糧事情を考えた場合、もしこんな風に
卵を握りつぶしたりしたら、その途端周りからえらい目に遭うと思うのはわたしだけ?

しかし、周りの連中をビビらせるには十分で、

「ゴクリ・・・・・」

艦長はタイラーが艦長になれない理由を今更説明します。

「同期のエメットを例えばいざという時犠牲にできるか?下士官たちは?
君はきっと迷うだろうが、艦長は迷ってはいけない」

まあそうなんですけどね。

それが艦長になれない理由なら、今後タイラーが艦長になれる可能性は
ほぼゼロということになりませんかね。
だいたいダーグレン艦長、実戦に出たこともないのに、(ですよね)
アンディがいざという時ダメダメだって何を根拠に決めつけるのか。
副長として優秀、と実際にも認めているならもっと事務的に昇進させてやれよ。

実際には、アメリカ海軍ではこういうことが起こらないように、
XOを艦長にするときには必ず新しい艦に割り当て、今までの部下との
人間関係はほぼ消滅する環境で指揮を執れるように配慮したそうです。

だから、この映画のプロットにも前提から大きな穴があるってことなんですね。
しかし、言われたアンディは深刻にこれを受け止め、

「そうなんかな。オレ、迷ったりするかな」

考えながら通りかかった部屋では、ラーソン少尉が新妻に手紙を書いていました。

海上航走で揺れまくる中での食事にも平然としている潜水艦野郎に対し、
どうにも調子が出ない海兵隊と情報将校のおふたり。

そこに目標のUボートらしき艦影を発見したという知らせが入りました。

襲撃班に選ばれたタイラーは、自室でスクールリングを外しました。
鏡に貼ってある写真が犬であることに注意(笑)

パーティの時も一人だったし、もしかしてタイラー、もてない君?

この襲撃班なんですが、海兵隊、情報将校、ドイツ語が喋れる水兵はわかるとして、
XOのタイラー、エメット、ソナーマン、先任伍長、通信士まで含まれています。

常識的に考えて、こういうメンバーはフネに残しておくべきなのではないか、
とわたしが艦長なら思いますが、映画のストーリー的にはそれでは困るのです。

何故なら・・・・・おっと。

 続く。



映画「U-571」〜"Take Her Down!"(潜行せよ)

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映画「U-571」二日目です。

冒頭画像は、この映画でもたっぷりと見ることができた、
潜水艦の乗員が対戦中上を見ている様子ばかりを集めてみました。

およそ世にある潜水艦映画で、海上の敵と対峙するとき、潜水艦の乗員が
上を見る表現がない映画は見たことがないというくらいで、
わたしも何度かそれを指摘してきました。

例えば、天井裏で何か物音がしたら、誰でも上を見ます。
音の正体を突き止めようとするからですが、潜水艦での戦闘中は
上を見ても天井しかないのがわかっているのに、それでも見てしまう。

おそらくその目は何かを見ようとしているのではなく、
潜水艦(と自分の身)に起きていることを把握しようとするとき、
情報を収集するために人間の体の持てる感覚全てが総動員されるため、
視覚もまたその一端として不随意に機能してしまうのだろうと思います。

さて、工作隊を乗せたボートがUボートに近づいていきます。

Uボートからは乗員が盛んに話しかけてきますが、情報将校ハーシュ大尉、
周りがせっつくのに、固まってしまって一言も声を発することができません。

これ以上黙っていると怪しまれる、という状況を救ったのはウェンツでした。

これは、ウェンツがドイツ人とのハーフだったのに対し、
ハーシュ大尉のドイツ語は、情報学校で学習したものだったため、
彼は緊張のあまり声が出なかった、と解釈することができます。

その後挙動不審を見破られた艦上のUボート乗員と撃ち合いになり、
これを全て掃討した工作隊は、艦内に潜入することに成功しました。

影に潜んで撃ってくる乗員に死ぬほど怯えながら艦内を進んでいくと・・・

 ありました。エニグマ通信機が。

艦首に集まっていた水兵たちは抵抗することもなく投降。

次に行われたのは、Uボートの乗員を全員捕虜にしてS33に乗せる作業です。

常識的に考えてU-571がそうだったと思われるVII型の生き残り約40名を
全員捕虜にするなどあり得ないことで、もしこんなことがあったとすれば、
エニグマを奪取したあとは、Uボートもろとも爆破するしかなかったでしょう。

しかし、米海軍はそのような非道は決してしない正義の軍隊なので、
ここでも粛々と捕虜を艦内にご案内しております。
これ全員をどこに押し込めてどこに連れて帰るつもりなの。

「ウェルカムアボード、黒人見るの初めてか?」

ところがそのとき艦上の艦長が振り向くとこちらに向かってくる魚雷!

避けようもなく、なんと、その一発の魚雷でS33は轟沈してしまいました。

ここで大いなる疑問なんですが、ドイツのUボートに偽装しているはずのS33を
攻撃したのは、一体アメリカ軍?ドイツ軍?どちらですか?

もちろんタイラー大尉にもそれはわかりません。
Uボート艦上からそれを呆然と眺め、

「敵襲だ!」

だから、敵ってアメリカ?ドイツ?
この場合の敵とはアメリカ軍ということになりませんか?
ここにいる二隻の潜水艦はどちらも見た目Uボートなんだから。

新婚のラーソン少尉はこの衝撃で海に落ちてしまいました。

そのときタイラーは海に落ちたダーグレン艦長の声を聴きます。

"Andy! Andy Go! Take her down! Take her down! Dive! "

ここでお話しした「グラウラー」のギルモア艦長を覚えておられるでしょうか。

ここでは艦橋から乗員の命を救うため、自分を置いて潜行せよと叫んだ
実在の艦長と全く同じセリフを言わせ、トリビュートしています。

とにかく工作隊が帰るべき潜水艦は沈んでしまったのです。
爆破するつもりでUボート艦内にしかけたダイナマイトを慌てて消す”タンク”。

敵(だからアメリカ軍だよね)は、しかもまだこちらを狙っています。
Uボートのアンディら工作隊御一行様は、潜行による脱出を試みました。

しかし、こんな非常時に装備の表示がドイツ語で読めません。

 ハーシュ大尉とウェンツが走り回って指示を行い、なんとか潜行に成功。
駆逐艦からは逃れましたが、今度はUボートがやってきました。
どうも、U-571の艦長がすぐに無電を打って助けを求めたようです。

というわけで今度は相手も潜水艦、攻撃をしなくてはならなくなったのですが、
案の定魚雷発射の手順でで大騒ぎ。

「魚雷発射管の均一バルブが見つかりませ〜ん」(涙)

「ジャイロ?」「ドレナージ?」

「バルブはどれなーじ?」

「圧搾空気(インパルス)?」

「圧力示差?」

「それを回せ!」

なんでこれでうまくいくのかが不思議ですが、魚雷発射成功。
向こうから二発、こちらから四発、魚雷が海中で交差しました。

向こうの魚雷は僅差で艦体をすり抜けていき、こちらが放った魚雷は・・・。

二発を外し思わず一人が十字を切った次の瞬間、爆発音が聞こえました。

難を逃れS-33の生存者を救出しに現場に浮上したU-571。
なんとか救出できたのはスチュワードと敵の電気技師二人だけでした。

タイラーはそのとき海面に漂う艦長の遺体を発見します。

生き残ったメンバーは今後についてミーティングを行います。
打電して救出を求めてはどうか、という意見に対し、ハーシュ大尉は

「だめだ。
Uボートが奪われたことを知られたらエニグマの暗号を変えられる恐れがある」

せっかくのハーシュ大尉のご意見ですが、実際にはそれくらいで
コードシステムを今更ドイツが変える必要はなかったと思われます。

エニグマは「ダブルステッピング」と呼ばれるプロセスを使用していたため、
通常でも16,000回以上のコード変更が常に可能といわれていました。
だからこそ連合国は解読にあれだけ苦労したのですから。

電気関係は、タンクの手で見事に復活。
海から救い、捕虜にしたUボートの電気技師は戸惑ったような顔をします。
鹵獲される直前まで、彼は電気が修復できなくて困り果てていたのですから。

しかし、この男を助けたことが、U571に今後危機を招じる結果に。


さて、U571からエニグマ通信機を奪取したものの、色々あって()自艦は沈み、
なし崩しにUボートで生きていくことを余儀なくされたタイラー以下強襲メンバー。

この段階でS33の乗員は黒人コックのテレンスを除き全滅。
強襲メンバーからは海兵隊のクーナン少佐、ラーソン少尉などが失われ、
9人になってしまいました。

今や副長のタイラーが先任ですが、どうも彼が艦長になることを
正式に却下されたという噂は下々にも広まっていたらしく、
水兵マッツォーラがCPOクラウにこんなことを。

「なぜチーフが指揮を執らないんですか。
艦長が副長をクビにする気だったって噂もあります」

しかし流石は先任伍長、

「タイラー大尉はお前の上官だ!敬意を払え!」

途端に胸ぐらを掴んで叱責してくれるのですが、
影でそれを聞いていたタイラーは(´・ω・`)ショボーンとなります。

乗っ取ったUボートの食堂には写真が残されていました。

本物のUボート乗員の写真かと思いましたが、この写真の真ん中は
トーマス・クレッチマン演じるワスナー艦長なので、加工したものです。

これは本物かもしれません。

サンディエゴで見たソ連の潜水艦の士官食堂にもこんな感じで写真が飾られていました。

Uボートの写真に囲まれて、タイラーが先任伍長に
「艦長心得」的なアドバイスを受けていると、敵機来襲。

タイラーは迷わず叫びます。

「相手はこちらを味方だと思ってる。手をふるんだ!」

うわ、これって前にわたしが漫画にしたあれそのまんま。

敵機に帽を振れ

もちろんこの場合はUボートなので、相手がドイツ機なら誰でもこうするよね。



ところが、さっき先任伍長にシメられたばかりのマッツォーラ、テンパって、

「撃ち落としましょう!来る!キタキタ〜!」

「ラビット、撃て!撃ってくるぞ!早く!殺されるぞ!やれ!」

と騒ぐので、タイラーは飛行機が行ってしまってから、

マッツォーラを今度は自分できっちりシメます。
自分を尊敬どころか信用もしていないとわかって、怒りはなおさら。

ところでこの哨戒機、メッサーシュミット109のつもりらしいですが、
噂によると翼の形が全く違ってるようです。

そもそも、当時ドイツは空母を持っていなかったのに、大西洋のど真ん中で
どうやってメッサーシュミットを飛ばせたんでしょうか。

  それにそもそも駆逐艦がなぜ単身ここにいるのかとか、疑問は次々と湧きますが、 いちいちツッコンでいると今日中に終わらないので次行きます。

とりあえず向こうはU571を今のところ味方だと認識しているという状況。
  ところが、こんな大変な時に、捕虜にしていたUボートの兵士がいきなり暴れ出し、
マッツォーラは彼と乱闘になって殺害されてしまいました。(-人-)ナムー     こちらを普通のUボートと認識している駆逐艦からは内火艇が寄越されます。  
来るだけ来させて時間を稼ぎ、相手の通信室を狙ってテー! これでとりあえず救援を呼ばれる心配はなくなりました。

しかし艦体不具合で急速潜行できないので、とりあえず相手の真下を潜る作戦。 水深20mで艦底スレスレを通り抜けるとき、全員がびっしょり汗をかきながら
やはり上を見ています。   ところでふと思ったのですが、現代の潜水艦では
皆が上を息を飲んで見るようなシチュエーションはあるんでしょうか。
続く。

 

映画「U-571」〜" I'm U571, Destroy me ”(我U571 我を撃沈せよ)

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映画「U-571」最終日です。

冒頭挿絵は、本編に登場する四人の士官を書いたのですが、
並べてみてから上から階級順になっているのに気がつきました。

ヒルシュ、タイラー、エメットはいずれも大尉ですが、
話の内容から考えてこれが名簿順であると思われます。


さて、ナチス軍の駆逐艦と対峙しているU-571。

乗っているのはUボートでも、中身はアメリカ人であることが
すっかりバレてしまったので、相手は遠慮なく攻撃してきます。

  「水しぶき聞こえました〜」(囁き声)   これから爆雷攻撃の始まりです。   わたしはこの人をずっとボン・ジョビだと勘違いしていたのですが、
どうもドイツ語が話せるウェンツのようですね。   ボン・ジョビ、いつの間に死んでしまったの。     敵のZ49もU571が浅いところにいることを知っていて、
爆発深度を25mにし、きっちりと爆雷を撒いてきます。   ちなみにZ49という駆逐艦は計画はされましたが、実際に存在はしていません。     「壁から離れてろ、ハーシュ大尉。
爆発の衝撃で背骨が折れるぞ」(小声で)   このとき、緊張を高めるようにソナーのピンガーが聞こえますが、
残念ながら当時Uボートには   ASDIC(Anti-Submarine Detection Information Comittiee)
は搭載されていませんでした。     ここからがもう無茶苦茶。     キャプチャした写真が皆こうなってしまいます(笑)     そこでタイラー、ピコーンと💡ひらめきました。   「魚雷発射孔から色々捨てて沈没したと見せかける作戦」   を。
あの、コメディ戦争映画「ペチコート作戦」は、艦体がピンクであることから
敵だと思って攻撃してくるアメリカ駆逐艦に、こちらが味方であると知らせるため、
発射孔から、乗り込んでいた女性軍人の下着を排出するというオチでしたが、
今回は、相手がそれを本物かどうか確認しているすきにに浮かび上がり、
一発しかない後部魚雷を海上の至近距離から撃ち込むという作戦です。   このときタイラーは浮上した艦がどこに浮かび上がるかの説明で、   「Principle of ascent velocity」(上昇速度の原理)   という言葉を使って科学的アピールをしています。     その発射する「色々」には、先ほど亡くなったマッツォーラの遺体を含みます。   「彼をゴミみたいに捨てるんですか」   悲しい目をしてそう言ったラビットに、タイラーはその作業をすることを命じます。   「彼の身体は我々を助けてくれるだろう」
しかし、情報将校のハーシュは、もし魚雷を外した場合、
ドイツ軍の捕虜になる前に全員を殺せ、とタイラーに囁きます。   もちろんそれは、そのあと自決せよ、という意味でもあります。     「さよなら、マッツォーラ」       爆発深度を浅くして完全に仕留めにかかってくる駆逐艦。 激しい爆雷で電球は割れ、食器は全て床に、水漏れ、火災・・・・。     「たくさん来ます。数えられません!」(小声で)   「チーフ、200まで潜れ」   この200はおそらくフィートではなくメートルでしょう。
(フィートだとたった60mということになります)
でも、これって変ですよね。   「深く静かに潜行せよ」でも、日本の潜水艦の震度計がフィート表示でしたが、
ドイツの艦に乗った途端、フィートでしかモノを考えられないアメリカ人が
メートル法の震度計に即順応し、200mの指示を出すというのはあり得ません。   乗員も200と聞いてそれだけで一様に恐怖の入り混じった様子を見せます。
それはともかく、彼らはどうもUボートの最大深度は230 m、圧壊深度になると
計算上では250 - 295 mまで行けたということを知らなかったようです。   これまで乗っていたSボートがはっきり言って大したことなかったせいか、
Uボートの性能がここまでとは思っていなかったのでしょう。
深度200を目盛りが指したとき、先任伍長は思わず呟くのでした。
"Mary, mother of God. Those Kraut sure know how to built a boat."
DVDでは全く訳されていませんが、この「クラウト」とはザウワークラウトのことで、
つまり「ドイツ野郎」を意味しますので、   「驚いた。ドイツ野郎ってのは潜水艦の作り方をよく知ってるんだな」   ということになろうかと思います。  

ところが褒めた途端、故障した潜水艦は最大深度を超えて沈み出し、
ビスは飛び、バルブは割れてさらにタンクの水が減って大パニック。

全員で必死にバルブを閉めまくり、なんとか浮上に転じさせましたが、 今度はタンクが制御不能で、浮上を止める事ができません。

浮上して敵に視認されるまでに、艦尾の魚雷を撃てるように
圧搾空気管の穴をなんとかしなければならないのですが・・・。     圧搾空気管のバルブのある船艙は今や水没してしまっていました。
修理作業には体の小さな者しか当たることはできないので、
タイラーはラビットとトリガーの二人から、トリガーを指名します。   ところでこのラビットとトリガーが双子ってくらいクリソツで、
わたしには最後まで二人を見分けることができませんでした。     トリガーは海水の満たされた船艙に入り、作業を始めますが、
酸素ボンベの届かないところでの長時間の作業ができず、
めげて一つ直したところで出てきてしまいました。     「ダメです。できません(;_;)」   しかし、浮上する前に直せないと、トリガーどころか全員が死ぬことになります。
心を鬼にして、戻って遣り遂げろと命令するタイラー。
部下を死なせることになってもためらわず命令することができるか、
と艦長に問われたタイラーですが、ちゃんとやってるじゃないですかー(棒)       そのとき、艦内で不審な異音が発生。
ハーシュ大尉が顔色を変えて拘束した捕虜を見に行くと・・・、     この期に及んで敵に情けをかけ、生かしておいたことが仇になったのです。 残骸と死体を放出して、沈没したと思わせることに成功しそうなとき、
捕虜は手錠でパイプを叩いて駆逐艦に信号を送っていたのでした。   「我U-571  我を破壊せよ」
ちなみに、この後ハーシュ大尉は顔に血糊をべったり付けて 無言で皆の前に姿を現します。     そうこうしているうちにU-571は浮かび上がってしまい、駆逐艦に距離を計られて
魚雷を撃ち込まれ出します。   「艦を捨てる指示を!」   「まだだ!」   その瞬間、トリガーが瀕死でバルブのレバーに手を伸ばし、魚雷復活。 駆逐艦にまっすぐ向かっていく魚雷。
最後の、そして唯一の攻撃が失敗すれば、その後は相手の攻撃で死ぬか、
それとも味方の手にかかって死ぬか、何れにしても死一択です。     向かってくる魚雷を回避するため必死で転舵する駆逐艦の操舵手。     早くも退避行動に移る水兵たち。     魚雷はみごと駆逐艦の左舷に命中しました。     まるで雑コラのように仕事が甘い合成の爆発シーンです。     「ミスタータイラー、もしあなたがチーフを必要なら、
わたしはいつでも馳せ参じますよ」   アンディは大ベテランのクラウ先任伍長に、艦長として認められたのです。
きっとダーグレン艦長も草葉の陰じゃなくて海の下で喜んでいることでしょう。     しかし、トリガーは・・・・・。 彼は自らの命で全員を救ったのでした。     生き残ったメンバーは、たった7人。 ここでいつまでたっても救出されず、「インディアナポリス」生存者の悲劇再び!
ということになる可能性は大いにあったはずですが、
この辺りにはサメはいないので多分大丈夫。

  ラッキーなことに、たった一晩海の上で過ごしただけで、彼らは哨戒機、
しかも味方の水上機に発見されてあっさり生還することができました。     というわけで、最後のクレジットですが、   この映画は、第二次世界大戦時、エニグマ暗号機をUボートから奪うため、
命を懸けて戦った勇敢な連合軍兵士たちに捧げる   1941年5月9日 英海軍大3駆逐艦隊HMS「オーブレティア」がU-110から
エニグマ暗号機と暗号表を奪取   1942年10月30日 HMS「ピータード」がU-559から暗号天気図を奪取   1944年6月4日 米海軍機動部隊22・3がU-505から暗号機と暗号表を奪取     これだけ?   というか、最後のはDデイの2日前ですよね?
この頃はすでにドイツは暗号機を役立たせるような状態ではなく、
暗号も解読されていてなんの意味もなかった気がするんですが、
とにかくアメリカも映画みたいなことやったよ?といいたかったのね。   まあいいや。

ちなみに、この映画を、かつてUボートに乗っていたドイツの元軍人に見せ、
ヒストリーチャンネルが感想を聞いたところ、こう答えたそうな。   「この映画には本当だったことがたった一つだけある。
それはUボートが大西洋にいたということだ」   言い方を変えると、   「Uボートが大西洋にいたということ以外全部嘘」     終わり。    
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