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メア・アイランドの「マッド・パピー 」原子力潜水艦「ギターロ」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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 今日はメア・アイランドに関係ある「ギターロ」という名前の
2隻の潜水艦についてお話しします。

まずは第二次世界大戦に参加したUSS「ギターロ」、SS-363。

「ギターロ」というと楽器のギターを思い浮かべてしまいますが、
潜水艦「ギターロ」の命名となったサカタザメ「ギターロ」の英名は
「ギターフィッシュ」、スペイン語でギターを意味します。

これがギターロさん。
まあ言われてみればギターぽい?

以前、船は普通女性形で扱われるのに潜水艦は"he"と男性扱いしていたので、
そうなのかと思ったことがあるのですが、ギターロという魚は女性形にも関わらず、
潜水艦「ギターロ」となると、男性形になるのだそうです。

 

 

「ギターロ」は1943年4月7日、ウィスコンシンのニトワック造船で起工し、
9月26日に進水、1944年1月26日に就役しました。

戦時中なので起工から就役までの時期が大変短くなっています。

就役と同時に彼は戦争の只中に投入され、哨戒を行いました。
その哨戒はことごとく「成功であった」と言える戦果を挙げ、
数々の殊勲賞を授与されています。

● 第1の哨戒

1944年5月30日、与那国島近海で「照月型駆逐艦」に護衛された輸送船団を発見
輸送船「四川丸」(東亜海運、2,201トン)を撃沈

6月2日未明、火焼島北西15キロ地点でヒ65船団を発見

タンカーに向けて魚雷を6本発射したが、海防艦「淡路」が雷跡に入り込み、
魚雷が命中し「淡路」轟沈

海防艦「淡路」

6本のうち1本は輸送船「有馬山丸」(三井船舶、8,697トン)に命中
同日夜、「峯風型駆逐艦」を撃沈

● 第2の哨戒

1944年8月7日夜、南シナ海で「吹雪型駆逐艦」に3発命中
海防艦「草垣」撃沈 船団は逃す

8月8日、ルソン島沿岸で700トン級哨戒艇を砲撃で撃沈

8月10日、「香取型巡洋艦」撃破、タンカー「進栄丸」(日東汽船、5,135トン)撃沈
「吹雪型駆逐艦」撃沈

8月21日、輸送船「宇賀丸」(松岡汽船、4,433トン)轟沈

8月27日浮上砲戦の末、タンカー「第二十七南進丸」(南方油槽船、834トン)撃沈
油槽船「第三南進丸」(南方油槽船、834トン)と
油槽船「第二十五南進丸」(南方油槽船、834トン)に損傷

● 第3の哨戒

10月8日、レイテ島沖に向けてミンドロ海峡を通過中の
栗田健男中将率いる第二遊撃部隊を探知し、司令部に重要な情報を送理、
レイテ沖海戦の勝利に寄与する

10月30日、輸送船「ぱしふいっく丸」(玉井商船、5,872トン)
「広明丸」(広海汽船、2,857トン)を撃沈

11月4日、ルソン島沿岸でタマ31A号船団を発見し、
特設運送船「香久丸」(大阪商船、6,806トン)を群狼で集中攻撃

「香久丸」撃沈の戦果は「ギターロ」「ブリーム」、そして
「レイ」に三等分された

11月6日、「愛宕型重巡洋艦」に魚雷命中
「レイ」とともに重巡洋艦「熊野」に命中させたと報告

ただし、命中させたと報告された重巡「熊野」は無事で、
その21日ごの11月25日、航空攻撃を受けて戦没しています。

● 第4、第5の哨戒 

南シナ海で2月18日大型輸送船1隻の撃沈を報告

4月9日、ギターロは5回目の哨戒で南シナ海に向かい、
ベルハラ島近海に23個の機雷を敷設

その後はボルネオ島とシンガポール間で哨戒を行ったが、この時期、
この周辺には目ぼしい艦船はほとんど残っていなかった

その後真珠湾に帰投しサンフランシスコで終戦を迎える

 

「ギターロ」の第1、第2、第3、そして第5の哨戒は成功とされ、
4個の従軍星章および1個の海軍殊勲部隊章を受章しました。

 

こうして書き出してみると、本当にたくさんの日本艦船が
この潜水艦一隻によって戦没してきたのだと実感されます。

戦後、「ギターロ」はトルコ海軍に譲渡され、そこで一生を終えました。

 

ところで冒頭の写真、かっこいいですね。
原子力潜水艦「ギターロ」SSN-665への艦長乗艦です。

2代目「ギターロ」はスタージョン級原子力潜水艦の17番艦。
1964年12月18日にメア・アイランド海軍造船所に発注され、
1965年12月9日起工、1968年7月27日に進水式を行いました。

そして、17ヶ月後の1970年1月に就役が予定されていました。

「ギターロ」の模型や乗員のバッジ、メダルが飾られたケースには

「ギターロは短期間で復元」

というタイトルのおそらく社報が飾ってあります。
そう、「ギターロ」にとってもここメア・アイランドにとっても
歴史的な事故によって、彼の就役は大幅に遅れることになったのです。

その事故についてお話ししましょう。 

建造途中の1969年5月15日、16:00ごろのことです。

民間の原子炉部分建造グループAが機材測定のためタンクに水を充満させようと、
艦の後方タンクに約5トンの水を注入し始めました。

ところが30分以内に別の建造グループB(原子炉とは別の部分担当)が、
整備のため艦の角度を修正しようとし、艦首を2度上昇させるため
前方に位置するタンクに注水を始めてしまったのです。

つまり、艦の前方と後方で、同時に別のグループが注水していたのです。

両グループは互いの活動に気づかないまま注水を続けました。

そんなことしたら沈んでしまうやないかい!

と思ったあなた、あなたは鋭い。
しかし誰もそのことに気がつかないまま作業は続けられ、
艦体が傾きかけてから警備監視員は水位の異常に気がつきます。

そしてグループBに対し、前方が低くなっていたことを警告しますが、
なぜかグループBはこれらの警告を無視。

1630から作業を始めたグループBは1945、バラストタンクへの注水を停止して、
なんと食事のため2000に休憩に入ってしまったのでした。

うーん、これは全く危機感を感じてなかったってことですね?

グループBが食事に行ってしまう少し前、グループAは
目的の角度調整を完了したので、後部タンクから排水を始めました。
そして30分後。グループAはまだ排水の作業中でした。

グループBが食事を終えて戻ると、なんとびっくり。
艦の角度が急傾斜し、前部ハッチが水面下になっているではありませんか。

しかもいくつかの大型ハッチは閉めずにいたので開いたまま。
当然そこから多くの水が流入しまくっています。

慌てて彼らは防水扉とハッチを閉めようとしましたが、おっと残念、
作業中のため、ラインやケーブルが邪魔になって扉を閉めることはできず、
下がって水を防ぐことは不可能でした。

そして「ギターロ」は沈没してしまったのです。(-人-)

ところで冒頭の「マッド・パピー」というあだ名は、
ハッチを閉めることが不可能とわかった20時55分にわざわざ命名されたそうです。

呑気にあだ名をつけてる場合か?という気がしますね。
しかも言わせてもらえばなんだろう、このあだ名の表す他人事感。
事故の原因が自分たちのミスにあるとは微塵と思ってないような・・。


それにしても海軍ともあろうものが、いくら民間作業員だと言っても、
こんなコントのような理由で原潜を沈めていいわけがありません。

というわけで、ここには、沈没した「ギターロ」を、海軍の沽券にかけても
少しでも早く引き揚げるべく努力する様子が、(今更、って感じですが)
おそらく新聞記事のあまり良くない画質の写真で残されています。

これは完璧に沈んでしまっている「ギターロ」。

添付された記事によると、この復元作業で大活躍したのがダイバーでした。
ダイバーは引き揚げのためにまず設置されたデッキから海中に入り、
牽引のためのワイヤを通す作業を行いました。

木曜日の晩から始まった作業は日曜には終了したとあります。

もう少しわかりやすい写真をどうぞ。
沈むのが仕事の潜水艦ですが、建造途中でセイルを残して全部沈んではお手上げです。

潜水艦の艦体に排水のためのチューブを2本立てています。
引き揚げると同時に内部の水を汲み出さないと潜水艦は浮きません。

当たり前のことですが一応言っておきます。

筒の上部から汲み出された水が細いホースから
大変な勢いで出ているのが確認できる写真。

1時間に4000ガロン(1万5千リットル)の水が
艦内から汲み出されました。

中将(左)とか海軍工廠の一番偉い人(真ん中)とか。
右は引き上げた艦体をリペアのためにドライドックに引っ張っていくタグ。

そして周りの岸壁にクレーンを配置してようやく引き上げに成功。

事故から三日後に引き揚げられたマッドパピーこと「ギターロ」が
ドライドックにその姿を安置された様子です。

この沈没による損害は1,520万ドルから2,185万ドルと言われました。
その就役は1972年9月9日、当初の予定から2年半遅れることになりました。

冒頭の写真は、ようやく就役することになった「ギターロ」に
艦長ゴードン・ロンギ中佐が乗艦する瞬間だったのです。

そう思ってみれば、この敬礼には万感の思いが込められているらしいのが
よくわかりますよね。

あー、俺、一体何年間偽装艦長に足止めされてたんだ みたいな(笑) 


就役した「ギターロ」はその後、トマホークミサイルの実験などに加わりました。
また、米海軍の原潜として初めてソ連の高官を乗せて艦内ツァーを行っています。

(ロシアの軍人を艦上に迎えているギターロ。この中にパウエルがいる)

ところで皆さん、このツァーの時、アメリカ軍はこの事故のことを
ロシア軍人たちに正直に説明したかどうか知りたくありませんか?

わたしは、

「言わなかった」

に5カペイカ。
とはいえパウエルは陸軍なので、もしかしたら海軍の恥を晒すために
わざと言っちゃったという可能性も微レ存(※)。


※ 「限りなく可能性が低いが、ゼロではない」 

 


令和元年 雨の海上自衛隊練習艦隊出国行事

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元号が変わり、タイトルも「令和元年」となった練習艦隊が出国する予定の日、
天気予報は驚くことに「降雨確率100パーセント」となっていました。

昔こそ「晴れ、然らずんば雨」という潔い態度で二つに一つの予報を行い、
外れたときの非難も甘んじて受けていた(らしい)のに、いつの頃からか
降水確率などという曖昧な予報で逃げを打っている()気象庁が
ここまでキッパリと言い切るからには、必ず、しかもかなりの雨が降るのでしょう。

わたしは前日から覚悟を決め、急遽、

「テントなしの観覧席に座るための日除け重視の装備」

から、レインコートにブーツといった雨装備に変更を行いました。

朝起きると、一緒に行く予定だったTOは、申し訳なさそうに

「昼からの会議に間に合わなくなったら困るから今日はパス」(´・ω・`)

仕事なら仕方ないね。

というわけでわたしは一人で車に乗り、横須賀に向かいました。
家を出るなりワイパーのセンサーは大雨に反応して激しく動いております。

高速道路も皆いつもより2割くらいスピードを落として慎重に走っている感じ。

横須賀に入るランプは今まで見たことがないくらい車の渋滞が伸びていて、
そのおかげで窓から「かしま」の写真を撮ることができました。

艦上には自衛官以外の人の姿も見えています。
実習幹部や乗員の家族は、ホテルに泊まっていた人が多かったようですが、
あとでホテルの人に聞くと、皆さん朝7時半からロビーに集合して出かけたとか。

一般招待客の受付は9時から始まりますが、家族は8時くらいから
艦内の見学ができることになっていたのでしょう。

自衛艦のラッタルでは傘を差すことは禁じられているので、見学も大変だったと思われます。

自衛官は土砂降りでも傘をささないことになっている人種ですが、
流石にこんな日は黒いナイロンのレインコートを着用します。
しかし完全防水ではないし、帽子だって靴だって、濡れたら不快でしょう。

何と言っても一晩で服を乾かしてアイロンがけをするのが大変そう。

 

さて、横須賀に到着するなり、ちょっとしたトラブル発生。

この日、わたしは車のナンバーをちゃんと出欠ハガキに記しておいたのですが、
入り口で一度承認を受け、許可証をフロントガラスに置いていたのにも関わらず、
警衛の隊員が自転車でわざわざわたしの車を追跡してきて、車を停めたところで
声をかけてきました。

「車のナンバーがこちらの控えには見つからないんですが」

「おかしいな・・ハガキが届かなかったんでしょうか」

「通知のない方は面会の手続きを取って入っていただくことになります」

 

なんのこっちゃ、とはびしょ濡れで自転車を漕いできた彼には気の毒で
とても言えませんでしたが、言われたからには仕方がないので門まで戻り、
受付のテントで車を降りて聞いてみると、

「こちらの控えにはちゃんと名前も車もちゃんと書いてありますよ」

つまり、警衛にのリストだけナンバーの記載漏れがあったということのようです。

まあ、余裕を見て早めに到着していたので、これだけごちゃごちゃやっても
体育館(会場)に着いたら招待客の中では一番乗りに近い感じでした。

海軍五分前を旨としておいてよかったっす。

席に案内してもらい、コートを脱いで、開式まで時間があったので
化粧室に行っておくことにしました。

この日は体育館のフロアから一階下の洗面所が女性用にあてられており、
すでに廊下に沿って長蛇の列ができていたのですが、そのおかげで
そのフロアにある自衛官用の施設(食堂や理髪店)を見学することができました。

ここは隊員食堂とは別の、民間経営のラウンジというかカフェかと思われます。
シャンデリアがこの体育館が作られた時代を表していますね。

同じ階には広報資料室もあって、写真を撮ってきましたので、
またいつか紹介したいと思います。

化粧室から帰る時、すでに階段には練習艦隊幹部たちが待機していました。
来賓席にはまだほとんど人がいない状態です。

この写真に写っている幕僚幹部や幹部学校長は早くから到着していたようですが、
制服の自衛官以外は本当にギリギリになって入場してきましたし、
わたしの座っている招待者席は、後ろを振り返ってみると
ただの一人も座っていませんでした。

ガランと空いた多数のパイプ椅子の後ろには、隊員の家族がぎっしりと立っています。

招待客のほとんどが、出席の返事を出しながら、この天気で来なかった
(来られなかった)というわけですが、式が始まってから来る人なんかどうでもいいから、
この空いた席に後ろで立っている家族を座らせてあげればいいのに、と思いました。

具合が悪くなって倒れそうになったおばあちゃんもいたんですよ?

10時の開式に先立ち、実習幹部と練習艦隊乗員代表が入場してきました。
晴れていれば純白の制服に身を固めた彼らが「かしま」から岸壁に降りてくる様子が
見られたはずですが・・・。

今回は前日から雨が降ることが決定していたので、実習幹部たちは体育館で
前もってリハーサルを行ったに違いありません。

土砂降りの「かしま」から歩いてきた割には全く濡れた様子がないので不思議です。

練習艦隊の出国行事はいつも全身純白の第1種夏服を着用して行われます。

この制服が採用になったのは昭和33年のことだったそうですが、
自衛隊開隊後4年目で、旧海軍の夏服を思わせるデザインに決まったとき、
旧海軍出身者は皆一様に快哉を叫んだのではなかったでしょうか。

わたしはこの第一種夏服とともに、旧軍と同じデザインの海上自衛隊旗、
そして海軍兵学校とそっくりの防衛大学校の制服に

「よくぞ残してくれました三大デザイン賞」

を差し上げたいとかねがね思っております。
ちなみに「よくぞ残してくれました大賞」はもちろん行進曲「軍艦」です。

神戸での入港歓迎行事にも各種自衛隊支援団体の方々がかけつけていましたが、
この日の豪雨の中でも出航を見送る各種団体は熱心に参加しておられます。

会場の自衛官は全員が白い夏服に身を包んでいます。
将官や佐官などの着こなしには長年着慣れた余裕が感じられますが、
実習幹部の様子が特にパリッとして見えるのは、おそらくこの日が
士官として着る初めての第一種夏服だからでしょう。

官品の制服については「体を制服に合わせろ」などと言われると聞きましたが、
階級が上になると、こだわる自衛官はお気に入りの店で誂えたりします。

今後ろから歩いてくるのはタイ王国からの留学生です。

実習幹部の前に艦長と司令官、右側には練習艦隊の乗員代表が立ちます。

中央の式台付近に座る来賓はこの頃にはきっちり到着していました。
二列目の自衛官は海幕勤務とかではないかと思われます。

各国武官と大使館から、政治家、防衛省関係、アメリカ海軍の軍人、そして
海上保安庁からも何人か列席していました。

右側の背の高いアメリカ海軍の大佐は、部下らしい女性軍人と連れ立って来場していましたが、
座る席が見つからず、ウロウロさせられていてちょっと気の毒でした。

防衛副大臣が入来し、儀仗を受ける時に軍人が立ち上がったので、
その間に挟まった民間の来賓たちも全員が立ち上がってしまっています。

アメリカ軍の女性軍人は、わたしのさらに斜め後ろに座っていて、
前で何が起こっているかわからないらしく、とりあえず、
大佐が敬礼するのを見て慌てて敬礼する、という形で乗り切っていました。

どうして二人の席を並べてあげなかったんだろう。

さらにこの後、来賓の紹介が行われたのですが、いつもは名前を呼ばれたら、皆
「行ってらっしゃい」とか「頑張ってください」などと一言コメントをいうのに、
最初の人(どこかの大使)が返事をしなかったものだから、続く全員が
黙っているしかない雰囲気になってしまいました。

後になって返事をしたら、返事をしなかった最初の人に恥をかかせると思ったのでしょうか。

なんだか、フィンガーボールの水をゲストが飲んでしまったので、ホストが
恥をかかせないため自分も飲んだ、という話を思い出してしまいました。

防衛副大臣が儀仗令を受けている間の敬礼。

女子幹部は髪の毛は後ろでまとめるかショートカットが原則です。
男性のように刈り上げてしまっているボーイッシュ女子もいますね。

防衛副大臣原田賢治氏の訓示。

練習艦隊司令官、梶元大介海将補。
流石の堂々たる立ち姿、全く隙がありません。

続いて、新海幕長山村海将の訓示が行われました。

海幕長の訓示は大体の雛型が決まっていて、それを人によって
少しずつアレンジして行うことが何回も出席して分かってきました。

「千変万化に姿を変える海」

「諸君は様々なことを学ぶであろう」

「伝統のユーモア」

「乗員の諸君は実習幹部のお手本となって欲しい」

「家族の皆様、感謝いたします」

こういったキーワードは必ず訓示に登場します。

続いて、横須賀市長や水交会会長などからの花束贈呈。

練習艦隊司令は、花束を副官に一旦預けます。

そして、原田防衛副大臣に出航報告を行います。

そして、家族席、来賓席に向かって敬礼をしながら歩き、体育館を出て乗艦を行います。

行進はもちろん行進曲「軍艦」の演奏に乗って行われます。
一般人たちは拍手で、軍人たちは敬礼で見送ります。

家族席の前は自分の家族を探して視線がそちらに向いてしまう幹部多し。

 

さて、練習艦隊が出て行ってしまった後、アナウンスがありました。

「本日は天候のため、岸壁での見送りは行いません。
皆様は観覧席からお見送りください」

はて、観覧席って何かしら。

近くの自衛官に聞いてみると、体育館観覧席のこと。

体育館フロアから一階上がってみると、狭い通路にが巡らされ、
胸の高さくらいに横長の小さい窓があり、皆そこから下を覗き込んでいます。

わたしが見ると、もう「いなづま」は出航しようとしていました。
とりあえず窓ガラスを開けてレンズを外に出すようにして撮影しました。

すでに最後の舫が今岸壁から離れようとしています。

艦首では、出航の瞬間を待って国籍旗を降ろそうとしている乗員の姿がありました。

そして出航。
艦体が岸壁から離れていきます。

「いなづま」の舷側にも実習幹部が登舷礼に立っています。
ここを出て行くやいなや乗艦し、次の瞬間レインコートを着て立つという超早業です。

それにしても、この写真を見て、出航当時の雨の強さがおわかりいただけるでしょう。
この日一日を通して出航の瞬間がもっとも風雨が強かったのではないかと思われます。

おそらく彼らの帽子はあまり役に立たず、
その顔には遠慮会釈なく激しい雨が吹き付けていたに違いありません。
そして皆の姿勢が心持ち前かがみに見えるのは、風があまりに強いせいだと思います。

そこであゝ無情にも「帽振れ」の号令が・・・!

言っておきますが、この画面の白いのは雪ではありません。雨粒です。
おそらく艦内のシャワーくらいの水量だったと思われます。

どうしても俯き加減になってしまう幹部もいますが、
昂然と面を上げて、しっかりと帽振れを行なっている強者もいます。

 

わたしの近くで窓越しに見ていた年配の方が、

「本人たちは大変だけど、雨の中の出航っていいもんだねえ」

と感に絶えぬように呟きました。

自衛官を志して、防大なり幹部候補生学校の門をくぐったその日から、
幾多の厳しい訓練に耐えてきた彼らにとって、雨に振られるなどは
わたしたちが思う「大変なこと」のうちになど全く入らないのかもしれません。

 

続く。

 

雨の登舷礼〜令和元年 海上自衛隊練習艦隊出航

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横須賀地方隊で行われた令和初の練習艦隊出国行事は、なんの因果か
おそらく海上自衛隊にとっても歴史的な豪雨の中の出港となりました。

わたしの周りの招待者のほとんどは欠席していましたが、関係者や来賓、
何より実習幹部と乗員の家族はほぼ全員が間違いなく現地に来ていたのですから、
うちのTOのように、電車が止まって仕事に戻れなくなるかもしれないと考え、
安全策を取った人以外は、はっきり言って「サボり」です。

特にもし万が一、出席を朝になって取りやめた理由が

「予定していたお帽子やドレスが着られなくなっちゃう〜」

というふざけたものだったら、この日、上下雨合羽で来場し、
また体育館の隅でそれらを身につけて雨の中で艦隊を見送っておられた
何代か前の海幕長の爪の垢でも煎じて飲め、と言ってやりたいです。

さて、前回体育館の観覧席から撮った写真をアップしましたが、
横須賀地方隊の体育館の二階に今回初めて上がりました。

一部はジムになっています。

鍛えよ筋力!! 磨けよ気力!!均整のとれた心と技と体

「鍛えよ」と韻を踏んで「磨けよ」としたんですね。

さて、窓の下に見える「いなづま」の乗員が帽振れをしているところから続きです。
はっきりと画面にも写っている土砂降りのせいで、大変そうですが、
そんな中でも姿勢のいい幹部はいるもので。

この一番左の幹部は、どの写真を見てもいつも顔をしゃんと掲げ、
まるで帽振れのお手本のように行なっていて目を惹きました。

同じく「いなづま」の幹部たち。

艦首部分の乗員たちもその場で帽を振ります。
旗竿に向かって立っている二人とインカムをつけた人は帽振れを行いません。

メガホンの乗員は士官で、メガホンで何か指示をしながら帽子を振っています。

悪天候下での出港はおそらくなんども経験しているであろう海曹のみなさんですが、
よく見ると何人かは目をつぶったまま帽振れしています。

目に水が流れ込んでも顔を拭うわけにいきませんから。

雨の中、行進曲軍艦は意外なくらいはっきりと聴こえてきました。
どこで演奏しているのだろうと不思議だったのですが、もしかしたら
体育館に入る屋根付きの駐車スペースだったかもしれません。

多少の雨なら音楽隊は楽器に雨具を装着して演奏しますが、
この雨では全ての楽器がダメになってしまうでしょう。

おそらく、連合艦隊で山本大将が最初のスープのスプーンを取り上げた瞬間、
それをリレーで甲板に待機している音楽隊に伝え、ほとんど間髪入れず
演奏を始めたように、出港の瞬間、音楽が始まったに違いありません。

 

離岸時の帽振れが終わりました。
「帽戻せ」で帽子をかぶった幹部たちを横から撮影しています。
カメラマンではないようですが、きっといい写真が撮れただろうな。

それから一番左の人の惚れ惚れするほどの姿勢の良さに注目。

出航を見るために多くの家族が体育館の観覧席に上がっていきましたが、
しばらくするとほとんどの人たちが体育館を出ていきました。

「皆さんどうして出ていってるんですか?」

立っている自衛官に聞くと、

「さあ、どうしてかわかりませんが・・・」

そこに行ってみてわかったのですが、アナウンスに促されて上がってみたものの、
窓が小さく、「かしま」はほとんどそこから見えないということがわかったので、
豪雨にも関わらず多くの家族が岸壁に出て行ったものでしょう。

さすがは海上自衛隊、これらの人たちを規則で足留めすることはしなかったのです。

この日参加した人の報告を聞いた知人が、

「練艦隊の見送りでは、みなさんずぶ濡れになったと聞きました。」

とメールを下さったのですが、現地でのアナウンスでは
岸壁での見送りは行わない、とされていましたし、原田副大臣や海幕長は
体育館のフロアから出たバルコニーから見送りをしたので、
ずぶ濡れになったのは招待客や来賓ではなく、
この時に岸壁まで出て行った人たちだけだったと思われます。

乗員から見えるように自衛艦旗を振っている人の姿も見えますね。

体育館の窓は小さく、窓ガラスを開けたところからわたしはカメラを突き出すようにして
なんとか写真を撮っていたわけですが、ふと気がつくと、
係留してある「きりしま」など、他の護衛艦の甲板に人が立っていました。

桟橋に完全防備で写真を撮っているのはカメラマンだと思われます。
ある意味、いつもと違ったドラマチックな出港シーンが撮れたのではないかと思いますが、
来年の自衛隊カレンダーにこの日のどんな写真が載るか見るのが楽しみです。

艦番号153「ゆうぎり」とその向こうの「おおなみ」にも
練習艦隊を見送るために登舷礼が行われています。

「きりしま」の右舷側はくまなく登舷礼の人の列で埋め尽くされていました。
ここからは見えませんが、おそらく艦首側の舷側にも人が立っているのでしょう。

作業服である海上迷彩の上にレインコートを着用しています。

練習艦隊が体育館から出て行ってから「いなづま」、続いて
「かしま」が横須賀湾から出て行くまでの間、彼らはずっと立ち続けていました。

岸壁を離れた「いなづま」の艦体は、回頭が可能なところまでタグに引っ張られていきます。

「向こうにいるのはアメリカの船かね」

近くで見ていた爺様が若い人に聞いていました。

「そうでしょうね。向こう岸は米軍基地なんですよ」

艦番号63は駆逐艦「ステザム」です。
ここから見ても艦体のサビがはっきり確認できるという米軍仕様。

回頭が終わり、「いなづま」がもう一度帽振れを行いました。

練習艦隊はこの後、東京湾を出る時に観音崎沖を通過しますが、
登舷礼は観音崎で見送る防衛大学校のヨットに挨拶をするまでずっと行われます。

ふと気がついたら、体育館の中の自衛艦が帽振れを行なっていました。
海幕長などは外のテラスに出ているのだと思われます。

ちなみに、帽振れしている人の後ろにいるのは2年前の練習艦隊司令官です。

「いなづま」の艦体が完全に湾口に向き、タグボートが離れていきました。

しばらくしてようやく、出航した「かしま」が視界に入ってきました。

わたしのいた体育館の窓からは、角度的に「かしま」出航は見えず、
回頭して初めてカメラのフレームに収まるようになったのです。

「かしま」の実習幹部たちの帽振れをようやく見ることができました。

「帽戻せ」。

「かしま」の頭から尻尾まで、見事に並んだ実習幹部の登舷礼。

例年、練習艦隊を観音崎から遠目に見ると、登舷礼の白い列が大変美しいのですが、
今日はこんな天気なので黒い列となり、視覚的に少し残念な出航となりました。

今年もし晴れていたら、わたしも去年のように車で観音崎まで駆けつけ、
通り過ぎる「かしま」と「いなづま」を三脚を立てて撮ろうと思っていたのですが、
全くそんなことのできる状況ではなかったため、諦めました。

ところで、こんな雨の日にも防大のヨットは観音崎での見送りを行なったのでしょうか。

回頭が終了して、二度目の、そして最後の帽振れです。

こんな遠くからでも黄色いストラップの練習艦隊司令官はよく見えます。

岸壁でずっと演奏されていた「軍艦」はこの時の彼らに聴こえていたのでしょうか。

後甲板にいるのは女子実習幹部たち。

下の階で帽振れできた人はラッキーです。

そして「かしま」も登舷礼の列を見せたまま横須賀軍港から出ていきました。

終了のアナウンスが行われ、まず副大臣が退場、海幕など関係者が出ていきました。

先ほどまで人が立っていた「ゆうぎり」「おおなみ」の甲板からは
人がかき消すようにいなくなっていました。

大変な天気でしたが、わたし自身のことを言えば、車で体育館の近くまで来れて、
しかも雨装備は万全、自衛官ではないので傘もさせて、こんなので
大変などといってははっきりいってバチが当たるくらいです。

お昼にはちょっと早い時間でしたが、そのままメルキュールホテルの
ブルゴーニュで、一人のランチコースをいただきました。

サラダや前菜、パスタがバッフェで食べられ、それに魚か肉のメインが選べて
デザートまで付いてくるという超お得なランチで、横須賀に来ると
(他に店を知らないせいもありますが)いつもここに来てしまいます。

ここからは我が潜水艦基地がよく見えます。
この日もしお型潜水艦が蓄電の水煙をあげている様子を眺めながら、
観音崎まで実習幹部が登舷礼でたち続けていたのか、もしそうなら
彼らの新しい第一種夏服はいきなり雨の洗礼に遭ってしまったなあ、などと考えました。

 

「雨降って地固まる」などという陳腐な言葉を使うのも何ですが、
海上自衛隊練習艦隊の歴史で、こんなドラマチックな出航も滅多にないでしょう。
江田島での「錨を上げて」事故もさることながら、今年の練習艦は、
もうすでに起こるべき波乱をかなり”消化した”という言い方もできます。

(練習艦隊の遭遇する”困難”が一定量であると無茶な仮定をしての話)

強引すぎる結論ですが、だから、きっとこれから始まる航海は順風満帆なものになるはずです。

半年後、皆さんが精強なる初級士官となって無事に帰国する日をお待ちしています。

 

 

 

金刀比羅宮における「慰霊祭と追悼式」〜掃海隊殉職者追悼式

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毎年5月の最終週末に行われる掃海隊殉職者の追悼式に今年もご招待いただき、
参加してまいりました。

終戦直後より大戦中日本近海に敷設された機雷の掃海に従事し、戦後日本の
航路啓開にその命を殉じられた七十九柱の御霊を慰霊追悼するこの催しは、
毎年高松市の金刀比羅宮境内に座す殉職者慰霊碑の前で行われます。

海上自衛隊では例年その前日に高松港に寄港する掃海母艦艦上で
追悼式出席者や地元の支援者を招いてレセプションを行っているのです。

係留中は掃海母艦の一般公開が行われる他、地元の地本から
陸上自衛隊の装備なども岸壁に展示され、ここ高松では一年に一度の
大掛かりな自衛隊広報イベントとして定着しています。

レセプションの行われる日の午前中の飛行機で高松に到着しました。
高松空港の愛称は「さぬき空港」です。

愛称だからわざわざ平仮名にしていると思ったのですが、そうではなく、
いつからかは知りませんが、最近讃岐市は公式にも「さぬき市」と書くそうですね。

空港に隣接している「こどものくに」。
調べてみたら結構大規模な体験型乗り物科学館といった感じの施設でした。

さぬきこどもの国

日本唯一の国産旅客機であるYS-11が地上展示されています。
中に入ってコクピットに座ることもできますし、そのほかには引退した
路上電車ことでんの車両なども見られるそうです。

今度飛行機の時間待ちがあれば行ってみようかな。

さて、例年追悼式前日に会場の立て付けと、昨年はその前に行われる
呉地方総監の昇殿参拝の様子を皆様にお伝えしてきましたが、
今年はここ高松で見学行事が入ったためお休みです。

 

ここで、以前も書いたことがある追悼行事の歴史を今一度紐解いてみたいと思います。

殉職者家族を迎えて行われる追悼式の前日には、同じ慰霊碑の前で
金刀比羅神宮が主催して神式の「慰霊式」が実施されることになっています。

追悼式がこのように「慰霊式」を別の日に行う、という今の形になったのは
昭和50年からのことで、それ以前は

「金刀比羅宮が祭主となり執行する慰霊祭に、海上幕僚長が招かれ、
掃海部隊の参加は掃海艦艇を含めた部隊として参加」

して行われていました。

海上自衛隊がこの慰霊祭において金刀比羅宮の協力・支援をしてきたわけです。

ところが、昭和50年ごろ、海上自衛隊として慰霊祭に協力することが憲法上(20条)
問題があるとにわかに騒がれ出すようになりました。

 

皆さんもご存知の通り、戦後の自虐教育を受けた「団塊の世代」が社会の中心となり、
政治経済教育文化に携わるようになってきた時期、自衛隊の行事は「軍パージ」の
格好の対象となって鵜の目鷹の目で糾弾を受けたわけですが、これもその一つです。

そもそも慰霊祭は、掃海部隊を出した全国32の港湾都市の首長が、
金刀比羅宮に直々に依頼することで始まったものでした。

神宮としては、糾弾に屈して慰霊祭を分けて行うなど到底受け入れ難いことであり、
その案に反発したと記録にはありますが、それを説得したのは他ならぬ
当時の呉地方総監であり、金刀比羅神宮は

「不本意ながら、今の世情では仕方ない」と妥協したのである。

(当時の呉地方総監管理部長の書簡より)とあります。

これによって従前と大きく変わったのが

「個人的に行われ自衛隊が招待されるという形になったこと」、

そして、

「企画準備執行全てが海上自衛隊から呉地方総監部の所掌に移ったこと」

でした。

 

掃海隊殉職者は金刀比羅宮で永代供養されているため、追悼式においても
神官が控え、必ず式の前後に礼名簿の奉安と貢納が行われます。

わたし個人としては、追悼式にこのような神式の行事を残しながら、
わざわざ慰霊祭を追悼式の前日、しかも呉地方総監と掃海部隊指揮官等だけを
招待して行い、それをもって追悼式から「宗教色を排した」といいきれるかというと、
それは全くの欺瞞であり、矛盾に満ちていると思わざるを得ません。

海上自衛隊発行の「苦心の足跡」にも、

「掃海殉職者追悼行事の現状と将来」

として、

「制服での参加、役職の紹介などは社会通念上許されるであろう」

としながらも、

「問題があるとすれば、追悼式の中に慰霊祭的要素が多少残っていることである」

として礼名簿の奉安降納について言及されていますが、この「問題」とは
あくまでもわたしがいう「矛盾」と同義であると解釈したいと思います。

ここで個人の見解を言わせてもらえば、殉職者の慰霊を行うという大義のために
「妥協した」金刀比羅神宮にも、心ならずも(と言い切ります)公的決定に従い、
神宮を説得する側に回った当時の呉監にも、敗戦後の占領軍が作り上げた
「時代の空気」の犠牲者に対する同情を禁じ得ません。

しかし何より、「矛盾と問題」を包括したまま行われている慰霊の形については、
慰霊されるべき肝心の殉職者の御霊に対し、ただ申し訳ないと衷心より思うものです。

それから、これも繰り返しになりますが、かつての金刀比羅宮での慰霊祭は
旧海軍記念日である5月27日に行われていました。

行事を週末にして参加者の便宜を図るという大義名分があったとはいえ、これを

「5月最終土曜日の追悼式前日」

に変更したのも、根本は同じ理由によるものです。

 

 

「空母」「戦闘機」という名称が使えないなど、自衛隊という組織に少し関われば
呆れるくらい言葉の言い換えなどの「苦心の足跡」が目についてきます。

しかし、こういった防衛省の文字通りディフェンシブかつ腰の引けた忖度に対し、
責められるべきは決して自衛隊そのものではありません。

河野元統幕長式に言わせていただけるならば、それもこれも

「わたしは、根本を質せば、『憲法』」

に帰結する問題だと思っています。

 

さて、追悼式に参加する掃海部隊の指揮官などが招待を受けて参列する、という
この慰霊祭については、わたしも一度だけその様子を見学したことがあったものの、
神事をわたし如きが軽々に扱うべきではないと判断し、それ以来自粛してきました。

今、こういった経緯をあらたに鑑みて、自粛の理由は自ずとこのように変わってきます。

つまり、彼らの妥協の理由となった政教分離を含む自衛隊に対する公論そのものが
変わっていかない限り、慰霊祭は世間に広く告知するべきではないということです。

世間に不用意に知らしめることによって自衛隊反対派の攻撃の好餌となる機会を
増やすのはよろしくない、というのが今の「わたしが自粛する理由」です。

 

もっとも、今回艦上レセプションでお話しする機会を頂いた、
元地方総監ふくむオールドセイラーたちによると、最近、特に東日本震災後、
慰霊の方法にまで目くじらを立てるような空気は確実に減少しているとのことで、
わたしも去年の若い政治家の挨拶(『任務に殉じたことは本望であったでしょう』)
などからその片鱗を感じたりしました。

ぶっちゃけ、これは団塊の世代が世の中から減っていることと無関係ではないと思います。

この日高松入りして、地元出身である見学会の主催者に連れて行っていただいたのは、
讃岐うどんのお店でした。

観光客などおそらく知らない、近隣の人や通りがかりの人が利用する、
普通の讃岐うどん屋さんです。

ここ関東ではあちこちで見られる「丸亀製麺」方式で、うどんを選び、
自分で好きな天ぷらなどのトッピングを選んで食べるわけですが、後で
別の地元出身者にその話をすると、言下に

「丸亀は讃岐うどんじゃありませんよ」

なんかわからないけど地元の人には全く評価されていないようです。

その人に言わせると、そういう地元の人が行くような店の方が絶対に美味しい、
ということでした。

というわけでそのローカルなうどんを。
天ぷらの一番上に乗っているのは「昆布の天ぷら」です。

昆布そのものを天ぷらにしたものなど生まれて初めて見たので、
多少チャレンジングかと思いましたが食べてみたら、
中の昆布は柔らかさを残した肉厚のもので、天ぷらが揚げたてならば
さぞかし美味だろうと推測されるお味。

うどんは讃岐うどんにしては細麺だということでしたが、
うどん慣れしていない余所者のわたしには判別不可能です。
出汁の薄さもうどんのコシと柔らかさの絶妙な妥協点?も、
蛇口からうどんが出てくるという噂のこの地方の人たちの
日常食として納得のお味だったことを報告しておきます。

こんなボリュームで一人600円くらいというのが泣かせますね。

今回宿泊したのはいつもの「クレメントホテル」の駐車場だったところに新設された
JRクレメントイン高松。
いつも招待を頂いてからではクレメントホテルは満室で取れないので、
新しくて若干お安いセカンドラインが登場したのは嬉しい限りです。

見学が早めに終わったら立て付けだけでも見に行きたかったのですが、
懇談が長引いてしまい、金刀比羅宮に行くのは断念し、直接チェックインしました。

部屋でゆっくりして体を休め、カメラマンのMかさん(仮名)を拾って
現地に到着した時には開会の数分前で、日は傾きかけ、地面には
長い影を作っています。

ウルトラマンの柵留めが可愛いですね。

平成13年にサンポート高松港が整備され、ここに掃海母艦を係留して行う
ようになってから、一般公開は例年大変な盛況ぶりだそうです。

整備前も同じように掃海母艦と、在泊艦艇5〜6隻による公開を行っていましたが、
土日二日間の来艦者はせいぜい約800名程度だったのが、
埠頭全体が綺麗になってからはその倍くらいに人数が増えたとか。

昔はこの自主広報活動は香川地連(地本)主導の募集広報だったのですが、
近年では掃海隊殉職者追悼式に対する国民的関心を取り戻すため、追悼式と関連づけて、
掃海の歴史と掃海部隊をアピールするような方向に向いています。

具体的には、掃海母艦上に機雷掃海に関わる教材や資料、模型などを展示する、
掃海母艦の内部施設を公開してその任務について理解してもらう、などなど。

そこに殉職者のご遺族を乗せたマイクロバスが到着しました。
それまで会場入り口で来客に挨拶をしていた呉地方総監が、舷梯を降り、
バスの前で一人一人を敬礼でお出迎えしています。

手前はこの日も金刀比羅宮での慰霊祭、立て付けと参加してこられた
自衛隊の撮影をライフワークとするカメラマンのMかさん(仮名)。

 

長年追悼式を撮り続け、各ご遺族についても深く知悉しておられ、
ご遺族からの信頼がいかに厚いかがこの一年ぶりの抱擁からも伝わってきます。

ブルーのリボンをつけておられるのが遺族の方々です。

高齢化、世代交代が進み、今回参加したご遺族は、79名の殉職者に対し、
わずか6家族という状態でした。

平成23年に発行された「苦心の足跡 掃海」においては、

「近年の艦上レセプションは、遺族の慰問、追悼式参加者の懇親にとどまらず、
広い意味での広報活動、狭義の募集広報などが入り混じったものとなっている。
しかし、それぞれの目的は十分に達せられているものと思われる。

遺族の高齢化、世代交代が進む中で今後は戦後の掃海業務そのものを
国民に知らしめる広報活動として追悼式に関連づけて
艦上レセプションを行うことが肝要であろう」

と記載されていますが、これは決してご遺族が減っているからといって
殉職者追悼はもちろん、ご遺族への慰問という意義の比重を軽くする、
と同義ではないことを信じたいと思います。

 

続く。

 

舟盛りと機雷と自衛艦旗降下〜掃海母艦「うらが」艦上レセプション

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今日、5月27日は旧海軍記念日に当たります。

わたしは最近買い変えた車のナンバーをこの527にしている人ですが、
こういう変わったことをする人間は世間には稀で、ほとんどの人にとって
この日は、何の意味もない普通の日に違いありません。

しかしかつては、この日、海軍部隊の都内大行進が行われ、
軍楽隊の勇壮な調べにのって、キリリと白い脚絆をつけたネイビーたちが
一糸乱れぬ更新を行う様子は、海軍を志す青少年や、海軍軍人に憧れる乙女、
そして軍楽隊志望の音楽少年を多数産出したものだそうです。

終戦後、かつての海軍記念日は何の記念日でもない普通の日になりましたが、
戦後、その海軍組織から生まれた掃海隊員の殉職者を顕彰することになったとき、
慰霊祭は旧海軍記念日の5月27日に行のうことが定められていました。

つまり今日は、本来なら「慰霊祭」が行われていたはずなのです。

ここでわずかに心安らぐ事実は、最終土曜日が追悼式、その前日の立て付け前に
慰霊祭を行うと決まっている所為で、何年に一度かは、本来の5月27日に
その日が巡ってくるということでしょう。

 

さて、その5月最終週金曜日に行われた、掃海母艦「うらが」艦上での
レセプションについてお話しします。

約8年前の自衛隊の報告によると、艦上レセプションは年々広報的色彩を濃くしており、
追悼式に比べ規模も拡大しているとのことですが、平成から令和になった今年も
その傾向は変わっていないといっても差し支えないでしょう。

掃海殉職者の追悼を第一義に行われている行事ですが、
同じ頃の報告でこんな数字があります。

艦上レセプション参加者約160名中、100名は艦上レセプションのみ参加

主催者側海自を除く追悼式参加者約120名中、60名は追悼式のみ参加

つまり、艦上レセプション参加者の6割は追悼式には出ていない、ということです。

追悼式会場となる慰霊碑前の広場のキャパシティを考えると、
艦上レセプション参加者が全員出席することはおそらく不可能なので、
海自側は、レセプションにのみ参加する層に対し、広義の広報と、
狭義の募集協力活動につながる効果を期待していると見られます。

ちなみに、追悼式および艦上レセプションの案内は、呉地方総監部から
日頃海上自衛隊が世話になっている関係省庁、協力団体、造船会社、
国会議員、報道関係者などを含む広い範囲を対象に送られています。

受付に近づくと、呉地方総監部の総務課でもうすっかり顔なじみとなり、
顔を合わせると女子的お手振り挨拶をするまでになったウェーブさんが
名簿照合のための官姓名報告をする前に名札を持ってきてくれました。

彼女のおかげですっかり甘やかされたスポイルドチャイルドのわたしは、
最近呉監の行事では大船に乗った気になって(海上自衛隊だけに)、
ひどいときには招待状の封筒すら持っていかなかったりします。

他所の行事では通用しないし、万が一彼女が転勤でもしたらたちまち困るのですが。

開会時間と同時に乗艦したので、すでに甲板は客でいっぱいでした。
早速知り合いを見つけては抉りこむように歓談を行います。

こうしてみるとあまり人が多いように見えませんが、もうすぐ挨拶が始まるので
ほとんどの参加者はテントの下(というかテーブルの周り)に集中しているのです。

時間通りにレセプションが始まり、呉地方総監杉本海将がご挨拶。
呉総監になって初めての追悼行事の執行者を務められることになります。

市長や政治家の挨拶の後、海幕副長の出口海将が紹介されました。
奥に見えているひときわ背の高い自衛官がその人です。

このとき、司会の自衛官がうっかり名前を「出川海将」とアナウンスしてしまい、
ちょうどその直前に名刺交換をしたばかりのわたしはあっと思ったのですが、
間髪入れず当のご本人が、

「出川ではありません。出口です。出川は芸人です!」

とツッコミを入れたのです。
この写真は、皆がそれにどっとウケて拍手しながら笑っているところです。

さらに名刺交換の前に、わたしは或る元海将から、出川海将の噂、
とにかくベタ褒めといっていいほどの高い評価を伺ったばかりだったのですが、
この、打てば響くような、部下の失敗を責めず笑いに変えてしまう
お手本のごときネイビーのユーモアを目の当たりにし、なるほどと納得しました。

名刺交換させていただいたとき、出川海将のウィングマークを見て、

「パイロットでいらしたんですか」

と伺うと、

「それは正しいようでそうでもないです」

と思わず引き込まれるような返事が返ってきました。
つまり、海将はTACO(戦術航空士)だった、ということなのですが、
P-3Cの場合、機長よりTACOが先任だった場合にはこちらが機長を務めます。

「淵田美津雄ですね」

それを聞いてわたしは思わずマニアックなことを口にしてしまいました。

もちろん海将はその意味をご存知だったので良かったです。

言い訳するわけではありませんがこの写真、焦点がボケているのではなく、
舟盛りの向こうの機雷に当たっています。

機雷ですよ。機雷。

ここ何年か連続して掃海母艦の艦上レセプションに出ていますが、
舟盛りと機雷、これほどシュールな組み合わせは初めて見ます。

これを掃討しないと舟盛りが触雷する!あぶなーい!というシチュエーション?
・・・いや、それとも機雷が海上に浮かび上がっているということは、
もう係維は切断されていて、あとは舟盛りの上からバルカン砲で掃討するだけの状態か?

この日、開会までてーブルにはメインの舟盛り以外は何も料理がありませんでした。

出川じゃなくて出口海将と皆が笑っている写真を見ていただければわかりますが、
ほとんどのお料理は挨拶をしている間、せっせとテーブルに運び込まれてきて、
終わるまでには全てが出揃っているといった具合です。

これは関西で練習艦隊が行なった「オペレーション・ラップ」と同じく、
開会前に料理が食べられないようにする作戦であることに気が付いたのは、
次の日人と話していて、

「関西から西はどこにいっても料理がなくなるのが異常に早い」

というテーマになったときでした。

「下関なんかもすごいんですよ。皆始まる前に食べ始めてしまう」

大阪ではラップをして乾杯と同時に外すという方法でそれを防ぎましたが、
ここでは挨拶の間に運び込むという戦法。
さすがに挨拶の時に料理に手をつける人はいませんから。

「というか東京や横須賀が特殊なんですかね。
下手すると最後まで食べ物がいっぱい残ってたりしますよね」

「東京は特に、食べ物にがっつくのはかっこ悪いという風潮があるんですよ。
パーティはグラス片手に談笑するもので、ものを食べる場ではないという」

そういえばわたしもごく身近な人間から

「社会人たるものパーティでものを食べているようではダメ」

と聞いたことがあります。
パーティとは新たな人脈を得る場であり交流をする機会であって、
刺身を食べている時間があるなら少しでも多くの人と名刺交換すべし、
と考える人種がが関東一円に多く集まっているということなんでしょう。

本日の調理を担当した給養の責任者が皆に紹介されました。
長いエプロンとワイシャツに白い蝶タイというシェフのいでたちです。

そして、追悼式に伴うレセプションということで乾杯も献杯もなし。
挨拶が終わり、どうぞご歓談くださいという言葉と同時に消え失せる刺身群。
向こうの舟盛りの刺身を取っている人たちは、なぜか皆自分の箸を使っています。
確か横にトングが置いてあったと記憶するのですが。

しかしそんなことより、かぼちゃを使ったこの不思議なオブジェを見てください。

これはなんですか?(真剣)

かぼちゃに「たかまつ」「うらが」はわかるとして、縄が縛られた
かぼちゃの中からは蛸の足とエビが顔を出しているのですが、
・・・・・蛸壺かな?

それならなぜ、エビがいる?
それとも掃海部隊の人ならああ、あれか、とわかるような種類のものなのかしら。

ちなみに、このエビは宴会終わりころにはいなくなっていたそうです。

高松港での艦上レセプションの大きな見所があるとすれば、それは日没です。

薄暮のなかに浮かびながら、次第にその色を紫に変える瀬戸内の島々の向こうに、
この日の太陽が空を茜色に染めつつ落ちていくころ、艦内には
自衛艦旗降下が行われるということが一般客に向けてアナウンスされます。

「海上自衛隊では毎日日の出と共に自衛艦旗を掲揚し、日没と同時に降下する
『自衛艦旗降下』を行います」

練習艦隊の自衛艦旗降下と違って、「うらが」の甲板は広く、
しかもこの日はそれほどたくさんの人がいなかったせいで
旗降下を見守る役の士官もいつもの位置に立っています。

写真を撮る人は周りに集まりましたが、横須賀や神戸の
練習艦隊のときより参加者に元自衛官が多かったせいか、
周りが人だかりになったりすることはありませんでした。

「うらが」の向こう側に係留してある掃海艇「つのしま」は、阪神基地隊、
「みやじま」は呉からやってきました。

高松での追悼式に伴う自主広報の一環で、毎年掃海艇(感)が来航し、
追悼式翌日の日曜日、午前午後一回ずつ体験航海を行なっています。

毎年800名程度が体験航海に参加しているそうで、わたしも一度だけ、
二年前に乗せていただいたことがありますが、1時間で帰ってくるクルーズなので、
全くの「遊覧コース」という感じになります。

地元地本としては、自衛隊入隊を考えている人たちを対象にした広報活動、
と位置付けていますから、そういう青少年や子どもたちを取り込みたいところです。

 

余談ですが、今年行われる予定の海自観艦式が、招待者を絞って、入隊志望者を優先し、
つまり自衛隊広報の本来の姿に立ち返るらしい、と最近聞き及んだところです。

確かに近年の自衛隊イベントの人気は過熱の傾向にあり、広報という点では
喜ばしいことなのですが、その弊害として、いつも同じ常連のマニアが跋扈したり、
チケットが高額でオークション取引されるという憂慮すべき状態を生んでおり、
しかもその割に、人気が自衛官の増加につながっていないという厳しい現実があります。

あれだけの大々的なイベントを、何の事故もなく運営することができる
海上自衛隊の組織力とそのスキルには感嘆するしかありませんが、
それはもう十分に世間に知らしめることができたと考えれば、そろそろ
悪しき傾向に「歯止め」をかけるときにきているのではないでしょうか。

ついでに(これは単なる個人的な予想なの聞き流して欲しいのですが)
今年の観艦式は、皇室行事の影響で、例年より早めに行われるかもしれませんね。
第二週の予行で本番がその週末、という線ではないかとわたしは思っていますが、
さて、どうなることやら。

自衛艦旗降下を行う当直士官たちが、不動の姿勢で時間を待つ間、
太陽の縁が山の端に消えていくのが見えました。
完全に沈み切った瞬間が、すなわちこの日の日没時間です。

今か今かと待っていると、

「10秒前」「気をつけ!」
ラッパ「♪ドッソッドッドミソ〜♪」

この写真は電飾の灯りが灯った瞬間で、発令より一瞬早かったようです。

 「時間」

これを「うらが」では「じかん!」と短くコールしていましたが、
中には「じか〜ん」と延ばしていっている艦もあります。

人によって言い方に癖があったりするんでしょうね。

向こう側の掃海艇の艦首旗は、「時間」の瞬間姿を消しました。


次第に闇が濃くなっていく高松港に浮かんだ「うらが」甲板には、
いつしか軽快な音楽隊の演奏するジャズやボサノバなどが格納庫から流れて、
華やいだ空気の中で人々がレセプションのひと時を思いおもいに過ごしています。

いろんな場所で自衛隊の艦上レセプションに参加してきたわたしですが、
ここ高松港での掃海母艦甲板でのそれが一番好きかもしれません。

昼間の熱を払って甲板に吹き渡る五月の夜風の匂い、
掃海母艦ならではの広々とした甲板で眺める海軍伝統の自衛艦旗降下の儀式。
そして、心締め付けられるような瀬戸内の夕焼けの色がここにはあるからです。

 

続く。

SOPAと失われた自衛艦旗の真実〜掃海母艦「うらが」艦上レセプション@高松港

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高松で行われた掃海殉職者追悼式に伴う掃海母艦「うらが」艦上での
レセプションは、日没時刻を迎え、恒例の自衛艦旗降下が行われました。

海曹と海士が索を結び、自衛艦旗を畳むという後の作業を行なっています。

この後、旧知の自衛官から

「今日の自衛艦旗降下はどうでしたか」

と聞かれたので、

「やっぱり甲板が広いと人がいなくて撮りやすいです」

などと答えるうちに、ちょっとした自衛艦旗降下のトリビアを教えてもらうことに。
ちなみにこの場合のトリビアとは、「瑣末なこと」という本来の意味ですが、
それはそれでなかなか深い話だったので書いておきます。

この会話で新たに知った単語があります。

ソパ。

この後に「アホ」をつけると「ソパ・デ・アホ」でニンニクスープのことですが、
もちろんそちらではなく、

SOPA(Senior Officer Present Afloat )

英語を読んでいただければ、一発でその意味がわかっていただけるでしょう。
定係港であれば、そこに「現在」「浮かんでいる」ところの先任、
つまり一番ランクが高い艦長がいる艦、ということになります。

リンク先を読んでいただくと、

「アメリカ海軍の掃海艇が佐世保に入った場合」

として、

「掃海艇の艇長は中尉であり、入港に先立ち、すでにそこにいる米国駆逐艦の
どこにSOPAがいるかをメッセージによって知らされている。
SOPAは掃海艇に対し、どこに係留するかを始め、各種割り当ての任務を指示する」

とあります。

 

アメリカ海軍も我が海上自衛隊も階級社会なので、フネ同士の敬礼も
下から上に向かって行い、SOPAはそれに答礼を行います。

「かが」体験航海で、艦橋デッキから艦隊司令のいる方向(別の艦)に向かって
敬礼を行なっていましたが、艦隊司令のいる艦がこの場合のSOPAだったというわけです。

ところでこの時伺った話によると、興味深いことに、このSOPA優先の法則は、
自衛艦旗降下の号令のタイミングにも適応されるというのです。

 

呉港で「夕呉クルーズ」に参加した人は、降下時間になると、あちこちから
少しずつタイミングのずれた喇叭譜「君が代」が聴こえてくるのをご存知でしょう。

少しずつずれて聴こえてくるのがまた風情があっていいものですが、
実はこれにはちゃんとした理由があるのです。

 

定係港などで複数の自衛艦がいる場合、自衛艦旗降下において

号令はSOPAが真っ先にかける

ということが決められているからです。
長年の慣習でこうなったのか、どこか規則に書かれているのかはわかりませんが、
具体的にどういうことかというと、降下の際一番最初にかけられる号令、

「十秒前」

は、SOPA艦が最初に発令し、他の艦はそれを聞いてから一斉に号令を下すのです。

ですから、

「停泊数が多い定係港などでよく注意して聞かれると、
SOPA『じゅうび… 他『十秒まえ!』てな感じできこえます」

なんだそうですよ。

アメリカ海軍の掃海艇が、佐世保のSOPAを前もって調べて入港するように、
艦乗り、(多分航海員)の重要なお仕事は、どのフネがSOPAかチェックすること。

そして、例えば同じ二佐の艦長のフネのうち、どちらがSOPAかは
どちらの艦長が先に二佐に昇任したかで決まるというのです。

航海員の間で、

「やった、うちの方が先だ」

とか、

「惜しい。あちらが半年早かった」

なんて会話があったりするんでしょうか。

SOPAは「プレゼント」という言葉からわかるようにテンポラリーなものです。
同じ港でも、定係されている艦艇が日々変わるので、SOPAもその都度違います。

だから、それを毎日チェックする係が必要になるわけです。

そういえば呉のクルーズで、「SOPAは目印に旗を揚げている」という話を
解説の人から聞いたことがあったようななかったような・・・・。

あと、細かいことが気になるわたしとしては、同期で同時昇任した
二人の艦長がいた場合、どうやってSOPAを決めるのかが気になります。


この法則でいうと、高松港におけるこの日のSOPAは間違いなく「うらが」なので、
「みやじま」「つのしま」の当直士官は、「うらが」の当直士官の
「十秒前」に少し遅れて発令を行なっていたはず、ということになります。

 

また、こんな自衛艦旗降下にまつわるトリビアも聞きました。

「うらが」のような大きな艦にはラッパを吹く航海員は4人ほどいて、
一人や二人上陸していても、誰か必ず吹ける人が残っているものですが、
潜水艦や掃海艇は航海員そのものが2〜3人しかいないので、停泊の時間には
全員が上陸してしまっていることも少なくない(というか多い)そうです。

この日も掃海艇の航海員が全員でうどんを食べに上陸していた可能性は高いですが、
「うらが」がラッパを拭いてくれるので、全く問題はなかったはずです。

 

そこで、またしても細かいことが気になるわたしとしては、
掃海艇や潜水艦が単身でどこかに係留していたとして、航海員が出払っていたら、
その時はラッパなしで自衛艦旗降下を行うのかがとても気になります。

みんなでハミングしながら降下とかだったら、ちょっと見てみたいですが。

ちなみに呉地方総監部から万が一、ラッパを吹ける人が何かの事情で
誰もいなくなったとしても、今ならあの!杉本総監がいるから大丈夫です。

太陽が沈み、急激に周りが暗くなってきました。
「うらが」のマストには、掃海隊群司令の海将補の在艦を表す
桜二つの司令官旗が揚げられています。

去年の掃海母艦艦上レセプションまでは、格納庫の中に主賓テーブルを置いて
その奥で主賓が挨拶していましたが、今年は格納庫には
呉音楽隊から選抜された軽音楽バンド「マリーンナイツ」の演奏ステージになっています。

バンドは「セント・トーマス」「A列車で行こう」「イパネマの娘」など、
ジャズのスタンダードやボサノバなどを演奏していました。

「かしま」で焼き鳥が美味しかったのを思い出し、屋台に行ってみたら、
最後の三本になっていました。
三本も食べられそうにないので二本だけもらおうとしたら、

「全部どうぞ!」(迫真)

まあ、一本だけ残していかれても困るでしょう。
覚悟を決めて全部いただきました。

ところで、この日、とても不思議だったことが一つ。

カレーがなかったのです。

海自といえばカレー、カレーといえば海自、というくらいで、
カレーの屋台はいつも大人気なのですが、そのカレーがないとは。

そのことに気がついて、知り合いに

「カレーないですよね。そういえば」

「本当だ。なんでだろう。聞いてみよう」

たまたま通りかかった乗員にその人が声をかけました。

「今日なんでカレー出てないの」

「そ、それはですね・・・・・・」

わたしは彼の答えにくそうな様子をみて、察しました。
翌日の紅梅亭での参加費は4000円也を徴収しましたが、
「うらが」でのレセプションで会費は取らなかったところを見ると、
やはり財政に関係する理由なのかもしれない、と。

そこで、

「わかった!どうしてカレーがないのか」

「えっ・・・?」

「今日金曜日でしょ?乗員の皆さんがみんな食べちゃったんだ!」

「(苦笑いして)・・・そうです」

楽しい時間はすぐに過ぎ去り、いつしか艦上には、マリーンナイツの
ピアノがやたら上手いクラリネット奏者が奏でる「蛍の光」が流れています。

出口に向かうと、なんとそこでは掃海隊群司令白根海将補と、
呉地方総監杉本海将が、

一人一人の手を両手で握って

お別れを惜しんでくれているではありませんか。

いろんなレセプションに出ましたが、ホストが手を握る系は初めてです。
もちろんわたし自身、この人生で海将や海将補に手を握られたのは初めてです。

どうしてそういうことになったのか、どなたの発案かはわかりませんが、
下艦したあともその掌の暖かさは不思議なくらい心を明るくしてくれました。

 

舷梯のすぐ近くには、殉職隊員のご遺族のためにバスが待機しています。

岸壁にはいくつものテントが明日の広報イベントのために用意されていますが、
おそらく例年のように陸自からいくつかの装備が展示されるのでしょう。

追悼式行われた25日、翌日の26日と行われた一般公開には
結局今年は行くことはありませんでしたが、おそらく今回も
年に一度の掃海隊の寄港を楽しみにしてやってくる人々で賑わったのに違いありません。

 

さて、わたしは、レセプションが終わった後、元海自の紳士にお誘いを受け、
三人の方々とアフターにお付き合いすることを約束しておりました。
下艦して、さあ行きましょうということになった時、一緒に歩きだした団体は
三人どころか、なんと十人くらいの一個小隊になっていました。

ほとんど全員がオールドセイラーで、海将とか総監とか、そうでない方も
某大の名誉教授で作家とか、またしてもなんでわたしがここに混ざっているのか、
というメンバーだったわけですが、とにかくそういうことになったので、
車を埠頭の駐車場に置いたまま駅前まで歩いていきました。

最初に入ろうとしたのがここ(笑)
大衆酒場みたいな、じゃなくてちゃんとそう書いてあります。

この日は金曜日でお店が混んでいたため、5人分しか席がないということで、

まずは10人のうち半数がこちらになだれ込んで行きました。

残りの六人はその隣の店に。
隣の店はホッピーがあるけど、こちらにはない、という違いがあります。

(このホッピーとやらを飲むために、わざわざ途中で隣に出張していた人あり)

ここで出た話は、どれもこのブログに来られる方なら興味を持たれるものばかりでしたが、
その中でも、わたしが一番盛り上がった?のは、三井玉野で行われた潜水艦救難艦
「ちよだ」引き渡し式で、自衛艦旗がなかった事件の真相です。

自衛艦旗が艦長に渡され、艦長がそれを副長に渡し、副長は高々とそれを掲げて
自衛艦に命を吹き込むというこの儀式ですが、
この日は誰も自衛艦旗がないことに気づかないまま式が進行してしまい、
一人が海曹室にある自衛艦旗を走って取りに行ったという事件。

あれは、

「前日の雨で自衛艦旗が濡れたのを、三井造船が良かれと思って
どこかで乾かして、その後返すのを忘れていた」

というのが原因だったんですって。

やっぱりね。
海自なら全てそういうことはルーチンワークで間違いなくやるはずなのに、
あんなミスをするなんておかしいと思っていたんですよ。

やっぱりいつもと違うことをしたらダメってことなんですね。

そうそう、この時聞いたところによると、自衛艦旗を艦長が受け取り、
それを二つに折って副長に渡すという時に、
緊張して自衛艦旗を落としてしまった、
という例も、海自の長い歴史にはあったそうですよ。

「最初にそういう事故があると、どうしても縁起が悪い、ってなるんだよね」

オールドセイラーのこの一言が重かったです(笑)

宴会が終わり、車を取りにもう一度「うらが」のいる岸壁に戻って、
冒頭の写真を一枚撮りました。

駐車場に戻ろうとして、ふと柵に「ご安航を祈る」のUW旗と、
安全祈願が描かれた紙が貼ってあるのに気がつきました。

毎年訪れる掃海隊の応援団が置いていったのでしょうか。

 

さて、明日はいよいよ掃海隊殉職者追悼式当日です。

 

 

続く。

 

 

掃海殉職者慰霊碑〜 掃海隊殉職者追悼式@金刀比羅神宮

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毎年5月の最終土曜日には、金刀比羅神宮の一角にある慰霊碑前で
戦後日本の周辺海域の機雷を除去し、海を警戒する任務中に
殉職した掃海隊員の追悼式が行われます。

 

前夜の掃海母艦「うらが」艦上でのレセプションの翌朝、わたしは
讃岐うどんはもちろん、朝っぱらからデザートにケーキまである、
四国で一番充実した(当社比)朝食バッフェをゆっくりいただき、
車にカメラマンのMかさん(仮名)と横須賀地方隊で仕事をしていたという
元ウェーブさんの二人を乗せて、金刀比羅神宮近くの料亭に向かいました。

紅梅亭前からは海自がシャトルバスで会場近くまで連れていってくれます。
バス到着場から慰霊碑のある会場は、階段を少し降りたところにあり、
年配の出席者も安心して参加できる仕組みになっています。

昨夜同席したお歴々とシャトルバスに同乗し、その中の
かつての呉地方総監だった方から、総監時代にそれまで途絶えていた
愛媛での「五軍神」(最初の組織特攻を行った関大尉ら)
の慰霊祭を復活させた、などという話を伺いながら来ました。

「ということは、もし〇〇さんが呉総監になっておられなかったら、
慰霊祭は復活することなく消滅していたかもしれないということですか」

「わかりませんが、その可能性はありますね」

同じ地方総監と言っても、決して事なかれ主義というのではないにせよ、波風立てず、
面倒臭いことはやらず、極めて無難に任期を全うして終わる人もいれば、
他の総監がやらないようなことに敢えて挑戦する人もいるということでしょうか。

一般の管理職にも言えることですが、部下からはおそらく前者の方が歓迎されるでしょう。
しかし、たとえそれで嫌われたとしても、退官後、これが私の為したことだ、
と胸を張って言える実績が一つでもあれば、それは指揮官として本懐を遂げた、
というものではないかと(外部者なので恐る恐るですが)言っておきます。

週末であることもあり、多くの良民が本殿を目指して階段を登っていました。

この茶店は、下から急な登ってきた人が、ちょうど少し休憩したいな、と思う
最初の絶妙な立地にあって、いつも繁盛しています。

山門の本殿寄りには「五人百姓」と呼ばれる金比羅名物、
加美代飴を独占販売している五つの店が屋台を出しています。

この飴はどう言った経緯か五人百姓しか売ってはいけないことになっていて、
この時も赤い毛氈に傘の飴売りが、通りゆく人に試食販売していました。

わたしの前を歩いていた追悼式参加者に試食の飴をさし出したお店の人は、

「いや、そんなん食べたら歯が取れてしまう」

と手を振って断られ、苦笑しています。
昨晩もご一緒したこの方は防大出の士官だったということですが、
なかなか豪快さんだったらしく、現役時代、

「警衛を殴ったことがある!」

と衝撃の告白をしておられました。
そしてその理由はというと、

「門が閉まってから入ろうとして塀を乗り越えただけなのに
泥棒呼ばわりされたから」

深夜に塀を乗り越えていたらそりゃ泥棒扱いされますがな。

「越中国富山」

こんな書き方をするところを見ると明治より以前の年間でしょうか。

全国から寄せられる寄進の石碑に書かれた文字を読んでいるだけで、
金刀比羅神宮の「ご威光」というものがひしひしと伝わってきます。

そういえば去年はここから儀仗隊が出てきたなあと思いながら歩いていると、
ちょうど音楽隊のメンバーが楽器を手に一列で現れました。

譜面立てなどはすでにセットされているのかもしれませんが、
楽器は置きっ放しにすることは決してできないので、その都度持ち運びます。

この日はこの時間から日差しはつよく、昨日よりかなり湿度が高くて、
わたしなどもすでにううんざりしていたのですが、自衛官はさらに
式典用の服装で、白とはいえ長袖ワイシャツに上着という重武装です。

 

ところで、「苦心の足跡 掃海」に、旧海軍の海兵団出身で機雷兵となり、
戦後幹部候補生学校6期で掃海作業に当たった人が書いていたことですが、
現在の掃海部隊に当たる旧海軍での機雷兵の海軍内でのヒエラルキーは低く、
「下から三番目」、つまり兵科では一番下だったそうです。

機雷兵の任務は、機雷、掃海、爆雷、火薬化工兵器の取り扱いなどで、
陸軍における「下から三番目」は工兵(今の施設科)だったとか。

それでは下から二番目は何かといいますと、陸海共通で、

輜重兵・看護兵

「輜重・看護が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」

なんて普通に言われていたものです。
そして、一番下というのはなんだったと思います?

そう、それが

軍楽隊員

だったんです(T ^ T)
今では音楽隊はもちろん、掃海、施設科、輸送科、衛生科と全て
スペシャリストで、職業に貴賎なし、職種に上下など付けようがないのですが、
昔はとにかく歩兵と砲術至上主義だったので、機関科ですら
「罐焚き風情」なんて言われて兵科と差別され、
このことから「機関科問題」が生まれたりしました。

そんな究極の階級社会の中で、軍楽隊員に対する偏見は特に酷く、彼らには

海軍芸者

なんて蔑称が与えられていたということです。ドイヒー。

出席者はほとんどがバスで連れてこられるので、会場を間違うことはまずありませんが、
いつも追悼式会場の看板は階段のところに目立つように置いてあります。

もしかしたら、これは一般の参拝客の目につくところに置いて、
慰霊式の内容に興味を持ってくれるという効果を期待しているのかもしれません。

慰霊碑のある広場に続く道沿いには、掃海母艦「はやせ」の錨があります。
自衛隊初の国産掃海母艦で、1971年に就役後はペルシャ湾派遣時には
旗艦として活躍したのち、「うらが」「ぶんご」に道を譲り退役しました。

退役は2002年、実に31年間頑張っていたことになりますが、
こうしてみると、掃海母艦というのはある程度中身をアップデートして
結構長期間運用するものらしいですね。

会場入り口には追悼式に寄せられた各種電報が掲示してあります。
岩国の第31航空群司令、地本部長など内輪からのものも、
もちろん政治家からの電報もあります。

左上は、去年の追悼式で、掃海隊の殉職と安倍政権への批判という、
誰が考えても関連づけるのが不可能な二つの事案を、銀河点並みの
ウルトラC着地により見事に結びつけるということをやらかし、
会場の心ある人の顰蹙を買ったという伝説の小川淳也議員の電報です。

野党の小物議員が故意犯的にやらかした追悼式の政治利用(しかも言い逃げ)

とわたしは断言したものですが、こんなものでも地元の議員なので、
自衛隊としては招待状を出さなければならないらしく、今年は、
前日の艦上レセプションにもこの日も、女性秘書が代理で出席していました。

艦上レセプション会場で、これが小川議員の秘書か、と凝視していたら、
ご本人とバッチリ目が合ったのですが、次の瞬間逸らされました。

・・・・わたし、別に睨んでませんよ?



会場入り口には受付のテーブルが置かれ、そこで直会(追悼式後の食事会)
に参加する人は会費を支払って入場します。
そこには案内役の海士くんが控えており、席まで連れて行ってくれました。

御霊に捧げる供物はもうすでに霊前となる慰霊碑前に供えられています。
霊名簿を奉納し、献花を行う台が用意されているところでした。

各自治体(この追悼式の発起人となった元々の自治体)の首長から、
海幕長や群司令など自衛隊から、そして各種防衛協力団体、
遺族一同の名前で飾られた花は、白菊と白百合。

会場にはそこはかとなく百合の放つ芳香が漂っています。

会場がまだ準備状態なので、わたしは慰霊碑の背後に回って、
そこにはめ込まれた銘板を今回初めて写真に撮ってきました。

「発起人は掃海隊を出した港湾都市の首長」

と書きましたが、これを見ると兵庫県から以西の、ほぼ全ての港湾都市名が見えます。
この日献花された市長の名札の数はこの数に到底及びませんから、
発起には携わったが、現在では全くノータッチ、という市が増えているのでしょう。

そういえば、前呉地方総監の池海将が、

「殉職者慰霊碑建立に携わっていながら追悼式との関係が無くなっていたある市の長に、
今年は声をかけて出席(だったかな)してもらうことができた」

ということをおっしゃっていたのを思い出しました。

なお、一番左の世話人の欄に、

海上保安庁 航路警戒本部長 田村久三

という名前が見えますが、この田村氏は、兵学校46期卒、
海大を出てから東大で機雷兵器の研究を行い、海軍工廠で実験部員として
大東亜戦争中は艦政本部の掃海部長を務めた人物です。

戦後は第二復員掃海課長として、その後は海上保安庁の
特別掃海隊総司令官という立場で掃海隊を指揮して来られました。

本人が語らず、正式な記録にも残っていませんが、
元航啓会(元掃海隊員で組織された任意団体、呉資料館の開館をもって解散)
のある会員の証言によると、この人はある年の追悼式で、

「環境整備費として田村久三様から金一千万を賜る」

という立て札を目撃したそうです。
その当時、一千万といえば庭付き一戸建て住宅が賄える金額で、
それを見た元隊員は驚愕したということですが、田村氏の死後も、
田村夫人は金刀比羅神宮境内に四基の奉燈を行うなど、
夫の遺志を継いで寄付を行っていたという話もあります。

この慰霊碑建立を発案したのは呉航啓会で、会場入り口にある案内板などは
全て有志の浄財で賄われています。
今回は写真を撮りませんでしたが、この入り口の金属の案内板は

旧海軍工廠の技術を受け継いだ日新製鋼の最高級素材を使用して

作られたもの、という話です。

ブロンズの銘板の横には、掃海隊殉職者七十九柱の名前が打たれた
金色のプレートがはめ込まれています。 

昭和27年7月7日に慰霊碑の除幕式が行われた時には、殉職者の総数は
77名とされていたのですが、その後、昭和20年10月11日、博多沖で殉職した
「真島丸」の乗組員のうち「顕彰漏れ」となっていた鈴木正男氏、
昭和38年海自37掃「はりお」で殉職した平井満海士長の2名が追加され、
79名の名前が記されています。

なぜ二人の認定が遅れたかというと、死亡理由が「訓練中」「移動中」というもので、
触雷などの直接の原因ではなかったことだったようですが、その後、

「危険極まる掃海業務にあっては、殉職者の叙位、叙勲や遺族への補償等の関係から
現場への進出、海域間の移動等、基地を離れての行動中の事故死も
掃海殉職として処理されることが決まった」

ため、新たに殉職認定されたという事情がああります。

早く会場に到着したものの、風がないこの日テントの下は大変蒸し暑く、
まだ開式まで時間があったので、茶屋に顔見知りの自衛官と一緒に行ってみました。

追悼式のたびにここで甘酒を飲むのが最近のちょっとした楽しみとなっています。

杖を持って今から本殿を目指す三人の若い男性が、同行の自衛官の
白い詰襟が珍しかったのか、声をかけてきました。
自衛隊にあまり縁がない層にとって、儀式用の自衛官の制服は
こんな機会でもないと見ることもないのかもしれません。

ちなみにこの時、同行した自衛官の告白?により、第1種夏服には
財布を入れるポケットはない、(あるいは財布は持たない)ということを知りました。

山門の脇に衝撃的な告知看板がありました。

つい最近参道にて、

「盲目の参拝者を突き飛ばした不心得者がいる」

との通報がありました。
十分お気をつけてお参りいただきますとともに、
目撃されましたら当宮社務所へご連絡頂きますようお願い申し上げます。

いやー・・・最近こういうプシコ案件(医療関係者用語)が
あまりにも多くありませんかね。
昔もそれなりに変な人の凶悪犯罪はありましたが、今はなんというか、
普通に見える人が実は、みたいなスリラー映画的な事案が目立つというか。

わたしたちは甘酒を飲みながら看板を読み、この件について話題にしました。

「不心得者って・・・そんなもんじゃないですよね」

「すでに犯罪ですね」

「しかし神社の境内で犯罪を犯すとは・・・」

それって日本人かなあ、とつい口に出してしまいましたが、正直、
昨今の犯罪続きの世相を思うと、必ずしもそうも言い切れない気がして、
日本人の一人として実に残念な気持ちになりました。

戦後日本の安寧のために危険な任務に従事した掃海隊殉職者たちも、
自分たちが命を賭してその復興に携わった祖国が、いつの間にか
こんな人心の荒れた犯罪の多発する国になったと知ったら、
さぞ情けない思いをすることだろうと思います。

 

さて、冷たい生姜入りの甘酒で喉を潤しているうちに開式の時間が近づきました。
そろそろ会場に戻ることにしましょう。

 

続く。

 

 

 

 

掃海隊員の歌七番〜海上自衛隊 掃海隊員殉職者追悼式@高松金刀比羅宮

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今年の掃海隊殉職者追悼式に参加して気づいたのは、参加者に配られる
資料等が新しい内容になっていたことです。

編者は元航啓会の会長で、幹候(部内)2期の細谷吉勝氏。
「苦心の足跡」でも三項を手がけておられ、実際の部隊は
「カルガモ艦隊」と言われた頃の第101掃海隊におられました。

「語り継ぐ 太平洋戦争後の掃海戦」

と題された小冊子は、大東亜戦争末期における日米の機雷攻防戦で
日米彼我で日本列島の周りに敷設された機雷の状況に言及し、
さらに、戦後すぐ始まった掃海活動の実態、方法とその苦労、そして
実際の触雷事故と掃海隊員の殉職、そして現在に至る
殉職者の顕彰と追悼の歴史を、数字や地図など加えて述べています。

断片的な掃海についての知識でなく、これを最初から読み通せば、
戦後掃海の歴史が明快に分かる資料になっています。

従前の資料に不備があったというわけでは決してありませんが、
参加者に新たなアプローチで知識を共有してもらおうとするこの姿勢は、
呉地方総監部の殉職者追悼式に対する誠実さの現れであると言えましょう。

さて、山門の茶屋で冷たい甘酒を飲んでまた席に戻ってきました。
わたしの座っている場所から前列は、前列が地方総監や来賓の政治家、
水交会会長など、挨拶を行う来賓が並び、その後ろが掃海隊指揮官です。

海軍の艦内帽を被った方は献花の時は会社名とともに紹介されていましたが、
もしかしたら航啓会に属しておられたという方かもしれません。

待つことしばし、呉地方総監が来場されました。
呉に着任されて慰霊祭と追悼式の執行者となるのは初めてとなりますが、
前日の立て付けに参加したカメラマンのMかさん(仮名)の報告によると、
総監は、彼女が参考になれば、と差し出したこれまでに撮った追悼式の写真集を見て、
霊名簿奉安や降納などの所作について熱心に研究をされていたということです。

この写真で総監の入来に椅子から立ち上がっている背広の男性は、
当金刀比羅宮の権宮司、琴丘(ことおか)泰裕氏です。

今年出席された殉職者のご遺族は6家族10名。
わたしが最初に参加し始めた頃に比べてもかなり少なくなっています。

テントの中央は通路となっており、前列のご遺族の後ろには、
歴代呉地方総監、その後ろには歴代掃海隊群司令が並んでいます。

歴代呉地方総監は31代の山田氏を始め、道家氏、杉本氏、伊藤氏が、
掃海隊群司令は、第二代の河村氏、福本氏、徳丸氏、岡氏らが出席されていました。 

一番最後に政治家が入場。
この日出席した政治家は、自民党の大野恵太郎氏、三宅しんご氏、
そして国民民主党の党首である玉木雄一郎氏でした。

写真にはかろうじて玉木氏の顔の一部が写り込んでいます。

前回出席した2年前、玉木氏は違う党の議員だったと思いますが、
さらにその前にはそれとも違う党だったと記憶します。
党名ロンダも大概にして戴きたいという気がしますがそれはともかく。

今回は、伊勢志摩サミットの後、玉木議員と並んで、ボリスジョンソンを風刺した
漫画を安倍首相だと勘違いして非難し、共に生き恥を曝した山井議員が離脱して、
今や絶滅も間近の泡沫野党国民民主党首としての追悼式参列です。

 

政治家の追悼の辞は、殉職者の霊名簿が奉安され、黙祷の後に、
水交会の会長や掃海隊群司令などとともに行われました。
去年、もはや何党にいるのか誰も知らない元民主の小川淳也議員が
実に不快な追悼の辞を行なったことを前回も書きましたが、
玉木議員の追悼の辞は、至極まっとうな、殉職隊員への弔意を真摯に述べ、
彼らの遺業を讃える文句のつけようのないものでした。

前回の追悼の辞の時も玉木氏には同じ印象を受けましたし、というか、
要は小川とかいう議員が特殊だったということなのでしょう。

昨年の追悼式が終わった時、小川議員は皆が退場する前に、文字通り
逃げるように真っ先に会場を出て行きましたが、玉木議員は会場に残り、
遺族の前で頭を下げ、退場していく参列者の波の中でただ立っていました。

わたしは出口に向かいながらなんとなく玉木議員の前に出てしまったので、
成り行き上挨拶をしなければならない雰囲気になり、

「ありがとうございました」

と言って頭を下げました。
もちろんわたしは政治家としての彼を全く評価していません。

一連の政府批判のための批判もさることながら、一躍彼の名を高めた
加計学園問題での発言、特に身内である獣医師会からの献金については、

「ますます疑惑が深まった。受け取っていないと証明しろ」by玉木

と思っていることに変わりはありませんんが、
慰霊式に出席してまともな弔辞を上げるだけの良識はあるわけで、
そこに対しては国民の一人として謝意を述べたのです。

もちろん、心の中では、

「ただしそれは今日の出席に関してだけだがな」

と付け加えていたわけですけど。

ほとんどの列席者にスルーされていた玉木議員は、わたしに対し、
あの、いつもの、目を見開いたような表情で挨拶を返しました。

あとで、同じ地方防衛団体の方々と歩きながら、

「玉木議員とか変なことを言って目立っている野党議員って、
いわゆるポジショントークをしているだけじゃないのかという気もします」

というと、相手は即座に、

「違いますよ!玉木は大平さんの娘婿ですからね。裏切りですよ」

と口角泡を飛ばし、玉木がいかに悪いやつかを力説するのでした。
いや、それこそが政治がある意味プロレスみたいなもので、
彼は野党党首を「演じている」ってことの証拠だと思うんですが。

 

あと、最初に弔辞を読んだ大野啓太郎議員の

「今日のような空の色、今日のような山の緑、今日のような空気感を
(殉職した)皆様方も感じておられたのかと思います」

というような(正確ではありませんが)最初の言葉は胸に響きました。

 

続いて行われたのが儀仗隊による敬礼ならびに弔銃発射の儀式ですが、
わたしは、儀仗隊を配しての国旗掲揚、呉地方総監による霊名簿奉安、
そしてハイライトとも言える弔銃発射など、追悼式の様子は
招待されて参列しているという立場上、撮影しないと決めています。

そのため、わたしは例年、前日の立て付けを見学させていただき、
弔銃発射のリハーサル写真だけをここでお見せしていたわけですが、
今年は前日に別の見学会があったため、儀仗隊の写真等は一切無しです。

弔銃発射などはMかさん始め写真を上げておられる方がいると思いますので、
式典の様子をご覧になりたい方は検索してみてください。

弔銃発射は、儀礼曲「命を捨てて」の演奏の後、
同じ曲の頭8小節がが超高速で演奏されるたび発射、
これを三回繰り返して行います。

この「命を捨てて」は海軍時代から伝わる鎮魂の儀礼曲で、
真珠湾の九軍神の葬礼の時にも演奏されたという記録があります。

続いては呉地方総監を筆頭とする献花が行われます。

献花の間中、音楽隊は斎藤高順 作曲の「慰安する」という鎮魂曲を
繰り返し、繰り返し演奏し続けます。

作曲者の斉藤高順は陸軍戸山学校出身、戦後は小津安二郎の映画
「東京物語」の音楽を手がけ、世界での小津ブームと共に
評価が高まっている作曲家です。

この曲のデータは見つからず、いつ作曲されたものかは不明ですが、
嘆きを表す導入部と、長調になって救済を感じさせる中間部のコントラストが
大変美しい佳曲で、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑における拝礼の際も取り上げられます。


一番最初に献花するのは殉職者ご遺族のみなさま。

今年参列されたご遺族のうち二名は、毎年そうされているように
お身内の遺影を抱いて、前に進まれました。

遠目にも、写真の人物はまだ幼さの残るセーラー服の青年であるのが認められます。

写真を献花台の上にこちらを向けて立て、受け取った一輪の白菊を
供えながら、写真に向かって何か話しかけられたようにも見えました。

わたしはこの日何も考えずに黒いウールのスーツを着てきてしまい、
テントの下で蒸されて汗が噴き出し、ハンカチが手放せない状態でしたが、
この瞬間、涙が不意にあふれ、持っていたハンカチを目元に押し当てることになりました。

ふと気がつくと、左前の元掃海隊群司令も同じように目を拭っています。

 

献花は参列した全員が行うことになっているので、大変時間がかかります。
最初は個人名が呼ばれますが、後の方になると、水交会単位、そして
地本関係単位、自衛官単位でまとまって前に進み出て献花します。

この写真は最後の自衛官の献花となったときの様子です。

追悼式には管区の海上保安庁からも列席します。
戦後、まだ海上自衛隊が生まれる前に、掃海業務は
昭和23年に発足した海上保安庁の下設置された

「航路啓開所(本部)」

とその地方組織によって行われていたのです。

この時に広島に置かれた第六管区本部航路啓開部の末裔が、
現在の第六管区海上保安本部です。

 

この写真右側に写っているのは、一番最後に、

「幹部・海曹・海士代表」

として献花を行った三名です。

この後、追悼電報の披露に続き、呉音楽隊による追悼演奏が行われました。

「掃海隊員の歌」「海ゆかば」「軍艦」

の三曲です。

「掃海隊員の歌」の歌詞を一番だけあげておきます。

「独立日本の朝ぼらけ 平和の鐘は鳴り響き

大国民の度量をもて 雄飛の秋(とき)は迫りけり

今躍進の機に臨み あ 掃海は世の鑑」


昨年は、二番までを指揮者が歌いましたが、今年は
指揮者が変わったせいか、演奏だけが行われました。

この「掃海隊員の歌」を作詞した姫野修氏は、掃海業務に当たった方です。
今回、会場で歌詞を読みながら聴いていて、七番の

「天覧賜う和泉灘 嘉賞の御言戴きて

全員感泣奮励し 内海航路も啓開す」

という部分に気が付いたので帰ってから調べてみたところ、
作詞者の姫野氏ご自身の講演内容にそのことが述べられていました。

 

昭和二十五年三月天皇陛下の四国行幸があり
ご寄港先の小豆島土庄港の掃海を完了、十五日行幸当日は
播磨灘の掃海を実施しつつ遙拝を行いました。

三月三十一日は御召船山水丸が四国から神戸にお帰りの余次、
和泉灘で掃海部隊の御親閲を忝うしました。

呉・下関の三十二隻の掃海部隊は二列縦陣で登舷礼を行い、
陛下は悪天候を冒して御召船の甲板にお立ちになり大久保長官のご報告に
掃海業務の成果を嘉せられたと洩れ承つております。 

昭和天皇は、終戦後の昭和21年2月から9年かけて全国を御巡幸されています。
掃海部隊はその任務に対して陛下からのお言葉を賜り、歌詞にもあるように、

「全員感泣奮励した」

のでした。

掃海任務そのものが様々な経緯を孕む政治的な事案であったこともあり、
殉職隊員の家族がその死因について世間に公表しないように、と
口止めされていたこの時代に、陛下から直々に暖かい労いの言葉を賜った
隊員たちの感激はいかばかりであったでしょうか。

会場出入り口には弔電が披露されています。

地元選出の国務大臣平井卓也、呉市の寺田稔、山本博、宇都隆史議員。

広島市長、三原市長、山口県下松市長、光市長など、発起人に名を連ねる市長。

そして、陸自中部方面総監、岸川陸将からです。

追悼式後には遺族と関係者が慰霊碑の前で記念撮影を行うのが恒例です。

参列者はほとんどが直会のため式場からバスで移動するのですが、
わたしは周りにいたオールドネイビーの皆様が、

「歩く?」「歩こうか」

「たまには歩かないとダメだよ」

と言いながら階段を降り始めたので、なんとなくつられて
所属防衛団体の人たちと一緒に階段を歩き出してしまいました。

下りですし、体力的には全く問題のない距離ではあったのですが、
この日の湿度と日差しは思ったより酷く、考えなしに選んだ
ウールのスーツはまるで魔法瓶のように熱を溜め込んで汗が噴き出し、
たまりかねたわたしは食事会前に車に着替えを取りに行くという羽目になりました。

 

続く。



直会〜海上自衛隊 掃海隊殉職者追悼式@ 高松 金刀比羅宮

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前々回、冒頭に掃海隊殉職者79名の名前が刻まれた、
金刀比羅神宮の慰霊碑裏側にある金色の銘板の写真をアップしましたが、
それをつぶさに見た方がおられましたら、その中の一人に、
苗字しかない殉職者がいるということに気がつかれたかもしれません。

「後藤」としか記されていない隊員、あるいは保安員。

いつ殉職したのかはわかりませんが、碑石にその名前を刻む段階で
彼はその身元がはっきりせず、しかもそれからずっと、
判明しないまま今日まで来てしまったということになります。

もしどこかの段階でフルネームが判明していたら、必ず後からでも
プレートの空白は埋められていたでしょうから、これはつまり
当時の公的な資料に正確な姓名が記されていなかったばかりか、
他の掃海隊あるいは海上保安庁の関係者の誰も彼の名前を知らず、
さらにはそれを質すべき、そして追悼式に招待されるべき遺族の
居場所もわからないないままであったということなのでしょう。

戦後の混乱期であったとはいえ、そんなことがあっていいものでしょうか。
後藤さんの家族も、自分の息子や兄弟が亡くなったことを
ずっと知らないままだったということではないのでしょうか。

もし、万が一ですが、すでにそのフルネームが判明しているのにも関わらず
碑石の銘だけが手違いでそのままなのでしたら、一刻も早く、後藤さんの
正しい姓名を刻んで差し上げてほしい、と心から思います。

 

さて、令和になって初めての掃海隊殉職者追悼式が終了し、
わたしはバスに乗らず階段を降りて、直会の会場である
紅梅亭まで話しながら歩いて行ったのですが、とにかくこの日は
猛烈に暑く、後から大変後悔した、というところから続きです。

今まで参道途中にある資生堂パーラー「神椿」から登って行ったところ、
それから慰霊式場となる慰霊碑のある広場からバスの乗り場までは
よく知っていますが、慰霊碑から階段を降りて行ったことはありません。

この「虎屋」というのは、江戸年間に建てられた建物をそのまま使っている
讃岐うどんの本店で、江戸時代は金毘羅参拝者のための旅籠でした。

こちらは明治年間創業の旅館「敷島館」。
ホテルとしてリニューアルし令和元年8月にオープンするそうです。
(オープニングスタッフ募集のお知らせを見て判明した)

外から見れば旅籠だけど、中は近代的な最新設備、とかでしょうか。

寛永元年から創業の「金陵の郷」というお酒の醸造元です。
注連縄の下に丸いくす玉のようなものが下がっていますが、
これを「杉玉」といい、お酒ができると緑の杉玉を看板のように店先に吊るして、
それが茶色に変色していくことで「お酒が熟成した」という宣伝の役目を果たします。

この杉玉は十分に茶色いので金陵の郷はすでに熟成ずみ、というわけです。

ここもうどん屋さん。
「中野うどん学校 てんてこ舞」という名前がシュールです。

これ絶対、陸軍中野学校を意識してるよね。
「陸軍中野学校 テンテコ舞い」とか、昔のドリフのネタにありそう。

こちらも建物は年代物で、参道にある建物で一番古く、
1850年、江戸時代に経ち築150年というビンテージ。
調べていませんが、ここも昔は旅館だったのではないでしょうか。

さて、昼食会会場には早く着いたのですが、前記の理由でガーメントを車に取りに行き、
着替えをして会場に駆けつけたら、たった今挨拶が始まったばかりでした。

会費を払った時に席次表をいただいていたのですが、会場入り口で、

「カードお持ちですか」

「あー。いただきましたね確か」(汗)

バッグの中に手を突っ込んでごそごそやっていたら、いつもの、
わたしの守護天使といっても過言ではないウェーブさんが
素早くわたしの名前を席次表から見つけ出してくれました。

戸を開けると、杉本海将がお話の真っ最中<(_ _)>

「掃海隊殉職者追悼式は69回目を迎えますが、
令和になって(わたしにとって)第一回目となります」

という(ような)冒頭のご挨拶に耳を傾けながら席に着きました。

会食に先立ち、遺族の代表である岡崎氏がご挨拶されました。
その内容です。

「徳山防備隊の掃海隊員として機雷掃海作業にあたっていた叔父は、
昭和20年10月11日、大分県沖での任務遂行中、暴風雨の中遭難、
消息不明のまま、空っぽの白木の箱での帰宅となってしまいました。

なぜ暴風雨の危険な海に作業に出たのか。
当時の新聞には叔父の遭難二日前、10月9日、室戸丸が触雷沈没し
死者行方不明二百五十名の記事が、前日の10日には
台風接近の予報の記事が載りました。

11日の作業、そして遭難。

この室戸丸の事故が無理な掃海作業を進めたのでしょうか。

もちろん戦争のない世界が理想なのですが、
機雷、地雷、放射能兵器など、戦争後もあとあとまで
人々を苦しめる兵器がなくなりますように。
新たな追悼式などが行われないような世界になりますように。

私ごとではありますが、中学生くらいから
この追悼式に出席させていただきましたわが息子は、
自分でも海上自衛官を目指すことになり、
護衛艦「ひえい」「かしま」「まきなみ」などで勤務させていただき、
現在は自衛艦隊司令部でお世話になっております。

また皆様のお世話になることもあろうかと思いますが
よろしくお願いいたします。」

昨年、わたしは体験航海で「まきなみ」に乗艦しましたが、偶然にも
その時、中谷氏のご子息はそこで勤務しておられたと知りました。

わたしが到着した時、御膳の煮物の火はとっくに消えていました(´・ω・`)
手前にあるのは梅酒のようですが、梅ジュースです。
食事会ではお酒の類いは出ていなかったように記憶します。


そのご、食事会に出席されている遺族の方々の紹介が行われました。
殉職隊員の殉職日、乗っていた船、殉職者との関係を記します。

昭和20年10月11日「真島丸」 岡崎真文隊員 甥

昭和20年11月16日 海防艦「大東」(三名)

玉城福市隊員 長女夫妻 娘

宮地真二隊員 弟夫妻

中原善治隊員 甥夫妻

昭和21年2月18日「有幸丸」軍原時夫隊員 甥

昭和25年10月17日「MS14号」中谷坂太郎海上保安官 兄

 

「大東」の触雷沈没によって殉職した隊員の数は最も多い総員二十六名でした。


中谷坂太郎隊員が乗っていたMS14は朝鮮戦争の機雷掃海任務のため、
元山で触雷沈没しました。
この朝鮮戦争における掃海活動は、非公式ながらも、日本にとっての
戦後初めての「血と汗を流した国際貢献」だったということもできます。

朝鮮戦争で日本特別掃海隊が掃討したのは、北朝鮮の敷設した機雷でした。
元山に敷設されたその機雷によって、アメリカ軍の掃海艇1隻、
駆逐艦、韓国軍の掃海艇など4隻が立て続けに触雷大破し、
それによって機雷の脅威が大きくクローズアップされることになりましたが、
開戦後、カナダ、ニュージーランド、イギリス、オーストラリア、
オランダなどの国連加盟諸国から巡洋艦、駆逐艦が派遣されても

掃海艦艇派出の申し出はどこからもありませんでした。

つまり、その時掃海のできる艦艇はアメリカ海軍の掃海艇21隻、
そして日本で確認掃海に当たっていた12隻だけしかいなかったのです。

そんな状況で、当時高い練度を持つ掃海部隊がたった一つありました。

それが、瀬戸内海や東京湾口などですでに本格的な掃海作業に従事していた
海上保安庁の掃海隊だったのです。


マ元帥が決定した元山上陸に先立ち、米極東海軍参謀副長だった
アーレイ・バーク少将は、海保長官を呼び、現状を訴えて
日本掃海隊の協力を仰ぎました。

その際、バーク少将は、

「元山上陸作戦を成功させるためには多くの掃海部隊が必要であり、
国連軍が困難に遭遇している今、日本掃海隊の力を借りるしかない」

ということを述べたと言われます。

これに対し、吉田首相は、当時アメリカと日本との間に
掃海作業の契約まではなかったばかりか、そもそも
非軍事組織である海上保安庁を戦争下の掃海に派出することになるため、
気乗りしないというかむしろ否定的でしたが、ポツダム宣言を受諾したばかりで
まだ進駐軍の占領下にあった当時の日本で、特にマッカーサー元帥の命には
絶対的な服従が無言のうちに要求されていたわけですから仕方ありません。

結局、吉田首相は海保の掃海艇を朝鮮半島に送ることを決定したのです。

日本としては、講和条約の締結前で、国際的に微妙な立場にあったため、
掃海艇派出は秘密裏に行うことが暗黙のうちに決められました。


前述の中谷隊員が殉職した当時、日本政府では戦死者や戦傷者に対する
補償についての規則を全く定めていなかったため、事故が起きてから
日本側とアーレイ・バーク少将が相談し、殉職者には「とりあえず」
GHQからの弔問と補償金が出されるように取り計らわれました。

中谷保安官の葬儀は海上保安庁葬で行われましたが、家族はそれに出席しておらず、

「『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は絶対口外しないように』
と言われ、瀬戸内海の掃海中に死んだことにしようと皆で申し合わせた」

と「苦心の掃海」には、兄の藤市氏の談として記されています。

会食が終わり、今軍事評論家としてもすっかり有名になられた
元呉地方総監伊藤俊幸氏と遺族の方々とが、和気藹々と記念写真撮影。

スマホを向けているのは呉地方総監部の先任伍長です。

終了後、飛行機の時間まで少し間があったので、「神椿」に車を走らせました。
この注意書きの字体は、山門にあった「不届き者」の告知と同じ筆跡ですね。

この「えがおみらいばし」は、くねくねした山道を通ってたどり着く駐車場と、
レストラン「神椿」を結ぶためだけに作られた陸橋です。

よくまあレストランのためだけにこれだけの大掛かりな工事をしたものだと思います。

「神椿」から眺める琴平の鬱蒼と茂った山の緑。
ご覧のように絶景のインスタ映えポイントです。

二階はカフェ、一回はちゃんとしたコースのレストランで、毎年、
呉地方総監部では、立て付けに先立ってここで会食を行うのが慣いとなっています。

冷たい梅ソーダで一息入れてから、空港に向かうことにしました。
「神椿」から下界に降りるまでの道は車もすれ違えないくらいの山道です。

途中にひっそりとお地蔵様の祠が現れます。

さらに進むと、二股に分かれる道の突き当たりに銅像が。
いつも通り過ぎるだけで何だろうと思っていたのですが、今回調べてみると
やっぱり坂本龍馬の像でした。

今回直会でお世話になった「紅梅亭」のHPによると、

当時の琴平は金毘羅と言われ御朱印地であり、隣接する村は天領でした。
当時の高松藩は無類の輩について取り締まる許可を幕府に願い出ましたが
許されなかったこともあり、当時の金毘羅は志士達の潜伏にも好都合で
あったと言われています。幕末には金毘羅へ、吉田松陰、森田節斎、高杉
晋作、桂小五郎など多くの志士たちが訪れたそうです。

また琴平に集中する金毘羅五街道の一つ伊予土佐街道を通って、
「坂本龍馬」も丸亀の道場へ通ったといわれています。

ということで、ここに龍馬の像があるようです。

羽田に向かう機上で見た、三浦半島越しに雲から頭を出す富士山。


戦後日本の啓海任務に身を投じ、道半ばでその人生を終えた
七十九柱の殉職者について、思いを致し、感謝を捧げ、冥福を祈る日が
また今年もめぐり来て、過ぎて行きました。

この日がくると、彼らがその命を贖って私たちに残してくれた安寧の日本を、
どうやったら後世に送り伝えることができるのか、彼らに恥ずかしくない
日本の国柄のために、ちっぽけなわたし個人にできることはないだろうか、
などといったことを、いつの間にか考えているのに気づきます。

せめて、そういう人たちがいた、ということを今に生きる少しでも多くの
日本人に知って欲しいと思い、ここでもお話ししている訳ですが、
広く物事を伝えることのできるテレビメディアは、それをしないどころか、
たまに取り上げたと思ったら、「国家権力の犠牲になった殉職者」という面のみ強調し、
下手すれば護憲の補強材料として利用しようとするので全く信用なりません。

今回もNHKのカメラが追悼式の様子を撮影していましたが、
わたしの隣の防衛団体の方は、わたしがそれをいうと、

「ちゃんと報道してくれればいいんですけどねえ」

と、全くあてにしていないといった口調で呟きました。

もし、この時の取材をもとにした番組を後日NHKでご覧になったら、
どんな内容だったかを当ブログ宛に教えていただければ幸いに存じます。

 


終わり

海上自衛隊 阪神基地隊 開隊67周年記念行事 前半

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6月1日は、阪神基地隊が開隊して67周年目を祝う行事が行われました。
ご招待いただきまして、参加してまいりましたのでご報告です。

おっとその前に、週末は記念行事が各地の自衛隊で行われたらしく、
Kさんは北海道は東千歳の第7機甲師団の創隊64周年記念行事に参加され、
毎年夏の総火演も顔負けの演習を見てこられたそうです。

そのポスター、戦車文字で書かれた「令和」を見よ。
「令」に比べて「和」が小さいですが、気にしない気にしない。(by一休)

前日が雨だったのか、埃が立たないように水を撒いたのかはわかりませんが、
空自からF15戦闘機も飛来して観客大興奮の記念行事となったようです。

おお、かっこいい!
ヒトマル式のバック駆動も、ぬかるんだ地面の土が跳ね上がり、写真映えします。


Kさんはわざわざ関東から飛行機で行かれたのだと思いますが、
これほどのものが見られたならば行った甲斐が会ったというものでしょう。

わたしは陸自のこういった式に参加したことがないので、
ずらりと並んだ制服が白でも黒でもないこの光景、実に新鮮。

新制服が制定されてずいぶんになる陸自ですが、ご予算の関係で
いまだに全く全隊員への普及が行き届いていないというのがこれを見るとわかります。

この写真は第7師団の偉い人たちが順番に挨拶しているシーンで、
Kさんによると、装備部長が制服の新旧不統一を謝られ、会場は
大爆笑になったという・・・・。

そういえば、今回高松でお会いした某地本部長は、ついに新制服が調達されたらしく、
何か言って欲しそうだったので、

「良かったですね!お似合いですよ」

と申し上げると、

「そうですか。で、新しい制服の写真を撮らなくていいんですか」

それは俺を撮ってその写真を送れ、って意味ですかね。

 

もはや新制服の調達遅れがネタとなり、コミニュケーションツールと化している
感のある陸上自衛隊の現場ですが、その現状はというと、制定後、
入隊した新入隊員は全員最初から新制服が与えられ、将官級の偉い人ほど
真っ先に変更を済ませたため、階級的には上と下からじわじわと調達され、
制服の色が変わっていきつつあるというものです。

そしてこの写真を見る限り、北海道の駐屯地の変更はまだまだ、つまり、

駐屯地に配備されている戦車の数と新制服の配備数は反比例する

=戦車がたくさん配備されているところ(日本の両端)ほど制服の到着は遅れている
という法則が成り立っているものと思われます。

北海道や九州の駐屯地勤務の部隊長クラスに制服がいきわたる、
それは一体なん年後のことになるのでしょうか。
とりあえずの目標は平成のうちに、ということだったと思いますが、
それが果たせなかった今となっては、令和が終わるまでにはなんとか、とか?



さて、海上自衛隊阪神基地隊の開隊記念行事の話です。
海自が民間人にその装備をアピールする際、最も効果的なのは体験航海です。

がしかし、戦車が縦横無尽に走り回ってもどこからも文句が出ない北海道の原野と違い、
公海に船を出すには色々と手続きやらなんやら大変なことが多すぎるので、
開隊行事といっても、特に阪神基地隊では所属の掃海艇を公開するのが精一杯。

この日、岸壁で一般公開されていたのは掃海艇「なおしま」でした。

しかし、何度か行事に参加させていただいたところによると、この
規模の小さな基地隊は、その点、せっかく来てくれる自衛隊支援者のために
「来て良かった」と思ってもらえるような工夫を凝らしているようです。

それについてはまたおいおいお話しします。

なんども見学させていただいているので、今日は岸壁から
機雷掃討具PAP−104を撮影するに留めました。

PAP-104 は、現行の国産掃海具S-10が導入される前、「すがしま」型に
装備されたフランス製の掃海具です。

今掃海艇の主流となっている掃海具S-10はS(掃海のS)シリーズの10番目の型です。
S-1から始まって、今まで10タイプが研究開発されてきました。

もちろんその全部が制式となったわけではなく、10のうち採用されたのは
2、4、8、10の4タイプだけで、そのうち長期利用に至ったのは
2、8、10の三つだけとなります。

こちらの「なおしま」は近づこうとしたら乗員が寄ってきて

「今日は公開しておりません」

先週高松で行われた掃海隊殉職者追悼式に伴う広報行事では
高松港で体験航海を行ったばかりなので、今日はお休みです。

「なおしま」上では乗員が見学者に手振りを加え熱く解説中。

乗艇記念の浮き輪から顔を出して写真を撮っている人もいました。
この、妙に力の入ったポーズをしている男性は行事出席の政治家、
横は令夫人と思われます。

HPの「活動記録」に載せるための写真かな。

阪神基地隊の行事は、建物の二階にある体育館で行われますが、
(一階には50mプールがある)、入り口が狭い階段なので、
開場してしばらくはそこで待たされることになります。

そこで掃海艇の岸壁を一周してきて、今度こそ入場することにしました。

駐車場で発見した大きな海上自衛隊マークをフロントグリルにつけた車。
というか、こんな海自マーク、どこで売ってるの?

会場に通じる階段を上ったところから眺める基地岸壁。
いつもは左側に縦列に係留してある掃海艇ですが、今日は
公開しない「つのしま」を奥に泊めるという変則形です。

こうして見ると阪神基地隊のサイズが小さいのがよくわかりますね。

記念行事の冠を見てもお分かりのように、今年で阪基は開隊して67年。
最初は1952年8月1日、創設されたばかりの保安庁警備隊隷下の

海上保安庁第五管区海上保安本部「航路啓開部」

として発足しています。
つまり機雷掃海のための掃海隊、「大阪航路啓開隊」が創隊してから
一年後の1953年9月16日、

「海上自衛隊大阪基地隊」

が開隊し、今年はそれから67年目ということになります。

 

この9月16日とは行事が今回行われた6月1日とは全くカスリもしないのですが、
これは自衛隊の各種記念行事にありがちな決まりで、本来の創隊日が
9月の台風シーズンなどに当たっている場合、出動に備えることを優先させ、
記念行事を台風の起こりにくい季節にずらした結果なのです。

ちなみに航路啓開のために海保の基地として置かれたあと、
ここが今の名称「阪神基地隊」として再編されたのは1968年の3月30日でした。

ここをベースとしていた掃海隊は、創隊以来、神戸港の浚渫の際、
発見される機雷を掃討することを主な使命としてきましたし、
また、阪神大震災の折には、自らが被災しながらも、現地の海自基地として
被災地での救援、復興、支援業務に携わりました。


会場前の廊下には祝電が張り出してあります。
上の、

「陸上自衛隊関西補給処長

かねて宇治駐屯地司令 陸将補」

というのはわかりますが、下の

「自衛隊阪神病院長 兼ねて川西駐屯地司令」

とは?

小さな基地駐屯地の場合兼任というのは珍しいことではないのかもしれませんが、
病院長兼駐屯地司令って・・・?

検索してみたところ、川西駐屯地というのは伊丹の千僧駐屯地の近くで、
自衛隊地区病院である阪神病院が敷地のほとんどを占め、
ついでに自動車教習所があるようなところだそうです。

それで病院長が駐屯地司令を務めることになっているんですね。
防衛医大を出て駐屯地司令を務めるという例は他にもあるのでしょうか。

ところで、この阪神病院のHPにおける院長の顔写真が実に斬新です。

自衛隊阪神病院 院長挨拶

政治家からの各種電報の中で目を引いた指差しポーズ。

体育館入り口で基地隊司令夫妻や先任伍長、関西水交会会長に挨拶しながら
入場したあとは、どこのテーブルに行ってもいいのですが、
壇上の様子を写真に撮るため、右前方向でスタンバイすることにしました。

関西のレセプションならではの光景で、テーブルの料理には
ことごとく覆いが掛けられております。
これらは、来賓の挨拶が終わり、乾杯の用意ができる頃に、
素早く取り去られておりました

本日の記念行事は、この3月に全国的に決まったルールで、会費を
(3000円)徴収することになり、基地司令の挨拶でも、
わざわざそのことを申し訳なく思う、というような説明がありました。

会費といえば、後になって、

「この日の参加者がいつもより少なかったのは、他の記念行事
(空自幹部候補生学校)とバッティングしたことと会費制にしたせい」

という話を中の人から聞きました。

飲み食いが目的などと思っていないわたしとしては、会費制なら、
つまりぶっちゃけタダで飲み食いできないんならやめときますわ、
という考えの人が世の中に少なからずいるらしいことに驚きました。

いつも豪華で美味しいことで有名な海上自衛隊の料理、これを食べるのは
税金を払っている国民の当然の権利、と思っているわけではないにしても、
それら全てが自衛隊の持ち出しで当たり前、となぜ思えるのか、って話です。

まあただ、そのおかげでこの日の会場内の混み具合は、多すぎも少なすぎもせず、
適正だった上、「そういう人たち」が来なかったせいで料理も行き渡ったようで、
結果としてはよかったんじゃないかという気がします。

さて、開式の時間となり、まずは阪神基地隊司令、深谷克郎一佐が壇上に。
いきなり英語でスピーチを始められましたが、それはスピーチの内容にもあったように、
本日出席の領事など、外国からの招待客への気遣いをされたのでしょう。

阪神基地隊にさらなる支援協力をお願いしたい、という定型句以外には
きょうの料理は隊員たちが早朝から心を込めて作ったものであること、そして
今回特に「そうりゅう」「じんりゅう」がカレーを特別提供していることなど、
料理についての説明をまじえながら挨拶を終えられました。

これといった派手めのイベントは行わない基地だけに、料理やその他演出に
特に工夫を凝らしておもてなししている、という表明だとわたしは解釈しました。

確かに料理も舟盛りがドーンと並ぶ他の基地隊とは違い、海自にしては地味でしたが、
ただし、(これは全くお世辞抜きで)美味しかったです。

特に、ほとんど期待せずに口に入れたサンドウィッチが、
こういうところにありがちなパッサパサだよ!(aar略)というものでなく、
まるで作りたてのようなふんわりしっとりで感心しました。

ギリギリまでかかっていたラップの効果という説もありますが。       

続いては関西水交会長。

ご挨拶の中で、今月末に大阪で行われるG20について触れられましたが、
二日間だけとはいえ、世界中から要人が集まる外交行事なので、
阪神基地隊としてもおそらく一連の警備の一環を担うのでしょう。

阪神基地隊のWikipedia記事にもこのようにあります。

「大阪湾や播磨灘などの警備、監視を行っている。」


さて、ここからがリボンを胸につけた来賓の挨拶ですが、最初に
わたしがかつて今まで聞いたことのない肩書きの方が壇上に上がりました。

(よりによってどういう期待の持たせ方だ)

続く。

 



令和元年 海上自衛隊 阪神基地隊 第67周年開隊記念行事 後半

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 6月1日に阪神基地隊で行われた第67回開隊記念行事についてです。

前回、長くなりそうなので一旦切ったところが、この来賓の挨拶だったので、
つい思わせぶりな書き方をしてしまいましたが、そう書いたのにも
少しだけ理由があって、

政府代表 関西代表 特命全権大使 山本条太氏

はて、大使と言いながらなぜ日本人なのか、と奇異に思ったわけです。
何度か阪基の行事で挨拶を聞いていますが、こういう肩書きを聞くのも初めて。

特命全権大使とは外交使節団の長で最上級の階級である。
接受国の元首に対して派遣され、外交交渉、全権代表としての条約の
調印・署名、滞在する自国民の保護などの任務を行う。
国際連合などの国際機関の政府代表部に対しても派遣される。wiki

その最上級の大使が、なぜ日本におられるのか。

調べてみたところ、山本さんの前職「在フィンランド全権大使」
「在ボツワナ全権大使」「在フィリピン以下略」などと並んで、
「関西担当大使」という配置が本当にあるのです。

まさかとは思うけど関西という地域は政府にとって外国なのか。
よく「大阪民国」というけど、公的にも関西は別の国扱いなのか。

とまあ、いろんなことを考えてしまいました。
(どなたかなぜこんな配置が関西だけにあるのかご存知でしたら以下略)

とにかくその大使で一番偉い山本氏の挨拶から推察するに、
氏はかつて2年間、防衛省で防衛政策局次長であったこと、そして
いっときとはいえ「自衛官」であったその経歴から、大変自衛隊に対して
こういってよければ「思い入れ」を持っておられるようでした。

阪基は行事に関西担当全権大使をいつも招待しているらしいのですが、
今までの山本氏の前任はまず来たことがなかったということです。

すきあらば人の集まるところには出て行って顔を売りたい政治家と違い、
官僚は不特定多数に愛想したところでなんの得にもなりませんから、
自衛隊から招待されていても欠席を決め込む人も多いのでしょうけど、
山本氏の場合は、わざわざお休みの日を割いて出席されたということで、
独断的感想ながら、そこにお人柄の一端を見る思いがしました。

関西担当全権大使には今年赴任されたばかりなので、もしかしたら
また別の自衛隊行事でお姿をお見かけすることになるかもしれません。

阪神基地隊のちょっとしたサプライズはこんなところにも仕掛けられていました。
誰でもが無条件で楽しめるようなアミューズメント企画というわけではありませんが、
ある種の人たちには大変興味深い、イタリア領事のスピーチです。

壇上に上がったのは在大阪イタリア領事、ルイージ・ディオダーティ氏。

ただの、開隊おめでとうございますという挨拶かと思ったらとんでもない、
イタリアの軍の歴史から現代の日本とイタリアの軍事交流に至るまで、
ミニ講演会といっていいほどの演説が始まりました。

しかし、英語で行われたスピーチは、絶妙のタイミングでセンテンスごとに
日本語の通訳が入り、わかりやすい上に、その内容の面白さも相まって、
全ての人が熱心に聞き入っていたようでした。

もちろんわたしもその一人です。

ただし、最初の挨拶が終わった時、背の高いイタリア領事、マイクの位置が低くて
喋りにくそうにしていたので、慌てて自衛官が高さを調整しに来ました(笑)

この時の話を録音しておけばよかったと思うのですが、覚えている限りでは、
まず、イタリアも日本も海に囲まれた海洋国家であり、海の護りという点では
非常に共通点を持って発展してきたということ、
1800年代にイタリアに海軍が生まれ、その発展についての概略などです。

ただ、近代戦争のところに差し掛かった途端、
「その話は今日はしないことにする」
とかいう言い方でスルーしてしまったのが非常に印象的でした。

今度はドイツ抜きでとかの話になるのを避けたのだと思います(ゲス顔)

また、近年のイタリアと自衛隊の交流については、士官候補生の交換留学、
P-1が2機、イタリアの基地を訪れたこと、イタリア海軍のジラルデッリ大将が
自衛隊の招きにより6度も日本を訪れており、その際、P-1に体験搭乗したり、
「いずも」を見学したりした、という例を挙げて、

「海洋国家として同じ価値観を持つ両国同士」

絆を深めていくべきだ、ということを語りました。

海上自衛隊のHPより、平成30年の横須賀基地訪問での記念写真。

真ん中がイタリア海軍参謀長、ヴァルテル・ジラルデッリ大将ですが、
なんか可愛いじいちゃんだー。(あれ?もしかしてまだ50代?)
というか、村川海幕長始め、全員ニコニコして和気藹々ですね。

ちなみに、今回初めて知ったことですが、イタリア海軍の正式名称は、
(英海軍の正式名称が”ロイヤル・ネイビー”というような)なんと

マリーナ・ミリターレ・イタリアーナ(イタリア軍事海軍)

であることを知りました。
ぜひ、声に出して言ってみてください。
(ついアンドレア・ボッチェリの声で再現された)

続いて多数おいでの政治家の先生方が壇上で一言ずつご挨拶。
マイクの前は自民党の兵庫1区選出議員盛山正仁氏。
灘高東大官僚と絵に描いたような関西の「できる子」コースです。

その右、少し前に防衛大臣政務官だった石川博崇氏。
公明スマイルがトレードマーク。

こちらも公明党の三浦のぶひろ氏。
東京工大で博士号を取ったあと、防衛大学校で准教授を務めたことから、
自衛隊への思いを語りました。

マイクの後ろは、尖閣諸島中国漁船衝突事件をきっかけに
政治家を志したという自民党の山田賢司議員。

乾杯に先立ち、主賓の方々が壇上で鏡割りをすることになりました。
スーツが汚れないように(と雰囲気を出すため)全員が
法被をきて壇上に上がるのですが、今や阪基専属と言っても過言ではない
ご当地アイドルグループ、コウベリーズの皆さんが法被を着るお手伝いを。

おじさまたちも同じ着せてもらうなら男性より女性の方が嬉しいでしょうし、
見た目もなんというか和やかでよろしい気がします。

そして、セクとかパワとかの「ハラ関係」が何かと提起され、
こういう役目を当女性職員に命じることすら微妙になってきている昨今、
普通の女の子をセールスポイントにしたアマチュア的アイドルならば、
こういうシチュエーションに普通にはまるので、自衛隊としても
使い勝手がいいというかありがたい存在となっているようです。

しかも彼女らの宣伝にもなるので、みんながハッピー、法被だけに(中の人談)
誰が上手いこと言えと。

「せーの」の合図で木槌を振るい鏡割り。

大関、櫻政宗、いずれも灘の銘酒である西宮の酒造会社です。
阪神基地隊の周りにも、実にたくさんの酒造会社があります。

乾杯のご発声を行なった議員さんは名札が法被に隠れて誰かわかりません。

この日の人での様子がわかる全体写真。
会費制にしたことで若干人数が減ったとのことですが、
そのおかげで皆余裕のあるスペースでの飲食を楽しんでいます。

基地隊司令が挨拶でも告知した、潜水艦カレーの一つ「じんりゅう」。
桜をバックに刀を抜く侍のシンボルがかっこいいですね。

乾杯発声とともにカレーの前には長蛇の列ができました。
「じんりゅう」の乗員が、オリジナル法被着用で配ってくれます。

「そうりゅう」からもカレーが出品されているということで
味を比べたかったので、まずご飯を少なめにし、

「少なめでお願いします。あ、でも具は多めに」

と注文をつけてよそってもらいました。
まずは「じんりゅうカレー」を制覇。
甘みが勝ったコクのあるまろやか系カレー、
たくさんよそってもらった具に残念ながら肉は含まれず、
それだけが心残りでしたが、次行きます。

「そうりゅうカレー」は「じんりゅう」の反対側でお店を出しています。

カレーコーナーの上にはしっかり存在を主張する旗が。

カレーの説明の下に「そうりゅう」そのものの解説も。
航空母艦だった2代目「蒼龍」に触れているのがいいですね。

「そうりゅうカレー」は「じんりゅう」より甘みを感じましたが、
それがペースト状にした桃とパイナップル、すりおろした人参という
隠し味にあることがわかりました。

今度カレーを作るときに試してみたい組み合わせです。

「そうりゅう」の隣になんと阪神基地隊のカレーも出品していました。
なんと、三種カレーの食べ比べができるという特別企画です。

これがある意味今回の行事のメインイベントだったってことですね。

わたしが食べ比べたところ、甘さの点だけでいうと、

阪基>じんりゅう>そうりゅう

の順。
味の複雑さ(色々入っている感じ)はその逆。
海自のカレーにしては三つとも甘さが勝っていて、
甘いカレーが好きなわたしには甲乙丙つけ難いカレー対決でした。

カレーを待つ列はいきなり体育館の端まで伸びてしまい、皆は
カレーの列に並びながら途中のテーブルにあるものを取り、
食べながら待つという光景が展開されていました。

これは緑にきゅうりをセレクトしたうどん。

専用機材で黙々と天ぷらを揚げていました。
わたしは三種カレーに挑戦するのがやっとで、うどんも天ぷらもトライできませんでした。

周りを女性に囲まれていた「じんりゅう」艦長。
潜水艦長は一般的に二佐職です。

また、今回ご挨拶させていただいた中に、あの!
横須賀音楽隊からこの度東京音楽隊に転勤された、海自の歌手、
中川真梨子三曹のお父上がいて、しかもわたしの所属する
防衛団体のうちの一つのメンバーだったのがちょっとしたニュースでした。

いつもステージの上の歌手としてしか存じ上げない彼女の父上から、
彼女が元々はフルートをやっていたこと、大阪出身(夕陽丘)であることなど
興味津々で根掘り葉掘り聞いてしまいました。

前回の観艦式で、わたしは彼女の歌を「むらさめ」艦上で聴いたのですが、
伺ってみると、父ちゃんもすぐ近くで聴いていたことが判明。

「あの時は『坂の上の雲』のテーマソングとか歌ってらっしゃいましたね」

「いや・・・わたし全然覚えてなくて」

それから、今回の三宅三曹とのトレードですが、期間限定で
何ヶ月かしたら二人ともまた元に戻るらしいことを聞きました。

これってすごい内部情報だと思いません?

会を〆る乾杯の音頭を取ったのは、阪神基地隊先任伍長、寺越海曹長。
経歴をチェックしたところ、前職は「かしま」先任伍長でした。

というわけで、無事盛会のうちに終了した開隊記念行事。

地域の政治家たち、ご当地アイドル、そして自衛隊を応援する人々。
この小さな、地域会場防衛の要である基地を支えていくための
コミニュティと、支援に心を尽くして恩返ししようとする自衛官たちの姿を
確認した週末となりました。

 

最後になりましたが、今回の行事参加をお取り計らいくださった
関係者の皆様にあらためてお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。

 

 

メア・アイランド海軍工廠〜ヒストリックパークファウンデーション

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長らく語ってきたメア・アイランド博物館の展示についての話も、
最終回になりましたので、ここでメア・アイランドのドックなど
海軍工廠そのものをご紹介して終わりたいと思います。

昔活気があったここは、海軍工廠が閉鎖してからご覧の通りゴーストタウンです。

工廠跡の建物は、民間の溶接工場やエンジニアリングの会社が買い取り、
使用しているところもあるようですが、ここはどうも空き家のようです。
道路は近辺の会社や工場のワーカーの駐車場になっています。

その他ネバダにあるトゥーロ・ユニバーシティの図書館だけがなぜかここにあるそうです。

ところで、展示品についてもご紹介しそこなったのを全部あげておきます。
Mk44魚雷は、水上艦以外では以前ここでご紹介したことがあるドローン、
対潜ヘリコプターDASHなども搭載していた魚雷です。

タイプライターのようなタイムカードレコーダーのような。
パイプなどの金属に刻印するためだけに存在する機械。
打ち間違えたら訂正できずそのまま刻印されてしまうんですね。

キールレイドの時に使われたハンマーは、このように記念となり、
後世に残される場合もあります。

ここに見える艦船の名前は

駆逐艦「クラクストン」「プレストン」「ハミルトン」

潜水艦「スタージョン」潜水艦「スウォードフィッシュ」

駆逐艦「キルティ」「ボッグス」

などですが、潜水艦はハンマーではなくラジオペンチのようなものです。

かつてここでもお話しした、ユージーン・イーリーが

「空母から人類初めて飛行機を離艦させ、着艦した」

のはここメア・アイランドでした。

ここの説明にはなぜかイーリーを「大尉」と説明をしているのですが、
残念ながら彼は海軍軍人だったことは一度もありません。

その業績の偉大さの割にアメリカ以外では名前が全く知られておらず、
わたしが彼についての記事を書いた時には日本語のウィキもなく、
「Ely」という名前を「イーリー」にするか「エリー」にするか迷ったものですが、
いつの間にか「イーリー」でwiki記事が書かれていました。めでたい。

でもこれ、もしかしたら一番正確なのは「イリー」かもしれないな・・。

勝海舟ら咸臨丸と日本からの訪米施設がここにきた時には
確実にここを見るか、あるいは前を通り過ぎるかしたはずの建物。
写真は1960年ごろ撮られたものですが、その後、
1898年のサンフランシスコ地震で倒壊し喪失しました。

お家ですか?ケーブルカーですか?

これは下の説明にも見えるように士官のクォーター(宿舎)なのですが、
なんか、家ごと木の通路を行ったり来たりできたみたいです。

何のためかも説明がないので詳細はわかりません。
傾斜を降りる形で転がっていったみたいなのですが、それでは
登るときはどうしたのかな?

こんな不安定なところにいて士官さんたちは不安じゃなかったのか?

こちらは1903年の写真。
2隻のフリゲートが当時の動力だった石炭を荷下ろししています。

さて、それでは博物館の裏手に出てみましょう。
博物館のおばちゃんが、裏の出口を教えてくれました。

この日の来館者はわたしたち二人を入れて全部で確か4人でしたが、
最後まで観ていたのはわたしたちだけになり、おばちゃんとしては
早くわたしたちに出ていって欲しかったようです。

出てすぐの岸壁に潜水艦「ヴァレーホ」のセイルがありました。
ここから見ると、まるで着岸しているようです。

この岸壁沿いの道路の名前が「ニミッツアベニュー」というのは前も言いましたね。
ニミッツアベニュー1084は現在何かに使われているらしくゴミ箱が前にあります。

ところで、このモノレールのような鉄の構造物、これは
メア・アイランドの大昔の写真にも同じものが写っているのですが・・、

具体的にどうやって使うものなのでしょうか。
クレーンとは全く違うようですし、不思議なことにこれは
ドライドックの周りにはないのです。

一つのドックの中に駆逐艦が6隻。
1922年、二番ドライドックの航空写真です。

全く同じ形をしているので、6隻同時進行で作っていたのだと思われます。

同じドックの現在の様子をグーグルアースで撮ってみました。
岸壁に隙間なく敷き詰められるようにあった資材が今では跡形もなし。

これは、第2ドックの手前にある第1ドックを横から見たところです。
周りは鉄柵で囲まれて近づけないようになっていました。

クレーンは当時のままに全基残されています。

これは前にもご紹介しましたが、今立っているところから一番遠い、
第3ドックを建設していた1940年の写真。

金網の隙間から撮影した第1ドック。

西海岸で初めて建造されたかなりの大型船にも対応できるドック、
工事は1872年に始まり、1891年に完成しました。

我が日本の横須賀のドックより遅い時期になります。

グーグルマップでは今でも第3ドックにコーストガードの
砕氷艦が停泊していますが、第1、そして第2ドックは閉鎖されているようです。

これらのクレーンが稼働することは今後もう2度とありません。

ドックに添うように、貨物を運んだレールの跡が見られます。

積み重ねられたコンクリに字が刻まれています。

上から、41年5月7日、39年11月17日、41年5月7日、
という意味ではないかと思われますが、なんでしょうか。

歩いて第2ドックまでやってきました。
こうして正面から見ると、ここに駆逐艦が6隻入るとは思えません。

ドックの周りにあった「ショップ」の建物も、そのまま何も変わらず残されています。
取り壊すこともなく、かといって保存のための特別な措置もすることなく、
アラメダのようにいつまでもかつてのまま「放置」するつもりかもしれません。

国土の広大なアメリカならではの鷹揚さとある種のいい加減さは、
時としてこのような歴史的ゴーストタウンを産みます。

窓だったところを全て板で覆ってしまっているビルもありました。

これが今回見学した博物館、正式には

Mare Island Hisoric Park Foudation

です。

博物館は上から見るとコの字の中に別棟を抱えているのがわかるのですが、
この写真の向こう側が「コ」の端、左の建物があとで建てられたらしい部分です。

すっかり人気がなく「兵どもが夢の跡」と化したかつての工廠。
時の移ろいのうたかたに思いを馳せることができる、わたしお薦めの観光です。

フィッシャーマンズワーフなんかより、ずっと心に残る旅になると思いますが、いかが?

今から工事が始まるようですが、立て看板には、

「Future Home Of Histric Core」

と書かれていますね。
ちょっとどういう意味かわからないのですが、将来ここを
歴史を訪ねる中心にしようとか、そういう計画があるのかな。

博物館の建物に沿って歩き、正面の車を停めておいた所に戻ることにしました。

その時になって初めて、「ミュージアム」の看板を見つけました(笑)
こんな所にあったのか。道理でわからなかったはずだ。

あ、レンガが一つ無くなってる。

閉館時間ギリギリまで粘っていた最後の客(わたしたち)が
やっと出て行ってくれたので、露骨にやれやれ、とばかりに
看板をごろごろ引っ張って片付けているボランティアのおばちゃん。

ところでこの看板、どこにあったの?

メア・アイランドを出発し、向かいのヴァレーホに渡りました。
ここにも海軍工廠だった頃の名残がさりげなくあったりします。

ナパ川越しに対岸に見るメア・アイランド海軍工廠跡。
この博物館を通じて、また新たな海軍の歴史について知ることとなりました。


車をお持ちの方は、サンフランシスコ観光のついでにぜひ訪れることをお勧めします。
ただし、オープンしている日時はほんの一瞬なので、事前に調べてからね!

 

メア・アイランド海軍工廠博物館シリーズ 終わり

燃料補給艦「モーミー」と「ニィーミッツ」中尉〜メア・アイランド海軍工廠生まれの艦船

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前回、「メア・アイランドシリーズはこれで最後だ」と言いつつ、
締めをしてしまったのですが、掲載していなかったログが発見されました。

今度こそ、メア・アイランド工廠跡見学の最後、というわけで、
ここで建造された艦船についてお話ししていきます。

とかなんとか言いながら、

USS「インディペンデンス」

が建造されたのはボストンのネイビーヤードなんですけどね。


1814年の就役以来、ロシア、南アメリカへの遠征を始め米西戦争に参加、
その後はヨーロッパにも行ったという彼女ですが、1857年、
ここメア・アイランドに錨を下ろし、1912年に除籍になるまでここにいました。

そんな長い間、彼女はここで何をしていたのでしょうか。

左が現役時代の「インディペンデンス」の帆を張って進む勇姿、
右が晩年の彼女の最終形です。
55年間の長きにわたり、彼女は「ハルク」になっていました。

ハルクとは、水上に浮かぶ機能はあっても洋上航走はできない船です。
老朽船となった「インディペンデンス」からは艤装や内部の装備が撤去され、
ただ水上に浮かぶだけの何かになってしまいました。

もっとも、ハルク化されたのは彼女に限ったことではなく、
帆走の時代には、多数の船体が船として用いられるよりも
ハルクとして長期にわたり従事したものでした。

木造船は、船体構造が老朽化すると悪天候下の洋上航走時には
容易に浸水してしまうようになるので、そうなると、
ハルク化されて港に浮かぶ余生を送ることになったのです。

新兵を収容するための「新兵ハルク」、あるいは脱獄しにくいことから
囚人を収容する「監獄ハルク」、さらに経年劣化してくると、いよいよ
「石炭ハルク」「火薬庫ハルク」となって

「汚れて乱雑で、魅力のない余生」(現地の説明による)

を終えるのが木造船のよくある一生だったようです。

これはかつて「インディペンデンス」のフィギュアヘッドだったもの。
フィギュアヘッドは女性を象ったものが多いですが、これは
ローマ風?装飾を施した白いフィギュアヘッドです。

足元にある銅板には在りし日の彼女の功績が綴られていますが、
彼女が解体された1912年に製作されたものなので、古びて真っ黒です。

これも「インディペンデンス」の参加した戦争を記した石碑。
解体された後、残されたフィギュアヘッドの前に置かれていたようです。

「インディペンデント」が最初の「ガバメント・ヴェッセル」(政府の船)
としてメア・アイランドに引き渡されたことが書かれています。

キール・レイドとは起工の儀式で、1812年に行われました。

「クラッター・ホーン」(Clatter Horn )

「インディペンデンス」で使われていたもので、この取っ手を持って
振り回せば、船中に音が聞こえ「ウェイクアップコール」になるというもの。

晩年の「インディペンデンス」がどのようにハルク化されていたかというと、
これです。

うーん・・・フリゲート艦としてブイブイ言わせていた彼女が・・・。
しかし、まだしもましなのは、「新兵艦」や、ましてや「監獄艦」
になることがなかったということかもしれません。

1904年撮られた「インディペンデンス」の内部は、全く応接室使用。
新兵用でも囚人用でもなく、これは貴賓室として使われていたんですね。

それとも誰か偉い人が住んでいたんでしょうか。
花瓶には花、地球儀、ピアノの上には練習中の曲の楽譜まで見えます。

別の角度から撮られた同じ部屋。
天井のランプのソケットから卓上ランプの電源を取っていますね。
すでに船としての機能は全くなかったことがよくわかります。

「インディペンデンス」は1915年に地元の業者に売却され、
メタルの部分と、もっとも価値のあるオルロップデッキの木材を
全て取り除かれて廃棄処分となりました。

戦艦「ミズーリ」の模型。

こちらも履歴をざっと調べてもこの戦艦とメア・アイランドの関係は内容だけど?
と思って現地の説明を見たら、

「ミズーリとメア・アイランド工廠には特別に関わりがないが」

ってわざわざ書いてあるではないの。
しかもこじつけるように、

「その時期メア・アイランドが手がけたのは戦艦『カリフォルニア』だった」

日本がその甲板で降伏調印を行なった、という象徴的な艦として、
我々は多くの艦船を生み出し、補修することによってこの結果に
大いに寄与したのであーる、ということが言いたかったようです。

一つ前の写真は有名なので見たことがありますが、これは初めてです。
写真が撮られた位置からみて、これを撮ったのは「ミズーリ」の乗員ではないでしょうか。

まさか、抱き合っているのはマッカーサーとニミッツ・・・?

だとすれば別の意味でとんでもなく貴重な瞬間ですが、帽子が違うので、
ニミッツはサイン中か左で立っている人物だと思われます。

さて、メア・アイランド海軍工廠の「ファーストシップ」、
最初に建造されたのが蒸気船「サギノー」です。

1860年「サギノー」は太平洋艦隊の隷下に入り、南北戦争、
アラスカでのロシアとの紛争に参入したりしていましたが、
1870年、ミッドウェイで港予定地を浚渫する作業をしたあと、
Kure環礁で座礁してしまいます。

救出を求めるため、タルボット中尉と水兵ウィリアム・ハルフォード含む
志願者4名がボートに乗り込み、カウアイ島に向かいます。
なんと31日に渡る航海の末、ようやく岸に近づきましたが、そこで
不運にもボートは転覆し、全員が海に投げ出されてしまいました。

その中でハルフォードはただ一人、岸に泳ぎ着いて助けを求め、
その結果座礁した「サギノー」の乗員は救出されました。

 右側は同じハルフォードの海軍士官姿です。
荒海を泳いで「サギノー」の救出を呼ぶことに成功した彼は、
名誉勲章を受け、1971年、つまり事故の翌年にいきなり准尉に任官、
と、いったい何段跳びかわからないくらい昇進しました。

そして第一次世界大戦が始まった時、海軍はハルフォードのような
経験豊かな軍人を必要としたため、退役していた彼を呼び戻し、
中尉に昇進させるという措置をとりました。

彼は死後、ネイビーヤード墓地に中尉の階級で葬られ、その名は
USS「ハルフォード」DD-480に残されました。

 

1916年、メア・アイランド起工されたUSS「ショー」DD-68の
キールレイイングに使われた金槌。

これ、なんだと思います?
わたしも初めて見たのですが、「ショー」の「ハーフ・ハル」、
つまり船殻の半分模型なんですって。

造船する際、シップフィッター(Shipfitter)という部門では、
設計者の図面に基づき全ての船に対してこのようなハーフ・ハルを製造しました。

これは2代目。
USS「ショー」DD373、駆逐艦です。

 

2代目「ショー」はフィラデルフィア海軍工廠生まれですが、オーバーホール以外に
メア・アイランドは歴史的に意味のある彼女の修復を請け負っています。

「ショー」は、真珠湾攻撃のとき乾ドックに入渠中でした。
日本軍による攻撃で「ショー」は前方機銃座に2発、艦橋左舷に1発の計3発、
爆弾を受け、火災を発生しました。


(爆発する『ショー』。誰が上手いこと言えと)

消火活動が続けられましたが、消火剤を使い果たしたため、
総員退艦の命令が発せられます。
そして前方弾薬庫が爆発しました。

しかし沈没は免れたので、彼女は真珠湾で応急措置を受けた後、
メア・アイランドに運ばれて竜骨を取り替える工事を受けました。

この一言で説明をまとめると、米西戦争によってメア・アイランド造船所の技術は
飛躍的に成長した、ということです。

手漕ぎでなく蒸気を動力としたボートの発明、蒸気エンジンのパワーアップ、
エア・コンプレッサーの導入によって武装も一段と強力になりました。

米西戦争に参加したメア・アイランド生まれの艦船たち。
左上から時計回りに:

防護巡洋艦「オリンピア」C-6

防護巡洋艦「ラレイ」C-8

防護巡洋艦「ボストン」

ガンボート「コンコード」PG-3

防護巡洋艦「ボルチモア」C-3

ガンボート「ペトラル」PG-2

その一隻である「オリンピア」です。

なぜか一緒にあった「ファイアエンジン」。
ファイアエンジンって消火自動車ですよね?

ちなみにこの模型は、「RCワーシップコンバット」用のものです。

「RC model warship combat」ってなんだと思います?

「見る模型ファン」のわたしとしては気になる記事がありました。
RCって多分ですけど、レシオ(比率)のことですよね?

それでいうと1:144の船の模型にBB弾(ベアリング)で武装させ、
池で戦闘を行うという趣味のことです。
去年の7月、阪神基地隊のプールでで潜水艦模型を操作しているグループがいましたが、
これはさらにガチンコで海戦を行い、戦わせてしまうという・・・。

日本潜水艦クラブはお池で操作することすら「模型を失くすかも」という
心配と戦っておられたようですが、こちらは本当に沈没覚悟です。

What is RC Warship Combat

この説明によると、アメリカ、カナダ、オーストラリアで盛んだそうです。
日本では多分BB弾使用というのがネックになってるんだろうな。

こんなことをする池もなさそうだし、そもそも動画でも
沈没してしまった船、どうやって回収するの?

と思ったら後半、半裸で池に入っていって船をサルベージし、
すぐさま戦線に復帰させているシーンがあります。

「ブルーバード」A.M.S.121 bluebird

AMSというのは掃海艇です。

同じく掃海艇「コルモラント」 AMS-122。
コルモラントとは「鵜」のことです。

アメリカの掃海艇は鳥の名前をつけていたのですね。

彼女は1960年ごろまで、日本近海での掃海を行なったそうです。
日本近海の掃海にアメリカ軍が出動していたことを
わたしは今初めて知ったわけですが、全く日本側に資料がありません。

「ブルーバード級」は世界各国に貸与されましたが、我が国の掃海艇

MSC-651 「やしま」

MSC-652 「はしま」

MSC-653 「つしま」

MSC-654 「としま」

もアメリカから貸与されたものです。

「マウミー」(モーミーかも)は燃料補給船として1914年に起工されました。
オハイオ州のモーミー川から命名されています。

海軍に配備された初めてのディーゼルエンジンの船ですが、
歴史的に注目すべきは、最初のCTO(チーフテクニカルオフィサー)
に任命されたのは、チェスター・W・ニミッツ中尉だったことでしょう。

「モーミー」の艤装中、ニミッツ中尉はドイツにあるディーゼルエンジン工場に
エンジンの研究をするために派遣されています。
ドイツ系だったニミッツは実はドイツ語ができたのでした。

(彼の宿敵マッカーサーが、ニミッツと口にする時、わざわざ『ニイーーミッツ』
と発音して、ドイツ系であることを暗に揶揄していたという話があります)

第一次世界大戦が始まり、アメリカが1917年4月に参戦を表明した時、
ニミッツは「モーミー」の技術士官であり、米海軍駆逐艦の第1艦隊が
大西洋を横断するのに同行した「モーミー」は燃料補給船として機能しました。

彼の監督下で、「モーミー」は初めての補給を実施したということです。

 

 

メア・アイランド工廠シリーズ 本当に終わり

 

橘花と燕(メッサーシュミットMe262)〜スミソニアン航空宇宙博物館

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 世界の航空博物館数あれど、旧日本軍の軍用機をこれほど数多く、
しかも完璧な状態にそのほとんどを修復して後世に残してくれている
博物館は、ここスミソニアン航空宇宙博物館の別館、正式名
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターをおいてないでしょう。

ただし、完全な姿で見つからなかったものについては、
修復をあえてせずそのままの形で展示されていたりします。

この写真の中心になっているのは海軍の水上攻撃機「晴嵐」M6A1 、
その右側が川崎の「紫電改」ですが、「晴嵐」の翼の下にあるのは
キ45改「屠龍」の胴体で、取得されたそのままの状態。

「晴嵐」の尻尾の下に見えているのが今日取り上げる「橘花」です。

この「橘花」の置き場所がものすごく微妙で、どこに立っても
必ず何かの陰になってしまうので、写真を撮るのに苦労しました。
この写真では「紫電改」の向こう側にひっそりと見えています。

ちなみに、右側に黄色い台の上に見えている車輪はB-29、
スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」のものです。

「晴嵐」のフロート越しに見る「橘花」。

「橘花」を現地の説明では「オレンジブロッサム」と翻訳していました。
柑橘、の「橘」であり、日本ではみかんなどの木の総称としても「橘」が使われます。

正確には「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」という
日本固有の種目で、みかんのような実が成ります。
日常的に生垣などから生い茂って実をつけているのを見ますが、
人に盗られたりカラスがついばんだりしないのは、実は酸っぱく、
とても生食には向いていないからなんだそうです。

というわけで「橘花」は正確には「オレンジの花」ではないのですが、
わざわざこういう翻訳をして紹介する意図はなんだったのでしょうか。


英語圏の戦闘機の名前は一般的に猛禽類や猛獣、剣の別名などがよく使われます。
そのものの「ラプター(猛禽類)」の他には「ヘルキャット」、
「コルセア」(私掠海賊)「カットラス」(海賊の刀)「バッファロー」
イギリスの「デーモン」、アメリカには「ファントム」など、
そのものに力があり、相手を威嚇するような強い動物や想像上の存在など、
何れにしても花の名前を選ぶのは少数派ということができるでしょう。

しつこいようですが、紹介の説明板の前に立っても、肝心の本体が
どこにあるのかすぐにわかる人はあまりいないでしょう。
ここからも、しゃがんで姿勢を低くし、「晴嵐」越しに見るしかないのです。

おそらくわたしのように日本機に特別な興味を持って来る見学者以外は、
「橘花」の存在を確かめることなく通り過ぎてしまうでしょう。

「橘花」の全体像がちゃんと見えるのは、逆側のこの角度だけです。
(しかしそこでは機体が何か確かめるすべがないという・・・・)

「橘花」の現地の説明を読むと、まずこうあります。

中島 「橘花」(オレンジブロッサム)

中島「橘花」は、第二次世界大戦における唯一自力発進が可能だったジェット機です。

capable of taking off under its own power. 
とあるのでこのように翻訳してみたものの、ジェット推進の「秋水」も、
一応自力でテイクオフできていたはずなので、この書き方にはちょっと疑問です。

ドイツがジェット推進のメッサーシュミットMe262戦闘機の試験を始めた頃、
日本は空軍の武官をドイツに派遣し、いくつかの航空実験を目撃しました。

正確には日本海軍、空技廠の武官ですが、当時は空軍のなかったアメリカでも、
航空に関わる軍事のことを「空軍」というので別に間違いではありません。

がしかし、

彼の作成した熱狂的なレポートに着想を得て、日本海軍の関係者は
Me262をベースにした双発ジェットエンジンで単座の攻撃機を
1944年に開発しました。

「熱狂的にレポートを作成した空技廠の武官」というのが誰なのか、
こうなるとぜひ知りたいところですが、日本側の記述によると
これは少し違っていて、本当のところはこのようなものです。

燃料事情が悪くなった日本では、低質燃料、潤滑油でも稼働する
高性能なジェットエンジンの開発が喫緊の課題となっていました。

そのとき同盟国ドイツに駐在していた陸海軍の将校と技術者が、
メッサーシュミット Me262の技術資料を、日本側の
哨戒艇用のディーゼルエンジンの技術と交換することを決めたのです。

ここに、ドイツの技術が欲しい日本と、日本の植民地などで入手できる
車両や航空機制作に必要な原材料が欲しいドイツの利害関係が一致し、
シンガポールなどの中継地からドイツとの間に潜水艦を往復させる

「遣独潜水艦作戦」

が5次にわたり実施されることになりました。

しかし、その4回目の遣独作戦でMe262の資料を搭載した潜水艦は、
パシー海峡でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されてしまったのです。



この時、シンガポールで潜水艦を降りて輸送機に乗り換え命拾いをした
巌谷英一技術中佐は辛うじて資料を日本に持ち帰っています。

ただし、巌谷中佐が持ち帰った資料は本当にごく一部に過ぎず、
肝心のエンジンの心臓部分、そして機体のほとんどの情報は失われたため、
結局ほとんどが日本独自の開発になりました。

機体の形がうっすらとMe262に似ているのは、おそらく
記憶スケッチで設計したからだと思います。


しかしスミソニアンではそこまで情報を精査していないらしく、
ただ、「橘花」はドイツの技術を取り入れて作った、という前提で、
さらに、こんなことまで・・・。

スペックは幾分ドイツの戦闘機よりも厳密さに欠けます。
レンジは500kgの爆弾を搭載した時で205km 、250kg爆弾搭載時で278km。
最高速度はたった696kph、着陸時速度は148kph、
ロケット補助システムによって離陸時には最大速度時速350mでした。

躯体はメッサーシュミットの設計より少し短いものでした。

だから機体もエンジンもドイツの技術じゃないと何度言ったら(略)

スミソニアンが橘花を「オレンジブロッサム」とわざわざ英訳し、
機体の紹介に付け加えたのには、ある印象が込められていたとわたしは考えます。

散りゆく花を日本人が航空機の名前に選ぶとき、そこには
最初から特攻兵器として生産された「桜花」がそうであったように、
機体を特攻に投入するつもりがあったに違いないという先入観です。

果たしてそれは正しかったでしょうか。

「橘花」は終戦の詔勅の8日前の8月7日、松の根油を含む低質油を積んで
12分間だけ空を飛ぶことに成功しました。
これが日本でジェット機が初めて空を飛んだ瞬間です。

2回目の実験で離陸中に滑走路をオーバーランして擱座し、
破損した機体を修理中、終戦を迎えてしまいました。

終戦の知らせを受けた工場作業員によって即座に操縦席が破壊されましたが、
研究用に接収しようとした進駐軍の命令によって、彼らは
自分で壊した部分を修理させられることになりました。

ここにある「橘花」の由来については詳しくはわかっていませんが、
何れにしてもその時接収されたものに違いありません。


さて、「橘花」が特攻兵器になった可能性についてです。

「橘花」のエンジンを艤装した技術者は「これは特攻兵器ではない」
としていましたが、もし終戦がもう少し遅く、計画通り数十機が量産されていたら、
熟練パイロットがほとんど残っていなかったあの頃、やはり
ジェット機「橘花」は体当たりをするしかなかったのではないでしょうか。

スミソニアンもおそらくそう考えていたのでしょう。

さて、結果的にそうはなりませんでしたが、日本海軍が設計図を手に入れ、
同じものを作ろうとしたメッサーシュミットのMe 262は、スミソニアンの
本館の方で見ることができます。

Messerschmtt Me 262 A-1A SCHWALBE

ニックネームは「シュワルベ」=燕。
メッサーシュミットMe 262は第二次世界大戦の世界の全ての戦闘機を
はるかに凌駕する性能を持っていました。

時速190キロメートルでアメリカ軍のP-51マスタングより速く、
戦争の初期に落ち込んでいたルフトヴァッフェの優位性を
わずかな期間とはいえ取り戻す役割を果たしたとまでいわれています。

Me 262は第二次世界大戦の終結の年に1442機生産され、
そのうち戦闘に上ったのはわずか約300機だけ、その他のほとんどは
訓練事故や連合軍の爆撃によって破壊されました。

Me 262がいかに性能において優位性に立っていたとしても、
すでにその頃には連合軍が絶対的な航空力において制空権を取っており、
パワーバランスはその優位性を相殺してもお釣りがくるほどだったのです。

つまりこのことは、いかに革命的な戦闘機をもってしても、それだけでは
不利な戦局を挽回するほどの力はないことを証明することになりました。

ミュージアムに展示されているMe262A-1aのコクピット。

メッサーシュミットの工場が爆撃された後、技術者と工員は
Me262の機体を森を切り開いたところで組み立て、
アウトバーンをタキシングして輸送し、部隊に配達したそうです。

最初にメッサーシュミット社に栄誉をもたらしたのは、
メッサーシュミットBf109という飛行機でした。

1936年から1945年にかけて、メッサーシュミット社は
7種類、合計3万3千機の航空機を生産しています。

テストパイロットフリッツ・ヴェンデルに話しかける
ヴィルヘルム・”ウィリー”・メッサーシュミット教授。

彼は第二次世界大戦期で最も有名なドイツの航空機設計者でした。
彼の会社はルフトヴァッフェにとって最高の航空機を生み出しましたが、
それがこのMe262とメッサーシュミットBf109です。

1898年生まれの彼は、航空の世界の初期に彗星のように現れ、
56年の生涯を通じて航空機に携わり、仕事を愛し続けました。

優れたエンジニアであったのみならず、指導者としても傑出しており、
部下の能力を最大限に引き出して最高の結果を得ることができた彼ですが、
バトル・オブ・ブリテンでBf109が爆撃機の護衛に失敗してからは
ナチの指導者たちは露骨に彼を批判するようになったということです。

尾翼に鉤十字、胴体に鉄十字をつけて離陸するMe262。
ランディングギアに三輪をつけるというアイデアは今ではよくありますが、
実際に採用されたのはこの機体が初めてでした。

世界中の博物館に現存しているMe 262は9機だけです。

ここにある機体はJagdgeschwader(ヤークシュワーダー)7、
有名な第7戦闘飛行隊が使ったものです。

記録によるとこのシュワルベのパイロット、ハインツ・アルノルドは
ソ連軍のピストンエンジン戦闘機を42機、アメリカの爆撃機と戦闘機を
7機撃墜したということです。

「注意! 鼻車輪を引きずらないでください」

とあります。鼻車輪ってなんだ?

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空諜報部隊はヨーロッパにチームを派遣し、
敵の航空機、技術的および科学的な報告書、研究施設、そして
米国で研究するための武器を入手していました。

ドイツが降伏すると、「オペレーション・ラスティ」(元気作戦?)
としてドイツの科学文書、研究施設、および航空機を接収して研究を行う
チームが派遣されますが、その一つのチームは「ワトソンの魔法使いたち」といい、
元テストパイロットだったハロルド・E・ワトソン大佐の指導の下、
アメリカでのさらなる調査のために敵の航空機と武器を集めまくりました。

パイロット、エンジニア、整備士からなるワトソンのチームは
 "ブラックリスト"を使って航空機を集めました。
強制収用所との二択でルフトヴァッフェのテストパイロットを脅し、
米軍に雇い入れる、というようなあくどいこともやっています。

Me 262も彼の部下によって集められた飛行機の一つで、これに
「Marge」と命名し、パイロットは後に "Lady Jess IV"と改名したそうです。

マージからレディに昇格させたい何かをパイロットは感じたのでしょうか。

 右下の写真では「マージ」が高速低空飛行で「飛ばされて」いるところ。

機体は当時と同じ迷彩に塗装され、第7航空団のマーク
(犬かな)が鮮やかに書き込まれています。

「橘花」とMe262。

ドイツの名機と、同じものを作り出そうとして、諸事情から
劣化コピーのようになってしまった日本のジェット戦闘機は、
そのあだ名を合わせると「橘花と燕」です。


5月から6月にかけて咲く橘の白い花に燕。
まるで日本画の題材になりそうな光景が浮かんでくるではありませんか。

 

 

続く。

へランティスブロン(HELANTISUBRON)の謎〜空母「ミッドウェイ」博物館

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前回の「ミッドウェイ」シリーズでは、2年前の訪問時の写真をご紹介しましたが、
今回から最新(といっても昨年夏ですが)のものを挙げながらお話します。

昨年夏、三度目となる「ミッドウェイ」見学のため、サンディエゴに滞在しました。
部屋からは以前ここでもご紹介した「パール・オブ・インディア」が見えます。
アラスカに鮭を採りにいっていたこともある帆船です。

エレベーターを待つフロアは全面ガラス張りで、「ミッドウェイ」がこんな風に見えます。

この写真もエレベーターホールからガラス越しに撮ったもの。
「ニミッツ」級空母3番艦の「カール・ヴィンソン」です。

カール・ヴィンソンは民主党の下院議員で、1981年に97歳で亡くなりました。

その活動は戦前からで、なんでも日本が海軍条約脱退した後、
アメリカの海軍力を拡張するのに大変貢献し、戦後も海軍委員会の議長として
原子力空母の調達実現への原動力となったという人物です。

「カール・ヴィンソン」が進水式を行なった時、彼は96歳でこれに出席し、
存命中の人物の名前がつけられた最初の空母となりました。

「ミッドウェイ」に来るときには必ず宿泊するレジデンスイン・バイマリオット。
去年まで工事中だった向かいのホテルも今年は開業しています。

地の利もあって結構お高いのですが、今回はカードのポイントが使えました。

「ミッドウェイ」開館の時間前にわたしは現地に向かいました。
歩いて数分で到着です。

埠頭は朝早い時間はホームレス、日が昇ってくると観光客で大変な人出となります。

後部デッキにはおなじみ、二体の乗員の人形があるのですが、
ちょっとこれ見てくださいます?

2年前の写真。
ぽ、ポーズが変わってるっぽい。((((;゚Д゚)))))))

作業船がメンバーを載せて準備中でした。
左から2番目の人はダイバーだったりしませんかね。

何をするつもりかはわかりませんが、とにかく「ミッドウェイ」は
このように切れ目なくメンテナンスを行なっているようです。

連日かなりの人数が観光に訪れるだけでなく、企業からのファンドや寄付も集めています。
民間人にも寄付を呼びかけており、ボランティアを募ることによって
この「国家遺産」の維持を図っているのです。

「軍事遺産」への対応が冷たい日本などとは比較にもならないレベルですが、
アメリカでも「ミッドウェイ」は特殊な部類といえるでしょう。
東部の重巡「セーラム」のように、ほぼ放置されたまま、という遺産も結構あるのです。

オープン前だというのに、チケット売り場にはもうこんな列ができています。

「ミッドウェイ」入館料は大人22ドルと結構高い方です。
(だいたいアメリカの博物館の相場は12ドルといったところ)

入館してすぐハンガーデッキにあるエンジンは、

R-2800 ツイン・ワスプエンジン(プラット・アンド・ホイットニー)

空冷星型複列18気筒の航空用エンジンで、F4Uコルセアなどが搭載していたものです。
説明のタイトルは

「THE ENGINE THAT WON THE WAR」(戦争を勝利に導いたエンジン)

はいはい。

いつもちゃんと撮れなくて、今度来た時は、と思っていたアクリルの「ミッドウェイ」。
透明な素材で作ることで内部構造がよくわかるというわけです。

とにかくこの構造がすごい。
他のところならこれだけでも博物館の展示の目玉になりそうな手の込みようです。

この日もサンディエゴは雲ひとつない超晴天。
まだほとんど人のいないフライトデッキの様子をご覧ください。

くるたびに少しずつ塗装や展示が変わっているのが「ミッドウェイ」。
このT-2『バックアイ』ですが・・・・、

去年いなかったパイロットがコクピットにいます。

左からF-2/3 「フューリー」、F9F-8P「クーガー」、F9F「パンサー」。

ほぼ同時代の戦闘機が羽を上げた状態でまとめられています。

今年修復作業を行なっていたのはF-8「クルセイダー」。

まず塗装を剥いで継ぎ目の錆止めから下処理を行い、風防は全て交換するようです。
現役機並みに手をかけるんですね。

ハンガーデッキにテントを立てて設えられた「ヴェテラントーク」のコーナーでは、
一番乗りしてきた男性に、元艦載機パイロットのヴェテランが早速
「ランディング・トーク」で、自分の現役時代の体験を披露していました。

この向こうは全てヘリコプター。
手前の「シコルスキーHO3S」「シーバット」など、第二次大戦後の
「ヘリコプター黎明期」に活躍したヘリが並びます。

朝鮮戦争下で北朝鮮の爆撃を行った米海軍を描いたウィリアム・ホールデン主演、
グレース・ケリー助演、なんと横須賀などが舞台になるせいで、
淡路恵子が出演しているという

「トコリの橋」(The Bridges at Toko-Ri)1954年

ではシコルスキーHO3Sが活躍するシーンが観られます。

そのHO-3Sのコクピットにも、去年まではいなかったこんな人が。
ウィリー・ウォンカか?

と思っていたら、なんとですね。

The Bridges At Toko-Ri Theatrical Movie Trailer (1953)

この「トコリの橋」の予告編、最初からご覧になってください。

1:00〜から、これと同じような帽子をかぶった人(ミッキー・ルーニー)が
出てきて、わたしは思わずあっ!と声を出してしまいました。

1:10からは酔っ払いに絡まれる淡路恵子姉さんが出てきますし、
1:15から映るのは富士屋ホテルです。

2:00からはなぜか空母甲板の上で着物を着た日本女性が踊ってるという・・・・。

この映画、俄然観たくなりました。

というわけで、映画を知っている人は、なるほど!とこのマネキンを見て
ちょっと嬉しくなってしまうという仕掛けです。

これも朝鮮戦争で活躍したヘリ、「HUPレトリーバー」。
いつの間にか全ての座席にパイロットが乗っています。
当時のヘリパイがどんな装備で乗務していたかわかります。

「SH-2 シースプライト」など、乗員を3人乗せるという大盤振る舞い。
ヘリコプターのハッチを開けたままにして、落ちないように
防護網を貼って飛ぶというのは当時のやり方だったのでしょうか。

「シースプライト」は対潜ヘリです。
「沈黙の艦隊」ではすぐそこに停泊している「カール・ヴィンソン」に搭載され
原子力潜水艦「やまと」を迎撃するという設定でした。

定員は三名。
後部座席にはイケメンすぎるクルー(TACO?)がいました。

もともとカマン・エアクラフトがあの無人対潜ヘリ「 DASH」の代替に
開発したヘリなので、武装もしています。

機体に描かれた部隊マークの「HELANTISBRON」とは、
おそらくですが、

HEL=ヘリ ANTI=アンチ SB=潜水艦 RON=ロン

だと思います。
だからロンってなんなんだって話ですが、多分これは
「スコードロン」のロンなんだと思われます。

「対潜ヘリ部隊」を一言で言ってみました的な。

さて、今日はですね。
三年越しの懸案だった艦橋の見学がやっと実現することになりました。
満を持して朝一番に乗り込んできたのも、週末は艦橋ツァーが激混みで、
早い時間に受付終了してしまうからです。

ツァーがどこから始まるかは行ってみたらわかるだろうと、案の定今回も
全く調べずに現地に乗り込んできたわたしです。
とりあえず、艦橋の周りをぐるっと回れば必ずそれらしいところがあるはず。

機体を日よけにして座るベンチがあるのがアメリカ式。
特にこのE-2「ホークアイ」偵察機は大きなお皿を背負っているので、
下で休憩するには十分な日陰が確保されるというわけ。

さて、このホークアイの後ろには・・・・、

いえーい。

艦橋に続いているらしい通路が左舷側にあったぞ。

一目でわかる艦橋(アイランド)ツァーの案内図。
ボランティアらしいじいさまたちが立っているところまで行くと、

「ちょうど今最初のツァーが出発するところだから」

よし!

解説役のボランティアを先頭に、グループは狭いラッタルを登っていきます。
さあ、いよいよ「ミッドウェイ」のアイランドツァーの始まりです。

 

続く。

 


ウェストパックの大きなお婆ちゃん〜空母「ミッドウェイ 」アイランド・ツァー

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サンディエゴの記念艦「ミッドウェイ」、念願の艦橋ツァーに参加できることになり、
十人くらいの見学者と一緒に艦橋に入っていったというところまでお話ししました。

乗艦に際してはボランティアの爺さんが各自持っているトランシーバーで

「次のツァー出発OK」「ラジャー」

みたいなかっこいいやり取りを行って(笑)後発が出発するという感じで、
きっかり何時に行われる、という形態ではありません。
おそらく人が多い週末や日中は、長蛇の列ができることになるでしょう。

わたしは最初から艦橋ツァーが目当てだったので、入館すると
脇目も振らずツァー出発地点に向かい、最初のツァーに参加できました。

階段を4つくらい(4段ではありません)上り最初に到達したデッキには、
このようにカメラを操作するシーマンが立っています。

 艦橋からの映像をここで撮影していたのはこの人?

今ではもちろん無人化されているでしょう。

このシーマンがいるところは外から見るとこんな風になります。

航空管制を行うデッキにやってきました。

おじさんの体で隠れている椅子は「エアボス」、隣の「MINI」がミニボスの席。

エアボスは飛行長、ミニボスは副飛行長のことで、エアボスは
艦長と同等の権限を持ち「ミッドウェイ」では同じ大佐職となっています。

ミニボスは中佐、艦によっては少佐のこともあります。


こういう座ってもいい椅子があると必ず座って写真を取りたがるのは、
子供、さもなければほとんどが中国人。

「ランチ・ステイタス」というのは航空機の状態を示すボードです。
どちらから見られ、視界を邪魔しないようにアクリルでできています。

書かれているのは「F-8」「F-4」「A-4」などの当時の艦載機、
パイロットは全員が士官です。

甲板が死角なく見える角度に窓は斜めになっており、エアボスの席は
さらに一段高いところから俯瞰できるように設えてあります。

左の出っ張ったところがエアボスたちの席のあるところです。

外から見るとこんな感じ。

航空管制室を出ると、デッキを通って階段を降りていきます。

そこにあるのはナビゲータールームです。

左の小さなモニターがついているのはナビゲーションシステム。
テンキーがついているのがアナログな感じですね。

昔ながらの航法を行うための用具も。

海上自衛隊でも、体験航海や観艦式で、チャートルームで
コンパスと定規を使ってチャートに向かう乗員(三尉が多い気がする)
の姿を見ることがあります。

どんなに航法システムがデジタル化されても、完全にAIとなっても、
基本その手助けを借りずに船を動かすことができるだけの備えをするのです。

ミッドウェイで使われていた六分儀だろうと思われます。

六分儀、という名前は(この写真では分かりにくいですが)その枠が
演習の6分の1の形をしていることからきています。

簡単にいうと、これで天体と水平線の角度を測ったり、月と天体の間の距離から
現在位置や現在時刻までがわかるという昔ながらのアナログ機器です。

wikiのアニメーションが分かりやすいので貼っておきます。

ナビゲーションルームにある本は、やはりチャートそのものとか、
「太陽の高度による航法」(つまり六分儀の使い方)など。

ソナーのトランスミッター。
横には「ソナーセットの取り扱い方」という説明が貼ってあります。

ナビゲーションルームを出てまた移動です。

この場所はちょうどホークアイの真上なので、お皿の上が観察できます。

最後に見学したのは巨大な空母「ミッドウェイ」の中枢であるブリッジでした。
「CO」と書かれた椅子はほかでもない艦長の席です。

ミッドウェイの艦長は1945年9月10日に就役した時の初代艦長、
J・F・ボルガー大佐から始まって、1992年の退役までの間40名。

40名の艦長がここでこの巨艦の指揮を執ってきました。

この47年間の間、艦長がいなかった時期が二回ありますが、
これはいずれも大改修の時であったと推測されます。

艦長席の横にあるスイッチ各種。
命令伝達をする際のスピーカーの切り替えかなんかでしょうか。

軍艦の艦橋はこのように二重構造になっていることが多いようです。
特に航空攻撃によって艦橋が狙われやすかった時代の戦艦「マサチューセッツ」などは
まるで日銀の金庫並みに分厚い二重構造になっていたのを思い出します。

海戦における航空機の攻撃という形態が変わってきたので
その頃ほどではありませんが、それでもこの中のものを守るために
このような構造を取っているのかと思われます。

その「守るもの」とは・・・・もちろん操舵装置。

ブリッジから見た甲板と海軍基地(とプラウラー)。

中国本土から来たらしい一家。
最近はミッドウェイでも中国人観光客が激増しています。

ブリッジのステイタスですが、略語の意味わからず。

このステイタスボードも二重構造の内側にあります。

艦全体の現在状況を把握するための計器類だと思われます。
下の真ん中に「フロアアングル」とありますが、「ミッドウェイ」は
日本の技術者による「伝説の改装」を受けた後、ただでさえ揺れやすい艦体が
さらに揺れるようになり、ついに揺れ各24という最高記録を打ち立てて、
記念のTシャツが作られたという逸話を持っています。

その時、この計器は華々しく?24ディグリーを指し示し、
周りの乗員たちの注目を集めたはずです。

ちなみに、日本人技術者は、2年かかるはずの改修を半年で済ませましたが、
その設計がミスで、「ミッドウェイ」の揺れが酷くなると気づいていたそうです。

「ミッドウェイ」の方位磁針。別名羅針盤。

このチェアに座ると、「ミッドウェイ」の右舷側を一望することができます。
それではここにはなんのために座るんでしたっけ?

そう、英語でアンダーウェイ・リプレニッシュメントと称しているところの
洋上給油の監視ですね。

空母の場合、甲板の反対側、右舷と給油艦がホースで結ばれるので、
この椅子に座って右舷側の状況を監視するわけです。

この写真は真ん中が補給艦、右側で同時に補給しているのは
駆逐艦だろうと思われます。

「非常時における脱出について」とあります。

非常時になると短く6回ホイッスルが鳴らされる。
これを「ブレーク・イマージェンシー・シックス」といい、
給油をしていたらすぐに中止し、荷物を運んでいたらやめて、
次の行動に備えよ、という様なことが書かれていました。

「スキッパーは眠らない」というタイトルで書いたことがありますが、
艦長はいつ寝ているかわからないほどいつも人の目に触れています。

艦長用のちゃんとした寝室はアイランドの下の階にあるのですが、
ブリッジのすぐ横には艦長専用の個室があって、ここで
仮眠をとったり食事をすることもしょっちゅうなのだそうです。

ちなみに寝ないことにかけてはエアボスも艦長並みなのだとか。

当時は喫煙をする艦長も結構いたようですね。
おそらく今のアメリカ海軍では特に士官はほぼ喫煙率は0に近いと思われます。

枕元の本棚には「海上での指揮とは」(実用書?)の他に、
トム・クランシーの小説「パトリオット・ゲーム」があります。

確かジャック・ライアンがアナポリスの教官であるシーンから始まるんですよね。

アメリカのどの家庭にもある、扉の後ろが薬棚になっている鏡があり、
当時は最新型だったに違いないビデオ内臓の小さなテレビが供えてあります。

ここまでちゃんとしていたら、ずっとここで生活する艦長も多かったでしょう。

アイランドツァーをしてくれたのは、退役軍人のボランティアです。
飛行甲板からブリッジまで、狭い階段を48段(と言っていた気がする)
上って下りて、をするにはかなりのお年にお見受けしますが、
自分の経験を交えて「ミッドウェイ」の説明をすることを
きっと何よりも生きがいのようにしておられるのでしょう。

現役時代を彷彿とさせる眼光の鋭いおじいちゃまでした。

さて、というところで三年かけてやっと実現したアイランドツァー、
これで終了です。

ブリッジの階から48段の階段を下りていきます。

飛行甲板にたどり着きました。

Welcome Aboard 

' The grand Ole Lady of West-pac'

ウェストパックというのは今でも例えばアメリカの空母打撃群が
南シナ海での「自由の航行作戦」や北朝鮮への威嚇のために
アジアまでのツァーを行う際に使われます。

「ミッドウェイ」の艦歴はその全てが日本での勤務にあり、
バリバリの現役艦であった頃は、そのため

「剣の切っ先」

と呼ばれることもありました。

おそらくですが、この「大きなお婆さん」呼ばわりは、
彼女が600隻艦隊構想で延命措置を受けた頃のものではないでしょうか。

今、このお婆ちゃんは、その役目を終え、その歴史を後世に残すことを役目に、
静かにサンディエゴにその艦体を休めています。

 

続く。

 

 

 

新東宝映画「憲兵二部作」〜「憲兵と幽霊」

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ディアゴスティーニでコレクションした戦争映画のDVDの整理をしていて、
題名だけでこれはもうキワモノに違いないと確信する、二つの
「憲兵もの」を見つけました。

「憲兵とバラバラ死美人」1958年

「憲兵と幽霊」1958年

毎回言うのですが、この東宝戦争映画コレクションには、
舞台が軍隊であるというだけで絶対戦争ものじゃないよね?
というのが多々含まれており、これもその二つです。

どちらの映画も取ってつけたように戦争に突入する頃のニュースを
輪転機に字幕という安易な方法とはいえワケありげに挿入し、
出征する兵士を見送る行列のシーンなどを挟んでおりますが、
もちろんのこと戦闘シーンなど、一切出てきません。

ただ、両作品は、どちらにもそれぞれに憲兵を主人公にする意味があり、
憲兵でないとなりたたないという内容となっているので、厳密には、
軍隊ものでも戦争ものでもなく、「憲兵もの」にカテゴライズするべきだと思います。

わたしがこれを取り上げる気になったのは、どちらにもあの、

「太平洋戦争 謎の戦艦陸奥」

で「謎の陸奥副長」を演じた、当代一のマダムキラー兼流し目スター、
天知茂が登場していたからです。

彼が軍人を演じるだけで、アンビバレントな、背徳のにほひが漂うのに、
さらにそれが「憲兵」だなんて、これは期待するしかありません。(変な意味で)

しかし、意外だったのは、確かに「幽霊」では背徳の憲兵となって、
ピカレスクものの主人公という美味しい役を演じている彼が、その前年制作された
「バラバラ死美人」では、兵曹Aという端役に過ぎなかったことです。

そして主役を入れ替えるように中山昭二(のちのキリヤマ隊長)が、
嵌められて処刑される下士官を「幽霊」で、「バラバラ」では
事件を解決する有能憲兵隊長、つまり主人公を演じています。


監督が違うのに、どうしてこんなに役者がカブっているかというと、
新東宝が手持ちのスターを使い回ししていたからだと思われます。

中山昭二という俳優はどちらかというとバイプレーヤーのイメージで、
ウルトラセブンが代表作、と思っている人も多いと思いますが、実際
彼が主演を演じることができたのは新東宝時代だけだったそうです。

この頃は同等か、少し下だった天知茂の方がこの後メキメキ売れて、
結局有名になってしまいましたよね。

 

それでは、年代的に後作になりますが、「憲兵と幽霊」から参ります。

昭和16年、大東亜戦争直前の秋、(あまり筋には関係ないけど一応)
神社である憲兵の結婚式が行われました。

田沢憲兵伍長と美しい花嫁、明子を取り合って負けた波島少尉は、
宴会の席でも粘着質丸出しのジト目で高砂を凝視しております。

「絶対あいつを奪ってやる」

どういう経緯で彼が恋の鞘当てに負けたか全く描かれていないので、
観ている者には波島の異常な嫉妬の理由がイマイチよくわかりません。

しかも、新郎新婦はこんな目つきで睨まれていても無頓着です。
フラれた女にこれほどの執着があるからには、その前提として
男と喧嘩するとか女に言い寄って振られるとか、諍いのようなものが
絶対何かないとおかしいのですが、その辺は尺の関係で一切スルー。

 

この波島という男、もともと大変な秀才だったのに、父親が自殺したので、
陸軍大学に入ることができなかった、という過去があるようですが・・。

波島は、同じ料亭に呼ばれていたダンサーの紅蘭が酔客に絡まれているのを
憲兵の威光でもって助けてやります。

一眼会うなり互いに同類を認め、惹かれ会う二人。

波島、さっきとは打って変わってしおらしい表情になります。
その後も紅蘭と会う時には、彼はなぜか「善人波島」モードなのです。

映画では描かれていませんが、紅蘭は大陸生まれの日本人で、
彼女の父親も色々あって自殺しているという設定です。

早速紅蘭の出演しているナイトクラブに行ってしまう波島。
歌っている時には彼女の顔を凝視しているのに、彼女が近づいてくると
目をそらして横を向く彼の屈折した態度に、本気度が現れています(多分)

二回目の邂逅にして、ダンスをしながら、感極まった紅蘭、

「好き・・・・・・・」

これをイヤフォンで聴きながら観ていたわたし、思わず

「なんでやねん!」

と大声でツッコミを入れたら、息子にビビられました。

 

しかしここからがエグい。
波島、軍の機密書類を盗まれた部下をそそのかし、その罪を
田島(中山昭二)に押し付けさせます。

早速、拷問で口を割らせるというお約束の展開に。

この二つの憲兵映画は、世間の思っている憲兵のイメージをそのまま
なぞり、そのパターンを踏襲しているわけですが、後半では
そんなことも語ってみたいと思います。

あらんことか、口を割らない(そりゃそうだ)田島に自白させるため、
波島は嫁と母親をしょっ引いてきて拷問というあくどい手を。

お婆さんでなく、若妻だけをベッドのむき出しの架台に襦袢一枚で縛り付ける、
という、一部のお好きな方にはたまらないサービスシーンも盛り込んで、
エログロナンセンス路線に舵を切った新東宝の真骨頂って感じです。

高校生の時読んだ大江健三郎(その頃は何も知らなかったんです)の
「セブンティーン」という小説に、(居場所のない高校生が最後に右翼になって
心身ともに満たされるという話)クラスの陽キャ(道化ともいう)のあだ名が
「新東宝」だったという一節があったのを今に思い出してしまいました。

 

妻と母を守るために心ならずも嘘の自白をして、速攻銃殺刑になる田沢。

今際の際に思いっきり恨み骨髄の怨嗟を吐き散らかしたため、
銃殺隊に組み入れられていた彼の双子の弟は卒倒。

しかし、人がドン引きするこんな光景を見ても、波島は
相変わらず片頬でニヤリ、ニヤリとほくそ笑むのでした。

陸軍大学に入れなかったくらいでこんな血も涙もない極悪人になる、
というのがまずあまり説得力がないんですが、そのワルぶりは冷血にとどまらず、
実はこの男、怪しげな中国人に軍機を売って小銭を稼いでおったのです。

そう、機密書類紛失は、波島が自分で盗んだものでした。

サイドビジネス犯行のの証拠隠滅のついでに恋のライバルを消す。
誰がどう見ても売国奴ですありがとうございます。

しかし父が自殺して陸大を落ちたぐらいで、こんなになるものかしら。
陸軍に入った時点ではお国に奉職しようと思ってたわけでしょ?
その国を売り飛ばすに至るというのは、なんか設定としてやりすぎな気も。

それだけではありません。

手始めに明子の言動を捏造して義母に吹き込み、彼女を自殺に追い込みます。
さらに夫を亡くした明子に会社を紹介しますが、それはおためごかしで、
会社に裏から手を回し、明子をクビにさせるのが目的。

そうやって散々弱らせておいて、ついにある夜、酒で酔い潰し、
無理やり彼女を押し倒して思いを遂げます。

空襲警報発令中にも関わらずお仕事中の波島さんをご覧ください。

こうして見ると、男前なのに卑しさが溢れ出ていて(歯並びのせいという説も)
これが演技なら凄いなあと感心してしまいます。

その後、散々彼女を弄んだ波島は、半年後にはすっかり飽きて、

「手切れ金だ」

「わたしをあんな酷い目に遭わせて・・・なんということを。
それにわたし、子供ができちゃったの」

「一体誰の子だ」

「誰の子ですって?」

「酔えばすぐに体を任す女、手切れ金をもらうだけでもできすぎじゃないか」

イヤフォンで聴きながら観ていたわたし、思わずここで

「#はああああ?」

と叫んで、息子に「さっきから何観てるの」と不審がられました。

波島から軍機密を買っている怪しげな中国人スパイ、張。
実はこの張さんの愛人が、偶然あの紅蘭でした。

イッツアスモールワールド。

張のアジトでバッタリ紅蘭に出会い、驚愕する波島。

愛人紅蘭がお風呂に入ったり、しどけない姿で寝っ転がったりと、
殿方へのサービスシーンもふんだんに。
戦後のバンプ女優ナンバーワンと言われた三原葉子が演じています。

惹かれあっていた二人は張の屋敷であることも忘れ思わず抱き合って、
案の定それを見ていた張は激しく嫉妬するのでした。

嫉妬する者が嫉妬される、これが本当のエンドレスシッティング(意味不明)

その後、張の存在が憲兵隊に知れ、彼を捕らえるために憲兵隊が動きます。
そこでなぜか波島の元にやってきた田沢の瓜二つの弟。

兄の銃殺の時には一兵卒だったのに、いつの間に憲兵に?
などとつっこんではいけません。

とにかく、自分の部下として同じ憲兵となって現れた田沢の存在に
波島は動揺を隠せません。

自分が死に追いやった男と同じ顔がいつも近くにあるっていうのも
一般的にいやなものだろうと思います。

弟を見るたびに田沢の最後の形相が思い浮かび、波島は自分にも
良心のかけららしきものがあったことを思い知るのでした。

 

張を捕まえる命令を受けた波島は、情報を流し、張が寄越した身代わりを捕まえます。
それが張ではなく王という男であることを証明するために
田沢の弟が連れてきた看護師は、自分が手篭めにした明子だったのです。

イッツアスモールワールドアゲイン。

主婦をやっていたと思ったら会社に就職するなりタイピストになってるし、
いつの間にか看護師の資格を取っている明子さん超有能。

男が張ではなく王であることを証言するついでに、柳眉を逆立て、

「この人(波島)の悪人ぶりならいつでも証言して差し上げますわ!」

と言い放つ明子。
動揺する波島。怪しむ田沢弟。
というわけで、この証言がきっかけで憲兵隊が波島の身元を洗ったところ、
出てくるわ出てくるわ真っ黒な証拠が。

万事休すの波島、紅蘭を連れて逃げようとしますが、嫉妬に狂った張に
彼女を撃ち殺されてしまいました。
そのままなぜか墓場に迷い込んでしまった波島を迎えたのは、
その辺に放置されている骸骨で、眼から蛇がこんにちはしています。

その後は、貼り付けにされた田沢とか、棺が開いたら、中から
水浸しで現れる行きがかり上殺した部下Aとか、自殺した田沢の母親とかが、
スリラーのMV並みに出てきて、これが本当の「憲兵と幽霊」状態。

実際のことなのか、波島の良心が作り出した幻想かはわかりませんが、
次々と現れる幽霊から逃げ惑い、怯える波島。

やっぱり悪いことしたらそれ相応の報いがあるよってことかな。

それにしても、こ墓場でのシーンの天知茂が美しい。
流し目をしているときより、恐怖に目を見開いている表情、
苦痛の表情が実に似合う彼の美貌に見惚れてしまいました。

つくづく幸福より不幸、善より背徳が似合う男優だったんだなあ。

そしてついにお縄になる波島。
諦めたような(´・ω・`)ショボーンとした表情もまたいとおかし。

最後はいきなり女性コーラスメインの爽やか系な音楽鳴り響き、
田沢の未亡人と田沢弟がこれからどうにかなりそうな展開を示唆して、
映画は終わります。


さて、続いて「憲兵とバラバラ死美人」という映画についてですが、
本編説明に入る前に、この映画の元になった実際の事件について少し
お話ししておきたいと思います。

題名だけでどんな事件かほぼ全容がわかってしまわれるでしょうが、
あえて説明すると、映画のストーリーでは

「金持ちの娘と結婚したい軍人が、妊娠したそれまでの女を殺し、
バラバラにしてその遺体を捨てた」

という事件となっています。

この映画のベースになったのは、

小坂慶助著「のたうつ憲兵ー首なし胴体捜査64日ー」

という、実在の殺人事件を基に書かれた小説でした。
当時世間を震撼させたその殺人事件とは、次のようなものです。

昭和13年1月23日、仙台の第二師団歩兵第四連隊営庭の炊事用井戸で
性別不明の腐乱死体が発見された。

急報を受けた仙台憲兵分隊長少佐が屍体を引き揚げて検証したところ、
それは頭部、両腕、両膝から下が切断された妊娠中の女性の死体とわかる。

仙台憲兵分隊では捜査班を作り、全容解明に向け捜査を開始。
頭部と両脚の捜索を行ったが、発見には至らなかった。

その後、検事正ら検事局が介入してきたのを、憲兵側は統帥権干犯として拒否。
(このことも映画には盛り込まれている)

そのため、憲兵隊は面目にかけても犯人を挙げなければならなくなった。

本格的な営内調査で、聞き込みはもちろん、出入り商人や除隊者、
営内に立ち入った面会人などあらゆる線の捜査が行われたが、
手がかりは全くつかめず、捜査は行き詰まった。

動揺した憲兵隊は祈祷師に占いまでしてもらうという動揺ぶりを見せる。

そのうち、連隊近くの家で女中をしていた23歳の女性が行方不明であること、
彼女が歩兵第四連隊の衛生軍曹に子供ができたので認知せよと迫ったことがわかる。

そこで憲兵隊は佐藤衛生軍曹が以前勤めていた病院の井戸を捜索した。
すると、中から頭蓋骨を始め切断された各部が発見された。

 

歯科医の治療記録から本人確認をし、佐藤軍曹の身柄を確保。
佐藤は護送中に列車から飛び降りて脱走を図るが負傷して捕まり、
半年後の裁判では殺人及び死体遺棄によって懲役7年の刑に処された。

 

次回、小説と映画の相違についてもお話していこうと思います。

 

続く。

 

新東宝映画「憲兵二部作」〜「憲兵とバラバラ死美人」

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「憲兵二部作」にまとめて見たものの、ここに至って

「憲兵とバラバラ死美人」1958年 大蔵貢作品

は、戦争ものや軍隊ものではもちろんなく、かといって
憲兵ものでもないような気がしてきました。

人格高潔な正義漢、冷静で民間人にも低姿勢の憲兵曹長が
難問を解決していく。
つまりこれは軍隊を舞台にした「名探偵もの」に属する話のようです。

さて、名探偵もののサスペンス、特に日本のテレビドラマには
当たり前すぎてまたか、というパターンですが、本作における

「逆玉狙いの野心家の男が、妊娠したそれまでの愛人を殺す」

という動機が「お約束」になったのはいつからのことでしょうか。


ただ、小説のモデルとなった実在の事件で、妊娠した恋人を殺した兵隊には
逆玉とかいう事情はなかったようです。

軍隊ラッパ(らしきメロディのラッパ)とともに浮かび上がるタイトル。
画面がグラグラ揺れていかにもおどろおどろしげですが、
これは単にフィルムの質が悪く安定していないだけのようです。

いきなりネタバレですが、この人がバラバラ死美人。
男の子供を妊娠しているというのに、男が結婚しようと言わないので、

「あなたの隊長にわたしたちのことを話すから」

男は軍服姿だけで顔は見せませんが、とりあえずなだめるために

「わかったよ。君と結婚するよ」

「うれしいわ。きっと、きっとよ」

男がどんな態度でもとりあえず結婚しちまえばこっちのもの、
ということなんでしょうか。

映画では、実際の殺人事件が起きた仙台歩兵4連隊が舞台です。

事件後半年ほどして、第4連隊営庭の炊事用井戸を汲んでいた兵隊たちが、

「水が臭い」

と口々に騒ぎ出します。

クレジットもされていませんが、細川俊之にちょい似の軍曹が、

「連隊の命の水にケチをつけやがって」

と部下を、事情も聞かず確かめもせず、問答無用で殴りまくります。
なのに、その後水を飲むなり吐き出して、

「臭い!魚のはらわたのようだ」

こういう脳筋バカが当時の軍隊にはいて、不条理を絵に描いたような
パワハラを日常的に行っていた、といいたいようです。
まあ実際、それに近いかそんなものだったという話もありますが。


それはともかく、水が臭いのも当たり前、なんと井戸からは
菰で包んだ人間の胴体が出てきました。

ということがわかったのに、その水を使った賄いが作られ、
下士官が新兵に無理やり食べさせるという罰ゲーム展開に。

下士官の口からはとても書けないようなグロい冗談が飛び交います。

そこに士官がやってきて、ゲラゲラ笑っている下士官を叱りつけ、

「初年兵をいじめるとは何事か。お前らも食え!」

って、あなたのやっているのも下士官いじめだと思うんですが。

「どうだ、バラバラ死体の味がようついとるじゃろうが」

いやそれって、さっきまで下士官が言ってた・・・・。

「だらしがないぞ!こんな飯が食えんようで戦地の飯が食えるか」

じゃあ自分は食ったのか、とは士官なので誰も言えません。
しかし、戦地の飯とか以前に、こんなもの食べて集団食中毒起こしませんかね。

ちなみに、出演しているほぼ全員が坊主刈り風のヅラを被っています。
陸軍ものはこれがねえ・・・。

憲兵隊は早速事件の全容解明に向け動き出しますが、
被害者が民間の女性だったということで仙台警察も捜査を始めました。

憲兵は内部のことに外部が関わるべきではないという理由でそれを阻止しようとします。
実際にも仙台憲兵隊は、統帥権干犯という言葉まで使って警察の介入を拒否しました。

一ヶ月経っても事件の手がかりが掴めないため、応援を要請された
東京の憲兵隊から、エース(とそのカバン持ち)が投入されました。

本編の主人公、小坂憲兵(中山昭二)です。

もちろん仙台の憲兵はこの東京からの憲兵派遣が面白くありません。

「東京の憲兵に先にホシを挙げられては仙台憲兵の恥辱ぞ」

憲兵曹長萩山(細川俊夫)を筆頭に、チクチク嫌味を言ったり、
先回りしようとしたり、縄張り意識丸出しで東京組に全力で反抗してきます。

さすがにムッとした小坂は、憲兵隊の紹介を断って、
同行の高山(鮎川浩)の知り合いの旅館に投宿することになりました。

旅館の女将兼おでん屋マダム(若杉嘉津子)とその妹(江畑洵子)。
実は高山、妹のおしのちゃんに想いを寄せています。

 

捜査が進まず焦る仙台憲兵隊チームがようやく証言者を得ました。

彼は、深夜、井戸にものを投げ込む音を聞いたあと、恒吉軍曹(天知茂)が現れ、
口止めのタバコを渡していったと証言したのです。

「恒吉軍曹はが男前で女にモテたので、いつも帰りが遅かったのであります」

それを聞いた萩山曹長、おもむろにペンを取り、一言書き記して
丁寧に折りたたんでから部下に渡しました。

一礼して受け取った部下がおもむろに開いてみるとそこには。

恒吉を洗へ

これくらい口で言えばいいと思うのですが、証言者に聞かれないようにかな?

さらに、恒吉の女が働いていた料亭の女将から、
彼女が退職して今行方不明と聞き、さらに疑惑を深めます。

一方小坂は、下宿のおでん屋で働いている老婆の息子が
陸軍病院に入院していて、明日手術だということを知ります。

息子の手術成功を祈って一心不乱に祈りを捧げる老婆。

その後ろ姿を見ながら小坂が考えたのは全く別のことでした。

「陸軍病院の手術室なら短時間に遺体をバラバラにできるのでは・・・」

翌日、陸軍病院を訪ねた小坂は、手術で亡くなってしまったらしい
昨夜の老婆の息子の通夜に遭遇します。

読経の流れる中、猫の鳴き声が聞こえてきて、ふと目をあげた小坂が窓に見たものは・・。
なんとまたしても「憲兵と幽霊」状態か?

窓から外を覗くと、陸軍病院にある井戸の上に猫が。
ここは黒猫にしていただきたいところですが、スタッフの飼い猫
(首輪をしている)には三毛しかいなかったようです。

翌日、小坂が井戸を浚わせると、長い髪のついた頭皮が出てきました。
素手で手にとって持ったまま嬉しそうに笑う小坂と高山。

でたあああ!

というわけでついに行方不明だった頭部発見。

「悔しいだろう。犯人は必ず挙げてやるよ」

というわけで、現時点で容疑者ナンバーワンの恒吉が尋問を受けることに。

天知茂はこの一年後、「憲兵と幽霊」で妖艶なワル憲兵を演じることになりますが、
兵隊ヅラをつけてしおらしく座っている様子は、小物臭満点です。

種明かしをしておくと、恒吉は確かに軍の衣服を横流しして
小銭を不当に稼ぐという犯罪を犯していたものの、所詮は小悪党。
もちろんいなくなったという女中を殺した覚えなどないので、
否定するしかなく、そうなると憲兵も拷問するしかありません。

「そんなにしらばっくれるなら貴様の体にきいてやる」

でたよお約束の憲兵のセリフ。


やってないものはやっていないので、恒吉も口を割らないのですが、
そうなると拷問がエスカレートしていくのもお約束。

っていうか、拷問って、無実の人を冤罪にするためのシステムですよね。

拷問で自白させたって真実の証言が得られるとは限らない、
とやんわりたしなめる小山ですが、案の定萩山は烈火のごとくこれに反発し、

「恒吉が犯人じゃないという証拠はあるんですか!」

と悪魔の証明を求めてくるのでした。

何が何でも恒吉に自白をさせるのが自分のやり方、と意固地になり、
拷問はさらにエスカレートしていきます。


しかし、鞭打ちこそないものの、撮影で逆さ吊りにされて水をぶっかけられる
(絶対これ鼻に入ってる)拷問シーンに耐えたこの時の天知茂は偉かった。

20歳から映画界入りしたものの、大部屋時代が長く、まだこの頃は
ちょい役しかもらえず困窮していたという天知は、
食費にも事欠く生活のためかご覧のようにガリガリに痩せています。

だからこそ逆さ吊りにも耐えられたっていう説もありますが、とにかく
東宝が経費節減のため安いギャラで使える男優を使い回しするようになって、
天知茂がようやく主役と言える作品に抜擢されるようになったのは、
この「憲兵とバラバラ殺人」の次に制作された「暁の非常線」からなのです。

逆さ吊りされても文句言わず頑張った甲斐があったね(涙)

文句なしの主役だった「憲兵と幽霊」(変な役でしたが)に至るまで、
7本もの映画でソコソコの役を演じ、59年には東海道四谷怪談で演じた
伊右衛門の役で評価された天知は、その後、明智小五郎が当たり役となって
押しも押されもせぬスターダムにのし上がりました。

東京組と仙台組憲兵隊の対立は場外乱闘にも及ぶようになり、
おでん屋で伍長同士の取っ組み合いが始まってしまいます。

小坂はそんな雑音など耳に入らぬほど一心不乱に捜査に邁進していました。

事件当時、陸軍病院に勤務していた内部の者を四人ピックアップし、
写真を提出させて一人ずつ洗っていくという科学的捜査の開始です。

おでん屋の女将で小坂の短期下宿の家主、喜代子は、彼の誠実な態度や
仕事に対する熱心さにいつの間にか惹かれていきます。

「こんなおばさんですもの、貰い手があるかしら」

などと自虐して、否定して欲しそうですが、鈍感な小坂はこれをスルー。

しかし、次の瞬間、着替えを手伝う手が彼の手に重なってしまうという
巧妙な作戦が見事功を奏して小坂の心をぎゅっと鷲掴みに(個人の主観です)

そんな時、ひょんなことから、妹の友人妙子の婚約者、君塚軍曹が
事件当時陸軍病院に勤めていた四人のうちの一人であることがわかりました。

聞き込みによって、彼が不審な荷物を使役に運ばせていたということも明らかになります。

小坂は仙台警察の老刑事と協力して証拠固めに入りました。

被害者が生きているように偽装した手紙の筆跡、写真館で撮った
君塚と被害者の写真、そして歯科医に照合させた歯型。

全てが君塚が犯人であることを裏付けるものとなりました。

満州で独身ライフを謳歌している君塚、姑娘とイチャイチャしているところに
突如彼を捕まえるために派遣された小坂憲兵が現れてビビりまくり。

そんな君塚に、小坂は被害者の写真と遺体の胴体の写真を突きつけて、
火曜サスペンスのように、滔々と自分の推理を語るのでした。

全ては小坂の推理通りでした。

衛生兵だった君塚は遺体を手術室に運び、医療器具で切断していたのです。
死んだ百合子を手術台に乗せた時、自分を見ているかのような
彼女の眼が思い出され、今さらのように彼は絶叫するのでした。

「百合子お!許してくれえ!」

 

さて、それでは次回最終回として、憲兵とこれらの映画について
もう少しだけお話ししたいと思います。

続く。

 

創作された「悪の憲兵」像〜新東宝映画「憲兵二部作」

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新東宝の当時のポスターが資料として映画の解説に掲載されていたので、
それをご紹介することにします。

まず冒頭は、天知茂主演の「憲兵と幽霊」ですが、
これ見て主演が天知茂だと思う人はいませんよね。
真ん中で拷問されているのも、右上の血まみれのフランケンも
中川昭二で、天知茂は左上になぜか二体、右下で
三原葉子とキスしているシーンと一つのポスターで三様あるのに、
扱いがどうも端役っぽい。

こちらも、いかにも冷酷そうな天知を採用しておりますが、
中心となる構図はほぼ同じ。
これはつまり、拷問される人と亡霊のイメージを打ち出して、
猟奇的な映画であることをアピールする目的だと思われます。

わたしたちが思うほど、天知茂はこの頃
単体で客が呼べるというほどの俳優ではなかったってことですかね。

ところで、このポスターの煽り文句を見ていただきますと、

「生きていた血まみれの銃殺死体」(生きてたんじゃなくて幽霊ですが)

の他には、

「日本陸軍の怪奇事件!」

「仕組まれた陰謀の犠牲!断末魔の呪いが呼び起こす日本陸軍の怪奇!」

など、とにかく宣伝部は「日本陸軍」を強調したかったらしいことがわかります。

こちら、「憲兵とバラバラ死美人」のポスター。
中心となっているのは中山昭二と犯人役の江見渉で、
天知茂は拷問されているシーンのみ。(拷問されただけの役ですので)

こちらもポスターはタイトルの「憲兵」という言葉と憲兵制服姿の中山、
わざわざ「軍隊の古井戸」として軍隊を強調しています。

この猟奇事件が特に有名になったのは、それが陸軍内の事件であったこと、
さらにその捜査が憲兵隊でのみ行われ、犯人が軍人であったからでした。

戦後においても、これらがただの猟奇映画でなく、軍隊を舞台にしていることで、
好奇心を刺激されて映画館に足を運ぶ客が多かったのに違いありません。

 

 

二つの作品に共通する、

憲兵=拷問で無理やり口を割らせる、権威をかさにきた非情の集団

という表現は、戦後の創作物では手を替え品を替え、
そのイメージを何度もなぞって既成事実化してきた経緯があります。

それはもはや「憲兵というだけでイコール悪」というもので、
ナチス・ドイツの「絶対悪」視を思わせるものがあります。

 

こんなエントリのときについでに話すことではない気もしますが、
一応ひっそりご報告しておきますと、わたくし先日、
海上幕僚長を表敬訪問するために市ヶ谷に伺ってまいりました。

その会談については、下手にここでご報告をすると、わたしのことですので、
そこでの体験をいらないことまで微に入り細に入り書いてしまいそうなので
自粛しますがそれはともかく、訪問が終わり、出口に向かって歩いていた時のこと。

迷彩服を着た二人の自衛官がいかついバイクに乗っている珍しい光景を目撃し、
あれはどういう人たちか、とエスコートの自衛官に聞いてみたところ、

「儀仗隊の隊員です。儀仗隊も本来は警備が任務なんですよ」

保安警務中隊は全国の駐屯地に置かれ、司法警察職務を行う部隊ですが、
東部方面警務隊もその一つで、決して儀仗だけをやっている部隊ではないのです。

陸自保安警務中隊って、つまり昔でいう憲兵だったてことですよね。

 

保安警務中隊も選抜された隊員で構成されているそうですが、
(特に儀仗を行う第302保安警務中隊は、容姿も選定の対象になる)
それでは憲兵はどうだったかというと、志願者の中から勤務態度、
身辺調査、学科試験、そして面接を経て選ばれました。

陸軍には憲兵を教育するための「陸軍憲兵学校」という組織が置かれ、
そこでは兵卒から採用されたものから将校までが一堂に教育を受けていました。
将校は初等教育を受けてから憲兵科に所属して憲兵将校となります。

 

音楽まつりなどの警務に当たる隊員の腕章には『MP』と書かれていますが、
これは全世界共通の「ミリタリーポリス」の頭文字で、陸軍憲兵隊もまた、
普通に警察権を行使できる保安部隊という位置付けでした。

ただ、現代と決定的に違っているのは、当時憲兵はMP、つまり
「軍事警察」の範疇を超えて、「国家憲兵」の性格を有していたことです。
自衛隊の警務隊がその職務を自衛隊内だけに限定されているのとは違い、
憲兵は軍人や軍の施設以外に対しても警察権を行使できたのです。

「バラバラ死美人」には、地元の警察が捜査を開始し、事件現場を
検証させて欲しいという依頼を、憲兵隊がにべもなく撥ね付け、

「軍隊の中のことは憲兵が片付ける」

と彼らを追い払うシーンがありますが、映画のモデルとなった事件でも、
仙台憲兵隊は仙台警察の捜査介入を拒み、そのため、メンツにかけても
自分たちだけで事件を解決せねばならなくなった、ということです。


この件に限らず、憲兵隊は国と軍を後ろ盾に強権的に振る舞うことが多く、
そのため戦前からすでに市民には嫌われる存在であり、のみならず、
彼らは軍隊内に於いて秩序維持を行う警察としての立場ゆえ、
他兵科の下士官兵からも、つまり内外から煙たがられる損な役割でした。

特に、驚天動地のゾルゲ事件(1941年)以降は、治安維持法に基づき、
一般市民を夜に昼に監視する国家の目となり耳となって、必要とあらば
それこそ拷問上等の荒っぽい手口でスパイや反社会組織、そして
思想犯を炙り出すことも辞さない仕事ぶりが、戦後のイメージを
決定づけ、その刷り込みに寄与したと言ってもいいでしょう。

近年「テロ等準備罪」を「現代の治安維持法」だとする反対派が、
社会主義者に対する憲兵の取り締まりを引用し、その悪のイメージを
反対論の補強として最大限利用したのは記憶に新しいところです。


本作、「憲兵とバラバラ死美人」において、主人公小坂曹長を、
正義感溢れる好青年で、民間に対しても腰の低い「良い憲兵」として描いたのは、
むしろ戦後の物語において常に悪役であり続けた憲兵の地位向上を図る試みであり、
従来の「拷問型憲兵」で、彼を敵視する仙台憲兵隊の萩山曹長と対比させることで、
「こんな憲兵もいましたよ」と宣伝する意味もあるやに見えます。

そもそも「バラバラ死美人」の原作「のたうつ憲兵」の著者
小坂慶助は、22歳で憲兵上等兵を拝命してから順調に出世し、
昭和7年には憲兵曹長となって叙勲された、というバラバラ、じゃなくて
バリバリの憲兵エリートの道を歩んだ人でした。

右側が小坂慶助。撮影の時にも役者に演技指導を行ったようです。

小坂慶助は、昭和10年に起きた相沢事件で、永田鉄山を刺殺した
相沢三郎の拘束を行なった憲兵であり、翌年に起きた二・二六事件では
襲撃された岡田啓介首相がまだ邸内に生存していることをいち早く突き止め、
反乱部隊の監視下、首相を弔問客に変装させて救出することに成功した
憲兵オブ憲兵ズでした。

戦後は多くの憲兵と同じく戦犯指名を受け、巣鴨プリズンで収監されますが、
不運だった他の憲兵たちのようにB・C級戦犯として処刑されることは免れ、
小説家となって憲兵時代の体験をもとに著作を残しました。

そんな小坂氏の著作ですから、憲兵と言っても人間社会の普通の集団と同じく

「良い憲兵、悪い憲兵、普通の憲兵」

がいたことを踏まえて書かれていて当然かと思われます。

ここで留意すべきは、本職の彼が書いた「のたうつ憲兵」には、
細川俊夫が演じた、ちょいワル憲兵など出てこないばかりか、
自白を引き出すための拷問シーンなど、全くないということです。

しかしながら、映画化に際しては

「拷問のない憲兵ものなんて」

とばかり、かわいそうな天知茂を痛めつけるシーンがこれでもかと盛り込まれ、
これが一つのハイライトとなっていますし、
翌年の「憲兵と幽霊」も、拷問によってやってもいない罪を自白させる、
という具合に、こちらも拷問がなかったら成り立たない話だったりします。


この理由を、ディアゴスティーニのブックレット解説は

『憲兵とバラバラ死美人』『憲兵と幽霊』の姿勢は、
戦時体制下での憲兵の権力が、如何に無軌道になりうるかを通して、
戦争や軍国社会の恐ろしさを訴えるものだともいえる。

と、それこそ「お定まりの」結論に落としこみ、平然としていますが、
これはわたしに言わせると、戦中嫌われていた憲兵を、常に悪役として
再生産してきた全ての創作者たちの、ていのいい自己正当化のようなものです。

 

よく、論敵を攻撃するのに、相手が言ってもないことを作り上げ、
酷い時には本人のセリフを捏造して相手を悪魔化し、それを非難するという、
ストローマン(藁人形)理論を用いる言論者がいますね。
(最近酷かった例は、杉田水脈議員を非難していた某漫画家の取り巻き)

憲兵隊が暇さえあれば罪のない人に拷問していたかのような創作物を構成し、
それをもって「戦争や軍隊の恐ろしさを訴える」というのは、
この藁人形理論以外のなにものでもないとわたしは思っています。

近年、韓国が慰安婦の強制連行や軍艦島での強制労働を描いた映画を制作し、
証拠がないから映画を作って世界にこれを訴える、と表明したとき、
われわれは驚愕し呆れたものですが、本質はこれと似たようなことです。


戦時下で治安維持の名の下に憲兵が行なったことは、当時の状況に照らすと
(誤解を恐れずに言わせてもらえば)憲兵に命じられた任務の範囲です。
自白の手段として拷問が用いられたことは現代の日本の価値観では間違いですが、
それをいうならCIAは?KGBは?シュタージは?

およそ世界の国家警察組織は全て悪であり間違っているということになりますが、
そもそもそれは善悪で論じるべき事柄なのでしょうか。


いかなる物事も、見る位置と時間が変われば、違う面が見えてくるものです。
例えば戦時下、国に忠誠を尽くし国家の命を受けて任務を遂行した憲兵と、
アメリカ共産党とソ連に国の情報を売っていたスパイについて、
戦後の価値観は、前者が悪で後者を被害者と断じ、今でも
特に前者への評価はほとんど変わらずにいるわけですが、果たして
その価値観とはどこに軸足を置いた状態でのものなのでしょうか。

 

戦後、旧陸軍、特に憲兵隊が、創作物などで悪しき面のみを強調され、
藁人形理論によってデモナイズされ続けてきたという一面を、
わたしはあらためて本稿の最後に強調しておきたいと思います。

 

さて、靖国神社境内には「憲兵之碑」なるものがあります。
その碑文は当時の靖国神社宮司の揮毫によるもので、全文はこのようなものです。

憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は
更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。
又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや
神殿を挺身護持したのも憲兵であった。

然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、
いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを
忘れてはならない。

「謂れなき罪」とは、彼らが戦後、特に外地で果たした任務ゆえに
戦犯裁判で有罪となったことを指しているのですが、
憲兵が国家のために、時として我が身を賭して果たした任務への感謝どころか、
それらが全て「拷問」というパワーワードに上書きされてきたことそのものが
「謂れなき罪」=汚名を着せられてきたに等しいといえるのではないでしょうか。

 

さて、ついでと言っては何ですが、残りのポスターもご紹介しておきましょう。

「生きていた血塗れの銃殺死体!?」

→銃殺死体は生きてたんじゃないってば。

断末魔の呪いが呼び起こす日本陸軍の怪奇!

→日本陸軍の怪奇じゃなくて、怪奇現象は
犯罪を犯した人の脳内でのみ起こったことです。

「憲兵とバラバラ死美人」

「スーパージャイアンツ 鋼鉄の巨人」

「肉体の乱舞」(総天然色ヌード映画)

豪華三本立て。
半日映画館でこれを全部観たとしたらなんか脳内がすごいことになりそう。

STARMAN VS. THE EVIL BRAIN AND THE INVADERS FROM OUTER SPACE - clip 2

すかさず「スーパージャイアンツ」の英語バージョンを貼っておきます。
ちなみに宇津井健の登場は0:50から。(一応お知らせ)
宇津井健が空を飛んでるシーンで笑わないでいられる人がいたら尊敬します。

というか、「バラバラ死美人」ってやっぱりこういう扱いの映画だったのね。

「今更驚きませんが『憲兵とバラバラ死美人』について
かくも熱く語る日本女性は中尉くらいのものでしょう(°_°)」

なんて裏コメが来るはずだよ(泣)

 

シリーズ終わり


ドラゴン・スレイヤー「屠龍」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館別館に当たるダレス空港の隣、
スチーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターに保存展示されている
航空機の中から、帝國陸海軍の軍機をご紹介しています。

冒頭写真を見て、わたしが本日テーマの屠龍と桜花を勘違いしているのでは、
と疑った一部の皆さんにお断りしておきますが、そうではありません。
散々機体の認識を間違えて、ここで指摘されるという前科を持つわたしですが、
さすがに屠龍と桜花を間違えるはずがないじゃないですか。

なぜこの写真を扉に採用したかというと、ここの「屠龍」はこんな状態なので、

なんとなく完全体の飛行機の方が収まりがいい気がしまして。


川崎 キ45改 二式複座戦闘機 「屠龍」

現地の説明では

KAWASAKI Ki-45 Kai Hei (Mod. C ) Type 2

TORYU (Dragon Killer) Nick

「龍を屠る」という日本語の意味をそのまま「ドラゴンキラー」とし、
連合国軍からの呼び名「ニック」を付け加えています。

アメリカではより直接的な「Dragon Slayer」(スレイヤーは虐殺者)
という言い方をすることもあるようです。

 "Kai" は「改」、”Hei" とは甲乙丙の「丙」を意味します。
甲乙丙を「ABC」と同じ型番の順番であるとして、「Mod. C」と説明しています。

「屠龍」はご覧のように、水上戦闘機「晴嵐」の翼の下に、
まるで庇護されるように展示されています。

日本語のWikipediaでは

「二式複戦の現存機としては、当センターが収蔵する
丙型丁装備(キ45改丙)ないし丁型(キ45改丁)キの胴体部分が唯一となる」

英語Wikiに記載されている現存機についての説明は、

今日現存するキ45改はたった一機である。
第二次世界大戦の後アメリカが、日本軍の航空機を「評価」するため
USS「バーンズ」に積んで持ち帰った145機のうちの一機で、
ペンシルバニアのミッドタウン空技廠にオーバーホールのため送られ、
その後オハイオのライト・フィールドとワシントンのアナスコーシアで
試験飛行を行ったのち、空軍からスミソニアン研究所に1946年寄贈された。
胴体だけが現在スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターで、
「月光」と「晴嵐」と並んで展示されている。

というものです。

補足すると、「バーンズ」が最初にアメリカにこれらの航空機群を
荷揚げしたのはバージニア州ノーフォークだったということです。

さらに博物館の説明を翻訳しておきます。

Kawasaki Ki-45は、第二次世界大戦の他のほぼすべての日本の戦闘機よりも
開発と運用に時間がかかりました。

設計主任だった土木武夫は、1938年1月にこの設計に着手しましたが、
量産機型は1942年の秋まで戦闘には投入されていません。

実戦に投入されることになると、キー45はすぐに米海軍の哨戒魚雷艇
(PTーパトロール・トルピード・ボート)や
地上目標の攻撃任務を負った搭乗員達にとっての脅威になりました。

「屠龍」はまた唯一戦時中に運用された帝国陸軍の夜間戦闘機です。

 

日本軍は1930年代半ばから後半にかけて、双発エンジンで複座の
重戦闘機のようなもの、さらに太平洋の戦場に投入するための
長距離戦闘機を必要としていました。

1937年3月、陸軍は多くの製造業者にそのコンセプトでの戦闘機を発注し、
川崎、中島飛行機、三菱はそれに一応手を挙げたものの、中島と三菱は
他のプロジェクトに集中するために競争から降りています。

結局、軍は仕様を追加情報で修正し、川崎に設計作業を受注しました。

指定は速度336mphの二人乗りの戦闘機。
2〜5000メートルの動作高度、および5時間以上の航続距離があること。
さらに軍はブリストル水星エンジンを指定しました。

SFUHセンターには展示されていない機体の部品も、また大切に
人類の遺産として保存されています。

機体から取り外した ハ102 空冷複列星型14気筒エンジン。
星型エンジンとはシリンダーが放射状に配列されたレシプロエンジンで、
これは最初の実験の後修正して換装されたものとなります。

1939年1月に、川崎は最初のプロトタイプを発表し、テスト飛行をしたのですが
速度は軍の要件を満たすには遅すぎたため、エンジンを取り替え、
エンジンナセルとプロペラスピナーを改訂しました。

これらの修正は最高速度を520 kph(323 mph)に高めましたが、
その後も胴体を狭め、翼の長さと面積を増やし、ナセルをもう一度改造、
そして武装を換装するなどの改造を繰り返しました。

スミソニアンには「屠龍」の翼を所蔵しています。
なぜ展示されている胴体に翼を取り付けないのかという気もしますが、
日本語のWikiの情報がある程度正しければ、これは展示機の翼ではなく、
別のもう一機の(丁型)飛行機のものだからという説明ができます。

翼部分は「ローン」つまり貸し出しされていることもあるそうです。

Miscellaneous Parts(ミセレーニアスパーツ)つまり「パーツその他」です。
アメリカで、「その他色々」という意味で「Misc」(ミスク)という言葉は
よく使われ、学校の「何でもいれ」にMiscと書いたシールが貼ってあったりします。

外側だけを展示するので必要のないのパーツは抜いてしまったようですが、
破棄せずにちゃんと残してくれているのはありがたいことです。

取り外してしまったコクピットのシートクッションもちゃんと保存してありますよ。
これらも展示はしておらず、倉庫に入ったままのようですが。

クッションの中身は綿のようです。
合皮の無い時代なので、シート素材は皮革のようですが、
だからこそここまで形態を保ったと言えましょう。

合皮は本当にすぐに劣化してしまいますからね。

川崎は1942年8月に最初のKi-45 Kai(修正版)を完成させました。
しかし中国戦線に投入されることはありませんでした。

同年6月、二式複座戦闘機は爆撃機の護衛として
中国で「フライング・タイガース」のトマホークと対戦していますが、
結果は惨敗、キティホークにも負け続け、部隊からの評判は散々だったそうです。

ただし、

多くの日本海軍の戦闘機とは異なり、「屠龍」は
乗組員の装甲と耐火性の燃料タンクを持っていました。

さすが、海軍の飛行機、特に零式艦上戦闘機は重量を軽くするために
搭乗員席のバックシートに穴まで空けて装甲を薄くしていた、
などという事情を踏まえていないと到底書けない文章ですなあ。

とにかく、対戦闘機戦では初戦散々だったこの「屠龍」が
もっともその威力を発揮したのは、本土防空戦における対B29戦でした。
龍を屠る者の名前通り、龍=B29を屠る飛行機となったのです。


SFUHセンターの解説の続きを翻訳します。

「屠龍」は通常20 mmと37 mmの重機関銃を搭載していました。

ニューギニア地域で連合軍の船団攻撃に投入され、第5空軍の
コンソリデーテッドB-24「リベレーター」爆撃機を攻撃しています。

日本軍は夜間戦闘機としてキ-45の派生系をいくつかを採用しましたが、
部隊でははこれらの「屠龍」を改造し、機体上部に、ターゲットの弱点である
腹部分の燃料タンクを斜め上向きに射撃するように取り付けられた
2本の12.7 mm機関銃に置き換えたりして非常に高い戦果を得ました。

「月光」にも取り付けられた「斜め銃」、「上向き銃」のことですね。

「屠龍」が特に効果的だったのは、エース樫出勇大尉を筆頭にした
精鋭ばかりで固めた山口県小月の防空部隊が運用した時であり、
その後、上向き銃を搭載する頃にはレーダーを使っていなかったこともあって
かなり苦しい戦いをしていたというのが事実のようです。

当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という名前はつけられてなかったのですが、
北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、
樫出大尉のいた小月と芦屋の飛行戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになりました。

また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったそうです。

昭和19年8月20日、B-29の邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち
23機撃墜、被撃墜については3機未帰還、5機が被弾という損害であった。

同じ戦闘についてアメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失、
そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、
対空砲火による損失が1機としており、日本機17機撃墜となっています。

この数字が正確で、このとき日本側が来襲機の28%を撃墜していたとすれば、
ヨーロッパ戦線での平均である来襲機の10~15%撃墜を大幅に上回り、
世界的に見てもこのときの防御率はトップクラスだったことになります。

 

この国土防衛戦についてスミソニアンの解説はどうなっているかというと、

1944年6月、2年前のドーリットル隊の攻撃以来、
日本本土に対する最初の急襲としてB-29 スーパーフォートレスが襲撃しました。
キ-45 「屠龍」を含む日本の迎撃機はこれらを迎え撃ち、
あるキ-45パイロットは8機のスーパーフォートレスを撃墜しています。

このパイロットが誰を指すのかはわかりませんでした。

1945年3月9日、米陸軍第20爆撃集団は焼夷弾による夜間の低高度攻撃を始めました。

日本では3月10日、つまりあの悪名高き東京大空襲です。

これらの任務は、アメリカの伝統的な高高度からの日中爆撃からの
急進的な離脱を示しました。

やんわりとぼかして書いているようですがね。
つまりそれまでは昼間にピンポイント爆撃していたのが、この辺りから
夜間の一般市民無差別爆撃に舵を切ったということですよ。

そしてこれをわざわざ進言したのがあのカーチス・ルメイですよ。
なぜか日本は戦後このおっさんに叙勲しておりますが。

日本は対空砲火と夜間戦闘機攻撃で反撃しました。
ニックの6つのSentais(グループ)が終戦まで故郷の島を守りつづけたのです。

 

アメリカ側の無差別爆撃をちゃんと書いていないあたりはともかく、
こういう視点から語ってくれると実にニュートラルな印象を受けますね。

さて、最後に、「屠龍」が戦後、アメリカ軍に接収され、
そこでのテスト飛行でどんな評価を得たかを書いておきます。
これらもスミソニアンのキュレーターの記述によるものです。

 

アメリカに輸送されてから2〜3ヶ月の間、「屠龍」は集中的に
ライトフィールドとアナスコーシアでテスト飛行を受けました。

陸軍のテスト飛行ではパイロットは

「ニックの地表での操作性は大変に悪い」

と報告しています。
窮屈なコックピット、過度の振動、そして視界不良に対しても低評価でしたが、
ただ離陸距離、上昇速度、飛行特性、進入および着陸、および操縦性は
すべて良好から優秀と言っていい、と高い評価を与えられています。

テストが全て終わった1946年6月、陸軍はイリノイ州パークリッジにある
スミソニアン協会の国立航空博物館(NASMの前身)博物館保管場所に
運ばれた「屠龍」は、現在世界で唯一の現存するその姿をここに留めています。

 


続く。

 

 

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