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てつのくじら 「あきしお」〜海上自衛隊 呉資料館見学

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海上自衛隊呉史料館、てつのくじら 見学記続きです。

 

実はここに来るのは思い出すだけでも数度目。
来るたびに同じ展示物の写真を挙げているわけですが、
どっこい来るたびに当方のカメラが進化しているので、
最初の頃には低画質でお伝えすることができなかった細部を
ここでご紹介できることが嬉しくて仕方ありません。

その度に視点が変わり、新たな発見もあるはずなので、どうかお付き合いください。

といいながら、冒頭写真の深海用スーツの

「触手厳禁」

という注意書きに、つい心の中で

「触手はないだろう、触手は・・・」

と前回と同じツッコミを入れてしまうのでした。


先ほど博物館の体験コーナーにあったのと全く同じベッドが現れました。
この階にある寝台は全て士官用で、この個室っぽいベッドのある一角は
副長、航海長と行った「長」のつく士官の専用だと思われます。

昔「はくりゅう」の内部を実際に見学したことがありますが、
ちょうどこの位置にキッチンがあり、そこでは「はくりゅう」の給養員が
今まさにキャベツをスライス中で、大きな山ができていたのを思い出します。

アメリカの軍艦は大抵士官用、下士官用、兵用とキッチンが別ですが、
自衛隊ではその辺りはあまり分け隔てなく、同じところで作るようです。

もちろん食事をするところは別で、食器なども違い、士官は
ちゃんと誰かがご飯のトレイを持ってきてくれるようですが。

こちらの寝台部分は、夜間を表す赤い照明になっていました。

水上艦以上に外の明るさがわからない潜水艦内では、
夜間を表すために赤い照明を点けておく時間があります。

しかし照明を赤にする本当の意味は、外界の暗さに目を鳴らすため。
潜望鏡を除くとき、外が夜なのに室内が明るいと何も見えないからです。

アメリカで、とある潜水艦を見学した時、食堂に置いてあるトランプの
赤いハートやダイヤに全部黒の縁取りがされていたのを思い出します。

赤色灯の下でトランプをすると、赤の札が見えなくなるからです。


「はくりゅう」のように、最新型のデジタル潜望鏡の場合、従来のように
艦長一人が潜望鏡を覗き込むのではなく全員で画像を見ることにもな理、
ナイトビジョンでモニターの画像もよく見えるのかもしれませんが、
それでも潜水艦における赤色灯の習慣は変わらないに違いありません。


それから日照にあたる時間が少なくなるのも潜水艦乗りの宿命でしょう。

そろそろ我が海上自衛隊でも女性のサブマリナーが誕生しそうですが、
お肌の美容のことだけを考得た場合、潜水艦勤務だと水上艦より
日焼けの心配がないのでUV化粧品を使わずにすむかもしれません。

これらのベッドも、アメリカで見た潜水艦とそっくりですが、
バラオ級「パンパニト」や原潜「ノーチラス」よりは、こちらの方が
内部に余裕があって広々しているように見えます。

あちらの潜水艦は、第二次大戦中の潜水艦「パンパニト」が狭いのは当然ですが、
原子力潜水艦「ノーチラス」の居住区が狭いのには驚かされます。
全員がもう身欠きニシンのようにコンパートメントにぎっちり収まるかんじで、
ベッド周りなど絶対人がすれ違えないどころか、体を横にしないと歩けません。

原子炉部分のスペースが人間より優遇されていたのも狭い原因だと思います。
もちろん今の原潜はもう少しマシになっているのかもしれませんが。


しかし「あきしお」も実際はこんなに広かったわけではありません。
稼働時にはここにこんな手すりやスロープはなく、そのスペースに
士官用のベッドがぎっしりと並んでいたのです。

展示用にいくつかのベッドを取り外し、(あ、博物館フロアにあったのはそれか)
改装してこのように見やすくしていると説明に書かれていました。

そしてベッドの下が物入れになっていて私物をここに収納する、
というのは全世界、全艦艇共通だと思われます。

こちら食堂もグロトンで見た原子力潜水艦「ノーチラス」のとそっくりです。

海上自衛隊は、最初に訓練用として受け取った「くろしお」を
たたき台にその後の潜水艦を作ったということですが、これを見る限り、
食堂テーブルの配置や色などもアメリカ式を踏襲しているのではないかと感じました。

いざ戦闘となった場合、このテーブルが寝台になるというのも同じです。

テーブルの上にはアクアラングのマスクと、個人脱出用の
スタンキーフードが置いてあります。

大昔、たとえば佐久間艦長の第六潜水艇の頃などは、沈没鎮座してしまったら、
助けを待って、潜水艦ごと引き上げて救助するしかなかったわけですが、
たとえば沈没した伊ー33の時のように、ハッチを開放して脱出したとしても、
深海から生身で海面に上がるまでに溺れるか、潜水病で結局死ぬかだったのです。

伊ー33で海中に脱出して助かった人がいましたが、奇跡中の奇跡かもしれません。

現代では映画「ハンターキラー」にも出ていた小型救難艇を潜水艦のハッチに接続し、
以上させて救出する方法が主流ですが、深度があまりない場合には、
このスタンキーフードを被って海に脱出します。

顔の部分だけを覆うため、スタンキーフードでの脱出は低体温症になりがちですが、
全身を覆うことのできるタイプが「そうりゅう」型に装備されているということです。

艦長室。

我が潜水艦では個室が与えられるのは艦長だけ、となると、住環境においては
第二次大戦中のアメリカの潜水艦の圧勝と言わざるを得ません。

艦長室はもちろんですが、チャプレン(従軍牧師)が乗っている艦の場合、
彼らは必ず一人部屋を与えられていました。

従軍牧師はその職務上軍隊の位は高く、士官待遇でした。


ベッドサイドに計器類が景気良く装備されておりますね。
これは進度計、電話、艦内交話装置、ジャイロレピータなどです。


アメリカ海軍では水上艦・潜水艦問わず、せっかく個室があっても
「艦長は寝ない」というのが合言葉らしいですが、我が自衛隊においても
潜水艦長は出航中本当にあまり寝ていないらしいです。

たとえベッドに横になっていても、意識はいつも
深度計とジャイロに向かっているのに違いありません。

さて、「あきしお」の士官居住区を通り過ぎると、
コンソールなどが並ぶ潜水艦の中枢部分が現れます。

護衛艦のチャートルームに当たるのがこのテーブル。

電源パネルは現在でも照明などに使われているので生きています。
下から二段目の緑のランプは警報音のオフスイッチで、
左から

「A音」「B音」「C音」そして「OFF」

バラストコントロールは

「潜航」「浮上」

そしてもう一つのスイッチがあり、「浮上」が点灯していました。

先日見た「ハンター・キラー」でも、昔ここで取り上げた映画
「イン・ザ・ネイビー」でも、潜水艦の操舵席に座っている二人には、
コンビといってもいいような連帯感で結ばれていました。

こんなところで並んで同じようなハンドルを操作するのですから、
この二人が仲が悪いとちょっと具合が悪いのではないかと素人なりに思います。

ただし、右と左では役目は違います。

右席は

「第1スタンド (潜舵・縦舵)」

(潜舵はセイルから水平にでた舵、縦舵は艦尾の垂直舵)

左は

「第2スタンド(横舵・おうだ)」

(横舵は艦尾の水平舵)

と第1スタンドでは深度と針路、第2では深度調整を行います。

この階の床は穿たれ、透明のアクリルによって階下を見ることができます。
前回来た時も写真を撮ったけど、こんなにクリアじゃなかったので嬉しいです。

魚雷発射室の様子がよくわかりますね。

上から見せるだけではなく、前から後ろから見た写真も。

第二次世界大戦時のアメリカの潜水艦なら結構たくさん見てきましたが、
その頃とは装填前の魚雷の状態が当たり前ですが全く様変わりしています。

原子力潜水艦ともずいぶん違います。

いつも誰かが必ず独占していて写真をちゃんと撮ったことがなかったのですが、
今回はこんな近くから潜望鏡そのものを激写してみました。

その結果、初めてこれがNikon製であることを知りました。

海自イベントで一眼レフを持ち歩いていると、たまにわたしもNikon持ってます、
と自衛官に声をかけられますし、海自のカメラマンは全員がNikon持ちです。
艦橋にある個人用双眼鏡もNikonが多いですし、
(高いのでトキナーとかケンコーを置いている、という艦もありましたが)

「海のニッコー・陸のトーコー」

の時代から今でも海自ではNikonが主流なんだなとわかります。

わたしがNikon持ちになったのも、海軍御用達だったからです。


ところで、階下の魚雷を見ていて、あらためてこの魚雷は
具体的にどこから搭載するんだろう、とふと思ったので、
近くにいた説明の方に聞いてみると、

「こちらです」

と少し離れたところに案内されました。

指差された天井を見ると、ハッチと斜めの魚雷搬入用の孔が。
ラッタルはついておらず、人の出入りはできません。

孔の途中に監視カメラがありますが、もちろんこれは最近付けられたものです。

 

さて、「あきしお」艦内見学はこれでおしまいです。


続く。

 


江田島探訪〜海上自衛隊 第一術科学校見学

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幹部学校に伺ったとき、朝から時間をかけて
第一術科学校長の案内で構内を見学させていただきました。

大講堂に始まり、赤煉瓦生徒館、教育参考館、賜餐館、
ここまで説明したので、残りの部分と参ります。

賜餐館の見学は兵学校同期会の時にも中を見せてもらえましたが、
この日も同じく、扉を開け中は点灯した状態を見せていただけました。

水交館の上にあるのですが、ここから先には車は入らず、
必ずこの舗装されていない昔ながらの道を歩いて行くことになります。

大した距離ではないのですが、兵学校同期会の方々は80歳超えているので、
これだけ歩くのは結構大変であったらしく、後から

「たくさん歩かされたから疲れた」

とこぼしておられました。
日頃はゴルフもされるような活動的な方がそんなことを言うのを聞いて

「歳をとると人間というのは歩くことから衰えていくんだなあ」

と切なく感じたものです。

水交館の山側一段高いところには昔からあるらしいため池があります。
水交館はここ江田島で一番古い建物であり、歴史的にも貴重なので
防火用水が近くに必要ということで作られたのかと思います。

浄水したり底をさらえたりといったことは全くしていないらしく、
きっといろんなものが生息しているんだろうなあという色です。

一時流行った「池の水を抜く」をやったらきっとすごいものが出てくるのでは・・。
例えば、進駐軍の手から守るために隠した海軍の秘宝とか。

そして、土が崩れて一部足を思いっきりあげないと登れない階段を
上っていくと、高松宮記念邸があります。

「ブーツは脱いでいただいても大丈夫ですか」

案内の一術校長がわたしに尋ねました。

後で記念写真を見るとビジュアル的に痛恨の極みなのですが、
昨日朝家を出る時、雨が降っていたので、レインブーツ
(のようなパテントのロングブーツ)を履いていたのです。

この日は歩き回ることが予想されたので、トランクに入れてきたパンプスでなく
楽なこちらで歩き回っていたのでした。

ブーツを脱ぐということは邸内の見学もさ背ていただけるということですね。

兵学校同期会の時にも内部を見学することができ、その時
写真を撮ってアップしたけれど何も言われなかったので
今回はどうしようかと悩んだのですが、基準がわからないので
大事を取って内部の写真は公開しないことにします。

しかしあらためて撮ってきた内部の写真を前回と比べると、
女王殿下のご来臨に備えてか、いたるところがされていました。

例えば五右衛門風呂の入り口の上部に貼ってあったプラスチックの
「洗面所」と書かれたプレートなどは無くなっているようでした。

あれ、前回も人の家臭満点でどうかなと思ったんですよね。

ちなみにこれが4年半前の高松宮記念邸玄関。

玄関の敷石部分、玄関脇のツヤツヤしたタイル(昭和30年代風)、
軒の支柱(根元が腐っている)、蛍光灯、全てが取り替えられ、
雨樋まで新しく付けられています。

内部も外側も、つまり前回の訪問の時に

「大正時代のかしこきあたりの方のお住まいというよりは
昭和に経った築30年の賃貸という感じ」

と酷評した部分が全部昔風に作り変えられていました。
もちろんのこと、前回発見した黄ばんでところどころ破れた障子もです。

また、前回と違い、全ての邸内が見学できるようになっており、
殿下が人とお会いになった洋間の応接室(昔は絨毯敷きだった模様)には
高松宮殿下が兵学校在学時の制服姿、軍人としての年代表、
兵学校時代の写真などがパネルで展示されていました。

珍しいところでは、兵学校時代、カゴに入った大ぶりの松茸を前に、
軍服の軍人(しかも皆偉そう)の真ん中に高松宮親王、という写真もあり。

一般の生徒と違って週末もなかなか羽を伸ばせない殿下のために、
海軍関係者が松茸狩りを企画し、お連れ申し上げたというところでしょう。
しかし、全員が軍服を着込んでいて、畏まって写真を撮っている様子。
松茸狩りくらいもう少しカジュアルにさせておあげになればよろしいのに、
と畏れながら少々同情申し上げずにはいられませんでした。


また、高松宮殿下が戦後江田島をご訪問になった
写真も展示されており、その第一回目は昭和41年4月11日です。

この日何があったかというと、教育参考館で

「海軍兵学校戦公死者銘碑」

の除幕式が行われたのです。
除幕式にあたっては、大講堂で厳かに慰霊式も行われたようで、
かつて玉座のあったところに榊を立てて御神体とし、
その前に献花台をしつらえ、殿下が弔辞をお読みになっている写真もあります。

2回目のご訪問は昭和60年9月3日のことです。
この時、殿下を案内申し上げているのは、おそらく当時の海幕長で、
調べてみると、海軍兵学校76期に在学していた

長田博海将

でした。
わたしが前回ここ高松宮記念邸に来たのは、まさに
長田氏がかつて所属した海兵76期の同期会に同行したときのことです。

もしこのとき長田氏がまだご存命であれば、この同期会で
ご一緒していたのに違いない、と考えると感無量でした。

高松宮殿下訪問の写真に、赤煉瓦の前に椅子を置いて撮ったものがありました。

その構図はまさにこれ。
今回の訪問の際撮った写真(わたしのカメラを渡して撮ってもらったもの)
ですが、畏れながら位置も角度も全く同じです。

江田島では、来賓があった場合必ずここで椅子を置いて写真を撮る、
とおそらく海軍時代から決まっているのではないかと思われます。

しかもこの後ろの赤煉瓦の収まり具合から察するに、
椅子を置く場所もきっちりと決まっていそう。



邸内の洋間には、「高松宮日記」の初版が置いてありました。
一術校長がそれを手に取って、

「兵学校時代のことも色々書いておられますが、
ご不満なども結構おありだったようです」

wikiには、

特別官舎で過ごし、授業の多くはマンツーマン教育を受けるなど、
特別扱いではあったものの、訓練および授業では、
他の生徒と同じように扱って欲しいと望んでいたと言われる。
初期の『高松宮日記』にも、特別扱いされることへの不満の記述が随所にみられる。

とあります。

一術校長は実際に高松宮日記をお読みになっているということでしたが、
何気なく手に取ってみると(当然ですが)日記は仮名使い旧文体で
(おそらく現代文に訳さず出版したのは忖度配慮のたまものかと)
思わず、

「これを全部読まれたんですか」

と失礼にも聞き返してしまいました。

このときに見た高松宮殿下江田島ご来臨の写真には、
高松宮記念邸の東側に洋風の朽ちかけた家が写り込んでいました。

江田島に進駐軍が駐留したとき、構内にはいくつか彼らのために
洋風の家が建てられ、この洋館もその一つだったそうですが、
現在では取り壊されてありません。
しかし、進駐軍の建築の中には今も使い続けられているのものあります。

高松宮邸の前庭から木々を通して赤い屋根が見えていますが、
これもそのひとつ。
こちらは現在第一術か学校長の官舎となっております。

この、木の陰に佇んでいる海曹さんの向こうの空き地に
取り壊された進駐軍の洋館が建っていました。
その向こうに見えているのは幹部学校長の官舎となっている建物です。

昔来たときにここに誰か住んでいるのではないか?
と疑っていたこの小さなお家ですが、今回聞いてみたら

「ただの物置です」

ここにはかつてテニスコートがあって、殿下が右手の斜面に作られた
階段を降りてきて週末テニスを楽しまれたということでした。

一般には公開しないことになっているので写真も最小に留めますが、
ここが一術校長の官舎です。

画面奥の崖の崩れ留めの左下枠の土には削ったような跡がありますが、
これなんとイノシシ君の掘った形跡。
イノシシを捕まえて猪鍋をすることもあるとかないとか。

左側にある池には鷺が鯉を食べに来るのでネットがかぶせてあります。
ここ江田島というのは結構な野生の王国であることがわかりました。

 

官舎は広大な二階建てなので、一階ではパーティをすることもできるそうです。
(おそらく進駐軍の司令官の官舎で、ホームパーティをしたのでしょう)

「こんなところに一人で夜寝るのって怖くありませんか」

と聞いてみると、即答で

「怖いです!」

((((;゚Д゚)))))))ヤッパリ

ところで怖いのは幽霊もですが、ここ江田島の自衛官の大敵は実はムカデです。
中畑前校長は実際に噛まれたことがあるということですし、
最近では、幹部候補生が急いで靴を履いたところ、

靴の中にムカデがいて((((;゚Д゚)))))

噛まれて病院送り、という大騒動もあった由。

ムカデは殺すとその臭いが他のムカデを呼ぶので、
冷凍スプレーで凍らせるとかいう話もこの訪問の際伺いました。

出るといえば、呉にもムカデはいて(というか地続きの古い家屋に出る?)
例えば、呉地方総監官舎。

元地方総監だった方に伺ったその壮絶な話は、安全な部屋は一つしかなく、
夏場その部屋を出るときには常に緊張していなくてはならなかったというもの。

仕事が終わって帰ってきた家でも気を張り詰めていないといけないって・・。


他の地方隊はわかりませんが、自衛隊の偉い人たちの官舎というのは、
歴史が古いとやっぱり色々とあるようで、例えばある鎮守府系地方隊の官舎、
夏以外は寒すぎて家の中でテントや寝袋で凌ぐそうで、それが嫌なばかりに、
理由をつけて他のところに住んでいたら、もっと偉い人から怒られたり、
我慢して住んでいたら体を壊したり・・・何か色々と大変みたいです。

さて、見学が全て終わり、もう一度赤煉瓦の生徒館に戻ってまいりました。
席次表が入り口に貼ってあります。

改めて二回の窓から外を眺めてみます。

舎前(防大と同じようにいうのかどうか知りませんが)の道と
建物が平行でないのは、この赤煉瓦が東西南北に対して
正確に向いて建っているからなのだそうです。

昔当ブログで取り上げた映画「あゝ海軍」で、兵学校教官の中村吉右衛門が
井上成美という設定の森雅之に、コーヒーをご馳走してもらうシーン、
あれは紛れもなくこの部屋で撮影されたことが確認できました。

はいその証拠写真。
窓の外の松の木の背が今よりかなりが低いですが。

(そういえば構内のどこかで「あゝ海軍」の撮影のお礼として
映画会社から寄贈された全身が映る鏡を見た記憶があります)

わたしたちの席は、この写真でいうとちょうど井上校長の座っているあたり。

午餐会のテーブルです。

この日は個人としてただ遊びに行ったとかではなく、
自衛隊にお役に立てる用事で幹部学校にお招きいただいたとはいえ、
午餐会の写真を公開するかどうかについては逡巡したのですが、
学校長から、このお料理の数々、特に

第一術科学校の給養の方々が腕によりをかけて調理された

とうかがったので、その力作を皆様にも見ていただくことにしました。

まず、術科学校にはこのような接待用の立派な食器が
用意されていることに感心しました。
刺身やしめ鯖の皿には本物のハランらしきものが敷いてあります。
この彩の良さ、見てよし食べてよしの一流料亭並みの御膳です。

献立表には第一術科学校(右側)と幹部学校のマーク入り。
刺身は新鮮、天ぷらは季節のものを使い抹茶塩で食べさせるという粋なもの、
野菜の煮物には蕗や筍があしらわれ、お吸い物はあさりです。
そして「お食事」は色も鮮やかな茶碗蒸し。

このような料理を作れる自衛官は海自にしかいないこと、
その給養員たちの育成は舞鶴の第四術科学校で行なっていること、
彼らの腕は確かで、おそらく自衛隊退職後も再就職先に困ることはない、
などという話とともに彩を目で楽しみながらいただきます。

お食事がすみ、御重を下げると、その下からはこのような
(給養のどなたかが描いたもの?)敷紙が現れました。

そこに運ばれてきた感動のデザート、これは手作りで、
餡子を白と桜の色に染めたお持ちで柏餅のように挟んだ桜餅。

本当に美味しくいただきました。

そして色々あって江田島を去るときがやってきました。
車の中から振り返ると、全員が敬礼で見送ってくださっていました。

帰るときにいただいた「お土産セット」には、今回の写真と冒頭のメダルはじめ、
海上自衛隊と江田島の資料、そして写真集が入っていました。
そしてちょっとレトロな「立体絵葉書」も。


江田島について深く知ることになったこの訪問、
関係各位の皆様方のお心遣いの数々に心からお礼を申し上げます。

 

 

平成最後の北の桜〜海上自衛隊 八戸航空基地 観桜会あらため意見交換会

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一連の観桜会行事が終わって一息ついたと思ったら、実はまだ
八戸航空隊の観桜会が残っていたのでございます。

八戸基地からこのお知らせをいただいたとき、

「なんと青森県では4月25日頃桜が咲いているのか」

とあらためて日本列島が南北に長いことを認識しました。
そういえば、東北では連休に花見と聞いたことがあったわね。

4月25日の八戸が3月末の呉と同じくらいの気温なのか、
そのことも全くわからないまま、ジャケットの上に羽織るスプリングコートを用意し、
前日やまびこ号に乗って八戸入りしたわたしですが、現地の暑いこと。

こんな蒸し暑い天気でお花見をするのか、と不思議に思いながら明けて翌日、

なんと雨が降っておりました。
昨日の蒸し暑さはつまり今日の雨のせいだったわけだ。

こういう天気になるとやっぱりさすがは東北だけあって、結構寒い。

前日に八戸入りしたのは、朝市に行きたかったからなのですが、
朝起きて窓の外を見るなり、

「やーめた」

と呟いてまたベッドに潜り込んだわたしでした。

ホテルから車で八戸基地まで15分くらい走ると到着。
正門で

「東門に回ってください」

と指示されてまっすぐな道をひたすら走っていくと、
会場となっている体育館に近い入り口に到着しました。

この少し前、陸自の八戸駐屯地勤務の経験のある自衛官から

「あそこの桜はいいですよ」

と聞いていたのですが、噂以上です。
旧軍の頃からある自衛隊の基地駐屯地は、そのほとんどが
敷地内に必ず桜の並木を持っているのが常です。

会場に着くまで片手で運転しながら撮りました。
今回は事情があって一眼でなくソニーのRX100です。

会場に思ったより早く着いてしまい、呆然としていると、

「もう少ししたら人がたくさん来るので、前の方でお待ちください」

とアナウンスがありました。

システム通信分遣隊のバナーが可愛い。

八戸航空基地隊のバナーは旭日に波頭、まるで大漁旗です。
そういえば旭日旗って普通に大漁旗に使われるわけですよね。

第二航空群のエンブレムにあしらわれているのは、
八戸の工芸品「八幡馬」(やわたうま)です。

鎌倉時代に、櫛引八幡宮で参詣者のお土産に売られるようになり、
今では郷土玩具として八戸のシンボルのようになっています。

第2航空群隷下の第2航空隊は、P-3C部隊である第21、第22飛行隊から成り、
コールサインが ”ODIN" (北欧神話の主神)であることから、
その横顔をあしらったマークをシンボルにしています。

ならばこのリボンで結ばれたのは、月桂樹ではなく、
ユグドラシル(世界樹)を意味しているということになります。
これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々の黄昏」にも出てきます。

自衛隊の体育館はどこも大変広く、二階にジムがあったりします。

もちろんお料理にサランラップなどかかっておりません。
それにしてもさすがは海上自衛隊、この豪華さを見るがよい。

尾頭付きの鯛が跳ねているような刺身盛りの形は、全国共通です。
おそらく第4術科学校でこのように習うのだと思われます。

そしてさすがは漁港の街八戸、刺身の量がハンパありません。
ほとんどツマなど必要ないくらい、魚身がぎっちりと盛られています。

自衛隊の宴会で油淋鶏は初めて見る気がします。
下が隠れるくらい玉ねぎと薬味がかかっていて美味しそう。

ここにいなり寿司が混じってこないのは東北だから?
お寿司も入れ物の底が全く見えないくらい。

本日も会費制でした。
八戸で会費制は初めてだそうで、というのも自衛隊全体で、
この新年度からそう決まったからということです。

ケーキはどうもケーキ屋さんのもののような気がしました。
シュークリームはざっと見たところ数が少なく、すぐ無くなりそうなので、
わたしはこれにのみ狙いを定め、宴会が始まると一番先に
シュークリームだけを確保するという先手必勝の策を取りました。

開始時刻30分前から次々と人が入ってきて、こんな状態に。
残念ながらわたしには自衛官(しかも数人)以外の知り合いが全くおらず、
アウェー感満点です。

近藤奈津枝海将補の前には名刺交換を求める人々が列をなしていました。
本日は大湊からやって来られたようです。
女性初の海将補であるだけでなく、昨年の12月の人事で、
女性初地方総監部幕僚長に就任されました。

開式となり、第二航空群司令、瀬戸慶一海将補がご挨拶をされました。

本日が観桜会でなく「意見交換会」となった理由の説明からです。

「先日洋上で発生した航空自衛隊所属F35戦闘機の墜落事故を受けまして、
この会を観桜会でなく意見交換会とさせていただきましたことを
ご理解賜りたいと存じます。
私ども八戸基地第二航空群と三沢基地第3航空団とは、
従来より共同訓練、または基地の相互使用などで大変深い関係があります。
この件は、私どもの仲間が事故に遭ったということで非常に残念に思っております。

私どもは事故発生直後から飛行機を上げまして
最大限努力し捜索した訳ですが、まだ操縦者が見つかっておりません。
この事故を受け私どもは同じ航空機を有する部隊といたしまして、
安全管理をさらに一層強化し、事故防止に全力をあげてまいります。」

ちょうど会場に共同訓練の時の写真が飾ってありました。

本日の観桜会が「意見交換会」となることは、少し前から
群司令に伺っていました。

私事ながら、事故の起きる前、海上自衛隊を通して
三沢基地訪問をさせていただく話になっていたのも、当然無期延期です。

群司令は、今年で10年目になるジブチでの海賊対策行動に
ここ八戸から航空隊が派遣されたことについても説明をされました。

「派行空」

という見慣れない(聞きなれない)派遣部隊名となっています。

第31次派行空は三ヶ月の任務を終え帰国しました。

昨年9月の開隊行事には、ご招待をいただいていたのですが、
まだ帰国しておらずTOだけが参列させていただきました。

なんと、アメリカ海軍のP-8が来ていたのか。
それにしてもP-1大きい。

ところで、P-3Cはオライオン、P-8はポセイドンと名前がついていますが、
アメリカとの関わりを絶って作ったためかP-1にはそういう
別名がないのがなんとも味気ない気がします。

国産だから、というんだったら神様の名前で「アマテラス」とか「イザナギ」とか、
「スサノオ」とかいっそ飛行機なので「ヤタガラス」とか。
「ショウキ」なんてのもいいなあ・・あ、本当にあったっけ、「鍾馗」。

閑話休題。

わたしは昨年同基地訪問の際に、P3-Cの整備を見学させていただいたのですが、
この意見交換会で、その時見学行程を組んでいただいた整備の偉い人にお会いし、
改めてお礼をいうことができました。

「エンジン換装のが格納庫に行ったときに行われたので、わたしたち、後から
わざわざタイミングを合わせて下さったのではと話していたんですよ」

「あの作業はもともとあの日にやる予定でしたので、朝見学の行程を組んだとき
ちょうどいいということで・・・タイミングは少し調整しました」

「いろいろ見せていただいた中で、あの工具専門のテーブルにはびっくりしました」

そのときの写真より。
小さな道具の一つ一つに置き場所が決まっており、元の場所に戻っていなければ
視覚的に確認できるという優れもので、置き忘れた工具などを
航空機が吸い込むことによって起こる事故を防ぐための工夫の一つです。

群司令のご挨拶で、空自の事故を受け、当航空基地でもより一層安全に配慮する、
というお話がありましたが、八戸基地では開隊から今日までの間、
航空機事故ゼロの記録を更新し続けています。

ボンベイ最後の日という映画がありましたが、Bombayのことです。
わたしは「ボム」爆弾の「ベイ」格納室なので律儀にボムベイと書いていましたが、
普通にボンベイでいいらしいことがわかりました。

それにしてもこんな東北美人が男ばかりの航空機整備の現場にいるなんて、
なんというかちょっとしたギャップ萌えではありませんか。

つい最近の訓練魚雷搭載作業、ということはこの女性メカニックはまだ
当八戸基地に勤務しておられるという可能性大です。

地震災害などで滑走路が被害を受けたとき、即座にこれを修復し、
航空機の派出を可能とするための技術も、訓練によって受け継がれています。

除雪隊員装備とともに記念写真。
雪かきも自衛隊の任務の一つで、全国どこへでも出動できます。
こんな任務にも女性隊員の顔が見えますね。

「行軍」という言葉がいまだにしっかりと残っている自衛隊。
防大や幹部候補生学校でも行軍は行われます。

十和田湖子ノ口から八戸航空基地まではグーグルマップで65.3km。
車でも1時間25分の道は、どのコースを行っても13時間かかります。
おそらく夜明け前から歩き続けて八戸には夕刻到着したのでしょう。

それにしても13時間歩き続けたとは到底思えないこの彼らの毅然とした様子・・・。

昨年7月には広報のため「すずなみ」が八戸に訪れました。

蕪島の清掃に八戸基地として参加。
全員が自衛官かどうかわからないので一応顔をマスクしました。

体育館で行われることが最初から決まっている行事でしたが、
一応最初の名目が観桜会なので、その日の朝撮った基地内の桜並木の写真もありました。

制服を脱がれたばかりの元呉地方総監発見!
池元海将はここ八戸でウィングマークを取られたということです。
その教育は「大変厳しかった」とおっしゃっていました。

知っている方にご挨拶もできたことですし、意見交換会は続いていましたが、
わたしはこの後八戸をちょっとドライブしてみたくなり、退出しました。

帽子が床に置いてある・・・。

体育館を出たところにある三本の桜。

盛りを一日すぎた桜色が緑色が一層鮮やかとなってきた芝生に映えて。

このトマソン構造物は防空壕の名残でしょうか。
八戸飛行場は昭和16年陸軍飛行場として開港し、陸軍少年飛行隊などが置かれていました。

構内のいずれの桜も樹齢を重ねたらしい大木ばかりで、これらは
まず間違いなく陸軍時代に植樹されたのではと思われます。

車で出口に向かいながら写真を撮っていると、誘導の隊員さんが
何度も何度も誘導棒をこちらに向かって振っていました。
途中で停車して窓を開けたりしてなかなか動かずすみません。

正門の前を通り過ぎるとき、桜並木の写真をどうしても撮っておきたくて、
正門前で車を停めて外に出て撮影させてもらいました。

ここから向こうはずっと桜の並木が続いています。

あと数日で御世変わりとなり、日本の多くの良民のみなさんが
平成最後の日々を慈しむように過ごしているであろうというこの日、
北の桜を愛でる会を催してくれた八戸航空基地と関係者皆さまに心から感謝する一方、
尊い任務中、事故に遭った一人の航空自衛官に思いを寄せる機会となったことを
この日の八戸の桜の色とともに決して忘れないでおこう、とわたしは思いました。

 




研修ツァーと祝賀パーティ(おまけ 居酒屋利根)〜幹部候補生学校卒業式行事

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間に八戸基地訪問の話を挟みましたが、幹部候補生学校卒業式の際の
研修ツァーとそれに伴う行事についてお話しします。

 

海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら 」見学で、「あきしお」だった
「てつのくじら 」の内部を見学して出てくると、写真展示フロアがあります。


昨年夏の水害における自衛隊の災害派遣活動がパネルで示されていました。

「学生派遣」とは、江田島の幹部学校、第1術科学校の学生たちも
災害現場で様々な支援作業に当たったということです。

給水支援で出動したのはYDT 04 、水中処分母船です。

潜水作業を行う水中処分隊を支援する船で、再圧チャンバーも装備しています。

水害で避難している人たちのために呉音楽隊による慰問演奏が行われました。

呉地方隊の造修補給所貯油所には警備犬を訓練する施設があります。

施設を守る役目を持つ犬は空自にもいますが、国際救助犬連盟の
資格を持つ犬がいるのは三自衛隊で海自だけなのだそうです。

救助資格を持つジャーマンシェパードの「金剛丸」は、
東日本大震災で創作活動に投入されましたが、衰弱死しました。

靖国神社の「忠犬の碑」に祀られている同じ名前の「金剛丸」は、
満州事変で敵陣に突進し、弾を受けて戦士したそうですが、
この「金剛丸」にも殉職相当として功章の首輪が与えられました。

西日本の豪雨災害にも救助犬は派遣され、活躍しています。

ちなみに、「妙見丸」「金剛丸」という犬の名前は、
「あきしお」の中に展示されていたキャップなどを贈呈した
杉本元海幕長が呉地方総監時代に命名したということです。

「てつのくじら 」「あきしお」の艦首をみる形で、
双眼鏡が外に向かって備え付けられていました。
なんどもここに来ましたが、初めて気がつきました。

なんと、伊ー400の双眼鏡だと書いてあります。
なぜここに?って感じですが、呉工廠に置き去りにされていたんでしょうか。

こちらは第二次世界大戦中のアメリカの潜水艦が装備していた双眼鏡だそうです。

アメリカの潜水艦って、もしかして「ミンゴ」のことですか?
と思ったらその通りでした。

第二次世界大戦中のアメリカの潜水艦をもらってきて、
戦後海上自衛隊の第一号潜水艦にしたわけですからね。

 

この日米双眼鏡で今の呉港を眺めてみるのも一興かと思われます。

「てつのくじら 」併設のレストランはもう閉店していました。
ここでどうやら新作らしいメニュー発見。

潜水艦玉子砲なるこのメニュー、潜水艦をかたどったオムライス?
ちょこんと乗っかった半熟卵がより一層潜水艦に・・・似てねーよ!

まあでもデミグラスソースの海に浮かぶ玉子の潜水艦オムライス、
ちょっと食べてみたい気がします。

 

見学が終わってバスでホテルに戻り、夕刻からは
海幕長招待者対象のパーティが行われました。

明日が卒業式というのにその日の晩は低気圧が近づいてきていましたが、
杉本呉地方総監はこのパーティで壇上に立ち、

「わたしが強力なてるてる坊主を作ってなんとかしてみせます!」

と豪語したため、奇跡的に雨は明け方に止み、翌日は快晴でした。

(それを卒業式の祝辞で米軍中将が取り上げたこともご報告しましたね)

退官され、この時が最後の江田島での卒業式となった村川海幕長。

ちなみにこのパーティに出席されていてその後転勤された方に表敬訪問した際、

「あの卒業式の時にはもう辞令は出ていたんですか」

と伺うと、まだ出ておらず全く知らなかった、ということでした。

流石に海幕長はご存知だったと思うのですがどうだったのでしょう。

幹部候補生学校長のご挨拶。

「明日の卒業式、ある瞬間から皆が号令なしで一斉に行動します」

などと「卒業式のみどころ」を説明しておられます。

左前の席には米軍や大使などが固まっており、右は政治家など、
わたしたちは名刺を持って配り歩く感じのパーティでもないので、
その中で顔見知りの一術校長に奥さんとの馴れ初めを聞いたり、
練習艦隊の艦長などと楽しく話している間にあっという間に御開きとなりました。

練習艦隊司令と各艦長も一人ずつご挨拶。

後列左端の川田一佐は「すずつき」の艦長、その前は第8艦隊司令本村一佐です。
皆さんご存知のように、航空学生を乗せた「すずつき」は江田島出航後、
練習航海に向かい、今回中国で行われた観艦式に参加して、
堂々と旭日旗を翻して海上自衛隊の存在をアピールしてくれました。

中国・青島で国際観艦式、海自のすずつき入港

ニュースによると、付随して行われた艦艇見学では、「すずつき」に
五千人もの見学者が訪れ、ロシア艦と人気を争ったということです。

あっという間に御開きの時間になりました。

テーブルの上の食べ物が全く無くなっていないのにご注目ください(笑)
海幕長は出口に立ち、一人ずつお見送りしてくださいました。


パーティの間、海幕長は副官を連れて会場を回っておられたのですが、
挨拶をしている人が何者か完璧にわかっている前提で話しかけてこられます。
しばらく会話を続けていると、後ろから副官が、わたしたちにはわからないような
目だけのサインを出したタイミングで「それでは」と引き上げていくのでした。

「あれ全部副官が仕切ってるんじゃないかな」

とわたしたちは後で言い合いました。
一般的に、のちに司令官となるような人は
若い時に副官配置で司令官のあり方を学ぶようですね。

海幕長の副官配置になるひとはさぞ優秀なんだろうなあ、と思って、
ある元海将に伺ってみたら、やっぱり海幕長副官を経験したことがあるとのことでした。

さて、パーティでは話ばかりしていてほとんど何も食べられなかったので、
わたしとTOは自衛官御用達の居酒屋「利根」に出撃。

なんとここにはまだ前呉地方総監の「愚直たれ」メニューがありました。

歴代「とね」艦長の写真がずっと残されている「利根」ですから、
きっと愚直たれも永久保存版メニューになるのかもしれません。

何と言っても美味しいんですよこれが。

三つの「あ」より。
「あざむかない蒸し鶏」と「あきらめないサラダ」、愚直たれ添え。

そして「あなどらない揚げ盛り」愚直たれ添え。

蒸し鶏とサラダに愚直たれはよく合います。

ネームシップ?「とね」カレーは、
ちゃんと「とね」艦長に認定書をもらっております。

このカレーも小さいのを一つ頼んでみました。

甘口でまったりしていて、少々お子様向けではありますが、
わたしは辛さにおいてはほぼ子供の舌なのでこれくらいが好きです。

このポスターを見る限り、呉氏を盛り上げるプロジェクトも順調のような気がします。

 

というわけで長々語ってきた幹部候補生学校卒業式に伴う
研修ツァーとパーティについて、終わります。

ご招待くださいました海上自衛隊関係者の皆さまに深く御礼を申し上げます。

 

 

平成最後の八戸を歩く

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海上自衛隊八戸航空基地の観桜会あらため意見交換会に出席し、
行き先が滅多に訪れることのない八戸という土地だったので、
会が終わってから車で何となくその辺を走ってみました。

アメリカでいつもやっているように、車さえあれば
気の赴くままに探索するのがわたし流の観光のスタイルです。

この日は朝から雨が降り、連休前だというのにさすが東北、
というくらい寒かったので、車を借りていてよかったかもしれません。

全く土地勘がないので、とりあえず蕪島を目標に走り出しました。
海沿いに出てくると、舗装されていない港にいきなりイカ釣り船?

昔北海道で見たイカ釣り船はは温かみのある電球を満艦飾のように付け、
実にノスタルジックなものでしたが、これは一体何の船でしょうか。

今回コンデジで写真を撮ってみて、現像しながらどれもこれも
一眼レフと比べるともうどうしようもないくらい眠たい画像ばかりなので
本当に嫌になってしまいました。

RAW画像で撮っても現像には限界があり、それと反比例して
フラストレーションはマックス。

つくづく素人ほどせめていいカメラを使うべきだと肝に命じました。

ところで、あの東日本大震災ではここも津波に襲われたわけですが、

このピンク色の建物、被災ビデオでみた覚えがあります。

最初にちらっと写ります。

漁業関係の団体が入っていたと思われるこのビル、
震災以来廃墟になっているのかどうかはわかりませんでした。

過去のブログなどを検索すると中にも入れたようですが、
少し前まで「売地」になり、今は立ち入り禁止になっているので

買い手がつき、処分を待っている状態なのだと思います。

廃墟になっても花を咲かせていたらしいこの木は
その時どうなるのでしょうか。

左の立て札は八戸の教育委員会が立てたもので、

「鮫の艀」跡

とあります。
はて、鮫とは?と思って調べてみると、そもそもここは
鮫港という名称なんですね。
昔はここから艀が出ていたということのようです。

二回めとなる蕪島が見えてきました。
前回来た時に調べたところによると、昔蕪島は文字通り島だったのですが、
海軍が埋め立てて地続きにしてしまったのです。

なぜわざわざそんな大工事をしたかはわかりません。(どこにも書いてないので)

とにかく前回漏電で焼けてしまい、修復工事中だった神社が復活していました。

左側の船は地震で持ち主がいなくなってしまったとか?

とにかくすごい数のうみねこが乱舞しています。

前回行きそびれたマリエントという水産科学館に行ってみることにしました。

日本水産界の立役者的な偉人、長谷川藤次郎の銅像がありました。
鮫で雑貨商をしていた人ですが、画期的な網を発明し、漁業王となったとか。

銅像の碑銘が「漁業王」ではなく「漁業翁」となっていました。

ドアを開けるといきなり長い階段が!(驚愕)

階段を登りながら変わった魚類の写真を鑑賞するという仕掛けです。
「階段展示コーナー」というのだとか。

上に到達すると、水槽の掃除をしていた長靴のお姉さんが、
自動販売機で切符を買うようにといいに来ました。
大人300円、子供150円です。

部屋の中心に大水槽があります。

カサゴかな・・・煮付けにすると美味しい系の。

アオウミガメがひかりと命名されたというくす玉がありました。
ピントの合わないコンデジゆえ、とうとう撮れませんでしたが、
ここにはウミガメが三頭がいます。 

ひかりちゃんは去年の10月、カレイの刺し網に引っかかっていたところ、
救出されてここの住亀になったということでした。

名前は公募で決まったそうですが、亀なので性別は不明だそうです。

深海探査船「ちきゅう」の特大模型がありました。

深海における掘削などによる巨大地震・津波の発生メカニズムの解明、
地下に広がる生命圏の解明、地球環境変動の解明、そして、
人類未踏のマントルへの到達という目標を掲げています。

東日本大震災当時、「ちきゅう」は八戸港に係留して、市内の小学校の生徒や先生が
見学に訪れていたそうです。
地震を受けて「ちきゅう」はすぐさま沖に避難し、小学生たちは
船内で一泊を過ごした後、海自のヘリコプターで下船しました。

また、2009年には南海トラフについての研究で掘削を予定していたのですが、
民主党の事業仕分けの俎上に上がり、中断を余儀なくされました。

こちらは深海探索船「しんかい6500」によって撮られた写真。

頭についている耳みたいなのはヒレらしいんですが、
このため英語ではこのジュウモンジダコを

「ダンボ・オクトパス」

と呼ぶこともあるんだそうで。
いや、世の中には実にいろんな形の生物がいるもんだ。

水槽の中のうなぎ(みたいなの)に見つめられている気がする。
そんなわたしは自意識過剰かしら。

クラゲのことを英語でジェリーフィッシュといいますが、これは
同じ種類なのに個体で色が違う「カラージェリー」。

体内の藻によっていろんな色に見えるらしいです。

傘をもふわふわと動かしながら移動している様子は
いつまで見ていても飽きない可愛らしさです。

寝ておられる?

魚類が目をつぶっているのを初めて見たような気がしますが、
これデンキウナギだったかな?
小さいのでまだそんな強力な電気は起こせないらしいです。

しかし、デンキウナギ、電気を発生させながら自分も感電しているそうですね。
でも脂肪が多いので大事には至らないのだとか。

ヒトデや貝などを手で触れるコーナー。

ヤドカリやカニもいるようですね。
この時、来館者はわたしと他府県から来たらしい親子三人連れ、
計四人で、体験していたのは男の子一人でした。

トルコの温泉に住む鯉の仲間で、「ガラ・ルファ」という魚は
古い角質を食べてくれるので、お肌がツルツルになるそうです。
ここでは手や足を入れて角質取り体験ができます。(タオルあり)

やってみたいようなみたくないような。

ピラニアにも種類があって、こちらはナッテリーというそうです。
他の種類もいましたが、ピラニアってなぜキラキラしてるんでしょう。

思わず見入ってしまったハイギョ。さすがは生きている化石です。
外に飾ってあった造花が映り込んで、まるでハイギョがお花をつけているみたい。

普通に金魚もいました。
この頭に何か乗っけてるリュウキン?わたしどうも苦手なんです。

アロワナ。
穏やかな性質なのでペットとして人気があります。

さりげなく一角を海上保安庁が広報コーナーとして独占していました。

最上階は展望デッキだそうですが、その一階下はこんな眺めのレストラン。
お天気のいい日には、ぜひここでお茶を飲むことをお勧めします。
もちろんメニュー豊富で食事もできますよ。

ここから東日本大震災を撮影した動画がありました。
水産翁が台のところまで水に浸かっているのが見えます。

画質が悪いのが残念ですが。

レストランから見た蕪島。

マリエントを出たら、カラスが木ノ実を道路に落として割っていました。
つぎは車に轢いてもらおうとしているのかもしれません。

蕪島に行ってみることにしました。
こういう看板が他人事に感じられないのは、なんどもここが
津波に襲われる動画を観たからです。

しかし、八戸の津波による死者は1名、行方不明者も1名にとどまりました。

やはりここに来たらうみねこの観察をするべきでしょう。
一帯には彼らのニャーニャーという啼き声が響き渡っています。

一方的に襲いかかるうみねこ。

上空から羽をバタバタさせてちょっかいをかけますが・・、

あまり相手にされていない模様。

しばらくここでうみねこを観察していたのですが、あまりに寒い上、
風が強くて、フン避けのつもりで差した折りたたみ傘が
あまり役に立他ないのでやる気がなくなりました。

階段を上がっていく気力も無くなったので蕪島神社はまた次の機会に見ることにし、
途中で見つけたスターバックスで休憩しました。

山形でも見た、ドライブスルー付きの広々した郊外ならではのスターバックス。
いいなあ。こんなのが近所にあったら毎日行ってしまいそう。

前回連れて来ていただいた八食センターに行ってみました。
もう鮮魚売り場は皆店じまいしています。

魚や貝などを持ち込んで焼いて食べるコーナーも、テーブルにいるのは一人だけ。

自衛隊で幹部の皆さんといただいた食事の汁物は「せんべい汁」でした。
この南部せんべいを入れた汁物は全てせんべい汁と呼ぶようです。

迷った末、ここならきっと美味しいに違いないと回転寿司に入ってみました。
意見交換会でのあとであまりお腹が空いておらす、マグロ、サバ、イカの3皿で打ち止め。

悪くはありませんでしたが、八戸基地で出たお寿司の方が美味しかったかな。

せっかくだからといちご煮を頼んでみました。
ホタテとウニが入っている力技料理ですが、やはりここでは身が少ない。
そしてこれが1000円というのは高いのかどうなのか・・。

あ、そして食べてみて思ったことは、わたしはおそらくいちご煮を
今後一生食べなくても全く構わないだろう、ということです。
好きな方には失礼かもですが、一種の裸の王様的料理なんじゃないかって気が。

まあ、回転寿司で食べたくらいで全てを評価するなという説もありますが。

せんべい汁を大量に提供するために科学力と膨大な予算をつぎ込んだ
八戸せんべい汁研究所が作った最終兵器、マ汁ガーZ。

一気に1000食のせんべい汁を提供することができるそうですが、
問題は2万円で買ったなべをイベント会場に運ぶ運賃が数十万かかること。

だそうで、これもう、どこかに固定するしかないんじゃないかしら。

 

さて、この晩もう一泊して次の日八戸を発ったのですが、翌日も寒く、
さすがは東北、と感心しながら帰って来たところ、東京も激寒で驚きました。

八戸基地の方にも、暑くなる前にもう一度いらっしゃいませんか、と
お誘いをいただいているので、蕪島神社まで上がってみること、
そして美味しいいちご煮でイメージを払拭することを主な目的に、
ぜひもう一度足を運んでみたいと思います。



平成最後の日

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みなさま、令和元年おめでとうございます。

ここのところずっと自衛隊訪問記事が続いたので、ちょっと息抜き記事です。
みなさまは平成最後の日をどのようにお過ごしになりましたでしょうか。

わたしは、自分の誕生日を祝っておりました。

まず、朝から各所(といっても数件ですが)より届く貢ぎもの、じゃなくて
プレゼントが届き、その中には妹からの渾身のセレクトによる(本人談)
花かごとか、

会員であるところの某クラブからのお花がありました。

平成最後の日、わたしとTOは、わたしたちにとっての平成を振り返り、
ついでにわたしの誕生日を祝うディナーに出かけました。

東京は雨でした。
東京駅周辺にはいたるところに警察の警備が立ち、ちょうどその時間、
今は上皇となられた天皇陛下が退位立正殿において最後のお言葉を述べておられたのです。

今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今、国民を代表して、
安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。

即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、
幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、
支えてくれた国民に、心から感謝します。

明日から始まる新しい令和の時代が平和で実り多くあることを、
皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

今日令和となって天皇陛下のお言葉も拝見しましたが、
単純に、驚いたことが二つ。

お言葉を述べられる上皇殿下のお姿が
記憶に在わす昭和天皇によく似ておられたこと、そして
令和の世になるや、新しい天皇陛下のお姿がすでに
後光が差さんばかりの威容に溢れてみえたことです。

わたしは国民の一人として、天皇を象徴とするこの国に生まれたことを
誇りにし、そしてただ代々天皇陛下の御世を何千年にもわたって受け継いできた
我々の父祖と歴史の重みに対し、ただ静かに感謝を捧げるのみです。

 

ついでながら一言差し出がましいことを言わせていただくと、皇位継承について、
人品卑しげな曲学阿世の徒や逆張り言論人気取りの俗人が、畏れ多くも
天皇陛下や皇族の方々のお気持ちを勝手に代弁したり、自分の反対意見には
「カルト」という言葉まで使って下賎で不毛な空論をぶつけているようですが、
所詮は日本の長い歴史のほんの一瞬生かされているだけに過ぎない身で、
数千年にわたる皇統の歴史に物申し、それを我々の世代で変えられると思うのは
あまりに愚かしく、そして何より不遜であるとしか言いようがありません。


ちなみに令和元年五月一日付で憲政学者の倉山満氏がこんなことを書いておられます。

「愛子天皇」待望論者たちよ、もう一度壬申の乱を起こしたいのか


この日の誕生日ディナーは東京駅前ホテル(仮名)のレストラン個室でした。
選んだのはわたしではなく、TOのサプライズです。

部屋にはテーブルが一つ、向かい合ってしみじみと?お任せディナーをいただく趣向。

ナプキンの襟元にパスタのファルファッレが使われていて洒落が利いています。

車で来ているうえ下戸同士の夫婦ですが、お祝いということで
ノンアルコールのスパークリングワインを注文しました。
ワインというよりサイダーという感じですが、
フルートグラスに泡が立ち昇っているだけで気持ちが華やぐというものです。

前菜は季節のカツオを使ったマリネ的一品。

魚はこれも季節のサワラをオリーブやアンチョビでコーティング?したもの。
彩にトビコをあしらって目にも鮮やか。

デザートは軽ーく、ムースで締めくくり。

デザートと一緒にTOから、わたしが大好きなサンダーソニアの花束のプレゼント。
誕生日のおかげで花に囲まれた元年を迎えることになりました。

崩御による元号交代という従来の姿とは違う御世代りではありましたが、
この日の東京都内の様子を見るかぎり、各自がただ粛々と
終わりゆく平成を噛み締めているような一種の静けさに満ちていました。

  ところで今年は海上自衛隊の観艦式が予定されていますね。
先日も、もし観艦式日程がわかり次第教えて欲しい、というメールをいただいたのですが、
海幕の中の方から聞いた話をここでちょっとさせていただきますと、
今年はおそらく例年より規模をスケールダウンすることになり、
一般の人の参加は厳しくなるだろうということです。   乗艦券が非常識な値段で売買されている事態を重く見たこともあるでしょうが、
今年はとにかく海上自衛隊に入隊する可能性のある若い人に
広報するということを主眼に乗っていただくというようなことを聞きました。   (くらまは41,500円、いずも40,500円という値段だったとか)   厚かましい団塊カメラ爺さんなんか載せる必要なし、とわたしも思います。     おまけ:この日帰りにうちの近所のオシャレ系スーパーで見つけたツナ缶。

ちなみに中身はポーランド製で、なぜとは言いませんがこれがこゴルゴっぽい気がしました。              

海軍潜水艇「X-1」バチスカーフ「トリエステII」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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先日海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら 」を見学ましたが、
今日はメア・アイランドの展示物の中でも潜水関係のものについてです。

このエントリを仕上げてから、わたしはインターネットでNHKの

映像の世紀プレミアム7「挑戦者たち」

を観て、その中の

深海に挑んだオーギュスト・ピカール教授

の紹介に思わずあっと声を上げました。
ピカールが深海に挑んだ潜水艇こそ、この時メア・アイランドで模型を見た
「トリエステ2」だったからです。

wiki

オーギュスト・ピカール。

当時のニュース映像音声によると(日本語訳はされていませんでしたが)

「教授とその息子はこれからバチスカーフで4000mの深海に挑戦する」

ということが説明されていました。

スイスの物理学者ピカールは、自分の発明した気球で成層圏に達した
最初の人物ですが、その技術を応用し、潜水艇を開発したのです。

それは理論上、水深1万6千メートルまで水圧に耐えられるとされていましたが、
気候上の不備で浸水してしまい、失敗。

そこでイタリアのトリエステという街のスポンサーを得て、
新たに作られたのが

トリエステ号

でした。

人員が乗り込むのは丸い「ゴンドラ」の部分です。

1953年、前人未到の水深3150mを目指した「トリエステ」号は
69歳のピカールと息子のジャックを乗せて目標を達成しています。

みなさん、ところでタイトルのバチスカーフという言葉聞いたことがありますか?

Bathyscaphe、-scape、-scaph

と綴るのですが、この言葉はピカールによって発明されたもので、

推進力をもち、深海を自由に動き回ることが可能な小型の深海探査艇

という意味を持ちます。

ギリシア語の「bathys(深い)」と「skaphos(船)」を合わせた造語で、
現在は深海探査艇のうちピカールが設計(デザイン)した一連の個体、
あるいは、それに類似したタイプを指す総称となっています。

初代バチスカーフ「トリエステ」は、最終的にマリアナ海溝に潜行を行い、
20万トンもの水圧に耐え、
深度約10,911メートルの潜行記録をを打ち立てました。

wiki

その「チャレンジャー海淵」はエベレストよりも高い、いや深いのです。
この時、老齢のピカールに変わって挑戦を行なったのは息子のジャックでした。
(写真上の人物)

成功の知らせを受けたピカールは、

「嬉しいかって?嬉しいに決まっているだろう」

と答え、その2年後に78歳でこの世を去っています。

「トリエステ」号の有人潜水記録は、その52年後の2012年に
「ディープシー・チャレンジャー」がほぼ同じ深度に到達するまで、
破られることはありませんでした。


ところでもしロレックスの時計を愛用している方がいたら
ロレックスの名声を高めたのが他ならぬ「トリエステ」であったことを
ぜひ知っていただきたいと思います。

 ROLEX History: 1960

Bathyscaph Trieste Record Dive.mpg

このチャレンジの時、「トリエステ」の外壁にはロレックスの時計がむき出して備えてあり、
1万メートルもの世界初の水圧に耐えたことでその性能が証明されました。

わたしがロレックスというブランドに惹かれるのもこの伝説あってのことです。
(流石にその潜水艇が『トリエステ』であることは今回初めて知りましたが)

カルチエの「サントス」もそうですが、現在ブランドと呼ばれるものには
それなりの歴史の積み重ねがあり、その物語ゆえに人々はブランドを支持するのです。

この、まるで白いクジラのような形の潜水艇は、

TriesteII(トリエステ2)

というバチスカーフです。

ピカール親子とは全く関係ありませんが、初代「トリエステ」のオ
マージュとして2号と名付けられた潜水艇で、設計は初代を参考に、
ここメア・アイランド海軍工廠で建造されました。

これが「トリエステII」の最初のバージョンです。
彼女は最終系になるまで何度か階層を繰り返して進化しています。

手書きの字がじわじわきますね。

メア・アイランドの対岸のまちが向こうに見えていますが、これはおそらく
建造中で艦体にカバーがかかっている状態だと思われます。

このカバーを外したものが下の写真。
船底のハッチからのぞいているのは乗員が乗り込む与圧室です。
ここから海底を目視しながら操縦を行うのです。

もちろん深海用なのですが、普通深海用というとできるだけ
圧力の変形を受けないように丸く作るものですよね?
「あの」マルゆですら、そのため缶詰工場で作らせようとしたくらいですが、
この形はなんともよくわかりません。

海上の「トリエステ2」。
イタリアの設計に任せたら、耐圧殻がこんなのになってしまいました。

軍用艇ではなく、さらに深海に潜水するということで、艇体は白です。

上の当博物館にあった説明(しかし字が下手すぎる)によると、
この写真が3回目の改装後で、下に保護のためにつけられた枠を外すと、

改装された後の艇体はこんなになっていたというわけです。

ようやく深海探査艇らしい耐圧殻に生まれ変わった「トリエステ2」。

この耐圧殻は信頼のドイツ・クルップ社製です。
(イタリア製が信用できないと言っているわけではありません)
この改装ももちろんメア・アイランド海軍工廠で行われ、この結果
新しい外殻によって水深20,000フィート(約6100メートル)まで潜航可能となりました。

海軍の所属ではありましたが、いわば「潜水夫」の仕事をする、
探索艇だったためか、「トリエステ2」は1969年秋までは
海軍の「備品」扱いで、艦船とはみなされていませんでした。

しかし、「トリエステII」が海軍籍に入れられるきっかけとなったのは
おそらくですが、この潜水艇が

原子力潜水艦「スレッシャー」USS Thresher, SSN-593

が1963年に沈没事故を起こした時、その捜索にあたったからでしょう。

海軍籍を与えられた「トリエステII」の船体番号は「X-1」。

そして1971年6月1日から1980年まで、深海潜水艇(DSV)として運用されました。

 

 

「トリエステ級」深海潜水艇は、その後、有名な「アルビン」に代表される
「アルビン級深海潜水艇」(『タートル』『シークリフ』『ネモ』)
に置き換えられて引退しています。

アルビン号

wikiによると「アルビン級」は乗員が多く、より機動性に優れているが、
トリエステほど深くは潜れない、と書かれています。

ちなみに、「トリエステ2」の最大乗員数は2名。
それではアルビンは何人乗れるのかな?と思ったら、

操縦士1名科学者2名(計3名)

たった一人しか違わんやないかーい(笑)


こちら海軍艦艇甲板上のアルビン。

 

 

さて、そのほかの潜水関係展示をさくさくとご紹介していきましょう。

潜水夫が潜水艦を抱えているモチーフ。
海軍工廠では、港湾における潜水作業が欠かせません。

一番左の絵はやはり潜水艦を抱え、海底に立って
お魚と対話している潜水夫が描かれています。

これらの写真は比較的最近、1984年ごろのもので、
上は「ダイビング・バージ」といい、潜水を行うプラットホームです。

こちらの白黒写真は皆1954年ごろのもの。
いずれもバージの上で潜水スーツをつけた潜水夫に、
ヘルメットを被せたりしているシーンばかりです。

これによると、メア・アイランド近海の水深はせいぜい12mくらいで、
深くはありませんが、3〜4時間以上は水温の関係で潜ることはできません。

海峡となっているメア・アイランド付近の海は濁っていて
水深2フィート潜ればもう何も見えず、ダイバーは手探り状態。
作業は大変困難になることが多かったそうです。

大変きつい仕事なので、ダイバーはローテーションで仕事を行い、
しかも潜水は一日一回だけとされていました。


ダイバーになるには厳しい体力テストが行われ、勤務中も
最大限のメディカルケアが施されましたが、それでも
引退は40歳と大変早い時期です。

昔の潜水はここにあった器具を見ても、大変過酷だったに違いありません。

説明はありませんが・・・これ潜水艦の潜望鏡じゃないですか?

しかも、「ノーチラス」を見たことのあるわたしに言わせると、
これは明らかに原子力潜水艦の潜望鏡です。

巨大な潜水艦の模型がありました。

もちろん人間が乗れるようなものではありませんが、模型にしては大きすぎる。

しかし、アップにしてみると潜水艦も輪切りにしてあり、
しかもそれぞれのパーツに番号がついています。

 

ここにあった説明です。

「造船路(シップ・ビルディング・ウェイズ)」

1939年、メア・アイランドには1番と2番、2つの造船路がありました。
1番路は通常全長600フィート以上の造船に使われていました。
2番路は450フィート級の船を作るための大きさではありましたが、
例えば潜水艦や駆逐艦クラスなら同時に2隻作ることができました。

1941年、新造計画が立ち上がると同時に、新しい造船路が必要となったので、
第3から8までの6つの造船路が一気に作られることになりました。
ここに来るためにナパリバー・ブリッジができたのもこの時です。

これらの造船路は皆450フィートでした。

どうもこの模型は、大量に造船路を作るにあたって用意された
潜水艦のモックアップだったということのようですね。

潜水艦基地のあるメア・アイランド。
今いるところは画面左奥の工廠の部分です。

SSN575、原潜シーウルフ

「シーウルフ」はこれもわたしはすでに見学したことのある、「潜水艦のふるさと」
グロトンで建造され、ここメア・アイランドで電子情報収集及び分析装置、
有線式遠隔観測機(通称「フィッシュ」)2基を搭載しています。

つまり、ソ連領海に侵入して情報蒐集を行うという特殊任務用の改造でした。

立派な潜水艦の模型ですが、艦体に書かれている「ソラノ」、
この名前の潜水艦はないので模型製作者の名前かもしれません。

もし実在する潜水艦だったらごめんなさい<(_ _)>


続く。

 

「我が272.155キログラム人生」〜アメリカ肥満事情 その1

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今日は連休スペシャルで息抜きの話題をお楽しみください。
最近息抜きが多いような気がするがと思ったあなた、それは気のせいです。


さて、アメリカに滞在すると、主にネタ探しのためにテレビを観ます。
日本人の感覚ではとても信じられない一般人の露出型番組は、
ある程度「やらせ」だとしても、よくこんな恥知らずなことを
と呆れるようなプライバシーをネイションワイドに公表する人が
それこそ次々と出てきて唖然とさせられます。

しかしその中でも、医療系に解決を見出す悩める人たちがテレビで
恥とその超肥満の体躯を晒し、その代償に局のお金で治療を受けさせてもらう、
という番組を今回はご紹介しようと思います。

なんども言っていますがアメリカにはデブが多い。
BMI30以上の比率は33%で日本の約10倍です。

この数字は18歳以上のもので、18歳以下の統計においても
18.4%と、こちらもアメリカは世界一のデブ大国ということになります。

この番組で紹介されていたのは、まだティーンエイジャーだというのに
ここまで体重を増やしてしまい、苦悩を味わう一人の少年。

太り過ぎで家族と一緒にモールに行っても10分で息が切れてしまいます。

「世界一太ったティーンエイジャー」、彼の名はジャスティン。

幼い頃から太っていて、洋服を探すのも一苦労だったとか。
アメリカには肥満専用のブティックなどもあって、
日本では考えられないほど太った人に「優しい」社会なのですが、
それでもやはりこう規格外だと自ずと限界があります。

ジャスティンは歌が上手く、心優しい少年です。
太りすぎて皆と同じことが何もできないこと、
何より、若くして死んでしまうことを恐れ、悩んでいます。

「普通の10代がしていることができるようになりたいんだ」

子供の肥満は、断言しますが100パーセント親のせいです。
ジャスティンの母親は、ただでさえ太りやすい因子を持って生まれた
息子を、その無知と愚かさで後戻りできないほどデブに育て上げてしまいました。

もちろん彼女自身も太っています。
モールを家族で歩くシーンを見る限り、夫のいない彼女は
マクドナルドで働いているようですが、自分自身が
職場の商品の愛好者なので、当然子供にもそれを与えたりするわけです。

料理は一切しません。

日本人のまともな感覚では、全く料理をしない親なんているのか?
と訝るでしょうが、実はみなさん、アメリカ人から聞いたところによると、
多くのアメリカ人は「料理をしない」のだそうですよ。

NYのおしゃれな女性の生き方を描いたSATCは、四人の登場人物のうち
料理をするのは辛うじてユダヤ人と結婚し彼に気に入られようとする時の
シャーロットだけで、皆外食かそうでなければ宅配の紙パック中華を食べています。

実際の例として、日系アメリカ人のわたしの知人の妹の家庭を挙げると、
彼女はカリフォルニア大学の数学教授と結婚していて、夫はユダヤ系。
本人はMITを出ていますし、彼の兄弟は全員がアイビーリーグ卒、
弟は弁護士で兄は医者、当然実家も裕福なのですが、
彼ら兄弟を育てた母親は家で一切料理をしたことがなかったというのです。

まさか、と思うかもしれませんが、アメリカ人は知的レベルと関係なく、
食に関してはとんでもなく寒々しい生活を送っている人が多く、外食以外は
レンジフードを自分の食べたい時間に勝手に作って自分の部屋に持っていき、
各部屋にあるテレビを観たりパソコンをしながら食べるのがスタンダード。
最近は家族揃っての外食すらしない家が多いらしいのです。

ジャスティンの母のような人は決して珍しくなく、これこそがアメリカを
超肥満大国にしている大きな土壌というわけなのですが、とにかく
気の毒なのは人より太りやすい体質に生まれてしまった彼女の息子です。

肥満に悩み続け、思い余ったジャスティンは、ある日自分で番組に応募しました。
突出した肥満であれば、採用されやすいし、もしそうなれば、
手術代をテレビ局に出してもらえる可能性があるからです。

アメリカの医療費はそれこそ目が飛び出るほど高いのが普通です。
病院の方は、患者が医療費を払えることがわかるまで決して治療しません。

わたしも昔、公園で遊んでいて腕を骨折した息子をERに連れて行った時には、

「帰国してから保険会社に請求するから今クレジットカードで払う」

となんども言っているのに、いつまでもPCをパコパコやるだけで、
痛みで呻いている息子をいつまでも診察室に通してくれず困り果てたものです。

ましてや肥満解消のための手術など、よほど経済的に余裕がある人でないと
とても手が出ないわけです。

ジャスティンは肥満解消の外科手術をしてくれる医者に
意見を聞きますが、こういう場合、全ての番組がそうであるように、
これだけ太った人にいきなりメスを入れることを医者は絶対にしません。

問題は彼の心臓です。
肥大しきった心臓は手術に耐えられないだろうというのです。

そのほかにも、睡眠時無呼吸症候群、糖尿病、高血圧など
10代始めにして王道の成人病のデパートである彼は、
手術前に自力で痩せることを約束させられます。

こちらは彼のお姉さん。
母親も姉も世間一般でいうとかなりの肥満ですが、それでも
弟ほど切羽詰まった状態ではないので、おそらく自分のことは
「ぽっちゃり」くらいの感覚でいると思われます。

医者に、「手術までに食事を改善して体重を減らせ」
と言われたので、姉はかなりやる気になっているわけですが、でもねー。

家族が一丸となって心を入れ替え、食事を見直したりしない限りは、
このクェストをクリアすることはまず無理だと思うんですよね。

とにかく、一番問題なのはこのカーチャンなんだよ。

自分が料理しないので、ジャンクフードを三度三度買い与え、
むしろそれをたくさん与えることが「愛情」だと思っている節があります。

息子が医師のカウンセリングを受けて、手術のために
悲壮な決意をしているのに、カーチャンはなんのてらいもなく
今までと全く変わらないジャンクフードを食べさせようとして、
息子に静かにブチ切れられるのでした。

息子さん、お母さんに怒りを吐き出してしまいました。

17歳の少年には食事を自分でなんとかするという術がありません。
頼りにできるのは母親だけなのに、その母親がここまで愚かだと・・・。

「わかってるのよ。でもどうしていいかわからないの!」

愚かな母親は息子の反撃を受けて泣き出します。
その向こうには彼女が買ってきた食べ物の山が(笑)

このかわいそうな少年と母親がどうなるのか、少年は手術を受けられるのか、
大変興味のあるところでしたが、ちょうどここで出かける時間になってしまい、
結局結論は見逃してしまいました。

今、その結果を検索するために

「ジャスティン テキサス アマリロ ファット」

でググったところ、大変嬉しいことに、彼はこの後体重を正しい生活によって
300ポンド(136キロ)減らし、(それでも特大から大になった程度ですが)
その後教会で歌の仕事に就くことになったということを知りました。

痩せておしゃれになり、イヤリングを付けた最新のジャスティンくん。
なんか肌も綺麗になりましたよね。
テキサスA&M大学(優秀!)への入学も果たし、歌手になる夢のために勉強もしています。


さて、次に、今回の本題となる番組を紹介しましょう。

「ジャスティン・ケース」(誰が上手いこと言えと)はこの番組、

「My 600lbs Life」

のティーンエージャー編です。
番組は、「毎年アメリカでは何百人もの肥満患者が
減量のための手術を受けている」という字幕で始まります。

タイトルロールにはこれまでの出演者の姿が映し出されます。
この男性の脚はリンパ浮腫によってとんでもない「もの」になってしまっています。

しかし、「彼らのうち長期的に手術が成功し健康体になって
痩せることができるのは5パーセント以下なのです」ひえええ。

下のセリフは、娘に押しつぶされた母と押しつぶした娘の悲しい会話です。

とにかく、100人のうち成功するのが数人しかいないとわかっていても、
現状を打開するには何かをするしかない、とすがる思いで
手術を受ける人が後を絶たないというのです。

ジャスティンが減量に成功したのは稀なケースということですが、
これは彼が若く、周りに彼を導こうとする人たちがいて
道を間違えなかったということなのでしょう。

「もうこんなのいや!死にたい」「大丈夫よ!あなたは大丈夫」

カメラが回っていても、出演者は感情をあらわにする場面が多く、
大抵皆絶望して泣いたりするわけですが、こういうのを見ると

「ここまでなる前になんとかすることはできなかったのだろうか」

と答えはわかっているのについ問わずにいられません。

「このシリーズは一年の間600パウンドの人生をもつそれぞれが
彼らの人生を取り戻すべくトライする姿を探求したものである」

はい。

アメリカでテレビを見るときには必ずキャプション付きでね。

今日ご紹介するのはなんと珍しい、29歳の双子の女性です。
ブランディとカンディ、それぞれ266キロ、273キロという体重の持ち主。

二人の寝顔から番組は始まります。

なんとこの二人、しまい二人で一部屋に住んでいるだけでなく
巨大なベッドにシーツも敷かずに二人で寝ているのです。

実はずっと寝ていたいくらい起きることそのものが面倒ですが、
それでも朝はやってくるので起きなくてはなりません。
散々苦労して起きて立ち上がり、シャワーを浴びるのです。

「全てのことがいちいち大変なの」

まだ彼女たちは自分自身で体を洗うことができるだけ
この番組の出演者の中ではましな方です。

「二人とも、もうただギブアップしたい時もあるの」

それでもシャワーを浴びなければ、巨大な肉襞の下は
たちまち汗疹で大変なことになってしまうのです。

この番組では太った人の体をごく一部をぼかして写してしまいますが、
あまりにも規格外れに脂肪そのものは全く隠す必要はないと考えているようです。

一日のルーチンがいちいち大変なのに、巨大な身体の二人の姉妹は
かろうじて身を寄せ合って狭いスペースで生きています。

毎日の繰り返しが苦痛では生きていくのもさぞ辛いことでしょう。

胃のある付近を洗うのが一番大変だと言っています。
手が届かないんですね。

それをいうなら膝から下は洗うことなど完璧に不可能なのではないか?
と思いますが、一体どうしているのでしょうか。

と思ったら次に答えがありました。
手の届かないところは片割れにケアしてもらうのです。
体を拭くのもお互いを必要とします。

二人の顔には笑いは一切なく、ただただ苦痛に満ちた作業を無表情で行うだけ。

映像を流しながら彼女ら自身が語るナレーターは切実です。

「本当に自分の身体が嫌い。腕にも問題があるの」

Burden というのは重い荷、積荷などのことをいいます。
それだけ食べたんだから当たり前だろ、とついいいたくなりますが。

それにしてもこの身体・・・どこがどうなっているのか。

この低いベッドに乗るのにも踏み台が必要なくらい足が上がりません。
シャワーが済むと二人は互いの体にパウダーを塗り合います。

この番組をいくつか見て知ったどうでもいい知識ですが、太った人は
これをしないと股擦れの症状が身体中にできてしまうのです。

こんな生活をしている二人はどんな幼年時代を送ってきたのでしょうか。
彼女たちに少しでも明るい明日はやってくるのでしょうか。

 

続く。



ネイビーズ・アプレンティス〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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 メア・アイランド博物館、今日は造船所の技術部についての展示です。

海軍造船所には、

ネイビー・アプレンティス・スクール

という初級技術者を訓練する教育機関がありました。
文字通り、初心者を熟練技術者、そして指導者のレベルに
導くための最初の道案内を行う重要な組織です。

「アプレンティス」(apprentide)

という単語はあまり日本では馴染みがありませんが、例えば
ポール・デュカスの「魔法使いの弟子」(ミッキーが演じたあれ)は

「Sorcerer's Apprentice」

といいます。
徒弟制度の弟子、というイメージでしょうか。

ここにはアプレンティス・トレーニングを受けていた学校の写真、
彼らが授業で使った設備がそのまま残されて展示されています。

右下の大きなやっとこのような形をしたものは「キャリバー」といって、
物差しでは測れない外周や内側を計測するための道具です。

学校で使われていた椅子は、作業用なのかアメリカ人が座るにしては
異常に座部が低く、脚は床に固定できるようになっています。

ロッカーの中にはメカニックの本、昔の保護用眼鏡などが見えます。

ふと上を見上げると、学校で授業に使われていた黒板がありました。
謎の数式が書かれていますが意味は不明です。

セイルロフト、「帆」関係を学ぶクラスの優秀卒業者が
金色のプレートに名前を残せる木の看板。

古いプレートはすでに黒ずんで、全く文字は読めませんが、
一番新しいプレートは1993年の卒業生です。

ところで、「セイル」というと布の帆のことですよね?
針と糸、ハサミ、ミシン、コンパスというのはわかりますが、
そこに原子力を表す電子マークが・・・・。

昔は帆を作っていたけど、近年は潜水艦のセイルについての技術を
勉強していた、ということでしょうか。

机ももちろんアプレンティス・スクールで使われていたものです。
左側の説明によると、スクールは1858年に始まりました。
つまり、ここに造船所ができるとほとんど同時に学校もできたということです。

SPUR GEAR、というのは平歯車のことです。
これは歯車の歯の拡大で、噛み合う部分も含め、その仕組みと
部分名称を学ぶための模型です。

「ホールディプス」(実際の深さ)と「ワーキング・ディプス」(稼働する深さ)
の微妙な違いなどが説明されていますね。

実際に活躍した踏み台の上にある黒くて長いものは、
ツールボックスです。

PLUMB ALIGNER BRACKET。

配管を結合するブラケットという感じでしょうか。
しかしそれにしてはたいそうな木箱に入れられているのが不思議です。

右の写真はアプレンティススクールで学ぶ少年。
名前がラッセル・ワグナーくんということまでわかっています。

今日はこどもの日なのでこのエントリを選びました(嘘)


おそらく当時は子供を働かせてはいけないという法律がなかったので、
彼のような幼い機械工も時々は見られたのでしょう。

左は、1963年にアプレンティス過程を終え、晴れて一人前の
技術者としてこれからスタートします、という53人の卒業生。

よく見ると二人、アフリカ系の卒業生がいます(上から3段目と4段目の左から2人目)。

公民権運動真っ最中の時期に彼はここで勉強をして卒業したことになりますが、
ここでは黒人に制度上の対する差別はなかったということです。

海軍そのものがアフリカ系を昔から締め出していなかったので、
自然なことかと思われますが、まあ職場では色々あったんではないかと。

さて、ここからは学校ではなく、ラボラトリー、研究室などの機材の紹介になります。

これは一目見てとんでもなく古い機械であることがわかりますが、
なんと1890年ごろバッテリー部門で製作された充電器だそうです。

艦船に搭載し、船のバッテリーを充電するのに使われていました。

「デンジャー」と書かれた札がつけられたレバーをバチっと
反対側に倒して通電する、という原始的な仕組みだと思われます。

ラボラトリーでは、顕微鏡を覗いていたり、前掛けをして机に向かっていたり、
理科の実験室のようなのどかな雰囲気があります。

それではラボラトリーではどんなことが研究されていたのでしょうか。
左から、ラボラトリーという本、メジャリング・チューブ、
真ん中の生姜のような物体はなんと、フジツボです。

これは、塗装、ペインティングラボで飼育?されていました。
理由はお分かりですね?

そう、フジツボがつきにくい艦船の塗装を研究していたのです。

右側の茶色い塊、一番右側は全てゴムですが、これは
説明によるとガンマ線の防護を研究していたそうです。

γ線は電離作用により、DNAを傷つけるので発がん作用があると言われます、
致死線量は6グレイ前後で、防護は、現在、比重の重い物質
(鉛、鉄、コンクリートなど)で行いますが、他のα、β線より
遮蔽しにくい放射線と言われています。

なるほど、ラボのが当時化学実験室のようだった訳がわかりました。

インダストリアルラボラトリーの名前が金で刻まれた黒板がありました。

フジツボを育ていたらしい「ペイントショップ」の写真です。
防錆性、耐久性、それからステルス性も研究されたかもしれません。

工廠では女性も働いていました。
もちろん技術者というより、補助の仕事ではありましたが。

かつてここで働いていたお嬢さんたち。
機械の前に立っているのは右下のキャロラインさん。
左はイブ・ハッチンソンさんの若き日と現在のお姿。

そうやって研究した塗装を実際に行う作業がここで行われていました。

電気機器を含む、無線、レーダー、ソナー、そして暗号などの機械を
修理していいたショップで使われていた道具の数々です。

左からマイクロメーター、インジケーター、リキッドレベルセンサー、
圧力スイッチ、圧力計、ワークセンサー、などなど。
それを実際に使っている写真と一緒にあったりして、もしかしたら
ここは造船技術の細部について展示されている唯一の博物館かもしれません。

マイクロメータは、精密なねじ機構を使って
ねじの回転角に変位を置き換えることによって拡大し、
精密な長さの測定に用いる測定器のことです。

ノギスよりも精度の高い測定に用いられます。

ただの白いつなぎですが何か?

と言いたくなりますが、一応防護衣服ということになっています。
これにゴムの安全靴、防護メガネ、手袋などを付けます。

マスクはアスベストに対し特に有効でした。
これらは塗装を行ったり、剥がしたりする作業の時に着用しました。

左;回路をチェックする電流計

右;  電流計

左;電気抵抗を検査する機械

右;メグオーム(megohm)メーター、同じく。

原子炉、パワープラントショップなる部門もありました。

ここからは説明がなく、謎の機械が続きます。
第二次世界大戦中、海軍工廠で使われていた機械ばかりです。

これはわかる。扇風機。

これは同じようなのを「ミッドウェイ」のマシンショップで見た気がします。
空母に必要な部品を、彼らは全て艦の上で作ってしまうのです。

万力のような非常に原始的な機械。

素材を切断する機械らしいですね。

粉砕機のようです。
機械の設置にあたっては、かつての技術者たちが協力したようで
ところどころにその写真があります。

これは説明がありました。
Horizontal Turret Lathe、水平タレット旋盤です。

普通旋盤にタレットと呼ばれる、旋回式の刃物台を取り付けたもので、
タレットに複数の刃物を取り付けておき、
これを旋回させることで使用する刃物を切り替えていきます。

台の向きはこれ以外に垂直のもの(バーチカル)もあります。

これは何かわかりませんでした。
丸いテーブルで穿孔する機械のようです。

1935年当時のメア・アイランド造船所で働いていた人たち。
ソフトボールのリーグがあったようですね。

ここに描かれている人たちのほとんどが1800年代生まれ。
彼らのほとんどが、その後に始まる戦争の時代にここにいて、
怒涛の時代、戦いに身を投じる艦船を建造し、送り出した経験を持つのでしょう。

 

 

 

世界一太った双子の苦悩〜アメリカ肥満事情その2

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 前回に引き続き、「My 600 lbs Life 」で紹介されていた太った双子の話です。

今や260~70キロの体重に揃ってなってしまった双子の姉妹、
ブランディとカンディ。
やっぱり生まれた時から太っていたわけではありません。

おそらく1歳くらいの写真でも、ごく普通のアメリカの赤ちゃんです。
しかし、彼女らは成長するにつけ、同じように太っていったといいます。

お誕生日の写真だと思われます。
こういうのを見ると、やはり親の食べ物の与え方が間違っていた、
ということを思わずにいられません。

「molested」というのはいじめられた、ということだと思われます。
いくら太っている人が多いアメリカとは言え、子供の肥満は流石に
大人ほどではないので、いじめの対象になったのでしょう。

小学校低学年の姉妹はもうすでにかなりの肥満となっています。

彼らの母親は彼女らほど太る体質ではないため、娘が揃って
ズンドコ太っていくことにあまり危機感がなかったようです。

「もしそれが深刻なことだと知っていたら・・・」

なんて言って泣いていますね。

異常に太っている子供の親ももちろん太っていますが、
得てして子供ほどではないので、日常に流されるままに問題を看過し、
子供のために何かをすることなく気がついたら手遅れになっているのです。

自分が食べるものもジャンクフードにアイスクリーム、レンジフード、外食。
当然子供にも惰性で同じものを与え続けるうちに
取り返しがつかない状態になってしまい、どうすることもできません。

前回のジャスティンくんは太っていてもその後頑張って体重を落とし、
一流大学に入学することができましたが、これほど異常に太っている子供は
失礼ながらあまり勉強もできないのではないかという気がしますね。

蔑まれ続けてきた姉妹は、より一層内にこもって、
何をするのも姉妹だけ、という人生を送ってきました。

世間と関わらなければ誰にも傷つけられることはない。

その生活は二人でようやく成り立つものであり、片割れがいなくなれば
自分も死んでしまう、そう思っていたかもしれません。(伏線)

不思議なことに、超肥満の彼ら彼女らが仕事をしているのを見たことがありません。
この「全部食べ物に消えてしまう」というお金にしても一体
どうやって手に入れているのか、番組では説明されることはありません。

生活していくために最低限のことをし、残りの時間は何をするかというと、
特大のソファに寝転がって、何か食べながら一日中テレビを見るのです。

右側の本棚にあるのは本ではなく、全てビデオです。

しかも彼女らの食べるものといえば・・・・

カロリーだけは高いが脂肪を増やす以外の
なんの役目もしなさそうな食べ物を口にする時、
彼女らは全く幸せそうではなく、苦痛に満ちて見えます。

こんなものを大量に食べ続け、1日寝そべってテレビを見ていれば
すぐに死んでしまうことは誰よりもわかっているのです。

「わたしは自分の体重にじわじわと殺されつつあるんだわ」

かろうじて体を動かすのはトイレに行く時だけ。

「最悪の事態になる前に止めなくてはいけないのに」

母親の容貌には若い頃の美貌の名残りが伺えます。
しかし、この家庭にも父親の姿はありません。
こういうことも双子の肥満に無関係ではないかもしれません。

無気力な目をして、それでも彼女は訴えるのでした。
このままではいけないとわかっていると。

「精神的にも健康から言っても、そしてお金だってちょっとは・・」

ん?「Little bit」?お金は「大きな問題ではない」ってことですよね。
どうやって収入を得ているのか本当に不思議。


さて、そこで彼女らはこの番組に応募し、「なんとかしてもらう」ことにしました。

ところで、自分では現状をどうしようもできなくて、藁をもすがる思いで
この番組の被験者に応募してくる肥満者はたくさんいるのだと思いますが、
テレビですので全員がその対象に選ばれるわけではありません。

しかしながら不幸中の幸い、彼女らは「年頃の、しかも双子」という
テレビ製作者から見て大変「絵になる」条件でした。

この番組にレギュラー出演している、肥満の人の外科手術を専門にする
外科医のオフィスは西海岸にあります。

番組に選ばれた彼女らはそこに行くのに車の長旅を決行。

移動中の食事はほとんどドライブスルーで注文したものを、車の中で食べます。
とにかく二人は「人目に触れたくない」のです。

「皆がわたしたちを見て色々いうので人前に出たくない」

そう言いながらストロベリーサンデーをドライブスルーで注文。

年頃の女性としてはそういう視線や軽口に耐えられないのです。

スモークハムのサンドイッチを4つ(つまり一人で二つずつ)注文。

「わたしたちのどちらが欠けても生きていけないの」

母親がドクターのオフィスで先に来て娘たちを待っていました。
緊張の面持ちでまず計量を行います。

妹のカンディの体重は587.9パウンド。266.7kgです。

姉のブランディは274キロ。

姉のブランディは自分の体重を直視することさえままならない模様だった、
と妹のカンディ。

267キロも274キロも同じじゃないか、という気がしますが、
姉より7キロも軽い?妹はちょっと余裕こいていますね。

番組でおなじみ、ヨーマン・ナウザラダン博士登場。
博士はイラン系でテヘラン大学を出ています。

いつも患者に言うように、博士はまず50パウンド(22kg)
一ヶ月の間に落とすことができたら、手術を考えよう、と言い渡します。

手術のリスクを軽減することと、患者に、自分の生活を
改善し、真剣に自分の体重に向き合う覚悟があるか試す意味があります。

長丁場の治療に備え、二人は家を借りたようです。
早速一ヶ月で22キロ痩せるために審議中。

手を自分のお腹に乗せているお揃いのポーズがちょっと可愛いですね。
太った人の番組を見ると、ほとんど全員が
自分のお腹をテーブルがわりに食べ物のお皿を置いて食事を取っています。

健気にもカロリー計算した食べ物を用意して、とにかく
これを食べ続ければなんとかなるだろうと作戦を立てます。

しかしこうなってもやっぱり自分たちで料理をしようとは思わないのね。

「とにかくわたしたち、やるしかないのよ」

不安そうなお姉さんのブランディ。

そんなブランディの顔に初めて笑顔が浮かびました。
一ヶ月食べ物を工夫しただけで30キロの減量に成功したのです。

妹のカンディは約32キロのウェイトロス。
見た目は全く変わってませんが。

しかし、博士は彼女らが減量の目的を達成したにも関わらず
検査結果が出るのを待つ間、手術を行うことを延期しました。

どうもどちらかに気になる点があったようです。

手術を先延ばしする理由、それは二人の心臓です。

「カンディ、君のEKG(心電図)はちょっと異常だった」

30キロ以上の減量をしたといっても二人とも堂々の200越え。
今の状態で手術をすることにはリスクが多すぎる、とドクター。

「一ヶ月でもう13〜4キロ痩せてください」

「がーん」(´・ω・`)「がーん」(´・ω・`)

ここに至って、二人は突然やる気モードになって料理の真似事を始めました。
カロリー計算したものを食べるだけで30キロ痩せたので、自信と弾みがついたようです。

「わたしたちの人生はまさに今やっていることにかかっているのよ!」

食べ物だけではなく、軽い運動も始めることに。
まあ、他にすることがないんですからやるしかないよね。

運動といっても、椅子に座ってベルトを引っ張ると言うだけのものですが、
それでも今まで何もしてこなかったのですから効果は絶大。

なんと、前回の計量から32ポンド(14.6キロ)落とし、
体重は226キログラムに。

「もう少しで500パウンドを切るわ!」

うーん、これが彼女に取っての「大台」ですか。

さらに、また一ヶ月後、カンディはそれから19キロ減らし、
目標の500パウンドを大きく下回る218キロに。

この嬉しそうな顔をご覧ください。

というわけで、まず妹のカンディがバイパス手術を受けることになりました。

続く。

 

世界一太った双子の姉妹、その後〜My 600lbs Life

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軽く流すつもりが我ながらびっくりのシリーズ第3話目、
「マイ600パウンドライフ」、ブランディとカンディの物語最終回です。

まず体重を400パウンド台に落とした妹のカンディがナウザラダン博士の
バイパス手術を受けることになりました。

日本でバイパス手術というとそれは虚血性心疾患に対して行われるものや、
同じ消化器系でも、アメリカとは逆に、疾患のある部分を迂回して
栄養が取れるようなバイパスを作るという手術を意味します。

それではアメリカの減量手術とはどういったものでしょうか。
それは、博士が言っているように、消化器を通過する食べ物を物理的に少なくし、
体重を減らしていくと言うもので、以前も説明したことがありますが、
ルーワイ胃バイパスと呼ばれています。

先生が説明していることをもう少しわかりやすく解説すると、
まず、胃を20~30ccの小袋に分け、その小袋に小腸(small intestine)をつなぎます。

食べ物が流れる小腸の途中に、胆汁と膵液が流れるように
もう一方の小腸の端を吻合します。

栄養の吸収をより多く控えたければ、小腸を長めに吻合、
少しでよければ短めに吻合、とここで調節を行います。

体に入ってくる食べ物の量は同じでも、手術で小袋をつくることによって、
吸収を悪くすることによってエネルギーの取り込みをさらに少なくするのです。

さらにそれに加えて、胃切除(sleeve gastrectomy)を行うようです。
胃をどのように切るのかは、このビデオを見ていただくとわかりやすいです。

Sleeve Gastrectomy Animation

バイパス手術だけでは200キロ超えた人には効き目が薄いようです。

そしてこれが動画の方法で切り取った胃のパート。
いかに彼女の胃が肥大していたかがわかります。

手術が終わり、自宅に帰ったカンディさん、

「ちょっとの間にものすごく体重が減った気がするわ」

いやそれ気のせいだから。

「もう二度とごめんだわ」

術後が辛かったことを言っているのでしょうか。

「辛い手術でしたが彼女は頑張りました」

次に体重の多い姉のブランディが同じ手術を受けることになりました。
カンディが手術を受けてから実に8ヶ月が経過しています。

「目標は胃切除の手術にまでこぎつけることだ」

なんか含みのあるセリフですね。

しかし、どうでもいいけどこの医療スタッフ、全員太り過ぎてね?
あんたらのバイパス手術は必要ないんかい、と聞いてみたい。

減量手術で有名な博士ですが、神様ではありません。
特にバイパス手術中、患者が出血、血栓、肺炎、心臓発作を起こし、
死亡することだってないわけではないのです。

もちろん患者はそうなっても医師を訴えない、という契約書を書かされます。

ブランディのような食べ過ぎを手術でなんとかするというのは、
実際問題大変難しいものだ、と博士は語ります。

いきなり場が騒然となりました。
ドクターやスタッフが走ったりしています。
ブランディの体は手術のストレスで肺塞栓症を起こし、心停止してしまったのです。

顔色を変えて駆け込んで行くスタッフの背中に向かって
ブランディは必死で叫ぶのでした。

「お姉さんに何があったの?!」

「彼女がわたしをおいて行くなんてダメよ。嗚呼神様」(直訳)

なんとか死なずに手術から生還したブランディですが、意識はなく
全身をコードで繋がれている状態に。

そして今だに血圧が下がったままのブランディ。
家族は待合室でただひたすら祈ることしかできません。

「下手すれば脳に障害が出ることもあります」

おいおい。

ブランディの意識がようやく戻りました。

涙に濡れた目を開け、なんとか自分が生きていることを確認。
とりあえず手術も成功したということになります。

回復後測った体重は70キロ当初から減っていました。
これでなんとか200キロくらいになったことになります。

最初の頃の無邪気に減量を喜ぶ様子はありません。

ブランディはその後89キロ減らして177キロに。
カンディは194キロ、約80キロの減量です。
手術が大変だっただけ姉の体重の方が少なくなってしまいました。

辛かった手術のことを思いながらも、若干表情は明るく。

手術は減量の第一ステップにすぎません。
これをいかにあとに続けていくかが目的であり、多くの人たちは
そこで挫折してしまうと言われています。

しかし、彼女たちが双子で何をするのも一緒であったことが、
今回その困難を乗り越えるのに大きな原動力となったのです。

二人は同じ手術を耐え、手術後励まし慰め合い、どうしていけば良いか
前向きに、しかも誰よりも熱心に話し合えるパートナー同士だったからです。

番組の勧めもあったのでしょうが、二人はジムにトレーニングに行くことになりました。

ジムの会員に大々的に紹介されて照れる二人。

こんな体でカーディオなどできるのか?と思いますが、
そこはそれ、皆腫れ物に触るようにやってくれるので大丈夫。

二人にとってここが「大きな前進のための第一歩」なのは、
二人きりの世界から初めて外に出たという意味があります。

二人の不安をよそに、ジムのトレーナーは懇切丁寧に、
彼女たちのための特別プログラムを組んで指導してくれました。

しかも、彼女らに気を遣って営業時間外にトレーニングしてくれているようです。

番組ではジムを紹介して減量を続けるとともに、
精神科医を紹介してメンタルをケアするということまでやってくれます。

二人の肥満の原因を作った彼女らの母も同行。

精神科医は彼女らの互いに対する精神依存の状態から聞いていきました。

互いに依存しすぎるのも問題だというわけでしょうか。

まあしかし、こういうセラピーにゴールはないのです。
ただ現状を聞いてもらうだけでも救いになるということもあります。

二人の肥満の原因を作った母親。(しつこい?)

実は彼女らの父はアルコール&麻薬中毒だったそうです。
子育てどころではなく、双子が泣くと親はシリアルをボウルに
ざらざらっと空けて勝手に食べさせたりしていたとか。

「時が来たら二人はきっといい方に向かって歩いていきますよ」

この精神科医の言葉はのちに実現します。

そして何回めの計量になるでしょうか。
カンディの体重はついに162キロに。

嬉しそう。

ブランディは約100キロの減量に成功しました。

そして診察の最後に、ナウザラダン医師は、彼女らを称えます。

「君は163キロの減量に成功したね」

「今どんな気持ち?」

嬉しいに決まってますよね。
初めて二人で笑っている様子を見た気がします。

この写真を見る限り、道は遠いという気もするのですが、
少なくとも彼女らは自分で歩き出しました。

二人がこの番組に最初に取り上げられたのは2016年のことです。
三年後の現在、その後彼女らがどうなったかというと・・・。

なんと妹のカンディさん、その後アフリカ系の男性と結婚し、
2017年の9月に可愛いベビーを授かりました。
全身が写っているわけではありませんが、随分痩せているのがわかります。

そしてもっと驚くのがお姉さんのブランディ。
2018年秋のスナップです。
この痩せっぷりは、おそらく100キロを切ったんですね。
彼女はカンディの娘のよき叔母さんとして人生を楽しんでいるようです。

そして、痩せてみればキリッとしたなかなかの容姿ではないですか。

どちらかが結婚したということは、互いに対する依存も今は
全くなくなったということになります。

全てがこのようにうまく行く例ではないのかもしれませんが、
彼女らはテレビに出られたことでその運命を変えることに成功しました。

インターネットに流れる彼女らの画像は多く、いかに彼女らが
アメリカ国民に応援されているかがわかります。

皮肉っぽくいうなら、こういうのも「アメリカン・ドリーム」の一種でしょうか。

 

 

USS「マリアーノ・G・ヴァレーオ」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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メア・アイランド海軍工廠では第二次世界大戦から潜水艦の建造、
あるいは改装を中心としてきました。

今日ご紹介する潜水艦「マリアーノ・G・ヴァレーオ」はその一つです。

最初に「ヴァレーオ」の名前に館内で出会ったのは、
こ海軍作業服の帽子の文字でした。

MINNELEYさんという元乗組員の着ていたものです。

その隣には「ヴァレーオ」の大きな模型、キールレイの時のペナント、
写真などのコーナーとなっていました。

潜水艦というと魚の名前をつけるのが普通ですが、たまに
人の名前が付けられることがあります。

「マリアーノ・G・ヴァレーオ」

は、カリフォルニア軍の指令であり、聖職者、政治家であった
マリアーノ・グアダルーペ・ヴァレーオ(1807−1890)
の名前から取られました。

カリフォルニアの英雄というような位置付けの人だそうです。
メア・アイランド海軍工廠のあるヴァレーオ(ヴァレーホということも)
の地名は、まさにこの人物の名前から取られました。

メア・アイランド生まれ、つまりヴァレーオ生まれなので
この名前が選ばれたのでしょう。

ところで、彼女と同じメア・アイランド産である
「ベンジャミン・フランクリン級」の潜水艦の3番艦は
USS「カメハメハ」といいます。

当級は全て人の名前が命名基準となっていて、スティムソンとか
マーシャルとか、我々も知っている名前が見られるのですが、
この「カメハメハ」(ハワイ王国の国王)のインパクトは強いわ・・。

 

手前の灰皿の真ん中にはカリフォルニア出身の彼女のために
クマと、それを取り囲む原潜を意味する原子力マークがあしらわれた
「ヴァレーオ」のマークがあります。

右は建造中の「ヴァレーオ」。
艦首の先が丸くくり抜かれており、そこに上っていく階段が地上から

長く続いています。
これは写真ではなかなか見ることがないシーンでしょう。

そして、左上の写真。
ここメア・アイランドに解体後展示されているかつての
潜水艦内部の前に立つ男性は、説明によると初代艦長、
J.K.ナンネリー氏だと書いてあります。

そう、この博物館には、「ヴァレーホ」の内部が残され、
展示されているのです。

それは、写真とは全く別の場所に背設置してありました。
解体された艦体から、コントロールルームと、それから潜望鏡を残し、
それをここに持ってきたのです。

潜望鏡は「生きて」いますのでのぞいてみて下さい、
と黄色い紙には書かれています。

潜望鏡とその周辺もそっくりここに再現されていました。
子供用に踏み台も用意されています。

急いでいたのでわたしたちは覗きませんでしたが、映画でよく
艦長がシャキーン!と下ろしてぐるぐると回すハンドルは、
さわれないように上げられたままになっていました。

潜望鏡の筒は固定されていて動かせないようになっていたのでしょう。

操舵手が二人で受け持つ操舵室。
映画「イン・ザ・ネイビー」では、ここに割り当てられた二人が、
賭け事好きと彼に賭けられた時ゴールを外したバスケットボール選手、
という組み合わせで、最初は喧嘩ばかりしていたという設定でした。

原子力潜水艦だからディーゼルエンジンとは全く違うというわけではなく、
あの時に彼らが乗っていたという設定の「バラオ」級潜水艦と、
この部分はほとんど同じという気がします。

従来と違うのはこの一番左のモニターでしょうか。

「ヴァレーオ」の推進はS5W (原子炉)でした。

原子炉型式名の S5W は

S = 潜水艦用
5 = 設計担当メーカにおける炉心設計の世代
W = 設計担当メーカー(ウェスティングハウス)

を意味します。

戦闘時に艦体が攻撃された時、原子炉だけは損傷に対する
完璧な抗堪性を備えている必要があります。

これは高安全設計の加圧水型炉であ理、高い信頼性を持ち、
耐久性もありました。

S5Wは1959年に建造された「スキップジャック」以降の潜水艦に搭載され、
1970年代中盤にS6G原子炉を搭載した「ロサンゼルス級」が登場するまで
アメリカ海軍原潜の標準型原子炉となりました。

 

上から見た潜望鏡。
これを覗こうと思えば、大人でも台の上に立たなければなりません。
その理由は、なんとかして外の景色を見せるため、
海軍工廠だったこの博物館の天井に潜望鏡を通したのだと思います。

それをするとスコープの部分がとても高いところになってしまったという・・・。

これが潜水艦部分全体を見たところ。
ハッチだった部分は木の蓋を作って塞いであります。

残された部分に人工呼吸のインストラクションがありました。
右側のキャビネットは

デジタル インターコネクティングボックス Mk9 Mod1

インターコネクトとは、、相互接続(する)という意味の英単語です。
電子機器や電子回路の分野で、半導体チップや電子回路間を接続し、
信号やデータを相互に送受信できるようにする伝送路のことです。

 

右上はこの博物館に「ヴァレーオ」を設置しているところでしょう。

下二つは進水式のときの写真です。
現在の自衛隊の潜水艦進水式は、全てピタゴラスイッチのように、
支鋼切断すればそれがシャンパンを艦首にぶつけて割り、
薬玉が割れて音楽隊は音楽を奏で、ピンが外れて艦体が滑り出す、
とそこまで流れるように進みますが、ここでの進水式は、
いわゆる「スポンサー」、偉い人の奥さんとか娘とか、とにかく女性が
艦首にシャンパンをぶつけて割る、ということを実際にしていたので、
艦首まで上っていく階段を作らなければなりませんでした。

進水式の時の各種報道です。
真ん中の写真に見える女性が「ヴァレーオ」のスポンサー、
ミス・パトリシア・O・V・ マクゲッティガン。

添えられた説明によると、

「ヴァレーオのグレイト・グレイト・グランドドーター」

で、カリフォルニア大学のシニア、つまり四年生だそうです。
(大学4年にしては老け・・・落ち着きすぎてません?)
面白いなと思ったのが、「クレイストリートの何番」と
この人の住所まで載せてるんですね。

わたしが好きでよく行く代官山のTSUTAYAの中にあるライブラリーカフェは、
お茶を飲みながら周りに置いてある本を自由に読むことができます。

中でも昔の「平凡パンチ」などの週刊誌は当時の広告も含めて世相を知る意味で
いつも食い入るように読んでしまうのですが、昭和40年代、高度成長期の記事は
なんというかどれもこれもイケイケでアグレッシブなものが多く、今なら絶対に
アウトだろうと思うようなプライバシー無視の煽り記事が多いのに気がつきます。

投稿者の名前が必ず住所と一緒に掲載されていたり、それ以外にも
通りがかりの女性の後ろ姿を勝手に撮って載せて好き勝手に批評したり。
中にはいきなり男性経験を聞くシリーズ(もちろん写真付きで掲載)などもあって
驚かされます。

なんか当時はとにかく今と全く個人情報の扱いが違ったんですね。


閑話休題、右側の新聞には二人の海軍軍人の写真が掲載されています。
左が初代艦長、ナンネリー中佐、右が司令のようです。

新聞のタイトルは

「日曜日、17番目のPーサブが(進水台を)滑り降りた」

とあります。
P-sub の”P"がわからなかったのですが、「ポーポイズ級」潜水艦は
1930年代の潜水艦ですし、「ペルシャン」級はロイヤルネイビー、
「プラウダ」級はもちろんソ連の名前ですし・・・。

はて、何を指してPと言っているのかな?


さて、

 

「SSN」(原子力汎用攻撃潜水艦、あるいは攻撃型原子力潜水艦)

 と

「SSBN」(弾道ミサイル原子力潜水艦)

のタンク・アレンジメントという図解がありました。

上がSSNで、「スタージョン」級原子力潜水艦、
下がSSBN、「ラファイエット」級原子力潜水艦の内部です。

適当にいうと、弾道ミサイルの方は隔壁とその他の装備がが前後に寄せられ、
艦体中央部分がごっそり何もありません。
「ラファイエット」級はポラリスミサイルを搭載しており、
昔グロトンの潜水艦基地併設の博物館見学記について書いたとき、

「41・フォー・フリーダム」(自由のための41隻)

と呼ばれていたということもお話ししたかと思います。

さて、「ヴァレーオ」ですが、彼女は就役後、、米国西海岸、カリブ海、
そしてフロリダの海岸沿いに沿ってシェイクダウン(慣熟航行)を行い、
パナマ運河通過も行いました。

そして1967年、母港であるハワイのパール・ハーバーに到着し、
第15潜水艦隊のもとで戦略的抑止哨戒業務を行いました。

初代艦長のナンネレイの似顔絵。
全てのサブマリナーがそうであるように、彼もまた
コネチカット州グロトンの潜水艦学校を出ています。

 

ところでこの変な潜水艦(艦体に84という謎の数字が)は
なんなのでしょうか。

もう一度、それからきっちり40年後の同一人物をご覧ください。
かつて自分が初めて息を吹き込んだ潜水艦のコントロールルームとの再会です。

こうしてみると背中が変な形ですね。

1994年、「マリアーノ・G・ヴァレーオ」は最後の哨戒を行いました。
最後にミサイルをオフロードし、最後にワシントンに寄港して、
「フリー・フォーティ・ワン」の一員としてその艦歴を終えました。

1994年、8月10日にパナマ運河を通過してサンディエゴから北上して
メア・アイランドに到着してから、「ヴァレーオ」は

11日間で3000回以上のツアーを主催

したとwikiに書いてあります。

一般人を潜水艦に乗せて航海することなど絶対にない我が国では
少し考えられませんが、この時には1日平均270回以上のツァーをしたと。

何かの間違いではないかと思い数字を確かめましたが確かにそう書いてあります。

 In port at the Mare Island shipyard the crew hosted
over three thousand tours of the ship in eleven days.

単にそれだけ人が来て中を案内したってことですよね?
最後に彼女を見ようと、人が訪れた、ということなんだと思います。

1995年、退役した「マリアーノ・G・ヴァレーオ」は、ブレマートンで
不活性化され、廃棄に伴うリサイクルプログラムに則って解体されました。
なので、ステイタスには「スクラップ」ではなく「リサイクル」と記されています。

彼女のセイルは今でもメア・アイランド造船所後のニミッツ・アベニュー沿いに
記念として設置されているのがグーグルビューで確認できます。

続く。

 

 

 

 

アメリカ海軍の制服いろいろ〜メア・アイランド海軍工廠

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カリフォルニアはサンフランシスコ北部に位置するヴァレーホ。
そこにかつてメア・アイランド海軍工廠がありました。

全盛期にそこで稼働していた工廠のほとんどは使われておらず、
建て替えられたり、放置されたりしておりますが、この博物館だけは
当時の工廠をそのまま保存して海軍博物館にして展示しております。

海軍のこの手のローカル博物館にありがちなことですが、
おそらくボランティア団体などによって運営されているため、
オープンしているのは週のうちごくごくわずか。

近隣の学校がトリップでやってくることもあるのでしょうが、
1日に一人来るか二人来るか、というような集客状況では、
それも致し方ないのかなという気がします。

わたしが見学したときには、ご覧の通り。
わたしたちと同時に入って来た初老の男性一人、そして別の男性がやはり一人。
わたしたち(わたしとTO)を加えて4人が本日の見学客の全てです(多分)

見学料は確か一人12ドル前後取られた記憶がありますが、
こんなので大丈夫なの?とかなり心配になりました。

展示はこうやって俯瞰で見るとよくお分かりの通り、かつての工場に手を加えず、
展示用のケースなどもほとんど工廠のどこかで手作りした感満載の、
大変質素かつ簡単なものになります。

「イントレピッド」や「ミッドウェイ」とはあらゆる点で大違いですが、
わたしはある意味こちらにこそ大きな発見があるように思われました。

 

さて、冒頭画像は、みてお分かりの通り海軍のリクルートポスターです。

「若者はアメリカ海軍に求められている」

求む!ではなく、受け身になっているあたりがちょっとひねりがありますね。

「給与は月17ドル60セントから77ドル」

いきなりお金の話からはいるあたりが直球です。
月1900円から8500円、というのは物価的に見て、いつ頃でしょうか。

現在のアメリカ海軍だと、二等兵で1500ドルくらいから始まるそうですし、
そもそもこのポスターの制服は明らかに第一次世界大戦頃のものです。
1910年代のリクルートと考えればいいのではないでしょうか。

ちなみに現在の海軍の士官のお給料を大雑把に書いておくと、(月/ドル)

大将(16,000〜19,000)中将(14,000~17,000)少将(10,000〜14,000)

大佐(6,000〜11,000)中佐(5,000〜8,700)少佐(4,400〜7,300)

大尉(3,700〜6,700)中尉(3,300〜5,400)少尉(2,900〜4,500)

さすがはアメリカ、少尉クラスでも月30万から。
大将の給料は大企業とまでは行かずとも、企業の社長並みです。

下に行くほど給料の上下幅が広くなりますが、これは、士官候補生出身より、
下士官、准士官で士官任官した人の給料の方が断然高いからです。

これらは多分手当抜きなので、特に現場に出る軍人の手取りはもっと多いでしょう。
調べたことがないので知りませんが、我が自衛隊はどうなのでしょうね。


さて、ポスター続きです。

「各種手当、食費、宿舎、健康保険、最初の制服は無料」

二枚目からは自分で買ってね、ということのようです。
水兵さんの立っている岸壁の下にある文句は、

「能力に応じて昇進・昇給アリ」

みたいな感じでしょうか。

さて、それでは今日は博物館展示から海軍の制服をご紹介していきます。

・・・・と言いながら、これは陸軍の制服ではないですか。
映画や陸軍第442大隊の兵士たちの制服で(わたしには)おなじみです。

説明がほとんどないので(アメリカ人にはわかっているという前提?)
大変苦労したのですが、これは海兵隊の迷彩服のようです。(違ってたらすみません)

おなじみ海軍の看護士用制服白とブルー。
制服の下にはこの制服の持ち主の写真があります。

これを見ると、ジーン・ケリー、フレッド・アステア他一名の(おい)
"ON THE TOWN" 『踊る大紐育』を思い出すのはわたしだけ?

New York, New York - On the Town


確かあの映画、サービスのつもりかこのホワイトとブルードレス、
どちらも着用していましたよね。

なんども書いていますが、下士官の袖にある斜めの線は、年功章。
一本につき3年勤務したということなので、ということなので、
なんとこの制服の主は24年間「海軍の飯を喰った」ということになります。

下士官、ペティオフィサーの階級は三等海曹のE-4に始まって、E-9の
海軍最上級曹長、マスター・チーフ・ペティ・オフィサー・オブ・ザ・ネイビー
(MCPON)の最高位まであります。

MACPONのNはネイビーのN、つまり全海軍にたった一人の、
「下士官の総大将」とでもいう役職で、
マスター・チーフ・ペティ・オフィサー(MCPO)の
最高位(E-9)まで上り詰めた下士官という意味があります。

残念ながら写真に失敗して、なぜこの制服の上にカップルの写真があるのか
さっぱりわかりませんでした。

いわゆる「フルドレス」、最もフォーマルな場に着用する制服です。
映画「機動部隊」ではゲイリー・クーパーがパーティーでこれを着ていましたっけ。

40がらみで少尉から退役後まで演じたクーパー、当時は中尉という設定で

「提督の奥さんと踊って機嫌をとれ」

とか上官からいわれておりました。
一種のハニートラップを仕掛けろ、と若い士官に命令するわけです。

自分の妻が男前の若い中尉とダンスしてあからさまに喜んでいるのを
喜ぶ提督というのもあまりいない気がしますが。

1941年の海軍の制服です。

襟は黒のベルベット、それ以外の部分は黒に見えますが、
実はこれもダークブルーと称することになっております。
このフルドレスタイプの基本の形が決まったのは1830年で、
現在に至るまで時代に合わせた変化以外、大きなデザインの変更はしていません。

ちなみにこの一番左側は音楽隊のドラムメジャーの制服です。

ご参考までに、1898年のフルドレスですが、ほとんど違いませんね。

そしてこの頃は世界的に軍帽は(日本もそうでした)縦長のスタイルです。

今とほとんど同じ、中将の制服。

 

1905−1913年の制服で、一番左は海軍航空士官の航空スーツです。

海軍が航空機を採用したのは1911年。
すぐに非公式とはいえ専用の制服があらたに制定されました。
1912年の終わり頃には最初の海軍航空隊が発足し、グアンタナモ湾で
訓練を始めていました。

サッカー地に細かいグリーンのストライプ、グリーンのボタン。
もちろんこれまで見たことがない制服です。

階級章(軍曹)が付いていなければ軍服には見えませんが、海兵隊の女性用制服です。

海兵隊のユニフォーム、カーキ色のサービスドレスに対し、こちらも
ブルードレスと称しますが、これは本当にズボンがブルーなのでセーフ?

海兵隊のブルードレスは詰襟となっていますが、昔(1801年)、
刃物から首を守る革のベルト状のものを襟に使った軍服を採用して以来、
海兵隊の伝統として変わらず受け継がれている独特のスタイルです。

現在でも海兵隊のことを別名「レザーネック」と言いますが、
それはこの頃の「レザーの襟」が語源となっているのです。

ところで、海兵隊のページを調べていて、「フルメタル・ジャケット」で
陸軍のハートマン軍曹を演じたロバート・リー・アーメイは、
陸軍ではなく、海兵隊出身だったと知りました。

俳優、声優として有名になったアーメイですが、2002年、62歳の時
特別にE-7に「名誉昇進」しています。

退役してから昇進したのは、彼が唯一の存在だそうで、これは
退役後の「活躍」に対して軍が功績を認めたということに他なりません。

20184月15日、74歳で亡くなりましたが、wikiによると、
ニーラという妻も後を追うように亡くなっています。

43年ともに連れ添って、同じ年に相次いで亡くなったということなんですね。

 

帽子ばかりが集められています。

この帽子を提供した軍人は、いわゆる「シー・ビーズ」、設営隊の人で、
戦時中はアリューシャン列島にいました。

退役後もここヴァレーホに住んで、1991年に亡くなっています。

1975年から1980年の間にE-5 (二等海曹)だった女性のユニフォーム。
「シビリアン・エンプロイー」(民間人)で、機械室の勤務をしていました。

 全く全容がわからない展示なんですが、服です。

プロテクティブ・ギアというこの白い木綿でできた防護服は、
ゴム靴を履き、ヘッドギアを着けて完成します。

何から防護するかというと、アスベスト。

アスベストが肺癌の原因となる可能性があることは1938年に
ドイツの新聞が公表して明らかになりました。

第二次世界大戦中は顧みられていなかったアスベストの害ですが、
1964年の時点で世界的に公開され、1973年に製造者責任が認定されるようになって
訴訟が多発し、世界的に使用が削減・禁止されています。

日本では1975年吹き付けアスベストの使用が禁止されました。


余談ですが、かつてエラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロング
(最近ではレディ・ガガとトニー・ベネット)がデュエットした

「I Won't Dance」

というオスカー・ハマースタイン二世作曲のスタンダードナンバーには

「But this feeling isn't purely mental
For, heaven rest us, I am not asbestos」

(君に対する気持ちって、純粋に精神的なものじゃないんだよ
だって天国は目の前、僕だってアスベストでできているんじゃない)

火がつかない石綿を、相手の女性の誘惑にも理性を狂わされない
真面目な「石頭」にたとえているわけです。

Lady Gaga feat. Tony Bennett - I Won't Dance

(アスベストは1:23から)

rest usと韻を踏んでいるのでこんな言葉が使われたのでしょうが、
これが作曲された1934年はアスベストの害がまだ喧伝されていない頃だったのです。


制服シリーズの最後に、こんな「制服」も。
潜水服です。

1900年代の潜水スタイルです。
ヘルメットのMark Vは、今でもebayやamazonで結構売られていて、
下手すると70ドルくらいで買うことができます。

足元には潜水に必要なツールの数々が展示されています。

潜水服なのに、なんと素材はキャンバス地でした。
ロウビキしてあったのだと思いますが、耐水性などほぼなかったのでは・・。

深海で使うエアランプです。

これもダイビング・ランプです。
奥に立ててあるのは海軍が発行した潜水マニュアル。

潜水服に着ける靴はソールに鉛が入っています。
しかし、靴もカバーするものもレザーでできているというのが凄いですね。

このダイビングスーツは、ここメア・アイランド海軍工廠所属の潜水夫のもの。
ドックや港湾で潜水夫の必要な仕事はたくさんあるのでしょう。

それにしてもこのマーク・・・・(笑)

続く。

 

レギュラス・ミサイル搭載艦「グレイバック」と「ハリバット」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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メア・アイランド海軍工廠博物館の展示から、潜水艦関係を紹介します。 

わたしが2年ほど前に見学したコネチカット州のグロトンが

「潜水艦のふるさと」

 

ということになっているのですが、ここメア・アイランドでもかなりの数の
潜水艦を建造しています。
というか、第二次世界大戦が始まってからは、潜水艦と潜水母艦しか
作っていなかった、といった方が正しいかもしれません。

それでなく、現役だった潜水艦の機能停止する作業もここで行われ、
例えばこれもわたしが見学したことがある史上初の原子力潜水艦
「ノーチラス」は、1980年ここでディコミッション(廃止)後、
コネチカットまで曳航され、グロトンで展示されているのです。

それにしてもサンフランシスコからコネチカットまでどこを通って・・・?
どう考えても西海岸を南下してパナマ運河しかないのですが・・・。

とにかく、メア・アイランドで建造されたディーゼル式潜水艦は27隻、
潜水母艦は4隻。
原子力潜水艦は1957年就役の「サーゴ」SSN583を最初に、
18隻を建造しています。(そのうち一隻は潜水艇『トリエステII』)

ここになぜか?メア・アイランドで廃止された「ノーチラス」(奥)と、
ここで最初に建造された原潜「サーゴ」の模型が一緒に並んでいます。

 

1950年代というのは、ディーゼルエンジンの潜水艦と、
原子力潜水艦の過渡期で、どちらもが同じ海軍で運用されていた時代です。

この時代からしばらくは、原潜とディーゼルボートの乗組員たちの間で
不毛な(しかし過渡期にはありがちな)対立が起こり、

「ディーゼルボート・フォーエバー」

なんてバッジが生まれたりしたということを書いたことがあります。

ですから、同じ新式のミサイルを、ディーゼルと原子力エンジン、
どちらの潜水艦もが搭載する、というようなことも起こったのです。

ニューヨークの「イントレピッド」博物館で、「グラウラー」という
ディーゼルエンジンの潜水艦を見学し、お話ししたことがあるのを
覚えておられる方もおられるかもしれません。

あの「グラウラー」が背中に積んでいた面妖なミサイル、あれを

レギュラス・ミサイル(Regulus )

といいましたね。
この写真の、潜水艦「グレイバック」 SSG574の甲板に見えているのがそうです。

そもそも「グレイバック」のSSGとは何を意味するかというと、

SSは「Submarine Ship」、Gは「Guided」

巡航ミサイル潜水艦(Cruise Missile Submarine)

で、つまりレギュラスミサイルという艦対地ミサイルを積み、
攻撃することを任務とする、ということでした。

このレギュラスミサイルについては「グラウラー」で述べましたが、
もう一度説明しておくと、あの!クルセイダーを生んだヴォート社が手掛けたもので、
レギュラスとは獅子座のα星の名前から取られました。

核弾頭を搭載し、二基の固体燃料ロケットブースターで発射され、
アリソンJ33ターボジェットエンジンによって飛行するミサイルです。

「グレイバック」は、史上初めて艦対地ミサイルを搭載した
歴史的なディーゼルエンジン潜水艦となりました。

ここには「グレイバック」の巨大な模型と、華々しい引き渡し式、

建造を手掛けた工廠ならではの工事中の写真などが飾ってあります。

この二つの円筒がどうなったかというと・・・、

この、艦首側の球二つですよ。
愛嬌があるというかなんというか。

「グレイバック」級2番艦だった「グラウラー」は、展示に際して
この部分から球をなくし出入り口にしてしまっていました。
うーん、こんなところから出入りしていたのかわたしは。

もっと変な写真をどうぞ。なぜ赤い。
それと、なんだかセイルが高くなってね?

と思ったのですが、ベトナム戦争に投入し、捕虜を救出するための
水陸両用潜水艦なるものにジョブチェンジしようとしたようです。

この変な二つの球は、レギュラスミサイル発射に必要だった、
というのはこれを見るとなんとなく分かりますが・・・。

どうもよくわからないのよね。この球の役割が。
レギュラスミサイルが海面に浮上しないと撃てない、ということと
関係ある、つまりミサイル誘導のためのものだと思うのですが。

どなたかこの球二つの役目をご存知だったら教えてください。

「グレイバック」の盾やハガキが飾られています。

ところで「グレイバック」ってコクチマスという魚のことらしいのですが、
なんか乗組員は勝手にクジラっぽいものを想像していたようですね?

マスとくじらじゃ全く別の生き物なんだが。 

「?????」

この「グレイバック」のハッチカバーの前に立った時、

MALE DIE (男性死亡)

の文字に首をひねりました。

現地にはなんの説明もないので、家に帰ってからしらべてみると、
「グレイバック」は、1982年1月、フィリピンのスービック湾で
潜水訓練をしていた士官一人、兵4人の「フロッグメン」が、
「グレイバック」に戻るためにチェンバーの中で待っていたところ、
酸素が供給されずに意識を失い、排水仕切っていないチャンバー内で
昏倒し、溺れて死亡した、という新聞記事が出てきました。

一人のダイバーは、たまたまバルブに腕をかけていて、
水の中に倒れずに済んだため、彼だけが生き残りました。

死亡事故といえば、これだけのようですが、ハッチカバーがなぜ
ここにあり、このような文字が書かれているのかは分かりませんでした。

さて、

「レギュラスミサイルはディーゼル潜水艦と原潜、
どちらにも搭載されることになった」

と書いたわけですが、その最初でかつ史上唯一のレギュラスミサイル搭載原潜が

USS「ハリバット」 SSGN/SSN-587

でした。
左から2番目の写真は、

「キャプテンブルースは110本ほどのハリバットを釣りました」

というなんじゃそりゃあ、なお手紙だったりします。
そして、一番左には、

「ハリバット、シーウルフ、パーチェ、リチャード・C・ウルフは
海軍から特別な任務を与えられたスパイ・サブマリンだった」

と書かれています。
これは後で説明しましょう。

「オヒョウ」を意味する「ハリバット」が就役したのは1960年。
レギュラスミサイルを搭載するためにデザインされた初めての原潜でした。

レギュラスミサイルは、艦体を浮上させなければ発射できません。
結局これが弱点となって、ポラリスミサイルに置き換わるのですが、
「ハリバット」はレギュラスミサイルを搭載するため、
喫水線が大変高いのが特徴です。


これを見ればよく分かりますね。
この写真は、「ハリバット」が行なった7回のミサイル実験のものでしょう。

左がレギュラス1、右が速度などを改善したレギュラス2の模型です。

浮上しなければ発射できず、スピードが遅いので撃墜されやすい、
という弱点を補うために2をせっかく作ったのに、
ポラリスミサイルと比べると陳腐化は明らかだったため、
レギュラスミサイルは「ハリバット」に搭載されたのを最後に姿を消しました。

「ハリバット」記念グッズの数々。
「グレイバック」が強面なのに比べて、口からレギュラスを吐き出す
ハリバットくん(ヒラメみたいな魚?)が可愛いっす。

左、「ハリバット」の「キール・レイイング」が行われている写真。
倉庫の屋根の上から見ている工事関係者、リラックスしてますねー。

右側は初代艦長の経歴など。

そしてこれが「ハリバット」の潜望鏡。
左のケースには気圧計や進水式で使われた槌などがあります。 

 「ハリバット」は、1965年にSNGから「Guided」のGを無くした
SSN(原子力潜水艦)に変更されました。

 そして、メア・アイランド海軍工廠でオーバーホールと改修を受け、
改修によって特殊任務艦として電子情報収集及び分析装置を多数搭載されました。

「スパイ・サブマリンになった」と書かれていたのはこのことです。

そしてその後真珠湾に戻り、太平洋艦隊及び第1潜水艦開発部隊に所属し、
1976年に退役するまで情報収集活動を続けていました。

アメリカが情報収集のための潜水艦を投入したのは、冷戦のためです。
「ハリバット」は、 

オペレーション「アイヴィー・ベル
(カムチャツカ半島からオホーツク海を経てソ連本国へつながる通信回線の盗聴)

CIAのプロジェクト・ジェニファー
(沈没したソ連潜水艦の引き上げの補助)

などを行いました。


ところで、レギュラス2は最初「ハリバット」に搭載するつもりでしたが、
ポラリスの方が優れているということになって1958年には廃止されています。

ということは、「ハリバット」は絶賛陳腐化決定のレギュラス1を
ずっと積んだまま哨戒を行なっていたということになるのですが、
それは「ハリバット」的には全く問題なかったんでしょうか。

最後に、この海軍工廠に残されていた、「ハリバット」の機関長だった人物の
感傷的なポエムをご紹介しましょう。


ハリバット 最後の航海

我々は家族も友人も置いてきた
太陽はゴールデンゲートに沈みつつあった
自由と、そして興奮の時間だ
今、ハリバットを最後の航海に出そう

その艦体は老いぼれ、装備はいかれ、
彼女が最後にミサイルを放ったの遥か昔だ
六ヶ月をかけて我々は最後の準備をした
ハリバットは最後の航海にでる用意が整った

海の上にいた九十二日間、なにが要求されたか
それらを全てやり遂げ 彼女は賞賛を受けた
今鐘が鳴る 歌が歌われる
ハリバットが最後の航海を行うこの時に

十六年の間 彼女は時として虐待された
出動に次ぐ出動に奔走させられた
彼女の乗組員がカリフォルニアの太陽を見ることは稀だった
そして今 彼らはハリバットに乗って最後の航海に出る

全てが終われば 我々は偉業を讃えてやろう
それをするのはただ 彼女の乗員だった栄誉ある者だけだ
長く 長く 航海を終える彼女のための鐘が鳴らされる
我々は忘れないだろう 彼女の最後の航海を

ワシントンはいう 彼女はもう歳だと
とても良い艦(ふね)だったのに 彼女の日はついに来なかった

装備はまだまだ現役で その外殻はまだまだ堅牢なのに

我々は彼女の最後の航海を この後もずっと覚えているだろう

ブレマートン(基地)で彼女は最後の年を過ごす
もし潜水艦が泣くことができるなら 彼女はきっと涙を流すだろう
だから最後 精一杯楽しもう
ハリバットと彼女の乗員たちの 最後の航海を

 (´;ω;`)ブワッ

続く。

 

"唇(リップ)が滑れば鑑(シップ)が沈む"〜メア・アイランド海軍工廠博物館

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 メア・アイランド海軍工廠の博物館は、
昔造船所だった頃の建物がそのまま使われています。

If you don't want to wear your goggles

pick out your glass eyes

while you can still see them

標語です。

「もしあなたがゴーグルをつけるのが嫌だったら、
まだその目が見えるうちに義眼を選んでおきなさい」

義眼のことは英語でオーキュラー・プロテーゼといいますが、
ガラスでできているため俗にグラス・アイズといいます。

ゴーグルをつけましょう、というよりインパクトがあって、
誰でもははー、と言いつけを守ること請け合いです。

真ん中に書かれている目玉は、義眼ってことなんですね。

メア・アイランドにあったナース・コーア、看護師部隊の募集ポスターは
二度目になりますがあげておきます。

応募は地元の赤十字で行なっています、と書かれています。

これも2回目ですが、1900年ごろの水兵募集ポスター。
昇進により増給アリ、みたいなことが岸壁に書いてあります。
月17ドルから77ドルまで支給、食費住居費医療費、
最初の制服だけ無料、とあります。

最初・・・ということは二着目からは自費ってことですね。

時々字が裏返っていて(RとN)、どうもこれがアメリカ人の考えるところの
「ロシア語っぽい」書き方らしいです。

ここにあるのでてっきり映画のポスター風標語かと思ったら、
本当にこんな映画があったんでした。

「これが(世界を死ぬほど笑わせた)筋書きだ!」(アオリ)

として、映画のタイトルは

”THE RUSSIANS COMING, THE RUSSIANS COMING"

”ロシア人がやってくる、ロシア人がやってくる”

The Russians Are Coming, The Russians Are Coming Movie Trailer

日本でも公開されていたらしく「アメリカ上陸作戦」という邦題がついていました。
アメリカのグロスター(東海岸)島にある日流れ着いてしまったロシアの潜水艦。

ロシア人が攻めて来たとの噂があっという間に広まり、島中が大パニック。
乗組員たちは半ば暴徒と化した島民に追い詰められて港の建物に立てこもり、
潜水艦も浮上して一触即発、ロシア潜水艦の乗員が島の子供を助けたことで
どちらもがホッとして戦いを止めようとしたところ、誰かが通報したため
空軍がやってきてしまいます。

さて、ロシア潜水艦と島民の運命やいかに。

Russian Submarines Beware

なぜこのポスターがここにあるのかわかりませんが、撮影は西海岸だったそうなので、
メア・アイランドが何か関係していたのかもしれません。

冷戦真っ最中のアメリカで、ロシア人が映画でどう扱われていたのか、
ちょっと興味がありますが、DVDは出ていないようです。

なぜ中国語のポスター(笑)

簡体字なので想像するしかないですが、普段の訓練が侵略戦争の備えになる的な?

全員顔が濃い(笑)
中国人の理想とする顔貌というのがだいたいこれでわかりますね。
若い頃の毛沢東は中国人にとってのハンサム、
北朝鮮の人の理想は若い頃の金日成だったと聞いたことがありますが。

こちらは何かの百周年で、労働階級の支配する政治万歳、
のような気がします。(適当)

"上に上がって手を洗っていらっしゃい!”

マッカーシズムというのはマッカーシー上院議員の告発をきっかけに始まった
いわゆる「赤狩り」ですが、これに批判的だった女性議員、
マーガレット・チェース・スミスが、マッカーシズムという汚い泥を
家(議会)に持ち込んだ ゾウを叱り付けています。

なぜゾウなのかというと、この「マッカーシズム」という言葉が
生まれたのが、この漫画が最初だったから。

曲芸のゾウを「重ねた赤いペンキ缶」の上に立たせようとする議員、
ゾウは嫌がって「ここに立てっていうの?」


これもマッカーシズム批判の戯画のようです。
赤いペンキ缶を持ち刷毛を振り回して人を追いかけているのがマッカーシー、
後ろに立っている人の看板には

「フランコとチャンのためじゃないならお前は非国民だ」?

真ん中の女性は嘆願書に署名してもらおうとしていますが、
人々は怖がって逃げているという・・・。

「私はFBIのコミュニストだった」

フランク・ラブジョイ主演、1951年の映画です。
FBIに所属する主人公が共産党本部に入り込み、スパイを行なっていた、
つまり当局に共産との情報を報告していたという話ですが、
これは実際にあったことだそうで、ある手記を基にしています。

赤狩りについては、例えば映画界でも告発された方、した方と真っ二つで、
調べられた俳優にチャップリン、ウィリアム・ワイラーなど。
反対運動をしたのは

グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、
ハンフリー・ボガート、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、
ベニー・グッドマン、キャサリン・ヘプバーン、フランク・シナトラ

で、逆に告発者側となったのは

ロナルド・レーガン、ウォルト・ディズニー、ゲイリー・クーパー、
ロバート・テイラー、エリア・カザン

など。

こういうのを見ても、どちらが正しく、どちらが間違っていた、などとは
後世になっても誰に判定することもできない気がします。

日本でも昔人気のあった女優さんが自称リベラルにまつりあげられていますが、
その年代の人って、この時代の「反マッカーシズム」は表現者としての使命、
と捉えてそれに乗っかることをよしとしているような・・。

今回の「空母いぶき」の佐藤浩市さんのあれも、本人がというより
どこかからそうするように依頼なり意向があったんじゃないのかな。

映画関係者は昔から反体制左翼が伝統的に多いんですよね。

最近、国の助成金で映画を作っておいて、その映画がなにやら賞を取ったら
国からの祝意を辞退したい、と言い放った監督がいましたが、あれもそんな感じ。

公権力と距離を保ちたいなら最初から助成金を断るべきだったよね。

水爆実験の時らしく、キノコ雲の根元に艦船の影が見えていますね。
なんでこんな不穏な画像を使うの?

まず、「それはここでも起こりうる」として。
「自警団(だと思う)に加わりましょう」と言うお誘い。

ニュージャージーのニュー・ブルンスウィックと言う街の自警団らしく、
ジェイズドラッグストア、マジェスティックベーカリー、メイドウェル家具店、
写真現像店、不動産屋、宝石店、ホテル兼レストラン・・。

つまり、街のお店が協賛しているというわけですが、
それにしても大層な・・・・。

自警って具体的に何をするのかというと、つまりこの流れで言うと、
赤い人を告発しましょう、ってことなんだと思います。

こえー(笑)

ここで時代は少し巻き戻り、戦時中のポスターを。

A slip of the lip can sink ship

「唇から漏れた一言がフネを沈めることもある」

向こうで真っ赤に炎上しつつ沈みゆく船、そして乗員は悲壮な顔つきで
(まあそうなるでしょう)助けの手を求めています。

その下には、

「部隊の移動、船の航路、武器などについて会話しないでください」

とあります。
真珠湾後作られた映画でも、日系人やドイツ人が会話に耳をすませている、
と啓蒙するためのシーンが描かれていましたね。

Loose Lips Might Sink Ships

その一言がフネを沈める

「このポスターは国家の勝利に寄与するための役割を担って、
シーグラム株式会社が作成いたしました」

企業がこんな啓蒙ポスターを作っていたんですね。
シーグラムは2000年にコカコーラに買収された飲料会社です。

アンクル・サム(アメリカ合衆国の擬人化)が、造船所の
工員たちにシルバーのお皿を運んでいる絵。

ジョージ・ミラーと言うのはカリフォルニア下院議員で、
民主党の議員です。


自由でない社会の自由メディア(Free media in unfree societies)

を標語に、アメリカ合衆国議会の出資で運営されていたラジオ。
現在でも放送は毎週1,000時間以上、28の言語で、短波、AM、FMおよび
インターネットによって行われています。
公式の任務は、

「事実の情報と思想を広めることにより、民主的な価値と制度を促進する」


「真実の」になっていないところがまともな気がします。
「真実」ではなく「事実」を伝えて欲しいですよね、日本のオールドメディアも。

こいつら、フェイクニュースを作り出すだけでなく、自分たちに都合の悪いことは
報道しない自由を行使して伝えないばかりか、例えばアリバイ作りのための記事に対しては
卑怯にも検索されないように検索回避タグを記事に埋め込んでましたからね。
事実を報じず真実を封じる、こんな団体を報道機関と呼ぶのか?って話ですよ。

アメリカも含め、今世界的に旧態メディアの劣化が極地に来ていると感じます。


「彼女に真実を聞かせずに育てないで」

ラジオ・フリー・ヨーロッパのポスターです。
あれ?こっちは「真実」か・・・・。

それでは聞きたい。
真実ってなんですか?

 

 

 


令和最初のかしま艦上レセプション〜海上自衛隊練習艦隊行事

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呉で卒業を見送り、神戸でお迎えして大阪で激励した日本国練習艦隊が、

愈々横須賀に入港してきました。

神戸の後、

中城、佐世保、大湊、舞鶴、呉、三机

とほとんど日本を一周して日本での最後の寄港地に到着し、
ここから約半年にわたる遠洋練習航海に出航するわけです。

呉では艦は最後のオーバーホールを受け、連休中、実習幹部は
それなりに休みを取ることもできたという話です。

というわけで、わたしも横須賀の艦上レセプションに参加してまいりました。

そしていきなりですが、写真はいつものKさんにお借りしたもので、
こちらは横須賀入港直後の練習艦隊を撮ったものだそうです。

こちらもKさん写真。
ヴェルニー公園はバラが今満開だったんですね。

護衛艦とバラを眺めながら歩いてみたかったのですが、車だったので残念。

この日TOとは一枚ずつ別々に招待状をいただいていたので、
わたしは招待状一枚につき一人許される同伴者もを誘い、
ご本人と打ち合わせの上、1730の受付開始より30分前に
横須賀地方隊の門付近で待ち合わせることにしました。

ところでいつの間にか地方総監部前の看板が変わりましたね。
明るいブルーに白字、大きく桜に錨マークが描かれ、
大変見やすくスッキリしています。

約束を10分すぎるという電話があったので仕方なくここで待っていると
さらにそれから10分遅れて同伴者登場。

おかげで、早めに入って行く人たちの観察?ができました。

車でそのまま入っていき、誘導に従って岸壁の柵沿いに駐車します。

ここで気がついたのですが、江田島で見送り神戸で出迎えた
「やまゆき」がいません。
改めて招待状を見ると練習艦隊は「かしま」と「いかづち」だけとありました。

「やまゆき」がいつから、なぜいなくなったのかわかりませんが、
大阪と神戸のレセプションで「やまゆき」艦長と話した限りでは、
遠洋航海に参加しないとはおっしゃっていなかったので不思議です。

 

練習艦隊は最近二隻艦隊が基本になっているようです。

帝国海軍の昔は基本三隻でしたし、自衛隊でも2002年から2016年まで
三隻編隊だったのですが、ここ3年二隻編成が続いています。

さらにwikiをみると、海上自衛隊開隊以来、1969年まではずっと
四隻で艦隊を組んで遠洋航海を行なっていたことがわかりました。

ちなみに最初の練習艦隊の陣容は、

「はるかぜ」「くす」「すぎ」「かや」

というものです。
幸運艦にちなんだ海自最初の駆逐艦を旗艦に、残る三隻は

「オグデン」「コロナド」「サンペドロ」

というアメリカから貸与された艦でした。

この時一気に貸与されたタコマ級哨戒フリゲート18隻にはなぜか
「くす」型として、全部木の名前が与えられています。

なぜ終戦直前濫造された「雑木林駆逐艦」こと
「松・橘」型の命名基準を用いたかが大いに気になります(笑)

まだ受付時間にはなっていないはずですが、もう人が入り始めています。

「かしま」の隣に係留されていたのは「たかなみ」でした。

「たかなみ」は東日本大震災の時もここ横須賀地方総監部にあって、
地震発生の報を受けるや海上自衛隊の先陣として東北沖へ急派され、翌12日、
宮城県石巻港近くの岸壁に孤立していた幼稚園児11人を含む135人を救助しました。

これを「レスキュー フロム ザ・シーの実践だった」というのは、
「たかなみ」艦長、米丸祥一二佐(当時)です。

レスキュー・フロム・ザ・シーとは文字通り海からの救出で、
元々は阪神大震災の教訓を元に、
第2護衛隊群司令部が作成したマニュアルに書かれています。

「たかなみ」艦長米丸二佐インタービュー


そういえば、この艦上レセプション会場で、東日本大震災のとき
横須賀地方総監として災害対応指揮を執った元海将にお会いしましたが、
総監としてのご自身と海上自衛隊の活動記録を書いたご著書には

「FROM THE SEA」

というサブタイトルが付いていたのを今更のように思い出しました。

前回ここに来た時には向こうの岸壁で「いかづち」の帰国を迎えたのでした。
今そこには「てるづき」など護衛艦の姿が見えます。

 

ちなみに今見えている左舷の錨が、江田島出航の時に泥に取られ、
艦長の判断で前進と後進をかけて引き揚げられたという、あれです。

この後のパーティで「かしま」に乗っていた幹部と話したところ、
舷側に立って今か今かと待つもフネが全く動こうとしないので、
おかしいなと思っていたら、艦内に入れという号令がかかったとか。

錨鎖が切れて飛ぶ可能性を考慮して甲板から避難させたのでした。

おっと、艦体に傷が付いてますが、これは出航までに塗り直しますか?

「かしま」舷門では、乗員が敬礼で一人一人をお出迎え。
看板の後ろにおられるのが「かしま」艦長高梨一佐です。

それにしても、この舷門に立つ自衛官の表情をご覧ください。

写真というのは不思議なもので、時として取り繕った本心を
見事なくらい露わにしてしまうことがあるものですが、
この写真からは、決して単なる儀礼やマニュアルからではない、
誠実かつ温かいホスピタリティの気持ちが感じられます。

一般人にとって自衛官に敬礼されながら軍艦に乗艦するというのは、
個人差こそあれ、多少の緊張を感じる一瞬だと思いますが、
こういう時の自衛官は、こちらに威圧感を感じさせまいとしているようです。

さて、入場するとやっぱりまず、お料理に目が行きます。
横須賀のスイカカーヴィングは、もうインスタに出回っているでしょう。

年号が令和に変わって初めての艦上レセプション。
というわけで字体も麗しい「令和」に鶴亀をあしらったデザイン。
「かしま」のスイカカーヴィング小隊放つ渾身の作品です。

神戸の艦上レセプションが割と最近だったので記憶に新しいのですが、
比べると気のせいかこちらの方が豪華なような・・・。

ご参考までにこちらが関西での同じ「かしま」メインテーブル。

何が大きく違うかというともう一目瞭然ですね(笑)
スイカにもギリギリまでカバーがかかっているので、どんな飾りか
乾杯の瞬間までわからなかったという・・・。

なんどもしつこいですが、初めての方のために書いておくと、
関西ではこうしておかないと皆乾杯前に食べ始めてしまうのです。

まさか「まだ食べないでください」と注意するわけにもいかないし、
自衛隊としては「オペレーション・ラップ」発動もやむなしだったと。

去年の練習艦隊司令官が奇しくも言ったという

「大阪では笑いを、マナーは東京で学ばせます」

が、この対応の違いに一部具現化されているというわけです。

関西では見なかった小さな番傘が可愛いですね。

これら和菓子も「かしま」キッチンで作るのでしょうか。
両レセプションを通じて食べなかったのでお味にはコメントできませんが、
和菓子店で売っているのと全く遜色ないこの美しさに感嘆します。

陸空の養食はもちろん、海自でも、和菓子が作れる職人が乗っているのは
「かしま」「はしだて」を置いて他にないかもしれません。

魚の口が爪楊枝で大きく空けられております。
この後の艦隊司令挨拶で、

「かしまの料理は世界中でいつも大変楽しみにされている」

と梶元海将補がおっしゃっていたように、かしまの料理がワールドワイドで
絶賛されていることはさておき、海外ではこの演出、(魚の頭を飾る)
同じようにするのかどうかものすごく気になります。

魚の眼が怖いどころか、刺身すら苦手(寿司はOKらしい)なのは、
我々が、子豚の丸焼きがリンゴを咥えているのを見るような感じ?
外国の方々との感覚の相違は埋めがたいものがあると思うのですが・・。

練習艦隊経験者に聞いてみたいことの一つです。

会場に人が増えてきました。
今回、練習艦隊は晴海に寄らなかったので、例年晴海と横須賀で一回ずつ催す
レセプションもこの日の一回だけになり、その分招待客も多かったと思われます。

横須賀地方隊の招待だけでなく、海幕の招待客、市ヶ谷勤務の自衛官、
元将官、政治家などが一堂に会するレセプションとなるので、
客層が関西と違うのは、当然といえば当然でしょうか。

会場のあちらこちらでは挨拶が始まり、名刺が飛び交っております。


そんな中、料理の写真を撮っていたら、新任少尉が声をかけてきました。

関西での艦上レセプションでも思ったのですが、今年の訓練幹部は、
一切飲み食いせず、来客に積極的に話しかけてきて、
パーティにおけるホスト役を積極的に勤めようとする姿勢が目立ちました。

何年かに亘って艦上レセプションに出ていますが、新任幹部が集まって
雑談していたりが目立つ年もないではなかったので、おそらく今年は
接客と社交について特に指導があったのかもしれません。

最初にお話しした幹部は「かしま」乗組で出港時トラブルの体験組。
水上艦艇志望ということでしたが、

「航空と潜水艦の適正もあるらしいのでまだどうなるかわかりません」

航空と潜水艦は身体条件が特殊なので、志望しても弾かれることが多いそうですが、
逆に、特にこの二つを志望していなくとも適正があれば候補に残ることもあるようです。

まだ誰も手に取っていない、おなじみ練習艦隊紙パック酒。
わたしはこうやって写真を撮っただけでしたが、レセプションが終わったら
TOがいつの間にかパックを3つゲットしてきていました。

「お酒飲まないのに・・・」

わたしがいうと、

「でも料理に使えるし・・・・それに」

「こんなのもあったから。写真撮るでしょ」

撮るよ。撮りますとも(笑)

かつて練習艦隊の遠洋航海に積んでいく変質しない酒を
海軍に納入していた三宅酒造さん、今年は遠洋航海に
ある意味これほど日本らしいデザインはないかもしれない、
アニメ風女性自衛官イラスト付きカップ酒で、攻めの姿勢です。

 

続く。

 

 

 

「国旗降ろし方」〜海上自衛隊 日本国練習艦隊「かしま」艦上レセプション

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令和最初の練習艦隊、その横須賀での艦上レセプションに参加しました。

さすがは海上自衛隊、時間ぴったりに会の開始を告げる鐘が鳴り、
練習艦隊司令官、梶元大輔海将補があいさつを行いました。

前回のレセプションでもアナウンス台の後ろに、
雷神風神の暖簾がかけてありましたが、これは「かしま」ではなく、
今日もメザシ状態でパーティ会場になっている「いなづま」から
借りてきているのではないかと思っています。

この挨拶で梶元司令は、本日のパーティに出席している実習幹部は
全員ではなく、乗員共々上陸中であるというお断りを行いました。

こちら、一体どこから撮ったのという攻めの角度からのKさん写真。
(よこすか軍港めぐりの船の上からかしら)

岸壁に幹部、曹士が整列している様子が写っています。
防大や幹部候補生学校ではありませんから、上陸前の点検とかではないと思いますが、
まあこんな感じで訓示を受け、上陸していったのでしょう。

どうやって出席組か上陸組かを決めたのかあとで実習幹部に聞いてみると、

「ローテーションなんですよ。
前回の泊地で出たら今回は上陸という感じで」

「そうなんですか。
じゃんけんで負けた人が出席してるんじゃないんだ」

これもレセプションに出席する来客が年々増えてきて、候補生全部では
どうしても会場が手狭になってしまうからなのでしょう。

それに今年はオリンピックの関係か、晴海寄港がなくなり、
レセプションが横須賀だけになってしまったため、仕方ありません。

しかしその配慮が大変功を奏し、何年か前の芋の子洗う状態ではなく、
少なすぎず多すぎず、ちょうどいい混雑具合だったことをご報告しておきます。

梶元司令のあいさつの後は、「かしま」「いなづま」艦長が紹介されました。
「やまゆき」の艦長のお姿が見られなかったのは大変残念です。

江田島での錨上がらない事件ではすっかり名を上げた(とわたしが思っているところの)
「かしま」艦長高梨一佐。

高梨一佐の艦歴について存じ上げているわけではありませんが、
これら一連の練習艦隊行事について話をしたわたしの知る範囲から、

「あの人はゴリゴリの艦乗り」

みたいな、もちろん賞賛の言葉を耳にして、なるほどと思った次第です。

 

また、前回少しお話ししたところの「東日本大震災当時の横須賀地方総監」
だった方にお会いした時、あまりこういう機会にお見かけしない方だったので、
珍しいですね、というようなことを言うと、

「いつもは来ないんですが、練習艦隊司令官の梶元海将補は、震災のとき
原子炉の冷却水のバージを曳いて搬入した部隊の指揮官だったんです」

震災発生後の3月24日、原子炉の冷却水が足りないという事態になったとき、
米海軍が提供した横須賀にあるバージ(鉄でできたはしけ)2隻を海上から
福島第一原発の岸壁に回航し、真水を補給するという、

真水作戦(オペレーション・アクア)

が横須賀地方隊から出された、という話はこの元海将の著書

「武人の本懐 FROM THE SEA 東日本大震災における海上自衛隊の活動記録」

で知っていましたが、もう一度確かめてみると、
最初に決定されたという概案にはちゃんと名前があります。

護衛・警戒部隊の指揮官には第11護衛艦隊司令・梶元大介一等海佐を充てる。

当時、ニュースを食い入るように見ていたわたしたちは、

「バージを牽引して冷却水を」「アメリカ軍が貸与」

といった断片的な情報とはいえ、このことを知っていました。
現在、作戦名で検索しても、当時のニュースと、このyoutube、

 米軍貸与のバージ船が福島第1原発に接岸=日米共同の「真水作戦」
 

5年後、参加した隊員が語った朝日新聞の記事しか出てきません。

作戦実行時には岸壁に横付けすることを「突入」といったそうですが、
朝日新聞の海自提供によるビデオを見ると、曳船艦橋にいる隊員は、
全員が背中に名前の書かれた防護スーツを身につけ、目だけ出した状態です。

突入する船には内側にタングステンを張り、被曝については最大限に留意して
隊員の健康の安全を図ったということですが、それでも
命令を下し、見送る指揮官の「私」の部分は、心で泣いていたに違いありません。

ともかく、この練習艦隊司令があの作戦に参加していたと知ったこと、
それはこのレセプションにおける大きな収穫の一つでした。

しばらくして、「かしま」から両艦に渡されたラッタルを渡り、
「いなづま」に移動しました。

こちらには屋根はありませんが、この日は実に素晴らしい五月晴れで、
日が落ちてひんやりとした気持ちい風が吹き渡る甲板では
こちらの方が横須賀の夜景を楽しむことができるという状態です。

「いなづま」の甲板で歓談している(この写真に写っている)人々の中には、
かつて練習艦隊司令官だったという方の姿もお見受けします。

ちなみにこの日お話しするしないにかかわらず、艦上で見かけた
元練習艦隊司令官は、指折り数えてみたら5人になりました。
わたしが存じ上げないだけで、もっと多くの元司令官が来られていたのかもしれません。

わたしが「いなづま」に移動したのは、そろそろ自衛艦旗降下の時間だったからです。
この日の日没は1836。

まず最初に、当直の海士が位置に着きました。
飛行甲板の端に引かれていた紅白の幕がカーテンのように開けられたので、
わたしはここに立って降下を見守ることにしました。

オランダ坂の下、ここが乗員の喫煙場所になっているようです。
一服していた一佐ズは、いきなりカーテンが開いて注目の的に。

「自衛艦旗降ろし方五分前」

で、当直の海士もやってきてまずは互いに敬礼で挨拶。

それが終わると後ろに立っている幹部に敬礼をします。

飛行甲板の端に立っていたわたしは、当直士官より前に出ているのにこれで気づき、
慌てて後ろに下がりました。

ところが下がった場所(周りに人がいて身動きできず)は
ちょうどライトが当直海士に重なってしまう位置でした(´・ω・`)

前回教えていただいた通りに記述すると、この時当直士官は手をお尻の後ろに。
海曹と海士は片手で旗の索を持ち、右手は腰のあたりに維持しています。

幹部は「休め」、曹士は「整列休め」の状態で時間まで約5分待つのです。

今思ったのですが、これ、いかなる天候の時も同じやり方ですよね?
土砂降りでも、大風でも、身を切るような寒さでも・・・・。

東京の客は皆マナーがいいので、写メを持って当直士官の前に身を乗り出して、
注意されるというようなことは決して起こりません。

時間直前に、当直士官が左舷側に立っている二人の腕章をつけた士官と曹、
この二人に正対しました。

うーん、なんかこういうの初めて見るような気がするんですが。

見ているとまるでガンマンのように(笑)ほぼ同時敬礼。
女性士官は実習幹部で二尉は指導中とかかな?

階級に則って女性の方が一瞬早い敬礼です。

敬礼が終わると当直士官はまたもや待つ姿勢に。

艦橋からマイクで

「十秒前」

の声がかかり、で当直士官が「気を付け」します。
まだこの時には電飾は点灯されていません。

「じか〜ん」

でラッパ譜「君が代」が吹鳴され、「降ろせ」となります。
同時に電飾がパッと明るくなりました。

「君が代」終了と同時に降ろし終わって、「かかれ」(解散)。
解散するのに「かかれ」とはこれいかに。

旗をたたんでいるところに急ぎ足で近よる人影あり。

この後、二人で旗をたたむところも撮ろうとしていたら、
女性が近寄ってきて声をかけられました。

「『ネイビーブルーに・・』というブログされている方ですか?」

「・・・・!」

 

続く(笑)

 

艦上レセプションにおける社交〜海上自衛隊 「日本国」練習艦隊行事

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前回までのあらすじ

某月某日、横須賀地方総監部に寄港した練習艦隊旗艦「かしま」と
「いなづま」艦上で行われたレセプション会場。
国旗降ろし方をかぶりつきで撮影していた「わたし」に、
いきなり声をかけてきた女性の正体は?


「『ネイビーブルーに』っていうブログの方ですか?」

(前回最後とは若干セリフが違いますが、だいたいこんな感じです)

カメラを構えていたわたしに彼女はこう言いました。
当ブログ運営者であるかどうか聞いてこられたのです。

 

ところで余談ですが、わたしにブログのことで声をかけてこられる方、
(文章含む)は、なぜかタイトルの後半を省略する傾向にあります。

「恋をして」と口に出すのが気恥ずかしいと思う方が多いのかもしれません。

「恋をして」・・・・「恋」・・・・

確かに。

そもそも口に出して言えないような名前をつけるなよって話ですが、
わたし自身これまで自分のブログタイトルを口にしたことは今まで一度もありません。

人に口で伝えたり聞いたりすることを最初から想定していなかったからこそ、
こんなこっぱずかしいタイトルをつけてしまったとも言えます。

 

 

それはともかく、声をかけてこられた方は、元自衛官の奥様でした。

実は先の連休中、わたしは葉山で知人のヨットに乗せてもらったのですが、
そのちょうど前日、この元自衛官ご夫妻は同じ方のヨットでクルーズをして、
その航行中、わたしとそのブログ、「ネイビーブルーに」の話になったようです。

「奥さんがブログ見て”勉強されていた”らしいんですよ。
で、エリス中尉(仮名)さんがレセプションに行かれるならぜひお会いしてみたいと」

その元自衛官というのは他でもない、何年か前の練習艦隊司令官です。

当「ネイビーブルーに」の性質上、ブログ上では大々的にご紹介した訳で、
例によって微に入り細に入り、司令の箸の上げ下ろしじゃなくて階段の上り下りまで
克明に写真を撮ったばかりでなく、出国行事では奥様とご子息の後ろ姿までアップしたものです。

奥様はそれらに目を通しておられたばかりでなく、司令官クラスの妻に要求される
在日米軍軍人の夫人会との親睦会などの出席に当たって、
当ブログ「ネイ恋」記事を参考にされておられたらしい・・・・・ 

という「伏線」があったので、「いなづま」艦上で声をかけられたときも、
わたしは女性と一緒にいる元海将補の姿を見てすぐに相手がわかったのですが、
はて、それにしても、どうしてお二人はわたしがブログ主だとわかったんでしょうか。

「今までのブログの写真から見て、たぶん自衛艦旗降下の時に旗の近くにいけば
そこで写真を撮っておられるのではないかと思ったんです」

すごい。完璧にこちらの行動を読まれておる。
奥方、そなた何者?

 

「ネイビーブルーに」は細々とやっている個人ブログに過ぎないのですが、
時折このようなエキサイティングな(笑)出会いがあるだけでなく、
見知らぬ誰かに何かを(影響とか、きっかけとか、縁とか)与えたと知ることもあり、
そんなときには、ささやかながらも充実感を噛みしめるのです。

 

この後、奥様とは立ち話で散々盛り上がりましたが、特に

「出世する自衛官の夫を持った妻の気持ち」

など、日頃から気になっていたことなどを聞かせていただきました。
その時にうかがったところによると、

●自分の仕事のことを家で全く言わない夫、逆に言う夫がいる

元海将補は奥様の言うところの全く仕事のことを言わないタイプで、
急にこれこれここに行くことなったから、と言う事後報告なので、
(て言うか自衛官ってそんなものですよね)奥様としてはなかなか大変だったとか。

●階級が上に行くと、米軍夫人会などとの付き合いがあるので、
着付けや英語を習ったりする夫人もいる

偉くなる予定?の自衛官は妻になる人の社交的資質も考慮すべし、ということでしょうか。
英語や着付け以前に、人前に出るのが嫌いというタイプでは、ちょっと辛いかもしれません。

アメリカでは海軍士官はリチャード・ギアの「愛と青春の旅立ち」
(原題:An Officer and a Gentleman)を見るまでもなく、エリートで
結婚相手としては高嶺の花なので、当然妻のレベルは何かと高いはず。

ならばそのカウンターパートとしての自衛官妻はそれなりの実力
(主にコミュ力)が必要となってくる(はずなの)です。

●わからないことは先輩の夫人が教えてくれる

●自衛官の妻同士は結束が強く、助け合いこそすれいじめなどはない

●夫の階級をかさにきたマウンティングなど一切なし

 

そういえば陸自の将官からも、官舎での妻同士のトラブルの類については
全くない、との証言を聞いたことがあります。

陸海でそうなら、空自はさらになさそうですね。(単なるイメージですが)

 

とはいえ、長い自衛官妻生活の中には、この人には二度と会いたくない、
と言うような人もいなかったわけではない(婉曲表現)ということで、
これもまた人間社会の縮図である自衛隊では普通のことかと思われます。

そのうち他の方と話しておられた元海将補が話に加わられたので、
練習艦隊司令官としての一連の姿を追いかけ、それについて語ったわたしとしては
どうしても聞いてみたかったこの質問をしてみました。

「練習艦隊の司令官って、自衛官なら一度はやってみたい配置なんじゃないですか」

それに対する返事は、もちろんイエス、に続き、

「『日本国』と頭に付くのは練習艦隊だけですからね」

なるほど、海上自衛隊で唯一、一国を代表するという意味の冠をつけ、
日本国の代表として国際交流を行う艦隊の司令官なんですものね。
そこで奥様に、

「出航行事の時にご自分のご主人が司令官だなんてどんなお気持ちでした?」

と聞くと、

「挨拶とか間違えないかとか、そんなことが気になってしまって」

「でも〇〇さん立派でいらっしゃいましたよ。惚れ直したんじゃないですか」

奥様が返事をする前に、元司令官、

「そこはイエスでしょ?」

 

元海将は流石にパーティ会場では引っ張りだこで、わたしと奥様が話している間に
どこかにいってしまわれたのですが、のちにわたしとTOが一緒にいると
再び見つけて下さったので、ちゃんと夫婦でご挨拶することができました。

埠頭で練習艦隊の指揮官として立っておられた姿がまだありありと記憶にあるのに、
その同じ方とこんな会話をしていることが何かとても不思議な気がしました。

 

ついでにいえば、わたしは自衛隊で、指揮官、将官クラスの自衛官と
その奥様に何回もご挨拶してきましたが、

出世する自衛官の夫人は明るくて可愛らしい感じの人が多い

ことに気がつきました。
もちろん例外もありましょうが、夫婦仲のいい人、愛妻家が多いのは確かです。

練習艦隊の音楽隊は、各音楽隊の選抜メンバーで構成されています。

ジャズやラテン、時々は演歌などを演奏していた当夜のバンド、
海自つまり日本国代表として演奏を披露するメンバーだけあって、
大変お上手な方ばかりでした。

この時、東京音楽隊の三宅由佳莉三曹が遠洋航海に乗り組むという話を聞きました。

もしそれが本当だったらの話ですが、今年の夏、東京音楽隊は
カナダのハリファックスでのミリタリータトゥに出演するので、
三宅三曹は練習艦隊からでカナダに合流する予定なのかもしれません。

実はわたくし、今年、ハリファックスでの東音の晴れ姿を観るために、
夏の予定をタトゥーに合わせようとかなり努力したのですが、
どうしても予定が合わず、断念したばかりです。

いつもだいたい同じ時期にアメリカにいるわたしとしては、練習艦隊とも一度くらい
海外で遭遇してみたいのですが、これもいつも、西海岸に向こうがいればこちらは東、
といった具合にすれ違うばかりで、一度も実現したことはありません。

「パーティではホストたる実習幹部はすべからく客と社交を行うべし」

というお達示が出たかどうかはわかりませんが、これまでより一層、
会話を積極的にしようと向こうから話しかけてくるようになったおかげで、
わたしも今回は会場をウロウロして、めぼしい?幹部に声を掛け、
あれこれインタビューするまでもなく、何人かとお話ができました。

当ブログでは、大正時代の練習艦隊がハワイの公館での庭園で行われた宴会で、
明らかに社交を行わず、候補生(当時には任官前に遠洋航海が行われた)ばかりが
同じ場所で固まっている決定的な証拠写真を紹介して、

「日本人は海軍ですら社交がなってない」

と苦言を呈した?ことがあるのですが、戦後70年、令和の世になって、
日本の海軍士官の社交力はワールドスタンダードに達したということでしょう。

というわけで、わたしもこの夜はこの他に

●儀仗隊出身

●体力徽章付き、固定翼機志望

である実習幹部と話をすることができました。

「あおざくら」絶賛愛読中のTOは、相手が儀仗隊だったと聞いて大興奮。

「なんで儀仗隊を選んだんですか」(TO)

「なんとなく一番楽そうに見えたんです(´・ω・`)」

「あー・・・・甘い。甘すぎる」(わたし)

「甘かったです」

興味津々で色々とわたしも質問したところによると、
銃を落とした時の罰則は腕立て伏せで、回数も失敗の程度によって決まっている、
一番左で銃を回す人は一番上手いというわけではなく、最近は全員ができる、
(そういえば最後は全員でやっていたのを見たことがあります。

「蹴り倒せ」の練習の時、失敗して中央をくぐり抜ける人に銃が当たることもある

ということでした。

体力徽章の幹部からは、体力テストの結果は一年しか保たないので
次の年基準に達しなかったら返還しなくてはいけないこと、
基準は年齢が上がると低くなるということ、バッジをもらうには
陸上と水泳とふた通りあるが、陸上はやたら厳しいので、実習幹部バッジ保有者のうち
陸上でバッジを取ったのはたった一人であることなどを教えてもらいました。

また、実生活にはなんの役にも立たない自衛隊の話をたくさん知ってしまったぜ。

バンドが「蛍の光」の演奏を始めました。
かつての練習艦隊司令官が語っていたところによると、海外での艦上レセプションで
終了となって「蛍の光」が始まっても、彼らは日本人のように
これを聞くと足が自然に出口を向いてしまうという刷り込みがされておらず、
つまり出て行ってくれないので大層困ったということです。

海外で一体練習艦隊はどうやって客を追い出しているのか興味あるところです。

「かしま」に置いてあるモニターでは、去年の練習艦隊の映像が流れていました。
前海幕長、村川豊海将の姿も。

「かしま」を降りて配属部隊に向かう幹部たちの姿。
今彼らはどこでどんな任務に当たっているのでしょうか。

舷門に向かうと「かしま」乗員が通路に立ってお見送りしてくれます。
帽子をかぶっていない自衛官たちは一人一人の目を見て挨拶。

舷門にたつ自衛官たちは着帽しているので敬礼でのお見送りです。

「かしま」の舷梯は幅が広く階段は木製で、自衛艦のそれにしては一般向けですが、
それでも自衛官たちは降りる人の一挙一動をしっかり注意して見ています。

岸壁には、自衛隊が出した送迎の車がずらりと列を作って待っています。

あれ?車の左を歩いているのは女性の一佐だ。
もしかしたら東さん?

知り合いが降りてくるのを待っていると、いきなりサイドパイプが連続して
「ホヒーホ〜」「ホヒ〜ホ〜」と忙しく繰り返されました。

見ると、いかにも偉そうな自衛官の一個小隊がまとまって降りていました。
隊司令以上の自衛官が乗り降りするときに吹鳴するというのが号笛ですが、
一回吹くだけでも結構肺活量が要りそうなのを、これだけ繰り返すと、
サイドパイパーは貧血になってしまったのではないかと本気で心配。

江田島の幹部候補生卒業式行事でわたしがいじめられたご一緒した人のお姿もありました。
あれから周りの人に聞かされたところによると、この人はわたしが知らなかっただけで、
昔から自衛隊のイベントというイベントには必ず来られていたそうです。
お見それしました。

どんなときにも写真に写るようなど真ん中に進出していかれる性質のせいか、
写真を撮る人々にはどうにも評判は芳しくないようにお見受けしましたが(棒)

帰り、車を一瞬止めて「陸奥」の砲身越しに電飾の練習艦隊を撮りました。

このあと彼らに会うのは、出国をお見送りする行事となります。

 

続く。

河野克俊元統幕長の「ありがたい」発言の真意 @ 虎ノ門ニュース

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昨年の憲法記念日に安倍首相が加憲案を打ち出してからしばらくして、
当時の統合幕僚長だった河野克俊海将が、外国特派員クラブでの質問に答える形で

「自衛隊の存在を明記してくれれば我々にとってはありがたい」

と発言したことはまだ記憶に新しいところです。
河野統幕長の発言は一部メディアと野党がそれを非難し、ある議員などは

「統幕長を辞任するべきだ」

などと騒いだものの、それは大した問題にもならず収束しました。

その後河野統幕長は史上もっとも長い4年間の任期を無事に終えられ、
平成31年3月末で勇退し民間人となられました。

 

先日、その河野氏が、ネット番組、「真相深入り 虎ノ門ニュース」の
レギュラーコメンテーター、ジャーナリストの有本香氏の招きで、
当番組に出演されたのをご覧になった方は多いのではないでしょうか。

わたしもこの回を大変楽しみにしており、車で移動中の時間を利用して、
リアルタイムで片言隻句聞き漏らすまいと視聴していたのですが、番組の後半、
この時の「ありがたい」発言についての真意をお話しになっていたので、
当ブログでは、その部分だけを書き出してみることにしました。

なお、独自の判断で、口語だと意味のわかりにくい部分、重複している部分など、
省略したり、読みやすく編集していることをお断りしておきます。

 

● 顔の見える自衛隊になったきっかけ

有本 河野さんのキーワード『顔の見える自衛隊』これはどういう意味でしょうか。

河野 つまり「国民に顔の見える自衛隊」です。

防衛庁自衛隊ができたのが昭和29年、わたしも昭和29年生まれなので、
ともに今年で65年目を迎えます。

憲法9条の問題、つまり自衛隊は違憲であるという問題はは自衛隊創設以来あって、
それで自衛隊に対する国民の目が大変厳しい時代がずっと続きました。

わたしが防大に入ったのは昭和48年ですけれでも、この頃PKOの任務を担って
自衛隊が(海外派遣に)いくなど想像もしておりませんでした。

「存在する自衛隊」ではあったんですけど「動ける自衛隊」ではなかったんです。

平成2年に湾岸危機が起こり、サダム・フセインがイランに侵攻しました。
それに対して時のアメリカ大統領、パパブッシュが、
「これを見過ごしたら今後世界は混乱する」
と多国籍軍を編成して、皆で協力しておし返そうじゃないかという話になりました。

その時、「日本は何をしてくれるんですか」という話になったんですよ。

それまでの日本はお金を出すが人は出さないというやり方だったんですが、
やっぱりそうではなく人的貢献、つまり汗をかいてくれという話になったんです。

どうするかについて日本中が大議論になりました。
民間人に行ってもらえば憲法上問題はないんですが、
そんな状況ではない、自衛隊でないとそんな任務は担えないのです。

それで自衛隊を出す出さないという話になったのですが、
その時わたしも末端班員として関わってたものですから、(海上幕僚監部防衛班)
「家政婦は見た!」じゃないですけど、上層部の動きをずっと見とったんです(笑)

その時よく自衛隊海外派遣に対する反対論として出てきたのが、

「いつかきた道」、それから「蟻の一穴」
(自衛官を一人海外に行かせるとそこから派兵につながる)
「軍靴の足音が聞こえる」。

自衛官は決して特別な人間じゃありません。
わたしだって別に純粋培養されて自衛官になったんじゃありません。
よく考えてください。学校ではみなさんの横に座っていたんですよ。
自衛官って普通の日本人なんです、などと説明しなければならないような状況だったんです。

つまり自衛官海外派遣の反対論を突き詰めると
「自衛官不信論」に行き着くのではないかと痛感したんです。

しかし自衛官のどこが不信なのかと聞いてもわからない、漠然たる不信感。
それがどこからきているかというと、

「戦前の軍隊って悪かったじゃないですか、
自衛隊だって軍隊なんだから何やるかわからないじゃないですか」

そこにさっきの三つのキャッチフレーズ(いつかきた道、蟻の一穴、軍靴の足音)
をかぶせると、不信が倍加されていく。

その時絶望感に苛まれまして。いくら言っても信じてもらえないな、と。

自衛隊がそんな組織でない、ということは行動で示さなければダメなんですが、
そもそもその行動の機会も与えてもらえない。

創設以来自衛隊は訓練もやり、アメリカとの関係もしっかりやってきたんですが、
不幸にして国民からは顔が見えなかったんです。

顔が見えないと不気味ですよね。

ところが急転直下、湾岸戦争が終わった平成3年に掃海部隊の派遣が行われました。
自衛隊が任務を帯びて海外に派遣された先駆けでした。
これで機雷掃海を見事に成し遂げて、地域の方々からも大変な評価を受けて帰ってきたんです。

それでも相当な反対運動がありましたが、向こうでの活動などについて
テレビ放映でも取り上げるようになり、その頃から国民にようやく

「自衛隊の顔が見え出した」

のではないかと思います。

有本 報道の仕方がたとえ逆風ではあっても、とりあえず
自衛官の生の姿がテレビに映るというのが大きかったんですね。
我々と同じ普通の日本国民が、普通の青年が頑張ってる姿が見えたと。

河野 その後、相当の反対論もあるなかPKO法案が通りましたが、
これも掃海部隊の活動がなければ通らなかったと思います。

これで国際緊急救助隊という海外への災害派遣に自衛隊が参加できるようになりました。
今では、国際緊急支援には自衛隊が真っ先に出て行きますが、
このような人助けさえダメだった時代があったんです。

阪神淡路大震災では、都道府県知事の要請がなければ動けず、出遅れたので、
その反省から自衛隊が必要と判断すれば独自に動けるようになりました。

それがオウム真理教のサリン事件、インド洋オペレーションにつながり、
それが陸上自衛隊のイラク派遣につながって行きました。

そして東日本大震災が起きました。
自衛隊の活動が高く評価され、自衛隊への信頼が上がったと言われます。

ペルシャ湾からの一歩一歩の積み重ねが東日本大震災に至り、
日本人の9割の方が自衛隊を信頼しているという結果につながったと思います。

「顔の見える自衛隊」の時代になったので、それに応じて信頼感がたかまってきた。
この姿勢を貫いて行くべきだと思います。

有本「切ないのは、公的機関の中で信頼度がナンバーワンで、信頼度が高い。
これは自衛隊の人たちが自分たちで勝ち得てきた信頼以外の何物でもないと。
本来であれば政治が大変な仕事をしてくれている自衛隊に対する信頼を
持てるようにしなくてはいけないのに、その役割を果たしてこれなかった、
と安倍総理もおっしゃっています。

自衛隊の人たちの自発的な努力に余りに多くを負い過ぎているのは、
国民の一人としては申し訳ないというか間違っていないかと思うのです。

河野 隔世の感があるのが、最近は

「こういう法案で自衛隊を出すな!自衛官がかわいそうじゃないか」

という反対論が出ていることです。昔は

「自衛隊なんて何をするかわからないから制約をかけろ」

だったのに(笑)

それから

「自衛隊を海外に出したら軍国主義につながる」

だったのが、実際に出してみたらそうじゃなかった。
海外に出て任務が終わったら皆家族の元に帰っていく。
我々自衛隊はそういうことを身を以て示したつもりでした。

ところが安保法制の時にまた同じような議論になりました。

有本 統合幕僚長に就任されて2年目、中谷防衛大臣の時ですね。

河野 そんなに多くはなかったですけれど、同じようなキャッチフレーズがまた聞こえ始めた。
「明日から徴兵制」とか。

有本 安保法案の中身に不備があるとかではなく、いきなり「いつかきた道」以下略、
徴兵制という荒唐無稽なレッテルを貼っての反対論は国民として虚しかったですね。
こういうのは湾岸危機から始まったんですね。

河野 間違いなくそうです。わたしたちは身を以て体験しましたので。

 

有本 海外では軍人が軍服で歩いているのは普通の光景ですが、日本では
自衛官がユニフォームを着て外にでちゃいけないみたいな・・。

河野 いけないってことはないないですけどね。

有本 いけなくはないですか。
 日本では自衛隊に対する敬意が少ない気がします。
他の国では軍人は尊敬されますし、感謝の気持ちを向けますし。

例えば、ニューヨークで一年に何回かかどうかわかりませんが、海軍の船が着くと、
あんなリベラルなところなのにニューヨーカーたちが

「今日は海軍の若い人たちが街に繰り出してるよ」

と歓迎するんです。

「今夜は羽目外してどんどん遊んでもらわないと」

みたいな感じで。こんな雰囲気は日本にはないですね。

河野 いろんな見方があると思いますが、
わたしは、根本を質せば「憲法」だと思います。


● 連立方程式を解いた結果

有本「なるほど。
今までお立場上憲法について話すことはなかなかなかったと思いますが、
いろんな制約が憲法によってかけられているということですね。

河野 2017年に外国特派員クラブで講演を行いました。
憲法記念日に安倍総理が憲法明記論を出された直後だったんです。

有本 いわゆる9条三項加憲論というものですね。自衛隊を明記する、と。
これに対してあの時河野さんがおっしゃったことが非難されました。

河野 あの時はそんなタイミングなので聞かれるだろうと思っていました。
事前の打ち合わせでも『聞きたい』と言われていました。
それに対して「答えられません」でしたら何の問題もなかったのですが、
ただ、9条の問題というのは根本で、その当事者は誰かというと自衛隊なんですよ。

わたしはその時曲がりなりにも制服組のトップでしたから、
メディアからの質問を国民と我々をつなぐものとすれば、
国民が自衛隊に感想を求めていたということでもあったのです。

そこでわたしが答えないというのはそれこそ「顔の見える自衛隊」であると言えない。

今までならそういうことには踏み込まないのが「安全策」だったと思いますが、
わたしは一歩踏み出したのです。あれはだから「確信犯」です。

この問題についての当事者であるわたしは何らかの言葉を発する必要があると。
ただし、政治的な制約がかかっていますから、
わたしとしてはこの「連立方程式」を解いたわけです。

有本 ご存知ない方のために説明しておくと、憲法記念日に安倍首相が9条3項加憲論、
つまり自衛隊を明記するという案に言及したのに対して、河野統幕長が外国特派員協会で、
どう思われますかという質問に対し、「ありがたいと思う」と言葉を発したわけです。
一部メディアは「統幕長がありがたいとは何事か」と批判を行いました。

河野 わたしが自衛隊を憲法上明記して欲しいとか明記してくれとか、
してもらいたいとかはできないんです。

でもわたしが解いた連立方程式の回答は、

「憲法に自衛隊の根拠になるような条文が盛り込まれることになれば
それはありがたい」

国会が発議をし、国民が過半数で認めた状態になれば、わたしの気持ちとしては嬉しい。
自衛隊の厳しい時代を経験していますので、先輩などのことを考えると、
ありがたいというギリギリの言葉を述べたわけです。
わたしは今でもこれが政治的発言とは全く思っていません。

自衛隊が違憲というのは自衛隊ができた頃は有力な考え方だったんです。
保守と呼ばれる方だって自衛隊は憲法違反だというわけですよ。

社会党などは、

「自衛隊は違憲なので解散し、非武装中立で日本は軍隊を持たず
米ソどちら側にも属さず中立でいるべきである」

わたしはこれに賛成はしませんがこの論理はわかります。

しかし、

「自衛隊は違憲だが現状自衛隊は受け入れられているので、
国民が自衛隊をいらないというようになるまで
そのままの状態で仕事をしろ」

というのは到底納得できません。

有本 最高法規で認められていないどころかそれに反する存在なのに、
あろうことか一番大変なことをやらせようとしている。

河野 今自衛隊が憲法違反という方も、それが
国民に受け入れられているという事実は認めているんです。

ならば!ここははっきりと結論を出していただきたいと思うんです。

実力組織である自衛隊が憲法違反かもしれないという問題を抱えたまま
国家が進むのはもう限界だと思います。
違憲論も無理があるので決着をつけていただきたいんです。

 

あの発言が報道されたとき、統合幕僚長ともあろう方が「うっかり」
そんな失言をするとは思えなかったので、わたしはそこに必ず、
河野氏ご自身の強い意思があるはずだと確信していたのですが、
このときに氏がおっしゃった「連立方程式の答え」を聞いて、
まさにわたし自身の答え合わせも終了したように腑に落ちました。

 

 

ところで、自衛隊がその行動規範をポジティブリスト、やっていいことだけを決められ、
つまりリストにないことには手を出せないという状態なのはご存知かと思います。

今回、unknownさんがこの件でご意見をくださったのでご紹介しますと、
自衛隊が武力行使を始め、全てに抑制的なのは、もちろん憲法9条の
「戦争放棄」に起因するものですが、それだけでなく、このとき河野氏が番組でおっしゃった、

「自衛隊が共産革命等の内乱に備えるための警察予備隊から発展した」

ということも大きな要素ではないかというのです。

恥ずかしながら浅学ゆえ知らなかった部分なのですが、自衛隊法の第87条以降、
「自衛隊の権限」には、

「警察官職務執行法を準用する」

という箇所が「何度も何度も」出てくるのだそうです。

自衛隊法

 

少なくとも、今のポジティブリストを、ネガティブリスト方式
(やってはいけないことを決められている)に変えないことには、
自衛隊は「シームレスな危機」に対応できないのは確かです。

「警察職務執行法からの呪縛」から解放されるとき、
自衛隊は「使える軍隊」になることができるのではないか、
というのがunknownさんのご意見です。

 

加憲論については、テクニカルな点でも主に憲法学者からの反対が多く、
そちらについては前途多難が予想されます。

しかし、とにかく現実離れした9条を改憲するには、
まず憲法改正のための96条の改正をまず実現させていただきたい。

いずれにせよ、河野氏が統幕長として発した

「(自衛隊の存在を明記していただければ)ありがたい」

この言葉を

「同じ日本人である自衛官たちの総意であり悲願」

と受け止め、その意欲のある総理大臣が首長であるうちに、
自衛隊の存在が憲法で認められる日が一日も早く訪れてほしいと切に願います。

 

 

 

MiG-21とベトナム戦争時代の航空機〜スミソニアン航空宇宙博物館

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ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。

ただ飛行機を並べて個々の説明をしているというのではなく、
明らかに時代に沿ってテーマ通りに展示してあるのが嬉しいところ。

ベトナム戦争については、初っ端に

「主に共産主義の普及を阻止するための作戦として始まったが、
東南アジアにおける戦争は、四代にわたる大統領就任期間、
10年以上にわたる惨事の継続となり、その後のアメリカにとって
政治的、軍事的、社会的ジレンマとなった」

と厳しいことを書いております。
というかその通りなんですけどね。
こういう博物館でこの評価がなされるあたり、アメリカの言論が
まだまだ健全であることを感じさせます。


ローリングサンダー作戦に始まるアメリカ軍の航空攻撃は、
当初はハノイとハイフォンにあったミグ戦闘機基地への爆撃に
限られていましたが、その後は前線での近接戦闘と
敵航空機の制御が任務の全てになっていきました。

1972年末のラインバッカー作戦IIではB-52爆撃機による夜間爆撃、
戦闘爆撃機による昼間の鉄道、発電所、武器庫、通信施設、
ミグ飛行場、ミサイル用地、そして橋などを攻撃し尽くしました。

この作戦は11日にわたって行われ、15機の爆撃機を失いましたが、
終戦に向けた交渉を有利にする幇助となりました。

第二次世界大戦と違い、航空兵力の投入は勝利に直結しませんでした。

三年後、アメリカ軍は南ヴェトナムから撤退し、その後は
北ベトナムの支配による共産主義のもとで統一されることになります。

ベトナム戦争で爆弾を景気よくばらまいているB-52。(右)
左上はA-6 イントルーダーです。

アメリカ海軍が朝鮮戦争での経験から学んだことを一つ挙げるなら、
低空でも高いサブソニック能力を持ち、かつレンジの長い
打撃航空機の必要性だったといってもいいかもしれません。

しかもいかなる天候下にあっても、敵の防御を突破し、
小さな敵に対しても確実に「サーチ・アンド・デストロイ」、
つまり探し出し、そして破壊することができる、そんな飛行機です。

グラマンのイントルーダーはそんなニーズに応えるもので、
1960年に初飛行後、海軍には1963年、海兵隊には64年に配備されました。

ここに展示されている「A」タイプは海軍に1968年に配備され、
その後ベトナム戦争、その後1991年の砂漠の嵐作戦では
72時間の飛行時間を記録しています。

総飛行時間は7500時間、6500回以上の着陸を行い、
767回の空母着艦、カタパルト発進は712回と記録されています。

AIM-120 AMRAAM Missle

Advanced Mediun- Range, Air-to Air Missile、
の頭文字で「アムラームミサイル」となります。

中距離空対空ミサイルで、イントルーダーの足元にあったので
これが運用していたのかと思ったのですが、

F-14D, F/A-18, F-15, F-16

だそうです。

製造したヒューズ社は吸収合併されて、今では
ファランクス・シウスを作っているレイセオンが管理しています。

そういえば、5月17日のニュースとして、アメリカが日本に
F−35戦闘機に搭載するためのアムラームを160発売却すると報じられたばかりです。 

https://www.afpbb.com/articles/-/3225612

朝日デジタルでは、「先月墜落事故を起こしたF-35」となっていて実に不愉快。

マグドネル F-4S ファントムII

あの「ファントム無頼」連載時でさえ、老朽化がネタになっていたF-4が
まさか平成の終わりまで日本を飛ぶことになろうとは
何人たりとも予想していなかったでしょうが、
ファントムIIってベトナム戦争時代の飛行機っていう認識なんですよね。
アメリカでは。

製造元だってまだダグラス社と合併する前の名前が記載されています。
(合併してマクドネル・ダグラスになったのは1967年)

日本国自衛隊始め、アメリカでも空軍、海軍、海兵隊、
13カ国で採用されてきたマルチロール機、ファントムII。

ここに展示してあるのは1972年、海軍のS.フリン中佐と
彼のレーダー・インターセプトであるW.ジョン大尉が、
ベトナム時代に敵のMiG戦闘機を沿岸部から駆逐し、さらに
サイドワインダー空対空ミサイルでMiG-21を撃墜した機体です。

そのサイドワインダーミサイルが隣に展示してありました。

アメリカにとって初めての熱感知式の誘導ミサイルとして、
史上最も成功した短距離空対空ミサイルです。

1950年のデビュー以来多くのモデルが開発されてきていますが、
ここにあるのはそのスタンダードタイプです。

アメリカ国内で様々な航空機に搭載されたのみならず、
世界40カ国の軍に採用されたロングヒット商品で、
ベトナム戦争に始まってペルシャ湾岸戦争にも使われています。

さて、このファントムIIですが、さらにその後、
ベトナムの爆撃作戦第2ラインバッカー作戦にも参加しています。

その後海兵隊に所属が移り、F-4JからF-4Sに近代化されました。
この改装でエンジン(無煙に変更)ハイドロ、電気系統、
配線、翼の改良による駆動性などが全て向上しました。

その他、電波ホーミング誘導方式やフォーメーションライト
(蛍光で夜間視認できるテープ)の胴体と垂直尾翼への設置なども
この大改装の時に行われています。

展示機には最終的な所属先である海兵隊部隊、

VMFA-232 Red Devils

の塗装がそのままになっています。

これは珍しい。
ファントムIIのノーズコーンの中身が見えてます。

APGー59レーダーが搭載されている部分ですが、
wikiにはもっと鮮明な写真がありました。

同じくファントムIIの搭載している72型。

もっとわかりやすい、100型。
この写真は1982年のものだそうです。

ちなみに我が航空自衛隊はF-4J改にAPG-66Jを搭載していました。
改装が行われたのは昭和の終わりなので、当然これもその後
何かに置き換わっていると思うのですが、わかりませんでした。

・・・もしかして最後までそのまんまだった?

アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。

朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。

ベトナムではますます洗練された「賢い」兵器が投入され、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」だったということになりました。

(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)

これらの新しい精密兵器は、

「戦略的爆撃は大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」

という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。

とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとして、それでもなおかつ
カーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは怪しいものです。

 

さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・・・、
いわば「新しい波」がイラクを攻撃したということになります。

攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。

今更このブログで皆さんにご紹介するまでもありませんね。

ヴォート RF-8G クルセイダー

Rが付いているので偵察型のクルセイダーです。
そのほかの機体に比べてメンテがよくないようだけど気のせいかな。

つい最近も書きましたが、クルセイダーは初めての艦載型
ジェット戦闘機として、時速1600kmの高速を誇りました。

variable incidence wing (可変発生翼)

というのはクルセイダー特有の仕組みで、翼の迎え角を
最大7度まで気流に合わせて変えることができる上、
着艦時のパイロットの前方視界も確保できました。
これが艦載機パイロットにとって離着艦を容易にしたのです。

このシステムを搭載した生産航空機は史上クルセイダーのみです。

可変翼は艦載機として切実な問題である省スペースにも役立ち、
翼の先を折りたたむこともできました。

しかしそんな便利なシステムならどうして全ての艦載機に搭載しないのか?
と思ったあなた、あなたは鋭い。

これをするには翼にピボット機構を備えなくてはいけませんが、
このため翼そのものの重量が増大し、コストもかなりのものになります。

さらに、翼が前後に動く

可変翼(スィープ・ウィング)

翼そのものが変形する

能動空力弾性翼 (AAW)

などの他にも空力抵抗に対応する可変翼が研究によって生まれてきたため、
結局このシステムそのものは、クルセイダーのみに搭載されて終わったのです。

このRF-8Gは海軍で運用されていた最後のクルセイダーです。

F8U-1Pとして配備され、最初の7年間は海兵隊に所属して
南西アジアでの戦闘時間は400時間、総飛行時間は7,475時間。
これはクルセイダーの中では最も長時間となる記録です。

ここでの展示は、翼を折りたたんだポジションが見られます。

ミコヤン-グレヴィッチ MiG-21F " Fishbed C"

当博物館にはもう一機MiGが展示されています。

フィッシュベッドというのはそのまま解釈すると「魚の寝床」ですが、
これはNATOのコードネームであってソ連製ではありません。

ソ連ではその翼の形(三角形)からバラライカと呼ばれたそうですが。

MiG-21はソ連の第二世代ジェット戦闘機です。
1956年に試験飛行後、1960年にMiG-21F-13としてデビューしました。

ユニークな「テイルド・デルタ」のの機体は薄いデルタ翼を持ち、
それは操作性と高速性、中空域での優れたパフォーマンスと、
離着陸に適した特性を与えました。

その後MiG-21はソ連軍の要撃戦闘機のスタンダードとなり、
その後レーダーやさらにパワフルなエンジン、
アップデートを加えることでマルチロール・ファイターとなりました。

MiG-15ほどではないにしろ、12種類のMiG-21が、
30カ国の軍によって採用されたのです。

戦闘機として凄かったのが、機能の割に作りがシンプルだったことですが、
それゆえいくつもの派生形を生み、あまりにも種類が多くなって
機体の規格がまちまちなため、整備しにくいという欠点がありました。

とはいえその性能は、F-16が世に出てくるまで
世界のトップにあったというくらいです。

驚くべきことに、2019年現在でも世界各国の空軍に配備されており、
近代化改修を重ねて今後も多数運用し続けられるといわれています。

あまりにもたくさん作られたため、アメリカの田舎あたりには
自家用機として「趣味のMiG」を飛ばしている人がいるんだとか(笑)

このMiG-21F-13はワシントンD.Cにあるボーリング空軍基地で
行われた「ソ連軍武器展」で展示するために整備されたものです。

「ソビエト連邦を知る」

というトレーニングプログラムの一環として行われたもので、
歴史を忘れないようにという意味で企画されたということです。


ベトナム戦争といえば、こんなものもありました。

北ベトナム軍は戦争中に捕虜にしたアメリカ人を釈放するにあたって、
こんな統一されたスタイルをさせて帰していた、というのです。

ベトナム人はしないスタイルなので、これが彼らの思うところの
「アメリカ人らしい服装」だったということになるのでしょうか。
この服装に黒い革の鞄というのが定番となっていました。

これは1972年に捕虜になった空軍のバド・ブレッカー少将が着ていたものです。
少将も捕虜に?と驚きますが、もしかしたらパイロットだったかもしれません。
まる7ヶ月の間捕虜生活を送ったということです。

解放される時、POW、捕虜たちは「ハノイ・タクシー」
と呼ばれるC-141で祖国に帰されました。
彼らが最初に到着するのはあのフィリピンのクラーク基地。

ここで医療検査を受け、メディアのインタビューを受けてから
家族と友人の待つ祖国へと向かって行きました。

左は「ホーチミンサンダル」で、タイヤから作られています。
ベトコン御用達の定番ファッションです。

このデザイン、今普通にオシャレに履けますよね。
無印良品で売ってそう。

右は「ドッグ・ドゥ」トランスミッター。

ホーチミンの道に空中から落とされ、夜間何か動きを感じると
警告を発するデバイスです。
信号はCIA などによってモニターされていました。

どう見ても犬の落し物だが?と思ったあなた、あなたは鋭い。
「Dog Doo」で調べるとそのものが出てきますよ。

ところで、ベトナム戦争で登場したヘリは、ベトナム戦争の
象徴のようなイメージがありますね。

例えばこれは1967年に行われた「マッカーサー作戦」での一シーンですが、
ベル UH-1ヒューイが人員(右側に列を作っている)
を輸送するためにジャングルの中に切り開かれた部分に降りているところです。

 戦場での一シーンなのになぜか厳粛で美しいと感じてしまいました。
人々が天上から舞い降りる使徒の如きヘリコプターを待つ様子に、
祈りにも通じる、救済を求めてやまない思いが表れているからでしょうか。

 

続く。 

 

 

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