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自衛艦旗降下 @ 神戸埠頭〜海上自衛隊 平成31年 近海練習航海

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大阪シェラトンホテルで行われた水交会主催による壮行会のあと、
同ホテルに宿泊して次の夕方、わたしは「かしま」艦上における
レセプション出席のために昨日練習艦隊をお迎えした神戸に向かいました。

レセプション終了後、1日二本しかない羽田行きの最終に乗るため、
先に神戸空港のコインロッカーにトランクを預けてきました。

ポートターミナル駅まで向かうポートライナーからは
沈んだばかりの夕日の残照が染める空に浮かぶ瀬戸大橋が見えます。

ポートライナーの車内から見た岸壁の「かしま」。
車内の仕事帰りらしい乗客の多くはポートターミナルの見慣れない船に
目を奪われているように見えました。

岸壁に降りてから、「かしま」の舳先へと歩いて行ってみました。
岸壁の橋の車は関係者のもののようです。

岸壁ギリギリに立ってようやく「かしま」の艦首がフレームに治りました。
「いなづま」はどうしても入りません。

ラッタルの下にはセーラー服の海士くんたちが堵列を作っており、
彼らに挨拶をしながら艦上に上って行くと、今度は舷門で
海曹と幹部が敬礼でお迎えしてくれます。

前を行く海軍の艦内帽の方は海自OBでしょうか。

「かしま」は構造上、舷側を歩いていくと途中からなだらかな坂になり、
坂を下っていくと甲板に到達する仕組みです。
航海中のランニングには、多少のアップダウンがあっていいのかもしれません。

開場時間より早く着いたつもりだったのですが、乗艦してみると
すでにたくさんの人が乗艦しているのに驚きました。
今年は何と、チョコレートファウンテンが配備されています。
万が一転倒しても大惨事にならないようにアクリルのケースを付ける、
という気配りがされているのがさすが。

このチョコレートファウンテンは今年から導入された新兵器です。
ちなみにいくらぐらいで買えるのだろうと思って調べてみると、
家庭用は六千円から、業務用は何万もするようです。
何が違うのかわかりませんが、この装備、海外のレセプションで
さぞかし喜ばれることと思われます。

向こうの人、チョコレートファウンテン好きだからね。

今年一番驚いたのは、「かしま」にメザシされている隣の「いなづま」の甲板が
解放されて、レセプション会場が二倍になっていたことです。

しかも、もうすでにかなりの人で会場が埋まっているという・・。

去年の大阪港での艦上レセプションにお呼びいただきましたが、
とにかく「かしま」の甲板の大きさに対して来客が多すぎて、
大変な阿鼻叫喚(心象風景的に)となってしまっていたのを思い出します。

とにかく関西では「かしま」一艦だけでは無理!ということになったのでしょう。
他の寄港地でもこのめざし式にするのかどうか楽しみです。

両艦の間の通路も、一方通行となるようにラッタルを二基架けています。
ブリッジの真ん中から防舷物を挟んで並ぶ艦体を望む。

後ろに遠慮がちに?停泊している「やまゆき」。
「やまゆき」の甲板にはヘリコプターが搭載されているのでパーティには使えません。

「やまゆき」艦体の下から水が吹き出しています。
艦首の国籍旗は昨日入港の際掲揚されてそのままでしょうか。

会場に入ってすぐ、わたしはあることに気がつきました。
こんなにたくさん客が開場時間前に入っているのに、まだ誰も
料理を食べ始めていません。

普通そうだろう、食べ物に手をつけていいのは乾杯のあとだろう、
そう思ったあなた、あなたは大阪(関西か)を知らない。

去年も書いたのでご存知の方もおられるかもしれませんが、
関西におけるレセプションでは、どういうわけか、乾杯もすまないうちに
必ず誰かが食べ始め、そのうち我も我もと皆が食べ始めちゃうんですよ。

去年の大阪港で行われた艦上レセプションに、わたしは少し遅れて、
ちょうど艦隊司令の挨拶が終わったくらいに到着したのですが、
その時すでに皆食べ始めていたらしく(流石に挨拶中は食べずに聞いていたようです)
乾杯が始まった頃には雲丹などの高級食材が真っ先に食い尽くされ、
すぐにサシミ・イズ・ゴーン(なぜ英語)となって、こちらを驚嘆させたものです。

さすがに乾杯前に飲食が始まってしまうのは如何なものか、
と練習艦隊本部が本気で頭を悩ませた(のかどうか知りませんが)結果、
乾杯までラップで料理に蓋をすることで阻止する作戦に出たようで、
この日の神戸において、見事にその作戦は功を奏しておりました。

練習艦隊司令梶元大介海将補がまずご挨拶。
後ろの雷神風神の暖簾があり、この時は意味がわからなかったのですが、
後から「いなづま」から借りてきたものではないかと気づきました。

「かしま」艦長、「いなづま」艦長、そして「やまゆき」艦長。

今回は艦隊司令、全ての艦長にご挨拶することができました。
「やまゆき」艦長に

「いなづまの甲板を繋げてレセプション会場にするなんて、初めてですね」

というと、艦長は、練習艦隊に参加するのはご自身の遠洋航海以来初めてで、
それが珍しいことなのかどうかわからない、とおっしゃっていました。

「かしま」艦長に江田島出航における錨のアクシデントの話を伺ったのも
この艦上レセプション会場です。

そして「かしま」の鉄壁の守り、つまり料理にかけられたラップが
乾杯の発声と同時にはずされる瞬間がやってきました。

 

こちらに見えるのは海自のレセプションではもうすっかりおなじみになった
フルーツカーヴィング、つまり果物の飾り彫り。
今年はスイカを丸ごと使うのではなく、皮に彫刻を施しています。
はて、フルーツの中ににスイカは見えないようだが中身は何処に。

ラップをまとめる手がまだテーブルの上にあるうちに、
その脇から箸が伸びてきております。

わたしはそれらの賑わいをテーブルのこちらから見ながら、
手前にあるオードゥブルを食べ、(チェリー入りバターを塗ったフランスパン美味)
その後艦内回遊に突入したので、結局刺身は一切れも食べずじまいでした。

「練習艦隊」と書かれた舟盛りは「かしま」お得意の一品で、
魚が跳ねているように頭と尻尾をあしらい、さらには刺身に人参で
椿の花を作って飾りつけるという凝ったもの。

世界各地で「かしま」はその土地のVIPを招待するわけですが、
間違いなくこの舟盛りは彼らの見たことがないような「サシミ」となり、
海老や魚の頭を飾るというのもほとんどの外国人には驚きとなるでしょう。

日没時間が近づきました。

わたしは見通しのいい「いなづま」で自衛艦旗降下を見学することにしましたが、
もちろん甲板にテントを張った「かしま」でもそれは行われていたはずです。

自衛艦旗降下を行う「いなづま」の当直士官は女性自衛官でした。
彼女がオランダ坂の上に立ち、下の海曹海士による降下を見守ります。

告知があってから実際に降下を始めるまで、いつもかなり長時間待ちますが、
発動の何分前からこのようにして待機しているのでしょうか。

何れにしても10分くらい?の間、当直の3人は
手を後ろに回した姿勢で立って発動の時刻(とき)を待ちます。

海曹・海士の手が自衛艦旗の旗索にかけられました。

実はこのとき当直士官の周りには人が詰め寄せており、皆が
携帯を構えて旗掲揚の動画や写真を撮ろうと待ち構えています。

すると、一人の年配の方が当直士官と旗の間に身をを乗り出してきたので、
いくら直接的に邪魔にならなかったとしてもそれは宜しくないと思い、

「前に出られないほうがいいですよ」

とやんわり注意させていただきました。
まあ、こちらが思っているほど当の自衛官は気にもしておらず、
こんなものだと割り切っている可能性は高いですが、
一般人として艦にお邪魔している身なのだから、もう少し
自衛隊の儀礼に敬意を払いましょうってことで。
(あれ?最近同じようなことを書いたな)


ところで、この写真に写っている「やまゆき」の艦首にはまだ
艦首旗が揚がっていますが・・・・・・

「じかーん」

もうこの写真の「やまゆき」からは国籍旗が降ろされています。

士官が敬礼をし、ラッパ譜「君が代」の鳴り響く中、
ゆっくりした動作で二人が索を引いて旗を掲揚してゆきます。

呉の夕暮れクルーズで自衛艦旗降下を遊覧船から見たときには、
各艦船で吹鳴されるラッパ譜が揃っているようで微妙にずれていて、
それもまた軍港らしい風情があるなあと感動したものですが、このときは
思い出す限りラッパは一本の音しか聞こえてきませんでした。

「かしま」の喇叭手だけが君が代を吹奏したのかもしれません。

同時に電飾の灯りが点灯されました。

降下が終わると、途端にオランダ坂の上から人がいなくなりました。
竿から自衛艦旗を降ろした海曹と海士は、いつ見ても全く同じやり方で
自衛艦旗を畳んでいきます。

まず縦に半分に、そしてそれを二人が歩み寄って半分に。
おそらくこの所作も、海軍時代に制定されたものが今日もまた、
全く同じやりかたで粛々と繰り返されているのでしょう。

 

続く。

 

 

 


練習艦隊電飾と神戸山麓の電飾〜海上自衛隊平成31年近海練習艦隊

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神戸港が薄暮から夕闇に沈んでいく瞬間、電飾の灯る「やまゆき」の向こうに
「KOBE」という文字が山麓に灯っているのが見えます。

この山麓電飾は20分おきに文字と帆掛船の形に変わるというもので、
この左側には昔ながらの神戸市章と錨のマークがあります。

映画「火垂るの墓」でもこの山麓電飾が描かれていましたが、これは
昭和8年から始まり、終戦前後の数年間を除きずっと神戸のシンボルとなっています。

 

 

このがっつりと内容の充実したトレイは・・・・!
骨つき肉からデザートまでちゃんと盛り付けてあります。

わたしはなんとなく「かしま」と「いなづま」の間を行ったり来たり。
「いなづま」の刺身舟盛りは早くも全滅。

帰ってきたら「かしま」も見事に刺身のつまを残して消え失せていました。
サシミ・イズ・ゴーン。
どうでもいいけど、刺身のつまってみんな食べないんですね。

夕闇が濃くなってきました。
新幹部たちも招待客も、双方の艦を行き来して交流を楽しんでいます。

ちなみに去年は幹部たちもレセプション会場で食事をしていましたが、
今年は誰も食べ物に手をつけず接客に努めています。
幹部の一人に聴いてみると、食事は前もって済ませているということでした。

確かに幹部が艦上で食事をするとどうしても一般人と話すこともなくなり、
仲間内だけで固まってしまう傾向があったので、練習艦隊としても配慮したのでしょう。

ちなみに自衛隊のほとんどのレセプションでは、ご挨拶の列ができるような
偉い人たちは、事前に食事をしてから臨むことになっているようです。

まったり美味しい「かしま」カレーの屋台には長い列ができていましたが、
自衛隊パーティでのカレーは決して品切れにならないので、(断言)
行列が解消してから取りに行くと並ばずにすみます(提案)

荷物を預かるクロークルームになっていた上甲板階の艦室には、
歴代「かしま」の写真や絵が額に入れて飾ってありました。

こちらが初代の戦艦「鹿島」。
英国アームストロング社製。
遣欧艦隊で皇太子陛下のお召艦になったこともあります。

「鹿島立ち」という名前をもった「鹿島」は
そのような役目を負うことを使命として造られたのかもしれません。

「鹿島」という名前を引き継いだ船としては2隻目ですが、海軍ではこちらを
「初代鹿島」としているそうです。

練習艦として海軍最後の内地巡航練習航海を昭和15年に務め、
その後は第4艦隊に編入されて南方戦線に赴きました。

終戦の年の10月、海軍籍を抹消されて民間船となった「鹿島」は
その名前のまま1ヶ月半だけ復員船としてシンガポールからの復員輸送を行い、
翌年解体されました。

その後にできた三代目「かしま」が現在のこの練習艦です。
三代の「かしま」の間には17年、50年のブランク(鹿島が存在しなかった時期)があるんですね。

同じ部屋に掲げられた各司令官の指導方針。
海幕長の指導方針は海幕長ごとに変わりますし、艦長のそれも
艦長が変わるたびに書き換えられますが、「自衛官の心構え」と
練習艦隊としての指導方針が変更されることはありません。

ちなみに現艦長の指導方針は

「負けじ魂」

続くは「これぞ船乗り」ですね。

艦内の時計は、宴会終了時刻の0730を指しています。

舷門に向かうと、立っている自衛官が必ず、一人一人に挨拶をしてくれます。

舷門では敬礼も。

「かしま」の階段は他の自衛艦の階段より木製で立派なものですが、
たくさんの人が同時に降りると大変揺れます。

階段を降りたところでは、足許の危ない人に必要とあらば
手を差し伸べるために自衛官が必ず一人配置されています。

岸壁には気をつけの姿勢で立ち続ける乗員の姿あり。

神戸空港に向かうほとんどの人々とは逆の電車に乗り込みました。
車内から、赤い鉄橋を渡る一瞬だけ、「かしま」と「いなづま」が見えます。

先ほど「KOBE」だった山麓電飾が帆掛船に変わっているのに注意。
この部分の電飾は20分ごとに3デザイン変わって点灯します。

練習艦隊はこの翌日、近くの阪神基地隊に寄港、その後

中城(沖縄)ー佐世保ー大湊ー舞鶴

と日本列島を大きく一周廻った後、点検補修のため呉に戻ってきます。
ある艦長にお聞きしたところ、ゴールデンウィークの10連休、
練習艦隊の皆さんは呉で過ごすのだそうです。

そして連休明けに横須賀入港と。

幹部になって最初の大型連休をどうやって過ごすか、
新幹部の皆さんはきっと今から楽しみにしているんでしょうね。

 

練習艦隊シリーズ、たぶん続く。

 

卒業証書授与〜海上自衛隊幹部候補生学校 卒業式

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さて、それでは改めて幹部候補生学校卒業式についてお話しします。
ただし、その前日からのツァー行程については、練習艦隊関連記事が
すんでからということで。 

バスが幹部候補生学校前に到着しました。
運転手さんが左折できなくて困っています。

学校の看板と一緒に撮影をするのに列を作る卒業生と家族、
その人たちにクラクションを鳴らすのを躊躇ったからでした。

しばらく待っていると、警衛の自衛官が飛んできて、
とりあえず車道から彼らを退けてくれました。

バスでこの門を入っていくのもよく考えたら初めての経験です。
この日わたしにとってもここは「裏門」で、結局
表桟橋から江田島を離れていくことになったので、この時が実質
ここを通過した最後となりました。

前回二階の貴賓室を見学した時に入った「お車寄」のある入り口には、
今日は本当の来賓がくるので人員が配置されています。

バスに乗ったまま赤煉瓦の生徒館前に来るのも初めての経験。
生徒館前の砂には、候補生たちが最後に甲板清掃でつけた目立ての跡が
まだつけられて間も無いので、完璧に残っています。

赤煉瓦正面でバスを降りて誘導されながら歩いていくと、
入り口右側に人々が列を作っていたわけがわかりました。

皆この看板の前で記念写真を撮っているのです。

前回言い忘れましたが、この看板は、

「最後の海軍兵学校生徒」

となった皇族出身の久邇邦夫氏の揮毫によるものです。

赤煉瓦の生徒館、正面入り口から入って右手にあるドアに
「当直室」とあるのに気がつきました。
当直士官らの待機場となっているのだと思われます。

ホールで赤いリボンを配られました。(名前入り)

「ほー、これをつけるのかね」

と覗き込んでいるのは、自民党の議員先生です。

「これが同期の桜と呼ばれています」

その後、「同期の桜」が元々は「二輪の桜」という題名だったことなど
その桜を目の前にしながら術科学校副校長の説明を受けました。

桜の右側の無粋な電気室は、議員先生のシルエットで隠れました(笑)

前回も今回の説明でも全く触れられませんでしたが、赤煉瓦を出てすぐ、
術科学校との間の道沿いにあの天一号作戦で散華した伊藤整一海軍大将(最終)
の東京の自宅の庭から移植した「父子桜」があります。

ご存知のように、航空士官だった伊藤中将の息子は、掩護機に乗って
父の最期を見送ってから三週間後、特攻隊として出撃戦死しました。

構内いたるところに見られる候補生が家族を案内しているの図。
ここで学ぶのが1年であり、入学の時にはおそらくこのように
家族を案内することなどなかったでしょうから、家族にとっては
息子娘に案内してもらう最初で最後の構内ツァーということになるのでしょう。

この後は教育参考館の見学でした。
参考館前を作業服でランニングする一団あり。
ランニングが目的ではなく、単に移動していたのでしょうか。

教育参考館見学の後、いわゆる「第3グラウンド」と呼ばれる候補生の住居棟前の
このグラウンドを見ながら大講堂に向かいました。

「UW」ご安航を祈るの信号が右側に、そして左には
Z旗が見えます。

赤煉瓦後ろにあるこれも大変古い建物は、どうも現在使われていないようです。
前回の見学の時にも、

「古い建物ですが、歴史的な価値はないと判断されたので取り壊します」

と聞きました。
わたしのように、海軍兵学校時代に生徒が実際に使用していたものなら
それだけで歴史的な価値があるのでは?と思うのは少数派かもしれません。

こちらは昔から倉庫のように使われてきた建物ですが、
それでもレンガでできているので、先ほどの校舎より
価値があるということのようです。

大講堂の前に来ると、このような列ができていたので驚きました。
これから海幕長が入来するのですが、それを全員でお迎えし、
儀式を全員で見学するというわけです。

わたしが過去に見た卒業式では、海幕長の巡閲などは
見たい人、たまたまそこにいる人だけが見学しており、
赤煉瓦前でごくひっそりと行われていたのですが、今年は
このような粛然としたセレモニーとして行うことにしたようです。

しかし、一生に一度の卒業式となる候補生にとっては、
海幕長到着の儀礼に立ち会うのが筋というものでしょう。

わたしたちは大講堂前で待機するように言われました。

呉音楽隊も身じろぎもせず待機しています。
流石にスーザホンはギリギリまで地面に置いてもいいようです。

待っていると、車から幹部候補生学校長、南 孝宜海将補が位置に着きました。
右側は幹部候補生学校副校長です。

ところで皆さん、この儀仗隊をみて何かに気がつきませんか?
全員が金線入りの帽子、よく見ると袖には錨に金線。

そう、この儀仗隊は今日卒業する幹部候補生の部隊なのです。

ということは儀仗隊に選ばれた候補生は、この日のために
儀仗の訓練も受けていたということになります。

ということは、こうして海幕長が巡閲を行うことの意味とは、
今日任官する候補生達の練度を閲兵(兵じゃないけど)する、
ということになります。

いつからこのようになったのかはわかりませんが、形式的に
今まで行われてきた儀仗に深い意味が加わったとも言えます。

幹部候補生による、任官前の最後の儀仗が終了。

一部の候補生からなる儀仗隊だけでは不公平なので(多分)、海幕長は
全員の前を歩き、こちらの巡閲もちゃんと行います。

なるほど、そういう意味があったのか!

(とその時には気づかなかったことに今更感動するわたしである)

この後、卒業式開始まで少し時間があったので、
赤煉瓦の二階で待機休憩となりました。

ところで、赤煉瓦の倉庫の左に小山があり、
そこに登っていく石段があったのですが、これが何かわかりません。
案内してくださっていた海将補に伺うと、ご存知ないとのことで、
副校長に聞いてくださったのですが、こちらも「わかりません」。
副校長は近くにいた若い幹部に聞いていましたが、やっぱり
『知りません』とのことで、いまだに謎です。

ここが八芳園なのだと思っていたのですが、違うのかな。

教室でお茶などいただきながら休憩していると、
別口で参加されていた来賓の知人の方が訪問してこられました。
自衛隊に真に貢献しているというのはこういう方のことだと
いつもその献身的な活動を仰ぎ見ているN先生。
今年もN先生の教え子が三人も候補生学校を卒業したということです。

そのかたが無私の心で長年続けておられる活動には
足元にも及ばないわたしたち夫婦ですが、そんなわたしたちにN先生は

「ご夫妻の自衛隊への貢献に敬服いたします」

などと暖かい言葉をかけてくださるのでした。

大講堂に案内されたあとは自分の名前が書かれた椅子に座り、
開式を待ちます。

まだモードスイッチがオフ状態の卒業生たちを前に
何か注意事項を与えている二人が俗にいう「赤鬼&青鬼」、
学生隊幹事付と(あれ?監事じゃないんだ)いう指導係です。

どうも式の間は手を膝に置くようにとか言っているようですね。

本日の式次第。

特筆すべきは2番目に行われたこの日の国歌斉唱です。

自衛官がいる席で君が代を歌うと彼らの声の響くのによく驚かされますが、
国防にその身を捧げる覚悟を決めた彼らの歌声は、朗々と、決然として、
この長い歴史を持つ江田島の大講堂に響き渡りました。

いろんな団体の会合で国歌を斉唱する機会が多いわたしにとっても、
それは身が震えるほどに感動的でした。

国歌斉唱後、卒業証書の授与が行われました。
二人の読み上げ係が、慎重に、決して間違えないように
各卒業生の名前を朗々と読み上げていきます。

人の声が効果的に響くことを目的に設計された建物で、
これだけ広くとも肉声で隅々まで声が届くため、ここでは
昔から一切増幅装置が使われたことがありません。

証書を受け取る時、卒業生は校長の差し出す証書をまっすぐに腕を伸ばし、
校長の腕と自分の腕が直線にして受け取ります。

そして、その症状を垂直に立て、右手で左側に端を折って重ね、
その賞状の端を右手で抑えるようにして左脇に抱えます。

見ているとその動作は誰もが熟練の域に達しているようで、
おそらくこの日のためにかなり練習を重ねたのかと思われました。

壇上の候補生が全員階段を上りきった瞬間、次の一列が同時に立ち上がり、
行進して階段を上る列の後ろに着きます。

そして、前回の訪問で見た「白い二本の筋」を壇上の床に刻んでいくのです。

彼らの袖には細い線に錨の「候補生マーク」が。

これが候補生として彼らが行う最後の「任務」となります。

 

続く。

 

 



海上自衛隊 呉地方総監部 平成最後の観桜会

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3月の最終には恒例の呉地方総監部観桜会が行われました。
ご招待頂いて行ってまいりましたので、ご報告します。

今年は例年より早めの桜開花となった関東ですが、出発当日は
どんよりした曇り空で、コートが手放せない肌寒さ。

2年前の呉では氷雨(一部雪)が降ったことを考えても、
この時期のお天気と桜の咲き具合は予想できないものです。

さて、今年はどんな観桜会となるのでしょうか。

今回は広島空港からレンタカーを借りて呉までやってきました。
地方総監部に向かう道の手前、少し前まで自衛隊が使用していた
旧呉海軍下士官休憩所(青山クラブ)の横を通り過ぎようとしたら!

なんと、窓があったところに、おそらくは廃墟に入り込もうとする
不届き者対策だとは思いますが、ベニヤ板を貼る代わりに、
「この世界の片隅に」の登場人物が描かれているではありませんか。

観桜会が終わってから行きに撮り損ねた部分をなんとか撮影しました。
この絵をご覧になってお分かりだと思いますが、「この世界の〜」には、
下士官集会所とこの左側の鉄橋、美術館通りが登場します。

下士官集会所は1903(明治36)年に建設され、戦後もずっと
自衛隊が使用してきましたが、老朽化のため2017年に閉館しました。

江田島の昭和16年築の鉄筋校舎が「歴史的な意味はない」として
取り壊されるように、ここも解体が検討されていたのですが、
この映画がヒットしたことから、歴史的価値が見直され、
保存を求める署名が集められて市に提出され存続が決まりました。

おそらく耐震診断を済ませ、保存のための工事に入るまで
このような形で「予告」を行っていくのでしょう。

もし映画のヒットがなければ、ここは早々に取り壊され、
跡地は駐車場になっていたということです。
ちなみに横須賀の旧海軍下士官兵集会所は取り壊され、
その跡にメルキュールホテルやホールが入ったビルが建っています。

保存した建物は、呉の歴史や特産品のPRの場所となるようで、
それが観光のポイントになればいいなと思います。

1903年当時、これは超モダン建築だったと思われます。
この写真は写り込んでいる女性の服装を見ても、少なくとも
昭和になってから撮られたと思われますが。

復刻させるなら、当時と同じ壁の色にして欲しいなあ。

主人公のすずさん、白木リンさん、そしてすずのお舅さん、円太郎。

映画に不思議な色合いを与えていたすずの想像の産物?「ばけもん」、
そしてすずの夫周作の姉(顔がそっくり)径子とその娘晴美。

すずの姑、サン、幼馴染の水兵、水原哲、妹の浦野すみ。

水原哲はきっとこの建物の道の向かいにある呉海兵団
(現在の呉教育隊)で訓練を受けて水兵になったのでしょう。

映画でも、海軍の法務部に奉職しているすずさんの夫が、
一等兵曹になる前に海兵団で3ヶ月訓練を受ける、という台詞がありました。

 

沢村一樹さん主演の広告マンが主人公のテレビドラマで、
町おこしをするために映画の撮影を過疎化した街に呼ぶ、
という話がありましたが、「この世界の〜」は先に映画のヒットがあり、
すでに広島と呉にはこの映画の「聖地巡礼」に訪れるファンもいるとのこと。

映画の中で印象的だった下士官集会所がそのまま保存されれば、
「海軍の街」としての呉が次世代にかつての姿を伝えるために
大きな役割を果たすことになろうかと思われます。

会場時間少し過ぎてから呉地方総監部の「表玄関」たる海側に近い
通用門を、身分チェックを受けて通過し、坂を上っていくと

「黒のプリウス〇〇〇〇!」(今回はプリウス借りました)

という通信が下から上に伝達され、30m置きに立っている人に誘導されて
最終的には長官庁舎の高さにある駐車場まで案内されました。

 

受付を済ませると、案内の方が長官庁舎内の応接室に案内してくれました。
二階の部屋が待合室になっていたようですが、階段を上ろうとしたら
時間となって応接室で待っていた人たちが出てきてしまいました。

うーん、もう少し早く来ればよかった・・・・。

駐車場から受付に向かうまでの間、古い建物に異常な興味を持つわたし、
ここぞと赤煉瓦を写真に撮りまくります。

この建物もドアや窓を替えて呉地方警務隊の本部として使われています。
ドアのひさしにある赤いグローブランプがレトロな感じ。
このランプは現在も使われることがあるのでしょうか。

会場の手前では、呉地方総監が立って来客のお出迎えをしておられました。
ところで、この写真を見て何かに気づきませんか?

そう、桜が全くといっていいほど咲いていないのです。観桜会なのに。

この会場の様子を見ていただければお分かりのように、去年の観桜会では
満開となって目を楽しませてくれた桜が、今年は全く咲いておりません。

関東であれだけ咲いていたのだから、こちらはさぞかし、と
勝手に予想して楽しみにしていただけに残念です。

三年連続で呉の観桜会に参加してつくづく、満開の桜の日を
前もって予測するのは難しいことだと思い知りました。
自衛隊では例年各基地の観桜会は週で決まっているため、
当たり外れがあるわけで、逆にいうと毎年満開はありえないのです。

 テーブルに置かれた自分の名前を確認して、開演を待ちます。

同じテーブルには政治家や自衛官の他に、陸自の制服も。
先日ご挨拶に伺った駐屯地に置かれた第13旅団長たる陸将補殿です。
(ここはやっぱり陸自なので『殿』をつけるのがよろしいかと)

陸将補殿に伺ったところ、陸自は海自の「観桜会」的な花見はせず、
「桜祭り」とかいう名称で、駐屯地を一般公開し、その際
外部の業者が花火をあげたり屋台を並べたりするのだそうです。

「花見の会」というようなものは内輪でひっそり?するのだとか。

観桜会が始まりました。
まずは呉地方総監のご挨拶から。

4月1日に新元号が「令和」(まだ変換できない(´・ω・`))と発表されましたが、
このときに、総監はいきなり

「先ほど内々に新元号を聞きましたが」

といい、皆を驚かせてからそれが冗談であること、そして

「笑っていただいてありがとうございます」

と皆を和ませました。

「わたしもこの歳になり、自分の役目は何だろうと考えたとき、
やはりそれは後進の教育ではないかと思います」

という言葉が心に残る素晴らしい挨拶でした。

お馴染み寺田稔先生。
わたしと同じく本日の飛行機で羽田から来られたらしく、

「東京は結構咲いていたのですが・・・」

と桜の咲き具合に言及した後、またしても新元号について
知っておられたことを匂わせ、次の瞬間打ち消すというワザを・・・。

これって、国会議員の先生方はすでにご存知で、地方総監も
実は寺田議員からこっそり聞いて知っておられたのでは?
という意味だったのでは、とわたしは勘ぐっております。

まあ、前もって多少漏れたとしても、じきに何の問題もなくなるわけですし。

続いて呉市長新原よしあけ氏。

テーブルのお料理にあしらわれた造花の桜がせめても咲き誇って・・・。

いつも思いますが、素晴らしいといわれる海上自衛隊の料理でも、
「はしだて」は別格としても練習艦隊旗艦「かしま」と呉地方隊は
特にこの舟盛りが最高です。

刺身の種類もさることながら、このボリュームと飾り付けが素晴らしい。

これはすでに乾杯が行われた後ですが、ここは大阪ではないので、
料理にラップはかけられておらず、さらには人々が舟盛りに殺到、
というような現象は起こりません。

もちろん、海老の胴体の前に陣取って、直箸で中の身をせせって
食べ続けるような人もここにはおりません。

パーティというものは人と話をするための機会であり、
食べ物は目的ではない、むしろパーティでものを食べているようじゃダメ、
というビジネス界の鉄則を聞いたことがありますが、
自衛隊の宴会でも、このように地方総監の前に列ができるのが普通。

地方長官が交代して初めての観桜会となったこともあって、
この日は特に長蛇の列となっておりました。

わたしもここではできるだけ色んな方とお話しすることを心掛けましたが、
旧知の自衛官の何人かは、

「4月1日から新しい配置に行きます」

といい、新しい名刺を下さった方もおられました。

海上自衛隊の観桜会が桜の咲いている確率の高い4月始めではなく、
なぜ3月の終わりに行われるのか、わたしは初めてわかった気がしました。

転勤になる自衛官にとって、3月末の観桜会は旧任地最後の任務であり、
お別れ会をも兼ねることになるのです。
もっと実質的なことを言えば、年度末の打ち上げの意味もあるかもしれません。

呉地方隊でのイベントには、必ず呉音楽隊の精鋭メンバーが
『マリーン・ナイツ』というバンド名で演奏を聴かせてくれます。


彼らの後ろの桜の木を見ていただければ、今年の観桜会が
開花という一点ではかなり残念なものだったことがおわかりいただけるでしょう。

この日の夕日が呉港の水平線に落ちる時間が近づいてきました。
自衛隊的にはそろそろ海上自衛隊旗降下が行われるわけですが、
この日の観桜会の招待客には、あっと驚くサプライズ(重言です(´・ω・`))
が用意されていたのでございます。

 

続く。

 

 

 

練習艦隊電飾と神戸山麓の電飾〜海上自衛隊平成31年近海練習艦隊

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神戸における練習艦隊プレゼンツ「かしま」レセプション、
日没時刻になり自衛艦旗降下が終了しました。

神戸港が薄暮から夕闇に沈んでいく瞬間、電飾の灯る「やまゆき」の向こうに
「KOBE」という文字が山麓に灯っているのが見えます。

この山麓電飾は20分おきに文字と帆掛船の形に変わるというもので、
この左側には昔ながらの神戸市章と錨のマークがあります。

映画「火垂るの墓」でもこの山麓電飾が描かれていましたが、これは
昭和8年から始まり、終戦前後の数年間を除きずっと神戸のシンボルとなっています。 

このがっつりと内容の充実したトレイは・・・・!
骨つき肉からデザートまでちゃんと盛り付けてあります。

わたしはなんとなく「かしま」と「いなづま」の間を行ったり来たり。
「いなづま」の刺身舟盛りは早くも全滅。

帰ってきたら「かしま」も見事に刺身のつまを残して消え失せていました。
サシミ・イズ・ゴーン。
どうでもいいけど、刺身のつまってみんな食べないんですね。

夕闇が濃くなってきました。
新幹部たちも招待客も、双方の艦を行き来して交流を楽しんでいます。

ちなみに去年は幹部たちもレセプション会場で食事をしていましたが、
今年は誰も食べ物に手をつけず接客に努めています。
幹部の一人に聴いてみると、食事は前もって済ませているということでした。

確かに幹部が艦上で食事をするとどうしても一般人と話すこともなくなり、
仲間内だけで固まってしまう傾向があったので、練習艦隊としても配慮したのでしょう。

ちなみに自衛隊のほとんどのレセプションでは、ご挨拶の列ができるような
偉い人たちは、事前に食事をしてから臨むことになっているようです。

まったり美味しい「かしま」カレーの屋台には長い列ができていましたが、
自衛隊パーティでのカレーは決して品切れにならないので、(断言)
行列が解消してから取りに行くと並ばずにすみます(提案)

この日「かしま」先任海曹とお話ししていたら頂いてしまいました。
知人の方がこれを貰っているところに居合わせ、

「あ、(・∀・)イイなあ」

と呟くと、もう一つ持っておられてさっとポケットから出して来られたのです。

裏面は

「Japan trainig squadoron」 (日本国練習艦隊)

と日本列島がと書かれた北斎の「神奈川沖浪裏」が。
これはあれですね、遠洋航海で外国に行ったときに、日本国練習艦隊として
こういうのをプレゼントすると喜ばれるということで用意されたんですね。

ならばそのようなものをわたくしごときが貰って良いものかどうか、
何だか申し訳ない気持ちになってしまったのですが、
頂いたからにはせいぜい人前で見せびらかして宣伝に努めます。

ちなみに、この扇子、退出時に練習艦隊司令のまえを
ひらひらと打ち振って司令に見せながら退出してみました。

司令「あっ」

わたし「先任伍長にいただきました〜!」

同じ先任伍長には、こちらも時間差で頂きました。

あらためて「かしま」のマークは

「鹿の角」「錨」「刀」

で構成されていることに気づきました。

錨の一部分、ポケットの上ふたのようになっているのは
何か練習艦隊を表しているのでしょうか。

荷物を預かるクロークルームになっていた上甲板階の艦室には、
歴代「かしま」の写真や絵が額に入れて飾ってありました。

こちらが初代の戦艦「鹿島」。
英国アームストロング社製。
遣欧艦隊で皇太子陛下のお召艦になったこともあります。

「鹿島立ち」という名前をもった「鹿島」は
そのような役目を負うことを使命として造られたのかもしれません。

「鹿島」という名前を引き継いだ船としては2隻目ですが、海軍ではこちらを
「初代鹿島」としているそうです。

練習艦として海軍最後の内地巡航練習航海を昭和15年に務め、
その後は第4艦隊に編入されて南方戦線に赴きました。

終戦の年の10月、海軍籍を抹消されて民間船となった「鹿島」は
その名前のまま1ヶ月半だけ復員船としてシンガポールからの復員輸送を行い、
翌年解体されました。

その後にできた三代目「かしま」が現在のこの練習艦です。
三代の「かしま」の間には17年、50年のブランク(鹿島が存在しなかった時期)があるんですね。

同じ部屋に掲げられた各司令官の指導方針。
海幕長の指導方針は海幕長ごとに変わりますし、艦長のそれも
艦長が変わるたびに書き換えられますが、「自衛官の心構え」と
練習艦隊としての指導方針が変更されることはありません。

ちなみに現艦長の指導方針は

「負けじ魂」

これは、

「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」

海軍時代から変わらず受け継がれている伝統的標語の一部です。

 

艦内の時計は、宴会終了時刻の0730を指しています。

舷門に向かうと、立っている自衛官が必ず、一人一人に挨拶をしてくれます。

舷門では敬礼も。

「かしま」の階段は他の自衛艦の階段より木製で立派なものですが、
たくさんの人が同時に降りると大変揺れます。

階段を降りたところでは、足許の危ない人に必要とあらば
手を差し伸べるために自衛官が必ず一人配置されています。

岸壁には気をつけの姿勢で立ち続ける乗員の姿あり。

神戸空港に向かうほとんどの人々とは逆の電車に乗り込みました。
車内から、赤い鉄橋を渡る一瞬だけ、「かしま」と「いなづま」が見えます。

先ほど「KOBE」だった山麓電飾が帆掛船に変わっているのに注意。
この部分の電飾は20分ごとに3デザイン変わって点灯します。

練習艦隊はこの翌日、近くの阪神基地隊に寄港、その後

中城(沖縄)ー佐世保ー大湊ー舞鶴

と日本列島を大きく一周廻った後、点検補修のため呉に戻ってきます。
ある艦長にお聞きしたところ、ゴールデンウィークの10連休、
練習艦隊の皆さんは呉で過ごすのだそうです。

そして連休明けに横須賀入港と。

幹部になって最初の大型連休をどうやって過ごすか、
新幹部の皆さんはきっと今から楽しみにしているんでしょうね。

 

練習艦隊シリーズ、たぶん続く。

 

海上自衛隊 呉地方総監部 平成最後の観桜会

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3月の最終には恒例の呉地方総監部観桜会が行われました。
ご招待頂いて行ってまいりましたので、ご報告します。

今年は例年より早めの桜開花となった関東ですが、出発当日は
どんよりした曇り空で、コートが手放せない肌寒さ。

2年前の呉では氷雨(一部雪)が降ったことを考えても、
この時期のお天気と桜の咲き具合は予想できないものです。

さて、今年はどんな観桜会となるのでしょうか。

今回は広島空港からレンタカーを借りて呉までやってきました。
地方総監部に向かう道の手前、少し前まで自衛隊が使用していた
旧呉海軍下士官休憩所(青山クラブ)の横を通り過ぎようとしたら!

なんと、窓があったところに、おそらくは廃墟に入り込もうとする
不届き者対策だとは思いますが、ベニヤ板を貼る代わりに、
「この世界の片隅に」の登場人物が描かれているではありませんか。

観桜会が終わってから行きに撮り損ねた部分をなんとか撮影しました。
この絵をご覧になってお分かりだと思いますが、「この世界の〜」には、
下士官集会所とこの左側の鉄橋、美術館通りが登場します。

下士官集会所は1903(明治36)年に建設され、戦後もずっと
自衛隊が使用してきましたが、老朽化のため2017年に閉館しました。

江田島の昭和16年築の鉄筋校舎が「歴史的な意味はない」として
取り壊されるように、ここも解体が検討されていたのですが、
この映画がヒットしたことから、歴史的価値が見直され、
保存を求める署名が集められて市に提出され存続が決まりました。

おそらく耐震診断を済ませ、保存のための工事に入るまで
このような形で「予告」を行っていくのでしょう。

もし映画のヒットがなければ、ここは早々に取り壊され、
跡地は駐車場になっていたということです。
ちなみに横須賀の旧海軍下士官兵集会所は取り壊され、
その跡にメルキュールホテルやホールが入ったビルが建っています。

保存した建物は、呉の歴史や特産品のPRの場所となるようで、
それが観光のポイントになればいいなと思います。

1903年当時、これは超モダン建築だったと思われます。
この写真は写り込んでいる女性の服装を見ても、少なくとも
昭和になってから撮られたと思われますが。

復刻させるなら、当時と同じ壁の色にして欲しいなあ。

主人公のすずさん、白木リンさん、そしてすずのお舅さん、円太郎。

映画に不思議な色合いを与えていたすずの想像の産物?「ばけもん」、
そしてすずの夫周作の姉(顔がそっくり)径子とその娘晴美。

すずの姑、サン、幼馴染の水兵、水原哲、妹の浦野すみ。

水原哲はきっとこの建物の道の向かいにある呉海兵団
(現在の呉教育隊)で訓練を受けて水兵になったのでしょう。

映画でも、海軍の法務部に奉職しているすずさんの夫が、
一等兵曹になる前に海兵団で3ヶ月訓練を受ける、という台詞がありました。

 

沢村一樹さん主演の広告マンが主人公のテレビドラマで、
町おこしをするために映画の撮影を過疎化した街に呼ぶ、
という話がありましたが、「この世界の〜」は先に映画のヒットがあり、
すでに広島と呉にはこの映画の「聖地巡礼」に訪れるファンもいるとのこと。

映画の中で印象的だった下士官集会所がそのまま保存されれば、
「海軍の街」としての呉が次世代にかつての姿を伝えるために
大きな役割を果たすことになろうかと思われます。

会場時間少し過ぎてから呉地方総監部の「表玄関」たる海側に近い
通用門を、身分チェックを受けて通過し、坂を上っていくと

「黒のプリウス〇〇〇〇!」(今回はプリウス借りました)

という通信が下から上に伝達され、30m置きに立っている人に誘導されて
最終的には長官庁舎の高さにある駐車場まで案内されました。

 

受付を済ませると、案内の方が長官庁舎内の応接室に案内してくれました。
二階の部屋が待合室になっていたようですが、階段を上ろうとしたら
時間となって応接室で待っていた人たちが出てきてしまいました。

うーん、もう少し早く来ればよかった・・・・。

駐車場から受付に向かうまでの間、古い建物に異常な興味を持つわたし、
ここぞと赤煉瓦を写真に撮りまくります。

この建物もドアや窓を替えて呉地方警務隊の本部として使われています。
ドアのひさしにある赤いグローブランプがレトロな感じ。
このランプは現在も使われることがあるのでしょうか。

会場の手前では、呉地方総監が立って来客のお出迎えをしておられました。
ところで、この写真を見て何かに気づきませんか?

そう、桜が全くといっていいほど咲いていないのです。観桜会なのに。

この会場の様子を見ていただければお分かりのように、去年の観桜会では
満開となって目を楽しませてくれた桜が、今年は全く咲いておりません。

関東であれだけ咲いていたのだから、こちらはさぞかし、と
勝手に予想して楽しみにしていただけに残念です。

三年連続で呉の観桜会に参加してつくづく、満開の桜の日を
前もって予測するのは難しいことだと思い知りました。
自衛隊では例年各基地の観桜会は週で決まっているため、
当たり外れがあるわけで、逆にいうと毎年満開はありえないのです。

 テーブルに置かれた自分の名前を確認して、開演を待ちます。

同じテーブルには政治家や自衛官の他に、陸自の制服も。
先日ご挨拶に伺った駐屯地に置かれた第13旅団長たる陸将補殿です。
(ここはやっぱり陸自なので『殿』をつけるのがよろしいかと)

陸将補殿に伺ったところ、陸自は海自の「観桜会」的な花見はせず、
「桜祭り」とかいう名称で、駐屯地を一般公開し、その際
外部の業者が花火をあげたり屋台を並べたりするのだそうです。

「花見の会」というようなものは内輪でひっそり?するのだとか。

観桜会が始まりました。
まずは呉地方総監のご挨拶から。

4月1日に新元号が「令和」(まだ変換できない(´・ω・`))と発表されましたが、
このときに、総監はいきなり

「先ほど内々に新元号を聞きましたが」

といい、皆を驚かせてからそれが冗談であること、そして

「笑っていただいてありがとうございます」

と皆を和ませました。

「わたしもこの歳になり、自分の役目は何だろうと考えたとき、
やはりそれは後進の教育ではないかと思います」

という言葉が心に残る素晴らしい挨拶でした。

お馴染み寺田稔先生。
わたしと同じく本日の飛行機で羽田から来られたらしく、

「東京は結構咲いていたのですが・・・」

と桜の咲き具合に言及した後、またしても新元号について
知っておられたことを匂わせ、次の瞬間打ち消すというワザを・・・。

これって、国会議員の先生方はすでにご存知で、地方総監も
実は寺田議員からこっそり聞いて知っておられたのでは?
という意味だったのでは、とわたしは勘ぐっております。

まあ、前もって多少漏れたとしても、じきに何の問題もなくなるわけですし。

続いて呉市長新原よしあけ氏。

テーブルのお料理にあしらわれた造花の桜がせめても咲き誇って・・・。

いつも思いますが、素晴らしいといわれる海上自衛隊の料理でも、
「はしだて」は別格としても練習艦隊旗艦「かしま」と呉地方隊は
特にこの舟盛りが最高です。

刺身の種類もさることながら、このボリュームと飾り付けが素晴らしい。

これはすでに乾杯が行われた後ですが、ここは大阪ではないので、
料理にラップはかけられておらず、さらには人々が舟盛りに殺到、
というような現象は起こりません。

もちろん、海老の胴体の前に陣取って、直箸で中の身をせせって
食べ続けるような人もここにはおりません。

パーティというものは人と話をするための機会であり、
食べ物は目的ではない、むしろパーティでものを食べているようじゃダメ、
というビジネス界の鉄則を聞いたことがありますが、
自衛隊の宴会でも、このように地方総監の前に列ができるのが普通。

地方長官が交代して初めての観桜会となったこともあって、
この日は特に長蛇の列となっておりました。

わたしもここではできるだけ色んな方とお話しすることを心掛けましたが、
旧知の自衛官の何人かは、

「4月1日から新しい配置に行きます」

といい、新しい名刺を下さった方もおられました。

海上自衛隊の観桜会が桜の咲いている確率の高い4月始めではなく、
なぜ3月の終わりに行われるのか、わたしは初めてわかった気がしました。

転勤になる自衛官にとって、3月末の観桜会は旧任地最後の任務であり、
お別れ会をも兼ねることになるのです。
もっと実質的なことを言えば、年度末の打ち上げの意味もあるかもしれません。

呉地方隊でのイベントには、必ず呉音楽隊の精鋭メンバーが
『マリーン・ナイツ』というバンド名で演奏を聴かせてくれます。


彼らの後ろの桜の木を見ていただければ、今年の観桜会が
開花という一点ではかなり残念なものだったことがおわかりいただけるでしょう。

この日の夕日が呉港の水平線に落ちる時間が近づいてきました。
自衛隊的にはそろそろ海上自衛隊旗降下が行われるわけですが、
この日の観桜会の招待客には、あっと驚くサプライズ(重言(´・ω・`))
が用意されていたのでございます。

 

続く。

 

 

 

呉地方総監部観桜会〜呉地方総監の喇叭譜「君が代」

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週末、呉地方総監部で行われた「平成最後の観桜会」、
残念ながら桜はほとんど楽しむことはできませんでしたが、
代わりといってはお釣りの来そうなサプライズが待ち受けていました。

現在海上自衛隊が使用しているため、文化遺産指定はされていないものの、
(もしそうなったら改装も一切許可を得なければならなくなる)
呉のランドマークとなっている旧鎮守府庁舎、現在の呉地方総監部庁舎が
日没直前の夕日に照らされて、レンガの色をさらに一層紅く染めました。

この日の日没時刻は0629。(マルロクフタキュウ)

(ちなみにこれを調べるために広島県の日没時刻を検索したら、
毎日ほぼ1分ずつ遅くなり、日の出は1分ずつ早くなっているのに気がつきました。
地球は実に正確に傾いていっております)

そろそろ自衛艦旗降下の時間だなと認識したとき、わたしの「鵜の目鷹の目」は
素早く目の端で呉地方総監が会場の上座から

喇叭を持って

移動する姿を捉えていました。

むむ、これはもしかしたら・・・・?
喇叭吹奏が行われそうな会場入り口付近にわたしは移動し、
ドキドキしながらその瞬間(とき)を待っていると・・・。

やっぱり。

なんと呉地方総監杉本海将、日没の自衛艦旗降下で
本日の喇叭手と共に「将官喇叭」を披露しようとしていました。

終始ポーカーフェイスだった当直士官と違い、ボスとの共演に
笑いが隠せない風の女性海曹、そしてそんな風景を見て

「何が始まるのかな?」

と注目を始めたばかりの周りの人たち。

地方総監、本番を待つ間もドキドキなのかつい時間を確認してしまい。

一般人が集うレセプションなどで自衛艦旗降下が行われる際、
紹介と諸注意をかねて必ず会場には予告のアナウンスが流れます。

今日の自衛艦旗降下のお知らせには、呉地方長官自らが
喇叭譜「君が代」を演奏することが付け加えられました。

異例のことになりますが、喇叭手が観客に向かってお辞儀。
この後、喇叭手二人はガッチリと堅く握手を交わしました。

自衛艦旗降下の際にはそこにいた人全員が旗に向かって立つことを
奨励されますが、わたしを始め、喇叭手の前に立っていた人たちが
全員が頭中で呉地方総監に注目していますと、総監は笑いながら

「どうか前を向いてください」

「じか〜ん!」

♪ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソーミードドドー♪

 

自衛艦旗に正対せよと地方総監直々のご指示があったにも関わらず、
どうしても、わたしはこの演奏を写真に撮らずには要られませんでした。

今回だけは自衛艦旗への礼を失してしまったことをお許しください<(_ _)>

 ♪ソーソソソーソーミードーミードー ソーソソソーソーミードーミードー

ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソーミードドドー♪

どういう経緯で総監が喇叭を吹くことになったのか、その経緯について
今回伺うことはできなかったのですが、確かなことは、この演奏が
人々にとって印象的な「お披露目」となったということでしょう。

そして、海将が吹いている喇叭のおとを聴いて

「喇叭って簡単そうにみえるけど、こんなに難しいものだったのか!」

ときっとそこにいた全員が思ったに違いありません><

その意味でもこのチャレンジは大変な広報効果を生んだような気がします。

終わって思わず天を仰ぎ、全力で照れる呉地方総監。
これも異例となる自衛艦旗降下の後の喝采の大拍手が巻き起こりました。

終始真面目な顔をしていた後ろの当直士官の表情が心なしか緩んでいます。
当直士官の後の人は拝んでいるのではなく、拍手をしています。

「たはは・・・・・」 

もう一度一緒に吹奏してくれた海曹と握手。
ちなみに後ろの脚立に海将の正帽が置いてあります。

二人には惜しみない拍手が続いております。

画像がブレてしまうくらい高速お辞儀。(USOじゃなくてISOが低かっただけ)

前呉地方総監は「愚直たれ」や「恋ダンス」で人々の記憶に残る
名物総監となって退官されましたが、その後任である新総監も前任に続き
広報に体を張っていくスタイル、ということでよろしいでしょうか。

本日観桜会で素敵な音楽を提供していた「マリーンナイツ」が
森山直太朗の「さくら」を演奏し始めました。

「さくら さくら 今舞い上がる・・」

わたしは数ある桜を歌った歌の中でこの曲が何より好きです。
これを不肖宮嶋氏の「国防男子」にも登場していたトロンボーン奏者が
オリジナルキーで歌いました。

バンドの後ろには少しではありますが、桜が開花していました。

満開ならばこの斜面一面がピンクで刷毛を掃いたように染まっていたはずです。
その代わり呉港には相変わらず「ONE」のショッキングピンク船が鎮座していました。

会場で和やかに歓談する観桜会出席者。
男性の出席者は自衛官含めダークな色合いの服装に身を包んでいますが、
女性は意識して明るい色を身に着けている人が多いような気がします。

わたしはこの季節意識してピンクの服を選ぶようにしていて、
今回もベージュピンクのジャケットを着ていきました。

このスイカにカーヴィングする文字は、どうやって型取りするんでしょうか。

1、紙を貼り付けて掘る 2、レーザープリンター的なもの 3、その他

「一隅を照らす」とは。

この言葉は、天台宗を開いた伝教大師最澄が書いた
『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の冒頭にあります。

人はそれぞれの心の中に仏性(ぶっしょう)という仏の性質を持っているので、
一人ひとりに本来具わっている大切な宝物である仏性を引き出し、
磨き上げる行いが大切だという考え方から、その仏性たる

慈・悲・喜・捨の心(仏教では四無量心・しむりょうしん)

で周囲に接すること、つまり自分の持てる能力を発揮して
一隅を照らす人になりましょう、という考え方です。

「何だろうね、この言葉」

「新呉地方長官の座右の銘とかじゃないの」

「あー、そうかも」

挨拶の時におっしゃった

「これからの残りの人生の使命は人を育てること」

という言葉にも繋がります。

メロンのカーヴィングは、とにかく繊細で爽やか。

寿司桶の上に展開するジオラマの小宇宙。

さて、というわけで呉地方隊の観桜会も終了しました。

カレーはTO(先日ある自衛官に、面と向かってこの『TO」の
意味と読み方を聞かれたので改めて説明しておくと『ティーオー』です。
海軍隠語で奥さんのことを、かあちゃん→『KA』(ケーエー)
と言ったので、わたしも『父ちゃん』という意味でこれを使っています)
が取ってきてくれたのをいただきましたが、鳥皮煮込みは知りませんでした。

「鳥皮煮込みなんてあったんだ・・・ちょっと食べてみたかったな」

「今から走っていけば食べさせてくれるんじゃない?」

「ダメだよもう片付けちゃってるし」

駐車場に戻ってみると、黒のプリウスがポツンと一台だけ残っていて、
しかもヘッドライトが点いており、鍵もかかっていませんでした。

「何やってんのードア閉めないで」

「全然気がつかなかった(´・ω・`)」

うちの車はここ二代、車から降りるとドアハンドルの上部に触れるだけで
施錠してくれる超親切設計なので、レンタカーだとうっかり忘れてしまうのです。

駐車場で誘導のため立っていた自衛官が見守る中、
暗闇で煌々と光を放つ車に戻っていくのはかなり恥ずかしかったです。

「絶対あの自衛官呆れてるよね」

「バッテリー上がったりしてないの」

さすがはプリウス、2時間のライト付けっ放しではびくともしませんでした。


この日は呉市内のホテルに宿泊し、次の日は江田島で
第一術科学校の観桜会に出席することになっています。

 

続く。

 

 

同期の桜と「もう一つの同期の桜」〜第一術科学校観桜会

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呉地方総監部で行われた観桜会に参加した次の日は、
江田島の幹部学校での観桜会に参加しました。

呉から江田島まで地道を通っていくと1時間はかかりますが、
ちょうど良いフェリーの時間があればそれに乗ればあっという間です。

指定された時間にちょうど良いタイミングで便があり、
見ていると乗り込んでいくのはほとんどが観桜会の客のようでした。
わたしたちの前にいる車にも、見たことがある人が乗っています。

車に乗ったまま過ごせるフェリーは本当に楽です。
出航してしばらくすると車窓を通して自衛艦が見えました。
すぐさまカメラを掴んで外に飛び出すわたし(笑)

艦番号233は「あぶくま」型護衛艦のネームシップ「あぶくま」です。
特徴的なのは後部甲板のハープーンSSMミサイル。

出航したばかりで甲板にはたくさん乗員の姿が見えます。

出航してすぐ、右側に小さな、しかし何かいわくありげな島が見えてきます。
これ「大麗女島」といいまして、現在は海自の弾薬庫となっています。

海軍時代からこの島は燃料備蓄庫として使われていました。

レンガの建物もトンネルも旧海軍時代からの建造物です。
終戦間際には、ここで特殊潜航艇「咬龍」を地下で建造していたそうです。

手前の白い建物や構造物は海自が作ったものでしょう。
赤煉瓦の建物の後ろにちょっと見えている民家が興味を引きます。

小用港に上陸すれば、第一術科学校までは5分くらいで到着します。
前の車に続いて招待状をフロントガラス越しにヒラヒラ振りながら入っていくと、
車は何と大講堂の御車寄(画面右の建物前のスロープ)に誘導されました。

御車寄にはずらりとお迎えの方が並び、TOはその中を降りていきます。
わたしはTOを下ろすと、そのまま御車寄を通り抜けるように指示されました。

せっかく初めて車で御車寄に来れたというのに、運転しているがために
そこにしゅたっ!と二本の足で降り立つということができなかったのです。
江田島での、特に海軍軍人たちの「追体験」のようなことができるのが
何よりの楽しみだったわたしにとって、これはわずかに残念なことでした。

指定された場所に車を停めて御車寄まで一人で歩いていくと、
先日大講堂の見学をした時に見せていただいた二階の来賓室に通され、
お茶とともに本日の行程表を配られました。

これによると、本日は観桜会に先立って行われる構内の特別公開に
AからEまでのグループに分かれて案内されるのだそうです。

分厚い紙の束になっているのは、観桜会宴席での席順までちゃんと
印刷されているからです。

一つのグループはきっちり10人ずつとなっていて、
待っている間に皆が名刺交換大会となりました。

ツァーが始まり、大講堂の来賓室を出るとき、一人の自衛官が
紙に焼いた卒業式の写真を手渡してくれました。

二階のバルコニーから撮った写真で、確かにこの中にわたしもいます。
わざわざプリントしてくださるなんてありがたいことです。

さて、案内されて外に出ますと、大講堂脇の桜が何とか
7部咲きくらいに頑張って咲いていました。

実は前日の呉地方総監部の観桜会では、江田島から来られた方々に

「江田島は呉より桜がないんですよ」

と悲しい予告をいただいていたので、前日の呉でがっかりしただけに
こちらに関しては全く期待せずにやってきたのですが、なかなかです。

しかしこの大講堂脇の大木の桜は、候補生たちにとって
「恨みの桜」となってしまうんですね。

わたしたちの案内をしてくださったのは幹部候補生学校の
第2・3学生隊長(と言っても学生ではなく先生の立場)だったのですが、
構内ツァーの案内者が必ずここに来ていう、

「ここは学生が毎朝清掃し目立てをする場所なのですが、
桜の季節は落ちている花びらを一枚ずつ拾うところでもあります」

というお決まりのセリフをそのまま皆に言われました。
観桜会に招待されるような人々なら当然知っているだろうと思いきや、
中には陸自第13旅団の総務課長、などという方もおられ、

「ほおお〜」

という驚きの声が上がっていたところを見ると、案外初めての人も多いのでしょう。

わたしはこの3月だけで3回目ですが、いつ聞いても何度聞いても、
この江田島の地にいることそのものが嬉しくて仕方がないので、
その都度初めて聴いたようなリアクションをすることにしています(笑)

戦後の十年間を除いて100年以上、毎朝この赤煉瓦前では
総員起こしに続く号令調整や体操、清掃などのために号令が響き渡ってきました。

わたしも江田島の一角で朝を迎えた日、遠くから風に乗って聞こえる
これらの秩序ある喧騒をしかとこの耳で捉え、「追体験」しました。

号令を毎日聞いているから松がまっすぐ伸びる、という解説も全く同じ。

今回の見学コースは、例えば3月初旬に体験したものを
「フルバージョン」、卒業式の時のを「ハーフバージョン」だとすると、
「ミニバージョン」となります。
大講堂は来賓室には行きましたが、正面扉は開いておらず、
内部の見学はありませんでした。

ちなみに各グループを案内し説明を行なったのは、

幹部候補生学校学生隊長、幹候機関科長、
第一術科学校学生隊長、幹部候補生学校機関科長、
砲術科長、航空用兵科長、通信科長、掃海機雷科長

つまり術科学校の先生たちです。

各先生たちは案内説明用のアンチョコ?を持って、
グループを率いて構内を回っておられましたが、如何せん
今まであまりやったことがない専門外のお仕事なので、先日の
術科学校長の説明というわけにはいかなかったかもしれません。

学生がつけた目立てもまだ消えていません。
候補生たちはまだ入校したところで、今日は下宿探し?に
出ているということを聞いたような気がします。

ツァーの中の候補生経験者が

「僕たちの時入校してから1ヶ月は外に出られんかったよ」

と言いだし一同はざわめきました。

赤煉瓦前ではもう先発のグループのツァーが到着しています。

同じツァーに大阪の防衛団体所属で顔見知りの女性がいました。
実はこの日、横須賀、舞鶴、そして江田島と観桜会が同時開催となり、
彼女の防衛団体で「偉い人」がそちらに行ってしまったので、
彼女は代表して江田島に来ることになったということでしたが、
とにかく緊張して来られたのだそうです。

で、わたしにいうには

「だからブログ前もって読んできたんやけど」

ブログってこのブログのことですか。

「なんでわざわざ(あんなの)読んでくるんですか」

「何にも知らんから勉強しよ思って」

うーん、で結局なんか役に立ちましたかね。

しかし、案内係の自衛官の方も、さりげに当ブログ主がわたしだと
確認もせずに決めつけて(ってその通りなんですけど)その前提で
フツーに会話をして来られたし、なんでみんなわかるんだろう。

ふ・し・ぎ〜(棒)

桜に錨の金のマークの下部の木造部分のペンキが剥げている事に気づきました。
確かにここは傷みやすい割に補修が大変そうだ。

幹部候補生学校の門標は、今年90歳になられる
最後の海軍兵学校生、七十七期に在籍された久邇国昭(くに・くにあき)氏が
昨年揮毫した文字を使って作られました。

入り口では当直士官が敬礼でお迎えしてくれます。

本日はホール両脇には行けないようになっていました。
ここを「もっくんロード」というとかなんとかの話は出ませんでしたが、
それはここで撮影が行われもっくんが歩いたからそう名付けられたわけです。

「坂の上の雲」では候補生時代のもっくん、じゃなくて秋山真之が
ここを歩いている事になっていましたが、実際秋山と広瀬らが候補生時代、
まだこの赤煉瓦の校舎はできておらず、それどころか養生中で、
当時の兵学校学生は「東京丸」という学習船で起居していたのです。

このとき聞いた説明も周知のこと(昔からのガラスとか金剛の床とか)
でしたが、ホール階段下から二階の校長室などの上に掛けられた
東郷平八郎の「先機制」(機制を先んずる)が踊り場の鏡に映って
このように見えることには今まで気がつきませんでした。

初めて来た人は、鏡があまりにも綺麗なので、鏡に思えず、
てっきり向こうに部屋があるように思った、と驚いていました。

赤煉瓦のホールを通り抜けると、左側に「同期の桜」があります。
満開とはいきませんが、それでも美しく咲いた桜と赤煉瓦の組み合わせ、
夢にまで見た光景をわたしはこの日初めて目にすることができたのです。

しかもこの角度から写すと電気室が映り込まず、絵的にも最高です。

今や通り抜けるだけになった赤煉瓦後ろの教官室となっていた校舎。
昔ここで候補生が起居していた時代もあったそうですが、近々取り壊されます。

昭和16年ならではの木の扉など、それなりに価値があると思うのですが。
アメリカなら築100年くらいなら普通に壁を塗り直して使うレベルなんだけどな。

扉の前にあった謎の足跡。

教官室のあった校舎を通り抜けると、右側に

「もう一つの同期の桜」

があります。
前回も前々回もこちらの説明はなかったのですが、今回聞いたところ、
「同期の桜」に樹勢が似ているので「もう一つの」と言っているようです。

むしろこちらの桜の方が枝ぶりが堂々と立派で、しかもこの咲きぶり、
地面に着くほど垂れ下がった枝の先まで花が開いて見事です。

「同期の桜」と「もう一つの同期の桜」が咲いていたことで
今回ここにやってきた意味があったというものです。

 

続く。



四月七日の父子桜〜第一術科学校春季広報行事 観桜会

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江田島・第一術科学校における観桜会のプレイベント、
校内見学が続いております。

幹部候補生にとってはいろんな意味で思い出深い(といわれる)
第3グラウンドを見ながら取り壊し予定の鉄筋コンクリ旧教官室と
教育参考館のビルの間の道を抜けてここまできました。

今日は時間がかかってしまうので教育参考館内の見学はありません。

今日は最初から最後まで建物を外から見学するツァーのようです。
ただし、一般には非公開となっているところも見せてしまおうという企画、
まずは教育参考館の山側にある水交館、旧海軍兵学校文庫館。

水交館はこの構内で最初となる1988年に建てられた最初の建物です。
赤煉瓦の生徒館や大講堂よりも古く、ここだけ建築様式が違い、
レンガの積み方が「フランス積み」(フランドル積みとも)となっています。

なんでも、学校とするべき敷地を養生している間、候補生はずっと
江田内に停泊した練習船「東京丸」で生活し訓練していたのですが、その間、
海軍将校たちが「陸」で暮らすためにここを作ったという話も聞きました。

大昔はここが「お車寄せ」として車が左から右に通過していたと思われます。

ファサード上部の丸い浮き輪のような彫刻が実におしゃれ。
内部は一階に応接室状の部屋が左右に分かれてあり、二階は
一昔前の奈良ホテルのような洋風の宿泊施設がやはり赤絨毯の廊下の
左右にいくつか(それぞれが独立してバストイレ付き)配置されています。

2年前の卒業式に彬子女王殿下がおいでになった際には、
ここで休憩をしていただいたということです。

宿泊施設なので、現在は将官が臨時官舎として利用することもあるようですが、
二階は一切非公開となっていて、一般人が見る機会はありません。

二本の木の左側に雨樋があるのがご覧になれますでしょうか。
この写真では分かりにくいですが、雨樋は赤煉瓦の部分壁に埋め込まれて
壁と面一(ツライチ)になっています。
上部にアーチを描く窓にも白いレンガを配してデザインポイントにしています。

この向こうは水交館の庭となっていて、洋風の建物の前に
灯篭を配した和風の庭の取り合わせが文明開化な感じです。
「坂の上の雲」で、秋山真之が結婚相手となる華族のお嬢さん(石原さとみ)
と初めて会う戦勝祝賀会のガーデンパーティのシーンで使われました。

そしてなんと、かつてはこの同じ場所で観桜会の祝宴も行われていたのだとか。

おそらくは水交館一階の奥にある広いキッチンがそのために使われ、
一階のフロアは公開されたこともあったのかもしれません。

「坂の上の雲」と同じ外での宴会、一度は出席してみたかったですが、
流石に最近は手狭となり室内で行うようになっているとのことでした。

かつては花見ゾーンであったところの芝生に、桜の苗木があるのに気がつきました。

「伊藤整一海軍大将手植えの桜」

と立て札があり、「第一術科学校長」と併記されています。

天一号作戦で戦艦「大和」に乗って特攻作戦に赴いた伊藤整一大将の
東京の家の庭に植わっていた桜、それはこの立て札にもあるように
かつて伊藤大将が自らの手で植えたものだったそうですが、
その桜が何年か前、有志の手によって江田島に移植されました。

教育参考館前にある桜には「父子桜(おやこざくら)」という名前が付けられており、
天一号作戦で出撃した伊藤中将(作戦時)と、出撃の際零戦で父の部隊を掩護した
長男の叡(あきら)中尉(兵学校72期卒)がいずれも学んだ海軍兵学校の庭に
この父子を偲ぶよすがとして植えられたものです。

それはともかく、父子桜は教育参考館の前のものだけと思っていたら
水交館の前庭にも植えられていたことにこの時初めて気がつきました。

 しかも気づくともう一本それらしい桜が・・・。
説明はないけどこれはまさに第三の父子桜。

昔ここに書くために一度調べたところによると、この桜は
杉並区にあった伊藤家の庭にあった樹齢80年になる桜の枝を
伊藤整一の故郷である福岡県みやま市の有志が苗木になるまで育て、
第一術科学校に寄贈したものです。

水交館からさらに坂道を上っていきます。
この左側の道を行ったところには、第一術科学校長の官舎があります。

そこはいかなるツァーでも基本民間人に公開されることはありません。

この桜が咲けばさぞ美しいでしょう。
この上には高松宮邸があり、かつては宮様が週末をそこで過ごすため
テニスコートが設えられていて、宮様は斜面に作られた階段を
コートまで降りてきていたという話を聞きました。

水交館の上には賜餐館(しさんかん)があります。
わたしがかつて国会図書館まで行って調べたところによると、
賜餐館は昭和11年、昭和天皇のご行啓のために建設されました。

天皇陛下は昭和11年10月27日、お召し艦「愛宕」でご行啓遊ばされ、
その際海軍兵学校で視察をされ、ここで休憩賜ったのです。

教育参考館の前に立たれる天皇陛下。
こんなに小さな写真でもどれが陛下かすぐにわかってしまうという。

こちらは呉ご到着の際民に向かって帽子をお振りになる陛下。

こちらは陛下を一目見ようと集まってきた呉の国民と海軍軍人たち。
女性もほとんどが黒の紋付を着て正装しているのがわかります。
何時間かのご休憩のために賜餐館のような建物を建ててしまうくらいですから、
このご行啓のために、今では考えられないくらいの用意がなされたのでしょう。

ところでこの度の平成から令和への御代がわりにおける皇室行事を
質素に、という話がなんと当の皇室の方々から出てきている、
と聞いたのですが、いくらこのご行啓の頃と時代が違うからといって、
国の象徴である皇室の行事を節約するべきではないとわたしは思います。

必要以上に華美にする必要はありませんが、伝統に則って
それ相応の格式を備えた国柄にふさわしい儀式であるべきでしょう。

賜餐館の前からさらに上に上っていく石段、これは

高松宮記念館

に続いています。
賜餐館ができた時には当然ここより上に何もありませんでした。

ここ江田島の旧海軍兵学校でたった一つの和式建築、それが
当時兵学校に在学しておられた天皇陛下の弟宮であられる
高松宮殿下が週末の下宿としてご使用遊ばされたところの
高松宮記念館です。(もちろん当時はこう呼ばれてはいない)

皆さんは正面で説明を受けておられましたが、わたしは前回の見学で見られなかった
裏庭の写真をこっそり撮りに行きました。

昔は裏庭に池があったんですね。

見学ツァーはここまでで、グループはこの後山を降り、
教育参考館の道を隔てて反対側にある食堂に移動しました。

先日の幹部学校卒業式の午餐会が行われたのと同じ場所です。

会場に入る前に、二本の「父子桜」の横を通り過ぎることになります。
水交館の前の桜は一輪も咲いていませんでしたが、こちらは花をつけています。

関西から来られた「江田島初体験」の女性と案内係の自衛官に、
「父子桜」の由来を僭越ながら説明させていただいたところ、
感動した、というお言葉をいただきました。

ちなみにこれはわたしが海軍兵学校の同窓会に同行した平成26年の写真です。
今と違って周りは養生のために囲いで覆われており、幹も細いですね。

五年間で桜の苗木は色も濃く、「幹」と呼んでいい太さに育だったのがわかります。

 

第一術科学校に伊藤家の桜が贈られるきっかけになったのは
ノンフィクション作家中田整一氏の著書、

四月七日の桜 戦艦大和と伊藤整一の最後

という著書のなかで、中田氏が伊藤整一手植えの桜を
「父子桜」と呼んだことから始まっているらしいのですが、
わたしはこの日の花を付けていない「父子桜」を見て、
同著に書かれていたという、

「父子桜はいつも4月7日に花を咲かせている」

という言葉を思い出さずにはいられませんでした。

そして、咲いている場所によって花をつける時期が少しずつ違う
ここ江田島の桜の木の中で、やはり父子桜だけは
伊藤整一が「大和」艦長として出撃し、彼の息子が
それを掩護機から見送った4月7日に花をつけるのではないだろうか、
と思ったのですが、江田島のみなさん、今「父子桜」は満開ですか?

会場には卒業式の午餐会の時とは反対側の入り口から入って行きました。

観桜会が「春季広報行事」という説明付きであることを初めて知りました。

入ったところには今日が最後の任務となる第一術科学校長、
幹部学校長夫妻など学校側の偉い人たちが並んでお迎え。
その横にこのカラフルな手作りケーキも一緒にお迎えしてくれました。

「『平成最後の桜』という名前のケーキです」

いよいよ観桜会が始まります。

 

続く。



「平成最後の桜」〜江田島・第一術科学校春季広報行事 観桜会

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さて、江田島の第一術科学校で行われた春季広報行事としての観桜会、
招待客のほとんどが参加した校内見学ツァーを終え、グループごとに
会場となる食堂まで到着しました。

江田島市長明岳氏が続いてご挨拶。

呉でも思いますが、それ以上に江田島という土地は、自衛隊、というか
第一術科学校と幹部候補生学校と地元との関係が良いと感じます。

それは生徒が下宿で民間の家にお世話になるときに決して不義理をしない、
一度何か災害が起これば生徒が救援や支援に身を惜しまず出動する、
といったことで醸成されてきた海軍兵学校以来の強い信頼関係が
10年の空白期間を経て今もなお受け継がれていることを意味します。

これも中畑学校長の挨拶によると、学校長は江田島を去る少し前に

週一度の習慣となっている古鷹山登山を最後に行いました。

そして頂上から下を見て第一術科学校の広さをあらためて確認すると同時に、
海軍がこれだけの土地を獲得することができたのも、100年前移転を余儀なくされた
従来の住人たちの協力のおかげであると思わずにいられなかったと語りました。

もちろん当時は江田島も今のように人がたくさん住んでいたわけではなく、
基本用地となったのは、主に人の住んでいない広大な海沿いの部分だったのですが、
それでも何軒かの民家や、出来たばかりの神社もこのため移転しています。

昨年夏、水害に遭った一軒の民家に候補生らが災害支援に駆けつけた時、
その家は江田島に兵学校が出来たときに立ち退きをしていたことがわかった、
という学校長から聞いた話をここに書いたことがありますが、このとき
学校長はもう一度その話をされました。

その際実際に学校長が遭遇した話のように書いてしまいましたが、聞き間違いで、

「あの時の恩返しが出来た」

という言葉もご本人に告げたのではなく、学校長を始めそれを知った人たちの中で
密かにそう思った、というのが正確なところのようです。

昨夕の呉地方総監部観桜会でもご挨拶された寺田稔先生。

 

続いて今日の観桜会の料理を作った給養の方々が紹介されました。

「得意料理は筑前煮です」

「今日のカレーはわたしが作りました」

などの一言を皆が付け加えての自己紹介です。

学校長、政治家などの皆さんによる鏡割りが行われました。

樽の「同期の桜」というお酒は江田島銘醸株式会社という地元の酒造会社のお酒で、
同社のブランドにはラベルに赤煉瓦の生徒館が描かれた「江田島」、
そしてその名も「古鷹」、焼酎には「ヨーソロ」という商品があるそうです。

こんな時のために用意された「第一術科学校」とプリントされた法被を着て。
阪神基地隊の、餅つきの時にもこういうのを着ますが、
これって洋服が汚れないためのものなんですね。

巻き寿司もおいなりさんも手作り。
焼きそばパンという食べ物を自衛隊の宴会で見たのは初めてですが、
食べてみたTOによるとなかなか美味しかったそうです。

一術校カレーなるオリジナルカレーの屋台には始まるやいなや列ができていました。

なんと、

大豆・オリーブ(の実?)牡蠣・チリメンジャコ

が入っているカレーということでした。
牡蠣らしい内容物は残念ながら入っていませんでしたが、
昨日の呉地方総監部カレーと比べても少々甘口に感じたのは
オリーブの実が入っていたせいでしょうか。

わたしが思うに一番味に特異性を与えていたのはチリメンジャコ。
カレーのトッピングとしてこれはありだなと感心しました。

会場となっている食堂にはこのような号鐘が置かれていて、
観桜会の開始時にカンカーンと鳴らされました。

まず号鐘の説明として

「鑑定において、時刻や火災などの緊急事態の発生を知らせる場合や、
錨泊中など濃霧の場合に他船に存在を知らせ、
高校の安全をはかるために使用する鐘」

「コンピュータ制御で最新の警報装置を備えた現在でも、
電源遮絶に備え、法律で設置が義務付けられている」

とありました。
どんな艦船にも鐘があるのは飾りやシンボルという意味ではなく、
電源喪失の場合を想定してのことだったんですね。

そしてこの号鐘は、「練習船12号」に備えられていたものです。
昭和57年に防衛庁技術研究本部が、

強化プラスチック(FRP)の掃海艇への適用を調べるための

実験艇として就役しましたが、役目を終えて
(結局機関から水中への放射雑音レベルが高く、掃海艇に使用されず)
その後、練習船として第一術科学校で運用され、平成28年に除籍となるまで、
延べ2万9千人の学生の航海訓練を行いました。

会場の一角では、説明がなかったので術科学校生か職員かわかりませんが、
軽音楽部として地元のイベントでも演奏を提供しているという軽音バンドが

「Feel Like Makin' Love」

などのポピュラーを中心に、BGMを演奏して楽しませてくれました。

一術校の幹部でギターを弾く「偉い人」に

「今日は演奏なさらないんですか」

と(冗談のつもりで)聞くと、

「今日は立場上遠慮しました」

 本来は一緒に演奏をしていたのか・・・・。

会場の窓からはこんな角度で教育参考館が見えます。
手前の桜が満開になれば、ここからの眺めは最高のものになるでしょう。

宴会が半ばまで過ぎた頃、ケーキのお披露目がありました。
この日のために特別に作られたその名も

「平成最後の桜」

というケーキがカットされ皆に配られることになったのです。

ケーキにちりばめられたチョコレートは、おそらく
桜の木の枝と幹を表しているのだと思われます。

先ほど紹介された給養員の方々の紅一点がこのケーキの担当です。
ケーキが配られ、皆は早速列を作りました。

わたしもいただいてみました。
スポンジは固めで、どうもポピーシードが入っているようです。
フルーツ入りのクリームが挟んであり、お花はバタークリーム製。

昔誕生日会のために母親が家で焼いてくれたケーキのような
素朴で、しかし心がこもった味がしました。

終わりになって幹部学校長南海将補がご挨拶を。
やはり話の中心は明日を限りに転勤になる一術校長のことになります。

特に耳に留まったのは、両校の関係が大変上手くいっていたという意味の

「互いに相思相愛といってもいいくらいです」

という言葉でした。
うーむ、それほどまでに・・・・。

挨拶を聴く一術校長、江田島市長、そして手前の米陸軍軍人は
東広島にある弾薬廠を管理している

米陸軍第83兵器大隊(83rd Ordnance Battalion)

の司令官だろうと思われます。

閉会が告げられると、わたしたちは即座に外に出ました。
この後、TOが広島から新幹線で仕事に向かう予定があり、
フェリーに乗る予定をしていたからです。

駐車場までは、ツァーで説明をしてくれた自衛官がわざわざ
送ってくれ、話をしながら構内を歩きました。

ここは赤煉瓦の影になるせいかほとんど花が咲いていませんが、
これを見ながらおっしゃるには、

「昨日、学生たちが桜の木に向かってみんなで
『咲け〜!咲け〜!』と声をかけていたんですよ」

「曹叡ば昨日は呉で『江田島はもっと咲いていない』と聴きました」

「それで『咲け』か・・・『酒〜!』かと思った(笑)」

この日一部の桜が花開いていたのはそのおかげだったようです。

ここを通るとき、いつも「号令を聞いて育つためまっすぐ伸びる松」
の話を聞くのですが、帰り道には

「号令が聴こえるところにある桜は、あまり大きく育たないんです」

という衝撃的な話を聞いてしまいました。

大講堂の横の桜はそれなりに大きいですが、この道を挟んで
向かい側に並んでいる桜はなぜかあまり高く伸びず小ぶりなままなのだとか。

「松はまっすぐ伸びますが、桜は萎縮しているんじゃないかと言われてます」

それはあまりにも面白すぎる。
しかし、こうとも考えられませんでしょうか。

「あまり花をたくさんつけると花びら掃除が大変だから、桜は
候補生に気を遣って大きくならないようにしているのかもしれませんよ?」

 

さて、この後が大変でした。
全く観桜会と関係ないですが、ちょっと聞いてください。

まず、TOがスマホで調べ、小用で乗るつもりをしていた船は高速艇で、
車を搭載できるフェリーではなかったことが港に着いてから判明。

「地道で行くしかないねえ」

と訪ねた人に言われたのを真に受けて、そうしようというのに対し、
わたしはきっぱりと、

「ちょっと待って!切串港から広島行きフェリーが出てない?」

路肩に車を停めてiPhoneで検索させると、なんと、
9分後に広島行きが出航するというではありませんか。

グーグルマップで調べると車での所要時間は11分。
わたしはそれを聞いた途端アクセル全開、切串までの道をかっ飛ばし、
海沿いのくねった道を華麗なハンドルさばきで切り抜けて、
ギリギリ最後の一台となってフェリーに滑り込んだのでした。

車を停めたその瞬間、フェリーは出航、二人は脱力感でしばらく絶句。
性能の良いプリウスを借りていて本当によかったと思った瞬間です。

 

広島駅の新幹線口でTOを降ろした後は、空港に到着し、
広島空港でいつも利用するメローブラウンカフェで時間を潰し、
予約していた便で無事帰宅することができました。

ところで、これが江田島構内で見た最後の桜となったわけですが、
翌週、呉地方総監部からこんなものがお礼状とともに送られてきました。

なんと、呉地方総監部に咲いた桜の花をパウチにしたものです。

呉での桜を楽しんで貰えなかったから、ということでしょうか。
観桜会場となったあそこの桜が満開になってからわざわざ花を集めて
加工したものをプレゼントしてくださったというわけです。

わたしはこのちょっと思いつかないような、粋で斬新なアイデアに
「さすがは海上自衛隊!」と唸りました。

そしてこの桜花パウチに書かれた「平成最後の桜」という言葉は、
奇しくも江田島で皆に振る舞われた特製ケーキにも名付けられていたものです。


このような海上自衛隊の皆様の心のこもる温かいおもてなしのおかげで
今年の観桜会は桜を観るだけに優る印象深く楽しいひと時となりました。
皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。

平成最後の桜の思い出を、ありがとうございました。

 

 

 

桜花〜スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターの桜〜スミソニアン博物館

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スミソニアン博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターには
第二次世界大戦時アメリカと干戈を交えた枢軸国からあくまでも
「イタリア抜きで」(笑)、つまり日独の軍用機が多数展示されています。

このほとんどが、終戦後、アメリカが相手国に乗り込んで
破壊される前の軍用機を接収し、空母に積んで本国に持ち帰り、
海軍と空軍のパイロットに実際に操縦させて性能を評価したものです。

スミソニアンのHPを検索すると、また同協会にはこの時代に接収した
日独の技術文書も数多く保存されており、研究者向けに有料で
公開されていることがわかります。

ちなみに保存の形態は全てマイクロフィルムによるもので、
動画などは撮影者のミスでぼやけていたりするものもあるとか。

日本機ばかりが並べられている一角。
手前から「紫電改」「橘花」「晴嵐」「屠龍」「震電」。
一番奥が「月光」で、その手前に見えている灰白色の機体が
本日取り上げる「桜花」です。

桜花 Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22

「桜花」は特攻目的に開発された滑空機です。

靖国神社の遊就館で見ることのできる「桜花」は複製なので、
実はわたしにとっても実際の「桜花」を見るのはこれが初めてです。

現地の説明にある「KUGISYO」は海軍空技廠のことで、
MXY-7が型式番号になります。

「桜花」については日本語のWikipediaに多くが記述されているので、
今日はアメリカ側の説明を中心にご紹介します。

最初から体当たりを目標として開発された航空機というのは、
世界の歴史の中でもこの「桜花」が最初で最後でした。

日本以外の何処の国にとってもあり得ない思想である、
最初から死ぬことを目的とした攻撃、というのもさりながら、
人が操縦して体当たりするための爆弾を開発することの
不合理さと不可解さに、アメリカ人はなべて困惑したのでしょう。

アメリカ側が鹵獲した「桜花」を詳細に研究してたどり着いた結論は

「危険でもっとも手に負えない敵」

この鹵獲機にもわざわざノーズに描かれているように、彼らはこの人間爆弾を
「BAKA Bomb」と呼び、キリスト教の教えに反する自殺が前提の
武器をこうして蔑んでみせましたが、それでも

「アメリカ軍全体に広まった恐怖は決してやわらぐことはなかった」

(戦史研究家ジョン・トーランド)のは確かです。

アメリカ側の被害は1945年4月12日、駆逐艦「マナート・エーベル」が
真っ二つになって轟沈したのを始め、駆逐艦中心に損壊損失含め7隻。
(未確認の民間徴用船を含めるとさらに戦果は増えると言われている)

そして「桜花」特攻によって150名が戦死し、197名が負傷しています。

 

スミソニアンのキュレーターの手による解説も、機体そのものよりも
日本軍の行った特攻に対する解説に重きが置かれています。
以下、翻訳します。

 

Ohka 22は、初歩的な訓練を受けたパイロットが連合国の軍艦などに
突入できるように特別に設計された有人誘導ミサイルでした。

連合軍の空軍と海軍は戦況が進むに従って日本軍の戦闘機を
非常にシステマチックに鎮圧しはじめ、追い込まれた日本軍は
このタイプの攻撃のアイデア(特攻のこと)を選択したのです。

1944年10月19日、大西瀧治郎海軍軍令部次長は、フィリピンで
水陸双方から攻撃するために集結せんとしていた敵軍艦を攻撃するために、
特殊攻撃を行う航空隊を編成することを提言しました。

日本軍はこのユニットを表すのに「特別攻撃」という言葉を使い、
同盟国からは神風として知られるようになりました。

終戦までに、約5000人の搭乗員が特攻によって戦死したと言われます。

連合軍はこれらの部隊を「神風」または「自殺隊」(スイサイドスクヮッド)
日本人は特殊攻撃を意味する「トッコー」という言葉を使いました。

いくつかの哲学的概念が特攻という行動に動機付けられました。
祖国、故郷、そして天皇を救うための究極の犠牲。
そして戦士の名誉と行動の規範である「武士道」に対する義務。
そして、特攻の任務によって1281年にモンゴルの侵略艦隊を破壊した
台風、つまり「神風」の奇跡を再現するという信念。

終戦までに5000人のパイロットが特別攻撃によって死に、現実に
彼らがもたらしたダメージは連合国にとって深刻だったと推定されています。

1945年4月の沖縄侵攻中、アメリカ海軍は21隻の潜水艦と217隻の損害を受け、
被害となった死傷者の数はあまりに酷いものでした。
太平洋戦線で戦死したアメリカ海軍の全死傷者のうち実に7%に当たる
4,300人が特別攻撃によって死亡、また5,400人が負傷しています。

「桜花」の説明に入る前に延々と特攻についてこのような説明をしています。
特攻による自死の概念とその思想についても簡単ではありますが
端的に触れているのはさすがです。

 

そしてここからが「桜花」誕生のストーリーとなります。

トッコー攻撃は、ほとんどすべてのタイプの軍用機で行われました。
しかしそのうち日本軍は特別に設計された特攻用の航空機を必要とするようになります。
敵艦に突入するためには対空戦闘砲とその前に
防衛戦闘機からの攻撃をかわさなくてはいけなかったからです。

その答えは、照準を当てることが難しく、さらに素早く簡単に組み立てることができ、
大量生産が可能な小型飛行機、というものでした。

大田正一少尉は小型のロケット推進力のある特攻機のアイデアを思いつき、
東京大学航空研究所の職員の助けを借りて、改良案を日本海軍に提出したことから
海軍当局者は感銘を受け、プロジェクトは勢いを増しました。

 

「桜花」発案者の大田正一を、英語ではなぜか「オオタミツオ」と間違えているのですが、
この書き方では唐突で少しわかりにくいですね。

大田正一は海軍兵学校卒ではなく、海兵団から操練を経た
航空偵察員で、その頃から「頭のキレるアイデアマン」だったそうです。

この彼こそががロケット推進の有翼誘導弾が三菱で開発されていることを知り、
精度を上げるために人間が操縦すれば良いのでは、と思いついて
東大の教授に相談し、実現にまでこぎつけた「桜花」の産みの親です。

彼は自分のこのアイデアをなんとしてでも海軍に実現させるべく、
軍令部のゴーサインを得るために、自分が偵察員であることを隠して

「出来たらその時にはわたしが乗っていきます」

と宣言していました。

計画を持ち込まれた技術者や航空本部のお偉方にとって、一殺必死の武器に
誰を乗せることになるかが最後の決断のネックとなっていたわけですから、
開発者自らが「自分がやる」と言わなければ許可は降りなかったでしょう。

大田はそれを見越して嘘をつき計画を認めさせただけでなく、

「兵器が出来たら自分が乗りたいですリスト」

を、乗る可能性のない偵察員に取りまとめをさせて、さらに
名前を貸すだけならと賛同した搭乗員の名簿を上に提出しているのです。


最終的に軍令部が「桜花」の計画を承認し、研究試作が開始されるや、
自ら乗っていくと言ったはずの大田はケロリとしてこう言い放ちました。

「また新しい発明を考えて持ってきます」

それを聴いた航空本部の課長だった海軍中佐は自分の判断を悔やんで、

「あんな奴の提案を採用するのではなかった」

と苦々しく思ったという話があります。

その後、大田は桜花を使った特攻部隊「神雷部隊」付きになり、
その時に偵察員から操縦員への転換訓練を受けているのですが、
なんと「搭乗員の適性なし」と判断されています。

本当に真面目に訓練を受けたのか?
適性試験でわざと手抜きしなかったか?

この彼にとって都合よく見える結果に疑義を感じるのはわたしだけではありますまい。

その後新聞に「桜花」の発案者として華々しく紹介されて顔出しした大田は

「自分がそれに乗らないからといって()将兵を死につかせることを
躊躇ってはいけない。今はそういう事態ではない」

と堂々と語り、「桜花」の使用が終戦直前の7月に中止されてからは
方々に再開するように説いて回ったといわれています。

 

終戦の次の日には空技廠にやってきて

「こんな形でやるんなら真先に儂を行かせてくれと上申したのに駄目でした」

と楽しそうに話したという大田中尉は、8月18日、零戦に乗ってそのまま行方不明となり、
殉職扱いで大尉に昇進しました。

が!

戦後、死んだはずの大田の目撃談があちらこちらから出るわ出るわ。

中国軍の義勇軍に加わらないかと誘われたとか、北海道で密輸物資を
ソ連領に運んでいたとか、その合間にも子供を作ったり寸借詐欺をしたり、
傘を持ち逃げしたり(笑)

結局彼は戦犯となることを恐れ、死のうとして零戦に飛び乗ったものの、
金華山沖に着水したところを漁師に拾われて生きながらえ、
戦後のどさくさであちらこちらに起こったように、偽の戸籍を手に入れて
職を転々としながらも細々と、82歳まで生きていたということです。

作家柳田邦男は

「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂」

と彼を評したそうですが、例えば「桜花」を

「この槍、使い難し」

と言い放ち最後まで評価していなかった野中五郎少佐が
生きてこの人物のことを知ったら、おそらく
天地も裂けんばかりに激怒していたことでしょう。


もっとも、功名心にはやる大田の画策によって生産に漕ぎ着けたという
苦々しい経緯があったとはいえ、苦しかった現場はこの兵器に期待を寄せ、
大田とは無関係に新兵器での体当たりを志願する搭乗員は何人も現れました。

スミソニアンの解説に戻ります。

横須賀の海軍第一航空技術廠(略して空技廠)は、数週間以内に
MXY7 Ohka 11を完成させました。
この単座の飛行爆弾は機首に大きな弾頭を詰め込み、双尾翼には
3つの小型ロケットエンジンを搭載、エンジンは双発で
三菱G4M BETTY爆撃機(一式陸攻)の腹にぴったりと牽引されました。

「桜花」の戦闘デビューは1945年3月21日。
グラマン F6F 「ヘルキャット」が「桜花」 11を搭載した16機の
一式陸攻を迎撃し、これらを全機撃墜するという悲惨な結果に終わりました。

 

この時「桜花」は全て海に没し、発進することもありませんでした。
「桜花」は射程距離が限られていたため、一式陸攻の乗組員は
目標の37 km以内で飛行する必要があったのですが、それはまさに
アメリカ機からは射程距離の範囲内で撃ち落とされるしかなかったのです。

この失敗を元に、空技廠は「桜花」 11を修正して、「桜花」 22を開発しました。
射程距離を約130 kmに伸ばすため炸薬を減らして弾頭の大きさを半分にし、
そしてP1Y1爆撃機「銀河」に適応するようにしました。

(桜花)に搭載されていた炸薬。現在は展示されておらず倉庫に収納されている。


「銀河」は一式陸攻よりも速かったので、まだしもアメリカの護衛戦闘機から
逃れる可能性が高くなったのです。

エンジニアはまた、ガソリンを燃料とし、100馬力の日立製Tsu-11という
新しいハイブリッドモータージェットエンジンを搭載しました。

空技廠は最終的にのModel 22を3機完成させ、生産は地下工場にシフトしました。
しかしほとんどの機体は未完成のままで、22が戦闘に出る前に戦争は終わりました。
他にも「桜花」43Bは地上のカタパルトからの打ち上げ用に設計されていましたが、
もし連合軍が提案した九州への侵攻である「オリンピック作戦」を実施していれば
日本はその攻撃に対して何百という「桜花」で特攻を行ったことでしょう。

その時には何万という連合軍兵士と日本人の命が失われた可能性があります。

「桜花」のコクピットパネル。
あまりにシンプルで恐ろしいくらいです。
搭乗員の話によると、非常に操作性は良く、熟練パイロットでなくとも
正確に機体を繰ることはできたということです。

「桜花」を腹の下に牽引した一式陸攻を後ろから見たところ。
1945年6月6日に撮られたものだそうです。

スミソニアンで公開されている写真より。
これがカタパルト打ち上げ式に開発されていた「桜花」43Bで、
1945年横須賀で撮られた写真だと言われています。

機体の下部には橇状の形状が見え、画面後部には米軍のジープが写っています。

第336邀撃部隊のライスター大尉がジョンソン空港(現在の入間基地)で
1950年、「桜花」と記念写真。

「ディスティネーション、ジャパン!ジョンソン空港にて」

  

ロケットエンジン搭載の「桜花」11型は世界中の美術館にありますが、
モータージェット搭載のNASM MXY7モデル22は1機だけです。

アメリカ軍は「桜花」の試験飛行は行わなかったようで、研究の後
この機体は倉庫にありましたが、スミソニアンの修復スタッフは
1994年から航空機の作業に取り掛かり、3年かけてエンジンを取り付け、
コックピットを再構築し、外装と機体を軽く修理し、
そして機械を再塗装して再マーキングするという丁寧な修復を完成させました。

「桜花」は2003年12月からここに展示されています。

ところで、スミソニアンのページにはこんなエッセイがあります。
エリザベス・ボージャというキュレーターの手によるものです。

最後にこれを翻訳しておきます。

ワシントンDCの春分の日はまだ寒く、雨を伴ったりすると、
春がもう訪れているとはとても想像できませんが、
この時期、アメリカの首都は、その最大の毎年恒例のイベントの一つ、
ワシントン桜祭りを祝うことになっています。

ところであなたは国立航空宇宙博物館にも「いくつかの桜」
があることを知っていましたか?

もしあなたがタイダルベイスン(ポトマック川の入江)で
桜祭りの群衆に紛れるつもりがなければ、バージニア州シャンティリーの
Steven F. Udvar-Hazy Centerを散策してみるのもいいかもしれません。
4月には、駐車場は美しい桜の花でいっぱいです。

敷地内にある記念碑付近を散策したり、ダレス国際空港を離発着する航空機が
頭上を飛んでいるときに航空機を間近で観察するのもいいものですよ。

それから博物館の中に入って、すぐにわたしのいう「別の桜」を観ましょう。

それはボーイング航空ハンガーで展示されている第二次世界大戦時代の
日本の航空機Kugisho MXY7 Ohka 22です。
Ohkaは「桜」という意味です。
彼女の機体には色彩鮮やかな桜の花が描かれています。

(アメリカ人はこの桜のシンボルが近づいて来たとき、
ただ神風攻撃の標的とし見ただけでしたが・・・)。

あなたがDCで桜を観るか、それともあなた自身の町で桜を観るかはともかく、
この春の旅行をどうぞ楽しんでください。

 

続く。

 

「ネルソンの遺髪」と「正気放光」〜第一術科学校 教育参考館展示

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またもや江田島第一術科学校の内部について書いているわけですが、
今回は卒業式、観桜会とは別に内部見学をした時についてです。

大講堂の貴賓室に始まり、赤煉瓦の生徒館「モッくんロード」を
通り抜けると、案内コースは教育参考館の前にやってきます。

観桜会でも卒業式でもだいたいそういうコースですが、
一般公開のツァーでも、兵学校同窓会の時でも、生徒館の廊下は
通ることができませんでした。

それはなぜかと考えてみたところ、

「候補生が在校しているかどうか」

であることに気がつきました。
海軍兵学校の同窓会では赤煉瓦の廊下を通行止めされた
元兵学校生徒たちが、

「同期の桜を見に行こうとしたら止められた」

と文句を言っていて、これを不思議に思っていたのですが、
その時赤煉瓦の一階で候補生の座学が行われていたからだったのです。

というか、中に入れない訳は案内の自衛官から最初に説明されたはずですが、
みんなその頃にはすっかり忘れていたってことなんですね。

この日、普通に卒業前の候補生たちが変わらぬ1日を過ごしていましたが、
授業の時間ではなかったため、わたしたちは廊下を歩き、あまつさえ
候補生たちがさっきまでいた教室を見せてもらったりしました。

そして、教育参考館前の「大和の主砲」前までやってきます。

こちらは「三景艦主砲々弾」とあります。
三景艦というのは日本三景の「松島」「厳島」「橋立」からその名前をとった
「松島」型防護巡洋艦で、日清・日露戦争の頃の軍艦です。

「大和」砲弾の半分くらいしかないように見えますが、これでも
「定遠」「鎮遠」など清国の軍艦を相手にしていた頃には、
圧倒的に大きかったといわれています。

「松島」型の主砲は1門しかありませんでしたが、この
カネー社の「32cm(38口径)砲」を搭載することで
清国艦隊の主力艦を一撃で撃破することができるようになりました。

この砲弾に「三景艦」としか表示がないのは、どの間で使われたか
はっきりしていなかったものかもしれません。

 

さて、そののち当時の一術校長による案内で、教育参考館の見学になりました。
教育参考館内は写真撮影禁止なので、いつも説明ができないのですが、
特に印象に残った展示物について、卒業式の日(一術校副校長の案内による)
要点をメモに残しておきました。

今見ると案の定走り書きした文章は解読不明な箇所が多数ですが(笑)
主なものを書き出してみます。

💮 三人の提督の遺髪

昔は靴を脱いで上がったという大理石の階段の上には、
東郷元帥にまつわる著名なシーンを表した銅の扉があり、その後ろには
東郷元帥、ネルソン提督、山本元帥の遺髪が納められています。

なぜネルソン提督の遺髪がここにあるかも説明を受けました。

1911年に英国でジヨージ5世の戴冠式が行われたとき、
随行していった東郷元帥がネルソンの遺髪入りの額を持ち帰り、
海軍兵学校に寄贈して海軍兵学校では生徒の拝観が許されていました。

しかし終戦後、その遺髪は進駐軍(連邦国軍)接収されてしまいます。
イギリスに返されたと日本側は考えていたのですがそうではなく、
誰がどこに持っていったのか、今でも行方が分からないままだそうです。

それでは今ここにあるネルソン提督の遺髪はどこからきたのかというと、
1981年、当時の海幕長が渡英して英国海軍から贈られ持ち帰ったものです。

どうしてイギリス海軍は一度ならず二度までも日本の海軍軍人に
ネルソン提督の遺髪をくれたのか。

あまりに気前が良すぎるというか、ネルソン提督の遺髪ってそんなにいっぱいあるの?
と思わずwikipediaでご本人(の髪の毛の有無)を確認してみました。

42歳、死去5年前のホレーショ・ネルソン。
あー、まあこれなら他にも遺髪はたくさん残っていそう。
少々なら他の国にあげてもいいかも。ですね。

 

余談ですが、提督が亡くなったのはご存知トラファルガー海戦でのことです。

当時海戦で戦死した人はすぐさま海軍葬で海に葬っていましたが、
ネルソン提督の場合、この人のおかげでイギリスの海軍力は保っていた、
とまで言われる軍神なので、当時としては異例の措置で、その遺体は
保存のために樽に入れお酒でひたひたにされて持って帰ることになりました。

と こ ろ が (笑)

偉大な提督にあやかろうとした水兵とただ単に酒を飲みたかった水兵が
皆で競って棺から盗み飲みしてしまい、帰国時にはすでに酒は無くなっていました。
酒の種類や棺か樽かについて真偽には諸説あるこの逸話ですが、
遺体の浸かった酒を皆が飲んだことだけは事実だったらしく、
現在でもイギリスではラム酒のことを

「ネルソンの血」

と呼び、たくさんのメーカーが同名で商品を出しています。

Nelson's Blood

 

ちなみに現在、第一術科学校では遺髪室の前に内部の遺髪の状態を
写真に撮ったものが展示されています。

遺髪室の反対側にも秘密の小部屋があって、ここには
かしこき辺りの方々の軍服等が永久保存されており、遺髪室とともに
基本的には非公開となっています。

海保の卒業式に来訪した安倍首相はやはり中畑一術校長の説明で
実際に遺髪室とその隣の部屋も見学されたと思われます。

 

遺髪室の鋳造された一枚板の扉の正式名は

「東郷元帥記念堂扉」

であり、下絵は東京美術学校助教授の伊原宇三郎が描き、
長崎平和の像を製作した北村西望が彫刻を手がけました。


💮 広瀬中佐の血のついた軍服

今回久しぶりに来てみて、展示室そのものが改装され改装され、
展示もかなり見やすくなっているのに驚きました。
大まかな説明のところには、日本語英語はもちろんのこと、
何と中国語にハングルまであります。

遺髪室のあるホールから展示室に入ると、最初に
小栗忠順、坂本龍馬、西郷従道、勝海舟などの
海軍創建の「立役者」といった人々の写真に始まり、
有名な将官だけでなく、「勇敢なる水兵」の三浦虎次郎などもいます。

中でも大きな扱いをされていたのが広瀬武夫。

旅順港閉塞作戦において脱出する際、帰らぬ部下を気遣って船内を探すも
ついに見つからず、脱出するボートに乗り込んだ瞬間、広瀬は被弾。
その体はわずかな肉片を残して四散したといわれます。

ここには、その時ボートの隣にいた武野啓治のシャツが展示されています。
年月を経て、既にうっすらという感じになっていますが、目を凝らすと
広瀬中佐の血のシミの跡が確認できます。

 

前に旅順港閉塞作戦について当ブログで書いたとき、広瀬を失った
報国丸の部下たちが帰還した時の写真を挙げましたが、あの写真で
戦死した二人の棺に囲まれて簀巻きになっていた人がいたでしょう?
あれが武野さんで、この時に着ていたシャツが展示されているのです。

隣で広瀬中佐が爆死し、返り血を浴びたということは、おそらく同時に
本人も骨折するくらいの怪我を負ったのでしょう。

 

それにしても、いかに広瀬中佐が日本人から敬愛されていたとしても、
広瀬コーナーの資料は他と比べてかなり充実しています。

その理由を考えてみたのですが、敗戦となったとき、広瀬中佐が、

「部下の身を案じて自分が戦死した」

ことで軍神となったということから、おそらくそれらはたとえ進駐軍といえども
手を付けるまいと兵学校側が判断して自主焼却しなかったのではないでしょうか。

ところでその充実したコーナーには広瀬中佐の写真も多数あるわけですが、
その中で謎なのがブリーフ一枚で拳を握りしめた広瀬の写真です。

当時の日本人、とくにに軍人は全員褌だったはずなんですが、
軍神広瀬、なぜこの時代、わざわざブリーフ一枚で写真を?
そもそも当時こんなのどこで売ってたの?

見れば見るほど謎が深まる写真です。って何の話だ。

 

 

💮 横山大観「正気放光」 

大講堂二階の貴賓室には横山大観の「富士山」がありましたが、
あとで中の方に聞いたところ、レプリカだったそうです。

横山大観 正気放光 

世の中にレプリカはこれほど氾濫しているとわかるわけですが、
第一術科学校教育参考館のものは紛れもない本物です。

東大文化財データベースによると、横山大観は昭和17年10月、
第29回院展に出展していたこの作品を海軍省を通じて海軍兵学校に寄贈しました。

絵を見ていただければわかりますが、「正気放光」は大観の富士山の中でも
とくに大きく、そして画風に横溢するのは一言で言って「厳しさ」です。
富士の手前に太平洋が波打っていますが、富士の後ろに見えている波は、なんと
日本海の荒海なのだとこのときに伺いました。

昭和17年というと、6月のミッドウェー海戦でそれまでの軍事的優勢が逆転し、
夏にはアメリカ軍のガダルカナル上陸を許し、ソロモン海戦によって
それを迎え撃つ兵力の投入にも失敗するなどといった戦況でした。

民間人である横山大観にも、海軍の危機的状況は他の国民と同じく
全く報道を通じても知ることはなかったとは思いますが、それでも
この富士山からは、当時の日本の置かれた厳しい局面が反映されている気がします。

そのような時こそ、「正気」=国民の気を一つにするべき、という気持ちで
大観はこの絵をわざわざ兵学校に寄贈したのかもしれません。

ちなみに「正気放光」の英語名は「Japan、 The Shining」となっていました。

このときの説明によると、横山大観の絵は1号が1億円するそうですが、
「正気放光」は125号の大きさだそうです。

 売却されることは未来永劫ないので、値段などいうだけ野暮というものでしょうが。


💮 藤田嗣治の戦争画

「正気放光」のある一角には、その他兵学校時代からの所有である、
藤田嗣治の「漢口突入」という戦争画もあります。

戦前、エコール・ド・パリの代表的な画家で、モンパルナスに住み、
独特の乳白色の肌の女性を描き(絵の具に日本製の天花粉を入れていた)、
パリ画壇の寵児とまでいわれた藤田が、戦争中は画家として派遣され、
戦争画家として日本では多くの作品を残しているのですが、その一つがここにあります。

ところで巷間言われる、

「藤田嗣治が戦後パリに行き帰ってこなかったのは、戦後、
戦争画を描いたことを『軍に協力した』と責められ、日本が嫌になったから」

という説を確かめるため、昔読んだ

菊畑茂久馬著「フジタよ眠れ〜絵描きと戦争」

によると、昭和20年10月、終戦後2ヶ月の段階で、あの朝日新聞は、

「藤田、猪熊、鶴田吾郎、彼らが陸軍美術協会を牛耳り、
戦争中ファシズムに便乗した人たち」

「芸術至上の孤塁を守って戦争画を描かなかった画家たちを
非国民呼ばわりしたのは誰たちであったか」

「自分の芸術素質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛(あゆ、
へつらうこと)し、材料その他でうまい汁を吸った茶坊主は誰だったのだ」

いう痛烈な宮田重雄の言説を掲載しています。
これに対し藤田は、

「画家は自由愛好者で軍国主義であろうはずは断じてない」

「国民としての義務を遂行したまで」

などと反論しました。
一方勝った方のアメリカの占領軍関係者は、この騒ぎに対し、

「どこの国でも芸術家が国家に協力するのは当たり前」

と切って捨てたそうですが、戦後の「軍国パージ」を行ったのは
むしろこれを利用したい日本人だったということを証明するかのように、
朝日新聞は藤田、そして横山大観を含む「戦争協力画家」たちを

「軍部と手を結んで意識的に戦争熱を駆り立てた」

と昭和21年に紙面で臆面もなく糾弾しました。

横山大観は実際の絵の寄贈以外にも、帝国陸軍に

「大観号(愛國445号)」

という97式爆撃機を献納したこともあったため、戦後は戦犯容疑を受け
GHQから取り調べを受けたことがあったそうですし、藤田も
戦後は自分の作品をかなりの数処分してしまったそうです。

(ちなみに「大観号」を検索すると、献呈式に参加する大観とパイロット、
「愛国445号」の写真を見ることができますが、それを無断引用しているのは
どれもこれも「戦犯大観」を口汚く罵るサイトばかりで悲しくなってしまいました)


そして戦後のある日、新たな日本美術会創立メンバーとなった
かつての「戦争画家」、内田巌の訪問を受けました。

藤田と仲の良かった内田はこう言い放ったそうです。

「あなたを戦争犯罪画家に指名しました。
今後美術界での活躍は自粛されたい」

晩年の藤田が

「わたしは日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」

と言ったわけがよくわかりますね。

こういうのを見ると、戦争中の「権力と芸術家の蜜月状態」と、
戦後の「権力者GHQと東京裁判史観あるいは平和思想への阿り」(とあえて言う)とは
敗戦を境として、表裏一体同じ姿をしているのではないかという気がします。


しかしながら、戦後、江田島から一時市内の某所に避難させて没収の難を逃れ、
ほとぼりが冷めてからここ江田島に帰ってきたという「正気放光」は、
そんな人の世の芥のようなしがらみなどまるで受け付けぬように、
教育参考館の一隅で、変わらぬ凛とした光を放っています。

 

続く。

 

 

 

「海軍大将一同に会す?」〜海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館展示

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前回に続き、この3月に二回にわたって訪れた江田島の教育参考館で、
心に残ったものについて書いています。

💮 東郷元帥のカールツァイス製双眼鏡

昔、三笠博物館にいったとき、ロジェストベンスキー提督が乗っている
駆逐艦「ヴェドヴィ」を発見し、お手柄をあげた若き中尉、塚本克熊の
カールツァイスの双眼鏡が展示されていたのでそれについて書いたことがあります。

東郷長官と塚本中尉のツァイス

東郷平八郎の双眼鏡を覗かせてもらい、欲しくなった塚本中尉が、
当時の給料一年分をはたいて購入したツァイスの双眼鏡で大活躍、
若いうちの投資は惜しむな、ということを教訓にしてみました(そうだったっけ)

そのとき、塚本中尉が覗かせてもらった東郷長官の双眼鏡実物がここにあります。

三笠にあった塚本中尉のと違い、大事に保存されていたせいか黒皮巻き残っていて
おそらく今でも十分に役目を果たすのだろうと思われます。

 

💮 東郷平八郎のお裁縫セット

昔は洋服に穴が空いたら繕って使い続けるのが当たり前。
さらに、男性であっても海軍軍人ならそれができるのも当たり前。

というわけで、ここには東郷元帥が使っていたお針セットと、
靴下が飾ってあったりします。

しかし、現代の自衛隊でもお裁縫スキルは必須です。
なぜなら、階級章やボタンなど、皆自分で制服に縫い付けるからです。

防大もそうですし、幹部候補生学校では、一般台から来た候補生が
いきなりお裁縫とアイロンがけでビシビシしごかれることになります。 

 

💮 大和守護神

絵つながりでもういくつか。
前回、横山大観、藤田嗣治という二人の偉大な画家が戦時中は
軍に協力したということで戦後「戦犯」呼ばわりされたことを書きましたが、
同じコーナーには

大和守護神 堂本印象

があります。
奈良県天理市にある大和(おおやまと)神社が描かれた絵なのですが、
この大和神社には、昭和16年、海軍から

「新しい軍艦に御社の御分霊を祀りたい」

という申し出がありました。
その際、それが「大和」という艦名であることは伏せられていました。
依頼を仲立ちしたのは奈良県で、同時に堂本印象に絵を注文します。
その絵がこれで、絵の裏には「軍艦大和艦長室」と記載があるそうです。


昭和20年の春、天一号作戦で「大和」が沖縄特攻に出撃するにあたって、
可燃物となるものは全て陸揚げされることになり、この絵も艦から降ろされました。

その後江田島に進駐軍が入るという知らせを受けて、美術作品の多くは
宮島や大三島の神社などに、この作品は呉海軍共済病院(現在の呉共済病院)
に預けられていましたが、昭和31年になって海上自衛隊教育参考館に寄贈されました。

大和神社には沖縄特攻で戦死した2717名が末社・祖霊社に合祀されています。
1969年(昭和44年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立され、更に昭和47年、
坊ノ岬海戦に参加した巡洋艦「矢矧」他、「冬月」「涼月」「磯風」「濱風」
「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」、駆逐艦8隻の戦没者も合祀して、
この海戦での全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られています。

 

💮技術報国の碑

目黒の幹部学校で先日防衛セミナーを聞いてきましたが、
その時取り壊していた昔の技本の建物の道を挟んで向かいに、

「技術報国」

という碑があります。
この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
歴代25名の工廠長のなかでたった三人しかいなかった機関将校の一人です。

 

江田島にはこの拓本が展示されていました。
ただ、ちょっと思ったのは、機関学校出身だった都築中将には、
江田島はあまり思い入れのない場所だという可能性についてです。

 

💮 秋山真之の「鯉」

奇人変人としても名を馳せた紙一重の天才、秋山真之は、
どうやら絵も上手く、描くのが好きだったと見えます。

教育参考館には、見事な鯉が描かれた秋山の手紙が遺されています。

見たところ、手紙にサラサラっと、しかし興が乗ったのか細部も描き込んで、
下書きもなしにかーるく仕上げてしまった感じが只者でない感じ。

「ほー」

「秋山真之って絵が上手かったんですねー」

これを見るとほぼ全員がこのような感想を漏らします。
得意なことはちゃんと証拠を残しておくもんだね。


💮 山本長官機の尾翼

 昭和18年4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六大将の乗った
一式陸攻が撃墜されました。
世にいう「海軍甲事件」です。

教育参考館には、この時墜落した機体の尾翼が展示されています。

wiki

ちょうど尾翼が写っていますが、ここにあったのが垂直尾翼か水平か
確認しそこねました。

長官機は墜落後主翼より前の部分、胴体、尾翼と
三つに分かれており、尾翼は胴体80mも離れたところに

「もぎ取られたように」

転がっていた、と第一発見者が証言しています。
(『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』高嶋博視著より)


💮 柳本柳作艦長の像

紅蓮の炎を体に巻きつけた仁王像のような海軍軍人の木彫の像があります。
柳本柳作海軍大佐(最終少将)を表したものです。

現地に詳しい説明はありませんが、もしあなたがミッドウェイ海戦において
柳本柳作少将が空母「蒼龍」の艦長としてどんな最後を遂げたかを知っていれば、
この小さな木彫に瞑目せずにはいられないでしょう。

「蒼龍」に総員退艦命令が出た後、柳本は一人艦橋に残った。(略)
飛行長楠本中佐は何としても艦長を艦と共に死なすまいと説得を続けたという。(略)
しかし、柳本は頑として首を縦に振らず、そのうち炎で半身に火傷を負っていたという。
窮した楠本は相撲の心得のある乗組員に命じて無理矢理艦長を艦橋から連れ出そうとした。
しかし、炎を掻い潜って艦橋に向かった乗組員が柳本に

「艦長、お迎えに参りました」

と近寄ると、

「何だ!お前は!」

と物凄い鉄拳をその乗組員の頭に放ちあくまでも退艦を拒否した。(略)
柳本はその後最後に退艦する乗組員を艦橋から見送った後、

「蒼龍、万歳」

を連呼しながら炎渦巻く艦橋に飛び込んでいったという。
乗員達はブリッジに残る柳本を顧みて業火の中の壮絶な姿が印象的だったという。

(『太平洋海戦2激闘編』佐藤和正著)


💮 黒木博司大尉の制服

特殊潜水艇で体当たり攻撃を行う「回天」を開発したのは上層部ではなく
海軍機関学校卒の若い士官でした。
その中心だった一人、黒木大尉は、「回天」の使用を上層部に認めさせた後、
実戦で投入するための訓練中に艇が沈没し、殉職しています。

教育参考館中程には、特攻に赴いた海軍軍人たちの遺品や遺書などが
兵学校卒業か否かにかかわらず集められていて、ここでは展示についての説明はなく
ただ、全てを出来るだけ見て、心に留めてくださいといわれました。

 入ってすぐのところにこの黒木大尉の軍服が展示されています。


💮 謎の宴会

 下の階の、兵学校の卒業写真が見られる部屋に進むと、
直継不二夫氏の写真などが飾ってあるガラス張りの展示壁がありますが、
その一番端に、わたしは海軍軍人が記名した巻物?を見つけました。

これがちょっと不思議なのです。
まずその巻物は、一枚の紙に記名がされており、宴会か会合で
海軍軍人が一堂に会した時のものであることはわかるのですが、
わたしが注目したのは書かれた軍人のメンバーです。

有馬良橘 (1944)

財部彪 (1949)

竹下勇(1949)

末次信正 (1944)

岡田啓介(1952)

安保清種 (1948)

米内光政(1948)

百武源吾 (1976)

山梨勝之進(1967)

小林躋造(1962)

皆さんはこの全員に共通するタイトルが何かご存知ですね?
そう、全員が海軍大将。

わたしはこの近くにおられた説明の方(学芸員というべき職員)に

「一体どういう状況で揮毫されたかご存知ですか」

と聞いてみたのですが、特に詳しいことはわかっていないようでした。

カッコの中はお亡くなりになった年なので、この宴会は
1944年以前に行われたことは確かです。

「海軍大将友の会」みたいな会合でもあったんでしょうか。


💮 海軍兵学校出身戦公死者銘碑

大理石の壁に刻まれた特攻隊戦死者名簿碑のちょうど裏側には
海軍兵学校卒生徒の戦公死者名を刻んだ碑があります。

兵学校は昭和20年3月までに約1万1千200名の卒業生を輩出し、
その三分の一に当たる約4千名が戦公死しています。
とにも芋昭和8年卒業の61期から昭和18年卒業の72期までは
卒業生の半数が戦死しています。

三面の石の銘碑のあるバルコニー状の場所の両側には扉があって、
扉のガラス越しに中を見ることができます。

ここは一般の見学者には非公開となっているのですが、例えば
戦死者の親族などであれば、中に入ることを許されます。

今回、わたしが海軍兵学校同期会に籍を置いていることもあって、
碑の正面から瞑目し手を合わせることを特別に許していただきました。

全戦死者名の名前はある兵学校出身者が揮毫したそうです。
碑の前にはその後ろの特攻戦死者名碑と同じく、花が供えられ、
水をたたえた鉢が置かれておりました。

    さて、平成29年の幹部候補生学校卒業式に彬子女王殿下がご来臨になり、
その際、殿下に構内と教育参考館の説明をされたのが前一術校長でした。   女王殿下のご案内にあたっては、半年以上前から準備が始まり、
展示やその他の情報を精査し、説明内容は完璧に記憶して、
殿下来臨に先立ち、女王殿下役の女性職員を立てて実際に説明して
時間をはかりながら構内を回るというシミュレーションまで行ったそうです。   わたしたちは、いうならば女王殿下や安倍首相のために準備された
海上自衛隊挙げての知力結集の恩恵(の余波)に預かったようなものであり、
また1ヶ月後に退任された校長にとって、わたしたちの案内は、
その成果を発揮する最後の機会になったということになります。   何れにせよ、このような最高の機会をいただけたのは
わたしたちにとってただただ僥倖というほかありませんでした。     続く。    



 

「帽振れ」〜海上自衛隊の離着任行事

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色々と話が途中ですが、今日は、いつも写真を提供してくださるKさんが
「桜花」の記事を見て送ってくれた修武臺記念館の写真を紹介します。

何度も訪れていながらこんな立派な博物館があることを知りませんでした。
航空自衛隊入間基地の修武臺記念館です。

年に数回一般公開されていて、いずれも申し込み制だそうで、今見ると
5月の7〜9日の三日間が一番近い申込日でした。
早速申し込もうと日付を見たら、見学日は7月。
残念ながらそのころは日本にいない可能性が高く、断念です。


ここは江田島の教育参考館や陸自習志野駐屯地の空挺記念館のように、
ここもまた隊員教育施設として位置付けられているそうで、
Kさんによると

「一通り見ると陸海軍航空隊と航空自衛隊の歴史がわかります」

とのことでした。
機会があればぜひ見てみたいものです。

ちなみに、修武臺を調べていて、こんなページを見つけました。

入間基地隊員食堂

航空自衛隊の各基地の給食で提供される鶏の唐揚げを、
航空自衛隊全体でより上を目指すとする意味を込めて

「空上げ(からあげ)」

と呼称しており、各基地で特色ある空上げがあります。

入間基地では、埼玉県秩父の美味しいお水で造られた
「秩父みそ」をふんだんに使用した

「秩父みそ鶏空上げ丼」

を隊員に提供しております。

空自、いつの間にか海自のカレーに対抗する食べ物を開発し、
着々と宣撫工作(違う?)を進行させて周知に努めておる。

空自界隈で「空上げ」を知らないのはモグリ、という状態にまで
もはや到達しつつあるのでは・・・やるな、空自。

それにしても外観の美しさに加え、このセンスがいま風なのは・・?

調べたところ、1986(昭和61)年、旧航士の本部校舎を利用し、
帝国陸軍航空部隊および空自の歴史資料館として開館した「修武台記念館」を、
2005(平成17)年にリニューアルに向けて一旦閉館、現在の記念館は
2012(平成24)年に航空歴史資料館として再オープンしたものでした。

スミソニアンの桜花は日本から接収した実機の一つですが、これが
日本国内唯一の本物の「桜花」だそうです。

2機いるじゃないか!と思ったら奥は写真でした。
手前は炸薬部分と思いますが、恐るべきは「桜花」ノーズと同じ形であることです。

「爆弾に人が乗っていた」

という「桜花」の実態を雄弁に語っています。

修復は困難だったということですが、この「桜花」、翼の部分がないんですね。
左側のは推進部分であろうと思われます。

復元された計器板。
「桜花」はグライダーのようなもので、案外操作性はよく、
操縦そのものは容易だったという搭乗員の証言がありましたね。

しかし、ロケット推進なのでドイツの「コメート」同様、
推進力が無くなればもう滑空するしかありませんでした。

体当たりする目標まで距離が足りない場合、滑空で目標に
到達するのはほぼ不可能だったと思われます。

修武臺で撮られたF35Aのマーク、おそらく撮影された時には
そんなことが起こるとは夢にも思っておられなかったでしょう。

「F-35搭乗員のH三佐の御冥福をお祈りしたいと思います。
国産初号機のパッチが、残念な想い出になってしまいました。
新機種搭乗時間からして百里ファントム302空からの方でしょうか。
朝に出勤した夫・父親が帰って来ないという事実を御家族が受け入れられるものかどうか・・」

 

さて、自衛官にとって、4月1日はその前に発令された
人事異動によって離任式、着任式が行われる特別な日となります。

海上幕僚長離着任行事

もうご覧になった方も多いかと思いますが、村川全幕僚長の離任式、
そして山村新幕僚長の着任式の様子です。

まず、新旧幕僚長二人により市ヶ谷の一隅にある慰霊碑に献花が行われます。
この時に演奏されているのが、儀礼曲「命を捨てて」です。

戦前から海軍に伝わるこの儀礼曲は、国を守るために命を捧げた
軍人の御霊を鎮魂するために作曲され、記録によると、
真珠湾攻撃の何ヶ月も後、特殊潜航艇で突入散華した「九軍神」の
葬列(棺には遺髪が納められていた)が都内を行進したときには
この曲が演奏された、ということです。

「日本が新しい御世となり、海上自衛隊が新しいリーダーのもと、
諸君が、より強く、より信頼され、より暖かい海上自衛隊を
作っていってくれることを確信しています」(村川海幕長)

さすがは村川海幕長、わたしは特に最後の、

「武運長久を祈ります」

この言葉に背筋がびりっとなる思いがしました。

それから新海幕長山村海将の栄誉礼となるのですが、
山村氏の表情には抑えきれない感慨の色が見て取れます。


ただ、その後庁舎内で二人が握手をしながら、

山村「頑張りまーす」

村川「頑張ってください!うふふ」

山村「はーい」

山村 (=・ω・)人(・ω・=) 村川

あー・・・和むなあ・・・。

最後に、行進曲「軍艦」とともに敬礼をかわしながら歩き、
階段を降りたところで、海上幕僚長旗を立てる係の海曹長が、
これで旗を持つ役目が最後になることを宣言しますが、
その際、村川元海幕長がポケットからメダルを出して、
握手をする手に握らせ、渡しているのに注目です。

それから帽振れの後に花束を渡す女性海曹は、涙ぐんでいますね。

村川海幕長がいかに部下から敬愛されていたかがわかるような
一連の動画でした。

 

さて、今日のエントリはKさんに送って頂いた写真特集ですが、
冒頭写真は、3月31日の年度最終日に横須賀地方総監部の送別行事を
遠くから撮られたものだそうです。

 

花束を貰った女性事務官は退職かな?
  袖章からして一等海尉の女性自衛官の転属先は何処か?
  肩章からして海士長の青年は任期退官かな? 「民間に行ってからもガンバレよ。
きっと海上自衛隊より楽だぞ。」

なんて想像しながら見ていると「総員、帽振れ」の号令❢❢ 旧海軍時代からの伝統の❝別れの儀式❞は感動します。

全てKさんのキャプションをお借りしました。
全国の自衛隊でこのような別れの儀式が行われ、海上自衛隊は
去る者を伝統の「帽振れ」で見送ったんですね。

 

Kさん、写真の掲載許可をどうもありがとうございました。

 

 

 

 

堀内豊秋大佐の肖像〜海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館展示

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教育参考館の展示であと一つだけお話ししたいことがありますが、
その前に、この度の見学で見た賜餐館の写真をご紹介しておきます。

賜参館は、あくまでわたしが調べたところによるとですが、
昭和11年のご行幸(前回ご行啓と書いてしまいましたが、天皇陛下お一人だったようです)
の際の兵学校ご訪問の際、ご休憩を賜るために建てられました。

入り口に置かれた自衛隊の錨のマーク入りマット・・・欲しい。

国会図書館まで行ったとき見つけてきた資料を再掲します。


現在の写真と比べていただくと、昔は奥の壁の向こうに部屋があったらしく、
(もしかしたら控え室、あるいはちょっとしたキッチンがあったのかも)
扉があり、床は絨毯引きになっています。

天井はおそらく昔はシャンデリアの類が下がっていたらしいブラケットの
取り付け場所がありますが、自衛隊に所有が移ってから全部取り外し
無粋な蛍光灯に取り替えてしまったのだと思われます。

現在は元の雰囲気に戻されているようですが、蛍光灯は残されています。

おそらくこれはできた時のままだと思われます。
木製の窓に腰板。
ご行幸の際には前面に天鵞絨のカーテンが掛けられていたのではないでしょうか。

現在の賜餐館の状態と比べていただきたいのがここです。
陛下をお迎えするために造られたことを表すのがこの部分。
大講堂にも見られる、菊の紋を逆に彫り込んだ「玉座仕様」です。

陛下はこの前に設えられた椅子にお座りになり、
休憩、もしかしたら午餐を召し上がられたのかもしれません。

 

さて、教育参考館で一つだけ、皆があまり注目しない展示について
今日はお話ししたいと思います。

 

💮 堀内豊秋大佐の肖像画

 

教育参考館の第二展示室、主に昭和の軍人についての資料が並んでいるコーナーに、
メナド攻撃を行った海軍落下傘部隊の司令官であり、
デンマーク体操かをアレンジした海軍体操の生みの親だった堀内豊秋が、
落下傘を背負い、ヘルメットをかぶってこちらを見ている絵があります。

大きさは縦1.2メートル、横70センチくらい。
メナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内隊長の姿です。

ネットには一切上がってこないこの大きな油絵に描かれた堀内大佐は、
この写真にもうかがえる実に飄々とした表情で、軍人の肖像にしては
あまりに生き生きとした闊達な印象なのがいつも目を引きます。


前にも書いたのですが、この絵の作者はバリ在住だった画家で、
オーストラリアはウィーン生まれの

ローランド・ストラッセル(シュトラッサー)

であったことがわかっています。

ストラッセルはわかっているところによると1885年生まれ。
第一次世界大戦中は戦争画家として地位を確立しています。

Roland Strasser 

このハフポストの自画像には、堀内大佐の表情に通じるものがあります。
ストラッセルは絵のためにアジアなどを旅行し作品を残している画家で、
検索すれば日本で描いた歌舞伎や着物の女性の絵も見つかります。

ところで!

この記事によると確かにメナド攻撃のあった1942年、彼はバリにいたようですが、
わたしたちにとってはちょっと看過できない内容なので翻訳しておきます。

彼の代表作のほとんどはバリで製作されたものであり、
それは彼にとって魅力的な場所だったのだろうと思われる。

彼と妻は1942年初頭から1945年末までは
日本軍の占領から逃げるため、
ずっとバリの住居に隔離されていた。
およそ4年間の間彼らは他の白人を見たことがなかったが、
1945年になって日本が降伏し、AP通信の特派員に発見された。

 

日本軍から逃れるために終戦までの4年間、隠れ家生活をしていた?
バリで?
お断りしておきますが、メナド(現在はマナドとなっている)とバリは
別の島であり、現在でも飛行機で2時間20分の距離なのです。

しかも、堀内大佐がインドネシアにいた時期はたった3ヶ月。

それではここにある堀内大佐の絵はいつどこで描かれたものなのでしょうか。
そのことについて検証する前に、堀内大佐について書いておきます。


オランダ軍が、自分たちをインドネシアから追い出した日本軍に恨みを持ち、
報復のためにほとんど形だけの裁判で「残虐行為の責任」を堀内に負わせ、
処刑にしようとしたとき、住民は堀内司令の助命嘆願をしたといわれます。

それは占領下で堀内大佐、しいては日本軍がいかに善政を布いていたかの証明であり、
かつてここを支配していたオランダ人への住民の強い反発の表れだったと言えましょう。

日本軍が侵攻しこの地を統治して司令として任に当たった堀内大佐は、
まずオランダ軍に徴兵されていたインドネシア兵を解放し、故郷に戻らせました。

その後彼らは、あらためて日本軍に仕えるために戻ってきたのでした。
各々が故郷からの土産を携えて。

インドネシアで日本軍が歓迎されたのは堀内一人の人徳によるものではありませんが、
彼が指揮官として、そして人間としていかに公明正大に振る舞い、
戦争下の現地人にも慕われたかを表すエピソードです。

しかもそれはインドネシアだけではなく、日中戦争の間、全く同じことが
中国でも起こりました。

 

盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、
局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、
抗日運動を活発化させました。

あの南京攻略から5ヶ月後、福建省厦門を占領した海軍第五艦隊の
陸戦隊司令だった堀内少佐(当時)が当地に赴任して行ったのは
荒廃した地域の復興、公正な裁判の実地、治安回復でした。

すっかり堀内に信頼を寄せた住民は、任期がきて彼が転勤することを知ると、
現地最高司令官に

「堀内少佐を留任させてほしい」

という嘆願書を提出するという異例の事態が起こりました。
その嘆願書の実物が、この堀内の肖像画の近くに展示されています。

筆跡も麗しい中国語のその嘆願書にはこんなことが書かれていました。
(本文を一部省略して掲載します)

 

かつてこの地は蒋介石政権による、明確な理念もなく、
ただ日本軍に抵抗するために民衆を扇動するだけの政策の影響を受け、
一家の働き手を強制的に徴兵され、献金を強要されるなど、
住民は痛ましい不幸に遭い、住処を失って郷里を離れていきました。
豊かだったこの地は廃墟と化し、とりわけ満州事変が勃発した頃は田園は荒れ果て、
家々は傾き崩れ、どこもかしこも見るに忍びない、それは酷い有様でした。

幸いなことに皇軍がこの地に上陸し、宣撫に全力を尽くしてくださったおかげで、
我々住民は産業を起こして利益を得ると同時に、初めて
それまでの弊害や住民の苦しみを取り除くことができるようになり、
日を追うごとに地方の復興も目に見えて明らかなものになり、
かつてこの地を離れていた住民も戻ってくるようになりました。

昭和14年夏に堀内部隊が本島に駐防するようになってからというもの、
産業を興して利益を得て弊害を取り除き、賞罰も分け隔てなく公正なものであり、
教育を普及し、農業を振興し、橋を改修し、道路を造り、衛生設備を整え、
すっかり荒廃しきったこの地も、ここに挙げた事柄全てにより、
ほんのわずかな期間のうちに、より豊かな地区へと変貌を遂げました。

海外在住の華僑も、家族からの近況を手紙で知る度に、故郷のこの状態は
賢明な長官の全盛のおかげなのだということを知らされております。
おかげさまをもちまして、昨年中に南洋の貿易で得た収益額、および
帰郷してきた住民の統計数は、過去10年間で最高を記録するものになりました。

しかしこのような善政良績の数々は、堀内部隊長、村松中隊長、
その他上下の士官のご一同様が住民の人心を安定させることに努力された、
その恩恵とご意向によるものであり、ご一同様が我々住民との共存共栄にご理解を示され、
我々がこんなご親切な提携や援助を頼ることができなければ、どうしてこの地が
荒廃しきった状況から復興し、日を経るにつれて豊かになっていく今日があったでしょうか。

これは文治武功(法律・制度や教育の充実により占領地域を統治する優れた武勲)
の模範というべきものであります。
「軍人頑固なること石の如し」などと申しますが、
堀内部隊長、村松中隊長、その他上下士官のご一同様が、
実によく我々住民の声に耳を傾けてくださることに感謝しております。

皆が口々に堀内部隊の労苦を厭わぬ仁政を褒め称えているのを耳にします。

これほど素晴らしい功績を挙げられた堀内大隊長ですが、
一つの部隊に長く止まることはできず、近く転勤なさるらしいと聞いております。
もしも堀内部隊長および中隊長、上下士官ご一同様に、これからも末長く
この島に駐在していただけるようにお取り計らいくだされば島民は幸福であり、
皆進んでご指導に従い、この地の様々な業務も復興することでしょう。

このような経緯から、我々は自身の良心に従って黙っていることなどできず、
物の道理も弁えぬ愚かな行いと知りつつも、あえて連盟にてこの陳情書をしたため、
ここに謹んで我々の誠の思いを述べた上、真摯に司令官閣下にお願い申し上げる次第であります。

住民一同の願いを何卒お察しいただき、今後も堀内部隊長ご一同様が本島に駐留し、
島内の治安を維持し、外敵から脅威から我々を守り、地方を防備してくださるならば、
島民全てを挙げてその指揮に従い(かつて周の召公が、甘棠ーかんとうーの木下で
民衆の声に耳を傾け、公正な善政を行ったことに感動した民衆が、
その甘棠をも大切に慈しんだという故事にあるように)心からお慕い申し上げ、
心安らかに生活し、労働を楽しみながら、東亜和平の人民となるべく努力致す所存であります。

この書をしたためるにあたり、丁寧にお願いいたしますよう心がけましたものの、
陳腐な言葉で失礼を申し上げたかもしれませんが、
ただ切に仰せをお待ち申し上げているだけではいられず、
僭越ながらこのような陳情書をお送りすることとなりました。

民国二十九年(昭和十五年)五月一日

厦門根拠地隊司令部 牧田司令官ご高覧

禾山区倉裡社誘導員 黄季通 (押印)

以下103人の連名、押印。

 

必死で健気な思いがあふれていて、読んでいて胸が痛くなるほどです。
念の為書いておくと、署名はもちろんのこと全員が中国人の名前です。

彼らが堀内を慕い、転勤してほしくないと一生懸命の思いでこの陳情書を出した、
その5ヶ月前に、現在の中国が糾弾するところの南京大虐殺が行われたことになりますが、
本当に南京で何十万の無辜の中国人を日本軍が殺戮したのなら、同じ中国人が
堀内と日本軍をこれだけ慕うというのは、あまりにも筋が通らなさすぎませんか。

 

さて、ストラッセルが描いた堀内の絵に戻りましょう。

彼が描いたのは、メナド降下作戦で地上に降り立った時の堀内の姿です。
もちろん彼はその場にいたわけではなく、その時の様子を聞き及び、
本人をモデルに想像で描き上げたのであろうことが想像されます。

おそらく画家は、日本が統治を始めてから隊長である堀内と知り合い、
大作戦を成功させた指揮官の姿を描いてみたいと思ったのでしょう。

ドイツ語のwikiがいうように、彼らが日本軍を恐れてバリに隠れていたのなら、
バリから遠いメナドにいた堀内の絵を描くということは不可能です。

それでは、悪辣な日本軍が画家を拉致でもしてきて無理やり彼に描かせたのでしょうか。

これはわたしの個人的な考えですが、ストラッセルの目を通して見た堀内には
天性の善が滲み出るような朗らかな、何にも恥じぬ明るさが見えます。
もし強制されて描いたならば、彼ほどの画家はこんな風に「敵」を描かないでしょう。

 

今回、日本語、英語、ドイツ語、どこを探しても、
ストラッセルと堀内の関係については探し出せませんでしたが、
おそらく彼は、堀内を描いたとき、インドネシアの古くからの伝説による

「白い布と共に天から降りてきて我々を苦しみから解放してくれた」

日本軍の司令官が、現地民に敬愛されていたことを知っていたはずです。

その後、彼は堀内大佐が占領軍によって処刑されたことを聞きおよび、
沈黙しつつも深い哀悼の誠を捧げたに違いありません。

 

ところで、大変気になったのですが、「堀内部隊を転勤させないでくれ」
という中国人たちの必死のお願いは結局聞き入れられたのでしょうか。

そのことを調べるため、

上原光晴著「落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯」

を読んでみたところ、ただこのようにありました。

「住民は堀内の軍政を讃えて、昭和15年10月、「去思碑」を建てた。
この記念碑建立には、百八人の中国人が寄付金を出している。
『おれは原住民にもてるんだよ』
うれしそうに言って、堀内は持ち帰った碑文の掛け軸を妻に見せた」

つまり、嘆願書は聞き入れられず、堀内の転勤が決まったので、住民は
せめてもと彼の徳を讃える碑を建てた、と言うことになります。

戦後、兵学校出身の作家が現地にこの碑を探しにいったそうですが、
もちろんのこと新体制となった中国では、日本軍人の功を讃える碑など、
早々に処分されたと見え、見つけることはできなかったということです。

 

 

 

 

 


「空母いぶき」と「ハンターキラー潜航せよ」〜二つの日英海戦映画

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先日、知人からショートメールが入りました。

「公開中のハンターキラー潜行せよを観てきました。
潜水艦好きにはたまらない映画でした」

なんと、いまどき潜水艦映画?

このブログを始め、戦争映画について数々取り上げてきましたが、
その期間を含め、潜水艦ものが公開されたのは初めてです。
世に、

「潜水艦映画にハズレなし」

という言葉もあるように、潜水艦そのものの機構や動力が時代と共にに移り変わっても、
海の中という極限で戦うこの特殊な兵器を描いて、もしつまらなかったら
それはよっぽど監督がヘボだ、というくらい、潜水艦映画は面白いと云われます。


まあ、わたし的には、名作中の名作と言われる

「深く静かに潜航せよ」

など、ここで取り上げてみると素人目にもツッコミどころ満載で、
プロットも穴だらけだったと深く静かに云わせていただきたいですが。

とにかく、そんな待望の潜水艦映画が封切られていると知った次の日、
たまたま午後がぽっかり空いていたので、早速観てきました。

予想通り、原題は「ハンターキラー」一語のみ。
「Hunter Killer」を日本語で検索すると「対潜掃討作戦」としか出てきませんが、
映画の中のセリフでは、

「攻撃型原潜」=attack-submarine

という意味で使われていました。

それをいうなら大戦中の潜水艦は全て攻撃型だったのではないか?
という気もするのですが、能力的に駆逐艦にも勝てなかった頃と違い、
防御力と攻撃力が向上し、対艦、対潜といずれもガチンコ勝負できるようになった
原子力搭載のものに限ってこの名称を与えられます。

 

 

ところで、ハンターキラーと言いながら冒頭の画像。
これはなんだ?とお思いになった方もおられると思いますが、
これは「空母いぶき」試写会でいただいたファイルケース。

「空母いぶき」が映画化されるという話は当ブログでも取り上げたことがあり、
公開されたらぜひ観に行こうと思っていたのですが、なんと公開に先立ち、
プレス用招待券をいただいて、一足先に観てきたのでございます。

卒業式と観桜会関連の記事が終わったら、5月24日の公開前に
試写会の感想を取り上げようと思っていたのですが、
今回奇しくもアメリカ原潜が主人公の映画を観に行って、色々と
比べてしまうところがあったので、そんな観点で話してみます。

 

ところで「ハンターキラー」を観て帰ってきたら、映画を教えてくれたのと
ちがう知人(こちらは女性)からショートメールが入りました。

「ハンターキラー潜行せよという映画見てきました。
ワクワクドキドキですごく面白かったです。
これ見てサブマリナーを尊敬してしまいました」

この文面から普通よりも自衛隊に「グーンと寄せてきている」
世間では珍しい部類の女性であることがお分かりかと思いますが、
なんと偶然にも、全く同じ時間に日本の全く別の映画館で
同じ映画を見ていたことがわかりました。

このシンクロ率よ。

わたしが観た映画館も、女性はわたしを入れて四人。
わたし以外は全員がカップルの連れで、年配男性多し、
という状態だったわけですが、彼女も同じような状況で鑑賞したとか。

 

年配の人の多い映画館あるあるで、英語の映画の場合、終わるやいなや
エンドロールの流れる中席を立つ人が多いという現象がありますが、
今回早々に出て行った人たちは、おそらくこの映画がアメリカ制作ではなく

イギリス映画

だったことを知らないに違いありません。

ついでに、制作チームが幾つにも分かれていて、ロシアの部分は
全てロシアスタッフによって作られていることも知らないでしょう。

(字幕に語尾が全て”V"の名前が並んだのは圧巻だった)

いやまー、普通こういう人たちが出てくる映画はアメリカ映画と思うよね?

ところがどっこい、グラス艦長役のジェラルド・バトラーはイギリス生まれだし、
監督のドノヴァン・マーシュも南アフリカ出身だったりするわけです。

道理ででセリフがわかりやすいと思った。

私見ですが、日本人にとってはイギリス英語の方が聞き取りやすいですよね。
米語を話す息子は信じられない、といつも言いますが。


という話はともかく、この世界の共通言語はイギリス英語。
ロシア人同士も英語で会話していました。(K−19方式)

それから、この写真、なんで「アーカンソー」にロシア軍人がいるかですが、
それを言ってしまうとネタバレになるので観てのお楽しみ。

このロシア軍人アンドロポフを演じているのもロシア人ではなく、
(ロシア語をほとんど喋らないのでその必要がないと思われ)
スウェーデン人俳優ミカエル・ニクヴィスト。

映画制作中に亡くなった人の名前が最後の画面に登場することがありますが、
今回は二人名前が出て、その一人がなんと主役級を演じたこの人でした。

ライナーノーツによると、彼は映画撮影中も肺がんと戦っていたそうで、
2017年6月に56歳で、映画の完成を見ることなく亡くなったそうです。

 

 

ところで、この映画のある意味一番大きなツッコミどころは、

「艦長がアナポリスを出ていない」

という設定かもしれません。
突如発生した国家的危機の非常事態に鑑み、事故の起こったロシアの海底に、
重要任務を与えて送り込む潜水艦に乗せる艦長がおらず、呼び寄せた男が、

「ずっと海の中で暮らしてきた」

と豪語するジョー・グラスだったということになっています。

特に飛び級したわけでもなさそうなのに、階級は少佐。
下士官出身で少佐になってもずっと潜水艦に乗っているって・・・あり?
これだと艦長でもないのに副長や航海士より階級が上ってことになってしまうんですが・・・・。

映画『ハンターキラー 潜航せよ』予告編

 

さて、この映画を観に行くことを潜水艦出身のある自衛官に報告したところ、
早速予告編を見ていうには、

「潜水艦の美味しいところを詰め込んだ作品みたいですね」

「これで艦長と副長が反目でもしてくれたらお腹いっぱいです」

確かに、写真下のエドワーズ副長(英語ではXO )は、正統派のアナポリス卒で、
グラス艦長が

「小さい時にこんなことをして(何か忘れた)遊んだだろ?」

というのに対し、

「わたしは艦長とは育ちが違います」

とさりげなく階級差別的なことを言ったり、(このへんがイギリス映画)
艦長の破天荒な指示にいちいち口を挟んだりしますが、
全体の内容の濃さから考えるとほんの味付け程度です。

ところがこちらはその「お約束」が物語の骨子になっていたりするんだな。

「空母いぶき」、このかわぐちかいじ原作の漫画を映画化した作品は、
海上自衛隊の協力は一切ありません。

今はなんでもCG処理できてしまうので、どんなシーンでも実際の装備を必要とせず、
協力を得なくてもなんとかなってしまうというわけですが、
そうなると案外手薄になるのが細部、特に自衛官の所作や制服の着方です。

当ブログ常連のコメンテーターunknownさんは、「空母いぶき」撮影の際、
なんとパーティのシーンにエキストラで参加したそうですが、そのとき、
(自衛官をやらせてくれと言ったら、年齢でダメと言われたとか・・・ドンマイ)
自衛官役の制服の着こなしが変(シャツの入れ方とかベルトとか)だったので、
注意した、とおっしゃっていました。

 

映画の姿勢としてそういうリアリティは追求しなかったのかと思ったのですが、
そういうわけでもなく、本編終了後、エンドロールに元海幕長の古庄幸一氏と、
潜水艦出身元海将の伊藤俊幸氏らのお名前を見つけました。

つまり何らかのアドバイスを元自衛官に求めたということになります。

その後、観桜会の席で伊藤氏にお会いしたので伺ってみると、それは
案外根本的な台本への注文だったことがわかりました。

「かわぐちかいじさんは自衛隊のことは知らないからしょうがないけど、
とにかく副長が(略)自衛隊にあんな副長はいない!と言って(以下略)」

なんと!

漫画「空母いぶき」では、空自パイロット出身の艦長、秋津に対し、
水上艦一筋できた(けど艦長になれなかった)副長の新波の
内心の反発がいたるところに溢れ出ていましたが(笑)、映画でも、
秋津の命令、例えば撃墜せよ!のような命令に対して、副長は

「この距離で撃墜すれば、敵パイロットの脱出はどうたらこうたら」

とか口答えするわけですよ。
それに対して艦長は、

「ここはすでに戦場だ」

などとドヤ顔で決め台詞を言ったりするのです。

やはりこの試写会をご覧になったunknownさんに感想を伺ったところ、
もっとも違和感があったのがこういうところだったそうです。

そもそもUnknownさんは、漫画「空母いぶき」を読むのを
途中でやめてしまったということですが、そのわけは、

「漫画で常々気になったのは、登場人物がよく議論するところです。」

なるほど、これがうざくて嫌になってしまったんですね。

「これは作品のテーマなので仕方ないとは思いますが、
実際には海軍の時代から、正面から戦うか、
避けるかというようなことは、現場では議論しません。

事前に上級司令部(海軍時代だったら、連合艦隊司令部。
自衛隊だったら、自衛艦隊司令部)から、どのような条件では、
どのように行動せよと細かい指示があり、作戦の途中であっても、
判断に迷うことがあると、必ず問い合わせます。
司令部からも現場の動きが見えないと指示を出します。

ちょうどレイテ作戦でレイテ湾に突入するかどうか迷っている栗田艦隊に
『天佑を確信し、全軍突入せよ』と打電した感じです。」

つまり、現場で高度な議論を延々とするのはあり得ない、と。

伊藤元海将がダメ出ししたのも全く同じ点だったことになりますが、
はて、ダメ出しして変えさせてこれということは、原案ではもっと
色々と「鬱陶しかった」(by伊藤)んでしょうか。

 

「ハンターキラー」での「アーカンソー」の副長も

「そんなことをしたら軍法会議ガー」

とか艦長命令に口答えするわけですが、こちらは先ほども言ったとおり、
味付け程度で収まっています。


ただ、発見したのは、どちらも「パターン」を伝統芸のように踏襲していること。

「空母いぶき」=空自出の艦長vs海自副長

「ハンターキラー」=下士官上がりの艦長vs兵学校出副長

つまり、

副長が艦長の軍人としてのランクに納得していない

ただでさえ反感があるのに副長の想像を超える戦略判断をしてくる

副長の反対を押し切って艦長は命令を下す

作戦は成功

艦長すげー!←イマココ

までがセットです。

保身第一のお偉いさんが、実直な軍人とぶつかるのもお約束です。

なんと、この、前例主義で先回りして失敗を予想していちいち怖気付き、
何かと人に当たり散らす小心な統合参謀本部議長を演じるのは
あの!ゲイリー・オールドマンだったりします。

「ハンターキラー」の紅一点はNSAの切れ者という設定ですが、
アメリカには普通に要所に女性がいるのでこれはOK。

問題はこっちだ。

「空母いぶき」にたまたま取材で乗り込んでいるという設定の
本田翼演じる女性記者、本田の上司の週刊誌編集長斉藤由貴、
本筋とはなんの関係もないコンビニのアルバイト。

この女性陣の必要性について、わたしは全く共感できませんでした。

本田翼ははっきりいってウザいの一言だし、
コンビニの話も・・・これどうしても必要だったんですか?

最後まで騒ぎを知らないままの中井貴一とか、
まあ、言わんとしたことはわからないでもないんですが。

「ハンターキラー」ではアメリカの敵はロシアです。

一人の野心的な軍人が起こしたクーデターという設定とはいえ、
アメリカと対峙するのは一応ロシア海軍です。

「空母いぶき」原作は敵は中国となっているはずのに、なぜか映画では
見たことも聞いたこともない架空の国、東亜連邦が出てきます。

具体的な国同士のぶつかり合いという表現を避けたのは、どちらも
配慮とか忖度とかそういうものの結果だと思われます。

 

そして、今回わたしはこの二つは、実は厳密には戦争映画ではなく、

「戦争を回避するための戦闘映画」

であることに気が付いてしまいました。

「空母いぶき」で、副長が眼前に敵がいるにも関わらず、
艦長に向かって攻撃するのしないのでやいのやいのと進言するのも、
日本政府が戦後初の防衛出動を命じながら同時に外交交渉するのも、
そのため戦闘を回避せよと現場に命令を出すのも、現場の自衛官が
専守防衛に殉じようとするのも、開戦をただ避けんがため。

「ハンターキラー」では、ロシアのクーデター部隊に対し、
開戦をなんとでも防ごうとアメリカ軍人たちが彼らと戦いを繰り広げます。
(ヒラリー・クリントンの上位変換である女性大統領は影薄し)。

彼らの「戦争を起こさせまいとする戦い」があっと驚く
「第三者」のアクションによって決着を見る、というエンディングも、
偶然とはいえ、気味が悪いほどこの二つの映画は似ているのです。

(そしてそのシーンに思わず感動させられてしまう、というのも)

 

さて、一見似ていないようで案外似ているこの二つの映画ですが、
同じようなことをテーマにしていても、そのスピード感と
エンターテイメントとしてのハッチャケ度は、正直なところ
「ハンターキラー」の圧勝です。

スピード感があるはず、同作品は「スピード」のスタッフが手がけています。

「空母いぶき」がコンビニの話に尺を取られている間に、こちらは
伝家の宝刀ネイビーシールズの命知らずの男たちを投入してきます。
この4人の決死作戦と、彼らの人間としての無骨な連帯感などを
さりげなく混ぜてきて、サービス満点です。

サービスといえば、海中の機雷原を息を殺してくぐり抜けるという
潜水艦映画には欠かせない古典的なハラハラシーンもあり〼。

装備の紹介もさりげに混ぜてきて、先日掃海母艦で見学した水中航走するカメラとか、
深海救難艇DSRVの実際の使用例もスリリングに見せてくれます。

海上自衛隊の潜水艦乗りはこれ必ず見るべきです(断言)

「空母いぶき」と違い、こちらには米海軍が惜しみなく協力したそうで、
主役のジェラルド・バトラーは実際にパールハーバーで潜水艦体験をし、
潜水艦の内部での撮影も二日だけ許可され、映画スタッフはそれを元に
リアルな潜水艦内部のセット(ジンバル付き)を作り上げました。

 

「空母いぶき」では、防衛出動とか相手国との交渉とか、とにかく
政府要人の悩んだり決断したり会議したりが非常に重きを持って描かれます。

これは海外公開時には世界に奇異な印象を与えたという「シン・ゴジラ」の
政府てんやわんやに酷似していますが、まあこれもまた最近では
日本のパニック映画の「お約束」になりつつあるのかもしれません。

 

というわけで、二つの映画を並べて語ってきたわけですが、
わたしとしては皆さんにどちらも大画面の映画館で観て欲しいと思います。

CGとはいえ、どちらもなかなかの迫力シーンが多く、
音響も相まって面白さが数段違ってくるからです。

 

最後に、unknownさんが送ってくださった「空母いぶきのツッコミどころ」を
上げておきますと・・・・

・「いぶき」その他護衛艦の艦橋と巡視船の船橋が皆同じ
つまり一つのセットを使いまわしている

・艦艇の乗員が戦闘服の右肩に船のロゴ入りのワッペンを付けている
これは航空部隊の隊員の仕様である

・CICで配置に就いたまま缶飯を食べたりお茶を飲んだりしていた
こぼすと機器が汚れるので、どんな非常時でも飲食は休憩スペースで行う

・航海中にマストトップの航空障害灯(赤い灯火)と艦橋内の電灯が点いている
どちらも停泊時のみに行われる

・魚雷やミサイルは、映画ほど急激には舵を取れない
ミサイルの場合、パイロットから見て、六つ数えて、
思いっ切り舵を取れば振り切れると言われている

缶飯は官品と同じ色をしていたのですが、惜しかったですね(笑)


それから、聴いた話ですが、先日退官されたある元統幕長が
「いぶき」艦長が空自出身であることについて、

「そんなことは絶対にありえない!空母の艦長は海自です」

とおっしゃっていたそうです。

 

それではみなさま、「ハンターキラー」は現在上映中、
「空母いぶき」は5月24日から公開となります。
どちらもおすすめですので、ぜひ劇場に足をお運びください。

 

 

 

艦橋と集中制御室〜掃海母艦「ぶんご」見学その1

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今年の幹部候補生学校の卒業式には、すでにここで述べたように
前日の見学を含むツァーにご招待いただくという形での参加になりました。

卒業式のご報告が全て終わった今、あらためて卒業式前日の
見学からお話しさせていただこうと思います。

予定には「艦艇見学」とだけ書かれており、何を見せていただけるのかは
当日、岸壁に到着してからのお楽しみ、ということで
集合場所のホテルのロビーから自衛隊のご用意くださったバスに乗り、
やってきたのはわたしにとってはおなじみの昭和埠頭(というらしい)。

一番IHI寄りの岸壁に係留されている掃海母艦「ぶんご」。
これが本日見学させていただく自衛艦です。

わたしにとっては掃海隊の訓練のときに見学させていただいたり、
艦長と会食、あるいは高松での掃海艇殉職者追悼式に先立つ
艦上レセプションで非常に馴染みの深い艦ですが、今日の見学では
どんな発見があるでしょうか。

艦上に案内されて一番最初に何をしたかというと写真撮影。
艦橋が写るように艦首部分に並べられた椅子の前には
掃海隊群のシンボルである龍が機雷を掴んでいる姿を描いたマーク、
それがプリントされたマットが敷いてあります。

感心するのは、こういうときに海上自衛隊というのは
席をきっちりと決めておくことで、しかもその席順は、
前にも言いましたが、海自内部でどういう基準によるものか
厳密に上位が決まっているらしいことでした。

これは間違いなく海軍伝統で、海上自衛隊の規則集には
例えば車の席でも上位がきっちりと決まっていて、
運転手の後ろが「上座」だったと記憶します。

写真撮影後、艦内に案内されました。
掃海母艦の艦橋はほぼ艦体の大きさのままで低く安定しているので
正面から見ると大変見分けやすい形をしています。

移動中も見学中も、カメラマンが記録の写真を撮りまくっていました。

今回は海幕総務から海将補を筆頭に一佐、二佐、海曹長、
そして防衛省職員などが一団となって一行の案内、説明、
アシストのために出張してきていました。

舷側を歩きながらも周りの写真を撮るのを忘れません。
隣の岸壁には掃海艇「あいしま」と「みやじま」がいます。

これも補給のための構造物のため一目でわかる補給艦、
「とわだ」がいます。

この岸壁には通常「いずも」がいるのですが、今日は訓練に出ていてお留守です。

その向こうが潜水艦基地。
「そうりゅう」型潜水艦が一隻だけ係留されていました。

 

 

やっぱり「みやじま」は地元である広島・呉を定係港にするんですね。
「あいしま」も山口県相島から名前を取っています。

「相島」という島は全国に三箇所あるのですが、「あいしま」と読むのは
山口のだけで、三重県の相島は「おじま」(御木本真珠島のこと)、
そして福岡県のは「あいのしま」と読むのだそうです。

案内されて艦内に入って行きました。

部屋に入ると、席次がモニターに映し出されていたのでびっくり。

最初にレクチャーが行われることになっていたのですが、
ここも全て席が決められていて、左側の真ん中が「上座」のようでした。

席に着くとまず冷たいお茶が出てきて、その後はコーヒー。
陸自もそうですが、自衛隊では必ずコーヒーが出てきます。

レクチャーは勿論掃海隊についてのことです。

まずは掃海隊の歴史や編成などについて。
戦争中、日本側が防御のために、そしてアメリカ側が「飢餓作戦」で
日本列島の周りに敷設した機雷を処分することから活動が始まった、
ということから説明が始まりました。

わたしには周知のことでしたが、同行のお歴々の中には
ほぼ初めて聞く方もおられたようです。

写真は掃海隊の編成図ですが、呉基地の第3掃海隊はこの「ぶんご」、
先ほど見た「あいしま」「みやじま」の3隻となります。
もう一隻の掃海母艦「うらが」は横須賀の第1掃海隊所属です。

掃海隊の現在の活動についても、東日本大震災の行方不明者捜索や
墜落したF-2戦闘機の機体を捜索、回収した時の記録が紹介されました。

これを見て思わずにいられないのが、4月9日のF-35A墜落です。

先日はまだ破片だけで機体も搭乗員も見つかっていないため、空自、
海自、海保は勿論米軍の偵察機まで投入されているようですが、
位置が特定されれば、そのときには掃海隊の出動となるのでしょうか。

レクチャーが終わってから皆が席を立った後ですが、
わたしたち以外のほとんどの席に資料が残されていたのにびっくりしました。

普通こういうのって持って帰りません?

メンバーの方たちは、最後に、何か質問はありませんかと言われて、
レクチャーで話題となった掃海活動とは全く関係ない、明後日の質問
(自衛隊の基本的な知識も全くないことがわかるような)をしたり、
もしかしてこの日まで自衛隊の見学をしたことがないのかなとさえ思わされました。

先に隣の艦長室を見学。
専用のタブ付きバス、応接セット付きの個室です。

丸窓があって外が見えるのがすごい特権と言えるかもしれません。
掃海母艦は大きいので、他の艦よりも艦長室も広いように思えますが、
実際は「あきづき」型護衛艦の艦長室とほぼ同じ感じでした。

見学の最初は艦橋、ブリッジからです。
手前は先ほどレクチャーしてくれた第3掃海隊司令(一佐)です。

「ぶんご」「うらが」などの掃海母艦のブリッジが大変広いことを強調しています。

赤と青二色の椅子は「ぶんご」艦長席。
「ぶんご」艦長は二等海佐職となります。

赤いカバーは第3掃海隊司令席。
自衛官のなかにおいては司令官職だけが座ることを許されます。

「ぶんご」が例えば掃海隊訓練などで、掃海隊群司令(海将補)が座乗する場合、
この席には黄色いカバーが掛けられ「群司令席」となります。
その場合右舷側席は多分艦長席となるはずです(たぶん)

同行の政治家先生が、勧められるままに司令官席に座り、赤いストラップ、
そして第3掃海隊司令の帽子を被って写真を撮っておられました。

ご自身のホームページに「活動記録」として載せるおつもりでしょうか。

艦橋窓からの眺め。
「この世界の片隅に」で、主人公のすずさんが、姪と一緒に立ち、
「大和」「武蔵」などの海軍艦艇を眺めた灰ヶ峯が連なっています。

岸壁(というよりここ実はポンツーン、浮き桟橋です)には
訓練支援艦「くろべ」が係留されていました。

甲板にはオレンジ色の標的機が見えます。

出航などの時に吹奏されるラッパの置き場は艦によって違います。
天井に近いところに掛けてあるというのだけはどこも同じですが。

案内役の一団におられた海曹の方(海幕の先任伍長だったかも)
が出して見せてくださったのですが、あれ?

もしかしてこれ、マウスピースの近くが折れていないかい?

次にわたしが目をつけた?のは測距儀です。
今まで測距儀を収納しているところを見たことがなかったので、

「測距儀がこんなところにあるー!」

とはしゃいでおりますと・・・・、

海幕の海曹が上から降ろして、触らせてくれました。

「思ってたのより軽いですねー」

「のぞいて見られたことありますか」

「いえ、なかったと思います」

あれ?もしかしたらのぞいたことあったかな?まあいいや。

測距儀ラックに置いて、調節の仕方を教えてもらいました。
筒を回して対象物に焦点をあわせ、その時に掲示された距離が
ここから対象物までの距離です。

「これでどうやって距離がわかるんですか」(これはTO)

「両側のレンズと対象までの三角形から距離を計算します」

つまり三角関数ですねわかります。

最初にやらせてもらいましたが、そもそもどちら側に回せばいいのか
全く見当がつかないのでいくらやってもピントが合わず。

「どうしても合わせられませんー」(´・ω・`)

合わせてもらって輸送艦の艦体に合わせたところをのぞいて見ました。

「ここからあそこまでの距離は約250mですね」

慣れないと、これを合わせていて気分が悪くなることもあるそうです。

いやーこれは楽しい。
見学する人数が少なくて案内が同じくらいいるので、その辺にいる人を
捕まえてなんでも質問し放題、体験し放題。

艦橋から一同は隣のCICに案内されました。
「制御室」ともいうところです。

一般的に護衛艦などの集中制御室はもっと下の階にありますが、
「ぶんご」「うらが」の掃海母艦は艦橋階にあるのが特徴です。

ですから、艦橋を出てすぐ隣の部屋に制御室が!

これはいろんな艦艇を見慣れている目にはちょっとした驚きです。

右上の黄色い一角が「ぶんご」の集中制御室となります。
ご覧のように機械室などは艦体の下の方にあるわけですが、掃海母艦は
機雷を処理する現場で操業を行うので、この図にも書いてあるように、

「機械室の無人化を図る」

ためにこのような設計となっているのです。
ぶっちゃけていいますと、万が一の事態(つまり触雷)に備えてのことですね。

もちろん触雷し艦底が破損することになれば、クラッチや制御機器、
ボイラ、クラッチも被害を受け動かなくなる可能性はあるわけですが、
そこが無人化されていさえすれば、人的被害だけは避けられます。

集中制御室では電源の監視制御も行われます。

制御室に艦の形をし、そのいたるところにランプがついた
左端のようなパネルがあるのを、おそらく艦底見学された方は
一度ならずご覧になったことがあるでしょう。

制御室には応急監視制御版、艦内の状態を一手に把握できるシステムがあります。

なお、わかりやすく動力の伝達について図が示してありました。

「操舵装置」

艦橋にある舵輪は、艦長などの操舵指示を受けて海曹が動かします。
ここから船の舵まで、操舵が伝達されます。

「動力伝達装置」

ディーゼルエンジンで発生した動力はカムを動かし、そのカムは
クラッチによって回転数を変化させ、プロペラを回します。

「プロペラ装置」

プロペラ欲は角度を変えることで前進、中立、後進を行うのです。

 

簡単な図ですが、案外そうだったのか(操舵だけに)と目から鱗の説明で、
単純化された艦船の仕組みが腑に落ちたというか、把握できた気がします。


 

続く。

 

 

再圧室と「リーマス」〜掃海母艦「ぶんご」見学その2

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さて、掃海母艦「ぶんご」の艦内ツァーは、政治家、官僚、政治評論家、
学者、弁護士、その他(わたし)という招待客を引率して行われました。

ところでこのメンバーにどうしてわたしが混じっているのでしょうか。
こうやって書いてみると我ながら実に不思議ですね。

ただ、言わせてもらえば、この中で最も自衛隊に詳しいのがわたしで、
その知識の差は彼らの専門分野とわたしのそれを逆転させたくらい、
というのは間違いのないところです。

ただし、これは裏を返せば、こんなに詳しい人間を、わざわざ
自衛隊への理解を深める初級ツァーに案内する意味があるのか?
ということでもありますけど(自爆)

艦橋と集中制御室を見学したあとは、掃海母艦ならではの施設です。
一般的な自衛艦にはない医療設備を持っており、例えばこの医務室では
手術も可能となっています。

ちなみに手術室を持たない護衛艦などで緊急に手術が行われる場合には、
士官室のテーブルが「手術台」となるため、天井には無影灯が装備されています。

そしてこれこそが掃海母艦にしかない「減圧室」。
水中処分員(EOD)が海中で減圧症(潜水病)になった場合、
母艦に運び込んでここで高気圧酸素治療を行うのです。

前にも書いたことがありますが、潜水士は深海に潜ると
段階的に海中に止まり、時間をかけて徐々に上がってきます。
急激に上がると、高圧下で微小だった血液中の気泡が大きくなって
血管を塞ぎ血行障害を引き起こす潜水病になってしまうのです。

昔は潜水病を起こしたらもう一度深海に沈めたそうですが、
今では人工的に深海と同じ圧力を作り出す装置に閉じ込めます。

これが減圧室です。

減圧チャンバーの外側には「打音信号表」が貼ってあります。
叩く回数によって意味を持たせており、

1、「異常ないか?」または「異常なし」
 (潜降中の時は止まれ)

2、潜降せよ(上昇の時は止まりすぎた、止めるまで潜降せよ)

3、上昇準備をなせ(上昇準備よし)

4、上昇はじめ

潜水士同士の信号だと思うのですが、はて、何を叩くんだろう。
マスク?頭?

ベッドの上に管のようなものが見えますが、これはまさか点滴?

この減圧室にはベッドが二つ、つまり同時に二人収容できるので、第2種装置です。
患者を一人だけ収容するものを第1種装置と言います。

再圧タンクでは治療だけでなく訓練も行われます。

パイプが曲がっているのはカメラの樽型収差?と思い補正してみたら、
今度は某女優さんのインスタ自撮り写真ばりに空間が歪んでしまいました。
つまりパイプは元から歪んでいたらしいことがこれでわかりました。

おっと、海上自衛隊では「減圧室」ではなく「再圧室」でした。

確かに前も、「高圧をかけるのに減圧室という名前はおかしくないか」
と突っ込んでみたのですが、さすがは海自、ごもっともな選択です。

左のカップヌードルケースは水深50mの圧力をかけたもの。
元々の大きさは右のスープヌードルカップと同じだったものです。

問題は、カップヌードルとスープカップヌードルの大きさは
本当に全く同じなのか?ってことなんですけど。

再圧室はベッドのある「寝室兼居室」と、その手前の
トイレや手洗いのある部分に別れています。
同時に二人がいた場合とか、もしかしたら外からも
トイレが見られてしまいそうでものすごく心配です。

ちなみに再圧治療中は携帯はもちろん禁止です。
滞在は結構長くなるので、本などを読んで時間を潰すそうです。

再圧室の見学を終わり、もう一度上甲板に戻りました。
今度は後甲板で何か説明があるようです。

この構造物はデッキクレーン。
手すりで囲まれた部分に乗って操作を行います。

掃海母艦の大事な役目の一つ、掃海艇たちへの餌やり、じゃなくて
燃料・水補給を行うための巨大なホースリールが。

後甲板にいくとエレベーターパレットが下りていました。
掃海母艦のパレットが下りているのを見るのは2回目です。

1度目は深夜の訪問時、食料の補給を行なっているところを見学しました。

機雷の模型などを並べて説明をしてくれるようです。
格納庫の奥には写真も並べてありますが、見る機会はありませんでした。

掃海艇からカッターのついたロープを浮きにつけて引っ張り、
水中に浮いている機雷の係維索を切って海面に浮き上がらせ、
掃討する方法、係維掃海です。

カッターでなく火薬の力で係維索を切断する「爆破型」という方法もあります。

機雷が感応式だった場合もやはり掃海隊で電線を引っ張り、
船の作る磁場だと機雷に「勘違い」させて爆発させる方法もあります。

機雷の模型に機雷の説明が貼り付けてあります。

隣の係維機雷にも触発式と磁気式があり、海の底に沈んでいる
沈底機雷には、

「音響式」「水圧式」「それらの複合機雷」

海底に潜んでいて船が通ると上昇してくる

「上昇・ホーミング機雷」

があるなどといった説明を受けました。

ウェルデッキの底を覗き込むと、そこに三人の掃海母艦乗員が待機していました。

上甲板から下を覗き込むように見ていると、三人の乗員がなぜかこの物体を持ち上げ、
皆の見ている前で向きを変えて置きました。
最初からこの向きに置いておけばいいのにという気もしましたが、
乗員が持って運べるということをおそらく強調したかったのだと思われます。

この機器ですが、恥ずかしながらここまで見ておいて、
記事作成の段階で「水中偵察のためのもの」としか記憶がなく、
困り果てたので、急いで元掃海隊司令にSOSを求めたところ、

「リーマスです」

というお返事。
さらに聞いた記憶がありません。
リーマスという言葉は説明に使われなかったのでしょう。

ご教示いただいたところによると、この一般名称は
海底を自動航走して映像を撮影して戻ってくる、

UUV(Unmanned Underwater Vehicles)

軍用の場合UUV、一般的には

AUV 自律型無人潜水機 (autonomous underwater vehicle)

といいます。

https://www.kongsberg.com/maritime/products/marine-robotics/autonomous-underwater-vehicles/AUV-remus-100/

Autonomous Underwater Vehicle, REMUS 100 - KONGSBERG MARITIME


近年、第二次世界大戦で沈没した軍艦の位置が次々と特定されていますが、
その実績の陰にはこういった無人潜水機の普及もあるのかと思われます。

海上自衛隊のUUVは、東日本大震災後に、当時の掃海隊群司令の提唱により、
比較的浅いところまでのリーマス100(水深100m程度まで)と、
リーマス600(水深600mまで)の2種類が震災対応予算で導入されました。

名目は災害救助、特に津波などによる行方不明者捜索ということでしたが、
海中偵察の無人化もはや世界の海軍の趨勢であることを考えれば、
目的が災害対策のためだけでないことは明白です。


導入した大型のリーマス600は母艦に、小型の100は101掃海隊が装備して
その後研究が進められたということでしたので、ここで見せてもらったのは
状況的に大型のリーマス600ではないかと思われます。

ちなみに、リーマス「REMUS」(レムス)はローマの建国神話に登場する
ローマの建設者で、マルス(軍神)の血を引く双子の片割れの名前です。

「アイギスの盾」→イージス艦

「ファランクス」(古代において用いられた重装歩兵による密集陣形)→CIWS

「エクスカリバー」(アーサーの剣)→英国の駆逐戦車

など、架空の武器やギリシャ神話、ローマ建国神話の固有名詞は
武器開発会社にとって格好のネーミングの宝庫ってことですね。

 

見学は終了し、ラッタルを降り、バスに乗り込みました。

「ぶんご」舷門ではこのように敬礼でお見送りしてくれています。
サイドパイプを吹鳴していますが、これはこちら側の案内役として、
海幕から海将補が来ておられるからであり、決してわたしたちのためではありません。

向かいにいた艦の舷側からも一斉に敬礼が送られました。

さて、「ぶんご」でたくさんお土産をいただきましたので、
最後にこれをご紹介したいと思います。


説明に使われた掃海隊についてのパンフレットのほかは、
この立派な装丁がされた甲板での集合写真、
(見学している間に現像ができていた)それから・・・

タオル。
前にも一度掃海隊訓練の時にタオルをいただきましたが、
その時のも、今回も大変実用的で質のいい製品なのが嬉しい。

このまま掛けて飾れるようになっていますが、実は手ぬぐいです。
バラしてしまうのが勿体無いのでまだこのままおいてあります。

一番「ウケた」のがこれ、係維機雷を模したキーホルダー。
ちゃんと設置されている状態がわかるようにイラスト付きです。

機雷の部分には本当にトゲトゲが付いています。
隊司令が皆にこれを渡すときに、

「ズボンの後ろポケットに入れないでください。
うっかり座るとお尻に棘が刺さって痛いので」

掃海隊群、確実に狙ってきてます(笑)


たっぷり時間をかけて艦内を周り説明を聞いた上、お土産まで。
大変充実した見学をさせていただいた掃海隊のみなさん、
どうもありがとうございました。

 

 

 

「モラルはスカイハイ」戦後からペルシャ湾までの掃海〜海上自衛隊呉史料館展示より

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幹部候補生学校卒業式に伴う研修行事で、掃海母艦「ぶんご」見学の後、
バスに乗り込んだら、行き先は「てつのくじら館」でした。

「てつのくじら館」、正式名称海上自衛隊呉史料館、もちろんわたしは
ここに数え切れないほど来ているのですが、こういう研修で
案内がフルで付くタイプの見学は考えたら初めてのことです。

案内役は史料館常駐らしい制服自衛官が一人だけでしたが、
わたしたちには海幕から総務課の一個連隊が護衛に付いており、
しかも海将補、一佐、二佐、海曹長いう陣容なので、
ある程度のことであれば、近くにいる誰に聞いても答えが得られる、
という至れり尽くせりな見学となりました。

最初に案内の自衛官が挨拶のあと、このように始めました。

「ここ海上自衛隊呉史料館は全国で五箇所ある自衛隊史料館の一つです」

ほー、自衛隊史料館って5つもあったのか。

「他に行かれた方、おられますか?・・・おられませんか?
海上自衛隊はここと佐世保のセイルタワー、鹿屋にもあります」

そういえばどちらも行ったことあったわね。

「陸自は朝霞に『りっくんランド』という名称のもの、
空自はエアーパークといい浜松に航空博物館を持っています」

これ、どちらも行ったことが・・・
うおっ、ということは、いつの間にか全史料館踏破していたのかわたし。
軽く驚きながら、見学開始です。

呉資料館一階には海上自衛隊の歩みについての展示があります。

右から順番に、

戦前:海上防衛の根拠地となった呉

1948年:戦後、すぐに旧海軍軍人による掃海が始まる

1954年:掃海作業の延長上に生まれた海上警備隊が海上自衛隊へと

1976年:数次の防衛力整備を経て世界有数の海軍となる

201X年:あらゆる事態に即応できる防衛力の構築

というタイムゾーンで分けられていますが、1976年と201X年
何があったのか、調べてもわかりませんでした。

二階に上がっていくと、掃海の歴史から始まります。

終戦、日本が復興を遂げるには、とにかく日本列島の周りに
敵味方で敷設しまくった機雷を除去し、航路啓開することが必須でした。

1947年までの掃海は、生き残った海軍の木造船を流用して行われました。
掃海用の設備も何もない船で、全ての作業を人力で行なっていたといいます。

日本軍の敷設した機雷は構造もわかっているし、簡単な仕組みでしたが、
米軍がB-29から撒いた機雷は処分が難しく、(複合機雷まであった)
掃海隊は有効な対処法を持ちませんでした。

これは、昭和20年9月19日の日付、海軍の名前で出された通達です。
宛先は呉鎮守府長官となっており、目を引くのは

「81部隊 第8特攻部隊」

への下命であると書かれていることです。
呉鎮守府長官から所属掃海部隊に「エリソン」号に乗ってどこからどこまで
掃海をさせるように、と下命する通達のようです。

戦後掃海に投入された掃海艇「桑栄丸」(そうえいまる)は、
米軍の機雷の有無を確認するために、危険海域を航走、すなわち

「特攻掃海」

を実施しました。
総会に参加した他の4隻とともに、彼女らは

「モルモット船」(米軍は”guinea pig ship")

と呼ばれていたそうです。

4隻の「試航船」は、乗員を保護するための緩衝材をつけるなど、
改装を施して、このような航路を航行しました。
機雷があれば爆発し、自らが巻き込まれることになるのですが、
命じる方も命じられる方も、そのことについてどう認識していたのでしょうか。

 

掃海は元山(韓国)沖でも行われています。

日本近海の掃海に当たっていた隊員たちが、朝鮮戦争勃発後、
マッカーサーの命を受けて

「日本特別掃海隊」

という名称で朝鮮半島の掃海に派遣されることになったのです。

水交会が発行した

「海上自衛隊 苦心の足跡 掃海」

には、大東亜戦争を幾多の危険からくぐり抜けて生還し、
日本の再興に邁進している元軍人たちに今になって招集をかけ、
戦地に、しかも海外の戦争に部下を投入させねばならない指揮官の苦悩、
隊員たちの遣る瀬無さを証言する記録が掲載されています。

そんな彼らが自らを奮い立たせるために口々に言い合ったのは、

「我が国は講和条約前であり、無条件降伏したこの日本の将来を
少しでも明るくするには、連合国の心証を良くすることが必要だ」

というどこからともなく出てきたこんな言葉だったそうです。

これは、「桑栄丸」船長に渡された給与支払いについての通達です。

「桑栄丸」は、同時に任務に当たった4隻の中で最も長期間、
海上自衛隊が誕生した時にも唯一の掃海艇として活動していました。

海上自衛隊への改編当時、掃海艇の艦種は「GP」でした。
モルモットを意味する「ギニー・ピッグ」の頭文字です。

召集された掃海隊員たちは、昭和25年10月のある日、船団を組み、
行き先も知らされないまま米軍の駆逐艦に護衛されて出航しました。

対馬沖航行中、彼らは自分の行き先が朝鮮半島であることを聞かされます。

元山での掃海任務を終えて下関・唐戸に寄稿してきた特別掃海隊の船です。

この掃海活動では、先発隊が拡大掃海中の10月17日午後3時21分、
MS14号艇が触角機雷に触雷、瞬時にして沈没し、死者1名、
負傷者18名の被害を出しており、また米軍の掃海艇も2隻触雷轟沈しています。

特別掃海隊が、中国軍が南下してきたという報を受けて元山を撤退したのは12月初旬。
写真に見える艦体のどす黒い汚れが、彼らが脱してきたばかりの
戦地での極限状況を物語っています。

旧海軍軍人たちが朝鮮戦争にこのような形で参加したことは、
当時も政治問題になる動きを見せましたが、占領命令第二号の

「忠実なる履行義務のため日本側は(米軍に)責任を追及できない」

から、結局問題は提起されず、そのまま歴史の影に埋もれていきました。

そして、掃海隊員たちは、サイレントネイビーとして、
殉職した隊員の遺族たちもまた戦後沈黙を守り通したのです。

 

掃海母艦内でのレクチャーが済んだ後の質問タイムで、同行した人が
全く掃海隊に関係のない質問を始めたので、空気読んだわたしは、

「一番最近の機雷処理はいつでしたか」

とお節介ながら掃海活動に話題を軌道修正させていただきました。

なぜ一介の参加者に過ぎないわたしが気を遣わなければいけないかって話ですが、
それはともかく、答えは、この表の一番下、

「平成26年度の関門海峡での機雷処理が一番最近の事例」

ということでした。

まだ297個の機雷が日本近海に埋まっているということになります。

 

その後、アメリカ軍の輸送艇をもらい受け改装を施した
自衛隊初の掃海母艦「なさみ」「みほ」が就役しました。

この後運用した掃海母艦「はやとも」も米陸軍の揚陸艦です。

国産初の掃海母艦となったのは、現在、金刀比羅神宮におわす
掃海隊殉職者碑の同じ敷地にその錨が置かれている「はやせ」です。

戦後掃海の歴史コーナーを抜けると、近年の機雷が展示されています。
我が海上自衛隊にとっては、ペルシャ湾で死闘を繰り広げた「敵」でもあります。


先日映画「ハンターキラー」を観て、潜水艦映画には機雷が切っても切れない、
ということを再確認したばかりですが、この呉資料館の展示が
掃海と潜水艦をフィーチャーしているのも理由あってのことだと思いました。

海中に浮遊する触角を持つ機雷が仕掛けられている状態を表しています。

これら発火方式による機雷は、大きく直接船殻に触れて爆発するタイプと、
艦船の磁気や振動を感知するタイプの二つに分けられます。

中でも触角の衝撃で化学反応を起こし発火するタイプは寿命も長いのだとか。
近年、センサーの省電力化によって機雷の寿命は伸びつつあります。

ペルシャ湾掃海で我が掃海部隊が掃討したという機雷。
この安定の良さは鎮定機雷でしょうか。

これらもペルシャ湾の機雷。
左はイタリア製の「マンタ機雷」、右はロシア製「udm機雷」です。
色は・・・後から塗ったんだと思います(困惑)

Botom mine(沈底機雷)はいわば海底の地雷。(ground mine)

60mより浅い海底に、対潜の場合は約20d0m以下の水深に使用されます。
探知するのが難しく、係維機雷よりも大きな弾頭を使用できるので
掃海部隊にとっては厄介な相手です。

掃海艇を見学すると黄色い掃討具を見ることができますが、
それらはS-10や PAP−104などの水中航走式掃討具です。

そういえば、この見学の時に、TOが急に

「掃海と掃討の違いって何?」

と初心者にしては結構核心をついた質問をしてきたのですが、
掃海は海中の機雷をお掃除して海を啓開することであり、掃討とは
掃海の一方法であり、機雷そのものを爆破させて処理する方法、
と答えたのにもかかわらず、満足せずに自衛官に同じことを聞いていました。

何が不満なのじゃー!

という話はともかく、これは現行のS-10に至るまでのS-4です。

このSが「そうかい」の頭文字であることを、案外自衛官は知らなかったりします。
(個人の体験に基づく情報です)

先ほど掃海母艦「ぶんご」艦上で見てきたのと同じ巨大なリールがここにも。

ここには、掃海艇「ははじま」一隻をほぼまるまる分解して、その構造物、
掃海具、キールをスライスしたものまでが展示されています。

はいこちらキールのスライス一丁。

呉史料館は潜水艦「あきしお」まるまる全部が展示されていることで有名ですが、
その「あきしお」に当たるのが「ははじま」です。

掃海艇外いた部分の断面構造模型(本物?)。

触雷の原因になる磁気を帯びないように、全ての素材が木材です。
最近はこれが全てFRP素材に置き換えられています。

リールに巻かれた掃海用の係維の構造を見ることができる貴重な展示。
「フジクラ」って、もしかしてパラシュートの藤倉航装と関係あります?

と思って調べたら、まさにそのものズバリ関連会社でした。
フジクラそのものはワイヤーなどを専門に製造するメーカーで、
住友・古河電工とともに電線御三家(そんな御三家があったのね)の一つです。

こちらも「ははじま」で係維掃海に用いられたカッターなど。
カッターを掃海艇から引っ張り、機雷の係維を切り、機雷を浮かせて掃討します。

「ははじま」の後甲板にあった、係維掃海具の巻上げ機操作スタンド。
この一面全体が、ほぼ掃海艇と同じ大きさのスペースになっていて、そこに
元あった姿にほぼ忠実な配列でこれらのもの展示されているのです。

こちらは水中航走掃討具に繋がっている電線を巻き上げるリールを操作するスタンド。

今でも掃海艇の上に装備されているバルカン銃が台座とともに。
この銃は敵ではなく(そのように使われることも想定しているでしょうが)
係維機雷をカッターで切り離し、浮いてきたものを撃って掃討するためのものです。

 

掃海コーナーの一面には、ペルシャ湾掃海の時の写真などが展示されています。

左の写真は貴重ですね。掃討具S-4mに爆雷を搭載しているところです。

この掃海は、海上自衛隊発足後初めての「作戦準備」、帝国海軍で言うところの
「出師準備」が実施されたという意味で歴史的な意味を持っています。

何もかもが戦後初めてだったため、派遣準備の段階で海上自衛隊関係者は
試行錯誤の困難を一つ一つ解決しながらことを運んでいったとされます。


その余波は隊員の家族にも及びました。
実際に出航日が決まると、部隊の出航に合わせて、呉では初めて

「自隊警備第1配備」

が下令され、呉地方隊の全ての部隊、そして官舎までが深夜含め24時間体制で
警戒体制下に置かれて、自衛官の夫人たちは交代で当直に当たったということです。

そして平成3年4月26日、出国行事に続き、掃海母艦「はやせ」と「ゆりしま」が出航。

ペルシャ湾で処分された機雷の破片。

ペルシャ湾における海上自衛隊の掃海活動ををレンズにとらえ続けたニコンのカメラ。

この派遣については様々なところで語られていますし、
当ブログも何度かお話ししているのでここでは省略しますが、
「苦心の足跡 掃海」の記録から、この二つだけ書いておきます。
まず、掃海隊がペルシャ湾に到着したとき、各国海軍が   「よくこんな小さな船でここまでやってきたな!」   と驚愕したこと。
二つ目は、中央軍海軍司令官であるアメリカ海軍少将が

「海上自衛隊掃海部隊のモラルは”スカイハイ”(天井知らず)だ」   と賞賛したことです。   ペルシャ湾派遣部隊が、世界の海軍の中での海上自衛隊の技術の高さだけでなく、
日本そのものの評価を高めてくれたことに感謝するしかありません。       続く。        

ドルフィンマーク〜海上自衛隊呉資料館展示より

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幹部候補生学校卒業式に伴う研修会ツァーで、呉にある
海上自衛隊呉史料館、(通称てつのくじら、略称てつくじ)の見学をしました。

海上自衛隊発足前からの掃海の歴史とペルシャ湾掃海など
史料館の掃海コーナーが終わると、そこからは潜水艦展示です。

終戦後、海上自衛隊が初めて所有した潜水艦はアメリカ製、しかも
対日戦で使われたガトー級潜水艦「ミンゴ」でした。

海上自衛隊はこれを「くろしお」と名付け、これを一号艦として
潜水艦隊の今に至る歴史が始まります。

「くろしお」については何度もここで取り上げていますが、
受け取りに当たっては自衛官がアメリカの「潜水艦のふるさと」である
ニューロンドンのグロトンの潜水学校で訓練を受け、その後
サンディエゴで艦体を受け取り、日本まで回航してきました。

受け取りとあまり変わらない時期に海自は国産一号(川崎)の
「おやしお」の発注を済ませており、いわば「くろしお」は
それまでのつなぎというか、訓練のために取得したようなものですが、
その後艦体は我が国の潜水艦開発の研究に存分に利用されました。

その受取証書がここに飾ってありました。

何回も来ているのに、これに気づいたのは初めてです。
前回から今回までの間に「くろしお」(ミンゴ)について
何度かお話しし知識にしっかりインプットされたからでしょう。

 

ちなみに今回wikiを見てみたら、かつて当ブログで取り上げた映画、
『潜水艦イ−57降伏せず』『太平洋の翼』の潜水艦シーンには
「くろしお」が使われていたと知りました。

潜水艦内部のベッドを体験できるコーナー。
ちゃんと靴を脱いで寝ている人が二人もいました。
このベッドも本物の潜水艦の装備だと思いますがどうでしょうか。

注意書きとして、ベッドにはうつ伏せで頭から入り、
出るときもうつ伏せになってから、とあります。

潜水艦は狭い空間なので極限の省スペース収納です。
テーブルは滑り止めのために端が高くなっています。

潜水艦内の食事は1日に4回です。

狭くて暗くて暑くて臭くて、とにかく過酷な環境となると
他に楽しみがないということから、乗員の食事に寄せる期待は大きく、
それだけに美味しくて工夫を凝らした料理が出されるそうです。

ただ、実際に潜水艦乗員から聞いたところによると、狭いだけに
消費カロリーが摂取量を下回る傾向にあるので、それだけ
サブマリナーは陸上でのトレーニングを一生懸命行うことになります。


予算的にいって一般的に水上艦艇の食事は陸上勤務より優遇されていて、
20〜25%くらい高額なんだそうですが、中でも潜水艦は
水上艦艇の中でも一人当たりの予算が高いんだとか。

ここには朝6時からの朝食と中間食の模型が展示していますが、
中間食とは夕方6時の「夕方の食事」であり、「夕食」と呼ぶものは
潜水艦では深夜0時に出る食事のことをいいます。

この理由は潜水艦の勤務形態にあります。

潜水艦出向中は、常に一定数が艦を動かさなくてはならないので、
乗員はグループに分かれて6時間勤務、12時間休憩を繰り返します。
地上の昼夜には全く関係なく生活をするこの勤務形態は、
出航中だけとはいえ、バイオリズム的にいうとかなり変則なので、
それだけでも体力的に過酷です。

こういう変則シフトのため、一日4回食事が出されるのですが、
全員が三度三度じゃなくて四度四度のご飯を全部食べる訳ではありません。


冒頭写真の紳士が見ているのはこのドルフィンマークです。
今回カメラが前と変わったので全部を一面に収めることができました。

我が潜水艦隊のドルフィンマークはなぜか右側の真ん中あたりです。

サブマリナーを表すドルフィンマークは、その名の通り、
どこの国もイルカをあしらっているものが多いですが、パキスタンやチリ、
ロシア、フランス、ポーランド、スペイン、ドイツなど、特にヨーロッパは
イルカではなく潜水艦そのものをあしらったデザインです。

日本は戦後の潜水艦技術をアメリカに学んだ経歴があるので、
アメリカ式の「ドルフィン」を踏襲したのだろうと思われます。

日本のところにひっそりと一つ紛れている桜に潜水艦のマークは
帝国海軍潜水隊のものであろうかと思われます。

海自の「ドルフィン」がアメリカ由来のものであることを証明しています。

ちなみにイルカも潜水艦もあしらっていないマークは中国海軍のもの。

イルカでなく世界で唯一人魚をあしらっているのがアメリカの、
あの横須賀(のドブ板通りのどこかのお店)で作ったという

『DBFディーゼルボートフォーエバー』バージョン

だけとなります。
このバッジについては、映画「イン・ザ・ネイビー」の

「ディーゼルボート・フォーエバー!」

の章に詳しいので興味がおありの方は後半の説明をご覧ください。

海中航走偵察をする「リーマス」のことを質問した掃海隊出身の方に、
これも海中航走する偵察機器の類ではないのですか?とお聞きしたところ、

「潜水艦搭載の72式魚雷です」

・・・黄色くて長細かったのでついそうかなと思ったんだい!

でもよく見れば大きさが全然違いますし、多分これは
見学の時にやっていたように二人では持てません。てか重さ300Kgだし。

72式魚雷は昭和40〜50年代に就役した「うずしお」型、
「ゆうしお」型に搭載されていました。

ここにあるということは「あきしお」に搭載されていたものでしょう。

無人の対潜哨戒機としてアメリカ軍の駆逐艦が搭載していた
『QH-50 DASH』をここで見ることができます。

アメリカの「バトルシップ・コーブ」で駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ」を見学した時、
後部甲板がDASHを乗せるためのものであったことから知りました。

「ケネディ」は小型の駆逐艦でしたが、友人ヘリは無理でも
このDASHを搭載することで対潜戦が行えると考えられたのです。

この展示は、DASHが魚雷を二本搭載し潜水艦を攻撃できる状態です。

搭載されているエンジンはポルシェ社のもので、信頼はあったようですが、
どうにも事故が多く、アメリカでは7年で運用中止になりました。

ところが、自衛隊では操縦する人が皆器用なせいか(笑)
本国アメリカよりずっと重用され続けていたと言います。
アメリカで生産中止されても10年間は現役でしたが、
部品が調達できなくなったところで退役しました。

もし部品の問題がなければ、その後も使っていたに違いありません。

 DASHが置いてあるところから外に出ると、「てつのくじら 」の出入口があります。
かつては喫水線だったあたりに出入口を穿って出入りできるようにしました。

「あきしお」だったてつのくじら、今付いているスクリューはダミーです。

館内に入ると、前と少し様子が違っていました。
右手にガラスケースが置かれ、中には潜水艦の名前入りキャップ(カレー付き)
が並んでいます。

「おやしお」「みちしお」「なるしお」「もちしお」
「そうりゅう」「ずいりゅう」、そしてアメリカ海軍原潜の
「コネチカット」「シーウルフ」。

第30代幕僚長、杉本正彦氏が当記念館に寄贈したものだそうです。
おそらく氏がその立場上、贈呈された想い出のキャップでしょうか。

「あきしお」進水記念のしおり(進水式に参加するともらえる)、
また、「あきしお」を海から引き上げてここに据え付けた時、
記念に配られたらしいテレフォンカード(時代を感じる)もあります。

潜水艦の竣工記念にベルトが配られるというのは初めて知りました。
こちらは杉本氏が海幕長時代に贈呈されたものらしいですね。

ちなみに川崎や三菱での潜水艦の進水式・引き渡し式に行くと、
必ずそこに潜水艦出身の杉本氏をお見かけします。

さて、前も書きましたが、この「てつのくじら 」
最初に出てくるのがトイレ。そしてシャワー室。

入り口のなかった艦体の横っ腹に穴を開けたらそこがトイレだったので
仕方がないことながら、博物館的にこれはどんなものだろう、と
前にも書いたことがありましたが、そうか!

それで入ってすぐのスペースに杉本元海幕長の贈呈品コーナーを作ったのかも。

ここにある施設は士官用です。
流石に護衛艦や掃海母艦と違い、艦長も自分専用の浴室はありませんし、
そもそもバスタブというものは備えられておりません。

ロシア海軍の潜水艦「タイフーン」くらいなら浴槽も余裕かもしれませんが、
ただロシア人はお風呂に浸かる慣習はなさそうだなあ。

あ、それでお風呂の代わりにプールがあるのか!←実話

 

続く。

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