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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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ルネ・マグリット展@ サンフランシスコ近代美術館

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今日は息抜きに美術展のお話です。

アメリカ滞在最後の日、わたしはサンフランシスコの中心街を
目に刻んでおこうとダウンタウンに車を向けました。

アメリカ在住の友人から、ホームレスが増えすぎて
この写真左側に見えているコンベンションホール、「モスコーネセンター」も、
最近は会議を申し込みも減っている、という悲しい噂を聞いたので、
現状を確認する意味もありました。

とりあえずこの辺りは渋滞が相変わらずひどいです。

まあ確かにホームレスは増えたかもしれません。
しかし、初めてここに来た17年前も路上生活者は普通にいましたし、
いうほどひどくなっているとは思えません。

中国人は多いですが、それ以上に全米から人を集まっているらしいのも
昔と全く変わっていません。

このビルは昔確か「ジャパニーズ・スィーツ」(和菓子)の店だったような。
いつの間には居酒屋になっていました。

「銀兎」と書いて「GINTO」というセンスはともかく、
おそらくこれは日本人のオーナーであろうと思われる店名です。

ここに来たらいつもウィンドショッピングするモールに行ってみました。
高級デパートが二軒、有名ブランドも軒を並べるおしゃれなモールに、
なんだかものすごく既視感のある造形物が・・。

マーケットストリートを歩いていると、アメリカ基準で言うところの
長蛇の列ができているピンクのお店がありました。
ここは昔、ニーマン・マーカスのアウトレットだったはずなのですが、
いつの間にかキャンディ屋さんに代わったのかな、と思ったら、

Candytopia offers a sweet time in San Francisco

キャンディーのテーマパークでした。
キャンディでできた絵画とか彫刻、マシュマロのお風呂・・。

なんか速攻飽きられそうな気もしますが・・・。

その道向かいにあるのは「アイスクリーム博物館」。
2016年にニューヨークに第1号店ができて以来増殖中。

Look Inside San Francisco's Museum of Ice Cream 

こんな立派な(多分築100年くらい)建物の中で何をやってるんだか・・・。

アメリカで日本のラーメンを有名にした一風堂。

街中を車で走っていてサンフランシスコ近代美術館、
SFMOMAで行われているマグリット展のポスターに気がつき、
行ってみることにしました。

断片的に作品を観たことはありますが、
マグリット一人の展覧会は初めてです。

常設展の入場券にマグリット展は別料金が必要です。
展示が行われている4階には専用チケットがないと入れません。

会場入り口にいきなり壁一面に作品を描き出してありました。

ちなみにこちらが本物ですが、こう言う画風なので本物と変わりありません。

こうもり傘の上のグラス。(水入り)

マグリットと言う人は一つのことを思いついて気に入ったら
しつこくしつこく同じものを描き続ける傾向があったようです。

そのモチーフの一つ、窓。

最初の絵もそうですが、窓と絵画をシンクロさせるのがお気に入り。

このアイデアがウケたので「しばらくこればっかり描いてやろ」と思ったんだろうなあ。

チューバ炎上中。

銃が血まみれ。
ちなみにこのタイトルは「Le suivivant」。
英語で「The survivor」サバイバーってことですが、作者はこの絵について
全ての説明を放棄していて、見る者の想像に任せているそうです。

って、どう見てもこれは反戦メッセージだと思うんだが。

「La voix du sang」という原題の意味は「血の声」。
英語のタイトルは「Blood Will Tell」=血が語る。

絵はともかく、それにこの題はないんじゃない?

これを全く理解できないのはわたしだけでしょうか。
マグリットってもしかして中二病か?(ああっ、言ってはいけないことを)

これもマグリットお気にのモチーフ。
自分の顔をりんごで隠しちゃうっていう。照れ屋さんなんだからー。

これも自分だけど後ろ姿。

ベビカから指差す赤ちゃんに赤ちゃん目線で解説してあげる
英才教育な母。

このぬりかべが右手に持っている変なものを覚えていてくださいね。

上半身が人間なら人魚、下半身が人間だと・・・半魚人?

半魚人と帆船のシルエットもお気に入りのテーマだったようです。
っていうかさあ、この人人間の顔が描けなかったんじゃないのかな。

波の模様をした帆船だけの絵もありました。

わたしがマグリットで好きなモチーフを挙げるならこれ。
なんでも彼の実際に住んでいた家なんだそうですが、日本で言うところの
3LDKで、銀行員だった彼の慎ましい暮らしを彷彿とさせます。

空は晴れているのに景色は夜。

木を強調してみました。

上とほぼ同じ。何回描いても飽きなかったのね。気持ちはわかる。

で、このモチーフの絵の題名なんですが、

L'empire des lumieres「光の帝国」

ひかりの・・・・・ていこくだとお?

やっぱり中二だ。
普通っぽい絵に変なタイトルをつけて観る人に首を傾げさせる、
わたしも中学2年の時にはそんな絵を描いたものですよ。

今でも覚えてる。阪神総美展で特賞をもらったあの絵の題を。

「平穏なる時空の矛盾」

うっわー恥ずかしいー!
でも今思い出した。あの時の美術主任め、出品する時わたしに無断で

「空間の矛盾」

って題に変えてやがったのよね。
デパートに展示されたのを観にいったら別の題名になっていたんだ。
いくら中二の作品でも題を変えるな。ずっと恨んでるぞ、久保先生。

大きさや木の形、雲の形や空の色を変えてこれでもかこれでもかと。

この部屋の絵全部が光の帝国ですわ。

光の帝国と自分の肖像画のコンボ。

光の帝国が巨大マグリット帝国に。

唐突に岩がある、と言うのも気に入っていた模様。

マグリットの絵は人を困惑させる。
その困惑こそが観る人をして彼の世界を理解しようとする鍵なのではないか、
とこういう光景を見るとそんなことを考えてしまいます。

今回もアメリカらしくたった一つの作品を除いて全て写真撮影可、
という気前のいい展覧会でした。

その写真禁止の作品の前には、終始係員が立っていて、カメラを構えると
これは写真撮影禁止です、と1日に100回以上注意していました。

しかし、その作品と他の作品の何が違うのか、わたしには全くわかりませんでした。

最後のコーナーはいわば「お遊びコーナー」です。

前に立つと、カメラが作動して月が上っていってしまうとか。

マグリットの絵の中に写り込むことができるとか。

写っているのは彼の友達(多分恋人)で、友達は
別のところに立っています。

せっかくなのでわたしも参加してみました。

これ、さっき赤ちゃんが指差していたぬりかべの持っていた燭台?ですよ。
自分の目と唇を利用して燭台を再現できるというわけ。

ちなみにこの絵のタイトルは「The Liberator」。
解放者。はいはい。

美術館を出て高速に向かう途中に市役所があります。

アメリカの役所は結婚式もしてくれるので、
(SATCでキャリーがビッグとしてたでしょ)
お役所の前にこんな人たちがいることがあります。

別のカップルと友人たち。
これから中華街で披露パーティかしら。

高速に乗る手前にあった「街中のマグリット風」。

昔このブログで一度紹介したことがあるこの景色です。

その時には今よりずっと木が小さかったので、後ろの

「ONE WAY」(一方通行)

の標識に見せかけた、

「ONE TREE」

というペイントがよく見えたのですが、肝心のTREEの字を
そのツリーが覆い隠してしまっていました。

このツリーは説明するまでもないですが、前に立つ大きな木のことです。

 

終わり。 

 

 


総短艇用意・・・?〜海上自衛隊幹部候補生学校訪問

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かつて海軍兵学校があった広島の江田島は、現在でも第一術科学校と
それに併設される幹部候補生学校があり、海上自衛官の「原点」です。

わたしが海軍の史跡を求めて最初にこの地に訪れてから、何度目になるでしょうか。
またしても江田島にやってまいりました。

今現在、地図を見ると、旧海軍兵学校の敷地の住所は「無番地」、
「第一術科学校」が正式名称になっています。
江田島には第一術科学校と幹部候補生学校があり、どちらにも
校長が一人ずついて、つまり「別の組織」ということになるのですが、
今回幹部候補生学校の校長に伺ったところ、第一術科学校と称しているのは

「幹部候補生学校が間借りしている形」

だからなんだそうです。
メインたる第一術科学校は艦艇職域の術科の教育をする組織です。

しかし、赤煉瓦の校舎や海軍兵学校と同じ卒業式を行うことから、
一般には江田島=「幹部候補生学校」のイメージで捉えられていそうです。

広島空港から車で江田島まで。
アレイからすこじまを見ながら行く道はいつも渋滞するということで、
高速を降りてから音戸の瀬戸まで東の海岸沿いを走りました。

この眺めがなかなかのものです。
重なり合って見える瀬戸内の島々と波のない穏やかな海。

車の窓からガラス越しに撮った写真ですが、よく見ると画面中央下に
かなり大きな白い「エイ」らしい影が写っていますね。

そういえば、知り合いが瀬戸内海でウィンドサーフィンをしていた時、
自分の真下を4畳半くらいの大きさのエイが横切ってゾッとした、
と言っていたことがあります。

大きな島は「情島」。

右側の半島の先にあるのも情島で、「大情島」「小情島」と呼び分けます。
どちらも離島で、面積は0.69km。
大情島の方は有人島で、グーグルアースで見たところ、建物は
せいぜい10軒といったところ(2010年現在では6世帯9人)。

戦後は引き揚げ者とその家族が200名ほど住んでいたのがピークで、
その後は減る一方だそうです。

実は、この島、大東亜戦争中には「海軍さんの島」と呼ばれていて、
特四式内火艇を使った奇襲作戦、あの黒島亀人が発案したという
「竜巻作戦」の訓練基地「Q基地」がここに置かれていたそうですが、
輸送船が攻撃されたりして、結局作戦の実行には至っていません。

有名な呉空襲の写真にもこの大小の「情島」が写っています。

上の写真ではちょうど角度的に見えませんが、この写真の
島の北側に写っている船は浮き砲台になっていた戦艦「日向」です。

呉大空襲では「日向」はアメリカ軍の波状攻撃によって艦長は戦死、
乗組員約1000中204名が戦死、重軽傷者600名、着底大破しました。

wikiに上がっている米軍の撮影した「日向」の艦橋の写真を見ると、
むしろよくこれで死者が200名余で済んだなという印象です。

現在、かつて「日向」を望んだ島の北側には
(少し凹んだように見えるところ。Googleアースでも確認できる)

“日向殉忠碑” “軍艦日向戦没碑”

という慰霊碑が建立されているということです。

海辺に人影あり。
両手に海藻を持っていますが、これも「漁」なのでしょうか。

何れにしても、2019年現在見られるとは思わなかった風景です。

さて、広島空港から2時間弱のドライブで江田島に到着しました。
車のまま構内に入っていくと、作業服を着た幹部候補生の一団が
目を引くくらいの勢いで、「表門」のある岸壁に向かって走っていきます。

それはもうほとんど全力疾走。

非常呼集がかかったようなこの勢い。何があったのでしょうか。

「総短艇がかかったのかもしれません」

「総短艇」という言葉は海軍兵学校のことを書いたような本や資料で
目にすることもあった単語ですが、一緒にいた自衛官に聞いてみると、

「『総短艇用意』の号令がかかると、何をしていても中断して、
ダビッドまで走っていき、短艇を下ろしてコースを回って帰ってくるのです」

グラウンドを左回りしてダビッドのあるところまでやってきました。
わたしたちにはわかりませんが、ちょっといつもと様子が違うようです。

「ちょっと降りて見てみましょう」

「ええっ、皆さんの邪魔になりませんか」

「大丈夫ですよ」

車から降りて後ろから回り込む感じで岸壁に近づいていきました。

「総短艇ではなかったようです」

なんでも総短艇とは、

「予告なく開始される競技であり、号令を出す方と出される方の
『腹の探り合い』の丁々発止があるんですよ」

「腹の探り合い、とは?」

「時間を選ばず行うというものの、そろそろ来そうだなとか、
号令を出す側もその予想の裏をかいたりするんです」

思わぬ時に発動して「ハットトリック」をかますと、
それは「かました側の勝ち」ということになるんでしょうか。

最近では流石に「いつでも」というようなことはなく、
やはり中断できない作業とかもあるわけなので、
以前より予想は立ちやすくなっているのではと思われますが。

Wikipediaによると、

かつては時間を選ばず行われていたが、近年は起床後や昼休み、
もしくは「別課」と呼ばれる時間に行われる傾向にある。
また、金曜日の外出点検時や、入隊予定者見学のような
広報実施時に行われることもある。

だそうです。

もちろんネーミングもその内容も、ここ江田島の海軍兵学校伝統で、
だいたい月3回といったペースで行われることになっています。

なぜそんなことをするのかというと、それはもちろん、いつ何時でも
「出撃」する戦闘準備態勢をいつも身体に染み込ませるため。

「総短艇」といっても、全ての幹部候補生が行うのではなく、
学生隊1隊の中の分隊が競い合うことになります。

ちなみに第1学生隊は「A幹」といい、防大卒と一般大卒。
第2は「B幹」、いわゆる「部内」か航空学生、公募幹部。
そして第3がC幹、部内選抜の海曹長以上准尉以下となります。

C幹になると、年齢はA幹の2倍くらいの人もいるのでしょうか。
若者と同じように「いきなりダッシュ」して心臓発作とか脳梗塞とか大丈夫なのか?
と心配してしまいますが、自衛官だけあって日頃鍛えているのでしょう。 

「総短艇用意」でカッターを降ろした場合は、沖を回ってくると
表桟橋を目指し、終わると櫂を立てます。

戦前の「海軍」という真珠湾の軍神の一人を主人公にした映画で
総短艇がかかり、主人公と同じカッターの生徒が櫂を立てるときに
ばったりと死んでしまうというシーンがあったのを思い出します。

そのシーンが撮られたのももちろん海軍兵学校時代のこの同じ場所です。

ここに立って周りを観察して気づきましたが、彼らは
グラウンドからこのコンクリート部分に上がるとき、
靴を脱いで裸足になり、そのまま作業を行なっていました。

つまりカッターは裸足で漕ぐんですね。当たり前か。

でも冬とか寒いだろうなあ。

それでは「総短艇用意」ではないのにどうしてあの一団が走っていたかと聞くと、
つまりその発動に備えて練習をしていた、ということらしいです。

走っていった一団はボートを降ろすところまでは行なっていないようでした。


この写真を見ると、舵取りをしているのは女子候補生のようです。
今では兵学校と違い、女子自衛官が普通に混じっているわけですが、
男性と全く同じ作業をこなすのは、口で言うほど簡単ではなさそうです。

女の子は冷え性も多いし、裸足の作業は辛いだろうなあ・・・。

さて、その日の晩は、江田島の料亭で食事をいただく予定になっていました。
夕日の沈む江田内を眺めながら走っていきます。

これも海軍兵学校時代からの伝統である遠泳はこの江田内で行われ、
だいたいこの辺りまでは泳いでくることになっているようです。

防衛大学校でも遠泳は行われますが、太平洋の荒波を受けるこちらの方が
波のない江田内と違って色々と大変そうな気がします。

また、このとき聞いたのですが、江田島は昔Yの字の形の右側
(江田島)と左側の能美島と言う別の島に分かれていて、
浅瀬で隔てられていたのですが、昭和の初めに埋め立てられて
現在の地続きになりました。

こんな大掛かりな工事をしたのは海軍ではないか?と思うのですが、
その辺りについてはネットでは検索できませんでした。

この日のお食事処は、これも海軍時代に「レス」だった「坪希」でした。

創業約130年で海軍御用達、と言うことは当然ながら、
兵学校勤務の軍人もここで盃を傾けたということです。
昔は「エス」(芸者)さんもきたかもしれません。

そもそも江田島に兵学校ができたのは、俗世から離れ、
ネオンの巷の誘惑がないような僻地だったからと言うのも理由の一つで、
兵学校の映画を撮りにきたクルーなどは撮影中あまりの「無菌」ぶりに耐えかね、

「もとの田沼の濁り恋しき」

とばかりに不便を承知で呉・広島から通っていたと言う話があります。

外部の人はそれでいいですが、問題は兵学校に勤務している士官たち。
たまには羽目を外したいではないですか。
というわけでそのニーズに答えたのがここ坪希だったのではないでしょうか。

130年くらい前というと、1888年頃、つまり明治21年ごろです。
ちょうどこの年、海軍兵学校は東京の築地から移転してきており、
明らかにこれは「兵学校関係者の要望に応じて」か、「関係者狙い」
のどちらかで開業した料亭だと思われます。

現在の料亭のHPにはその歴史については何も触れておらず、
ちょっと残念な気がします。

呉の「五月荘」(隠語;メイ)のように、当時の写真などがあるなら
ぜひ見たいものですが・・・。

古い木造の和室の宴会場に通されました。
前菜としてもうすでに新鮮なお刺身が並んでいます。

これだけでもわたし一人なら十分、という量ですが・・・。

どおおおお〜〜ん。

思わず嘆声を上げてしまったカワハギのお造り。
羽を広げた鳥の姿を刺身でかたどっていて、外人さんなら
マーヴェラス!となってしまう美しさ。

カワハギの肝も付いてきて、これを醤油に溶かし、
白身をちょいとつけて食べるとヘヴンリーな味わいです。

そしてこれは外人さんならかなーり引いてしまうかもしれない、海老の踊り。

女将が見せてくれたざるの上では、海老の皆さんが、よくよく見ると
口から泡など出しながらまだ元気に動いています。

決してこういうのは平気ではないですが、生で食べるかと聞かれると
一も二もなくイエスと答えてしまうのが日本人のDNAってやつですね。

すると女将さんが海老の頭を取り、皮を剥いて小皿にヒョイっと入れてくれます。

「ひえ〜まだ動いてる・・」

口の中で暴れられたらちょっといやだなあと思いましたが、それはなく、
新鮮すぎる海老はとろけるような甘さ、プリプリした歯ごたえ。

生が苦手な人もいるわけですが、ナマ食を逃れた海老も、
揚げられて頭から尻尾まで食べ尽くされる運命です。

当料亭の名物でもある鯛の塩釜焼。

自衛官ばかりだと、塩を卓で豪快に「かち割る」そうですが、
今日は前もって塩を割ってから持って来られました。
鯛には塩が染み込んで、何も付けず食べることができます。

皮は取ってしまうのですが、同席の方が一人

「皮が美味しいんだから!」

といって皮だけを所望し、一口食べて

「やっぱり辛かった(´・ω・`)」

となっていました。
いかに辛党でもちょっと無理だったぽい。

天ぷらや肉の小鍋の〆は、じゃこご飯です。
たっぷりのチリメンジャコに野沢菜を入れて炊き上げたご飯。

お腹がいっぱいでしたが、食べられてしまいました。
残った分はおもたせにしてもらい、次の朝ご飯にしました。

 

江田島には料亭と呼べる料亭はほぼここだけらしく、
江田島の自衛隊関係者はよく行く人ならシーズンに3回は来るそうですが、
女将は日を分かたず来た人に決して同じものを出さないそうです。

お昼はランチもやっていて、自衛官の奥様軍団が昼食会に訪れることもあるとか。

全国にあった「海軍御用達のレス」は、戦後もとりあえず
自衛官などが贔屓にして存続してきたようですが、やはり代替わりしたり
客足が昔ほどではなくなり、ほとんどが閉店してしまいました。

最後に残っていた超有名店、横須賀のパインこと「小松」も
何年か前の火事で全焼してしまい、廃業。

今残っている「レス」は呉の「メイ」とここぐらいではないか、
という話でした。

ご覧に入れたような昔ながらの新鮮な海の幸を使った料理が
その豪華さからは信じられない値段でいただけますので、
みなさま、江田島にお出かけの際には宿泊もできる「坪貴」にぜひどうぞ。

今年中には宿泊施設の改装も完了するそうです。

 

続く。

 

江田島の夜〜海上自衛隊 第一術科学校見学

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さて、「坪貴」で地元の海の幸をたっぷりと味わった後、
実は皆でカラオケのできる地元のバー(スナック?)に行きました。

そもそも、そのスナックというのも某海将の奥方の親戚(姉妹?)がやっていて
術科学校勤務自衛官御用達の店なんだとか。

カラオケ好きのTOは大張り切り、同席の方の中にはギター持参の方もいて
(坪貴からお迎えのバスが来た時、ギターを持っている人がいたような気がして
まさかと思い何かの見間違いだろうと思ったら本当だった)
そのギターの生オケでこの日初めて聴いたのが

「え・た・じ〜まが 好きじゃけん〜」

というちょいラップ調のご当地ソングでした。

江田島が好きじゃけん/753Φ (なごみ)

地元の市役所職員が手がけたそうで、覚えやすく馴染みやすい曲です。

 

ところで、今回の訪問では、自衛隊ことに若い候補生について、
中の人である自衛官から多岐にわたって伺う機会があった訳ですが、
やはり年配の自衛官たちは、

「今の若い者は昔と違う」

という目で若い人を見ていることがわかりました。
全般的な傾向として、若者の「草食化」が言われている昨今ですが、
自衛官を目指す若者にも明らかな草食化が見られるのだそうです。

その表れとして、

「あまりお酒を飲まない」

これはあくまでも話をしてくれた佐官クラスの自衛官が、
自分の若い時と比べて言っているので、比較にすぎませんが、
一般社会でも、会社の飲み会などを極力避ける、宴会は好まない、
上の人とお酒を飲んでも楽しくないので行かない、という傾向が
特に平成後期になって顕著になってきたと言います。

そしてここ江田島の候補生も皆とは言わないけど、
お酒そのものを飲まなくなっているとか。
飲むとしてもコンビニのイートインでお酒を買って飲んだり。

「それは”コンビニ飲み”ですか・・・」

「しかしコンビニでお酒飲んで楽しいんですかね」

こんなお酒の飲み方をする人類には、雰囲気とか語らいとか、ましてや
女性を侍らせてお酌をさせることの意味など全く理解できなさそうです。

いや、しかし、自衛隊にはお酒好きそうなイメージがいまだにあるぞ。
特に陸自。

「陸自は『宴会多め』だと聞きましたが」

今現在のところ、陸自のことをうかがい知るための重要な情報源の一つ、
「トッカグン」で仕入れたネタを元に聞いてみたところ、

「海自は陸空にはない『下宿制度』というものがありまして、
週末には下宿に行ってしまうので、みんなでの宴会になりにくいのかと・・」


「下宿」は海軍兵学校に関するものを読んでいると必ず出てくる言葉で、
江田島には今でも幹部候補生を週末だけ寄宿させる「下宿」が存在し、
車で走っていると、時々民家の軒先に

「下宿 3000円」

とかいう看板がかかっているのを見かけたりします。

下宿は、昔兵学校の生徒を下宿させていた同じうちが、いまだに
幹部候補生の下宿をやっているという例もあるとか。

「ウチ(第一術科学校)は一番地元とうまくいっているんじゃないでしょうか」

海軍の街として栄えた呉よりも地元との関係は良い、と
当の海上自衛官が胸を張って言えるのは、ここ江田島は「赤煉瓦の住人」との間に
長年にわたって築かれてきた絶大な信頼関係で結ばれているからです。

ところでこの写真をご覧ください。

前回日没後に江田島を訪れたとき、

「夜の江田島を見てみたい」

とお星様にお願いしておいたのですが、今回、それが叶いました。
まさに夜の江田島構内を歩くことができたのです。

もちろん忍び込んだわけではなく、正当な理由あっての入門ですので念のため。

幹部候補生は夜、構内といえども外を歩き回ることはできないそうですが、
理由あって偉い人と一緒にいるのなら大丈夫。

この時、物影を歩いている自衛官の姿を見かけましたが、聞いたところ
職員(つまり自衛官)だということでした。

昨年の水害直後作られ、それ以来ここにあるという

「がんばろう江田島」

の大きな布バナーも夜の灯りの中でなかなか幻想的です。

実は、坪貴の後に流れた術科学校近くのカラオケ屋(スナックか?)で
われわれ一同が盛り上がっていると、ふらりと一人で現れたお客が、
何を隠そうこのバナーの「仕掛け人」だったと知りました。

地元で会社経営をしておられる方で、自衛官とも顔見知り、
このように江田島の自衛隊を応援しているとのことです。

 

かつて海軍兵学校時代に、江田島で火災や台風の害があると、必ず
すぐさま隊伍を組んで生徒たちが「地響きを立てながら」到着し、
キビキビと活動を行う姿を住民たちは見てきました。

現在でも一度地元が災害に見舞われると、現役の自衛官だけでなく
幹部候補生たちも出動し、災害地で救難活動や復興に活躍しています。

「江田島の海軍さん」に対する信頼は今日も全く変わることがありません。


今回、解説付きで見学させていただいた教育参考館のホールには、
先の水害への海上自衛隊、特に術科学校と幹部候補生学校が派遣された様子が
パネル展示されていました。

(卒業式で江田島に行かれる方はぜひご覧いただきたいと思います)

その時にこんな話を聞きました。

水害により大きな被害を受けた地域に出動した第一術科学校が
水没した一角にある一軒のお宅の普及作業を行いましたが、
このうちは、明治時代、兵学校が築地から移転してきた際、
校舎建設のため立ち退きを要求されてそこに引っ越しし、それ以来
ずっとそこに住んでいた人の子孫だったのです。

パネルには、作業を行なった地域の地図がが家主の名前を添えて掲示されており、
術科学校長が指をさして

「このお宅です」

「どうしてそのことがわかったのですか」

「作業をしていたら向こうからお礼とともにそのことを言って来られました」

そこで術科学校長はその方にこう言ったそうです。

「100年経ってやっとご恩返しができました」

 

 

夜の赤煉瓦生徒館は、まだあちこち電気がついています。
候補生がまだ勉強しているのかもしれません。

相変わらず歩きながら適当にシャッターを切ったので残念な画質ですが、
二階の幹部校長室と応接室の電気が消えているというレアな光景。

「一つ、至誠に悖るなかりしか」

で始まる「五省」を候補生が唱える時間にはまだもう少し間がありそうです。

夜の教育参考館。

「何か写るかもしれませんよ」

わたしがせっせとカメラを向けていると、そんなことを言われました。
「何か」というのはもちろん、幽霊とかのことです。

幽霊といえば昔、江田島の「怪談話」について少し書いたことがあります。

どれもあまりその前提が怪しすぎて、怖がろうにも今ひとつリアリティに欠ける、
というネタだったので、いちいちツッコミを入れてしまったものですが、
その後耳に入ってきた話によると、やはりそれらとは全く別に、

「江田島には出る」

のだそうですね。
もとい、誤解を招いてはいけないので、出るという噂は絶えない、としましょう。

硫黄島では「見える人」に言わせると出るのがほぼ当たり前で、
ご飯を食べていたら目の端に旧軍軍人が腰掛けてやはり何か食べていたりするとか。
(もちろん何も感じない人もいる)
ここでもやはり出そうなところ、特にここ教育参考館では
いるはずのない人の気配を感じた、などという話はしょっちゅうあるのだそうです。

でもそんな幽霊を見たとか見ないとかの話なんて、仲間内で
ヒソヒソささやかれるくらいであくまでも噂にすぎないとされるのが
一般社会の表向きの姿じゃないですか。

それが、この霊現象に対し、海上自衛隊が組織として「対処」をしていたとすれば?

そう、本当に・・・・あったんですよ・・・・

ある内部の方から聞いた「本当の話」をしましょう。
かつてここ第一術科学校では、お祓いが実際に行われたことがあります。
内部職員からの、(候補生もいたかどうかは聞きそびれた)

「あそこに行くと必ず何か出る」

「ここで寝ると必ず夜中に・・・」

という「報告」が上に上がってきたことを受けての作戦発動でした。

具体的には、おそらく内部の人ならご存知だと思いますが、
長らく物置になっている古ーいあの建物と、あとは個別の寝台など。

近隣の神社からゴーストバスターズ、じゃなくて神職が召喚され、
個別具体的にお祓いを実地し、塩を撒きお清めを行いました。

「だから今は大丈夫です」

それを語ってくれた方の、このあまりにもきっぱりとした言葉を聞き、
逆に、そんなもんなの?と不安になったわたしですが、この日の夜、
暗がりも含めて撮った一連の写真には何の不審なものも写っていませんでした。

ピントが甘すぎて写っていてもわからないだけでは?という説もありますが。

しかしここに出るからには、それはここを魂の故郷として座(おわ)す
海軍の、あるいは海上自衛隊関係者の御霊に決まっています。
というわけで、わたしのような者は

「お会いできれば光栄!いつでもご遠慮なくお出ましください!」

と割とマジで考えていたりするわけですが、そんな奴の前には
幽霊の皆さんというのは、案外出てきてくれないもののようです。

 


続く。


大講堂の「白い二本の線」〜江田島・第一術科学校見学

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来週土曜日の3月16日には、平成最後の幹部候補生となる、
A幹部(防大・一般大卒)の卒業式がここ江田島で行われます。

部内課程の卒業式はもうすでに2月7日に実施されており、
卒業した幹部は現在「せとゆき」「しまゆき」での外洋練習航海に出ています。

2年前の2月3日、わたしはこの部内課程卒業式にも出席させて頂きましたが、
一般課程と全く同じ形式で行われるものであることをそこで知りました。

海軍兵学校時代の昔から、海軍士官の旅立ちを見守ってきたのが
大正6年(1917)に建造されて今年で98年目になる、大講堂です。

 

先日の江田島訪問では、学校幹部の方々直々のご案内によって
大講堂を見学させていただき、普通に見学しただけでは見ることのない
裏の部分も見せていただくことができました。
(もしかしたら、幹部候補生も立ち入ったことがないかもしれません)

大講堂の外側門寄りに、賓客などが車を横付けして入っていく
屋根付きの入口があるのをご存知でしょうか。

ここを正式にも「お車寄せ」と称するそうです。
昔は建物ギリギリまで車を乗り入れることができるようになっていました。

あそこは大講堂の壇のある方に近く、その二階に設えられた
来賓のための待合室にすぐ案内できるのです。

畏れ多くも初めてこの入口から大講堂に入っていくと、
そこからは階段を上り、来賓の控え室に到着しました。

二階には二つ部屋があり、こちらは貴賓室となります。

卒業式では壇上に上がる来賓と、学校長を始めとする自衛隊幹部が
ここでお茶などいただきながら開式をお待ちするわけですな。

江田島の旧軍時代からある建物には必ずここにも写っている暖炉があり、
その多くは焚き口を塞がれてただのマントルピース風飾りになっていますが、
この部屋の大理石の暖炉はかつてのままの姿をとどめています。

教育参考館にあった横山大観の富士山の絵に似ているなあ、
と思ってサインを確かめたら本物でした。

宮様もお出ましになる貴賓室にまさか偽物を置くわけがありません。
国宝級の画家の絵がさりげなく掛かっているとはさすが旧海軍兵学校。

ふと見れば、さりげなく鈴木貫太郎の「智仁勇」の額が。

鈴木貫太郎は大正7年(1918)、つまりこの大講堂ができた次の年、
海軍兵学校長(中将)としてここ江田島に勤務しています。

軍人が書を求められるのは少なくとも大将になってから後のはずですから、
この書がずっとここに掛かっていたとしても、それは昭和になってからでしょう。

貴賓室から外に出ると、そこは貴賓用観覧席。
2年前、卒業式にご来臨賜った彬子女王殿下はここで式をご覧になりました。

椅子に座って講堂全部が見渡せるように高台が設置されています。
赤絨毯の敷かれた台は木製で、これもおそらく戦前からのものでしょう。

貴賓用ですから、他のところとはドアで区切ってあります。

やんごとないお方の視線で大講堂を眺めるとこうなります。
わたしは彬子女王殿下ご臨席の時には、右側に写っている柱の少し向こう側に
座っていましたが、そこから殿下のお姿は窺えませんでした。

やんごとないお方の視線その2。

この時、一連の解説をしてくださっていたのは自衛官らしく非常に明快に
はっきりと大きな声で話をされる方でしたが、この声が反響して
講堂中に響き渡っているのをまたもや実感しました。

増幅装置を使わなくてもいいように、壁には和紙を塗り込んでいる、
という話は過去何度かの江田島見学の時に聞いていましたが、
今回改めて聞くと、さすがに今は修復にその方法は使われていないそうです。

ただ、壁材は非常に柔らかいもので、それは手で触ってもわかりました。

幹部候補生家族などが観覧するためのスチールの観覧席があります。

「兵学校時代はハンモックナンバーといって前から成績順に座っていたので、
卒業生の家族は、自分の息子の座っている場所で順番がわかりましたが、
今は特別に表彰を受ける5名以外は姓名のアイウエオ順です」

昔江田島の一般見学に来た時、案内係だったOBは、

「成績順に座ります。わたしはほとんど最後尾でした」

と言って笑わせていたのですが、昔は自衛隊でも成績順だったのか、
それとも説明係の自虐ギャグだったのでしょうか。

下から見ると舵輪の形をしている照明具ですが・・、

ここからなら真横からかなり細かいところまで見ることができます。
どうやって手入れしているのかわかりませんが、全く劣化が見られず、
できてから100年近く経過しているとはとても思えません。

貴賓室にはドアが二つあります。
呉地方総監部の二階正面の貴賓室もそうでしたが、昔は
皇室の方々と下々の者は同じ扉から出入りすることも憚られると、
専用貴賓室にはすぐ横に別の扉を設けていました。

そちらから写真を撮りながら出ていったところ、そこにいた自衛官が
写真に写りこまないようにさっとどいてくれたその姿が写ってます(笑)

こちらがもう一つの部屋、応接室の天井。
おそらく、皇室の方々が貴賓室でこちらはその他の来賓用でしょう。
このシャンデリアの繊細さと豪華さをご覧ください。

手作りのガラス細工だとしたらどれほど価値のあるものでしょうか。

「これも当時からのものですか」

「そう聞いています」

こちらの部屋には、兵学校の卒業生(キノシタマスミさん)の絵が掛かっています。

この木下さんは70期台の卒業生で、このように江田島の四季を
描いては第一術科学校に寄付してこられたようで、別のところでも
同じタッチの絵をいくつか拝見しました。

ツツジの季節に描かれた「西生徒館を望む」という絵。
海軍兵学校時代、この建物は西生徒館と呼ばれていました。

海上自衛隊になってからはここが第一術科学校であり、
建物の名前もそうなっていたのですが、木下氏にとっては
ここはいつまでも「西生徒館」であったのでしょう。

この絵の描かれた1988年には3階建てだった建物も、
耐震を加えた躯体改装工事により今は4階建と変わっています。

老朽化した第一術科学校を建て直す案が出た時、
主にまだ当時健在だった海軍兵学校出身者から反対の意見が出たそうですが、
改築は元の姿を最大限止めるという約束のもとに決行されました。

下に降りることになりました。

貴賓室のある二階から降りる階段の踊り場は、
アーチを描く美しい窓越しに光が入ってきてとても明るい。

窓越しに「兵学校の松」がまっすぐに背を伸ばしているのが見えます。

階段を降りると、ステージというか式台の裏側に出てきます。
ドアをくぐると国旗と海上自衛隊旗の交差するステージの右手で、
思わぬところに出てきたのでちょっとびっくりです。

玉座は連合国軍(主にオーストラリア軍)が接収していた頃、
教会となって十字架が設置されていたそうです。

一般公開の案内で「マリア像が置かれていた」といっていた人もいましたが、
この日解説してくださったのは2年前彬子女王殿下をご案内をするために
江田島の歴史を精査して内容をその緻密な頭脳で覚えこんだという
現第一術科学校長なので、おそらくこちらが正しいと思われます。

連合国軍はここがカソリック教会として、そして山手にある賜餐館を
プロテスタント教会にしていたということです。

第一術科学校に一歩足を踏み入れると、すでに空気が凛として
思わず背筋を伸ばさずにいられない気持ちになるのが常ですが、
特にこの大講堂の中は、これまでここで幾度となく行われてきた
厳粛な式典の空気を湛えているせいか、外界とは完璧に違って見えます。

ちなみに左におられる海将補と一佐は、かつてここ江田島で

「赤鬼と候補生」

の関係でした。

「部屋長と部屋ッ子」

もそうですが、防大やここ幹部候補生学校での上下関係は
それからの自衛官人生でずっと続きます。
幾つになっても、階級が上がって同じ勤務地で多くの部下を持つようになっても、
候補生にとって当時の赤鬼青鬼は永遠に鬼です。

一佐によると、赤鬼の頃の海将補はそれは怖かったそうです(笑)

この写真を見る限り普通に談笑していますが、こうなってもやはり、
二人の関係性は変わることがないものなのでしょう。

毎年2回行われる卒業式、幹部学校長はこの、同じところに革靴で立ち、
新しく幹部に任官する元候補生に証書を与えます。

見たことはありませんが、おそらく入校式の時も同じ場所に立つのでしょう。
そこには長年に亘って靴の踵が作った傷が白く残っていました。

それ以上にすごいのがこちら。
卒業式を見たことがある方ならご存知ですね。
この壇の一番上の段は、候補生が賞状を受け取るために
列を作って歩くため、白い二本線が壇の中央まで刻まれています。

つまり

「白い二本線」=White Two Lines

ウェストポイントの長い灰色の線「Long Gray Line 」みたい。

兵学校でのハンモックナンバー上位5名がそうであったように、
今でも幹部候補生の成績優秀者上位5人だけがこの赤絨毯の上を歩き
短剣ならぬ賞状を受け取り、ここを後ろ向きに降りることになっています。

 

「じゃ赤絨毯踏んだりしたらダメですね」

「いえいえ、ここで写真を撮ります」

わたしたちは畏れ多くも赤絨毯の上に立ち、
両校長に囲まれて記念写真を撮ってもらいました。

お二人ともおそらくはかつて「恩賜の短剣組」ならぬ本物の「赤絨毯組」?
わたしたちは「体験入隊」扱い、つまり海士相当?ですが特例です。

聖地江田島の最も神聖な大講堂から始まったこの日の見学ツァー。

なんども来ていて、一般見学者には見ることのできないところを
見学したという自負を持っていたわたしにとっても、
初めての場所を見せていただける貴重な機会となりました。

 

続く。

 



 

 

HMS「モントローズ」@晴海埠頭〜ダメコン展示

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北朝鮮監視の目的でフランスとイギリスが艦船を派遣し、
瀬取りなどの制裁違反活動を監視することが決まりました。
イギリス海軍はフリゲート艦「HMSモントローズ」を派遣し、
それが先週末晴海で一般公開を行いました。

昨年の強襲揚陸艦「アルビオン」に続くロイヤルネイビーの軍艦を
この絶好の機会に見学してまいりましたので、
江田島の術科学校見学記途中ですが、急遽ご報告です。

前回の「アルビオン」の見学は、とにかくセキュリティチェックに
時間がかかって大変だった記憶がありますが、あの大型艦ですら
そうだったのだから、フリゲート艦の公開となると、
その待ち時間に加えて狭い艦内に見学者が押しかけ、おそらくは
時間が後になるほど見学に困難をきたすだろうと判断し、
とにかく今回は朝早くから列に並んで早めに入ることを心がけました。

晴海埠頭に到着。
まずはデッキから「モントローズ」のホストシップ、
護衛艦「むらさめ」を撮影。

続いてデッキから、HMS「モントローズ」。
逆光でわかりにくいですが、艦体の色が海自よりブルーがかった
独特のグレイをしています。

マストの形も、日米海軍とは全く異なる形状。
主砲はシャープな感じの外形です。

主砲の砲口になんかロイヤルエアフォースのマークらしきものが・・・。

「モントローズ」は「デューク」クラスフリゲート艦の18番艦。
艦名は15世紀スコットランド貴族のモントローズ公爵からきています。
海軍のために何かしたいうわけではなく、この人が、当フリゲート
クラスの名前であるデューク(公爵)だったかららしいです。

彼女が太平洋に派遣されることが決まったのは、1月10日に行われた
日英首脳会談で、これは明らかに昨年末に起こった
韓国軍の自衛隊機に対するレーダー照射問題に端を発しており、
韓国が制裁違反行為をしていたという両国の認識があったことを示します。

艦首には国籍旗が木製らしい旗竿に掲揚されています。
旗竿の先がロイヤルネイビーらしく王冠の形をしているのがお洒落。

同時刻に我が海上自衛隊旗はこのように翻っていましたが、
イギリス国旗はそよとも動いてくれませんでした。

旗の布地の材質に違いがあると見た。

晴海埠頭のデッキ階段から見た「モントローズ」。
開門前に中に入っている人たちがいるので何かと思ったら
地本が引率してきた自衛官の卵?の「むらさめ」見学でした。

早くから並んだといっても、前にはこれだけ人がいます。
ほとんどが男性で、カメラ持ちが多数でした。

舷側を士官が三人歩いています。
少尉二人に指導をする先任という感じかしら。

先日「ホーンブロワー」についてちらっと書いたところ、
テレビドラマの「ホーンブロワー」が凄くいい、とオススメされ、
アマゾンプライムで購入して移動の合間に観たのですが、
本当に良かったです。

ウェールズ出身俳優ヨアン・グリフィズの海軍士官らしさもさることながら、
何と言っても帆船時代のロイヤルネイビーの描写、例えば厳とした
士官と水兵の身分の違いや、どんな戦闘中の切羽詰まった時でも
違いを「ミスター」付で呼ぶこと、海上自衛隊にも受け継がれている
艦長乗艦の際のサイドパイプ吹鳴など、昔ならば何となく観ていた
これらの表現に興味津々でした。

現代のロイヤルネイビーにもそれらの伝統が受け継がれているはず。

例えばこの光景でも、航海長か船務長が、少尉たちに

「ミスター・ホーンブロワー、ミスター・ケネディ、
見学客を入れる前にここのところ片付けさせてくれ給え」

なんて調子で指示を出しているに違いない、とか。

ところで今回晴海にほぼ1年ぶりにやってきて驚いたのは、
前回平地だったところにニョキニョキとビルが建っていたこと。

ここなんか、埠頭の真正面ですよ?

オリンピックの選手村になるそうで、オリンピック閉会後は
一般住宅として売りに出されるのだそうですが、
艦船マニアの垂涎の的になりそう。

急ピッチで建造工事が進んでおります。

さて、開門時間になり、列は岸壁に移動しました。
FはフリゲートのF。わかりやすい。

木に彫刻を施した「モントローズ」の看板。

入艦が始まりました。
最初に入った人が乗員と記念写真を撮っています。

彼らは最初ということもあってにこやかですが、この後、
日本人が次々とやってきて、やたら一緒に写真を所望するので、
だんだんと無表情になっていき、最後には死んだ目になっていました。

わたしは携帯と車の鍵だけをポケットに入れたのでカメラ以外手荷物なし。
セキュリティチェックで

" I have no bag! "

 

入ってすぐのところに、ウェルカムと書かれたボードがあり、
ここにはスペックや簡単な艦歴が紹介されています。

何でも建造は「ヤーロウ・シップビルダー」・・・・何だって?

ヤローといえば思い出す、金剛の「ヤロー式ボイラー」。
明治時代の海軍は「曙」というここの駆逐艦を所持していましたが、
もともと「ヤーロウ造船会社」は駆逐艦専門の建造会社だったそうですね。

1985年以降は買収を繰り返し今はなくなってしまったということですが、
「モントローズ」はその端境期に建造されたらしく、就役は1988年ですが
建造元はヤーロウとなっています。

対潜用に設計されており、ステルスデザインが施されたこの駆逐艦は
麻薬取締任務や災害派遣などでUNに派遣された経歴を持ちます。

舷門にいきなりみたことないものキター。
いわば出勤表というか日本なら名札をかけるようなもので、
自分の名前のところに黄色いピンを打って、所在を表します。

乗艦中、岸壁に上陸中、任務中?、出張中、上陸中。

これを見る限りPOはほとんどが在艦しているらしいことがわかります。

舷門ではフル装備に身を固めた女性兵士が銃を持ってお出迎え。

その奥には身長2mくらいありそうな人が。
こんな人が銃を持って立っていたら勝てる気がしない。

海自とはもちろん、アメリカ海軍のフネとも全く違う佇まい。
細かいところが見るもの全て珍しいので、もうここで
ワクワクしてきてしまいました。

「キープクリア」(上に物を置かない)

の表示字体が独特です。
気づいたのですが、アメリカ人ってあまり筆記体使わないですね。

舷門を入ってすぐ、ダメコンコーナーが展開していました。
ダメコン機材と消火機材、作業用の耐火スーツを着た人がお出迎え。

前に「アルビオン」で説明してもらったから知ってるもんね。
艦体が破損したらそこにとにかく木材片を突っ込み、
それを奥にあるお椀で蓋をして、さらに突っ張りポールで押さえつける。

キャンバスのバッグの中には各種大きさの木片が入っています。

ダメコンのこのかっこいいお兄さんに
写真を撮らせてもらいました。
手にしているものが何なのか聞けばよかった。

このダメコン乗員の帽子と飲み物。
・・・・・ゲータレイドか?

オレンジの人は暑くなったのかスーツを脱いでいます。

消火器と泡の消火剤。

ダメコン練習用器械。
多分本番ではブッシュー!と水が出てくる穴に、
びしょびしょになりながら木材を詰め込むのだと思います。

オレンジのスーツの人はそのための待機かな?

入ってすぐの壁も物珍しい表示ばかり。

ハロンボトルとはハロゲン化物消火設備に使う薬剤のことで、
ここにその倉庫があることからダメコン展示をしているのでしょう。

ペイントロッカー・・・もしかしたら艦体を塗装する
塗料の倉庫のことだったりしますかね。

揮発物なので危険のサインが赤でペイントされています。

何のための装備か全く見当もつかない構造物も多数。
国が変われば艦船の構造も変わる。

危険エリアの注意喚起マーク一覧と、危険の際のマニュアルが
舷門のすぐそばに設置してありました。

これは公開日かどうかを問わずいつもあるように見えます。

「エア・エスケープ・グレイ・ウォーター・タンク」

グレイウォーターとはなんぞ。
日本で言う上水(飲める水)、下水(汚水)の間の水のことで、
日本では中水(グレイウォーター)と呼ばれており、
台所排水、お風呂の排水、洗濯機の排水などに分類されます。



その頃、岸壁で見学をまつ人たちの列はこんなことになっていました。
並ぶのが5分遅かったら、乗艦するのに20分余計に時間がかかり、
さらに見学するのはその二乗くらい時間がかかりそうな感じです。

早く来ておいてよかった(迫真)

 

続く。

 

HMS「モントローズ」一般公開@晴海埠頭〜ハープーンにびっくり!

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晴海埠頭で一般公開されたロイヤルネイビーのフリゲート「モントローズ」、
まずは右舷を歩いていきますと、こんな注意がありました。

注意

大きな(ガラガラという)音がしたら
ミサイルが発射されるということです。

なぜここにこんなものがあるかと言いますと、この数歩先には、

こんなものがあったりするからです(笑)

今回見た「モントローズ」の装備でもっとも衝撃を感じたのはこれでした。
ミサイルのブラストを受け止め後方に流すレールが甲板にあります。

何も知らずスタスタ歩いてきて、ちょうどここに差し掛かった時
もしミサイルが発射されたら・・・。

だから、廊下に「音がしたら気をつけてね」って書いてあるのですが、
実戦だろうが訓練だろうが、いざミサイルが発射されようって時に
呑気に甲板を歩いている人がいるのか?って話ですよね。

ちなみにレールの上に無造作に転がっているのは電飾のライトです。

 

wiki には書いていないのですが、これはハープーン(対艦ミサイル)です。
甲板に両違いに設置してあるのは初めて見ました。

HMS Montrose Harpoon Firing 

「モントローズ」がハープーンを発射しているシーンが見つかりました。
景気よく何発もぶっ放しております。

発射台の躯体に、こんな注意書き?がありました。

「もしハープーンのオイルが漏れていたら」

A:ランチャーの電源を切る B:WEOに報告 C:不要な人間を遠ざける

それから:

D: 消火用器具を集める 
E:コントロールとイグニションケーブルを問題のあるキャニスターから切断する
F: 廃油パイプのプラグ、キャニスターを取り外す。
 溢れた油を拭き取り、フラッシュ部分を水で洗い流す(以下略)

他には

「機器のお手入れについて」

掃除は綿、不要な紙、燃料を吸収する磨き剤などで行うこと

金属のコンテナの上で行うこと

アクリル、天然ゴム、合成ゴム、などを使わないこと

「安全な準備作業」

などなど。
右側は専門的すぎて理解不能でした。

こちらがそう思うように、「モントローズ」の乗員はカウンターパートの
「むらさめ」を訪問し、日本の護衛艦の武器仕様などを見学したことと思いますが、
彼らも彼らで、

「うちらとはずいぶん違うもんだなあ」

とカルチャーショックを受けたのではないでしょうか。

ハープーンの右側はこれも見慣れぬ形の武器ですが、
護衛艦で言う所のアスロック、イギリス海軍の防空ミサイル、

CAMM 「シーセプター」

を横から見たところになります。
これも百聞は一見に如かず、実際の発射シーンをどうぞ。

HMS MONTROSE Fires SEA CEPTOR Air Defence Missile System

一旦打ち上げられた後、やおら方向を変えて飛んでいくのが
まるで意思を持った生命体のようです。

イギリス海軍を舞台にしたタイムスリップもので、過去の海戦に
巻き込まれた現代のロイヤルネイビー艦、危うし!という時、
ついスイッチをポチッと押してしまう奴がいれば、その人は
「シーセプター・ライスハウス(米倉)」と呼ばれるんですねわかります。

ふと甲板に立ち上を見上げると、「モントローズ」のエンブレムが。

モントローズ侯爵家の家紋を見るとわかりますが、
お印に使われているのはローズ、薔薇ではなく赤いカメリアです。

なぜか鷺と鷲が喧嘩をしている(笑)意匠の上にある

N'oubliez

はフランス語で「忘れまいぞ」という意味。

R.A.S gear って何かしら。

説明 (屮゜Д゜)屮カモーン!

この扉を入るとロビーに通じるようです。
フリゲート艦の「ロビー」とは・・・・・?

ここは主砲の後ろ側(シーセプターの躯体)に当たります。

危険 

ターレット(砲塔)は予告なしで装填と砲弾の持ち上げを行います

いや予告しようよ。

主砲の横で監視のための乗員三人が和やかにおしゃべりしていました。

主砲は4.5 Mod 1、マーク8海軍砲です。
なんと気前のいいこと、ターレット内部を開けて公開してくれていました。

銃弾が装填される穴がどこかだけが、かろうじてわかりました。

この弾薬を使いますよ、と実物も展示してくれています。

反対側に回ると、薬莢が落とされる穴がこんなところに。

HMS「ポートランド」の同じ主砲発射シーンも挙げておきます。

HMS Portland 4.5 mk8 mod1 naval gun 2017

艦首部分、ウィンドラスなどがあるところは立ち入り禁止です。
海自のを見慣れていると、舫の巻き取り方が雑に見えて困る(笑)

「ウェポン・エンジニアリング」という部署があるようです。
海自だと砲雷ということでよろしいでしょうか。

WEはレーダーやソナーなどを含むコンピューター機器も扱います。
構成は士官2、下士官1、シニア12、ジュニア(二等兵)27人。

ところで、ここに立っていた人の刺青に目が釘付け。

イギリス海軍の軍人さん、特に下士官兵クラスの間では
肘から先に刺青をするのが流行しているらしく、今回も
女性兵士ですら墨をいれている人を目撃したのですが、
この人の刺青はなんというか・・・特に凝ってます。

もしかしたら自分で描いた絵だったりして。

露骨にカメラを向けるのも失礼と思い、風景を撮るふりして
さりげなく自慢の刺青を撮らせてもらいました。

もし見つかったら、

「 What a cool tatoo!」

と褒め倒そうと思っていましたが無事バレずに撮影完了。

ソナーやレーダーなどの維持もWEの任務です。

高所恐怖症の人には勤まりません。

ものすごく重要そうな通気孔。

「この付近での喫煙、裸電球の使用を禁ず。
” toxic fumes hazard "有毒ガス危険」

何かの排気が出るので孔を塞がないでね、とあります。
S.C.E.Fとは?

甲板の上の階に何やら見えました。
こういうところにあるのはチャフフレアみたいなものかな?

と思ったら、「デコイランチチューブ」。
これは

Seagnat(シーニャット)

という可愛らしい響きのデコイで、脅威の種類によって使い分ける
6つのランチャー、

「セダクション(誘発)チャフ」「ディストラクション(欺瞞)チャフ」
「ジャイアントIRラウンド」「”サイレン”デコイ」

などで構成されています。

シーニャット使用例。

左舷を歩いていくと、どうしても踏んでしまうところに人が倒れていました。
こんなところで溺者人形を展示しますかね。

それにしてもこの担架のような救助ネットはよくできてます。

その横にあったのは「シーマンシップ」というこのボード。

シーマンシップというとスポーツマンシップみたいな?
と思ったらどうやら違うらしい。

「シーマンシップ サブ デパートメント」

という「高いスキルを持ったチーム」の名称で、彼らは
外部通信回路の操作や、現代の軍艦にはないはずのない装備に至るまで、
船長に水上艇のタスクグループ全体を制御する能力を提供します。

つまり「スペシャリスト集団」ということが言いたいのでしょうか。

翻訳しておきます。

モントローズの2隻の高速艇の乗組員もまた
シーマンスペシャリストとして責任を負っています。
これらのボートは、捜索救助、舟艇作戦その他に多用されます。

(中略)

彼らは、物資、燃料および弾薬を移送する目的のためにワイヤによって
補給艦と接続されて行う洋上補給など、非常に要求の厳しい作業に
そのためのマンパワーを提供します。

ここアッパーデッキで昼夜を問わず、艦上のスペシャリストは、
200年以上前から伝わる海軍伝統ののスキル、あるいは
最先端の機器や技能を駆使して、任務を行うのです。

ここで人形の見張りをしているシーマンもきっとそのスペシャリストなんだな。

救助用ネットを踏んでこちらに来てから振り返ると、
向こうからやってきた人たちが、思わず立ち止まって
こちらに来るのを躊躇っている様子が・・・・。

まあ日本人というのは、人の頭をまたいだり、むやみに土足で
ものの上を踏みつけることに抵抗を感じずに要られませんのでね。

すると、シーマンくんは英語で喋ることを初っ端から放棄し、黙って、

「この上を歩いてください。いいからさっさと行け」

というような仕草をしました。

あ、この溺者人形に名前が付いているかどうか聞くの忘れた。

 

続く。

 

総員起こしと赤煉瓦の生徒館〜江田島 海上自衛隊幹部候補生学校見学

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夜が明けました。

この朝、初めて江田島の一隅で朝を迎えることになったわたしは、
何よりもこの朝の訪れを楽しみにしていました。

それはなぜか。

そう、あの「総員起こし」を、実際にこの目で見ることはできませんが、
とりあえず同じ江田島でその気配を感じ取ることができたからです。

iPadの目覚ましが発動する前にわたしは目を覚まし、外に立って、
全神経を耳に集中していると、ブツッというマイクが入る音がして、

「総員起こし5分前」

海軍の不思議なところで、総員起こしが0630だとすれば、
その5分前にアナウンスがかかるのです。

じゃその時間が総員起こしなんでは?というのが一般人の感覚で、
海軍の昔から、その5分前までに皆起きて、トイレ、歯磨き、洗顔など
することは皆済ませているのです。

そしてここからが不思議なのですが、5分前のアナウンスがかかる前には
もう一回ベッドに潜り込み、息を殺して5分間待つのです。

なんでもこの間にごそごそしていたら、怖い赤鬼青鬼に、それこそ
目玉が飛び出るほど怒られるそうで、その理由は、

「戦闘開始に備えてラッパで起き、素早く臨戦態勢に入る」

ということを身に染み込ませるための訓練が総員起こしだからです。
0630(夏は30分早いらしい)になると、

♪ドドソドミミドミソソミドソソソー
ドドソドミミドミソソドミソソソー♪

が終わり、

「総員起こし」

のラストサウンドで総員ベッドから飛び起きます。

わたしが外に立っていると、風に乗って遥か向こうから聞こえてくるラッパに続き、
どよめくような物を動かす音(ただし一切声は聞こえない)が湧き上がり、
わたしはその音を聴きながら、

「今着替えをしてベッドを片付けているんだな」

と何かで見た覚えのあるシーンを思い描きました。
わたしが思い浮かべるシーンはなぜか白黒で、そこで着替えをしたり
毛布をたたんでいる姿は海軍兵学校の作業服を着ていたりするわけですが。

そしてそのざわめきは、明らかに集団が外に駆け出していく音に代わり、
続いて、彼らが腹の底から張り上げる声が、塊となって聴こえてきます。

これはわたしの記憶に間違いがなければ「号令調整」といって、
自衛隊指揮官として下す号令を声を張り上げて練習する時間です。

たまに特に声の大きい候補生が上げるのか、

「捧げーえつつっ!」

という号令がざわめきの中に確認できたりします。

その後、自衛隊体操をやっているらしい音が聴こえてきました。
わたしの記憶に間違いがなければ、この後彼らは

「甲板掃除」

という名の構内清掃を行い、その後朝食となるはずです。

この日の朝の抜けるような青空と、冷たい風の下で、わたしは、
目を閉じてそれらの音を聴きながら、終戦後の一時期を除いてほぼ毎日、
ここ江田島で全く同じ音の風景が繰り返されてきたことを思いました。

 

江田島に訪問したことのある人なら、

「兵学校の松は号令を聴き続けてきたのでまっすぐ伸びる」

という説を耳にしたことがあるでしょう。

「江田島の朝」を経験した者として言わせていただけば、
日の出と同時に張り詰めた空気を切り裂く彼らの緊張に満ちた気魄が、
ただでさえ人間の気の影響を受けやすい植物に伝わらないわけがないのです。

というわけで、この写真でもお分かりのように、兵学校の松は
松の木とは思えないほどにまっすぐ、そして高々と聳え立っています。

まっすぐにそびえ立つ松の木の中に、これもまっすぐではありますが、
一本だけ赤松が混じっています。
おそらく植木屋のミスで違う種類の松が混じってしまったんですね。

しかし粋な海軍らしく、

「女人禁制の兵学校に一本だけ女松(赤松)があってもいいぢゃないか」

とそれを残すことにしたのです。

さて、この写真は前回お話しした大講堂の見学を終え、外にでてきた時に撮りました。

大講堂の次は赤煉瓦の生徒間の見学です。
正面から写真を撮っていると、生徒間前で整列していた自衛官が後ずさりして、
(多分写真の邪魔にならないように)玄関前から退きました。

別に写っていてもいいのよー?

実は赤煉瓦前には椅子が用意されており、わたしたちを中心に、
校長ズ+幹部の皆さん総勢6名で写真を撮りました。

「海軍というところは何かと並んで写真を撮るところで」

という海軍出身者が書いた文章をふと思い出しました。

近寄っていくと、門にかかっている幹部候補生学校の看板が
白木の肌も清々しく真っさらになっているのに気がつきました。

「新しく変えられたんですね」

「雨風にさらされて傷みやすいので時々取り替えます」

看板の文字は元ここ関係者に依頼したと聞いた気がします。

 赤煉瓦生徒館の説明は、幹部候補生学校長直々にしていただきました。

「生徒館にはどこにもドアがありません。
全体を船に見立てているからで、さらには敷地の形状と関係なく、
きっちりと東西南北の線に沿って建っています」

「金剛の甲板」を使用しているのは、このホール一帯のみとなります。

「釘にビスを上からかけているのが丸く見えます」

ホール正面に二階に上る階段があり、それが踊り場で
二方向に別れるという形式は、当時の洋風建築、公邸などにみられ、
呉地方総監部の庁舎も同じ作りです。

床は昔のままですが、壁材などは先の改築でリニューアルされました。

ここに来ると必ずこれも説明される、はめ殺しのガラスのこと。
左二枚のガラスは建造当初から変わっていないという話です。

つまり、海軍兵学校で赤煉瓦に学んだ軍人たちは、全員が、
この同じガラスを通して江田島を見ていたということになります。

当時の製造技術では歪まないガラスを作るのが難しかったため、
このようにこのガラスを通して見る景色は歪んで見えます。
よく見るとところどころ(右側ガラスグローブの左上部)に
大きな気泡が見え、ところどころに傷が残っています。

g「今は逆にこのような歪みガラスを作る方が難しいそうです」

ホールを入って左手、前にはなかったコーナーに案内されました。

「昨年、呉の海上保安庁の卒業式に出席した安倍首相が、その時ここにも来られました」

現役の総理大臣が第一術科学校に訪れたのは昭和39年の池田勇人総理以来だそうです。

SPばかりが目立っっている、安倍首相が赤煉瓦生徒館を歩くの図。

首相はMCH101で江田島に降り立ち、この椅子に座って、この机の上で、
この右側のサインペンで写真にサインを行いました。

「普通のペンですが・・・」

と言いながら学校長がペンを渡すので、つい握ってしまいました。
本当に普通のサインペンでした。

「これが同期の桜だと言われています」

はいそうでしたね。
兵学校76期の同期会でここに来た時、これを探して疾走したものの、
今にして思えばこの手前までしかいくことができず、見られなかった同期の桜。

2年前の卒業式では無事に真正面から見届けることができました。

伝説の桜と言われている割には横にある電気調整室のようなものが
感興を殺ぐといいますか、なんか邪魔っけな感じです。

ホールから西側の廊下に出ました。

「ここは今までいろんな映画などの撮影に使われてきました」

そうそう、わたしが初めてここを映画で観たのは、「海兵四号生徒」。
渡辺篤史さんが上級生にこの廊下で殴られてましたっけ。

「最近では映画の『この世界の片隅に」で、主人公のすずさんの夫が
勤めている海軍の施設ということでここで撮影が行われました」

昔と寸分変わらない仕様の帽子掛がなんとも言えず胸締め付けられます。

廊下を出てすぐの教室の中を見学させていただきました。
つい先ほどまで人がいたらしく、生暖かい空気が充満しています。
パソコンは持ち込むことはできず、仕様したものも持ち出し禁止です。

どの教室にも正面に「五省」が掲げてあります。

 

ホワイトボードに書かれた内容からうかがい知れる候補生の日常。
例えば、

卒業所感再提出者有

来週の卒業を前に提出した卒業所感、ダメ出しが出たと・・・。
ただ再提出と言われても、どこが悪かったのかわかるものでしょうか。

花型に囲まれたふきだしの中には

「体重教えてください 正確な数値」

それから3月6日にはたこ焼き大会が行われたと書かれています。

校舎北側から望む生徒館。

レンガは水交館の「フランス積み」に対し「イギリス積み」です。
前回調べて誰が設計したかわからないままだったのですが、今回
校長によるとイギリス人であることがわかっているそうです。

一つのレンガが当時の職人の一ヶ月の給料と同じくらいで、イギリスから
一つ一つ包まれて運ばれてきた、という噂は一部は正しく、つまり全部ではないが
この中のいくつかは本当にそのように運ばれてきたものだそうです。

レンガの産地も全部がイギリス製ではなく、呉近辺の産であることから、
いかに兵学校がお金をかけたかという話が誇張され、このような伝説が生まれた、
と考えるのが良さそうです。

前にもご紹介しましたが、廊下の照明器具には錨があしらわれています。
かなり錆が出ていますが、照明器具としての機能に不備はないのでしょう。

流麗なアーチを連続して描く廊下の柱と精緻な細工の二階の手すり。
「同期の桜」を探してここを走ったのが昨日のことのようです。

いつもあるのか、わたしたちのために出してくださったのかはわかりませんが、
廊下に「江田島の今昔」写真がパネルにされたものが立ててありました。

これは、以前ここでもご紹介した写真集からのコピーで、
例えば真ん中のパネルは「総短艇」。

今と昔の総短艇の写真が同じような角度で並べられており、説明が付されています。

「総短艇は日常生活において前触れなく突然発動されます」

「総短艇が発動されたならば、学生は全ての作業を取りやめ、
全力で短艇(カッターボート)が吊り下げられているダビッドへ向かいます。
その後、各分隊で短艇を速やかに降下、出航させ、
指定されたブイを回頭して入港し、整備完了までの時間を競います」

 

廊下を西側まで通り抜けました。
ここにこんな立て看板がありました。
ここは誰でも来られる場所であることから、おそらく
一般の見学者のために常設されているのでしょう。

最初に来た頃に比べても随分サービス?がよくなった気がしますね。

 歴史を見続けたレンガ

現在、海上自衛隊幹部候補生学校では、
学校施設を活用した「特設コーナー」を設置中です。
125年近い年月において、「人物」、「イベント」、
「風物」など、様々な視点の中で、この赤レンガが
見つめ続けた歴史をお披露目してまいります。
この特設コーナーを通じ、より多く来訪された皆様に、
本校の教育体制をご理解いただくことを目的とするものです。

(ご覧になっている庁舎(赤レンガ)の一階廊下は、
NHKテレビドラマ「坂の上の雲」において、秋山真之役の
本木雅弘氏(俳優)が歩行したシーンが上映されたことから、
一部ファンからは ”モッくん・ロード” と言われています。)

(赤字は個人的にじわじわきた部分)

 

「モッくんロード」・・・・今の今まで知らなかったのですが、
それはわたしがモッくんのファンじゃないからでしょうか。

 

続く。

陸奥の砲塔と「表門」〜江田島 第一術科学校

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赤煉瓦の生徒館を見学し終わった後、マイクロバスで
グラウンドをぐるっと周り、陸奥の砲台横で降りました。

これまでの何度かの経験から、このグラウンドを車で走る際には
必ず時計回りであるらしいとわかりました。

グラウンドの時計でいうと7時のところに来たとき、

「ここからの眺めが昔から有名です」

赤煉瓦の幹部候補生学校、第一術科学校校舎は、昔は
赤煉瓦の生徒館、西生徒館。

「後ろにそびえる特に突き出したような山が古鷹山です」

「こうして見るとずいぶん高いですね」

実際に見ると、20分くらいで頂上まで駆け上がるという古鷹山は
信じられないほど高く聳え立って見えますが、江田島の候補生や職員にとって、
ここへの登山は「日常」で、例えば術科学校長なども必ず週一回は登るそうです。

江田島の古鷹山からの展望 (広島2017.1.28) 登山

古鷹山登山をバーチャル体験したい方のためのビデオ。
上りはいいけど、帰りはぬかるんでたりすると怖くないですかね。

訓練として登る古鷹山登山は、一気に上まで駆け上り、
頂上で隊歌(という名の実は軍歌)を朗々と合唱するそうです。

気になるその曲とは「同期の桜」。

兵学校時代からの寒冷なので歌う曲は変わっていませんが、
「同じ兵学校の庭に咲く」の部分は

「同じ幹候補校の庭に咲く」

と変えて歌うそうです。

あまりに近くて画面に収まらなかったぜ。

さて、わたしたちがここに連れてきてもらった理由は、これ。
戦艦「陸奥」の砲塔を見学することです。

見学に備えて、砲塔にマグネットで(笑)説明が貼ってありました。

こうして見ると「陸奥」の艦体って、特に上から見ると独特ですね。
昔、大正時代の海軍兵学校の遠洋練習航海について書いたとき、
シアトル訪問の時に練習艦隊を迎えてくれたのが、

「コロラド」「メリーランド」「ウェストバージニア」

の三姉妹艦だった、ということをアルバムの記述から知りました。
実は、彼女ら三姉妹は、日本が軍縮条約後も、この「陸奥」を日本が
保有することを主張したため、対抗的に保有を主張した巨艦だったんですね。

というわけでわたしは、この練習艦体歓迎行事にアメリカがこの三姉妹を
わざわざ出してきたのは、

「絶対にこれは日本への威嚇と当てつけだ」

と推測してみたものです。(正解はわかりませんが状況証拠で)

まあとにかく「陸奥」というのは当時のビッグ7の一つだったのです。
(あとは『長門』、そして英海軍の『ネルソン』『ロドニー』)

こうして見ると、「陸奥」がもっとも活躍したのは
関東大震災の時の災害救助活動だったということになりますか。

ただ、「ビッグ7」のうちの一隻を持っているということの
抑止力という意味にはなっていたと言えるかもしれませんが。

赤字で書かれた部分は、大改装の時に砲を換装したので、
取り外された砲塔が兵学校に教材用に設置されたという記述で、
これは1934(昭和9)年のことになります。

ネットに出回っているレベルの「江田島の怪談」の一つに、

「陸奥の砲塔から暗くなると水兵がのぞいている」

とかいうのがあり、これはこの砲塔が爆沈事故から引き揚げられた
という前提だったので、微力ながら昔当ブログで
その矛盾を喝破したことがありました。

昭和9年からここにあるのだから、もし出るとすればそれは
水兵ではなく兵学校の生徒などである「はず」です。

ちなみに余談ですが、わたしがここで江田島で何の霊的な気配も感じなかった、
と書いたところ、後日知人の元自衛官が

「他のところはともかく八芳園は絶対に出る」

と確信を持って言い切っておられました。
今回の訪問では八芳園に行くことはできなかったわけですが、
同じような話を全く別の方から聞いたことがあるので、おそらく
江田島出身者でこの話に賛同する方は多いのかと思われます。

外から説明を受けていると、何とここでこんなものが出てきました。
なになに〜?もしかしてこれはっ・・・・・

「宜しければ砲塔の内部を見学していただけます」

な、なんてこった!

中に入るのにはヘルメットを被らなければならない、ってことで
わざわざ二つ用意してくれています。

わたしはこの時学校訪問なので黒のペンシルスカートスーツを着ていましたが、
歩き回ることを考え、この時にはパンプスではなく、平底の
エナメルブーツ(出るとき東京は土砂降りだったので)だったので、
何のためらいもなく砲塔の中に入らせていただきました。

わたしのことだから、たとえパンプスだったとしてもためらいなく入ったと思いますが。

砲塔の内部は非常に限られたスペースなので、一般には公開していませんが、
某社という、この砲塔を昔作った会社の社員は、ここに研修に来て
内部を見学していくのだそうです。

で、砲塔にはどうやって入るかと言いますと・・・。
垂直のラッタルを登っていって、この狭い狭いハッチから体を滑り込ませるのです。
多分、アメリカ人の半分くらいはここを潜ることすらできないでしょう。

説明してくれた方が見本として上って見せてくれています。

「手が汚れますのでこれをどうぞ」

わたしがもらったのは何も書いていないまっさらでしたが、
後からTOはこんなのを貰っていたと知りました。

わたしたちが内部に入り込む支度をしていると、学校長が

「わたしはここで待っています」

そりゃこんなところに入ったら制服のどこかに必ず白い汚れが付くだろうし。
常日頃候補生が服装容儀点検で

「埃、不備!」

とかやられているのに、偉い人が制服に汚れつけてちゃいかんわね。

目の下にずり下がりグラグラするヘルメットと軍手、という
あまりイケテナイ格好で、わたしは果敢にも砲塔内に入って行きました。

これが砲塔の内部である。
昭和9年からここにあり、海軍軍人であれば必ずこの内部で
砲術についての教育を受けたという、「陸奥」の砲塔。

昔から何の改修の手も加えていない、しかし堅牢な内部は、
錆びついた砲とその周辺機器がそのままに姿をとどめていました。

同じ砲塔のかつての姿だと思われます。
もしかしたら兵学校の教材で使われた写真でしょうか。

1、弾薬筺を上下に運ぶワイヤー

2、断薬筺のガイドレール

3、砲塔長(兵曹長または特務少尉クラス)からの伝声管

4、換装室との伝声管

5、火管灯(この白金線が切れているときは発砲しない)

6、予備弾薬筺把手

7、揚弾薬筺「あげ」「下げ」時の把手

8、装填発動機(水圧式)

9、圧搾空気圧力計

10、水圧駐退機(発射時砲身が交代するとピストンが引っ張られ砲身が後退する)

11、噴気用導管

12、噴気用圧力計

13、尾栓開閉シャフト

14、砲室内の排気ファン

15、砲側方位盤

16、砲側射手の腰掛け

17、尾栓人力開閉ハンドル

18、尾栓 19、尾栓環

20、安全柵

最後の柵は、砲員が底に落ちないためのもので、
一番砲手は砲尾に取り付けられた台座に乗り、
砲尾後方に位置し、この安全策に身を託しています。

砲の照準、発射中は砲身の上下動と共に動き、
仰角が大きいと砲室底部5メートル付近まで達することもあります。

 

 柵などは跡形もなくなってしまっています。
もしここから撃つと、砲弾は岩国まで届くということでした。

ちなみに、弾火薬の装填動作にもっとも必要なのが経験で、これが
一番砲手(2等兵曹クラス)の腕の見せ所となります。
弾薬筺は二弾落下式で、まず砲弾を「ランマー」で装填し、そのランマーを
引き抜くとともに、自動的に四個の装薬が同時に薬室前に落下してきます。
陸奥の主砲はどの仰角でも装填が可能ですが、
不完全装填の可能性があるため、通常は7度で装填していました。

また、砲側車種は砲術学校高等科出身の上等兵曹です。
艦橋トップの方位盤射手が目標を捕捉追尾し、
その角度が砲側の受信器に送られると、基針(赤針)が動きます。
砲側射手はこれを見ながら俯仰ハンドルを操作し、砲身の不仰角を示す
追針(白針)を赤針に合致させ、しかるのち発射します。

かつて何回もこの中に見学者を招き入れたことはあるらしく、
室内に残され、すっかり古くなった説明板なども残っています。

下を覗き込むと、いわゆる「砲底」はこのようになっています。
右側のレールが弾薬筺のガイドレール。

よく見ると、鉄製のレールの内側は木でできています。
これは落下事故防止のための仕掛けで、具体的には
弾薬筺下部に鉄の爪がついていて、万が一ワイヤーが切れても
爪がバネの力で木部に食い込んで落下を防止する仕組みでした。

砲塔の後部壁と木製の周辺機器など。

もしかしたら右側の木箱が弾薬筺ではないかという気がしますが、
弾薬を上げ下ろしするのに木箱なのという疑問も。

しかし、肝心の部分以外は割と木製でできている部分が多く、
その部分は今日失われてしまったのかもしれません。

レールのような部分には墨で「砲室◯」という文字が読めます。

砲塔の壁には経年劣化でぐにゃりと歪んだラックが。

「ここに砲の中を掃除する棒が掛けてありました」

金管楽器の中を掃除する道具をクリーニングロッドと言いますが
(なぜか木管楽器の掃除をするものはスワブという)
英語ではこれもクリーニングロッドといいます。

終戦後、内部は誰かの手で内部を爆破されています。

というわけで螺旋階段を降りてきました。
ちなみにカメラは、先に上った自衛官が中から受け取って、
わたしが上り切ってから渡してくれました。

砲塔の内部を見学している時、わたしのバッグは
外にいるどなたかがずっと持っていてくれました。<(_ _)>

あ、それから内部で使っていた軍手は

「よろしければ記念にお持ち帰りください」

ということで、ありがたく頂いてまいりました。
我が家の甲板清掃に活用したいと思います。


右側の建物は妙に新しいですが、向こう側の古い砲術なんとか、
という建物は長らく何にも使われず、放置されたままです。

しかし、なぜかものすごく躯体がしっかりしていて、
倒壊の危険は全くないのでそのまま置いてあるそうです。

赤煉瓦の後ろにある古い建物も、歴史的な価値はないということで
将来取り壊すことが決定しているということでした。

兵学校時代から「表門」「正門」とされてきた桟橋。
本日江田島で行われる幹部候補生学校のA幹部卒業式でも、
卒業生たちはここから練習艦隊に乗り組み、まずは一ヶ月の
国内巡航を行うために旅立って行くでしょう。

見学の時に最後の総短艇に向けて訓練が行われていたダビッドは
あの喧騒が嘘のように静謐さをたたえています。

整然と並ぶカッター、全く同じラインを描く舫。
実に機能的で美しい光景だと思わず見とれました。

江田内に望むこの岸壁も、経年劣化によりいたるところに
崩落の危険も出てきたため、少しずつ護岸工事が行われているそうです。

手前の部分だけは最近工事がされたらしく、綺麗です。

候補生や術科学校の学生が訓練を行う練習艦が見えます。

今日の卒業式では、きっとこの練習艦の上からも卒業生に向けて
「帽振れ」が行われるのでしょう。

 

続く。




HMS「モントローズ」一般公開@晴海埠頭〜ウォーフェア・デパートメントとは

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 今回、いつも写真をくださるKさんが一般公開の終わった月曜日に
晴海で「モントローズ」と「むらさめ」を撮って送ってくださったので、
それをご紹介します。

日英駆逐艦の競演。

甲板にヘリが出ています。
早速哨戒を行なっているのだと見た。

「モントローズ」の甲板に櫓が組まれているようですが、
もしかしてこれから艦上レセプションでもあるのかな?

もしそうなら、イギリス大使館からも人が来そう。

艦体の色の違いがよくわかる一枚。
ロイヤルネイビーの軍艦は大西洋で活動するのが基本なので、
色が違うとか、そういう理由もありそうです。

そして艦体の汚れが圧倒的に目立っている(´・ω・`)

これは豊洲大橋(今回来たら開通していた)からの写真でしょうか。

そしてスマートな我が「むらさめ」の勇姿である。

埠頭前の建築中の状態を後世に残す貴重な一枚です。

 

さて、「モントローズ」見学の続きと参ります。

GTと(か)DGが走っている時は耳栓をすること

どうも略語で来られるとお手上げなんだな。
GTはグランドツァーではなく「ガスタービン」?
DGはドルチェ&ガッバーナではなく「ディーゼルジェネレーター」?

日本語の看板はおそらく「むらさめ」に借りたのかと思われます。

上部構造物同士の隙間から建設中のオリンピック選手村を見る。

U.A.M.R?の換気扇孔の形すら物珍しい。

CIVはChemical Injection Valveと略語辞典にあったのですが、
それがカセット型のタンクに入っていてこのラックに並んでいます。

これが何かは後で判明しました。

洋上給油に使用するホースはダンロップ製。
こんなところに縛り付けてあるのを初めて見ました。
人力で上げ下ろしして結合するんでしょうか。

ふと上を見てみると、そこには何かのアンテナが。

左舷後方に謎の船が横付けされていました。
一応船体番号はついていますが、動力がないことから、
廃棄物などを回収する船ではないかと想像されます。

オイルがこぼれた時の救急キットが入ったバッグ。

多分警備的にも大丈夫だろうと思って中を見せていただきましたところ、
綿のような不繊布が入っていました。

オイルの種類もいろいろあるので、吸収させる素材の違うパッドが
三種類くらい入っているようです。

後甲板に出てきました。

AFFFはAqueous Film Forming Foam

つまり水性消火泡の略です。
時計と反対回しにすると出るので、ノズルを外して火元に放泡します。

ウォーフェア、WARFARE とは「交戦」という意味です。
機雷戦だと「マイン・ウォーフェア」、航空戦は「エアリアル・ウォーフェア」、
「エア・ウォーフェア」、この説明のように、最初に
「アンタイ」Antiをつけると「対空戦」「対潜戦」です。

Warfare Department(branch)で艦内の部署の名称となります。
この部署は自衛隊だと何に相当するんだろう・・。船務科?

WDは軍艦の中心となる仕事の心臓部です

軍艦は多くの部署で成り立っていますが、
その全てに彼女が効果的に機能することが要求されます。
紛争や戦争など、地域の緊張のなかに投入されるために
デザインされているのが軍艦というものなので、
武器兵器はもちろん、各種作戦のために侵略者か、それとも
保護対象の民間かを探知し判断するための装置を搭載しています。

そのためには三つの主な場面があります。

Anti- Air Warfare(AAW ) 対空戦

Anti-Surface Warfare(ASuW) 対水上戦

Anti-Submarine Warfare(ASW) 対潜戦

HMS 「モントローズ」はタイプ23のフリゲート艦で、元々は
ASW、対潜戦のために企画された軍艦ですので、
非常に洗練されたセンサーと海面下の脅威に対抗するための
強力な武器を装備しています。

しかしながら、対空戦、対水上戦の能力も兼ね備えており、
そのためにワイルドキャット(Lynx)あるいはマーリン(Merlin)
といったヘリコプターをそれらの任務に集中的に投入します。

実はこの看板の前にいたのがこの三人でした。

搭載されている銃の展示を行なっており、時々
サービスのつもりか黙って銃を構えて見せてくれていました。

「アルビオン」の時には、銃や飛び道具各種を触らせてくれ、
それだけでなく本当に持たせてスコープを覗かせてくれた英海軍ですが、
その時どこからかクレームでも出たのか、今回の「モントローズ」では
銃に触ることすらできなくなっておりました。

「手を触れないでください」

の看板が日本語であることからも、前回のイギリス海軍の
大サービスぶりから考えて、向こうが言い出したことではなく、
どこからか文句が出る前に、我が方の防衛省が勝手に忖度して
自主規制し、英国側の申し出を断ったのだとわたしは睨んでいます。

「アルビオン」で無反動砲にかじりついて長時間放さなかった
あの時の男性、今回来ていたらさぞがっかりしたことでしょう。
まあもっとも、強襲揚陸艦とフリゲートでは、積んでいる武器の
種類と数に天地ほどの差があるわけですけどね。

しかもこの日の大混雑ぶりから想像するに、もし銃を持てるということになれば、
ただでさえ狭い艦上から人が出て行かなくなってしまったでしょうから、
結果的に英断だったというべきかもしれません。

対潜戦(ASW )について書いてあります。

センサーでえた情報は敵と味方の潜水艦に対しどう対処するかを
決定するため艦に報告されます。
この情報は続いて艦載ヘリコプター、あるいは哨戒機に渡され、
もしその必要があれば「スティングレイトルピード」を
敵潜水艦に対して投下します。

HMS「モントローズ」はMTLSという独自の魚雷システムを持っており、
これはUWWチームによって制御されます。
彼らは海象データを使い、時には海水の温度や海深、水の透明度など
各種情報を使って情報を精査します。

この時、潜水艦の探索用に艦上のセンサーが最適化されるので、
チームは潜水艦が周囲の環境をどのように利用して
位置を特定されないようにしているのかを推定できます。

銃を持っている人に、

「あなたは海兵隊?」

と聞くと、違うよとの答え。
イギリス海軍における海兵隊は「警備」というイメージですが、
こういう時に警務の係をするのは海軍の役割のようです。

写真は、この姉御が

「彼はわたしの弟なのよ!」

と言っているところ。
わたしの連れは

「似てると思った」

と真に受けていましたが、どう見ても間違いなく冗談です。

「モントローズ」はCIWSなどではなく、どうもマンパワーでの
近接先頭を行う模様。

これどう見ても防弾用の盾ですよね?

艦上から外を見ると、日曜日なので上陸許可を得た乗員さんが
実につまらなさそうな様子でバスを待っているのが見えました。
左の人は立派なレンズを搭載したキャノンのEOSを持っています。
これから東京の街を日本製のカメラで撮りまくろうという気満々。

何れにしても東京の上陸を目一杯楽しんでいってほしいものです。

 

続く。

平成三十年度 海上自衛隊幹部候補生学校卒業式 ダイジェスト

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今年は一年ぶりに幹部候補生学校の卒業式に出席してまいりました。
その前日から海上自衛隊が用意してくださった行事と、
卒業式当日のことについて駆け足であらすじ?をお話しします。

細部についてはまた一連の行事が終わってから詳しく書くつもりですので
どうぞその時にはよろしくおつきあいください。

いきなり艦橋から説明が始まってしまうわけだが。

これにはわけがありまして、今回の卒業式参加は一種の「ツァー」だったので、
前日の昼過ぎからすでに行程は始まっていたのです。

ホテルのロビーで集合し、最初に見学したのが掃海母艦「ぶんご」でした。

ご一緒した方々の中には自衛官に乗るのは初めて、という方もおられ、
そういう方はこの艦橋が他の自衛艦に比べてとてつもなく広い、
ということもおそらくピンと来なかったかもしれません。

初心者?の見学に掃海母艦、というのは盛りだくさんでいいかもしれません。
潜水を行うダイバーを減圧のため収納するチェンバーなどが見られますし。

実は乗艦してすぐに甲板で団体写真を撮りました。
掃海隊のエンブレムが織り込まれたカーペットを前に、
まずは「ぶんご」艦長らと共に一枚。

掃海隊について基礎からわかるブリーフィングも用意されていました。

機雷や機雷戦のジオラマ?を見ながら説明を受けます。

岸壁からバスで移動した先は「てつのくじら館」。
説明専門の方の案内で館内をゆっくりと見学しました。

見学したのが掃海母艦だったのは、そのあとにここを見学する予定だったからでしょう。

「てつのくじら館」は潜水艦の他に掃海隊の展示が半分を占めるからです。

掃海についての展示の一階上は潜水艦についての展示です。

何度目になるでしょうか、てつのくじら「あきしお」見学も。

館内には先の豪雨災害における派遣部隊の活動記録が展示されていました。

その後ホテルに帰り、一休みしてからホテルで練習艦隊の司令幹部を囲むパーティに参加。

パーティでは社交しすぎて何も食べられなかったので、利根へ。
「とねカレー」と「愚直タレ三点セット」をいただきました。

次の日が幹部候補生学校の卒業式です。
バスでホテル前から江田島まで、音戸の瀬戸コースで約1時間。

幹部学校が近づいてきたとき、江田内に浮かぶ四隻の練習艦が見えました。

バスはいわゆる「裏門」を入り、そのまま赤煉瓦の生徒館前へ。

赤煉瓦前から式典開始までミニ見学ツァーが始まりました。
ご案内してくださるのは術科学校副校長です。

「同期の桜」やレンガが「イギリス積み」であることなど、
「モッくんロード」(笑)を説明されながら歩きました。

つい最近全く同じ体験をしたような気がするのだがこれはデジャブ?

このツァーのメインは教育参考館です。
前回見学した時よりはるかに短い時間でしたが、特攻隊についての展示では
比較的時間をかけて見学させていただけました。

そのまま第3グラウンドを通り抜けて、大講堂の前の石段に立ち、
海幕長の到着を待ちます。

村川海幕長に対する栄誉礼、そして巡閲。

巡閲終了後、敬礼をしながら候補生の前を行き過ぎる海幕長。

そして、卒業式が始まりました。

クラスヘッドにはチリ共和国大使から勲章が授与されます。

候補生が士官任官した瞬間。

自衛官として最初の「服務の宣誓」。

この後、来賓の祝辞、海幕長、海幕長の訓示が続き、無事卒業式は終了しました。
式の「ある瞬間」から彼らは候補生ではなくなるので、そこからは
号令なしで立ったり座ったりといった一斉行動を行うようになります。

大講堂を出てバスで連れて行かれたのは旧西生徒館のグラウンドに面した食堂。
ここで、自衛官、新任幹部、来賓と新任幹部の家族の皆さんが
一堂に会して、午餐会が行われました。

赤煉瓦から敬礼しながら歩む一本の列。
卒業して任官したばかりの幹部が、江田島の正門である表桟橋に向かって進みます。

表桟橋から今内火艇で出航していく幹部たち。
それぞれの乗組む艦艇に向かう船上、「帽振れ」が行われます。

幹部たちが各々の練習艦に乗艦し、出航用意が行われる間、上空では
祝賀飛行が行われました。
各航空基地から来た海自の航空機が、江田島上空を通過していきます。

そして出航。

実は「かしま」の錨が上がらないというちょっとしたアクシデントがあったのですが、
詳しい事情については、その後、艦隊司令と艦長から直接伺ってまいりましたので、
おいおい?お話しすることにいたしましょう。

このアクシデントにより出航の順番が代わり、「かしま」が一番最後になりました。

江田内を抜ける「津久茂の瀬戸」には、今年からこんなUW旗を表す
大きな「ご安航を祈る」の看板があります。

今年はわたしもこんな光景を観る僥倖に恵まれました。
なぜかと言いますと、わたしも事情があって表桟橋から出航したからです。

先に出航した三隻を追いかけている「かしま」に追いつきました。

新任航空士官を乗せてこれからすぐに外洋航海に向かう「すずつき」。

SH-60Kを搭載している「やまゆき」に追いつきました。

わたしの乗せて頂いた船は、このように練習艦隊を追い抜いてゆき、
その度に彼らが行う登舷礼を間近に観ることができたのでした。


どうしてそんなラッキーな体験ができたのかについても、
またいずれここでお話しさせて頂きたいと思います。

 

HMS「モントローズ」一般公開@晴海埠頭〜艦載ヘリコプター

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HMS「モントローズ」見学記、最終回です。

早めに列に並んだため、前から約三十人くらいの一団にいたわたしは、
その甲斐あってこのように比較的人の少ないうちに館内を一周し、
余裕を持って格納庫内の艦載ヘリコプターを見学することができました。

「モントローズ」が搭載しているのは

アグスタ・ウェストランド AW 159

といい、紹介の説明にも書いてあったように通称「リンクス」、
(リンクス・ワイルドキャット)という紹介ヘリです。

海上自衛隊で運用しているMCH-101は、同じアグスタ・ウェストランド社製。
ちなみにアグスタ社はイタリア、ウェストランドはイギリスの会社です。

「モントローズ」は海自と同じAW101を搭載することもあります。
イギリスではこのヘリを「マーリン」(Merlin、隼の一種)と呼んでいるとか。

この紹介バナーによると、海軍でも「汎用ヘリ」という位置付けのようですね。

格納庫に納まっている様子を中に入って見学することができます。

リンクスシリーズの輝かしい伝統の上に建造されたAW159は
次世代型の双発エンジン搭載小型ヘリであり、海洋での運用における
多様な場面において”Best -in-class"  (同級の最高峰)です。

最先端のセンサー、統合された任務管理システム、そして先進のコックピット。AW159は深海、沿岸、そして陸地のいずれにおいても捜索、確定、そして攻撃をすることができます。

兵器の整備、ウェポン・エンジニアリングという部署があります。

WEは「モントローズ」が多目的な戦闘能力を発揮することで
その使命を果たすという使命をサポートするのが任務です。

WEの初期的な責務とは、光学機器で武器、センサー、通信、
およびコンピューター機器の複雑な配列を把握することです。

対戦武器システム

マガジン・トルピード・ランチ・システム(MTLS)は近接距離で
素早いリアクションが可能な対潜システムで、

スティングレイ・トルピード(写真)

を使用します。
発射チューブは4つ、マガジンに完全に収納されており、
艦体を横切るように二つが左舷、二つが右舷に位置します。

固定されたシーウルフのサイロと同様に、この配置は
魚雷間のリロードに必要な人員が外に露出し
危険に遭う確率を劇的に減少させることができます。

スティングレイは軽量かつ高速の魚雷で、MTLSのみならず
リンクスヘリコプターに搭載することもできます。

そのものの形状はシャープで、30cm×250cm、
頭部と尾部は平らになっており、尾部には
誘導システムとして4枚のフィンが付いています。

初期の動力は「シーウォーターバッテリー」。
(前回ご紹介した舷側のラックにあった電池です)
弾頭は標的との衝突で爆発するように設計されています。

格納庫の内壁には所狭しと機材や器具が機能的に並べられています。
洗眼のための器具が目立つところに設置されていますね。

SH-60の全体的に流麗なヘリコプターや、アメリカ製の丸っこいヘリ
などを見慣れていると、ゴツゴツして戦車っぽい機体が新鮮です。

いまさらですが、イギリス海軍というのは正式名称が
「ロイヤルネイビー」であり、日本語で「王立海軍」ということはあっても
他の英語名称は存在しません。

今回、「モントローズ」を見学した人たちの挙げたSNS界隈で話題になっていた
VOW的日本語の注意書き。

DO NOT TOUCH ME!

という書きぶりから想像するに、

「さわるときれるぜ!」

という日本語をフレンドリーな感じで書きたかったのでしょう。
最近、amazonの業者に、これに近い日本語の説明を書いているのがいて、
あ、こりゃパンダの国の業者なのね、と隠していてもわかってしまいますが、
どうも外国人は「る」と「ら」「ろ」の見分けがつかない模様。

危険の「険」の不思議なフォントもツッコミどころですが、それより
ただ危険と書けばいいものをなぜ「危険人物」?

これも推測してみるに、彼らは日本語の辞書で「Danger」と引いて、
「危険、危険人物」と出てきたので、後者を選んじゃったんだろうな。

みんなにものすごくウケていたし、可愛いので皆和んでたから
結果として親しみを持ってもらうという目的は果たせたと思う。

危険であるということも十分通じてるしね。

格納庫に入ってすぐ、

「パイロットですか?」

と質問すると、

「僕エンジニア」

と答えてくれた乗員さん。
この人が近くにいたので、つい我慢できなくなって、

「ねえねえ、このボードの意味知ってる?
”デンジャラス・パーソン”になってるんですけど」

と声を掛けると

”I know ." (知ってる)

多分昨日1日で何度も英語の喋れる人に同じことを言われたんだね。

「だからきた人が皆写真を撮ってるのよ」

というと彼は少し悲しそうに、

「でも、とりあえず僕ら頑張ってみたんだよ」
”But anyway, we tried."

わたしも、

” Year, it's nice work!"

と慰めておきました。
これが大人気だったのは事実だし。

前方にはなんの苦労もなく行くことができました。

カバーで隠してあるのは、説明ボードのいうところの

「ソフィスティケートされたセンサーシステム」

の一つだと思われます。
ノーズの下のレドームもセンサーですね。

レール状にヘリを引っ張る拘束装置。

前方からテールを見ると、やはり直線で構成されている機体だと感じます。
言い方はなんですが、紙で作った模型みたい。

AVTUR AVTAG AVCAT・・・・謎の記号。

ローターのたたみ方が独特です。
日本には小型と大型(CH-47)のヘリしかないので、
中型ヘリというのが結構大きなのにちょっとびっくりです。

それともう一つ驚いたのは尾翼のローターが縦に回ること。
尾翼の左側に付いていて、縦回転するローター。

飛んでいるところを見ると、改めて変わったシステムだと思います。

格納庫内側にあったモニター。

外に出てみました。
このラッパみたいなのは格納庫の両側に同じだけ設置されていたので、おそらく
ヘリの着艦などを補助する装置だと思います。
が、結局何かわかりませんでした。

海自のヘリ搭載艦にある、甲板に半地下で埋まったブース、
あれに相当するものがここにありました。
格納庫の左側にブースがあります。

後ろはどうなっているんだろうと思ってのぞいてみたら、
カーテンで覆われているだけのスペースでした。

これなんだかプリクラ撮るブースみたい・・・。

しかも、海自のと違って、ここでの監視、立ったままやるんですね。

リンクスヘリはデコイを発射するシステムももちろん搭載しています。
あまりに綺麗なので、バナーの写真を拡大してみました。

というわけで見学できるスペースの見学は終了。
右舷側の舷側は立ち入り禁止になっています。
ここを通れるようにすると何周もして出て行かない人がいるからです。(確信)

「モントローズ」の時鐘。実際に時鐘の役割をするのでしょうか。

ここから退艦します。

ラッタルが甲板に傷をつけないように、下にはマクラメのマットがかましてあります。
滑り止めにもなって一石二鳥。

階段を下りながら右舷側を撮ってみました。

そして艦尾と後甲板。
まだこの時にはあまり人はいません。

わたしたちの後にきた人は格納庫のヘリを見学して出てくるのに
何十分もかかってしまったそうです。

こちらには「モントローズ」の椿と王冠をあしらった艦のマークが燦然と。

チャフフレアランチャー発見。

これは海自の護衛艦と同じような感じですね。

先ほどの「弟分」くん、まだ舷門で任務中。
全体的に無表情な他の乗員の中で、比較的朗らかな彼でした。

岸壁に降りて振り返ると、舷側では動かない列が。
しかもまだ地面で順番を待っている人の多いこと。

いっそお昼過ぎから行った方が空いていたかもしれませんね。

彼女が主に日本海で制裁違反監視任務に置いて成果を上げられることを期待し、
その健闘をお祈りして、HMS「モントローズ」見学記を終わります。

 

 

 

卒業証書授与〜海上自衛隊幹部候補生学校 卒業式

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さて、それでは改めて幹部候補生学校卒業式についてお話しします。
ただし、その前日からのツァー行程については、練習艦隊関連記事が
すんでからということで。 

バスが幹部候補生学校前に到着しました。
運転手さんが左折できなくて困っています。

学校の看板と一緒に撮影をするのに列を作る卒業生と家族、
その人たちにクラクションを鳴らすのを躊躇ったからでした。

しばらく待っていると、警衛の自衛官が飛んできて、
とりあえず車道から彼らを退けてくれました。

バスでこの門を入っていくのもよく考えたら初めての経験です。
この日わたしにとってもここは「裏門」で、結局
表桟橋から江田島を離れていくことになったので、この時が実質
ここを通過した最後となりました。

前回二階の貴賓室を見学した時に入った「お車寄」のある入り口には、
今日は本当の来賓がくるので人員が配置されています。

バスに乗ったまま赤煉瓦の生徒館前に来るのも初めての経験。
生徒館前の砂には、候補生たちが最後に甲板清掃でつけた目立ての跡が
まだつけられて間も無いので、完璧に残っています。

赤煉瓦正面でバスを降りて誘導されながら歩いていくと、
入り口右側に人々が列を作っていたわけがわかりました。

皆この看板の前で記念写真を撮っているのです。

前回言い忘れましたが、この看板は、

「最後の海軍兵学校生徒」

となった皇族出身の久邇邦夫氏の揮毫によるものです。

赤煉瓦の生徒館、正面入り口から入って右手にあるドアに
「当直室」とあるのに気がつきました。
当直士官らの待機場となっているのだと思われます。

ホールで赤いリボンを配られました。(名前入り)

「ほー、これをつけるのかね」

と覗き込んでいるのは、自民党の議員先生です。

「これが同期の桜と呼ばれています」

その後、「同期の桜」が元々は「二輪の桜」という題名だったことなど
その桜を目の前にしながら術科学校副校長の説明を受けました。

桜の右側の無粋な電気室は、議員先生のシルエットで隠れました(笑)

前回も今回の説明でも全く触れられませんでしたが、赤煉瓦を出てすぐ、
術科学校との間の道沿いにあの天一号作戦で散華した伊藤整一海軍大将(最終)
の東京の自宅の庭から移植した「父子桜」があります。

ご存知のように、航空士官だった伊藤中将の息子は、掩護機に乗って
父の最期を見送ってから三週間後、特攻隊として出撃戦死しました。

構内いたるところに見られる候補生が家族を案内しているの図。
ここで学ぶのが1年であり、入学の時にはおそらくこのように
家族を案内することなどなかったでしょうから、家族にとっては
息子娘に案内してもらう最初で最後の構内ツァーということになるのでしょう。

この後は教育参考館の見学でした。
参考館前を作業服でランニングする一団あり。
ランニングが目的ではなく、単に移動していたのでしょうか。

教育参考館見学の後、いわゆる「第3グラウンド」と呼ばれる候補生の住居棟前の
このグラウンドを見ながら大講堂に向かいました。

「UW」ご安航を祈るの信号が右側に、そして左には
Z旗が見えます。

赤煉瓦後ろにあるこれも大変古い建物は、どうも現在使われていないようです。
前回の見学の時にも、

「古い建物ですが、歴史的な価値はないと判断されたので取り壊します」

と聞きました。
わたしのように、海軍兵学校時代に生徒が実際に使用していたものなら
それだけで歴史的な価値があるのでは?と思うのは少数派かもしれません。

こちらは昔から倉庫のように使われてきた建物ですが、
それでもレンガでできているので、先ほどの校舎より
価値があるということのようです。

大講堂の前に来ると、このような列ができていたので驚きました。
これから海幕長が入来するのですが、それを全員でお迎えし、
儀式を全員で見学するというわけです。

わたしが過去に見た卒業式では、海幕長の巡閲などは
見たい人、たまたまそこにいる人だけが見学しており、
赤煉瓦前でごくひっそりと行われていたのですが、今年は
このような粛然としたセレモニーとして行うことにしたようです。

しかし、一生に一度の卒業式となる候補生にとっては、
海幕長到着の儀礼に立ち会うのが筋というものでしょう。

わたしたちは大講堂前で待機するように言われました。

呉音楽隊も身じろぎもせず待機しています。
流石にスーザホンはギリギリまで地面に置いてもいいようです。

待っていると、車から幹部候補生学校長、南 孝宜海将補が位置に着きました。
右側は幹部候補生学校副校長です。

ところで皆さん、この儀仗隊をみて何かに気がつきませんか?
全員が金線入りの帽子、よく見ると袖には錨に金線。

そう、この儀仗隊は今日卒業する幹部候補生の部隊なのです。

ということは儀仗隊に選ばれた候補生は、この日のために
儀仗の訓練も受けていたということになります。

ということは、こうして海幕長が巡閲を行うことの意味とは、
今日任官する候補生達の練度を閲兵(兵じゃないけど)する、
ということになります。

いつからこのようになったのかはわかりませんが、形式的に
今まで行われてきた儀仗に深い意味が加わったとも言えます。

幹部候補生による、任官前の最後の儀仗が終了。

一部の候補生からなる儀仗隊だけでは不公平なので(多分)、海幕長は
全員の前を歩き、こちらの巡閲もちゃんと行います。

なるほど、そういう意味があったのか!

(とその時には気づかなかったことに今更感動するわたしである)

この後、卒業式開始まで少し時間があったので、
赤煉瓦の二階で待機休憩となりました。

ところで、赤煉瓦の倉庫の左に小山があり、
そこに登っていく石段があったのですが、これが何かわかりません。
案内してくださっていた海将補に伺うと、ご存知ないとのことで、
副校長に聞いてくださったのですが、こちらも「わかりません」。
副校長は近くにいた若い幹部に聞いていましたが、やっぱり
『知りません』とのことで、いまだに謎です。

ここが八芳園なのだと思っていたのですが、違うのかな。

教室でお茶などいただきながら休憩していると、
別口で参加されていた来賓の知人の方が訪問してこられました。
自衛隊に真に貢献しているというのはこういう方のことだと
いつもその献身的な活動を仰ぎ見ているN先生。
今年もN先生の教え子が三人も候補生学校を卒業したということです。

そのかたが無私の心で長年続けておられる活動には
足元にも及ばないわたしたち夫婦ですが、そんなわたしたちにN先生は

「ご夫妻の自衛隊への貢献に敬服いたします」

などと暖かい言葉をかけてくださるのでした。

大講堂に案内されたあとは自分の名前が書かれた椅子に座り、
開式を待ちます。

まだモードスイッチがオフ状態の卒業生たちを前に
何か注意事項を与えている二人が俗にいう「赤鬼&青鬼」、
学生隊幹事付と(あれ?監事じゃないんだ)いう指導係です。

どうも式の間は手を膝に置くようにとか言っているようですね。

本日の式次第。

特筆すべきは2番目に行われたこの日の国歌斉唱です。

自衛官がいる席で君が代を歌うと彼らの声の響くのによく驚かされますが、
国防にその身を捧げる覚悟を決めた彼らの歌声は、朗々と、決然として、
この長い歴史を持つ江田島の大講堂に響き渡りました。

いろんな団体の会合で国歌を斉唱する機会が多いわたしにとっても、
それは身が震えるほどに感動的でした。

国歌斉唱後、卒業証書の授与が行われました。
二人の読み上げ係が、慎重に、決して間違えないように
各卒業生の名前を朗々と読み上げていきます。

人の声が効果的に響くことを目的に設計された建物で、
これだけ広くとも肉声で隅々まで声が届くため、ここでは
昔から一切増幅装置が使われたことがありません。

証書を受け取る時、卒業生は校長の差し出す証書をまっすぐに腕を伸ばし、
校長の腕と自分の腕が直線にして受け取ります。

そして、その症状を垂直に立て、右手で左側に端を折って重ね、
その賞状の端を右手で抑えるようにして左脇に抱えます。

見ているとその動作は誰もが熟練の域に達しているようで、
おそらくこの日のためにかなり練習を重ねたのかと思われました。

壇上の候補生が全員階段を上りきった瞬間、次の一列が同時に立ち上がり、
行進して階段を上る列の後ろに着きます。

そして、前回の訪問で見た「白い二本の筋」を壇上の床に刻んでいくのです。

彼らの袖には細い線に錨の「候補生マーク」が。

これが候補生として彼らが行う最後の「任務」となります。

 

続く。

 

 



潜水艦「しょうりゅう」引き渡し式 @ 川崎重工業株式会社

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幹部候補生学校卒業式を終え、自宅に帰って中一日を挟んで、
わたしは朝6時半の羽田発で神戸空港に向かいました。
その日の午前中から川崎重工で潜水艦「しょうりゅう」の引き渡し式、
その前になんと偶然にも、練習艦隊の神戸港寄港があったからです。

故郷である神戸に練習艦隊が3隻堂々の入港をしてくる様子は
元地元民の思い入れもあって胸が熱くなるものがありましたが、
お迎えが終わった後、艦内見学のためにお迎えに来た人が次々と
ラッタルを上っていくのを尻目に、わたしたちはポートターミナル前に
たった一台だけ停まっていた(しかも運転手が長時間トイレ休憩をしていた)
タクシーを捕まえて、川重に向かいました。

川重での自衛隊関係式典では、いつも建物前に呉地方総監部から
総務の自衛官が受付をするためにテーブルを出して待っています。

いつも招待状を忘れてテーブルの前で立ち往生するので、今回は
ちゃんと招待状の類を持ってきたのですが、如何せん行事が多すぎて
封筒やら地図やら招待状やらの紙束の中からそれを探し出すのに一苦労。

受付にさっと出すために離れたところでごそごそやっていると、
すっかり顔見知りになった総務の方が飛んできて

「なくても大丈夫ですよ」

招待状の封筒を受付で渡そうとすると、こちらも顔見知りの女性自衛官が

「どうぞ記念に?お持ちください」

いやー、いつも招待状なしで受付を突破しているとはいえすみませんね。
ちなみにこの総務の自衛官は、いつもいつも本当に激務をこなされていて、
例えば引き渡し式の自衛艦旗がなかった時など、衆目の中ダッシュして
艦内に旗を取りに走っていくなどという活躍をされたのを見てきましたが、
この日、

「こんなところでいうのもなんですが」

と前置きして、この度の人事異動で横須賀の自衛艦の航海長に移ることを
教えてくれました。
やはり艦乗りが陸上勤務から海の上に戻るとき、嬉しいものなのだろうと察して、
そんなお知らせを受けるとわたしは必ず、

「おめでとうございます!」

と最大限の祝意をこめて言うことにしています。

受付をすませると、これも最近ではすっかり慣れてしまった控え室にいき、
そこでバスの出発する時間までを待ちます。

顔見知りや同じ防衛団体の方にお会いすることもありますし、
各種式典などで顔だけはよく知っている人と一緒になることもあります。

この日わたしは、これまで顔だけ知っていた自衛隊イベント皆勤賞の
アマチュアカメラマン(会社経営)の方と近くに座ったのをきっかけに、
思い切って話しかけてみました。

別の人からあまりいいように聞いていなかったのですが、実際に話してみると
全く普通の方で、やはり喰わず嫌いはダメだと反省しました(笑)

 

 さて、この後バスで「しょうりゅう」が繋留されている岸壁に到着すると、
招待者区分ごとに席が決まっているので、そこに着いた順に座ります。

潜水艦の前の岸壁には、「しょうりゅう」乗員がすでに整列しています。

そのまま待つこと20分、時間きっかりに防衛省の代表として
原田憲治防衛副大臣、海幕長、そして本日の式執行者である呉地方総監、
杉本海将が入場し、まずは栄誉礼と巡閲が行われました。

川崎重工業株式会社社長から、原田副大臣に「しょうりゅう」の所有を表す
書類が引き渡され、続いては自衛艦旗が防衛副大臣から艦長に、艦長が副長に
受け渡され、全員の乗艦、続いて艦長乗艦という流れで儀式は進みます。

潜水艦「しょうりゅう」の引渡式、自衛艦旗授与式

やはり産經新聞はよく分かってらっしゃる。
引き渡しから自衛艦旗の掲揚までをきっちり映像にしてくれています。

自衛艦旗引き渡しの時に「海のさきもり」を一番だけ歌ったのは、
声から判断しておそらくですが横須賀音楽隊の中川真梨子三曹だと思われます。

 

ちなみに、現場に毎日新聞社の記者は取材に来ており、新聞にも
写真付きで記事になっていましたが、

川崎重工、潜水艦「しょうりゅう」引き渡し 海自稼働19隻に

朝日新聞の姿はなく、一行も報じなかったようです。

ちなみにこの後、原田大臣が海幕長と呉地方総監を伴って、艦内に
視察のために消えてしまった後、会場ではそこにいる人たちのために
潜水艦の命名基準(吉祥動物)について、説明があり、しょうりゅう、
「翔龍」とは

「物事を高所から判断し、素早く行動する龍」

という解説が行われ、その後、音楽演奏がありました。

そこで最初に演奏されたのが、「てつのくじら」です。

わたしは呉で行われた同音楽隊コンサートでこの曲の初演を聞いているのですが、
関西で行われる潜水艦関連の行事で必ず最初に演奏されるのをなんども聞くうちに
こういう場にこれほどぴったりな曲があるだろうかといつも感動しています。

てつのくじら 天野正道作曲

前回参加した三菱重工での注水式の時にもこれが演奏され、隣の女性が
イントロで

「宇宙戦艦ヤマトだ!」

とつい叫んでしまっていましたが、雰囲気は似ているものの、こちらは
こういう晴れやかな出港式にこそ相応しい明るさが横溢しています。
特に中間部のメロディ、この変則的な展開がわたしは特に好きですね。

「てつのくじら」に続いて本物の「宇宙戦艦ヤマト」、続いては
いつ聴いても題名と曲が一致しないアメリカのマーチが演奏されました。

視察が終わり、バスで神戸駅前の川崎重工ビルに案内されました。
ここの3階にある宴会場?で祝賀会が行われるのもいつも通りです。

会場にはプロのコンパニオンがいて、色々と面倒を見てくれるのは、
会社主催のパーティのお約束。
会場の前方席は主に自衛官で、これは川重にとっては自衛隊が
「お客様」であることを表しています。

原田副大臣の挨拶の後は川崎重工社長の「しょうりゅう」の性能紹介を含めた挨拶。

毎日新聞は調べもしなかったのか、性能について全く触れていませんでしたが、
時事ドットコムなどは当艦が最後のAIP搭載艦となることについても
かなり詳しく述べています。

「しょうりゅう」は長時間潜航可能な非大気依存推進システム(AIP)を搭載する。
建造費は約560億円。
船体に書かれた艦名と艦番号は位置情報が漏れないよう就役後、消される。

AIPは外気に依存することなく潜航した状態で潜水艦の推進に必要な
電気エネルギーを発生させ、発電機を回して鉛蓄電池を充電する。
蓄電のために、知されやすい海面近くまで上昇し、吸気筒(シュノーケル)から
空気を取り入れ、ディーゼル発電機を回すことを極力避けるのが目的だ。
ただ、AIPの搭載はシステムや整備が複雑化するとの現場の声もあり、
今回で搭載艦は最後になる見通しだ。

時事ドットコムはさらに踏み込んで、リチウムイオン搭載についてもこのように。


現在、三菱重工業がそうりゅう型の「おうりゅう」を建造中で
昨年10月に神戸造船所(神戸市)で進水。
おうりゅうはAIPを搭載しないが大容量で、
効率良く急速充電もできるリチウムイオン電池を備える。
潜水艦への搭載は世界初の試みで、次世代型の潜水艦として注目されている。

密閉空間でリチウムイオンを取り扱うだけに、
異常発熱の防止など徹底した安全対策が必要になる。

今更写真に撮るまでもない気がしますが、川重祝賀会の料理テーブル。
神戸ということでいつもここはくるんで蒸したもち米の料理(中華風?)
が出てきて、はっきり言ってこれが一番美味しい。

珍しく原田先生、お食事をしていく時間があったようで、
海幕長、呉地方総監共に、ずっと横についてお相手をしておられます。

もし大臣がおられなければ、海幕長も呉地方総監も、出席者の名刺交換攻めで
ほとんど食事をすることもできませんから、お二人には(気は遣うものの)
案外ホッとする時間だったのではないかと拝察します。

大臣と海将の周りにはコンパニオンもベテランが配置されている模様。

というわけで、海幕長には遠慮して誰も声をかけないまま終わった祝賀会ですが、
たった一人だけ、テーブル越しにいつもの調子で話しかけていた人もいました。

阪神基地隊司令とツークローズな写真を撮っているこの方です。
偉い人にしてみれば、一般人はあまり畏まりすぎず、これくらい
ラフな態度で接してくれる方が気が楽というのが案外本音かもしれません。

 

祝賀会終了後、再びバスで岸壁に行くと、すでに乗員は艦内の配置につき、
花束を贈呈する川重の女子社員と、艦長、海曹、海士三人が、
ずっとお見合い状態で向かい合って立って待っている状態でした。

いつも思うのですが、何十分もこの態勢で待つのは、気恥ずかしいというか、
目のやりどころがない状態で大変気まずいのではないかしら。

ようやく式典が再開され、無事花束贈呈が行われた後、
艦長が挨拶をしてから最後に乗り込んでいった「しょうりゅう」は、
岸壁にいる人たちが打ち振る日の丸と、「軍艦」に送られて出航していきました。

岡山の三井造船玉野では国旗と自衛艦旗が渡されましたが、どうしてここでは
国旗だけなのか、かすかに不満を感じたわたしです。

 

最近特に潜水艦関連の行事では写真撮影にうるさくなって、許可された
報道などの人以外は構内での写真は一切禁止されるようになりました。
写真を撮ると、工場内の色々が写り込んでしまうからということもあるでしょう。

引き渡し式会場には「写真撮影禁止」と張り紙があり、午後の見送りの時も
ご遠慮願いたいという風に聞いていたので、一切カメラに触りませんでしたが、
「しょうりゅう」が出航し、タグボートによって向きを変えた時、
川重の施設が全く写らないであろうと判断して一回だけシャッターを切りました。

それが冒頭の写真です。

見ていただくとわかりますが、「しょうりゅう」甲板では乗員が

「ありがとう神戸」

というバナーをこちらに見えるように掲げて出航していきました。
「しょうりゅう」はこの後慣熟訓練を経て、呉に配備されます。

防衛副大臣の挨拶にもはっきり「瀬取り」という言葉が使われていたように、
近年ますます緊張が高まる日本の海の守りにつく新鋭潜水艦が、また一隻、
誕生した瞬間をこの目で確かめることができました。





服務の宣誓〜平成30年度海上自衛隊 幹部候補生学校卒業式

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江田島での幹部候補生学校卒業式、あと一人を残して学校長は
全員に卒業証書の授与を行いました。

校長は最初の一人にのみ卒業証書の内容を読み上げ、あとは以下同文として
名前だけが係によって読み上げられていきます。

最後に、校長が証書全文を読み上げた卒業生が一人いました。
タイ王国からやってきて1年の江田島生活を経験した留学生です。

毎年必ず一人、タイ王国海軍から留学生がここを巣立ち、
そのほとんどがこれに続く遠洋練習航海を経て帰国します。

彼らの階級は最初から海軍少尉。
他の卒業生と違い、もう任官した立場での留学なので、
その軍服の袖にはすでに一本線の階級章が付いています。

留学生は日本での候補生と共にその過程をこなし、卒業式の頃には
ほとんどが日本語も完璧となっていると言います。

海軍でも特に優秀な士官が留学してくるので、その少なくない数が
のちに司令官となって自衛隊の司令官と旧交を温め合うこともあるとか。

今年の留学生は特に日本人にもたまにいそうな顔立ちです。
他の学生より肌の色が濃いですが、候補生生活ですっかり日焼けした
同級生の中にあっては、全く違和感なく溶け込んでしまうでしょう。

卒業証書の授与が終わった後には、成績優秀者の表彰となります。

上位から5名が表彰されるというこの慣習は、海軍兵学校から受け継いだもので、
昔は賞状の代わりに「恩賜の探検」を受け取ったものです。
兵学校で成績トップの候補生を「クラスヘッド」と称しましたが、
海上自衛隊でもこの名称はまだ生きています。

今年のクラスヘッドに、わたしはこの3日後行われた神戸港での
「かしま」艦上レセプションでインタビューをする機会がありましたが、
彼は

「幹部候補生学校でたまたまそうであっただけで、このあとは
遠洋練習航海に出たら、そこでも成績が付けられる」

と謙虚に答えていました。

わたしたち招待ツァーを引率していた自衛官は、

「今の学校長も術科学校長も表彰された自衛官ですが、自衛官生活は長いので」

とその後をはっきりとは言いませんでした。

成績優秀者は、賞状を受けとると、そのまま後ろに下がり、
階段の手前で足元を振り返って確認します。

受賞者一人に対し、その都度音楽隊はヘンデルの「勝利を讃える歌」を
ワンフレーズ席に着くまで演奏し、彼らをたたえます。

昔恩賜の短剣を受け取った兵学校の候補生も、全く同じように
後ろを見ずに階段を降りてゆき、階段の下で15度の目礼を行いました。

今回の大阪ー神戸での歓迎行事では、このうちの二人と話す機会がありましたが、
卒業式の一週間前から、彼らはこの動作の練習を繰り返し行ったそうです。

わたしもこれまで、何万人もの自衛官の中から一握りのトップになった
陸海の将官経験者に、機会があれば、なぜ自分が将になれたのか、
自覚するところはあるかということについて伺ってきたのですが、
(サンプル数が非常に限られているとはいえ)その全員が、

「わたしはそれほど優秀だったわけではない」

と答えるわけです。
一番最近では、交代が決まった河野統幕長もそのようにおっしゃっていました。

それに対し、そんなことはないだろう、きっとそれは謙遜というものだろう、
そんなことを言いつつ彼らも実は優等生であったに違いない、
と心のどこかで疑ってきたわけですが、最近聞いた中でもっとも衝撃的だったのは

「江田島での成績はその後のキャリア形成に関係ない」

という冷徹な一言でした。

説明の自衛官が言ったように、自衛官生活はこれから3〜40年続くのです。
何十年の間の毎日の積み重ねはまさにマラソンと同じ。

それこそ恩賜の短剣の海軍兵学校の頃であれば、クラスヘッドはそのほとんどが
(戦死しなければ)中将以上は約束されているも同然で、それほど昔は
「ハンモックナンバー」というのが一生ついて回ったわけですが(もちろん例外あり)
戦後の自衛隊はハンモックナンバー至上主義が組織の硬直を生み、ひいては
敗戦につながったという反省の元に、特に防大の卒業時の成績などは
全くと言っていいほどその後に影響しなくなっているのです。

マラソンでもトップ集団から必ずしも優勝者が出るとは限らないのと同じです。

今年のクラスヘッドくんが、江田島の結果を驕らず、すでに
次なる試練に向けて身を引き締めているのは、おそらく賢明な彼が
その長い行程がまだ始まったばかりであることをよく知っているからでしょう。

逆にいうと、上位5人に選ばれなかったから、トップになれなかったからと
ここでこれからの自衛官人生に悲観する必要など全くないということです。

むしろマラソンレースが終わった時に、そのクラスのトップとなるのは
「それ以外」の方がこれまでの例からいっても確率として高いらしいので、
一喜一憂せず、地道に常日頃平常点?を積み重ねていっていただきたいものです。

飛行幹部候補生過程卒業のクラスヘッドは女子でした。

この日卒業式を行なったのは防大卒・一般大卒の1・2課程、
そして飛行幹部課程です。

飛行幹部課程は航空学生として入隊後、飛行教育を受け、
ウィングマークを取得した者に対する課程で、教育機関は6ヶ月です。

対象は高校、中学、専門学校卒業あるいは修了者で、
小月教育航空隊で4年間基礎教育を受けて操縦士或いは戦術航空士の資格を取り、
その後航空部隊実習で訓練を積んでからここにきています。

この日卒業する1・2家庭の幹部から航空に進む幹部もいるわけですが、
彼らがその適性を判断されて要因になるのは遠洋航海が終わる時です。

割合は、海自パイロットの75パーセントが航空学生出身、
残りが1・2課程卒業者ということになります。

クラスヘッドはチリ共和国大使から勲章を授与されます。
大使はこの前日に行われた海幕長主催のパーティにも来ておられ、
席上では大使に敬意を評してチリワインが振舞われました。

写真はそのワインを披露する当ホテルソムリエ。

大使はそのあと、スペイン語で祝辞を述べました。

ちなみに艦上レセプションでわたしは彼が胸につけていた
チリ共和国からの勲章を間近に見る機会がありましたが、0.75×2cmくらい、
大変コンパクトで、バッジのような可愛らしい勲章でした。

続いて水交会の会長より賞状と記念品(ペンかな)の授与。
授与者は元海幕長です。
前日のパーティでお会いした時に

「明日は何か壇上でスピーチをされるんですか」

と聞くとそんな話はまだ聞いていない、と仰っていましたが・・・。

そして幹部自衛官任命のときがやってきました。
席の一番右側に座っている候補生が先に任命を受けます。

やはり前日のパーティ席上で幹部校長がこんなことを仰いました。

「明日の卒業式の『見所』を説明しておきたいと思います。
卒業生がそれまで号令を受けて一斉に行動していたのが、ある一瞬を境に
号令なしで起立や着席、行進の始まりを行うようになります。

これは、それまで号令で動いていた幹部候補生の立場から、
幹部となったということなのです」

これもまた海軍兵学校以来の伝統だということでした。

今度は2列目より向こうの全員が海幕長より任命を受けています。
任命を受ける間、彼らはご覧のように頭を少し傾けて目を落としています。

続いて「服務の宣誓」が行われました。
全員が唱えるのではなく、代表が海幕長の前で宣誓を行います。

しかるのち、宣誓が書かれた紙(プラスチックケース入り)を
海幕長に渡します。

何度か卒業式に出席していますが、このような宣誓を見た記憶がありません。
(もしかしたら忘れているだけかもしれません)

幹部候補生学校長南海将補が訓示を行いました。

村川海幕長が、ご自身にとって最後となる新任幹部への訓示を行いました。

「わたしが諸君と同じ幹部候補生学校卒業生としてここ江田島を巣立ってから
今年で35年が経つ」

と、前に聞いた訓示と数字だけが違う同じ出だしで訓示は始まりました。
そして、任官後、諸君は様々な配置に就くことになるが、
どこにあっても海上自衛官である限り、遠洋練習航海で体得したように
基本は海の上にあることを忘れないで頂きたい、というようなことを述べられました。

続いては在日米海軍司令官であるグレゴリー 「フェンス」フェントン少将の挨拶。

ウィングマークをつけているのでパイロット出身。
「フェンス」はおそらくかつてのタックネームだと思われます。

テストパイロットとしてのフェントン少将は、ロッキードマーチンX-35C戦闘機の
飛行試験を行なったということもあります。
胸につけているメダルの多さからもお分かりのように、パイロットとしても
大変実績を上げてきた軍人です。

行事でお見かけするフェントン少将はどんな時にも同時通訳を同行しており、
(5、6枚目の写真に写っている女性)必ず後ろの席から挨拶を全て
通訳して理解するといういそうであまりいないタイプの司令官です。

この前日に行われたパーティでも、少将はパーティの挨拶を全て
自分と同行の夫人に通訳させていたのですが、こんなことがありました。

パーティで杉本呉地方総監が、こんな挨拶をしました。

「今夜は低気圧が通過するので雨になる模様ですが、わたしは
特別なてるてる坊主で明日はいい天気になることをお願いする予定です」

杉本海将補は、わたしはこんな風ですので怖いと思われがちですが、
実はそうではなく、こんなことにも大変気を遣っている、
というようなことを仰って一座を笑わせました。

この日のフェントン少将の英語での挨拶を聞いていた人のほとんどは、
この前日の杉本海将の「てるてる坊主」のことを知らなかったので、
少将が挨拶の中で、杉本解消を振り返り、

「杉本海将のおまじないのおかげで今日は素晴らしい天気になった」

といい、海将が照れ笑いしたことの意味をわからなかったでしょう。
数少ないパーティ出席者の一人として、遅まきながら解説しておきます(笑)

少将は自衛隊のことをほとんどのアメリカ人がいうようにJMSDFではなく
「カイジョウジエイタイ」とそこだけ日本語で称しました。
常に日本語の通訳を帯同していることといい、このことといい、
少将が自衛隊を通じて日本を深く理解しようとしてくれているようだと
拝察していたわたしですが、挨拶の最後に少将が、山本五十六の言葉、

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」

を引用し、最後のフレーズを日本語で唱えた時、それは確信に変わりました。

そして、号令なしで全てを始めることになったなりたてほやほやの新三尉たちは
皆の拍手に送られながら大講堂を出て行きます。

つい先ほどまで彼らを指導していた幹事付(アルファあるいはブラボー)は、
巣立つ雛鳥を見る親鳥のような慈愛の色をその眼に湛え、
拍手で新幹部を見送っているように見えました。

彼らはこれから学生舎に帰り、前もって用意してあった新しい、
袖に三等海尉の階級章をつけた制服に着替え、家族とともに囲む
午餐会に出席する予定です。

 

続く。

 

 

 

 

「ロング・ネイビー・ライン」〜平成30年度 幹部候補生学校卒業式

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 さて、大講堂での幹部候補生学校の卒業式は、卒業証書授与、
優秀賞等の授与に続き、任官任命ののち、幹部自衛官として初めて
「服務の宣誓」を唱えた新任幹部たちが退場し、無事終了しました。

招待者は大講堂の前に待機していたバスに乗り込み、そのまま
午餐会の会場まで連れて行かれます。

写真でしか見たことがない「留魂碑」の横を通過しました。
残念ながら右側に座っていたので写真に撮ることはできませんでした。

江田島術科学校構内には様々な記念碑、慰霊碑がありますが、
この「留魂碑」の由来とは、

大正5年、兵学校出身の中尉が「金剛」艦内で負傷し横須賀海軍病院で亡くなり、
大正8年、彼の同期である兵学校41期卒の若い士官たちが彼の早すぎる死を悼み、
「死後は魂の郷里江田島に集まらん」との思いを込めて建立したものです。

その後、昭和47年に永久保存のため江田島に移動保存されて今日に至ります。

揮毫は、大正8年当時連合艦隊司令長官だった海軍大将山下源太郎です。

バスは構内を時計と反対回りに走り、武道場の前を通過しました。
兵学校の武道場は昔「武徳殿」と言ったそうです。
京都に昔からあった武道学校(村上もとかの『龍』の舞台にもなった)
も、「武徳殿」という名前がついており、これは今もありますが、
なんでも大日本武道会の道場は全てこの名前だったそうです。

台湾には台南の嘉義の刑務所にも「武徳殿」があるとか。

兵学校の武徳殿は一度焼失したため、これは建て直したものになります。

武道場の前を通り、術科学校校舎の裏庭に出てきました。
広い敷地には芝生が敷かれ、運動などに使っている様子はありません。
ところどころ植わっている小さな苗木は桜でしょうか。

昔の兵学校を舞台にした映画などを見ると、かつては
建物沿いに池があったらしいことがわかります。

バスから降りて、この右側の建物の3階に案内されました。

前回ここに来たのは確か部内選抜幹部卒業式の時でしたが、その前は
確か兵学校生徒の同窓会が行われた時で、76期の皆さんとお弁当を頂きました。
近くに座っていた方から、広島に原爆が落とされた日のことを
生々しく語っていただいたのを昨日のことのように思い出します。

その時と比べると、改装したのか天井や壁が綺麗になっている気がします。

2年前の卒業式では、二手に別れて、来賓の挨拶をモニターで拝聴するという
今ひとつな方式でしたが、今年は新任幹部とその家族、そして来賓と自衛官が一緒です。


さすがは海上自衛隊、全ての席はいろんなことが考慮されて決められており、
席には名前を書いた紙とともに幕の内とお茶が置いてありました。

紅白の天幕とマイクの前が「上席」となります。

わたしたちのとなりには新三尉が一人で座りました。

家族が来ている幹部はもちろん一緒ですが、そうでない幹部もいて、
彼らは来賓の間に座らせて、交流をするような配慮がなされていました。

彼の袖を見て、先程までの錨が桜になっているのを確認し、

「新しい制服に着替えてこられたんですか」

と聞くと、前もって縫い付けたのを用意しておき、
大講堂から自室に戻って着替えるのだということでした。

任官が終わってから自分で縫い付けるのだと思っていたこともあったなあ(笑)

彼には色々質問をさせて頂きましたが、わたしとTOが前回江田島を訪れた時、
表桟橋で総短艇の練習をしていたことを思い出し、

「最後の総短艇はいつだったんですか」

と気になったことを聞いてみますと、

「この月曜日です」

つまり、わたしたちが目撃したちょうど一週間後だったようです。

「最後の総短艇ではわたしの班が優勝しました」

彼は嬉しそうに言いました。

海幕長の前にはクラスヘッド、チリ大使と在日米軍司令の前には
いずれも成績優秀者として表彰された「恩賜の短剣組」が座ります。

テーブルの向こう側は一術校長、幹部候補生学校長などのほか、
江田島・広島市長や水交会長などの来賓がずらりと横に並び、
こちら側には新任幹部の中でも優秀な成績を取った者が並んでいます。

彼らはたとえ家族が来ていても、一緒のテーブルに座ることはできません。
一種の「ノブレス・オブリージュ」として(笑)、必ず偉い人と向かい合って
彼らの質問に答えながら食事をするのです。

はっきりいってどんな豪快さんでもまともに食事が喉を通らない状態だと思われます。

卒業した新幹部を1年間校長として導いた幹候学校長が挨拶。

卒業式での訓示では、候補生たちが昨年の西日本豪雨で災害派遣に赴いたことを、

「国民への奉仕こそが我々の任務の本質と理解し、自らの職務にやりがいを感じたはずだ」

とし、精神、肉体とも厳しい教育を乗り越えたことに自信と誇りを持ち、
自分なりのリーダー像を確立してほしいという要望で締めくくりました。

続いては江田島市長が壇上に上がりました。
市長は、江田島市民が江田島の自衛隊と共にある証として、

「この度津久毛の瀬戸に「ご安航を祈る」のUW信号旗を
看板にして設置したので、そこを通る時には是非見てください」


と心を込めた調子で語りました。

先程クラスヘッドに記念品と賞状を贈呈した水交会会長赤星元海幕長。
必ず、水交会の歴史と意義を簡単に紹介し、

「水交会の会員になってください!」

と勧誘することを忘れない職務熱心な会長さんです(笑)

練習艦隊司令官、梶本大介海将補。

新幹部の代表としてまず、学生長が挨拶を。
最初は何も見ずに喋り出したのですが、だんだんと口調が重くなり(?)

「すみません、ど緊張しているので見ながら話します」

と皆を笑わせました。
わたしが前回出席した部内選抜幹部の卒業式で、全く同じように、
途中からカンペーを読みだした幹部がいたのを思い出しました。

飛行幹部の学生長は、特に緊張の様子もなく淡々と挨拶。

飛行学生出身の彼らはすでに飛行機を操縦して空を飛ぶという、ある意味ものすごい
緊張状態を経験しているので、人前で話すことなど緊張の内に入らないのかもしれない、
とチラッと思いました。

左のフェントン在日米軍司令官の後ろにも、チリ大使の後ろにも
通訳がいて、彼らの挨拶を全て丁寧に同時通訳しています。

さて、午餐会が終わりました。
もう一度同じバスに乗り込み、ここに来るのと逆コースで赤煉瓦に戻り、
最後の休憩をして荷物を全て持ち、お見送りに向かいます。

赤煉瓦の二階からバスに向かう時、行進開始前の新幹部たちが
こんな感じで待機しているのを目撃しました。

彼らの表情は概ね明るく、笑いながら歓談しているらしい一団もいます。

海軍兵学校の卒業式でも、表門に向かって赤煉瓦の正面から出て行く前、
ここで同じように待機していたに違いありません。

表桟橋に向かうバスは、いつものようにグラウンドを左回りしていきます。
いつもと違うのは、グラウンドの端を埋め尽くす見送りの人々の列があること。

「こういう光景は滅多に見られないのでよくご覧になってください」

引率してくださった一術校副校長が言いました。

「赤煉瓦もそうですが、術科学校となっている左側の建物も、
三階建が四階に改装されたとはいえ、ほぼ昔のままの光景です」

つまり、その同じ光景の中で、兵学校の昔と同じやり方で行われるのが
現在の海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式なのです。

表桟橋に近いところに、二本の細い紐を通し、名札が飛ばないように工夫した
「お立ち場所」の指定がありました。
実はこの順番にも「序列」があって、よくわかりませんが、防衛省の考える
「えらい順」に(笑)厳密にその順番が決められている、
というのは何度かこういうご招待を受けるうちにわかったことです。

決められた場所に立っていると、いつの間にか自衛官が足元の札を外しました。
時間きっちりに行進曲「軍艦」に乗って、江田島を巣立つ幹部が
赤煉瓦の生徒館から出てきます。

見送りの列は途中で大きくカーブを描くので、しばらくの間は
行進してくる幹部たちの隊列がこのようによく見えます。

ウェストポイントの「ロング・グレイ・ライン」ではありませんが、
これこそが海上自衛隊の「ロング・ネイビー・ライン」。

全ての幹部自衛官が、この長いネイビーブルーの列を歩んできたのです。

この日の江田島は呉地方総監の「おまじない」(てるてる坊主)が
功を奏して、朝方まで雨だったとは思えない晴天でした。

おまけに風もあり、国旗が見事になびいています。

実はこの「風」が曲者で、この後の「かしま」の出航トラブルは
この風に主な原因があった、というのを後に艦長から伺いました。

幹部の列がわたしたちの前にやってきました。
列の先頭に立つのは二等海尉の一団です。

大学院卒で任官すると二等海尉からスタートするそうです。
先ほど大講堂で任官する団体が二つに別れていましたが、おそらく
新三尉と二尉は別に行われたのでしょう。

任命のとき椅子の一番右側に座っていたのがこの人たちだと思います。
幹部候補生の制服の袖章は全員同じだったので、不思議に思っていたのですが、
後で聞いてそうだったのかと納得しました。

続いて新三尉たちがやってきました。
よく見ると帽章がいかにも「タイ風」の留学生。

女子新幹部の一団。

次々と通り過ぎて行く新任幹部たちの中には、感情が抑えられず
涙ぐむ何人かがいて、見送るわたしの胸もいつの間にか熱くなっていました。

士官となった彼らは表桟橋から内火艇に移乗し、この江田島から巣立っていきます。

 

 

続く。



「錨を揚げて!」〜平成30年度 海上自衛隊幹部学校卒業式

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平成30年度の幹部候補生が各課程を終了後、
大講堂で任官任命を受け、その後赤煉瓦の生徒館から
かつての海軍兵学校の卒業式と全く同じ表桟橋に続く道を行進し、
内火艇に乗り込みました。

わたしたちは地面に指定された「お立ち場所」から、
新任幹部を見送る表桟橋まで誘導されて歩いて行きました。

見れば海幕長と学校長が用意された双眼鏡を渡され、
見送りの準備をしている真っ最中です。

とりあえず赤いテープの後ろに立てばいいらしく、
指示されるがままに位置を決めるとちょうど広島市長の後ろでした。

赤いテープから桟橋の柵までは5mくらいあるので、
どうしても柵が写り込んでしまいます。
しかもこの右側の柵には報道などのカメラマンがぎっしりと立っていて
どうやっても人垣が邪魔になります。
つまり、写真が目的なら表桟橋はあまりおすすめできません。

というか、来賓の立場でまともな写真を撮ろうとするのが大きな間違い?

艇上には表桟橋から乗り込んでいった幹部たちが
身じろぎもせず起立して、出航を待っています。

出航は、海幕長と学校長が用意を済ませ、壇上に立つと行われます。

出航の合図があり、新幹部たちが敬礼を行うと同時に各内火艇が岸壁を離れ始めます。

「帽(ぼーう)振れっ!」

音楽隊の演奏する「蛍の光」(オウルド・ロングサイン)が鳴ると同時に
艇上の卒業生たちと見送りの間で帽振れが行われます。

わたしの場所からは内火艇の帽振れが見えないので諦めて、その代わり
隣にいた第一術科学校長と江田島市長の帽振れを撮らせていただきました。

後ろからスマホで写真を撮る手が出ていますが、これはどこかの軍人のもの。

そんなことをしていると、海将補に「こちらにどうぞ」と
右側の人と人の間に入れていただいたのですが、
そこから内火艇を撮ったとき、すでに帽振れは終わっていました。

前回の卒業式では内火艇の出航に若干の混乱があった記憶がありますが、
今年は流れるようにスムーズに、各内火艇は乗り込む艦に向かっていきました。

この2隻はいずれも「かしま」に向かいます。

一番左の内火艇は航空幹部が乗る「すずつき」に。
残りの2隻はそれぞれ「やまゆき」と「いなづま」に向かいます。

 

各内火艇から幹部たちが乗組間に以上するのを大乗から見守る海幕長と校長。
幹部候補生校長にとっては、浮き桟橋から撮られた帽振れをする姿が
校長としての象徴的な写真として後世に残ります。

 

ところで、以前にも一度当ブログで紹介したことがありますが、
海軍兵学校の生活を撮った、「勝利の礎」というドキュメンタリー映画があります。

映画制作が行われた昭和17年の卒業式で、表桟橋に立って
候補生たちに手を振る兵学校長草鹿任一中将のその眼に浮かんだ涙を
キャメラが捉えていたことを書いてみました。

大東亜戦争真っ最中のこの時期、表桟橋から旅立つ候補生はこの後すぐに任官し、
遠洋航海にではなく、直接軍艦に乗り込んで、あるいは戦地に赴いたのです。

その頃と寸分変わらない江田内の海に浮かぶ練習艦隊に乗り組む
新幹部を見守る海幕長と校長の後ろ姿を眺めながら、二度と再び
若い人たちを涙で見送る時代が来ないことを願わずには要られませんでした。

練習艦隊が出航準備をする時間に、祝賀飛行が行われます。
小月から飛来した練習機T-5に続き、SH-60Kの2機編隊。

鹿屋基地からはP-3Cが一機だけ祝賀飛行を行いました。

「しょうりゅう」の引き渡し式の時に川重でお会いした
アマチュアカメラマン(今年の自衛隊カレンダーにも作品掲載)は、
この祝賀飛行のP-3Cだったかに乗るという話があったのだけど、
一機しか飛ばないので断った、と言ってたなあ。

その心は、

「編隊飛行じゃないので横を飛ぶ他の飛行機が撮れない」

わたしなら喜んで乗せてもらうけど、カメラマン的にはアウトなのか。

最後に横田基地からきたP-1哨戒機が1機。
P-1が江田島上空を飛ぶのを見るのは初めてです。

祝賀飛行を行う飛行機は、かなり早くから現場上空で
時間を合わせるためにぐるぐる回って待っているのだそうですが、
そのこともカメラマン氏がお断りした理由なのだそうです。

祝賀飛行が終わると、「かしま」艦長から発光信号のメッセージが送られてきます。
わたしは航海長だったこともある一尉でも現役を離れると
たちまちわからなくなるということを前回の卒業式で知ったので、
当然ながら、特にこの周りにいる自衛官には絶対にわからないはずと心得ていましたが、
初めて参加する同じツァーの年配女性(何かと空気読めない質問多め)が、
近くの海将補を捕まえて

「あなたあれわかるの?」

とタメ口で(まあ彼女から見ると息子くらいなのかもですが)質問。
海将補は全然わかりません、と言った後で、

「15年くらい前までは読めましたが、現場を離れるとすぐ忘れてしまいます」

トンツーは語学みたいなもので、遠ざかるとたちまちわからなくなってしまうものみたいですね。

発光信号が出されている間、海幕長は司令のみ使用を許される
黄色いストラップの双眼鏡でそれを熱心に観ておられます。

しばらくすると、解読した信号の内容を読み上げる係の海曹が
海幕長と校長の元にやってきました。
わたしの立っているところからもその内容がよく聞こえます。

この少し後、内容がアナウンスされました。

 

そして、その後「かしま」を先頭に練習艦隊出航・・・・・
ということになるはずなのですが、なぜかいつまで経っても動きません。

見送りの人々が『?』という感じになるとほとんど同時に、
海幕長のもとに状況を説明する係がやってきました。

「かしま」の錨が上がらない、というのです。

「錨が上がらないんだって」

「巻上げ機が壊れちゃったのかな」

周りでは皆がてんでに予想したことを口にし始め、そのうち

「このまま直らなかったらどうするんでしょうか」

「直らなかったら江田島で一泊かもですね」

「うーん、そんなことになったら縁起悪いねえ」

などという会話が飛び交いました。

いつまで経っても状況は変わらず。
おそらく「かしま」座乗の艦隊司令の判断で、先に「いなづま」が動き出しました。

動けるフネから動かしてしまおう、ということのようです。

この時、初めて音楽隊の演奏する「アンカーズ・アウェイ」が始まりました。
件の年配女性はこの慣例ともなっている出航の音楽が
「錨を上げて」であったことに甚く感銘を受けられたようで、

「出航なので『錨を上げて』ってわけね」

と感に耐えない様子で叫んでおられました。

しかし、おばさまと違い、わたしたちはなぜ「かしま」が動けないのか、
そちらの方が心配で感激するには微妙な気持ちです。

「錨を揚げて」が、

「かしま、錨を揚げて!」

という懇願、あるいは

「かしま!錨を揚げてえええっ!」

という叫びにさえ思えてくるのでした。

「かしま」艦上には実習幹部が登舷礼の態勢を維持して立っていますが、
「いなづま」はその横を白波を立てて通り抜けていきます。

ある意味こんなシーンを見られた今回は貴重な経験をしたと言えます。

続いて「やまゆき」、「すずつき」が出航していきました。
登舷礼のために「帽振れ」が今一度行われます。

「いなづま」艦上でも帽振れが行われていますが、「かしま」では・・・・。

実はこの時、「かしま」艦上では大変なことになっていたのでした。
この3日後となる神戸港での「かしま」艦上レセプションの席で、
わたしは「かしま」艦長にご挨拶をしました。

前日の大阪のホテルで行われた壮行会の席上では、艦隊司令始め
関係者からある程度の事情について伺っていたのですが、
実際に艦長自らが語ったところによると、こういうことだったようです。

卒業式の前夜、江田島は雨に見舞われました。
その際、この一帯に吹いた強風が、江田内の海底の泥を動かし、
底質が粘土状の泥がすっかり錨を固定してしまったのです。

「錨を巻き上げる機械が故障したという噂もあったと聞きますが、
実はそうじゃなかったんです」

「わたしの周りでもそんなことを言っていた人がいました」

前日の予行では問題なく引き揚げられた錨がうんともすんとも動かない。
そこで、艦長は艦体を少し前進させては後進、また前進、後進をかけて
泥から錨を引き抜く作業を根気よく繰り返したのだそうです。

「舷側から登舷礼に立っていた人がいつの間にかいなくなっていましたね」

「あれは、その作業を行うために安全上の理由で人を退けたんです」

出航作業にまつわる事故でもっとも危険なのが、錨の鎖が切れることです。
もしそうなったら何トンもの錨を繋いでいた鎖は跳ね上がり、
甲板に跳ね飛んで人を何人も殺傷してしまう可能性があるからだそうです。

遠くから見ているわたしたちにも、ほとんどの自衛官にも、まるで白鳥が
水面で脚を必死で動かしているような(by花形満)「かしま」の奮闘は
全くうかがい知ることはできなかったわけですが、艦長によると、
その作業が功を奏し、何回か目に錨は泥を抜け出しました。

お見事。

「あ!動き出した」

皆が見守る中、前方の3隻にほんの少し遅れをとっただけで、
練習艦隊旗艦「かしま」は出航し、江田内を航行し始めました。

粘度のある江田内では、あり得ない話でもないと思うのですが、周りでも

「卒業式にこんなことになったのは初めてじゃないか」

「いや、もしかしたら歴史上初めてかもしれない

とささやかれていたように、滅多にないアクシデントだったようです。
わたしは艦長に、ついこう聞かずにはいられませんでした。

「これまでこういった事故を経験なさったことは・・・?」

「もちろん初めてです」

「見聞きしたことも」

「ありません」

「なのにすぐに泥に錨が埋まったとお分かりになったんですか」

「そうです」

「そしてすぐその対処法を決定して実行されたわけですね・・」

艦乗りの中の世界のことはわたしにはわかりませんが、艦長というのは
例えば操艦ミスで「引っ掛けた」(突っかけた?)だけでも、
その責任を問われるだけでなく昇進にも響くと聞いたことがあります。

そのプレッシャーというのは半端ではなく、わたしはその前日、
艦長を経験したことのある海将補に、

「艦長時代は、直角に切り立った(笑)水路を前に『ここを操艦するのか!』とか、
ものすごい浅瀬を行かなければいけない!みたいな夢をしょっちゅう見ました」

と伺って目を丸くしたばかりです。

この時の「かしま」艦長の口吻には、抑えきれない安堵と
達成感からくるのであろう高揚が明らかに感じ取れました。

どうなることかと見守っていた一同が、「かしま」の舷側にもう一度白い帽子が並び、
帽振れこそしないままだったものの、出航していったのを見て、

「良かった良かった」

「もしかしたら向こうの舷には上がりきってない錨がぶら下がってるんじゃないか」

などと軽口を叩いていたことを艦長にいうと、

「これを見てください」

脇に置いていた封筒から引き伸ばした写真を見せてくれました。
それは出航直後の「かしま」を津久毛瀬戸の対岸から撮ったもので、
引き揚げたばかりの左舷の錨がはっきりと写っていました。

「黒っぽいでしょう。まだ泥がこびりついているんです」

全く未知の経験にも関わらず、不具合の原因をすぐさま突き止め、
最善最速の方法で窮地を切り抜ける判断を下す。

これこそ乗員全ての命の責任を全て引き受ける艦長の真骨頂ではないですか。

 

「かしま」が動き出したとき、やはり近くで見守っていた呉地方総監が、

「これで海上自衛隊の”リカバー”力をおわかりいただけたかと思います」

おっしゃったのですが、艦長直々からその一部始終を聞いた後、
あらためてその言葉の意味するところが感動とともに蘇ってきました。

そして、余計なことかもしれないと思いつつ、地方総監の言葉をそのまま
艦長にお伝えさせていただきました。
その時の反応から推察するに、その言葉は「かしま」艦長にとって
おそらく嬉しい援護射撃?となったのではと思われます。


「かしま」といえば、有名な「女王陛下のキス」の逸話を生んだ艦です。
今回、艦乗り視点からによる新しい「かしま」伝説が一つ加わった、
とわたしは思ったのですが、いかがなものでしょうか。

 

続く。

将官艇乗艇体験〜平成30年度 海上自衛隊幹部候補生学校卒業式

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さて、卒業生が任官したあと、赤煉瓦から行進して内火艇に乗り込み、
その練習艦が無事に全艦出航を済ませて江田内を出ていきました。

構内には幹部候補生学校の卒業式が終了したとのアナウンスが流れ、
岸壁を埋め尽くしていた見送りの家族などが入り口に向かう頃、
表桟橋にはこのような船がお迎えにきてくれていました。

「かしま」左舷には、ブルーの将官艇(偉い人が乗る船)が搭載されていて、
あれに一度乗ってみたいなあと練習艦隊行事のたびに思っていたのですが、
その将官艇に乗って江田島を出航することになったのです。

それもこれも、今回の卒業式出席で招待客ツァーの一員に加えていただけたせいでした。

内火艇に乗り込む新幹部たちをお見送りした桟橋からポンツーンを渡って、
案内された順番(よくわからないなりに序列順になっていたらしい)に
将官艇に乗り込みます。

最初にツァーの引率?をしてくださった海将補が乗り込み、
続いて自衛官の敬礼を受けながら一人ずつ船に移ります。

この船はつまり海幕長クラスの人が乗って移動したり視察したり、
といった目的のためにあるものだと理解していましたが、
本日海幕長はホストとして、一術校長と並んで敬礼を送ってくださっております。

ああこのわたしごときに、なんて勿体無いことでございましょうか。

これが将官艇の操舵室と船室である。
背もたれの後ろに取手が付いているのは、噂によるとこの小艇、
波があると半端なく揺れるかららしいです。
内部は信じられないくらい清潔でシートは偉い人を表す紫。
上着をかけるハンガーまでさりげなく装備されています。

まだ乗り込んでおりませんが、操舵のメンバーには女性自衛官が一人いました。

わたしたちが窓の大きな二列目のシートに座って待っていると、
海幕長が在日米軍司令官とチリ共和国大使と共に乗艇してきました。

そしてすぐさま出航。

桟橋で幹部候補生学校長と第一術科学校長らが敬礼で見送ってくれています。
岸壁の上でも敬礼している自衛官が。
間違いなくわたしたちではなく海幕長とフェントン少将に送られたのだと思いますが。

出航したと思ったらあっという間に岸壁のボートダビッドが、
そしてさっきまでいた桟橋が小さくなってしまいました。

驚いたのは将官艇のスピードです。
前方の練習艦隊をこれから追い越すのですから、速くて当たり前ですが、
Wikipediaの「かしま」のページには、先代の練習艦隊旗艦「かとり」が
搭載していた将官艇はスピードが遅かったので、「かしま」搭載のものは
その反省から速力向上が図られた、とあります。

今回乗せていただいたものは「かしま」搭載のブルーのものとは違いますが、
速力に関してはおそらくかなり向上型なのではないかと思われました。

将官艇の大きな特徴は、艇の後部がデッキになっていてそこに人が立てることです。
つまり、ご覧のように海幕長がそこに立ち、見送りの人々や、
そして練習艦隊の登舷礼に向かって挨拶をするために設計されているのです。

海幕長が在日米軍司令官フェントン少将とともにデッキに立ちました。
二人の後ろに立っている赤いストラップの双眼鏡の海曹は、
将官艇の艇長ではないかと思われます。

まず海幕長が岸に向かって大きく手を振り始めました。

そこは津久毛瀬戸で、江田内の唯一の出口であるその海峡の右岸には、
例年、帽振れが終わるなり幹部候補生学校を飛び出し、ここに駆けつけて、
江田島の幹部や家族、ファン?などが手や旗を振って見送っているからです。

前回の訪問でお世話になった学生隊長もいます。
メガホンを持っておられますが、これで檄を飛ばしでもしたんでしょうか。
後ろで帽振れをしているのは幹事付、赤鬼あるいは青鬼さんではないですか。
赤ちゃんを抱いたお母さんも見えます。

そして、「武運長久」の幟をわざわざ製作してきた関係者も・・・・。

練習艦隊を最後の「かしま」まで見送って、最後に彼らの前を通り過ぎたのが
海幕長を乗せた将官艇ということになります。

海幕長はつい癖なのか(?)帽子の鍔に手を当てていますが、
慣例として将官艇からは帽振れは行わないらしいですね。

その理由・・・やっぱり帽子を飛ばしてしまうからじゃないかしら(笑)

手を振る海幕長に自衛官は熱烈な帽振れでお見送りを行います。
練習艦隊に打ち振った自衛艦旗はこういう時には振らないようですね。

そして、この津久毛瀬戸の岸には、江田島市の好意により、
江田島を出て行く自衛艦のために、

「また帰ってきんさいやぁ」

「ご安航をお祈りいたします 
I wish you a pleasant voyage」

という文字が添えられた「ご安航」の信号旗が描かれた看板が
この日のために設置されました。

海幕長が鍔に手を当てているのは、どうも帽子が飛びそうなんですね。
おそらくフェントン少将に、このUW信号旗の由来を説明しているのでしょう。

津久毛の瀬戸の見送りの人々がたちまち小さくなっていきます。
なんと、そのよこの砂浜や岩場にも人がいるので驚きました。

卒業式のあと、ここから練習艦隊を見送る、あるいは写真を撮るのを
決めている人もどうやらいる模様です。

津久毛瀬戸を通り過ぎて江田内を出ると、すぐに練習艦隊が見えてきました。
ご覧くださればお分かりですが、錨が泥に取られて上がらないという
前代未聞のトラブルに見舞われたものの、冷静沈着な艦長の判断で
あっという間にそれを回避し、出航した「かしま」は、本来旗艦として
艦隊の先頭に立つはずが、最後尾を航行しています。

前の3隻に追いつくためにかなりスピードをあげているらしい「かしま」。
出航時にはなんとか登舷礼に立つことができたものの、状況が状況だったので
「帽振れ」をせずに江田内を出て行くことになってしまいました。

ということは、この将官艇に対して行う帽振れが、「かしま」乗員にとって
本日初めての舷側に立っての帽振れであるということになります。

その感慨こもる「帽振れ」、確かに見届けました。

将官艇に送る「帽振れ」は、艇が完全に「かしま」を追い越し、
目前からいなくなるまでの間行われるので、従来の岸に向けてのものより
時間的に長い間にわたります。

彼らがゆっくりと頭上で回す白い帽子の波は、前に行くにつれて少しずつずれ、
まるでウェーブのようでした。

右舷の錨は普通ですが、左舷の錨をこの時見ることができたら、
江田内の海底で粘土質の泥に埋まった痕跡が確認できたはずです。

デッキでは「かしま」幹部も帽振れをしています。
右側の緑のストラップは練習艦隊幕僚長でしょうか。
それとも隊付?

操舵室ウィングデッキの写真を撮ったら、こんな光景が。
上で帽子を振りながら下をのぞいているのは練習艦隊司令官梶元海将補。
赤いストラップをして梶元司令と話しているのが「かしま」艦長、高梨一佐です。

高梨艦長の右側の階層はずっと測距儀を覗きっぱなしの様子。
つまり、「かしま」は今、出港時の遅れを取り戻し、前に追いつくために
速度をあげている最中なので、帽振れをしながらも幹部はそちらにも注意を払っているのです。

司令と艦長の間で何事か伝達し合っているのもそれに関することでしょう。
多分ですけど。

本来最後尾となるはずの「やまゆき」に追いつきました。
窓越しに撮ったので、うまく画面に収めることができませんでした。

「かしま」ほどではありませんが、実習幹部が乗り込んでいます。
午餐会で隣に座った幹部くんも「やまゆき」に乗る、と言っていたのでここにいるはず。

舷側に立っている人で実習幹部らしい人を数えたら二十人少しでした。

海幕長とフェントン少将はこのように練習艦隊に向かってずっと敬礼を続けます。
喇叭手がその度に喇叭を吹鳴し、大変美しい光景・・・・となるはずですが、
どうもこの後部デッキの大混雑はいただけませんなあ。

海幕長、フェントン少将と喇叭手、チリ大使とその通訳、少将の副官、
艇長、そこになぜか招待客のうち三人がなだれ込んで芋の子洗い状態です。

 

練習艦隊からカメラマンが海幕長らの写真を撮ると、自動的に
そこにいる人たちが写り込んでしまうわけで、そういうことを考えると、
いかにそちらの方がいい写真が撮れるとしても、わたしは到底
この人たちのように外に出る気にはなれませんでした。

なんというか、もうちょっと自衛隊の儀礼に敬意を払いましょうよってことで。

続いては飛行幹部が乗り組んでいる「すずつき」です。

飛行実習幹部はこの後すぐに海外への外洋練習航海のためタイに向かいます。

前日のパーティで、「すずつき」艦長は

「飛行幹部に『水上艦に行けばよかった』と思われるような
航海にしたいと思っています」

と面白いことをおっしゃっていました。

赤いストラップは「すずつき」に座乗している第8護衛隊司令、
本村真悟一等海佐です。

前日のパーティでお話しした時の様子とはガラリと雰囲気が違う・・・。

練習艦隊の中で唯一ヘリを搭載している「いなづま」です。

練習艦隊でヘリコプターは実習に使われるだけでなく、連絡や
人員や物資の移動などに大活躍するのだと「いなづま」艦長にのちに教えていただきました。

原則で帽振れをしている実習幹部らしい人を数えてみたら30名ほどでした。
「かしま」ではなく他の艦に乗る幹部はどうやって決めるのでしょうか。

そんなことを考えながら先頭の「いなづま」を追い越し、我々の乗った
将官艇は、ますますスピードを上げました。
グーグルマップで見ると、現在地点を表す青い丸が高速で移動しています。

江田島から広島港に向かう途中にある「似島」(にのしま)。
小さくて住人が八百人足らずという島ですが、実は有名なエピソード多数。

明治から終了直後まで陸軍の検疫所があった

日露戦争、第一次世界大戦当時は検疫所内に捕虜収容所も併設された。
第一次大戦時に収容されていたドイツ人捕虜カール・ユーハイムが、
収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードがあり、
日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれる

原子爆弾投下後には、臨時の野戦病院となり、
1万人もの被災者が運び込まれた
島に埋められた死者も多く、2018年時点も遺骨の発掘が行われており、
慰霊碑も設置されている

検疫所跡地には、原爆投下により生じた戦災孤児、
戦災浮浪児に対する福祉を目的とした似島学園が設立されている

1919年(大正8年)には、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となり、
島内の似島検疫所に収容されていたドイツ人と広島高等師範学校
(現・広島大学教育学部)学生による親善試合が広島市内で行われ、
これが「日本で初めてのサッカー国際試合」とも言われる

なんと、ユーハイムさんは神戸に来る前ここですでに仕事してたのか。

広島港にとってつけたようにある宇品島という根元で繋がった半島には
グランドプリンスホテル広島があります。
将官艇が着岸するのはプリンスホテルの船着場でした。

江田島でこの日バスに残した荷物は、全てバスごとすでにホテル前に到着していました。
わたしたちは将官艇を降り、ホテルの中を通ってバスに乗り込むと、

「本来は皆様を海幕長がお見送りする予定をしていたのですが、
海幕長が乗る飛行機の時間の関係で、着替えを優先させていただくことになりました」

とご丁寧にもお知らせをいただきました。
海幕長自らにお見送りなど、予想もしていなかっただけに恐縮です。

ホテル前から広島駅の新幹線乗り場までバスで送っていただきました。

写真はバスの車窓から途中で見た広島陸軍被服支廠跡です。

耐震構造に20億かかることから、遺構といえ放置されたままで、
県としては使用方法をいまだに模索している状態なのだとか。

広島駅到着後、わたしたちは広島空港に向かい、そこから帰途に着きました。
そして、中一日の休みを経て、またしても神戸で練習艦隊を迎えることになります。

 

続く。

 

練習艦隊神戸港入港!〜海上自衛隊練習艦隊 平成31年近海練習航海

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江田島を出航した練習艦隊をお見送りした二日後、朝一番の羽田発飛行機で
わたしとTOは神戸空港に到着しました。

その日は神戸港に練習艦隊が入港する上、午前中には近くの川崎重工業で
潜水艦「しょうりゅう」の引き渡し式に参加することになっていたのです。

ANAの羽田発神戸行きは1日に朝と晩の2便しかなく、
一便目は0630発だったりするので、当日は4時半起きでした。

呉地方総監部から頂いたお知らせだと0930から歓迎行事だということでしたが、
直前に関係者に確かめると、9時ちょうどには入港してくるとのこと。

空港に着いてから朝食を食べる時間があったので、
そこだけオープンしている上島珈琲店に入りました。

上島珈琲は神戸発、今は関東にも展開していて六本木や横浜元町にもあります。

 

どこの店舗でもBGMにジャズを流しているのですが、六本木と元町は
バップ系のモダンジャズで一貫しているのに対し、神戸空港店では
どういうわけかいつ行ってもジャズヴォーカルが流れています。

1時間くらいは時間があるかとのんびりしていたら、携帯にメッセージが入りました。

「すみません(*_*)かしま8時半には入ってくるらしいです」

時計を見たら8時20分でした(O_O)イカーン

とりあえずすぐさま空港を出発です。
空港からポートターミナル駅まではポートライナーで18分かかります。
どんなに急いでも「かしま」入港には間に合わないこと決定。

ポートターミナル駅に到着すると、ポートライナー車上からもう入港を済ませた
「かしま」と、これから入港してくる2隻が見えました。

これも車内からガラス越しに撮ったもの。
2隻のタグボートを従えた「いなづま」です。
手前に「PORT TERMINAL」の看板の一部が写り込んでおります。

電車を降りて、今度はターミナルの二階窓から撮りました。
ナイスな構図です。

ターミナルの一番端の出口から岸壁に降りると、すでに「いなづま」が
「かしま」の向こう側にメザシ状に接舷しようとしていました。

朝早いというのに、神戸入港をお迎えするためにすでにたくさんの人がいます。
自衛艦旗の小旗を持った女性は乗員の家族でしょうか。

手前のように、自衛艦の写真を撮りにきたらしい人も多数。

なんと、「偉い人」がお忍びで練習艦隊のお迎えに来ておられました。

本来ならば地方の入港に立ち会うことはないですが、この日はたまたま
この後近くの川崎重工業で「しょうりゅう」の引き渡し式があり、
そのために近隣のホテルに宿泊しておられたので駆けつけて来られたのでしょう。

出張先にもジャージを持って来ておられた「偉い人」は、
部下を従えてここまで20分かけて走って来られ、
ジャージをお持ちでなかった「偉い人」は30分かけて歩いて来られたそうです。

当たり前のようにそういうことを「偉い人」が行っておられるのです。
なんというか、若い自衛官たちに対する深い「愛」を感じました。

周りにいる誰もがこの「偉い人たち」の正体に気づいていません。
ご挨拶したらわざわざ帽子を取られ、普通に頭を下げられましたが、それは

「自衛官は帽子を被っている時敬礼を行う」

という慣例に従うにはちょっと不似合いな状況だったからだと思います(笑)

「かしま」と「いなづま」の間に舫が渡されました。
「いなづま」のオランダ坂の上と下に立って、
海曹たちがキビキビと入港作業を行います。

向こうには最後に入港する「やまゆき」の姿が見えます。

あっという間に「かしま」と「いなづま」のマストが綺麗に並びました。
さすがは海上自衛隊、この作業の手早さと正確さ。

「いなづま」の左舷を押していたタグボートが、作業が終わるや否や、
船体が傾くほど勢いよく向きを変えて、「やまゆき」を迎えに行きます。

この2隻のタグボートが練習艦隊3隻を全て支援するんですね。
あっという間に「やまゆき」に取り付いて、舫の受け渡しを行います。

もうこの写真ではタグボートは舫を受け取っているのがわかります。

この旭日旗は、わたしの横でこれを振っていたお迎えの女性が、
(最近知ったところによると『潜水艦の母』と言われていた方)

「邪魔になってごめんね〜」

と声をかけて来たので、

「いえ、それどころか一緒に写させていただいていいですか」

とお願いしてわざわざ写り込むように振っていただきました。

「やまゆき」は「かしま」と「いなづま」の後ろの岸壁に接岸させるので、
向こう側の押し船が艦体の後方を押して回転させていきます。

「タグボートって健気だなあ・・・」

一緒にいたTOがこの一連の作業を見ながら呟きました。

「でしょ?わたしがタグボートに萌える気持ち、わかる?」

「わかる。可愛いよね」

これまでわたしが、何かと船可愛い!飛行機可愛い!タグ健気!
と乗り物愛を熱く語るたびに彼は、

「可愛いかなあ・・・わからん」

と首を捻っていたものですが、これだけ長い間入港作業を見たのは
初めてということで、彼なりに何か感じるものがあったようです。

その健気な押し船一隻の力で、「やまゆき」の艦体は目の前で
ゆっくりと向きを変え始めました。

こんな角度から入港する護衛艦を見たのはわたしにとっても初めてです。

艦体がほぼ正面をこちらに向けた時、なかなかの感動がありました。
軍艦とはなんと洗練されたカタチをしているのでしょう。

その時の「やまゆき」艦上では。

艦橋左舷デッキでは接岸のための見張りが一人。
右舷デッキでも後方の見張り。
甲板艦首部分では接岸のための舫の用意。
信号旗のあるデッキには新任幹部たちが並んでいます。
甲板には一部始終を記録するカメラマンもお仕事中。

誰一人として何もしていない人がいません。

後ろの押し船が艦体後部を押し、手前の船は舫で艦首側を少し引いています。
この作業で艦体を岸壁と平行にしていくのです。

平行になった艦体を静かに岸壁に向かって2隻で押します。

サンドレットを投げる前の甲板の乗員たち。

二十人少しいるらしい実習幹部は、これらの入港作業を真剣に見守っています。

マストに揚がっている信号旗はバース信号でしょうか。

その頃岸壁では。
先ほど写真撮影に協力してくれた方たちがこれでもかの
旭日旗とUW旗を持参して、記念写真を撮っておられました。

その時岸壁前の海面に浮き上がって来たクラゲも旭日旗模様(笑)

調べてみたところ、これは「アカクラゲ」という日本近海にいる種類で、
なんと偶然にも、放射線状の模様は16条だそうです。

あれかしら、お隣の国の人が見たら、こんなんでも発狂しちゃうのかしら。

「やまゆき」艦上からサンドレットが投げられ、舫が岸とつながりました。
艦首の旗竿にはまだ国籍旗はありません。

今岸壁では舫を持ってはダッシュ、の「舫ダッシュ」が行われているはず。
艦上でも三人がかりで舫を引き延ばす作業真っ最中です。

次の瞬間、国籍旗が揚げられていました。
海上自衛隊においては、日の丸と同じである国籍旗は停泊時の日中のみ掲揚されます。

心なしか岸壁に人が増えてきました。
偉い人たちの姿はここから見えませんでしたが、もしかしたら
この時も人目につかないところから見守っておられたのでしょうか。

新任幹部たちにも「偉い人降臨の件」が伝わっていたらいいなあと思いました。

お仕事を済ませた押し船が、気のせいか意気揚々と引き上げていきました。

そして、この一連の入港作業をじっと見守っていたのは海上保安庁の
PC18、巡視艇「はるなみ」です。

ちなみに海上保安庁の船艇においては、旗の位置は海自と正反対で、
船尾に国旗、船首に海上保安庁庁旗が掲揚されるということですが、
海保の巡視艇は航行中艦尾の国籍旗だけを掲揚します。

 

というわけで、関係各位の皆様のご尽力により、無事に練習艦隊は
神戸港に入港は果たしました。👏パチパチパチパチ👏

続いて岸壁では入港歓迎行事が行われます。

続く。

 

 

練習艦隊神戸港入港〜仮面ライダーMamoruとご当地アイドル登場

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練習艦隊は朝早くから駆けつけた関西の防衛団体会員や家族、
お忍びで岸壁に来られた海◯長と◯地方◯官(伏せ字になっとらん)
の出迎える中、無事に入港を終えました。

さすがは海上自衛隊といいますか、入港作業を粛々と済ませ、
瞬く間に岸壁での入港歓迎行事の準備が整います。

なんとなく立っていたところがちょうど本日の式典のお迎え側、
関西水交会の幹部?の立ち位置の真後ろになりました。

横須賀で行われる入港よりは若干カジュアルな感じで始まるようで、
幹部が岸壁に並ぶときも音楽隊などの演奏はなしです。

ところで、江田島で任官する前には号令がかけられていたが、
任官後は号令なしで動くことになっていた新幹部たち、
ここでは一応「整列休め」などの号令をかけられていました。

あの号令なしの一連の動きは、いわば任官の象徴として
慣例的に行われていたのだなと気づいた次第です。

全員整列が終わり、「かしま」艦上ではサイドパイプが吹鳴され、
練習艦隊司令官、梶元大介海将補がラッタルを降りてきました。

艦隊司令にとっては江田島出航以来初めての正式な入港行事となるはずです。

こちら側のお出迎えの人々に向かって目線を合わせながら歩く梶元司令。

わたしの前におられた関西水交会の会長が歓迎の辞を述べました。

実はこの時、水交会会長の立ち位置を表すためか、わたしの横の人が持つ
巨大な自衛艦旗が風に煽られて、わたしの顔に始終吹き付けておりました。

決して濃く化粧していたつもりはありませんが、
もし万が一旗に何か付いていたらきっとわたしのせいです<(_ _)>

新幹部の皆さんにとっても江田島以来最初の入港行事となります。
敬礼の角度も、足の開き角度も、すっかり板についてきました。

一連の行事に出席するうちになぜか顔を覚えてしまった幹部もいます。
どういうわけか同じ人が何度も写り込んでいたりするんだな(笑)


練習艦隊は、あとで聞いたところによると、江田内を出航してから
外に出て一旦呉に立ち寄って中1日を過ごしていたそうです。

例年このパターンは同じ、そしてその後関西というのは決まっていて、
神戸港と大阪港は毎年交代なので、今年は神戸入港となりました。

かつて大阪港入港の際には、あの塚本幼稚園の園児たちがお迎えしていたそうです。
あんな事件が起こらなければ今でもあの微笑ましい光景が見られたのでしょうに。


これまでの神戸港ではどんなお迎えが行われてきたのかわかりませんが、
今年は、練習艦隊の皆さんにとって思い出深い入港になったとおもわれます。

花束贈呈に、神戸のご当地アイドルグループと仮面ライダーが登場したのです。
アイドルグループ「コウベリーズ」のお嬢さん方が出演することは
前もってさる筋から情報を得ていたのですが、それだけではありませんでした、
いきなり岸壁に現れた仮面ライダー、これには一同びっくり。

コウベリーズは昨年の夏、阪神基地隊のサマーフェスタで、
基地主催の防衛パネルディスカッションにパネラーとして大抜擢され、
わたしもここでその意義と効果らしきものについて書いたことがあります。

阪神基地隊とこのご当地アイドルとのお付き合いは前司令任期中からで、
餅つき大会などの行事には採算度外視(?)でやってきて、
アイドルに興味などなさそうなおじさんたちを和ませてくれています。

そして、花束を持つ謎の仮面ライダーというシュールな光景に、
海自のカメラマン始め、カメラを持っている人が色めき立ってます。
真面目な顔をして整列している練習艦隊の幹部たちの中に、
思わず歯を見せて笑ってしまっている人が何人も(笑)

仮面ライダーは今の将官クラスが子供の時にすでに大ヒットし、
現役自衛官のほぼ全世代が子供の頃に夢中になってきた訳で、
例えば彼ら新幹部が現在23〜4歳だとすると、小学生の頃、

「仮面ライダークウガ」「アギト」「龍騎」「ファイズ」
そして「仮面ライダー剣(ブレイド)」

などを見て育った世代ということになります。

うちの息子はリアルタイムではなく日本に帰国してからではありましたが、
ビデオで夢中になって「クウガ」「アギト」「ファイズ」を観ていたので、
わたしは今でもそれらのテーマソングを全部歌えたりします。

子供と一緒に観ている大人をも惹きつける工夫もされていて、特に
「仮面ライダーファイズ」の海堂さんのギタリストとしての話、
(音大の先生がオルフェノクで海堂に嫉妬してたという)好きだったなあ。
音楽もさりげに良かった。

Kamen Rider Faiz Ost. - Yume no kakera

 埠頭に現れた謎の仮面ライダーは、その名も「マモルくん」。

はて、仮面ライダーにマモルなんていたっけ?
とわたしは後日関係者にその「正体」を問いただしました。

それによると、この仮面ライダーの中の人は、おそらくこの新幹部たちが
小学生の時に観ていたに違いない「仮面ライダー剣」で
(仮面ライダーブレイド、と入力すると勝手に剣に変換される)
相川始(仮面ライダーカリス)を演じた森本亮治さんです。

中の人のご尊顔。

 

森本さんは次の夜の「かしま」艦上レセプションにも来ておられたそうです。
わたしは仮面ライダー俳優とスーツアクターは全く別の人だと思っていましたが、
この方のように一致している場合もあるのだと知って驚きました。

タイ王国からの留学生が仮面ライダーをガン見してますね。
呆れてるのかな。
実はタイでは、

「ハマヌーンと5人の仮面ライダー」(หนุมานพบ 5 ไอ้มดแดง)

という東南アジア風味の仮面ライダー映画が公開されたことがありましてね。

日本から「五人ライダー対キングダーク」の配給権を得ただけなのに、
タイ側が無断で新しいシーンを付け足し、編集してオリジナルにしてしまい、
日本側激怒、というキワモノ作品で、藤岡弘の初代ライダーが
えらく人気だったことからタイの悪徳業者が企んだ著作権無視だったそうですが、
何分にも1976年の作品なので、流石に彼は知らないだろうと思われます。

花束を受け取るのは司令、3人の艦長、幹部の代表4名。

仮面ライダーは紅一点の女性実習幹部に花束を渡すという趣向で。

花束のプレゼンターとしては過去最高のインパクトがあったかと。

花束を受け取った梶元艦隊司令がご挨拶の中で

「コウベリーズ、仮面ライダーの皆さんのご健勝をお祈りします」

と言ったのに、ついウケてしまいました。
仮面ライダーのご健勝とは一体。

というわけで入港行事は終了。
艦隊司令と副官だけが前方のラッタルから乗艦します。

きっちりと整列して後ろから乗艦する実習幹部の前でカメラマンの求めに応じて
自衛艦旗を持ちポーズをとるコウベリーズのお嬢さん方。

神戸をイメージしたブルーのチェック柄のユニフォームは半袖で、
まだまだ風が冷たい三月の埠頭ではさぞ寒かったと思うのですが、
そんな様子は微塵も見せずに笑顔を一瞬も絶やさない彼女ら、
そのプロ意識に感心しました。

阪神基地隊司令と一緒にポーズ。
Vサインではなく、揃えた二本と親指三本を立てるサイン、
これは一体何を意味しているのか?

それにしても、後ろの実習幹部たちが誰一人として
こういうことが行われていても見向きもしないのは流石です。

「敬礼お願いしま〜す」

誰かがリクエストしました。
・・・・あ、わたしだったかもしれません(笑)

一度ポーズを取りかけたところ、左半分の3人が全員
左手で敬礼をしようとしました。
それは彼女らが日頃、左右対称でポーズをしていることから
慣習的にそのようにしてしまったものだと思われますが、
そこはやっぱり本職がきっちりと、

「敬礼は右手でね」

とご指導してこのポーズとなりました。

わたし自身が大和ミュージアムでプリクラを撮ったとき、
敬礼をしてみて痛感したのですが、普通の人が敬礼すると
どうしても彼女たちのように手の甲が反ってしまい、
手首と肘が真っ直ぐにならないんですね。

この中でちゃんとした敬礼になっているのは
一番右のお嬢さんだけかな。∠( ̄^ ̄)

でも皆可愛いからよし(笑)

続いてはコウベリーズと仮面ライダーのコラボ。
一番左の女性は仮面ライダーのマネージャーだと思われます。

それにしても、仮面ライダーさんのかっこいいことよ。

今回わたしはじめてライダースーツというものを間近でみましたが、
極限まで軽く、動きやすくしてところどころ通気も工夫されているのに、
少し離れれば、まるでジュラルミンでできているように見えるわけですよ。
その質感とか重量感を思わせる手法は極限まで工夫されていると思いました。

藤岡弘さんの仮面ライダーの時はどうだったのか知りませんが、
平成仮面ライダーになってからのライダースーツの変遷を見ていると、
これも何かすごい一つの匠の技だなあと感心させられます。

ところで、現在の仮面ライダーは「仮面ライダージオウ」というそうですが、
この中に入っていた森本亮治さん演じる「カリス」が、
これに出演(過去のライダーがコラボすることはよくあるらしい)
するというニュースを教えていただきました。

仮面ライダージオウ:“仮面ライダーブレイド”椿隆之降臨! 
“カリス”森本亮治、梶原ひかりも

 

左のマネージャーは仮面ライダーが入った途端、コウベリーズちゃんが持っていた
自衛艦旗をさりげなくさっと横取り?して映らないようにしていました。

一般人の求めに応じてポーズを取っていた仮面ライダーが
調子に乗って?「だっちゅーの」ポーズをした途端、
飛んで行って静止したり、とにかくヒーローですから、
色々と配慮しなければいけないことがあるんだろうなーと思いました。

仮面ライダーの中の人は、インタビュー記事でも言っていたように

「仮面ライダーは今でもわたし自身の夢と希望」

であり、ヒーローを演じたいとの思いからこんな会社を立ち上げられたそうです。

Mamoru heroes 株式会社

おお、確かに神戸に来ていたのはこのマモルくんだ。
つまり仮面ライダーの中には社長が入っていたのか・・・。

わたしはご紹介いただき、マモルくんと握手しましたが、その手は
鋼鉄ではなく、ゴム手袋のような感触でした。

なお、アクタースーツの中の人の声を初めて間近で聞きましたが、
とんでもなくくぐもっていて、やはりヒーローを演じるというのは
まず肉体的に並大抵のことではないと思いました。

マモルくんも、コウベリーズも、頑張れ!

 

練習艦隊と言いながら仮面ライダーとアイドルの話ばかりになりましたが、
とにかく続く。


練習艦隊壮行会@ シェラトン都ホテル大阪〜平成31年 海上自衛隊

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神戸で朝練習艦隊をお迎えし、その日の午前中に川崎重工で潜水艦の引き渡し式、
午後からは祝賀会と「しょうりゅう」出航のお見送りを着々と済ませたわたしは、
神戸空港のロッカーに預けてあったトランクとガーメントを回収し、
そこから夜の壮行会会場となっているホテルのある上本町まで一気に移動しました。

最近では各鉄道路線が乗り入れを行なっているので、
わたしが関西に住んでいた頃には考えられなかった、

「JR神戸三宮から一回も乗り換えなしで近鉄上本町に到着」

という魔法のような移動方法が可能になっていると知り、驚きました。
しかもそれらの行程に必要な運賃は、わたしが地元で使っている
Suica一枚をぴっとすればいいだけ。
空港のモノレールから何から、チケット売り場に並ぶ必要もありません。

長生きはするものだと感嘆しながら電車に揺られること1時間、
駅も全てがバリアフリーになっていて、一昔前の浜松町のようなこともなく
(モノレールの乗り換え駅なのに必ず階段を上り下りさせられる超不親切構造)
大きな荷物も何の苦にもなりません。

そしてその日の壮行会会場であり、宿泊予定のシェラトン都ホテル大阪に到着。
着替えてちょっとだけ部屋で休憩する時間がありました。

会場となっている宴会場の外側ロビーには、鉛筆画で自衛艦、そして
軍艦を描くのをライフワークにされている菅野泰紀氏の作品が、
全部で22点展示されていて、皆の関心を集めていました。

左から「かが」「ふゆづき」「こんごう」「あさぎり」「はるゆき」。

こちら一番左はもちろん!「かしま」です。
その右側は「三景艦」の一つ「松島」、一番向こうの帆船はわかりません。

近くに作者の菅野氏が立っておられたので、

「写真撮ってもいいでしょうか」

とお伺いしたところ、

「いいですよ。SNSとかにも載せていただいて構いません」

ということでした。
今回改めて作品の鉛筆画を間近で見ましたが、細部が凄かったです。
どう見ても鉛筆の跡が見えません。
ぼかしなどの手法を使っておられるとしても不思議でした。

会場ロビーに張り出されていた祝電の数々。
防衛副大臣の原田憲治先生の選挙区って池田市だったんですね。

馬場伸幸、足立康史氏ら維新議員の電報も見えます。

関西の練習艦隊行事には、わたしの肩書きの一つが関西地区の某部隊の
後援会の理事であるという関係で、関西水交会を通して呼んでいただいたのですが、
如何せんあまり知り合いがいないので、待ち時間にお話をして
盛り上がるような相手がいないのがちょっとアウェー感です。

しかもハコが大きいと、得てしてわずかな知人にも会わずじまいだったり。

だからこそ今回は抉りこむように新幹部たちにインタビュー、
しかるのち彼らを激励すべし、と固く心に誓いました(ちょっと嘘)

朝、神戸でお迎えした練習艦隊乗員が、「軍艦」とともに入場してきました。

後で聞いたところによると、彼らは神戸から阪神高速をバスで来たようですが、
ちょうど移動時間が帰宅ラッシュだったため、大阪市内、しかも上本町までは
渋滞に巻き込まれ、ここに来るまで結構時間がかかったということでした。

しかし、さすが海軍5分前の精神、渋滞を見越して早めに出て、
開始時間には余裕で間に合わせていた海上自衛隊です。

例年大阪での壮行会には全く同じ大宴会場が使われます。
入場してきた幹部たちが金屏風の前に並んで立つのも全く去年と同じ。

こういうのもちゃんと資料が残っていて、それを参考にするのでしょうか。

練習艦隊司令官梶元大介海将補のご挨拶で印象に残ったのは、

「今年の実習幹部は大変元気が宜しい」

という一言でした。

「皆様も彼らの”行き脚”を見守ってやっていただきたい」

というようなことも言われ、「行き脚」とはさすが海軍だなと微笑ましく思いました。

海軍の昔から「行き脚がいい」というのは元気がある若い者に対する褒め言葉で、
海上自衛隊でもこの言葉が生きているのだなと知った瞬間です。

ついでにいうと、この日インタビューした新任幹部の一人が、
例の「かしま」の出航の際の事故について、

「錨を正錨(まさいかり)にするのが大変だったようです」

という言葉をさらっと使ったのですが、わたしはこの「マサイカリ」と聞いて
すぐに意味がわかる人はあまりいないだろうなあ、と思ったものです。

わたしはコメント欄で教えていただいた元ウェーブの時武ぼたんさんの著書、
「就職先は海上自衛隊」を呼んでいたので辛うじて知ってましたが。

ちなみに、この本によると、幹部学校の容儀点検でチェックされるのが
制服のボタンの錨の角度で、これがまっすぐになっていることを「正錨」、
寝ていたり斜めになっているのを「寝錨」「起き錨」と言うそうです。

このことを知ってから、わたしは制服姿の自衛官を近くで見ることがあると
さりげなく錨をチェックしていますが、さすがに皆さん、
特に艦上レセプションなどでは間違いなく皆が「正錨」を揃えておられます。

練習艦隊「かしま」「やまゆき」「いなづま」の各艦長たち。

旗艦「かしま」艦長、高梨康行一等海佐。

護衛艦「いなづま」艦長、國分一郎二等海佐。

練習艦「やまゆき」艦長、鳥羽弘太郎二等海佐。
鳥羽二佐の向こうは練習艦隊幕僚です。

それにしても、今艦隊司令はじめ艦長らのお名前がどの方もかっこいい。

そういえば先日「空母いぶき」の試写会を観てきたのですが、(感想は近々アップします)
その時思ったのが、原作者のかわぐちかいじ氏は登場人物に
明らかにその頃の自衛隊名簿を見て思いついたような名前をつけていることです。

今回の練習艦隊首脳陣の名前も、そのままの階級で自衛隊を扱った創作物に出てきそう。

続いて、大阪では必ず行われる、関西地方出身幹部の紹介です。

大阪、兵庫、三重、京都、滋賀、和歌山、奈良・・・。
30名ほどの京阪神出身の幹部が、名前を呼ばれると「はい!」と
元気よく返事をして拍手を受けました。

どんな県にも必ず何人か出身者がいるのになぜか安心しました。

その後、ホテルに花を納入している会社から、関西出身幹部に
一人ずつ花束のプレゼントがありました。

「ご家族が来られていたら持って帰ってもらってください」

ご家族が来られていない幹部は、お花を艦に持って帰ったのでしょうか。

続いて新任幹部の謝辞が述べられました。
スピーカーは今年のクラスヘッドです。
彼の左胸に付けられているのがチリ共和国からの勲章です。

チリ共和国の国旗は🇨🇱←このようなものなのですが、
勲章にはその三色があしらわれています。
トリコロールの配置から見てもフランス国旗と同じですね。

この後ステージで歌をプレゼントする宝塚歌劇団の団員の一人より、
幹部代表に花束が贈呈されました。
この花束が、この後どこに飾られたのか気になったのはわたしだけ?

 

この後、娘役二人、男役一人、3人のタカラジェンヌによって、
恒例の練習艦隊応援ミニコンサートが行われました。

まず3人でタカラヅカのテーマソング(なんだっけ)を歌い、
その後、一人一曲ずつ歌を披露します。

3人のうち一人がディズニーの「モアナと伝説の海」からモアナの歌、
「どこまでも」を歌いました。

「モアナと伝説の海 MovieNEX」 ♪“どこまでも ~How Far I’ll Go~”

海上自衛隊の練習艦隊のためのステージ、ということで、
海に関係のあるこの曲を選んだのだと思われます。

もう一人の娘役のタカラジェンヌの歌は残念ながら知らない曲でしたが、
男役のお嬢さんが、

「中島みゆきさんの『糸』を歌います」

というと、幹部たちの中から「おおお〜」と歓声が上がりました。

糸 - 中島みゆき


タカラジェンヌの歌の間、実習幹部たちは毎年そうするように、
ステージの方を向いて、後ろの人たちの邪魔にならないように全員が
片膝をついたままずっと座っていたのですが、いくら鍛えているとはいえ
(まさか体育座りするわけにもいかないし)なかなか大変な姿勢です。

しかし、彼らは見ていると時々立てる膝を交代しながら、
身じろぎもせずに歌に聴き入っていました。

実は会の最初に行われた梶元練習艦隊指令の挨拶の中に、

「わたしが練習艦隊に実習幹部として参加した時のことは
大阪で見たタカラヅカのステージしか覚えていない」

というセリフがあって、海上自衛官にとって、幹部となって江田島を卒業し、
近海練習航海が始まって最初の寄港地となる関西で、最初に行われる
関西水交会主催の壮行会伝統のタカラジェンヌの歌のプレゼントは
よほど彼らにとって印象的な思い出なのだろうなと思ったばかりです。

今時「清く正しく美しく」を旗印に、掃除一つとっても完璧、
もちろん躾も厳しい宝塚音楽学校は幹部学校と親和性が高く、
それだけに海上自衛官にとっては親近感を覚えるのかもしれません。

しかもその中の一人が、彼らの琴線に触れるこの名曲を歌ったのですから、
今年任官した自衛官にもまた、「タカラヅカの思い出」が
生涯心に残る思い出として強く刻まれたことでしょう。

後、面白かった?のが、3人のタカラジェンヌが
「OH!タカラヅカ」(だっけ)を披露した後、一番最後に

「海上自衛隊練習艦隊の皆様のために『海をゆく』を歌います」

というと、またもや幹部の中から

「おおお〜!」

というさっきより大きなどよめきが上がったことでした。

最後の「海をゆく」は練習艦隊行事でのタカラヅカの定番となっていて、
去年のステージでも歌われましたが、それが紹介されたとき、
今年のように幹部がどよめくということはなかったと記憶します。

これが、練習艦隊司令の言うところの

「行き足のいい・元気な」

新幹部ならではか、と微笑ましく思いました。

 

ちなみに、宝塚歌劇団の演奏は当然ですが全て撮影禁止です。
今回も会場が開場になった時から、なんども

「宝塚歌劇団のステージの撮影と録音はご遠慮ください」

というアナウンスが行われていたため、
写メを撮る人は一人もいませんでした。(去年はいたのよ)

 

そして乾杯に続き、歓談となりました。

わたしは最初から最後まで会場を回遊しながら、幹部を捕まえては
インタビューを試みておりましたが、今年はどういうわけか、
話をした幹部全員が水上艦艇(護衛艦)志望でした。
何人か目の水上艦志望新幹部に、

「いつもは航空とか掃海艇とか必ずいるんですけどね」

というと、彼は

「いや、でもやっぱり航空が一番人気だと思いますよ」 

そういえば、今年の飛行幹部の練習艦艦長は、
トップガン世代で飛行機乗りになりたくて防大にはいったものの、
適性が合わずに水上艦に行った、とおっしゃってましたっけ。

 

航空と潜水艦は色々と身体的条件の許容範囲が狭いので、
ほとんどが希望に添えないということになるのかもしれません。
視力は現在ではほとんど排除要素ではなくなっているようですが、
そのほかにも色々あって、潜水艦なども鼻腔が歪んでいたらダメとか、
狭き門らしいですね。

ステージの真正面にずっとおられたこのお二人。
なんと海軍兵学校76期(右)と77期に在籍された方々でした。
76期は2号つまり2年生、77期は3号1年生の夏に
兵学校を卒業しないまま終戦を迎えた最後の兵学校生徒です。

わたしはご縁があって兵学校期会の末席を汚しているので、
改めてご挨拶させていただきました。

お二人とももしかしたら戦後は海上自衛隊に入隊されたのでしょうか。

76期在籍で戦後海上自衛隊で幕僚長となった長田博氏のことをいうと、

「ああー、長田ね」

ともちろんご存知でした。

長田氏が海幕長だったのは1985年ー87年のことですので、
まだここにいる幹部たちが生まれてもいない頃のことです。

中締めとして、関西水交会の会長が音頭をとって再び乾杯が行われました。

最後に紹介されたのが四人の海曹長たち。
練習艦隊先任伍長、「かしま」「いなづま」「やまゆき」先任伍長の皆さん。
さすがベテランの迫力です。

2030、お開きの時間となり、幹部たちは手拍子に送られて退場していきました。

彼らはこれからバスで神戸港に帰還し、明日は「かしま」艦上でレセプションです。

続く。

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