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ガルベストン級ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」〜バッファロー&エリー郡海軍&軍事博物館

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前回に引き続き、エリー湖のほとりにある海軍軍事博物館の
艦船展示を外からの写真で紹介していくことにします。

今日ご紹介するのは潜水艦「クローカー」の外側に係留展示されている
軽巡洋艦「リトル・ロック」です。

それではまず、バッファロー・エリー郡海軍&軍事公園のHPより、
「リトルロック」の紹介を書き出してみます。

USS「リトルロック」CL-92(CLG-4)は、第二次世界大戦時の
「クリーブランド」級軽巡洋艦から生き残った唯一のミサイル巡洋艦です。

CLG-4は、ここバッファロー海軍公園にある私たちの船の中で最大のものです。

1945年「クリーブランド」級巡洋艦として建造された彼女は、
第二次世界大戦中への投入には間に合いませんでした。

生後の冷戦期、「リトルロック」は第2艦隊と第6艦隊の旗艦を務めました。
その哨戒範囲は北極圏から南アメリカまでの大西洋、そして地中海に至ります。

彼女は激動の1960年代と1970年代の間に活躍しました。

「リトルロック」のハイライトの1つは、「アドミラルズクォーターズ」、
これは海軍大将がこの旗艦に座乗していたときの特別の構成でした。

そして海軍でも非常に珍しいブリッジを二つ備えた巡洋艦です!

彼女は現存する最後の「クリーブランド」級巡洋艦であり、また、
展示されている誘導ミサイル巡洋艦としては世界でただ一つの存在です。

そのため、他の「姉妹」艦(本当の姉妹艦でなくとも)勤務だったベテランたちが
かつての自分の乗っていた艦そっくりの彼女の艦上で、同期会や戦友会を行なったり、
記念碑などの建立行事などを行うという使われ方をしているのです。

CL-91、CLG-4、CG-4

長さ: 610フィート(188m)
ビーム: 66フィート(20m)
ドラフト: 25フィート(7.6m)

排気量: 10,670トン
兵装: MkIIタロスミサイルランチャー 2基
            6インチ砲; 3基
   5インチ/ 38口径砲 2基

乗員: 1,100名 士官150人 海兵隊員150人

真正面から見ると艦首部分にまるで「絆創膏」を貼っているような・・。

「リトル・ロック」第二次世界大戦が終わりかけの頃就役しました。
正確には、

1943年3月2日 起工 於ウィリアム・クランプ&サンズ造船会社(フィラデルフィア)

1944年8月27日 進水 サム・ワッセル夫人がシャンパンカット

1945年6月17日 就役 艦長 ウィリアムE.ミラー大尉


6月17日就役というのは、慣熟航行中に戦争が終わってしまって
結局実戦デビューはしないままになってしまった、というパターンです。

戦争継続中に投入するつもりで建造していたのが、結局間に合わなかった、
という軍艦は全部で27隻あったそうですが、彼女はその1隻でした。

しかし、聯合艦隊はその1年前にはほぼ壊滅状態だったことを思うと、
つくづく日本はとんでもない国を相手にしたものだと思いませんか><

 

そして戦後そのうち6隻がミサイル搭載艦に改造されるのですが、
「リトル・ロック」はそのうちの1隻となりました。

HP説明の「アドミラルズ・クォーター」(Admiral's Quater)というのは
たとえば士官寝室のことを”Officer's  Quater”ということを考えると、
提督の寝室があった、つまり「旗艦になった」と同義ではないかと思われます。

「リトル・ロック」が「提督の寝室」になったのは1950年代後半、改造されてからのことです。

誘導ミサイル巡洋艦に改造するためには、後部上部構造を再構築する必要がありました。
「クリーブランド」級のうち

「ガルベストン」「リトル・ロック」「オクラホマ・シティ」

の三姉妹が改造されて「ガルベストン」級ミサイル巡洋艦になったわけですが、
いずれも前方の武器を取り除いて、その結果上部構造物が大幅に拡大されたので、
提督の寝床を備える旗艦として機能するようになった、ということになります。

前方の武器が取り外されたということですが、艦橋前の主砲はもちろんあります。

Mk 12    5 "/ 38口径砲

は、デュアルつまり砲身二本の装備となっていて、これが艦には
6基装備されています。

遠くからで拡大してもよくわからないのですが、見学者のために
解説のための写真を貼っているのか、他のものが窓に映り込んでいるのか。
・・・・うーん。どちらだと思います?

その前方に配置されているのは、どうやらトリプル砲ですね。

Mk.16   6 "/ 47口径銃

は、「ブルックリン」級、「ファーゴ」級、そして「クリーブランド」級など、
第二次世界大戦中の軽巡洋艦に装備されていました。

ということは、改装された後も当時の武器がそのままであったということ?

前方の武器を取り去った、という記述はどういうことなんでしょうか。

現役時の「リトル・ロック」前甲板。

通信機器を写したこの写真ですが、これをみていただくと、

「海軍でも珍しいデュアルブリッジ」

がお分かりいただけると思います。
最近の軍艦だと、ロイヤルネイビーの空母「クィーン・エリザベス」が
操舵艦橋と航空管制艦橋を分けた結果艦橋を二つ持っていますが、
「クリーブランド」級の場合、ヒントは「ミサイル」にあると思われます

レーダーは、

前檣にあるのが対空捜索レーダー

中檣に三次元レーダー

後檣に高角測定レーダー

である、と書かれていますが、当方正直レーダーには全く無知なので、
もしかしたら三次元レーダーと高角測定レーダーは逆かもしれません。
わかる方がおられたらぜひご指導をお願いしたく存じます。

軍艦のブリッジにはその艦が就役中授与された勲章がペイントされますが、
「その年に与えられた賞」なので、有効期間は1年のみとなり、
翌年にステイタスが変われば描き変えられることになります。

ですから、引退し博物艦になっている軍艦のそれは、引退時のものか、
あるいは全盛期のものであることが予想されます。
(規定があるのかどうかは不明)

この「リトル・ロック」でいうと、まず真ん中の大きな白文字E
これは「バトルE」と称する軍艦にとっての最も大事な?賞で、

「武器・戦術・作戦遂行等最優秀賞」

の印となります。
さらに、緑文字のE、これは水上艦にとっての

「戦闘情報センター優秀賞」

です。
まあ、旗艦にもなったフネが賞なしってのは考えられませんが、
優秀だから旗艦になるのか、旗艦になったら賞をもらえるものなのか、
その辺は当事者でもないのでわかりません。

さらに赤文字のD/Eですが、これは

「ダメージコントロール優秀賞」

ということで、「リトル・ロック」、基本的に大事な点を押さえていた
なかなかの優秀艦だったということになります。

公開されていないのでこれ以上近づくことができないのですが、
岸壁を艦尾に向かって歩いてきました。

それにしても艦番号「4」(一桁)というのは何かとすごい数字だなと思ったり。

「二つ目の艦橋」がよくわかる角度です。

ここに、「ガルベストン」級ミサイル巡洋艦を特徴付けるところの

RIM-8 タロス( Talos) 長距離艦対空ミサイル

をばっちり見ることができます。
「タロス」というのはギリシア神話の「青銅の自動人形」という怪物の名前です。
米海軍は他にも「ターター」(タルタロス)「タイフォン」(テューポーン)
というギリシア神話系のなまえを長距離対空ミサイルにつけています。

クレータ島を毎日三回走り回って守り、島に近づく船に石を投げつけて破壊し、
近づく者があれば身体から高熱を発し、全身を赤く熱してから抱き付いて焼いたという。
胴体にある1本の血管に神の血(イーコール)が流れており、
それを止めている踵に刺さった釘ないし皮膚膜を外されると失血死してしまう(Wiki)

という有能な働き者(でも意志を持たない)で、ミサイルにはぴったりの名前かもしれません。
しかしこういうキャラよく探し出してくるよなあ。

「リトル・ロック」タロスミサイル発射中。
そこで皆さん、次の写真をご覧ください。

ミサイル発射中の写真を見ていただければ、これが発射方向に向きを変えているのが
よくおわかりいただけると思います。
発射管制システムのレーダー部分ではないかと思いますが、間違ってたらすみません。

横からの写真をアップにしてみました。
ミサイルに跨ったドワーフのマークが見えます。


しかし、全体写真を見ても、軽巡洋艦にこれだけ盛りだくさんに積んで
はたしてバランスは大丈夫だったのか、と心配になるくらいなのですが、
案の定「ガルベストン」級は改装後のトップヘビーの問題を抱えていたそうです。

というわけで「リトル・ロック」にはバランスを取るための固定バラストが
1200トン分搭載されたうえ、方位盤を撤去する他、各種減量策が行われました。

しかしそれでも「リトル・ロック」の「ホギング現象」は抑えられませんでした。
ホギングとは、

サギング・ホギング.PNG

浮力のアンバランスで中央部が上向きに曲がる状態です。
その逆がサギングとなります。

この問題を受けて姉妹艦の「ガルベストン」は早期に予備役に編入されましたが、
「リトル・ロック」は提督の寝床である旗艦設備が充実していたため、
「ガルベストン」よりやや長く現役にとどまって第6艦隊旗艦を務めていました。

艦尾のシェイプは今までに見たことがないタイプです。

言い忘れましたが、「リトル・ロック」はアーカンソーにある都市名です。
アーカンソーの「小岩」か・・・なんか違和感ない感じ(笑)

海面に降りるためのラッタル・・・もう使われていない(と信じたい)。

次回は、「リトル・ロック」と「クローカー」の向こうに見えている
駆逐艦をご紹介します。

続く。

 


兄弟艦(きょうだいぶね)駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」〜バッファロー&エリー郡海軍軍事博物館

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エリー湖岸に偶然見つけた海軍&軍事公園の展示から、
今日は最後の係留展示となる駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」をご紹介します。

まず、「ザ・サリヴァンズ」の係留されている位置ですが、潜水艦「クローカー」の後方岸壁、
ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」の内側となります。

「リトル・ロック」の艦内見学のためには、「ザ・サリヴァンズ」から乗って
「クローカー」経由で降りてくるというコースとなっているようです。

「ザ・サリヴァンズ」、ただいま絶賛修復修理中。
中共ウィルスによる閉鎖の期間、多くの博物館や展示場は
再開に向けて内部を改装したり修復したりしているようです。

それではまず、当博物館の説明翻訳から参ります。

USS The Sullivans 

廃止されたU​​SS「ザ・サリヴァンズ」は、第二次世界大戦で使用された
米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスである「フレッチャー」級駆逐艦の好例です。

 

バッファロー海軍公園の「フレッチャー」級駆逐艦DD-537は、
第二次世界大戦で使用された米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスでした。

USS「サリヴァンズ」は、アイオワ州ウォータールーの5人の兄弟にちなんで名付けられました。
海軍で複数の人物にちなんで名付けられた唯一の軍艦です。

彼女は1943年に就役し、太平洋戦争で初戦デビューを行いました。
8機の日本軍の飛行機を撃墜し、硫黄島と沖縄を砲撃し、
アメリカのパイロットと乗組員を艦の燃焼や沈没から救いました。

彼女はまた、朝鮮戦争とキューバミサイル危機の間に行動をおこないました。

USS「サリバンズ」は1965年に廃止され、功績のあるパフォーマンスによって
合計11のバトルスターを獲得しました。

現在はバッファローウォーターフロントに係留されている歴史的建造物です。

艦内見学では、310人の乗員とともに彼女が

「ティンカン・セイラー」

としての役割を果たした様子がわかります。
彼女はまた、一緒に亡くなった5人のサリバンの息子たちへの追悼と記憶の場でもあります。

この記憶は、彼女のモットーである「We Stick Together!」に裏付けられました。

DD-537

長さ: 376.6フィート (114.76m)
ビーム: 39 .8フィート (12.09m)
ドラフト:  17.9フィート(5.41m)
排水量: 2,100ロングトン(2,080トン)

兵装: 5インチ/ 38口径砲 4門 3インチ/ 50口径砲1門 ツイン40mm機関砲2基
   ディプス・チャージ(爆雷)
人員: 310名

ところで、これを確認するためにウィキペディアを見たところ、
全長が153.9m、とあったので、どういうことだ!とびっくりして
最後まで読んだら、同名の軍艦でした。

ミサイル駆逐艦 USS「ザ・サリヴァンズ」DDG-68

 

 


● サリヴァン兄弟

軍艦二代にわたってその名前を残す「ザ・サリヴァンズ」とはどういう兄弟でしょうか。
なお、英語では家族、兄弟を表す時「ザ」をつけなくてはいけないので、
本艦を単に「サリヴァンズ」と称するのは間違いとなります。

ザ・サリヴァンズはアイオワのウォータールーに住む
アイルランド系の移民の夫婦に生まれた男ばかり5人の兄弟です。

左からジョージ、マット、アル、フランク、ジョー  

なお、長男から順番に

長男 ジョージ・トーマス 27歳(1914年生)二等掌砲手

次男 フランシス・ヘンリー "フランク" 26歳(1916年生)操舵手

三男 ジョセフ・ユージーン "ジョー"  24歳(1918年生)二等水兵

四男 マディソン・アベル "マット" 23歳(1919年生)二等水兵

五男 アルバート・レオ "アル" 20歳(1922年生)二等水兵

この頃は多産の家は珍しいことではなかったのかもしれませんが、
7年間の間に子供を6人産み続けたカーチャンとか、そのうち5人が
男ばかりだったこととか、その5人が全員海軍に入ったこととか、
しかもその5人が5人とも同じフネに乗っていたために
そのフネがやられて全員戦死してしまったこととか、   ・・・・・・・・とにかくどれ一つとっても実現の確率が低すぎて
突っ込みどころ満載という珍しいことばかりではあります。

 

 

● 「唯一の生存者政策」

だからこそ海軍も、彼らの死をレガシーとして扱い、
その名前が遺されることになったのでありましょう。
その死はその後のアメリカ海軍の運用にも影響を与えました。

たとえば戦争局は「ソール・サバイバー・ポリシー」(唯一の生存者政策)を定め、
このことは映画「プライベート・ライアン」の題材として取り上げられています。

この政策は、サリヴァン兄弟の死後、1948年に制定されましたが、それ以前にも
家族の唯一の生存者が現役から免除される例はあったそうです。

たとえば、1944年、立て続けに息子(双子含む)5人を戦死で失った
ボルグストローム兄弟の両親は、申し立てによって末の息子の徴兵を
正式に免除させることに成功したという事例です。

また、チャールズ、ジョセフ、ヘンリーの3人のビュートホーン兄弟の場合、
長兄のチャールズが1944年にフランスで戦死し、ジョセフが1945年に太平洋で戦死した後、
イタリアの陸軍空軍に勤務していたヘンリーは陸軍省から帰国を命じられています。

 

「プライベート・ライアン」の直接のモデルになったニーランド兄弟の場合は、
4人の兄弟のうち1人を除くすべてが戦死したとされていたところ、
米陸軍空軍の長兄であるエドワード・ニランド技術軍曹は、
後にビルマの捕虜収容所に収容されていたことが判明しています。

 

サリヴァン兄弟の件と同様、ボルグストロム兄弟、ビュートホーン兄弟の件は、
どちらも「唯一の生存者政策」の成立に直接寄与することになりました。

最近の例では、2004年、イラクで戦死したジャレッド・ハバードの兄弟である
ジェイソンとネイサンが陸軍に入隊後、ネイサンがヘリコプター事故で亡くなり、
これを受けて軍当局はジェイソンに帰還を命じたということがありました。

アフガニスタンでも、ワイズ兄弟のジェレミー、ベン、ボーのうち、
ネイビーシールズのジェレミーが自爆テロで死亡、つづいて
衛生兵だったベンが重傷を負い死亡したのち、ボーに帰国命令が出されました。

この法案の適用は、生き残った本人が要求し申請することができ、
その対象は下士官兵、士官のいずれを問いません。

ただし、本人が家族の死亡の通知を受けた後であっても自発的に
再入隊または自発的に現役を延長した場合はこの資格を放棄したとみなされます。

 

● サリヴァン兄弟の最後

さて、彼らの経歴を見てここからもわかるように、長男と次男は
兄弟に先駆けて海軍に入隊しており、三男から以降3人は
同時に(1942年1月3日)海軍入りして階級が同じです。

三男以降の3名が海軍に入った時期を考えるに、彼ら兄弟は
日本との開戦を知り、兄二人に続き国のために海軍で敵と戦うのだ、
と話し合ってそれを決めたのだと思われます。

そして、5名は全て同じ軍艦、

軽巡洋艦 USS 「ジュノー」

に乗り組むことを志望しました。

兄弟全員が一つの艦に乗ることの危険性を海軍はよくわかっていたはずですが、
サリヴァン兄弟の熱意に負けたのか、これも一つのアピールになると考えたのか、
最終的に海軍はこれを許し、5人のサリヴァンは「ジュノー」乗組となりました。

 

 

軽巡「ジュノー」は1942年8月からガダルカナルに展開していましたが、
1942年11月13日、伊号潜水艦26の魚雷攻撃による弾倉爆発が原因で沈没しました。

このとき、フランク(次男)ジョー(三男)マット(四男)の3名は爆発で即死しています。

ジョージとアルを含む「ジュノー」乗員のうち約100名は海に逃れていましたが、
軽巡洋艦USS 「ヘレナ」艦長と機動部隊指揮官は、生存者の望み薄い海域で
日本の潜水艦の攻撃にさらされることを躊躇い、捜索を行わなかったうえ、
沈没を知っていたB-17爆撃機の乗組員は、無線封止命令を受けていたため、
数時間後に着陸するまで、生存者確認の報告を提出できませんでした。

しかも!
この報告は他の保留中の事務処理と混じってしまい、数日間放置されていました。

数日後、本部はようやく生存者報告に気づき、捜索を命じましたが、
この間海上の「ジュノー」の生存者(多くが重傷を負っていた)は
空腹、喉の渇き、そして繰り返されるサメによる襲撃にさらされることになり、
沈没から8日後、カタリナ捜索機が救出できた生存者はわずか10名でした。

この生存者の報告によって、生き残っていたサリヴァン家の兄弟のうち、
海に逃れたアル(五男)は翌日溺死し、長男のジョージは4〜5日生きていた、
ということがわかっています。

彼らの語ったジョージの最後というのは、つぎのようなものでした。

「漂流中の高ナトリウム血症とおそらく兄弟を失った悲しみから
譫妄(せんもう)を起こし、『悲しみのあまり精神に異常をきたし』
自ら筏の柵を乗り越えていき、それっきり乗員は彼の姿を見ることはなかった」

戦争中なのでこれは仕方のないことだったかもしれませんが、
海軍は敵に情報を与えることになるため「ジュノー」の喪失を発表しませんでした。

しかし、息子たちから全く手紙が届かなくなったのを不審に思った両親が
人事局に何度も問い合わせをするようになります。

 

そしてある朝、五人の兄弟の父親であるトムが出勤準備をしていると、
軍服を着た3人の男性(副司令官、医師、および兵曹)が訪れ、
そのうち士官が父親にこう口を開きました。

「あなたの息子さんについてお知らせしなければならないことがあります」

「誰についてですか」(”Which who?")

士官はこう答えました。

「お気の毒ですが5名全員です」


長くなったので二日に分けます。

 

We Stick Together ! 駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」〜バッファロー・エリー郡海軍軍事公園

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エリー湖の河畔にとつ現れたネイバルパーク、
バッファロー・エリー郡海軍軍事博物館。
そこには三隻の米海軍艦船が係留展示されています。

前回、そのうちの一隻、駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の紹介を始めたところ、
命名の理由となったサリバン5兄弟の戦死と、そのことから生まれた
「最後の生存者保護」の法律について説明していたら一項を費やしてしまいました。

というわけで、今日はこの駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」についての続きと参ります。

「ザ・サリヴァンズ」の煙突は二本、その前方には
艦のシンボルでもあるクローバーが描かれています。

Emblem of USS The Sullivans (DD-537).png

正式なエンブレムはクローバーの中に艦影が浮かんでいるというもの。
ボストンのバトルシップコーブに展示されているJFKの兄の名前を冠した駆逐艦、
「ジョセフ・P・ケネディJr.」にもクローバーが描かれており、
これは

「クローバーではなくシャムロックと呼ぶケネディ家の印」

とその見学報告の際にここで書いたことがあります。

そのとき、セントパトリックデーというアイルランド系移民の祭りが
緑色とシャムロックで埋め尽くされること、ケネディ家が
アイルランド移民の子孫であることからこのマークが選ばれた、
ということも書きましたが、当駆逐艦の命名元となった5人兄弟の
「サリヴァン」という家名は典型的なアイリッシュを表します。

サリヴァン家の本国でのもともとの名前は「オサリヴァン(O' Sullivan)」で、
彼らもまた他の一部の移民のようにアメリカに来てから名前を一部変更したのでしょう。

彼らがアイリッシュ系であることに敬意を払い、その名を冠した艦には
そのルーツを象徴するシャムロックがあしらわれたのだと思われます。

なお、エンブレムにある言葉、

We Stick Together!

は、「我々は堅く結ばれている」「俺たちの絆は強い」「ガッチリ行こうぜ」
「我々はいつも一緒」「俺たちズッ友だぜ」という感じでしょうか。
つまりサリヴァン兄弟の絆の強さを受け継ぎ、強いチームワークで戦うぞ、
という意味が込められたモットーなのです。

USS The Sullivans crest.png

ちなみに、このモットーは現在就役中であるミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」
DDG-68にもそっくりそのまま受け継がれています。

エンブレムは変更されていますが、中央にシャムロックがあしらわれているのに注意。

 

並んで係留されている「リトル・ロック」の構造物が映り込んでいるので、
「ザ・サリヴァンズ」の構造物は右端のレーダー塔となります。

艦橋の上部に備えられているのはボフォース40m単装機関砲と思われます。
現役時代には5基ありましたが、展示艦になってからは2基だけです。

舷側にはエリコンFF20ミリ機関砲が現役の姿のままに備えられています。

この2基は比較的近いところ、岸壁から見えるところにあります。
本来は7基装備されていたそうですが、展示艦にはこの2基だけで、
左舷側にあったものは取り外されているということです。

構造物の壁には歴史的ランドマークに指定されたことを表す
このようなプラーク(記念板)が設置されていました。

「ザ・サリヴァンズ」を歴史的遺跡に指定したのは、
「United States Department of the interior」
(インテリアデパートメントって何、と思ったら内務省だった)
の、国立公園管理局(NPC)であり、指定は1986年であると書かれています。

赤文字で「走るな」。
これは博物艦では超当たり前ですが、もちろん現役時代にはなかった注意書きです。

そして、最近付け足された警告として、

「立ち入り禁止」船はビデオで監視されています

とあります。
博物館として公開されていた頃はラッタルが下されていたので、
深夜誰もいない時に忍び込もうと思えばできた、ということでもあります。

その上にある金属プレートにあるのは現役時代のものです。

REPLENISHMENT AT SEA GEAR

FITTING                    STATIC TEST LOAD

HIGHLINE PADEYE        50,000 LBS.

MESSENGER LINE PADEYE  15,000 LBS

TESTED  PHILA.NAV. SHIPYD

 DATE OF TEST  9 27 54

デッキに補給作業のために設置されたハイラインやメッセンジャーライン、
(鳥籠みたいなのに人を乗せて別の艦に送るあれ)などのギアを
追加するにあたって、54年9月27日にテストを行ったという
フィラデルフィア海軍工廠の「お墨付き札」のようです。

「ザ・サリヴァンズ」は前回も書いたようにパトナム(Putnam, DD-537)として
サンフランシスコのベスレヘム造船で建造されているのですが、
この時は大西洋に向かう前でニューポートを母港としていたため、
フィラデルフィアで装備を増設したということかもしれません。

防衛徽章については当方全くこれを解読することはできないのですが、
右下に見えている韓国の国旗のようなものは、
「ザ・サリヴァンズ」が朝鮮戦争に参加した印であるのがわかります。

白地の「E」は「バトルE」受賞の印で、斜め線が6本書き込まれているのは、
毎年のようにこれを獲得していたという証拠になります。

バトルEは武器、戦術、作戦遂行に対する最高評価賞です。
この駆逐艦の場合、その艦生命のほとんどを実戦に投じており、
全ての評価はその戦闘結果に対して与えられたということになります。

 

駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の名は、そもそも日本軍の攻撃によって亡くなった
サリヴァン家の5兄弟の記憶を後世に残すためにつけられたものなので、
その存在意義というか最大にして究極の目的が「彼らの復讐を果たす」ことにあるのは、
もう動かしようもない事実であるわけです。

その結果、ブリッジには大々的にこんなマークがあるわけだ。

 

アメリカは日本と戦争していたので、当然ながらその戦跡ではイヤでも
このようなものを目にせざるをえないわけで・・・もっとも、
最近は耐性がついてきましたが、昔は潜水艦の発射チューブに描かれた
日の丸を見ただけで心拍数が上がったものですよ。

そのころのわたし「ザ・サリヴァンズ」のこのずらずら並ぶ海軍旗を見たら、
胸がドキドキくらいですんだかどうか・・。

旭日旗には航空機と陸地攻撃をわけるためのイラストが添えられています。
それでは、「ザ・サリヴァンズ」の対日戦をこの戦績を踏まえてまとめておきましょう。

1944年

トラック島

シェイクダウンクルーズ(慣熟航行)ののち、「ザ・サリヴァンズ」は
他の駆逐艦とともに真珠湾に到着、そこからマーシャル諸島に向かいました。

クェゼリン環礁での攻撃に続き、第58機動部隊の一員として、
「エセックス」「イントレピッド」「キャボット」とともに
彼女はトラック島の日本軍基地に対する攻撃を行いました。
基地攻撃マーク2/1(全2機のうち1機め)

トラック島への攻撃は日本軍にとっての真珠湾であった、という人もいるように、
「ザ・サリヴァンズ」艦長はこのときの攻撃について、

「いかなる種類の敵の反撃にも遭遇しなかった。
最初の攻撃は彼らにとって完全な驚きであったことを示している」

と書き残しています。

ハワイでの艦隊修理後、再び彼女はトラック島空襲に参加しますが、
このとき低空飛行で接近してきた敵機に5インチ主砲と40mm連装機銃で迎撃し、
そのうち2機を対空砲火で撃墜、1機は炎上しながら海面に墜落しました。
航空機マーク3/8(全8機のうち3機)

 

4月下旬、トラックの日本軍基地での空爆の支援に参加。
このとき低空飛行による空爆を試みた日本機を、「ザ・サリヴァンズ」は
40mm連装中と全ての5インチ砲で迎撃し、その結果、3機を撃墜しました。
航空機マーク6/ 8

  マリアナ諸島  

1944年6月6日、サイパン、テニアン、グアム島攻撃の空母の護衛の際、
「ザ・サリヴァンズ」のレーダーが捉えた敵機を地上部隊が撃墜。

特筆しておきたいのは、このとき「ザ・サリヴァンズ」は
撃沈された日本の民間商船の乗組員の救助を行い、捕虜として彼らを
USS「インディアナポリス」(CA-35)に移送していることです。

このころ、対空戦闘によって「彗星」を撃墜しました。
航空機マーク7/8

フィリピン海戦、硫黄島、台湾

硫黄島では西岸目標を艦砲射撃、駐機していた一式陸攻などを破壊しました。
基地攻撃マーク2/2

このころ、「ザ・サリヴァンズ」は補給作業中に戦艦「マサチューセッツ」
(BB-59)=見学済み=と波に煽られて衝突事故を起こし、この修理中、
大嵐に見舞われまたしても流されて「ウールマン」DD-687と衝突。

修理後台湾と沖縄を空襲する空母の護衛任務で遭遇した航空戦で、
6時間、約50 – 60機の日本軍機の空襲に見舞われた「ザ・サリヴァンズ」は
日没後右舷から低空で接近してきた一式陸攻始め敵機5機の撃破に成功。

この空襲は夜間に及び、日本機はチャフを撒きながら照明弾を投下、
これに対し米艦隊が展開した煙幕の中、戦いは行われました。

この結果、重巡「キャンベラ」「ヒューストン」が雷撃で損傷しています。

損傷した両艦の護衛中、銀河1機を撃墜。
航空機マーク8/8

レイテ沖海戦

10月20日、日本側の空襲を受け、一式戦闘機1機撃墜。
航空機マーク9/8??

11月25日、対空戦闘で1機撃墜。
航空機マーク10/8??

12月18日コブラ台風に襲われるも、煙突のシャムロックのおかげで被害なし。

1945年 硫黄島、沖縄、本土攻撃

東京、その他本土空襲の任務に参加。
硫黄島地上目標を攻撃。

海戦で損傷した「ハルゼー・パウエル」護衛中接近する銀河を撃墜。
航空機マーク11/8??

沖縄攻撃中同行の「バンカー・ヒル」に特攻機が突入し大炎上。
破壊の酷い区画から炎に追い立てられた166名の乗員を救出しました。

別の日、九州を空襲中、特攻機の攻撃を受け、1機を撃墜。
航空機マーク12/8??

これが第二次世界大戦最後の戦闘となったわけですが、
カウントしていくと、ここにある旭日旗の数を4機もオーバーしています。
旭日旗を12も描くのは大変だったので、省略したとか・・まさかね?

 

デッキを後方に歩いてくると、「リトル・ロック」と並んだ
「ザ・サリヴァンズ」の曲線を帯びたシェイプの艦尾を眺める位置にきます。

デッキは気候が良いとのんびり艦を愛でながら憩えることができ、
そんな観光客のために季節にはプランターに花が植えられます。

これは爆雷投下のためのラックです。
左側のカバーをかけてあるものはエリコン銃だと思うのですが・・。

後部甲板には5インチ単装砲が2基高低に配置されています。
現役時には5基装備していましたが、展示艦になってからは前後2基ずつ計4基です。

兵装はこの他ヘッジホッグ対戦迫撃砲があるはずですが、外からはわかりません。

朝鮮戦争の時「ザ・サリヴァンズ」は横須賀を根拠として
そこから海上封鎖や地上攻撃任務に出撃しています。
その戦闘中、彼女は雨霰と地上砲撃を受けましたが全く被害はありませんでした。

二つの戦争を通じて、味方艦との衝突はあっても、敵の攻撃を全く受けず、
生き残ったことを、乗員たちはマジで幸運のクローバーのおかげと思ったに違いありません。


最後に、命名のもとになったサリヴァン家関係の話をもう少ししておきます。

亡くなった5人兄弟のうち、五男のアルは20歳にもかかわらず結婚していて、
しかも息子がいました。

彼は長じて海軍に入隊し、祖母が進水を行ったUSS「ザ・サリヴァンズ」の乗員となっています。
そして二代目となる同名のミサイル駆逐艦の進水を執り行ったのは彼の娘、つまり
アルの孫にあたるケリー・アン・サリヴァン・ローレンでした。


また、なぜサリヴァン兄弟が全員海軍に入隊したのか、
その本当の理由が次のことからわかりました。

彼ら男兄弟には一人だけジェヌビエーブという姉妹がいたのですが、
彼女は長兄、次兄と同時期に海軍入隊してWAVEとして真珠湾基地に勤務しており、
職場恋愛で水兵ビル・ボールと付き合っていました。

そして真珠湾攻撃発生。
USS「アリゾナ」勤務であったビルは、このとき戦死します。

サリヴァン家の男たちが全員海軍に入隊したのは、愛する姉妹、
ジェヌビエーブと彼女の恋人の復讐のために日本と戦う決意をしたからでした。


彼らの名前をつけられた「ザ・サリヴァンズ」は兄弟の意思もまた受け継ぎ、
日本に対し十分と言えるほどの復讐を果たして、戦争を終えました。

そして、アメリカが新たな敵に立ち向かうことになったとき、
彼女が向かったのは、かつての敵国である日本だったのです。

彼女が横須賀を根拠地としていた時、基地にある国防省管轄の小学校には
サリヴァン兄弟に敬意を表してその名前が付けられることになりました。

「サリヴァンズ・エレメンタリー・スクール」
Sullivans elementary  school

は、今でも第七艦隊関係者の子弟が通う基地内の小学校として存在しています。

 

続く。


 

「From 1776 to Tomorrow」〜バッファロー・エリー郡海軍軍事博物館

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というわけで、エリー湖のほとりに偶然発見した海軍軍事博物館、
係留展示されている軍艦三隻をご紹介し終わりました。

当施設の名称がNaval&Military'sとなっているのは、
本日ご紹介する予定の陸空軍の装備も展示されているからです。

湖岸の遊歩道には基本的に最初に紹介した、軍人の顕彰碑、
軍艦の慰霊碑などが並んでいるわけですが、そこは実は
この「ミリタリーパーク」の奥で、わたしが車を停めたところから
ずっと進んでいくと、そこにはパークの入り口があるのです。

そこには向かい合った二つの建物があり、平常時であれば内部では
戦争に関する博物館になっているのではないかと思われました。

大きなドーム状の建物の中では、なにやら大掛かりな工事中だったので
春の再開予定に向けて装備をレストアしているところかもしれません。

煉瓦造りの建物のエントランスには、プラークが並んでいました。

左から右に:

第一次世界大戦地元民戦死者顕彰碑


↑陸軍第74大隊顕彰碑

  106th Field Artillery Regiment Memorial image. Click for full size.

↑米陸軍第106野戦砲兵大隊顕彰碑(第一次、第二次世界大戦参加)

バッファロー騎兵部隊

騎兵隊は、第一次世界大戦ではTrench Motor Battery、
塹壕迫撃砲部隊となって戦っていたようなことを書いてあります。

下段左から右に:

第102沿岸砲兵(AAセパレート)大隊顕彰碑

オーストラリアに展開していた砲兵大隊で、あのマッカーサー将軍が
フィリピンから脱出してオーストラリアに到着した時にお迎えしたのは
この部隊のメンバーであったということが伝えられています。

ニューヨーク州兵 第127戦車部隊50周年記念

1997年に結成50周年記念として作られました。

↑第二次世界大戦で命を捧げた米国商船隊(マーチャント・マリーン)の
全ての父と息子たちの思い出のために

Northeast View image. Click for full size.

そして最後の碑には:

アメリカ合衆国の理想を守るために戦った全ての人々のために

ユダヤ人ヴェテランの会がこれを寄贈しています。

軍艦をバックに空軍の戦闘機がこんな風に見られる博物館というのも
ありそうでないかもしれないと思ったり。

これはわたし的には絶対どこかで見ているはず、と思ったら、やはり

マクドネル F-101Fブードゥー戦闘迎撃機

でした。

1954年に初飛行で音速突破を記録した双発の長距離戦闘機で、
低翼配置、後退翼、エアインテークは主翼の付け根にあります。

登場した当初はマッハ1.7を誇り当時最高速の戦闘機でしたが、
風速でマッハ2クラスの戦闘機が続々と現れてしまい、(誰うま)
「最速」の座をあまりに早く明け渡してしまいました。

あまり有名でないのはこのためだと思われますが、まあそもそも
マッハ2が出るかどうかというのは戦闘機の最優先事項ではない、
ということでそのことはよしとしても、(よくないけど)
この写真を見ていただければお分かりのように、水平尾翼を垂直尾翼の上に
T字上につけてしまったというのが致命的なミスで、これが
詳しいことは省略しますが、しばしば回復できない失速を起こし、
戦闘機としては致命的な運動性能の低さにつながってしまったそうです。

運用の結果事故率が大変低かったのは、この性能のため、
操縦にかなりの制限を設けたせいだったとかなんとか。

同じニューヨークのエンパイアステート博物館で見た「ブードゥー」も、
たしか州兵で使用されていた機体だった記憶があります。

この角度から撮るとウェポンベイの作りがよくわかります。
これは半埋め込み式なので、扉がなく、機外がわに半埋め込み式で
この写真に写っているように2発、これと別に2発内部に搭載できました。

機外搭載ミサイルを撃ち尽くすとミサイルのラックが回転し、
機内側のミサイルが露出する仕組みになっています。

長距離戦闘機として開発されたはずなのですが、これも設計ミス?
増槽はミサイル発射時にブラストが直撃し吹き飛ぶ恐れがあったため、
ミサイルと同時に搭載しないか発射前に投棄が必要となる制約があったとか(´・ω・`)

という戦闘機なのであまりたくさん生産されなかったわけですが、
そういうのがなぜここにあるかというと、一部は州兵で運用されていたからです。

当博物館の展示機は1971年から1982年まで

ナイアガラフォールズエアステーション Niagara Falls 

ニューヨーク空軍州兵の第107戦術迎撃機グループ

「レインボー戦隊」🌈

によって運用されていたそうです。

 

ちなみに「レインボー戦隊」でアヒったら、
こんなものしかでてこないんですが・・・・。

レインボー戦隊ロビン 【概要・あらすじ・主題歌・登場人物 ...

気を取り直してRainbow squadronでダックったところ、
第一次世界大戦のために創設され、第二次世界大戦時にマッカーサーが
アクティブにした陸軍州兵第42歩兵師団のことであるのがわかりました。

戦歴を見るにかなりの精強部隊で、ドイツ軍に恐れられていたという話もあります。
ダッハウ強制収容所を解放した部隊ということにもなっているようですね。
最初に発見したのは日系人部隊だったとわたしは思っていますが。

ニューヨーク州の管轄であることから、911同時多発テロ事件発生後、
グラウンドゼロでの復旧作業現場やニューアーク空港の警備を行ったりしています。

ここに展示されているF-101は、レインボー戦隊運用中、ナイアガラの滝の上の虹を表す
赤、青、黄色のマークが尾翼にペイントされていたということです。

ノースアメリカン FJ-4B「フューリー」

空軍F-86「セイバー」ジェットの海軍バージョンです。

海軍の戦闘機なので、バックに軍艦がいるとしっくり見えるんですね。
気のせいか。

低高度攻撃のために5基のマーチン製ブルパップBullpupミサイルと、
機首に4基の20mm砲を搭載していました。

AGM-12D Bullpup missile on display at Air Force Armament Museum.jpgbullpup 

ライトターボジェットエンジンを搭載しており、このため
海面で680mphの最高速度を出すことができました。

航空機の横にはPTボートっぽいものがいました。

PTF-17

なんだかタイムリーだなと思ったのは、このPTボートのクラスは
「トランピー」Trumpyだということです。

トランピー級高速巡視艇は、1968年、メリーランド州アナポリスで進水しました。

長さ:80フィート4インチ(2450cm)
ビーム:24フィート7インチ(753cm)
ドラフト:6フィート10インチ(186cm)
重量:69トン
兵装:40mm砲×1 20mm砲×2 .50口径機関銃×1

PTボートは「パトロール・トルピード」=哨戒魚雷艇ですが、
PTFは高速巡視艇(ファースト・パトロール・ボート)の略です。
2基のネイピアデルティック3100馬力ディーゼルエンジンを搭載した高速船で、
最大40ノットの速度で航行することができました。

ベトナムでは、PTFは沿岸および内陸水域をパトロールするために使用されています。

PTF-17は退役直前バージニア州に搬送されて、そこで
シカゴ近郊の五大湖海軍基地に本部を置く沿岸河川師団21に配属されていました。

退役後の1979年に戦車揚陸艦USS「フェアファックスカウンティ」が
親善クルーズで五大湖の都市を訪れた際、このボートを乗せてノーフォークから
バッファローアンドエリー郡海軍軍事公園に到着してきたということです。

軍事公園というだけあって、陸軍の戦車まであります。

陸軍M-41戦車

この軽戦車はクリーブランドで特別に建設され、朝鮮戦争で利用されました。
重量は22.3トンで、76mmの大砲を装備しています。

「ウォーカーブルドッグ」の愛称で呼ばれていたということで、その名前は
朝鮮戦争第八代目司令官で交通事故死したウォーカー中将に因んでいます。

日本国陸上自衛隊でも採用していたタイプです。

公式ページには解説がないのですが、これはナイキミサイル(ヘラクレス)ではないかと思われます。

MIM-14 Nike-Hercules 02.jpgね?

陸自でも活躍しているヒューイくんにナイアガラで再会できるとは・・。

UH-1「ヒューイ」

「元々の名称は「イロコイ」または「グリフォン」として知られていました。
プロトタイプは1956年に初飛行、1973年までに7,000以上が製造され、
米軍のすべてのブランチおよび他のほとんどの連合国で使用されていました。

通常、2〜4丁の機関銃または48発の無誘導ロケット弾で武装していました」

・・・と、過去形で書かれている上、

「ヒューイ」は常にベトナム戦争の象徴として記憶されています。

アメリカではそうなんですけど、日本ではバリバリ現役なんですがこれは。

「ロサンゼルス」級潜水艦USSボストン(SSN-703)の一部が展示されています。

「ボストン」はマサチューセッツのボストンに因んで名付けられました。

「潜水艦の故郷」であるグロトンにあるエレクトリックボートで
1973年にアメリカ海軍の7番目の原潜として誕生しました。

しかし、1999年、国防予算軽減法案のため、多くの「ロスアンゼルス」級の
姉妹と同様、中年期の原子力燃料補給を与えられず、海軍隻を抹消されました。

セイルと上舵は、不活性化のあとここに運ばれてきたというわけです。

「ボストン」は現役中大変優秀な艦であり、その乗組員は、
功績のあるサービスと卓越したパフォーマンスによって、何度も表彰されました。

その数ある賞には、太平洋艦隊と大西洋艦隊の2隻にしか贈られないという
「アーレイバーク艦隊賞」と「マージョリーステレット戦艦基金賞」
が含まれています。

展示されているセイルには、歴代艦長の名前を記した記念プラークがありました。

「From 1776 to Tomorrow」1776年から明日まで

「ボストン」のマークには独立戦争の兵士が描かれています。

この「1776年」を今回この時期に目にしたこと、わたし個人としては
何かの偶然にしても「はっ!」と思ってしまったのはここだけの話。

 

窓の中にはおそらく受賞した名誉賞の紹介と艦歴が書かれたものがみえますが、
大変残念ながらガラスがあまりにも不透明でこれ以上は写真に撮れませんでいた。


同博物館には他にも室内展示品などもあり、それらもいつかは
再オープンすれば観にいくことができるかと思います。

いつになるかはわかりませんが、必ず観てきてここで紹介しますので、
その日がくることをわたし自身も楽しみに待ちたいと思います。

 

バッファロー・エリー郡海軍軍事博物館シリーズ終わり

 

ピッツバーグにて〜2011年1月16日の「意味」

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令和3年1月15日には、海上自衛隊東京音楽隊の
第61回定期演奏会が行われました。

これをご覧の方の中にも貴重な演奏を聴くことができた
ラッキーな方がおられるかもしれません。

去年のチャイナウィルパンデミックが発生して以降、
さまざまな行事が自粛によって中止されてきたわけですが、
なかでも個人的に最も残念だったのは東京オリンピックでした。

はっきりいってオリンピックというものになんの幻想も抱いていないわたしは
商業イベントの一つが消しとんだくらいの感覚しかないのですが、ただ、
陸海空自衛隊音楽隊がセレモニーで演奏することだけを楽しみにしていたので。

 

秋の大イベント、自衛隊記念日の観閲式も音楽まつりもなくなり、
音楽隊の隊員の皆さんはどのようにモチベーションを保っているのか、
と折に触れては心を痛めていたわけですが、アメリカに来てから
東京音楽隊定演の招待状を頂いたことを知らされ歓喜しました。

そして、喜び勇んで返事をどうするか聞かれてろくに日付も確かめずに
行くから出席で返事出しておいて、と一旦返事したのですが、
よくよく見ると、演奏会は帰国の1ヶ月前ということがわかりました。

こちらには家庭の事情&飛行機便数の激減で帰国が後ろにずれ込み、
2月半ばまで帰れないという状況なので、話にもなりません。

というわけで無念さに涙を呑みながらも、定期演奏会が再開されたことを
心から喜び、その成功を遠いアメリカから祈る次第です。

さて、こちらですが、大雪が降ったのは到着した次の日だけで、
案外積雪はない地域なのだとあらためて知りました。

夏の間散歩していたシェンリー公園ですが、雪が溶けた後、
この池に全て水が流れ込み、水嵩が増えて大変なことに。

池の周りの遊歩道が全て水没してしまっていました。

夏でも滅多に人とすれ違うことのない散歩道は、冬なのでこの通り。
本当にアメリカに来てからは、お店とホテルのフロントくらいしか
人と接触することはないので、少なくとも感染リスクは大変低いです。

雪が降っていた頃はまるでスキー場のようだったゴルフ場。
なんか有名なゴルファーの名前が冠されているそうですが、
夏からめっきり人を見なくなっていました。

この日はプレイに来る客がいたようです。

考えたらゴルフって三密を避けるにはもってこいのスポーツですよね。

1月15日、MKが学校でコロナ検査(唾採取型)を受けた時、
わたしもキャンパスに行ってみましたが、ご覧の通り。
授業の正式な開始は2月1日からで、もちろんオンライン授業が主体です。

夏の間授業がなくても営業していたデリ&カフェ「エントロピー」(笑)も
硬く扉を閉じて、というか建物自体施錠されてしまっていました。
これはアメリカの大学には大変珍しい事態です。

今回アメリカに来て、街中に出ている人が本当にいないのに驚愕しています。
飲食店はほぼ全部ダインインは中止してテイクアウト営業のみ、
衣料を扱うデパートなどは開けていますが、今回は夏以上に人がいません。
お洒落をして出かける機会もないのにファッションなんて、という空気が蔓延し、
人々の購買意欲も駄々下がりしているように思われました。

ただ、ホールフーズなどの食料品店は順調すぎるくらい人が来ています。
カートを消毒し、店内の人数を制限するという措置を取っているので、
クリスマスイブの日は外で2〜30分並んで待たされました。

こちらにわたしが来た最大の目的は冬休み中のMKの身柄確保と、
引越し荷物全ての引き取り、そして新学期から移るアパートへの引っ越しの手伝い。

ここがしばらく入居する民間のアパートです。築100年越えの当たり前な
この辺のアパートの中では異様なくらい?新しい物件。
延々と続く廊下の突き当たりが割り当てられた(自分で選べない)部屋でした。

まず居住する個室ですが、ちょうど日本のホテルの一人部屋より一回り広い感じです。
ベッドと机は最初からついていて、ベッドのマットレスはなぜかテンピュール。
初日は荷物を入れて左側の家具を買ってきて組み立てたりしていました。

必要な家具などを調達するためにはアイケア(IKEA)へ。
IKEAに行くことなど久しぶりでワクワクしてしまったのですが、
キッズケアルームはもちろんカフェも営業していませんでした。
皆粛々と通路を通り、買うものを買ってセルフレジでお勘定をして出ていくという感じ。

せっかくなのでデリで久しぶりにスウェーデン肉団子を買って車で食べました。
クランベリージャムが合うんだよね。

彼の部屋からの窓の眺めは東向きでこんな感じ。

部屋のタイプは二人部屋でルームメイトがいます。
当初、MKは自分の知り合いとルームシェアをするつもりで申し込んだのですが、
部屋が空いておらず、見知らぬインド人と同室になりました。

インド人はMKと同じ大学の院生だそうで、このアパートの先住民なので
すでにリビングの前の部屋を陣取り、リビングルームにものを並べまくり、
冷蔵庫にいろいろ貼りまくっていてわたしは思わずムカっとしたのですが(笑)
我々が荷物を入れた次の日には片付けてくれていました。

わたしならどんな事情でも赤の他人と同居などとても耐えられませんが、
MKはこれまでの学生生活でルームメイトとの付き合いには慣れています。

最初にリビングをのぞいて思わず声を上げてしまいました。
なんかまるでニューヨークのリッチな実業家の家みたいな窓です。

しかし、後から聞くと、これはたまたま割り当てられたのが角部屋だからで、
自分で好きな部屋を選べない以上、ただラッキーだっただけだと知りました。

二人部屋の全面積は80フィートスクエアで、大変広いわけですが家賃は1200ドル。
学生の下宿にしては高いとはいえ、日本で10万ちょっとの家賃で
こんなところに住めるかというと、かつて自分の住んでいたところを思い出してもありえません。

コロナのこともあるし、秋からは一人部屋を申し込みさせる予定なので
そうなればこんな眺めは望めませんが、この部屋が
夏まで楽しめるというのは羨ましい限りです。

 

ところでMKの学校に行ったら例の塗り替え柵が

「ブラックボーツマター」

になっていて、なんじゃこれ、と呆れました。
どこの国も大学生ってこんなですよね。
(実はリベラルvs保守的家庭内思想対立がうちでも親子であったりする)


ところで、年が明けてナイアガラ旅行の報告が終わってから、このブログのアップが
しばらくストップする事態になったのは、雑用が忙しいことに加え、
現在のアメリカの状況を追うのに毎日怒涛のような情報に目を通しているだけで、
他のことをする気力がなくなっているせいでもあります。

 

最初に書いたように、街の様子には何かが起こっているようなものは何もありません。
むしろ人々が外にいないことで死んだように鎮まりかえっているように見えますが、
実は、多くのアメリカ人が今息を凝らすようにして、アメリカという国の行方を
見守っているのではないかとわたしは思っています。

 

夏の選挙の頃から、住宅地に「売電・鉤素」の札を立てている家は
市内でよく目撃していましたが、「花札・ぺん酢」の札は見たことがありませんでした。

噂によると、もしそんな札を立てようものなら家が襲撃されかねないからだそうです。
しかし、郊外の一軒家は堂々と花札支持の札を立て、また、軍人の車は
それを表明した上で支持のプレートを貼って誇らしげに走っていました。

 

そして今回の選挙で実は売電より圧倒的に多かったといわれる一般の花札支持の人たちは
名前の札の代わりに家にアメリカ国旗を掲揚しているようです。

散歩に行く公園の近くは、「売電・鉤素」「BLM」「ボートブルー」などの札が多く、
一見密集地域のようですが、その一角に一件だけ、星条旗を揚げている家があります。

不思議なことに前者と星条旗は共存しないようなので、わたしは密かに
この家は花札支持なんだな、と思っています。

 

ところで、ネットの記事を追っておられる方ならご存知かと思いますが、
1月16日、前大統領小浜市について色々と「ゲート」が発表されるらしいですね。

わたしは小浜がいたというカリフォルニアのリベラルアーツ大学を
MKの大学選びのときに見たことがあるのですが、
そのときに飾ってあった彼の学生時代の写真を見て、なんとなく、
胡散臭いというか、世間で喧伝されているような清潔で清廉な人間の面影など
微塵も感じられず、心の警報機が「こいつは怪しい」鳴り響いた記憶があります。

色々総合して、あのときの自分の嗅覚は当たっていたかもと今思っています。


さて、ここで何度かお話ししているように、わたしは911のときアメリカにいました。

アメリカが変わる歴史的な瞬間にアメリカの中からそれを見ていたわけですが、
今回もたまたまアメリカの歴史が大きく動くかもしれない瞬間、
ここにいることになにか不思議なものを感じています。

911のあとの報道は凄まじいものでしたが、むしろ街は死んだように静まりかえり、
人々はその中でも普通に生活を営み、人生を続けていました。

今この瞬間も、人々の見かけの様子からは何も感じ取ることはできませんが、
今回は前回と違い、多くの人々がインターネット空間で声を上げ、気付き、
メディアが伝えない情報を共有しながら事態を見守っているのを感じます。

そういえば、1月16日、116を逆さまにすると「911」ですね。
これに意味があるのか、全く偶然なのかを我々は後から知ることになるのかもしれません。


ちなみに昨日、散歩のとき空に異様な形の機影を見つけ、目を凝らすと、
機体音痴のわたしにもそれが軍用輸送機であることがわかりました。
ワシントンに州兵を派遣しているという報道もありましたが、それが
どういう意味を持っているのかはもちろん全くわかりません。

しかし、いずれにしても今、何かがこの国に起こりつつあります。

この意味は、たとえこのまま不正な選挙で選ばれたいわれる大統領が
選択されても、たとえそうでないことが起こったとしても、
どちらにせよ、昨日までのアメリカとは違うアメリカになっていく瞬間に
わたしは立ち会っているのかもしれない、ということです。

 




映画「大東亜戦争と国際裁判」〜開戦前夜から日本の進撃

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年明け早々に取り上げる映画としては少々重たすぎるという噂も一部でありますが、
今アメリカが激動しているので、あえて歴史を静かに振り返るという意味で、
ディアゴスティーニ配信の「戦争映画コレクション」の中から
あえて「大東亜戦争と東京裁判」を選んで観てみました。

 

実在の人物がそのままの名前で登場する「歴史もの」ですが、見たところ
前半の大東亜戦争部分にも(この名称をあえて掲げていることをとっても)
70年代以降の戦争映画に見られる自虐史観に染まった
「日本軍悪・戦死した人犬死・国民被害者」の傾向は全くありません。

考えるまでもなく戦後の左派映画人の思想を形成したのは、他でもない、
この東京裁判から生まれた自虐史観であるわけですが、この頃は
まだ「戦中派」が社会の大勢を占めていたこともあるでしょう。

いわゆる東京裁判史観とかGHQのWGIPなどが効力を持ってくるのは、
これによる教育を受けた戦後世代以降です。

 

全体を通して観ると、批判や同調を極力排したうえで淡々と歴史を語り、
裁判の経緯と出来事を紡いでいくという映画の姿勢には共感が持てました。

そして多少でも大東亜戦争とその後における東京裁判のことを知っている人なら、
逆に退屈してしまうというくらい淡々と語られているわけですが、
制作段階からなぜか批判が噴出しました。

火付け役は安定の朝日新聞です。

「第二次世界大戦の日本の立場を正当化し、
侵略戦争犯罪人たちを偶像化する試み」

という記事をまず掲載し、それが告げ口となって、アメリカ映画輸出協会からは
映連に制作意図に対する質問が送られてきました。
これ、どこかで見た構図ですね。

質問書の要旨は次のとおり。

「同作品の制作意図を明確にされたい」

「登場人物は実在の人物が多いがその取り扱いはどう処理しているか」

「噂では国際裁判は不当と一方的にアメリカを非難する意図があるがその点はどうか」

そして、映連は以上の事項に対してどのような脚本上の処理を行っているか、
とまあ、詰め寄ってきたわけです。

これを受けて映連は粛々と映倫による審査にのっとり、

「国際的に好ましくない点」

「日本人が交戦的に見える点」

がないように訂正を行い、その訂正後の脚本をアメリカ映画輸出協会と
アメリカ大使館に送付し「許可を得た」のち撮影を開始しています。

言論統制がまだ生きていたってことですね。

このような度重なる「検閲」騒ぎが、日本の映画を自主的にマスコミやアメリカに
「迎合する」ような自虐的傾向に導いていったことは歴史にも明らかです。

自主規制の結果どこがどう変更になったかについては、DVDに付属されていた
鈴木宣孝氏の解説をもとにストーリーに沿って解説していきたいと思います。

 

 

それでは見ていきましょう。
極東国際軍事裁判を「国際裁判」としています。

結構有名な俳優が一瞬しか出て来なかったりする
ある意味豪華キャストです。

当時の「中国」は中華民国ですので念のため。

東京裁判で日本を裁いた連合国の旗が順番に映し出されます。

これどこの旗でしたっけ。
バミューダのとしか思えないんですが・・。

東京裁判で実際に重光葵の弁護をした、このブログではおなじみ?
ジョージ・ファーネスは、最初自分から本人役としての出演を希望していましたが、
脚本の英訳がずさんだったせいで(噂ですが)、実際の脚本も
いい加減な映画だと思ったのか、辞退してきたと言われています。

「地球防衛軍」でファーネスと共演したハロルド・コンウェイも
オーストラリアのウェンライト中将にキャスティングされていたのですが、
こちらも辞退してきたため、仕方がないので「ポロック」とか「オスマン」とか、
・・つまりトルコ人やロシア人を起用する羽目になりました。

結果英語が通じない現場となり、スタッフは頭を抱えることになったようです。

■ 開戦前夜〜東條内閣誕生

日本が国内不況に困窮し満洲に新天地を求めるうえで
大陸に武力進出、これらの地域に権益を持つ欧米が
それを阻止するために蒋介石政権を助け、いわゆるABCDラインを引き、
在外資産の凍結などを行って日本を「坐して死を待つか戦うか」
の状態に追い込んだ、といきなり説明が入ります。

中国大陸に進出する帝国陸軍の・・・・シャーマン戦車? ヾ(・_・`)ォィォィ

小森白監督は、当時のインタビューで

「ABCDラインをはっきり打ち出し経済封鎖を強調するのも
日本の自衛戦争という点をはっきりしたいからだ。
裁判の結果でも分かる通り、アメリカも自衛をある程度認めている」

「映画は日本人が作っているものだからアメリカ人にとっては
イヤな面も出てくるだろう。
しかし、それと反米的とは話は別じゃないか。
外部の圧力で演出を変更するつもりはない。
アメリカで騒ぐとすれば古傷に触られるからじゃないかな」

となかなか骨太なことを言ってのけていますが、
実際にはアメリカ大使館からは、いくつかの「改変申し入れ」があり、
制作はある程度の接点を見つつ変更がなされたというのが事実です。

1929年から現在のものに機能移設するまで使われていた首相官邸。

ルーズベルト政権が突きつけてきたいわゆる「ハル四原則」、

 1.全ての国家の領土保全と主権尊重
 2.他国に対する内政不干渉
 3.通商を含めた機会均等
 4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持

を開戦を避けるために飲むかどうかについて近衛内閣では意見が紛糾しました。

1と2は要するに中国から手を引けということですが、
映画では海軍大臣(及川古志郎ー若宮隆二、割と似てる)に、

「経済的なことを考えると飲むべき」

と言わせ、それに対して陸軍大臣の東條英機が

「アメリカの意図は中国より日本の東南アジア進出の阻止にある。
平和的解決は無理である」

と反対意見を述べています。

東條英機を演ずるのは嵐寛寿郎。
彼は脚本を読んで、東條が英雄として描かれておらず、
むしろ人柄を忠実に表現していると感じ、演技においては
美化した人物と見える危険性にたいし慎重に取り組んだと延べています。

近衛首相が

「開戦は避けられないというのか」

というのに対し東條は

「わたしは戦争を欲するものではないが、陸軍としては
同胞の血を流した中国から撤退することは承服しかねる」

と答えます。
しかし大陸撤退をめぐって結局近衛内閣は瓦解しました。

その後、首班指名のために宮中において行われた重臣会議では、
やはり名前のあがっていた宇垣陸軍大将では陸軍に対する押さえが効かないので
東條英機を陸軍大臣にするという決議がなされました。

真ん中が木戸幸一侯爵(大原譲二)。
白髪に染めたつもりがなぜか茶髪になっています。

東條では戦争に舵を切ってしまわないか、と危惧するのは
廣田弘毅(清水将夫)。

実際の廣田は東條の「開戦やむなし」発言に対しては
「諒となした」とする説があるかと思えば、一方では

「危機に直面して戦争に突入というのはいかがかと思う」

と言ったという説もあります。

いずれにしても、彼が首班に立てば、自らが軍を押さえ、
事態を収集しようと務めるであろう、と重臣は東條の指名を決議しました。

「私が東條大将を後継内閣首班に推薦いたしたいと思います」

このとき、周りが東久邇宮稔彦王を首相にしようとしていたのを、
木戸侯爵はほとんど独断で東條を推し、天皇の承認を取り付けたという話もあります。

早速号外が配られる銀座の町。

■ 日米交渉決裂

アメリカが四原則を突きつけている中、難しい舵取りを
東條は引き受けたのでした。

東郷茂徳外相(林寛)が、日米交渉における我が方の意を説明します。
甲乙二案がこの段階で出されていました。

歴史家の間では、この甲案乙案が日本の運命を決したと言われます。

甲案:

1、通商無差別問題;これがまた全世界に適応されるなら我が国も承認する

2、三国同盟問題;自衛権のみだりな拡大をせず日本独自の立場より決定し行動する

3、中国大陸撤兵問題;和平成立後2年以内に撤兵を完了

2は、独伊がたとえばアメリカと戦争になった場合も干渉しないこと、
というアメリカ側の要求に対する答えです。

この甲案で交渉が妥結しなかった場合、戦争の危機を回避するため用意されたのは乙案。

乙案:

1、日本・アメリカ両国は仏印以外に武力的進出を行なわない

2、両国は蘭印において物資獲得が保障されるように相互協力する

3、両国は通商関係を在アメリカ日本資産凍結以前の状態に復帰させる

4、アメリカは日本・中国の和平の努力に支障を与える行動をしない

の4点が成立すれば南部仏印に駐屯する日本軍は北部仏印に引き揚げる

しかし来栖大使の日米交渉は遅々として進まず・・。

アメリカはこれをはねつけてきました。

「いよいよデッドロック(手詰まり、膠着状態)ですか・・・」

そこに非情にも日本を抜き差しならぬ状態に追い込む
ハルノートが突きつけられてきたのはご存知の通り。

内容は、例の四原則に加え、支那、満洲、仏印より
軍隊を無条件で即時撤兵すること、満洲政府、南京国民政府の否認、
三国同盟条約の死文化などなど。

日本にとっては国を差し出せというようなものです。

「中国からの即時撤兵ができないことはアメリカは百も承知のはず」

つまりアメリカはABCD連合で日本を葬ろうとしているのだ、
これはアメリカの日本に対する最後通牒と杉山陸軍参謀総長(松下猛夫)。

この杉山参謀長もDQN風味の見事な茶髪です。

このハル・ノートがどれほど挑発的なものであったかは、対米協調主張してきた
東郷でさえ、

「これは日本への自殺の要求にひとしい」

「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」

と述懐していることからもお分かりいただけるでしょう。

東條は中国大陸に固執していた陸軍大臣の時と違い、首相任命の際、
天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示されたこともあって、
それまでの開戦派的姿勢を変えていました。

しかし、日米交渉はルーズベルト政権の強硬な姿勢によって決裂し、
御前会議を経て日本はついに戦争の道を選ぶのです。

ちなみに、映画製作の際、当時のアメリカ大使館は、このハルノートが
日本を追い詰めたという表現さえ、

「日本の行動を正当化している」

と非難してきたということです。

当時はまだ日本はアメリカの占領下で言論の自由はないと彼らは考えていた節があります。

■ 開戦

そして日本はついに立ち上がってしまいました。
翻る海軍旗、そして高らかに鳴り響く行進曲「軍艦」。

日本海軍の軍艦がこれでもかと画面に現れます。
昭和34年当時なら、まだ軍艦に乗っていた人もたくさんいて、
おそらく彼らもこの映像を目にしたことと思われます。

本作品はカラーですが、戦中の実写映像が白黒であることから
戦中を表す部分はすべて白黒で撮影されています。

真珠湾攻撃に向かう我が機動部隊(と言われている映像)

これは空母から離艦した飛行機から後部を撮影したもので、
尾翼越しに赤城かもしれない空母が写っています。

空母の艦首には菊の紋章がはっきりと認められます。

そして東京裁判で永野修身が

「軍事的には大成功だった」

というところの真珠湾攻撃が行われたのでした。

首相官邸で開戦の詔勅を発表する東條英機。
東條在任中のときのみ、首相官邸にはラジオ演説を行うための部屋があったそうです。

海軍はその後イギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」
「レパルス」を沈没せしめ、ここに東洋艦隊は壊滅しました。

このことはチャーチルに茫然自失というくらいのショックを与えました。

こちらは日本陸軍が陥落させたシンガポールです。

マレーの虎と言われた山下奉文大将(小林重四郎)と
パーシバル中将(J・P・A・ロビンス)の会談中。

降伏を受け入れるかどうかという質問に対し逡巡するパーシバルに、

「イエスかノーか!」

有名になったこの話ですが、本人は

「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」

と否定し、むしろ話が一人歩きしていることを気にしていたといわれます。

実際は「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という趣旨を、
通訳が分からないことに苛立って放った言葉が脚色され、
武勇団のようにメディアが書き立てたのだとか。

戦争中のメディアがよくやった手ですが、これが戦後山下大将の無残な公開処刑に
回り回ってつながったのだとしたら、「百人斬り」並の罪な報道だと思いませんか。

こちらフィリピンコレヒドールに絶賛避難中のマッカーサー大将。(A・H・ヒューズ)
これからPTボートで命がけの脱出を行い、メルボルンに渡ろうとしています。

そのときタイミングよく?司令官室のラジオが
「東京ローズ」の放送を始めました。

「ハロー、バターン戦線の米軍の皆さん。お元気かしら。
あなた方を見捨てたマッカーサーは日本海軍に追われて袋の鼠よ。
すぐに日本海軍はコレヒドールに行ってマッカーサーを捕まえるかもね」

東京ローズを演じているのは、新東宝の社長の愛人だったといわれる
(女優を愛人にしたのではなく愛人を女優にしたという社長の豪語あり)
高倉みゆきです。

「そして皇居前広場で銃殺刑にされるでしょう」

司令部の者が怒ってラジオを切ってしまいますが、こんな放送を
どうして一般のアメリカ兵が好んで聞いていたかというと、
「音楽が良かったから」「声がセクシーだったから」。

娯楽が少ない戦場の兵士の心の隙間を狙った宣撫工作だったんですね。

憮然としたマッカーサーは出発のため立ち上がり、ここであの

I shall return.

をいうのですが、なんか英語の発音がすごく変。

それもそのはず、ヒューズという名前は日本向けの芸名で、トルコ人じゃないですか。

貿易の仕事で日本に来ていて声がかかったのか俳優活動をしていた人で、
このブログで扱った映画の中でも

「潜水艦イ−57降伏せず」外交官

「日本海大作戦」ロジェストビンスキー提督役

あとはクレイジーシリーズに外人役で多数出演しています。
英語と日本語ができたので、エキストラの通訳もしていたということですが、
当時は本当に日本には外国の人材がいなかったんですねえ。

今は飲食店の店員にも普通に欧米系がいたりしますが。

というわけで、イケイケの頃の日本では、
連日連夜の「勝った勝った、また勝った」の提灯行列です。

この映像に満面の笑みで写っている人々のうち、
終戦の日を生きて迎えることができた人はどれくらいいたのでしょうか。

 

 

続く。

 

映画「大東亜戦争と国際裁判」〜終戦から東京裁判開廷まで

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新東宝映画、「大東亜戦争と国際裁判」二日目です。
大東亜戦争をかいつまんで説明していくスタイルは、まるで
おさらいをしてもらっているような感があります。

高校の日本史の授業で見せたらいいのではないかとふと思いました(提案)

さて、アメリカ大使館がクレームをつけた部分は他にもあって、
それはハルノートに続き、日本大使館が最後通牒を手交するのに手間取り、
その結果攻撃が先になってしまった(攻撃より1分でも早ければよかったわけです)
というシーン。

「日本の行動を正当化する以外の何ものでもない」

という理由で削除を求めてきたそうです。

正当化も何も、大使館の事務ミスが結果的に最後通牒なしの攻撃になったのは
歴史的な事実であるというのに、削れとはいかなる言い分でしょうか。

しかし、制作側はこれを飲んだらしく、大使館がタイプに苦労するシーンは
かなり詳細に描写されていたにもかかわらず、全てバッサリカットされました。
(大使館員役の人が気の毒・・)

 

さて、前回の部分で描かれた如く、開戦以来日本は押せ押せのイケイケでした。
その頃、近衛元首相邸に吉田茂元駐英大使が訪問しています。

「今こそ平和交渉のチャンスと考えます」

この吉田茂役、そっくりでしょ?
似ている俳優がいなかったのか、一般公募で選ばれた素人さんです。
確かにそっくりですが、映像を見ると音声と口が全く合っていません。

素人の悲しさ、セリフどころか発声ですら全く話にならず、
こっそり吹き替えしたのではないかと思われます。

吉田は勝っている今こそ和平工作を行い終戦させるように勧告しますが、
イケイケの軍部(そして何より国民)の前には、近衛ならずとも
何も動かすことができなかったのは歴史の示す通りです。

■ 反撃

しかし、ここまで劣勢だったアメリカが情勢を転換させる
乾坤一擲の打開策として、帝都東京を爆撃するという
「ドゥーリトル爆撃」を慣行したのでした。

こちら帝国海軍旗艦「大和」では、聯合艦隊司令長官山本五十六(竜崎一郎)が
東京空襲をすなわち米軍の反撃が始まった、と呟きます。
そして威儀を正し、

「陛下の御ためにもなんとしても早期決戦として敵の空母を叩く」

そう、日米戦の勝敗の転換といわれるミッドウェイ海戦に突入するのです。

聯合艦隊は出撃直後、米潜水艦によって発見され、

日本機動部隊がミッドウェイに向かっていることが知られてしまいました。

アメリカ空母機動部隊はすでにミッドウェイ周辺になく、
日本機動部隊は待ち受けた罠の中に突っ込み、
開戦以来の死闘を余儀なくされた。(とナレーター)

結果、聯合艦隊は大型空母4隻を始め、機動部隊の主力を失い、
ここで大東亜戦争は文字通りの転換期を迎えてしまうのです。

そして、戦いの前線はソロモン群島に移りました。
ガダルカナル島をめぐっって死闘が繰り返される中、

山本長官はラバウルにあってアメリカの反攻を食い止めんと
陣頭指揮にあたりましたが、

無線を解読したアメリカ軍は、ワシントンのノックス海軍長官直々の
「山本を葬れ」という指令の下にP-38で長官機を待ち伏せ、
これを撃墜して我が方は聯合艦隊司令長官を失います。

その後相次ぐ敗戦に、鈴木貫太郎首相は終戦を工作しますが、
本土決戦を望む軍部はそれを退け、戦局はより絶望的な道を辿ることに。

 

このあと戦況は日を追うにつれ悪化し、サイパン島陥落後、
東條内閣は解散に追い込まれました。

アメリカの映画や漫画などで、ヒトラー、ムッソリーニと並んで
東條がまるで彼らと同じ独裁者であるかのように登場することがありますが、
任命された総理であり、政治結果を問われれば更迭される身分であることを
ほとんどのアメリカ人は知りもしなかったということになります。

そして追い込まれた日本は取ってはならない戦法、特攻を選んだのでした。

特攻隊の隊長がなぜか丹波哲郎。

人間魚雷といわれた「回天」も、若い命を乗せて散っていきました。

天一号作戦で生還を期さぬ戦いに赴く戦艦「大和」の
艦長有賀幸作中佐(菊池双三郎、似てない)。

軍令部次長、第二艦隊司令伊藤誠一中将(船橋元、
どちらかというとこちらの方が有賀っぽい?)。

なぜか大和副長能村次郎大佐に天知茂が!

と、惜しみなくちょい役に有名どころを使っている当作品です。
ちなみに、本作登場人物は述べ5千人に上ります。

大和の三人はセリフがなく、双眼鏡をのぞいているだけの出演です。

そして世界最大の不沈戦艦大和は九州南西海上に至るや、三時間の猛襲ののち沈みました。

それは同時に日本海軍の最後でもありました。

 

聯合艦隊を失い、サイパン、グアムを落とした日本本土には
連日のB-29により都市爆撃が襲いました。

「都市と一般人を攻撃することで国民の戦意を失わしめる」

というドゥーエの理論そのままに・・。

米英ソ三国が突きつけてきた、日本に対する無条件降伏の勧告、
三国共同宣言について首脳会議が行われました。

「日本から軍国主義を排除」

「日本領土を北海道、本州、四国、九州に限定」

「軍隊の武装解除」

東郷外相はこれを受け入れるべきという考えでしたが、
徹底抗戦を訴えたのが阿南惟幾陸相(岡譲司)でした。



米内光政海相(坂東好太郎)は受け入れ派です。

しかしそんなことをやっている間に、
アメリカは世界初の原子爆弾を広島に落とし、
一瞬にして三十万人の非戦闘員を殺傷しました。

三日後には長崎にも。

ソ連が日ソ不可侵条約を破って満洲に侵攻してきたのも同じ8月9日でした。

そしてついに天皇陛下のご聖断がくだりました。
日本はポツダム宣言を受諾する旨鈴木首相が閣議で告げたその夜、

つまり8月14日、阿南陸相は自宅で切腹による自決を遂げます。

8月30日、連合軍最高司令官マッカーサーがバターン号で厚木に到着しました。
彼曰く「私の国」を勝者として統べるためです。

9月2日、東京湾上の「ミズーリ」艦上で日本の降伏調印式が行われました。

降伏文書にサインする重光葵。

占領軍の総司令部はお堀横の朝日生命ビルに置かれ、
直ちに占領政策を進める一方、勝者が敗者を裁く、
軍事裁判を行うための準備を進めました。

戦犯第一号として逮捕が指示されたのは東條英機でした。

東條は妻と娘に、実家に帰っているようにといいます。

「アメリカが自由に発言する機会を与えれば、
わしは堂々と所信を述べて戦争の責任を取る。
しかし、晒し者になるようなら覚悟はできている」

そのとき、表にジープや車がやってきました。
連合国が身柄を確保に来たのです。

東條は夫人と令嬢を裏木戸から出るように促し、
兼ねてから覚悟のとおり引き出しの銃を取り出しました。

監督は登場夫人に話を聞き、その時の会話もほとんど
そのとおりに再現していますが、夫人からは

「米軍は(脚本に書かれているより)もっと荒っぽかった」

と指摘されたので、東條が自決を図るための銃声が聞こえた後は
ドアを足で蹴破るなどの演出をした、とノートにはあります。
(しかし実際にはそのようなシーンはない)

元々の脚本では、東條はこのとき、

「儂は間違っておらん・・・戦争は正しかったのだ」

となっており、撮影もされたそうですが、完成時にカットされました。
もちろんその筋の「検閲」に対し自主規制した結果です。

「儂に生恥を欠かすなと伝えてくれ」

映画ではこう切れ切れに苦しい息の下から護衛に告げています。
それにしてもこの角度、東條英機に似てますよね。

妻は生垣に屈んで、銃声が聞こえた時に
早く楽に逝かれますように、と唱えていたそうです。

その後、戦犯の逮捕が始まりました。
東條は命を取り留めましたが、米軍はこれを失態と感じ、
とにかく生きて捕らえることを至上命令としました。

近衛公(高田稔、似てる)。

弟は指揮者の近衛秀麿ですが、ヨーロッパで指揮者として活動していた頃、
ナチス嫌の彼は、たびたび彼らの意向を無視し嫌がらせを受けていました。

ある日、総理となった文麿が電話で

「ドイツ大使館からお前のことで文句いわれている。
総理の面子を保つため、お前ナチスの言うことを聞いてくれないか」

と言ってきたのに憤慨し

「弟が自分の信念を貫くために苦しんでいるのに、
そんな言い方はないだろう!」

以後、終戦になるまで文麿と秀麿は音信不通だったそうです。

次男(和田孝)が裁判の公正性から、父が罰せられることなどない、
と希望的観測を述べるのに対し、近衛は
自分の責任を痛感している、と眉を曇らせます。

おそらく彼はこの裁判に「正統性」などないことを知っていたはずです。

ここにいるのは次男ですが、近衛の長男はこの頃
シベリアに抑留されており、抑留中病死しています。

だからこそ裁判の前に自死する道を選んだのでしょう。
ドイツから帰国した弟の英麿は、兄が自殺するのではないかと
薬物を捜索したものの見つけることができず、
安心して隣の部屋で寝ていたら死んでいたということです。

青酸カリは風呂の中にまで持ち込んで見つからないようにしていたものでした。

小森監督は近衛文麿夫人にも直接話を聞いています。

戦犯指名された人々が収監されていた巣鴨拘置所はこの映画公開1年前、
最後の戦犯が釈放され、閉鎖されたばかりでした。

その後取り壊され池袋サンシャインシティになったのはご存知の通り。

ですから拘置所内部もかなりリアルに再現されています。

日本人被告たちの弁護団の会議が行われています。
その弁護方針について林逸郎弁護士が説明します。

1、日本が侵略者ではなかったことを証明すること
2、何を置いても天皇陛下への訴追がなされないようにすること

ここでアメリカの検閲に備え、当初の脚本になかったシーンが挿入されました。
弁護人島津久大(江川宇礼雄)が、国家弁護には限りがあるから、
個人の刑を軽くすることに注力すべきだと異論を唱えるのです。

それに対し林逸郎弁護士(沼田曜一)は、

「あなたは国家弁護をしないで個人の弁護ができると思いますか」

すると顔を硬ばらせて、島津弁護士は

「あなたは幾千万の血を流した今度の大東亜戦争が
正しかったと思ってるんですか」

実際に島津弁護人がこのようなことを言ったという記録はありません。
児島譲の「東京裁判」でも読んだ記憶がありません。

これに対し、戦争そのものを正しかったと思う人間はいない、しかし、
国家にも自衛権があるはずだという林に対し、島津は嫌悪感をあらわにします。

これもまた、「戦争の美化、正当化を否定する登場人物」を加える、
という配慮のもとに付け加えられたシーケンスです。

日本人弁護団団長清瀬一郎弁護士(佐々木孝丸・全然似てない)が一言。

「どちらかを優先させるということでなく、あくまで法律の立場から
今度の戦争の真の原因とその責任の所在の限度を明らかにすることが必要です」

本当に起こった論争ではないので、このセリフは創作となります。
でも、一言言わせてもらうならば、限度は向こう(勝った方)が決める、
つまりこちらにそれを明らかにする権利はないのでは?

限度をできるだけこちらの立場に有利に勝ち取るのが弁護人の仕事ですよね?

さらに、児島㐮の「東京裁判」によると、個人弁護に反発したのは
「軍人嫌い」だった滝川政次郎法学博士だったとされています。

実際の弁護団の弁護方針が一致しなかったというのは事実通りです。

いよいよ市ヶ谷において極東国際軍事裁判が開廷されました。
陸軍士官学校の大講堂が法廷に使われ、そこは一部のみ現在の場所に移設され、
市ヶ谷記念館として一般公開されています。

開廷したのは昭和21年5月3日。

国家指導者というカテゴリを意味するA級戦犯として
軍事法廷で裁かれるのは全部で28名となりました。

清瀬一郎、林逸郎を始めとする日本人弁護団。

入廷する被告たちの家族も来ています。
撮影は実際に市ヶ谷大講堂で行われたのではないかと思われます。

連合国判事が入廷する中、一人落ち着きのないのが
ご存知大川周明(北沢彪)。

「パジャマをシャツがわりに着込み、鼻水をたらしたまま
只管合掌しているかと思ったらボタンを外して胸をはだけ腹を出した」
(児島㐮:東京裁判)

開廷の宣言を行ったのは法廷執行官である
D・バンミーターアメリカ陸軍大尉です。

裁判長であるオーストラリアのサー・ウィリアム・ウェッブ
(W・A・ヒューズ、割と似てるけどイケメンすぎ)が、
開廷の辞を述べました。

「しかしながら彼らがどんな重要な地位にあったにせよ、それがために
最も貧しき一日本人兵卒、あるいは朝鮮人番兵が受ける待遇よりも
より良い待遇を受けしめる理由とはならない」

このときの有名な一節は、法に仕えるものが憎悪と復讐の感情で
裁判に臨んでいる、と取られ、米人記者ですら不快と取れる論評を残しています。

裁判が始まるなり事件が起きました。
挙動不審だった大川周明が、東條の頭を音が出るほど叩いたのです。

映像に残されているのは1回目で、軽く叩く程度であり、
東條は振り返って苦笑いしているのですが、2回目は
大川を笑わずににらんだ、と記録にはあります。

「インディアン、コメン・ジー!(ドイツ語で”こっちこい”)

このあと精神鑑定を受け松沢病院に入院した大川は、
インタビューに来たアメリカ人記者に滑らかな英語で

「アメリカは民主国家ではない。”デモクレイジー”だ」

といい、記者もケンワージー憲兵中佐も笑い転げました。

入院中彼はコーランの聖典の翻訳を見事に完了し、
月・英語、火・ドイツ語、水・フランス語、木・中国語、
金・ヒンズー語、土・マレー語、日・イタリア語でしか話さず、
精神疾患は詐病ではないかと疑いを持たれていましたが、
正式な検査により、梅毒が「脳に回った」精神障害であると認定されています。

裁判は続いて罪状認否に移りました。

 

続く。

 

 

映画「大東亜戦争と国際裁判」〜罪状認否から”天皇不起訴”の決定

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■罪状認否

極東国際軍事裁判、通称東京裁判は、
罪状認否(アレインメント)が始まりました。

罪状認否は英米法では必須の形式的な手続きで、
訴追事項に対して被告が有罪か無罪かを答えるというものです。

形式ですが、ここで「ギルティ(有罪)」と答えれば、
審理は行われず刑の量定だけが審議されるというわけです。

ABC順で最初に立った荒木貞夫陸軍大将(柴田新・似てない)は、
これが形式であることを知らされていなかったのか、

「その件につきましては弁護人より申し述べます」

に始まり、とうとうと思うところを述べはじめましたが、

「イエスかノーかだけいえ」

とつれなく遮られてしまいました。

土肥原賢二(信夫英一・茶髪)陸軍大将
(静かに)「無罪を申し立てます」

廣田弘毅元首相
「端然として『無罪』と答えた」(児島;東京裁判)

廣田の令嬢は全ての裁判に傍聴を行っていたそうです。
罪状認否は板垣征四郎陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将と続き、

松井石根陸軍大将(山口多賀志、全く似てない)
「ゆっくりと『無罪を申し立てます』」(東京裁判)

重光葵外相「アイ・プリード・ノット・ギルティ」

重光役は吉田茂役と同じく、一般公募で選ばれた素人さんです。
似ていないことはありませんが、本物の重光葵の持つ、
凄みすら感じさせるあの怜悧そうな眼差しの強さが全くないので
わたし的には低評価。

ちなみに、英語で罪状認否を行ったのはもう一人、
外相だった松岡洋右で、彼の場合

「I plead not guilty on all and every account.」

ときれ切れにこのような発言を行っています。
松岡は裁判の結審を待つことなく亡くなりました。

武藤章陸軍中将(中西博樹・かすりもしないほど似てない)
(切り捨てるように)「無罪!」

ちなみにこのときウェッブ裁判長が次々と呼び立てるので、
マイクを持つ米兵は走り回って大汗をかくことになりました。

最初から二十八人の罪状認否が済むまで9分というスピードです。

そして東條英機元首相が
(胸を張り独特の調子で)

「起訴の全部にィたいしましてェ・・・・・
私はァ無罪を主張いたします」

しかしわたし個人の意見によると、アラカンの東條は、
「カミソリ東條」といわれたあの怜悧な感じは出せていない気がします。

このとき傍聴していた軍服の男が血相を変えて立ち上がり、

「無罪とはなんだああ!それでも日本人か売国奴!」

とキレ出して、たちまちMPに摘み出されました。

もちろん実際にはなかった出来事ですが、この罪状認否が
英米法の手続きと知らず、武士道精神やらなんやらと絡めて
潔くないなどと考える日本人が案外多かった、ということを
端的に表す演出でしょう。

■清瀬弁護人対キーナン検事(とウェッブ裁判長)

実際は罪状認否の前、清瀬弁護人が、裁判所の「正統性」について
異議を申し立てる波乱が起こっています。

簡単にいうと、裁判長のサー・ウェッブKBGは、この裁判の前に
ニューギニアにおける日本軍の不法行為とされるものについて調査しており、
これは被告(日本)に関する事件の告発・起訴に関係したということに当たるので
近代法に照らすと今回の裁判において裁判官になる資格はない、ということです。

これは実はアメリカ人弁護士のジョージ・ファーネス弁護士の「作戦」でした。
もしこの映画にファーネスが出演することになっていれば、この部分は
違う演出となったのではないかと大変残念に思います。

映画ではこの申し立ては省略して、清瀬弁護人が

「ポツダム宣言に定められた条件には従うが、ポツダム宣言前に考え出された
『平和に対する罪』『人道に対する罪』は日本に適用されるべきではない」

そして、満州事変やノモンハンなど決着済みのものに対してまで起訴対象にするとか、
同盟国であったタイに対する戦争犯罪などはあり得ない、と主張したのに対し、
キーナン検事(E・P・マクダモット)が激烈に反論した部分だけが描かれています。

キーナンが清瀬博士の言葉が終わらぬうちにわりこんだり、
清瀬が台にしがみついたり、キーナンを突き飛ばさんばかりにしたり、
という実際にもあった「どつき漫才」風の相克はここで表現されました。

なかでも、

「日本国民はこの28名が裁判されるよりは
『速やかな、そして完全な破壊』の方を好んでいたのか」

という言葉は(実際はイギリス判事コミンズ・カーの発言)
つまり

勝者が敗者に報復を加えるのは当然だ

と言っているのと同じと受け止められました。

そこで登場したのが(実際は翌日)我らがブレイクニー少佐です。
ブレイクニーファンのわたしは、この配役(W・ランド?)は
あまりにも似てなさすぎて愕然としてしまったのですが、(特に頭が)
映画ではこのまったく似ていないブレイクニー弁護人、

「戦争は国際法に照らしても犯罪ではない。
ましてや国家の問題でこそあれ個人に責任はない。
当法廷には個人を裁く権限はなく、戦勝国ばかりで構成された法廷では
裁判の公正は担保できず、法廷憲章に違反する」

と述べ、さらにわかりやすくキーナン検事に

「戦争指導者を罰せずに置くことは文明の全滅を意味する」

と言わせて管轄権問題を切り捨てた法廷を再現しています。

ちなみに蛇足ですが、平沼騏一郎の弁護人であったクライマン大尉も
同じく管轄権問題を述べていますが、ウェッブ裁判長は彼に

「大声でわめかないでほしい」←

と言ってから、

「法廷ではなく判事控室で喋る機会を与える」

とやはり切り捨てて終わっています。

■ 日本を糾弾する検事の冒頭陳述

キーナン検事の冒頭陳述は、ものすごく平たくいうと、

「見せしめのためにこっぴどく戦争犯罪人を処罰する。
報復によって再発を予防するために」

というものでした。
じつに日露戦争の旅順港閉塞作戦に遡ってまで(笑)
日本の「侵略」は糾弾され、おそらく法廷の被告たちは

「そんなことまで知らんがな」

と内心思ったでしょう。

そして、冒頭陳述ではあり得ないのですが、例の南京事件が
ここで陳述されたということになっています。

聖戦を標榜していた日本のアジア解放の実態だ、と非難する論調で、
これはアメリカ大使館の申し入れに忖度する形で追加された部分でもあります。

 

ここで留意していただきたいのは、これらの告発は裁判という「法廷論争」において
敗戦国である日本を糾弾するために出されてきた事実であるということです。

言わせて貰えば、南京で起こったのが虐殺だったか戦闘行為だったかを
後世が論じるのは実に「意味のない」ことでもあります。

なぜなら古今東西戦争という枠組みの中では、いかなる国においても
残虐行為が一度とも行われなかったなんてことはないのですから。

ブレイクニー弁護人のいうところの「裁くものの手も汚れている」というのは、
人類最大の一般人虐殺である原爆投下を行なった側が被害国を裁く、
というこの大いなる矛盾を端的にいいあらわしています。

そもそも戦争に勝った側が負けた方を裁く、そんな法律は存在しません。
所詮はその大矛盾の上にこの法廷は成立していたのです。

 

まあ要するに日本はどんな「お前がいうな」的なことを言われても
裁判では甘んじて受けなくてはいけない立場だったってことです。

それが戦争に負けたということだったのです。

ここでなぜか東京裁判関係ではほぼ無名な瀧川幸辰博士(川部修詩)が、
日本の侵略を卓を叩いて激しく糾弾し始めます。

瀧川といえば、「瀧川事件」という政府による思想弾圧事件
(トルストイの「復活」に見る刑法という講演が無政府主義的ということで
文相だった鳩山一郎に罷免され、京大法学部の教授が雪崩を打って辞任した事件)
の「被害者」ともいうべき学者だったわけですが、その恨みはらさじとばかり
ここぞと裁判の証人として日本の「ファシズム」を責め立てるのでした。

この部分も後から追加されたシーケンスです。

元陸軍兵務局長、少将田中隆吉(江藤勇)の証言シーンも追加されました。
この役者は多少スマートとはいえ「大入道」とあだ名のあった田中の雰囲気は捉えています。

田中は資料をまったく見ずに細部を語り、あれを見た、これを聞いた、などと
存在しない文書や死人の証言を引きながらスラスラと、検事側の主張通りに
告発を行い、被告たちは唖然、続いて憤然となったといわれます。

彼が証言台に立った理由は主に我が身かわいさだったといわれていますが、
逆に検事側が彼を採用した理由は、ギャングと対峙してきたキーナン検事団の

「ギャングの中に協力者を求める」

という『FBI方式』によるものでした。

ところで世知に長けた田中はオフのキーナン検事を「某所」に
お連れする係を引き受けており、検事が田中にそれを催促する合言葉は

「強くなった」(英語か日本語かは不明)

だったそうです。

次に元満洲国皇帝、溥儀が出廷し、満洲国の皇位についたのは、
板垣征四郎大佐の強引な工作によるものだった、と語ります。

「東京裁判」によると実際の溥儀の証言は皆を苛立たせました。

ブレイクニー弁護人に、(映画では清瀬弁護人)

「板垣大佐と会見したときに
『故郷満洲の治安の乱れを憂い、進んで親政を行いたい』
と提案し、自分から進んで受諾する旨書簡を書いたのは本当か?」

と詰められると、そこからあとはどんな質問に対しても

「知らない」「覚えていない」

証拠としてその手紙を見せられると、悲鳴を上げて

「お願いです!これは偽造です!書いた者は処罰されるべきだ!」

と目を血走らせ、ガタガタ震え、その異様さに法廷は息を飲みました。

そのうち溥儀の挙動不審な態度は法廷をイライラさせ、
ウェッブ裁判長がそのうち言語裁定者にまでやつあたりして文句をつけだすと、
咎められたアメリカ人のムーア少佐は、

「圧迫状態にある東洋人が問題をはぐらかすのはよくあることだ」

と反抗的に言い放ち、またそれにキレた中国人検事が

「今の発言は東洋民族に対する不必要な攻撃であり、間違った理解だ」

と文句をつけだすなど場は混乱し、裁判長をうんざりさせました。
ちなみに清瀬一郎は、のちに著した「秘録・東京裁判」に、

「奇怪で不愉快な思い出」

とし、溥儀は妻を日本軍に毒殺されたとか、日本は神道を広めてそれで
宗教侵略しようとしていたとか、とにかく思いこみだけで証言していた、
もちろん証拠などは全くなかった、と苦々しい調子で書き残しています。

■ 日本側の反証

日本弁護団の反証が始まりました。
それは同時に敗北した日本の「抗弁」になるはずです。

Kiyose Ichiro.JPG

ちなみにご存じない方のために清瀬一郎の写真を貼っておきます。

このときの清瀬弁護人の何時間にもわたる「演説」を要約しておくと、

「国家の行為に対して国家の機関であったゆえに個人が責任を負うのはおかしい」

「日本はドイツのような人種的優越感ではなく、『八紘一宇』、
ユニバーサルブラザーフッドの精神の下に治者と被治者が一心になる、
ということを理想としていた」

「日本の行なった戦争はどれも原因も別なら当事者も別で、
一貫した政界征服計画によるものではない」

「盧溝橋事件の発生拡大はコミンテルンの決議にもある通り
反日・抗日運動の所産であって中国にも責任がある」

「ノモンハン事件は解決済みである、日ソ不可侵条約を破棄し、
満洲国に侵入したソビエトこそ侵略国である」

「太平洋戦争における日本の海戦は米国の経済圧迫、
米国の蒋介石政権援助による支那事変延引、いわゆる
ABCD包囲網体制から免れんとする自衛の足掻きに他ならない」

「しかも米国は日本の戦争発起を暗号解読によって予知していた」



「ルーズベルトが前もって真珠湾攻撃を知っていたのは事実であり」


「日本大使館のミスによって手交できなかったというのが本当である」


「駆逐艦ウォードが日本の小型潜水艦を撃沈したのは
日本の攻撃より前であり、日米開戦の最初の一発は日本ではない」

「平和への希求のためにこの戦争の原因を探求するとき、
それが人種的偏見によるものか、私怨の撫養と分配によるものか、
裕福なる人民、または不幸なる民族の強欲か、
これこそ人道のために究明せねばならない」

陳述中も、終わった後も、法廷は水を打ったように静まり返り、

「ひたすら、あるいは高く、あるいは低く、打ち寄せる波のように
説き進む清瀬弁護人の陳述に、息を詰めていた」(東京裁判)

また、このとき清瀬弁護人は、日本の抱いた「三希望」として

「独立主権の確保」

「人種差別の撤廃」

「外交の要義すなわち東洋平和によって世界の康寧に寄与すること」

を挙げています。

映画では意外なことに?あのブレイクニー弁護人(似てねー!)の
原爆発言もちゃんと取り上げています。

しかしさすが文明国アメリカ、なかったことはともかく、
実際に起こった発言まで映画から削除しろとは言ってこなかったようです。

ブレイクニー少佐は、当ブログがかつてアップしたこともある

「真珠湾が殺人であれば広島も殺人である。
我々は広島に原爆を落としたものの名前を知っている」

という激烈な弁論で法廷を騒然とさせ、記録をストップさせました。

 

本作では検事側が

「いかなる武器を連合国が使おうと当裁判には関係ない」

というと、ブレイクニーは

「かかる武器はハーグ条約で禁止されているため、
日本にはリプライザル(報復)の権利が生ずる」

と発言しています。

当ブログではかつてこの発言について書いているので、
もしこの詳細に興味がおありでしたら一読をお勧めします。

東京裁判の弁護人たち〜ベン・ブルース・ブレイクニー少佐

ここにも書いたように、原爆投下後の3週間の間におきた戦争犯罪は、
原爆使用が国際法違反であり報復が正当であれば不問になり、
何人かの戦犯にとって有利になる、というのがその「戦法」でしたが、
裁判長は

「本法廷は敗者日本を裁くところで連合国を裁くところではない」

のひとことでブレイクニーの発言を切り捨てました。

 

■ 東條被告の個人反証

東條英機が証言台に立つ日、巣鴨の法廷は「ハリウッドなみ」に
各メディアのライトがこうこうと照らされることになりました。

一度自決を図り、今更命を惜しむつもりのない東條大将にとって、
この法廷においての使命は、日本が犯罪を犯したのではないと証明すること、
そして天皇陛下をお守りすることであった、といわれています。

キーナン検事は日米交渉案の甲乙を出してきて、
そのどちらかでもアメリカが飲んでいたら戦争は回避できたのか、
と尋ね、東條は、こちら側の条件に「最後通牒」はなく、
「ハルノート」という最後通帳を叩きつけたのはアメリカだ、と答えました。

 

また、この映画では触れられていませんが、キーナン検事は東條への尋問で
天皇に責任はないという結論を何とか引き出そうとしていました。

米政府及びマッカーサー元帥は、占領政策を成功させるために、
そして日本の赤化防止、日本国民を掌握のために、天皇を起訴せず
安康にすることを至上目的としていたのです。

東條大将が

「(天皇陛下は)私その他の進言によって渋々ご同意になった。
平和ご愛好の精神のため最後の一瞬に至るまでご希望をもっておられた。
まことにやむを得ないが朕の意思にあらずという開戦の御詔勅であった」

と答えたとき、キーナン検事は心から満足した様子であったといわれます。

かくして天皇不起訴は正式に決定されました。
マッカーサーはウェッブ裁判長とキーナン検事を総司令部に招き、
その正式な決定を告げています。

ウェッブ裁判長ははなお釈然としない表情でしたが、
「よろしいな」という元帥の言葉に内心はともかくも頷かざるを得ませんでした。

 

続く。

 


映画「大東亜戦争と国際裁判」〜判決と処刑

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映画「東京裁判」以前に、これほど極東国際軍事裁判の内容について
史実に沿って作られた映画はなかったのではないかとわたしは思います。

記録に残された裁判における出来事と照らしても、かなりの点
忠実であろうとしている様子が窺い知れるのです。

しかし、ときおり実際にはなかったことが挿入されています。
例えば、東條英機がキーナン検事から

「(開戦を決定したことについて)間違ったことをしたと感じていないのか」

と聞かれ、

「あなたにアメリカ人として愛国心があると同様、私も日本人として
愛国の精神に基づいて行ったのである」

というシーンがありますが、東條は法廷ではこう言っていません。
実際の法廷での発言は、簡単に

「間違ったことはしていない。正しいことを実行したと思います」

というものでしたが、それに対し、キーナンが

「それではもし無罪放免になったら再び繰り返すつもりか」

と尋ねたので、ブルーエット弁護人が途端に異議を叫び、

裁判長が質問を退けたため、
東條はそれに対する返答をしないまま終わっています。

映画の東條の台詞は、このあと彼が夫人と面会したとき、夫人の勝子が

「あなたがキーナンの質問を肯定なさりはしないかと気が気ではございませんでした」

と言ったのに対し、実際に答えたという言葉から取られています。

「返答したとしても大したことはなかったろう。
あくまでも答えろというのであればこう答えるつもりであった。
全アメリカ人がアメリカを愛する如く私も日本人として
愛国の精神に基づいて行ったのである、と」

 

■ 判決

 

検事側の最終論告が始まりました。
4月29日、天皇の誕生を祝う「天長節」に始まった裁判は、
2月21日の「紀元節」に『閉幕のコーラス』に擬えられる最終論告を行う、
というのは、あるいはキーナン検事の「演出」だったかもしれません。

これも要約してみると、

「日本の戦争が自衛のためだったという主張は暴慢無礼の他ない」

「にもかかわらず日本は平和を求めたというのは厚かましい」

「真珠湾攻撃は詐欺、欺瞞、不誠実を象徴する」

「被告は誰一人として人類の品位というものを尊重していない」

ゆえに、被告たちは

人類の知る最悪刑に値する

というのがキーナン検事の論告でした。

このあと記者団に質問されると、彼は

「イエス、死刑だ。遠慮なくロープを使えという意味だ」

と答えました。
この最終論告にははっきりいって罵言に満ちた剥き出しの悪意に満ち、
被告の一人鈴木貞一企画院総裁のいうところの

「復讐心の満足と勝者の驕慢心以外のなにものでもない」

という品位のなさが横溢していました。
もっとも、キーナンの論告はまだ「まし」な方で、ソ連検事のそれは
その勢いで行くと全員死刑しかないのでは、というほど峻烈なものでした。

廣田弘毅外相夫人静子が法廷の傍聴からの帰り、
娘に向かって

「どんなことがあっても廣田の娘として強く生き抜くんですよ」

と思い詰めたように語っているシーンですが、実際には
静子夫人は裁判開廷前の1946年5月18日にすでに自宅で服毒自殺をしています。

夫人は夫が収監されて最初の面会の後、裁判の見通しを聞かされたのか

「パパを楽にしてあげる方法がある」

と家族に言っていたということです。
裁判の傍聴には二人の娘だけがきていました。

そし11月12日、判決言い渡しの日がやってきました。

判決は一人ずつ入廷して行われます。
法廷内は眩しい映画用のライトと多数の電球に照らされていました。

「被告荒木貞夫、被告を終身刑に処する」

土肥原賢治大将=絞首刑(デス・バイ・ハンギング)

広田弘毅元首相=絞首刑

実際の廣田がそうであったように、目を瞑って話を聞いています。
判決の後、廣田は傍聴席の娘たちを見遣りました。

そして実際は彼女らに微笑んだのですが、映画ではそうしていません。

廣田元首相の極刑はだれも予想していませんでした。
極刑の通訳をやりたくないので、

「助かる廣田さんをやりたいから」

とわざわざ東條と代わった二世通訳の林秀一は「あまりのことに
蒼白の顔を引きつらせながら機械的に通訳」したほどです。

板垣征四郎大将=絞首刑

「不動の姿勢で聞き、回れ右をして去る。礼はしない」(東京裁判)

木村兵太郎大将=絞首刑

「姿勢を正して聞いていた」

武藤章中将=絞首刑

「やはりそうか、という感じでうなずき、微笑して軽く黙礼した」

松井石根大将=絞首刑

「二、三度軽くうなずいた」

東條英機大将=絞首刑

「両手を背に組み、ゆったりと現れた。
わかった、わかっとる、といいたげにうなずいた」

東條は判決前日、運動場を歩きながら

「この青空を見るのは、これが見納めかなあ」

と「屈託なげに明るい声で」いい、その声に振り返った
大島駐独大使に微笑しています。

面会に来た夫人には、「七つの喜び」として

1、裁判が順調にうまくいって皇室にご迷惑をかけずに済んだ

2、東條邸が財閥に金をもらって建てられたと報道されたが誤解が解けた

3、長兄、次兄が早死にしたが自分は64歳まで長生きできた

4、これまで健康で過ごしてきた

5、巣鴨に入ってから宗教を真剣に味得した

6、日本で処刑されるので日本の土になれる

7、敵であるアメリカ人の手で処刑されること、戦死者の列に加わること

が嬉しい、と語りました。

東京裁判の判決はニュールンベルグ裁判より軽いものであろう、
と予想されていましたが、全員が有罪となり、死刑七人、終身刑十六人、
有期刑二人とニュールンベルグ以上でした。

厳しく被告たちを糾弾したキーナンですが、個人的には

「なんという馬鹿げた判決か。
重光は平和主義者だ。無罪が当然だ。
廣田が死刑などとは全く考えられない。
松井の罪は部下の罪だから終身刑がふさわしい。
廣田の罪はどんなに重くても終身刑までだ」

とその晩「ヤケ酒」を煽りながら語ったそうです。

逆に巣鴨に拘置されていた未起訴組の間では、絶対に死刑だろう、
といわれていたのが海軍の嶋田繁太郎大将でしたが、大将は死刑を免れました。

判決に対しては5名の判事が意見書を提出しています。

フィリピンのハラニーヨ判事だけはもっと厳格に処罰するべき、
という意見でしたが、インドのパル判事は全員無罪、
オランダのローリング判事は独自の量刑を述べていました。

ローリング判事の意見は

「嶋田、岡敬純中将、佐藤賢了中将も死刑にすべきだが、
畑俊六、廣田、木戸幸一、重光、東郷茂徳は無罪」

というもので、また政府の政策を実行した軍人は無罪、
という考えでした。

フランスのベルナール判事は

「起訴不起訴の権利は検事側に一方的に握られ、
裁判所には基礎を構成に指導する立場も機会も与えられず、
被告は”不当な責任”を追求された」

「天皇が一切の訴追を逃れたのは”不公平である”」

「判事国は主導権を多数派が握り、少数派国の意見は軽んじられた」

という意見書を出しました。

ちなみにフランス判事オネトは法廷でフランス語の使用を禁じられ、
これに怒り狂ったことがあり、フランス人の誇りにかけて、裁判長に対して
真っ向から噛みついたところ、「愛国者は誰であれ評価する」
というキーナン検事がこれに対し拍手をしたというエピソードがあります。


そして、ウェッブ裁判長自身も個人意見書を出していました。

「裁判所には共同謀議を犯罪にする権限はない」

「日本の被告にナチスドイツ被告より重罰を科すべきではない。
どの被告も死刑を宣告されるべきではない」

「ただし、刑は見せしめのために行うものであるから、
絞首台の上や銃殺隊の前で素早く命を経つよりも、
日本国内または国外に流刑にしたほうがよい」

「天皇は進言によって行動したとしても責任を逃れられないが、
本官は天皇を訴追すべきだったと示唆するものではない」

「つまり被告は全て共犯であり、天皇が免責されるなら被告も減刑されるべきだ」

そしてパル判事の意見書は日本文訳1219ページに及びました。
その主張は東京裁判の違法性と起訴の非合理の強調に貫かれていました。

そして、日本が戦争に踏み切ったのは自ままな侵略のためではなく、むしろ
「独断的な現状の維持」制作を取る西洋諸国によって挑発されたためである、
と弁護側の論調をほぼ全面的にしたものとなりました。

「ハルノートのようなものを受け取ったらどんな小国でも立ち上がって戦うだろう」

「原爆の投下の決定はナチス指導者の指令に近似した唯一のもの」

つまり、裁く者の手も汚れている、というのがパル判事の意見であり、
その結果が被告全員の無罪主張でした。

■ 処刑

映画では、映画的手法として、まず清瀬弁護人が執務室の窓辺にたたずみ、

「わたしは戦争を憎む」

と物思いにふけり、街角で廣田弘毅の助命嘆願署名を集める
廣田の家族と関係者、続いて東條と最後の面会をする家族の姿が語られます。

映画ですのでどうしてもドラマとして盛り上げるため(それでなくとも
裁判シーンが多く盛り上げる部分が少ないので)、娘たちが号泣したりしますが、
実際は夫人に皆に伝えて欲しいこと(皇室に迷惑をかけずに済んだことを感謝していること、
大和民族の血を信じているから前途に明るい見通しをもって死んでいくということ)
を筆記させたのち、微笑してあっさり立ち上がるなど、飄々とした風だったといいます。

そして映画と実際の大きく違うのがこの点です。
先ほども書いたように廣田元首相の妻は裁判前に自決していたのですが、
映画では判決を聞いてから命を絶ったということになっています。

そして廣田は最後まで妻の死を知らずに処刑された、ということになっています。
もちろんこれは演出です。(どうしてこの部分を変えたのか理解に苦しみますが)
廣田は妻の訃報を聞いた時も
「二度三度とうなずき、ひとことものべなかった」(東京裁判)

そして最後に家族が面会に行った時も映画のような愁嘆場はなく、ただ
となりの板垣大将と家族をチラッと見て

「まァこんなことになったのもこの軍人のバカどものおかげだなあ」

と冗談を言っていたそうですが、それでは映画として
観ているものが混乱すると考えたのかもしれません。

廣田元首相本人によると、その板垣大将のことを

「私のところにきて、あなたのような人を引っ張り込んで
誠にすまん、と頭を下げていたよ」

と話していたこともあるそうです。
その板垣大将と家族の対面も笑い声が絶えないといったものでした。

七名の死刑が行われたのは12月23日の早朝でした。
処刑の立ち会いを命じられたアメリカ対日理事会米国代表の
シーボルトは、この日が皇太子の誕生日であることに気がつきましたが、
マッカーサー元帥はこのことについて何も言いませんでした。

前日の午後11時40分、特別に用意された仏間に、
土肥原大将、松井大将、東條大将、武藤中将が入ってきました。

各自手錠をしたまま墨で署名させられていますが、
これは実際と違うような気がします。

処刑の通告を受けた時、東條大将は最後の望みを聞かれ
ニヤリと笑って

「日本人だから日本食を食べさせてもらいたい。
ついでにいっぱいやりたい。つまらぬことだが・・」

と答え、アメリカ人の所長は、

「オールライト、サー」

と答え、「最後の一杯」として紙コップに注がれた葡萄酒が
仏間で手錠をした四人(処刑を二回に分けた)に出されました。

望んだ日本酒ではなかったものの、望みが叶えられたことに
東條大将は満足そうだったと伝えられます。

11時56分、最後に松井大将が音頭をとって万歳三唱が唱えられました。

「大日本帝国万歳、天皇陛下万歳、万歳、万歳」

そして、映画ではケンワージー憲兵大佐と見られる人物に挨拶をし、
手を握って見送られています。

迷人‎⍟Q太郎‎ on Twitter:

オープレー・ケンワージー憲兵中佐。
東條大将の頭を叩いたあと、大川周明を押さえている人です。

花山勝教誨師は四名の前を念仏を唱えながら進みました。

そして刑場の入り口で「ごきげんよろしく」と握手をして別れました。
このとき、東條、松井大将は手にかけていた数珠を外し、
家族への形見として花山教誨師に託しました。

午後11時59分、四名は処刑場に入り、午前零時、
執行官が彼らの黒いフードを被せ、処刑準備完了を報告しました。

映画では東條大将はフードを外し、これから登る十三階段を凝視しています。
そしてたった一人で階段を登って行きますが、これはもちろん演出です。

12月23日午前零時1分30秒、「プロシード」という号令とともに
執行係の軍曹がレバーを引くと、轟音とともに落とし板が撥ね、
絞首刑の執行が完了しました。

「身はたとえ 千々に裂くとも及ばじな 栄ゆる御世をおとせし我は」

映画では前日に遺したとされる遺詠のうち一句が紹介されています。
残りの三句は、

「我ゆくもまたこの土にかへり来ん 國に酬(むく)ゆることの足らねば」

「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根の花薫るとき」

「明日よりはだれにはばかるところなく 弥陀のみもとでのびのびと寝む」

映画のエンディングのナレーションは次の通り。

暗いページが閉ざされ、新しい時代の若い日本が平和国家として誕生した。
もう戦いの爪痕はどこにも見られない。

しかし、わたくしたちはわずか十数年前、戦争という現実の中に経験した
数々の悲しみ、憤りを永久に忘れることはできないだろう。

この真新しいページに二度と再び戦争という文字を書き込んではならない。

めでたしめでたし、と言いたいところですが、これは改訂後のバージョンで、
最初は

「アジアの諸民族も共存共栄の夢が実を結び、次々と独立した」

「亜細亜は一つ・・・アジア民族は永遠に限りなき前進を続けるであろう」

というものであったといいます。

これが失くなったのは、誰の、誰に対する配慮だったのかということを考えると
完成後のこの良くも悪くも戦後日本の論調を象徴するような文言には
いろんな製作者の苦渋と妥協の結果が透けて見えるような気がします。

完成した映画は昭和34年の正月映画として封切られ興行的にも成功を収めました。

 

ちなみに小森監督は、後年本作について書いた文章の中で、完成映画について
アメリカ大使館から

『特に反米的には描かれていない』

といわれた、と記しています。

 

終わり

 

独立空軍創設の悲願 ”ハップ”・アーノルド〜陸軍航空のパイオニア

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アメリカ軍の航空を語っていると、いつのまにかおなじみになってしまうのが、
「ハップ・アーノルド」という名前です。
つまり陸軍航空ではそれほど重要人物なんだろうと思っていましたが、
スミソニアン博物館の陸軍航空コーナーにこの人の似顔絵があったので、
この際その経歴とバイオグラフィーを取り上げてみることにしました。

 

ハップ・アーノルド

爆撃機戦略の父

1934年 アメリカ郵便パイロット

とキャッチフレーズがあります。
パイオニアシリーズはほぼ全員が何かの「父」なのですが、
この超有名人が爆撃機戦略の父だったとはちょっと意外でした。
続いては

1911年ライト兄弟より航空を学ぶ

マーチン爆撃機による記録飛行を指揮
ワシントンDCとアラスカの往復 1934

と書かれていますが、これは彼の功績のほんの一部にすぎません。

スマイリング・ハップ

ヘンリー・ハーレー「ハップ」アーノルド
Henry Harley 'Hap' Arnold(1886ー1950)

は、陸軍と空軍の将軍の階級を保持している数少ない軍人です。

航空のパイオニア。

アメリカ陸軍航空局長(1938ー1941)。

五つ星ランクを保持する唯一の米空軍将軍。

二つの異なる軍隊で五つ星ランクを持つ唯一の将校。

これでは有名なのは当たり前といったところです。
たまたま彼がその道に足を踏み入れたのが、ぴったりと
航空の時代がちょうど開けたところであったという意味で、
航空人として彼ほど幸運な男はいなかったということでしょう。

もちろん、そのチャンスに十分波に乗れるだけの実力を
持っていたということが前提条件としてありますが。

彼の通称である「ハップ」ですが、なんと「ハッピー」からきています。
彼の写真はどれを見てもいかにもその名に相応しくほほえんでいるのですが、
これは彼が1911年、つまり飛行機の免許をとってすぐ、
スタントパイロットを務めたときのサイレント映画のスタッフが名付けたもので、
彼の妻も手紙で彼をこう呼んでいたということです。

親と妻は彼を「Sunny」と呼ぶこともあったそうですが、
ハップと言いサニーと言い、つまり彼はそういう雰囲気を持っていたのでしょう。

【初期の人生】

「ハップ」アーノルドは1886年、ペンシルバニア州の外科医の息子として生まれました。
母親はいつも楽しげに笑っているような女性で、彼は母親の影響を受けたのかもしれません。

父親は彼の兄を軍人にするつもりだったのですが、反抗されたため、
全くその気がなかったアーノルドが代わりにウェストポイントの試験を受けました。

試験の結果は補欠。
ところが、合格者が結婚するつもりであることが明らかになり、
妻帯者は入学できないという士官学校の掟により、
彼は失格になり、代わりにアーノルドが繰り上げ合格者となったのでした。

ウェストポイントでの彼の成績は、特に優秀というわけではありませんでしたが、
数学と科学系が優れていため、中間と最下位を行ったり来たりしていました。
いたずら者のグループ「ブラックハンド」のリーダーになったり、
ポロで活躍したりと、なかなか楽しい候補生生活を送ったようです。

本人は騎兵隊への割り当てを強く望んでいましたが、
成績に一貫性がなく、最終的に111名のうち66番という席次だったため、
希望通りに行かず、歩兵に任命されてしまいます。

とにかく歩兵の任務が嫌いでしょうがなかったらしい彼は、
配置に抗議するなど無駄な努力をしていましたが、説得されて
いったん歩兵任務についてチャンスを伺っていたところ、
陸軍武器科(戦闘後方支援)なら今だけ少尉に即時任官、
という条件を提示されたので、異動を申請することにしました。

しかし、その試験の結果を待っているあいだに、彼はいつからか
自分が航空に興味を持っていたということに気づくのです。

自分の努力不足とは言え、兵学校時代のぱっとしない成績のせいで
行きたい配置にもつけず、かといってここで武器科に異動したとしても
出世できるかというとどうもそうではなさそうだ。
それならば、発足したばかりでまだ誰も経験していない航空分野で
一か八かやってみようか・・・。

きっとアーノルドはそんなふうに考えたに違いありません。
そして、その「賭け」は彼の将来に最良の結果をもたらすことになります。

 

【軍事航空のパイオニアとなって】

アーノルドは信号隊への移動を要求する手紙を送り、1911年、
オハイオ州にあるライト兄弟の飛行学校で修学する命令を受け取ります。

「わーい♫」

アーノルドは他の陸軍、海軍軍人(ペリーのひ孫にあたるジョン・ロジャーズ中尉
民間人3名とともに28回のレッスンを受け、1911年5月、
初めての単独飛行を行うことに成功しました。(写真はそのころのハップ)

そして連邦航空局のパイロット証明書第29号証明書、さらに
一年後、軍用飛行士証明書第2号を受け取り、
1913年に新しく制定された軍飛行士のバッジ着用を許可された
最初の24人のうちのひとりになりました。

その後単独飛行を数週間経験したアーノルドは、新しく設立された
航空隊信号部隊で陸軍の最初の飛行教官となって後進を指導しました。

この頃の航空に人が少なかった理由は単純でした。
要は飛行機という乗り物そのものに安定性がなく、ともすれば
死にあまりにも近い、トゥー・デンジャラスな職種であったからです。

その危険を承知の上で、自らパイオニアになることを選んだ飛行士たちの多くは
自分のミスではない事故で、しばしば命を落としていきました。

 

アーノルドと一緒にパイロットの資格をとったペリーの曾孫ジョン・ロジャーズも
45歳の若さで機体が川に墜落して亡くなっていますし、彼の兵学校の同級生、
またライト航空スクールのパイロットも立て続けに墜落事故で死亡し、
彼自身も不時着事故を起こしたこともあって、この頃からアーノルドは
激しいPTSDを発症し始めています。

そしてついに訓練中海に墜落し、顎に裂傷を負うという大事故を起こしました。

きっと、もうダメ俺限界、という状態だったに違いない彼に、
陸軍から無情にも「その年の最も優れた軍事パイロット」を決める
マッケイ・トロフィーというコンテストに参加せよという命令が下ります。

命令とあっては拒否するわけにもいかず、出場した彼は見事優勝しました。

しかしその1ヶ月後、飛行中激しい乱気流に巻き込まれ、スピンに陥るも
機体をリカバーして立ち直り、死を免れるという経験をした彼は
着地するなり休暇を申請しています。

これはいわばマイルドな任務拒否というものでしたが、当時パイロットが
死と隣り合わせの危険な任務というのは共通認識だったため、
その点理解のあるアメリカ軍での申請はあっさりと認められ、
その任務拒否を咎められることもありませんでした。

このあと彼は約3年間飛行任務に就かず、結婚して子供を設け、
大隊長の副官という任務でフィリピンに駐在していましたが、帰国後、
元同僚からの励ましを受け、4年間の間に急激発展した
シンプルな飛行制御システムを持つ安全なカーティスJNトレーナーで
1日15〜20分だけ空に上がり、結果、恐怖を克服し、2ヶ月後、
彼は再びJMA(ジュニア・ミリタリー・アビエイター)の資格を得ています。

 

1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦した時、彼は
フランスへの派遣を希望しましたが、航空セクションは
ヘッドクウォーターとしての彼は資格なしと判断したので、
その要請は聞き入れられませんでした。

彼の昇進は全体的に無茶苦茶で、1917年6月少佐に昇格、
2ヶ月後の8月に大佐に昇格したとおもったら1920年6月大尉に降格。
と思えば翌月7月にまた少佐に昇格という具合でした。

自分の階級がなんだったかわからなくなることもあったのでは、
というくらい上下動を繰り返しています。

1918年、やっぱりスマイリング

【ビリー・ミッチェル裁判】

ここでまた再び、あの独り十字軍、ビリー・ミッチェルのことを語らなくてはなりません。

陸海軍から航空を独立させようとするミッチェルの野望は、
当時の航空関係者を巻き込み、ある意味踏み絵を踏ませることになりました。

1918年5月20日、航空部隊は信号隊から分離されることがになりましたが、
あくまでも地上部隊の統制下にありました。

当時の戦争省参謀、野戦砲の将軍であったチャールズT.メノヘール少佐が

「軍事航空は単に(軍隊)の武力以外の何物にもなり得ない」

という立場だったからです。
そしてメノヘールの後任になったのが「あの」メイソン・M・パトリックでした。

パトリックが59歳であるにもかかわらずパイロットの資格を取ったこともあって、
空軍の擁護者であり、独立空軍の支持者であったというのは前述の通りですが、
彼は単一の統一空軍を創立する(ついでに海軍を廃止する)という急進的な
航空サービス副局長のビリー・ミッチェルと頻繁に衝突せざるを得ませんでした。

アーノルドはというと、こちらは完璧にミッチェル支持派だったため、そのせいで
パトリックとの関係は最悪のものになり相互に嫌悪し合うことになります。

その後彼は、わたしがいつもサンフランシスコに滞在中散歩する(笑)
クリッシーフィールド飛行基地の司令となりますが、私生活では胃潰瘍、
左手の3本の指先の切断などの深刻な病気と事故を経験したうえ、
妻と息子にも深刻な健康問題が起こります。

息子ブルースを猩紅熱、4人目の子供ジョンを急性虫垂炎で亡くし、
アーノルドと妻のビーは喪失の痛みから立ち直るのにほぼ1年を要しました。

1924年、パトリックは犬猿の仲であるはずのアーノルドをなぜか抜擢し、
航空サービスの情報部門でミッチェルの補助につけました。

その後、ミッチェルが「シェナンドー」の事故について海軍を激しく非難し、
それが理由で軍法会議にかけられたとき、アーノルドはミッチェルを擁護すると
昇進に響くと警告されたにも関わらず、カール・スパーツ、アイラ・イーカーと共に
ミッチェルのために証言を行っています。

結局裁判でミッチェルは有罪判決を受けたわけですが、アーノルドらは
情報部のリソースを引き続き使用して、理解のある国会議員や航空部門各所に
ミッチェルに成り代わって航空群設立のための運動を行いました。

その報告を受けた戦争省がパトリックに犯人を見つけて懲戒するよう命じ、
すでにアーノルドらの活動について知っていたパトリックは
代表(見せしめ?)としてアーノルドを呼び出しました。

「君たちのやっていることは上に筒抜けだ。
辞任するか、軍法会議で裁かれるかどちらかを選べ」

「それじゃ軍法会議で」(あっさり)

パトリックはその答えにたじろぎます。

一般世論ではミッチェルの裁判で彼を擁護する声が圧倒的に多く、
海軍上層部が裁判で負ける可能性もあると危惧したからです。

仕方がないのでパトリックはアーノルドを航空の主流からはずし、
第16観測飛行隊の指揮官に「左遷」することにしました。

報告書には

「アーノルドは陸軍の一般秩序に違反したとして懲戒処分を受けた」

と書かれていたようですが、すぐに彼はその評判を挽回しました。

彼自身の努力というより、時代がミッチェルの正しさを証明したからです。

 

 

このころ、一人息子を設けたばかりの彼は、少年向け小説を出版しています。

「ビル・ブルースシリーズ」

と名付けられた6冊の本は、少年たちに航空に興味を持たせる内容でした。

 

アーノルドの昇進はミッチェル事件があってしばらく止まっていましたが、
1931年に中佐となったあと、2度目のマッケイ・トロフィーを受賞したこともあり、
1935年には二階級特進していきなり准将、3年後に少将へと順調に出世しています。

航空分野で彼の世代に他にほとんど人がいなかったからという理由もあるでしょう。

 

【民間人虐殺の汚名〜第二次世界大戦】

1941年6月、日米開戦前に中将に昇進したアーノルドは、開戦後
1942年に組織されたアメリカ陸軍航空群の司令官に就任し、またもや
1年を待たずに大将に、1944年に陸軍元帥に昇進しました。

人がいないせいか、戦時ゆえに特進もありだったのかわかりませんが、
一つ確実なことは、空軍力が戦争遂行において最も重要なものになるという
ミッチェルの予言は間違っていなかったということであり、
アーノルドの出世によってミッチェルの無念も晴らされたということでもあります。


さて、日本の民間人居住地域を狙った米軍の都市空襲は、日本人にとって
カーチス・ルメイの名前と共に最悪の戦時記憶として残っているわけですが、
元々この大規模で継続的な空爆ならびに焼夷弾の使用を最初に言い出したのは、
ルメイではなくこのハップ・アーノルドでした。

彼は科学者から

「焼夷弾の使用についての人道的側面について勘案すると
その使用の決定は高レベルで行われなくてはならない」

という提言を受けていましたが、上層部に判断を問うことをせず、

「トワイライト計画」「マッターホルン作戦」

として立案し実行に移しています。

そして、ヘイウッド・ハンセル准将から実行指揮官をカーチス・ルメイに変えました。
ハンセルは戦後、自分の罷免は精密攻撃から無差別爆撃に変えるためだった、
と語っていますが、それが真実だったかはともかく、アーノルドは
ドレスデン爆撃についても

「ソフトになってはいけない。
戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」

と言い切り、また、東京空襲を行う部隊を前に、

「君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。
そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。
”日本の兵士たちめ。私たちはパールハーバーを忘れはしない。
B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ”と」

と演説し、日記には

「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」

「ジャップを生かしておく気など全くない。
男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。
ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が
完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」

などと書いています。
つまりバリバリの「タカ派」であり「差別主義者」であり「非人道主義者」です。

英語のwikiにさえ、

「彼は民間人を無差別に虐殺した汚名を後世に残すことになった。」

と書かれるほどの潔い「鬼畜」ぶりだったわけです。

 

「鬼畜ルメイ」はいわばアーノルドからの指令を受けて忠実にこれを実行しただけであり、
無差別爆撃そのものもルメイ就任前から計画されていたのに、なぜか日本では
アーノルドの鬼畜ぶりは実行指揮官のルメイほど有名にはなりませんでした。

いずれにせよこれらの発言が誰からも非難されることがなかったのは、
彼が戦勝国の軍隊指揮官であったからにほかなりません。


そして、彼自身はこれだけ日本人への憎しみを顕にしながら、空襲をむしろ

「人道的な攻撃」

と言い張っていたという説があります。

これも原爆投下と同じ、第一次世界大戦時に生まれたロジックで
徹底的な継続した破壊を与えることによって終戦が早まる、という理屈です。

東京空襲自体、ましてや日本人の命について人道的に配慮するなどということは
彼の思考には一切なく、つまるところ関心事はただひとつ、
戦争を空爆の力で終わらせて、

「独立した空軍の設立という悲願を達成する」

ことしかなかったのではないかと思われます。

彼は1946年、兼ねてから心臓発作で体の調子を崩していたこともあって、
陸軍元帥として退役しましたが、翌年、陸軍航空軍は独立して
アメリカ空軍となったため、アーノルドは議会によって最初にして唯一の
空軍元帥に昇格という名誉を与えられました。

 

コロラドスプリングスにある空軍士官学校の広場中央には、
地球儀を持ち、日本を指差しているアーノルドの像があります。

後編~空軍士官学校コロラドスプリングスでの学び(アメリカ南西部 ...

「女子供でも日本人なら全て殺せ」

というときでさえ、穏やかに微笑んでいる「ハップ」アーノルド元帥。

空軍元帥になって3年後、彼は63歳で他界しましたが、おそらくは
ミッチェルから引き継いだ空軍創設の悲願を達成し、心から満足しつつ、
その名の通り「ハッピーに」微笑みながら逝ったのではないかと思われます。

 

 

続く。

 

ビリー・ミッチェルの悲願と彼の時代〜陸軍航空のパイオニア

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ビリー・ミッチェルについては、第一次世界大戦の航空について
述べたスミソニアン博物館の展示紹介の時に

「航空の(ひとり)十字軍」

と勝手にキャッチフレーズを与えてお話ししたことがありますが、
先日終了した「海軍航空の黄金時代」のコーナーに、バランス上当然ですが
陸軍航空のパイオニアも紹介されていました。

何度も取り上げてもうたくさん、という方もおられるかもしれませんが、
スミソニアンがこのようにこの人を何回も紹介しているのに倣い、
当ブログも違ったアプローチでミッチェルを語ってみることにします。

 

過去何回もこの人物を扱ううち、陸軍航空とその後の軍航空を語るのに、
この人物を語らねば何も始まらない、ということがはっきりしてきました。

彼は一言で言うと「空軍の父」ということになるのですが、
彼自身は死後そう呼ばれること渇望しつつも、そうなる前に亡くなっています。

ピート・ミッチェルのことを「闘う愚か者」と言ったのはハルゼーでしたが、
生前の彼は、独立空軍の創設のためにたった一人で当時の航空不要論、
大艦巨砲主義に立ち向かう愚か者と見なされていました。

その姿は、まるで風車と闘うドン・キホーテのように当時の人々には見えたことでしょう。

 

【第一次世界大戦後】

1918年11月11日、第一次世界大戦が終わりました。
陸軍の航空サービスは、戦闘の時代から、平和な時代の
「何か別のもの」へと変わっていくことになりました。

エアレース、記録挑戦のための飛行、そして航空ショー。

それらはどれもエキサイティングで一般人の刺激に訴えるもので、
陸軍のパイロットたちもその分野で活動を行っていました。

しかしその中で陸軍のコントロールから独立した空軍を創設しようとする努力、
戦略的爆撃の教義の開発、そして重爆撃機の模索は、次の戦争までの20年間という
激動の期間、軍にとって最重要課題となっていました。

 

「ミッチェル時代 The Mitchell Era 1919−1925」

ウィリアム・レンドラム「ビリー」・ミッチェル
William Rendrum "Billy" Mitchell 1879-1936

1918年 陸軍第1航空サービス AEF司令に

1921年 第一次世界大戦で捕獲したドイツ軍艦を爆撃で沈没させる実験を行う

冒頭のスミソニアン制作による絵をみていただければ、ミッチェルの右側に
爆撃実験で沈んだドイツ戦艦「オストフリースラント」の姿が描かれています。

この実験については当ブログでもう一度お話ししていますので、
今回はビリー・ミッチェルの前半生から始めたいと思います。

1917年 アメリカ陸軍将校として初めて敵線を超える

名誉メダルを贈られる

独立空軍の設立を提案におけるパイオニア

冒頭絵によるミッチェルの説明はこうなっています。


【初期の人生〜少佐】

裕福なウィスコンシン州上院議員の父ジョンと妻のハリエットの間に
1879年生を受けたミッチェルは、ミルウォーキー郊外にある邸宅で育ちました。

生まれたのは両親が滞在していたフランスのニースだった、というのが
家庭の並なみならぬ裕福さをうかがわせます。

彼の祖父はスコットランド人で、 ミルウォーキーロード鉄道とマリン銀行の創始者。
街の所々に祖父の名前があるというお家柄です。

ミッチェルは、ジョージワシントン大学を卒業し、米西戦争が始まると
18歳でウィスコンシンの歩兵連隊に民間人として入隊し、その後
 米陸軍信号隊に加わっています。

戦後も彼は陸軍に留まり、信号部隊の副官として ワシントンーアラスカ間の
軍用ケーブルおよび電信システム (WAMCATS)の建設を監督しました。

この頃、彼は将来の戦争はは地上ではなく空中で起こると予測しています。

そして同時期にライト兄弟の飛行デモを観て感銘を受けた彼は、
すぐさまカーティス航空学校で飛行レッスンを受けました。
このときのレッスンは本格的なものではなかったようです。

1912年3月、 彼は32歳と最年少で参謀本部の21名のうちの一人に任命されます。
そして日露戦争の戦場を見学し、こう結論付けました。

アメリカと日本はいつか干戈を交える日がくるだろう。

これは彼だけが慧眼だったために思いついたことではありません。
つまり、世界の、特に支配側の国にとって「遅れてきた脅威」である日本を
叩き潰す未来は、日露戦争に勝利した瞬間に決まっていたということなのです。

 


翌年1913年、彼は カーティス航空学校でプライベートレッスンを受けました。
当時彼の年齢(30代)と階級(大尉)は飛行訓練を法律で禁止されていたため、
現在で350万円の費用を彼は自費で払いました。

 

ところで彼の最初の結婚は無残な失敗に終わっています。

24歳で結婚した最初の妻、キャロラインとの結婚生活は、
彼が大量に飲酒し不安定な精神状態であったことから破局しました。

キャロライン、彼女の弁護士、伝記作家は全てミッチェルに責任を負わせ、
彼は子供の親権を取られ多額の慰謝料を払うことになります。

ちなみに妻が引き取った子供たちは、彼が亡くなった時
葬式に誰一人顔を見せなかったということです。

 

【第一次世界大戦】

アメリカが参戦することが決まった時、ミッチェルはちょうどヨーロッパにおり、
パリに到着するとイギリスおよびフランスの航空指導者と連携をとって
戦略を練り航空機を研究する本拠地を設置しました。

4月24日、彼はアメリカ人将校として初めてドイツの防御ラインを
飛行機で飛び、それが彼を一躍有名にします。

そこで航空隊司令として十分な経験を積んだミッチェルは、大胆で華やか、
かつ精力的なリーダーとしての評価を急速に獲得していくことになります。

1917年5月に中佐に昇進し、5ヶ月後には 一時大佐に昇格するという出世ぶりでした。

そして1918年9月、彼は歴史上初めてとされる空軍の攻勢、
「サンミッシェルの戦い」の航空作戦で総勢1500機の英・仏・伊軍の指揮を執り、
その結果一時的に 准将に昇格し、在仏アメリカ空軍部隊の指揮官になりました。

また、彼自身戦闘飛行士として彼の親友であるエディ・リッケンバッカーと並び
ヨーロッパで最も有名なアメリカ人といわれていました。

功労十字 、 功労勲章 、など多数の勲章を授与され、パイロットとして、
そして戦闘指揮官としてこの時が彼の絶頂期だったかもしれません。

しかし、wikiにはその華やかな経歴の中に気になる一言が添えられています。

「優れたリーダーシップと優れた戦闘記録にもかかわらず、
彼はフランスでの18か月の任務中および任務後に上司の多くを遠ざけた」

 

「海軍との相克」

1919年、ミッチェルはアメリカに戻ってきました。
ヨーロッパで得た名声から、彼は戦後航空局長に抜擢されるものと
誰もが思っていたのですが、実際にその任についたのは、やはりフランス帰りの
砲兵師団指揮官、チャールズ・メノヘール少将でした。

この人事は、彼の同級生だったパーシングの口利きだったと言う話があります。

その後、陸軍の再編成によって航空サービスは歩兵、砲兵に次ぐ戦闘隊として
認められることになり、ミッチェルは准将としての航空部長に昇任します。

ミッチェルはこの頃、第一次世界大戦の経験から、

「征服に野心を持っている普通の国が将来の戦争で航空に力を注いだら、
それはかつての国が大陸を支配したよりも簡単に全世界を支配できるだろう」

として航空力を高評価していました。

彼は近い将来、空軍が主力の戦争が起こり、その時には
陸軍と海軍と同レベルの規模でありながら独立した空軍が必要となる、
という強い信念を持ってヨーロッパから帰国してきました。

そして、考えを同じくする政治家への働きかけを行うようになります。


ミッチェルの統合案は海軍の現場の飛行士には受け入れられませんでした。
彼らにとって海上飛行の要件を理解していない陸軍出身飛行士は
邪魔以外の何者でもないという理由です。

ミッチェルはそんな海軍に向かって水上艦隊は陳腐化が進んでいるため、
海軍航空を開発するようにと提言するついでに、

「飛行機は適切な爆弾によって戦艦を沈めることができる」

「陸海空協力による国防組織はこれから不可欠のものになる」

と提言しましたが、海軍からの反応は冷たいものでした。
特に彼を強く公に非難していたのはルーズベルトだったそうです。

 

そこで彼は、自論を証明するために実験を行うことを表明しました。
それがあのプロジェクトB、「オストフリートラント」爆撃実験です。

【プロジェクトBののち】

この実験については前回にも詳しく触れましたので、
そのものの経過については割愛しますが、実験の後、しばらくの間
新聞の風刺漫画はネタに困らなかったと言われています。

そのうちの一つをご覧ください。

一コマ目;

海軍軍人が「USバトルシップ」の艦上に立って実験を指差し、

「固定されている上全く防御のない軍艦。
なのにこれを沈めるのに爆撃機はどれくらい時間をかけましたか?」

二コマ目;

爆撃機の上から沈んだ軍艦を指差し、陸軍パイロットが

「はい。しかし、我々はとにかく沈めましたよ?そうでしょう?」

 

ミッチェルは戦時条件での実験を強調していましたが、実際は
静的な条件下で爆撃が行われた上、海軍の調査によると
「オストフリースラント」は爆弾による上部の損傷はほとんどなく、
艦に搭載された即効型のダメコン装備(どういうこと?)によって引き起こされた
浸水が進むことによって沈没していたことがわかりました。

しかし、ミッチェルは同等の実験をその後繰り返し、持論の補強を行ったため、
海軍はこれらの

「海軍の脆弱さを証明しようとする卑怯なデモンストレーション」

に激怒し、ミッチェルの主張を合同委員会ぐるみで潰しにかかりました。

メノヘールもカンカンになってミッチェルを辞任させようとするに至って、
この混乱をなんとか治めるために配置されたのが、

メイソン・パトリック少将

でした。


パトリック(左)とミッチェル

このパトリック少将はじつに人間ができているというか、意欲的というか、
偉くなってから航空サービスの司令官になってしまったので、
59歳にして飛行機の操縦をゼロから始め、免許をとったという人です。

60の手習いパイロット

そのせいで航空にも理解があり、ミッチェルの主張にも同情的でした。
しかしミッチェルを抑えるためにメノヘールの後任にされたといってもいい彼は、
当然彼に向かって

「わたしは君の専門知識を尊重するが、全ての決定は私が行う」

と言うことを宣言せねばなりませんでした。

その後彼はパトリックの指示によってウェストバージニアに派遣され、そこで
紛争を制圧する際爆撃機で催涙ガスを落とし、ここでもやはり
航空機の有用性をアピールして「悦に入っていた」ということです。

 

【ミッチェル、真珠湾攻撃を予測】

恐るべき事実ですが、日本との戦争が起こることを断言していたミッチェルは、
さらにハワイに赴いた時、

「日本軍のパールハーバーへの航空攻撃を含め、将来の戦争を予測」

した300ページ以上にわたるレポートを作成しています。

実際と違っていた点があるとすれば、彼は日本軍のハワイへの航空攻撃は
太平洋の島々から陸上飛行機によって行われるとしていたことでした。

当時空母は最初の離着艦実験を終えて10年くらい経っていたのに、
ミッチェルともあろうものがこの動きを全く知らなかったことになります。

このことは、あまりにも彼が海軍と衝突しすぎたせいで、公平かつ冷静な目が曇り、
海軍の船が運用される可能性を個人的嫌悪から排除したからではなかったか、
とわたしは考えますが、いかがなものでしょうか。

 

【軍法会議】

さて、あまりにも海軍はもちろん陸軍内でも摩擦を起こしすぎたミッチェルは
准将から大佐に戻り、陸軍でも重要でない閑職に回され、誰が見ても
懲罰と左遷であるとわかる人事に甘んじることになります。

そんな折、以前も当ブログでお話しした飛行船「シェナンドー」が墜落します。

黙っていればいいものを、ミッチェル、ここぞと上級指導者を非難する声明を

「国防組織のほとんど反逆ともいえる管理の結果である」

などと激しい言葉を使い発表したため、告発されてしまうのでした。

この裁判についても繰り返しになるので割愛しますが、
付け足しておくと、裁判官を務めた13人の軍人誰一人として航空経験はなく、
ハップ・アーノルドやアイラ・エーカーなどの擁護的証言にもかかわらず、
かれは全ての告発に対して有罪、という判決を受けることになります。

その結果退役し、一般人になってからも彼は空軍創立を説いて歩きますが、
かつて自分の敵だったルーズベルトの選挙を空軍創立に役立てようとして
彼と会い、一方的にいい感触を得たと感じていました。

しかし、ルーズベルトにとってミッチェルは過去の人にすぎず、
ルーズベルト政権が誕生した暁には空軍次官補か国防長官に任命されるかも、
というミッチェルの期待は実現することはありませんでした。

 

 【進歩の時代 1925−1935】

しかしながらミッチェルが生きている間に、航空は少しずつ変わりました。
まず、1926年、「エアサービス」という名前は「航空部隊」と代わり、
航空というものが補助的な地位から攻撃力を持つ部隊と認識され始めたのです。

見にくい写真ですが、手前の飛行機に?が描かれているのにご注目ください。
この頃、ミッチェルが航空機を使ってあらゆる記録挑戦を行うことを
航空そのもののために奨励していましたが、その一環として
空中給油を利用して滞空記録に挑戦するという試みがありました。

フォッカーC-2「クェスチョンマーク号」は、機体に?を描いています。
それは

「どれほどこの飛行機は滞空できるのか?」

という質問を意味していました。

次の戦争までの期間、陸軍航空士はこのような記録に挑戦し、
航空の可能性を高めていったのです。

ミッチェルは「戦時条件」での空襲に対し戦艦が脆弱である、
ということを証明するために実験を繰り返しましたが、そのことは
彼の死後に証明されることになります。

第二次世界大戦中 、多くの軍艦は空爆のみで沈没しました。

「コンテ・ディ・カブール 」「 アリゾナ 、」「ユタ 」「 オクラホマ 」
「プリンス・オブ・ウェールズ 」「 レパルス 」「 ローマ」「武蔵」
「ティルピッツ 」「大和」「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン 」
「レムノス 」「 キルキス」「マラット」「伊勢」「日向」・・・・。

彼女らすべて戦闘中投下された爆弾、空中投下の魚雷、航空機から発射された
ミサイルによって沈没しており、いくつかは係留中奇襲攻撃によって破壊されました。

世界の海軍は、ミッチェルの実験、「オストフリーランド」の教訓を
すぐさま自軍の将来の攻撃の姿に取り入れたということになるのです。

 


1941年に生まれたB-25爆撃機は、 彼の名前に因み「ミッチェル」と名付けられました。
アメリカ軍用機の歴史で機体に人名が命名された唯一の例となります。

 

 

続く。

 

戦略爆撃 カール・スパーツとアイラ・イーカー〜陸軍航空のパイオニア

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引き続き、スミソニアン博物館の陸軍航空のパイオニアという展示から
今日は戦略爆撃を指揮した二人の軍人をご紹介したいと思いますが、
その前に、皆様は映画「メンフィス・ベル」をご覧になったことがあるでしょうか。

■ ピクルス桶=細密攻撃

同名のアメリカ軍爆撃機を扱った小説とドキュメンタリーをベースに、
1990年台に制作されたイギリス映画で、わたしなど歌手のハリー・コニックJr.が出演し
劇中「ダニーボーイ」を歌うシーン観たさに録画を手に入れたものです。

(当時は今のように映画が簡単に手に入る時代ではなかったので)

劇中、これが終われば搭乗員全員国に帰れるという25回目の爆撃ミッションに出撃した
爆撃機「メンフィス・ベル」が、工場を昼間攻撃するために
ドイツ上空に差し掛かったとき、爆撃予定地に雲がかかっていたので、
マシュー・モディーン演じる機長のデニス・ディアボーン大尉が、
爆弾投下命令をなかなか出すことができず、

「もし細密攻撃に失敗したら大勢の無実の人々を殺すことになる」

というと、副機長のルーク・シンクレア中尉(沙婆ではライフガードをしていた)が、

「それがなんだ?どうせみんなナチじゃないか!」

と適当に落として一刻も早くここを離れるように機長を急かすというシーンがあります。

このとき、デニス大尉は、

”Drop these bombs right in the pickle barrel ”

という言葉を使っているのですが、この「ピクルス桶」というのは
物のたとえとかではなく、割と正式な「極精密攻撃」という意味になります。

pickle barrel bombing

モデルとなった実際の「メンフィス・ベル」はアメリカ陸軍第8空軍の

B-17F-10-BOフライングフォートレス爆撃機

で、ドイツ軍に対する戦略爆撃を昼間行う任務を担っていました。

 

■ 戦術爆撃と戦略爆撃の違い

第一次世界大戦から軍航空についてここで順を追ってお話しするうち、
戦略爆撃のなんたるかがようやく明確にわかってきたわたしですが、
ここでもう一度おさらいをしておきましょう。

まず、航空機によって行われる爆撃には、戦場で敵の部隊を攻撃する
「戦術爆撃」と、それ以外の「戦略爆撃」があります。

たとえて言えば、ミッドウェイ海戦のとき、日本軍が最初に
ミッドウェイ島を攻撃したのが典型的な戦術爆撃というわけです。

対して戦略爆撃をざっくり言うと、敵国本土に対する爆撃ということになります。
こちらは対象が敵国民とその施設であり、「戦略」=ストラテジックとは
つまり、非戦闘員の士気を失わせることによって結果的に終戦を早める、
というどこかで聞いたような理屈のことと思っていただければいいでしょう。

戦略爆撃をさらにその対象によって細分化すると

精密爆撃=工場、港、油田など軍的リソースを破壊する

都市爆撃(無差別爆撃)=敵国住民の住居地は商業地区を破壊する

に分けられます。

ドレスデン爆撃、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下は後者であり、
「メンフィス・ベル」の第8空軍が行ったのが精密爆撃となります。

前者の目的は言わずもがなですが、後者の「国民の士気を喪失させる」は、
前にも書いたように、第一次世界大戦の時にイタリア軍の将校、
ジュリオ・ドゥーエなどが提唱して以来、ビリー・ミッチェルや
ハップ・アーノルドなどによって受け継がれてきた

「一見非人道的な爆撃をあえて行う理由」

となります。



ところで我が海軍は1941年12月8日真珠湾で軍基地を攻撃したわけですが、
どっこいその時は日米は開戦しておらず、もちろんハワイは戦場ではないので、
これは戦術爆撃と戦略爆撃ともカテゴリ分けすることはできません。

それではその仕返し?の意味で行われたドーリットルの東京爆撃はというと、
彼らは敵軍施設と工場などを狙う「細密爆撃」を目指していましたが、
行きがかり上あちこちで無差別攻撃を行うこととなり、そのせいで
捕虜になった搭乗員が裁判で有罪判決を受け、処刑されてしまいました。

この時の法廷は未必の故意として一般人殺害が予期される攻撃だったので、
国際法においては有罪である、という裁判結果を出したわけです。


しかしながら、戦争が進むに従って、アメリカでは国民の士気を喪失させれば
それだけ終戦が早められる、という超理論がいつの間にかスタンダードとなり、
むしろ「人道的な攻撃だ」とする理屈(屁理屈?)が罷り通るようになりました。

経緯を慮るに、これを主流にした張本人は、

「航空を支援任務に甘んじさせず第三の独立した軍にするべきだ」

とする航空軍独立派のビリー・ミッチェルであり、
イギリス空軍のトレンチャードではなかったかと思われます。

戦略爆撃は彼らに言わせると美点をそなえた画期的な発明だったのです。

 


今日ご紹介する二人はビリー・ミッチェルの正統な後継者であり、
どちらもが戦略爆撃に大きく関わった航空出身の指揮官です。

まず、このスミソニアンの似顔絵の人物は、

カール・アンドリュー・”トゥーイ”・スパーツ 
Carl Andrew 'Tooey' Spaatz1891−1974

まず、その説明に

前線パイロット 1918年

とありますね。

スパーツは戦闘機パイロットとして第一次世界大戦に参戦していましたが、
帰国命令を受け取ってから、ヴェルダン攻防戦が始まることを知りました。
彼は帰国を返上して前線パイロットに志願し3週間にわたる戦闘を続け、
その期間に多数の敵機と交戦し、3機を撃墜しています。

第一次世界大戦におけるパイロットの平均寿命と言うものを知っていれば、
彼の前線への志願は大変勇気と自信の要ることといえます。

このとき激しい航空戦を戦って燃料切れでかろうじて味方側に不時着し、
生き延びた彼は功労十字勲章を授与されると言う名誉を得ました。

Carl Spaatz.jpgスパーツ

イラストで彼の後ろに描かれている空中給油中の飛行機をご覧ください。
「?」のペイントされたこの飛行機は「クゥエスチョンマーク」号です。

彼は38歳で、後述のアイラ・イーカー大尉、エルウッド・ケサダ中尉とともに
空中給油を行いながら無着陸で対空時間に挑戦するプロジェクトに参加したのが
後の出世のきっかけとなったということになっていますが、
彼の後世の評価を見る限り、単に人のいない航空界だからパイオニアになれた、
ということだけでなく、たいへん能力のある人物だったようで、飛行の腕に加え、
作戦立案にかけてもキレる頭脳を持ち、指揮官として優秀でした。


戦後、アイゼンハワーは、オマー・ブラッドレーと彼の二人を

「勝利に最も貢献した二人のアメリカ将校」

と褒め称えたということです。

あくまで彼の周りにいる人限定なので、他にも貢献した人物はいたと思いますが・・。

 

これも前述しましたが、彼は、ビリー・ミッチェル大佐が海軍上層部を非難し、
軍法会議で訴えられた「ビリー・ミッチェル裁判」で、彼を擁護する証言を
アイラ・イーカー大尉、エルウッド・ケサダ中尉とともに行っています。

ミッチェル裁判は要するにメンツを潰された海軍による報復のようなもので、
第一次世界大戦で戦闘パイロットとして戦った彼やイーカーにしてみれば、
航空は決して海軍の支援のためにある補助ではなく独立した武力であり、
こんなご時世に偵察しかできない鈍重な飛行船などというものを
呑気に運用している海軍は(といったわけではありませんが、多分)
国家防衛に対して反逆的ですらある、というミッチェルの考えは
なんらおかしくない、という立場であったのでしょう。

 

第二次世界大戦開始後、第8空軍の司令官としてイギリスに渡ったスパーツは、
そこでドイツに対する戦略爆撃作戦を指揮することになります。

連合軍最高司令官アイゼンハワーの下にあって、友人同士でもある彼とは
何度も戦略問題で議論を行い、

「それだけで戦争を終わらせる航空作戦の”キメラ”は存在しない」

として、味方航空機に損害が出ているというイギリス軍の不満を退け、
あくまでも昼間の精密攻撃にこだわりました。

 

もちろんこれは「メンフィス・ベル」の機長が呟いたような
「一般市民への被害」を避けるのが目的だったわけがありません。
繰り返しますが、そこに「敵国民の生命に対する人道上の配慮」などは
かけらもなく、あるのは効率的な爆撃、そしてその先にある早い終戦だけです。

それが証拠に?ドイツ降伏後、スパーツは大将に昇進して太平洋戦線に転任、
広島、長崎への原子爆弾投下を含む日本全土への戦略爆撃を監督しています。

アイラ・クラレンス・イーカー 
Ira Clarence Eaker 1896ー1987

 Eakerを「エーカー」と書いている日本の媒体もあるようですが、
どちらかというと「イーカー」がいーかーと思ったのでそう記します。

いかにも強面なパイロットの似顔絵ですが、実際のイーカーも
なかなか一徹そうな面構えの将校です

冗談通じなさそう

こんな雰囲気ですが、ウェストポイント卒ではなく、教員養成大学から
予備将校として入隊し、陸軍在籍中にコロンビア大学で法律を学んだり
南カリフォルニア大学でジャーナリズムの学位をとるといった文系で、
退役後は軍事コラムを書いたり本を出版する仕事が多かったようです。

彼は滞空世界記録を樹立した例の「クェスチョンマーク」号では
機長として参加しており、5歳年上のスパーツが副機長でした。
この際年齢は関係なく、単に彼の方が飛行時間が多かったのかもしれません。

スパーツは指揮官として優れていましたが、イーカーは彼に比べると
現場、つまり飛行士としての功績が認められているといったところです。

さらにイラストのタイトルに

「ブラインド・フライトのパイオニア」

とありますが、これは彼が1930年、初めてとなるアメリカ大陸飛行を
完全に計器だけでおこなう計器飛行を達成したことからきています。

計器だけで大陸横断を試みるというチャレンジは、
有視界飛行が不可能になった場合の代替手段として有用となる
計器飛行の可能性を大きく広げるものであり、また
その後の操縦訓練に採用するための道筋をつけたといえるでしょう。

 

さて、第二次世界大戦では彼もまたヨーロッパで爆撃任務の指揮を執り、
昼間の細密攻撃にあくまでもこだわり続けました。

先ほども書いたようにイギリス軍は昼間攻撃は迎撃されやすく損害が多いとして
夜間の広範囲に対する爆撃を主張し、アメリカ軍にもそれを要求しました。
イーカーはその件についてチャーチルを説得し、
イギリス軍とアメリカ軍のこの件に対する意見の齟齬は、

「1ページのメモで”補完しあうことになった”」

と結論づけていますが、これはどう言うことかと言うと、

「もし王立空軍が夜間攻撃をこれからも続け、
アメリカ軍が日中爆撃を行うならば、
つまり彼らに降り注ぐ爆弾は一日中途切れることなく、
そうなれば悪魔ですら息つく間もなくなるでしょう」

こっちは構わず昼間やるので、互いに昼夜補完し合いましょう、
ということで話がついたようです。

ところでイーカーの英語版wikiには、彼が

「民間人の犠牲を最小限に押さえながら敵の能力を削ぐ攻撃」

を目指したように書かれていますが、この結果を見る限り、
こちらもそんな甘ちゃんな考えから日中に拘ったわけではなさそうですね。

 映画「メンフィス・ベル」では細密爆撃をあたかも人道を重んじる攻撃のように
表現していますが、これも所詮は戦後の価値観で補正されたフィクション、
実際はそんなものではなかったよ、というところです。

ただし、イーカーは軍事のリアリストであり、戦争遂行のために
冷徹に状況を判断していただけあって、攻撃に費用対効果で見合うだけの
戦略的価値があるか、そのバランスを考慮していたことは特筆するべきでしょう。

たとえば、ここでもヒトラーの略奪美術品についての項で話したことがある
モンテカッシーノの爆撃について、イーカーは、この地域への爆撃は
軍事目標として適当ではない、とみなして当初承認しなかったといいます。

後世の歴史家はイーカーの懐疑論は正しく、あまりに甚大な
人類の遺産を失ったモンテカッシーノの爆撃は、
はっきり連合軍の汚点だったと断じています。

ただし彼は陸上部隊の圧力に屈して最終的に作戦計画にサインしているので、
その「懐疑論」というのも、果たして人類の遺産と、ましてや一般人の生命に
配慮した結果だったのであろうか、とわたしは懐疑的に思っておりますが。

 

 

続く。

 

 

 

「クェスチョンマーク号の挑戦」 戦術の革新者 エルウッド・ケサダ中将〜陸軍航空のパイオニア

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スミソニアンの陸軍航空のパイオニアシリーズで名前が上がっていた中で
わたしが唯一知らなかったのがこの人です。

エルウッド”ピート”リチャード・ケサダ中将
Elwood ’Pete' Richard Quesada 1904-1993

 

Elwood Richard Quesada - Wikipedia

1891年生まれのカール・スパーツ、1896年生まれのアイラ・イーカーより
ケサダはそれぞれ13歳、7歳若いわけですが、軍事航空黎明期において
彼らはほぼ同時期に飛行機に乗っていたことになります。

ちなみにスパーツがパイロットになったのは1916年25歳、イーカーは1919年23歳、
ケサダはいつかわかりませんが、もっと早かったと思われます。

そして、あの「クェスチョンマーク号」による滞空記録達成で
彼らがチームを組んだとき、ケサダは若干25歳でした。

「ケサダ」というファミリーネームはご想像の通りヒスパニック系で、
彼はスペイン人の父親とアイルランド系アメリカ人の両親のもとに生まれました。

黎明期の航空部隊では士官学校出が少なく、たまにいたとしても
ここだけの話決して成績上位ではない者が進路に選ぶ、という印象ですが、
彼もまたアナポリスではなく、一般大卒の予備士官です。

 

■ 航空戦術の先駆として

ケサダはのちに戦術航空司令部の指揮官に任命されますが、初級士官の頃、
すでに地上部隊の近接航空支援の概念に興味を持つようになりました。

ヨーロッパのキャンペーン中に戦術空中戦の開発のアイデアを得て
行った革新には、マイクロ波早期警戒レーダー(MEW)の採用、および
VHF航空機無線機を装備し航空管制官を兼ねるパイロットを配置することが含まれます。

後者の技術は、戦闘爆撃機との直接地上通信を可能にし、その結果
フレンドリーファイアー(味方への誤攻撃)を減らすことに加えて、
敵地上部隊への攻撃、つまり近接航空支援の精度と速度が上がりました。

その結果、機甲部隊が迅速に前進し砲兵支援を行うことができるようになり、
これらの戦術改善は、西部戦線において連合国側に多大な貢献をもたらしました。

■ 戦後空軍におけるケサダ 

1946年、ケサダは戦術航空司令部(TAC)の最初の指揮官に任命され、
その後、新たに独立した米空軍の大将に昇進しました。

しかし、ケサダは、空軍においてTACが無視されており、資金調達やプロモーションが
主に戦略航空司令部に偏っているのを見て、すぐに幻滅することになります。

1948年、空軍参謀本部は、TACから航空機とパイロットを排除しその地位を引き下げました。
これは、戦後のアメリカが日本への原子爆弾投下の成果、空軍の主力を戦略爆撃に据え、
空戦能力の向上を疎かにしようとしたということでもあります。

ケサダはその流れに不満を持ちなんとかしようとしますが、

鈍くてせっかちな性格のため(wiki)

現場に論争を巻き起こしただけに終わり、就任してわずか2か月後に解任されてしまいます。
彼は結局1951年、47歳で空軍から早期引退することになりました。

 

■ クェスチョンマーク号の挑戦

さて、ケサダがその前半の軍歴において急激に出世したのは
ほかでもない、クェスチョンマーク号による記録達成に成功したおかげですが、
今日は、スパーツ、イーカーの紹介の時には簡単にご紹介した
そのクェスチョンマーク号の挑戦についてちょっと詳し目に触れておきたいと思います。

クェスチョンマーク号( 以下”? ")は、米陸軍航空隊の
アトランティック・フォッカー C-2A輸送機です。

1929年、カール・スパーツ少佐の指揮で、空中給油の実験を兼ね、
飛行耐久記録達成を目指して飛び立ち、その結果、
150時間以上というノンストップ滞空世界記録を樹立しました。

それを可能にしたのはもちろん空中給油という技術の発明です。

空中給油が最初に行われたのは1923年のことで、サンディエゴで
陸軍パイロットがさっそく9回の空中給油を行い37時間滞空記録を確立、
その後1928年、やはり陸軍航空隊が 61時間と記録を伸ばしています。

今回の挑戦はその61時間を上回ることを目標に行われました。

 

きっかけは本日の主人公、米陸軍航空隊のエンジニアだったエルウッド・ケサダ中尉の
1928年、任務飛行中、燃料不足から墜落しそうになるという経験をしたことでした。
かれはもっと空中給油の技術を身近なものにしなければいけない、として、
実験方々これまでの滞空記録を破る計画を考案したのです。

ケサダ中尉がその計画を上司だったアイラ・イーカー大尉に提出したところ、
イーカーは大変乗り気になり、結果、実験を単なる宣伝目的にせず、
あくまでも軍事利用を実証することという条件
でプロジェクトが承認されました。

そしてプロジェクト全体の指揮が、カール・スパーツ少佐に任されたというわけです。


早速使用機にアトランティック・フォッカーC-2Aトランスポートが選ばれ、
プロジェクトのためにタンクが貨物室に2基増設するなど改造がなされました。
また翼にキャットウォークが構築され、整備士が緊急メンテナンスのために
エンジンにアクセスできるようにもなっています。

プロジェクトの噂が広まるにつれ、メンバーは何度となくインタビューを受けますが、
その際には必ずと言っていいほど達成する予定の滞空時間を尋ねられるので、
彼らはいつも同じ答えをするのが常でした。

「That's the question. (それが問題です)」。

そのうち彼らはメディアの質問への答えとして胴体の両側に大きな疑問符をペイントしました。
それが話題を呼ぶとともに耐久飛行への関心を呼び起こし、
いつの間にか飛行機のニックネームそのものになったというわけです。


プロジェクトのスケジュールは1929年1月1日、ロサンゼルスを出発し、
パサデナで行われるローズボウル(フットボール)の上空で給油するなど、
どう見ても「宣伝目的だろう」といわれそうな派手な内容となっていました。

当時は無線機の信頼性が低く、「?」号は重量を極力制限しなければならなかったので、
すべての通信は、手旗、発光信号、懐中電灯、メッセージバッグ、
供給ラインに結び付けられたメモ、または随伴機の機体胴体にチョークで書いて行いました。

そのため随伴機のニックネームは「黒板飛行機」になったということです。

Pictured is the crew of the

「?」号の乗組員は、写真左から

ハリー・ハルバーソン大尉、アイラ・イーカー少佐、
ロイ・フー軍曹、カール・スパーツ中佐(隊長)、
エルウッド・ケサダ大尉

の総勢5名。
(一番右に写っているのは誰だかわかっていないそうです)
待機する給油機は2機で、それぞれに2名が搭乗していました。

そして「黒板機」には4名が乗っていました。

 


1929 年の元旦、午前7時26分に「?」号はイーカー大尉の操縦で、重量を節約するために
380 リットルの燃料だけを運んで、離陸しました。

巡航中はハルバーソン中尉かケサダ中尉のいずれかが操縦を行い、
イーカー大尉は効率的なエコ飛行のためスロットルを監視する役目です。
ログは副操縦士によって記録され、毎日地上に向けて投下されました。

A Fokker C-2A is refueled in flight by a modified Douglas C-1 transport aircraft during a refueling operation dubbed 給油中

離陸1時間も経たないうちに、最初の給油が行われました。
給油中、イーカーとハルバーソンがスロットルを制御、スパーツとケサダが燃料交換を監督し、
フーはポンプを作動させる係を務めました。

両機が時速130kmで安定してから給油機 は上から?号に近づきホースを繰り出します。
スパーツはプラットフォームに登り、雨具とゴーグルを着用し、
ホースを受け取って上部胴体に取り付けられた「レセプタクル」に入れます。

バケツから作られたレセプタクルは、燃料タンクにつながっていて、
バルブを開くと燃料は重力により毎分280 リットルがバケツを通じてタンクに流入し、
そこでフー軍曹がポンプを手作業で動かし翼タンクに入れるのです。

食料、郵便、工具、スペアパーツ、その他の供給品も同じ方法で渡されました。

(ところでどこにもかいていないのですが、トイレはどうしていたのでしょうか)

Flight of the Question Mark?号内のケサダ

「?」号の5人の男性は、飛行前に健康診断を受けて体調は万全の状態。
騎乗での彼らの食事のために航空医は特別食を用意しました。

しかし、重量の節約と安全上食品を加熱するための電気ストーブは廃止されたので、
彼らのために元旦の七面鳥を含む温かい食事が送られました。

クルーは燃料タンクの上の二段ベッドで寝ることもでき、トランプ、読書、
手紙を書くことによって退屈を紛らわせていました。
(手紙は書くたびに地上に投下すればすぐに拾ってもらえます)

1月3日の夜には新記録達成したので、サポートクルーはお祝いに
チーズ、イチジク、オリーブ、キャビアの瓶詰め5つを送りました。

しかし、給油が失敗したこともあります。
燃料容器から引き出す際、山岳地で気流が乱れ、揺れでホースを取り落としたスパーズは
高オクタン価ガソリンを体中に浴びることになってしまいました。

ケサダは安定した飛行のために海上に進路を取りましたが、スパーツは
ガソリンの化学やけど?を懸念し、パラシュート降下がいつでもできるよう、
イーカーに地上の飛行を続けるように命じました。

(さすがのスパーツもちょっとパニクっていたのかもしれません)

しかし結局スパーツは衣服をすべて脱ぎ捨て、油をつけた雑巾で体を拭き、
そのままの姿(服を脱いだ状態?)でもう一度給油を行っています。
「化学やけど」は大丈夫らしいと判断したのでしょう。

衣服については交換品がすぐに配達されました。
しかしトイレの件とともにわたしなどどうしても気になってしまうのですが、
1週間機上で限界の生活をした彼ら5人は、その間着の身着のままだったわけですから、
地上に降りた時にきっとものすごい状態だったんだろうなあ・・・・。

 

ケサダも同じ事故に見舞われましたし、スパーツの燃料流出は一度に止まらず、
あと二回でしたが、怪我はありませんでした。

その都度油を使用して皮膚を拭き、酸化亜鉛を使用して目を保護してしのいでいます。

霧、乱気流、暗闇のため、給油はスケジュール通りになかなか行えず、
給油中にエアポケットに遭遇すると、たいてい悲惨なことになりました。


乗組員はエンジンを保護するために低速の巡航速度で飛びましたが、
エンジンにかかったストレスは目に見えて馬力を失わせていきました。

そして1月7日午後、ついに左翼エンジンが停止。

フー軍曹はキャットウォークにいって修理を試み、プロペラをゴム製のフックで固定しました。
残りのエンジンも目に見えて疲弊していきます。

限界でした。

「?」号は離陸後150時間40分14秒ぶりにメトロポリタン空港に着陸しました。

燃料補給37回。
この飛行は、持続飛行、燃料補給飛行、
および距離に関する既存の世界記録を破りました。

そして乗組員5人全員に殊勲飛行十字章が授与されたのです。

 

この壮挙の影響は大きなもので、クエスチョンマーク号の記録達成以降、
わずか1年以内に民間人によって40回の滞空記録滞在挑戦が試みられ、
そのうち9回は「?」号を超えるという結果になりました。

 

このプロジェクトに関与した16人の陸軍飛行士のうち6人は後に将軍になり、
スパーツ・イーカー、ケサダはこのブログでもお話ししたように、
第二次世界大戦中に米陸軍空軍で重要な役割を果たす重職を務めることになりました。

カール・スパーツは陸軍空軍の司令官に昇格し、米空軍の初代参謀本部長となり、
アイラ・イーカーは第8地中海地中海連合軍を指揮しました。
そしてエルウッド・ケサダはフランスのIX戦術航空司令部の指揮官になっています。

残りの将校、ストリックランド、ホイト、およびホプキンスは米国空軍の准将になり、
ハルバーソンは陸軍大佐にまで昇格してB-24リベレーターを率いる第10空軍の
最初の指揮官となって第二次世界大戦に参戦しました。

 

クェスチョンマーク号機体のその後についても書いておきましょう。

輸送飛行機としての耐用年数を果たした「?」号は、1932年11月3日、皮肉なことに
飛行中に燃料がなくなって着陸を試みるも、深刻な損傷を受け、廃棄されました。

 

1948年1月、クエスチョンマークプロジェクトを指揮してから19年後、USAFの首席補佐官、
カール・スパーツは空軍の戦略上の最優先事項ー空中給油システムーを決めました。

その結果、すべての第一線のB-50爆撃機に空中給油装置を改造することが決定され、
世界で最初に結成された専用空中給油ユニットである第43と第509の空中給油飛行隊は、
1949年1月から運用を開始しました。

そして1948年、「フライング・ブーム」による供給システムが開発され、
その後1949年に「プローブ・アンド・ドローグ」システムが、そして
シングルポイント受信装置を使用した戦闘機の機内給油も実用化され、この時点で
USAFは未来の空中給油に関する大部分のコンセプトにコミットすることになったのです。



最後に、その扱いにケサダが激怒して辞めるきっかけになったTACですが、
その後朝鮮戦争が始まり、航空戦術の独立を必要としたアメリカ空軍は、
これを機会にTACを再編成する決定をしました。

再結成されたTAC司令官には、第二次世界大戦中にXIX TACを率いたケサダの友人、
オットー・ウェイランド将軍が指名されたということです。

Weyland op.jpg

ケサダが辞めていなければ、彼がこの地位にあったかもしれません。
ドンマイ。

 

続く。

 

 

◯将クレア・リー・シェンノート〜陸軍航空のパイオニア

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スミソニアン博物館の「陸軍航空のパイオニア」シリーズ、
最後の人物は、

クレア・リー・シェンノート
Clare Lee Chennalt 1893-1958

でした。

どうもわたしはこの人物、色々と個人的に好きになれないのですが(笑)
アメリカの航空界にとってパイオニアであることは間違いなさそうなので、
個人的な好悪はできるだけ控えつつ本稿を無事終了させようと思います。

まず、スミソニアンの紹介に描かれている絵の印象は、頑固で融通が効かず、
その分自他ともに規律に厳しそうな人物に見えます。

愛称で呼ばれるような人物ではなかったためAKAはありませんが、
ニックネームは唯一、

”Old Leatherface" オールドレザーフェイス

だったそうで、確かに細かいシワが無数に刻まれた愛想のない顔は、
使い込んだ皮っぽい、水分の全くなさそうな質感です。

 

名前の下にはこうあります。

戦闘機戦術のパイオニア

蒋介石の飛行隊のアドバイザー

後者は言わずと知れたフライングタイガースとして知られる志願飛行隊です。
前者の戦闘機戦術というのは、その指揮官として日本軍と戦うために
戦術を開発したほぼ最初の人物だったということかと思われます。

 

■ 曲技飛行チーム

以前彼の名前、「Chennault」がフランス系なので、正式な読み方は
「シェンノー」だったのではないか、と書いたことがあります。
その時にはちゃんと英語の文献をあたらなかったので想像に止まりましたが、
今回それは正しかったことがわかりました。

「クレア・リー」というファースト&ミドルネームが表す通り、
彼はフランス系アメリカ人で、名前の読み方も正しくは「シェンノー」ですが、
郷に入れば郷に従って、両親はアメリカ式に「シェンノート」と発音したそうです。

シェンノートは士官学校卒ではなく、ルイジアナ州立大学、しかも中退しています。
一応ROTCのトレーニングを受けた予備士官として第一次世界大戦に参戦しました。

そのとき正規の訓練ではなく、教官と親しくなって操縦できるようになったそうです。
その後航空部隊が発足した陸軍では初頭飛行訓練の責任者となりました。

「戦闘機戦術のパイオニア」

とされているのは、この追撃部門訓練教官の時代に

「防御的追撃の役割」

という論文をまとめたからでしょう。
これは、空戦を一対一ではなく二機1組で迎撃することを主張したものですが、
ただでさえ第一次世界大戦後の戦闘機不要論優勢の時代、この論文は
関係者からも嘲笑される結果となってしまいました。

 

1930年代には曲技飛行チームの一員として活動しました。

これまでお話ししてきたように、第一次世界大戦が終わってから
第二次世界大戦が始まるまでの20年間には、航空界では
記録挑戦、エアレース、そしてエアショーが盛んに行われました。

それにはカール・スパーツやアイラ・イーカー、ジミー・ドーリットルなど、
軍航空パイロットが航空発展のために奨励されて参加していたわけですが、
戦技を研究し磨くために軍航空部隊がアクロバットチームを結成し、
エアショーを行って一般にアピールするというシステムもこの頃生まれました。

記録挑戦もエアレースも昔のような形ではもう行われませんが、
今でも世界の空軍の多くが、広報と技術研究の精華を目的とした
アクロバット航空チームを持ち、一般にも親しまれています。

シェンノートが参加していたチームは「三銃士」”Three Musketeers”といい、
彼はチームを率いてナショナルエアレースにも参加しています。

のちに彼はメンバー替えしたチームに
「空中ブランコ3人組」”Three Men on the Flying Trapeze"
という名前をつけました。

アクロバットチームを「〇〇サーカス」という慣習は、
この頃に生まれたものと思われます。

「空飛ぶ空中ブランコ3人組」のころのシェンノート大尉。
この頃はまだ「レザーフェイス」ではありません。

 

■ 宋美齢との出会い

ところがシェンノート、1937年、40歳という中途半端な年齢で
陸軍を辞任せざるを得なくなります。

聴覚障害があり、慢性気管支炎持ちという健康上の問題に加え、
上とうまくいかずしょっちゅうぶつかっていたこと、そして
経歴も昇進に相応しいものではなかったことが全て原因となったためで、
彼は大尉の階級で軍を辞め、中国に向かいました。

そして、アクロバット飛行時代に声をかけられたという人脈を頼って、
中国空軍の飛行士を訓練するアメリカの民間人のグループに
飛行教官として採用されることになったのです。

契約は3ヶ月、月1000ドルという破格の給料が魅力だったからですが、
このことが彼の運命を大きく変えることになります。

中国軍の航空委員会を担当し、シェンノートの直属上司となったのが
あの宋美齢=マダム・チェンだったのです。

彼が中国に到着して2ヶ月後に日中戦争が勃発すると、宋美齢は
彼を蒋介石(チェン・カイシェク)に引き合わせ、主任顧問にしました。

陸軍をクビになった男が、ここでは空軍の最高責任者として
やりたいように腕を振えるようになったのですから、彼にすれば
宋美齢は幸運の女神のようなものです。

わたしがシェンノートという人物に嫌悪感を抱くのがまさにここで、
宋美齢という手練手管を生まれつき持って生まれてきたような女性に
持ち上げられて「出世」しただけの男、という印象は、
彼の後半生をいかに好意的に辿っても払拭することはできません。

中国空軍の組織と訓練を任されたシェンノートは、顧問として
アメリカを訪問する蒋介石に同行し、ボーイングB−314「カリフォルニアクリッパー」
に乗ってワシントンに「凱旋」を果たしました。

彼がそもそも中国へ行った経緯を思えば、さぞ晴れがましかったことでしょう。

 

■ フライング・タイガース

蒋介石はアメリカ商務長官との交渉で財政援助の約束を取り付け、
中国空軍のための航空機をはじめとする装備一式、
参加する志願者のために資金を引き出すことを、シェンノートらと
財務長官ヘンリー・モルゲンソーとの議論で取り決め、
中国の通貨を安させるための協定を結ぶことに成功しました。

このとき、戦争省とルーズベルト大統領本人から、P-40C戦闘機始め、
整備士航空用品を蒋介石に届ける約束を取り付けたのはシェンノートでした。

映画などでおなじみの、シャークマウスがペイントされることになる
ウォーホークが100梱包されてビルマに送られたのが1941年の春のことです。

シェンノートは300名のアメリカ人パイロットと地上員を募集し、
彼らはシェンノートの下で「フライングタイガース」として組織されました。

旅行者を装って入国してきたアメリカ人採用者たちの中には、
戦闘機経験者だった者も3分の1いましたが、ほとんどは爆撃機経験者で、
そもそも中国を救うという理想に燃えてやってきたのはごく一部でした。

 

しかし、結果的に彼らは圧倒的に優れていた日本軍に対し、
シェンノートの下でいわゆるひとつの

「クラック・ファイティングユニット」
(”クラック”は軍隊や戦隊に『イケてる』という意味で用いる言葉)

に発展し、アジアにおけるアメリカの軍事力の象徴となったのでした。

■ 日本爆撃計画

以前も書いたことがありますが、真珠湾攻撃の1年も前に、シェンノートは
日本軍基地に奇襲攻撃をかけるという計画を立てたことがあります。

今や彼のものといってもいいフライングタイガースは、パイロットもスタッフも
全てアメリカ人でしたが、中国空軍のマークを背負って飛んでいました。

彼はフライングタイガースを使えば「片手で」勝利を得られる、と主張しましたが、
アメリカ陸軍は日本に近い滑走路や基地を用意できない状態で
その攻撃を成功させるのは無理だとして反対しました。
そもそも陸軍はシェンノートという人物を戦闘指揮官として全く信用していなかったのです。

軍事のプロの助言にもかかわらず、文民指導者、モーゲンソーやルーズベルトは

「たった数人のアメリカ人男性と飛行機のおかげで中国が日本との戦争に勝つ」

という素敵な考えにすっかり魅了されてしまい、実現させようと、
その計画のための爆撃機と乗組員を送り込みますが、大変悲しいことに
その計画より先に真珠湾攻撃が起こってしまいました。

たとえ間に合っていたとしても、陸軍のいうとおり中国側の基地から
日本に到達する術がなかったので、この考えは実行不可能でした。

■ アメリカの「最初の軍事指導者」

本日の項のサブタイトルに「陸軍航空の」と付けたのは、厳密には
間違いであったことはもうおわかりいただけたでしょう。

シェンノートは陸軍の正規のコースからは脱落して、民間人とし
中国に渡り、蒋介石に雇われた傭兵として出世した人間です。

しかし、中国空軍という名の実質アメリカ人傭兵部隊を率いて
真珠湾より前に日本軍と戦い、それなりの成果を挙げたことにより、
アメリカ政府は彼を公的に

「アメリカ初の軍事指導者」

と認めることになりました。

得意の絶頂期

これはわたしの予想ですが、ルーズベルトやモーゲンソーがこれを推し、
アメリカ陸軍は面白くないと思いつつ渋々賛同したのではないでしょうか。

シェンノートは大佐でいったんいったん陸軍を退役していたので、
もう一度大佐の階級で再入隊し、のちに中将にまでなっています。

フライングタイガースは1942年、正式にアメリカ陸軍航空部隊に編入されました。

陸軍上層部は彼を嫌っていたに違いない、と思った理由の一つに、
シェンノートとジョセフ・スティルウェルの激しい確執があります。

スティルウェルも陸軍軍人として蒋介石の参謀に充てられたわけですが、
蒋介石とは援蒋ルートの考え方の違いから互いを憎み合い、
蒋介石は彼を解任しています。

スティルウェルはルーズベルトなどと違い、蒋介石と宋美齢の本質、
つまり能力のなさや金権体質、ひいては中国国民党軍の腐敗や弱小ぶり、
こののちの敗北までを見抜いていたわけですが、そこでつまり
蒋介石側だったシェンノートとぶつかり合ったのは当然でしょう。

二人が憎み合ったのはニューイングランドのピューリタンだった
誇り高きヤンキー、スティルウェルと、人間の愚かさを自然に受け入れる
南部紳士であるシェンノートという強烈なパーソナリティによるものである、
とある作家が述べたことがあります。

たとえば、シェンノートはパイロットたち=彼の「ボーイズ」のために
桂林に慰安所を開き、英語を話せる女性を雇い入れて管理することを
規則関係なしに必要不可欠であるという考え方だったのですが、
スティルウェルは「シェンノートの慰安所」のことを聞いて激怒し、
すぐにそれを辞めさせ、

「米陸軍航空隊の将校がそのような施設を開くなど恥ずべきこと」

として批難しました。

日本の地上部隊はその後シェンノートの前進基地をゆっくりと、
しかし確実に占領してゆき、1945年、第14空軍の指揮官は
シェンノートからストラテマイヤー中将に置き換えられました。

■ 結婚

わたしが個人的にシェンノートを好きになれないのは、
出世のきっかけが宋美齢という女性の引立てであったことと、
10人も子供をなした糟糠の妻を捨てて、33歳も歳下の中国人ジャーナリストと
57歳で結婚したということで、これはもうなんというか
「生理的嫌悪」とでもいうしかない感覚です。

二人の間にどんな事情があったかは他人には決してわからないとはいえ、
この写真を見て微笑ましく思う気持ちがみじんも湧かないのはどういうわけでしょう。

ちなみにシェンノートの最初の妻は彼の高校時代の同級生で、
再婚相手のチェン・シャンメイ=アンナの最初の夫は肺癌で病死しています。

ジャーナリストといいながら、彼女の本業は蒋介石のロビイストで、
一説には彼女をシェンノートに引き合わせたのはほかならない
宋美齢(つまり政略的なマッチンング)だったという話もあります。

シェンノートは彼女と結婚して10年で他界したわけですが、彼女は
夫の名前をフルに利用し、(「日本の魔の手から中国を救った恩人」として)
アメリカ国内では共産党と民主党、国際的にはアメリカと中国共産党の関係構築に
表に裏に奔走した「大物ナンバーワンロビイスト」となりました。

台湾の総統選挙で勝利した当時の馬英九を表敬訪問するアンナ・シェンノート。

このバーさん、抗日戦争記念館などの発起人に名前もあるというし、
シェンノートが好きになれないのは、どうやらわたしが日本人で
この反日をライフワークにしていた女性に対する反発が大いにありそうです。

クレア・リー・シェンノートは1958年、67歳で、アンナ・シェンノートは
94歳まで暗躍を続け、1918年に亡くなりました。

なぜか彼女は2歳サバを読んで年齢を広報していたため、
死去の際には92歳という報道がいくつかのメディアでは流れたそうです。

 

さて、タイトルの◯の中に、わたしは最初ある一字を入れていたのですが、
もしかしてこの人を高く評価する向きもあるのかと思い直してあえて空白にしました。

智、勇、愚、凡、痴、恥、狡

などの中からなんなりとお好きな字を選んでいただければと思います(投げやり)

 

 

 

八方園と砲艦「赤城」慰霊碑:おまけ 軍神廣瀬の兄〜江田島旧海軍兵学校跡

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もういつのことだったかというくらい昔の話になりますが、
江田島の旧海軍兵学校跡を見学した時のことをお話しします。

このときの解説とご案内は海上自衛隊幹部の方にしていただきました。

まずいきなり例の「号令を聞いて育ったのでまっすぐ育った松」について

「ここは内海なので海からの強風を受けることがなく、
そのせいで松もまっすぐ育ったといわれていますね」

と科学的な「ネタバラシ」がされるというある意味ディープな始まりとなりました。

この時の話によると、兵学校時代からの松は年々寿命でその数を減らしており、
ついこの間も一本切ったということでした。

この写真に写っている桜も昔からのもので、すでにもう寿命が来かけているため、
その後ろに代替わりの桜が植えられたそうです。

次に赤煉瓦の横に移動しました。

赤煉瓦の横にあるこの建物、実はかつては特別な・・・・
そう、宮様専用の「おとうじょ」であったとか。

写真を撮り忘れましたが、この右側にある建物がそれ以外の、
つまりシモジモの者たちが使える厠所だったそうです。

どちらも作りが堅牢なので現在危険物倉庫として使っているんだそうですが、
たかがトイレなのにどんだけ丈夫に作っていたんだよっていう。

 

 

さて、次に見学させていただいたのは「八方園」です。

以前卒業式に参列した時、赤煉瓦から出ていく時左手に小高い丘があり、
そこに上っていく階段があるのに気がついたので、近くの自衛官に

「あの上に何があるんですか」

と聞いたら誰も知らなかったということがありましたが、
実はそこがあの八方園だったのです。

 

手すりのないおそらく昔のままの階段を上っていくと、
そこには思ったよりずっと開けた平地が広がっていました。

平地は長方形に切り開かれており、その一端には
いわゆる八方園、方位版があります。

八方園にはご覧のように、国内と海外、
いろんな土地の方位を表す黒曜石の方位盤があります。

「八方園をどうやって知ったのですか」

案内の幹部に質問されました。
とっさにわたしは何が最初だったか思いを巡らせました。

兵学校の入学生が、最初にここに連れて行かれ、方位盤で自分の故郷の報告に
頭を下げることと、何より大切な皇居への遥拝を行うことを教えられたついでに、
上級生がひょいと腕時計を外して(当時の腕時計は超高級品)方位盤の横に置き、

「見ておれ」

といってその場を去ると、時計はその日のうちに持ち主のもとに戻り、

「いいか、兵学校生徒は決して不正やごまかしはしないのだ」

と誇らしげにいったという「兵学校物語」か。

それとも、映画「あゝ海軍」で、東北出身の主人公が母危篤の報を受けるも
幹事の勧めも断って兵学校に残ることを選び、ここに駆けつけて
故郷の方向に一心に手を合わせていたあのシーンだったか。

あるいは、戦後の幹部候補生がここにやってくると、少なくない者が
押し戻されるような「拒否の気」を感じるという(それはつまり
兵学校卒の”先達の霊”が海自幹部を海軍の後継者として認めていないという話)
ことを書いたエッセイだったか。


しかし、この時受けた説明によると、八方園は戦前のものとは同じではないそうです。

そう思って見ると、土台はコンクリート製であり、
明らかにデザインも戦前のものには見えません。

長方形の広場の方位盤の反対側には、碑が立っています。

ここには兵学校時代天照御大神を祀った神社がありました。
戦後進駐軍が来てから取り壊されてしまったのですが、
その後このような石碑がその跡地に建てられました。

この長細い敷地のほとんどはかつて神社の参道となっており、
この碑の場所に御神体があり、その手前に拝殿があり、と
本格的な神社であったようです。

現在はただただ長細い空き地となっている神社跡地ですが、
当時の写真などを見ると、一番奥に御神体を納めた本殿の手前に拝殿、
さらにその20メートルくらい手前に鳥居もあったことがわかります。

兵学校 八方園神社

 


ここにいるとき、八方園全体の地形が江田島全体からみても
小山のように小高くなっていることに話が及びました。

「昔は周りが海で、ここは島だった可能性もあります」

そういえば昔、兵学校のグラウンド部分は、かつての海を
海軍によって埋め立てられたものだと聞いたことがあります。

このとき、兵学校がここに建設する前の江田島の写真と地図を見せていただいたのですが、
驚いたことに、八方園以外は湿地のようになっているではありませんか。

なんでもこのとき埋め立てられた面積は7万4千坪=約24万4千㎡、
東京ドームの敷地面積4万7千㎡の5倍余であったといいます。

 

「本当に海だったんですね・・・・」

写真をつぶさに見ていくと、そんな昔の写真に、
江田島に現在存在する建築物がすでに写っています。

「水交館はこの頃からありました」

そして、現在の岸壁のところには兵学校生徒の練習船
「東京丸」が停泊しているのが写っています。

東京丸

このリンク先にもあるように、東京丸は海軍兵学校が築地から移転後、
5年もの間、赤煉瓦の完成まで兵学校生徒の宿舎となっていました。

おそらくわたしが見せてもらった写真は、ごく初期の、
まだ整地もろくに行われていない状態で撮られたものでしょう。

「坂の上の雲ではここが撮影に使われたということですが、
実際には秋山真之も広瀬武夫も、赤煉瓦の校舎完成前に卒業したそうですね」

わたしがいうと、

「寝床はハンモックでしたから、そのときの生徒も
ずっと船の中で兵学校の生活を送るのは大変だったと思います」


どこかにこの写真がないか検索してみたら、赤煉瓦生徒館の改修について
詳しく述べているサイトの中におなじものがありました。

海上自衛隊幹部候補生学校庁舎
(海軍兵学校第2生徒館・東生徒館
)大改修物語

これにもいかに練習船「東京丸」での学生生活が大変だったか書かれています。

ところであれ?

海軍兵学校がここにできることを決めた時、海軍は、というか国は、
この地域から神社とか民家に住む人を立ち退かせ、そのときに立ち退いた
一般人の子孫を、先の水害の時に第一術科学校が災害出動してご恩返し云々、
という話があったと思うのですが、ほとんどが海だったというのに、
「立ち退かせた」という人たちは当初いったいどこに住んでいたんでしょうか。

 

 

続いては、上ってきたのと反対側にある階段 を降りていきます。

昔かつてのままに木々の深く緑生茂る小山の斜面を降りたところに、
こんどはこんなものが見えてきます。

「軍艦赤城戦死者之碑」。

「赤城」で検索すると航空母艦の情報しかトップに出てきませんが、
この「赤城」は、

「摩耶型砲艦」

の4番艦で、1890年に竣工した「最初の赤城」です。
砲艦というのは英語でいうところのガンボートで、沿岸・河川、
内水で活動する戦闘艦艇のうち、比較的大きなものがこう呼ばれました。

「赤城」は典型的な汎用水上艦で、日清戦争で活躍したことで有名です。

その活躍とは、軍令部長樺山資紀らが座乗していた輸送船「西京丸」
(民間船だったが徴用され巡洋艦代用に改造されて戦線投入された)
とともに清国海軍の艦隊と遭遇した「赤城」は、「遼遠」「定遠」「鎮遠」など
6隻の清国艦の集中砲火から旗艦「西京丸」を守り抜いたということです。

画面右上が清国海軍と戦う「赤城」と艦長坂元八郎太大尉。
このあと坂元艦長は砲弾を受けて戦死し、少佐に特進しました。

赤城の奮戦(坂本少佐)【明治海軍軍歌】

当時はこんな歌もあったようです。
上の錦絵も、この歌詞も「坂元」を「坂本少佐」と間違えております。
軍神なのに・・・・。

 

「赤城」はその後日露戦争における旅順攻略作戦などにも参加し、
民間に払い下げられて「赤城丸」となりました。

現存するこの「赤城戦死者の碑」というのは、「赤城」が軍艦として
戦闘に参加した際、戦死した英霊を慰めるという意図で建立されました。

「赤城」で戦死したのはもちろん坂元少佐だけではなかったのです。

ここからはわたしの想像ですが「赤城」が民間に払い下げられ、
造船会社で武器を全て取り除いたとき、不要になった主砲を一本保存して、
慰霊碑を作ろうという話が持ち上がったのではないでしょうか。

これは、この当時、まだ坂元少佐の戦死を始め、日清日露戦争で活躍した
「赤城」の記憶が人々の中に鮮明だったということだろうと思われます。

砲身をそのまま碑にするにあたり、書を浮き彫りに溶接するなど、
日本には明治時代にすでにこんな技術があったんですね。

砲の、というか碑の裏側に回ってみると、日付はなく、

琴石齋西道仙

という人が揮毫したということしか書かれておりません。

この名前、いったいどこで切れるのかさえわかりにくいですが、
本名、

「西道仙」(にし どうせん)1836−1913

琴石齋というのは雅号というかペンネームのようです。

西道仙は明治時代のジャーナリスト・政治家・教育家・医者で、
wikiによると晩年は「あちこちで揮毫しまくっていた」そうです。

たしかにこの達筆ですから、書家という肩書きがあってもよさそうな感じです。

この碑が建立されたのは、これらの情報を総合する限り、
「赤城」が民間に払い下げられた1911年から西道仙が亡くなる1913年まで、
この2年の間のできごとであることだけは確実です。

 

ところで超余談ですが、「赤城」について調べていて、
旅順攻略作戦のときに「赤城」が衝突事件を起こしていたことを知りました。

原因は濃霧で視界が悪かったからということですが、このとき沈んでしまった
砲艦「大島」の当時の艦長は、廣瀬勝比古中佐と言います。

廣瀬中佐には海軍軍人のお兄さんがいたんですね。
廣瀬ファンで伝記も読んだという人以外知らなそうですが。

このとき「大島」艦長だったのが海軍兵学校10期の広瀬勝比古。

この「大島」沈没の事故が起こったのは、実は驚くなかれ日露戦争中の
1904(明治37)年5月18日でした。

6歳年下の弟の武夫がその2ヶ月前、同じ旅順港で閉塞作戦参加中、
沈みゆく船内に部下を探しに行って戻ってきた時爆死し、
その部下思いの指揮官ぶりから、国を挙げてその死は称賛され軍神になったばかりです。

このとき兄廣瀬は、幸い?沈没事故で命を落とすことにはなりませんでした。

わたしはここでふと考えてしまったのです。

あの軍神広瀬の海軍軍人の兄という人が無名な理由は、
この事故でうっかり?助かってしまったからではないのかと。

どんなネット媒体を当たっても一切描かれていないのですが、
このときの事故で「大島」の130名もの乗員は全員救助されたのでしょうか。

ここからはわたしの予想です。

このとき「大島」には助からなかった乗員、つまり廣瀬の部下がいたと思われます。
このことがニュースになれば、艦長だった広瀬兄がその責任上、
わずか2ヶ月前、部下の命を救うために戦死した弟と比較されることは
免れなかったでしょう。

そしてそのことは「軍神広瀬の美談」に味噌をつけるとして、
海軍内の暗黙の了解のうちに「大島」の艦長が広瀬兄だったことは
秘匿されたのではなかったでしょうか。

それどころか、海軍は衝突の末「大島」が沈没したことそのものを隠し、
事件から1年も経ってからようやく喪失を公表しています。

 

海軍軍人としての広瀬勝比古はその後も海軍に奉職し、
艦長職を歴任しながら40代で予備役に入り、最終階級は少将でした。

まあ、普通といえば普通でそこそこの経歴ですが、あの軍神の兄にしては
海軍からも世間からも無視されすぎではないでしょうか。

そしてその理由はと考えると、わたしにはやはり大島事件のせいとしか考えられないのです。




 

旧海軍兵学校跡見学、もう1日続きます。

 

 


大日本帝国の池と留魂碑〜江田島旧海軍兵学校

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「赤城」の慰霊碑のあと、大講堂の来客用入り口の方向に案内されました。

「足元に気をつけてください」

注意を受けるまでもなく、道でもなんでもない坂の斜面を
所々にでている岩を避けながら歩いていくのですが、
うっかりしていると砂で滑りそうです。

「ちょっと面白いものをお見せしましょう」

連れてきていただいたのは、大講堂の画面上に見えている池の前でした。

「あれ、おわかりですか。日本列島があります」

いわれてみれば日本列島に見える形が海に見立てた池に確認できます。

「四国がないような・・・・」

「四国ありますよ」

あー、あったあった。

小さくて草が生えていないので、見つけられませんでした。
いつこんなものができたのかはわかりませんが、
経年劣化でセメントの日本列島のあちこちに亀裂が入っています。

縁起を担ぐ向きには実に不穏な状態に見えてしまったりするでしょう(笑)

「日本列島の上にあるのが朝鮮半島なんですよ」

「おお、確かにあります」

「当時あそこは日本でしたから」

なるほど。

「韓国軍から見学がきてもこれは見せられません」

歴史的な事実だったとはいえ、お互い気まずいことになるのは必至(笑)

 

さらに、北海道のうえをみていただくと、1905年の
ポーツマス条約で割譲された樺太らしきものが見えます。

池の奥側にも何か陸地をかたどった造形物があります。

「あそこは何を意味しているのでしょう」

「北方領土じゃないでしょうか」

全く島に見えないんですが、この池のテーマから鑑みるに
日本の領土であることは間違い無いでしょう。

しかし、国後島などの現在ロシアとの間で問題となっている
島にしてはちょっと離れすぎてやしませんかね。

そこで考えたのですが、この池が建造された当時、
北方は北方でも、

占守島

を意味しているのではないでしょうか。
え?物理的に全く形が似ておらんぞ、って?

 

占守島は1875年(明治8年)以降、樺太と交換されたので
日本領として北洋漁業の操業が行われ、陸軍要塞もありましたが、
昭和20年8月18日、ポツダム宣言受諾の三日後に、
ソ連軍が侵攻してきて、日本軍との間に

「占守島の戦い」

といわれる激戦が繰り広げられたところです。

その後ソ連が一方的に自国領土編入を行い、
実効支配されたままになっているのはご存知の通り。

 

この池、どこから水が流れ込んでくるのかわかりませんが、
もし池の水を抜いたらいろいろと年代物のゴミが出てきそう。

夏場はこの池のせいで蚊が湧いたりしないのかな、
と余計な心配をしてしまいました。

戦後、連合国軍がここに進駐してきたときも、
当時の大日本帝国の領土を表している池だと彼らが気付いたら、
おそらく1日で壊してしまっていたと思われるのですが、
今日まで残されているそのわけは・・・・・・。

もともと素人仕事というか、地図そのものがあまり正確でないので、
地図を現したものだと連合軍の誰も気づかなかったんじゃないか、
とわたしは思ったのですが、いかがなもんでしょう。

 

 


そのあと旧八方園神社の斜面下の道の案内がありました。

ここに「留魂碑」という石碑があることは、校内の移動の際
マイクロバスが前を通ることが何度もあり、知っていました。

歩いてその前を通るのは昨日に続き二度目で、
近くで碑を見たのは初めてです。

間近で碑文の写真を撮ることができましたので、
その文字も書き起こしておきます。

留魂碑之記

われら海軍兵学校四十一期会員は 

明治四十三年九月十二日入校

大正二年十二月十九日卒業

同三年十二月任官

第一次世界大戦勃発直後 我が国海上防衛の第一線に立てり

大正五年はじめて級友の死に際会せる時 

われわれは生まれた時と所を異にするも 

倶に志を同じくして江田島に集まり 

互いに死生を誓い 生涯同じ道を進むものなり

死後は 魂の故里江田島に集まらんとの議起り 

之を決定して大正八年十月五日古鷹山麓教法寺の境内にこの留魂碑を建立せり

題字はわれらの敬慕する校長山下源太郎大将の筆になるものなり

爾来われわれは時に留魂碑の下に相集まり 

戦没級友の霊を慰め同期の誓を固めきたれり

昭和四十七年留魂碑の永久保存のため之を母校の一隅に移して

海上自衛隊第一術科学校に寄贈し その管理を託すことになりぬ

同年十月二十五日移転移管を完了せり

先人いわく死生命あり忠魂不滅と

 

碑文中、

「大正5年の初めての級友の死」

とありますが、その少し前の第一次世界大戦で戦死者を出さなかった
海兵41期生徒たちが、初めてクラスメートの死に直面したのは
戦争ではなく、戦艦「金剛」艦内で事故が起きたときでした。

この事故が起こった当時、41期は全員が中尉になっていました。
海上自衛隊では卒業と同時に士官任官しますが、当時は卒業後
士官候補生として遠洋実習航海を行い、卒業1年後任官になりました。

この碑文によると、彼らは2年後、中尉に昇進していたことになりますが、
自衛隊でもそんなものなのでしょうか。

 

さて、「金剛」の事故で負傷したこの中尉は、事故後、
定係港である横須賀基地の海軍病院に運ばれましたが、亡くなりました。

海軍兵学校の「クラス」の繋がりはどの期も大変濃かったといいますが、
この41期は一入だったようで、その後彼らは級友の死をきっかけに、

「死後は魂の郷里江田島に集まろう」

という思いを込めて、事故の三年後にあたる大正8年、
古鷹山山麓に海軍兵学校設置のために移転していた
教法寺境内にこの「留魂碑」を建立したのでした。

海軍兵学校41期には中将になった草鹿龍之介、保科善四郎、
硫黄島で戦死し「ルーズベルトに与うる書」を遺した市丸利之助、
沖縄決戦で「沖縄県民かく戦えり」の打電を残して自決した太田實、
そしてキスカ作戦で奇跡の日本軍撤退を指揮した木村昌福がいます。

彼らのうち誰一人として、卒業時にクラスヘッドだったとか、
恩賜の短剣組だったという優等生はいないという意味では
(草鹿14位、保科28、市丸46、太田64、木村後ろから12位)
なかなか面白い?クラスでもあります。

この「留魂碑」は、碑文にもある通り、昭和47年に
永久保存のため本校に移動保存されました。
(そのため碑文は現代仮名遣いとなっています。)

その当時41期生はほとんどが80歳となっており、
上記で生存していたのは保科だけ、その保科も
平成3年に100歳の長寿で亡くなりました。

ところでこの「留魂碑」揮毫を行ったのは、彼らが在校時
校長であった山下源太郎中将です。

山下源太郎というと、戦前の人ならば誰でも知っていたという
センセーショナルな事件で、40過ぎて授かった息子を失っています。

それは、佐世保鎮守府長官のときに、当時10歳の四男が、
精神不安定のため待命になっていた海軍大尉飯島弘之に
計画的に刺殺されるという凄惨な事件でした。

この揮毫を行ったのはその4年後で、山下が佐世保の事件跡地を買い取り、
そこに愛息の慰霊碑を建てるなどしていた(今でもあるらしい)頃ですが、
察するにまだその心の傷も癒えていなかったことでしょう。

 

阿川弘之著『米内光政』の作中にはその事件が登場します。

山下の三男、佐世保市内八幡小学校の三年生だった四郎は、
二月九日の午後、授業を終ってしばらくキャッチボールをして遊んでいたあと、
級友たちといっしょに校門を出た。

そこへ、緋の着物と銘仙の羽織を着た若い男が近寄って来て、
「長官の坊ちゃんはどれか」と子供らに聞き、
「貴様が山下だな」
「うん。僕、山下だよ」
答えて八幡谷の坂を下って行こうとする四郎に、いきなりつかみかかった。

泣き叫ぶのを坂道の途中にねじ伏せ、隠していた海軍ナイフで
右の耳下から左耳下へ、頸部を掻き切った。
先生や近所の大人や巡査がかけつけた時、子供はすでに絶命していた。

市役所の方へ逃げて行く犯人が、間もなく逮捕された。

「なぜあんなことをやったか」
と聞かれて、「僕を侮辱するからだ」と男は答えた。

子供の遺体は、取り敢えず担架にのせて海兵団の医務室に運び込まれた。
急報を聞いて来た山下夫人の徳子は、ランドセルを背負ったまま
血に染まって死んでいる息子を見ると、
「四郎ちゃん」と言ったきり、気を失った。

これだけでも大事件だったが、犯人が飯島弘之という
海軍大尉だとわかって、騒ぎが大きくなる。
いろんな噂が立った。

飯島弘之は今でいう統合失調症で、自分の待命とは
何の関係もない佐世保鎮守府長官の、しかも息子を、下調べまでして
計画的に殺害したのは、全て被害妄想からきた行動だと言われているようです。

 

さてその山下の書いた「留魂碑」の文字なのですが、どういう理由なのか、
ノの字の払いがわざわざ消されています。

揮毫者の何らかの意図があっての省略だとしか思えないのですが、
山下源太郎がかつての教え子の早すぎる死と、愛息子の死を
重ね合わせた心情に意味があるのではないかというのは考え過ぎでしょうか。

一般見学のスタートとなる江田島クラブを出ると、
向かいの校舎の屋上角にこのような拡声機があるのを
ご覧になったことがあるかたも多いと思います。

わたしはこれをずっと海軍兵学校時代からある校内放送の
スピーカーだと思っていたのですが、このとき伺った説明によると、
これは戦後になって設置されたものなのだそうですが、
当時江田島には消防署がなく、火事になったときには
このサイレンで近隣に知らせるということをしていたのだそうです。

進駐軍が付けたのかどうかは聞き忘れましたが、
ここには進駐軍時代も、海上自衛隊になっても
消火用の車があったからだそうですが、道を少し行ったところに
消防署ができてからは使われなくなりました。

理化学講堂は現在武道具などを保管する物置として使われていました。

 

旧海軍兵学校跡見学・おわり

マットレス・ファクトリー(という名前の美術館)

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今日は息抜きに現代アートをご紹介します。

ピッツバーグにはカーネギーサイエンスセンターという最大の自然博物館と
そこにへ移設された美術館、アンディ・ウォーホル美術館がありますが、
もう一つ挙げるならば現代美術館である、

「マットレス・ファクトリー」Mattress Factory

が有名です。

例によってMKがネットで見つけてきた情報をもとに

「マットレス・ファクトリー行ってみない?」

と言い出した時には、なんのためにマットレス工場を見学?と思ったものですが、
この奇を衒ったネーミングセンスからして現代美術っぽいミュージアム、
創立者であるアーティストのバーバラ・ルデロウスキー(2018年88歳で死去)が
マットレス工場だった6階建ての建物をそのままアートセンターにしたものです。


わたしがピッツバーグという街を「鉄鋼の街」というイメージで捉えていたように、
昔は鉄鋼業で栄えたこの街も、1970年代には人口が流出して閑散としていました。

そこにルデロウスキーは最初のインスタレーション型美術館をオープンしました。

インスタレーションアートや、ビデオやパフォーマンスアートなどを公開し、
毎年75,000人以上の訪問者が訪れます。

地域、国内、および国際的なアーティスト、 650人以上よる作品が紹介されており、
その多くは美術館のアーティストインレジデンシープログラムで制作されています。

そして、ノースサイド地域の活性化の主要な触媒となっています。

ここはもともと「スターンズ&フォスター」というマットレス会社でした。
同社は今「Sealey」と名前を変えて世界展開しており、日本と取引もあるそうです。

煉瓦造りの建物の部分がほとんど残されています。

工場の建物を撤去した跡だと思ったら、アーティストの造園によるものでした。
これを「造園」とはこれいかに、といいたくなるいい加減さに思えるのは
わたしが日本庭園というもののある国の人だからでしょうか。

これはウィニフレッド・ルッツの「永続的なコレクション」です 。

かつてはイタロ-フランス・マカロニカンパニーというのがあったそうで、
基礎のように見えるのは火事で破壊された建物の跡なのだとか。

建物は6階建てです。
わたしが今住んでいるノースショアにあり、川の向こうに
ピッツバーグ大学の「学びの塔」が見えています。

(あ、言い忘れましたが、この写真はもちろん夏です。
今のピッツバーグはマイナス9〜1という寒さで、毎日雪が降り、
車は雪を溶かすために撒く薬がこびりついて大変です)

さて、それでは見せていただきましょう、と足を踏み入れた部屋。
これは作品ではなく、これから作品を「インスタレーション」する準備だと思います。
多分ですが。

常設展示のひとつ。

RepetitiveVision 草間彌生

Repetitiveというのは「反復性」「連続性のある」ということですので、
連続性のあるビジョン、ということでいいかと思います。

草間さんは同じタイトルでいくつも作品を作っているようですね。
草間彌生といえばドット、ドットといえば草間彌生なので、
どれもトライポフォビア(集合体恐怖症)にはちょっと、みたいな傾向があります。

ドットは同じ大きさのシールを貼り付けているようですね。
天井まで鏡張りの部屋に、東洋人風風貌のマネキンが・・四体かな?

一応ここの解説を翻訳しておきます。

「草間彌生の生涯の作品は、点、網目模様、強迫的に繰り返される形、
そう言ったものを利用した絵画、彫刻、インスタレーション、出来事が特徴です。

彼女は1958年にニューヨークに移住する前に画家としてのキャリアを開始し、
日本で数多くのグループショーや個展に出品しました。
ニューヨークのアバンギャルドな活動メンバーの一人として、彼女は
数多くの有名な『ハプニング』を上演し、ドットを描きました。

70年代、彼女は精神病院に入院したため、アシスタントがスタジオを維持していました。
彼女の生涯にわたる精神病と「正常」との戦いは、その仕事に注ぎ込まれ、
全てを消費しました。

擬人化された形やパターンを繰り返すイメージは彼女だけが見ることができる
幻想的なビジョンを再現します。

彼女の芸術仲間であるヨーゼフ・ボイスやルイーズ・ブルジョワのように、
彼女は生涯追求している特異な個人的なビジョンから超越的な作品を生み出しました。

彼女の作品は全て、花の壁紙の部屋の、花模様のテーブルクロスで覆われたテーブルに座り、
そして彼女の手も鼻で覆われているというビジョンから来ています。

彼女の作品の中で、鑑賞者は鏡に映り、有機的な形に遮られ、
そしてインスタレーションは彼ら自身をも壁のなかに吸い込むのです」

というわけでせっかくなのでわたしも「インスタレーションに吸い込まれて」みました。

Greer Lankton(1958ー1996)

It's about ME, Not You, 2008

「これはわたしのこと、あなたじゃない」みたいな?
MEが大文字なのは何かを意味しているのでしょう。

ここに登場する人形は彼女のアイドルと彼女自身だそうで、
もちろんそれらは彼女自身が製作したものになります。

ランクトンは生まれた時は男だったそうですが、その後
芸術においてもその人生においてもトランスジェンダーとして生きました。

この写真に写っているポートレートは展示にもあり、
彼女自身であることがわかります。

作品は38歳で彼女が亡くなる6週間前に公開されたものですが、
彼女が生涯において製作した人形が全て住んでいるのだとか。

性別とセクシュアリティの規範、そして大衆文化と消費主義のイメージ。
彼女はこれらを雄弁に探求し、そして疑問を呈しています。

彼女は生涯を通じて薬物中毒と摂食障害に悩まされており、
死んだのはこの「最後の仕事」のあと大量に薬物を取ったのが原因だったそうです。

 

James Turrel  「Catso Red」

部屋の角に四角いランプが取り付けてある作品。
この人の名前でアヒったら、こういうものばかり製作している人のようです。

https://duckduckgo.com/?q=James+turrel+mattress+factory&t=osx&pn=1&iax=images&iar=images&ia=images

タイトルは「赤」ですが、肉眼で見ると(上)ランプが赤いのか、
それとも壁を赤く塗っているだけなのかは判別できません。

しかし、同じ写真の露光量を落とすと、このようになり、
つまり壁ではなくライトそのものが赤いということがわかりました。

でっていう話ですが。

最初はマットレス工場跡だけではじまったこの美術館ですが、
インスタレーションという「現場に作品を直接設置する」という方式は
もう少し広がりを必要としたため、別館ができました。

ここは、いかにもアメリカのありがちな古い民家を買い取ったようです。

ここにインスタレーションされている作品は、

A Second Home 2016 Dennis Maher    

いかにも住人がセカンドホームで行っている作業中のようなデスクとか、
誰もが無駄に溜め込んでいる具にもつかない思い出の品とか、
まあ言ってみれば人生において必須ではない、生活の澱のような役に立たないものとか、
とにかく「誰かの生きている形跡」みたいなシーンが展開していました。

実際に民家だったところに作品を据え付けているので、
こんなこともできます。
壁に普通にある本棚の後ろの壁に穴が開いていて外界とつながっているとか。

意味や目的というものを持たせることを全く放棄したらしい模型とか。
青いガムテープは一体何なんだ。

元の民家の仕様も含めて作品にしてしまっています。

暖炉の前の椅子には・・・もう誰も座ることはできません。

トランクの中にあるのは「元椅子だったもの」のようです。

この家の住人は、かつて薪を使っていた暖炉を塗りつぶし、そこに
ガスストーブを設置するためにガスの配管を行ったらしいのがわかります。

アメリカの家は普通に100年越えが多いのですが(とくにここは地震がないから)
今でも薪の暖炉を使っているところは滅多にないと思われます。

わたしがニューヨークで借りた家も各部屋に一つづつ暖炉がありましたが、
暖房はエアコンで、今では単なる飾り棚と化していました。
薪の暖炉とエアコンの間には主流がガスストーブだったことがあるのかもしれません。

部屋というか家そのものに「インスタレーション」が施されています。
レンガの壁に丸く綺麗な穴が開けられていて、それを覗いてみると・・・

向こうに見えるのはこれ。

Rolf Julius 「Red」

あまり赤くないのですが、他の写真を検索すると赤です。
このあと赤を塗ったのかもしれません。

ただぶら下がっているのではなく、これ自体が「スピーカー」になっていて、
糸が微かに振動しているのまで含めて作品のようです。

展示には常設展示とテンポラリーがあり、これは
当時のテンポラリー展示だと思われます。

アーティストにとって、空間を与えられ、そこで
好きなようにあなたの作品を展開してください、というここの方針は
非常に想像力をかき立てられることなのだろうと思いました。

建物の外側の庭も、造園作家の「作品」ということです。
思いっきり人工的で良くも悪くも「独りよがり」なアートを散々みて
外に出たとき、このような馥郁たる香りを放つ花の咲く一角が展開されていると、
正直なところほっとするのを感じます。

それもこれも包括して人間の感性を刺激する装置を意図して
この美術館は計算されているのかなと思ったり。

庭の壁には文字を入れた陶器のパネルが並んでいるコーナーあり。

世界中で人類が使用している文字のいろいろ。

日本の平仮名ももちろんあります。

「ま」とか「ゆ」とか、やはり造形的に面白いものが選ばれているようです。

この「ローマン」って🙂にしか見えないんですがこれは。

ガラスの内側にこれがあって、どうも作品に見えないけどなんだろう、と言いながら
立ち去ったのですが、あとで(ちうか今)、この機器は、
ロルフ・ジュリウスという人の「作品」であることが判明しました。

「Music For Garden」

つまり、このときはやっていませんでしたが、庭に流れる音楽、
その空間を「作品」として創造したということらしいです。

My work is as high as the building, and fills the entire lot adjacent to it.
In this way, I have created rooms.
As the visitor moves from one room to another--either vertically or horizontally--
the experience of the work changes.

私の仕事は建物と同じくらい高く、それに隣接する区画全体を満たします。
 このようにして、私は「部屋」を作りました。
訪問者がある部屋から別の部屋に(垂直または水平に)移動すると、
それが変化するのを体験できます。

この人がこうやって機器を操作している時だけ現れる作品てことでOK?

t

美術館にはチケットなしでも外から入場できるカフェがあります。
暑かったこの日、展示場全体を歩いたあと、ここで一息つきました。

しばらく流行病関係で閉館していたマットレスファクトリーですが、
2月10日に再オープンが実現するようです。

今住んでいるところはアンディ・ウォーホル美術館のワンブロック隣ですが、
ここはカフェ以外はプロトコルを定めてすでに再開している様子。

カーネギー博物館もオープンしていますが、ここもカフェはまだ
本当に美味しくて大好きだったので残念でたまりません。

次に来る時には、平常に戻っていることを心から祈るばかりです。

 

 

米国商船部隊と「メレディス・ヴィクトリー」号の難民救出〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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去年の夏はこれまで何年間も連続して必ず一年に一度は滞在していた
サンフランシスコなど西海岸に初めて行けずじまいでした。

そして何の因果か、いまだにこの博物館のあるピッツバーグにいて、
毎日前を車で通っていますが、最後に見学したのは2019年の夏です。

まだピッツバーグにいるうちにシリーズを終わらせてしまいましょう。

 

■ アメリカ合衆国商船部隊

例年ベイエリアに滞在することがあれば、必ず一度は歩きに行っていた
サンフランシスコ空港近くのコヨーテポイントレクリエーションエリア、
そののトレイルが繋がる緩やかな丘の斜面には、
かつてマーチャント・マリーンのアカデミーがありました。


その跡地を表す石碑を見つけたことから、ここでも一度
その教育組織についてお話ししたことがあります。

ここピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館には、
あまり他の軍事博物館には見られないマーチャント・マリーン、
アメリカ合衆国商船にかかわる展示がありましたので、
日本人があまり知らないこの組織についてもう一度お話ししておきます。

アメリカ合衆国商船(マーチャント・マリーン)とは、
アメリカの民間の船員、そして民間あるいは連邦が所有する商船の総称です。

民間の船員と商船は、いずれも政府と民間部門の組み合わせによって管理されており、
アメリカ合衆国が航行を可能とする海域を出入りする商品や
サービスなどの商取引、あるいは輸送を行っています。

商船は平時、物資や貨物と輸送を担うというのは当たり前のことですが、
アメリカの場合、国家が戦争に入った時には、商船が軍の補助任務、
軍事物資や兵力の輸送を行うことが法律で取り決められているのです。

このことは、

「商船隊は有事には第四の防衛軍となる」

という言い方で規定されているわけです。

日本の商船組織と大きく違うのは、指揮官に将校のランクが与えられていることで、
この将校はしばしば国防総省から軍の将校に任命されることもあります。

以前ここで取り上げたドイツ潜水艦対アメリカ駆逐艦映画、
「眼下の敵」(The Enemy Below)で、主人公の駆逐艦の艦長
(ロバート・ミッチャム)が民間のキャプテン出身だったという設定を覚えておられるでしょうか。

あれもこのシステムをわかっていない人が見ると、なぜいきなり民間人が
駆逐艦の艦長に任命されるのかと不思議に思うでしょう。

実はマーチャント・マリーンの将校であった主人公(ミッチャム)が
そのまま駆逐艦長にスライドしてくるという設定はあり得ないことではないのです。

映画ではそのことが当初部下の漠然とした艦長への不信感につながっていたわけですが、
それが払拭されたのは戦争が始まったからでした。

開戦当初は誰しもが実戦など経験したことはないので、いざそのときになって
この艦長が「できるやつ」であるのを目の当たりにした、というわけです。

おそらくあの主人公が非常時に駆逐艦の配置に回されたということイコール、
それだけ民間船での実力が評価されていたという設定であったのでしょう。

ただし、やはりそれはあくまでも映画としての創作で、実際は商船将校が
戦闘艦中の戦闘艦である駆逐艦長になることはありえません。

民間商船将校が軍艦艦長に任命されることがあったとしても、その任務は主に
戦略的運輸であり、将校の資格は無制限のトン数の船の船長でなくてはならなかったのです。

 

アメリカ合衆国マーチャント・マリーンが最初に戦闘に参加した最初の記録は
1775年、イギリスのスクーナーを相手に行った戦いとされています。

南北戦争でも民間船による通商破壊行動が戦略的に行われましたし、
第二次世界大戦では各種作戦行動中に310万トンの商船が失われ、民間船員は
26名に一人の割合で戦死しており、これは他の民間人の組織と比べて
最も高い死傷者率ということになっています。

これは我が国で徴用船の船員が多数失われたのと全く同じ構図です。

アメリカでは733隻の貨物船そして21万5千隻のうち8,651隻の民間船が失われましたが、
日本ではもっと多数にのぼります。

汽船主体;第二次世界大戦で喪失した日本の民間船

 

■「メレディス・ヴィクトリー」とラ・ルー大尉

SSMeredithVictory.jpg

これはアメリカの商船隊の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」です。

第二次世界大戦に投入するために建造されましたが、完成したのが
1945年7月24日であったこともあって、実際に配備されたのは
朝鮮戦争でした。

「メレディス・ヴィクトリー(Meredith Victory)」

はなぜかノースカロライナにある小さな女子大学、メレディスカレッジに因んでいます。

1950年、朝鮮戦争が始まったため、彼女はまず、
国防予備船隊としてワシントン州への配備を経て戦地に配備されました。

国防予備船隊(NDRF・National Dfence Reserve Fleet)

は、有事の際、軍事非軍事の如何を問わずアメリカ合衆国の求める
任務に就くために20〜120日以内に起動することができる商船で構成され、
軍艦ばかりから成る「米国海軍予備艦隊」とは全く別物です。

現在国内に三箇所(バージニア、テキサス、カリフォルニア)
非活性化された補助艦船ばかりを停泊する予備船隊の港が存在します。

こんな感じで浮かんでいます。
この予備船隊港のあるのはジェームズ川なので、水の色がこんななんですね。

さて、「メレディス・ヴィクトリー」が朝鮮戦争に投入されたとき、
艦長だったのは

レオナルド・ラ・ルー大尉(Cauptain Leonard LaRue )1914 – 2001

というペンシルバニア海事学校出身の士官でした。

アメリカでは軍人でなくても軍的階級を特例として与えられる場合が多々あります。
カーネル・サンダースはケンタッキー州から送られた称号のみの「名誉大佐」でしたし、
なんならうちのMKも州の資格試験を受けて救急隊員の資格を持っており、
もう少しやればルテナントの階級がもらえると言っていたような気がします。

余談ですが、ピッツバーグ近辺の大学は2月1日に学期が開始されました。
春休みは1日だけ(週末か月曜日にくっつけて三連休にはなる)になるそうです。

学期明けと同時に大学の組織である救急隊の待機任務も始まるようで、
2月第一週の1日はスタンバイルームに泊まり込みだということでした。

ほとんどがオンラインなので、先生の都合なのか、
夜の7時半から始まる授業もあるそうです。

 

ラ・ルー大尉の話に戻ります。

海の男のキャリアを商船から始めたラ・ルーですが、
第二次世界大戦が始まった時、「ムルマン・スクラン」という
連合軍の護送船団に乗って、ノルウェーとソ連のムルマンスクを往復していました。

危険な北極海、頻繁な悪天候、そして通商破壊活動を行うドイツ潜水艦。
これらはすべての航海を神経と忍耐力を要する恐ろしい試練に変えました。

1950年、朝鮮戦争が始まると、ラルー大尉は再び危険な海域で奉仕することになります。

戦略物資を供給するために何百もの商船が動員され、
食料や弾丸からバズーカやブルドーザー、地球半周離れた場所に必要なものを届けるため、
商船の乗組員は24時間体制のサポートを行いました。

 

朝鮮戦争中の韓国の港(パブリックドメイン)で軍隊への郵便物を持った商船。 朝鮮戦争中、韓国の港での商船

仁川上陸作戦始め朝鮮半島東海岸における多数の任務に参加した後、
ラルー大尉は北朝鮮の興南での勤務を命じられました。

この任務で彼の船「ヴィクトリー」級の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」は、
歴史の流れを変える軍事的および人道的作戦に参加することになります。

当時興南港では、朝鮮戦争の最大の水陸両用撤退および米国史上最大級の戦闘条件下で
民間人の軍事的避難が行われていました。

これを受けて12月9日から24日までの5日間で、100隻近くの船に、
10万5千人以上の軍隊と装備、車両、物資を釜山に向けて輸送する任務が始まりました。

さらに、港に閉じ込められ、迫りくる中国軍の殺害の危険にさらされていた
10万人の北朝鮮の民間人も救助されることになりました。

■ 神の手

当時国連は朝鮮半島を放棄しようとしていました。
(まあ今も国連なんてなんの役にも立っていませんが、その話はともかく)

このとき、ラルー大尉は興南で、人員を載せることを全く想定せずに造られた
「メレディス・ヴィクトリー」に、船長判断で1万4千人の難民を積み込みました。

メレディスビクトリー1950に乗った難民

「メレディス・ヴィクトリー」外甲板上の難民、1950年12月。

このときの興南から釜山の南の島、巨済島への「メレディス・ヴィクトリー」の航海は、
「人類史上最大(人数)の救助活動」として記憶する関係者もいます。

このとき「メレディス」に乗り込んだ難民は3日間腰を下ろすこともできず、
食料はもちろんのこと水、トイレもないという状態でしたが、
12月25日のクリスマスにラルー船長が巨済に船を着岸させ投錨を命じたとき、
1万4千人全員が全員が生きていただけでなく、船上で5件の出産があり、
しかも赤子は全員無事で生まれたのでした。

ラ・ルーは後にこのときのことを

「神の手がわたしの船の舵を取っていた」

と語っています。

 第二次世界大戦の海軍のベテランで「メレディス・ヴィクトリー」のオフィサーだった
ボブ・ラニーという人物はのちにこの時のことに絡めてこう言いました。

「戦争は爆弾とか悪人どもという面だけを持つのではありません。
しばしばそれは国家の完全性と国民の尊厳を維持することと同義です。
わたしたち乗組員はあのときそれをやったと思っています」

 

■ベトナム戦争から現在まで

ベトナム戦争においては、その継戦期間を通じて95%の戦争物資が
アメリカ商船部隊のサポートによって輸送されることになりました。

1966年には商船がアメリカ史上最も長距離となる
ボストンーサイゴン間、1万2千マイルの物資船団輸送を行いました。


時代は降り、湾岸戦争における「砂漠の嵐作戦」においては、
予備商船部隊の4分の3がアクティブとなりました。

戦争と戦争の間、「ビルドアップ」準備の期間には、何千もの民間船員が
かつてのノルマンジー上陸作戦のときの4倍に相当する、
歴史上最大の軍事海上輸送のひとつを達成しています。

こんにち、7,000名ものライセンスを持った米海兵隊が、
軍事海上輸送司令部(MSC)に取り組んでおり、国防予備船隊として、
防衛任務をいつでも遂行できるように次の活性化の準備を行っているのです。

ここSSMMには商船部隊のオフィサーになった人のセーラー服が寄贈されています。

 

ラ・ルー大尉のその後についてもお話ししておきましょう。

「メレディス・ヴィクトリー」の救出劇から3年後の1954年、
レオナルド・ラ・ルーはベネディクト会の僧侶に帰依し、
「ブラザー・マリヌス」という洗礼名を受け、残りの人生を聖職者として過ごしました。

米国商船アカデミーの卒業式に出席した当時の国防長官のジェームズ・マティス()は、
スピーチでラ・ルー大尉を取り上げています。

「1950年の極寒の12月。
敵の兵士が炎の中で都市に迫り、港が採掘され、何千人もの難民が
逃げようと必死になって港に群がりました。
ラ・ルー大尉は戦争の嵐の中でSSメ「レディス・ヴィクトリー」を着岸し、
乗組員とともに14,000人の難民を救出し、彼らを乗船させました。

船が安全な停泊地に入る前に、5人の赤ちゃんが生まれ、
14,000人以上の難民のうちたった1人の命も失われることはありませんでした。

彼こそは最善のために全てを賭けることを躊躇わないリーダーだったのです。

Semper fidelis!」

  メレディスビクトリーのギネス世界記録賞   SS「メレディス・ヴィクトリー」のギネス世界記録、
「一度に救出した最も多い人数」の記録がギネスブックに載っているのだそうです。   マリヌス兄弟の墓     「Semper Fidelis」センパー・フィデリス

はラテン語で「常に忠実に」を意味します。
米国海兵隊のモットーとして有名ですが、のみならず
米国商船隊にも同じ言葉が使用されています。  

 

 

続く。

「コーヒーポット・ジョー二世」の除隊・第二次世界大戦海軍資料〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

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ピッツバーグの「ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム」
の回廊はいよいよ近代海軍の展示が始まり、思わず盛り上がるわたしです。

■ 航法のための設備いろいろ

「ジャイロスコープ・コンパス」と説明があります。
つまり略してジャイロコンパスですね。

転輪羅針儀という言葉もありますが、日本語でもジャイロスコープです。

一応説明しておくと、高速回転するコマが回転軸の方向を保とうとする性質と、
自転する地球のの表面において回転軸を水平に保った場合に、
ジャイロ効果のジャイロモーメントにより
ジャイロスコープの回転軸が一定の方向に向く作用(プリセッション)を利用し、
方位を知ることができるのです。

見るからに旧式のジャイロとお見受けしますが、説明によると
やはりこのタイプが商標を取ったのは1919年のことでした。

このモデルはニューヨークのスペリー・ジャイロスコープカンパニーによる製造で、
第二次世界大戦に参加したアメリカ海軍の艦船のほとんどが使用していました。

この自転車の空気入れみたいなものは、フォグホーン、つまり
霧笛ということになります。
USS「ホーネット」に搭載されていたものだとか。

こんな小さな機械で無敵の役割を果たすのかと思いますが、
当時の霧笛音発生器は「ダイヤフォン(Diaphone)」方式と言って、
遠くまで届く深い、大きな音を発生させることができました。

Vintage 1940s Gamewell Diaphone Fire Alarm Horn w/ Switch Valve RARE! |  #407931543

典型的なダイヤフォン、小型の「ゲームウェル・ダイヤフォン」は
こんな形をしているわけですが、・・・あれ?

これと同じ形のものが江田島の旧海軍兵学校校舎についていたような記憶が。
あれはもしかしたら霧笛だったのでしょうか。
そもそも瀬戸内海に霧は発生するのかって話ですが。

それはともかく、音を増幅させるのに必要だったのが
ダイヤフォンの場合は圧縮空気であるわけです。

艦上でこの音を発生させる時、空気を圧縮するのに
この自転車の空気入れみたいなのを使ったわけですね。

どうして圧縮空気があのボーーーーという音になるのか、
どうしても知りたい方はこちらをご覧ください。

こちら

 

このブログでも何度も紹介しているエンジンテレグラフです。

船がスピードを変更する時、操縦者は艦橋(船橋)から機関室に
「エンジンオーダーテレグラフ」の表示を手動で動かし、
コニュニケーションをとります。

ブリッジにあるテレグラフが操作される時、ベルがなって
機関手にデバイスを同じ位置に変更して指令を確認することを警告します。

ここにあるテレグレフステーションは19世期から1950年台までの
スタンダードになっていた型式のものです。

右上はUSS「ニミッツ」にあった「バトルランタン」。
Battle Lantern とは、非常用の灯りと考えていただいていいかと思います。

戦闘による損傷、機器の故障、節電、およびその他の突然の出来事により、
艦内の一部に電力、そして光ががなくなるような事態に陥った時、
この電池式ランプは、エリアへの主電源が遮断されると自動的に点灯し、
長時間にわたって主電源から絶えず再充電され消えることはありません。

しかし艦のすべてのエリアにバトルランタンが装備されているわけではなく、
艦橋など最も重要なエリアのみで、ヘッド(トイレ)にはこんなものありません。

ですから、経験豊富な乗員は常に小さな懐中電灯を携帯して非常時に備えており、
停電が発生した時に消灯しているコンパートメントにいても、
活動を継続したりそこを離れることができるようにしていました。

というか軍艦で停電って、そんなにちょくちょく起こることだったんですかね。

その下にある鐘は時鐘ではなくランチング・ベル(Launching  Bell)といい、
進水式のセレモニーのために使われてそれっきりという鐘です。

道理できれいなわけですが、それではこのランチングベル、
どの艦の進水式に使われたかというと、

USS「ピッツバーグ」SSN-720

つまり1984年12月8日に一度鳴らされただけのものなんですね。

この「ピッツバーグ」は艦種記号をごらんになっておわかりのように、
原子力潜水艦、「ロサンゼルス」級となります。

720insig.png

ところで艦体よりもこちらのマークを見ていただきたい。
「ピッツバーグ」を表す象徴的なものが、実はこの
黄色い鉄橋だけしかないということがこれでおわかりですね。

USS Pittsburgh (SSN-720) participates in a dockside ceremony. Note the former USN jack waving from the front of the sub.

こちらが引き渡し式(commissioned)での「ピッツバーグ」。
艦首に立てられた旗の種類にご注目ください。

これは「ユニオンジャック」(イギリスのじゃないよ)というアメリカ海軍の
現在の国籍旗で、州の数が50になった1960年からこれを使用しています。

911の後しばらく、「わたしを踏みつけるな」の蛇さんでおなじみ、
ガズデン旗が使用されていましたが、2019年にまた元に戻りました。

 

原子力潜水艦「ピッツバーグ」は、湾岸戦争の「砂漠の嵐」作戦と
イラク侵攻に対する「イラクの自由作戦」で、いずれもイラクに軍に対し
トマホークミサイルを実射しています。

そして対テロ戦争が終結したとされた2019年に退役を行い、2020年4月という、
今にして思えばコロナ騒ぎ真っ最中の時期に除籍となっています。

ちなみに、奇しくも最後の艦長はピッツバーグ近郊の町カーネギー出身だったそうです。

■ 海軍のショア・リーブ(上陸)犯罪防止対策

この水兵服の人は、

2nd Class Electrician Mate

なので、海上自衛隊でいうところの電子整備かと思ったら、
左腕に「SP(Shore  Patorol)」の腕章をつけています。

つまりこのPetty Officer=下士官、二等兵曹はショア・パトロール、
つまりアメリカ海軍の憲兵ということになります。

海軍の場合、憲兵はMPではなくSPなんですね_φ(・_・

憲兵にSPの呼称を使用するのは米国海軍、海兵隊、沿岸警備隊、
そしてイギリスの王立海軍だけです。(海上自衛隊は知りません)

彼らSPは「リバティポート」における何百人もの乗員たちの
秩序を維持するという誰からも羨ましがられない任務を担っていました。

ところでリバティポートとはなんぞや、ということですが、これは
要するに軍艦が停泊し、乗員たちが「上陸」する港付近のことです。

ちなみに日本海軍並びに自衛隊でいうところの「上陸」のことは
英語では「Shore Leave」(海岸を離れること)といいます。

巷に「港港に女あり」という言葉が存在するほどに、何ヶ月かぶりに上陸する海の男は
一般的に、昔から悪い方向にハメを外すことが多く、要するにこのSPさんたちは、
そういった場合に起こりがちな事件や犯罪などを取締るために配置されていたのです。

この職種は若い彼ら自身にとってもなかなか辛いものに違いありません。
せっかくの上陸なのに、ハメを外すどころか人の素行を見張らなければならないという・・・。

船で抑圧された男性の集団が、港で解き放たれたときに起こってくる様々な問題。
これはある意味、およそ船というものができたころから存在する根深いものです。

というわけで、アメリカ海軍は最近になって、現役の軍人とその18歳以上のゲストを対象に、

「プログラム・21世紀の自由」

「プログラム・独身水兵」

なるものを定めました。

このプログラムは、すべての軍種の同伴者のいない軍人に、非番の際の
社会的、文化的活動、レクリエーション、運動、フィットネスなど、
安全でかつ健全な環境を提供することにより、軍人たちの個人の生活の質を高める、
ということを目的としています。

もちろん今時ですから海軍基地の施設ではインターネット、コンピュータを
だれでも無料で無制限に利用でき、ほとんどの場所には劇場があり、
テレビを備えたラウンジエリアには卓球台、ビリヤード台はもちろんのこと、
プレイステーション3やXbox360など最新のビデオゲームなども楽しめます。

スナックバーでは無料で様々なアイテムを楽しむことができ、時には
軍の企画したパッケージツァーにサインアップすると、
ちょっとした見学や遠足、観光なども楽しめるというわけです。
この勢いだとマッチングやブラインドデートなども・・それはないのか。

これらのプログラムの目標はひとえに潜在的な犯罪防止にあります。
SPの出番を招くという事態を防ぐため、至れり尽くせりにしているわけですね。

こちらは1944年から46年まで入隊していたシーマン、
ルース・ルドイ(女性です)の制服です。
WAVEも水兵は「シーマン」と呼ぶんですね。

写真はセーラー服の横のアフリカ系シーマン二人。

横に展示されているのは1944年から46年まで海軍に入隊していた
アルモ・J・マッコイJr.(右側)の制服です。

彼はグレイト・レイクスにある海軍訓練所のあと、
USS「J・フランクリン・ベル」USS「ジーン・ラフィット」(いずれも駆逐艦)
を経て、第34海軍建設大隊「シービーズ」に所属していました。

「シービーズ」Seabeesは文字通り「海の働き蜂」という名称ですが、
実は、

Construction Battalion(建設大隊)

のCとBで「CBs」からきています。

USN-Seabees-Insignia.svg

しかし工兵隊は「働き蜂」そのままのイメージだったので、こうなりました。
脚にいろんな工具を持って飛んでいる蜂・・脚ごとに階級が違います(笑)

この蜂のデザインは部隊によって少しずつアレンジされ様々なバージョンがあります

■ コーヒーポット「ジョー」二世

見かけは変哲もない昔のコーヒーポットです。
んが、このポットには何やら色々と文字が刻まれており、
しかも

「コーヒーポット ジョーCOFFEE POT JOE II」

なる名前が付いているようなのです。
しかも、後ろの写真には、テーブルの上の男性にこのポットでコーヒーを注ぎながら

「コーヒーポットジョー2が帰ってきた」

などと言っているようではないですか。
説明にはこうあります。

「第二次世界大戦に従事した水兵たちは、その海軍生活を
毎日のコーヒーなしに思い出すことはできません。

そのなかでもUSS『エルバン』(Erban DD631)に装備されていたこの
コーヒーポット『ジョー2』は乗員の仲間とされていました。

無線室勤務の乗員たちは、その長い勤務時間にちょっとした刺激を与えるために、
コーヒーポットをジョーと呼んでいました。
そんなある日、ジョーは修理不可能なくらい損傷してしまったので、
乗員のひとりが実家に手紙を書いて、新しいポットが調達できるか尋ねました。

そのリクエストをピッツバーグの新聞社が聞きつけ、報じたところ、
すぐさまペンシルバニア州ペン・ヒルズに住むアンナ・バレンシャガ夫人が
それに声を上げました。

「コーヒポットジョー二世」は1944年の7月から1945年の12月まで
「エルバン」で皆に愛用され、その間4度の戦闘と一度の台風を経験しています。

そして戦争は終わりました。

「エルバン」の乗員はそれぞれ艦を降りて故郷に戻っていきましたが、
そのうち三人の地元出身のもと乗員、H・C・キルドォー、ディック・ステファンズ、
そしてビル・ザビック(ジョンズタウン)は、ジョー二世に彼の「軍歴」と
送り主のバレンシアガ夫妻、そしてその家族への感謝の言葉を刻み、
ジョー二世を艦から降ろして彼を「民間人の生活」に戻すことにしました」

そしてポットに刻まれた言葉は次のようなものです。

USS「エルバン」DD631

★ グアム 1944年7月

★ フィリピン島 1944年10月

★ 沖縄 1945年3月 

★ 日本 1945年8〜9月

コーヒーポット ジョー II

1944年7月から1945年12月まで約2万回もの回数、
「エルビン」の男たちにコーヒーを提供してくれた

バレンシアガ夫妻とその家族には、祖国のために任務を行う
我々のためにコーヒーポットジョーを派遣してくれたことに
こころからお礼を申し上げるものである

我々は、自分たちの道を再び歩き始めるにあたって
ジョー ポット2を名誉のうちに除隊するものとする

ポットの反対側にはジョー2世にお世話になった
36名の当時の乗員の名前が刻まれているそうです。

( ;∀;)イイハナシカモ

 

このブースの下には航空機カタパルトが装備された軍艦の模型があります。
規模から言って巡洋艦のような気もするのですが、
案の定わたしには見当すらつきません。

どなたか心ある方の特定をお待ちしております<(_ _)>

 

続く。

 

 

「ヒトラーの秘密兵器」ナショナル・ローフと国民戦時体制〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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ピッツバーグの「兵士と水兵の記念博物館」の回廊を進むと、
殺伐とした展示にいきなりアメリカンアットホームな色彩が!

 

■ 戦時民間防衛

その印象の一員は、この女性のマネキンだと思うんですがね。
しかし、彼女は戦時中の女子勤労動員の労働スタイルで、

「ウィ・キャン・ドゥー・イット!」

のポスターの女性と似たポーズを取っています。

ところで、このポスターについては過去何度か語ってきましたが、
今回初めて、この制作をピッツバーグ在住のアーティスト、ハワード・ミラーに
依頼したのがウェスティングハウス・エレクトリック、
あのジョージ・ウェスティングハウスの興した電気部門であったことを知りました。

しかも、これはウェスティングハウス・エレクトリック社内部のための
まあ言うならば「みんなで頑張りましょうね」程度のポスターでしかなく、
Weとはウェスティングハウスの社員一同のことであり、もちろんのこと、
よく勘違いされるように、男性のいない職場に女性を駆り立てると言うような
プロパガンダの意味合いは全くなかったのです。

しかもウェスティングハウスでこのポスターが公開されていたのは
わずか1ヶ月の間で、もちろんのこと社外にはほとんど知られていません。

有名になったのは1980年台以降で、しかも本来の意味とは無関係の
フェミニズム系の発言に多用されていたようです。

まあただ、ここでは戦争に行った男性の代わりにそれまでの男性の職場で
働くようになった女性の象徴のように扱っている節はあります。

ポスターの横には工場で働く女性工員の様子を視察するお偉いさんという写真が。

女性は白黒写真でもはっきりわかるほど当時流行の真っ赤な口紅をつけており、
おそらく彼女はインタビュー用に用意された「ミス職場」だったのではと思われます。

女性、しかもアフリカ系が白人男性の職場だったところで
このように作業するという姿も当時であれば宣伝になりました。

どこかで見たマークだと思ったら、民間防衛組織です。
自分の過去ブログによると、このマークは航空監視員の徽章です。

真珠湾攻撃以降、空爆または砲撃の可能性が存在するとして、
アメリカでは民間防衛部隊が編成されることになりました。

1000万人ものボランティアが民間航空パトロール隊や、市民防衛隊を組織していました。

右側は民間防衛組織のボランティアを募集するパンフレット。
左は民間人配布されたガスマスクです。

映画「1941」で、子供がガスマスクをかぶってスープを飲んでいましたが、
真珠湾攻撃後、アメリカ民間人が東からの攻撃に怯え、子供や赤ちゃんにも
ガスマスクをつけさせている笑えない写真は動画は数多く残されています。

終末感漂う、戦時中の子供向けガスマスクとそれを付けた子供たちの古写真 : カラパイア

右側の看護師さん、マスクごと赤さんをぶら下げてないか?

■ ウォータイム・レーション(戦時配給)

トマトジュース10セント、ドーナツ5セント、ミートローフ30セント、
シタビラメのフィレフライ35セント・・・・・。

後ろのメニューは何かというと、「レーション」つまり配給の値段です。
アメリカでも食料が配給制だったってことですか。

アメリカのレーションブックとチケットです。

調べてみると、アメリカでもイギリスでも、第二次世界大戦中は
配給が一般的になった時期だそうです。

 イギリスでの配給ノート。
アメリカで配給ノートが配られ始めたのは1942年5月といいますから、
日本との戦争が正式に始まって半年後には配給制が始まっていたということになります。

最初に配給制になった食品は、砂糖だったそうです。

続いてコーヒー。
5週間ごとに1ポンド(450g)という割当てでした。
砂糖にコーヒーというと、まさにアメリカ人が死んでもやめられないものですよね。

そのあと配給制になった物品は以下の通りです。

ラード、ショートニング、オイル、チーズ、バター、マーガリン、加工食品、
ドライフルーツ、缶詰の牛乳、ジャム、ゼリー、フルーツバター

これらはつまりどれも戦地に送ることができるものばかりです。
また、食べ物以外でも

タイプライター、ガソリン、自転車、履き物、シルク、ナイロン、
燃料油、ストーブ、薪、石炭

などは1943年11月まで配給されていました。
ちなみに上の民間防衛のヘルメットと一緒に写っているのは配給のストッキングです。

■ 国民のパン(ナショナルローフ)

この配給については、まずイギリスが率先して始め、アメリカにこれを勧告し、
アメリカが追随したという背景があります。

 

イギリスは1939年9月の戦争の勃発までに、穀物の70%を輸入に頼っており、
その大部分は、現在のように、カナダから北大西洋を越えて輸送されていました。

輸送は船護送船団で行われましたが、Uボートによる攻撃に対して脆弱でした。

イギリスの計画担当省は、国民1日あたりに必要な最小限のパンのために
年間25万トンの小麦を30隻の船で輸入する必要があると計算しました。
パンに使う小麦だけでその量です。

この輸送費は、戦争遂行のためのその他の資材と割合を食い合うため、
英国政府としても小麦を減らして戦争資材を輸入したいのは山々でしたが、
パンの問題は直接士気に関わるため、なかなか配給に踏み切れませんでした。

食品省は、小麦の輸入量を減らし、到着したものを最大限に活用すると同時に、
人々が食品から最適な栄養価を確実に受け取れるにはどうするか考え始めました。

そこで、

「もしUボートによって全ての輸入が不可能になった時、
英国は国内の食糧生産だけでやっていくことができるか」

というシミュレーションを行い、また、このときに
ビタミンとミネラルを含む食べ物を摂取する必要などを模索し始めたのです。

ちなみにこれは現代の栄養学的思考の基礎となりました。

先般日本学術会議が日本の科学者に軍事研究につながる基礎研究を
行わせないという声明のもとに、実際に防衛省依頼の研究を潰していたことがわかり、

「およそ世の近代科学というものは全てもとを辿れば軍事研究なのを知らないのか」

と馬鹿にされていましたが、これなど瓢箪から駒的成果とはいえ、
戦争をシミュレーションした結果生み出されたわけですから、
軍事研究から生まれたといっても全く差し支えないかと思います。

 

さて、話を元に戻して、彼らが到達した解決策は、1942年の春に
「全粒小麦粉」または「全粒粉」を作成することにより、
輸入した小麦をさらに進化させることでした。

栄養学の研究により、パンは精白したものより全粒粉の方が栄養価が高い、
などという今日では周知のことも初めて理論的に裏付けされたため、

「国民のパン」(National Loaf)

というカルシウムとビタミンを加えた全粒粉のパンを「パン職人連盟」という
国民のパンを作るために設立された組織によって作らせたのです。

ナショナルローフはなぜか灰色をしており、おまけにドロドロで、
なかなか食欲をそそる代物とはいえず、どうやって調べたのか知りませんが、
なんでもこれを好んだのはイギリス国民の七人に一人という割合だったようです。

イギリス人でもこうですから、こんなものを政府から押し付けられた日には
フランスだったらもう一度革命が起きていたかもしれません。

 

イギリス政府はUボートの件もあって、食料輸送の割合を節約し、
かつ小麦の在庫をできるだけ有効活用するために、国民の不評も物ともせず、

「白パンがなければ国民のパンを食べればいいじゃない」

とばかりにこれをバッキンガム宮殿でも出していました。
1942年に訪英したエレノア・ルーズベルトは、

「金と銀の食器で提供された食事にこの”戦争パン”が出てきた」

と証言しています。

「ナショナル・フラワー(国民の小麦粉)」は、殻付き小麦粒から抽出された
無漂白小麦粉でした。
胚乳、小麦胚芽、およびふすまふすまも残してあるため、もとの小麦の
85%の内容が残されることになりました。

一般的に白い小麦粉は70%が残りますから、たとえば100kgの小麦粒なら
いままで70キロだったのが、これだとから85kg残ることを意味します。


そうやって多くの成分を残して製粉した小麦粉は、なぜか灰色をしていました。
最近は日本でも全粒粉のパンが普通に市場に出回わっているので
ご存知の方も多いと思いますが、全粒粉のパンは普通灰色をしていません。

わたしなどアメリカに行くとかならずイングリッシュマフィンも全粒粉を選ぶのですが、
(これは「白物好き」のMKにはめっぽう評判が悪く、わたし専用になっています)
それだって決して灰色ではありません。

これはふすまの一部分が残っているせいの色だそうです。

確かにビタミンBの含有量は格段に上がるでしょうが、問題は
それに比例して食感も悪くなっていくことです。(つまりまずい)

しかも、政府は抽出量をあるとき90%に引き上げました。
これはもうほとんど小麦の外側しか取っていない状態です。
さすがに不評だったらしく、再び85%にまで引き下げられました。

不人気の原因には良かれと思って入れられたカルシウムなどの添加物もありました。

このの目的は、カルシウムの吸収を妨げ、子供にくる病を引き起こす可能性のある、
より高い抽出粉中のより高いフィチン酸の割合を相殺することでした。

1942年4月6日、イギリス政府は白パンの商業的流通を禁止する法律を発効しました。
この禁止破りを防ぐため、パンは包装せず、スライスもせずに販売しなければならず、
製造された翌日のみ販売でき、当日は販売できませんでした。

せめて焼きたてならちょっとはましだったのかもしれませんが・・。

 

そのうち、小麦粉をオートミールまたはジャガイモ粉で希釈したり、
大麦粉、オート麦粉、馬鈴薯粉を混ぜることも始まりました。
長持ちさせるためにかなりの量の塩を入れることも定められました。

これらの小うるさい規定に従わなければならない当時のパン職人は、
ほとほと嫌気が指していたでしょう。

そしてこの国民のパンを、皮肉屋のイギリス人は、

「ヒトラーの秘密兵器」

と呼んで蛇蝎のように嫌いました。

見た目だけでなく、食感はまさにおがくずそのもの。
焼いてから1日置かないと販売が許可されないというのに、
購入したときにはすでに乾いて硬くなって噛み切るのに顎が痛くなる代物です。

唯一、食品省の上層部から意図的にリークされたと思しき、
「ビタミンEを多く含むので生殖能力を高める」という噂があるにはあったそうです。

 

戦時下の国民に不自由を強いることはどこの国でもあることですが、
そうなると国民の側に「自警団」が生まれ、国民を国民が摘発するのが
あの時代の日本だったのに引き換え、イギリス人は国民のパンに対して
声を大にして公に不平を言い続けました。

しかも不思議なことに、パンの消費量は国民の不平の声の大きさと比例して?
戦前より増えていきました。

むしろこれはパンというものに対する執着を煽られたための補填行為かもしれません。
って逆効果じゃん。

 

そして1950年、ついにスライスし、包装された白いパンが解禁になりましたが、
慣れとは恐ろしいもので、あんなに文句を言っていたのにもかかわらず、
健康上の理由から、国民のパンを維持すべきだという声があったそうです。

1956年、ナショナルローフはついに廃止されました。


ちなみに、ナショナルローフを開発した研究者の一人、
ハリエット・チックは、英国で最初に有給で雇われた女性科学者となり、
戦後、この貢献により1949年に大英帝国勲章を授与されました。

【ナショナルローフのレシピ】

出典:帝国戦争博物館

10斤の場合(1斤の場合、10で割る)
全粒粉 5220 g
馬鈴薯粉 1740 g
水 4740 ml
ビタミンC 6 g
酵母 210g

1. ミキサーですべての材料を3〜5分間混合します
2. 生地を軽く油を塗った容器に入れ、45分間休ませます
3.   さらに45分間休ませます
4.    1kgでスケーリングし、10〜15分間休ませます
5.   油を塗ったベーキング缶にパンを入れ、28-32 度で45-60分置く
6.   上部204度下部208度で焼きます
7.    25分後にベントを開き、さらに25分間焼きます
8.   すぐに缶から取り出し、ラックで冷やします

 

■ VICTORYガーデン

アメリカの配給メニューの前においてあるこの缶は、
Vメールの送信用コンテナです。

Vメールとは、1942年6月から1945年11月まで運用された軍事郵便の一種で、
本国と海外の戦地間で輸送される郵便物の量を減らし、サービスを迅速化するため
専用の用紙に書かれた手紙マイクロフィルムに転写し、フィルムの状態で輸送して
到着地で印刷されてから配達されていました。

つまりこの缶の中にはフィルムが入っているのですが、こんなかさばる状態でも
手紙よりは輸送の量が減らせるということだったようです。

右上のVを形作っているタバコのラベルが表すのは、
この中身が外国の戦地にタバコを送る郵便であるということです。
おそらく無料で郵送ができたのだと思われます。

戦争遂行に利するものにはなんでも『V』をつけていた当時のアメリカには
「ビクトリーガーデン」と名付けられる畑がありました。

商業的農業に対する軍の要求を優先させる目的から、民間人は
戦争遂行を助けるために彼ら自身の食糧を育てることを奨励されました。
庭に畑を作って自給自足し、商品は戦地に回しましょうというわけです。

ラッキーストライクとは「大当たり」の意味です。
発売された頃のアメリカはゴールドラッシュで湧いていました。
左の緑色の背景に赤い丸がオリジナルです。

1942年、デザインが右の白地に赤に変更されました。
緑系インクには金属を必要とするのですが、戦争中だったため、
金属を節約する意味で緑は廃止されました。

「ラッキーグリーンは戦場に行った」

というコピーは、戦意高揚と宣伝を兼ねているのです。

窓辺のサービスバナー(任務旗)は、南北戦争の時代からアメリカ人の家庭が
戦争協力を世間にアピールする目的で掲揚してきたもので、
星が青である旗はその家の誰かが出征中であることを表し、この旗のように
黄色い星の旗は、家族が戦死したという印でした。

 

これは何か意味があるのかと思ったのですが、説明がありませんでした。
ただの装飾かな?

 

続く。

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