ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」の展示は、
ブースごとにはっきりとテーマが決められています。
「軍と動物たち」とか、「軍の女性たち」などのテーマになると、
時代は昔から現代までを網羅するものとなります。
■ 歯科医官 エレイン・バーコヴィッツ中佐
第二次世界大戦時の看護部隊の制服があるかと思えば、このように
イラク戦争に参加した女性軍人の制服があったりします。
この制服は1974年から2012年までのあいだ陸軍予備部隊に務めた、
エレイン・バーコヴィッツ中佐の着用していたものです。
彼女はピッツバーグ大学の歯学部に入学し、その後4回に渡って
軍歯科医として海外派遣に参加し、将兵や派遣先の人々の治療を行いました。
現在、彼女は76歳。
歯科医は引退し、当博物館のボードメンバーを務めているそうです。
こちらは第二次世界大戦中の海軍の女性軍人募集ポスター。
「誇りと愛国心を胸に・・」
みたいな感じでしょうか。
■ マーガレット・クレイグヒル軍医中佐
男性と同じスーツに同系色のシャツ、ネクタイです。
襟につけられたマークから、この制服の主が
United States Army Medical Corps
(アメリカ陸軍医療隊)
の軍人であることがわかります。
1908年に設立された医療隊は、メディカルあるいはオステオパシー・ドクター
(オステオパシーは日本では認められていないがアメリカではMDと同等に扱われる)
の免許を持つ委託医官による非戦闘専門部隊です。
医療隊のシンボルにあしらわれた、ヘルメスの杖を2匹の蛇が取り巻いている
この意匠は、「カドゥケウス」といい、医療隊が採用して以降、
各方面で特に医学やヘルスケア関係を表すモチーフに使われるようになりました。
似た目的で使われるモチーフとして
「アスクレピオスの杖」
というのがありますが、こちらはカドゥケウスと違い、蛇は1匹です。
つまりここにある制服の主は、女医であることになるのですが、
先ほどの歯科医であったバーコヴィッツ少佐ではありません。
医療隊には41部門の識別コードがありますが、そこに歯科は含まれないのです。
ちなみに、医療隊で初めて女性士官になったのは、
マーガレット・ドロテア・クレイグヒル軍医中佐
Margaret Dorothea Craighill 1898〜1977
で、1943年のことになります。
彼女はウィスコンシン大学を卒業し、ジョンズ・ホプキンス大学
(今回のコロナ肺炎で日本でもここの医学部がすっかり有名になった)で
博士号を取得していた医師でしたが、代々陸軍士官の家であったことから
1943年に陸海軍の医療隊に女性の参加を認める法案が成立したので、
立候補して陸軍医師会の承認を受け、入隊しました。
クレイグヒル中佐は、就任してすぐに、軍隊に所属する女性が
女性として適切な治療を受けているかを、世界中の医療機関を視察して
その実態を把握することから改革を進めていきました。
また、当時の軍隊では女性に対して男性に対するのと同じ検査しか行われず、
女性特有の問題については見過ごされがちだったのに注目した少佐は、
婦人科と産科の専門医を少なくとも一人、医局に置くことを要求しましたが、
この提案は無視され、それまで通り外科が全てを包括して診察する、
という体制が変革されることはしばらくはありませんでした。
当時はメンタルヘルスに対する意識もアメリカでは低く、たとえば
軍隊の任務に支障を起こしかねない精神障害の可能性のある女性を
入隊者の中からどのように審査の段階でスクリーニングするかなどという
分析の研究も全く行われていなかったため、中佐は上層部に対し、
この改善と、検査官を訓練するためのユニットを設置するよう要請しています。
彼女は陸軍医療隊任務期間に、WAC(女性陸軍軍人)の妊娠率、
及びすでに終了した妊娠率についてもデータを取って記録しました。
当時、中絶した女性は軍人は不名誉除隊という処分を受けていましたが、
これについて、クレイグヒル中佐は変革を行いました。
たとえ中絶をするようなことがあった女性兵士でも、再訓練して
軍隊にとどまるべきであること、そもそも中絶はそれをした女性が
社会にとって「望ましからぬ」(undesirable)存在であることを
示唆するものではないこと、そのことによって彼女が
陸軍に悪影響を与えることを意味するものではない、という主張を行ったのです。
彼女がそれを主張したのが1940年台であったことを考えると
これは非常に「進歩的な」意見に思われます。
ただ、この中絶問題は宗教とか保守リベラルによって意見が違い、
キリスト教国では国論を二分する問題となっています。
中絶ではありませんが、女性兵士の妊娠については、
アメリカ陸軍がイラクに駐留していた時期、ある海外駐留部隊の司令官が
男女双方の兵士を対象とし、
「女性兵士が妊娠した場合や男性兵士が女性兵士を妊娠させた場合は、
軍法会議にかけて刑事責任を問う可能性もある」
つまり事実上の「妊娠禁止令」を発令したことがあります。
しかしそれは結婚している男女に対しても同じ対応をするという
理不尽な内容であったため、隊内外からの反発が大きくなり、
結局撤回せざるをえなくなった、という事例もありました。
「女性がいるから起きてくる問題」がイコール「軍に悪影響を与える問題」
であると捉える傾向は、クレイグヒル中佐のころから半世紀以上経ってからも
あまり変わっていないということを表す一例であると言えましょう。
■ 女性軍人と近代戦争
1944年に陸軍で行われた
「良い姿勢(Good Posture)コンテスト」
の勝者の皆さんです。
なんだ?陸軍はWACのビューティーページェント(ミスコン)でもしてたんか?
と思ったのですが、さにあらず。
当時のアメリカでは良い姿勢が健康、あるいは軍隊であれば
正確な射撃などに役に立つという考えが提唱され、一種の流行りとなっていたので、
やたらとこのようなコンテストが行われていたらしいのです。
頭の上に本を載せて落とさずに歩く、などという「訓練」が生まれたのも
実はこのムーブメントを受けてだったんですね。
ここからは各時代における女性軍人たちのスナップです。
これは北アフリカでズアーブ兵部隊に表敬行進を行うWAC部隊。
ズアーブ兵というのは、南北戦争の展示の際にお話ししたことがありますが、
当時フランスの植民地だった北アフリカのチュニジアやアルジェリア人の軍隊です。
これは第二次世界大戦の頃ということですが、戦後
アフリカがフランスから独立するのに伴い廃止されました。
ここからは、同じブース内に展示されていた女性兵士たちのスナップです。
Quatermaster corps、軍需品科で働く女性(左)の姿。
1983年のグレナダ侵攻のときの一コマです。
軍需品部隊は
輸送部隊
兵器部隊
と並ぶ後方支援の三つの兵站部門のうちの一つです。
弾薬と衣料品を除く石油、水、一般的な物資の輸送と供給を行うほか、
アメリカ軍の需品課は、死亡した軍人の遺体回収、身元確認、輸送、
そして埋葬を任務とする
軍没者処理業務
も需品課の業務の一環です。
"Taking Chance" Trailer (HD)
以前話題になったこの映画は海兵隊ですが、つまりこれらの業務ですね。
ちなみに「チャンス」は亡くなった軍人の名前と「機会」を掛けています。
WAFC(World Area Forecast Centre)世界空域予想中区
世界各国の航空管制機関向けに航空気象情報を提供するために、
リアルタイムで気象情報の作成と放送を行っている気象機関で、
2012年1月現在、ロンドンとワシントンD.C.の2ヶ所のみ設置されています。
これは1967年、ベトナム戦争の際にサイゴンにあったWAFCの訓練センターで、
アメリカ軍人がベトナムの女性軍人に情報の解析の方法を指導しています。
同じころ、南ベトナムにて。
職業訓練を行っている様子です。
その南ベトナムでWACの「compounds」特別居留地がオープンしたとき。
テープカットしているのはなぜか男性のお偉いさん。
後ろにいるおじさんたちは満面の笑顔ですが、なんだろう。
巷ではディオールのニュールック「Aライン」が流行っていた
1950年台のアメリカ陸軍では、制服もほんのり砂時計シルエット。
特に綺麗どころを集めたのだと思いますが、それにしても全員モデル並ですね。
写真が撮られたのはアラバマ州のフォート・マクレランなので、
彼女たちを南部美人、サザン・ベルの末裔といっても差支えなさそうです。
そのフォートマクレランの基礎訓練施設の内部だそうです。
ロッカーとベッドの数から見て、四人一部屋だったようですね。
第二次世界大戦の頃、テキサスのキャンプ・フッドでの光景だそうです。
運転席に座っているWACが記入しているのを男性軍人が
手取り足取りご指導ご鞭撻を行っているところに見えます。
フォート・フッド(Hood)は現在では第3装甲団の本拠地ですが、
当時から駆逐戦車の試験及び訓練のためのフィールドを持つ駐屯地でした。
これはどう見ても装甲車には見えないので、普通に車の免許を取っているのかと。
ところで陸自でも車の免許を取る訓練(これも訓練らしい)は
男女隊員が一緒に行うので、付き合いだすきっかけになったりするそうですね。
ところで、このフォートのフッドは、
ジョン・ベル・フッド Jhon Belle Hood 1831-1879
という南北戦争時代の南軍の将軍の名前から取られています。
コンフェデレートは敗北したので、そういう例はなんとなくないのでは、
と勝手に思い込んでいたのですが、南部ではこういうこともあるようです。
フッドは陸軍士官学校を成績不良で追放されていますが、
クラスメートには北軍のマクファーソンがいて、さらに砲術の先生は
これも北軍の将軍としてフッドと戦うことになったジョージ・トーマスがいました。
そうではないかと思っていたのですが、やはり南北戦争というのは
昨日のクラスメートと今日はマジでどんぱちやらざるを得ない、
アメリカ人にとってのトラウマだったんだなあ・・。
ところで実はこのフォート・フッド、あの
ジョージ・フロイドの殺害事件の後、
黒人奴隷を主張した南軍の将軍の名前はいかがなものか
という話が案の定起こり、名前を変更するとかしないとかの話し合いが
あったとかなかったとか・・・。(どうなっているか知りません)
もう本当にこの話、いい加減にしてほしいのよね(うんざり)
■ 病院船 フランシス・Y・スレンジャー
子供が学校の共同制作で作ったレベルのプリミティブというか素朴な模型は、
United StatesArmy Hospital Ship USAHS
Francis Y. Slenger
という病院船を表しています。
材料はサルベージされた木材だそうですが、これを制作したのは
ドイツ軍の捕虜で、
ベロニカ・カプカー Veronica Kapcar
というアメリカ陸軍のナースのために作ったというのです。
スレンジャーについては前にも一度お話ししていますが、
もう一度(わたしも忘れていたので)挙げておきます。
フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)
彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。
彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。
その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。
そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。
「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」
これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。
その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。
続く。