Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2817 articles
Browse latest View live

医療隊の女性士官とWAC〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」の展示は、
ブースごとにはっきりとテーマが決められています。

「軍と動物たち」とか、「軍の女性たち」などのテーマになると、
時代は昔から現代までを網羅するものとなります。

■ 歯科医官 エレイン・バーコヴィッツ中佐

第二次世界大戦時の看護部隊の制服があるかと思えば、このように
イラク戦争に参加した女性軍人の制服があったりします。

この制服は1974年から2012年までのあいだ陸軍予備部隊に務めた、
エレイン・バーコヴィッツ中佐の着用していたものです。

彼女はピッツバーグ大学の歯学部に入学し、その後4回に渡って
軍歯科医として海外派遣に参加し、将兵や派遣先の人々の治療を行いました。

現在、彼女は76歳。
歯科医は引退し、当博物館のボードメンバーを務めているそうです。

こちらは第二次世界大戦中の海軍の女性軍人募集ポスター。

「誇りと愛国心を胸に・・」

みたいな感じでしょうか。

■ マーガレット・クレイグヒル軍医中佐

男性と同じスーツに同系色のシャツ、ネクタイです。
襟につけられたマークから、この制服の主が

United  States Army Medical Corps
(アメリカ陸軍医療隊)

の軍人であることがわかります。

US Army Medical Corps Branch Plaque.gif

1908年に設立された医療隊は、メディカルあるいはオステオパシー・ドクター
(オステオパシーは日本では認められていないがアメリカではMDと同等に扱われる)
の免許を持つ委託医官による非戦闘専門部隊です。

医療隊のシンボルにあしらわれた、ヘルメスの杖を2匹の蛇が取り巻いている
この意匠は、「カドゥケウス」といい、医療隊が採用して以降、
各方面で特に医学やヘルスケア関係を表すモチーフに使われるようになりました。

似た目的で使われるモチーフとして

「アスクレピオスの杖」

というのがありますが、こちらはカドゥケウスと違い、蛇は1匹です。

つまりここにある制服の主は、女医であることになるのですが、
先ほどの歯科医であったバーコヴィッツ少佐ではありません。

医療隊には41部門の識別コードがありますが、そこに歯科は含まれないのです。

ちなみに、医療隊で初めて女性士官になったのは、

マーガレット・ドロテア・クレイグヒル軍医中佐
Margaret Dorothea Craighill 1898〜1977

で、1943年のことになります。

彼女はウィスコンシン大学を卒業し、ジョンズ・ホプキンス大学
(今回のコロナ肺炎で日本でもここの医学部がすっかり有名になった)で
博士号を取得していた医師でしたが、代々陸軍士官の家であったことから
1943年に陸海軍の医療隊に女性の参加を認める法案が成立したので、
立候補して陸軍医師会の承認を受け、入隊しました。

 

クレイグヒル中佐は、就任してすぐに、軍隊に所属する女性が
女性として適切な治療を受けているかを、世界中の医療機関を視察して
その実態を把握することから改革を進めていきました。

また、当時の軍隊では女性に対して男性に対するのと同じ検査しか行われず、
女性特有の問題については見過ごされがちだったのに注目した少佐は、
婦人科と産科の専門医を少なくとも一人、医局に置くことを要求しましたが、
この提案は無視され、それまで通り外科が全てを包括して診察する、
という体制が変革されることはしばらくはありませんでした。

当時はメンタルヘルスに対する意識もアメリカでは低く、たとえば
軍隊の任務に支障を起こしかねない精神障害の可能性のある女性を
入隊者の中からどのように審査の段階でスクリーニングするかなどという
分析の研究も全く行われていなかったため、中佐は上層部に対し、
この改善と、検査官を訓練するためのユニットを設置するよう要請しています。


彼女は陸軍医療隊任務期間に、WAC(女性陸軍軍人)の妊娠率、
及びすでに終了した妊娠率についてもデータを取って記録しました。

当時、中絶した女性は軍人は不名誉除隊という処分を受けていましたが、
これについて、クレイグヒル中佐は変革を行いました。

たとえ中絶をするようなことがあった女性兵士でも、再訓練して
軍隊にとどまるべきであること、そもそも中絶はそれをした女性が
社会にとって「望ましからぬ」(undesirable)存在であることを
示唆するものではないこと、そのことによって彼女が
陸軍に悪影響を与えることを意味するものではない、という主張を行ったのです。

彼女がそれを主張したのが1940年台であったことを考えると
これは非常に「進歩的な」意見に思われます。

ただ、この中絶問題は宗教とか保守リベラルによって意見が違い、
キリスト教国では国論を二分する問題となっています。

 

中絶ではありませんが、女性兵士の妊娠については、
アメリカ陸軍がイラクに駐留していた時期、ある海外駐留部隊の司令官が
男女双方の兵士を対象とし、

「女性兵士が妊娠した場合や男性兵士が女性兵士を妊娠させた場合は、
軍法会議にかけて刑事責任を問う可能性もある」

つまり事実上の「妊娠禁止令」を発令したことがあります。

しかしそれは結婚している男女に対しても同じ対応をするという
理不尽な内容であったため、隊内外からの反発が大きくなり、
結局撤回せざるをえなくなった、という事例もありました。

「女性がいるから起きてくる問題」がイコール「軍に悪影響を与える問題」
であると捉える傾向は、クレイグヒル中佐のころから半世紀以上経ってからも
あまり変わっていないということを表す一例であると言えましょう。

 

■ 女性軍人と近代戦争

1944年に陸軍で行われた

「良い姿勢(Good Posture)コンテスト」

の勝者の皆さんです。

なんだ?陸軍はWACのビューティーページェント(ミスコン)でもしてたんか?

と思ったのですが、さにあらず。

当時のアメリカでは良い姿勢が健康、あるいは軍隊であれば
正確な射撃などに役に立つという考えが提唱され、一種の流行りとなっていたので、
やたらとこのようなコンテストが行われていたらしいのです。

頭の上に本を載せて落とさずに歩く、などという「訓練」が生まれたのも
実はこのムーブメントを受けてだったんですね。

ここからは各時代における女性軍人たちのスナップです。

これは北アフリカでズアーブ兵部隊に表敬行進を行うWAC部隊。
ズアーブ兵というのは、南北戦争の展示の際にお話ししたことがありますが、
当時フランスの植民地だった北アフリカのチュニジアやアルジェリア人の軍隊です。

これは第二次世界大戦の頃ということですが、戦後
アフリカがフランスから独立するのに伴い廃止されました。

 

ここからは、同じブース内に展示されていた女性兵士たちのスナップです。

Quatermaster corps、軍需品科で働く女性(左)の姿。
1983年のグレナダ侵攻のときの一コマです。

軍需品部隊は

輸送部隊 

兵器部隊

と並ぶ後方支援の三つの兵站部門のうちの一つです。

弾薬と衣料品を除く石油、水、一般的な物資の輸送と供給を行うほか、
アメリカ軍の需品課は、死亡した軍人の遺体回収、身元確認、輸送、
そして埋葬を任務とする

軍没者処理業務

も需品課の業務の一環です。

"Taking Chance" Trailer (HD)

以前話題になったこの映画は海兵隊ですが、つまりこれらの業務ですね。

ちなみに「チャンス」は亡くなった軍人の名前と「機会」を掛けています。

 

WAFC(World Area Forecast Centre)世界空域予想中区

世界各国の航空管制機関向けに航空気象情報を提供するために、
リアルタイムで気象情報の作成と放送を行っている気象機関で、
2012年1月現在、ロンドンとワシントンD.C.の2ヶ所のみ設置されています。

これは1967年、ベトナム戦争の際にサイゴンにあったWAFCの訓練センターで、
アメリカ軍人がベトナムの女性軍人に情報の解析の方法を指導しています。

同じころ、南ベトナムにて。
職業訓練を行っている様子です。

その南ベトナムでWACの「compounds」特別居留地がオープンしたとき。
テープカットしているのはなぜか男性のお偉いさん。

後ろにいるおじさんたちは満面の笑顔ですが、なんだろう。

巷ではディオールのニュールック「Aライン」が流行っていた
1950年台のアメリカ陸軍では、制服もほんのり砂時計シルエット。

特に綺麗どころを集めたのだと思いますが、それにしても全員モデル並ですね。

写真が撮られたのはアラバマ州のフォート・マクレランなので、
彼女たちを南部美人、サザン・ベルの末裔といっても差支えなさそうです。

そのフォートマクレランの基礎訓練施設の内部だそうです。
ロッカーとベッドの数から見て、四人一部屋だったようですね。

第二次世界大戦の頃、テキサスのキャンプ・フッドでの光景だそうです。

運転席に座っているWACが記入しているのを男性軍人が
手取り足取りご指導ご鞭撻を行っているところに見えます。

フォート・フッド(Hood)は現在では第3装甲団の本拠地ですが、
当時から駆逐戦車の試験及び訓練のためのフィールドを持つ駐屯地でした。

これはどう見ても装甲車には見えないので、普通に車の免許を取っているのかと。
ところで陸自でも車の免許を取る訓練(これも訓練らしい)は
男女隊員が一緒に行うので、付き合いだすきっかけになったりするそうですね。

 

ところで、このフォートのフッドは、

ジョン・ベル・フッド Jhon Belle Hood 1831-1879

という南北戦争時代の南軍の将軍の名前から取られています。
コンフェデレートは敗北したので、そういう例はなんとなくないのでは、
と勝手に思い込んでいたのですが、南部ではこういうこともあるようです。

フッドは陸軍士官学校を成績不良で追放されていますが、
クラスメートには北軍のマクファーソンがいて、さらに砲術の先生は
これも北軍の将軍としてフッドと戦うことになったジョージ・トーマスがいました。

そうではないかと思っていたのですが、やはり南北戦争というのは
昨日のクラスメートと今日はマジでどんぱちやらざるを得ない、
アメリカ人にとってのトラウマだったんだなあ・・。

 

ところで実はこのフォート・フッド、あの
ジョージ・フロイドの殺害事件の後、

黒人奴隷を主張した南軍の将軍の名前はいかがなものか

という話が案の定起こり、名前を変更するとかしないとかの話し合いが
あったとかなかったとか・・・。(どうなっているか知りません)

もう本当にこの話、いい加減にしてほしいのよね(うんざり)

■ 病院船 フランシス・Y・スレンジャー

子供が学校の共同制作で作ったレベルのプリミティブというか素朴な模型は、

United StatesArmy  Hospital Ship USAHS
Francis Y. Slenger

という病院船を表しています。
材料はサルベージされた木材だそうですが、これを制作したのは
ドイツ軍の捕虜で、

ベロニカ・カプカー Veronica Kapcar

というアメリカ陸軍のナースのために作ったというのです。

スレンジャーについては前にも一度お話ししていますが、
もう一度(わたしも忘れていたので)挙げておきます。

 

フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)

彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。

彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。

その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。

そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。

「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」

これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。

その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。

 

 

続く。

 


中身のない袖〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の次のブースには、
「中身のない袖」(The Empty Sleeve)と題された、
父親に抱かれて中身のない袖をけげんそうに持ち上げる幼子と
宙を物思わしげに見つめる父親を描いた絵があります。

■ 中身のない袖

南北戦争の後、戦闘で負傷した帰還兵は、しばしば
「中身のない袖」に表される姿で絵画の題材になりました。

Heroes Come with Empty Sleeves

戦闘で手足を失うことは、現代に限らず、
およそ軍事が記録に残されるようになった太古の昔から、
本人にとっても彼の家族にとってもこれほどの悲劇はないでしょう。

手足の欠損によって永遠に失われた機能あるいは感覚に取って代わるものはないのですから。

The empty sleeve by Giosue de Benedictis on artnet

「中身のない袖」別バージョン。

我々の社会史を通じて、一般に不意の事故によって四肢を喪失することは、
それだけで幅広い感情を伴って語られ認識されてきたものですが、とくに
南北戦争の初期にいつのまにか世間に伝播したこのフォルクローレ、
イメージとしての「中身のない袖」は、当時
「悲劇と引き換えに得た名誉のしるし」と見なされました。

冒頭の若い父親はまだ自分の両手の不在に慣れておらず、
呆然としているように見えますが、この年老いた元大佐が
袖の中身のないことに不思議がる孫娘に対しそれを語って聞かせる様子は
むしろ誇らしげにすら見えます。

The Empty Sleeve – Andries Klarenberg

しかし、四肢の欠損が外観を損なうものであることはもちろん、それが
「ハンディキャップ」であることは名誉を持って償えるものではありません。

いつの頃からか義手、義肢は、失われた腕や脚の外観を補うのみならず、
失われたいくつかの機能を取り戻すために開発され発達してきました。

今回はは南北戦争以降のころから、こんにちのコンピュータデザイン、
そしてファイバー素材を使った義肢義足に至るまでのお話です。

そして現代では、不幸にして四肢を失ったとしても、それはハンディキャップではなく、
その人の機能を通常の状態に戻し、可能な限り充実した生活を送ることを目的とした
ひとつの挑戦(退役軍人にとっても、医学会にとっても)にしていこう、
と特に現場ではポジティブに考えられているということです。

さて、それではこのケースの中のものを見ていきましょう。

■ ハンガー義肢株式会社

My Favorite Historical Person: James Hanger | Emerging Civil War

ジェームズ・エドワード・ハンガー 
James Edward  Hanger 1843−1919 

まず、南北戦争時代のこの人物から。

彼は1861年、18歳でバージニアの南軍に入隊しました。
彼が入隊しオハイオに出征した翌朝、戦闘が始まり、その最初の銃弾が
運悪く彼のいた厩舎に飛び込んで彼の手足を直撃します。

負傷してから約4時間、ハンガーは厩舎で耐えていましたが、脚はほとんど粉々だったため、
手術によって腰の骨の約7インチ下は切断され、手も切り落とされました。

ちなみに手術を行なったのはオハイオ州のボランティア医師でした。
つまり北軍(敵)側の医療によってハンガーは命存えたことになります。

その後、南北戦争では50,000回以上負傷者の手足の切断手術が行われることになりますが、
ハンガーのこの時の手術はその一番最初の例となったのでした。

その後、彼は捕虜交換規定によりバージニア州の実家に戻されました。

 

ここまでならハンガーは単に南北戦争の「中身のない袖」のひとりに過ぎないのですが、
彼の凄かったのは、自分の義肢を魔改造して商品化してしまったことです。

義足義肢生活になったハンガーは、膝上義肢のフィット感と機能、
両方に不満を持ち、快適にしようと、まず、新しいプロテーゼ(装着部分)を設計しました。

彼のデザインの画期的だった点は、腱にゴム製のバンパーを使用し、
膝と足首の両方にヒンジを取り付けて動きやすくしたことです。

彼は1871年にそれで特許を取得し、その他の改良のために発明した装置は
いつの間にか国際的にも評価されるようになりました。

バージニア州政府が正式に彼に膝プロテーゼの製造を委託したのをきっかけに、
彼は「JE Hanger Inc.」という会社を起こし、それはスタントンとリッチモンド、
最終的にワシントンDCに拠点を置く企業となりました。

彼の発明は義手義足の機構だけでなく、段階調節できるリクライニングチェア、
水車、ブラインド、そして自分の子供のために作った玩具「馬なし馬車」がありました。

ちなみに彼は30歳で結婚し、息子六人、娘二人に恵まれています。
息子たちは全員、家業に従事していました。

おりしも優秀な義肢装具の必要性は第一次大戦中のヨーロッパで高まっており、
ハンガーの会社はイギリスとフランスで契約を締結することに成功し、
 1919年にハンガーが亡くなったとき、同社はアトランタ、セントルイス、
フィラデルフィア、ピッツバーグ、ロンドン、パリに支店を持つ大企業に成長していました。

ハンガーの子供と孫は、義理の親、いとこ、その他の仲間とともに、
会社の運営と拡大を続けました。
もちろん同社は現在も存続しています。

Hanger Inc.

 

■南北戦争時代の『外科手術』の恐ろしさ

ハンガーが手脚を切り落としたときにはまだなかったと思われますが、
手前にある金属製でカーブのついた専用の「手脚切断用手術台」が考案されました。

南北戦争で被弾した大尉の身体から取り出された銃弾。
どうしてこれが額に入っているのかはわかりません。

その弾丸を取り出したのはきっとこのような道具に違いありません。

これらの骨を切断するための鋸と弾丸ヘラ(体内の弾丸を取り出す)は
南北戦争で外科医が携帯している手術キットの典型的なものでした。
スチール製で持ち手のハンドル部分は黒檀が用いられています。

しかしこれらが手術の合間に清拭されることはほとんどなかったといわれます。

したがって道具そのものに細菌が繁殖し、それが次の患者に対して使用されることで
しばしば感染症を引き起こして患者を死に追いやるということが起こりました。
しかし、当時の人々は患者の死が不潔な手術道具のせいだとは思っていなかったのです。

不思議なことのようですが、この時代は世界的にも公衆衛生という概念が
やっと認知されたかどうかという頃で、南北戦争のころというのはまだ
マラリア、腸チフス、結核、コレラ、破傷風ですら、病原菌が原因であるということが
ようやくわかってきたという時期でしたから、感染症の予防などという概念がありませんでした。

抗生剤の誕生も1900年代になってからですから、この頃までは手脚を負傷すれば
切断するのが唯一の「助かる道」とされていました。

したがって戦場の医師は負傷した手脚を切り落とすのが主な仕事だったのです。

立てかけてあるのは南北戦争時代に使用されていた松葉杖です。
原始的ですがこれほど効果的なものはありません。
松葉杖そのものの形は生まれてから今日まで
ほとんど変化していないこともそれを実証しています。

■ 第一次世界大戦の四肢切断手術

第一次世界大戦のとき、ルイス・ビブ博士の携帯していた
フィールド用の手足切断キットです。

大きな箱に入っている最も大型の機材は骨鋸、そのほか、
ナイフ各種、プローベ(探り針)、結索針、注射器などなど。

これら手術道具は最高級のスティール製で、洗浄しやすいように
その上からクロームのコーティングがされていました。

滅多に洗うことがなかったという南北戦争時代とは
衛生と感染症についての概念がまるっきり変わっていた、
ということがこれらの仕様からもうかがえます。

これらの機材は、すべて野戦病院において医師が、患者の手足を
切断するために必要な道具ばかりです。

ビブ博士は左端の人物です。
彼が手足を切り落とした?野戦病院はテント張りで、
中央に木の枝を組み合わせた「HOSPITAL」というサインがあります。

第一次世界大戦といえば、どうしても「西部戦線異常なし」を思い出します。

脚を失った級友の見舞いに行くと、

「脚の先が痛い」

と幻肢を訴えるのに怯える者がいるかと思えば、
もう必要がなくなったからとそのブーツを欲しがる者がいたり・・。

もっともそのブーツを手に入れた者も、すぐに永遠にブーツを必要としなくなるのですが、

最初に読んだときに、このころはどうしてこういとも簡単に
四肢を切り落としてしまうのだろうと不思議だったのですが、
全ては抗生物質の誕生以前だったということだったのです。

手前の写真の主、リントン・ヘーゼルバッカーは第一次世界大戦時
フランスに出征して信号隊で任務を行なっていました。

戦闘の間、ヘーゼルバッカーはいわゆる「シェルショック」に苦しめられられ、
加えて毒ガスの爆発に遭って肺にもダメージを受けています。

この写真はヘーゼルバッカーがリハビリを受けたサナトリウムの様子で、
何をしているかというと、皆でバスケット(画面右下にある)
を作っているのだそうです。

セラピーの一環としてバスケットを編むということをしていたんですね。

彼の写真と水筒がバスケットの上に置かれていますが、
これが彼の作ったものかどうかはわかりませんでした。

World War 1 Shell Shock Victim Recovery (1910s) | War Archives

動画の青年は、最初の状態からリハビリを行なって、
すっかり良くなり、まっすぐ歩けるようになりますが、
起立した時の手にまだ怪しげな動きが残っています。

シェルショックは戦闘ストレス反応の一つに付けられた名称です。

第一次世界大戦でこの症状が兵士に現れたとき、原因は、
爆音を伴う塹壕に対する砲撃であると考えられていたため、
こう名付けられたのですが、後年になって、砲撃とは関係ない戦場でも
同じような反応が見られることがわかってきて、呼称は

戦争神経症 (war neurosis) 

と変わることになります。

「シェルショック=第一次世界大戦」

というイメージはこの最初に生まれた呼称が一時的だったことから生まれたのです。


■ コロンビアが彼の息子に爵位を授ける

ファイル:Columbia gives.jpg - Wikipedia

南北戦争はもちろん、第一次世界大戦においても、戦傷したものは
非常に高い確率で死亡し、戦死した者は国家から家族にこのような
死亡証明書が送られました。

その後ろに見えている版画については前に一度紹介しました。
戦死者の家族に対して贈られる名誉賞です。

Colombia gives to her son the accolade
of the New Chivalry of Humanity.

コロンビアが新たな人類の騎士となった
彼女の息子に”アッコラード”を与える

アメリカを象徴する女神「コロンビア」が、彼女の前に跪く兵士の肩に
剣を置く仕草をしつつ、「騎士」(ナイトフッド)の証明書を授けています。

「アッコラード」という言葉は翻訳しようがなかったのでそのまま書きましたが、
ナイト(爵位)授与式において剣で爵位を受ける者の肩に触れる動作のことを言います。

そして、戦死した者の名前の後に、

「第一次世界大戦で名誉を与えられ、彼の国のために亡くなりました
ウッドロー・ウィルソン」

という当時のアメリカ合衆国大統領の名前で発せられたことばが続くのです。

兵士と水兵の記念博物館に展示してあるこの死亡証明書には、
「ジョン・W・セラウィップ中尉」の名前が記されています。

 

 

続く。

 

 

「ある軍曹の日記」から「我らが生涯の最良の年」へ〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

                Harold Russell

ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」の展示から、
前回は南北戦争と第一次世界大戦で負傷した場合の戦場での手術、
イコール手脚を切り落としてしまうという当時の治療のスタンダードと、
四肢を欠損した元兵士たちを取り巻くものごとについてお話ししました。

続いてのコーナーでは第二次世界大戦以降に、それらの医療が
どのように変化していったかどうかについての展示から始まります。

■ パープルハート名誉戦傷章

ケース全体が紫色で彩られているのは、負傷した軍人に与えられる
パープルハート勲章のリボンの色をあしらっているからです。

パープルハート章は、アメリカの「名誉戦傷章」です。
戦闘を含む作戦行動によって死傷した兵士に対して与えられます。

 

 

ケースには戦傷で四肢を失った人のための義足が展示してあります。
膝から下、腰から下全部、パラリンピックで見たことがあるような
メカニカルな最新式。

前回ここで触れた南北戦争の負傷兵ハンガーが起こした会社、
「ハンガー」の義手義足などもあるに違いありません。

何の写真かと思いましたが、朝鮮戦争での一コマです。
説明によると、この戦争は冬の間、写真のような状況に置かれた
多くのアメリカ兵が凍傷で手足の指を失いました。

これも戦傷には違いありませんが、パープルハート勲章はもらえません。

義耳、義足、手指義手。
ちなみに現代ではシリコーンという素材の登場によって
ここまでリアルな再現ができるようになりました。

SATOGIKEN(装飾義手メーカー)

指にはネイルアートもすることができるんですね。

第一次世界大戦の後、顔の欠損部分に装着したのは
見た目も不自然な素材(木とか粘土とか)でしたが、
シリコンによってかなり自然な外見の緩和が可能になりました。

写真は顔の右上部と鼻です。
しかし、ここに展示してあるものは現代のものよりまだ不自然です。

義手、義足を動かすための金具。

このコーナーでは、「イラクの自由」作戦で腕を失った

ドーン・ハルフェーカー
Dawn Halfaker陸軍大尉

が紹介されていました。

ハルフェーカー大尉は「イラクの自由作戦」において
ミリタリーポリスとしてイラク警察の再建任務を遂行していまいた。

これは、イラク人と協力して、彼らを訓練しつつ、警察署の安全を確保し、
武装勢力から活動地域を保護するという任務でした。

ある日のパトロール中、彼女の乗ったハンビーが待ち伏せに遭い、
彼女はロケット推進の手榴弾を投げられ、腕を失いました。

彼女は当時25歳。
もう人生は終わったと考えました。
スターバックスに並んでコーヒーを買ってきて
ドアを開けることでさえ、彼女の心を悩ませる心配事となりました。

しかし、彼女はその後心機一転、テクノロジーソリューション企業、
Halfaker and Associatesを興し、会社は並外れた成功と成長を達成しました。

彼女はもちろんパープルハート章を受賞していると思いますが、
彼女の履歴にはそのことは出てきません。



■ 「ある軍曹の日記」

まず、お時間のある方は、次の短編映画(上映時間22分)をご覧くだされば
説明を費やさずともこの人物の立場がお分かりいただけると思います。

Diary of a Sergeant - WWII FILM from BEST YEARS OF OUR LIVES 27680 HD

ハロルド・ラッセル軍曹は1944年6月6日、ノースカロライナ州のマッカールキャンプで
TNT爆弾の爆発で両手を失いました。

事故後フックのついた義手を受け取り、トレーニングを始めたとき、
彼は陸軍が戦闘で四肢を欠損した兵士のために制作した

「ある軍曹の日記」

というこの短編映画に出演しました。
この映画について「陸軍のプロパガンダ」と説明している媒体もありますが、
観たところこれは、というより「ガイドライン」に近いのではないかと思われます。

Diary of a Sergeant (1945)

それではさくっと映画の内容について説明しておきましょう。
爆薬の事故で両手を失ったハロルドが、両手を牽引された姿でベッドに横たわり、
事故について回想するこのシーンから始まります。

両手があった頃の思い出に耽りながらつい涙を浮かべるハロルド。
看護師が彼の口にタバコを加えさせ吸わせています。

「タバコも一人で吸うことができない」

そもそも病室でタバコっていうのがアリな時代だったんですよね。

「Dデイの上陸で負傷した怪我ではない」ため、
「パープルハートをもらえるわけでもない」
「ただ手を失っただけ」

と絶望するのでした。

同室は全員が手か脚を片方、あるいは両方失った患者ばかりです。
まず彼らは義手をつけて通常の生活を営んでいる人の映画を観て、
そののち、専門家による測定を受けます。

義手を調整するスタッフは全員が軍人です。

Diary of a Sergeant – The Unwritten Record

そしてフックのついた義手が装着されました。
事故が起きて初めて彼が自分の「手」で持ったものは鉛筆です。

Diary of a Sergeant, 1945 - YouTube

しかし、牛乳の瓶などを持つためにはコツと訓練が必要です。
義手のフックは反対側の肩の筋肉の動きで開閉させることができます。

彼はその仕組みを「潜水艦の潜望鏡と同じ」といっています。

いろんな形の素材の違うものを持つ訓練が行われます。

Diary of a Sergeant – The Unwritten Record

続いて生活に必要なシチュエーションを想定した訓練です。
電話、コインをスロットに入れる、コーヒーカップを持つ、
窓を開ける、ドアのノブを回す、ブザーを押す、チェーンを引っ張る・・。

健常者が何も考えずにやっていることのなかには、
義手にはとても難しいことというのがたくさんあるのです。

車の運転はもちろん、パンクの修理まで練習しています。
昔は必須だったんでしょうね。

This Disabled WWII Veteran Was the Only Actor to Win 2 Oscars for the Same  Part | Military.com

そしてハロルドが帰郷する日がやってきました。
若い女性の隣に座ることを、彼は彼女を脅かさないかと恐れますが、
生活にも慣れ、故郷のボストン大学で学位をとるために通学を始め、
そして最後にはついにデートをする様子も描かれます。

ちなみにデートの時、彼は制服をバリッと着て髪をなでつけて行きますが、
制服はボタンではなくベルクロ留めの仕様にリメイクしています。

最後のシーンは、入院中は看護師に書いてもらっていた日記を
自分自身でペンを持って書き込み、未来に希望を持っている彼の姿です。

■ 「我等の人生の最良の年」への出演

さて、ところで、映画ファンの皆さんであれば、
ウィリアム・ワイラー監督の「我等の生涯の最良の年」という映画について
ご存知からあるいはご覧になったことがあるかもしれません。

「死ぬまでに見たい映画」にもリストアップされている名作です。

The Best Years of Our Lives (1946 poster).jpg

第二次大戦から福音してきた三人のもと元軍人たちが
故郷で直面する様々な社会問題、そして家族との問題。

このポスターにはどういうわけか帰還兵のうち
二人しか顔写真が出ていませんが、この一シーンをご覧ください。

航空母艦乗組の元海軍水兵で、撃沈された時の火傷がもとで
両手を義足にしているという設定の登場人物、ホーマー。

このひと、さっきのリハビリ映画の主人公のラッセル軍曹なのです。

この映画の撮影が始まる直前、ワイラー監督が(おそらく)
負傷兵についての実態を知るために軍を訪れてこの内部啓蒙映画を観たところ、
ホーマー役はこのラッセル軍曹がぴったりだ!と惚れ込み、
すでに決まっていたホーマー役を下ろしてラッセルをキャスティングしたのです。

最初の脚本ではホーマーは脚を失ったという設定でしたが、
(それであれば俳優が健常者でも演出で障碍があるように見せられる)
ラッセルに合わせて細部は書き換えられました。

ラッセルは啓蒙ビデオに描かれていたようにボストン大学に通学中でしたが、
撮影のために一時中止し、終了してから復学して経営学の学位を取っています。

彼はホーマー役でそれまで演技の経験が全くなかったにもかかわらず、
アカデミー助演男優賞、アカデミー名誉賞を受賞しました。

本物ではないと思いますが、彼が受けたアカデミー助演男優賞のトロフィーです。

彼がアカデミー賞を受賞したのは、演技の素晴らしさというより、
彼の戦傷退役軍人という立場にアメリカ映画界が敬意を表したと見られます。
わたしには少なくとも彼のセリフや演技がうまいのかどうか判断できませんが。

そして、アカデミー賞とは別枠で、

「全てのヴェテランたちに希望と勇気をもたらした」

ことにより名誉オスカー章を授与されています。

彼はボストン大学にもどったあと、退役軍人会のCEOを務め、
また、二本の映画、そして二本のドラマにいずれも退役軍人という設定で
出演しています。

 

余談ですが、1992年、ラッセルは2度目の妻の病気の治療代を捻出するために、
オスカーのトロフィーをオークションに出し、世間の非難を受け、
アカデミー賞の発行元?である映画芸術科学アカデミーAMPASはこれに反対しました。

このとき、彼は、

「なぜこのことを批判する人がいるのかわからない。
妻の健康は回顧や感傷のための思い出より遥かに重要だ」

と反論しました。

AMPASはトロフィーを換金することを授与者に禁じていましたが、
その契約への署名が行われるようになったのは1950年以降だったので、
ラッセルの受賞はその前だったということで規定は免除されました。

 

続く。

 

 

 

POW(戦争捕虜)とMIA(戦闘時不明者)おまけ;マケインの’正体’〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

POW(Prisner of war)=戦争捕虜、
MIA(Missing In Action)=戦闘時行方不明者

に対する対策は、戦争を遂行する、あるいはした国家にとって重要課題です。

「あなた方は忘れられていない」

戦死傷者については、亡くなれば国家の名でそれを悼み、顕彰を行い、
負傷者については治癒と社会的復帰を支援するという対処がありますが、
POW/MIA についてはいずれも相手国との折衝を介在させなければ
解決には結びつかないことですし、なんといっても家族が国家に向ける期待値は
戦死傷者のそれより格段に切実なものになることは必至だからです。

以前も当ブログではPOW/MIAについて触れていますが、ここピッツバーグの
兵士と水兵のための記念博物館にもそのコーナーがあったので、取り上げます。

まず、ガラスケースの内部は収容所のような鉄条網のディスプレイがあり、
そこには冒頭写真のようによく見ると捕虜になった将兵の名前が刻まれた
金属製のブレスレットがいくつも掛けられています。

「ベトナム戦争の期間、POW/MIA兵士に対する社会認識は、
我々にとって世界的な問題ともなりました」

ここでもこのような書き出しで説明が始まります。

1970年初頭、草の根活動として、ここにあるような、戦闘行動で
行方不明になったり捕虜になったと思われる軍関係者の名前を刻んだ
ブレスレットが認知を広く深めるためにに活用され出した時期がありました。

多くの人々がこのブレスレットを着用することで、南東アジアで行方不明になった
兵士たちの名前を決して忘れないという約束と、そして
POW/MIAのたどった運命が明らかになるその日まで、
決してこれを外さないという意志の表明を行ったのでした。

 

■ 南北戦争

まずここにある版画?は、南北戦争の初期に北軍兵士の捕虜を収容するためにあった
アンダーソンビル捕虜収容所の全景です。

同じアメリカ人同士でも分かれて戦争すれば捕虜にもなる訳ですが、
この頃はヨーロッパ方式で、基本的に捕虜交換システムによって
元の軍に戻ることができる仕組みでした。

交換を待つ間捕虜を収容していたのがこれらの施設です。

この交換システムが崩壊したのは、人種差別による理由でした。
つまり、南軍が、白人と黒人の捕虜の価値を同等に扱うことを拒否したので
交換システムが成り立たなくなったのです。

アンダーソンビルはジョージア州にあり、今ここには博物館ができているそうです。
ここに投獄された4万5千人の北軍兵士のうち、1万3千人が死亡しました。

南北戦争時の捕虜収容所は両軍側にいくつもありましたが、
ここは最悪の収容所となりました。

かろうじて収容期間を生き延びた(生きてるのか?)北軍兵士。
アンダーソンビルでは食料の供給が行き届かず、南軍の兵士ですら
上に苦しんだそうですから、捕虜は尚更酷い待遇に置かれてこうなりました。

 

南北戦争時代に捕虜になったハミー・クロウという人が妹か姉かに送った手紙です。
こんなことでもないとこの手紙が日の目を見ることもないと思うので、
全文翻訳しておきます。

ソールズベリー(sic)N.C. 1862年4月8日

ぼくの愛しい、愛しいサリー姉さんに手紙が書けることになりとても嬉しい。

ああ、サリー、我が家や友人たちから100マイルも離れたところにいるにもかかわらず
戦争捕虜になっている僕たちが毎朝、そして毎晩、我等の天の父上に
お守りくださいますように、そして我が家へ帰らせてくださいますようにと
お祈りすることがどんなに楽しみなことか、姉さんにわかるだろうか。

僕は毎日姉さんのことを考え、我が家で再会することを楽しみにしている。

姉さん、長い手紙を書きたいのはやまやまだけど、許してください。
僕らに許された手紙は便箋一枚だけなんだ。

僕は今のところとても元気でそれなりにここの生活を楽しんでいるよ。
220人の野郎どもの立てる騒音だけはちょっといただけないけど。

連中の一部は捕虜になって10ヶ月だが、僕はまだ1ヶ月だ。
今まで3〜4回家に手紙を書いたけど、僕がどのように捕まって、
どこに連れて行かれたかは新聞で読んで知っていると思います。

僕はここにきてから聖書をもう半分読み終えました。
おそらくここを離れるまでに全部読み終わることができるでしょう。

ヘッティーに会ったら自分自身とチャーリーの身体には
十分気をつけるように言ってください。
数ヶ月以内にもし捕虜交換で帰れたら、そのときはもう一度
彼女を抱きしめることができます。

もっと手紙を書きたいのだけど、手紙一通につき10セント取られるし、
だいたいちゃんと届くかどうかも怪しいからね。

全て順調であることを知らせるために少しずつでいいから
頻繁に手紙をください。

あなたの弟 ハミー・クロウ

おそらく彼の本名はハミルトンか何かだと思われます。
罫のために一枚しかもらえなかった紙を何重にも折って、
そこにぎっしりと書き込んでいます。

 

■ 第一次世界大戦

まずは第一次世界大戦時の資料からです。

「フランス軍の捕虜になったドイツ軍兵士のユニフォーム」

というのがなぜここにあるのか訝られるのですが、これは
1918年、フランスで戦死したアメリカ歩兵が、どこかで入手して
珍しい記念品として実家に送ってきたものなのだとか。

持ち主の所属は

Ulanen Reg. Von Katsler(Schlesisches)

カッツラーのウラネン連隊(シレジア)ということでいいんでしょうか。

Ordre de bataille de l'armée allemande en 1914 - Wikiwand

調べてみると、この連隊の制服は確かにここにあるのと同じです。

ところで、帽子の天辺に「PG」と縫い付けられていますが、これはフランス語の

「Prisoner De Guerre」

POW兵士であることを意味しています。
帽子に縫い付けさせられたんでしょうかね。

■ 第二次世界大戦

続いて第二次世界大戦における戦争捕虜についてです。

エリス・ニュートン(Ellis Newton)はバルジの戦いに第99分隊で参加したとき
22歳で軍曹でした。

ニュートン軍曹

戦闘初日となる1944年の1月初旬、ニュートンはドイツ軍の戦車隊に捕らえられ、
銃殺刑に処せられるところだったのですが、幸運なことにドイツ陸軍の高位の将校が
彼とその他のアメリカ軍捕虜の処刑についてとりなしてくれ、命は救われました。

そして彼の妻と8歳になる子供は、ニュートンがドイツ軍捕虜となったと知らされました。

この鎖には、アメリカ軍の認識票と、真っ二つに割れてしまっている
ドイツ軍の捕虜であることを証明するドッグタグが繋げられてます。

ちなみにこれがドイツ軍捕虜に与えられる捕虜認識票。
どうしてドイツたる国の軍でこのような仕様のタグが制作されたのか
若干理解に苦しみますが、いかにも経年劣化で二つに割れそうなデザインですよね。

捕虜収容所の食糧と医療は基準を下回り、多くの囚人が課せられた困難に屈しました。

ニュートンの体重は開放された時ヨーロッパ到着時の86キロから54キロになり、
81歳で亡くなるまで捕虜時代の身体的、精神的ストレスは彼を苦しめました。
栄養状態が劣悪だったせいで、すべての歯が抜け落ちるなど、悪影響は援護も続きました。

(とあるのですが、歯が抜け落ちるのは栄養というより衛生状態の問題だったと思います)

上の割れていないドッグタグは、99分隊のメル・ウェイドナー軍曹のもので、
タグには囚人番号とどこで捕虜になったかも記されているそうです。

ウェイドナー軍曹

ウェイドナーはバルジの戦いで「ドアトゥドア・ファイティング」
の結果捕虜となりました。
Door to door fighting とはもちろん「戸別訪問」ではなく、市街戦のことだと思います。

1945年2月、コレヒドールとバターンで3年間投獄されていた陸軍看護師たちが
開放されてアメリカに帰国するためにトラックに乗り込んでいるところだそうです。

看護師たちはそれまでの着古した服の代わりに新調した制服を与えられました。

 

■ 朝鮮戦争

1952年12月、海軍予備士官パイロットのウィリアム・M・フランコビッチ大尉は、
厳重に防御された鉄道橋を航空爆撃するというミッションを成功させ、
その功績に対して殊勲飛行十字章を授与されましたが、そのわずか3週間後、
彼の乗った飛行機が(コルセア?)エンジントラブルを起こし、
彼はそれっきり行方不明になったため、MIAと認定されました。

ここに展示されているブレスレットにはフランコビッチ大尉のものもあります。
彼の弟であるマーク・フランコビッチは、当博物館にそれを寄付しました。

戦後アメリカは戦闘のあった地域で朝鮮戦争時の遺体をいくつか持ち帰りましたが、
マークは海軍からもしDNA照合などの呼びかけがあっても答えないだろう、
といっているそうです。

「もう50年も前のことだから・・・・」

このあたりのアメリカ人の死と遺体に対する考え方は
日本のそれとは宗教観の相違もあって、ずいぶん違うものです。

日航機の墜落の時に亡くなったアメリカ人の家族が、
息子の遺体については全くその特定に無関心だったことは
当時の日本人にある意味カルチャーショックを与えました。

もちろんそれがアメリカ人全ての考えではないとは思いますが、
キリスト教の場合特にその傾向はあるようです。

 

■ ベトナム戦争

「サイレント・リマインダー」(物言わぬ遺留品)として、ここには
1996年にベトナムで採取された戦争の遺留品が展示されています。

これらは1970年に戦闘が行われていたシャン・バレーの旧戦場で見つかったものです。

506歩兵大隊の第101空挺部隊であったゲイリー・ラドフォードは、
1996年に捕虜帰還事業で帰国することのできたただ一人のアメリカ人でした。

彼は当時同じ戦場から避難する前に目撃した同じ部隊の
二人の兵士の最後の居場所を指摘するのに情報を提供しました。

その残された二人は結局見つけられることはありませんでしたが、そのかわり、
このM60機関銃と錆びたヘルメットが彼の示した場所近くから見つかりました。

26年の時を経るあいだ、これらはずっとジャングルの中に置き去りにされていたのです。

 

■ ベトナム戦争のPOW おまけ;ジョン・マケイン”疑惑”

さて、ところで、「あなたを忘れない」として当時ブレスレットに名前を記された
一人の捕虜に、アメリカ海軍のパイロット、ジョン・マケイン少佐という人物がいました。

あのマケイン・Jr.の息子であり、のちに共和党の上院議員になったマケイン三世です。

マケインの暗い過去 / 「ハノイ・ホテル」での囚人生活 : 無敵の太陽救出されたマケイン

いきなり展示の意図とは離れてしかも脱線しますが、それにしても皆さん、
この救出されたばかりのマケイン三世の様子をごらんください。

5年間というもの拘束され、その間拷問されていたというわりには
弱ってないどころかむしろ元気すぎやしないか、と思われませんか?

前回当ブログで

「マケインは捕虜となって拷問されていたたらしい」

などと世間一般の認識をそのまま何の検証もなく載せてしまったわけですが、
なんだかこの艶々した顔を見ていると、猛烈に疑問が湧いてきてしまい、
目の前の便利な箱で調べてみたところ、このカンは当たっていました。

 

1967年10月26日、海軍パイロット、マケイン少佐は、A-4スカイホークでの任務中、
北ベトナム軍に地対空ミサイルで撃墜され、脱出したところを捕虜になりました。

彼は脚と腕を負傷しており、拷問の痕だということになっていましたが、
実はこれ、脱出の際に負傷しただけで、拷問でも何でもなかったというんですね。

それどころか、北ベトナム軍(ロシア)はマケインが「大物」の息子であることから
彼の治療を行い、(同時期に捕虜になったアメリカ人は治療してもらえなかったと証言)
5年間「ハノイホテル」(収容所)の特別室で丁重に扱われていたという噂があるのです。

目的は何かというと、懐柔して治療をはじめとする好待遇の代償に、
マケインからアメリカ軍の情報を聞き出すためであり、マケインさんたら
唯々諾々とそれに従って口を割ったというのです。

口を割れば無事に返してあげよう、拷問されたことにして帰国すれば
君は英雄になれるよ、そしたらゆくゆくは政治家になって・・・
とかなんとかささやかれたんでしょうか。

関係者の間ではマケインは「ソングバード・ジョン」と呼ばれていたそうです。
これってよっぽど「よく歌った」という意味でしょっていう。

というのがメディアは報じない「マケインの黒い過去」らしいです。

しかも、帰還してきて捕虜生活を耐え抜いた英雄として政界に進出、
(ついでに糟糠の妻を捨てて財界の大物のお嬢様と再婚)
大物となった1991年、ソ連が崩壊し、KGBの機密書類が流出すると、
マケインは上院の外交委員会での立場を利用して機密ファイルを封印し、
戦争捕虜を取り戻すチャンスを潰してしまったというのです。

自分が捕虜として苦難を舐めたのに、どうして捕虜奪還のために
公開すべき情報をここで握り潰してしまったのかって話ですよ。

これは、つまりマケインのようなソングバード的アメリカ人捕虜が
定期的にソ連の諜報将校から尋問を受けていて、得た情報がファイルにあったため、
それによってマケインが情報を売り渡していたという事実が明らかになる、
ということで隠蔽のために強権発動したっぽいですね。

 


マケインが死んだとき、アメリカのCNNを始めとする左派メディアが、
(彼らの嫌いな共和党の議員なのに)不自然なくらい持ち上げて、
ヒラリーやオバマ、クリントンがいかにその死を悼んでいるかを報道する一方、
マケインがトランプ大統領を嫌っていて、絶対葬式に呼ぶなといったとかなんとか、
そんな報道が世の中を席巻していた訳がやっとわかりました。

さすがはソングバード・ジョン。
マケイン三世さんてば、そちら側の方だったんですねー(棒)

そして、

「葬式に呼ぶな」

といったくらい、マケインがトランプを憎んでいた原因はというと、
トランプがマケインのベトナムでのことを大統領という立場上知ったうえで、
「彼は負け犬じゃないか」(シャレじゃないよ)と侮辱したことがあったのだとか。

(本当はもっと違う理由もあるようなんですが、ここは一応穏便に)

 

当時のわたしには全く見えていませんでしたが、マケイン議員本人の政策そのものも
共和党議員なのに、こと移民に関しては妙に左よりで(だからメディア受けがよかった?)
それどころか、死んでからアルカイダのメンバーと仲良く写った写真なんかも出てきたし、
彼らの資金提供の窓口になってテロをさせていたという情報公開もされたというじゃありませんの。

逃亡防止のGPS足輪を隠すためか、右や左に日替わりでギプスも嵌めてた写真もありましたし。

ヒラリー、オバマなど、葬式における「マケインアゲアゲ」のメンバーを見れば、
2021年の今となっては、だれでもいろいろと察してしまうというものです。
いまさらながらにあの時感じた違和感に思い当るわたしでした。

 

海軍軍人出身というだけで清廉な政治家だと信じていた自分が情けない(´・ω・`)

 

続く。

第643予備航空部隊と朝鮮戦争〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の展示ですが、
一応時系列にそって並べられているものの、どうしても
ペンシルバニア州近郊のヴェテランの寄付した品に偏りがちです。

かろうじて左上の端っこが五大湖のひとつエリー湖と面しているだけで、
広大なくせに海なし州であるペンシルバニア州のピッツバーグは、残念ながら
海軍のゆかり深いフィラデルフィア(これも海ではなく川に面しているだけ)
からあまりに遠いのです。

海なし州から海軍軍人になる人も普通にいるとは思いますが、やはり
海軍のお膝元である地域と比べると当博物館の展示に圧倒的に
海軍関係のものが少ないのはこのせいなのかもしれません。

空軍基地はすぐ隣のオハイオにライトパターソン基地という「大物」があるせいか
ペンシルバニアにはひとつもありません。

さて、そんなピッツバーグの軍事博物館の陸軍航空隊についての展示です。

いまさらですが、アメリカ陸軍航空隊(United States Army Air Corps, USAAC)は
第二次世界大戦中に「航空軍」US Army Air Forcesとなり、さらに戦後、
1947年にはそれは空軍になったので、もう存在していません。

ここには朝鮮戦争以降の海軍航空隊、陸軍航空隊の関係資料が並んでいます。

■ 朝鮮戦争の勃発

まず、USN、アメリカ海軍の白いマフラーをあしらった
ボマージャケットが展示されていますが、その前には
朝鮮戦争がどのように始まったかの今更な説明がありました。

先日、習近平が朝鮮戦争について中国がアメリカ軍を撃退したとしたうえで、

「如何なる覇権主義もいずれも行き詰まる。
安全保障、主権、領土及び発展利益が脅かされた時、我々は真っ向から反撃する」

と声明を出したとき、世界中から

「は?朝鮮戦争は中共とアメリカの戦争じゃねーし」

と一斉に突っ込まれたということがありましたよね。

どうも歴史についてあまり明るくないらしい習主席のために、
ここに書いてあることを翻訳しておきます。

「1950年6月25日、北朝鮮共産主義者がソビエト連邦とともに
南朝鮮に武力をもって侵攻を行った。

二日後、国連軍の安全委員会はソ連代表の欠席のまま、
南朝鮮を支援することを決定した。

同日、アメリカ大統領トルーマンはアメリカ軍を南朝鮮の援助のために
出動させるという決定に基づき命令を下す。

トルーマンがこのとき称した「ポリス・アクション」によると、
国連軍の5分の4はアメリカ軍で占められていた。

この行動により、北朝鮮軍は三十八度線を突破。

その時点で中国は強大な兵力の「志願軍」をもって参戦し、
ロシアは武器を調達するなどして援助を行った」

この事実からどうして覇権主義がアメリカにあったと言い張れるのか、
どうにも不思議でしょうがないのですが、そう思い込んでいるのか、
それとも特定アジア独特の

「嘘も100回言えば本当になる」

というあれなのでしょうか。
とにかく、アメリカにとっての朝鮮戦争とは、

「第二次世界大戦での戦いの多くと同じくらい野蛮で、
さらには費用のかかる戦争であることを確かにした3年間」

ということになっております。

まあつまり、朝鮮戦争はあくまでも朝鮮半島の主権を巡る紛争で、戦ったのは
アメリカ主体であったとはいえ、西側自由主義陣営諸国を代表する国連軍と、
東側会主義陣営の支援を受ける中共人民志願軍の交戦であったわけです。

紛争が開戦から3年後の1953年7月27日に終了するまで、
500万人のアメリカ軍関係者が任務にあたり、戦死者は5万2千246名、
負傷者10万3千284名、MIAつまり任務中の行方不明者8177名でした。

朝鮮戦争は開戦から3年後に休戦しましたが、平和条約が調印されなかったので
いまだ終戦にはなっていません。
わたしたちはあまり詳しいことを知る機会がない三十八度線ですが、
アメリカ軍は現在も南北国境に駐留して停戦を維持しています。

■ 第653海軍予備隊の戦い

ピッツバーグのVF-653、第653海軍予備隊は61名の士官と西部アメリカの
部隊からやってきた下士官兵で構成されていました。

1951年10月から1952年2月まで、彼らは

空母「ヴァリー・フォージ」USS Valley Forge

に配属されることになりこのことは彼らを
戦争中最も「デコレーテッド」つまりその功績を評価され受勲された
戦闘機隊のひとつに押し上げることになりました。


飛行隊パイロットは1952年7月にバレーフォージでポーズをとる

空母「ヴァリー・フォージ」甲板上のVF-653のメンバー。

1952年7月に撮られた集合写真は、18人のフライトジャケット姿の乗組員です。
彼らの足元には、水玉模様と笑顔のピエロが描かれた13の飛行ヘルメットが並んでおり、
これは、彼らの行方不明の仲間を表しています。

2人が重傷を負い、11人が死亡または行方不明。

この写真は、海軍のカメラマンが写真を撮りにきたとき、メンバーの一人が
自分のカメラを渡してこのショットを撮ってくれと頼んだものでした。

彼らのほとんどが微笑みを浮かべているのがむしろ壮絶に思われます。

クラウン(ピエロ)の顔が描かれた赤地に白の水玉。
これが第653海軍予備飛行隊のトレードマークです。

太平洋戦線において空母「ワスプ」「レキシントン」の甲板から
ダグラスのドーントレスSBD 急降下爆撃機を飛ばした、海軍航空隊の
クック・クリーランドという隊長のもとに部隊は結成されました。

www.cityofpensacola.com/ImageRepository/Documen...Cook Cleland(1916-2007)

クリーランドは第二次世界大戦時の戦闘機エースでした。

また、3,000馬力のプラットアンドホイットニーR-4360を搭載したコルセアで
1947年のトンプソントロフィーレースでの勝利を収めた飛行家です。

クレランドのリーダーシップの下、緊密で意欲的なチーム、VF-653が誕生しました。

ヘルメットの部隊マークについては、航空隊の一人のパイロットが、
ある日自宅から送られてきたキャンディーの袋からヒントを得て、
飛行ヘルメットを白い水玉模様で赤く塗ってみたことがきっかけで生まれました。

イラストレーターだった彼はさらにピエロを加えたテンプレートを創作し、
このファンキーなイラストは各パイロットのヘルメットの側面に手描きで施されました。

テンプレートになったピエロはニヤリと笑っているものでしたが、この写真の
レイ・エディンガーのヘルメットのピエロは皆のものと違い、眉を潜めた顔に描かれています。

これは、エディンガーが副長(XO)であり、飛行隊の規律を担当していた、
ということともちろんのこと関係があったはずです。

朝鮮戦争の始まりとともにVF-653を含む14個の海軍予備役軍団が現役になりました。

 

訓練に入ってすぐにVF-653は事故で二人のパイロットを失いました。
戦術訓練中2機が空中衝突を起こし、脱出するまもなく海面に激突したのです。

配備中、彼らは三日勤務をこなすたびに1日の休暇を与えられました。
その休暇時間を彼らは日本で過ごしました。

 

戦闘にはダグラスA-1「スカイレイダー」と高速で足の短いジェットエンジンの
グラマンF9F「パンサー」も参加しましたが、コルセアは、1,000回以上出撃を行い、
その中で10人が戦死あるいは行方不明になります。

ヴォートのF4Uコルセアについては何度もここでお話ししてきました。

1943年から最初に海兵隊に採用されましたが、そのときも
空母に着艦するのには問題があるとされていましたが、
海兵隊の成功のあと、いくつかの問題が解決された1944年からは
海軍の空母においても運用されるようになってきます。

ベント・ウィングのコルセアは第二次世界大戦期における
最高の戦闘機の一つであったことは間違いありません。

朝鮮戦争が始まるとまたしてもコルセアの出番となり、その際には
有事にアクティブとなったVF-653のような予備航空隊がこれを使用しました。

歴史的にもこれが最後のプロペラ式戦闘機が活躍した最後の瞬間でした。

 

「ヴァレー・フォージ」は4月2日に日本の横須賀に向けて出発するまでに、
ATG-1のパイロットは1,500をはるかに超える出撃回数を記録し、
その過程で飛行隊まるまる一つ分の人員を失いました。

 

■ フライト・ナース

Medical evacuation Nurseは朝鮮戦争の間
エアフォースで任務を行うことを許可された唯一の女性でした。

この写真は戦災孤児の医療担当をしているフライトナースです。

フライトナースは、ヘリコプターやプロペラまたはジェット機による
航空医療避難チームの一員として任務を行います。

B-26の銃撃手が銃座を操作するときに使用した機器、

「Target Sighting Station」

が右の方に見られます。

 

潜水艦の潜望鏡のように真ん中のスコープを覗きながら
ハンドルを操作したのではないかと想像。

朝鮮戦争当時のパイロット用マスク。
現在のようなハイテックな防寒素材があった時代ではないので、
このマスクもみたところただのフェルトっぽい生地のようです。

内側が起毛した寒冷地用ブーツ。

戦傷による身体不自由になった兵士たちについての展示の中で
朝鮮戦争では凍傷による指の欠損が大変多かった、と書きましたが、
半島における寒冷期の戦線はとにかく寒さが過酷だったようです。

余談ですが、朝鮮半島に唐辛子をもたらしたのは日本人って知ってました?
それは豊臣秀吉の朝鮮出兵のときで、持ち込んだのは加藤清正。

そもそも唐辛子は南米が原産で、日本にはポルトガルの宣教師が伝えました。
ただ、日本人は辛いものを好まなかったのか、食用としてではなく、
観賞用とか、足袋の爪先に入れて霜焼けを防ぐために使っていたのです。

加藤清正が朝鮮戦争で携行したのも、武器(目潰し)、毒薬、そして
凍傷を予防するためだったのです。

当然朝鮮人は食べるだけでなく凍傷予防になることを知っていたはずなので、
なんならアメリカ軍に配布すればよかったものを、しなかったんですね。

朝鮮戦争時の武器などが展示されています。

アメリカ製のシャベルと短刀などもありますが、それより
もしかして右側二振りは・・・日本刀じゃないでしょうか。

アップにして柄の部分を見てみると、右側には桜、
左の刀にもそれらしい模様が刻印されています。

朝鮮戦争では当時は日本軍人だった朝鮮人将校が指揮を執る場面がありましたが、
この日本刀もそういった日本軍出身の士官がもたらしたものだったと思われます。

General Hong Sa-ik.jpg

陸軍士官学校卒の朝鮮人将官といえば

洪 思翊(こう しよく ホン・サイク)

が真っ先に思い浮かびます。
戦後マニラで戦犯指名を受け、処刑されています。

ROKA General Paik Sun Yup July 27th 2011 CE.jpg

今年7月99歳で没した白 善燁(ペク・ソニョプ)は、満洲国軍の士官学校卒で、
朝鮮戦争の英雄でもありました。

 

ところで朝鮮戦争当時、中共の後ろ盾に旧ソ連がいましたが、しかし、
現在のロシアと中共に友好関係は全く存在していません。

朝鮮戦争において覇権主義を食い止めたと豪語した習近平ですが、
まさにお前がいうなであり、その時代遅れの覇権主義において
真に孤立していたの中国であるというのは明らかです。


2021年現在、アメリカの選挙に介入することで、その覇権を搦手で達成しようとした、
(といわれる)中国ですが、はてさて、そううまくいきますでしょうか。

続く。

パンジ・スティークとライフの「顔」〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

ピッツバーグのSSMM、いきなりベルリンの壁の石が登場したかと思うと、
その次はベトナム戦争の展示が始まりました。

まず、上を見上げるとそこにはベトナムの黄色い星が。

この旗はベトコンの戦闘旗で、南ベトナム軍、正確には

ベトナム共和国陸軍(Army Repubric of Vietnam)

のアメリカ人アドバイザーとして歩兵部隊に出向していた
第619地域軍監視部のJ・W・スキッツ大尉が鹵獲したものです。

 

スキッツ大尉の部隊がカンボジア国境近くのアン・タン・ハムレット(地名)
に差し掛かると、ベトコンの旗が竹のポールに靡いていました。

ARVIN(ベトナム共和国陸軍)の大隊が接近すると、
小銃などの発砲が両軍の間に起こりました。

その後の小競り合いで敵を追い払い、フレンドリーファイヤによる死傷者はありませんでした。

旗をよく見るとところどころ銃弾の穴が認められます。
(あまりにささやかな穴なので虫食いかと思った)

部隊は旗を奪うと、これをスキッツ大尉に進呈しました。

黄色い星の部分にはなにやら書き込みがありますが、ベトナム語で

戦闘の行われた日付(1969年6月17日)と敵の被害(3名)、
そして鹵獲した武器

AK-47 2基、アメリカ製M-79グレネードランチャー

が書いてあるそうです。

これはベトナム軍の慣習なんでしょうか。

アメリカ軍の指揮官に進呈するのなら、なんというか
もう少し気の利いたことを書き込むもののような気がしますが。

 

そして、旗の左下にベトナム戦争が始まってすぐに発行された
「ライフ」誌があります。

「ベトナムで死んだアメリカ人の肖像ー1週間の喪失」

というタイトルとともに、そのうちの一人の顔写真が表紙になっています。

冒頭に挙げた写真はライフの特集をパネルにしたものです。
このライフの文章を翻訳しておきましょう。

次のページに示されたさまざまな顔は、公式発表による言い方をすれば
「ベトナムでの紛争に関連して」殺されたアメリカ人男性たちのものです。

この242名の氏名は、5月23日から6月3日までの一週間の戦死者として
にペンタゴン(国防総省)によって発表されましたが、
名前の横の戦死年月日の記述を除けば、特別な意味はありません。

死者の数は、この戦争が始まって以来7日間の累計であり、
同時にその数字は1週間の平均戦死者数となりました。


しかし、これらの個々の死者について語ることはこの記事の意図ではありません。

なぜなら我々は彼らが巻き込まれた世界史のうねりの中で
彼ら自身がどう思ったかを正確に伝えることはできないのです。

ただ、遺されたいくつかの手紙から、彼らはベトナムにいる自分を強く意識し、
ベトナムの人々に強い共感を示し、彼らの甚大な苦しみに愕然としていた、
ということを知るだけです。

彼らの中には自発的に戦闘任務期間延長した人もいれば、ただ
ひたすら故郷に帰りたがっていた人もいました。

この企画にあたって、彼らの家族はほとんどが家族の写真を提供し、
その多くが自分の息子や夫の死は「必要なことだった」と信じています。

しかし、この戦争で戦死したアメリカ人の数は、
たしかにベトナム人の死者数よりはるかに少ないものの、
それが朝鮮戦争での死者総数を上回ってから、国の発表は
毎週三桁の数字がコンスタントに出ている状態です。

この非情な数字に「変換」された、全米の何百もの家庭の苦悩。
我々はここにその一人一人の顔を改めて見つめ、思いを馳せる必要があります。

その「数」を知る以上に、それが「誰」だったのかを知る必要があります。

一週間のあいだに亡くなった死者の顔。

彼らの家族、そして友人たちにとっては掛け替えのないものでも、
何者でもない無名なアメリカ人の一人であった彼らが、
突如このギャラリーによって人々に知られることになりました。

そんな一人一人若いアメリカ青年たちの眼差しがこちらを見ています。

1963年 5月28日−6月3日

最初の1週間で戦死した人々は全員が陸軍と海兵隊の兵士です。
その中の一部を拡大してみましたが、ここだけ見ても、ほとんどが
20歳か21歳という若い年齢です。

全体をくまなく見ても、圧倒的に多い年齢が20歳、21歳。
また18歳、19歳という数字も見えます。

下段の真ん中に37歳の軍曹がいますが、この人は
パイロットという技能職についていたようです。

ベトナム戦争関連の展示がその旗の下にありました。

ベトナム製USMCボディ・アーマー

この内側にはこんな「使用上の注意」が書いてあるそうです。

「戦闘における死傷者のうち70%が 
fragmentation type weapon の被害です」

フラグメンテイション・タイプとは、断片化タイプという意味ですが、
平たくいうと、対象を木っ端みじんこにしてしまうタイプという意味で、
つまり爆弾、地雷、IED、大砲、迫撃砲、戦車砲、機関砲、ロケット、ミサイル、
そして手榴弾などの総称です。

「柔軟なショルダーパッドと襟のこのベストは、
これらの武器からかなりの保護を提供します。

しかしながら、これによって近接からの小さな武器を
全て防ぐものではありません。

どうかご使用の際にはそのことを考慮して適性に着用してください。

あなたの命を守ります!IT MAY SAVE YOUR LIFE!」

暑い地域で使用されていたオリーブドラブの半袖シャツです。

こうやって飾ってあるとわかりませんが、実は女性の看護師用です。
ロイス・シャーリー少佐(右襟が少佐の階級章)が着用していたもので、
彼女はベトナム戦争時、サイゴンの陸軍病院勤務でした。

右側のマークは横に倒れていて特定するのに苦労しましたが(笑)

U.S. Army Officer Branch Nurse N Brite

だそうです。
つまり看護師部隊で、翼の下に「N」の文字が見えます。

シャーリー少佐は現在当博物館のボードメンバーということで
この寄贈を行ったということのようです。

敵の銃弾跡の残るアメリカ軍の水筒は、1996年、MIA(戦闘中行方不明)
の捜索任務が行われた際にベトナムで回収されたもので、
ベトナム戦争のベテランでD-205歩兵第101空挺師団所属だった
元陸軍レンジャーのゲイリー・ラドフォードが、
ファイアベース・リコルド(ヒル1000)で収集しました。

左のトランプと同じ大きさのカードは、「サバイバルカード」。
ベトナムに展開する部隊の兵士たちに配られたもので、
毒性のある植物や危険な蛇についての情報と、もし
その害を受けてしまったらどうするかが書かれています。

それでも蛇に噛まれてしまったら、右側の携帯用キットが活躍します。

このキットは、毒のある爬虫類と接触する可能性のある米兵に提供され、
咬傷の影響を減らすのに役立つグッズが含まれています。

使い方が蓋の裏にすでに貼ってあるというのも親切ですよね。

一部キャンバス地をつかった「M1966 ジャングルブーツ」。

こういう形のブーツをファッション的には「コンバットブーツ」と呼ぶのですが、
最近ではスニーカー と同様、オサレブランドのラインに普通に出るようになって、
「セリーヌのコンバットブーツ」「ルブタンのコンバットブーツ」なんてのが
市民権を得ていたりします。

基本的にコンバットブーツのデザインは誕生以来全く変わっていないので、
わたしがアメリカに行くとときどき利用するrealrealというリサイクル通販で買った
エルメスのコンバットブーツ未使用(笑)というのも、皮が上等で
綺麗なことを除けば、この写真のブーツと形はほぼ同じだったりします。

という自分の趣味の話はともかく、このブーツはエルメスと違いベトナム製。
内側がキャンバス、ボディはレザー、甲の近く通気口があり、
水と汗を逃すというまるでジェオックスのような作りになっています。

しかも、普通のハードユースと大きく違うのは、ソール(靴底)に
ステンレスのプレートが挟んであることで、行軍するには
なかなか重くて大変かもしれませんが、これは、

パンジ・スティーク(Punji Steak)

と称する先端を尖らせた竹の断片を踏み抜く怪我を防止するためでした。

パンジ・スティーク

このパンジ・スティークは、実はアメリカがベトナム戦争で「勝てなかった」
原因の一つではないかという説もあるくらいです。

パンジという言葉自体は「パンジャーブ地方の動物用の罠」からきており、
ベトナム戦争において南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は
アメリカ兵に対し、この、単純でありながら効率的に敵を殺傷できる
パンジ・スティークを各種トラップの中でも多用しました。

写真を見てもわかるように、ベトコンのパンジ・スティークは多くの場合
30〜60cm程度の長さで、先端の鋭利さを長持ちさせるために火入れをして
硬化させ、さらには傷を化膿させるため人や動物の糞尿を塗ってあったりしました。

これらをジャングルの敵の通り道に少し角度をつけて立てておくわけですが、
このブーツのように靴底に鉄板が入っていないと踏み抜いてしまうのです。

パンジスティークをつかったトラップはバリエーションがあって、

【トラバサミ】

仕掛けの薄い板を踏み割ると左右からパンジ・スティークで挟まれる

【パンジ・ピット(Punji pit)】

落とし穴の底にパンジ・スティックがたくさん・・

【マレーの門(Malayan gate)】

ワイヤートラップによって作動するパンジ・スティック

など、多種多様でした。

この手のブービートラップは、単に物理的に被害があるだけでなく、
心理的な損害において計り知れないものをアメリカ兵に残しました。

 

先ほどの「ライフ」記事では、戦争に巻き込まれたベトナムの人々に
アメリカ軍人として派遣されていったアメリカ人は共感を持った、とありましたが、
このブービートラップは、実際に戦地にあったアメリカ軍の兵士に、
ベトナム民衆に対する「埋めがたい間隙と不信」を生じさせたといいます。

なぜか。

ベトナム人は味方のはずの南ベトナム人であっても、
アメリカ兵に罠の在りかを決して教えなかったからです。

 

続く。

 

 

 

定礎の奥の『タイムカプセル』〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

$
0
0

ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館、ここで
ちょっと他にはない珍しい展示が現れました。

いきなり結論を言うと、

タイムカプセル

です。

1908年10月2日、完成を2年後に控えたここピッツバーグの記念博物館の前には
コーナーストーンの設置セレモニーのために招待された多くの群衆が集まっていました。

画面の奥に見られるGAR(南北戦争ヴェテランの軍人会)の旗は、
このコーナーストーンセレモニーの日、ヴェテランたちが持って行進したもので、
2年後、記念館が完成したときには再び行進につかわれたものです。

 

cornerstoneというのは日本語だと礎石(そせき)、隅石の意味ですが、
レンガや石造りの大きな建物の隅に置く記念の礎石を「定礎」といいます。

定礎とは本来は礎石建物の基礎となる礎石を定めることですが、
ヨーロッパでも古来から建物の基準となる石に着工時に印をつけ、
建物の完成や存続を祈るという慣習が行われてきました。

日本では西洋建築が普及しだすとともにこの定礎の慣習も始まり、
ビルの入口などには「定礎」と刻まれた板が設置されたりします。

で、ここからが本題なのですが、この「定礎」の中には

鉛・銅・ステンレス製などの金属製の定礎箱が
建物の図面・定礎式当日の新聞・出資者名簿などが
入れられたタイムカプセルとして埋め込まれている

ということを皆さんはご存知だったでしょうか。

つまり、当博物館の「定礎」すなわちコーナーストーンが
1908年(完成後)設置されたということです。

ここでいきなり余談なんですが、つい先日、韓国のソウルにある
韓国銀行の旧本店の建物の礎石「定礎」の文字が、
伊藤博文の直筆だと確認されたというニュースがありましたよね。

筆跡を鑑定したのが「韓国の専門家」というのと、その照合の方法が
インターネットで公開されている伊藤博文の資料を見て判断、
というのが限りなく当てにならないという気がしますが、
今後韓国ではにっくき伊藤の直筆を削るか、それとも保存して
前に看板を立てるかということを検討中だということです。

そこでわたしがふと思ったのは、定礎の文字のことばかりに目が行っている
韓国の人たちは、もしかして「定礎」の下にある「定礎箱」については
何の知識もなくそこにそんなものがあることも知らないのではないかと言うことです。

もし「定礎」の文字を削除するのならば、その部分を取り壊すことになりますが、
そこで初めてタイムカプセルの存在に気づいた彼らは中身をどうするでしょうか。

歴史的に貴重なもののはずなので、そのときにはぜひ日本に返してもらいたいものですが、
まあ・・・無理だろうなあ(笑)

 

閑話休題、この兵士と水兵のための記念博物館のコーナーストーン設置を報じる新聞です。

慣習の通りであるとすれば、コーナーストーンは建物の南東角に置かれます。

セレモニーでスピーチを行なったお歴々の中には、
当時合衆国副大統領だったチャールズ・フェアバンクス、ペンシルバニア州知事、
そして南北戦争のヴェテランであるホレス・ポーター将軍などがいました。

11時すぎ、コーナーストーンが定位置に差し入れられました。

ANNO DOMINI、省略してA.Dは西暦紀元です。

MCMVIII

は1908をあらわすローマ数字です。

ローマ数字換算サイトが見つかったのでキャプチャしておきました。
「私」は「I」が自動翻訳されてしまったのでしょう(´・ω・`)

こちらの定礎は、ローマ数字で礎石を置いた日を記すのが慣習です。

そして、コーナーストーンを入れるその前に、歴史的資料が収められた
銅製のケースが内部に収められたのでした。

ちなみに、当日の新聞(ピッツバーグ・サン・テレグラフ)が報じた「箱の中身」とは。

1、ルーズベルト(セオドアですよ)大統領、スチュアート前大統領、
前知事サミュエル・ペニーパッカーなどの写真

2、博物館の設計図コピー

3、当博物館コミッティーの選挙議事録

4、ピッツバーグで発行されている主要新聞4紙

5、アレゲニー郡地図

6、投稿者名簿

7、ユニオン軍第一野営地のヴェテラン名簿

8、戦争捕虜になった北軍兵士のバッジと名簿

9、米西戦争第15駐屯地ヴェテランの名簿

10、米西戦争アルフレッド・ハント・駐屯地ヴェテラン名簿

11、海外任務ヴェテラン名簿

12、G.A.R名簿と襟章

13、マクファーソン開放部隊の名簿

14、北軍女性補助部隊の名簿

15、南軍発行の1ドル札

16、アレゲニー郡最高裁判所判事の写真

17、ピッツバーグ銀行(市で最初に創立された銀行)の歴史

18、ピッツバーグに最初に創立された長老派教会(プレスバイテイリアン)の歴史

19、アメリカ合衆国国旗

以上です。

タイムカプセルの箱は今、ここに見ることができます。

その理由は、コーナーストーン設置からまるまる102年後の2010年、
つまり設置したのと同じ10月2日に、建物から取り出されたからです。

1908年に花崗岩のブロックの空間に差し込まれ、
そして、102年間、当博物館の建物の角に収められていた銅のボックス。

作業を行った石工たちはCost companyという、1927年創業の
90年レンガ積み一筋!の地元会社から派遣されていました。

日本ではレンガ積み職人などいるのかどうかもわかりませんが、
アメリカではいまでも煉瓦の建物が普通にあちこちに現存しているので、
そのメンテナンスだけでも結構な仕事が請け負えるのだと思われます。

ボックスとハンダ付されていなかった蓋は全く濡れておらず、
コンディションも大変良かったので、中身もおそらく
いい状態で保存されているのではと期待されていました。

ところが・・・・・・・!

ここにはその中身が展示してあるわけですが、結論から言うと
大変残念なことに、セメントは長年の間に水分を吸い込み、
それが銅製の箱の中を侵食してしまっていました。

中のものはこんなになってしまっていたのです。

箱が気密ではなかったため、写真に見られるように、内部に結露が形成され、
内容物が飽和パルプと汚れの塊に化してしまいました。

銅製の箱の蓋を取った博物館のキュレーターたちが一斉に

「ああ〜・・・・・」(´・ω・`)

と落胆の声を上げた様子が目に浮かぶようです。

この茶色の塊、劣化した紙の束のかたまりは、1908年の礎石の
タイムカプセルに入っていたオリジナルの内容そのものです。

内容のほとんどが名簿などの紙だったことが残念な結果になってしまいました。


何年にもわたり、封印されなかった銅の箱の内側に
結露が形成され続け、中に収められていた紙、写真、そしてメダル、
これらの堆積物に文字通り雨が降り続けていたようなものです。

塊からなんとか水分が排出されると、今度は箱の内部に残っている
いくつかのメダルを、最新のテクノロジーで見つけることができるか、
そこが興味の焦点となりました。

2012年2月。

アレゲニー郡監察医事務所がこの「ケーキ」をX線撮影し、
そこに南北戦争のベテランのメダルの輪郭をはっきりと捉えました。

「ケーキ」のレイヤーの中にははっきりとメダルの存在が認められます。

赤の画鋲を打ってあるのは同じ場所となります。

このX線写真を撮るのにどうして検死官(監察医)事務所に依頼したのかは謎ですが、
そもそもこういう「ややこしいもの」があるところに出張してくれて
対象の何に関わらずX線を撮ってくれる組織というのはよく考えたら
法医学研究部門を持つ検死官事務所くらいしかないかもしれません。

監察医というのは日本でもよくドラマで描かれますが、
誰かが亡くなった時、その死体を検査し、死因の特定を行い、
死亡診断書を発行し、法執行機関と緊密に協力するのが仕事です。

犯罪現場を訪れたり、法廷で証言したりというドラマでお馴染みのシーンは
よくあることで、このために検死官は法医学の知識を専門としています。

まあしかし、この場合はX線照射だけですぐにメダルの存在がわかる
非常に「楽な」仕事だったことでしょう。

ついでに、日本のドラマだと、髪の毛の長い若いきれいなおねーちゃんが
検死官だったりする嘘くさい設定が多いのですが、昔医学部の人に聞いた話だと、
法医学の人は、六畳一間の(そんな部屋あるのか)荒屋に住んで、
一升瓶を抱えて飲んでいるような(本当にそういった)

「やっぱりちょっと普通じゃない」「世捨て人みたいな」

傾向の人が監察医をやっているということでした。
もちろんこれを聞いたのは昔のことなので、今はどうだか知りません。

アメリカでは現在、あんな広い国なのに監察医は五百人くらいしかいません。

平均年収は1千万から5千万円くらいなんだそうですが、アメリカでは
他の専門医でももっと高い賃金がもらえるわけですから(整形外科とかね)
その仕事の性質もあってなかなか成り手がなく、不足している業種だそうです。

さて、ここには1908年当時、ピッツバーグに存在した
4種類の新聞が展示されています。
茶色いケーキの手前の塊は新聞であることがこの状態でもわかりますが、
タイムカプセルの中にはこれと同じ四紙が収められていたそうです。

この新聞はコーナーストーン設置の日のニュースがトップなので、
タイムカプセルに入れられたのは別の日付のものだと思われます。

この日の新聞に掲載されたコーナーストーン・レイイングセレモニーの様子。
星条旗を持っている陸軍の軍人のズボンの色は青に黄色なのでしょう。

座っている人の右側に、挿入前のコーナーストーンのが見えます。
確認しにくいですが、ボックスにリボンが結ばれているのがおわかりでしょうか。

そこでこれをご覧ください。

これは102年後に取り出されたコーナーストーンの奥部分です。
リボンの名残がセメントにはっきりと刻印されており、
ここに展示されている破片に見ることができます。

この「濡れた塊」が取り除かれたボックスの隅から、
左下の コイン2個が見つかりました。

これはタイムカプセルに意図して収められたものではないと考えられています。

タイムカプセルの中にものを納めたのは、当日招かれた来賓だったのですが、
その誰かのコインが最後の瞬間に滑り落ちたのではないかというのです。

コインのうち一つは1906年のBarber dime(10セント)バーバーという彫刻家が
デザインした1892年〜1916年発行のもので、もう一つは1907年発行の
「インディアンヘッド・ペニー」、(1セント)でしたが、どちらも
内容リストには含まれていないため、アクシデントだったと判断されています。

この右側のケースの中のものが本物です。
これは「ミリタリー・フラット」と呼ばれる小さな錫製の玩具で、
20世紀初め頃のものです。

二人の南北戦争の兵士が馬に乗っている意匠で、これが発見されたのは
花崗岩の基礎の接続部分で、押し込まれていました。

それが2010年にコーナーストーンを外して中のものを取り出した際、
タイムカプセルと一緒に中から出てきたのです。

どこの誰が花崗岩の継ぎ目にこれを入れたのかはわかっていませんが、
可能性としては、1908年にタイムカプセルを納め、コーナーストーンを
設置する作業を行った石工がうっかり落とした(かわざとそこに置いた)
ものと考えられています。

わたしは、石工が「わざと」置いたのだという気がしますが。
石工がいくつか知りませんが、普通こんなものを持って仕事にきませんよね?

彼は、その仕事をするにあたり、何か小さなものを中に置くために
わざわざ家をでるときポケットに入れてきたんじゃないでしょうか。

だって、自分が確実に死んだ100年後に、自分が置いたものが
どんなものであれ、後世の人々の目に留まるというのは、なんというか、
ちょっとしたワクワク感があるじゃないですか。

「これはなんだろう」

100年後の人々がその品をめぐって想像を巡らすことを思いながら、
ちょっとした「役得」として彼がこれを置いてきたというのがわたしの想像です。


銅製のタイムカプセルの一番最後に収められたのは星条旗でした。
この国旗が比較的無事な姿で残ったのは、ものが積み重ねられておらず、
被害の酷かったサイド部分に接していなかったからだろうと思われます。

旗のポール部分、その先の部分も上部から見つかりましたが、
これはごらんのように腐食してしまっていました。

2012年、取り出された後のコーナーストーンのくぼみには、
新たなタイムカプセルが設置されることになりました。

 

今度は中身が腐食することが決してないように、
環境の影響を一切受けない堅牢なステンレスの箱が特注されました。

次にタイムカプセルが開けられるのは2112年の10月2日(予定)。

そのとき、未来の人々はコーナーストーンの奥にどんなものを発見するのでしょうか。

 

続く。

ストライカー装甲車のヘヴィメタル・イラクの自由作戦〜兵士と水兵のための記念博物館

$
0
0

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館展示、
定礎の奥に102年ぶりに取り出されたタイムカプセルの中身の展示のあとは
いきなりイラク関係とわかるコーナーが現れましたが、とりあえず
時系列順でいきたいので、この後に現れた湾岸戦争展を紹介します。

■湾岸戦争

湾岸戦争のとき、アメリカの派兵を宣言するパパ・ブッシュの支持率が
90%を超えたというニュースを見て、ふとわたしなどは
西部劇で悪のガンマンと対峙する保安官を指示する街の人々という構図を思いました。

クェートに侵攻したイラクはわかりやすい「制裁すべき悪」であり、
アメリカにとってこれほど大義のある開戦理由はなかったはずです。

第二次世界大戦後、事態解決のために世界が一致団結したのは初めてで、
侵攻から5ヶ月目、多国籍軍の空爆から始まった、

「砂漠の嵐作戦」Operation Desert Storm

は、陸上部隊の進攻100時間で圧倒的勝利を収めました。

このときの攻撃はCNNによって生中継され、これが
世界で初めて戦闘が同時に世界に発信された瞬間となりました。

展示ケースはこの湾岸戦争関係の資料が収められています。

砂漠地用戦闘服のことをデザートバトルドレスユニフォームと言います。
なぜかDBDUという略称まであるらしいんですが、このDBDUは、
第475補給部隊のエルマー・スヴェダ曹長が「砂漠の盾」作戦で
着用していたものです。

「砂漠の盾」作戦は、イラクのクェート進攻に対し、アメリカが
世界に「協力を呼びかけながら」国境付近に展開した進駐そのものを指します。

国連軍というのは政治的に正式な編成ができないため、アメリカは
「有志を募る」という形で自らが進攻の先陣を切ったのでした。

475補給部隊はペンシルバニアのグリーンズバーグの本拠地とする部隊です。

これがスヴェダ曹長のようです。

ユニットを悲劇が襲ったのは1991年2月25日の夜のことでした。
イラクのスカッドミサイルがバラックを直撃し28名が死亡、
110名が病院に搬送され、150名が軽傷を負いましたが、
多くが深刻な心的外傷を負うことになりました。

部隊はたった6日同地に駐留する予定であったそうです。

スカッドミサイルが直撃した後の写真が右側に並んでいます。

スヴェダ曹長が無事だったのかどうか記述がなかったのですが、
検索していると、2017年に彼の父親が亡くなったという葬祭会社の通知が出てきて
(父親は海軍軍人で空母『ランドルフ』に乗っていたらしい)彼が喪主であることから、
少なくともこのときにはピッツバーグで健在であることがわかりました。

左は作戦に参加した軍人個人に対しクェート政府から贈られたメダル、
右はサウジアラビアバージョンだそうです。

真ん中の小瓶には土が入っているのでしょうか。

このとき戦死した第475補給部隊の隊員に対しては
パープルハート勲章が授与されました。

名簿を見ていると、女性の名前もありました。

2018-5-21 Clark.jpg

SPC Beverly Sue Clark。
まだ23歳だったそうです。

R.I.P.

 

■ アメリカ大使館爆破事件の旗

1983年、平和維持の目的でレバノンのベイルートに駐留していた
アメリカ大使館で爆弾テロが起こりました。

これに続き1984年9月20日、自爆テロの車が大使館の別館を爆破し、
20名のレバノン人、2名のアメリカ人職員が犠牲になりました。

このデパートメントフラッグは、そのときベイルートのアメリカ大使館に掲げられていたものです。

■ イラク戦争

1904年の開館時そのままの石の床、大理石の柱、そして南北戦争の地元部隊の記念プレート。
そういった昔ながらのものに囲まれて、この展示は、周りの雰囲気に合わせ
新たに作られた木枠とガラスという展示ケースの中に納められていました。

まずこのケースの中の説明を翻訳しておきましょう。

「イラクーアフガニスタンオペレーション」

2001年9月11日。
われわれのアメリカ本土は決して攻撃されることはない、
という神話は永遠に崩れ去りました。

同時多発テロによってニューヨークとワシントンが攻撃されてから
数ヶ月以内に、アメリカの軍事力は(ミリタリーリソース)
我が国へのさらなる脅威を探索し、
それを和らげる要求がなされることになります。

 

つまり同時多発テロへの報復としてイラク侵攻を行ったということを
まわりくどく言うとこういうことになるということですね。

わたしは9・11のときアメリカに住んで、事件の後の国内の
一種異様な雰囲気を肌身で体験したものですが、驚愕に続く恐怖、
犠牲者に対する祈りのような空気が次第に「愛国」へと変わっていくなか、
ブッシュ大統領がイラクに対する「悪の枢軸宣言」を行ったとき、
ほぼなんらかの軍事行動は誰にも予感される認識となったと感じました。

そして2003年、ブッシュ大統領がイラクに大量破壊兵器があることを理由に
先制攻撃を行ったと言うニュースが流れたとき、

「やっぱりそうなったか・・」

という薄寒い気持ちでサンフランシスコの曇天の下を歩いたことを思い出します。

その後、

「本当にイラクに大量破壊兵器はあったのか」

については、情報を提供した本人(イラク人科学者)が

「サダム・フセインを失脚させるためについた嘘だった」

と認めたことで、十万人以上の市民が犠牲となったイラク侵攻は
ブッシュ大統領、そして「イラクの自由作戦」に参加した
イギリスのトニー・ブレア首相に対する評価を落とす結果になりました。


単純に考えて、たとえイラクが大量破壊兵器を持っていたとしても、
アメリカがイラクに侵攻することが自衛の戦争なのかと言う疑問は湧くわけですが、
それに正当性を与えたのが、やはり同時多発テロという「本土攻撃」だったわけです。

さて、ここにはこのようにイラク侵攻について簡単にまとめてあります。

もともと「対テロ戦争」The grobal War on Terrorism"
と呼ばれていた我が国の軍隊は、現在、

イラク不朽の自由作戦(Operation Iraqi Freeom OIF)

アフガニスタン不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom OEF-A)

に配備されています。

 

しかし今日はイラク戦争について深く掘り下げることは目的ではないので、
これくらいにして、展示の紹介に参りましょう。

砂漠仕様のカモフラージュセットはヴェテランの寄贈品です。

ヘルメットに装着されているのはカメラ?

左胸のマークから、空挺部隊に所属する軍人であることがわかります。

「イラクの自由作戦」に展開する制服の持ち主、マシュー・ボシャン大尉。

Soldiers of the 1st Squadron (Airborne), 40th Cavalry Regiment, salute during the national anthem at the 4th Brigade Combat Team (Airborne), 25th Infantry Division's deployment ceremony at Sullivan Arena, Anchorage, Alaska, Nov. 29, 2011.  The 4-25th ABCT,

ボーシャン大尉が所属し「イラクの自由作戦」に展開していたのは、

第4空挺旅団戦闘団
4th Brigade Combat Team (Airborne), 25th Infantry Division

でした。

同戦闘団は、イラクの自由作戦で53名を、普及の自由作戦では
13名の兵士を戦闘で失っています。

ボシャン大尉(右)が手にしているのはロケット弾。
この数分前、彼らの乗っている車のターレットを取り巻く保塁を直撃したものです。

ところで全く関係ないのですが、車の手前に搭載?されているのは
アメリカではおなじみの色付きゲータレードです。

ボシャン大尉のマネキンが持っているボディアーマーは
アメリカ兵に配布され、かれらの命を脅威から守る工夫がなされていました。

ベストの左側にはファーストエイドキット、黒のメタル製汎用カラビナ
右側にはウェブ用ユーティリティポーチ、銃弾、手榴弾入れが付いています。

左下はボシャン大尉のニットスカーフです。
戦闘で息子を亡くした母親が、息子の思い出のために手作りし、
部隊の兵士たちに届けられたたくさんのそういった品の一つで、
このニットスカーフは、2004年8月に戦死した兵士の母親が編んだものだそうです。

このスカーフをつけて任務にあたっている間、その兵士が
息子のようにならないことを祈りながら、母たちは贈り物を編みました。

この小さな旗は「Memorial Guidon」と説明されています。
ギドンとは、紋章旗と言う意味ですが、この旗は、
イラクの自由作戦で英雄的な戦死を遂げた

ロバート・ファイク1等軍曹 Robert Fike

ブライアン・フーバー参謀軍曹 Bryan Hoover

の二人の死を顕彰しているものです。

Pennsylvania National Guardsman remembers his fellow soldiers' 'ultimate  sacrifice' - pennlive.com

2人はペンシルベニア陸軍州兵でした。

ロバートJ.ファイク1等軍曹(38歳)とブライアンA.フーバー参謀軍曹(29歳)ら
ペンシルベニア陸軍国家警備隊第1大隊、第110歩兵連隊3名は
アフガニスタンのブラードバザールで徒歩パトロール中、
自爆テロの爆発に巻き込まれ、二人が死亡したというものです。

彼らの棺はピッツバーグに帰還し、アレゲニー墓地
(南北戦争からの戦死者が埋葬されている古い墓地)に埋葬されました。

マシュー・ボシャンはイラク任務中二回負傷をしています。
これらについても彼はこのように述べています。

「場所もタイミングも運が悪かったんだ・・・どちらも」

そして彼はパープルハート章と、柏葉勲章を授与されました。
彼の部隊は大変危険な地域に展開していたため、
ボシャンの隊だけで86名がパープルハートを与えられており、
そのうち21名が彼の部下でした。

戦争博物館の展示にアップル製品が登場するのを見る日がこようとは感無量です。

戦争に関わりのないわたしたちと同様、兵士たちもまた、
音楽が戦争の日々のストレスから開放するものだと感じています。

ボシャン大尉はこのiPodを最初のイラク遠征に持っていきました。
これをM1128 ストライカーMGSのサウンドシステムに繋いで、
哨戒任務に展開する前に鳴らして聴いていたそうです。

同行するメンバーにはヘヴィメタルが大変喜ばれました。
おそらくかれらの任務へ気分を盛り上げるものだったのでしょう。

しかしこのiPodはたった3ヶ月使用しただけである日突然「死んで」静かになりました。

イラクではさすがにアップルケアも使えないしねえ・・・・

アップルケアといえば、近代の戦争にコンピュータは基本装備です。
このラップトップもボシャン大尉がイラクで使っていたものですが、
これもまたすぐにうんともすんとも動かなくなったそうです。

その原因は砂埃と現地の気候ですが、もしかしたらアップルも
今なら砂漠仕様の特別バージョンを作れるかもしれません。

そんなストライカーとボシャン大尉。
え?こんなのストライカーではないぞ、また間違えたな、って?


はいご覧の通り。
アフガニスタンでのストライカー。
車体上面ハッチ周辺にブラストパネルと呼ばれる装甲板が追加されています。

アメリカの軍事史上初めて、女性が戦闘後方支援ではなく
戦闘の支援を行ったのが、イラクの自由作戦とアフガンの自由作戦でした。

しかし、あるジャーナリストに言わせると、イラクとアフガンでは
130名以上が亡くなり、そのうち好きなくない女性が男性と一緒に戦って
その結果亡くなっているにもかかわらず、
公式には戦闘に参加していなかったということになっているということです。

このジャネール・ザルコウスキー1等兵は第101空挺師団の民事部隊所属ですが、
名前を検索するといやと言うほど写真が出てきます。

Janelle Zalkovsky

お好きな方のためのサービス画像

イラクの自由展開部隊の基本装備です。

ところで大量破壊兵器が発見されなかったことで、
結論としてブッシュやブレアは評価を落とした、と書きましたが、
イラク戦争を支持した同盟国にも激震が走りました。

ブレア首相はこのことによって国民が「騙された」と感じたため、
支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれています。

イラク戦争を支持したデンマーク国防相は辞任を余儀なくされ、また、
ポーランドのクワシニエフスキ大統領などは、

「アメリカに騙された」

とまで厳しく批判をしています。

日本の久間章生防衛相(当時)は(日本の政治家には珍しく)

「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」

と発言し、オーストラリアのブレンダン・ネルソン国防相にいたっては、

「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」

と大胆な発言をして批判を浴びたそうです。

ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで

「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、
イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」

と述べ、それに対して記者が

「大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、
イラク侵攻に踏み切らなかったのではないか」

と質問すると

「興味深い質問だ」

とだけ答えたそうです。

ってか答えになってないし。

また、ヒラリー・クリントンは、開戦に賛成しましたが、
侵攻は誤りだったと認めています。

 

続く。

 


勇気の殿堂 受賞者の肖像〜兵士と水兵の記念博物館

$
0
0

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示を
長らくご紹介してきましたが、最終回にようやく近づいて来ました。

回廊を一周回って南北戦争からイラク戦争まで、おもに
ペンシルバニア出身の軍関係者が寄贈した記念品の展示を見てきましたが、
最後に

「ジョセフ・ドゥーガンJr.勇気の殿堂」
 Joseph A. Dugan. Jr. Hall of valor

という顕彰コーナーが現れました。

靖國神社の遊就館でも、戦争関連の展示の一番最後に、
靖國神社の「神」として祀られている英霊の写真が展示されていますが、
ここでも英霊?顕彰コーナーは最後です。

1963年、同博物館は軍事史博物館の一部として、退役軍人を顕彰するために
「勇気の殿堂」を創設しました。
殿堂入りの資格は、以下のメダルの最低どれか1つの受賞者です。

名誉勲章
殊勲十字章
海軍十字章
空軍十字章
シルバースター
殊勲飛行十字章
エアマンズメダル
ソルジャーズメダル
コーストガードメダル
海軍&海兵隊メダル

そして、ペンシルベニアで生まれ、軍に入隊した退役軍人であること。

現在、700人以上の退役軍人の名前がこの「記憶の倉庫」に収められています。

2006年11月、「勇気の殿堂」は「ジョセフ(略」に改名されました。
ドゥーガンJr.はソルジャーズ&セーラーズメモリアルホール&ミュージアム社の
初代社長兼最高経営責任者です。

それでは、ここで紹介されているオナーロールを何人か見ていくことにします。

■ 名誉勲章受賞者

 

【軍旗を死守】

ジョン・S・マシューズ陸軍軍曹 南北戦争

名誉勲章という場合は、戦功そのものについて与えられるので、
受賞者は負傷や死亡をしていないのが普通です。

ここは南北戦争以降の軍事博物館なので、この名誉の殿堂も
南北戦争から始まっています。

受賞理由:1865年のピッツバーグの戦いで軍旗を奪取し、
負傷したにもかかわらずそれを死守した

おそらく彼が名誉勲章を受けるときに撮られたこの写真を見たところ、
不鮮明ながら、彼はこの戦闘の際右手を失ったのではないかと思われます。

サム・ジョンソン陸軍1等兵 南北戦争

写真が遺されていなかった人物に関してはイラストのみの紹介となります。
そういえば、遊就館でも、提出する写真がなかったのか、
遺族が描いた似顔絵が展示されている英霊がおられましたっけ。

受賞理由:南軍から旗を二つも奪い、かつその際負傷をしたことに対して

南北戦争では、相手の旗を奪うというのが一つの勝利の決めてとなったようです。

【勇敢なる戦い】

ヘンダーソン・カルビン・ホワード陸軍伍長 南北戦争

受賞理由:敵の狙撃兵を追跡していて二人の敵に遭遇、銃撃戦の結果勝利

手前の、犬が寄り添っているのは(涙)伍長が戦った敵の遺体だろうと思われます。
彼は1919年、第一次世界大戦の終わり頃に80歳で亡くなりました。

 

ジョセフ・ギオン陸軍1等兵 南北戦争

受賞理由:チャンセラーズビルの戦いで勇敢に敵基地への前進をおこない、
『大事な情報を確保』した

ギオン1等兵もまた志願兵で、名誉賞を受けたときすでに38歳という年齢でした。

 

【晩年を見捨てられた後方支援の女性】



ヴィヴァンディエール・マリー・テぺ・レオナール 南北戦争

南北戦争でキアニー十字章を受賞された女性がいました。
名前がフランス風なのでレオナルドではなくレオナールとします。
検索してみるとウィキでは、彼女はやはり

「フランスのマリー」

と呼ばれており、記録では「マリー・テペ」が通称だったことがわかりました。

北軍に入隊したのは彼女の夫がペンシルバニア歩兵に入隊したからですが、
彼女は自ら望んでユニットに加わり、フランス系の外人部隊、ズアーブ兵部隊で
「連隊の娘」として料理、洗濯、縫い物などの「後方支援」を行っていました。

チャンセラーズビルでは激しい戦いの中、野戦病院で献身的に働き、
その功績に対してカーニークロス(勇気の十字架)が与えられることになりました。

これは、300名の受賞者の中の唯一の女性だったそうです。

ゲッティスバーグの戦いで夫を亡くした彼女は、この戦争が終わってから
南北戦争のヴェテランと結婚しますが、本人曰く「一般的な虐待(つまりDV)」で離婚しています。

晩年は兵役を行っていたとして国からの年金をなんとか受け取ろうとしたようですが、
どうもうまくいかなかったようで、貧困生活に甘んじていました。

戦争中に負傷した足首の傷に戦後も苦しめられ、さらにリウマチを発症し、
苦境の中、67歳でパリスグリーン(顔料や殺鼠剤の原料)を飲んで自殺しました。

【負傷を顧みず】

フランク・ウィリアムズ陸軍1等兵 第二次世界大戦

1944年、フランスに展開していた彼の歩兵部隊小隊は、行軍中
道の両側から巧妙に隠された場所からおマシンガンの掃射を受けました。

敵の銃が彼の仲間の安全に与える深刻な脅威に気づいて、ウィリアムズ1等兵は
勇気を持って持ち場からすぐ前の敵の定置に向かって移動しました。

身を伏せて地を這い、木から木の間を走り抜けて、有利な位置に移動し、
機関銃の標的になりながらも冷静に発砲し、敵兵士を倒し、一人を捕虜にしました。

この間、彼は敵からの射撃に晒され、負傷し、それが元で亡くなりました。

【メディックの献身】

 ジャック・プリングリー陸軍2等軍曹 第二次世界大戦

現地の子供が見守る中救護活動を行なっている衛生兵の写真ですが、
確かウェストポイントの軍事博物館で同じ写真が紹介されていて、
ここでも一度掲載したことがあります。

受賞理由:プリングリー二等軍曹はシシリー島に展開した部隊の衛生班に所属し、
砲弾の激しい一帯を横切って進攻する際、我が身の危険を顧みず、
軍務への揺るぎない献身のもとに複数の小隊を率いこれを勝利に導いた

【ベルリン爆撃命令】

ロバート・O・ロング陸軍大尉 第二次世界大戦

フライングクロス受賞理由:B-17でのドイツとドイツ占領地域に対する爆撃任務の成功

開戦直後はドイツ本土に対する空襲はほとんど行われなかったのですが、
バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍がロンドンを誤爆すると、報復として
連合国はベルリンを空襲、以降ロンドンとベルリンへの報復爆撃合戦となっていきます。

戦争初期はドイツ軍のイギリス空軍迎撃は成功していましたが、
1943年以降はイギリス空軍が夜間爆撃を、アメリカ空軍が昼間爆撃を行い、
ロング大尉のB-17やB-24などの強力な爆撃機が大量されていくと、
ドイツ空軍の勢いは急激に衰退していくことになります。

ロング大尉の爆撃任務は1944年のノルマンディー上陸作戦以降のもので、
連合軍の爆撃がいっそう激化していくなか行われたもので、
これによりドイツ国内がくまなく廃墟になったのでした。

【33歳年下の妻】

ハーヴァート・クラウス陸軍 大尉 第二次世界大戦

フランスの戦線で功績を挙げシルバースターを受賞された人ですが、
それより、お葬式欄で見つかった、

「2007年、92歳で亡くなり、59歳の妻が残された」

という情報につい目を奪われてしまいました(笑)
なんでもこの人の娘さんは医学博士なんだそうですが、
絶対奥さんの方が娘さんより年下ですよね?

【とっさの判断で部隊を救う】

ジョセフ・コスグロウ海兵隊軍曹 ベトナム戦争

海兵隊第一偵察大隊で並外れた勇気を示した

ベトナムに参戦した時、彼はまだ18歳で上等兵でした。
戦地でベトコンとの戦闘が始まってから、彼は隣の中隊指揮官の至近距離に
手榴弾が転がってきたのをみて、全く躊躇うことなくそれを拾い、
爆発する前にそれを蹴って遠くに飛ばし、犠牲を防ぎました。

【撃墜された殊勲者】

ウィリアム・K・ハーディング中佐 ベトナム戦争

北ベトナムでの最初の任務でF-4ファントムでの敵基地爆破を成功させましたが、
が地対空ミサイルで撃墜されました。
ハーディング中佐は救出され、フライングクロスを受賞されました。

【ランボー並み】

レスリー・H・サボー陸軍軍曹 ベトナム戦争

それにしても不思議な肖像写真・・・というか写真じゃないですよねこれ。
南北戦争の頃なら写真がなくても納得しますが、
ベトナム戦争の軍人がどうしてこの肖像画?

というのはともかく、サボー軍曹は陸軍空挺隊所属です。

サボー軍曹の部隊が偵察任務を行っていたとき、待ち伏せによって
四方から多数の敵が襲いかかってくるという事態になりました。

まったくためらうことなく空挺団の精鋭であるサボー軍曹は
(スペシャリスト・フォー、特技兵)敵に向かって突撃し、
瞬時に数人の敵兵士を殺害し、その後すぐに敵を側面から攻撃し、
敵を最終的にたった一人で退却させました。

すげー・・・ランボーみたい。

■ 名誉勲章

【単身突入の勇気】

ジョン・ウィルソン・ミニック陸軍軍曹 第二次世界大戦

ここからは殿堂の中でも大きな写真が掲げられた、つまり
「自分の命を犠牲にして仲間を守った・戦った」人々になります。

1944年11月21日、ドイツのハルトゲン近郊での敵との交戦において、
ミニックの大隊は、広大な地雷原によって前進を止められ、
敵の大砲と迫撃砲の集中にさらされた。

ミニックは志願して4人を率いて有刺鉄線を破壊し、地雷原を突破、
機関銃の発砲を受けると彼は部下に避難を命じたうえで単身突入、
敵2人を殲滅、他の3人を捕虜にした。

その上で再び単独で前進、さらに20人のドイツ兵を殺し、20人を捕獲。
さらに前進し、大隊を有利な位置へ導くも、次の移動中に地雷を踏んで爆死した。

【俺しかいないから俺がやる】

ウイリアム・E・シャックJr. 海兵隊軍曹 朝鮮戦争

パープルハートと名誉勲章を受けた人物を紹介する写真として、失礼ながら
これしかなかったのか?とつい思ってしまうシャックJr.2等兵の肖像です。

Wikiをみると同じ写真が掲載されているので、本当にこれしかなかったのでしょう。

受賞理由:
小隊の攻撃中、敵の小火器、手榴弾、大砲、迫撃砲の壊滅的な弾幕にさらされ、
痛みを伴う負傷を負ったが、医療処置を拒否し、戦闘任務を行った。

指揮官が負傷したあとは躊躇なくライフル分隊の指揮を受け継ぎ、
敵位置にさらに2つの大胆な攻撃を行い、再び負傷するが、避難を断固として拒否し、
すべての死者と負傷者が避難するまで激しい砲火の下最前線にとどまった。

そして最後の犠牲者である同僚の遺体の搬送を支援している間に、
敵の狙撃弾によって致命傷を負った。

25歳で戦死した彼の未亡人に名誉勲章を授与したのは、
当時副大統領であったリチャード・ニクソンでした。

 



続く。

 

勇気の殿堂 オンライン上のブロンズスターメダル〜兵士と水兵のための記念博物館

$
0
0

長らくお話ししてきた兵士と水兵のための記念博物館展示、
最後にペンシルバニア出身の軍事章受賞者を顕彰するためのホール、
「勇気の殿堂」で紹介されている人々を紹介して最終回になります。

 

ここからの賞受賞者の紹介には、当博物館の手によるものらしい
イラストが加えられています。

 

【命を賭けて試みた生還】

アーチボルド・マシーズ陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

ここからはなぜか博物館スタッフによると思われるイラスト付きです。

1944年2月、ライプツィヒへの爆撃に参加中、B-17の機長は攻撃を受けて重傷、
副操縦士は死亡したため、彼はナビゲーターと共にイギリスまで帰還し、
そこで残りの乗組員を全員ベイルアウトさせた。

マシーズとナビゲーターは脱出を命じられたが機長を置き去りにすることを拒否し、
機体の着陸を試みたが、墜落し、機内の全員が死亡した。

マシーズの階級は軍曹となっていますが、これは死後特進した結果です。
機関兼砲塔射手だったので、指揮官二人が任務遂行不可能になっても
彼が代行として指揮を執るという配置ではなかったわけですが、
砲塔射手という機内における自由に動く配置であったというだけで、
(映画『メンフィス・ベル』でも射手がコクピットに顔を見せていた)
ベイルアウトをせず、瀕死の副操縦士と機体を無事に地上に戻すために
自分の命を賭け、そして斃れたのでした。

このとき最後を一緒にしたナビゲーターもまた叙勲されたと思われますが、
地元出身ではないので彼については触れられていません。

 

【死ぬまで投げ続けた手榴弾〜ニューギニア戦線】

ドナルド・R・ロボー陸軍一等兵 第二次世界大戦

この勇気の殿堂で、初めて日本軍と戦った軍人が登場しました。

受賞理由:彼の小隊がニューギニアで進攻していた日本軍と対峙したとき、
自分に放火が集中したにもかかわらず、負傷しながら手榴弾を投げ続け、
部隊の犠牲は彼だけに止まった

ところで、名誉勲章を受けるとその人生のあまり公にしたくない部分まで
歴史に留められてしまうわけですが、彼の場合、16歳で車泥棒でつかまって
その後更生して海軍に入ろうとしたら成績不良ではねられ、仕方がないので
陸軍を受けたらなんとか入れてもらえた、なんてことまで記録に残っています。

これって、陸軍には海軍に入れなかった人も入れてもらえたってことですか?

 

それから、日本人としては、彼がこのとき殺戮したのが日本兵でその数が
「最低でも10人以上だった」ことをつい考えずにいられません。
戦争の英雄は、敵国にとっての殺人者であるというのは当たり前の事実なのですが。

【手榴弾を帯びて単身突入】

アルビン・P・キャリー陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

フランスのブルターニュで進軍中、激しい敵の機関銃砲火を受けたとき、
キャリーは持ち運べるだけの手榴弾で武装したのち敵地に単身突入し、
ドイツ兵のカービン銃に斃れたが、その勇敢な行為に触発された後続部隊は
敵の抵抗を打ち負かした。

 

【壮絶な敵地突入の果てに】

ジョン・W・ドゥトゥコ陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

受賞理由:1944年5月、イタリアのポンテロットの近くで、ドイツ軍塹壕からの機関銃3丁、
1丁の88mm砲に対し片手に銃を持っただけで対抗し、負傷で倒れる前にこれら全てを殲滅した。
この行動のために、彼は死後最初の軍曹に昇進した。

殿堂入りしている軍人の階級は全て最終的に昇進したものなので、
ほとんどが軍曹となっています。
戦死時のドゥトゥコの階級はPrivate 1st class、つまり上等兵でした。

ここに詳しく書かれている彼の戦死の状況は、

「マシンガンに撃たれて一度昏倒するも、立ち上がって走り続け、
10ヤードの位置まで迫った時、5人の敵の一斉掃射を受けたが
彼はその中でも二人を倒し、次の射手が彼に銃弾を撃つと、
それを受けながらもなおさらに相手を倒し続け、
最後に倒れ込んだのは自分が倒したドイツ兵たちの遺体の上だった」

と壮絶です。

 

【通信機器を死守した上陸作戦の通信兵】

ジョン・J・ピンダーJr.陸軍伍長 第二次世界大戦

1944年6月6日、ノルマンジー上陸作戦において、敵攻撃の中ボートから
作戦に不可欠な通信機を持ちだし、腰の深さの水の中岸に向かって進んだ。

ボートから降りてわずか数ヤードのところで、彼は敵の砲火に見舞われ、
重傷を負ったが、彼は岸に辿り着き機器を無事に届けたあと、
彼は傷の治療を受けることを拒否し、通信機器を救助するために
砲火の中ボートと岸のあいだを三往復し、三度目に再び機関銃に撃たれ、
衰弱しながらもつぎに無線通信の確立を支援を行う。

その任務中、三度目の銃弾によって死亡した。

ノルマンディ上陸作戦のとき、舟艇から上陸したアメリカ兵たちが
敵の狙撃やあるいは舟艇の位置、冷たい水に濡れた軍装のせいで
どんな壮絶な戦いをしたかについては様々な媒体で述べられていますが、
単身上陸するだけでなく、機器を運搬する係の兵たちはもっと大変だったわけです。

ピンダー通信兵だけでなく、いわゆる後方支援の部隊の兵隊もまた、
このとき物資を運ぶ任務でやはり多くが負傷あるいは戦死したと思われます。

【自ら傷を負いながら負傷兵の治療】

アルフレッド・L・ウィルソン陸軍技術軍曹 第二次世界大戦

フランス戦線で医療班として従事していたウィルソン軍曹は、
治療中重傷を負ったが、避難することを拒否し、激しい痛みと失血にもかかわらず、
最後の瞬間まで応急処置を続け、自分が立てなくなってからも
部下に治療を指示し、少なくとも10名の命が彼によって救われた。

最後の瞬間、ウィルソンは苦しい息の下から絞り出すような声で
それでも懸命に指示を続けていました。
結局彼はその傷が下で亡くなりました。

【一人で12人を降伏させる】

エドワード・A・シルク陸軍中尉 第二次世界大戦

意外なことに今までの受賞者で中尉は初めてです。

エドワードA.シルク中尉は、1944年11月フランスのモワンムティエを見下ろす
高台を占領する任務を遂行中、道沿いの農家をアジトとしたドイツ軍から、
機関銃と自動小銃を発砲されたため、中尉は一人でその農家まで接近し、
敵の発砲を受けながら攻撃を行い、手榴弾と機関銃を駆使して内部を攻撃し、
手榴弾がなくなると窓から岩を投げこみながら残りの敵の降伏を要求しました。

彼の執拗で「非正統的な」攻撃にに混乱した12人のドイツ人は、
この一人のアメリカ人将校に降伏したのです。

 

■ 女性の名誉賞受賞者

クレア・M・ガレヒト空軍准将 

このコーナーでは3人の受賞女性軍人が紹介されています。

ガレヒト准将はワシントンDCの米空軍本部の外科医総長室の空軍看護隊長でした。 

第二次世界大戦で陸軍看護隊に入隊し、その後キャリアを重ね、
1974年、空軍看護隊長に就任、メリット勲章、任務メダル、空軍メダル、
空軍殊勲部隊賞リボンなどを受賞し、1974年准将に昇進しました。

テレサ・ジェームズ陸軍少佐 第二次世界大戦

この人のことは女性補助部隊のパイロットとして以前紹介したことがあります。
が、今回バイオグラフィーを見て、彼女がパイロットになったきっかけというのが

「好きになったビルというパイロットの気を引くためだった」

というのを初めて知りました(笑)

やるじゃん。

ちなみに、輸送飛行隊としてあらゆる飛行機を飛ばしてきた彼女が、
CBSの制作したドキュメンタリーでのインタビュー中、

「まだ飛ばしたことがないのはF-14だけ」

といったので、CBS は彼女がF-14に乗れるように手配しました。
そのとき、彼女はもうすでに86歳だったということです。

さすがに操縦したわけではないと思いますが、86歳を
マッハなんぼの戦闘機に乗せるってどうなのよって。

彼女が心臓発作とか起こせばテレビ的には美味しいとか思ってたんでしょうか。

アンバー・L・フィッシャー陸軍准尉 イラクの自由作戦

フィッシャーはイラクの自由作戦での任務に対してブロンズスターメダルを与えられました。
ブロンズスターメダルは

「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」

アメリカ合衆国軍の兵士に対して授与される勲章で、
5回授与されるとシルバースターに格上げされます。

まず、フィッシャー准尉の受賞理由は、

「バグダッドにおけるTAREX OICが素晴らしかった」

TAREXとはターゲット・エクスプロイテーションの略ですが、
「対象利用」というこの任務の具体的な内容がよくわからないので
全文をそのまま翻訳しておきます。

彼女は、反照合部隊の活動で使用された機密通信の活用を先導し、
テロ組織やイラクの反乱軍が使用する機器を技術的に利用して報告しました。

CW3フィッシャーは、連絡業務に加えて、
バグダッドで機密性の高いサイトの収集と悪用を行いました。
これにより、イラクの最重要標的(HVT)の1つが捕獲され、
6人のテロ工作員が逮捕されました。

CW3フィッシャーは、ファルージャ、ティクリート、ナジャフへの
3つの戦闘情報任務を計画して実行し、それぞれ第1海兵遠征軍、
第1歩兵師団、第1歩兵師団を支援しました。

デタッチメントチーフとして本部と支部の両方で部隊を管理しました。

彼女は、標準的な操作手順、TTP、および
プログラムに不慣れな訓練を受けた要員を開発しました。

イラクでの戦闘中の彼女の卓越した任務への献身は、
司令部の任務の圧倒的な成功に貢献しました。

彼女の行動は兵役の最高の伝統に沿っており、彼女自身、
多国籍軍団イラク、および米国陸軍に対する大きな功績を反映しています。

彼女の任務は従来の戦闘で人を殺すというものではありません。
そしてこれはあらゆる意味で「現代の戦闘」を表しています。

女性軍人とは看護師か補助パイロットとしてしか
軍で評価され、軍事賞を与えられる方法がなかった時代は終わりました。

 

というわけで長らく語ってきたピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館シリーズ、
これでおしまいです。

あまり取り組んだことのない南北戦争の歴史に始まるアメリカの軍事史を
郷土史と並列して取り上げることで、仮とはいえ住んでいる地域に対する興味も
同時に深まるという一挙に何度もお得なリサーチとなりました。

 

終わり。

 

 

My 600lbs Life〜体重272キロの人生 アメリカTV番組

$
0
0

さて、ピッツバーグの記念館シリーズが終わったので、ここで
思いっきり息抜きをさせていただきたいと思います。


というわけで、またアメリカ滞在中にキャプチャした番組を取り上げます。
日本では信じられないレベルの肥満症の患者を取り上げて、
その人が外科的手術を経て社会復帰に挑戦する過程を描く、

My 600 -lb Life

600パウンドというのは272キログラムのことです。
日本では「百貫デブ」という悪口もあるのですが、それでは
100貫って何キロですか、ということになると、これが375キロ。

272キロの日本人はほぼ存在しないことから、これはあくまでも
誇張した(あり得ない数字だから悪口として成立する)数字だろうと思います。

しかし、それより控えめとはいえ、アメリカには実際に272キロの体重の人が
存在するわけで、これは決して誇張した数字ではないのです。

本日の「被験者」?はオハイオ州のロレインに住んでいます。

「わたしは人生に絶望しているの」

といきなりネガティブなのはトレイシーさん、44歳。

トレイシーさんの太り方というのは
異常に脚が肥大してしまうという特殊なものです。

欧米の白人系は、体の真ん中がかなり大きくても、
膝から下が細い人が結構いて、太る時には満遍なく太る東洋人とは違うんだなー、
とよく思うのですが、これだけ人間がいると一括りにはできないタイプもでてきます。

こうなってしまっては足を覆うのもままなりません。
肥大した脚はリンパ浮腫を起こしてひどい状態に・・。

リンパ浮腫とはリンパ管内に回収されなかったリンパ液がたまって
浮腫を起こすことですが、そもそも脚がいくら大きくなっても
リンパ管の細さはもともとの仕様なので、リンパ液も行き所をなくしてしまいます。

「惨めだわ。
わたしは二つの錨がつけられているみたいなの」

皮膚は、レンサ球菌や黄色ブドウ球菌が原因で起こる蜂巣炎(ほうそうえん)
感染症によって、見るからに痛々しい状態になってしまっています。

まだしもの救いは、彼女が結婚していて、夫は彼女の生活の手助けを
ちゃんと行ってくれているということです。

夫のアンソニーさんの助けがなければベッドから起き上がることもできません。

しかし、アメリカの肥満者には往々にしてベッドから起き上がることも、
その気力もなくなってしまう重篤なケースが多いことを考えると、
トレーシーはこれでも「まだ少しマシな方」といえます。

「たくさんの『クレバス』があるので洗うのが大変」

だとしても、とりあえず自分で体を洗うことができるのですから。
しかも彼女によると毎日必ずシャワーを浴びているようです。

これは、このシリーズの出演者から実によく聞かれる悲しい言葉です。
誰もが自分のことをこういうのです。

「自分がまるで化け物のように感じるわ」

彼女は慢性的な痛みの感覚にいつも耐えており、
立っていることができないのでシャワーも座って行います。

番組を見ている人は皆思います。

どうして彼女はこうなってしまったんだろう。
もし幼い時が他の人と同じだったのだとしたら、こうなったのはいつからで
そしてそこに何か尋常でない理由があったのだろうか?

彼女は二人の弟を「ラフ」から守っていた、と言っていますね。

しかし、父親はジャンキーや酒浸りにはとても見えません。

両親ともにアメリカ人としては超スマートな体型で、後の彼女が
変化する遺伝子の片鱗もそこに見出すことはできませんが、
どうも母親はイライラすると娘に虐待をおこなっていたようです。

顕在化こそしないまでも、両親のどちらからか子供時代に
虐待を受けて育つ子供は世の中に少なからずいます。

子供というのは人生の最初の頃に受ける親からの影響を、
良くも悪くも全面的に受け取ってしまい、それによってトラウマになったり、
いつまでもそのことで親を恨んだり、甚だしい場合は、それが
彼らの人間性を歪めることにもなるのですが、
その代償行為として、過食に向かう例は決して少なくありません。

そして、これが核心だと思われるのですが、

「もしそれをしたらおまえの弟を殺すから、
おまえは私のすることをママとパパに言いつけることはできない、
といわれたのでどうしようもできなかった」

と言っています。

どうも第三者から性的虐待を受けたのではないかと思われる発言です。
が、肝心の主語を聴き逃してしまいました。

彼女がそういった心の傷から逃れるのに、
食べることに走ったというのは自然な流れに思えます。

順調に太っていっていますね。
このころには彼女はすでに170パウンド(77kg)あったそうです。

食べ物に慰めを求める彼女を母親は「追い出した」と言っています。

家を出た彼女はその後結婚しました。

これが最初の夫のようですが、どうやら子供は
彼の連れ子だったようですね。

「良い家族だった」にもかかわらず、離婚した彼女は
今の夫となる人に出会ったのでした。

夫が黒人、妻が白人という結婚の例は結構多いのだそうですが、
彼女が次に結婚した人も黒人です。

夫になったアンソニーさんも、自分を必要としてくれる誰かを求めていた、
と語っています。
もちろん、彼女の「良い人間性」に惹かれた、とも。

そんな彼ですから、彼女が1日ベッドに寝たきりの生活になっても
それを非難することは全くありません。

妻のために食事を作り、全ての買い物も行ないます。

その食事は彼女にとって唯一の楽しみになっているというのですが、
この食事内容を見ても、夫はとりあえず彼女の好きなもの、簡単に作れるもの、
つまりカロリーばかり高く彼女の体質改善には1ミリもつながらないものばかりを
機械的に与えているのではないかと思われます。

「ジャンクフードやブラウニー、ドーナツ、チョコレートケーキ、
アイスクリームが大好きなの」

カートの中もそれに加えて炭酸飲料ばかり。

さて、そんな彼女がどういう経緯かわかりませんが、当番組に採用されて、
番組オリジナルの減量プログラムに挑むことになりました。

とりあえず最初の関門は、オハイオから番組の「痩せさせ専門外科医」である
ナウザラダン博士のクリニックのあるヒューストン(テキサス)まで行くことです。

この番組に出演する人は、飛行機ではなく必ず車でクリニックまで行きます。
たいていの出演者は太りすぎていて飛行機に乗れないからかもしれません。

太りすぎていて車のシートに乗らないので(!)バンのトランクに
毛布を敷いて輸送していくことになりました。

本人も心配していますが、これは体がきつそうだなあ・・。

普通の人でもこんな状態で車に乗ったら脚むくんじゃいますよね。

道中、パーキングに止めては血行の悪くなった脚を
マッサージしてあげるやさしい夫です。


本人も「耐えがたいくらい辛い」と言っております。

さて、ナウザラダン博士の診察室でまずすることは体重を測ること。

タイトルそのまんまの600lbs、275キロからのスタートです。
多分本人もびっくりしたんじゃないでしょうか。

ナウザラダン博士登場。
トレイシーを見るなり、足のリンパ浮腫はいつからか、と聞きます。

2001年頃に気づいた、ということなので、もう20年近く。

どんなものを食べているか聞いて、生活改善が必要だ、と
誰にでもわかることをいう博士の言葉を悲壮な顔で聞くトレイシー。

彼女の幼い頃の過食の原因となった母親も同伴しています。
あのスマートだった女性がこうなってしまうんですね。

これも番組の「お約束」なのですが、手術の前に
自力でなんとか体重を減らすことを命令されます。
もしこのテストにパスしなければ手術はしてもらえません。

 

ナウザラダン博士は彼女の体重のほとんどは下半身に集中していて
上半身は普通とは言わないまでも「ノーマル」の類だと言いました。

彼女に言明された減量は300〜400ポンド。
軽く言いますが、キロにすると136〜181kgとなります。

これを読んでいる人のほとんどはこの2分の1とか3分の1の体重でしょう。
つまりノーマルな人間の体重二人か三人分を減らせ、というわけです。

「そしてまずそのためには生活を見直すことです」

そしてあっという間に何ヶ月か経ちました。
トレイシーさん、なぜか調子が悪そうです。

あまり生活改善はうまくいっていないんでしょうか。

オンラインによる再診で、ナウ博士(患者はよくこうやって名前を略す)に
彼女は食餌内容が変わっていないことについて厳しく指摘されました。

脚の状態も前より悪くなっているようだし、蜂窩織炎も酷くなっているとのこと。

「このままだとあなた死にますよ!」

「・・・・・・・・」

次の診察での体重は517パウンド(234kg)。
40キロの減量は普通なら凄いですが、いかんせん元が凄すぎて
焼け石に水っていうか、とても博士の要求には届いていません。

次の診察でも520パウンドと全く進捗なし。

脚の状態も悪くなる一方です。

とにかく減量しなければ体重は増えるのだから、
とこんこんと諭すように当たり前のことをいう博士に対し、
トレイシーは、

「いわれたとおりにたくさんタンパク質をとっているんですが」

と言い訳するのですが、その端から、

「彼女チョコレートも食べてましたよ。
昨日の晩は3箱全部食べてました」

と夫に告げ口されてしまいます。

「チョコレートの小さなひとかけらはそれだけで160カロリーあるんですよ!」

まあつまり食べ過ぎってことです。
当たり前なんですが、食べすぎるからあんなになってしまうのです。

「彼女はわたしにも嘘をついている。
なぜなら、おそらく彼女は自分の置かれた深刻な状況に気がついていないんです」

「少なくとも30パウンド(14kg)は落としてもらいたい」

彼女は果たしてナウザラダン博士の手術を受けることができるのでしょうか。

 

続く。

My 600 lbs- Life 「リアリティ番組の現実」〜アメリカのTV番組

$
0
0

アメリカの超肥満減量番組、「My 600lbs-Life」、後半です。

ヨウナン・ナウザラダン博士はイランのテヘラン大学医学部で博士号を取りました。
肥満と腹腔鏡検査の専門医です。

博士が肥満者に行う胃バイパス手術などの外科処置は大変危険なもので、
だからこそ博士は手術前に患者に自力で可能な限り体重を下げることを要求するのですが、
それでも何件かの医療訴訟が起こされたことがあります。

● 術後1年で死亡した女性患者の家族から、リスクについて説明がなかった

●術後亡くなった男性患者の遺族から、患者の重症度を適切に診断できなかったとして

●麻酔医がチューブで結腸に穴を開けたとして

●腹壁形成術を失敗し、痛みを伴う腹部の変形が起こったとして

●72歳の女性が、ステンレス鋼のコネクタとチューブを彼女の中に残したと主張

しかしこれらはいずれも最終的に告訴取下げとなっており、情報を見る限り
ナウザラダン博士が医療過誤で法律的に罰せられた過去はありません。

さて、脚部が異常に肥大してしまい、炎症を起こしてしまっている
トレイシーさんに、ナウザラダン博士はさらなる減量を命じました。

生活、とくに食生活の立て直しが急務なので、彼女には番組から
栄養士が派遣され、生活指導が行われました。

病院にいる間、炎症でたいへんな状態の脚部に手当てを受けます。

メディカルディレクターということなので、患部を診察する医師でしょうかね。

問題の脚部の治療について方針を決めるドクターです。
とにかく目標は、患部の「水分を除去すること」。
炎症を起こすようなリスクをできるだけ取り除くことです。

 

最後の診察の時、彼女の体重は471パウンド(213kg)でしたが、
ナウザラダン博士はあと30パウンド減らさなくては手術に適応しない、
といわれていたのです。

というわけで、439パウンド。
ねらったようにギリギリ30パウンドの減量にこぎつけました。

やったねトレイシー、手術ができるよ!

「心配だし不安」

といいながら、彼女の表情は晴れやかです。

どんなことになっても今までの惨めさから比べれば悪くなどなりようがない、
と信じているかのようです。

彼女が最初にナウザラダン博士のクリニックにきてから1年が経っていました。
手術に至るまでに、減らした体重は200パウンド(90キロ)。

もちろんこんなところが目標ではありませんが、彼女はこれが
自分の「新しい人生」への道につながるポイントであると知っています。

ただ、いかに腕のいいと評判の医師も、神様ではないので、
当然失敗するかもしれないということです。

そして手術開始。
普通ナウザラダン博士は患者に対し腸バイパス手術を施しますが、
彼女の場合はどうやら違うようです。

こちら手術の間その成功を祈り続ける夫のアンソニーさん。

「大きな塊を完全に取り除いたぞ」

これは・・・どこの大きな塊なんでしょうか。
脚ですね。

 

「巨大な塊」とおっしゃいますがたったの4.5キロしかありません。
彼女の体重全体からは微々たるものです。

しかし、ナウザラダン博士の博士のとった方法は、彼女の体重が集中していた場所から
余分な脂肪を取り除き負荷を減らすことで、リンパ浮腫の腫れを減少させ、
そのことが結果的に体重そのものを落としていくというものでした。

そして術後退院の日がやってきました。

つまり、彼女が受けたのは大きな肉の塊を物理的に取り除く手術だけで、
「上半身は普通」の彼女には腸バイパス手術は行われませんでした。

患部を取り除き、生活改善をすればとりあえず最悪は避けられる、
とナウザラダン博士は判断したということでしょうか。

この時点で彼女の体重は388パウンド(176kg)。
最初からトータルで99キログラムを減らしました。

脂肪切除とダイエットでこれだけ減ったのですから、
この時点ではまあまあの成功ということなのでしょうか。

しかし彼女にとってこれは大きな変化をもたらしました。
なんと、車の助手席に座れるようになったのです。

荷物のようにトランクで運送されることはもうありません。

二人はヒューストンからの帰り道、このようなところにやってきました。
オハイオまでは大陸を縦断することになるので、これはおそらく
無理をしてテキサス州の海岸に寄った(寄らされた)のではなと思われます。

「わたしは多くの人生を無駄にしてきました。
もう一秒でもそうしたくありません。
人生を楽しみたい。アンソニーと家族と一緒に。

このプロセスそのものがわたしたちにとって大変なストレスであり、
わたしとアンソニーの関係は、少しの間、難しくなったのは事実です。

でも手術以来、彼はわたしのためにすべてを犠牲にする必要もなくなり、
そのことがわたしたちを新しい方向に成長させ始めているような気がします。

それで、わたしはもう一度未来に、そしてわたしたち二人に興奮しています。
そのためにこの旅を続けることになんの躊躇いもありません」

「わたしのための未来にワクワクしているわ」

というトレイシーさんと彼女を支える夫が海岸にたたずみ互いを抱き寄せて
番組は終わります。

めでだしめでたし、といいたいところですが、しかし、わたしには
彼女の、というより彼らの今後について懸念を感じずにいられません。
優しいことは優しいけれど、彼女が望むことを彼女に必要なことより優先させて
何も考えずに与え続けてきたこと。

彼が今後彼女の食生活を改善させていくような知恵を持った男性かというと、
残念ながらあまりそんなふうには見えないのが問題です。

トレイシーさんも、誰が見ても深刻な状態にいる自分のことを
正常性バイアスからたいしたことはないということにしてしまい、
ナウザラダン博士の言いつけを嘘までついてごまかし、

「こんなにがんばっているのになぜ減らないんでしょう」

などというような自分への甘さというか脆さが、物理的に取り除いた体重に
安心してしまい、元の木阿弥となってしまうのが目に見えるようです。

 

彼女がこの手術を行ったのは2019年ごろのことだそうですが、
番組によってその後がフォローされていないかを検索してみたところ、
大変残念なことがわかりました。

彼女が手術の甲斐もなくまた元に戻ってしまったのかって?

じつはそうではないのです。


彼女は番組スタッフによるフォローアップとしてではなく、
「番組の裏を告発する人」としてインタビューを受けていました。

結論から言うと、トレーシーはいまだにリンパ浮腫に苦しんでいます。
わたしは驚いてしまったのですが、手術によって切除した脂肪の塊は「ひとつだけ」だったのです。
せめて両足公平に施術すべきだと思うのはわたしだけはないでしょう。

術前のダイエットとこの5キロの塊を切除したことによって脚は少し小さくなり
彼女は以前よりも体を動かすことができるようになり、それには感謝していますが、
彼女自身はもう少し他のやり方があったのではと考えずにいられないそうです。

不思議なことにナウザラダン博士は

「皮膚を除去した後は痛みがないはずだ」

と言い放ったそうですが、そんなはずないでしょう。
事実、彼女曰く、それは今までに経験した中で最悪の痛みだったそうです。

 

トレーシーマシューズ

彼女の「暴露」によると、出演者は1,500ドルの「タレントフィー」を受け取ります。
治療の関係でヒューストンに引っ越す要がある場合、番組からは2,500ドルの手当が出ます。

しかし、これらのフィーは、出演したエピソードがテレビで放映されるまで
支払われないので、それまでにかかる経費は全て持ち出しとなるのだそうです。

「オハイオからテキサスに移動中、部屋を確保しなければならないと言われたので
予約をしましたが、初日はそのホテルの近くに到着しなかったので
ホテル代を無駄にした上、別のホテルをこれも自費で取りました。

ヒューストンに着くまでに、所持金は13ドルになってしまい、
食料品や他のすべてを手に入れるのに苦労しました。

車はヒューストンに着いた数日後に故障しましたが、
もちろん補償はなく、撮影が終わったら、一部を請求できただけでした」

トレーシーはまた、ショーの再放送についての長年の神話を暴きました。
たいていこれらのショーは何年にもわたって再現なく再放送されますが、
出演者にはこれに対し報酬はまったく支払われません。

次にわたしもこれにはびっくりしてしまったのですが、
番組制作はほとんどの医療費を払ってくれないのだそうです。

支払いが番組から行われるのはナウザラダン博士の手術に対してだけで、
トレーシーは2万ドル以上を自分で支払っています。

移動費、ホテル代、家賃、それらは全て自分で賄わなければなりません。

出演者が財政的に不安定な状況に置かれれば、それだけドラマが生まれる、
というのがどうやらプロデューサーの意図するところのようです。

「ドラマ(困難)が増えれば評価も上がる」

といったところでしょうか。

こういったリアリティ番組が主張するのは全て「現実」ではないことは
誰でも知っているし、現実にこの番組を訴える出演者は
引きもきらない、と言うレベルで次々と現れています。

それにも関わらず、劇的に痩せた人たちには「ファン」がつくなど、
この番組が悪評にも関わらず人気があるのも事実です。

出演者には大変失礼ですが、尋常ならぬ太り方をした人間の体は、
それだけで人々の興味を引くのに十分であり、昔は堂々と行われていた
「フリークショー」のような位置づけがされているといえます。

そのために番組は、出演者のシャワーシーンを必ず取り入れます。

トレーシーによると、

「数分間のシャワーシーンのために、わたしは1時間以上撮影されていました。
それはわたしの人生でも最悪の経験だったといえます。
誰が裸になってシャワーを浴びるのを知らない男に撮影されたいと思いますか」

 

歴代の出演者の中には番組を訴えたり、減量がうまくいかずに自殺したり、
出演後(これは撮影のせいではありませんが)肥満による疾患で亡くなってしまったり、
とかくネガティブな「怨念」がまとわりついているような印象もありますが、
それでもトレーシーは彼女の全体的な経験を振り返り、
悪い面も良かった面もあった、と率直に語っています。

少なくとも彼女はベッドの上だけの生活から歩き出すことができました。
つまり、苦痛を耐え忍ぶだけの価値はあったと信じているのです。

「ショーに参加するのはとても大変でしたが、わたしの出演が
少なくともひとりくらいの誰かを救うことができたと信じたい。

体重が5〜700ポンドの人生なんて惨めで意味がありません。
そう、自分の身体を世界に曝して人生の物語を伝えるのは辛いことですが、
最終的に得られる結果はそれだけの価値があると思います。

ショーに出演した非常に多くの人々が新しい人生を送っています。
彼らには自由が戻ってくるのです。
一日中ベッドに閉じ込められる代わりに、自分の行きたい場所に行って
何かをすることができるのはとても素晴らしいことなのです」


自分の弱さと怠惰から堕ちるところまで堕ちてしまうような人々は、
リアリティショーという毒にも薬にもなりうる劇薬の力を借りないと、
ダイナミックな人生の切り替えができない、というのも悲しい現実なのです。

 

 

 

海上運用航空(空母と艦載機)〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

以前、スミソニアン航空宇宙博物館の第一次大戦の航空シリーズを終了しましたが、
この膨大な展示を誇るアメリカ随一の博物館については、
実はまだお話しすべきことのほんの一部しか語っていません。

その中でも、当ブログ的に大変取り上げ甲斐のあるテーマが、
本日よりシリーズとなる

Sea-Air Operations  海軍航空隊の行動展開

要するに航空博物館のフォーカスを当てたこの博物館が、総力を上げて取り組んだ
空母機動部隊を中心とする一連の展示と考えてくださって結構です。

わたし自身も大変興味を持って観覧し、そしてここでお話しするのを
楽しみにしてきたテーマですので、張り切って参りたいと思います。

このギャラリーエントランスに立ったとたん、展示内容をほぼ完全に理解したわたし、何者?

武漢肺炎前ということで、まだ見学者で賑わっているスミソニアンです。

今久しぶりにHPを見に行ったら、まったく再開の予定は立っていないようです。
観られる時に観ておいてよかった、と改めて思いました。

エントランスの前に立っただけでこれが空母の一部を象っているとわかったのは
全体的にも、そして細部にも海軍を想起させるものがあしらわれているからです。

たとえば、この写真の入り口上部の舫っぽい装飾とか。
このマクラメは海軍&海兵隊の退役軍人、ジョン・オーガスティン氏の手作りで
その作り方は第一次世界大戦中、彼が水兵時代に習ったものだそうです。

スミソニアン博物館に対して大変ありがたく思うのは、説明の各国語が、
英語のほかはスペイン、フランス、ドイツ、そして日本語であることです。

日本についてかつて干戈を交え空戦を戦った相手であるということ、
そして旧日本軍の機体がいくつも所蔵されているからかもしれませんが、
特に第二次世界大戦についての展示でなくとも日本語表示がありました。

これがいつの間にか中国語(しかも簡体字)にとって変わられるという
わりとアメリカではよくあることが、ここに今後起こらないことを祈ります。

 海上作戦ギャラリー入口

エントランス全体を見ると、より空母らしさを感じていただけるでしょう。
「76」はつまり艦番号を表しているようですよ。

 

エントランスから内部に続くこの床にあるのも軍艦のデッキです。
壁の色も軍艦そのものですね。

いったいこれはどうなっているのでしょうか。

CVM-76 USS SMITHSONIAN

・・・・いかにも実際にありそうですが、まずCVは航空母艦の船体分類番号ですね。
アメリカの空母はCVに「役割」を意味する分類番号、たとえば

CVE=Escort carrier、護衛空母

CVN= Nuclear-Powered 、核動力空母

というのがありますが、それでいうと、

CVM=Museum carrier (博物館空母)

ではないか、とわたしは推察するものです。

しかし、どこを探してもその答えが見つかりませんでした。
おそらく間違ってないと思いますが、どなたか正解をご存知でしたら
是非教えていただきたく存じます。

さて、いかにも船上を思わせるラティスのデッキ風通路には、

Sea-Air Operations

USS SMITHSONIAN  CVM-76

QUARTER DECK

という展示説明があります。
クォーターデッキというのは「後甲板」と訳していいと思います。

我々アメリカ海軍の艦船において、クォーターデッキは
公式の儀式が行われるメインデッキの一部分を指します。
訪問者と海軍の高官(dignitaries)はこの部分から乗艦します。
航空母艦のフライトデッキは標準的なドック施設からアクセスするには
高すぎるため、通常格納庫(ハンガーデッキ)のレベルから出入りするのです。

まあ、この辺りは一度でも空母や航空機搭載型護衛艦に乗ったことがあれば
子供でも知っている知識の第一歩ですね。

格納庫デッキは海上では通常の格納庫としての機能を果たしますが、
港にいる間は簡易的なバルクヘッドを追加して、左舷入口に隣接する部分を
クォーターデッキに変換します。

バルクヘッドは日本でもそのまま「バルクヘッド」と言っているかもしれませんが、
意味そのものは「隔壁」となっています。

アメリカは知りませんが、海自だとハンガーデッキで公式の行事を行うことは
普通に多かった気がします。

クォーターデッキのデザインは空母によってバリエーションがありますが、
必ず艦の徽章が掲げられていること、公式の入口であること、そして
そこで公式の行事が行われることだけは共通しています。

絵や置物などのアート、艦が獲得したトロフィー、時鐘、そしてその他の
例えば乗員の装具や携行品などもここにあるのがスタンダードです。

海軍の空母におけるクォーターデッキを再現しているので、このように
いちから説明をしてくれているわけですね。
さらにその横には、この展示に出資してくれた企業の名前がお礼方々書かれています。

飛行機を直接寄贈したボーイング、ニューポートニュース造船の他、ボーイング、
ジェネラルダイナミクス、GE、マクドネルダグラス、ノースロップ、レイセオン、
ロックウェル、ロールスロイス、ウェスティングハウスエレクトリック、

そして「スペシャルアシスタンス」を得たとして、アメリカ海軍と並んで
ソニーコーポレーションが名前を連ねていました。
(ははーん、日本語表記の理由はソニーかな?なんて)

さて、見学者が乗艦し、進んでいくと、そこはハンガーデッキ。
ハンガーデッキですから、当然そこには艦載機が格納してあるというわけです。

空母の中という設定なので、中は結構な暗さです。
ハンガーデッキの説明があるので、これも翻訳しておきましょう。

空母のハンガーデッキの本来の役目は航空機収納、保管、そしてメンテナンスのスペースです。
およそ8100平方メートル(なぜかm表記)の広さで、その幅は艦の幅であり、
長さは艦体のほぼ3分の2となります。
そのスペースは絶対的に艦のなかで大事な空間であり、そこに航空機は
翼を折りたたまれ、互いに数インチの隙間に膠着されて並べられます。

デッキのスペースは航空機のためだけではなく、そこには試験用器具、
メンテ用のパーツ、コンプレッサー、スペアのエンジンなどが所狭しと並びます。
全ての機器は高度で複雑な航空機と装備する武器システムのためにあるといってよく、
さらに作業場、倉庫、エンジンテスト設備、そして消火装備が周りを囲んでいます。

鉄扉が時々開き、運搬エレベーターが地下デッキにある厳重に保護された
弾薬庫から弾薬をこの階に配送します。

ハンガーデッキは各セクションやベイと呼ばれる区画と大きな可動式ドアで区切られており、
非常時や火災の際には遮断されるしくみになっています。
航空機はハンガーデッキとフライトデッキの間を専用のエレベーターで移動させます。
このエレベーターは往々にして艦のサイド部分を延長させるように付属しています。

フライトオペレーションとメインテナンスが行われている間、ハンガーデッキでは
集中的にアクディビティが行われます。
フライトデッキから下ろされてきた航空機は次のフライトスケジュールに合わせて
迅速に手入れなり修理なり点検なりのサービスが行われるのです。

深刻な不具合が認められる航空機は脇に避けられ、集中的な修理が行われます。

当博物館のキュレーターは、つまりその道の専門家でもありますから、
普通に著書などもあったりするわけです。
左から

First Flight Around The World      Tim Grove

1924年に最初に世界一周を試みたアメリカ陸軍の八人の男たちの話。

In  The Cockpit    John Travolta

ちょっと待って?ジョン・トラボルタなんてキュレーターいたの?
と思って調べたら、やっぱりあの人でした。

ジョン・トラボルタの「コックピットで」は、各方面のパイロットに
短いインタビューをしたものをあつめた本で、その中に
俳優のトラボルタもいる、ということのようです。

トラボルタは、少年時代に飛行に魅了され、1970年に「サタデーナイトフィーバー」で
稼いだお金で飛行訓練を受け始め、19歳のときにソロになりました。
飛行機を愛する彼はパトロンとしても航空大学に飛行機を寄贈したりしています。

彼は、ガルフストリーム、リア24、ホーカー1A、カナディアテブアン(スノーバード)、
デハビランドヴァンパイアジェットの副操縦士、
そしてボーイング707と747の副操縦士の資格を持っています。

著者兼編集者のDiFreezeは、10年近くにわたって多くの有名な飛行士にインタビューしました。
軍の英雄、有名人のパイロット、曲技飛行のパイロット、宇宙飛行士、慈善家、起業家などです。

(トラボルタがどこに入るのかはわからず・・・慈善家かな)

John Travolta: The AVIATOR

サタデーナイトフィーバーの後消えたと思っていたら
稼いだお金で飛行機に乗っていたのか・・・。

Carrier Warfare In The Pacific     E.T. Woolgrigge

「日本の真珠湾攻撃は、戦艦の終焉であり
空母が艦隊の主役になる歴史の幕開けだった」

国立航空宇宙博物館のフェローであるウールドリッジが編集したこのオーラルヒストリーでは、
ジミードーリットル大佐、ジョン・S・サッチ提督などのインタビューを元に構成されました。

たとえばサッチは、彼の編み出した「サッチウィーブ」は、速度の遅いアメリカの飛行機が
速い日本のゼロ戦を同等の条件で戦うことを可能にした戦闘戦術だと言っています。
また「率直に」、ミッドウェイ海戦で、もしフレッチャーとスプルーアンスが空母提督だったら、
ヨークタウンは沈没しなかったであろうと非難しているということです。(読んでみたい)

また、フランクリンが800人の乗組員を失ったとき、神風特攻隊の破壊力を目の当たりにした人、
二つの台風によって破壊された艦隊に乗っていた人などからも話を聞いています。

人々はこうしてハンガーデッキにいる気分を味わえるわけですが、
これらの部分は、驚くなかれ、全て実際の空母の一部分だったものです。
壁も、装備も、デッキの鎖も全て!

そして、映し出されている海上の写真は、実際に空母「セオドア・ルーズベルト」の
艦内から撮影された「本物の乗員目線」です。
ということはこの海はサンディエゴ近海かな?

CVM(笑)スミソニアンが「コミッション」引き渡しされたのは1976年6月28日。
当時のアメリカ合衆国海軍長官(Secretary of the Navy)ウィリアム・ミッデンドルフは
委託式のとき、本式の「海軍用語」で

 「床ではなくデッキ、壁はバルクヘッド、そして階段はラダーズ(ラッタル)と呼びます」

 「Welcome Aboard!」

とあいさつしました。

そしてこれらの内装は、実際の空母で使われてきたものです。
5隻の除籍になったその空母とは以下の通り。

USS「エセックス」CVS-9

USS「イントレピッド」CV-11

USS「ランドルフ」CV-15

USS「ハンコック」CV-19

USS「シャングリラ」CVS-38

そして1975年に除籍になったいくつかの軍艦が、
これらの展示にその部分を提供することになりました。

階下に続くラッタルへのハッチ。

そしてハンガーデッキには必須の消火装備も。

これらの「本物」に囲まれて展示されているのは、
かつてアメリカ海軍で実際に空母のデッキから飛び立った
艦載機の数々です。

 

続きます。

CVMスミソニアンの「艦載機」 F-4B-4とドーントレス〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

スミソニアン博物館の「空母ハンガーデッキ」再現コーナー、
今日はCV"M"スミソニアンの艦載機をご紹介します。

空母に乗艦するとき例外なく皆が最初に足を踏み入れるのはハンガーデッキです。
その例に倣い、「スミソニアン」でも乗艦して最初に現れるのは艦載機の格納された
紛れもないハンガーデッキそのもの。

この独特のブルーをみただけで機種がお分かりの方もいそうですね。

ただし、次元を超えていろんな世代の艦載機が同居しています。
デッキに収まらないので空を飛んじゃってる飛行機も(笑)

言い訳をするつもりではないですが、とにかく狭いところに並んでいるので
飛行機の全体像まで画角に収まりませんでした。

 

ボーイング F-4B-4

1930年代初頭に米海軍と米陸軍航空隊の主要戦闘機として採用され、
1940年代初頭まで運用されていました。

ボーイングが製造し、米軍が使用した最後の木製翼の複葉戦闘機です。

この製造によってボーイングは航空機メーカーとして地位を確立し、
大恐慌下にもかかわらず会社を維持できたといわれています。

最高速度は298kph(186 mph)4基の56.2 kg爆弾を運ぶことができました。

海軍での成功をみた陸軍はキャリアフックなしの10機を注文しました。
この陸軍バージョンで中央アメリカにテスト飛行したのが、あのアイラ・イーカーです。

当バージョンはF4Bシリーズの4番目であり、海兵隊に割り当てられました。
従来より重量が大きくなり、出力が増加したにもかかわらず、
以前のバージョンの優れた飛行特性を維持することができました。

海外に輸出されたうち3機は中国に売却されましたが、
日本軍と交戦して撃墜されたということです。

NASMコレクションのこの飛行機は海兵隊のために作られた21機のF4B-4の1つで、
海軍のとは違いテールフックはありません。

左は当博物館に展示されているのと同じ、海兵隊の
VF-9Mの戦闘機隊所属の機体です。   右は陸軍のバージョンP-12がニューヨーク上空を飛んでいるところ。
操縦しているのはアイラ・イーカーかもしれません。しらんけど。  

完璧にお腹を見せてくれる展示もあり。
この部分は本物の空母のように上階から下を見ることもできます。

ダグラス SBD-6 ドーントレス

実は戦争が始まる前に時代遅れと見なされ、交換が予定されていましたが、
結果として大戦中最も重要な役割を果たしたと言ってもいいかもしれません。

乗組員によって付けられたニックネームは

Slow But Deadly(鈍重だが致命的)

その名の通り、ドーントレスは戦争中を通じ潜水艦から戦艦に至るまで、
少なくとも18隻の軍艦を含む、30万トン以上の敵艦を沈めています。

「急降下爆撃」という言葉がまだ海軍に存在していない頃から、
そう、最初の空母「ラングレー」の就役以降、海軍搭乗員は
海上で使用されるべき飛行機の適正な大きさと正確に当弾する能力を必要とし、
その答えがつまり急降下爆撃だったのです。

 

ダグラスはエドハイネマンとノースロップの従業員ごとプロジェクトを引き抜き、
さらにマイナーな変更を加えた後、海軍にSBDを引き渡しました。

SBDは他のダグラス航空機と同様に頭文字『D』で始まる、
ドーントレスという名前をつけられました。

■ 真珠湾攻撃から珊瑚海海戦まで

ドーントレスの最初の2つのモデルは、1941年12月7日の真珠湾攻撃によって
太平洋での最初の戦闘を経験することになりました。

第11海兵航空群(MAG)のSBDはすべて地上で損傷または破壊されました。

また、ウェーク島から帰還していた「エンタープライズ」から発進した
18機の海軍SBD-2が、日本軍の攻撃中到着し、そのうち7機が撃墜され、
日本機を2機撃墜したと主張しています。

3日後、VS-6のディキンソン中尉は帝国海軍の潜水艦伊-70を撃沈し、
これによってSBDは大戦開始後最初の日本軍艦を破壊したと認定されました。

特筆すべきはこの機種の改装が常に乗員の命を守る防御に特化していたことです。
セルフシールの翼タンク、乗組員の鎧、および装甲のフロントガラスなど。

1942年5月、日本軍のオーストラリアへの進攻を阻止すべく、珊瑚海の戦いで
ニミッツ提督が「ヨークタウン」と「レキシントン」を送りました。

これは、対峙する艦艇がお互いに見えない世界初の空母決闘となりました。

ドーントレスが日本の小型空母「祥鳳」を沈没させ、日本軍は
より大きな空母「レキシントン」を沈めたという事実にもかかわらず、
結果的に日本軍の南への進攻を止めたことはアメリカの戦略的な勝利でした。

 

■ ミッドウェー海戦

南下に失敗した日本軍はミッドウェー島の米軍基地を攻撃することを決定しました。

計画は、まずハワイ諸島を脅かす可能性のある基地を獲得し、
米空母をおびき寄せて主要な艦隊の交戦で破壊することでした。

アメリカ海軍は日本軍の暗号を解読し、攻撃を事前に察知していました。
加えて日本軍は珊瑚海で損壊した(日本では沈んだと信じられていた)
「ヨークタウン」がすでに修理され、ミッドウェーで「エンタープライズ」と
「ホーネット」とともに機動部隊に加わることができたのも気づいていませんでした。

この米海軍の3隻の空母は112隻のドーントレスを搭載していました。
ほとんどが最新モデルでしたが、SBD-1と-2もいくつかあったと言います。

日本軍は4隻の空母というはるかに大規模の艦隊を持っていましたが、
空軍力の重要な領域だけでいうと両陣営の兵力は均衡していたということができます。

アメリカは6月3日までに空母の出撃準備が整い、敵軍の輸送機関を発見しました。
翌日、日本人はミッドウェー島の攻略のため、戦闘を開始します。

その間、PBYカタリナは日本艦隊を発見し、米海軍の空母は航空機を発進させました。

航空機によって速度が異なるため、発進の時刻は時差を持たせて、
これもダグラスのDであるディバステイターTBD雷撃機が最初に攻撃しました。

すでに陳腐化していた遅いディバステイターは日本の戦闘機にとって簡単な標的であり、
全く的にダメージを与えることなくすぐに壊滅しました。

続いて発進したSBD戦隊は敵空母を見つけるのに苦労しました。
「ホーネット」のSBDはそれを見つけることができませんでした。

「エンタープライズ」戦闘機隊の司令官であるウェイド・マクラスキー中尉は、
上空で待ち合わせしたのが仇となって戦闘機隊や艦攻部隊と全く別の方向にいってしまいます。

つまり戦闘機の護衛なしで進撃することになってしまい、1機が不時着水、
燃料切れのタイムリミットと戦っているとき、駆逐艦「嵐」を発見し、
その進路上を索敵したところ、「赤城」「加賀」「蒼龍」を発見。

マクラスキーのグループが攻撃すると同時に、「ヨークタウン」からVB-3が到着し、
このダブル攻撃は3〜4分で3隻の日本の空母に39発の爆弾を降らせ、
11回の直撃で「赤城」「加賀」「蒼龍」に致命傷を負わせました。

そして4番目の空母である「飛龍」も後にドーントレスによって沈められました。

この戦いで日本は4隻の空母と経験豊富な飛行士の多くを失い、
アメリカは引き換えに6個の海軍部隊、1個の海兵隊部隊から
35機のドーントレスを失いました。

このとき日本軍の進撃を止めたのはSBDだったのであり、
同時に米国に太平洋での戦いを対等な立場に押し上げたのです。


■ 太平洋戦線におけるドーントレスの活躍

ドーントレスはまた、その後の最初の主要なアメリカの攻撃、
ガダルカナルの戦いで重要な役割を果たしました。

島を根拠地としていた海兵隊のSBDは「東京エクスプレス」といわれた日本の船を攻撃し、
キャリアベースのSBDも、ソロモン東部の戦線に参加し、別の日本の空母を沈めました。

■ 大西洋におけるドーントレス

SBDの活躍はほとんどの場合、太平洋の戦線にのみ顕著で、
大西洋では投入されなかったわけではありませんが、あまり機能していません。

1942年11月、ドーントレスは北アフリカへの侵攻である
トーチ作戦を支援するために空母「レンジャー」と護衛空母「サンガモン」、
そして「サンティー」から飛び立ちました。

太平洋の海軍による行動とは対照的に、ここでのSBDの攻撃は、
連合国の着陸を支援するための地上攻撃が主な任務だったのですが、
今回、彼らは連合軍を攻撃するために出発した7隻の
ヴィシー-フランス軍の巡洋艦を攻撃することがミッションでした。

11月10日、「レンジャー」から発進した9機のSBDが、
係留された状態で砲撃を行っていた戦艦「ジャンバール」を沈めました。

その3日前には日本の戦艦「比叡」を太平洋で撃沈させており、
ドーントレスは1週間以内に2隻の敵戦艦を沈めたことになります。

「サンティー」のSBDも大西洋で対潜水艦パトロールを実施しましたが、
この任務にはTBMアベンジャーの方が適していると見なされていたようです。

海兵隊のドーントレスは、1944年半ばまでバージン諸島で
パトロールと偵察の役割を果たしました。

大西洋でのドーントレスの最後の攻撃任務は、ノルウェーにおける
リーダー作戦と呼ばれる敵艦船への攻撃でした。

空母「レンジャー」のSBDは、ボーデ港において数隻の船を攻撃し、
2隻撃沈、2隻を破壊させ、さらに2隻を損傷させたという記録があります。

■ 「長生き」だったドーントレス

ダグラスは、パフォーマンス向上のため戦争中ずっとドーントレスを改造し続けました。

1942年に導入されたSBD-4は最高速度245 mphで最も遅いバージョンとなりました。
1943年の初め、より大きなエンジンを搭載したSBD-5が戦隊に就役し始めました。
爆撃の精度を向上させるために、照準器を改良し、フロントガラスの曇りを防ぎ、
レーダー装備もこのモデルでより一般的になります。
しかし、機器を追加しすぎて重量が増え、せっかく増加した馬力は大幅に相殺されました。

 

1943年6月までに、米海軍は4隻の新しい大型の「エセックス」級CV空母を保有していました。
新しい空母には急降下爆撃機「ヘルダイバー」が搭載される予定でしたが、
間に合わず、したがって、ドーントレスが継続して載せられることになりました。

しかし、空母が新しくなることで艦載機の役割は変わりました。

新しいCVは100機の航空機を搭載することができました。
旧型の空母の80機と比べるとかなりの増大ですが、
新しい空母で斥候・偵察戦隊は排除されました。

斥候偵察の任務は航続性の高いヘルキャットとアベンジャーズに引き継がれたので、
それ以降、ドーントレスはほぼ攻撃機専門になりました。

ヘルダイバーに置き換えられるまでの繋ぎと言いながら、年末まで
一向に就役しないので、結果としてSBDは1943年を通して飛行を続けました。

そもそもほとんどの海軍パイロットは、ヘルダイバーがドーントレスよりも
大幅に改善されているとは考えていなかったようです。

海軍パイロットがSBDのより応答性の高い操縦性能を好んだわけは、
軽負荷時に飛行機を簡単に飛ばすことができたからです。

それに加え、ダグラスの航空機はカーチス製よりもメンテが簡単で
かかる時間もかなり短くて済んだということもありました。

 

というわけで、ヘルダイバーが導入されたあとも、ドーントレスは
1944年7月のグアム攻撃まで海軍での任務を続けました。

さらに海兵隊はフィリピンのでそれらを使い続けました。

第二次世界大戦の終わりまでに、ほとんどのドーントレスは
訓練機と雑用の役割に追いやられていたのですが、いくつかの海兵隊のSBDは、
終戦までソロモンの敵駐屯地を無力化する作業を続けていました。

 

ドーントレスは陸軍でも使用されていました。

ヨーロッパでの戦線の初期、ドイツの急降下爆撃機が成功したことで、
一部の陸軍指導者は米国版の急降下爆撃機必要性を確信しました。

しかし、このタイプの航空機の経験は限られており、
新しい設計を開発する時間がないため、米国陸軍空軍(USAAF)は
海軍のSBDを注文し、A-24バンシーという名前で使用していました。

陸軍仕様なのでテールフックを持たず、大きな空気圧後輪を持っていました。
にもかかわらず、急降下爆撃のアイデアそのものがそもそもUSAAFで
広く支持されていなかったため、バンシーはあまり活躍していません。

 

アメリカ以外ではニュージーランド(ソロモン)と自由フランス(ヨーロッパ)が
SBDを採用していました。
フランスは戦後も使い続け、1949年、インドシナにおいて
共産主義テロリストに対する攻撃のためにSBDを使用していました。

メキシコは、第二次世界大戦中にメキシコ湾でのパトロール任務のために
アメリカ陸軍からもらい受けたバンシーを、1959年まで国境警備隊で使っていました。

■ スミソニアンのドーントレス

 

これが当博物館展示のドーントレスのかつての勇姿です。
パイロットがちゃんと?カメラ目線ですね。

そういえば、零戦搭乗員だった坂井三郎氏がガダルカナルからの帰還途中、
攻撃されたのはこのドーントレスの後部銃だった記憶があります。

これは展示機ではありません。
ウェーク島への爆撃任務に向かうドーントレスです。

 

NASMのドーントレスは、6番目に製造されたSBD-6モデルです。
1944年に製造され、メリーランド州パタクセントリバー海軍航空基地に置かれて
戦術テスト、飛行試験に使用されていました。

これはおそらく、米海軍が実際に使っていた最後のSBDだといわれています。

 

続く。

 

ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

博物館の一部に空母を再現した空母「スミソニアン」のハンガーデッキに
並べられた艦載機の紹介、続きと参ります。

まず冒頭写真は皆様ご存知の「ワイルドキャット」ですが、
その前に、一緒に写り込んでいる家族、特にお父さんの佇まいに
「いい意味でアメリカ人らしくない」オーセンティックさを感じますね。

 (8月のアメリカでTシャツ短パンビーサンプラス野球帽という
アメリカン・スターターセットを着用していない男性も珍しいという意味です)

息子二人の格好もその辺のガキじゃなくてキッズとは少し違うし、
どういう職業の人なんだろうなーと興味深く思いました。イギリス人かな。

 

さて、彼らが前に立っているのが、空母「スミソニアン」艦載機の

イースタン・ディヴィジョンEastern Division FM-1
(グラマンF4F-4)ワイルドキャットWildcat

です。
自慢ではありませんが、自称かなりの機体音痴であるわたしですら、
グラマンの「猫」であることがわかってしまうこの独特のシルエット。

このいかにも鈍重そうなずんぐりしたシルエットが表すように、
ルロイ・グラマンのF4Fワイルドキャットは、第二次世界大戦中の戦闘機で
最速というわけではありませんでしたし、もとより最新でもありませんでした。

しかし真珠湾攻撃が起こった時、ワイルドキャットのパイロットたちは
雄々しく立ち上がり(スミソニアンの説明ですので念のため)、ともに手を携えて
当時無敵であった帝国日本空軍
(スミソニアンの説明ですので念のため)を阻止したのです。

 

さて、太平洋で戦争が勃発した頃、グラマンF4Fワイルドキャットは、
アメリカ海軍と海兵隊が運用する主要な戦闘機となっていました。

1942年までに、アメリカ海軍戦闘機のすべてががF4Fとなっていて、
ワイルドキャットのパイロットは、他のどの敵機よりも頻繁に

三菱A6M 零式艦上戦闘機 ZERO

を操縦する日本のパイロットと対峙することになりました。

スペック的に優れた零戦は、まともに対決するとF4Fを打ち負かすことができましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な構造は、熟練したパイロットによって
能力以上の結果を出すことができ、結局零戦に対し有利となったのです。


■ F4F ワイルドキャット誕生までの経緯

1930年代半ばまでに、世界のすべての主要なエアアームの複葉機が
高速で馬力のある単葉機に次々と置き換えられていきました。

グラマンのチーフデザイナーであるウィリアムT.シュウェンドラーが率いるチームは、
最初のグラマン単葉戦闘機XF4F-2を開発しました。

しかしグラマンの開発試験期間があまりに長期に渡ったので、
待ちきれなかった海軍は、
1936年に、アイミツではありませんが、ブリュースター(ブルースターとも)
エアロノーティカルと試作競争させ、こちらを採用することにしました。

つまり、アメリカ初の単葉戦闘機は、

F2Aバッファロー

ということになります。

ジョセフ・C・クリフトン少佐の搭乗するF2A-3 (1942年8月2日撮影)ど〜〜〜ん

こちらも猫に負けず劣らず不細工ですが、これがとにかく
アメリカ初の引き込み脚式の艦上戦闘機となったわけでございます。

バッファローは高い評価を得、ブリュースターはこれを張り切って生産し始めたのですが、
好事魔多し、画期的な全金属式の機体は、自社生産の経験がない同社には
生産ラインの構築と工員の養成に予想外に時間を取られることになり、
海軍が受注した数百機という生産をこなすには工場規模も小さすぎたのです。

半年で5機納入、というあまりにも悠長な進捗ぶりに海軍はキレて、

「やっぱりグラマンに頼むわ#」

と掌返しをしたのです。

海軍は一旦切ったグラマンにグラマンF3Fの改良型を注文しました。

飛行するF3F-1 0232号機 (空母レンジャー艦載、 VF-4戦闘飛行隊所属、1939年撮影)ど〜〜〜〜〜ん
F3F

前にもご紹介した「フライングバレル」、空飛ぶ樽ですね。
この複葉戦闘機を作り替えて単葉にしてくれない?と海軍は頼んだわけです。

 

グラマンはXF4Fを作り直し、大幅に改良されたモデルを考案しました。
バッファローを凌ぐ性能を持つ戦闘機、それがF4Fワイルドキャットでした。

そして海軍はグラマンの設計を受け入れ、F4F戦闘機の契約を行いました。

 

何千機と大量に生産されたワイルドキャットは、米海軍と海兵隊、
そして当時軍用機を切実に必要としていたフランス空軍に配備されました。

のちにフランスが降伏したとき、イギリスがその生産契約を引き受けました。
F4Fはフランスでは「マートレット」と名付けられ、艦載機として使用されました。

File:Grumman F4F Martlet Wildcat Duxford 2008.JPG - Wikimedia Commonsマートレット

マートレットが初撃墜の記録を挙げたのは、1940年のクリスマスです。

当ブログ的にはすでにおなじみの名前、スコットランドのスキャパフロー上空で
マートレットはユンカースJu 88双発爆撃機を撃墜し、機体は英海軍基地に墜落しました。

これは第二次世界大戦でドイツ機を撃墜した最初の米国の航空機になりました。

 

■ ワイルドキャットのデビュー

1941年12月、太平洋。

アメリカ軍のワイルドキャットパイロットは、
ウェーク島防衛戦において敵と遭遇することになりました。

戦闘初日となった12月8日、海兵隊航空部隊はVMF-211は、空戦の末
12機のF4F-3ワイルドキャットのうち8機を失いました。

残りの4機は2週間もの間昼夜を問わず出撃を繰り返し、英雄的に戦い、
その結果、巡洋艦と潜水艦を100ポンドの爆弾で沈めるという戦果を上げましたが、
12月22日に最後のワイルドキャット2機は撃墜されました。

太平洋戦線において、ワイルドキャットの損失の割合は
この最初のウェーク島でのそれと同様ではありましたが、
このタフな戦闘機を操縦するパイロットたちは、1機が失われるたびに
平均7機の敵機を破壊することに成功しています。

F4Fは燃料タンクに漏れ防止機能を搭載している上、防弾ガラス仕様、
そして操縦席後部の防弾鋼板を装備していました。

その機体がどれだけ丈夫であったかは、Wikiに載っている
以下のエピソードにも表れています。

1942年8月7日、ガダルカナルにおいてジェームズ・サザーランドのF4Fは
日本軍機を1機撃墜後に一式陸攻からの攻撃で被弾。

さらに3機の零戦(柿本円次、羽藤一志、山崎市郎平)に攻撃され、
機銃が故障するも機体は墜落しなかった。

その後、坂井三郎も加勢に来たが、火災発生により脱出、生還して
パイロットとして復帰した後、4機撃墜してエース・パイロットとなった。

坂井三郎氏によると、零戦の7.7ミリ銃では頑丈な同機にほとんど効果がないため、
20ミリ(重さで弾道が下を向いてしまう)を当てるために近づいたが、結局
近づきすぎてオーバーシュートしてしまい、とどめを刺すことができなかったそうです。

 

1943年までに、グラマンは新しい海軍戦闘機、

飛行する米海軍のF6F-3 (第36戦闘飛行隊所属、1943年撮影)

F6Fヘルキャット

を導入する準備ができていましたが、海軍は依然としてF4Fを必要としていました。
小型で適度な重量があるため、護衛空母で運用するのに適していたのです。

世代交代が急がれ、ヘルキャットの生産スペースを確保するため、
グラマンはワイルドキャットの製造ツールと機器を、まるごと
ゼネラルモーターズの東部航空機部門に移管しました。

そこでGMは、FM-1とFM-22つのバージョンを作成しています。

■ スミソニアンのワイルドキャット

国立航空宇宙博物館のワイルドキャットは、ニュージャージーで生産され、
1943年7月からオクラホマ州にあるノーマン海軍航空基地で運用されました。
ただし、1943年というのは世代交代が進められていた時期なので、
実際に勤務に就いていたのたった13か月の間です。

1974年、グラマン航空宇宙公社は、1976年にオープンする予定の
新しい国立航空宇宙博物館にワイルドキャットを展示することに同意し、
すでに退社していた当時のグラマンのスタッフと現在のメンバーが取り組みました。

彼らの多くは実際に戦争を体験していました。

1975年の初めに、ワイルドキャットは新品とみまごうばかりになり、
しかもほぼ飛行可能な状態であったということです。

スタッフは戦争初期に使用された米海軍の青灰色のカモフラージュを
そのまま復元するために、新しい塗料を開発しました。

マーキングは、1943年半ばに太平洋戦線に出撃した

USS Breton (CVE-23) underway 1943.jpeg

護衛空母USS「ブレトン」
(USS Breton, AVG/ACV/CVE-23)

で運用された航空部隊FM-1の航空機番号E-10として塗装が行われました。

ところで、どうしてこの展示機にカウルリングがないのか、
ちょっと疑問に思われた方はおられませんでしょうか。

カウル「Cowl」とは、航空機の走行風を整流するために
エンジンなどをカバーする部分のことで、「カウリング Cowling」とか
「フェアリングFairing」などともいいます。

日本ではカウリングと呼ぶことが多いような気がします。

とくにレシプロエンジン搭載の飛行機でエンジンを覆うカバーが
エンジンカウル( engine cowl)です。

 

まだ複葉機が主流であった時代、飛行機の速度が低かったころには
エンジン本体は剥き出しになっていたものですが、第一次世界大戦後の
1920 - 30年代から空気抵抗(抗力)を低減する方策の1つとして
エンジンを覆った方がいいのではないかという流れになってきました。

同時に複葉機の時代は終わり、主翼が単葉にかわっていくにつれ、
空気抵抗が重視されるようになり、機体全体がより流線型に近づいていきます。
膠着装置を引き込み式に変えたのも、操縦席に風防(ウィンド・シールド)をつけたのも、
すべてこの目的のためでした。

ワイルドキャットに装備されていたカウルは

NACAカウル

というものです。
NACAカウルは国家航空宇宙諮問委員会 (NACA) によって1927年に開発され、
星型エンジンを搭載した航空機において使用されたカウルの一種です。

空気抵抗が低減するとその結果燃費が向上するわけですが、カウルだけでも
その効果は大きく、つまり費用対効果としても大きな利益があったというわけです。

もう一つのカウルのもたらす恩恵は冷却機能でした。
星型エンジンにはシリンダーが固定されていたので熱を持つわけですが、
NACAカウルを装着することによって冷気がシリンダーやさらに重要な
シリンダーヘッドを通るように冷気をエンジンに導くことができるとわかり、
1932年以降のほぼすべての星型エンジン搭載機に装着されていたのです。

 

 

さて、博物館取得時にワイルドキャットのエンジンの前部を覆っていた
ノーズカウルリングは、保管中、外したまま別のところに移してしまったせいか、
いつの間にか紛失してしまっていました。

空母コーナーが新設され、あらたにワイルドキャットを展示することが決まったので、
NASMの職員はあらたに展示を行うために代わりのカウルリングを探していたところ、
なんと偶然にも、バージニア州にある海兵隊博物館の「ウェーク島メモリアル」に
ウェーク島で発見された撃墜されたワイルドキャットのノーズカ​​ウルリングだけが
展示されているということがわかりました。

この写真はウェーク島メモリアルに展示されていた単体のカウルです。

ちょうどカウルリングが見つかったので、博物館側は交渉し、
なくしたカウリングにこれをつけることに一旦決定したのです。

しかしそれを受け取ったグラマンのスタッフは一眼見て絶句しました。
リングカウルにはまだ日本軍の攻撃で生じた銃痕が生々しく残っていたのです。

一旦展示機にカウリングを付ける、というところまではいったようです。

本来ならば、新品と見まごうばかりにレストアされた機体に付けるのですから、
カウリングもそれに合わせて修復するのが筋というものですが、
やはり修復スタッフにはどうしてもその銃痕を補修することができず、
当初は綺麗な機体に銃弾の残るカウリングをとりつけたと思われます。

 

しかし、どういう経過を経たかは全くわかりませんが、結論として
そのカウリングを取り付ける案は中止になり、本体から外して
ウェーク島の海兵隊博物館に送り返されることになりました。

傷痕はそのままこの島で戦って死んだ海兵隊員の記憶を語り継ぐものである

ということが、実物を目の当たりにした関係者一同の胸に何かを呼び起こし、
このカウルリングは遠く離れたワシントンにあるよりも、海兵隊員の魂が眠る
ウェーク島にあるのがあるべき姿だということになったのかもしれません。

 

カウルリングの返還後、グラマンとスミソニアン博物館のスタッフはその後の充填を諦めました。
そしてカウルのない剥き出しのノーズのワイルドキャットを誇らしげに展示しています。

  グラマンF4Fワイルドキャットは、ウェーク島と珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、
ガダルカナルの戦いを経て、勝利と敗北の比率が6.9:1という成績を残しています。       続く。    

CVMスミソニアンの艦載機〜スカイホークと慈善家になったパイロット

$
0
0

 

空母のハンガーデッキを再現し、海軍長官に正式に就役を認証された
CVM(MはmuseumのM)「スミソニアン」。

こうして全体を写してみると、じつに空母です。
ニューヨークの「イントレピッド」、サンディエゴの「ミッドウェイ」の経験者には
この写真がどこかの博物館空母の中といわれても何の違和感も感じられません。

素材に本物の空母の内装をちょっとずつ持ってきて組み立てたわけですから、
本物っぽくて当然なのですが。

 

しかし、このとき、どうしてこの二階のデッキ部分に上がらなかったのか、
いまでも悔やまれて仕方がありません。
二階に上がれば、もっと本物の空母らしさを味わえたと思うのですが・・。

以前なら、また行くことがあったら次は必ず、と思えましたが、
今のこの状態では、それもいつになることやら全く予想もつきません。

まあ、このときもこれを見て十分おどろいていたんですけどね。
「本物の空母の床」です。

実際に空母(自衛隊のヘリ搭載型護衛艦含む)に乗ったことがある方なら、きっと
デッキの床に写真に見えているような膠着装置をごらんになったことがあるでしょう。



まず、この床はさすがに「どこかの空母から剥がしてきたもの」ではなく、
空母や軍艦の施工を請け負っている、

American Abrasive Metals Co.

という会社が現場に再現したもの、とあります。

会社自体は小さな規模らしく、wikiすらありませんでしたが、
社名のabrasiveというのは「研磨剤」という意味なので、
研磨することでノンスキッドの床を作る専門の企業なのでしょう。

ノンスキッド(滑り止め)デッキ表面

この床部分はアメリカ海軍の空母のハンガーデッキとフライトデッキ、
つまり航空機が収納され、そして移動するノンスキッド仕様となっています。

これは、特に雨天時に航空機や人が行き来するデッキで、
防滑性を保持する軽量の滑り止めコーティングという
アメリカ海軍の要求を満たすため、1940年に最初に開発されました。

コーティングは、エポキシ樹脂と骨材(コンクリートや
アスファルト混合物を作る際に用いられる材料のこと)でできています。

素材はデッキ表面に施され、硬化して堅いコーティングとなりますが、
同時に、研磨剤としての骨材が樹脂基盤の上に突き出るようになって、
これが滑り止めとしての機能を保持するのです。

軍艦を見学したことのある人なら必ず見たことがあるはず。
溺者救助用担架ですね。

それと、皆普通に見逃していますが、115v アウトレット、
と書かれた左上の「艦内区画」を表す部分に

「GALLARY DECK」(展示室デッキ)

と軍艦の中と同じような調子で書かれています。

また、担架の横の非常用の医療器具ケースですが、
拡大してよくよく見ると、留め金がありません。
本当に中に何か入っているわけではなさそうです。

電気のコードは本物で、ここから電源を取っているようです。

■ ダグラスA4D-2N / A-4Cスカイホーク SKYHAWK

ダグラスA-4スカイホークは、どんな場面にも使える軽攻撃爆撃機であり、
長年にわたってアメリカ海軍の第一線の航空機であったといっても過言ではありません。

比較的小さな機体のサイズにもかかわらず、多様な重量級の兵器運ぶことができます。

ベトナム戦争の期間を通じて、この名機は地上目標を攻撃する際の
「異常な正確さ」で知られていました。


さて、スカイホーク出現前の1950年代の初頭、傾向として戦闘機のシステムは
より複雑になり、その結果、機体の重量が増加していく傾向にありました。

ダグラス・エアクラフトカンパニーの航空機設計グループの一部は、
この傾向に懸念を抱くようになりました。

このグループを率いていたのが、あの天才エンジニアエド・ハイネマンです。

Ed Heinemann aircraft designer c1955.jpgいかにもハイネマン的な風貌

エド・ハイネマンの設計哲学、それは一言で言うと
「簡素化と軽量化」でした。

彼は、軽量、小型、空力的な洗練を追求すれば
そこにおのずと高性能が加わるという信念を持っていたのです。

というわけで、ハイネマンが率いるチームは、総重量が公式仕様重量の、
なんと約半分である30,000ポンド(14トン)の新しい攻撃機を提案しました。

海軍はこの設計を受け入れ、初期契約を結びました。
1952年6月のことです。

■ ハイネマンの”ホットロッド”

それではハイネマンは、どうやって機体の軽量化を実現したのでしょうか。

まず一つは翼の形態です。

この「空母スミソニアン」のハンガーデッキに展示されている、たとえば
グラマンのワイルドキャットのように、一般的なそれまでの艦載機は、
艦載機用のエレベーターに乗せるため翼が畳めなくてはなりませんでしたが、
スカイホークの翼はデルタ型で畳まなくてもエレベーターに載せられます。

翼の重量だけでなく、画期的だったのは、従来の爆弾倉を省略し、
外部兵装は翼の下のパイロンに吊って運ぶという仕様でした。

これで航空機の重量そのものが劇的に軽くなり、結果的には6.7トン、
この時点で海軍の要求の半分以下の重量となったわけです。

ほんっとうに近くからしか写真が撮れないので、全体像がわかりにくいのですが、
これがスカイホークが外部兵装をパイロンに吊下した状態です。

上を飛んでいるドーントレスとの翼の違いを比べてみてください。
パイロンに吊られた爆弾の上には「フライト前に外すこと」の赤いタグがあります。

A-4スカイホークは「ハイネマンのホットロッド」と呼ばれることもありました。
この話は前にもしたことがありますが、Hot Rod というのは1930年代に生まれた
アメリカのカスタムカーの一ジャンルです。

ホットロッド一例

アメリカ男性の「少年の夢」を叶えるともいえる手作りカー、ホットロッド。
このスカイホークも、軽量で工夫が効いている手作り感満載なところが、
ホットロッドに通じる「遊び心」を感じさせたのかもしれません。

知らんけど。

 

ホットロッドことスカイホークの初飛行は、1954年6月22日のことです。
最初のエンジン、カーチスライトJ65-W-2エンジンを積んだ最初のスカイホークは
1956年10月に海軍攻撃飛行隊VA-72に引き渡されました。

テスト飛行のプログラム中、テストパイロット、ゴードン・グレイ海軍大尉は、
500kmのコースをを時速695マイル(1120キロ)で跳び、世界最高速度を記録しました。

スカイホークは、この記録を保持した最初の攻撃機となりました。

スカイホーク試験飛行のときのグレイ大尉。

テストが終わった後、グレイ大尉を囲んで和気藹々のスカイホークチーム。
ハイネマンは・・・左のメガネの人かな?

 

次に開発されたスカイホークモデルはA4D-2(A-4B)で、機内給油
(レシーバーとタンカーの両方として)、動力付き舵、
およびいくつかの機能の構造強化が試みられました。

次の、1959年に最初に飛行したA4D-2N(A-4C)は、
機首にレーダーが組み込まれ、射出座席が改良されたものです。

さらに次のモデルであるA4D-5は、8,500ポンドの推力の
プラットアンドホイットニーJ52-P-2エンジンを搭載していました。
これは画期的な変化で、エンジンの低燃費性により、航続距離が約25%向上しました。

そして訓練機用にA-4Eの2席バージョンが設計されました。

ちなみにその次のA-4Fは、9,300ポンドの推力のJ52-P-8Aエンジンを使用し、
ゼロゼロ射出座席(ゼロ高度およびゼロ対気速度で安全な射出が可能)
のシステムと、コックピットの後ろの胴体のこぶの下に取り付けられた
新しい電子システムを備えていました。 

 

という具合に毎回性能向上を淡々と行なってきたスカイホークですが、
最初から備わっていた優秀な機能は、外部兵装種類を選ばないことでした。

初期のA-4は、爆弾、ミサイル、燃料タンク、ロケット、
そしてガンポッドを3つのステーションで合計で約5,000ポンド運ぶことができ、
その後のモデルでは、5つのステーションで8,200ポンドを搭載できました。

標準兵装は、2門の20mm機関銃です。

 

A-4は海軍と海兵隊によって広く使用され、東南アジアでの主要な戦闘に参加しました。
(おもにベトナム戦争ということですね)
海外ではアルゼンチン、オーストラリア、イスラエルなどでも使用されています。

スカイホークが使用されていたのは2003年までといいますから、
アメリカではF-4よりも長生きだったということになりますね。

ここで、機体のペイントにご注目ください。

展示してあるスミソニアン国立航空宇宙博物館のA-4Cスカイホークは、
1975年7月に海軍から譲渡されたものですが、移管の直前まで
USS「ボノム・リシャール」VA-76(海軍攻撃飛行隊)に割り当てられており、
それに敬意を表して、同じマーキングが施されています。


そういえば、サンフランシスコの「ホーネット」の見学の時、
案内してくれたボランティアのヴェテランが、元パイロットで、
ベトナム戦争時代に現役だったのですが
(現役の時はさぞかし、と思うくらいイケメンの爺ちゃんだった)
彼の着ていたボマージャケットに「ボノム・リシャール」のワッペンがあったので、
案内が終わってから、

「ボノム・リシャールに乗ってたんですか?」

と聞いたら、ちょっと、というかかなり驚いた顔をされたことを思い出しました。
(大抵のアメリカ人は『ボンホーム・リチャード』と発音するからだと思う)

このヴェテランも、確かスカイホークに乗っていたと言っていたような気が
(違っていたらすまん)するのですが、もしかしたらもしかして、
その人の乗ったことのある機体だったりしないかな。

ここに展示されているスカイホークが、「ボノム・リシャール」勤務時代、
1967年のベトナム沿岸で出撃するところです。

こちらはVA-94のスカイホークがUSS「ハンコック」に着艦しているところ。
テールのフックが艦上のワイヤをひっかける「最後のアプローチ」の瞬間です。  

■ 慈善家となったワイルドキャットのパイロット

このハンガーデッキで紹介されていた一人のパイロットがいます。

ロバート・ウィリアム”ビル”・ダニエルズ(1920−2000)

アメリカ人パイロットであり、ケーブルテレビの創始者であり、
そして傑出した慈善家でもありました。

輸送パイロットとして彼はキャリアをスタートさせました。
写真はF8Fベアキャット戦闘機を輸送する任務のときのダニエルズです。

第二次世界大戦時、彼はグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機のパイロットとして
1942年には連合国の北アフリカ進攻作戦に参加、そして翌年には
ソロモン諸島での戦闘に加わりました。

そこで当展示室のワイルドキャットがすかさず登場。

 

空母「サンガモン」乗組の第26戦闘機隊の一員として
護衛任務にも就いたことがありました。

左の赤いリボンのものはブロンズスターメダル。

これは、1944年11月25日、USS「イントレピッド」に、2機の
日本軍機が特攻を行った後、海面の乗員を救出したことに対する受賞です。

右の青いリボンはエア・メダル。
第二次世界大戦中、航空任務を遂行した勇気をたたえる意味で授けられました。

彼が第二次世界大戦中着用していたゴーグルとヘルメットです。

 

戦後、1953年にダニエルズは彼の最初のケーブルテレビ事業を起こし、
その後は全米の100箇所以上の現場に自ら出向いて指揮を執りました。

戦前は無敗のゴールデングローブ・ボクシングチャンピオンであり、
スポーツ番組に焦点を当てた最初のケーブルテレビ起業家でもありました。

Bill Williams, University of Idaho boxer | Donald R. Theophilus Boxing  Photograph Collection

また全米バスケットボール協会の会長を務め、
ロスアンジェルス・レーカーズなどのチームを持っていました。

そして数え切れないほどの慈善寄付をした無私の人道主義者として知られています。
死後、彼の全財産は「ダニエルズ基金」として地域で最大の慈善財団になりました。

 

 

続く。

 

原子力空母「エンタープライズ」100分の1模型〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

スミソニアン博物館の空母ハンガーデッキを模した
CVS「スミソニアン」の一隅には、巨大なシップモデルが展示されています。

 

どんな状態かというとこんな感じ。
レシプロ戦闘機ワイルドキャットの下に備えられた
ライト内蔵の巨大なケースの中にそれはあります。

空母の100分の1スケールの模型というのは圧巻です。
模型ファンならずともこの迫力には皆等しく目を見張る迫力でした。

模型ケースの端に展示されているこの盾には

この展示のメンテナンスの一部は、
USS ENTERPRISE CVN-65ASSOCIATION
によって資金提供されています。

「We are Legend」(1961-2017)

と記されています。

本家のエンタープライズアソシエーションと関係がある、
と誇らしく表明しているわけですね。

エンタープライズが就役していたのは1961年から2012年。
その名前を受け継ぐ艦は8隻目ではありますが、
原子力空母としては世界初となります。


バウデッキ左舷側にはブライドル・レトリーバーが二本突き出しています。
このブライダル・レトリーバーについては「ミッドウェイ」のログで
詳しくお話ししたことがあります。

”MAN OVERBOARD!"(人が落ちた!)〜空母「ミッドウェイ」博物館

この甲板左舷部分に駐機してある艦載機はおそらくA-7コルセアIIでしょう。
ということは模型で再現されているのはベトナム戦争時代と見ていいかと思います。

この頃はカタパルトによる射出の際、シャトルと航空機の主翼基部や胴体とを連結する
「ブライドル」「ブライドル・ワイヤー」を使っていましたが、
「エンタープライズ」の長い歴史上、特に最後の方では
このシステムは不要となり、この部分も必要が無くなったはずなのですが、
どんな時代の写真にもこれが付いているんですね。

甲板を改装することでもあれば無くしてしまったのかもしれませんが、
ブライドル射出式の名残りとして機能しなくなったあとも
あえてシンボルのように残しておいたのかもしれません。

それに、実際にあそこに立ったことのある人間として言わせてもらうと、
なかなか開放感があって他では味わえない眺めなんですよね。

軍艦は「ミッドウェイ」のように柵を立てないので尚更でしょう。

どうやら今から
偵察機Northrop Grumman E-2「ホークアイ」 Hawkeye
が発艦するところのようです。

よく見ると人の動きも非常に細部まで表現されており、
走っている緑シャツ、向こうのクルセイダーの横の赤シャツが
この場面に躍動感を与えています。

ここだけ見ていると、カタパルトがもう立ち上がっているので、
ホークアイのプロペラが回っているように思えてきます。

ブリッジの後方デッキにも航空機が満載です。 
ちなみにこの甲板の航空機の現在地を統括する係が
飛行機の形のマグネットを貼り付けていくボードのことを
西洋版コックリさんを意味する「ウィジャボードOui-ja board」
という、という話は一度書いたことがあります。

最後尾に並べられているのはヘリコプター。
シースプライト、という名称が思い浮かびましたが、
自信がないので思い浮かべただけにしておきます。

艦載機エレベーターに1翼を畳んで乗っているのは、
可変翼機といえばこれしかない、グラマンのF-14トムキャットに違いありません。

そして左はRA-5ビジランティ・・・・かな?

ところで、ハンガーデッキにも何やら機影が見えるではないですか。

ほおおおおお〜〜〜〜〜!

さすがスミソニアン、こんなところにも決して手を抜かないね。
この写真はスミソニアンHPから許可される使用条件でダウンロードしたものです。

こちらで運んでいるのはA-6イントルーダー、それともプラウラー?

ハンガーデッキの中のイントルーダーさん。

この展示コーナーで最初に目撃したインテリパパの二人の息子も
この模型を前に気色満面というやつです。
男の子の模型(あるいは飛行機、船)好きってもうこの頃にはすっかり萌芽しているのね。

絶賛ポリコレ文化革命中のアメリカでは、おもちゃ売り場での
「男の子用おもちゃ」「女の子用おもちゃ」のコーナーをなくせとか
アホなことを言い出しているそうですが、自分たちの小さい時とか、
あるいは自分の子供たちが、誰もそのように仕込まないのに、
彼あるいは彼女が、赤ちゃんの時から男の子は乗り物、女の子は
ぬいぐるみや人形に手を伸ばすのをどう思っているんでしょうか。

って全く関係なかったですね。<(_ _)>

画面手前後ろ向きに駐機されているのもビジランティではないかと思われます。

甲板の上にいるヘリはCH-46シーキング、そしてその後ろは
ボーイングのバートルV-107ではないかと思われます。

どちらも「ミッドウェイ」博物館で実物を見ることができました。

この辺(甲板後部)はトムキャットの巣になっております。

ハンガーデッキにもトムキャットが。

翼を立てた状態なのでこれはクルセイダーでしょうか。

こうやって航空機を紹介していくと、この艦載模型が
ベトナム戦争当時のステイタスに基づいているのがよくわかります。

スミソニアンのHPで答え合わせしたところ、この模型は
1975年当時の艦と艦載機の構成を再現しているということでした。

模型製作者はステファン・ヘニンガーStephen Henninger 氏。
アメリカでも有名なシップモデラーだそうです。

2016年になって従来のライトをLEDに取り換える作業が行われました。

ヘニンガー氏がハンガーデッキの内部にアクセスしやすくするため、
後部右舷の艦載機エレベーターを取り外す作業をしているところです。

完成した頃はお若かったはずのヘニンガー氏も、今や立派なおじいちゃん。
しかし、作業中のこの気色満面の様子を見よ。

 

ヘニンガー氏は、数学の学士号を取得しており、最近、大手航空宇宙企業の
技術スペシャリストとしてのキャリアを退職したという人です。

つまり元々模型製作は本職ではなく「趣味」であったということになりますが、
引退してからは個人や企業向けのヨットやクルーズ船の模型制作をしているそうです。

彼は兼ねてから空母に興味を持ち、機会があれば模型を作ってみたいと
切望していたこともあり、スミソニアン博物館の、
USS「エンタープライズ」の1:100スケールモデルを制作する
12年間にわたるプロジェクトを引き受けたということです。

85機の航空機を搭載したこの11フィートのモデルは、1982年に完成しています。

ということは、計画が起こったのは1960年代。
「エンタープライズ」就役間もない頃だったということになります。

計画が立ち上がった頃には最新式の空母だったのが、
模型を作っている間にそうではなくなっていたということですね。

素材はプラスチックのボード、アルミニウムのシート、ポリエチレン、
真鍮とアルミニウムのチューブ、木(バルサ)、ソフトワイヤ、ベニヤ合板など。

接着のために飯田、スーパーグルー、エポキシ、そしてプラスティックセメントが使われています。

A-7コルセアII、A-6イントルーダー、SH-3シーキング、CHー46シーナイト、
A-4スカイホーク(あれ?どこにいたんだろ)F-14トムキャット

などが艦載機として制作されました。

E-2ホークアイとRAー5ビジランティはスクラッチビルドといって、
プラモデルのように組み立てキットで作るのではなく、各種材料を用いて
ゼロから制作、つまり文字通り素材から削り出して作られています。

一方、EA-6B プラウラー(うろうろする人の意味)はイントルーダーのキットを
大幅に変更して制作されました。

これら航空機の製作には全部で4000時間費やされたそうです。
航空機だけに1日10時間かけたとして・・・のべ400日!

うーん・・・気が遠くなりそうです。

完成までの模型製作の歴史

● 1970年11月、ヴァーモント州のナサ・ワロップス島で模型考案

●  1971年1月〜7月ペルーにて断面図制作

●  1972年−1975年、南アフリカのヨハネスブルグにて、ハル構造の図面化

●  マサチューセッツ州アーリントンで(わたし昔住んでましたここに)艦体と航空機の製作

●  1976年コロラド州に完成したプロジェクトがUホールで運搬される

●  1982年5月26日、プロジェクト開始から11年後、艦載航空機82機が全て完成

●  1980年、二つのパーツに分けて制作された艦体が接続される

●  1982年、ハンガーデッキが接続され細部の調整と仕上げを行う

●  プロジェクト完成 1982年8月

 

 

続く。

空母着艦にまつわる色々〜スミソニアン航空宇宙博物館・空母展示

$
0
0

USS「スミソニアン」CVMという架空の空母のハンガーデッキを
そのまま再現したスミソニアン博物館の空母航空コーナーは、
もちろんそこで終わりではありません。

ハンガーデッキから隣の区画に抜けていくと現れるのが
艦載機パイロットの控室である「レディルーム」です。

まず「レディルームとは」という解説を見てみましょう。

空母の各スコードロン(squadron飛行大隊、英国では飛行中隊)は
レディルームにアサインされます。
レディルームとは、家庭のリビングルームのおよそ2倍のサイズです。

アメリカ家庭のリビングルームの2倍ということは、日本の家屋における
リビングルームとは比べ物にならないくらい広い、と考えられます(笑)

リビングルームに喩えたのは、ここが故郷を離れてやってきた
飛行大隊フライトクルーの「ホーム」でもあるからです。
「オフィス」があり、教室があり、映画館があり、リビングルームもあり・・。

バルクヘッド(壁)には掲示板、地図、ポスター、ブリーフィングガイド、
気象情報とナビゲーション情報を流すモニター、フライトデッキのモニターで埋め尽くされ、
テレビはネットワークが届かない状態でも放映することのできる番組を流しています。

 

また、空母艦載機パイロットというのは、着艦ごとに
「成績」をつけられるということがわかりました。

「ファイナル・グレード」

パイロットの空母着艦の際のアプローチが上手いかどうかは
ナンバー3のワイヤーを捉えることができるかで判断します。

全部で4本あるワイヤの4番目に引っかかるなら、それは
おそらく「高すぎ」「速過ぎ」を意味し、もしナンバー1、2なら
機体の侵入速度は「低過ぎ」「遅過ぎ」るということなのです。

LSOと呼ばれる信号員は、全てのアプローチに対し評価グレードをつけ、
各パイロットの個人成績としてその記録は残されます。

次に挙げるのは典型的なLSOのアプローチに対するコメントです。
これらのコメントはすべて略語(short hand)でログブックに書きつけられます。

「オーケイアプローチ、コメントなし、3ワイヤー」=OK3

「アプローチ失敗、Settle in the middle, Flat in close,4ワイヤー」
=OK SIM FIC4

「グレードなし、 Not Enough attitude in close1ワイヤー」
=NEATTIC SAR1

真ん中のは「可」でしょうか。
最後のは最終アプローチで高度が低過ぎたため、最初のワイヤーにひっかけても
グレードなし、つまり失格というやつです。
これがが続けば残念ながらパイロット適性なしとして勤務を外されます。

非情なのではなく、命に関わっているからこその措置です。

ロックコンサートのフィナーレでマイクを高く掲げているのではありません。
お仕事中のLSO、The Landing Signal Officerです。

もし着艦の体勢が正しくないときには、「ウェイブオフ」が命令され、
そうすればパイロットは決して着艦することはできません。
もう一回やりなおしです。

 

ちなみにログブックの略語のいくつかを書き出しておきます。

OK パーフェクトパス

OK 正しい判断による理由のある逸脱

(OK) 理由のある逸脱

_ 最低の方法だが一応安全にパス

C 危険、大幅な逸脱、離艦ポイントに侵入

B Bolter

ボルターとはワイヤーをキャッチできなかった場合です。
その場合をボルターといい、ボルターしてしまったらフルスロットルで加速し、
再アプローチをするためにもう一度発艦して一周回ってきます。

Photograph from behind a twin-engined jet fighter. The aircraft's wheels are on the surface, but the engines are still active, and a hook on the underside of the aircraft is in contact with the surface and trailing sparks

空母「ジョン・C・ステニス」のアレスターワイヤに接合失敗したAN F / A-18Cホーネットが
絶賛ボルター中で、機体の車輪は甲板にありますが、エンジンはまだアクティブであり、
機体の下側のフックが甲板に引きずられて火花が起こっています。

ボルターは「失敗」には数えられません。

ログブックの略語は、このほかに「LO=Low」「H=High」など基本から
「L-R=Left to Right」「NC=Nice Correction」(良い修正)など、
なかなかきめ細やかにいろいろとあります。

LSOとパイロットたちは、この略語を隠語として日常生活に使用していると思います。

「ラインアップ」Line Up

フライトデッキにノーズを向ける最終進入体勢をラインアップと言います。
侵入角度をここで調整し、「ミートボール」を見ます。

空母着艦の際に「ミートボール」と呼ばれる機器が活躍することについては
当ブログでも何度かお話ししていますが、ここにも出てきたのでまた説明します。

ファイナルアプローチに入るとパイロットは「ミートボール」を見ます。
ボールとは垂直のフレネルレンズ上に見えているのライトのことで、
もしグライドパス上にいればボールは二つの水平の緑のライトと並んで見えます。
もしグライドパスより高いと、ボールは緑のライトの上に見えるので、そのときは
操縦桿をすぐさま下降に動かすと、ボールも下に見えるはずです。
ボールが下に行ったらあとは簡単、そのまま降下するだけです。

「スムーズに操縦桿を動かさなければクラッシュしてしまい、
あなたはもうおしまいです!
操縦桿さえちゃんと動かせば朝飯前です!( a piece of cake!)」

「エアスピード」Airspeed

近代空母搭載の航空機は着艦の速度調整はパイロットが行うことも、
コンピュータで行うこともできます。
この時にはラインアップとミートボールに集中します。

画質が荒いのでわかりにくいですが、パイロット視線で
いまから着艦をするという設定です。

横のレンズはほぼ一列に並んで見えます。

フレネルレンズ使用によって暗い日でも着艦し易くなりました。

 

 

「トラップ」A TRAP

着艦成功のことを「トラップ」と呼びます。

航空機がデッキにタッチすると同時にパイロットはスロットルをフルパワーポジションに入れます。
もしテイルフックが4本あるロープのどれかに引っかかれば、パイロットは
すぐさまパワーを減速させ、エンジンをアイドリング状態にして自然に機体が止まるようにします。


しかし、フックを引っ掛けることができなかったときには、
先ほど説明した「ボルター」となり、パイロットはフルパワーのまま離艦します。

ただし、このボルターが行われるのは昼間だけで、夜間、嵐の日、
あるいは燃料がないなどのときには行われません。

じゃ失敗しそうな夜間や暗い日はどうやって着艦するのか、って?
ご安心ください。その時にはコンピュータが全てを終わらせてくれます。

しかし基本着艦はパイロットの操縦によって行われます。
全てをコンピュータで行わないわけはおわかりですね?

艦載機飛行隊の部隊章のいろいろ。
真ん中の虎のマークの「ATCRON」ですが、

ATTACK SQUADRON

の造語だろうと思われます。
VA65「Tiger」飛行部隊は、スカイレイダーからイントルーダー部隊となり、
1993年に解散した飛行部隊です。

トランプマークの

ブラックエイセス第41戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron Forty one)

はアメリカ海軍の戦闘攻撃飛行隊1948年に一旦解隊したあと1950年に再発足しました。
別のコーナーに第41飛行隊の歴史スナップがありました。

1953−1959 マクドネル F2H-4 バンシー

1959ー1962 マクドネルF3H -2 デーモン

1962-1976 マクドネル・ダグラス F-4ファントムII

1976-現在 グラマン F-14 トムキャット

はて、トムキャットっていくらなんでも現役だったっけ?
とさすがのわたしもふと気がついて調べてみたら、やっぱりF-14は
アメリカ海軍からは2006年にはもう引退していました。

スミソニアンともあろうものが、データを書き換えるのを忘れていたと見えます。

ブラックエイセスは現在F/A-18Fスーパーホーネット部隊としてアクティブです。

 

このレディルームは第14戦闘飛行大隊(VF-14)、第41戦闘飛行大隊(VF-41)、
どちらも空母USS「ジョン・F・ケネディ」に配属されていた第8飛行隊が
実際に使用していたものです。

緑のユニフォームを着ているのはCPO。
CPOと向かい合って立っているおじさんは本物の人間です。

パイロットたちの「着艦成績表」は常に貼り出されます。

緑=OK、黄色=普通、茶色=グレードなし、赤=やり直し

となるので、「ルーキー」「スライ」はできる子、「スラマー」はできない子です。

成績優秀者は名前が「トップ・フッカーズ」(トップひっかけ人)として貼り出されます。

「セオドア・ルーズベルト」第71飛行隊の飛行計画書。

「フォッド・ウォークダウン」は飛行甲板のゴミ拾いです(大事)

フライトクルーの記念写真。
髪型と髭率の多さから、70年代の写真かと思われ。

説明がなかったんですが、この上の赤い★付きの飛行機、なんだと思います?

 

続く。

 

 

 

真珠湾攻撃と空母〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

スミソニアン博物館の空母展示、館内に艦内を再現し、
パイロットのレディルームを再現しただけではありません。

ちょっとした「空母の歴史コーナー」が展開されていました。

 

■ 史上初の軍艦での離着艦

このブログでも何度か取り上げたことのある、
ユージーン・イーリー(Eugene Ely)がUSS「ペンシルバニア」に着艦した瞬間です。

Eugene Ely and the Birth of Naval Aviation—January 18, 1911 | National Air  and Space Museum

自動車のセールスマンだったイーリーが歴史に残る飛行家になったのは、
たまたま彼が飛行機の操縦を始めた時期にカーティスに出会い、さらに
海軍の初期の軍事的野望をかなえる計画の段階に関わったからといえます。

最初の実験は軍艦からの離艦でした。
カーティス・プッシャーというこの飛行機をの写真を見ると、
よくもこんなもので空を飛ぶ気になるなというくらいデンジャラスです。

しかもパイロットの服装がスーツに革靴、身を守るものが
上半身に巻いた自転車のチューブと皮のゴーグルっていうね。

Eugene Ely Taking Off From Uss Pennsylvania Photograph by Us Navy/science  Photo Library

USS「バーミンガム」で行われた史上最初の航空機離艦実験の瞬間です。
ランディングする甲板が下向きになっているのはツッコミどころ?

これじゃ飛行機は普通落ちますよね。

と思ったらこの後想像通りカーティス・プッシャーは下降し、
車輪が海面に取られてイリーは水浸しになりながらなんとか海岸に着陸しました。

しかし、これが記録としては史上初の発艦ということになりました。

San Bruno and the birthplace of naval aviation | Local News |  smdailyjournal.com

発艦が完璧なものではなかったにもかかわらず、海軍は
今度はさらに難問である着艦に挑戦することになりました。

「ペンシルバニア」の甲板には、着艦ロープが何本も
砂袋に繋げられて飛行機の制動を止めるために設置されています。

飛行機の機体にフックをつけ、甲板のロープをひっかけて止める、
という着艦のセオリーはこの時に生まれ、現在も変わっていません。
カーティス・プッシャーもホーネットも、理論としては同じ方法で着艦しているのです。

これが1911年1月のことです。

Eugene Ely

わずか9ヶ月後、「死ぬまで飛び続ける」と豪語したイーリーは
その言葉通りUSS「メーコン」からの着艦エキジビジョンの際、
機体が着艦失敗して海に落ちる前に甲板に飛び降り、首の骨を折って死亡しました。

「観客は記念品を求めて残骸に群がり、手袋や帽子を綺麗に持ち去った」

という嫌な逸話が残されていますが、彼の手袋と帽子は
おそらく彼とともに甲板にあったものだと思うし、
この写真によると皆残骸を遠巻きにして眺めていますよね。

「手袋と帽子を持ち去った」

のは、甲板にいた人のような気がするのですが、まあどうでもいいか。

■ 最初の空母

空母「ラングレー」USS Langrey CV−1 1922

と写真を出したところでなんですが、「ラングレー」は実は
アメリカ海軍最初の航空母艦ではありません。

実は石炭輸送船を改造した「ジュピター」が最初となります。
全長165mで排水量1万1千トン、航空機の格納とマシンショップのために
十分なスペースがあるとされていました。

その後ノーフォーク海軍工廠でフライトデッキや艦載機エレベーターに
様々な改装が試みられたすえ、USS「ラングレー」が1922年に誕生しました。
「ラングレー」の名前は、偉大な天文学者であり、第三代スミソニアン協会会長の
サミュエル・P・ラングレーに敬意を表して付けられました。

就役後何年にもわたって「ラングレー」は、初期の海軍航空の基礎、
戦略やその組織を含む体制づくりに大きな成果を残しました。

1937年にはUSS「テンダー」(航空輸送艦)に改造されて就役していましたが、
1942年2月27日、ジャワで陸軍の飛行機を輸送中日本軍の攻撃によって沈没しています。

空母「レンジャー」USS Ranger CV-4 1934

1920年代の終わり頃、アメリカ海軍は「ラングレー」、「レキシントン」
そして「サラトガ」の三隻を保有していました。
その3隻の運用経験は初めて空母として起工されることになる
次世代の空母USS「レンジャー」に生かされることになります。

1934年の6月4日に命名が行われた「レンジャー」は、わずか1万4千500トン、
最高速度は時速55kmで、米国で最も遅い「艦隊」空母という特徴?がありました。

排気は、飛行中に水平位置にスイングできる6本の煙突(3本は横)
によって払われるという仕組みになっています。

実際のところ「レンジャー」の低速、装備兵器の少なさ、そして限られた武器庫などは、
彼女が太平洋の戦線にでることに向いていたとはとても言えませんでした。

しかしながら、彼女は第二次世界大戦に突入した1942年、大西洋艦隊にあって
北アメリカで効果的に戦い、さらにアメリカ軍の侵攻作戦をサポートし、
戦争期間、最後は練習艦として任務を全うしました。

 

■ 開戦時の空母事情

 

最初の空母は1917年から1920年半ばまでに装備されましたが、
アメリカにおける初期のそれらは巡洋艦や商船、補助艦などを改造したものでした。

この期間、大英帝国ではH.M.S「ハーメス」が最初の空母として建造されています。

1922年のワシントン会議の結果、当時の海軍保有国はいずれも
戦艦と巡洋艦から改造された第二世代の空母を保有することになります。
その時点で米国、英国、日本に2隻、フランスに1隻、つまり
世界には7隻の空母が存在していました。

そしてそれらの中でも当時空母「レキシントン」「サラトガ」は、世界でも最大、
かつ最強の軍艦とされていました。

USS Lexington (CV-2) leaving San Diego on 14 October 1941 (80-G-416362).jpg

空母 レキシントン USS Lexinton  CV-2

USS Saratoga(CV-3)

空母「サラトガ」USS Saratoga CV-3 a.k.a "Sara-maru"

 

1930年代になると艦載機のオペレーションを最初から目的として建造された
空母第三世代が登場します。

しかし英国は1939年から1941年、といっても特に1941年の12月までに
10隻の空母を敵との交戦によって失うことになり、
アメリカが戦争を始めた頃の空母保有数は、

日本ー9隻
英国ー8隻
アメリカー7隻

という状態でした。

 

ここにモニターがあっていきなり日の丸が現れたので、
おお!と注目してしまいました。

ここで放映されていたフィルムは、当時の3主要海軍が
1941年12月7日当時運用していた空母を紹介しています。

フィルムで紹介されていたのは「翔鶴」に続き、

「瑞鳳」。

しかしこうして漢字で表す日本の軍艦の名前って、なんて美しいんでしょうか。

わたくしごとですが、MKの名前にはこの時代の空母に使われている
ある漢字が含まれていて、このことをわたしはすごく気に入っています。
(本人はそうでもないらしいけど)

■ 真珠湾攻撃当時における日米主要人物

空母というものの歴史を語ろうとすれば、日本海軍について触れないわけにいきません。
この分野で日本は先陣を切り、当時は先に進んでいたということもできます。

帝国海軍聯合艦隊司令 山本五十六

まずはご丁寧に人物紹介から始まりました。
あくまでスミソニアンによる解説をとご理解ください。

真珠湾を奇襲するという計画は、海軍航空隊の組織と管理に精通した、
海軍航空隊の確固たる支持者である山本提督の発案でした。

山本は、その少し前である1940年、イギリス艦隊がタロントにおいて
イタリア艦隊を攻撃し成功したのからこの攻撃の着想を得ています。

彼はアメリカの工業力と戦争遂行のための潜在能力を知悉しており、
敬意も抱いていたことから、開戦には当初反対の立場でした。

山本元帥は1943年4月18日、ソロモン諸島上空で乗っていた航空機が
ガダルカナルのヘンダーソン基地から飛び立ったP-38戦闘機に撃墜され、
戦死しています。

淵田美津雄帝国海軍少佐

淵田少佐は第一艦隊の空母航空隊の指揮官であり、真珠湾攻撃の第一陣となる
183機の艦載機を率いて飛びました。

淵田は1924年海軍兵学校を卒業し、この攻撃までに
飛行時間は3000時間に達したベテランでした。

この奇襲攻撃に際して淵田が発したドラマティックな通信文は

「トラ・トラ・トラ(Tiger...Tiger...Tiger)」

でした。

淵田はこの攻撃で得た栄達とともに戦争中海軍に仕え、
終戦の時には大佐とし海軍総隊兼連合艦隊航空参謀となっていました。


あの、「トラ・トラ・トラ」って、タイガーのことじゃないんですが・・。

あれはハワイ奇襲攻撃作戦の間だけ使用する通信略語として、
「ト」の次に「ム・ラ・サ・キ」(紫)をつけて作った

「トム」「トラ」「トサ」「トキ」

の四つの略語のうちの「トラ」に、たまたま「奇襲成功」の意味が当てはめられただけで、
実際には深い意味はなかったっていうじゃありませんか。

淵田大佐はああいう人なので()自分の干支が寅ということから
こいつは縁起がいいわいと普通に喜んでいたそうですが、
これが、

「トサ・トサ・トサ」

「トキ・トキ・トキ」

になる可能性だってなきにしもあらずだったわけです。
もし

「トム・トム・トム」

だったらアメリカ軍は、これはアメリカ人を表すよくある名前の連呼、
つまり『アメリカ人をやっつけろという意味』だとか言ってたかもしれません。

しらんけど。

南雲忠一帝国海軍中将 第一航空艦隊指揮官

真珠湾攻撃の機動部隊を指揮しました。
南雲は水上艦勤務が長く、巡洋艦、戦艦、駆逐艦艦長の経験を積み
艦乗りとして高く評価されてきた指揮官でした。

彼は大成功となった真珠湾攻撃に続き、インド洋と太平洋南西における
連合国への空母攻撃を成功させました。

南雲提督は最終的に中部太平洋方面艦隊司令長官として
1944年8月、サイパン攻撃の際洞窟において自決しました。




続く。

 

 

真珠湾攻撃と日本軍機のいろいろ〜スミソニアン航空宇宙博物館

$
0
0

スミソニアン博物館の空母展示では、世界初めての
空母機動部隊による奇襲となった真珠湾攻撃に始まり、
日米の第二次世界大戦の空母艦隊戦について
けっこうなボリュームを持って紹介されていました。

今日は真珠湾攻撃の続きです。

真珠湾攻撃の日本軍オペレーションが大地図で紹介されていました。

皆さんもご存知の経緯ですが、赤い動線について説明しておくと、

●1 単冠湾から出発(地図上部)

●2、3 3400マイルで12/3に到達

●4 12月8日

先遣部隊 潜水艦27

打撃部隊 空母6 駆逐艦9

補助部隊 戦艦2 巡洋艦3 潜水艦3

●5にて航空機回収

●6「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」駆逐艦群はウェーク島攻撃の補助のためここで別れる

●7 12月21日〜28日 ウェーク島攻撃

●8 帰還

左下の赤い台形で囲んだ部分が本作戦の行動範囲ということです。

ところで黄色でハイライトを入れた部分ですが、
日本の潜水艦って5隻の特殊潜航艇とそれを運んだ母潜水艦しかいなかったんじゃあ・・・。
27隻って本当にそうだったのかしら(調べてません)

 

ハワイ・オペレーション

日本軍が1941年12月7日を奇襲決行日に選んだ理由は、
アメリカ艦隊が週末でそのほとんどが入港していたからだといわれます。

空母機動部隊から発進した航空機はオアフ島の軍事施設を攻撃し、
潜水艦の部隊は我が軍艦を破壊するために島の周りに配備されました。

いやだからそんなに潜水艦いたんですかって聞いてるんですけど。
この書き方だと本当に潜水艦が27隻来ていたみたいですが(調べてません)

オアフへの攻撃中、2隻の駆逐艦がミッドウェイの構造物を砲撃しました。

ミッドウェイ島を日本の駆逐艦が攻撃したってことでOk?

国際法に従い、宣戦布告はワシントン時間午後1時(ハワイ時間8:00a.m)、
ハワイ攻撃の30分前に米国政府に提出されることになっていました。

しかし、暗号解読とタイピングに時間がかかり、手交できたのは
ワシントン時間の午後2時20分となってしまい、1時間25分の遅れとなりました。

開戦通知の遅れの原因は、そもそもこの非常時に人がいなかったこと、
そして(アメリカ人にはとても理解できないことかもしれませんが)
もっとも時間がかかったのは、英語への翻訳で揉めていたためだったと言われていますね。

 

わたしなど多少プロトコルに則っていなくても意味さえ通じればいいから、
ちゃっちゃとメモみたいなのでも渡しておけばよかったのにと思うんですけど。

日本人の英語が下手な原因は、間違えるのを恥ずかしがるあまり、
文法を組み立ててからしゃべるせいだという話もあるくらいですが、
このときの大使館にもその傾向を見る気がするのはわたしだけでしょうか。

それはともかく、開戦通知遅れについては当時ハル長官は
卑怯な騙し討ちだと怒り、散々これをプロパガンダに使ったわけですが、
現在ではちゃんとそのときのお粗末な遅延事情が(正確にではないですが)
少なくともスミソニアンには(ということは一般的な歴史認識として)
ちゃんと伝わっているようでよかったです。

なお、地図の下部には日米軍双方の戦力が記されています。

発進

第一波である日本海軍のB5N2 「ケイト」艦上爆撃機が
真珠湾攻撃を行うため空母のデッキからテイクオフしています。

攻撃軍はオアフ島の北370キロ沖の発艦ポイントに早朝6時に到達し、
そして1時間15分後、嶋崎重和中佐率いる第二波の攻撃グループが発進しました。

スミソニアンの記述に出てくるこの嶋崎中佐は、あまりに有名になった
淵田指揮官の高名に霞んでしまい、ほぼ無名といっていいのですが、
ここではちゃんと名前が明記されています。

Shigekazu Shimazaki cropped.jpg嶋崎少将(最終)

嶋崎重和は昭和20年1月、第3航空艦隊司令部付となった翌日、
台湾方面で戦死し、戦争が終わってからその年の末に
二階級特進して海軍少将に任ぜられています。

 

「真珠湾空襲、演習にあらず」

50席以上の艦船が埠頭に錨を落とし、休んでいる、
典型的な戦前の真珠湾の写真です。

この写真の港中央に見えているのがフォードアイランドで、
ここには戦艦が島の左側に並んで係留されていました。

陸軍の航空基地であるヒッカム飛行場は、この写真の
メインの海岸線に沿って画面の外に行ったところにあります。

映画「ファイナルカウントダウン」で有名になった(かもしれない)写真。

何かのはずみで何の必然性もないのに真珠湾攻撃の日にタイムスリップした空母が、
そのまま普通に現代に帰ってきてバタフライエフェクト起こしまくる怪作でしたね。

なんかわからんけど偵察機を出したら偵察員が撮ってきたという設定の写真がこれで、
なわけあるかーい!とツッコミがいのある映画でした(遠い目)

 

この写真が歴史的なのは、真珠湾攻撃のその日、
攻撃をしている日本軍の航空機から撮られたものだからです。

画面奥には炎上するヒッカムフィールドが確認できます。
そして7隻の戦艦がフォード島沿岸に沿って係留されているのが見えます。

"AIR RAID PEARL HARBOR-THIS IS NO DRILL"
(パールハーバーは爆撃を受けているーこれは訓練にあらず)

真珠湾に爆弾が落とされると同時にこのメッセージは全ての部隊に発せられました。
これらの写真は米国太平洋戦艦部隊のほぼ完全な壊滅を劇的に示しています。

時代の終わり

パールハーバーの悲劇から最も逃げるべきであった戦闘艦は、
つまり敵の第一目標である三隻の空母だったということになりますが、
「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊航空隊を輸送して帰還中、
「レキシントン」は偵察爆撃機をミッドウェイに届けてやはり帰還中、
そして「サラトガ」は本国の西海岸にいたため三隻共に無事でした。

たった二隻を残してほぼ全部が何らかの損害を受けたのが戦艦群でした。
(その二隻とは『アリゾナ』と『オクラホマ』)
彼女らは最終的に戦争が終わるまでに全部艦隊に戻ることができたとはいえ、
真珠湾は、空母が海上での戦争で主力艦として戦艦に取って代わるきっかけでした。

物理的にも、そして相手から得た戦略的教訓としても。

U.S.S. 「カリフォルニア」

五発の魚雷を撃ち込まれた「カリフォルニア」はゆっくり泥中に着底します。
写真の一番右に「オクラホマ」の艦隊が微かに確認できますが。
この艦は横転しマストが泥中に突き刺さるように沈没し、
415名の乗員が亡くなりました。

U.S.S 「ウェストバージニア」

「ウェストバージニア」から立ち昇る黒煙、そしてボート。
この写真で見ると、ボートのエンジンは白波を立てており、
今から「ウェストバージニア」に向かうのであろうことがわかります。

半ダースの魚雷が撃ち込まれ、そのうち二本が命中して炎の中海底に沈み、
艦内では105名の乗員が亡くなりました。

 U.S.S 「ネバダ」

「ネバダ」はフォード島に単独で係留されていました。

他の7隻の戦艦が攻撃を受けている間、「ネバダ」にも魚雷が命中し、
航空爆弾も二発うけたにもかかわらず、どうにか始動することができました。

ネバダの航行ルート

「ネバダ」は湾を出ようとしている間に爆弾を受けましたが、
入江で沈没し湾を塞いでしまうことを懸念し、
ホスピタル・ポイントで自力で座礁して沈没を回避し、
タグボートによってワイピオ・ポイントに再度座礁しています。

「ネバダ」の乗員は50名が死亡し、109名が負傷しました。

 

航空基地

オアフ航空基地

真珠湾の艦船が実に「システマティックに」破壊されていく間、
オアフの航空基地もまた攻撃下にありました。

このOS2U偵察機はフォード島の航空基地で破壊された
海軍と海兵隊の数多くの航空機のひとつにすぎません。

オアフ島の北側にあるカネオヘ湾と、パールハーバー近くのエワでも
爆撃などに遭い多くの航空機が発進できなかったり壊されたりしました。


■ 日本軍機模型

三菱 A6M3 零式艦上戦闘機”ジーク”

さすがはスミソニアン、あの世紀の迷作、マイケル・ベイの「パールハーバー」には
緑で塗装した後期の零戦が、この20型と混じって仲良く飛んでいましたが、
模型は真珠湾コーナーであることもあって当時のバージョンです。(当たり前か)

あれは映画撮影時、アメリカ国内に現存する可動機を動員し、
実際に飛ばせることに拘ったためあんなことになってしまったようですね。

今ならCGでどうとでもなるので、お金をわざわざ払ってこんな愚を犯す監督はいません。

中島 B5N2 九七式艦上攻撃機 ”ケイト”(左)

真珠湾攻撃の時日本軍機にも迎撃された艦載機があったわけですが、
第二波でもっとも損害が多かったのがこの九七式でした。

水平爆撃を行うというその攻撃特性上、低空飛行で比較的速度が遅く、
大きな機体であるため地上からの砲撃を受けやすかったのです。

特に未帰還機が多かったのは第二波攻撃陣でした。

中島一式戦闘機キ431 隼 ”オスカー”(右)

「♫は〜やぶ〜さ〜は〜ゆ〜く〜」

という歌でも有名(名曲だよね)ですが、この戦闘機を有名にしたのは
「隼」という愛称が一助を担っていたことはまちがいありません。(と思う)


最初単に「一式戦闘機」という名称だった戦闘機に、

敵連合軍の「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームが欲しい、
という声を受け、陸軍航空本部発表の正式な愛称として
一式戦は「隼」と命名(発案者は陸軍航空本部報道官西原勝少佐)、
太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には
「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。Wiki

名前って大事(確信)

三菱 G4M1 一式陸上攻撃機 ”ベティ”

海軍の主力攻撃機となった一式陸攻です。
急降下爆撃を行えるものを「爆撃機」、そして水平爆撃を行うものを
「攻撃機」といい、これは日本軍同時のカテゴライズでした。

爆撃機の搭乗員は気質が荒っぽく、攻撃機は紳士的、などという傾向を
海学徒士官出身の映画監督、松林宗恵氏が対談で語っていましたっけ。

愛知 E13A1 零式水上偵察機”ジェイク”

略して「零水」は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に偵察の要して開発され、
基地にも配備されて艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しました。

大戦の序盤はそれなりの成果を納めていましたが、昭和18年以降は
「下駄」と呼ばれたフロートによる速度不足・加速力不足のため、
敵のターゲットとなり情報活動が不可能になっていきました。

川崎二式複座戦闘機 キ45改 屠龍 ”ニック”

「屠龍」といえば想起するのが本土防衛におけるB-29との戦闘です。
巨大な竜つまりB-29を屠る、というその名前も鮮烈なイメージ。

 

■Aftermath(余波)

午前10時までに、最後の日本の攻撃隊は海上で待機中の空母に向かって航行し、
4隻の戦艦が沈没または撃破、4隻が沈没、3隻が駆逐艦が沈没、
2隻の巡洋艦が深刻な被害を受け、いくつかの小型艦艇と補助艦が被害を受けました。

そして2008名の海軍関係者を含む合計2403人のアメリカ人が犠牲になりました。
(なんだかんだ一般人多かったんですね)

しかし、真珠湾の修理施設、石油タンクを破壊できなかったのは
日本軍の大きな誤算となりました。
そして、このことは米海軍の早急な回復の主要な要因となったのです。

さて、というわけで真珠湾攻撃コーナーがおわりました。

となると次は当然・・・・・?
そう、あれですよあれ。

ミッドウェイ海戦です。

 

続く。

 

 

Viewing all 2817 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>