Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2817 articles
Browse latest View live

「What Was On Their Minds?」彼らは何を選択したか〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

アメリカが生み出し、アメリカが介入したベトナム戦争。
そして戦争に向かうことになった時、国家は徴兵を導入しました。

前回は徴兵を逃れた人々が意外に多かったこと、それにもかかわらず、
10%の若者が徴兵されたことなどについて、反戦運動や、
良心的兵役拒否についてもお話ししてきましたが、今日は、

What Was On Their Minds?

つまり徴兵された若者たちの心に何があったか、そして
彼らはどのような行動を取ったか、というコーナーを
ご紹介していこうと思います。

「ベトナム!ベトナム!」フェリックス・グリーン著 1966年

グリーンはイギリスのジャーナリストです。
彼のような書記の反戦活動家は、全てのアメリカ人がベトナム戦争の真実を知ったら、
おそらく戦争を終わらせようとするだろうと信じていました。

 

 

■ 軍人(Military Personel)

「ランパーツ(Ramparts)」1966年2月号表紙

「わたしたちがベトナムにもたらしたのは民主主義ではなく、反共主義です。
全ては、嘘でした。
わたしたちは南ベトナムで『自由(フリーダム)』を守ってなんかいなかった。
守るべき『自由』なんてものはなかったのです」

ドナルド・ウォルター・ダンカン(Donald Duncan)は1965年にアメリカ陸軍特殊部隊を辞めました。
写真を見ていただくと、

「辞めた!(I quit! )」

とわかりやすく書いてあります。

彼はベトナムでのアメリカの「戦争努力」に幻滅し、それに反対することを決意したのです。

ダンカンはグリーンベレーで諜報任務を行なっていました。
この間通信、武器、解体に関する特殊訓練を受けています。

戦闘に参加した後彼はブロンンズスターやシルバースター勲章の授与、
さらに大尉への昇進を推薦されましたが、全て断っています。

彼がアメリカとアメリカ軍に失望したのは、諜報報告を毎日行う任務の中、
それが「でたらめ」「捏造」であるということを知ってしまったからです。

「わたしは驚きました。それは『ブルシット』でした。
南ベトナム政府の汚職の一掃どころか、
アメリカはその最大の貢献者だったということなのです。
勝てる要素はなにもなく、全てが嘘でした」

そして彼はアメリカに戻りました。

早くから反戦を訴えていた急進的カトリック雑誌「ランパート」1966年2月号で、ダンカンは

「すべてのものは嘘だった!」

と題されたベトナム戦争についての激しい批評を行いました。
雑誌の表紙は、ダンカンが完全な軍曹の制服を着て「やめた」と発表したことで有名です。

記事は、腐敗した南ベトナム政府とアメリカのつながりと、拷問、即決処刑、
アメリカ軍の残虐行為についての詳細を内部告発したものでした。

ダンカンはその後も反戦運動を続けましたが、晩年は忘れ去られ、
2009年特別養護ホームでひっそりと亡くなったということです。

■ 学生(Students)

General Baker Jr.(ジェネラル・ベイカーJr.)

ジェネラルというから軍人枠に入れてみたのですが、実はこれ、ファーストネームです(笑)

ウェイン州立大学でアフリカ系アメリカ人の学生組織を作り、
活動していた彼は、1965年、徴兵委員会に公開書簡を書き、
ベトナム戦争に奉仕するための適性試験への出頭を拒否しました。

「わたしは徴兵委員会に来るようにとの手紙を受け取りました。
わたしはドジャースの選手でも良心的兵役拒否者でもありませんが、
これは不当な戦争であるため出頭を拒否します。

もし(その戦争が)南アフリカかミシシッピデルタかここデトロイト12番街を
開放するという話でしたら、ぜひ電話してください。
それなら奉仕は名誉な義務となるでしょうから」

ブレット・ロペス

「私は良心的兵役拒否を申請しましたが却下されました。
取得できる限りの医学的な障害を申請しましたが、だめでした。
わたしに残された唯一の選択肢は、地下に行くか、カナダにいくことでした」

彼は全ての忌避手段を講じたのですが、万策尽きてカナダに逃亡しました。

 

■ 懲兵拒否者(Draft dodger)

1965年、ニューヨークのユニオンスクエアで徴兵カードを燃やす人たち。
左からマーク・エデルマン、ロイ・リスカー、デビッド・マクレイノルズ、
そしてジム・ウィルソン。

「徴兵カードを損壊するというのは、ベトナムでの政府支援という暴力と、
その残酷さ、非人間性、不必要な死から個人的な分離を行うという意味の行為です」

マーク・エデルマンは19歳でした。(には見えませんが)
新しい法律がこの行為を違法とした直後、彼は四人でこの行為を行い、
この言葉を述べました。

このあと、ジム・ウィルソンは警官の誘導を拒否し、2年間服役しました。

ちなみに、マクレイノルズは政治家となって亡くなる前社会党のサンダースを支援しており、
リスカーは数学のどこかの教授となったようです。

みんなとにかく頭が良さそうですが、誰一人26歳以下には見えんなあ・・・。

徴兵カードを燃やした「抵抗者」たちは燃やしたカードを
このようなマックスウェル・コーヒーの缶に落としました。

わざわざ実物が飾られているので何か意味があるのかと思ったのですが・・。

トマトケチャップの缶ではあまり絵にならないからかしら。

左から、

1967年、ペンタゴンで行われたデモ行進
1967年、ヒューストンで徴兵カードを燃やす人
1965年、キャピタルヒルで1965年4月に行われた大規模反戦集会

徴兵カードを燃やすのは抵抗のシンボルとなりました。

左;ペンタゴン前で演説、1965年6月
右;1965年、フィラデルフィアの反戦デモ

「武力行使に対する兵役奉仕を拒否する」

「ベトナム戦争を終わらせろ」

「拷問と殺人に加わるのを拒否する」

左から

1965年反戦デモ
1966年、フィラデルフィアの徴兵反対抵抗運動
1966年、ワイオミングの大学生による反戦運動行進

「今すぐG.I.を故郷に戻せ」

■ 母親たち (Mothers)

毎日、さらなる部隊がベトナムに送られる

毎日、さらなる青年たちが死ぬ

毎日、血生臭い戦闘がアジアで広がっていく

毎日、懸念する親たちが尋ねる

彼は1965年6月に卒業した

彼は1966年6月、ベトナムで死ぬのか?

ーわたしたち親は覚えているー

朝鮮戦争で15万7千人のアメリカ人が死傷したことを

そして、しかも我々は勝つことができなかったことを

わたしたちは結局終戦をテーブルでしか決しなかったことを

ーわたしたち親は知っているー

ベトナムで始まった陸上戦は朝鮮戦争より高くつくことを

わたしたちの息子が何百万人ものアジア人、アメリカ人を
国土から追い出したがっているアジア人と向かい合うであろうことを

そしてわたしたちの息子は国連や同盟国の援助なしで戦わなくてはならないことを

今回敵は近代兵器、近代的ミサイルを持って対峙してくることを

ー親たちは忘れていないー

選挙前、ジョンソン大統領は「戦争拡大はしない」と約束した

ーわたしたち親は知っているー

アメリカ大統領、アメリカの政治家、そしてアメリカ軍指導者は
アジアでの大規模な陸戦の恐ろしい結果について知っていたことを

 

ジョンソン大統領に今から手紙を書いてください!

彼に「平和を約束する」といった公約を守れと

ベトナムでの戦争をやめろと

あなたが守るべき命はあなた方の息子の命なのです!

 

徴兵対象年齢の息子を持つ母親の多くは、このチラシを作成した政党である、

「平和のための婦人運動」(WOMEN STRIKE FOR PEACE)

に所属していました。
当初核兵器拡散を阻止するという目的で1961年に組織されたこのグループは、
戦争への動きを受けると、すぐさまベトナムへの介入に抗議することにフォーカスしました。

 

 

続く。

 


「遅かれ早かれそれは私を巻き込んだ」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

$
0
0

アメリカがベトナム戦争を選択したとき、少なくない国民は
そこに正義はないと断じ、反戦運動に訴えたり、
徴兵対象者はこれを拒否したりしました。

今日は、

■ DEFERRED(延期、引き延ばし)

と題されたコーナーからご紹介します。

まず、このレコードジャケットですが、

フィル・オクス(Phil Ochs)

というプロテスト・シンガー(というジャンルがあるなら)の

俺はもう何処にも行かない(I ain't marching anymore)

というシングルアルバムだと思います。

この歌手の名前をご存知の方はおそらく皆無だと思われます。 
これといったヒット曲もなく、注目を集めるようなミュージシャンというわけでもなく、
当時流行だったギターの弾き語りで自作の曲を演奏する、いうならば
ボブ・ディランの下位変換という感じの一人です。

ここにアルバムの中の一曲が紹介されていました。

「徴兵逃れ(Draft doger)のラグ」

サージ、俺はまだ18歳で 脾臓が破裂した
いつもそのためのバッグを持っていて 蝙蝠みたいに夜歩き
足は扁平足 喘息は悪くなるばかり

そうさ、俺の経歴を考えてくれ 愛しい人
そして俺のかわいそうな「期限切れ」の叔母のことを

いっとくが、俺は馬鹿じゃない 学校にも行っている
そしてDEE-FENCE プラントで働いている

DEE-FENCE プラントとはDefence plantのもじりだと思うのですが、
最初から最後までまっっっっったく意味がわかりません。
そこでこのコーナーのタイトルを振り返ってみると、
・・・そう、「引き延ばし」ですね。

ドジャーは人の名前ではなく、「ドッジボール」のドッジ、すなわち
「素早く身をかわす」から、逃れる人、と訳すのが良さそうです。

さらに説明を読んでみましょう。

「徴兵逃れのラグ」で、フィル・オクスは、若い男性が
徴兵を延期するために使用していた全ての戦略的な計画を表しました。

この曲は、初期の反戦運動で最も人気のあるものの一つでした。

病気を大袈裟にいう、そして「Deefence plant」に通う、
これらが徴兵引き延ばしに必要だったということなんでしょうか。

オハイオ州立大学で政治に興味を持った彼は、音楽で社会に
思想を訴える道を選び、反戦シンガーとして、たとえば
民主党全国大会のデモコンサートなどに出演したり、
ドキュメンタリー映画に出演したりという熱い時代を過ごしました。

しかし、ムーブメントが終わると音楽的に素養のない彼のスタイルは
あっというまに忘れ去られ、結局、1976年に35歳の若さで自殺しています。

「もし招集されたら、僕はいくよ。
でも逃れられるならどんなことでも試すだろう」

1966年4月11日、ニューズウィークに掲載されたある若者の言葉です。

「そしてもしこの男性が徴兵逃れをしていると思う者がいれば、
彼に今すぐそう言わせるか、さもなければ永遠に彼に平穏を与えてください」

 

セレクティブ・サービス・システム(Selective Service System)は、
アメリカの徴兵を調節する国の独立機関です。

そのセレクティブ・サービス・システムが定めたところの
1965年の「分類」があります。

各自の徴兵カードには、持ち主の「徴兵分類」が記載されていました。

 

実際の徴兵カードを見てみると、このデニス・ハーリングというレジスターは、

クラスIIーS

とされています。
このIIーSは、セレクティブ・サービス定めるところの
「学生」という身分による延期のカテゴリとなります。

延期の身分を獲得するには、「フルタイムスチューデント」である必要があり、
デニスくんの場合は1965年6月10日(つまり大学卒業の日ですね)まで
徴兵が猶予されているということを表すカードというわけです。

そして以下がセレクティブ・サービスの定めた分類となります。

1ーA  ただちに任務につくことが可能

1ーO 良心的兵役拒否者、代替任務可能

1ーC  軍人

1ーY 肉体的、精神的に適合せず

2ーA 民間の職業のため延期

2ーC 農業のため延期

2ーS 大学生のため延期

3ーA 父親、または扶養家族がいる

4ーF 肉体的、精神的、道徳的に資格なし

そこで、先ほどのカリカチュアをご覧ください。
神父は、この結婚を行う男性が、「3ーA」、つまり
扶養家族を持つことによって徴兵を延期または逃れようとしているのではない、
(徴兵逃れが目的ではなく)愛情あって結婚するのであるということを
神の前で認めさせようとしているというわけです。

必須とされた仕事についているわけではなく、実家が農業でなければ、
優秀な大学生になって猶予を得るのは一つの方法です。

戦争を拒否する宗教の信者でもそのいずれかでもなければ、
手っ取り早く?扶養家族を作ってしまうのもありでしょう。

しかし「徴兵逃れのためにはなんでもやる」と決意した人が
その何の道もだめなら、残るは「健康をわざと害すること」か、
徴兵カードを破って牢屋に入れられることくらいしかありません。

 

「ケンブリッジ地域の最後の一段が尿を投げ、色覚テストに故意に失敗したときでさえ、
次の一団を乗せたバスは到着し始めていた。
バスはボストンの白人の労働階級であるチェルシー地域の青年たちを産み落とした。

彼らはまるで屠殺される牛のように検査の列を歩んだ。

ハーバード出身のぼくの友人5人のうち4人が徴兵猶予されていたのに対し、
チェルシーの青年たちにはその正反対のことが起こっていた。

僕たちはその日の午後、自由の身となってケンブリッジに戻ったが、
しかし、僕たちの誰もが言及したがらないが、何かが表層の近くに生まれるのを感じた。

ぼくらはそのとき、誰が殺されるかを知っていたのだ」

ジェイムズ・ファローがハーバード大学の学生であったとき、ボストンの海軍工廠で
徴兵検査が行われ、彼はそれに参加して上の文章を残しました。

ケンブリッジはボストンのハーバード大学のある一帯で、
チェルシーは工場が多く、労働者階級が住んでいた地域です。

上の写真はインダクションセンター、つまり徴兵が決まって
説明会をうけている人たち、ということなので、ファローの言うところの
「殺されるべき」「労働階級の」青年たち、ということになります。

ロスアンゼルス、サン・ルイス・オブスポの徴兵センターで列を作り、
これからバスの中で身体検査を受ける徴兵対象者たち。

長髪に髭、ジーパンにブーツ、リーゼント・・・。

当時の流行りの服装をしたさまざまな若者たちは、このあと
入隊すれば髪と髭を剃り、OD色の軍服を着ることになります。

陸軍徴兵試験を受けているところ。
どうしても入りたくなければわざと試験に失敗する、
という手を使う人も出てくるんじゃ?という気がしますが、
実際はどんな成績でも無事に徴兵に通るし、
わざと間違えたりしたものは真っ先に危ないところに送られる、
などということになっていたのだろうと思われます。

そしてその「情報」も遍く行き渡っていたのかも・・・。


■ 徴兵対象者

 

「わたしはソリナスで育った貧しいチカーノ(Chicano、メキシコ系2世以降)です。
徴兵制は、たった1年間でメキシコ系アメリカ人コミュニティの半分を一掃したと思います。
徴兵が決まったとき、わたしは自分にこうたずねました。

『どうするつもりだ?』

カナダには行きたくなかった。
チカーノがカナダだって?
メキシコ?メキシコに親戚がいるわけでもないし。

もしどこかに逃げたとしても家族や友人が恋しくてたまらないだろうし、
だいたい彼らがわたしのことを汚いちっぽけな卑怯者と呼ぶだろうから。
だから、受け入れるしかなかったんだ」

黒人青年たちを乗せたバスの写真は、

「黒人と徴兵」

について書かれた記事に掲載されたものです。
全文ではありませんが、訳しておきます。

「ベトナムでの死傷者の数が増えるに従って、過剰統合への焦りが広がる」

と題された、デックル・マクリーンの記事はこんなふうに始まっています。

「他の多くの冷たく妥協のない風のように、徴兵制はアメリカの「黒いゲットー」の
すり減ったレンガと汚れた下張りを最も強く吹き抜ける。

そう、これは過去15年にわたりこの国の警察行動であったので、
少なくとも現在の戦争が終結するまでは今のままだろう。

黒人の徴兵者の大多数は静かにそこに行き、キャンプの者に残される
家庭料理の入った大袋だけでなく、貧弱な教育と限られた選択肢、
そして目に見えない個人的な歴史を意味する荷物を運んでいくだろう。

植民地時代のセネガルがフランスの15歳の黒人兵たちにさせたように、
ベトナムではの戦争は、彼らの軍事的奉仕を取り巻く不平等にもかかわらず、
上のものはしばしば軍隊での生活は外よりもましだということだろう。

彼は同時に入隊したブラザーとともに「白人のネズミ」よりも、
ずっと偉い「黒人のネズミ」をみることになるだろう。

アメリカンドリームに対する徴兵制の攻撃性は、多くの議論の的となっている問題だ。

昔のアメリカ人は自分たちの伝統的な個人主義とは正反対の何かをそこにみるが、
今日では不満を抱いている人だけがそこに個人的な問題を見出している。
広い視野で見ると、まるで歴史的な逆転が起こったかのようだ。

徴兵制の最も激しい反対者は、第二次世界大戦後に生まれた若い白人と、
そして黒人たち、どちらもの世界大戦から除外された彼らであることは注目に値する。

ある数字によると、1967年の黒人の徴兵者は3万7千人であり、
これは全ての徴兵者数の16.3パーセントにあたる」

この数字が全体として多いのかどうかは、当時の黒人の
アメリカ人に対する人口比率と比べてみないとなんとも言えません。

彼らが民間生活で感じるより実際多くに徴兵が不当に行われたのかについて
どうもこの人は結論をしていないように思われます。

被服を受け取る新規入隊者。
1965年サウスカロライナ州。

「わたしが見たのは、わたしがしなくてはならないことでした。
それがやってくることは知っていました。
そしてそれが避けられないことであるのも。

あたかも貨物列車のように、遅かれ早かれ自分がそこに巻き込まれていくことも」

 

引き延ばしなど考えようにも全くその範疇にいない人々は、
こうして望まない戦争に駆り出されていくことになったのです。

続く。



志願入隊者たちの『理由』〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

$
0
0

ベトナム戦争における徴兵対象者にまつわる様々なことを
徴兵拒否や延期、反戦運動などをからめてお話ししています。

■ ある陸軍中尉の日記

1969年から70年にかけて信号舞台に所属していたドナルド・フェディナック中尉の日記です。

ドン・フェディナックがこのページに記入したとき、彼はまだ
ベトナム出向への命令を受けていませんでした。

別のエントリには、

「僕の同時代人と僕がベトナムで戦うことを決めた理由がなんであれ、
誰にも『彼らは義務を果たさなかった』などと言われる筋合いはない」

という文章が見えます。

この日記は軍事訓練、海外勤務、そしてベトナムでもドンとともにあって
彼の毎日の心情が書きつけられました。

展示されているページには、

「不当な戦争を戦わなくてはならないことを自分に納得させるのは難しい」

「それは内部で一つのものを二つに引き裂く。国家に奉仕することと良心を保つこと」

「しかし抵抗することによって何が達成できるのか。
僕はいつもアメリカ人であることを誇りに思っているが、ベトナムは誇りに思わない」

「受け身になるな・・ 彼らはお前の自由を奪おうとしている」

「1812年の戦争、米墨戦争。
ベトナム戦争だけが不当な戦争というわけではない」

「とにかく僕は自分の決定で生きるのだ」

などと書かれています。

右の字は「限界まで引き伸ばしてみた!」という文字で

「NEED STRENGTH !」(強さが必要)

と記されています。

「彼らの内面にあったものは何か」

というのがこのコーナーのテーマですが、若い彼らは
自分の置かれた運命の不条理さの中で思索し、悩み、
自分がどうあるかを懸命に考えて生きていたのでした。

■ 入隊者調査の質問表

これはペンシルバニア州のセレクティブサービスが、ジョセフ・コリガン三世という人に
1966年送った質問票で、該当欄にチェックをつけてすぐに送り返すこと、とあります。

あなたは現在( )入隊前審査の登録者( )入隊予定者 の何かの登録者である

あなたが間違いなく適切に分類されていることを明らかにするために
次のフォームに記入し、同封の返信用封筒に入れて10日以内に返送してください。

1、わたしは( )独身である( )結婚している
( )離婚した( )別居している( )死に別れた

もし結婚していて情報を登録していなければ、
郵送か持参で結婚証明書のコピーを送ってください

2、わたしは(  )人同居の子供がいる

もし子供の情報について登録していなければ、
ただちに出生証明書を送ってください

3、胎児がいる場合は診断の根拠と出産予定日を示す医師の証明書を送ってください

4、被雇用者ですか(  )
もしそうなら仕事内容は(   )
雇用者名称ならびに所在位置(  )

あなたが被雇用者である場合は雇用者があなたの仕事が国民の健康、
安全に不可欠であるとした場合、延期の要求を提出してもらうことができます。

徴兵を猶予する対象であるかを申請するフォームです。

そしてこれがドラフトカード(徴兵カード)。

このこのジョー・コリガンという青年は、24歳で陸軍に徴兵されました。
彼はベトナムまで例の「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」で輸送され、
中央高原の歩兵隊に配置されました。

彼は徴兵が決まった時のことをこう書いています。

「わたしは仕事中だったが、そこに妻から電話がかかってきた。
彼女は泣いていた。
わたし宛の入隊者情報の手紙を受け取ったのだった」

■ 志願者

「曹長は、わたしたちが新婚旅行から戻って来たら『出荷』されるだろうといいました。
わたしが戻ってくるまでは予備兵の召集をしないと大統領が決定したのです。
もし招集されたら行くつもりですが、そうならないならどんなに嬉しいでしょう」

ロングアイランド在住のアート・ベルトロンは1963年、海兵隊に入隊しました。

彼は帰還して数十年後、妻のケリーとともに、以前ご紹介した輸送艦
「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」装備を保存するプロジェクトを立ち上げました。

「妻はわたしにベトナムには行って欲しくないといいましたが、
わたしは平時軍隊に10年間在籍していたので戦闘に参加する可能性もありました。

それはわたしが訓練していたことであり、それはわたしが軍隊にいた理由です。

愛国心(パトリオティズム)と軍隊への敬意と称賛がその期間、
わたしと同年代の人々には植え付けられていました」

「フルメタル・ジャケット」であまりにも有名になったシーン。
一人ひとりに罵声のような言葉を浴びせながら新兵の隊列を歩き、
何か言われた新兵は、

「サー・イエス・サー!」

と答えることしか許されない・・・。

映画「フルメタル・ジャケット」について書いた時、当ブログでは

人を兵士に変えるシステムがあるとすれば、例えばこの映画の前半で語られる、
アメリカ海兵隊の錬成システム、80日の地獄の訓練がそれである。

そこでは、まさに草食系だろうが肉食性だろうが、繊細だろうが愚鈍だろうが、
ひとしなみにその世間的な観念や常識、平和とか倫理とか、人権とかの概念を
ゲシュタルト崩壊レベルにまで打ち壊してしまうような激しい「人格否定」が行われる。



「敵を殺せ!殺さなければ死ぬのはおまえだ!
そしておまえらはマリーン・コーアとして死ね!」

という言葉が、地獄の訓練と罵詈雑言で自我を失った脳髄にねじ込まれる。

しかし戦争そのものが人間の人格を全く顧みない所業であれば、
そこに身を投じることが分かっているとき、その非人間的な空間にあっても
自己崩壊しないだけの非人間性を見につけているべきだという、
このハートマン式の非常な訓練は、至極理にかなっているということができる。

と位置付けてみました。

■ 女性志願者

さて、ベトナム戦争には女性兵士も参加したのはご存知の通り。
アフリカ系が多いなという印象です。

ちなみに名前は左からクリスティン・ベイカー、キャロリン・ミッチェル、
レナ・モンテ、マーサ・ダンカン、バーニー・アン・キアッシャー、
キャロリン・ムーア、エマ・ソーントン、そしてフェイ・コンドウェイ。

右から二人目のエマ・ソーントンがこんな証言をしています。

「わたしはベトナムに配属されたWACの最初のグループでした。
これは人生におけるアドベンチャーというものでした。
わたしは最前線の男性のために物資を調達する部署につき、
そこで多くのことを学びました」

ソーントンは1965年に婦人陸軍部隊に加わり、ベトナムで
事務とタイピストとして働いていました。

1965年5月、テキサス州ヒューストンのフォート・サムで、
陸軍の入隊者が入隊の誓いを行っているところ。

左から、ラモン・プレサスJr.はアフリカ系、フアン・ティエリナ、
そしてホセ・フェルナンデスはヒスパニック系です。

誓いを授けているのは白人でフィリップ・スミス中尉です。

陸軍のリクルートセンターの前に立っている若い男性たち。

若者の全てが徴兵を忌避しようとしたわけではありません。
国のためにと自ら志願した者ももちろん数多くいたのです。

ただ、なかにはこんなネガティブな理由で志願した者も・・・・。

 

「僕は家にいるのにうんざりしていて、家では両親といつも口論していました。
それで僕は”それ”をしてやったのです。入隊です。

それを告げたとき、父の顎は下に落ちたようになりました。
母親はなんとかして僕の入隊書類を撤回させようとしました。

1ヶ月後、僕はホワイトホールストリートに二度目の試験のために戻り、
その日のうちに陸軍に入隊登録を済ませてしまいました」

トニー・ベレスは1965年入隊し「ブラックホース大隊」に配属されました。
家にいるのが嫌で家から出るために(つまり家出同然に)入隊したというんですね。

彼の両親はおそらく息子とうまくやれなかったことを
死ぬほど後悔したことでしょう。
彼がベトナムからちゃんと生きて帰って来ていればいいのですが・・・。

■ G.I.ジョー

「G.I.ジョー」は「アメリカの可動式戦闘員」として、1964年の夏に
アメリカの市場でヒットしました。

わずか1週間でニューヨーク地域の店舗の棚は空になり、
製作したハスブロ・トイ社は大成功を収めたのでした。

アメリカの親たちは、GIジョーは第二次世界大戦時の名称であると知っていました。

彼らの息子たちは21もの可動パーツを持ち、本物のように見える装備を備えた
兵士、水兵、海兵隊員、そしてパイロットとしてGIジョーの名前を知ることになりました。

1965年、ジョーのクリエイターであった第二次世界大戦と朝鮮戦争のベテランたちは、
GIジョーのシリーズにこのたびは黒人ジョーを登場させました。

彼らは

「勇気とヒロイズムは特定の肌の色や信条の者に限定されない」

ということを示すことで、公民権運動の後押しを目指した
(というか商売に利用した?)と言えます。

 

たとえば海兵隊に入隊し1965年ダナンに送られたレジナルド・エドワーズは
入隊の動機をこのように語っています。

「俺は家が貧乏だったので、大学なんかには進学できないと知っていた。
誰も俺なんかを雇うやつはいない。
だから俺に残されたのは兵役に行くことだけだったのさ。

加えて、海兵隊員は皆『悪』で、海兵隊は『男』を作るところだった。
入隊する前は毎晩ジョン・ウェインの映画を見てるような連中だ」

貧しくて学歴がない青年は、当時軍隊にしか居場所を見つけられず、
したがってベトナム戦争の徴兵に応じるしかありませんでした。

 

続く。

 

「鉄のトライアングル」と「トンネル・ラット」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

ハインツ歴史センター特別展「ベトナム戦争」について
その展示をご紹介しつつお話ししています。

まず、このバナーの示すコーナーは

「さまざまな前線での戦争」1966−1967

として、

ベトナムではどのような戦争が繰り広げられたか?

戦争は銃後にどのような影響を与えたか?

とサブタイトルで語っています。

右の地図は南ベトナムに展開したアメリカ軍の四つの大隊の区分となっています。

1966年から1967年までの戦争の真実

米軍の規模 485,600

米軍戦死者 17,700

ARVIN(南ベトナム軍)戦死者24,700

かかった費用 320億ドル

散布された枯葉剤 700万ガロン

45パーセントの米国国民がベトナムへの軍隊の派遣は間違いだったと考えている


■ ウォー・フロント

ベトナム戦争最初の大きな戦いの一つは、1965年、ラ・ドラン渓谷でのものです。
1966年、1967年と、追加の軍事作戦がことごとく南ベトナムの地名を有名にしました。

この壁画は、四つのことなる戦術ゾーンを表しています。
(I corps、II corps、III corps、IV corpsと分けてある)

また、この地図は、アメリカの取組みをサポートするために構築された
大規模なインフラ整備などが書き込まれています。

「ランディングゾーン」の上にはタンデムヘリが物資を下ろす様子が描かれ、
そこはまた報道関係者が到着する場所ともなっています。

左上に「MEDEVAC」と書かれたヘリが飛んでいます。
MEDEVACは負傷者を後送する機体のことで、ベトナムではその多くがヘリでした。

上部のラオスとの国境近くにあるのが、以前説明した「ホーチミンロード」です。

画面右上が北ベトナム軍とベンハイ川を挟んでドンパチやっているところ。
海岸線では「サーチアンドデストロイ」も行われていますね。

海上からは海軍艦船が援護攻撃を行い、ダナン湾に停泊した空母から
海軍航空機が北ベトナムへの爆撃に出撃します。

後送された負傷者はダナン湾の病院船に搬送されます。

フエ地方ではシービーズが設営を行っています。

これらはI corpsの地域で、北ベトナムとの境にあり、
これが「前線」ということだと思われます。

続いてII  CORPSですが、やや後方なので通信大隊などが展開しています。

特別部隊が駐屯して訓練したりしていますね。
B-52が爆撃しているのはベトコンの地域でしょうか。

■ 鉄のトライアングルとベトコン・トンネル

サイゴンの北方40キロ地点に「アイアン・トライアングル」があるのにご注目ください。
共産軍が支配する地域、すなわちアメリカと南ベトナムが殲滅すべき地帯でした。

地形は平坦で、ほとんど特徴がなく、密な背の高い植物と下草で覆われており、
北部は図に描かれているように、人間の頭よりも高い「象の草」が厚く繁っていました。

狭くて荒れた未舗装の道路での車両の移動はほとんど不可能であったといいます。

さらに画面の「VC トンネル」をご覧ください。

これは仏印戦争の時にベトミンがフランス軍からの防衛のために
トンネルを掘って作り上げていた地下要塞です。

ベトナム戦争が始まると、このトンネルネットワークを破壊するため、
アメリカ軍は

「アトルボロ作戦」

「シーダーフォールズ作戦」

「ジャンクションシティ作戦」

の三つの作戦を発動しました。
たとえばシダーフォールズ作戦だけでも19日間を費やし、参加人数は
アメリカ軍1万6千人、ベトナム軍1万4千人という大勢力で、
この結果72名のアメリカ人が戦死しています。(ベトコンの戦死は720名)

B-52爆撃機、「ローマンプロウ(ローマの鋤)」という装甲ブルドーザ、
「トンネル・ラット」なる特殊部隊(懐中電灯と拳銃だけで武装し、
トンネルに潜入する訓練を受けた兵士)など、あらゆる武力を投入したにもかかわらず、
世界最強のアメリカ軍は20年以上にわたって構築されたベトコン支援システム、
この鉄のトライアングルを完全に破壊することはできなかったのです。

■ トンネル・ラット

ついでにこの「トンネル・ラット」について説明しておきます。

トンネル・ラットはベトナム戦争でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、
そして南ベトナム軍にあった地下捜索と破壊をミッションとする部隊です。

写真は10歳のオーストラリア軍兵士で、ベトコントンネルを発見し、
これを操作しているところです。

トンネルと一口で言いますが、20年かかって築き上げたベトコントンネルには、
病院、訓練エリア、倉庫、本部、兵舎などがある複合基地が築かれていたのです。

東京にもワシントンにも地下の施設が広がっていて・・・、
という話を陰謀論レベルでよく耳にしますが、ベトコンがやっていたことを
先進国の技術力でやれないわけはなく、わたしはワシントンや東京はもちろん、
ニューヨークにもそのほかの地域にもトンネル都市があるといわれても驚きません。

驚くべきは、地下都市の換気システムが大変高度なもので、あの時代に
ベトコンゲリラは数ヶ月地下に潜伏することができたという事実です。

ベトナム戦争中、アメリカ軍はそこに続くトンネルを発見しました。

そこで、トンネルラットが組織され、潜入して内部に潜む勢力を捕える、
あるいは殺すミッションを課せられたのです。

M1911銃と懐中電灯だけでトンネルに突入しようとする
ロナルド・ペイン軍曹。
しかし、若いですね。20歳そこそこで軍曹か・・・。

ペイン軍曹トンネル移動中。
っていうかこれ誰が撮ったんだ。

トンネルラットに選抜されたのは体の小さな男性(165センチ以下)だったので、
結果的にヨーロッパ系かヒスパニック系(プエルトリコかメキシコ)となったそうです。

なんというか、選ばれてもいろんな意味で羨ましがられない任務ナンバーワンという感じです。

土で掘られ、いつ崩れるかわからないような狭くて暗い穴に忍び込んでいくなんて、
誰にとっても楽しい仕事ではないでしょう。

それに、トンネルの住人もおめおめと客人を通すほど寛容ではありません。
トンネルにはしばしば手榴弾や対人地雷、そしてあのパンジ・スティークが仕込まれ、
ベトコンならではの武器、生きた毒蛇が仕掛けられました。

武器ではありませんが、ネズミ、クモ、サソリ、アリもアメリカ兵には脅威です。
脅威というほどではなくても、コウモリなどもあまり遭遇したくない動物でしょう。

それにときどきこうやって待ち構えてるんだな。ベトコン兵士が。

向こうも敵が入ってくるのは百も承知の上で、U字形の通路を通っていたら
浸水して来て溺死する仕掛けなどを作っており、毒ガスを放つこともありました。

ガスマスクを着用しないと危険だとされていたにもかかわらず、
トンネルラットのベテランによると、彼らはほとんどがガスマスクなしで
穴に潜入していました。

狭い通路でのガスマスクの着用は、視界を遮り、音声が聞き取れなくなるだけでなく、
呼吸すら困難になるという理由からです。


アメリカ陸軍第一工兵隊「ダイハード」は、1969年、
ベトナムのクチ区を巡回した時に「トンネルラットのための特別な場所」
を発見したことをのちに主張しました。

この「ダイハード」という名前におおっと思われるかもしれませんが、
陸軍の部隊はだいたいにして「スパルタン」「ウォリアー」「バトルレディ」
「マッドキャッツ」みたいな名前が基準ですので、驚くことでもありません。

さて、ベトナムのトンネルラッツたちには過酷な戦後が待ち受けていました。
戦後数年で彼らの多くが健康を害することになったのです。

坑内でひどく飽和した空気を吸っていただけでなく、アメリカ軍が武器として撒いた
レインボー除草剤など化学物質にさらされたことが原因でした。

■ ジッポー・モニターボート

この地域は IV CORPS です。
右上、空母から発艦した戦闘機が描かれている横には
「シビリアン・エバキュレーション」(市民脱出)とあります。

エアベースがあり、司令部で高官がメディアの取材を受けているところがあります。

アメリカ軍がバパーム弾を派手にやっている横の河には、
移動河川軍隊であるボートなどが展開しています。

その一番上で火をつけまくっている船が「ジッポーモニター」です。

「ジッポー」はあのライターのことで、図にも明らかな通り、
簡単に火をつけることができることからついた名称なんだろうな、
と何も調べない段階でわかってしまったわけですが、

„Zippo monitor“ in Südvietnam

こりゃジッポーだわ。

正式名はLCM(6)モニター、機動揚陸艇「リバーモニター」級であり、
ベトナム戦争中は機動河川部隊としてベトナム南部の河川で使用されました。

船首には40ミリボフォース砲、そしてM2.50機関銃、81ミリ迫撃砲が後甲板に装備。
軽機関銃とグレネードランチャーも搭載しています。 船体は鋼で重装甲されていました。   「ジッポー」と呼ばれた第二世代型は、主に川の近くの植生を焼き払うために作られましたが、
その数はわずか6隻だったということです。   ニクソンのベトナム化政策の一環として、ボートは徐々に南ベトナム軍に引き渡され、
それらはすべて、戦争のさらなる過程で破壊されたか、戦争後に廃棄されたため、 現存しているのは訓練船として使われていたものだけだということです。  
続く。        

 

映画 「シュタイナー・ 鉄十字章」(戦争のはらわた)〜ドイツ万歳

$
0
0

「戦争のはらわた」

一度聞くなり見るなりしたら、決して忘れない、インパクトのあるタイトルです。
製作者の意向を全く無視した言葉選びのあざとさといい、

「戦争は最高のバイオレンスだ」

というキャッチコピーといい、このときの配給会社(富士映画)宣伝部スタッフに
一体何があってのこの結果だろうと首を傾げざるをえません。

元々このイギリス=西ドイツ2カ国による共同制作による作品、原題は、

「Steiner - Das Eiserne Kreuz」

シュタイナーは主人公の名前で、そのあとに「鉄十字章」をつなげたものです。
イギリス始め英語圏では「The Cross of Iron」であり、通常であれば日本ではせいぜい

「鉄十字」

か、往々にして

「血の鉄十字」「悪夢の鉄十字」「偽りの鉄十字」「鉄十字はつらいよ」

なんて感じになるのですが、いきなり「はらわた」ですよ「はらわた」。

わたしに言わせると、この国内向けタイトルはいつもと「逆方向」に暴走した結果であり、
「邦題迷走選手権」があれば必ず3位以内に入賞すると信じて疑いません。

そもそも映画を観た人なら、これを「はらわた」で括ることには
誰しも異論とか懸念とか疑問とかを挟まずにはいられないのではないでしょうか。

さすがのサム・ペキンパー監督も、日本で(のみ)こんなスプラッタ風味の
悪趣味なタイトルになっているとは想像もしていなかったことと思われます。

昔の映画ですので、最初の数分間は律儀にオープニングタイトルが流れるのですが、
これがまた一風変わっております。

モノクロの第三帝国の写真をバックに、

Hänschen klein(小さなハンスちゃん)

という子供の合唱。
この曲、日本人なら誰でも知ってる

「ちょうちょ ちょうちょ なのはに とまれ」

というあれなのです。
最後のフレーズが違いますが、これは日本が唱歌として歌詞をつける際、
原曲では言葉がうまくあてはまらないため、アレンジしてあることがわかりました。

子供とヒトラー、そしてヒトラーユーゲントの山登り。

歌詞は、ハンスが一人で旅立って帰ってくるまでの話ですが、
よくよく聞くと、ハンスちゃん、戦争に行ったっぽいんですよね。

ひとフレーズごとに軍楽調のマーチが混入してきますが、それと同様、
死体や捕虜の顔など、さりげなく本作の内容を示唆する悲惨な写真が挟まれます。

さて、というわけでとっとと本編に入りましょう。

舞台は1943年後半、第二次世界大戦の東部戦線。

クリミア半島近くでソビエト軍と対峙している小隊の隊長、
我らが主人公、ロルフ・シュタイナー伍長はできる男。

彼が率いる小隊がロシア軍の前線基地をまさに襲撃しております。

この最初の戦闘シーンで、戦争映画史上初といわれる

「超スローモーションの銃撃描写」

が現れます。



ペキンパー監督は、これ以前に「ワイルドパンチ」でこの手法を試みていますが、
本格的な戦争映画にこの効果を導入して世間をあっと言わせました。
今ではそう珍しい表現ではなくなりましたが、当時は画期的だったんですね。

ちなみにこのとき、襲撃を成功させたシュタイナー伍長が部下をねぎらう言葉は、

「Good kill」(字幕では”よくやった”)

戦闘後、部下の指し示すソ連兵の遺体を見てシュタイナーが

「・・子供じゃないか」

と言った途端・・・、

別の部下が同じような子供を連れてきました。

「ロシアのヒナ鳥だ」

皆が息を飲んで見ていると、彼はポケットからハーモニカを出して、拙い調子で

「ステンカ・ラージン」

のフレーズを吹き出しました。
これがソ連国歌か「インターナショナル」だったら、命はなかったかもしれません。

少年は捕虜として隊に連れ帰られることになりました。

さて、西部戦線のフランスからシュトランスキー大尉が着任してきました。

当時のナチス将校にありがちな裕福な貴族出身の、尊大で傲慢な人物で
実力はないが出世欲だけは人一倍強いというタイプです。

彼を迎えたブラント大佐とキーゼル大尉に(字幕では副官となっていますが多分間違い)
シュトランスキー、こんなところに来たかったわけではないが、全て

「鉄十字賞をもらうためですよ」

と言い放ち、二人ともギラギラしたシュトランスキー大尉の名誉欲に鼻白みます。
なんとこのおっさん、自分さえくればロシアを打倒できるとでも思っている模様。

そこに襲撃からシュタイナー伍長が帰ってきました。

「神がかってる」 「第一級の戦士」 「危険なほど頼りになる男」
ブラント大佐とキーゼル大尉からこの男の評価を散々聞かされ、
面白くないシュトランスキー、この時点ですでに敵意満々です。

敬礼を下すが早いか「ロシアンひな鳥」を見咎め、殺せという大尉に、
シュタイナーは表情も変えず、

「ご自分でどうぞ」

と言い放ちますが、流石に子供を撃つほど非情でもない大尉が戸惑っていると、
機転を聞かせたシュヌルバルト伍長が、わたしがやっときますんでー、と、
適当にお茶を濁してその場を収めました。

ところでこのとき、シュタイナー伍長を演じるジェームズ・コバーンは48歳でした。
いくらなんでもこの歳で伍長役はないだろう、という評価は当時からあったようです。

この映画は、ウィリー・ハインリッチの小説「The Willing Flesh」
(ドイツ語:Das Geduldige Fleisch、1955年)をベースにしているのですが、
シュタイナーのモデルであるヨハン・シュヴェルトフェーガーという主人公は、
1943年の夏時点で28歳という設定でした。  

ひな鳥くんはシュタイナーが無造作に落とした拳銃を手にして
不思議そうに眺めたりしております。

そんな彼をシュタイナーはただ眺めるのみ。

BGMの悲しげなロシア風旋律にシュタイナーの内心が垣間見えます。

ここで、戦線を描いた映画のお約束、新兵くんが着任してきました。
シュタイナーへの返事にうっかり「イエス、サー」と答えてしまい、たちまち

「俺をサーと呼ぶな!」

と釘を刺されてしまいました。

アメリカ海軍もそうですが、下士官は皆「サー」と呼ばれるのを嫌います。

さてこちら、着任早々シュタイナーを呼びつけ、曹長への昇進を言い渡すシュトランスキー。
こうすれば生意気な彼も畏れいるだろうとでも思ったのでしょう。

しかし、シュタイナー、微塵も喜びません。

昇進を喜ばない軍人などこの世にいるはずがないと信じているシュトランスキー、
この彼の態度が大いに不満です。

そこで報告の言葉尻を捉え、この不遜な伍長に無理な説教を試みますが、
相変わらず人ごとのような暖簾に腕押し的反応に戸惑うばかり。


さて、というところで戦争映画ではもうおなじみ、
「ドイツ兵が皆で歌うシリーズ」!

Hoch Soll Er Leben!

本日のお題は「誕生日」。

「ホッホ・ゾレア・レーベン、ホッホ・ゾレア・レーベン」

という歌詞、つい一緒に歌ってみたくなりますね(嘘)

タイトルの意味は「彼は立派に(よく)生きるだろう」が直訳で、
字幕では

「長生きするぞ 長生きするぞ 今の3倍長生きするぞ」

となっています。(どこかの教団を思い出したのはわたしだけ?)

このマイヤー少尉の誕生日を下士官兵含む皆でお祝いしているわけですが、
戦場で「長生きするぞ」ってあなた・・・。
第一これ、フラグってやつじゃないのかしら。

ちなみに戦争映画で新兵、故郷に恋人、犬飼ってる、そして誕生日、
ときたらもうダメと思った方がいいでしょう。

彼は近いうちに戦死する運命です。

いつの間にかドイツ軍の上着を着たロシアン子供がケーキを運んできました。
クリームもなく実に不味そうですが、とりあえずローソクだけは巨大なのが立ってます。

そんな中、苛立ちをあらわにしてしらけさせてしまう者も現れますが、
シュタイナーは彼を慰め、皆をとりなして場を和ませるのでした。
下からの人望も厚いという設定だね。

ところで何かといらんことばっかり思いつくシュトランスキー。

今度は副官のトリービヒ少尉と伝令のケプラーを前に、ネチネチと
軍隊における男同士の恋愛について語り出しました。

ちなみにトリービヒは「Leutenant」となっていますが、
ナチス ドイツの階級では少尉の意味です。

ちょっとしたシーンから、この二人が「できてる」と確信を持ったのでした。
こんなことだけにはよく気がつくおっさんです。

二人はフランス戦線から志願して一緒にここにやってきたという関係でした。

ちなみに字幕も解説もトリービヒが中尉だとしていますが、
大尉の副官が中尉であろうはずもなく、これは絶対に間違いです。

当たり障りなく質問に答えていたトリービヒですが、
シュトランスキーの誘導尋問に引っかかってしまいました。

問題は、ドイツ軍では同性愛が禁じられていたということです。
ニヤニヤしていたのが急に目が座って怖いよこのおっさん。

「ラウダー!」「ラウダー!」(大きな声で)

を何度も畳み掛けて圧力をかけ、今度はケプラーにも認めさせ、
二人から言質を取るやいなや、見つかったら二人とも処刑になるぞ、と脅すのでした。

 

本作は、あのオーソン・ウェルズに高く評価されています。
彼は、この作品が「西部戦線異常なし」以来自分が観た中で最高の戦争映画だと述べました。

理由は様々ありましょうが、少なくとも日本の配給会社が「はらわた」と名付けたところの
戦闘シーンの計算されたバイオレンス描写を言っているのではなさそうです。

誕生会の次の日、ロシア軍の攻撃に備え早朝から待機しながら、
シュタイナー曹長がシュヌルバルト伍長とこんな会話をします。

「俺たち、ここで何をしているんだろう」

「ドイツ文化を伝播しているのさ・・この絶望的な世界に」

「誰かが言っただろ?"War is an expression of civilisation by any other means."
『戦争は違う手段による文化的表現だ』と」

「そうだ、あのアホは・・・フリードリッヒ・フォン・ベルンハルディ」

「クラウゼヴィッツは・・」

「クラウゼヴィッツか。あいつはこう言った。
"War is continuation of state policy. "『戦争は国策の延長である』」

「"...by other means."(形を変えた)」

「そうだ。形を変えた」

フォン・ベルンハルディはプロイセンの軍人で軍事学者でもあります。
第一次世界大戦には現役で参戦し、戦死しました。

シュタイナーと伍長、両人の教養と知識の高さを表すとともに、
戦争の本質を観る者に問いかけようと試みる制作の意図が窺えます。


ロシア軍が攻撃をかけてくるという情報により待機している守備線で、
シュタイナーはソ連軍の子供捕虜を逃してやります。
この子供役はどこで調達してきたのか、本物のロシアンキッズです。
そのとき、それまで一言も喋ったことがなかった子供が、   「シュタイナー」   と彼の名を呼び、ハーモニカを投げて寄越しました。


しかしその直後、やってきたソ連軍の斥候兵に撃たれてしまいます。
フラグには「ハーモニカ」も付け加えることにしましょう。


茫然と死んだ子供の顔を見つめたのも一瞬でした。
ソ連軍が威力偵察をかけてきたのです。
  ドイツ側の塹壕にまで迫ってくる勢い。

ブラント大佐は激しい攻撃に狼狽するシュトランスキーに電話で指示を出します。
ていうか、この人戦場で何をオタオタしているの。 大口叩いてた割には怖がりさんなのね。  
そして激しい戦闘でフラグの立っていたマイヤー中尉も戦死。
果敢に部下を指揮していましたが、塹壕に侵入した敵の銃剣に刺されるという壮絶な最後です。


その後の戦闘で意識を失ったシュタイナーが幻覚から目覚めると、
  美しい看護師、マルガが彼を覗き込んでいました。

仲間を何人も失ったあの戦闘で、シュタイナーは脳震盪だけですんだのです。
しかし、名誉の負傷ということで帰国を許されることになったのでした。  
負傷兵を収容する病院では、高官の視察のためにパーティが催されました。
負傷兵バンドが演奏するのは、   So ziehen wir unter fremder Fahne(もろい者どもが慄いてるぞ)
  全員直立不動で合唱しているこの歌は、ナチスの進軍歌です。
よーつべで探したのですが、ブラックメタルバージョンしかありませんでした(謎)

昏睡から覚めたばかりのシュタイナーは幻覚が消えず、
部下と他人を見間違えます。

しかし当時にしてこの特殊メイク、すごいね。

  そこに高官がやってきて負傷兵の「閲兵」を始めました。
  こんな人に握手を求めてみたり。
  ちなみにこの兵隊さんはしつこく左手に握手を求められると、
やはり手首から先のない左手を見せ、次にほらこれとでも握手しろよ、
といわんばかりに無表情で足を持ち上げてみせます。  
高官は次に握手をガン無視するシュタイナーに一瞬むっとしますが、
その胸に並んだ戦功の証である各種バッジに気がつくとたじろぎます。
ちなみにこの高官、宴席の料理から肉と酒だけ自室にちゃかり運ばせて、負傷兵たちには   「野菜を食べろ。体にいいぞ」  
シュタイナーは美人の看護師とすっかり意気投合。 ダンスの時に流れているのは、ヨハンシュトラウスの「ウィーン気質(かたぎ)」です。     しかし、一夜が明けてみると、彼は結局隊に戻ることを選択するのでした。 さっさと荷物をまとめ、寝室を出ていこうとすると、彼女は

  「戦争が好きなのね」   そしてひとことも返事をしない男に向かってこう最後に呟くのでした。   「ドイツ万歳 ”Long live Germany."」  
続く。

映画「シュタイナー・鉄十字章」(戦争のはらわた)〜鉄十字章の取り方

$
0
0

「戦争のはらわた」二日目です。

しばしの療養生活から望んで帰隊したシュタイナー曹長、
さっそく小隊の皆から歓迎を受けます。

なぜかロシア軍の帽子をかぶっている粗暴なクリューガー伍長も。
演じているクラウス・レーヴィッチはドイツの俳優です。

部隊にはナチス党員だという怪しげな男が転勤してきていました。
このツォルとかいうの、トラブルメーカーになりそうな予感・・・。

帰隊したシュタイナーを早速シュトランスキー大尉が呼びつけました。

曰く、今回のロシア軍への反撃を成功させたのは自分であるから、
鉄十字章を申請する手続きに必要な2名の証言人のひとりになれと。

地下壕から一歩も出ないでずっと電話にしがみついていたのは誰でしたっけ。

ちなみにもう一人の証言者、トリービヒ少尉はすでにサイン済み。
同性愛であるという弱みを握られているので嫌も応もありません。

呆れた様子で返事をしないシュタイナーに、シュトランスキーは早速階級論をぶち、
早い話、君らが逆らっても所詮上級には勝てないよ、というようなことを言うのですが、
シュタイナーはそれに対し、

「カントは馬具職人の子だし、シューベルトは貧しい教師の子だ」

と皮肉に答えて暗に相手の無能を皮肉ります。

そして自らの鉄十字章をぞんざいに放り投げ、所詮鉄屑だと言い放ち、
さらにこんなものになぜこだわるのかを問いただすシュタイナーに、
シュトランスキー、突然しおらしくなって、

「鉄十字章なしでは故郷に帰った時に家族に合わせる顔がない」(´・ω・`)

なるほど、なまじ上級国民ゆえのプレッシャーというやつですか。
そこにもまた勝たねばならないヒエラルヒー闘争が存在するというわけなのね。

そんなことを言っている間にも空爆が前線を襲います。
そこでただ一人生き残ったクリューガーをシュタイナーは抱きしめるのでした。

ブラント大佐もまたシュトランスキーには大いに不満を抱いていました。

戦闘中やっていたのは電話にしがみついて大佐に電話していただけなのに、
反撃の指揮をしただと?鉄十字章だと?というわけです。

そこで大佐はシュタイナーを呼び寄せ、シュトランスキーの現場の様子を聞き、
鉄十字章を受けるにふさわしいのかを確認しようとします。

 

シュタイナーは、反撃の指揮は戦死したマイヤー少尉が行なったのであって、
シュトランスキーの姿は見ていない、と断言します。

ブラント大佐は今度はトリービヒ少尉を呼びつけ、
本当にシュトランスキーが指揮するのを見たのか、見ていないなら
なぜ証言のサインしたのかと問い詰めます。

トリービヒは苦しい抗弁を試みますが、キーゼル大尉の聴取した
隊員の証言をもとに追い込まれてしまいました。

「このままでは大尉を起訴せねばならん。君もな」

しかし、肝心のシュタイナーが告発に全く乗ってこようとしません。
するともしないとも言わない彼にブラント大佐は怒りをあらわにしますが、

「将校は嫌いだ。この制服とこれにまつわるもの全てが」

という憎しみすら帯びた彼の返事に言葉を失うのでした。

戦況は完全にドイツ側の不利になり、全中隊が交代を余儀なくされます。

迫りくるロシア軍の戦車。

ところがどっこい、その筋の情報によると、この戦車は
映画の時点では生産されていなかった85mm砲を搭載したT34だそうです。

史実に正確であろうとすれば、76 mm砲を搭載したT34が正しい選択ですが、
映画が作成されたときには後者はもう残っていなかったため、こういうことになりました。

間違いといえば、ロシア軍の空爆シーンで飛んでるこの飛行機ですが、
・・・・どう見てもF4Uコルセアではないでしょうか。
写真ではわかりませんが、画面では瞬間アメリカ軍のマークらしきものも見えます。

映画の最後の方にはテキサンらしき機影も確認できます。

そんな中、なぜか取り残されて逃げ惑うシュタイナー小隊。

全隊を後退させよという司令部の命令が出ていたのに、
例によってシュトランスキーのおっさんが情報を握り潰し、
退却命令を伝えられないまま、この状態に取り残されてしまったのです。

逃げ込んだ廃工場にも遠慮なく突き進んでくる戦車。
これは怖いわ。

どうもこの一連の戦車シーンは、せっかく借りてきたので
できるだけたくさん登場させましょうということのようです。

中央から通知を受け取ったブラント大佐は苦々しげです。

憎まれっ子世に憚る。

戦闘のとき何もしていなかったにもかかわらず、
今や鉄十字章候補となったシュトランスキーをパリに転勤させよというのです。

彼の嘘を暴きたいのは山々ですが、シュタイナーが反証しないので、決め手がなく、
そもそも彼は小隊とともにどこへ消えたか行方不明になっていたのでした。

その時シュタイナー小隊は樹上に身を隠し、草の中をミミズのように這い、
脱出地を求めて当てどもなく彷徨っていました。

新兵君はまだ生きているようですが、ここで

「日向を踏んだら負け、命がなくなる」

という呑気なひとり占いゲームをやっていて呆れられます。

敵を静かに始末しながら川を(というか橋の下を)超えると・・・、

いきなりそこにはR18指定シーンが!

なんとソ連軍女性兵の小隊でした。

ソ連軍は女性兵士をパイロットやスナイパーにしたりして、前線で徴用していましたが、
このような女性だけの戦闘部隊があったのかどうかは謎です。

この綺麗どころは、おそらくセンタ・バーガーというオーストリアの女優です。

ろくに内部を確かめず急襲して一人二人撃ち殺してしまってから、
女性ばかりの部隊であることに驚くシュタイナー小隊の皆さん。

「へっへっへ、戦利品だ」

戦場あるある。
いきなり興奮して襲いかかる奴あれば、女性兵士の風呂桶に一緒に肩まで浸かってしまう奴あり。
まあ、これもまた悲しいかな理(ことわり)というものでしょうか。

ところがたちまちシュタイナーやシュヌルバルト伍長に叱責されてます。

久しぶりに女性を見て心をときめかせたり不埒なことを考えたり。
叱られても止められても男どもは浮き足立たずにはいられません。

しかし彼らは忘れています。
これらの女性は女性の姿形をした軍人であることを。

新兵君は見張り中、たちまち美しい一人の兵士に一目惚れしてしまい、
彼女が笑みを浮かべて近づいてくるのにうっとり。

そしてあっさり刺されてしまいました(-人-)ナムー

新兵フラグがこんな形で回収されるとは。
しかし新兵君、虫の息で涙を流しながら、健気にも

「彼女を・・・虐めないで」

(´;ω;`)

そして本作の衝撃度ナンバーワン。
男性なら心胆寒からしめざるを得ずかつ戦慄せずにいられない(知らんけど)R18シーンです。

この映画が「はらわた」で通ってしまった原因は、もしかしたら
このイメージを敷衍させようという配給会社の深謀遠慮かと勘ぐりたくなります。


ところで、相手がただの女性ではなく兵士であることを少しでも考慮すれば、
いくらおめでたい男でも、ちょっとは危険を察知してこの挙に及ぶことは厳に控えそうですが、
こいつ(ツォルというナチス党員)、もしかしたら馬鹿なのか?

叫び声を聞きつけて馬小屋に駆けつけたシュタイナーも、その点当ブログと同意見で、

「馬鹿か(”stupid”)」

と嘆息を漏らします。

そしてすぐさまロシア女性兵を集め、連行しますが、
処刑される覚悟を決めた女性兵たちが連れて行かれたのは、なんと
ツォルが股間を押さえて悶え苦しんでいる「事故現場」でした。

すわ!と緊張する女性隊長に、シュタイナーは、

「好きなようにしろ」

と言い捨て、そのまま小隊を率いて去ってしまいました。

まるで解放後の強制収容所で囚人たちの前に護衛なしでナチス幹部を立たせたアメリカ兵、
あるいはキリストに石を投げる群衆を放置したポンショ・ピラトみたいです。

周りから憎悪を滾らせた女性兵士たちに詰め寄られ、

「ひいいいい〜〜〜!」

と断末魔の叫びを上げるツォル。
きっと恐怖のあまり痛みだけはすっかり忘れて人生の最後を迎えることができたでしょう。
知らんけど。

司令部への攻撃も激化していました。

ブラント大佐がGQ、総司令部と通話しています。

「今すぐ早急にここから出したい者がいます。
司令部要員と共に連れ出してもらえませんか」

大佐、キーゼル大尉を戦地から帰らせようとしているのでした。

しかし、字幕でこの”get out"を「追い出す」としているために、
まるで大佐がこの前のシーンで大尉が自分の言うことを聞いていなかったので、
腹を立て、追い払おうとしているように勘違いする人もいそうです。

そうではないことは撤退命令に従えないとごねるキーゼル大尉を
大佐が説得する言葉にも明らかです。

この部分は、映倫的に問題があったのか、一部訳が違うので、
英語のセリフをそのまま翻訳しておきます。

「君はシュタイナーのそばに長くいすぎたな。まあ聞いてくれ。
我々ドイツ人の多くにとって『駆除』は長らく待っていたことだったが、
私は君を救う価値があると判断した」

キーゼル大尉「しかし私もこの一部です。
私より優れた人間がいるのに、彼らの多くは外で殺されている」

「君は何も悪くないさ。 タバコの吸い過ぎ以外はね。
君は勇敢な男だ。自分が思っているよりも勇敢だ。
近い将来、勇敢な民間人が必要になるだろう、そう考えたことはないか?

新生ドイツでは・・もしそんなものがあればだが、建築家や思想家、詩人が必要になるだろう。
君の仕事が何であるか、私には見えてきたよ。

これが私からの最後の命令だ。
そういった・・・うん、君の言うところの『より良い』人々を探し出して連絡を取れ。
そして彼らと共に、生きることに伴う責任を負うんだ。
君がここを離れるときだ。

・・・頼むから出て行ってくれ」

赤字の部分は言うまでもなくユダヤ人抹殺のことですが、訳されていません。
日本語訳なのに誰に配慮しているんだろうと言う気がしますが。

そして着の身着のままで駅に送られるキーゼル大尉でした。

さて、こちらシュタイナー小隊。

「敵は我々を許すかな」

シュタイナーからロシア少年兵の遺品となったハーモニカを受け取り、
戦地の野営でで恋人を想う歌の旋律を吹き始めると、皆が唱和します。

Deutsches Soldatenlied "Im Feldquartier auf hartem Stein"

「疲れた手足を伸ばし 夜の暗がりの中 歌を贈る
大好きなあの娘のもとに・・・」

シュタイナーはある作戦を立てました。

彼らはすでに女性兵士から奪ったソ連軍の軍服を着ています。
二人をドイツ軍の捕虜ということにして(この”捕虜役”はシュタイナー自身とアンゼルム)
ソ連軍前線に潜入しようというのですが・・・

ブーツでソ連兵ではないことがバレてしまいました。

バレたからにはとりあえず殲滅し、武器と通信機を奪います。
奪った無線で味方に、こちらは事情があってソ連軍の制服を着ているが
中身はシュタイナー小隊なので誤射しないようにと連絡をするのですが、



シュタイナーの名前による無線を受け取ったのはなんとシュトランスキーでした。

シュトランスキー、にっくきシュタイナーを消すチャンスです。
トリービヒ少尉の弱みをまたしても有効活用すべく、こんなことを囁くのでした。

「暗闇にソ連兵の制服を着た一団がやってきたら、発砲してもやむをえん・・だろ?」

「は・・・はい」

うまくやれば戦線から南仏にご招待してやる、という餌までぶら下げられたトリービヒ、
すっかりやる気です。

誤射しないようにという伝達が味方に伝わっていない場合を考え、
彼らは一応捕虜とそれを引率するドイツ軍という設定で歩き出しました。

捕虜役を前に立て、合言葉である「境界線」と「シュタイナー小隊」を叫びながら進みますが・・・、

無情にもトリービヒは部下にシュタイナー隊への発砲を命じました。

「シュタイナーだ!」

銃撃を命じられたドイツ兵の何人かは味方であることに気づくのですが、
トリービヒは「撃て!」を繰り返し、ついには銃手を押しのけてまで殺そうとします。

ちなみにこの時のBGMは壮大かつ悲劇的エモーショナルです。

生き残ったのは3人でした。
シュタイナーは自分たちを撃たせたトリービヒに詰め寄ります。

「シュトランスキー大尉の命令だ!」

この期に及んで言い訳をするトリービヒですが、仲間を同胞に殺された怒りが
こんなことで治まるはずがありましょうか。

この瞬間シュタイナーの脳裏には、死んでいった仲間の顔が・・・
あまつさえあのソ連の少年兵の面影までもが次々に浮かんでいました。

天誅!

とばかり卑怯者に何発も銃弾をぶち込むシュタイナー。
まるでその数が死んでいった仲間の分と言わんばかりです。
倒れた彼の身体に、生き残ったクリューガーがナイフを突き立てました。

シュタイナー小隊の生存者はこれにアンゼルムを加えた3人です。
連れて行ってくれと頼む二人ですが、シュタイナーはクリューガーに、

「おまえが小隊長でアンゼルムが小隊だ」

と言い残し、

「借りを返しに行く」

と二人を置いて去っていきます。

ソ連軍の攻撃が激化する前線で、シュタイナーはついにシュトランスキーを発見しました。

「腐れ切ったプロシア貴族の・・・豚めが!」

とりあえず銃をぶっ放しますが、不思議なことに彼はこの男を殺しません。
それどころか銃を持たせて、

「俺が小隊長でこれからあんたがおれの小隊だ。
ついてこい。あんたに鉄十字章の取り方を教えてやる」

ブラント大佐は果敢にも自ら銃をとって前線を守り攻勢に転じようとします。

しかし、彼がその後どうなったのかは描かれません。
静止したブラント大佐の画像に冒頭の「小さなハンスちゃん」が重なります。

シュタイナーはシュトランスキーを「引き連れて」前線を闊歩しはじめました。
シュトランスキーは線路につまづいて転びますが、脚本にはなく、アクシデントだそうです。
当作品はお金がなかったので、撮り直しはできませんでした。

「装填は・・・装填はどうやるんだ曹長!」

MP40の装填方法がわからず無様に助けを求めるシュトランスキーを
容赦無くソ連兵の銃弾が襲いますが、不思議なことにそれは
あの少年兵が撃ったものだったりするのです。

シュトランスキーの醜態を見たシュタイナーは愉快そうに大声で笑い出します。

  

その笑い声は、「Hänschen klein」と重なり、戦争の犠牲になった
民間人のモノクロ映像に切り替わるクレジットまで続くのでした。

 

最後に一言:この映画に「戦争のはらわた」のタイトルは絶対におかしい。

終わり

ベトナム・モラトリアム対サイレント・マジョリティ〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

$
0
0

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」から、
大きな壁画で表された南ベトナムの「四つの戦術ゾーン」についての解説です。

■ ウォーフロントとホームフロント=前線と後方で

四つに分けられた戦術ゾーンには、それぞれ軍の支援をサポートするために
アメリカが構築した大規模なインフラがありました。

ベトナム戦争というとともすれば米軍と韓国軍しかイメージが湧きませんが、
実際はオーストラリア軍、ニュージーランド軍、そして
タイ、フィリピンからも派遣団が参加しています。

そして、南ベトナムとベトナム中央高地のベトナム先住民もまた、
アメリカ軍、そして南ベトナム政府軍と一緒に参戦しました。


アメリカ軍ならびに連合軍が対峙したのは、まず、南ベトナムのゲリラ組織。
これはアメリカ人にはベトコン(VC)として知られた存在です。

そして対戦相手であった北ベトナム軍(NVA)の兵士たちです。
彼らはラオスとカンボジアを経由して入国して来ました。

共産国であった中国とソビエト連邦は、アメリカの敵対側に
後方支援ならびに兵器を提供することで戦っていました。


ジョンソン大統領は北ベトナムへの侵攻を行いませんでした。
その理由は、中国との直接対決となる戦争を恐れたからです。

従ってアメリカ主導の軍隊は、南ベトナムの複雑な国土の中で戦うことになりました。

アメリカ軍の目的の一つは、敵を見つけてこれを排除することでしたが、
ベトコンと北ベトナム軍は、ホームグラウンドの地形を知悉したうえで、
戦う時間、場所を選択することにより、被害を最小限にする作戦をとりました。

アメリカのもう一つの目的は、意外なようですが、

「南ベトナムの人々の心を掴む」

ということでした。

しかしながら、この目的は、民間人を危険に晒す軍事戦術を取ったことで、
結果的にあらゆる面から困難になっていくことになります。


あるアメリカ軍の将軍がこのように指摘しています。

「戦場と呼べるものは何処にもないようで、実は全ての場所が戦場だった。
しかも、前線を識別するのは不可能で、安全な後方というのも存在しなかった」


多くのアメリカ人兵士たちがベトナムで精神をやられたことの根本的な原因は
ここにあったといわれています。

 

そして「ホーム・フロント」は?

それは戦争が深みに嵌っていくにつれて一層複雑な様相を呈していました。

今や公民権活動家や不満を抱く退役軍人などの共通のテーマとなった
平和運動は日に日に拡大していきます。

戦争は街頭での公開討論、家族内での議論、そして抗議を引き起こしました。
それだけ問題は深刻だったのです。

戦争反対と愛国心、これらはなんなのか?

市民権の論理的責任と世界情勢の中でのアメリカの権力の濫用とは?

アメリカという国はこのときこれらの根源的な問題に直面し、揺れていました。


■ 兵士と市民

ベトナム戦争の期間、18歳から26歳までの若者の10人に4人が軍服を着ました。
10人中6人は、民間の服を着ることを決してやめようとしませんでした。

ドン・フェデナックとデビッド・コーンは、戦争中、徴兵制の対象となった
2700万人の男性のうちの二人です。

偶然彼らはどちらもアートスクールに進学しました。

ドンはマンハッタンのビジュアルアーツに。
デビッドはブルックリンのプラット・インスティチュートに。

その後彼らの道は分岐することになります。

この右側のはドン・フェデナックのジャングル・ファティーグ・シャツです。
彼は徴兵された後信号隊に入隊し、最初にクィーンズのアストリアにある
陸軍ピクトリアルセンター(絵画センター)で訓練のための映画を制作しました。

(ピクトリアルセンターは現在カウフマン・アストリア・スタジオと動画博物館になっている)

彼は1969年までベトナムに派遣されてそこで撮影の仕事を行っていました。

左のデニムジャケットはデイビッド・コーンのものです。

前面に散りばめられた政治的なボタンは、その時代の社会運動を支持し、
軍隊と戦争に反対するメッセージとなっています。

彼の「ベトナム・モラトリアム」ボタンは、1969年に行われた
大規模な戦争反対運動を表しています。

 

■ ベトナム・モラトリアム

「ベトナム・モラトリアム」は、正確には

Moratorium to End the War in Vietnam
(ベトナム戦争を終わらせるモラトリアム」

という大規模な反戦デモであり、ティーチ・インでした。
1969年10月15日に行われ、その1ヶ月後にはワシントンDCで行進が行われました。

 

本格的な大衆運動のレベルに達した初めての初めての反戦運動だったといわれます。

 

1969年、共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任したときには
すでに約34,000人のアメリカ人が、その後ニクソンの就任1年間で
さらに1万人がベトナムで戦死していました。

ニクソンは1969年に「名誉ある平和」とベトナムについて語りましたが、
国民は本質的に彼の政策はリンドン・ジョンソンのものと何ら変わることないと断じ、
若者たちは様々な方法でこれに反対を表明しだしました。

ヒッピーなどのようなカウンターカルチャーでも新左翼でもない一派が
ニクソンに訴えるための説得力のあるグループ、たとえば公民権運動、教会、大学の学部、
組合、ビジネスリーダー、政治家などの支援を募って集まったのが
「ベトナム・モラトリアム委員会」です。

この集会は大成功し、延数百万人が参加する大イベントとなりました。
後の大統領ビル・クリントンもその一人だったそうです。

ワシントンDCのモラトリアム行進に参加したのは25万人でした。


これらの運動を受け、マスコミへの声明の中で、ニクソン大統領は

「いかなる状況においても(政策に)影響はない」

と述べました。
その心は、「路上でなされた政策は無政府状態に等しい」というものでした。

ニクソンはモラトリアムに完全に無関心を装っていましたが、
個人的にはこれに激怒し、また焦りを感じていたといいます。

政府はモラトリアムのことを、

「自分たちを知識人と思いこんだ無礼なスノッブ(俗物)で女のような
(長髪ということか)一群に焚きつけられて国民にマゾヒズムが広まっている」

「より荒々しく、より暴力的な」

「筋金入りの反対者とプロのアナキストに支配されている」

と非難しましたが、タイム誌などメディアは

「モラトリアムが反戦運動に新しい尊敬と人気をもたらした」

とこれを絶賛しました。

 

■ ”サイレント・マジョリティ・スピーチ”による反論

1969年11月3日、ニクソンは全国テレビでのスピーチで、
ベトナム制作に対するサイレントマジョリティたちの支持を求めました。
これがいわゆる「サイレントマジョリティ・スピーチ」です。

この内容は、

「我々はベトナム反戦抗議者たちの目標を共有する」

しかしながら、

「米国はベトナムで勝利しなければならず、北が降参するまで戦争を続ける必要がある」

「米国が南ベトナムを支持しなければアメリカは同盟国からの信頼を失う」

であるから、

「ニクソン政権のベトナム化政策はベトナムにおけるアメリカの損失を徐々に減らす」

というものでした。
こうしてニクソンはアメリカ大多数のサイレントマジョリティ—に支持を訴えました。


驚いたことに?ニクソンの「サイレントマジョリティ・スピーチ」に対する
国民の反応は非常に好意的で、直後にホワイトハウスの回線は激励の電話でパンクしました。

この頃のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって国の半分が支持、半分が反対と、
全く国が二分されている状態だったと言われています。


■ ソンミ村虐殺事件をうけてー2度目のモラトリアム行進

1969年11月、米陸軍特殊部隊のロバート・ロールト大佐が
ベトコンのスパイ容疑をかけた南ベトナム当局者の殺害を命じた罪で起訴されました。

これに続き、アメリカ国民にとってさらに衝撃的なことに、1969年11月12日、
ソンミ村虐殺事件によって指揮官のウィリアム・カリー中尉が起訴されました。

以降、ソンミ村虐殺事件はベトナム戦争の残虐行為の反戦運動の象徴となり、
これが二度目のモラトリアム行進につながっていきます。

 

1969年11月15日土曜日に行われた二度目のモラトリアム行進では、
参加者それぞれが、死んだアメリカ兵(または破壊されたベトナムの村の名前)
が書かれたプラカードを持ち、沈黙して歩きました。

デモ参加者は最終的に325,000人に達しました。

ニクソンは、彼らが手にしているろうそくを吹き消すために
ヘリコプターを送るべきだと笑えない冗談を言ったといわれます。


50万人のデモ参加者がホワイトハウスの向かいに集まり、
ジョン・レノンの新曲”Give Peace A Chance”が歌われました。

この2番目のモラトリアムに参加した有名な人の名前を挙げておきます。

レナード・バーンスタイン(指揮者・作曲家)
ピーター、ポールアンドマリー(フォークソンググループ)
ジョン・デンバー(カントリー歌手)
アーロン・ガスリー(フォークソング歌手)
クリーヴランド弦楽四重奏団

デモ隊と警察は所々で衝突し、催涙ガスが撒かれました。

モラトリアムはその後サンフランシスコ、オーストラリアでも行われました。


ベトナム戦争展の展示をもう少し紹介していきます。

■ 兵士のヘルメット

ベトナム戦争に参加した兵士たちはしばしばヘルメットにメッセージを書きました。

このヘルメットの持ち主は、ベトナム戦争中のいくつかの主要な戦いに参加しており、
その場所が書き込まれています。

「クイニョン」「プータイ」「プレイク」「フーカット」「ビンディン」

いずれもベトナムの地名です。

こちらはARVIN(Army of the Repubric of Vietnam)の
レンジャー大隊兵士のヘルメットです。
彼らは四つのいわゆる戦術地域の全てで従来型、そして対反乱作戦を戦いました。

彼らの徽章である黒豹がペイントされています。

って、これ黒豹だったのか・・・。 

  /\___/\
/ ⌒   ⌒ ::: \
l (●), 、(●)l    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
l  ,,ノ(、_, )ヽ、,,  l  < やるじゃん
l   ト‐=‐ァ'  ::::l    \_____
\  `ニニ´ .:::/
/`ー‐--‐‐― ´´\

 

 

続く。

ある良心的兵役拒否者と「星条旗よ永遠なれ」(ジミヘン)〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

$
0
0

  

 

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、このあたりから
パネルではなく物品による展示が増えてきます。

■ ベトナムの漁船〜ダグ・ホステッター

漁船というよりボートですね。

ベトナムクアンナム省のKy Phu(キー・フー?)村の漁師が、
ダグ・ホステッター氏にプレゼントしたボートの模型だそうです。

ダグ・ホステッターはいわゆる良心的兵役拒否者でした。

宗教上の戒律などで戦闘行為に加わることができない兵役拒否者は、
その代替となる任務を行うことが定められているのですが、
ホステッターは自ら南ベトナムに行くことを志願し、そこで
避難してきた難民を収容するメノナイト委員会の活動を支援しました。

難民の親たちから、子供たちの学校教育の機会が必要であると聞き、
彼はタムキ近くの村の難民キャンプで識字教室を組織しました。

Courtesy of Doug Hostetter

Doug Hostetterとベトナムの子供たち

Hostetter

ホステッター氏近影。イケメンぶりは変わらず

 

彼はメノナイト教徒です。
メノナイト( Mennonite、メノー派)は、メノ・シモンズの名前に因んだ
キリスト教アナパブテスとの教派で、ブレザレン、クェーカーとともに
歴史的平和教会の一つで、

非暴力、暴力を使わない抵抗と融和、そして平和主義

を教条としています。

メノナイトはベトナムに中央委員会を組織しており、
教徒は誰も敵と認識せず、平和のため愛と真実を武器とする「戦い」をしていました。

もちろん、この教派の主義は政府のそれと相容れないものです。

米国政府は、北ベトナム政府ならび南ベトナムで活動しているゲリラ、
ベトコンを敵として戦争を行っていたわけですから。

ホステッターはタムキという村に送られました。
そこには難民で溢れていました。

彼の仕事はタムキの難民が何を必要としているかを知り、それを手伝うことです。
驚いたことに、難民の家族は子供たちが読み書きできることを最も望んでいました。

彼はタムキのいくつかの高校で英語を教えていましたが、彼自身がベトナム語を勉強し、
識字教室のためのボランティア教師を組織するなどの活動を行いました。

プログラムは大成功でした。
タムキでの3年間の終わりまでに、90人の高校生が
3,000人以上の難民の子供たちに読み書きの方法を教えることができたのです。

彼がタムキに着任した日、家の家主はこう言いました。

「.50口径の機関銃があれば、海兵隊員が来るまで
NLFを食い止めることができます」

彼は、それに対し、

「メノナイトは武器を使いません。
防御のためにすらそれを必要としないのです。
なぜなら我々は神を信頼し、すべての人々と平和に暮らすように努めています」

と答えました。

タムキでは地元のベトナム共和国陸軍(ARVN)とNLFの間で戦闘が行われ、
通りで行われた銃撃戦ではARVN兵士が米国製のM-16ライフルを発射し、
NLFゲリラがロシア製のAK-47ライフルを発射するのがはっきりと聞こえました。   メノナイトのスタッフは、軍事施設に住まないことを選択した唯一のアメリカ人であり、
おそらく敵にとってもその気になれば簡単に侵入できたはずなのに、 彼らの住居はベトナム人から決して攻撃されませんでした。
しかし、彼らが無傷だったわけではありません。
非暴力主義を貫いた良心的兵役拒否者も、非暴力に訴えれば
それが安全を保証するなどということは誰も考えていませんでした。

ベトナム戦争中に3人の兵役拒否者が命を落としています。

メノナイトのダニエル・ガーバー、ブレザレン教会のテッド・スタッドベイカーは
ベトコンに殺害され、クエーカー教徒のリック・トンプソンは飛行機墜落事故で亡くなりました。

彼らの立場は大変難しいものだった、とホステッターは言います。

「わたしはほとんどのベトナム人にとっては普通にアメリカ人であり、
しかもアメリカがベトナムとの間に始めた戦争の、
戦闘地帯の真っ只中にいるアメリカ人の一人であることに気づきました」


彼は3年の任務の終わりに、神の守護に感謝するとともに、
死んでいった人々に対し罪悪感を感じずにはいられませんでした。

ちなみに彼の親友の父親は、米軍と同盟軍であったはずの
韓国軍に殺されたということです。

■ サウンド・オブ・ザ・タイムス

ベトナム戦争は、ロックンロール、ソウル、ブルース、フォーク、
ジャズ、ゴスペル、リズム&ブルースの各スタイルのミュージシャンに
多大な影響を与えました。

音楽の多くは戦争をテーマにし、その出来事を反映しており、
戦争継続に抗議するという意味を持たせてありました。

いくつかの曲はアメリカのG.I. たちのお気に入りとなりました。

ここにはそれらの代表的な曲と演奏者が描かれています。

スター・スパングルド・バナー(星条旗よ永遠なれ)/マシンガン・・ジミ・ヘンドリックス 

Masters of War(戦争の親玉)・・ボブ・ディラン

This Is My Country(これが我が祖国)・・・・インプレッションズ

Bring the Boys Home(若者たちを故郷に戻せ)・・・フレダ・ペイン

Eve of Desturction (破滅の夜)・・・バリー・マクガイア

Ball of Confusion(That's What the World is Today)
混乱の夜会(それが今日の世界だ)・・・・・テンプテーションズ

What's Happening Brother (ブラザーにおこったこと)・・・マーヴィン・ゲイ

Universal Soldier(普遍的な兵士)・・・・バフィー・セントマリー

7O'Clock News/ Silent Night(7時のニュース/きよしこの夜)・・・・サイモンとガーファンクル

Soldier Boy(ソルジャーボーイ)・・・・・・・・・ザ・シュレルズ

War(戦争)・・・・エドウィン・スター

GIve Peace a Chance(平和にチャンスを)・・・プラスティック・オノバンド

■ Fortunate Son(幸運な息子)

・・・クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル

この曲はアイゼンハワーに触発された曲だといわれています。

ドワイト・アイゼンハワー元大統領の孫のデイヴィッドが、1968年、
ニクソン大統領令嬢のジュリー・ニクソンと結婚したとき、
作者フォガティはこのようにインタビューで語りました。

「ジュリー・ニクソンがアイゼンハワーの周りをうろついていることだけで、
彼らが揃いも揃って戦争に係わるつもりが無かったのは明らかだった。

1968年、アメリカの大半は軍人達が士気高く戦っていると信じていて、
80%の人々が戦争を支持していた。

しかし注意深く事態を見守っていた人々は、アメリカが
どうしようもないトラブルに向かっているのを知っていた」

タイトルの「幸運な息子」(Fortunate Son)とは、
デビット・アイゼンハワーのような、そう、
徴兵を親の力で難なくのがれることのできる議員や富豪の息子のことです。


ある者は旗を振るために生まれた
赤と青と白の旗を

そして楽隊が大統領を称えるために演奏するとき
ああ、彼らは大砲を主のいるところ目掛けて撃つ

それは俺じゃない それは俺じゃない
それは上院議員の息子のため
俺は幸運な息子じゃない

ある者は銀の匙を手にして生まれてくる
彼らは働かなくてもいい
でもタックスマンがやってきたら
彼らの家は慈善バザーに早変わり

俺は軍人の息子じゃない
億万長者の息子でもない

彼らはお前たちを戦場に送り出す

「どれくらいそれが必要なんだ」

と聞いても彼らの答えは

「もっと、もっと、もっと」

それは俺じゃない
俺は軍人の息子じゃない
俺は幸運な息子じゃない

Say It LoudーI'm Black and I'm Proud(声を上げろー私は黒人そして誇り高い者)
・・・・ジェームズ・ブラウン

What's Going On (ワッツ・ゴーイング・オン)・・・マーヴィン・ゲイ

Stoned Love(石の愛)・・・・・シュープリームス

Where Have All Flower Gone?(花はどこへいった)・・ピーター・ポールアンドマリー

The ”Fish" Cheer/ I-Feel- Like- I'm-Fixin'-to- Die-Rag
(『魚』遊び/死ぬことを決心しているような気がするラグ)・・コートニー・ジョーとザ・フィッシュ

We Gotta Get Out of This Place(俺はここから出ていくぜ)・・アニマルズ

The Unknown Soldier(知られざる兵士)・・・ザ・ドアーズ

Gimme Shelter(シェルターをくれ)・・・・ローリング・ストーンズ

 

ちなみにわたしが知っていた歌は「花はどこにいった」と「ワッツ・ゴーイング・オン」だけでした。

しかし、ベトナム世代の若いアメリカ人には、彼らの心情を代弁するこれらの曲は、
そのどれもが良くも悪くも彼らのあの時代の青春を彩るものだったのでしょう。

タイトルを見ているだけで、彼らのシュプレヒコールが聴こえてくるようです。

 

続く。

 


二度”ドラフト”された男〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展をご紹介しています。

ベトナム戦争については終戦後にも様々な媒体で描かれ、
それを見聞きすることである程度の知識を得ていたつもりですが、
このように体系的に展示された資料を見るのは初めての経験なので、
開戦の経緯からそこにまつわる社会の様々な出来事など、
おそらくアメリカ人であれば誰でも知っているようなことも
外国人である自分が知らなかったことが多いのに驚いています。

さて、次のコーナーにはいかにもバラックの内部?
みたいなセットが組んでありました。

カンバスベッドの頭上にはトタンに釘留めした私物棚。
棚の上にあるのは読みかけの本(『JFKその人物と神話』など)、
シーブリーズの缶入り。

棚には茶色いタオルと懐中電灯が吊ってあります。

ベトナム地図は🇺🇸スターズアンドストライプス新聞発行のもの。

この「星条旗新聞」は米軍の準機関紙でもあり、
アメリカ軍と兵士と駐留地に関する記事を中心に、
世界中に展開する米兵と退役軍人に読まれています。

創刊は南北戦争の時だそうですが、現在も独立した日刊の軍事ニュースと、
欧州と中東、東アジアの米軍施設情報を紙媒体とオンラインで発行しています。

採用している記者は市民以外にも米軍上級下士官などで、オンライン版は
月約400,000アクセスがあるということです。

棚の上の小冊子はすべてベトナムを知るための情報が書かれています。

棚の上に並んだ缶は

マックスウェルハウス・コーヒー缶

徴兵カードを燃やしていれたことで有名になったコーヒー缶。

Pabst Blue Ribbon logo.svg

ラビット印 パブスト・ブルーリボンビール

1977年が生産のピークだったといいますので、
もしかしたらベトナム戦争のおかげで?売り上げが上がったのでしょうか。

プランターズ・カクテルピーナッツ

Planters Salted Cocktail Peanuts, 35 ounce Resealable Jar - Heart Healthy  Salted Peanuts - A Good Source of Essential Nutrients - Made with Simple  Ingredients - Kosher : Grocery & Gourmet Food - Amazon.com

不気味なピーナツ紳士に見覚えあり。

そして左上のベトナム少女のポスターですが、
「プロパガンダポスター」と説明があります。

”Giữ Lấy Quê Hương、Giữ Lấy Tuổi Trẻ”

というのがタイトルで、これを自動翻訳にかけると

「あなたの故郷を守りなさい、あなたの若さを保ちなさい」

という意味であることがわかりました。

 

■ 敵を知れ

ベトナムという、それまでほとんどのアメリカ人がどこにあるかさえ知らなかった
未知の土地で、そこの住民を相手に戦わなければならなくなったとき、
しかも、同じ民族の半分がこちらの味方という状況は、兵士たちにとって
とてつもないストレスとなったはずです。

ここには、アメリカの敵となった北ベトナム軍とベトコンについて
簡単にそのイラストで説明されています。
左から;

ベトコン 主流軍 士官

ベトコン 主流軍 兵士(アメリカ製カービン銃持参)

北ベトナム陸軍 兵士(中国共産党軍7.62ミリアサルトライフル)

北ベトナム陸軍 非戦闘メディック

まあ果たしてこれでアメリカ人がバッチリ敵を見分けられたかというと、
どうもそれは怪しいのではないかという気がします。

しかし、ベトナム戦争中、南ベトナムの民間人を殺害した、
という話を検索すると、それは全て傭兵として参加し、南ベトナムの村で
一般人をベトコンの疑いという理由のもとに残虐に殺戮した
韓国軍の話ばかりが出てくるのでした。

ちなみに、ソンミ村虐殺事件で起訴された指揮官のウィリアム・カリー中尉は
3年後に仮釈放されたとはいえ、有罪判決を受けていますが、
「フォンニイ・フォンニャット虐殺」「タイヴィン虐殺」「ハミの虐殺」
「ゴダイの虐殺」など、すべて南ベトナムで行われた韓国軍の虐殺について、
韓国は全て認めず、もちろん賠償などは全く行っていません。

左下には当時は最新式だった時計付きラジオがあります。

超大型のこれはラジカセ・・・でなく、なんとオープンリール式の
テープレコーダーというやつですね。

テープレコーダーで持ち運びが(とりあえず)できるというのも
当時の最新型だったのではないでしょうか。

ちなみにメーカーは当時世界で知名度を伸ばしていたSONYです。
当時「世界のSONY」がキャッチフレーズだったとか・。

■ 出征兵士たちの肖像

次ににピッツバーグ出身のベトナム兵士の資料がありました。

その横にはピッツバーグ出身、空軍のトーマス・サンダースさんの写真と手紙。

ピッツバーグの「ミセス・ロビンソン」に送られて来たベトナムからの手紙。
ベトナムから国内に出す手紙は郵送料が無料です。

ちなみにピッツバーグのポスタルコード15219はわたしが住んでいたところの近く。

真ん中の男性はデニス・ヒューズ伍長です。

1967年2月、ヒューズは、ニャチャンとプレイ国第五特殊部隊を擁する
砲兵隊に配属され、カムラン湾に到着しました。

伍長としてテト攻勢に参加したヒューズは、達成証明書を授与されました。
達成証明書(Certificate Achievement)というのは、陸軍内の規定で
体力テストや砲撃トーナメントなどで優秀な成績を収めたり、
あるいは任務に卓越性を発揮した時に与えられる賞状です。

ウィリアム・A・コーバー(戦闘行動シーケンス、1968)

コーバーは戦場カメラマンです。
彼は新しいカメラを使用してベトコンとの「戦闘の一連の行動」を捉えました。

この写真に捉えられているのは、タイニン近くのローリンズでのシーン、

「敵がいると疑われる位置に105ミリ榴弾砲を発射しようとするGIたち」

「サイゴン川に浮かべた小舟に乗って出発する7名のライフル隊兵士たち」

先頭のボートを操作する兵士(写っていない)は、他の兵士を
ベトコン村の疑いのあるプーコン村に導いていこうとしています。

「砲撃後のベンクイを進むライフル小隊」

”ライフル小隊が砲撃後ベンチーを歩いています。
この小隊は死傷者のリスクをできるだけ減らすために
まとまらずに少人数で村を移動しています。

小隊の携行している武器は全てアンロック&装填されており、
いつでも射撃ができる状態になったまま進行しています”

コーバーはここで一般人の犠牲者を初めて目撃しています。

一般人を虐殺したのはもちろん韓国軍だけだったわけではありません。

これらの写真を撮ったビル・コーバーは、放送特派員として
第25大隊に所属していました。
この写真は、彼が隊員が故郷に向けて挨拶をする機会として
砲兵隊員にインタビューをしているところです。

ガラスケースの中の軍服は

ロッキー・ブレイアー(Robert Patrick "Rocky" Bleier)

という陸軍から出征した人のものです。
彼は1968年のうちに二度「ドラフト」に応じることになりました。

二度目は正真正銘の陸軍からのドラフト=徴兵ですが、一度目はおなじみの
アメフトチーム、ピッツバーグ・スティーラーズへのドラフトです。

ちなみに彼は、カレッジフットボール界では超エリートとされる
ノートルダム大学のチームキャプテンをしていた人物です。

どちらのドラフトにも快く?応じた(という意味で)イケメンのブレイアーは、
まずスティーラーズに入団し、ワンシーズンプレイをしました。

そして、その後ベトナムに「出荷されて」(英語ではshipped)つまり出征しました。
配属はCカンパニー、第4大隊、第31歩兵第196歩兵旅団でした。

現地でのパトロール中、彼は待ち伏せ攻撃をされ、太腿に銃撃を受けています。
銃撃で倒れたところ、近くに手榴弾がに着弾し、右下肢に榴散弾を受けました。
このときに彼は爆風で右足の一部を失う負傷を負いました。

彼はこの負傷によってスペシャリスト4(40%の障害)であると判断され、
ベトナムから日本に搬送されて東京の病院で治療を受けたということです。

日本の医者は、このとき彼が再びフットボール選手に復帰するのは無理だろうと言いましたが、
スティーラーズのオーナーから、直々に

「わたしたちにはあなたが必要です」

という熱い激励の葉書をもらった彼は、数回の手術を受け、2年間のリハビリに耐えました。
そして、もう一度スティーラーズのバックフィールドからスタートし、
1976年にはスーパーボウルに出場し、ゴー・アヘッドタッチダウンを記録する快挙を成し遂げています。


その後、彼は四つのチャンピオンシップリングとともに、パープルハート勲章を授与されました。

 

続く。

 

ベトナム兵士たちの肖像〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

$
0
0

ピッツバーグのハインツ歴史センター特別展、ベトナム戦争をご紹介しています。

OD色のドラム缶に挟まれて「U. S」と記されたブリキのボックスがあります。

中には「MISSALーBULLETIN」つまりミサのお知らせと、
ベトナム現地にあったらしいUSOのプログラムがありました。

まず、USOは「サイゴンクラブ」というのと「タンソナットクラブ」があり、
アメリカ軍関係者のために毎日営業している、とあります。

スナックバーも毎日昼間営業しており、夜になるとライブなどの
アクティビティが行われます。

キャッチフレーズは

「ア・ホーム・アウェイ・フロム・ホーム」(我が家から遠く離れた’我が家’)

ベトナムでの兵士たちの慰安の場所として、USOは重要な役割を果たしました。

そして、別の方向に慰安を求める兵士のために、ミサも頻繁に行われました。
このお知らせには、1966年の5月、イースター後のミサのプログラムが書いてあります。

内容は:

日曜ミサ

0730 第3砲兵隊

0830 第 93 EVOC 病院

0930 第105 砲兵隊

1100 エンジニア大隊

1700 第93EVOC病院

平日ミサ

0630 第93EVOC病院

1700 第93EVOC病院

日曜だけでなく、平日や土曜にも病院では毎日行われています。

兵士たちがフィールドを行軍する時にかついでいた「普通の」リュックサックです。
取手がついていますが、これは持ち上げて重さを実感してくださいという展示です。

わたしはカメラを持っていたので試してみることもしませんでしたが、
おそらく片手では持ち上がらなかったのではないかと思います。

総重量は30キロ。

3キロくらいの赤ちゃんでもずっと抱っこしたりおんぶしたりするのは
錘のように感じたのに、30キロをずっと担ぐって拷問みたいなものかも・・。

■ 公民権運動からベトナム戦争のベテランに

このケースの中の左側の軍服の持ち主は、

マイケル・フルノイ(Michael E.Flournoy)

という「公民権元運動家」です。

彼についてはアフリカ系アメリカ人のベトナム戦争ベテランとして
さまざまな資料が残されています。

彼はルイジアナ州出身ですが、現在ピッツバーグ出身ということで
これらの展示を提供したということのようです。

空挺隊のベレー帽が似合う精悍なイケメン兵士ですが、そんな彼は
先ほども書いたように、故郷の南部で公民権闘争に参加していました。

人種平等会議のためのルイジアナ州での有権者登録ドライブ中に逮捕され、
刑務所に収監されているとき、彼は徴兵の通知を受け取りました。

彼は釈放後の1962年から1968年まで陸軍に5年と半年、第101空挺師団、
第82空挺師団、および第1戦闘航空旅団に勤務しました。

第101空挺師団、第82空挺師団といえば、どちらもノルマンディ上陸作戦に参加した
名門中の名門、精鋭無比のエアボーンではありませんか。

彼は公民権運動のため戦って反政府主義者として逮捕されたのですが、
つまり反戦活動とは全く異なる方向に進んだということになります。

しかしこれは決して矛盾するものではありません。

反戦と公民権というのがしばしば同一化されることがあるので、
彼のこの行動には違和感を感じる向きもあるかも知れませんが、しかし、
考えようによっては戦争参加は、第二次世界大戦中の日系アメリカ人のように、
戦うことで他の人種と同じ権利を勝ち取ることができる
一つの大きな「チャンス」でもあったわけです。

つまりフルノイはそのように考えたのでしょう。

右胸には空挺隊員を表す落下傘マークが。
軍服の手前に見ているのはハチェットといって小型の斧です。
空挺隊員の常備品だったようですね。

バックパックは空挺隊員だから?先ほどのに比べると軽そうです。

戦前は乗り物にも酔うような若者が、飛行機から飛び降りる兵士に。

空挺訓練とはどのようなものか。
陸軍空挺部隊の一員になることとはどのようなものか。

少なくとも戦後ベテランとしてベトナムについて語っているこれらのことや、
勲章を胸に写真を撮っている年老いた彼を見る限り、
彼のベトナムにおける戦闘経験は決して悲惨なものではなかったと思われます。

写真で彼が着用しているのと同じブーツ。
パンジ・スティーク踏み抜き防止のための鉄板は仕込んでなさそうです。

しかし、彼はベトナムについてこんなことも言っています。

「私はベトナムにいる間、多くのクレイジーで愚かなことをしました。
しかし、それらのことはどれも間違っていませんでした。

戦争は混沌です。それは自然に反します。

兵士は人々が通常行えないようなことも行い、かつ
戦うことができる精神を持つように訓練されています」

その「クレイジーで愚かなこと」というのが、平時の道徳や倫理観からみて
全く「正しくない」こと、それがイコール戦争を行うことなのだと、
同じ体験をベトナムでした多くの兵士と同じく、彼は彼なりに
自分と折り合いをつけて戦後の人生を歩んできたのでしょう。

その手助けとなったのが、今まで黒人として存在を否定されて来た国から
今度はベトナムでの勇士として、国のために戦ったことを顕彰され、
そして認められたという誇りであったことは想像に難くありません。

■ 聞くだに痛々しいパープルハート勲章の傷

マリーンコーアの制服と、その前に展示されたパープルハート。
そしてその右側の小さなものをご覧ください。

これは、ベトナム戦争を語る過去ログで何度も触れて来た
例の「パンジスティック」なのです。

そしてその下の銃を持った兵士が、軍服の持ち主、
ジョン・クラーク(John Clark)です。

クラークは高校卒業後海兵隊に志願し、1966年ダナンに配属されました。

大隊では彼はポイントマン(Point man)だったといいます。
ポイントマンというのは、隊の前に出て危険がないか確認する係、
つまり大変危険が伴う損な役割?ということになります。

ベトナム戦争では戦闘の起こった場所を「ヒル」に番号を振って位置するのですが、
彼は小隊を率いてヒル22に展開しました。

そのとき、彼が踏み抜いて負傷をしたのが、ここにあるパンジ・スティックです。
(ここではStick =スティックと記述してあるので準じます)

以前紹介したのは竹など木を削ったスティックでしたが、
彼に怪我を負わせたのは、なんとメタル製のパンジスティックでした。

:(;゙゚'ω゚'):

スティックは彼のブーツを突き破り、足に突き刺さりました。

((((;゚Д゚)))))))

彼は任務を1ヶ月離れ、ユニットの戦闘任務を20日間行いました。
そしてその間のパトロールで再び負傷し、パープルハート勲章を授与されました。

展示場ではイヤフォンで彼のオーラルヒストリーを聴くことができたようです。
聴くだけでアイタタタな話が生々しく語られていたのに違いありません。

■ バディシステムで入隊、水死した海軍水兵

手紙、封筒、皮の財布に外国紙幣。
これらは、この青年、

Leroy Bernard Mudd

ルロイ・バーナード・マッド(Leroy Bernard Mudd)

の私物です。
彼は海軍の「バディ入隊プログラム」によって入隊しました。

海軍のバディ入隊プログラムというのは4人以下のグループで
一緒に入隊するシステムで、たとえば高校の同級生同士とか、友人同士で
誘い合って海軍に入隊するという動機を促進するためのもので、
民間人から入隊して「軍人」に移行期間に精神的、物理的に負担を減らし、
手助けとなるという利点を期しています。

バディシステムでは、新兵訓練期間、初期任務配属までがその対象となり、
入隊すると、バディ同士同じ日に新兵訓練が始まります。

このシステムに参加するすべての申請者は、シーマン、エアマン、ファイアマンの
どれかのプログラムに一緒に参加することができます。

  バディグループは4人を超えることはできず、現代では女性も参加できますが、
男女混合のグループは不可です。 (最近のポリコレならそのうち差別だ!とか言い出して可になるかもしれませんけど)   バディとして入隊すれば、基本的に理由がないと離れ離れになることはありませんが、
病気とか、訓練に一人がついていけないとか、「最低限の水中生存資格を満たしていない」
つまり全く泳げないとかという止むを得ない理由があればその限りではありません。   というわけで、バーナード・マッドはこの写真の友人とともに
バディシステムでシーマンを志望し、入隊したわけです。    
そして、彼ベトナム戦争奉仕の間に行方不明であると報告され、
最終的に1970年6月29日に死亡認定されました。  記録された状況は次のとおりです。
非敵対的死者  行方不明 溺死 窒息死 地上死傷者   死亡場所:南ベトナム   これらの短い状況をつなぎ合わせると、彼は戦闘ではなく
艦隊勤務時に海中に落ちるなどして行方不明になったのではないでしょうか。
彼が行方不明になったのはベトナムに着いてわずか数ヶ月後だったそうです。
  同じアフリカ系の水兵たちと白いセーラー服を着て写真を撮った彼は、
MIA(任務中行方不明)のまま葬式が営まれました(4番)
彼の死は、ベトナムに奉仕した他の同郷の若者たちの死とともに
彼の属した故郷のコミュニティを落胆させた、とあります。   展示されている手紙は海軍の便箋に書いた父親宛のものです。 その最後にはこうあります。   「思うに僕はついに一人前の男になろうとしているのです。
家に帰ったらきっとそれがわかるよ。
僕が帰るまで落ち着いて待っていてください。

あなたの息子 ルロイ」   亡くなったとき彼は19歳。
あと2ヶ月で誕生日を迎えるはずでした。     ■ 戦場で獲得したロースクール合格通知     フィルムキャニスターと陸軍機関大隊のマーク入りヘッドバンド。
グレン・マホーン(Glenn Mahone)
の提供した展示です。
マホーンはペンシルバニア州立大学で心理学を勉強しているときに
ROTC(予備役将校訓練課程)に参加しました。   卒業後、彼は陸軍に入隊して第18大隊の工兵隊に入り、
橋、道路、火力支援基地の建設を支援する任務を行いました。   さらに彼はベトナムで輸送船団の運営、軍需品の配備、
そして果ては地雷掃討の部隊にも参加しています。   彼のすごかったのは、そんな状況でも向学心を失わなかったことです。
ベトナムにいながらにしてLSAT試験(ロースクール入学資格)に合格!    
  彼はベトナムで負傷しましたが、退院後1週間で、デュケイン大学
(ピッツバーグ)ロースクールに入学しています。 その後、彼はイエール大学でLLMの学位を取得し、弁護士となりました。 Glenn R. Mahone Profile image of Glenn R. Mahone     続く。  

ホームフロント〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

戦争の「前線」に対して、このハインツ歴史センターは

HOME FRONT  ホームフロント

という言葉を対比させています。

戦争に兵士を送り出すのは「ホーム」であり、その最前線では
どのようなことが行われていたか、ということについては
すでに同じ言葉を使って一度当ブログで取り上げましたが、
今日は、展示場の壁一面に貼られた、このような壁一面のイラストを取り上げながら、
「ホームフロント」についてお話ししましょう。

まず、壁画は左から見ていくのが正しいと思いますので、
左上からご紹介していきます。

■ LIVING ROOM WAR リビングルームの戦争

1967年5月31日、ABCのニュースキャスター、フランク・レイノルズは、
ベトナムからのレポートを異例の方法で紹介しました。

彼は視聴者が前代未聞のものを見ていること、つまり
テレビが自分たちの居間に持ち込んでいる戦争という意味で、
この『リビングルーム・ウォー』という言葉を使ったのです。

テレビの普及でベトナム戦争は「居間で見る戦争」となりました。

彼は、

「テレビにはベトナム戦争をその恐怖も含めて全て取材する責任があるが、
その目的は視聴者にショックを与えることでも、センセーショナルな報道でもない」

といいましたが、リンドン・ジョンソン大統領は全く違った見方をしており、
テレビが戦争をどのように報道するかを常に気にしていました。

そして、執務室にある3台のテレビでニュースをモニターし、それらが
誤解を招くような一方的なものであり、(敵の残虐行為が報道されていないなど)
自分のベトナム政策に対する国民の支持を損なっていると考えていました。

ベトナムでの成功は戦場だけではなく、アメリカの家庭の
リビングルームで達成されなければならないと考えたのです。

彼がここまでテレビ報道を気にしていたのは、ベトナム戦争が、

「アメリカ人のほとんどがテレビを情報源とするようになった最初の戦争」

であることを知っていたからでした。
今でこそ信用は奈落の底に落ちましたが、1960年代半ばには、ほとんどの人が

「新聞よりも視覚で情報を伝えるテレビの方が信憑性がある」

と考えていたのです。

言われてみるとそうですが、ベトナムでは、第二次世界大戦や、
あるいは朝鮮戦争の時のように、報道は軍の検閲を受けませんでした。

言うなれば軍は、ジャーナリズムの「性善説」の上に立っていたのですが、
ベトナムにおける軍事・メディア関係は、彼らの期待を裏切りました。

記者たちはすぐに、軍発表の信頼性を疑問視し、彼らの報道してほしいことはなく、
自分たちの伝えたいこと(自分たちの意見を反映させたもの)を報道しだしたのです。


67年半ばまでには、夕方のニュース番組は、戦争が米軍に大きな負担を強いる、
という論調で報道が行われるようになり、7月には、世論調査による
ジョンソンのベトナム政策への支持率は33%にまで低下していきました。

批判者の多くは、交渉による和解か戦争からの撤退を望むようになったのです。

 

■ GENERATION GAP ジェネレーションギャップ

第二次世界大戦が終わった後、アメリカにも第一次ベビーブームがありました。

その頃の多くの親は、若き日をトラウマ、不安、そして戦争の中で過ごしましたが、
戦後アメリカは人類史上最も裕福な国となり、好景気、安価な住宅、そして
戦後補償などの政府の援助によって、いわゆるアメリカン・ドリームを生きる機会を得、
自分の子供たちに幸せを買うこともできるようになりました。

しかし、物質的な繁栄と安全は必ずしも幸福を保証するわけではありません。

平和な時代はそれなりに、子供たちは「不幸」「不満」を見出すものです。
ニキビができたとか、プロムに誘う相手がいないとか、あるいはもっと深刻な理由で。

そこで起きてくるのがジェネレーションギャップです。

戦争を体験した親は子供のニキビ問題について、それが彼らにとって
生きるか死ぬかの問題であることがどうしても理解できません。

さらに、アメリカの戦後の子供たちは、自国は地球上で最も偉大で
自由な国であると教えられて育ちました。

しかし、彼らが自分でものを見、考えるようになってくると、
教えられたことと現実の間に矛盾があることに気がつくのです。

自由と平等の国ならば、なぜアフリカ系アメリカ人はあんな目に合うのか。
アメリカ人のほとんどが聞いたこともない世界の果てに若者を送り、
殺したり殺されたりするほどの価値が「共産主義との戦い」とやらにあるのだろうか。

そこで第二次世界大戦を経験し、戦後の世界でアメリカは偉大であると
思い思わされてきた世代の欺瞞を感じる、そこにまた、家庭という単位より
広い意味でのジェネレーションギャップが生まれていったというわけです。

 

■ FOR INDUCTION 入隊のために

アメリカでは1948年から1973年まで徴兵制が導入されました。
自主入隊だけでは足りない人手を軍に供給するためのバックアップシステムとしてです。

1969年12月1日、この日1942年以来初めての徴兵制抽選会が行われました。

写真は政府代表を務める下院議員が、366個のカプセルの入った透明のケースに
手を入れて抽選を行う様子です。

ケースには1月1日から12月31日までの日付が記された紙片をおさめたカプセルが入っています。
この抽選で、1944年1月1日から1950年12月31日までに生まれた男性の入隊順を決めるのです。

The Draft Lottery- Vietnam War

音声がありませんが、議員が最初に引き当てたのは9月14日でした。
9月14日と書かれた紙が、1の数字の横に貼られています。

これは、9月14日生まれの20~25歳のアメリカ人男性が
ベトナム戦争のために徴兵されるリストの最初に載ったということです。

議員は続いて4月24日、12月30日、最終的には195日の生年月日を引きました。
これは、たとえば1950年生まれだとすれば、この195日以外の誕生日の男性は、
その年一年は徴兵されることがないということになります。

この方式による抽選は1975年まで行われましたが、
1973年以降は実際に徴兵されることはなく、志願兵制度に移行しました。

右下の政府や議会などがどのように戦争遂行していくか、
話し合っているイラストには、

SELLING THE WAR

とあります。
これを的確に訳すのは我ながら無理だと思うのですが、あえて言えば、
国の首脳が戦争を遂行するために行ったこと、というところでしょうか。

マスメディアと広報のコントロールで国民をいかに動かし、
世論を誘導して結果に結びつけるかといった戦略についてのスキームです。

 

■ SPRING MOBILIZATION 春のベトナム戦争終結動員

1967年4月15日、アメリカ史上最大規模のベトナム反戦平和デモが行われました。
これがこのイラストに描かれた

VIETNUM MOBILIZATION(春のベトナム戦争終結動員)

と呼ばれるものです。
ペンタゴン行進を含むこれらの運動に参加した有名人には、

ノーマン・メイヤー(小説家)
ベンジャミン・マクレーン・スポック博士(小児科医師)
アレン・ギンズバーグ(詩人)
エド・サンダース(ノンフィクションライター)
アビー・ホフマン(活動家、青年国際党『イッピー』主催)
ジェリー・ルービン(左翼主義活動家)

そして、

マーチン・ルーサー・キング・ジュニア博士

が含まれていました。

動員、略して「The Mobe」ザ・モーブにはサンフランシスコで約10万人、
ニューヨークでは12万5000人以上が参加しました。

画面下方に4人の男性が腕を組んで歩いていますが、この左から2番目は
おそらくマーチン・ルーサー・キングJr.博士であろうと思われます。

キング博士はセントラルパークから国連ビルまでの行進を指揮し、
さらにそこで演説を行いました。

演説を聞く一人が持っているプラカードにはこのようにあります。

「死ぬのが怖いんじゃない ただ人殺しをしたくないだけだ!」

春の総動員は、反戦活動家の全国的な連合を形成し、
平和デモの新時代の幕開けとなりました。

動員の行われた1967年春までには、365,000人以上がベトナムに派遣され、
犠牲者はすでに6,600人を超えていました。
そして戦争に対する世間の関心と監視は急激に高まっていったのです。

■ SUPPORT OUR MEN PARADE

この映像は、出征兵士を支援するパレードの様子です。
支援といっても、彼らの立場はもちろん国のために死んでこい、ではなく、
兵士たちを文字通り「守るためのデモ」で、これはつまり
退役軍人たちを中心とした側からの戦争反対デモということになります。

Support Our Men in Vietnam Parade


ナパーム、毒薬の投入、そして増兵をやめ、
北ベトナム、南ベトナムでの爆撃を無条件で即時停止し、地上での停戦を行うこと。

ベトナムにおける外国人基地を禁止し、すべての外国軍を撤退させること。

ジュネーブ協定を実施すること。

ベトナムのことはベトナム人に決定させること。

言い換えれば、我々の男たちを生きたまま家に戻せ!!!

ということが彼らの主張です。

 

これがシビリアンではなく、ベテランが中心となった運動である、
ということにこの運動の特異性があります。

たとえば、朝鮮戦争の司令官、リッジウエイ将軍らはこのように言いました。

"現在の状況や我々の規範の中には、アジアの小国を石器時代に逆戻りさせるような爆撃を
必要とするものは何もない、というのが、私の確固たる信念である"ことが彼らの主張です。

 ウィリアム・ウォレス・フォード将軍

"着実に拡大する戦争に、盲目的に、そして文句を言わずに従わなければ
非国民と呼ばれるような事態は打ち砕かれるべきだ”

 ハグ・B・ヘスター将軍 

"ベトナム戦争に反対である。
なぜならば、ベトナム戦争は米国憲法と国連憲章の下での
米国の条約義務に違反して行われているからだ。
ベトナム戦争は自衛のための戦争ではなく、一般的な自衛のための戦争でもない.。
これは違法で、不道徳で、完全に不必要な戦争である"

アーノルド・E・トゥルー陸軍大尉

"我々は、
(1)戦争の主要な当事者としてベトコンに対処し、
(2)ジュネーブ協定を実施し、
(3)我が軍を撤退させ、
(4)ベトナム人に自分たちの問題を解決させることによって、
ベトナムの大混乱を不名誉なく終わらせることができる


ベテラン高級軍人たちの中には、自分たちは軍人であるから、
ことが起こればいつでも馳せ参じる、といいながらも、
この戦争には大義がない、ましてや徴兵で男たちを戦地に送るべきではない、
という考えの人がいたということを表しています。

 

■ VIETNAM MORATORIUM モラトリアム行進

次にホームフロントで起こったのは、以前にもお話しした、
ベトナム徴兵反対運動、「ベトナム・モラトリアム」です。

まず、画面右真ん中で、徴兵カードを燃やす人々がいます。

セントラルパークを埋め尽くした若者や反戦運動家は、
輸出業組合や音楽・美術専攻高校の学生という名で
それぞれ戦争反対を表明しています。

「ヤンキーゴーホーム」をもじった「ヤンキー・カム・ホーム」で
アメリカ人を国に戻せ、と主張する人、アメリカの全部隊を
南西アジアから撤退させよというプラカードも見えます。

ベトナム・モラトリアム、正確には

Moratorium to End the War in Vietnam
(ベトナム戦争を終わらせるモラトリアム)

が行われたのは1969年10月15日と1ヶ月後です。

「ベトナムはベトナム人のもの」

「我々の息子はダメ あなたたちの息子もダメ 彼らの息子もダメ」

「子供たちは燃やされるために生まれたんじゃない」

「今すぐベトナムから撤退しろ」

■ COMING HOME (帰国)

ベトナムから帰国して来た軍サービス従事者が
この壁画の右下(つまり最後)に描かれています。

ある者は生きて。
ある者は負傷して。

そしてある者は星条旗に包まれた棺で。

 

続く。

 

Angry Arts 反戦芸術〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

$
0
0

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、前回は
壁画にされたイラストを元にした「ホームフロント」についてお話ししましたが、
その中で取り上げた「リビングルーム・ウォー」を表すこんな展示がありました。

ベトナム時代のリビングルームの再現です。

「リビングルーム・ウォー」をその名前たらしめた「テレビ」。
部屋の中心には当時の豪華家具調白黒テレビが鎮座しており、
その画面にはベトナムからのニュース映像が放映されていました。

センターテーブルの上にはベトナムを報じるライフなどの雑誌が。

このコーナーには、こんな説明があります。

■ LIVING  ROOM WAR (居間の戦争)

ベトナム全土で自由に活動できたテレビのニュースクルーが撮影した
戦争のシーンが、アメリカの家庭に直接されています。

1967年まで、アメリカ人は他のどんな情報源よりテレビニュースを信頼していました。

「ニューヨーカー」に寄稿した作家は、この現象を表す
「リビングルーム・ウォー」という言葉を作り出し、視聴者が
テレビ映像を伴う短いレポートから本当に多くを学んだかどうかを疑問視しました。

ジョンソン大統領はこれらの戦争報道に恣意的な偏りがあると考え、
それが戦争への国民の支持を弱体化させたと非難しました。

ちなみに現在、「Home Front」で検索すると、

「北朝鮮人民軍によって国土の西半分を占領されたアメリカを舞台に、
レジスタンス達の戦いを題材にしたFPSゲーム」

しか出てきません(´・ω・`)

南ベトナム政府のInauguration Day、つまり大統領就任式(記念日?)の映像です。

日本軍が当地での実権を握って以来亡命生活を送っていたゴ・ディン・ジエムが、
戦後フランスによって建国されたベトナム国の首相になり、その後、
ベトナム共和国の大統領に就任したのは1955年のことです。

東南アジアでの共産主義拡大を阻止したいアメリカはジエムを支援しました。

北側つまりベトナム民主共和国へ対決色を強めるとともに、
国内の共産主義者など反政府分子に対しては厳しい弾圧を行います。

ベトナムが統一できなかったのはアメリカの意向であり、
その後、ベトナムに軍を送る決定をし、クラスター爆弾やナパーム弾、
そして枯葉剤などを使用する攻撃を決定したのはケネディ大統領でした。

まるでモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」みたいな壁紙に、
いかにも当時のイケてるインテリアを象徴する変な形の時計。

下の画像は、アメリカの「ホームフロント」でベトナムに物資を送るための
各方面の様子のようです。

前回お話しした大規模反戦デモ「モビライザー」に関する写真ですね。

下中央にはマーティン・ルーサー・キングジュニア博士、その横は
徴兵カードを燃やそうとしている人々の写真があります。

左はいわゆる「アングリー・アート」と呼ばれるものです。

■ ANGRY ARTS(怒れる芸術)

泥沼にはまっていくベトナム政策のため、反戦デモは年を追うごとに激しくなりました。
ニューヨークで行われた「春のベトナム戦争終結動員」は、その中でも最大規模のものでした。

芸術家たちは自身の芸術活動を通して反戦を訴えようとしました。

たとえば、1967 年 発表されたノーム・チョムスキーの著作『知識人の責任』は、
ジョンソン政権の上層部で政策に関わった知識人たちは、
知識人としての大きな責任と特権、つまり

「真実を語ること、政府の嘘を暴くこと、そして、その原因と動機、
そしてしばしば隠された意図に従って行動を分析する」

ことを怠っているとし、彼らを非難しました。
「ジョンソンの知識人」とは、具体的に、ヘンリー・キッシンジャー、
マクジョージ・バンディ、アーサー・シュレシンガー、ディーン・ラスクなどです。

 

1967年ニューヨークで「アングリー・アーツ・ウィーク」が開催されました。

主催者はニューヨーク在住の芸術家に、

「いかなる視覚的な侮辱、政治的な風刺、または関連する野蛮な素材であってもいいから、
正気のための必死の訴えで、この街の芸術コミュニティに参加してください」

と呼び掛けたのです。

最終的に、約500人のアーティストがこのウィークに参加しました。
そして、パフォーマンス・アート、音楽、詩、ビジュアル・アート
(絵画、彫刻、写真)など、さまざまなメディアでの作品が集まりました。

たとえば、キャロリー・シュネーマンの

《Viet-Flakes》

は、残虐なイメージに基づいたフィルム・モンタージュ作品です。
彼女はイリノイ大学の大学院生のときにベトナムでの残虐行為のイメージを丹念に編集した
この作品を制作しました。

シュネーマンは8mmムービー・カメラを使って残虐映像の効果を強め、
彼女が戦争の「腐敗した」「軍国主義的な嫌味」と呼んでいるものを
観客に「強制的に」見せることに成功しました。

フィルムを見ていただければわかるように、画像は写真集を映したものですが、
それらは画像にピントを合わせず、写真の細部がわかる前に何度もズームインし、
観る者の感覚をあえて不快にさせるような手法が取られています。

『Viet-Flakes』は、戦争犯罪の直接の証拠を抗議の手段として用いた最初の作品でした。
証拠として、それはアメリカの攻撃の犠牲となったベトナム人の非戦闘員の女性や
子供の写真がこういった作品に多く使用されました。

そういった結果を見せることが抗議になりうるということを知っているから、
アメリカでは日本に原子爆弾が投下された「証拠」となる写真を
国内で公開することをあそこまで拒否しているのだとこのことからもわかりますね。

 

■ アングリーアートとベトナム象徴としてのナパーム弾

アングリー・アーツ・ウィークの期間中、

ペーター・シューマンの
「パンと人形劇」Bread and Puppet Theater

が上演されました。

「ブレッド・アンド・パペット・シアター」は過激な政治ネタを扱う人形劇です。

名前は芸術はパンのように基本的なものでなければならないという考えから来ており、
劇場は自分たちで作った焼きたてのパンをアイオリと一緒に
無料で提供しているということです。

ベトナム戦争中に上映された劇の内容は、

「医師が医学生にナパーム火傷とその治療法について講義し、
その後ろでベトナム市民の人形が巨大な手を観客に差し出して
ナパーム被害者の治療をお願いしている」

というもので、戦争被害者の無力さを表しました。

 

ナパーム弾は第二次世界大戦中に発明され、ベトナム戦争で使用されたもので、
ナパーム剤と呼ばれる増粘剤をゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾です。
きわめて高温(900-1,300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊します。

ナパームが使用された直後からそれは反戦運動の象徴となり、
国民にもナパームを使ってアメリカ軍がベトナムの兵士や民間人を殺害していた、
ということが知られて、反戦芸術作品の格好の題材となったという面があります。

アングリーアーツ・ウィークでは、そのほかにもタウンホールでの
指揮者なしのコンサートが行われました。
これはベトナムでの残虐行為に対する個人の責任を象徴していました。

また、この「怒りのコラージュ」は絵画、ドローイング、版画など、
抗議のスクラップブックのような「アート」です。

残酷な写真の再現やこのような暴力的な表現を使用することの背後には、
露出し観るものに与える衝撃が暴力を排除するのに役立つという考えがありました。

その他の作品をご紹介します。

「Bringing the War Home: House Beautiful」Martha Rosler

「戦争を持ち帰ろう:美しい家」

これは、インテリア雑誌のありがちなタイトルを皮肉っていると考えてください。
「季節を持ち帰ろう:美しい家」みたいな?

普通の家にいる二人の兵士。
これこそが家に持ち込まれた戦争です。

彼女がこういった反戦アートの制作を行うきっかけとなったのは
新聞で見た、赤ちゃんを連れて川で泳いでいるベトナム人女性の写真でした。

「Revlon Oh-Baby Face」

    「Spell of Chanel」

ヴァイオレット・レイのコラージュは、見ての通り、
化粧品会社のポスターとベトナム人の苦難の様子を融合させたものです。

今ならおそらく企業から訴えられたと思うのですが、当時は
そちらの問題はなかったようです。

相手が相手、ご時世がご時世だということで企業側もビビったのかもしれません。

レイのこれらのコラージュはジャン・リュック・ゴダールや
アラン・レネらの映画にも登場しました。

「Would You Burn A Child?」Jeff Schlanger

「あなたは子供を燃やすのか?」と題されたシュランガーのポスターも、
反戦ポスターとして有名になりました。

■ ピカソへの手紙

そして「アングリー・アーツ」は、アメリカの戦争継続に抗議する運動として

あのパブロ・ピカソに

「MoMAから『ゲルニカ』を撤去するように」

要請をしています。
請願書にはこのようにその趣意が記されていました。

「我々アメリカの芸術家は、アメリカのベトナム爆撃に抗議する行為として、
ニューヨーク近代美術館からあなたの『ゲルニカ』を取り下げることを強くお勧めします。
何千人ものベトナムの村人が、ゲルニカの市民が受けたのと同じような爆撃を受けています」

しかし、ニューヨークの全ての芸術家が署名したこの嘆願書は
ピカソの手に渡ることはありませんでした。

ピカソの側近たちは、もしそうなれば、アメリカでの商売?に影響があると考え、
ピカソにその手紙を見せなかったとされます。

もし手紙を目にしていたら、晩年のピカソは反戦活動家たちの願い通り、
「ゲルニカ」をアメリカから引き上げたでしょうか。

「私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。
私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。
私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、
スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する」

「ゲルニカ」発表時、ピカソはこう言ったそうですが、
ベトナム戦争の頃の彼がこの提案に万が一難色を示すなどして
過去の発言との間の矛盾を責められるようなことがあったら、
彼の名前に傷がつく、と周りは考えたのだろうと思われます。

しかしそもそも、アメリカ政府の現在進行形の戦争が、どうして
スペイン内戦のファシズムを糾弾する作品を掲げることを阻むのか、
わたしは正直反戦運動家たちの主張の意図がわからないのですが・・。

その後のアメリカの戦争において同様の抗議がなされたことが
一度もありませんが、この「ゲルニカ抗議事件」も、
反戦を絶対是とする当時の空気に後押しされたものではないかという気がします。

 

続く。

 

ベトナム戦争撤退への道 「クロンカイト報道」と「サイゴンの処刑」〜ハインツ歴史センター 

$
0
0

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、続きです。

第二次世界大戦の日米戦の転換点は?というと、
誰でもそれはミッドウェイ海戦であった、と答えるでしょう。
(アメリカ側の『戦意』としての転換点として東京空襲を挙げる人もいるかもですが)
それではベトナム戦争の転換点はいつだったか、ということを考えたことはあるでしょうか。

■ TURNING POINT ベトナム戦争の転換点

その名もズバリ「転換点」というコーナーです。
ベトナム戦争ではアメリカは負けたというより「勝てなかった」とする説があります。
それはこのテト行勢をきっかけに国内の反戦の声が高まり、それにつれて
軍隊に厭戦気分が蔓延していく一方、北ベトナムと南の解放民族戦線の士気は落ちず、
3年も介入して戦闘が拡大していくだけの戦争はすなわち優勢などではないのではないか、
という声が大きくなってきたからです。

それではテト攻勢では何が起こったのでしょうか。

1968年には、アメリカはベトナム戦争の泥沼に深入りしていました。

最初は限定的な顧問団として派遣されたものが、数年後には米軍、
そして北ベトナムの正規軍とベトコン・ゲリラが入り乱れる本格的な戦闘に発展していました。

北ベトナムの正規軍とベトコン・ゲリラは、南ベトナム中の村々で陰で活動しており、
アメリカの情報機関はその強さと位置を把握することができませんでした。

しかし、1964年頃からリンドン・ジョンソン政権は、

「抵抗勢力は減少しており、すぐに全土が平和になるだろう」

という路線を維持していたのです。

その嘘が一掃されたのが、1968年初めのテト攻勢でした。

「なぜベトナムと国内で紛争と暴力がエスカレートしたのでしょうか?」

と書かれたバナーには、

「1968年の戦争のファクト」

としてこのような数字が挙げられています。

536,100 アメリカ軍規模

16,900  任務における死者

27,900  ARVIN 戦死者

190億ドル  戦争にかかった費用

140万トン  投下された爆弾

54%                 ベトナムへの派兵は失敗だったと思うアメリカ人の割合

1968年、つまりテト攻勢のあとには、半数より多いアメリカ人が
ベトナム戦争に反対していた、ということです。

■ THE TEOFFENSIVE テト攻勢

1968年1月30日〜31日。

ベトコンと北ベトナム軍は新年の停戦を破り、南ベトナムの
100以上の都市や農村部で主要な目標を奇襲しました。

これをテト攻勢といいます。

「テト」とは、「節」という漢字のベトナム語読みです。
ベトナムでは旧正月(Tết Nguyên Đán/ 節元旦)を「テト」と呼ぶのです。

キリスト教国でクリスマスが停戦になるように、南北ベトナムでは
そうと決まっていたわけではありませんが、この旧正月には暗黙の了解で
それまで戦闘を中止していました。

1968年のテトを迎えるにあたり、北ベトナムと南ベトナム開放民族戦線は、
アメリカ軍と南ベトナム軍に休戦を申し入れたのですが、
おそらくアメリカ軍の意向で拒否されました。

アメリカ軍にすれば、この休戦期間は体勢を立て直す猶予を与えるので、
ベトナム人の正月など知ったことか、というところだったのでしょう。

ところがこれが結果的にアメリカを苦境に立たせることになります。

これに怒り狂った(たぶんね)北ベトナムとベトコンの皆さんは、
奇襲となる大規模な一斉攻撃を1月29日深夜に仕掛けてきたのです。

8万人の共産党軍が一斉に国中の100以上の目標を攻撃しました。

ゲリラは、南に忠誠を誓っていると思われる地域から
多くの後方支援を受けていることが明らかになり、このことから
それまでアメリカの上層部が言っていた「勝利への前進」という言葉が
すべて嘘であることが露呈してしまいました。

奇襲攻撃は都市部と政府中心機関への攻撃によって、まず
南ベトナム政府の機能を麻痺させることを目的としていました。
このことは、ベトコンが政敵を一掃し古くからの恨みをはらす機会となりました。


北とベトコンの攻撃の規模は大きく、そして激しいもので、
アメリカと南ベトナムの政府軍はすっかり不意を突かれた形となってしまいました。

迅速に態勢を整え反撃を行い、数日以内にほとんどの都市から
ベトコンと北ベトナム軍を駆逐しにかかりました。
この時の戦闘は歴史的なフエとケサンの海洋基地で最も長く行われました。

あの映画「フルメタル・ジャケット」では、テト攻勢下行われた
この時のフエでの市街戦が描かれています。

たとえばフエでは、南ベトナム解放民族戦線が、占領した街で、
南ベトナム政府関係者を形だけの路上裁判で次々に処刑していきましたが、
その中には文民(その多くが政府職員)や修道女も含まれていました。

その処刑も、予め処刑者の名簿が作られ、殆どが後頭部に銃弾を撃ち込まれて
射殺されていくというものでした。

フエでの戦闘は数週間続き、民間人はその間、死とパニックに満ちた
阿鼻叫喚がまるで疫病のように街を覆っていくのを茫然と見るだけでした。

このとき、アメリカの人々はメディアを通じて報道された映像、
とくにテレビでこの戦闘の混乱と破壊を目の当たりにしていました。

そこでは戦闘員はもちろん、民間人の被害に遭う様子が映し出されていました。

非難する難民たち

フエではのちに集団墓地が発見されています。
ベトコンと北ベトナムは、南ベトナム政府に加担したとして、一般人民を
数千人とも言われる規模で殺害していました。

テト攻勢は、実際ハノイが期待したほど致命的な打撃を敵に与えたわけではありません。
しかし、攻撃はアメリカ人に、彼ら自身のリーダーのいうところの
「前向きな結果」というものに対する疑念を大いに高めることになりました。

なぜなら、大統領がいうように敵は弱体化しているとはとても見えず、さらには
戦争が成功裡に終結するという可能性も全く窺えないことを目撃したからです。

攻撃を行う北ベトナム陸軍、1968年。
このとき、北ベトナムの旗が寺院、市場、そして村に翻りました。
テトを祝うためです。

■CRONKITE REPORT ウォルター・クロンカイト報道

当時アメリカで最も影響力のあったCBSニュースのアンカーマン、
ウォルター・クロンカイトは、南ベトナムで米軍の攻撃について取材を行いました。
他のアメリカのジャーナリストと同様に、彼もまた政府の検閲や統制を受けない立場でした。

クロンカイトの劇的なレポートは何百万人ものアメリカの視聴者を震撼させました。

彼は戦況は膠着状態に陥った、と報告し、また、

「北への侵略、または多数の部隊の増援によって戦闘をエスカレートさせることは
世界を『宇宙規模の災害の瀬戸際に近づける』だろう」

と述べたのでした。

1968年、ベトナムからのドキュメンタリーレポートを配信するクロンカイト。
終了にあたり、彼はこの言葉を残しました。

「我々が膠着状態に陥っているということは、唯一の、
現実的ではあるが不十分な結論のようです」

 

■ THE EXECUTION(路上の処刑)

ベトナム戦争の最も象徴的な写真の一つです。
この一枚の写真が世界を変えました。

テト攻勢下で、南ベトナム国家警察の長官であったグエン・ゴク・ローン准将が
路上でベトコンであるグエン・ヴァン・レン(Nguyễn Văn Lém / 阮文歛)
あるいはレ・コン・ナ(確定されていない)を射殺しています。

戦時中とはいえ、処刑の瞬間はめったにカメラに捉えられることはありませんでしたが、
この衝撃的なシーンは、「負の放射線下降物」となって、瞬く間に全世界に降り注ぎました。

この写真を撮ったAP通信カメラマンのエディー・アダムズは、
この写真によってピューリッツァー賞を受賞しました。

そしてこれはベトナム戦争の大義について国民が改めて
深刻に疑問を呈し、否定的になるきっかけとなったのでした。


■ ベトナム撤退を後押ししたもの

クロンカイトの報道を見たジョンソンは、こう言ったとされます。

”If I've lost Cronkite, I've lost Middle America."
(クロンカイトの支持を失ったということは、アメリカの中間層を失ったということだ)

クロンカイト報道、そして「サイゴンでの処刑」。
この二つの象徴的なものが、アメリカのベトナム撤退を模索する方向に動かしました。

■ 処刑の『真実』

本筋を考えると、ここから先はあくまでも余談です。

「サイゴンの処刑」はアメリカを終戦に動かすアイコンとなりました。
しかし、その影で一人の軍人が犯罪者の烙印を押されたという事実を
どうしてもお話ししておかなければなりません。

サイゴンの路上でベトコンの頭部を銃撃する瞬間。

人々はその瞬間を切り取って、残虐さだけを心に留めました。
しかし、この瞬間に至るまでの経緯は、当時も今もほとんどの人が知らないことが多く、
この写真から得られるイメージとはやや違っているというのです。

まず処刑を行ったローン将軍は、ジェット機パイロット出身の非常に優秀な人物で、
人格的にも部下に慕われる司令官でした。
ありがちな縁故主義ではなく、実力で准将にまで昇進した軍人です。

さらに彼はアメリカ軍の戦闘行為を制限するために現地で部隊に介入するなど、
ベトナム人の本当の意味での主権を主張することのできる立場にある人物でした。


この「サイゴンの処刑」の朝、ローン准将は警察の分隊を率いて、
民間人の脅威となりうるベトコンを捜索していました。
そして逮捕したのが、写真の人物、グエン・ヴァン・レンです。

レン、通称キャプテン・ベイ・ロップ(Captain Bay Lopつまり軍人)は、
ベトコンを率いて、国家警察のメンバーや、その家族を殺害する任務、
つまり彼らは機会があればローン准将かその家族を殺そうとしていました。

実は、この処刑が行われる少し前、レンのチームは7名の警察官、2〜3人のアメリカ人、
そして警察官の家族など、34人を殺害しており、ローン准将と部下は、
彼らを現行犯で逮捕したところでした。

レンが殺害した被害者は全て手首を縛られ、頭を撃たれて穴に落とされていました。
被害者はローン准将の部下であり、子供を含むその家族だったということになります。

レンたちは制服を着ているわけでもなく、戦闘でもない殺害を行ったのですから、
テロの現行犯ということになり、法的にジュネーブ条約の保護を受けることはできません。

つまりこの処刑は「合法」でありローン准将には非はなかったということになるのです。

 

欧米の反戦運動のアイコンとなった「サイゴンの処刑」の写真は、
ほとんど偶然に撮られたものでした。

写真家のエディ・アダムスは、その日、何か面白いものはないかと探していて、
普通のベトコンの兵士が通りに引きずり出されているのを見ました。

写真を撮っておいて損はないと思い、彼は

「3人がこちらに向かって歩いてくるのを追いかけて、写真を撮った。
5フィートほどの距離まで近づくと、兵士たちは立ち止まり、後ずさりした。
カメラのファインダーに左から男が入ってくるのが見えた。
彼はホルスターからピストルを取り出して、それを構えた。

まさか彼が撃つとは思わなかった。

尋問の際、囚人の頭にピストルを突きつけるのはよくあることだった。
だから、私はその写真を撮る準備をした。
しかし、そうはならなかった。
男はホルスターから拳銃を取り出し、ベトコンの頭に向けて拳銃を構え、
彼のこめかみを撃ったのだ。

私は瞬時にシャッターを押した」


■ ローン准将のその後

ローン准将はその後の戦闘で炸裂弾を受け、病院で脚を切断しました。

一方エディ・アダムスが撮影した「サイゴンの死刑執行」の写真は、
世界中の多くの新聞に掲載され(ただしその背景には全く触れられず)、
フィルムに収められた戦争犯罪の瞬間として紹介されました。

「犠牲者」が誰なのか、なぜ撃たれたのかがわからないまま、一般の人々は、
血に飢えたサディストが民間人を無差別に殺していると思い込みました。

そしてローン准将が脚を切断後、療養していたオーストラリアの病院は、
彼の治療を拒否したため、彼はアメリカに渡って療養することを余儀なくされました。

彼はそのままアメリカに移住し、バージニア州でピザレストランを開業しましたが、
いつの間にか彼があの写真の人物であるということが噂になり、レストランに落書きされたり、
脅迫されたり、また、店を破壊されたり、トイレの個室にはこんな言葉が残されました。

"We know who you are, you f---!"

カメラマンのアダムスはこの写真でピューリッツァー賞を受賞しましたが、
彼自身、実は写真に嫌悪感を抱き、賞を受けたことにも苦い思いをしていたといいます。

この写真がローン准将の人生を破壊したと知っていたからです。

「あの写真で2人の人間が死んだ。
"銃弾を受けた者とグエン・ゴク・ローン将軍だ。
将軍はベトコンを殺したが、私はカメラで将軍を殺したのだ」

「ローン准将は真の戦士だった」

とアダムスはタイム誌に寄稿しました。

「彼のしたことが正しかったとは言わないが、その立場になって考えてみる必要がある。
写真によって人生を壊されたにもかかわらず彼は決して私を責めなかった。
そして私が写真を撮らなければ他の人が撮っただろうと言ってくれたが、
私はずっと彼と彼の家族に申し訳ないと思っていた」


アメリカではローンの陸軍病院への入院を非難糾弾し、続いては
彼を国外追放しようとするポピュリズム政治家まで現れましたが、
結局、彼は地元の支持を得て、アメリカに住み続けることができました。

そして1991年にレストランを閉め、1998年に67歳で癌のため亡くなりました。

 

続く。

 

 

「戦争に包帯を巻く方法」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、今日はベトナム戦争に投入された
医療関係機器や従事者について取り上げたいと思います。

コーナーの中心には、我々日本人にはおなじみのシェイプ、

■ UH-1H メディカル・エバキュレーション・ヘリコプター
(医療避難ヘリコプター)

がそのままの形で(尾翼は切ってありましたが)展示されていました。

ヘリコプター、特にこのUHヒューイは、ベトナム戦争の最も象徴的な装備のひとつです。
ヒューイモデルUH-1Hは1963年、初めて戦争に投入されました。

製造は1954年テキサス州フォートワースにあったベル・ヘリコプター社ということなので、
生産されてから9年で実戦デビューをしたということになります。

UH-1Hは1967年に実戦配備されて兵力の輸送、捜索救助、患者後送、空襲、
そして地上攻撃などに広く使用されました。

後ろに回ってみると、ヘリの内部を見ることができます。
操縦席を後ろから。

機長&コパイの席と逆向きに据え付けられた椅子には、
シートのキャンバス地と同じオリーブドラブの軍装とヘルメットが置いてあります。
もちろんこれはベトナム戦争に参加した人が寄贈したものです。

メディック用のブーツとストレッチャーも。
後送する負傷者の状態を書き込むための書類のバインダーも見えます。

 

ヘリの後方には、銃を持って進軍するアメリカ兵たちと、
その周りを取り囲むようにして飛ぶたくさんのヒューイの写真の壁が・・。

■ 医療従事者の横顔

野戦病院に装備されていた手術用の簡易無影灯とベッドの前に、
医療関係者二人が着用していた服が展示されていました。

歯科大学を終了後、海兵隊に従軍し、フエのフバイで勤務した

ケネス・ロツィツキー(Kenneth Rozycki)

の刺繍入りジャケットです。
アメリカとベトナムの国旗のクロス、虎のマークが見えます。

空母の中にも歯医者が普通にあるアメリカですので全く驚きませんが、
ベトナムでも各部隊にちゃんと軍の歯科医を派遣していたんですね。

1968年、クリニックの外でポーズするロツィツキー医師。

治療中のロツィツキー医師と彼のアシスタント。
彼女はベトナム人で、ミッシー・ハーさんといいます。

ちなみに名前検索をしたところ、ピッツバーグの歯科医院が見つかりました。
現役でお仕事中なら凄いですね。

ジャケット背中にはロツィスキー医師が勤務したフバイの文字と
フバイを含むフエのコンバットベースの位置を記した地図が刺繍されています。

フバイには海兵隊が五個大隊、航空隊が駐屯し、航空基地がありました。
この航空基地は現在国際空港になっています。

そして左のナースの白衣ですが、これは、歯科衛生士だった

アリス・アンブローズ・ネスター(Alice Ambrose Nestor)

が着用していたものです。

1972年のアリスさん。

アリス・アンブローズ・ネスターと彼女のWAC同期の記念写真。

クレム・ブレーズウィック(Clem Blazewick)は、
サイゴンから20マイルの距離のロンビエンに展開していた
第93避難病院で臨床検査技師として勤務していました。

これらの写真は彼が撮影したもので、着陸したヘリコプターから降りた人々が
イマージェンシールームに負傷者を運んでくるところです。

ベトナムで使用された救急車は保護色のグリーンをしていました。

病棟に収容され回復を待つ兵士たち。

第93避難病院のメディカルラボの様子。
顕微鏡をのぞいているのはブレーズウィック本人かもしれません。

 

1965年6月に徴兵されたブレイズウィックは、ベトナムでの戦力増強が始まる直前、
クリスマスの日にサンフランシスコから東南アジアに向けて出発しました。

彼は 負傷した軍人の治療に当たり、毎日のように重傷者を目の当たりにし、
 時には死んだ軍人の検死を手伝うこともありました。

両足と両腕の一部を失い、66パイントの血液を輸血されながらも奇跡的に生き残った
コロラド州のチャーリーという兵士のことが、彼の記憶にいまだに残っているそうです。

ロバート・ペチェク博士(Dr. Robert Pacek)は、外科医として
フーキャットの医療隊に1966年から1年間勤務していました。

これは水筒に水を入れている?ペチェク医師。

MASHのユニットの外で治療を行なっているぺチェク医師。

MASHとは Mobile Army Surgical Hospital(陸軍移動外科病院)のことです。

赤十字のトラック運転手と話しているぺチェク医師。
ドクターバッグは革製のいかにも堅牢そうなものです。

まるでスターのプロマイドのようですが、サインはこの写真を撮った
ぺチェク医師の友人、カメラマンのエディ・アダムズのものです。

エディ・アダムズはベトナムで撮ったあの「サイゴンの処刑」で
ピューリッツァー賞を受賞した人です。

 

ぺチェク医師は2002年に医師を引退しています。
彼のことを報じた新聞記事を翻訳しておきます。

「1965年のある夜、ベトナムの荒涼とした海岸に降り立った
ロバート・ペチェク少佐の旅は、恐怖から始まったものでしたが、
彼はそこで思いやりに満ちた使命となりました。

当時ピッツバーグ大学の新米医師だった彼がベトナムに到着したのは、
米国の戦争参加がピークに達する数年前です。

フー・タイは舗装された道路もない辺鄙な村で、飲料水は
町の真ん中にある共同の井戸から汲んでいました。

病院の向かいにある難民キャンプでは、女性や子どもを中心に
数千人が広い草原に小屋を建てて暮らしていて彼は衝撃を受けました。

子供たちはアメリカ軍のジープを見かけると駆け寄ってお菓子をねだりました。

そんな彼らに何かをしてあげたいと思ったペチェク医師は、
プロフェッショナルとしての医療技術の提供とともに、故郷の家族に呼びかけて
地元でおもちゃの寄付を募る「ヴェトナム(sic)・トイ・ファンド」を立ち上げてもらい、
おもちゃや夏物衣類などを集める活動を始めたのでした。

運動は瞬く間に広がり地元の商工会議所、退役軍人会、女性団体などの市民団体が
お金や衣類、医療品などを集めました。

その後、地元の消防士が各家庭の前に出された段ボールを集めて回り、
ボーイスカウトなどと一緒に包装をしたものがベトナムに送られましたが、
プレゼントのあまりの多さに、医療分遣隊だけでは手が足りず、
他のアメリカ軍や韓国軍の助けを借りてプレゼントを配りました。

"私たちは人々を助けているのだと思いました。
彼らは共産主義者に抑圧されていたのですから”

とペチェク医師は語りました。

1966年に兵役を終えたペチェクは、妻のジョイスと一緒に、
さらに10年間、病院に薬やその他の物資を送り続けました。」

 

■ トリアージ

アメリカ軍の医療関係者は南ベトナムがテト攻勢に見舞われたとき、
数千人の負傷者を治療しました。

衛生兵、メディバック・ヘリコプターの搭乗員、伝令、医師、看護師は
すべて軍の医療システムにおいて重要な役割を果たしました。

負傷した軍人や民間人は、プレイクの第71病院、ダナンの第51病院に
「チョッパー(Chopperd)」=ヘリで搬送され、そこで彼らは
できるだけたくさんの命を救うためにスタッフによってトリアージを受けました。

トリアージで生存の可能性がないと判断された者(the expectants)は、
残念ですが、死ぬまでそこで放置です。

ついでに世界共通のトリアージ色分けについて書いておきます。

赤(immideate・即時) 即時処置しなければ生存できないが、生存の可能性がある

黄色(observation・観察) 要観察(後に再トリアージの可能性)今のところ状態は安定
すぐに死に至る危険性はないが、病院での治療が必要であり、通常であればすぐに治療が行われる

緑(wait・待機)歩けるが要治療、後回し

白 (dismiss・却下) は、医師の治療を必要としない軽傷

黒(expectant・予期)死亡している、治療を受けても助からない

この中で案外つけられて本人が一番辛いのは黄色かもしれない・・・。


このような新しいシステムと医療人材の豊富な投入によって、ベトナムでは
朝鮮戦争(1950ー53)で負傷した軍人の2倍が命を救われました。
(二つの戦争の間の期間に発達した医療技術の恩恵もあったでしょう)

中でも最も重症を負った者は、現地からグアム、沖縄に送られ、
症状によっては本土に送り返されました。


ベトナムではおよそ1万人のアメリカ人女性が看護師として任務を行いました。
そのうち約半数が陸軍看護隊の軍人です。

志願の理由は愛国心とアメリカ人の義務からという者、また
兄弟や夫が入隊しているのでその支援をするためという者、
そして女性として独立した仕事、誰かのためになる仕事をしたい、
という熱意を持った女性たちです。

彼女らの「仕事」は常に悲痛さを伴うもので、かつ、しばしば危険にさらされていました。

上の兵士に手当てをしている女性の写真は、医療隊の募集用紙です。
用紙にはこのような「キャッチフレーズ」が申し込み用紙ともに記されています。

「戦争に包帯を巻く方法」

 一度に一つの傷を処理する

 一度に一人ずつ

 看護師としての技術を駆使して

 あなたの心の中にある全ての明るさで

 あなたは あなたがアーミーナースであるがゆえにそれをする

 陸軍看護師部隊

 

続く。

 

医療従事者たちの証言〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

ピッツバーグのハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、
前回はおもに医療従事者としてベトナム戦争にかかわった、
ピッツバーグ周辺出身の人々のプロフィールを紹介しました。

今日は続いて医療関係の展示から、主に彼らの体験談をご紹介します。

 

■ 陸軍看護隊

医療隊が使用したストレッチャーなどが展示されています。
野戦病院を再現した内部には、

”We were shelled all to hell."
「我々は地獄のような砲撃を受けた」

という医療関係者の証言の一言が書かれていました。

陸軍医療隊の看護師がベトナムで使用していた器具の色々です。
戦地か内地か、陸上か海上かを問わず、彼らはこれらの器具を常備し
常に取り出せるように携帯していました。

包帯バサミ(Bandage Scissors)

刃の部分が特殊な形をしていますが、傷を露出させるとき
衣類や包帯を素早く切り取ることができるように角度がついており、
先端が鈍いものになっています。

外科用ハサミ(Surgical Scissors)

熱帯のベトナムの高い湿度の中では傷は早く可能します。
看護師たちはこれらの外科バサミを使って傷を開き患部を洗浄し、
傷の治癒を妨げる死んだ皮膚を取り除きます。

止血鉗子(Hemostat)

これらの小さな外科用クランプは、血管や動脈からの出血を止めるのに役立ちます。
患者が複数の傷を負っている場合、止血鉗子を使用して一部の出血を止め、
医師や看護師は別の部分を治療するということができます。

鉗子(Forceps) 

看護師は、榴散弾の小片や弾丸の破片を取り除くなど、
いろんなタスクに鉗子を使用します。

 

ヘルメットに空いた銃痕。
AK-47アサルトライフルの銃弾が空けたものです。

医療関係者は、兵士たちに加えられたこのような、
小銃、大砲、榴散弾など、様々な種類の武器による傷と闘いました。

 

■ テト攻勢における医療隊の活動


マニフェスト・ベネビランスの門

テト戦争で大きな被害を受けたこの城塞には、かつてのベトナムの首都である帝都がありました。
フエの戦いは、ベトナム戦争の中で最も長く、最も血なまぐさい戦いとなりました。


テト攻勢にアメリカと連合国が対応する間、医療スタッフは
負傷した戦闘員と民間人の治療のために24時間体制で働きました。

混乱の中、特にアメリカ軍駐屯地の近くにある病院は、常に
迫撃砲やロケット砲に見舞われることになりました。

看護師、リン・ハドソン中尉は、この状況を

「計り知れないほど事態は絶望的状態でした」

と語りました。
なぜなら、

「兵士だけでなく、民間人も病院に殺到したからです。
わたしたちの病院は、まるでベトナムの村そのもののようになりました。

母親と彼女の五人の子供を2台のベッドに寝かせました。
彼らは一人残らず負傷していました」

また、プレイクの避難病院勤務だったエリザベス・アレン大尉は、

「ロケットが病院に直撃し、1時間もの間砲撃が続きました。
すぐに避難壕に入りましたが、もう地獄のようでした。
あちこちで悲鳴が上がりましたが、それはそこにいたほとんどの人と
全てのものにそれらが当たったからです」

ロン・ビンにいたレオ・ラベル中尉は

「私たちがそこに着いた夜、テト攻勢が始まった。
着陸しようとした航空機が攻撃を受け始めた。
その機のパイロットは急降下し、装備を全て捨てて避難し、生還することができた」

と目撃談を語っています。

プレイクの第71病院で負傷者の手当てをする医療チーム。

手術が行われているところ。

ダナン

「病院船の手術室に続くデッキには担架の列ができていました。
わたしたちは懸命になってできることをし、彼らを救おうとしました。
・・・・しかし、彼らの多くはわたしたちの手の施し用もなく、
その日の日没を見るのが人生最後となりました」

バーバラ・コフィン・ロジャーズ 病院戦USS 「リポーズ」Repose

USS Repose AH-16 Yokosuka 1952.jpeg

「リポーズ」はもともとマーリン・ビーバー (Marine Beaver) という民間船です。
浸水直後、1944年に海軍によって取得されて病院船に転換しました。

第二次世界大戦では末期に太平洋に展開し、終戦後もアジアにいました。
その後一旦退役しましたが、朝鮮戦争のために再就役し、負傷者などを
日本に輸送するなどの任務を行いました。

そして再び退役し11年間保管されていたのですが、ベトナム戦争が始まったので
再々就役し、東南アジアに展開して

 

「東洋の天使 Angel of the Orient」

という愛称で呼ばれていました。

ベトナム戦争中、「リポーズ」は9,000名以上の戦傷兵、および
24,000名の入院患者を手当てしました。

1970年に今度こそ退役したのですが、ロングビーチの海軍病院で
別館として4年ほど使用され、その後は本当にスクラップになりました。

朝鮮戦争では9個、ベトナム戦争の戦功で9個の従軍星章を受章しています。

 

 

1968年2月9日、ダナンでヘリコプターによる救出を待つ負傷した海兵隊員。

ベトナム人の親子。
子供はどちらも負傷しています。

■ 病気と負傷者の治療

衛生兵とヘリ搭乗員は負傷者を避難病院に後送しました。
そこで医療スタッフは重傷や酷い火傷と闘いました。

熱帯の環境によって感染症を起こした患者、マラリアにかかった患者は
民間人であってもアメリカの病院に送られました。

看護師は負傷者や瀕死の人を救うために全てのリソースを求め、活用しました。

「若いわたしたちがケアしたのも、ほとんどは若い人でした」

一人の看護師はこう言っています。

プレイクの第71避難病院のERで勤務する看護師たち。
左から2番目の男性はリン・モーガン中尉、その右アフリカ系女性はマーラ・ペッシェ中尉、
そして一番右はリンダ・ヴァン・デヴァンター中尉。

看護師はほとんどが尉官以上として現場に勤務していたようです。

 

「移動中、わたしは容赦ない数の民間人の死傷者を目撃しました。
わたしたちのERは、特に子供たちの死傷者でいっぱいでした。

わたしはいまだに一人の若い母親を、彼女の死んだ子供の会わせるために
遺体安置所に連れて行った時、彼女が狂ったように自分の胸を叩いていた様子が忘れられません。

彼らの乗ったバスが地雷の上を走り、爆発したのでした」

 バーバラ・チミネッロ大尉 

 

「ロケット弾と迫撃砲が何度か病院にいる私たちを襲いました。
男たちはベッドの下にダイブしましたが、たくさんのチューブに繋がれている者や、
動くことのできない者には上からマットを放り投げてかぶせてやりました」

 ダイアン・カールソン・エバンス大尉

 

 

地雷を踏んで負傷した狙撃手の治療を行う医療スタッフ。

ダスト・オフ Dust-off

着陸と離陸の時に土埃を舞い上げることから、ヘリコプターの乗員は
「ダスト・オフ」と呼ばれていました。

1967年、ヒル875から避難するヒューイに乗り込む負傷した第173空挺団の兵士たち。

アメリカ軍の空爆で負傷したベトナム人の幼児。
特有の穴の空いたような傷を頭部に負っています。

それでは、だいたい悲惨でシリアスなものが多い証言の中から、最後に
ちょっと心温まる?ものをご紹介しておきます。

「負傷者には全ての注射という注射をしなければなりませんでした。
あるとき、両腕と片足に負傷した男性が運ばれてきました。
彼はものすごく混乱していたのですが、面白い男でした。

わたしが注射のために彼のところにいって、

『オーケー、寝転がって下着を下ろしてください』

というと、彼はわたしをじっと見て、

『マム、このことは、ここだけの秘密にしてもらえますか?
あなたが妻よりもたくさんわたしにパンツを降ろさせた、
なんてことだけは、彼女に知られたくないんですよ』

そこにいた全ての人々は噴き出しました。
そんな冗談を言っていられないほど彼の傷は深く、痛かったはずなのに」

 ナンシー・ブレイクビル・ウェルズ大尉 



続く。

 


映画「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」

$
0
0

日本の映画配給会社のタイトル詐欺ともいえるネーミングセンスのひどさを
常日頃熱く訴えている当ブログ映画部ですが、今回はちょっと虚を突かれました。

今回も結論から言うとそれはいつもの「タイトル詐欺」と言えないことはないのですが、
・・・なんと言うか、難しいケースです(笑)


最近日米に加えて意識的にドイツの戦争ものを紹介している関係で、
今回、「ドイツ戦争映画」という検索に引っかかってきた映画の中からチョイスしたのが、

「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」

でした。

大抵の場合わたしはろくに内容を確かめず直感で購入を決めます。

タイトルだけを手がかりにこんなDVDを選択する人間はあまりいないかもしれません。
いわんや女性においてをや。
言い切るつもりはありませんが、少なくない購買層はいわゆる
ゴリゴリの「パンツァーオタ」に属する男性ではないかと思う次第です。

 

さて、届いたDVDを手にしてみると、パッケージには大きな鉄十字をバックに疾走する戦車、
その前で7人の兵士達が迷彩服で武装してヒーロー戦隊もののようなポーズを決めています。

さらにパッケージには、

「ナチス最強の部隊 最後の戦い」

という文句。
さらにパッケージをひっくり返してみると、

「”悪魔”と恐れられたナチス親衛隊の視点から
戦場の恐怖と真実を暴く衝撃の戦争大作!!」

と❗️二つサービスで煽っているではないですか。

さあ、以上から皆さんはどんな映画だと想像されるでしょうか。

「プライベート・ライアン」や先日紹介した「戦争のはらわた」のように、
緊張した戦闘シーンから始まってもよさそうなものですが、ところがどっこい、
まずこのような言葉で映画の「立場表明」が無音の中行われます。

「この映画は政治的なものではなく 一人の兵士の記録である」

これがオープニングです。

とはいえ、このような始まりを持つ戦争ものは過去の記憶からも決してないわけではありません。


映画制作の意図が反戦であると強調するために、あえてこのように始まり、
その後は戦闘シーンでなければ脱走兵が逃げてきたりするものです。

しかし、タイトルが始まると、戦闘シーンか、あるいはナチス司令部で
制服の高官たちが作戦会議をしているシーンを期待していた人をがっかりさせます。

まず、子供達の合唱によるコラール風の美しい旋律をバックに、
ナレーションが始まります。

「調和と生存 調和は自然のバランス 生存は自然が課す試練
試練は生に目的を与え 生存は魂に深く根付く

樹木の小さな種が光に向かい 上へ上へと伸びるように
生存は生き物に植え付けられた本能

自然も日々生存を賭けて闘う 時に美しい風景を見せる
それは 長年にわたる生存を賭けた闘いの果実

自然は厳しい選択を迫り 人が忘れがちな掟をつかさどる
愛 それは原動力 すべてのものを突き動かす
自然は生存の果実を愛する
すべての生き物もその果実を愛し 自然に従って生きる

これが完璧な調和」

こんなネイチャー系ポエムが、地球から昇る太陽、さかまく波、木漏れ日、
茫漠たる雪山、のびゆく白樺、火山から噴火する溶岩など、
ナショナルジオグラフィックの写真のような大自然をバックに女性の声で語られるのです。

ポエムは後半になって、その「愛」が時代の流れとともに変わり、

「人々は大切なものを見失い始めた」

「人間に対する愛、家族に対する愛、祖国に対する愛」

つまり、クラウゼヴィッツ式にいえば、

「戦争はこれらの愛の現れである・・・”by other means."(形を変えた)」

といったところでしょうか。
もちろん、この愛が「大切なものを見失った結果」であるという大前提で。

もうこの時点で、タイトルの「アイアンクロス」に疑問を持ち始めるわけですね。
そこで、原題をあらためて見てみましょう。

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」

そしてメインとなるタイトルが、

LEIBSTANDORTE

フラクトゥール(亀甲)文字で書かれたタイトル文字を読んだのですが、
aとo、さらにbとdがまったく同じ形なので解読に苦労しました。
これを、

「ライプシュタンダルテ」

と発音します。
ちなみに亀の甲文字はドイツ人にとっても読むのが大変だったので、
これを廃止したことはアウトバーンと並ぶヒトラーの功績といわれているそうです。

そして、このライプシュタンダルテという名詞は、一語で

第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SSアドルフ・ヒトラー
1. SS-Panzer-Division"Leibstandarte SS Adolf Hitler"

という師団名を意味します。

「虚を突かれた」「タイトル詐欺とはいえない」といった意味がお分かりいただけたでしょうか。
少なくとも後半の「ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」は「間違ってはいない」のです。

ただし、「アイアンクロス」てめーはだめだ。

前回取り上げた「戦争のはらわた」の原題は「The Cross of Iron」=アイアンクロスですが、
このときの映画配給会社が何を思ったかこのとっぴなタイトルをつけたため、
「アイアンクロス」はその後の邦題タイトルで使用されたことはなく、いわば

「取ったもん勝ち」

状態だったのです。

そこでこのナチス親衛隊の映画と「アイアンクロス」を短絡的に結び付けた配給会社が
安直に目を引くタイトルとして拝借しちまったということなんだろうと思います。

しかし、「戦争のはらわた」がミスリードであったと同様、こちらも間違っています。
映画を観た方は、この「アイアンクロス」には首を傾げられたのではないでしょうか。

 

そもそも「鉄十字」というものは、「戦争のはらわた」でもお分かりになったかと思いますが、
ドイツ軍の紋章であると同時に、普通は勲章を指すわけですよね。

鉄十字章の歴史を遡れば、ナポレオン解放戦争の頃のプロイセンから始まったもので、
・・・そしてここのところを是非心に留めていただきたいのですが、

鉄十字は現代のドイツ連邦共和国でも正式な勲章として使用されている

のです。

つまり鉄十字はヒトラー時代の専売特許ではないし、ちょうど我が海上自衛隊、
および陸上自衛隊の旭日旗が、現行で世界に認められている軍旗であるのと同様、
(禁止されたハーケンクロイツとは全く違い)ナチスを表すものでもなんでもないのです。

「戦争のはらわた」はアイアンクロス、鉄十字章が欲しくて狂っていく将校と、
そこになんの価値も見出していない下士官の葛藤がテーマに描かれていたので、
これをタイトルにすることは至極当然のことなのですが、
この映画には、鉄十字をもらうのもらわないのという話は一切ありませんし、
そもそも勲章をもらうような英雄的な活躍が描かれているわけでもありません。

その意味ではパッケージの煽りである、

「最強の部隊の最後の戦い」

というのは、ずいぶん内容からかけ離れていると言い切ることができます。

1. SS-Panzer-Division Leibstandarte-SS Adolf Hitler.svg

ちなみにライプシュタンダルテの徽章はこのような鍵のマークです。
創立者のヨーゼフ・ディートリッヒの名前、ディートリッヒには「鍵」の意味があるからです。

おそらくこの映画の邦題を考えた人は、ナチスやドイツ軍について詳しくないのでしょう。

わたしなら素直にこうするけどな。

「ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」

あるいは(どうしてもヒトラーということばが必要なら)

「ヒトラー護衛親衛隊連隊」

そして、じっくりタイトルを吟味してみると、もう一つのことに気がつきます。
サブタイトルの

My Honor Was Loyalty

は、英語圏ではこれがメインタイトルになっているのですが、これは
ライプシュタンダルテを含む親衛隊(SS)の標語(モットー)、

Meine Ehre heißt Treue「忠誠こそ我が名誉」

を、過去形にしたものなのです。

「忠誠こそ我が名誉・・・だった」

というところでしょうか。

さて、タイトルに続いて、戦地に赴く兵士が恋人と別れを惜しむシーンが現れます。
胸に止まったテントウムシのアップ、木陰に隠れんぼしたり、おいかけっこする二人。
いうならばこれも、戦争映画にありがちなテンプレシーンです。

そして彼女は髪を結んでいた青いリボンを彼に手渡すのでした。

観ている人はこの「一人の兵士」が主人公だろうと信じて疑わないでしょう。
ところがそうではないのです。
わたしがこの映画を、ただの戦争映画ではないと思う所以です。

ネタバレ御免で書いてしまうと、この男性は主人公の兵士が戦場で一瞬すれ違い、
わずかの間心を通わせ、その後偶然、彼とその恋人の運命を知らされることになる人物です。

主人公も、この冒頭の兵士も、戦場で華々しく活躍する英雄ではありません。
上官の命令に従い、目を背けるような戦場の酸鼻に慄然とし、死を恐れ、
戦友の死に打ちのめされ、そして敵に復讐心を抱く・・・。

この映画が表現しようとしたものは多層に流れる幾多もの小さな真実です。

主人公たちの体験として描かれていることに、一つとして創作されたものはなく、
全てがあの戦争に参加した兵士たちの体験したことであり、見たものだと監督は言います。


以前、ドイツ制作の映画にナチスを描いたものがないという衝撃的な事実を知り、
それはドイツ人が戦後に置かれた国民総贖罪意識のためだろうか、と書いたことがあります。

そしてこの映画も、吹き替えたドイツ語をメインで使用しているにもかかわらず、
配給会社はUK、監督のアレッサンドロ・ペペも俳優の殆どもイタリア人と言う具合です。

最初に書いておくと、ぺぺ監督は彼らを狂った(と後世のいうところの)
ナチス ドイツ教義に突き動かされた狂信者ではなく、
むしろ慈愛に満ちた筆致で表現しています。

それは、戦いの彼我にいる双方の戦士たちの個人の内面に分け入り、
ことに、敗者となったため、戦後一切の擁護や弁明を許されない
ナチスドイツの兵士たちを、それを放棄させられた(或いは自ら放棄した)
ドイツ国民に代わって語ろうとしているように見えます。

主人公はルードヴィッヒ・ヘルケル。

ライプシュタンダルテと改称された第1SS装甲師団は独ソ戦に投入され、
ハリコフで4,500名もの損耗を被ったのち、クルスクに転進しましたが、
1943年になると目にみえて戦況は悪化してきました。

彼は昨日伍長に昇進したばかりですが、森の中で敵と遭遇すると
部下を残して身を隠してしまい、そんな自分を情けなく思います。

たったひとり生き残った彼の部下の名前はシュタイナー。
偶然かか意図的かはわかりませんが、「戦争のはらわた」の主人公の名前です。

行軍しながら兵士が歌う、「ヴェスターヴァルドの歌」

German Imperial song "Oh, du schöner Westerwald"

は「クロス・オブ・アイアン(戦争のはらわた)」にも登場しましたし、
「Uボート」でも劇中で歌われていました。

装甲師団の映画ですから、もちろん戦車も登場します。

メッサーシュミットだと思う

戦車と共に進む彼らの頭上を旋回する味方の飛行機を見て、

「息子はパイロットにしよう」

とつぶやく兵士。

どんなに危険でわずかの間しか生きられずとも、
地面を進んでいる身には飛行士は羨望の的だったのです。

ここでソ連軍との戦闘が始まるのですが、早速わたしは違和感を感じました。
今までの常識から言うと、画面とBGMが全く「別物」なのです。

哀愁を帯びた、センチメンタルなピアノの調べ。
メジャーの心安らぐような美しい音楽が銃声に重なります。

そして、妻に宛てて書いた手紙をヘルケル自身が朗読するかたちで
淡々と「戦況の説明」が行われます。

「最後まで勝つと信じている」「戦友の敵討ちがしたい」

そんな、「良き兵士」であるヘルケルの偽らざる気持ちとともに。

ここには全ての士官を憎む下士官も、傲慢な貴族の士官も存在しません。
フランスの前線からわざわざ危険な独ソ戦線に志願してきたコルベ少尉を、
ヘルケルはその能力と統率力を含めて敬愛しています。

「少尉の指揮を信じています」「ありがとう」

シュタイナーは、負傷した友人を刺されて失ってから、
敵に一切の情けをかけないと決めた男です。

1943年の8月、師団は北イタリアに向かいました。
同盟国ですが、ここではパルチザンの激しい抵抗を受けます。

そして降伏後のイタリア軍の武装解除を手掛けますが、抵抗に遭い、
イタリア軍との交戦の結果制圧するということになりました。

余談ですが、このとき師団はイタリア軍から大量の軍服と、
ドイツがイタリア海軍に供与したUボート乗員用の革のジャケットを押収しています。

ちなみに、正式に師団が、

第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ SS アドルフ・ヒトラー
(1. SS-Panzer-Division „Leibstandarte SS Adolf Hitler“)

と改称したのはイタリア戦線の期間のことでした。

 

続く。

 

 

映画「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」 

$
0
0

 

当作品は2015年リリースなので立派な新作の範疇に入るのですが、
わたしにはこれが公開された時どころかDVDリリースの記憶が全くありません。

これは、この映画がハリウッド制作ではなくイタリア映画で、しかも
ハリウッドが蛇蝎のように悪魔視するナチス 、しかもSS隊員の視点から語られた、
「ある方面からは非常に不愉快な映画」だからではないかと思います。

美しい音楽、愛する妻に送る手紙の淡々とした朗読、最強の部隊と言われながらも
殺す殺されることに苦悩する一人の人間として彼らを語ること。

これら全てをタブーとしてきた戦後の全ての媒体を思うとき、
この映画の意義はたいへん大きなものであると断じざるを得ません。

■ ロシア戦線

さて、師団はイタリアでパルチザンとの戦いに参加したのち、
情勢がさらに悪化したロシア戦線に送られることになりました。

またしても彼らのいうところの「イワン」とのおわりなき戦いが始まるのです。

背嚢には飯盒炊爨のセットとともに髭剃りセットも入っています。

本作で重要な要素として語られるのが捕虜の扱いです。
戦闘中はともかく、基本的に捕虜は取らないとなっている状況下で
不幸にして敵が生き残っていた場合・・・。

相手を一人も許さないと決めたシュタイナーは捕虜を殺すのに逡巡しません。
しかしヘルケルは、手袋を取り上げられ、必死で命乞いするロシア兵を
新兵に射殺させようとする彼を見ながら心でつぶやきます。

「何かを止める力があるのに 許されないのは辛い」

ライプシュタンダルテの創始者であるディートリッヒが肉屋の息子だったように、
彼らはほとんどが貧困の出であり、食べるために軍隊に入隊しています。

新兵のショルはナポラ(ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、
中等教育レベルの寄宿学校《ギムナジウム》)出身ですが、
ナポラは必ずしも入隊を強制しておらず、彼自身

「学業を続ける級友が多いけれど、僕はSSに志願しました」

と説明しています。

つまり彼はナチス的教義に共鳴し入隊を決めたのですが、
どんな思想にもたやすく心酔する十代前半の少年にはありがちなことでした。

ヘルケルも貧困ゆえ入隊しましたが、出征し帰ってこなかった父を
誇りに思うように、自分のことも妻に誇りにしてほしいといいます。

そして、ハリウッド映画はもちろん、現代のドイツ人が決して語ろうとしない
ある事実にさらりと言及するのです。

「そこはドイツではなくなっていた。
母はする仕事が全くなくなった。
それはユダヤ人が経済を握っていたからだ。
当然俺たち(ドイツ人)よりユダヤ人が優遇される。
干し草に寝なければならないこともあった。
そんなときナチスが母に仕事をくれた」

そして出征して死んだ父を初めて国家にねぎらってもらったことが、
「ここにいる理由だ」というのでした。

ヘルケルが率いる小隊は、シュタイナー、ショル、総員4人です。

この映画は戦闘シーンと同じ比重を持って自然の描写がなされます。
兵士と自然が共存する、心がしんとするような構図。

この手法はもちろん本作が初めてではありません。
「シン・レッド・ライン」などに取り入れられたのと同様の試みですが、
あちらが南洋であるのに対し、こちらはロシアの大地という大きな違いがあります。

1943年の12月、師団は東部戦線を西部から攻撃していましたが、
16日まで続いた戦闘でソ連第16軍の大半を壊滅させています。

12月24日、この日は装甲軍団の戦線が突破されたため、
前面で防御線を張っていたときでした。

雪上迷彩を制服の上につけた彼らは、ヘルメットに立てた蝋燭を囲み、
互いに「メリークリスマス」とだけ言い合います。

BGMには各自の脳裏に流れているであろう「きよしこの夜」の歌が・・・。

「兵士に何ができる?
指導者たちを信じ、忠誠を誓ったのだから
今は塹壕を掘って掘って掘るしかない」

■ ノルマンディ

ノルマンディ上陸作戦当時、ヒトラーはこれを陽動作戦とみなしていたため、
ライプシュタンダルテはベルギーに駐留していましたが、その後6月下旬、
陽動作戦でないことが分かった時点で現地に派遣されました。

「イワン」と戦っていた彼らは、英米軍と干戈を交えることになります。

雪の中で凍えていたかと思ったら、こんどはフランスです。
この頃になるとドイツは徴集兵で人員を補填するようになったため、
『SSが徴集兵』というちょっとおかしなことになっていました。

つまり最強も何もあったものではありませんが、
国民総動員体制だったので仕方ありません。

コルベ少尉は、総党本部への異動を断って前線に残ることを志願しました。
ヘルケルはそんな彼を心から尊敬しています。

ノルマンディではイギリス軍が発動した「グッドウッド作戦」に対応するのが使命です。
といいつつ、始まった戦闘シーンにはなぜかアメリカ陸軍の戦車が登場。

そしてこの映画は相変わらずエモーショナルなコーラスによるせつない音楽をそれにかぶせ、
ヘルケルが囁くような声で不安で押しつぶされそうな心情を語り続けるのでした。

痛みで喚く瀕死の兵、逃げようとして後ろから打たれる者、
手を上げて捕虜になる者・・。

超人的で勇敢な兵士も、カリスマ指揮官も登場しません。

戦闘が終わってヘルケルの意識が戻ると、彼は一人になっていました。
森を彷徨していると一人の国防軍兵士、ディートヴォルフと出会います。

彼は偶然ヘルケルと同じ故郷出身で、スペイン人とのハーフでした。

彼はいきなり、ヘルケルをゲルマン民族の代表のように、

「何故ユダヤ人を憎む?」

と聞いてきます。
そして、ナチスが行っているという虐殺のことを語り始めました。

彼はポーランドで収容所に送られるユダヤ人を見て彼らの運命を知ったといい、
妻の父がユダヤ人なので心配だ、といいながらヘルケルに青いリボンを見せます。

彼は脱走してアメリカ軍に投降し助けてもらうつもりでした。

ヘルケルに、コルベ少尉は強制的に休暇を与えました。
前線では誰もが遠慮して自分からは休みを申し出なかったのです。

与えられたわずかな時間を存分に味わおうとする二人です。

「人は責務を免れない」

「しかし愛がなくては人は生きてはいられない」

ヘルケルは、ふと町内にあるというディートヴォルフの妻、エレノアの家を訪れました。
彼が無事だったということだけ伝えたかったのです。

帰ろうとした彼はゲシュタポの二人とすれ違いました。
彼らは夫が脱走したことをうけ彼女を捕らえにきたのです。

彼女は逃げ出したため、撃たれてしまいます。

「ユダヤ人に決まっている」

ヘルケルの中に、自分が属する組織、信奉する大義、
そして命をかけて戦う意味に対する疑問が湧いてきた瞬間でした。

■ アルデンヌの戦い

復帰とともに軍曹に昇進した彼は、部下を率いる手前
そのような気持ちをみせるわけにいかない、と苦悩するのですが、

コルベ少尉にはしっかり見ぬかれていました。
ついヘルケルは言い返してしまいます。

「無駄な戦いです」

特務曹長にもその態度は軍法会議ものだ、と怒られてしまいました。
ここを出発するという特務曹長に、ヘルケルは思わず

「脱出ですか」

と嫌味を言ってしまい、

「何様のつもりだ」

と激怒されます。

その晩、コルベ少尉は昼間叱責したことを謝ってきました。
そして、少尉自身が体験した民間人の虐殺について語ります。

大佐の査察に同行していて、武器を摘発した家の家族(おそらく無実)を
射殺することを命じられたのでした。

そこでヘルケルはこういいます。

「戦争が終わったら世界は我々をどう思うでしょう」

コルベ少尉はそれに対し、

「戦争に負ければ我々は永遠に呪われる」

これはある意味この映画の核心たる言葉です。
負ければそれは犯罪となる、しかし負けなければ。

戦争である限り、どちらかだけが残虐だったなどということはあり得ません。
ユダヤ人虐殺のような計画された戦争犯罪こそなかったとはいえ、
このころのアメリカ軍はノルマンディで投降した捕虜を全員射殺していました。

しかし、米軍の「戦争犯罪」は告発されることはありませんでした。
なぜなら、アメリカは戦争に勝ったからです。

そんなとき、ヘルケルの部隊にアメリカ軍の捕虜が連れてこられました。
チラッと見える彼の腕のマークから、彼はレンジャー部隊であり、
偵察隊の唯一の生き残りだという説明がされます。

アメリカ捕虜の検分を命じられたヘルケルは、彼がおそらく殺したのであろう
ドイツ兵の認識票とともに、青いリボンを見つけました。

米軍に投降すると言っていたディートヴォルフを、彼らは殺したのでしょうか。
それとも戦闘後、死体から略取したものなのでしょうか。

逆上した彼はアメリカ兵に詰め寄り、皆が驚く中
振り向きざまに何発も銃弾を浴びせて殺してしまいます。

「エレノア、ディートヴォルフ。
ひとりは敵に、ひとりは我々に殺された」

 

斥候中、ヘルケルはばったり遭遇したアメリカ兵(この顔を覚えておいてください)を、
至近距離であったにもかかわらず撃つのを躊躇い、見逃してしまいました。

  

そしてこのアメリカ兵の反撃によって、部下であり戦友でもあるシュタイナーを失うことに。

その晩彼とショルは幻想を見ました。
何事もなかったかのように帰ってきたシュタイナーと3人で酒を組み交わす幻想を。

コルベ少尉も次の行軍であまりにも呆気なく戦死してしまいます。
ついさっきまで「妻と祖国のために戦う」と言っていたのに。

少尉のお悔やみに言いにきた上官に、ヘルケルは突っかかってしまいます。

「何故戦うんですか」

するとこの高官はその態度に怒ることなく、

「わたしは祖国を愛しているからだ。
もう政治などはどうでもいい。愛するもののために戦う」

そして彼の肩を叩いて去ります。
彼はすぐに捕虜になって処刑される運命です。

そして、そんな彼の最後がやってきました。
あまりにも唐突に。あまりにもあっけなく、まるで日常の続きのように。

彼とその小隊を取り囲んだのは、ヘルケルが射殺したアメリカ兵の部隊でした。

「愛するマルガリーテ

何が真の務めか見出せないなか、僕は最善を尽くした」

「兵士の模範になろうと努め 苦境でも諦めなかった」

「君に会って抱きしめたい
僕は全力を尽くしたと伝えたい」



「僕は君のため 家と故郷のために戦った
心から愛してる」

彼が自分を殺す男の顔を凝視すると、相手も自分を凝視していました。

見覚えのある顔。
かつて自分が撃った敵が最後に見たであろう兵士の顔でもあります。

ところで、最後にナレーションが女性の声で流れるのですが、
この女性は誰なのでしょうか。

「わたしたちは自由のため独裁と戦った
だが彼らは自分の命と祖国のために戦った
多くは2度目の敗戦を恐れた
敵が自分の街や家に踏み入るのを恐れたのだ
だから戦うしかなかったのだ」

「朝起きて小銃を手にし 指導者が始めた戦いに臨む」

「ドイツ指導部は非人道犯罪に問われた
だが罪人はドイツ軍人だけだろうか
彼らは手を尽くさずにはいられなかった
悲しみと 絶望と 必死の思いで」

「彼らの名誉は忠誠
将軍たちは総統のために命をかけ兵士たちは家族や戦友のために命をかけた」

「政治はときとして道を誤る 
だが兵士たちは祖国に忠誠を誓った」

「わたしの夫と同じように」

この映画には二人の「妻」が出てきますが、これが
ヘルケル軍曹の妻ではないことは確かです。

「わたしたちは常に安全な位置に立とうとする
原子爆弾投下の是非も問おうとはしない
多くの命が失われ続けていても何もしない」

「歴史は勝者が作る
何が起き 何が悪いのか勝者は世界に語ることができる
敵軍の犯罪を暴き 自軍の罪を隠せる

わたしたちは知らないことも批判する
常に悪者探しをして安易な道へ逃げる

だがそんな”邪悪な”独軍兵士のおかげで 夫は命拾いしたのだ」

1946年、ミネソタで一人の女性がこれを書いています。
彼女を迎えに現れた男性の顔は映画を見て確認していただくとして、
女性が・・・どうもあのエレノアと同一人物に見えます。

この正誤は観る人の解釈に委ねられているのでしょう。

アルデンヌの森を最後に生き残っていたショルが匍匐しています。

彼を迎えにきたのはヘルケル軍曹とシュタイナーでした。

「伍長、精一杯やりました もうダメです」

ヘルケルは優しく微笑んで彼を引き起こし、3人で歩いていきます。

どこまでも。

美しい自然を共に描くことによって、戦争という人間が行う行為の無意味さ、
虚しさと対比させ、さらにこれまで省みられなかったナチス親衛隊の兵士の視点から
彼らがどう戦ったかを後世に残そうと試みた作品。

そこにはやや平凡ではありますが、細やかな人物描写とともに
決してこれまでの定型にはめずに戦争を描こうとする努力があります。

ほとんどがイタリア人のキャストによるドイツ軍ものなので、
ドイツ語の吹き替えはこの映画に多少の雑さを与えていますが、
低予算ながらクォリティの高い映像は観るべき価値があります。

そうまでしてペペ監督が描きたかったものはなんだろうかと考えると、
それはやはり最後のナレーションに集約されていると思うのです。

「歴史は勝者が作る」

第二次世界大戦を扱った他の映画に欠けている決定的な視点を表すこの一言ゆえ、
この作品はこれまでほぼ話題にならなかったのでしょうし、残念ながら、
アメリカの配給業界ではすぐに消えていく運命だと思われますが、
この作品に哀しい共鳴を覚えた鑑賞者は、決してわたしだけではなかったと信じます。

終わり

「GET WELL 'N STUFF」 ドーナツ・ドリー〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、医療関係者の証言に続き、
その他の任務についた人々について紹介していきます。

その前に、医療関係者たちが格闘した兵士の傷、彼らにそれを負わせた
ベトナム戦争の武器について、実物を見ていくことにしましょう。

■ ベトナム兵士の武器

これはこのベトナム戦争展では

RPG (Rocket-propelled grenade)launcher

という名称になっています。

先日まで紹介していたピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館所蔵で、
特別展のために貸与されたということでした。

正しくはRPG-7(РПГ-7)といい、ソ連の携帯対戦車擲弾発射器です。
ベトナム戦争から使用されているものですが、安価、簡便であるため、
いまだに途上国の軍隊や武装勢力によって世界中で使用されています。

ここではRPGを「Rocket-Propelled Grenade(ロケット推進擲弾)」
の略だとしていましたが、これはいわゆる「バクロニム」backronym、
つまり、ロシア語の

「Ruchnoj Protivotankovyj Granatomjot」(対戦車擲弾発射器)

の頭文字からむりやり英語の単語を当てはめて作った言葉になります。

実態は、ロケット式ではなく、発射と同時に後方からのガス噴射で反動を相殺する
クルップ式無反動砲ということになります。

  構造が単純で取り扱いが簡単、しかも安価。
そのわりに威力があるため、発展途上国のゲリラ御用達の武器です。
海保が対峙した北朝鮮工作船の工作員もこれを使っていたという記録があります。


九州南西海域工作船事件で、沈没した北朝鮮の工作船付近の海底から回収されたRPG-7発射器(上の2挺)  

 

ベトナム戦争で北ベトナム軍やベトコンはRPG-7をアメリカ軍や南ベトナム軍の
装甲車、ヘリコプター、駐屯地への攻撃に使用しましたが、戦争そのものが
主にゲリラ戦だったので、対戦車兵器として使われる例は多くなかったようです。

北ベトナムとベトコンによって使用された武器です。
まず、

SKS 歩兵銃

中国製のソ連モデルで、北ベトナム軍が使用していたものです。
プラスチックと木材でできており「ジャングルストック」と呼ばれました。
10連発でセミオートマチック製です。

AK-47ライフル

ミハイル・カラシニコフ将軍が1948年に設計したAK-47は、
1分間に爆発を伴う40連発(100連発まで可能)で完全な自動式です。

コルトAR-15

コネチカットのハートフォードにあるコルト特許銃火器が1965年製造したもので、
セミオートマチックですが、Mー16ライフルより性能は劣りました。

さて、ここからはピッツバーグ近郊出身のベテランの寄贈品です。

■ 海軍軍人と戦艦「ニュージャージー」

ジョン・ヴォイシク(John Voycik)の海軍Pコートです。
彼は1967年海軍に入隊しました。

彼の説明でわたしはものすごく混乱してしまったのですが、そのわけは
ここにこう書いてあったからです。

彼はフィラデルフィア海軍工廠で最後にCommissioned(引き渡し)された
USS「ニューオーリンズ」でベトナムに運ばれました。

 

フィラデルフィア海軍工廠は1800年代に稼働が始まり、
アメリカで初めて槌型クレーンを装備した工廠で、
第二次世界大戦にはその最盛期を迎え、この期間に

戦艦「ニュージャージー」(USS New Jersey, BB-62)

戦艦「ウィスコンシン」(USS Wisconsin, BB-64)

が建造されましたが、戦後規模は縮小され、1970年に建造された

揚陸指揮艦「ブルーリッジ」(USS Blue Ridge, LCC-19)

が、ここで生まれた最後の新造艦になりました。
・・・・というのがWikipediaによる情報なのです。

スミソニアンが何か勘違いしているらしいことは、このヴォイシクなる水兵が
「ニューオーリンズ」でベトナムに派兵されたというのは1967年なのに、
フィラデルフィア 海軍工廠は少なくとも1970年までは稼働しており、
その年に建造されたのが「ブルーリッジ」であることは間違いないことから明らかです。

さらに、もっとまずいことに「ニューオーリンズ」は戦艦であって、
建造されたのはニューヨーク、しかも1957年に除籍されていて、
ベトナム戦争の時には影も形もありません。

まあ、スミソニアンも木から落ちることがあるってことか、と思いつつ、
なんとなく「ニュー」つながりで「ニュージャージー」の経歴を調べてみたところ、

ビンゴ!

「ニュージャージー」は1968年、近代化されて三度目の就役を
フィラデルフィア海軍造船所でおこなっており、

世界で唯一現役任務にある戦艦

として砲撃任務のためベトナムに向かっていたことがわかりました。

6ヶ月間ベトナム沖で定期的な艦砲射撃と火力支援を行い、
最初の2ヶ月で10,000発に及ぶ砲弾を北ベトナムに撃ち込んだといわれます。

そう、

スミソニアンは
「ニュージャージー」を
「ニューオーリンズ」と間違えていた

のです。
いくらニューがついてるからって間違えてんじゃねーよスミソニアンのくせに。
ととっくに特別展が終わった遠い日本で鋭くつっこむわたしでした。

「ニュージャージー」は、ベトナムであまりに派手にドンパチやりすぎて、
終戦になっても南ベトナム解放民族戦線の方が、

「ニュージャージーの砲撃を中止しなかったらパリ和平会談に出席しない」

と主張して、不活性化が決まったといわれています。
まあなんというか、戦艦としてここまで敵に言わせられたら本望というものでしょう。

予備役入りに際して、最後の艦長は、乗員に、

「よく休め。
ただし眠りは浅く。
そして、呼ぶ声を聞いたならば、自由のために火力を提供せよ」

と訓示したそうですが、その言葉の通り、のちにレバノン内戦にともない
「600隻艦隊構想」を受けて彼女はまさかの再々再々再就役を行っています。

■ 初の女性航空管制官

ドナ・ジョルダーニ(Dona Jourdani)は二つの理由で入隊しました。
航空の技術を学ぶため。そして大学に進学するためです。

彼女は陸軍に入隊し、クラスでたった二人の女性のうちの一人として
航空管制官になるための訓練を行い、どちらの夢も叶えました。

管制室のドナ(左)

彼女は第一空挺団で最初の女性航空管制官となり、
その任務でブロンズスターを授与されました。

彼女が着用していたデザートハットと、ヘミングウェイ将軍と握手するドナ。

プライベートルームも特別に作ってもらいました。

■ アフリカ系女性士官

巷では公民権運動が盛んだった頃でも、軍隊では
任官するのに人種性別は問われませんでした。

冒頭写真左の白いナースコートは、
パトリシア・タッカー中佐 Patricia Tucker(右)が
ベトナムで着用していたものです。
この写真の頃、彼女と左側のシャーリーン・マイナーCharlene Minorはどちらも大尉でした。

■ Donuts Dolly(ドーナツ・ドリー)

ケネディ大統領のファン?だった
ローズ・ガントナー(Rose Guntner)は、
親戚の入隊をきっかけに「ドーナツ・ドリー」としてツァーに参加し、
軍隊にレクリエーションゲームやアクティビティなどを提供しました。

任務として、彼女らはたとえば夜間、負傷した兵士を見舞い、
医療チームの手伝いをしたり、彼女自身のスキル(心理学者)を生かして
兵士のPTSDを緩和するような活動を行いました。

「ドーナツ・ドリー」については以前一度説明したことがありますが、
彼女たちは必ずしも戦争に賛成しておらず、むしろベトナムには
反戦の立場を取る者も多くいたと言うことです。

写真は、ベトナムでサンクスギビングの御馳走を微笑みと共に兵士に配るローズ。

ローズと彼女のパートナー(ドーナツドリーは必ず二人ペアで活動を行う)、
ギニー・ルスブリンク(どちらもペンシルバニア出身)が、
難民キャンプのベトナムの子供たちにクッキーを配っているところです。

彼女らが行ったアクティビティの一つで、「ウルフテスト」。
つまり心理テストのことですが、こういう単純なことが
戦地では楽しく感じるものなのかもしれません。

「デートはどこでしますか?」

a. ナイトクラブ  b.スポーツイベント c. 演奏会

「デートの時あなたの話題は」

a. 自分自身のこと b. 相手の興味のあること c. 世界情勢

こういった質問を元に性格判断をするわけですが、
むしろこれはレクリエーションに属するゲームだった気がします。

こっちは簡単なクイズですね。
右と左の関係のある言葉を結びなさい、みたいな。

このいかにもベトナム戦争当時の雰囲気のイラストは、
ローズさん自身が病院の壁に飾るために描いた絵なのだそうです。

GET WELL 'n Stuff

これは、日本語では「お大事に」といったところでしょうか。
アメリカでは医療関係者が患者にかける言葉のようです。

彼女とドーナツドリーとして派遣された5名の女性たちは、
毎日ヘリコプター、戦車、ジープで戦地を訪問して回りました。



ある兵士がローズにプレゼントしたもので、彼女はいつも携帯していました。
彼女自身はタバコを吸いませんでしたが、兵士が火を必要とする時
(ベトナム戦争ではほとんどの兵士がタバコを吸っていた)
彼女はいつでもそれを出せるようにしていました。

The Donut Dollies Documentary - Trailer

ドーナツ・ドリーたちのドキュメンタリーが制作されています。

 

続く。

 

アメリカ大統領選挙1968年〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」、
まず当時の大統領選挙に使われた投票機が現れました。
もちろん票集計機ではありません。
ド〇〇〇ンパワーフォーエバーでもありません。

説明がないのでどうするかわかりませんが、
候補者の名前を押すとそこで一票が投じられるようです。

え〜、こんな機械で不正しようと思ったらやり放題だよね?

とつい思ってしまいますが、その話はさておき。


今日はベトナム戦争真っ只中に行われたジョンソン大統領の次を選ぶ
アメリカ合衆国大統領選挙についてです。

■ LET US VOTE!  選挙年齢の引き下げ

Old Enough to Fight, Old Enough to vote〜L.U.V
「戦うのには歳をとりすぎ、投票するのにも歳をとりすぎ」

 

ベトナムで戦闘を行なったり、あるいは候補者を支持するような立場の人は
それまで若すぎて投票することはできなかった、という意味です。

この「矛盾」を解決するため、アメリカではそれまでの投票年齢を
21歳から18歳に引き下げ、これによって政治的な関心が高められました。

「LET US VOTE」(LUV=投票させろ)

として知られた団体は、全米3,000の高校と400の大学に支部を持ち、
大ヒット曲「デイドリーム・ビリーバー」で有名な、あの
ザ・モンキーズ(The Monkees)は、LUVの「アンセム」を作曲しています。

探してみたら「モンキーズ」ではありませんでしたが、モンキーズのメンバー、
トミー・ボイスとボビー・ハートのクレジットでそれがありました。

Tommy Boyce and Bobby Hart - L. U. V. (Let Us Vote)

「僕たちは援助の手を伸ばすのにもう十分な年齢なのさ
だから、一緒に手を取り合っていい国を作ろうよ」

ポップなリズムに乗せて、このような歌詞が謳われています。
(♫エール・ユー・ヴィー♫というコーラスはお約束?)

1976年、キャンペーンは憲法第26条改正の採択につながり、
このときから18歳が最低投票可能年齢になりました。

日本が投票年齢を引き下げたのは、この時から40年後のことになります。

 

 

■ リチャード・ニクソン候補

 

パネルの始まりである左上には、こんな言葉があります。

「ニクソンは『薄利多売』の勝利を収めた
国家統一を提唱して」

2020年のアメリカ大統領選挙。

これをきっかけにアメリカの選挙制度について妙に詳しくなる人が増えましたが、
それはあまりにもこの選挙で不思議なこと、異常なことが起きたからですが、
この大統領選挙によって、これまでも、そしてこれからも、誰が大統領になるかがアメリカの、
ひいては世界の運命が変わるという現実に変わりはありません。

特に、ベトナム戦争が継続していた1968年の大統領選は、それによって
戦争の行方が変わるかもしれないのですから、世界中が注目していました。

改めて言うまでもありませんが、ニクソンは1952年の大統領選で、
民主党のケネディと選挙戦を行なって敗北し、その後は弁護士活動をしながら
カリフォルニア知事選に出馬するも敗北、「負け犬ニクソン」と呼ばれていました。

しかし、弁護士活動を通じて着々と地盤固めを行い、共和党候補にまで返り咲きました。

アイゼンハワー大統領の副大統領として、ニクソンは
アメリカのベトナムへの関与を熱心に支持する立場でした。

彼の選挙運動は民主党の戦争への対応を攻撃し、

「名誉ある平和」

を達成することを訴えるものでした。

当時国内を席巻した破壊的な公民権運動と反戦抗議運動への国民の不安と不満に乗じ、
ニクソンは「法と秩序」についてキャンペーンを行いました。

ニューヨーク知事選では共和党のリベラル派であったネルソン・ロックフェラーを支持し、
これらの選挙戦を通してついに8月の党大会で共和党の指名を勝ち取っていました。

 

■ 民主党ハンフリー候補とニクソンの「秘密の取引」

選挙が近づくと、共和党の候補者リチャード・ニクソンの支持率は先行しましたが、
ベトナム停戦を訴える民主党のハバート・ハンフリーに追い上げられてきました。

「ハート・ヒューマニティ・ホープ」

ハンフリー副大統領は、ジョンソンが大統領選に出ることを辞退した翌月、
選挙レースに参加しました。

かつて公民権と社会改革に関してリベラルな主張を行なっていたハンフリーは、
今や穏健で保守的な民主党員のお気にいりとなっていたため、
予備選挙に出馬せず、党内の支援に頼ることで民主党員の指名を受けています。

彼は北ベトナムとの即時交渉を主張していましたが、ジョンソンの副大統領だったため、
「戦争の賛成派」であるという国民の認識を克服するのに苦労していました。

そのときおりしも、大統領だったジョンソンが、

「ベトナムでの北爆は停止され、4党の平和交渉が始まるだろう」

と発言したのです。
これが、ハンフリーの支持率急増の追い風となったのです。


そこでニクソンはこの発言が選挙に影響を与えることを恐れ、
選挙対策として、南ベトナムのティウ大統領との接触をある方法で試みます。

でたー!

ここで登場するのが、あのドラゴンレディ、アンナ・シェンノートです。
クレア・リー・シェンノートの後妻で、政界に進出していた彼女は、
共和党議員といいながら、もっぱらの仕事は政界のロビイストでした。
彼女はニクソンを支持するため、ティウ大統領に近づき、

「ジョンソンの和平交渉を拒否すれば、ニクソン大統領のもとで
より有利な条件で交渉妥結することを保証する」

と吹き込み、ティウ大統領は彼女の言葉に乗ってLBJとの和平交渉を拒否しました。
このことで、ハンフリー候補への世論支持の急増は抑えられる結果になりました。

 

■ 独立党候補 ジョージ・ウォーレス候補

「インデペンデント・キャンディデート」、つまり「独立党」の候補です。

アラバマ州前知事のジョージ・ウォーレスは、1968年2月になって
「サードパーティ」独立党の候補者として大統領選に立候補しました。

今の基準で言うと、熱心な「人種差別主義者」であったところの彼は、
法と秩序を回復し、つまり、学校、バス、その他の公共の場所における
人種統合の案に反対する立場を取りました。

ポリコレ文化大革命の今のアメリカでは考えられない候補ですが、
ところがどっこい、この考えに賛同する人々も少なからずいたということなのです。
公民権運動に不快感を持つ、南部の白人層の代表、それが彼でした。

ベトナム戦争については、全面的な勝利かさもなくば迅速な終結、
どちらかにするべき(つまり強硬策)であるという考えでした。

我々にとって驚くべきは、副大統領候補に、あの日本本土無差別爆撃を指揮した
元空軍参謀総長、我々にとっては「鬼畜」カーチス・ルメイを指名したことでしょう。

彼の支持は南部を超えてアメリカ中に広がり、それまで民主党支持者だったはずの
北部の都市部ブルーカラー労働者や白人移民らが同調したといわれています。
いずれも公民権運動によって恩恵を受けない層でした。

思い切った彼の政策は意外とアメリカ人の支持を受けたということになります。

余談ですが、彼は1972年の大統領選にも立候補し、遊説中に
売名目的の男に銃撃され、下半身付随になって民主党の指名選挙に敗退しました。

その後、彼は黒人への差別は誤りであったと殊勝に認めたため、
知事に就任して公約通り黒人を政府に登用し、晩年には経験なキリスト教信者となりました。

現在も彼の評価はアメリカでは真っ二つに分かれているそうです。
「二大政党制にこだわらず草の根の民意を反映することに尽くした」
これが、彼を肯定する層の評価です。

■ 反戦派、民主党 ユージン・マッカーシー候補

それでは、代表推薦を得られなかった候補者を紹介していきます。

ユージン・マッカーシー上院議員は、1967年11月には大統領選挙に名乗りを挙げ、
さっそくジョンソン大統領のベトナム政策に反対する立場に立ちました。

マッカーシーの協力の反戦メッセージは、リベラルな有権者や若い活動家たちに
多大な影響を与え、これが彼のキャンペーンメッセージの中心になりました。

シカゴでの民主党員への演説で、マッカーシーは戦争に対する嫌悪感をこのように述べました。

「ベトナム戦争はアメリカの全ての問題の中心である。
それは道徳的に間違っている戦争である」

反戦派にはウォーレス、ニクソンはもちろん、ハンフリーもダメってことですね。
「プロ戦争へのチケット」を発行する彼らに投票するな、と言っています。

■ ジョンソン現大統領

ところで、当初、1968年の大統領選挙では、現職のジョンソンが
民主党の予備選を勝ち抜き、指名を獲得することは確実と見られていました。

しかしながら、一般的に彼の大統領としての地位はベトナムをめぐって危機に瀕していました。
テト攻勢は誰の目にも勝利が程遠いことが明らかになったからです。

マッカーシー

マッカーシーはジョンソンに勝つために反戦をテーマにし、学生や運動家を中心とした
草の根キャンペーンで指示を広げていき、予備選ではジョンソンの得票率
49%に対し、42%と肉薄するという結果になります。

「賢者」と呼ばれる年長の政治家たちでさえ、ジョンソンに
平和交渉を進めるように進言をしていました。

ジョンソンは身内である民主党員の支持を失っていることを知り、
大統領再選を断念して選挙戦からの撤退、本選不出馬を表明しました。

1968年、彼がテレビで再選に立候補しないことを表明した時、
国民は衝撃を受けたと言うことです。


■ 民主党 ロバート・ケネディ候補の暗殺

マッカーシーのキャンペーントレイルは、国民の目にも「成功」と映りました。
このムーブメントに感銘を受けた、ニューヨークの上院議員、
ロバート・F・ケネディは、1968年3月、ジョンソン大統領に挑戦すると発表しました。

ケネディ上院議員は、

「南ベトナムに対し無関心に土地が破壊され人々が死んでいくのを
喜んで見ていることができるなら、そもそもなぜそこにいるのか」

と強い言葉でジョンソンを糾弾する立場を取りました。

彼はまた、貧困、人種差別、およびその他の社会問題に焦点を当てることで
マッカーシーよりも幅広い指示を集め、世論調査では群を抜いていました。

 

もし彼が暗殺されなかったら、もしかしたら民主党候補は
人気抜群のロバート・ケネディになっていたかもしれません。

彼が大統領選立候補を表明して約3ヶ月後の6月5日、真夜中過ぎ、
ロスアンジェルスのアンバサダーホテルで集会を済ませた後、
ホテルのキッチンを通り抜けようとしたRFKは銃撃され暗殺されました。

RFKはカリフォルニア州での予備選挙で勝利したばかりであり、
大統領に勝利するのに最も可能性のあると見られていた反戦候補者でした。

彼の弟であるエドワード・ケネディ上院議員は、RFKの葬式で次のように語りました。

「かれは、間違っていることを見てそれを正そうとし、
苦しみを見てそれを癒そうとし、そして
戦争を見てそれを止めようとした、
善良で正しい人としてのみ記憶されるべきです」

 

■ ピッツバーグの大統領選1968

1968年の大統領選におけるここピッツバーグの得票です。
アメリカ全体の得票率とほぼ同じ割合になっています。

しかし、この三人以外はゼロですが、ピッツバーグでゼロレベルの候補者でも
全米レベルだと4〜5万票も入ってしまうのか・・・。

アメリカという国の巨大さを実感しますね。

 

続く。

 

「いちご白書」 コロンビア大学騒乱と公民権運動〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

$
0
0

 

■ 1968年大統領選挙とは

大統領選挙はアメリカの社会的、政治的、人種的緊張を表面化させました。
戦争の侵攻に対する国民の不満と、テト攻勢不利の衝撃は、
ジョンソン大統領と彼の政権に大いなる危機をもたらしたのです。

ジョンソン大統領は、ベトナム派遣軍司令官ウェストモアランド将軍の
20万人以上の派兵要求を拒否し、その後将軍を解任しました。
ジョンソン政権の国務長官、クラーク・クリフォードが、増兵は成功を保証しない、
と主張したためでもあります。

後任にはクレイトン・エイブラムスJr.将軍が充てられました。

3月31日、JBJはベトナムにおける一部爆撃停止を命じ、
和平交渉へのアメリカの関心を表明しました。

そして自身の再選を放棄することを発表して国内を驚かせました。

マーティン・ルーサー・キングJr.博士と、ロバート・F・ケネディ上院議員の暗殺です。

人権問題のシンボルと、反戦運動の担い手になろうとしていた若い議員、
彼らの死は、全米の民衆に悲しみと怒りを残しました。

特にキング博士の殺害は、各地で市民の不安を引き起こしました。
1968年の「エレクション・イヤー」に起きた暴動の数々は、
無秩序と無法が耐えがたいレベルに達したことを多くのアメリカ人は確信したのです。

人気抜群だった反戦派のケネディ。

「アメリカを和解の席に着かせるために大統領選挙に立候補します」

彼はこういって立候補表明を行い、ベトナム停戦を願う人々に
熱狂的に支持されました。

前回お話しした、反戦派のハバート・ハンフリー候補の支持者によって、
シカゴで行われた民主党大会の様子です。

こういうことから、民主党=平和主義、共和党=好戦的、というイメージが
かなり色濃くアメリカ人に刷り込まれているようですが、
そもそもベトナムに派兵を決めたのはロバートの兄ちゃんだったんですよね。

のちに撤退を決めたからとJFKを評価する向きも多いようですが、
そもそもベトナムで評価を落としたジョンソンだって民主党だったということを
アメリカ人はどう考えているのか、大変興味があります。

■ マッカーシーと「クリーン・フォー・ジーン」キャンペーン

「マッカーシズム」

という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

1950年代、アメリカで巻き起こった共産主義取り締まり運動で、
共和党員マッカーシーによって推進された「赤狩り」のことです。

ところが、この選挙から、マッカーシズムはむしろ
前者とは正反対の意味、つまり「ベトナム戦争反対」になったのです。

民主党のユージン・マッカーシー(1916−2005)は、
詩人であり、退役軍人であり、ベネディクト会の修道士であり、
ジョンソン大統領の再選に最初に異議を唱えた議員でした。

今回の「マッカーシズム」は

「クリーン・フォー・ジーン」(遺伝子のためにきれいになろう)

に賛同する1万人の若い支持者を魅了することになります。

その彼の大統領選立候補に際しての宣言はこのようなものでした。

「わたしは、この挑戦が、他の上院議員や政治家から支持されることを望んでいます。
この挑戦が、政治的な無力感を和らげ、多くの人々に
アメリカの政策に対する信頼を取り戻すことになると期待しています」

ニューハンプシャー州の予備選挙に向けて、マッカーシーは、
マスコミにはほとんど無視されていましたが、それにもかかわらず、
全米から反戦支持者と大学生らの多くの支持を集めていました。

彼らは1968年の選挙戦に、誰も想像しなかったような影響を与えることになります。

ニューハンプシャー州でマッカーシーに投票した多くの人々は、
「ヒッピー=抗議者」というイメージを払拭するために、
長髪、ひげ、口ひげを剃ってアピールを行いました。

これが「クリーン・フォー・ジーン」、つまりわかりやすくいうと、

「戦争をストップさせて未来に遺伝子を残すために
今、見かけを綺麗にして世論に訴えよう」

という意図を持つ選挙運動だったのです。

いざ選挙となったとき、気まぐれな反戦候補者と彼の「子供十字軍」は、
マスコミやジョンソンの代わりを探す民主党員にとってすでに重要視されず、
結果的に得票率は42%、ジョンソンの得票率49%も勝てませんでした。

しかしながら、マッカーシー=民主党内の反体制派がジョンソンを弱体化させた、
あるいは弱体化していることを明らかにしたのは事実です。

「身綺麗になった普通の若者たちによる反戦運動」によって、反戦運動は
ヒッピーや左翼の活動家の専売特許ではなくなっていることも明らかになりました。

多くの人々が、アメリカが東南アジアで何をしているのかを率直に検証し始めたのです。

 

これによってジョンソンは党内の自分の信頼が急速に失われていることを知り、
次の任期を求めないことを発表しました。

そして、その弱点を見抜いたもう一人の男、ロバート・ケネディが、
予備選の3日後に立候補を表明したというわけです。

マッカーシーはいくつかの予備選を勝ち抜きはしましたが、6月に
カリフォルニア州でケネディに敗れることになります。

もっともその直後にケネディは暗殺されてしまい、そのまま
民主党の人気者、ハンフリーと戦って敗れ、そのハンフリーもニクソンに敗れました。

マッカーシーの「全盛期」はおそらく「遺伝子キャンペーン」のときだったでしょう。
彼はその後一度として政治の檜舞台に躍り出ることはありませんでしたが、
一瞬燃え上がった火花が、盛り上がり、支持されて、現職大統領を追い詰め、
ある意味歴史を変えることになったのは確かです。

■ 1968年、騒乱の民主党大会 Democratic National Convention

現に、この「ナショナル・コンベンション」で、候補者を選ぶために
シカゴに終結した民主党員たちは、戦争をめぐって真っ二つに割れました。

これ以上開けられるだろうかというくらい大きく口を開いて、
おそらく政治主張を叫んでいる女性の形相と、ロールカラーに花柄の
ミニスカートのワンピース、そして髪を結んだリボンという当時フェミニンな流行が
なんとも言えないミスマッチな感じでゾクゾクしますね(笑)

この集会で、反戦派の代表団は、後述するユージーン・マッカーシー候補、
そして泡沫候補のジョージ・マクガヴァンのいずれかを支持しました。

ジョンソン大統領の支持自社たちは、ハバート・ハンフリー候補を支持しました。

この政治的な葛藤は熱狂を伴い自然に大声の罵り合いに発展したわけですが、
結果、ハンフリーの指名が決まり、「反戦部隊」の失望は膨れ上がりました。

会場の外にいた反戦派の抗議者たちが暴動に発展するのを阻止するため、
シカゴのリチャード・デイリー市長は、催涙ガスと警棒をふるう武装した警察、
州警察、そして国家警備隊員をデモ隊に対して送りました。

バナーに「今日は、民主党員の皆さん」と掲げられた帽子には、
その下の警察隊を送ったデイリー市長の名前が・・・・。
なんと皮肉な取り合わせでしょうか。

そのシーンはテレビカメラに捉えられていて、抗議者たちの
繰り返されるチャントを全世界に映し出しました。

「全世界が見守っている!」

1968 Riots at the Democratic National Convention in Chicago | Flashback | History  

■ コロンビア大学のストライキ

1968年、ニューヨークのコロンビア大学で起きた一連の抗議行動は、
その年に世界各地で起きた様々な学生デモの一つでした。

この抗議活動では、学生が大学の多くの建物を占拠し、最終的には
ニューヨーク市警が抗議者を暴力的に排除したというものです。


1967年3月初旬、学生活動家であるボブ・フェルドマンが、国際法図書館で
コロンビア大学がアメリカ国防総省傘下で兵器研究を行っている、
という文書を発見したのがきっかけです。

文書の発見をきっかけに、大学の一部有志による反戦キャンペーンが展開され、
大学側に防衛分析研究所の資格を辞退することを要求しました。

大学側は活動家6名を保護観察処分にしました。

もう一つの理由は体育館建設の計画です。

建設予定地は公有地であるにもかかわらず、学校側は
当初計画された二箇所の出入り口のうち、黒人が多く住むハーレム側の入り口を
作らないという計画に変更しました。

しかも、1958年以来、大学所有地である予定地から大学側は
7,000人以上のハーレム住民を立ち退かせてきましたが、
そのうち85%はアフリカ系アメリカ人かプエルトリコ人でした。
ハーレムの住民の多くは、大学に家賃を支払っていました。

コロンビア大学の「人種政策」は学内の学生にも及び、黒人学生だけが
身分証明書を常にチェックされ、黒人女性は難しいコースに登録させない、
また、元黒人のフットボール選手を全員同じ位置に配置する
「スタッキングシステム」なるものまであったということです。


最初の抗議活動は、キング牧師の暗殺の8日前に起こりました。

学生の抗議者はコロンビア大学の体育館の建設現場まで行進し、建設作業を邪魔して、
建設現場を警備していたニューヨーク市警の警官と揉み合いを始めました。

その後デモ隊はキャンパスに戻り、教室とコロンビア大学管理局のオフィスを占拠しました。

しかし、デモの目的をめぐって活動グループは黒人と白人学生の間で分裂し、
別々に占拠を行い、自らデモ参加者を分離してしまったのです。
連帯どころか、内部が人種によって真っ二つに分かれてしまったのでした。

内輪で揉めているあいだに、ニューヨーク市警が催涙ガスでデモ隊を激しく鎮圧し、
約132人の学生、4人の教員、12人の警察官が負傷し、700人以上が逮捕されました。

暴力は翌日も続き、棒で武装した学生が警官と乱闘を行いました。

1968年5月17日から22日にかけては第二次抗議行動が行われ、
前回と同じホールを占拠しました。
警察はさらに177人の学生を逮捕し、51人の学生に暴行を加えたとされます。

■ コロンビア争議の余波

とはいえ、デモ隊は二つの目的を達成しました。

コロンビア大学は兵器研究につながるIDAとの提携を解除し、体育館の計画を破棄し、
代わりにキャンパスの北端の地下にフィジカルフィットネスセンターを建設しました。

この抗議活動の結果、少なくとも30人の学生が行政側から停学処分を受けています。

しかしながら、大学側にも学生に同情を示す教授がいたことも確かです。

ある教授は、

「座り込みやデモに理由がないわけではない。
抗議者たちは確かな理由もなく行動したのかもしれないが、
大学が学生を刑事告発することには反対だ」

と述べました。

コロンビア大学のキャンパスで起きた学生のデモは、大学というものが
実際には大学を取り巻く社会的・経済的な争いの影響を受けやすいことを証明しました。

歴史家のトッド・ギトリンは、

「想像力を競い合う派閥の間で、過激さが増し、
各自の孤立が深まり、憎しみが深まった」

と述べています。

数千人が参加した建物の占拠とそれに伴うデモは、大学全体の運営を麻痺させ、

「現代アメリカ史において最も強力で効果的な学生の抗議活動」

となりましたが、カリフォルニア大学バークレー校やケント州立大学での抗議活動の方が
はるかに世間に大きな影響を与えたことは論を待ちません。

コロンビアの学生運動は、ベトナム戦争の終結と同時に緩やかに収束に向かいました。
たまたまこのとき、ベトナム戦争と従前から起こっていた公民権運動が
相乗的に作用したことが、運動を激化させたという専門家もいます。


そしてコロンビア大学はその後よりリベラルな政策をとるようになりました。
今ではリベラルが度を越して左に振れすぎてえらいことになっています(笑)

このときコロンビア大学の学生だったジェームズ・クネンは、
1966年から1968年までの抗議行動および学校占拠について本を著しました。

 

『いちご白書』 Strrawberry Statement

という題名は当時のコロンビア大学の学部長ハーバート・ディーンが、

「大学の運営についての学生の主張する意見は、
彼らが苺の味が好きだと言うのと同じくらい意味がない」

と言い放ったとされることから来ています。
もっともディーン氏は事実が曲げられて引用された、として、

「彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、
もし理にかなった説明がなければ、彼にとっては
苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」

という意味だ、と弁明したそうです。

まあ、確かに違うっちゃ違いますが、「自分にとって意味がない」、
つまりその意見は「彼らが苺の味が好きだというのと同じくらい意味がない」
といっているのとほぼ同じなのではないかと(´・ω・`)

「いちご白書」はその後映画化されました。
テーマに使われた「サークルゲーム」Buffy Sainte-Marieは名曲です。

 

大学のストライキの直後、FBIの防諜捜査官は、学生の反戦抗議者をリストアップし、
彼らに対する監視と「嫌がらせ」(博物館の意見ですので念のため)を強化しました。

 

続く。

 

 

Viewing all 2817 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>