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ブラックパワー・サリュートと忘れられた銀メダリスト〜公民権運動 

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ピッツバーグのハインツ歴史センター「ベトナム戦争展」は、
決してベトナムにおける戦闘そのものに焦点を当てていません。

むしろ、発生に至る経緯から戦争継続中の世論、大統領選、
そして反戦運動など、アメリカ国内がそのときどうだったか、
という面から語っていることの方が多いと感じました。

というわけで、国内を席巻した学生運動や公民権運動など、
全米を巻き込んだ反政府運動の色々から、今日は
来月本当に行われるかどうかさえわかっていないものの、
もうすぐ東京オリンピックなので(なんか変な響きだな)冒頭写真の、
オリンピックの表彰台で起きた事件についてお話しします。

ちなみに昨日所用で六本木に行きましたが、ガイジンサンの姿が多数観られ、
近隣のホテルには関係者がすでに宿泊しているとのことでした。

ほんとにやるみたいですね。

■  BLACK POWER SALUTE

1968年10月16日。

メキシコシティのオリンピックスタジアムで行われたメダル授与式で、
200メートル走で金メダルと銅メダルを獲得したアフリカ系アメリカ人選手の
トミー・スミスとジョン・カルロスの二人は、
アメリカ国歌の演奏中に、それぞれ黒い手袋をはめた拳を上げ、
表彰台でアメリカの国旗に向かって、国歌が終わるまで手を上げ続けました。

おそらく皆さんも一度はこの写真をご覧になったことがあるでしょう。

そしてぜひ心に留めておいて欲しいのは、このとき銀メダルだった
オーストラリア選手、ピーター・ノーマンもまた、スミスとカルロスが
ユニフォームに付けているのと同じ人権バッジを胸につけていたことです。

約30年後に出版された自叙伝『Silent Gesture』の中で、
スミスは、あのジェスチャーは「ブラックパワー」そのものではなく、
「人権」のための敬礼だったとしています。

「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史の中で、
最もはっきりした政治的主張ののひとつとされています。

 

この競技でトミー・スミスは19秒83の世界記録を出して優勝しました。
オーストラリアのピーター・ノーマンは20秒06で2位、そして
ジョン・カルロスは20秒10で3位となりました。

レース終了後、3人は表彰台に上がり、メダルが授与されました。
スミスは「ブラック・プライド」(黒人の誇り)を表す黒いスカーフを巻き、
カルロスはアメリカのブルーカラー労働者との連帯を示すために
トラックスーツのジッパーを開け、

「リンチされたり、殺されたり、誰も祈ってくれなかったり、
吊るされたり、タールを塗られたりした人たちのために」

という意味を持つビーズのネックレスを見せるようにしました。

公民権運動を受けて、メキシコオリンピックでは
黒人選手に大会のボイコットを呼びかける運動家もしました。
彼らの行動は、彼らのに触発されたものだと言われています。

■ 表彰台

両選手はアピールのための黒い手袋を持参するつもりでしたが、
カルロスは手袋を忘れてオリンピック村に置いてきてしまいました。

そこで彼にスミスの左手用グローブをつけることを提案したのが、
オーストラリアの銀メダリスト、ピーター・ノーマンだったのです。

この「黒い敬礼」は世界中で一面のニュースとなりました。
スミスはこういっています。

「もしわたしが勝てば、勝ったのは黒人ではなく『アメリカ人だった』と言われ、
逆にもし何か悪いことをしたら、そのときは『黒人だった』と言われるでしょう。

我々は黒人であり、黒人であることを誇りに思っています。
ブラック・アメリカは我々が今夜やったことを理解してくれるでしょう」

 

■  国際オリンピック委員会の対応

国際オリンピック委員会(IOC)の会長であるエイブリー・ブランデージは、
自身もアメリカ人であることから、このデモンストレーションは
オリンピックという非政治的で国際的な場にふさわしくない政治的主張であると判断し、
両選手の競技参加停止とオリンピック村への立ち入り禁止を命じました。

米国オリンピック委員会がこれを拒否すると、ブランデージは

「米国のトラック競技チーム全員を追放する」

と脅しました。
これにアメリカ側は屈し、2人のアスリートは大会から追放されました。
ただし、このときIOCはメダルの返還を強制していません。

このときIOCに寄せられた非難の一つに、

「ブランデージは 米国オリンピック委員会の会長を務めていた
1936年のベルリンオリンピックの際、ナチスの敬礼に対して
異議を唱えていなかったではないか」

というものがあります。
しかし、彼は

「ナチスの敬礼は当時の国家の敬礼であり、国家間の競争では許容されるが、
彼らのパフォーマンスは国家を代表したものではないため許容されない」

と主張しました。

ナチスが戦後絶対悪とされたという歴史を考慮したとしても、わたしには
正直ブランデージのこの理屈はそんなに無茶なものではないと思えます。

国内の政治主張をオリンピックで行ってもそれが罰せられない、
という前例を作れば、我も我もと表彰台をアピールの場に利用する選手が
後を絶たない、という結果になるのは誰が見ても明らかだからです。

しかしながら、人権派から見て、このブランデージという人物は、

第二次世界大戦勃発後もアメリカで最も著名なナチスシンパの一人として告発された

つまり「戦犯」であり、彼をIOC会長から解任することは

「人権のためのオリンピック・プロジェクト」

の目的のひとつになっていたくらいですから、彼らには
この主張も受け入れられるはずがありませんでした。

■ 余波

スミスとカルロスは、アメリカのスポーツ界からほとんど追放され、
激しい批判にさらされました。

1968年10月25日付の『タイム』誌は、

「『より速く、より高く、より強く』がオリンピックのモットーであるはずなのに、
メキシコシティでは『怒り、悪意、醜さ』が表された」

と彼らの行動を強い口調で非難しました。

故郷でもスミスとカルロスの二人は罵倒の対象となり、
彼らとその家族は殺害の脅迫まで受けることになりました。

「黒皮を被ったストーム・トルーパー・カップル」

「無節操で」「幼稚で」「想像力に欠けている」

こんな非難が公的に浴びせかけられたのです。

ちなみに、いまどき「ストームトルーパー」というと、皆さんは
スターウォーズのあの人(?)たちというイメージしかないかもしれませんが、
スターウォーズが誕生するのはこの10年も後のことであり、この時この言葉は、

ナチスの突撃隊(Sturmabteilung=SA)

を意味していました。


オリンピックでの競技資格は剥奪されたものの、スミスはその後も陸上競技を続け、
フットボールのNFLのシンシナティ・ベンガルズでプレーした後、
桜美林大学の体育学の助教授を務めていましたが、1995年には、
コーチとして世界室内選手権でアメリカチームに復帰しています。

彼が一時期日本に渡ったのは大変賢明で、その間に世界の人権状況も代わり、
アメリカでも彼個人は非難の対象にならなくなっていました。

1999年には、

「カリフォルニア・ブラック・スポーツマン・オブ・ザ・ミレニアム賞」

を受賞。
現在は講演活動を行っています。


カルロスのキャリアも同様の道をたどりました。

オリンピックの翌年には100ヤード走の世界記録に挑戦し、
彼もプロフットボールの選手としての道を模索しました。

その後、家庭内の問題から鬱になったりしましたが、1984年のオリンピック、
ロサンゼルス大会の組織委員会で職に就くことができました。

その後高校のチームコーチを経て同校のカウンセラーを務めています。

オリンピック直後こそ非難の矢面に立った二人ですが、時代の変遷を経て
世論も代わり、2008年のESPRY賞で、彼らの表彰台での行動を称える

アーサー・アッシュ・カレッジ賞

を受賞しました。

BLMムーブメントが左に振れ切った現在では、彼らを非難する者など
少なくともアメリカには皆無になったと思われます。

 

■ もう一人の「抵抗者」ピーター・ノーマン

さて、メキシコオリンピック200メートル走で銀メダルを獲得したノーマンは、
先ほども少し触れたように、スミスとカルロスの主張に共鳴し、彼らに助言を行い、
同じようにシンボルを身につけて表彰台に立ちました。

あまり言及されることはありませんが、彼はあの瞬間傍観者ではなく、
二人の抵抗者の側に立った「当事者」だったのです。

1968年のオリンピックの200メートル競技は、10月15日に始まり16日に終了しました。
ノーマンは、準々決勝では優勝、準決勝では2位となりました。

決勝でノーマン選手はアメリカのジョン・カルロス選手に追いつき、
最終的には追い越して、20秒06のタイムで2位になりました。

ノーマンのタイムは自己ベストであり、現在もオセアニアではこの記録は破られていません。

この時ノーマンが表彰台で
「オリンピック・プロジェクト・フォー・ヒューマンライツ(OPHR)」
を支援するバッジをつけるに至った経緯は以下のようなものです。

決勝戦の後、カルロス選手とスミス選手はノーマンに、セレモニーで
自分たちが何をしようとしているのかを話しました。

彼らはノーマンに、人権を信じているか、と尋ね、ノーマンが

「信じている」

と答えると、さらに続いて神を信じているかと尋ねました。
救世軍にいたこともあるノーマンは、

「強く信じている」

と答えました。
カルロスは後年、このときのことをこう語っています。

「わたしたちがやろうとしていることは、どんなスポーツの偉業よりも
はるかに大きなものだとわかっていました。
そして彼は我々に『君たちののそばにいるよ』と言ってくれました。

わたしは彼が感じているかもしれない恐怖を予想して
その目を覗き込むと、そこには愛だけがありました」

メダル授与式に向かう途中、ノーマンはアメリカボートチームの白人メンバーである
ポール・ホフマンが、OPHRバッジを付けているのを見て、ホフマンに
それを貸してくれないか、と頼んでいます。

カルロスが手袋を忘れたことを聞いて、スミスとカルロスに、
二人がそれぞれ右拳と左拳に手袋を付け、その手を挙げてはどうか、
と提案したのも、他ならぬノーマンでした。


しかしながら、「ブラック・サリュート」に加担したノーマンのキャリアは、
その後困難にさらされることになりました。

このイベントの "忘れられた男 "でありながら、非公式の制裁と嘲笑を受け、
「パリア」(インドカーストの最下層民、嫌われ者の意)として帰国したのです。

そして彼は二度とオリンピックに出ることはできませんでした。

メキシコの次、1972年のミュンヘンオリンピックでは、ノーマンは
幾度か予選タイムを記録していたにもかかわらず代表に選ばれず、
後述しますが、30年後のシドニー大会でも歓迎されませんでした。

 

ノーマンの運命について、カルロスは後に、

「ピーターは国家に立ち向かい、たった一人で苦しんでいた」

と述べています。

 

ただし、ノーマンがミュンヘンオリンピック選手選考に漏れたことについて、
オーストラリアオリンピック委員会は、その理由を、

オリンピックの予選基準(20.9)と同等かそれ以上のタイムを出し
国内陸上競技選手権で信用できる成績を収めた選手でなければならない

という選考基準が満たされていなかったからだと主張しました。
ノーマンが記録を出したのは規定の大会ではなかったから、という理由です。

 

こんにち、ノーマンがミュンヘンに出場できなかったことについて賛否が分かれます。

しかし、選手権で事実ノーマンは勝てなかった(3位)わけですから、
選考委員会としても選びようがなかった、というのが真実だったのだろうと思われます。

彼はもともとサッカーチームのトレーナーの仕事をしていましたが、
選考に漏れた1972年以降は選手として67試合に出場し、その後はコーチになりました。

しかし1985年、チャリティーレース中にアキレス腱を断裂して壊疽を起こし、
危うく脚を切断するかもしれないという事故にみまわれ、その後しばらく、
鬱病、大量の飲酒、鎮痛剤の中毒に苦しみました。

 

2000年にシドニーでオリンピックが開催されたとき、
不調から立ち直ってスポーツ管理者となっていたノーマンは、
オーストラリアのオリンピックチームに貢献したにもかかわらず、
シドニーで行われた祝賀会に招待されませんでした。

このことを知ったアメリカの選手団は、ノーマンを
シドニーで行われたアメリカチームの祝賀会に招待しています。

 

2006年、ピーター・ノーマンはメルボルンで心臓発作のため死去しました。
64歳でした。

米国陸上競技連盟は、彼の葬儀が行われた10月9日を

「ピーター・ノーマン・デー」

とすることを宣言しました。

三人の男たちが表彰台に立って歴史に名を残してから38年後、
トミー・スミスとジョン・カルロスの二人が残る一人の葬儀の喪主を務めました。

2012年、オーストラリア下院はノーマンへの謝罪を正式に可決し、
アンドリュー・リー議員は議会で、ブラック・サルートを

「人種的不平等に対する国際的な認識を前進させた、
ヒロイズムと謙虚さの瞬間だった」

と評価しました。

また、2018年、オーストラリアのオリンピック委員会は、抗議活動に関与したことに対し、
ノーマンに、AOC功労勲章を授与し、ジョン・コーツAOC会長は

「当時彼が果たした役割を認識していなかったのは我々の怠慢だった」

と述べました。

しかし、こんにちスミスとカルロスについては、英雄化され、例えば
サンノゼ大学のキャンパスにはこのような像が建てられたりしているのに対し、
この誰もいない表彰台が象徴するように、ノーマンの存在はないことになっています。

この理由が、「ノーマンが白人だったから」ということに起因するなら、
それは現代のBLMにある「逆差別」「逆特権」、つまり黒人のみが人権を主張し
間違ったことも間違っていると言わせない「おかしさ」に通じるものがあるような気がします。

ちなみに、これをわたしが発言できるのはわたしが日本人だからであって、
もしこういうことをアメリカで発言すると、社会的バッシングを受けるでしょう。
それもまた普通に「おかしい」んじゃないの、と誰も言えなくなっているのが現代のアメリカです。

ちなみに、1972年のミュンヘン大会で、金・銀を獲得した
アメリカのアフリカ系選手、ウェイン・コレットとヴィンセント・マシューズは、
国家がが流れている間、落ち着きなく不遜な態度を取り、これを咎められると
「わざとじゃない」と言い訳し、二人ともオリンピックからの永久追放となりました。

ちなみにこれがそのときの映像。

Premiazione Matthews e Collett

こんな態度に対しても、「ブラックパワー・サリュートだ」という
弁護の声があったというんですが・・いくらなんでもだめだろこりゃ(呆)

 

続く。

 

 


「ケント州立大学事件」ピッツバーグにおける反戦の歴史〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、まず
反戦運動と同時に起こり、ジョンソン政権の基盤を危うくした
公民権運動の象徴、「ブラック・サリュート」についてお話ししました。

今日は、ここピッツバーグで繰り広げられた反戦活動を取り上げます。

「サイゴンでの路上の処刑」はアメリカの全国民に、戦争の大義に対する疑問を与えました。
反戦運動が激化するきっかけになった一つの写真です。

息子たちを戦場に送っている母親たちの反戦デモ。

1967年、母の日に彼女らはワシントンに手紙を書くというキャンペーンを行いました。

「今年の母の日にわたしは花は欲しくない。
殺害を終わらせてください」

彼女らはロビー活動や座り込みやスーパーマーケットや教会でのチラシ配りと
どこでも現れて反戦を訴えました。

1967年、ムハマド・アリが徴兵を拒否しました。
彼は良心的兵役拒否者の地位を主張しましたが、政府は彼を起訴し、
懲役刑を言い渡し、ボクシングのタイトルを剥奪しました。

「何故彼らはわたしに軍服を着せて1万マイル離れたベトナム人に
爆弾を落としたり弾丸を撃ち込むことを頼まなければならないのに、
「ニグロ」と呼ばれるルイビルの人々は犬のように扱われるのでしょうか?

もし戦争に行くことが彼らのいうように自由をもたらすならば、
そしてそれが2,200万人に平等ならば、彼らはわたしを徴兵する必要などないのです。

わたしは明日にでも入隊するでしょう」

彼はこの姿勢を称賛され、あるいは罵倒されました。
彼が再びボクシングに戻ることができたのは3年を待たなくてはなりませんでした。

彼は最終的に最高裁の訴訟で勝利しています。

「サポート・アワ・メン」(兵士支援)は、

「戦争賛成ではなく、アメリカ賛成」

という考えの人たちの運動です。
反戦運動家たちに腹を立てているのではないが、戦争に反対することはアメリカ人ではない、
あるいは

「アメリカを愛せないのなら出て行きなさい」

という考えで、主に在郷軍人会などに支持されました。
写真左上は車のバンパーに付けるメッセージで、

「我々の息子たちをベトナムに戻せ」

と書いてあります。

 

■ピッツバーグでの反戦活動

まず「STOP THE WAR」という巨大なバナーが登場しました。

ピッツバーグの活動家、デイビッド・ヒュージスは、パイレーツの試合の始まる
スタジアムが、最も効果的に彼らの主張を伝えることができる場所と考え、
バルコニーからバナーを落としたのですが、たちまち警備員がやってきて
止めるようにと言われたそうです。

やっちまった証拠

ヒュージスはその後も熱心な反戦活動家として、たとえばピッツバーグ大学が
戦争に協力したという証拠がないかと文書を調べるなどということもしています。

ピッツバーグでは、かつて労働組合のために戦った多くの労働者、
(社会主義者)が市民運動の背後に集まり、拡大するベトナム戦争に反対し始めたときが
いわゆる「ターニングポイント」となったといえます。

 

1940年代の労働組合のリーダーかだ1960年代の活動家リーダーへと移行した
チャールズ・オーウェン・ライス(Charles Owen Rice)ほど、
この変化を象徴する存在はありません。

1967年のデモで、マーチン・ルーサー・キングJr.博士の右側にいるのが
ライスで、彼はカトリックの司祭であったため、教皇庁の上級クラスに対する敬称、
「Monsignor」(モンシニョール)が付けられてモンシニョール・ライスとなっています。

ピッツバーグ教区で司祭に叙階されたライスは、社会的な活動、特に
アメリカの労働運動に傾倒し、「カトリック急進同盟」のリーダーとして、
H.J.ハインツ社に対するストライキに参加したこともあります。

(そしてこれが展示されているのはハインツの資産であった歴史センターです)

わたしは少し驚いたのですが、カトリック教会の組織に
「カトリック労働組合員協会」を結成したのも彼の貢献があってこそです。

ベトナム戦争について、反戦活動家の連合体である

「ベトナム戦争を終わらせるための全国動員委員会」

の初期の組織者であり、貢献者でもあり、1967年4月にニューヨークで開催された

「ベトナム戦争を終わらせるための春の動員」

の最初のデモに参加しました。
MRKと一緒の写真はこのときのものです。

しかし、一説によると、司祭が組合の労働者ではなく、反戦と
公民権運動のムーブメントを受けて人種不平等を説き始めると、
彼の最も熱心な支持者であった、白人労働者階級のカトリック教徒たちは
彼に裏切られたと感じ、離れていったとされます。

ピッツバーグでの反戦運動は大学や草の根組織に根ざしており、
白人労働者階級のメンバーはほとんどおらず、彼の信者のほとんどは
ベトナム戦争と共産主義の封じ込め政策を支持する立場でした。

もちろん中には戦争について個人的に疑いを抱いている人もいたでしょうが、
そんな彼らもライス司祭の反戦活動については懐疑的でした。

当時、戦争に反対することは軍隊に反対することと同等であり、
実際にベトナムで死んでいくのはほとんどがカトリックと黒人労働者階級の息子でした。

戦争で23人の戦死者を出したマッキーズポートの町は、
1966年、国内で初めてとなるベトナム戦争の慰霊碑を建立しています。

1969年、ピッツバーグのダウンタウンで行われたデモ行進で、
リードするモンシニョール・ライス。(眼鏡の人物)

写真の「平和と正義のための行進」の開催を告知するチラシ。

こ日曜日の午後、ヒル地区のフリーダムコーナーから
ダウンタウンを通って、ポイント州立公園までを歩くということが書かれています。

モンシニョール・ライスと弁護士のバード・ブラウンらが行進の共同議長を務めました。

フィフスアベニュー(MKが以前住んでいたアパートのある通りです)
で、ベトナムの少年たちの写真を掲げて戦争反対をスピーチする
ピッツバーグ地元の活動家、テッド・ジョンソンとビル・アーチャー(右)。

「こんなことのために戦う価値があるのか!」

と書かれた大きな文字の下には、

「ベトナムにいる我々の息子たちを返せ」

という反戦運動の定型句となった言葉が書かれています。


おお、これは誰が見ても一眼でわかる、ピッツバーグ大学の「学びの塔」。

「僕の従兄弟は行った 

僕たちはどうすれば?」

「行った」が「逝った」という意味であるらしいことは、
墓石の絵によって表されています。

写真に写っているデイビッド・ワルドはピッツバーグ大の学生でした。

「貧困のために戦え!ハノイのためにではなく」

1968年、ケネディ大統領が決定したベトナムへの武力行使に反対する
ピッツバーグのコミュニティアクションとしてのデモです。

JFKはリベラル派には特に支持されて人気のある大統領で、暗殺される1カ月前に、
1963年までにアメリカ軍将兵1000名を撤退させる計画を承認していたことから、

「彼が暗殺されていなければ、アメリカ軍はベトナムからもっと早期に撤退していた」

といかにも彼がリベラルだったように印象操作されていますが、
ロナルド・レーガン政権の誕生以前に、軍拡を歴史上最大の規模で押し進め、
1961年に失敗したキューバ侵攻計画、「ピッグス湾事件」を後押ししたのも彼だし、
ベトナムに武力を送る決定をしたのは他ならぬケネディだったわけですから、

「彼がもう少し早く暗殺されていたら、
ベトナムへの派兵は無かったとは言わないが、
逆にもっと遅かったかもしれない」

ということもできるわけです(いじわる?)。

そもそも白人のエスタブリッシュ出身で、第二次世界大戦では
PTボート艇長として死にかかった元軍人が左翼になるか?

とわたしなどうっすら思っていたりするわけですが、
当人もはっきりと、自分はリベラルではないと断言していたようですね。

したがって、公民権についても、社会状況と立場上そうせざるを得なくなって、
渋々というか仕方なく任期最後に推し進めた、といわれております。

「テッド・マーシュをサポートしよう!」

というチラシです。


1968年1月、宣教師の息子であったテッド・マーシュは、戦争を
「非人道的、不公平、違法」であると講演で述べました。

彼は1967年に徴兵カードを受け取ったとき、他の8名とともに、それを
徴兵局ではなく、モンシニョール・ライスに提出?し、徴兵拒否を表明しました。

2月、彼は兵役拒否の摘出起訴されましたが、のちに「技術的な理由で」
起訴は取り下げられることになり、彼は最終的にその年の10月陸軍に入隊しました。

そのときの彼の発言です。

「信念は愛国心の欠如を意味するものではありません」

彼の徴兵拒否をサポートした人たちはこの発言をどう思ったでしょうか。

ピッツバーグのアフリカ系アメリカ人、ロン・サンダースは反戦運動家でしたが、
「良心的兵役拒否者」カテゴリ1-O-Aとして陸軍に徴兵入隊を行い、
フォート・サム・ヒューストンに駐屯しました。

メキシコオリンピックの「ブラックパワー・サリュート」の再現でしょうか。
高々と拳をあげるサンダース。

彼は公民権運動に共感する黒人とラテン系GIの戦争抗議者を組織し、
「フォートサム7」と名乗っていました。

ロン・サンダースと「フォートサム7」のメンバーたち。
6人しか写っていませんが、一人がシャッターを押しているのでしょう。

 

■ 反戦デモばかりではなかった

1969年9月、ピッツバーグのある高校で起きたデモについて、
このような報道が残っています。

突然、約100人の州外から「ヒッピー系」の少女たちが車で侵入し、
ベトナム戦争に抗議するデモを始めたため、校内は混乱に陥りました。

「"Jail break!  学校を閉鎖しろ!」

と皆は口々に叫び、生徒を授業から解放して
反戦運動に参加させようとしたのです。

彼女らはなぜかベトコンの旗を振り、教師を殴り、半裸で走り回りました。

その結果、20人の若者が逮捕されましたが、このとき
なぜサウスヒルズがデモの対象になったのかは最後まで不明でした。

 

ピッツバーグでの反戦デモは、ワシントンやニューヨーク、そして
サンフランシスコほどの人数を集めることはできませんでしたが、だからといって、
「スチールシティ」の住民がベトナム戦争に対し沈黙していたわけではありません。

1960年代から70年代初頭にかけて、何千人ものピッツバーグ市民が様々な形で声を上げ、
ピッツバーグのダウンタウンや地元の大学キャンパスで行進や抗議活動を行いました。

しかし、これらの反戦運動がベトナム戦争に従事する人々を
ある意味不快にさせていたのも事実のようです。

あるピッツバーグ出身のベトナム戦争従事者は、戦地からの手紙にこう記しました。

「わたしや他の多くの人々を苛立たせているのは、わたしたちアメリカ人が
ここにいることに抗議するデモが国内で公然と行われていることです」

彼もまた 他の兵士と同様に、ピッツバーグがアメリカの他の都市ほど
積極的に戦争反対の声を上げていないことをむしろ評価しており、
つまり、アメリカの反戦感情には「心を痛めていた」ということになります。


このように、当時行われたデモが、必ずしも反戦を表明するものばかりではなかった、
ということはここで書き留めておかなくてはならないでしょう。

共産主義の戦いのために海外の軍隊を派遣することを支持し、
現実に出征している軍隊への賞賛を表明しようとするデモもあり、
これらは反戦デモとしばしばにらみ合いになっていました。

■ ピッツバーグ最大の反戦デモ

1969年10月、ピッツバーグのダウンタウンで行われた大規模な反戦デモ。
数多いですが、拳を振りあげたり大声で叫ぶ様子もなく、
中には隣の人と喋りながら歩いている人もいるようです。

BLMの暴動の時、多くの商店が略奪され、破壊されていたにもかかわらず、
当時のBBCニュースが、その映像に対し

「平和的なデモです!」「平和的なデモです!」

と連呼しているのをリアルタイムで見ていて、

「どこが平和的やねん!」

と思わずツッコミ担当になってしまいましたが、こういうのが平和的なデモっていうんだよね(棒)

それはともかく、これがピッツバーグにおける最大の反戦集会となりました。
何千人もの人々が、注目を集めることを期待して、
わざわざ夕方のラッシュアワーにダウンタウンの街に繰り出したのです。

写真を見ていただければわかりますが、構成人員はいかにも大学教授のような人、
主婦、髭を生やしていない学生、退役軍人などです。

ピッツバーグ周辺で反戦デモの先頭に立っていたのは、サウスヒルズ高校のような
若い「ヒッピー系」だけではないことがおわかりいただけるでしょう。

 

■ ケント州立大学銃撃事件

「ストップザウォー」のバナーの左上に見える、
赤い拳のうえに「ストライク」と書かれたTシャツは、

「ストライクTシャツ」

といいます。

Allison Krause.jpg
1970年、ニクソン大統領がカンボジア侵攻を発表したあと、
多くのピッツバーグの大学生が復活された反戦抗議に加わりました。

ピッツバーグの住人でオハイオのケント州立大学生だったアリソン・クラウスが
カンボジアへの侵攻や大学のキャンパスでの州兵駐留への抗議活動中、
オハイオ州陸軍州兵の兵士に他3名の学生とともに射殺された

「ケント州立大学銃乱射事件」

を受けてのことです。


ピューリッツァー賞を受賞した銃撃直後のシュローダーの写真

このとき州兵は非武装の学生グループに約100mの距離から、
13秒間に67発の銃弾を発射し、この銃撃事件でアリソンの他、
ジェフリー・グレン・ミラー、サンドラ・リー・ショイヤー、
ウィリアム・ノックス・シュローダーが亡くなり、9名が負傷しました。


左から、ミラー、クラウス 、リー、シュローダー

この銃乱射事件は、抗議行動や全国的な学生ストライキを引き起こしました。
ベトナム戦争の時には比較的静かなデモを行ったピッツバーグでしたが、
この事件に対してはピッツバーグ大学、カーネギー・メロン大学、カーロー大学、
ポイント・パーク、ロバート・モリス大学、アレゲニー・コミュニティカレッジ、
つまりピッツバーグのほとんど全ての大学が授業をボイコットし、
ストライキに参加し、連邦ビルでの行進と抗議を行いました。

このTシャツはアリソン・クラウスと高校で同級生だった学生が制作し、
抗議者たちが着用していたものです。

 

続く。

 

 

ニクソン大統領の「ベトナム化」と映画「パットン」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、次の展示は
先頃終了した同じピッツバーグの「兵士と水兵の記念博物館」のシリーズで
ご紹介した、タイムの特集、

ONE WEEK'S DEAD(1週間の死)

が紹介されていました。

おそらく、これがライフ誌が掲載した全ページだと思われます。

「ベトナムで死んだアメリカ人の顔 一週間の数」

One Week 's Toll

というここでのタイトルに使われた言葉ですが、「Toll」には

「死者を弔って鳴る鐘」

という意味もあります。
このコーナーのタイトルは

「RISING  DEATH TOLL」

で、「増加する死者数」という意味となります。
ライフ誌は、この一人の青年の顔と11の単語からなる厳しい言葉の表紙の、
いまだに物議を醸している特集記事を掲載しました。

 

リチャード・ニクソン大統領は、アメリカの威信と南ベトナムの非共産主義化を
守り、維持するための戦いを続けました。

しかしながら、アメリカ人のベトナムでの死者数の増加につれて
高まっていく厭戦のムードは、大統領にそれを終わらせるように圧力をかけました。

「我々は立ち止まり、
その人々の顔を直視しなければならない。
何人が亡くなったのか、だけではなく
『誰が』亡くなったのかを知るために」

このように書かれた1969年6月27日発行のライフ誌の記事は、
国民の受けた衝撃をさらに具体的な形にしたものとなりました。

しかしながら、ここで大変重要なことを書いておかなくてはなりません。
わたしは前回「兵士と水兵のための記念博物館」展示の紹介で、
当然ながらライフ誌のこの「顔」は、全員が1週間で死んだ兵士である、
と信じ切っていたのですが、どうもそれは違っていた、つまり
これはライフ誌の「暴走」というか「印象操作」であったらしいのです。

そのことについてはちょっと後に回すとして、アメリカ国民に
この記事が衝撃を与える前に、別の衝撃的な作戦がベトナムで行われました。

それが1969年5月の「ハンバーガー・ヒル」と呼ばれた
(第一次世界大戦風にいうなら)「肉挽き機の戦い」でした。

■ ハンバーガー・ヒルの戦いを受けて

「ハンバーガーヒル」の戦いとは1969年5月10日から20日にかけて行われた戦闘です。

主に歩兵同士で行われたこの戦いで、米空挺部隊は、鬱蒼としたジャングル、
二重三重となった竹の茂み、腰まで届くエレファントグラスに覆われた荒野で
強固な部隊と対峙し、直接攻撃で丘を奪い、PAVN軍に多大な犠牲者を出しました。

この地で戦った米兵は、朝鮮戦争の「ポークチョップヒルの戦い」になぞらえて、
この丘で戦った者が「ハンバーガーの肉のように挽かれた」という意味で
「ハンバーガーヒル」と呼んだのでした。

終了後、「ハンバーガー・ヒル」の戦いは「アパッチスノウ」なる作戦の拙劣さと
その結果に対し、議会では、特にエドワード・ケネディ、ジョージ・マクガバン、
スティーブン・M・ヤングの各上院議員が、軍のリーダーシップを厳しく批判しました。

そして、6月27日発売の『ライフ』誌に、

「ベトナムで1週間に殺された242人のアメリカ人の写真」

が掲載され、これが結果的に、ベトナム戦争に対する
否定的な世論の分岐点になった、と考えられています。

ここで一つの大きな問題は、

掲載された241枚の写真のうち、
実際の戦死者の写真は実は5枚だけだった

と一部では言われていることでしょう。

ちょっと待ってください。

てっきり「開戦から1週間でこれだけが死んだ」ってわたし思い込んで、
以前にもそう書いてしまったんですけど。

そこではっと気づいてハンバーガーヒルでの米軍戦死者数を調べたら、

10日間で72名(行方不明者7名)

って全然数が違うんです(困惑)

勘違いさせられたのはもちろんわたしだけでなく、当時、多くのアメリカ人は
雑誌に掲載された写真はすべて戦死者であると認識していたのでした。

「タイム」の記事から、もう一度(前回と同じ部分になりますが)
翻訳しておきましょう。

「ベトナムでの戦争に関連して殺されたアメリカ人男性の顔である。
242名の名前は、5月28日から6月3日(1969年)までに発表されたもので、
メモリアル・デーを含むことを除けば、特別な意味を持つものではない。

死者の数は、戦争中の7日間としては平均的なものである。

この記事は、死者を代弁することを意図したものではない。
彼らが世界を駆け巡る政治的潮流をどう考えていたのか、正確に伝えることはできない。

何人かの手紙からは、彼らがベトナムにいるべきだと強く感じていたこと、
ベトナムの人々に大きな共感を抱いていたこと、
そして彼らの膨大な苦しみに驚愕していたことがうかがえる。

自発的に戦闘任務の期間を延長した者もいれば、帰国を切望していた者もいた。

これらの写真のほとんどは彼らの家族から提供されたものであり、
彼らの多くは息子や夫が必要な目的のために死んだという感情を表していた。

しかし、この戦争で死亡したアメリカ人の数が3万6,000人で、
ベトナム人の犠牲者にははるかに及ばないものの、朝鮮戦争の死者数を上回っているとき、
国民は毎週のように、国中の何百もの家庭で直接的な苦悩に変換される
3桁の統計にしびれを切らし続けている。

私たちは立ち止まって顔を見なければならない。
何人なのかを知る以上に、誰なのかを知る必要があるのだ。

家族や友人以外には知られていない1週間の死者の顔が、
このアメリカの若者の目のギャラリーでは、誰もが突然認識できるのである」


確かに、ベトナムで亡くなったのは膨大な数の人間です。
しかし、亡くなってもない人の写真を死んだと思わせるように編集し、
掲載するというのは、ジャーナリズムにあってはならないことでしょう。

この号には

"写真を見ていて、昔の知り合いの笑顔を見てショックを受けました。
彼はまだ19歳でした。
19歳の若者が死ななければならないなんて考えてもいませんでした”

という手紙が寄せられたといいますが、その知り合いの19歳の青年が
本当に死んでいなければ、タイム誌はこの人に何と説明するつもりだったのでしょうか。

しかし、このことに言及しているのは「ハンバーガーヒル」についての
英語のWikipediaのみで、他からの確証を得ることもできず、このベトナム展でも

「ハンバーガーヒルの数日後、ペンタゴンは1週間の間に前線で亡くなった
242名のアメリカ人の名前をリリースしたので、ライフ誌が彼らの写真を掲載した」

とされ、241名(1名数が合わない)が戦死者だということになっています。

これ以上わたしにも調べようがないので、この話はここまでしか言及できません。

■  WINNING AMERICA'S PEACE(アメリカの平和を勝ち取る)

タイムの「顔」はこのようなコーナーの一部分にあります。
そして、その中に、

「アメリカ軍の撤退とベトナミゼーション」

というサブタイトルがありました。
「ベトナムゼーション」とはどのようなことでしょうか。

1969年6月、ニクソン大統領は国民の不満を鎮めるために
徐々に米軍をベトナムから撤退させ始めました。

12月には彼はついに徴兵ドラフトを「くじ制」に変更しました。

徴兵がロータリー(くじ)に代わるというニュースをラジオで聴く
サンフランシスコ大学の学生三人。

徴兵局(セレクティブサービス)はまた、1971年に学生の徴兵延期を排除し、
草案をより公平なものへと変更し、大統領が、国防長官のメルヴィン・レアードとともに

『ベトナミゼーション』(ベトナム化)

と呼ばれた政策とアメリカ軍の撤退を結びつけました。
米軍その他外国の軍隊は手を引いて、北ベトナム対南ベトナムといったように、
戦争をベトナム人同士でお好きにやってくださいな、というわけです。

まあ、なんのことはない、テト行勢のあと、勝利の可能性がなくなり、
国内の不満が高まったため、ニクソンは戦争を南ベトナムに押し付けて
自分はもう手を引く気満々だったということですね。

いったい何処のどいつが始めた戦争だ、と誰もつっこまなかったのは、
世間のムードがすっかり撤退一色になっていたからだと思われます。

冒頭に挙げたのと同じ「タイム」の表紙には、帰国する米兵と
「帰国開始」という文字があしらわれました。

これが「顔」の号より1週間前の発売なのです。

トマホーク火力支援基地の米軍旗が後納され、代わりに
南ベトナム政府の旗が掲揚されるという象徴的な儀式の様子。

基地は第101空挺団からARVINの第5大隊に移譲されます。
1971年の写真です。

■ AIR WAR (空爆)

 

「アメリカの飛行機は700万トンもの爆弾を
戦争の期間南東アジアに投下した」

何かと評判の悪い()アメリカ軍のベトナム空爆です。

前記のように、地上部隊の数が急激に減少する中、アメリカ軍は
ベトコンと北ベトナム軍を打ち負かすために空軍力に多くを頼りました。

攻撃場所は南ベトナムとラオスが対象でした。

1969年、ニクソンは密かにカンボジアを襲撃し始めました。

このカンボジア作戦は、ベトナム戦争とカンボジア内戦の延長線上で、
1970年に南ベトナムとアメリカが、公式には中立国であった
カンボジア東部で行った短期の一連の軍事作戦です。

この作戦の目的は、カンボジア東部の国境地帯にいたベトナム人民軍(PAVN)と
ベトコン(VC)の約4万人の部隊を敗北させることでした。

アメリカは繰り返すようにベトナム化と撤退の方針を打ち出しており、
国境を越えた脅威を排除することで南ベトナム政府を支えようとしたのです。

W・エイブラムス将軍は、ニクソン就任直後にカンボジアの軍事地域を
B-52ストラト・フォートレス爆撃機で爆撃することを勧告しました。

ニクソンは当初拒否しましたが、1969年のテト攻勢で限界が訪れ、決心しました。

結局彼はこの秘密の航空作戦を許可し、14ヶ月間に3,000回以上の出撃が行われ、
計108,000トンの爆弾がカンボジア東部に投下されることになります。

国家安全保障顧問だったヘンリー・キッシンジャーによると、1970年初頭には、
ニクソン大統領は非常に包囲されていると感じており、

「自分の失脚を企てている世界に対して暴言を吐きたかった」

のだそうです。

ニクソンは1969年11月1日までにベトナム戦争を終結させることを誓ったのですが、
それが果たせず、1969年秋には最高裁への指名が2回も上院で否決されることになりました。

そして、1970年2月、ラオスでの「秘密の戦争」が明らかになったのです。

 政府がラオスで戦って死んだアメリカ人はいないと発表した2日後、
27人のアメリカ人がラオスで戦って死んでいたことが明らかになり、
ニクソンの国民の支持率は急激に下落することになります。

 

ところで冗談のような話ですが、当時ニクソン大統領は、
ジョージ・S・パットンJr. 将軍の伝記映画『パットン』にハマっていました。

Patton | #TBT Trailer | 20th Century FOX

この作品でパットンは孤独で誤解された天才であると描かれているのですが、
ニクソンはそんなパットンを自らに擬え、世間から評価されていなかったパットンに
異常に感情移入して、この映画を何度も何度も何度も何度も繰り返し見た挙句、側近に
我々も映画の主題を理解しそうなるべきだと実際に言ったのだそうです。

特にニクソンは、

「我々はまだベトナムでのコミットメント(関与)に真剣である」

ということを証明する壮大な軍事行動を起こすことが、アメリカの利益にかなう形で
パリ和平交渉を終結させるかもしれないと考えていたことが、この
秘密の攻撃を起こすことにつながりました。


結局、アメリカが南東アジアに戦争中投下した爆弾は、
第二次世界大戦の時の3倍とも4倍とも言われる量となりました。

「絨毯爆撃」などという言葉も、この戦争で生まれたものです。

この合計の半分以上が南ベトナム上空から落とされました。

「国中の人に死をもたらす戦争がありました。
田んぼや野原、村で働いていた人々が空爆を受けました」

ラオスで空爆を経験し、生き残った人が描いた絵です。

■ クラスター爆弾

各2000ポンドのクラス爆弾一つには、対人断片爆弾が665個含まれています。
内蔵されているのは600個の鋼片に加えて爆発物と信管でした。

爆弾は衝突時、またgは衝突後の事前に設定された時間に、
地上30フィートで爆発するように設計されていました。

ここに展示されている爆弾は訓練のために作られたもので青色は不活性を意味します。

 

続く。

 

 

反対者たちと支持者たち(と反対の反対者たち)〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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かつてマサチューセッツ州の共和党知事、フランシス・サージャントは

"The war ιs costing American it's soul. "
(戦争が犠牲にしたのはアメリカの魂そのものだ」

といいました。

■ DISSENTERS(反対者たち)

というコーナーで紹介されているのは、文字通り戦争反対者たちが
どのような活動を行ったかです。

冒頭写真は1972年サンフランシスコで行われたデモの様子です。

雨の中アメリカの旗を傘がわりに?行進するのはベトナム帰還兵たちで、
車椅子の青年は戦地で負った負傷が元で歩けなくなったベテランでしょう。

1969年に行われた大規模な反戦キャンペーンとデモ行進を
「モラトリアム」と呼ぶことはすでに当シリーズでお話ししましたが、
このモラトリアム行進に参加したアメリカ人の数は200万人にも上りました。

全米各地で人々は仕事や学校を休んで、「沈黙の警戒運動」、討論、そして
行進に参加することで反戦の意思を表明しようとしました。

Silent Vigil=沈黙の監視を行う人々。
これはMLK、キング牧師暗殺に対する静かな抗議活動です。

あかちゃん本人はまだ何もわかっていませんが、ベビーチェアの背中に

「ぼくを平和の中で成長させてください」

というメッセージが貼られています。
これはモラトリアムデーが行われた1969年10月、
シンシナティのガバメントスクエアの光景です。

モラトリアム行進に参加したのは、戦争に嫌気が差した一般人が多く、
さらにそのほとんどが平和活動を行うのが初めてという人々でした。

1969年の秋から数年間にわたって起こった反戦デモは、ニクソン政権が
国民の幅広い層からその戦争政策を支持されていないことを示していました。

「ベトナム・モラトリアム」

「今すぐ爆撃を止めろ!撤退せよ!」

「今!平和を」

「労働者行進 ワシントン11月15日 戦争をやめよ」

「徴兵制を終わらせ、戦争を終わらせよ

「5月5日行進 闘争」「ブロンクスを戦争から解放せよ」

「平和のためのアジア系アメリカ人団体」

「10月13日 今すぐ撤退」「反戦退役軍人 サポート」

こんな「ポリティカルバッジ」のコレクションです。

「平和のための労働」のモラトリアムポスター。

いつものように仕事をやめなさい

上院議員に手紙を書きましょう

議会に手紙を書きましょう

大統領に手紙を書きましょう

大統領への公開書簡に署名してください

10月25日の行進に参加しましょう

今すぐ戦争をやめてください!

行動すること、それ以外の現実はありません

その名も「モラトリアム」という機関紙です。

1969年11月号の「THE ALLY」は、陸軍将校が兵士たちを「騙している」と非難し、
モラトリアムに共感するGIたちに焦点を当てました。
この雑誌は世界中にある米軍基地に2万部発行部数があり、皆がこれを読んだことになります。

ここに展示されている手紙の中で、南ベトナムのチューライというところにいる軍人は、
100部の「The Alley」配布を要求しています。

「The Ally」は1968年いカリフォルニアのバークレーで発行され、
反戦のいわゆる「ホットスポット」となっていました。

軍の駐屯地に配られる新聞や雑誌で、堂々と反戦が語られていたのです。

「ハードハット」と呼ばれる抵抗者たちは、「反戦者に対する抵抗者」でした。

1970年4月30日、ニクソン大統領はカンボジアでの軍事作戦を発表しました。
8万人の米軍とARVN軍が、敵の根拠地と補給線を破壊することを命令され、
多くのアメリカ人たちはこれを戦争の拡大と見做しました。

そして全国の大学で抗議運動が炎上し、5月4日、ついに
オハイオのケント大学で銃撃による学生の死者が出ました。

反戦団体はウォール街で集会を行いました。
正午過ぎ、200名の旗を振る建設労働者たちが彼らに相対する形で
抗議運動に対する抗議を行い、この「ハードハット暴動」で
七十人以上が負傷するという惨事になりました。

この抗議活動によって、ヘルメットは

「戦争を支持するブルーカラー」

「抗議運動への反対の象徴」

になったのです。
(日本では正反対の学生たちの象徴でしたが)

このとき、アメリカの世論はより複雑な状況となっていました。

1970年までに、大学の学位を持たないアメリカ人たちは、
大学教育を受けたものより、戦争に反対する傾向にあったと言われています。


■ SUPPORTERS 支持者たち

何度もいうように、反戦運動が盛り上がっていても、アメリカという国は
全く一つの意見でまとまることはほぼないといっていいでしょう。

「北ベトナムはアメリカ合衆国を打ち負かしたり屈辱を与えることはできない。
それができるのはアメリカ人だけなのだ」

1969年11月、ニクソン大統領は反戦運動についてテレビ出演し、

「わたしの支持者である、偉大なサイレントマジョリティーの皆さん」

に向かって演説を行いました。
有名な「サイレントマジョリティ演説」です。

さりげにトリビアですが、「サイレントマジョリティ」という言葉が
一般的になったきっかけは、このときのニクソン演説なのです。
(最初にその言葉を使ったのはクーリッジ大統領演説だった)

具体的にはニクソンの演説の一節、原文はこうです。

"And so tonight—to you,
the great silent majority of my fellow Americans—
I ask for your support."

この言葉は、当時のベトナム戦争反対の大規模なデモに参加せず、
カウンターカルチャーにも参加せず、言論活動にも参加しない層を指しました。

ニクソンは、他の多くの人々とともに、このミドルアメリカンのグループが、
声高な少数派の人々とメディアの影で「沈黙」していると考えていました。

1969年10月15日、第1回目の「ベトナム戦争終結のためのモラトリアム」のあと、
 自分の状況が「包囲されている」と感じたニクソンは、この反論演説を行い、
ベトナムでの「戦争を終わらせるための私の計画」を説明しました。

このときに使われた言葉が、前回出てきた

「ベトナミーズ」=ベトナム化政策

です。
南ベトナム軍に戦争の責任を負わせることでアメリカの損失を減らし、
北ベトナムが南ベトナムを承認することを条件に、アメリカが妥協すること、
もしそれでも戦争が継続するならば北ベトナムに対して

「強力で効果的な措置」

を取る、と言ったわけです。

強力で効果的な措置って何かしら。原子爆弾かな(棒)

しかし、戦争が始まるように仕組んでおいて、片方に責任を負わせ、
自分たちが分割した国が戦争をやめなければ核を使うぞ、(たぶんね)
とは、なんたる言い草でしょうか。

わたしがアメリカという国に嫌いなところがあるとすれば、
軍産複合体(とくにウォール街や経済界)のしがらみで戦争を始めては、
その尻拭いをこのときのように放棄し、知らん顔して、
「名誉ある撤退」などとしれっと言い放つその体質にあります。

そんな戦争をしたい連中から見れば、任期中一度も戦争しなかったトランプ大統領は
さぞかし自分たちの「商売」に邪魔な存在だったんだろうな、とも。

さて、ニクソンはこんな言葉でスピーチを締めくくりました。

「そして今夜、わたしは偉大なるサイレントマジョリティである
アメリカ国民の皆さんに、支援をお願いしたいのです。

我々は平和のために団結しよう。
敗北に対して団結しましょう。

なぜなら、私たちは理解しているからです。
北ベトナムは米国を敗北させたり、辱めたりすることはできない。

それができるのはアメリカ人だけなのです」

このスピーチは、いつものようにスピーチライターの手によるものではなく、
特に「サイレントマジョリティ」の言葉を始め、
すべてニクソン本人が書いたものだといわれています。

ともあれ、「全てのアメリカ男性を故郷に戻す」ということについての
ニクソンの言葉は、聴衆の心を打ったのは事実です。

彼の「忍耐」についての呼びかけもそうでした。

大統領の支持者は、たとえ戦争そのものについてどのように考えていたとしても、
そのほとんどが、敗北を回避しようとする彼の努力を支持しており、
一方で、反戦運動については否定的だったということになります。

沈黙を忠誠心と同一視し、反対意見の声を忠誠心のなさと同一視した
この大統領の演説は、アメリカ人たちを、敵対する二つの陣営に分けたのでした。

リチャード・ニクソン大統領とH・R・ハルドマン国務長官。

山と積まれているのは、「サイレント・マジョリティ」演説の後
送られてきた(主に激励と賛同の)手紙です。

ホワイトハウスの前で1970年に行われた「ビクトリーマーチ」。
ワシントンDCを行進する彼らは

「神はベトナムに勝利を与える」

という旗を掲げていました。

彼らを率いたカルヴァン派の神学者、カール・マッキンタイアは、

「わたしたちは、モラトリアム行進や、即時全面撤退という
”ヒッピーの概念”に挑戦しているのである。
それは降伏を意味する。

このイベントは、キリスト教徒と愛国者のための行進である」

とも述べています。

「ベトナムにいる息子たちを支援せよ」

「誇りを持って」

「それ(降伏)をハノイに言ってやれ」

などというバッジに混じって、右下に

「カリー中尉を即時釈放せよ」

というのがあります。
カリー中尉とは、他ならぬソンミ村虐殺事件で命令を下した責任で起訴され、
一度は有罪判決になっていた

ウィリアム・カリー中尉(William Laws Calley)

のことです。

マッキンタイア牧師と彼の支持者は、カリー中尉の無罪を訴えていました。
戦争犯罪に関する22の罪状でウィリアム・カリー中尉が起訴され有罪判決を受けたのは、
ベトナムにおけるアメリカ政府の「勝ち目のない政策」のせいだという理由です。

■ 政府の監視

ニューヨーク市警察は、反戦活動家たちを監視していました。

このファイルは、平和のための婦人運動の更新に関する報告書です。
調査員はまた参加者の特定を行うためにデモを写真撮影していました。

こういった監視はニクソン政権下で大幅に強化されました。

この増加に加担したのは州および地方の警察署、大学のセキュリティオフィス、
FBI、CIA、NSA、そして陸海空軍の諜報機関などでした。

諜報活動員は盗聴を行い、手紙を開封し、情報提供者を募りました。
彼らはまた、反戦活動を撹乱するために個人的な信用を失墜させる工作を行いました。

具体的な工作は、その人物について嘘を広め、結婚を破壊する、
職場を解雇させる、そして損害を与えるような競争を誘発することなどが含まれます。

1971年、ある反戦活動家がFBIのオフィスに強盗に入り、監視や妨害行為など
工作の証拠を明らかにするファイルを見つけました。

1975年、フランク・チャーチ上院議員が率いる超党派の上院委員会が
この件について調査を行った結果、

「実質的に不正である諜報活動が行われたことは事実であり、
これらの工作は、アメリカ人の憲法上の人権保護に反する」

と結論づけています。

 

 

続く。

 

 

「グリーンベレーのバラード」〜映画「グリーン・ベレー」

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争シリーズが続いているので、
何か映画もベトナム戦争ものを取り上げてみたいと思い、検索していたら
あのジョン・ウェインがいい歳をして現役の大佐を演じた

「グリーンベレー」

なる映画を見つけました。
ジョン・ウェインといえば、当ブログでは第二次世界大戦における
米海軍の太平洋対日戦を描いた

「危険な道」(In Harm's Way)

を扱ったことがあります。

そのときも彼は全く現役軍人らしくない体型を駆使して海軍大佐を演じていましたが、
本作はそれよりさらに3年後の1968年、61歳でなんと空挺隊の司令官という、
・・・まあはっきり言って、前回にも増して無謀ですぜ旦那、という役どころです。

61歳の軍人はもちろん現実に存在しますが、グリーンベレーは特殊作戦群なので、
彼の年ではありえず、しかも、ベトナム戦争当時、大佐は30代というのが相場でした。

いかに往年の大スターでも、こんな無謀なキャスティングまでして、
どれだけジョン・ウェインという大物を担ぎたかったんだろう、などとわたしは、
年齢以前に、弛緩しきった顔の贅肉やら、横から見たら特に著しい、
肥大した腹部やらを悲しい気持ちでうち眺め思ったものですが、
後から調べてみると、なんとこの映画、彼が人生で監督した
たった二本の映画のうちの一本だったというでことが判明しました。

ジョン・ウェインを担ぐための映画ではなく、ジョン・ウェインが作りたかった映画。
つまりそういうことになるわけです。

それでは彼は、そんなにしてまで何を映画で訴えようとしたのでしょうか。

データによると、まず、原作は1965年にロビン・ムーアが発表した小説です。
ウェインは、この着想を1966年にベトナムに行って思いついたとされ、
彼はベトナム戦争当時のアメリカを席巻していた反戦感情に危機感を抱き、
この映画を作って当時のアメリカの世の論を動かそうとしたのだと考えられます。

まず、ウェインは民主党のリンドン・ジョンソン大統領に手紙を書き、
戦前の映画に対するような「軍事援助」を要請しました。

日本もそうでしたが、アメリカも「硫黄島の砂」「東京上空30秒前」
「史上最大の作戦」のように、国防総省協力による映画を制作しており、
つまりウェインはベトナム戦争においてもそのような映画が必要だ、と説いたのです。

ジョンソン大統領の特別補佐官でありロビイストだったジャック・ヴァレンティは、


(ちなみにこの写真の最左壁際の人)

大統領にこう進言したそうです。

「ウェインの政治的立場(タカ派と言われていたこと)は間違っているが、
ベトナムに関する限り、彼の見解は正しいと思います。
もし彼が映画を作ったら、我々が言って欲しいことを代わりに言ってくれるでしょう」

かくして、ウェインは、第36代大統領リンドン・B・ジョンソンとアメリカ国防総省に
全面的な軍事協力と資材の提供を要請し、それを得ることに成功しました。

ただし、この話にはちょっとした裏があって、当時ペンタゴンは
原作者のロビン・ムーアを、情報漏洩の疑いで告訴しようとしていたところ、
ウェインは情報ごと原作をの版権を大枚で買い叩いて、(3万5千ドルと利益の5%)
その結果、原作の内容とは全く関係のない内容となる脚本を別人に頼んでいます。

これによって、ウェインはペンタゴンを自分の味方につけようとしたと言われています。

そしてその後、彼はこの、

「史上最も評価の分かれる、物議を醸したジョン・ウェイン作品」

の制作にのりだすことになったのです。

こんなに小さくともわかってしまう、ジョン・ウェインが老骨に鞭打って走る姿。
タイトルに流れるのは「グリーンベレーのバラード」です。

The Ballad of the Green Berets

グリーンベレーという精鋭部隊をご理解いただくためにぜひご覧ください。
この映画のタイトルソングにはあまりに古臭くないか、という意見もあったそうですが、
ジョン・ウェインはここにこの曲を使うことに強くこだわりました。

グラウンドを上半身裸で「ミリタリーケイデンス」を唱えながら走るグリーンベレー。

「フーアーユー?」(貴様たちは誰だ?)

と尋ねると、皆で声を揃えて

「エアボーン!」

「ハウ・ファー?」(どこまで行く?)

「オール・ザ・ウェイ!」(どこまでも!)

ここはノースカロライナ州のアメリカ陸軍フォート・ブラッグ。

特殊部隊グリーンベレーの訓練キャンプにある、
ガブリエル・デモンストレーションエリア(ベトナムで最初に戦死したグリーンベレー、
ジミー・ガブリエル軍曹にちなんで名付けられた)におけるブリーフィングで、
ベトナム戦争に参加した理由説明とデモンストレーションが行われています。

壇上で士官たちがいきなり外国語で話し始めるのは、語学能力をアピールするためです。
ちなみに向こうの人は独語とノルウェー語、こちらの人は独語とスペイン語が話せます。

この説明会は、つまりプレスの質問を受け付ける機会ですが、
記者たちは、なべてベトナム戦争参加に懐疑的です。

「何故合衆国がこの無慈悲な戦争を行うのです?(直訳)」

そんな質問に対し、説明係のマルドゥーン曹長は

「それは政府が決めることで、我々は命じられるところへ行くだけです」

そりゃごもっともです。
そんなこと、ここで聞いて納得のいく答えが得られるはずがないですよね。

すると皮肉な新聞記者のジョージ・ベックワース(デビッド・ジャンセン)が、

「それに賛同するってことは、グリーンベレーというのは、
ただの個人的感情のないロボットってことですかい?」

とかいやみったらしく聞くわけです。

それに対しマルドゥーン軍曹は、

「我々にも感情も意見もあるが、現地では指導者層や女子供まで虐殺されている。
もし我が国で同じ事態になれば、残された人々が立ち上がることは
当然支援されるべきでしょう」

と説明します。

ベックワースは意地悪くまた絡み、軍曹が歴史を紐解きつつ
見事に論破し、それに満座が拍手すると、またしても

「でもベトナム戦争は内戦、所詮内輪揉めじゃないか」

負けじと言い募ります。



するとマギー軍曹は、「そう思いますか?」と聞き返して、
北ベトナムの兵士とベトコンのゲリラから捕獲された武器と装備を
一つ一つ手に持って説明します。

それらはソビエト連邦、チェコスロバキア共産党、中国共産党で製造されており、
(S.K.S カービン銃、チャイコムK 15)ベトナム戦争が単なる「内輪揉め」ではなく、
敵が共産主義そのものであることを如実に証明していました。

しかし負けず嫌いなベックワースったら、今度は勝てると思ったのか、
マイク・カービー(ジョン・ウェイン)大佐を見つけて食い下がります。
しかし今回も、

「あなたはベトナムに行ったことがありますか」
(現地を見たことがないのに何がわかるんですか)

と言われて返す言葉をなくしてしまいました。

さて、カービー大佐の部隊がベトナム行きを控えたある日、自分もぜひ
ベトナム行きに参加させて欲しい、と思い詰めた様子で頼んでくる男がやってきました。

兵器の専門家であるプロボ軍曹です。

かと思えばこの男。
別の隊から毎日この部隊の宿舎にやってきてはうろうろしています。

「また同じ時間に来てますな」

「変なやつです。
朝鮮とベトナムにも1年ずつ行ってるんですがね。
三か国語喋れるんですが・・・空挺隊員としてはどうかと」

「どういう意味だ」

「降下のたびに先任が突き落とすまで飛ばないんです」

「いいじゃないか。気に入った」

「は?」

「多分そんな奴なら簡単にやめないだろう」

そこで周りを取り囲んで何をしているか調べてみたら、こいつは
この部隊の補給処からの「物品調達」を独自にやっておったのです。
つまりは横流しの現行犯ってやつですな。

「今回は見つかったけど、それは100回に1回です」

と豪語するこのピーターソン伍長を、カービー大佐は
軍曹に昇格させて連れて行くことにしました。

こんな図太い奴なら何かの役に立つだろうということか?

ところがピーターソン、軍曹になっても自覚が全くできておらず、
出発の朝にギターで(物持ちです)殴られて起きる始末。

次の瞬間、部隊は空自のC-130H的な輸送機でダナンに到着しており、
5音音階によるアジア風旋律をとりいれた勇ましいBGMが流れます。

全体的にこの映画の付随音楽はなかなか良くできていると思います。
担当は「ベン・ハー」などを手掛けたロージャ・ミクローシュです。

当初、ウェインはスコアを友人のエルマー・バーンスタインに頼んだのですが、
彼は自分の政治信条とこの内容が合わないとして断ってきたということです。

バーンスタインの代表作は「十戒」「荒野の7人」「ゴーストバスターズ」など。

翩翻と翻る星条旗と南ベトナム国旗。

駐屯地名はアメリカ軍の慣習として戦死者の名前が付されます。
マギー軍曹はこのアーサー・フラーという男に会ったことがあるといいます。

しかし調べても第一次世界大戦のベテランの名前しかでてこなかったので、
おそらく架空の兵士名ではないかと思われます。

この看板を物思わしげに眺めていたのは、プロボ軍曹でした。

カービー大佐に打ち明けたところによると、彼は万が一自分が戦死したら、
自分の名前、「プロボ」が通りや基地の名前になることを心配していました。

「プロボストリート」「プロボカンティーン」「プロボバラック」

どれも語呂が悪くてピンとこない、というのが彼の目下の心配事なのです。
(”語呂が悪い”は英語では”doesn't sing"と言っている)

カービー大佐は前任の司令に現地の南ベトナム軍の「できる男」( outsutanding)、
カイ大佐を紹介され、さっそく打ち合わせを始めました。

カービー大佐は、今回、精鋭の特殊部隊2チームを連れてきたわけですが、
1つのチームはモンタニヤール(山岳部族)と特殊部隊からなるキャンプを
南ベトナム軍に置き換える任務にあたることにしました。

そんなとき、例の新聞記者、ベックワースが到着しました。
彼はカービー大佐の対応にカチンときて(笑)、そんなにいうなら
現地を見てやろうじゃないの、と勇んで乗り込んできたのです。

まあ、粗探しするつもり満々ってところですな。

早速任務に同行してほしいと頼むのですが、これから行くところは
危険だから、と大佐が断ると、このおっさん、

「我が社はベトナムにアメリカがいるべきではないという考えですが、
わたしがそれを裏付けるものを見てしまうのが怖いんですか」

とか挑発するのでした。

そう言われちゃ乗せないわけにはいきませんよね。

カービー大佐はベックワースをヘリに押し込んでから、
よっこいしょういち、とヒューイに最後に乗り込みました。
さすがに足を高く持ち上げるのがかなり大変そうです(涙)

彼らが到着したのは北ベトナムのど真ん中に設置したキャンプです。
当然ですが毎日のように北ベトナム軍の攻撃を受けています。

到着するなりベックワースはパンジ・スティックに目を止めます。
(一連のシリーズで何度か扱っておいてよかったと思った瞬間)

「これは罠か?」

「そうです。チャーリー(ベトコン)から教わったのです。
まあ、彼がやってるのと同じブツに浸したりはしてませんがね」

これも、何度か扱ったため、そのブツが糞尿であるとわかってしまうのだった。

ベックワース、さらにいきなりおしかけたせいで
自分のベッドが現地隊長の二段ベッドの上だと知ってさらに憮然とします。

だからあんたが無理やり来たがったんだからね?

 

横流し軍曹のピーターソンは、キャンプで孤児のベトナム人少年、
ハムチャックに妙になつかれてしまいました。
お約束ですが、彼は迷い犬をペットにしています。

ここでいきなり「錨を揚げて」が鳴り響きました。
ご存知我らが海軍シービーズ(工兵隊)のお仕事現場です。

隊長(妙に年寄り)が、卒塔婆のように転々と直立した水兵の間を、

「この地域の司令官は全てを規則どおりに行うことになっている!
私は司令官のやる通りにするつもりである!
これらの機材には全てひとつずつ塗装をほどこし、ひとつづつ番号を振って、
その上で全て・・・」

と力一杯演説していると、

物資の調達を命じられたscrounger(ごまかして手に入れる人、という意味合い)
のピーターソンが、白昼堂々海軍の物資を運んでいくではありませんか。

帽子をとって挨拶をしながら去って行くヘリに、拳を振り上げて悔しがる海軍さんたち。
こんなやつがいるから、いつまでたっても陸海軍は仲良くなれないんですよ。
しらんけど。

続く。

 

ダナンの「ラ・セーヌ」〜映画「グリーン・ベレー」2日目

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映画「グリーンベレー」2日目です。

キャンプに偵察隊が帰還してきました。
担架で運ばれてきた隊員もいます。

彼らの隊長は、政府軍のニム大尉(ジョージ・タケイ)。

ウェインが直々にオファーした日系人俳優タケイは、当時
「スタートレック」に出演しており大変人気がありました。

撮影開始直前、彼はウェインに向かって

「自分はベトナム戦争には強く反対している」

と表明しています。

これはウェインも承知の上で、というか、ウェインはこの映画クルーの半分が、
(ピーターソン軍曹役のジム・ハットンを含め)反対派であることを知っていましたが、
スタッフがプロとして演技と演出に力を注いでくれれば十分だ、と考えていたようです。

幸か不幸かこの映画は良くも悪くも当時大変な話題を集め、
賛否が真っ二つに分かれるような事態となったため、
(つまりそれは当時のアメリカのベトナム戦争に対する世論そのままでした)
出演を引き受けた、イコール、ウェインに同調しベトナム派兵を支持するものと、
世間の多くが彼らを見なしたとしても全く不思議ではありません。

前述のジム・ハットンなども、映画に出演したというだけで、
賛成派だとみなされて、詳しくは知りませんが色々あったようです。

それにしても、ジョージ・タケイのベトナム人役、なんと違和感のないことよ。

タケイはさすがプロらしく、一旦撮影が始まるとこの役に集中するため、
「スタートレック」の出演エピソード9回分を辞退しています。

この件でハッピーだったのは、「スタートレック」のチェコフ少尉役、
タケイの友人でもあったウォルター・ケーニッヒでした。
なぜなら、ヒカル・スールーが出ない分、出番が増えたからです。

 

さて、カービー大佐は早速ニム大尉をねぎらいますが、大尉は

「敵地に11日間いる間に部隊はかなり消耗して人員が足りないのに、
山岳部族は自分たちのこともベトコンのように見ていて、協力してくれない」

と答えます。

さらにニム大尉は、問われるままに

「自分の故郷はハノイなので、いつか帰りたいが、
その前にベトコン(Stinking Cong)を皆殺しにする」

と語り、周りのアメリカ人は彼の気迫に思わずたじろぐのでした。

「部屋に星のマークをつけてるんですよ。
今年はもう52個になったとか・・。
来年はこれを倍にするとか言ってます」

ニム大尉に何があったのかは尺が足りなかったのか、語られないまま終わります。
気を取り直すように、だれともなく話題を変えて、

「ところで一夜にして奇跡のように現れたトタン板のことなんだが」

海軍からピーターソンが盗んできたあれですね。

「便利なやつがいるもんだ」

「ピーターソン軍曹はどこから持ってきたと言ってた?」

「”いい妖精さんが置いていってくれた”と」

「”いい妖精さんが置いていってくれました、サー!”と言わなきゃだな」

字幕ではここは簡単に

「敬語を使うように言っとけ」

となっていて、good fairyは妖精さんではなく「天」となっています。

その夜、皆がまったりしていると、1発だけ砲撃がありました。
この攻撃は一晩おきに行われ、要するに安眠妨害をして心理戦を行なっているのです。

しかも、確実に狙う場所が決まっていると・・・。
内通者がいるということなのでしょうか。

この夜は一人の米軍大尉が運悪くその砲撃の犠牲になりました。
大尉は任務を交代して明日帰国する予定でした。

 

北ベトナムに設営したキャンプが砲撃を受けた次の日です。
ベックワース記者が、ニム大尉に現在進行形で行われている作戦について聞いています。

「ヘリで森の上を低空ギリギリで飛んで、ベトコンの銃撃を誘うんです」

「ベトコンがこんなに近くにいるということですか」

ニム大尉は白い歯を見せつつ快活に笑って、

「ベックワースさん、ベトコンは私の隊の中にもいるんですよ」

昨夜の爆撃が内通者の情報に基づいていたことを確信しているようでした。

ところで、マルドゥーン軍曹は「横流し屋」ピーターソンの「お道具」に目を見張りました。

仕事柄?やたら物持ちです。
ティーセット、ギター、お酒にコーク。

「任務中だというのにまだ娑婆っ気がぬけないのか」

「軍曹、わたしゃ海兵隊じゃないんでね。好きにさせてください」

トタンを調達してきたという功績があるので、マルドゥーンは下手に出て、

「今度は50口径を調達してくれないかな」

ピーターソン、軽ーく、

「いいっすよ。次にね」

「・・・どうやって?」

どこそこの誰々がバーボンを欲しがっているのでそれと交換する、
と得々と語るピーターソンに、マルドゥーン、驚いて、

「バーボンなんかどこにあるんだ」

「それは・・・」

蛇の道は蛇を地で行く抜け目ないこの男に、教会に通い、
ボーイスカウト出身という真面目な軍曹は呆れ返ります。

「俺はイーグルスカウト(ボーイスカウトの最高レベル)までいったんだ!」

でっていう。

ちなみに、マルドゥーン軍曹を演じたアルド・レイは特にジョン・ウェインと険悪で、
のちにインタビューでウェインを軽蔑的に語ったということです。

その理由はともあれ、なんで出演引き受けたのって気がしますが。

ある日、マルドゥーン軍曹が、ベースキャンプ周辺のジャングルの一部を片付ける
海軍シービーズの作業をを監督していると、一人の兵士が怪しい動きで
どうやらキャンプの中を歩測しているらしいのに気がつきました。

ニム大尉が捕らえて尋問すると、この不審な男は、最近ベトコンによって殺害された
アメリカ軍救護隊員の私物であるジッポーライターを持っていました。 

裏には妻から贈られたものであることを示す文字が。

彼はカービーの友人で、山岳部族の出産を手伝った帰りに行方不明になり、
確認が難しいほど無残な遺体で発見されたのでした。

ベックワースは、ニム大尉が容疑者を殴打したのを見ていて、

「あれは拷問じゃないか!どうして裁判しないんだ」

と平時の理論を持ち出して大佐に食ってかかるのですが、
大佐は今回の容疑者はいかなる種類の保護にも値しないと切り捨てます。

「それとこれとは」

「大声でそれをコールマン大尉に言ってやれ。
ここからアーリントン墓地まで聞こえるようにな」

(´・ω・`)

キャンプでは付近住民の医療ケアなども行われます。
山岳部族の酋長がパンジスティックを踏んで怪我をした孫を連れてきました。

ベックワースは愛らしい孫娘に自分のペンダントをプレゼントします。

米軍は、敵攻撃に備えて民間人キャンプ内にを避難させようとしていたので、
ここぞと村長に交渉しますが、どうもピンときていない様子。
大佐が明日の朝迎えに村に来てくれたら従う、といって帰っていきました。

ご指名とあっては致し方なし。

カービー大佐は深夜から老骨に鞭打って部下と山中を村に向かいます。
道中にはパンジスティックの仕掛けなんかがてんこ盛り。

この道をじっちゃんや担架の女の子はどうやって帰っていったのか(´・ω・`)

「あの村長、敵の回し者とかじゃないんですかね」

ついそんな疑問が湧いてくるほどです。

しかし、村に到着した一行が見たのは累々たる死体でした。

村長の遺体の上には「グリーンベレー どもへ」と札がかかっていました。
(というのも何だか違う気がするんですが。普通『アメリカ人へ』とかよね)
村長がベトコンの募兵命令を断ったため、男たちは全員虐殺されてしまったのです。

 

村長の娘は山中に連れ込まれて無残にも殺されていました。

なぜか危険なミッションに付いてきていたベックワースは、
女の子の遺体がつけていたペンダントを渡され、愕然とするのでした。

そんなベックワースにカービー大佐、ダメ押し。

「だから言っただろう。現地を見ないとわからないと。
別の村では村長を殺さず木に縛り付けてな。
十代の娘二人を彼の目の前で切り刻んで、40人で彼の妻を(以下略)・・・」

ベックワースを説得するくらいならこれで十分かもしれませんが、
間の悪いことに、映画公開直前にはアメリカ軍の戦争犯罪と言われた
「ソンミ村虐殺」が起こり、米軍自身の残虐行為が問題になっていました。

残虐な敵からこちらの味方を守ってやるべきだ、という立派なお題目を唱えても、
その守るべき相手に対し身内がそれ以上のことをやっちまったわけですから、
お前がいうなというツッコミも当然起こってくるわけですよね。

 

ちなみにベックワース役のデビッド・ジャンセンもまたベトナム戦争反対派でした。

登場人物のベックワースはこのシーケンスを通じて、米国の戦争関与に納得していくわけですが、
それを演じたジャンセンは、全く自分の考えを変えることはなかったようです。

ちなみに、ジャンセンもまたウェインとうまくいっていませんでした。
彼は、撮影中にウェインがアジア人の子供(ハムチャックのことと思われる)に腹を立て、
叱りつけたのが原因で、撮影中のセットでウェインに食ってかかり、口論になりました。

結果、彼はそのキャリアで後にも先にもこのときだけ撮影現場を放棄することになりました。

しかしこうして列挙してみると、出演俳優のほとんどが映画の意図に反対しており、
あまりにもたくさんの俳優がウェインを嫌っていた、という構図が見えてくるのですが、
もうこの頃のウェインは「映画界の天皇」状態で、何があっても意に介さずだったのでしょうか。

 

この辺で、殺伐とした画面に飽き飽きしてきた人のために、
ダナンのクラブシーンが挿入されます。



ステージでは歌手が英語とフランス語で、シャンソンの

「La Seine」(セーヌ川)

を歌っています。
ベトナムはフランス領だったこともあり、フランス語が通じます。

そこにベトナム人の美女登場。

思わず目を見張るスーツ姿のカービー。

同行のカイ大佐によると、このトップモデル、リンという女性は郡長の娘で、
その郡長はベトコンの協力を拒んで弟とともに虐殺されたとか。

実は彼女、カイ大佐の義理の妹なのですが、なぜかこのとき
彼はそのことをカービーに告げません。



その夜、特殊部隊のキャンプは、数千人のベトコンと北ベトナム軍による
大規模な夜間攻撃を受けることになります。

パンジスティックと鉄条網の上に梯子をかけて侵入してきます。

こちらも迫撃砲で応戦。
ベックワースも怒鳴られて砲弾運びを手伝い始めました。

カービーとマルドゥーンは状況を評価するためにヘリで出撃するのですが、
彼らのヘリコプターは敵の砲火によって撃墜されてしまいます。

地面に激突する直前に飛び出したので全員無事、犠牲者はパイロットのみでした。
(そんな簡単にいくかなという気もしますが)

すぐにパトロールによって救助され、包囲されたキャンプを支援するための
「マイク・フォース」として(その心はカービーのファーストネーム)
フィールドを確保しました。

ここで問題発生。
チムチャックの犬、チマンクが壕から出てしまったのです。
そして・・・。

(-人-)ナムー

戦争映画の犬はフラグ、と言い続けてきましたが、犬そのものが死んだのは初めて見ました。

この非常時に、しかもこんなところ(土嚢の上)に墓を作り出す子供。

ピーターソンがやってきて、

「かわいそうに、友達がいなくなったな」

「君がいる」(Except you.)

「そうだな」

そのとき空軍機の支援がきました。
この「ブルー編隊長」が爆撃位置を確認してきます。
空爆で敵を叩いてからマイクフォースが突入することに。

この戦闘で多くのアメリカ人と南ベトナム軍と民間人が死亡しました。
プロボは南ベトナムの兵士を装ったスパイに銃撃されて重傷です。
ニム大尉はクレイモア対人地雷を仕掛けている途中、砲撃を受け戦死しました。

いたるところに地雷を仕掛けたのち、民間人を誘導し、退去を行います。

ピーターソンは、子供ハムチャックを抱き抱えてヘリに乗せ、
パイロットによろしく頼む、と後を託しました。

おそらくこのヘリパイは本物だと思われます。(演技が下手すぎ)

キャンプ内ではベトコンと北ベトナム軍の兵士による略奪が始まっていました。
倒れている遺体からめぼしいものを盗んでいくという浅ましさ。

靴や時計を剥ぎ取られているこの遺体は・・・なんとニム大尉ではないですか。

そして占領の証に意気揚々と旗をあげるのですが・・

あげ終わるか終わらないうちに「マジックドラゴン」(C-47)
が機上から掃射を満遍なく行い、瞬く間に敵を殲滅してしまいました。

全てを見たベックワース記者に、カービー大佐が尋ねます。

「見たことをどのように書くんですか」

すると記者は、

「もしどう感じたかをそのまま書いたら仕事はクビでしょうね」

そのときカービーは戦闘で重傷を負ったプロボ軍曹の臨終に呼ばれました。

いくら死ぬこと確定でも、顔の血ぐらい拭いてやれよ。
と思ったのはわたしだけでしょうか。

プロボ軍曹、何やらカービーに重大なことを頼みたい模様。

 "Would you take a touch with me?"

この場合の「タッチ」は、ちょっと飲んだり食べたりする何か、と解釈します。

「ちょっと一緒にやってくれませんか?」

というところでしょうか。

「いいとも」

カービーはウィスキー瓶をいきなり瀕死の人の口に押し込んで、
そのあと同じ飲み口から自分もぐいっと一口飲み干すのですが・・・。

だからその前に口の血をふいてやれよって!

他人の血痕のついたボトルから直飲みなんかして、戦争で死ぬ前に病気で死ぬぞ。

「もう一つお願いが・・・」

「なんだ」

彼の変わった名前を残すのに適切な施設。
それは、PRIVY(屋外簡易トイレ)でした。

PROVO PRIVY

うーん、確かに語呂「だけ」はいいかもしれん。

これで彼も後顧の憂いなく旅立ったわけです。
めでたし・・・いや、めでたくはないか。

 

続く。

東に沈む夕日〜映画「グリーンベレー」3日目

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ジョン・ウェインのある意味国策映画、「グリーンベレー」最終回です。

さて、カービーは上官のモーガン大佐(ブルース・キャボット)と
ARVNのカウンターパートであるカイ大佐(ジャック・スー)と会い、
彼らが計画する極秘の任務について説明を受けました。

その計画というのは、現在北ベトナムにいるPha Son Ti 将軍という、
ベトコンと北ベトナムの総司令官を​​誘拐するというものでした。

ベトコンのリーダーである将軍を確保することによって、
南ベトナムに有利な条件で終戦交渉を行うことが目的だというんですが、
計画もお粗末なら、そんなことで終戦交渉に持っていけると思うなら考えが甘すぎ。

しかも、ティ将軍は過去一度逮捕したものの、政府に圧力をかけられて
逃げられてしまっているっていうんですが、じゃ今度は政府の圧力はどうするつもり?

だいたい、一度そんな目に遭ったら向こうも厳重に警戒しているでしょう。

そこで女ですよ(笑)
トップモデルであるこの美女を使ってハニトラを仕掛けようというわけです。

ハニーの名前はリン(アイリーン・ツー)。

父親があまりにおめでたすぎて弟共々殺されてしまったので(本人談)
復讐を果たすため計画に協力する、といいます。

彼女と街角のカフェで目を合わせずに会話したあと、カービーがカイ大佐に

「信用できるのか?」

「もちろん。彼女は俺の弟の妻だ」

つまり親族ってことですが、それをハニトラ要員に差し出すか。
だいいち弟の了解は得たのか?

 

彼女とティ将軍とは幼なじみで、お互いまんざら知らない仲ではなく、
さらに将軍は彼女にご執心なので、北ベトナムの奥深くにある
フレンチコロニアル様式のティ将軍邸宅に入り込み、
油断して無防備になった瞬間を精鋭部隊が急襲する作戦だというのですが。

 

精鋭部隊は、このティ将軍一人を捕まえるために、空挺降下による敵地侵入を試みます。
わたしはこういう作戦についてどうこう言えるほどの軍事知識はありませんが、
それでもここで空挺降下を行うというのは、ちょっと違うような気がします。

費用対効果の面で言うとちょっと大げさすぎやしませんかね。
しかもハニトラ現場ですぜ。

ここで「ジャンプマスター」(陸自でどう言うのかは知りません)である
カービー大佐は、降下を指示するわけですが、まず、

「ポートサイド(左列)立て!スターボードサイド(右)立て!」

といい、

「フックアップ!」(フック掛け)

「ドアの前へ!」

「ゴー!」

で降下が始まっています。

おっと、カービー大佐、各々の装具を点検する指令を行なっておりません。
久しぶりなので忘れてしまったのかもしれません。

「ジャンプマスターに突き落とされるまで降下できない」

と噂のあったピーターソンですが、大佐が案ずるまでもなく、
意を決した様子で自発的に降下を行いました。

降下してしまえば邪魔なだけの落下傘などは埋めてしまいます。
ただし、流石の金持ちアメリカ軍もあとで回収するつもりらしく、
捻挫した兵を荷物番に一人残して行きました。

ポイントマン(先遣兵)という言葉も、「ベトナム戦争シリーズ」で知ったばかりです。
そのポイントマンとして本隊より少し先に出発した(一人で)コワルスキですが、
地元敵民兵と格闘になりました。

一人目を倒し、二人目を枯れ枝に百舌の速贄のように突き刺したとき、
3人目に後ろから襲われて・・・・。

ところでどうでもいいんですが、この時の上海雑技団みたいなBGMはいかがなものか。

「ブルドッグ!・・・ブルドッグ!」

とカービー大佐のコードネームを呼びながら息絶えました(´;ω;`)

カービー様ご一行はその後橋を渡ってコロニアル風邸宅の近くに到着。
警備が厳重なはずなのに、易々と近くに忍びこめてしまう不思議。

ティ将軍はリン嬢をエスコートし、捧げ銃衛兵の間を邸宅に入って行きます。
こういうとき(女性を連れ込むとき)に軍隊は捧げ銃はしないんじゃないかな。
しらんけど。

一行はあまりにも簡単に邸宅の歩哨をやっつけてしまいました。
ARVINの兵士が弓矢で木の上の見張りを静かに抹殺し、
誰にも気づかれることなく将軍の寝室に近づいていきます。

さて、こちらハニトラ要員のリン、今まさにお仕事に取り掛かるところ。

意中の女性を前に、ティ将軍、すっかり舞い上がっております。
しかし、ベトコンのリーダーで将軍にしては若すぎない?

ワインを女性に勧めるムード派の将軍ですが、リンは「後で」と断り、
手っ取り早くターゲットを無防備な状態にしてしまうために
とっとと電気を消し、サクサクと服を脱いでいくのでした。

そしてこんな時に限って家の中には見張りがおらず、
兵隊たちは控え室で全員トランプして遊んでおります。

半開きのそのドアの前を一行は通り過ぎ、階段を登って寝室まで難なく侵入。
音ひとつさせずに鍵をベテランの泥棒のように解除し、
ベッドまで匍匐前進で近づいていってターゲットをあっさり確保します。

そこではっ!と見つめ合うリンとカイ大佐。

そうそう、この二人そういえば義理の兄妹の関係なんでしたっけ。
どちらにとってもカナーリ気まずい瞬間かもしれません。

カイ大佐はなぜか左手に持っている黒い服を投げつけるのですが、
仮にもハニトラ要員としてご協力いただいた相手に、なんなんだその態度は。
もう少し労るべきじゃないのか?え?

とにかくこれでターゲットは確保しました。
半裸の間抜けな男を眠らせて、コロニアル風の二階からリペリングで運び出し、
(さすがは空挺隊ですね)車のトランクに詰め込んで脱出。

こちらはマルドゥーン率いる別働隊。
前夜から橋を爆破するために爆薬を仕掛けて待っていました。

検問所を簡単に突破し、爆発させた後、橋の爆破にも成功。

やったぜはっはっは、とふりむいてみたら、一緒にバイクに乗っていた
医療担当のマギー曹長が銃弾を受けていました。

さて、こちらは将軍誘拐グループ。
トランクから引き摺り出したティ将軍に赤いフライトスーツ?を着せて、
何をするのでしょうか。

日の丸?
じゃないよね。

目立つように赤をあしらった曳航用のバルーンを用意し、
まず、こちらをヘリウムガスで空に飛ばします。

あらかじめロープの先にティ将軍を結んでおきます。

バルーンを飛ばしますと、ティー将軍も一緒に空に飛んでいきます。

そこに飛行機がやってきて、ロープを引っ掛けて運んでいけば完成です。

なーるほど!うまいこと考えたね。

と言いたいところですが、これ、ひっかけると同時に風船は切れてしまっており、
どうやってティ将軍を中に収容するつもりなのか謎。

目的地まで人間一人翼に引っ掛けたまま運んでいけるとも思えないし、
よしんば奇跡的に目的地まで行けたとしても、着陸すると同時に地面に激突:(;゙゚'ω゚'):

まあそんなことはどうでもよろしい。よろしくないけど。

ハニトラ成功の功労者なのに、誰も労るどころか声もかけないので、
まるで罪人のように黒い服を着てションボリしているリンさん。

見かねてカービー大佐がカイ大佐に声をかけます。

「彼女は君の義妹なんだろう」

「そうだ」

「彼女の将来も、自尊心も・・君の手の中にあるようなものなんだ」

「そんなことは・・・」

言いかけたカイですが、思い直して

「ありがとうマイク」

そして、

「リン・・・君は勇気のある女性だ」

するとリンは気怠げに

「いいえ、ただ、一族が許してくれるように祈っている女がいるだけよ」

つまりカイ大佐の一族ということでしょうか。
いったい彼女が夫の親族に何を謝るというのでしょうか。

ハニトラ要員になったことかな?

それなら謝るべきはそれを命じたカイ大佐で、謝る相手はむしろリンと弟なのでは?

しかし、そういった反省は一切ないまま、カイ大佐は上から目線で

「許すことなど何もないよ」

許されたと思ったリンは義兄の腕に飛び込み、嗚咽するのでした。

 

そしてこの映画、最後に衝撃シーンが待ち受けております。(ネタバレ注意)
作戦を成功させ、いざ帰還のヘリとの合流地点に近づいてきたというとき、

たまたま、ほんのたまたま一番先頭をあるいていたピーターソンが
パンジスティックの罠に足を取られてしまったのでした。

「わあああああ!」

((((;゚Д゚)))))))

流石にそれを見て叫び声をあげたのは女性のリンだけです。

直後にカービーは「動け!」と命令を下し、ピーターソンの荷物を拾い上げて
最後に罠にかかった(多分だけどまだ生きてる)ピーターソンを一瞥します。

次の瞬間、場面はダナンの飛行場です。

帰還するヘリを迎えるために、新聞記者のベックワースと、
ベトナム人の孤児ハムチャックが駆けつけてきていました。

少年のお目当てはもちろん彼の友だち、ピーターソンです。

兵士が行進して行きます。
彼らはこれから前線に向かうのです。
ベックワースは少年を見送っていましたが、くるりと向きを変え、
兵士たちと一緒に歩いて行きました。

ODカラーの陸軍の制服を着て。

「成功したな」

「ああ、しかし高くついた」(犠牲は大きかった)

そう司令官と話すカービーの後ろでは、少年が

「ピーターソン!」「ピーターソンいる?」

とヘリを覗き込んでは聞いています。

後ろのヘリからは負傷したマギーが運び出されました。

ヘリパイに「もう誰も乗っていないよ」と言われ、
半泣きで全部のヘリの中を覗き込む少年。

「ピーターソン!」

「ノー!ノー!」

 

周りから子供のケアを頼まれてしまったカービー大佐、
水平線を眺めている彼に近づいていって声をかけました。

「ハムチャック、戦争だから仕方ない」

「でも、そうなって欲しくなかった」

「誰もそうなってほしい人なんていない」

子供は涙でびしょびしょになった顔をふり仰ぎ、

「僕のピーターソンは勇敢だった?」

子供と話すときは同じ目線でね。

「とっても勇敢だった・・・君もそうなれるか?」

「なれるかな」

「なれるさ」

そう言ってカービーはピーターソンのグリーンベレー を子供にかぶせてやり、

「”君の”ピーターソンは、君に持っていてほしいと思うだろう」

うーんそうかな?
ピーターソンの遺族はそう思わないと思うけど。

映画で戦死者の遺品を遺族に返さず勝手に人にあげてしまう人多すぎ。
(例;『怒りの海』の海軍少佐)

そして、君もグリーンベレーだ、と決め台詞を吐いて、
実際はダナンからは地理上決して見ることのできないはずの
水平線に沈む夕日を見ながら、手を繋いで歩いていくのでした。

これはあれか?東に沈んでるのか?

それから、おーいカービー大佐、子供をどこに拉致するつもりだー!

 

というわけで、映画は終結するわけですが、この映画は一言で言って、
ジョン・ウェインの単純な正義対悪の戦いをベトナム戦争に当て嵌め、
まるで西部劇のような構図で表している・・「ベトナムウェスタン」だと思います。

南ベトナムはアメリカが共産主義から守るために庇護すべき存在で、
共産主義とはつまり絶対悪であるから当然こちらは「悪玉」という位置づけ。

「庇護すべき存在」を象徴するのが、このハムチャックという子供であり、
間接的にではありますが、リンという女性だったりするわけです。

もちろん現実のベトナム戦争はそんな善悪説でカバーできるほど、
単純なものではなかったことは歴史が証明しています。

 

往年の名スターがメガホンをとって何がなんでも作りたかった映画。
本作は興行的には大成功で、ウェイン自身の作品では最大となる、
2千177万と27ドル(端数がリアル)の興行収入を記録しました。

これは、ウェインが政治家ではなく映画人であったことを考えれば、
彼の圧倒的な「勝ち」であり、かつ「成功」であったということでもあります。

彼自身は、否定的な「左翼の」非難がおそらくこの興行成績に役立った、
と豪語し、さらに批評家は作品そのものではなく戦争自体を攻撃していると述べました。

この映画が国民のベトナム戦争への理解を深めたかというと、おそらく、
全く意味がなかったと思われますが、純粋にエンターテイメントとして見た場合、
例の西部劇、活劇としての要素を持つ本作品が面白かったのは事実です。

 

ウェインはベトナム兵役を逃れるために国外脱出をしたティーンエイジャーを、
「臆病者」「裏切り者」「共産主義者」と非難しましたが、ところがどっこい、
そのウェイン自身は第二次世界大戦には参加していません。

そのこともあってか、ベトナムに出征している多くの兵士は、
この映画に対し、非常な不快感を示したと言われてます。

 

この映画が制作され始めた1967年当時、ジョン・ウェインは
ベトナム戦争に勝つことができると本気で信じていました。

グリーンベレーに勝手に認定した子供の手を引いて、
南ベトナムには存在していない海岸線を、
彼はどこまで歩いていくつもりだったのでしょうか。

終わり

 

 

イースター攻勢とラインバッカー作戦のその後〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」から、
今日は撤退への直接のきっかけとなった出来事をご紹介しましょう。

■ 「行動を起こす時が来たのだ」ニクソン大統領1970年4月30日

ベトナム戦争時に流行った「ピースマーク」を掲げるラオスの砲兵部隊。
正規の軍の旗ではありませんが、まるでそのように扱われています。

ピースマークは、円の中に鳥の足跡を逆さまにしたようなデザインなので、
平和の象徴であるハトの足跡とされることがありますが、それは間違いで、
ベトナム戦争より前の1958年、イギリスのアーティスト、ジェラード・ホルトムが
平和団体の核軍縮キャンペーンのためにデザインしたものです。

この隠された意味には、手旗信号をご存知の方ならお気づきになるかもしれません。

Nuclear Disarmament(核軍縮)の頭文字、

「N」(両腕を斜め45°で下ろした形)と

「D」(右手を真上に左手を真下にした形)

を表したものを合体させ、これを円で囲んだものなのです。
ってまじか。今知ったよ。

さて、このピースマークがなぜラオスで挙げられているかです。

ニクソン大統領がベトナム近隣諸国に軍隊を派遣するという決定を下したのは、
敵軍を追跡するためでした。

1970年、米軍と連合軍はカンボジアに進駐し、
翌年1971年には米軍と米国の支援を受けたARVNがラオスに侵攻、
両作戦において敵を攻撃し敵の「サンクチュアリ」と補給線を破壊しました。

しかしながら、どちらの作戦も戦争の流れを変えることはできず、
その結果軍と民間人の死者は増えるだけでした。

 

 

■ニクソンの思惑とフリーダムトレイン&ポケットマネー作戦

ところで、ニクソン大統領はそれまでに例の「ベトナム化政策」として、
北ベトナムとの戦いを次第にベトナム共和国軍(ARVIN )に移譲しつつあったのですが、
1971年、ARVINが失敗し、このイースター攻勢でも劣勢となりました。

北の当初の優勢を見ると、ニクソン大統領は空爆の大幅な拡大を命じました。

これは、当時ソビエトのブレジネフ首相との首脳会談を控えていたニクソンが
アメリカの威信を保つ必要があったためと考えられています。

この作戦を支援するために、アメリカ第7空軍は大量の

F-4ファントムII

F-105サンダーチーフ

などの航空機を継続的に導入し、海軍のタスクフォース77は空母4隻態勢に増強。
そして米軍は4月5日、

フリーダム・トレイン作戦(Operation Freedom Train)

として、20度線の北側の航空機による目標攻撃を開始しました。

それまでも、米軍とARVINの航空機は、天候が良好である時に限り、
USS「コーラルシー」「ハンコック」の2隻の空母から飛び立った
艦載機による防戦の支援をおこなっていました。

ただし、天候に左右されがちなので、アメリカ軍は航空戦力の増強を速やかに開始し、
146機のF-4戦闘機、2機のF-105戦闘爆撃機を追加配備しました。

海軍は空母「キティホーク」「コンステレーション」に加え、
USS「ミッドウェイ」「サラトガ 」を艦隊に追加、最終的に
第7巻隊の投入する艦艇は54隻増えて138隻になりました。

「フリーダムトレイン」作戦ではB-52による大規模爆撃が行われ、ニクソン大統領は
ハノイやハイフォンへの直接爆撃を含む大規模な包括的空爆作戦を許可します。

その頃、アメリカとの関係を悪くすることを嫌ったソ連のブレジネフは
北ベトナムにアメリカとの交渉を迫り、キッシンジャーと北ベトナム首相の
パリでの会談が実現しますが、勝利を確信していた北ベトナムの特使は、
交渉に応じようとせず、キッシンジャーを侮辱するような態度をとったりしました(´・ω・`)

怒ったニクソンは、さらに北ベトナムの海岸に地雷を敷くよう指示し、
5月8日、「ポケットマネー作戦」として、米海軍機がハイフォン港に侵入し、
地雷を敷設しました。

(地雷は安価で簡単で、ポケットマネーで敷設できる、という意味でしょうか)

 

1972年3月30日。
北ベトナムはベトナム全土で大規模な軍事作戦を開始しました。
これをイースター攻勢(The Easter Offensive)といいます。

10月まで続いたこの攻撃は、朝鮮戦争の鴨緑江の戦い以後最大の規模であり、
明らかにそれまでの北ベトナムの攻勢とは基本的に異なるもので、
南ベトナム軍の崩壊までには至らぬまでも、パリ講和会議のとき、
北ベトナム側の交渉力を大幅に拡大すること=決定的な勝利を見据えていました。

 

1968年のテト攻勢以来、北ベトナム側の初めての南方侵攻となったこの攻撃は、
双方とも最新の技術を駆使した兵器システムを駆使し、
重砲を背景にした通常の歩兵・装甲の攻撃が行われることになりました。

最初のフェーズで北ベトナム軍は南ベトナム軍を制圧し、南下していきますが、
いずれの戦線においても、初期の北ベトナム軍は、多数の死傷者、無能な戦術、
そして米軍と南ベトナム軍の航空戦力の増大によって遮られることになります。

イースター攻勢を受けて発動したのがあの、

■ラインバッカー作戦(Operation Linebacker)

でした。

 

「ラインバッカー作戦発動中」

1972年、A-37戦闘爆撃機でアン・ロクの敵地に空爆を行う
ゴードン・ウェード中佐(Lt. Col. Gordon Weed)。

多分この人

「イースター攻勢」に1ヶ月少し遅れて発動したこの作戦は、
北ベトナムの防空網の制圧に加えて、貨物貯蔵所、貯蔵施設、積み替え地点、
橋、鉄道車両などの航空機による破壊を目的としていました。

ジョン・ヴォクトJr.将軍指揮する第7空軍のタスクフォース77が414回の出撃を行い、
最も激しい空中戦で、4機のMiG-21と7機のMiG-17を撃墜、2機のF-4が撃墜されました。

この作戦の初期に、アメリカ海軍のランディ・"デューク"・カニンガム中尉と、
彼のレーダー・インターセプト・オフィサーであるウィリアム・Pドリスコル中尉は、
MiG-17を撃墜してアメリカ人初のエースとなっています。

カニンガム中尉(左)とドリスコル中尉。
この人たちについては以前空母「ミッドウェイ」シリーズで取り上げたことがあります。

 

「ラインバッカー作戦」では、精密誘導弾が史上初めて広く使用され、
これがある意味空中戦の新時代の幕開けとなりました。

その結果、北ベトナムへの物資の到達量は30〜50%減少し、
北ベトナム政府は話し合いを再開して譲歩の姿勢を見せ始めました。

ニクソン大統領は10月23日に爆撃を中止するように指示し、
「ラインバッカー作戦」は事実上この日終了しました。

しかし、

北ベトナム軍を追放するために残されたアメリカ軍戦闘部隊はあまりに少なく、
終戦に向けた交渉が再開された時でさえ、10万人もの敵に囲まれている状態でした。

その間にも、ニクソン大統領の戦争政策への挑戦は続いていました。

幹部は彼に戦争を終わらせるように圧力をかけていました。

ラオスにおけるARVIN (南ベトナム軍)の敗走は、(ラインバッカー作戦の成功に関わらず)
「ベトナム化政策」に対する疑問を国民に投げかけ、軍隊の士気は地に落ち、
悪いことに軍の中での人種問題は紛争が激化していきました。

G.I.平和運動は急激に拡大し、国内の退役軍人たちは
メダルを捨てるというパフォーマンスを行いました。

The Throwing of the Medals - Operation Dewey Canyon III

捨ててます

1971年4月、

「Vietnam Veterans Against the War(戦争に反対するベトナム退役軍人)」

という新たに結成された組織のベトナム退役軍人数千人が、
ベトナム戦争の終結を求めてワシントンD.C.に集結しました。

このイベントは、退役軍人たちによって

「デューイ・キャニオンIII作戦」

と作戦名で呼ばれていました。
そして、

"議会の国への限定的な侵攻 "

として、アーリントン墓地を皮切りに、首都圏の象徴的な場所でデモを行いました。

歌、ゲリラ・シアター、モニュメントやオフィスの占拠、
当局への積極的なロビー活動、連邦政府の敷地内でのキャンプなど。

これらの戦略の中で最も象徴的だったのは、最終日に退役軍人たちが
連邦議会に賞状とメダルを「手渡す」ために連邦議会議事堂に向かったときでした。

その日の朝、約1,000人の退役軍人が国会議事堂に到着すると、
建設されたばかりのフェンスが建物に近づけないようになっていました。
しかし、フェンスくらいでは退役軍人たちを止めることはできませんでした。

「ベトナム戦争に反対する退役軍人は裏切り者だ」

「戦死した仲間や連隊に敬意を払っていない」

「共産主義者のシンパだ」

彼らにこんな声を向ける人々もいました。

しかし退役軍人たちは、共産主義の立場に立ったのではありません。
むしろ、政府を批判するという行為は民主主義の原則であり、
民主主義だからこそできることだったということもできます。

国会議事堂前の銅像に「TRASH」と書かれた看板をかけた後、
退役軍人は一人ずつ、デモ隊や野次馬の前に立ち、自分の名前、
それから階級、連隊、そしてベトナムからもらった賞の種類を言いました。

その後、彼らは振り向きざまに、賞状、メダル、リボン、表彰状など、
戦争で得たものを銅像の足元にあるフェンスの上に投げ捨てていきました。

彼らに言わせると、この行動は愛国者だからこそとった行動であり、
「国を愛すること」は必ずしも「政府に従うこと」と同義ではなかったのです。

 

また、軍の指導者たちは、軍隊そのもののにとで不足と士気の低下が、
彼らの任務達成能力をすでに脅かしていると報告しました。

「塩とかココアとか、あるいはコーヒーが残っている人は皆で分けたよ。
地獄の穴にいると、皆が一つになれた」

「ジェームズ・ブラウンが

♫Say it Loud-I'm Black and I'm proud
『大声で叫べ-俺は黒人 それが誇りだ』

を出してから、俺たちは空に握り拳を振り上げないとどこにも行けなくなったよ。
それが『やあ』という挨拶だった」

(`・ω・´)○ yo !! yo!○(・∀・○(・∀・)yo!

"Say It Loud It Loud ~ I'm Black & I'm Proud"

「故郷に帰って戦争を支持する者のビッグスローガンは、
だいたいが『軍隊を支援する』だ。
でも、ここにきて戦争に賛成する兵士なんて、
せいぜい手と足の指で数えられるくらいしかいないのさ」

「ベトナムにいる時、目に見えるもの全てを憎んでいた。
でも、酔っ払っている時だけ、この国の美しさを堪能することができた。
全てがとても平和に見えたんだ」

「戦闘中は頭の中が真っ白になる」

いずれもベテランたちの回顧録から抜粋した一節です。

 

続く。

 

 


ジョニーが凱旋するとき〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

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いきなりですが、皆様は

■「ジョニーが凱旋するとき」(When Johnny Comes Marching Home)

という歌を聴いたことがあるでしょうか。

Mitch Miller - When Johnny Comes Marching Home (HD)

うちには父の趣味でこの曲を含む「戦争映画のマーチ」というアルバムがあって、
この曲がかかると父が必ず”When Johnny Comes Marching Home”の部分を

「誰がばっちい子〜」

と『空耳アワー』して娘をからかったのですが、総じて小さい子供というのは
親のそういうからかいを嫌うもので、わたしもこの曲が鳴ると
必ずはじまる「それ」が嫌で仕方がなかった記憶があります。

それはともかく、その時父が所有していたアルバムに、この曲が
どの映画のテーマとして入っていたのかはわからないままです。

 

「ジョニーが凱旋するとき」は南北戦争が行われていた1863年、
北軍のバンド指揮者であったパトリック・ギルモアが、北軍で歌われていた酒宴の歌
(Johnny Fill Up the Bowl)のメロディに歌詞をつけてバンド用に編曲したものです。

この歌で歌われている「ジョニー」は正確には
「ジョニー・レブ(Johnny Reb)といい、
南軍の一般兵士を擬人化し象徴的にした名前です。

「ジョニー・レブ」とその相棒「ビリー・ヤンク」(Billy Yank)
の二人の名前は南北戦争以降、一般兵士を意味する言葉として盛んに媒体に登場しました。

南北戦争というのも不思議な?戦争で、同じアメリカ人同士の戦いであるゆえに、
たとえばピケットラインの反対側同士、互いに挨拶する習慣などもあったらしいのですが、
北軍の兵士はその際、南軍兵士に向かって

 「ハロー、ジョニー」

「ハウディ、レブ」

と呼びかけることが多かったのがこの起源と言われています。

一般的な南軍兵士

これが一般的な「ジョニー・レブ」のイメージです。
グレーのウールの制服を着た南軍兵士として描かれることが多く、
丸みを帯びた平らなトップ、綿の裏地、革製のバイザーを備えた
ウールのブロードクロスまたは綿のジーンズクロスで作られた
典型的なケピスタイルの帽子を被っているます。

彼は武器を持っているか、南軍の旗を持っているか、
時には両方を持っているように描かれることも多かったようです。

When Johnny comes marching home again
(ジョニーが凱旋行進するときには)
Hurrah! Hurrah!
(フラー!フラー!)
We'll give him a hearty welcome then
(心からの歓迎で迎えよう)
Hurrah! Hurrah!
The men will cheer and the boys will shout
(男たちは喝采し、少年たちは叫ぶ)
The ladies they will all turn out
(ご婦人方は迎えに出てくるだろう)
And we'll all feel gay
(皆が陽気になる)
When Johnny comes marching home.
(ジョニーが凱旋するときには)

4番まで歌詞は大体同じ調子で、戦地から帰ってきたジョニーを
歓迎し、称えるだろうという内容になっています。

「ジョニーが凱旋するとき」は南北戦争当時非常に人気があり、
北軍のみならず南軍でも歌われていました。

ということを踏まえた上でこのポスターをご覧ください。

戦没者慰問委員会のポスター写真に写っている片足のベテランは、
ニュージャージー州出身で、その名も

「ジョン・ドラコヤニ」John Dlakoyani

つまり「ジョニー」です。
ポスターの文句と歌の違いは、「again」が加えられていること。
この「また」が入ることで、

「別のジョニーが帰ってきた」(こんな姿で)

というニュアンスになるのかと思われます。

Stop the Crippling. Stop the killing. Stop the war.

クリップリングというのは、肢体が不自由になるような怪我のことで、
ジョニーのようになる怪我、要するに戦闘のことを指しています。

「傷つけ合うのを止めろ 殺し合いを止めろ 戦争を止めろ」

そして、その後に

「地元の地方議員に今日すぐに手紙、電報、電話をしてください」

とあります。

■ THE CONGRESS 議会

戦争反対者は、彼らの地元で選出された政治家に戦争を終わらせ、
軍事活動の認可と資金提供に行使する彼らの憲法上の役割を果たすように
圧力をかけ続けました。

1970年、超党派の上院議員グループが戦争を終わらせるための修正案を提出しました。

George McGovern bioguide.jpgマクガヴァン議員

このとき、民主党のジョージ・マクガヴァン上院議員は、法案を広く宣伝するための
テレビの放映権を買うのに家を抵当に入れることをやっています。

この名前を紹介するのはシリーズ2回目になります。
ロバート・ケネディを大統領選で応援していたら暗殺されたので、
自分が代わりに立候補したものの、結局ハンフリーに候補を奪われた人です。

このときに彼らが提出した修正案はどこかにいってしまったのですが、
両院はラオスとカンボジアへのアメリカの爆撃を禁止する法案を
可決することに成功しています。

その後も空爆作戦は継続されました。

そして、1972年11月、ニクソンは再選を果たしました。
ニクソンは、この選挙で新たに選出された反戦派議員を擁す議会が、
戦争への予算を遮断することを恐れました。

この状況は、ニクソンをしてハノイと和平を結び、さらに
南ベトナムのティウ大統領を説得するもう一つの大きな理由を与えました。

冒頭にも挙げたこのポスターは、議会に意見を送るための
テンプレートがベトナムで戦死した兵士と一緒に写っているブラックなもので、
内容を訳しておくと、

TO (あなたの議員の名前)

衆議院御中 ワシントンDC 20515

私は反対します・・・・

□ アメリカ人のさらなる殺戮と殺傷を
□ 民間人への爆撃や焼夷弾投下を
□ 人々を家から強制的に退去させることを

□ 何百万エーカーもの森林破壊を
□ 腐敗した闇市場の支援を
□ 戦争によって引き起こされるアメリカの分裂を
□ 世界のアメリカに対するイメージの失墜を

□ 一家庭あたり何百万ドルもの浪費を

それぞれの理由にチェックを入れましょう!
そしてこの行動によって1971年の12月31日までには戦争を終わらせよう!

戦地で行われている「メモリアル・サービス」(慰霊祭)。
亡くなった兵士のヘルメットを地面に刺した銃剣に乗せています。

■ PARIS PEACE ACCORDS パリ平和協定」

「1973年1月27日に南ベトナム全土で停戦が観測されることになるだろう」

1973年1月、戦争当事者がパリで合意に署名し、米国の戦争への関与を終わらせました。
協定は停戦、米軍の即時撤退、そして南ベトナムが自身で政治決定を許可される、
という合意を成立させました。

写真は北ベトナムのレ・ドク・ト( Lê Ðức Thọ, 黎德壽)と握手する
国家安全保障問題担当大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャー。

1973年、ダナンから撤退するために行進するアメリカ兵たち。
彼らの向かう先には「ボン・ボワイヤージュ」、フランス語で「良い旅を」
というバナーが掲げられています。


条約締結後、サイゴンの大使館をまもるために残ったのは海兵隊の小規模の海兵隊分遣隊だけでした。
また、条約によって591名の捕虜になっていたアメリカ人の帰還が可能になりました。

これらの戦争捕虜(POW)の80%はMIA,ミッシングインアクション、すなわち
ベトナム北部で乗っていた航空機が撃墜された空軍の将兵でした。

彼らの帰還には大変な手続きと関係者の尽力が必要で、
何人かは捉えられて8年もの間捕虜生活に甘んじることになりました。

POW、MIAの家族はこのようなブレスレットを身につけていました。
ブレスレットには捕虜になった、あるいは行方不明になった人の名前が刻印されています。



こちらは運良く救出された兵士。
北ベトナムの捕虜収容キャンプで早速タバコに火をつけてもらっています。

飛行機がハノイの地上から離陸した瞬間、機内の元捕虜たちは
思わず大歓声を上げて喜びを表すのでした。

捕虜になっていた海兵隊員の夫たちが帰還することになり、
基地でプラカードを持って到着を待ちわびている妻たち。
見るからに表情に喜びが溢れています。

これらPOW&MIAの救出プロジェクトを、アメリカ軍は

「Operation Homecoming」(お家に帰ろう作戦)

と名付けました。

■ 平和条約締結後の

条約が締結された後、ニクソン大統領は、アメリカ国民に

「合意は名誉を持って平和をもたらした」

と自信たっぷりに語り、南ベトナムのティウ大統領が
和解を指示したことを国民に向かって保証して見せました。

しかし、彼はサイゴン政府と反政府勢力の両方の軍隊が停戦後も
まだ残されていることを説明しませんでした。

そしてそれらはそれぞれが南ベトナム領土を一時的に支配することになります。

ニクソンが正直でなかったことはもう一つあります。

ティウ大統領が認めなかったにもかかわらず、南ベトナムに大量に
大規模の北ベトナム軍が残されていたのを隠したことで、このため
せっかく条約がベトナムの将来的な統治を平和的に行うと決めたあと、
わずか数ヶ月で戦闘は再開されてしまったのでした。

ちなみに余談ですが、一瞬両国が平和合意に漕ぎ着けたことで、
その尽力に対し、キッシンジャーとレ・ドゥク・トには
1973年度のノーベル平和賞が授与されることになりました。

しかし、レは、

『ベトナムにはまだ平和が訪れたわけではない』(`・ω・´)

と述べて、賞を辞退しました。

まあ、こんな経緯となればそれも当然かと思うわけですが、
昔から選考基準に非常に問題があり、これをもらった人物にろくなものはいない、
とまで言われているノーベル平和賞ですので(小浜、マザーT、スッチーなどなど)
レレレのおじさんの辞退はむしろ彼の株を上げまくったといえませんか。

レはノーベル平和賞を辞退したただ一人の人物であり、
ノーベル文学賞を辞退したジャン=ポール・サルトルとともに、
自発的にノーベル賞を拒否した史上二人のうちの一人です。

一方キッシンジャー先生は、相方が拒否したにもかかわらず、
(しかも平和条約の後戦争が始まっているのに)
自分だけしれっと賞を受けたということになりますが・・・・。

 

続く。

 

ペンタゴン・ペーパーズ〜ハインツ歴史館 ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターで行われていた「ベトナム戦争展」から、
展示品を紹介しています。

■ POW/MIA ブレスレット

捕虜の家族と市民有志は捕虜の釈放のための活動に何年も費やしました。
あるグループはこういったブレスレットを製作し、捕虜にされた、または
行方不明になっている男性の名前を刻印して身につけました。

 

■ ジェンキンス曹長

第5海兵隊の第1大隊、D中隊所属だったチャック・ジェンキンス曹長は、
1967年から68年までベトナムで従軍し、その間戦闘で負傷しました。

上から右回りに:

●ピッツバーグの家族に負傷して入院しているベトナムの病院から送った手紙
国際郵便用の封筒で料金は当然無料

●海兵隊の軍服襟の徽章

●ジェンキンス曹長のジッポーライター
ライターには名前と階級、所属の裏側にこのように刻印されている

”When I Die Bury Me Face Down So The Whol(ママ) World Can Kiss My Ass."

「俺が死んだらうつ伏せに埋めて皆でケツにキスしやがれ」

● Marine Corps Good Conduct Medal(いわゆる善行章)

無頼すぎる言葉とそのイメージを裏切る?善行章。
彼がどんな曹長だったか、なんとなく窺える気がしないでもありません。

■ 議員への陳情用クーポン

「これらのクーポンを使えば、”モロトフ・カクテル”が一層強力になります」

「モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail)」とは火炎瓶のことです。
フィンランドとソ連が戦った「冬戦争」で、物資不足のフィンランド軍が
対戦車用にビンにガソリンなどを入れた原始的な武器にこの名をつけたのが始まりです。

当時のソ連の外務大臣、ヴァチェスラフ・モロトフが、フィンランドに対する空爆について

「資本家階級に搾取されているフィンランド労働者への援助としてパンを投下した」

と発言したのに対する、フィンランド側の「意趣返し」的ネーミングです。

それはともかく、クーポンはそれぞれをハサミで切り取って使うようになっており、
上院議員や地方の代表者(市長や知事など)の宛名が「導火線」になっています。

クーポンを切り抜いて実際に使用された例です。

「戦争を終わらせるため、わたしは$5、$10、$15、その他を同封します。
名前:(ニューヨークタイムズ内、考える婦人のグループ)
住所:

寄付は22ドルとなっており、「レシート送ってください」と書いてあります。

こちらはダイレクトに活動資金を募るクーポン。

ところが、この赤字で書いたコメントをよこした人は、

「戦争を終わらせるために、私は」

の後を横線で消して、その代わりにこう書いています。

「あなたにお金は送りません。
てか、ニクソン大統領にお金を送ってください。
彼はとても信頼できる仕事をしているのですから💢」


戦後のアメリカという国がどんな時代も決して一枚岩ではなく、
主流とされる声が必ずしも大多数ではなかった、つまりニクソンのいう、

「サイレント・マジョリティー」

の存在を表しています。

 

■ ペンタゴン・ペーパーズ

1971年6月、ニューヨークタイムズ紙は、

「ペンタゴン・ペーパーズ」

の一節で読者を驚かせました。
そして他の新聞もそれに追随しました。

このレポートは、ジョンソン大統領の国防長官だった
ロバート・マクナマラのために数年前に作成されたものでした。

ペンタゴン・ペーパーズ、正式名称「国防長官室ベトナムタスクフォース報告書」は、
1945年から67年までのアメリカのベトナムへの政治的・軍事的関与に関する資料で、
これによってジョンソン政権が、

「国民だけでなく議会にも組織的に嘘をついていた」

ことが証明されることになりました。

最初に告発したのは研究者だったダニエル・エルズバーグ(写真左)という人物で、
彼は当初ニクソン政権から共謀罪、スパイ罪、政府財産の窃盗罪で起訴されましたが、
その後ホワイトハウスが彼の信用を落とすため、彼の精神科医に工作したり、
配管工を抱き込んで盗聴器を仕掛けようとするなどの工作命じていたことがわかり、
結局、起訴は取り下げられることになりました。

ちなみにこれらの工作には、のちにウォーターゲート事件で複合施設にある
民主党全国大会の本部を盗聴するための手法が含まれていました。

これがニクソン辞任につながったのは歴史の記す通りです。


■ マクナマラ国防長官の「中国封じ込め」

国防長官のロバート・マクナマラは、1967年6月17日に
「ベトナム戦争の百科事典的な歴史」を編纂する研究部門を立ち上げました。

しかし不思議なことに、マクナマラは、この立ち上げについて
ジョンソン大統領にもディーン・ラスク国務長官にも知らせていません。

 36人のアナリスト(半数は現役の軍人、残りは学者と連邦政府の文官)が
この任務に携わりましたが、結果についても極秘に収められました。

研究結果は、3,000ページの歴史的分析と4,000ページの政府文書の原本47巻からなり、
「トップシークレット-センシティブ」(=正式な機密ではなくアクセスを管理すべき)
に分類されていました。

■ ベトナム戦争への介入

そしてその内容です。

ジョンソン大統領は、ベトナム戦争の目的は

「独立した非共産主義の南ベトナムを確保すること」

だと公表していましたが、その根底には

「友人(南ベトナム)を助けるためではなく、中国を封じ込めるため」

であるということが書かれていました。

マクナマラは、中国がナチスドイツやかつての大日本帝国のような、
帝国的野望を抱いており(1917年のドイツのように、30年代後半の日本のように、
そして1947年のソ連のように)世界におけるアメリカの重要性と優位性を低下させ、
より間接的に、より脅威的に、アジアを包括しようとする大国であるという考えでした。

(それから半世紀後の中国の覇権と世界の状況について、マクナマラは
おそらく草葉の陰で『そらみたことか』と言っているかもしれません)

そして、中国を包囲するために、アメリカは「中国を封じ込める長期的な努力」の一環として
「3つの戦線」を確立することを目指していました。

三つの戦線とは、

 1、 日本・韓国戦線。

 2、インド・パキスタン戦線

 3、東南アジア戦線

ベトナム戦争はこの3番目の戦線に相当します。

それでは、ベトナム戦争期間、それに各政権がどう関わったか、
ペンタゴンペーパーではどう包括(という名の糾弾)しているかですが、

● ドワイト・F・アイゼンハワー

1954年に「駆け出し」の南ベトナムを支援し、
共産主義国である北ベトナムを秘密裏に弱体化させることで、
「ジュネーブ協定の最終的な崩壊に直接的な役割を果たした」

●ジョン・F・ケネディ

ベトナムに対する政策を、限定的な「ギャンブル」から
広範な「コミットメント(介入)」へと転換した

● リンドン・ジョンソン

アメリカ政府は南ベトナムを守るためと称して共産主義の北ベトナムに対し
秘密裏に軍事作戦を展開し始めた


ペンタゴン・ペーパーズの

「ケネディの介入(コミットメント)とプログラム」

と題されたセクションでは、

「我々は、南ベトナムが(東南アジアの他の国とは異なり)
基本的にはアメリカの創造物であり、それが介入の理由である」

と今では誰でも知っていることが書かれています。
まあ、なんちゅーか、歴代大統領全員黒じゃね?という結論ですな。

そして、アメリカの果たした「役割」として、

「米国の支援がなければ、ゴ・ディン・ディエムの南部の支配はなく、
ベトミン軍に即座に制圧され、南ベトナムが生き延びることはできなかっただろう」

とあります。

■ゴ・ディン・ディエム大統領暗殺クーデターの黒幕

暗殺されたディエム

また、ペンタゴン文書には、その

ディエムを暗殺した軍事クーデターの陰にはアメリカ政府がいた

こともしっかりと書かれています。

アメリカ政府がクーデターを計画していたベトナムの将軍たちと
「秘密の連絡」を取り合う一方で、ディエム大統領への援助を打ち切り、
クーデターを承認し、実行後は後継政権を全面的に支援していたということは、
後世の我々には今更の「知ってた速報」ですが、それもこれも
ペンタゴンペーパーズによって初めて明らかになったことでした。

ちなみにこのクーデター側と連絡を取っていたのは
CIAのルシアン・コーネインという人物であることがわかっています。

Lucien Conein.JPGLucian Cobein

ペンタゴン・ペーパーズによると、介入前からアメリカ側は
北ベトナム並びにベトコン地域に対しての空爆と、それが起きたときの
北側共産勢力の軍事的反発をシミュレーションしていました。

そして、米海軍の哨戒艇を北ベトナムの海岸に接近させるなど、
「挑発」の方法についても検討していたと書かれています。

 

■ エルズバーグの『動機』

ダニエル・エルズバーグは、補佐官として研究に携わっていました。

彼は最初から反戦の立場から研究を公開するつもりでコピーを取り、それを
国家安全保障顧問であるヘンリー・キッシンジャーや上院議員のフルブライト、
ジョージ・マクガバンなどに連絡を取りましたが、彼らのうち誰も
この件に関心を持ちませんでした。

そこで彼はニューヨーク・タイムズ紙にリークしたのです。

「ペンタゴンの研究では、米国の関与が増大した3年間を追跡している」

というタイトルの記事は、「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれるようになりました。

この文書について、エルズワースはのちに

「歴代の大統領による違憲行為、大統領の宣誓違反、
大統領側近以下一人一人の公務への宣誓違反を証明している。
アメリカ人は歴代大統領が彼らをいかにして誤解させたかを知るべきだと思った」

と語り、さらに彼が「不当な戦争」と認識したものを終わらせるために
文書をリークしたと付け加えています。

 

50年後の2011年6月、ペンタゴン・ペーパーズを構成する文書が
米国の秘密開示法によって機密解除され、公開されました。

会見を行うエルズワースの写真の右側にディスプレイされているのは、
オンラインで公開されたナショナルアーカイブの
「ペンタゴン・ペーパーズ」を全てダウンロードしたもので、
全部でおよそ7000枚になります。

 

 

続く。

 

マスクを外し始めたアメリカ人〜アメリカ到着

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またしてもピッツバーグに来ております。

今年はMKが日本企業にプレゼンするプロジェクトに参加するため、
夏休みも帰国しないことが決まり、わたしの渡米が前倒しになったというわけです。

 

今日プロジェクトについて聞いたところ、来週企業とのミーティングがあるそうで、
前回、MKが同じ企業とのプロジェクトに出て、

「〇〇組の社長は出ていなかった」

と言ったのに超ウケたわたしが、今回思い出し笑いしながら、

「その話日本人にしたら、全員『大手ゼネコンの社長がそんな会議に出るか!』っていうわ」

と言うと、MK、

「隣のグループはNASAのプロジェクトしてるけど、
その会議にNASA長官が出てなかった、とかいうレベル?」

「それほどじゃないけど、近いw」

「それならよくわかる」

 

ところで、こっちにきて猛烈な昼間の暑さに参っています。
夜間はとりあえず23度くらいなのですが、朝から気温がぐんぐんあがり、
昼には30度を超えるという異常さ。

去年こんなに暑かったかしら、と思ったのですが、なんでも今、
カナダとアメリカ北西部が歴史的な暑さに見舞われていて、
カナダでは45度という史上初の高温を記録し、人が死んでいるとか。

そうかと思えば、さっきからここピッツバーグでは雷雨となり、
気温だけは21度に下がったものの、鉄砲水警報が出て、しかもこれが週末まで続く模様。

いつも日本の蒸し暑さを逃れて避暑気分だったのが、今回は
日本の方がずっと過ごしやすかった、と嘆く事態になっております。

 

今回は時差ボケから立ち直るのにえらく時間がかかってしまいました。

シカゴ・オヘア空港からの国内便が機材到着遅れで2時間も遅くなり、
ホテルに到着したのが深夜12時になってしまったためです。

こんな時にはバスタブにゆっくり浸かってのち、メラトニンでも飲んで寝れば
だいたい一晩でリズムを取り戻せるのですが、メラトニンはともかく、
着いた晩お風呂に浸かることができなかったのが、敗因だと思われます。

ホテルは最初にピッツバーグに来た時に家族と一緒に泊まったところ。
そのためバスタブのことなど毫も心配せずに予約をしたのですが、
部屋に入るなりあるはずのものがないのに気づきました。

すぐにフロントに戻って部屋を替えてもらおうとすると、
なんと全てのベッド一つの部屋にはない、というではありませんか。

「それって重要なんですか?」

若いアフリカ系の女性フロント係が不思議そうに言うので、

「とっても大事なことなんですよ。なぜならわたし日本人だから」

と「日本人の風呂に対する執着」について教えておきました。
向こうにとっては超どうでもいい情報だと思いますが。

このホテルは、コロナ以降ピッツバーグ大学が借り切って学生寮にしていたのですが、
今回ダメ元で予約してみると、学生が戻ってくる8月23日までは予約できました。
学生が夏休みの間は一般客を取り込んでいるようです。

ただ、チェックイン後、エレベーターに一緒に乗ってきてボタンを押してくれ、

「どこからきたんですか」

と話しかけてきた愛想のいい男子に聞いてみると、彼はピッツ大生で、
MKのように夏の間用事のある学生も結構残っているらしいことがわかりました。

 

ところで、ホテル側には、学生に貸し出すと、部屋を汚されたり、
傷をつけられたりするんじゃないかという懸念もあったと思うのですが、
案の定、学生がつけたとおぼしき痕跡がわたしの部屋にありました。

現場証拠

アイロンを直に床に置いた男子学生(に決まってる)がいたようです。
各部屋にはアイロン台が備え付けてあるのに、それを使わず床で仕事をした模様。

この焦げ具合からして、変な匂いがして煙が立ち昇るまで気づかなかったと見えます。
ねっからのおバカなのか、それとも家でアイロンなど見たこともなかったのか。

 

さて、三晩過ごしてなんとか体調的に立ち直り、ようやくPCに向かう気力が出てきたので、
恒例となった、出発から到着後までのご報告をします。

成田ではまるでゴーストタウンになってしまった空港でTOとギリギリまで時間を潰し、
ゲートに入った後、出発ラウンジに充電のためだけに立ち寄りました。

現在ANAでは乗客が激減しているため、ラウンジはファーストとビジネスが兼用です。

今回のチケットはまたしてもいわゆる一つの特典航空券なのですが、
無料のチートとはいえ、一応ファーストであるせいか、ラウンジに着くと、
係の方がすまなさそうに?窓際が全部埋まっているので、と、わたしだけを
ビジネスラウンジの奥から続くドアを開けて、この部屋の窓際に座らせてくれました。

どうもここが平常時のファースト専用ラウンジのようです。
水を頼んで充電するだけだったので、なんだか申し訳ない気がしました。

今回の渡米のために地元の警察署で国際免許を申請したところ、交通課の婦警さんが、

「今年ここでわたしが受け付けた初めての国際免許かもしれません」

と言い、取りに行くと、今度は明らかに職務上ではなく個人的興味で、
今海外行くとどんな感じなんですか、と聞いてきました。


今回は出国にもPCR検査の結果かワクチン接種証明が必要となっており、
PCR検査は搭乗72時間以内の結果が求められているので、つまり、
空港でお高い検査を受けるか、民間のやはりお高い検査を受けるかの二択です。
(どちらも2万5千円、予約なしで空港で受けると5万円)

わたしは、これまで何度か受けた検査が全てネガティブだったというものの、
空港で何かの間違い?により陽性が出たら大変なことになると懸念し、
新宿にある個人クリニック(ヘンな集団ダンスのCMをしているところ)で
クィック検査を受け、前日のうちに陰性証明をゲットして出国しました。

その検査とは、ハチ公前の広場でUbereatsの配達用のような黒いバックパックから
配られる検査キットを受け取り、指定された時間にGoogleデュオで看護師に指導されながら
唾液をキットに取り、それをもう一度ハチ公前に持っていって結果を待つというもの。

確かにこんな面倒くさいことをしなくてはいけないのに、
海外に旅行目的で行く人なんていまどきいるはずがないという気がしました。

 

そんな苦労をして取った陰性証明書はチェックインカウンターで提示を求められただけ。
出国カウンターでもアメリカの入国審査でもノーチェックでした。

コロナ以降、アメニティケースはずっと変更されておらず、今回もグローブトロッターです。
前回はこのケースすらぺちゃんこの明らかにコストを下げたものになり、
機内のスリッパもペラッペラの再利用不可能な材質でしたが、今回は元に戻っていました。

機体は初めて見るタイプで、おそらく新型でしょう。
窓のシェードの調整が思いっきり最新式でしたし、モニターも綺麗でした。
モニターは携帯とリンクすることができるようになっており、
座席周りのレイアウトも大変機能的にできていると思いました。

コンパートメントは完全にドアを閉めることができ、機内着に着替えた後は
CAさんがドアの裏に内臓されたクローゼットに服を架けてくれます。

この日の乗客は全部で100人弱くらいはいたと思うのですが、キャビンにはわたしだけでした。
おかげで、この隣のコンパートメントはわたし専用のベッドルームになり、
いつの間にかCAさんがベッドメイクをしてくれて、休んだあとは
着替えている間にちゃんと元通りになっているという状態。

このように至れり尽くせりなのは、コロナ禍以降の数少ない「いいこと」のひとつです。
そもそも特典航空券でファーストを取るということ自体、平常時なら無理だったでしょうし。

そして、お楽しみの機内食!

前回の失敗から、今回はできるだけレンジ調理の少ない和食を選びました。

今、健康上の理由で小麦と乳製品を控えているのですが、
和食だとほぼストレスなくこの条件もクリアできます。

ちなみにこの食餌療法により、月一回はあった偏頭痛がなくなりました。
偏頭痛は低血圧の女性に多い症状で、わたしもその例に違わず、これまで
看護師がドン引きするほどの低血圧だったのが、上100の大台を越しました。



もしかしたらこれまでの人生で一番満足した機内食だったかもしれません。
これなど野菜はパリパリ、長芋はシャリシャリで、タタキも美味しかったです。

メインの黄色い物体はナスの黄身焼きだと思います。
これに取り掛かるところでお腹いっぱいになり、残念ながら残してしまいました。

そしてシカゴ・オヘア空港に到着。

空港上空に来ると、飛行機は向きを変え、いったんミシガン湖の上に出て、
そこから空港に向かってアプローチを行います。

シカゴの街は実に直線的に計画されていると感じます。

そこそこの大きさの家が連なる住宅街ですが、西海岸と違うのは、
プールがある家はあまり多くないこと。

冬には氷のトンネルができると言われる土地なので(前回の乗り換えの時も−12度だった)
プール文化は根付いていないのかもしれません。

乗り継ぎ便も特典航空券だとエコノミーで空港ではラウンジなしとなります。

今回アメリカ入国後驚いたのは、コロナ前より明らかに多い空港利用客の多さでした。
ゴーストタウンの成田から一気に人ゴミの世界へと。

 

恐竜の骨がマスク着用なのは以前と変わらず。
空港職員も利用客もここではマスク着用は義務付けられているので、
マスクのアメリカ人がコンコースを埋め尽くすという前代未聞の光景が展開していました。

ところが。

到着した夜、応対したホテルフロントがマスクをしていたため気づかなかったのですが、
翌朝買い物に付き合わせたMKはもちろん、その辺にいる人はほとんどノーマスクです。

「マスクしてない人多いね」

とMKにいうと、

「皆ワクチン受けてるから」

そういってワクチンの摂取証明カードを見せてくれました。

彼は救急隊員の公的資格を持っているので、その枠で受けたそうですが、
最近ではほとんどの人が摂取済みとして、マスクの義務がなくなっているのです。
(もしかしたらその中には実際にはまだ受けていない人もいるのかもしれませんが)

大型店の「入場制限」や「カート消毒」もなくなりましたし、
前回は中止になっていたホールフーズのフードコーナーも、
コーヒー豆のグラインダーも、ジュース絞り機も再開していました。

ただし、ホテルのフロント始め、お店の人はどこにいっても全員マスクをしています。
それはどこかでそう公式に決まっているからかもしれません。
日本のように「自粛要請」という曖昧な言葉では、アメリカ人を縛ることはできませんから。

 

ワクチンについては、当初、時期尚早すぎないかとの懸念がありましたが、
これだけ多くの人が受けており、各種疑念についても明らかにされている現状と、
MKの担当教授が、ご両親が来られるならアメリカでワクチンを受けていくといい、
と言った話に後押しされて、わたしも今回ワクチンを受けてみることにしました。

まず、どこにでもあるドラッグストア(ウォルグリーン、ライトエイド、CBSなど)に
オンラインで予約を入れます。

ストアによってはワクチンの種類を選べない(在庫処理のため?)ところもありますが、
基本的にモデルナ、ジョンソンアンドジョンソン、ファイザーから好きなのを選べます。

時間になったらドラックストアに行き、奥の調剤薬局に声をかけると、
ファーマシストが出てきて熱を測り、IDを確認して、ちょいちょいっと消毒して、
次の瞬間上腕部への筋肉注射は終わり、となんともあっけなく終了。

摂取後はしばらく椅子に座ったまま様子を見るようにいわれ、
この時間に何かあれば(何かあったら困るんですが)対処できるようになっています。

色々と心配や懸念がある方向けに、ネットでも情報公開をしています。

そして、3週間後に二回目を摂取すれば、次からはPCR検査なしで飛行機に乗れるというわけ。
これこそわたしが今回摂取を決めたメインの理由でもあります。

アメリカ人は合理主義ですから、サイドエフェクトが起こる確率と、
ワクチン摂取による罹患回避の確率、そしてマスクの煩わしさからの解放を秤にかけて
ほとんどが摂取を選択した結果、現在の状況に至っているのでしょう。

おまけに皆が気軽に近所の薬屋で受けられ(もちろん無料で)るとなれば、
まさに受けない理由がどこにあるのか、というところなんだろうと思います。

 

 

スピットファイアとバトル・オブ・ブリテン〜第二次世界大戦の航空機・スミソニアン航空博物館

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これだけ何回も取り上げてきてまだ紹介が終わらないスミソニアン博物館展示。
いかに膨大な展示物を所有しているかということの証左であるわけですが、
今回改めて写真を点検したところ、これでもまだ半分も消化していないことがわかりました。

というわけで、次に取り上げるのは、スミソニアンのシリーズから、

「第二次世界大戦の戦闘機」

このブログ的には前回の「空母の戦争」とともに比重をおくべきテーマでありながら、
色々と他にも語りたいことがあって、今更になってしまいました。

『第二次世界大戦の飛行』より「航空」と言う言葉の方が適切だったね、
と日本人としては若干残念ですが、とりあえず日本語なのでよし。

第二次世界大戦の航空を語って日本を語らないわけにいかないのですから、
こういうのを見るとほっとします。

 

まず、コーナー最初の説明からです。

第二次世界大戦の航空

1939年に始まり、1945年に終わった第二次世界大戦は、
歴史上最大かつもっとも破壊的な戦争でした。

戦闘による死傷者、爆撃、飢餓、大量殺戮、その他の原因により、
5000万人以上が亡くなりました。

ドイツのポーランド侵攻を支援する最初の空襲から、
1945年8月のアメリカによる日本への原子爆弾の投下まで、
全ての軍事作戦において航空は重要な手段となりました。

さまざまな空軍が、陸海軍を支援しただけでなく、
敵国の都市と産業の戦略爆撃において独立した役割を果たし、
あらゆる面で輸送と補給において後方支援の役割を果たしました。

第一次世界大戦と同様に、戦争は航空の技術開発を押し進めたのです。

このギャラリーには、5機の有名な第二次世界大戦の戦闘機が展示されています。

ここではなぜかその5機についての説明は省かれているのですが、
一応最初なので当ブログでは写真だけでも紹介しておきましょう。

詳しい紹介は後日になります。

スーパーマリン スピットファイア Spitfire ロイヤルエアフォース

ノースアメリカン P-51D ムスタング アメリカ陸軍航空隊

メッサーシュミット Bf 109 ドイツ ルフトバッフェ

三菱 零式艦上戦闘機Zero 日本帝国海軍

マッキ フォルゴーレ Folgore イタリア空軍

「フォルゴーレ」などという名前の戦闘機が存在することは、
ここに来るまで全く知りませんでした。
博物館のいうようにこれが「第二次世界大戦の最も有名な戦闘機ベスト5」かというと
ちょっと疑問ですが、まあそれはいいでしょう。

戦闘機の他には巨大な航空エンジンが目に着きます。

プラット&ホイットニー 
ダブルワスプ R-2800 CB16・2列・ラジアル18エンジン

プラット・アンド・ホイットニー社が開発したアメリカ初の18気筒ラジアルエンジンです。
第二次世界大戦中は、グラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、
リパブリックP-47サンダーボルトなどの戦闘機に搭載され、
戦後はダグラスDC-6などの旅客機に搭載されました。


■ バトル・オブ・ブリテン

さて、今日のメインテーマは、スピットファイアが活躍した、
「バトル・オブ・ブリテン」です。

これについては以前も取り上げたことがあるわけですが、
あらためてスミソニアンの見解に沿ってご紹介していこうと思います。

 

バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる一連の戦闘のうち、最初の決定的な空中戦は、
1940年の夏の終わり、ドイツ軍の計画されたイギリス侵攻によって幕を開けました。

このときのイギリスの勝利は、ドイツ軍の侵攻に必要な空中戦の優位性を否定しただけでなく、
逆に彼らを打ち負かすことができたということを証明することになります。

ルフトバッフェの打倒RAF(ロイヤルエアフォース)計画というのは、
空爆を行う重爆撃機の掩護を行う戦闘機が、RAF戦闘機を空中戦に誘い込むことであり、
これは緒戦においてはある程度の効果があったといわれます。

当時のRAFパイロットは技量も高く、また戦闘機の性能もすぐれていましたが、
いかんせん保有する機体が少なすぎたのです。

その状況を覆したのがRAFの高い暗号解読能力とレーダー警戒網でした。
空中機動隊はこれによって得た情報を最大かつ効果的に利用し攻撃を行いました。

 

ルフトバッフェが当初の攻撃目標を変更したことも、結果的に有利に運びました。
当初、彼らはレーダー基地と前線の航空基地の攻撃を計画していたのですが、
いろいろとあって(?)ロンドン市街に空爆目的を変更したのです。

なぜこれが良かったかというと、ロンドン都市空襲の間、RAFは
緒戦の空襲で破壊されていた基地を修復、消耗し崩壊寸前だった
RAF戦闘機軍団を回復させることができたからでした。

1940年9月15日、ロンドン空襲を経てバトル・オブ・ブリテンは終了しました。
ドイツ軍は侵攻艦隊をすぐさま解散したものの、この後8ヶ月にわたり、
イギリスは「ブリッツ」と呼ばれる夜の定期的な都市攻撃に見舞われることになります。

それでは写真と共に説明していきます。

1940年9月7日、ルフトバッフェは人口密度の高いロンドンのドックエリアに
昼夜を問わない激しい攻撃を開始しました。

翌朝は地域全体で火事が猛威を揮いましたが、結果として
夜間攻撃への切り替えはある意味失敗であることが判明します。

確かに彼らは物理的に大きな損害を与えることができましたが、
かえってイギリス人の士気は燃え上がったのです。

 

スミソニアン博物館の第一次世界大戦について取り上げたとき、
戦略爆撃は民衆の戦意を喪失させることを目的として始まった、
と歴史的な経緯について説明したことがありますが、それでいうと
ドイツ軍の都市爆撃は「失敗」であったといえるかと思います。

真珠湾攻撃も、この一撃でアメリカが打ちのめされて和平交渉に応じるなどと
考えた日本の読みは外れ、「リメンバーパールハーバー」で一丸となった大国に
完膚なきまでに叩きのめされたのは歴史の示す通り。

この壮大な社会実験?から得られた結論があるとすれば、戦略爆撃は
一度や二度の短期ではかえって逆効果であるということです。

一国の市民の戦意を完全に喪失させるためには、それこそ執拗に繰り返す夜間空襲や、
なんなら原子爆弾を投入するしかない、という言い方もできるかもしれません。

イギリスの防衛の鍵。

それはレーダー基地、監視ポスト、オペレーションセンター、そして送電線でした。
これらのネットワークによって提供された情報が戦闘機集団の戦いを支援しました。

この写真は、敵機の位置情報を送信するRAFのコマンドオペレーションセンターで、
実働スタッフは全員女性軍人です。(奥に責任者らしいおじさんが一人)

ハインケルHe111爆撃機KG55が海峡を越えてイギリスに向かいます。
しかし、He 111の貧弱な防御兵器はRAFのハリケーンとスピットファイアの前に脆弱でした。

名機と言われたメッサーシュミットBf109及び110護衛戦闘機も大きな損失を被りました。

ロンドンのバッキンガム上空を浮遊するのは

弾幕気球(Barrage Balloons)

弾幕気球は第二次大戦のイギリスがまさにドイツ軍の攻撃に備えて考案したもので、
「阻塞気球」とか「防空気球」と訳したりします。
気球をケーブルで係留して浮かべ、敵機の低空飛行を牽制します。

シェイプがなんとも金魚のようで可愛い ´д` ;

たかが風船と思われるかもしれませんが、戦闘機よりは大きいサイズなので、
十分に抑止力はあったようです。

戦隊司令からドイツ軍の爆撃機襲来に対する迎撃命令を受けて
ハリケーン戦闘機に乗り込むために全力疾走するRAF601、
ロンドン郡所属戦隊のパイロットたち。

緊張感と躍動感に心惹かれて食い入るように見てしまう写真です。

ルフトバッフェの攻撃を迎撃するためスクランブルをかけている
第501飛行隊の2機のホーカー・ハリケーン。

スーパーマリンのスピットファイアほど有名ではなかったものの、
ハリケーンはバトル・オブ・ブリテンの戦闘機軍団の主力となりました。

スピットファイアより遅く、機動性にも劣るとされながらも非常に効果的に戦果を納めたのです。

 

■ スーパーマリン・スピットファイア

それではバトル・オブ・ブリテンの主役、スピットファイアについてです。

スーパーマリン スピットファイア Mk. VII

スピットファイアは英国航空史におけるレジェンドです。

ホーカー・ハリケーンと共に、バトル・オブ・ブリテンではドイツ空軍から
イングランドを守ることに成功し、戦争中はあらゆる主要戦線で活躍しました。

そのパフォーマンス、そして操作性は大変優れています。

もともと同機は「マリン」という機体がアップグレードして「スーパー」、つまり
「スーパーマリン」になったものですが、このときのエンジン出力の増大にうまく対応し、
機体も丈夫で長年の耐用年数を誇りました。

Mk.VIIは140機しか生産されていませんが、史上2番目の高高度バージョンです。

ここに展示されている機体は1943年5月、評価のためにRAFが工場から
アメリカ陸軍航空に譲与されたもので、アメリカで飛行していました。

戦後の1949年、米空軍は機体をスミソニアンに寄贈しています。

コクピットの写真。
イギリス機なので単位がメートル、kgとなっているのがいいですね。
(いまだにアメリカのポンド・フィート法に全く慣れないわたし)

イギリス上空を飛ぶスーパーマリン・スピットファイアMk VII。
誰しもこの独特な翼の形に目が奪われることでしょう。

この翼は、高高度でのパフォーマンスを向上させるために追加された設計で、
翼端が極端に細長くなっているのが特徴です。

博物館に展示されているスピットファイアはこのマーキングを採用しています。

この俯瞰図は、スーパーマリンスピットファイアに特有の、
スリムな胴体と楕円の翼がよくわかる角度となっています。

MK.Iは、バトル・オブ・ブリテンで活躍したバージョンです。

北アフリカに展開していた第154飛行隊のスピットファイアMk. Vb。

バトル・オブ・ブリテンが終わった後、スピットファイアは
フランス上空でルフトバッフェの掃討を続けました。

その後、彼らはアメリカの爆撃機を援護しましたが、その航続距離の短さから、
大陸からの爆撃機の流れの出入りをカバーするには限界がありました。

スピットファイアは地中海、中東、東南アジアを含む他の全ての戦場で使用され、
様々な条件下において役割を果たすことが証明されました。

さて、スピットファイアについては次回もお話しするのですが、
ここで最後にぜひ観ていただきたい動画を挙げておきます。

William Walton : Spitfire Prelude and Fugue. Video clips.

わたしの好きなイギリスの作曲家のひとり、サー・ウィリアム・ウォルトンが
1942年にスピットファイアの設計者、レジナルド・ミッチェルの伝記映画のために書いた

「スピットファイア・プレリュードとフーガ」
 Spitfire Prelude and Fugue

を、空駆けるスピットファイアの勇姿に合わせたビデオクリップです。

前半のプレリュード部分では第二次世界大戦中の実写、
後半のフーガになってからは現存する機体が華麗に空を舞う映像となっており、
特に前半ではドイツ軍戦闘機や爆撃機を撃墜しているシーンなどもみることができます。

スピットファイアの飛翔ををイメージして作曲されたので当然とはいえ、
音楽と映像の融合の妙にはちょっと感動してしまいました。


続く。

 

RAFの「外人部隊」イーグル航空隊〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

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「第二次世界大戦の航空」コーナーに展示されている5カ国の戦闘機のうち、
スーパーマリン・スピットファイアについて前回ご紹介したわけですが、
そのスピットファイアとダンケルクの戦い、そしてアメリカ人の誇り、
イーグル・スコードロンについてお話ししておくことにします。

■ シュナイダーカップ三連勝のスーパーマリン

クリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」には、このコーナーにある、


ロイヤルエアフォース(RAF)スーパーマリン・スピットファイア


ルフトバッフェ メッサーシュミットBf109

がどちらも登場します。
実際に展示されている航空機はそのときの

「ダイナモ作戦」Operation Dynamo

に参加したものより制作されたのはもう少し早い時期であるということですが。

1940年5月26日までにドイツ軍によってダンケルクの港に追い詰められ、
海岸に隔離され、ドイツ軍の急降下爆撃機Stukasや戦闘機Bf109の格好の標的となった
フランス、イギリス、ベルギーの軍隊を救出するために、英国海軍が発動した作戦。

それがダイナモ作戦、別名

「ダンケルクからの撤退(Dunkirk evacuation)」

でした。

映画の感動的なラストを観ずとも、この撤退作戦が成功に終わったことは
誰でも知っているわけですが、もしもこの作戦にロイヤルエアフォースが、というか、

わずか15機のスピットファイアが出動していなければ、

ダンケルクは悲劇に終わっていたかもしれないことを知る人はあまりいないでしょう。

ノーラン監督は、英国海軍だけでなく、35万人近くの連合軍将兵を救うことになった
スピットファイアのパイロットたちの活躍にもちゃんと焦点を当て、
この歴史的な事実を後世に残そうとしたのでした。

 

「ダンケルク」はスピットファイアの最初の大きな戦いとなりました。

スピットファイア部隊がダンケルクに派遣されたのは、兵士を守ることはもちろん、
兵士が取り残されている海岸に向かう海軍やボランティアのヨットなどの船を守るのが目的です。

(映画ではこのボランティアのヨットもフィーチャーされていましたね)

そして、5月23日、ドイツ空軍の爆撃機が攻撃の準備をしていたとき、
第92飛行隊のスピットファイアは、Bf109と110の両方からなる17機のドイツ機を撃墜しました。

その2日後、同飛行隊はBf110に援護されたユンカースJu87の一群と交戦、
相手に再び大きな損害を与え、ダイナモ作戦の順調な進行を可能にしたのです。

ダンケルクで、アラン・ディアとロバート・スタンフォード・タックという
2人のRAFパイロットは、それぞれ6機の敵機を撃墜しエースになりました。

Portrait of Wing Commander Alan Christopher 'Al' Deere, RAF, July 1944. CH13619.jpg
Alan Christopher "Al" Deere(1917−1995)
Air commodore

Robert Stanford Tuck.jpg

Robert Roland Stanford Tuc(1916-1987)
Wing commander

エア・コマンダーは准将、ウィングコマンダーは中佐。
いずれもロイヤルエアフォース独特のランクです。

ついでなので、RAFの空軍士官のタイトルを挙げておきます。
どれもこれも馴染みがなさすぎてわたしには全くピンときません。

少尉=Pilot  officer パイロット・オフィサー

中尉=Flying officer フライング・オフィサー

大尉=Flight lieutenant フライト・ルテナント

少佐=Squadron Leader スコードロン・リーダー

中佐=Wing Commander ウィング・コマンダー

大佐=Group captain グループ・キャプテン

准将=Air Commodore エア・コモドーア

少将=Air vice marshal エア・バイス・マーシャル

中将=Air marshal エア・マーシャル

大将=Air chief marshal エア・チーフ・マーシャル

元帥=Marshal of the Royal Air Force マーシャル・オブ・ザ・ロイヤル・エア・フォース


空軍大佐の「グループキャプテン」という名称の重みのなさは異常。
ちなみにRAFではいわゆる「金ピカ」がマークにつくのは准将以上からになります。

しかしタック中佐、大舞台でエースになった割に出世してなくないか?

■ スピットファイアの「元祖」スーパーマリンレーサー

さて、続いてスピットファイア誕生までの経緯についてお話しします。

スピットファイアを設計した、

レジナルド・J・ミッチェル(CBE Reginald Joseph Mitchell 1895-1937)

です。

彼は当時盛んだった航空レース、シュナイダー・トロフィーレース用に
最初のスピットファイアを設計し、この機体はレースに3連勝して
名誉あるシュナイダーカップを英国に持ち帰るという快挙を成し遂げました。

スピットファイアの元祖は、なんと水上機だったんですね。

水上機のレースで勝ち抜くことを目標に改良するうち、
特にエンジンの技術は進化し向上していき、2年ごとに行われていた
シュナイダーレースの最後の三回は、そのいずれもがUKチームの駆る

スーパーマリン・レーサー

の独壇場となりました。
結果的に英国は優勝カップを永久に祖国に持ち帰ることになったのです。


Supermarine S.6B ExCC.jpg
シュナイダーカップ最後の優勝機

 

■ スピットファイア戦闘機の誕生

ミッチェルはこのスーパーマリン・レーサーにロールス・ロイス社製のV型12気筒エンジン
「マーリン」を搭載し、戦闘機に仕立て上げることにしました。

彼はドイツの動向に強い関心を持ち、英国の防衛力を向上させるには、
特に空軍力の強化が必要であると考えていたのです。

ただし、ミッチェルはこの「スピットファイア」という名前を気にいっていませんでした。
Spitfire=火を吐くという言葉の一般的な意味は、

「癇癪持ちの女」

という身も蓋もないものだったからです。

世の中にはグレの香水「カボシャール」(強情っぱり)のように、あえて
ネガティブなミーニングで商品を魅力的に見せるというマーケティング法がありますが、
ミッチェルはそうした逆説を好まなかったと見えます。

後世の、特に外国人の我々には「スピットファイア」というと、もはや
この伝説の戦闘機しか思いつかなくなっているわけですが。

いくら気に入らずとも、命名を行ったのはいわばお客様であるRAF。
さすがのミッチェルも受け入れるしかなかったようですが、
最後まで慣れることはなかったようで、のちにこんなことまで言っています。

"Spitfire was just the sort of bloody silly name they would choose.”

「血なまぐさく」「馬鹿げていて」「いかにも彼らが選びそうな」名前

うーん・・・これ、同時にさりげなくロイヤルエアフォースをディスってませんかね。
ミッチェル先生、もしかしてパヤオみたいな(笑)飛行機好きの軍嫌いだったのか?

 

ミッチェルは1933年にスーパーマリン社から新設計の300型を進める許可を得ました。

このスピットファイアは、もともとスーパーマリン社の個人的な事業でしたが、
すぐにRAFが興味を持ち、航空省が試作機に資金を提供したのです。

薄い楕円形の主翼はカナダの空力学者ベバリー・シェンストンが設計したもので、
ハインケルHe70ブリッツと似ていると言われています。

また、翼下のラジエーターはRAEが設計したもので、
モノコック構造は米国で最初に開発されたものです。

ミッチェルの天才的な才能は、高速飛行の経験とタイプ224を使って
これらすべてを一つの形にまとめ上げたことにあるといわれています。

スピットファイアの試作1号機(シリアルK5054)は、
1936年3月5日にハンプシャー州イーストリーで初飛行しました。

 

■ 戦時中生まれた派生型スピットファイア

スピットファイアの原型は、8挺の機関銃を搭載した戦闘機の必要性から生まれました。
戦時中、様々なバージョンのスピットファイアが製造ラインから生み出されています。

Bf109に対抗するための高空飛行バージョン。
フォッケウルフFw190に対抗するための超低空飛行が可能なバージョン。
そして、ドイツ軍の動きを監視するための偵察機バージョン、さらには
海で溺れたパイロットを救うための海空救助活動用の機体などです。

また、空母搭載用に

スーパーマリン・シーファイア Supermarine Seafire

という艦載フック付きがあったこともご存知かもしれません。

Seafire 1.jpg
Royal Canadian Navy Supermarine Seafire Mk XV

「シーファイア」という名前からは、オリジナルの「癇癪女」の語源は
全く消え去っているのがちょっと面白いと思ってしまいました。

 

■ アメリカ人パイロット集団、イーグル航空隊


スピットファイアは、イギリスや英連邦のパイロットのみならず、
フランス、ポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、アメリカなど、
国際的なパイロットたちによって操縦されていました。

1940年9月、アメリカ軍の戦闘機パイロットからなる第71航空隊が
ロイヤル・エアフォースに加わるために編成され始め、10月19日には、
最初の「イーグル飛行隊」がスピットファイアに乗って戦闘を行いました。

彼らアメリカ人パイロットの多くはカナダで志願したか、あるいはロイヤルカナディアン、
カナダ国内カナダ空軍にリクルートして採用されたという経緯です。

そのいずれでもない人の中には、イギリスに直接渡ったり、
自力で飛行機を飛ばしてなんとかフランスに行った熱心な人もいました。

あまりにもアメリカからの志願者が多かったので、1941年になると、
イギリス空軍はさらに2個のイーグル飛行隊を追加で結成することになりました。

当時アメリカ政府はパイロットたちがイギリス連邦のために戦っている間、
規則としてイギリスの市民権を保持できるように特別に取り計らっていましたが、
1941年12月になってアメリカが参戦することが決まると、当然ながら
多くのイーグル隊員はアメリカ陸軍航空隊への移籍を要請することになりました。

その後、イーグル飛行隊は、

アメリカ陸軍航空隊 第8空軍 第4戦闘機群

第334、第335、第336飛行隊

としてアメリカのマーキングをつけたスピットファイアで戦いました。

敵機を撃墜した第71航空隊のマッコルピン(Carroll W. McColpin)が
フライングクロスを受け取り、仲間に祝福されているところ。

離陸準備をすませ、いかにも闘志満々のイーグルたち。
第一次世界大戦のときフランスに向けて飛んだチャールズ・スウィーニー大佐が
名誉航空隊司令となっていました。

その直属の司令、カンサス出身の航空隊長ウィリアム・E・G・テイラーは
そのままイギリス海軍の艦隊航空隊に就役しています。

スクランブルがかかり、各自のホーカー・ハリケーンに駆け乗るイーグル。

哨戒から帰投してくる2機のイーグル航空隊ハリケーン。

レディールームで次なる戦いを待つ第71航空隊メンバー。

RAFからアメリカ陸軍航空隊に再編成後、ブリーフィングを行うイーグル航空隊長
ドナルド(ドン)・ブレイクスリー(Don Blakeslee)中佐。

超イケメン

博物館に展示されているスピットファイアは140機生産されたマークVIIの1機です。

高高度での飛行が可能で、25,000フィートで時速408マイル出せました。
124飛行隊が使用したマークVIIは、ミッチェル爆撃機を援護しながら、
Bf109を123機破壊するという活躍をしています。

1943年3月、博物館のスピットファイアは、リバプールの工場からアメリカに送られ、
5月2日に陸軍航空隊に受領されました。

そして戦後1949年から博物館に所蔵されています。

 

続く。
 

 

 

 

メッサーシュミット Bf 109〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第二次世界大戦の航空シリーズ、まずは展示機のひとつ、
スピットファイアと彼らが活躍したバトル・オブ・ブリテンについて取り上げました。

今日はまず、バトル・オブ・ブリテン時代のRAF(ロイヤルエアフォース)機を、
スミソニアンの展示写真から紹介します。

■ バトル・オブ・ブリテン時代のRAF航空機

アブロ ランカスター Abro Lancaster

イギリス空軍でも最も成功した重爆撃機、アブロランカスター。
4基のマーリンエンジンを搭載していました。

「ショートスターリング」「ハンドレイ・ページ・ハリファックス」とともに
対ドイツ夜間爆撃の主力となり文字通りの一翼を担いました。

1942年から1945年にかけてドイツの主要都市はことごとく破壊され、
爆撃によって数十万人もの市民が犠牲になることになりましたが、
防衛のため撃ち落とされた何千機もの搭乗員の命もまた失われることになりました。

ボールトンポール・ディフィアント Boulton Paul Defiant

ボールトンポール。
今までどこにも見たことがなかった軍用機の会社名です。

複座戦闘機で4門の後方砲塔を備えており、前方武器がありません。
前方を攻撃できない戦闘機などというものが存在していたのも初めて知りました。

いったいどんな効果を期待してこんな仕組みにしたのかと思いきや、
この奇妙なコンセプトは初戦闘となったダンケルクでのみ効果を発揮することになります。

ドイツ軍戦闘機はこのシェイプからこの機体を

ハリケーンと間違えて

ディフィアントの後方から近づき、後方銃にやられることになりました。
もちろん情報はすぐさま共有されますから、効果があったのはこのときだけで、
その後はルフトバッフェ戦闘機の敵ではありませんでした。

そのため、日中の作戦からは引退し、夜間戦闘機にジョブチェンジ。
この後方銃も、夜間の対爆撃機戦には当初のみ効果的だったとされます。

しかしながら、元々夜間用として開発されたのではないため、
本格的な夜間戦闘機が新しく投入されるようになると、引導を渡されて
標的曳機や救出用などの雑用に格下げされてしまいます。

difiantというのは、反語好きのイギリス空軍の趣味を反映して、
スピットファイア(癇癪持ちの女)を彷彿とさせる、

「反抗的な人」「従わない人」「喧嘩腰の人」

とろくでもないやつの意味なのですが、こちらはスピットファイアと違って
性能がアレで皮肉屋のRAFパイロットたちに嫌われてしまったため、
difiantから取った、

Daffy (馬鹿・うすのろ)

という愛称(愛はあまりなさそうだけど)で呼ばれていたそうです。

ん・・・?ダッフィ?
ダッフィって・・・どこかにいましたよね。

ほら、極東の某テーマパーク発祥の熊のぬいぐるみ、
あれ、確かスペルもドンピシャでDaffyだったような気が・・・。

今調べてみたら、英語のウィキもしれっと”Daffy”で記述があります。
「ダッフルバッグに入っていたからダッフィー」という、日本発祥ならではの
捻りのない名前の起源まで翻訳されているので驚きました。

英語圏の人たちは、この「馬鹿・うすのろグマ」という名前を当初どう受け止めたのか(笑)

 

さて、熊でないほうのダッフィ、ダンケルクでは確かに何も知らない敵機を落としましたが、
メッサーシュミットには通用せず、逆に落とされまくったため引退を余儀なくされました。

続くバトル・オブ・ブリテンにおける当時のRAF側の飛行機不足は切実で、
もうこの際、飛ぶものならなんでも投入したい、という切羽詰まった状態だったはずですが、
それでも出撃させてもらえなかったといえば、
ダッフィーがどう思われていたかわかるというものです。

デハビランド・モスキート de Havilland Mosquito

機体が木製のデハビランド・モスキートは、
1944年初頭まで、驚くべきことにRAF最速を誇る機体でした。

モスキートは爆撃機、戦闘爆撃機、写真偵察機として運用され、
その日中細密爆撃の能力には正確さにおいて定評があったということです。

空中迎撃レーダーを搭載しており、夜間飛来する敵爆撃機に対しては
夜間戦闘機としてパスファインダー=開拓者のような役割を果たしました。
(ダッフィーが用無しになったのはこのせいだと思われます)

高速性能は、ドイツのV-1「バズ・ボム」飛行爆弾の撃墜に対し効果を上げました。


元祖巡航ミサイル?V-1

■ 同時代のルフトバッフェ航空機

メッサーシュミットMesserschmitt Bf. 110C

ドイツ軍機の72分の1模型が展示されています。
メッサーシュミットなのでMeを付けて表記することもありますが、
スミソニアンではバイエルン航空機製造を意味するBfを冠しています。

「駆逐機」Zerstörer(ツェアシュテーラー)

とも呼ばれた重戦闘機で、適宜投入すれば実績をあげることができたのですが、
バトル・オブ・ブリテンでは所詮双発機であったこともあり、
スピットファイアにめちゃくちゃにやられてしまいました。

このとき、ドイツ空軍は237機のBf110を投入し、223機を失っています。
(逆にこの4機がなぜ生き残ったのか、わたしはそれが知りたい)

バトル・オブ・ブリテンでは重爆撃機の護衛どころか、敵が来ると
Bf.109に援護してもらわなければならなかったそうです。

「ルフトバッフェのダッフィー」的立場だったんですね。

ユンカース・シュトゥーカJunkers JU 87B

逆ガル翼の急降下爆撃機、シュトゥーカ。
急降下するときにサイレンのような音を出したことから、
「悪魔のサイレン」と敵に恐れられたので調子こいて
実際にサイレンをつけてみた機体もあったようです。

このサイレンのことを、ドイツ兵は「ジェリコのラッパ」
(ジェリコが吹いたラッパの音で城壁が落ちたという聖書の逸話)
と呼んでいたとか。

ポーランドで1939年ブリッツ(電撃戦)を行うシュトゥーカ  
ブリッツではともかく、バトル・オブ・ブリテンでは、防弾性能の低さが裏目に出て
スピットファイアやハリケーンに多数が撃墜されてしまいました。

ユンカースJunkers JU 88A

ユンカース社が開発した軽爆撃機。
バトル・オブ・ブリテン以降も終戦まで主力爆撃機として運用されました。

 

ところで、我が大日本帝国海軍では、双発急降下爆撃の研究のために、
1940年末、このJu 88 A-4を輸入しています。

しかし、海軍工廠がおこなった試験飛行の際、木更津飛行場を離陸したっきり、
行方不明になってしまいました(-人-)

沈んだ機体は東京湾の海底の泥に埋まってしまったか、あるいは今でも
機体の一部は魚の住処になっているかもしれません。

■ メッサーシュミット109

ヴィリー・メッサーシュミットの有名な単座戦闘機Bf109シリーズは、
史上最も大量に生産された戦闘機のひとつです。

もう一度説明しておくと、試作機を製造したのがBfと略される
Bayerische Flugzeugwerke AG
で、1938年メッサーシュミット社に社名変更しましたが、
ドイツの公式出版物では「Bf109」と表記され続けていたものです。

 

何かとナチスの政治的な宣伝が目立った1936年のベルリンオリンピックですが、
なんと、この新型戦闘機の最初の公開デモンストレーションまでやらかしています。

デビュー後、Bf109の最初のモデルは1936年から39年のスペイン内戦の後期に参加しました。

その後、ポーランドとヨーロッパ西部におけるブリッツ、「電撃戦」キャンペーン、
そしてバトル・オブ・ブリテンでその名声を獲得しました。

その成功は、優れた機動性と正確で安定した操作性に尽きました。
つまり操縦が容易でしかも性能が発揮しやすいということです。

 


■ ライバル、スピットファイア

スピットファイアは、ドイツ空軍の戦闘機に本格的に挑戦した最初の航空機です。
スピットファイアの方がわずかに速く、操縦性も優れていましたが、
高所での性能はメッサーシュミットが勝りました。

つまり機体の性能は一長一短あってほぼ互角だったことになります。
そうなるとものをいうのはパイロットの技量ですが、この点においても
英独空軍の搭乗員には操縦技術の差はほとんどないとされていました。

しかし、1940年のバトル・オブ・ブリテンでは、地元で戦ったRAFが有利でした。
しかも、Bf109の燃料容量では、英国上空での戦闘時間は20分が限度であったため、
多くの109型パイロットが燃料を使い果たし、英仏海峡の氷の海に墜落しました。



Bf109は、1943年以降、ドイツ本土に襲来するアメリカ陸軍航空隊の
重爆撃機による昼間の空襲の迎撃に投入されましたが、
ことごとく激しい防御の十字砲火を受けることになりました。

インテイクの下の注意書きには、

注意して開閉してください

空冷はフードに内蔵されています

と書いてあります。

Bf109は戦争期間を通じて使用され続け、絶えずアップグレードされました。
このGー6モデルは、1942年に最初に戦闘機ユニットに納入され、
東部戦線で広範な任務に携わってきたものです。

このマーキングは、東地中海空域で活動した

7 staffel II./JG 27 第7飛行隊第3航空群第27戦闘航空団

の機体を再現しています。

連合国軍側にとってしばらくこの戦闘機は幻の存在でしたが、
1944年、フランスのアルザス地方のパイロット、ルネ・ダルボアが
109G-6に乗ってイタリアのアメリカ陸軍に亡命を求めたため、
初めて鹵獲することができたという経緯があります。

その後、陸軍航空隊(AAF)は評価のためにこの戦闘機をアメリカに輸送しました。
輸送の際には部隊のマーキングと迷彩をすべて剥がし、航空技術情報司令部は
この戦闘機にFE-496という在庫・追跡番号を付与しました。

戦後、空軍はメッサーシュミットをスミソニアン国立航空宇宙博物館に移管し、
その後展示のために修復が行われ、現在の姿になりました。

上階から見ると、109はまるでエンジンを抱えているように見えます。

Bf109の試作機の飛行は1935年、そのときには
ロールスロイス社ケストレル695馬力エンジンを搭載していましたが、
最終的にダイムラー・ベンツのDB600シリーズ倒立V型水冷エンジンに決定しました。

スミソニアンによる修復終了後のコクピット。

ルフトバッフェの7.スタッフェルIII./JG27。
当博物館がマーキングを再現した部隊です。

バトル・オブ・ブリテンの間、占領下のフランスに置かれた
ルフトバッフェの航空基地に並ぶI./JG3(第1航空群第3戦闘航空団)のBf109。

■ 東部戦線における空中戦

重武装で飛ぶソビエト空軍の

イリューシンII 2 シュトゥルモヴィーク(攻撃機)

ドイツとソ連の間の空中戦は西部戦線とは異なっていました。
アメリカとイギリスはドイツの高高度爆撃に焦点を合わせましたが、
東部の広大な地における陸上戦闘では、空中戦と言っても低高度で行われ、
軍の作戦を支援しました。

1941年6月、ドイツ空軍によるソビエト飛行場への壊滅的な襲撃が行われましたが、
赤軍空軍はゆっくりと回復し、結果的にソ連は1945年までに
世界最大の戦術空軍を建設することになるのです。

東部戦線では国土の広大なため、戦闘の集中する部分以外は
防空も大変手薄で、その結果ルフトバッフェのシュトゥーカなどは
西部よりこちらで長らく使用されていました。

しかし、ソ連はこの間にいくつかの一流の戦闘機や攻撃機を開発し、
ルフトバッフェは東に最高のユニットを配備することを余儀なくされました。

 

続く。

 

 

キャンパスツァーとインディペンデンス・デイ(独立記念日)〜アメリカ滞在

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豪雨のあと、一瞬の奇跡のような爽やかな日が訪れましたが、
あっという間に最高気温33度の夏日に戻ってしまったピッツバーグです。

なので、公園の散歩はコースにまだ陽の差さない早朝に行くことにしました。

いつもなら無人のごはんタイムに乱入してきた人間に戸惑っている若い牡ジカ。

リスも朝の方が活動的です。


街を歩く人のマスク着用率は二十人にひとりといったところですが、
ホテルのある一角はピッツ大医学部病院の集中地帯なので、
医療関係者が多いということを考えると、ここではほとんどが
マスクを外し、飲食店も平常営業を始めたと言っていいかと思います。

最初に「ヌードルヘッド」という麺専門店で外食をしました。
去年は店を閉めて店頭でテイクアウトだけしていましたが、今回行ってみると
広い店内が埋め尽くされていて流石の人気ぶりでした。

いつもここにくるとこのチキンパッタイを頼み、半分食べて持って帰り、
次の日野菜を足すなどのアレンジをして頂きます。

MKは、車がないと行けない郊外のお気に入りのレストランで
このバッファローウィングスを食べるのを楽しみにしていたようです。

ここのウィングはとても肉が柔らかく、適度なピリ辛が食欲をそそります。

シェイディサイドには、アップルストアがあるというイケてる商店街があります。
ある朝そこの朝食専門フレンチ風カフェに連れて行ってもらいました。

わたしは朝食を食べないのでお茶だけです。

この日、MKが大学の「内部見学ツァー」をしてくれました。
ここにはかつて立派な研究室のビルがあったのですが、
2023年完成予定で新築工事に入っています

大学のシンボルであるタワーとその周辺の、最初にできた建物に手をつけず、
新しい建物をこの旧校舎と渡り廊下や壁などで接続していくのがアメリカ式。

古い建物を大事にするお国柄なので、この建築法はどこでも見られます。

ちなみにMKはタワーの頂上まで昇ろうとしたそうですが、さすがに鍵がかかっていたそうです。
しかも、後から、あのタワー近辺は物凄い電磁波だから近づかないほうがいいと言われたとか。

おいおい、後から知ってどうする。

学内には、最初の校舎の建築時の現場写真と設計図がパネルされて飾られています。
左手に線路が見えていますが、工事現場の写真の左側に今でもあって、貨物線として利用されています。

斜面の上に建っているので、表からみると2階建、
裏から見ると6階建というトリッキーな建築です。

まずは機械工学部から。
大学のシンボルである黒いスコッチテリアは充電でお休み中。

木工所みたいですが、何をするところかわかりません。
建築学科とかかなあ。

MKによると、その前日、教授たちが皆で片付けをした跡だそうです。
片付け=廊下にゴミを出すこと?

まだ片付いていないのかと思いきや、これが通常の状態だということです。

これがMKのワークスペースだそうで。

飲みかけの水とほったらかしておくのはいかがなものか。

壁全体がホワイトボードになっている仕組みです。
書かれた字がMKのと似ているのでこれあなたの?と聞くと、全く違う、との返事でした。

偏見かもしれませんが、アメリカ人も理系の人って字の下手な人が多い気がします。

 

創立当初の機械工学部(だと思う)。
当時の大学生は皆スーツに革靴といういでたちだったんですね。
この写真は現在の同じ校舎の廊下に飾ってありました。

説明がありませんが、おそらく1940年代ではないでしょうか。
機械のたたずまいから通信関係の研究ではないかと思われます。

アメリカの工学大に学はもちろんですが軍事研究のための予算が出ているので、
MKに言わせると、当大学にも「秘密のラボ」があって、そこでなにやら
武器兵器の研究が行われているとかいないとか。

出入りできるのはごく限られた研究員だけという噂があるそうです。

ここで一旦外に出てみます。
大学は5月から夏休みに入っているので、人影はほとんどありません。

チャレンジャーで事故死した宇宙飛行士の一人、

ジュディス・アーリーン・レズニック(Judith Alrene Resnik)

が本大学の卒業生であることから作られた碑。
このモニュメントの形は、彼女がエンジニアの名誉クラブ、
くしくもMKが先日その末席を汚すことになったところの
τβπ(タウ・ベータ・パイ)であったことを表します。

このマークは、時計のネジを巻くための鍵と橋脚の架台を組み合わせた形を
図案化しており、創設時はそれが工学への誠実と卓越の原則を象徴するものだったのです。

MKにも周りの誰にも、これが何を表していて何のためにあるのか
説明がないので全くわからないという謎の団子モニュメント。

「でもなんか可愛くない?」

「雪の日、マフラーと帽子付けてもらってたよ」

しかし大学キャンパスという地にありながら、よく今日まで無事落書きされずに来たものです。

ギネスブックにも乗っているという噂の、

「最もしょっちゅうペインティングされたフェンス」

ですが、最近の学生はどうもやる気がないらしく、今は

「一度これを塗ってみたかった」

という投げやりな文句が白地に書かれているだけのもの。
それと、π二乗=9ってこれ何なんだよ・・。

π^2=9.86960440109・・・・???

さて、この割と最近の建築っぽい建物は、コンピュータサイエンスセンター。

この日は独立記念日の休日だったため、観光客がうろうろしていましたが、
キャンパスは自由に歩けてもさすがに校舎には鍵がかかっていて入れません。

外からドアを開けようとしている家族をMKは中から開けて入れてやりました。



このビルは某ゲイツ夫妻が寄付したということで、「ゲイツセンター」というそうです。
ゲイツは本学出身ではないのですが、いろんなところに寄付することで
自分の名前を全米の工科大学にまるでマーキングするかのように残しまくっているようです。

ちなみにこのご夫婦、最近離婚されたということですが、学生の間では
ビルのどこをメリンダが取るんだろう、というジョークが一瞬流行ったとか。

それよりわたしはなぜ今更離婚などしなくてはならなかったか、その本当の理由が知りたい。

ほとんどのアメリカ人がマスクを外し始めたアメリカですが、
まだ一応最警戒時のポスターと使い捨てマスクはそのままです。

マスコットのスコッティくんが、マスクをして食べ物はテイクアウト!と宣言しています。
(アメリカのテイクアウトはこのような紙パックがよく使われる)

本学の歴史はイコールコンピュータの歴史でもあると言いたいわけですな。

ざっと要約してみると、コンピュータの専門センターが創設されたのは1956年、
最初に導入したのはIBM650、2番目がBendixG-20、AIを作ったのもうちです的な?

この前段階では、コンピュータでチェスをやったとか、人工知能とか、
まあざっとそんな感じのことが書かれています。

ゲイツビルの裏はまるでホテルのようなアクリル柵に囲まれた
ベンチのコーナーがあります。

一階の大きな窓の内側にはなにやら水槽のようなものが・・。
これは当ブログ的に大変興味深い、海軍艦船関係の研究を行うプールと見た。

しかし、たかだか大学なのにこんな設備まであるなんてすごすぎない?

もう一度機械工学科のビルに戻ってきました。
これはナノテクの研究室で、二重ドアになっており、
入室の際には必ず(コロナと関係なく)マスクとヘアキャップが必須です。

大規模な木材の加工を行うことができそうな部屋。
天井からぶら下がっている黄色いチューブはダストスイーパーかな。

さて、ジュライフォース、独立記念日の7月4日のテレビニュースです。

ブルーエンジェルス結成75周年記念、ということは、
第二次世界大戦が終わってすぐ結成されたってことですね。

独立記念日には、恒例イベントとしてアメリカは各地で花火が打ち上げられます。

しかし、アメリカでは花火は買える場所もやっていい場所も限られていて、
どうしても花火を買いたい人はわざわざ越境し、使用する期間も限定的です。

その理由は、銃声と似ている花火の炸裂音とか、大量の火薬を使うことにあるようです。

わたしが昔住んだマサチューセッツ州は全面的に花火の売買と使用が禁じられ、
唯一許されているのが独立記念日のスポンサー付きの花火大会だけでした。
花火を買いたいマサチューセッツの住人は、ニューヨーク州との州境、
インターステート近くに集中している花火屋まで行かなければいけません。


つまり独立記念日は、アメリカ人にとって年に2度だけ解禁された
(もう1日はニューイヤーズ・イブ)花火を楽しめる日でもあります。

この日、老若男女は花火の見学スポットに陽が高いうちから詰め掛け、
ご覧のように芝生にチェアを並べてビールなど飲みながら9時過ぎまで待ちます。
去年中止されたイベントなので、今年の復活は皆が喜んだでしょう。

ここはわたしが去年の夏と今年の冬泊まっており、毎日歩いた河原なのですが、
車で様子を見るのがやっとでした。

MKは友達と連れ立ってバスで河原に来て花火を最後まで見たそうです。

 

9時になりテレビの中継を見ながらホテルの窓外を見ると、
ざっと見て少なくとも二十箇所から花火が上がっているのが見えました。

どこの地域でも陸海軍の軍楽隊が中心になってパフォーマンスを行いますが、
特に凄かったのがこのリモートによる海軍選抜メンバーのアカペラコーラス。
とんでもなく高クオリティの演奏でした。

FOXニュースでは、ウェストポイントの花火を中継していました。
お行儀よく制服を着て並んで座り見物している士官候補生たちも映っています。

インディペンデンスデイの次の日は月曜ですが、恒例として
この日もアメリカではお休みとなるようです。

9時からの花火の後散々ビールを飲んだりして、次の朝から仕事、
というのはあまりに過酷だということなのでしょう。

翌日公園を歩くと、至る所に花火の燃えかすが落ちていました。

こんなパッケージも。

TNT(トリニトル・トルエン?)のWAR TIMEなる花火。
しかもパッケージには群をなして飛ぶ爆撃機・・・。

TNT Fireworks

どんな物凄い花火かと思ったら。

 

 

 

 


「艦船勤務」〜映画「海軍特別年少兵」

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東宝映画が毎年終戦に合わせて公開していた
「東宝8・15シリーズ」最後の作となった、

「海軍特別年少兵」

を取り上げます。

昭和20年、硫黄島の戦い。
米軍11万人と艦船多数の兵力に対し、その5分の1(艦艇ゼロ)で
これを迎え撃った日本は次第に追い詰められていました。

突入してきた日本兵を射殺したアメリカ海兵隊員は驚くのでした。

「子供じゃないか」

そして日本人のむごさとやらを非難するわけですが、
その子供兵士こそが、本作のタイトルにもなっている

「海軍特別幼年兵」

通称特年兵です。

しかし、日本海軍とて最初から少年を戦争に投入しようとしたのではありません。
元々の目的は、将来の中堅幹部の養成を目的にした制度であり、基礎教育終了後は
海軍兵学校に学ばせ、幹部に育成するための教育機関だったのです。

海軍特別幼年兵という言葉を検索すると、ほぼこの映画の情報しかないのですが、
なぜかというと、もともとその名の制度による戦闘団があったわけではないからです。

日本が敗戦の最終段階に追い詰められるに至って、海兵団という
各鎮守府にあった海軍教育課程の生徒を戦場に駆り出すしかなくなりました。

追い詰められたドイツでも最後の方はヒトラーユーゲントが駆り出されたように、
日本の切羽詰った事情が生んだのが特年兵であった、というわけで・・・、
つまり日本も負けていなければここまでする必要もなかったのです。

だから、子供が戦争に参加していたからということで

「なんと酷い奴らだ!」

と日本人を非難するならば、その前に自分たちが、
沖縄で女子供を含む一般人を海上の軍艦から艦砲を壕にぶち込んで
殺したりしていないことを証明してからにしていただきたい。

とやたら冒頭から喧嘩腰ですが、こういう、どこかの高みに立って
人道上の非難をしてみせる全ての言論に、わたしは猛烈にムカつくもので。

とはいえ、実際にアメリカ人が言ったわけでもないセリフに、今更
怒ってみるというのもちょっと大人気ないので、とっとと始めましょう。

 

オープニングタイトルは、彼らが神奈川県の三浦郡竹山村に、昭和16年
「横須賀第二海兵団」として開団後、改称された武山海兵団の入団試験で
健康診断を受けている映像に重ねられます。

竹山海兵団は、戦後陸自の竹山駐屯地、海自横須賀教育隊として転用されています。
今調べてみたら、横須賀音楽隊もここが本拠地らしいですね。

そういえば何年か前、某デパート旅行会主催の観光ツァーで駐屯地見学したことがあります。

監督は今井正。

この人の作品には、あの「ひめゆりの塔」なんて作品もありましたね。
戦争中には戦意高揚映画を撮っていながら、戦後は反動で?左に振り切れて
共産党員にまでなってしまったあたり「戦争と人間」の山本薩夫とそっくりです。

振り切れといえば、山本作品の「皇帝のいない八月」なんてすごいですよ?
自衛隊反乱分子が武力クーデターで右翼政権樹立を企む!てな話ですから。

さて、入団が決まった少年たちが、各々の私服をセーラー服に着替えると、
地井武男演じる「教班長」、工藤上等兵曹が、なぜか竹刀を持って、
これまで身につけていたものを一切故郷に送り返すように、怒鳴ります。
兵学校でも行われていた慣習で、これは「娑婆っ気」を捨てて、
今日から海軍軍人なるための一つのイニシエーションのひとつです。

ナレーション役である登場人物の一人、江波洋一が

「海軍二等水兵となる」

と言っています。
1942年までは四等水兵からのスタートでしたが、改正されました。

班ごとに分かれるや、工藤教班長から1番に自己紹介を命じられた林宅二。

「お前からだ」

うーん、これは違うかな。
教班長なら、生徒のことは貴様というんじゃないかな。

ところで、このいかにも東北の貧農で酒浸りの父を持つ息子という役柄がぴったりな、
素朴な風貌の俳優ですが、これが映画デビュー作となった中村まなぶ、
のちの中村梅雀だというので、クレジットを見て驚きました。

『もみ消して冬〜我が家の問題なかったことに〜』のお父さん役で、
軽くファンになってしまったわたしですが、調べてみると
実はプロのベーシストとしても活躍していると知り、二度びっくり。

彼は母親に少しでも楽な生活をさせてやりたい一心で
教師の勧めもあり、海兵団を志願したのでした。

「郷土会津の誇りにかけ、昭和の白虎隊員として華々しく討死する覚悟です!」

会津若松出身、栗本武。
白虎隊といえば、東郷神社境内にある「海軍特年兵之碑」には、

「戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された」

と記されています。

栃木県出身の宮本平太は貧乏な開業医の息子です。



彼の父吾市(三國連太郎)は当時のインテリにありがちな左翼主義で、
かつ無政府主義者思想でもあり、海兵団に入るという息子に
「社会主義者」「非国民」と言われて思わず殴りつけたりします。

そんな父を思い出しながら、かれは

「父の分までお国に尽くします!」

「親父がどうしたというのだ」

「私の父は・・・びっこなんです!」

放送禁止用語などというものはなかったころの作品です。

長野県出身、橋本治。

「私は早く死にたくあります!」

流石の教班長もこの答えの意味を追求しません。
彼もまた、貧困家庭の出身でした。

林宅二と同郷の江波洋一は、教師の息子です。

林拓二を海兵団に入れるように説得したのは何を隠そう彼の父。

「水飲み百姓より帝国海軍軍人がいいに決まってる」

ところが、林の母親を説き伏せた教師の父(内藤武敏)母(山岡久乃)は、
なぜか自分の息子の入団となると渋い顔をするのでした。

父親は海軍兵学校や陸軍士官学校を受けるならともかく、
秀才で中学に通っている息子がなぜ2等水兵なんぞに、と不満なのです。

起床ラッパが鳴り響き、少年たちの海兵団1日目が明けました。

海軍なので当たり前ですが、釣り床で寝ています。

これいつも思うんですが、寝返り打てなくて辛くないんですかね。
横向き寝とかうつ伏せ寝とかしたい人は特に。

総員起こしで全員が「釣り床納め」、ハンモックを畳みますが、
初めての朝なので皆まだもたもたしています。



階段は全力で駆け下り。昇る時は一段抜かしです。
服装など身嗜みチェックのために踊り場には全身が映る鏡があります。

総員校庭に集合し、ここで海軍体操をするはずですが、
本作ではいきなり甲板掃除(床拭き)となっています。

整列が「どん尻」になった者は練兵場一周。
案の定、林が最初の罰直を受けてしまいました。

やっと食事の時間になったと思ったら、教班長は林を狙い撃ち。
階段の横にあった「今日の標語」は何か聞いてきました。

答えられない林に代わって指名された江波が、
嫌味なくらいスラスラと標語を暗唱します。

「聖戦完遂は我らの双肩にあり!堅忍不抜の海軍精神を磨け」

林は決して標語を見ていなかったわけではありません。
しかし、国民小学校をほとんど家のせいで欠席していたため、
「完遂」という字は覚えていても、これをどう読むのかわからなかったのです。

しかし、言わせて貰えばその設定そのものに矛盾があります。

特年兵はその中から将来海軍兵学校予科に進むシステムも設けており、
初年兵教育として中学3、4年の学力を付けさせるのが目的だったので、
国民学校もろくに通っていない生徒はそもそも海兵団に入れなかったでしょう。

林はまたしても昼飯抜きという罰をうけることになりました。

ちなみに中村梅雀氏は自身のブログで、本作DVD発売を機にこう語っています。

「撮影するにあたり、実際の年少兵だった方々に当時の事を教わり、
訓練や生活は本当にリアルに再現した。

今井正監督は決して手を抜かない。
殴るのも全て本気で殴らせた。
殴る側も役に徹しなければ殴れない。
その厳しさ苦しさ痛さは、今も忘れられない。

それは、どこまでも厳しく優しい、監督の愛情なのだ。
映画に対する情熱なのだ。
どんなシーンも、納得がいくまで決して諦めず、何度でもやり直しをした。
だから少年兵たちの目が生きている。

鬼教官の工藤教班長役の地井武男さんは、少年たちを殴り続けた。
本当に大変だったと思う。」

続いて教練の様子が描かれます。
座学、行進、敬礼、手旗信号。

そしてカッター訓練でもやっぱりヘマをする林。
オールを落とし、自分も落ちてしまいます。

林が泳げないことを教班長に報告した同郷の江波、
ついでに橋本も水に突き落とされ、しかも助けてもらえません。

泳ぎ着いたところをオールで突き放され、

「帝国海軍軍人がカナヅチで義務を果たせると思うか!」

いや、いくらなんでも泳げないのにこれは無茶というものでしょう。
下手したら死ぬよ?
水泳訓練してやれよ。

初めての日曜日、まだ外出は許されず、生徒たちが命ぜられて
故郷に海兵団生活について「感じたままを」手紙に書いていると・・、

予備士官の東京帝大卒英語・国語担当、吉永中尉がやってきて、
手紙を書こうとしない橋本に声をかけました。

何故書かないのか、彼は理由を答えようとしません。

その理由は、養父母への反発でした。

彼の叔父夫婦、大滝秀治と佐々木すみ絵。
ちょい役、しかもこんな憎まれ役を大物が演じる贅沢な映画です。

養ってやっていることを恩に着せてこき使い、水商売で働いている
姉からの仕送りが途絶えると、ご飯のお代わりにも小言を言う夫婦。

 

教班長が手紙を書かせたのは、何も知らない彼らが油断して、
甘えた泣き言を故郷に書き送ることを見越してのことでした。

「そんな甘ったれたことで帝国海軍軍人と言えるか!」

父親への反発から手紙を書かなかった宮本と橋本、高みの見物。

しかし手紙を書かせた理由はそれだけではありませんでした。
教班長は林だけを呼び、手紙を朗読させます。

それはなぜか江波の母に当てた手紙でした。
そこには俸給が出たらお金を送るので、それを父にわからぬように
母にだけ渡して欲しいと切実なことが書かれていました。

父というのが穀潰しの酒浸りで、入隊前夜も田んぼで息子に絡み、
殴り合いをしてきたのです。

理数科担当の教官、予備士官の山中中尉が着任してきました。
山中中尉役の森下哲夫はバイプレーヤーとして(Dr.ヒネラーとか)
いろんなドラマに出演、2019年に逝去しています。

同じ東京帝大出身の吉永中尉は同僚の国枝少尉(辻萬長)に紹介しますが、
なんでか物凄く態度が悪く、国枝少尉、ムッとしてます。

これはあれかな?国枝少尉が国学院大学卒だからとかそういう理由?

だとしたら鼻持ちならない奴決定ですが・・・。

吉永は生徒たちについてこんな逸話を紹介をします。

彼の担当である英語の時間、江波訓練生が、海軍なのに
どうして敵国語である英語を勉強するのかと聞いてきたのです。

「英語など時間の無駄に思えてなりません」

海軍ではバケツ=オスタップ(ウォッシュタブの変化形)、
ゴーヘイ=前進、そのまま(Go ahead)、ラッタル=階段(Ladder)など、
英語からきた名称が多く、海軍という軍隊の任務上艦船の臨検や尋問、連絡にも
英語が必要となってくるため、最後まで英語教育を中止しませんでした。

本物の特年兵が監修していたというからには実話なのでしょうけど、
この「考査で成績最下位だった班は食事抜きでテーブルを持って立っている」
というのはあまりにも不条理です。

だって、必ずどこかの班が最下位になるわけですよね。
おまけに工藤さんたら、テーブルを持ち上げている彼らの腰を、
「海軍精神注入棒」とやらでバンバン叩くんですもの。

これも梅雀さんによると「本当にやっていた」ということになります。

 

しかもこれが「一人足を引っ張る奴」=林のせいだと思っていて、
聞こえよがしに嫌味を言う栗本と林を庇う橋本の間で乱闘騒ぎになる始末。

まあ、すぐに仲直りするんですけどね。

しかし、この件でさすがに見かねた吉永中尉と工藤の間で口論が起こります。

罰直主義は利己心を増長するので是正すべきという吉永。
罰直は海軍精神を鍛えるための伝統であるという工藤。

吉永は教育は愛であると主張し、工藤は力であるとし、平行線に終わるのでした。

吉永の意見はもっともですが、そもそもこの戦争中という非常時において、
彼らの置かれた立場を平時の理論で測るのはいかがなものかとも思われます。

彼らの意見の対立は、実に最後の沖縄の戦場にまで持ち越されることになります。

会議の間ずっと落書きをしていたらしい山中中尉ですが(笑)、
若手教官だけになると、早速吉永に向かって

「教育は愛なんてそらぞらしい、工藤のいうのが本当だ」

さらに、

「教育が愛などと言うなら、どうして特年兵制度などに反対しないんだ」

と大正論をぶつけてきます。

そりゃそうだ。
軍人直喩を唱え、人間に見立てた藁人形に銃剣を持って突撃する訓練。

こんな教育を14歳の子供に行うことそのものが愛とは程遠いじゃないか、
というのが山中中尉の本音であり、実は誰もが口には出さないけれど、
心のどこかで誰もが疑問を持たずにいられない矛盾が大前提なのですから。

訓練生は出した手紙だけでなく返事もしっかり検閲されます。
教班長に母からの手紙を音読させられる会津藩士の家系の息子、栗本。

まるであの「フォレスト・ガンプ」のダン中尉の家系のように、栗本の家は
戊辰戦争、日清戦役、日露戦争、シベリア出兵で代々男たちが戦死しています。
彼は兄も支那事変で亡くしているのです。

檀那寺の和尚(加藤嘉)は無責任に(笑)戦死者を出すことを
日本でも数少ない名誉な家だと称えるのですが・・

彼の母(奈良岡朋子)は決してそれを嬉しいとも思っていないようです。
人前では繕っていても世のほとんど全ての母親の気持ちは皆同じでしょう。

次に呼ばれたのは橋本。
今三島にいてお客には兵隊が多い、と言う手紙に、工藤は
(そんなことくらい察しろと言う気もしますが)

「お姉さんは何をしているんだ」

「姉は酌婦・・いいえ、娼妓です」

「・・(´・ω・`)」

最後は林でした。

母親は、給料3円50銭なのにどうして5円も送ってこられるのか、
と手紙に書いており、それを読みながら林は驚愕します。

「教班長・・・わたしは3円(しか送っていません)」

「きっと手紙を書いた江波のお母さんが聞き間違えたんだろう」

しかし、教員の間でもこの金額の相違は話題になってしまい、
工藤はその理由を尋ねられ、苦し紛れに、

「きっと同じ教班の者が同情して・・そうだと思います!」


・・・工藤教班長・・・これはいわゆる一つの・・・・愛?

 

続く。

「海ゆかば」〜映画「海軍特別少年兵」

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映画「海軍特別年少兵」2日目です。

本作はタイトル画でもお分かりのように、主役の少年たちがほぼ無名
(その後俳優として名前が残っているのは二人だけ、一人が梅雀で、
もうひとりがバイプレーヤー福崎和弘)であるため、その分予算を
全フリしたのではないかというくらい、脇役が豪華キャストです。

主役と言っていい工藤役の地井武男といい、このベテランたちの存在は、
熱いけれど、時として生硬な少年たちの演技を補って余りあります。



さて、入団から2ヶ月経った8月13日(お盆ということでしょうか)
初めて家族との面会が許されました。

林の母はさすがに来ていませんが、同級生の江波の母(山岡久乃)が
林に母親からことづかった差し入れを持って面会にきています。

 

しかし嬉しそうに外に出ていく教班の者を尻目に、教室に残って、
手持ち無沙汰に艦隊勤務などをハーモニカで吹いている者もいます。

入隊を決めたときに殴られた医者のせがれ宮本と、身内らしい身内が
横須賀で賤業婦に身を落としている姉しかいない橋本です。

二人とも家族が来るはずがないと決めてかかっていました。

が、来ていたのです。

橋本の姉ちゃん、ぎん(小川真由美)は門を出る吉永中尉を捕まえ、
ついつい溢れ出る職業的なしなを含んだ声音で、

「大尉さん!頼まれてくんないかしら」

「わたしは中尉です」(´・ω・`)

「あっ、あははは・・あたし陸軍ならよくわかるんだけど」

そうして弟への差し入れのこと付けを頼みました。
自分のことを弟が恥ずかしがるので、会わずに帰るつもりです。

しかも持ってきたのがお客にもらった恩賜の煙草とお酒。
どちらも訓練生には年齢的にも禁止されています。

 

吉永中尉はなんとか渡せるお菓子だけを橋本に届けてやりました。
橋本の隣の宮本の父は、息子から

「あんな非国民ずっと監獄にぶちこんどけばいいんだ」

とアカ呼ばわりされて毛嫌いされているわけですが、

なんと、来ていたのです。この父ちゃんも。

そして、なんたる偶然、海兵団の近くの飲食店でそうとは知らず出会い、
時節柄売り物もない外食券飲食店に居座って飲食物を交換しているうちに、
お互いが身内に面会に来たものの、歓迎されない立場ゆえ気後れして
会わずに帰ろうとしている同類同士であることに気づきました。

ちなみに撮影時、本当に季節は夏の盛りだったらしく、
この小川真由美始め、ほとんどの出演者は首筋にびっしょり汗をかいています。
今ならメイクさんが拭うんでしょうけど、そのままになっています。

「床屋なら立派なもんじゃないの。どうして会ってやらないの?」

なぜか宮本父、自分が医師であることを隠しています。
そして、

「国のためっていうけど、俺たち貧乏人は国から恩を受けちゃいねえ」

だから会っても激励なんてできない、とついつい日頃の思想を語ってしまうのでした。
ぎんは無邪気に、

「おじさん、そんなこと言ったらアカと間違えられるよ?」

そこで宮本父は、警察で拷問を受け、脚を潰されたことを最後に告白します。
息子が、「父は”びっこ”」と言ったのは、嘘ではなかったのです。

 

そんな宮本父に、ぎんはかまわず恩賜のタバコを(それもつい頭を下げて)
取り出し、渡そうとしますが、まあ受け取るわけないですよね。

ぎんは宮本父が出ていくと、またしてもタバコを拝むように頭をひょいと下げてから
火をつけますが、一口吸ってすぐ消し、

「ん、やっぱり吸い付けたタバコの方が口に合うね」

彼らの生徒生活が軽快な音楽とともに活写されます。
総員起こしのあとの吊り床納めも、手早くできるようになった頃、

9月、辻堂海岸で陸戦訓練の総決算ともいえる野外演習が行われることになりました。

「気持ちいい〜!」

彼らにとって嬉しいのは、民宿の食事と、それから「布団で寝られること」。
わたしが心配した通り、ハンモック就寝はやっぱり結構辛いことなんですね。

大声で歌いながら(またしても『艦隊勤務』)お風呂に入ったり、
枕投げをしたり、まるで修学旅行気分です。

林はいつになくはしゃいで、今までこんな美味しいご飯や
フカフカの布団で寝たことはない、といい、

「俺、海軍にきて本当に良かったと思ってる」

ああああ、それはフラグ(以下略)

ちょっとじーんとなってしまったみんなは、気をとりなおすように
栗本のリードで今度は

「四面海なる帝国を 守海軍軍人は 戦時平時の別ちなく 勇み励みて勉むべし」

と「艦船勤務」を歌い出します。

しかし次の日の紅白戦で事件が起こりました。

林が帯剣(ベルトにつけている短剣)を失くしたのです。

「なにっ!」

「教班長・・・」

この頃の梅雀さん、健気でキュート。声とか可愛すぎ。

とかいってる場合ではありませんね。
日没まで皆でで捜索を行い、さらにその後は工藤と林二人で探しますが、
広い海岸のあちらこちらを走り回っているので、見つかりません。

ついに、工藤は林に宿に一人で帰るように言付けるのです。
それが取り返しのつかない悲劇を生むことになると想像せず・・。

 

陸海軍を問わず、武器の扱いは常に「陛下から頂いたもの」として、
細心の注意が払われるのが常でした。
もちろん自衛隊だって何か部品をなくしたら、全員で出てくるまで探すそうですが、
(『あおざくら』『ライジングサン』参照)そうなった時のプレッシャー、
恐怖感はおそらく今日の比ではなかったと想像されます。

果たして、一人で暗い顔をして夜道を歩いてきた林は、
宿の前でくるりと踵を返してしまうのでした。

一方、切り株に腰掛けてタバコ休憩していた工藤は、
その近くに帯剣を見つけたのです。

宿舎に林が帰っていないことに不安を覚え、総出で必死の捜索を行いました。

「林〜!帯剣は見つかったぞ!」「林〜!」

ああしかし、林は廃屋の梁に首を吊って自殺していたのです。

嗚咽する班員たち。

武器を失くしたことを苦にして自殺する兵隊、というのは
よく創作物で目にしますが、実際にそういうことがあったかどうかは
(あったんでしょうけど)具体的に資料になっているわけではありません。

しかし、気の弱い者や、失くしたことより罰直が死ぬより怖かったりすると、
こういうことも起こったのだろうとは思います。

ちなみに、自衛隊では備品をなくして自殺したという事件はないようですが、
ただ、一人の隊員がなくした銃の捜索のため残業した時間が長く、
(のべ56日間)それが原因で鬱になり自殺、と言う例はあったようです。

そこで工藤は、

「貴様そんな弱虫だったのか!」

と言うや、変わり果てた姿の林を軽々と抱き起こし、頬を往復ビンタ。
いや、遺体の胸ぐら掴んで引き起こすのってそんな簡単じゃないと思う。

それに、普通の神経をしていたら仏様に対しそんなことできませんて。

案の定吉永中尉が色をなし、

「工藤上曹、死者への無礼は許さんぞ!」

その悲しい知らせは岩手の父と母に伝えられました。
へたへたとその場に座り込む母(林八重)。

そして父(加藤武)。

彼は林が給料を全て仕送りしだすと、心を入れ替え、
酒をやめて真面目に働くようになっていたのです。

一つだけ空席になった食事テーブルを囲み、皆表情を硬らせています。

「お前たち、何か俺に言いたいことはあるか」

全員を食後グラウンドに集合させ、木銃を持たせて、

「言いたいことを言えないような女の腐ったようなのに教育した覚えはないぞ」

余談ですが、「女の腐ったの」という言葉は、この頃の映画にしょっちゅう出てきます。
自粛か放送コードか知りませんが、いつの間にか死語になりました。

この言葉は性差別的であると言って終えばそれまでですが、
女性という性そのものを貶めているわけではないと思うのです。

ちゃんとした女性ならそうではない、という意味で「腐ったの」という
「但書」がついているわけで、本来なら女性らしい(とされる)傾向である
「控えめ」「感情を抑える」が腐って悪化すると、
「陰険」「はっきりしない」「明朗でない」等々になるといいたいわけですよ。

まあそもそも「女性らしい」という言葉そのものが差別とされる今日、
「誰かを不快にさせる」この言葉は遅かれ早かれ淘汰されていく運命だったと思いますが。

生徒たちを外に追い立てて、棒術の棒を持たせ、

「俺の胸を突いてこい」

教班長はいうのですが、生徒たちにそんなことできるわけないよね。
皆「やあー!」といいながら代わりに藁人形に突進し、
工藤もまた生徒を押し除けて突撃するのでした。

「弱虫は死ね!」

と繰り返しながら。

そして工藤上曹は志願して転属していきました。

「わたしはフネの方が性に合っているようです」

最後に予備士官である教官たちに向かって、チクリと一言。

「あなた方とは違い、彼らの家庭は世間の庇護が受けられず、
貧乏ゆえに自分たちしか頼るものがない者が多いのです」

そして敬礼をして去っていきました。

いつも虚無的なリアリスト、山中中尉は、

「工藤上曹は生徒たちに負けたんだ。彼らは純真そのものだ」

そしてこんなことを言います。

自分はここに転任命令を受けた時、もう少し生きられるとほっとした。
そんな卑怯な自分に比べ、幼い彼らがその純真さで死を尊いと思い、
生を放棄しているの見て、負けたと思った。

「だから俺もフネに転任願いを出した」

橋本の姉、ぎんが突然弟との面会を求めてやってきました。

艦艇実習で生徒には会えないことを知ると、彼女は、
自分が結婚して満州にいくことを伝えてくれ、と吉永中尉に頼みます。

ところで、彼女が出て行った途端、教官の国枝少尉がいうんですよ。

「あの女、素人じゃないでしょう」

素人じゃなければいきなり「あの女」呼ばわりですかそうですか。
映画スタッフの感覚なのかもしれませんけど、これも失礼よね。

 

しかしその夜、橋本はハンモックで涙に咽びました。
姉が結婚するということが嬉しかったのです。

次の日の手旗信号訓練で、姉の結婚のことを知った江波が橋本に送ります。

「オメデトウ」

喜び勇んで返答する橋本。

「アリガトウ」(´;ω;`)

5月27日の海軍記念日には演芸大会が行われました。
もうすぐ彼らが入隊して1年が経とうとしています。

「寛一お宮」の舞台で江波とともにお宮に扮した橋本が笑いを誘っているその時、

吉永中尉が憲兵隊に呼ばれてみると、そこにはなぜかぎんがいるのです。
彼女は逃亡兵と一緒に満州に行こうとしてつかまってしまったのでした。
結婚するというのは彼女の希望にすぎなかったようです。

ここでよくわからないのは、吉永中尉とぎんを憲兵隊の剣道場で面会させ、
その生い立ちから二人の馴れ初めまでを語らせる憲兵隊の意図です。

帰ってきた吉永中尉は本当のことを橋本に話しそびれます。
いや、ちょっとこれはいくら言い難くても告げるべきでは?

さて、秀才の江波が砲術学校入校を命じられた日、
校長であったかれの父が急死したと知らせがありました。

学校を辞めて軍需工場で働いていたところ、鉄材の下敷きになったのです。

父が学校を辞めた理由は、自分の生徒を海兵団に送り込み、結果的に
彼らを死に追いやることに加担している罪の意識に耐えられなかったからでした。

一人残され、息子だけは戦地に行って欲しくないと必死にすがる母に、江波は

「僕は生まれなかったものと思ってください」

と冷たく言い捨てて故郷を後にします。

 

そして、次の瞬間、彼らは砲術学校を卒業し、同日のうちに
硫黄島海軍守備隊への配属を命ぜられていました。

 

硫黄島で戦闘を行なった海軍部隊は総勢7500名ほどでしたが、
航空戦隊と設営隊、そして警備隊からなるもので、
ここにどのくらい特年兵がいたかはわかりません。

ただ、実際にありえないこととして、海兵団の同班だった江波らが
ここでも同じ部隊におり、中隊長は教官だった吉永中尉、おまけに
工藤教班長までおなじ部隊にいたりします。

昭和20年2月16日、米海軍機動部隊の500隻が硫黄島を包囲しました。

島の形が変わるほどの艦砲射撃と砲撃で戦力は消耗していき、
わずか数日で陸海軍の守備隊は壊滅状態に陥りました。

洞窟に身を隠す彼らの耳に、米軍の投稿を呼びかける声が聞こえてきます。
手榴弾を投げ込んだだけで行ってしまいますが、実際ならもっと執拗だったはず。

そして、ついに最後の時がやってきました。
栗林中将発信の電文は、最後の総突撃、玉砕を慣行する旨伝えてきていたのです。

中隊長である吉永中尉は、同時間に万歳突撃を決心しました。

しかし、吉永中尉は、4名の少年たちには突入でなく「待機」を命じます。

年少兵を玉砕に巻き込むのは忍びず、たとえ見つかったとしても
アメリカ軍も子供である彼らを殺すことはないだろうと考えたのでした。

一緒に突入させて欲しい、と必死で頼む彼らでしたが、
吉永ははねのけ、待機場所への出発を命じました。

「江波上水以下4名、出発します」

そこで彼らの後を追って立ち上がったのが工藤でした。
制止する吉永中尉に、工藤はこう言い遺します。

おそらく「そういう教育」を受けてきた彼らは捕虜になることを望まず、
軍人としての行動を取って殺されるであろうから、私は一緒に死んでやると。

「もう遅いのです。そう彼らにさせたのはわたしであり、あなたです」

工藤の考えた通りでした。

自分たちだけで突入し、玉砕することを決めた少年たちは、死を前に
生まれて初めての恩賜の煙草を咽せながら吸い、各々の思いを語り合います。

自分が死んだら姉も少しは肩身が広くなるだろう、と橋本。

喧嘩別れしたが、自分を育ててくれたやさしい父親だった、と宮本。

そして、父が死んだときのように会津武士の妻である母は、
皆の前では涙ひとつ見せず、また納戸に隠れて泣くだろう、と栗本。

そして全員で「海行かば」を歌いました。

そのとき、彼らは見たのです。
自分たちを追ってやってきた工藤教班長が銃弾に倒れる姿を。

敬愛する工藤教班長の後を追うかのように、彼らは次の瞬間
一斉に突入し、わずか14年の若い命を散らせていきました。

映画は最後に、海軍特年兵戦死者の名簿と碑を映し出します。

東郷神社境内にある特年兵の碑文にはこのような文が捧げられています。

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のための 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

 

ジッポーライターが語るベトナム戦争〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターの特別展、「ベトナム戦争展」より、
展示物をご紹介しながらベトナム戦争について考察しています。

 

■ 哲学者のヘルメット

激戦となったハンバーガーヒルで戦った、ニューヨーク・クイーンズ出身の
サル・ゴンザレスが装着していたヘルメットが展示されています。

左の方には「ピース・アンド・ラブ」の言葉とピースマーク、

フィリス ケイティ ロンダ ジュディ

という女性たちは彼のかつての恋人でしょうか。

彼は哲学的な文句をヘルメットに細々と書き込んでいて、
その内容がなかなか興味深いので、原文と翻訳を挙げておきます。

Hail to our learning in combat!
Forgive them father for they know not what they do!

我々の戦闘における教えに万歳!
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているか知らないのですから

 We are the unwilling, led by the unqualified doing the unnecessary, for the ungrateful

我々は不本意ながら、不適格者に率いられ、不必要なことを、恩知らずな者のために行う

Our fathers have lost their way, that my friend is why you’re here today

我々の父親たちは道を踏み外してしまった 友よ、それが今日君がここにいる理由だ

When you have nothing you have nothing to lose

何も持っていなければ 失うものは何もない

Old soldiers never die-just young ones

老兵は死なず ただ若兵が死にゆくのみ

 

これらの隻句が全てこのゴンザレスさんのオリジナルなら、
彼はなかなかの思索家であり、インテリだったと思われます。

特に最後のは、マッカーサーの有名な言葉をもじっていて秀逸です。

展示物の説明にこの哲学者がハンバーガーヒルでどうなったのか、
全く触れられていないのですが、このヘルメットについては

「ベテランのサルバドールが着用していた」

と説明があるので、おそらく彼はこの戦いで生き残ったのでしょう。
だとすればヘルメットにうっすらと見える血痕は、誰のものなのでしょうか。

 

■ 予備士官パイロットとアークライト作戦

パイロットのオキシジェンマスク付きヘルメットと、本人のIDが展示されています。
これからわかることは、

名前:リチャード・G・ナルショフ(Richard Narushoff)

所属:アメリカ空軍

階級:エアフォースROTC-少尉

ナルショフ氏はピッツバーグ在住で、地元のデュケイン(Duquesne)大学で
ROTC(予備役将校訓練課程:Reserve Officers' Training Corps)終了後、
空軍に加わり、1969年にはB-52爆撃機のナビゲーターとしてベトナムに参戦しました。

ヘルメットだけでなく、フライトスーツも展示されています。
いずれも本人の寄贈によるものです。

ナルショフ氏はベテランとして戦争体験を語る「オーラルヒストリー」に参加しています。

翼の生えた剣が城壁の前に立ちはだかっている意匠の舞台章、
空軍の名札には、通称である「リッチ・ナルショフ」とあります。

ナルショフ氏がB-52勤務で使用していたナビゲーション用の品々。
ストップウォッチ、フラッシュライト、機内で使用した低空地図、
計算用のメジャーなどです。

B-52は長距離爆撃機で、7万ポンド(3トン強)の爆弾と核爆弾を搭載することができます。
ナルショフがナビとして参加したのは「アークライト作戦」の一環で、
タイ、グアム、沖縄、日本(なぜか現地の説明は別々に書かれている)
そしてフィリピンの基地から飛び立ってラオス・カンボジア上空でミッションを行いました。

「アークライト作戦」(Operation Arc Light)とは、1965年に開始された
グアムに駐留するB-52 ストラト・フォートレスを用いた爆撃作戦です。

アークライト作戦は敵ベースキャンプ、集結地、補給線などに対して行われ、
爆弾は地上からは全く機体を確認できない高度30,000フィートから投下されたため、
気がつけば空から爆弾が降ってきた、という状態だったそうです。

この作戦以降、ベトナム戦争中は「アークライト」という言葉が

「近接航空支援のプラットフォームとしてB-52を用いる」

という意味で使われ、コードネーム にもなっていました。

ナルショフ氏は無事で帰還することができましたが、この作戦で
1965年6月から1973年8月の間にアメリカ空軍は31機のB-52を失いました。

うち18機は北ベトナムで撃墜されています。


■ ベトナム戦争ベテランのアートグループ

シカゴに「National Veterans Art Museum」なるミュージアムがあります。

ベトナム戦争やその他の戦争・紛争の退役軍人が制作したアートを
展示・研究している施設です。

エントランスホールの天井には、ベトナムで亡くなった米軍兵士を表す
58,226枚のドッグタグが吊るされています。

この美術館の使命は、米国のあらゆる軍事紛争に参加した退役軍人による
アート作品の収集、保存、展示を通じて、戦争の影響に対する理解を深めることです。

250人以上のアーティストによる約2,500点の芸術作品が展示されており、
老若男女を問わず、軍事紛争に肉体的・精神的に関与した人々の視点から
戦争を理解してもらおうという試みであり、また、退役軍人に
戦闘や兵役の経験を芸術的に表現する場を提供するという使命を負っています。

オンライン・コレクション

ここに展示されているのはその中から、

ブルース・サマー(Bruce Sommer)氏の「Anguish」(苦悩)

という作品です。
苦悩に歪む男の顔。
過酷な体験そのものなのか、それともそれを体験した記憶なのか・・・。

■ WARTIME SAYINGS  ON ZIPPOS(ジッポーの語る戦争)

全く知らなかったのですが(というか考えたこともなかったのですが)
ジッポーライターというものの生産地は、ここペンシルバニア州です。

1932年に誕生したオイルライター、ジッポーは、ベトナム戦争に行った
250万人のアメリカ将兵の必需品といっても過言ではありませんでした。
それくらい戦場ではタバコが必須だったのです。

ジッポーの表面は柔らかいクロームプレートで覆われており、そのため
彫刻が容易で、個性的な表現のためのキャンバスともなりました。

出征してきたアメリカ人に対し、そのための基本的なツールを備え、
ジッポーライターにストックスローガンや画像を掘り込んで提供するのは
ベトナム人の業者にとって大変「美味しい」ビジネスとなったようです。

軍用車両や航空機、武器、ユニットの紀章、
駐在したベトナムの地図やたわいもない落書きめいたもの、
ピンナップガール風にピースマーク、警句など、
モチーフは様々で、彼らはこぞってそれで「自己表現」を行いました。

ここには全部で280個のライターが展示されています。
それらを一つ一つ見ていくと、1960年から70年にかけて、戦地に赴いた
アメリカ人たちの考え、ユーモア、そして勇敢さを垣間見ることができます。

FROM THE WORLD, BEYOND BEYOND
THERE DOMES A PLACE CALLED VIET-NUM

「世界の果てのその果てに 
ベトナムと呼ばれる場所がある」

こんな言葉を刻印した兵士もいました。

この展示は、

「The  John and Jennifer Monsky Zippo Collection」

からの出展です。

■ ベトナム戦争の象徴としてのジッポー


このコーナーにはここに展示されている以外の軍人ジッポーが
備え付けのiPadで観覧できるようになっていました。

海軍軍人はやはり自分の艦の姿を刻む人が多いのかも知れません。

このような彫刻が施されたジッポーは、終戦後も多く残っており、
コレクターの間で大金で取引されているそうで、ちょっと検索すれば
アマゾンやebayでベトナム戦争のジッポーはすぐに見つけることができます。

(なので、時々偽物が流通しているのだとか)

一目でわかるこのライターに刻まれたイメージやスローガンは、
故郷から遠く離れた場所で兵役に就き、戦い、そして
死んでいった若者たちの心や人生を痛切に感じさせてくれます。

発売以来、ジッポーライターは、アメリカ軍と長い関わりを持ってきました。

真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に突入すると、ジッポー社は
ライターの一般消費者向け販売を中止し、軍用のみに生産を切り替えています。

戦争に突入すると同時にジッポーライターは製造法も変えました。
平時に使われていた原材料は戦時中軍需生産に振り向ける必要があったため、
ジッポー社はスチールに「黒ひび割れ加工」を施すという製造法に変えました。

そしてジッポーライターはベトナム戦争の象徴ともいえる存在となります。

ベトナム戦争に参加した米軍兵士のほとんど全員がジッポーライターを携帯しており、
そのため、興味深く、時に感傷的なカスタマイズライターが生まれたのです。

ライターに刻まれたスローガンやイメージの多くが、
ベトナム戦争の典型的なイメージとなったわけですが、当初そのデザインは
多くが軍人であることに誇りを持ち、自分が戦っている目的を強く信じるがゆえに
自分の所属する部隊名やバッジ、標語など愛国的なものが中心となりました。

しかし、ベトナム戦争は、公民権運動、ビート・ジェネレーションやヒッピー運動、
ロックンロールの反乱、そして反戦運動などの高まりと反比例して、
年を追うごとに「不人気」となっていったのです。

多くの若者が志願して戦争に参加した一方で、労働者階級やマイノリティ社会から
不本意ながら徴兵され、興味のない戦争に参加させられた若者もいて、
ジッポーライターのスローガンの中で心に響くものの多くは、
得てしてこの後者の若者たちから生まれたものであるのが、言うなれば
他にはなかった独特の傾向だったということでしょう。

"死にかけるような体験をするまで、本当に生きたとはいえない
人生には、戦うものだけが知る味があり、それは守られている者には決してわからない”

死の淵から帰ってきた兵士の言葉です。

 

おそらくベトナムに出征するまでは日本にいたのであろう兵士の
鳥居を象った部隊章のジッポーライターの左側には、
元々刻まれていた意匠が全くわからなくなるほど完璧に
弾痕がくっきりと刻まれた「銃痕ジッポー」があります。

このライターによって、持ち主はもしかしたら致命的な傷を免れ、
一命を取り止めたのかもしれません。

 

続く。

ソンミ村大虐殺とトンプソン准尉の勇気〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」は、どちらかというと
参加したアメリカについて言及している展示物が多く、
ベトナム軍についてはほとんど語られていないという印象ですが、
「ベトナム人の受けた災厄」として象徴的となった例の

「サイゴンの処刑」

「川を脱出する家族」

の他には、やはり世界に衝撃を与えたこの写真(の掲載された本)
つまりアメリカ国民に衝撃を与えたページが見開きで展示してありました。

■ Mỹ Lai massacre ソンミ村虐殺事件

ミーライ大虐殺( Thảm sát Mỹ Lai)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日に、
南ベトナムのソンティン地区で米軍が非武装の南ベトナム市民を大量に殺害した事件です。

このとき、第23歩兵師団第11旅団、第20歩兵連隊第1大隊C中隊、
第23歩兵師団第3歩兵連隊第4大隊B中隊の米軍兵士により、
347人〜504人の非武装の人々が殺害されました。

犠牲者の数に大幅な違いがあるのは、正確な数がいまだに把握できていないからです。

犠牲者は、男性、女性、子供、乳児など多岐にわたり、26人が起訴されましたが、
最終的に有罪となったのはC中隊の小隊長ウィリアム・カリー・ジュニア中尉だけでした。

カリー中尉は22人の村人を殺害した罪で有罪となり、当初は終身刑の判決を受けましたが、
自宅謹慎のまま3年半だけ服役しあとは釈放されています。

後に、

「ベトナム戦争で最も衝撃的なエピソード」

と呼ばれたこの戦争犯罪は、アメリカでは「ミライの虐殺」、
ベトナムでは「ソンミの虐殺」と呼ばれています。

1969年11月に公になると、この事件は世界的な怒りを引き起こしました。

ことに殺害の範囲や隠蔽工作が明らかになったことで、
アメリカのベトナム戦争参戦に対する国内の反発を呼ぶことにもなったのです。

しかし、後述しますが、当初、虐殺を止めようとした3人の米軍人は、
一部の米議会議員や国民から裏切り者として糾弾されたりしています。

かれらが戦地で非戦闘員を保護したことで米軍に認められ、
死後1名が勲章を授与されたのは、事件から30年後でした。

 

■ 事件までの経緯

第23歩兵師団第11旅団、第20歩兵連隊第1大隊のチャーリー(C)中隊は、
1967年12月に南ベトナムに到着しました。

最初の3ヶ月間は、ベトナム人民軍やベトコン軍との直接戦闘はなかったのですが、
3月中旬までに中隊は地雷やブービートラップによる28人の死傷者を出し、
さらにミライでの虐殺の2日前に、中隊は人気のある軍曹を地雷で失ったばかりでした。

1968年1月のテト攻勢の際、米軍情報部は、敵がソンミ村に避難し、
村人が彼らを匿っているという情報を持っていました。

そこでソンミでの敵捜索作戦に投入されたのがA・バーカー中佐率いる
タスクフォース・バーカー(TFバーカー)で、彼らの呼ぶところの
『ピンクの村』での掃討作戦が計画されました。

「積極的に侵入し、敵に接近し、永久に彼らを一掃せよ」

という命令を受けたバーカー中佐は、大隊司令官たちに、

「家を燃やし、家畜を殺し、食糧を破壊し、井戸を破壊し、毒を盛るように」

と命じたとされます。

裁判での証言によると、攻撃前夜、チャーリー中隊のアーネスト・メディナ大尉は、

「民間人は市場に行っているはずだから残っているのはベトコンかそのシンパだ」

と言ったというのですが、小隊長たちは、メディナ大尉の命令は

「ベトコンと北ベトナムの戦闘員、女性や子供、動物も全て容疑者だ。
彼らを殺し、村を燃やし、井戸を汚すように」

「歩いているもの、這っているもの、唸っているものすべて破壊せよ」

というものだったと口々に証言しました。

3月16日の朝、メディナ大尉率いるチャーリー中隊の約100人の兵士が、
ヘリコプターでソンミに着陸し、村に入り、田んぼや草むらにいる人に発砲しました。

 

村人たちは最初はパニックになったり逃げたりしませんでしたが、
彼らに対する殺害は何の前触れもなく始まりました。

兵隊は村人を銃で殴り、井戸に投げ入れてその上から手榴弾を投げ込みました。
寺の周りに跪いて泣きながら祈りを捧げていた女性や子供たちは
全員、頭を撃たれて殺されました。

右側の男の子を左手で抱いた女性は、虐殺の前に性的暴行を受けたため、
自由な右手で衣服のボタンを留めています。
証言によると、彼女を含む全員がこの写真が撮られた数秒後射殺されました。

 

ゾムランでは約70~80人の村人が集落のはずれにある灌漑用の溝に押し込まれ、
ウィリアム・カリー少尉の命令によって兵士たちに射殺されました。

命令は何度も繰り返され、ある兵士はM16ライフルの弾倉を数本使い切ったと証言しました。
その際、女性たちは、

「ノーベトコン」(わたしたちはベトコンじゃない)

と言って子供をかばおうとしましたが、中隊は、
赤ん坊や幼児を抱いた10代から老齢までの男女を撃ち続けました。

なぜ民間人にここまでしたかというと、アメリカ兵の多くは
村人たちが全員手榴弾で攻撃してくると思っていたからでした。
(だと証言しています)

検察側の証人である下士官のデニス・コンティは、

「多くの女性が、子供を守るために覆いかぶさったため、
銃撃が終わっても何人かの子供たちは生きていた。
その後、歩ける年齢の子どもたちが立ち上がると、カリーは彼らを撃ち始めた」

と語りました。
集落の敵への支援を断つという理由で、家畜にまで殺戮は及びました。

マイケル・ベルンハルトPFCが通りかかったとき、虐殺は進行中で、

「歩いていくと、こいつら(法廷にいる男性たち)が変なことをしていました。
建物に火をつけて、出てくる人を銃撃したり、小屋に入って銃撃したり、
村人を集めてからまとめて銃撃したり・・。

村中に人の山があちこちにありました。
まだ生きている人たちにM79グレネードランチャーを撃ち込んでいました。

彼らは、女性や子供も普通に撃っていました。
私たちは抵抗を受けず、犠牲者が出たわけでもない。

他のベトナムの村と同じように、「オールド・パパサン」(なぜ日本語)
や女性、子供たちがいましたが、実のところ、死んでいようが生きていようが、
軍人年齢の男性は一人も見た覚えがありません」

ソムランの南側にある未舗装の道で殺された村人のグループ。

この写真を撮影した陸軍のカメラマン、ロナルド・ヘーベルの目撃証言によると、

「女性や子供も含めて15人くらいが90mくらい離れた土の道を歩いていました。
突然、GIがM16を撃ち、M79グレネードランチャーを人々に投げ始めました。
自分が見ているものが信じられませんでした」

作戦最後の日、二つの中隊はさらなる住居の焼き討ちと破壊に関与し、
ベトナム人の抑留者に対する継続的な虐待を行っています。

軍事法廷では、チャーリー中隊には殺害に参加しなかった者がいたものの、
公然と抗議したり、上官に意見を申し立てていないことも指摘されました。

午前中までに、チャーリー中隊のメンバーは何百人もの民間人を殺し、
数え切れないほどの女性や少女を強姦したり暴行しました。

ミライで武器を見つけられず村人がベトコンである可能性は無くなった上、
彼らからの攻撃どころか反撃も全くなかったにもかかわらず。

 

■ ヘリコプター乗員が試みた虐殺阻止

アメリカ師団第123航空大隊B中隊(エアロ・スカウト)のヘリコプターパイロット、

ヒュー・トンプソン・ジュニア准尉
(Warrant officer Hugh Thompson Jr.)

が地上部隊への近接航空支援のためにソンミー村上空を飛行していると、
地上に死傷している民間人を発見し、現場に着陸しました。

 

トンプソンはそこで出会った軍曹(第1小隊のデビッド・ミッチェル)に、
この人たちをを溝から出すのを手伝ってくれないか、と尋ねましたが、
軍曹は、

"help them out of their misery". (溝よりこの悲惨な状況から出してやったらどうですか)

と答えるだけでした。
ショックを受けて混乱した彼は、その後カリー少尉とこんな会話をしています。

「トンプソンです。ここで何が起こっているんですか、少尉?」

「カリーだ。これは私の仕事だ」

「これは何です?この人たちは誰ですか?」

「ただ命令に従っているだけだ」

「命令?誰の命令ですか?」

「ただ従っただけだ」

「しかし、彼らは人間であり、非武装の民間人ですよ?」

「いいかトンプソン、これは私のショーだ。
私がここを仕切っている。君が気にすることではない」

「ええ、立派なお仕事ぶりですね(Yeah, great job.)」

「 ヘリに戻って自分のことに専念したほうがいいぞ」

「これで済むと思わないでくださいよ!(You ain't heard the last of this!)」


トンプソンがこの後ヘリを離陸させたとたん、
ミッチェルが溝の人々に向かって発砲を始めました。

トンプソンはその後、壕に集められたベトナム人たちに
アメリカ兵たちが近づいていくのを発見したので、近くに着陸し、

「私が村人を壕から出すので、もしその間、
兵隊が逃げる人たちを撃ったら発砲して止めても構わない」

とヘリ乗員部下のコルバーンとアンドレオッタに第二小隊に銃を向けさせ、
そこにいた中尉(第2小隊のスティーブン・ブルックス)に、

「壕には女性と子供がいます。
彼らを脱出させるのを手伝ってくれませんか」

と頼むと、ブルックス中尉は

「彼らを脱出させるには手榴弾を使うしかない」

と言いはなったのですが、トンプソンは中尉に部下の制止を頼んで壕に入り、
怖がる12~16人の民間人をなだめすかしてヘリコプターに連れて行き、
全員を友人のUH-1パイロット二人の助けを借りて、2機のヘリに分乗させました。

しかし、ここまででトンプソンが見たものはこの戦争犯罪のごく一部だったのです。

ミライに戻ったトンプソンと乗員たちは、いくつかの大きな遺体の山を発見しました。
彼らはヘリを着陸させ、乗組員長のグレン・アンドレオッタ特技兵4が溝に入り、
無傷で生存していた4歳の少女を発見して、安全な場所に運びました。

他にも生存している子供を見つけ病院に搬送した後、トンプソンは
本部に飛び、上官に虐殺の事実を怒りを込めて報告しています。

彼の報告はすぐに作戦の総指揮者であるフランク・バーカー中佐に届き、
バーカーは直ちに地上部隊に「殺戮」をやめるよう無線連絡しました。

その後の同様の作戦は同じ事態になる恐れから中止され、
このことは数百人レベルの民間人殺戮を防いだといわれています。

 

■ その後

そしてミライでの一連の行動に対して、トンプソンは特別空軍十字章を授与され、
アンドレオッタと砲手のローレンス・コルバーンは銅星章を授与されました。

その後、グレン・アンドレオッタは1968年4月8日にベトナムで戦死したのですが、
彼の死後に授与された勲章やトンプソンが授与された勲章の引用文は
上層部が虐殺の事実を隠蔽しようとする思惑から、

「ミライで少女を『激しい十字砲火』から救出した」
「的確な判断により作戦地域におけるベトナム人とアメリカ人の関係を改善した」

と捏造した記述が含まれていたため、トンプソンは怒って賞状をを捨てました。

戦後30年近く経った1998年、トンプソンのヘリコプター乗員の勲章は、

敵との直接的な衝突を伴わない勇敢さに対して米軍が授与できる最高の勲章

とされる

ソルジャー・メダル(Soldier’s Medal)

に変更されました。

SoldMedal.gif

このときの勲章の引用文には、

「ミライで行われた米軍による不法な非戦闘員の虐殺の際、少なくとも
10人のベトナム民間人の命を救った、任務を超えた英雄的行為に対して」

と書かれていたのですが、それでもトンプソンは当初、受賞を拒否しています。

■ 同国人からの誹謗中傷

トンプソンは事件についてペンタゴンの公式調査で証言しました。

ワシントンDCに召集され、下院軍事委員会の非公開の特別公聴会に出席したところ、
そこで彼は、アメリカ軍による虐殺事件を隠蔽しようとしていた議員たち、特に
メンデル・リバーズ委員長(民主党)は仲間のアメリカ軍に武器を向けたことで
トンプソンだけが処罰されるべきであると公言し、彼を激しく非難した上、
なんなら軍法会議にかけようとまでしましたが、失敗に終わりました。

L Mendell Rivers.jpgリバーズ下院議員

トンプソンは、アメリカ軍人を告発する証言をしたことで、
多くのアメリカ人から悪者扱いされ、誹謗中傷を受けることになりました。

2004年に出演したテレビ番組では、

「電話で死の脅しを受けたり、.朝起きるとポーチに死んだ動物や
切り刻まれた動物が置かれていたりしました」

と告白しています。

■ 軍法会議と戦後

この事件で殺された民間人の数はは資料によってまちまちで、
今に至るまで正確な人数は分かっていません。

虐殺現場の慰霊碑には、1歳から82歳までの504人の名前が記されていますが、
アメリカ軍の公式推定値は347人と低めの数字です。

そもそもアメリカ軍は当初この作戦について、「激しい銃撃戦の末」
「128人のベトコンと22人の民間人が死亡した」と発表していたのです。

1970年11月17日、軍法会議で、司令官のコスター少将をはじめとする
14人の将校が、事件に関する情報を隠蔽した罪で起訴されましたが、
後にほとんどが不起訴となりました。

カリー中尉は一貫して、

「自分は指揮官であるメディナ大尉の命令に従った」

と主張しましたが、判決では20人以上の計画的な殺人の罪終身刑を宣告されました。
これは起訴された中で唯一の有罪判決となりました。

のちにカリーの判決は、終身刑から20年に短縮され、
裁判開始から4年後には仮釈放されています。

一方メディナ中尉は虐殺につながった命令をしたことを否定し、
すべての罪を免れ、無罪判決を受けましたが、数ヵ月後、彼は
証拠を隠蔽し、民間人の死亡者数について嘘をついたと認めました。

虐殺に関わった一人の分隊長は、誰でもその場にいたら
ああするしかなかった、と2010年になって語りました。

「ミライについて話すと、ほとんどの人は
『まあそうなんだけど、違法な命令なんだから従うべきではなかったよね』
というんですよ。

でも信じてください。そんなことはできないんですよ。
軍隊でそんなことは不可能なんです。
もし戦闘状態で、いやそれはできません、その命令には従えません、
といったとしたら、壁の前に立たされて撃たれるだけです」

ミライでの虐殺記念日には毎年関係者が集まり続けました。
その中には、あの日トンプソン准尉に命を助けられた14歳の少女、
8歳の少女などが出席していました。

 

2009年になって、沈黙してきたウィリアム・カリー氏は、初めて
公式に虐殺について謝罪しました。

「あの日、ミライで起こったことを後悔しない日はありません。
殺害されたベトナム人やその家族、巻き込まれたアメリカ人兵士や
その家族にも申し訳ないと思っています。大変申し訳ありませんでした。

なぜ命令を受けたときに立ち向かわなかったのかと聞かれれば、
私は少尉で指揮官から命令を受け、愚かにもそれに従ったと言わざるを得ません」

しかし、当時7歳だった生存者の男性は、この謝罪を
 
"terse"(簡単な、そっけない)

ものだと評し、時間が経っても和らぐことのない痛みが残ることを
彼に思い出させるために、自分や多くの家族の置かれた窮状を説明した
公開書簡をあらためてカリー氏に送りつけました。

「戦争だったから」

という言葉は彼にとって殺戮行為へのなんの釈明にもならなかったようです。
彼はあの日のことを許していないし、これからも許すことはないのでしょう。


続く。

 

終戦と「ナパームガール」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ベトナム戦争が終わり、兵士たちが帰国を行います。

■ AFTERMATH(ベトナム戦争の影響)



ベトナム戦争における軍事従事者の死亡数

58,315  アメリカ軍

162,000〜220,000 南ベトナム軍

820,100〜1,100,000 ベトコン/北ベトナム軍

5,200 連合軍

ベトナム戦争は肉体的、精神的な傷を負った多くの人々を含め、
世界中の人々にとっていまだに生きた記憶であり続けています。

ベトナム戦争は、国内及び世界に計り知れない深刻な影響を及ぼし、
20世紀の歴史に一際深く刻まれた出来事となりました。

アメリカでは、戦争が提起した根本的な問題、深い分裂、そして
戦争が明らかにした市民参加の力が、その後の国の在り方に大きく関わっていきました。

■ 帰らなかった兵士

ボストン大学を卒業してフリーランスの通信員としてベトナムに渡った
ディック・ヒューズは、テト攻勢後の混乱したサイゴンで
犯罪をしたりポン引きをして生きていた現地の男の子12人を
借りた家に呼び寄せ、一緒に暮らしていました。

彼が到着したのは1968年の4月でした。
到着した途端、彼はサイゴンのストリートチルドレンに話しかけていました。

「彼らは路上で寝ていて、いつも浮浪者として逮捕され、
どこかの刑務所に連れて行かれていました。
もし十分な広さの家を手に入れたら、この子たちに
居場所を提供できるのではないかと思ったのです」

彼は

「シューシャイン・ボーイズ・プロジェクト」Shoeshine boys project

を組織し、ベトナム人のスタッフ・ボランティアを雇って、
7つの新しい家を開設しました。

最終的には、2500人のホームレスの子どもたちに住居と職業訓練を提供しています。

アメリカに帰るとテレビ番組にも出演して、募金活動を行いました。
1975年4月30日に共産党が南ベトナムを制圧したときも、
ヒューズは逃げずにサイゴンに留まり、1年以上も仕事を続けました。

上の写真は、床屋で見習いを始めた少年が、さっそく
ヒューズの髪を梳かしているところです。

ディック・ヒューズは、帰国後、俳優としての活動に加えて、アメリカ政府や
アメリカの化学会社に対して、枯葉剤によるベトナム人被害者への支援を働きかける、
という活動にも深く関わり続けました。

 

■ 帰れなかった兵士

もうこのブログではお馴染みのPOW/MIAのマークとブレスレットですが、
このブレスレットの名前、

マイケル・エストシン少佐(LCDR Michael Estocin)

に皆さん覚えがありませんか。
当ブログではどこかのMIA案件の紹介の時にこの人のことを書いたことがあります。

海軍パイロットで名誉勲章を授与されたエストシン大尉(当時)は、
ベトナムへは三度にわたって派遣され任務を行いました。

36歳の誕生日をあと1日に控え、しかも故郷での休暇があけてわずか数日後、
彼の操縦する飛行機は任務中行方不明・未帰還となりました。

彼の機体が墜落したのか着陸できたのかについては相反する報告があり、
どちらかわからず遺体も未発見のまま公式に死亡宣告されました。

彼の名前に敬意を表して名付けられた

ミサイルフリゲート 「エストシン」USS Estocin, FFG-15

は1981年に海軍予備艦隊の一部として就役し、2003年まで運用されました。

ゲイリー・ラドフォード(Gary Radford)・右と友人だった
ルイス・ホワード(Lewis Howard)。

ピッツバーグ出身のラドフォードとジョージア出身のホワードは、
同じ中隊に配属され、そこで親友となりました。

出身地も人種も違う二人ですが、とても馬があったようです。

砲兵隊の小隊長だったラドフォードとその部下になったホワードは
同じ戦場で戦闘任務にあたっていましたが、ホワードは戦闘中行方不明、
つまりMIAになりました。

ホワードの家族に、彼が行方不明(おそらく死亡)であること、
彼が亡くなった時の戦闘の状況をラドフォードが誠実に書き記し、伝えた手紙です。

ホワードが最初ライフルマン、次いでラジオトランスミッターのオペレーターで、
任務中は重たい機器を常に扱う激務だったが彼は自分のそばにいつもいて、
親友というかもうすでに家族同様だった、と書かれています。

ホワードがMIAになったのは1970年ですが、この手紙は
それから19年後、遺族の住所が明らかになったのか、
ラドフォードがそういうことができる状態になったのかはわかりませんが、
1989年の日付でホワードの家族に送られました。

 

冒頭写真は帰国するアメリカ兵たちですが、そんななかの一人であった
ジョージ・クニス(George・Kniss)の日記にはこんなこと書かれています。

「・・・・して戦場に戻ってきた。
明日になれば、今日の会議や合意事項の詳細が聞けるだろう。
しかし、グループのリーダーたちは諦めて、リーダーの
”腰を据えた新たな条件”に合意し、戦場に戻っていったようだ。
これはクーデターのようなもので、しばらくの間、事態は急展開した。

クーデターとベトナム政府の2回の再編を見た後、
私はこの状況全体に魅了されたような気がする。
また、私はここの全てに嫌気がさし、無関心になってきた」

■ 徴兵廃止

SOME OF OUR BEST『MEN』ARE WOMEN.

「men」は普通に兵士たちの意味で使われるので、この、
(今ではポリコレ的にかな〜り問題のありそうな)ポスターの意味は、

「我々のベスト『メン』の何人かは女性です」

となります。

1973年、アメリカは徴兵制を廃止して志願制度に切り替えました。

多様な政治的視点を持つアメリカ人が徴兵を終わらせた理由というのは、
公平性、個人の自由、良心の自由、そして不当な戦争への否定などがあります。

その後、兵役はもはや市民の義務ではなくなりました。

そこで、アメリカ軍はこのような志願者を募るポスターに工夫を凝らし、
特にのリクルートに力を入れる方向に舵を切りました。

 

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展の展示には、一際目立つ
このようなジュラルミンのトランクとその中身があります。

これは、

ローズ・ガントナー(Rose Gantner)

という女性がベトナムに携えていった私物です。

ローズはピッツバーグ出身で、この写真も市内にかかる
ピッツバーグのトレードマークである橋のたもとで撮られています。

写真が撮られたのは1967年7月で、彼女が一度ベトナムに赤十字から送られた後、
帰ってきて故郷で1ヶ月だけを過ごしたときのことでした。

 

ローズが二度目のベトナムツァーを終えたとき、彼女は持っていったアイテムを
全てこのトランクに詰めこんで、ピッツバーグの実家に送り、
それっきり戦後の生活の中ですっかりそのことを忘れていました。

彼女がトランクの存在をふと思い出し、次にトランクを開けたのは30年後です。
それは彼女にとって「ベトナム時代のタイムカプセル」となりました。

ここでも一度お話ししましたが、ローズがベトナムにいったのは、
彼女が兵士たちを精神的に慰め、楽しませる「ドーナツ・ドリー」だったからでした。

トランクの中には、彼女が戦地で兵隊のレクリエーションに使用したゲームや、
香港に行った時に母親と姉妹のために購入したシルクのチャイナドレスや、
(彼女はそれを配ることすら忘れていたようです)サイゴンの市場で買った小物、
ドーナツ・ドリーとして必携だったソーイングセットなどがそのまま出てきました。

彼女自身がベトナムで過ごすための生活用品、例えば携帯ヒーターやポケットナイフ、
「ファティーグ」ユニフォームのセット、そして彼女の宗教である
ロシア正教のイコンなど、戦地での生活と快適さのためのアイテムが詰められています。

ローズ・ガントナーのトランクは、アメリカ赤十字の支給品です。

ローズのトランクの蓋の裏にはこんな認識のための紙が貼られています。

ベトナムに「ドーナツ・ドリー」などボランティア人材を派遣する部署のもので、
ローズの所属はアメリカ赤十字、彼女は旧姓で名前を記されています。

武器や発火物を入れないこと、など、内容物に関する注意書きがあります。


■ ナパーム・ガール

"ナパーム・ガール "は、1972年、ベトナム戦争の恐怖を世界に知らしめた有名な写真です。

この写真には、9歳の少女が裸で助けを求めて叫び、走っている姿が写っています。
彼女は、ベトナムのタイニン省チャンバンという小さな村で、
米軍のナパーム爆撃を受けた後、幸運にも生き残った一人でした。

1972年6月7日、北ベトナム軍(VNA)が南ベトナムの町チャンバンを占領しました。
VNAは、空爆や砲撃を避けるために、村人の中によく潜入していたのです。

多くの村人は逃げ出して村の仏教寺院に避難しました。

その中には『ナパーム・ガール』、ファン・ティ・キム・フックもいました。
2日目になると、戦闘はどんどん寺に近づいてきた。
寺院から逃げようとした村人は不幸な運命をたどりました。

VNAを殺すために、ナパーム弾を含む爆弾が村に降り注いだのです。

AP通信社のカメラマン、ニック・ウト(Nick Ut)が撮影したこの写真は、
逃げ惑う村人、南ベトナム兵、報道カメラマンに囲まれて裸で走る少女の姿が
全世界に衝撃を与え、ベトナム戦争そのものを象徴する一枚となりました。


写真のキム・フックは何事かを叫んでいるように見えますが、
後年彼女自身が語ったところによると、それは

「Nóng quá, nóng quá」(『熱すぎる、熱すぎる』)

という言葉だったそうです。

わたしはこの写真で、少女の後ろにいるのは敵兵士であり、
彼女は追われているのだと思い込んでいたのですが、
写っているのは一緒に逃げる南ベトナム兵と報道カメラマンです。

 

当初ニューヨーク・タイムズの編集者は、
少女が裸であることから掲載をためらったそうですが、
最終的にこの写真は翌日の第一面を飾ることになります。

この写真は後にピュリッツァー賞を受賞し、世界報道写真賞にも選ばれました。

写真を撮った後、カメラマンのウトは彼女と他の負傷した子供たちを
サイゴンのバルスキー病院に連れて行きましたが、彼女の火傷は重度で、
おそらく助からないだろうと診断されました。

しかし、14ヵ月の入院と、皮膚移植を含む17回に及ぶ外科手術を経て、
彼女は助かり、1982年には歩けるようになる手術を受け、成功しました。

これだけの手厚い医療を受けることができたのは、彼女が
衝撃的な写真の主人公だったおかげということもできるかもしれません。

■ ナパーム・ガールの戦後

1972年にリチャード・ニクソン大統領が参謀と会話している音声テープには、
ニクソンがこの「ナパーム・ガール」の写真を見て、

「あれは修正されたものじゃないのか」

とつぶやいたことが記録されています。
カメラマンのウトは、

「20世紀で最も記憶に残る写真の1つとなったにもかかわらず、
ニクソン大統領は新聞に掲載された私の写真を見て、その真偽を疑った。

私にとっても、多くの人にとっても、この写真はこれ以上ないほどリアルなものでした。
この写真は、ベトナム戦争そのものと同じくらい真実でした。

私が記録したベトナム戦争の恐怖は、修正される必要はなかったのです。

あのおびえた少女は今も生きていて、あれが現実だったことを雄弁に物語っています。
30年前のあの瞬間は、キム・フックと私にとって忘れられないものになるだろう。
それは結果的に私たち二人の人生を変えたのです」

と語っています。

左上:通過する飛行機が爆弾を投下する中、写真を撮る男性

右上:軍服を着た報道員、クリストファー・ウェインがキム・フックに水を与える
   ウェインはこの後彼女の火傷に水をかけた

右下:大やけどを負った孫(キム・フックのいとこで3歳のダン)を抱えて
   反対方向に走っていくキム・フックの祖母タオ

逃げている間に、キム・フックのいとこ、ダンは亡くなりました。

キム・フックも体の半分以上に大やけどを負っていたので、もし
体に水をかけてやったたウェインやベトナム人カメラマンのウトの助けがなければ、
爆弾投下から数時間後には死んでいたことでしょう。

 

生きながらえたキム・フックはベトナムの大学で医学を専攻していましたが、
大学を追われ、共産主義のベトナム政府にプロパガンダの象徴として利用されました。

何度も手術を繰り返すも、絶え間ない痛みに苛まれた彼女は
ついには自殺まで考えましたが、キリスト教に救いを求めるようになります。

その後キューバに留学、留学先で知り合ったベトナム男性と結婚。

 

1992年、モスクワに新婚旅行に行く途中、カナダへの政治亡命を願い出て許可され、
カナダ市民権テストに満点で合格し、現在はカナダ国民となっています。

キム・フックと報道班員のウェインと彼女は戦後再会を果たしました。

そして彼女の運命と、世界を変えることになった一枚撮ったカメラマンのウトとは
現在でもしょっちゅう電話で話すほど、親密に連絡をとっています。


続く。

 

 

 

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