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「シン・レッド・ライン」の歴史的意味〜映画「シン・レッド・ライン」

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コアな鑑賞者や専門家から軒並み高い評価を得る映画というのは、
得てして一般大衆からの人気を得ることができないものですが、
この作品はその典型のようなものだと思われます。

1998年、テレンス・マリックの監督・脚本によって、日米戦、
あのガダルカナルの戦いを実話ではなく架空の物語として描いた

「シン・レッド・ライン」(The Thin Red Line)

は、キャスティングの段階ですでに大変な話題を呼びました。

しばらく活動を休止していたマリックが久しぶりに映画を作るという情報が流れると、
数多くの有名俳優が、殺到という言葉が相応しいくらいのアプローチをしてきたのです。

ブラッド・ピット、アル・パチーノ、ゲイリー・オールドマン、ジョージ・クルーニーなど
一流の俳優たちが、わずかな金額でもいいから(中には無料でもいいという人もいたとか)
仕事をしたいと申し出、ブルース・ウィリスは、出演について話をしにきてくれるなら、
キャスティングクルーのためにファーストクラスのチケット代を負担するとまで言いました。

ジョシュ・ハートネットはこの作品のオーディションを8回受けるも、不採用。

出演が決まる前にマリックに会ったショーン・ペンは、

「1ドルでいいからどこに行けばいいか教えてくれ」
”Give me a dollar and tell me where to show up."

とまで言ったそうです。

制作側からはロバート・デ・ニーロ、トム・クルーズにも打診が行われたそうですが、
オファーのあまりの殺到ぶりに、キャスティング・ディレクターは、
これ以上のリクエストを受け付けないと発表しなければならないほどでした。

監督は、そのほかにもジョニー・デップ、マーティン・シーン、ケビン・コスナー、
ディカプリオ、マシュー・マコノヒー、イーサン・ホーク、ウィリアム・ボールドウィンなどに
役割を検討し、実際に会って話をしているそうです。

ただ、ハリソン・フォードはニック・ノルティが演じたトール大佐の役を断り、
ニコラス・ケイジなどは、マリックが二度目にキャスティングの話をしようと電話をしたとき、
電話番号が変えられていて連絡が取れなくなっていたそうです。
ちゃんと断れよケイジ(笑)

しかし、贅沢というのかなんというのか、そうやって山ほどの俳優のラブコールを断っておきながら、
やっとのことで出演にこぎつけたジョージ・クルーニーはほぼ端役扱いで一瞬だけ、
本人は自分が主役だと思っていたエイドリアン・ブロディ(『ピアニスト』の主役)は、
撮影したはずのシーンのほとんどがカットされていて、
彼はプレミアで観たときに初めてそのことを知って愕然としたそうですし、
もっとひどいことに、ゲイリー・オールドマン、ミッキー・ローク、マーティン・シーン、
その他のように、撮影したはずなのに完成版にはどこにも出演していない、
つまり出演箇所が全てカットされてしまったなどという俳優たちもいました。

これを剛気(あるいは俳優の無駄遣い)と言わずしてなんと言う。

そして、もはや映画が一流かどうかはこの人がスコアを書いているかどうかで決まる、
(とわたしが勝手に定義しているところの)ハンス・ジマーの起用。

戦争映画としては画期的なカメラワーク、淡々と紡がれる哲学的なモノローグ。

ついこの間紹介したそのドイツ軍版である「ライプシュダンダルテ」は、
改めてこの作品のヨーロッパ版を狙ったのに違いない(つまり二番煎じ)と思われました。

 

その結果、評論家は百点満点で78点、レビュー集計サイト「Rotten Tomatoesm」では
80%の支持率を得ているなど、概ね評価の高い作品ではありますが、
一般の意見を覗いてみると、(もっともこれは日本人の感想ですが)

「全く面白くない」「意味不明」「よくわからない」

というのがちらほらあって、これはある映画評論家の言うところの

「混乱していて未完成な感じがする」

「分裂症的なところが偉大という評価から遠ざけている」

という部分が、エンタメを求める鑑賞者に分かり難さを与えているのだと思われます。

わたしには特にわかりにくくも意味不明とも思えませんでしたが、
「ライプシュタンダルテ」に退屈したという鑑賞者が一定数いるように、
戦争映画に活劇的スリルやわかりやすいドラマを求める向きには
確かに面白くもおかしくもないであろうという気はしました。
映像はともかく、それに付随するセリフがその大きな原因です。

たとえば、トレイン二等兵のモノローグ、

「この偉大な悪は、どこから来たのか?
どうやって世界に忍び込んだのか?
どのような種、どのような根から成長したのか?
誰がやっているのか?
誰が我々を殺し、我々から命と光を奪い、
我々が知っていたかもしれない光景を見て我々をあざ笑っているのか?
私たちの破滅は地球のためになるのだろうか?
草の成長や太陽の輝きを助けるのだろうか?
この闇はあなたの中にもあるのか?あなたはこの夜を通り過ぬけたことがあるか?」

こんなポエムが続くと、結構うんざりする人もいることでしょう。


ただ、評論家に「混乱」「分裂症」と言わせる部分の正体については、
この項を締め括るときに結論できればいいなと考えております。

さて、本題に入る前に、例によってタイトルについて話しておきましょう。

さすがの日本の配給会社も、この映画に「南海の死闘」とか「太平洋の悲劇」とかいう
どこにもありそうなタイトルをつけるのははばかられたと見え、大人しく(?)
原題のままの(ただしThe抜きで)「シン・レッド・ライン」を採用しています。

これは、当ブログ映画部から見ても英断というか当然の帰結で、
逆にこれ以外のタイトルがありうるのかと聞きたいくらいです。

しかしながら、この言葉が全く日本の鑑賞者に理解されていないにもかかわらず、
配給側からは、まったく説明を行おうという努力がなされていないように見えます。
(ならなんで今回に限って原題をそのまま採用したんだ、と意地悪く思うわけですが)

そこでネットを検索したところ、日本語ではほぼこの言葉についての情報が
ゼロのようですので、映画の説明に先立ち、この語源から紐解いていきたいと思います。

「The Thin Red Line」

薄い赤色のライン、意味はそのままです。
この赤とはなんであるか、というと、赤い軍服を着た兵隊たちの作る防衛線です。

この言葉は、ラドヤード・キップリングの詩「Tommy」(『Barrack-Room Ballads』)
の一節からの引用です。

Then it’s Tommy this, an’ Tommy that, an’ “Tommy, ‘ow’s yer soul?
” But it’s “Thin red line of ‘eroes” when the drums begin to roll,
The drums begin to roll, my boys, the drums begin to roll,
O it’s “Thin red line of ‘eroes” when the drums begin to roll.

この詩の中で、キップリングは英国の歩兵(トミー)を
「the thin red line of heroes」(細く赤いラインの英雄たち)
と呼んでいますが、これはクリミア戦争の「バラクラヴァの戦い」における
第93連隊の兵士たちを指しているのです。

クリミア戦争は、1853年に始まり、3年後の1856年に終結しました。

オスマン帝国、イギリス、フランス、サルデーニャの連合軍が、
クリミアに侵攻し、ロシアの潜在的な拡大を阻止すること目的としたものです、

クリミアの小さな港町バラクラヴァを確保するために、
イギリス軍、フランス軍、オスマン・トルコ軍の大部隊が派遣され、
保塁地が作られましたが、2,500人以上のロシア騎兵が攻め込んできました。

ロシア軍は熟練した騎兵を中心に構成されており、機動力に優れています。

オスマン・トルコ軍は防衛線を維持することができず、
サザーランド・ハイランダーズ第93連隊が保持する第2防衛線に退却を行いました。

そこで、約200名のハイランダーが二列からなる「赤く」「薄い」ライフル隊を形成します。

伝統的には、騎兵は4人で1列に並んで対抗しますが、司令官のキャンベル卿は、
ハイランダーが新型のミニー銃で武装していて十分な再装填が可能だと判断したのです。

砲撃とともに400人のロシア騎兵が突撃してきたとき、キャンベル卿は兵士たちにこう叫びました。

「ここから退くことはできない。この場で死ぬしかない」

しかし、生存の可能性がほとんどない状態で立ち往生していた部隊は、
敵を撃退しただけでなく、残っているロシア軍を追撃しようとまでしました。

この戦いに立ち会った『タイムズ』紙の特派員が、イギリス軍の勇気を

ロシア軍の騎兵隊とイギリス軍の拠点との間には「鋼鉄で覆われた細い赤の筋」、
すなわち93部隊の「シン・レッド・ライン」があるだけだった

と書き、この記事から「シン・レッド・ライン」という言葉が生まれたのです。

A diorama of the action in the Regimental Museum at Stirling Castle. Photo: Kim Traynor / CC-BY-SA 3.0具体例

圧倒的な攻撃を受けたときに、薄く広がった部隊が踏ん張る様子を表す表現として
この言葉は現在も英語圏では残されており、たとえば、
アメリカでは炎の赤とかけて、消防隊を意味することもあります。


さあ、ということは、映画はこの勇気あるハイランダーたちのように
それを彷彿とさせる「逆転」があるということなんでしょうか。

 

1943年、南太平洋のガダルカナル島では、主要な米国の攻撃が終わりに近づいています。
アメリカ陸軍は、この作戦に終止符を打ち、日本軍の最後の抵抗を打破するために
完全な装備からなる師団を上陸させました。

と思ったら、映画はいきなりワニがジャングルの湖沼に沈むシーンから、
メラネシアの原住民の子供たちが海を泳ぎ、砂浜で遊ぶ光景が展開します。

この冒頭で流れる曲は、ガブリエル・フォーレの「レクイエム」終曲、
「In Paradisum」です。

楽園へと導きますように 天使たちがあなたの到着したときに迎え入れ
あなたをい殉教者たちが 聖なるところエルサレムへと案内しますように

Requiem, Op. 48: VII. In Paradisum

「自然の中心(heart)でのこの戦争ってなんだろうか。
なぜ自然は自分自身と競い合うのか?陸と海は争うか?」

とかなんとかビーチでポエムってる野郎は、しばらく見ていないとわかりませんが、
実はアメリカ陸軍上等兵、ウィット (ジム・カヴィーゼル) 。

レクイエムは村の子供達が手をたたき歩きながら歌う歌に変わります。

ポエム野郎、実は隊友と一緒に、AWOL(absent without leave)つまり
無許可離隊(脱走ともいう)してメラネシアの原住民と一緒に暮らしているんですね。

しかし、海岸線に突如現れたのはアメリカ軍の哨戒艇によって、彼らは確保されてしまいました。

彼は兵員輸送船に戻され、投獄されます。

上官ウェルシュ軍曹を演じるのは「1ドルでもいい」とオファーを受けたショーン・ペン。
彼の言によると、ウィットは元から「そういう奴」だったようです。

彼らは第25歩兵師団C(チャーリー)中隊。
ヘンダーソン飛行場を確保し、日本軍から島を奪取してそのルートを遮断する作戦の
援軍としてガダルカナルに送り込まれてきました。

彼は懲罰部隊送りで、そこで負傷者を搬送する係を言い渡されます。
彼はせめてもの反発で、軍曹に自分が見た「別の」世界について話してみますが、
俺には見えない世界だ、と一蹴されるのでした。

実際の軍隊ならおそらく話半分でふざけるなと怒られると思われますが、
この映画ではほぼ全ての登場人物がこの調子なので、その心配はありません。

甲板では大隊長トール中佐(ニック・ノルティ)がクインタド准将(ジョン・トラボルタ)と
何やら話し合っていますが、作戦についてではありません。

いわば軍における出世と処世術に対する達観を披露する准将に対し、
トール中佐の方は複雑な思いでそれに相槌を打っています。

 

トールはどうやら出世が遅くようやく中佐になった人物で、そのことは
彼が二階級上のクインタドより歳をとっていることからもわかります。

家族を犠牲にし、上にときには媚びてなんとか得てきた今日の地位。
彼は心の中で、これ以上の昇進は望むべくもなく自分はおそらく死ぬこと、
この戦いが勝利の作戦を指揮する最後のチャンスであると呟きます。

 

海軍輸送船の中ではC中隊のメンバーが来し方行く末について思いを巡らせています。

小さい頃継父に煉瓦で殴られたのより今の方が怖い、
と軍曹に訴えるドン・ドール二等兵(ダッシュ・ミホク)。

支離滅裂なドールの話を聞きながら不安そうなフィフ伍長(エイドリアン・ブロディ)。

中隊長のせいでこんなところに来た、と八つ当たりするマッツィ二等兵。

八つ当たりされているのは繊細な元弁護士、中隊長のスタロス大尉(イライアス・コティズ)。

1942 年 8 月 7 日、C中隊は無敵の状態でガダルカナル島に上陸します。

おそらくこの映画で人間の次によく出てくるのがオウム。
自然の象徴として、この生き物の映像が多用されます。

島の内陸部にC中隊はジャングルを踏み分け進んでいきます。
このいかつい面構えの兵隊は、ケック軍曹(ウッディ・ハレルソン)。

「それら様々な形で生きているあなたは何者?
あなたが全てを捕らえ、与える死
また、あなたは全ての生まれくるものの源泉となる
あなたの栄光 慈悲 平穏 真実
あなたは魂を鎮め 理解する
勇気と満たされた心を」

この映画で哲学的なつぶやきを行う係?は、どうやらトレインのようです。



そのつぶやきをバックに、既婚の元将校、ベル二等兵(ベン・チャップリン)は
故郷に残してきた妻の姿をありありと思い浮かべるのでした。
ベル二等兵の妻は劇中何度も何度も(オウムなみに)追想によって登場します。

 

進軍の途中で中隊メンバーは海兵隊員二人の死体に遭遇しました。(画像自粛)
先遣隊である海兵隊は日本軍の激しい抵抗に遭っていました。

たどり着いた海兵隊キャンプでは原住民に担架を洗わせていますが、
たちまち川に真っ赤な血が流れていきます。

やがて中隊は敵の要所であるヒル 210を発見し、
トール司令は丘を正面突破する作戦を提唱しました。

日本軍は丘の頂上、谷全体を見渡せる場所にバンカーを設えており、
丘を攻略しようとしても機関掃射や迫撃砲で撃退されるでしょう。

中隊長スタロスは無理だと言いますが、トールは進言を跳ね除けました。

作戦決行の夜明け、トール中佐は連絡の電話でスタロス大尉に
「ポイント」(陸軍士官学校のこと)で読まされたというホメロスの詩から
(英語ではホーマーと発音するのでどうもシンプソンを思い浮かべてしまう)

"Eos rhododactylos . . . rosy-fingered dawn."(薔薇色の払暁)

という言葉を気の利いたことを言っているつもりか、得意げに披露するのでした。
君はギリシア系だろ、といういらん一言にスタロス大尉は取り合わず(笑)

「我々を援護する砲の種類は?オーバー」

「105ミリ2中隊だ」

「それでは全く効果はありません(won't make a dent)オーバー」

それでも敵に落ちれば効果大だ、とトール中佐。

朝一番で激しく砲撃が始まり、中隊は緊張の極に。
もうみんな顔色が真っ青です。

そっとペンダントの妻の写真を見ているのはベル二等兵でしょうか。

ほとんどの兵は戦闘そのものが初めてで、シコという二等兵は
出発を命じられても胃が痛くて立つこともできない、といいながら、
ウェルシュ軍曹が「衛生兵に診てもらえ」といったとたん、
脱兎のようにその場から駆け出していくという有様。

ホワイト大尉が先にいる二人に「進め」という意味で手を振り回しているのに、
二人とも大尉を見つめたまま硬直して動こうとしない様子はリアルです。

しかし、ようやく二人は動き出した途端、日本軍の狙撃手に瞬時にしてやられてしまいます。
丘の上からの的確な攻撃に次々部下が倒されていくのに呆然とするスタロス大尉。

懲罰部隊に高圧的に担架で負傷者「ジャック」を運ぶように命じたところ、
(ジャックって誰?)脱走して担架兵になったウィットが、
そのジャックを運んだら元の部隊に戻してもらえるか、とかネゴしてきました。

このポエム野郎、なかなか抜け目ないやつです。

スタロス大尉には、もう後がないトール中佐がガンガン電話でハッパをかけてきます。
自分が出世するかこのまま終わるかの瀬戸際だけに血圧あがりっぱなし。

そして、どんな犠牲を払っても正面からの攻撃で高地を奪取するよう命じますが、
部下が眼前で大砲の餌食となっているのに、勇ましい返事など彼にはできません。

ここでケック軍曹と日本兵との間に心温まる?会話が行われます。
窪地に伏せるケック軍曹に、日本兵がこう叫ぶのです。

”We know you there, Yank!"(そこにいるのが丸見えだぞ、ヤンキー)

ケックがそれに対し

”Tojo eats shit! "(トージョーくたばれ!)

というと、

” No, Roosevelt eats-a shit!"(いーや、ルーズベルトがくたばれ!)

こんな気の利いた?罵り言葉が咄嗟に日本人の口から出てくるかしら、
と思ったのですが、まあ、たまたまそういう人がいたんでしょう。

そのケック軍曹ですが、日本軍が退却していったらしいというのに、
ついうっかり手榴弾のピンを間違って抜いてしまい、
味方を守るために自分が覆いかぶさって下半身が吹き飛ばされてしまいます。

「自分のケツを噴き飛ばしちまった!ばかな新兵みたいに」

「俺の女に手紙を・・男らしく死んだと」

「もう無茶苦茶だ・・もう女とやれねえ」

ドールはケックが息絶えてから、

「(妻に)手紙を書くのか」

と聞かれるとなぜかものすごくうろたえ、

「馬鹿いえ、知らない相手だ」

とパニクるのでした。


続く。

 


捕われた日本軍〜映画「シン・レッド・ライン」

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映画「シン・レッド・ライン」2日目です。

この戦いが今後の地位を決定するため後がないトール中佐命令によって、
弁護士出身のスタロス中佐指揮するチャーリー中隊は、日本軍が陣地を構築する
丘の上を攻略しようとしています。

高所からの砲撃と狙撃によって多くの命を失いながらも、そんな中
日本軍が撤退しているらしい様子に感づいた中隊ですが、
激しい戦闘ストレスはすでに何人かの兵隊の精神を蝕んでいます。

「俺はもう嫌だ!」

錯乱して叫ぶマクロン軍曹(ジョン・サヴェージ)を、周りは呆然と眺めるだけ。

狙撃されたテッラ二等兵(カーク・アベセド、『バンドオブブラザーズ』にも出演)
に駆け寄るウェルシュ軍曹(ショーン・ペン)。

もう動かすこともできない彼には、周りの死体から集めた
モルヒネの缶を最後に渡してやることしかできません。

「さよなら、曹長どの」

彼を残してまたもや弾丸を潜って帰ってきたウェルシュに、

「明日叙勲の申請を」

とスタイロス大尉がいうと、

「もしそんなことをしたらすぐにやめてやる。
そしたらこの無茶苦茶な隊をあんた一人で仕切ることになりますぜ!」

うーん、ウェルシュ軍曹、怒ってます。

「勲章?くだらねえ」

まあ、こういう状況で何が勲章だ、と誰でも思うでしょう。

「何してるんだ?窪みに寝てるじゃないか!
今すぐ敵の機銃をクリアしろ!オーバー!」

膠着中のスタイロス大尉のもとにトール中佐からはガンガン電話がかかってきます。

「斜面でたくさんやられて・・・2分隊なら出せますが」

するとトール中佐、ヘルメットを地面に叩きつけ、

「ガッデム!全員を今すぐ動かして戦わせろ!」

側面のジャングルから偵察を出して攻撃するべき、
というスタイロスにトールは激怒し、あくまで正面突撃を行わせるように言います。

するとスタイロスは命令を拒否し、言うに事欠いて

「こちらには二人、そちらにも証人がいます」

「営倉の弁護士みたいな言い方はやめろスタイロス!
君がろくでもない弁護士だったことは知ってるぞ!
ここは法廷じゃない!これは戦争だ!いまやってるのは戦闘だ!」

それでもスイタロス、一歩も引かず、その攻撃は自殺に等しい、
2年半一緒の部下をしに追いやる命令はできない、と動きません。

するとトール中佐、自分がそこに乗り込む!と荒々しく電話を切ってしまいます。
そのあと、スタイロスはギリシア語で何か言うのですが、それは

「Ta echi chasi aftos」(彼はそれを失った)
「xery tee moo lay」(彼は自分が何を言っているかわかってない)

という批判的な言葉でした。



その間にも負傷で死んでいく兵。(一コマ出演)
ビード二等兵役のニック・スタールは「ターミネイター3」のジョン・コナー役です。

怒りに任せて山中を駆け上ってきたように見えるトール中佐。
この映画の不思議な(分裂症的な?)ところで、トールの内心の声は以下の通り。

「墓場に閉じ込められた。蓋を開けられない。
俺は思いもよらない役割を果たしてる」

部下の命を案じて突撃できない中隊長の尻を叩いて多くの兵を殺す役割。
それがトール中佐の望んだものではなかったことは確かです。
今彼は自分で自分をどこかから第三者として見ているような感覚に陥っています。


しかし、その役割を果たすべく、今度こそ反対できなくなった中佐に
「俺のやり方で」日没までに高地を攻略する、と強い口調で言い切るのでした。

斥候を命じられたベル二等兵。
ベルは昔将校だったらしいのに、この戦争では二等兵です。

軍隊を辞めたあと戦争になり、兵卒で参加したということでしょうか。

そして彼は、またもや草むらを匍匐前進しながら妻のことを思うのでした。
揺れるレースのカーテン、海に腰まで浸かってこちらを誘う妻。

そんな妄想をしながらも、敵のバンカーには機銃が5門あることを突き止めます。

トール中佐はさっそくトーチカを攻略する志願者を募りました。
間髪入れず名乗り出たのがベル二等兵です。

 

その晩、ウェルシュ軍曹は脱走して懲罰部隊に入れられたウィット二等兵に、
またもやちょっとした語り掛けをするのでした。

「お前ができることなんてこの世の中でどんな意味がある?
この狂気の中で一人の男ができることなんて。

死んだとしてもそれっきりだ。
全てがうまくいく別の世界なんてありゃしないのさ。

世界はここだけだ。この島(ロック)だけ」

どこからともなく現れた野犬が、遺体の肉を喰らう闇の中、

精神が壊れたマクロンが一人叫んでいました。

「俺を撃つやつは誰もいない!」

攻撃の朝が明けました。
もしかして人生最後となるかもしれない朝、皆の表情は沈鬱です。

攻撃開始。

トーチカまで接近し、砲撃を指示後、敵基地まで突進した偵察隊は、
(一人やられて)6名の拳銃と手榴弾だけでトーチカと守備隊を殲滅。

「クリア!」

ちょっとこのシーケンスが都合よすぎというか、敵の弾は当たらず
こちらの攻撃だけがうまくいきすぎて安易な展開という気がしますがまあいいや。

手を挙げて出てきた日本兵を罵り蹴飛ばし殴り撃ち殺すクィーン伍長。
輸送船の中でキレまくって叫んでいた男です。
まあそういう人はこういうことをするってことです。

ドン引きする、極めて常識人のベル二等兵。

「一人殺した」

と呟き、誰かと抱き合います。

ここからちらほら?日本の俳優が顔を出すのですが、
アメリカと日本のサイトでの情報が不確かすぎて、誰が誰かわかりません。
米サイトによると、将校役は光石研と信太昌之、となっていますが、
日ウィキだと光石さんも信太さんも兵隊とされています。

捕虜となった日本軍兵士たちも、彼らを見る米軍兵士たちの表情も様々です。

何やら拝んでいる兵、何やらぶつぶつ呟く兵。
すすり泣く者、細かく壁を叩く者・・・。
同じ日本人から言わせてもらうと、どうも日本人らしくないという気もします。

じゃどういうのが日本人なのかと言われると、やっぱりじっとして、
アメリカ人からは無表情に見える諦めの沈黙に徹するのではないかなあ。

遺体と日本兵たちの体臭が臭い、と文句を言い、
そんならタバコを鼻に詰めろといわれてその通りにしているデール1等兵。

日本兵たちに向かってなんとなく手を振ってみたりしております。

一方、アメリカ人の視線を剛然と見返していた将校は、
ウィットが差し出した食べ物から目を背けました。

偵察攻撃を成功させたガフ大尉(ジョン・キューザック)に、
トール中佐はもうごっきげんで、兵たちへの勲章の授与を請け合います。

実は肝心の水の補給が足りていなかったりするのですが、
この勢いでもう一押しやって、勝利を確実にしたくてたまらないのです。

「水など!喉が乾いて倒れたらそのまま放っておけ」

ガフ大尉、一瞬押し黙って、

「もしそのまま死んだら?」

「敵の弾でも死ぬぞ!」


この作戦成功=出世のためにはなりふり構わないトール中佐の役を、
ハリソン・フォードが断ったわけがなんとなくわかる気がします。

演じられるられない以前に、あまり彼のトール役が想像できないというか。
フォードってほぼ主役の正義の味方しか演じたことないですよね?
「What lies beneath」は思いっきり悪役だけど、これピカレスクものに近いし。

トール中佐は、言い訳のように

「君は出世し損なう気持ちを知らんだろう。
君は士官学校出たてですぐ戦争にありついた。
しかし俺にとってはこの15年で初めての戦争だ」

言い、なおも哀れみを称えたようなガフ大尉の視線に、

「君もいつかわかる」

あまりわかりたくねえなあ、とガフ大尉は思っていたことでしょう。

 

結果的にニック・ノルティが適役だったんじゃないかな。
とにかくトールの足掻きっぷりを描き切った演技は見ものです。

囚われの日本兵とそれを見遣るC中隊のメンバーの姿が執拗に描かれます。

フィフ伍長は、

「君はたくさんの死人を見たか?」

と心の中で語り出します。
「君」とは、手榴弾のピンを抜いてしまい死んだストーム軍曹。
もちろん死んだ人に語りかけているわけです。

「たくさん。死んだ犬と変わりないさ。慣れさえすれば」

ストームの答えがこれですが、一体彼はどこでそれを見たのでしょうか。

「俺たちはしょせん肉の塊なんだよ、若いの(キッド)」

戦友の遺体に手を合わせる者もいます。

そして、ウィットの心には、顔面だけを残して土に埋まってしまった
(あるいは顔だけ残されて後は無くなった)日本兵の顔が、こう語りかけてくるのでした。

「君は正しい人?親切な人?このことに自信を持ってる?」

このこと、とは、日本兵が顔の皮だけになるにいたった行為のことです。

「人に愛されているかい?僕が愛されていたように。
善や真実を愛したからと言って、自分の苦しみが減るとでも想像しているの?」

 

そしてトールのいうところの「この勢いで制圧」を目指す攻撃が始まりました。
それを迎え撃つ日本兵は、むしろ覚悟を決めているように見えます。

どこかで日本人の描き方が人種差別的、侮蔑的であるという感想を見ましたが、
このシーンと、ベルに語りかける「日本兵の顔」のシーンだけからも、
わたしは決してそんな意図は監督にはなかったと断言できます。

ところで、ふとこの段階でタイトルの「The thin red line」を思い出して、
わたしはあることに気がつき、愕然としました。

クリミア戦争における「赤いライン」は、アメリカ軍ではなく、
どう考えても状況的に今のこの日本軍であることに。

しかし勿論この後、日本軍の基地はあっけなく制圧されます。
なぜなら、彼らは補給の途絶えたガダルカナルで飢餓状態に陥った末、
戦う以前にほとんど食糧不足で壊滅しかかっていたからです。

むしろそんな状態の日本兵士のなかにあって、万歳突撃で散ることを覚悟した
先ほどの一団を描く、そこには製作者の畏敬をすら感じさせます。

聞き取れる日本語は、

「カミキ行くぞお!」「手も足もいうことをきかん!」

そして雄叫びをあげながら突入し、やられてしまう・・。

武器を持たず、最初から手を挙げて降参しようとするのは軍属でしょうか。
この一連の一方的な「殺戮」のシーンで流れる音楽は荘重で悲壮です。

中には壕に逃げ込んで自爆する兵もいます。

彼らを見ながら今度はトレインが呟きます。

「この巨大な悪 どこからきたのか?
どうやって世界に忍び込んだのか?」

「どんな種、どんな根から育ったのか?
誰がこれを行っているのか?
誰が我々を殺した?
人生と光を奪ったのは?
わたしたちが知っていたかもしれない光景を見て嘲笑っているのは誰?」

銃を傍に置いて日本兵の手を取り肩を抱き寄せる米兵。
しかし、次の瞬間彼は味方の銃で撃たれて死にます。

こういうシーンがあまりにも切れ目なく続くため、普通に観ているだけでは
因果関係を結ばぬうちに次に行ってしまい、気づかない人もいるでしょう。

もう一つの問題は、繰り返しますが、モノローグです。

英語字幕では誰が言っているかが表されるのですが、字幕がないと
それを誰が言ったかまったくわからないままです。

トールなのかダールなのかフィフなのか、ベルなのかウィットなのかトレインなのか。
(あれ?名前が全員一音節だ・・・・これ偶然じゃないですよね)

 

しかも最初に指摘したように、この人たちの呟きはほとんど同じ内容であるため、
声の違いを聴き分けることもほとんど不可能なのです。

しかし、誰がいつ呟いているのか分からない状態で観ている身には
理解が追いつかなくても無理からぬことと思われます。

しかも、これらのモノローグのほとんどはオリジナルではなく、
映画にもなった「此処より永遠に」から引用されていて、
キャラクターへの認識を混乱させる原因になっています。

トレイン;

「我々の破滅が地球の糧か?草を育て太陽を輝かせるのか?
あなたの中にもこの闇があるのか?
この夜をやり過ごしたことがあるか?」

(『あなた』って誰〜!)

デールは日本軍の上等兵の傍らにわざわざ寝そべり、銃を腹に当てて

「その歯を肝臓にめり込ませてやろうか」

とからかい出します。

「お前は死ぬんだ」

そして空を見上げて

「あそこの鳥が見えるか?お前の生肉を食べるんだ」

うーん・・・悪趣味なやつ。

「お前が行くのはそこからもう帰って来られないところだ」

そして指をダメダメ、というように振ると、日本兵はそれに対し、

「貴様・・・」

「ん?」

「貴様・・・」

「ん?」

「いつか・・・いつか死・・死・・死ぬんだ・・貴様・・死ぬんだよ」

この上等兵の日本語は翻訳されることはありません。

おそらくデールが相手が何を言っているのかわからなかったように、監督は
アメリカ人の観客にもデールと同じ立場を与えたかったのではないでしょうか。

もっとも、アメリカの映画サイトでは日本語が理解できる人がこれを翻訳し、

Kisama とはフレンドリーでない「あなた」の意味で「汚いやつ」、
Moは「too」(もまた)、Itsuka は "someday or sometime, one day etc."
Shinu は "to die".という意味の動詞、"Da yo" は強調と感嘆符の語尾

とわかっているようで少しわかっていない解説をしていました。
日本語ムツカシネー。

日本人だけを貶めて描いているように観た人は、おそらくこういう場面を
見落として、視点の公平さを見誤っているのではないでしょうか。

一瞬なので、DVDで何度も観た人しか気づかないのではないかと思うのですが、
鼻にタバコをつっこんでいる男(多分デール)は、いくつもの金歯を手に持っています。

もちろん日本兵の死体から盗んだものです。
彼は数えていた金歯をしまいこむと、別の日本兵の死体に座ったままにじり寄り、
その頭を抱え込んでナイフを構えるのでした。

しかし、デールがこれを以て悪人だと断じるべきではないでしょう。

それ(たとえば死体の歯を抜くこと)をできるかどうかは
その人間の資質によって変わってくるでしょうが、
たとえどんな資質を持った人でも、平時であれば
決して行わないことをしてしまうのが戦争だからです。

米兵たちが座り込む中、瀕死の戦友を抱き抱え、嗚咽する日本兵。

一連のシーケンスで流れる音楽は、ジマーのオリジナルではなく、
チャールズ・アイブズの「The Unanswered Question」(答えられざる疑問)です。

Ives: The Unanswered Question / Premil Petrovic / No Borders Orchestra

さて、先ほど「シン・レッド・ライン」の状態であったのは日本軍だった、と書きました。
しかし、語源となった故事とは違い、日本軍は何もかもが勝る米軍に屈したわけです。

 

それではこの言葉をタイトルにした真意とはどこにあったのでしょうか。

 

続く。

 

映画「シン・レッド・ライン」

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映画「シン・レッド・ライン」、最終回です。

日本軍の高地にあるキャンプの攻略に成功したC中隊。
狂乱の後の虚無ともいうべき時間が訪れていました。

頭に掛けていた水を葉っぱにかけて水滴が転がり落ちるのを見ているのは
ウィット二等兵でしょうか。(ベルと俳優が似ていて見分けがつかないときがある)
彼は水をすくいながら、脱走して滞在していた原住民の村の海を思います。

 

何度もこだわってみますが、タイトルの「シン・レッド・ライン」と同じ状態だった
日本軍の防御は、むしろ飢餓状態に陥って戦力を欠いていたことで壊滅しました。
歴史的故事とは程遠い結末となったわけです。

ますますこのタイトルの真意がわかりかねるのですが、次に進みます。

一方、トール中佐は、スタイロス大尉にいきなり引導を渡しました。
指揮権を取り上げる、という強い言い方で、解任を申し渡したのです。

部下の命を優先して中佐の命令に従わなかったことが原因でした。
表向きはマラリアにかかったということで勲章付きの実質クビです。

作戦を成功させたC中隊には、ウェルシュ軍曹から1週間の休暇が申し渡されます。

「腕の中で部下が死んで行ったことがありますか」

このスタイロス大尉の問いに、トール中佐は何も答えませんでした。

しかし彼が出世に貪欲で冷酷無比なだけの男でないことはこのカットに表されます。
彼の視線の先には、足の指に認識票の付けられた米兵の遺体がありました。

(ニック・ノルティ出番終わり)

スタイロス大尉の解任は、部下たちにショックを与えました。
自分たちを守ろうとして正面攻撃の命令を拒否をしてくれたことを知っていたからです。

しかし大尉は、彼らを慰めるためにむしろ帰れるのは嬉しい、といいます。
そしてギリシャ語でこういいます。

「”君らは息子みたいなものだ”」

それを聞く部下の目には光るものが・・・。

日本軍の駐屯地が焼き払われていきます。
竹を吊った鳴子、南洋の植物でこしらえた生花のような鉢、そして
まさかの仏像が炎に包まれていくのでした。

「パールハーバー」でも、確か日本軍の軍艦内に仏像があって、
狭い艦内でローソクをボーボー燃やしていた記憶がありますが、
この、格段に日本という国に対する理解度のアップしている映画においても、
ついうっかりこんなことになってしまうのは残念です。

日本人は偶像崇拝をしません。
まあ、この頃の限定で御真影に礼をするということはあったかもしれませんが、
こと宗教に関する限り、八百万の神があっちこっちにいる関係で、
手を合わせる対象は太陽だったり祖先だったりで、少なくとも
こんな大きな仏像を野戦地に持ち込んで拝んだりはしないものだと思います。

考えてみてください。
家に仏壇(祖先を祀っている)はあっても、仏像を持ち込んで拝む人っていませんよね。
仏像はお寺にあって、その寺の歴史や言われとともに信仰を集めるものです。

この映画の面白さは、何回も見るうちに気づく細部にもあります。
たとえば休暇が決まって湧き立つ兵隊たちのシーンですが、

トラックの上にも、この飲み物が配られている集団にも、
何人かの兵が日本軍の基地でゲットした寄せ書きの日の丸を振ったり、
あるいは肩に引っ掛けたり、手拭いのように頭からかぶったりしているのが見えます。

そうやって戦利品としてアメリカ兵が持って帰り、戦後
本人が死んだり、持て余したりして、地方の博物館に流れてきた
数え切れないくらいの寄せ書きの日の丸をわたしはこちらで見てきました。

いい土産とばかりに持って帰ったものの、戦争も終わり、
そんなものを持っていても自慢にならないどころか、戦争も終わってみると、
敵とは言え日本人の遺品を手元に置き続けるのにも何やら後ろめたさというか
アメリカ人にそういう感覚があるのかどうかはわかりませんが、
一種の「ゲンの悪さ」を感じた結果なのだろうとわたしは思います。

それは「悔恨」あるいは人間的な「良心の目覚め」からきたものだとしましょう、
ここにもすでに己が戦場で犯した「通常なら犯罪、しかし戦場では無罪」の行為を
後悔している人物がいました。

日の丸の寄せ書きや血のついた時計を持って帰った米兵のように。

死にかけの日本兵を挑発しながら、遺体の口から金歯を抜いて集めていたデールです。

いまさら彼の中で何が起こったのでしょうか。
金歯を入れた袋を手にして、彼は荒く肩で息をつき、あの日のことを反芻していました。
死にかけている日本兵の言葉を。

「貴様も・・死ぬんだよ・・貴様も・・・」

言葉は理解せずとも、それが自分に、自分の生に投げかけられた
永遠の呪詛であることだけはわかるのです。

彼は瘧(おこり)にでもかかったように激しく震え、なぜか後方に向かって
(そこには日本兵のヘルメットが積まれている)投げ棄てます。

そして天を仰いだその耳には、日本兵の笑い声が響いているのでした。

彼は自分で自分を抱くようにして嗚咽し続けます。

ストーム軍曹(ジョン・C・ライリー)はウェルシュ軍曹に、
戦場での命は全て運にしか過ぎないから何を見ても何も感じない、といい、
ウェルシュはそれに対しこう言います。

「自分はそこまで無感覚になれない。君らと違って。
先が見えるからかもしれないし、下から麻痺していたのかもしれないが」

兵隊がワニを捕まえました。
ワニはこの映画の一番最初に出てきた生き物です。
これから喰われるワニを取り囲んだ兵隊たちは、一様に厳粛な顔をしています。

ベル二等兵がことあるごとにその姿を思い浮かべ、心の支えにし、
自分の存在を「解き放ってくれた」とまで手紙に書いた彼の妻が別れを告げてきました。

「空軍大尉と愛し合うようになったから別れてください」

これは酷い。
戦地にいる夫に、しかも戦前は将校だった夫、今は事情あって二等兵の夫に向かって、
代わりに好きな将校ができたから離婚しろとは。

「あなたはきっとノーと言うでしょうね。
でも、とにかくわたしたちが一緒だったことを忘れて欲しいの」

(字幕は誤訳で『私達の思い出のためにも同意して欲しい』となっている)

 

何度か見ていて気づいたのですが、彼女の後方にこちらに向かって歩いてくる男性がいます。
どうも陸軍の軍人のようなので、おそらくこれが「空軍大尉」でしょう。

ちなみに、アメリカでこの時代空軍は存在しませんから、彼女の相手は当然
陸軍パイロットということになるわけですが、1941年には
"Air Corps"から "US Army Air Forces" に改称されているとはいえ、
日常的にたとえば空軍大尉は"Air Force Captain"とは言いませんでした。

正解は"Air Corps Captain"となります。

ベルは読み終えるまで落ち着きなく髪の毛をかきあげ、
鼻の下を擦りながらなぜか薄ら笑いを浮かべ、
資材や燃料の置かれた飛行場をふらふら歩き回るのでした。

ところでこれ何?

ウィットは1週間の休暇に以前滞在した原住民の村を訪れました。

しかし、以前と違い村人は彼を冷たい目で見るばかり。
よからぬものを持ち込む災厄とばかりに不信感をあらわにするのでした。

ウィットは疎外感に打ちひしがれて村を後にします。

基地に帰る途中、彼は膝を壊して置いてけぼりにされた兵士、アッシュと会いました。
帰隊するのを助けると言うと、かれは明るく言います。

「おれはこの戦争を降りるよ、ウィット」

「ここは静かで平和だ。足手まといになるし、そのうち誰かくるだろう」

「そう言っとくよ」

うーん、それって「脱走」というやつなんでわ?

隊に帰ってきて兵隊たちが日常生活を送っている姿を見る彼の目が、
潤んできて涙が一滴溢れるのですが、この涙がなんなのか説明はありません。

自分がかつてより良い場所を求めて逃避した原住民の村でなく、
逃げ出したはずの隊にしか自分の居場所はないことを知ったからでしょうか。

青い鳥は自分の家にいた的な?

そして、鑑賞者をさらに煙に巻くように、ウィットとウェルシュの間に
「分裂症じみた」会話が交わされるのでした。

要約すると、ウェルシュがウィットの存在を気にかけていることを
隠していてもウィットは見抜いているということです。(たぶんね)

「曹長殿は寂しくなったことはありませんか?」

「人が周りにいるときはなる」

「人がいると?」

「お前は今でも美しい光を信じているのか?どうだ?
お前は俺にとって魔術師なんだ」

「おれにはあなたにまだ火花が見えてますよ」

うーん。わけわからん。
そもそも軍隊で上官と部下がする話じゃないだろこれ。

1週間の休暇を終えた中隊はまたしても次の戦闘任務を行います。
胸まで浸かる沢を渡りながら、彼らは砲撃の音を耳にしました。
しかも近づいてきています。

ベル(二等兵なのに)にここは危険だから脱出すべき、と言われるのですが、
スタイロスの後任の隊長バンド大尉は、すぐに決断を下さず、斥候を出すなどと言い出します。

ウィットは適当に斥候に指名された(近くにいただけ)ファイフとクームスを
庇うように、自分も一緒に行くと名乗りをあげ、そしてどちらにしても
ここにい続けるのは拙い作戦だと進言します。(二等兵なのに)

沢を警戒しながら進む3人の斥候を見ているミミズク。

敵の増強部隊(そんな余裕が日本にあったとは思えないんですが)に発見され、
銃撃を受けたクームスが倒れます。

遠くにその銃声を聞いて沢に身を伏せる中隊のメンバーを凝視するコウモリ。
まるで愚かな人間たちの行いを監視しているようです。

ウィットは、ファイフに自分が残って食い止めるから隊に戻れと指示します。
ウィットに生存の意思がないのに気づくファイフでした。

クームスを置いて(見捨てて)移動するウィットの足音を、この日本兵は聞きつけます。

隊に戻ったフィフが真っ先に発した言葉はただ、

「敵が来るぞ。隠れろ!」

ベルがウィットのことを尋ねても
呆然としていてしばらく何も聞こえない状態。
というか、ここにどうやって隠れるんだって話ですが。

そのウィットは一人で日本軍を引き付けていました。
鳥の声を真似ながらジャングルを沢と違う方向に走ります。

ジャングルを抜け、広場のような草地に躍り出た瞬間、彼は自分が
四方を囲まれていることに気がつきました。

ところで、周りを囲んでいる日本兵たちは、どう見ても「餓島」と言われた地で
補給が途絶え、食糧の不足で絶望的な状態にあるようには見えません。
みんな頭に草の葉っぱを載せて元気いっぱい走り回っております。

「降伏しろ!」

先ほどアップになった日本兵が(将校かもしれません)ウィットに呼びかけました。
周りには、彼に銃を向ける何人かと、その外側に銃を向けて警戒している兵がいます。
(この辺りがなかなか細やかな演出だと思った次第)

日本兵は怒鳴ることなく、

「お前か?俺の戦友殺したの」

と語りかけてきますが、今回も英語で字幕はありません。

「わかるか。俺は。お前を殺したくない」

その言葉に対してウィットが浮かべるのが冒頭画像の表情です。

「わかるか。俺は、お前を殺したくない」

二度目の同じ言葉は、泣く寸前のようです。

「もう囲まれてるぞ。すぐに降伏しろ」

軍人であればもう少し声を張り上げそうですが、極度の緊張のせいでしょうか。
そして、次に

「お前かあ・・・俺の戦友殺したのは」

今回のは質問ではなく、探していた相手を見つけた、という調子で。
そして、

「俺は」

と言いかけて、

「動くな」

いきなり声を張り上げ(同一人物とは思えない声で)

「とまれええ!降伏しろお!」

それまでただ呆然と立ち尽くしていたように見えたウィットは、
むしろその声に促されたかのように、ゆっくりと銃を持ち上げ・・

撃たれました。

なぜ彼が投降しなかったかについては、可能性の高そうな仮定として、
自分が犠牲になることで中隊の全員を守ろうとした、としておきます。

捕虜になって仲間の居場所を尋問されることまで考えたかどうかはわかりませんが。

彼が助かるつもりがなかったことは、最後の瞬間の動きが
妙にゆっくりしていることに表現されていると思いました。

彼は撃たれるために銃を構えたのです。

南洋の海で現地の子供達と海に潜った残像が彼の網膜をよぎった(という設定)。

後日、中隊はウィットの亡骸を発見し、その場に葬ります。
一人残ったウェルシュ軍曹は彼に声をかけるのでした。

「お前の輝きはどこにある?」

そしてウェルシュいうところの「反吐が出る」陳腐な演説を
張り切って行う新しい隊長、ボッシュ大尉。

言わずと知れたジョージ・クルーニーですが、本当に一瞬だけの出演で、
しかもボッシュに言われるまでもなく滑稽な役回りです。

「我々は家族だ。お前らは息子、俺は父親でウェルシュ軍曹は母だ」

皮肉なことに、この訓示の「君らは息子」はスタイロス大尉の言い残した言葉と同じです。

(あほくさ・・・)

帰国する兵士たちが岸に向かっています。

彼らの視線の先には夥しい数の十字架が・・・・って、
なんで墓地のあちこちでスプリンクラー(水撒き機)が回ってるんですかね。

この輸送船は、ロイヤル・オーストラリアン・ネイビーの
HMAS「タラカン」にしか見えないんですが、もちろん当時は存在しません。

この船に乗る有名どころはショーン・ペンのみ。

皆、帰国してからのことを言葉少なに話し合っています。
誰もがこの戦場で何か大切なものを無くしてきたと感じているのかもしれません。

ところで、えーと、こんな人いたっけ?

この最後のシーンにはペンをのぞいて「普通の人」ばかりしか登場しません。

だから誰?

「おお、私の魂よ 私をその中に導きたまえ」

これが最後のモノローグです。

ところで、もう一度最後に「シン・レッド・ライン」とはなんだったのか、
恐る恐る仮説を立ててみたいと思います。

戦況的には最後の防御線を張ったのは高地における日本軍であり、
日本を表す「赤」はこの言葉とリンクしますが、もちろんそれは違うでしょう。

踏み込んだ解釈をするなら、それは人の精神のどこかにある一線であり、
戦場にあって、人が先に踏み込ませないための最後の戦いをする防御線ではないでしょうか。

人によってはそれを宗教と呼び、また別の人は良心と呼ぶかもしれません。

もっと物理的に、生と死を分ける境界線(つまり偶然)を指しているかもしれません。

この映画は史実によるガダルカナル戦とは大きく異なっています。

そもそも主体となるのが海兵隊ではなく、(映画では海兵隊が壊滅したからと言っている)
陸軍であることからしてアウトですし、その他映画的な荒さも目立ちますが、
戦争を素材にして哲学と真理を探究しようとしたと解釈するべき作品でありましょう。

従来ステロタイプで描かれがちな日本軍兵士をもその一部に参加させるなど、
まるで戦争小説を読んでいる誰かの心をそのまま再現しようとしているようです。

とても一筋縄では理解し難い?作品だと感じました。

 

終わり。

 

オレンジ・エージェントと徴兵逃れ犯罪への”恩赦”〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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■ RESIGNS ニクソンの辞任

1974年8月、ニクソン大統領は辞任し、後任をジェラルド・フォード副大統領に引継ぎました。
彼は辞任することによって、

「憲法に違反し、それを覆した」

と衆議院で弾劾されることを回避したのです。
ニクソンの容疑は、彼の再選委員会に関連するウォーターゲート複合施設内の
民主党全国委員会本部への盗聴機器設置のために侵入した事件に端を発していました。

そしてニクソンは大統領職を辞任した史上初の大統領となったのです。

1974年9月8日、ジェラルド・フォードは、大統領就任からわずか1カ月で、
失脚した前任者リチャード・ニクソンに無条件で完全な恩赦を与えました。

彼のこの時の声明は

「ニクソン前大統領は、既に十分苦しみを受けた」

というものでしたが、フォード大統領の真意は、刑事裁判を行えば

「(ニクソンを)さらなる懲罰と堕落にさらすことの妥当性について、
アメリカに長期にわたる分裂的な議論を引き起こす」

ことを懸念したからだと言われています。

ウォーターゲート事件やベトナム戦争の影響で混乱していた当時、
フォードは大統領恩赦を裁判に先行して行使したわけですが、
その評価は賛否両論であり、その評価はフォードの任期中ずっと続くことになります。

 

そしてこれにより、ニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたものの、
恩赦を受けたというのは本人が有罪を認めたことでもあります。

それを受けてか、ニクソンは死後に行われる元大統領としての国葬を自ら辞退しています。

ちなみにニクソンがホワイトハウスを去った時、彼はマリーンワンに乗ったはずなので、
この写真はいつのものかはわかりません。

 

■ FREEDOM OF INFORMATIONACT 情報公開法議会

”怖いなあ、反戦派の特別ファイルだけでこれだぜ!”


ウォーターゲート事件の影響を受けて、議会は1974年に情報公開法

Freedom of Information Act(FOIA)

を強化しました。

2004年に機密解除された文章によると、フォード大統領は
情報公開強化修正案に署名したいと考えていましたが、ラムズフェルド首席補佐官や
チェイニー副官らから、法案を拒否するように説得されていました。

しかし、臨時議会の決定によって情報公開法が成立し、
政府の秘密保持の主張に対する司法審査が行われることになりました。

その改正法を簡単にいうとこういうことです。

「市民に関係する文書を政府が管理することの規制」

(1)プライバシー法の適用除外を条件として、自分自身に関する記録を見る権利

(2)記録が不正確、無関係、時宜を失している、または不完全である場合に記録を修正する権利

(3)同法で特別に許可されていない限り、他人に自分の記録を見ることを許可することを含む、
同法の違反に対して政府を訴える権利

が保証されることになったわけです。

具体的には、戦時中の政権における過度の秘密、誤った情報、および
不正行為などに対して、一般人がアクセスすることができるようになり、
たとえば政府機関によってスパイされ、あるいは嫌がらせなどを受けた反戦活動家も、
その事実を明らかにした上で、新たに個人情報を保護し直すことができました。

 

■ BAN AGENT ORANGE  枯葉剤の禁止

ダイオキシン(エージェント・オレンジ)

エージェント・オレンジはベトナムで植生をクリアにするために使用されました。
これにはダイオキシンという化学物質が含まれていました。

人々はダイオキシンが深刻な健康問題を引き起こす可能性を懸念しています。
科学者たちはその効果を研究していますが、それでも全てが明らかにはなっていません。

枯葉剤は、ベトナム戦争中に米軍が使用した強力な除草剤です。
と言っても、邪魔な草を取るためとかいうヌルい目的に使われたのではありません。

コードネーム "ランチハンド作戦 "と呼ばれる米軍の作戦では、
1961年から1971年にかけて、ベトナム、カンボジア、ラオスにおいて
2000万ガロン以上のさまざまな除草剤が散布されました。

除草剤の中でも最もよく使われたのが、致死性の化学物質ダイオキシンを含む、

エージェント・オレンジ(Agent Orange)

でした。

枯葉剤は後に、ベトナムの人々はもちろん、帰還したアメリカ軍人と
その家族にも、がん、先天性異常、発疹、深刻な精神的・神経的問題など、
深刻な健康被害をもたらしたことが証明されています。

1961年から1971年にかけて、米軍は様々な除草剤をベトナム本土に散布し、
敵の軍隊が使用していた森林や食用作物を破壊しました。

冒頭写真のようにヘリコプターを投入し、広範囲にに強力な混合除草剤を散布したため、
敵のみならず南ベトナムの住民が使用していた作物や水源もやられてしまいました。

アメリカがこの作戦で使用した除草剤は合計2,000万ガロン以上。
また、米軍基地周辺でもトラックやハンドスプレーで散布していたのです。

各種除草剤は、それが入っていたドラム缶の色で呼ばれており、オレンジのほかに、
ピンク、グリーン、パープル、ホワイト、ブルーもありました。

製造していたのは(悪名高い)モン○ント社や○ウ・ケミカル社などです。

このうち枯葉剤オレンジは、ベトナムで最も広く使用され、最も強力な効き目で、
その使用割合は、ベトナム戦争中に使用された除草剤の総量の約3分の2にあたります。

 

枯葉剤に含まれるダイオキシン

枯葉剤の深刻な問題はダイオキシンが大量に含まれていたことでした。

ダイオキシンは非常に難分解性が高く、環境中、特に土壌、湖沼、
河川の堆積物、食物連鎖の中で何年にもわたって残留します。
魚や鳥などの動物の体内に蓄積され、人間は肉、鶏肉、乳製品、卵、貝、魚など
汚染された食品から暴露が行われます。

ヒトがダイオキシンにさらされると、皮膚の黒ずみ、肝臓の異常、
皮膚病が現れるほか、2型糖尿病、免疫系の機能障害、神経障害、
筋肉の機能障害、ホルモンの乱れ、心臓病なども引き起こします。

発育中の胎児は特にダイオキシンの影響を受けやすく、流産や二分脊椎など、
胎児の脳や神経系の発達にも影響があると言われています。

ハフポスト記事;ダイオキシンによる障害を持って生まれた子供

 

退役軍人の健康問題と法廷闘争

アメリカでは、ベトナム帰還兵やその家族から、発疹などの皮膚の炎症、
流産、精神的な症状、2型糖尿病、子どもの先天性異常、ホジキン病や前立腺がん、
白血病などのがんなど、さまざまな症状が報告され、枯葉剤が問題になりました。

1988年、「ランチハンド作戦」に関わった空軍の研究者ジェームズ・クラリー博士は、

「1960年代に除草剤プログラムを開始したとき、除草剤に含まれる
ダイオキシン汚染による被害の可能性を認識してはいた。
しかし、敵に使うものだから、
誰も過剰に心配することはなかった。
自分たちの仲間が除草剤で汚染されることなど考えもしなかった」

と述べています。

1979年に、ベトナムで枯葉剤を浴びた240万人の退役軍人による集団訴訟が起こされ、
5年後、法廷外の和解により、除草剤を製造した大手化学会社7社が、
退役軍人とその近親者に1億8000万ドルの補償金を支払うことで合意しました。

しかし、枯葉剤とその影響をめぐる論争はこれで終わったのではありません。

2011年6月の時点でも、いわゆる「ブルーウォーターネイビー」
と呼ばれる退役軍人(ベトナム戦争で潜水艦に乗船していた人々)が、
地上や内陸水路で活動していた他の退役軍人と同様に、
枯葉剤関連の給付金を受け取るべきかどうかについて議論が続いていました。

その問題は約2億4千万ドルの和解金で決着しました。

1991年、ジョージ・ブッシュ大統領はエージェント・オレンジ法に署名し、
枯葉剤被害による病気を労働災害とすることを認めています。

ベトナムにおける枯葉剤の影響

アメリカ軍人の問題は解決を見つつありますが、問題はベトナムです。

ベトナムでは、除草剤による環境被害と、
約40万人の死亡または負傷が報告されています。

また、50万人の子供が重い先天性障害を持って生まれ、200万人が
癌やその他の病気に苦しんでいると主張しています。

2004年、ベトナムの市民グループは、米国の退役軍人と和解した企業を含む、
30社以上の化学企業を相手に集団訴訟を起こしました。

枯葉剤の使用は国際法違反であるとし、数十億ドル相当の損害賠償を求めたものです。

しかしニューヨーク州ブルックリンの連邦判事はこの訴訟を棄却し、
2008年にも別の米国裁判所が上告を棄却したため、原告ベトナム人はもとより、
米国の退役軍人たちを激しく憤慨させることになりました。

なぜ米国政府はベトナムの化学兵器被害者への補償を拒否するのか。

それは、もし彼らの被害を保証することになれば、つまり、

「米国がベトナムで戦争犯罪を犯したことを認めることになるから」

に他なりません。

いったんそれを認めれば、その後は政府に対し、数十億ドル単位の訴訟が
雪崩を打って起こされることになることが明白です。

ゆえにアメリカ政府はそれをなんとしてでも避けなければならないのです。

 

■ 枯葉剤二世による救済活動

トラン・ティ・ホアンはベトナムで、ヘザー・バウザーはオハイオで育ちました。

しかしどちらもエージェント・オレンジの第二世代の犠牲者です。
ホアンは両足と片手の一部が欠損した状態で、ヘザーは右足、数本の指、
片足の爪先がない状態で生まれました。

重度の障害を抱えて生きてきた彼女らの経験は、他の多くの犠牲者に対する
各種の保護への運動を加速させることになりました。

ホアンはベトナムの救済組織であるVAVAとその米国側のパートナーである

「ベトナム枯葉剤救済&責務運動」

に協力しており、ヘザーは枯葉剤の第二世代生存者のために、

「ベトナム退役軍人の子供たちのための健康同盟」

を設立しました。
この写真は彼女らがワシントンDCで米国・ベトナムの枯葉剤犠牲者に
包括的な支援を提供する法案を推進している議員と会った時のものです。


■徴兵を逃れたアメリカ人と彼らの戦後

1960年代後半から70年代前半にかけて、約10万人のアメリカ人が
徴兵召集を避けるために海外に渡ったといわれています。

そのほとんど、約90%はカナダに行き、合法的な移民として受け入れられています。

また、何千人もの人々が、時には身分を変えて国内に潜伏しました。
加えて、約1,000人の脱走兵が不法にカナダに入国しました。

カナダ当局は一応公式には彼らを起訴または国外追放するとしていましたが、
実際には彼らは放置されたも同然で、カナダの国境警備隊は上から

「それらしい’アメリカ人にはあまり質問しないように」

とまで言われていたそうです。

ベトナム戦争が終わった後も、連邦政府は徴兵忌避者を起訴し続けました。
徴兵法違反で告発されたのは209,517人、正式に起訴されなかった人は約36万人に上ります。

カーター大統領が恩赦を発動する前は、カナダに逃れた者は米国に戻ると
実刑判決を受けることになっていました。
恩赦が出ても約5万人の徴兵忌避者がカナダへの永住を選んだのは、
そこで職を得たり地域社会に馴染んでいった人がそれだけいたということです。

彼らの中には、カナダ国民となって政治の世界に入っている人もいます。

■ Clemency Campaigns(徴兵拒否者救済プログラム)

ベトナム戦争時代、85万人もの男性が、徴兵制から、そして
軍隊から逃れ、犯罪者として扱われていました。

戦後、市民とベテランのグループは、これらの人々の赦免を求めて
大統領であったフォードと続いてカーターに訴えを続けました。
両大統領の政策は次の通り。

●フォード政策

フォード大統領は国家的な和解キャンペーンの幅を広げ、
彼らに課された刑事罰を是正すると発表しました。

有罪判決や処罰を受けていない者に対しては、24ヶ月間の
「代替勤務」と引き換えに恩赦を与えること、また、脱走であっても
有罪判決を受けた者に対しては、委員会を設置して事件を審査し、
可能な限り「政府の許し」を得られるようにしました。

●カーター政策

1976年の大統領選挙では、ジミー・カーター候補はそれを公約にして
大統領選を戦いました。

「和解のためには、国の傷をつなぎ、分裂の傷を癒す慈悲の行為が必要である」

大統領に当選後、カーターは、就任初日に選挙公約の実現として、
徴兵を逃れた何十万人もの男性に無条件で恩赦を与えました。

当時、この恩赦は退役軍人団体をはじめ、非愛国的な「犯罪者」を
無罪放免にすることに反対する人たちから多くの批判を受けました。

たとえばアリゾナ州上院議員のバリー・ゴールドウォーターなどは、この恩赦を

「大統領がこれまでに行った最も不名誉なこと」

とまで呼びました。
カーターはこれに激怒し、最後まで彼を許さなかったそうです。


逆にアムネスティ団体は、脱走兵や不名誉除隊者、暴力的な反戦デモ参加者などが
恩赦の対象になっていないという理由でカーターを非難しています。

左派は、白人中産階級の徴兵逃れが、貧困層の脱走兵よりも優遇されている、
と言う理由で非難しました。

選挙ではベストはなく、ベターを選ぶしかないのだという言葉を思い浮かべますね。
全てを満足させる政策などこの世には存在しないってことかもしれません。

 

続く。

 

「ベトナメリカ」 アメリカに渡ったベトナム難民〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争展のご紹介も、
そろそろ終わりに近づいてきました。

わたしがこの戦争展に行ったときはコロナの前で、普通に人が
マスクをせずに自由に行きたいところに行くことができたため、
この歴史センターにも平日にもかかわらず結構な観覧客がいました。

我々と違い、アメリカ人にとってのベトナム戦争は、なんらかの形で
自分や自分の家族、親しい人が実際に参加し、関わり、場合によっては
反対デモで気炎を上げたりした思い出があるわけですから、
どんな層の人たちにとっても興味深いものであったはずです。

展示の前には写真のように立ち止まって説明を丁寧に読む人がいるので、
彼らがつぎの展示に移るまで写真を撮るのをしばし待つ、ということが
一度ならずありました。

しょせん他国人のわたしには、そんな彼らの様子もまた興味深く映ったものです。

■ The United States  Refuges Act of 1980(アメリカ難民法)

「1980年米国難民法(Public Law 96-212)」

は、難民を米国に受け入れるための恒久的かつ体系的な手続きを提供し、
受け入れた難民の定住と安定のための規定を設けることを目的とした法律です。

1980年、エドワード・ケネディ上院議員は、難民に代わって
恒久的な法的・制度的枠組みを作る法律を後押ししました。

具体的には、ベトナム戦争の余波で東南アジアから難民として
アメリカに逃げてきた100万人以上の人々の定住を助けるものです。

ここに展示されているのは

G.B.トラン(Tran)作「VIETNAMERICA」(ベトナメリカ)

という、難民となってアメリカに来た漫画家の作品ですが、
トランは、ベトナム人始め、カンボジア、ラオス人、そしてモン族出身で
アメリカに来てから本や映画、アートなど展示品で、自ら
移民と難民の経験を表している人々のひとりです。

”VIETNAMERICA”

「皆さん、飛行機から降りてください!」

「心配いらないよ、トリ、
ここはフィリピンだ
もう安全だよ」

「グアム島へようこそ
皆さん、わたしについてきて難民手続きをなさってください」

「合衆国はあなたがたのためにここサンディエゴで
仮の収容所をすでに用意しております」

「早く皆さんにスポンサーと家が見つかることを祈っていますよ」

「足元にお気をつけください」

「サウスカロライナへようこそ!」

”コホンコホン・・・エヘン”

「フリーダム」

「リバティ」

「そして人民による人民のための政府。

建国の父たちは、この貴重な宝物を私たちに伝えてくれました。
 その上にアメリカは成り立っているのです」

「帰化の手続きには平均5年かかります」

「その間、難民の在留資格で仕事や学校に通い、
アメリカで新しい生活を始めることができます」

この法律はジミー・カーター大統領によって署名され、1980年4月1日に発効しました。


難民法は、祖国で迫害を受けている人々の緊急なニーズに応え、
認められた難民に援助、亡命、再定住の機会を提供することが目的で、
これが米国の歴史的な方針であるとしています。

ここでいわれる難民の定義は、

「居住国もしくは国籍のない国、または国籍のない国にいる者で、
人種、宗教、国籍、特定の社会集団の一員であること。

または政治的意見を理由とする迫害、または
迫害の十分な根拠のある恐れのために、その国に戻ることができず、
その国の保護を利用することができない、または利用したくない者」

と定められています。

アメリカ合衆国の難民の年間受け入れ数は、会計年度ごとに5万人が上限ですが、
緊急時には、大統領は12カ月間、この数を変更することができます。

移民国籍法の変更に伴い難民再定住局が設立され、同局は
国内での難民の再定住と支援のためのプログラムへの資金調達と管理を行い、
難民が経済的に自立するための雇用訓練や職業紹介、英語訓練、現金援助を
男女平等のもとに行います。

難民とは

米国が「難民」という言葉を「移民」と区別し、移民政策とは別に
難民に特化した政策を作り始めたのは、第二次世界大戦後のことです。

1948年以降の初期の難民法はちゃんとした法的な根拠に乏しいもので、
1979年になって初めてエドワード・ケネディが法案を提出するまでは、
個々の例に対しケースバーケースで対応していたのが実態でした。

当時、アメリカにやってくる難民は平均20万人で、そのほとんどが
インドシナ人やソ連のユダヤ人、つまり政府の抑圧から逃げてきたケースです。

再定住にかかる費用は4000ドル近くにのぼりましたが、
ほとんどの難民は最終的に連邦所得税でその額を支払っていました。

多くのアメリカ人は、難民の数が急激に増えることによる、いわゆる

「フラッドゲート・シナリオ」

を懸念していたのですが、この時決定した5万人の上限は
アメリカへの移民全体の10%に過ぎず、カナダ、フランス、オーストラリアなど
いわゆる先進国からの移民に比べれば小さな数字でした。

法案では6969人のアメリカ人に対して1人の難民を受け入れるという割合です。

 

蛇足ですが、日本国はそもそも難民法に相当する法律を制定していないため、
オリンピックを名目に入国して逃亡し、つかまって難民申請したところで、
そもそも法整備はまったくありませんから、拒否され強制送還されて終わりです。

 

■ アメリカに渡ったベトナム孤児

1974年、カリフォルニア州バークレーのバックナー氏は、
ベトナム孤児であった幼児のトゥイ(Tuy)を養子にしました。

バックナー家でアメリカ人として育ったトゥイですが、大きくなってから
両親を見つけるためにベトナムに渡っています。

出征証明書をもとに両親が住んでいると思われる場所を探し当て、
現地の世話人に尋ねたところ、

「あなたのお母さんを知ってますよ!今田んぼに出ています」

トゥイはこの時のことをこう語ります。

「その時突然、小さな小さな女の人が私に向かって歩いてきたんです。
彼女はわたしの頭をいきなり掴んで・・そして言ったんです。
『私の子だ!』と」

何故彼女が頭を掴んだかというと、息子の頭にあった傷跡を確認したのでした。
彼女はどうしても息子を育てられず孤児院に置いてくるという辛い選択をしたのです。

写真は、1993年、トゥイ・バックナーが母親と再会したあと、
彼の傷についての話を彼女から聞いているところで、
トゥイは親子の確認となった傷を手で触っています。

孤児院に登録されていたトゥイの当時の身分証明写真。

■ ピッツバーグに定住したベトナム人医師

南ベトナムの医療隊の外科医であるNghi Nguyen博士は、
戦争中、メコンデルタ最大の都市であるカントーで、
米軍の医療スタッフに加わって一緒に仕事をしていました。

写真はいかにも頭の良さそうな高校時代の学友とグエン博士(左から3番目)

お姉さんもいたようです

グエン博士のベトナムでの出生証明書

1975年4月に北ベトナム軍がサイゴンに接近したとき、
アメリカ領事館で働いていたグエン博士の妹は、
家族で国を脱出することを決断しました。

グエン博士(左)家族と妹家族。

博士が家族と共に彼らに空港で別れを告げていると、
どういうわけか、グエン博士、彼の妻ハン、二人の子供も
アメリカ当局によって急遽同じ飛行機の座席が提供されたのです。

アメリカ側がそこまで予想していたかはわかりませんが、これは英断でした。
医療隊にいたということは、戦時中アメリカ軍に協力していたことになり、
ベトナムに残っていれば彼と彼の家族は報復に直面する可能性もあったのです。

グエン博士は瞬時に全員での出国を決断しました。

家族は1975年、南カリフォルニアのキャンプ・ペンドルトンに到着しました。
戦争中に同僚で友人でもあったアメリカ陸軍軍医の助けを借りて、
グエン博士はバーモントで医師の助手の(医師免許が無いため)仕事を得ました。

写真はバーモント時代のグエン一家です。

1979年にダートマス・ヒッチコック医療センターで医療訓練を受けた後、
グエン博士はピッツバーグのアレゲニー・バレー病院で麻酔医として働くことになりました。

アメリカに来てからグエン家には二人息子が増えています。
写真は、4番目に生まれた息子の洗礼式のため訪れた
ピッツバーグのセント・ピーター・カトリック教会での一コマです。

グエン博士は、それ以来ピッツバーグに定住し、現地でのベトナム協会の会長を務め、
そのほかにもベトナム系のカトリックコミュニティでも活動を続けています。

ちなみに、この名前で検索すると、ご本人は2021年現在82歳で現役、
ピッツバーグにはこのグエン博士を含めて43人も「グエン」という名前の医師がいました。
(ベトナムにはよくある名前なんでしょうか)

このうち何人かはこのグエン博士の血族なのかもしれません。

 

 

続く。

「パールのピアス」報道カメラマンの死〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」、今日は戦争報道についてです。

■ メディアはベトナム戦争を終わらせたか

アメリカでベトナムが大々的に報道されるようになったのは、
1965年春に米軍の戦闘部隊が相当数投入されてからのことです。

それ以前は、インドシナに駐在するアメリカ人報道官の数は
1964年の時点でも20数人と大変少ないものでした。

戦争が激化した1968年には、ベトナムにはあらゆる国籍の、
約600人ほどからなる報道関係者が駐在し、米国の通信社、ラジオ、
テレビネットワーク、主要新聞やニュース雑誌のために取材していました。

ベトナム軍事支援司令部(MACV)は、報道関係者に軍用の交通手段を提供したので、
彼らの中にはそれを利用して現場に赴き、直接取材をする者もいました。


危険を避けたい多くの記者は、首都サイゴン(現ホーチミン市)に滞在し、
米軍広報部の日刊ブリーフィングから記事を得ていたのですが、
この「当たり障りのない」「肝心なことを明らかにしない」ブリーフィングは
そのうち「5時の愚行」と呼ばれるようになります。


当ブログでは繰り返しになりますが、ベトナム戦争は
テレビを介して初めて一般人が目のあたりにしたという意味で、
このように名づけられました。

 "第一次テレビ戦争 "

ベトナムで撮影されたフィルムは東京に飛ばされ、
すぐに現像、編集されてアメリカに送られました。

重要な記事は全て東京から衛星で直接送信されたのです。

「テレビが戦場をアメリカのリビングルームに直接運んできた」

とはよく言われますが、実際にはほとんどのテレビ番組は
戦闘中ではなく、終了した直後に撮影されたものであり、
多くは従来のニュース記事と変わるところはありませんでした。

実際、夜のテレビのニュース番組で放映されるのは、
撮影されたばかりのものではなく、通信社の報道をもとに
アンカーマンが読み上げる簡潔なレポートというのが普通でした。

 

ベトナム戦争におけるメディアの役割については、実は今も議論が続いています。

ここハインツ歴史センターの解説の論調もそうですが、アメリカの敗北には、
メディアの役割が大きかったという説がある一方、

「メディアはアメリカのベトナムでの活動を支持していた」

と結論づける専門家もいるということなのです。

前者は、メディアが戦争そのものにネガティブな報道をすることで、
アメリカ国内での戦争支持率が低下し、検閲されなかった戦争報道が、
敵に貴重な情報を提供し、米軍を不利に導いたとしています。

確かに1968年2月、「アメリカで最も信頼されている男」として知られる
CBSイブニングニュースのキャスター、ウォルター・クロンカイトが、

「ベトナム戦争は膠着状態に陥っている」

と評したことは、ベトナムに関する世論が大きく変わるきっかけとなりました。

しかし、この懐疑的で悲観的な報道姿勢がアメリカ国民を変えたのではなく、
様々な原因によって国民に浸透していった「ベトナムへの幻滅」が
単に反映されたに過ぎず、リンドン・ジョンソンが言ったように

「クロンカイトを失えばミドルクラスの国民を失うのと同じだ」

と嘆くほどの影響が実際メディアにあったかどうかは甚だ疑問だ、
というのが後者の意見なのです。

実はメディアはクロンカイト発言まではベトナムでのアメリカを支持しており、
彼らの報道が懐疑的になっていったのは、クロンカイト発言が
国民の総意であるという「お墨付き」となってからだ、というのが、
懐疑派のメディア専門家の見解なのです。

 

ベトナム戦争関係の報道は基本無検閲でした。

戦時中、MACVがジャーナリストを軍規違反で有罪にした例は数えるほどしかなく、
メディアも「軍の意向」に反するような報道はほとんどしていませんでした。

つまりアメリカ人の戦争への幻滅は、さまざまな原因が重なって生まれたものであり、
メディアはその1つにすぎず、

「報道が戦争を終わらせた」

というのは誇張であるというのが後者の結論です。

今回も衝撃的な写真が世界を変えた、という言い方をよく紹介していますが、
それでも実際に国民の世論を動かしたのは、戦争で亡くなる犠牲者が増えた、
という、個々にとって深刻な現実そのものだったというのです。

■ その後のアメリカの報道管制

時は降って1983年、カリブ海に浮かぶ島国グレナダでクーデターが起きた際、
東カリブ諸国機構、およびバルバドス、ジャマイカ軍とともに、
アメリカ軍も侵攻を行いました。

これを「グレナダ侵攻」といいますが、当時のレーガン政権は、
侵攻作戦中の報道を制限することにより、ベトナム時代の自由な報道対策を覆し、
ついでにベトナム戦争に関する情報へのアクセスや、
資料の移動の自由までを制限することにしました。

その後、イラクの自由作戦を皮切りに、2003年には報道関係者を
アメリカ軍の部隊に取り込むという方針が取られるようになりました。

Reporting Vietnam(1998)

は、ベトナム戦争の総決算というべき著書で、2巻からなり、
1969年の「ミライの虐殺事件」(ソンミ村虐殺)の発覚から
1975年のサイゴン陥落までの出来事を追っています。

テーマごとに違うライターが手がけ、

「ラオスでの南ベトナムの失敗」
「アメリカの士気の低下」
「プノンペンの陥落とクメール・ルージュの勝利」
「南ベトナムの最後の日々」

などと言ったテーマが語られています。

 

 

■  The Press and the Military 報道員の「戦死」

ディッキー・チャペル(Dickey Chapelle)
は、第二次世界大戦中太平洋の最前線に参加した経験を持ちます。

マサチューセッツ工科大学で航空設計を学んだ彼女の最初の志望は
航空パイロットでしたが、航空写真の仕事を通じて写真家になり、
太平洋戦線では硫黄島や沖縄の写真も残しています。

チャペルは1965年11月4日、ベトナムでのクアンガイ省チューライ付近で行われた
捜索・破壊作戦「ブラックフェレット作戦」を行う海兵隊の小隊と行動中、
前を歩いていた中尉が蹴ったブービートラップの爆発で死亡しました。

このブービートラップは、迫撃砲弾の上部に手榴弾を取り付けたトリップワイヤー式で、
破裂の際、断片が頸動脈を直撃し、彼女を死亡に至らしめたものです。

彼女の英語版Wikiには、瀕死の彼女が、従軍牧師から
最後の秘跡を受けているところをやはり従軍カメラマンの、


ヘンリー・ヒュート(Henri Huet)1927-1971

が撮影したシーンが掲載されています。(wiki

そのヒュートも、この写真を撮った6年後の1971年2月10日、
南ベトナムによるラオス南部への侵攻作戦(ラムソン719作戦)で、
司令官の戦線視察に同行するため乗ったヘリが、北ベトナム軍に撃墜され、
他のフォトジャーナリスト3名、乗員11人全員と共に死亡しました。

彼らのUH-1ヒューイのベトナム共和国空軍のパイロットが方向を誤り、
ホーチミン・トレイルの最重防御地域に飛び込んで、銃撃を受けたのです。

ヒュートは、戦地を取材する同僚たちの間で、常にその現場での献身、
勇気、そして能力が尊敬され、ユーモアのセンスと優しさでも知られる人物でした。

当時の彼を知るかつての報道員の一人は、

「彼はいつも笑顔を絶やさない人物でした」

と述べています。
彼については、日本でも出版されている、

『レクイエム 
ヴェトナム・カンボジア・ラオスの戦場に散った報道カメラマン遺作集』

でその作品が紹介されています。

このときヘリに乗っていてヒュートと共に死亡したカメラマンは、

File-larry burrows.jpg
『ライフ』誌のラリー・バローズ(Larry Burrows)(44歳)。

彼の作品は次の通り。

Larry Burrows: Vietnam


そして、『UPI』誌のケント・ポッター(Kent Potter)、



そして、『ニューズウィーク』誌の日本人カメラマン、
嶋本啓三郎でした。

墜落現場は北ベトナム側だったので戦後までは未確認でしたが、
1996年になって再発見され、その2年後には、インドシナなどで
MIA(任務注行方不明)の遺体を回収する米国防総省の部隊である

JTFFA(Joint Task Force Full Accounting)

の捜索チームが山腹を発掘したところ、航空機の部品、カメラの部品、
35mmフィルムなどが発見され、さらに人骨の痕跡も発見されました。
ただし人骨は風化してこのとき身元の鑑定を行う状態ではありませんでした。

2002年末、統合POW/MIAコマンド(JPAC)と改称された捜索部隊は、
状況証拠によるグループ識別を理由に、この事件の終結を宣言しました。

その後、公式の場に遺骨を埋葬する機会がないまま、2006年になって、
ワシントンD.C.のニュージアムが遺骨の受け入れに同意し、
JPACから遺骨を譲り受け、2008年4月にあらためて慰霊式が行われました。

このとき行われた慰霊式には、ヒュート、バローズ、ポッターの親族をはじめ、
多くのベトナム戦争時代の同僚を含む100人以上のゲストが出席しています。

この式典に出席したリチャード・パイル氏とホルスト・ファース氏は
事故当時APのサイゴン支局長であり、

「Lost Over Laos〜A True Story of Tragedy, Mystery, and Friendship」
(ラオスでの失踪〜悲劇とミステリーと友情の真実)

の共著者です。

この本では、4人の写真家の個人的な物語、彼らの死に至るまでの出来事、
そしてパイルがようにしてJTFFAの墜落現場の発見に貢献したかが語られています。

■ 戦場に散った日本人カメラマン

20180228193901

沢田恭一 Kyoichi Sawada

ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)側の村がアメリカ軍の爆撃を受け、
村から逃げてきた女性たちが川を歩いて逃げてくるあまりにも有名な写真、

「安全への逃避」

でピューリッツァー賞を受賞したカメラマンの沢田教一は、
1970年10月28日、UPIプノンペン支局長のフランク・フロッシュとともに
タケオ州での取材を終え、車でプノンペンに戻る途中、
何者かに待ち伏せされて暗殺されました。

2人の遺体は道路近くの田んぼに放置されており、銃弾が飛び散っていました。
車内には血痕も弾痕もなかったので、外に引きずり出されて処刑されたものとされます。

彼らは民間の車を運転し、明るい色の民間の服を着ていたので、
兵士と間違われた可能性はなく、ただ、愛機のライカや
腕時計等の金品は無くなっていたことから、
襲撃者は最初から物盗りが目的だった可能性もあります。

ピューリッツァー賞を受賞したカメラマンの中には、
「ハゲワシと少女」のようにカメラを向ける間にどうして助けなかったのか、
という世間のバッシングを受け、
(実際には南京の幼児のように、あの状態だったのは一瞬で、
すぐにカメラマンはハゲワシを追い払ったにもかかわらず)
自殺してしまったケビン・カーターのような人もいますが、
沢田の場合は、「安全への逃避」の場面に遭遇した時、シャッターを切った後
泳ぎ着いた家族に手を差し伸べ、彼らから感謝されています。

さらに沢田はその後も村を何度か訪れて子供たちにケーキを配り、
ピュリツァー賞の賞金36万円のうち6万円を家族にプレゼントしました。

彼がなくなったという知らせが届けられると、家族はもちろん、
村全体が悲しみで包まれたという話が残されています。

峯作品

峯弘道 Hiromichi Mine

日本語の資料が少なく、彼の正しい名前の漢字がわかったのは、
日本で行われた葬儀会場の写真からでした。

1940年生まれ、上智大学経済学部を卒業後UPI東京支局に勤務。
1964年7月にはベトナムに渡りました。
彼の最も有名な写真である砲弾を受けた輸送機カリブーの写真は、
世界報道写真賞とピクチャー・オブ・ザ・イヤー・コンペティションで賞を受賞。

1968年3月5日、フエとフバイの間の道路で、乗っていた装甲兵員輸送車が
500ポンドの地雷に触雷して死亡しました。

ミネは、ベトナムで殺された最初の日本人特派員である。
東京に戻る彼の遺体に付き添ったのは、同じくベトナムで命を落とすことになる
同僚の沢田教一でした。

 

■ 殉職女性カメラマン第一号、チャペル

Dickey Chapelle.jpg

最後に、殉職した女性カメラマン、ディッキー・チャペルの
(今ふと思ったのですが、ポリコレ文化大革命のおかげでこの言葉はなくなり、
そのうち『カメラパーソン』とかになるんでしょうか・・・やれやれ)
ことについて、少しお話ししておきます。

冒頭写真をよく見ていただくと、一見男性のように見える彼女ですが、
耳にはパールのピアスをしているのがお分かりいただけるかと思います。

権威に屈しないことで知られたこの小さな女性のいつものスタイルは、
ファティーグジャケット、オーストラリアのブッシュハット、
ドラマチックなハーレクイングラス、そしてパールのピアスでした。

第二次世界大戦中は、写真家としては平凡だった彼女ですが、戦後、
並々ならぬ努力によってあらゆる戦場の取材を行いました。

1956年のハンガリー革命では、7週間以上も収監されたこともあります。

彼女は部隊と一緒に移動するため、空挺部隊と一緒にジャンプすることを覚え、
数々の賞を受賞し、軍部とジャーナリストの両方から尊敬を集めました。

「あの女を今すぐここから追い出せ!」

 第二次世界大戦末期、沖縄の戦線に参加した頃の彼女は、
アメリカ海兵隊の将軍からこう言われたこともあったといいます。

 

1961年、ディッキーはベトナム戦争が始まると、
ベトナムへと当然のように旅立ちました。
アメリカ政府は、当初彼女のイメージを失墜させようと必死に?なりました。

戦闘的な海兵隊員になりたがっていた「少女」。

タバコを吸い、酒を飲み、飛行機から飛び降り、自分の息子くらいの
若い男たちと泥の中で寝ていた「トラブルメーカー」等々。

しかし、彼女の後ろには一般大衆がいて、しかも味方となっていたため、
政府は、むしろ彼女の愛国心を利用してCIAのために働かせる手に出ました。

そして彼女の作品から800枚もの写真がいつの間にかどこへともなく消えました。


彼女が撮影した、ベトナム空挺部隊による共産主義「容疑者」の死刑執行写の瞬間は、
あの「サイゴンの処刑」よりも丸6年も前に撮影されていました。
(39:30あたりから)

Behind The Pearl Earrings: The Story of Dickey Chapelle, Combat Photojournalist | Program |

ちなみにこの映像の43:30あたりから彼女がフィールドに倒れている様子、
遺体が担架で運ばれていく様子が全て記録されています。
担架の横を歩いているカメラマンは、おそらくヒュートでしょう。


地雷を受けて斃れた彼女の最後の言葉はこのようなものでした。

“I guess it was bound to happen.”
(こうなることはわかっていたわ)

彼女の遺体は、6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに本国に送還され、
海兵隊員として丁重な葬礼をもって送られました。

彼女は、ベトナムで戦死した最初の女性戦場記者であり、
同じくベトナムで死んだ最初のアメリカ女性記者でもあります。

そして、ベトナム戦争の報道員として亡くなった、あるいは姿を消した
様々な国からの、少なくとも135名の写真家のひとりです。

 

続く。

 

 

 

アメラジアン・ホームカミング法〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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■ Le Anh Had

肖像画に描かれた人物はレ・アン・ハオ。
息子が描いた父親の肖像は、彼の先祖を祀る祭壇に飾られました。
彼とその妻、9人の子供たちは南ベトナムのクアンナム省の村に住んでいました。

この村はベトコンに協力していたため、1968年頃、連合軍がやってきて
住民を排除し、家々や畑などを破壊してしまいました。

そしてハオは危ないという警告を皆から受けていたのにも関わらず、
どうしても家から持ち出したいものがあるといって廃墟になった村に戻り、
殺されました。

そのとき彼が持っていたのは、杖、眼鏡、2冊の詩集、
そして漢方薬の本だったそうです。

村はその後再建され、彼の家族は元の家のあったところにいまだに住んでいます。
彼らは亡くなった父を記憶し、アメリカとの友情の絆を結んでいきたいと、
彼らの祭壇にあるのと同じ肖像画を贈って共有することを提案しました。

レ・アン・ハオは戦争で命を落とした推定300万人のベトナム人のひとりであり、
少なくともその半数といわれる民間人のひとりでもあります。

■ AMERASIAN  Homecoming Act
(”アメラジアン”帰国プロジェクト)

「アメラジアン」とは、アメリカ人とアジア人を足した造語で、
ご想像の通り、ベトナムでアメリカ兵と現地の女性の間に生まれた子供のことです。

そのような子供たちはベトナム社会では阻害され、迫害され、追放されたため、
スチュワート・マッキニー下院議員などの政治家は、これを

「国際的な恥」(national embarrasment)

と呼び、なんとかするべきだと声を上げました。

このような境遇の子供たち、アメラジアンに、移民としての優遇措置を与える
連邦議会の法律、

アメリカ帰郷法(Amerasian Homecoming Act)

が制定されたのは1987年、2年後に施行されました。

アメラジアンの子供たちは外見だけで混血であることを証明できたため、
その結果、ベトナム系アメリカ人の米国への移民が増加することになります。

オハイオ州立大学の調査によると、1982年に始まった立法努力の結果、
約77,000人のアメラジアンの子供たちと、その親戚がアメリカに入国したとされます。

ベトナム系アメリカ人の子供たちとその近親者には難民手当が支給され、
彼らのアメリカ移住の手続きとして最も成功したプログラムと言われました。

ただ、この法律ではベトナム系アメリカ人の子供だけが対象であり、
アメリカが戦争に参加していた他の東南アジア諸国の子供は適応外だったため、
対象難民と対象外難民を巡って、論争が起きることになりました。

写真は、父親だったアメリカ軍の建築エンジニア(民間人)の写真を持つ、
アメラジアンの一人、レ・ティ・リエン。
リエンと家族はこの写真の撮られた1985年当時、アメリカへの移民を希望していました。

■ 帰郷法制定の背景

1982年、米国議会は「アメラジアン移民法」(PL97-359)を可決しましたが、
最初の法律は、移民権が与えられるのはアメラジアンの子供本人のみで、
母親や異母兄弟は対象外だったうえ、アメラジアンの子供がビザを取得するためには、
アメリカ人の父親が合意し、調整に応じる必要があるという不合理なものでした。

アメリカ人の父親の合意を含む書類を持っていない場合、自称アメラジアンは
医師グループによって「アメリカ人」の身体的特徴を検査される可能性さえあったのです。

さらに、アメリカとベトナムの政府は外交関係を結んでいなかったため、
アメリカ系移民法といってもアメリカ人を父親とする子どもにはほとんど役に立たず、
ベトナム系アメリカ人の子どもにはさらに役に立ちませんでした。

■ ムラゼック議員とレ・ヴァン・ミン

Robert J. Mrazek.jpgムラゼック下院議員

1987年、下院議員のロバート・J・ムラゼックは、ニューヨークの
自分の選挙区の高校生たちの要請を受けて、ベトナムを視察しました。
そして、 アメラジアンの子どもたちが耐えている過酷な生活環境を目の当たりにし、
彼らの

「父の国に行きたい」

という声を聞いて、解決策を見つけようと決意します。

そしてホーチミン市(サイゴン)で物乞いをしていた
レ・ヴァン・ミンというアメリカ系ベトナム人の子どもを、
アメリカで医療を受けさせるという目的で連れてきました。

  物乞いをしていた彼は3歳(戦争が終わった頃)で発症した小児麻痺の後遺症で
ムラゼックに会ったときには四つん這いでしか歩けない体でした。 彼父親はアメリカのGIで、兄弟の中の唯一のアメラジアンでした。
10歳になったとき、彼は母親から家を追い出され、物乞いをするしかなくなったのです。   彼が手にしているのは、主に何か恵んでもらう相手である西欧人に渡すための
タバコのパッケージホイルで作った花です。   ムラゼック議員の指示で、ある日突然保護された彼は、アメリカに連れて行かれました。
飛行機がJFK空港に着陸し、そこに降り立ったとき、彼らを迎えたのは
眩しいテレビカメラのライトとフラッシュでした。   「これが”ビッグアップル”だ。ここがニューヨークだ。息子よ」   ムラゼック議員はミンにそういい、ミンは議員の首に腕を回しました。
  その後、ミンはムラゼック議員に連れられて、報道陣や、
議員にベトナムでミンを助けるように陳情した、
ハンティントン高校の生徒たち100人と対面しました。
議員に働きかけ、ミンをアメリカに連れてくるために
数カ月にわたるキャンペーンを計画したのは高校生だったのです。   ベトナム語で「明るい」を意味するファーストネームを持つレ・ヴァン・ミン。
彼は帰国後の報道陣の前でも微笑みながらただ黙っていました。

学生たちに取り囲まれ、皆が彼に触れ、口々に祝福されてはいましたが、
実のところ彼にはその理由となぜ自分がここにいるかさえわかっていなかったようです。   全く教育を受けず、物心ついた時から物乞いをして生きていたミンは
母国語すらほとんど喋ることができず、それが思考すら覚束なくしていたのかもしれません。   ミンはムラゼック議員の家庭にいったん受け入れられ、
彼の息子と娘に大歓迎されて家族のようにしばらく暮らした後、
里親に引き取られてアメリカ人として生きていくことになりました。  

 

ミンを引き取ったことをきっかけに、ムラゼック議員は議会に働きかけ、
後に「アメラジアン・ホームカミング法」を制定することになります。

同時に制定された

「秩序ある出国プログラム(Orderly Departure Program ODP)」

は、南ベトナムの兵士やアメリカの戦争に関係した人々が
ベトナムからアメリカに移住できるシステムをでした。

このシステムにより、書類などの確認が簡略化されて、最終的に
ちゃんとした書類を持っていなくても入国が可能になったのです。

この結果、約6,000人のアメラジアンと11,000人の親族がアメリカに入国しました。

■ アメラジアン・ホームカミング法制定後

ベトナム戦争後、アメリカは難民への現金援助と医療援助をおこないましたが、
1970年代にそれをわずか8カ月に短縮する措置を取りました。

多くのアメラジアンの子どもたちは公立学校で苦労することになり、
高等教育を受けられる例はほぼないというくらいでした。

多くのアメラジアンたちは、白い肌だったり、非常に暗い肌に青い目だったり、
黒髪なのに巻き毛だったりという身体特徴からすぐにアメリカ人とのハーフとわかり、
つねに偏見に直面していたのです。

彼らを蔑んで呼ぶ

「ブイ・ドイ」(「人生の塵」または「ゴミ」)

という言葉は、イコールアメラジアンという意味で使われました。

戦後のベトナムは新社会主義国となり、このような学校でのいじめや
近隣住民からの蔑みだけでなく、政府関係者までが、
旧敵を思い出させるという理由で彼らの存在を憎むように仕組みました。

しかしです。

同法が制定され、アメラジアン本人たちだけでなく、その家族も
アメリカに移住できるようになると、ベトナム社会はいきなり掌を返し、
これらの子供たちをゴミどころか、

「ゴールデン・チルドレン」

と呼んでもてはやしたり羨んだりするようになったのです。

家族と一言で言っても、アメラジアンの子供の配偶者、子供、母親だけでなく、
近親者まで移住の対象となり、移民すればから手当てまで貰えるのですからね。

今ならDNAテストなどが導入されるのでしょうが、当時は申請者の外見だけで
父親がアメリカ人だと認められ、法律が適用されるというこの法案は画期的でした。

■入国手続きと「偽装家族」

アメリカ人帰還法は、それぞれのアメリカ大使館を通じて運営されました。

アメリカ大使館の職員は、アメラジアンの子供とその家族の面接を行い、
子供の父親が米軍関係者であるかどうかを確認しましたが、その方法が
「顔を見て判断する」という非常にアバウトなものだったのは驚くべきです。

そんなだったので、必ずしも適応には書類を必要としなかったのですが、
もし持っていれば、そのケースはより早く処理されることになりました。

問題は、アメラジアン本人は一眼でそうとわかっても、その親族が
本物であるかどうかを見分ける手立てがなかったということです。

現に、アメリカに移住するためにアメラジアンには親族と称する人たちが近づき、
偽装家族となってその資格を手に入れようとした例が報告されています。

承認された申請者とその家族は、どちらかといえば簡単な健康診断を受け
合格すればアメリカはベトナム当局に通知し、出国手続きが開始されます。

帰国が決まれば、彼らは英語の研修と文化オリエンテーションのために、
半年の期間フィリピンに送られました。


■ 問題点

先ほどの繰り返しになりますが、こんにち成功したと評価されている
このアメリカ帰還法にも、問題点と論争がなかったわけではありません。

最も大きな問題点は、ベトナムで生まれたアメリカ人の子供にしか適用されず、
日本、韓国、フィリピン、ラオス、カンボジア、タイ
を対象地域から除外していたことです。

1993年には、フィリピン人アメラジアンの援助を受ける権利を求め、
国際訴状裁判所に集団訴訟が起こされました。

このとき下された判決は、彼らにとって非常に不利なものとなりました。
つまり、裁判所は

「子供は米国のサービスマンに提供された性的サービスの産物である」

とし、売春が違法である以上、フィリピン系アメリカ人の子供たちには
かかる法的請求権は存在しないと判断したのです。

したがって、ベトナム以外の国で生まれたアメラジアンの子どもたちが
アメリカに移住できるのは、父親が自分の子供だと認めた場合に限りました。

そもそも、セックスワーカーから生まれた子供の場合、ほとんどの父親は
彼らが自分の子供であるとは認めませんし、DNAテストがなかった当時、
逆にその人物の子供であるという証明もできませんでした。

そして法律でセックスワーカーの子供が排除されると規定されたため、
多くの子どもたちがプログラムに参加できなくなったというわけです。

しかも、この例は、ベトナムで生まれたアメラジアンにもしばしば起こりました。

あるベトナム人女性がアメラジアンの息子のためにアメリカ市民権を得ようと、
父親であるアメリカ人に公的な手続きを行うように連絡したところ、
父親は彼女を売春婦と呼んで関係と責任を否定した、といったように。

■ グリーン・アイズ

Green Eyes (1977) | Paul Winfield Returns to Vietnam

「グリーン・アイズ」は1977年にアメリカでテレビ放映された戦争ドラマです。

主人公のロイドは"肉体的にも心理的にも傷ついたベトナム帰還兵 "であった。
退役軍人病院から退院した後も仕事を見つけることができず、周囲から孤立していく。

ロイドの母はロイドの陸軍からの給料と掃除婦として稼いだお金を貯めて、
帰還した彼が大学に行って学位を取れるようにしてくれていたにもかかわらず、
ロイドは、自分の子供を産んだベトナム人女性エムを捜すためにサイゴンに戻る。

エムからの手紙に書かれていたのは、彼の見たことのない子供が
「緑色の目をした男の子」ということだけだった。

というストーリーです。

ロイドのようにするアメリカ人は、しかし現実社会には稀な存在であったのも確かです。

アメラジアン・ホームカミング法でアメリカに「帰国」したアメリカ人のうち
その後各界で成功した人々は枚挙にいとまがありません。

ベトナム系アメリカ人リスト

 

続く。

 

アメリカで観る東京オリンピックとスポーツファッション史〜アメリカ滞在

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■ 2回目のワクチン接種終了

アメリカに来て1週間後ワクチンを打ちましたが、
瞬く間に3週間後が過ぎ、2回目のワクチン接種日がやってきました。

2回目接種については、その週の始めにテキストで告知があり、
前日には再三のメールも来るなど、どんなうっかりさんでも忘れないように
何度もお知らせをしてくれます。

きっちり2週間後に行わないと効果がないのだとか。

1回目の摂取時間が夜7時だったので、2回目は自動的に
同じ時間に来るようにスケジュールされていました。

時間より少し前に同じドラッグストアに行って、
奥の調剤薬局の窓口に摂取カードと書類を見せます。

英語が喋れない人のために、各国語の同時通訳の電話番号リストが
カウンターに置いてあります。
母国語のナンバーに電話をすると、無料で通訳につながります。

2回目はIDの確認なしに店内の椅子に座らされ、
そこに注射器を持ったファーマシストがやってきて、

「1回目は熱とか痛みとかどうでした?」

と聞きながら肩を消毒します。

「2日ほど筋肉痛があっただけです」

と答え終わらないうちに接種は終わっていました。
1回目と同じく、注射そのものには痛みも何も全く感じません。

モデルナのワクチンを受けたMK、2回目は頭痛がして寝られなかったというので、
ビビりまくったわたしは念のためにこのファーマシストに聞いて、こちらでは
ポピュラーなペインキラー、タイレノールを買って帰ったのですが、
その日の晩も次の朝も全くその気配もなく、肩すかしを食ったようでした。

さすがにその次の日からは腕が熱を持って腫れ、倦怠感、頭痛があって、
打った翌々日は1日ベッドでごろごろしていましたが、(多分熱もあったと思う)
辛いとか苦しいとかいう感じは全くと言っていいほどありませんでした。

患部は注射をしたところから注射液が広がった形状そのままに腫れました。
今ではそれも退いていますが、体質的に絆創膏にかぶれやすいせいで、
針跡に貼ったバンドエイドの跡が今でもうっすら残っています。


その後のニュースで、ワクチンを二回摂取すると感染しても重症化しない、
と聞いて安心したのですが、すぐに、ワクチン摂取した人であっても
デルタ株は感染する(重症化しないだけ)らしいとわかってなんだかやれやれです。

日々の情報に世界中が右往左往させられているという感じ。

こちらのニュースでも毎日盛んにデルタ株の感染について報じられており、
オリンピックという時節柄東京での感染者数がクローズアップされています。

ワクチンを打ったからと安心せずマスクをするように、と告知されているのですが、
アメリカ人は皆もうマスク生活なんてうんざりでえ!やってられっか!と思っているらしく、
(まあ気持ちはわかるがな)少なくとも一般人はほとんどがノーマスクです。

冬の間雪道を歩いた川沿いのトレイルには、手洗い所が登場しました。
所々にあしらわれている模様はお日様・・・じゃなくてもちろんコロナですよね。

効果的な手洗いには20秒が必要、ということで、
「アメイジング・グレイス」か「ハッピーバースデイ」を歌い終わるまで、
手を洗い続けましょう、と提案しているわけですが、実際にやってみたところ、
「アメイジング」は25秒かかり、「ハッピーバースデイ」は15秒で終わりました。
つまりどちらの曲も微妙ってことです。

この話をMKにしたところ、Apple Watchに「手洗いモード」があって、
手を洗い出すと、自動的に20秒カウントしてくれるというので、
面白半分でセッティングしてもらいました。

「なんで手を洗ってるって時計にわかるのよ」

「音とか手の動きがセンサーでわかるんだよ」

半信半疑でやってみると、驚くことに勝手にカウントが始まり、
20秒経つとブルッと震えて終わりの合図をしてくれます。

「すげー!」

ちょっと感心したのですが、ちょっと不思議なのが、
終わった時に出てくるメッセージ。

「とても素晴らしいです!」「よくやりました!」

など、いえいえ、それほどのことでも、と照れてしまうくらい
激賞してくれる時があるかと思ったら、

「終わりです」「完了です」

と妙にそっけない時があって、このテンションの違いはなんなのだろうと・・。


■ アメリカで観る東京オリンピック

夏場渡米することが多いせいで、ここ何年も
自宅でオリンピックを観たことがないわたしですが、今回もまた、
自国開催である東京オリンピックを海外で観戦することになりました。

わかっているのにわざわざ酷暑の日本で夏に開催することも、その放映時間も、
全てアメリカのテレビ中継に合わせてある、という噂はかねがね聞いていましたが、
常時最低3チャンネルは朝から晩まで競技を放映しています。

ただ、当然ですが、アメリカ戦が優先されるので、
日本の試合を見逃すことが多々あるのは仕方ありません。

冒頭画像は「いわゆるオリエンタルなフォント」によるTOKYO2020番組タイトルで、
これに続きレインボーブリッジを望むお台場の空撮が続きます。

オリンピックの取材でスタッフが日本にいるせいか、
このような「外人さんが日本文化を体験」みたいな紹介番組もよく観ます。

この人は金沢に訪問し、流鏑馬をやらせてもらっております。

こちらにきてからこの手の「外人さん日本旅行」企画番組として
モータージャーナリストのジェームズ・メイが北海道から九州まで
いろんな体験をするシリーズを見ましたが、これが滅法面白かったです。
(メイさんのイギリス人らしいコメントがまたなかなか皮肉が効いていて)

マイクロソフトのCMも、屋台や庶民的な飲み屋を紹介するなど、
ディープ日本にも拘っているのがオリンピックイヤーならでは。

オリンピックに関係あるのかどうかわかりませんが、
T.J.MAXXというアウトレット衣料スーパーでこんなの見つけました。

まず右側は富士山の形がヘン。
左は富士山はいいけど「優れました」というロゴがヘン。
なぜ過去形?

THE TIME IS  NOWと「全く寝ていない」というコピー、
骸骨に三つ重なった「不滅」の文字。

これは・・・あれだな。
イギリスのsuperdry「極度乾燥しなさい」ブランドのアイデアパクリかも。

McKayla Maroney Saves The Day - GEICO Insurance

オリンピック番組のスポンサーは、こぞって選手をCMに使います。
「ガイコ」という自動車保険会社も、マッケイラ・マロニーという体操選手
(ロンドンオリンピックで口を曲げる”不満顔”を見せたことで話題に)に、
屋根の上のフリスビーをジャンプで取ってもらい、
受け取ったとたんまた屋根に上げてしまって、マッケイラは「不満顔」という、
事情を知らなければ1ミリも笑えないCMを繰り返してやっています。

あと、パラリンピックの選手をCFに採用する企業はとても多いです。

パラリンピックの競泳競技は、泳ぎ方別に、脳性マヒ、脊髄損傷、切断、
機能障害などの身体障がい(肢体不自由)、視野の範囲や見え方など視覚障がい、
知的障がいという大きなクラス分けがあります。

さらに、肢体不自由と視覚障害は三つのクラスに分けられその中で勝敗を競います。
障害の程度によってハンディができないようにということだと思います。

「今こそ、私たちの中にある可能性を解き放つ時です」

ミニオンズネタでまた新作映画ができるようで、便乗広告。
有名水泳選手との共演です。
ちなみにミニオンはプールに飛び込んでもぷかぷか浮いてしまい泳げません。

コマーシャルといえば、大統領選挙戦当時トランプ支持で有名だった
「枕の社長」ことマイピロー社CEOのマイク・リンデル氏。

一時、民主党支持の小売業者(ベッドバス&ビヨンドとか)から
トランプ支持を理由に取引を終了されたというニュースがありました。
ちょうどその頃わたしはアメリカにいてたまたま閉店セールの「バスビヨ」に行き、
マイピロー商品が大量に二束三文で投げ売りされていたのを見たものです。

その後どうなったんだろうと思っていたら、普通に元気いっぱい
テレビコマーシャルに出て、自社製品の宣伝をしておられました。

アメリカでも通販が小売の主力販売法になっている昨今、
小売店に切られたからといって営業危機にまでは至っていないようです。

■ 富裕層の住居跡: The Frick

以前紹介したこともある、メロン財閥のお嬢様がデビュタントのプレゼントに
広大な土地の権利をもらって作ったというフリックパークという公園には
毎日のように朝の散歩で歩きに行っているのですが、あまりにも広くて
いまだにコースを全て把握できていません。

先日、新しいコースを開拓していたところ、公園の反対側に
邸宅とミュージアム、庭園があるのを見つけました。

アメリカではこういう邸宅を「マンション」と呼びます。
日本で言うマンションはアメリカでは「アパートメント」です。

この家が建築されたのは1860年代。
その後1881年にフリックという夫妻が結婚直後に購入し、
その後フリック家の人々が亡くなるまで住んでいました。

ガラス張りの温室の向こうに見えるのは子供達の「プレイハウス」。

「お遊び場」といっても、この説明によるとそこは

「友人をもてなしたり、アクティビティを企画したり、ダンスなど、
社会的スキルを練習したりと、大人になってから期待される役割の多くを実践する場」

であったとかなんとか。
特に右側のお兄さんの方は、まだ12歳くらいといったところでしょうが、
もうすでにいっぱしの紳士の自覚のようなものがその大人びた表情に見えます。

その後、フリック家の居住地域は、美術館、博物館、植物園、
カフェを備えた「The Frick」として地域の人々が憩う場所になっています。

カフェではカウンターで注文し、外のテーブルで食事ができます。
この日は湿度も低く、木陰が最高に快適でした。

ちなみに周りにいたのはほぼ全員が年配のアメリカ人(白人)ばかりでした。

アメリカン・ゴールドフィンチは日本語で「オウゴンヒワ」といいます。

鮮やかな黄色をしていますが、これは繁殖期の雄にのみ見られる色で、
平常時はくすんだ黄色になるそうです。

しつこく追いかけられて固まるリスも

■ スポーツファッション展

「ザ・フリック」のメインとなる博物館入り口。
建物よりも四角く刈り込まれた植栽に感心してしまいました。

2021年の東京オリンピックは「2020年TOKYO」という名称を変えていませんが、
とにかくオリンピックイヤーには違いないということか、この博物館では
「スポーティングファッション」と題して、1860年代から1960年代までの
女性のアウトドアスポーツファッション展を催していました。

赤いバイクの横に、1860年代のサイクリング用パンツスーツと、
ゴーグルに皮パンツ、皮の手袋という1960年代のバイクファッションが並んでいます。

1879年代の「ベーシングスーツ」つまり水着です。

左からゴルフ、アーチェリー、ジムでのトレーニング用、一番右はフェンシング。

どのスタイルも動きやすさより体の線をかくすこと優先。

「サブゼロファッション」、極寒期のファッションです。

1900年代の雪上ファッションいろいろ。
左の人が持っているのはいわゆる「カンジキ」でしょうか。

初期のローラースケートシューズ。
靴に二輪が着いていますが、履き(乗り?)こなすのは難易度高そう。

富豪だったフリック夫人の旅行ファッションと愛用のルイ・ヴィトントランク。
おそらく1800年代の制作だろうと思われます。
当時は富豪の旅行=船旅だったので、こんなタンスのようなスーツケースが主流でした。

1900年代になってから基本スタイルがほとんど変わらないのが乗馬ファッション。
内側に皮を張ったいわゆる乗馬ズボン、裾の長いジャケット、
そして膝までの乗馬ブーツは1912年の最新乗馬スタイル。

1800年代の女性は、乗馬の際鞍に跨らず横座りをしていたので、
下半身は長いスカートとなります。
後ろにスカートでの乗馬スタイルの絵がありますね。

右二つはアメリカでいう「ランチファッション」。
日本人なら「カウガールスタイル」というかもしれません。

目を引いたのは1800年代の「レインファッション」。
まあ、雨に濡れることはないかもしれませんが、
コートの中のスカートが水を吸ってえらいことになりそうな予感・・。

これをファッションと呼ぶのはどうかと思いますが・・。
海岸で水着に着替えるときに使用する「簡易着替え着」です。

昔は水着に着替えるのすら施設がなくて大変だったんですね。

■おまけ:アンバーアラート

滞在中必ず1〜2度は遭遇する「アンバー・アラート」。

児童(未成年者)の誘拐や行方不明が発生すると、テレビやラジオ、
最近ではSNSなどの公衆メディアを通じて発令される緊急事態宣言(警報)です。

この時のアンバーアラートはニュージャージーで発生、
セバスチャン・リオスという2歳の児童とその母親が「拉致された」
というのですが、拉致したのはテイラー・リオス、どうも
彼らの父親で夫のようです。

父親による「連れ去り」事件は案外多いらしく、昨年滞在中にも
父親が自分の子供を拉致したというアンバーアラートが入り、
高速上の電光パネルに子供の写真が大写しになっていました。

"AMBER"とは"America's Missing: Broadcasting Emergency Response"の頭文字、
そして1996年にテキサス州で誘拐・殺害された少女、
「Amber Hagerman」の名前を意味しています。

この時、誘拐の情報が早期に地域住民に知らされていれば
少女は見つかっていた可能性があったことから、事件以降、
高まったシステムの整備への要請の声を受けて成立したのが
「アンバーアラート」というわけです。

 

 


アメリカのコーヒー専門店「プアオーバー」は茶道の精神?〜アメリカ滞在

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■ マスク復活に怯えるアメリカ

8月に入り、ここピッツバーグはやたら爽やかな日が続いています。
到着した頃は雨と湿気が多く、不快指数高めでしたが、どうやら
ここにも日本の梅雨に相当するシーズンがある模様。

最近はずっと朝方10°台、日中は30°手前くらいで、湿度は低く
木陰であれば快適に外で過ごせるくらいとなっています。

今泊まっているホテルは特に週末ともなるとほぼ満室となり、
駐車場に止まっている車のナンバーも他州のものが多くなりました。

なんでもアメリカでは今まで規制されていた鬱憤を晴らすべく、
旅行に出る人が増えているせいで、ホテルの売り上げが回復しているとか。

 

しかし、ご存知の通りデルタ株の感染はこちらでも社会に変化を与えております。

昨日のニュースでは、ついにピッツバーグ市内の各大学が、学生に
ワクチン摂取を必須とすることになったと報じていました。

そして今朝のニュースでは、地元のスーパーなど、小売店が
従業員へのマスク着用を再び義務にすることになったと。

こちらでも「症状のない感染者」の増加はかなり危機感を持たれており、
もしかしたらもう一度入店には客もマスクを要請されるかもしれません。

わたしは2度目のワクチン接種から2週間が経ったので、接種したお店から

「コングラチュレーションズ!ワクチン摂取から2週間経ちました」

というめでたいメールを受け取りましたが、同時に飛行機会社から悲しいお知らせも。

ワクチンを摂取したら飛行機に乗る際のPCR検査は免除だと思ったら、
やっぱり搭乗直前に検査をしなくてはいけないそうです。

 

ところで、こんな旅行会社のツァーを見つけました。

ワクチン摂取ツァー

これもまた旅行会社の起死回生策になるのでしょうか。

■ ディープな「ストタコ」とバーガー屋の「アイスバーガー」

ある日、家族でランチを取ろうということになって、MKが
兼ねてから美味しいからいつか行こうと言っていた
ストリート・タコスを食べることにしました。

「ストリートタコス?・・・ストタコ?」

屋台でメキシコ人が同胞相手に売っている食べ物など衛生的にどうなの、
とわたしは失礼な印象を持っていたので、なかなかその気になれなかったのですが、
この日はお天気が良いわりに湿度が低く、歩くのに気持ちがよかったので、
散歩を兼ねてストタコを初体験してみることにしました。

夏の間MKは大学で研究の手伝いの仕事をしているので、
昼休みに出てきたところを待ち合わせて、屋台まで歩いて行きます。

途中ピッツバーグ大学の「学びの塔」を望む広場では、
木陰でヨガ教室が行われていました。(冒頭写真)

写真左を歩いている集団は、ピッツ大の「キャンパスツァー」。

わたしたちも、かつてはいろんな大学のキャンパスツァーに参加したものですが、
これは大学のアドミニストレーションオフィスが主催するもので、
現役の大学生が案内役となって、来シーズン入学を予定する高校生と
その家族に、大学の魅力を大いに宣伝するのが目的です。

このガイド役は、夏のなかなかいいバイトになるようです。

「俺ああいうの得意なんだけどな。うちはツァーやらないの」

MKの学校は毎年そうなのか、コロナのせいでそうなのかは知りませんが、
美術館のように所々にオーディオを仕掛けておいて、
見学したい人は、それに従って学内を自分で歩くのだそうです。

「うーん・・・それってサービス?的にどうなの」

基本工科大学なので、それもテックっぽいと考えているのかもしれません。

さて、さらにピッツ大のキャンパスを通り抜けて住宅街を歩いていくと、
見るからにディープな雰囲気の屋台が現れました。

MKがいなければ、わたしなど一生よりつくこともない雰囲気です。

屋台は、ヒスパニック食品店の前で営業しており、そこで
手袋をした3人が肉を焼き、注文の通りにタコスを作っています。

ここに来るのはヒスパニックの肉体労働者が多いらしく、
わたしたちの前に並んでいたのは、ご覧の通り見事な猪首体型の、
ブルーワーカーっぽい一団でした。

日本の肉体労働者たちの昼ごはんが食堂の大盛り飯であるように、
タコスはこういう人たちにとって午後のエネルギーの素なのでしょう。

MKは勝手知ったる様子でわたしたちに何個食べるかだけ聞くと、
後ろのお店に入って行って、お金を払い食券をもらってきました。

屋台の人はお金を触らずにサーブするという仕組み。

列は結構長くできていて、いかに人気の店かがよくわかりましたが、
並んでいるのはわたしたち以外見事にヒスパニック系ばかり。
前に並んでいるその中の一人が、

「あんたらタコス食べるんかい?」

と聞いてきました。
頷くと、彼は、

「そんなら先にお店の中でお金を払ってくるんだよ」

いかにも物好きなディープ体験を求めて並んでいる観光客丸出しなので、
注文方法を知らないで並んでいるかもしれない思って声をかけてくれたのでしょう。
MKがすぐに、

「もう中で買ったから大丈夫」

と答えました。
そしていよいよ順番が来たのですが、MK、

「シンコタコスなんとかかんとかとなんとかポルファヴォール」

とスペイン語でオーダーするじゃありませんか。

「スパニッシュしゃべれたんだ・・・」

「喋れるよ」

高校時代、第二外国語のスペイン語のクラスで滅法苦労した彼に、見かねて
オンラインの家庭教師を見つけてきてなんとかついていけるようにしてやった、
という苦い記憶があるわたしは、彼がこともなげにいうので驚きました。

言語は生活しながら使うのがいちばんの回り道ってことです。

そして作ってもらったタコスに、横のテーブルで自分の好みの
シラントロ、サルサ、アボカドやオニオンなどを盛り付けて出来上がり。

タコスは二枚重ねで、その場で作っているだけに柔らかく、
できてすぐアツアツを頬張るのがベストです。

わたしたちはピッツ大キャンパスのテラスでいただきました。

アメリカの大学キャンパスは基本誰でも敷地内に入って、
アウトドア部分などは自由に歩き、テーブルを利用することが可能です。

ただし、建物内にはIDカードで鍵を開けないと入れません。
これは別の日、MKの大学のビジネススクール建物内でテイクアウトフードを食べた時の写真。

誰もいないのに空調がガンガン効いているのがなんともアメリカンです。
上階には本学出身のノーベル経済学賞受賞者の写真がずらっと並んでいました。

前回泊まった野球場の横のホテルに近い人気のバーガーショップ、
「バーガートリー」、ユニークな店内の看板を紹介しましたが、
今回は別店舗に行ってみました。

イエスノーチャートには、

「あなたはバーガトリーにいますか?」→いいえ→いや、いますよね?
                  →はい

「あなたがここにいる理由は」

A, バーガーは川沿いの方が美味しい(この地名はウォーターフロント)
B, ウォータースライドでお腹が空いたから
C, 素晴らしいインナーボディ体験をしたいから
D, 隣のポプコーンとJr. Mintsより安いから(隣に映画館がある)
F, まずいハンバーガーを我慢するほど人生は長くない
G,あなたはスマートでグッドルッキングだから

などとあり、このチャートは土地柄を反映していることがわかりました。

ところで、アメリカの飲食業の奥の深い?ところは、多民族国家ゆえ、
消費者の好みや禁忌などにできるだけ対応しようという姿勢が
特にチェーン店には顕著であることです。

このハンバーガーレストランのメニューには、オススメの他に
ゼロから自分で作ることができる「メイク・ユア・オウン」があり、
テーブルに備え付けてあるチェックシートにチェックを入れて注文します。

最近わたしはグルテンフリー、デイリーフリー生活を心がけていることもあり、
今回思い切って「アイスバーグバーガー」を頼んでみました。

混んでいたこともあったのでしょうが、おそらくキッチンでは
オープン以来こんなバーガーの注文は初めてだったに違いありません。
オーダーがテーブルに来るのにものすごく時間がかかりました。

わたしもそんなバーガーがオーダー可能だとはこの瞬間まで思いもしなかったのですが、
つまりバン(ハンバーガーを挟むパン)をアイスバーグレタスに変えて注文したのです。
ベジタリアンというわけではないので、中に挟むのは普通のチキンにしましたが、
乳製品を避けるために、チーズはノンデイリーをためしてみました。

MKは基本的に「フリー」製品が嫌いです。
まずい代替品など食べるくらいなら食べない方がマシ、という考えであり、
わたしも実はそう思ってはいるのですが、今回は実験的に
ハンバーガーに「寄せて」みようと思い、ソイチーズを選んでみたというわけ。

結論として、この「アイスバーガー」、ハンバーガーというより、
チキンをレタスで挟んだものの味がしました。(そらそうだ)

何事も体験です。
というか、このブログに挙げるために頼んでみたんだろう、って?

うっ・・・・

 

■コーヒー専門店〜プアオーバーとは何か

従来紅茶派だったわたしがコーヒー党に変わったのは、脱乳製品がきっかけです。

紅茶はどうしても大量にミルクを消費してしまいますが、コーヒーだと
美味しく淹れるとブラックで飲めますし(これ本当)、朝10時くらいに
MCTオイルとギーを混ぜたコーヒーを頂くと昼過ぎまでお腹が空きません。

元々朝ごはんは食べないわたしですが、紅茶の代わりにオイルコーヒーにしてから
乳製品から来る不調がなくなったので、しばらく続けるつもりです。

元々コーヒーに凝っていたMKは、地元でいいカフェを見つけていました。
ここはMKいわく「コーヒーそのものは普通だけど長居できる雰囲気のいいカフェ」。

シェイディサイドという、ピッツバーグのお洒落な通り(アップルストアがある)にあります。

これは、ストリップディストリクトという、昔貨物駅があって
青果などの卸売があったりした地域を再開発した、ホットな街の一角にある専門店。

ここは今や観光客の訪れるスポットになっているので、週末は車が止められません。

ここでわたしは「プアオーバー」(Pour over)を頼みました。
プアオーバーというのは、つまりハンドドリップコーヒーのことです。

挽いたコーヒーの上にお湯を注ぐという、コーヒードリップを使った手法ですが、
通常のコーヒーメーカーでは味わえない、新鮮で豊かな風味を生み出すことができ、
バリスタの腕が最も発揮できる注文でもあります。

豆の種類はもちろん温度やお湯の注ぎ方、スピードなどで味は変わり、
いい豆を一番美味しく飲もうと思ったらこれに限ります。


メリタというフィルターがありますが、この名前はプアオーバーを開発した
アマリー・オーガステ・メリタ・ベンツという女性の名前から取られています。

1908年のある日の午後、メリタはパーコレーターで淹れたコーヒーが、
過剰に抽出され、苦くて不味いと思ったことから、さまざまな淹れ方を試し始めました。

彼女は息子の学校の教科書に付いていたインクを吸い取るための紙を拝借し、
それを今で言うフィルターにして、釘で穴を開けた真鍮のポットにセットし、
それでコーヒーを淹れると言う方法にたどり着きました。

その結果に満足したメリタは、この新しいドリップ法を一般に公開しました。

メリタの「プアオーバー」は1930年代に流行しました。
現在のような円錐形のデザインになったのは、1950年代のことです。
円錐形の方が濾過面積が大きく、より良い抽出ができるということで、
この形が大ヒットし、それ以来現在も変わっていません。

メリタのシンプルな、しかし革新的なコーヒーの淹れ方は、それまでの常識を変え、
いつしか彼女の名前は、注湯器やフィルターのブランドに冠されることになりました。

このストリップ・ディストリクトの写真では、腕に刺青を入れた
黒いTシャツのおじさんが、わたしのコーヒーを淹れてくれています。

巧いバリスタが淹れたプアオーバーは、雑味がなく、
もちろん苦くなく、すっきりとした後味でブラックで楽しめます。

注文すると、豆の種類を聞いてくれることもありますが、
ほとんどは一番いい豆を使うので、値段はどこも

MP=Market Price(時価)

と表示されていて高めです。

まあ、高いと言っても所詮はコーヒーなので、せいぜい5ドル〜6ドルですが、
日本でも大手コーヒーチェーンならそれくらい行きますよね?

そんなわたしたちのお気に入りのカフェは全部で三店あり、二つ目がここです。

店にロースターがあり、焙煎したてが飲める、というのは
美味しいコーヒー専門店の必須条件ですが、
ここには工場か?というくらい巨大なロースターがあって、
いつも店内は香ばしいローストの香りがしています。

飾り棚にミニチュアの鎧兜(織田信長)があったり、

招き猫や戌年の絵馬が飾ってあったりして、

日本好きかあるいは本当に日本人がオーナーかなと思っています。

暖簾がなんだか日本風。
白人系のお店の若い男の子が、わたしたちに

「アリガトウゴザイマシター」

と言ったこともあります。

ここでプアオーバーを二回続けて頼んだら、バリスタの女性は、
その二回の来店の間隔がけっこう空いていたにもかかわらず、

「前と違う豆で淹れましょうか」

と聴いてきました。
アメリカ人でもさすがに専門店でプアオーバーを頼む人は少ないので、
バリスタは職業的な記憶力でそれを覚えているのかと思いました。

MKとわたしが最も気に入って評価しているのがこのお店です。
MKが行きつけの「ヘアースミス」(笑)という美容院の近くで見つけました。

COVID19以前はカフェだったのだと思いますが、今はテイクアウトのみ。
古い建物を使った趣きのある店内です。

隣のタトゥパーラーで隣人割引でやってもらったのだろうかというくらい、
みっちりと両腕にタトゥーを入れた、ヒッピーのような雰囲気の
草食系動物のような痩せた二人の男女バリスタ(そっくりなのできょうだいかもしれない)
が黙々と入れてくれるコーヒーは、驚くほど繊細な味です。

コロナ対策で客は店内3人まで、テーブルから向こうには入れません。
支払いは手前のリーダーでカードを使って行う仕組みです。

何度か行って、MKにわたしのプアオーバーを注文してもらっていたら、
(わたしは車で待っていることが多いため)お店の人は、いちど

「ぜひプアオーバーで飲んでほしい豆があるんです」

などと言い、注文していないのに試飲してくれ、といいながら
おまけのコーヒーを出してくれたりし始めました。

客と世間話の類はいっさいしない二人ですが、コーヒーを出すときには

「今日の豆は何々で、ブルーベリーのようなテイストがします」

「今日はとてもうまく入りました。チョコレートの香りがします」

などとソムリエのような解説をしながら出してくれます。

プアオーバーのおかげでわたしたちは、彼らにどうやらこの日本人家族は
結構なコーヒー通らしい、と思ってもらっているようなのです。

しかし、一杯のプアオーバーを時間をかけて淹れる時の真剣な表情といい、
客に全霊で可能性の限界まで美味しい一杯を提供しようとする姿勢といい、
まるで茶の湯のおもてなしの精神を見るようなあっぱれさに感じ入り、
ここにいる間は、彼らにとって良き客であろうと思っている今日この頃です。

 

 

 

ビューティフル・ドリーマー〜ピッツバーグでの「音楽体験」

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■ MKのアパート引越し

アメリカのアパートの契約は日本と違い、年に2回の更新日があります。
2月と8月の1日にはアパートを退去する住人が一斉に引越しするので、
その日はエレベーターが大変な混雑となります。

MKも8月1日付けで部屋を退去することになりました。

アパートには一人部屋、二人部屋、三人部屋があり、MKが半年前入居したのは
二人でシェアするタイプで、ご覧のような広いリビングに個室が付いていました。

ルームメイトはMKの大学でコンピュータサイエンスのドクターを取ったインド人で、
それだけでも超優秀な人物であること決定なのですが、いかんせん、
キッチンのスペースをほとんど自分のもので占拠し、リビングも散らかし放題。

「どんな優秀か知らないけどちょっとだらしなさ過ぎない?」

ついつい愚痴をこぼすわたしにTOは、

「まあまあ。あの国では掃除などはカースト下位の仕事なんだから」

というし、MKは全く気にならない、とむしろインド人を庇い、
円満にルームシェアを行い、無事に半年の契約期間が過ぎたようです。

インド人ドクターは規定通り8月1日に出て行きましたが、
MKはこの後アパート内の部屋を移るだけなので、
しばらくここに一人で住んでいいということになりました。

そこで、この絶景リビングを心ゆくまで楽しもうと、
引越し前に押しかけ、ここでコーヒーを楽しんだりしました。

オフィスから次の部屋の掃除ができたと連絡があったのは8月4日です。
急に言われてもMKも大学で仕事をしているので、親が出動。
同じく渡米していたTOとMKが学校に行っている間、荷物をまとめ、
手作業で新しい部屋に荷物を移していくことにしました。

そしてこちらが新しい一人部屋です。
MKはむしろルームシェアをしたい派なのですが、時節柄、
同居相手の感染が気になるので、こちらの方が安心だろうと。

「学生が住むアパートなのになんだか贅沢すぎない?」

思わず夫婦でぼやいてしまうくらい、この一人部屋も広さがあります。
大型冷蔵庫に食洗機、オーブン、洗濯機と乾燥機も部屋に完備。

キッチンカウンターはアイランド型ではありませんが、
日本の家族向けマンションより下手をしたら立派で大きかったりします。

電子ピアノは西海岸に帰っている彼の友人の預かり物です。
夏の間はここにあるので、もっぱらわたしが練習用にしています。

ベッドとベッド下のタンス、机と椅子は備え付け。

昼過ぎから仕事を始め、アパートの端から端まで、
エレベーターも使って荷物を運んだわけですが、
その日の歩行数は25,000歩、距離にして18キロでした。

流石に次の日はぐったりしてしまったものです。

■ 海兵隊軍楽隊「第二次世界大戦時のヒット曲」コンサート

7月4日の独立記念日、テレビではいろんな「パトリオット企画」、
たとえばこの局は、海兵隊音楽隊による第二次世界大戦時のヒット曲コンサートを放映しました。

 

軍楽隊といえば、日本国自衛隊の誇る音楽隊は、コロナ以降演奏活動をほとんど自粛しているようです。
海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会はわたしが知るだけで二回直前の中止を決めました。

二回目などは参加予定者一人一人に担当者が直々電話をかけ、
口頭で中止を通知とともに謝罪してこられたので、わたしは
残念よりお気の毒なのと恐縮でなんとも悲痛な気持ちになったものです。

音楽隊の使命は儀礼式典などの演奏が第一であるとはいえ、
国民に自衛隊の存在を広報する目的がコロナのせいで失われていることは、
関係者ならずとも心を痛めていることに違いありません。

アメリカも疫病のせいでコンサートや公演が中止になっていましたが、
その代わりこのような番組が組まれて活動が国民の目に触れるわけです。

この日の海兵隊の特別番組を観て、わたしは日本でこういう番組が作れない、
自衛隊音楽隊がほとんどの国民には認知されていない理由を突き詰めると
日本という国における自衛隊の存在そのものについての問題点と、
いつもの「なんとかしなければいけないのに」という気持ちに行き着くのです。

 

ただ、今回とてもほっとしたことがありました。

先ほど女子バスケットボール表彰式で、優勝したアメリカの国歌演奏の映像に、
一瞬ですが陸海空自衛隊の制服姿が旗の下で敬礼している姿が映ったのです。

自衛官が表彰式の国旗掲揚を行っている(日常的に旗の扱いには慣れているし)
からには、当然国歌演奏は自衛隊音楽隊ということではないですか!

カメラは演奏している楽隊を映すことはないので確かめることはできませんが、
音楽に限らず、自衛隊が今回のオリンピックの運営を縁の下で支えているという
確信を持った瞬間でした。

この日の海兵隊軍楽隊コンサートでは、第二次世界大戦時に流行った曲に
当時のニュース映像などが重ねられました。

戦争遂行のためにアメリカは女性部隊を正式に編成し、
宣伝によって募集して志願者を集めました。

陸軍のWAC、女性部隊のポスターには、

「帰ってくるのを待っているくらいなら一緒に行くわ」



海上自衛隊では女性隊員をWAVEと呼ぶそうですが、
アメリカ海軍におけるWAVESは、前にも指摘したように

Women Accepted for Volunteer Emergency Service

つまり「緊急時女性志願任務遂行者」であり、「任務」を意味する
「S」が欠落したこの言葉が女性自衛官を表すというのには、
わたしは大変疑問を感じているわけです。

日本語感覚として「ウェーブス」と発音するのは語感が悪いから?
(特に最後2文字が)というくらいしか理由が思いつきません。

まあ、現在のアメリカ海軍では「緊急時任務」のために志願したわけではなくても
女性軍人はWAVESらしいですが。

ちなみにこんなのありましたー。

海上自衛隊 隊歌 WAVE(婦人自衛官)の歌

WASPsはWomen Airforce Sedvice Pilots、つまり女性飛行隊です。
女性パイロットは軍用機の輸送を任務としていました。

ポスターの、

A WARTIME EXPERIMENT IN WOMANPOWER

というのは、「マンパワー」だと

「戦時下での人材育成の試み」

となりますが、それにWOをつけて女性人材育成という造語にしています。

そして沿岸警備隊女性部隊、SPARS。
沿岸警備隊のモットーである、

"Semper Paratus—Always Ready"(常に備えあり)

のギリシャ語と英語訳の頭文字から取られた名称です。

 1939年にウディー・ハーマンが作曲したヒット曲。

「さあパーティの始まりだ 
月曜の朝から金曜の昼までストレスが溜まるけど
今夜は週末、思いっきり楽しもうよ

いい気持ちになりたきゃ今
さあパーティの始まりだ」

みたいな、ご機嫌なアップテンポの曲です。

と思ったらいきなりアイゼンハワーが空挺隊を激励している写真が出ました。
これは確かノルマンディ上陸作戦の時だったと記憶します。

続いてそのDデイの写真。

これもノルマンディ作戦の写真です。

極寒の東部戦線での一コマでしょうか。
兵士の表情が意外と穏やかで明るいのにむしろ胸を打たれます。

後ろの人が携行しているのは無反動砲でしょうか。
これも東部戦線での陸軍部隊。

この「I'll be seeing you」は、帰還した軍人と女性の恋を描いた映画の挿入曲です。

軍楽隊の男性ボーカルが、甘い声でこんな歌詞を歌い上げました。
世界共通の傾向として、管楽器奏者には歌の上手い人が多いです。

「あなたに会うだろう 懐かしい場所で
わたしの心は過ぎ去った日々を抱きしめる

小さなカフェ 道の向こうの公園
子供用の回転木馬 栗の木 願いを叶えてくれる井戸

あなたに会うだろう 素敵な夏の日に
全てが楽しくて明るいんだ まるであなたみたいに
あなたを見るだろう 朝の光の中に 
そしてやってきた新しい夜 わたしは月を見るだろう
でも、そこに見るのは あなた」

戦地で恋人を思う気持ちにぴったりと沿った内容となっています。

「イン・ザ・ムード」というグレン・ミラーオーケストラの曲を知らない人は
少なくともアメリカ人には一人もいないのではないでしょうか。

グレン・ミラー楽団の曲ももちろん何曲か紹介されましたが、
陸軍軍楽隊の少佐でもあったトロンボーン奏者のグレン・ミラーについては
飛行機事故で亡くなったあとの葬儀の様子までが紹介されていました。

ちょうど字幕に「ポツダム宣言」と出ていますが、
(なぜかドイツとイタリアについてはほぼ無視で)、
日本の無条件降伏によって戦争が終わった、というところで
戦地から帰ってくる恋人に会える喜びを歌った曲などが紹介されました。

■ アメリカでのジャズライブ初体験

MKが「授業がハードでバーンアウトしたとき友達と行ってみた」という
ジャズライブハウスにライブを聴きに行きました。

アメリカでジャズライブに行くのは、実は初めてです。
しかも、今までナイトクラヴィングに行けなかった原因であるところの
息子が成長していつの間にか母親をライブに誘ってくれるようになったとは。

店内は狭く、空いている予約の枠は5時から7時となっていました。
ライブは5時半から始まり、7時までには店を出なくてはいけません。

アメリカのジャズミュージシャンは、9時ごろから仕事を始めて
朝方家に帰るというものだと思っていたのでビックリです。

「今のアメリカのミュージシャンは10時には仕事が終わるのか・・・」

その勤務形態だと、ミュージシャンもずいぶん健康的な生活ができそうです。

MKに取ってもらった予約枠はもう最後の一つになっていました。
ジャズバーなのに店内禁煙です。
日本でも禁煙の飲食店が増えていると思いますが、
さすがにバーまではまだ禁煙ではないですよね?(知らんけど)

BGMは一番左のオーナーらしい人がアナログ盤を選んでかけます。

店名の「コンアルマ」はスペイン語で「魂を込めて」。

かつて世界的な有名ジャズミュージシャンが、

「いいライブハウスとはいいキッチンのある店だ」

と言い切ったそうですが、ここは料理も自慢で、
ウワカモーレやアサードなど、南米系のメニューは結構美味しかったです。

おそらくオーナーはヒスパニック系なのに違いありません。

ライブは5時半からとなっていましたが、始まったのは40分からで、
サックスがバンマスのカルテットでした。
生ピアノが置けないので、ピアニストはフェンダーローズ使用です。

手前の二組はどちらもデートで、音楽を聴きに来ているというより、
ジャズをバックに盛り上がりたい派に思えました。

「初デートにジャズライブっていいかもしれないね。
気まずくなっても音楽で場が繋げるから」

わたしがいうと、MKが

「初デートで話ができないライブ選ぶかな。俺はおすすめしないわ」

いや、逆に君にお勧めされてもな。


演奏は50分、曲はブルースとかボサノバの「ラウンド・ミッドナイト」とか、
「エスターテ」(夏という意味)とか、気のせいか南米風でした。

 

■ おまけ・フォスター記念堂

音楽つながりで、もう一つ。

ピッツバーグ大学の「学びの塔」の足元?に、いつも見えているこの建物。
てっきり学びの塔の一部だと思っていたのですが、近くを歩いた時、
これが「ステファン・コリンズ・フォスター記念堂」であることがわかりました。

フルネームで言われると誰かわからないという向きもあろうかと思いますが、
「草競馬」「おおスザンナ」「オールドブラックジョー」「金髪のジェニー」
などの作曲をし「アメリカ音楽の父」と言われるあのフォスターのことです。

建物はピッツ大の所有する博物館となっており、コンサートホールと
アーカイブ、フォスターのピアノや記念品が所蔵されています。

なんでも彼がペンシルバニア生まれでお墓がピッツバーグにあることから、
ここに記念堂を作るという運びになったようです。

 

フォスターといえば、昔教育実習に中学校にいったとき、カリキュラムに
その作品が出てきたのですが、その授業中、受け持ちクラスの男子生徒が

「フォスターがどんな悲惨な死に方をしたか」

微に入り細に入り語ってくれたのを懐かしく思い出します。(どんな思い出だ)

それは、1864年、ニューヨークのホテルに滞在中、発熱していた彼が
平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、
その破片で頸動脈を切断されて亡くなったという巷間伝えられる話と同じでしたが、
今回調べたところ、英語では自殺説のことも言及されているのがわかりました。

ある歴史家によるとフォスターは南北戦争中によくある自殺だったと推察しているとか。

倒れている彼を発見したジョージ・クーパーは、

「彼は裸で床に横たわり、ひどく苦しんでいました。
彼は素晴らしい大きな茶色の目に忘れられない魅力を湛え私を見上げていました。
そして『俺はもうダメだ』とささやきました」

そして肝心なのはそのとき彼が大きなナイフを持っていたと言ったことなのですが、
家族はその後フォスターが自殺したことを隠蔽したというのです。

別のフォスターの研究家も、彼は晩年死を予感させる作品を書いていることから、
自殺の可能性も微レ存だと推察しているそうです。


いずれにしても亡くなった時37歳で、所持品はわずか38セントの小銭と、
「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけ。

当時は著作権法などが整備されておらず、彼は作曲からまともな収入を得ることもなく、
つまり彼が貧困から自殺を選んだとい可能性は確かにあるかもしれません。

名作「夢路より」(Beautiful Dreamer)が発表されたのは死後2か月後のことでした。

 

 

「地球最後の日」〜映画「妖星ゴラス」

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またしても東宝のSFシリーズを取り上げるときがやってまいりました。

池部良、田崎潤、上原謙、平田昭彦、志村喬。
そっくりそのままそれは「地球防衛軍」や「海底軍艦」の配役だったりするわけで、
わたしはこの人たちを今まで何回描いたことか、と遠い目になってしまいました。

「妖星ゴラス」。

宇宙開発が世界の注目を集め、話題に追随する創作物が世界中に溢れつつあった
1962年というこの時代、妖星ゴラスの地球への衝突を回避して地球を破滅から救うべく、
日本の科学者(と申し訳程度のアメリカ人科学者)が必死の奮闘を続けるというストーリー。
監督はあの多猪四郎監督です。

これはもう「地球防衛軍」「海底軍艦」と並ぶ、突っ込みどころ満載三部作の一角として
今日まで当ブログの好餌になる運命を帯びる日を待っていたとしか思えません。

わたしがやらねば誰がやる。

という意気込みで、さっそく始めたいと思います。

タイトルロールに流れる音楽は、もろ伊福部明先生の「ゴジラ」のパクり、もといオマージュ風。
これは盗作と言われてもしかたないのでは、とマジで心配になるくらいです。

さて、ここは地球。(そらそうだ)
地球時間の1979年という設定です。

・・といえば、スリーマイルで放射能事故が起き、サッチャーが英首相になって、
ソニーが「ウォークマン」を発売し、「エイリアン」「地獄の黙示録」が上映された年ですね。

この映画では、この頃には宇宙開発が日本でも本格的に進み、
宇宙省が創設されて、宇宙探査船のパイロットが職業として成立している、
という前提のもとにストーリーを進めております。

 

その近未来にのある夜、イカした真っ赤なオープンカーを飛ばして
月明かりしかない海辺にやってきたのは、見目麗しい二人のうら若き女性。

一人は宇宙局のベテランパイロット、園田を父に持つ娘の智子(白川由美)。
もう一人はその親友の野村滝子(職業不詳)です。

ちなみに智子は祖父もまた航空宇宙の専門家(志村喬)というお嬢様ですが、
そのお堅い肩書きのわりにこの登場シーンは派手すぎる気がします。

しかも友人の水野久美演じる滝子が「夜の海で泳ぎたい」と水着もないのに言い出し、

「見てるのはお月様だけ♡」

というや二人で服を脱ぎ出します。
BGMがなぜかハワイアン調になり、「海底軍艦」の冒頭シーンのような
顕な下着姿の女性を期待してワクワクしていた(にちがいない)
男どもの期待は、次の瞬間、あっさりと裏切られるのでした。

閃光と轟音、そして上昇するロケットが。
富士山麓にある宇宙港から土星探検の宇宙船「JX-1隼号」が発射されたのでした。

カーラジオの臨時ニュースで、艇長と副艇長の名前とともにその離陸が報じられます。

この二人、宇宙船艇長の娘と副艇長の恋人ですが、なんと驚いたことに、
この瞬間まで打ち上げの時間も、父と恋人が乗っていることも知らなかったようなのです。

これはあれかな、宇宙時代の到来で、ロケットの打ち上げなど、
新幹線の出発みたいに珍しくもなんともなっているという設定なのかしら、
と思ったのですが、隼号が出発したのは「第一次土星探検」という
史上初のミッションだというではありませんか。

それなら、本来家族は出発日時を知っているだろうし、それどころか、
NASAのように発射見送りを許されているものではないでしょうか。
当然ニュースで告知されているはずだしね。

 

という具合に、しょっぱなから口を酸っぱくして突っ込まざるを得なくなり、
大変心苦しいのですが、善意で?解釈すると、次からのシーンが
シリアスで地味なため、せめて最初だけでも
お色気らしきものを盛り込んでみましょうということのようです。

余計なお世話だ(笑)

さて、こちらは世紀の偉業を成し遂げようとする隼号。
日本国宇宙省管轄の宇宙船で、JX型ロケットの1番機です。

ウィキペディアによると、建造には1979年当時で11兆6千億円が費やされた
単段式のロケットであり、撮影のための模型は1m弱の大きさとなっております。

キャビンはこのとおり、広々として居住性抜群。
メンバーに一つずつパネル付きデスク完備です。

無事に発射打ち上げが成功したばかりのキャビンなのですが、
シートベルトは今時普通車にも見られないような胴体だけを締めるタイプ。
しかもヘルメットはバイク隊のお巡りさんのようなデザインです。

船内は勿論与圧完備、おそらくGも軽減することができる、すごい仕組みがあるようです。

と、相変わらずちょっとバカにしていたわたしは、ここであることに気がつきました。
「土星の探査が17年後に可能となっている」
というこの映画の「予言」は実は当たっていたことです。

実際に探査機「パイオニア11号」が土星に接近したのはまさに映画の舞台1979年のことであり、
翌年の1980年にはボイジャーが同じく土星の探査を行っているのです。

1979年9月1日、パイオニア11号が撮影した土星(実物)

もちろん、探査機ですから無人で「隼号」のように3〜40人も乗せてはいませんが。

アナログ計器

Angular velocity、角速度は、ある点をまわる回転運動の速度を、
単位時間に進む角度によって表したものです。

早い話ロケットがどれくらい移動したかということだと思います(適当)

こちら、隼号艇長、園田雷蔵(田崎潤)。

田崎潤が演じる軍人的な役柄には、必ずと言っていいほど美しい娘がいますが、
その娘というのが先ほどの白川由美であるわけです。

そしてこれが副艇長の真鍋秀夫。

真鍋は滝子の恋人で、二人は彼がミッションから帰ったら結婚する予定・・・
としっかりわかりやすいフラグ要員です。

彼らにはおそらく自衛隊や海保のような階級があるはずなのですが、
ここではそこまで細かくディティールを設定しておりません。

想像するに、彼らのほとんどは、宇宙局創立に伴う宇宙飛行士部隊組織の際、
自衛隊から志願してきたパイロットではないかと思われます。

 

そのとき、隼号に緊急の連絡がありました。
地球に接近する、質量にして地球の六千倍の大きさの惑星、
「ゴラス」(発見された途端命名されている)が発見されたと。

園田艇長はすぐさまミッションをゴラスの観測に切り替える決意をします。

しかしすぐに異変が起こりました。
隼号がその星に強い引力で引き寄せられているのです。

写真はこの時代のロケットに搭載されている観測用のスコープで、
旧型潜水艦の潜望鏡のように片目で覗くと、宇宙船の外殻から
バブルウィンドウに守られた観測用カメラが出てくる仕組みです。

必死で船体をゴラスから反航させ、エンジン全開で踏ん張ろうとしますが、
引力に抗うことができず、吸い込まれていく状況にパニくる乗員たちを、
神宮寺大佐は、じゃなくて園田艇長は叱咤します。

「部署につけ!脱出不可能ならどうしようというのだ!
酒飲んで歌でも歌いながら死のうというのか」

自分たちは命に代えてもこの星のデータを取って後の世に遺すべきだ。
言い終わった艇長の頬には涙が流れていました。

そうこうしている間も、隼号は3.57Gで引き寄せられています。
しかし、キャビンでは皆普通に立ったり座ったり歩き回っています。

神宮寺、じゃなくて園田大佐は、じゃなくて艇長は宣言しました。

「隼号の任務はこれをもって終了する。
皆よく頑張ってくれた。ありがとう」

すると一人の乗員が、

「バンザーイ」\(^o^)/

「バンザーイ」\(^-^)/

そして泣きながら全員が・・

\(^-^)/\(^-^)/\(^-^)/\(^-^)/

この頃のスタッフはまだ戦中派が多かったこともあり、
旧軍の最後の突入を思わせるシーンでの万歳ということになったのでしょう。
それは一向に構わないのですが、この構図ったらあまりにも間抜けです。

カメラワークって、大事。

そして、隼号はゴラスに飲み込まれました(-人-)ナムー

折しもその時日本は12月25日。
あの打ち上げの日から季節は夏から冬に変わっていました。

クリスマスで賑わう街を遊び歩く園田智子と滝子の行手に、
家事ロボットのサンドイッチマン(死語)が立ち塞がりました。

この時代、家の雑用はロボットがやってくれるようになっているようです。

この時から42年後となる2021年現在、我が家ではおそうじロボット、
ルンバ三代目と初代拭き掃除ロボット、ブラーバが掃除だけはやってくれています。
しかし、もちろん家具の下などは自分でやることが前提ですし、
そもそもこいつら、何回作動しても玄関の5センチの段差を見分けられず、
落ちて動けなくなったり、オフィス用椅子の脚の間に入り込んで
出られなくなったりと、正直結構なバカです。

1962年当時近未来の科学として想像されていた人間型ロボットという存在は、
AIという人工知能の発達によって、存在する必要が無くなったかに思えます。

人間型のロボットがもし未来に存在するならば、それは他ならぬ人間が
進化した「アンドロイド」というものなのかもしれないなあ、と思ってみたり。

「おまわりさん呼ぶわよ」

中の人は宇宙省のパイロット、滝子の幼なじみ、金井(久保明)でした。
どうして国家公務員であるパイロットがバイトなぞしているのかというと、本人曰く

「欲しい上にも欲しいのがゼニってやつでね」

うーん、こんなバイトまでしなきゃいけないほど薄給なのか?
しかもこのセリフ、パイロットのくせにあまりに下賤すぎやしませんかね。

これが宇宙省パイロットの制服。
明治時代のおまわりさんかな。

この時代、公務員パイロットは狭き門で合格率は800人に一人。
しかし滝子に言わせると、

「たかが運ちゃんじゃない。徳川時代の雲助よ」

おいおい、何ちゅう差別発言や。
っていうか、なんで徳川時代限定?

クリスマスムードに浮かれて自宅に帰ってきた智子は驚愕しました。
なんと実家で通夜がすでに始まっていたのです。

誰のって、そりゃ隼号艇長の園田雷蔵、智子パパのですよ。

 

よりによってこんなときに限って、娘は真っ白な毛皮の下に真っ赤なドレス。

っていうか、ここまで通夜の用意が進み、関係者に連絡し、
弔問客一同が集まっているというこの瞬間まで、
どうして娘に一言の訃報どころか事故の連絡もなかったわけ?

智子、もしかしたら昨夜は外泊か?お泊まりだったのか?

気まずそうに彼女から目を逸らすのは(考えすぎかしら)
宇宙省の科学者、河野(上原謙)、田沢(池部良)両博士。

隼号の遭難はあっという間に政治案件になりました。

法務大臣(小沢栄太郎)は、ゴラスを早期に発見できなかった責任を
死んだ園田艇長に押し付けようという考えです。

それどころか、土星探査の目的を急遽変更したことさえ、
宇宙省の命令ではないのか、と与党内野党的粗探しを始めました。

「これは内閣の命取りになりますよ」

左、総理大臣

そこで呼ばれたのが宇宙省の科学者二人です。
カバンからペラッペラの便箋5枚くらいの報告書を出して配り、さらっと

「ゴラスは今のままだと地球に衝突します」

そして、なぜか各国の学会から寄せられた隼号への感謝の電報の束を取り出します。
とにかくこれはもはや内閣はもちろん日本だけの問題ではありません。

Xデーは、2年2ヶ月後と決まりました。

さて、場面は変わってここは宇宙省管轄の富士山麓宇宙港(そう看板に書いてある)。

手前に見えているのは1950年代から70年にかけて自衛隊で使われていたヘリ、
チョクトー(日本での名称はHSS-1)だと思います。

宇宙港の検問所には、60年代式のビンテージ車に乗った報道陣が駆けつけました。
記者たちは博士の行方を追い回しています。

後ろの景色は微妙にパースが狂っているのですが、書き割りかな?

宇宙港では飛行士の無重力訓練が粛々と行われています。

しかし、飛行士たちは無重力室でふざけて殴り合いしたりして態度悪すぎ。
案の定ひとりはサンドイッチマンの金井です。

二人の上部には体を吊っている黒いワイヤが一瞬はっきりと見えます。

体の組成データ採取中の鳳号乗員(二瓶正典)。

そこに、両博士らを乗せたヘリコプターが到着しました。
機体に書いてある「HIBARI」で調べたところ、これは

ベル川崎H-13H「ひばり」

という機体で陸自にが採用していたものであることがわかりました。

すると二瓶らはなぜか検査をブッチして部屋を飛びだします。
ヘリには、彼らの鳳号隊長が乗っていたからです。

「どうでした?」

と問いかけると、鳳号艇長(平田昭彦)は無言で首を横に振りました。
つまり鳳号の出発は見合わせということです。

「ちくしょー!」

そこで彼らは何やら相談すると、駐機中のヘリに飛び乗って離陸しました。

ヘリの操縦ってそんなに簡単にできるものなの?
それともやっぱり金井さんって陸自のヘリパイ出身だったりする?

手前に日劇のミュージックホールがありますから、有楽町上空です。
その後この建物は有楽町マリオンになりました。

ここで男どもがご機嫌で歌う歌というのが、あの「ジェットパイロット」もかくやの
御座敷小唄的マイナーソング(マイナーは短調という意味ね)です。

 

「俺ら(おいら)宇宙のパイロット」

狭い地球にゃ 未練はないさ 未知の世界に 夢がある夢がある

広い宇宙は 俺のもの俺のもの はばたきゆこう 空の果て

でっかい希望だ憧れだ

オイラ宇宙の オイラ宇宙の オイラ宇宙のパイロット!

(2番以降省略)

 

めまいするくらいの昭和臭です。

宇宙パイロットって、宇宙飛行士ですよね。アストロノーですよね。
そのイメージと対極の「おいら」「でっかい希望」「地球にゃ」という言葉のセンス。

まあ、時代と言ってしまえばおしまいですが、やっぱりまだこの頃は
「加藤隼戦闘機隊」の世代が社会の中心だったってことなのね。

彼らがヘリで目指したのは宇宙省の屋上でした。

宇宙省長官(西村晃)に中止の撤回を直談判しようっていうのです。
しかし西村、中止などにはなっていない、と断言します。

ただ国会で特別予算が下りるまで飛ばせないのだと。

「わしも辛い立場なんだ」

博士コンビはあちこちを飛び回って苦労しています。
移動のタクシーの中で河野博士がふと運転手にゴラスについて尋ねると、

「昔から星が衝突するなんて話いくらでもあったけど、
今まで一度だってぶつかった試しなんぞありませんや」

と楽天的。
河野博士は嘆息しながらこう呟くのでした。

「徒然草だったかな、『蟻の如く集い、東西に急ぎ南北に走る』。
人間はいつの時代でもただ目先のことに追われて生きていくようにできているらしいね」

まあ、衝突が確定事項だったとしても、逃げるところもないしね。

彼らが足を向けたのは園田艇長の自宅でした。

しかし園田家、主を亡くして間もないというのに喪中の沈鬱な気配は全くなく、
娘息子も、息子を亡くした艇長の父もニッコニコで彼らを迎えます。

智子さんなどウキウキしながら、田沢博士にお酒を勧め、

「ゴラスが今すぐにでもぶつかるってわけじゃないんでしょ?」

うーん、それは確かにそうですが、そういう問題じゃないかと。

田沢博士もニヤニヤしながら

「それもそうですが」

もしかして園田艇長の死って、すっかり設定から消えてないか?

そこで、園田家の息子が重大なヒントとなる発言をします。

「地球のどこかにでっかいロケット据え付けて、宇宙船みたいにして飛ばせば? 」

ゴラスを破壊できなければ地球が逃げるしかないじゃん、というわけです。
んなあほな、と映画を見ている誰もが思った瞬間、田沢博士の表情が変わりました。

地球の軌道そのものを変えてしまうこと。
この惑星衝突の回避方法が生まれた瞬間でした。

・・おいおい。

 

 

続く。

「ジェットパイプエンジン始動」〜映画「妖星ゴラス」

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映画「妖星ゴラス」2日目です。

ゴラス衝突回避についての対策会議は国連の場に移されました。
我が日本の代表である河野博士が、先日高校生が出したアイデア、

「回避するにはゴラス爆破か地球の軌道を移動させるしかない」

というのを主張します。

具体的には、地球は今の軌道から41万キロ移動すれば良いと。

この突っ込みどころ満載の理論について、本田監督は1か月近く
東大理学部天文学科へ通い、さらに天文学者堀源一郎に
「地球移動」の科学的考証を依頼しています。
その結果、

大きいとはいえ有限の質量を持つ物体であることに変わりはなく、
非常に大きな力が必要ではあるが、それが必要に見合った十分な力であれば
ニュートンの運動方程式に従って軌道は変わるため、地球の質量の概算値を元に、
必要な力・運動量エネルギーは算出できる(wiki)

つまり、具体的な数式を得ることができました。

田沢博士の後ろの黒板に書かれた数式は、堀氏が実際に算定したものです。
理論上は地球を動かすことはできるということになります。

理論上は。

それではそのエネルギーはどうするのか、と質問が出ると、すかさず
USSO(仮名)代表が、

当然それは原子力だろう、といいつつ、しかしその核物質はどこにあるのか、
と非常に政治的に微妙なことを言い出すのでした。

田沢博士が、原子力ではなく重水素、三重水素(トリチウム)を使う、というと、

「それでは水爆ではないですか、放射能をどうします」

それに対し我らが田沢博士は、心配ない、とはっきり言い切りました。

しかし、肝心のなぜ心配ないかについて説明しません。最後まで説明しません。

そこで、東京裁判で日本人被告の弁護人を務め、その後日本でバイト俳優をしていた
ジョージ・ファーネス演じるフーバーマン博士が、あの独特のしゃがれ声で、

「国家エゴイズムを捨てて手を握ろうではありませんか」

ときれいごとをぶちあげてごまかすのでした。

そして、逆に質問者に、

「あんたの国は水素イオン高圧放電振動付加装置を持っているから出せ」

というと、相手国(ドイツっぽい名前)は、負けじと、

「おたく(アメリカ)こそすでに重水素原子力工場を持っているではありませんか」

つまりこの際、今までは国家機密であったエネルギー問題について
国家の枠を超え、お互いオープンにし合った上で問題に取り組もう、と。

放射能の処理?
そんなの地球の滅亡の前にはちっちゃい問題だってことですね分かります。

田沢博士はすぐさま日本に戻り、国会でゴラス接近に伴う被害について説明します。

「たとえゴラスが衝突しなかったとしても、接近の際にはゴラスの引力によって
地球の水も空気も吸い寄せられ、太平洋の海底がむきだしになり、
地表から吸い上げられた物体は人工衛星のように永久に宇宙を彷徨うでしょう」

総理らが(´・ω・`)としていると、そこになぜか国連から、
日本の鳳号を派遣するようにと要請がなされてきました。

なんと日本の航空宇宙科学は、あのアメリカより、ソ連より進んでいるってことすか。
感無量ですね。



それを見て、田沢博士はなぜかいつの間にか近くに来ていた美人の女性議員と
頷き合うのですが、この二人、いったいどういう関係?

ちなみにこの女優の出演は後にも先にもこのシーンだけでクレジットもありません。

鳳号の出動に喜んだ乗員たちは、キャバレー?に繰り出し、
バンドに例の裕次郎的テーマソング、
「俺ら(おいら)宇宙のパイロット」を演奏させて
盆踊りのようにグルグル回りながらそれを調子っぱずれにがなりたて、
お姐さんたちと踊るという前時代的パーティ(というより宴会)に興じています。

こんなパーティお座敷でやればいいのに。

調子に乗った一人が床でいきなり前転を始め、背中から床に落ちて苦しむとか、
800倍の倍率を潜り抜けた国家宇宙局のエリート航空士にはとても見えません。

しかも彼らは制服を着ているもので、正体丸バレ。
カウンターにいた客(天本英世)が、

「君たちが宇宙のどこかで生き残って、
俺たちがゴラスとぶつかってお陀仏かもしれないな」

あまりに浮かれすぎてるので嫌味の一つも言いたくなったんでしょう。
わたしもこの場にいたら、別の意味で一言ってやりたいです。

その頃、パーティを抜け出した金井達磨は滝子の部屋に来ていました。

女の一人暮らしの部屋に深夜アポなしでやってくるとは大胆な。
折しも滝子さん、こんな超不自然なポーズで泡風呂に入っています。

1962年当時(設定の1979年でも)泡風呂に浸かる日本人なんてほぼ皆無だったはず。

アメリカでも皆さんたいていはシャワーしか浴びないので、
(そのせいでアメリカのバスタブは大抵異様に浅い)
こういう泡風呂シーンはほぼ映画だけといってもいいでしょう。
(例:スピルバーグ作品「1941」)

バスタイムを邪魔されてプンプンしながら、まるで独房の監視窓のような
(ドアスコープの存在しない時代)ところから来客を確かめ、
相手が金井だったのでさらに不機嫌になった滝子でした。

金井はめげずに相手が出てくるまで、
ブザーでモールス信号(ネタ明かしなし)を押し続けます。
彼氏でもないのに何のつもりだ。

ちなみにこの二人の関係は高校時代の同級生。

金井は滝子にいきなりプレゼントをわたしました。
ちなみにこの時彼は白手袋をしていますが、次のシーンになった途端なくなります。

微妙

滝子は目を輝かせて

「これ本物じゃない!」

・・・いったい何の本物って?
ネックレスなのか懐中時計なのか、いずれにせよ趣味悪すぎ。

「どうせ持ってくるからにはな。
最初で最後のプレゼントかもしれないけど」

金井くん、このためにサンドイッチマンのバイトしてたのかな。
しかし滝子、

「どうして手に入れたの?」

そっち?
「最初で最後」より、入手法に興味があるのか?

明日出発でもう会えないかもしれないから、という金井。
滝子はプレゼントを彼に押し返し、

隼号の遭難で亡くなった真鍋のことが忘れられない、と写真立てを手にとります。
すると金井、うっすらと笑いながら、

「だって死んじゃったんじゃないか」

そして無言のまま滝子から写真立てを取り上げ、ベランダの窓を開けて
下も見ないで外に放り投げます。

「酷いわ!」

ああ酷いさ。通行人に当たったらどうする。
しかも金井、悪びれることなくむしろキリッとして、

「君も高校時代で発育が止まったな」

この一連の行為のどこに、観客を共感させる要素があると思ったのか、
わたしは脚本家にぜひ聞いてみたい。

さて、次の瞬間、鳳号は打ち上げられ、宇宙におります。

通常宇宙飛行士はミッションの何日も前から検査やら検疫のため隔離されるものです。
前日まで盛り場でどんちゃん騒ぎをやっていて、アポロ13号のマッティングリー飛行士みたいに、
病気に感染していたらどうするつもりなんだ(とこまめにつっこんでみる)

ゴラス出現以降、宇宙には各国の有人宇宙ステーションが点在していて、なんでも
宇宙パイロットの仁義なんだかしりませんが、通常なら挨拶のため立ち寄るそうです。
しかし、遠藤隊長(平田昭彦)はノンストップで先を急ぐことを決めました。

さて、こちらは地球移動計画の総本部(たぶん)
何やら未来的な模型の周りには、グレーの事務机が並んでいるのがリアルです。

こんな大変な時に、田沢は園田家の智子と速男に施設の案内をしています。

彼が得意げに見学者に見せているのは、ジェットパイプ基地の模型。

どうやらゴラス破壊ではなく、地球を動かすプランを採用するようです。
南極に広範囲にわたってジェット噴射のできる重水素原子力パイプを1089本設置し、
660億メガトンのエネルギーによって地球の軌道を動かすのだそうです。

しかし、そういう数字、紙の上で出された必要な運動量が正しかったとしても、
この、南極にエンジンを取り付けるという案そのものがダメな気がするけど。

そのパイプ基地建設のため、世界中の艦船が南極に向かっています。

アメリカの砕氷船。かき分けている氷は発泡スチロールです。

クレーンで機材を運搬しているヘリコプター。

この大きさのパイプドームを1089個、1日も早く作り上げなくてはなりません。
従来の特撮映画と大きく違うのは、当作ではこの「建設現場」がメインであることです。

そしてこれが日本の基地。

基地中央のドーム上部に開閉式のバブルウィンドウが設置されています。

そこから出入りするのはVTOL、垂直離着陸ジェット機です。
この時代はイギリスのホーカー社がケストレル・ホーカーの開発を進めていました。

これをみると、翼端にエンジンナセルが設置されているのが分かります。

到着したのは田沢博士とギブソン博士(ロス・ベネット)でした。
ベネットという人は、この時期一連のSFもの(海底軍艦)に顔を出しています。

田沢が進捗状況を尋ねると、技師の真田(三島耕)が、
岩盤に当たって掘削工事が難航していると返事をします。

そのとき落盤事故が起こりました。

パイプ内で伏せの姿勢を取る作業員たちを尻目に、
田沢たちが落盤現場に行ってみると、

こんなことになっていました。
時間にして60日分のロスです。

宇宙の鳳号でも問題が起きていました。
ゴラスの質量が前より増えているのです。
妖星というだけあって、他の星を吸収して大きくなるようです。

そこで、軌道に近づいてさらなるデータを取るためにカプセルを発射しました。
搭乗員は金井、後の二人は収容要員です。

発進

ところがゴラスをスコープで直接覗くや否や、パニックに襲われる金井。
結局カプセルは外にちょろっと出ただけですぐ帰ってくることに。

しかも収容された金井の様子がおかしい。
何と金井、何のデータも取ってこないどころか、自分が誰かもわからない、
ショック性の記憶喪失になっていたのでした。

「あなたは・・・どなたですか?」

うーんこの役立たず。

南極基地ではいよいよジェットパイプの始動時間が近づいていました。
あれだけのダメージを負っても、あっという間に遅れを取り戻したようです。

「地球の運命をかけ、人類の希望をつなぐ一瞬は刻々に迫っております」

秒読みが始まり、アナウンサーが実況中継しております。
今ならインターネットのライブ配信ですね。

お茶の間でテレビを囲む、園田家の人々と滝子。
後ろにいるおばちゃんはお手伝いさんかな。

作業員も今は直立して見守ることしかできません。

テンカウントダウンが始まりました。

「スリー、ツー、ワン、ゼロ、ファイア!」

ふぁ・・・・ファイア・・・?ファイアって言った?

ミサイル発射じゃあないんだから、「点火」(ignition)とか、
エンジンスタートとかじゃないの?

まあいいや(笑)

無事に南極基地の全てのジェットパイプが点火されました。
何しろ地球の軌道を動かすくらいのエネルギーが作り出す熱。
もう南極の氷は溶けるだろうし、たとえゴラスを避けても、
温暖化、熱帯化など環境破壊待ったなしだ。

すると何秒か後、宇宙ステーションから連絡が入ります。

「加速度1.1ゼロ掛ける10のマイナス6乗Gで地球は動き出しました!」

いくらなんでも結果が出るの早すぎ。

全員が歓声を上げ、田沢らを囲んで成功を祝います。 

「人類は自らの力で地球を動かしているのです!」

国連ではこの非常時に職員が仕込んだらしいテープと紙吹雪が盛大にが舞います。

田沢の元にはさっそく園田智子から電話がかかってきました。

園田家には当時政府機関も持ち得なかったテレビ電話が設置されているのです。

そして年が明けました。
ゴラスが発見されてからまる1年がたったということになります。

去年は喪中だった園田家も、ことしはジェットパイプの始動もあって、
年明けを祝うという雰囲気になり、お琴の音色などが流れております。

「地球も予定どおり動き出したし、まずまずおめでたい正月だな」

・・・めでたいか?

わたしは環境については素人なのでわかりませんが、
地軸ごと地球が動くことによる環境負荷はないんでしょうか。

彼らが無邪気にめでたがっているのはちょっと違う気がするんですが。

そこに南極からNY経由で帰ったばかりの田沢が顔を出すのですが、
なぜか河野は彼につっけんどんで冷淡です。

「南極の連中はまだぐずぐず言っているのか」

どうもよくわからないのですが、南極チームの、
ゴラスは日に日に大きくなってきており、これ以上になると
多少地球が動いたところで衝突は避けられない、
したがって基地を拡張すべき、という主張に対し、
国連側は、その必要はないと反対しているようなのです。

そして河野は今やその国連側の人間として田沢と対立しています。
あんなに一緒に頑張ってきたのに、なにがあった。

ゴラスの質量が増えているという懸念に関しても、河野は

「いや大丈夫、そんな数字的根拠はない」

ととても学者とは思えない楽観論を口にし、田沢を激昂させます。

「大丈夫という数字的根拠はあるんですか」

「もしものことがあれば国連が責任を持つ」

「もしものことがあってから責任を持ったって、何になるんです」

そのときは人類が滅亡するわけですからね。
するとなぜか智子がしゃしゃり出て、田沢を諫めます。

「いけませんわ。そんな・・河野先生に」

年長者に失礼でしょ、というわけでしょうか。

わたしには田沢の意見の方が正しいと思うけどな。
というか智子、何様のつもりだ。

田沢は小賢しい女など無視して、

「いや、今日は言わせてもらいます。今度だけはわたしのいうことを聞いてください」

「そりゃあ僕の方で言う言葉だ。
今まで一度だって君の意見に反対したことがあるかね」

「まあまあまあまあ」

そこで亀の甲より年の功、園田の爺さんが割って入り、
智子に田沢を別室に連れ出させます。

河野を睨みつけている田沢が智子に促されて出て行った後、
河野は園田翁に向かって、実は自分も田沢が正しいと思っている、と言います。

園田が驚いて、

「じゃあどうして君は田沢くんと一緒に国連で主張しないんだ」

と聞くと、

「国連でも『無い袖は振れない』というのが実情なんだ」

え、お金がないって言う意味なんですか。この非常時に。

「若い連中の言うことは正しいとわかっていながら、それを抑えなければならない。
考えると気が狂いそうだよ」

そういう問題じゃないんじゃない?

「僕は万に一つの不幸を恐れているんですよ。
それを思うと僕は科学者として」

「嫌!先生がメソメソなさるなんて」

そして智子、決めゼリフを。

「たとえ人類が滅亡しても先生に感謝しますわ」

「ありがとう!」

うーん、どうしてこうなる。

 

続く。

 

地球水没〜映画「妖星ゴラス」

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映画「妖星ゴラス」、最終日です。

今日は、豪華巻頭ページ色刷り(いつの時代の雑誌だよ)で、
この映画のツッコミどころのいくつかを可視化してみました。

映画を観ていない方(そしてこれからも観る気がない方)のために、
右上の宇宙省大臣秘書の台詞を解説しておきますと、
宇宙探査が中止になると思い込んだ間抜けな鳳号パイロットたちが
宇宙港にVIPを運んできたヘリを強奪して勝手に宇宙省に談判に押しかけ、
ノーチェックで大臣のドアをノックしたときのことです。(すごいな)

話があるなら艇長を通せ、という大臣に、アホの金井が

「艇長は中止になったって言うんで、ピストルで頭を打ち抜いて」

「死んだのか?」

「我々が飛びついて危うく右の耳を吹っ飛ばしただけで助かりました」

これは、ギャグなのか?笑わせようとしているのか?

すると必要以上に色っぽい秘書が奥から飛んできて、

「またあんたたち!」

とまるで下宿屋のおかみが学生を叱るような口調で言い放つのが、この

「遠藤艇長の右の耳は5年前からないんですよ」

という謎の情報なのです。
もしかして遠藤演じる平田昭彦には右の耳がなかったとか?と
思わず画像検索をしてしまったわたしでした。

とまあ、真面目に観た人には突っ込みどころ満載すぎて、
ネタとしか認識されないのがこの頃の東宝SFものなのですが、
特にこの映画は伏線回収なし、何かと問題の多い登場人物の行動、
面白くも何ともないチンピラパイロットたちのはしゃぎぶりが、
地球移動という荒唐無稽な発想より問題かもしれないと思うのです。


さて、とか何とかやっている間に、ゴラスは太陽系に達し、
地球到達まで後45日となってしまいました。

あれだけ大騒ぎして宇宙に飛び立った鳳号ですが、成果らしい成果はなく、
結局カプセルでゴラスに近づいた金井が記憶喪失になっただけ。
何の成果もないまま帰ってきてしまうのよ。
国民の血税を注ぐ鳳号の出発をあれだけ国会が出し渋ったのに、
やっぱり税金を無駄にしただけだったじゃないか。

国連はこれでも南極のジェットパイプ予算を出そうとしないのか?
っていうか、これだけの事業、国連拠出金だけで賄えるはずないだろ。
ちゃんと特別予算組んで対処しろよ!

と怒っていると、ここで唐突に怪獣が出てきてしまいました。

東宝だからね。油断も隙もありゃしませんよ。
ゴジラが放射能から生まれたように、この南極怪獣「マグマ」(誰が名付けた)も、
地軸を動かすために建設された原子力ジェットパイプの熱で目覚めたのです。

つまり南極の地底で気持ちよく眠っていたら起こされてしまったと。

さっそく河野博士は園田博士に電話で連絡を行います。

昔架線電話は玄関に置かれていることが多かったようですが、
従ってこのテレビ電話も玄関ぽいところに設置されています。

「すぐ南極に飛んでくれんか。話は向こうで!」

「もしもし、君、もし」

ブツっ(電話の切れる音)

ちょっと待って、南極ですよ?
集会所の碁に誘う程度でもちゃんと要件は言うぞ。

しかもこの爺さんをわざわざ地球の端っこまで呼びつけて、
血液組成を顕微鏡で見て解析させるだけ。

「どう見ても爬虫類の血液だ」

血液検査できる人間が一人もいないとか、どんだけ人材不足なのよゴラス対策日本支部。

ところでどうしてここで怪獣が出てきたかと言うと、クランクアップ前になって
東宝上層部が、

「せっかくの円谷特撮だから怪獣を出してほしい」

とねじ込んできたらしいですね。
監督は必死で抵抗し、この部分の監督を円谷に任せ、さらには後年本作について

「南極であの動物さえ出なかったら、自分でも一番好きな作品」

と言っていたり、海外公開バージョンではマグマの部分がカットされていたり、
まあようするにこの怪獣のシーン、蛇足もいいところ(爬虫類だけに)。

たとえこれで多少の集客効果はあったとしても、作品として
無茶苦茶というか支離滅裂になってしまったという事実は否めません。

しかもこの怪獣っちゅうのが実に粗雑な出来で、爬虫類なのに見かけセイウチ。
地底で眠っていたのに目がサーチライト。

やっつけで登場させたこともあって、怪獣はあっという間にやっつけられることに。
巨大な新型生物の発見ですが、田沢博士にかかったら

「72時間も作業を空費させられた憎っくき邪魔者」

であり、とっとと殲滅すべき「害獣」でしかないのです。
田沢博士が生物学者とかならちょっと考えも違うんでしょうけどね。

マグマのいる周りの崖を破壊し埋めてしまいました。
ここで不思議なのですが、博士ら3人は(というか、全ての作業を
日本チームだけが押し付けられているのは一体何の罰ゲーム?)
マグマの生存を確かめるためにわざわざ近くに降りて歩いて見に行きます。

瓦礫に埋まっていただけのマグマはまた動き出しました。

「うわっ」「危ない!」

園田博士がなぜか怪獣に駆け寄ろうとして二人に止められます。
ボケてるのか爺さん。

慌ててVTOLに飛び乗り、もう一度攻撃して怪獣殲滅。
登場時間はだいたいシーンにして7分でした。

この怪獣がどう言う生態系なのか、1匹見つけたらその周りに
もしかしたら30匹はいるのではないかとか、親や子はないのかとか、
なぜ南極の地下で寝ていたのか、地表で活動したことはあるのか、
そういう情報は全くないまま終わります。

これではマグマに親近感を持てと言うのが無理な話です。
しかも、劇中ではマグマ、名前がないので名称で呼んでももらえません(涙)

名前がないまま酔ってカメに落ち、水死した漱石の猫みたいなものです。


ゴラスはすべてのものを吸い込みながら不気味に近づいてきます。
たとえば土星の輪っかとか(笑)

ゴラス接近により、沿岸部の水没が予測される、ということで
智子と滝子の二人は避難の用意をしています。

しかしリアリストの瀧子は

「こうなったらどこに逃げたっておんなじよ。死ぬときは死ぬんだわ」

「いっそのことゴラスがぶつかって皆死んじまった方が幸せかもしれないわ」

などと結構正論をついてきます。

そこに連行、と言うか仲間に連れてこられたのが記憶喪失の金井。

何も覚えていない上、手間ばかりかけさせやがって何の役にも立たないので
任務から外された金井ですが、なぜか彼が写真を持っていたというだけの理由で
彼らは彼を滝子のところに連れてきたってんだから驚くじゃありませんか。

いや連れて行くなら宇宙省管轄の病院か百歩譲っても実家だろう。
付き合っているわけでもない女性の家に送り届けて何をさせるつもりだ。
迷惑とかちょっとは考えろと。

「滝子さんよ。おわかりにならない?」

すると連れてきた同僚は、

「やめてください。そう言う質問が一番辛いんです」

じゃあ連れてくるなよ!(怒)
同僚二人、疎開すると言う滝子たちに金井を押し付けて帰っていきました。

警戒警報が発令されました。
これは・・・勝鬨橋ですよね。

山手線。

新橋か銀座の端っこ?
よく観ると、白い犬が1匹横切ります。
芸が細かい。

ゴラスが地平線から消えたとき、それが最接近のときです。
地球最後の時になるかもしれません。

そして皆が見守る中、月は物凄い速さで(三日月のまま)
ゴラスに吸い込まれ、爆発してしまいました。

月が吸い込まれているのだから、地球に何も起こらないわけがないのですが、
地球上ではちょっと風が強くなってるかなー程度の気象変化しかありません。

南極の科学者はもはや手を拱いて見ていることしかできません。
海水の変化による高潮があちらこちらで始まりました。

この非常時に海岸線を走っている電車は海水に飲み込まれ、
街にも波が押し寄せ、橋には流されてきた艦船が激突。
もうこの時点で都心部は壊滅状態です。

今回は怪獣特撮の全体に対するボリュームが少なく、円谷プロの特撮は
ほぼ全精力を都市破壊に振り切った感があります。

そのころ園田家と滝子、金井は、どこの田舎かわかりませんが、
風が吹けば飛ばされそうな旧式の日本家屋に非難しております。

周りの家が次々崩れて行くのに、この人たちはなぜか
この家にいるのが安全だと信じて疑っていないようです。

しかもそんな中金井がなぜか頭痛の発作を起こして大騒ぎ。
皆で手当てにかかりきりになるなどどこまでも迷惑な奴です。

カウントダウンは2分を切りました。
意識を取り戻しテレビの最前列に陣取っていた金井が今度はゴラスの映像ににじり寄ります。

記憶を失ったときのことを思い出すと同時にまた気を失いました。
後2分で死ぬかもしれないのに、こいつの介抱に全員おおわらわ。

「気がついた!」

「・・・君か」

皆で喜んでる場合じゃないだろ。
わたしだったらこんな最後嫌だ。

というか、金井ってなにか宇宙飛行士として任務を果たしたの?

そしてあと10秒。

南極にも海水はおしよせているのですが、
ジェットパイプ装置はそんなことで動きを止めません。
最後の瞬間まで地球を動かし続けます。

ゴラスは地球をギリギリで通過しました。

予定時間はすぎ、

「We did it?」

と聞くギブソンに、田沢は

「We did it!」

途端に喜びに沸く南極基地。
まず田沢はフーバーマン博士と抱き合います。

日本人の作業員が田沢にまとわりついていますが、田沢、
日本人には見向きもせず外国人技術者ばかりとハグしております。

「あーもうたまらん!」みたいな。

どれだかわかりませんが、この外人俳優の中に、オスマン・ユセフという、
「青島要塞爆撃命令」でマッカーサーの役をしていた人がいるはずです。

最後にもう一度フーバーマン、ギブソンと抱き合ってフィニッシュ。

そして・・・やっぱり日本人なんですねえ。

「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」

ワールドワイドな万歳三唱の後の拍手。
この瞬間、アメリカとソ連の科学者は何をしていたのか知りたい。

国会でも皆でテレビを見ていたようです。

ギブソンは、

「これから地球を元の軌道に戻さないと」

と田沢に英語で言います。

ところでなぜこの役がフーバーマンでなかったかなんですが、
ジョージ・ファーネスは元来俳優ではないため、滑舌が悪く、(弁護士ですが)
声もかなりの濁声なのでこちらに回されたのではと思います。

田沢はそれに対し、今度は北極にジェットパイプを据え付けなくてはならないので、

「水力装置は南極より北極の方が設置が大変なんだ。足元が海だからな」

と日本語で言います。
彼らは互いに母国語で話し合っていますが、下手な英語や日本語を喋らせるより
こちらの方が良かったのではないかと思われました。

この映画で唯一わたしが高く評価する演出です。

そしてそれに対し、

「We must do it!」

とギブソンは力強く答えます。

とりあえず地球は破壊を免れたと言うだけのこと、この被害は大変なものです。
そのための地球のあらゆるリソースは根こそぎ奪われているし、文字通り足元は水だし、
いつになったらその設計にとりかかれるかも皆目見当がつきません。

しかしまあ、ここまでの回避を少ない予算と人員(ほぼ日本だけで)
やり遂げたんですから、この人たちが死なない限り地球は大丈夫ってことでしょう。

この映画の残念なところは数え切れないほどありますが、
その最たるものはこのとんでもないエンディングにあります。

爽やかな音楽とともに、アナウンサーが明るい声で

「やっとこの東京にも平和の光が戻りつつあります」

ってこの光景のどこをどう解釈したら平和の光が戻りつつあるってことになるんだよ。
多分この状況ならまだ必死の救命作業とか遺体の捜索中だぞ。

「悪夢の高潮が引くに連れ、海底に没していた関東平野も次第にその姿を現し始めました」

これでも高潮が「引いた後」なのだとしたら、おそらく関東の人口の9割は
水に飲み込まれてお亡くなりになっていると思うな。

そして場面は唐突に東京タワーのエレベーターホール。
疎開していた園田家と滝子と金井の一団がぞろぞろ出てきます。

エレベーターの電源がちゃんと作動し、営業を行っていることも不思議ですが、
(エレベーターガールまでいる)展望台ではテレビクルーがカメラを押していたり、
見物客がいっぱいいたりで全くわけわかりません。

そして彼らは展望台から外を眺めて呑気に嘆息します。

台風の後お庭の花がだめになった、みたいな調子で、

「わあ、我が東京は全滅ね」

すると金井がまたお気楽な調子で、

「また新しい東京を作ればいいさ」

それさ、今回の水害でお亡くなりになった方の遺族の前で言えるのか?

だいたい、国家予算をつぎ込んだミッションでヘマこいて何の役にも立たず、
ゴラスを見たらなぜ記憶を失うのか、なぜテレビでもう一度ゴラスを見たら記憶が戻るのか、
その理由についてなんの説明もなく、何水害見物してんだよ金井。

公務員なんだからサボってないで水没した宇宙港の復興作業手伝いに富士山麓に行け。

すると滝子が、(結局この二人が付き合いだすというオチもなし)これも気楽に、

「簡単に言うわね」

「そうだよ。さっき南極で田沢さんも言っていただろ。
人類が残っている限り無限の可能性があるんだ。
今度作る東京は、きちんと都市計画を立てて」

それはそうかもしれないが今のお前が言うな。

それから、この人たちは疎開先の田舎からどうやってここにやってきたの?
地下鉄は全滅、飛行機はすべて沈没、線路も壊滅状態だと思うけど、
東京タワーのある芝までボートでも漕いできたのか?

地方の都市も当然水没してえらいことに。
しかし天守閣以上に高い建物がないとか、江戸時代かいって話ですが。

しかし、そんな状況にもかかわらず、放送が勝利宣言を行います。

「ただいまから国連科学委員会からのメッセージをお送りします。

みなさん、我々は勝ちました。
妖星ゴラスはすでに太陽系から離れようとしております。
我々は全人類の平和への願いと協力によって勝ち得たこの勝利を
無限のものにしようではありませんか」

そのとき、南極の部分にあかあかと点っていたジェットが消えます。
人類の挑戦は、この青い地球が存続する限り止むことはないでしょう。

たとえイーロン・マスクのおかげで人類が火星に移住できる日が来たとしても。

 

終わり。

ダイムラー-ベンツエンジンを搭載した日本の戦闘機〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空シリーズ」、
前回メッサーシュミットの紹介までを行いましたが、今日はその
メッサーシュミットBf109が搭載していた、
ダイムラー-ベンツのエンジンを搭載していた航空機の紹介からです。

■ DBエンジンを搭載した三機の戦闘機

まずこれがそのエンジン。

Daimler-Benz BD  605

型;倒立V型(Inverted Vee)液冷式、インラインギアドライブ

シリンダー;12気筒

排気量;35.7 L

最大馬力;2,000 hp

重量;745kg

製造; ダイムラー-ベンツAG、シュトゥットガルト-ウンターテュルクハイム
    ドイツ 1943

 

1937年に最初に開発されたDB600を改良したもので、おもに
メッサーシュミットBF109、110に搭載されていました。

さすがはドイツというのか、1939年にこのDB 605ARJを搭載した
メッサーシュミット209 Viは、時速755キロの最速世界記録を樹立し、
その記録は1969年までプロペラ駆動機によって破られることはありませんでした。

シリンダーを取り替えることによってパイロットの視認性が向上し、
重心が中心に、低くなったことでメンテナンスのためのアクセスが便利になった上、
Bf109は銃がエンジンバンクの間に取り付けられ、プロペラハブを介して発射されるように。

Bf 109Eに搭載されたDB601Aタイプはキャブレターの代わりに燃料噴射式を採用し、
負のG下でもエンジンが切断されなくなったため、戦闘で大変有利になりました。

それではこのダイムラー-ベンツエンジンを搭載した航空機を紹介します。

前回も取り上げた

メッサーシュミットBf110

は、もともと長距離護衛戦闘機として設計されており、
高速でしたが、ポーランドとフランスで成功したにもかかわらず、
シングルエンジンのスピットファイアやハリケーンと張り合うためには
決定的に機動性に欠けていました。

多数の単発護衛戦闘機が登場するようになってくると、Bf110は
バトル・オブ・ブリテンでの失敗とアメリカの爆撃機を防御しきれなかったため、
RAFのダッフィーことデフィアントと同じく、夜間戦闘機にジョブチェンジします。

ダッフィーとちょっと違っていたのは、Bf110は夜間戦闘機としては優秀だったこと。
(そりゃまあダッフィーと違って少なくとも前方を攻撃できましたから)
安定性とレーダーその他の装備を搭載するキャパシティゆえに、その分野の主力となりました。

人生万事塞翁が馬ってやつですか。

🇯🇵川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」コードネーム「Tony」

同盟国つながりで飛燕にはダイムラー-ベンツDBの量産型が搭載され、
それで「飛燕」は日本で唯一の液冷式エンジン搭載戦闘機となりました。

量産型の国産カワサキHa40は、DB601Aの軽量バージョンです。

それまでの日本戦闘機と異なり、搭乗員と自封式燃料タンクに装甲防護があったのですが、
この防御設備重量のため機動性が低下し、敵機からは食われやすくなってしまったという・・。
二律背反の命題そのものの戦闘機、それが「飛燕」でした。

しかもドイツ製エンジンの量産型として国内生産したハ40は、
絶え間なく問題が発生しずいぶん悩まされる結果になったのですが、
スミソニアンでは

「連合国軍の戦闘機に対してはうまく機能した」

と穏便に評価しています。
前線における連合国軍パイロットの評価も、アメリカ軍のそれも
なかなか辛辣なものだったようですが、フィリピンで広く使用されたこと、
それと本土防衛で特攻作戦を試みB-29の搭乗員を震え上がらせたことが
この評価につながったのかもしれません。

連合国コードネームの「トニー」というのは「アントニー」、つまり
イタリア系移民の愛称で、これは最初に遭遇したアメリカ軍が、
イタリア空軍のマッキMC. 202のコピーと勘違いしたために、
適当にイタリア系の名前をつけたためということです。

「飛燕」という名前は表向きというか新聞記事がきっかけでできた名称で、
現場の人たちは「ロクイチ」とか「和製メッサー」とか、
あまりかっこよくない名前で呼んでいたようです。

和製メッサーといわれても、ドイツ製エンジンのコピーを積んでいただけで、
その他デザインはほとんど日本人の手で行われていたのですが。

🇯🇵愛知 M6A1「晴嵐」CLEAR SKY STORM

ダイムラー-ベンツのエンジンを搭載したもう一つの軍用機が、
あの「晴嵐」だったことに驚かされたわたしです。

「晴嵐」はスミソニアン博物館の別館、ウドヴァー・ヘイジー以下略博物館にあり、
当ブログではもう紹介済みですが、せっかくなので写真をもう一度掲載します。

右側の完全な形の紫電改と比べていただければ、機体の大きさがおわかりでしょう。
ここでの紹介を翻訳しておきます。

「晴嵐」は日本海軍の潜水艦に搭載された攻撃機でした。
潜水艦はパナマ運河の攻撃を計画していましたが、実行までに戦争は終了しました。

巨大な長距離先行潜水艦の甲板には、3機の飛行機を格納できる
水密式の遠投型格納庫が取り付けられていました。

「晴嵐」は、これらの格納庫に収納できるように、複雑な、
翼と尾翼の折り畳み機構、そして取り外し可能なフロートを備えていました。

潜水艦の乗員は飛行の準備7分未満で完了させることができたと言います。

戦争が終わったとき、6機の「晴嵐」を積んだ潜水艦隊が、
ウルシー環礁にあったアメリカ海軍基地を攻撃することになっていたということです。


とまあ、こういう大変衝撃的な説明が添えられているわけですが、なぜか
その「晴嵐」がDBエンジンを積んでいたことについては全く言及されていません。

「晴嵐」が実際積んでいたのはアツタエンジンといって、DB600とD601エンジンを
愛知飛行機がライセンス生産した液冷エンジンだったからです。

アツタ型エンジンは向上型も含め11、21、32と3タイプ生産され、
「晴嵐」のほかには艦上爆撃機「彗星」にも搭載されたということです。

「晴嵐」のあるウドヴァー・ヘイジー・センターにはアツタ31も展示されています。

 

■ 炎の下の要塞

ところで、このスピットファイアの後ろとか、

ムスタングの後ろとか、

マッキなんとかの(おい)後ろに見える壁画を繋げてみてください。
(一枚の壁画として写真を撮るのを忘れたのですみません)

この壁画は、キース・フェリスという人が描いたもので、
ドイツ上空で対空砲とドイツ戦闘機による攻撃を受けている、
第8空軍のB17Gフライングフォートレスを表しています。

このようなシーンは、第二次世界大戦中、ヨーロッパで日中細密爆撃を行った
B-17 の数だけ、つまり何千回となくどこかの戦地で発生したものです。

スピットファイアの後ろに見えているB-17は、

第8空軍第303爆撃航空群第359飛行隊の「オールド・サンダーバード」

で、壁画に描かれたその姿は、1944年8月15日のその瞬間、
ドイツのヴィースバーデン上空で今まさにターゲットに近づいたオールドサンダーバードと
その他のB-17 の姿を、史実に忠実に再現したものとなります。

B-17「オールド・サンダーバード」の機長ヒラリー中尉と搭乗員たち。
つまりこの壁画に描かれたB-17に乗っていたメンバーです。

映画「メンフィス・ベル」のメンバーのように、皆若いですね。

前にも当ブログではこの時の連合軍の日中細密攻撃について取り上げていますが、
もう一度スミソニアンの記述を元に説明しておきます。

 

アメリカ軍の精密日中爆撃の概念には、重装備の高高度爆撃機が必須でした。

この役割のために設計され、1935年7月に最初に飛行を行ったB-17は、
何度もアップグレードされていきました。

第二次世界大戦の開始までに、B-17DSはハワイとフィリピンに配備されていましたが、
多くは日本の攻撃によって破壊されてしまっています。

1941年12月10日、フライングフォートレスは敵の艦船を爆撃し、
開戦後戦闘行動をとった最初のアメリカ軍の飛行機になりました。

B-17ESとFsは、ヨーロッパとアフリカで広く使用されていました。

1943年の終わりまでに、ヨーロッパのほとんどのユニットは、
重装備のB-17Gを配備していました。

B-17は通常13.50口径の機関銃を搭載しており、そのうち2門は
ドイツの正面攻撃を阻止するために設置された新しいチン・ターレット
(ノーズの下方に装備された砲塔のこと)に装備されていました。

קובץ:Boeing B-17G chin turret, Chino, California.jpgチン・ターレット

4基のターボエンジン、ライトR-1820により、
最高高度は10,670メートルを超え、射的は3,220キロメートル、
爆弾の最大積載量は2,720キログラムにまで達しました。

 

■ 第二次世界大戦の航空爆弾

この写真でもチン・ターレットがわかりやすく見られます。

1944年4月、RAFのグリムズビー基地に置かれている
不時着したB-17G「バーティ・リー(Bertie Lee)」の姿です。

機長であった第8空軍第305爆撃航空群のエドワード・マイケル大尉は
多大な被害を受けた期待を無事に帰還させたことで名誉メダルを受賞しました。

ここで改めて爆撃の目的とは何かを考えてみると、
それは敵の地上設備・人命・物資を破壊することに尽きます。

戦争中、何百万トンもの爆弾が枢軸国と連合国問わず投下され、
互いの国に悲惨な結果をもたらすことになりました。

 

■ 爆弾のいろいろ

ここで爆弾というものについて、いちから説明が始まりました。

爆弾はその目的と、使用したフィラー(内容物)の種類によって分類されます。
第二次世界大戦で使用された主なタイプは次の通り。

汎用爆弾(General Purpose bombs)

爆風、真空圧、対地衝撃(earth shock)によって破壊。
当時アメリカ軍で最も効果的な万能爆弾とされていたのが113kgのAN-M57爆弾です。

薄肉爆弾(Light case bombs)

総重量の80%が爆発するライトケース充填タイプです。
1,800kgの爆弾の投下によって街区より広いエリアを破壊することが可能です。

徹甲弾(Armor-piercing bombs)

重装甲された軍艦や石・鉄筋コンクリートの構造物に対して使用されました。
そのため、非常に重量のある弾殻と鋭い「ノーズ」を持っており、
爆発物は全体の重量の5〜15パーセントを占めていました。

深度爆弾(Depth bombs)

駆逐艦対潜水艦の戦闘を描いた映画には欠かせないデプスチャージ。
水中で爆発し、その圧力によって海底に潜む潜水艦のみならず、
水上艦を押しつぶすこともできました。

榴弾(破砕爆弾・Fragmentation bombs)

地上の人員、物資、航空機への攻撃に使用されました。
内部の火薬が炸裂することで弾殻が破砕され、
その破片が広範囲に飛び散り、目標に突き刺さって打撃を与えます。

化学爆弾(Chemical bombs)

刺激性または有毒なガスを生成したり、弾幕を張ったりする爆弾です。

焼夷弾(Incendiary bombs)

本土空襲で日本が散々苦しめられた焼夷弾。
内部にはテルミット、ゼリー状のガソリン、あるいは
テルミットとマグネシウムの合成薬が充填されていました。
サイズは小さいものは1kg、大きなものは225kgまで。

小さな焼夷弾は塊にして投下され、衝突の前にケースが開き、
個々の爆弾が散乱して降り注ぐというものです。

不活性・演習用爆弾(Inert or pfractice bombs)

練習用にはわずかな火薬しか仕込まれません。

ヒューズ(導火線)

爆弾の種類ではありませんが、ヒューズは爆弾を発射する装置です。
的確なタイミングで爆発物の「トレイン」をスタートさせ、爆発を起こします。

 

 

 

続く。

 

 

"Guard The Victory, Join the AAF" P-51マスタング〜スミソニアン航空博物館

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前回の「第二次世界大戦の航空」シリーズでは、爆弾の種類について、
ごく基本的なようで実はよくわかっていなかった知識を得ることができました。
(あくまでもわたしを基準にお送りしております)

今日は、その続きとして、前回冒頭にアップした爆弾の紹介からです。

U-157.S-33. Bomb 500ポンド焼夷弾 AN-M76

Ilustracja

軽構造物、弾薬庫、鉄道や自動車、地上の航空機などといった標的を

破壊するために広く使用され、「解体爆弾」という名前もありました。

本体は鋳鋼製の一体型で、ベースプレートは本体に溶接されています。
爆弾の尾部は鋳鋼製のスリーブで、4枚のシートスチール製「ヒレ」と
内部にボックス型の支柱があります。

着火剤には白リンが含まれており、この爆弾を廃棄する際には適切な注意が必要です。
焼夷混合物PT1は、基本的にマグネシウムペースト、ガソリン、
増粘剤で構成されており、通常の焼夷混合物IMの約4倍の熱量を発生させることができます。

 

U.S.250ポンド AN-M57 汎用爆弾

1942年3月11日以降、この爆弾に採用されている標準的なカラーは、
オリーブドラブのボディにHE充填剤を示す黄色のバンドと決められました。

充填剤は50/50硝酸アンモニウムとTNTからなるアマトール(Amatol)で、
それを表すためノーズに黄色、爆弾本体の尾部に1インチの黄色、
そして重心に1/4インチの点線の帯が描かれました。

このサイズの高爆発性爆弾は、第二次世界大戦でアメリカの使用した最も効果的なタイプです。
型番の頭の「AN」はこのアイテムがアメリカ陸軍海軍の両方で使用できるよう
標準化されているということを表しています。

また、アメリカのみならずイギリスや他の同盟国によっても採用されました。

ミッションに応じて、信管のタイプを使い分けます。

U.S 100 ポンド、タイプ AN-M30 汎用爆弾

汎用の高爆発性爆弾です。

超重量級の爆撃機が高空から投下した場合に起こる飛行の不安定さを解消するために、
爆弾は従来の尾部ユニットより2インチ短くなっています。

AN-M30爆弾は、その改良型であるAN-M30A1爆弾よりも軽量です、
トリトナル、TNT、アマトールを装填することができます。

爆弾の塗装は全体的にオリーブドラブで、機首と基部には
1インチの黄色の帯が、重心部には1/4インチの黄色の帯が描かれています。

さて、ここからはアメリカの誇る第二次世界大戦時の名戦闘機、
マスタングについてです。

■ 最高のピストンエンジン戦闘機 マスタング

ノースアメリカン P-51D マスタング(Musutang)

多くの人々が、P-51マスタングを、第二次世界大戦における
最高のピストンエンジン戦闘機とみなしています。

同機は射程、機動性、火力の組み合わせにより、非常に多様性に富んだ展開をしました。

第二次世界大戦における主要な戦場では、その航続距離、
高高度における飛行の安定性から、護衛のほか機銃掃射における攻撃、
そして写真偵察に重用されました。

 

マスタング開発の経緯です。

1940年、イギリスの担当者はノース・アメリカン・アビエーション社に
カーチスP-40の増産を依頼しました。

P-40は当時、アメリカの陸戦型戦闘機としては唯一のものでしたが、
速度、航続距離、高度などの性能は著しく劣っていました。

そのためノースアメリカン社は製造を断り、その代わり完全オリジナルの設計を提案し、
3ヵ月以内に完成させることを約束したのです。

117日後に完成した機体は水平飛行の速度で優れた性能を発揮し、
英国空軍(RAF)はこの機体をマスタングと命名して購入を決めます。

その後、イギリスはこれにマーリン65エンジンを搭載することによって、
「世界最高のプロペラ式長距離護衛戦闘機」を誕生させます。

航続距離と速度が向上したことで、P-51飛行隊は、
第8空軍の爆撃機と一緒にヨーロッパを長距離空襲することができるようになり、
掩護任務においてもおおいに性能を発揮し、このため爆撃機の損失は激減しました。

太平洋戦線でP-51はその航続距離、速度、持久力で、長距離爆撃を行う
ボーイングB-29スーパーフォートレスを護衛しました。

しかし、戦後アメリカで独立したアメリカ空軍が朝鮮戦争に投入する頃には、
P-51は冷却装置の防御が弱いという弱点を突かれ、多くが撃墜されることになります。

マスタングのコクピットは狭いながらも大変機能的でした。
特に、後年導入されたバブルキャノピーによって、
搭乗員には視界の広さが確保されることになったのです。

ロイヤルエアフォースのマークを付けて飛ぶマスタング。
わかる人が見たらおお、と思う(かもしれない)写真です。

この機体はオリジナルで、キャノピーの形は初期のものです。

 

■ スミソニアン博物館展示機

この写真は、当博物館に展示されているマスタングのかつての姿です。

同機は1945年末に製造されたのち1945年7月になってから納入されたため、
結局一度も戦闘に参加しないまま戦争は終わってしまいました。

陸軍航空隊はこの戦闘機を11ヶ月間、合計211飛行時間だけ使用した後、
手放し、後に国立航空博物館に移管されました。

 

しかしこのマスタング、なんの役にも立たなかったというわけではなかったようです。

NASM(スミソニアン)が入手したとき、機体胴体の両側には
大きな黒い文字で誇らしげな言葉が書かれていたといいます。
その言葉とは・・・。

『勝利を守れ 陸軍航空隊に参加しよう』
 "Guard The Victory, Join the AAF"

AAFとはArmy Air Forcesのことです。

軍務を終わったあと、同機は陸軍航空隊の広報機になって、
リクルート活動に使用されていたということになります。

この文言がペイントされたのが、終戦前だったのか、それとも
終戦が分かってからだったのかがちょっと気になります。

「Guard」=一旦手にした勝利を守れ、という意味だったのでしょうか。

このマスタングは、現在、
第8空軍第353戦闘機群第351戦闘機中隊使用機の塗装をされています。

同飛行隊はドイツ奥地に向かう爆撃機を護衛する部隊でした。
爆撃機の掩護任務を終えて帰投する途中、彼らは敵機と交戦、
あるいは地上施設の攻撃を行い、その結果、部隊撃墜数330、
地上での破壊数414を記録し、部隊功労賞を受賞しています。

■ ロシアへのシャトル爆撃

1944年の夏のことです。
アメリカ軍の爆撃機の射程を拡大するための実験が行われました。


アメリカはドイツ東部やバルカン半島の敵目標を爆撃するために、
スターリンを説得して、イギリスやイタリアに戻ることなく、
ロシアにアメリカ軍の重爆撃機をシャトル飛行させることを許可させたのです。

ソ連はキエフ近郊に3つの飛行場を用意し、アメリカは数ヶ月かけて飛行機の受け入れ準備をしました。

計画は、P-51戦闘機に援護されたイギリス軍の第8空軍爆撃機などが
東ヨーロッパに長距離爆撃を行うというものです。
目標は合成オイルの工場であり、ロシア軍がドイツ軍から奪還したウクライナの基地でした。

しかし結論だけ言うと、これはとてもうまくいったとは言えませんでした。

その理由は、皆様も薄々お気づきの通り、
西側同盟国とソビエト連邦の間の「緊張」です。
ソ連の方も西側に対し疑惑を持っていたので、うまくいくはずないですよね。

 

■ 航空機銃

上から、

ドイツ軍MARSGG-15 7.92MM 機銃

1932年、ラインメタルによる導入されました。

1938年に採用されたより高度なMG-81に代替えされましたが、
MG-15は第二次世界大戦中、さまざまなドイツ軍の航空機の
防御兵器として使用され続けていました。

日本はそれを7.92mmでコピーし、戦争中は68型として使用しています。
MG-15の初速は毎秒2952フィート、発射速度は1分間に1050発でした。

アメリカ軍 ブローニング M2 .50口径機銃

第二次世界大戦で最も広く使用されていた航空機用機関銃であり、
今でも多くの国の空軍に使用されています。

空冷式反動式で、初速はま1秒2800フィート、発砲速度は
毎分700〜850発です。

日本軍 HO-5 20MM 自動航空砲

HO-5は第二次世界大戦中の日本の優れた航空機関砲の一つでした。
ちなみにこれは「エイチオー」ではなく「ホ」と読みます。
(ということは陸軍の装備だな)

ホ5(2型)砲は、1型機関銃をスケールアップして設計された優れた武器で、
陸軍機の固定武器として広く使用されました。

ブローニング社製のショートリコイルアクションを採用し、
分解可能なベルトから給弾される仕組みです。

既存の航空機に搭載されている1式機関銃の代わりになることを期待して、
可能な限り小型軽量化されています。

性能だけで言うと第二次世界大戦中の20mmの中で最高ともいえる銃でしたが、
悲しいことに、製造当時の日本国内での品質管理の悪化により、
カートリッジに火薬が十分に充填されていなかったため、
完全に充填されたカートリッジで可能な秒速820mが出せませんでした。

この銃は主に固定武器として使用されたのですが、1型と同様の
クレードル搭載型のフレキシブル・バージョンも一応製造されました。
(ただし、ほとんど使用されなかったということです)。

ということで、優秀な日本の武器がいきなり登場して驚かされることになりました。


■ 護衛戦闘機の台頭

「エスコートファイター」を日本語にすると、「直掩機」となります。

直掩機とは、敵航空機を迎撃して味方艦船や飛行場を守ったり、
味方の航空機を掩護して戦闘空中哨戒を行う航空機です。

直掩機が台頭してくるのは1943年のことです。
それまでのアメリカとイギリスの空軍力では、戦闘半径800km以上の
シングルエンジンを搭載した戦闘機の設計が可能だとは信じられていませんでした。

イギリス王立空軍はドイツ軍の空爆を防衛するために夜間爆撃にシフトし、
アメリカ空軍の日中爆撃部隊は1943年後半には大きな損失を受けて敗北寸前。

そこでP-38「ライトニング」とP-47「サンダーボルト」戦闘機に増槽を搭載し、
さらに多数の典型的な護衛戦闘機、P-51「マスタング」を投入してルフトヴァッフェを阻止しました。

かたやそのドイツ軍はバトル・オブ・ブリテンですでに護衛戦闘機を実験していました。

しかしながらメッサーシュミットBf109は航続距離が短すぎ、双発のBf110は
RAFのハリケーンにもスピットファイアにも対抗できませんでした。

というわけで、ドイツ軍も長距離護衛戦闘機なるものは不可能だと諦めていたため、
1944年、ドイツ上空に多数のP-47とP-51が出現したことは彼らにとっても衝撃でした。

1944年初頭、B-17フライングフォートレスを援護して飛ぶP-47サンダーボルト。

P-51も1944年から45年にかけてアメリカ陸軍航空隊の爆撃任務を援護することで
数多くの功績を残しましたが、増槽を装備したP-47は、1944年春の大空中戦で
ドイツの戦闘機のほとんどを撃墜するという実績を挙げています。

Air Battles Over Europe (1944)

ニュース解説ではサンダーボルトとマスタングについても言及しています。

Dーデイ、1944年6月6日、ノルマンディ侵攻の際撮られたと言われている写真。

保守要員が金属と含浸紙(薬液などを吸収した保持材)でできた増槽を用意して
待機する基地に、第361戦闘機群 第375戦闘機隊のP-51ムスタングが帰投します。

画像の上下左右に見えているのはガイドで、これはガンカメラショットです。

1944年3月、2機のP-47サンダーボルトがBf110を撃墜しているところで、
写真を撮っているP-47からの攻撃はBF110の左翼に命中しています。

■ドイツ空軍の敗北

西ヨーロッパへの侵攻への道を開いたルフトバッフェの決定的な敗北は、
1944年2月下旬の「ビッグウィーク」から始まりました。

アメリカ航空隊は地上と空中でドイツ空軍を破壊することを目的として、
ドイツの航空機産業プラントやその他重要な目標に対して、
ほぼ連日激しい爆撃を繰り返し仕掛けました。

それを可能にしたのは増槽の搭載と護衛戦闘機の増加です。

「ビッグウィーク」と呼ばれる空戦とそれから3ヶ月間に渡った空中戦は、
主に「パイロットを消耗する(殺害する)」ことによって、ゆっくりと、
しかし確実にルフトバッフェの戦闘機防衛力を打ち砕いていきました。

そして5月までにドイツの本土防衛の準備とその戦闘能力は劇的低下し、
イギリスを苦しめていた夜間爆撃のオペレーションにおいてすら、影響をもたらしました。

そして連合国がD-デイでフランスに侵攻したときには、
ドイツの空軍力は連合軍にとってほとんど脅威とならなくなっていたのです。



続く。

 

 


片翼の短い戦闘機〜マッキC-202. フォルゴーレ〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
展示室にある航空機の紹介もあと一機を残すのみになりました。

 

■ マッキ C-202. フォルゴーレ

Aeronautica Macchi C.202 Folgore

最初にこのコーナーにある戦闘機を紹介したとき、
マスタング、Bf109、スピットファイア、零式艦上戦闘機、
そしてこのマッキ・フォルゴーレなるイタリアの戦闘機をして、

「第二次世界大戦中最も有名な戦闘機5機」

というのはいかがなものか、ということを控えめに言ってみたわけですが、
それはわりと世界中の識者の共通認識でもあるらしく、ある記事では、
こんな文句からこのフォルゴーレの紹介が始まっていました。

ここで正直に言おう。 Let’s be honest here.

忖度なしで正直に言わざるを得ない決定的な点があるってことですか。
ちなみにこの筆者が「正直に言ったこと」をそのまま書いておきます。

フォルゴーレは第二次世界大戦におけるイタリア最高の戦闘機であったが、
その性能はイギリスやアメリカの戦闘機に及ばなかった。
(多分ドイツと日本の戦闘機にも及ばなかったのではないかと・・)

さらにこのような過酷な現実が列挙されております。

最高速度372m/p.h.はマスタングよりも65遅い

航続距離475マイルはマスタングより1200マイル近く短い

サービスシーリングは1マイル近く低い

メッサーシュミットよりも重い

1機を製造するのに約22,000人のスタッフが必要
ちなみにメッサーシュミットは1機を約4,000人で製造

左翼が右翼よりも約9インチ長い

なんと・・・!

イギリスには一瞬とは言えディフィアントという、前方攻撃武器がない戦闘機が
存在したということに驚かされたばかりなのですが、今回のシリーズでは
それを上回る衝撃的な飛行機がこの世に存在したことを知りました。

マッキ・フォルゴーレ、両翼の長さが違うのです。

改めて写真を見ると、レンズによって生じた歪みだけとも言えず、
手前の左翼が向こう側より短いのではないか、と思われてきます。

それにしても、どんな構造物でも基本左右対象に作られているのが自然の道理、
と思い込んでいる我々にとって、これは前代未聞ではありませんか。

ドイツ人ならそもそもそうならない設計をするだろうし、日本人なら
おそらくはそんな解決法など夢にも思いつかないに違いありません。

それではなぜこんな設計の飛行機が生まれたのか。
その目的は何だったのかを説明する前に、諸元などを上げておきます。

翼幅 10.6m

長さ 8.9m

高さ 3.6m

重量空時 2,350kg

重量満タン時 2,930kg

動力 アルファロメオ R.A. 1000 R.C 41-1
   モンソニ(ダイムラー-ベンツDBー601 A-1 ライセンス製産)

武装 12.7 mm機銃 2基 7.7mm機銃 2基

Monsoniというのはイタリア語のモンスーンという意味であり、
Forgoreは奇しくも同時代のアメリカ軍の名機と同じ、「ライトニング」という意味です。

まあ、それをいうなら日本にも「震電」というのがありましたが、こちらはなぜか
英語圏では「マグニフィセント・ライトニング」となっております。

さて、ここでスミソニアンの解説です。

1940年に設計されたマッキ・フォルゴーレは、第二次世界大戦で
大量に使用された最も効果的なイタリアの戦闘機でした。

さすがはスミソニアン、いきなり「正直に言おう」などと言い出さないあたりが
国立博物館としての品位というか、優しさを感じさせますね。

1941年後半から終戦まで約1,200機のフォルゴーレが運用されました。
1943年9月にイタリアが休戦した後、フォルゴーレは、

イタリア共同交戦空軍(Italian Cobelligerent Air Force)

として対ドイツ戦に投入されるようになります。

昨日までの同盟国に対し、今日からいきなり機銃を向けて戦うというのも
一体どうなんだろう、と考えさせられずにいられない変わり身の早さですが、
こういう人たちだから、いまだにドイツ人は日本人を見ると、
今度はイタリア抜きでやろう
と言わずにいられないのだと思います。

続きです。

フォルゴーレのパフォーマンスと機動性は優れていましたが、
武装については同時期の他の戦闘機より劣っていました。

メッサーシュミットより重く、マスタングより遅くとも、
機動性は悪くなかったと、そうおっしゃるわけですな。

さらには、

C.202フォルゴーレは、第二次世界大戦中にイタリア王立空軍(RA)が
大量に投入した最高の戦闘機で、イタリア国外ではほとんど知られていない。

この飛行機は、イタリアが世界水準の戦闘機を設計・製造できることを証明した。

とまで言い切っています。

スミソニアンがそういうからにはやっぱり結構いけてたんじゃないのかしら。
(と権威に弱いわたしはついそう思うのだった)

 

航空製造会社Aeronautica Macchi S. p. A.は、ラジアルエンジンを搭載した
マッキの初期設計機C.200 サエッタSaeta (これも雷光の意)をベースに、
フォルゴーレ(雷)を設計・製造しました。

Mario Castoldi

設計したのはマッキ社の設計責任者であるマリオ・カストールディ。

サエタの機体にDB 601を搭載してフォルゴレを完成させました。

イタリアは、1930年代半ばには航空先進国でありましたが、いかんせん
エンジンの開発に遅れをとっていたため、同盟国のメリットを生かして
ドイツからダイムラー-ベンツのエンジンを輸入したのです。

C.202は1940年8月に初飛行し、RA(王立空軍)は1941年の夏に
同機を1°ストームC.T.(第1航空隊?)に配備し、さっそくRAFと交戦しました。

北アフリカにおける戦況を左右するには遅すぎたとはいえ、
この新しいマッキC.202は、アメリカのカーチスP-40や
イギリスのホーカー・ハリケーンよりも明らかに優れていることを証明した。

あれ・・?そうだったんですか?
ハリケーンより劣っていたってさっきの媒体では言われているんですけど。

それどころか、

このイタリア製戦闘機に乗るパイロットはすべての対戦相手を凌駕した。
ただし、

スーパーマリン・スピットファイアと北米のP-51ムスタングを除いて。

うむ、やっぱりね。

しかし、そのうちDB 601エンジンの供給が尽きます。

そこでアルファロメオは先ほども触れたモンソニー(モンスーン)と呼ばれる
コピー版をライセンス生産し始め、その結果、フォルゴーレは
レジア・エアロノーティカの他のすべての戦闘機を凌駕するようになったため、
大量生産されるようになった、ということです。

■ 翼の長さが違ったわけ

主任設計者のカストールディは、エンジンから発生するトルクと
Pファクター(プロペラ係数)を打ち消す独自の方法を採用しました。

空力現象により、飛行機は離陸時に揺れ、時には制御不能になるのを防ぐために
カストールディが考案したのが、

左翼を右翼よりも21cm長くする

驚きの解決法でした。

翼を大きくすることで左側の揚力が大きくなると、機体が右に傾きます。
するとそれがトルクとPファクター(非対称ブレード効果)に対抗して
結果として揺れが打ち消されるという理論です。

つまり言い方を変えると、エンジンと回転するプロペラのトルクで
機体が左に押し下げられるのを打ち消すために、左側に少しだけ揚力を与えるのです。

これは面白い解決策ですね。

戦後、フォルゴーレは、より強力なDB605エンジンを搭載するために改良され、
C.205ヴェルトロ(Veltro、グレイハウンド犬の意)と改称され、
1949年までエジプト空軍で最後に活躍していました。

尾翼には王立空軍のエンブレムとマッキC202の名称が。

国立航空宇宙博物館にあるマッキC.202は、世界に2機しかないうちの1機です。
終戦後、多くの枢軸機の中の1機として評価のため持ち込まれ、何年も保管されていました。

キュレーターは1942年夏にリビアで活動した

4º Stormo(ウィング)
10º Gruppo(飛行隊)
90º Squadriglia(飛行隊)
90-4(機体番号)

のペイントを再現することにしました。

4º Stormoは王立空軍の有名な戦闘機部隊です。
北アフリカにおける枢軸国の進攻を戦い、1940年から終戦までに500の勝利を収めました。

妙に写実的な部隊マーク。
オノと・・束ねた何か?

まさかファシズムの語源と関係あるとかじゃないよね?

と思い、念のため調べてみると、ビンゴ!

この「束ねたもの」は「ファスケス」といい、斧の周りに木の束を結びつけたもの。

古代ローマで高位公職者の周囲に付き従った者が捧げ持った権威の標章で、
20世紀にファシズムの語源ともなった、ということがわかりました。

ファスケス

Barraccaというのは今調べたらイタリア語で「小屋」だそうです。
なるほど、バラックということね。

フォルゴーレのコクピット。

当博物館展示機がペイントを再現したのは
4º Stormo10º Gruppo90º Squadrigliaのフォルゴーレ。

1942年、リビアの航空基地で撮影されたものです。

マッキC202とブリンディッド航空基地の王立空軍航空隊のみなさん。

皆の表情が心持ち(´・ω・`)としているのは、この写真がイタリアの降伏後、
基地を確保されたときに(記念として)連合軍のカメラマンに撮られたものだからです。

さすがラテン系のイタリア人も皆神妙な顔をしています。当たり前か。

スミソニアンが所蔵しているフォルゴーレは、現存している2機のうちの貴重な1機です。
1500機も生産したならもう少し残っていてもよさそうなものですが。

 

続く。

 

零式艦上戦闘機の盛衰「衝撃のデビューから陳腐化まで」〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」、同展示室の
「5機の最も有名な戦闘機」の最後の機体を紹介することになったのですが、
その前に、展示室にあったこの絵をご覧ください。

■ 映画「トラ!トラ!トラ!」のコンセプトアート

これを見た途端真珠湾攻撃に赴く帝国海軍の艦隊であると気づくのは、
日本人でなければおそらく第二次世界大戦の日米戦に詳しい人だけだと思います。

1941年12月7日が満月だったのかどうかはわかりませんが、
作者の解釈により煌々と雲間から漏れる月の光を白く跳ね返す波をけって
戦艦、航空母艦、そして特殊潜航艇を搭載した潜水艦が並んで航行しています。

夜間にもかかわらず零戦21型が3機飛んでおり、絵画の写実性の割には
現実味のない瞬間だなと気づく人は、さらにマニアに近い知識の持ち主かもしれません。

現地にはタイトルも説明もなかったのですが、調べたところ、この現実味のなさは
この絵が、1970年公開の20世紀フォックス映画「トラ!トラ!トラ!」の
「コンセプトペインティング」として描かれたものであるからということがわかりました。

作者はロバート・セオドア・マッコール(Robert Theodore McCall、1919- 2010)。
特にスペースアートの作品で知られたアメリカのアーティストです。

マッコールは1960年代に『ライフ』誌のイラストレーターとして活躍していました。
スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』の
宣伝用アートワークを引き受けた後、依頼されたのがやリチャード・フライシャー監督作品
『トラ!トラ!トラ!』に関する一連の絵画だったのです。

この絵のタイトルは、(おそらくですが)

Pearl Harber on Sunday

といいます。

一番向こうの空母は旗艦「赤城」であるとして、戦艦は「比叡」か「霧島」か。
もしかしたらこれは戦艦ではない、といわれるかもしれませんので断定は避けておきます。




細部まで詳細に描き込まれていて、たとえば潜水艦上では
特殊潜航艇を搭載した伊号潜水艦の「I 70」というマークまで見えます。

伊号第70潜水艦は確かにハワイ作戦に参加しています。
そして、作戦終了後である12月10日、ハワイ西方約320kmの地点にいた
「エンタープライズ」の艦載機SBDに発見され、撃沈され、
これが太平洋戦争における最初の日本海軍の喪失艦艇とされます。

ただし日本側の記録では伊70の喪失状況は不明とされていて、
さらにVS-6が爆撃したのは伊25だったということになっているそうです。

同じ部屋に展示してあったこの絵ももちろんマッコールの同シリーズ作品です。
本人のホームページで、なぜかこの画像が反転しているのですが、
手前の航空機の搭乗員の鉢巻きと機体に描かれた文字で
日本人には一眼で反転であることがわかってしまいます。

さすが画家、アメリカ人にしては漢字が上手いので感心しますが、
悲しいことに後一つのところで苗字が読めません。

〇〇義雄という兵曹長が真珠湾攻撃に参加していたのかどうか、
機動部隊の名簿に一応全部目を通しましたが、該当人物はなし。

それと、海軍は搭乗員の場合兵曹長より「飛曹長」と言っていたんじゃないのかな。

どなたか真珠湾攻撃に参加した艦爆乗りの義雄という名前の飛曹長に
心当たりのある方は教えていただけますと幸いです。

マッコール氏の他の「トラ!トラ!トラ!」シリーズをご覧になりたい方は
こちらをどうぞ。

Tora! Tora! Tora!

■ 零戦は世界最強の戦闘機だったのか

さて、というところで、当展示室の最後の戦闘機、

Mitsubishi A6M5 Reisen (Zero Fighter)
Model 52 ZEKE

を紹介することにしましょう。
零式艦上戦闘機というのが正式な日本の名称なので、「レイセン」となっていますが、
当時の海軍でも普通に「ゼロ戦」という名称は使用されていたといいますね。

そして「ZEKE」ジークは連合国軍によるコードネームとなります。

ところで、日本語のネットをブラウズしていると、定期的に
零戦についての話題が目に飛び込んできます。
つい最近も、わたしは、

「零戦が最強の戦闘機だったかどうか」

についてのスレッドに行き当たったのですが、そこで、
零戦が最強だったのはデビュー直後だけだった、という
当然と言えば当然の成り行きをことさら強調し、この稀代の名機を
貶めたい人すらいるらしいことを知りました。

どんな最新兵器も技術の進歩によって陳腐化は避けられないのですから、
そんな人には、天下のスミソニアン航空博物館が零戦に与えた
客観的なこの評価を、是非よく味わって欲しいと思います。

第二次世界大戦における日本の航空戦力の象徴として、
三菱A6M零戦(レイセン)を超える航空機はない。

それでは続いてスミソニアンの解説を紹介していきます。

零戦の設計は三菱だが、製造は中島との共同だった。
1939年3月から1945年8月までの間に、2社で1万機以上の零戦を製造した。

1937年、日本海軍が三菱と中島に、三菱A5M空母戦闘機(CLAUDE)に代わる
新しい航空機の提案をするよう指示したことから、設計作業が始まった。

落下式増槽を備えて飛行する九六艦戦 V-105号機 (赤城所属、1938年ないし1939年)

三菱A5M空母戦闘機(CLAUDE)とはつまり九六式艦上戦闘機のことです。
96式=「ク・ロク」=クロードなのか?と今ふと思いましたがどうでしょうか。

1940年7月には中国で戦闘訓練が開始された。
秋までに零戦パイロットは100機近くの中国機を撃墜したが、
友軍の攻撃による零戦の損失はわずか2機であった。

友軍というのはアメリカ側から言っていますので、つまりアメリカ軍のことです。
中国大陸ではまさにデビュー直後の零戦が無敵だったと書かれています。

日本の海軍搭乗員は、戦闘準備の整った328機のA6M2レイセンを飛行させ、
真珠湾やフィリピンでアメリカ軍と戦いました。

レイセンは、1942年5月の珊瑚海に続き、
6月のミッドウェイでアメリカの機動部隊に阻止されるまで、
戦争最初の6ヶ月間、連合国の全ての戦闘機を凌駕していました。

零戦が無敵だったのは、中国大陸に続く6ヶ月間、合計1年半ほどだったことになります。

ミッドウェイで日本の空母4隻が失われたことで、致命的な傾向が浮き彫りになった。
日本軍は、経験豊富なパイロットや航空機を交換するよりも早く失うことになる。
しかし、連合国コードネーム「ジーク」は、さらに2年近くも不吉な脅威であり続けた。

わたしはナショナリストでもなんでもありませんが、こういう
敵側からの冷静な礼賛を見ると、思わず心の中で

「ジーク・ハイル!」(洒落かよ)

という言葉を思い浮かべてしまう性根を決して否定しません。

■ 零戦の欠陥と連合国軍の反撃

スミソニアンの零戦は、このように空翔ける姿を再現し、
機体の底部も、正面も、俯瞰位置からも見られるように展示されています。
自慢の復元機の一つで、展示法にも細心の注意が払われているのがわかります。


人気です

それでは、スミソニアンは零戦の優位性をどこに見出しているのでしょうか。

零戦の強力な性能の鍵は重量である。

1937年5月、日本の海軍参謀本部は「空母から飛べる戦闘機」という暫定仕様を発表した。
三菱の設計者である堀越二郎をはじめとするチームは、
この厳しい要求を満たすため、特に機体の軽量化に注力した。

堀越は、日本で開発された新しい軽量アルミニウム合金を使用し、
装甲板やセルフシール式燃料タンクを省くことにしたのだ。

これらの保護装置は何百キログラムもあり、海軍から要求された
性能を満たそうと思えば、割愛を余儀なくされたのである。


機体の軽量化と搭乗員の安全を秤にかけて前者を取った、
というのは有名な話なので誰もが知っているでしょう。
そしてこのことも。

しかし、これらの部品の欠如は、結局、零戦の破滅につながった。

つまりこういう経緯です。

軽量化によって、零戦はアメリカの戦闘機に比べて上昇速度も速く、
接近戦(ドッグファイト)では相手を圧倒することができました。

しかし、戦闘経験を積み、訓練を重ねるうちに、アメリカ軍の戦術は変わり始めます。

敗北にも却って闘志をかき立てられ、死に物狂いで、しかし、
集合知を積み重ね、冷静に克服していこうとするガッツが、
あの国の国民に備わったひとつの強みであることに論を分かちますまい。

 

まず、戦術が慎重に吟味されました。
アメリカ軍パイロットは、旋回したりループしたりするドッグファイトを避け、
高さや速度で優位に立ち、急襲できる時しか零戦と交戦しなくなります。

このタイプの攻撃は、銃を撃ちながら一直線に航過するものです。
そして優れたスピードでゼロ戦から離れ、安全な場所までズームアップするか、
離れた場所で旋回して反航し、再び攻撃するというものでした。

このアイデアと他の戦術を組み合わせることによって、当初零戦には
全く歯が立たないと思われていたグラマンF4Fワイルドキャットには、
日本の戦闘機を破壊することができる手強い相手に変わったのでした。

■ 立ち塞がる強敵

連合国は、1942年にゼロ戦よりも優れた航空機を配備し始めました。
ロッキード社のチーフデザイナー、ケリー・ジョンソンは、
最終的に日本の航空機を最も多く破壊することになるあの、

ロッキードP-38ライトニング

を世に生み出します。

ゼロ戦 vs P-38ライトニング IL2 A6M2 21 vs P38F1LO(ace)

P-38(ペロハチ)パイロットは、その優れたスピードと上昇性能で
1942年末に最初のゼロ戦を撃墜しました。

そして1943年8月には

F6F-3ヘルキャット

が戦闘に投入されます。
その推進力となったプラット&ホイットニーR-2800エンジンは、
パイロットが戦術的状況を気にすることなく零戦と交戦、
または回避するのに十分な速度と上昇力を可能にしました。

グラマン F6F ヘルキャットの操縦マニュアル


次々と強力なエンジンを搭載した機体を生み出すアメリカに対し、
日本の航空業界でも先進的な戦闘機の開発が続けられていたのですが、
完成までの複雑なプロセスには多くの問題があり、戦闘機の実用化はなかなか軌道に乗らず、
そのため、零戦は終戦まで生産され続けることになります。

そのため零戦とその派生機の生産数は11,291機と、日本の軍用機の中で最多となりました。

 

■ スミソニアン展示の零戦の来歴

国立航空宇宙博物館に展示されているA6M5零式艦上戦闘機52型は、
1944年4月にサイパン島で捕獲された日本軍機12機のうちの1機です。

サイパンで鹵獲されたばかりの当博物館の零戦の姿。
日の丸を掲示板にするなー!

 

そして海軍がまだ戦争の終わっていない7月に評価のために米国に送られてきました。

当館の最も古い記録によると、1944年にオハイオ州のライトフィールド基地で、
翌年にはフロリダ州のエグリンフィールドで評価されたことが記されているそうです。

残された記録は次の通り。

1944年9月1日、ワシントンD.C.の対岸アナコスティア海軍航空基地にて、
1944年10月20日までに3:10の飛行時間(連合軍)を記録

1945年1月3日から2月9日までフロリダ州エグリン飛行場で評価

1945年4月18日から1946年2月13日まで、オハイオ州デイトンのライト・フィールド。
1945年7月13日時点で、この零戦は連合国側で93時間15分飛行している

1946年3月4日までにインディアナ州フリーマン飛行場へ、
1946年6月14日にフリーマン飛行場を出発

現地の説明板に掲載されているコクピット写真。

ここでの解説は次の通りです。

Mitsubishi A6M5 Zeroは第二次世界大戦における主要な日本海軍戦闘機でした。
真珠湾攻撃から終戦近くの神風特攻隊まで使用されたA6Mには、連合国から
コードネーム「ジーク」が付けられましたが、一般には「ゼロ」と呼ばれていました。

機体の機動性は連合軍パイロットを驚かせました。
彼らが自国の航空機の速度と火力を利用した戦術を考案するまで、
ゼロは戦闘において非常に成功したことが証明されています。

戦争が進むにつれ、連合国はその巨大な産業力により、優れた航空機を生産することができました。

その名声が高かったため、連合軍搭乗員は全ての日本の戦闘機をゼロと呼びましたが、
ゼロという名前は三菱A6Mにのみ正しく適用されます。

このマーキングは、サイパンに展開していた海軍第261航空隊のものです。

たいていのことはすでに知っていましたが、敵のパイロットが、
隼であろうが紫電改であろうが「ゼロ」と呼んでいたというのは初めて知りました。

それって、特別攻撃を何彼構わず「カミカゼ」よばわりするのと同じノリかな?

大戦初期、高い機動力を持つゼロは連合軍に「不快な驚き」を与えました。
これは日本の技術力が当時の世界に十分かつ真剣に受け止められていなかったからです。

つまり、侮っていた東洋人にこれだけ優れた科学と生産力を持てるなど、
当時の白人世界には及びもつかなかったことから来るショックですな。

 

零戦そのものが真に(つまり絶対的に)優れた航空機かどうかの評価はともかく、
この事実でもって、世界に精神的な「殴り込み」をかけたということ一つとっても、
この戦闘機の存在価値は、ある意味我々日本人と当時の白人国家以外にとって偉大だった、
と褒め称えるに値するのではないかとわたしは思ってみたりします。

確かに負ける戦争ならしないほうがマシだった、というのも一つの冷徹な真実ですが、
もしあのとき日本が戦争を起こさなければ、世界の序列も価値観も依然として変わらず、
いまだに支配構造も大国主義も同じままであった可能性だって・・あるよね?

とおそるおそる言ってみる(笑)

真珠湾にあるアメリカ海軍の施設が1941年12月7日、日本海軍の軍用機に攻撃されました。

奇襲攻撃は中島B5N(ケイト)魚雷爆撃機、愛知D3a(ヴァル)艦爆、
そして三菱ゼロ戦闘機によって行われました。

日曜日の2時間の朝の襲撃で、日本の機動部隊航空隊の二波が
2,300名のアメリカ人を殺し、オアフ島の航空機の半分以上を破壊し、
7隻の戦艦を沈没または激しく損傷させました。

攻撃そのものは壊滅的な打撃を与えましたが、修理工場と燃料貯蔵エリアは
ほとんど手付かずであり、3隻の空母は無事でした。


この壊滅的打撃によって、支配階級の大国を怒らせてしまった東洋の小国、
日本が、その後どうなったかは歴史の示す通りです。(投げやり)

続く。

 

「スピリット・オブ・エクスタシー」〜カー・オーナメント芸術の世界

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散歩の途中でたまたま見つけた街の博物館、「ザ・フリック」。

ニューヨークの美術館「フリック・コレクション」のオーナーであった
ヘンリー・クレイ・フリック夫妻が結婚して最初に住んだ邸宅跡でもあります。

「ザ・フリック」ではちょっとしたガイドツァーが企画されており、
ガイドに案内されて敷地内を歴史的な説明を受けながら歩くことができます。

ツァーの申し込みをするのは敷地中央に建つこの近代的なビル。

ここにはミュージアムショップもあります。
時節柄、フリック・コレクションの人物画がマスクしている絵葉書などが・・・。
葉書真ん中のエリザベスカラーの女性(誰?)はマスクをしたままTシャツになっていました。

いろんな意味でこんなの誰が買うのかと思いました。

■The Car and Carriage Museum(車と馬車博物館)

前回お話しした特設展「スポーツファッション」は有料でしたが、
ここには無料の常設展、「車と馬車博物艦」があります。

今日はこの展示をご紹介します。

まず、この1931年型アメリカン・オースチンの後ろに広がる
広大な展示スペースをご覧ください。

20世紀に入って登場した自動車はアメリカの生活を大きく変えました。
この博物館では、馬車から始まり、ピッツバーグに影響を与えた最初の馬なし馬車、
20世紀初頭にさかのぼる自動車のコレクションを網羅しており、
自動車産業の発展におけるピッツバーグの役割について学ぶことができるというわけです。

 

Brewster and Company 1903      ブリュースター&カンパニーの幌付き馬車。
前方の両輪上にローソクを灯す「ヘッドライト」があります。
これを馬が引くわけですから、照らすのは馬のお尻ということになりますが・・。   後部に御者の座席があるようですが、どうやって馬を制御したんでしょうか。

こちらも同じ会社の大型馬車で、1903年型だそうです。
こちらは車室の外側に御者席があります。

ここからは自動車です。

当博物館で最も有名なのがこのロールスロイス社製かもしれません。
1923年サラマンカThe Salamanca Town Car 。

英国ロールスロイス社と、米国マサチューセッツ州スプリングフィールドにある
同社の生産拠点との革新的なパートナーシップによって生み出された、
エレガントでスタイリッシュな車です。

その高い技術力とデザインは、現在もロールスロイスブランドの特徴である
エクスクルーシブな雰囲気を醸し出しています。

オープンカー走行と風雨から乗員を保護するよう設計されています。
ボディを製作したのは先ほどの馬車を作ったブリュースター&カンパニーです。

リンカーン スポーツ幌型自動車 Model K 202A, Sport Phaeton 1931

「フェートン」というのは二頭引きの四輪馬車のことですが、
自動車時代になって幌付きの4輪車にこの名称が使われるようになりました。

後部のナンバープレートにはマサチューセッツ州を表す「MASS」が書かれています。
魚焼き網のようなものは脚台兼異物巻き込み防止装置かもしれません。

■ ボイス・モトメーター

モトメーターという言葉をご存知でしょうか。
この車のボンネットノーズに乗っているものですが、後に説明する
フード・オーナメントと違い、こちらは実用的な道具です。

モトメーター

正式にはボイス・モトメーターは自動車のラジエーターの温度を表示する器具です。
運転席にいながらエンジンの温度を知ることができるシンプルで画期的な発明で、
同社を設立したのはドイツ系移民のヘルマン・シュライヒという人物でした。

ボイス・モトメーター社は、それから1920年代後半にかけて、
メーカーやディーラーのロゴと文字を印刷した金属製の文字盤を内蔵した
モトメーターを小型車用、中型車用、大型車・トラック用と生産しました。

このトッパーで所有者は職業、好み、ビジネス、好きなスポーツ、
さらには政治的主張を誇示するのが流行となったといいます。

その後ダッシュボードに取り付ける温度計が登場するとこの装置は市場から消えました。

ボンネットの形が先鋭的。
こういうのが当時のエアロダイナミクスの最先端だったのでしょうか。

この博物館は無料なので誰でも気軽に入ってこられますが、
フラッシュ撮影や展示物のお触りなど禁止行為を見張る係がいて、
(車の向こうのタグをかけた人)この人がものすごく神経質に
見学者の一挙一動を凝視していました。

車が発売された時にその助手席に乗っていたであろう淑女のドレスを
その横に展示し時代を感じさせるという趣向です。

総ビーズのドレスは当時パリで絶大な人気があった
アフリカ系アメリカ人ダンサー、ジョセフィン・ベーカーのイメージ。

当時のカーデザイナーは本当にこんなことをやっていたのでしょうか。



DeSoto Deluxe S-10 Sedan(1942)クライスラー

とくにこのジューイッシュ家族が騒がしい子供を連れてはいってきたとき、
警備のおじさんの緊張度はマックスに(笑)

だって、騒ぐし、ちょっと目を離したらペタペタ触りかねないし。
おじさんの注意は全部彼らに持っていかれました。

ところで、このDESOTOという車のノーズをご覧ください。

オーナメントがクリスタルです。

先ほどの「モトメーター」の流行は、そのうちモトメーターが使われなくなっても
車を装飾するオーナメントという形で残っていきました。

このオーナメントの名前は「 Flying Goddess」(飛ぶ女神)。

風に吹かれている優雅な女性のモチーフは、
車のイメージである優雅さと美しさを表すものとして好まれました。

■ロールスロイス「スピリット・オブ・エクスタシー」の誕生

そこでもう一度このロールスロイスをご覧ください。

ロールス・ロイス社のマネージング・ディレクターであったクロード・ジョンソンは、
アーティストのチャールズ・サイクスにブランドのためのオーナメントの制作を依頼しました。

ジョンソンが求めたのは、ロールス・ロイスの優雅さ、洗練された雰囲気、
そして静かなスピード感を感じさせるオーナメント。

1911年に発表された「スピリット・オブ・エクスタシー」は、
1920年代初頭にはロールス・ロイス車の標準装備となりました。

女性が両手を広げて遠くを見ている姿は、ツーリングの醍醐味を表現しています。

「キャスト・イン・クローム〜フード・オーナメントの芸術」。

これが車と馬車の博物館で行われていた特別展でした。

歴史の中で、フードオーナメントは、モトメーターという実用的なものから、
純粋に装飾的なものへと進化してきました。

現在では、一部の高級ブランドがその伝統を引き継いでいます。

たとえばこの右側。
昔はメルセデスというとこのオーナメントが標準装備だったようですが、
案外簡単に折れるらしく、メルセデスオーナーはよく
このマークを盗難される、という話を昔聞いたものです。

バブルの頃、何度か取られて頭に来て、針金で作ったマークを付けていたら
それも盗られたという「知り合いの知り合いの話」を聞いたことがあります。

真ん中のオーナメントはイギリスのベントレー社のものですね。

 

もともとラジエーターの温度を監視するために始まったものが、
車のステータスや個性を示す手段になっていくのを、メーカーが見逃すはずはありません。

メーカーはそれをブランディングとして利用し、自社製品、
あるいは特別モデルのために競って純正のフードオーナメントを作成しました。

アーティストがオーナメントのデザインのためのデッサン中。
このモデルさんの背筋力に驚く前に、後ろにすでに完成したデザインがあるのに注意。

これは宣伝用のいわゆるやらせ写真で、このポーズをさせた女性を
ゼロからデッサンしたというわけではなさそうです。

という感じでできた

ナッシュ メトロポリタン 「フライングレディ」。

風を受ける女神というモチーフはいくつかのメーカーが好んで採用しました。

このポーズでじっとしているモデルさんも大変そう。

Chrome Flying Goddess Hood Ornament | eBayrare flying nymph winged lady 1920's cadillac ratrod car image 0

説明がなかったのでこのデッサンがどのオーナメントになったのかわかりませんが、
プリマスのフライングゴッテスか、キャデラックのフライングニンフかな。

■ 弓を構える人(アーチャー)モチーフ

弓を構える「アーチャー」も人気のあるモチーフでした。

ジャガーの有名なmurder-feline 殺人猫科動物(笑)オーナメントは皆さんもご存知でしょう。

AUTHENTIC JAGUAR LEAPER HOOD ORNAMENT, C2Z12493 | eBay

車のボンネットの先端に「相手に襲い掛かるような」
攻撃的なモチーフをあしらうことは、ジャグワーが嚆矢だったかもしれません。

ピアース・アローは、ジャグワーの攻撃的なデザインに対抗し、
マシンの前を通り過ぎる人の首の高さに向かって、弓矢を射る男を
フード・スタイリングの中心に据えました。

「間違いなく、このアローはあなたの頸動脈を射抜き、
アスファルトの上で血を流させて去っていくでしょう」

↑今にすればどうかと思うキャッチコピー

 キャディラックの「フライング・ゴッデス」オーナメント。
とても装飾的で優雅なデザインです。

左上の「レディ・イン・ザ・ウィンド」は、
M.ギラール・リヴィエールという彫刻家の作品だそうです。

イナバウアーしている人発見(左前)

動物モチーフでジャグワーと並んで有名なのはフォードのグレイハウンドですが、
ここに展示されている1936年型リンカーンもグレイハウンドです。

直立するウサギという珍しいオーナメントは、
アルヴィス(ALVIS)というイギリスの自動車メーカーのもの。
1967年まで存在していました。

右は今もバリバリ現役のダッジがかつてオーナメントにしていたラム。
ダッジはこの羊に敬意を表して、1981年に「ダッジ・ラム」を発売しました。


1939年に発売されたフォードのマーキュリー8には
ほとんどボンネットと一体化しているような抽象的な飾りが付けられました。

「マーキュリー」というローマ神話の「俊足の使者」を意味する名前は、
具現的なオーナメントの題材に格好のテーマだったはずですが、
命名者のエドセル・フォードはあえて一体型を目指したようです。

オーナメントの具体的な制作方法。

「ネフェルティティの帽子に吸い込まれる人」(嘘)


今回検索すると、フードオーナメントは盗難などで逸失することが多く、
実用的でないことから姿を消しましたが、オークションサイトでは
ピンキリの値段で売買されていることがわかりました。

それこそ、クリスタルグラスのものから、ちゃちなダイキャストのものまで、
その世界のコレクターも存在するようです。

今まで知らなかった、車のノーズ上に展開する芸術の世界。
実用品が飾りとなり、さらにはアートとなって、製造者が付加価値を与え、
市場がそれを広め、コレクターがさらに希少価値を生み出していく・・。

今ではほとんど姿を消したフードオーナメントにこんな歴史とストーリーがあったことを、
わたしはこのたび、ピッツバーグの街の一角でであらためて知ったのです。

 

 

 

ベトナム・ベテランズ・メモリアル〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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■ ベトナムベテランズメモリアル

ワシントンD.C.のコンスティテューション・ガーデンには、
5万8,000以上の名前が刻まれたシンプルな黒い花崗岩の壁があります。

これは、1982年以来、ベトナム戦争に従軍中に死亡、または
行方不明となった軍人を追悼している「ベトナム退役軍人記念館」です。

ベトナム退役軍人のジャン・スクラッグス(Jan Scruggs )は、
ベトナム帰還兵たちを描いた映画「ディア・ハンター」を見た後、
仲間の兵士たちが命を捧げた奉仕とその結果の犠牲を、
アメリカに認めてもらうための具体的なシンボルが必要だと考えました。

つまりベトナム戦争兵士のためのメモリアルです。

1980年、コンスティテューション・ガーデンに記念館の設置を許可された後、
設計コンペが行われ、マヤ・リン(Maya Lin)の作品が満場一致で選ばれました。

この記念館の計画が発表された時点で、その構造については議論の的にもなりました。
さらに人々に驚きを与えたのは、コンペに勝った建築家が21歳の女性で、
さらにはプロとしての経験もない無名の学生だったことです。


マヤ・リン(中央)、ジャン・スクラッグス(左)

マヤ・リンは当時イェール大学の学部生でしたが、
記念碑のコンペで1,400人以上の応募者の中から選ばれました。

彼女の両親は中国人の大学教授で、文化大革命から逃れるためアメリカに移民し、
彼女自身はアメリカで生まれた中国系アメリカ人です。

写真で彼女が持っている敷地全体の設計図で、中央に広い逆さVがありますが、
これが記念碑で、光沢のある黒御影石でできており、片方の「腕」をリンカーン記念館に、
もう片方をワシントン記念塔に向けた設計となっています。

壁に刻まれているのは戦死したor行方不明になった人など58,318人の名前であり、
碑の前に立つと、彼らの名前の上にはそれを見る人の姿が映し出されるのです。

この写真に写っているのは、ほとんどがダイヤモンド型が刻まれた名前ですが、
これは死亡宣告を受けた人であり、MIA、つまり記念碑建造当時、
行方不明だった人の名前の側には十字架が刻まれています。

その後、MIAとされている人が生きて帰ってきた場合は、十字の周りに丸が付けられ、
遺体が確認された場合は、十字架の上にダイヤモンドが重ねられることになっています。

最初に戦死した男性(1959年)の名前は、二つの壁が合わさったV字の中央から始まり、
年代ごとに並べられたこれらの名前は、2つの壁の接合部の裏側で出会います。
つまり、壁の真ん中で最初の死者と最後の死者(1975年5月15日)が出会うのです。

リンはこのデザインについて、

「既存のデザインのエレガントなシンプルさと
ストイックさを維持し、強化すること」

「それ自体がベトナム帰還兵の経験と
奉仕の感動を呼び起こす彫刻を作ること」

と胸を張りました。

それは、個人の名前と死亡日をシンプルに表現することが持つ力です。
メモリアルウォールに書かれた圧倒的な数の名前は、

「戦争の現実、戦争で失われた命、そして従軍した個人、
特に亡くなった人たちに思いを馳せるための場所」

でもあるのです。

 

しかしながら、このデザインに対しては賛否両論がありました。
というか、否定的な反応は非常に強く、何人かの下院議員が苦情を申し立て、
内務省長官ジェームズ・G・ワットのごときは建築許可を出さなかったとまでいわれます。

何が彼らの気に入らなかったのでしょうか。
シンプルすぎるから?

ベトナム帰還兵のトム・カーハート(Tom Carhart)は、
ニューヨーク・タイムズ紙の社説において、

「英雄的な彫刻の要素がなければ、抽象的すぎるデザインは
ベトナム戦争の『恥と悲しみ』を強調しすぎてしまう」

という理由でこの黒曜石の壁を否定しました。

なぜ抽象的だと恥と悲しみが強調されるのか、わたしはその記事を読んでいないので
これだけではまったく理解できないのですが、まあつまりそういう理屈です。

とにかく、大きくなる不満の声を抑えるために、そして、カーハートのような
より伝統的なアプローチを望む人々をなだめる?ために、
壁の近くに、国旗と軍人の具象彫刻が追加されることになったのです。

そこで軍人の姿の彫刻を依頼されたのが、コンペで最も評価の高かった彫刻家、
フレデリック・ハート(Frederic Hart)でした。

 ■ 三人の軍人像

武装し、ジャングルの戦闘服を着た3人の若い軍人たち。
彼らの視線は戦死者の名前の書かれた壁に注がれています。

見てますね

これを見た退役軍人たちは、その特徴はどの兵士にも当てはまり、
実際に彼らをどこかで見たような気がすると感想を述べるそうです。

このブロンズ像は、アーティストのフレデリック・ハートが制作したものです。

さて、マヤ・リンは、ハートの作品を自分の記念碑の近くに置くと言う決定を

「自分のデザインが汚された」

として激怒し、それを「クーデター」とまで呼びました。

なんというか、この辺りが若く経験がなくとも矜恃に溢れた芸術家であり、
ある意味中国人女性らしい気の強さとある層には捉えられたかもしれません。

さらに、大きな声で言いたくはありませんが、どうしてもここで考えてしまうのは、
リンがアーティストとして全く経験のない学生であるだけでなく、
若い女性でしかも中国系アメリカ人二世であったというそのスペックです。

もし同じようなデザインでも、作者が白人男性のそこそこベテランなら、
(そう、ハートのような)それでも反対の声はこれほど大きかったでしょうか。

 

彼女はさらに、退役軍人から否定的な手紙は一通も受け取っていないと主張し、

「退役軍人の多くはカーハートほど保守的ではない」

とまで言い放ちました。
結局、ハートの作品は、彼女のデザインへの影響を最小限に抑えるために、
記念壁から少し離れた場所に置かれることに決まりました。


制作中。右はモデルになったコーネル三世伍長。

このハートの作品について解説しておきましょう。

「戦争中の男たちの性質である愛と犠牲の絆を表現するための作品」

を作るために、何十人もの退役軍人にインタビューし、
戦争中のフィルムやドキュメンタリーを見ました。

ベトナムで従軍したアメリカ人戦闘員に含まれる主要な民族を表現するために、
この像の3人の男性は、

ヨーロッパ系アメリカ人(中央)

アフリカ系アメリカ人(右)

ラテン系アメリカ人(左)

と意図的に識別できるようになっています。

この3人の人物は、実際の6人の若者をモデルにしており、そのうち2人
(白人系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人)は、
この彫刻が依頼された当時、現役の海兵隊員でした。

白人系は当時海兵隊の伍長だったジェームズ・E・コーネル3世、
アフリカ系は海兵隊のテランス・グリーン伍長、ロドニー・シェリル、
そしてスコッティ・ディリンガムの3人、ヒスパニック系は
ギレルモ・スミス・デ・ペレス・デレオンという名前まではっきり残っています。


左から、デレオン氏、作者、コーネル三世伍長、グリーン伍長

作者はこの作品についてこのように語っています。

「この壁を海にたとえました。
圧倒されるような名前の数、ほとんど理解できないような犠牲の海です。
わたしはこれらの人物をその海の岸辺に置き、海を見つめさせ、
海の前で警戒させ、海の人間的な顔、人間の心を映し出そうとしました。

史実に忠実に、彼らは制服を着て、戦争の装備を持ち、そして若い。
彼らの若さの無邪気さと戦争の武器とのコントラストが、その犠牲の痛ましさを強調します。

彼らには、戦争中の男たちがそうであったように、愛と犠牲の絆を示す身体的、精神的な一体感がある。
しかし、彼らひとりひとりは孤独であり、強さと弱さをそれぞれ内包しているのです。

彼らの真のヒロイズムは、その自覚と弱さに直面したときの忠誠の絆にあります」


兵士たちは亡くなった仲間の名前の書かれた壁を厳粛に見守っています。
作者とそのスタッフは配置する位置を決定するために、兵士の実物大のモックアップを持って
記念館の敷地内を何度も回って何カ所も試し、完璧な場所を見つけました。

また、作者はこんなことも言っています。

「三人の兵士たちのファティーグジャケットやパンツのヒダは、
あなたが見たことがある中世の天使の彫刻の衣装のヒダのようなものです」

 

■ 看護士と兵士の像

別の木立の中には「ベトナム女性記念館」があり、
3人の女性軍人と1人の負傷した兵士を表した具象彫刻があります。

作者のグレナ・グッドエーカーは、この作品ので、

「女性たちの行動によって救われた若い男性」

の姿を描いたと述べています。
彼女らについては「三人の看護師」と間違った説明をしている媒体もあるようですが、
看護師は兵士を抱き抱えている女性だけで、後二人は航空管制官、通信士であり、
ベトナム戦争で女性軍人・軍属が果たした重要な支援や介護の役割を表しているのです。

同じ敷地内にあるベトナム女性記念館は、ベトナム戦争に従軍した
アメリカの女性を顕彰するために建てられた記念館です。

しかしながら、この記念碑で描かれているように、ベトナム戦争では
女性看護師が前線で医療行為を行ったという事実はなく、
そのような一次医療は陸海軍の男性衛生兵によってのみ行われていました。

女性の看護師はもっぱら前線の後方にある軍病院で働いていたため、
史実に照らせば不正確であり、あくまでも象徴としての表現とされています。

ちなみに、慰霊の壁には戦争で亡くなった8人の女性軍人の名前が刻まれており、
彫刻の木立には彼女らの数だけ、8本の木があります。

この8人は彼女たちはすべて従軍看護師であり、負傷者の世話をしている間に、
榴散弾の傷やヘリコプターの墜落、病気などで亡くなっています。

戦線がはっきりしない戦争であったため、彼女たちはしばしば戦闘地域の真っ只中に巻き込まれ、
自分の身を危険にさらしながら任務につかねばなりませんでした。

壁に名前を刻まれた女性8名を紹介しておきましょう。

エレノア・アレキサンダー陸軍少佐 Capt. Eleanor Alexander 
Eleanor Grace Alexander
ヘドウィグ・オルロスキー陸軍大尉 1st Lt. Hedwig Orlowski
Picture of

1967年11月、プレクの病院勤務からの帰路、飛行機が墜落して死亡

シャロン・レーン陸軍大尉 1st Lt. Sharon Lane

1969年6月、チューライの312避難病院にロケット弾が命中、破片による負傷で死亡

パメラ・ドノバン陸軍中尉 2nd Lt. Pamela Donovan

1968年7月にジアディンで病死

アニー・グラハム陸軍中佐 Lt. Col. Annie Graham

1968年8月、同病院で病死

 

Elizabeth Ann Jones
キャロル・ドラズバ陸軍中尉 2nd Lts. Carol Drazba 

エリザベス・ジョーンズ陸軍中尉 2nd Lts.  Elizabeth Jones

1966年2月、サイゴン近郊でのヘリコプター墜落事故で死亡

Mary Therese Klinker
メアリー・テレーズ・クリンカー空軍少佐 Capt. Mary Therese Klinker

1975年4月4日、国外に脱出するベトナムの孤児を乗せたバビリフト機の墜落事故で、
138名の人々とともに死亡

 

この記念碑周辺を訪れる人の多くは、従軍した人たちへの追悼の意を込めた
さまざまな品々を残していきます。
花束以外にも軍用のドッグタグ、花、勲章、写真、お気に入りのおもちゃなどが
碑の前に常に置かれています。

そのほか「米国旗」と「MIA-POW旗」を掲げる旗竿などがあり、
旗竿のもとにはアメリカの5つの軍隊の徽章が掲げられています。

1982年11月11日、ワシントン国立大聖堂で行われた壁の献納式では、
56時間にわたって刻まれたすべての死者の名前が読み上げられました。

 

続く。

 

ギア・ロン通り22番地 「サイゴン最後の日」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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この項を制作したのは半年くらい前のことです。

アフガンがあのような状態になっているまさにこの時期に、ベトナム戦争末期の
「国外脱出」について語ることになるとは思いもよりませんでした。


■ サイゴン陥落

ベトナム戦争の終結。
それはサイゴン陥落の瞬間でした。

1975年4月30日、北ベトナム人民軍(PAVN)とベトコンが、
南ベトナムの首都サイゴンを占領し、この瞬間からベトナムは
ベトナム社会主義共和国への正式な統一に向けて動き始めました。

ヴァン・ティエン・ドゥン (Văn Tiến Dũng,  文進勇)将軍が指揮するPAVNは
サイゴンに向けて海岸沿いに南下しつつ攻撃を続け、
その度に南ベトナム軍をほとんど完璧に撃破していきました。

そして、1975年4月29日にサイゴンへの最終攻撃を開始しました。

これを迎え撃ったのはグエン・ヴァン・トアン将軍率いる共和国軍(ARVN)ですが、
ドゥン軍の激しい砲撃の前に完全に崩壊して後退しました。

そしてアメリカはまたしても何もしませんでした。

 

電光石火の占領によって、市街地は、故ホー・チ・ミン大統領にちなんで
その瞬間から「ホー・チ・ミン市」と改称されることになります。

サイゴンの陥落には様々な名称が適用されています。
欧米では簡単にFall of Saigon「サイゴン陥落」ですが、ベトナム政府は公式に

「国家統一のために南部を解放した日」または「解放の日」

逆に共産主義から亡命した多くの在外ベトナム人からは

「国を失った日」(Ngày mất nước)
「黒い四月」(Tháng Tư Đen)
「恥の国民の日」(Ngày Quốc Nhục)
「恨みの国民の日」(Ngày Quốc Hận)

等々、なかなかに恨みがましいというかネガティブな名称で呼ばれています。
もっとも911や226のように、

「1975年4月30日事件」(Sự kiện 30 tháng 4 năm 1975)
「4月30日」(30 tháng 4)

単純にこれだけでそのことを表す名称もあります。

■北ベトナムの進攻

サイゴン陥落は、ほとんどのアメリカ人と南ベトナム人にとって驚きでしたが、
当事者である北ベトナムとその同盟国にとっても「意外」だったようです。

CIAと米陸軍情報部が、南ベトナムは少なくとも1976年までは持ちこたえることができる、
と情報分析している間にも、ドゥン将軍は大攻勢の準備を着々と整えていました。

3月10日

この日に始まったPAVNの侵攻は、砲兵と装甲に支えられながらサイゴンに向かい、
3月末には南ベトナム北部の主要都市を占領していました。(25日にはフエ、28日にはダナン)。

これに従って南ベトナム軍は無秩序な退却を始め、逆転の見通しはほぼなくなります。

この頃になると、ベトナムにいるアメリカのCIA将校たちは、
B-52によるハノイへの攻撃以外には北ベトナムを止めることはできないと分析していました。

北ベトナム政府は、偉大なる革命指導者のホー・チ・ミンの誕生日である5月19日までに
サイゴンを陥すという目標を立て、この作戦名を

「ホー・チ・ミン作戦」

と名付けて、ドゥン将軍に、

「サイゴンの中心部に至るまで、絶え間ない攻撃を行うように」

と指示していました。

一方南ベトナムはというと、国内から突き上げを受けたアメリカ政府が
ベトナムへの再軍事支援を渋ったため、ほぼ孤立無援状態に陥ることになります。

4月20日

南ベトナムのARVIN第18師団の最後の抵抗によってサイゴンは11日間守られましたが、
4月20日、ついに北の侵攻に屈し、撤退を余儀なくされました。

ティエウ大統領はテレビで辞任を表明し、
南を助けなかったアメリカを批難しました。

こんな日もありました

このような事態が発生した場合には援助を行うと大統領が約束していたにもかかわらず、
アメリカは何もしてくれなかったではないか、というわけです。

サイゴンを共産主義者の支配から救うと約束してくれたニクソン大統領は辞任し、
後任のフォード大統領は約束を引き継ぐ気はなかったので仕方ありません。

ティエウは、アメリカが

南ベトナムにパリ和平協定への加盟を強要したこと

その後南ベトナムを支援しなかったこと

南ベトナムに「海を石で埋め尽くすような不可能なことを強要した」こと

を恨みがましく?責め、涙を流しながら会見を行いました。

 

■ サイゴン市民の不安

北の侵攻が迫ったサイゴンでは、人々が共産主義者に都市を支配された後、
報復のための血祭りが行われる恐怖に人々は震え上がりました。

ベトナム戦争初期の頃、PAVNとベトコンが1ヶ月ほど占領していたフエでは、
彼らが撃退された後、大量の墓が発見されており、また、行方不明になったアメリカ人が
斬首などによって処刑されたという噂がフエやダナンから伝わっていたからです。

しかしその噂のほとんどは政府のプロパガンダによるものでした。

とはいえ、サイゴン住民やアメリカ人は、都市が陥落する前に退避したいと考え、
3月末には早くも一部のアメリカ人が自発的にサイゴンを離れていました。

アメリカ国民は、避難所に行けば簡単に出国が保証されていましたが、
南ベトナム人の脱出は混乱を極めました。

パスポートや出国ビザを取得するための裏金は6倍に跳ね上がり、船の値段は3倍、
逆に不動産の価値はほとんどゼロにまで下がりました。

この時期、ベトナムを脱出し、アメリカで難民認定された南ベトナム人は
その多くが南ベトナム政府と軍の元メンバーとその家族だったといわれます。

 

サイゴン発の航空便は全便満席で離陸しました。
4月に入ると国防総省が不要不急の関係者を輸送し始めましたが、彼らの多くは、
ベトナム人の友人や扶養家族(内縁の妻や子供を含む)を置いていくことを拒否しました。

これらの人々をアメリカに入国させることは違法だったのですが、
そのために出国計画が進まなくなってしまったので、苦肉の策として
国防総省はそれらのベトナム人をフィリピンのクラーク空軍基地に運びました。

もちろんこれは非常時ということで違法に行われました。

■ 米政権の最終避難計画

実のところ、フォード政権のアメリカ撤退計画は、現実的、法的、
そして戦略的な問題によって複雑になっていました。

避難の方法論についてフォード政権内でも意見が分かれていたのです。

国防総省は、死傷者や事故のリスクを避けるために、迅速な避難を主張し、
避難を管轄とする国務省は完全に混乱を防ぎ、南ベトナム人がアメリカ人に反旗を翻す、
などという現実的な可能性を含め、流血を防ぐために時間をかけると言う考えでした。

最終的にフォードが承認したのは、

「1,250人のアメリカ人以外は迅速に避難させる」

「残りの1,250人は空港が脅かされたときにのみ退避させる」

「その間にできるだけ多くのベトナム人難民を空輸する」

というものでした。

■ 避難

1975年4月、ジェラルド・フォード大統領は、約2,000人の孤児を国外に避難させる

「ベビーリフト作戦」Operation Babylift

を発表しましたが、作戦に参加していたロッキードC-5Aギャラクシーが、
墜落すると言う悲劇が起こりました。

FSX Air Disasters: 1975 Tân Sơn Nhứt C 5 accident

1975年4月4日の午後、作戦初飛行となるC-5Aはタンソンヌット航空基地を出発し、
フィリピンのクラーク航空基地に向かいました。

この第一陣の孤児たちはチャーター便に乗り換え、カリフォルニア州サンディエゴで
フォード大統領の歓迎を受ける予定になっていました。

しかし、離陸した機体が上昇中、後部貨物ランプのロックが外れて貨物ドアが開き、
その結果機内に減圧が起こり、爆発によって尾翼へのコントロールケーブルが切断され、
油圧システムが故障してフライトコントロールのほとんどが不可能になってしまいました。

機長のデニス・トレイナー大尉と副操縦士のティルフォード・ハープ大尉は、
機体のコントロールを回復し、飛行場に戻ることを決定。
そして滑走路へのアプローチ中に急に出力の戻ったエンジンに翻弄され、
水田を400メートル滑走したあと、堤防に衝突したのでした。

四つにバラバラになった機体は燃料に火がつき、残骸の一部は燃え上がりました。

多くの生存者は二階にいた人たちで、下のキャビンの人はほとんど死亡しました。
乗客314名のうち、死者は孤児78名、国防総省職員35名、米空軍11名、生存者は176名でした。

この事故では墜落死者の中に5人の女性DIA職員が含まれており、2001年、
911事件が起こるまで、これが国防情報局の歴史の中で「唯一最大の人命損失」でした。


■ フリークエント・ウィンド作戦

4月29日早朝、北ベトナム軍がサイゴンのタンソンニュット基地を砲撃し、
国防長官室を警備していた米海兵隊員2名が死亡しました。

チャールズ・マクマホン伍長(左)とダーウィン・ジャッジ伍長は、
ベトナム戦争で戦死した約5万8千人の米軍兵士のうち最後の二人となりました。

 

この都市の占領に先立って行われた避難がフリークエント・ウィンド作戦です。
当ブログではかつて、

「4月のホワイトクリスマス」

と言うタイトルでサイゴンからの脱出と、それから海軍の救出作戦について触れましたが、
これによって、サイゴンにいたほとんどすべてのアメリカ人の民間人と軍人、
そしてベトナム共和国に関係していた何万人もの南ベトナムの民間人が避難しました。

一方アメリカ人の中には、避難しないことを選んだ人も少なからずいました。

フリークェント・ウィンド作戦はヘリコプターによる史上最大の脱出作戦となりました。
その理由は、海兵隊の二人が亡くなったときの爆撃で滑走路に破片が散乱し、
固定翼機が使用不可能となってしまったからです。

そして4月29日午前10時51分、米軍関係者や危険な状態にあるベトナム人を
ヘリコプターで避難させる作戦が開始されました。

アメリカのラジオ局は米軍関係者に直ちに避難地点に移動せよという合図として、
アーヴィング・バーリンの「ホワイト・クリスマス」を繰り返し流しました。

主な避難場所からバスが市内を移動して乗客を空港まで運び、
午後には最初のCH-53がDAO施設に着陸し、夕方までに
395人のアメリカ人と4,000人以上のベトナム人を避難させたのです。

23時には警備を担当していた米海兵隊が撤退し、DAO事務所やアメリカ人の備品、
ファイル、現金などを処分し終わっていました。

当初の避難計画では、ヘリコプターの運用は想定されていなかったのですが、
避難の過程で、大使館にはベトナム人を含む数千人の人々が取り残されており、
さらに多くのベトナム人が大使館の壁を乗り越えて難民認定を受けようとしていました。

折り悪しく雷雨のため、ヘリコプターの運用は困難を極めましたが、それにもかかわらず、
大使館からの避難は夕方から夜にかけてほぼ途切れることなく続けられました。

 

4月30日の朝3時45分、キッシンジャーとフォードは、アメリカ人の避難完了を
発表したいと言う意向から、

「今後はアメリカ人だけを脱出させよ」

とグラハム・マーティン大使に命じました。

Graham Martin (cropped).jpgマーティン大使

大使は北ベトナム軍が入ってきたら血の海になることを予想していたため、
ベトナムの政府関係者、軍関係者、サポートスタッフも脱出させることを主張しました。

政府は、もしマーティン大使が退避を拒否したら、海兵隊は彼の安全を確保するために
逮捕してでも運び出すようにと命令を出していたといわれます。

大使館からはアメリカ人978人とベトナム人約1100人が脱出しました。
警備と人選を行なっていた海兵隊も夜明けに乗機し、
最後の航空機が07:53に出発したとき、大使館の敷地内には
420人のベトナム人と韓国人が取り残され、壁の外にも多くの人が集まっていました。

 

■ ギア・ロン通り22番地

かつてのサイゴン市22 Gia Long Street(現ホーチミン市22 Lý Tự Trọng Street)
に、このアパートはまだそのままの形で残されています。

1975年、UPIのフォトジャーナリスト、ヒューバート・ヴァン・エスは、
ベトナム戦争最後の大きな戦いである「サイゴン陥落」の際に、
米国政府職員がヘリコプターで避難する様子を象徴的な写真に収めました。

北ベトナム軍がサイゴンに進入した際、アメリカ政府の職員を避難させるために
エア・アメリカのヒューイヘリコプターがエレベーターシャフトの屋根に着陸しているところです。

終戦後、ギア・ロン通りは、フランスに処刑された17歳の共産主義者に敬意を表して、
Lý Tự Trọng通りと改称されました。
アパートは一般公開されており、見学者はエレベーターで9階の屋上に出ることができます。

■ 降伏

4月30日の早朝、総攻撃を命じられたドゥン将軍率いる北ベトナム軍は、
正午頃、ブイ・ティン大佐が指揮するT-54/55戦車で独立宮殿の門を突破しました。

宮殿の階段に椅子を置いて座って待っていたミンと30人の上層部にティン大佐が近づくと、
ミンは

「革命はここにある。革命はここにあり、あなたはここにいる」
「我々は政府を引き渡すためにあなたを待っていた」

と述べました。
しかしティンは素っ気なく、

「あなたが権力を放棄することは問題ではない。
なぜならあなたの権力はすでに崩壊しているからだ」

と言い放ちました。

その日の午後、ミンは最後にラジオに出て、

「サイゴン政府はすべてのレベルで完全に解体されたことを宣言する」

と発表し、サイゴンは陥落したことを表明しました。

■ その後〜現在

サイゴンは「ホー・チ・ミン・シティ」と名前を変えられましたが、
実際にはこの名前は公務以外ではあまり使われず、現在でもサイゴンと呼ばれています。

サイゴン入城直後、アメリカ大使館は他の多くの企業とともに略奪され、
外界とサイゴンとの通信は遮断されたままになっていました。

共産党政府は、戦時中に流入して増えたサイゴンの人口を減らすために、
南ベトナム軍の元兵士を対象とした「再教育クラス」においても、
都市部から離れて農業に従事する必要があると説かれましたし、
サイゴンを出て田舎に行くことを条件に米を配給したりしました。

目標は、2年以内に100万人がサイゴンを離れ、さらに50万人が離脱することです。

もちろん、北ベトナム側の南ベトナム人に対する「報復」は予想どおり行われ、
終戦後、推計によると、20万人から30万人の南ベトナム人が再教育キャンプに送られ、
多くの人が拷問、飢餓、病気に耐えながら重労働を強いられていたとされます。

そして、彼らはアメリカ大使館が残したCIAの情報提供者のリストを使って、
約3万人の南ベトナム人を組織的に殺害したとする情報もあります。

現在、4月30日はベトナムでは解放記念日(Ngày Giải Phóng)として祝日となっています。

しかし、海外のベトナム人の間では、4月30日の週は
「ブラック・エイプリル」と呼ばれ、
サイゴンの陥落や南ベトナム全体の陥落を嘆く時期とされているそうです。

ちなみに4月30日はわたしの誕生日ですが、
ベトナム人とは誕生日の話はしない方がいいかもしれません。

 

続く。

 

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