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「ザ・ウォール」 死者に捧げられしものたち〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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今日は、ベテランズ・メモリアルセンターの戦死者の名前が刻まれた
「壁」の前に置かれた様々な品の中から、当博物館に展示されていたものをご紹介します。

1982年11月にベトナム退役軍人記念館(ザ・ウォール)が献堂されて以来、
40万点以上の品々が訪問者からの追憶や賛辞として残されてきました。

国立公園局は、ベトナム退役軍人記念基金による学芸員のサポートのもと、
これらの品々をベトナム退役軍人記念館のコレクションの一部として収集し、
目録を作成し、保存しています。

ITEMS AT THE WALL

これらは、長年にわたって壁に残された品々のごく一部の学芸員による記録ですが、
壁に残された品々のコレクションとしては、これまでに公開された中で最大のものです。

 

冒頭写真は解説の写真を撮るのを忘れたのですが、おそらく
戦死した兵士(場所的に後述のデトマー1等兵の可能性高し)
のポケットに入っていたものかもしれません。

それにしても、トランプが二枚でそれがスペードのAとJなのはなぜなのでしょうか。

■ 兄さんのグローブとボール

Ronald J Matelマテル少尉

革製の野球ボール、そしてウィルソン・ブランドの革製野球グローブ
(デル・エニス・プロフェッショナル・モデル)は、ベトナムで戦死した

ロナルド・ジェームズ・マテル米陸軍少尉(1LT)Ronald James Matel

の遺品です。

グローブとボールの下には、マテル少尉の弟であるデビッド・J・マテルが
自分の名刺に記した手書きのメモが展示されています。
デイビッドがこのメモを記したのは1993年になってからのことです。

ロン・マテル宛 7-6-93

誕生日おめでとう!
1969年6月9日から僕の人生は本当に変わってしまった。

兄さんにこの野球のボールを投げたかった。
 69年6月9日以来、毎日のように兄さんのことを考えていたよ。

兄さんは信じられないかもしれないが、ぼくには大きな3人の男の子と
小さな女の子がいて、あなたの代わりに、今ではぼくとキャッチボールをしています。

ぼくはとても素敵な女性と結婚し、基本的に幸せな生活を送っている。
もし兄さんが生きていたら、ぼくは(一緒に野球をすることができたので)
もっとスポーツマンになっていたと思う。

お父さんと息子のジョー、ジョン、ジョシュとは、
一緒に年に一度は狩りや釣りに行っています。

妻はウィスコンシン州のラクロス近郊の出身です。
4番目の子供のジェシカは韓国生まれで、マテル家で養女に迎えました。

ぼくの仕事はリハビリテーション・カウンセラーで、
妻は中学校の教師兼管理係をしています。
そして子供たちは皆イケメンぞろいでなかなか出来がいいんだ。

あれから歳をとって何人かの親戚がそちらにいったのは兄さんも知ってるよね。
ぼくも42歳を過ぎた今、人生は変わりつつあると感じている。

93年7月10日、もし生きていれば兄さんは45歳になっていたね。

ぼくは少し声を大にして、ベトナムのような地域に関与しないように、
国にそういうことを伝えようとしていますが、耳を傾ける人は少なく、
したがって、これからもぼくのように兄弟を失う人は後を断たないでしょう。

お父さんもお母さんもまだ存命です。
お母さんはあなたの死を乗り越えられませんでしたが。
そしてお父さんは最近あまり具合がよくありません。

とにかくぼくには最も素晴らしい家族がいます 。
兄さんが生きていたら本当にどんなに良かったかと思う。

兄さんの古い友人の何人かとはいまだに付き合いがあるよ。
マーク、ジョージ、ディックとかね。

兄さん、あなたがいなくて寂しいです。
天国で誰かとキャッチボールしてください。

ぼくはあなたのために祈る。あなたもぼくのために祈ってください。

戦死者の名前が刻まれたメモリアルの「壁」の前には、遺族が訪れ、
花だけでなく戦死者のゆかりの品などを捧げます。

野球のボールやグラブのほか、幼児の時に愛用していたおもちゃなどもあります。

■ ベトコン兵士の結婚指輪

ベトナムに出征した海兵隊員がフエのフー・ロックでの戦闘において、
戦死した18歳のベトコン戦士の指輪を持ち帰りました。

これもまた「壁」に献納された品の一つで、寄贈したのは

フレデリック・ガーテン(Frederic Garten)米国海兵隊一等兵(PFC)。

ガーテンはその後も海兵隊で軍曹にまでなったようで、メモには
SGTと書かれています。

元戦友で壁に名前の刻まれたジェームズ・アレン・ウォールに捧げると言う形で、
ガーテンは、直接ウォールとは関係のなさそうなこの指輪を置きました。

3インチ×5インチの白いインデックスカードに書かれた手書きのメモに、
素朴な金色の男性用結婚指輪が貼り付けられており、名刺が添えられています。

この名刺は、提供者であるフレッド・ガーテン氏のもので、彼の肩書は

「西バージニア州/雇用保障局の障害者支援プログラム・スペシャリスト」

であることがわかります。

ウォール1等兵

裏面には「James A Wall」という名前に下線が引かれています。
ウォール1等兵は1968年、20歳でベトナムのThua Thienで戦死しました。

メモに書かれている言葉を翻訳しておきましょう。

「この結婚指輪は若いベトコンの戦闘員が持っていたものです。
彼は1968年5月に南ベトナムのフーロック州で海兵隊との戦闘で戦死しました。

わたしはこの青年のことをもっと知りたかったと思う。
18年間この指輪を所持していたが、そろそろそれを捨てる時が来たようです。

この青年はもうわたしの敵ではありません」

そして、アメリカ海兵隊とベトナムベテラン、
ガーテン軍曹(Segt)はこの指輪にメモをつけて壁に残したのです。

この金色の男性用ジュエリーリングは、手作りされたものらしく、
リングの一部に小さな隙間があり、いかにも素朴なものです。

ガーテン氏が、なぜウォール1等兵と縁もゆかりもないベトコン兵士の遺品を
壁の前に残したのかはわかりません。

そもそも、彼がどのような経緯で指輪を手に入れたのかとか、
どうしてベトコン兵士の年を知っていたのかなどということも、
全く語られていないので想像するしかありませんが、彼は
おそらく、海兵隊との戦闘で死亡した子供のような兵士に目を止め、
何かに突き動かされるように遺体の身分証明書を確かめたのではないでしょうか。

そして、その彼が左手の薬指にはめていた指輪をふと外して、
それを軍服のポケットに入れて持って帰ってきたのでしょう。

彼の中では、そのときすでにベトコンの若い兵士は
敵ではなくなっていたのに違いありません。

■結ばれなかった「永遠の恋人たち」

米国陸軍軍曹(SGT)バリー・ラルフ・バウシュ(Barry Ralph Bausch)
に捧げられたもので、フラビア・ロマンティック製のグリーティングカード、
そしてダイヤモンドとブルートパーズがはめ込まれた10金の男性用ジュエリーリング、
リングを入れる「エコリン・ジュエラー」のフェイクレザー製巾着ポーチです。バウシュ軍曹

 

私の親愛なるバリー 2000年7月15日

あなたがわたしから奪われてから31年以上が経ちましたが、
あなたはわたしの心の中に残っています。
わたしの真実の愛は変わりません。

今日、ワシントンD.C.のメモリアル・ウォールを訪れるにあたり、
初めて会った夏、18歳の誕生日に贈った指輪をあなたに託します。

今でもあなたを愛しています。

わたしは結婚して、3人の美しい子供(あなたの妹にちなんで
ローラ、ブレイク、レイナと名付けました)がいますが、
わたしたちが持つことのできなかった家族のことを考えます。

主がわたしを天なる家に連れて行ってくださるとき、
わたしはあなたに再会し、多くの思い出を共有できることでしょう。

わたしはあなたを愛しています 。
永遠にあなたのもの エレン  XOXOXOXO

この品は、2000年7月15日に「エレン」と名乗る寄贈者によって、
「壁」のパネル25Wに残されていました。

戦争は、永遠を誓った恋人たちをも引き裂きました。
遺された恋人は皆彼女なり彼なりの人生を生きてゆきました。

しかし、他の人と結ばれることがあってもこの「エレン」のように、
結婚して子供に恵まれながら、心の片隅で亡くなった人を思い続ける人もいます。

そんな女性によって「壁」に捧げられたアイテムの中には、
戦死した恋人と付き合っていた頃の自分の写真というようなものもあります。
ある若い女性の写真には、こんなメッセージが記されています。

"Tony, Here's how Toni looked on graduation day. Not bad, huh?  Love, Lorrie"

「トニー、あなたが卒業式のときに見たわたし、どうかしら? 
なかなか悪くないでしょ?  愛を込めて ローリー」

 

■ 亡き息子が生まれて初めて着たセーター

わたしの素晴らしい息子

今日、わたしはあなたの名前を「壁」に見にやってきました。
今まで準備ができていませんでしたが、
死ぬ前に見ておかなければならないと思ったのです。

毎日あなたのことを思いだしています。
あなたを失ってから毎日あなたのことを考えない日はありません.

あなたには多くの人生があったのに、あっという間に命を奪われてしまいました。

あなたのテディベアを持っていきたかったのですが、
どうしても手放すことができず、代わりに最初に着たセーターを持ってきました。

あなたはいつもわたしの心の中にいます。
愛しています。

また会える日まで、あなたに神の御加護がありますように

愛を込めて ママより

アメリカ海兵隊の一等兵(PFC)ドナルド・ゲイリー・デトマー
( Donald Gary Detmar)

に捧げられた母からの遺品です。

デトマー1等兵は1967年、21歳の誕生日の少し前に戦死しました。

手編みらしいベビー用のセーターは、おそらく多くの母親が
ひとつかふたつくらいはどうしても処分できずにクローゼットの隅に仕舞ってある、
彼女が母となったときに想いを込めて我が子に与えた衣類のひとつだったのでしょう。

 

何を隠そう、わたしのクローゼットにも、イニシャルの入った小さな手袋、
最初のハロウィンで着た着ぐるみ、初めての孫のために祖母が編んだ毛糸のおくるみ。
そういった「どうしても捨てられない思い出の品」があります。

デトマー1等兵の母親の息子への手紙と、

「テディベアをどうしても手放せなかった」

という言葉に心を揺り動かされない母親は果たしているでしょうか。

 

続く。

 


”アメリカの忘れもの” ラオスのUXO問題〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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「ヒトラーの忘れもの」

という映画については一度軽くここで触れたことがありますが、
「Under Sandet」(デンマーク語で砂の下)というタイトルに
一体何をしてくれとんのじゃ、と思わずガンを飛ばしたくなる、相変わらずの
日本の映画配給会社の絶望的なネーミングセンスのなさはともかく、
砂の下に埋まった地雷すべてをヒトラー一人のせいにしてしまうという
戦後世界のあるべきとされる方向性を如実に表しているという意味では
なかなか当を得たものであったとは思っているわけです。

ラオスの不発弾問題はそれこそ”アメリカの忘れもの”そのものじゃないか、
ということで本日のタイトルに採用させていただきました。

 

さて、ベトナム戦争によって、ベトナムのみならず、ラオス、カンボジアに
地雷と不発弾が撒き散らされました。

冒頭の

ラオスの大地には8000万本の爆弾が残っている
撤去された爆弾の数は1%にも満たない

と書かれたポスターには、処理された地雷がまるで木の実のように山になっています。

Looks like a ball. Kill like a bomb.
(ボールのように見えますが、爆弾と同様人を殺します)

わたしも写真のキャプションを見るまでは恥ずかしながら
冒頭写真を木の実の山だと思っていたくらいです。

戦争が終結した後も、毎年不発弾は偶発的な爆発によって
数千の人々を殺傷し、傷を追わせてきました。

 

ポスターで少女が地雷を持っていますが、ラオスでは

ボンビーズ Bombies

と可愛らしい名前で呼ばれるクラスター爆弾はとても小さく、
子供たちが見つけておもちゃのように不発弾を手にするケースがありました。

2017年、10歳の女の子が「ボンビー」を見つけて拾い、家に持って帰ったところ、
家族全員がいるところで爆発したなどという例は決して珍しいことではないのです。

たとえば、このアイリッシュタイムズの記事で紹介されている例をご覧ください。

Yeyang Yangというこの31歳の男性は、ゴミを燃やしていたところ、
その熱で引火し、爆発した地中の不発弾によって顔を失いました。

右耳は完全に失われ、かつて耳のあった部分には穴が開いているだけです。
右手は骨と筋肉の塊となってしまい、指がありません。
彼の顔は、まるで溶けた肉色のプラスチックのマスクで覆われているかのようです。
彼の赤い目は常に涙を流していて、きちんと閉じません。

これでも彼は8ヶ月間入院し、皮膚移植を受けたことがあるのです。
しかも手術は大変痛みを伴う辛いもので、もう二度と受けたくないと言っています。

不発弾は多くの死者を出しましたが、生存者はそのほとんどが悲惨な怪我を負いました。
統計によると負傷者の3分の1は手足や視力、酷い場合は両手足を失う例もあります。
毎年、何百人もの人々の人生が、傷を負うことによって永遠に変わってしまうのです。

発展途上国であるラオスでは、ほとんどの人が生まれた土地で肉体労働をしながら
なんらかの生計を立てているのですが、その唯一の資本である身体に不調を生じれば、
生きていくことさえも容易ではなくなるということになります。

Yeyang Yangさんも元々は農業をしていましたが、それでは足りないので
副業としてやっていたゴミを燃やす仕事でこの事故に遭いました。

身体はもちろん、彼の脳は爆発の影響で集中することすら困難な状態です。
彼は爆発事故の後、何年もの間、村はおろか家からも出ることができず、
身体に負った傷は彼の心を深く蝕み、家族やコミュニティから孤立するばかりでした。

ラオスでは医療制度によるメンタルヘルスのサポートというものがそもそもないのです。

また、同じ記事で紹介されている25歳のフォマリーンさんは、2016年の10月5日、
作業していた畑で小さなシェルを見つけ、持ち帰りました。

この金属でナイフを作ろうとしてシェルを開けようとしたところ、
爆発して目が見えなくなってしまったのです。

四世代の家族と同居している彼は、一家の長であり、働き手でもあったのですが、
事故以来肉体労働を行うことができなくなりました。

 

もし

アメリカ合衆国の国土の30パーセントが不発弾で覆われたら?

受け入れられますか?

というポスターには、文字通り30パーセントの国土が爆弾で覆われています。
そして、

アメリカは8000万個の不発弾をベトナム戦争中の爆撃でラオスに残しました。

と「戦争の遺産」を糾弾しています。


冒頭の不発弾のポスターには、

Legacies of War (戦争の遺産)

と書かれていますが、まずこの「レガシーズ・オブ・ウォー」は、
ベトナム戦争時代のラオスでの爆撃の歴史についての認識を高め、
不発弾の除去と生存者の支援を提唱し、戦争の傷を癒す場を提供し、
平和な未来への大きな希望を見出すことを目的とする組織です

アメリカは1964年から1973年までの9年間に、

58万回の爆撃を行い、
200万トン以上の兵器
2億7000万発の爆弾

をラオスに投下しました。

これは8分に1回、24時間に1回、飛行機1台分に相当します。
その結果、ラオスは国民一人当たりが受けた爆撃が史上最も多い国となりました。

クラスター弾の約30%、8000万個が不発のままで、
これにより国家の発展の可能性が失われたといっても過言ではありません。

Legaciesの主な目標は以下の通りです。

ラオスおよびベトナム戦争時代の爆撃の遺産について、
米国およびより広い国際社会の認識を高めること

ラオスにおける不発弾の除去と被害者・生存者への支援を強化するため、
アメリカから、および国際的な支援を提唱する。

ラオスの戦争から得た教訓をもとに、平和と安全保障の問題について議論し、
アメリカ国内のコミュニティを巻き込み活動につなげる

ラオス系アメリカ人の支援とそのコミュニティが関心を持つ問題について提言を行う

Legaciesの財政は個人、財団、企業のサポーターからの寄付で成り立っており、
政府からの資金提供は受けていません。

■ ベトナム戦争終結後

1975年の戦争終結後、ラオスの村人たちは畑や庭にある不発弾の処理を
すべて自分たちで行わなければならなくなりました。

1994年、メノナイト中央委員会は、ラオス政府および諮問機関と協力して、
民間資金による人道的地雷除去プログラムを開始することを決定。

1996年にはラオス国内の地雷除去グループ

「UXO Lao」

が結成されました。
「UXO」とは「Unexploded Ordnance」の省略形で、不発弾のことです。

米国をはじめとする各国政府も地雷除去活動を支援するようになりましたが、
アメリカが拠出した額は年間平均250万ドルから300万ドルで、
問題に適切に対処するために必要な推定額をはるかに下回ることになりました。

2004年、当時フォード財団に勤務していた女性、

セラ・カムボンサ(Sera Khamvongsa)

は、政策研究所所長のジョン・カヴァナから戦争の話を聞き、
ラオスでの爆撃を生き延びた人たちが描いた絵を見たのがきっかけで
「Legacies of War」を設立することを決心しました。

 

■ アメリカ合衆国の「秘密の戦争」

先ほども書きましたが、ラオスは国民一人当たりに対し、空爆が
世界で一番多かった国、というありがたくないタイトルを持っています。

1964年から1973年の間、当時のラオスの人口で計算すると、
1人当たり1トンの爆弾が落とされたというくらいなのです。

第二次世界大戦後、フランスの植民地支配下に置かれていたラオスは、
1953年に独立を果たしたのですが、国内で権力争いが起き、内戦に発展します。

ベトナム戦争に介入していたアメリカ政府は、ラオスの共産主義化を断ち切るため、
北ベトナムに対抗させるためにラオスにゲリラ訓練を施したりしましたが、
戦況において北ベトナムが優位になってきたため、1964年、
ラオスでの秘密作戦の一環として空爆を決行したのでした。

例の「ホー・チ・ミン・ルート」を断ち、北ベトナムから南のベトコンへの
兵力・戦争物資の供給をストップするという目的のためです。

そして、これはとんでもない理由だと思うのですが、アメリカ軍はラオスをなんと、

爆弾の投棄場所

にしていたというんですねー。

つまり、アメリカの爆撃機は、ベトナムで本来のターゲットを爆撃できなかった場合、
タイの米軍基地に帰る途中、ラオスにひょいっと爆弾を捨てていくのです。

理由は爆撃機は爆装したまま着陸することができないからです。

捨てるといっても爆発したりしなかったりで、爆発しなかった不発弾は
戦争から約40年経った今日でも問題となっているというわけです。

しかしまた、ラオス民衆も滅法したたかで、不発弾やクラスター爆弾のケースなどを
加工して、日常生活にちょっと取り入れてみたり(植木鉢とか?お椀とか?)
それだけならまだしも、観光客にお土産として爆弾の残骸を加工して売る村、

「ウォー・スプーン・ヴィレッジ」

なるものもあるというからちょっと驚きます。

こういう、貧困ゆえにやむなく残骸ビジネスに手を染めた人々は、
国土から残骸が一掃されたらご飯の種が無くなって困るというジレンマにあります。

 

2010年の夏、Legaciesは、オバマ政権のヒラリー・クリントン国務長官に

「ベトナム戦争時にラオスに残された不発弾の除去のための資金を大幅に増やすこと」

として、米国がラオスにおける不発弾除去のために、今後10年間、
毎年1,000万ドルを拠出するように提言しました。


もちろんラオスの不発弾問題に関わっている団体はほかにも、

地雷撤去専門の非政府組織「ヘイロー・トラスト」

「マインズ・アドバイザリー・グループ」(MAG)

「ノルウェー市民援助」(NPA)

「UXO(不発弾)ラオス」(ラオス政府管轄)

「ハンディキャップ・インターナショナル」

などがあります。

慈善団体World Educationもそのひとつで、冒頭に紹介したヤンさんに対し、
交通費、入院費、薬代、そして彼に付き添う家族の費用を負担しています。

現在、ヤンさんは他の地域で自分の体験を語り、他の被爆者を支援しています。
農場で働くことはできなくなりましたが、被曝者としての体験を伝えることで
誰かの役に立っているということは、彼に平穏と使命感をあたえ、それが
今のところ生きていくための重要な心の支えとなっているのです。

失明したフォマリーンさんも、「World Education」の支援で
マッサージ師になるためのトレーニングの可能性を現在模索しています。

しかし、目が見えず、肉体労働ができないという事実は変えられません。

正直なところ、仕事ができない上介助を必要とする彼の存在が重荷らしく、
家族のうち一人など、彼を連れて行って永久的なケアをしてくれないかと、
ワールド・エデュケーションに個人的に頼んできたということです。

家族から厄介払いされそうになったという事実はフォマリーンさんを深く傷つけ、
いまだに毎日悪夢にうなされている、とスタッフは打ち明けています。

 

博物館にはクラスター爆弾のシェル実物が展示されています

クラスター爆弾( cluster bomb)は、容器となる大型の弾体の中に
複数の子弾を搭載した爆弾で、クラスター弾、集束爆弾(しゅうそくばくだん)
などとも呼ばれるものです。

ベトナム戦争期に使用されたタイプは、ケースに野球ボール大の子爆弾を300個ほど内蔵し、
その子爆弾ひとつの炸裂で600個ほどの金属球を飛散させるというもので、
ここに展示されているのはその子爆弾である「ボール爆弾」のシェルです。

この子爆弾は、手榴弾や指向性の無い散弾地雷のように、人員や車両など、
非装甲標的に被害を与えるものです。

不発弾が国際問題となったとき、保有国であるアメリカの対応は

クラスター弾不発率の低下を目指す

というものでした。

うーん・・・そっち?(´・ω・`)

 

続く。

 

 

ベトナム・シンドロームとPTSD〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

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■ ベトナム・シンドローム

ベトナム・シンドローム(Vietnam Syndrome)という言葉をご存知でしょうか。

ベトナム戦争は1975年に終結しましたが、戦後も国民の間に根強く残った
アメリカのベトナムへの軍事的関与に対する国民の嫌悪感をあらわす政治用語です。

彼らの嫌悪とは、

守ると公言していた土地と人々に壊滅的な影響を与えた

終戦を20年も長引かせ、何百万人もの人命を奪った

ハイテク戦争によってベトナム南部の景観を永久に傷つけ、
マサチューセッツ州とほぼ同じ大きさの地域を消滅させ、
推定2100万個のクレーターを残した

南ベトナムの人口の約3分の1が難民となった

自分たちが責任を負うべき国家の、経済的・社会的基盤を破壊した

ほとんどのアメリカ人が道徳的ではありえなかった

等々。

 

戦後もベトナム戦争をめぐってアメリカでは国内論争が絶えず、
それはアメリカの外交政策に大いに影響を与えました。

振り子の針が振れるように、1980年代初頭以降、世論は明らかに戦争反対に偏り、
その結果、アメリカの外交政策は極端に他国への介入度が低くなっていきます。

ベトナム・シンドロームは、「もう一つのベトナム」を恐れ、
軍事的関与のリスクを避けようとする政治、軍事、民間の組織を生み出しました。

この症候群は、リチャード・ニクソン大統領の時代からビル・クリントン大統領の時代まで、
アメリカの外交・軍事政策にその『症状』を見ることができます。

地上軍の派遣や徴兵制の運用に極端消極的なこれらの傾向は、

「ベトナム麻痺(パラライズ)」と呼ばれることもありました。

 

■ ベトナムでの「失敗」

なぜアメリカは北ベトナム軍を倒せなかったのか。

米軍関係者を中心とした保守派の思想家たちはこう言いました。

「アメリカには十分な資源があるのに、国内での戦争努力が足りなかった」

経済的、技術的、軍事的能力という粗暴な言葉で測るならば、
アメリカは依然として世界で最も強力な国であるが、
この問題は、結局、意志の問題に帰結するのだ、と。

しかし、

「ベトナム・シンドローム」

という言葉が、マスコミや政策関係者の間で広まり出すと、

アメリカは2度と戦争に勝てないのではないか。

アメリカは衰退への道をたどっているのではないか。

こんな意見がその言葉に内包されて国民に侵食していきました。

国民の戦争努力がたりなかったせいで負けた。負けたというか勝てなかった。

ロナルド・レーガンをはじめとする多くの保守派がこの意見に賛同しました。
レーガンの1980年の大統領選挙は、アメリカ人がこのシンドロームに苦しんでいる、
という考えを選挙戦を通じて世に広める結果になったといえましょう。

レーガンは

「もしアメリカが自分をリーダーとして、より自信に満ちた姿勢で臨めば、
ベトナム・シンドロームは必ず克服できる」

と主張して選挙戦を行いました。

レーガンは、アメリカ国民が敵のプロパガンダにまんまと乗せられて
戦争に反対したことや、それだけでなく、ニクソンやジョンソン政権の高官が

「彼らに戦争に勝たせることを恐れていた」

ことなどが兵士たちを失望させたことが敗因だった、つまり、
自分だったら北ベトナムには勝てていた、と示唆したのです。

そして、戦後のアメリカ国民が軍隊の道徳性に罪悪感を持つことや、
疑念を持つことは間違っている、なぜなら彼らは崇高な目的のために戦ったからだ、
と主張しました。

「世界平和は我々の最優先事項でなければならない。
国民が戦死しなくても済むように平和を守ることは、国家運営の第一の課題だ。
しかし、それは屈辱的で漸進的な降伏によってもたらされる平和であってはならない」

そして、

「アメリカが失敗したのは、敗北したからではなく、
軍が "勝利する許可を得られなかった "からだ」

とまるで禅問答の答えのようなことを述べています。

 

■ アメリカに勝ち目はあったのか

勝ち目のある戦争だったと主張する人たちは、「戦争をした人たち」から
「戦争に反対した人たち」に責任を転嫁しているといえるかもしれません。

つまり、無責任なメディアと反戦運動家が国民を戦争に反対させ、
ジョンソンやニクソンが勝利を手にした矢先に、
米国の関与を縮小せざるを得なくなったという主張です。


しかし、前にも書きましたが、メディアと抗議活動が声高に戦争反対を唱えても、
戦争は熱狂的ではないにしても、広く支持されていました。
国民の大多数は、戦争よりも声の大きな抗議者を不快だと感じていたという統計もあります。

つまり、敗戦の原因をメディアや反戦運動に求めるのは、あまりにも単純だというわけです。

 

 

この理屈を理解するためには、反戦=内なる敵がなかったらアメリカは勝てたのか?
という仮定について考えてみるとわかりやすいかもしれません。

実際にベトナムで行われた戦争はアメリカ人にとって非常に困難なものでした。
人を寄せ付けない気候と地形、鬱蒼としたジャングル、不気味な沼地や水田、険しい山々、

「人を殺し、脳を焼き、過労死するまで汗を絞る」

ほどの暑さ。

「まるで太陽と大地がベトコンと手を組んでいるかのように、
わたしたちを消耗させ、狂わせ、殺していく」

言うまでもなく、何世紀にもわたってこの土地を耐え抜いてきたベトナム兵士は、
文明社会から放り込まれたアメリカ人よりも明らかに戦闘に有利でした。

想像の限界を超える文化の違いも彼らに混乱をもたらしました。

ほとんどのアメリカ人には、ベトナム人の容貌は皆同じに見え、
敵味方の区別もつかないといった状況に加え、
村を焼かれても無表情で、助けようとしているのに他人事のようだったり、
丁寧にお辞儀をして、にこやかにアメリカ兵を地雷原に案内するベトナム人に、
アメリカ人たちは敵味方関係なく憎しみを抱くようになっていきます。

最も重要なことは、ベトナムにおけるゲリラ戦が、形のない、
しかし致命的なものであったということでしょう。

それは、

「朝のジャングルの霧の中に消えていき、思いがけない場所に現れる
形のない敵との終わりのない戦い」

だったのです。

アメリカは敵の強さと決意を大幅に過小評価していました。
すべてを危険にさらしてまで目的を達しようとする、
敵側の不屈の精神を、理解することが最後までできなかったのです。

そしてベトナム人が我々と同様に理性的であるならば、
世界最強の国家に立ち向かうことなどできないだろうと安易に考えていました。

(日本人を相手に戦ってメンタル的にはある程度学習したはずですが、
今回は当時の日本より、遥かに文明のギャップが大きいとみくびっていたようです)

北ベトナムやベトコンは、しっかりとした動員力と体制を持ち、
目標に対して狂信的にコミットしていただけでなく、地の利を生かし、
10年間の対仏戦争ですでに完成された方法を駆使して戦いました。

ベトコンは、南ベトナムの農村部の人々が実は持っていた
アメリカに対する不信感を大いに利用して彼ら味方につけ、
北ベトナム軍は、戦争を長引かせる戦略を巧みに採用しました。
ホー・チ・ミンはかつて、

「あなた方が我々の部下を10人殺すたびに、我々は
あなた方の部下をその度に確実にひとりずつ殺していく」

それを永遠に繰り返していけば、先に疲れるのはあなた方だ」

と豪語しました。
そして、中国やソ連など共産国家の支援もまた、アメリカを苦しめました。

 

 

「ベトナム・シンドローム」のような考えはこの戦争に始まったことではありません。

失敗の原因が他にあるのではなく、自分たちにあるという説明の方が、
人々にとって、あるいは受け入れやすいのかもしれません。

『ディアハンター』『地獄の黙示録』のような映画が、
その芸術的な価値がどうであれ、贖罪の形を推進し、
それがいつの間にか「正しい考え」となってきたのも事実です。

レーガンの「崇高な戦争」という発言は、突飛な考えと受け取られた一方、
同時に決して少なくない人々に響きましたが、これは驚くべきことではありません。

どんな残酷な戦争にも必ず尊い要素があり、英雄的行為、犠牲、
思いやりまで否定するべきではないと考える人も多いからです。

少なくとも、戦争を起こした国が何らかの形で共有している「罪悪感」を
退役軍人だけに負わせることは間違っていますし、レーガンの発言は
この点を少なくとも間接的に指摘していたと見られたのかもしれません。

 

数年後、レーガン大統領は「ベトナム・シンドローム」を軍事行動で葬ろうとしました。

グレナダ侵攻を成功させることによってシンドロームが解消され、
国民がこれ以上米国の軍事行動に対し嫌悪感を持たなくなることを期待したのです。

そして侵攻後、

「我々の弱さの時代は終わった。
我々の軍事力は立ち直り、堂々としている」

と力強く宣言しました。

しかし、この「シンドローム」は平癒したといえなかったため、
ブッシュ大統領もまた1990年から1991年にかけてのペルシャ湾岸危機を利用して、
ベトナム症候群を意図的に回復させようと試みました。

イラクとの戦争が迫る中、繰り返し宣言したのがこの言葉です。

「もう一つのベトナムにはならない」

 

事実、第一次湾岸戦争での迅速な勝利は、ベトナム症候群の終焉であると言われました。
ブッシュ大統領は戦後、

「ベトナムの亡霊はアラビア砂漠の砂の下に眠っている」

「アメリカがベトナム症候群を克服することができた」

と高らかに勝利宣言しました。

 

 

■PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)Vietnam Veterans with PTSD

 

キャスターの安藤優子氏がアメリカに留学したときのエッセイ、
「あの娘(こ)は英語が話せない」には、彼女のホームステイ先の近所に住んでいた
元ベトナム帰還兵にストーカーのような執着をされ怯えたことが書かれています。

帰還兵は、16歳の安藤氏をベトナム孤児だと思っていたようなのです。
わたしにとってこれが、ベトナム帰還兵のPTSDについて認識した最初の文章でした。

今では一般的な心理的症状を表す言葉のひとつですが、もともとは
個人レベルの「ベトナム・シンドローム」をあらわすものであり、
それが後に、

PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)

としてよく知られるようになりました。

 

政治レベルの「ベトナム・シンドローム」について前半語ってきましたが、
元々は個人的なシンドローム=後遺症のことだったのです。



後遺症という医学用語を持つ「ベトナム・シンドローム」は、1970年代末、
ヘンリー・キッシンジャーによって作られ、その後レーガンによって広められて、
純粋な政治的意味を持つようになったという経緯があります。

1980年、精神科の専門医は、戦時中のトラウマが深刻な道徳的、および
心理的苦痛を引き起こす可能性があることを公式に認めました。

 

個人レベルのベトナム症候群は、ベトナム帰還兵の20〜60%に見られた
PTSD(心的外傷後ストレス障害)となってあらわれました。

それには不安、怒り、落ち込み、依存症などの古典的なPTSD症状のすべてだけでなく、
戦闘に関連した思考の侵入、悪夢、フラッシュバックなども含まれます。

また、ベトナム症候群には罪悪感も大きく関わっています。
兵士たちは、自分が助かって仲間が生き延びられなかったことだけでなく、
ベトナム人、特に女性や子供が殺されたことへの罪悪感も感じていました。

戦闘地域での生活に対処するために退役軍人が取っていた「戦略」は、
市民生活に戻っても全く通用せず、機能不全の行動となって現れました。

ベトナムから帰還した多くの退役軍人は、普通の生活を送る努力を怠っていた、
この言い方が悪ければ、普通の生活に適応できなくなっていたのです。


皆さんは、ベトナム戦争中に死亡した人よりも、戦後に
精神的な問題で自殺したベトナム帰還兵の方が多かったのをご存知でしょうか。

自殺しなかったとしても、少なくとも100万人の退役軍人のうち4分の3は、
社会生活を普通に送ることができず、その結果ホームレスや失業者になりました。

教育を受けていない70万人近くの徴兵者は、名誉除隊もできませんでした。
退役軍人の多くは、家族を養うために新たな仕事に就くことも困難であり、
PTSDに精神を追い込まれるという例がアメリカ全土で起こりました。

映画やドキュメンタリー、テレビ番組には、帰還兵の困難を描いたものが数多くあります。
そういえば、「ランボー」もベトナム帰還兵でしたね。

クリント・イースドウッドの「グラン・トリノ」で監督自らが演じた、
モン族の少年少女を守って最後は銃弾に倒れる老人もでそうです。

モン族は、アメリカがベトナム戦争に敗れると、見捨てられ行き場を失い、
ベトナム軍、ラオスの共産勢力などに女、子供も含めて虐殺された部族であり、
アメリカに移民することができたのは一部の幸運な人々だけでした。

劇中、イーストウッド演じるコワルスキーが”身を呈して”彼らを守るというのは
アメリカの償いの形を象徴していると思われます。

 

ベトナム戦争によるPTSDの発症やその他の問題を解明するため、
1983年に米国議会の要請を受けて、米国政府は調査機関を立ち上げました。

その調査によると、

男性の約15%、女性の約9%(1980年の調査時点)がPTSD発症

男性の約30%、女性の約27%が、ベトナム帰還後の人生のある時点でPTSDに罹患

というもので、多くの退役軍人にとってPTSDが慢性化しており、
特に高レベルの戦闘暴露を経験した人にその傾向は顕著でした。

PTSD患者は、結婚生活、性生活、生活全般に対する満足度が低く、
また、子育ての困難さ、離婚率の高さ、幸福感の低さ、疲労感や痛み、
慢性的な風邪などの身体的な不調の多さを感じています。

依存でいえば喫煙率が高く、アルコールや薬物依存は患者の3分の1を占め、
それらが引き起こすうつ病、心臓病、糖尿病の発症率が高いという報告もあります。
 

何百年もの間、戦闘ストレスを原因とする心的、肉体的症状は、
異なった戦争が起こるたびに異なった名称で表現されてきました。

そして初めて「PTSD」という病名で初めて呼ばれたのがベトナム退役軍人です。

戦後50年が経過したにもかかわらず、一部のベトナム退役軍人にとって
PTSDは日常生活の慢性的な現実となり、いまだに彼らを苦しめているのです。

 

続く。

 

 

Born in the U.S.A. ベトナム帰還兵の憂鬱〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展 最終回

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長らく語ってきたハインツ歴史センターのベトナム戦争展シリーズも、
ようやく最終回にたどり着きました。

 

 

■ 史上最も誤解された歌詞


故郷でちょっとしたトラブルがあって
ライフルを手にした俺は
異国の地に送り出された
「黄色いの」を殺しに行くために

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
I was born in the U.S.A., I was born in the U.S.A. 俺はアメリカに生まれた  

『Born in the U.S.A.』は、アメリカのロックシンガーソングライター、
ブルース・スプリングスティーンの作品で、1984年リリースされました。

彼の代表曲であり、ローリングストーン誌の「史上最高の500曲」では275位、
RIAAの「Songs of the Century」では、365曲中59位にランクインしています。

このジャケットや、タイトルそのもの、そして「俺はUSAに生まれた」という
シンプルで力強いサビ部分が力強く、愛国的な気分を煽ることから、

「ポピュラー音楽の歴史上最も誤解された曲のひとつ」

という説明があるのにはちょっと笑ってしまいました。

冒頭の2コーラス目の歌詞を読んでいただければ一目瞭然、
この曲の「俺」とは労働者階級のベトナム帰還兵であり、
彼が祖国に戻って直面しなければならない困難や疎外感を歌った曲なのです。

元居た製油所に帰ってきたら、採用係はいった

「お若いの、わたしが決められるならなあ」

V.A.(退役軍人局)の人に会いに行ったら言われた

「なあ君、わかっていないようだね」

1980年代初頭、アメリカは不況に陥っていました。
ほとんどの帰還兵が直面した無残な現実と、落胆する主人公。
それはサビの空虚なスローガンと皮肉な対比を為しています。

にもかかわらず、面白いことに、その歌詞を慎重に吟味することなく、
政治家が集会や選挙イベント、勝利演説の際に使用していたというのです。
サビの部分で合唱し、国旗を振って盛り上がるために。

はい、そのおまぬけな政治家は誰ですか〜?って、すごい大物がいますよ。

ロナルド・レーガン!

パット・ブキャナン!

うーん、どちらも保守系の政治家ですよね。
しかしアメリカ人の関係者、誰も歌詞が聞き取れなかったのかしら。

ケサンに弟がいた
ベトコンをやっつけた
ベトコンはまだそこにいるけど彼はもういない
彼にはサイゴンに好きな女がいた
女の腕に抱かれている弟の写真が返ってきた

ケサンでアメリカ軍が戦ったのはベトコンではなく北ベトナム軍ですが、

 Khe Sanh
Viet Cong
 all gone
 Saigon

と韻を踏むためにベトコンということにしたようです。

ベトナム戦争はアメリカの労働者階級を社会的・経済的に追い詰め、
空虚なナショナリズムと国家の誇りは彼らに取って何の益もなかった、
と歌詞は訴えます。

 

■ 政治的利用

1984年8月下旬、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の売れ行きは好調で、
ラジオ局では頻繁に曲が放送され、関連ツアーも大きな話題を呼んでいました。

そして、スプリングスティーンを古典的なアメリカの価値観の模範と称賛する人もいました。

「スプリングスティーンの政治的なことは全く分からないが、
彼のコンサートでは苦しい時代の歌を歌うときに旗が振られる。

彼は泣き言を言う人ではない。
閉鎖された工場やその他の問題を語るときには、
いつも『アメリカで生まれたんだ!』という
壮大で明るい肯定の言葉で締めくくられているようだ」

なるほど、この人にとっては「アメリカで生まれた」という部分は、
絶望的な境遇から立ち上がるための「掛け声」なのかもしれません。
そう思って聴けば、なぜ多くのアメリカ人が誤解したのか、
少しは理解できるような気がします。

この文章を書いた人物は、レーガン大統領の再選組織とのつながりがあり、
当時本格化していた1984年の大統領選挙のキャンペーンに
スプリングスティーンを担ぎ出すことはできないかと考え、
本人に問合せまでしたということです。

スプリングスティーン本人がそもそもレーガンを支持していなかったため、
ていよく断られてしまったわけですが、それにもかかわらず、
当時行われたキャンペーンで、レーガンは次のようにスピーチをしました。

「アメリカの未来は、皆さんの心の中にある千の夢の中にあります。

多くの若いアメリカ人が憧れる歌に込められた希望のメッセージの中にあります。

アメリカの未来は、皆さんの心の中にある千の夢にかかっています。

そして、その夢を叶えるお手伝いをすることが、私のこの仕事のすべてなのです」

「若いアメリカ人が憧れる歌」とはもちろんこの曲のことです。


その直後、ピッツバーグで行われたコンサートで、
スプリングスティーンはそのレーガン陣営に痛烈な皮肉を放ちました。

失業した自動車工が殺人に手を染める様子を歌った
「ジョニー99」という曲を紹介して、

「先日、大統領がわたしの名前を口にしていたけど、
彼が(この曲を含む)わたしのアルバムを聴いていたとは思えない」

と語ったのです。

そしてさらにその数日後、今度は大統領選に挑戦するウォルター・モンデールが、
スプリングスティーンの応援を受けたというようなことをいうと、
スプリングスティーン側は即座にこれを否定しました(笑)

最近では「Born In The USA」がトランプ前大統領の集会や、2020年10月、
大統領がCOVID-19の治療を受けていた病院の外で聴かれたという話があります。

肝心のスプリングスティーン自身がトランプ大統領を毛嫌いしていて、
公然と悪口を言っていたということをさておいても、やはりこの曲の内容は
その状況に全くふさわしくないという「真っ当な」意見があったようです。

 

■ 国旗と「Born in the U.S.A. 」

アメリカ国旗を背景にしたスプリングスティーンの背中の写真が
アルバム・ジャケットに採用されましたが、スプリングスティーンは、
そのコンセプトの由来についてこうコメントしています。

「国旗を使ったのは、1曲目が『Born in the U.S.A.』という曲だったからです。
しかし、国旗は強力なイメージであり、それを自由にしたら何をされるかわかりません」

その言葉の通り、これをスプリングスティーンが国旗に向かって放尿している、
などという人たちも現れましたが(笑)彼はそれを否定しています。

「あれは意図的なものではなく、いろいろなタイプの写真を撮って、
最終的に顔の写真よりもお尻の写真の方がいいと思ったから採用したのです。
秘密のメッセージはありません」

最後に、この曲のまだ訳していない出だし部分と、最後のフレーズを記しておきます。
簡単な単語で構成されているのですが、ものすごく翻訳が難しかったことを白状しておきます。
果たしてこれが本人の意図を汲んでいるかは全く自信ありません<(_ _)>

死者の町で生まれ落ちた
最初の出だしで地面に叩きつけられた

叩かれすぎた犬のようになって積むのさ
ごまかしながら人生の半分も過ごさないうちに

 

罪悪感の闇に突き落とされて
製錬所のガスの火のそばで
俺は10年間燃えながら道に沿って歩いてる
逃げるところもなく行くところもない

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A. (私はアメリカで生まれた)
Born in the U.S.A. (アメリカで生まれた)
俺はアメリカの「ロング・ゴーン・ダディ」(とっくに死んだパパ)
Born in the U.S.A., Born in the U.S.A., Born in the U.S.A., Born in the U.S.A.
ボーン・イン・ザ・U.S.A.
俺はアメリカのクールなロックオヤジ

 

「Long gone Daddy」

という言葉の解釈が難しかったのですが、じつはアメリカ人なら
誰でも知っている(らしい)R&Bのハンク・ウィリアムズの曲に

「I'm a Long Gone Daddy」

というのがあって、これが、自分を必要としていない相手のもとを去る男が
自分のことをそう呼んでいるという設定で使われている有名なラインです。

「僕はもうとっくに死んだパパだから、君は必要ないよ」

この「君」は、

「僕は僕をもっと正しく扱ってくれる女の子を探すよ
君は別の男を見つけてそいつと好きなだけ喧嘩するがいいさ」(意訳)

という歌詞から、「恋人だったことのある女性」ということになっていますが、
スプリングスティーンはもっと広義での「パパ」として使っていると思います。

スプリングスティーンはこの歌から言葉を引用していて、
「I'm~」のwikiにもそのことが書かれています。

ついでに、「クールなロック『ダディ』」というのは明らかに変ですが、これも
前半の「long gone daddy」に合わせた結果、そうなったのだろうと思われます。

 

 

■ ある帰還PTSD患者の手紙

PTSDプログラムを受けているある帰還兵が手紙を書きました。
宛先は

憎しみ、憤怒

フラッシュバック、強迫観念

悪夢、孤立不安

自殺願望、人間関係の損壊 等々。

 

■ ホームタウン U.S.A.

ベトナムへ行った兵士や海兵隊が、以前お話しした、
輸送船USNS「 ジェネラル・ネルソン・ウォーカー」の掲示板に残した落書きです。

マサチューセッツ、ハワイ、ウェストバージニア、ワシントン、テキサス、アイオワ、
コロラド、オクラホマ、ニューヨーク、イリノイ、カリフォルニア、ペンシルバニア・・。

仔細に見れば、アメリカ合衆国全州が記されているのではないでしょうか。

 

■ ベトナム戦争が遺したもの

疑問、懸念、希望、恐怖。

ベトナム戦争によって具現化された未来に対するこれらの考慮事項は、
今日も我々とともにあるといってもいいでしょう。

だからこそ、ベトナム戦争に関する無数の本、映画、創作物などが生まれ、
戦争の記憶を永遠に共有し続ける試みがなされているのです。

歴史家はその意味について議論を続け、政策立案者はその教訓を受け継いでいくでしょう。

戦争は過去のものかもしれませんが、それでも、
義務、異論、愛国心、市民権、道徳、国民的信頼、
そして軍事力の行使についての重要な問題を永遠に提起し続けるのです。

 

ハインツ歴史センター ベトナム戦争シリーズ  終わり

 

 

帰国報告〜2週間の見張られ生活

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アメリカでの用事も無事終わり、帰国してまいりました。
今回はパラリンピック開催中の帰国であり、そのせいでCovid19に対する
政府の水際対策と帰国者対策も前回とは全く変わっていました。

飛行機に乗るまで、空港に着いてから、そして帰国後。
今回の体験は今までの渡航経験ではありえないくらいのハードモードでした。

もし、何らかの用事で海外への渡航を控えている人がおられれば、
今こんなことになっているということを参考にしていただければ幸いです。

■ バックトゥースクールシーズン到来

と言いながらも、一応帰国前のことをさっくりとお話ししてからにします。

帰国少し前、大学地区の周りが交通規制されていることが2日続けてありました。
1日目はこの地域最大の規模であるピッツバーグ州立大学の、
2日目はそれほどでもない規模のMKの在籍する大学の入学式があったのです。

昨年はセレモニーの全てがオンラインで行われましたが、
アメリカの大学はほとんどが通常セレモニーをキャンパスの芝生で行うので、
マスク着用の上、出席者の椅子も距離を空ける以外平常に戻ったことになります。

各大学が少し前、学生にはワクチンを「mandate」つまり義務付けていましたが、
これらもスクールイヤー開始のための準備だったということです。

そして、大学の周りは、多数の父親と母親と子供(一人のこともあれば複数の家族も)
が群れをなして歩くというおなじみの光景が2年ぶりに復活していました。

例年と違っているのは、全員が真夏の日差しの中マスクを着用していることです。


ちょうどその頃、ターゲットという生活用品スーパーに行ったら、
いわゆる「バックトゥースクール」客でレジがものすごい長蛇の列になっており、
買い物を諦めて帰りました。

前にも書きましたが、アメリカ人にとって、彼らの子供が入学した大学に行って
セレモニーに出席し、オリエンテーションに出て、子供の入寮のために引越しや
新しくシーツやなんやを回整えてやる、というのは親として感慨深い追体験です。

自分の入学の時を懐かしく重ね合わせたり、子供のカレッジが自分と一緒であれば
感慨もまたひとしお、といった具合に。

そしてこの時期、フレッシュマンとその家族が大学街に溢れ、生活用品店が混雑し、
しばらく街が活気づくのがアメリカのひとつの風物詩となっているのです。

MKの大学のキャンパスにあり、ギネス記録を更新している
「最も頻繁に塗り替えられた柵」ですが、COVID-19のせいかずっと
手抜きだったのが、久しぶりにちょっと凝ったペイントになっていました。

ただし「uPNC」という文字も、大腸を思わせるペイントも、意味不明です。
まさかどなたかこの意味おわかりですか?

 

アメリカの大学は、1年=フレッシュマン、2年=ソフォモア、
3年=ジュニア、4年=シニアといいますが、
うちのMKも早くもジュニアを終え、シニアに突入します。

最終学年に向けてティーチングアシスタントのオファーもあったそうで、
親としてはぜひあと1年、悔いのないように楽しく学業してほしいと思います。

 

■ Pittsburgh生活

この時期のピッツバーグは突発的な雷雨にしょっちゅう見舞われます。

近隣に雷が落ちる大音響で、びっくりして目を覚ますくらいだった雷雨の夜が明け、
いつもの公園に散歩に出たら、そこら中に雷が直撃した木がころがっていました。

たとえばこのくらいならなんとか乗り越えることができたのですが、

ここでデッドエンド。
諦めて元来た道を引き返す羽目になりました。

しかしこの辺ではよくあることなので、雷雨の次の日は早朝から森林管理局の作業員が、
とりあえず倒れている木を切って、人の歩くところを確保し、あとは脇によせてしまいます。
木をどこかに運ぶことは決してせず、とにかく小さくカットしてその辺に転がしておしまい。

森林はそんな倒木や根っこから倒れた木も基本放置。
できるだけ自然を自然のままにしておくというのがこちら流です。

ピッツバーグの夏は朝と昼で気温差が激しいので、
今年は日差しが高くならないうちに散歩を済ませてしまいました。

朝早く歩くことの恩恵は、動物たちの朝ごはんに遭遇する率が高くなることです。

この辺の鹿は人馴れしていて、ちょっとこちらを見てびっくりしますが、
慌てて逃げることなく、のんびりと朝ごはんを続けていました。

至近距離に近寄って写真を撮ったのですが、それでもこの通り。

ウィンクまでしてくれました。

公園の掲示板に「スポッテッド・ランタンフライ」をみつけたらやっつけてください、
というポスターが貼ってありました。
左が成虫、真ん中が幼虫、右がさなぎの写真です。

日本名「シタベニハゴロモ」は中国、台湾、ベトナム、韓国、そしてアメリカで
2010年以降爆発的に増えている害虫で、樹液を吸って植物を枯らしてしまいます。

硬いところに卵を生むので、公園から車を出す前に卵が産み付けられていないか
チェックしてください、と言うようなことが書いてあります。

公園でこれを一度見てすぐ、ホテルの駐車場でひらひら飛んでいる
小さな(小指の爪くらいの大きさ)虫に気がつきました。

「あれ、これって・・・」

あの悪い虫そのものじゃないですかーやだー。
ポスターには、見かけたら報告してください、と書いてあるのですが、
なんとなく忘れて帰国してしまいました。(今からでも間に合うかしら)

「それにしても凶悪そうな虫だなあ・・」

なんでもこの虫、韓国から渡ってきて富山県などで観察されているとか。
ところで、先日アメリカの通販サイトを見ていて、こんな服を見つけました。

・・・似てるよね。

ちなみにこれシャネルです。

 

MKは夏の間大学でオナー・リサーチ(選ばれて大学院レベルの研究を行うプログラム)
と並行して報酬がもらえるプロジェクトをやっていたので、
そのお金で、兼ねてから憧れだった(らしい)ブレビルのエスプレッソマシンと
コーヒー豆グラインダーをAmazonで安く見つけて購入しました。

エスプレッソマシンはあれでなかなか粉の分量や挽き加減が難しいらしく、
届いて何回もコーヒー豆を無駄にしたようですが、さすがは理系男子、
1gずつ豆の量を変えて試行錯誤を重ね、あっという間に使いこなせるようになり、
最後の頃になると、わたしは居心地の良い彼の部屋で出してくれる
ノンデイリー、ノーシュガーアイスのアフォガードにすっかりハマりました。

 

 

■ PCR検査を二回受ける

こちらに着いてワクチンを受けたとき、まず安堵したのは
これで飛行機の搭乗手続きが楽になるかもしれない、と思ったからでした。

しかしその後、ワクチンを受けていても、搭乗予定時間72時間以内に
PCR検査を受けなくてはならないことが、航空会社からのメールで判明しました。

 

そこで、前と同じようにオンラインでドラッグストアのドライブスルー検査を予約し、
ピッツバーグ出発の72時間前ギリギリを狙って検査を受けました。

結果が出るのが通常2〜3日なので、前回も出発前夜に結果を受け取り、
翌朝飛行機に乗ることができたのですが、今回は事情が変わっていました。

1度目の検査後、前回とは違い、今回日本はオリンピック開催体制なので、
乗り継ぎ便出発時刻が72時間を超えていても登場拒否されるらしいのです。

あらためてTOが航空会社に電話したところ、提出書類はドラッグストアから出る
「陰性」と書かれた紙ではなく、日本政府専用の所定用紙でないとダメとのこと。
つまり、日本語併記の書類に陰性を証明するファーマシストのサインが必要です。

どう考えても72時間前の通常検査では間に合いません。

 

そこで、これはいかん!と次の日、1日で結果が出るドラックストアに行って再検査しました。

アメリカでのPCR検査は、鼻腔に綿棒を入れる方式で、2〜3日でも1日でも、
なんならすぐ結果が出る検査も(数が少ないので店が遠い可能性あり)どれも無料です。

最寄りの1日で検査がもらえる薬局を探し、予約時間にドライブスルーに行くと、
長さ5cmくらいの付け睫をバサバサさせたカルメン系のお姉さんがキットをよこし、
鼻に突っ込んだ綿棒をそのまま綿棒の入っていた袋に入れて返せ、といいました。
おそらくこのストアは薬局内ですぐ検査ができる設備があるのでしょう。

案内では翌日結果、ということになっていましたが、結果が来たのは2時間後。
そこですぐさま同じ薬局のカウンターに行って、ファーマシストに
日本政府の所定用紙へのサインをしてもらうことができました。やれやれ。

 

ちなみに最初の検査ですが、TOの結果が出たのはシカゴから国際線に乗った後でした。
待ってたら間に合ってなかったっつの。

■ 空港

翌日、出発時刻7時の2時間前に空港に到着。

機械で自動チェックインするように指示されたのでやっていたら、
パネルに「カウンターの係を呼んでください」と表示がでました。

やってきた地上係員は、

「こちらでチェックインする前に(今画面に出ているアドレスの)
日本の厚生労働省のHPに行って、登録を済ませてください」

と思わぬことを言い出すではありませんか。
うっわ、めんどくせー。
2時間前に来ておいてよかったよ。

厚労省のHPに登録するのは、帰国者管理のためでした。
つまり、厚労省が帰国者の帰国後の行動を見張り、追跡するためのシステムです。

わずか半年前とは全く変わってしまった手続きに驚きましたが、
それもこれも、オリパラ開催のための対策であり、このときはまだ
パラリンピックが開催中で、海外からの選手が入ってきていたからです。

変わったといえば驚いたのが、ピッツバーグ空港のコンコースの、
確か前は即席マッサージパーラーだったお店が、コロナ検査センターになっていたこと。

しかも公的機関の検査ではなく、民間らしく、PCRが129ドル、
Antigen(抗原検査、10分で結果が出る)が95ドル、両方でお得な175ドル。

そもそも、ここまで入ってきている時点で陰性証明済んでるのに、
飛行機に乗る直前に高額の検査を受ける人っているのかしら。

と思ったのですが、乗り継ぎ便出発が最初の検査の72時間以内でなければ、
不合理だろうがなんだろうが、もう一回ここで受けるしかありません。

つまりこの業者はそういう特殊な事情のニーズに合わせてというか、
悪く言えば「足下を見て」商売をしているというわけです。


現にその後、オヘア空港のANAのカウンターで、出発時間72時間以内というリミットに
書類の数字が間に合わなかったらしく、係員と揉めているアメリカ人女性を見ました。

どうやら1度の検査で乗り継ぎもできるとたかを括ってここまで来たのでしょう。
渡航先の日本がパラリンピック開催中という特殊な事情で、
地上係員もお役所仕事的にあなたは乗れません、というしかないわけですが。

「搭乗拒否されたらどうなるの」

「どこかで検査を受けてもう一度帰ってくるしかないんじゃない」

なるほど、そんな人のために空港内に民間検査場があるというわけか。

というわけで、ANAの成田行きが無事シカゴを飛び立ったとき、
安堵のため息を漏らしたわたしたち。

キャビンには相変わらず全部で4人くらいしか乗っていません。

しかし、気のせいか機内食がコロナ前より美味しくなったような気がします。
ただし、目に見えて一食のボリュームが小さくなりました。

量も、昔はよく食べる人に合わせていたようですが、今は搭乗客が少ないので、
これで足りないという人の追加オーダーにもきめ細かく対応できます。

廃棄する食品も少なくなるし、いいことだらけ。

出発してしばらくしてから窓を開けてみたらこんな景色でした。

そして出発から13時間後、飛行機は着陸態勢に入りました。
この写真はかすみがうら市(ひらがながデフォらしい)上空です。

最近はiPhoneで写真を撮ると撮った場所の地名が表示されます。

 

■ 空港での”オリエンテーリング”

着陸して降機まで、かなりの時間待たされたのは前回と同じでした。

アナウンスにより、まず乗り継ぎの乗客、それからパラリンピックの関係者
(乗ってたのか・・)が降り、最後に一般乗客の順で降機します。

降りてから検査上では一切写真撮影は禁止。

まず、誘導されてコンコースをぞろぞろ係員に着いていくと、
パイプ椅子が並んでいるので、そこに到着順に座っていきます。

前の集団がいなくなるとそこに移動していくという形で進みますが、
その間、コンコースの反対側通路を、パラリンピックに出場する
中国選手団(車椅子の人も)が、皆支給らしい透明のフェイスカバーを着用し、
マスクもつけて歩いていくのをみました。

そこから、怒涛のオリエンテーリングが始まります。

機内で記入させられた書類などの束を手に持ち、何箇所も部屋を移動するたびに
それを見せ、チェックされ、その度にパスポートを見せ、書類に何か書かれたり
押されたり、パスポート に勝手にシールを貼られたり・・・・、

そしてようやく最後に唾液によるPCR検査が行われました。
その結果が出れば、やっと放免です。

 

ところで、シカゴの空港で、地上係員にQRコードから獲得しておくように、
といわれたのは、

これと、

この二つのアプリでした。

空港では、携帯を見せてこのアプリが入っているか、そして
位置情報機能がオンになっているかをチェックされたものです。

 

前回の渡米帰国後は、2週間の自宅待機期間、毎日地元の保健所から
メールが来て、それに発熱等の有無、自宅待機をしているか、
ということを返信するシステムになっていました。

しかし、メールに返信だけして自宅待機しない人が後をたたなかったらしく、
日本政府はその後、スマホの位置情報を利用して、帰国者の所在位置をチェックする、
という強行手段にでることにしたらしいのです。

いわば、個人の公徳心というか良心に任せていたこれまでの性善説から、
人は基本待機義務など守らないもの、という性悪説に舵を切ったといえましょう。

悪貨は良貨を駆逐するの好例ですね。

しかしそもそも、この監視態勢を確立させるためには帰国者が
全員スマートフォンを持っていることが前提になるわけです。

「スマホ持ってない人って、どうするの」

「書いてあったよ。2週間の待機期間だけ空港で借りろって」

「・・・まじか」

荷物をピックアップして(荷物は全てターンテーブルから降ろされていた)
外に出たのは到着時間から2時間半後だったと思います。

公共交通機関を使えないので、その日はレンタカーを借り、
地元で乗り捨ててタクシーで帰宅しました。

 

■ そして・・待機期間

そして今、絶賛待機期間中なのですが、生活を毎日アプリに見張られています(笑)

8時から5時までの間、アプリからアトランダムな時間に、

「現在地報告をしてください」

「健康状態の報告をしてください」

というメッセージが入ります。

すぐさまアプリを開いて「現在地報告」を押す、あるいは
「熱がありますか」などに「いいえ」とチェックして押します。

スマホの位置情報を利用しているので、登録した自宅から
離れているときに位置情報確認が来て報告を押すと、

「自宅にいないようだが今どこにいるのか」

的なことを聞いてくるそうです。
(TOが食料品を買いに出ているときに言われたらしい)

そして、もうひとつ、アプリから電話がかかってきて
それに出ると、画面中央の楕円の部分に自分の顔を写し、

そのまま30秒間じっと自分の画像を見ていなければなりません。

これら3種類の確認は毎日全く違う時間に入り、予想は不可ですし、
位置確認はもう今日は朝終わったから、と思っていても、たまに
夕方に2度目が来たりするので油断なりません。

元々家で携帯を手にする習慣のなかったわたしは、帰国以来
どこにいくにも携帯を持ち運び、pingが鳴るたびビクッとして

「来たっ!」

「来た?じゃこっちも来るかな」(同時に登録しているせいか続けてくることが多い)

などといちいち夫婦で確認し合うという緊張した日々が続いています。

 

誰が考えたかこのシステム、確かにその目的を考えれば良くできていると思いますが、
見張られる方はたまったものではなく、帰国の度にこんな目に遭うとわかっていれば、
誰しも不要不急の渡航をしようとは思わなくなるだろうと思いました。

というわけで、我が家が厚労省に見張られる生活もあと少しで終わりますが、
さて、こんな状況そのものの終わりは果たしていつやってくるのでしょうか。

 

 

 

映画「潜水艦轟沈す〜北緯49度線」

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できるだけ世間からは忘れられた無名の戦争映画を紹介する、
というのが当ブログ映画部のポリシーの一つでもありますが、
その中でも今回の映画は無名度においては際立っています。

わたしもそうでしたが、おそらくみなさんの中で、この映画を
元々知っていた、観たことがある、という方もあまりないのではないでしょうか。

「潜水艦轟沈す」

とりあえずタイトルとパッケージから受ける直感で選んだこの作品ですが、
日本語タイトルが案の定タイトル詐欺そのものでした。



原題は「49th Parallel」。

北緯49度線とは赤道面から北に49度の角度をなす緯線であり、
そこには知る人ぞ知るアメリカとカナダ国境があります。

この国境が映画にとって重要なファクターとなるわけです。

いや、確かに潜水艦は轟沈するんですが(笑)
映画のタイトルとしては全く内容を言い表しているとはいえません。

というわけで、またしても日本の映画配給会社のセンスのなさに
絶望する羽目になった、ということをお断りした上で始めることにしましょう。

「本作品を制作に協力してくれたカナダ・米国・英国の全ての政府と人々に捧げる
そして我々の物語を信じて演じるために世界中からやってきた俳優たちにも」

という字幕が、雪山の空撮に重なります。

この映像とともに始まる音楽が素晴らしい。

Ralph Vaughan Williams: 49th Parallel (1941)

映画最初の出だしの音楽、しかも数小節でこれほど心を掴まれる例もそうはなく、
ほおー、と感心して聴いていたら、字幕に

 Ralph Vaughan Williams (レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ)

と出てきたのでのけぞりました。

ヴォーン・ウィリアムズは、ホルストと並ぶイギリスで最も有名な作曲家です。
「グリーンスリーブスによる幻想曲」と言う作品が有名ですが、
本国では「惑星」のホルストよりも評価されているくらいです。


これだけで、作品の内容そのものに期待してしまうではありませんか。

ちなみになんとなく認識していたこの名前ですが、「ヴォーン」は
ファーストネームとかマザーネームではなく、ウェールズ特有の
『二重姓』で、ついでにファーストネームは「ラルフ」と書いて
「レイフ」と読むということを今回初めて知ることになりました。

そういえばレイフ・ファインズという俳優もRalphと書きますね。
これはイギリス風の古風な発音によるものなのだとか。

映画音楽の演奏は安定のロンドン交響楽団です。

そしていきなり北米の地図が現れ、モノローグが始まります。

「大陸を横切る1本の線がある。
連なる砦も、川も山も何もない。
それは100年前に取り決められた国境だ。

境界に隔てられた両国は同盟国である。
北緯49度は世界で唯一軍不在の境界だ」

映画のポイントがあくまでもこの国境線にあるというダメ押しです。

空撮は映画の舞台、セントローレンス湾を映し出します。

そのセントローレンス湾に突如浮上したのはドイツ海軍のU-37。

浮上シーンは実写で、これは捕獲されたUボートが搭載していた
ナチスのニュースリールの映像ということですが、撮影に使われたのは
ハリファックス造船所で建造された実物大レプリカなのだとか。

レプリカは空のオイルバレルを2トン分使って10日で制作したもので、
輸送するために五つのパートに分けることができる仕様となっていました。

映画が制作されたのは1941年。

1939年のポーランド侵攻を受けて制作された国策映画というもので、
カナダ政府もこの制作意図に協賛し制作に協力していたのですが、
いかんせんカナダは国境警備のため、潜水艦を映画に貸し出す余裕はなく、
制作側としてもレプリカで我慢するしかなかったようです。

ちなみに撮影の行われたニューファンドランドは当時まだカナダ領ではなく、
潜水艦の実物模型の持ち込みには関税と輸入税が要求されました。

制作側は知事に直接、ここで撮るのは戦争努力のための映画であると上訴し、
最終的に支払いを免れています。

浮上したU37の甲板に立つナチス将校。

わざわざ浮上して双眼鏡で自分たちが仕留め着底した貨物船を見物です。

「見事だな」「カナダと戦闘開始だ」

とキングスイングリッシュで喋るナチス将校。
おそらく右が艦長で左が副長だと思われます。
本作は、いつもの、

「英語で喋っていますがドイツ語だと思って観てください」

というあの方式ですが、ほとんどの作品がとりあえず
ドイツ語っぽい喋り方を心がける傾向があるのに対し、本作は

「ドイツ語のアクセントの痕跡すらない完璧なイギリス英語」

で押し通しております。

着底した「アンティコスティライト」号は早速ハリファックスにある
カナダ国防省の合同作戦室に無線を打ちます。

ところで、この沈められた船、さっきのカットと全く違う形ですよね?

そして哨戒機、駆逐艦などが派遣されました。
これはなぜかアメリカ陸軍のマークをつけております。

救命ボートに乗り込んだ船員たちを、司令官は呼びつけます。

一番高位の二等航海士に尋問を加え、船名と行先、
そして積荷が原油であることを聞き出します。

そこで自分を撮影しているカメラを怒りに任せて海に叩き落とした二等航海士、
すぐさま海に叩き込まれてしまいました。

ただの箱だよね

ちなみにこのときのカメラは本当に海に叩き落とす関係上、
ドイツ製なのに日光カメラにしか見えない代物です。

しかし感心にも?遭難者たちに攻撃を加えるわけでもなく、潜航していきました。

さりげなく部屋にはヒトラー総統が子供の頬を撫でている写真。
うーん、いくらゴリゴリのナチス党員でも、こういう写真を艦内に飾るかな。

潜航中の司令室では、司令官と艦長が、身を隠す場所を協議しています。
おそらく副長のエルンスト・ヒルト(Hirth)大尉は、ハドソン湾を提案しました。
説明はありませんが、水深があり、島が多いからだと思われます。

しかし氷山の多い海域、潜航は危険だ、とベルンスドルフ司令。

ハドソン湾のフィヨルドの奥の浜にたどり着いたU37ご一行様。
ベルンスドルフ司令はヒルト大尉と補佐のクネッケ大尉率いる6名を上陸させ、
交易所を占領して食料と燃料を調達するように命じました。

「君たちはカナダに足跡を残す最初のドイツ軍だ!
ドイツ軍の名に恥じぬ振る舞いを!
各自が任務を全うし総統閣下の壮大な理想実現に貢献せよ!
今日は欧州、明日は世界を征服する!」

「ハイル・ヒットラー!」

とかやっていたら、しっかりカナダ防衛局には足がついていて、
攻撃機がやってきてしまったじゃありませんか。



景気良く爆弾を投下する爆撃隊、そしてあっという間に「潜水艦轟沈す」。
タイトルにあるわりに、潜水艦が出てくるのはここまでです。

ダミーの潜水艦の爆発シーンは本物の飛行機を使って行われましたが、
爆発と飛行のタイミングが合わず、飛行機は何度も基地と現場を往復したそうです。

呆然とする上陸チーム。
つまりこの6名を除いてドイツ軍は壊滅してしまったのです。
もちろん彼らの住居でもあった潜水艦とともに。

「カナダの豚野郎!」

と叫んでヒルト中尉に頭を叩かれるヤーナー水兵。

つまりなんですか。
この話は、潜水艦が轟沈した後、敵地に取り残されたUボート乗員が
一人一人脱落していく、というサバゲー趣向かな?

さて、その襲撃目標であるハドソン湾沿いの村の交易所。
人懐こいエスキモーのニックが入り込んで勝手に料理しています。

そこにやってきたのはカナダ人ファクター。
そのとき風呂場からフランス語の鼻歌が聞こえてきました。

風呂に入っていたのは猟師ジョニーでした。

ところでわたしはこのフランス系カナダ人という設定のヒゲモジャの原始人が、
あのローレンス・オリヴィエ卿だと理解するのに大変な時間を要しました。

毛皮を獲る猟師で1年ぶりに帰還してきたという設定ですが、これはひどい。

少し解説しておくと、この映画はナチスの脅威に対して、
国際的に認識を高めるというのが目的で、英国情報省が依頼したものです。

しかし1940年当時、ヴィシー・フランスがドイツと同盟だったことから、
ケベック州の多くのフランス系ドイツ人は圧倒的に親ドイツでした。
映画はそういう層に対していわゆるプロパガンダを行う目的で作られています。

この映画に出演している最も有名なスター、オリヴィエ卿の役が、
フランス系カナダ人であるという設定は、まさしくその意図を感じさせます。

風呂に入り髭を剃ってさっぱりしたジョニーは、早速、
交易所の通信係でもあるアルバートとフランス語混じりで世間話を始めます。
ヒットラーは虚勢だけだから戦争にはならない、という浦島太郎のジョニーに、

「あほか、とっくにドイツは去年ポーランドに侵攻しとるわ」

カナダが戦争になるなんて信じられん、ドイツ人だって全員悪人じゃない、
とそれを聴いても相変わらずお花畑のジョニー。
(つまりこれが多くのフランス系カナダ人を表しているのです)

一緒に歌なんぞ歌っていたら、そこにやってきたのは話題のドイツ軍。

エスキモーはいきなり立ち向かって銃床で殴り倒されてしまいます。
ひでーことするなあ、おい。

一晩交易所を占拠し、ヒルト大尉はここからの脱出法を聞き出しますが、
答えは、

「船は1年に一度、次は7月」

というご無体なもの。

そうこうしていると、ミシガン州の通信所から連絡が入ります。
お互い氷に閉じ込められているもの同士、彼らは無線で
3日おきにチェスをしているのですが、ヒルトが無視することを命じると、
クネッケ大尉は、

「無線が通じなかったら事故があったと判断して連絡がアメリカに行くぞ。
そうしたらU37の撃沈が知れ、追っ手が来る!」

だから奴らにチェスをさせろ、と主張しました。

ここでの意見の食い違いは、クネッケ自身が言うように、理想主義のヒルトと、
エンジニア出身で船にも通信にも飛行機にも(自称)詳しい、
現実主義のクネッケの人間性の違いであり、おそらく日頃の対立が根にあります。

ジョニーは見張りの若いドイツ兵、ヤーナーをからかっています。
最寄りの駅名が「チャーチル」だと聞き、条件反射で
「チャーチルッ!」と憎々しげに呟いてしまう彼にウィンクしたり、

「なあ、ベルリンでは皆こうやって歩いてるのか?」

「そうだ」

「あ〜・・・(ニヤリと笑って)なんで?」

そして、銃を持ったクネッケ大尉が横に張り付いて、

「あまり良くない手だ。次の手は?」

などと仏頂面でツッコミを入れながら見守る、
妙なチェスシーンが展開されるのでした。

このせいで、わたしはこのシーンまでは、

「もしかしたらドイツ兵と現地の人のほのぼの交流の展開もありか?」

と、儚い期待をしてしまったことを告白します。

ヒルト大尉は駅への案内を拒否するジョニーに、

「フランスはドイツに降伏したのだ。
フランス系カナダ人もフランスから開放されて自由になるべきだ」

と独善的に言い放ち、

ヒトラーの「我が闘争」を恭しく出して(よく持ち出せたな)、
これが聖書である、などと「布教」を始めたりします。

そのときです。

アルバートの無線のチェス相手の奥さんが、新聞を見て騒ぎ出しました。
ハドソン湾でUボートが哨戒機によって撃沈されたというニュースが、
ついにアメリカにも報じられたということになります。

それを知るや、彼らがここにいるということを相手に知らせようとして、
ジョニーは無線に向かって駆け寄るそぶりを見せ、撃たれてしまいました。
彼を撃ったのは、さっきから彼が盛んにからかっていたヤーナー水兵です。

ヤーナーがついでに無線機も叩き壊してしまったため(バカ?)
それを治している一晩中、放置されているジョニー。

ドイツ軍が逃避行のために家中から洋服や食べ物を漁っていると、
そこに定期便の水上機がやってきました。

何も知らずに迎えのエスキモーのカヌーに乗って上陸する
水上機のパイロットたちですが・・

ナチスのお迎えです。
驚いて踵を返し逃げようとした二人を、

「足を狙え!」

というヒルトの注意も虚しく、周りのエスキモーらと一緒に射殺してしまいました。

ちなみにこのパイロット役は本物の搭乗員です。
彼はこの映画出演ののちカナダ軍の航空隊に入隊し、若くして戦死しています。

こちらは交易所に横たわる瀕死の猟師ジョニー。

ヒルトらが部屋を後にしようとすると、縛られているファクターが呼び止め、
同じキリスト教徒ならば、彼に水をやってくれ、と頼みます。

「私はキリスト教徒ではない」

と言いながらも瀕死のジョニーが何か言いたげなのを見て、

「彼は何が言いたいんだ」

「十字架が欲しいんだろう」

ヒルトが

「そんなものが何の役に立つ?」

と言いながらジョニーの口に水を含ませて去ろうとすると、
ジョニーは最後の息を振り絞り、

「もし・・カナダが戦争に勝ったら、ドイツに宣教師を送ってやるよ」

これは、以前この街にいたドイツ人の宣教師が実はスパイだった、
とヒルトが暴露して聞かせたことに対する意趣返しとなっています。

ジョニーを冷酷な目で見下ろしながら彼の最後の皮肉を聴くヒルト大尉。

ドアの外で聞いていた部下のフォーゲルは、立ち去り際に
素早くジョニーの胸に自分の十字架を置いてやります。

「ありがとうよ、兄ちゃん(Laddie)」

しかしフォーゲルはその後、何を思ったか、次の部屋に貼ってあった
カナダの国王夫妻の写真を引きはがし、
荒々しく壁に銃剣で鉤十字を刻んで交易所を去るのでした

 

続く。

映画「北緯49度」(潜水艦轟沈す)2日目

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第二次世界大戦時のイギリス政策による国策啓蒙映画、
「北緯49度線」(邦題『潜水艦轟沈す』)2日目です。

カナダ北部で商船を攻撃していたU37がカナダ国防軍に轟沈させられ、
たまたま上陸していたため生き残ったナチスの残党6名。

ハドソン湾の交易所を襲い、やってきた水上機を強奪して
逃亡のため全員が乗り込んだ、というところまできました。

 

2日目のタイトルにはこのナチス残党メンバーを描いてみたのですが、
「Uボート」や「メンフィス・ベル」のような戦争ものあるあるというか、
メンバーがたくさん過ぎて一度見ただけではキャラクターの見分けがつきません。

たとえば昨日、ヒルト大尉とクネッケ大尉が言い争う様子を冒頭絵にしたのですが、
わたしは2回目以降細部を見直すまで、ヒルトの相手が私服であることから、
てっきり交易所のカナダ人だと思い込んでいました。

え?ちゃんと観てなかったんじゃないかって?

さて、続きです。

ナチス一行は唯一操縦ができエンジニアなので全てを熟知している、
と豪語するクネッケ大尉に水上機の操縦をさせ、
ハドソン湾を飛び立とうとするのですが、いかんせん人多杉。

山ほど人と食料を乗せているので湖をぐるぐるするだけで
なかなか飛び立つことができません。

「重量超過だ!何か捨てろ!」

 

しかしそれくらいではまだ飛べません。
クネッケは全て、つまり銃を捨てることを要求しました。

そのとき、やられた仲間の復讐をせんと、
このイカしたヘアスタイルをしたエスキモーの兄ちゃんが・・・

銃を廃棄するためにフロートに立っていた水兵を狙撃しました。

ここで一人脱落。
ジョニーを殺害したヤーナーです。

因果はめぐる。

一人が水中に没し、重量を減らした水上機は、やっとのことで
離水しハドソン湾を出発することができたのでした。

ようやく水面から飛び立った飛行機は、順調に飛行を続けていました。
しかし何人かが後ろで爆睡を始めたころ、突如機体が異常に見舞われます。

一度給油を行った(どこで?)にもかかわらず、ガス欠になってしまったのです。

ヒルト大尉はさっそく、給油の時に非常用タンクを確認したのか?
とクネッケ大尉にしつこく畳み掛けます。

『何でもできる俺』でクネッケにさんざんマウントを取られていたせいもあって、
ヒルトのこのときの逆上ぶりは常軌を逸しています。

クネッケ大尉はウゼー!とばかり、

「それを確認したかしなかったかが何だ?」

と開き直ってキレまくり。
ヒルト大尉、さらに激昂して、

「確認したのかしなかったのかどっちだ!?」

「ああ、してねーよ!(それがどうした)」

ちょうどそのとき燃料計がゼロに(笑)

緊急着陸を余儀なくされてしまいました。

「どうするんだ?」

「俺だってミスはする!司令官のお前があとは何とかしろ」

「お前のせいだああ!」⇦ヒルト大尉

佐清状態

なんとか機体を湖まで運ぶことまではできましたが、
頭から墜落してしまいました。

一瞬にして修羅場となった機内。
比較的冷静なフォーゲルが外から機体を破いて脱出成功です。

この中の一人の俳優は泳げなかったのでマジで溺れかけているそうです。

そして結局、操縦していたクネッケ大尉だけが亡くなりました。

このとき、溺れ死んだ彼の肩を持って二人の水兵が岸まで運びますが、
よく見ると死んだはずのクネッケ大尉の脚がちゃんと動いています。

遺体を前に、ヒルトは一言呟きます。

「これがクネッケという男だ」(So, that's Kuhnecke.)

先ほどジョニーに十字架を渡したフォーゲルは、遺体に十字を切りますが、
ヒルトの視線に気がつくと慌てて元に戻ります。

ナチス原理主義のヒルトに対して、キリスト教徒であるフォーゲル、
この二人はイギリス的価値観により「悪と善」と位置付けられます。

着の身着のまま無一物で彷徨していると、広がる小麦畑が現れました。

一同はそこにいた娘、アナに職探しの季節労働者と思われたのを幸い、
フッター教徒のコミュニティに入り込むことに成功しました。

彼らが荷物を何も持っていないのに疑問も持たないのは、
彼女がまだ15歳(2日後に16歳)だからでしょう。

フッター派というのは、火焙りの刑に処されたヤーコプ・フッター(1500-1536)
を開祖としたキリスト教宗派で、カナダを中心とする北米に分布し、
主として農業を共同で営んでいます。

●高度な農業技術を有し、自給自足はもちろん農産物を外部に販売している

●隔絶的な生活、信仰と固有の文化に固執する

フッター派ドイツ語独Hutterisch, 英Hutterite German)を固持する

ヒルトが案山子の頭に使われた新聞紙を見てドイツ語だ、と狂喜しましたが、
それはフッター派ドイツ語だったというわけです。

問題は彼らが

●文化の同化をしないという関係で、政治には一切かかわらない

ということなのですが、そんなところヒトラーの落とし子たちが
混入して、一体どうなるのでしょうか?(予告編風に)

客としてとりあえず彼らは食堂に案内され、貪り食います。
パンは高坏のような台に乗せられたのを各自取る仕組み。

しかしフォーゲルはパンを一口かじって微妙な顔を・・。
実は彼、シャバではパン職人だったのです。

「不味くてすまんな」

話しかけてきた隣のおやじは、この共同コミュニティが
各自の得意分野を無償提供し合うというルールを説明します。

「靴屋は靴を、鍛冶屋は鍛冶をという具合にな」

「あんたの専門は何だ」

「俺か・・パン屋だ」

気まずい。
二人は無言で互いから目を逸らしそそくさと食事に集中するのでした。

彼らはグループのリーダー、ピーターに挨拶しますが、
彼にドイツ人かと聞かれなぜか口ごもります。

アナが彼らのベッドを用意しに与えられた家にやってきました。
ところが4人の男ども、手伝うわけでなく、
ポケットに手を突っ込んで彼女を取り囲みます。

このアナ役には最初エリザベス・バークナーという女優がキャストされていました。
しかし本物のフッター派コミュニティの村でロケが行われたとき、
彼女がネイルをして煙草を吸っていたのに怒ったフッターの女性に平手打ちされ、
怒って役を降りたので、代役として出演したのがこのグリニス・ジョンズでした。

さて、アナは彼らに、ドイツ人の母親がカナダに移住する際、乗っていた船が
ナチスの魚雷によって沈没し、亡くなったということを打ち明けました。

無神経に『船は粉々になったのか』と聞くローマンとクランツを、
彼女に同情的なフォーゲルはたしなめます。

とりあえず落ち着き場所を得たので、ナチス一行は
シャツにパンツの寝巻き姿で作戦会議を行いました。

なぜか、リーダーのピーターはドイツのスパイに違いない!
という自分たちに都合の良い意見に達して会議終了。
おやすみなさいのハイルヒットラーを行います。

シャツにパンツ姿のハイルヒットラーシーンは、
戦争映画数多しといえどもこれだけに違いありません。

ベッドに入ったヒルトが、

「我々の今回のことはのちにヒトラーユーゲントの教科書に載る」

などと言い出しますが、フォーゲルは

「我々が沈めた船には女や子供が乗っていたんですね。
交易所では無抵抗の男を殺してしまいましたし」


「これは戦争だ。女子供も敵だ。
ビスマルクを読んだことないのか?
『涙を流すのは目だけにせよ』とな」
(Leave them only their eyes to weep with.)

ついでに、お前は任務を果たすには人情を優先させすぎる、
クランツを見習ってはどうだ、と説教します。

次の朝、目覚めるとフォーゲルのベッドは空になっていました。

驚いたヒルトがクランツに彼を探しに行かせると、フォーゲル、
何とパン焼き場で昔取った杵柄とばかり、パンを作ってます。

15年のキャリアを持つ彼の腕は全く衰えておらず、
その出来上がりは人々を驚かせ、喜ばせました。

今手が離せない、と呼びつけを無視したため、
ヒルト大尉が現場にむかつきながらやってきますが、
周りの皆がフォーゲルを褒めそやすものだから、つい、

「おめでとうフォーゲル、適職だな」

と言わざるを得ませんでした。

問題はその後です。
敬礼こそしなかったものの、つい習慣で、ナチスドイツの
カチッと踵を打ち合わせるポーズをしてしまうフォーゲル。

それを見ていたのは・・・リーダーのピーターでした。

そしてその日行われた会合で、波乱が起こります。
周りがドイツ系であるというだけで、何を勘違いしたのか
ヒルトが演説をぶち始めました。

曰く、他の民族は劣っている、我々はドイツに忠誠を尽くすべきだ。
東方から起こる嵐は全世界に新しい秩序をもたらすであろう。
その時力強く太陽は昇るのだ云々。

「太陽って何のことだね」

ドン引きした聴衆の一人が聞くと彼らは立ち上がり、

「ドイツ人たちよ!兄弟よ!
我々の栄えある総統閣下に敬意を!」

「ハイル・ヒトラー!」🙋‍♂️

「ハイル・ヒトラー!」🙋‍♂️ 🙋‍♂️👨←フォーゲル

あーやっちゃったよ。ハイルヒトラーやっちまいましたよ。

静まり返る一座、気まずい雰囲気。
そりゃそうだよね、彼らはドイツ系かもしれないけどドイツ人じゃないし、
ましてやナチスでもないわけだから。

リーダーは静かに、我々がここにいるのはヨーロッパでの迫害、
貧困から逃げてきた、あるいは宗教的な理由であるが、少なくとも
ここで安全と平和、寛容と理解を得てきた、それは
君らの総統によって踏みにじられたものだ、と語ります。

「しかし我々はドイツ語を喋りドイツ語を読みながら君たちとは別だ。
君たちの『兄弟』ではない。
世界に疫病のように広がり人々の自由を奪うヒトラー主義は受け入れられない」

ここで下っ端の二人が暴れだすという展開はなく、
静かに場面は転換します。

もし現実なら無事にこの場がおさまるはずがないと思いますが。

グレタさんの上位変換

その晩、アナは彼らの居室にやってきて、彼らに激しく迫りました。

「あなたたち、ナチスなのね?」

「たとえ教えに反するとしても、わたしはあなたたちを憎むわ!」

母だけでなく、彼女の父親もまた言論弾圧でナチスに殺害されていました。

警察に通報する、という彼女の言葉にいきりたつ下っ端二人。
しかし、フォーゲルは彼女をかばい、部屋から連れ出します。

キレちまったよ

「・・・許さんっ!」

一方アナを家に送り届けたフォーゲルに、リーダーのピーターは、
君のような善良な人間がなぜ彼らと一緒にいるんだ、と聞きます。
そして彼らと別れてここで暮らすことを勧めました。

フォーゲルは喜び、一旦自首して拘留を済ませたら帰ってくるといいます。

翌朝、フォーゲルはパン焼きの仕事をしていました。
粉をこねる合間に、彼がオーブンに入れたのは『Anna』の名前入りパン。

今日はアナの16歳の誕生日だからです。
ということは、彼らがここにきてまだ2日目ということになります。

そのとき彼の背後にナチス兵、ローマンとクランツが立ちました。

「機関室技術兵(Artificer)フォーゲル!逮捕する」

「貴様は第三帝国を裏切った。
正式な裁判所の決定はないが、私が上官の権限で死刑に処す」

何か言い遺すことは、と聞かれ、ただ宙を仰ぐフォーゲル。

「総統の名の下に直ちに処刑する」

続いて銃声が二発、朝の湖に響きました。
フォーゲルを連れてきた部下はその直前まで武器を持っていなかったのに・・。

まあ細かいことはこの際よろしい。よろしくないけど。

彼らは食料のたっぷりあった村から、なぜか何も持たずに手ぶらで出発し、
テクテク歩いて北緯49度線に近いウィニペグにたどり着きました。

実際に冬場、ナイアガラの滝に行ったことのあるわたしが断言しますが、
真冬、徒歩でカナダの湖沿いを野宿して移動するなど全く不可能です。

しかしこの際細かいことはよろしい。というかもうどうでもいいや。

繁華街のニュース掲示板では、彼らが乗り捨てた飛行機が見つかり、
逃亡しているナチスの残党のことが報じられています。
人混みに紛れてそのニュースを見るヒルトの姿がありました。

ヒルトが客船の切符売り場にに様子を見に行っている間、クランツとローマンは
ふらふらとと隣の食料品店のウィンドウに吸い寄せられていきます。

目を背けてもそこにはナッツ屋、フィッシュ&チップスの店、
チャプスイ(アメリカ風中華)屋、ステーキハウスのネオンが
これでもかと瞬いているのでした。

彼はヒルト大尉の双眼鏡(たぶんカール・ツァイス製)を売って
食料を買うことを勝手に判断しました。

しかしこの「独断」はことのほかヒルトを喜ばせました。

「よくやったローマン。
双眼鏡の使い道としてこれ以上の方法はない」

双眼鏡は結構な値段(当時の7ドル)になり、(ドイツ製ですから)
おかげで彼らは温かい食べ物にありつくことができたのです。

「は、我々はこれで未来をよりよく見ることができます」

誰が上手いこと言えと。

腹を満たしながらヒルトは彼の考えた計画を打ち明けました。

国境付近は警戒中なので、2000キロ移動してバンクーバーに向かい、
そこから来月出航する日本の船に乗ってロシアに逃れ、そこで味方を見つける。

それにしても2000キロ、どうやって移動するつもり?と思ったら、

歩いてるし。

荷物を持たないで、しかもこの軽装、手袋もコートもなしでカナダの荒原を。
真冬にエリー湖畔に行ったことのあるわたしに言わせると(略)

ずっと歩いていたら寒さを感じないのかしら。
それとも心頭滅却すれば火もまた涼しの反対?

そしてあっという間に彼らレジャイナ(Regina)に到着しました。

ちなみにウィニペグ空港からレジャイナ空港まで577キロ、
グーグルマップによると徒歩だと123時間34分かかるわけですが、
彼らがどこで眠り、何で食い繋いでこれだけ歩いたかは謎です。

というか、歩いている間に周りの雪は消え、季節はいきなり夏になっています。

そのとき彼らが休んでいるその近くで運悪くタイヤをパンクさせてしまった車が。

中には新品の洋服(しかもスーツ)がぎっしり。
もうこれは彼らにとってカモがネギ背負って飛んできたみたいなものです。

それにしても車の持ち主、よりによって、なんて運の悪い人なんでしょう。

ほくそ笑んだ彼らは、タイヤ交換を手伝うフリして、
後ろからスパナで後頭部を一撃!

不思議なことに、車にはスーツのみならず帽子やネクタイ、
シャツにベルトに靴まで、彼らのぴったりサイズが揃っていました。

何日間も風呂に入っていないはずの彼らが、どうしてこう
髭も剃ってこざっぱりしていられるのかも大いに謎ですが。

列車は風光明媚なカナダの山間部を走っていきます。
気のせいかまた季節が冬になっているような気がしますが、
この際細かいことはいちいち気にしないで話を進めましょう。

 

続く。

 

映画「北緯49度線(潜水艦轟沈す)」3日目

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映画「北緯49度線」、邦題「潜水艦轟沈す」3日目です。

カナダを舞台にした本作は英国で製作され、カナダとアメリカに配給されましたが、
この、フランス語圏(モントリオール・ケベックなど)のために製作されたポスター、
もうめまいがするほど突っ込みどころ満載です。

 

まず、目に留まるのは、金髪のマネキン?を横抱きにしている猟師ジョニー。
この人、最初の30分で乱入してきたナチスに殺されましたよね?
そもそも全編通じてこんな女性どこにもでてこないっつーの。

ポスターを見た人は、有名なローレンス・オリヴィエ卿、レスリー・ハワード、
そしてカナダの人気俳優レイモンド・マッセイの3人が、
アメリカでのタイトルである「インベーダーズ(侵略者たち)」と
駆け回ったり美女をお姫様抱っこしたりして戦う話だと信じて疑わないでしょう。

しかしながら、国家危機に対する啓蒙という映画の目的に感じ入り、
揃いも揃って通常の半分のギャラで出演していたこの有名俳優たちが、
実は主役ではなく脇役だったということは、実際に映画を観るまでわかりません。

最初しか出てこないオリヴィエ卿、映画開始から1時間28分後まで出てこないハワード、
マッセイに至ってはラスト13分に登場し出演時間はわずか11分。
こんなこともThe End のタイトルが出るまでわかりません。

なぜならポスターにナチスなんぞ描いても確実に客は映画館に足を運ばないからです。
たとえ彼らを演じたのがイギリス人俳優だったとしてもです。

今ならこんな宣伝はしませんが、当時は紙のポスターは絶大な広告ツールであり、
嘘大袈裟紛らわしかろうと、センセーショナルな(あるいは劣情を掻き立てる)
予告で人を釣って、とにかく映画館に客が呼べれば勝ちだったんですね。

それでいうと、今回の邦題も、

「北緯49度線より潜水艦轟沈すの方が客が呼べる(かも)」

などという配給会社の「客が入れば勝ち」的方針に準じるものなのです。

 

この映画に対しては、心優しい善人の市井人で、それゆえヒルトに処刑された
フォーゲル水兵への同情的な描き方がけしからん、とマスコミの非難があったといいます。

逆に、ドイツ人にはよほどこの映画が屈辱らしく、映画製作から30年後の1974年、
イギリスのテレビが放映することに対し、抗議を行ったという話もあります。

ドイツ人の気持ちもわからんではありませんが、所詮国策映画なんですから、
そんな時代もあったねと客観的に捉えてもよさそうなものでしょう。

さて、盗んだ衣服一式を着込んですっかり紳士風になったナチス一行、
バンクーバーに向かう汽車に乗り込み、ちゃっかり景色を楽しんでいます。

ちなみに彼らが乗るつもりである「日本行きの船」とはこのことだと思われます。
カナダ太平洋鉄道の汽船ラインはバンクーバーから日本→中国→マニラ→香港までの航路を
「極東航路」として売り出していたのです。

さて、汽車は西海岸に近いバンフ国立公園(アルバータ州)にさしかかっていました。
車掌は、今日は「先住民の日」なので見ていかれてはどうか、と言います。

車掌は「インディアン」と言っており、アメリカの「ネイティブアメリカン」とちがい
カナダではこれが憲法上の呼称なのですが、現在では多くが「ネイティブ」
(フランス語はautochtonオトシュトン)と呼称しています。



「バンクーバーまで急ぐので」

と車掌にヒルトは答えましたが、なぜか汽車を降りて
人混みを3人でうろうろし始めているではありませんか。

なぜ、と言いたいところですが、追っ手が迫るのをヒルトは
追い詰められた動物のように直感したのかもしれません。

彼らが降りた後、カナダ警察が車両を捜査にやってきて、
車掌に聞き込みを始めました。

やっぱりヒルトのドイツ訛りが怪しまれたようです。

群衆が集まる広場の上のバルコニーに、突如現れた
自称「マウンテンポリス」、正確にいうと、

王立カナダ騎馬警察/王立カナダ国家憲兵(Royal Canadian Mounted Police RCMP)

のオフィサーが、いきなり、

「この中に3名の我が国の敵がいます!」

そして見つけたら通報してほしい、とアナウンスします。

「彼らはあなたの隣に立っているかもしれません!」

そして人相風体などを細かく話し出すではありませんか。

「周りをよく見てください。その場を動かないでください」

「一人は背が低く縄で縛った荷物を持っていて」

「彼らは無抵抗の人間をもう11人殺しています」

次の瞬間、慌てて荷物を捨てたクランツは群衆に取り押さえられました。

これでまた一人脱落し、残るナチスはヒルトとローマンの二人です。

騒ぎに乗じてその場を逃げ出した二人は、いつしか湖畔に彷徨い出て、
湖でボートでのんびり釣りをしているインディアン研究者の
スコット(レスリー・ハワード)に出会います。

休暇にきたと偽る彼らを、スコットは自分のテントに招待しました。

休暇中と言いながらこんな格好でしかも手ぶら、しかも挙動不審。
スコットってもしかしたら疑うことを知らない人?

ピカソの「母と子」やマチスの本物があり(なぜ?)
クラシック音楽がラジオから流れるテントで、スコットは、ヘミングウェイや
トーマス・マン(マンはナチスが政権を握ると亡命した)について語るのでした。

富裕階級のいわゆる高等遊民というところでしょうか。(上級国民じゃないよ)
芸術至上主義のエピキュリアン、おそらく芸術のパトロンでもあるに違いありません。

夕食の前にと勧められた簡易シャワーを使いながら、
そんなスコットをヒルト大尉は軟弱だと心から馬鹿にします。

「あんな芯まで腐った男がいるなら、カナダは戦うことすらできんな」

「それは弱さと怠惰だ!俺は・・冷水を浴びる!」(バシャ)ヒィ((ll゚゚Д゚゚ll))ィッ!!!

ヒルト大尉ったらお茶目さんなんだからー。

波乱は食後に起こりました。

スコットが専門のインディアンの部族の慣習を語るついでにゲッベルスの物真似をし、
ヒトラーを揶揄し始めると、ヒルトの表情が一層険しくなりました。

硬い態度で戦争に行かないスコットに臆病だと罵るヒルトに、彼は快活に、

「うーん、今日は新しい発見があったな。
初対面の人を夕食に招待し泊めてあげたら好感を持ってくれるものだと思ってたけど、
僕はもしかしたら自惚れていたのかな」

ヒルト「どうしてここまで言われて殴りかからないんだ」

「人間には話し合って解決するという能力があるからね」

とか言っていたらいつの間にか後ろから銃を突きつけられてるし。

「これはこれは。(Well, well, well,)こりゃあ初体験だな」

だからそういう態度が気に入らんのだ、とばかりヒルトは、

「戦争も嫌なことも5千マイル遠くで起こっていると?
それはこのテントの中でも起こっているというべきだったか?」

「・・・?」

「君はハドソン湾でUボートが撃沈されてドイツ軍が逃げたニュースを?」

なるほど、道理で傲慢で愚かで礼儀知らずなはずだ、と薄笑いを浮かべ、
皮肉る彼を怒鳴りつけ、本棚に両手を縛り付けてしまいました。

ローマンが銃を突きつけながら、

「すみませんスコットさん。
我々はいまだに未開の部族のやり方を踏襲しているんですよ」

と丁寧に皮肉るのが不気味です。

こんな事態でもスコットは怖がる様子一つ見せず、
逃亡のために二人が彼の服をあさろうとすると、

「君らには似合わないよ」

財布から金を取ろうとすると、

「悪いね、現金があまりなくて・・領収書くれる?」

全く怖さを感じないね、と嘯いていた彼が表情を変えたのは、
ローマンがマチスの絵を蹴飛ばしたときでした。

こわい・・

「戦争はそのうち終わるが、芸術は永遠だ、ですか?」

そう言うや、ローマンくんたら、ライフルの銃床でマチスを破り、
ピカソを膝で叩き割って火にくべてしまうじゃありませんか。

うーん、この物知らず。というか無知とは贅沢なことよのお。

ついでとばかりトーマス・マンの本とスコットの研究も火に放り込み
(本国に次いでカナダの山中で再び焚書されるトーマス・マン・・)
ご丁寧にスコットの口に紙を突っ込んで、彼らは去っていきました。

スコットのテントから馬の鞍を盗んで逃げようとした二人ですが、
物音で他のテントの人々を起こしてしまい、逃げ惑って右往左往。

そのうちローマンがヒルトに罵られっぱなしなのにキレて、

「黙れ!」

「そっちに行くな!」

「あんたはもう俺の上官じゃねーよ!」

などと逆らい始めます。

そしてついに水兵が大尉のの後頭部を殴り倒すという下克上へと。

その間、逃げるローマンを緊縛を解かれたスコットと
テントのメンバーが皆で追い詰めていきます。

スコットは、ローマンの持っている銃に残っている弾丸、
4発を全て撃たせるため、潜んでいる洞窟に近づいて行きました。

全くたじろぐことなく飄々と歩を進めるスコット。

バン!

「One.」

ズギュン!

「Two.」

バン!

「Three.」

この時のハワードの演技は、言うなればシェイクスピア俳優でもあった
彼の真骨頂ともいうべきもので、おそらく英米のみならず、
全世界のファンはこの勇姿に胸をときめかせたことでしょう。

ちなみに、この映画の2年後となる1943年6月1日、戦争が始まってから
各地で兵士達を応援する講演活動を行なっていた彼が搭乗した
リスボン初イギリス行きの飛行機が、ビスケー湾の公海上で
ルフトバッフェ(ドイツ空軍)のユンカースJ 88に撃墜されて墜落。
レスリー・ハワードは50歳の生涯を閉じました。

最後の4発目が太腿をかすりましたが、
もう弾はないと知っている彼は一人洞窟に入って行き、まず、

「ああ、君だったか。もう一人が良かったんだがな」

というなり、襲いかかってきたローマンを

「トーマス・マンのお返しだ!」

「マチスの分だ!」

「これはピカソだ!」

「で・・これは僕の分だ!」

と叩きのめしてしまいます。(映像はなく声だけ)

二人には軟弱と見えた男は、ひとたび愛するものが棄損されたとなると、
侵害者を決して許さず、決然と武力を行使するのでした。
それはそのまま外敵に立ち向かう国体の姿の比喩となっています。

そして、足を引きずりながら洞窟から出た彼は

「ああ、実に公平な対決だった。
かたや武装した『スーパーマン』。
対して武器を持たない退廃的な民主主義者さ」

コミック「スーパーマン」が最初に世に出たのはこの3年前。
すでに全世界で大人気になっていました。

この両者の立場が『公平』であるとはどういう意味かというと、
つまり民主主義がいかに強いか、と言いたいのだと思われます。

そして最後に。

「さて、ゲッベルス博士ならこれをどう説明してくれるかな」

一人になって北緯49度線を目指すヒルト大尉に、
ドイツのラジオから鉄十字を授与する旨呼びかけがなされました。

カナダが国を挙げて行方を追う一方、ドイツからは
彼の支援が公然と表明されて、いまやヒルト大尉は時の人です。

 

ところでいまさらですが、日本語映画字幕では「ロイトナント」を中尉と訳しています。
前にも説明したようにドイツ軍のロイトナントは実は少尉なのですが、
潜水艦のナンバーツーが少尉のわけはありません。

おそらく映画ではイギリス軍のLiutenantつまり大尉であるという設定なのだろうと
独自に判断したので、当ブログではヒルトを大尉としています。

「ヒルトはどこに?」

失踪してから48時間が経ち、メディアがその存在を報じる中、
当人は、なんとナイアガラの滝の近くを走る貨物列車に乗っていました。
必死に西海岸に近づいたのに、また東に飛んでとんぼ返りとはご苦労なことです。

そのとき列車の貨物室になぜか闖入してきた乗客あり。

ポスターに描かれた3人目の「主人公」、レイモンド・マッセイ演じる
アンディ・ブロックは、軍籍に身を置いており、休暇後の警護任務のために、
ナイアガラ運河に向かう途中でした。

ちなみにマッセイはカナダ出身の俳優ですが、これが、
役柄でカナダ人を演じた唯一の映画だったということです。

スコットから盗んできたスーツを着ている彼を見て、

「素晴らしい自家用車を持っていそうだな」

と気を許した様子。

貨物列車に潜み、顔に傷を負っている男を怪しみもしません。

油断していたら、ヒトラーの悪口を言いながら軍服着替えているところを、
後ろからヒルトに銃で殴られてしまいました。

なんのためって、そりゃ軍服を奪うためですよ。
まさか逃亡中のナチスがカナダ軍人の格好をしているとは誰も思うまいってか?

そのとき列車はカナダ側のナイアガラの滝駅に到着しました。

ヒルトが物陰でブロックに銃を突きつけていると、
車掌が荷物を見回りにきて、車両に鍵をかけて行ってしまいます。

汽車は国境を超え、アメリカに入国します。

まさにヒルトの思う壺。
思わず喜んでハイルヒトラーしてしまう根っからナチスのヒルトでした。

「我々は軟弱な民主主義に勝った。
民主主義国の君たちの、薄暗い、濁った心には及びもつかない、
我々の内側にあるものによってだ。

すべてのアーリア人を結びつける血と人種の輝かしい神秘的な絆について、
君は何を知っているというのだ?」

カナダ人のおっさん一人を相手に高らかに勝利宣言するヒルト。

2輌しかない貨物列車はまさにナイアガラの運河を渡りつつあります。

アメリカに向けて・・・と言いたいところですが、このカット、
どちらもアメリカ側から撮られており、列車はカナダに向かっています。

さらにさきほどブロックがこぼしていた軍隊の食事などの愚痴について、
貴様らの国は劣等であると揚げ足を取ると、いきなりブロックが反撃に出ました。

「ゲシュタポに監視されているお前らにはそんな文句も言えまい?」

好きなものを食べて自由に話す権利がある、
抵抗する自由、不平を言う自由、それが民主主義だ、と。

ヒルトがぐっとつまっていると、列車はアメリカ側に到着しました。

見回りにきたアメリカ側の税関職員二人に、ヒルトは軍帽を脱ぎ捨て、
銃を二人に渡し、ドイツ領事館の身分保護を要請します。

え・・・?

じゃなんでわざわざブロックの軍服を奪う必要があったんだろう?
もしもに備えてかしら。

彼はアメリカの法の下、たとえ軍人であっても、
ドイツ市民として自分の身分は保護されると主張したのです。
戦時下ではない当時、それは確かに合法でした。
(引き渡し法もなかったと思われます)

このまま送り返せ、と叫ぶブロックに、法は法だからな、と職員。

「貨物の点検をするのが我々の仕事だ」

という言葉尻を捉え、ブロックは

「それなら貨物の目録にこいつは載ってないだろ?」

「・・・そうだな、確かに載っとらん」

税関員は列車をカナダに送り返す、と宣言しました。
とんちかよ。

ありがとうと叫ぶブロックに、彼は

「我々は任務を行なっただけですよ、兵隊さん」

「法律違反だ!」

と叫ぶヒルトに、喜色満面のブロック。

いや、これカナダまでナチスと二人で閉じ込められてるのよ?
いくら銃は税関職員にわたしてしまったとはいえ、怖くないの?

と思ったらご安心ください。
すっかりヒルト大尉、怯え切っております。

そして、バリバリ現役兵士のブロックは、軍帽を拾って被り、

「手を上げろ、ナチ公」

後ろの扉にしがみ付いていたヒルトがホールドアップすると、

「違う、そういう意味じゃない」

とファイティングポーズを取り、

「ズボンを返せ、とお願いなんぞしないぜ?

・・・・奪ってやる」

この作品は、アカデミー賞を受賞した数少ない第二次世界大戦の潜水艦映画、
と言われているそうです。

確かに国策映画としては非常によくできていると思いますし、
エンタメとして面白いのは認めますが、
これを潜水艦映画のジャンルに入れるのはいかがなものでしょうか。

 

それと、最後の舞台となったナイアガラの滝は、北緯49度線上にありません。

 

終わり。

 


スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(英米編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーには
世界各国の「エース」と言われた戦闘機搭乗員の紹介があります。

まず「エースとはなんぞや」から始まる説明をどうぞ。

空対空戦闘で、5機以上の敵機を撃墜したパイロットをエースと呼びます。
第一次世界大戦時、フランスによって最初に使用されたこの称号は、
公式ではないことが多かったにもかかわらず、すぐに、全ての戦闘員
(世界各国の)に採用される「基準」となりました。

もともとは、エースの資格には10機撃墜が最低条件でしたが、
第一次世界大戦の最後の年までには、5勝が基準となりました。

第一次世界大戦からベトナム戦争までの戦争に従事した約5万人の
アメリカ軍戦闘機パイロットのうち、エースになり得たのはそのうちの3%未満です。

ここに紹介されているのは、第二次世界大戦時の各国のトップエースです。

スミソニアンが選んだエースは、全部で21名です。
もちろん「5機以上」ならここに収まりきれる数ではありませんから、この21名は
その中のトップエース、文字通り「エース・オブ・エーセズ」ということになります。

■ アメリカ合衆国

リチャード・アイラ・ボング陸軍少佐 

Maj. Richard Ira Bong (September 24, 1920 – August 6, 1945)USAAF 

40機撃墜 愛機:マージ号

USAAFはUnited States Army Air Forces(アメリカ合衆国陸軍航空隊)のこと。
ボングについては当ブログでも何度かご紹介しています。

南西太平洋戦線で日本軍機とP-38で戦い、1944年に第一次世界大戦中、
リッケンバッカーの記録26機を上回り、アメリカ軍のトップ・エースとなりました。

その後は本国でP-80シューティングスターのテストパイロットに回されましたが、
終戦直前の1945年8月6日、テスト飛行で墜落死しました。

トーマス・ブキャナン・マクガイア・ジュニア陸軍少佐 

Thomas Buchanan McGuire Jr. (August 1, 1920 – January 7, 1945) USAAF

38機撃墜 愛機:パジーV世号

ジョージア工科大学という超難関校の学籍を捨ててパイロットになったマクガイアJr.は、
南太平洋でやはりP-38ライトニングでボングと撃墜数を争うエースでした。

 

1945年1月7日、ネグロス島上空の哨戒任務中に帝国陸軍航空隊の
杉本明准尉操縦の一式戦「隼」、福田瑞則軍曹操縦の四式戦闘機「疾風」と交戦、
戦死しました。

David McCampbell.jpg

デイビッド・マッキャンベル海軍大佐 

Cap. David McCampbell  USN (January 16, 1910〜June 30, 1996 )aged 86

34機撃墜

偶然ですが、マッキャンベル大佐もジョージア工科大学から海軍兵学校に進んでいます。

F6Fヘルキャットのトップエース。
第二次世界大戦のアメリカ人のエースの中で3番目に高い得点を記録し、
戦時中に生き残ったアメリカ人のエースの中で最も高い得点を記録しました。

また、1944年10月24日、フィリピンのレイテ湾の戦いの開始時に、
1回のミッションで9機の敵機を撃墜するという空中戦記録を樹立しています。

ちなみに彼は信号士官時代、日本の潜水艦が撃沈した空母「ワスプ」に乗っていて
生還し、そこから搭乗員となったという経歴の持ち主です。

現在のスミソニアン国立博物館に展示されているF6F-5ヘルキャットは
彼の乗っていた空中戦の勝利の数だけ旭日旗が描かれたものを再現しています。

Francis Gabreski color photo in pilot suit.jpg

”ギャビー”・ガブレスキー陸軍大佐

Col. Francis Stanley "Gabby" Gabreski (January 28, 1919 – January 31, 2002) 

USAAF

31機撃墜

ポーランド系アメリカ人。
第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるアメリカ陸軍航空隊の戦闘機エースであり、
朝鮮戦争におけるアメリカ空軍のジェット戦闘機のエースでもあります。

2つの戦争でエースになったアメリカ人搭乗員は7人いますが、その一人。

ポーランド語が話せたことからRAFでの戦闘機デビューをした彼は、
リパブリックP-47サンダーボルトに乗ってルフトバッフェと戦い、
ヨーロッパ作戦地域のトップ・エースとなりました。

28回の撃墜スコアは、太平洋戦域のアメリカのトップ・エースであった
リチャード・ボングの撃墜数合計に匹敵します。

この対ドイツ軍成績は他のアメリカ人パイロットの誰にも破られていません。

グレゴリー・”パピー”・ボイントン海兵隊中佐

Lt. Col. Gregory ”Pappy" Boyington  (December 4, 1912 – January 11, 1988)

USMC

23機撃墜

中華民国空軍の「フライング・タイガース」(第1アメリカ義勇軍)出身。
海兵隊エースとしては彼がトップとなります。

海兵隊に再入隊後は南太平洋に配備され、F4Uコルセア戦闘機で戦闘任務を行います。
南太平洋では零戦に対し劣勢で一機も撃墜できなかった彼ですが、
自身が日本機に撃墜され、潜水艦に捕獲されて捕虜になる直前の32日間で
急激に記録を伸ばし、リッケンバッカーの25機を抜く26機撃墜を行いました。

このときボイントン撃墜を自分が行ったと主張したのが、帝国海軍の川戸正治郎上飛曹です。

この主張は英語wikiによると最終的に反証(つまり否定)されていて、しかも

「川戸は反証にもかかわらず、死ぬまでその話を繰り返した」

と彼の主張に疑義を呈する書き方がされています。
(日本語Wikiでは”推定されている”とのみ記述)

■ イギリス

マーマデューク・トーマス・セントジョン”パット”パトル王立空軍少佐

Sq. Ldr. Marmaduke Thomas St. Jhon ”Pat "Pattle(3 July 1914 – 20 April 1941)

RAF

51機以上撃墜

Squadron Leader Pattle of 33 Squadron RAF Greece IWM ME(RAF) 1260.jpg左・パット

Marmaduke Thomas St. John Pattle, DFC & Bar。
これが人の名前とタイトルだということすらピンとこなかったわけですが、
本人も自覚していたらしく、自分の愛称を家名から取った「パット」にしています。

マーマデュークなる名前はお祖父様のミドルネームから取られています。
このファーストネームで特に学齢期、彼はなかなか苦労したかもしれません。

彼は南アフリカ生まれで、18歳で南アフリカ空軍に志願したものの却下されたので、
イギリスに渡り、短期で王立空軍のパイロットになりました。

イタリア侵攻後、彼の飛行隊はギリシャでイタリア軍と戦い、
彼の撃墜記録はほとんどがそこで達成され、RAFのトップエースになります。

最後の日、彼は前日からの高熱にもかかわらずハリケーンで出撃し、
ルフトバッフェのメッサーシュミットBf110重戦闘機に撃墜され戦死しました。

ジェームズ・エドガー・”ジョニー”・ジョンソン王立空軍少将

Air Vice Marshal James Edgar Johnson, CB, CBE, DSO & Two Bars, DFC & Bar, DL
(9 March 1915 – 30 January 2001)

RAF

38機撃墜

この人も自分の愛称を本名には全く含まれない「ジョニー」にしています。

ところでイギリス人の名前(偉くなった人)には、このように
ずらずらとタイトルがくっついてくるのが常ですが、
この際簡単に説明を加えておくと、

CB=バス勲章(騎士団)
CBE=大英帝国勲章 (騎士団)&DSO=メダルリボン
DFC=殊勝飛行十字章(戦功章&DSO
DL=副統監職

となります。

Wing Commander James E 'johnny' Johnson at Bazenville Landing Ground, Normandy, 31 July 1944 TR2145.jpg愛犬(ラブラドール)はサリーちゃん

ジョンソンはエンジニアからパイロットに転身しました。
ラグビーで骨折した鎖骨の手術のため、バトル・オブ・ブリテンには参加できませんでしたが、
その後の対独掃討作戦に、ほとんど休むことなく参加し、撃墜記録を上げました。

彼が参加した作戦には、ノルマンディーの戦い、マーケットガーデン作戦、
バルジの戦い、西部連合軍のドイツ侵攻などがあります。

スミソニアンの記述だと38Victoryとなっていますが、Wikiなどでは、

個人勝利34、共同撃墜7、共同未確認3、損壊10、地上機撃破1

という記録になっています。

個人勝利ではメッサーシュミットBf109を14機、フォッケウルフFw190を20機破壊であり、
対ルフトバッフェにおける西側連合軍の戦闘機エースとしては、トップに君臨します。

 

続く。

 

スミソニアンが選ぶ第二次世界大戦のエース(連合国編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアンの「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
当博物館がセレクトした戦闘機エースのその頂点となるトップエースを
ご紹介していますが、前回英米編をお送りしたので、今日はその流れで
連合国軍のエースと参りたいと思います。   

ソビエト連邦(ソ連)国歌 歌詞の意味・和訳ソビエト連邦

戦後冷戦でアメリカ世界の勢力図を二分したソ連が、
第二次世界大戦の時には連合国側だったというのが不思議な気がします。

ソ連が連合国側に加わったのは、1941年のソ連侵攻、つまり
独ソ戦が始まったときということになります。

というわけで、最初に紹介する冒頭の目が怖い搭乗員は、ソビエト空軍のみならず、
連合国軍全ての戦闘機搭乗員のトップに君臨するエースであるこの人です。

【連合空軍のトップエース】

イヴァン・ミキートヴィッチ・コジェドゥーブ ソ連人民空軍元帥

Msl. Ivan Nikitovich Kozhedub  Иван Hикитович Кожедуб
( 8 June 1920 – 8 August 1991)

BBC CCCP(ソ連空軍)

62機撃墜

飛行クラブで航空への第一歩を踏み出した彼は、1940年初頭に赤軍に入隊し、
軍パイロットとしてのキャリアを始めます。

戦闘機パイロットとしての初陣で彼は メッサーシュミット109と交戦しますが、
機体を損傷し、なんとか帰還したものの彼にとって完全な敗北戦となりました。

その後、ユンカースJu-87爆撃機2機とBf-109戦闘機2機を皮切りに、
たちどころに20機を撃墜し、トップエースに躍り出ます。

終戦まで彼はLa-7による330回の出撃、120回の空戦で62機の敵機を撃墜しました。

その内訳は、

Ju-87→17機、
爆撃機Ju-88→2機
He-111→2機
Bf-109→16機
Fw-190→21機、
攻撃機Hs-129→3機、
ジェット戦闘機Me-262→1機

というものです。
Me-262を撃墜したのはソ連空軍では初めてですが、史上3番目
(前年にアメリカ軍のクロイとマイヤーズが1機ずつ撃墜)です。

彼は機体を撃破されても必ず機体を帰還させ、生還しました。
28歳の時にはMiG-15ジェットの操縦もマスターしています。

戦時中は下士官だった彼は、1956年に36歳で陸軍士官学校を卒業し、
最終的には空軍元帥にまで昇り詰めました。

【味方を撃墜した理由】

アレクサンドル・イワノビッチ・ポクリシュキン ソ連空軍元帥

Gds. Col. A. I. Pokrysyhkin(21 February 1913 – 13 November 1985)

BBC CCCP

59機〜90機撃墜

Маршал авиации А. И. Покрышкин最終型。勲章塗れ

ポクリシュキンは、連合国軍中、前述のコジェドゥーブに続く
2番目の撃墜数をあげて成功した戦闘機パイロットです。

12歳の時に初めて飛行機が飛ぶのを見て、航空に興味を持った彼は、
赤軍入隊後、こっそり民間人パイロットクラブに通ってプログラムを終了し、
軍航空学校を卒業してパイロットになる夢を叶えます。

第二次世界大戦の参加のことをロシアでは「大祖国戦争」といいますが、
その大祖国戦争に少尉として参加したポクリーシュキンは、
早々に大失敗をしてしまいます。

邀撃戦でいきなり間違えて同僚、しかも爆撃隊飛行隊長機を撃墜したのです。

彼の言い訳?によると、空中に見たことのないタイプの航空機を見つけ、
攻撃して撃墜してしまってから、翼にソ連の赤い星が付いていることに気がついたと。
しかもそのSu-2軽爆撃機にはソ連の第211爆撃機航空連隊長の乗っていました。
なぜ彼が誤解したかというと、ソ連軍内にも秘密にされていた新型機だったからです。

深く反省した(たぶん)彼は、翌日Bf109を撃墜しました。

のちにこの味方撃墜が国民的英雄である彼の仕業と聞いた同僚が、彼に

「冗談だろ、サーシャ」

というと、彼はこういいました。

「冗談じゃない、戦争が始まった頃、本当にSu-2を撃墜したんだ。
スホーイは戦争直前に登場したんだが、とても珍しい形をしていたので、
てっきりぼくはファシスト(の機)だと思ってしまったんだよ」

その後彼は190回の出撃を行い、公式には59機、非公式には
90機とも言われるドイツ機を撃墜し、連合国第二位のエースになりました。

🇵🇱 ポーランド

1939年のドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まったのですから、
当然ですがポーランドは「最初の連合国」?ということになります。

【祖国からの告発ー死刑囚から准将へ】

スタニスワフ・スカルスキ 空軍准将

BG Stanisław Skalski DSO DFC & Two Bars
 (27 November 1915 – 12 November 2004)

PAF・ RAF

22機撃墜 

この人のことについて以前当ブログで取り上げたことがあります。

第二次世界大戦中、ポーランド空軍とイギリス空軍に所属し、
戦争が始まってまもなく、一回の出撃で6機のドイツ機を撃墜したことから、
第二次大戦最初の連合国側の戦闘機エースということになります。

彼はその後他のポーランド人パイロットとともにルーマニア亡命し、
イギリス王立空軍に加わってバトル・オブ・ブリテンに参戦しています。

その後RAFでHe 111爆撃機、メッサーシュミットBf 109などを撃墜し、
RAFのNo.317(ポーランド)飛行隊の指揮官を務めました。

彼の指揮した部隊は「Cyrk Skalskiego」(スカルスキー・サーカス)と呼ばれていた、
ということもこのブログに以前書いたかと思います。

その後彼はRAFのNo.133ポーランド戦闘機航空団の司令官に任命され、
マスタングMkIIIを使用していました。


🇺🇸製マスタング、🇬🇧空軍仕様に乗る🇵🇱人の図

順調だった彼のキャリアは戦後暗転することになります。
帰国した彼を待っていたのは、共産党当局によるイギリスのスパイという汚名でした。

逮捕勾留中には拷問を受け、1950年、見せしめの裁判で死刑を宣告されるのです。

心労が髪に・・・

死刑判決を受けてから3年間を牢屋で過ごす間、彼の母親は必死で運動し、
大統領にまで働きかけた結果、まず無期懲役に減刑されました。

それからさらに3年後、1956年に裁判所は前回の判決を覆しました。

「ポーランドの10月」でスターリン主義が終焉を迎えた後、
1956年、8年ぶりに解放された彼はポーランド軍に復帰し、
そしてポーランドの共産主義崩壊を目前にした1988年、准将に昇格しました。


【三カ国空軍で戦った男】

ヴィトルト・ウルバノヴィッチ空軍大将

Witold Urbanowicz (30 March 1908 – 17 August 1996)

LWP RAF  USAAF 

20機撃墜

彼が88歳でその生涯を終えたのはニューヨークでした。
ポーランドの農家に生まれ、イギリス軍で少佐になり、中国大陸で日本軍と戦った男は、
その余生をアメリカで過ごしたということになります。

ポーランドの空軍士官候補生学校に入学し、24歳で少尉任官した彼は、
夜間爆撃隊を経て戦闘機乗りの道を歩み始めます。

教官となった彼は、どういう理由でか「コブラ」というあだ名をつけられました。
第二次世界大戦で活躍した多くのパイロットが、彼の指導のもとで最初の訓練を受けています。

航空学校の演習が行われていた時、ドイツ機が襲来し、これが彼にとって
最初の空戦の実戦となったわけですが、1機も撃墜することはできませんでした。

それどころか地上の愛機が撃破され、次の飛行機も到着しなかったため、
彼は自国軍に見切りをつけたのか、王立飛行隊の招待を受けて英国に移りました。

このときRAFはポーランド軍の搭乗員全般をスカウトしており、
ウルバノヴィッチの他にもそれに応じたパイロットは何人もいたのです。

のちにRAFに「ポーランド飛行隊」が結成されたのもこういう下地があったからです。

ウルバノビッチはRAF145戦闘機隊のパイロットとして、
8月4日にバトル・オブ・ブリテンに参加し、このとき
メッサーシュミットBf109を2機撃墜していますが、公式統計には含まれていません。

9月15日はバトル・オブ・ブリテンの勝敗が決まったと言われる日ですが、
この日、彼はドイツ軍の60機の爆撃機を援護する戦闘機隊との交戦を指揮し、
バトル・オブ・ブリテンの間だけで、

Do-17 3機
ハインケルHe111 1機
Ju88 2機、
Bf109 4機
Bf110 1機

という撃墜記録を残しています。

その後彼はポーランド軍戦闘機隊の指揮官になったのですが、
どういう理由かポーランドでは彼は評判が悪く、任務から外されてしまいました。

そもそも、この人は最初から何かと物議を醸すたちだったようで、
「妥協しない」(融通が効かない)「非外交的」などと言われていました。

ポーランド語による彼のバイオグラフィによると、かれは

「ポーランド軍の格納庫付近でスパイ活動をしていた
ヴィリー・メッサーシュミットへの厳しい仕打ちを行った」

つまり「そういう(酷い)人だった」とされているようですが、
そもそもメッサーシュミットがポーランドでスパイ活動をしていた、
という話は他に聞いたことも見たこともありません。

彼の人望のなさはわかりましたが、メッサーシュミットのスパイの件、
本当だったのかどうか。
どなたかご存知でしたらぜひ教えていただきたく存じます。

アメリカへ

ポーランド軍の指揮官を外された彼は、アメリカに渡りました。
アメリカのポーランド系コミュニティに向けて、軍の志願者を募るため、
講演会を開くという名目でした。

その後、駐在武官としてワシントンにとどまっていたウルバノビッチは、
1943年、中国戦線で戦うアメリカの第14空挺部隊に(ゲストとして)志願します。

そして「フライングタイガース」として有名な、第23航空群第75戦闘飛行隊に配属されました。

(おそらく)シェンノートと話すウルヴァノビッチ。

この部隊のパイロットとしてP-40Nキティホークに乗り、
彼は爆撃機や輸送機を護衛しながら、12月11日、南昌飛行場上空で、
日本軍機2機(公式記録)]おそらく中島キ44型機を撃墜しています。

これにより、彼は三ヶ国の空軍のために飛んだパイロットとなり、
史上たった一人、日本軍と交戦したポーランド人パイロットになりました。

 

除隊後はアメリカに残り、航空関係の会社の統計担当者として、
その後はニューヨークのキリスト教男子青年同盟の理事会事務局長として働きました。

彼はYMCAの代表として、ポーランドに滞在した際、公安省の職員に
4回も拘束されながら、なんとか刑務所を免れて海外に逃れたと告白しています。

運が悪ければ祖国の裏切り者として、スカルスキのような目に遭ったのかもしれませんが、
その後ポーランド政府からは亡命中にも関わらず大佐に任命され、さらにその後、
レフ・ワレサ大統領は彼に准将の階級を与えました。

かつて日本を敵として戦った彼ですが、航空業界のコンサルタントであった1991年6月、
彼はオファーを受けて、初めての来日を果たしています。

バブル時代のきらびやかな日本の姿に、彼は目を見張ったかもしれません。

 

 

続く。

 

 

スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(連合国フランス編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
世界の戦闘機のエースを紹介しています。

このコーナーでスミソニアンが選んだトップエースは21名。
アメリカ人パイロットが5名というのは自国なので仕方がありませんが、
あとは8カ国から2名ずつという内訳です。

米英につづき、ソ連、ポーランドまできましたので、今日は
残りの連合国であるフランスのエースを紹介しましょう。

🇫🇷フランス

当ブログで第一次世界大戦について取り上げたとき、
「ソンムの戦い」「ヴェルダン攻防戦」などでは
「肉挽き機」というくらい壮絶な死者数を出したことについてお話ししました。

フランスは第一次世界大戦でドイツと戦って勝ったわけですが、
その人的被害はあまりに凄まじかったため、報復感情もあって、
戦後フランスはドイツに対し莫大な損害賠償を請求します。

そしてそのことがドイツを追い詰め、ヒトラー率いる国粋主義的政党、
ナチス労働党が生まれるきっかけを生むことになります。

1939年にドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦が始まると、
フランスはイギリスとともにドイツに対し宣戦布告を行いますが、
フランスは第一次世界大戦の成功体験から、「マジノ線」という防衛ラインを置くと
それで安心し、近代装備を備えたドイツ軍にしてやられ、降伏してしまうのです。

フランスがなぜこうもあっさりとドイツ軍に凱旋門を明け渡したかというと、
第一次世界大戦の被害が大きすぎて、
国民の戦意(モラルですね)が低かった、ということのようですが、
もちろんそうではない人もいて、パルチザンとなってゲリラ活動を行いました。

というわけで、フランス空軍の第二次世界大戦における戦闘というのは、
どのように行われたのか、あまり人々に語られることはないわけですが、
航空隊の戦闘機エースはもちろん存在します。

 

ピエール・アンリ・クロステルマン空軍中佐

WC Pierre Henri Clostermann DSO DFC&Bar
( 28 February 1921 – 22 March 2006)

FAFL RAF AAEF

33機撃墜

まず、彼が所属した最初の軍の略語FAFLについて説明します。

Forces Françaises Libres(自由フランス軍)

はフランスがドイツに占領され、仏独戦が休戦となってから以降に
枢軸国軍と戦ったフランスの個人あるいは集団を表します。

自由フランス海軍はイギリス海軍の補助的任務を行い、
自由フランス空軍(FAFL、Les Forces aériennes françaises libres )は
フランスから逃れたパイロットや、南アメリカ諸国からの志願者から成り、
バトル・オブ・ブリテンにも参加しました。

しかし、クロステルマンが本格的に戦闘機乗りとしてデビューしたのは、
自由フランス軍という身分のまま、王立空軍RAFでのことになります。

彼のWCというタイトルは、Wing Commander、RAFの中佐という意味です。

 

ピエール・クロステルマンは、アルザス-ロレーヌ地方出身の外交官の息子で、
父親の赴任地であるブラジルが出身地です。

外交官令息という恵まれた環境に育ち、14歳で水上機の操縦を始めており、
その後はアメリカに留学して航空工学の学士号と免許を取得しています。

自由フランス軍に入隊したときには、
彼の飛行時間はすでに315時間になっていました。

祖国フランスのために空軍パイロットとして奉仕する決心をし、
彼はイギリスに渡り、RAFの士官候補生コースを優秀な成績で卒業します。

彼のRAFでの初飛行は、スーパーマリン・スピットファイアでした。


指輪とかブレスレットとかお洒落な感じがさすがおフランス人

写真は、フランス人ばかりの第341戦闘機部隊「アルザス」に配置された
クロステルマン軍曹(当時)。

ちなみにこの「クロステルマン」という名前は、
彼の家系がドイツ系であることを表しています。
ドイツ軍の伝説のエース、マルセイユの家がフランス系だったように、
ヨーロッパでは他国の血筋を表す名前を持つ人が普通にいるものです。

RAFという組織は、リベラルというのか、外国人パイロットを取り入れ、
その民族グループごとにまとめる組織を作って任務をまかせるという、
実に合理的なやり方で枢軸国と戦っていたわけですが、それは、
同じ連合国同士協力してもらうが、文化風習が違う異質な存在を
我々の中には決して混入させない、というあの民族独特の排他主義のもとに
きっちりと運営されていたという感があります。

その現れが「アルザス」などの民族部隊です。
このフランス人部隊の役割は、「元リビア・シリア」そして
「RAF内で孤立したフランス人」を再統合することでした。

アルザス航空隊はRAFの組織でしたが、彼らの身分は自由フランス軍人のままです。


【RAFの自由フランス軍部隊】

クロステルマン軍曹が他の三人のフランス系軍曹と到着したとき、
部隊にはまだ飛行機がなく、しばらくすると9機が届けられました。

パイロット30人に対し9機の飛行機で訓練は開始されます。
飛行隊長はある意味完璧主義で、空対地、空対空、空対海戦について

「自分たちの態勢を完璧に、油を塗った歯車を持つ美しい機械のように仕上げる」

という姿勢で訓練を行いました。

クロステルマンの部隊は主にフランス上空での爆撃機の護衛で、
彼はよく隊長のウィングマンを務めていました。

そして90機のルフトバッフェを24機で迎え撃つことになったある日の任務で、
彼はウィングマンを務めた隊長、ルネ・ムショットを失います。

René Mouchotteムショット(左)

ムショットは初めて英連邦以外の国の士官としてRAFの飛行隊長となった人で、
フランスでは至る所にその名前がレガシーとして残されています。
華々しい功績を挙げたとかいう話は残っていませんが、どうもその人格が
誰をも敬服させずにはおかないほどの立派な指揮官であったようです。

 

ムショットの遺体は数日後にベルギーの海岸で発見されました。

国際的に評価の高く尊敬されていたリーダーをむざむざ失ったことを、
彼の過失とする人々もいたようですが、後の調査によると、撃墜されたのではなく、
体調不良による操縦ミスで飛行機を墜落させたのではないかということになっています。
(と少なくともクロステルマンは語っているそうです)

しかし、ムショットの後任の隊長はクロステルマンを編隊から外しました。

 

そのことがきっかけで、クロステルマンはフランス人部隊を出て、今度は
602飛行隊「シティ・オブ・グラスゴー」15への配属を希望しました。

ここで彼は、イギリス人の友人と「気楽で楽しい生活を送った」とされます。
どうもフランス人パイロットの社会には馴染めなかったようですが、これは、
ブラジル生まれでアメリカに留学し、フランス本土でほとんど生活をしてこなかった、
という彼の育ちが多少なりとも関係しているような気がします。


イギリス人の方が俺なんか気楽に付き合えるんだよな(左)ってか


そしてノルマンディ上陸作戦では5回の空戦成功を収め、
RAFの基準で11回の勝利を追加しました。

ところで、彼自身が身をもって経験し、恐れていたことに、ドイツ軍の対空砲がありました。

クロステルマンの部隊はルフトバッフェのMe262ジェットを封じ込め、
さらに敵の鉄道網と対空砲を攻撃するという任務を負っていましたが、
ドイツ軍の対空砲は恐ろしいくらい正確で、何人もの同僚を失うことになりました。

しかし、彼はMe262と交戦し、破損した機体を胴体着陸させたり、
次にフォッケウルフ・コンドルに撃墜されるも無傷で生還するなど、
強運に徹頭徹尾恵まれたパイロットでした。

「僕に任せておけば楽勝さ」

生還するたび、彼は楽天的にこんなことを嘯いていたそうです。

彼が危うく難を逃れたのはこれだけにとどまらず、戦闘ではない
デモンストレーション飛行で、一度はチームメイトの機と空中衝突し、
墜落していく機のコクピットからパラシュートで脱出していますし、
また別のデモンストレーション(デンマーク国王天覧)では
ランディングギアの故障で着陸に失敗するも、命に別状はありませんでした。

しかし前者の事故では彼は3人のチームメイトを喪い、これらの事故は
彼をRAFとの関わりから「足を洗う」きっかけになりました。

 

第二次世界大戦中あげた33機撃墜記録はフランス人パイロットのトップであり、
その後はフランス空軍(Armée de l'Air et de l'Espace FrançaiseAAEF)に移籍して
予備中尉に任官し、予備役大佐という階級で軍人としてのキャリアを終えました。

戦後は政治家となり、著作を行なって、2006年、85歳の生涯を終えています。

 

ついでに、彼は戦後RAFが所有していた(というかドイツから召し上げた)
Me262を操縦し、初めてジェット機を操縦したフランス人パイロットになりました。

 

マルセル・アルベール 空軍大尉

Cap. Marcel Albert(25 November 1917 – 23 August 2010)

FAFL RAF

23機撃墜

Marcel Albert.jpg

ピエール・クロステルマンに次ぐ撃墜記録を挙げたフランス人エース。

アルベールの父親は第一次世界大戦に出征し捕虜となったり、
マスタードガス後遺症で苦しんだという人物です。
学齢期に父親を失った彼は国からの奨学金で中等教育を受け、
パイロットの資格も取りました。

下士官から始めて戦闘機部隊配属された彼は、当時のフランス最高の戦闘機、

ドゥボワティーヌ Dewoitine D.520

に乗って30ものミッションをこなし、ドルニエ17とハインケル111、
2機に対し勝利を挙げました。

【ヴィシー空軍から自由フランス軍へ】

ドイツに祖国が占領されたことについて、フランス人パイロットは
遺恨に持ち、前線では絶え間なく存在感を確保するため神経を尖らせていました。

しかし、彼らはフランス敗北の原因の大部分が空軍にあったということを
おそらく理解していなかったのではと思われます。

彼らは、なぜ何百機もの新型機が倉庫に放置されているのか、
作戦部隊の装備が大幅に不足しているのかを知りませんでした。


アルベール軍曹は他の2名の軍曹仲間とともにフランス軍を「辞め」、
自由フランス軍に逃れることを決意します。

自由フランス軍、それはつまりRAFの「フランス人部隊」ということでもあります。

彼はそこでスーパーマリン・スピットファイアによるミッションをこなし、
少尉に任官するに至りました。

【ノルマンディ戦闘機群】

ドゴール将軍がフランスの戦闘機部隊をロシア戦線に派遣することが決まり、
アルベール少尉は志願してロシアに赴き、そこで
「ノルマンディ戦闘機群」に配備されてYak-9戦闘機に乗ることになります。

飛行するYak-9M (1944年撮影)

彼はここでフランス人同僚を全員失い、唯一の生存者となりました。
ロシアで挙げた撃墜数は21機となり、彼は大尉に昇進して、ソ連政府から
最高賞である「ソ連の英雄」のゴールドスター賞を授与されました。


1944年12月23日、彼はグループの元メンバー数人とともに、
フランスに帰郷&休暇に出かけ、帰ってきたら戦争は終わっていました。

その後彼はパリに戻り、凱旋式典で迎えられると同時に腸チフスで入院しています(´・ω・`)


戦後彼はプラハのフランス大使館に軍属として赴任しますが、
新しい職場に馴染めず、そこで知り合ったアメリカ人女性と結婚して
ニューヨークに渡り、紙コップを作る会社を起こして成功しました。

そして92歳、テキサス州の老人ホームで人生を終えました。

 

フランス人のツートップエースがどちらも祖国でなく、アメリカで
第二の人生を選んで結構幸せな一生を送ったことは、たんなる偶然かもしれませんが、
何かフランス人の超個人主義の現れかもしれないなどと思ってみたりします。

 

続く。

 

スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(枢軸国編1)〜スミソニアン航空博物館

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英米に始まり、スミソニアンが選んだ第二次大戦の戦闘機エースを
連合国からご紹介してきましたが、ようやく枢軸国側に参ります。

今更説明するまでもないことですが、枢軸国=アクシスは、
第二次大戦前から戦時中にかけて、米・英・仏等の連合国に対立した諸国家、
つまりドイツ、イタリア、日本を中心とする国家のことです。

語源は、1936年、ムッソリーニが

「ローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回する」

と演説したことに由来します。

おいおい、日本はその線にどうかかわるんだ、という説もありますが、
ムッソリーニもヒトラーも、日本などは枢軸の「軸」とは思っていないので、
つまり枢軸国以外のアルバニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリー、
ルーマニア、スロバキア、スペイン、タイと同様、

「枢軸の周りを転回している国の一つ」

程度に認識していたに過ぎないんだなと思われます。

ところで今回、わたしは今まで考えたこともなかった、

「フィンランドは第二次世界大戦で連合国枢軸側どちら側だったのか」

について、驚くべきことを(わたしだけ?)知りました。
しかも、調べてみるとこの区分けが非常に曖昧です。

連合国だったのか?というと、そうでもない。
ちなみにウィキでは、

枢軸国側に宣戦・戦闘行為を行ったが、連合国とは認められていない国

これではまるでコウモリみたいです。

それでは説明しよう。

フィンランドは開戦3ヶ月後、連合国側であるソ連に本土侵攻されました。
そして「冬戦争」で闘ったので、この時点では「反連合国」です。

しかし、1944年9月にソ連および英国と休戦協定締結することになりました。
その休戦協定には

「フィンランド領内からドイツ軍を追放するか武装解除して人員を抑留せよ」

と要求した条項があったのです。

ドイツ軍の撤退はフィンランドと戦争していたわけではなく、後述するように
ソ連との戦争で航空機を供与するなど共闘関係だったため平和的でしたが、
一旦何かのきっかけでフィンランド軍とドイツ軍の間に戦闘が発生すると、
以降、ドイツ軍は、徹底した焦土戦術を伴い、
これによってほどなく両国間に正式な戦争、
ラップランド戦争が始まってしまいます。

そういう流れでフィンランドは対独宣戦布告を行いますが、
なんとそれは1945年3月3日という終戦間際のことでした。

ですから、文献によってフィンランドは枢軸国側となったり連合国となったりします。

フィンランドからは、枢軸国側ならドイツに次ぐ、
そして連合国側ならダントツトップとなる
戦闘機のトップエースを排出していますが、彼らの撃墜記録は
そのほとんどが対ソ連戦の、ソ連空軍機に対してのものであることを、
まずご理解いただけるといいかと思います。

🇫🇮 フィンランド

エイノ・イルマリ・"イッル”・ユーティライネン空軍准尉

W. O. Eino Ilmari Ill Juutilainen

FAF(Finnish Air Force)

93機撃墜 

 "The Terror of Morocco"『モロッコの恐怖』『無敵の帝王』

93機撃墜というのはあくまでも「公式記録」であり、実はもっと多かった、
という説が今でも有力なトップエースが、アメリカでもドイツでもなく、
フィンランド人であることを知っていたら、
あなたはよほど「この世界」に通じている人でしょう。

実際彼はドイツ人パイロット以外では最多撃墜数をあげました。
スミソニアンでは93機となっていますが、英語のWikiでは94機、さらに
本人は126機と主張しており、これはかなり信憑性のある数字とされます。

 

彼が使用したのは、フォッカーD.XXI、ブリュースター・バッファロー、
そしてメッサーシュミットBf109の戦闘機で、
敵戦闘機からの攻撃を一度も受けず、(被弾はわずか1発だけ)
戦闘中に僚機を失うこともありませんでした。

(英語Wikiでは『日本の戦闘機エース、坂井三郎のように』とある)

撃墜したのは、
ポリカルポフI-153「チャイカ」
I-16、ツポレフSB爆撃機
です。

ユーティライネンのブリュースターにはハーケンクロイツが付いています。

彼の偉大な記録にケチをつける気は毛頭ありませんが、
相手がソ連機でなければ、こんなに撃墜できたのかな。

いや、ふと思っただけですが。

 

戦後、ユーティライネンは1947年まで空軍に所属し、辞めてからは
1956年までプロのパイロットとして活動したといいますが、
それはデ・ハビランド・モスに観光客を乗せて飛ぶ遊覧飛行の操縦でした。

とにかく飛行機で飛ぶのが大好き、という人だったのでしょうか。

 

1997年、彼はフィンランド空軍の2人乗りF-18ホーネットに乗り、
人生最後のフライトを行いました。
このとき83歳。亡くなる2年前のことです。

 

ハンス・ヘンリック・”ハッセ”・ウィンド空軍大尉

Hans Henrik "Hasse" Wind (30 July 1919,– 24 July 1995)

FAF

78機撃墜

Hans Henrik Wind in Suulajärvi 1943.png

ウインドは1938年、パイロット養成コースに志願して参加し、
パイロットとしてのキャリアをスタートさせました。

ソ連との冬戦争(1939-1940)では予備役として参加したものの、
飛行機がなく出撃する機会はありませんでした。

フィンランドとソ連の第二次戦争ともいえる「継続戦争」で
初めて戦闘機に乗って参戦したウィンドは、ブリュースターB239で
ソ連軍相手に撃墜数39の勝利を収めるというスタートを切りました。

その後I-15で連合国のハリケーン、I-16、スピットファイア、Yak-1を撃墜。
その後機種をメッサーシュミットBf109Gに変更しています。

彼はフィンランド空軍で最も巧みな空中戦術家の一人とされており、
教官として執筆した「戦闘機戦術講義」は、その後何十年にもわたって
フィンランド空軍の新人パイロットの訓練に使用されていました。

彼は「無傷の帝王」と言われたユーティライネンとは違い、
空中戦で重傷を負っています。
なんとか生還したものの、その後2度と戦闘任務に就くことはありませんでした。

彼の戦時中の302回の出撃、75機撃墜は
フィンランドのエースで2位にランクされています。

戦後はすぐに空軍を退役し、結婚してビジネススクールで勉強をし、
あらたな第二の人生を歩み出しました。

1995年に75歳で亡くなったとき、彼は妻と5人の子供、
たくさんの孫に囲まれていたということです。
 

🇮🇹イタリア

さて、というわけで枢軸国の中の枢軸、枢軸の元祖、イタリアです。

元祖のわりに三国同盟の中でとっとと連合国側に寝返ってしまうあたり、
「ヘタリア」の異名は伊達ではないと思ってしまうわけですが、
全部が全部ヘタリアだったわけではなく、強かった部隊もありましたし、
(知らんけど)もちろん戦闘機のエースも輩出しています。

アドリアーノ・ヴィスコンティ空軍少佐

Mag. Adriano Visconti di Lampugnano (11 November 1915 – 29 April 1945)

RA(Regia Aeronautica= Italian Royal Air Force)
ANR(Aeronautica Nazionale Repubblicana= National Republican Air Force)

26機撃墜


この人の「少佐」」メージャーのイタリア語が
「マッジョーレ」であるのにはちょっとだけウケました。
それから、イタリア系の名前の出身出自をを表す言葉、
「ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村出身)
「ディ・カプリオ」(カプリオ家出身)
の前置詞『ディ』が、この人の名前にもついているのですが、

「ディ・ランプグナーノ」

という響きが長過ぎ、あるいは「音楽的でない」という理由か、
彼はその名前からdi以降をすっぱりないことにしてしまっています。

 

Visconti.jpgマリオじゃないよ

【イタリアの降伏】

彼は航空アカデミーのコースで免許を取り、その後軍飛行士になりました。

戦闘機パイロットとしてマッキM.C.200戦闘機の操縦訓練を受けた後、
マッキM.C.202でマルタ島やアフリカの空で作戦行動を行い、
中尉時代には、スピットファイアVを初撃墜します。

そして大尉に昇進した彼が航空偵察を専門とする戦闘機隊の司令官となった
1943年9月12日、ヘタリアがヘタれてしまい、無条件降伏してしまうのです。

ヴィスコンティ大尉とその部下はその知らせに完全に驚かされます。
(そらそうだ)
他のイタリア軍司令官と同じように、彼もまた
上層部と連絡を取ろうとしましたが、全く無駄に終わりました。

そこで彼はイタリア社会共和国空軍の設立に積極的に参加し、
マッキC.205戦闘機を装備した戦闘機隊中隊長に任命されることになります。

無条件降伏後も北イタリアを爆撃しにくる英米の爆撃機を撃退するため、
ヴィスコンティの部隊はメッサーシュミットBf109G-10に乗って戦いました。

同隊が最終的に降伏するまでの間、彼はP-38ライトニング2機、
P-47サンダーボルト2機の計4機を撃墜しています。

■ 殺害されたヴィスコンティ

彼の死亡年は1945年。
撃墜による戦死ではありません。

1945年4月29日、彼の所属する第1戦闘機グループは降伏しました。
隊員は生命の安全を保障された上で捕虜となり、
イタリアまたは同盟国の軍当局に引き渡されることになっていました。

ところが、収監された兵舎からパルチザンがヴィスコンティを連れ出し、
副官のヴァレリオ・ステファニーニとともに
後頭部をなんの予告もなしに撃って射殺したのです。

ステファニーニ副官

降伏条項を無視して行われたアドリアーノ・ヴィスコンティと
副官の殺害の真の原因は、今日に至るまで解明されていません。


フランコ・”ルボール”・ボルドーニ-ビスレリ中尉

Ten. Franco ’Rubor'  Bordoni-Bisleri (10 January 1913 – 15 September 1975)

RA

24機撃墜

Ten.というのはTenenteの略称のことで中尉です。
ついでにイタリア軍の士官の呼び方を一部書いておきます。

将官 Generale ジェネラーレ 

大佐 Colonnello コロネッロ

中佐 Tenente colonnello テネンテ・コロネッロ

少佐 Maggiore マッジョーレ

大尉 Capitano カピターノ

中尉 Tenente テネンテ

少尉 Sottotenente ソットテネンテ

音楽用語でSotto voce(音量を抑えて)というのがありますが、
ソット、というのは「それ以下」という意味なので、
少尉は「中尉以下」、中佐は「大佐以下」という意味になります。

 

ミラノの名家に生まれたフランコ・ボルドニ・ビスレリは、若い頃
レーシングカーのドライバーとして結構有名な存在でした。

パイロット志望でしたが、鼻腔狭窄症のため健康診断ではねられます。
しかし、さすがは上級国民(知らんけど)、軍当局から特別許可を得て、
爆撃学校に配属されるというチートで入隊を果たしました。

【北アフリカ】

彼の初撃墜はブリストル・ブレニムでした。
ビスレリはこれを迎撃するために100キロ以上の追跡しています。

Fiat CR.42 - Aegean Islands.jpg

ビスレリはこのフィアットC.R.42ファルコを操縦して、
ホーカー・ハリケーンMk.1、ブリストル・ブレニムを撃墜したそうですが、

ハリケーンMk1

飛行するブレニム Mk.I L1295号機 (1938年撮影)ブレニム

複葉機でこういうのを撃墜できるものなの?

1941年当時、ファルコは操縦しやすく頑丈な機体で、
グラディエーター、ブレンハイム、ウェリントンとは戦えた、
ということらしいですが、ハリケーンを撃墜というのは
操縦者がビスレリだったから・・・・?

その後彼はマッキM.C.202の初号機で撃墜数を伸ばしました。
彼が撃墜したのはカーチスP-40キティホークなどです。

度重なる空戦で全く銃弾を受けず無傷だったビスレリですが、
皮肉なことにこの期間1自動車事故で負傷し、病院船で国内に送られました。

【イタリア】

イタリアで彼はマッキM.C.205「ヴェルトロ」を手に入れました。


ローマ上空でP-38ライトニングに護衛されたB-17の編隊を迎撃した彼は
1機の爆撃機を撃墜することに成功しました。
彼はこの戦争で合計5機のB-17を撃墜しています。


【戦後と事故死】

終戦直後、ボルドニ=ビスレリは家業を継いで社長となり、
ミラノ・エアロ・クラブの会長に就任しました。

昔取った杵柄でレースに復帰し、マセラティを駆って、
ヨーロッパで最も評価の高いアマチュアドライバーの一人となり、
1953年にはイタリアのスポーツカー選手権で優勝を果たしました。

しかし、1975年9月15日、ビスレリが62歳の時です。

自身が会長を務めるミラノ・エアロ・クラブが主催した
落下傘部隊の記念式典に出席し、
ローマで教皇パウロ6世との会談を終えて帰国した際、操縦していた
SIAIマルケッティF.260は悪天候で山中に墜落し、死亡しました。

飛行機には10歳の息子と、友人も乗っていたそうです。

当時、彼の死は新聞で大きく報道されましたが、
彼が英国空軍のエースだった過去については
ほとんど報じられることはありませんでした。

 

続く。

 

 

 

スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(ハルトマン編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」展示の一隅にある
「第二次世界大戦のエース」でこれだけ楽しめてしまったわけですが、
お待たせしました。

エンディングをラスボス枢軸国日独で締めさせていただきます。
まずは皆さん大好きな(え?わたしだけ?)ドイツのエースハルトマンから。

ドイツ

 

エーリッヒ・アルフレート・ハルトマン少佐

Erich Hartmann (19 April 1922 – 20 September 1993) 

Luftwaffe(Wehrmacht) 、 Luftwaffe (Bundeswehr)

352機撃墜
ニックネーム「Baby(Bubi)」(ベビー)「Der Schwarze Teufel」(黒い悪魔)

ルフトバッフェ、という言葉をこのシリーズでナチス人民空軍に使っているので
勘違いされないように改めて書いておくと、この言葉は空中兵器を意味し、
ドイツ空軍を表すドイツ語であるので、現在のドイツ空軍のことも
ルフトバッフェと称します。

ハルトマンが第二次世界大戦時に所属した「Wehmacht=ヴェアマハト」は
1935年から1945年まで存在したドイツ国防軍で、

陸軍- Reichsheer(ライヒスヘーア)→ Heer(ヘーア)海軍- Reichsmarine(ライヒスマリーネ)→ Kriegsmarine(クリークスマリーネ)空軍- Luftwaffe(ルフトヴァッフェ)

から成るというわけです。
戦後ドイツ軍はドイツ連邦軍(Bundeswehr=ブンデスヴェア)になりましたが、
空軍という言葉そのものは変える必要は全くないのでそのままです。

ライヒはナチスの「ドイツ第三帝国」という意味なので、戦後は変更されています。

童顔だったハルトマンのニックネームの一つに、「Bubi」というのがあって、
それは「kid」という意味である、と英語で検索すると出てくるのですが、
実はキッドをドイツ語でいうと「キント」になるんですよね。

これ、ドイツ人が「Baby」を発音すると「ブビ」になりますので、
英語圏の人がわかりやすいように、あえて発音表記にしたのに違いありません。

それはともかく、写真でもお分かりのように、ハルトマン君、本当に童顔です。
第二次世界大戦ベビーフェイスパイロットコンテストがあったら、
こちらもダントツで(あるいは川戸正治郎と僅差で)優勝でしょう。

 

さて、エーリッヒ・ハルトマンについて検索すると、不思議なことに
ドイツ語より英語となんなら日本語の資料の方が情報が多量に出てきます。

第二次世界大戦期、人類史上最強の戦闘機エースであったハルトマンについては、
戦後自粛に萎縮してきたドイツ人より、他の民族の方が素直に?彼の功績を
(すなわちそれは連合国航空機の撃墜ということになりますが)賞賛できるのかもしれません。

【幼少期から空軍入隊まで】

ハルトマンは、医師であるアルフレッド・ハルトマンとその妻エリザベートの
2人の息子の長男として生まれました。
経済的理由で移住した中国で彼は幼年期の一時を過ごしています。
(本人は小さ過ぎて覚えていないと思いますが)

ドイツでギムナジウムを卒業するといきなりパイロット資格を取ります。
ちなみに、ハルトマンはギムナジウム時代、のちに妻になる
ウルスラ "ウシュ "ペッチと出会っています。

ウルスラさんと

彼は301回目の勝利を得た後、10日間の休みをとって
幼なじみであった彼女と市民結婚式を挙げています。

 

母親がドイツ初のグライダーパイロットという家庭に育ち、
彼女から直接飛行訓練を受けたハルトマンは、14歳という年齢ですでに
ヒトラーユーゲントでグライダーの教官を務めていました。

そんな彼が18歳でドイツ空軍の将校候補生として志願したのは当然のことでしょう。


飛行訓練生時代の彼にはこんな逸話が残されています。

入隊して2年目の砲撃訓練飛行中、規則を無視して
飛行場の上空でBf109で曲芸飛行を行い、1週間の宿舎への監禁と、
給料の3分の2の罰金という処罰を受けたのです。

しかし、そういえばこれに似た話(腕利きパイロットのいわゆるヤンチャ)
って、結構あちこちの「撃墜王物語」で聞きませんかね?
兵学校の訓練で複葉機の宙返りをして怒られたあの人とか、
戦争中わざわざ敵航空基地までいって宙返りしてきたあの人たちとか。

これらの話がもしかしたらハルトマンの伝記にインスパイアされた
ライターの創作かもしれない、と思うようになってしまっている今日この頃です。

それはともかく、ハルトマンは後に、この出来事が自分の命を救ったと回想しています。

「自室待機をしていなければ、僕は死んでいたかもしれません。
自室待機処分を受けていた週のある午後、砲撃演習が行われました。
ルームメイトが、僕の乗る予定だった機で飛行したのですが、
離陸した直後、機体は砲撃場に向かう途中でエンジントラブルを起こし、
不時着しましたが、彼はこの事故で亡くなったのです」

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その後、ハルトマンはいっそう熱心に練習に励み、自分の飛行体験から
他の若いパイロットたちに伝えるための新しい「ディクテ」を編纂しました。

【第二次世界大戦の対ソ連戦】

ハルトマンは1940年から、ドイツ空軍のさまざまな訓練所で基本的な飛行訓練、
続いてメッサーシュミットBf109の操縦を学び、戦闘機隊デビューすると
すぐに初撃墜(イリューシンIl-2)の記録を挙げます。

ただし、最初の出撃は散々でした。
ウィングマンとして最初の戦闘任務に就いた彼は、10機の敵機に遭遇すると、
焦ってスロットルを全開にして隊長機から離れ、交戦しますが、
ヒットしないどころか危うく衝突しそうになり、その後、
低層雲の中に逃げ込み、燃料切れで不時着すると言った具合です。

この初陣で彼は空対空戦のほぼすべての規則に違反していたため、
彼は3日間の地上勤務を命じられることになりました。

彼が初撃墜をしたのはその22日後でしたが、しばらく記録はこれだけにとどまりました。

 

彼のあだ名「Baby=ブビ」はこの頃上官から与えられました。
しかしそのベビーフェイスはすでに戦隊長を務めるようになっていました。

彼は赤軍から「黒い悪魔」デア・シュワルツ・トイフェルと呼ばれました。
Bf109の先端を黒いギザギザ模様に塗っていたことからついた渾名です。

1944年3月2日には、彼は202回目の、そしてその5ヶ月後には
301回目の空中戦勝利を達成して鉄十字章を受賞されました。

最後の撃墜は終戦まであと数時間となった1945年5月8日正午、
ソ連のヤコブレフを撃墜したのが352回目の空中戦勝利となり、
同日、上官から少佐に昇進を告げられますが、終戦のドサクサで
その情報は人事部まで届いておらず、のちにトラブルになります。

 

彼の行った戦闘任務は 1,404回、空中戦は825回。
ソ連機345機、アメリカ機7機、合計352機の連合軍機を撃墜しました。

彼は任務上16回機体を不時着させていますが、
敵の直接攻撃によって撃墜されたことは一度もありません。

 

ドイツ軍パイロットに次ぐ撃墜記録を挙げたフィンランドのエース、
ユーティライネンについて書いたとき、おずおずと、

「もし相手がソ連軍でなければこんなに撃墜数は伸びなかったのではないか」

と言ってみたわたしですが、驚くことに(驚くほどでもない?)
ハルトマンも同じようなことを言っております。

作戦に参加した最初の年から、ハルトマンは、いうなれば

「ソ連の『パイロットに対する敬意の欠如』」

というべき機体と装備のいい加減さをはっきりと感じていました。

ほとんどの戦闘機には有効なガンサイトさえなく、パイロットは当初
フロントガラスに手で照準を描いていたこともあったというのです。

「信じられないかもしれませんが、最初の頃は、
ロシアの戦闘機が後ろにいても全く恐怖を感じませんでした。
手描きの照準では、適切に引鉄を引くことができず(偏向射撃)、
命中するわけがないからです」

ハルトマンはまた、ベルP-39エアコブラ、カーチスP-40ウォーホーク、
ホーカー・ハリケーンは、ソビエトに貴重なガンサイト技術を提供したものの、
それでもフォッケ・ウルフFw190やBf109には劣ると感じていました。

のちにイギリスのテストパイロットがハルトマンに
どうやってその記録を達成したのかを尋ねたとき、ハルトマンは
至近距離での射撃に加えて、ソ連の(貧弱な)防御武装と操縦戦術のおかげだ、
と正直に答えています。

 

しかし彼は、捕虜のソ連軍パイロットから、極寒地で
エンジンオイルが凍らないようにする方法などを教えてもらったりしています。

【ハルトマンの戦法】

 ハルトマンの戦術はは最終的に「見る→決める→攻める→壊す」というものです。 
一旦「立ち止まる」ことで状況を判断し、そののち、
回避行動をとらない目標を選んで近距離で破壊するというものでした。

射撃手であり偏向射撃の名手だったハンス・ヨアヒム・マルセイユとは対照的に、
ハルトマンはドッグファイトよりも近距離での待ち伏せや射撃を好みました。

しかし、空戦の研究家に言わせると、明らかに「名人」の域だった
マルセイユと違い、彼には卓越した才能があったわけではなく、
知的な戦術革新者ではなかったようです。

成功の秘訣は彼が自分の飛行能力、視力の良さ、攻撃性を自覚した上で
決してリスクを取らず、優位な位置、主に後方の至近距離から攻撃し、
すぐに離脱後すると冷静に状況を再評価して次の行動をとったことでした。

彼は本能的に「落としやすい相手」「簡単な標的」を見抜く直感を持っていたのです。


しかしこの大量撃墜という結果が、あまりに「非現実的」な数字だったため、
ドイツ空軍の最高司令部にもこれを疑う者が何人もいました。
ようするに、嘘をついているのではないかと思われたわけです。

彼の主張は二重三重にチェックされ、彼の編隊のオブザーバーは
彼のパフォーマンスを注意深く監視するというおかしな状態になりました。

もちろん敵にもその名前は鳴り響いていて、彼のコールサインは共有され、
その首には1万ルーブルの賞金がかけられましたが(軍隊なのに)、
肝心のソ連パイロットたちが彼と直接対戦することを避けたため、
これで彼の「キルレート」は下がったとまでいわれています。

 

【ヒトラーから勲章を】



1944年3月、ハルトマンには他のルフトバッフェエースとともに、
アドルフ・ヒトラーから柏葉鉄十字騎士章が授与されました。

彼らはドイツに戻る汽車で全員コニャックやシャンパンをしこたま飲み、
ハルトマンなどは帽子掛けから間違えてヒトラーの帽子をとって被ってしまうほど酔っていました。
ヒトラーは酒嫌いだったので、副官は真っ青になって彼らを叱責しました(´・ω・`)

また、ダイヤモンド勲章受賞の時には、ヒトラー暗殺未遂事件直後だったため
セキュリティ対策のためにピストルの持ち込みを禁じられると、彼は、
そんなことをするなら勲章などいらぬと突っぱねています。

このとき、ヒトラーはハルトマンと長時間話し込み、

「ドイツは軍事的にはもう戦争に負けている」

ことを訴え、君とルーデルのような人物がもっといればいいのに、
といったとか。(お酒の件は不問だった模様)

 

彼は少なくとも一回、敵によって命を救われています。

アメリカ軍と交戦しているとき、燃料切れになったメッサーシュミットから、
パラシュートで脱出したハルトマンに、第308戦闘機隊の
ロバート・J・ゲーベル中尉が操縦するP-51マスタングが真っ直ぐ近づきました。

ハルトマンはこのとき覚悟を決め、自分の運命を受入れようとしていましたが、
ゲーベル中尉は、ただハルトマンの離脱とパラシュート降下をカメラパスで記録し、
通り過ぎる最後の瞬間彼にバンクをし、ハルトマンに手を振って去りました。

Captain Robert Goebel
11 Victory Ace
31st Fighter Group - 308th Fighter Squadron - 15th AF
(11機撃墜のエース、ゲーベル中尉
戦後は物理学の専門家としてジェミニ計画に参加した)

 

【最後の戦闘任務】

 1945年3月、空中戦勝利数が337となったハルトマンは、
新型ジェット戦闘機Me262部隊への参加を2度目に要請されました。

ハルトマンとジェット戦闘機。

鬼に金棒の具体例のようなマッチングで、これが実現していたら
彼の撃墜記録はどうなっていたんだろうと考えずにいられませんが、
彼は実質この要請を断っています。

そして彼の最後の空中勝利は、ヨーロッパでの戦争の最終日である5月8日、
チェコスロバキアのブルノ上空で、相手はYak-9でした。

これが停戦となる何時間か前のことです。

着陸すると戦争は終わっていたというわけですが、
ハルトマンはJG 52の司令官として、部下をソ連軍ではなく、
アメリカの第90歩兵師団に降伏させることを選択しました。

この時彼は上から自分とウィングマンだけイギリスに飛んで降伏し、
部下はソ連軍に降伏させろと密かに命令を受けていましたが、
彼は部下を置いていくことを拒否したことになります。

結局米軍はハルトマンらをソ連に引き渡すことなるわけですが。
米軍兵士はドイツ兵の脱走を見てみぬふりをするものもいました。
その後に起こった捕虜に対するソ連軍の残虐な行為(特に女性に対する)
は夜通し続いた、とハルトマンは書き遺しています。

 

ソ連側はさっそく彼にスパイとして協力することを打診してきます。
当然彼はそれを拒否したため、10日間コンクリートの床で寝て、
パンと水しか与えられないという独房生活を余儀なくされました。

このとき、妻を誘拐して殺すと脅迫され、ついには
Me262の情報について尋問を受けた際、ソ連軍の将校に杖で殴られたので、
ハルトマンは座っていた椅子で将校を殴って相手を気絶させています。

しかし彼は射殺されませんでした。
ソ連と言えどもこの英雄を殺害することのリスクを重々わかっていたのでしょう。

彼はこの時のソ連の脅しにも甘言にも一切首を縦に振ることなく、
彼を共産主義に染めようというソ連当局の試みにも、
さらには東ドイツ空軍への入隊要請も拒否し続けました。

【戦争犯罪の容疑者として】

ハルトマンはその後逮捕され、20年の懲役刑を宣告されます。

罪状は、

ソ連市民に対する残虐行為

軍事施設への攻撃

ソ連の航空機の破壊

その結果、ソ連経済に大きな損害を与えた

などの、つまり「戦争犯罪」でした。
彼は自己弁護を(弁護士がつかなかったので)行いましたが、
裁判長はこれを時間の無駄だと退けました。

判決として言い渡された25年の重労働を拒否し、独房に入れられると、
仲間の拘置者たちが暴動を起こし、看守を制圧して一時的に彼を解放しますが、
彼は公使館に再審を求め、最後まで決して諦めませんでした。

その結果、1955年末、ついにその甲斐あって釈放されます。
ハルトマン、33歳でした。


【戦後】

翌年1956年、ハルトマンはドイツ連邦軍に新設された西ドイツ空軍に入隊し、
第71 戦闘機中隊"リヒトホーフェン "の初代司令官となりました。

よかったよかった、と言いたいところですが、彼は、
F-104の調達に反対したことが下との軋轢を生み引退することになります。
この部隊は、当初はカナダエアー・セイバーを保持しており、
後にロッキードF-104スターファイターの装備を決めています。

ハルトマンはF-104を根本的に欠陥のある安全でない航空機と考え、
それが空軍が採用することに強く反対した理由でした。

彼の反対は決して根拠のないことではなく、F-104の非戦闘任務での
269機の墜落と116人のドイツ人パイロットが死亡したこと、
ロッキード・スキャンダルにまで発展した賄賂疑惑など、
彼の低い評価を裏付ける出来事に基づいていましたが、
つまりこういった率直な批判は上層部にとって邪魔だったということです。

 

彼のこの時の態度は、危険な状態での空戦は決して行わない、という、
戦闘機乗り時代の戦闘姿勢を彷彿とさせますし、ソ連の拷問にも
一瞬たりとも自分の正義を曲げることのなかった強い意志が窺えます。

同時にこんな人物が組織にとって目の上のコブでしかなかったのも当然でしょう。

 

 

ハルトマンがソ連に拘留されている間、1945年に生まれた彼の息子、
エーリヒ=ペーターは、父親の不在中生まれ、彼が帰ってくるまでに
亡くなり、ついに父はこの世で息子の顔を見ることはありませんでした。

ドイツに帰国したハルトマンは1957年に娘のウルスラ・イザベルをもうけました。

Erich Hartmann, his wife Ursula and his daughter Ursula Isabel looking at his Knights Cross and Pilot’s badge.
“I think if I had not written to my wife everyday I would have surrendered my soul to the war, and returned home a different man than my...
「これが鉄十字章だよー」

軍人としてのキャリアを終えた後、彼は民間の飛行教官になり、
1993年9月20日に71歳で亡くなりました。

死後、ロシア政府は彼の「有罪」は間違いであったとして、
ハルトマンの戦争犯罪は無罪の判決を下しています。

【金髪のドイツ騎士】

アメリカの作家であるコンスタブルとトリバーによって、
『The Blond Knight of Germany』というタイトルで伝記が書かれています。

The Blond Knight of Germany: A Biography Of...Erich ...

ドイツでのタイトルは
『Holt Hartmann vom Himmel! (「ハルトマンを撃ち落とせ!」)

この著作は、商業的に大変成功し、本は売れましたが、歴史的には
史実とは異なる部分が多く、ハルトマンを称賛することによって
ナチスのプロパガンダの無批判な引用や、ソ連に対するステレオタイプなど、
事実を「歪める」ものとして評価されていない、とされています。

あれ・・・・?

「そんな」本が一時我が日本でも競って出版された時期がありましたよね。

あの一連の「零戦ブーム」を作った著作ラッシュって、
まさにこの本がブームになったのと同じ頃じゃなかったですか?

あれって、もしかしたらハルトマンが「元祖」だったのか・・・。

続く。

 

 

 

スミソニアンの選ぶ第二次世界大戦のエース(バルクホルン編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアンの「第二次世界大戦のエース」、ついつい
エーリッヒ・ハルトマンに一項を割いてしまいましたが、
今日はスミソニアンの選んだもう一人のドイツ空軍のエースです。

 

ナチス・ドイツ

Barkhorn33.jpg戦後の貫禄よ

ゲルハルト・”ゲルト”・バルクホルン少佐(最終少将)

Gerhard Barkhorn (20 March 1919 – 11 January 1983) 

301機撃墜

 

【初期の人生とその後のキャリア】

バルクホルンはハルトマンに次ぐ成績を上げた戦闘機パイロットです。

1919年、現在はロシアのカリーニングラードとなっている、
当時ワイマール共和国のケーニヒスベルクに、

土木関係の公務員の父を持つ4人兄弟の3番目として生まれた彼は、
兄弟と共にドイツ青年運動のグループに参加しており、
青年期には帝国労働奉仕に加わったりしています。

その後ナチス・ドイツの空軍学校に
ファーネンユンカー(士官候補生)として入隊し、
ハインケルHe72複葉練習機で飛行訓練を受けますが、
当時の飛行教官は彼のことを当初ヘタクソだと評価していたといいます。


彼が少尉に昇進した1939年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって
ヨーロッパに第二次世界大戦が始まりました。

バルクホルンは戦闘機パイロット学校に配属され、訓練機を経て
メッサーシュミットBf109に初搭乗することになります。

最初の頃、彼の空中射撃訓練の結果はむしろ平凡以下でした。
飛行学校でもそうだったように、彼はスロースターターで、
何事も最初はうまくいかず、むしろ不器用なタイプでした。

【第二次世界大戦】

歯並び良し!

バルクホルンは訓練終了後、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンにちなんで命名された
リヒトホーフェン戦闘機隊に配属されました。

戦後、トップエースだったハルトマンがこの戦闘機隊の司令官になり、
スターファイターの導入をめぐって解任されたという話をしたばかりです。

かつてこの分隊はフランクフルトにあり、Bf109 Eを装備して、
第二次世界大戦の「偽装戦争」の時期に国境の哨戒を行っていました。

「偽装戦争」=Phony War、フランス語:Drôle de guerre(奇妙な戦争)
ドイツ語:Sitzkrieg(座り込み戦争)は、日本語では、

「まやかし戦争」「いかさま戦争」

などと言われており、ドイツがポーランド侵攻してから8ヶ月間を指します。

ナチス・ドイツは1939年9月1日にポーランド侵攻を行い、
2日後に英仏はナチス・ドイツへの宣戦布告を行うわけですが、
それでドンパチが始まったわけではなく、実質翌年の1940年5月10日、
ドイツによるフランスへの侵攻があるまで何も起こりませんでした。

これはイギリスとフランスが大規模な軍事行動は行わなかったからですが、
もちろんこの両国は全く何もしなかったわけではありません。
海上封鎖を中心とした経済戦を展開し、ドイツの戦力を低下させるために、
数々の大規模な作戦を綿密に計画していたのです。

作戦の中には

ノルウェーに侵攻してドイツへの鉄鉱石の供給源を確保する
バルカン半島に英仏軍の戦線を展開する
ソ連を攻撃してドイツへの石油の供給を断つ

などがありました。

こういうのを見ると、イギリスという国の狡猾さというか、
国家としての老練さというのは鉄板だなと思いますよね。
着々と裏側から手を回していく老獪さが。

 

この頃もバルクホルンには戦闘機エースとしての目立った動きはありません。
偽装戦争では交戦のしようがなかったのでしょう。
それどころか、猩紅熱にかかって1ヶ月入院したりしています。

彼が初めて敵と接触することになるのは、バトル・オブ・ブリテン、
英仏海峡を越えた戦闘哨戒中でした。

何度か爆撃機を援護する任務をこなし、ここですでに勲章を授与されますが、
初交戦はその後、英仏海峡上空で遭遇したスピットファイアでした。

しかし、このときの彼は散々で、何度も被弾し、
英仏海峡に墜落するありさま。
非常用ディンギーで2時間漂流中、ドイツの救助隊に発見されました。


つまり、バルクホルンは「偽装戦争」「バトル・オブ・ブリテン」で
1機も撃墜していないと言うことです。

これは彼がスロースターターだったからではなく相手がRAFだったからです。

彼はハルトマンに次ぐ撃墜数を挙げましたが、
それはすべて対ソ戦によるものでした。

前回のハルトマン編でも書きましたが、
この頃のソ連空軍というのは全くお粗末な装備で戦わされていたのです。

これもその一環というべきか、当時他の国が決してやらなかった
「戦闘機に女性を乗せる」のも、ソ連だけがやっていましたし。

逆にそんなソ連軍でエースになった人は真の実力者だったといえましょう。

 

【バルバロッサ作戦】

Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサとは、
1941年6月22日に始まったドイツによるソ連奇襲作戦の名称です。

バルバロッサとは神聖ローマ帝国のフリードリヒ一世のあだ名で、
barba「あごひげ」+rossa「赤い」=赤ひげ。
フリードリッヒ一世が救国の英雄であることからあだ名を拝借したようです。

バルクホルンの戦闘機隊、JG52は、バルバロッサ作戦発動の準備のため、
独ソ境界線付近の飛行場に出動を命じられました。

6月22日、ドイツがソ連への攻撃を開始した日、彼は侵攻支援のため
空戦を行い、これが最初の撃墜を彼にもたらします。

相手はイリューシンDB-3爆撃機でした。
続けざまにポリカルポフのI-16戦闘機、翌日にはDB-3爆撃機を撃破し、
彼は一気に3度目の空中戦勝利を収めました。

また、この頃彼はミコヤン・グレヴィッチ社のMiG-1戦闘機の
ドイツでの初期の呼称であるI-18戦闘機の破壊を主張しています。

MiG-1

その間にもバルクホルンはオーバーロイトナント(中尉)に昇進。
撃墜数は10機となっていました。

案の定、ソ連空軍を相手にするようになってから、彼は急激に
撃墜数を伸ばして行ったわけです。

【飛行隊長】

バルクホルンは1942年3月1日にJG52の第4戦闘機隊長に任命されました。

6月22日、にドイツ軍が行った「フリデリクスII」作戦の支援で
ラヴォーチキン・ゴルブノフ・グドコフのLaGG-3戦闘機を5機撃墜し、
「1日エース」(エースの条件が5機撃墜であることから)になりました。

駐機中のLaGG-3 66シリーズ (第88戦闘機連隊所属、1943年夏撮影)

LaGG-3、ラググ3は、空中分解を起こすこともあるという代物で、
ソ連兵たちはその木製部分を持つ飛行機をして、

保証付きの塗装済棺桶(Lakirovanniy Garantirovanni Grob =LaGG)

と呼んでいましたから(パイロットはなかなかの皮肉屋が多い)
技量の低いパイロットが操縦するラググ3を1日5機撃墜するのは
RAFや米航空隊を相手にするよりはよほどイージーだったのは否めません。

彼は不時着によって下肢に重傷を負ったことがありますが、
相手はソ連機ではなく、高射砲の命中でした。

 1942年12月19日、バルクホルンは勝利数を101に伸ばしましたが、
これはドイツ空軍における「大台」を達成した32番目となります。

【ハンス・ヨアヒム・マルセイユの実力】

ここで、ご存じない方は、是非Wikiでもいいですから、
「第二次世界大戦のエース」「独軍のエース」のランキングを見てください。

対ソ連戦でルフトバッフェのパイロットがいかにイージーモードだったか、
「大台」が数えるのも面倒になるほど多いのに驚かれることでしょう。

352機のハルトマン、301機のバルクホルンに次いで、
200機台が13人、162機〜199機までが13人。

どうして162機からにしたかというと、158機撃墜した
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは、対ソ戦ではなく、
全て対連合国機の撃墜でこの数字を上げているからです。

「アフリカの星」マルセイユ

対ソ連機の撃墜数はある意味「チート」で、メッサーシュミットなら
誰でもある程度数字を挙げることができる一方、
同じパイロットでも相手が連合国ならこんなにうまくいくはずない、
とわたしは常々言っています。

こう言ったことを勘案すると、ルフトバッフェで真に実力があったのは、
ハンス・ヨアヒム・マルセイユだった、ともう一度言っておきます。

彼は自他共に認める射撃の名手であり、相手にしていた敵機も、
欠陥だらけのソ連機ではなく、スピットファイアやハリケーンでした。

 

とはいえ、少なくともバルクホルンは
ソ連軍のパイロットを舐めていたわけではなく、
必ずしも常にイージーモードだったわけではないことを告白しています。

ある日、彼は「飛ぶ棺桶」であるはずのLaGG-3と会敵し、
40分間のドッグファイトを行い、

「まるでシャワーから出てきたかのように汗が噴き出してきた」

にもかかわらず、この相手を捉えることができませんでした。
明らかに劣る機体を駆るこのパイロットの技量がいかに優れていたかを思い、
バルクホルンは相手に崇敬の念を抱いたと回想しています。

 1943年 2月27日、バルクホルンは120回目の空中戦勝利を挙げ、
騎士十字勲章に加えて柏葉勲章を授与され、
その休暇にクリスティーン・ティシャー(通称クリストル)と結婚しました。

彼らはその後ウルスラ、エヴァ、ドロテアと3人の娘を授かっています。

ズラっぽい髪型・・


【隊司令】

バルクホルンは1943年9月1日、
JG52のII.グルッペのグルッペンコムマンデゥール
(隊指揮官)に任命されました。

順調に撃墜記録を伸ばし、1943年11月30日に200回の大台に乗ります。
そして戦闘任務1000回を達成した最初のドイツ人パイロットとなりました。

Bf 109のコックピットにて(1943年秋)

さて、ここで「ハルトマン編」でお伝えした、
「エース車中泥酔勲章受賞事件」の話をもう一度お伝えします。

というのは、このときハルトマンと一緒に柏葉付鉄十字騎士章を
ヒトラーから受賞されることになり、総統の別荘に招待されたエースの中に、
バルクホルンもいたからです。


ついでに、他の二人は

ヴァルター・クルピンスキーWalter Krupinski(197機撃墜)

ヨハネス・ヴィーゼ Johannes Wiese(133機撃墜)

というメンバーでした。

このとき勲章を受けるために総統の「狼の巣」に招待されていたのは
戦闘機エースだけではなく、爆撃機部隊や対空砲士などもいたそうですが、
列車の中で酔っ払ったのはこの4人だけです。

互いの成功と健闘を称え合い、コニャックやシャンパンで乾杯した結果、
互いに支え合わないと立っていられない状態で駅に到着しました。

ヒトラーが地下壕で最後に自決したのち、カイテルに当てた書簡を持って
脱出したことで歴史に名前を残しているドイツ空軍の副官、
ニコラウス・フォン・ベロー少佐は、彼らを見てショックを受けました。

気の毒だった副官ベロー少佐

授賞式が終わっても彼らはまだ酔っており、エーリッヒ・ハルトマンが、
帽子台から自分のと間違えてヒトラーの軍帽を取り、被ったものの、

「あれー、これ大きすぎね?」

とかヘラヘラしているのを見たフォン・ベロー少佐は、

「それは総統閣下のものだ。元に戻しなさい」(震え声)

と動揺しながら言わなければなりませんでした。
このとき4人のエースはまとめてベロー少佐に叱責されています。

ついでに、このベロー少佐は戦後連合国軍の裁判にかけられましたが、
1948年には釈放されて1980年には回想録を出版しています。


【被撃墜】

彼を撃墜したのもまたソ連機ではなく、P-39戦闘機でした。

USAAF P-39F-1BE 41-7224号機(撮影年不詳)
エアコブラ

右腕と足に重傷を負った彼は、 強制着陸して病院に搬送されました。

ちなみにハルトマンは、バルクホルンがこの負傷で欠場している間に
彼の通算勝利数を超える301回の空中戦勝利を記録しましたが、
二人の関係が気まずくなることは決してなく、
このときハルトマンが挙げた結婚式で
バルクホルンはベストマン(結婚式の介添え人)を務めました。

ハルトマンはバルクホルンをして、

「指揮官として、友人として、仲間として、そして父親として、
彼は私が出会った最高の人間」

と評しています。

しかし、この頃バルクホルンの精神は少しずつ変調をきたし始めました。
コックピットに座ると襲ってくる強い不安、
後ろに味方の飛行機がいるときでさえ拭えない恐怖。

この状態から彼は数週間かけて立ち直り、その後、
1945年の1月5日の301勝目までの3ヶ月間に26機を追加しています。

その後彼の部隊はフォッケウルフFw 190 D-9を配備しましたが、
この機体を戦闘で飛ばしたかどうかは不明のまま、バルクホルンは
健康上の理由で指揮を解かれました。

当時の彼は、4年間の戦闘で心身ともに大きなダメージを負っていたのです。
彼が1,104回目となる最後の飛行を行ったのは1945年4月21日でした。

バルクホルンはクルピンスキー、カール・ハインツ・シュネル、
エーリッヒ・ホーゲンらとともに連合軍の捕虜となりました。


【戦後の人生から死まで】

1945年9月3日、バルクホルンは釈放され、家族と再会します。
しばらく公職追放されていましたが、1949年フォルクスワーゲンに入社し、
施設・サービス管理の責任者を務めました。

1955年末、新たに創設されたドイツ空軍に入隊した彼は、
少佐に昇進し、イギリスに渡ってRAFで訓練を受けます。

チェンバレン空軍副司令官からRAFの航空機乗務員章を授与され、
ドイツに帰国後、
リパブリックF-84Fサンダーストリークを装備した部隊の指揮官となり、
続いてロッキードF-104スターファイターの操縦訓練も受けました。

彼の部隊は戦闘爆撃機F-104 Gへの移行を完了した最初の部隊です。

1964年からバークホルンはホーカー・シドレー・ハリアーV/STOL機の前身、
V/STOLケストレルの軍事的能力を評価する部隊にいました。

この飛行隊は、英米独の3カ国の軍人と地上スタッフで構成され、
彼は飛行隊のパイロットであると同時に、2人の副隊長の1人でした。

この任務で彼は機の推力を失速させて不時着させる事故を起こしましたが、
助け出されるとき、

「Drei hundert und zwei [302]!」

と言ったとされます。
ちょっと意味不明ですが、彼の撃墜数が301機であったことと関係あるかな。
知らんけど。


彼はその後少将まで昇進しました。
「指揮に必要なタフネスとプレッシャーの下で働く能力が欠けていた」
ことがそれ以上出世できなかった理由だとされます。

 

1983年1月6日、バルクホルンは妻のクリステルと友人を乗せて運転中、
自動車事故で帰らぬ人となりました。

完全な貰い事故で、妻は車から投げ出されて即死、
バルクホルンと友人は病院で意識不明のまま死亡しました。

連邦空軍の多くの上級士官が参列した軍葬では、
多くの勲章が彼の棺を彩り、空軍大将が弔辞を述べました。

 

続く。

  

スミソニアンが選ばなかった第二次世界大戦のエース〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアンが選んだ21名の第二次世界大戦のエース。
我が大日本帝国から選ばれたのは、海軍搭乗員の二人です。

勿体をつけるまでもなく、それは西沢博義と杉田庄一であるわけですが、
ここであらためてその21名のエースの名前を列挙しておくことにします。

【スミソニアンが選んだ21名のエース】

ルフトバッフェ編で書いたように、撃墜数というのはあくまでも
その時代の、その国の装備で、相手があってのことであるので、
必ずしもその数が戦闘機乗りとしての技量を評価するものではないのですが、
ここではその21名を撃墜数順に列記していきます。


1、エーリッヒ・ハルトマンナチス・ドイツの旗352

2、ゲルハルト・バルクホルンナチス・ドイツの旗301

3、西沢広義104

4、エイノ・イルマリ・ユーティライネン🇫🇮 93

5、杉田庄一80

6、ハンス・ウィンド🇫🇮78

7、イヴァン・コジェドゥーブ62

8、アレクサンドル・ポクルィシュキン59

9、マーマデューク・パトル南アフリカ連邦の旗🇬🇧51+

10、リチャード・ボング🇺🇸 40

11、トーマス・マクガイア🇺🇸 38

11、”ジョニー”ジェームズ・ジョンソン🇬🇧38

13、デビッド・マッキャンベル🇺🇸34

14、ピエール・クロステルマン🇫🇷 33

15、フランシス・スタンリー・ガブレスキー🇺🇸 28

15、グレゴリー・ボイントン🇺🇸28

17、アドリアーノ・ヴィスコンティ🇮🇹26

18、フランコ・ボルドーリ-ビシュレッリ🇮🇹 24

19、マルセル・アルベール🇫🇷 23

20、スタニスワフ・スカルスキ🇵🇱22+

21、ヴィトルト・ウルバノヴィッチ🇵🇱18


1位と2位が「対ソ連機チート」のハルトマンとバルクホルン。
3位に我が西沢広義中尉が入ってきています。つまり西沢は連合国相手に最も多い撃墜数を挙げたことになります。
しかし、たとえばアメリカ航空隊は、ある程度以上の数字をあげたら
人的リソースの確保というか、褒賞の意味合いで、
エースを後方に配置し、ボングのように教官職に付ける制度だったので、
死ぬまでこき使われた(?)帝国陸海軍の搭乗員より
数字が低くてもこれはあたりまえのことです。

それからこのランキングを見ていて気付くことがもう一つ。
スミソニアンは同じ国から2名ずつ(アメリカ以外)を選んでいますが、
その二人の撃墜数が、国によってほぼ拮抗していることです。

つまり、撃墜数というのは環境(期間)と与えられた装備、
相手のレベルによってある程度上限が決まってくると言えるでしょう。


そういう細かいファクターも絡んでくるとなれば、
単純に各国エースの撃墜数を順位にすることには、
ほとんど意味がないということもおわかりいただけるでしょう。
(やってしまってますけど)

【スミソニアンが選ばなかったドイツのエース】

300機以上の撃墜数をあげたエースがいる一方、
9機の撃墜にもかかわらず、超有名なルフトバッフェのエース、それが、

ナチス・ドイツの旗ハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel (2 July 1916 – 18 December 1982) 

です。
ハルトマンがヒットラーに勲章を授与されたとき、

「君とルーデルみたいなのがもっといればよかったのに」

とまで言わせたドイツの空の英雄。

彼は急降下爆撃機のパイロットであり、戦闘機ではないのに
なまじ9機撃墜というエースの要件を満たしているため、
一応エース名鑑にはその名前がありますが、その真の功績は
ユンカースJu87シュトゥーカで東部戦線のソ連戦車を500両以上、
列車を800両以上撃破したことにあります。

【スミソニアンが選ばなかった国のエース】

米英独日仏伊波芬露。

スミソニアンは以上9カ国からしかエースを選ばなかったので、
その他の国が輩出したエースをご紹介しておきます。

Mato Dukovac with aircraft.jpg

クロアチア独立国の国旗マト・デュコバク大大尉

Cap. Mato Dukovac(23 September 1918 – 6 June 1990)

クロアチア独立国空軍

44機撃墜

クロアチアは第二次世界大戦中ドイツとイタリアの支援を受けて
クロアチア独立国となっていました。
両国の傀儡国家なので、つまり枢軸側ということになります。

日独伊が三国同盟を結ぶとこれと軍事同盟を結び、
日本とも国交がありました。

デュコバク大尉が空戦を行った相手は赤色空軍となります。
数が多めなのはそのせい・・・?

ちなみに彼は当時ドイツ空軍元帥でありリヒトホーフェンの従兄弟、
ヴォルフラム・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン
からドイツ十字章を手渡されております。

 

Bazu cantacuzino.jpg

ルーマニア王国の旗 「バズー」コンスタンティン・カンタクジノ予備中尉

Constantin Cantacuzino  Bâzu;(11 November 1905 – 26 May 1958) 

ルーマニア王立空軍

44機撃墜

ルーマニアもまたソ連に土地を割譲されていたため、
ドイツ側につき枢軸国として第二次大戦に参加しました。

彼はルーマニア王立空軍の予備士官としてBf109Gに乗り、
RAFのスピットファイアやソ連赤色軍のエアコブラやYak-7、
そしてさらにはアメリカ陸軍P51マスタング、B-24、
P-38ライトニングを撃墜のリストに加えました。

この人の特異な点は、ルーマニアが1944年に連合国側に寝返ったため、
その後彼はルフトバッフェのHe111H、Fw190と撃墜している件です。

調べたわけではありませんが、連合国、ソ連、枢軸国と戦い、
計4カ国の空軍機を落としているのはこの人だけじゃないでしょうか。

ヤン・レズナク曹長

Ján Režňák(14 April 1919– 19 September 2007)

スロバキア空軍

32機撃墜

 

スロバキア空軍で戦闘機パイロットの訓練をうけ、兵長として
アヴィア Bk-534を装備し、東部戦線でウクライナに出撃を行います。

その後デンマークでBF 109Eへ機種転換を行い、
ソ連空軍との制空権争いでLaGG-3、I-16、I-153、MiG-3、
DB-3、Pw-2、Yak-1などを撃墜し、第二次世界大戦における
スロバキア空軍のトップ・エースとなりました。

Josef František.png

🇨🇿ヨゼフ・フランチシェク軍曹

Josef František (7 October 1914 – 8 October 1940) 

チェコスロバキア空軍

17機撃墜

この人の顔を見た途端、ガールフレンドにアクロバット飛行を見せていて
事故死してしまったというその最後を思い出しました。

本人は死んじゃったからともかく、目の前で墜落死されたガールフレンドは
その後のトラウマ半端なかったんじゃないかということも書いたかな。

まあ、なんだ。ドンマイ。

Liu Cuigang.jpg

中華民国の旗 #劉粋剛(りゅう すいこう)空軍上尉

Liu Cuigang(1913年-1937年)

中華民国空軍

11機撃墜

試用機 カーチスホークIII, 日中戦争

日中戦争は第二次世界大戦か?という説もありますが、
一応戦史的には第二次世界大戦の一部であるとされていますし、
当コーナーにはフライングタイガースの資料もありますので、
彼を「第二次世界大戦のエース」とみなします。

日中戦争開始後、劉は九六式陸上攻撃機、空母「加賀」「鳳翔」の艦上戦闘機隊
(複葉機[と九六艦戦)などと交戦、9月22日の南京防空戦、続く南京空戦で11機を数え、
事実上のトップエースとなりました。
その勇猛ぶりから「空軍五虎将の一人」「空の趙子龍」と呼ばれています。

加藤隼戦闘機隊と戦うため、派遣されることになった劉は、
ホークⅢ4機を率いて現地に飛びますが、途中で日没となり、
僚機と離れ離れとなってしまいました。

ある村の上空に飛来した劉の飛行機の音を連絡機と錯覚した町長は、
誘導のため三階建ての楼閣の傍で火をたいたところ、
燃料不足で火を目印に降下してきた劉は暗闇の中楼閣に衝突、死亡しました。
享年24。死後少校に特進しています。


その他、スミソニアンが選ばなかったエースは、

クリブ・コードウェル 28機1/2  オーストラリア空軍

レイモンド・ヘスリン 21機1/2 ニュージーランド空軍

セントジェルジ・デジェー 30機1/2 ハンガリー空軍

アンドレアス・アントニオウ 6機 ギリシア空軍

カルロス・ファウスティノス 6機 メキシコ空軍

などがいます。

 

続く。

 


映画「マーフィーの戦争」〜”夫婦共演の映画はヒットしない”マーフィーの法則

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今までいろんな映画を取り上げてきましたが、
これほど評価の低い、というか酷評されている作品は初めてです。

「何もかもがうまくいっていないという感覚が蔓延しており、
それは、技術的なディテールから、主要な俳優の共演にまで及ぶ」

「嫌悪すべきものからありえないものへと、
興味のないものを経由して進んでいく物語」

「これほど平板でトーンや雰囲気のない大作映画はめったにない」

「暗くて自滅的な冒険映画」

「停滞したアクション・スペクタクル」

「制作のバリューの高さの割にサスペンス性は低い冒険物語」

と散々であるうえ、興行的にもパッとせず、すぐに忘れ去られ、
今ではこんな映画があることを誰も知らない映画になりました。

しかしその割にこのタイトルには既視感があるなあ、と思いません?

「マーフィーの戦争」つまりMurphy's War。
言わずと知れた「マーフィーの法則」Murphy's Lawをもじっています。

「自分が並んでいる列よりも、他の列のほうが早く進む」

「別の列に移動すると、もといた列の方が早く動きだす」

「機械は、動かないことを誰かに見せようとすると動く」

こんな経験則(あるある)を法則の形式で表したものですが、
日本でこれが流行ったのは90年代。
映画が公開されたのは1971年なので、小規模の流行があった、
とされる70年代前半には少し早かったかもしれません。

まあ、たとえ「マーフィーの法則」ブームで多少集客につながったとしても、
この映画の評価は動かなかったと思われますが・・・。


さあ、それではこの映画は「マーフィーの法則」のどの格言を表すのか、
最後に総括することを目標にして始めたいと思います。

タイトルロールは、いきなりUボートに攻撃されて
炎上するイギリス商船の阿鼻叫喚に重なります。

海面に逃れた生存者はUボート乗員に容赦なく射殺されていきます。

Uボートによる残虐行為は戦後のイメージほど実際に発生しておらず、
民間人殺戮などで戦後戦争犯罪に問われた例はない、
と以前話したことがありますが、この映画では
それがなくては「マーフィーの戦争」が始まらないので仕方ありません。

 

この画面の炎の向こうに主人公役のピーター・オトゥールが実際にいます。
オトゥールはこの後海に潜り、炎の下を通ってこちらに逃げるという
本来ならスタントに任せるアクションを自分でやっています。

わたしの俳優ピーター・オトゥールのリアルタイムでの印象はというと、
「ラスト・エンペラー」の語り部で実在の人物、
皇帝の家庭教師だったサー・ジョンストン役しかありませんが、
実際彼を有名にしたのは、「アラビアのロレンス」の主役でした。

彼は「ロレンス」でスタントを使わなかったことで有名ですが、
この映画でも最初それをやろうとしていたのでした。

しかしほどなく、彼はハードなアクションに根を上げ、そもそも
自分がやるよりスタントマンの方がずっと巧いことに気がついたので、
それ以降は基本的に人に任せることにしたと語っています。

ダズル迷彩を施したUボート。
いわゆる「UボートIX型」のつもりらしいんですが、
遠目に見ても全くUボートに見えません。

U-IX型

共通点は潜水艦であるということだけって感じですね。

本作スタッフは制作にベネズエラ海軍の協力を取り付け、
この潜水艦も同海軍のARV-Cartie(S-11)を撮影のために借りた、
ということになっていますが、
艦影を見ておそらく皆さんもお気づきのように、この潜水艦、アメリカ製。

第二次世界大戦時に日本と戦いを繰り広げた、アメリカ海軍の

バラオ級潜水艦 USS Tilefish (タイルフィッシュ=アマダイ)(SS-307)

だったのです。

ダズル迷彩は、おそらく似てなさをできるだけ誤魔化すためだと思います。
(Uボートってダズル迷彩してたんだっけ)

そのセイルから民間人の虐殺を指揮しているラウクス(Larchs)艦長。

演じているホルスト・ヤンソンはバリバリの?ドイツ人俳優です。

憎っくき潜水艦と艦長の姿をその脳裏に焼き付けようとする生存者のひとり、
それが本編の主人公マーフィーでした。

救出されたマーフィーはクェーカー教徒の村の女医で
自身もクェーカー教徒であるヘイデン博士に診察を受けました。

マーフィーのセリフで、彼女がクェーカー教徒であることを

「血塗れの尼さんみたいなもんだろ」

というのがあるのですが、クェーカー教ってそういうイメージなの?
調べた限りそんな感じではないので、これ、
かなり各方面に失礼なセリフなんじゃないかと思いました。

ところで、このヘイデン医師を演じたシアン・フィリップスと
ピーター・オトゥールは当時結婚していました。
夫婦のよしみで出演が決まったのかもしれませんが、
最後まで二人にロマンスは起こらず、ラブシーンもありません。

夫婦で出演しているせいなのか、どうも一緒のシーンに緊張感がなく、
そもそも二人でいるシーンがどうにも絵面的に地味です。


本作は小説がベースになっていて、監督のイェーツが映画化を計画する前、
バート・ケネディ監督がフランク・シナトラの「スター計画」として、
彼を主人公に映画化しようとしていたという話がありますし、また、
本命だったウォーレン・ベイティがあまりにも高額のギャラを要求したため、
オトゥールにお鉢が回ってきたという話もあります。

もしシナトラかベイティがマーフィーを演じていたら、
この映画の出来やひいては評価も変わったでしょうか。

わたしは少なくとも興行的にはかなりましだったのではないかと考えます。
花のない女優、しかも糟糠の妻の起用も、
二人の関係が医者と患者のままで終わった理由だとおもいますし、
ロマンス要素が全くない展開も、興行的な失敗の原因でしょう。

ベネズエラ海軍の協力を仰いだと言う事情があって、
撮影はベネズエラのオリノコ川などで行われています。

ここでマーフィーは自分を助けてくれたフランス人の
ルイ・ブレザンと親しくなります。
(この男も何をしているのかさっぱりわからない謎の人物)
彼との会話で、マーフィは川の深度が潜水艦も侵入可能であると知りました。

 

さて、こちらは大物を仕留めて歓びに沸くUボート内。
乗員が空き缶から作ったというお手製の鉄十字を贈られたラウクス艦長は、

「ありがとう。本物の鉄十字章より嬉しいよ」

と流暢な(当たり前ですが)ドイツ語でいいます。
この映画のいいところは、ドイツ人がドイツ語で喋っていることですが、
案外これがアメリカ映画では珍しかったりするのよね。

そのとき、マーフィーいる村にイギリス人が救出され運ばれてきました。
名前を、

エリス中尉

といいます。
(わたしがこの映画を選んだ唯一の理由をお分かりいただけただろうか)

 

イギリス海軍の「liutenant」は大尉ですが、中尉と少尉は「sub-liutenant」で、
中尉も(当方と同じく)単にLiutenantと称するので、
彼の年齢から見ても中尉で間違いないと思われます。

エリス中尉は飛行将校で、水上機パイロット、そして
マーフィーと知り合いでした。

彼が不時着させた飛行機をマーフィーとルイは発見しました。
機体には「マウント・カイル」と書かれていますが、これは商船の名前です。

ということはこの水上機は商船搭載の軍用機なんでしょうか。

商船に英軍のラウンデルが付いた軍用機が積まれているのも不思議なら、
撃沈された船の搭載機だけがなぜ別のところに不時着しているのか、
この映画は全く説明してくれません。

推測するに、エリス中尉はUボートの攻撃が始まったとき、
水上機で単独脱出してその後川に落ち、
そのまま海まで流されて海岸に打ち上げられたということのようです。
っていうかなんなんだよこの設定。
普通それ死んでないか。

このグラマンOA-12「ダック」は、わたしが昨年見学したところの
オハイオ州デイトンにある空軍博物館に展示されています。

しかしながら、この水上機はイギリス海軍には使用された事実はありません。

さて、そのときです。
なんと!Uボートの一行がボートで島に乗り込んできたのです。

なんと彼らの目的は自分が沈めた船の生存者を探すことでした。
商船の乗員相手にこの執念はなんなの。

沈めたのが軍艦で相手が軍人でもこんなことしないですよね。
だいたい、戦略的に労多くして益が少なすぎというか、潜水艦乗員、
しかも合理的なドイツ人がわざわざ陸に上がってすることかと。

このあたりのプロットの無理やり感も映画に入り込めない理由の一つです。

でね。

ラウクス艦長ったら、エリス中尉のベッドまでたった一人でやってきて、
しんみりとシガレットケースを出して勧めたりするんですよ。
いい人アピールか?

そしてまるで一昔前の西部劇にでてくるインディアンみたいな英語で、

「Necessity・・・find・・・not to find・・responsibillty」
(必要、探す、探せなければ、責任)

といいます。

どうでもいいけど、兵隊ならともかく将校、特にドイツ将校なら
英語くらいもうすこしましに話せると思うがどうか。

これ、艦長として俺には生存者を探す責任があるってことかしら。
続いて彼はドイツ語で、部下に対して示しがつかん、と呟くのですが、
これもはっきり言って全く意味不明です。

潜水艦は船を沈めるのがお仕事で、人員殲滅の責任なんてないっつの。

艦長が「見つけても勝手に撃つな」と部屋の外の部下にドイツ語で言う隙に、
エリス中尉、なにやらベッドの下に手を突っ込みはじめました。
それを見たラウクス艦長、脊髄反射でエリス中尉を射殺してしまいます。

さっきの「勝手に撃つな」ってなんだったんだ・・。

ちなみにエリス中尉の出演時間は全部で3分くらいです。(-人-)

飛行機を曳航して帰ってきたマーフィーは、エリス中尉がやろうとしたのは
「ベッドサイドにある自分の飛行服を隠すことだったんだろう」
とエリス中尉(わたし)に言わせると、は?な推理を働かせるのでした。

つまりエリス中尉は自分がパイロットであり、飛行機があることを
気づかれないようにしたかったんだろうて、ということらしいんですが、
そもそもナチスは射殺した士官の身分を検分もせずに帰っています。

エリス中尉、なにもそんな危ないことをしなくても、
自分はパイロットだが飛行機は船と一緒に沈んだ、
とでもいえばいいのでは、とエリス中尉(わたし)は思うのです。


そしてここからが摩訶不思議な展開です。
この二人がどんな関係だったのかとか、どれほど親しかったかとか、
そういうエピソードらしいものが全く語られないのに、
マーフィーはただエリス中尉の仇を取るために
飛行機を使ってUボートを攻撃することを決意するのです。

そこでまず飛行機を動かせるようにすることから始めます。
ルイの手助けを借りて、なんとかオリノコ川に浮かべることに成功。

水上を滑走することはできましたが、マーフィー、
今まで水上機を操縦したことがなかった模様。

水上機を離水させることができず、いつまでも川面をぐるぐるしています。
つい最近こんな場面の映画を見た記憶があるような・・。

そう言えばあちら(『北緯49度線』)は操縦していたのがUボート乗員、
こちらはUボート乗員に仕返ししようとする男。
奇遇といえば奇遇ですね。

ちなみに、水上機シーンはスタントなしでオトゥール本人が演じています。

「飛べ!このやろう!飛べ!」

そしてやっとのことで・・・。




続く。

映画「マーフィーの戦争」〜”SAVE THE CATの法則に外れた映画はヒットしない”マーフィーの法則

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世紀の駄作と悪名高い超大作、「マーフィーの戦争」、2日目です。
Uボートに乗っていた船を撃沈され、大好きだった(らしい)
エリス中尉を殺害されてからは、生きる目的が
Uボートに復讐することになった男、マーフィー。


彼はこのシーンについて、

「もし恐怖に駆られた人の表情を見たければ、
わたしが最初に飛び立ったときの写真を見てほしい」

と後年述べています。

この後マーフィーが島の上空を飛び回るシーンは、
飛び立つトキの大群やオリノコ上空の壮大な自然など、
ナショジオ的映像としては決して悪くありませんが、
せっかく費用を投じて借りたこの歴史的な飛行機を、できるだけ
スクリーンに長い間登場させなければ損だという下心が透けて見えます。

「水上機とそれを操作する人間との間の、ずさんで退屈ですらある
クロスカッティング(ショットを交互に繋ぐ手法)」

という酷評は、まさにこれを言うのだとおもいました。

しかしそれなりに収穫はあって、マーフィーはオリノコ川支流で
偽装して潜んでいる憎きUボートを発見したのでした。

喜び勇んで水上艇で何度もとんぼ返りもしてしまうマーフィー。

彼が「潜水艦を飛行機で沈める」という目的を持ったのはこのときです。 

村に帰るや、ルイを助手に武器作りを開始しました。
いよいよ「マーフィーの戦争」の始まりです。

「どこで爆弾作りなんか覚えたんだ?」

「親父が活動家で作るのを見た」

第二次世界大戦当時のイギリスの「活動家」ってなんなんだろう。
パルチザンかな(棒)

この爆弾をガラス瓶のガソリンに縛り付けて航空爆弾の出来上がり。
ちなみにこの武器作りのシーケンスも冗長で退屈です。

そこに、ヘイデン医師がお買い物リストをもってきました。

「ロンドンのフレンド会に手紙」「新しい通信機」

は必ずお願いします、と念押し。
おばちゃんマーフィーが飛行機でどこに行くか全くわかっておられない。

しかし、翼の下に取り付けた大きな瓶を見て、ルイに

「あれは何かしら」

「世界で一番大きな『モロトフカクテル』でさあ」

モロトフカクテルについては、ベトナム戦争展の項で説明しましたので
重複は避けますが、要は火炎瓶のことです。

「何するつもりなの」

「潜水艦に落とすんですよ」

「無謀だわ!戦争はもう終わるのよ」

ヘイデン医師を尊敬し内心慕っているルイは即座に、クレーンを止め、

「彼女の言う通りだ」

といいだしますが、マーフィー聞く耳持たず。
ルイはヘイデン医師の言うことは無視できないが、この際仕方ない、
と言った様子で作業を続け、飛行機は水面に降ろされました。

「間違ってるわ!」

「海底にいる連中にそう言え!」

「互いを殺し合うなんて感覚がおかしくなってる」

「殺す?もしやれたら嬉しいね」

「もし失敗でもしたら村がその後どうなると?」

「心配ご無用、ドイツ兵たちは皆殺しにしますから」

「楽しそうなのね!」

「ええ」

「戦争が好きでたまらないんでしょう?」

「戦争を?俺が始めたわけじゃない」

「よく考えて頂戴!」

「ご心配なく、相手は潜水艦じゃなくてただの老いぼれワニなんだから」


さあ、ワニの運命やいかに!(笑)



というわけで、水上機に自家製の爆弾をくくりつけ、
女医の反対を押し切って飛んだマーフィー。
前回見つけたUボートの係留地に行くまでに燃料がなくなりました。

マーフィーがマーフィーならUボートもUボート。
前回マーフィーに発見されたというのに相変わらずそこにおります。

マーフィーはなんとか自家製爆弾を投下することに成功しましたが、
飛行機はガス欠で川に不時着、その時のショックで肋骨骨折の負傷。

そこで水上機をえっちらおっちら手で漕いで帰還します。
肋骨折れてたらこの動作は無理だと思うけど。



あくまでも空気読めない系のマーフィー、
ぷんすか起こりながら治療してくれる女医ヘイデンに
唐突に「キスしたい」などと言い出し、余計に怒らせます。

ひげもじゃのルイはこう見えてマーフィーと違い繊細な男。

内心お慕い申し上げているヘイデン医師に、マーフィーの暴挙を
止めなかったことを叱責され、すっかりしょげてしまいました。

ヘイデンは叱責を謝るついでに、ルイの頬にチュッとキスして去ります。

うーん、マーフィーにキスしたいと言われた直後にこれかよ。
おそらく彼女、ルイの気持ちも知ってるよね。
あざとい。実にあざとい女である。

翌日、オリノコ川にUボート(に見えないけどそのつもりで見てね)が
不気味に浮上を行いました。

マーフィーの落とした爆弾はほとんどダメージを与えなかったのです。

ヘイデン医師が出発前のマーフィーにいった懸念が現実になりました。
彼らは前日のマーフィーの攻撃の仕返しにやってきたのでした。

本来ならばUボートが民間人しかいない村を攻撃する意味はありません。
が、マーフィーが彼らを怒らせてしまったのです。

これが本当の憎悪のエンドレスサークルというやつです。

「フォイヤー!」

艦長が腕を振り下ろし、艦上から銃火器が火を噴きます。

彼らはまず問答無用で水上機を中心に村を攻撃。

そしてゴムボートで上陸してきました。
目的は・・・・・そう、もちろんマーフィーの捕獲。

負傷者の手当てをしているヘイデン医師を連れてきて
マーフィーの居所を聞き出そうとします。

「彼はどこだ」

拷問くるか?くらいの勢いなのに、次のシーンでヘイデンは
平然と(洒落じゃないよ)負傷者の治療に戻っているから不思議です。
なんか場面がつながってなくない?

マーフィーは崖下に身を潜めて隠れていたため、Uボート乗員たちは
これもやってることの割には不思議なくらいあっさりと帰っていきます。

誰もいなくなってから気まずそうに隠れ場所から出てくるマーフィー。

「沈めたと思ってたんだが」

ってそっち?

「悪かった」

それを女医に謝る意味ってある?
崖の下の村はUボートの攻撃で焼き払われ、村人に死傷者も出たというのに、
この男には彼女の機嫌を損ねたことだけが問題なのね。

女医もまた、それに対して

「済んだことよ」

すんでねーし。
彼らの目的はマーフィーなんだから。

死んだ村人の葬式が(どうも数人は死んだ模様)行われているとき、
ヘイデン医師はドイツが降伏したというニュースを聞きます。

同様のドイツからの放送はUボートにも届いていました。

「望みなき戦いに終止符を打ち・・」 

「6年間の英雄的戦闘を終える」

ヨーロッパの戦争は終わりました。
ヘイデン医師が看護師と涙ぐんで抱き合い、かたや
Uボートの乗員たちは沈鬱な、諦めの表情でその知らせを受け取ります。

しかしたった一人、全く戦争を終える気がない人間がいました(笑)

チャーチルの演説を放送しようとするラジオを床に叩き落し、
今度は船で突撃しようとする男。

 っていうか、マーフィーって何してる人?
軍人ではないのははっきりしているわけですが、商人?技術者?
漁師?学校の先生?(じゃないことは確か)

はっきりいって彼の行動は全く不可解で、共感が得られるものではなく、
考えうる可能性は、彼が何らかの精神的疾患を持っているということです。

しかも、飛行機が破壊された今、彼はこの船で

潜水艦に体当たり

するつもりなのです。
この船はルイが寝起きしている、つまり彼にとっては自宅なんですが、
そのことなど1ミリも考えておりません。

ヘイデン医師はルイの船を操舵しているマーフィーを見るや、
その意図を察し(なんでやねん)、小舟で追いかけながら叫ぶのでした。

「ミスター・マーフィー!戦争は終わったのよ!」

彼女はルイにも同じことを告げますが、彼には聞こえませんでした。
しかも彼がニュースを聞く前にマーフィーがラジオを壊してしまいました。

そしてマーフィーの船(というかルイの家)は行ってしまいました。


ところで唐突ですが、「SAVE THE CATの法則」をご存知でしょうか。
マーフィーの法則が出たついでに法則つながりで説明しておきます。

それは、
『ヒットする映画はある定型を踏んでおり、逆にいうと
その法則に従えば映画の脚本は誰でも書ける』
というものです。
具体的にこの「猫救いの法則」に当てはめた本作の進行は以下の通り。
1.オープニング(船が撃沈される)
2.問題の提示(マーフィーが助かる)
3.何かのきっかけ(エリス中尉殺される)
4.変化への抵抗
5.決心 行動(水上艇と爆弾の準備)
6.報われる最高の瞬間(Uボートに爆弾投下)
7.選択の誤り(とどめがさせなかった)
8.すべてを失う(Uボートが村を攻撃)
9.絶望(死者多数、女医に愛想尽かされる)
10.再びチャレンジ(今ここ)
11.エンディング
なのですが、本作には法則4番の「変化への抵抗」だけが見当たりません。
これを分析すると、この主人公はまったく逡巡せず、
躊躇いもせず、もちろん自省もせずに、とにかく
思い込んだままただ突っ走って現在に至るということになります。
これは一事が万事で、主人公をただ偏執的な復讐者としてのみ描き、
キャラクターを掘り下げたり共感を持たせるための努力を
この脚本が放棄しているということの表れと言えましょう。
これがひいては映画のひとりよがりと見えるのは否めません。
つまり「SAVE THE CAT」の法則に照らしても、
この映画がヒットする可能性はなかった、ということになるのです。

続く。

映画「マーフィーの戦争」〜”危険物は必ず落ちて欲しくないところに落ちる”マーフィーの戦争の法則

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評論家のいう「雑なアクション大作」、
映画「マーフィーの戦争」最終回です。

ナチスに殺害されたエリス中尉が乗っていた水上艇を修理し、
撃沈され、全滅した商船の仲間とエリス中尉の仇を取るために、
Uボートとたった一人で戦争する気になった男、マーフィー。

・・・とここまで書いて、映画ではここに至るまで、
マーフィーという人物が一体どういう立場で商船に乗っていたのか
まったくわからないのに気がつきました。

本作がイマイチ映画として魅力がない理由はいくつもありますが、
登場人物、ことに主人公のバックグラウンドについての説明が全くなく、
それゆえ彼がどうして商船乗員とエリス中尉の復讐に
これほど全勢力を傾けるのかという動機が
観客に伝わらないのもそのひとつです。


さて、こちらは終戦のニュースを聞いたUボートの乗員御一行。

甲板で記念写真を撮ったり、寝転がってビールを飲んだりと、
それなりにまったりした時間を過ごしています。

彼らの表情が明るいのも、負けたとはいえ命存えたからでしょう。

乗員と一緒にお酒を飲んでいた艦長に、甲板から連絡がきました。
頭に包帯をしているのは、マーフィーの爆撃で負傷した副長と思われます。

「変な音がします」

姿を現したオンボロ船を見て彼らは愕然とします。
あの「しつこい男」が諦めていないことを知ったのでした。

これはあれだな、戦争が終わったことを知らないに違いない。
と思った艦長は、メガホンで

「イギリス人!イギリス人!戦争は終わったぞ!」

「戦争は終わった!ドイツは降伏したぞ!
そのまま進むなら攻撃する!」

マーフィーは、憎々しげに
「何か叫んでやがる」
とタバコを咥えながらも手を止めず、一緒に乗っているルイがそれを聞いて、

「終戦だと言ってるぞ!」

というと、

「あいつらの戦争はな。俺のはまだだ」

説得が通じないと悟った艦長は、艦内に総員配置を命じました。

さすがはUボート、その一声で全員が瞬時に戦闘モードに。

機銃の照準はこちらに向かってくるボロ船に合わせられました。

「フォイヤー!」

魚雷も発射準備完了。

もうすっかりUボート本気モードです。

はいこれはなんですか〜?魚雷発射のスコープですね。

引きつけるだけ引き付けて2番発射管(前方)から魚雷を放つのです。

「フォイヤー(2)」

面舵を切ってなんとか魚雷を回避することができました。
ってか、マーフィー、なんで操舵ができるんだろう。元船員?

魚雷が外れたので船との衝突を避けるため艦長は潜航を命じました。

本当にこの潜水艦は潜航を行います。
最初にも言いましたが、操艦はすべてベネズエラ海軍が協力しています。


魚雷回避のために思いっきり舵を切ったはずのマーフィーの船は、
瞬く間に90度転舵して、再び潜水艦に向かっていきました。

すげー、もしかしたらプロか?

そして、潜航していく潜水艦に船体をぶつけようと
必死で進むのですが、惜しいところで逃げられてしまいます。

もしぶつかっていたら自分もただでは済まなかったと思うけど。

ところが逃げたはずの潜水艦は、浅瀬に乗り上げてしまいました。

それを知ったマーフィー、これで勝つる!と大興奮。

何をするかというと、岸に打ち上げられたさっきの魚雷、
これを船のジブで吊って、奴らの上に落としてやるというわけです。

もはや狂気としかいいようがありません。

(ひくわー・・・・)

ルイは黙って船を降り、岸に向かって歩き出しました。
そして、マーフィーに向かって、一言、

”Let them die in peace.”(静かに死なせてやれよ)

そりゃそうです。
浅瀬に座礁し、おそらくそのまま死ぬであろう彼らの上に
危険を冒してまでなんで魚雷を落とさなくてはならないのか。

そもそもなんでそこまでやらねばならないのか。

親でも殺されたのか。

観客の全てが思っていることをルイが代弁しています。

もし逃げられたら2度と捕まらん!と叫ぶマーフィーに、
そうかもしれないがもう十分だ、と去っていくルイ。



一人じゃ無理だ、と半泣きで叫ぶマーフィーに、ルイは
吐き捨てるようにこう言い残すのでした。

”You're a small and lonely man, Murphy.
Like me.
The world will never build us a monument.
The difference is I know that.”

「アンタは小ちゃくて孤独な男だ、マーフィー。
俺みたいに。
俺たちのために記念碑は建たない。
アンタと俺の違いはそれを知ってるかどうかだ」

かつてここまで痛烈にその人格を否定された映画のヒーロー?
がいたでしょうか。

こちら、座礁したUボートでは必死の脱出努力が続けられています。
今や何もすることのない魚雷室の乗員は天井を眺めながら、

「鉄十字章は無理かな」

まーね。戦争もう終わってますし。

ルイに見捨てられ、砂浜にへたり込んだマーフィー、
普通ならそこであきらめそうなものですが、こいつは普通ではない。

なんと魚雷をジブで釣り上げ開始。
もしかしたらクレーン免許と玉掛け作業の免許も持ってるとか?

Uボートは発射管からの排気と後進でなんとか抜け出そうとします。

しかし・・・艦長の表情もさすがに悲痛に歪み、
乗員の中に諦めの沈黙が広がっていきました。

と、そのとき、彼らは聴いたのです。
あの男が帰ってきた音を。

マーフィーはさっきまで泡の立っていた場所に船を止め、川面を凝視します。
正確に狙いを定めるために。

そして舌舐めずりしながら泡の出たところに船を動かし、
・・・そのまま魚雷を一気に落としてしまいました。

魚雷は水中のUボートに命中し、爆発音が轟きます。
「やった!」

しかし同時にクレーンが倒壊して倒れ、マーフィーは見事その下敷きに。

爆発はUボートを一気に押しつぶさず、あちこちに穴を開けました。
艦長が脱出を叫びますが、艦体はその後爆発を起こしました。

そして船の方も沈没し始めます。
クレーンに挟まれたマーフィーはそのまま船と一緒に沈んでいきました。

クレーンで真下、しかも浅瀬に魚雷を落とした場合、
真上にいる船がどうなるかということくらい想像できなかったのでしょうか。

というわけで「マーフィーの戦争」はやっと終わったのです。

ベネズエラ海軍に感謝を捧げる字幕でこの後味悪い映画は終わります。

 

さて、それではお約束通り、最後に本家の「マーフィーの法則」から
この映画を表す言葉を抜粋してみましょう。

「クレーンは必ず倒れてほしくない方向に倒れる」
(『パンは必ずバターを塗った側を下に落ちる』から)

「何か失敗する方法があれば必ずそれをやってしまう」

そして、

 "Anything that can go wrong will go wrong."

「うまくいかない可能性のあることは必ず失敗する」

 

終わり。

 

飛行服ファッションショー(米独編)〜第二次世界大戦の航空・スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
今日は当時の航空搭乗員の制服ファッションショーをお送りします。

搭乗員のユニフォーム展示は、この一角の他、アメリカ搭乗員と
ルフトバッフェのものは下階のマスタングの横、それからどういうわけか
イギリス軍のは踊り場の途中とよくわからないところに分散されています。

それでは早速参りましょう。
まずはアメリカ航空隊のユニフォームからです。

🇺🇸 アメリカ合衆国陸軍航空隊

アメリカ陸軍航空隊搭乗員服(夏用)

右手に持った皮の手袋には

「ARMY AIR FORCES」

とあり、左手の丸い定規状のものには「コンピューター」と書いてあります。
夏用の飛行服は非常に軽量にできていました。

ヘルメットはAN-H-15型、ゴーグルはAN-6530型、
酸素マスクはAー14型、などとすべての型番が明記されています。

そのなかでT-30-Q throat microphone「喉マイク」
この言葉を全く聞いたことがなかったので調べてみました。

スロートマイク=喉頭マイクは、首に装着したセンサーによって、
喉から直接振動を吸収するマイクの一種です。

なんと米軍、第二次世界大戦中に、すでにこのような、航空機コクピットの
風の強い環境でも音声を拾うことができるシステムを開発していたのです。

高度な喉頭マイクはささやき声でも拾うことができるため、
ヘルメットや呼吸器を装着しながらでも使うことができます。

スロートマイクは、マスクのフェイスシールの外側に着用し、
酸素マスクと併用できるというわけです。

この写真で搭乗員が首輪のように付けているのがスロートマイクです。

MiGパイロットの着用例 髭が濃くても大丈夫!

スロートマイクを発明したのはイギリスで、第一次世界大戦のころには
すでに革製のヘルメットに組み込むタイプが存在していました。

第二次世界大戦時にはルフトバッフェとドイツ戦車兵が使っており、
その後アメリカ軍もこれを使うようになったというわけです。

ソ連製

ルフトバッフェから、ロクな設備がなくて可愛そう呼ばわりされた
ソ連軍のパイロットですらこれを使っていたというので、
おそらく大日本帝国空軍にもなんらかの装置があったと考え、
調べてみたら、「日本の軍装」という図解本に、ちゃんと
海軍搭乗員の「咽頭マイク」Larygophoneが描かれていました。

写真で見たことがなかったのは、皆このマイクの上から
白い絹のマフラーをしていたからでしょう。

true airspeed G-1 Computer 

これもいまいちよくわからなかったのですが「true airspeed」は対気速度。
つまりこの円盤みたいなのは、
対気速度に特化したフライトコンピュータです。

ピトー管により測定される全圧、静圧孔から測定される静圧、
そして空気密度がわかれば、
ベルヌーイの法則を使って対気速度が求められます。

航法計算盤といわれるフライトコンピュータにこれらの数字を入れると、
簡単にそれが計算できるというわけです。

一番外側にあるTASというのがtrue airspeedのことで、
この計算尺はノット表記です。

足元のパラシュートはスミソニアンが細部の写真を撮ってくれています。

Parachute S-1 seat type

搭乗員が履いている耐圧スーツをご覧ください。

この画期的な発明によって、アメリカ航空隊のパイロットは
少なくとも第二次世界大戦最後の2年間というもの、
敵国に対してたいへん強力なアドバンテージを得ることになりました。

昔我が家は岩国の海兵隊基地に訪問し、戦闘機パイロットのブラッドに
基地の中を案内してもらったことがありますが、同行したMKが、
ロッカールームで海兵隊パイロットの耐圧スーツを
実際に身につけさせてもらいました。

MKがそのときに身につけた耐Gスーツは、
ここにある第二次世界大戦時のとほとんど同じ形状をしていましたが、
同じ理論によるものなので、変わっていなくて当然ですね。

アメリカ陸軍航空隊乗員服(冬用)

爆撃機の搭乗員の冬または高高度用の飛行服です。
飛行服の下には、しばしば電気加熱式の衣服が着用されました。

ヘルメットは1943年8月6日に規格化されたA-11型。の上に、
M3スチール製「フラック」ヘルメットを重ねて使用しています。

まずAー11型は第二次世界大戦中に最も人気があり、
広く使用されたタイプです。
ゴム製のイヤホン取り付け部は、ラジオ受信機が内蔵されています。

フラック(flak)ヘルメットは、
内部に防寒用のウールがライニングされています。

そして電気加熱式ポラロイドゴーグル。

ポラロイドというとわたしたちはインスタントカメラのことだと思いますが、
元々の意味は「人造偏光板」のことなので、こちらでは
遮光メガネのことを「ポラロイズ」と言ったりします。

そのゴーグルまで電気加熱式とはさすがはアメリカです。

そして酸素マスクにはもちろんマイクが内蔵されています。

Bー3タイプのフライングコートは裏地がフリースでできています。
外側はもちろん皮革でしょう。
ズボンはA-3タイプ、手袋はA-9タイプといちいち制式番号が付きます。

そして、特筆すべきは
スチール製のボディアーマー=「フラックスーツ」
を着ていること。

フラックスーツは、スチールが内蔵され、エプロンのついた前身頃と、
装甲のない後ろ身頃からできています。

ちなみに日本機と違って彼らの座席は装甲タイプなので、
ボディアーマーの背中側の装甲は省かれています。

これらはパラシュート降下の際に対応しています。
エプロンの下の緊急リリースを引っ張ると、瞬時にして
パラシュートのパックをハーネスに装着することができるのです。

こういうことを調べるたびに思うのは、アメリカという国は
人材の確保=人命を本当に重要視していたということです。

飛行機は落とされても作れるが、莫大なお金と時間をかけて
育成した搭乗員の命はそうそう失うわけにはいかない。
ということですよね。

言いたくありませんが、座席に装甲板どころか穴を開け、
パラシュートもろくに搭載せず(面倒くさがって
搭乗員が積まなかったという噂もありますが)生身の人間を、
攻撃され、落とされること前提の戦闘機に乗せていた日本軍って・・。

マップを入れるポケットは、
ズボンではなくブーツに付いているのがアメリカ式。
足元のものはパラシュートです。

そういえば昔、海軍兵学校に終戦の年に在籍していた方が、
呉大空襲の時に撃墜されたアメリカ軍の飛行士の遺体が
学校の前の湾から引き揚げられたとき、その遺体を見て
何より目を奪われたのが、彼の履いていた皮のブーツだった、
それはそれは立派なもので驚いた、といっていたのを思い出します。

ちなみにアメリカでは「フラック」ジャケット、
スーツなどはボディアーマーといいます。

フラック(Flak)の語源は「フラッグ」(破片、フラグメント)
から来ているとか、ドイツ語の対空砲、
Fliegerabwehrkanone"「航空機防御砲」の省略形、
「flak」であるとかいわれていますがはっきりしていないようです。

 

フレンスブルク政府 ナチス ドイツ ・ルフトバッフェ

続いて、あまり実物を見る機会が少ないルフトバッフェの
冬用飛行服をご覧いただきます。

1944年冬のコレクション(ファッションショーっぽい?)から、
金属製のジッパーの代わりにプラスチック製をあしらった、
標準的な冬の飛行服のラインでございます。

冬の任務にも耐える毛皮の襟付きジャケット、
両袖にはルフトバッフェの特別な徽章があしらわれており、
この搭乗員がT/Sgtつまり軍曹のランクであることを表しています。

アメリカ軍の冬用と同じく、飛行服の裏地にはフリースを用い、
軽さとともに保温性を重視したお作りとなっております。

同じく起毛したフリースで裏打ちされた飛行帽は、
ジーメンスSiemens社製で型番はLKPW101
もちろんイヤフォンと咽頭マイクが内蔵されており、
現在でもオークションではすぐに売り切れとなる人気商品です。

 

ちなみにジーメンス(シーメンス)社は日本と大変つながりが深く、
1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家に
シーメンス製電信機を献上したのが始まりです。

その後、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道へのモールス電信機、
京都水利事務所など多数の発電機供給、
江ノ電の発電機などなどを展開しました。

軍需製品などでも深く日本軍と関係を持ち、
なんなら関係が深すぎて海軍高官のリベート事件、
「ジーメンス事件」が起こったのは皆さんご存知の通り。

この事件で海軍出身の山本権兵衛を首班とする内閣は総辞職しています。

飛行服の上には水上&夜間用の救命胴衣が付けられています。
この救命胴衣を製作したのは、
現在医療機器メーカーとして日本にも進出している
ドレーゲル(Dräger)社です。

ビールの注ぎシステムの開発から始まって二酸化炭素の還元弁を発明し、
それが麻酔薬の供給システム、そして酸素吸入器へと分野を広げ、
現在では人工呼吸器、麻酔器、保育器などの医療機器などを扱っています。

ちなみにドレーゲル社の日本ホームページをのぞいてみたのですが、
「弊社の起源」(この言葉選びも何だか変)として、

「弊社の起源ー1889年のハインリッヒ・ドレーゲルの発明精神は
彼をいじくり回して洗練させ、
1889年に最初の二酸化炭素の還元弁を手にしました」

機械翻訳をそのままHPに使うのやめれ。

酸素マスクはデマンドタイプ(供給型)Hm-51、
左腕に装着されているのは時計ではなく、補助コンパスです。

ベルトの左腰部分を見ていただくと空の拳銃のホルスターがありますが、
ここにはよく7.65mmあるいは9mmのピストルを装備していました。

それではベルトに引っかかっているピストルみたいなのは何かというと、
こちらは

27mm信号銃 Heinrich Krieghoff 
(ハインリッヒ・クリーグホフ兵器工場)社製

です。
H. Krieghoff GmbHは、現在もドイツのウルムに本社を置いて、
ハイエンドの狩猟・スポーツ用銃器のメーカーとして存続しています。

北米では、ペンシルバニア州に姉妹会社を置いているとか。

H.クリーグホフ社ホームページ

足元にはパラシュートが置かれていますが、これは
現在も存在する「Autoflug GmbH」社の製品です。

同社は航空技術と防衛工学の分野で1919年に設立されました。

元々モーターバイク(当時はモーターランナー)の製造会社でしたが、
アメリカのパラシュート会社の総代理店となり、
 1930年代後半から第二次世界大戦中、ドイツ空軍向けに
ハーネス、ロック、パラシュートを大量に製造していました。

現在のオートフラッグ社は、ドイツ軍向けの航空機や
特殊軍事車両の安全シート、航空機用燃料センサーのほか、
パラシュート、ハーネス、
パイロット保護スーツ・装備などを開発・製造しています。

オートフラッグ社 ヘリコプター用エアシートのページ

ドイツも戦後は「戦犯認定」された軍需産業がかなり締め付けられましたが、
装備などの生産、つまりあまりメインに据えられなかった企業は生き残り、
戦後も普通に発展しているらしいことがわかりました。


この後も、第二次世界大戦当時の各国搭乗員の飛行服を紹介していきます。

続く。

 

スミソニアンの選んだエースと選ばなかったエース(日本編)〜スミソニアン航空博物館

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さて、最後まで引っ張ってしまいましたが、
「スミソニアンの選んだ第二次大戦のエース」シリーズ、
我が帝国海軍の二人のエースを紹介するときがやってきました。

言わずと知れた西沢広義と杉田庄一ですが、この二人については
今更わたしがブログに書くような情報はみなさんご存知のはずですので、
まずは、スミソニアンが選ばなかったエースから回り道します。

 

■ スミソニアンの選ばなかった日本人エース

スミソニアンが選んだ西沢、杉田は両者ともに海軍です。

西沢広義は名実ともに日本のトップエースとしてアメリカでも有名で、
日本の記録だと撃墜数143機、単独87機か36機とされており、
スミソニアンによるとこれが104victorysとなりますが、
数字だけならそれより上とされている、

Tetsuzo Iwamoto.jpg 

岩本徹三海軍中尉(自称202機、確実141機、記録80機)

が影も形もありません。
西沢の記録も曖昧なのは、海軍が1942年から撃墜記録を
公式に残すことをやめたからだとされています。

そして、西沢と杉田(70機撃墜)の間に、本来ならば
海軍エースの3位、日本人エースでは4位として、

福本繁夫

という搭乗員がいるのですが、どこにも資料が残っていません。
日本人ですら知らないのですから、スミソニアンが知ってるはずないですね。

そして、もう一人の「スミソニアンが選ばなかったエース」は、

上坊 良太郎(じょうぼうりょうたろう)陸軍大尉 

76機撃墜

となります。
福本さんはともかく、スミソニアンはどうしてこの人を無視したのか。
数字の上では、杉田庄一より上となるはずなんですが。

というわたしも、実は初めて聞く名前で初めて見る写真なので、
ざっとバイオグラフィーを要約してみます。

上坊 良太郎 1916(大正5)年 - 2012(平成24)年

陸軍少年飛行兵第1期出身。
20歳で明野陸軍飛行学校の戦闘機訓練課程を受ける。

翌年1937年日中戦争に出征し、九五式戦闘機で中国空軍のI-15を初撃墜。
1939年ノモンハン事件で18機のソ連戦闘機を撃墜。

帰国後陸軍航空士官学校に入校し少尉に任官。

南支の広東と武昌でアメリカ陸軍航空隊のPー40 と交戦。

その後太平洋方面でB-29を2機撃墜。

撃墜数については、公式記録が76機とされており、
さらに同期生などもその数を肯定していたものの、本人が
謙虚な性格のためそういったことを全く語ろうとせず、
回想記によれば、ノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、
シンガポールでのB-29・2機を含めて30機、というのが
どうやら「正確な数字」かもしれない、みたいな話になっており、
要するにスミソニアンとしても公式記録じゃないなら仕方ない、
ということだったのではないかと思われます。

もう一つ、上坊さんは戦闘機乗りらしい写真が全く残されておらず、
唯一見つかったのがこれだけ⇧だったので、やっぱりいかにもな
面魂を感じさせる杉田庄一にしておこう、となったのではないでしょうか。


日本のエースについては、いつの頃からか個人撃墜を記録することを
日本人らしい謙虚さに欠けるという理由で(知らんけど)
やめてしまったので、ワールドワイドなレベルでは
客観的な数字が出てこないという研究者泣かせの事態を生んでおります。

岩本徹三の名前が出なかったのも、おそらく信憑性の点で、
いくら多くても、酔っ払って本人が吹聴していた数字じゃどうも、
ということだったのではないかと思われます。

杉田庄一(すぎたしょういち)帝国海軍飛曹長

 C.W.O  Shyouichi Sugita

80機撃墜

杉田庄一の最終階級は海軍少尉なのですが、
スミソニアンでは「チーフ・ウォラント・オフィサー」を意味する
CWOがタイトルになっているので、飛曹長としておきました。

ただし、杉田飛曹長については英語の資料がほぼ皆無なので、
残りの紙幅を西沢広義情報で埋めます。

西沢広義(にしざわひろよし)帝国海軍飛曹長

 C.W.O. Hiroyoshi Nishzawa

1920年1月27日生まれ
日本、長野県
1944年10月26日没(24歳)
フィリピン、ミンドロ

104機撃墜

西沢広義については普通に日本語のWikiを見ればわかることばかりなので、
英語による記述を拾ってきて翻訳することにします。

西沢広義も最終階級は少尉ですが、スミソニアンでは
チーフ・ウォラント・オフィサー、兵曹長となっているので
それに準じました。 

日本のエースがどう海外で捉えられているかの理解の一助になれば幸いです。
ネイティブネーム 
西沢広義

ニックネーム  ラバウルの魔物
桜の暗殺者(まじかよ)

西沢は、その息を呑むような華麗で予測不可能な曲技と、
戦闘中の見事な機体制御により、同僚から「悪魔」と呼ばれていた。 

1944年、フィリピン攻略戦で日本海軍の輸送機に搭乗中戦死した。

戦時中、最も成功した日本の戦闘機のエースであった可能性があり、
86または87の空中戦での勝利を達成したと伝えられている。

【初期の人生】

西澤は、1920年1月27日、長野県の山村で、
カンジ・ミヨシ夫妻の五男として生まれた。
父は酒造会社の経営者であった。
広義は高等小学校を卒業した後、織物工場に就職した。

1936年6月、西沢は「予科練」への志願者を募集のポスターに目を止め、
応募して、日本海軍航空隊の乙種第7飛行隊の学生パイロットの資格を得た。

1939年3月、71人中16番目の成績で飛行訓練を修了した。
戦前は、大分、大村、鈴鹿の各航空隊に所属した。
1941年10月、千歳航空隊に転属し、階級は一等兵曹となった。

【西沢広義という人物】

西沢広義は、痩せこけて病弱のような顔をしていたが、
零戦のコックピットに座ると「悪魔」と化した。

ドイツのエーリッヒ・ハルトマン、ロシアのイワン・コジェドゥブ、
アメリカのリチャード・ボングなど、
第二次世界大戦時の戦闘機パイロットの多くは、
生まれながらにこの名誉を背負っているような雰囲気を持っていたが、
日本のトップエース、西沢広義は決してそうではなかった。

戦友の一人、坂井三郎は、西沢のことを、

「病院のベッドにいてもおかしくないタイプだった」

と書いている。

日本人にしては背が高く、5フィート8インチ近く(177cm)あったが、
体重は140ポンド(63kg)しかなく、肋骨が皮膚から大きく突き出ていた。

柔道と相撲に長けていたが、坂井はまた、西沢が常に
マラリアと熱帯性皮膚病に悩まされていたことを指摘している。

「いつも顔色が悪かった」

坂井は西沢の数少ない友人の一人だったが、

「普段は冷たく控えめで寡黙、
人望を集めるタイプではなく、どこか哀愁を帯びた一匹狼的人物」

と表現している。
(ここは考えられる限り穏便に翻訳してみました)

しかし、西沢は信頼するごく一部の人たちに対しては、非常に誠実であった。こんな西沢は、三菱A6M零戦のコックピットの中で、驚くべき変貌を遂げた。
坂井は、

「一緒に飛んだすべての人にとって、彼は "悪魔 "だった」

と書いている。

「西沢が零戦でやったようなことを、他の人がやったのをみたことがない。
その操縦は息を呑むほど見事で、まったく先の予想がつかず、
見ていて心が揺さぶられるようなものだった」

彼はまた、誰よりも早く敵機を発見できるハンターの目を持っていた。

新世代の米軍機が日本軍から太平洋の空を奪い取った時でさえ、
零戦を操縦している限り、彼に敵はないと皆が確信していた。


【ラバウルの悪魔】

1941年12月7日の開戦後、西沢を含む千歳グループの飛行隊は、
ニューブリテン島に到着し、台南航空隊に参加してラバウルに展開する。

彼の初撃墜はポートモレスビーで遭遇した
オーストラリア空軍のカタリナI型飛行艇である。

3月14日、アメリカ陸軍航空隊のP-40の撃墜を部隊として主張したが、
これらはいわゆる個人の公式記録とはなっていない。

日本軍は、個人の成績を集計することを奨励せず、
部隊のチームワークを重視していた。
フランスやイタリアと同様に、撃墜は個人ではなく
航空隊の勝利として公式にカウントされるのが常だった。

したがって、日本の飛行士の個人的な撃墜記録は、
戦後になってからの本人の手紙や日記、あるいは
仲間の手紙などをもとに確認するしかないのが現状である。

西沢もまた、スピットファイアを撃墜したと主張しているが、
当時のオーストラリア軍にはスピットファイアは存在していない。


その後日本軍はラエとサラモアを占領し、西沢を含む戦闘機中隊は
斉藤正久大尉の指揮する台南空に編入された。

台南空の笹井醇一中尉率いる台南空の零戦隊は、4月11日、
ポートモレスビー上空で4機のエアコブラと遭遇した。

笹井は、本田PO3Cと米川ケイサク1飛兵の2人の翼手に守られながら、
最後尾の2機のP-39に飛び込み、即座に2機を撃墜している。

この時の空戦で、坂井が零戦を横滑りさせて
先頭の2機の真後ろにつけようとすると、
戦いはすでに2機によって終わらされていた。

「2機のP-39は、真っ赤な炎と濃い煙を上げながら、
狂ったように地球に向かって突っ込んでいった。

私は、急降下から抜け出したばかりの零戦の1機に、
新人パイロットの西沢博義が乗っているのを確認した。
一発で命中させた2機目の零戦(太田敏雄操縦)も、
急降下しながら編隊に戻ってきた」

この時から、西沢と22歳の太田は、台南空の際立った存在となる。
坂井は

「よく一緒に飛んでいたので、他のパイロットからは
 "クリーンナップ・トリオ "と呼ばれていた」

と書いている。

太田は外向的で陽気で愛想が良かった。
坂井は、太田のことを

「辺鄙なラエなんかよりも、ナイトクラブの方がしっくりくるような」

と評していた。

しばらく勝ちのなかった西沢が、3機のP-39とP-40を撃墜し、
帰投してきた時の様子を坂井はこう書いている。

「零戦が止まったとき、西沢がコックピットから飛び出してきた。
いつもはゆっくりと降りてくるのに、今日はゆったりと伸びをして、
両手を頭上に上げて『イエーイ!』と叫び、 ニヤリと笑って去っていった。

その理由は、笑顔のメカニックが語ってくれた。
彼は戦闘機の前に立ち、指を3本立てたのだった。

西沢が復活した!」

 

ナイトクラブは謎だわ。

続く。

 

 

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