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スミソニアンの選ぶ第二次大戦のエース(西沢広義編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「第二次世界大戦のエース」シリーズ、
紆余曲折を経てついに最終回です。

スミソニアンに限らず、これまでアメリカの軍事博物館で
航空についての展示を見てきた経験から言うと、アメリカ人、そして
世界にとっての認識は、西沢広義をトップエースとしており、
岩本徹三はそうではないらしいと言う話を前回しました。

いずれにしても、日本軍が個人撃墜記録を公式に残さなかったことが、
岩本がトップエースと認められない原因であり、いまだに
世界のエースの残した記録という歴史的資料の上に、日本の記録が
正式に刻まれない理由でもあります。

部隊全体での戦果を重要視した結果、個人成績を記録しない、
というのは、その「精神」としては非常に日本的ですが、
どんなことでも書類に残す「記録魔」の日本人らしくなくもあります。

 

今日は前回に続いて日本のトップエース、西沢広義についてですが、
本稿で扱う情報は、あくまで英語サイトの翻訳ですので、
日本語での資料とはかなり違う点があるかと思います。

どうかそれを踏まえた上でお読みください。

 

【死の舞踏〜敵地上空宙返り事件】

さて、ここで、以前も当ブログで扱った、
実話かどうかわからない「あの」逸話についてです。
ぜひ眉に唾をつけながらご覧ください。

5月16日の夜。
西沢、坂井、太田が娯楽室でオーストラリアのラジオ番組を聴いていると、
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者である
カミーユ・サン=サーンスの「ダンス・マカーブル」(死の舞踏)が流れた。
この不思議な骸骨の踊りのことを考えていた西沢は、

「いいことを思いついたぞ!」

と興奮気味に言った。

「明日のミッションはモレスビーへの空爆だよね?
俺たちも『死の舞踏』をやってみようじゃないか」

太田は西沢の提案をくだらないと一笑に附したが、西沢は粘った。

「帰投後、3人でモレスビーに戻り、敵さんの飛行場の真上で
宙返り(デモンストレーション・ループ)をするんだ。
地上の敵に一泡吹かせてやろうじゃないか」

太田は言った。

「面白いかもしれないけど、上はどうするんだ。
絶対に許してくれないよ」

西沢はニヤリと笑った。


決行日と決めた5月17日の任務終了後、坂井は一旦着陸したが、
中島司令に敵機を追うと合図して再び離陸した。
そして西沢、太田と上空で落ち合うと、ポートモレスビーに飛び、
緊密な編隊で3回の宙返りをやってのけたのだった。

西沢は大喜びで「もう一度やりたい」と言った。

零戦は高度6,000フィートまで降下し、さらに3回ループしたが、
地上からの攻撃を受けることはなかった。
その後、彼らは他の部隊から20分遅れて基地到着した。

午後9時頃、酒井、太田、西沢の3人は笹井中尉の部屋に呼ばれた。
彼らが到着すると、笹井中尉は一枚の手紙を差し出した。

「これをどこで手に入れたと思う?」

と彼は叫んだ。

「わからん?馬鹿者どもが!教えてやろう。
数分前に、敵の航空機がこの基地に落としていった」

英語で書かれた手紙には「ラエ司令官へ」とあった。

「本日基地上空に来訪した3人のパイロットに、
我々はとても感銘を受けております。

基地一同、我が上空で行ってくれたあの宙返りを大変気に入りました。
また同じ皆様が、今度はそれぞれ首に緑色のマフラーをつけて、
もう一度訪問してくれればこれに勝る喜びはありません。

前回はまったくお構いもできず大変申し訳ありませんでしたが、
次回は全力で歓迎することを約束いたします」

3人は固まって笑いをこらえていたが、笹井は彼らの馬鹿げた行動を叱責し、
今後敵地での曲芸飛行を禁止したのである。
しかし、台南空の3人のエースは、西沢の「ダンス・マカブル」の
空中デモンストレーションには価値があったと密かに納得していた。

ところで、英語の西沢のWikiには、この写真に写る手前が西沢とその零戦で、
後は彼の僚機であるという説明があります。

この情報も不確かですが、敵基地宙返りに関しては
そもそも台南空の行動調書にも、肝心の連合軍基地の記録にも、
そのようなことは全く残されていません。
(少なくとも台南空の行動調書はわたしも確認済み)

わたしに言わせれば、「死の舞踏」というサンサーンスの曲を
西沢広義が知っていたという可能性はもっと低く、さらにこの曲から
三回宙返りを思いつくということ自体日本人のメンタルに思えません。

これは後世の、日本人ではない作家の「創作」と考えるのが妥当でしょう。

 

【特攻掩護と西沢の死の予感】

この頃絶好調だった台南空ですが、勿論そのまますむわけはありません。
次第に疲弊を強め、薄皮を剥ぐように戦力は落ちていきます。

15勝のエースだった吉野俐(さとし)飛曹長を空戦で失い、
西沢は僚機である本吉義男1等飛兵を撃墜され失います。

「このとき着陸した西沢は、地上スタッフの彼のに対する歓声を無視し、
飛行機に燃料を補給し、銃を装填しろと命令して、
たった一人で行方不明のウィングマンを探しに行った。
2時間後に戻ってきた彼の顔には悲壮感が漂っていた」

 

この頃、西沢と対戦したVF-5のハーバート・S・ブラウン中尉は、
自分の機体に銃撃で損傷を負わせ、その後近づいてきた零戦の操縦席から、
搭乗員が彼に向かってニヤリと笑って手を振って去った、と証言しています。

なぜこの証言が残されたかというと、ブラウン中尉はその後、
F4Fを空母「サラトガ 」に帰還させ生きて帰ることに成功したからです。

西沢は相手に致命傷を負わせたわけではないことを知りながら、
あえてとどめを刺さず去ったということになります。

 

その後、坂井三郎はドーントレスの銃撃で負傷して帰国。

笹井醇一中尉は海兵隊戦闘機隊VMF-223の
マリオン・E・カール大尉に撃墜され戦死。
PO3C羽藤 一志(19勝)、WOC高塚寅一(16勝)、
PO2C松木進(9勝)が戦死。

太田敏雄は34回目の勝利を収めた直後に
フランク・C・ドーリー大尉に撃墜され戦死。

1943年2月7日、ガダルカナルから最後の日本軍が退去し、
西沢は帰国して教官職を経たのち、第251空隊に編入され、
再びラバウルに戻ることになりました。

西沢は6月中旬までに6機の連合軍機を撃墜しましたが、その後、
日本の海軍航空隊は個人の勝利を記録することを完全に放棄したため、
西沢の正確な記録を把握することはこの時点で不可能になっています。

しかし、この頃、西沢の功績を称え、第11航空艦隊司令官から
 Buko Batsugun (=For Conspicuous Military Valor)
(武功抜群=卓越した軍事的勇気を称えて)と書かれた軍刀が贈られました。

西沢は9月に第253空に転属し、その後准尉に昇格しました。

アメリカのフィリピン侵攻の脅威が高まり、日本は
特攻という最後の手段を取らなくてはならなくなります。

関行男中尉ら爆弾を搭載した零戦を操縦する志願者たちは、
遭遇したアメリカの軍艦、特に空母に意図的に機体を衝突させるという、
「神風」と呼ばれる自殺行為の最初の公式任務を遂行することになっていた。


特攻機が突入した「セント・ロー」

西沢はこの護衛に付き、20機のグラマンF6Fヘルキャットと交戦、
彼の個人撃墜はは87に達した。
この時5機の神風のうち4機が目標に命中し、護衛艦セント・ローを沈めた。


1944年10月25日、護衛艦USS「ホワイトプレーンズ」に激突する直前の
関行男中尉の三菱A6M2

 

西沢はこの飛行中に自分の死を幻視した。
それは予感となった。

西沢は帰投後、中島中佐に出撃の成功を報告し、
翌日の神風特攻隊への参加を志願した。

中島は後に坂井三郎に「不思議なことだ」と言っている。
このとき西沢が抱いた予感とは、
自分はあと数日しか生きられないという確信めいた思いである。

中島は、しかし彼を手放さなかった。

「あれほど優秀なパイロットは、空母に飛び込むよりも、
戦闘機の操縦桿を握っている方が、国のために貢献できるからだ」

西沢の零戦には250キロの爆弾が搭載されたが、それに乗ってスリガオ沖で
護衛空母「スワンニー」に飛び込んだのは経験の浅い勝俣富作少尉だった。

「スワンニー」

沈没はしなかったものの、数時間にわたって炎上し、
乗組員85名が死亡、58名が行方不明、102名が負傷した。


【最後の瞬間】

自分の零戦が勝俣の特攻によって破壊された翌日、
西沢をはじめとする第201航空隊の搭乗員5名は、
中島キ49呑龍(「ヘレン」)輸送機に乗り込みました。

セブ島の飛行場で代替の零戦を受け取るため、
マバラカットのクラーク飛行場に向けて出発したのでした。

ミンドロ島のカラパン上空で、キ49輸送機は、空母USS「ワスプ」の
VF-14飛行隊のF6Fヘルキャット2機から攻撃を受けて撃墜され、
西沢は操縦者ではなく乗員の一人として死亡しました。

空中戦では絶対に撃墜されないと公言していた西沢は、ヘルキャットの
ハロルド・P・ニューウェル中尉の攻撃の犠牲になったのです。

最後の瞬間、彼が何を思ったか、その気持ちは容易に想像がつきます。

 

西沢の死に対し、連合艦隊司令官の豊田副武は、全軍布告で
その戦死を広報し、死後二階級特進となる中尉に昇進をさせました。

その頃の終戦時の混乱のため、
日本最高の戦闘機パイロットの葬儀が行われたのは
戦争の終結した2年後となる1947年12月2日のことでした。


英語の資料だと、西沢の戒名はこうなっています。

Bukai-in Kohan Giko Kyoshi

「武海院」

は間違いないと思うのですが、あとは力及ばず見つけられませんでした。
Gikoは「技巧」Kyoshiは「教士」かな。

最後に、あるアメリカ人ジャーナリストの、
彼についてのエッセイの最後の言葉を引用します。

Nishizawa was also given the posthumous name 
Bukai-in Kohan Giko Kyoshi, 
a Zen Buddhist phrase that translates: 
‘In the ocean of the military, reflective of all distinguished pilots, 
an honored Buddhist person.’

It was not a bad epitaph for a man once known as the Devil.

 

また、西沢にはBukai-in Kohan Giko Kyoshiという戒名が与えられた。
これは禅宗の言葉である。

「海洋の軍隊におけるすべての優れたパイロットの反映であり、
かつ名誉ある仏教徒であった男」

かつて "悪魔 "と呼ばれた男の墓碑銘としては悪くない。

 

続く。

 


飛行服ファッションショー(各国編)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

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仲良く並んで紹介されていたアメリカ陸軍とルフトバッフェの飛行服を
前回紹介しましたので、続いて各国のパイロットの装備と参ります。

Flag of Kingdom of Italy イタリア王国

イタリア王立空軍 Regia Aeronautica Italiana
飛行服(合服)

単なる印象かもしれませんが、さすが国土が長靴の形だけあって
イタリア軍の飛行装備はブーツとか手袋の革製品の色が洒落てます。

しかし、ここでの説明によると、第二次世界大戦中、
イタリア空軍の搭乗員装備は、他国の空軍に比べると
標準化されてはいなかったようです。

飛行服はツーピースになっており、裏地のウールは取り外しが可能で、
気温が低いときの任務には重ねて着用することができました。

ヘルメットはドイツのジーメンス社のデザインに似ています。
イヤフォンとスロートマイクが内蔵されているというのも全く同じです。

スーツは他国と同様電気加熱式ですが、ミトンは絶縁されているので
スーツとは切り離して単体で使うことができます。

救命胴衣はイタリア空軍が頻繁に飛行しなければいけなかった
海上での任務には必須の装備でした。

この展示は足元にパラシュートのバックパックが置かれていませんが、
本体は標準的なタイプの降下スーツを装着しています。

上の写真で目を引く胴回りの金属の梯子のようなベルトは
パラシュートのハーネスを連結するためのものです。


🇯🇵 大日本帝国

日本陸軍航空隊搭乗員飛行服(冬用)

先日ご紹介したこのコーナーの「エース編」において、
どういうわけか全く日本陸軍のエースがないことになっていて、
それはもしかしたら陸軍エースの主な活躍が
中国大陸で英米とは馴染みがなかったから?
と解釈していたわけですが、ここ飛行服と制服のコーナーにおいては、
展示されているのは陸軍のだけで、逆に海軍がないことになっております。

これは深い考えがあってのことではなく、単に展示スペースの関係で
各国1〜2体ずつしかマネキンを置くことができなかったせいでしょう。

ヘルメットは毛皮で裏打ちされており、
イヤフォンの有無にかかわらず使用できます。

酸素マスクは第二次世界大戦中に日本で使用された品種の一つ、
としか書かれておらず、型番などについては
どうやらスミソニアンもわからなかった模様。

酸素マスクの素材は写真ではよくわかりませんが、
マスク部分はゴムのようです。

スミソニアンによると、日本の飛行服は大変作り込まれていて、
それはほとんどの部分を手作業で行っているから、ということです。

いくらなんでもさすがにミシンは使っていたと思うので、
何をもってスミソニアンが「手作業」というのかわかりませんが、
まあ、日本人の手先の器用さを称賛してくれている、
と無理やり考えることにします。

使い回しをしていたのか、飛行服には名札がなく、ただスーツの内側に
パイロットが自分で名前を書く欄があるということでした。

救命胴衣は他国とちがってフライトスーツと一体型に見えます。
救命胴衣には「カポックが詰められている」とあります。

カポックはカポックノキの果皮の内側に生じる軟毛で、
詰め物に使うものを指します。

自衛隊では(アメリカでも)救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。
これは第二次世界大戦ごろまで救命胴衣に
カポックが内容物として使われていたからなのです。

わたしなど、カポックというと観葉植物をまず思い浮かべますが。

そしてパラシュートのハーネスですが、
これが世界的にみるとなかなか「独創的」なのだとか。

英語で言うと「クイックリリース・ハーネス・デバイス」で、
要は簡易着脱式なのですが、残念ながら
どう独創的なのかまではわかりませんでした。

Personnel Parachute

足元に置かれた落下傘のバックパック(スミソニアンHPより)。
製造年月日は昭和18年8月18日、製造所は

藤倉航空工業株式会社

です。
同社は現在も藤倉航装株式会社として陸自の空挺隊装備を供給しているほか、
救命装備などの供給を行なっています。

型式は

「同乗者用落下傘九二式」

となっています。

 ソビエト連邦

ソビエト連邦人民空軍 搭乗員飛行服(冬用)

お分かりのように、写真大失敗しましたので、
スミソニアンのHPの写真で説明します<(_ _)>

ソビエトのパイロットは、極寒の天候下での作戦のために
飛行スーツは断熱であることが必須条件でした。

なぜならば、当時のソ連の飛行機は無線がないだけでなく、
コクピットがオープンだったからです。((((;゚Д゚)))))))寒

1941年配備されたこのワンピースのカバーオールは、
そんな厳しい条件下での任務をこなすパイロットのために作られたのです。

Shirt, Ground Crew, Enlisted man, Soviet Air Force

もちろん裏地は毛皮ですが・・・・剥き出しのコクピットに座るのだから、
全身皮のつなぎでもやりすぎと言うことはないと思います。

こんな見るからにペラッペラのスーツ、
いくらロシア人でも耐えられたんでしょうか。

まさか飛行機に乗る前にウォッカは飲まないだろうし・・・。

Helmet, Flying, Winter, Soviet Air Force

さすがにヘルメットは革製で毛皮の裏張りが施されています。

全身写真に次いで頭部のアップも撮影失敗です。
どうしてソ連軍だけこんないい加減にシャッターを押したのかわたし。

疲れてたのかしら。

イタリア軍ならいざ知らず、オープンコクピットで「風を感じる」には
ロシアの気候はあまりに過酷です。

しかしなんでこんなクソ寒いところで風防を装備しなかったかと言うのも、
その件のイタリア軍がサエッタMC.200の風防を
開放式にしたのと同じ理由だそうですね。

「ヘタリア伝説」などで、その理由がパイロットの「風を感じられないから」
という要望だった、とされていますが、これは若干説明不足で、正式には

「風を感じないと速度の感覚が掴めないから」

というパイロットの切実な要求によるものだったのです。
(決して情緒的な欲求ではありません)

当時のガラスは品質が悪く、コクピットを覆ってしまうと視界が悪くなるし、
計器の精度も不確かとなれば、
パイロットは経験則に従って状況を判断するのが一番「安全」だった、
というのが本当のところなんですね。

そして、視界のよいアクリルガラスが作れなかったソ連も同じ理由で、
MiG-3やLaGG-3をオープンにするしかなかったということなのです。

というわけで、イタリアではどうしていたのか知りませんが、
ロシアの剥き出しコクピットでは
せめてこんなフルフェイスのマスクで顔を覆って寒さを凌ぎました。

ところで、こんなジェイソンみたいなマスクをつけながら
酸素マスクをどうやって併用できたのか。
皆さんもそんなことに気づかれたかと思いますが、ご安心ください。

ソ連空軍は基本的に酸素供給装置を必要としていませんでした。

というのも、ソ連空軍の主任務というのは主に地上部隊の支援であり、
高高度での空中戦になることなどほぼなかったのです。

低空飛行だけなら酸素マスク要りません、とこういうわけです。

🇬🇧大英帝国

イギリス王立空軍RAF 夏用搭乗員飛行服

ロイヤルエアフォースの航空搭乗員は、取り外し可能なフリースの襟を持つ
「シドコット(Sidcot)パターン」といわれる飛行服を着ていました。

「シドコット」は、シドニー・コットンという人名の短縮形です。

フレデリック・シドニー・コットンOBE(1894~1969)は、
発明家、写真家、航空・写真界のパイオニア。

日本では無名ですが、初期のカラーフィルムプロセスの開発・普及に貢献し、
第二次世界大戦前から戦時中にかけての写真偵察の発展に
大きく寄与した人物です。


シドニー・コットン

1917年、英国海軍航空局のシドニー・コットン飛行中尉は、
オープン・コックピットの航空機での飛行における過酷な環境や低温から
パイロットを守るための飛行服を開発しました。

これがシドコットタイプと呼ばれる飛行スーツで、その高機能ゆえ、
パイロットから非常に珍重される品となりました。

たとえばドイツ軍が英国人パイロットを捕虜にした際、
最初に「没収」したアイテムがこのシドコットスーツで、
たちまちドイツでもコピーが生産されるようになりました。

リヒトホーフェン男爵も撃墜されたときシドコットを着用していたそうです。

シドコットは1950年代までRAFなどの空軍で
改良を加えながら継続的に使用され、
今日の飛行服の「元祖」かつ「原型」となっています。

言うてはなんですが、やはり米英パイロットの装備は
ソ連のものとは随分出来が違う、という感を受けますね。

展示されているのヘルメットは「タイプC」で、イヤフォン内蔵。
酸素マスクは「タイプH」、こちらはマイク内蔵です。
(おそらく咽頭マイクでしょう)

Mask, Oxygen, Type H, Royal Air Force

マイク付きH型酸素マスクは緑色のゴム製で、黒色のゴムホース付き。
マイク用の接続線とオンオフスイッチまで装備しされています。

ゴーグルはMarkVIIIといいますから、
もうかなり改良が重ねられているということになります。

長手袋(ガントレットgauntlet)はウールの裏打ちがされており、
ライフベストは圧縮空気とカポックのフローティング機能搭載。

RAFはマーケット・ガーデン作戦で空挺部隊を出していますし、
パラシュートについては何か説明があるかと思ったのですが、
今回、どこを探してもこれらの説明はありませんでした。

 

続く。

 

制服ファッションショー(サービスユニフォーム編)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
搭乗員の飛行服ファッションショーと銘打ってお届けしましたが、
今日は軍服(サービス・ユニフォーム)を紹介します。

まずは枢軸国から。

Flag of Kingdom of Italyイタリア王国

イタリア空軍のことをレジア・エアロノーティカというのを
わたしはルフトバッフェと同じくらい気に入っているので、
ここでも文字数は多いですがそう呼ぶことにします。

軍服ファッションショーのトップを飾るのは
やはりファッション大国イタリア、レジア・エアロノーティカの、
元帥閣下が着用されたサービスコートでございます。

スレート・ブルーの繊細な色合いがさすがイタリーのオフィサー用コートは、
アルベルト・ブリガンティ元帥の私物であったということです。

Maj. Gen.Alberto Briganti

シングル・ブレストでヒップ・レングス。
ボックス・プリーツ付きの上部ボタン・フラップ・ポケットが2つ、
下部ボタン・フラップ・ポケットが2つ。
金ボタンにはイタリアの王冠を冠した鷲のエンボス加工が施されています。

両袖口に金線の航空総隊章。

両肩に金線の航空上級士官章、両襟に金色の五芒星とイタリアの王冠の襟章。
左胸のポケット上には14個のメダルリボンが付いています。

これらは戦功十字章や永年勤続勲章のほか、第一次世界大戦の勲章、
1911年にイタリア・トルコ・リビア戦争、そして第二次世界大戦に参加した、
などという功績に対して授与された軍人としての記念です。


Cap, Service, Regia Aeronautica

是非アップで見ていただきたいのが士官用の正帽。
正面の帽章に凝った刺繍が施されているのは各国共通ですが、
他の軍帽なら黒一色が普通のいわゆる「腰」部分にも前面に刺繍があります。

写真のブリガンティ元帥は冬用の濃色の帽子を着用していますが、
夏用も冬用もカバーは使っていないので、レジア・エアロノーティカ、
夏冬で二つの帽子を取り替えて使っていたようです。

フレンスブルク政府 ナチスドイツ帝国

ルフトバッフェ 将校用サービスコート

Coat, Service, Officer, Luftwaffe

シングルブレスト、前身頃に4つの銀ボタン、
胸上部にボックスプリーツのポケット、
ジャケット下部に2つのボタン付きフラップポケット付き。

黄色の襟章は彼が飛行要員であることを示しています。
そしてハウプトマン(大尉)の階級を示す黄色の階級章。

右肩にグルッペアジュタント(副官)を表す銀色の飾緒、
右胸にある銀のワシはルフトバッフェ、ドイツ空軍の国家記章。

そして右側胸ポケットに輝いているのが金色のドイツ十字章です。

海自では1佐以上の正帽の鍔につく刺繍を「カレー」と称するようですが、
なんと第三帝国でもこの手の俗称は存在していて、
この十字章をはじめとする金色のものは
「目玉焼き」(ドイツ語だからシュピーゲルアイ)
と呼ばれていたとかいなかったとか。

左胸の一番上にあるのが戦闘機パイロットを表すバッジ、
左上ポケットの上部には戦闘記章リボン、左ポケットに第一級鉄十字章、
左ポケットの下にある丸い月桂冠に鷲のアビエイターバッジとなります。

その他装備からわかるのは、彼が20回以上の飛行任務を行なっていること、
4年間の従軍記章を獲得していると言うことです。

乗馬用語でロングブーツとともに着用するズボンをブリーチと言います。

ちなみにこのブリーチ、膝から下はないので、ブーツを脱ぐと
ものすごくかっこ悪いシルエットになってしまいます。

ブーツなしではナチスドイツの制服は完成しない!ということですね。

両脇と、なぜかファスナーのあるところに小さなポケットがあります。
何を入れるためのポケットなんだろう。
家の鍵とかかな。

Dagger, Ceremonial, Officer, Luftwaffe

左の腰に将校用の短剣、M 1937が佩用されています。
銀メッキの儀式用短剣で、グリップは黄色のイミテーションの象牙、
柄頭(ポメル)には鉤十字があしらわれ、
刀の鍔にはドイツ空軍のワシが翼を広げた姿、
銀の結び目が付けられ、鞘はスチール製、ストラップはベルベット製です。

ドイツ空軍将校の正帽はブルーのウールが主材で、
シルバーのパイピング付きとなっております。

バイザーとチンストラップは皮、ピークには銀色のドイツ空軍の鷲、
帽章にあたる部分にはシルバーワイヤーの
黒、赤、白の花形帽章「コカルド」が付いています。

帽子の裏地には金色のプリントでメーカーのマークが入っています。

🇯🇵 大日本帝國

日本陸軍航空隊 士官候補生(軍曹位)パイロット軍服

「第二次世界大戦のエース」コーナーで海軍エースしか言及がなかったので、
公平を期すためなのか、軍服も飛行服も陸軍のものです。

いや・・・陸軍でもいいんですけどね。
どうせなら海軍第二種夏服、せめて第一種冬服にしていただきたかった、
と考えずにいられないのは私だけではないと信じたい。

展示されている陸軍航空隊(JAAF)使用、
オリーブ・ドラブ・ウールのサービス・コートは、
上部にボックス・プリーツとボタン・フラップ付きの2つのポケット、
下部にボタン・フラップ付きの2つのパッチ・ポケット、
フロントの5つの竹製ボタンには金色のペイントが施され、
ボタンには桜の花の彫刻が施されています。

この情報で「ボタンが竹製の金色ペイントだった」と知って驚きました。
金属不足だからといってボタンまで・・・・・。

ちなみに陸軍のズボンもブーツを履くことを想定してデザインされているので
ブリーチ式(乗馬ズボン式)で丈が膝までしかありません。

従って、短靴を着用するときにはゲートルを巻くことが必須でした。

Coat, Service, Enlistedman, Japanese Army Air Force

こういうマークにもいかにもお金をかけていない感じが・・・。

日本人ぽい顔のマネキンを特注してくれたのはありがたいですが、
陸軍の士官候補生なら丸坊主にしていたはずなのでこの髪型はバツです。

ガラスの説明にはこのようにあります。

戦争の最後の2年間、多くの日本軍の士官候補生たちは、
完全に訓練が完了しないうちに
戦闘部隊に割り当てられ実践を行いました。
これは日本軍の戦闘員の著しい損失によるものです。

・・・はい。


🇬🇧 大英帝国

ロイヤル・エア・フォース 軍曹搭乗員サービスユニフォーム

Coat, Service, Royal Air Force

英国空軍のブルーグレーのウール製サービスブラウス。

ウエスト丈の短いタイプで、前身頃は隠しボタンとなっています。
上部にボックスプリーツとフラップ付きの2つのパッチポケット、
身頃と一体型のウエストベルトはバックルで留めるタイプ。

左胸ポケット上部に王冠を被り、
中央にRAFとF刺繍のある翼のパイロット徽章、
左胸ポケット上部に
Distinguished Flying Crossリボン(紫と白の斜めストライプ)、


両腕に軍曹の階級章、右上と左袖に刺繍のRAFイーグル徽章。

Coat, Service, Royal Air Force

階級章の上の両腕に水色の刺繍のRAFイーグル徽章が付いています。

青のサービスユニフォームは案外他で見たことがありませんよね。

このユニフォームのブルーは1918年にRAFが創立した直後から
航空隊のシンボルカラーのようになっていました。

というわけで、フィールドキャップ(いわゆるギャリソンタイプ)、
サービスブラウス、ズボンは全てブルーです。

靴とネクタイは黒で、中のワイシャツの襟は取り外し可能。

ここの展示されている装いは、標準的な兵隊のもので、
袖のシェブロン(階級章)は軍曹のランクであることを示しています。

ところでちょっと余談ですが、
アメリカにシェブロン石油というのがあります。
このマークが、これ。

Chevron Logo.svg

軍服の袖にあって階級を表す山形の線のことを
「シェブロン」(Chevrons)というわけですが、この会社のマークは
まさにそれを表しています。

ちなみに最初は「パシフィック・コースト・オイル会社」という名前で
マークだけがシェブロンでした。

1969年、同社は社名をマークである「シェブロン」に変えます。
「シェブロン」そのものの意味は「山形のマーク」です。

彼の両肩には、このような向かい合わせの対になった
「アルバトロス 」の刺繍があります。
「アルバトロス付きの搭乗員」は、バトル・オブ・ブリテンなど
第二次世界大戦の期間を通してRAFで重要な役割を果たしました。

🇺🇸 アメリカ合衆国

アメリカ陸軍航空隊志願任務者ユニフォーム

大戦中搭乗した「アイク・ジャケット」は機能的でスタイル良く見えるため、
あらゆる階級の軍人の方々に大変ご好評をいただいております。

右袖口近くの三角形のマークは「コミニュケーションスペシャリスト」の印。
左袖口近くの3本の横金線は、かれが合計で
18ヶ月の海外勤務をこなしたということを表します。

胸元に日の丸が見えていますが、これは
反対側にある零戦のマークが映り込んでいるだけですので念のため。

ヨーロッパ戦線で陸軍航空隊の無線通信士として搭乗していた
M.モーガン・ローリンズ軍曹が着用していた制服です。

WASP(女性空軍サービスパイロット) ユニフォーム

それでは最後に、女性軍人(空軍パイロット)の制服をご紹介しましょう。

シングルブレストで仕上げられたウールのドレスチュニックは、
サンティアゴ・ダークブルーといわれる紺色です。

Tunic, Dress, Women Airforce Service Pilots (WASP), Haydu

フロントは金属製の3つの黒ボタン、左胸のWASPパイロット・バッジは、
中央にダイヤモンドの付いた翼がかたどられております。

四つのフラップ・ポケット、ウェスト部分のダーツは
女性の体型を美しく見せる効果があります。

両襟タブに光沢のある真鍮製の「W.A.S.P.」と空軍の翼付きプロペラの記章、
左腕の肩に陸軍空軍の刺繍入り記章
(青地に白の五芒星と赤のセンター・ドット、金の翼)が付いています。

Tunic, Dress, Women Airforce Service Pilots (WASP), Haydu

陸軍航空隊の徽章は左袖の上肩部分に付けられています。

帽子は小粋なベレー帽で、中央に
アメリカの鷲をあしらったバッジがあしらわれています。
おそらく当時のWACはこれを斜めにかぶって着こなしたのでしょう。
やはり女性軍人のためには
これ着てみたい!と思わせるデザインが必須ってことですね。

 

 

続く。

 

飛虎隊(フライング・タイガース)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン博物館

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第二次世界大戦の末期のこと。

台湾上空で交戦して撃墜された零戦搭乗員が、すぐに脱出せず、
機体を民家のない地帯まで飛ばし続けたため、敵に追尾され、
その結果落下傘を撃ち抜かれて墜落死したということがありました。

台湾に旅行したとき、そのときの搭乗員を村人の恩人として称え、
その魂を慰めるために創建した神社を訪れて紹介しました。

台湾 飛虎将軍廟〜神様になった海軍搭乗員

この神社の名前になっている「飛虎」は中国語で戦闘機を表す一つの言葉です。
この搭乗員、杉浦茂峰帝国海軍少尉を、台南の人々は
「戦闘機将軍」として祀っているのです。

しかし戦闘機を「飛ぶ虎」と言うようになったのはいつからなのでしょうか。

日本語中心で考えると「飛行」=「ひこう」→「ひこ」=「飛虎」ですが、
そもそも飛行機という言葉は日中どちらが先に作ったのかも不明なので、
ヘタな推測はやめにしておきます。

今日の本題は、それを英語にしたところの、

「ザ・フライング・タイガース」

についてですので。

■ フライング・タイガース

ビルマ公路(ロード)という言葉をご存知でしょうか。
インドからビルマ(現在のミャンマー)を経由して
中華民国に至る幹線道路のことです。

1944年のビルマ公路とレド公路

総延長1,154キロ。

1937年の日中戦争時に20万人の中国人労働者を使って作ったもので、
第二次世界大戦時にはイギリスが中国に軍事物資を輸送するルートでした。

このビルマ公路を上空から保護するという名目で組織された
アメリカのボランティア航空グループ(略してAVG)それが
「フライング・タイガース」でした。


1943年当時の中国全土における日米の基地所在地を表す地図です。
●が日本軍、★がアメリカ軍の基地のあった場所で、
米軍基地は1941−42年はAVG、ボランティア航空隊が使用しました。

航空隊の志願者はほとんどが元々陸軍か海軍の航空隊に所属していましたが、
ボランティアとして参加することを表明すると、政府の許可を得て
軍の任務を休止するという特別措置が取られました。

クレア・リー・シェンノート将軍が率いるフライング・タイガースは、
第一次世界大戦期間、最も有名、かつ有能な戦闘機ユニットのひとつでした。

AVGは43機のカーチスP-40と84名のパイロットで運用を開始し、
1941年12月18日、崑崙付近上空で初めて日本軍と遭遇することになります。

1942年7月4日、グループが正式に

陸軍航空隊 第23戦闘機部隊「フライング・タイガース」

となってAVGボランティアグループは廃止されました。

そして、1943年の3月になって、第14空軍ができるまで、
同グループは中国航空任務部隊の一部として活動しました。

そのときから終戦の日に至るまでの中国での航空作戦は
B-29によるものを除いて、全てが第14空軍の指令下で行われています。

シェンノートの巧みな戦闘機戦術のもと、フライングタイガーグループは
日本軍も空中戦で打ち負かされる可能性があることを証明し、
そのことはアメリカ全体の士気を高めることに成功したといえます。

「日本軍の輸送隊に背後から爆撃を行うP-40の編隊」

この絵を描いたTom Leaという名前に聞き覚えはないでしょうか。

ペリリュー島やエニウェトク島の戦いについて書いた時、
戦闘ストレスに冒された一兵士を描いた、

『海兵隊員はそれを例の2000ヤードの凝視と呼ぶ』
(Marines Call It That 2,000 Yard Stare)

を紹介しましたが、この絵の作者がトム・リーです。

ついでに、この、シェンノートの、
「写真より本人の特徴を捉えている肖像」
の作者でもあります。

シェンノートのフライトジャケット内側背部分に縫い付けられた
AVG(のちのAAF)「0001エアマンズ・フラッグ」実物。

来華助戦 洋人(美國)

軍民一体 救護

で、我々日本人には

「我々中国を助けるためにやってきたアメリカ人なので
軍民一体で救護してください」

という意味だと即座にわかってしまいますが、
しかし、英語の説明は、

「着用者はアメリカの航空士であり、安全に戻った場合は
(救護してくれた人に)報酬が与えられると書いてある」

となっています。
スミソニアンともあろうものが、と思いますが、
報酬を与えると書かなくては中国人は助けてくれない、
と頭から決めてかかっているので、こういう間違いが生じるのでしょう。

印象って怖いですね。

まずこの星条旗は、昆明(クンミン)の飛行場にあった
シェンノート将軍の本部で掲揚されていた実物です。

右二つのどちらも翼をつけた虎が図案化された肩章は、
第14航空隊のもので、いずれもシェンノートのAVG、
ボランティア航空隊の図案を発展させたものです。

これはたしかウォルト・ディズニーのスタッフのデザインだったかと・・。

シェンノートが中国で着用していたM1式ヘルメット。

そしてやはりシェンノート着用のA-2フライトジャケットです。

初期の「ボランティアグループ」時代、シャークペイントを施した
Pー40の前で整列するパイロットたち。

公式記録によると、AVGは投入開始から6ヶ月半で
280機以上の日本軍機を撃破し、
9名のパイロットと50機ほどのP-40を失いました。

1942年7月4日、第23戦闘機部隊のP-40が中国の基地に並ぶ様子。

1942年3月20付「ライフ」誌掲載のフライング・タイガース記事。

「フライング・タイガース・イン・ビルマ」

というタイトルに、サブタイトルは

「90日で十人にも満たぬ我がパイロットがジャップ300機撃墜」

公式記録よりかなりの数盛っていますが、まあこれはありがちってことで。
続く記事も少し翻訳しておきます。

3ヶ月の悲惨な戦争から一つの輝かしい希望が浮かび上がってきた。

それは、ビルマと東南アジアにおける通称「フライング・タイガース」、
カーチスP-40にサメのシャークマウスをペイントした、
戦闘機パイロット集団であるアメリカボランティアグループである。

彼らは多くの場合10対1と上回り(キルレシオで)これまでに
約300機以上のジャップ機を撃墜し、おそらく八百人以上を殺した。

彼らはビルマと中国南東部のジャップ空軍の攻撃に苦しめられている。
しかし同時にかつてはヤンキーの信念であったものを決定的に証明した。
つまり、一人のアメリカ人パイロットの力は
二人か三人のジャップに相当するということである。

「彼らが欲しい」

先週、オーストラリアのブレッティン中将は言った。

「200人のジャップに対し100人のタイガーがいたら負けないだろう。
私自身は日本軍を決して軽蔑するものではない。
彼らは『ゴッド・ファイター』だと思っている」

これらの若者たちの驚くべきは次の点である。

1)彼らは最長で6年間の軍事飛行経験があり、自分たちのマシンが
何をするかについての本能的な感覚を持っている

2)彼らは空中で血を流し

3)彼らは常に空中での戦いに挑んでいる

その結果、彼らに遭遇した敵は相当な苦痛を与えられることになろう。

初戦において、彼らは喪失4機に対し相手を6機撃墜で報いた。
2回目の交戦では〜それは奇しくもクリスマス当日だったが〜
こちらの損失はゼロで78機の日本機のうち20機を斃した。

まさに「ホロコースト」スイッチが入ったのである。

AVGは文字通りボランティアとして陸海軍から志願してきた者たちである。
ジャップが気づかないように、内密理に生成されたその組織は
中国が戦うのを助けるということを目的としていた。

賃金は月600ドルで、1機日本機を撃墜するたびに500ドルのボーナスが出る。
米軍のランクはそのままであると保証された兵隊たち、そのほか、
「ツーリスト」(物見高い人)、曲芸師、芸術家などが、昨年の夏、
中国大陸のエアフィールドに訓練のため到着した。

航空隊司令はクレア・シェンノート大佐である。
大戦が始まった12月7日には彼らはすでに用意ができていた。

他の航空博物館で見覚えのある顔がいくつかあります。
上段左上から:

ジョン・V・ニューカーク分隊長(28)NY出身
イーグルスカウトだった

ジェームズ・H・ハワード分隊長(29)中国生まれ
中国語が喋れる

ロバート・レイエ飛行士(26)コロラド出身
海軍搭乗員

中段;

エドワード・F・レクター小隊長(25)ノースカロライナ出身
山間のコーン畑育ち、海軍入隊
『働き者の田舎少年』などと書かれている

デイビッド・リー・ヒル小隊長(26)テキサス出身
オースティン大学(名門)から海軍入隊。
海軍では「サラトガ 」と「レンジャー」に乗り組んでいた

フランク・リンゼイ・ロウラー飛行士(27)NC出身
「サラトガ 」航空隊にいたことがある(が何かの事情で首になった)

下段;

ノエル・リチャード・ベーコン小隊長(24)アイオワ出身
父は市長経験者、ボーイスカウト出身、バスケットボール選手、
クラリネットも得意
教育大に進むもペンサコーラで海軍入隊 未婚

ウィリアム・エバート・バートリング(27)ペンシルバニア出身
建築業者の息子 カーネギー鐵工所で働いていたが海軍入隊、
「ワスプ」の急降下爆撃機に乗っていた

ヘンリー・M・ゲセルブラット二世(25)セントルイス出身
ワシントン大学およびUCLA卒業 
映画「急降下爆撃機(Dive Bomber)」の撮影のスタントを務める
飛行歴は早く、16歳でシカゴの航空フェアにデビューしている

 

まあ大体は軍人ですが、スタントをやっていた人とかもいたんですね。

最後に、フライング・タイガース必携だった会話帳です。
中国大陸に進出していたアメリカ人パイロットは、
このような手帳を携帯して現地の人とコミニュケーションしていました。

2、私はアメリカ軍人です。道に迷いました。

3、敵から匿ってください

4、5、6、7、日本軍(中国人ゲリラ、中国軍)の居場所から
どれくらい離れていますか

4から7までの質問に対する答えはどうやって聞き取ったのでしょうか。


続く。

 

映画「東支那海の女傑」 前編

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ディアゴスティーニの戦争映画コレクションより、東宝作品、

「東支那海の女傑」

を紹介します。

DVDパッケージは軍人姿の天知茂がマシンガンを構え、
高倉みゆきが仲間を引き連れて崖に立っているというもの。

これだけでも突っ込みどころ満載で、
当ブログで取り上げるべき作品に違いない、
と思いつつ、今まで手を出さなかったのは、
東支那海の女海賊というテーマ、しかもその海賊を演じるのが
高倉みゆきという、わたしの苦手な女優であること、
女性が主人公の戦争映画の全く興味をそそられなかったからです。

しかし、ディアゴスティーニシリーズの海軍ものも
残り少なくなってきたことですし、
天知茂の海軍二種軍装に免じて、今回は取り上げることにしました。

プロデューサーは新東宝のワンマン社長大倉貢本人です。
高倉みゆきが大倉の愛人だったことは、本人が

「女優を2号(妾)にしたのではなく、2号を女優にしたのだ」

と豪語したことで世間に有名になりました。

畏多くも高倉に昭憲皇皇后陛下を演じさせようとして、
共演予定のアラカン、嵐寛寿郎が難色を示したのに腹を立て、

「ワシの女やから、気品がないというのか? よし、見ておれ!」

と、無理やりゴリ押しキャスティングしてしまった前科もあります。
(ディアゴスティーニのコレクションには件の作品、
『天皇・皇后と日清戦争』もあるのでいずれ取り上げるかもしれません)

さて、それでは始めましょう。
場面は、終戦間近の中国、廈門のナイトクラブ。

扇情的な半裸の女性ダンサーが踊るシーンから始まります。
それにしても、このダンサー、スタイル容姿が全体的に残念すぎ。

しかもダンスが上手いわけでもなく、クルクル回ってはしゃがむだけ、
音楽と踊りが壊滅的に合っておらず、観客はこんなものを見て
いったい何が楽しいのかという代物です。

そこに用心棒と侍女?を引き連れて現れたのは高倉みゆき演じる
ナイトクラブのオーナー、黄百花。

どうみても皇后陛下よりこっちの方が適役と思うがどうか。

カウンターには、プレーン(背広)姿の海軍士官、
我らが天知茂演じる横山大尉がいます。

そのとき憲兵隊が踏み込んできて、オーナー百花を
密輸容疑でいきなり引っ立てようとします。

「待て!」

そこに立ち塞がった横山、海軍司令部の肩書きをちらつかせて、

「日本軍に協力している人だ」

しかし上からの命令が、となおも反駁する彼らを撃退します。
一介の大尉ごときにそんな権限があるのかな〜?

しかし日本軍に協力しているあなたがどうして日本軍に疑われるのか。
それは何か怪しいことをしているからですか?と直球で聞く横山大尉。

彼女はそれには答えず、

「特務機関の方ですのね」

「はっはっは!」

なぜか話はここで終わってしまうので、
結局この時の容疑がなんだったのかは最後までわかりません。
まあ、一介の大尉が介入できるくらいなので
もともと大した話ではなかったのでしょう。

 

ナイトクラブは次の瞬間空襲に襲われるのですが、場面はすぐに
その爆音が爆竹音に変わり、終戦だという説明が字幕で行われます。

ご存知のない方ももしかしたらおられるかもしれないので書いておくと、
この戦争はアメリカなどの連合国軍の勝利で日本は負けた側。

正式には昭和20年9月9日です。

ここ廈門の海軍司令部では、司令官(細川俊夫、役名なし)が
徹底抗戦するべきと訴える若い士官をなだめていました。

そこにやってきたのは横山大尉。

そこで司令官は横山にとある密命を授けました。

それは、日本国民が供出し海軍が保管しているダイヤモンド💎を、
敵方に窃取される前に日本に持ち帰り、海軍省の野村中将とやらに届け、
日本政府に返還させるというものでした。

なんで海軍が民間人から召し上げたダイヤモンドを
中国大陸で預かっているのかよくわかりませんが、
まあ要するにそういうことです。

しかし動乱の廈門はテロが横行し、沿岸には海賊が絶賛跋扈中。
脱出、しかもダイヤモンドを持ってのそれは容易なことではありません。

「しかしこれができるのは君を置いて他はない!」

悩める横山大尉が中国服に身を包んで歩いていると、
物陰から狙撃を受けます。
ところがちょうどそのとき、百花を乗せた車が前を横切り、
狙撃者を撃ち殺して彼の命を救いました。

この狙撃者が誰だったのかも最後まであきらかにされません。


さて、通常の方法で脱出は不可能だと考えた横山大尉は、
毒を持って毒を制すという作戦に出ました。

つまり海賊の有効利用です。

日中戦争当時「東支那海の女王」と呼ばれた、黄八妹という、
日本軍兵士を色仕掛けで誘って殺したとか、
リボルバーを両手に大立ち回りをしたとか、
それは海賊というよりスナイパーと違うんかい、
という伝説の女賊が実在していたそうです。

この映画はこの噂話に着想を得ていて、横山大尉はこの伝説の女海賊、
(本作では黄李花)に助けてもらおうとしたのです。



さてそのためにはまずどうするか。

「警備艦一隻買って頂きたい」

横山は黄李花の窓口となっている自称貿易商の劉に会うなりぶちかまします。

「軍艦を売ってやるから、その見返りに、
その乗員全員を日本本土まで安全に送り届けること」

それが横山大尉の出した条件でした。

ダイヤモンドを持った横山大尉自身ももちろん乗り込むつもりですが、
それにしても、一介の大尉に海軍軍艦一隻を
よりによって海賊に売ることを決める権限はあるんでしょうか。

というかこの計画、いろいろと突っ込みどころ多すぎ。

自分の一存では決められないので統領に会ってくれ、という劉の依頼に、
譲渡する予定の警備艦「呉竹」でアジトに向かうことにしました。

快くその任務を引き受けた艦長の田木少佐を演じる中村寅彦は、
現成蹊大学創立者の息子で、東京帝大卒。
「学士俳優」(いまなら高学歴俳優)の第一号です。

ちなみにもう少し下の世代には陸士及び東京帝大卒の平田昭彦様がいます。

アジトの島に近づくと、哨戒艇が警戒信号を発信して来ました。
しかし、劉が灯りを数回転させただけで去っていきます。

一体どういうスーパー通信方法なのか。

そしてアジトとされる島にいよいよ近づきました。
この島(じゃないと思うけど)は、ロケ現場となった和歌山県にあります。

ボートで上陸した彼らをお迎えしたのは、

敵意に満ちた目をした中国人海賊の皆さん。
はて、わたしたちなんか嫌われるようなことしました?

アジトに一歩踏み込むと、控えていた連中が手にした銃の実弾を
てんでに空に向かって撃ちながら走ってきました。

思わず身構える海軍士官たち。
しかしそれは女統領が帰還してきたことに対する歓喜の雄叫びでした。

どんだけボス好きなんだよ。
頭領が帰ってくるたびにこんなことしてたら弾がいくらあっても足りないぞ。

そして改めて海賊の頭領、黄李花の「謁見」を受けた横山は、
それがナイトクラブの百花と同一人物であるのに驚愕します。

李花は、自分の部下に警備艦の航行技術を伝授すれば、
あなた方を日本に送り届ける、とあっさり約束しました。
しかし、

「軍艦の艦名は『泰明号』と変えます!」

勝手に名前を変えられて、一瞬艦長の顔が曇りますが、
この際仕方ありません。・・仕方ないのかな。

李花のボディガード、張は男前の横山が気に入らないらしく、
何かと最初からガンをつけてきます。

皆の前では黙っていた横山大尉ですが、後でこっそり李花の部屋に行き、

「驚きました・・・まさか百花さんが」

「百花ではありません。黄李花です」

そして

「あなたがたには何か重要な役目があるのでしょう。
なぜなら、よっぽどのことがなければ海軍軍人の命に等しい軍艦を
売るなどということは考えられられません」

と図星を付き、横山は押し黙ります。


翌日から海軍による海賊への航海術指導が開始されました。

手旗信号。

六分儀を使った天測。

射撃訓練。

それをするなら艦砲射撃じゃね?と思いますが、予算の関係上
セットが用意できなかったのだと思われます。

一番大切な、錨の揚げ降ろし。甲板作業一般。

そんなとき、海賊のジャンク船団が武器を満載して香港に向かっている、
という知らせが飛び込んできました。

相手は彼女の一族と東支那海の派遣を争う漢一味です。

すると李花は、警備艦「呉竹」を出撃させよ!と命じます。
いつのまに売却が済んだんだろう。

しかもマストにはいつのまにか旭日旗の代わりにこんな旗まで・・。

これ、田木艦長以下「呉竹」の乗員は誰一人文句ないの?
いくら上からの命令でも、中国人、しかも海賊に
艦名もメインマストも乗っ取られたとあっては、
おそらく下士官兵のクーデターは必至だと思うのですが。

模型は新東宝の特技班が手掛けています。

そして敵のジャンク船団・・・うーん・・(特撮のレベル微妙すぎ)

そして、いつの間にか司令官になり切った李花が、

「戦闘用意!」

田木艦長、貴様本当にそれでいいのか?

しかしいくら偉そうにしていても操艦は全て艦長が行います。
当たり前だよね。

と言いたいところですが、

「左20度!」「左20度!」

おい、いつから帝国海軍は取舵を左というようになったのだ。

そこでまたイラッとすることに、李花が

「攻撃用意!!」

そのセリフ回しが、なんと言ったらいいのか、

「あなたおしぼり持って来て」

とバーのマダムがボーイに命令するような口調なんです。
少なくとも軍艦の艦橋で人に聞こえるような声ではありません。

しかも、

「撃て!!」

まで言っちゃうんですよ。
撃てじゃないだろ!てー!だろ?
なんだこの女、とドン引きした横山大尉が、

「無抵抗に等しいものをなぜ撃つんです!
威嚇射撃だけでいいじゃないですか!」

と嗜めても、無視して、

「攻撃続行!」

周りの士官たちは互いに顔を見合わせながらも、しかたなく攻撃ヨーソロ。
田木艦長、貴様重ね重ねそれでいいのか・・・っ!


続く。

映画「東支那海の女傑」中編

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新東宝映画、「東支那海の女傑」、2日目です。

李花が無情にも軍艦の砲を撃ちまくって敵に大ダメージを与えた夜、
アジトは勝利の美酒に酔う海賊たちの蛮声が響き渡りました。
海軍警備艦の乗員たちも混じって大宴会が行われています。

そんな中、横山大尉を体育館の裏に呼び出す李花。
ところが横山大尉、開口一番、こんなやばいことを言い出します。

「僕はあなたをそんな人だとは思いませんでした。
もっと・・・」

「もっと?」

「女らしいひとだと思いたかった」

アウト〜!ポリコレアウト〜!
さらに畳み込むように、

「なぜもっと女らしい道を選ばないんです!」

それを海賊の統領に言ってもだな。

自分の好み視点で相手を責める横山に、李花は、漢一族と黄一族の
東支那海の覇権をめぐる歴史的な相克について語ります。

「漢一族に復讐して東支那海を平和な海にしたいのです」

復讐、それは相手の殲滅と残党に対する容赦ない弾圧。
それを「平和」と言ってしまいますか。

しかし、これでおどろいてはいけない。
それを聞いた横山大尉、ツカツカと彼女に近づき、

「李花!」

と突然呼び捨てにして彼女の手を握ろうとするじゃありませんか。
それまでの話のどこでスイッチが入ったのか横山大尉。

っていうか人の話聞いてた?

手を握ることに失敗した横山大尉が宴席に戻ってくると、
用心棒の張恵烈がいきなりナイフを投げつけ絡んできました。

これはあれだな、嫉妬というやつだ。

いきなり殴られた横山ですが、きっかり相手を投げ飛ばしてお返しを。

この一連の激しいアクションを、天知茂はスタントなしで演じています。

横山にコテンパンにやられ、悔し紛れに短刀を振り回し、
それもやられて短銃を持ち出した張を阻止したのは李花でした。

ところで海賊たちと李花の会話は全て中国語です。
高倉みゆき発音こそあまり上手ではないものの、
長台詞もちゃんと演じています。

その晩、泰明号の周りをうろついていた漢海賊の一味が捕らえられました。
なぜそこにいたか聞き出すために、まず手下が拷問し、
縛り首にする寸前で女統領の元に連れて行きます。

すると彼女はにっこりと、

「目的を話してくれたら縄を解きます」

これで簡単に彼らは口を割るというわけですね。
そして彼らの目的とは。

「トランクを探して来いと言われました」

そこでピコーンときた李花、横山大尉をわざわざ呼びつけ、

「やっぱりあなた、何か隠していますね」

「・・・・・」(; ̄ー ̄)ぎくーっ
横山大尉、無言でしらばっくれます。

さて、ここは「呉竹」改め泰明号艦上。
「呉竹」の乗員がぷんすかしながら、海賊を指導しています。

「貴様らなんて物覚えが悪いんだ!
貴様らがちゃんとやってくれなければ俺たちは日本に帰れんのだぞ」

確かに海軍と海賊の契約は、軍艦を海賊に売って、そのかわり、
海賊は海軍艦で東支那海を突破して日本に送り届けるというものですが、

ちょっと待って?

この海賊が軍人を差し置いて海軍艦を運用する意味ってなんなの?
逆にいうと、海軍軍艦なら東支那海を突破できるってことなんじゃ?

それなら、何もこれを海賊ごときが無理して運用する意味もないですよね?

眉根を寄せながらアンニュイな表情で舷側をそぞろ歩く横山大尉を
田木少佐が呼び止めます。

「横山大尉、だんだん海賊ヅラになって来たな」

そもそも「大尉」を「だいい」と発音しないのがもうダメなんですけどね。
当ブログ的には。

「このまま海賊の頭目にでもなりますか」

「はっはっは」

しかし、田木少佐、そうボンクラでもないと見え、こんなことを言います。

「貴様の大冒険も悪い目が出そうな気がするよ」

「どういう意味ですか」

海賊同士の争いに巻き込まれかねないし、
そもそもあの女頭目が信用できない。
そういう田木少佐に横山が彼女を信用するべきだとおずおずと反論すると、

「惚れたな?あの女海賊に。
なに、海賊の女頭目をいっそのこと女房にするか」

気まずく薄笑いを浮かべる横山大尉でした。

そのとき、中国海軍が黄一族のアジトに乗り込んできました。
彼らは漢一味の密告により、日本の軍艦の存在を知ったのです。

中国海軍は李花に軍艦と日本人乗員の引き渡しを迫ります。

彼らを追い返した後、横山を憎む張は、日本人を軍艦ごと引き渡せ、
と李花に言いますが、彼女はこれをはねつけ、
我々と日本人が手を組めば中国海軍にとって脅威となる、と断言します。

「我々は無血で日本軍艦と日本軍を手に入れたいのです」



その晩、またしても李花の個室に侵入した横山大尉。

中国海軍から守ってくれた礼を言いにきた横山大尉に、
李花は、我々は中国海軍とは必ず戦う、なぜなら

「あなたたちを守って日本に返すのが海に生きるわたしたちの魂です」

とかいうんですよ。

女らしくない李花に失望したくせに、逆に海軍軍人たる自分が
女性に守ってあげると言われることになんの痛痒も感じないのか横山?

しかもほれた弱みというのか、思い入れたっぷりに

「あなたのことをもっと知りたいのです」

とかいわれて、ぺらぺらとダイヤモンド運搬の密命を喋ってしまいます。
(ちなみにこのダイヤで敗戦後の日本の再建をするそうです)

その任務遂行に力の及ぶ限り協力します、という李花。

前回拒否されましたが、今回は彼女の手を握りしめることができました。

よかったですね(棒)


ところで、新東宝と天知茂主演映画にありがちなことですが、
この映画は戦争ものではなく、主人公が海軍軍人というのは、
あまり本筋に意味がないというこの事実です。

「終戦のどさくさに日本にダイヤモンドを持ち帰る密命を受けた主人公が
海賊の助けを借りて東支那海を突破し日本まで送り届けてもらう_」

というこのあらすじにおいて主人公が軍人である必要はありませんし、
繰り返しますが、なぜ海軍が海賊に守ってもらわねばならないのか
全くわけがわかりません。

いくら沿岸に海賊が跋扈しているといっても、前半でもそうだったように
艦砲もないジャンク船など軍艦の相手ではないのですから、
軍艦でそのままぶっちぎって日本に帰ってしまえばいいのです。

考えられる可能性としては、敗戦したので中国海軍に見つかったら、
そのダイヤを接収されてしまうから、裏道を海賊に案内してもらう、
ということになろうかと思いますが、そんなこと言ってないんだよな。

いずれにしてもこの大前提にあまり説得力がないのは困ったものです。

李花をとられてやけ酒を飲んでいる張に、
当初から軍艦の中でこそこそ秘密を嗅ぎ回っていた怪しい日本人、
成見が、ダイヤモンドの奪取をけしかけます。

そのとき、前回李花が釈放した漢側の海賊二人が
やすやすと艦長室に忍び込んで、トランクを探し出しました。

あのさあ。

国家予算に相当するほどのダイヤを、どうして洋服ダンスの棚に入れて
鍵もかけず見張りもおかずに放置しておくと思うわけ?

もちろん、彼らはたちまち見張りに見つかって、
気の荒い乗員たちにタコ殴りにされるのですが、その騒ぎの中、
転がったトランクをこっそり持っていく人物がいました。

そう、もちろん成見ですよ。
なんと自分でカッターを下ろして軍艦から逃げ出しました。
もと海軍軍人かな?

ワクワクしてトランクを開けたら中から出て来たのは艦長の下着でしたとさ。
クローゼットに入っていたのですから当然でしょ?

その頃、「呉竹」あらため泰明号では、
横山らが李花に無事にダイヤモンド(らしきもの)を見せていました。

いくら説明するためでも現物を見せる必要あるかなあ。
しかもこのダイヤ、キラキラ光って原石にはとても見えません。
ブリリアントカットしてあるのかしら。

海賊団で会議が行われています。
議題は、いまさらなのですが、

「中国海軍に日本人を引き渡すかどうか決める」

それはしないと頭領の李花がもう宣言したんじゃなかったっけ。
つまり張が蒸し返してしつこく引き渡しを主張しているだけなのですが、
中国語でワイワイやっている彼らを眺めながら日本側は

「我々を引き渡すかどうかもめているようです」

と心配しています。
海賊と軍艦の売買契約をしてバーター成立したんじゃなかったのか海軍は。
もしかしたら文書とか全く取り交わしてないとか?

「我々は日本人との約束を守る!」

改めて李花が鶴の一声で議論を打ち切ったとき、ちょうど
漢一族のジャンク船がこちらに攻めて来たという知らせが入りました。

しかし、現れたのはジャンク船一隻のみ。
そのマストには、

「黄李花 大歓迎 漢万竜」

と書かれているではありませんか」

「謀られたっ!」
この一隻は囮で、軍艦をアジトから遠ざけるためだったのです。

主力軍の留守にアジトに攻め入った漢一族は、
留守番をしている者を無残にも殺害していました。

李花の侍女、長老も・・・・留守部隊は壊滅です。

ところがその中で一人生き残っていたのが成見でした。
当然彼は裏切り者の疑いをかけられます。

必死で言い訳をしますが、持っていた銃に硝煙反応がないことを
横山大尉に突き止められてしまい、田木艦長はいきりたって

「日本人の面汚しだ!俺が殺してやる」

などと銃を突き付ける騒ぎに。

そこで李花が成見を取り調べることになりました。
最後に生き残った無電師が成見を指差して死んだことから、
彼が無電師を使って漢に信号を送ったのだろうという推理です。

もう少しで自白するという時に、張がしゃしゃり出て来て、

「こんな奴は俺が本当のことを吐かせてやる!」

とか言いながら連れて行ってしまいました。
なぜかって?

もちろん彼らは裏でつるんでいるからですよ。
そして今回のことも実は張が計画したことなのです。
目的はダイヤモンドの奪取(だと思う)。

無残な殺戮の痕跡を目の当たりにした横山大尉は、今では
李花と黄一族が漢一族に持つ憎しみがよく理解できる、
と言い出しました。

「死んだあなたの部下の霊を慰めるためにも、今漢万竜を討ち、
復讐を遂げるべきです!」

「しかしわたしたちは1日も早くあなたがたを送り届ける責任が」

「ありがとう。
しかし、今この時を逸しては漢万竜に報いる時が無くなります。
我々に協力させてください!」

いやいや、軍隊というのは所属する国の防衛が主任務であって、
他所の国の、しかも惚れた女の復讐を果たすために、
一大尉が動かせるものではないんだが。

横山大尉、すっかり海軍部隊を私物化してるっぽい。
そして、

「我々は少数でも戦闘にも絶対の自信があります!
必ず勝ちます!我々を信じてください」

と胡散臭いセールスマンみたいなことを言い出すのでした。
戦闘に絶対の自信があるならどうして海賊なんぞに(略)


続く。

映画「東支那海の女傑」後編

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新東宝のアクション映画、「東支那海の女王」、続きです。
今日の挿絵は趣向を変えてアメコミ風に描いてみました。

女海賊、李花のアジトに中国海軍の士官がやってきました。
中国海軍の士官がこんな制服だったとは初めて知りましたが、
夏の二種制服の白に詰襟というのは世界共通なんでしょうか。

中国海軍は、海賊が日本の艦船と乗員を匿っていることを聞きつけ、
引き渡すよう要求して来ますが、李花は毅然とそれをはねつけます。

「ありがとう!」

田木少佐は感動して礼を言いますが、なぜか彼女は
顔を曇らせたまま無言です。

こうなったら一刻も早く、という横山の言葉通り、
黄海賊と帝国海軍が協力し、
漢万竜とその一族への攻撃はすぐさま実施されることになりました。

黄司令率いる部隊は島の正面から、横山大尉率いる部隊は側面から
敵の根拠地に乗り込んでいく、と李花はいうのですが、彼女の船はこれ。



伊勢志摩にいったときに見た観光船を思い出すわー。



海軍と海賊で両面から島に潜入しましたが、不思議なことに
島は今のところも抜けの殻状態で誰もいません。

漢万竜(中央)

それもそのはず、漢の部隊は侵入者を一望できる優位な場所に陣取り、
敵がやってくるのを今か今かと待ち構えていたのでした。

地雷に戸惑っていると上からの攻撃を仕掛けられます。
激しい銃撃戦が始まりました。

崖を這い登ろうとすると上からハリボテ丸出しの岩を落とされたり、
すっかり黄軍は不利な戦いとなりました。

横山大尉率いる海軍陸戦隊が側面から侵入してきました。
皆「呉竹」の乗員ですが、ちゃんと陸戦服に着替えております。

敵を引きつけてから撃つという李花の作戦に、横山の部隊が
側面から援護射撃を行い、さらに銃弾飛び交う中を軍刀で斬り合い。

当然の結果として、一人残った李花の侍女その2も銃弾に斃れました。

形勢不利と見て逃げようとする頭領の漢を横山が負い、
戦っていると、横から李花が容赦無く撃ち殺してしまいました。

駆け寄った横山大尉のセリフがすごい。

「李花、復讐を遂げておめでとう」

「とうとう仇を打ちました」

・・めでたいとかいう話かな?

しかも、この数分間で漢軍は全滅してしまったらしいんですよ。
なんか色々と展開が雑駁すぎるというかね。

さあ、次は海賊が約束通り「海軍を日本に送り返す」番です。
警備艦「呉竹」、いまや「泰明丸」の艦橋から田木艦長が放送を行いました。

「全員に告ぐ、ただいまより我々は母国日本に向かって帰る」

全員じゃなくて「総員」ね。
それから母国より「祖国」の方が適当かな(おせっかい)

祖国に帰れる喜びに、互いに顔を見合わせる乗組員総員。
しかし、リアルタイムで本艦には中国海軍が迫っていました。

「中国海軍が全速力で追って来たら泰明号と遭遇するのはここです。
この線さえ通過すれば、この島にいるあたしの仲間を通じて
あなたたちを日本に送り込めます」

なんか突っ込みどころ多すぎる気がしますがもういいや。

「ここまでお送りしたらわたしたちの仕事は終わりです」

「・・・お別れしなければなりません」

横山大尉はそれを聞いて目を伏せるのでした。

ところで、日中戦争終戦が9月9日ということは、映画が始まった時点で
すでに第二種軍装の着用期間は終わり、第一種に衣替えしているはずですが、
本作では最初から最後まで夏用の第二種で押し通しております。

これはひとえに第二種のが映画的に「見栄えがいい」とか、
そちらの方が天知茂の軍服姿が一層かっこよく見えるから、とか、
世間的にこちらの方が人気が高いからとかそういう理由によるものでしょう。

そして、このストーリーに無理やり海軍を絡めて来たのも、
この一種のコスプレ効果を期待してのことだと思われます。

またこの海軍二種が似合うんだ。天知茂。

泰明丸は東支那海に航海を始めました。
これは機関部のどこかだと思います。

海賊と海軍で運用をしているので見張りもこのようなことに。

その艦上で李花と横山大尉はまたも二人きりになりました。

「横山大尉、このような言葉があるのをご存じ?
『会うは別れの始めということ』」

そんな言葉は日本人なら誰でも知っておる。

そして二人は、初めて会った時から互いに惹かれあっていたことを
あらためて確認するのでした。

(BGM『支那の夜』ストリングスバージョン)

「李花!」「横山!」

もしかしたら李花さん、横山大尉のファーストネームまだ知らないんですか?

二人の唇があと数センチで触れ合おうとするとき、
すんでのところで艦内に警報が鳴り響きました。

この「配慮」はプロデューサーの大倉貢が現場にいて、
社長に愛人のラブシーンをお見せするに忍びないと
現場が忖度したからだ、というのは穿ち過ぎでしょうか。

中国海軍が現れ、停船命令を発して来ていたのです。
ところが全力で逃げようとしたとたん、獅子身中の虫、
張が武器を手に艦橋に押し入って来ました。

張は停船を命じました。
泰明丸に乗り込んでいた海賊の多くが、実はうらで張と通じ、
叛逆の機会を待っていたということになります。

張はこの船を中国海軍に渡し、黄海賊も皆殺しにして、
東支那海の縄張りを自分のものにしようとしているのでした。

そして艦艇からダイヤを奪取させた成見を撃ってしまいます。
だからダイヤはクローゼットではなく金庫に入れておけとあれほど(略)

「次はお前だ!」

とさっきまでボスであったはずの李花を手にかけようとした時、
瀕死の成見が抵抗し、怯んだところを李花素早く射殺。

あとは乗員たちが大立ち回りして海賊をやっつけてしまいます。
これって李花以外の海賊は全員裏切り者だったってことでおK?

うーん、なんのために月月火水木金金の訓練を施してやったのか。

しかしそんな非常時にも中国海軍の停戦命令は続いています。

「仕方ありません!
潔く敵中へ突っ込んで華々しい最後を飾りますか!」

おいおい、横山大尉、何を言うとるんだ。
田木艦長は冷静に、

「戦争は終わったんだから艦長として無駄死には許さん」

田木艦長は総員退艦して日本に帰ることに力を尽くせと訓示します。

乗員は口々に何故戦わないのか、とか艦を見捨てることはできない、
などと叫びますが、艦長は文字通りの錦の御旗的に
陛下の御名前を出し、皆を黙らせてしまいました。

 

この映画が仮にも「戦争映画」を標榜するのならば、
最後に「呉竹」は中国艦隊に単身突入し、
派手な砲撃戦のうちにまず李花が斃れ、駆け寄った横山がやられ、
火の海となった艦橋に仁王立ちする田木艦長と、
その田木に総員退艦を命じられて涙を浮かべながら敬礼する乗員、
ついでにラストシーンは甲板で手を握り合って倒れている横山と李花の姿に
スポットライトがあたり、暗転して「終」が出ることでしょう。

しかしこの映画で描きたかったのはそんな戦闘シーンではなく
あくまでも女海賊のコスプレをした高倉みゆきであり、
その他もろもろは「彩り」というやつにすぎないのです。

そもそも戦闘シーンを描ききるほどの特撮技術も、
ご予算の関係で円谷英二を使えないのでは仕方ありません。

 

しかし流石にこれではあまりに海軍に失礼?ということなのか、
田木艦長が総員退艦後一人艦に残ると言い出します。

「艦長が陛下からお預かりした艦と運命を共にするのは最大の幸せだ」

でもこの艦、すでに海賊に売却されてませんでしたっけ。
陛下からお預かりした艦を中国海賊に売るのはオッケーだったの?

横山大尉は、

「艦長と一緒に死に花を咲かせてください」(意味不明)

乗員たちも自分も残るので戦わせてくれと口々に・・・。
すると田木艦長いきなり拳銃を出して、

「この後に及んで上官の命令に服従しない者は俺が処罰する!」

あーもう無茶苦茶ですわ。

わたし、このシーンでリアルに「おい(笑)」と声が出てしまいました。
しかもダメ押しに、

「横山。李花。日本に帰って一緒に暮らしてくれ」

うーん、それははっきり言って余計なお世話ってやつでわ。

「総員退艦!艦長に敬礼!」

前半から全く存在感のなかった田木艦長が、まるで主人公です。

そして一人舷側に立つ艦長と内火艇に乗り移った横山大尉たちの間に
最後の敬礼が交わされます。

帽振れは?帽振れはないの?

ボートの水兵たちは座ったまま敬礼。
これ海軍的にありですか?

そのときです。
いつ爆薬を仕掛けたのか全くわかりませんが、泰明丸、いや、
帝国海軍の警備艦「呉竹」は大爆発を起こして自沈しました。

( ;∀;) イイハナシカナー

「アッ・・・・!自爆だ」

沈みゆく艦に敬礼すると、横山大尉は

「田木艦長は・・日本海軍の最後を立派に飾ってくれた。
今、艦長の霊魂は我々の帰国を見守ってくれるだろう」

とさらに意味不明なことを言い、李花はそれまで胸につけていた
(冒頭写真ではくわえてますが)花を、
死者へのはなむけとして海に投じました。

彼らが内火艇で立ったまますごした夜が明けました。

日本にダイヤモンドを持ち帰るという任務の果てには、
この二人に新しい明日が待っているというわけです。

中国人の女海賊と海軍士官が結婚するというのは大変困難だと思いますが、
まあそれは横山大尉が出世を諦めればいいだけの話です。
それにこの後すぐに日本は大東亜戦争に突入ですよね?
そんなことを言っている場合ではなくなるはずです。

しかし二人は一縷の希望を抱きつつ日本への海路を進むのでした。

しかし内火艇に立ったままで東支那海から本土に帰るのは
なかなか辛いものがあるかもしれんね。

それから、この画面の水平線には、明らかに
大型船が3隻航行しているのが見えてますが、
これが中国海軍ではないことを彼らのためにも祈りたいと思います。




WASP(女子航空隊)とハップ・アーノルド将軍〜スミソニアン航空博物館

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WASP、Women Airforces ServicePilots 
については、当ブログで女性飛行士の紹介と言う形の紹介を
何度となく行ってきました。

今日はスミソニアン博物館によるWASPの資料を紹介します。

■ WASPの誕生

「第二次世界大戦のエース」に続く写真パネルで紹介されていた
WASPコーナーの説明によると。

「1941年、ジャクリーン・コクランが、輸送コマンド航空隊の司令官に
コンサルタントという形で任命され、軍航空飛行場において
輸送パイロットに女性を採用するという案の検討が始まりました」

このブログでは何度となくご紹介しているので、
コクランという女性が右下の大きな写真の人物であることは
皆さんも覚えておられるかもしれません。

しかし、これも記憶しておられるかもしれませんが、当時、
女性からなる補助航空隊の成立は世間の声とかが障害となって、
アメリカ合衆国の「オーソリティ(権威)」から拒否されてしまいます。

そこでコクランが話を持ち込んだのはイギリスでした。

コクランはまずそちら側に女子航空隊を創設しますが、
もちろんその際も表に立ったのは彼女ではなく、
あのハップ・アーノルド将軍でした。

アーノルド将軍については、「陸軍航空の父」という位置づけで
ここでも紹介していますが、女子航空隊創設を実現させた人物です。

さしずめ女子航空隊のアーノルド将軍が父、
コクランが母といったところでしょうか。


まずイギリスで女性パイロットによる補助航空隊を稼働させ、続いて
1942年9月にはアメリカに女性パイロットプログラムが組織されます。

プログラムは2部構成になっていて、ひとつは飛行経験者による輸送部隊、
そしてもう一つは未経験者の養成プログラムでした。

当ブログでは「クイーン・ビー」としてとして既にご紹介済み、

ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」

がアメリカにおける輸送&教育隊の初代司令に任命されます。

Women's Auxiliary Ferrying Squadron、略称WAES、
女性補助輸送中隊が正式な名称でした。

そして、イギリスの輸送隊を組織していたジャクリーン・コクランは
アメリカに帰ってきて訓練航空隊の創設に関わることが決まりました。

1949年8月5日、二つのプログロムが統合されて

Women Airforces Service Pilots (WASP)

が誕生します。

1944年に廃止されるまで、WASP全体的の総空中航行距離は6千万マイル。
プログラムに受け入れられた1074名の女性のうち、900人は
「実践」に出ることなく終わり、プログラム中に30名が殉職しました。

WASP alumni association, Order of the Fifinella, logo

「Order of Fifinella」(フィフィネラ団)

WASPは、プログラムが廃止される1カ月前の1944年11月に、
マックスウェル飛行場で「フィフィネラ団」を制定しました。

この組織の目的は、WASP解散後の再就職に関する情報の共有、
WASP出身者同士のコミュニケーションを維持すること、
そして航空業界の法律や潜在的な雇用者に影響を与えるための
統一された組織を形成することでした。

1944年12月20日には300人、そして1945年には会員は700人を超え、
WASPの全階級から代表者を集めた諮問委員会が設立されました。

時が経つにつれ、組織は会員数を増やしてゆきます。
具体的な活動は年2回のニュースレターの作成、
各地での同窓会のコーディネート、
すべての会員の消息を明らかにする名簿の管理などです。

最後の同窓会が行われたのは意外と遅く、2008年のことで、
開催場所はテキサス州アーヴィング。
そして翌年の2009年には正式に解散を行いました。

他のいくつかの航空隊のシンボルと同じく、
このデザインもディズニーによるもので、しかもスタッフではなく、
ウォルト・ディズニー本人の作画を使用する許可を得ています。

ちなみに「フィフィネラ」とは、航空隊の女性たちの面倒を見るために
航空機の翼の上に乗ってくれる小さな良いグレムリンのことだそうです。

■ ”ハップ”・アーノルド将軍

ところで、女子航空隊に最初は反対していたくせに、
結局のところ設立に鶴の一声でゴーサインを出したため、
「父」と言わざるを得なくなったハップ・アーノルド将軍の制服が、
まさにここWASPコーナーのおまけのように展示してあります。

アーノルド将軍の着用したこのタイプの軍服は、全ての将校に共通のもので、
一般に「ピンクとグリーン」(Pinks and greens)と呼ばれていました。


ピンクアンドグリーンを着た陸軍幹部。
(左はおそらくジミー・ドーリトル?)

ピンクアンドグリーンは第二次世界大戦中の
アメリカ陸軍の将校用の冬服を指す愛称のようなものです。
ピンクという言葉が謎ですが、これはグリーンの上着に合わせる
ズボンがかすかにピンク色を帯びていたことからきています。

「陸軍が認めたものとしては最も派手で目立つ制服」
という評価のせいか、着用は勤務時間外か、非公式な夜の社交行事のみ、
と限定され、1958年には廃止されています。

アーノルドは1944年12月に元帥に昇進し、
特別記章を両肩に付ける身分になります。
第一次、第二次大戦にまたがる、長く際立ったキャリアの間に、
彼はそれこそ数多くの勲章とメダルを授与されましたが、
本人は陸軍勲章、殊勲飛行十字章、
そしてエアメダルのリボンだけをつけていました。

リボンの上にはコマンドパイロットのウィングマークがあります。

アーノルド将軍のファイブスターフラッグ実物が展示されています。彼はアメリカ陸軍と空軍、二つの軍で五つ星ランクを取った唯一の人物です。

1949年、特別にアーノルド将軍のために製作されたブルーフラッグは、
初の空軍大将旗として、
陸軍のレッドフラッグ将軍旗と対照的に用いられました。

大統領令としてファイブスターランクを与えると記された賞状実物。


1949年5月7日の議会命令により、アーノルドは空軍将軍に任命されました。
授賞式で、時の大統領トルーマンから任命書を受け取っています。

ここにはハップ・アーノルド、本名ヘンリー・ハーレイ・アーノルド将軍の
バイオグラフィーも展示されているので一応翻訳しておきます。

ペンシルバニア州生まれ、1907年ウェストポイント卒業
1911年、オハイオ州デイトンにあったライト兄弟の航空学校で飛行を学ぶ(ライト兄弟のどちらかに教わったわけではない)

1931年以降「ハップ」(HAP)とあだ名で呼ばれるようになる

1912年、マッケイトロフィー(航空レース)で優勝
1934年、アラスカへの初探検飛行を成功させる

1938年、陸軍航空隊の隊長に就任

1941年、陸軍航空隊司令官に就任、陸軍大将に昇任
連合参謀本部の一員となる

第二次世界大戦中、240万人以上の組織の長として
航空隊の訓練、装備を統括する立場に

1944年12月にが元帥位に上り詰める

1946年、陸軍航空隊指揮官を退役

彼は空中給油、無人飛行機、ボーイングB-29スーパーフォートレスなどの
高度な航空技術開発の先駆者であり、退役後も
航空科学と米空軍の技術開発の間の連携を指導しました。

そのリーダーシップ、そして個人的な経歴の積み重ねの成果は、
彼に「現代空軍の父」という名前を与えました。

女子航空隊WASPの創設も、そんな彼に取っての
偉大な業績の一つだったのです。

現在においてもハップ・アーノルド将軍は、
アメリカ空軍史上唯一の五つ星ランクの軍人です。

■ WASPのトレーニング

飛行場のエプロンを行進するのはWASPの訓練生たち。
航空パンツの上に半袖あるいは長袖の白いシャツ、
帽子はギャリソンキャップらしいデザインですね。

場所はテキサス州のアベンジャーフィールドで、これは
女子航空隊訓練課程の卒業式における整列の写真です。




同じくテキサス州スウィートウォーター(地名)のアベンジャー飛行場、
WASPの訓練生が航空エンジンについての実習を受けている様子です。

教員らしい右側の男性は航空隊の軍曹と言ったところでしょうか。

髪を伸ばしている人ばかりですが、考えてみると、
大多数のアメリカ人女性、とくに頻繁に美容院に行かない学生などは
ロングヘアにしていることが多いので、彼女らもそれと同じかもしれません。

写真で行われている実習は、基幹部品の組み立てのようです。

高気圧チャンバーでの耐圧テストを受けているWASPたち。
この設備はテキサス州ランドルフ基地にありました。

その他のテストにおいても、女性の輸送パイロットは物理的に
男性のパイロットよりも喪失率が低いことが証明されています。

しかも、女性の男性より少量の筋肉構造は、より重い航空機を飛ばす能力とは
何の関係もないということがこのとき明らかになりました。

颯爽と飛行服で歩くWASPたち。
四人並んでこんな風に歩いているポーズは
おそらく宣伝用に撮られた写真ならではでしょう。

WASPプログラムの最大の目的は、
男性パイロットを戦闘任務に集中させることにありました。
したがって彼女らの任務は輸送、標的の曳航、
管理飛行、ユーティリティ飛行などに限られました。

この4人のWASPはB-17を輸送する任務を行うパイロットたちで、
オハイオの飛行基地に、後ろに見える機体を運んできたところです。

■ アメリカ史上初めて「戦死」したWASPパイロット

Cornelia Fort

コーネリア・クラーク・フォート(1919年2月5日~1943年3月21日)は、
アメリカ人飛行士として2つの出来事に参加したことで有名になりました。

1つ目は、1941年12月7日、真珠湾攻撃の際に日本軍の航空隊と遭遇した
最初のアメリカ人パイロットとなったことです。

真珠湾で民間人パイロットの教官として働いていた1941年12月7日、
フォートは真珠湾近くの上空で、単葉機の教官席で離着陸を教えていました。

当時、港の近くを飛んでいたのは、
彼らのほか数機の民間機だけだったといいます。
フォートは軍用機が自分に向かって飛んでくるのを見て、咄嗟に
学生から操縦桿を奪って対向機の上に引き上げました。

その翼に旭日旗が描かれていると思った次の瞬間、彼女は
真珠湾から黒煙が上がり、爆撃機が飛んでくるのを見たのです。

すぐに、真珠湾口近くの民間空港に飛行機を着陸させたところ、
彼女の飛行機を追ってきた零戦は滑走路を空襲し、
彼女と生徒は逃げ惑いました。
このとき空港の管理者は亡くなり、
当時上空にいた2機の民間機も戻ってきませんでした。

そのことが彼女に軍隊に奉仕する志望理由を与えたのでしょう。

1942年本土に戻った彼女は、その年の暮れ、ナンシー・ラブに誘われて、
新たに設立された女性補助フェリー隊(WASPの前身)に参加して
アメリカ国内の基地に軍用機を輸送する仕事に従事しました。

そして、彼女が遭遇した二つ目の航空史に残る出来事とは、
彼女自身がアメリカ史上初めて
現役で死亡した女性パイロットとなったことです。

1943年3月21日、ロングビーチからダラスへ向かう編隊飛行中、
彼女のBT-13の左翼が一緒に飛んでいた男性飛行士の
ランディングギアに衝突したのです。 

このとき、男性飛行士はフォートの飛行機に近づきすぎ、
また近づいては離れるという不安定な飛行をしていたといいます。

そして両機は衝突し、フォート機の主翼の先端と前縁が破損。
男性飛行士は機を立て直すことができましたが、フォートは衝撃で
機体を急降下させ、そのままテキサス州の渓谷に墜落し死亡しました。

事故当時、彼女はWASPの中でも最も熟練したパイロットの一人でした。
彼女の墓の墓石には、

「Killed in the Service of Her Country」
(祖国のための任務中に殉職した)

と刻まれています。

続く。

 

 


「トーキョー・レイド」ドーリトル帝都空襲〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
いかがでしたでしょうか。

5機の戦闘機を核に据えた展示と、当時の軍航空に関する話題で
しばらくお付き合いいただいていたわけですが、
もうあとのこすところ1回で最終回となります。

■ 軍用機搭載弾丸のいろいろ

このコーナーのタイトルは「Armament」となっています。

アーマメントは一般的に「兵器」「装備」を指し、大きな意味では
国の軍備や軍事力そのものを意味する言葉で、ここではおそらく
「装備」というのが一番近いのだろうと思うのですが、
展示してあるのは全て弾丸です。

「軍用機の主な任務の一つは、
様々な種類の発射体(projectiles)の発射です」

という文章から説明が始まります。

ここでまた違う言い方をしていますが、これも要は「弾丸」ということです。

「1940年から1945年の間に、アメリカだけで

42, 875,676,000個

以上の「millitary munitions」(軍需品)が
敵軍に対して使用するために生産され、これらのうち、
410億個を遥かに超えたのが、口径20ミリ以下のカートリッジでした」

また違う言い方がでてきましたね。

つまり英語では弾丸的なもの=装備=発射体=軍需品であると。
日本語の弾丸も、発射されるものによって
「砲弾」「銃弾」と変わってくるので、
英語でもこのような様々な言い方があるのでしょう。

弾丸そのものだと英語は「Bullet」となり、「砲弾」(shell) を包括しますが、
bulletは一般的に「ライフルから撃ち出される弾」です。

第二次世界大戦時代の航空機の弾薬は、
特定の目的を達成するために設計されました。
ここで説明する5つの弾薬は、
全ての使用者(交戦者)が利用した標準的な種類となります。

多くの場合、複数の弾薬を連結して使用することもあり、
標的の選択やダメージの与え方に柔軟性を持たせました。

航空戦が行われ始めた頃には、爆発性の高い焼夷弾が
他の航空機に対して効果的であるとされていましたが、
より強力な航空エンジンが登場すると、
爆発性及び焼夷弾の効果を軽減するために、セルフシーリング式燃料タンク、
そして装甲構造が機体に追加されるようになります。

徹甲機能を爆発物と焼夷弾に追加すると、
より強意攻撃力となることがわかり、
1944年までに、徹甲、爆発性、焼夷というダメージを与える要素を
一つのユニットに盛り合わせた発射体が使用されるようになります。

第二次世界大戦で証明されたのは、大容量の爆発性弾薬を利用した、
速射式高速航空機砲の威力だったと言って間違いありません。

ここで各国の弾丸についての紹介がありました。
全部紹介してもいいのですが、とりあえず日本のところにこうあります。

「焼夷弾」(Incendiary Ammunition)

は、バレルと空気の摩擦による衝撃で発射体の温度を上昇し発火する
非常に可燃性の高い物質(多くの場合リン)を運びます。

焼夷弾はあらゆる種類の可燃性標的に対して使用され、特に
石油やガソリンのタンクに対して効果的です。


その国特有の「発射体」についての説明かと思ったのですが、
わりと一般的なことしか書かれていませんね?

図部分に日本語訳をつけてみました。

ついでにドイツの爆発性弾丸の図解にもつけてみましたが、
おそらく専門的にはこういう訳はされないんだろうなー。

そもそもgain って何?←調べてもわかりませんでした

上から:

陸軍20mmタイプ97式徹甲トレーサー・航空機ガス作動銃用

陸軍20mmタイプ「ホ-5」徹甲弾

海軍ホッチキス型銃用

同型

同型(中身が見えるように裁断してある)

ヴィッカースM1924型ブローニング航空機銃用

同型

89型および92型陸軍海軍兼用銃用

そしてこちらはドイツの銃弾色々。
他にもアメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍のものが展示されています。
イタリア軍は「Breda」という製品以外は
イギリスのヴィッカース社が多かったようです。

■ ドーリトル空襲



折に触れては取り上げてきた「帝都空襲」ですが、
スミソニアン博物館がどのようにこのイベントを取り扱っているか、
ということをお伝えしたいと思います。

この写真は、東京空襲の後、中国上空からベイルアウトした、
ドーリトル中佐とそのクルーたちの記念撮影で、一緒に
現地の中国人(通訳などをした人らしい)が写っています。

現地の説明です。 

「1942年、アメリカ合衆国は日本の真珠湾攻撃に対抗し、
日本本土の五都市を急襲するという計画を立てました。

ジェームズ・H・ドーリトル中佐率いる16機のB-25ミッチェルが
USS『ホーネット』の甲板から発進したのは4月18日。
場所は日本から1325キロ離れた海面でした。

ターゲットは東京・横浜・神戸・大阪・名古屋。
(ちなみにこの名古屋が”Nagoyo"になっているのはご愛敬)
それらの都市を空襲で叩いた後、中国大陸に逃げました。

3機が中国に到着する前に燃料切れとなり、そのうち2機は
日本軍の基地に、そして1機はロシアに着陸し、
そのほかは中国本土に達したものの墜落しました。

『ドーリトル・トーキョー・レイダース』(空襲者)は、
当時のアメリカ人たちに計り知れない士気の高揚を促し、
日本国民は国土を襲撃されたことに衝撃を受けました」

わかりやすいドーリトル隊の行動図。
空母を発進し、日本の目的地を空襲後、中国の自国基地まで飛ぶ、
というのが当初の計画でしたが、
攻撃終了の時点で燃料が極端に少なかったため、
あえてロシアに向かった1機がいました。

信用していないとはいえ、一応ソ連はアメリカの同盟国だったのです。

東京空襲に向かうため「ホーネット」を発進する
ノースアメリカンのB-25ミッチェル。

1機に乗っていたのはパイロット、コーパイロット、ナビゲーター、
爆撃手、そしてエンジニア兼銃手の5名でした。

東京空襲のために、ドーリトル隊機には特別に増槽が追加され、
搭載武器も通常より増やされ、さらにカメラが取り付けられていました。

ただし、ノルデン照準器は取り外されたそうです。

このことは、計画する方も、彼らの生還を期していなかった、
という過酷な現実を物語っています。

いままさに東京爆撃の任務を帯びて発艦するB-25ミッチェル爆撃機。

発艦するミッチェル。
「ホーネット」のそばにいた駆逐艦からの撮影でしょうか。

「東京空襲は、空母から発進した爆撃機による
初めての本土攻撃となりました。

攻撃隊は、発進地点を日本から725kmに要求しましたが、
沿岸から1290kmまでは日本側の哨戒が厳しかったため、
結論としてギリギリの地点からの出発を余儀なくされました。

このため、飛行機は全機が燃料不足となり、計画していた
中国への基地に達した機はいませんでした。

1942年4月18日午前8時20分、ドーリトル隊長を乗せた最初のB-25が
USS『ホーネット』の甲板から発進を行いました。

図にはマークがついていますので、まず
ドーリトル隊が空襲を行った日本本土の部分をズームします。

現地の地図では青い丸だったのですが、あまりにも見難いので
赤い星印に変えておきました。

東京、横浜、名古屋、大阪、神戸と地域的には計画通りです。
実際の攻撃が軍事施設だけであったという彼らの主張は、
大いに間違っていることは当初から明らかでしたが。

▲は2機が落ちた日本の陣地のあった場所です。
乗員は捕獲され、うち3名が銃殺されました。

■はその他の13機が到着した地点。
そのほとんどがアメリカ軍にとって安全な場所でした。

ドーリトル准将(最終)が獲得した勲章の全て。
なぜここにそれらがあるかというと・・・本人が寄付したからです。

しかも本人が生きているときに。

アメリカからだけでなく、レジオン・ドヌール、クロワ・ド・ゲールなど
フランス政府から、またベルギーや中国からのメダルもあります。

中国で発見されたドーリトル隊のB-25の機体の一部。
見つけたのが誰かはわかりませんが、
よくそういうものだと分かったなという感じです。

拡大してみると、中国語でびっしりと、
見つけた場所などが書き込まれていますが、
残念なことに展示が上下逆さまです。

ドンマイ。

■ フランク・カーツ大佐の軍帽

フランク・アレン・カーツ大佐(1911 - 1996)が
本博物館に寄贈した軍帽が飾ってあります。

大佐とともに50回のミッションをこなした軍帽は、
そのままアメリカ陸軍航空隊の飛行の象徴でした。

標準仕様のサービスキャップからハトメを取り外し、
通信のヘッドセットを装着できるようになっています。

カーツ大佐はアメリカ陸軍航空隊の飛行士であると同時に、
オリンピック出場歴のあるアスリートとしても有名でした。


彼の航空歴はなんと16歳から始まっています。

いきなりオープン・コックピットの飛行機で航空レースに出場し、
新記録を打ち立てた彼は、飛び込みが得意でもあり、
1932年のオリンピックでは10メートル台で銅メダルを獲得し、
1936年には肩を負傷しながらも5位に入賞しています。

Frank Kurtz 1935.jpg

民間航空会社への就職するため、陸軍で操縦訓練を受けた彼は
そのまま陸軍に残ることになります。

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の2日後、
フィリピンのクラーク飛行場で起きた空襲の生存者でもあります。

カーツ大佐の戦歴というか功績は、スミソニアンにも記されているように、
この「スゥース」というB-17D-BO型フライング・フォートレスを
後世に残したということなのかもしれません。


「スゥース」は第二次世界大戦の南西太平洋で幅広く使用されたものです。
現存する最古のB-17であり、
現存する唯一の初期の "シャークフィン "B-17であり、
1941-42年のフィリピンで活躍した唯一の現存するB-17であり、
アメリカの参戦初日に運用されたB-17でもあります。


真珠湾攻撃の8時間後、1941年12月8日に
日本軍がフィリピンの米軍施設を攻撃し、
極東空軍の多くが窮地に立たされました。

フィリピンにいた35機のフライング・フォートレスのうち、
破壊や深刻な被害を免れたのは19機だけという状態で、
地上作業員は破壊された他の航空機から回収した部品で
戦闘による損傷を修復しました。

このB-17Dは、ボーイングB-17Dの尾翼を接ぎ木して、
ハイブリッドになったのですが、それは当時人気のあった
ノベルティソング "Alexander, The Swoose "の歌詞のように、
「半分白鳥で半分ガチョウ」という状態だったので、あだ名もそのまま
「スゥース」となったというわけです。

Alexander is a Swoose
(子供の声真似をしている男性ボーカルがすごい)

終戦を前に、「The Swoose」はスクラップにされ、
アルミニウムの含有量を減らすために精錬される予定でした。

そこで出てきたのがカーツです。

オリンピックのアスリートとして、陸軍パイロットとして、
発言力のあった彼は、ロサンゼルス市を説得して、
この爆撃機を第二次世界大戦の記念に残すことに成功しました。

このB-17は、第二次世界大戦の始まりから終わりまで飛行した
唯一の機体です。

機体はわたしが見学したオハイオ州フェアボーンの
ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館で修復中、
という噂ではありますが、もしかしたら
もう修理が終わっているかもしれないので、
期待して写真を検索することにします。

ちなみにカーツ大佐ですが、24年間の軍生活を終え、
企業のエグゼクティブに迎えられ、国際水泳殿堂入りを果たすなど
悠々自適の余生を送ったようです。

彼はのちに女優になった "Swoosie "カーツという名前の娘を設けました。
もちろんその名前は、彼が第19および第463爆撃群で操縦した2機の
B-17 "The Swoose "および "Swoose II "に由来しています。

 

続く。

翼と祈り(A Wing & A Prayer)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
しばらく語ってきましたがいよいよ最終回です。
最後にぜひお届けしたいのは、

「翼と祈り」(A Wing & A Prayer)

というコーナーの写真展示。
これは敵機と戦って傷ついた機体の写真ばかりです。

まずタイトルの横の説明から見ていきましょう。

「航空機の設計で最も重視された要素の一つは、頑丈さです。
それは、敵戦闘機や高射砲などによって大きなダメージを受けた後も
飛行を続け、搭乗員を生きて帰らせることを第一義としていました。

特に、戦争が敵の領土上空、敵本土に深く入った地域で展開されたとき、
丈夫に作られたアメリカの飛行機は、
ほとんど壊滅的な被害を受けたとしても、
何百マイルの距離を安全に飛行することによって、
貴重な人材である連合国の空軍搭乗員たちを救うことができたのです。

このコーナーではこういった航空機の生還の例を示します」

ドイツのルドヴィヒスハーベンへの爆撃任務の際、
翼に大きな穴をあけられながら帰還したB-17フライング・フォートレス。

どんな大きな穴かは搭乗員四人が上半身を出せることからもわかります。

彼らは降りてきてすぐらしく、まだゴーグルなどもつけたままです。
おそらく、実際に見て被害の大きさと、それでもここまで飛んできた
機体の堅牢さに驚き、感謝したことでしょう。

念のため、彼らの顔をアップ。

一応笑っている人もいますが、どちらかというとぎこちなく硬い表情です。
機体が無事着地して動きを止めるまでは、
激しい緊張に生きた心地もしなかったのではないでしょうか。


爆撃機搭乗員を描いた映画「メンフィス・ベル」で、
破損したランディングギアを着地ギリギリまで手動でおろし続ける間、
全員がそれぞれの形で生還を祈るシーンがありましたが、
あのような光景がこのB-17の機内にも展開していたのでしょう。

爆弾マークの数の多さからも、ベテラン機であることがわかる、
(達成した任務は70回)この第12航空大隊のB-25ミッチェルは、
オーストリアへの爆撃任務の際、機首を吹き飛ばされました。

B-25のノーズはほとんど全面ガラスですから、おそらく帰りは
相当風通しが良かったと思われます。

ここには爆撃手と銃手がいたはずですが、彼らは無事だったのでしょうか。

こちらはBー24リベレーター。

ユーゴスラビア上空で高射砲に見舞われました。
砲弾は胴体部分のコンパートメント内で破裂し、
制御ケーブルを切断してしまいました。

しかしこの機長はエンジンを使って進行方向を維持しながら
何とか無事にイタリアに帰還し着陸することができました。

きっとパイロットには殊勲賞が与えられたことでしょう。

サイパンから出撃したB-24リベレーターのコクピット。
硫黄島攻撃の際被弾し、操縦席の機長と副機長は共に負傷しつつも
機を操縦してサイパンに帰還することができました。

このB-17フライング・フォートレスは、ドイツ上空で敵の高射砲攻撃を受け、
制御ケーブルを切断し、二人のガンナーが負傷しました。

パイロットはそのままイギリスに飛び、
航空機関士に切れたケーブルの端を持たせ、
それを引っ張らせて何とか着陸することができました。

写真が不鮮明ですが、しゃがんでいる二人が見ているのが
そのくだんのケーブルだと思われます。

 

シンガポール上空で攻撃を受けた、
第20航空大隊のB-29スーパーフォートレス。
翼とエンジンが被弾したにも関わらず、無事に帰投することができました。

ヴィッカース・ウェリントン(Vickers Wellinton)は、
第二次世界大戦初期、王立空軍RAFで使用されていた
ヴィッカース製の爆撃機です。

ヴィッカースというとどうしても機銃をイメージしますが、
重工業会社として造船を行っていた当社が、
航空機製造を始めたのは1911年のことでした。

1920年代にはスーパーマリンを買収するなどピークでしたが、
戦後は航空機部門から撤退することになります。

「ウェリントン」はヴィッカース社が独特に開発した、
籠状に編んだ骨組みに羽布を貼った「大圏構造」
でできていました。

これによってウェリントンの機体は軽量かつ頑丈で柔軟性を持っていたのですが、
この不鮮明な写真でもおわかりいただけるでしょう。

機体後部の網のような部分、これが大圏構造なるものです。

メッシュ式の構造物をあえて剥き出して展示しています。
これは実にユニークな構造ですね。

Vickers Wellington.jpg

これが愛称「ウィンピー(Winpy)」の通常の姿。
もう一度最初の写真を見ていただくと、機体後部だけが剥き出しです。

このウェリントンは、当時盛んに行われていたドイツでの夜間空襲の帰り、
攻撃によって火がつき、外側の羽布が焼け落ちてしまったのです。

しかしながら構造物は無事だったため、外側を焼きながら飛んで、
なんとかイギリスに帰還することに成功しました。

このウェリントンに乗務していたのは、当時RAFの一部であった
ポーランド人からなる「外人部隊」の乗員たちでした。

イタリアの深い森林地域を機銃掃射しながら飛んでいたP-47サンダーボルト。
エンジンカウリング、プロペラ、翼全てにダメージを受けながら
無事に帰還することができました。

「穴の開いた翼から乗員が顔を出して記念写真」シリーズその2。

これは先ほどと同じ、イタリアに展開していたPー47サンダーボルト。
無事に帰還後撮られたものです。
88ミリ機銃が直接翼に大きな穴を開けています。

イタリアで掃射中、第12航空隊P-47サンダーボルトのオイルラインに
高射砲が命中しました。
パイロットが無事に着陸したときには
エンジンの凍結がすでに始まっていたと言います。

第8航空隊のB-17フライング・フォートレスは、ドイツのケルン上空で
高射砲を受け、これだけの大きな穴が側壁に空いたにも関わらず、
無事にイギリスに戻ることができました。

壊れた機体と記念写真に収まっている乗員たちの顔は
やはりどことなく引きつっており、笑いはありません。

ノーズペイントはピースサインをする髭をはやした第一次世界大戦の兵士。
半裸や全裸の女性がほとんどのなかで異質の意匠ですが、
このおじさんは「オールド・ビル」といい、
これがこのB-17の愛称ともなっていました。

第365爆撃隊 B-17F「オールド・ビル」は、1943年5月15日、
ドイツ上空で敵戦闘機の正面からの攻撃を何度も受け、
深刻な被害を受けました。

この攻撃によってナビゲーター(ダグラス・ベナブル中尉)は死亡、
オールド・ビルに搭乗していたカメラマンを含む11人のうち、二人をのぞいて
全員がなんらかの負傷をするということになりました。

機長も副機長も負傷したため、無事だった爆撃手と二人のガンナーが
何とか安全地域にたどり着くまでの間操縦桿を握って二人を休ませ、
最後の滑走路への着陸だけをパイロットが行うことにして無事帰還しました。

吹き飛ばされた機首からは修理している地上作業員の姿が見えています。
作業員の足元にフライトジャケットが脱ぎ捨てられているように見えますが、
ここには当時極秘だったノルデン爆撃照準器があったため、とりあえず
それをかくすためにジャケットをかけて写真を撮ったようです。

手前の男性はオールド・ビルのノーズ・アートを描いた人なのだとか。

ノーズアートは大抵絵心のある乗員が製作しましたが、
この人がそうなのだとしたら、無事だったわずか二人のうちの一人が
まさにオールド・ビルの作者であったことになりますね。

機体の向こうが完璧に見える状態に・・・。
このB-17はハンガリー上空で直撃弾を受けました。

こんな状態で飛んで帰ってくることはもちろん不可能です。
着陸時に尾翼が崩壊し、そのショックで胴体は完全に破壊されました。

B-24リベレーターの尾部、銃手が配置されているところですが、
ドイツ上空で戦闘機によって激しく損傷を受けました。

写っているのは修理している人なのでご安心ください。

この状態で無事にイタリアの基地に戻ることに成功しました。

Bー26マローダーの尾翼部分を見たところ。

ほとんど縦一線に「筋目」がついているのは、
ノルマンディ上空で高射砲が当たった痕です。
この損傷によって尾翼はほとんど細断という状態になりましたが、
パイロットはエンジンのコントロールだけで方向を制御しながら、
イギリスに無事に帰ってきて帰投を果たしました。

傷ついた機体をコントロールして生還できるかどうかは
機長の冷静な判断と技術、知識、度胸次第ですが、
このマローダーのように特に優れたパイロットが乗っていたことが
乗員全員の命を救ったというのはラッキーで、もちろん戦争の期間
帰ってくることができなかった機体もたくさんあったのです。

ただ、その生還率を1%でも上げるために、アメリカという国が
航空機を作るときその堅牢さ何りも優先したことを忘れてはいけません。

助かった機体と皆で記念写真その3。

なんとこのB-17フライングフォートレス、
フランス上空でエンジンを失いました。
そして編隊を組んでいた後ろのB-17と空中でぶつかっています。

舵、スタビライザー、後部銃手のハッチ全てに
ダメージを受けたにも関わらず、無事に帰還することができました。

エンジンが片方だけでも帰ってくることができるんですね。

一緒に飛行していた編隊の航空機搭乗員たちは、このB-17の尾部が
完全に撃ち落とされるのを見て墜落したと思っていましたが、
なぜかちゃんと基地に帰ってきました。

必要最小限の機能が残っていたとしか考えられません。

戦闘機にラダーの一部とスタビライザーを完全に撃ち落とされ、
エレベーターの片側もなくなったにも関わらず帰還したB-17。

ドイツ上空で完全に尾翼から後ろを失ったB-17。
中身が奥まで見通せる状態です。

ウィーン上空でこのB-17フライングフォートレスは高射砲の直撃を浴び、
無線コンパートメントの側面が吹き飛ばされて、
ボールターレット砲塔にいたガンナーを内部に閉じ込めました。
(ターレットは下の方に見える)

ちなみにボールターレットとはこのようなものです。
小柄な男性しか入ることはできません。
敵機や高射砲にさらされたとき、ここに配置されている乗員は
さぞ怖いものだろうなあと実物を見ると思わずにいられませんでした。

この甚大な被害にも関わらず、機長はおよそ1000キロ機体を飛ばして
イタリアの基地に戻ることができました。

右下の画面に映り込んでいる悲壮な顔の乗員はガンナーでしょうか。

いくつも無事に生還してきた主に爆撃機の惨状を見てきましたが、
この、ケルンで高射砲を受けてかえってきたB-17に

「こんなのでよく帰ってこれたで賞」

を差し上げたいと思います。

改めて言いますが、本コーナーのタイトルは
「A Wing And A Prayer」。

どちらも単数形なので、丁寧に翻訳するならば

「ひとつの翼、ひとつの祈り」

というところでしょうか。

当初「プレイヤー」(祈り)は鎮魂を意味するのかと思っていたのですが、
こうやって写真を見ていくと、この言葉には、
ダメージを受けた機体を機長たちを中心に、乗員が
一丸となって機体と自分たちを生還させるための必死の努力を行いながら
捧げていた「祈り」という意味が込められているのに気がつかされます。



第二次世界大戦の航空シリーズ 終わり

海兵隊航空の誕生〜フライング・レザーネック航空博物館

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疫病が流行る前、サンディエゴで軍事博物館巡りをしました。
その中の一つが、今回紹介する
Flying Leatherneck Aviation Museum
(フライング・レザーネック・アビエーション・ミュージアム)です。

一人でサンディエゴ入りしたわたしは、毎日のように
車を駆ってサンディエゴ近辺にある博物艦を訪ね、
写真を撮りまくりましたが、基本的にどの博物館も、
特に平日はほとんど人影もなく、ボランティアが運営していて
おそらく資金は募金に頼っているのだろうという寂れ具合が目につきました。
今回久しぶりにHPを見ると、COVID-19の流行が打撃となったのか、
博物館は一時的に公開を中止しているということでした。
「近日中に、航空機と展示品を新しい場所に移す計画について、
エキサイティングな発表がある予定です。
それまでの間、Flying Leatherneck Historiclal Foundationは、
学校のプログラムや訪問、海兵隊員の配偶者の表彰、
従軍した人々の経験の記録などを通じて、
USMC航空の遺産を保存し、共有する活動を続けています」
とあるわけですが、
「エキサイティングな発表」がいつなのかとても心配です。なぜなら、その直後、ごく最近のリリースによると、

2021年、米海兵隊はMCASミラマーの現在の場所にある
フライング・レザーネック航空博物館を永久に閉鎖すると発表しました。 
とか。

ただし、同博物館の支援者たちは、同博物館の永久閉鎖と
遺物・航空機の散逸を防ぐため、新しい場所への移転に取り組んでいる、
とも書かれています。

Flying Leatherneck Aviation Museumは、
米国海兵隊(USMC)の航空を専門とする世界で唯一の博物館であり、
米国海兵隊のパイロットが操縦した歴史的な航空機のコレクションとしては、
世界最大かつ最も充実したものです。

この博物館では、米国海兵隊の航空の歴史と、
アメリカを守るために果たした役割を紹介するため、
1989年にカリフォルニア州オレンジ郡のMCASエルトロに設立されました。
1999年に基地再編によりエルトロが閉鎖されると、
ボブ・ブッチャー少将とフランク・ラング少将が率いる
サンディエゴの退役海兵隊員のグループが中心となって、
航空機と遺物をMCASミラマーに移転させました。
そして、2021年3月には、MCASミラマーからの移転が発表されたのです。
新しい場所での博物館の再開に向けた最終的な計画は未定でありますが、
従業員やボランティアによるビンテージ航空機の維持・修復は
今も続いてはいるようです。


いずれにしても、こんなことになる前に精力的に訪問し、
写真を撮っておいてよかったと今は思っています。


まずナビ通りに到着したと思ったら、そこは民間空港に続くエントランスでした。
「セスナ」の看板がまず目につきます。
セスナが経営している飛行士養成学校があるようですね。
自家用飛行機の販売とメンテナンス、それから預かりもやっています。
まるで自動車学校並みに気軽に操縦が学べそうです。
ただ、アメリカだと、ライセンスを取るだけで最低でも三百万かかりますし、
機体の値段はそれこそピンキリですが、維持費が馬鹿にならないようです。
まあ、車みたいに家に置いておくわけにもいきませんしね。



海兵隊空軍基地の周りに、民間空港があるというのも、
いかに土地がふんだんに余っているかということですね。
空港のエプロンには、その年の10月に行われた
歴史的軍用機などのラモーナ航空ショーのポスターが貼ってありました。ラモーナはミラマーから少し内陸に入った街です。


フライング・レザーネック航空博物館は、カリフォルニア州サンディエゴの
ミラマー海兵隊航空基地の近くにある、アメリカ海兵隊の航空博物館です。
ミラマーという地名をわたしはいつのまにかよく知っている気がするのですが、
この訪問のとき、そこがミラマー基地の一角であるとはいえ、
あまりに広大でまったく空軍基地らしい気配がなかったので
不思議に思ったものです。
この博物館には、米国海兵隊の航空の歴史と遺産に関する展示品があります。
屋外展示では、31機の歴史的な航空機、軍用車両や装備品が展示されており、
屋内展示では、航空黎明期から現在に至るまでの写真、工芸品、
そしてアートワークが展示されています。
駐車場に車を停めると、金網の向こうはもう展示機です。

こういう博物館にありがちな佇まい。航空機などの展示が外にある場合、大抵その他の展示は
ちょっと大きめの家くらいのスペースに並んでいるものです。

案の定、入っていくと、ボランティアらしい男性がひとりだけ、
カウンターにいて入場料をそこで払いました。
【レザーネックとは】

まず入ったところに有名な(たぶん)海兵隊航空隊募集ポスターがあります。


海兵隊航空隊の黎明期にパイロットを募集するために制作したもので、
「航空 アメリカ海兵隊と一緒に飛翔しよう」
という文字、そして当時の海兵隊員が(ボーイスカウトみたい)
ワシの背中に乗っている意匠となっています。
複葉機の尾翼にはフランス国旗のような三色ペイントがあります。
これは当時海兵隊が装備していたアメリカの初期の複葉機、
チャンス・ヴォート のVE-7「ブルーバード」だと思われます。

その模型も展示されています。
ヴォートVE-7は1917年に初飛行を行った後、陸軍では練習機、
海軍では最初の戦闘機として採用されました。


正式に海兵隊に航空部隊が組織されたのは1917年です。
フライング・レザーネック航空博物館は、アメリカ海兵隊の飛行士が操縦した
歴史的な航空機の世界最大のコレクションを有し、
屋内には第一次世界大戦から今日までのアート、写真、軍服、
その他歴史的資料などが展示されています。
博物館には27,000平方フィートの修復用格納庫があります。





「フライング・レザーネック」はつまり「飛ぶ海兵隊員」です。
それでは、なぜ海兵隊員をレザーネックというか、
当ブログでは何度も説明してきましたが、ここに書いてあるのを
そのまま翻訳しておきます。
「ご存知でしたか?
レザーネックは海兵隊のニックネームです。
1798年から1872年まで、海兵隊員は皮で作られたネックをもつ
ユニフォームを着用していました。
3.5インチの硬い革は「ストック」と名付けられ、二つの役割を持ちました。
1)首、急所となる静脈の保護
2)行進の際、海兵隊員の首を真っ直ぐ立て、顎を高く保持させる

戦闘でこのストックの使用は、海賊のカットラス(長刀)から首を保護しました。
ジェファーソン大統領任期中起こった第一次バーバリー戦争では、
このアメリカの新しい戦闘部隊が
身代金のために貿易船を拿捕するイスラムの海賊たちと交戦しました」


「海兵隊航空の祖 カニンガム」


さあ、それでは展示品を順番に見ていきましょう。
イギリス軍の形のヘルメットにラウンデルがペイントされていますね。
これは第一次世界大戦時の海兵隊の装備です。

この錨とラウンデル、ワシを組み合わせた意匠が
第一次世界大戦時に海兵隊が使用した徽章でした。


海兵隊はご存知の通り海軍の軍艦に乗り込み警備を行うのが本来の任務ですが、
航空隊の発祥には一人の海兵隊員の存在がありました。
アルフレッド・オーステル・カニンガム中佐(最終)
(Alfred Austell Cunningham1882-1939)です。

カニンガム中尉(当時)
ヘルメットの横の説明です。


海兵隊航空団の黎明期
1912年、アルフレッド・A・カニンガム中尉が最初に飛行した海兵隊員になり、
1940年までに、少数精鋭の海兵隊員が軍用航空団の進歩に寄与しました。

海兵隊は、特に水陸両用任務を支援することに焦点を置いています。
1912年、数名の勇気ある男性と、ほんの少しの原始的な航空機から
出発した海兵隊航空団は、第二次世界大戦の頃には
戦闘任務を行える軍隊に成長したのです。
カニンガム中尉は、少尉時代、ポケットマネーで
民間の飛行士につき25ドル払って飛行機を借り、
自己流で飛行機を飛ばそうとしたほど空に憧れていました。

その熱心さが海兵隊内部で認められ、特別にアナポリス海軍兵学校の
航空訓練課程に出向を命じられるまでになったのです。
そして彼が海軍の航空課程で初めて単独飛行を行ったのが1912年5月22日。

彼の乗った飛行機が地面離れたその日が、
海兵隊航空隊の「誕生日」とされているのです。
余談ですが、それほど熱心だった割には、彼は婚約者から
「(危ないから)飛行機をやめないと結婚してあげない」
と脅かされて?パイロットをあっさり辞めてしまっています。

この婚約者(とカニンガム中尉のあきらめの良さ)には
現代の感覚では色々と意見も出そうですが、
とにかく当時の航空機というのは不安定で危険が多く、いつ事故が起こっても不思議ではなかったのです。
これから結婚しようとする人がこんな危ないものに乗っているなんて
とても承知できない、という婚約者の意見は無理もありませんでした。

カニンガムはその後海軍工廠などに勤務したものの、
結局パイオニアとして航空畑に呼び戻されました。
その後海兵隊航空部の司令官に任命され、
第一次世界大戦では海兵隊航空隊の指揮官として功績を挙げ、
飛行機に乗らずしてネイビークロスを受けました。

またカニンガムは駆逐艦DD-752にその名前を残しています。
【第一次世界大戦の海兵隊航空】
海兵隊の航空部門が初めて大きく発展したのは、
1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したときです。
航空部隊が設立されてすぐさま戦争が始まったというわけですね。 航空部隊が最初に派遣されたのは1918年1月。
第1航空大隊が対Uボート戦のためにアゾレス諸島に派遣され、
その後第1海兵隊航空隊と正式に名称を与えられフランスに派遣されました。
ラルフ・タルボット少尉
この第一航空隊に所属していたときに、海兵隊飛行士として
史上初めて名誉勲章を受賞したのは、
ラルフ・タルボット(Ralph Talbot)少尉です。
これはつまり、海兵隊飛行士として最初に殉職した、という意味でもあります。
イエール大学在学中、同大学の砲兵訓練隊に参加していたタルボットは
航空に興味を持ち、飛行学校に入学しました。その後二等水兵の階級で海軍に入隊し、
マサチューセッツ工科大学で行われた地上訓練、
(イエールといいMITといい、この頃は一流大で軍事訓練が行われていたんですね)
フロリダでの飛行訓練を経て海軍航空士となります。
当時海兵隊は飛行士の採用に苦慮していたため、いきなり
タルボットを海兵隊予備役の少尉として引き抜きました。

そして第一次世界大戦が始まります。
1918年、ベルギーへの空襲の際、タルボット少尉は
9機の敵偵察隊に襲われ、1機を撃墜。
その6日後、12機と交戦して1機撃墜。
この頃の戦闘機は銃撃手でもある「オブザーバー」を同乗していましたが、
彼のオブザーバーが撃たれたため、単独で戦闘を続け、
もう1機を撃墜した後、フォッカーD.VII戦闘機から逃れるためにダイブし、
ドイツ軍の塹壕を50フィートの高さで横切り、着陸して
オブザーバーを医療関係者に引き渡しました。
このわずか18日後の1918年10月25日、フランスの基地で
テスト中のDH-4が離陸時に墜落し、タルボット少尉は死亡しました。
享年21歳。



彼の名誉勲章はこの一連の戦闘と名誉ある死に対して与えられたものです。
彼が操縦していたエアコ(Airco)DH.4は、前年の1917年に配備され、
アメリカ軍では陸軍航空隊が採用した機体です。
1919年には、これらの部隊から第1師団/第1飛行隊が編成され、
現在もVMA-231として存在しています。


「第二次大戦後の海兵隊航空」
第一次世界大戦が終わると、海兵隊の航空部門は1,020人が割り当てられ、
各地に海兵隊航空基地が設立されました。

クアンティコ、パリス・アイランド、そしてここサンディエゴです。
パリス・アイランド、というとわたしには途端にピンとくる歌があります。
ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」です。
We met as soul mates on Parris Island
俺達はパリス・アイランドでソウルメイトとして出会った

We left as inmates from an asylum
訓練基地から同士としてアメリカを後にした

Billy Joel - Goodnight Saigon (Nationals Park July 26, 2014)
パリス・アイランドはノースカロライナ州にあり、
歌詞2行目の「アサイラム」は保護施設という意味ですが、
海兵隊ブートキャンプのことだと考えられます。もう一つの海兵隊基地があるクアンティコは、ウェストバージニア州です。

その後海兵隊航空隊員は空と地上の戦術を駆使し、地上の海兵隊員をサポートすることを第一の任務としました。
アルフレッド・カニンガムのような海兵隊の先駆的な飛行士たちは、
「どのような任務においても、航空の唯一の存在価値は、
地上の部隊の任務遂行を支援するのに役立つということである」
と指摘していました。

また、海兵隊といえば、急降下爆撃を発明したことでも有名です。海兵隊が開発し始めたこの戦術は、他国空軍に先駆けて完成し、
海兵隊のパイロットの戦術的ドクトリンの一部となりました。




海兵隊が海軍の航空組織に正式に登場したのは、
1925年、海軍航空局長官ウィリアム・A・モフェット少将が、
3つの戦闘中隊を正式に認可する指令を出してからです。
20年代に入ると、海兵隊は空母に搭乗して訓練を行うようになりました。
このころ、太平洋艦隊の空母に2つの海兵隊偵察中隊が配属されたことが、
海兵隊航空の最大の進歩のひとつとなります。


そして、1933年、艦隊海兵隊が設立されました。
これにより海兵隊のドクトリンは、遠征任務よりも、戦争時に海軍基地を占領し、
水陸両用戦を支援することに重点が置かれるようになったのです。

その結果、1941年12月7日の真珠湾攻撃の日には、
海兵隊の航空部隊は13飛行中隊、230機で構成されていました。
【第二次世界大戦の海兵隊航空】

第二次大戦時の海兵隊航空士の装備です。
Pneumatic (空気入り)のライフベストには1945年3月の製造月日入り。製造したのは「シームレス・ラバー・カンパニー」だそうです。
革製の航空帽には、イヤフォンとマイクが内蔵されており、
パネルと電源のプラグが見えます。
皮の手袋とレイバンのティアドロップ型サングラスは今でも使えそう。
メタルのケースに収められたゴーグルレンズがプラスティック製で、
レンズにカーブがつけられているのでおそらくかなり後期のものでしょう。
ラッキーストライクは戦争中、正式にCレーションに入れられて、
軍隊に配られていました。
戦場における兵士の士気を高めるのにタバコは不可欠だったのです。

第二次世界大戦中、海兵隊の航空部門は急速かつ広範囲に拡大し、
 ピーク時には5つの航空団、31の航空機群、145の飛行中隊を擁しました。
海兵隊航空の決定的なポイントとなったのはガダルカナル作戦です。
海兵隊の任務は水陸両用作戦における遠征用飛行場の迅速な獲得ですが、
太平洋で海兵隊航空は当初、艦隊海兵隊を支援するという
最初の任務を達成することができませんでした。

戦争が始まってから2年間、航空隊はそのほとんどの時間を、
敵による攻撃から艦隊や陸上施設を守ることに費やしていたのです。


タラワの戦いの後、海兵隊航空隊の中には
海軍機による地上部隊への航空支援に不満を持つものがでました。
「直接航空支援の原理を徹底的に学んだ海兵隊の飛行士が仕事をすべきだ」

こういった意見が出てからは、海兵隊航空隊による
海兵隊地上部隊への初めての本格的な近接航空支援が行われ、ブ
ーゲンビル作戦とフィリピン奪還作戦では、
地上で戦う海兵隊と航空支援を調整する航空連絡隊が設立され、
沖縄戦では、上陸部隊航空支援管制ユニットという形で
航空指揮統制が確立されたのです。



戦地で連絡を取る携帯電話(一応そう言いますね)は、
ちょっとやそっとでは破れなさそうなキャンバスのバッグ入り。
受話器が金正恩のヘアスタイルと同じです。


バックパックとヘルメットを備えた「シェルターパック」。
このセットに含まれる「シェルター・ハーフリンクル」は、
一時的にシェルターになり、避難の際偽装できるように設計されたテントです。
二枚のキャンバスとスミラー素材がスナップ、ストラップ、
ボタンによって取り付けられていて、大きな面を形成し、
隠れるのにちょうどいい大きさとなっています。
この装備は、ナバホ族の暗号スペシャリスト、
「ナバホコードトーカー」だった兵士が所有し、使用していました。


続く。


ナバホ・コードトーカーズ〜フライング・レザーネック航空博物館

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サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」。
わたしがここに見学に訪れたとき、相変わらず艦内は森閑として、
わたし以外の見学客は二組程度というところでした。

その中の中年女性の見学者が、この展示の前で立ち止まり、
「ナバホ・コードトーカーじゃないの」
と言ったのには、失礼ながら少し驚いたものです。まあ、わざわざこんなマイナーな博物館に
お金を払って見学に来ているような人なら
知っていても全く不思議ではなかったのですが。
それに、ナバホ・コードトーカーは「ウィンド・トーカーズ」というタイトルで
映画にもなっていますから、それで知ったアメリカ人も多いかもしれません。
Windtalkers (6/10) Movie CLIP - Call in the Code (2002) HD
サイパンの戦地から送られたコードトーカーの言語を
日本軍の暗号解読班が全く聞き取れないまま、
USS「カリフォルニア」はその情報をもとに艦砲射撃を行うシーンです。
「フライング・レザーネック」に展示されているのは、
ナバホ族のコードトーカーのオフィシャル・ユニフォームでした。
いくら特殊な分野とはいえ、コードトーカーもアメリカ軍兵士なのに、
これほど民族色を前面に打ち出した制服を公式採用するのは、
海兵隊の少数民族に対する敬意の表れといえるかもしれません。
真っ赤なキャップ、真っ黄色の(現地の説明にはゴールドとあった)シャツ、
これにライトカラーのズボンを合わせて着用しました。
ライトカラーは「母なる大地」を意味する色です。
また、靴の色(アバローン=アワビの内側の色)は「聖なる山々」を表しました。

着用例ですが、このおじいさんたちが着ているのは、
それに似た既製品で、おそらく自分たちで探してきたのだと思われます。二人のシャツの色がかなり違っていますね。このゴールド色は彼らの主食となっていたとうもろこしの花粉を表します。


これに赤い帽子はちょっと派手じゃないか?と思いますが、
赤い色そのものが海兵隊を意味しているそうです。
そしてベルトは、ファッション用語でいうところの「コンチャベルト」で、
いわゆるインディアンジュエリーの装飾が施されています。


以前、アメリカ軍が暗号として
ネイティブ・アメリカンのナバホ族の言語を使い、その言葉を喋る
ナバホ族をコードトーカーとして採用していたという話をしたことがあります。
ここでもう一度コードトーカーなるものについて解説しておきます。
それは、暗号通信手段としてあまり知られていない言語を使用するために
戦時中に軍が採用した人のことです。

コードトーカーは今日、世界大戦中に採用されたネイティブアメリカンの
サービスメンバーのこととされています。

これらネイティブアメリカンの言語はアルファベットを使わず、
さらに発音も独特で、その言語がマザータングでない者には習得は
まず不可能であるということが暗号に使われた大きな決め手となりました。

米国海兵隊は約400〜500人ものネイティブアメリカンを採用し、
秘密の戦術メッセージを送信する仕事をしていました。
コードトーカーは、それぞれの部族の言語に基づいて開発されたコードを使用し、
軍の通信システムを介してメッセージを送受信しました。
第二次世界大戦の最前線における通信で、コードトーカーは
暗号化の速度をおおきく改善したと言われます。
■ ナバホ・コードトーカー

前回お話ししたときはナバホコードについてだけ取り上げましたが、
海兵隊の何百人ものコードトーカーの出自はひとつではありません。
その中で主流となったのは、コマンチ族、ホピ族、メスクァキ族、ナバホ族といった部族です。

【ナバホ】Navajo

ナバホ族のコードトーカー、サイパン、1944年6月
海兵隊にナバホ語を暗号として使用することを提案したのは、
ロサンゼルス市の土木技師であるフィリップ・ジョンストンという人物です。
ジョンストン

第一次世界大戦のベテランであるジョンストンは、
ナバホ族の宣教師の息子としてナバホ族居留地で育ちました。
彼はナバホ語を流暢に話した数少ない非ナバホ人の一人でした。
真珠湾攻撃が起こると、多くのナバホ族の男性が軍に協力を申し出ました。
ナバホ語の文法は大変複雑で、同族内の最も近い親戚でさえ
言葉を相互に理解することはできないそうです。
あまりに複雑なので方言も含めると第二次世界大戦の勃発時、
言語を理解できた非ナバホ族の数は30人未満だったというくらいです。

しかも当時、それはまだ文章として書かれたことのない言語であり、
ジョンストンはナバホ語が解読不可能なコードとして
軍事的な使用に耐えると考えたのです。
大東亜戦争開戦直後は、日本軍はアメリカ軍の暗号をたやすく解読していました。
「暗号学」はありませんでしたが、アメリカ国内で学問をしたり住んでいて
それなりに文化について理解をしていたこともその糸口となったのです。
アメリカ先住民族の言葉は日本人には全く馴染みがなく、
想像もつかないということは、解読されにくいということです。
しかしこれは画期的という前に実に皮肉な思いつきでした。 
人種隔離が公然と行われていた当時のアメリカでは、政府や宗教団体が運営する寄宿学校でも、当たり前のように
先住民の同化政策に基づき、伝統的な部族の言語で話した学生を
規則違反で罰するようなことが行われていたからです。

1942年、ジョンストンは、ナバホ族の男性を伴って海兵隊指揮官と面会し、
当時の暗号機で30分かかる暗号の送信と解読を ナバホ族がわずか20秒でできることを示しました。
これで海兵隊はコードトーカーとしてナバホ族を採用することを決定します。
最初の29人はキャンプペンドルトンでナバホコードを作成しました。

彼らは英語のアルファベットの各文字に彼らの言語からの単語を使用し、
単純な換字式暗号を使用してエンコードおよびデコードします。コードトーカーたちは、

ナバホ語には存在しない単語を存在する単語に置き換える
さらにそれをナバホ語に翻訳して暗号にする

という段階を踏んで、解読されにくい置換暗号を作りました。
たとえば、

BATTLESHIP(戦艦)→ WHALE(鯨)→ LO-TSO
AIRCRAFT CARRIER(空母)→BIRD(鳥)→TSIDI-MOFFA-YE-HI

MINESWEEPER(掃海艦)→BEAVER(ビーバー)→CHA
SUBMARINE(潜水艦)→IRONFISH(鉄の魚)→BESH-LO

DESTROYER(駆逐艦)→SHARK(鮫)→CA-LO

と言った具合です。
また、Cを表すのに、CATの猫を意味するMOSSI、
Aを表すのに「アリ」を意味するwo-la-cheeが使われるというように
アルファベットを言い換える方法も編み出されました。
ナバホ・コードトーカーは、その技術、速度、正確さに定評がありました。
硫黄島の戦いでは、戦闘最初の2日間、6人のナバホコードトーカーが
24時間体制で任務を行い、800を超えるメッセージを送受信しましたが、
エラーは一度たりとも発生しませんでした。
この時の信号隊司令は、後に、
「ナバホがいなかったら、海兵隊は硫黄島を占領することはなかっただろう」
と語っています。


■第一次世界大戦のコードトーカー
さて、コードトーカーの歴史は第一次世界大戦からすでに始まっています。
その頃のコードトーキングは、チェロキー族とチョクトー族が採用されました。


【チェロキー】米国第30歩兵師団のチェロキー兵士に、第2次ソンムの戦いで
メッセージを送信する仕事が割り当てられています。

【チョクトー】第一次世界大戦中、米陸軍第36歩兵師団の中隊長が、
チョクトー族の二人の兵士の会話を耳にしたのがきっかけです。
その後大隊には8人のチョクトーの男性がいることがわかり、
彼らにチョクトー語で暗号通信する任務が与えられました。

チョクトー・コードトーカー

1918年10月26日、彼らが投入されると戦闘の流れは24時間以内に変わり、
72時間以内に連合国は総攻撃を開始しました。
■第二次世界大戦アメリカのコードトーカー
第二次大戦では上記の部族以外にも、ラコタ、モホーク、コマンチ、トリンギット、クリー、クロウ
のコードトーカーが太平洋、北アフリカ、ヨーロッパに配備されました。
【アシニボイン】Assinibboine
アシニボインはアメリカ北部からカナダ南部の先住民族です。
アシニボイン族のコードトーカーの1人、ギルバート・ホーン・シニアは
その後裁判官および政治家になりました。

ホーンsr
【バスク】Basque
バスク地方という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。
フランスの地方ですが、ここに住む人々(全部ではない)と、
スペインのバスク県に住む人、そしてアメリカでは
バスクの祖先を持っているとする人々のことで、
国内に5万7千人ほどいるそうです。
アメリカのバスク人はヒスパニック系が大半です。

彼らは海兵隊によってサンフランシスコに集められ、
バスク語のコードトーカーとして訓練を行いました。
ただし、バスク族と遭遇する地域、ならびに
バスクイエズス会が布教をしている地域(広島県も相当する)
を避け、ハワイとオーストラリアで任務を行いました。

彼らが行った有名なミッションは、1942年8月1日、サンディエゴからチェスター・ニミッツ提督宛に、
ソロモン諸島から日本軍を排除する「アップル作戦」について
バスク暗号を送信したことです。
暗号にはガダルカナルへの攻撃開始日である8月7日も記されていたとされます。
しかし、戦争が進むとバスク語を理解する人が多くなり、
(侵攻した地域が広がったという意味です)コードトーカーの主流はナバホ族になりました。
【コマンチ】Comanche
ドイツ当局は、第一次世界大戦中のコードトーカーについて知っていました。

これについて驚くべきは、ヨーゼフ・ゲッベルスが「ネイティブアメリカンはアーリア人の仲間である」
と宣言したことです。
ドイツは第二次世界大戦の勃発前、ネイティブアメリカンの言語を学ぶために
30人の人類学者のチームを米国に送ったのですが、さすがのドイツ人学者も方言を含む部族言語のあまりの多さに、
その採取は難しすぎてうまくいかなかったようです。

にもかかわらず、アメリカ人の「ドイツコンプレックス」だったのか、これらの試みが行われていたことを知った米軍は、
ヨーロッパでのコードトーカープログラムを控えめにしました。
ドイツ人ならそれでもなんとかしたのでは?という疑心暗鬼というか、
彼らを必要以上に買いかぶっていたのかもしれませんね。

それでもノルマンディ侵攻には14名のコマンチ兵士が参加しています。


ヨーロッパの第4歩兵師団信号隊のコマンチコードトーカー14名
彼らが編纂したコマンチコードでは、母国語にない言葉は戦車=カメ 爆撃機=妊娠中の鳥 マシンガン=ミシン
アドルフ・ヒトラー=狂った白い男と置換されました。
1944年6月6日に上陸部隊がユタビーチに着陸した直後、
コマンチ族はメッセージの送信を開始しました。
被害は負傷者のみで死者は出ませんでした。

1989年、コマンチのコードトーカーは仏政府から国家功労勲章のシュヴァリエを、
1999年、米国国防総省よりノウルトン賞が授与されています。
【クリー】Cree
クリーはカナダとアメリカの先住民族です。
第二次世界大戦でカナダ軍はクリーをコードトーカーに採用しました。
しかし、秘密の任務すぎてその実態は謎に包まれていました。
2016年に製作されたドキュメンタリー、Cree Code Talkersによって、
「最後のクリーコードトーカー」”チェッカー”トムキンスが紹介されました。


トムキンス

【メスクワキ】Meskwaki第二次世界大戦中、米陸軍は8人のメスクワキ族の男性に
部族語であるフォックス語をコードとして使用するように訓練し、
彼らは北アフリカの戦地に割り当てられました。
【モホーク】Mohawkモホークのコードトーカーは、モホーク語派生であるカニエンケハを使用して
暗号の送信にあたりました。
モホークの最後のコードトーカーであるリーヴァイ・オークスが亡くなったのは
2019年5月のことです。

リーヴァイ・オークス


【マスコギー/セミノール】Muscoge/Seminoleマスコギ族、セミノール族という少数民族からも
コードトーカーが採用されました。
セミノール族のコードトーカー、エドモンド・ハーホ(Harjo)も、
ヨーロッパ戦線で母国語の歌を歌っている同族の兵士と出会い、
話をしているところを見た上官が通信係に採用する、
という経緯でコードトーカーになった人物です。彼は最後のセミノール・コードトーカーとして2014年3月31日、
96歳で亡くなりました。
こうしてみると、コードトーカーだったネイティブアメリカンの皆さん、
随分と皆長寿であったように思われますね。

【トリンギット】tringit
愛知県のリトルワールドにはなぜかトリンギットの家が復元されているそうです。
(それがどうした情報)

リトルワールドのトリンギット族住居

対日戦における暗号要員として、トリンギット族も採用されました。
わずか五人しかいなかったため、コードトーカーの機密解除と
ナバホコードトーカーの公開後も、彼らについては謎のままでしたが、
亡くなった5人のトリンギットコードトーカーの記憶は、
2019年3月にアラスカ州議会によって表彰されています。
■コードトーカーの実態と戦後

基本的にコードトーカーは、ペアで軍隊に割り当てられました。
戦闘中、1人が携帯ラジオを操作し、2人目が母国語でメッセージを
中継、および受信して英語に翻訳するという形です。

日本軍はまず将校、衛生兵、通信兵を標的にしましたから、メッセージを送信しながら動き続けなければならないコードトーカーは
狙われやすく、大変危険な任務でした。

しかし、何百人ものコードトーカーが危険を冒して行った任務は
第二次世界大戦での連合国の勝利に不可欠なものでした、
D-Day侵攻中のユタビーチ、太平洋の硫黄島など、
いずれも彼らの働きがなかったら成功しなかったとされています。

また、ナバホ族の外見が日本人と似ているので、捕らえられた兵士
(彼はコードトーカーではなかった)が、
日系二世の「裏切り者」として酷い目に遭ったという話を前にもしましたが、
彼らが日本人と間違えられ、アメリカ兵に捕らえられるという事件が起こった後、
コードトーカーの何人かはボディーガードを割り当てられました。
つまり、アメリカ兵からの誤解による攻撃を防ぐためです。

「ウィンドトーカーズ」を見るまでもなく、ナバホコードは
戦争が終わるまで解読されることはなく、
ナバホコードはいまだにUnbreakable cordとされます。

ナバホ族のコードトーカーの存在は戦争中はもちろん、 1968年に
機密解除になってからも秘匿されていました。

コードトーカーを必要とする場面が(冷戦で)今後起こるかもしれず、
プログラムを温存したままにしておきたいと考えたからです。

1968年になってコードトーカープログラムが機密解除されたあとも、
コードトーカーが世間に認識されることはありませんでした。初めて議会の金メダルがナバホ族や他のコードトーカーに与えられたのは
2001年になってからのことです。
■それ以外のコードトーカー
【ウェールズ】第二次世界大戦中、イギリス空軍がウェールズ語を使用する計画を立てましたが、
実行されないまま終わりました。
1991年から始まったユーゴスラビア紛争で、
重要でないメッセージのために使用された例があるそうです。
【温州】中国は1979年の中越戦争の間、温州語を話す人々を
コードトーカーとして使用しました。
温州地方の方言は発音が非常に難解として有名で、中国には
「天も恐れない、地も恐れない、ただ、温州人の話を聞くのが恐ろしい」
などという言い回しがあるくらいだそうです。

【ヌビア】Nubian1973年のアラブ・イスラエル戦争では、エジプト軍がヌビア人を
コードトーカーとして採用しました。
ヌビアはエジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方です。
■ ナバホコードトーカー、サミュエル・ツォシー
さて、ここであらためて、フライングレザーネックに展示されている
ナバホ・コードトーカーの制服を見てみましょう。

左肩のパッチはコードトーカーが所属していた海兵隊の大隊で、
赤い『1』の中にガダルカナルと書かれています。
シルバーのバッジの右側は海兵隊の印、
左側は彼がライフルのエキスパートであることを表します。


制服にナバホ族のジュエリー をあしらうのが正式だったんですね。
このジュエリーは、「神の子」を表します。
そして右胸の名札に、制服の持ち主であった
サミュエル・ツォシー1世(Samuel Tsosie Sr.)
の名前が書かれています。

若い頃の片岡鶴太郎似
サミュエルはでアメリカ海兵隊に入隊しようとしたとき16歳で
19歳という募集年齢が達していなかったため、
親に内緒で母親のサインを偽造したという「つわもの」でした。

戦争中はガダルカナル、タラワ、ペリリュー、サイパン、
グアムそして沖縄と、太平洋のあらゆる主要な戦いで通信兵として勤務。その間、激しい空戦や神風特攻隊を目撃し、
一度は近くで爆弾が破裂して気を失ったこともあったといいます。

戦後サミュエルはなお2年半海兵隊に所属しましたが、
その後名誉除隊しました。

彼は制服を寄贈した時、実際に当博物館を訪れたようですが、
2014年に89歳で亡くなりました。


近年のアメリカ政府がコードトーカーに対して与えた
認定証などについて列記しておきます。

1982年、レーガン大統領からコードトーカーに認定証が授与され、
1982年8月14日を「ナバホ・コードトーカーズ・デイ」とした


2000年、クリントン大統領が公法に署名し、
ナバホコードトーカーのオリジナルメンバー29名に議会金メダルを
コードトーカーとしての資格を持つ約300名に銀メダルを授与した

ここにはその時の銀メダルが展示されています。
メダルには、太平洋の戦地で任務を行う二人のコードトーカーが刻まれています。
2001年、ブッシュ大統領は4人のオリジナル・コードトーカーにメダルを授与

2011年、アリゾナ州が4月23日をホピ族のコードトーカーの認定日に制定

2007年テキサス州が18人のチョクトー・コードトーカーに、
テキサス勇気勲章が授与

2008年、ブッシュ大統領がコードトーカーズ認定法に署名
第一次世界大戦または第二次世界大戦中に米軍に従軍した
すべてのネイティブ・アメリカンのコードトーカーを対象とする


ナバホコードトーカーの配備は、朝鮮戦争中とその後、
ベトナム戦争の初期に終了するまで続きました。
ナバホコードは、解読されたことのない人類史上唯一の軍事コードです。
続く。

帝国海軍搭乗員装備〜フライング・レザーネック海兵隊航空博物館

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サンディエゴにある海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック・エアミュージアム」の室内展示は
他の軍事博物館に比べると量的に微々たるものです。
その分フィールドの航空機展示が充実しているわけですが、
その少ない室内展示の中に、帝国海軍搭乗員の飛行服と
装備などがあったのでちょっとびっくりしました。
ちなみにタイトル画像は適当なのがなかったので
無駄に動感のある加工をほどこしてみました。
元写真

ガラスケース一つが全部帝国海軍コーナーです。
これにはちょっと驚きました。
考えたら、これまでわたしは海軍搭乗員の飛行服を
こんな近くで、まじまじと見たことがなかった気がします。
ブログ開設当初、飛行服の搭乗員を何人も描きましたが、
 その頃は搭乗員の写真という写真が全部白黒なので、
本当はどんな色なのかわかっていなかったのでした。
ここでこうやってあらためて実物を見て思ったのは、
まず色が想像より「茶色」だったこと。
もっとカーキというかオリーブドラブを想像していましたし、
パラシュートのハーネスもこんなグリーンだったのも意外でした。


どういう経緯でここに来た展示品なのかはわかりませんが、
おそらく今までで見た中で最も丁寧な解説がされています。せっかくですのでABC順による現地の説明を中心として紹介していきます。
■ 第二次世界大戦の海軍フライトスーツ


【航空帽と飛行眼鏡】Flight helmet/flight goggles
タイプ30とあるので、サンマル式、1930年制式の航空帽です。内側に毛皮がないので夏用です。
ラバウルなどの航空隊員の写真では暑いところなのに
毛皮のついた航空帽を被っている人が結構いましたが、
上空はどちらにしても寒いので冬用で通していたのでしょう。
航空帽の下に防寒用の毛糸の目出し帽みたいなのをつけていますが、
素材が綿なので、陸軍の「第二種航空覆面」(夏用)と思われます。
ちなみに海軍ではヘルメットのことを航空帽と呼びましたが、
何がなんでも違う名称にするため、陸軍ではこれを「航空頭巾」と呼んでおりました。(前にも書いたかな)
ゴーグルはどちらも「航空眼鏡」と一緒でしたが、
それは後期には同じ種類のものを装備していたからです。
ゴーグルのレンズ周りのステッチは
「眼鏡縫い止め糸」と名称があり、ゴーグルのフレームには
空気穴があけられています。


【航空手袋】Flight gloves

手首から先はスウェード、その他は表皮を使用しています。
海軍の手袋は名前を書くためのキャンバス布が手首部分に貼ってありました。
この手袋は状態が良く、一度も使用されていないように見えます。


【航空衣袴/こうくういこ】Flight suits
フライトスーツ=「衣袴」は陸海軍共通名称です。
衣袴なんて言葉、現在ではまず使われませんけどね。
フライング・レザーネック航空博物館(以後FLAMとする)の解説によると、
「初期のフライトスーツは硬くてしっかりとした生地で作られていました。
素材はウールギャバジンを分厚く織ったもので、
ツナギかあるいはツーピースというスタイルを採用していました。戦争後期になると、日本でウールが不足してきたので、
製造業者はフライトスーツに綿シルクや綿サテンを使いました」
物資欠乏は実用的な素材から始まったので、シルクやサテンなど、
夏用の贅沢素材を投入するしかなかったということです。
それから、海軍搭乗員はよくダブルの襟からマフラーを覗かせていますが、
このフライトスーツは救命胴衣で見えないものの、
どうやらシングルカラーのように見えます。

海軍と陸軍のフライトスーツの大きな違いはダブルかシングルかだったのですが、
戦争も末期になるとダブル襟のスーツはウールの不足もあってできなくなり、
シングルカラーになりました。海軍のダブル襟が大好きなわたしにはなんとも残念な変更です。
右袖に旭日旗が付けられていますが、正式には
ここに付けるのは日の丸だったように記憶します。
不時着した航空機の搭乗員が、アメリカ兵と思われて
民衆にリンチに遭い、殺害されたという事件以降、
本土防衛にあたる搭乗員は日の丸をつけるようになったと。

日本人とアメリカ人の違いくらいわからないか、と思いますが、
ヘルメットやゴーグル、あるいはマスクなどで
顔や髪が隠されていると、一種のパニック状態になった民衆は
敵兵だと思い込んでしまったのかもしれません。
ちなみに、パイロットのことも、海軍は「搭乗員」、
陸軍は「操縦者」と称していました。
何がなんでもおなじにしたくなかったのね・・。


「九七式縛帯(ばくたい)」Flight Harness Type 97
落下傘のハーネスのことは陸海軍ともに縛帯と呼んでいました。
この97式というのが紀元二千六百年であった1940年の3年前、
1937年制式であるということまでは流石にアメリカ人にはわからないでしょう。
97とはMk.97のことだと思っていたかもしれません。
「97式ハーネスは、本体に取り付けられたDリングから
二つのバネ付きフックを外すだけで、パラシュートパックを
取り外すことができたため、現場に大変好まれたタイプでした」
とあります。

【救命胴衣】 Navy Float Vest
「フロートベストは高品質の綿でできており、
22本のチューブ状のシリンダーにはカポック繊維が充填されています。
カポック繊維はパンヤとも呼ばれる落葉樹の実から取れるもので、
浮力を持たせるために最初のライフジャケットにあしらわれました」
こういう書き方をしているところを見ると、
アメリカ軍の救命胴衣は別のものを使っていたのかしら、
と思って調べたら、あちらも救命胴衣は「カポック」ですね。
WW2 Kapok Life Vest
もともとはインドネシア語による木の名前なのですが、
この頃の名残で、今でも自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。
というわけで、海軍航空搭乗員も、陸軍航空操縦者も、
航空装備一式を身に付ける順序は、
1、航空衣袴(つなぎ)を白絹のマフラーと共に着用
2、その上に救命胴衣をつける
胴衣の背中部分から出ている布を股に潜らせ、紐を胴に巻いて前で結ぶ
3、縛帯をその上から装着する
両足から履いて上に引き上げ肩にかける
以上
うーん・・・これは・・・。
いったん装備してしまったらトイレに行けなくなること必至。まあ、基本軍用機にはトイレなんてないですけどね。

■ 第二次世界大戦における日本軍の「ギア」


搭乗員服だけでなく、その他の装備も展示されています。

【フライトコンピュータ】Flight Computer Type 4 Model
写真にはあるのに、どこを見ても現物が写っておりません。
「このフライトコンピュータは大戦中のものとしては
最もよく使われていたもので、搭乗員のズボンの腿の部分に装備されていました」
とあります。
その後色々調べるうちに、たとえばこの海軍搭乗員コーナーも、昔は
これらのものとか、フル装備の搭乗員の写真があったみたいなんですが、
いつのことなのか、規模が縮小されて展示が減ったようなのです。


海外のサイトで扱っていた同じ海軍搭乗員用フライトコンピュータ。
飛行中にフライトやナビゲーションに必要な情報を入力するもので、
表面のダイヤルとスライドは裏面に沿って回転します。
対気速度アームは左右に回転し、ハンドルに沿って上下に動きます。


【二式落下傘】Parachute Type 2
二式、すなわち1942年、昭和17年式の落下傘です。
日本軍の落下傘は独占企業だった藤倉工業株式会社が製作していたので
陸海軍の大きな違いはなかったとされます。

「タイプ2のパラシュートは、手動で展開され、
開傘には2.5秒を要しました。
パラシュートパックのタグには、
『注意ーパラシュートは毎月一回たたみ直す必要があります』
と書かれています。
パラシュートの梱包履歴カードは、このラベルの下に保管されていました」


1ヶ月に一度は畳み直さないと、いざという時に
開かないという可能性が大いにあったのですね。
「空の新兵」という陸軍落下傘部隊のドキュメンタリーで、
傘を畳むところを教わるシーンがありましたが、
なにやら定規を使って超面倒そうな作業を、
「命に関わる」ということで超真剣にやっていました。


【九二式航空羅針儀二型】Compass, Type 92 Model 2
別のサイトで見た製造プレートには「横河電機製作所」とありました。
横河電機は現在では工業計器の分野で国内第一位、世界第6位の大企業です。

大正年間に創立され、戦前は計測器メーカーとしては国内最大手でした。
航空・航海計器に強く、大戦中、軍需によって急拡大した企業です。
戦後はコンピュータの分野に進出し、工業計器・プロセス制御機器メーカーの
巨大グループを形成しています。
この羅針儀は三菱AM6零式に搭載されていました。

日本海軍の航空機用に製作されたもので、直読磁気式。
大変立派な木製の収納箱に収められています。
コンパスレンズの5時の位置に、錆びて変形したつまみがありますが、
これは周りのガイドを0〜360度回転させるための調整ネジです。

パネルの下部にある2つのつまみを回してネジを外すと、
引き出し式のコンパスを照らすランプと、補正調整機構があります。


木箱は持ち運びのために堅牢な革ベルトが取り付けられています。
機体に取り付けた後の木箱は不要になったのでしょうか。


前面のスリットポケットにはコンパス補正カードを入れます。



零戦のコクピットに装備された羅針儀(赤部分)。また、中島の九七式艦上攻撃機(魚雷爆撃機B5N2ケイト)にも使用されました。



【速度計三型】Airspeed Indicator Model 3
速度計のことですが、これも三菱A6M零式戦闘機装備のタイプです。
数字が二重になっていますが、針が一周したら、
つまり16以上は内側の数字を読むようになっているそうです。


【ティーセット】Tea Set
ammo、つまり弾薬を加工して作ったティーセットだそうです。
残念ながら現地に現物はありませんでした。


【徳利・箸】
現地の英語の説明はありませんでした。
誰が見ても酒瓶と箸であることはわかるからでしょう。
箸袋は皮の留め具がついており、手洗い可能、
しかも二箇所に二膳の箸が収納できるようになっています。
二食外で食べられるってことですね。
搭乗員は機上では箸も使わなかった(握り飯)でしょうし、
酒徳利はさらに持ち込むはずがないのですが、
これらがなぜここに展示してあるのかは謎です。

「航空時計」

これも説明なし。
よく搭乗員が首から下げているあの時計ですね。
ストラップになる白い紐がついています。
それにしても保存状態がいいですね。

秒針付きで、文字盤には蛍光塗料が使われています。
搭乗員が状況開始前、時計を合わせるシーンを映画で見たりしますね。
隊長が少し前からカウントを始め、ゼロで
「テー」と整合させるというあれです。
なんだかんだ言って、この航空時計の実物を間近で見るのは初めて。
しかもそれがアメリカのサンディエゴだったという(笑)


零戦の模型の向こうに見えているのって、
もしかしたら墜落した零戦の機体の一部なんじゃないんでしょうか。
現地にもHPにも説明がないので、ご紹介できなくて残念です。
しかも、この写真を撮ったときにはわたし自身にもわかっていなかったという。

続く。



ジョー・フォスコーナー〜フライング・レザーネック航空博物館

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サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」には
ご覧のような「ジョー・フォス」コーナーがあります。




ジョー・フォスはアメリカ海兵隊の戦闘機エースです。
スミソニアンの展示「第二次世界大戦の世界のエース」で
スミソニアンに選ばれたのは、グレゴリー・ボイントン一人でしたが、
この人の名前もその世界では大変有名です。

ジョセフ・ジェイコブ・"ジョー"・フォス
Joseph Jacob "Joe" Foss(1915〜2003)は、
第二次世界大戦中のアメリカ海兵隊を代表する戦闘機のエースの一人。
ガダルカナル・キャンペーンでの空戦での活躍が評価され、
1943年に名誉勲章を受章しました。

戦後は、空軍准将を経て、第20代サウスダコタ州知事、
全米ライフル協会会長、アメリカン・フットボール・リーグコミッショナーなどで
名声を得たほか、テレビ放送作家としても活躍したという、
実に多才な人物です。
ところで今回検索していて、世の中には英語による
「ミリタリーWiki」なるページがあることを知りました。
このページのありがたいことは、軍人であれば
そのサービスや勤務地、ランクについて、
途中経過も含めて記載してくれているところです。
たとえばジョー・フォスの場合、1940年から1946年まで
海兵隊におり、その後アメリカ空軍に移籍したのですが、
海兵隊では少佐まで、空軍では准将まで、とわかりやすく書いてあります。
そして軍サービスで得た「あだ名」についても。
彼のニックネームは
「スモーキー・ジョー」「オールド・ジョー」
「オールド・フース(Foos)」「エース・オブ・エーセズ」など。
「エースの中のエース」といわれたフォスとはどんなパイロットでしょうか。
「ミリタリー・ウィキ」の力も借りながらお話しします。
■リンドバーグに憧れて

ニューヨークタイムズ紙の表紙を飾ったジョー・フォスの写真。
フォスは、サウスダコタ州の、農家の長男として生まれました。
実家は貧しく、電気も通っていない家だったそうです。

12歳のとき、地元の飛行場に、伝説の飛行家チャールズ・リンドバーグが
「スピリット・オブ・セントルイス号」のツァーで訪れました。
はて、この名前には何か聞き覚えが。
と思い、念のためスミソニアンで撮った写真を調べてみたところ、
ありました。

「スピリット・オブ・セントルイス」実物が。



同機はライアンNYPという型で、1927年、
リンドバーグが史上初の大陸間ノンストップ飛行を達成した機体です。

具体的にはニューヨークからパリまでの5810kmで、
この時の英雄的な飛行はその後、
「翼よ あれがパリの灯だ」という映画に自伝として描かれました。
この飛行によってリンドバーグは一躍ヒーローになり、
リンドバーグブーム、ひいては飛行機ブームが巻き起こりました。
フォスが見たツァーというのは、大陸間横断を成功させた後、
「スピリット」に乗って行った凱旋飛行で、
フォスの故郷であるサウスダコタを含む中南部の都市を巡りました。

それを見て空に憧れたフォスは、その4年後には、
父親と一緒に1人1ドル50セントを払って、空を飛びました。

これは、おそらく遊覧飛行という程度のものだったと思われます。


1933年、フォスが17歳になったとき、父親が事故死します。
暴風雨の中、畑から戻ってきて車から降りたところで電線を踏み、
感電死してしまったのでした。

彼は学校を中退して母親と一緒に農場で働かざるを得なくなります。
その頃、彼の住む地域で海兵隊の飛行チームのデモが行われました。
そしてオープンコックピットの複葉機による華麗な曲芸飛行に魅せられた彼は、
海兵隊の飛行士になることを決意したのでした。

まず彼はガソリンスタンドで働いて書籍代や大学の授業料を稼ぎ、
操縦の個人レッスンを受けることから始めました。

その後州立サウスダコタ大学(USD)に入学した彼は、
志を同じくする学生たちと一緒に、当局に交渉して
大学内に航空局の飛行コースを設けてもらい、
卒業までに100時間の飛行時間を稼ぐことができました。
スポーツに秀でており、大学時代はボクシング部、陸上競技チーム、
フットボールのチームで活躍していたそうです。

1940年には、パイロットの資格と経営学の学位を取得したフォスは、
海軍航空士官候補生プログラムに参加して海軍予備軍になるために、
ヒッチハイクでミネアポリスに向かいました。

■ 軍でのキャリア
海軍飛行士に指定されたフォスは少尉任官し、
まずUSS「コパヒー」( USS Copahee (CVE-12))に乗り組んだ後、
フロリダのペンサコーラ海軍航空基地教官として勤務しました。

学費を稼ぐために働いているうちにかれはすでに26歳になっており、
志望である戦闘機パイロットになるには年を取りすぎていたため、
代わりに海軍の写真学校に配属されたのです。

もちろん彼はこれに不満でした。

最初の任務を終えると、サンディエゴの海軍航空基地、
ノースアイランドにある海兵隊写真撮影隊(VMO-1)に転勤を命じられますが、フォスはめげず、戦闘機課程への異動を繰り返し希望しました。

上もこれに根をあげたのか、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
訓練課程の履修を許されます。
ただし所属は写真撮影隊のままだったそうです。
そうして彼は1942年6月から1か月間で150時間以上の飛行時間を達成し、
最終的に海兵隊戦闘飛行隊121VMF-121に幹部として配属されたのでした。


同年フォスは高校時代の恋人ジューン・シャクスタと結婚しています。
■ガダルカナル



1942年8月20日、初めてガダルカナルの戦いで投入された戦闘機隊は、
VMF-223、通称ブルドッグスでした。
到着後、中隊はカクタス航空隊の一員となり、その後2ヶ月間、
ラバウルを拠点とする日本軍と制空権をめぐって戦いを繰り広げました。


FL航空博物館の室外航空展示には、ご覧のように
フォスの時代のワイルドキャットが展示されています。
他の航空機は野ざらしなのに、これだけ屋根がついており、
特別扱いを感じさせる展示となっています。

General Motors FM-2 Wildcat
このFM-2の意味は、F=ファイター(戦闘機)、
M=マニファクチャー(GMイースタン)、2=モデルバージョンです。
現地の説明を翻訳しておきます。

最初のF4Fワイルドキャットは、WW2前と初期に、
グラマンエアクラフトによって設計・製造されました。
この航空機は1941年から1942年の間に海兵隊と海軍が運用できる
唯一の効果的な戦闘機という位置づけでした。

太平洋戦行きの初期の主要な敵は帝国海軍の三菱A4M零式でした。
零戦はワイルドキャットを打ち負かすだけの力を持っていましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な機体構造は、
熟練したパイロットが飛行させた時有利になりました。
グラマンは新しい戦闘機F6Fヘルキャットを導入する準備を完了していましたが、
海軍は依然としてF4Fを必要としていました。

ヘルキャット生産の余地を作るために、GMは
ワイルドキャットF4Fの二つのバリエーションを生産しました。
GMのワイルドキャットは、多くの点でグラマンバージョンとは異なりました。

FM-2はより強力でかつ軽量なライトR-1820星型エンジンを搭載していました。
4基の50口径機関銃を搭載し、地上の標的、船、
または浮上している潜水艦に対して高速ロケット弾を搭載しました。

また、エンジンによって増加するトルクを打ち消すために、
標準のF4Fよりテールを高くしてあります。



展示中のワイルドキャットは、ガダルカナルキャンペーン中の
ジョー・フォスが所属した「ブラック53」塗装をされています。

VMF-223は1942年10月中旬までに、日本のエース・笹井醇一を含む
110機半の敵機を撃墜して島を後にしています。

ジョー・フォスの所属するVMF-121は、VMF-223を救援するため、
1942年10月「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されます。
「ウォッチタワー作戦」(望楼作戦)は、ニミッツ大将を総指揮官として
サンタクルーズ、ツラギ等周辺諸島の攻略を目指したものです。
護衛空母「コパヒー」から発進し、ガダルカナルに到着したフォスらは
ヘンダーソン飛行場でカクタス航空隊の一部となり、
ガダルカナルの戦いにおいて極めて重要な役割を果たしました。
スミス

カクタス航空隊のエースといえば、有名なのが
笹井を撃墜したマリオン・カールとジョン・L・スミスでしたが、 フォスも積極的な近接戦術と驚異的な砲術の技術で評判になりました。
ただし、フォスは10月13日初めての空戦で零戦を撃墜したものの、
自身のF4Fワイルドキャットも銃でエンジンを損傷、
3機の零戦に追尾されたフォスはアメリカ軍の滑走路に逃げ込んで
フラップなしのフルスピードのまま着陸し、
かろうじて椰子の木立を避けて生還を果たしています。
■ フォスのフライングサーカス
隊長であるフォスが
「ファーム・ボーイズ」と「シティ・スリッカーズ」
と名付けた二つのセクションからなる8機のワイルドキャットの小隊は、
すぐに「フォスのフライング・サーカス」と言われるようになります。
腕利きのパイロットと彼が率いる小隊を「〇〇サーカス」と称するのは
アメリカが発祥だと思いますが、日本でも
「源田サーカス」なんてのがありましたよね。
なにをどう勘違いしたのか、
「ラバウルにいるアメリカ軍の搭乗員にはサーカス出身
(芸人のことか?)などがいるらしい」
と登場人物に言わせていた「ラバウルもの」があって、
当時初心者だったわたしは、マリオン・カールを
サーカスのアクロバット出身と一瞬とはいえ勘違いしていたことがあります。

ジャングルの環境は過酷で、1942年12月、フォスはマラリアにかかりました。
治療のためにシドニーに送られたフォスは、
そこでオーストラリアのエース、クライヴ "キラー "コールドウェルと出会い、
新たにこの戦域に配属されたRAFのパイロットたちに作戦飛行の講義を行いました。
’Killer’コールドウェル


1943年1月1日、フォスはガダルカナルに帰還しましたが、
現地防衛戦は1942年11月の危機的状況から回復していたため、
彼は1ヶ月で帰国を果たしました。
ガダルカナルにおける一連の戦闘で、フォスは
第一次世界大戦ののエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜に並び、
アメリカで最初の「エース・オブ・エース」の栄誉に浴しました。
■戦闘復帰
1944年2月、フォスは太平洋戦域に戻り、
F4Uコルセアを装備するVMF-115を率いました。

フォスはこの2度目の遠征で、同じ海兵隊の戦闘機エースである
マリオン・カールと出会い、友人になったということです。

そして、彼にとって少年時代の憧れだったチャールズ・リンドバーグが
この時期、航空コンサルタントとして南太平洋を視察していたこともあり、
彼と一緒に飛行するという願ってもない機会に恵まれました。
左からカール少佐、リンドバーグ、フォス少佐
ここでフォスは8ヵ月間任務を行いましたが、
戦時中の撃墜記録をを伸ばす機会はありませんでした。

そしてまたしてもマラリアにかかったため、アメリカに帰国して、
サンタバーバラの海兵隊航空基地で作戦・訓練担当官となります。
■戦後の人生
1945年8月、フォスは、チャーターフライトサービスと飛行教習所
「ジョー・フォス・フライング・サービス」を経営し、
パッカードなどの車も販売する会社を立ち上げました。

【サウスダコタ州兵】
1946年、フォスはサウスダコタ州航空州兵の中佐に任命され、
第175戦闘迎撃飛行隊の指揮官となりました。
朝鮮戦争中、大佐だったフォスはアメリカ空軍に召集され、
最終的に准将の地位に就いています。

【政治家】
サウスダコタ州議会の共和党議員を2期務め、
1955年からは39歳で州最年少の知事に就任しました。
選挙運動は自分で軽飛行機を操縦して行ったそうです。

1958年、下院議員選挙に立候補しましたが、同じく戦時中のパイロットの英雄、
民主党のジョージ・マクガバンに敗れて落選し、政界を引退しました。

【フットボール・リーグコミッショナー】
知事を務めた後、フォスは1959年に新設された
アメリカン・フットボール・リーグの初代コミッショナーに就任しました。
就任中、フォスはリーグの拡大に貢献し、ABC、NBCと
有利に放映権を結ぶなどしています。

【テレビ司会者】
フォスは、生涯を通じて狩猟やアウトドアを愛しており、
ABCテレビの司会を務め、狩猟や釣りのために世界中を旅しました。

アウトドアTVシリーズ「The Outdoorsman: Joe Foss」では
司会とプロデューサーを務めています。
972年には、KLMオランダ航空の広報部長を6年間務めました。

【全米ライフル協会】
フォスは1988年から2期連続で全米ライフル協会の会長に選出されました。


ライフル協会会長の頃のフォス

■その他展示品


2013年の消印がついた、これは葉書でしょうか。
栄誉賞、海軍十字章、サウスダコタの州旗、
ライフの表紙、旭日旗に「26機撃墜」
なんなら彼の墓石まで印刷されています。
 航空帽、海兵隊キャップ、サウスダコタ州兵キャップ。


パイロットログブックと1942年7月20日付のサイン。
戦闘機航空課程を終了したときのものです。

左側のフライングクロス授与の際のサイテーションは、
海軍長官だったジェームズ・フォレスタルのサインがあり、
このような文言が書かれています。
米国大統領は、喜びをもって、名誉勲章を授与します。

ジョセフ・J・フォス大尉
アメリカ海兵隊予備役
以下の表彰状に記載されている任務に対して

海兵隊戦闘飛行隊の執行官として、ソロモン諸島のガダルカナルにおいて
職務の範囲を超えた傑出した英雄的行為と勇気を示した。

1942年10月9日から11月19日までの間、ほぼ毎日
敵との戦闘に従事したフォス大尉は、
23機の日本軍機を個人撃墜し、他の航空機を撃破せしめた。
また、この期間中、彼は多くの護衛任務を成功させ、
偵察機、爆撃機、写真機、水上機を巧みにカバーした。
1943年1月15日には、さらに3機の敵機を撃墜し、
この戦争では他に類を見ない空中戦の記録を残したのである。

1月25日、敵軍の接近に対し、フォス大尉は
8機のF4F海兵隊機と4機の陸軍P-38を率いて行動を開始し、
圧倒的な数の差に臆することなく、迎撃と攻撃を行い、
日本の戦闘機4機を撃墜し、爆撃機に1発の爆弾も投下させることなく撃退した。

彼の卓越した飛行技術、感動的なリーダーシップ、不屈の闘志は、
ガダルカナルにおけるアメリカ軍の戦略的陣地の防衛において、
際立った要因となった。



ところで、先日当ブログで取り上げた
「スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース」で、
海兵隊のエースは28機撃墜のボイントンでした。

フォスはあと2機というところで国に帰されてしまったので、
海兵隊一位を奪われてしまったということになります。


FLに展示されているワイルドキャットには、彼の名前の下に
彼の撃墜数とされる26機を表す旭日旗のペイントが施されています。
しかしながら先日、わたしはネットの片隅でこんな話を読みました。
「戦後日本側の被撃墜記録と照合したところ、
彼の撃墜を主張する数より少なかった」
彼我の撃墜被撃墜の記録が合わなかったという例はいくつもありますが、
不思議と撃墜数は被撃墜側の記録(つまり正解)より多く、
実際より自己申告が少なかったという例は寡聞にして知りません。
ハルトマンのように本当に撃墜したかどうか見張りがついていればともかく、
(それも全てを見届けられないと思いますが)自己申告ではどうしても
人間は自分のいいように記憶を操作してしまうものなのでしょう。
おそらく「スミソニアンの選んだエース」にしても、
何人かは不確かな撃墜を「まいいか」と撃墜にカウントしたり、
もしかしたらちょっと水増ししていた人もいたのではないでしょうか。

その点、撃墜数を公式な記録とするのをやめた日本軍は、ある意味
パイロットをこの手の「要らん煩悩」から解き放ったと言えるのかもしれません。



続く。


映画「オキナワ」神風との対決〜エド・ウッドの戦争映画?

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戦争映画ばかりを集めた「戦場の目次録」というセットDVDを買い、
数ある作品の中からタイトルだけをみて選んでしまった今回の映画ですが、
まさか「マーフィーの戦争」を上回る駄作とは思いませんでした。

どれだけ駄作かというと、観終わった瞬間内容を忘れるくらいの駄作です。
記憶に残るのは義烈決死隊などの特攻の実写映像が使われていたことだけ。
映画史的にも全く評価が残っておらず、
wikiにも出演者くらいしか情報がないという・・・。

苦労して映画サイトを調べると、たった一人だけ、
感想を述べている人がいましたが、
これがあまりに痛烈に的をいているので翻訳しておきます。

これにはがっかりした。
何千人ものキャストで構成された感動的な大作になるはずだったが、
数十人のキャストで構成された
くだらない安っぽい小品になってしまったのだ。

沖縄への侵攻には何千何万という兵士が必要だったにもかかわらず、
映画製作者たちはこの費用を巧妙に避けようと考えたのだ。

そこで彼らは、沖縄侵攻のストック映像を大量に使い、
下手な俳優たち(少なくとも台詞の下手な俳優)にそれを演じさせ、
あたかも戦争が起こっているかのように装わせた。

彼らは本当に「何もしていない」!(NOTHING!)

来るシーン来るシーン、文字通り人々が戦争について話し、
何が起こっているかを説明するだけ。
彼らは本当にほとんど何もせず、
わたしはこれがエド・ウッドの戦争映画かと思ったほどだ。

全ての面で酷過ぎ。
観るだけ時間と労力の無駄である。


文中の「エド・ウッドの戦争映画」って何かしら、と思って調べたら、

自らが製作した映画がすべて興行的に失敗したたため、
「アメリカで最低の映画監督」と呼ばれ、
常に赤貧にあえぎ、貧困のうちに没した。
死因はアルコール中毒。

最低最悪の出来の映画ばかり作り、評価も最悪だった
(というよりその全てが評価対象以前だった)
にもかかわらず、それでもなお映画制作に対する熱意や、
ほとばしる情熱を最後まで失わなかったため、
「ハリウッドの反天才」と呼ばれる。

真珠湾攻撃の後に海兵隊伍長としてタラワの戦いに参加。
日本兵の銃床で殴打され前歯2本を失い、
機関銃で足を数回負傷している。

女装癖があり、第二次世界大戦に従軍した際、
上陸作戦中にブラジャーとパンツを軍服の下に着込んでいた。
そして「殺されるよりも、負傷して軍医にばれることを恐れていた」wikiより

 

Oh・・・(戦慄)

しかし逆張り上等のティム・バートンとか
クェンティン・タランティーノなどは彼の作品を支持していますし、
今や一周回って一部にカルト的な人気があったりするそうで・・

ティム・バートンなど、好きすぎて「エド・ウッド」という
彼の伝記映画まで作っています。

ちなみに彼の代表作?は

「死霊の盆踊り」(原題Orgy of the Dead死者の乱痴気パーティ)

あ、これわたしでも知ってるぞ。有名ですよね。
観てないけど。

 

さて、それでは「エド・ウッド並み」と人の言う、
戦争映画の解説を始めましょう。(なんか怖いな)


1945年4月1日、第五艦隊は日本本土上陸作戦に向かいました。
その初めての目的地は沖縄でした。

噂通り?さっそく実写映像の連続です。

映画の舞台となるのは第5艦隊のピケットラインに配属され、
補給船と上陸部隊を支援する駆逐艦「ブランディング」。
これがどうやら本作の「主人公」らしいです。

緊張した面持ちでその時が来るのを待つ駆逐艦の乗員たち。

この巨大なヘルメットを装着しているということは・・・

沖縄本土に向けて艦砲射撃が行われるのです。

また一頻りニュースリールの映像が続き・・

「どこに向けて撃ってるんだ」

「オキナワって島だ とにかく撃て」

水兵たちは目標を見ることができないので、自分がどこを撃っているのか
全くわからず各自の動作を淡々と行なっているわけです。

実際に沖縄上陸に際して米軍が行った艦砲射撃では、
そのせいで島の地形が変わったとも言われ、
生き残った沖縄の人々は、戦後、自分たちのことを
「カンポーヌクェーヌクサー(艦砲射撃の喰い残し)」
と表現したほどでした。

撃ち方やめになって、どこに撃つのかぐらい知りたいとか、
狭くて暗いところはゴメンだとか、暑さと湿度が暴力的だとか、
手袋をしていても手が熱いなど、皆で愚痴の言い合いが始まります。

本編の主人公たちは砲塔勤務の砲員たちのようですね。

上陸部隊の舟艇が岸に向かうと、援護射撃が再び始まりました。

噂通りここまでほぼ実写映像と繋ぎだけで構成されていますが、
浅瀬を歩いて上陸するアメリカ兵や火を噴く艦砲、
燃える民家の横を海兵隊が進軍する姿など、
実際の映像がふんだんに見られるのはそれはそれで貴重です。

同じ映像を何度も使い回ししなければなおいいのですが。

総員配置が解かれ、ヘロヘロになって砲塔から出てきた砲兵たち。
いきなり甲板に崩れるように転がって横になりました。

タバコよりビールが欲しいとうめく兵。
同僚にそれ艦長に頼めと言われると、

「”あいつ”がそんなことをしてくれるもんか」

そこにコーヒーを持ったフィリピン人の給仕、フェリックスがやってきます。

下働きの彼は大胆にも軍艦の砲員になる野望を抱いていますが、
その理由は、故郷ミンダナオが日本に侵略されたので
仇を取りたいからだ、とこんなところで言い出します。

しかし、フィリピンはもともとスペインの植民地で、
その後米比戦争で大量に民衆を虐殺された結果、
アメリカ合州国が植民地支配していたわけですし、
第二次世界大戦で亡くなったフィリピン人のうち、約4割は
アメリカの無差別爆撃で亡くなったという事実があります。

フェリックスがどういう経緯で軍艦に乗っているのか知りませんが、
日本だけを恨んでアメリカ側に立っていることそのものが
かなり史実をわかっていないということが言えると思います。

アメリカは戦勝国なのをいいことに、結構
自国に都合の悪いことを日本のせいにしたりしているのですが、
このフィリピンでの被害問題もその一つです。

ま、いずれにしてもこれは、アメリカ軍の無慈悲な沖縄攻撃を
正当化するために、ことさら日本を悪者にしているという場面です。

そのとき艦橋から士官のフィリップスが声をかけてきました。
特に意味はありませんが、ただ戦闘後の兵隊たちの働きを労うためです。

「勲章好きのヘイルなんかよりフィリップスが艦長ならよかったのに」

この水兵グリップは、硫黄島でフィリップス中尉と一緒だったのですが、
彼に比べ3日前に艦長になったヘイルは出来が悪い、
となんの根拠もなく決めてかかっています。

さて、士官室では艦長が本日の状況について反省会を行っていました。

艦砲の照準が2度も合わず目標を外した(目標って何だろう?)
ことが、ヘイル艦長のお気に召さないのです。

原因を聞かれて理由がわからないと砲術長が答えると、

「なるほど、天皇がそれを聞いたらさぞ喜ぶだろうな」

なるほど、嫌味なタイプか。これじゃ嫌われるわ。

乗員に受けのいいフィリップス大尉は、八方美人なのか
場を取り持つ性格なのか、老朽化した艦まで擁護しています。

演じているリチャード・デニングは、主役級ではないものの、
生涯非常に多数の映画に出演して脇役を演じてきた俳優で、
本人も自分のキャリアについて、

「素晴らしいというものではないが、
そこそこ普通を長年続けてきたことに満足している」

と語ったそうです。
日本で言うと平田昭彦みたいなポジションかしら。

次の作戦についての艦長の説明が始まりました。
こんな風にレーダーを搭載した艦が沖縄を囲む、というのですが、
もしかしてこいつら、沖縄諸島全体を淡路島くらいの大きさと思ってないか?

そして艦長は、日本の「カミカゼ」について言及します。

「未熟で着陸方法すら学んでいない若者がやらされる。
死を恐れずむしろ死にたがる。日本最大の武器だ」

「キャマカゼ・・神聖な風という意味だ」

そのとき、艦内で大音響が。 
かけつけてみると、蒸気配管が爆発しました、との報告。

「最低の艦だな」

艦長は吐き捨てるのですが、これって艦長としてどうなの。

そして、明日の朝までに修理できなければ、作戦に加われず、
したがって沖縄を取り囲む例のラインに穴が開く、というのですが、
南西諸島が無人島も入れて113個あり、総面積1,418.59平方㌖って知ってる?


そして、唐突に昔車が壊れた時噛んでたガムで直した話などを始め、
「全員でガムを噛めば明日までになんとかなる」
と力強く言い切るのでした。

兵員のバンクでは女の話ばかりしているデルガドがギターを弾きながら
他の兵員たちと取るに足りない馬鹿話をしています。

このおっさんが主役というあたりでこの映画の低予算が読めてしまいます。

そのとき士官たちは陸軍の増援要求の無線をキャッチしました。
しかしまだ艦の故障は修理できていません。

にもかかわらず上陸部隊を特攻から守るため、
「ブランディング」が前哨に赴くことになりました。
乗員たちはそこで遭遇するであろう「カミカチ」についての噂を始めます。

曰く、「ガキが日本酒をガブガブ飲んで飛び立つ」
「彼らは自ら望んで命を捨てに来る」

しかしそれもすぐに飽きて、ヘイル艦長嫌いのグリップが
さかんに口癖の物真似を披露していると、本人登場。

慌てて曹長が「彼らはストレスが溜まっていて・・」と言い訳すると、
艦長は、

「別に怒っていない。
が、私を評価するにはまだ何も知らないんじゃないか」

と鷹揚なところを見せます。

 

そして幾度も訪れる総員配置シーン、これは映画独自の撮影ですが、

あとは全て実写フィルムです。

「カモメだった」

誤警報のたびに極度の緊張をしつつ総員配置して待つことが、
「戦闘より辛い」とついこぼしてしまう砲員たち。

バンクでイライラするグリップとインテリのエマーソンが口論しています。

エマーソンの言い分はこうです。
「いくら前哨に立っても、カミカゼは飛行機だから
俺たちは飛び越され、目標にアタックされるだろう」

それに対しグリップは、
「奴らは必ずこの艦に突っ込む。なんなら賭けるか?」

基本グリップはなんでも賭けにしてしまいます。
それにしてもなんて意味のない論争なのか。

その後もグリップがカリフォルニアでグレープフルーツを売っていたこと、
酒がどうしたこうしたという愚にもつかないヨタ話。

映画を見ている人には全く以てそれがどうしたという会話ですが、
しかるに登場人物はそういった話をいつまでもデレデレと垂れ流し続けます。


この手の話をくだらなく思うのは、わたしが日本人だからで、
もしかしてアメリカ人なら、何か琴線に触れるものがあるのだろうか、
と、冒頭の感想を見ていなければ、危うく思ったかもしれません。

そして、驚いたことに、何も起こらないまま
映画はこれで半分来てしまうのです。


ここまで観てわたしは確信しました。
「エド・ウッド並み」どころか、少なくとも、
「死霊の盆踊り」のほうが確実に面白いに違いないということを。



続く。



映画「オキナワ 神風との対決」〜史上最低の戦争映画

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「世紀の駄作」と人のいう戦争映画、「OKINAWA」2日目です。

オキナワと題名につけるのであれば、沖縄上陸もからめ、
陸戦の様子や、せめて艦砲射撃によって死んでいく
挺身隊の女生徒などの描写もあればまだ見られるのですが、
この映画における「沖縄」とは、どこにあるのか知らないけれど、
アメリカ海軍の一個艦隊で全体を隙間なく周りを包囲できる、
淡路島の半分くらいの大きさの島であり、
彼らがどこかわからないまま艦砲を打ち込んでいる(らしい)
観念上の島にすぎず、相変わらず映画は
艦上で総員配置と解除をくりかえして時間稼ぎしております。

先日「マーフィーの戦争」の項でご紹介した
「SAVE THE CAT」の法則に当てはめるまでもなく、
まったくこの映画には、人の興味を継続させる要素が見当たらないのです。

もしブログで扱うという使命?がなければ、
おそらく始まって10分で観るのをギブアップしていたに違いありません。

何度目かわからない総員配置の間にも、
無線からは前方の艦が特攻にやられたと連絡が続々とはいってきます。

「機関室が炎上中!」「こちらも複数命中した!」

映像はありません。通信だけです。

全速でそちらに向かうことになった駆逐艦「ブランディング」ですが、
それを全く知らされない(のもなんか変じゃね?)乗員たちは呑気です。

ヒスパニック系のクリスマスの思い出を語るのはデルガド。

「あのとき棒で叩いた人形の中から出てくるのはお菓子だったが、
今空に向かって棒を振り回して落ちてくるのは人間だ」

と無理やり今の状況にこじつけて眉を曇らせるのでした。

はて、ピニャータ(中にお菓子を入れたハリボテの人形などで、
木に吊るして目隠しをしたその日の主人公が叩いて壊し、
参加した子供たちが皆で中のものを分け合う)の儀式は
確か誕生日のイベントだったような気が。
クリスマスにそんなことする風習あったっけ。

その後特攻の被害を受けた艦のいる海域に到着し、
彼らが黒煙を吐きながら炎上している僚艦(実写による映像)
を目の当たりにしてショックを受けていると、
またしても総員配置が命ぜられます。

しかしまたすぐ解除。 
本当にこの繰り返しがしつこくて、
ここで映画を観るのをやめてしまう人は多いと思われます。

彼らが見たのは、カミカゼ攻撃を受けた無残な僚艦の姿でした。
艦首が全くなくなってしまった惨状に息を呑み目を背けます。

そしてついに彼らは特攻機に遭遇することになりました。

とは言え映像はどこかで見たことのある特攻機突入のシーンと、
登場人物たちのいる砲塔内の退屈なクロスカットが続きます。

そしてついに駆逐艦「ブランディング」は船倉に損傷を受けました。
被害を受けたのはなぜかビールだけでした。

ところでもう設定から無くなっているようだけど、
爆発した蒸気配管っていつの間に直ってたの?
みんなで噛んだガムで穴をふさいだのかしら。

特攻で欠落して欠けてしまった船を地図から外しながら、

「今の私を子供が見たら遊んでると思うだろう。
遊びは戦争の本質だがな。
あっちこっち撃ち合って互いの玩具を壊し合う」

という艦長。
相変わらず地図の上では少数の艦で南西諸島の周囲を
円形に取り囲んでおります。

戦争に関して悟ったような比喩をかます俺イケてる、と思ってるのでしょう。

次の戦闘でついにまともに特攻の激突を受けます。

本作品唯一の模型を使った戦闘シーンですが、
姑息にも艦橋の模型の後ろのスクリーンに実写の映像を映し、
それをキャメラで撮影するという、涙ぐましいほどせこい方法です。

そして、指揮官率先とばかり、単身現場に飛び込んでいく艦長を、
乗員は誰一人助けず息を飲んで見物しているのも妙な設定です。

この迎撃の前に手袋をとり落としてしまったエマーソンは、
素手で薬莢を移動させる任務をしたため、手に火傷の重傷を負いました。

医療品も炎上して血漿がないので、彼は送り返されることになり、
欠員の出た砲員の席には、下働きだった
フィリピン人のフェリックスが念願かなって入ることになりました。

駆逐艦というような小さな軍艦の場合、下働きなども
一応戦闘時の非常配置というのが決まっていると思うし、
兵員の補充に対してもある程度決まっているはずだから、
何の予備知識もない下働きを
いきなり砲塔に入れることはないような気がしますが。

その夜、すっかり乗員の士気が落ちていると感じた艦長は、
副長のフィリップスに「とっておきの」映画を見せるように命じました。

リールのタイトルを見てフィリップスはやれやれという顔をします。

「熱帯病の原因と対処」

ところが!
その中身はマリリン・モンロー主演の
「Ladies of the Chorus」(日本未公開)でした。
ちなみにこの作品は1948年の公開なので、この頃には存在しません。

フィリップスびっくり、総員大喜びで士気もあがりまくりです。

「熱帯病、最高だぜ!」

これが唯一この映画の映画らしいエピソードかもしれません。
しかし、残念ながら戦争映画に嫌というほどあるパターンです。


ちょうどその時、艦長のもとに無線によるニュースが届きました。
合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト死去。

艦長は悲痛な顔をしてつぶやきます。

「大統領は海軍の親友だった」

その次から始まる実写には日本人なら誰でもびっくりです。

なんと、「沖縄の米艦隊を今目指してくる特攻隊」と言う設定で、
義烈空挺隊出撃のニュースリールが延々と流れるではありませんか。

「全員喜び勇んで往きます」

という隊長奥山道郎大尉の挨拶もちゃんと収録された映像です。

ご存知のように義烈空挺隊は空挺決死作戦に散華した部隊であり、
彼らのいう航空特攻、「キャマカゼ」とも「カミカチ」とも
全く関係がありません。

間違いもいいところです。

しかもこの映像を見れば、彼らが搭乗しているのが
輸送機であり、戦闘機でも艦爆でもないことは誰にでもわかります。

要するに中身を全く調査せず適当にフィルムを使っているのでしょう。
色々と残念な映画ですが、これにはほとほと呆れ果ててしまいました。

一瞬本物の陸軍特攻の映像が挟まれますが、すぐに場面は
義烈空挺隊の出征シーンに替わります。

今ならインターネットで調べられるんですけどねえ。
ってそういう問題じゃないだろ!

その義烈空挺隊の特攻が迫る中、駆逐艦「ブランディング」は
特攻で出た負傷者を移送するために護衛艦の接岸を待っていました。

「ロードアイランドに帰れる」

とうっとり呟く両眼をやられた乗員。

しかしそのとき、彼らのいうところの「義烈空挺隊の特攻機」が、
真っ直ぐ護衛艦に突入しました。(もちろん実写)
そして彼らが乗るはずの護衛艦は目の前で轟沈してしまいます。

「あっやられた・・・!」

「沈んでいく!」

手をこまねいて目の前の護衛艦の沈没を見ているしかありません。


その後「ブランディング」は迫るカミカゼを撃墜しましたが、
(どこかの実写映像)、同時に機関を損傷しました。
エンジンを停止したところになんと敵潜水艦が現れたので、
艦長は爆雷の投下を命じました。

実に盛り沢山ですが、きっとこの潜水艦映像も
どこかの映画からパクってきていると思います。

爆雷を受けた潜水艦は何がどうなったのかわかりませんが浮上してきました。
そして直進する「ブランディング」と直角に衝突してしまいます。
はて、駆逐艦のエンジン、さっき停止させたんじゃなかったっけ。

このシーンに浮上したばかりの筈の潜水艦の甲板には
なぜかたった一人だけ、セーラー服を着た水兵が乗っていて、
衝突の前にあわてて海に飛びこんで笑わせてくれます。
(この日本兵役:H.W. Gim)

しかし衝突の衝撃で砲塔から顔を出していたロバーグは死んでしまいました。
ちなみにロバーグというのは砲塔勤務の長老的存在で、
賭けの好きなグリップなど、ロバーグの年齢がいくつか賭けていました。

ここは砲塔内ですが、衝突時、
ロバーグはよりによって外に顔を出していたようです。

ともあれ、これで彼らの任務は終わりです。
虚脱したかのように甲板で夕日を見つめながら吐息をつくのでした。

「祖国に帰れる・・・」

砲員をねぎらうためにやってきた艦長は、まずエマーソンに
(どこで二人の会話を聞いていたのか)こんなことを言います。

「君の予想(カミカゼは我々を飛越す)は外れたな」

それを受けてエマーソンは、

「彼らは我々をパスするべきでした。彼らの目標は間違いだった」

するとグリップが、

「そうだ、カミカゼは頭がおかしい」

この映画の制作者のレベルがよく表されているセリフです。
そして艦長は、それに対し、

「わたしはそう思わない。
彼らは子供で死を尊ぶように洗脳されている。
同じ教育を受ければ我々もああなっただろう」

特攻についてはいろんな扱い方があると思いますが、
「洗脳」の一言で片付けてしまっている映画は初めて見ました。

そして艦長はグリップに手を差し出します。
「よくやった」

そして兼ねてから互いに握力自慢を標榜していた二人は、
お互い握られた手の痛みに顔を歪め、それから笑いだすのでした。
いいシーンのつもりだと思われます。

そして、

「これにて沖縄戦は完全に終結する__エンド」(字幕)

いや、これで終わらなかったし。
ちょっとは沖縄戦について調べろよ!
海兵隊もびっくりだよ。

 

いやー、駄作だとは聞いていましたが、こんな駄作があったとは。
戦争映画のできというのは上を見てもある程度限界はありますが、
下はまるでマリアナ海溝並みでその底知れぬ深さにめまいがしそうです。

この映画をもし一言で言い表すとすれば、

「女性下着をつけていない時の
エド・ウッドの戦争映画」

だと思いました。


最近gooブログの編集形式が変わり、それでなんとなく
文字レイアウトを中央に変えたのですが、
前の画面で3万文字になんとか収めた記事がなぜか制限字数を超え、
2日に分けることを余儀なくされたので、最初に作成したこのタイトル画を
人数半分ずつにわけて2パターン追加で製作しました。

こんなつまらん映画のために手間暇かけて
3パターンも絵を製作してしまうわたしってなに?と改めて思いましたが、
せっかく描いたので、採用しなかったオリジナルを載せておきます。

終わり。

 

K-9とMWD 軍用犬の歴史〜フライング・レザーネック航空博物館

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「海兵隊の軍用使役犬が戦闘に寄与する能力は、
人や機械では再現できるものではない。
そのパフォーマンスの費用対効果は
我々の所有するどんな装備よりもある意味優れている。

この信じられないほど貴重な資源にもっと投資しなければ、
我々の軍隊は立ち行かなくなるだろう」

これは、デビッド・H・ペトラエウス海兵隊将軍の言葉です。

フライング・レザーネック博物館は、かつての展示を
かなりボリュームダウンし、最小限に絞ったらしい、
と帝国海軍搭乗員コーナーの説明の日に述べましたが、
全体を見て思うに、それは新たに本日紹介する
海兵隊の軍用犬コーナーを拡張するためだと気づきました。


決して広くない室内展示スペースのほとんどが
軍用犬の紹介のためのパネルに割かれていたのです。
どういう事情で軍用犬をクローズアップすることになったのか、
今のところ説明がないのでわかりませんが、
今日はそのミリタリー・ワーキング・ドッグ、MWDを紹介します。
■軍用犬の歴史


軍用犬は、エジプト、ギリシャ、ペルシャ、サルマティア、アラン、
スラブ、ブリトン、ローマで使用されました。
記録に残る限り、戦闘で軍用犬を最初に使用したのは、
紀元前600年頃のキンメリアに対するリディアだったと言われています。

🐕紀元前7世紀半ば:エフェソがマグネシアと行った戦争では、
最初に犬を放ち、続いて槍、そして騎兵の突撃という順序で攻撃した。
犬と一緒に埋葬された騎兵の墓が遺されている。
🐕古代末期、フン族のアッティラは巨大なモロッサー犬
(ブルドッグやマスチーフ、パグなど)を使用した。
🐕紀元前525年:ペルシウムの戦いで、カンビュセス2世は
動物に対するエジプトの宗教的敬意を利用して、
最前線に犬や猫など動物を配備し、攻撃できないようにした。
🐕紀元前490年:マラトンの戦いで、犬が重装歩兵隊に配備され
ペルシャと戦った様子が、壁画に遺されている。
🐕紀元前231年:ローマ軍はサルデーニャの内陸部で
「イタリアからの犬」を使って洞窟から先住民を追い出した。
🐕ヨーロッパの王族の間では繁殖用の軍用犬を贈りあう風習があった。

🐕スペイン軍は、訓練したマスティフやその他大型犬を使い
ネイティブアメリカンに腹裂きの刑などを行って虐殺した。

🐕犬をメッセンジャーに使ったのは七年戦争の時のフリードリッヒ大王で、
ナポレオンもまた、戦争に犬を使用していたと言われる。
🐕フランスの海軍施設では1770年まで警備犬が使用されていた。
🐕1914〜1918年:第一次世界大戦で犬は主に通信用として使われ、
約100万匹が戦死したとされる。
スタビー軍曹
アメリカン・ピット・ブル・テリアのミックスである
スタビー軍曹(Sgt Stubby)は、
第一位世界大戦中最も有名な犬であり、勲章も数多く授与されている。

SGT STUBBY Official US Teaser Trailer 02 2018
アメリカでの軍事目的での犬の最初の公式使用は、セミノール戦争のときです。
南北戦争でアメリカン・ピット・ブル・テリアは、通信任務に使われ、
第一次世界大戦では兵隊募集のポスターにマスコットとして使用されました。

第一次大戦の頃のピットブルをアメリカに準えた謎のポスター。

左から、
スウェーデンブルドッグ、ジャーマンダックスフント、
アメリカンブルテリア、フレンチブルドッグ、ロシアンウルフハウンド。最後はつまりボルゾイということですね。
ピットブルテリア君は、
「僕はニュートラル。でも、彼らなんか怖くないぞ!」
と言っています。
第一次世界大戦の時の最初の頃のアメリカの立場を表明しているんですかね。
🐕1941–1945:ソ連は犬に爆薬をつけてドイツの戦車に放った。
🐕1943年から1945年:アメリカ海兵隊は、市民から寄贈された犬を
太平洋における日本軍からの島嶼奪回に投入した。
この時期、ドーベルマンがUSMCの公式犬と決められた。
基本的にすべての品種の犬が「太平洋の軍犬」として投入された。
戦争から戻った549匹の犬のうち、民間の生活に戻れなかったのは4匹。
その他はハンドラーが家に連れて帰っている。

Chips the dog
ジャーマンシェパードのチップス
は、当時最も表彰を受けた軍犬です。
戦地でアイゼンハワー将軍の謁見を受けたこともありました。

しかし、もともと彼がなぜ軍隊入りしたかというと、
ゴミ収集人にかみついたので、飼い主が持て余していたところ、
ちょうど軍が犬を募集していたので送られてしまったのだとか。

🐕1966〜1973年:ベトナム戦争には約5,000匹の軍犬が参加した。
約10,000人の軍人がハンドラーに割り当てられ、
K9ユニットは10,000人以上の人命を救ったと推定される。
 一方、232匹の軍用犬と295名のハンドラーが戦死した。
約200匹のベトナム軍用犬が戦争を生き延び、
国外のアメリカ軍基地に配属されたと推定されている。
残りの犬は安楽死させられるか、現地に置き去りにされた。
🐕2011年:ネイビーシールズがカイロという名前のベルギーシェパードを
オサマ・ビン・ラディンの殺害チームに参加させていた。
このとき参加したネイビーシールズのメンバーは、
なぜか全員がその直後謎の死を遂げましたが、
カイロ犬がどうなったかまではわかっていないようです。
犬は都合の悪いことを喋ったりしないのでセーフ・・おっと。
■K-9
ハリソン・フォードの潜水艦映画にこんなのがありましたね。
・・・それは19や!というツッコミを待つまでもありません。

K-9。
英語に接しているとときどきこの言葉を耳にします。

K-9、それは「dog」と同義です。

特に法執行機関や軍用犬などの作業犬を指すことが多く、
特に軍は略称や記号による言い換えを好むのでよく使われます。
数詞(Numeronyms)とは、数字を基にした言葉で、
数字が特定の音を言い表しているものですが、
Canine=ケイナインは、たまたま数詞によりできており、
犬やキツネ、オオカミなどのイヌ科を指す言葉です。
「ケイナイン」を「K9」と表記する数詞はそのまま「犬」を表します。

たとえば忙しい動物病院やアニマルシェルターでは、
手術の手配や施設内の動物を把握するとき、
「犬」をK9と表記することがあります。
dogと一字しか違いませんが、そう書く方が「専門ぽい」からかな。


警察犬の場合は、パトカーの車内に犬がいることを知らせる表示や、
警察犬が着用するユニフォームなどに「K9」の文字が使われます。

K9ユニットは、日々の巡回から麻薬輸送の痕跡の発見まで、
あらゆる活動において日々活躍しています。警察犬とハンドラーは、それぞれの仕事に適した特別な訓練を受けており、
優秀な警察犬は非常に貴重な存在として尊敬されます。
余談ですが、アメリカでは警察犬も軍用犬と同じく階級がつけられます。
昇進とかはなく、自動的にサージャント(巡査部長)になるのですが、
この理由は、万が一犬が任務上反撃者に殺傷された場合、
ただの犬では法的に物損事故にしか問えないので、
階級をあたえているのだとか。(MK情報なのでソースなし)

たとえばダックスという名前だと、K-9 Sgt. Daxという具合です。

ちなみに日本はアジアでは数少ない警察犬を採用している国ですが、
犬は基本的に「装備」扱いで階級は与えられません。
■逃走した警察犬「クレバ号」とその後
ところで超余談ですが、日本の警察犬「クレバ号」の話、ご存知ですか?
2020年(令和2年)10月24日に、行方不明者の捜索にあたっていた
兵庫県警察の警察犬・クレバ号が突然走り出し、その拍子に
鑑識課員の手からリードが離れて逃走してしまった。

県警は鑑識課員ら約40人態勢でヘリを投入し連日捜索を続け、
3日目の午前に、逃げ出した場所から南西へ約100メートル離れた山頂付近で、
木にリードが絡まって動けなくなっていたクレバ号を鑑識課員が見つけた。


その後クレバ号は、多くの市民の請願もあって再訓練後、現場復帰し、
復帰後4日目に行方不明の女性の捜索に出動して見事探し出し、
手柄を上げて表彰されたばかりか、今年の6月7日、
やはり行方不明の高齢男性を40分で見つけ出しました。
わたしはこういう話にめっぽう弱いもので、
山中で動けなくなっていたクレバ号の様子を想像したり、
その後の汚名返上の大活躍のニュースを見聞きしただけで
不覚にも目頭が熱くなってしまいます。


■ 海兵隊のMWD軍用犬

海兵隊ではK-9の名称は使わず、一般的にMWDと称しているようです。
(もちろんKー9も使われます)

アメリカ国内と世界の全てのUSMC基地には、
2010年に更新された最先端の犬舎と訓練施設をホストする
海兵隊ミラマー航空基地が編纂した軍用作業犬プログラムがあります。
なるほど、これで、ここに軍用犬のコーナーが
大々的におかれている訳がわかりました。
海兵隊のドッグ・ハンドラーの職業コードはMOS5812。
とくにミラマー基地のハンドラーはその中でもエリートだそうです。
海兵隊のハンドラー職種募集のページは、こんな言葉から始まります。

「暑い砂漠の道を進む隊員の目の前で、爆発物を発見した自分のパートナー。
親友、忠実な仲間の姿に、あなたは誇りを感じます。

自分とパートナーが一体となって訓練を共にした結果、
無数の隊員の命を救い、その喜びを分かち合うことができるのです。

これが、海兵隊の軍用作業犬ハンドラー(MWD)通称MOS 5812の生活です。

このMOSは、模範的なリーダーシップを発揮し、
通常の海兵隊に課せられる以上の任務をこなし、厳しい選考を経て
軍用K9との共同作業に選ばれた海兵隊員にのみ与えられる称号です」


MOS 5812は、もともと5811(憲兵)だった海兵隊員が
副次的に応募して取得することのできる職種MOSです。

K9ハンドラーになるために最も模範的な海兵隊員だけが、
非常に競争の激しい選考プロセスを経て選ばれる職種で、
それゆえ彼らは海兵隊の「エリート」とされているわけです。

それでは次回は、FLAの展示をもとに、
海兵隊のK-9とハンドラーについてお話ししましょう。
続く。

「あなたの犬軍隊に預けませんか」軍用犬供出と今日のMWD~フライングレザーネック航空博物館

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サンディエゴのミラマー基地におけるMWD、
又の名をK-9、海兵隊使役犬の訓練について前回お話ししました。

ミラマー基地のケンネルで行われたデモンストレーションでは、
探査訓練とともに攻撃の訓練成果が発表されたわけですが、
少しこの「攻撃犬」(アタックドッグ)について書いておきます。
■ アタック・ドッグ
犬を訓練して標的を襲わせることは古代から行われていました。
古代ローマが犬を武器として使うようになったのは、
ベルセラの戦いで敵が投入した犬に苦しめられたことがきっかけでした。

その後彼らは犬を明確に武器として、獰猛に飼育し始めたのです。
ローマの博物学者・作家である長老プリニウスは、その訓練の結果、
犬たちは剣を突きつけられても全く怯まなかった、と記しています。ローマの攻撃犬は、敵の陣形を崩させるために、
鋭利なスパイクで覆われた金属製の鎧を装着していました。


着用例
●アメリカで最初に攻撃犬を使用したのは、
ベンジャミン・フランクリンの提案でした。
フランクリンは、
「犬と一緒に寝るものはノミと一緒に目覚める」
と言う名言?を残しています。

実体験だったのね。

●独立戦争の英雄チャールズ・リー将軍は、
犬が好きすぎてどこに行くにも連れ歩き、
食事の席にも同席させ椅子に座らせたりして周囲に嫌がられていたそうです。


スクロールして最後にびっくり、リー将軍と犬

●アパルトヘイト下の南アフリカで、国防軍は
狼と犬のハイブリッドを実験的に攻撃犬とし、ゲリラと戦っていました。


■攻撃犬の訓練とその用途

攻撃犬は、敵とされるターゲットを追いかけ、噛みつき、
怪我をさせ、場合によっては殺すように訓練されます。
その際、犬には状況を判断し、それに応じて反応するスキルが求められます。

正式な訓練では、犬は訓練の効果を高めるために銃声や騒音、
その他障害にさらされることになります。

攻撃犬になるための訓練は犬の凶暴性を助長するとして非難されたりします。
現に、人を噛んだ犬の10%が攻撃犬の訓練を受けていたという報告もあり、
それは一種の「職業病」として動物愛護の観点から問題視されているのだとか。

現代の軍隊でも、主に見張りのために攻撃犬を使用しています。
犬は自分の持ち場を守り、侵入者を攻撃するように訓練されています。
また軍犬が捕虜に対する心理的拷問に使われ問題になったことがありました。

これな

軍用と警察でのK-9の使い方が少し違うとすれば、
警察犬は、人間が危険にさらされている状況を識別し、
それに応じて反応するように訓練されていることです。

警察の攻撃犬は一般的に、怪我をさせるというよりは
ターゲットを取り押さえることを目標に訓練されています。
軍隊レベルの訓練を受けた犬を一般人が手に入れることはできますが、
これらの犬は「エリート」であるので、価格は跳ね上がり、
中には数十万ドルもする元K-9もいるそうです。


■あなたの犬を軍隊に預けませんか?
この誘い文句で犬の供出要請がアメリカ政府から国民に対して出されたのは、
真珠湾攻撃が起こった直後の1942年のことでした。

アメリカ軍は、第一次世界大戦の時にすでに軍隊に
犬がその価値を証明したのを知りながら、自分たちが
その後何も具体的な行動をとらなかったことに気づいたのです。
ヨーロッパ戦線で、犬たちは歩哨任務に立ち、メッセージを運び、
塹壕にいるネズミを軍隊が到着する前に退治しました。

この政府要請を受けたアメリカ国民は、その後2年間で、
4万匹以上の犬をUSMCに送ることでそれに応えました。
(中にはあの『チップス』のように、行儀が悪くて持て余した犬を
処分かたがた軍送りする家庭が結構あったということです)

そして、犬のハンドラーとして1万人が従事しました。

1943年12月20日付でアールビンという人物に
USMCの司令官が送った手紙には、彼が犬を供出したことに対して
その奉仕を称賛する内容が書かれています。

翻訳しておきましょう。
親愛なるアールビン氏:

アメリカ海兵隊と日本との戦争のためにあなたから寄贈された
ドーベルマン・ピンシャー「レックス」が、英領ソロモン諸島の
ブーゲンビルにおいて最近行われた水陸両用作戦で
卓越した戦闘能力を発揮したことをお知らせします。

偵察犬「レックス」は、作戦7日目の夜、海兵隊駐屯地の近くに
日本兵がいることを警告しました。
夜明け、日本軍は我々の駐留していた場所を攻撃しましたが、
「レックス」が警告してくれた結果、海兵隊は攻撃に備え、
撃退することに成功したものです。
「レックス」の行動は、間違いなく
多くの海兵隊員の命を救うのに役立ちました。

敬具

T. ホルコム
USMC少将 アメリカ海兵隊司令


レックスとハンドラー(とレックスの餌入れ)
ただし、アメリカが犬を敵(つまり人間)に対する攻撃用として使役したのは、
第二次世界大戦まで、厳密に言うと沖縄戦まででした。
沖縄戦以降、アメリカは犬の主たる使用目的を、
偵察や探索に変えることになります。
その理由は、沖縄戦に投入された日本の軍用犬の末路だった、
と言う話があります。

■ 日本の軍用犬出征式

朝日新聞社のアーカイブスから、「軍犬の出征式」です。
幟に書かれた犬の名前を見ると、
いわゆる和名より洋式の名前がほとんどなのに気がつきます。

「ドリー」「ガルボ」「ベラ」「ダイア」、
そしてこちら(日本側)にも「レックス」がいるではありませんか。
当時の日本ではどちらかというと犬の名前は西洋風が流行っていたようです。
アメリカからも日本からも、同じような名前の犬が出征し、
そして同じように戦火に斃れていったのでしょう。
何も知らずに歩いている犬たちの映像を見ているだけで胸が痛くなります。
日本で本格的に軍犬が使われるようになったのは第一次大戦以降で、
陸軍歩兵学校にシェパード、ドーベルマンなど大型犬の軍犬育成機関ができ、
それに伴い、軍用犬を供出する民間の組織も誕生しました。

陸軍の軍用犬は中国戦線で伝令や警備の任務に派遣されました。
このニュースに見られるような犬の出征壮行も行われるようになります。

満州国の成立以降は、関東軍、大日本帝国海軍も
警備犬として軍用犬の導入を開始しましたが、
太平洋戦線では連合軍側の軍用犬戦術が向上したことや、
兵站の関係で人間の食料すら確保が困難になってきたこともあり、
日本側の軍用犬の配備は急激に数を減らして行きました。
沖縄戦は日本軍にとっても軍用犬を「攻撃犬」として投入した最後の戦闘でした。
このとき沖縄に投入された軍用犬は勇敢に戦いましたが、
近代兵器の前にはあまりにも無力であり、そのほとんど全てが
ハンドラーとともに戦死することになりました。
アメリカ側の、沖縄戦についてのある資料によると、皮肉にもこの事実が
アメリカ軍を始めとする近代軍隊に軍犬を攻撃用として運用することを
廃止させるきっかけになった、と書かれています。


■ウォー・ダーグ(War DAWG)ウィークエンド

前回書きましたが、ミラマーでMDWプログラムを受けることのできるハンドラーは
海兵隊エリートであると同時にハンドラー界のエリートと目されています。

まず、プログラムを受ける全ての海兵隊員、そして警察官は、
彼らが派遣される基地で担当の犬とマッチングされます。
ミラマーで訓練を受けた犬は2009年に配備を完了し、
彼らはハンドラーと共に大統領就任式、共和党大会、民主党大会などの
全国的なイベントなどに駆り出され、警備チームの一翼を担うのです。
また、彼らはキャンプ・ペンデルトンで毎年開催される
「War DAWG」
と言う大会に出場します。

「ダーグ(ドッグと発音は同じ)」というのは、
「the men and women who team up with dogs in combat」
つまり軍用犬ハンドラーと同義ですが、このイベントは、
もともと三人の「Nam Dawg」
がペンデルトン基地のMWDケンネルで、過去のハンドラーと
K9たちに敬意を評してバーベキュー大会を始めた(アメリカらしい)
ことから始まっています。
まずこのダーグとはなんぞや、というと、
普通に「犬」のスラングで「ダーグ」と発音します。
そして、同時に「ブラザー」みたいなノリの「友達」という意味でもあります。
それから「ナム」はベトナムという意味なので、つまり
「ナム・ドーグ」=ベトナム退役軍人の元ハンドラーとなります。
ペンドルトンでは、毎年ベトナム退役軍人のグループが主導する
MWDとハンドラーを称える追悼イベントが開催され、
同時にK-9の技量を競う競技会(とバーベキュー大会)が行われるのです。

式典では、ベトナムで戦死した300名以上のハンドラーとMWD、
イラクとアフガニスタンで戦死した約30名の名前が読み上げられるならわしです。

「ウォー・ダーグ」で行われるコンテスト、
「Iron Dawg Competition」
は、軍部隊や法執行機関のK9チームのスキルを披露するもので、参加者は、
戦術/服従 薬物/爆発物探知 噛みつき/攻撃 耐久走
の4つの種目で競い合います。



「アイアン・ダーグ」競技参加中のフィッシュバウ伍長とMWDワンドゥ。
これもしかしたらしんどいのは人だけなんじゃ・・・。



フィッシュバウ伍長(左)は、MWDワンドゥと出場し優勝。
なんと全部で三つのアワードを獲得しました。
盾を渡しているのはミラマー基地のダニエル軍曹です。
フィッシュバウ伍長の上腕二頭筋の太さとお揃いの刺青をご覧ください。
何をすれば女性の筋肉がこんなに発達するのかわかりませんが、
つまり一流のハンドラーというのは犬と一緒に走り回り、
筋肉を鍛え上げているということなのでしょう。
自衛隊のハンドラーを見る限り、こういうゴリマッチョな感じは受けないのですが、
この辺がアメリカ軍、海兵隊のハンドラーの文化なのかもしれません。
決して酸素マスクと耐Gスーツをつけないブルーエンジェルスのように、
アメリカ軍って時々「何と戦っているのか」という無謀なところ、ありますよね。


三つもの盾をもらって得意そうなワンドゥMWD。
ミラマーの彼の犬舎前でポーズ。

■MWDの訓練用ギア


噛みつき訓練(bite-work)で使用する防御ギアのご紹介です。
こちらは革製の保護用ヘルメット。
空中を高速で激しくぶつかってくる犬にノックダウンされたときに
彼らの鋭い牙から身を守るためのガジェットです。

革製とワイヤ、2種類のマズル(口輪のようなマスク)
もちろん犬用です。

マズルは安全上の理由からハンドラーの判断で状況によって使用されます。
たとえばMWDの周りに一般の人がいっぱいいるとき。
中には犬が大好きで、つい撫でたくなってしまう人もいるわけです。

しかしほとんどのMWD、軍用犬は、その任務、
「探索すること」「噛むこと」にのみ忠実です。
通常はコマンドが与えられた時のみ噛みつきますが、
非常事態には命令がなくても攻撃を行います。
なぜなら、彼らはハンドラーに対して忠実、
かつその身を守ることを第一の使命と心得ているので、
そのほかの人々をハンドラーに対する脅威と見なし、
これを排除すべく、問答無用で攻撃してくるものなのです。
たとえ相手が小さな子供であっても。

ミラマー基地で使用されている犬舎のネームタグです。
エルトロ(牡牛の意)の犬舎は1999年に廃止されました。
フリッツくんもマーツォくんも、退役済みでしょう。
■MWD退役後の養子縁組制度
ところで、退役といえば、現役引退したMWDはどうなるのでしょうか。
2000年に引退した軍用犬と養子縁組を結ぶことができる
『ロビー法』が可決され、これによって毎年、
テキサスのラックランド海兵隊航空基地からは
数百匹単位の犬が養子縁組されるようになりました。
年齢や健康上の理由で引退する犬もいれば、資格を取得できなかった、
または維持できなかったために退職する犬もいます。軍用犬の任務には95%の精度が求められるのでしかたありません。
(軍人の退役年齢が早いのと同じ理由ですね)
犬の養子縁組が最初にオファーされるのは、その犬の元ハンドラーです。
ほとんどのハンドラーがそのオファーを受けますが、
もし不可能な場合は、次に法執行機関が検討され、
そのどちらもご縁がなかった場合は、民間に引き取り手を募集します。
軍用犬は訓練されているから扱いやすいというのは大きな間違いです。
訓練やその仕事の性質上、犬とはいえ
PTSDを含む健康や行動上の問題を抱えているのが普通です。

一般家庭に飼われている元K-9に、何かのはずみで「スイッチ」が入り、
通行人を噛んでしまって大ごとになった、
という例を、わたしも実際に見聞きしたことがあります。

これはその犬が「ダメ犬」だからではなく、前職のトラウマや残渣からくる
一種の「バグ」であり、そのことも可能性として十分起こりうることを
予想・理解しながら飼ってやる必要があるのです。

そのため、アメリカでは民間の申請者は、受入環境や
犬の取り扱いについての知識、経験を慎重に審査されます。
しかし、住宅事情一つとっても犬を飼いやすい環境にあるアメリカでは、
退役した犬の養子縁組を打診された場合、
ほぼ100%のハンドラーが犬を自身が引き取ることを申し出るそうです。

任務中犬との間に培われた固い絆が、一生を共にしようと思わせるのでしょう。
余生を、信頼できるハンドラーとのんびり過ごせる犬は、幸せです。

続く。

ミラマー基地のMWDデモンストレーション(軍用犬と玩具の関係)〜フライング・レザーネック航空博物館

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「Combat Canines」


このコーナーの壁に大きく赤で描かれている文字。
前回説明したように、Caninesはイヌ科の動物であり、
そこから軍用犬、警察犬をK9と称します。

冒頭写真で海兵隊のハンドラーと一緒に走っている、
おそらくジャーマンシェパードの首にも黄色い「K-9」の札がありますね。

それでは、FL航空博物館の展示から。

「アメリカ軍の最前線で、軍用犬とそのハンドラーは、
第二次世界大戦以来、米海兵隊と共に
地球上でも最も危険な戦場で彼らを導く役目を果たしてきました。
かつて軍に使役された様々な動物が、技術の発達によって
そのほとんどが時代に合わなくなってしまった今でも、
軍用犬だけはいまだに一線で活躍する価値を見出されています。
IED(即席爆発装置: Improvised Explosive Device)
を検出する能力は、かつて軍事技術者によって発明された
どの機械や装置よりもはるかに優れています。

何より、犬は知的で順応性があり、忠実でタフです。
第二次世界大戦の頃、軍用犬の訓練は、2週間を一つの区切りとし、
農場経験のある海兵隊員の手によって行われました。
農場育ちなら、動物を手懐けるのは慣れているとされたのです。

近年では犬の訓練とハンドリングは、一頭あたりの訓練、しかも
に約3万ドルから4万ドルかかるといわれます。
犬にお座りや寝返りを教えるのは簡単ですが、
戦闘状況かで吠えずに静かにしていることを教えるのは全く違います」
■MWD(海兵隊軍用犬)用ガジェット

そしてこれは犬用ゴーグル。
フレームに書かれている
DOGGLES(ドッグルス)
という商品名に思わず膝を叩いてしまいました。


着用例。

「洗練されたテクノロジーと装備」軍隊はしばしば洗練された技術を惜しげもなく
このような装備に注ぎ込み、現代の犬はそれ以上のものを「楽しんで」います。

軍用犬は、専用のベスト、GPS装置、ドッグル(もはや一般名詞らしい)
などの目を保護するための機器の他に、足を地面から保護するための
犬専用のブーツが支給されます。

犬専用ブーツ。(ゴルフのスティックカバーかと思った)
サングラスをした上の写真は、ダニエルSSgt(曹長)と、
彼の担当である🐕アウラ(Aura)さん。(多分雌)アウラさんは2015年に引退し、ダニエル曹長に引き取られて
今は家族の一員となっているそうです。

引退した犬がハンドラーに引き取られるというのは
珍しいことではないような気がしますが、
この場合やはり「装備引き渡し」みたいな扱いなんでしょうか。
■ミラマー海兵隊航空基地でのデモンストレーション


ハンドラーの首から上を撮り損なった?と思ったら、
もともとこういう写真でした。
訓練デモ中のMWD(海兵隊使役犬)に焦点を合わせて撮っています。
1mくらいの障害を楽々飛び越えているMWDの名はワンドゥ(Wando)。
ここMCAS(Marine Coops Air Station) Miramar kennel、
つまりミラマー海兵隊航空基地犬舎で行われた
学童を招いての公開デモンストレーションでの一コマです。
デモの代表になるくらいですから、ワンドゥくん、優秀犬です。
前回、ウォーダーグで三冠を取ったとご紹介しましたね。


ミラマー海兵隊航空基地にあり、犬・ハンドラーともに
採用されただけで「エリート」コースと言われる
ミリタリー・ワーキング・ドッグプログラムことMWD訓練は、 
主に基地の警衛部隊の憲兵隊長(設置されている法執行機関の最高責任者)
を増強することに焦点を当てています。
犬とハンドラーのチームは2009年以降は展開(たぶん海外派遣)しておらず、
駐屯地において密に任務を負っており、
施設のゲートや基地全体での警備に時間を費やしています。
犬の嗅覚と視覚が訓練で向上することにより、
より徹底的な捜索が可能となりますし、
警備犬とハンドラーの姿は目を惹き、攻撃に対して
潜在的・心理的抑止力として機能するというメリットがあります。
MWDに関わる仕事には、継続的なトレーニングが必要です。
任務についていない時でも、チームは常に犬舎の監督、
master SSgt Daniel、マスターサージャント=
ダニエル曹長の監督下に置かれて一挙一動が訓練です。



これがダニエル曹長だ!
そして曹長が左手に持った赤い物体ですが・・・、


これですよね。
犬が訓練の時に咥えたり放って取ってこさせたりするもの、
要はおもちゃです。
鎖はMWDの標準装備らしく、ダニエル曹長と一緒に写っている
アウラさんの首にも同じものがかけられています。
このダニエル曹長は、犬舎のアジリティ・コースで行われた
学童対象のデモンストレーションで何か質問しているようです。



この大荷物を持った女性は、アッキバッティ上等兵。(イタリア系)
2018年当時新人で研修中でした。


ちなみにハンドラーの海兵隊上等兵の年収は現在で
2,103.90ドル(241万4128円)だそうです。
ついでに、曹長になるとは4,614.60ドル(529万6964円)。
倍以上ですが、その階級差は5もあります。

彼らのトレーニング場所は、チームが直面するであろう事態を想定し、
犬舎の専用コースや施設内の多くの倉庫などが使われます。究極の目標は、チームを戦術的・技術的により熟練させるだけでなく、
犬とハンドラーの間の絆を少しでも強くすることにあります。


デモンストレーションの日公開された攻撃訓練の一コマ。

訓練用の防御衣を噛まれているバス上等兵の顔がナイス。
腕に噛み付いてぶら下がっているのは先ほどのワンドゥくんです。
ワンドゥと別の伍長がタッグを組んで、「悪役」である
バス上等兵を攻撃しているというわけです。

これも同じ日のデモンストレーションでの展示。
後ろにあるのは引退した戦闘機(展示してある)のようです。
F9F2パンサーかな?

ターゲット役はトリミーノ上等兵、
確実に腕を狙いにきているのは同じワンドゥ号。
新人(下っ端とも言う)は最初噛まれ役が多いんだろうな。
ワンドゥはベテランなので間違いはないかと思いますが、
これ、もし防御衣を着ていない脚を噛まれたらどうなるんだろう。


ちなみに、シリーズ最初の扉絵にしたこのチームは、
犬=コラード号、ハンドラー=スミス伍長で、
沖縄県の海兵隊基地キャンプ・ハンセンに所属しているんだそうです。
■なぜ玩具を展示するのか


犬のおもちゃといえば・・・、フリスビーですね。
標準仕様なのか、国旗がついた赤いフリスビー。
海兵隊装備納入業者もびっくりだ。
そして下のケースは、
「エリートK9」と文字が穿たれています。
穴が空いているのはこれが「匂い箱」だからで、
磁石式になっていて金属部分に装着して捜索の訓練に使います。


ところで、なぜ軍用犬のおもちゃが展示されているのでしょうか。

軍用犬として生まれた子犬にとって、最も重要な特徴の一つは
「プレイ・ドライブ」と呼ばれるものです。
このプレイドライブによって、ハンドラーは、
犬が優れたMWDとしてあるべき反応をするかを確認するのです。
ラックランドのAFBで訓練されている犬とハンドラーに
褒賞としておもちゃが与えられるというのは日常的な光景です。

犬は命令、および任務が与えられると、おもちゃのために働き、
任務が完了すると、よくやったという印に、報酬として玩具を受け取ります。
MWDのデモンストレーション中に犬のおもちゃを紹介すると、
そこにいる犬は耳をピンとたてて興奮するのを観客は目にするでしょう。
それは犬がハンドラーに出す「任務を完了するためのやる気十分」の合図です。

犬が玩具を見つけるために行うプレイドライブは、
そのモチベーションを利用して本職の捜索活動を容易にするのです。
MWDの本職とは、麻薬あるいは爆発物の捜索であり、
(必ずそのどちらかであり、1匹がどちらの任務もすることはない)
彼らはその訓練を受けています。

そして、犬がそのどちらかを見つけたとき、
そのハンドラーは必ず安全を保証される必要があります。
犬は大変鋭敏な嗅覚を持っていることは有名ですが、
その鼻には2億2500万個の嗅覚受容体が含まれており、
(人類の嗅覚受容体は500万個にすぎない)
この特性だけでも、彼らは理想的な軍事作戦参加者になります。
そして、彼らの忠誠心と、人を喜ばせたいと言う願望は
犬たちを基地や戦場で重要な存在とするのです。


バス上等兵がタッグを組む犬はパト(Pato)。
パトは爆発物探査専門のMDWです。
爆発物に見立てた対象物を探し出すデモンストレーション中。


MWDがご褒美に与えられるおもちゃ。
硬化ゴム製らしい瓢箪のようなものは、てっぺんに
匂いが出る穴が空いているのにご注意ください。


これもご褒美として犬がもらうおもちゃの一種です。
穴が等間隔に開いているので笛みたいですが、
こちらも匂いを仕込んで捜索訓練に使います。
その犬の任務に合わせて、爆発物の匂い、ドラッグの匂いが使われます。
■犬はどこから来たの?

基地にいる犬のほとんどは、ベルジャンマリノア、
オランダ&ジャーマンシェパード、ベルジャンテルビュレンのどれかです。

犬の75%はヨーロッパから輸入されていますが、
25%はテキサス州のラックランドにある
「ミリタリー・ワーキング・ドッグセンター」で飼育されています。

ラックランドでは、米国内及び海外からの犬とハンドラーが
パトロール、偵察、建物の創作、麻薬や爆発物の検出を行うため
共に訓練を受けています。

訓練方法は、それぞれの犬の特性や性格を考慮に入れます。
ハンドラーの仕事は簡単ではなく、犬を担当するということは、
ハンドラーが犬の入浴、餌やり、遊び、運動だけでなく、
記録を詳細に付けて最新の状態に保つことを意味します。

誕生から8週間まで、将来の犬は彼らの子育てセンターの
第341訓練飛行隊で飼育されます。
8週間に達すると、子犬はサンアントニオ・オースティン地域で
資格のある里親といっしょに家に帰ります。

7〜9ヶ月になるとMWDの候補として観察されます。
どんな子犬も使役犬になれるという保証はありませんが、強い意欲を示し、
様々な環境に適応し、仕事に対する報酬へのモチベーションを持つ子犬は、
資格ありとして事前トレーニングプログラムに移行します。


もしもーし、ベッドからこぼれ落ちてますよ〜。
タグづけされたベルジャンマリノアの子犬の、
年長さんの子犬、ドンジャ(上)はちびたちを見守ることもできます。
第341訓練隊は共同ユニットであり、
全てのサービスブランチがMWDを提供する機会を与えています。
さて、この子犬たちは将来そろってMWDになれるでしょうか。


続く。




マリーンズ・ワイフアワード〜フライングネック航空博物館

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サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネック。
この名称はどこから来ているかというと、どうも
この映画ではないかという元ネタを見つけました。
Clip HD | Flying Leathernecks | Warner Archive
相変わらず日本軍の軍装がいい加減な気がしますが、
第二次大戦時のガダルカナルにおける海兵隊航空隊の活躍を
例によってジョン・ウェイン主演で描いた戦争ものです。
今ちょっと資料を見たところ、ウェインが演じたカービー少佐は
海兵隊エースで先日当ブログでもちょっとだけ紹介した、
ジョン・スミス少佐がモデルであることがわかりました。


この人ですね

DVDも手に入れたので、またそのうちご紹介するかもしれません。

■名誉賞を受賞された海兵隊パイロット(ただし三人)


さて、それでは今日は、FLAMの室内展示
残りを全部、順不同で紹介していきます。
前にも書きましたが、昔ここは軍用犬のコーナーを増設した時、
かなり元の展示を減らしているので、
室内展示はもう今日で最後になります。

しかし、こういうのは減らすわけにいきません。
海兵隊員の顕彰コーナー。

全部の写真を撮らなかったので写っている三人だけ紹介します。
左から;


ケネス・ウォルシュ中佐 Kenneth A. Walsh(1916-1998)
海兵隊初のヴォートF4Uコルセア飛行隊に所属、
ガダルカナルを戦場として日本軍を相手に航空戦を行い、
航空隊最初のエースになりました。

はて、海兵隊最初のエースってジョー・フォスじゃなかったっけ。
同じ博物館のフォスコーナーではそういうことになってるんですが。



勲章授与式でFDRと握手するウォルシュ。
左の海軍軍人はアーネスト・キング提督です。
こういうときは奥さんが必ず同席しますが、ウォルシュ夫人の帽子、
おそらくこのために新しく新調したんだろうなー、と
そんなことを考えてしまうわたし。


ジェームズ・スウェット大佐James Elms Swett(1920 - 2009)

VMF-221の師団飛行隊長であり、ガダルカナルのエース。
合計15.5機の敵機を撃墜し、2つの殊勲飛行十字章と5つの航空勲章を獲得。

前にも書きましたが、アメリカは名誉賞を取ったエースは
2度と激戦地に出さないという不文律を持っているので、
朝鮮戦争が始まった時、彼のコルセア飛行隊は現地に派遣されたのに、
彼だけが残され、すぐに現役引退をしています。


ヘンリー”ハマリン・ハンク”エルロッド
Henry Talmage "Hammerin' Hank" Elrod(1905 –  1941)
海兵隊入隊前はイエール大とジョージア大にいて学生パイロットでした。
ウェーキ島で駆逐艦「如月」を撃沈したパイロットとして有名です。

1941年12月8日、エルロッド大尉は、VMF-211の航空機12機を率いて
ウェーク島で戦闘を行いました。
このとき、戦闘機から小口径爆弾を駆逐艦「如月」の船尾に投下して
水深計(と英語ウィキには書いてある)を爆発させ、撃沈させました。



航空機の爆弾一発で駆逐艦が撃沈したのは世界初だそうです。
このときの「如月」は、
「魚雷(資料によっては爆雷)が誘爆、
艦橋と二番煙突の半分とマストを吹き飛ばし、しばらくすると
艦は二つ折れになって5時42分に爆沈した。
艦橋が吹き飛んだ『如月』はしばらく異様な姿で航行したあと、
姿が見えなくなったという」
という最期を遂げました。
米軍側の資料によるとこの時のアメリカ軍の死者は1名、
それがエルロッド大尉だったようです。

エルロッド大尉はその後ウェーク島に帰投しましたが、
重傷を負っており死亡。
一連の英雄的行動に対して名誉勲章が授与されました。

ところで以前、当ブログでは
「ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル」
というタイトルで、スミソニアン博物館に展示するワイルドキャットに
ウェーク島に残されていたカウルを取りよせて装着しようとしたところ、
敵の攻撃の銃痕が生々しく残っていたので、
どうしてもそれを修復することができず、結果として
カウルを取り付けるのをあきらめた、という話をしたことがあります。


そのときウェーク島の記念館にあったカウルは、
エルロッド大尉のワイルドキャットのものだったことがわかっています。

エルロッド大尉の乗っていたワイルドキャット

このワイルドキャットのカウリング、ノーズリング、
テールフック、プロペラだけが残されてウェーク島にあったわけですが、
いつのまにかカウリングはここにあるものが世界唯一のものになりました。

スミソニアン博物館はいったんこれを展示機である
ワイルドキャットに装着して、銃痕のあるまま展示していました。
2008年の時点ではまだそのままだったようですが、
その後カウリングはウェーク島に戻されることになりました。
スミソニアンではカウルなしのノーズのワイルドキャットを展示しています。
■ベトナム戦争関連展示


近代的な雰囲気ですが、ベトナム戦争時代のカモフラージュ柄
(タイガーストライプ柄という)のフライトスーツとベストです。

このタイプのカモフラージュパターンをその後見ないのは、
これがベトナムの密なジャングルのためにデザインされた柄だからです。

「カモペディア」というHPによると、「タイガーストライプ」とは、
1960年代に東南アジア(特にベトナム共和国)で開発されたもので、
この名称は、迷彩服の細い筆で描かれたデザインが、
とらの模様に似ているからだとか。

アメリカ軍でこのデザインの生産は1967年に終了しましたが、
部隊は1970年までこのパターンを着用していたそうです。
展示されているタイプは、これも「カモペディア」によると、
「デンス(密)」タイプで、もう少し縞の間が広い
「スパーズ」(まばら)タイプもあったとか。

USMCは20年以上にわたりベトナム戦争期間を通して
地上、航空、補給、後方支援を提供しました。
ダナンの主要な空軍基地を保護する任務とともに規模を広げ、
トンキン湾事件の後には、小規模な鎮静部隊との対反乱作戦に投入するために
より多くの部隊を送り込んできました。
1966年までにベトナムには7万人近くの海兵隊員がいて、
ベトコンに対する大規模な集団作戦を遂行していました。

海兵隊は地上戦闘に加えて、南北ベトナムにおいて
ヘリコプター部隊と固定翼機での航空支援を提供しました。
1967年、サイゴンで陸軍の指導部を務めた海兵隊は、
大規模な部隊の捜索と破壊作戦に力を注ぎます。

海兵隊の任務は、国境の非武装地帯(DM2)に沿った
北ベトナム軍との戦い、そして
南部の村でベトコンに対して行われた対反乱作戦とに分けられます。

手榴弾と”トレンチ・アート”
はて、塹壕アートとはなんぞや。
それは、兵士が戦争中に作り出す文字通り「芸術作品」のことです。
砲弾を使ったビアジョッキとか、彫刻とか、
別の武器とかを手慰み的に作ってしまうこと、あるいはそのものですね。


ここにあるのは廃棄されたコーヒーとソーダ缶から作られた
花瓶とか手榴弾などです。
作品としてはまあ普通ですが、調べてみたら
中には立派なアートと呼べる作品もありました。


砲弾のシェルで作ったP-38。お見事

南ベトナム国旗
1948年から1975年まで、サイゴン陥落までの間国旗として使用されました。

1975年にベトナム共和国、南ベトナムが消滅し公式に旗は廃止されましたが、
北米やオーストラリアなど海外に移住したベトナム人の間では、
民族統合のシンボルとして、あるいは現政府に対する抗議の意味で
今でも使用されています。


アメリカのいくつかの州では、ベトナム系アメリカ人が
ロビー活動を行った結果、この旗を
民俗コミュニティのシンボルとして公式に認められました。


POW(Prisoner of War)
北ベトナム兵士とベトコンの反乱軍に捕らえられた
アメリカ軍捕虜が使用していた道具。
石鹸、歯磨き粉、IDタグ、箸と腕、カップ。

ベトナム戦争における武器
ベトコン(VC)の作戦行動のメソッドは、単純かつ効果的でした。
彼らの合言葉は
「敵が前進したら撤退、防御したら嫌がらせ、
敵が疲れたら攻撃、撤退したら追撃。」
スピード、安全性、奇襲性、相手の動きを見極めてから交戦すること。
適切な情報と準備なしに急いで行動するのではなく、
あえて機会を逃すこともありました。

任務のために組織化され、装備された(VC)は、
ゲリラ戦術で夜間に移動することを好み、秘密裏に行動しました。不意打ち攻撃の待ち伏せのために、彼らは
10日間くらいは平気で潜んでいることができました。
彼らのやり方は、道路、小道、小川、その他の移動ルートに沿って
敵を罠にかけることでした。

■アフリカ系宇宙飛行士 チャールズ・ボールデン


海軍出身の宇宙飛行士、チャールズ・ボールデン(Charles Bolden)
の宇宙飛行士用スーツとヘルメットです。



海軍兵学校では学生隊長を務めるほど優秀で、
卒業後海兵隊少尉に任官。
(海兵隊士官は海軍兵学校卒だと知った瞬間)
ベトナム戦争に参加したあとは、海兵隊のリクルート
(自衛隊で言うと地本ですね)にいたそうです。

リクルーターとして話をしているボールデン

1981年に宇宙飛行士になり、スペースシャトル「コロンビア」、
「ディスカバリー」の操縦手などのミッションをこなした彼は、
2009年、アフリカ系で初めてNASA長官に指名されました。
■アイリーン・ファーガソン海兵隊ワイフアワード

Irene Ferguson Marine Wife Recognition Award

アイリーン・ファーガソン海兵隊員妻賞は、
米国海兵隊員の妻として、夫である海兵隊の軍人や家族、
地域社会を支える献身を称え、顕彰するのが目的です。
選考は年一回行われ、選ばれた妻には賞金と贈り物が与えられます。


過去、国家のために夫が軍務に就いている間、
その妻が受ける試練や苦難は、ほとんど認識されていませんでした。
しかし、この10年間で、軍人の家族にかかるストレスや負担は、
おそらくかつてないほど大きくなっていることが認識されるようになりました。

フライング・レザーネック歴史財団は、
そんな軍人の妻の奉仕と犠牲に対し、これを顕彰すべく、
米国海兵隊退役軍人グレン・ファーガソン少佐の妻、
アイリーン・ファーガソン氏を記念して、同賞を創設しました。
この賞の精神は、以下のグレン・ファーガソン少佐の言葉に集約されています。


アイリーン&グレン・ファーガソン夫妻
「妻の死をきっかけに、私たちが共に過ごした
約60年半の素晴らしい時間を振り返ることができました。
そうしているうちに、私が訪れたことのある博物館、
歩いたことのある公園、入ったことのある建物のどこにも、
一つとして、夫を支える従軍中の妻たちの献身と
犠牲の生活を称えるものがないことに気づきました。

彼女たちの夫は、忙しい任務が日常で、遠い国へと頻繁に旅立ち、
時には危険な状況に置かれます。
彼らの多くは勲章を授与され、同僚の軍人たちから称賛を受けます。
彼らの偉業は、新聞や雑誌で賞賛されます。

しかし、知られざるのは、残された妻たちです。
彼女たちは子供たちを育て、教育し、病気のときには世話をし、
パパがいない家庭でその不安を献身的に和らげる。

しかし、妻たちの試練、艱難辛苦、勝利を証明するメダルや記念碑はありません」

受賞者は推薦され、FL歴史財団が審査し決定します。

支援機関、友人、家族、隣人、職場関係者からの応募が可能ですが、
推薦者の夫、その指揮官、推薦者本人からの応募はできません。

さて、これで室内展示を全て紹介し終わりました。
ここから外に出て航空機展示などを見学するわけですが、
出口にレトロなポスターが貼ってありました。

「もし戦いたいなら!海兵隊に参加しよう」


「アア残念!
アタシ(妾)が男なら海軍に入っていたのに」
女性が軍隊に入ることが叶わなかった時代のポスターですね。
そして海軍に入る資格のある男たちに向けて、こうあります。
「男になれ そして来たれ
アメリカ合州国海軍へ」

続く。
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