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第二次世界大戦の軍用航空機〜フラインング・レザーネック航空博物館

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サンディエゴのミラマー海兵隊行軍基地の
反対側に併設されているフライング・レザーネック航空博物館、あっという間に室内展示の紹介を終わりました。
というわけで、むしろこの博物館のメインであるところの
航空機展示をご紹介していきます。
今日は第二次世界大戦時の装備を取り上げますが、
冒頭写真のワイルドキャットは、すでに
海兵隊エース、ジョー・フォスの項でご紹介しています。

ところで、この日撮った写真にこんなのがありました。
これから新しく整備した航空機を置く場所なんだな、と思ったら、


HPにこんな写真を見つけました。
ワイルドキャットが手前にいる・・・?
屋根の下にいるのは風防の形からアベンジャーじゃないかと思うのですが。
そこであらためてHPの所有機を見たところ、
わたしがこの日現地で遭遇した航空機は、FLMの所蔵の一部で、
結構な数のウォーバードが修復中であるか
あるいは倉庫入りしているのではないかというのがわかりました。

■ ダグラスSBD−1ドーントレス
たとえばこのSBD-1ドーントレスもそうです。

このSBD-1は、1940年海兵隊に装備され、MCASミラマーにある
キャンプ・カーニーのVMSB-142に配備され、その後
イリノイ州の「五大湖海軍」にある空母適格訓練部隊(CQTU)で
USS「ウルヴァリン」 Wolverineに着陸する訓練に使われていたものです。

1942年11月23日、この機体は訓練中に墜落し、
ミシガン湖の底に沈んでしまいました。

ちなみにこの訓練基地で
ミシガン湖の藻屑になったドーントレスは全部で38機だった
ということですが、これはそのうちの1機というわけです。

湖の底で52年間魚のすみかになっていましたが、1994年引き揚げられ、
いくつかの博物館を経て、MCASミラマーのFLAMに到着しました。
この時点ではすでに大規模な修復が行われていたようです。

そして、HPを見ると、写真に写っている修復ボランティア、
ボブ・クラムジー氏が、2012年からあらためて修復を手掛けています。
もちろん代替の部品はありませんから、一から手作り。
垂直安定板、後部銃座、ドアも設計図を見て作ったそうです。

クラムジー(こんな人がClumsy=不器用のはずはありません。 Cramsieです)
氏はもともとノースロップ・グラマンの耐空システムエンジニアだとか。
そして、「修復の完成までにあと3年から5年はかかるだろう」
とおっしゃっているようですが、はて。
肝心のFLAMそのものがパンデミックのため休館しており、
再開の目処は立っていない、と書かれたっきりなのです。
ドーントレスの修復は中断されているのではないかとか、
修復のための費用も滞っているのではないかと懸念されます。

■ノースアメリカン PBJ-IJ (B-25 J)
ミッチェル(MITCHELL)
見なかったといえば、この、唯一人名のついた軍用機、
ミッチェルも、わたしが観に行ったときにはヤードにその姿はありませんでした。

このB-25J-30-NCミッチェルは、1945年6月の終戦直前に調達され、
カリフォルニア州サクラメントの陸軍航空訓練学校で使われていました。

ミッチェルというくらいなので元々は陸軍機ですが、
戦後はおそらくミッチェル本人の意思を尊重してか、空軍に配備され、
その後はいろんなオーナーを転々とし、エアタンカーや気象調査など様々な仕事に従事しました。
引退してから海兵隊が博物館展示のために引き取り、
それからここに貸し出されています。
これも今一体どこにあるのかすらHPには記載されていません。
ピッツバーグを流れる川に墜落し、底に沈んで2度と見つからなかった
B-25の話を思い出してしまった・・・。
モノンガヒラ川に飲み込まれたB-25ミッチェル

■ジェネラル・モーターズ TBM-3E Avenger
復讐者という意味を持つ「アベンジャー」はGM製とグラマン製があります。
グラマン製はTBF、ゼネラルモーターズ製はTBMと呼称していました。
アメリカ海軍および海兵隊のために開発された魚雷爆撃機で、
1942年に就役し、直後のミッドウェー海戦でデビューを飾りました。
先に製造したのはグラマン社でしたが、同社は
F6Fヘルキャット戦闘機を生産することが決まったため、
アベンジャーの生産を徐々に縮小してくことになったという事情です。

その後、ゼネラルモーターズ社のイースタン・エアクラフト部門が
生産を引き継いだので、二社バージョンがあるというわけです。

ここに展示されているのは、後期のGM製TBMとなります。

プロペラには「ハミルトン・スタンダード」のマーク入り。
ハミルトン・スタンダードは(現在はCollins Aerospace の一部)、
世界最大の航空機プロペラメーカーでした。

「ジョー・フォスコーナー」でお話しした、フォスがパイロットに憧れる
そのきっかけとなったリンドバーグの大西洋横断機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に、同社のプロペラが使用されています。

1930年代初頭には可変ピッチプロペラ、
1950年代に開発されたジェットエンジンの燃料制御。
1968年には航空機の客室圧力を制御するための自動電子システム、
ジェットエンジンのフルオーソリティデジタル電子制御(FADEC )、
その技術は1969年のアポロ11号月面着陸に遺憾なく発揮されました。
現在は世界のほとんどの航空機メーカーに、航空宇宙コンポーネントとシステムを提供し続けています。 


1944年半ばから始まったTBM-3は、パワープラントがパワーアップし、
ドロップタンクやロケット弾用の翼のハードポイントが設けられました。



アベンジャーは海兵隊の多くの飛行隊によって、
陸上はもちろんその多くが空母で運用されました。
海兵隊飛行隊で最初に戦闘に参加したアベンジャー部隊はVMSB-131で、
TBF-1を搭載してヘンダーソンフィールドに到着し、
日本軍に対して最後の大攻勢をかけるのに間に合いました。
マリーン・アベンジャーズは、1942年11月中旬のガダルカナルの海戦で
初めて大きな成果を上げることになります。
この時点でVMSB-131は、「エンタープライズ」を空母とする
VT-10(雷撃隊)とVT-8として活動していました。

11月13日、3つの飛行隊は日本の戦艦「比叡」への一連の攻撃に参加し、
発射された26本の魚雷のうち10本を命中させました。

比叡
このとき、第10雷撃隊のTBFアベンジャー雷撃機9機(隊長アル・コフィン大尉)は、左舷、右舷、艦尾に魚雷を計3本命させ戦艦を沈めたと主張しています。
また、翌日、VT-10とVMSB-131の航空機は、
重巡洋艦「衣笠」を沈めています。

衣笠

右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本が命中し、傾斜した衣笠に
SBD2機が急降下爆撃を行い、爆発炎上させます。
その後空母「エンタープライズ」のSBD16機が
とどめを刺した形になり、沈没しました。



しかし、通常海兵隊のアベンジャーが魚雷攻撃を行う例は少なく、
ほとんどが海兵隊を支援するための爆弾やロケット弾、
あるいは対潜哨戒のための爆雷ややロケット弾を使用しました。

VMSB-131がガダルカナルでデビューしてから1年後、
アベンジャー隊はブーゲンビルでの戦闘に参加し、
日本の強力な基地を無力化する働きをしました。

1944年7月、海兵隊アベンジャー部隊はマリアナ諸島での戦闘に参加し、
グアムとテニアンの航空支援、ついで194ペリリュー島への侵攻に参加。

1945年3月からはテニアンから出撃し硫黄島キャンペーンを行いました。

沖縄戦に参加したのは
USS「ブロック・アイランド」、USS「ギルバート・アイランド」、
USS「ヴェッラ・ガルフ」、USS 「ケープ・グロセスター」
4隻の空母搭載のアベンジャー部隊です。

海兵隊は朝鮮戦争でもアベンジャーを運用していました。

ここに展示してあるTBM-3E(BuNo.53726)は、
戦後の1946年6、NASサンディエゴで予備機となっていましたが、
最終的に海軍航空予備訓練部隊(NARTU)に配属されました。
1962年4月に除隊するまでいろんなところをぐるぐる回っていたようですが、
その後は民間が買い取ってエアタンカーになっていました。

その後は農薬の空中散布機を経て、1988年に海兵隊博物館に買い取られ、
1999年には現在のMCAS ミラマーに落ち着いたのです。

展示機は1945年7月に
護衛空母USS 「ケープ・グロセスター」Cape Gloucester (CVE-109)
に搭載され、沖縄戦に参加したVMBT-132のカラーで塗装されています。


■ノースアメリカン SNJ-5 テキサン Texan
昔の戦争映画には必ずと言っていいほど、
この不細工なコクピットの零戦が登場したものです。

日の丸をつけた敵さん、じゃなくてテキサンを見るたびに、
「いうほど似てるか・・・?」
と思わず心の中で突っ込んでしまうわけですが、似ているにていない以前に、たくさん製造され、
しかも練習機で機体が操縦しやすかったというのも
零戦を演じさせられた理由だったかもしれません。
あ、それから値段が滅法安く、手に入れやすかったそうです。
1935年4月1日に就航したT-6テキサン(T-6 Texan)は、
単発の高等練習機で、各国のパイロットの訓練に使用されました。
そのため、「パイロットメーカー」という名前で呼ばれることもあります。

国や機種によって様々な呼称がありますが、アメリカ以外では
「ハーバード」という呼称が最も一般的です。
USAACとUSAAFのモデルは「SNJ」の名称で呼ばれており、
アメリカ海軍のパイロットはこの名称でこの飛行機を多用しています。
その代表的なものがSNJ-4、SNJ-5、SNJ-6です。

アメリカは1950年代末までに現役から引退させましたが、
それはどこへいったかというと、我が日本だったりします。
自衛隊では空自に167機、海自に48機と1955年から供与され、
T-6という名前で呼んでいました。
すでに時代はジェット機へと移行しつつあったのに、
テキサンなんかもらってどうするん?という気もしますが、お付き合いというか、
大人の事情があったのかもしれませんしなかったかもしれません。

そのせいなのかそのせいでないのか、さすが物持ちのいい日本国自衛隊も、
数年で練習機をT-1と交代させるということになっています。
そもそも、
T-33とT-34の間にどうして中間練習機としていきなりT-6が挟まるのか?
と考えた人もいたかもしれませんしいなかったかもしれません。


航空装備ではありませんが、こんなものもありました。
説明が全くないのですが、だいたい第二次世界大戦ごろのものだと
勝手に思い込んで載せておきます。

対空マウントをしたブローニング的な?


FLAMスタッフ渾身の手作り人形搭載。



こちらはデュアルです。


対空砲士の顔、アップにしちゃう。
まつ毛とか眉毛は一本ずつ懇切丁寧に描き込まれており、
手間暇だけは膨大にかかっているのはよくわかった。


サンディエゴの夏は日差しが強く、外の展示を見て歩くのは
なかなか大変で、こういう装備になるといきなり省エネモードになり、
できるだけ最小限のシャッターで済まそうとするわたしですが、
いくらなんでも砲身くらいちゃんと撮っておけばよかったと思いました。
その後いろいろあって、もう2度とここで展示を見られられなくなった今、
一層その思いは強くなりますが、もう仕方ありません。(投げやり)

続く。



MiG-15 vs.フライング・レザーネックス(海兵隊航空隊)〜フライング・レザーネック航空博物館

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フライング・レザーネック海兵隊航空博物館の戸外展示、
第二次世界大戦期を終わって、今日は戦後から
朝鮮戦争のころの航空機をご紹介します。

■ ミコヤン・グレヴィッチ MiG-15ファゴット(Fagot)
まず冒頭写真のMiGからです。
これまでわたしが訪れた航空博物館のほぼほとんど全部に
このMiGが展示されているのには驚かされます。
その理由は、ソ連がこの機体を大量生産し、それが
アメリカに流れてきて、個人所有することができたからです。
一般人が趣味でMiGに乗ることができたんですね。
ここにあるMiG-15にはファゴット(Fagot)という
NATOによるコードネームが付けられています。
ファゴットというとフランス語のバスーン、楽器のことだと思いますが、
どの辺がファゴットなのかいまいちわかりかねます。
【MiG-15ファゴットの歴史】

MiG-15は、後退翼(Swept-wing)を持ち、超音速を実現した
世界初のジェット戦闘機のひとつです。

先日来、「第二次世界大戦の戦闘機エース」シリーズで、
その頃のソ連の航空技術が英米独に水を空けられており、そのせいで
対ソ連機戦は他国の戦闘機パイロットにとって「貯金箱」と化していたことを
あらためて如実に知ることとなったわけですが、
この屈辱的な事実に「激怒」したのがかのヨシフ・スターリンでした。

スターリンは怒りに任せて開発を推し進めるよう大号令をかけました。
まずはドイツのメッサーシュミット262を鹵獲してそれを徹底的に研究。
Me-262は世界で初めて戦闘機として成功したジェット機です。

その甲斐あって、ソ連は宿敵アメリカより先に
後退翼のジェット機の実用化に成功します。
(スターリンにはとにかくアメリカより先、というのが大事だった模様)
そうして衝撃の世界デビューをしたのが、MiG-15戦闘機でした。

1947年に初飛行したMiG-15は、緊張する超大国間の冷戦下、
高空を飛ぶ敵爆撃機を迎撃するのが主目的でした。

初期の機体にはエンジンが搭載されていませんでしたが、
わたしに言わせると当時労働党のお花畑政権だったイギリスが、
25基のロールスロイス・ニーン・ターボジェットエンジンを提供しました。
Rolls-Royce Nene
【ライバル・F35セイバー】
MiG-15は1950年から3年に亘った朝鮮戦争に投入されました。朝鮮半島上空ではF9FパンサーやF80シューティングスターなど、
連合軍機よりも明らかに勝る性能を発揮しました。
しかし、この状況に甘んじているアメリカではありません。
たちまち対抗してノースアメリカンのF-86セイバーを投入します。
F-86-F-35-NA(1955年)
頑丈に作られたセイバーは、訓練されたパイロットに操作されることで
MiG-15に勝るとも劣らない性能を発揮することができました。
MiGの搭載銃はセイバーより強力で、速度も機敏性も勝っていましたが、
セイバーは安定性と上昇性能においてMiGより優れていました。

さらに、セイバーのパイロットの能力は明らかに中国や北朝鮮よりも上でした。

ソ連は、ここで自国のパイロットがあまりにも戦闘に関与しすぎると、
米ソが正面からぶつかり合うことになり、これがひいては
第三次世界大戦の勃発につながるのではないかと恐れていたといいます。
MiG-15は失速しやすく、マッハ1以上の速度ではコントロールが難しいため、
経験の浅いパイロットには容赦がなかったのですが、
熟練したパイロットはこれを克服し能力を引き出すことができました。
朝鮮戦争でMiG-15に搭乗したのは北朝鮮、中国、ソ連のパイロットでした。
この機体の特徴は、なんと言っても軽量であることでした。
乗り手を選ぶとはいえ操縦性に極めて優れていました。

MiG-15は共産圏諸国では12,000機以上が生産され、
その他の国ではさらに6,000機までがライセンス生産されました。
派生型は44カ国以上で使用され、その多くが現在も使用されています。
どんな航空博物館にもこの機体があるのはそういう理由です。
【MiG-15の機体性能と欠点】


MiG-15の最初の目的は、冷戦下においてB-29のような
アメリカの大型爆撃機を迎撃することでした。

それを確かめるため、ソ連は鹵獲したアメリカのB-29や、
ソ連のB-29のコピー機であるツポレフTu-4との模擬空戦を行っています。

大型爆撃機を確実に破壊するために、MiG-15は23ミリ×2基(80発)、
37ミリ×1基(40発)の自動砲を搭載し、確かに迎撃戦では絶大な威力を発揮したのですが、発射速度が限られていたため、
空対空戦で小型で機動性の高いジェット戦闘機に命中させるのは困難でした。
そして弾道の点でいうと、23ミリと37ミリでは軌跡が大きく異なります。
朝鮮戦争でMiG-15と対戦した国連軍のパイロットは、23ミリの砲弾が
自分の上を通過し、37ミリが下を通過するという体験をしています。
砲はシンプルなパックに収められ、整備や再装填のためには
機首下部からウインチで取り出せるようになっており、
あらかじめ用意されたパックを素早く交換することができました。

超音速で急降下するのに十分なパワーを持っていたのですが
"オールフライング "テール(尾翼)がないため、
マッハ1に近づくと操縦性(パイロットの関与できる)は大きく損なわれた、
とここの説明にはあります。

「All Flying Tale」とは、水平尾翼全体を動かす事によって
エレベーターとしての機能を持つ舵のことです。
スタビレーター(安定の意)ともいいますが、

これはスタビレーターじゃないのかしら
まあとにかくそういうことだったので、パイロットは、
操舵が効かなくなるマッハ0.92を超えずに操縦していました。
ってことは音速突破してなかったってことですわね。

もう一つ厄介なことは、MiG-15は失速するとスピンする傾向があり、
いったんそうなるとパイロットはリカバーできなくなる傾向がありました。

後のMiG(19以降)からはオールフライングテールが装備されていますが、
とりあえず改良を施したのMiG-15bis(セカンド)は、
RD-45/Neneの改良型であるクリモフVK-1エンジンを搭載し、
細かい改良やアップグレードを加えて1950年初頭に早くも就役しました。
目に見える違いとしては、エアインテーク・セパレーターに
ヘッドライトが設置されていたことと、
大型の一枚板の長方形のスピードブレーキが採用されていたことです。

ところで、ここに展示されているのも実はMiG-15bisです。
よくよく見ると、これにもスピードブレーキが付いていました。


本機は朝鮮戦争の戦闘で損傷したのち中国で修理され、
J-1と改称されて中国空軍が運用していたようですが、
1988年に北京の中国航空博物館から譲り受け、
1992年までロスアンジェルスのチノ空港に保管されていました。

■ 海兵隊パイロットvs. MiG-15
当海兵隊航空博物館には、やはり海兵隊パイロットと
MiG−15の対戦についての記述がありますので紹介しておきます。

【ジョン・ボルト大尉 Capt. John Flanklin Bolt】
”2WAR ACE"(二つの戦争のエース)

ジョン・ボルト海兵隊中佐(1921– 2004)は、
第二次世界大戦と朝鮮戦争、二つの戦争でエースの地位を獲得した
唯一の米海兵隊員であり、唯一の海兵隊のジェット戦闘機のエースです。


貧しい家庭に生まれ、経済的理由でフロリダ大学を中退した後、
米海軍に加わり、海兵隊のパイロットとして訓練を受けました。

彼は第二次世界大戦の太平洋戦線において、F4Uコルセアに乗り、
A6M零戦に対して6回の勝利を収めました。
コルセアを装備したVMF-214「ブラックシープ」では、彼は
海兵隊エース、パピー・ボイントン少佐の指揮の下飛行しています。
その後ボイントンが撃墜され日本軍の捕虜になってから、
飛行隊の指揮を彼に代わって務めています。

1943年、太平洋戦線にて

朝鮮戦争が始まると、空軍(USAF)との交換プログラムを通じて戦闘に参加し、
いわゆる「MiGの小径(alley)」と言われた北朝鮮国境で
F-86セイバーで中国軍のMiG-15と対戦、ここでも6勝を挙げました。

写真のF-86セイバージェットの側面に
「ダーリン・ドッティ」という言葉がペイントされていますが、
ドッティは彼が第二次世界大戦中結婚した愛妻、ドロシーの愛称です。

戦後、彼は中断していた法律の勉強を継続し、
40歳になってから息子と同じフロリダ大学に通い、博士号を取得、
残りの人生を弁護士として地域に貢献することで全うしました。
彼は、二つの戦争でエースとなった空軍以外の唯一のパイロットで、
同じタイトルを持つ7名のパイロットの最後の生き残りとして
2004年、83歳の生涯を閉じました。
【ジョン・H・グレン大佐 John Herschel Glenn Jr.】”MiG MAD MARINE"

この写真を見て、「ライトスタッフ」でジョン・グレンを演じた
エド・ハリスって、なんて適役だったんだろうとため息をつきました。
「マーキュリーセブン」の一人、77歳でディスカバリー号に乗った男、
と宇宙飛行士としての人生があまりに有名ですが、
実はジョン・グレン、海軍を経て海兵隊航空隊に入り、
ボルトと同じくマーシャル諸島ではF4Uコルセアで
日本軍に対して対地攻撃などを行なっておりました。

朝鮮戦争でボルトはセイバーの前にバンシーに乗っていたそうですが、
グレンが最初に乗っていたのはパンサーです。

これもボルトと同じく、空軍との人材交流プログラムで
F35セイバー戦闘機に乗って朝鮮戦争に参加し、
ここで彼は3機のMiG-15を撃墜しています。


このときについた彼の渾名は「MiG MAD MARINE」。
日本語での言い換えは難しいですが、
「ミグ退治専門マリーン」「ミグバスターマリーン」みたいな?
彼はジェット機でエースになることを目指していましたが、
戦争が1953年7月25日、突如終了し、それは叶いませんでした。

【ジェス・フォルマー大尉 Jesse Gregory Folmar】"プロペラ機でジェット機を撃墜した男”

ジェシー・グレゴリー・フォルマー(1920-2004)
は、太平洋での戦闘においても、朝鮮戦争でも、
(空母USS Sicily (CVE-118)艦載部隊として)
F4Uコルセアの航空部隊に所属していました。

彼はプロペラ機パイロットとして初めて、
ジェット機MiG-15を撃墜した功績でシルバースターを授与されています。

1952年9月10日、この日USS「シシリー」でのブリーフィングでは、
この地域に出没するMiGについて話し合われましたが、
そもそもコルセアがMiG-15に勝てるとはだれも思っていないので、
MiGが攻撃してきたら正面から向きを変えて、
とにかく撃ちまくる、ということになりました。

その日、フォルマーと僚機のダニエルズ大尉は、8機のMiG-15に遭遇しました。
攻撃してきたMiGに対し、彼は計画通り隊長機に向かい、
正面からコルセアに搭載された4門の20ミリ砲を撃ちまくったところ、
なんとそれは命中して機体を破壊せしめたのです。

想像図

しかし、彼が勝利を味わったのも束の間でした。
彼のコルセアはMiGに撃墜され、彼はパラシュートで脱出して、
水上機に拾われ、命を助けられたのでした。
想像図その2

このときの撃墜の功績により、彼は殊勲飛行十字章を授与されました。

 続く。



朝鮮戦争の戦闘機バンシーとスカイナイト〜フライング・レザーネック航空博物館

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さて、前回朝鮮戦争時に彗星のように現れた
ソ連の戦闘機、MiG-15についてお話しするとともに、
そのMiGと対戦した海兵隊航空隊のエースをご紹介しました。
紹介した3人のエースはともに第二次世界大戦のベテランで、
(一人はエースではないけれどプロペラ機でMiGを撃墜する、
という大金星を挙げたパイロットだったわけですが)、
前者2名はいずれもF35セイバーで撃墜記録を立てました。
今日ご紹介するのは、「前セイバー」というべき、
「いうてはなんだがMiGに苦戦した戦闘機」のご紹介です。
■マクドネル F2H2 バンシー Banshee

以前、「バンシー」を単に妖精の意味であるとだけ書いたことがありますが、
妖精と言ってもその辺をふわふわしている可愛いものではなく、
どちらかというと「もののけ」というか「妖怪」だったことがわかりました。

バンシー(Banshee)はアイルランドおよびスコットランドに伝わる
伝説上の生き物で、その叫び声が聞こえた家では
近いうちに死者が出るとされています。
その叫びは凄まじく、目はこれから死ぬ者のために泣くので
燃えるような赤色をしているとか・・・。


第二次世界大戦中、イギリス国民は、ロンドン空襲を知らせるサイレンを
「バンシーの叫び」と呼んでいました。
ここにあるバンシーの機体は真っ黒に塗装されていますが、
「敵の死を知らせるために叫ぶ」魔女のイメージそのものです。
【バンシーの歴史】
マクドネルF2Hバンシーは、1948年から1961年まで
アメリカ海軍と海兵隊で使用された単座の空母型ジェット戦闘機です。
朝鮮戦争ではアメリカ軍の主要な戦闘機の一つでした。
高高度で高性能を発揮したため、当初はアメリカ空軍が
長距離爆撃機隊の護衛機として運用していました。
しかし、戦争が進むにつれ、海軍と海兵隊の戦闘機の任務は、
近接航空支援や北朝鮮軍の補給線の破壊など、
主に地上攻撃が中心となっていきます。

バンシーは、FHファントムの発展型ですが、
ファントムが生産される前から計画されていました。


FH-1
こうしてみると、派生型であることがよくわかりますね。

マクドネル社の技術者たちは当初、ファントムを改良して
多くの部品を共有するという予定をしていたのですが、
武装も燃料タンクもより大きなものである必要があるのに気づきます。
そこでバンシーはファントムより機体を大型にしました。
ところで、バンシーがMiG−15に劣っていた点はなんだったしょうか。

バンシーのような朝鮮戦争当時の海軍のジェット機は、
後のジェット機とは対照的に主翼がまっすぐでした。


ジェット機をより高速に飛ばすためには、翼を広げればいいのですが、
そうすると空母への着艦が困難になってしまいます。

海軍は当初翼端を折る形のジェット機の使用に抵抗を持っていたため、機体を大型にしたのに翼を大きくすることができないバンシーは
どうしてもMiG-15などの先進的な戦闘機に対して不利だったというわけです。
【偵察機としての活躍】
しかし、バンシーは決して”役立たず”だったわけではありません。
戦争が始まってすぐ英米空軍が航空優勢となったこともあって、
海軍の戦闘機がいるところまで滅多にMiGは来なかったからです。
ガチンコでMiGと交戦すればおそらく勝てなかったと思われますが、
前線にはすでにF35セイバーが投入されて戦闘空中哨戒を担っていたので、
バンシーはその高速性能を生かして偵察機として活躍しました。
特に高空を飛ぶと地上から視認されにくい形をしていたこともあります。
1949年から1952年にかけて、海兵隊では2つの飛行隊がF2H-2を飛行させ、
J-1バンシーは最高の写真偵察機という称号を得ました。

バンシーの偵察隊は「抵抗線」から中国国境の鴨緑江まで飛び、撮影した写真の総数は、極東空軍のどの偵察部隊よりも多かったと言われます。

バンシーは通常はF-86戦闘機に護衛されて飛んでいましたが、
Mig-15と交戦することがなかったわけではありません。

しかし、朝鮮戦争期間の撃墜及び戦闘喪失記録はなく、
わずかに対空砲で3機が撃墜されただけとされます。

VMJ-1の有名な下士官パイロットの一人、MSGT. エド・チェスナットは
こんなことを言っていたそうです。
「もちろんさ、F2HはMigに勝つことができるよ。
リベットがいくつか飛んでいくのを気にせず急降下しさえすればね!」
これは・・・(勝てるとは言ってない)

朝鮮戦争後、第二次世界大戦のエースであるあのマリオン・カール中佐が
VMJ-1のバンシー隊の司令官に就任しました。
そして、中国上空での写真撮影任務において功績を挙げ、
飛行隊と自らの名声を高めました。


偉くなってからのマリオン・カール(最終少将)

【バンシー時代の終焉】

バンシーの後継はF9Fパンサーと同じくF9Fクーガーであるとされています。
時期的にはどっこいどっこいですが。

第二次世界大戦時にF-4Uコルセアを使用したVMF-114とVMF-533は
1953年にF2H-4バンシーでジェット時代に突入しました。

両飛行隊はMCASチェリーポイント海兵隊基地を拠点とし、
1957年にF9Fクーガーに移行するまでいくつかの空母に搭載されました。
しかし、VMF-214は1953年にF9Fパンサーを
新しいF2H-4バンシーと交換しています。

その後の15ヶ月間、部隊通称「ブラックシープ黒い羊」は、
計器飛行、爆撃、ロケット弾、機銃掃射、空対空砲術、空母着陸訓練、
空母の資格取得、高・低空での特殊武器投下など、
海兵隊航空のあらゆる側面をカバーし、
海兵隊で初めて特殊武器投下の資格を取得した飛行隊となりました。

そして1957年2月、「黒い羊」はFJ-4フューリーに移行しました。
ところでこの「特殊武器スペシャルウェポンのデリバリーとドロップ」の資格
これはなんなのでしょうか。
バンシーは小さすぎる気がするのですが・・やっぱり核ですか?


展示されているバンシーは、1951年にアメリカ海軍に納入されました。
1954年2月には、第1空母グループとともに
USS「ミッドウェイ」(CVA-41)に搭載されて
世界一周クルーズに出撃ししています。
1959年には、エンジンの研究開発のため、カンザスシティの
ウェスチングハウス・アビエーション・ガスタービン部門に貸与されました。



1961年に1,704時間の飛行時間で引退したこの機体は、
VMF-122の「キャンディ・ストライパーズ」のマーキングが施されています。

■ ダグラスエアクラフト F3D スカイナイト Skyknight


真っ黒な艶消しの機体、赤で書かれた機体番号。

さきほど、だいたい同世代の朝鮮戦争参加機、バンシーを取り上げましたが、
「奇声をあげるとその家の誰かが死ぬ」という、
一体なんのために生きているかわからない妖怪バンシーの
「目が赤い」という特徴を表しているのは、
バンシーよりこちらではないかと思いました。
ただし、黒い機体はスカイナイトの標準仕様ではありません。

これが標準仕様スカイナイト。
ダグラス・スカイナイトの風貌は決してグラマラスとは言えず、
どちらかというとありきたりのデザインで、性能も平凡でした。

この飛行中の写真を見ても、あまり魅力のあるシェイプとは言い難いですね。
しかし、このスカイナイトの設計者の名前を聞けば、
この平凡さにも、なんらかの意味があるのではないか、と
おそらく誰しも思うに違いありません。

その名はエド・ハイネマン。

今更いうまでもなく同時代の航空設計のトップであり、
第二次世界大戦中のダグラス・ドーントレスや、A-4スカイホークを生み、
1953年にはF4Dスカイレイでコリアートロフィーを受賞した鬼才です。
ハイネマンがスカイナイトの設計思想に込めたのは、
「スポーツカーではなくセダン」。

そしてそれは当時の海軍が必要していたものであり、
ハイネマンはまさに彼らが望んでいたものを形にし提供したのでした。



驚くべきことに、スカイナイトは20年もの間、
より速く、より軽快な同時代の戦闘機を簡単に凌駕し続けました。
スカイナイトはアメリカ海軍・海兵隊初の全天候型ジェット戦闘機です。
海軍は1945年にはジェットエンジンを搭載した
空母ベースの夜間戦闘機の研究を開始していました。

1946年には企画となり、そして1948年には試作機が飛び、
1950年には運用が開始されて20年間主力であり続けました。

「Willy the Whale (鯨のウィリー)」

これがスカイナイトのニックネームです。
鯨のウィリーとは、ディズニーのキャラクターで、
ミッキーマウスなどが登場するテレビ番組に
オペラ歌手という設定で出てくる脇役なんだそうです。


ディズニーなので一応目隠ししておいた
これですが・・・パイロットなら膝を打って納得するような
類似点がきっとあるのに違いありません。
【朝鮮戦争でのF3D スカイナイト】
1950年に朝鮮戦争が始まるとさっそく投入されたスカイナイトは、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊VMF(N)-513のパイロットや、
レーダーオペレーターなどの有能な乗り手によって、その価値を証明しました。

複座式のF3Dは、朝鮮戦争に参加した全天候型ジェット戦闘機としては
海軍の他の単座式戦闘機より多い空中戦勝利数を記録しています。

最初の空対空勝利は1952年11月2日の夜。
ウィリアム・T・ストラットンJr.少佐とレーダーオペレーターの
ハンス・C・ホグリンド曹長が操縦するF3D-2が、
Yakovlev社のYak-15と思われる機体を撃墜し、
ジェット機による初の夜間レーダー迎撃に成功しています。

最初にMiG-15に勝利したのはその6日後の11月8日、
O.R.デイビス大尉とD.F. フェスラー軍曹のスカイナイトです。


デイビス大尉

当初12機投入されたスカイナイトは1953年には倍に増え、
夜間爆撃任務のB-29スーパーフォートレスの護衛が可能になりました。

B-29の護衛任務で交戦した敵機を相手に
スカイナイトは順調に勝利数を伸ばしていきます。

MiG-15のような後退翼も、高い亜音速性能も持ちませんでしたが、
強力な火器管制システムがあったため、夜間の戦闘は地上のレーダーに誘導を頼るしかなかったほとんどのMiGより有利でした。

【ポスト朝鮮戦争】

朝鮮戦争が終わると、ダグラス・エアクラフト社は
海軍や海兵隊と協力して、多くのスカイナイトを多機能に改造していきます。

スカイナイトは機体三箇所に独立したレーダーを備えていました。
機首に設置されたサーチレーダーと追跡レーダー、
そして後部胴体に設置された尾翼警告レーダーです。
スカイナイトの胴体が「鯨のウィリー」呼ばわりされるほど広くて
深かった(つまりデブっぽい)のは、初期に搭載された
真空管レーダーが大きかったからであり、複座の乗員の座席位置も
エンジンの位置(胴体下部の外側)もそれで決まったようなものです。

索敵レーダーは1950年代初頭としては驚くほど効果的で、
爆撃機サイズの目標を20マイル(32キロ)先から、
戦闘機サイズなら15マイル(24キロ)先の存在を捉えることができました。

追跡レーダーは3600kmの距離でロックオンし、
スカイナイトを発射位置まで誘導することができます。
尾翼警告レーダーは、約6キロ後ろに迫った攻撃機を検知することができ、
乗組員に十分な反応時間を与えることができました。
スカイナイトの脱出システムは非常にユニークなものでした。
ハイネマンはパワー不足の機体を軽量化するため、
射出座席を廃止して座席の後ろから滑り出すシステムを作りました。
朝鮮戦争でのスカイナイトの戦績は8勝0敗であり、
護衛した空軍のB-29は1機も失われませんでした。
喪失機は2機ですが、原因はいずれも不明とされます。
【ベトナム戦争】
スカイナイトは朝鮮戦争で活躍した戦闘機の中で唯一、
ベトナム戦争でも飛行しました。
広い機内に電子機器を搭載するための十分なスペースが確保されていたため、
改造された6機のEF-10Bが電子戦に投入されたのです。

電子戦機(EW)スカイナイトはSA-2地対空ミサイル(SAM)の
追跡・誘導システムを妨害するための貴重な電子対策(ECM)武器でした。

電子戦でスカイナイトが歴史に名を刻んだ瞬間があります。
1965年4月29日、EF-10Bは米空軍の攻撃任務を支援するために
海兵隊初の空中レーダー妨害任務を遂行し、成功しました。


ベトナムでは多くの米軍機がソ連の高高度ミサイルSA-2によって失われており、
これらのレーダーシステムへの電子攻撃は
「フォグバウンド」(濃霧で立ち往生すること)ミッションと言われていました。
EF-10Bスカイナイトが最初に喪失したのもこのミサイルの攻撃です。
その後4機のEF-10Bが事故などで失われたのをきっかけに、
次第にその任務は、EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」に
徐々に引き継がれていき、
米海兵隊は1970年5月に最後のEF-10Bを退役させました。


【ベトナム後】

しかし、海軍は引き続きF-10スカイナイトを
APQ-72レーダーを開発するためのテストベッドとして使用していました。

F-4ファントムの機首を追加したり、スカイホークの機首をくっつけたり、
レドームを改造したりしていたようです。


【FLAMのF3D-2スカイナイト】
ダグラス・エアクラフトのエル・セグンド工場で製造された
36機目のF3D-2で、1952年3月に海軍に引き渡され、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊542(VMF(N)-542)に2年間所属し、
パイロットやレーダーオペレーターの訓練に使用されていました。
その後米海軍の航空機乗組員の夜間訓練隊、北米防空司令部(NORAD)、
海軍戦闘情報センター士官学校の訓練機などを転々と。

カリフォルニア州チャイナレイクの研究開発試験評価ユニットでは
A-4Eの機首がボルトで取り付けられていたそうです。

その後レイセオン社とアメリカ陸軍に貸与されて
パトリオットミサイルのテストのサポート機が最後の職場となりました。


ところでスカイナイトの傍には、爆弾を利用した
このような構造物がひっそりとたたずんでいました。

この役割は「展示に登らないように」という注意札の置き場所。
それだけのためにわざわざ砲弾をぶつ切りに・・・。


続く。

パンサーとクーガー MiG-15との戦いを経て〜フライングレザーネック航空博物館

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フライングレザーネック航空博物館の航空機展示より、
今日は、朝鮮戦争でMiG−15と戦ったパンサーと、
そのパンサーの教訓を生かして設計されたのに、
結局あまり脚光があたることのなかった、
「不遇戦闘機」クーガー(の写真偵察バージョン)をご紹介します。

■グラマン F9F-2 パンサーPanther


パンサーは、海軍初の空母艦載用ジェット戦闘機として成功した機体の一つです。
バンシーは朝鮮戦争で重要な役割を果たしましたが、
それでも実績においてパンサーには及びませんでした。

海軍と海兵隊で最も広く使用されたジェット戦闘機で、
朝鮮戦争では78,000回以上の出撃を行いました。

グラマンという会社は傾向として新技術に慎重な姿勢であったため、
航空機メーカーの中でいちばん最後にジェット機製作に突入しましたが、
後発なりの調査が生きたというところかもしれません。

F9Fのエンジンには、イギリスのロールス・ロイス社製の
遠心流動式ターボジェットエンジン「ニーン」が採用されました。
これは奇しくも同時代の敵、MiG−15(クリモフVK-1ターボジェット搭載)
が積んでいる動力と同じものでした。

このため両機の胴体後部の形状は大変似ているといいますが、


ご参考までに。
ニューヨークのエンパイアステート航空博物館に行った時撮った
MiG−15の後ろ姿です。
この角度からだと、そんなに似てるかな?って感じですが。

しかし、グラマン社は、新しいエンジンを導入すると、
機体の開発プロセスが複雑になるのでこれを嫌がりましたし、さらに米国議会は、生産機用に外国製エンジンを輸入してはならないと定めていたため、
海軍はプラット・アンド・ホイットニー社に、
米国内でニーンエンジンを生産するライセンスを取得させました。


1950年12月7日に朝鮮半島に到着したVMF-311は、
海兵隊のジェット戦闘機の中で最初に戦闘に使用された陸上機であり、
地上の海兵隊や兵士のために近接航空支援を行いました。
1952年6月下旬には、スイホー・ダムの攻撃に参加しました。
(『ダムバスターズ』ですねわかります)

この時代の伝説的なパイロットには、前回ご紹介した
後の宇宙飛行士ジョン・グレン上院議員のほかに、
野球選手のテッド・ウィリアムズなどがいます。
【テッド・ウィリアムズ】

海軍予備軍に入隊したテッド・ウィリアムズは、1944年
海軍飛行士としてアメリカ海兵隊の少尉に任命され、
民間人パイロット養成コースを受けたあと、
予備軍に籍を置いたままボストン・レッドソックスでプレーしていましたが、
朝鮮戦争が始まると召集されました。

ウィリアムズにはパイロットとしての才能があったようで、
訓練では大卒の士官候補生が1時間かかる複雑な問題を15分でマスターし、
空中射撃では標的を文字通りズタズタにするほどの腕前だったといいます。

戦闘機パイロットの能力を競い合うテストでは、
反射神経、協調性、視覚反応時間、すべての歴代記録を更新し、
その操縦技術は、さながら芸術のごとし。

同期のパイロット曰く、
「飛行機と6つのキイ(機関銃)を交響楽団のように演奏することができた」

ちょっとよく意味が分からないのですが、おそらく彼は
交響楽団の指揮者のように、と言いたかったのではないかと思われます。

WW2でF4Uコルセアに乗っていた彼は、朝鮮戦争が始まると
海兵隊大尉として現役に呼び戻されました。

戦場に出なくてすむように、野球選手として従軍野球チームのメンバーに入り、
(広報の意味があるので猶予された)そこで快適に戦争をやり過ごす、
という道もあったのですが、彼は再び自分の意思で航空任務に就きました。
といっても、決して喜び勇んで出征したわけではなく、
むしろ招集されたことに怒りを表明していたという話もあります。
ウィリアムズは1952年からF9Fパンサージェット戦闘機の資格を取り、
海兵隊航空機グループ33(MAG-33)のVMF-311に配属されました。

1953年、ジョン・グレンのウィングマンとして飛行していたウィリアムズは、
機体に対空砲火を受け、胴体着陸をして辛くも生還し、
負傷をしたのでそれをきっかけに退役して球界に復帰しました。

ジョン・娘、アニー・グレン

ちなみにジョン・グレンはウィングマンとしてのウィリアムズを
自分が知っている中で最高のパイロットの一人だった、と評しましたが、
グレンの妻のアニーは彼を、
これまでに会った中で最も不敬な男
と言ったそうです。

何をやったウィリアムズ。


2002年ボストン・レッドソックスのホームグラウンド、
フェンウェイ球場で行なわれた
「テッド・ウィリアムズ・トリビュートデー」の写真。
球場には彼のパイロット時代のコクピットの写真が飾られています。
朝鮮戦争で兵役に行っていなければ、野球選手としての記録を
もっとのばすこともできたと思われますし、先ほども書いたように
招集されたことにも怒りすら表明していた、
というウィリアムズですが、そこは彼の、

「かくすれば斯くなるものと知りながら やむに止まれぬヤンキー魂」
のなせるわざだったのかもしれません。しらんけど。
他にパンサージェットに乗った野球選手としては、
ヤンキースの二塁手だったジェリー・コールマンがいます。

ジェリー・コールマン ブロンズ像(ぺトコパーク ロスアンジェルス)

【FLAMのパンサー】

1949年、VMF-115は海兵隊で初めてグラマンF9F-2パンサージェット機を装備し、1952年2月には韓国の浦項に派遣され、戦闘活動を行いました。

9,250回の出撃で合計15,350時間の飛行時間を記録し、19機の航空機を喪失。
1日に6人のパイロットが機体とともに失われ、
合計14人のパイロットが戦死したこともあります。


VMF-115「シルバーイーグル」飛行隊の編隊飛行
展示されているF9F-2パンサーは、1950年アメリカ海軍に納入後、
空母「ボクサー」USS Boxer, CV/CVA/CVS-21の艦載機部隊に配属され、
朝鮮半島の空で活躍しました。

この機体は、フライング・レザーネック航空博物館の設立にも貢献した、
西海兵隊航空隊司令官のウィリアム・ブルーマー准将が大尉時代搭乗したVMF-311の機体塗装が施されています。

■ グラマン F9F-8P ( RF-9J) クーガ Cougar



【パンサーの派生型】

グラマンF9F/F-8クーガーは、アメリカ海軍と海兵隊のために開発された
空母艦上専用の戦闘機です。
MiG-15がまだ世に出る前から、アメリカは
ソ連が後退翼機を開発したという情報を耳にしていました。
しかし、前にも書きましたが、海軍は後退翼の導入に消極的でした。
この理由はいくつかありますが、まず海軍の主眼だったのが
迎撃機による高速・高高度爆撃機からの戦闘群の防衛と、
あらゆる天候下での中距離空母艦載機の護衛だったからで、
1、空対空戦闘には関心を持っていなかったこと、
2、空母という狭い場所での発着艦を行うためには、
どうしても制御の点で直線翼の方が理にかなっていたからです。

しかし、直翼を持つF9Fパンサーは、いざ実戦に投入されると、
MiG-15や空軍のF-86など、後退翼を持つ戦闘機に比べると
性能的にイマイチということが顕になりました。
F9FパンサーがMiG-15を撃墜したことももちろんありましたが、
基本的に旋回翼を備えたMiG-15の高速機動性には及ばなかったというわけです。
そこで海軍としては、代々頑丈で扱いやすいことで定評があった
ワイルドキャットに始まるグラマンの猫戦闘機である
パンサーに後退翼さえつければなんとかなるはず、と考えたのでした。
グラマンは海軍の要求に応えるために、
1、フラップを大きくする
2、自動の高揚力装置(スラット)をつける
3、主翼の上面にブレーキ(スポイラー)をつける

ことで推力とそのコントロールを可能にしました。
急降下において音速を破ることもこれで可能になったのです。
ちなみに、パンサーとクーガーの設計図を並べて比較しておきます。






つまりクーガーはMiG-15との戦いの経験を経て生まれたのです。

戦争というものが良くも悪くも、科学技術の”実験場”であり発展のきっかけである、
ということをよく表している例ですね。
「クーガー」という異なる正式名称がつけられたものの、
海軍はこれを「パンサーのアップデート版」つまり同じ機種とみなしていました。



【運用】
関係各位の努力の結果、クーガーは、パンサーよりも高い機動性を備え、
操縦しやすい戦闘機として評価されました。
しかし残念なことに、クーガーは朝鮮戦争で使用されるには遅すぎました。

結局MiG-15と交戦する「実験」はなされないまま戦争が終わり、クルセーダーやスカイホークのようなより速くて新しい戦闘機が出てくると、
一線を知らぬまま自動的に陳腐化の運命を辿ったのです。

というわけで、クーガーはベトナム戦争ではほぼ出番なし。唯一戦闘に参加したクーガーは、TF-9J練習機で、
空爆の高速前方航空管制と空挺指揮を行なった1機に止まります。
先代のフォトパンサーを受け継ぐ形で
写真偵察機に改造されたクーガーもいましたが、4年ほど運用したのち
1958年から超音速のF8U-1Pフォトクルセイダーに置き換えられ、
最後のF9F-8Pは1961年初めに退役しました。
【飛行特性】

F9FクーガーとノースアメリカンFJ-3フューリーの両方に搭乗した
パイロット、コーキー・メイヤー(Corky Meyer)は、後者に比べて
クーガーは急降下速度限界が高く(マッハ1.2対マッハ1)、
操縦限界も7.5g(対6g)と高く、耐久性も高いと述べています。
もっともフューリーもエンジントラブルが多く、
そう評判のいい機体というわけではなかったのですが、
クーガーはそれより配備期間も短く短命でした。

直接の原因としては、F9Fクーガーはなまじ多用途でなんでもできたため、
専門の戦闘機に比べて選択を避けられがちだったことがあります。器用貧乏とでもいうのか、なんでもできることがアダになったんですね。

つまり、クーガーは戦闘機として致命的な欠点があったというよりも、
ただひたすらタイミングの問題で、A4D-1スカイホークなどの
新型ジェット機に取って代られる過渡期に全盛期を迎えてしまったのです。
戦闘機にもデビューのタイミングが悪く、日の目を見ない不運があるとすれば、
それはまさにクーガーそのものの運命でした。


というわけで、実際の配備についても書いておくと、最初のF9F-6は、
1952年末に艦隊飛行隊VF-32に配属されました。
実際に配備された最初のF9Fクーガー飛行隊はVF-24で、
1953年8月にUSS「ヨークタウン」に配属されたものの、
朝鮮半島での空戦に参加するには遅すぎたというわけです。


F9F-8は1958年から59年にかけて第一線から退き、
F11FタイガーやF8Uクルセイダーにその座を明け渡した後は
1960年代半ばまで海軍予備軍が使用していました。

【大陸横断速度記録】

しかし、クーガーの能力を示すこんな記録もあります。
アメリカ海軍は1954年、F9Fクーガーで大陸横断記録を樹立しているのです。

艦隊戦闘機隊の3人のパイロットが23,924kmの飛行を4時間以内に終え、
F・ブレイディ中佐が3時間45分30秒の最速タイムを記録しました。

この距離を4時間以内で飛行したのは航空史上初めてのことです。
3機のF9F-6はカンザス州上空で、
ノースアメリカンAJサベージから空中給油を行いました。


【ブルーエンジェルス】

アメリカ海軍の飛行デモンストレーションチームであるブルーエンジェルズは、
1953年、使用機をF9F-5パンサーからクーガーに入れ替えていますが、
これは4年しか続きませんでした。(理由はわかりません)
海軍はその後クーガーを決して航空ショーに使用することなく、
艦載機としてのみ使用することになりました。
ブルーエンジェルスは結局グラマンF11F-1タイガーを選択し、
2人乗りのF9F-8Tが1機、報道関係者やVIP用になっていたということです。


【アルゼンチン海軍】

F9Fクーガーを使用した唯一の外国空軍は、アルゼンチン海軍航空隊で、
1971年まで現役で運用していたようです。
その結果クーガーはアルゼンチンで初めて音速を破ったジェット機になりました。

1機は今もアルゼンチンの海軍航空博物館に展示されていますが、
もう1機はアメリカの個人に売却され、
その後、事故で失われてしまったということです。

【FLAMのクーガー】
FLAMに展示されているF9F-8Pクーガー(案内にはパンサーと書かれている)は、
1950年代に生産された110機の写真偵察機のうちの1機でです。

砲や関連機器を廃止し、写真機器や自動操縦装置を搭載るなど、
3つのカメラステーション用のスペースを確保するため、
一般的なクーガーより機首が長くなっています。
ほとんどの標準的な海軍の写真偵察機は、
最大7台のカメラを設置した三つのベイを持っていました。
自動カメラ制御システム、画像モーション補正システム、
自動速度と高度情報用の移動グリッドを備えた
ビューファインダースキャナも内蔵されています。
これらのシステムを使用すると、昼夜を問わずフォトクーガーは
偵察やマッピングを行うことができました。
低高度、中高度、高高度つまり全ての高度における写真偵察が可です。
1960年に寿命を迎え、偵察機は当館でも展示されている
クルセイダーF8U-1P(RF-8)に置き換えられました。
当機は、1956に海兵隊に納入されたそうですが、
我々日本人にはちょっと興味深いことに、その後
海兵隊複合偵察飛行隊3(VMCJ-3)に配備されたため、
その耐用年数が切れるまでMARS岩国で過ごしていたそうです。

1959年、飛行時間1,196時間が経過した後、
NASアラメダの海軍兵器局に保管され、翌年退役しました。
続く。



T-34B メンター「師と仰ぐ訓練機」〜フライングレザーネック航空博物館

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サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館の航空展示、
朝鮮戦争でMiG−15と戦った、あるいは戦うために作られた戦闘機と、
そのMiG−15をご紹介してきました。
時代の流れに則するとなると、次はポスト朝鮮戦争と
冷戦時代ベトナム戦争までの期間になります。
■ ビーチクラフトT-34B メンターMentor


暑い夏のサンディエゴ、カンカン照りの展示場。
しかも平日にこんなところを見て歩く酔狂な人間はわたしだけだろうと思ったら、
ひとりの男性がヤードを歩いているのに遭遇しました。
こんなところに一人で来て、それもちゃんと一つ一つ説明を読みながら
くまなく飛行機を見て歩いている人ってなんなんだろう。
単なる趣味なのか、元関係者か、それとも・・・。

ときっと向こうもわたしを見てそう思っていたに違いありません。

あとは、わたしとその男性ほど長時間ではなく、
一瞬写真を撮るためのようでしたが、
ごらんのようなヒスパニック系の家族がいました。
遠目には赤ん坊はもちろんのこと、この年かさの方の男の子が
飛行機を見て喜んでいるようには見えなかったのですが、
まあ、親というのは、子供の興味を惹きそうなものならなんでも、
とりあえず見せておいてやらねば気が済まない生き物ですのでね。
そんな彼らがバックに撮っているのはその名もメンター。
アメリカのドラマを見ていると、「師匠」「指導者」、あるいは
お手本にしている人という意味でメンターという言葉がよく出てきます。

このメンターは練習機で、パイロットにとっての
「良き指導者」という意味がこめられています。

T-34は、ビーチ・エアクラフトのウォルター・ビーチが考案しました。
練習機として国防予算の対象となっていなかった時代、
ビーチクラフトは「ボナンザ」という民間タイプをすでに運行していました。

当時、米軍は陸海空全軍でノースアメリカンT-6/SNJテキサンを
練習機にしていましたが、安くて使いやすかったテキサンに代わる
経済的な代替機として候補のひとつに上がったのがビーチクラフト・モデル45だったのです。
【軍用練習機として】

ボナンザを参考にしたとはいえ、軍用バージョンは民間用と大きく違います。
ループ、ダイブ、ストールといった軍の訓練に必要なストレスに耐えるよう、
本機は特別に構造設計され、そのための空力特性が考慮されました。
テキサンの代替として候補になった後二つの機種は、
テムコ・エアクラフト テムコ・プリーブ(Temco)Plebe

ノースアメリカン/ライアン・エアロノーティカル/タスコ
ライアン・ナヴィオン(Ryan Navion)

(USS「レイテ」上のナヴィオン 1950年)
ナヴィオンは制式採用にはなりませんでしたが、
それなりに軍に納入する実績を挙げました。

ちなみに、戦争が終わったとき、ナヴィオンの会社は
戦地に行ったパイロットが帰国して、平和な飛行を楽しむために
小型飛行機を買ってくれるからうちの製品も売れるに違いない、
ととらぬ狸の皮算用をしていた節がありますが、
戦後の民間航空ブームは、メーカーが想定していたほどには起こりませんでした。


とはいえナヴィオンは1948年の初飛行に始まり、現在もアクティブです。
2020年になっても生産が続いており、素材や性能をアップデートしながら
新しい機種を生産し続けているのです。

そしてそれは誰にでも簡単に操縦できることで民間に広く流通しているのだとか。

しかし、もう一つの候補機、テムコのプリーブはメンターに負けた時点で
民間での販売も軌道に乗ることはありませんでした。
ここでふと思ったのですが、「プリーブ」の意味って、
兵学校の1年生(最下級生)じゃないですか。
パイロットが最初に乗る練習機だから、と、この名前になったのでしょうね。
しかし正直、練習機を「ひよっこ」ではなく「良き指導者」に見立てた
「メンター」の方が、ネーミングとしてはナイスセンスという気がします。
純粋に機能や使いやすさが選考の決め手になったのだとは思いますが、
もしどちらか迷ったら、名前がキャッチーなこともも選ぶ要素になってきますよね。
(ここ伏線ね)
ちなみにNavionという名前もおそらくナヴィゲーターから来ていて、
「導く者」というイメージだと思われます。
これもどちらかといえば指導者目線です。

【海軍のメンター】

資料によると、ナヴィオンはそれなりに軍に導入されましたが、テキサンの後継として正式に訓練機に制定されたのはメンターでした。

ところで、当時アメリカ合衆国国防総省には(今はどうだか知りませんが)、
別の軍(今回は陸海空全軍)同士で同じ航空機を使用する場合、
研究開発費の分担を義務付ける規則がありました。
同じ機体なんだから、開発は予算を分け合って仲良くやってね、というわけです。
しかしながら、
スカンクワークスの生みの親、ケリー・ジョンソンいうところの、

「忌まわしく、自分たちが何を望んでいるのかすらわからず、
技術者が心臓を壊す前に、彼らを壁に追いつめる」ところの海軍
は、メンターは欲しいが、研究開発費はもっと欲しいと思っていました。
もっとというのは、つまり「独り占めしたい」ということでよろしいか。

(ジョンソン曰く)自分たちが何を望んでいるか分からなくても、
とりあえず欲しいものははっきりしていたようですね。
そこで海軍が取った解決策の1つは、航空機に十分な変更を加えることでした。
こうすると、海軍の開発した新型機として「分類」されます。

そこで海軍、
キャスター付きのノーズホイール
ノーズホイール操舵の代わりにデファレンシャルブレーキ採用
調整可能なラダーペダル(パイロットの身長差に対応)
垂直方向にしか調整できないシート
主翼の上反角(翼の基準面と水平面のなす角)を1度増やした
昇降力を高めるためのスプリングシステム
ラダー基部の小さなフィレットを削除
バッテリーシステムを変更
(そのためバッテリーコンパートメントのドアが膨らんでいる)
など、思いつく限りのありとあらゆる変更を加え、おそらくは
新型機として予算を獲得するのに成功したのだと思われます。

しかしまあ、海軍の気持ちはわからんでもありません。
そもそも海軍は空軍とは同じ飛行機でも運用の仕方が全く違います。

空軍はできあがったものをそのまま運用できますが、
当時の海軍は(いまでもか)そういうわけにはいかないので、
海軍仕様に変更を加えなくてはならないのに、
他軍と予算を分担、ではそりゃ面白くないでしょう。

その結果、ビーチエアクラフトは、空軍用にT-34A、
少し遅れて海軍用にT-34Bを配給しました。

陸軍はというと、海軍が使用したターボ式T-34Cのお古を
少数、訓練機として受領しています。

陸軍は練習機にはあまり拘ってなかったようです。

【海軍仕様T-34Cの運用】

T-34Bは、1954年に423機が生産され、1958年に完成しました。

全国の司令部飛行隊にも配属され、海兵隊や海軍の元パイロットの
年次飛行(熟練した技術を維持するための訓練)にも使用されました。

T-34Bは、1970年代半ばまでは海軍航空訓練司令部の初期初等練習機として、
1990年代初頭までは海軍徴兵司令部の航空機として運用されていましたが、
最後の1機が退役したあとは、海軍航空基地や海兵隊航空基地の
フライトクラブの備品として、米海軍の管理下で運用されているようです。


1975年以降、海軍の学生飛行士のための新しい主要な飛行訓練機として
タービンエンジンを搭載したT-34Cターボメンターが導入されて、
従来のノース・アメリカンT-28トロージャンに置き換えられていきました。

1980年代半ばには、フロリダ州ペンサコーラで
海軍飛行士の基礎訓練機としても使用されるようになりました。


その後T-34Cは、米海軍、米海兵隊、米沿岸警備隊の学生海軍飛行士や、
米海軍の支援の下で訓練を行う様々なNATO/同盟/連合軍の
学生パイロットの主要な訓練機として普及しました。
この同盟軍の中には、我が日本国自衛隊も含まれていることは
おそらく皆さんもよくご存じですね。
陸自のメンターT-34

畑とビニールハウスの田園光景に恐ろしいくらい全く違和感なく馴染んでいます。
空自のメンター

入間基地かな?
日本では最初に1保安庁(現防衛省)が初等練習機を50機導入し、
富士重工業(旧中島飛行機)がライセンス生産を行いました。
陸上自衛隊用に連絡機を、海上自衛隊向けにKM-2が製造されています。
KM-2
Kは「改造=KAIZOU」のK、Mは「メンター」のM。
自衛隊での愛称は「こまどり」だった模様。
絶対冗談で「こまどりじゃなくてひなどり」
とか言われてたんだろうなあ。


この他にも、メリーランド州の海軍航空試験センターや、
バージニア州オセアナ、カリフォルニア州ルモア、そして
ここカリフォルニア州ミラマーのFRS、
ネバダ州ファロンのNSAWC(海軍攻撃航空戦センター)で、
F/A-18艦隊代替飛行隊やストライク・ファイター兵器・戦術学校の
空中偵察機として使用されているT-34Cがあります。

デビューして16年後、T-34Bは、より強力でコスト効率の高い
プラット・アンド・ホイットニー社製ターボプロップエンジン(PT6A-25)
を搭載したT-34Cに置き換えられました。


【FLAMのメンター】

展示されている機体は、22機目のT-34Bです。
1955年8月10日に海軍に受け入れられ、
おもに海軍飛行士の訓練機として名、前通りのメンターな生涯を送りました。

1976年以降はいくつかの基地の飛行クラブで余生を送り、生涯を終えています。

この「飛行クラブ」の実態がいまいち分からないのですが、
例えば海軍の飛行クラブの説明は、
「海軍フライングクラブは、現役の船員やその他の認定された利用者に、
操縦、ナビゲーション、航空機のメカニック、その他、
関連する航空科学を含む航空技術のスキルアップの機会を提供しています。
現在、5つのネイビー・フライング・クラブが米国内の各基地に設置されています」
ということです。
退役後の再就職のために資格を取る施設とかそういうのかしら。

 
【メンターの後継機】
1990年代初頭、アメリカ空軍とアメリカ海軍は
統合基本航空機訓練システム計画(JPATS計画)
を発表しました。
これは何かというと、訓練機を統一して合理化計画を図ったということです。

わたしは、わずか40年で、海軍と空軍が予算を取り合っていがみ合っていた
(文句言ったのは海軍だけだったという噂もありますが)恩讐を超え、
訓練機を統一する英断に至ったことに感動しました。
仲良きことは美しき哉。

そもそも練習機を統合することで、コストを削減でき、
部品や整備、操縦の互換性を高め、コストを大幅に削減でき、
航空機製造メーカーにとっても無駄がなく、いいことづくめです。
この結果、
レイセオン・ビーチ PC-9 Mk.II T-6 テキサンII
が採用され、現在運用されています。
AT-6C Texan II

この名前、往年を知る元パイロットには胸キュンに違いありません。
たかが訓練機、されど訓練機。
訓練機のネーミングって、大事なんです。
パイロットの最初の「指導者」になる飛行機ですからね。
ただ、このテキサンII、タンデム(縦列)複座配置で
教官のフォローが難しく、性能も高すぎて初心者には難しいので、
米軍、初等練習機としては、より小型のT-53Aなどと併用しているそうです。
ここでさっきの伏線を回収しますが、この訓練機選定の際、
もう少し初等訓練機にふさわしい、扱いやすいのがあったのに、軍の偉い人たちは
「テキサン」というだけでついつい選んでしまった
ってことはなかったのでしょうか。
だとしたら、やっぱり名前って販売戦略上においても大事ってことですね。

続く。

映画「太平洋機動作戦」〜”Operation Pacific”

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「マーフィーの戦争」「東支那海の女傑」「オキナワ」と、正直
駄作が続いてしまったので、今回ジョン・ウェインの潜水艦映画、

「太平洋機動作戦」(原題:Operation Pacific)

を観て、その「まともさ」に驚きました。

さすがにジョン・ウェインが出ているというだけあって、
一応戦争映画として定型を踏まえており、少なくとも観終わったあと、
虚しさに力なくため息をついたり、その志のあまりの低さに
怒りを覚えたりせずにすむ程度には仕上がっていて、
それなりに安心して最後まで観終わることができたのです。

レビューを検索すると、評価はニュートラルな意見はあまりなく、
好き嫌いによってキッパリ二分されています。

否定派は本作を「深く静かに先行せよ」「眼下の敵」「Uボート」
などのいわゆる名作と言われる戦争映画と比べますが、
わたしははっきり言って(『Uボート』は別にして)これらの映画が
本作と比べてそれほど優れているとはどうしても思えませんでした。

まあ、それもこれも駄作を何本も最後まで観続けたのみならず、挿絵を描き、
解説までしたせいで、「許容レベル」はだだ下がりしてしまい、
今回評価の点数がかなり甘くなったからに違いありません。

"We watch the Skyways" Operation Pacific. 

それでは早速参りましょう。
潜望鏡のスコープに「太平洋作戦」と言うタイトルより先に
「ジョン・ウェイン」の名前が出てきます。

マックス・スタイナーのマーチ風テーマも悪くありません。
ちょっとハープの上下行を多用しすぎですが。

スターウォーズ方式で字幕が流れます。

太平洋艦隊が真珠湾攻撃によって破壊されたとき、
米海軍を支えたのは潜水艦であった

その後の4年間で、米海軍の潜水艦は帝国海軍の最も誇らしい軍艦をはじめ、
600万トンに及び大量の日本の船舶を沈めた

一方アメリカ軍は52隻の潜水艦と3500人に及ぶ将兵を失っている

この映画を「サイレント・サービス」とその乗組員に捧げる

映画は、太平洋のどこかの島から、米軍部隊が夜明け前に
子供たちと引率の尼僧を密かにボートに乗せるシーンから始まります。

その中には生まれたばかりの新生児もいました。
どう見ても生まれて2週間以内って感じの本物赤です。

本作戦を指揮するのはジョン・ウェイン扮する
デューク・E・ギフォード少佐。
潜水艦「サンダーフィッシュ」のXO、つまり副長です。

俳優ジョン・ウェインのあだ名が「デューク」であったことを知っていれば、
なるほどね、とこのファーストネームにうなずくことでしょう。
ちなみにウェインの本名はマリオン・ロバート・モリソンといいます。

さて、ウェインは今回少佐役です。

1951年の撮影当時、ウェインは44歳ですから、もし実年齢だとしたら
かなり出世がゆっくりですね?という感じですが、劇中では
ギフォード少佐は「できる子」で、三十代という設定なのだと思われます。

彼らがゴムボートで向かうのは、沖に停泊した潜水艦でした。
このゴムボートは海軍の純正品の表示がついていますが、
よくよく見ると1949年8月製造を表す8/49という記載が見えます。

潜水艦が現地の子供達を乗せて救出したというのは、
1944年5月、ネグロス島から

USS「クレヴァル 」(USS Crevalle, SS/AGSS-291)

が、28名の女性や子供たちを含む48名を収容した、
という出来事から着想を得ています。
この中には「バターン死の行進」から逃れた者も混じっていたそうです。

ただしこの救出劇ですが、ある説によると、
女子供の救助は「カバーストーリー」に過ぎなかったといわれています。

つまり潜水艦が送られたのは、海軍乙事件で捕虜となった福留繁中将と、
幕僚から押収した最重要文書の回収をする任務のためだったと。

ちなみに英語では乙事件を「Z事件」、この文書を「Z計画」と呼びます。

この映画は、いわばそのうわっつらの「いい話」だけを採用しているのです。
よく考えてください。
いくら(自国民と連合国民の)人命第一のアメリカでも、
わざわざ一般人の島からの脱出に潜水艦なんか出しませんよね。

まあ、しかしそれはよろしい。映画ですから。

さて、というわけでボートを待っていた潜水艦が浮上しました。

本作でも、一部のセットを除いてほとんどが実写の映像を使用しており、
そのためこの映画は大変低予算でできたということです。

司令官ギフォードが、全員が揃うまで待っていると、
最後の一人、ジョージーが気絶した日本兵を担いでやってきました。
どさりと下に降ろし、

「お土産です」

途中で出くわしたので半殺しにして担いできたというのですが、
その理由は、日本軍に脱出の情報が伝わるとまずいからです。

しかしそう言う理由なら、わざわざ担いで来ず普通そこで殺さないか?

ギフォードも彼を始末させず、その辺に放っておけ、などと言います。
その後この日本兵が起き上がって殺し合いになったりするのかと思ったら、
そういう展開もなく、日本兵はそのまま放り出されて終わり。


ある時代までのアメリカの戦争ものあるあるとして、
アメリカ軍は決して相手を無差別に殺戮しない
人道的な軍隊であるように描かれるものです。

特にこの映画は「ウェインもの」なので、要は彼のもう一つの役柄である
西部劇の正義の味方がそのまま軍人になったような人物しか出てきません。

ここで日本兵が殺されずに済んだのはそのおかげですが、ついでに
彼が侮蔑的な表現をされなかったのにはこんな理由がありました。


この映画の前年6月、朝鮮戦争が勃発し、アメリカは参戦しました。

朝鮮戦争では日本が出撃基地となっただけでなく、
掃海部隊の派遣や物資を輸送するなど、旧日本軍の協力や、
旧軍基地がそのまま後方基地として機能することになります。

そういう大人の事情から、軍から内々のお達しでもあったのか、
映画制作にあたっては、旧日本軍を描くにあたっても
人種差別的用語はできるだけ使わないようにという決定がされたといいます。

子供達を迎えての食事に乗員たちは大喜び。

給養係もはりきって食事の用意をします。
皆がはしゃぐ気持ちもわからないではないですが、

食前のお祈りのときには静かにね。

(´・ω・`) (´・ω・`)(´・ω・`)

そして皆さんの予想通り、このガキども艦内を奇声を上げて走り回るのです。

パネルのスイッチを触ろうとしたガキをひょいと担ぎ上げ、
無言のまま捕獲にきたシスターに渡す男前の機関員。

そのときターゲット発見。

”Pass the word.(送れ)Main induction closed.”

”Flood negative."

”Release air."

”Clean board.”

”Position the boat."

もしかしたらこの映画、かなり海軍的に正確なのかも?と思ったこのシーン。

潜望鏡を持ってぐるぐる回る艦長の反対がわで、もう一人が
丸い羅針盤のようなものを持って一緒に回っています。
潜望鏡の反対側に角度が表示されているのかなと思いました。

もう一つ。
潜望鏡を上げよと命じてから、艦長は膝をついてしゃがみこみ、
まだ下にある潜望鏡が上がっていくのにつれて
目を潜望鏡から離さず立ち上がりながら覗いています。

映画で初めて見ましたが、これももしかしたら
本物の潜水艦っぽい動作なのかもしれません。

そしてにっこりしながら

「空母だ」

仕留めれば金的の空母が射程内に現れたのです。

「ジャックポット(大当たり)です」

砲員が魚雷発射管をキスした手で叩き、頼むぜ、といった途端、

子供がなだれこんできました。
勝手に梯子を登り出したりします。

こんなしつけの悪いガキども、怒鳴りつけてやればいいのに。

「ペチコート作戦」では乗り込んできたドジっ子の女性看護師が
魚雷発射ボタンを押してしまって目標を外しましたが、
今回もこの子供達のせいで攻撃失敗するのかと思ったら、
さすがにそこまでベタではありませんでした。

彼らが乱入したのが司令塔だったということもあります。
ちなみにこの潜水艦内はまるで「IKEAのショールームのように」広く、
子供たちが駆け回るのに十分なスペースがあります。
本物ならまず大人の足元をすり抜けることも不可能なはずです。

しかし彼らの攻撃は失敗に終わりました。
なぜならターゲットに当たる前に魚雷が爆発してしまったからです。

そしてその返礼として駆逐艦がやってきました。

爆雷を撃ってくる実写映像に一瞬だけ隅に映り込むのが
米軍の格好をした水兵だったりするのはご愛敬。

「大丈夫だ子供たち、赤ちゃんを見ろ」

寝てます

そういえば、グランドキャニオンに行く小型機に乗ったとき、
わたしたちはあまりの不安定さに怖くて生きた心地がしなかったものですが、
当時2歳のMKは( ˘ω˘)スヤァ と寝ていたのを思い出しました。

ギフォードは赤ちゃんを「ブッチButch」と呼んでいます。
ブッチは概ね「男らしい」と言う意味合いの形容です。

そもそも子供たち、全く怖がる様子もなかったんですけどね。
これは彼ら子役に演技力が皆無だったせいです。

魚雷発射室浸水!
シスターが気を遣って

「何か手伝うことあります?」
「奴らを罵ってやれ!」(Spit the teeth and cuss!)

もう一人が、

「すんませんねシスター、非常時なもんで」

というと男前のシスター、

「大丈夫、お続けなさい。わたしは罵って(歯を吐いて)差し上げますから」

そして駆逐艦の執拗な攻撃も去りました。
艦長は部下に、潜水艦の建造元技術者宛に手紙を書いてくれといいます。

「なんと?」

「親愛なる造船会社御中、”ありがとう”と一言」

帰途につく潜水艦内で、副長と先任伍長のおっさん二人が、
なにやら真剣なおももちで鍋に向かい、乗員が見守っていました。

まず両手を消毒し、ゴム手袋を熱湯消毒。
手袋の中にミルクを入れ、手首部分を縛って指先にピンホールを開けます。

即席哺乳瓶の出来上がり。
っていうか、シスター、今まで赤ちゃんになにもやってなかったの?

島のジャングルを子供を連れて荷物も持たず65キロ横断する間、
この子の母親は出産し、その際死んでしまったようなのですが
その後新生児はどうやって生きてこれたのでしょうか。

「サンダーフィッシュ」艦長「ポップ」(親父)ペリー中佐は
ギフォードの上司でありながら年上の友人とも言う関係です。

潜水艦の艦長はガトー級の場合少佐ですが、次級以上は中佐が多いので、
「サンダーフィッシュ」は「バラオ」か「テンチ」級ということになります。

この階級は絶対ではなく「ガトー」級は大尉が艦長になることもありました。

ペリーとギフォードの年齢差は10歳くらいと言う設定ですが、
二人の俳優の年齢差は4歳しかなく、実際そのようにしか見えません。

言うまでもなくジョン・ウェインが年相応のせいです。

ペリーは共通の知り合いであるギフォードの元妻、
メアリー・スチュアートがこれから寄港する真珠湾にいる、といいます。
そしてなぜか二人の会話は海軍兵学校に始まる思い出に・・。

「アーミーネイビーゲーム、
ゲームの後のベルビュー・ストラトフォードでのパーティ、
アカデミーの卒業式、帽子投げ。
アカデミーチャペルでの結婚式、ハネムーン・・」

「それから潜水艦学校だ・・ニューロンドンの寒くて凍る冬。
海上勤務・・・・ノーホーム、ノーリーブ(家に帰らない)」

彼女(元嫁)ならそれくらい覚悟していただろう、
というポップに、デュークは諦め切った口調で言うのでした。

「息子が生まれたとき、新しいソナーのテストで留守、
5週間後にその子が死んだときも艦に乗っていて留守だった」

これは・・だめだろうなあ。
二人の離婚の原因は、子供が亡くなったことにあったようです。

ジャングルから連れ出した赤子が、彼の傷ついた思い出を呼び覚まし、
さらには別れた妻への思いをよみがらせていました。


続く。

映画「太平洋機動作戦」〜”Take Her Down! "

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ジョン・ウェイン主演の戦争映画、「太平洋機動作戦」2日目です。

ここは真珠湾の海軍病院。

看護師でギフォードの元妻、メアリー・スチュアート中尉は、
上司のスティール中佐から「サンダー」を迎えに行くよう命令されました。

ペリー艦長が友人のギフォードのために気を利かせて
元妻に会わせてやろうという企み、艦長特権で 指名してきたのです。

なんのためにペリーがこんなことを画策するのかわかりませんが、
おそらく、彼らが元鞘に収まった方がいいと考えたのでしょう。

その理由は後で明らかになります。

しかし、MSはそれをやんわりと断ります。

「会うならわたしのホームグラウンドがいいんです」

亀の甲より年の劫、すぐに女心を察したスティール中佐ですが、
これは一応上官からの命令でもあります。

「でも向こうからの名指しなのでね〜。
・・・あーそうそう、頭痛の具合はどう?」

「酷いです」(きっぱり)

「それでは許可します」(`・ω・´)

メアリーを演じているのはパトリシア・ニール。

皆さん当ブログでこの名前と顔に見覚えがありませんか?
この14年後、この二人は「危険な道」(In harm's way)で共演しました。

ニールはまだこのとき24歳でウェインと19歳の年齢差があったため、
ウェインは彼女の起用に反対し、そのせいもあったのでしょう。
彼らは結局撮影が終わるまで打ち解けることはありませんでした。

ニールの方もウェインに全く魅力を感じなかったばかりか、
(それでもキスしたり抱擁したりしなければならない俳優って大変)
彼のゲイの広報担当に酷い扱いを受けた、などと告白しています。

今回この「ゲイの広報担当」と言う言葉に「ん?」と思い、
英語のいわゆる4channelのようなところまで読んでみたら、
ジョン・ウェインにはかなり濃厚な「ゲイ疑惑」があるんだそうです。

彼はアメリカの男らしいヒーローを演じ、大衆には愛されましたが、
ラブシーンがことごとく見るに耐えないのはなぜなのか、ということは
わたしがかねがね気になっていたことの一つです。

まあ、なんでもありのハリウッドなので、よしんばそれが本当だったとしても
あまり驚きませんし、ウェインの女性に対する一種隔壁を感じさせる演技も、
もしそうなら納得というか合点がいくというものです。

パールハーバーへの帰還シーンはどの潜水艦のものか、実写映像です。

着いた途端セットになります。
真珠湾の潜水艦隊司令が乗艦してきて乗員を労います。

コワモテの先任伍長は、子供がいなくなって大慌て。
なんとこんなところから(ボイラーみたいな)出てきて皆大笑い。

艦長以下幹部は基地司令と魚雷の問題について話し合います。
それは磁気式信管に問題があるので、着発信管に戻すつもりだ、と司令。

艦を降りる尼僧たちにお別れの挨拶。

「しかし変だな・・」

デュークに会わせるため、艦長命令で指名した看護師のメアリーはどこ?

あ、いたいた、と後ろからトントンしたら別人でした。

「すっすみません人違いで」

艦長の企みなど夢にも知らないデュークは、
一人で新生児室の「ブッチ」に面会に来ていました。

さっそく怖い婦長少佐が飛んできて、やれ赤ん坊を泣かすなの、
マスクしろのとやいやい怒られてしまいます。

「あなた父親なの?」
「いやあの子をジャングルから連れてかえ」
「ここはジャングルじゃありません!ご機嫌よう」
「ブッチに会いに来ただけなのに・・・」(独り言)

「・・・ブッチですって?」

「・・・そう呼んでる・・君は嫌がるかもしれんが」

「いい名前ね・・・あの子と同じだわ」

ん?

んんんんん〜〜〜?

この二人、離婚したんですよね?
どうしてこうなる!


潜水艦「サンダーフィッシュ」の副長、デューク・ギフォード少佐と、
看護師メアリー・スチュアート中尉はかつて夫婦でした。

二人の最初の息子「ブッチ」が生まれてすぐ亡くなった時、
デュークが任務で一緒にいられなかったことが齟齬を生み、二人は離婚に至ります。

しかし互いへの愛情がなくなって離婚したわけではないので、
今回再会するなりつい熱い抱擁をしてしまったようです。

この時の二人の会話によると、メアリースチュアート、MSは
Penance、つまり懺悔の意味もあって、離婚後、
看護師の資格を取り海軍に奉職しました。

「ブッチ」とあだ名をつけた赤ちゃん。
彼女との4年ぶりの再会。
これは運命すぎる!

デュークは勢いついでにその場で復縁を切り出し、
その夜のパーティーに誘いますが、彼女の口からショックなことを聞きます。

「今夜はボブ・ペリーとデートなの」「・・・艦長の弟か?小さい時よく頭をポンポンしてやったもんだ」

相手が若造だと知ってすっかり安心したデューク、
ダメ押しで押し倒そうとしたら師長に見つかってしまいます。


「ここをどこだと・・・」その瞬間、MSが
「中佐、見てください!これがわたしの”頭痛の種”なんです」

あのガキなら勝てる、と余裕こいたものの、そこは慎重な潜水艦乗り、
兄であるところの艦長ペリーに、
君には小さい弟がいたけどどうしている、と探りを入れると、
「もう一人前の男になっておまけにイケメン、女の子にMMさ」

(そ、そうなの?)


そこにMSと一緒にご本人ボブ・ペリーが登場。
こりゃ確かにイケメンだし明らかにデュークよりお似合い。
階級も中尉同士で同じだし、おまけに潜水艦乗りの天敵、パイロットだと?

うーむ、これはますます許せん。

しかも、「サンダー」が魚雷の不具合で逃した艦隊は、
僕の航空隊が片付けてしまいましたよ〜とかいうではありませんか。
「ピッグボート・ボーイ(潜水艦乗り)にはこんなことできないっすよね。ふふっ」

カチンときたデューク、MSと踊ろうとするボブに割り込み、
僕と踊ろう、いや拙者が、と女の取り合いが始まりました。するとMSは二人の間からするりと抜け出して、

「わたしはポップと踊りたいわ」

POP=「親父」「お父さん」だけあって避難所扱いなわけですな。
しかしこの女、どちらも選べないというよりどちらにもいい顔をしたいのね。
そんな狡い女心もお見通し、亀の甲より年の功、ポップはズバッと釘を挿します。
「自分の本当の気持ちをごまかすために弟を利用するのは感心しないな」(正論)


こちら野郎二人のテーブルでは、もうガキじゃないボブがデュークに、

「僕は確かに昔文武両道でスターだったあなたに憧れました。
でも、今ではあなたが彼女を不幸にしたのが許せない。
僕は必ず彼女と結婚します!」

と宣戦布告します。
そして、もうプロポーズもしたもんね、という言葉を聞くなり
デュークは席を蹴立てて立ち、

ポップの腕からMSをもぎ取るように奪い、
「奴にプロポーズされたのか?」
幼稚で子供っぽく性急な元夫に呆れた風で、MSは、
今来たばかりだというのにボブを連れてさっさと帰ってしまいます。


女が自分と張り合っていた元夫を振り払って自分に家まで送らせたら、
男なら誰だってこれはオレに脈ありだと思いますよね。

なのにMSはボブのキスを今更拒否するじゃありませんの。
「彼のことどう思ってるの?」「別れた夫と会えば色々と考えてしまうのよ」

なんとその会話をこっそり物陰で聞いているデューク。
ボブが去るなり飛び出して、


「あいつ(kid)にプロポーズされたのか!」「海軍と全く関係のないところで暮らそうって言われたのよ」「あんな子供とキスして感じるのか(zing)!」←おっさん・・
子供子供ってあんたね。
自分が勝ってるところが歳しかないって言ってるのと同じだよねこれ。

彼がいつも君のことを考えていた、もう一度チャンスをくれ、
と熱心に口説いていると、またしても「仕事」が彼の邪魔をしました。

彼の乗員たちが門限を過ぎて外出許可区域外で女の子を読んで馬鹿騒ぎをし、
住民の器物を破損して警衛を殴ったカドで憲兵隊本部に連行されたのでした。


しかも全く反省の色がなく、収監中の檻で歌ったり踊ったり。


なんとか穏便に、と懇願するデュークに憲兵隊中佐は、
「もう我慢できん!毎日うちの部下がボーリングのピンみたいに殴られてるんだ。
『サンダー』だけじゃない。
『タング』『シルバーサイド』『ワフー』『グラウラー』の連中にな」
USS「タング」SS-306USS「シルバーサイド」SS-236
USS「ワフー」SS-238USS「グラウラー」SS-215
はいずれも実在の潜水艦です。

このとき日本語字幕が「グラウラー」だけを翻訳しませんが、
これは翻訳者が「グラウラー」とその艦長の逸話を知らず、この名前が
伏線として出てきたということに気がつかなかったせいでしょう。
デュークは、憲兵隊長に今回の任務で子供や尼僧を助けたから大目に見ろと言い、
さらに被害を訴えていた酒場の親父が密造酒を提供していたのを逆手にとって
全員の無罪釈放に漕ぎ着けます。

そして次の哨戒の出撃の日がやってきました。
この映像では昼ですが、次の瞬間場面は夜になります。


出航する艦長のポップの弟であり恋人のボブと一緒の車に乗り、
見送りに駆けつけたメアリーに、これみよがしのキスするデューク。
後ろで固まるボブ。
この後ボブとMSの二人は喧嘩にならなかったのかしら。

「サンダー」は出航するなり3隻もの船舶を魚雷で葬りました。

しかし、そのうちまたしても魚雷の不調に脚を救われはじめます。
命中したのに爆発しない不発が続いて士気下がりまくり。
艦長は、弾頭が直角に当たった魚雷がいずれも不発だったことから、
その原因を突き止める必要があると断定します。
連絡を取った本部はペリー艦長にその任のために艦を降りることを命令し、
ペリーは後任としてギフォードを艦長に推薦しました。
つまりこの哨戒がポップの「サンダー」艦長としての最後の航海となるわけです。

そして次のターゲットである民間船が現れ、魚雷が発射されました。

撃たれた民間船は魚雷に気がつきました。
しかし、最後の魚雷はまたしても命中したのに不発です。


そのとき、不思議なことが起こりました。
日本の船が国籍旗を降し、代わりに白旗を揚げたのです。
相手に無線でコンタクトを取ろうとしますが応答なし。
そしてなぜかこの貨物船は救命ボートを降し始めました。


浮上して機銃を構えながら近づいていくと、


軽快な中華風のBGMとともに中国人ぽい船員たちが飛び出してきて、
高射砲やブラウニング機銃(ねーよそんなもん)をむき出しにしました。
奴らはこれらの武器に風呂敷をかけて航行していたようです。
なんて卑怯なジャップなのでしょうか。
ここでちょっと解説しておきますと、このような武装民間船は、
第一次世界大戦でUボートに対抗するためにイギリス海軍が始めたもので、
Qシップ(Q Ship)といいます。
正直Uボートに対してはあまり実用効果はなく、これにならって
アメリカが運用した5隻のQシップも全く成果はなかったそうです。
日本には「でりい丸」という偽装船が実在しましたが、初出撃の次の日、
この映画のように「正体を表す前に」潜水艦「ソードフィッシュ」にやられました。
「武装商船」Qシップはなにも日本の専売特許でも卑怯な技でもないですが、
白旗を揚げておびき寄せておいて攻撃する、というのは
明らかに創作であり、ついでに悪質な印象操作です。

そして、偽装船の攻撃で艦上にいたペリー艦長が銃弾に倒れました。彼は叫びます。
「Take her down! Take her down!」
どこかで聞いた言葉だとこのブログをお読みいただいている方は思うでしょう。
そう、彼と同じように特務艦「早埼」の機銃に斃れるも自分を残したまま
艦の潜航を命じたUSS「グラウラー」のハワード・ギルモア艦長の言葉です。
史実によるとギルモア艦長は外からハッチを閉めましたが、この映画では
ペリー艦長はすぐに死んでしまったので、ハッチは中から閉められます。
今や自動的に艦長となったギフォード少佐は、潜航を命じ、その後
貨物船の後方(そっちには武器がないらしい)に浮上をし体当たり
(つまり昔でいうところの衝角攻撃ってやつですね)を決断しました。

艦橋から叫び、自ら斃れた者の銃をとってぶっ放すウェインの姿は
そのまま西部劇の悪漢を倒すガンマンのようです。


「相手への突入」も、「グラウラー」と「早埼」の間で実際に起こりました。

「グラウラー」と「早埼」はどちらもが体当たりを企図して接近しましたが、
全速力で体当たりしてきたのは「早埼」の方で、それを取舵で避けた結果、
「グラウラー」が「早埼」の艦体中央部に激突したというのが事実です。

実写映像
この映画では卑怯な貨物船は体当たりによって轟沈します。
「グラウラー」は戦後まで相手を撃沈したと思われていたのですが、
実際「早埼」はその後無事帰還して終戦を迎えています。

戦後は復員輸送艦となって、その後賠償艦としてソ連に引き渡されました。


続く。


映画「大平洋機動作戦」〜”Fire! Fire! Fire!”

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「オペレーション・パシフィック」、大平洋機動作戦最終日です。


「サンダー」は偽装船との衝突で通信装置が壊れてしまい、
そのため消息が絶たれてしまいました。
ハワイの艦隊司令部には、その知らせを聞きつけて
元妻というだけで今は無関係の関係であるMSがやってきました。



この4年間、別れた夫の艦がどこにいても関心も持たず、
他の男とデートとかしてたのに、急にどうしたというんでしょうか(棒)
そもそも副長の別れた妻というだけの、しかも一介の看護師中尉が
司令部のプロッティングルームに入るなど普通は許されるはずがありません。

しかし「サンダー」は無事に真珠湾に到着しました。
士官室では一連の破損などについての事情聴取が行われ、
艦長の死など、原因の全てが魚雷の不調にあるという結論に達します。


下艦した乗員たちは誰いうともなく教会に集まりました。哨戒中に失った艦長始め戦死者の霊に祈りを捧げるためです。


ギフォード少佐は水葬の際に捧げられる海軍の祈りの言葉を唱えました。
「私たちは、その魂を神に委ね、その身体を深みに委ねます。
それは、イエス・キリストによる永遠のいのちへの復活を、
こころより、そして確実に願ってのことですが、
そのイエス・キリストが世を裁くために再びよみがえるとき、
海はその死者を放棄するでしょう」

ペリー艦長の弟、ボブは兄の死の責任がギフォードにあると考えます。
戦闘ではなく、副長の潜水命令が彼を死に至らしめたというのです。

副長として乗員全員の命に責任を持っていたから潜航した、と彼を庇うMSに、
ボブは、それならなぜ緊急潜水してすぐ戦うために浮上したのか、と反撃します。
「かばうのはよせ、彼は英雄になりたかっただけなんだ」

そこに現れたデュークに、ボブは冷たく「あなたは兄を見殺しにした」と言い捨て、去っていきました。


どちらにもいい顔をしたいMSは、デュークに
「彼もいつかはあなたを恨まなくなるわ」

辛ければわたしを頼って、などというのですが、
デュークは冷たく、

「潜航は自分ではなく艦長が自らを犠牲にして下した命令だ。
誰にも恨まれる筋合いはない」
正論ですが、自分を無視されてカチンときた彼女は、スティール師長中佐に、
「自分の立場がよくわかった気がします!」

といい、荒々しく部屋をあとにします。わかったなら、今後はあまり出しゃばらない方がいいと思うね。


さて、このへんでどうしても書いておかなくてはならないことがあります。

当作品制作にあたり、朝鮮戦争の関係で日本人侮蔑表現はやめよう、
ということに決まったといいながら、
透けて見えるこの映画の拭い難い差別表現についてです。

当たり前の話ですが、潜水艦というのは、
基本的に敵の船に奇襲をかけて彼らを殺すのが仕事です。
それは戦争であるから仕方がないことでもあるのに、あえて
映画はアメリカ側の殺戮の正当性をサブリミナル的に盛り込んできます。
この映画の戦闘相手は軍艦のみならず、民間船のこともあり、
そこには当然生きた人間が乗っているわけです。
しかるに、この映画で日本人が乗った船が破壊されて沈められる時、
画面にはただ「記号のような」撃沈シーンが繰り返されます。
魚雷で吹き飛び、沈んでいく船には人っ子ひとり乗っていないような描き方です。
ところが、今回の戦闘シーンのように、撃沈しようとした民間船が武器をとり、
反撃してきたというシチュエーションにおいて、彼ら日本人は卑怯にも
白旗の偽装をし武器を偽装し、艦長を撃ち殺すという「色付け」がされます。
つまりこのことによって、見ている方は意識するしないにかかわらず、

「こんな卑怯なことをされたら殺しても仕方ない(構わない)」

という我が方の民間人殺戮に対する「言い訳」を植え付けられることになります。
この人種差別的な「死の分類」により、この映画による戦争では
二種類の死しか起こらなかったように見えます。

一つは、「悪い日本人が奇襲攻撃をしたことによるアメリカ人の死」

そしてもう一つは、

「善良なアメリカ人が奇襲攻撃に対して自衛的に対処したことによる日本人の死」。



さて、本国での休暇命令をあえて断り、ギフォード少佐は、
ペリー艦長が行うはずだった魚雷の不具合の原因究明に乗り出しました。
信管の問題なのに、技術者でもない彼に何ができるのかという気もしますが。

これらの映像は海軍工廠の魚雷組み立て中の本物です。

こちらは海軍工廠でロケさせてもらったらしい映像。

工廠で仕上がった魚雷には信管に問題はないのに、なぜ?


というわけで落下実験が行われることになりました。

魚雷目線で見た地面の図。
クレーンの先にカメラをつけたんですね。


しかし10回にわたる実験を繰り返しその度に部品を変えてもダメ。
ちなみに映像は三回同じ実験を使い回ししています。


そこで撃針を軽いものから交換してみようということになり、
ようやく問題は解決されました。
ちなみに魚雷は設計や製品に不備があると、グッドヒット
(魚雷が目標の側面に対して垂直から約45度以内に当たること)
で誤作動するというのは本当ですが、同じ魚雷でもちゃんとしたものなら
下手な当たり方(船体側面に対して鋭角に当たる)でも確実に爆発します。
この問題は実際は映画のように潜水艦の乗組員によるものではありませんが、
米海軍では実際に同じような経緯を経てで発見され、解決されています。

魚雷の不具合も判明し、正式に「サンダーフィッシュ」の艦長になったデュークは
ご機嫌でMSをデートに誘いにきますが、こっぴどくはねつけられます。
彼女は自分がせっかく慰めているのに拒否されたことを怒っておるわけです。
「あの時もそうだった。夫婦は慰め合うものなのに、
あの子が死んだ時、あなたは自分の殻にとじこもるだけだったわ」
なるほどー、そこにもっていきますか。

その話を盗み聞きして一言言わずにはいられないのが
もはや単なるおせっかいおばさん、スティール中佐、
「自分以外を必要としていないなんて、あなたが彼によく言えたわね。
あんなことを言ったら彼は二度と帰ってこないわよ!」
(´・ω・`)


同時刻、「サンダー」が次の哨戒に出た太平洋のどこかの空母には、

ペリー弟のボブが、艦載パイロットとして乗り組んでいました。


どうやらこれから日本軍がレイテ島を奪還に来るようです。
(いいかげん情報)
実写
その頃「サンダー」は他の駆逐艦に洋上補給をおこないました。

故障したエンジンギアを送ったついでに、
こちらの見終わった映画「ジョージワシントンがここに泊まった」(コメディ)と、
向こうの持っていた「エキサイティングな潜水艦映画」を交換します。

早速その夜は映画上映会。

ケリー・グラントの潜水艦映画・・ということは、間違いなく
「デスティネーション・トーキョー」でしょう。
Destination Tokyo - Trailer

しかし本職にはやっぱりあまり受けないようで、チーフは居眠りするし、このナビゲーター士官ラリー中尉は、映画どうだったと聞かれて、

「まあ、ハリウッドの連中が潜水艦でなんかやってるってかんじですかね(笑)」
(Oh, all right I guess, sir... the things those Hollywood guys can do with a submarine.)
それはそうだがお前がいうな。

「あいつらはワシントンの映画、楽しんでるかな」



しかし次の日、彼らは海面の油膜の間に残骸とともに漂う
「ワシントン・・・」のリールボックスを見つけてしまいました。

そして彼らを撃沈したと思われる潜水艦の存在を感知します。

「艦影早見表」で彼らが見ているのは伊121〜124のデータです。潜望鏡で敵潜を確認しながら、あそこで何をしているんだろうと副長が呟くと、
ギフォード艦長は、こういいます。
「太陽で艦位を確認しているか、舌舐めずりしてるんだろう」

「ファイア!」
この時魚雷は水面をポーポイズ運動しながら進みますが、
潜水艦の発射した魚雷は決してこのような動きをしません。
魚雷は見事ヒット。コールドウェル少尉が、潜水艦の撃沈を初めて見た!とついはしゃぐと、
いきなり音楽が止まり、艦長が無言で彼を睨み付けていました。


「・・・・・・」
はしゃぐなよ、といったところでしょうか。
失われた命に対する最低限の敬意ってもんがあるだろ、的な?


続いて大船団をレーダーで見つけた「サンダー」は、それが船団ではなく
聯合艦隊であり、しかも周りを360度包囲されていることに気づきました。
空母、戦艦、巡洋艦などが勢ぞろいです。
(音楽はラソラ〜ラソラ〜ラソラドラソラ〜♪みたいなアジアンテイスト)


先ほどのラリー中尉は、思わず呟きます。
「今後ハリウッドの戦争映画ぜってー馬鹿にしないわ、おれ」


ギフォード艦長は、爆雷に耐え、ありったけの魚雷をぶっ放し、
混乱させてここから脱出すると指令を下しました。
「ファイア!」「ファイア!」「ファイア!」
連続して放った6本の魚雷は敵艦に大当たり。(画像省略)

そしてその後雨霰のように爆雷が降ってきます。
レギュレーターや排気管なども各種破損し発射管室も浸水。


駆逐艦を撃破し、他の艦隊も去った海域に、空母が残っています。
しかもよく見ると航行しています。なぜに?

実際は故障した程度の空母を駆逐艦が護衛しないというのはあり得ません。もし損傷が酷かったとすれば、艦隊は自らの手で撃沈してから海域を去るはずです。
しかしまあこれは映画なので、艦長は当然この空母の攻撃を命じます。空母一隻撃沈をスコアに加えるため、そして「艦長の仇を取るため」に。


その頃、ルソン沖に達した先ほどの艦隊を攻撃するために、
ボブ・ペリーの所属する航空隊が空母から出撃していました。
実写映像

「サンダー」はパイロットの海域での救助を命じられ、急行します。
そして航空機から連絡を受け(これは技術的にあり得ない)救助に向かうと

なんと要救助者はボブ・ペリー中尉その人でした。
イッツアスモールワールド。

そこに日の丸をつけたT-6テキサンが例のアジアンメロディとともにやってきます。
8機撃墜した零戦の「エース」という設定です。


機銃でボートが転覆し乗員が投げ出されたのを見て、
艦長は自ら海に飛び込みました。
生存者二人(ボブとコールドウェル少尉)を収容した時、機銃で艦長は負傷。
先任伍長とアラバマ出身の海軍ファミリー出身水兵は亡くなりました。



しかし、零戦は機関銃で海に叩き込んでやりました。(ストック映像による)

艦長は下っ端の少尉に対してもちゃんと労をねぎらいます。
「ミスター・コールドウェル、ありがとう」

そして救助した恋敵、ペリー中尉の枕元でタバコを吸いながら、
(そういう時代です)
「どうだ様子は」
「礼を言わなくてはいけませんね」
「私たちは7人搭乗員を助けた。君はその一人さ」
「この間はひどいことを言ってすみません」
「身内を亡くしたら誰でもああいうさ」
「広い太平洋であなたの近くに落ちて、またあなたを英雄にしてしまった」

そのときヘリがやってきて、ペリー中尉は搬送されることになりました。
その頭をぽんぽん(というかどう見てもバシバシ)叩くデューク。

「・・・なんです?」
「なんでもない」
なんでもないじゃないだろ?
ボブが動けない&立場上怒れないのをいいことに子供扱いって・・。

しかもボブは、別に助けてもらったからって、MSを諦めたなんて
一言も言ってないよね?


無事帰国すると、埠頭にはメアリー・スチュアートが待ち構えていました。

そして二人は駆け寄り、出撃前の問題が何も解決しておらず、
ボブ・ペリーとの関係も何も変わっていないというのに、
何もなかったかのように熱い抱擁をかわすのでした。

それから二人で一緒に手を取り合って歩いて行きます。彼らの行き先は病院。

ジャングルから連れ帰った赤ちゃん「ブッチ」を彼らの養子に迎えるためです。
潜水艦と陸で連絡が取れなかったはずなのにいつの間にこんな話になっているのか。
それに、そもそも二人の問題の根源だった「夫の不在」という点で言うなら、
ギフォードが潜水艦艦長となった今後の方が、いろいろと見通し暗くない?

時間的にも、生存率の点でも。

最後に、わたしの感想に最も近いと思われたレビューを一つ紹介します。
第二次世界大戦中やその直後に作られた映画には、50年以上経った今となっては、
時代遅れのステレオタイプとしか思えないようなものも多いが、それでも、
国民全体(その世代の人々)をそのように行動させ、
感じさせた理想や価値観が反映されている。
戦時中、海軍に所属していた私の父は、ジョン・ウェインの大ファンだった。

ウェインは、父が少年時代や軍人時代に受け入れた価値観と
同じものを体現していたのだろう。
このことは、私にとっていくつかの妥当性と展望を与えてくれる。

この映画がウェインの最高の戦争映画とはみなされていないことは承知しているが、
彼の戦争映画がなぜ人気があったのか、
そして今もあるのかを示す良い例だと確信している。

終わり。


日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル〜フライング・レザーネック航空博物館

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フライング・レザーネック海兵隊航空博物館のHPを検索していて
一人の帝国陸軍軍人にまつわる資料を見つけ、わたしは強い衝撃を受けました。
彼は、フィリピンにおける日本軍の侵攻を阻止する
アメリカ海兵隊の航空機に乗っていました。
捕虜として捕らえられたこの日本軍の士官は、
アメリカ軍に日本軍の位置と状況を語り、攻撃に協力していたのです。

1945年8月9日、長崎に第2の原爆が投下された日、
海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル爆撃機と
海兵隊戦闘隊VMF-115のF4Uコルセア戦闘機は、
ミンダナオ島ザンボアンガのモレット飛行場から
帝国陸軍原田中将の司令部への攻撃に向けて離陸準備をしました。

先頭機のパイロットは3人の変わった乗客の名前を
フライトマニフェストに追加しなければなりませんでした。
陸軍の地上連絡将校兼攻撃調整官のモーティマー・ジョーダン少佐、
通訳のチャールズ・イマイ軍曹、そして一人の日本軍将校の名前を。

将校は日本軍の軍服を着たまま、無線機のガンナーの位置に座り、
見覚えのある目印を探していました。
彼はかつて自分が所属した軍の司令部に爆撃機を誘導し、
2万2千ポンドの爆弾と5インチのロケット弾を投下させたのです。

彼の名前はワダ・ミノル。

実なのか稔なのか穣なのか、その名前も正確にわからないのは、
日本語での彼についての資料が一切残されていないからです。
ついでに言えば、媒体によって彼のランクは
「Lieutenant」「Junior officer」「2nd Lieutenant」と様々です。


英語のwikiはありますが、そもそも彼が作戦に参加したこと自体
アメリカでも戦後ずっと機密扱いされてきました。
そしていまだに全容が公開されていないという状態です。

まずは英語のWikiを翻訳しておきます。
和田ミノルは、日本で教育を受けた米国人である。
日本軍ではジュニア・オフィサーであり、1945年にミンダナオ島で
米軍の捕虜となった「KIBEI」である。
「キベイ」はもちろん帰米から来た英語で、1940年代によく使われました。
アメリカで生まれた日系アメリカ人が日本で教育を受けた後、
アメリカに戻ることを意味しています。

日系人の中には、日本語や日本の文化を学ばせるため、
二重国籍の子供たちに日本に帰国させて教育を受けさせる人がいて、
彼らが帰ってくると「キベイ」と呼ばれました。

和田はアメリカに生まれた日系アメリカ人で、日本に渡りました。
何事もなく帰米していれば文字通りの「キベイ」だったのですが、
そこで戦争が始まってしまったのです。

彼は1945年にフィリピンで捕虜になった。

彼は海兵隊の爆撃機に重要な情報を提供し、爆撃機を率いて
日本の第100師団の司令部を攻撃して大成功を収めた。
和田の動機は、太平洋戦争の早期終結に貢献して
犠牲者を最小限にしたいというものであった。
戦後しか知らないこんにちの我々にとっても、
和田という士官のとった行動は実に奇異に感じられます。
当時の日本人、しかも軍人が、敵に自軍の情報を流し、
あまつさえ攻撃の指揮に参加したというのですから。

百歩譲って、その理由が金のためとか、命惜しさなら
まだわからなくはないですが、その理由が
「戦争を早く終わらせたいと思ったから」
現代の日本における護憲派や国が武器を持つことに拒否を示す人々は、

「敵が侵略してきたら抵抗せずに降参すれば良い」

などと言いますが、この和田の言い分は
それと同じベクトルの独善的な理想論です。

共通点は、それ(自分の理想とする結論)に到達する過程で起きる
第三者の生き死についてはあえて「見てみないフリをする」ということです。
そしてわたしは、次の一文を読んで、さらなる衝撃を受けました。
捕虜になった際、和田は英語を話せないことが判明した。
■ 米海兵隊航空隊ミンダナオ攻撃

1945年8月10日、日本の降伏を間近に控えたフィリピン・ミンダナオ島で、
海兵隊の飛行機が空を飛び、日本軍の進駐を阻止しました。

先頭の飛行機で海兵隊を指揮していたのは、捕虜となった日本軍将校の
和田ミノル中尉であり、密林の中の攻撃目標の位置を案内していました。


米軍PBJミッチェルの無線オペレーター席に座り
日本軍第100歩兵師団の本部施設の位置となる目印を探している
捕虜、和田ミノル中尉(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)

これは戦時中、日本軍将校がアメリカ軍航空機に搭乗員し、
米軍の攻撃に協力した、最初で唯一の出来事となりました。

なぜミンダナオ島で空中戦を展開する米海兵隊に和田中尉が協力するに至ったか。
この特異な出来事に至るまでに、太平洋でそれまでに起きた
いくつかの背景を理解する必要があります。



●1942年4月18日、南西太平洋地域(SWPA)の最高司令官に
ダグラス・マッカーサー元帥が任命されました。
SWPAには、オーストラリア、ニューギニア・パプア、フィリピン、
そしてソロモン諸島の一部が含まれており、マッカーサーの連合軍司令部は、
主にアメリカ軍とオーストラリア軍で構成されていました。

●1945年6月までに、マッカーサー司令部は長期にわたる作戦を成功させ、
ニューギニア・パプア地域から日本軍を排除し、
オーストラリアは日本軍侵攻の可能性から解放されます。

●次に奪還すべきだったのはフィリピン諸島でした。
それを踏まえてマッカーサーがマニラに司令部を移してまもなく、
1945年6月21日、沖縄戦は終了します。

●8月までに、ジョージ・C・ケニー大将の指揮下にある
マッカーサーのアメリカ空軍部隊は、すでに沖縄に司令部を移し、
日本本土への爆撃に専念することになりました。


ジョージ・チャーチル・ケニー将軍


●1945年8月9日、アメリカは第二次世界大戦中における
2回目の原子爆弾投下を長崎に行い、日本に壊滅的な打撃を与えました。
チャールズ・W・スウィーニー少佐が操縦する
B-29スーパーフォートレス「ボックスカー」による攻撃は、
日本だけでなく世界の運命を変えたといえるかもしれません。

フィリピンの日本軍

SWPAで日本軍を打ち破ったといっても、マッカーサー将軍の陸軍は
日本の防衛上のいくつかの「強力なポイント」をスルーしており、
アメリカ海軍もラバウルの日本海軍基地を実質無視していました。

マッカーサーはここに至ってフィリピンの日本軍に対峙する決心をしました。
この地の日本軍のほとんどは、自分たちの戦況の不利と
兵站の窮状などで陥った苦境にもかかわらず、降伏を拒否していました。
原田次郎陸軍中将が率いる日本陸軍第100師団は、
大幅に戦力を落としてミンダナオ島に駐留していました。
原田軍に対抗するのは、ロバート・L・アイケルバーガー将軍が指揮する
アメリカ第8軍と連合軍でした。

アイケルバーガー大将

アイケルバーガーは、日本軍の残存兵力をすべて破壊し、
ミンダナオ島の解放を成し遂げることを任命され、
残存兵力に対処するため、第1海兵隊航空団(第1MAW)の支援を受けました。
第1MAWは、1942年8月にガダルカナルに最初に到着した海兵隊航空部隊で、
カクタス航空隊を生んだ航空隊として有名です。

1945年、第1MAWの活動の中心はソロモン諸島の防衛になっていました。
1943年4月から1945年6月まで第1MAWの司令官を務めた
ラルフ・J・ミッチェル少将は、日本軍の駐屯地を迂回して
しれっと帰投してくるだけの部下に嫌気がさし、
一部の飛行隊をフィリピン攻略に参加させるよう上層部に圧力をかけていました。

ミッチェル少将
西太平洋での作戦の中心はフィリピンに移りました。
第1MAWを含む地上の海兵隊航空部隊は、マッカーサーの第5空軍に移されます。

その頃、ウィリアム・F・ハルゼー提督は、
第1MAWの4つのコルセア飛行隊(MAG-12)が

「その能力をはるかに下回る役不足の任務に就いている」

と感じていました。
また、南西太平洋地域を担当していたトーマス・C・キンケイド提督が
ここでは「航空援護が不十分」と訴えていたことにも気付いていました。
そこでハルゼーはマッカーサーと連絡を取って、たとえば第32海兵航空群の海兵隊爆撃隊611(VMB-611)を
PBJミッチェル爆撃機を装備したフィリピンで唯一のPBJ飛行隊にしたり、1945年4月までに、VMB-611とMAG-12コルセア飛行隊を
再編成してフィリピンに移動させるなどして強化しました。
ちなみに、先日ここで扱ったジョー・フォス少佐はVMF-115("Joe's Jokers")F4Uコルセア飛行隊の指揮官として
フィリピンに赴く予定でしたが、マラリアに苦しめられていたため、
フィリピン派遣直前にアメリカに帰国しています。
■日本軍捕虜 ワダミノル中尉
和田ミノルという人物については、1945年8月の一瞬をのぞいて、
ほとんど全てが謎に包まれたまま今日に至ります。

わかっていることは、先ほどまでの経緯を経てミンダナオに進駐した米軍が
日本軍部隊の排除を進めていく過程で多くの日本兵を捕虜にしていく中、
その捕虜の中に和田ミノル少尉がいたということです。

和田は第100師団に1年以上所属して輸送担当を務めており、
そのため、島や地形のことをよく知っていました。


和田はアメリカで生まれ、日系の「帰米」の習慣に従って、
日本に渡り教育を受けて東京帝国大学に入学しました。
英語の記述では、彼がその後陸軍士官学校に入学したとなっていますが、
厳密には、和田が入学したのは久留米にあった陸軍予備士官学校でした。

これは徴兵した兵の中から旧制中学以上の教育を受けた者を選抜し、
「甲種幹部候補生」として入校させ、
下級幹部指揮官に養成するための組織です。
戦争が始まって徴収された和田は帝大生であったことから
このシステムによって見習士官として原隊に復帰後、予備役少尉に任官して戦争に参加していたのだと思われます。
望むと望まないにかかわらず、日本の大学生は
皆が同じ道を辿り、指揮官としてアメリカとの戦争に投入されました。

和田は陸軍の輸送課に配属され、1945年には原田次中将が指揮する
フィリピン南部ミンダナオ島の日本軍第100歩兵師団にいました。
ここからは、和田自身が捕虜になった後、通訳を通して
アメリカ軍に対して語ったこととなります。

「戦争が進むにつれ、殺戮を嫌悪する気持ちが高まりました。
戦争の本質に強い幻滅を覚えるようになっていったのです。
私は日本と軍が声高に叫ぶ戦意高揚に対し冷淡でした。

戦争を目の当たりにすると、何よりも私は
日本列島と日本人に平和が戻ってくることを望みました。

戦争が(というのはつまりアメリカ軍の攻撃ということになるのですが)
フィリピンを過ぎ、硫黄島を過ぎ、沖縄を過ぎようとしている時、
私の中の反戦感情はますます高まりました。

ミンダナオ島では、目の前で行われている戦いと死が
ますます無意味なものに感じられるようになっていきました」


そして、1945年8月の最初の週、和田はアメリカ軍に捕らえられました。
投降したという説もありますが、今となっては真実はわかりません。
いずれにしても彼は生きて捕虜となったのでした。


日本軍捕虜和田稔中尉の調書書類作成をするL・F・マイバッハ中佐
(1945年8月7日、フィリピン・ミンダナオ島ダバオのリビー・フィールド)

日本人の捕虜は諜報将校に尋問されるのが常でした。
和田が捕まった後、海兵隊の情報将校は和田を徹底的に尋問しました。
尋問担当が珍しく同情的な人物だったせいか、和田は

「日本はこのような世界規模の紛争を起こすべきではなかった。
それは間違っている。戦争に幻滅し、戦争を終わらせたいと強く願っていた。
戦争を止め、日本国民に究極の平和をもたらすためなら、
自分の命を犠牲にしても何でもする」
「将軍や提督、昔ながらの軍隊が国民にこの戦争を強要した。
一般の日本人は戦争を望んでいない」

と語りました。

もちろん、アメリカ側も最初から和田を信用したわけではなく、
疑念を持つものもいましたが、最終的に彼は嘘をついていないようだ、
と尋問官は納得しました。
そして、おそらくこの日本人は使える、と思ったのでしょう。
言葉巧みにアメリカがアメリカがミンダナオ島で
戦争を1日も早く終わらせるのを手伝うように、
つまり情報を彼が自発的に渡すように仕向けて行きました。
もちろん彼は最初それを拒否しました。
しかし、米軍にとって和田のような「良心的日本人」は
願ってもない得難い人材でした。
末端の兵ではなく、地理に詳しい指揮官・下級将校であり、
その「良心」を利用すれば嘘の情報を教えられるなど、
造反のリスクもないに違いありません。
結局彼は米軍に協力することを承諾しました。
それは、ほんの数日前、トルーマン大統領が、原爆投下を決断したのと
不気味なほど似た思考プロセスを経てたどり着いた結論でした。
つまり、トルーマンが原爆投下を決断したのは日本への侵攻による損失の拡大を避けるためであり、
和田にとっては、アメリカ軍に協力して日本軍司令部施設を破壊することは、
長期にわたる無意味な戦闘による損失の拡大を防ぐという意味があります。

つまり、繰り返しになりますが、大局の目的のためには、
その過程で失われる人命の価値にはこの際目を瞑る、という論法は、
「トロッコ理論」と言われる究極の選択で、人数の少ない方に
トロッコの線を切り替えて多人数を救うというのに類似しています。

誰がどのように誘導したかはわかりませんが、このときのアメリカ軍情報部には、
よほど心理戦に長けた人物がいたのでしょう。彼は和田の良心をうまくくすぐり、おそらくおだてて、
拷問することなく捕虜の完全なコントロールに成功したのです。
 大日本帝国第35軍の第100歩兵師団は、
1944年初頭、ミンダナオ島で活動を開始していました。
戦闘経験の豊富な日本軍の精鋭部隊で構成されており、
アメリカ軍の侵攻を「何としても」撃退することを任務としていました。

そんな精鋭部隊の抵抗を打ち破る方法を探していた海兵隊にとって、
和田の情報は、非常に歓迎されるべきものでした。


第1海兵航空団の戦闘機・爆撃機のパイロットにブリーフィングを行う
米陸軍地上連絡将校モーティマー・H・ジョーダン氏(左)
日本軍捕虜の和田稔中尉(中央)
通訳のチャールズ・T・イマイ軍曹(1945年8月9日)

こうして和田中尉のアメリカ軍への協力が決まりましたが、
ミンダナオ島のキバウェ-タロモ・トレイル地域は
起伏に富んだ地形と密林に覆われており、
アメリカ軍が日本軍の司令部を発見するためには、
和田本人が米軍を率いてそこに連れて行くしかありませんでした。
このようにして、第二次世界大戦中に限らず、前代未聞となる
「敵将校に率いられて行う空襲」の舞台が用意されたのでした。


ブリーフィングで和田の指し示す地図の場所を英語に通訳して
爆撃隊のパイロットに説明しているイマイ軍曹
和田は英語が喋れないのでイマイがすべて通訳を行った

飛行前のブリーフィングで、和田は地図上の日本軍の位置を指摘し、
爆撃目標となりそうな場所を指摘しました。
そしてその後、シドニー・グロフ少佐が操縦する先頭のPBJに搭乗しました。

ミンダナオ島ダバオのリビーフィールドで、
日本人捕虜和田ミノルの名前をフライトマニフェストに追加する
米海兵隊のPBJミッチェルパイロット、シドニー・グロフ(右)

先頭機の無線兼銃手の席に座った和田は、空爆の様子を見続けました。
和田は英語がほとんど話せなかったので、チャールズ・イマイ軍曹が
指示を聞いてフライトクルーに伝える役割を担っていました。

イマイ軍曹が和田の指示を翻訳し、同じ爆撃機の機首に乗っている
空爆調整官のモーティマー・H・ジョーダン少佐に伝えます。イマイはさらにその情報を無線で爆撃機に伝えるという流れです。


米軍のPBJミッチェルの無線オペレーターの位置から
日本軍の第100歩兵師団の本部施設を見つけるために目印を探す
日本軍捕虜の和田中尉


自らが率いた爆撃機が日本の第100歩兵師団本部に
爆弾を投下しているのを見る和田稔中尉
さぞ複雑な心境であったことと思われる
(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)

ジョーダン少佐によると、和田はいくつかの重要なターゲットを特定し、
そのターゲットへのナビゲーションも非常に正確でした。
和田の助けを借りて、海兵隊はナパーム弾、破片爆弾、
ロケット弾、重機関銃の射撃で目標地域を叩きました。

ジョーダンは攻撃後このように言っています。

「日本軍の将校が我々を目標地点まで連れて行ってくれたので、
あとは爆弾を思う存分落とすだけだった。
やりすぎたといってもいいくらいだった」
和田中尉が指定した場所に数トンの爆弾が投下された後、
戦災査定では第100師団の指揮能力が破壊されたと結論づけられました。
その結果、ミンダナオ島での戦闘は一夜にして終結したのでした。


アメリカ軍のPBJミッチェル爆撃機に乗って帰路につく和田
アメリカ軍に協力して行われた空襲について何を思う


任務終了後、和田は当然のことながら憂鬱そうに見えましたが、
自分の行動に後悔の念はないらしい、と周りは判断したそうです。

海兵隊の空襲を見ていた和田が、VMB-611の飛行技術について、"You clazy six er-reven Malines pletty good fryers. "
(日本人英語に多いLとRがごっちゃになった発音)とお世辞めいたことを言ったからだというのですが・・。
これを卑屈と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。


■ なぜアメリカ軍に協力したのか
「戦争を早く終わらせたい」という建前はともかく、
なぜ彼は尋問官の協力要請に素直に応じたのでしょうか。

彼はアメリカで生まれた日系アメリカ人でありながら、
「キベイ」の慣習によって幼い頃日本に送られたようです。

日本での生活は、おそらくアメリカ生まれであることを隠さねばならず、
アイデンティティに苦悩しながら成長したのかもしれません。
学生、しかも東大の学生でありながら英語が全く話せなかったというのは、
日本人のインテリには今日でも全く珍しいことではありませんが、
彼がアメリカ生まれであることを考えると異様です。

これを彼の屈折した自我と結びつけるのは穿ち過ぎでしょうか。

これも想像ですが、自分が生を受けた国のことは、戦争が始まってからも
周りの日本人のように敵視することはできず、ましてや、
お国のために命を捧げるに足る愛国心などさらさら持たないまま学徒動員され、
入隊後は表面を取り繕って軍隊生活を送ってきたのではという気がします。

しかし、あの8月10日、任務を終えて帰ってきた和田中尉は、
海兵隊員の目には、自分のやったことにむしろ満足しているように見えた、
と報告されており、それは、彼の人生において、終戦に貢献するという
重要なことを成し遂げた達成感からだろうとアメリカ人たちは考えました。

1945年8月10日の作戦終了後、和田は「国を持たない人間」になりました。
報復から守るために過去を消し、新しい身分と姿を与えられたのでした。

それ以降、和田の消息は不明となりました。

この日の記録は35年以上も機密扱いとなっており、
現在でもアメリカ海兵隊の公式史料には掲載されていません。

フライング・レザーネック航空博物館シリーズ続く



ジョン・グレン少佐の弾丸機 F8U-1Pフォトクルセイダー〜フライングレザーネック航空博物館

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フライング・レザーネック航空博物館の展示から、
朝鮮戦争以降、ベトナム戦争前の、いわゆる冷戦期に生まれた
航空機をご紹介します。
■  ヴォート F8U-1P (RF-8Z, G)クルセイダー  Crusader
ヴォート・クルセイダーについては、最初にアラメダ旧海軍基地の
USS「ホーネット」の甲板で見て以来、あちらこちらでお目にかかり、
その度ごとにお話ししてきています。
ここにあるクルセイダーは写真偵察隊の偵察機となります。
【 F8U-1Pクルセイダーの機体史】

F8U-1Pは、F8U-1戦闘機の非武装写真偵察バージョンです。
F8U-1PはF8U-1と異なり、前部胴体の下半分を四角くして、
3つの3次元地形カメラと、2つの垂直カメラを設置できるようにしてあります。


カメラ関係を搭載する関係で、内部の大砲、ロケットパック、
火器管制レーダーはすべて取り外されています。
ただし、防御のために、水平尾翼を縮小して速度を向上させています。
エンジンはF8U-1と同じ、プラットアンドホイットニーのJ57-P-4Aを搭載。
F8U-1Pの初号機は1956年12月17日に飛行しました。
【ジョン・グレン少佐の『弾丸プロジェクト』】

ジョン・ハーシェル・グレン少佐
1957年7月、カリフォルニアからニューヨークまで、
西海岸線から東海岸線までの速度記録を破る試みが計画されました。
海兵隊のジョン・H・グレン少佐(当時)が操縦するF8U-1Pが、
カメラを使ってルート上の地形を撮影しながらアメリカを横断するというもので、
この飛行は「プロジェクト・ブレット」と名付けられ、
AJ-2サベージの空中給油機が支援することになっていました。
わたしはエド・ハリス似のこの海兵隊パイロット、
後の宇宙飛行士、上院議員のライトなファンですので、
このときのプロジェクトについてもここでその経緯を書いておきます。

1950年代半ばから1960年代初めにかけて、航空・宇宙分野での
重要な成果は、大きなニュースとして扱われる傾向にありました。
1957年7月16日、ジョン・グレン上院議員(当時は海兵隊少佐)が
大陸横断航空速度の新記録を樹立し、国民的英雄となった時もそうでした。

この日、グレン少佐はF8U-1Pクルセイダー(BuNo.144608)で、
カリフォルニア州からニューヨーク州までノンストップで飛行し、
725.55mphの記録を達成しました。
飛行時間は3時間23分8.4秒で、それまでの記録保持者
(F-100Fスーパーセイバー)に15分の差をつけました。

1957年には、合計4人のパイロットが大陸横断航空速度記録を更新しており、
ジョン・グレン少佐もその一人となったのです。

しかし、グレン少佐の記録達成は、決して宣伝のためのものではありません。
「プロジェクト・ブレット・フライト」(弾丸飛行計画)は、
「プラット・アンド・ホイットニー社のJ-57エンジンが、
戦闘出力、つまりアフターバーナーをフルに使っても
ダメージを受けないことを証明すること」が目的でした。

飛行後、すぐさまプラット・アンド・ホイットニー社のエンジニアは
J-57を分解し、その検査結果に基づいて、
このエンジンは長時間の戦闘状態でも機能すると判断し、
その結果、J-57の出力制限はこの日から解除され、
実験はみごとな成果を得ることができたのでした。

宣伝や名声のためでなかったとはいえ、1957年7月16日、
グレン少佐は航空史にその名を刻むとともに、
米国の何千人もの若者にインスピレーションを与える存在となりました。

プロジェクト・ブレットにより、結果的にグレン少佐は
アメリカ最高のテストパイロットの一人としての名声を得たのです。
グレン少佐は5度目の殊勲十字章を授与され、その後まもなく、
NASAの第一期宇宙飛行士に選ばれたのは周知の通り。

つまり、この時の成功が、彼を宇宙飛行士にし、ひいては
上院議員としての地位を約束したということになります。
【失われたジョン・グレンのクルセイダー】

ジョン・グレンという人は航空史の中でも特別な存在で、
彼のような記録更新・樹立の機会に恵まれたパイロットは稀です。

しかし、そんなパイロットは、歴史に名を残すきっかけとなった航空機に
誰しも「特別な思い」を抱いていることは間違いないでしょう。
グレン少佐もおそらく。

ジョン・グレンが海兵隊飛行士として1957年の記録達成時に搭乗したあとの、
クルセイダーの歴史はこのようなものです。

グレン少佐の乗ったF8U-1Pクルセイダーは現役で使用するため
RF-8Gとして再指定されました。
そして、グレン少佐が建てた偉業を表す、小さな真鍮製の記念プレートが
機体の左舷に取り付けられたのです。
それから数年間、グレン(おそらく宇宙飛行士)のもとには、
この機体に乗った飛行士たちからのメモが届けられていました。
メモに書かれていたのは、おそらく、
「あなたが歴史的な飛行をしたクルセイダーに乗れて光栄です」
とか、そんな感じだったのでしょうか。

その後、ベトナム戦争が始まると、グレンはあのクルセイダーがベトナム上空で撃墜されたとか、また、インド洋での空母着艦の際に
損傷して横倒しになったなどという「噂」を耳にするようになりました。

ジョン・グレン少佐のクルセイダーに最後に搭乗したトム・スコット中佐は、
この歴史的な航空機の終焉について次のように語っています。
スコット中佐は、1972年、中尉として写真偵察隊に配備された頃、
空軍基地の航空機ボーンヤードからグレンのクルセイダーを入手し、
すぐに整備させて、現役復帰させ、
ここミラマー基地でこの機体を初飛行させたあと、
USS「オリスカニー」(CVA-34)に搭載させました。

USS「オリスカニー」がトンキン湾に到着し、作戦開始となったある日のこと。
スコット中尉は着艦を試みましたが、悪天候と荒れた海のために、
フライトデッキのアレスティングワイヤーに引っかけることができません。

飛行甲板が一定の周期で上下する中、スコットは2度目の着艦を試みました。
しかし、艦尾の上を通過したとき、艦のうねりが予想外に逆転し、
スコット機は飛行甲板の丸みを帯びた腹部に最初にぶつかり、
それから右メインランディングギアが引きちぎられました。

機体は跳ね上がって機首から落下し、再び空中に舞い上がると、
スコットは片手で操縦桿を握り、機体をコントロールしようとしました。

飛行タワーからの
「イジェクト!イジェクト!イジェクト!」
という声がヘルメットの中で鳴り響く中、
スコットはイジェクトハンドルを渾身の力で引きましたが、
最初はハンドルの抵抗に耐えられず、もう一度、力を込めてイジェクトを試み、
スコットはついにコックピットからの脱出に成功しました。

パラシュートが開き、スコット中尉の脳裏には
「運が良ければ甲板に着地できるかもしれない」
という考えが掠めましたが、同時に常識も働きました。

甲板に着地できなければ、他の甲板設備や飛行甲板上の
他のジェット機に衝突する可能性があることに。

スコット中尉はパラシュートを空母から遠ざけながら、
トンキン湾への着水に備えて浮力装置を膨らませました。
その後彼はコッチ(Koch)の金具から両手を離したため、
水中で顔を下にしてパラシュートに引っ張られた状態になってしまいました。

艦体に巻き込まれていくパラシュートから
必死でもがいて体を外すことができたスコットが上空を見ると、
艦の救助ヘリコプターが自分の救出にやってきていました。

ヘリはホバリングしてスコットの近くに救助隊員を降ろしました。
若くて泳ぎが得意そうな救難員はすぐにスコットのところにたどり着きましたが、
驚いたことに彼は浮き輪を持ってくるのを忘れていました。

後で聞いたら、彼が海上救助を行ったのはこの日が初めてで、
経験の浅さからすぐに疲労し、スコットにしがみついて浮いていました。
不幸なことですが、パイロット用のカポックでは
大人二人を水面に浮かせることはできません。

スコット中尉と救助者が、誰が誰を救助するか海上で話し合っている間、
ヘリコプターの乗員は乗員で、自分たちの問題に対面していました。

救難ヘリのパイロットと、ドアの前にいる
ホイスト・オペレーターとの間のインカムが機能しておらず、
パイロットは、操縦している機体をどうするのか、そもそも
要救助者がヘリに乗っているのかどうかさえわからない状態だったのです。

しかし、苦労の末に意思疎通してなんとか救助用ハーネスを降ろし、
スコットと救助員の上を何度か通り過ぎているうちに、
二人ともハーネスを掴んでヘリに吊り上げられたのでした。


スコットは、この歴史的な機体を失ったことを残念に思いましたが、
しかし、一方で機体と一緒に死なずに済んだことに感謝していました。

事故調査の結果、脱出時にイジェクションハンドルが引けなかったのは、
通常20ポンドの力で調整されているべきハンドルが、
「オリスカニー」の搭載したクルセイダーに限り、
100ポンドに誤って設定していたのではないかということがわかったのです。
ジョン・グレン少佐の記録を打ち立てたクルセイダーは失われましたが、
このインシデントが明らかになったことは
F-8に乗った他の飛行士にとっては幸運であり、
潜在的に何人かの命が救われたということもできるかもしれません。


【偵察型クルセイダーの活躍】
RF-8Aがその真価を発揮するのは、
1962年10月のキューバ・ミサイル危機の時でした。
フロリダを拠点とするVFP-62のRF-8Aは、
キューバ島に準備されていたソ連のミサイル基地の上空を繰り返し飛行し、
相手に対し、その存在を証明するとともに、
クルーの運用状況を監視することになっていました、

「ブルームーン」と名付けられたこの飛行作戦はは、10月23日に開始されました。
NASキーウェストから1日2回のフライトが行われ、
キューバ上空で低空高速ダッシュを行い、帰ってきます。

帰ってくるとすぐNASジャクソンビルに戻り、フィルムの現像を行います。
その後、セシル・フィールドに戻ってメンテナンスを行い、
キーウェストに戻って次のミッションに臨む、この繰り返しです。
VFP-62は、ブルームーンの厳しい飛行スケジュールをこなすための
十分なRF-8Aを持っていなかったため、
VMCJ-2を4機増強することを要求しました。

第2海兵隊航空団の司令官は、海軍に4機のRF-8Aを用意しましたが、
護衛に海兵隊員のパイロットをつけるようにと進言しています。

4機のVMCJ-2 RF-8Aは、キーウェストのVFP-62に合流する数日前に、
整備チームによって、画像の動きを補正する最新の
シカゴ・エアリアル製前方照射型パノラマカメラを新たに搭載しました。

キューバ・ミサイル危機で最も記憶に残る瞬間は、
10月25日に国連大使が、稼働中のミサイルサイト付近の低レベルの写真を
ソビエトや世界に向けてテレビで公開した時でしょう。

海兵隊パイロットのE.J.ラブ、ジョン・ハドソン、
ディック・コンウェイ、フレッド・キャロランの4人は、
海軍パイロットと同様に、その任務に対して殊勲十字章を授与されました。
【FLAMのクルセイダー】


F8U-1P BuNo.144617は、チャンス・ヴォート社が製造した
12機目のフォト・クルセイダーです。
1957年12月17日にテキサス州ダラスの工場で米海軍に受け入れられ、
ミラマー基地でVFP-61として引き渡されました。

1958年8月、VFP-61 DET Aと共にUSS「ミッドウェイ」  (CV-41)に搭載され、
クルセイダー最初の空母派遣に参加しました。
帰国後、工場に戻され、3ヶ月間のデポレベルのメンテナンスが行われました。

1959年10月、海兵隊に譲渡され、MCAS エル・トロのVMCJ-3となりました。
約1,100時間の飛行時間を経て、1965年11月、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「G」モデルに改造されました。
改造部分はエンジンで、その他、後期クルセイダーズの腹面フィンを装備し、
ナビゲーションや電子機器も改良されています。
さらに、ドロップタンク用の翼下ハードポイントや、
胴体の偵察ベイに取り付けられた4台のカメラを装備していました。

1966年4から4年半、海軍航空開発センターの
テストプロジェクト用追撃機として活躍し、
「ホークアイズ」での3年半の任期中には、
USS「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)に配備されました。

1973年から、先ほどのグレン機と同じく、空軍で保管されていましたが、
やはり同じように、5年半後、倉庫から引き出され、
改修を行った後、USS「コンステレーション」 Constellation (CV-64)、
USS「コーラル・シー」 Coral Sea (CV-43)に搭載され、
忙しい2年間を過ごしました。
その後、ワシントン基地の倉庫に戻されていましたが、1986年1月10日、
オハイオ州コロンバスの研究・試験・開発・評価プログラムによって
保管場所から引き出され、カリフォルニア州エドワーズ基地で行われた
X-31強化戦闘機操縦プログラムの飛行段階で追撃機(アグレッサー)
として使用するために、貸し出されました。
このプログラムは1992年に終了しました。
ここにあるのが、最後のフォトクルセイダーとなります。
続く。



前方航空管制機  QV-10ブロンコ〜フライング・レザーネック航空博物館 (おまけあり)

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サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館には
ほとんどが有名でどこかで見たことのある航空機ばかりですが、
たまーに、ここにしかないようなレアな機体が展示されています。
そのひとつがこれ。

■ ノースアメリカン・ロックウェル
OV-10ブロンコ Bronco
そもそもノースアメリカン・ロックウェルという会社名を聞くのも初めてです><
前半はあのノースアメリカンで間違いありませんが、
後半のロックウェルというと、おそらく
ロックウェル・インターナショナルのことではないかと思われます。
OV-10ブロンコは、ここにあってそのフワフワした
パステル調のペイントである意味異質な外貌が目立っています。
運用は1969年から1995年の間で、デビュー時期を考えると
ベトナム戦争のために設計されたことは明らかです。
現地の説明には「ミッション」として、
「Light Armed Reconnaissance」(軽武装偵察)
とあります。

OV-10ブロンコは、対反乱戦に特化して設計されており、
ベトナムでの戦闘条件に最適の飛行機とされていました。

空軍と海兵隊は、武力偵察、ヘリコプターの護衛、近接航空支援、
前方航空管制、死傷者の救出、落下傘降下などの任務に運用しました。

双発のプロペラ機で小型なので、位置づけは
ヘリコプターとジェット機の間のギャップを埋めるいいとこ取りの存在?

つまりどちらの役割も果たす、多機能性を備えた機体でした。

着陸が簡易なので、ヘリコプターのように遠隔地で複数の任務をこなす一方、
多種多様な武器や装備を搭載でき、活動場所を選ばない設計。

着陸が簡単な理由は、ジェット機とは異なり、
「ジョインテッドな」着陸装置を備えているためだと書いてあるのですが、
おそらくこれは固定式「引き込み式ではない」という意味でしょう。

格納式の膠着装置は、格納するための機構に重量がかかるうえ、
メインテナンスの作業も必要になってきます。

ときとして故障や出し忘れなどの操作ミスで事故となる可能性もあるため、
空気抵抗にある程度目を瞑るならば、固定式のギアの方が
軽量で頑丈で、荒れた土地や軟弱な土地でも
短時間で離着陸(STOL)することができるというメリットがあります。
その点ブロンコはスキッドを出しっぱなしのヘリに近いわけですが、
ヘリコプターよりも速く、ジェット機よりも小回りが効くと言う利点があります。

引き込み脚がないというだけでもメンテナンスは簡単になりますが、
特にブロンコの場合、メンテナンスそのものが驚くほど簡単です。

たとえば燃料など、なんなら自動車用でも機能するといいますし、修理も普通のハンドツールでできてしまうというくらい単純なのだとか。

航空戦術に前方航空管制というものがあります。

Forward Air Control(FAC)は、戦線付近で行われる航空管制のことで、
近接航空支援や航空阻止など、戦術爆撃作戦の一環として用いられます。
【前方航空管制機としてのOV-10ブロンコ】
目的は攻撃機を適切に統制することで誤爆を防ぎ、
最前線で活動する味方地上部隊の安全を確保することです。

前線航空管制官が航空機に搭乗して活動するのですが、
ブロンコは、ベトナム戦争時代、前方航空管制機(FAC)用に設計された
最初の航空機であり、その開発の重要な一歩となりました。
ただし、一般的なFAC任務は、ほぼ非武装で敵の上空を低空飛行するため、
常に撃墜の危険性にさらされる任務であり、現実にベトナム戦争では
FAC任務による多数の犠牲者が出ており、多くの機体が失われました。

それでは具体的な前方航空管制機の任務について説明しておきます。
FACは地上攻撃機のために攻撃目標を見つけてマーキングし、
周辺の友軍と間違えず確実に攻撃するよう地上攻撃機を誘導します。
そのため前方航空管制官は、敵陣の上を低空でゆっくりと飛行します。

先ほど言ったように、この時が地上から攻撃され、
実際も犠牲を生むことになった、最大の危険な時間でした。

ブロンコ以前にFACと呼ばれる任務を行なったのは
セスナL-19バードドッグという民間機ベースの機体でしたが、
民間機であったため、武装も防御もありませんでした。
O-1バードドッグ
どう見てもセスナですが、ちゃんと陸軍マークが入っています。

こちらは一応全金属製にして安全性と防御に気を遣っています。
「バードドッグ」は「鳥撃ち猟の猟犬」の意味です。

戦後生まれて朝鮮戦争に投入され、FACと偵察に使われましたが、
エンジン出力が弱く武装が搭載できなかったうえ、
防弾装備が一切ないというご無体な仕様だったため、
空軍178機、海兵隊7機、陸軍その他で284機、計469機もが喪失しました。
こういう機体ですから、おそらく失われた人命も多かったのではないでしょうか。
我が日本国でも陸自が使っていたこともあります。
こちらは連絡機程度の使用だったのと、
わずか22機ライセンス製産しただけだったので、
目立った事故は起こさず、喪失数の記録も残されていません。


ブロンコは、武器のハードポイント(牽引設備)を備えているだけでなく、
セルフシール式の燃料タンク、高視認性のキャノピーも備えていました。
多くのバリエーションを持ち、ドイツ、タイ、ベネズエラ、インドネシアなど、
輸出用としていくつかのバリエーションが生産されました。
これらの仕様はOV-10Aと同じです。
次にアメリカで作られたのが、ここに展示してあるOV-10Dでした。

OV-10Dは、チャフ対策と赤外線抑制機能を搭載し、
OV-10Aの敵対者や対空砲火に脆弱という弱点を改善することができました。

さらに、エンジンの大型化、機首の延長、暗視装置、
プロペラの大型化、カメラの搭載などが行われます。
ここにあるブロンコは、ペイントのせいかずいぶんのどかな雰囲気です。

軽とはいえ、武装ヘリとしては「これ大丈夫か」感がうっすら漂うのですが、
この下のサイトに見えるまだ現役らしい機体は、なぜか鉄十字をつけていたり、
現役のUSAF仕様だったりで、ずいぶん猛々しい面持ちです。
North American Rockwell OV-10 Bronco

ところで偶然見つけたこのサイト、どういう人がやっているのか
なかなか面白いのでつい見入ってしまいました。
全くの寄り道ですが、先を急がないブログなので、ちょっと紹介しておきます。
記事の中では独自の視点で航空機を評価しています。
第二次世界大戦のドイツ戦闘機ベスト8
1.メッサーシュミット Messerschmitt Bf 1092.フォッケウルフ Focke-Wulf Fw 1903. ドルニエDornier Do 174. メッサーシュミットMesserschmitt Me 4105. Messerschmitt Bf 1106.ハインケル Heinkel He 1627. Messerschmitt Me 2628. Messerschmitt Me 163
まあ、これは順当というやつでしょう。
一番面白かったのが、

第二次世界大戦の戦闘機ワースト7
7. モラーヌ・ソルニエMorane-Saulnier M.S.406 フランス6. ハインケルHeinkel He162 ドイツ5.ラググ・トゥリー Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3 ソ連4.メッサーシュミットコメット Messerschmitt Me 163 Komet ドイツ3. メッサーシュミットMesserschmitt Me 210 ドイツ2. ブリュースターBrewster F2A Buffalo アメリカ1.ブラックバーン Blackburn Roc イギリス
やっぱりコメットと樽(ブリュースター)が入賞したか・・・。(納得感)

ちなみに、輝かしいワーストワンに選ばれたブラックバーンですが、
爆撃機や攻撃機を援護する艦隊防衛戦闘機として設計されたため、

4連装機銃塔をパイロットの後ろに設置し、
前部の銃を一切撤去した。

つい最近書いたばかりですが、前方が攻撃できないこの戦闘機、
このサイトでもそれが原因でワースト扱いされております。

おまけに速度が遅く、また機銃は
飛行機が直線的に飛行していないと正しく発射されない
という、前代未聞かつ不便なものになってしまったことが
史上最悪の戦闘機と呼ばれることになった原因、と厳しく断罪しています。
どんな素人でもこれくらいのことに気づきそうなものですが、
どうしてこんなものを導入してしまったのか、ロイヤルエアフォース。

というわけで、この機体、戦闘に参加することなく、第一線から退き、
曳航機や練習機に改造されたのですが、
セカンドラインとはいえ、戦闘群に配属された機体が、

1機撃墜を主張🎉
しており、さらにダンケルク脱出の際に
ノルウェー沖を飛行した機体もあったそうです。
よっぽど運のいいパイロットだったのか、というか
撃墜されたドイツ機はよっぽど運が悪かったんでしょう。


あと、わたしたち的に興味がある記事としては、

第二次世界大戦の優秀な日本の戦闘機
1.「 隼 」Nakajima Ki-43 Hayabusa2.「九七式」 Nakajima Ki-273.「雷電」 Mitsubishi J2M4. 「月光」 Nakajima J1N1 Gekko5. 「秋水」 Mitsubishi J8M16. 「零戦」 Mitsubishi A6M “Zero”7. 「疾風」Nakajima Ki-848. 「飛燕」Kawasaki Ki-61
はて、「秋水」って完成してましたっけね。
いったいどういう基準で「優秀」枠に選ばれたのか。

ちょっと説明文を見てみましょう。
「三菱J8M1は、日本海軍航空局と日本陸軍航空局の
共同プロジェクトとして開発された。
エンジンはヴァルターHWK509Aに若干の改良を加えたものを搭載していた。
三菱J8M1のもう一つの特徴は、その軽量な機体である。
400kgしかなく、驚くべきステルス性を発揮して任務を遂行することができた。

この未来的なグライダーの主柱は合板で作られており、
これがJ8M1という驚異的な機体の総重量の大幅な削減に貢献している。
垂直尾翼も同様の理由で木で作られている。
コックピットには防弾ガラスが採用された。
これは、J8M1をさらに軽量化するための工夫である。


また、燃料や弾薬の搭載量も少なくて済むように設計された。
J8M1は1944年から1945年の間に7機しか製造されず、
プロジェクトは正式に終了した。

しかし、J8M1にはMXY-9、MXY-8、Ku-13、Ki-13など、
少なくとも60種類の練習機が存在したのである。
これらの練習機は、前田、横須賀、横井などで開発された。
日本海軍航空隊は、この極めて獰猛な迎撃機を主に使用した」
え・・・・?(思考停止状態)
そ、そうだったんですか?(特に最後の一文な)

同じサイトで秋水の兄弟分であるコメットがワースト7に入っているのに?
だいたい、秋水があるのになんで紫電改がないのとか、
素人にもちょっとこのセレクトは不思議だったりしますよね。

まあいいや。

とにかくこのサイト、そういう意味でも(どういう意味だ)おすすめです。
飛行機好きの方、怖いもの見たさじゃなくて時間潰しにぜひどうぞ。


【FLAMのOV-10ブロンコ】
フライング・レザーネックのOV-10(BuNo.155494)は、
1969年1月16日に海兵隊に受け入れられ、18機のうちの1機として、
海軍の軽攻撃飛行隊(VAL-4)に貸与されました。

この飛行隊は、河川の巡視船を支援するための監視および攻撃活動を行うとともに、シールズや米陸海軍と南ベトナムの統合作戦のための航空支援を行い、
HA(L)-3ヒューイの活動を補完することを目的として設立されました。

1972年4月、VAL-4は解散し、帰国しています。
1972年9月、当機は海兵隊に戻され、ペンドルトンのVMO-2に配属され、
その後アトランタの海兵隊予備軍に送られます。

1990年8月、VMO-2は「砂漠の盾」作戦を支援するため、
6台のOV-10をサウジアラビアに向けて10,000マイルの旅に送りました。
このことは航空界のニュースとして報じられました。

1991年1月から始まった「砂漠の嵐」作戦では、
合計286の戦闘任務、900飛行時間をこなしました。
任務は紛争期間中、24時間体制で行われ、主に米軍と連合軍の大砲、
多数の攻撃機、海軍の砲撃をコントロールすることに集中し、
USS「ウィスコンシン」が朝鮮戦争以来初めて戦闘射撃を行うことになり、
その際の「スポッティング」も行いました。
この飛行隊は、94回以上もイラクの地対空ミサイル砲手に狙われ、
高射砲の大規模な集中を避けようとしながらも、
これらの厳しい重要な任務を遂行しました。

1991年5月、494号機はVMO-2とVMO-1の他のOV-10と共に
USS「ジュノー」Juneau (LPD 10)に搭載されて、サンディエゴに帰港。

1993年5月20日、VMO-2は解隊され、その4日後には所属機は
MCAS エルトロのFlying Leatherneck Aviation Museumに送られました。

続く。


「最後のガンファイター」F8Uクルセイダー〜フライング・レザーネック航空博物館

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ヴォートF8Uクルセイダー(1962年にF-8と改称)は、
ヴォート社がアメリカ海軍および海兵隊のために製造した
単発の超音速空母艦載用ジェット機です。
先日、偵察バージョンのフォトクルセイダーについて取り上げました。
順序としてはこちらが先のはずですが、写真が先に出てきた関係で後になりました。



ヴォートF7Uカットラスの後継機、F-8は主にベトナム戦争で活躍しました。
銃を主武器とした最後のアメリカの戦闘機であり、
"The Last of the Gunfighters "とも呼ばれています。
ヴォートF8Uクルセイダーは、海軍および海兵隊で初めての超音速機であり、
水平飛行で時速1000マイルを超えることができる初めての戦闘機でした。
サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネックには、
基本的に海兵隊が運用していた航空機が展示されています。

■ リング-テムコ-ヴォート・エアロスペース
ヴォートF8U-2NE(F-8E、J)クルセイダー
Vought Crusader
製造会社のLing-Temco-Voughtは、かつてアメリカに存在した
巨大複合企業体(コングロマリット)の名称です。
1947年テキサス州で個人が起こした電気工事業、
リン・エレクトリック・カンパニーが販売戦略を成功させて巨大化し、
ミサイル製造で知られるテムコ・エアクラフトと合併し、
続いて敵対的買収によりチャンス・ヴォート航空宇宙を買収してできました。

手掛けた航空機は以下の通り。
LTV A-7 コルセアCorsair IIヴォートVought YA-7FLTV XC-142LTV L450FVought Model 1600
LTVとはリン・テムコ・ヴォートから取られた社名です。
1999年に破産しましたが、この破産については
「アメリカ史上最も長く最も複雑な破産のひとつ」
と言われているそうです。
何があった。

【最後のガンファイター】

ヴォートF8Uクルセイダー(1962年にF-8と改称)は、
ヴォート社がアメリカ海軍および海兵隊のために製造した
単発・超音速の空母艦載用制空ジェット機です。
前にも書きましたが、あまり現場のパイロットに評判が芳しくなく、
「ガッツレス」(根性なしという意味)と呼ばれたこともある同じヴォートF7Uカットラスの後継機として登場しました。

カットラスと違い、滅法出来がいいので、クルセイダーは文字通り
チャンス・ヴォート社の「十字軍」となった、などという
誰もそんなことは言っていない的洒落をつぶやいた記憶があります。

登場時期からして、F-8の主戦場は主にベトナムとなりました。

「最後のガンファイター」The Last of the Gunfighter
と言うネーミングの由来はというと、
クルセイダーは搭載銃を主要武器とした最後のアメリカの戦闘機であり、
それ以降は戦闘機はマルチロール機となっていくからです。
それではマルチロール機とはなんぞや、というと、英語では

MRCA(Multirole Combat Aircraft)
空対空戦闘、空爆、偵察、電子戦、防空など、
戦闘中にさまざまな役割を果たすことを目的とした戦闘機のことです。

「マルチロール」という言葉は、本来、

「ひとつの基本的な機体を複数の異なる役割に適応させ、
共通の機体を複数のタスクに使用することを目的として設計された航空機」

に与えられた名称で、目的はコスト削減にあります。

攻撃任務として、航空阻止、敵の防空阻止(SEAD)、近接航空支援(CAS)を
全てこなすことができ、さらに空中偵察、前方航空管制、
電子戦などの能力を持たせることによって莫大な節約ができます。
歴史的にはたまたま複数の役割をこなす機体はいくつかありましたが、
マルチロール機の定義に当てはまる一番古い機体はF-4ファントムであり、
この言葉が最初に使われたのは1968年の
「マルチロール戦闘機計画」からで、このプロジェクトは最終的に
F-15の派生型にまで発展しました。
「ラスト・ガンファイター」といいながら、クルセイダーの運用開始は1967年で、
マルチロールプロジェクトが緒についたのとほぼ同時期です。
航空機の発展が一筋ではなく多層的な流れの中にあったからといえましょう。


ちなみにジョニー・キャッシュの曲に「ラスト・ガンファイター・バラード」
という曲がありますが、こちらは西部の荒くれ者的な、
老いた元「デスペラード」を歌ったものだと思われます。
"The Last Gunfighter Ballad".. Johnny Cash and Cheyenne Bodie

つい全部見てしまった・・

クルセイダーは全部で1261機が製造されました。
F8Uクルセーダーは、海兵隊の戦闘機部隊で
ノースアメリカンFJフューリーに代わって使用された機体となります。

いかにも終戦直後っぽいデザインのFJフューリー

F8Uクルセイダーの特徴は、なんと言っても2ポジションの可変入射翼です。

これは、離着陸時に翼を胴体から7°回転させる仕組みで、
そうすることで離着艦の際の機首上げ角を抑えると言う効果があります。
当時主翼を油圧で上下に動かすことで迎角を調整できる唯一のシステムでした。
このシステムによって運用時の低速での安定性が大幅に向上します。
迎え角が大きくなると何がよくなるかというと、前方視界を損なうことなく揚力を高めることができるのです。
これはチャンスボート社の前作F7Uカットラスの致命的な欠点だった、
視界不良を克服することから生まれた技術でした。


アメリカ海軍の最後の「新生産」クルセイダーは、
1961年6月末に初飛行したF8U 2NEでした。
それはまさにここフライング・レザーネックにある機体そのものです。



この機種は、ズーニーZUNIロケット弾↓


AGM-12ブルパップ空対地ミサイル↓

爆弾などを搭載するために、取り外し可能な2つの翼下パイロンを追加し、
攻撃機としての役割を強化しました。

このアップグレードには、全天候型運用のために改良された、
捜索および火器管制レーダーも含まれています。
F8U-2NEは全部で286機が製造された。

17の米海兵隊飛行隊がクルセーダーを使用し、
そのうち4つの飛行隊がベトナムで戦闘に参加しました。

装備した航空隊は、

USS「オリスカニー」(CVA-34)のVMF(AW)-212
「カウボーイズ」Cowboys
Active
VMF(AW)-232「デス・ラトラーズ」 Death Rattlers

Active
rattlerはガラガラなるもの(赤ちゃんのガラガラでもある)

VMF(AW)-235「デス・エンジェルス」 Death Angels

1943-1996

VMF(AW)-312 「チェッカーボーズ」 Checkerboards


などはダナンの陸上基地から任務を遂行しました。
クルセイダーは、1957年12月にVMF-122で海兵隊に初飛行しました。VMF(AW)-235は、1968年クルセイダーからF-4ファントムIIに移行しました。

クルセイダーはアメリカ海軍、海兵隊、フランス海軍でも使用され、
アメリカで最初に戦地に赴いた航空機の一つとなりました。


クルセイダーのベトナムにおける初空戦は1965年4月、
米海軍とベトナム人民空軍の間で行われました。

戦時中に失われたクルセイダーは約166機(なぜ『約』なのか謎)。
そのうち76機は事故によるものだったので、半数以上が戦没となります。

喪失機の中でも地対空ミサイルによる戦闘喪失は
MiGとのドッグファイトによる損失よりも多かったということですので、
戦闘能力は高かったと判断できると言って差し支えないでしょう。

搭載エンジンはプラット・アンド・ホイットニー社製のJ57-P-20A。


全軸9段LP7段HPコンプレッサー、8本のフレームチューブキャニュラー燃焼器、
全軸1段HP2段LPタービンを備えたアフターバーナー式
(ジェットエンジンの排気に対してもう一度燃料を吹きつけて燃焼させ、
高推力を得るしくみ)ターボジェットエンジンです。

クルセイダーは、航続距離2.558km。
胴体下部に20mmのコルトMk12キャノンを4門搭載可能で、
胴体側面のY字型パイロンにはAIM-9サイドワインダーと
ズーニーロケットを搭載するためのハードポイントが2つ、
翼下のパイロンにはLAU-10ロケットポッドを2基搭載できました。
ちなみに例のサイトによると、ベトナム戦争期間における
アメリカ軍のベスト戦闘機10の中に当然ですが入っています。
ちなみにその順位は、
1.スカイホーク Douglas A-4 Skyhawk 2. コルセアLTV A-7 Corsair II 3. ファントム2McDonnell Douglas F-4 Phantom II4.サンダーチーフ Republic F-105 Thunderchief5. クルセイダーVought F-8 Crusader6. タイガー2Northrop F-5 Tiger II7. Mikoyan-Gurevich MiG-158. Mikoyan-Gurevich MiG-179. Mikoyan-Gurevich MiG-1910. Mikoyan-Gurevich MiG-21
評価の高い順番だとすれば、クルセイダーはちょうど中程となります。
まあ、前にも検証した通り、これはこのサイト主の個人の感想というものですが、
スカイホークがあの時代のナンバーワンという考え方にはわたしも賛成です。

【FLAMのクルセイダー】

海兵隊予備軍は1976年までクルセイダーを使用しました。
F-8E BuNo.150920は、1964年7月16日にアメリカ海軍に受け入れられ、
VF-201「ザ・ハンターズ」に納入されました。


1970-1999

1965年4月、USS「オリスカニー」 Oriskany (CVA-34)に搭載されて
ベトナムに向けて出航し、1965年12月にNASミラマーに帰還しました。

1966年5月には、VF-162と共に再び「オリスカニー」に搭載され、
ベトナムに派遣されました。

しかし、1966年8月2日、大規模な修理のために
日本の厚木基地に陸揚げされたことで、その活動は中断されます。

修理は1966年10月末に完了し、
厚木の戦闘作戦支援活動(COSA)に移され
新しい任務に就くことになりました。
1967年1月3日には、USS「タイコンデロガ」(CV-14)の
「サタンの子猫」Satan's Kittensに代替機として送られ、
再びベトナム沖に出撃して北ベトナムとの戦闘任務に就きました。

1943-1978
(自衛隊の猫好き艦長が無理やり変更した某護衛艦のマークを思い出します)

1967年5月29日、「タイコンデロガ」が日本からサンディエゴに戻ってくると、
当機920は降ろされて、NARF(Naval Air Rework Facility)のある
ノースアイランドに移されます。

1967年10月には、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「J」バージョンにアップグレードされました。
改良の内容は、スラットとフラップのデフレクションを大きくして
翼の揚力を大幅に増加させることと、境界層制御システムの追加でした。

また、外部燃料タンク用の "ウェット "パイロン、
J57-P-20Aエンジン、AN/APQ-124レーダーも搭載されています。
このとき、合計136機の航空機がこの規格に基づいて改造されました。

1973年、VF-211の「ファイティング・チェックメイツ」とともにミラマーに帰還。
1975年、同隊がF-14Aトムキャットに移行したため、VF-191に戻されます。
同年、VF-191と共にUSS「オリスカニー」の最後のWESTPAC巡航に参加。

その1週間後、VF-191がF-4JファントムIIに移行したため、
デービス・モンサン基地の倉庫、通称骨董品置き場に飛ばされ
ゲートガードとして最後のご奉公をして引退しました。
この機体の塗装はVMF(AW)-321のチェッカーボーズの仕様が再現されています。

続く。


垂直離着陸機とAV-8ハリアー〜フライング・レザーネック航空博物館

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サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館に、
アメリカ軍塗装をしたこの機体を見つけ、ちょっとわたしは驚きました。
ホーカー-シドレー ハリアー AV-8 Harrier
今日はこのハリアーを中心に、VTOL機についてもお話しします。
■ 垂直離着陸機

何十年もの間、技術者たちはヘリコプターと飛行機の長所を組み合わせて、
ホバリングできる飛行機を作ろうとしてきました。
その結果、さまざまなタイプの垂直離着陸機が生まれ、
その中には成功したものもありました。


【飛行機がホバリングする仕組み】

飛行機とヘリコプターはどちらも素晴らしい性能を持っていますが、
どちらかにしかない能力があります。

ヘリコプターは垂直離着陸(VTOL)と空中でのホバリングができます。
つまり、空港から離れたほとんどの場所で活動できるのです。
飛行機は滑走路を必要とするため、それはできませんが、
ヘリコプターよりも荷物の積載力が高く、速度も比べ物になりません。

この2つのカテゴリーの能力を組み合わせた航空機。
遡れば少なくとも1950年代から、航空宇宙技術者たちは
この乗り物を生み出すためチャレンジしてきていますが、
今日まで、それを実現したものはほんの一握りしかありません。

まずは、飛行機が地面から垂直に離陸し、
空中でホバリングするために何が必要かを見てみましょう。
これまでに4機の飛行機がそれに成功していますが、
それぞれが異なる技術的問題に取り組んでいます。


【飛行機がホバリングする仕組み】

ホバリングを実現する技術は、実はとても複雑です。
飛行の定義では、固定された翼の上に空気が流れることで揚力が得られますが、
ホバリング中の飛行機には前進速度がないため、翼は揚力を得ることができません。

では、どうすれば飛行機をホバリングさせることができるのでしょうか?
設計者やメーカーは、何十年も前からさまざまな技術を試してきました。

その点、ヘリコプターは明らかにそれを解決していました。
ヘリコプターは、固定翼ではなく、回転するローターから揚力を得ることで
垂直離着陸(VTOL)と空中ホバリングを可能にしています。

しかし、ヘリコプターは先ほども書いたように、
多くの荷物を積むことはできませんし、速く飛ぶこともできません。
実際のところ、最新のヘリコプターの最高速度は200ノット程度が限界で、
戦闘機や迎撃機としては決して十分な速度とはいえません。


航空宇宙設計者たちの課題は、最新の戦闘機に匹敵する性能と速度を持ちながら、
垂直方向に離着陸できる実用性を備えた航空機をいかにして作るかでした。



【VTOL vs STOL vs CTOL】

これらの略語は航空機の着陸方法をいいます。
「TOL」というのは「 take-off and landing」離着陸ですから、
頭についている頭文字でその違いを表しています。
C(conventional)TOL - 従来の離着陸方法で、一般的な飛行機として機能する
S(Short)TOL - 短距離離着陸 一般的な飛行機よりもはるかに少ない滑走路で離着陸できる
V(Vertical)TOL - 垂直離着陸

【垂直上昇(バーチカル・リフト)を実現する方法】

飛行機(少なくとも飛行機のようなもの)をホバリングさせるために、
いくつかの方法が試みられてきました。

基本的な考え方は、エンジンの力を使って地面から垂直に離陸し、
安全な高度に達したら、エンジンで前方に推力を、翼で揚力を得る方法です。
これにより、巡航飛行では飛行機の速度で飛行しながら、
垂直離着陸が可能になることでしょう。


ライアン・エアクラフト社は
「テールシッター」(tail-sitter)と呼ばれる実験を行いました。
飛行機が垂直に座ったような位置から(テイルシット)離陸するもので、
パイロットは出発前、ロケットのように空に向いて座っていました。

ライアン社もテールシッターも今はもうありません。


エドワーズ空軍基地で飛行中(離陸直後?)のライアンX13

垂直方向の揚力を得るためのより良い方法は、
エンジンの排気と推力を制御可能な方法で排出することでした。
エンジンがフルパワーで作動し、機体の全重量を上回る推力を発生させれば、
それだけで離陸できるはずです。


この方法の問題点は、作るのにお金がかかることと、
そしてなんと言っても飛ばすのが難しいことです。
しかし、これまでに成功した「ジャンプ・ジェット」もないわけではありません。

現代のジャンプジェット(ハリアーのことをジャンプジェットという)は、
ジェット機に垂直方向のリフティングファンをつけて、
推力を下に向けたものというのが基準となっています。

ダクト付きの排気装置と組み合わせることで、
地上から離陸するために必要な揚力を、少し簡略化した形で得ることができます。

エンジン全体が回転し、離着陸時には垂直になるような設計もあります。
通常の飛行を行う際には、エンジンは水平方向に回転します。


■ 垂直離着陸を成し遂げた4つの飛行機

このような技術的な偉業を成し遂げた飛行機の例をいくつか見てみましょう。
【ベル・ボーイングV-22オスプレイ(Bell Boeing V-22 Osprey)】



我々日本人にはすっかりおなじみ、オスプレイ。

最近とんと活動の噂を聞きませんが、オスプレイに親でも殺されたのか、
「あちら側」の人たちはさかんにオスプレイを悪者にしております。

どうしてそんなにオスプレイを嫌うのか。というと、
やっぱりこれはどう考えても日本の敵にとっての脅威なんでしょう。
特に空母運用できるというあたりが、嫌なんでしょうね。

まあ、某党首のように、オスプレイ嫌いすぎて、ヘリコプターなら何でも
オスプレイに見えて困っちゃう〜な人もいるみたいですが。


さて、飛行機を垂直に離陸させる一つの方法は、
エンジン全体を可動式にして、用途に応じて排出の向きを変えることです。
それを可能にしたのがV-22オスプレイのティルトローターです。
オスプレイは飛行機でもないし、ヘリコプターでもありません。

人類が自力で空を飛んで以来、多くの航空機が計画されてきましたが、
オスプレイは世界で初めて運用されたティルトローター機となります。

FAAは、この技術がいつか民間でも使用されることを想定して、
オスプレイのために新たに、
「パワードリフト」(powered lift)
という航空機のカテゴリーを設けました。

わたしは初めて知ったような気がしますが、というのも
今のところオスプレイはオスプレイとしか呼ばれていないからでしょう。
そのうち民間にパワードリフトというジャンルの別の乗り物が現れるのでしょうか。


しかしながら、これが残念ながら反対派の攻撃理由ともなっていたわけですが、
1989年に初飛行したオスプレイは、技術的・設計的な問題が多く、
ようやく運用が開始されたのは2007年のことでした。

ヘリコプターのVTOL性能、そして
強力なターボプロップ機の巡航速度性能を両立させたオスプレイは
現在までに約400機が納入されており、
アメリカ海兵隊、空軍、海軍が運用してきました。

そしていつの間にかさりげなく陸上自衛隊でも運用されています。

陸自V-22(オスプレイ)の教育訓練の状況
アメリカ軍の軍人さんに教育訓練を受けています。
それにしても、不思議なのは陸自なのになぜにこの色・・。
アメリカ海軍は現在、CMV-22Bを空母で運用することを計画しています。
オスプレイの航続距離は約1550km、飛行速度は約300ノットです。
後部ランプ(ドア)は飛行中に開くことができ、懸垂下降や吊り上げが可能です。


現在開発中の最新型ティルトローターはベルBell V-280 ヴァローValorで、
米国陸軍の攻撃ヘリの後継機として設計が進んでいます。

【ヤコブレフYakovlev Yak-38フォージャー Forger】



ソ連がハリアーに対抗するために作ったのがYakovlev Yak-38です。
1971年に初飛行、1976年に就役し、その後は引退してしまいました。

これは、より性能の高いYak-41の前身であり、
タイミングが悪くキャンセルされたものの、より優れた設計と言われています。


231機が製造され、ソビエト海軍のキエフ級航空母艦に搭載されて
1991年まで使用されていました。

YAK-38のデザインはハリアーによく似ていますが、
機体の運用理論は大きく異なっています。

ハリアーはひとつのエンジンに4つの独立した推力偏向ノズルを備えてますが、

(シーハリアーの排気ノズル。
後方 (0°) から真下 (90°) を超えて斜め前方にまで角度変更が可能)

これに対し、Yakでは1つの大きなメインエンジンと、
離着陸専用に垂直に取り付けられた2つの小さなエンジンを使用しています。


【ロッキード・マーチン F 35B 22ライトニングII22】



「ジョイント・ストライク・ファイター Joint Strike Fighter Program」統合打撃戦投機計画」
は、アメリカ、イギリス、カナダその他同盟国における
戦闘機を置き換えるための最新の開発取得計画です。

その計画の一環として、STOVLのバリエーションが設計されました。
STOVLとは、short takeoff/vertical landing、つまり
短距離離陸(STO)と垂直着陸(VL)を組み合わせた
垂直/短距離離着陸機という意味です。
F-35Bは、ベクターノズルを備えたシングルタービンエンジンと、
離着陸時に揚力を得るためのパワードファンを搭載しています。

F-35BのV/STOLシステムに使われた技術の多くは、
ロッキード・コーポレーションとヤコブレフ社の提携によるものです。
後にキャンセルされたYak-41となる実験機Yak-141に搭載されたシステムが、
F-35Bへの道を切り開いたということができます。
F-35プログラムは、各兵科のニーズに合わせてカスタマイズされた
各種バージョンが用意されていることから、
「ジョイントストライク・ファイター」と呼ばれています。
その中でV/STOL機能を持っているのはF-35Bだけとなります。以下の通り。

F-35A - 空軍の通常離着陸型戦闘機/迎撃機
F-35B - V/STOLバージョン(海兵隊用)
F-35C - 海軍用の空母艦載型戦闘機


【ボーイング Harrier ハリアー】


BAe Harrier GR9


ハリアーシリーズは、前述の通り通称「ジャンプジェット」と呼ばれる航空機です。

この分野におけるハリアーの存在を過小評価するのは簡単ですが、
もしハリアーがなかったら、後続の航空機は存在しなかったとも考えられます。

航空史上、技術者たちが考え出した大胆で一見無謀な発明の中で、
ハリアーは最も現実にその足跡を残したとも言えるのです。

ハリアーは1969年の初就役以来、現在でもアメリカ海兵隊や、
海外の一部などで限定的に運用されています。
しかし、主要な使用者である英国空軍と英国海軍は、
老朽化したハリアーをすでに退役させています。

1966年、イギリスで誕生したハリアーは、ヘリコプターのように
垂直に着地・離陸できるという特性から、海兵隊に注目されました。

前線近くの仮設飛行場や小型甲板の水陸両用強襲揚陸艦という
海兵隊ならではの運用に最適と考えられたからです。

ハリアーの運用は、海兵隊地上部隊の迅速な近接航空支援を可能にし、
ホーマー・ヒル海兵隊少将は次のようにハリアーを絶賛しました。

「ヘリコプターのように簡単に配備でき、
通常の攻撃機のようなパンチ力を持つ航空機は、
軍事航空に大きな影響を与えるだろう」
海兵隊は102機のAV-8Aハリアーと8機の訓練機(TAV-8A)を発注しました。
機体は基本的に英国空軍のハリアーと同じ、
アビオニクス、飛行制御、武器システムはアメリカ製でした。
【ハリアーの飛行システム】

ハリアーの飛行は他のジェット機とは異なり、繰り返しますが、
「ベクトード・スラスト」Vectored Thrust=推力偏向
という概念を採用しています。


タービンのバイパスエアは翼根にある2対のノズルのうちの1つに送られ、
ジェットの排気は2つ目のノズルから送られます。
ノズルは縦軸に沿って一体的に回転させることができ、
前方飛行のためには真後ろから、ホバリングのためには
真下より少し前まで回転させることができます。

ノズルの位置は、スロットルの近くにある1本のレバーで操作を行います。
エレベーターやラダーが使えないほど速度が遅いホバリングモードでは、
リアクションコントロールシステムが働き、
翼端、機首、尾翼の「パファー」または「パフパイプ」と呼ばれる排気ダクトに
高圧のブリードエアを送ることができるのです。

操縦桿を前に動かすと、尾翼の下にあるパファーが空気を放出して機首が下がり、
後ろに引くと、機首の下にあるパファーが空気を放出して機首が上がります。
同様に、操縦桿を左右に動かすと、翼端のパファーが作動して飛行機がロールし、
ラダーペダルで操作する尾翼のパファーが空気を横に吹き出して
 "ヨー "をコントロールします。
【ハリアーII】

ジェット機の底面図
武器を搭載するための多数の翼下パイロンが見える
胴体下面には2本のフェンスが配置されている
AV-8BハリアーIIの胴体下面

AV-8BハリアーIIは、ホーカー・シドレー・ハリアーの
基本的なレイアウトを踏襲した亜音速の攻撃機です。

ロールスロイス社製ペガサス・ターボファンエンジンを1基搭載しており、
タービンの近くに2つの吸気口と4つの同期式ベクタブルノズルを備えています。

胴体の下側には、マクドネル・ダグラス社が開発した揚力向上装置があり、
地面に近づいたときに反射するエンジンの排気をとらえ、
最大で1,200ポンド(544kg)相当の揚力を得ることができます。


初代ハリアーと比較すると、ハリアーIIの操縦については
パイロットの負担が大幅に軽減されました。
技術革新による安定性の向上で、基本的に操縦しやすくなったのです。

安全面においても、「UPC/Stencel 10Bゼロゼロ射出座席」の搭載により、
パイロットはに静止した航空機から高度ゼロで射出できるようになりました。
最も徹底的に再設計されたのは主翼で、技術者は
新しい一体型の超臨界主翼によって巡航性能を向上させることに成功しました。

積載量が増加し、 主翼はほとんど複合材でできているため、
AV-8Aの小型の主翼よりも150kgも軽くなりました。

ハリアーIIは、炭素繊維複合材を広範囲に採用した最初の戦闘機です。
機体構造の26%が複合材でできており、従来の金属構造に比べて
217kgもの軽量化を実現しています。


英国のハリアーは1982年のフォークランド諸島戦争で戦闘任務に就き、
42機が地上支援、防空、艦船攻撃、偵察に投入されました。

少なくとも20機のアルゼンチン航空機を空対空の損失なしに撃墜しています。

海兵隊の航空機が初めて戦場に出たのは、それから約20年後のことで、
砂漠の嵐作戦では、86機のハリアーが艦上と陸上の両方から戦闘任務に就き、
3,380回、4,038時間の出撃を行い、595万ポンド以上の武器を輸送しました。

また、1999年にNATOがコソボに対して行った持続的な航空作戦
「アライドフォース作戦」でも戦闘任務を遂行し、
現在も「テロとの戦い」の作戦支援のために飛行しています。

【ハリアーII誕生までの経緯】

1960年代後半から1970年代前半にかけて、第1世代のハリアーは
英国空軍と米国海兵隊に就役したものの、
航続距離と積載量がいまいちという評価がありました。
 この問題に対処するため、ホーカー・シドレーとマクドネル・ダグラスは
英米合同で1ハリアーの、より高性能なバージョンの共同開発を開始します。

初期の取り組みでは、ブリストル・シドレーがテストしていた
ペガサスエンジンの改良型、ペガサス15を搭載することになっていましたが、
強力になったただけに、エンジンの直径が2.75インチ(70mm)と、
大きすぎてハリアーに収まらなかったのでした。

おまけに、英国政府は1975年、国防費の減少、コストの上昇、
RAFの60機の必要数の不足を理由にプロジェクトから撤退してしまいます。
いろいろ言っていますが、要するにお金がなかったということです。

イギリスに辞められた後、アメリカはすっかりやる気をなくして、
単独での開発費を負担する気になれず、同年末にプロジェクトを終了しました。


おもしろいのがここからです。

国単位でのプロジェクトが終了したにもかかわらず、英米の2社は
ハリアーの強化に向けて異なる道を決して諦めなかったのでした。
国家予算の段階でストップがかかっても、現場の技術者たちは
英米ともに非常に諦めが悪かったということのようです。

ホーカー・シドレー社は、既存の運用機に後付け可能な新型の大型主翼に注力し、
マクドネル・ダグラス社は、米軍のニーズに応えるために、
その高価であまり野心的ではないプロジェクトを独自に進めていきます。

その結果、マクドネル・ダグラスはAV-16から得た知識を用いて、
AV-8Aハリアーを大幅に設計変更し、AV-8Bを開発させました。
AV-8Bは1981年に初飛行し、1985年には米海兵隊に就役しました。
その後、夜間攻撃機AV-8B(NA)、レーダー搭載型ハリアーIIプラスが誕生。
個人的に大変残念に思うのは、ハリアーIIIなる大型化された機種が
検討段階でポシャって実現には至らなかったということです。

かたや英国はというと、1990年代にBAEシステムズ社がボーイングと合併し
共同でプログラムをサポートすることになりました。

最終的に2003年に終了した22年間の生産計画で、約340機が生産されました。

【アメリカ海兵隊での運用履歴】

AV-8Bは、1984年にアメリカ海兵隊運用評価テストを受けました。

4人のパイロットと整備・支援担当者が戦闘状態でテストを行い、
指定された航続距離と積載量の範囲内で、航続距離、目標物の捕捉、武器搭載、
敵の行動からの回避・生存などの任務遂行能力が評価されました。
テストでは他の近接支援機と連携して深層および近接航空支援任務を遂行し、
さらに戦場での妨害活動や武装偵察任務を行うことが求められました。

第2フェーズでは、戦闘機の護衛、戦闘空中哨戒、
甲板発射による迎撃任務が課せられ、設計上の欠点が指摘されたものの
のちに修正され、テストは成功したとみなされました。


AV-8Bは1990-91年の湾岸戦争でも活躍しました。
USS「ナッソー」や「タラワ」、そして陸上基地に配備された機体は、
当初は訓練や支援出撃、連合軍との共同訓練などを行っていました。

AV-8Bは「砂漠の嵐」作戦で当初は予備機となっていましたが、
イラク軍の製油所砲撃が起こり、あのOV-10ブロンコの前方航空管制官が
航空支援を要請してきたので、戦闘に投入されることになりました。
 翌日、米海兵隊のAV-8Bはクウェート南部のイラク軍陣地を攻撃。
戦争中、武力偵察を行い、連合軍と協力して目標を破壊しました。


「砂漠の盾」「砂漠の嵐」作戦において、86機のAV-8Bは
任務遂行率90%以上という実績を上げています。 
そのうち5機のAV-8Bが敵の地対空ミサイルによって失われ、
2人の米軍パイロットが死亡しました。
AV-8Bの消耗率は1,000回出撃するごとに1.5機でした。
後にノーマン・シュワルツコフ陸軍大将は、
F-117ナイトホーク、AH-64アパッチとともに、
この戦争で重要な役割を果たした7つの兵器のひとつにAV-8Bを挙げています。

戦後の1992年8月27日から2003年まで、米海兵隊のAV-8Bなどが
「サザンウォッチ作戦」を支援してイラクの空をパトロールしました。


1999年、AV-8Bは「アライドフォース」(同盟国軍)作戦における
NATOのユーゴスラビア空爆に参加。
12機のハリアーが戦闘に投入され、コソボで戦闘航空支援任務を遂行しました。

米海兵隊のAV-8Bは2001年からアフガニスタンで行われた
「不朽の自由作戦」に参加、4機のAV-8Bが攻撃任務を行いました。
また夜間戦闘機6機のナイトアタックAV-8Bが
主に夜間に攻撃などの任務とともに偵察任務を遂行しています。

イラク戦争開戦から1ヶ月後、
水陸両用強襲揚陸艦USS「バターン」上にホバリングする米海兵隊のAV-8B
2003年のイラク戦争では、主に米海兵隊の地上部隊を支援するために参加。
初動時には60機のAV-8BがUSS「ボノムリシャール」や「バターン」など
艦船に配備され、戦争中はそこから1,000回以上の出撃が行われました。

このとき、「ボノム・リシャール」からの1回の出撃で、ハリアーは
共和国軍の戦車大隊に大きなダメージを与えています。



ハリアーは高い評価を得ていたものの、なにしろ
1機あたりの滞空時間が15~20分程度と限られていたため、
米海兵隊内では6時間の滞空が可能で、重装備の近接航空支援能力を持つ
AC-130ガンシップの調達を求める声が上がっていました。


AV-8Bは、2012年に就航が予定されていたロッキード・マーチン社の
F-35ライトニングIIのF-35Bバージョンに置き換えられることになっていますが、
米海兵隊は2025年までハリアーを運用する予定です。


【FLAMのハリアーII】

1974年に就役し、海兵隊攻撃隊(VMA)513に所属したのち、
VMA-231装備として水陸両用攻撃艦「ナッソー」(LHA4)に配備されました。
その後、VMA513と水陸両用強襲揚陸艦「ガダルカナル」(LPH7)に。
水陸両用強襲揚陸艦タラワ(LHA 1)にも乗り組みました。
多くの一般市民がジェット機のホバリングを初めて目にしたのは、
1994年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガーの
アクション・コメディの代表作である映画「トゥルー・ライズ」でした。
映画でアーノルドがAV-8Bハリアーを操縦してテロリストから娘を救出する姿が
描かれていたのを覚えておられる方もいるかもしれません。

ハリアーは何十年もの間、現役の戦闘機の中で
最も機動性の高い航空機の一つであり続けました。

続く。

アドバーザリー部隊のアグレッサーF/A-18A ホーネット〜フライング・レザーネック博物館

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フライング・レザーネック航空博物館は、現在アクティブではありませんが、
スタッフは常にすでにここにある航空機を次世代に残すべく、
様々な広報活動や資金集めなどを積極的に行っているようです。

わたしがたまたまHPを見に行った日に、その前日の投稿として、
ポッドキャストによる航空機の説明を行った、という記事があり、
運営する予算が引っ張ってこれずに閉館していく航空博物館の例を
いくつか見てきた経験から、なぜかほっと胸を撫で下ろしました。


展示ヤードを歩いていて初めて気がついた
当博物館の大きな看板。描かれているのはA-4MスカイホークIIに違いありません。
(尾翼にそう書いてあるのでさすがのわたしも間違えようがないという)
さて、今日取り上げるのは冒頭の赤い星のついた機体です。赤い星・・・ってことはあちらのもの?と思ってしまいがちですが、
機体を見て機種を見分けられる方は、この飛行機が外でもない
アメリカ産の戦闘機であることがおわかりでしょう。
そう、これは「アグレッサー」機なのです。
■ マクドネル・ダグラス
F/A-18A Hornet – VMFAT-101:
マクドネル・ダグラス社のF/A-18ホーネットは、
双発、超音速、全天候型、空母対応のマルチロールコンバットジェットで、
戦闘機と攻撃機の両方として設計されています。

名称のF/Aは、ファイターとアタックのFとAという意味です。
マクドネル・ダグラス(現ボーイング)とノースロップ
(現ノースロップ・グラマン)によって設計され、
アメリカ海軍および海兵隊で使用されています。

何カ国かの外国の空軍でも使用されており、かつては
アメリカ海軍のブルーエンジェルスでも使用されていました。


F/A-18は、汎用性が高く、戦闘機の護衛、艦隊防空、
敵防空の制圧、航空阻止、近接航空支援、空中偵察を行うことができます。


【F/A-18ホーネットの誕生まで】
アメリカ海軍は、A-4スカイホーク、A-7コルセアII、
F-4ファントムIIの後継機として、プログラムを開始しました。

空軍でテスト中のYF16とYF-17

1973年、米国議会は、海軍にF-14に代わる低コストの航空機の開発を要求し、
その後行われたコンペでGMのYF-16ファルコンが優勝したのですが、
海軍は空母運用における適性を理由に採用を拒否しました。

そして、コンペで選ばれなかったノースロップのYF-17コブラを採用し、
マクドネル・ダグラスとノースロップに
これを叩き台にした新しい航空機の開発を依頼したのでした。

海軍長官はF-18の名称を「ホーネット」とすることを発表します。

F-18の製作にあたっては、両社は部品製造を均等に分担し、
最終的な組み立てはマクドネル・ダグラス社が行うことで合意しました。
具体的にはマクドネル・ダグラス社は主翼、スタビライザー、前部胴体を、
ノースロップ社は中央部と後部胴体、垂直安定板を担当します。

また、海軍用はマクドネル・ダグラス、陸軍用はノースロップと分担されました。



F-18はYF-17から大幅に改良されました。

空母運用のために、機体、足回り、テールフックが強化され、
折り畳み式の主翼とカタパルトアタッチメントが追加され、
ランディングギアが広げらると言った具合に。
また、海軍での運用に必要な航続距離を確保するために、
マクドネル社は背骨を大きくし、両翼に燃料タンクを追加。

主翼とスタビレーターは大型化され、後部胴体は10センチほど拡大され、
また、制御システムは、量産戦闘機では初となる
完全デジタルのフライ・バイ・ワイヤ・システムに変更されました。


1978年10月、初の試作機F-18A

ここまで一緒にやってきたマクドネル・ダグラスとノースロップですが、
そのパートナーシップは、ここにいたっていきなり悪化することになります。

まずノースロップが、F-18L用に開発した技術を、マクドネルが
契約に反してF/A-18の海外販売に使用しているとして訴訟を起こし、
マクドネルも、ノ社がF-20タイガーシャークにF/A-18の技術を使用した、
と反訴して、一時は泥沼状態になりかかったのです。

最終的に、マクドネル・ダグラスを主契約者とし、
ノースロップを主下請けとすることで合意が結ばれ、
F/A-18Aの最初の生産機は1980年4月12日に飛行することができました。

【改良と設計変更】

F/A-18E/Fスーパーホーネットの開発計画は、1990年代になって、老朽化した
A-6イントルーダーやA-7コルセアIIの後継機の必要から生まれました。

スーパーホーネットはF/A-18ホーネットの単なるアップグレードではなく、
ホーネットの設計思想を用いた新しい大型機体となりました。

ホーネットとスーパーホーネットは、
F-35CライトニングIIに完全に置き換わるまでの間、
アメリカ海軍の空母艦隊で補完的な役割を果たす予定です。


F/A-18Cホーネット
高い迎え角のため、前縁の延長線上に渦が発生している

【運用履歴】

マクドネル・ダグラス社が1978年に発表したF/A-18Aの初号機は、
カラーは青と白で、左に「Navy」、右に「Marines」と記されていました。

その理由は、海軍がF/A-18運用にあたり、伝統にとらわれない
「プリンシパルサイト・コンセプト」(Principalsite consept)
を提唱したからで、その結果、開発初期には民間人ではなく
海軍と海兵隊のテストパイロットを起用することになりました。
このことが異例ということすら知らなかったわたしですが、要は
海軍パイロットに「最初の操縦」をさせるのが目的だったのでしょうか。


1985年、新しい機体の初の配備はUSS「コンステレーション」となりました。
当初の報告では、ホーネットの信頼性は非常に高く、
前任のF-4Jから大きく変化したと激賞されました。

【ブルーエンジェルス】



アメリカ海軍のブルーエンジェルス飛行デモンストレーション飛行隊は、
1986年にA-4スカイホークからF/A-18ホーネットに切り替えました。

その後、2020年後半にF/A-18E/Fスーパーホーネットに移行するまで、
F/A-18モデルでパフォーマンスを行っていました。
わたしはアメリカ在住中、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ公園で
ブルーエンジェルスのパフォーマンスを見たことがあるのですが、
今にして思えば、そのときの機体はホーネットであったことになります。


【実戦】

F/A-18が初めて戦闘に参加したのは1986年4月のことです。

USS「コーラルシー」艦載のホーネット部隊が
「プレーリーファイア作戦」(Operation Prairie Fire)でリビアの防空を、
「エルドラドキャニオン作戦」(Operation El Dorado Canyon)
でベンガジを攻撃したときになります。

湾岸戦争では、海軍は106機、海兵隊は84機のF/A-18ホーネットを配備し、
 F/A-18のパイロットはMiG-21の2機撃墜を主張しました。

「砂漠の砂嵐作戦」におけるフォックス大佐
一回のドッグファイトで2機をほぼ同時に撃墜したとの本人談


この戦争では、両エンジンに被弾した一機のホーネットが、
約200km飛行して基地に帰還するという出来事があり生存能力の高さが証明されました。

しかも、その機体は数日後には修理され、再び任務に戻っています。

F/A-18は4,551回出撃し、3機の損失を含む10機が損害を受けていますが、
はっきりと敵の攻撃で失われたのは1機だけでした。

その1機はイラク空軍の航空機のミサイルによって撃墜されたらしく、
おそらく相手はMiG-25であったとされています。

また、2発の敵ミサイルを回避しようとした際に、
パトリオットミサイルによるフレンドリーファイアで誤って撃墜され、
墜落したところ友軍機と衝突し、2機とも失われたという例もあります。


【今後の運用】

海兵隊では2030年代までF/A-18を運用する予定ですが、
米海軍では、USS「カールビンソン」に搭載されたのを最後の運用として、
2018年3月12日にすでに終了しています。
その後、2019年2月、海軍の現役から退役しました。

■アグレッサー飛行隊
さて、それではここFLAMに展示されたホーネット、
アグレッサー塗装のF/A-18Aについてお話します。

その前に今更ですが、アグレッサー部隊についてお話ししておきます。

アグレッサー機-迷彩のスキームはソ連のマーキングを模している

アグレッサー中隊、またはアドバーザリー中隊は、
アメリカ海軍と海兵隊に存在する部隊で、軍事ウォーゲーム、模擬戦で
敵対勢力として行動するよう訓練された中隊を指します。

正規の部隊の中で「適役」のふりをするのではなく、塗装も完璧に、
尾翼には赤い星までつけてマジで敵になりきった部隊を作るわけです。

アグレッサー飛行隊は、情報によって得た敵の戦術、技術、手順を使用して、
リアルな空戦のシミュレーションを行いますが、
さすがに実際の敵機や装備を使用することは現実的ではないため、
潜在的な敵を模したサロゲート機で気分を出すわけです。
アグレッサー部隊というと、「トップガン」を思い出す方もいるでしょう。

1968年に海軍戦闘機兵器学校、通称「TOPGUN」が、
A-4スカイホークを使ってMiG-17の性能をシミュレートしたのが、
異種機を正式に訓練に使用した最初の例です。

この異種空戦訓練(DACT)が一定の成功を見たので、
空軍も負けじとT-38タロンを装備した初のアグレッサー飛行隊を設立しました。


【ドイツのアグレッサー部隊”ロザリウスのサーカス”】

いきなり話が遡りますが、第二次世界大戦時代は、
鹵獲した敵航空機を使ってこの手の模擬空戦が行われました。

たとえばドイツ軍には、捕獲したP-51やP-47などで構成された「Zirkus Rosarius 」(ロザリウスのサーカス)と呼ばれる部隊がありました。

なんたる違和感
サンダーボルトもこの有様

これは発案者のテオドア・ロザリウスという人の名を取っており、
鹵獲した米軍機にはルフトバッフェの塗装を施されていました。
この部隊はこの飛行機を各戦闘機基地に持ち回り、
上級パイロットに敵機を操縦させたり、模擬空戦を行ったりしていました。
ロザリウスのサーカス所属機一覧

イギリス王立空軍RAFでも、ドイツ空軍の戦闘機(Bf-109、FW-190)を
アメリカ空軍やRAFの基地に連れて行き、慣熟訓練を行った例があります。

【アメリカのアグレッサー飛行隊】

アメリカのアグレッサー飛行隊は、仮想敵国機を表現するために、
小型で低翼の戦闘機を飛行させることになっています。

アグレッサー機になったのは、ダグラスのA-4(米海軍)、
ノースロップF-5(米海軍、海兵隊、空軍)、
すぐに入手できるT-38タロンなどでしたが、
新型のF-5E/FタイガーII機が導入されるとこれに替わりました。

海軍と海兵隊は、最終的に、初期モデルのF/A-18A(米海軍)と、
特別に作られたF-16N(米海軍用)およびF-16Aモデル(空軍用)で
アドバーザリー部隊を形成しました。

アメリカ空軍は現在F-16Cが唯一のアグレッサー専用機です。

【外国機アグレッサー】

第二次世界大戦時のように「鹵獲機」ではありませんが、
外国機がアメリカでアグレッサーとして使用されたことがあります。

イスラエルのKfir戦闘機、ソ連のMiG-17、21、23の実物です。

また陸軍は、Mi-24 Hinds、Mi-8 Hips、Mi-2 Hoplites、An-2 Coltsなど、
11機のソ連・ロシア製航空機を訓練のために運用しています。
ちなみにMiは全部ヘリコプターとなります。


【アグレッサーの性能】

アグレッサーとして使用される航空機は通常、旧式のジェット戦闘機ですが、
1980年代半ば、アメリカ海軍はトップガンのA-4やF-5では、
MiG-29やSu-27のシミュレーションには力不足だと考え、
アグレッサー機コンペを開催しました。

このコンペでノースロップのタイガーシャークに勝ったのが
ゼネラル・ダイナミクス社のF-16Cファルコンでした。
海軍仕様のF-16Nは1987年から海軍戦闘機兵器学校で使用されましたが、
空中戦での連続的な高G負荷のため、わずか数年で主翼に亀裂が発見され、
1994年にはF-16Nは完全に退役しています。


米国のアグレッサー機は、一般的にカラフルな迷彩スキームで塗装されており、
米国のほとんどの運用戦闘機で使用されているグレーとは対照的です。
青(スホーイ戦闘機に使用されているものと同じ)、または
緑と大部分が明るい茶色(中東諸国の戦闘機と同様)で構成されています。


アメリカのアグレッサー部隊はカラフルな集団です。

半世紀近くの歴史を持つこれらの部隊の航空機は、
空戦で直面する可能性のあるものも含めて、様々な迷彩をまとってきました。
海軍のアグレッサー部隊のひとつ、バージニア州のVFC-12「オマーズ」は、
近年、敵の最新の塗装を模倣することで先導的な役割を果たしています。


オマーズの「スプリンター」ホーネットの一つ
VFC-12のジェット機の多くは青と白のフランカー・スキームを採用していた

アグレッサー部隊はスーパーホーネットに移行中という話もありますが、オマーズはいまだにレガシー機であるF/A-18 A-Cホーネットを使っており、
海軍予備軍のVFC-12飛行隊、VFA-204の「River Rattlers」、
米海軍テストパイロット学校(TPS)、海軍戦闘機兵器学校(トップガン)も
いまだにレガシー派です。

【航空自衛隊のアグレッサー部隊】

空自の戦術戦闘機訓練グループ、正確には飛行教導群は1981年に設立されました。

1981年に設立してすぐは攻撃機として三菱T-2を使用していましたが、
空中分解するなどの重大事故が発生したことから、
1990年からは三菱F-15J/DJ機に置き換えられました。
石川県の小松基地を拠点としています。
空自のアグレッサー部隊も、各基地を周り、2週間滞在して
そこで基地パイロットに「教導」を行うわけです。

F-15の精鋭部隊アグレッサー

独特の派手な塗装は識別塗装といい、一つとして同じものはありません。
しかし当たり前ですが、どんな塗装にも、翼には日の丸が描かれています。

「適役」なので、アグレッサー部隊のパイロットのフライトスーツにも
憎まれ役に相応しく、コブラやドクロ(額に赤い星)が描かれています。
ちなみに、連合国の「仮想的」になりがちなソ連空軍ですが、
当事者である彼らはアグレッサー機をどうしているのかというと、
F-15イーグルのように塗装されたMiG-29などを使っていたようです。


【民間のアグレッサー部隊】

アグレッサーミッションの中には、ドッグファイトなどではなく、
レーダーやミサイル、航空機の目標捕捉・追跡能力をテストするものがあります。

このような任務の一部は、元軍用ジェット機や小型ビジネスジェット機を
アグレッサーの役割で運用する民間企業に委託されており、
使用される機体は、

L39、アルファジェット、ホーカーハンター、サーブドラケン、
BD-5J、IAIクフィール、A-4スカイホーク、MiG-21、リアジェット
などとなります。

会社に所属するパイロットのほぼ全員が、退役軍人か、
予備役や空軍州兵などを兼務している軍人で、戦闘機の操縦経験があります。


【FLAMのF/A-18A ホーネット - VMFAT-101】

海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊(VMFAT)101のペイントスキームを採用しています。

この部隊は現在、MCASミラマーを拠点としており、その任務は
F/A-18ホーネットの交換用エアクルー(RAC)を訓練することです。

44週間の訓練プログラムで、新人パイロットに様々な戦闘シナリオでの
F/A-18の使い方を教えますが、それは4つのフェーズに分かれています。
フェーズ1 "過渡期Transitionトランジション "
NATOPS(Naval Air Training and Operating Procedures Standardization)

航空機の戦闘システム、ナビゲーション、
夜間飛行、編隊飛行、基本的なレーダーインターセプトなど、
航空機の基本的な手順に焦点を当てています。
フェーズ2 "攻撃 Strike "

基本的な急降下爆撃、低高度戦術、高高度目標攻撃、
統合直接攻撃弾(JDAM)の使用、近接航空支援、暗視ゴーグル飛行など。
つまり、このフェーズでは、地上攻撃ミッションの方法を学びます。

フェーズ3 "空対空 Air to Air "
F/A-18での基本的な戦闘機操縦(BFM)でのドッグファイトの方法を学びます。
フェーズ4 "空母適性 Carrier Qualification "

空母着艦の練習をする、パイロットにとって最も厳しい期間です。
この段階での最終テストを終えたパイロットは、艦隊の飛行隊に配属されます。



このF/A-18Aは、1987年、MCASエルトロの
海兵隊打撃戦闘機群314飛行隊(VMFA-314)に初めて納入されました。
続いて海軍の打撃戦闘機群125(VFA-125)の「ラフレイダー」、
再び海兵隊に戻り、VMFA-531の「グレイ・ゴースト」に所属。
2005年に退役してこの博物館にやってきました。

続く。

京都紅葉のライトアップ(おまけ 国際空港のコロナ水際対策の現状)

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昨日MKがアメリカから帰国してきました。

成田に迎えに行ったのですが、結論としては連れて帰ることができませんでした。
今、海外からの入国状況がえらいことになっています。

迎えに行く前日、厚労省のHPに
「到着から検査が終わって外に出てくるまでの所要時間は1〜3時間」
と書かれていたので、自分の経験から、到着時間2時間後に
空港に着くように家を出たわけですが、駐車場に到着してから
MKからきたテキストを見てびっくり。
「着いた でも3日間ホテルで待機」
えええ〜!

オミクロン株の感染者が急激に増えたことを受け、水際対策が強化されて、
対象地域から入国した人は有無を言わさず3日ホテルで隔離され、
その後PCR検査で陰性なら空港に戻されるということになったのです。


いきなりの変更だったため、航空会社からの連絡などが全くなく、
わざわざ成田までいったのに連れて帰ることはもちろんできず、
(拒否したら『検疫法に基づく停留の措置を取る』とのこと)
ゲートから出てきてバスに乗せられるMKを見て帰ってきました。

帰ってSkypeで聞いたところによると、彼が連れていかれたのは水戸でした。

「水戸?なんで水戸」
空港から水戸まではバスで1時間半。検疫所が棟ごと確保できるホテルが、成田&羽田周辺では足りなくなり、
急遽遠隔地のホテルを待機用にしているらしいのです。

ホテルに着いたMKによると、ベッドはメイクされておらず、
シーツも3日分積み重ねてあり、(ハウスキーピングが入れないから)
食事は時間になればドアのノブにかけてあるという拘置所並みの待遇だとか。

「こんな目に遭うとわかってたら絶対帰ってきてない」
まあそうだよね。

後から分かったところによると、水戸くらいならまだマシで、
便によっては、入国後そのまま飛行機に乗せられて福岡や名古屋に飛ばされ、
現地のビジホで3日待機して、また国内便で戻ってきているのだとか。

どんなイカゲームだよ。イカゲーム知らんけど。



さて、気を取り直して、今日はこの秋唯一の行楽となった
京都の紅葉見物旅行のご報告です。

旅行といってもTOは定期的に京都に仕事で行っており、秋からは
それまでリモートで行っていた各種作業が自粛明けにより
対面に変わったので、それに着いていったという程度ですが。
宿泊は前回もお世話になった祇園白河の料理旅館です。

今回は三年前に町屋を改築した別館の方に泊まりました。
暗証番号で鍵が開く方式で、一階と二階に一室ずつがあります。


寝室と座敷別、トイレと風呂は二箇所あって外国人もOK。
この日はもともとスイスからの家族連れが一棟全部予約していたのを
キャンセルして空きが出たので泊まることができました。

次の朝、表通りから人の声が聞こえてきました。


この近くには結婚式プランナーの事務所も多く、吉日の朝になると
この通りで町屋をバックに写真を撮る新郎新婦が何組も現れます。

「過激な愛情表現はご遠慮ください」
「大声での撮影指示などはご遠慮ください」
そんなポスターが街角に貼られるくらい、ここは結婚写真撮影の名所で、
人通りの少ない朝の時間帯にフォトセッションがいくつも行われるのですが、
ポーズをつける人が笑ったりする声が、案外家の中に響いてきます。

まあ、中国人観光客が京都中にあふれていた頃は、
聞こえてくる声の大きさはこんなものではなかったわけで、
今回の京都は人出の多さの割に街は静かな印象でした。
また、着物を着付けて街中を歩く女性は何人も目にしましたが、
皆日本人のせいか、とんでもない着付け(服の上に着物を着て靴はブーツとか)の
思わず目を背けたくなる集団がいなくなったのにはほっとしました。


関西ではCMにも出ているらしい女将は、元CAで英語も堪能。
泊まるたびに毛筆の心のこもった手紙を下さるのですが、
この日、チェックアウトの日に置かれていたのは
鳥獣戯画にさりげなく筆を加えた傑作でした。


マスク未着用のうさぎ、密そのもののお相撲を撮るウサギとカエル。


こちらのウサギさんはマスク着用です。


この後、非常事態宣言は解除されました。

ここでちょっと不思議な話を。

前回姉と妹が一緒にこの旅館にきてこの部屋に泊まったのですが、
妹がスマホで撮ったこの庭の写真には、半分透けた男性が写っていました。
「板前さんだ」「板前さんにしか見えないね」
男性は角刈りで、10人に見せたら10人が板前だというような容姿をしていました。
昔から同じこの場所で歴史を重ねてきた料理旅館ですから、
板前さんの想念が留まって居ても不思議ではないという気がします。
そのことを思い出しながら、今回何枚か撮りましたが、
わたしの写真にはその気配もありませんでした。


ここで鱧鍋をいただきました。
松茸が香りを添えます。

柿をくりぬいた中にぬたっぽいものが入った前菜。

別の日にはキノコたっぷりの「猪鍋」をいただきました。
薄切りにした猪肉は京都の名物で、あっさりした味わいです。

京都に来るとつい行きたくなるのが、鶏料理の八起庵。
TOは京都に行くたびに必ずといっていいほどここでお昼を食べ、
それから仕事に行っているので大将とも顔馴染みです。

この日は前もって予約して鴨鍋をいただきました。
先日東京の蕎麦屋で食べた鴨つけ蒸籠の鴨は固くてパサパサで、
まるでレバーのような味がしましたが、ここのはそんなのとは違い、
噛み締めるとじわっと旨味が感じられます。
「カモがネギ背負って」といわれるくらい、ネギとの相性は絶妙。
京都に行くことがあれば一度はお試しいただきたい、滋味なる一品です

タクシーに案内してもらって比叡山延暦寺に行きました。
延暦寺の根本中堂は現在大改装工事中です。

屋根を解体して葺き替えするのですが、作業のために
中堂全部を建物で覆ってそこで作業をしているのです。

逆に滅多に見られない葺き替え過程を見るチャンスです。
梁などには、前の改築のときの大工が残した署名が出てきたりするそうです。
100年に200年後の人々に見せるために自分の名前を書くのは
宮大工に与えられた密かな喜びだったに違いありません。


新し物好き&コーヒー好きの京都ですので、
やっぱりブルーボトルコーヒーが進出しているのでした。


さすが京都、古民家の壁をそのまま残して。
昔は料理屋だったのかもしれません。



わたしはノンデイリー(牛乳断ち)派なので、代わりに
オーツを使ったラテを楽しみますが、オーツと一言で言ってもいろいろあって、
一番美味しいと思うのがイギリス製のマイナーフィギュアズのオーツドリンク。

アメリカでは3ドルで買えるのに、日本ではお高いのが困りものですが、
ブルーボトルコーヒーでは、このオーツで作ったラテが飲めます。



いよいよ紅葉の季節到来です。
まずは旅館から歩いていける南禅寺に行ってみました。



なぜここから撮るのにこれだけ人が集中するのか。


ゆるキャラ風仏様。


南禅寺から哲学の道まで歩くことにしました。



哲学の道沿いでは、左耳を避妊済みとしてカットされたメスの「地域猫」が、
毎日餌をやりに来る近所の「猫おじさん」の出待ちをしていました。


紅葉の名所のひとつである永観堂では、この季節
夜間のライトアップを公開していました。
基本的に京都というところは夜になると神社仏閣は明かりを消して
その周辺すら真っ暗になるというイメージですが、
LEDの登場以来いろいろと変わってきたということです。

自粛が明けたばかりで、昼間の永観堂の参拝(っていうのかな)者も
大変な人出だったそうですが、夜の部のために一旦全員を追い出し、
改めて入場料を取って人を入れるということをしていました。


チケットの購買だけでなく、検温も行うので、
中に入るのにとてつもなく時間がかかりそうです。

わたしたちはこの1ヶ月前に一度京都に来ており、
誰も居ない状態の永観堂を拝観していたので、諦めて帰りました。

この日の夕ご飯は、四条の有名なニシンそばを食べに行きました。
お店の地下は地元のライオンズかロータリーの会合が行われており、
その談笑が1階に居ても聞こえてくるというくらい盛会の模様。
女将によると、自粛が明けてから集まってくる方々は
皆嬉しさのせいか、はしゃいで飲みすぎる傾向にあり、
女将の旅館でも酔っ払って旅館を出た途端転んで怪我をしたり、
ハメを外しすぎてハラハラさせられたりするのだとか。

またこれも女将によると、自粛中は、舞妓・芸妓の同伴も
時間制限が設けられており、8時以降お店にいると「自粛警察」の指導を受けます。

自粛警察は祇園の「中の人」が自主的に行うもので、これは、
舞妓ちゃんや芸妓ちゃんがいる席が感染源にでもなったら「えらいこと」で、
花街が「あかんようになってしまう」という危機感から行われていたとのことです。

そのときは自粛が明けた直後で、女将もこのような話を
思い出のように語っておられましたが、はてさて、
今回のオミクロン株、果たして事態はこのまま何事もなく収まるものでしょうか。

今回MKの入国でわかったのは、政府が必死で水際対策を行っていることですが、
人の流れを完全に止めるわけにはいかない現状ではどうなっていくことやら。



映画「Uボート 最後の決断」〜”Meningitis"

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本年最後の紹介となる映画は、やはり潜水艦ものになってしまいました。

戦争映画というジャンルの中でその評価の良し悪しを問うことなく、
時には「悪食」というレベルの駄作も紹介し世に残すのが
当ブログ映画部の使命と心得てきたわけですが、
こうやって取り上げる以上、作品が面白いにこしたことはありません。


正直ここのところ、ニュース映像の繋ぎだけでできた作品とか、
明らかなプロパガンダ映画とか、意余って力もあまり過ぎたあれとか、
映画会社の社長の愛人を主役に映画を撮ることだけが目的だったあれとか、
ジョン・ウェインものとか、映画の出来以前に面白くない作品が続きました。

ですから、最後まで手を止めず「ながら見」もせず、
画面を凝視しているうちに映画が終わったことに驚き、
そして久しぶりに映画らしい?映画を楽しんだ、という気分になったものです。

その面白かった作品とは、2004年度作品
「Uボート 最後の決断」、原題「In Enemy Hands」。

最初にお断りしておきますが、この映画に潜水艦映画として、
つまり軍事的リアリティに対し評価を下すのは大間違い。
それほど戦争や潜水艦に詳しくない人でも常識を働かせれば、
あり得ないことや非現実的な展開が嫌でも目に付くというレベルです。


しかしそれをおいても、この映画が観るものを決して退屈させずに
最後まで引き込んでいくということは、このわたしが保証します。
おまえに保証されてもな、という向きもありましょうが。

そして、あるあるパターンというか、容易に着地点の見当がついてしまう
従来の戦争映画とは全く違い、この映画の展開は予測不可能で、
「画面から目が離せない」というアオリ文句が誇大ではないということを、
是非申し添えておきたいと思います。

というわけで、この映画はいつもより「ネタバレ」が憚られます。

映画を見る前に決して前情報はいらない、という主義ならずとも、
ここまで読んで少しでも興味をお持ちになった方は、
必ず映画を観てから本稿に目を通されるか、
あるいは以降をスルーしていただくことをお勧めしたうえで始めます。





Uボートが進水を行っているモノクロフィルムから映画は始まります。



Uボートの進水は造船台から真横に滑り込む方法です。
ナレーションはこのようなものです。



ドイツはUボートの生産を1,000%増やし、月に17隻を大量生産した。



ヒトラーは、ヨーロッパでの戦争に勝つための鍵は
大西洋を支配することだと考えており、
その狙いは的中した。





1942年までに、ウルフパックと呼ばれた潜水艦群は、
1,000隻以上の連合国の船を沈めた。



彼らの成功はドイツに決定的なアドバンテージを与えることになる。



ドイツは戦争に勝ちつつあった。
そして、そのままいけば、ヨーロッパ全体が敗北したであろう。



しかし、チャーチルとルーズベルトは、会談において
Uボートの殲滅を誓い合い、技術を結晶して反撃にでたため、
それからUボートの「没落」が始まった、と続きます。

最初の2分間で「Uボートの栄枯盛衰」がさっくりと説明されるわけです。




1943年6月3日、大平洋艦隊司令部で、潜水艦長として志願し、
来週出航することが決まったランドール・サリバン少佐が
ケンツ提督と会談しています。

提督は軍人だったカーン少佐の父親の知己であったようで、
「父上のことを思ってこれまで君を後方に配置していた」

と特別扱いしていたことを直球で言い出すのですが、そんなことってあり?

提督は、彼の艦の先任伍長がネイサン・トラヴァーズであると聞くと、
「彼は頼りになる男だ」
と太鼓判を押します。



この映画のちょっと変わっているところは、艦長ではなく先任伍長、
アメリカ海軍の「チーフ」が主人公であることです。
そのチーフ、ネイサン・トラヴァーズを演じるのはウィリアム・H・メイシー。

バイプレーヤーとして(もしアメリカに同名のドラマがあれば絶対出ている)
誰でも顔は見おぼえがあるという俳優ですが、
いかにも本当にいそうな先任伍長役のこの人が主役ということが
まずこの映画の普通と違うポイントです。



そしてこのおじさんに不釣り合いなくらいの美人妻がいるという設定・・・。
あれ?この人どこかでみたことないですか?



ほら、これですよ。エミリー・レイク大尉。
そういえばあれも潜水艦ものだった・・・
「イン・ザ・ネイビー」(ダウン・ペリスコープ)
の紅一点サブマリナーを演じた、ローレン・ホリー。



しかも、この映画の夫であるメイシー・ウィリアムズは、
同じ映画で主人公と模擬戦をする原潜の艦長役でした。

これ絶対わざとキャスティングしてるだろ。



2ヶ月後の大西洋。
そこには、ヨナス・ヘルト(Jonas Herdt)艦長が率いる
U-429が、敵との攻防を繰り広げていました。
U-429は実在したUボートですが、この映画との関連性は全くなく、
実際は米軍の空襲で係留中無人のまま45年3月に撃沈されています。



駆逐艦から雨霰と落とされる爆雷をじっとやりすごし、その後反撃に出て
逆に相手を撃沈するという老練な戦いをする艦長の下には、
ファースト・ウォッチ・オフィサー(副長)のルードヴィッヒ・クレマーがいます。
(タイトル画の右側は実はこの人だったりする)



こちらは同じく大西洋。
これも実在した潜水艦USS「スウォードフィッシュ」が登場します。
しかし、史実的にこの映画の大前提はアウトです。
第二次大戦中、大西洋に展開したアメリカの潜水艦はほとんどなかったからです。
実際の「ソードフィッシュ」も太平洋で日本船を沈め、最後は
日本海軍に撃沈されて消息を絶ったといわれています。

近年の映画でアメリカの潜水艦はよく大西洋上のUボートと対決しますが、
もはやこれはSFと言ってもいいくらい「無い話」なのです。

そもそも「潜水艦対潜水艦」というシチュエーションが、場所を問わず
第二次世界大戦には起きなかったということを、
特にハリウッドの潜水艦映画は全く無視していると言えましょう。

潜水艦同士しかも米潜とUボートの対決、これらはいかにも
戦争アクションとして「美味しい」シチュエーションなので、
ハリウッドがやたらこのパターンにこだわるのもわからないではないですが。



「ソードフィッシュ」では出航以来3ヶ月、新米艦長が張り切って
何度も訓練を行うので、嫌気が蔓延していました。

新米の艦長がベテランチーフに対して持ちがちな気遅れを
持っているがゆえに、自信のなさから訓練を無闇に繰り返す。
それに対し乗員は不満を持つ。
さらにそれを敏感に感じ取り、チーフが彼らを抑えられないことに苛立つ。
サリバン艦長はこんな拙いスパイラルに陥りかけていました。

苛立ちと焦りから、艦長はチーフのトラヴァースを呼びつけて、
訓練のタイムが上がらないと叱責しますが、
チーフからは、もう少し皆にゆとりを持たせてはどうか、
と逆に具申されてしまいます。
ここでまた艦長はチーフの面従腹背を敏感に感じ取るのでした。


こちらはU-429。
こちらは実際にドイツで建造された本物のUボートを使用しています。
ただし、建造してすぐイタリア海軍に譲渡され、
イタリア降伏後はドイツに戻って訓練艦となっていました。
もちろんイタリア海軍のもとで戦闘を行なったことは一度もありません。

それが喪失を免れた理由となったようです。

Uボートの艦長室では、艦長と副長がチェスをしながら会話をしています。
この会話が、2度目に見ると伏線のオンパレードでした。
お節介ですが箇条書きにしておきます。
1、お前(副長)は本来ならとっくに艦長になっているはずだと艦長が説教2、こちらの魚雷は半分が不発である3、戦局が好転すれば「生きて祖国に帰れる」

4、エニグマ暗号機による通信


そのエニグマで送られてきた通信には、
「艦長の娘の学校が爆撃され、生存者はいなかった」
というニュースが書かれていました。
敵側にあえて「同情ポイント」をあたえる、という手法は
最近の戦争ものでは珍しいことではありませんが、
この映画では互いの個人的事情については敵味方問わず公平に描かれます。
というのは、この映画の立ち位置が「戦争は善対悪の戦いではない」という、
多くの戦争映画が意識的にしろ無意識にしろ、見てみないふりをしている
この一点の上にあるからだとわたしは思います。

ちなみにこのシーンで、通信士が艦長に「ヘア・ヘルト、ヘア・クレマー」
と呼びかけますが、ドイツ海軍では「Herr」の後には階級がくるので、
正しくは「ヘア・カピタン」とか「ヘア・カーロイ」となるはずです。


こちら「ソードフィッシュ」では、27回目の演習に乗員たちが不平たらたら。


中間管理職の任務として、チーフはそんな彼らをたしなめます。
たとえ艦長のやり方に個人的に疑問があったとしても、艦長と乗員の間を取り持ち、
艦を円滑に運営するのが彼の仕事だからです。

とのとき、彼我双方の潜水艦の乗員の運命を変える出来事は
「ソードフィッシュ」のトイレで起こりつつありました。
「ソードフィッシュ」副長が昏倒していたのです。
軍医は念のため彼の隔離を命令しました。
「髄膜炎の疑いがある」
髄膜炎がどんな恐ろしい病気かは、調べていただけるとお分かりでしょう。
「狭い密室」「濃厚接触」「劣悪な生活環境」「ただちに専門的なケアができない」
このような条件下そのものである潜水艦内に感染者がいたら?
考えただけでぞっとするシチュエーションですね。
しかし、艦長は危険海域に入ったという理由で、
副長を「生きている限り」現場に立たせるように命令しました。副長の病気を知っているはずなのに・・。

((((;゚Д゚)))))))

その2日後、同じ海域に別のUボート、U-821がいました。
通信士がグレン・ミラーのジャズの放送をキャッチすると、
艦長は何を思ったか、それを艦内に流すよう命令します。
実際のU-821は、1945年3月、イギリス空軍機4機とと海面で交戦し、
モスキート1機撃墜と引き換えにロケット弾と爆雷を受けて轟沈しています。

その音楽を聞きつけたのは「ソードフィッシュ」のソナーマンでした。
艦長はすぐさま攻撃を命じます。

危険海域でジャズを鳴らす艦長も大概ですが、ジャズが聞こえただけで
相手がUボートだと判断したというこの設定もすごいですね。


しかもここでこの映画は、それ以前の大きなミスを二つしています。
まず、「ソードフィッシュ」の撃った魚雷は、Uボートの近くで爆発しますが、
近接起爆装置を備えた魚雷でないとこのようなことにはなりません。

確かにアメリカ、イギリス、ドイツは、いずれも大戦初期ごろ
磁気近接起爆装置の研究を行っていましたが、問題が非常に大きいため、
すぐに使用をやめ、戦争の残りの期間、接触起爆装置を採用していたのです。
それから、本作で当たり前のように行われている潜水艦同士の撃ち合いですが、当時の魚雷は誘導式ではなく、一旦発射すれば直進するのみ。
しかも探知は多くを聴覚に頼っていました。
目視できない潜水艦に魚雷が命中する可能性はほぼゼロだったといえます。

従って、第二次世界大戦当時、潜水艦による潜水艦への魚雷攻撃は不可能でした。
しかるに、潜水艦同士でドンパチやりあうこの映画を
「全く価値のないゴミ戦争映画」と一刀両断する評価が後を断たないのです。

だが待ってほしい。
あなたはスーパーマンや猿の惑星に科学的根拠を求めますか?
この映画も「戦争SF」というジャンルだと思って観ればいいのです。
「もし大西洋でアメリカの潜水艦とUボートが対決したら?」

というお題の「仮想空想科学映画」だと思えばいいのです。
というわけで、この映画では、あたかも西部のガンマンの撃ち合いのように、
2隻の潜水艦からほぼ同時に相手に向かって魚雷が放たれ、中央ですれ違います。

そんな行き詰まる潜水艦対潜水艦の対決の場から4千m離れたところに
状況を見守っているU-429がいました。
「ソードフィッシュ」の魚雷はU-821に命中し、爆破させ、
その知らせを聞いた乗員は一瞬沸き立ちます。

中にはとたんにタバコを咥えて火をつける水兵がいますが、これもアウトで、
当時のディーゼルボートの内部は油分を含む蒸気とバッテリーからくる水素が充満していたため、火気厳禁とされていました。
喫煙は浮上して甲板ですることになっていたはずです。
「撃沈なんか簡単さ!」
つい艦長が調子こいてこんなことを言った途端、
倒れたままの副長の様子を見たチーフが一言。


「死んでます」
えええええ!
それは打ちどころが悪かったとかではなくて?


次の瞬間、「ソードフィッシュ」を狙いすましたU-821の魚雷が襲いました。

炎上する機関室、即死する機関員。
エンジンが停止し、たちまち前部魚雷発射室から浸水が始まりました。



サリバン艦長は艦を浮上させ、チーフに促されて
わかってるよ!と言いながら「総員退艦」を命じました。
今やろうと思っていたことを人に言われるのって嫌なもんですよね。

ところが艦長、全員が退出した後、ふらふらと艦内に戻っていくではありませんか。

「部下が先だ」
残りはもう全員亡くなっているというのに?
しかも、チーフに向かって、自分は艦と運命を共にする、などと言い出します。

この言動には、艦長だけが心に止めているある重大な秘密が関わっています。

そんな艦長を無理やりチーフが艦から引きずりだした後、
(潜水艦から人事不正の人を引き摺り出すのは物理的に至難の技だと思いますが)
文字通り「棺」となった「ソードフィッシュ」は爆発大炎上しました。

続く!

映画「Uボート 最後の決断」〜”Laconia-Order"

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映画「Uボート 最後の決断」In Enemy Hands、続きです。
前回タイトルの”Meningitis”は、「髄膜炎」のドイツ語です。
伝染性の死病である髄膜炎に罹患した副長が、
よりによって潜水艦に乗り込んでいたという設定が、
これまでの戦争映画にはなかった新機軸であるわけですが、
その副長はすでに戦闘のどさくさに亡くなってしまいました。
その後、Uボートの攻撃により「ソードフィッシュ」は海の藻屑に。
というのが前回までの話です。

爆発シーンの後闇が訪れ、それから急に画面が妙に明るくなりました。


画面は明るくなり、チーフが妻と過ごすサンクスギビングの映像が現れます。おそらくこれは彼の妄想なのだろうと誰もが思うでしょう。
現実はこうでした。


彼らはU-821に捕獲され、捕虜になってしまったのです。
服を脱がされ、その格好で乗員の中を歩かされるという恥辱。
本日のタイトルは、その時の彼らの顔を描きました。
映画解説によると捕虜は8人ということでしたが、なぜか
写真が7枚しかなく、誰か一人書き損なってしまいました。
どちらにしても超脇役なので、まあいいや。

ともあれ、オハイオ級潜水艦でもどうかと思われる人数(8人)の捕虜を
Uボートに収容する、というこのシチュエーションが、
この映画の最も大きなツッコミどころです。

Uボート乗員もむろん全員がそう思っていて、艦長の決断を訝しんでいます。

まだ食料はあるから捕虜は補給船に移送する、と艦長は答えますが、
全く捕虜獲得の理由の説明になってません。クレマーがダイレクトに「なぜ」と聞いても、返事は
「黙って君は補佐をしていろ」で話にならず。

艦長、大丈夫か?

ところで、Uボートの艦長室にはカール・デーニッツの写真が飾られています。

そのデーニッツはラコニア令(Laconia-Befehl)によって、
連合軍の生存者の救助を禁じる命令を出しています。

ここで映画からは外れますが、このラコニア令発令の原因となった
「ラコニア事件」について説明しておきます。

従来ドイツ海軍の艦艇は連合軍の沈没船の生存者を救出するのが通例でした。
しかし、1942年9月、大西洋西アフリカ沖で、沈没したRMSラコニア号の生存者を
救出したドイツ軍のU-156、U-506、U-507は、
連合軍兵士と多くの女性や子供が乗っていることを事前に伝え、
赤十字の旗を立てていたにもかかわらず、
米軍のBー24リベレーターの爆撃を受けたのです。
Uボートが救助した生存者は1,619名、攻撃で死亡したのは1,113名でした。
安導権を破った米軍のパイロットも指揮官も処罰や調査を受けず、
それどころか、B-24のパイロットたちは、U-156を撃沈したと誤って報告し、
その戦功に対し勲章を授与され、事件はなかったことにされました。
この事件後、デーニッツは「ラコニア令」を発令したのです。

沈没した船の生存者を救うために、救命ボートに乗せることや、
横倒しになった救命ボートを直すこと、食料や水を渡すことなど、
すべての努力を禁止する。

救助は、敵船と乗組員の破壊という戦争の
最も基本的な要求に反するものである。
船長と機関長の連行に関する命令は有効である。
生存者は、彼らの発言が船にとって重要である場合にのみ
救出されるべきである。

厳しくあれ。我が都市を爆撃するとき、敵は
女性や子供を顧みないことを忘れてはならない。

戦後、ニュルンベルク裁判で、検察側はデーニッツを戦争犯罪に問うため
このラコニア命令を証拠にしようとしました。
しかし、そのために米軍の国際法無視の一般人殺害が明るみに出て、アメリカは大恥をかくことになったとされています。

さらに、この映画の舞台は1943年の後半ということになっていまあす。
ということは、前年にデーニッツのラコニアオーダーは発令されており、
艦長のこの決定はその命令に背くことになるのです。
・・・アウトですね。




不思議なことはまだまだあって、捕虜は見張りなしで機関室に入れられ、
そこで見張りなしで自由に会話しているのです。

このとき一人の水兵が
「やつらはおれたちをユダヤ人みたいガス室に入れて殺すんだ!」
とパニクるのですが、これも大間違い。
ユダヤ人強制収容所のことが明らかになったのはすべて戦後のことで、
戦時中、ましてや一兵隊がこんなことを知っているはずがありません。



さらに、チーフが無理やり引っ張ってきた艦長の様子がおかしい。
キリッとして、チーフに頓珍漢な命令したかと思ったら倒れこんでしまいます。


これは・・・助けたチーフを恨んでいると見た。これ以降、生存者は艦長はもうダメと見てチーフを最先任とみなし始めました。

敵を助けるつもりで引き入れたのだとしたら許さない、
という「反対派」最先鋒はクラウズ水兵です。

クレマー副長も全く納得していませんが、こちらもまたこちらで、
副長として兵を宥めなくてはならない中間管理職の辛い立場なのです。

捕虜だけにしてくれたのみならず、彼らにはちゃんとした食器に入った
ちゃんとした食事が出されました。
食事を持ってきたUボート乗員に、喧嘩っ早い機関兵曹が、
「失せろこのクラウト!」
(アメリカ人がドイツ人を罵るときの言葉。ザワークラウトから)
などと挑発しますが、彼らは命令されているので無視。

落ち着いて食べられるようにドアも閉めてくれるという気遣いぶりです。

艦長はチーフだけにそっと腕の内側の発疹を見せました。
なんと艦長も髄膜炎に罹患していたのです。
(それにもかかわらず、隣にくっついてご飯を食べるチーフ)


そこにクレマー副長がやってきて、最先任と話したい、と
完璧な発音の英語で言います。

まず、艦長はどうなった、という質問には、
「死んだ」
「艦とともに沈んだのか」
「そうだ」

実際は助かってそこにいるわけですが、
チーフは助からなかったことにして存在を隠しました。
艦長なら他の乗員より命の保障はされるはずですが、
何よりドイツ側に捕虜になったときに、
兵には分からないレベルの機密を尋問されることになります。

それに、「かつての艦長」はすでにここにはいない、というのは、
ある意味嘘ではないと言えないこともありませんし。
 
捕虜は二つのグループに分けられ、手錠で手を天井に拘束されます。
これも現実には馬鹿馬鹿しい設定としか言いようがありません。

二つに分けられたグループのうち、艦長のいるメンバーが
艦長の髄膜炎に気がつき、怯え出します。
排気パイプかなにかに鎖で縛って立ったまま捕虜が3昼夜過ごすうち、
隣に縛られた水兵の腕に発疹が現れました。
 
Uボート乗員もバタバタと倒れていきます。
艦内のあちこちから咳が聞こえてきます。
髄膜炎の怖いのは、頭痛などの症状が出てからすぐ死んでしまうことです。

しかも、補給を行う予定海域には船が来ていません。


そこにいるのはアメリカの駆逐艦だけ。

この今の状況で・・・・。
攻撃を躊躇う艦長に乗員の目が集中しました。
全員の命が彼の命令にかかっています。


艦長が選択したのは攻撃でした。

艦内の空気から、さすがは同業者、捕虜たちは魚雷攻撃が行われると察します。
「攻撃を何とかして止めなければ!」

この映画の「穴」は至るところにありますが、大人がぶら下がったら
簡単に折れる排水パイプに4人を縛っていること、
そんな彼らの近くで魚雷発射作業をすることなどはその最たるものです。

ほらね、あっという間に自由になった。
あとは看守を倒して鍵を奪うだけです。
しかも、艦内を知り尽くしているかのように、魚雷発射ボタンを勝手に押して、
(ペチコート作戦かよ)魚雷を無駄にしてしまうのです。

魚雷の爆発した飛沫でUSS「ローガン」はUボートに気づきました。
ちなみに「ローガン」は実在しますが、APA196の攻撃型輸送船です。
画面の駆逐艦は486の艦番号をつけていますが、この番号は
潜水艦のもので、USS「アイレット」SS-486のものです。
急速潜航をするUボート、乗員は
「人間バラストになるために全員が艦首に向かって走っていく」
というのを再現します。

これも「Uボート」リスペクトかな?


怒り心頭の副長はついついチーフに銃を突きつけてしまいますが、
チーフは冷静に、「今撃ったら艦体に穴が開くぞ」
あー・・。水圧がね・・・。

駆逐艦から落とされる爆雷を待つ間、落ち着き払っている艦長。

かたやサリバン艦長は、爆雷のどさくさに起こった混乱で
部下を守って自分が銃弾を受けてしまいました。


「艦長が死んだ・・・」

Uボート乗員も、アメリカ軍が伝染病を持ち込んだことに気づきました。
チーフを呼びつけ、それが髄膜炎であると知ります。

身動きできない海底で、広がっていく恐ろしい伝染病。
米独サブマリナーたちは奇しくも「一つのボート」に乗り合わせ、
同じ運命を享受することになったのです。

アメリカ人捕虜が持ち込んだ伝染病が髄膜炎だと知り、ヘルト艦長は、捕虜を含め生き残ったものに吸入器を使わせる決定をします。
海面では駆逐艦がいつまでも居座ってしつこく爆雷を落としてきます。
(いくら駆逐艦でもそんな暇じゃないと思うけど)

拘束されていた機関員のロマノが亡くなります。
しかし残念ながらこの俳優、ツヤッツヤの肌をしていて、
とても健康そうで、全然髄膜炎で亡くなるように見えません。
せめてもう少しメイクを頑張って欲しかった。



Uボート乗員も次々死んでいきます。
全滅したバンクの前で艦長は頭を抱えます。
頭抱えてんじゃねーよ。おめーのせいだ。

そこにまたしてもチーフの妄想上の妻が登場。
わたしはこの映画を面白かったとは言いましたが、秀作とは一言も言っていません。
こういう、妻を妄想するシーンなどは何もかも陳腐でうんざりしました。


いよいよ空気が乏しくなってきて、艦長は浮上を決断しました。
「下で死ぬか上で死ぬかだ。上ならまだ希望がある」

次の瞬間、Uボートはまるでワープしたかのように浮上しており、
ハッチの下で乗員が貪るように空気を吸っております。(手抜き)このシーンも『Das Boot』リスペクトといえないこともありません。

さあ、伝染病にかかったアメリカ軍潜水艦乗員捕虜を乗せた結果、
病気はばらまかれるわ反乱を起こされて攻撃失敗するわ、
それこそだからいわんこっちゃないという状態になったUボート。
デーニッツの「人命救助禁止令」をご紹介してまで、
この艦長の決定は現実には1000%起こりえなかったことを説明しました。

映画としても、なぜそこまでして艦長が捕虜を乗せたのか、
それを観客に納得させる義務があるとすら思いますが、
今のところ、それは全く語られておりません。

なにか事件があったかというと、それは「ソードフィッシュ」攻撃前に
艦長の娘が爆撃によって死んだという知らせを受けたことですが、
そこまでショックなことがあったなら、むしろ逆に、
娘の命を奪った連合国の敵への復讐として海上の敵を掃射しそうなものです。
と、深く考えれば考えるほどこの艦長の決定はおかしい、
という結論にしかたどり着かないのですが・・・・・・。


捕虜に食事を運んできたUボート乗員(軍医)が、手元の写真を見て
「家族か?」と話しかけてきます。


互いに息子の名前まで披露しあって敵味方同士和んだのですが、


そこにクラウズがやってきて、写真を破り捨てました。
彼は艦長命令でトラヴァースを呼びにきたのです。


「君の部下は上の命令に忠実か?」「そうだ」「なら、もし私が上に立ったとしたら?」「・・・・・・・?」

ヘルト艦長はトラヴァースチーフに何を提案しようとしているのでしょうか。
続く。

映画「Uボート 最後の決断」〜”In Enemy Hands ”

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     「Uボート最後の決断」後編です。

原題の”In Enemy Hands"は、「敵の手(で)」と訳せばいいでしょうか。
今までのところ話を4文字熟語で表すならば、「呉越同舟」だと思いますが。
さて、ヘルト艦長がトラヴァース先任を呼んで依頼したこと。
それこそがタイトルの「猫の手も借りたい」(意訳)そのもの、
つまり敵である君らの手を借りて操艦したい、ということでした。

「アメリカ沿岸で艦を始末してから投降する。君らは帰国しろ。
その代わり、我々を寛大に扱い帰国させるよう取り計らえ」

なんと思い切った決断をしたものです。ヘルト艦長は乗員の命と引き換えにアメリカ軍に投降することにしたのでした。

しかし、彼らの乗っているのは他でもないUボート。
東海岸に到着するまでに米艦艇と出会ったらどうするの?
相手を攻撃する?
そんなことが「敵の手を借りて」できるとでも?
わたしですら、すぐさまここまで考えるのに、艦長もチーフも、
全くそのことを想定しないし、考えのすり合わせもしないんですよ。



もちろんこの案に対しては、アメリカ側乗員も拒否反応しかないのですが、
生きて帰ろうとすればそれしかない、とチーフは彼らを説得します。



というわけで話はあっさりとまとまりましたが(まとまるなよ)、
米独の乗員たちはキャビンの右と左に分かれて睨み合い。



そこにチーフと艦長がやってきて、それぞれの「対番」を選びました。
まず、ミラーが組むのはクレマー副長。



機関のオックス(牡牛の意)にはUボートの機関兵曹ハンス。
この二人、見事に雰囲気がそっくりで笑えます。
彼らに与えられたのは残された1基のエンジンで究極の省エネ航行をする任務です。



記念すべき彼らの初の共同作業、それは遺体を艦から出すことでした。
布に包まれた遺体はとても軽そうで、中身はまるでダンボールのようです。



さあ、そして艦長とチーフが二重に発令する指示を受け、敵と肩を寄せ合い、
あるいは狭い機関室で向かい合っての操艦作業が始まりました。



そしてそれぞれの場所では「生還する」という一つの目的のために働く敵同士が
その専門作業を通じて互いを次第に理解し合う姿が・・・。




作業がうまくいくとサムズアップしたり、
身振り手振りで意思疎通したりとだんだん調子が出てきました。


( ;∀;)イイシーンダナー



クレマー副長は吸わないといっているチーフにタバコを勧め、
アメリカ人乗員の優秀さを言葉少なに褒めます。
艦内は禁煙が普通だったというのに、相変わらずこの映画は
みんながタバコを吸いまくります。

そして「計画は成功するだろう」「多分」と言い合います。
しつこいようですが、どうして米艦に攻撃された時の話が全く出ないんでしょうか。



しかしヘルト艦長はふとチーフにこんな本音を漏らすのでした。

「部下の尊敬を失った」
まあ、生きて帰るためとはいえ、降伏する決定をした艦長に
Uボート乗員が失望するのは当たり前というものでしょう。

もし自分が艦長だったらどうしたか、と問われ、チーフは
「1隻潜水艦が抜けたからといって大した問題ではない」
と、間接的に艦長の決断を肯定する返事をします。


この映画における米潜水艦の呉越同舟の相手が、日本の潜水艦でなかったのは、
もちろん英語で会話するという設定が使いにくいこともあったでしょうが、
この頃の日本軍人のメンタルがあまりにもアメリカ人と違いすぎて、
(決して敵に降伏せず、そうなったら迷わず死を選ぶという)
本作品の意図する流れに結びつけにくかったからに違いありません。
 
「1隻抜けたからと言って大した問題ではない」という考えについては、
どこの国も海軍軍人ならちょっとないかなという気がしますが。

そして、この時、二人は初めて(!)
互いの国の艦船と出会ったらどうするかを話し合うんですよ。
しかもその会話というのが、

ヘルト「もしドイツの船と出会ったら計画を捨て、
君たちを逮捕して突き出すとでも思っているのか?」

トラヴァース「それはあるかもしれないと思った」

ヘルト「こちらこそアメリカの船と出会った時、我々を殺すか心配だ」

これで終わり。全く具体的な話に至りません(´・ω・`)

そしてヘルト艦長は、ここでついに核心に迫ってきました。

「なぜ君らを助けたと思う?」

そうそう、それ、わたしたちもぜひ知りたいところですよね。
ところが驚くことに、こんなことを言い出します。

「潜水艦の艦長は、敵艦を沈めたら艦長と副長だけ救えと
ヒトラーが決めた」

これが前回お話しした「ラコニア令」のことであるのはもうおわかりですね。
なんだー、ラコニア令のこと、映画製作は知ってたのか。
てっきり知らないで脚本書いていたのかと思った。

だとしたら、ラコニア令を発令したのはカール・デーニッツなのに、
なぜここで「ヒトラーが」とわざわざ言い換えたのでしょうか。

わたしはこのセリフに、アメリカ制作の映画にありがちな
「悪いことは皆ヒトラーのせい」というあの法則を見ます。

前回の解説でお分かりになったと思いますが、
ラコニア令発令の原因となったのは、アメリカ側の一般人殺害事件でした。
現在の米軍にとってもあまり触れられたくはないであろう「黒い過去」です。

これは想像ですが、制作側は、軍と当局者の機嫌を悪くしてまで
この事件にスポットライトを当てたくなかったのでしょう。
(ニュールンベルグ裁判では『恥をかく』結果だったわけですから)

だからここで「艦長と副長以外は助けるなとヒトラーが非情な命令を出した」
という嘘情報をサラリと流したのです。

しかもこの後艦長が説明する、なぜ助けたかという肝心の理由ですが、

「今回君たちを助けて、その強さを知った。
艦長は強くあるべきだと思っている。
命を奪うのではなく、助けることが強さだ」

これ、変じゃないですか?

そもそも捕虜にした=Uボートに収容し助けた段階では
「君たちの強さ」なんてこれっぽっちもわかってませんよね?

知りたいのは、どうして沈没した潜水艦乗員全員を助けたかなんですよ。
これでは全く理由になっていません。
まさかこの説明で全てを終わらすつもりなのか?

さらに、もし呉越ならぬ米独同船のこのUボートがアメリカ軍艦に会ったら?
ドイツ軍艦に会ったら?という仮定についても驚くことにこんな調子です。

「ドイツの船と会ったらどうするんだ」
「みんなが生還することを一番に考えよう」

だから具体的にどうするんだよおおお!



しかしそのとき、クラウズなどの不満分子が暴発し、いきなりあちこちで
殴り合いが始まってしまいました。
最初にやられたのはエンジン室のオックスでしたが、
なんと!彼を助けたのは「Uボートのオックス」、機関のハンスでした。
どうもハンス、前々からその男を嫌っていた模様。
無骨な男同士に、敵味方を超えた不思議な連帯が生まれた瞬間です。


 
しかしクラウズの勢いは止まらず、魚雷を装填させてから味方に銃を突きつけ

「降伏なんかさせないぞ!」

魚雷を暴発させ、艦もろとも自爆するつもりです。



そしてついにもみ合いになって、倒れた艦長の背中に
ナイフをぐりぐりぐりーっと・・!



詳細は省きますが、クラウズはチーフが後ろから鎖をぶつけ、
何と首の骨を折ってあっさりと片付けました。

しかしもうすでに艦長は瀕死です。

「ヨナス!」



クレマー副長は、艦長命令が下された時には多少の皮肉も込めて、
「ヤボール・ヘア・カピタン」などと答えていましたが、
もともとヘルト艦長と同期であり、友人でもあったのです。

「ヨナス」(ヘルト)は「友人ルードウィッヒ」(クレマー)に苦しい息の下から、

「艦を頼む・・・皆を祖国へ」



この瞬間、クレマーが艦を率いることになりました。
「本来艦長になるべき」という前半の伏線が回収されたのです。

艦長代理となったクレマーが最初に発した命令は「潜望鏡深度」でした。
潜望鏡で外が確認できる深度、12mといったところです。



そのとき距離2,300メートルにアメリカの駆逐艦を認めました。
トラヴァースチーフは、ここで「手を上げる」ことを提案しました。
つまり、本艦はアメリカ人が制圧したUボートである、と知らせるのです。



無線通信でトラヴァースが呼びかけを行います。
相手はなんという偶然、まさかのUSS「ローガン」アゲインでした。

さすがにもう一隻駆逐艦を用意する制作予算はなかったようです。

「合衆国海軍のトラヴァースだといってます」

しかし、通信士が艦長にヘッドフォンを渡した途端電波障害に。
艦長は通信士が聞き取った情報をなぜか無視して切り捨ててしまいました。



そこに第3のUボート、U−1221が現れました。
U-429の現状、現在位置と降伏しようとしていること、
クラウズの一味である通信士が混乱に乗じて発信したこれらの情報を受け取り、
裏切り者を殲滅するためにやってきたのです。


艦長がUー821の艦長と同じ人に見える



この展開に驚いたのは駆逐艦艦長。
Uボートがもう一隻現れたと思ったら、同士撃ちが始まったのですから。

「魚雷が発射されました!」
「誰が誰を撃ったんだ!」



なんかわからんけど、とりあえずこっちも総員配置。



U-429が撃ち返してこないのをいいことに、U-1221 は
いかにもドイツ人らしい律儀さで魚雷を撃ち込んできます。

ちなみにこれらも当時使用されていない近接起爆式です。



USS「ローガン」、高みの見物。



クレマー艦長代理は必死で無線を通じてUボートに

「撃つな!味方が乗ってる」

と呼びかけ、U-1221はその無線を受け取るのですが、
艦長は裏切り者め、とばかり通信のラインを引きちぎってしまいます。

おいおい。機材を壊すなよ。

ただしこの時代、潜水艦は海中からは無線の送受信できませんでした。
いちいち浮上か潜望鏡深度で行っていたといいますから、
この潜水艦同士の無線も、軍事考証的にアウトです。



この状況から逃れるには反撃するしかありません。
今度はUボート乗員たちが艦長代理に攻撃を嘆願し始めました。



決断できない艦長代理に、アメリカ軍乗員代表としてエイバースが説得を試みます。



「向こうはこっちを攻撃してるじゃないか!」

DD理論ですねわかります。



チーフは、

「決断しろ。君が艦長だ」

絶対これ、自分が判断する立場じゃなくてよかったとか思ってるよね。



そして艦長代理は決心しました。
一度だけ反撃することを。

その理由は簡単で、後一発しか魚雷が残っていなかったからです。



相手の上部をすれ違い通過、そして後部魚雷を発射。



しかし、その魚雷は艦体を斜めにかすっただけでした。
言っちゃーなんだが、当たり前です。

「潜水艦同士の水中での一騎討ちは当時あり得なかった」

ということを初回に書きましたが、すれ違った潜水艦の後尾に目視もせず
魚雷を当てるのは、二階から目薬をさすより難しいと思います。

しかもこんな時だけ史実通りで、魚雷は近接爆破方式ではなく、
接触起爆式なので、艦体に斜めに当たっても爆発しません。



そのとき、空気読まない海上の駆逐艦「ローガン」が高射砲を撃ってきました。



U-1221、裏切り者より先に、米駆逐艦をなんとかするべきだったと思うがどうか。
魚雷発射とほぼ同時に爆雷の爆発で轟沈を遂げました。(-人-)
ちなみに爆雷は深度爆弾なので、設定した深度に達すると爆発します。



向かってきたUボートからの魚雷はまたしても近接起爆装置搭載タイプ。

爆発のダメージを総員必死でダメコンしていると、
駆逐艦が発するソナーの反響音が聞こえてきました。
このままだと駆逐艦が次の攻撃を仕掛けてきます。



その瞬間、都合よく通信が駆逐艦とつながりました。
(だから海底からの通信は当時できなかったと何度言ったら)

すかさずチーフがUボートには自分たちが乗っていると通信します。



艦長リトルマンは、トラヴァースにエニグマ暗号機と書類の確保を命じました。
そして今から駆逐艦の乗員をそちらに乗り込ませる、と息まきます。
するとチーフはしれっと聞こえないふりして、

「本艦は浸水が激しくもう沈没寸前です。総員退艦します!」

それを聞いていた乗員一同、「へ?」



「ほらー、あっちこっち亀裂が入ってるからもう沈むぞおお」(棒)

唖然としているクレマー艦長代理に、チーフは男前な一言を決めるのでした。

「Promise is promise.(約束は約束だ)」


そして一致協力して吸気口を全開し、退艦してしまいましたとさ。
艦長代理は、Uボートの中を一瞥し、一番最後にラッタルをのぼっていきます。



さて、無事に陸に上がったトラヴァースは、ドイツ人捕虜の扱いについて
冒頭に出てきた提督に直接請願していました。
我々6人の命を救った彼らは、国に帰されるべきであると。

しかし提督は、今は戦争中で、彼らはドイツ人だからどうしようもない、
と苦々しげに繰り返します。

「ただ、彼らがいい待遇を受けられるように計らう」

ようやくトラヴァースの顔が和らぎました。



そしてお約束。
妄想ではない、現実の妻に苦しかった思い出を涙ながらに語ります。

この映画にトラヴァースの妻はうんざりするほど出てきますが、
はっきりいってこれらは戦争映画の「セーム・クリシェ」以外の何ものでもなく、
画面にちょっと華やかさが欲しい程度の理由でこの女優を出すなら、
もう少しヘルト艦長の娘との思い出とか、クレマーと艦長の若い頃の逸話とか、
機関室のオックスとハンスのその後とかに費やして欲しいものだと思います。

ローレン・ホリーが悪いとは思いませんが、口の悪い批評者は
「馬鹿げたヴェロニカ・レイクヘアはロジャーラビットのジェシカみたいだ」
などと痛烈です><
これね

メイシー・H・ウィリアムズの演技もなかなか軍事的には不評で、

「彼はファーゴではなく海軍のチーフである必要がある」

などと英語のサイトでは言われておりました。
まあ、アメリカ人の目にも軍人らしくないってことなんだと思います。



そして車の中でいちゃいちゃしながら着いたのはドイツ人捕虜収容所。



金網越しに捕虜と面会できるものなのでしょうか。
チーフはクレマー艦長代理を呼び出しました。



そして別嬪の妻を、囚われの身となっている男に見せびらかすのでした。



妻はクレマーに夫が生きて帰れたことのお礼を言いたかったようです。
チーフは彼にドイツのタバコをこっそりわたし、
クレマーはそれを嬉しそうに受け取るのでした。

そして、収監生活の待遇の良さに部下たちは皆満足しており、
投降を決断した艦長もここまでは予想していなかっただろう、
生きて帰ることが目的ならば、艦長はそれをやり遂げた、と語ります。

そして、

「もしあのとき撃った魚雷が(味方のUボートに)当たっていたら
今どんな気持ちだっただろう」

と付け加えます。
重い選択でしたが、結果として運命は彼に十字架を負わせることなく終わりました。



金網越しに相手の手に自分の手を重ね(なるほど、ここにもタイトルの暗喩が)、
それから去っていくチーフを見送りながら、
クレマーは柔らかい表情でタバコを取り出して咥えるのでした。



皆さん、いかがだったでしょうか。
わたしがこの映画に冠したい評価は、ただ一言。

「エンターテイメントとしては最高、
しかし歴史的価値はなし」

戦争映画、潜水艦映画としてはともかく、やたら後味のいい作品です。


終わり。




"Give me a HUS"マリーン・ワン第1号〜フライング・レザーネック航空博物館

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フライング・レザーネックの展示機を紹介してきましたが、
今日はその中の回転翼、ヘリコプターを取り上げます。

ヘリコプターという乗りものが軍事に導入されるようになったのは
第二次世界大戦後で、特にベトナム戦争では
ヘリコプターはその象徴のようになっていました。

年代の古い順に機体を紹介していくことにすると、やはりこの機体からということになります。

■ シコルスキー HUS-1(UH-34D)シーホース


シーホース(タツノオトシゴ)というよりおにぎりだよなあ、
とわたしはいつもこれを見ると思うのですが、
独特な形をしているのでほぼ間違えようがないのはありがたいところです。



【攻撃ヘリコプターとは】
H-34は、1962年から海兵隊の突撃ヘリとしてベトナム戦争で活躍しました。
ほとんどのヘリと同じく、デビューは「ポストウォー」と言われる朝鮮戦争後です。
「突撃ヘリ」は英語だと「アサルト・ヘリコプター」となります。
「アタックヘリ」ということもありますが、そもそも
「攻撃ヘリコプター」とは何かということを考えてみましょう。
そもそもヘリコプターは、非常に特殊な飛行機械です。
飛行機と同じように、当初ヘリコプターはマルチロール機、
複数の役割を果たすように設計されました。

具体的には外部の荷物を運んだり、負傷者を避難させたり、
銃やミサイル、兵器を搭載したガンシップとして運用されたりといったところです。

しかし、「ガンシップヘリ」は「攻撃ヘリ」とは別物になり、
決してイコールではありません。

攻撃ヘリとは本来、戦闘機として設計されたものを言います。
低空を定速度で飛ぶという飛行特性を生かして、
歩兵、軍用車両、要塞などを主な目標とし、搭載される標準的な武装は、
機関銃、ロケット弾、対戦車ミサイルなどです。

現代の攻撃ヘリには、大まかに言って2つの主要な任務があります。
ひとつは、当たり前のようですが、敵の戦車や車両、地上施設を破壊すること。
2つ目は、地上部隊のための近接航空支援を行うことです。

もちろん場合によっては、輸送ヘリの護衛を行うこともあります。
【戦闘ヘリの開発と歴史】

攻撃用ヘリコプターの歴史は、第二次世界大戦の初期、ロシアとアメリカが
低速の固定翼機を使って夜間のステルス攻撃を試みたことに遡ります。

もちろんのこと、この時はまだ回転翼ではないのですが、
攻撃用ヘリの運用を戦略と捉えた場合の歴史とお考えください。

有名なのは、アメリカの使用したパイパーJ-3カブを改造した機体です。


陸軍は有名な練習機L-4グラスホッパーを改造し、
バズーカのロケットランチャーを3〜4本、支柱に外付けし、
ドイツの戦車や大砲を見事にやっつけてしまったことがあります。




ロシア移民の技術者、イーゴリ・シコルスキはヘリコプターを設計し、
シコルスキーR-4を最初のモデルとして発表しました。

シコルスキーR-4は、世界初の量産ヘリコプターであり、
アメリカ空軍に就役した最初のヘリコプターでとなりました。
最初にアメリカ陸軍でヘリを実戦に運用したのは1944年5月のことです。
陸軍航空隊の司令官だったフィリップ・コクラン大佐は、このことを手紙に
「本日、'卵泡立て器(egg-beater)'が実戦任務に就き、
このいまいましいヤツは理性を持つかのように動いた。」

と書いて知らせています。
泡立て器・・・誰が上手いこと言えと。

陸軍はすぐにこのデザインの有用性を認め、戦闘用に改造し始めました。
ただし第二次戦時中に使用されたのはほんのわずかで、
その使用方法は、戦闘地域からの救助や避難にとどまりました。
1944年には戦闘飛行も行いましたが、これは攻撃ヘリと呼ぶものではありません。

ともあれR-4は成功し、第二次世界大戦後の技術開発に多大な影響を与えました。
滑走路を必要とせず、過酷な地形でも活動でき、
固定翼機では危険な場所でも低空でゆっくりと飛行することができ、
どこにでも着陸して、人員をせたり降ろしたりすることができます。

今では当たり前のこととして周知されているこれらヘリの実用性は、
他のどんな固定翼機にも持てない利点となりました。

1950年代がヘリコプターの全盛期となったのも当然のことだったでしょう。

朝鮮戦争やベトナム戦争を舞台にした映画や物語で、
ヘリコプターが出てこないものはないと100%断言できるくらいです。

その他、シコルスキーの設計で最も成功したものの1つがS-55です。
S-55はここにある海軍用のHUS-1シーホースになりました。
このほか、やはり海軍用にHSS-1シーバットというのもありました。シーバットは赤いアンコウ科の魚です。

そして、陸軍と空軍用にはH-19 チカソーとなりました。




■ シコルスキHRS-3(H-19)チカソーChickasaw
実はこのH-19の開発は、政府の支援を受けずに
シコルスキー社が個人的に始めたものでした。

なぜなら、このヘリコプターは当初、いくつかの斬新な設計コンセプトの
「テストベッド」(実験用機体)として設計されたからでした。
1年足らずでモックアップが設計・製作されています。

最初に納入したのはアメリカ空軍で、評価のために5機のYH-19を発注し、
プログラム開始から1年も経たない1949年に初飛行させ、
1950年には海軍に初号機が納入されています。

海兵隊に1号機が納入されたのは翌年の1951年でした。

朝鮮戦争では、全軍がH-19を貨物輸送、兵員輸送、死傷者の避難、
撃墜されたパイロットや航空機の回収などに使用しました。

H-19は、8人または10人の乗員、1,000ポンド以上の貨物、
または6台の担架を運ぶことができました。

また、エンジンを機首に搭載することで、船倉内のスペースを確保し、
メンテナンス時のエンジンへのアクセスを容易にしたのもユニークな点です。

海兵隊のHRS-1は、戦時中の2つの軍事作戦で重要な役割を果たしています。

まず、1951年9月のウィンドミルI作戦。
HRS-1が74名の海兵隊員と18,848ポンドの装備を運搬した作戦で、
1953年のヘイリフトII作戦では、同じ部隊が
160万ポンドの貨物を輸送し、2つの連隊に補給を行いました。
ところで「ヘイリフト作戦」で検索しているとこんな映画を見つけました。


知っている俳優がひとりもいないという
ただし、こちらはネバダの旱魃に対処するため、空軍が出動して
上空から干し草を落として住民を救った、という実話をベースにしています。

米軍はなんでも「作戦」にしてしまいますが、
この作戦によって命を救われたのは、人ではなく牧場の牛と馬だった、
(まあ間接的に人命も救えた事になるわけですが)というストーリーです。
使用されているのはフェアチャイルド社のC-82のようです。


ヘリコプターは、負傷者を野戦病院に迅速に運ぶことができたため、
朝鮮戦争では死亡した負傷者の数を史上最少に抑えることができたと言われますが、
ヘリがもっと投入されたベトナム戦争でなぜ効果が取り沙汰されないかというと、
おそらヘリくらいでは『焼け石に水』状態だったってことなんでしょう。


H-19以降、ヘリコプターは現代の戦争には欠かせないものとなっていきます。

海兵隊はヘリコプターを突撃輸送機として使用する先駆者となり、
自ら編み出した垂直突撃や包囲戦術を実践しました。

また海兵隊のヘリコプターは、敵陣の背後にある、
アクセスできない場所(たいていは山の上)に兵員を輸送しています。

しかし、朝鮮戦争でヘリコプターを使った攻撃が一貫して行われなかったため、
ヘリコプターは敵からの攻撃を受けるという経験をしないまま終戦を迎えます。

これは、ヘリコプターにとって不幸なことでした。

ヘリコプターは地上からの攻撃に弱い、という致命的な弱点に
誰も気づかずにベトナム戦争に投入されて、すぐにそれを敵に見抜かれ、
甚大な人的被害を被るという最悪の結果を招くことになったのです。

海兵隊は最終的に89機のHRS-3を購入していました。
これは海軍のより強力な、700馬力のライトR-1300-3を搭載していました。
【FLAMのHRSー3】

HRS-3のBuNo.130252は、1953年3月31日に
コネチカットのシコルスキー工場で海兵隊に受け入れられました。

HMR-162の "ゴールデンイーグルス "に譲渡され、
1953年8月19日にUSS 「バターン」(CVL-29)に搭載されて日本に到着し、
その後、改修されるまで日本に駐在していたそうです。

1957年1月4日には、MCASサンタアナのヘリコプター輸送部隊
「フライングタイガース」に送られました。

1958年2月ハードタック核実験作戦を支援するため、
USS「ボクサー」(CVS-21)に搭載されてビキニ環礁に向けて出発。

その後1964年10月には、MCAS岩国の海兵隊航空機整備隊17に所属。
1966年に空軍軍用機保管処分センターに移され、引退しました。

総飛行時間は3,608時間でした。


【ソ連の回転翼機】

ところでポストウォーの時代、それではソ連はどうしていたかというと、
やっぱりこちらも同様に、回転翼機の技術を開発していたのです。

最初に成功した輸送用ヘリコプターはMil Mi-4で、
シコルスキーとほぼ同様の性能を持っていたそうです。

ミル・ミィ4 気のせいかHUSにそっくり

すぐに武装したシコルスキーH-34やミルMi-4が戦闘行為を行います。

その後、次世代のヘリコプターが開発されるにつれ、
各モデルに武装オプションが追加されていきました。
ベトナム戦争におけるベルUH-1ヒューイやミルMi-8のように。


本当の意味の攻撃ヘリは、ベトナム戦争の真っ最中に、
アメリカ陸軍の切実なニーズから生まれました。

基本的な設計要件は、輸送用ヘリよりも高速で機動性が高く、
かつ重装甲で火力が強いことです。

その要望に応え、ロッキード社の「AH-56シャイアン」始め、
シコルスキー、カマン、ベルからも続々と試作品が提出されました。

シャイアンは設計が複雑すぎて、予算もスケジュールも大幅にオーバーし、
採用に至ることはありませんでしたが、
代わりに出てきたHSS-1は、海軍の対潜戦用ヘリとして1952年に就役しました。


【H-34シーホース】

話をシコルスキーH-34に戻しましょう。

H-34はアメリカ海軍の対潜水艦戦(ASW)機として設計された
ピストンエンジン搭載のヘリコプターで、対潜哨戒機以外にも
実用機、捜索救難機、VIP輸送機などの役割を担いました。

輸送機としては12〜16人の兵員を、医療救護のためには
8つの担架を運ぶことができ、VIP輸送機としても乗り心地は良かったようです。

その後、UH-1ヒューイやCH-46シーナイトなど、
タービンエンジンを搭載した機種に置き換えられていったので、
これがアメリカ海兵隊で運用された最後のピストンエンジン搭載機になりました。

H-34は1953年から1970年までに2,108機が製造されました。
シンプルであるがゆえに信頼性が高く、ベトナム戦争で
海兵隊員たちはこれを名指しで要求したとされます。
いかに彼らに必要とされていたかは、海兵隊独特のスラングとして、
同機がもう使われなくなって久しい現在でも、

"Give me a HUS!" 
"Get me a HUS!" 
"Cut me a HUS! "
というフレーズが、
「助けてくれ!」
という意味で使われていることからも窺い知れるというものです。
H-34は、最初に戦場に投入されたヘリコプター・ガンシップの一つでもあり、
M60C機関銃2挺とロケット弾ポッド2個からなる
TK-1(Temporary Kit-1)でゴリゴリに武装されていましたが、
「スティンガー」という武装したH-34は賛否両論あり、すぐに廃止されました。


【マリーン・ワン第1号機】

1957年9月7日、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、
ロードアイランド州ニューポートの別荘で休暇を過ごしていましたが、
ある出来事が起こり、ホワイトハウスで彼の身柄が早急に必要となりました。

そこで、マリーン・ヘリコプター・スクワッドロン・ワン(HMX-1)の
バージル・D・オルソン大佐らは、HUS-1に乗ってナラガンセット湾を渡り、
待機しているエアフォース・ワンまで大統領を飛ばすよう命じられました。
これがアメリカ合衆国大統領がヘリコプターにより輸送された最初の出来事であり、
HMX-1は1962年にVH-3Aシーキングに切り替わるまで、
HUS-1で大統領を輸送し続けました。
ただしこの頃はまだ、大統領のヘリコプター輸送は
アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊の共同運行管理であったため、
この時期の専用ヘリコプターのコールサイン・名称には
「アーミー・ワン」が用いられていました。

現在の「マリーン・ワン」のコールサイン・名称となるのは、
運行管理がアメリカ海兵隊単独となった1976年以降のことになります。

「FLAMのシーホース」

UH-34D(BuNo 150219)は、1962年12月21日、
やはりコネチカットのシコルスキー工場で海兵隊に納入され、
HMM-364の「パープルフォックス」に配属されました。

1963年9月、HMM-364機として沖縄のMCAS普天間基地に配備されています。
1963年12月にはHMM-361の「フライング・タイガース」に移され、
ベトナム沖での戦闘活動のためにUSS「バレーフォージ」(LPH-8)に乗組。

その後USS 「イオージマ」(LPH-2)でベトナムでの戦闘活動を続けました。
1964年12月には、HMM-163「リッジランナー」に移され、
もういちどMCAS普天間に戻されました。

その後、日本のNAS厚木のデポでメンテナンスを受け、
1964年12月、「リッジランナー」とともに普天間基地に戻り、
ベトナムのダナンに派遣され、HMM-162(ゴールデンイーグルス)、
HMM-365(ブルーナイツ)、HMM-161(グレイホーク)と一緒に活動しました。

何度もNAS厚木での整備期間を経て、1968年5月、
ベトナムのフーバイが最後の戦闘任務となりました。

帰国してからはサンフランシスコのアラメダ基地の倉庫にいましたが、
1972年2月に退役しました。

当機は6年半の間に12の飛行隊で合計4,124時間飛行し、
その生涯のほとんどが戦闘状態にありました。


続く。


令和三年度 年忘れお絵かきギャラリー その1

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早いもので、令和三年も残すところ後数日となりました。
というわけで年末恒例のお絵かきギャラリーをやります。

今年は何と言ってもコロナ禍でイベント等参加の機会が無くなったため、
(そして今後もおそらく無いだろうという)ブログのコンテンツが
軍事博物館の解説と戦争映画の二本立てになってしまいました。
そして記事のボリュームが大き過ぎて(内容が濃いとは誰も言っていない)
一日一本の記事制作が負担になってきたこともあり、
いつの間にか二日に一本のアップが限度になってしまいました。
特に映画記事となると、記事のための画面キャプチャと
その中からタイトルがを選んで描いてレイアウトして効果をかけ、と、
決してそうは見えないけど本人的には大変な作業なので、
1日分の記事を2日で仕上げるのもやっとという有り様です。
しかし、今後もできるだけこのペースを死守しつつ続けていきたいと思いますので、
来年もどうかよろしくお付き合い願います。
危険な道 In Harm Wayドロドロ人間模様系戦争映画

「真珠湾攻撃」

2020年の12月掲載です。
最近、ジョン・ウェインの戦争映画ばかり紹介している気がするのですが、
それだけ彼が多くの戦争映画に出演しているということでしょう。

タイトルの「In Harm's Way」は、アメリカ海軍の英雄、
ジョン・ポール・ジョーンズの、
「私は危険を承知で行くのだから」という言葉からとられています。

映画の舞台は第二次世界大戦の真珠湾海軍部隊。
主人公のウェインが演ずるのは重巡の艦長です。

最後の白黒映画となった当作品における彼は、
体調の悪さが画面を通じてもわかるほど老いが目立ちます。

映画は真珠湾事件に始まり、大和撃沈で幕を閉じますが、
その間登場人物はどちらかというと妻に浮気されたり、
生き別れの息子と再会したり、嫌いな男の息子の婚約者を寝取ったり、
その婚約者が自殺したり、それを苦にして自殺的攻撃をしたりと、
なかなか波乱バンジョーでドロドロした人間模様を繰り広げます。

「スカイフック作戦前夜」


ウェインの相手役、看護師のマギーを演じたパトリシア・ニールとは
すでに映画「太平洋機動作戦」で共演済みです。

わたしはこのパトリシア・ニールという女優、全く魅力を感じないのですが、
ウェインとの共演を2回もしているということは、
アメリカではそれなりの評価をされていたようですね。

軍人として出ている映画なのでウェインは無理やり?
ラブシーンを演じさせられていますが、この時58歳で、
海軍大将を演じるべき年齢の彼のそれは、
見てはいけないものを見せられた気になること請け合いです。
「空挺作戦」あんまり登場人物同士の人間関係がゴチャゴチャしているので、
三日目にはついに人物相関図を書かざるを得なくなりました。

「田舎出の純朴な娘」と言われていたはずの息子の婚約者、
ドーン少尉はなかなかの小悪魔ビッチで、それがアダとなり、
自分の嫁が浮気相手と事故死してしまってすっかり拗らせた
カーク・ダグラス演じるエディントン中佐に乱暴され、
子供ができてしまったので自殺するというショッキング展開。
わたしが最近作業をしながら初めてアマプラで観たドラマ「高校教師」は、
ゴールデンタイム放映作品でありながら衝撃的な性のタブーを描いており、
当時の日本社会を騒然とさせたそうですが、それより20年も前、
アメリカではこんな衝撃的な内容をしかも戦争映画に盛り込んでいたのです。
「アメリカ海軍対大和艦隊の海戦」



ウェインの息子を演じた俳優は映画「シェーン」の子役でした。
この後若くして事故死してしまいました。
カーク・ダグラスが演じたエディントン大佐は、自分が手篭めにした女が
自殺してしまったので、自責の念に駆られて単機出撃し(おい)
その途中に偶然大和艦隊を発見しますが、直後に撃墜されて戦死を遂げます。
なお、このときカーク・ダグラスがどうしてこんな役を引き受けたかというと、
「スパルタカス」など、その頃の一連の仕事の評判が悪く、
意に染まない役でも大作、しかもウェインと共演ということでOKしたようです。
この際「寄らば大樹の陰」という感じだったんでしょうか。
戦争映画としては骨組みがしっかりしており、機動部隊、
空挺部隊、PTボート、航空と現場が登場する意欲作で、
模型による海戦だけが残念だったという評価もあるようです。

登場人物たちのドロドロ愛憎劇を楽しむ余裕のある方ならおすすめです。


「大東亜戦争と国際裁判」
東京裁判史観に敢然と立ち向かった反骨映画

開戦前夜から日本の進撃




令和三年度最初に選んだ映画は、極東国際軍事裁判、通称東京裁判を
記録に残された裁判の様子をできるだけ忠実に再現しようとした意欲作です。
タイトル画は、裁判の「登場人物」の中から、
主役と言っても差し支えないであろう四人を独断で選びました。
まず初日は嵐寛寿郎演じる東條英機陸軍大将&元総理。
映画を4日に分けましたが、初日では日本が国内不況に困窮し、
満州に新天地を求めて進出したのに対し、ここに権益を持つ欧米が
ABCDラインを引いて日本を追い詰めるところから、ハル四原則、
日米交渉決裂という厳しい状況に置かれた政府の舵取りを
東條が引き受けるという過程が描かれます。
ついでに、朝日新聞がこの映画の内容に大騒ぎして火付けし、
その煙をアメリカが嗅ぎつけてGHQが問題にした、という
制作の裏で起こったいつもの騒動についてもご紹介しました。
終戦から東京裁判開廷まで

二日目はA級戦犯として処刑された文官の広田弘毅元外相です。
この俳優は本物の広田弘毅にはあまり似ていないのですが、
広田が絞首刑の判決を受け、イヤフォンを外してから
傍聴席の娘に微笑んだという出来事が取り上げられていたので描きました。


二日目は、開戦後、勝った買ったまた買ったでイケイケだった日本が、
ドーリットル空襲、ミッドウェイ海戦を経て、転換点を迎え、
海軍甲事件で山本五十六大将を失い、特攻という最悪の手段を選択し、
(大西瀧治郎が丹波哲郎という無茶苦茶な配役ですが)
回天、大和特攻、(大和副長役に天知茂)サイパングアム陥落、
そして原子爆弾投下がサクサクと紙芝居調に経過説明されます。
本作のメインはどちらかというと東京裁判なので、
ここからが本題というところになります。
罪状認否から”天皇不起訴”の決定


三日目はサー・ウィリアム・ウェッブKBE裁判長の俳優を描きました。

この俳優は本物よりスマートであまり似ていないのですが、
似てさえいれば描きたかった清瀬弁護人とブレイクニー少佐が
どちらも絶望的に似ていないので断念し、代わりに選んだ次第です。
ここからは罪状認否と裁判の経緯が実に忠実に述べられます。
わたしはブログで、映画で語られたことへの補足と、
改変されたところがあれば、その理由などについて語りましたが、
その際資料としたのは児島譲の「東京裁判」、清瀬一郎の著書などです。

判決と処刑



3日目は、インド代表判事、ラダビノッド・パール博士を描きました。
パール判事は東京裁判の裁判官の中でたった一人の国際法の専門家です。
(というのも何だか不思議な話ですよね。国際裁判なのに)
今でこそ、東京裁判が戦勝国による敗戦国への報復であり、
法律的にはなんの正当性もないということが人々に知れ渡りましたが、
例えば小林正樹監督の「東京裁判」なでは、とキュメンタリーと言いながら
監督本人が「東京裁判史観」に見事に染まっていたりしたものです。
その点本作品は、朝日新聞の火付けとGHQとの戦いを経て、
妥協を余儀なくされながらも、東京裁判史観の矛盾と問題点を、
なぜ日本が大東亜戦争に突入していったかを丹念に描くことで
世に問おうとした、実に勇気あるものだったとわたしは思っています。

もっと評価されても良い映画ではないでしょうか。
(決して面白くはないですが)


「シュタイナー・鉄十字賞」(戦争のはらわた)
タイトル暴走結果よければ全てよし映画

ドイツ万歳

鉄十字賞の取り方




この映画が戦争映画として有名な理由は、「戦争のはらわた」という邦題にある、
と決めつけた上で、解説を行いました。

原題は「Steiner - Das Eiserne Kreuz」シュタイナー・アイアンクロス。
「戦争のはらわた」とは何の関係もありませんが、
この耳目を集めるタイトルのせいで人の記憶には残る作品になったのです。
本作は英独による合同作品ですが、主人公のシュタイナーは
どうみてもドイツ人ぽくないジェームズ・コバーンです。

舞台は1943年、ロシア戦線。
できる男ロルフ・シュタイナーは、再度任務を成功させ軍曹に昇進し、
鉄十字も授与されていますが、彼はそんな栄達に無関心です。

彼の宿敵として登場するのは、指揮官として赴任してきた
上流階級の傲慢なプロイセン人大尉シュトランスキー。

シュタイナー隊がロシア軍と血みどろの戦いでこれを制圧した後、
シュトランスキーはそれを自分の功績だと主張し、
戦闘中逃げ隠れしていたくせに鉄十字賞を欲しがります。
そして、同性愛者であるトライビヒ中尉を脅迫して、
功績の証人にさせることに成功しますが、シュタイナーの方は
昇進をちらつかされても全くそれに食いつこうとしません。

シュトランスキーは、報復として、ブラント大佐の前線撤退の命令を
シュタイナー隊に伝達しなかったため、彼らは取り残され、
敵に囲まれ生存のための戦いを余儀なくされるのでした。

シュトランスキーに弱みを握られて味方を攻撃させられ殺されたトリービヒ中尉、
ドイツ軍に拾われて「羽を休めた」ものの、戦死するロシア軍の少年兵、
最後の最後まで男前だったブラント大佐、屈折した複雑なキャラキーゼル大尉。

そういった脇役の一人一人の描き方が際立っていて、個人的には
ペキンパー監督の画期的なスローモーションによる戦闘シーンの衝撃よりも、
映画を支えるストーリーラインに深みを与えていると感じます。

戦争映画ファンならずとも鑑賞しごたえのある佳作です。
ただ、もう少し主人公はドイツ人らしい人にして欲しかったかな。



「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」
パッケージに偽りありのネイチャーポエム系ナチス映画


昨今は誰でも簡単に写真が加工できるため、
SNSの自撮りは絶対に信用してはいけないというのがネットの世界の常識です。

一生SNSの中だけで生きていくつもりならともかく、マッチングアプリなどで
SNOW加工しまくった写真を挙げる人は一体何を考えているのでしょうか。

加工写真で期待値を上げられまくった相手が、実物を見てドン引きするとか、
そもそも本人だと思ってもらえないことを問題だと思わないのでしょうか。
なぜこんなことを書いているかというと、この映画のタイトルとパッケージが
明らかにそれを期待して購入する人を裏切っており、
パッケージと全然中身が違うじゃないかー!と堪え性のない人なら怒り心頭、
という加工詐欺に通じるものがあると思うからです。

タイトル「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」パッケージには大きな鉄十字をバックに疾走する戦車、
「ナチス最強の部隊 最後の戦い」
「”悪魔”と恐れられたナチス親衛隊の視点から
戦場の恐怖と真実を暴く衝撃の戦争大作!!」
こんな「加工」に興味を持って映画を見た人のほとんどは、
自然をバックに朗読されるネイチャー系ポエムや、兵士たちのつぶやきに
がっかりし、ついでイライラしてくること請け合いです。

繰り返しますが、原題は、アイアンクロスとも悪魔ともあまり関係なさそうな、

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」LEIBSTANDORTE「ライプシュタンダルテ」
であり、ライプシュタンダルテは、

「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SSアドルフ・ヒトラー
1. SS-Panzer-Division"Leibstandarte SS Adolf Hitler"

という師団名のことです。
さらに原題は、

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」
これは、ライプシュタンダルテのモットーであるドイツ語の
Meine Ehre heißt Treue「忠誠こそ我が名誉」
を、過去形にしたものとなります。そしてその内容はというと。
主人公のルードヴィッヒ・ヘルケル軍曹は、エリート第1SS装甲師団
LeibstandarteSS AdolfHitlerの献身的で愛国的な兵士。
彼はそのほかのほとんどの兵士と同じく、国に愛する妻がいて、
ナチスのドグマに共鳴し、国のために入隊を決めました。

行動が始まると、彼とその小隊はソビエト軍との戦闘で、
経験豊富な歩兵の小グループと交戦しますが、爆発に巻き込まれたヘルケルが
ぼんやりと森をさまよううち、たまたま同じ故郷出身の別の兵士に出会います。

休暇で帰郷した時、彼は兵士の妻がユダヤ人であるということで
虐殺されるのを目の当たりにし、自分の信奉する教義への疑問が芽生えます。

西部戦線に戻った彼は、疲弊していく自軍の力、戦友や尊敬していた上官の喪失、
敵味方両軍における捕虜への戦争犯罪行為を目撃するのでした。


この後当ブログはあのネイチャー系ポエム戦争映画の嚆矢となった
「シン・レッド・ライン」を手掛けるわけですが、今にして思えば、
このイタリア映画(!)は、それをロシア戦線でやろうとしたのです。
わたしがこの映画で評価した点は、ドイツ人によるドイツの映画でないため、
親衛隊の兵士を他の国の、あの戦争に参加した全ての兵士と同じく
「顔のある」普通の人間であることを強調したことです。

戦後のナチスを絶対悪としてしか描くことを許されない世界観の中で、
これを試みたことはある意味大変挑戦的だったということができます。

パッケージにつられて買った人は失望したと思いますが、
わたしはこの点から高評価を与えたいと思います。

続く。
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