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令和三年度年忘れお絵かきギャラリー その2

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今年一年にアップした映画の扉絵と共に内容を振り返るシリーズ、
年忘れお絵かきギャラリー2日目です。
グリーンベレー The Green Berets物議を醸したジョン・ウェインのベトナム戦争肯定映画

グリーンベレーのバラード



当時ハインツ歴史センターのベトナム戦争シリーズが続いていたため、
ベトナム戦争ものをと思って選んだため、短期間の間に
ジョン・ウェイン晩年の戦争ものを2本も扱うことになりました。
しかも本作は、ジョン・ウェインの監督作品でもあります。

61歳で空挺隊の司令官役という誰が見ても無茶な役を演じてまで、
ウェインが映画を世に送り出したかった理由というのは、
当時国内に蔓延していたベトナム戦争反戦の動きに危機感を抱き、
映画によって国民の世論を動かすことだったと言われています。
つまり、ウェインはベトナム戦争の「共産主義との戦い」という
政府の理念に全面的な共感を持っていたということになります。

ウェイン演じるマイク・カービー大佐率いる米陸軍特殊部隊「グリーンベレー」が、
ダナンで繰り広げる死闘が、ストーリー全体を支配します。

「反戦の声」を象徴するのは、デビッド・ジャンセン演じる新聞記者で、
彼は彼はその実態を見極めるために従軍記者となって同行します。
カービーの部隊の死闘と、ベトナム人民の悲惨を目の当たりにし、
彼の考えが変わっていく、という手法によって、
映画はメッセージ性を持って戦うことの正当性を訴えようとします。
ダナンの「ラ・セーヌ」

カービーの部隊と共に行動する政府軍の若い司令官を演じるのは、
当時「スター・トレック」で人気だったジョージ・タケイでした。

晩年のドラマでの姿しか知らないわたしは、この時代の
精悍でセクシーな容姿の彼の姿にちょっと驚いてしまったものです。
ちなみに右下の子供は、戦災で家族を失い、隊員の一人に懐くという設定で、
犬を可愛がっていることや、懐かれた方の隊員が戦死を遂げる、という
戦争映画にありがちな境遇を背負った存在ですが、
同時にこの子供こそが「大国アメリカに庇護される南ベトナム」を象徴している、
とわたしは最後に位置付けてみました。
ちなみにデビッド・ジャンセン演じる新聞記者は、それまでの反戦意識を改め、
最後には自分も従軍記者として部隊に加わることになるのですが、
その大きな理由は親しくなった村長の娘がベトコンに惨殺されたことでした。
彼がアメリカが庇護すべきは何かを認識するようになったという意味で、
村長の娘もまた映画の目指す理念にとって象徴的な存在です。
東に沈む夕日

映画で描かれた「最大の作戦」とは、北ベトナム軍の将軍を、
ハニートラップで油断させておいて誘拐し、それをネタに交渉して
南ベトナムに有利な条件での終戦交渉に持っていくことでした。

こんな芝居じみた(芝居なんですけどね)作戦であの戦争が終わるくらいなら、
実際何年間にもわたって泥沼の戦いが続くわけねえ、と誰もが思ったでしょう。

その発想は、ほとんど西部劇の舞台になる街レベルのスケールの小ささ。
この映画が特にベトナム兵士たちには嫌悪感すら与えたという理由もわかります。

ただ、それらのことどもはあの戦争の結末を知っている後世の人なら
誰でもしたり顔で言えることにすぎません。

ベトナム戦争がまだ緒についた頃、ウェインがそうであったように、
少なくないアメリカ国民は、アメリカの正義を信じ、
決してアメリカは戦争に負けることはないと信じていました。
ちなみに最終日のブログタイトルは、
ウェインがベトナム人孤児の手を引いて歩いていくこの映画のラストシーンで、
劇中ダナンとされている彼らのいる地域からは、
決して見えないはずの「西に沈む夕日」(ダナン海岸は東にしかない)
であったという「グーフ」から来ています。
映画の興行成績は、作品そのものが激しい議論の対象になったこともあって、
皮肉なことに、彼の映画の中でも最大のヒットとなりました。


シン・レッド・ライン Thin Red Line
静かなる哲学ポエマー総出演戦争映画
「シン・レッド・ライン」の歴史的意味



ブログに取り上げていて何作に一つは他の作品の数倍気力が必要な作品があります。
おそらく本年度におけるその最たるものがこの「シン・レッド・ライン」でした。

当ブログでは、初日の多くを割いて、いかに出演を希望した俳優が多かったか、
またその際のキャスティング秘話をご紹介しましたが、この作品はそれほどに
関係者にとって特別のキャリアとなると制作前から見做されていたようです。
作品そのものに対する専門家の評価もやたら高く、まるで
この作品を評価しない者は頭が悪いというような空気さえあります。
しかし、一般大衆の「ウケ」は決して良くありません。

特に英語がネイティブでない国の鑑賞者にとっては、翻訳の介在がネックとなり、
戦争ものと言うだけで選んだ人は、ネイチャー系ポエムに早々に退屈し、
そうでなくてもサラッと聞いただけでは解釈しにくい内容となっているからです。

わたしも解釈を試みたのですが、従来の戦争映画と違い、この作品の目指したのは
人間を形作る「肉体」という、地上での「魂の容れ物」が遭遇する出来事より、
その肉体を支配する精神世界を優先して表現することだったような気がします。

戦争という、大量の肉体がいとも簡単に破壊され無になる空間で、
この映画は殺戮をまるで傍観しているかのような立ち位置を見せているからです。
当ブログでは、「シン・レッド・ライン」というタイトルの意味を、
歴史的事実から紐解き、解釈するという、
自分で言うのもなんですが、意欲的な作業をゼロから試みました。


こういうふうにタイトル画の中心に据えてみると、まるで主人公みたいですが、
天下のジョージ・クルーニをちょい役で使い捨てしたのがこの映画の剛毅なところ。

あまりにもキャストが多すぎて、ちゃんと契約してギャラももらい、撮影もしたのに
登場場面が削られて、結果的に出演しないで終わった俳優すらいました。

第二次世界大戦のガダルカナル島での戦闘を描いているので、
映画には日本軍の将兵が登場するのですが、
彼ら敵役の表現法においても、この映画は画期的だったと思います。
そんなことについても考察してみました。
彼は何故撃たれたか



最初から最後まで、戦場にいる兵士たちが頭の中で、あるいは会話で
「分裂症的な」哲学ポエムを繰り返して止まない当作品。

全てのことが、戦闘行為ですら、何かの暗喩なのではないかと
最後の頃には懐疑的になってしまうくらいです。

ウィットが何故撃たれたかについても、彼が最後に浮かべるこの表情も、
部隊から脱走して原住民の村に隠れていたという彼の前歴を考えると、
何かしらの意図あってのことなのだろうか、と深読みしてしまいます。
戦争を素材に哲学と真理を追求しようと試みた作品、
とブログでは一応最後に恐る恐るまとめてみましたが、シニカルな見方をすれば、
「哲学」「真理」は、雰囲気をただ纏わせているだけかもしれませんし、
もしそうならば「真理の追求」などと大上段から振りかぶるのは、
口幅ったいようですが、買い被りすぎだったかなと思わないでもありません。
受け手がどう解釈するか、あるいは受け手の能力、感受性で如様にも価値が変わる
まるで映し鏡のような作品、というのが今の本作に対する評価です。



海軍特別少年兵
国策映画「水兵さん」の昭和焼き直しバージョン

「艦船勤務」


最近、戦時中海軍省の後援によって水兵募集の宣伝用に作られた国策映画
「水兵さん」を観てその紹介ブログを制作しました。

もちろんそんなことがなければ一生観ることのない映画ですが、
びっくりしたのは、この「水兵さん」で描かれた海兵団の様子がほとんどそのまま、
この「海軍特別少年兵」では再現されていたことです。
「少年兵」の舞台が横須賀第二海兵団、「武山海兵団」というのも、
「水兵さん」の舞台とぴったり同じです。
「水兵さん」は、海軍が全面的に協力したため、実際に海兵団の施設で撮影され、
実際の訓練生の訓練風景などがそのまま劇中に再現されるのですが、
この映画は、その訓練の様子だけでなく、演芸会の最中に訓練生の姉が訪ねてくる、
陸戦訓練で民宿に宿泊して久しぶりに畳の上に寝るなどというディティールを
もはやパクリといってもいいくらい、そのまま流用していたことが判明しました。
とはいえ、もちろんこちらは、あの戦後の「東宝8・15シリーズ」ですから、
「水兵さん」の登場人物のような純粋で真っ直ぐな少年ばかりでなく、
不幸な家庭状況によって拗ねていたり、家族と縁がなかったり、
銃剣を無くして怒られるのが怖くて自殺してしまったり、と
思いつく限りの不幸なバックグラウンドを背負わされているだけでなく、
最後には全員同じ部隊に配属されて、一挙に死んでしまったりするのです。
「水兵さん」は来年アップする予定なのでその時に読んでいただけますが、
こちらは分隊長が出征して戦果を上げるニュースを聞き、
自分もまた海軍軍人となって国の為に戦地に赴く、というところで終わります。海軍兵募集の宣伝映画ですから、もちろん誰も死にません。
彼らの行く末に待ち受ける運命については、あくまでも「戦争なのだからそういうこともあるかもしれないが、自己責任で」
という感じで具体的には語られることもありません。
海ゆかば


主人公となる少年たちを演じる俳優が、皆未成年で無名なので、
その分、彼らの家族や教範長などに有名俳優を使いまくっております。
さすがは当時の「8・15」シリーズです。

この映画の少年兵のうち、かろうじて最も有名になったのは、
銃剣を紛失して自責の念から自決してしまう林を演じた中村梅雀でした。

ところでわたしは、映画紹介ログの扉に使う絵は、通常、
映画がカラーならカラーで描くことにしていますが、
この映画はカラー映画なのに色なしの絵を描いています。
理由は特になく、まさに「なんとなく」そうしたにすぎず、もちろんそのとき、
この映画がベースにしたモノクロ映画、
「水兵さん」があることは夢にも知リませんでした。
「水兵さん」を見て、この映画がそれをベースにしていることを知ってから、
改めて「画面に色を感じられなかった理由」に納得がいったと共に、
自分の直感のようなものをちょっと見直す気になりました。
なお、ブログのタイトルは、両日とも、劇中少年たちが歌う軍歌から取っています。


続く。








令和四年年初め 旧年度お絵描き作品ギャラリー

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皆様、明けましておめでとうございます。
今年も精進して参る所存ですので、何程ご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いします。
と、型通りの挨拶ですが、旧年中に終わらなかった、
令和三年度年忘れお絵描きギャラリーの残りを、年初めということにして、
今年最初のブログとさせていただきます。
妖星ゴラス
自称:科学的計算に基づいたサイエンスフィクション

「地球最後の日」
いわゆる東宝のSFシリーズを扱った当ブログ記事を読み返すと、
自分がつくづくこういう映画を愛しているのだなと感じます。

その気合の入り具合は、たとえばタイトル画が他のつまらない映画より
格段に手がかかっていたり、映画の細部の「重爆の隅」に至るまで
執拗に突っ込まずにいられなかったりという姿勢に表れています。
この「妖星ゴラス」もその意味では心から楽しんで制作した映画で、
今後これに匹敵するほど気合を入れられる作品が出てくるだろうか、
と、どうでもいい心配をしてしまうくらいです。
何がそんなにわたしを惹きつけるのかというと、何といっても
東宝スターシステムによる「いつものメンバー」の魅力と、
決して真面目に疑問を持ってはいけない、特殊な世界線でのみ通用する科学理論、
隠しきれない当時の映像技術の限界に対する、汲めどもつきぬ興味からでしょう。
世にはコアな特撮映画専門のファンがいるそうですが、
わたしにはその心理が少しだけわかるような気がします。

もちろんそういうファンと同じ視点から特撮を見ているとは言いませんが。

さて、この映画は、1962年という高度成長真っ只中の、
東京オリンピックを間近に控えた頃撮影されたものであり、
さらにそこから17年後の「近未来」が舞台となっています。
映画に描かれた1979年の日本では、人類はさらに宇宙へと活動の場を広げており、
例えば日本には宇宙省ができており、宇宙飛行士がその辺にゴロゴロいて、
ついでに彼らは小遣い稼ぎにサンドイッチマンのバイトをしたりしています。
つまり宇宙飛行士が特別な職業でも何でもなくなっているのです。

いくら何でもオリンピックから15年で科学がこれほど発達するとは
ちょっと設定を逸りすぎたのではないかという気がしますが。
物語は、日本初の土星探査船が、地球の6000倍の大きさの惑星、
「ゴラス」と遭遇し、引力で吸い込まれて、探査ロケットの乗組員である、
ヒロイン白川由美と水野久美の父と恋人が殉職するところから始まります。
ゴラスは周りの物質を強力な磁力で吸い込みながら地球に向かっており、
このままでは2年2ヶ月後に激突することがわかりました。

万が一そのようなことが起これば、当然今の世界でその主導権を持つのは、
アメリカ合衆国であり、NASAだと思うのですが、この世界ではそれは日本であり、
しかもたった二人の科学者が、全ての采配を取り仕切るのです。
もちろん地球の危機なんですから、インターナショナルな雰囲気を出すために、
映画では、何人かの外国人俳優が科学者役として登場します。

そしてその一人に、東京裁判で日本被告の弁護人を務めた
ジョージ・ファーネスが登場していることが、わたしがそもそも
最初にこの映画を知るきっかけでした。
ジェットパイプエンジン始動

ドクター・フーバーマン(ってことはユダヤ系ですね)を演じるのが、
東京裁判後弁護士として活動しながら余暇にエキストラをしていたファーネスです。
本職ではないため、残念ながら滑舌も声もあまり良くないのですが、
何といっても本物の弁護士であるため、その容姿が博士役などにピッタリです。


この映画のとんでもないところは、惑星衝突を回避する方法を、
日本の一高校生が軽ーく思いつき、それが実行されるという展開にありました。
池部良演じる河野博士は、そのアイデアを実現させるため、

「南極大陸にジェットパイプエンジンを設置して、フル稼働すれば
地球の軌道を41万キロ移動させることができる」

という仮説を立て、そのことを計算式で実証して見せるのですが、
その説明のために国連で黒板にチョークで数式を書いてみせています。



監督の本多猪四郎は、東大理学部の天文学者であり、天体力学の研究者、
堀源一郎氏に「地球移動」の科学的考証を依頼し、
自身も1ヶ月近く東大で講義を受けたそうですが、
この板書は、その堀氏の直筆による計算式本物なのだそうです。
天体力学の中でも、惑星、衛星、人工衛星の長年運動理論の世界的権威であり、
特に1966年に発表した正準変数による一般摂動理論は、
2020年7月現在で実に390篇の他の論文に引用されている。

大学講義の時に堀が黒板に書く理論式の文字が端正で見事だったことは有名で、
そのため、本人でなく、板書された理論式が
1962年作の東宝SF映画「妖星ゴラス」に”出演”した。(wiki)
つまり科学的裏付けがされた専門家のお墨付き理論というわけです。

そうはいっても、地球を動かすのに南極の広範囲に、
ジェット噴射のできる重水素原子力パイプを1089本設置し、
そこから噴き出す660億メガトンのエネルギーによって地球の軌道を動かすなんて、
計算上はうまく行っても実行はまず無理な作戦です。

そんなもの地球の端っこでガンガン稼働させたら、環境負荷はかかりまくるし、
惑星の衝突は避けられたとして、今度は狂った地軸をどうやって戻すんですか、
という問題については、全く解決策がないまま話が進みます。



登場人物の人間関係は、どうにも現実性が希薄でイマイチ共感しにくいというか、
時代のせいもあって、現代の価値観とはかなりずれているのですが、
実はこのおかしさもまた、わたしがこの時代の映画にハマる一つの理由です。

例えば、
ゴラス衝突で殉職した宇宙飛行士の恋人を忘れられない女性の部屋に押しかけ、
高価なプレゼントでグイグイ迫る、女性の高校の同級生というパイロット。

「だって死んじゃったんじゃないか」
と薄笑いを浮かべて死者(しかも自分の先輩)の写真を窓から投げ捨てる。
こんなクズ・オブ・クズ、小室系並みに良識ある人々の共感は得られますまい。

このパイロットが何かの役に立ったり活躍するということはなく、
探査船の外からゴラスを見た途端記憶を失うという役立たずぶり。
それから、怪獣映画の東宝作品ということで、南極に唐突に現れる
「怪獣マグマ」とやらの存在もあまりにも無理ありすぎです。
しかも、生態系も明らかにならない新種生物なのに、工事の邪魔になるからと
何の躊躇いもなく抹殺して埋めてしまう科学者とか。 

そして、地球の軌道は関係者各位の尽力によって見事移動し、
ゴラスはギリギリで地球の激突を免れるのですが、
映画の見どころは、地球に再接近したときにゴラスの引力が巻き起こした
激しい海水の移動によって、首都東京が破壊されていく特撮です。

その後、水没した東京を東京タワーの上から見物する若者たちのシーンで
映画は終わりますが、水没してほぼ壊滅状態になった首都を高みの見物しながら
不気味なくらい彼らがはしゃぎまくるというのが、もう最高です。
そして、コメント欄でも話題になりましたが、この映画は
地球の滅亡がそこまで迫っているかもしれないのに、
登場人物が祝い合うお正月のシーンがなかなか味わい深い印象を残します。

というわけで万が一観てみる気になった方は、
お正月の雰囲気の中でご覧になることをお勧めしたいと思います。




潜水艦轟沈す 49th ParallelUボート乗員の国境越えサバイバルゲーム


北緯49度線

「潜水艦轟沈す」という日本語タイトルだけで選んだら、潜水艦映画にあらず。
なんのことはない、中身はカナダに潜入したUボート乗員の逃走劇でした。

北緯49度にはアメリカとカナダの国境線が存在することから、
つまりUボート乗員が「そこまで逃げおおせれば勝ち」のゴールを意味します。

1941年イギリス政府協力による国策映画で、制作の背景には
その2年前に起こった、ナチスドイツのポーランド侵攻がありました。

ヨーロッパでは、ドイツはすでにこの時点で明確な敵だったのですが、
まだこの頃のアメリカ大陸では、ドイツ系移民などもいた関係で、
ナチスの脅威に対して比較的無関心だったことから、イギリスは
カナダ国民への啓蒙をするために、この映画を制作したとされています。

ところで、この項を制作したときにはあまり深く考えなかったのですが、
映画の設定では、Uボートはセントローレンス湾にまず潜入し、
そこで民間船を撃沈しています。



セントローレンス湾はセントジョンズ、プリンスエドワード島、
ノバスコーシアなどに囲まれた内海のように見える湾で、
大西洋からは簡単に侵入できます。
セントローレンス湾からなら、メイン州を目指せば、彼らが陸路を通ってアメリカに侵入するのは簡単だったのですが、
彼らはいろいろあって結果的に国内を西へ東へ徒歩でうろつくことになります。

なぜそんな苦労を強いられることになったかというと、彼らは
最初の段階で空爆によって潜水艦と乗員のほとんどを失ってしまったため、
やむなく行き当たりばったりに犯罪を犯しながら迷走を始めたわけです。
この状況設定に対して、わたしが一言言わせてもらいたいのは、
いかに国策映画としてナチスのヤバみを訴えるのが目的だったとはいえ、
切羽詰まった状態の一部のドイツ人(たった6名)の犯罪行為をもって、
これがナチスである!国民よ目覚めよ武器を取れ立ち上がれ、
という啓蒙の材料にするというのは、ちょいと不公平ではないかってことです。
戦後、本作品のドイツ国内でのテレビ放映を、頑強に反対する声があって
実現しなかったというのも、一部のナチスの創造された犯罪をもって
ドイツ人全体をディスる、ストローマン理論的啓蒙映画そのものに、
不快感を覚える人が少なくなかったということじゃないんでしょうか。
それに、これはあくまでも「感じ」ですが、映画「Uボート」「眼下の敵」でも、
海軍、ことにUボート乗員にはゴリゴリの親衛隊員は多くなく、
デーニッツはともかく、ヒトラー信奉者って現場にはあまりいなさそうですし、
そもそもこのヒルト大尉みたいなのは特別だという気がします。
まあ、それも国策映画ならではってことなんでしょう。知らんけど。

さて、Uボートを破壊され、生き残った六人は、あたかもサバイバルゲームのように
逃走の段階で一人、また一人と欠落していくわけです。

その際、協力しあってこの難関を打開すべき仲間同士で、
手段を巡る意見の食い違いや、日頃の人間関係の恨みなどが噴出し、
仲間割れを始めたりするという展開はなかなか見応えがあります。
初日のタイトルに選んだのは、生存者の最先任、副長のヒルト大尉と
機関長のクネッケ大尉がいがみ合う姿です。
六人のUボート乗員の中で一番先に脱落するのが、下っ端の見張りヤーナーで、
その次がこのヒルトの天敵、クネッケです。

彼ら一味は交易所を乗っ取り、そこで村の漁師(サー・ローレンス・オリヴィエ)
や、飛行艇のパイロット、エスキモーを含む村人を殺害し、
盗んだ飛行艇で走り出すのですが、それが墜落して水死してしまうのです。

セントローレンス湾からなら、五大湖のどれかに飛べば一挙にアメリカだったのに、
とこの地図を見れば思いますが、彼らはアメリカとは反対方向に飛び、
そこでドイツ系移民のフッター教徒の村に潜り込むことに成功。
撮影には実際にフッター教徒がエキストラ出演しましたが、
最初にキャスティングされていたフッターの少女役の女性が、
ネイルをしてタバコを吸っていたため、本物の教徒に平手打ちされて、
交代したという笑えないキャスティング秘話があります。


ここで脱落するのは右下のフォーゲルで、パン職人だった彼は
コミュニティに自然に溶け込み、フッターの少女に恋心を抱くに至ります。
集会でヒルトが演説を打ったことから彼らがナチスであることを気づいた少女を
仲間からかばったフォーゲルは、反逆者として処刑されます。
残った三名はGoogleマップで577キロの距離を、真冬というのに
てくてく歩いて移動し、途中で故障した車の持ち主を襲い、資金を得て
汽車でバンクーバー(西海岸です)まで行き、そこから日本にいく船に乗って、
同盟国特典で祖国に帰るという作戦を立てました。

追われているのを感じた三人は、西海岸近くの先住民祭りに紛れ込みますが、
そこで地元警察に発見されてここで一人が捕まり脱落。

残るヒルトとローマンは、湖畔でレスリー・ハワード演じる
インディアン研究者のテントに招待されますが、彼の書籍や絵画を破壊したため、
平和主義者と馬鹿にしていた研究者に反撃されてローマンが捕まり、脱落。
最後の一人になったヒルトは、なんとかアメリカに逃げ延びて
ドイツ領事館に逃げ込もうとするのですが、
ナイアガラ駅に向かう列車の中でランス・マッセイ演じる兵士と揉み合い、
アメリカの税関職員の機転によってカナダに送り返されてお縄となります。
潜水艦轟沈す、という日本語タイトルだけが全く評価できない映画ですが、
実は英語の題名である「北緯49度線」も微妙に間違いで、
ナイアガラの滝は北緯49度上にない、というオチ付きです。
国策映画とはいえ、イギリス政府が潤沢な予算を出した内容は
よく練られていますし、いくつかの絶対にあり得ない点
(冬のカナダを野宿して徒歩で歩くとか)以外は、
フッターやインディアンなど、あまり世界の人が知る機会のない
カナダという国の風土について知ることのできる、見応えのある作品だと思います。

わたし個人的には、レイフ・ヴォーン=ウィエイアムズの手がけた
映画音楽を知ることができたのは大きな収穫でした。


続く。

令和四年年初め 旧年度お絵かき作品ギャラリー

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平成三年度に制作したイラストを一挙に紹介する恒例のお絵かきギャラリー、
改めて紹介した映画の内容を振り返りながらアップしてきましたが、
ようやく最後になります。

東支那海の女傑戦争映画に名を借りた戦後スパイアクション
前編 中編 後編
当作品はディアゴスティーニの「戦争映画コレクション」の一つでしたが、日本軍が登場し、戦闘シーンも一応あるのに、なぜか戦争映画に思えない、
という、あの昭和の時代の東宝作品特有の世界感に支配されています。

また、主人公である天知茂が、軍人にしては必要以上の
男の色気みたいなのを振りまいているせいもあって、決してそうではないのに、
わたしなど一連の天知茂戦争ものに「エログロナンセンス」という言葉を
失礼にも思い浮かべてしまうのでした。
天地の相手役は、東宝の社長大蔵貢の愛人として有名だった高倉みゆきで、
つまりこの映画は社長が自分の愛人をヒロインとして企画した、
完全に公私混同作品ということになります。
戦争映画のヒロインというと、一般的には、主人公の軍人の帰りを待つ女性とか、
従軍看護師あたりが相場ですが、この映画に限り、
女主人公は男顔負けの立ち回りをする派手な役である必要があったので、
「支那海を根城にする海賊の女頭領」なんてキャラをぶち上げたというわけです。
確かにこの設定は、オリジナリティという点では際立っています。
日中戦争時代の大陸なら日本人が登場しても不思議ではありませんし、かつ
波乱万丈でロマンを感じさせる冒険映画としての舞台装置としてはバッチリです。
しかしながら、これに無理やり帝国海軍と絡ませたため、
海軍的にはあり得ないことの連続になってしまいました。

まず、天知茂演じる一階の海軍大尉が特務機関から受けた密命というのが、
国家予算に相当する時価総額のダイヤを日本に運ぶこと。
一応そのダイヤは日本国民の資産ということになっていますが、
なぜそれが中国にあって海軍が持って帰るのかって話ですよ。

そのダイヤを日本に運ぶのに軍艦が使用されるだけなら問題はなかったのですが、
なぜか天知茂は東支那海に跋扈する海賊からダイヤを守るため、
驚くことに一大尉の分際で独断で海賊軍に軍艦を売ってしまいます。
そのときも散々ツッコんだのですが、警備艦とはいえ軍艦なのだから、
そのまま普通に東支那海をぶっちぎればいいのに、所有権を海賊に譲渡し、
剰えそれを操艦させ、女頭領に指揮を取らせるという展開がどうも納得いきません。
一番これはあかんと思ったのは、いつの間にか高倉みゆきが
軍艦「呉竹」の名前を「泰明」号なんていうラーメン屋の屋号みたいなのに変え、
艦橋で攻撃の指揮まで執り出した時でしたね。
何しろ彼女は、女性、中国人(おまけに海賊)という、この頃の日本男児にとって
最も命令されたくなさそうな条件を三つ兼ね備えているんですから。


東宝スパイ映画(的なもの)のお約束、それは軍人を演じる我らが天知茂と、
スパイとか海賊という怪しい立場の女性が恋に落ちるという展開です。

その際、天知茂はわたしの知るかぎり、必ずと言っていいほど
その女性に対し、ツッコミどころ満載の名言を残してくれます。

あの世紀の新東宝名作「謎の戦艦陸奥」での天地の相手役は
女スパイであるバーのマダムですが、彼女の「陸奥」の造船技師だった父は
スパイの疑いをかけられて銃殺され、なぜか「陸奥」を憎んでいます。

繰り返します。
海軍ではなく、彼女が憎んでいるというのは戦艦「陸奥」なのです。
それに対し、部下にも「陸奥」大好きっ子を公言して憚らない副長の彼が
マダムに向かって投げかける謎のセリフがこれ。
「私は陸奥を愛している。
だから君も嫌いにならないでほしい」

そしてこの映画では、海賊の女頭領に向かってこんな問題発言を・・・。

「僕はあなたをそんな人だとは思いませんでした。
もっと・・・女らしいひとだと思いたかった」
「なぜもっと女らしい道を選ばないんです!」
好きになった途端、流し目しながら自分の好み視点で説教から入る天地。
もう最高です。

さて、映画では陛下の御船たる帝国海軍の軍艦を、
よりによって中国海軍に売り渡してしまい、名義が譲渡されると、
帝国海軍軍人が海賊どもに操艦ができるように訓練が行われるという、
とんでもない展開となって驚かせてくれます。

昨年末ご紹介した呉越同潜水艦映画、「Uボート最後の決断」では、
成り行き上、手を取り合ってUボートの操艦を余儀なくされた米独の潜水艦乗員が
同じ作業を通じて互いの間にいつしか同志的な連帯が生まれるという
実に映画的なストーリーとなっていましたが、この時には、
中国人海賊は所詮海賊、帝国海軍の軍艦を操艦する作業はあまりに過酷で、
最後まで「呉竹」乗員はダメ出しを続けていました。

しかもその後、海賊たちは張啓烈の反乱に付き合って全員が決起し、
あっという間に掃討されてしまうのです。
この反乱のどさくさに、軍艦はいつの間にか海軍の手に戻っているのですが、
売ったのなら所有権はまだ海賊(高倉みゆき)にあるはずなんだがな。
しかも、その軍艦を、中国海軍の艦隊に囲まれた途端、
艦長が一人残って自沈させてしまうという展開に・・。
その後海賊の女頭領は、なぜか一族郎党を見捨てて、
日本に天知茂と一緒に渡り、幸せに暮らしましたとさ。

めでたしめでたし。
と言いたいところですが、初期設定の「ダイヤを持ち運ぶ」という密命は
いつの間にか彼らの中でどうでも良くなっていたとみえ、
天知茂は、ダイヤを「呉竹」から持ち出さないまま内火艇に乗り込み、
そのまま日本にさっさと向かっております。


マーフィーの戦争 Murphy's War”何もかもがうまくいかなかった” 超大作映画
”夫婦共演の映画はヒットしない”マーフィーの法則

明らかに「マーフィーの法則」を想起させるタイトルなので、
こちらもマーフィーの法則と絡めて解説してみました。
自分が乗っていた船を沈めたUボートに、周りがドン引きするほど執拗に、
しかもたった一人で戦争を挑む、マーフィーという男の話です。
この映画が専門家からも一般大衆からも全く評価されず、
予算をかけた割に全くヒットしなかったのはなぜだろうか、
ということを、「映画ヒットのセオリー」を紐解いてまで
解明しようと試みたという意味で、当ブログにとっても画期的な作品です。
実際のバラオ級潜水艦にダズル迷彩を施して、
ベネズエラ海軍に操艦などの協力を得て、さらには水上艇の飛行シーン、
クレーンをUボートに落とすシーンなど、何かとお金をかけたのに、
如何せんキャラクターに魅力がなく、人物描写が杜撰なため、
全く主人公のマーフィーの必然性のない行動に誰もが共感が持てなかったから、
というのがわたしの分析した映画失敗(って言っちゃう)の原因です。
この映画は主人公を演じたピーター・オトゥールの実際の妻である
シアン・フィリップスが女医の役で共演しています。
二人が実際の夫婦だからか、二人の間にはラブシーンはなく、
役の上で恋愛関係に陥るという展開にはなりませんが、
わたしが思うに、そのせいでどうにも画面に緊張感が感じられません。
共演後に結婚に至るならともかく、すでに連れ添って長い二人が共演しても
映画はあまり成功しないというのはあながち嘘ではないと思いました。
「SAVE THE CATの法則」に外れた映画はヒットしない


映画がヒットするには、「セーブザキャットの法則」が必要と言われています。
そこで当ブログでは、この映画がヒットしなかったわけを、
この猫救いの法則に照らしてみました。

すると、その結果、主人公があるきっかけで行動を起こす前に、それに対して
抵抗したり逡巡したりする、という過程が欠けていることがわかりました。

つまり、マーフィーがなぜ偏執的な復讐者となったのかについて、
全く躊躇いも自省もなかった、というわけで、そんな人物描写の雑さが
観ているものに共感を与えにくいという結論に至ったのです。

”危険物は必ず落ちてほしくないところに落ちる”


終戦になったという言葉を聞いてマーフィーがいう、

「あいつらの戦争はな。俺のはまだだ」
は、この映画を象徴する台詞の一つでしょう。
相棒だったルイにドン引きされて見捨てられたマーフィーは、
その後海底に沈没したUボートにとどめを刺そうとして、
自分も命を失うという、後味の悪いエンディングで映画は幕を閉じます。
たまたまテレビで再放送をしていたとかならともかく、
わざわざお金やましてや時間を使って観るべき映画ではありません。
最後に、わたしがここまでこの映画を嫌うのは、
主人公マーフィーに対する、拭い難い嫌悪感が大きな理由でした。だって共感できるポイントがたった一つもないんだもん。




「オキナワ」神風との対決 OKINAWA
超低予算ニュースリールツギハギ戦争映画
エド・ウッドの低予算映画?


映画史から全く顧みられることもない、世紀の駄作にも光を当てることで、
映画という映像芸術のある意味深淵に迫ってみた挑戦的な試みです。
苦心して探し出した映画サイトの本作品感想欄はどれも痛烈で、
その中から、「(酷すぎて)エド・ウッドの戦争映画かと思った」
という名言を見つけた関係で、知らなくても人生に何の影響もなかった
ハリウッドの反天才監督、エド・ウッドなる人物の存在を知ってしまったほどです。
ストーリーなんてのはこの映画にはなく、ただひたすら
ピケット艦である駆逐艦「ブランディング」の砲兵たちと幹部が、
神風特攻に怯えながら配置と解除を繰り返し、
その間愚にもつかん無駄話が甲板とバンクで垂れ流され、
ついに特攻に激突され、死者を一人出して最後に祖国に帰るところで終わります。




ブログの編集画面が変わって、1日で終わらすつもりのログが
字数制限を超えて二日に分けざるを得なくなったため、
最初に制作したタイトル絵を二日分に分けて書き直すことになったのですが、
他の映画紹介では全く苦にならないこれらの作業も、
あまりに映画がくだらなかったので腹立たしくさえ感じてしまいました。

ただ、彼らが勘違いして航空特攻だと思って採用した
陸軍の義烈空挺隊の特攻出撃シーンが映像として結構な分量収録されており、
ここだけが映像作品として後世に残す意味を持っていると言っておきます。

本年度扱った中で紛れもなくその低質さ、くだらなさ、志の低さ、
低予算においてナンバーワンの駄作だと太鼓判を押します。


というわけで、旧年度の映画紹介を終わります。
今年も継続していろんな戦争関連の映画をご紹介していければと考えておりますので
よろしくお付き合いください。


明けましておめでとうございます。

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新年早々映画の紹介がずれ込んだので、毎年恒例の
写真年賀状シリーズと参ります。

今年は、年末年始が帰国してきたMKの自粛期間と重なることもあって、
お出かけが4日からになったのですが、いつも現場に参戦しては
自衛隊の写真をくださるKさんが、今年は横須賀軍港のお正月風景を
ご覧のように素敵に撮影して送ってくださったので、
ぜひ皆様に見ていただきたく、ご紹介します。

冒頭の写真ですが、潜水艦にもちゃんとお正月飾りを付けるんですね。他の艦もどこかに注連飾りしていたりするんでしょうか。


この写真、いったいどこから撮影されたのでしょうか。
「いずも」甲板にはF -35戦闘機発着用に黄色いラインが書き加えられているとか。


仲良く並んでいる101「むらさめ」と154「あまぎり」ですが、
看板号の塗装がずいぶん違っている、とのこと。
単純に「塗装前塗装後」っていうことではないってことなんですか?
Kさんによると、海上自衛隊ではロービジ化が進んでいて、
艦番号は白文字から目立たない灰色に変更されて行っているということです。

お正月なので流石の海自もこの日は訓練はお休みだったんでしょうか。


いつもの場所のレーガン先生、補修工事真っ最中。


さて、Kさんによると、コロナのせいで昨年は
「腰のひけたことを繰り返しただけの一年」だったということです。

ただ、わたしはこれが悪いことばかりだったとは思いません。
コロナで全ての公開イベントなどがなくなったこともです。
今後、爆発的な感染が形を潜めても、しばらく人の集まるようなイベントは
自衛隊においても自粛の方向でしょう。
そして、世の中がすっかりコロナ前に戻る、ということはいろんな意味で
もう期待しないほうがいいとわたしは思います。
従前、イベントが昨今過熱気味で、例えば観艦式や総火演などでは
多数の入場券がネットオークションで高額で取引されるなど、
何かとよからぬ問題も起こっていたことを考えると、この自粛傾向を奇貨として、
新しい形の自衛隊広報活動を模索することも可能なのではないでしょうか。
広報活動は自衛隊にとって重要ですが、あくまで最優先の任務ではないのですから。


鹵獲されたイラク軍の「ヒューイ」〜フライング・レザーネック航空博物館

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フライング・レザーネック航空博物館の展示ですが、
HPで紹介されているのに現地になかったり、逆にHPにはあるのに
撮ってきた写真のどこにも機体が見当たらない、という例がいくつかありました。

修理中だったのか、それとも別の博物館に移転していたのか
今となってはわかりませんが、今日ご紹介する機体は、
HPにその名前があって、展示機もその名前であるのは確かなのに、
実物はどう見てもHPのものとは違う、という特殊な例です。

■ ベル UH-1N
冒頭写真はわたしが撮ってきた写真ですが、HPに載っていたのはこれ。



どちらもUH-1N ヒューイに見えますが、
そもそも色が違う。大きさが違うし窓の数も違う。

しかし、とりあえずこちらを先に説明しておきます。

【ベル UH-1 イロコイス(愛称:ヒューイ)】
単一のターボシャフトエンジンを搭載し、
2枚羽根のメインローターとテールローターを備えた
軍用ユーティリティヘリコプターです。

1952年にアメリカ陸軍が、医療搬送と実用性を兼ね備えたヘリコプターを
ベル・ヘリコプター社に要求し、1956年に初飛行しました。

UH-1は米軍初のタービン式ヘリコプターであり、
1960年以降16,000機以上が製造されています。

イロコイは当初HU-1だったことで1をiと読み「ヒューイ」と呼ばれていましたが、
1962年に正式にUH-1に再指定されたにもかかわらず、
ヒューイの愛称はそのまま変わらずに親しまれてきました。

UH-1はベトナム戦争で初めて実戦投入され、約7,000機が配備されました。

【ベトナム戦争とヒューイ】

1962年、海兵隊は、セスナO-1固定翼機とカマンOH-43Dヘリコプターに代わる
突撃支援ヘリコプターの選定コンペを行いました。
優勝したのは、すでに陸軍で運用されていたUH-1Bです。

このシングルエンジンのヘリコプターはUH-1Eと名付けられ、
海兵隊の要求に合わせて改良されました。

主な変更点は、海上使用に備えて耐腐食性に優れたオールアルミ製の採用、
海兵隊の地上周波数に対応した無線機、
停止時にローターを素早く停止させるための艦上用ローターブレーキ、
そして屋根に取り付けられたレスキューホイストなどです。

UH-1イロコイ(またはヒューイ)ヘリコプターは、
ベトナム戦争のイメージそのもの、と言っても過言ではないでしょう。

そのイメージのほとんどは、ヒューイの全艦隊が任務地に向かって、
または任務地から飛びたつ姿です。

ガンシップは固定翼機の支援を補うために使われ、
着陸地点の調査や周辺の敵軍の排除を行います。
そしてその後、輸送機が兵員を運びこむのです。

地上での戦いでは、これらのヘリコプターが残って地上支援を行ったり、
負傷者を救出したりしました。
時にはジェット機の接近戦を支援することもありました。
まさにアメリカ軍の主力機であり、あらゆる戦略に対応できたのです。

UH-1は、第二次世界大戦以来、最も多く生産された航空機となりました。


UH-1Nは、ベル205の胴体を伸ばした機体をベースに開発されました。
もともとは1968年にカナダ軍(CF)向けに開発されたもので、
CUH-1Nツインヒューイという名称でした。

しかし、カナダの下院軍事委員会の委員長が、米軍用機の購入に反対して、
この計画はポシャってしまいました。
委員長が反対した理由は、プラット&ホイットニー・カナダPT6Tエンジンが
そのときカナダで生産されていたからでした。
しかも当時のカナダ政府は、アメリカのベトナム参戦を支持しておらず、
それどころか、アメリカの徴兵逃れをした人を受け入れていたのです。

そこで米国議会は、アメリカ軍の購入を承認したというわけです。

UH-1Nの海兵隊への納入は1971年に始まり、それから43年間
活躍したUH-1Nイロコイは、2014年9月になってようやく退役しました。

海兵隊ライト・アタック・ヘリコプター飛行隊773は、
これを運用した最後の海兵隊で、最後の派遣を2013年まで行なっていました。

その後UH-1NはアップグレードされたUH-1Yヴェノムに置き換えられます。
海兵隊によるUH-1Nの最後の戦闘配備は2010年のアフガニスタンでした。
FLAMのUH-1N(BuNo.159198)は、1974年アメリカ海兵隊に受け入れられ、バージニア州MCAFクアンティコのHMX-1に
「兵器システム評価機」として派遣され、その後は
新しいヒューイのパイロットとクルーの訓練に使われていました。

2010年4月26日に退役して、その時からここに展示されていたようです。
(ただしこのときには戸外にはでていませんでした)





さて。
それではこちらのヒューイ的なヘリコプターです。

「HAHAHAHAHAHAHA」
というアテレコをしたくなる顔の表情ですが、
これ、さっきのと顔が違いますよね。
現地展示機の方が口角上がってるし。
それでは、運良く現地の説明を忘れずに撮ってくることができたので、
それを翻訳しておきましょう。

【ベル214ST(スーパートランスポーター)】
ベル214STは、ベル・ヘリコプターのVH-Aヒューイシリーズから派生した
ミディアムリフトのツインエンジンヘリコプターです。
なんだ、同じヒューイの仲間だけど、全く別のヘリだったのね。
ベル214というのはUH−1ヒューイのエンジン強化型で、
「ヒューイプラス」と呼ばれていましたが、この214STは
されにそのエンジンを双発にし、大型にした、いうならば
「特大型ヒューイプラス」というべき機体です。
もちろん、そう呼ばれていたわけではありませんので念のため。
STはスーパートランスポーターのことですが、
元々は「Stretched Twin」から来ていたそうです。
さすがにストレッチツインは意味がわかりません。
「ストレッチする双子」・・・?
214と214 STは同じ番号でありながら全く外観が違います。


わたしには「全く違う」と言われても、そんなもんですかという感じですが、
言われてみれば、確かにローターの付いているところが違うかな。
そもそも「ヒューイプラス」なるヘリの存在は聞いたこともないのですが、
それはなぜだと思います?

214STは、もともとベル214B「ビッグリフター」をもとにした
軍事プロジェクトとして開発され、
イランでの生産を行うためにイラン政府によって資金提供を受けているのです。


【イラク革命とヘリの製造】

なるほど!
それで初めてこのペイントがイラン国籍機を意味するのだとわかったわたしです。ピンクがかった機体の色も、砂漠での運用に合わせた仕様だったんですね。


尾翼にも思いっきり国旗ペイント。
ちょっとデザイン的にここに国旗をあしらうのはどうかなと思いますが。
214STの暫定的なプロトタイプは1977年2月、テキサスで最初に飛行しました。
しかし、「1979年、シャーが転覆します」
シャー?ガンダムかな?

というベタなボケは無視していただくとして、
シャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王、
それもイラン系の王の称号のことです。

それくらいは一般常識として知っていましたが、
「転覆=withdraw」の意味がわからず、わたしはここではたと困りました。
もしかしたらわたしだけかもしれませんが、総じて日本人って、
中東とかアラブとかの歴史や出来事があまり理解できていないってことないですか?

というわけで「シャーの失脚」と言われても全くピンとこない上に、
検索すると子猫が「シャー!」とやっている画像が出てきたりするもんですから、
ついそちらに時間をとられてしまいながらもなんとかわかったところによると。

1979年2月11日、この日は「中東を変えた歴史的な出来事」または
「アメリカとイランの敵対の歴史が始まった日」
つまり、「イラン革命の日」だったのです。

かつてのイランは今とは違い、シャーが支配する王政の国でした。
「最後のシャー」となったパフラヴィー2世は親米でしたが、
これに国内の民族主義勢力が反発します。
1951年、民族主義者のモサデグ氏が首相に就任し、石油の国有化を宣言しますが、当然のことながらアメリカはこれに烈火の如く怒り心頭。
ありがちなことですがCIAなどの工作によって、クーデタを起こさせて
首相を失脚させ、親米のパフラヴィー2世に再び実権を戻してしまいます。
つまりアメリカはイランを中東における“反共の砦”にし、石油資本をメジャーに握らせることに一旦は成功したというわけです。

このアメリカとの蜜月期間、パフラヴィー2世は、豊富な石油マネーをもとに
軍備拡張やさらなる近代化を進めますが、その弊害で農村は疲弊。
インフレが発生し、国民の間では次第に経済的な不満が高まっていきます。
そして反政府デモの弾圧をきっかけに暴動が拡大し、1979年、パフラヴィー2世はついに国外に脱出、王政は崩壊しました。

この後パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国して反米路線を掲げる「イラン=イスラム共和国」が成立しました。
その後、パフラヴィー2世の受入をアメリカが認めたことを受けて、
アメリカに反発したホメイニ支持の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃。
1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件、
アメリカ大使館人質事件が起きたのは、強烈な記憶にある人も多いでしょう。
その後のイラン=イラク戦争も、隣国イラクのサダム・フセインが
アメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻したのがきっかけです。
つまり、その後の世界におけるアメリカと中東の今日に至る齟齬は、
全てこの1979年の革命をきっかけに始まっているというわけです。

まあ、それまでの、大国と仲良くしてもらう代わりにオイルを搾取される関係を
そもそも平和な状態と呼べるのか、という説もありますがね。

ついつい、大東亜戦争に突入するまでの日本の追い詰められ方と、
この新米政権下のイラン国内の疲弊の構図を重ねてしまうわたしです。


【革命後の設計変更】
話を戻しましょう。
新米政権が倒れたので、ベル・エアクラフトは生産計画の変更を余儀なくされます。
イラン国内から生産を撤退し、ダラスのフォートワースの施設で
残りの214STを建造しました。
1981年から始まった製造に続き、1982年に納入が開始されました。
(どこに?って、それはイラン軍だったのではないかと思いますが)

その際、ベル214STにはスタンダードな214からの設計変更がありました。
より機体が大型化し、胴体が伸びて、10〜18人の乗員用の座席を備え、エンジンは
1.625shp(1.212kW)のゼネラルエレクトリックCT7-2Aを2基積んでいました。
このヘリコプターは、いくつかのground-breakingな、
つまり画期的なベル社の革新をもたらすものでした。

それは、「1時間の乾式トランスミッション」(残念ながら意味不明)
そしてファイバーグラス素材のローターブレード、
エラストマー樹脂(ゴムの種類)のローターヘッドベアリング、
スキッドかウィール型か選べるランディングギアなどの採用などであり、
コクピット用のドアと両側の大きなキャビンドアが独立していたことでした。
燃料上限は435ガロン(1646L)で、燃料は増槽が追加できます。
これからもわかるように、この機体はベルで製造された最大のヘリコプターでした。

ベルは最終的に100機の214STを製造しました。
軍用バージョンとして製造されたものは、イラク、
ブルネイ、ペルー、タイ、ベネズエラなどに配送されました。
1991年には生産を終了し、機体はベル230におきかえられていくことになります。
【FLAMのBell214ST】

この特別な214ST(シリアル番号28116)は、
1980年代にイラク政府によって購入され、「砂漠の嵐」のときには
イラク軍のヘリとして任務を行なっていました。

1991年2月27日の朝、海兵隊第1師団の部隊が
クェート国際空港に入り、掃討を開始した時です。
燃え尽きた航空機と破壊された建物の真っ只中に、
(他人事みたいな言い方ですが、そもそもこの破壊をしたのはアメリカだよね)
イラクのマーキングを施したほとんど真新しいベル214STがあったのです。
第一師団の海兵隊員たちは、すぐにこの歴史的機体の「鹵獲」を主張し、
アメリカに「送り返す」手配をしました。
ヘリコプターは、「砂漠の嵐」における海兵隊員の
卓越した支援に対する感謝の印として、
その後、ここMCASエルトロに拠点を置く
第3海兵師団(第3海兵航空団)に与えられました。

このベル214STは、捕獲されたとき750時間の飛行距離を記録していました。
現在の価格は250万ドル以上ということです。

続く。




CH-53A シースタリオン〜フライング・レザーネック航空博物館

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■ シコルスキ CH-53A シースタリオン Sea Stallion 
展示ヤードにその姿があり、現地には説明の看板がありながら、
なぜかフライング・レザーネック航空博物館のHPには
影も形もその存在がないという不可思議なことになっていますが、
気を落とさず説明していきたいと思います。


CH-53Dシースタリオンは、海兵隊で使用されている中量輸送用ヘリコプターです。
もともと海兵隊ように開発されたもので、現在は
ドイツ、イラン、イスラエル、メキシコで運用されています。

そのミッションはというと、海兵隊任務部隊などを支援するために
重機、人員、物資をヘリコプター輸送することで、
1962年から運用するために発注されました。
シコルスキのヘリコプターの中では最大級の大きさであり、
従来の固定翼機に匹敵する耐荷重能力を備えていました。

【誕生までの経緯】

1960年、アメリカ海兵隊はHR2Sヘリコプターの後継機を探し始めていました。

1961年から陸海空軍は合同で
三軍VTOL輸送機”Tri-Service VTOL transport”の開発を開始していましたが、
設計はあれこれと複雑になるわ、計画は長引くわで、
これでは満足のいく時間内に実用機を受け取ることができないとして、
結局海兵隊はこの計画からいち抜けたーと脱退しています。

このときですが、結果的にはヴォート・エアクラフトXC-142という
超かっこ悪いティルトウィング垂直離着陸機が
世界で初めて誕生しています。


「どすこ〜い」

XC-142Aは5機製造されましたが、そのどれもが事故を起こし、
うち3機が失われ、実用化には至りませんでしたから、
いちはやくこの計画から足抜けした海兵隊は、慧眼だったか、
あるいは危機を見抜く力があったということなのでしょうか。
この機体、わたしはオハイオ州はデイトンの
国立アメリカ空軍博物館で実際に見ているはずなんですが、
データをいくら探しても出てきません。


VTOL機に見切りをつけた海兵隊ですが、海軍兵器局が
1962年3月、海兵隊に代わって、海兵隊のために
「ヘビー・ヘリコプター・エクスペリメンタル/HH(X)」
の要求を提出しました。
その要求は、

「航続距離120マイル、最高速度170マイル、最大8,000ポンドの貨物、
乗客、医療用リッターを持ち上げることができる
マルチロール・ヘリコプター・プラットフォーム」
というもので、強襲輸送では、兵員ではなく重装備の運搬ができること。

この「豪勢な」要求にはいくつかの企業が飛びつきました。
ボーイング・バートル社はCH-47チヌークの改良型を、
カマン・エアクラフト社は英国フェアリー・ロトダイン複合ヘリの開発型を。

そしてシコルスキー社は長年ヘリコプターの飛行に携わってきた経験から、
大型の実用機CH-54「ターレ」とS-64「スカイクレーン」をもとに、
CH-54/S-64と同様の頑丈さと柔軟なシステムを備えた機体に
新しいエンジンを積んだS-65を提案しました。
ボーイング・バートル社とシコルスキー社の競争は激しく、
チヌークはアメリカ陸軍が保有して評価を得ていたこともあって有利でしたが、
最終的にシコルスキー社が落札しました。

【製作】

海兵隊は当初、4機の試作機を調達しようとしていましたが、
苦しい懐具合を忖度したシコルスキー社が、
契約をキャンセルさせないように開発費の見積もりを下げ、
2機だけにすれば安くですみますけど?と提案しました。

当時のアメリカ国防長官ロバート・S・マクナマラは、
チヌークを共同で運用すれば費用の面でもお得で便利、と考えていたため、
この計画に対して圧力をかけてきたそうです。
海兵隊はこれに対し、
「チヌークを改造するのは安くない、かえって費用がかかる」
とマクナマラ側を説得し、要求を通しました。


こういった政治的な側面や技術面が進捗を遅らせたため、
コネチカット州にあるシコルスキー社の工場で
初号機が初飛行を行ったとき、当初の予定より約4ヶ月遅れていました。
2,860軸馬力のT64-GE-3シリーズのターボシャフト・エンジンが2基搭載された、
CH-53「シースタリオン」ヘリコプターは、飛行試験中にもかかわらず、
すでに米海兵隊は16機を発注していました。

飛行試験は予想以上に順調に進み、開発期間の遅れを取り戻すことができ、
1964年は一般公開の運びとなりました。
CH-53Aシースタリオン
という軍用呼称と名前が付けられたのもこの頃で、
約2年後には初めてベトナム戦争の実戦部隊に参加しています。

Sea stallionというのはタツノオトシゴのシーホースと違い、
完全な造語で、スタリオンは「種馬」の意味です。
海軍&海兵隊使用のヘリには「Sea」が付くことになっていますが、
馬は馬でも、英語では猛々しく雄々しいイメージの
「スタリオン」を持ってきたところに「シーホース」からの発展性を感じますね。


【仕様】
CH-53の外観は、ヘリコプターとしてはオーソドックスなレイアウトといえます。
コックピットのフライトデッキは前方に大きく張り出したデザインで、
機体の外側を見渡せるようにガラス張りの窓で覆われています。


フライトデッキには2名のパイロットが配置され、
胴体側面のドアからアクセスします。

コックピットの真後ろには、重機関銃を搭載できる武器ステーションが2つ。
各砲手が任務を行うためのオープンエアの四角いポートが与えられています。

CH-53の胴体はもちろん幅よりも全長が長いですが。
この正面を見てお分かりのように、実に堂々とした顔つきです。

胴体から突き出たサイドスポンソンによって幅が広くなり、
外部燃料タンクをさらにその外側に搭載して航続距離を伸ばすことができました。

エンジンは胴体上部の側面、前方よりにマウントされています。
6枚羽根のメインローターマストは胴体に密着し、
胴体の屋根から突き出たエンジンルームの固定具の上に乗せられます。

タラップは電動で下降し、タラップの端には銃座を設置することも可能。
貨物室は広く、武装した兵士は向かい合って2列に座るようになっています。

シースタリオンはGPSセンサーを内蔵しており、
キットとして7.62mmと50口径の銃が搭載されています。
通信はUHF/VHF/HF無線、セキュア通信機能、IFFを搭載しています。


シースタリオンは、同じシコルスキー社の
S-61R/ジョリー・グリーン・ジャイアントシリーズにデザインが似ているので、
「スーパー・ジョリー・グリーンジャイアント」とあだ名がつけられました。

コックピットの後ろの胴体右側には乗客用のドアがあり、
後部には動力式の荷台が付いています。
水陸両用を目的としたものではありませんが、胴体は水密性があるので
緊急時にのみ着水することができました。
操縦機能については、3つの独立した油圧システムが使われています。

乗員はパイロット、副操縦士、クルーチーフ、空中監視員の4名の乗員、
兵員は38名、4名の医療従事者というのが基本のセットです。

搭載貨物は内部に3,600kg、外部にスリングフックで吊るして
5,900kgを搭載することができました。

艦艇に搭載できるように、テールブームとローターは折りたたみ式。



CH-53DにはAN/ALE-39チャフディスペンサーや
AN/ALQ-157赤外線対策などの防御対策が施されています。
【空軍・海軍での運用】
CH-53は、1967年の1月には早くもベトナムの戦場に到着していました。
ベトナム戦争シリーズで何度も書きましたが、ベトナムの暑いジャングルの中、
敵はどこにでも潜み、どこからでも出てくるかに思われたようです。
しかも彼らはソ連の支援を受けていました。

CH-53はすぐに実戦の「洗礼」を受けることになりました。
しかし一旦任務に就くと、CH-53は比較的信頼性が高く、
頑丈であることが証明されました。

当初期待された仕様通りに撃墜された飛行士を救出し、
大量の貨物や兵員をホットゾーンに出入りさせ、
必要に応じて負傷者を安全地帯まで移動させることができたのです。

ベトナム戦争期間、全部で139機のCH-53Aが製造されました。あの「フリークェント・ウインド(頻繁な風)」作戦では、
人員の避難を行うなど重要な役目を果たしたのもシースタリオンです。
海兵隊は1980年にイランで行われたアメリカ人人質救出作戦
「イーグルクロウ」では、海兵隊の回転翼部隊が出動しましたが
ヘリコプターが激突炎上し「デザート・ワン」は惨事と恥辱に終わりました。
イーグルクロウ作戦
また、海兵隊のCH-53はグレナダ侵攻における
「アージェント・フューリー」作戦で使用されました。


アメリカ空軍も、この大型輸送ヘリコプターに注目しました。
1966年に最初の8機(HH-53B)を発注しました。
「スーパー・ジョリー・グリーン・ジャイアント」と名付けたのは空軍です。
もともとこのグリーンジャイアントは、
墜落した飛行士の捜索救出のために特別に改造された戦闘救助機でした。
救助活動中のHH-53C

改良された「グリーン」系のHH-53Cは、空中給油できるプローブと
さらに外部燃料タンクによって作戦範囲が改善されていました。

味方のパイロットは敵地のはるか遠くで墜落する可能性が高かったからです。
アメリカ空軍のスタリオンは、ベトナム戦争末期以降も運用されたが、
その目的はパイロット救出の一点にありました。
燃料補給プローブ、チャフ/フレアディスペンサー、
装甲を備えた広範なジャマー群も搭載され、
サーチ&レスキュー機能を向上させるためのサーチライト、
電動ホイストも追加されています。

空軍では、1970年にアイボリーコースト作戦として、
北ベトナム収容所のSS「マヤグエス」の乗組員を救助するため
海兵隊と空軍保安部隊を乗せて飛びました。

アメリカ海軍もいわば「CH-53のブームに乗った」形です。
1971年、海軍はシースタリオンを空挺掃海艇として使用するために、
15機のCH-53Aモデルをアメリカ海兵隊から直接受け取っています。



これらは米海軍では「RH-53A」と呼ばれ、
より強力なターボシャフトエンジン(各3,925軸馬力)、機雷除去装置、
水中の機雷掃討用のの12.7mmブローニング重機関銃2挺を搭載していました。

その後、アメリカ海軍はCH-53Dを「RH-53D」として30機納入し、
再び掃海任務に使用しています。
CH-53Dの登場により、米海軍はRH-53Aを米海兵隊に返還し、
これらは元の米海兵隊のCH-53Aの規格に戻されました。
アメリカ海軍は最終的にRH-53Dモデルを、
より近代的なMH-53E「シードラゴン」に変更しました。
CH-53E「スーパースタリオン」は、初代「シースタリオン」を
さらに強力にしたもので、第3のエンジンを搭載し、運搬能力が向上しています。

「シードラゴン」というのはタツノオトシゴ的な生物ですが、
「スーパースタリオン」(超種馬)ってすごいネーミングなだあ。
もはや「海」何も関係ないっていうね。

かっこよすぎか


また、VIP輸送用の「VH-53F」もあります。

イラクでのフリーダム戦争では、CH-53は空軍、
アメリカ海兵隊、アメリカ海軍によって運用されました。
「不朽の自由作戦」の支援でも三軍全てで運用されています。
2012年、CH-53Dがアフガン地域で最後の任務を行いました。
2007年9月17日、海兵隊は10機のMV-22Bオスプレイを配備しました。
今後海兵隊のCH-53DとCH-46Eシーナイツの主要な代替機となっていく予定です。

ただし、パワフルなCH-53Eは代替せず、代わりに
開発中のCH-53Kが海軍と海兵隊のCH-53Eに取って代わる予定で、
いくつかのCH-53Dヘリコプターは第3海兵連隊の訓練用に残されます。

最後のCH-53Dは2012年11月に退役しました。


サービス USMC

推進力:2基のGE T64-GE-413ターボシャフトエンジン
対気速度:160ノット
航続距離:578nm
乗組員:クルー パイロット2名、乗務員1名
武装:3挺の50口径機関銃
積載量:兵員37名または24名の患者・4名の付添い人、
または8,000ポンドの貨物
続く。



お正月京都旅行〜祇園料亭旅館編

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MKの自粛期間は1月1日まででした。
1月2日なった途端、文字通り自粛明けましておめでとうございましたとばかりに、
三ヶ日を外して京都へ家族旅行に行ってまいりました。
つい最近紅葉を見に京都に行ったことをここでご報告したばかりなのですが、
関東在住の関西出身者にとって、京都というのは実に不思議な街で、
行かなければ行かないで平気なのに、一度行くと、なぜかすぐ来たくなるのです。
特にコロナ以降、すっかり外国人観光客がいなくなったため、
街が記憶に残る昔の姿に戻ったようで、京都愛は募るばかり。
今回お正月旅行に京都を選んだ理由はそれだけではありません。

この冬、わたしたちは、コロナで大学が閉鎖になった時に
カリフォルニアの豪邸にMKを1ヶ月も避難させてくれたクラスメートを、
日本に招待しようとしていました。

結局、コロナ新型株の蔓延でそれも計画だけに終わってしまったのですが、
彼に日本を存分に満喫してもらうつもりで、京都の宿を取ってあったので、
せっかくだから家族で泊まりに行こうということになったのです。
一泊めは前回と同じ、祇園の料理旅館の別館です。

こう見えて暗証番号解除式(木の札の下がタッチパネル)
今回は公共交通機関での移動を避けて、車で行くことにしました。うちで免許を持っているのは他にいないので、運転はもちろんわたしです。

関東関西間の長距離ドライブは結婚して関東に引っ越ししたとき以来ですが、
その時とは違い、今では新東名、新名神が開通していて、
6時間もあれば京都に着くことを、いつも京都に車で帰省している知人に聞いて、
そんな早いなら、と思い切って車で出かけてみました。
道はまっすぐで制限時速が120キロと走りやすいし、混雑も全くなく、
何より途中のPAがどこに止まっても綺麗で施設が充実していて、
とても快適なドライブ旅行を楽しむことができました。
世の中っていつの間にかどんどん不便がなくなり便利に変わってるんだなあ。


余録というか、ついでに驚いたのは、自分の車の恐ろしいほどの燃費の良さでした。
愛車はクリーンを謳ったディーゼルエンジン搭載型なのですが、
ほぼ満タンで出発し、京都に着いた時にはまだ半分残っていました。
つまりその気になれば無給油で往復できたことになります。

しかも軽油なので、ガソリン代は往復してもせいぜい6,000円くらいという計算。




さて、今回もお世話になる祇園の料理旅館Sさん。昔から続く老舗なので、こういうのも平安時代ものだったりするかもしれません。

ちなみにこの川にかかる橋は、現女将のお婆ちゃまが独断で設置したそうです。
一応橋というのは民間人が勝手にかけたり外したりしちゃいけないんですが、
そこはそれ、戦中のどさくさに、そら橋があった方が便利やし、ということで。

戦後、お役人が条例違反摘発の見回りに来て、いつから橋があるのか聞かれたとき、
お婆ちゃま、当時の当家女将は、

「そうどすなあ〜」

だけでケムに撒いて乗り切ったそうです。これ、何も答えになったはらしませんやん。
言う方も言う方やけど、これで納得して帰る役人も役人やわ。

別館の玄関に飾られたお鏡は、なんと餅ではなくザボンでした。
確かにお餅と違い、松の内ずっと飾っていてもこれならカビが生えません。
ってそう言う理由かどうかは知りませんが。


料理旅館の床間のしつらえは季節毎に変わります。
今回は見た目もめでたい大徳寺の坊様の書いた書、松飾り、
そして炭を俵のように積み重ねて稲穂をかけたお飾りでした。

着いて最初にお茶菓子をいただきました。

お菓子は京都の人なら誰でも知っている、銘菓花びら餅。
中のピンク色の餡が透けて見える可愛らしいお餅で、
必ずゴボウが挟んであるのが標準仕様でございます。


荷物を置いた後、長時間の運転ですっかり硬くなってしまった足腰を動かすため、
MKと一緒に鴨川の河原を歩きに行きました。


上流に向かって歩いていくと、向こうまで渡れる飛石があったので、
向こう岸まで渡って河原を折り返して戻ろうと思ったのですが、
如何せん、わたしの履いていたスカートの裾幅が思っていたより狭く、
飛石を飛ぶのに十分なほど足が広げられないことが最初の跳躍でわかりました。
かろうじて最初の石に飛び移ったものの固まっているわたしに、MKは

「やめた方がいいよ。俺だけで行く」
と言い、さっさと向こう岸に渡ってしまったので、諦めて戻り、
川を挟んで反対側の河原を歩き、四条の橋の袂で落ち合いました。

部屋でPCのレイアウトをしたり、作業をしているうちに夕食時刻になり、
わたしたちは本館に向かいました。

玄関の右側が食事をいただくカウンターとなっています。
他のお座敷と違い、カウンターは掘り炬燵形式で床暖房が入っているので、
正座の苦手な外国人宿泊客にも優しい気遣いです。


お正月ということでまずは竹のお猪口で日本酒が出されました。

雛飾りのミニチュアでしか見たことがないようなお膳。
この会席膳を「八寸」と言い、これに乗って出されるお料理も八寸と呼びます。
ちなみに八寸を運んでいるのが当家の女将さんです。
CA出身の別嬪さんなので、その筋では有名人なのではないかと思っていましたが、
たまたま人から、彼女が関西放映のあるCMに出演していると聞いて、
やはりと納得しました。(空気清浄機か何かだそうです)
着物の模様に合わせた薄紅色のマスクをしておられますが、
今回彼女のマスクから出た目が必要以上に「笑っている」ことに気がつきました。
接客業の方は意識しているかもしれませんが、単なる愛想笑いだと
口元が歪むだけなので、マスクで隠されると笑っていることがわかりません。
客に心から笑っていると認識されるためには、彼女のように
全身全霊目で笑わなければ伝わらないのかもしれません。
京都のお客商売、プロの中のプロの真髄を垣間見た気がしました。


手前、松の葉にお菓子のように彩り良く色んなものが刺してありますが、
黒豆、千社唐、そして千呂木なるもので、これは「チョロギ」と読み、
ソフトクリームみたいな形の、生姜みたいな味のする物体です。シソ科植物の根っこなのだそうですが、赤は染めてありオリジナルは白です。


向付(むこうづけ)は懐石料理の刺身,酢の物などのことです。
この日の向付は伊勢海老、モンゴウイカ、ヒラメのお造りでした。


鍋で出てくるわけではありませんが、「鍋物」です。
魚のメインで、河豚煮に聖護院大根と高菜があしらわれています。

この日の焼き物は鹿肉のロースステーキでした。
フランス料理以外で鹿肉を食べたのは初めてかもしれません。
和食料亭のステーキなので、ソースはバルサミコ酢ではなく黒酢です。付け合わせは普通にリンゴのコンポートでした。

デザートは柚子に入ったゆずシャーベット、紅白イチゴ。
驚きの美味しさだったのはクリームチーズとナッツを乗せた干し柿でした。
この夜、MKは父親に連れて行ってもらって祇園のバーを初体験しました。
祇園には古い町屋の内部は思いっきりモダンなインテリアの
お洒落なバーがたくさんあるのです。

次の朝の朝食です。
わたしは日頃朝食抜きの生活をしていますが、今回だけは特別。
京都の料亭旅館のお雑煮が食べられる滅多にない機会なので、
わたしもTOも迷わずお雑煮付きの和食を選び、MKだけが洋食にしました。
箸袋にはちゃんと名前が書かれ、お膳に添えられた和紙には
女将が前日の会話などからヒントを得たメッセージが
毛筆で認められていて、食事の席に話題を提供します。
何気ない会話の時も、女将は頭脳をフル回転させているらしく、
このメッセージに頓珍漢なことが書かれることはまずありません。
記憶力も大したもので、夕食の会話の中で次の日の朝食について
メモも取らずに客のオーダーを聞くのですが、
(和食か洋食か、餅が何個だとか、コーヒー紅茶どちらにするかとか)
それが間違えて出てきたことは一度もないので大したものです。

そもそもわたしは雑煮というものを好きでも嫌いでもないのですが、
京都の白味噌仕立ての雑煮だけはなかなかいいものだと思っています。

お餅を焼いて入れる地方もあるようですが、京都では丸餅は
湯通しするだけで煮るので、あくまでもとろけるような柔らかさ。

この旅館がそうしているのかどうかは聞きませんでしたが、
京都では毎年、をけら参りで頂いたおくどさんの火を、
雑煮を作るために縄に点して持って帰るという慣習があります。
なぜに京都のお雑煮は白味噌かというと、それは神様が白色がお好きだから。
なぜ丸餅かというと、角がなく円満でありますようにという意味があります。

さらに京都の歳神様は生臭いものがお嫌いのようなので、
出汁も昆布で取ると決まっているのだとか。
同じ神様と言っても地方とご利益によってお好みも色々のようで、
西宮戎の神様は生臭いもんどころか、マグロ一体奉納されてますが。



ところでこの旅館は、海外にも多くのファンを持っていることで有名です。

女将によると、あるドイツのお客様は、毎年必ずやってきて
この旅館に泊まり、夜は舞妓ちゃん芸妓ちゃんを引き連れて、彼女らにご馳走するのが生きがいだという、ある意味ディープな日本通でしたが、
コロナ禍以降、その無上の喜びがどんどん後回しになっていき、
半年先を予約してはそれがダメになってガックリ、を何度も繰り返しておられ、
女将もお断りしなければならないのがとても辛い、と言っておられました。

日本人なら何とか規制の間隙を縫って「京都欲」を満たすことができますが、
海外のファンは全くその道が閉ざされ、随分寂しい思いをしているようです。
せめて今年は海外からの客を受け入れられるようになってほしいものです。

もしそうなったら、MKは3月にクラスメートを招待したいと言っていますが、
こちらもどうなりますことやら。

さて、女将がわたしの朝食膳のメッセージに書いてくれた言葉とは、
「京都の奥座敷のアマンまでお気をつけて運転なさって下さいませ」

その時の女将の言葉はこうでした。
「外に出るのは勿体無い、ずっと中を楽しむのがええ思います」
我々の京都旅の二日目は、現代の京都の(ある意味)秘境、アマン京都でした。



お正月京都旅行〜アマン京都編

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京都旅行ご報告の続きです。



わたしたちは、祇園の料理旅館で一泊した後、アマン京都に向かいました。
わたしの車のナビにまだアマンが登録されていなかったのが災いし、
住所を入れても該当地らしきアバウトな地点しか出てこないうえ、
ナビに、わざわざ裏側から回り込む、狭い山道を指示されて走る羽目になりました。

到着してみると何のことはない、金閣寺方面から来ていれば
舗装された普通の道路で来ることができたのがわかり、ガックリです。
まあ、車検前でナビのアップデートをしてなかったのが悪いんですけどね。


やっとのことでアマン京都玄関に到着。
中から出てきたのはスタッフのようです。


門松の立てられた正門脇には黒いドアマンの待機室らしい小屋があり、
訪問者はここで検温と手の消毒を行い、車を降りて歩いて入場します。


祇園の女将はもちろん、京都の人たちは、アマン京都が開業するまでの
政治的なゴタゴタというか、ややこしい経緯を知っているようで、
なんでもアマンの経営者が日本に作るならここしかない、と
肝煎りで決まった場所だったのに、開業に関しては
市との交渉が難航して計画が宙に浮いた状態が続き、
計画開始から開業までなんと25年、四半世紀が費やされたのだとか。



元々ここは西陣織で財を築いた浅野と言う名家が
織物美術館のようなものを作ろうと、庭園を作っていた場所でした。
とにかく石が好きな当主で、岡山などから石を集め、
広大な敷地はほぼ石で埋め尽くされていると言っても過言ではありません。
玄関口を入ると、構内に続く通路は、世界のどこにもないような
巨大な石を使った石畳が広がり、訪れる人を驚かせます。


チェックイン後、部屋への案内の前に、コンシェルジュが
構内を歩きながらちょっとした説明ツァーをしてくれました。

細道に沿って高さが揃った見事な高杉が目を惹きます。

浅野家の当主は庭園造りが完成しないうちに土地を手放すことになり、
持ち主のないままこの一帯は手付かずで放置されていました。

こういう構築物のうち、どれがオリジナルで、どれがアマンの手が入っているのかは
今となってはもうわかりませんが、少なくともこの美しく生え揃った苔は、
アマンが土地を手に入れてから設えて育てているようです。

庭園の至る所に先ほど井戸状のものや、このような
地下水路の覗き口があります。


基本的にアマンリゾーツのコンセプトは、自然に溶け込むことなので、
開発にあたってはたった一本の木も抜かないようにしています。


木は元々浅野さんが選定したものが残っているのですが、
わたしは庭内を歩きながら、桜の木がないことに気がつきました。
「桜はないみたいですね」
というと、
「ええ、なんだか桜はお嫌いだったようで」
桜が好きではない、ではなく積極的に嫌い、という、
いわゆる通人というのも珍しいといえば珍しいかもしれません。

チェックインは本来3時ですが、昼食を取るために12時には現地到着しました。
二カ所あるレストランのうち和食の「鷹庵」へ。
アマン京都は一歩入るとまるで外界から切り離されたような雰囲気ですが、
レストランは宿泊客でなくても普通に利用できます。
この日は会社単位の団体客がいてかなり賑やかでしたが、
その中の女性一人がテンションかなり高めで声も大きく、
正直ちょっと残念な雰囲気になりました。

テーブルのミニ芝生?にお飾りをつけてお正月風。

「鷹庵」のインテリアは和風寄り。
灯りのシェードはどうやら俵をイメージしているようです。

和食と言っても、ガチガチの古い懐石風というわけではなく、
和風テイストの自然食を和の器にあしらったという感じです。

料理長は吉兆出身で、料理の内容は毎日変わるのだとか。
長期滞在客への配慮でもあります。

鶏肉の団子のすまし汁。
柚子と三つ葉が香り高い一品です。

こちらはもう一つのオールデイダイニングで晩ごはんの前に出てきた
いわゆるアミューズ、ウニのカナッペでございます。

昼ごはんをガッツリ頂いたので、夜はスープ一品だけにしました。

フィッシュ&チップスに全くいい思い出のないわたしには理解できませんが、
MKはこのよくわからない料理が好きらしく、よく注文します。

彼がメニューに三千円のフィッシュ&チップスがあったので、
一つだけ注文したのですが、出てきたものを見てびっくりしました。

この物体を見て何の料理だか当てられる人はいますまい。
いわゆるチップス的なカリカリの部分は、まるでモンブランのような
細いヌードル状のものをフィッシュに巻いて揚げてあるのです。

MKによると、味はフィッシュ&チップスの上位変換だったということです。

オールデイダイニングの前には暖炉を設えたウッドテラスが広がり、
そこでは電気膝掛けを貸してもらって飲み物をいただくことができます。


そこに座って空の星を眺め、家族でいろんな話をしました。
話題は主にMKの今後についてでした。
MKも早いもので、今年卒業すれば大学院進学が待っています。一応在学している大学の院には合格しているのですが、
西や東の大学にいくつか願書を出している上、インターンがどこになるかも
向こうが決めることなので、来年の今頃彼がどこにいるかは全くわかりません。

おっと、忘れていました。こちらアマン京都の客室でございます。
三人で泊まるので、テーブルのこちら側にあるソファがベッドになっています。

お湯を張るのに30分かかる大きな木のバスタブ、洗面台が
寝室と全く同じ大きさに広々と配置されていて、
水回りがゆったりしているというのは実に居心地の良いものだと感じました。


ウェルカムフルーツはりんごが二個、お正月だからか、
大吟醸の小さな酒樽がサービスで置かれており、
願い事を書いておくとホテルの人が近所の神社に奉納してくれる絵馬まであります。

チェックインした日は祇園の旅館女将のお薦め通り、部屋を堪能し、
温泉に入り、スパを楽しみ、次の朝、ゆっくり歩けば
1時間かかるという敷地内を探検してみることにしました。
敷石は巨大で歩きやすいのですが、うっかり石の端を踏むと
傾斜で躓いてしまうので、気をつけなければいけません。
慣れているはずのホテルのスタッフも、転ぶことが多々あるそうです。

古い石仏の足下に何かの実が備えられていますが、
これは庭内に常駐する「お庭番」が「映え」を意識して置いているようです。

このあたりを鷹峰地区と言いますが、この庭園は高峰山の裾に
抱かれるように存在しています。
各客室となっている建物のある平地から、ソーラーによる常夜灯が設置された
石段を登っていくと、平地を見下ろす高さに苔むした通路が伸びています。

鷹峰山に続くゆっくりした坂道を登っていくと、急に広い石段が現れました。
前の所有者が作ったのかどうかはわかりませんが、
単なる散歩コースとしてはえらく大掛かりな工事をしたものです。

とはいえ、金刀比羅神社の境内のような脚力体力を試される石段ではなく、
すぐに広場のような終着点に辿り着きます。
一体何にするために作ったのか、真ん中に石舞台のようなものがあり、
奥には山から湧き出す水が貯まる小さな貯水池があるだけ。宿泊客の散歩以外の目的でこの場所が使われたことはないのでは、と思われました。
こういう壮大な「無駄」が時間に追われる日常から心を解き放ってくれます。

坂を降りてくると、ここにも湧き出る水の貯水池が。
チェックアウトは何やらよくわからない特典によって、
通常12時のところ、4時まで伸ばしてもらえました。


ホテルのコンシェルジュに相談したところ、
近隣のリゾートホテルのレストランや鳥料理の店を紹介してくれたので、
この鳥料理屋で親子丼を頂いてみました。

中は昔民家だった家の座敷に絨毯を敷いて、そこに土足で上がっていくので、
何かとてもいけないことをしているような気がしました。
肝心のお味ですが、京都にしては味が濃い親子丼でした。

昨日は粉雪がちらついたりして曇りがちな一日でしたが、
この日はきれいに晴れて青空の下の散歩が楽しめました。

昨日火を囲んでしばし語らったテラス。
火は一日中点されていつでも周りで暖を取ることができます。
2年前に泊まった伊勢志摩のアマネムにも、こんなテラスがあって、
食後に火を囲んだりしたものです。


上に見えているのがアマンの中で最もお高い部屋です。
値段を言うのは野暮ですが、一泊90万円台と言う噂です。


チェックアウトギリギリまでホテルを楽しむ魂胆満々で、
アフタヌーンティーを三人で一つ注文することにしました。

三人で順番に好きなものを取っていく方式です。
ここにも京都銘菓「花びらもち」のミニチュアがありますね。

アマン京都のアフタヌーンティなので、メインはみたらし団子。
カートでやってきて、炭火で少し炙った団子に、
味噌、餡、タレの三種類を選んでつけてもらえます。

わたしは赤味噌をつけていただきました。
三個の団子に一種類ずつ違うものを付けるのもありです。

お茶はアフタヌーンティについてくる一人分は飲み放題。
今回はサービスで全員にお抹茶を点ててくれました。
4時にチェックアウトした後、神戸のわたしの実家に向かい、
時節柄短時間の年始訪問を行いました。
母に孫の顔を見せてやれてよかったと思います。
その夜は、たまたまTOが宿泊券を持っていたため、
大阪の帝国ホテルに泊まりました。

ところで、このとき実家を出てからナビで大阪に向かったのですが、
もうすぐ到着というのに、様子がおかしい。

行けども行けども、全く大きなホテルがあるような街並みではないのです。
道は細いし、そもそも建ち並んでいるお店の名前が悉く怪しい。
「熟女なんとかヘルス」とか「聖リッチ女学園」とか。

「到着しました」と言われて横を見ると、確かにありましたよ。
大阪帝国ホテルが。
うーむ、大阪には帝国ホテルとは名のみ似て非なる帝国ホテルがあるのですね。
関西出身なのに知らんかったわ。
周りのいかがわしい?雰囲気から、てっきりこちらは時間制ホテルかと思いきや、
案外まともなビジネスホテルであることが後からわかりましたが、
これって帝国ホテル本家から文句出なかったのかしら。

それとも、大阪の帝国はこちらの方が先だったってこと?
無事本家に到着


来てみて昔泊まったことがあるのを思い出しました。
確か、MKをユニバーサルスタジオに連れて行った時だったかな。
夜頼んだマッサージのおばちゃんが、痛いだけで気持ち良くなくて、おまけに
痛いのは体が悪い証拠、みたいに言い放たれた記憶があります。

長距離ドライブの前に帝国の中華を!と思いつき、
簡単なコースを選んだら、付いてきた麻婆豆腐が激うまでした。
そして、そのまま順調に休憩もとりながら新東名をかっ飛ばしていたのですが、
ちょうど浜松に差し掛かった時、運転手であるわたしが
急に夕飯のことを思い出したため、高速を降りて鰻を食べることになりました。

TOが選んだ鰻屋を目指して山道をうねうねと降りて走っていき、
いつの間にか車は航空自衛隊浜松基地の横を走っていました。
なんと、航空自衛隊員御用達(に違いない)鰻屋だったのです。

鰻屋なのに、家の佇まいはまるで喫茶店のようにファンシー系でしたが、
一歩店に入ると、ちゃんと生簀には鰻がにょろにょろしておりました。

電話で予約したら、今から鰻を3本用意します、との返事。

そしてそれがこうなって出てきたというわけ。

わたしは白焼きの鰻重を選択しました。
あまりにも鰻が大きすぎて、全部食べられず、TOに手伝ってもらったほどです。

というわけで、最後を浜松の鰻で締め、我が家の京都旅行は無事に終わりました。




海上自衛隊 東京音楽隊 第63回定例演奏会 前編

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1月10日、新宿のオペラシティで行われた
海上自衛隊東京音楽隊の第63回定例演奏会に参加してまいりました。
コロナ発生以降、何度も演奏会の開催のお知らせをいただいていましたが、
その直前になると、疫病感染対策の自粛要請を受けて中止になり、
そのお知らせを頂いてガッカリ、ということを繰り返してきました。
実は今回も直前にオミクロン株型の蔓延防止策が囁かれだし、
またもや中止か、とわたしは早々に心の準備までしていたのですが、
今回は、前日になっても、何のお知らせも来ません。

いつもならこんな心配はしないのですが、何もないのが逆に不安になり、
当日音楽隊に電話をかけて聞いてしまいました。
「本日の定例演奏会ですが、予定通り行われるんでしょうか」

「開催される予定です」
「そうですか・・もしやと思ってしまったものですから」
「お気をつけてお越しください」
電話は守衛室のようなところにかかったようでしたが、
それはつまり音楽隊の人は既に現地入りしているということです。
わたしはようやくホッとしました。
ところで、冒頭画像は演奏会と何も関係のない、
銀座三越前のライオン(マスク着用)です。

なぜこんなのを上げているかというと、
いつもなら演奏会参加ご報告のトップ写真は、東京音楽隊のバナーの入る
演奏開始前のステージということにしていたのですが、
この日、いつものように写真を一枚とったところ、
オペラシティの会場係がすうっといつの間にか横に来て、
会場内の写真は禁止されている、と注意されるではありませんか。

疫病対策と写真撮影は何の関係があるのかわかりませんが、
そういうことになって現場の写真を一枚も残せなかったので、代わりに
三越ライオンのマスク姿でもにぎやかしに上げておくことにしたのです。
ちなみにこのマスクは、以前確か「丸に越」の三越マークが入ったものでしたが、
今回写真を撮ったら、ただの普通の白いマスクに代わっていました。
夜中に盗まれでもして代わりを作るのをやめたのかな・・。



ついでと言っては何ですが、お向かいの和光のショーウィンドは、
年明けになってこのような虎の顔が現れました。


立ち止まってしばらく見ていたら、瞬きしたので驚きました。
毎年和光のショーウィンドは工夫があって目を楽しませてくれますが、
今年のようなのは初めてです。
◆ 開場


この日、わたしは東京駅前でランチを済ませて新宿に向かいました。


これも演奏会とは全く関係ありませんが、この日のスケジュールは
演奏会の前に、MKの「日本で食べたいものリスト」に入っていた
「丸の内ホテルの鯛どんぶり」を頂くところから始まったので、
せっかくだから宣伝方々画像をあげておきます。

東京駅近辺で人とちょっと豪華なランチを食べることになった時、
わたしはかなりの確率で、この大志満椿寿の鯛どんぶり(後半茶漬け)を選びます。
以前は2千円台前半だったのに、少し前値上げしてしまい残念なのですが。

予約したところ、板場から、どうせなら朝イチで食べていただくのがおすすめ、
と言われたので、11時からのブランチと相成りました。
とにかく美味しくて大満足間違いなしの鯛どんぶり、おすすめです。
食後は仕事場に向かうというTOと別れ、MKと車で新宿に向かいました。
オペラシティを訪れる人そのものが少ないのか、駐車場はガラガラで、
MKは車で仮眠を取り、わたしはネットを見て開場まで時間を潰しました。
開演30分前に会場入りすると、コロナ対策のおかげで
会場の人の入りは今まで見たことがないほど少なくされていました。

まず、座席は一席ごとに空けて、前後も重ならないようになっており、
前の三列目までは人を座らせず空けてあります。
吹奏楽団なので演奏者はマスクをするわけにいきませんから、
前列はステージからの飛沫防止対策で空けてあるのです。
会場内では、わたし以外にもスマホで写真を撮って、その途端
係員が飛んできて注意されている人がいましたし、
何しろ久しぶりの開催ということで、顔見知りと話し込む人もいましたが、
会場が少し話し声で騒がしくなるや否や、
「会場内での会話はお控えください」
という注意が、撮影禁止と共にアナウンスされるという厳戒態勢です。
それだけでなく、検温と消毒、換気対策、そして時差退出など、
最大限の対策をやれるだけやって、
何とか開催に漕ぎ着けたこの日を守り切ろうとする努力がうかがえました。
◆開演

それでは、この日のプログラムについてお話ししていきます。
開演のブザーが鳴り、ステージ上に東京音楽隊の隊員が現れました。
本当に、久しぶりに彼らがステージに乗っている姿を目にした気がします。

この日も司会をされたハープの荒木美佳二等海曹によると、
東京音楽隊がこういうステージに乗るのは何と2年ぶりだとか。
確か、代々木の体育館での音楽まつりの後、
クリスマスコンサートをしたのが最後ではなかったでしょうか。

ようやくやっとステージに立つことができたという感慨と、
これから人前で演奏する喜びと興奮のせいなのか、ステージは
彼らから立ち昇る空気で陽炎が揺らめいているように見えたものです。

今まで何度プログラムを組み、演奏会の日に合わせて練習を重ね、
音を作り上げて調整してきたその土壇場でそれが中止になり、
その計画を破棄して、また一からやり直すということをしてきたのでしょう。
発表の機会を絶たれた音楽家の挫折感は、我々一般人が
演奏会の中止に対して思うような、残念だ、などという簡単な言葉では
とても表せないものだったに違いありません。


♩この美しき、”蒼”を守るために

そんな東京音楽隊が最初に選んだのは、音楽隊員オリジナルでした。

作曲者はチューバ(?)奏者の藤田翔吾三等海曹が作曲したということで、
かつて披露されてきた音楽隊員の手による楽曲の例に漏れず、
それは海上自衛隊の伝統である喇叭のメロディをモチーフに取り入れたものでした。


♫デビュー・カドリーユ作品2 ヨハン・シュトラウスII
Debut-Quadrille op. 2 - Johann Strauss II


何度か東京音楽隊の演奏を聞かせていただいていますが、
また珍しい傾向の曲を選んだものだ、と感じました。

例年ウィーンフィルは、年始にわたしも行ったことのある楽友協会ホールで、
ウィンナワルツ、ポルカなどのニューイヤーコンサートを行うことが有名で、
今年もダニエル・バレンボイムが棒を振ったようです。

プログラムはシュトラウス親子の作品が取り上げられるのが慣例ですが、
もしかしたら年始のコンサートということでこの曲が選ばれたのかと思いました。

ただし、東音はウィーンフィルと違い吹奏楽団なので、この
シュトラウスの19歳の時のデビュー曲?を、管弦楽曲から編曲してあります。取り上げられるのも珍しいこの曲が吹奏楽演奏されるのは本邦初とのことで、
この編曲を手掛けたのも藤田三等海曹ということでした。

YouTubeは5分台で収録されておりますが、
短い楽曲が6曲でワンセットとなっています。
♬ 鳳凰が舞うー印象、京都 石庭 金閣寺  真島俊夫

日本吹奏楽界の超大物、真島俊夫が京都をイメージして描いた作品。

「中間部の静かな部分は竜安寺の石庭からインスピレーションを得たもので、
遠く殻鹿脅しや竹林をそよがせる風の音も聞こえます。
そして最後の壮大なクライマックスは華麗な金閣寺とその屋根に、今にも天に向かって羽ばたこうとしている黄金色の鳥、"鳳凰"の印象です。"鳳凰"はまた、空ではなく時空を飛ぶ鳥だと言われています。」

と作曲者はこの曲について語っています。

まるで鼓、篳篥、笙、唄鈴の音に聴こえる各楽器の扱いも、拍子木も鳴子も
オリジナルのスコアに表された通りだと思われますが、
途中で観客の目を奪った、そよぐ風を表すために打ち振られた葉のついた枝は、
もしかしたら当音楽隊オリジナルの工夫ではなかったでしょうか。
それからこれを聴きながらふと思ったことは、西洋音楽の理論で書かれた楽曲に
伝統の拍子木が重ねられる時、それは立派なポリリズムとなっているわけで、
和洋のミクスチュアって、それだけで創造された新しい境地だなあ。と。
訳わからないことを言ってますが、思っただけなので気にしないで下さい。
ちなみに、わたしは京都の、しかも金閣寺の隣から帰ってきたばかりだったため、鷹峰の麓の苔むした岩や高杉がまだ記憶に新しかったこともあり、この曲の調べは、その時の気持ちに見事な親和性を持って響きました。


♭ オーメンズ・オブ・ラブ

吹奏楽団のコンサートを聴きに行ったら、正直一曲くらいはやってほしいのが
T-SQUAREの「宝島」かこの曲、と言ったら、ミュージシャンに怒られるのかな。
いや、彼らもこの王道吹奏楽ポップスを演奏するのは好きだと信じたい。
というわけで、この日オーメンズ・オブ・ラブが聴けて満足なわたしです。
2017年の人見女子講堂での演奏会でのバージョンが見つかりました。
わたしはこの時の演奏も聴いているはずなのですが、
この映像を見て、今回とはメンバーも随分変わっているのに気がつきました。

ついこの間だった気がしますが、もう4年以上前なので、退団した人あり、
転勤してきた人、していった人で顔が変わっていて当然です。
ところで、この日「Omen」の(って略したらなんか変?)メロディは
クラリネットのバンドマスターによるウィンドシンセサイザー(リリコン)でした。
とにかく持っているだけでかっこいい(気がする)楽器ですが、
この日の演奏もT Squareの伊東たけしさんとは雰囲気の違うかっこよさでした。
09 T Square Omens of Love Live The Legend 2016

メロの後、安藤正容さんのギターソロがそれを受け継ぎますが、
この日もオリジナル通りギターが演奏に加わってくれてT Square好きには大満足。

#宿命 藤原聡
#アイノカタチ feat. HIDE(GReeeeN)

「宿命」という曲に関しては何の知識もなかったため、
そういう曲なのね、という感じでただ聴いてしまいましたが、その次の
「アイノカタチ」では、ヴォーカルの中川麻梨子3等海曹の歌に聴き入りました。
久しぶりに見るステージの中川三曹は以前よりほっそりしたようで、
ただでさえ時間の流れを感じずにはいられませんでしたが、何より
ポップス系の曲の歌い方が随分柔軟になられたなあという感を持ちました。
口幅ったいようですが、この自粛期間中、いろんな音楽を聴いて
表現の引き出しを増やすような研鑽をされたのかもしれません。


さて、この日の演奏会は休憩なしのノンストップで行われたのですが、
それは、幕間に人がロビーに参集することを避ける措置だったと思われます。

当ブログでは、ここで一応前半終了とし、残りのプログラムについて
MKの帰国騒ぎなどを交えながら後編でお話ししようと思います。

続く。


海上自衛隊東京音楽隊 第63回定例演奏会〜後編

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昨日、海外から渡航してきた帰国者入国者の待機期間が
10日に短縮されるというニュースが流れました。
オミクロン株型の感染者が爆発的に増えているのに如何なることかというと、
この型の潜伏期間が3日程度と短いことがわかったからだそうです。

つまり1ヶ月遅ければ、MKも4日だけとはいえ自粛期間が短かくてすんだのですが、
元々彼はあまり物事に対して文句を言わない性質で、
コンピュータがあってご飯が食べられさえすればそうストレスもないらしく、
14日の待機期間、コンピュータで作曲したり、ゲームをしたり、
ピアノを弾いたりして機嫌よく過ごしていました。

MKは小さい時習わせたピアノは嫌がってやめてしまったのですが、
チェロは性に合ったようで、学校のオーケストラで演奏していただけでなく、
曲を作るようになり、長じてコンピュータミュージックをやるようになってから
マスタリングをプロに講義を受けたり、来年は工学部で授業を取ったりと、
わたしとは全く違う方向からのアプローチで音楽を人生の友としています。


ですので、わたしは今回の海上自衛隊東京音楽隊のコンサートについても、
本人に確認を取らず、二人分の参加を申し込みました。


実にほぼ2年ぶりに行われた海上自衛隊東京音楽隊定例演奏会。

疫病対策で間隔をとった席での緩衝となったため、
平常時の半分以下の観客数で開催されたことになりますが、
それではどんな人たちがいたかということも報告しておきます。

わたしがMKと座ったのは、ステージから通路を挟んで
二番目のブロックだったわけですが、通路の前の席に座っていたのは
察するところ間違いなく自衛隊入隊を希望しているか、検討しているか、
あるいは地本に招待された未来の自衛官のようでした。

音楽隊の任務は演奏を通じて広報を行うことにありますから、
いわば自衛隊入隊を考える若い層は最も招待に値する対象でしょう。

また、ホールの前の広場には、制服を着た高校生の一団が
体育座り(!)して待機していました。

吹奏楽人口の裾野を広げるということと、地域への貢献という意味で
自衛隊音楽隊は近隣の学校の吹奏楽部を指導し、
4年前の瞳記念館の時のように演奏を一緒にすることがありますが、
おそらく彼らもそういう関係で音楽隊から直接招待を受けたのでしょう。
それ以外にも客席には、私服で楽器を持った高校生がちらほら見受けられました。


また、わたしたちの席の近くにいた、アメリカ人らしい母親と子供達。
彼らは在日米軍の関係者として招待されたと思われます。

♩Paradise Has No Border NARGO

さて、それでは東京音楽隊の久しぶりのコンサート、
後半に演奏された曲についてです。

東京スカパラダイス、というバンドの名前をご存知の人も多いと思いますが、
その名前はこのグループが「スカ・バンド」であることからきている、
ということについてはご存知なかったりするかもしれません。

スカ (Ska) は、1950年代にジャマイカで発祥したポピュラー音楽のジャンルです。

一言で言ってリズムの2拍目と4拍目が強いラテン音楽、という感じなのですが、
その頃「イケてる音楽」とされていたニューオーリンズのジャズが好まれた
南米ジャマイカでは、ラジオの感度が悪く、2・4拍目が強調されて聞こえたため、
これが誤ってコピーされてスカになったという眉唾な起源伝説もあるそうです。

スカはレゲエ、メントなどと同じくジャマイカ独特の民族音楽(フォーク)で、
ブラスバンドでこれを行う形式は、イギリス統治下でもたらされました。

1962年といえばジャマイカが独立した年ですが、このムーブメントもあって
アップテンポのスカは、この頃急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめます。

また、政府主導でスカを海外に普及させようという動きもありました。

我らが東京スカパラダイスオーケストラの結成は1985年。
2020年には東京オリンピックの閉会式に出演し、
「上を向いて歩こう」などを演奏したのを覚えておられるでしょうか。

東京スカパラダイスオーケストラ 「Paradise Has No Border」
(Live Ver. ゲスト:さかなクン)



この「楽園に国境はない」という意味の曲は、
誰でも一度くらいどこかで耳にしているくらいキャッチーで有名です。
日本人の感覚になぜかピッタリで、とにかくノリがよく気分が上がります。

曲が始まると、早速サックス、トランペット、トロンボーンなどがフロントで
交代でソロを披露して嫌が応にも雰囲気は盛り上がっていくのでした。

ところで、曲の最初から指揮者の樋口好雄二等海佐の姿が見えなくない?
と思ったら、案の定、左の後ろでパーカッションを演奏をしておられました。

樋口隊長は打楽器出身でいらっしゃるので、昔取った杵柄スティックで、
個人所有らしい真っ赤なパーカッションセットを演奏する姿を、
わたしは横須賀音楽隊時代から何度か見てきたような記憶があります。

しかし残念なことに、この日、隊長の「ポジション移動」について
MCからは何の説明もありませんでした。
時節柄あまり目立たないように(?)という配慮だったかもしれませんが、
気づかない人のためにも、これはぜひアナウンスしていただきたかった。


♫三文小説 常田大希

演奏する音楽のジャンルが多岐に渡るので、自衛隊音楽隊の演奏会に行くと
聞いたことがないアーティストについて知ることがでるのも、嬉しいところです。

今回その意味で一番と言っていいほど心に残ったのは、King Gnuという
「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルバンド」の曲でした。

四人のメンバーそれぞれが、多方向から影響を受けた音楽を持ち寄り、あくまでも
日本語の歌詞にこだわるという音楽スタイル。
ミクスチャー・スタイルというのはこの辺からついたスタイル名だそうです。

「三文小説」。
タイトルだけで只者ではない気がするこの楽曲について、
この日のプログラムには常田大希という名前だけが書かれていましたが、
一般的にはKing Gnuというバンドの曲と認識されています。

King Gnu - 三文小説 (King Gnu Live Tour 2020 AW “CEREMONY” Tour Final in Makuhari Messe)


ドラマの主題歌に使われたので、そちらで聞き覚えのある人はともかく、
初めて聴く人は、この美声のボーカル(ベースの井口和輝)が
男性であるのに驚いたかもしれません。

東京音楽隊は今回これを中川麻梨子三曹の歌唱に乗せて聴かせてきました。

音楽的にメロディも転調もとても高度で、次の展開が読めないのに、
一度聞くと心に残りまくる、とにかく不思議な曲です。

King Gnuの基本仕様は、常田大希がチェリストであることから、
オリジナルにはストリングスが必ず入ってくるのですが、
そんな曲を。吹奏楽団である東京音楽隊が取り上げるに至った経緯というのに
わたしは個人的に大変興味を持ちました。

そこでYouTubeを聴いていただくと、最初の方に、ストリングスに絡みつくように
ブルブルっというように響くシンセサイザーの低音が重なり、
それがとても強い印象を残すのがお分かりいただけるでしょう。

この日、このブルブルシンセサイザーの部分は管楽器で代用されました。
ヴォーカルの中川三曹の反対側にソリストのように立った
バストロンボーン(?)が、この効果を請け負っていたと思われます。

とにかく、その効果があまりにも秀逸だったので、わたしは
この曲を選んだ理由は、この管楽器代替によるサステナブル可能なことが
もしかしたら選曲関係者のツボにハマったからかしら、などと考えてしまいました。

この効果ありきの選曲だったのか、
女性歌手がこの男性ボーカルの曲を歌うのが目的だったのか。

そんな「選曲のモチベーション」についていろんな想像を巡らせるのも、
自衛隊音楽隊の演奏会の後の楽しみと言っていいのではないでしょうか。

ただ、この曲についてはMKが、後から

「歌詞が何を言っているのかわからなかった」

と、ボヤいていたとおりで、それはオリジナルも同じです。
前もって歌詞を把握していないと、何を言っているか聞き取ることは
まず不可能なくらい内容が深遠です。

歌詞の理解しやすさまでを演奏者の力量に背負わせるのは酷というものでしょう。

さて、ここで、MCは、思いっきり海上自衛隊の広報を行いました。

自衛隊の防衛任務についての説明、そして(これがおそらく主目的)
会場の若い人たちに向けて、海上自衛隊への勧誘がひとしきり行われたのです。

改めて自衛隊のイベントというのは、
新たな人員確保のための広報活動なのだと感じました。

🎵 ドラゴンクエストによるコンサート・セレクション すぎやまこういち

【音楽】ドラゴンクエスト すぎやまこういち作曲 
横須賀音楽隊オンラインコンサート2021第1弾



YouTubeで、横須賀音楽隊の演奏を見つけました。
実際のコンサートが自粛されていた期間、自衛隊音楽隊はオンラインで
コンサート映像を配信していたようです。

すぎやまこういち氏が亡くなったのは昨年の9月30日。
これを受けて東京音楽隊では氏の代表作品でもあるこの曲を選んだのでしょう。

亡くなるすこし前となる東京オリンピック開会式の選手入場曲に
日本を代表するゲーム音楽の一つとして挿入されています。

Overture / 序曲
Distant Journey introduction part / 遙かなる旅路のイントロ部分
Unknown World / 広野を行く
Holy Shrine /聖なるほこら
Endless World / 果てしなき世界
At Alefgard / アレフガルドにて
Hero's Challenge / 勇者の挑戦
into the Legend /そして伝説へ

「そして伝説へ・・」はドラゴンクエストシリーズのIIIの音楽で、
まさにわたしがドラクエにハマっていた真っ只中でしたから、
どの曲も耳馴染みがありすぎて、当時のことをありありと思い出しました。

♬アンコール A Whole New World

さて、というわけでこの曲でプログラムは全曲終了したわけですが、
指揮者退場、拍手、アンコールという「儀式」もあっさり目に、
樋口隊長が男性の隊員をステージに連れてきて紹介しました。

自衛隊音楽隊史上初の男性歌手、というのが彼の正体でした。
管楽器には歌の上手い人が多いことから、音楽まつりや男声が必要な時には
いつもの楽器を傍に置いた「副業歌手」がそれを務めるのですが、
どういう経緯か、この度東音では、専用の男声歌手を採用したというのです。

ハシモトコウサク二等海曹と紹介された男性歌手は、
このアンコールを顔見せとして初めてその声をステージで披露しました。

曲はディズニーアニメ「アラジン」から「A Whole New World」。

言わずと知れたデュエット曲ですが、これを先輩歌手の中川三曹と
(後輩の方が階級が上なのが自衛隊という組織の不思議なところ)歌いました。

最初の公式のステージということでおそらくかなり緊張されたことでしょう。
クラシックの声楽法を勉強してこられたと思われる美声でしたが、
MKの講評は辛辣で、まず、真っ先に出た言葉が

「初めて人前で歌うっていうときに、日本語じゃない曲を選ぶってどうなの」

最後は女性歌手とデュエットをしなければならないと決まっていたなら、
「得意じゃない英語の曲なんかじゃなく」
言葉が聞き取れるものにするべきだというのが彼の意見でした。
うーん・・こういうときにふさわしい日本語のデュエットってあるかなあ?

「銀恋」とか「3年目の浮気」は問題外としても、
例えば「アナ雪」の日本語版からとか・・、あ、それは今はアウトか。

あと、MKによると、男声だけでなく中川三曹の歌も、ブラスバンドの音量に
かき消されて聴こえにくい部分が多々あったけれど、これは
PAのバランスでもう少しなんとかできたはず、ということでした。

ところで2月には東京音楽隊は第61回定期演奏会の開催が予定されています。

今ふと気がつけば、そのプログラムには、
プッチーニの「誰も寝てはならぬ」Nessun dorma(トゥーランドット)
という文字が見えるではないですか。

この日が本格的なハシモト二曹の歌手デビューと見て間違いないでしょう。
彼にとって、この曲こそが歌手としての本領発揮となるはずなので、
ぜひ期待して、この日の「本当の初舞台」を待ちたいと思います。


それにしても専門の男性歌手なんて、もしかしたら世界の軍楽隊にも
例のない、初めての存在かもしれませんね。

一体どういう経緯で男性歌手を採用する流れになったのか、
その辺の裏の事情を無性に知りたいのはわたしだけでしょうか。

というわけで東京音楽隊演奏会についてのご報告はここまでです。

素晴らしい演奏会に参加の機会をいただきました音楽隊の皆様方に、心より
感謝すると共に、これからの演奏会が無事に行われることを祈って止みません。



*おまけ*



この演奏会の後、MKはまたアメリカに戻っていきました。
出発は羽田国際線ターミナルから。
右の方は入国者のPCR検査などを行うコーナーとなっています。

出発時間が1830なのに、空港入りしたのは10時半。
空港で東邦大学のPCR検査を受け(2万円くらい)、結果が出る3時半まで
空港で時間を潰すのにずっと付き合っていました。

ちなみに平常ならこのカウンターはカタール航空の受付が行われるので、
画面奥に「祈祷室」が設けられています。



人っ子一人いない昼間の空港。
2月いっぱいは政府が水際対策のため入国を制限しているので、
電光掲示板の発着予定はほぼ全てが「欠航」となっていました。



東京オリンピックで来日する外国人客を当て込んででしょうか。
空港のブリッジに日本橋が出現していました。
本物の木材を使ってオリジナル通りに建造したものだそうです。
歩いている人が誰もいないのが虚しい・・・・。



検査を受けてから結果が出るまで、チェックインもできないので、
わたしたちはデッキに出てガラガラの空港を眺めたり、
第三ターミナル併設のホテルでご飯を食べたり、伊藤園で抹茶を飲んだり、
それでも時間が余っているので第二ターミナル、第一ターミナルと巡って
カードラウンジでネットをしたりして時間を潰しました。

ようやく3時半にPCR検査の陰性の結果をもらって初めてチェックイン。

しかし、ゲートの中に入ってもラウンジはもちろんお店は空いていません。
仕方がないのでまたもや伊藤園の前でギリギリまで時間を潰しました。

なんと8時間もの間空港でただ待っていただけということになります。
入国も大変でしたが、出国も見送りの人間にとってはそれ以上に大変です。
これでは余程の理由がない限り海外に行こうなどと誰も思わないでしょう。

帰国したMKによると、アメリカの入国後は日本のような自粛はありませんが、
ただ、クリスマス期間各地に散らばって帰ってきた学生が
COVID-19を持ち寄って大学にクラスターが起きないように
学校の授業が2週間はリモートになるそうです。


最後に、蛇足のまた蛇足ながら、MKの「日本で食べたいものリスト」のうち、
目標達成したものを粛々と貼って終わりにします。



銀座のTOなじみの小さな料理屋のマグロ。



刺身のほかは、卵とじとなって出てきました。



ニューオータニの寿司屋。

この日、ジャイアンツの4番丸選手と5番の誰かのトークショーがホテルで行われ、
ロビーはすごい人でしたが、寿司屋のカウンターはわたしたちだけでした。



この時握ってもらったヒカリもの。
ここの握りは一貫ではなく一つずつです。



近所のラーメン屋さんの、幻の(滅多に汁が残っていないらしい)坦々麺。
それほどいうなら、と辛いもの苦手なわたしも死んだ気で食べてみました。
半分が限度で、残りはTOのお腹に収まりましたが、美味しかったです。

終わり。


映画「太平洋作戦」(フライング・レザーネックス)

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昨年末より、サンディエゴの海兵隊航空博物館、
「フライング・レザーネック航空博物館」の展示をご紹介していましたが、
その検索過程でそのものズバリの
「フライング・レザーネックス」という映画があることを知り、
せっかくの機会ですのでこの映画を紹介することにしました。
博物館の方は、おそらくこの映画のタイトルをそのまま運用したはずです。
しかしながら日本語タイトルは、案の定センスゼロの「太平洋作戦」。


こういうとき日本の配給会社は、どうしてこう絶望的に無個性な題をつけるのか、
ということについてはもう今更という感がありますが、
それより問題はこの作品を扱うDVD販売会社の販売姿勢です。

DVDの画質が悪い!

本編が始まった途端、何か設定に不具合があるのかと一度再生を止め、
点検してからもう一度再生し直したというくらいの酷さです。
Amazonの商品レビューでわざわざそのことに言及している人もいたくらいなので、
大元のDVDダビングの技術にどうやら問題があったようです。

そこで不本意ながらその辺の画像をかき集め、二日分を制作し終わったのですが、
次に取り上げる映画を探すため、自分のDVDラックを見ていたら、
なんとわたしは同じ映画をあと2枚、合計3枚持っていたことが判明しました。

「フライング・レザーネック」という特殊なタイトルを記憶していれば
何枚も同じDVDを買ったりしなかったはずですが、邦題が
「太平洋作戦」などというすぐ忘れてしまうものだったため、買ったのを忘れて、
高速道路のレストエリアなどで一枚300円くらいでワゴン売りしているのを
他の戦争ものといっしょに3回も購入していたと見えます。

しかしこれは今回に限り、ラッキーでした。

もしや?と思って残りの2枚の画質をチェックしたら、
3枚目のDVDが「当たり」だったのです。



ちなみにタイトルはこれだけが「太平洋航空作戦」。
あとの二枚は「太平洋作戦」となっていました。


画質の悪いバージョン


3枚目のDVD、同じシーン


三枚目はデジタルリマスターしてあるバージョンだったというわけです。

おお、と感激して全部キャプチャし直しながら観なおしたところ、なんと
前の2枚は、画像以前に、あっちこっち大事な部分が勝手にカットされており、
それによって全く映画の内容さえも変わっていたことがわかったのです。

ちなみに2021年12月現在、Amazonプライムではこの映画が観られますが、
こちらはデジタル化前のカットしまくりバージョンですので念のため。


■ ハリウッドの赤狩りと本作品

さて、例によって本編に入る前に、この映画の背景について語ります。



制作は1951年。
タイトルにもある通り、制作はハワード・ヒューズです。

前回、当ブログで扱ったウェインものの邦題は「太平洋機動作戦」でしたが、
こちら「航空作戦」と同じ年に製作されています。

同じ年にウェインで海軍と海兵隊を扱った第二次世界大戦ものが製作されたのは、
大衆のムードを、その前年度に始まっていた朝鮮戦争を肯定する方に
誘導するのが目的であったと考えてまず間違いありません。


さらに、配役と制作のメンバー、当時の世相を鑑みると、
もう一つ、ハリウッドで起きていた歴史的な問題が見えてきます。

制作会社はRKOラジオピクチャーズ。
RKOグループはこのときハワード・ヒューズの管理下にあり、
ヒューズが映画のスポンサーとして制作の資金繰りを行ったというわけです。

ヒューズは誰知らぬものがない熱心な飛行機マニアでしたが、
いくら航空機がふんだんに出るといっても、これは露骨な戦争推進映画。
あのヒューズには「違う、そうじゃない」的な毛色の作品であったうえ、
しかも監督のニコラス・レイは有名なリベラルです。

それではなぜこの時期に彼らが戦争推進映画を撮ったかですが、
そのキーワードは1950年代にアメリカの芸能界に吹き荒れた「赤狩り」でした。

赤狩りは共和党議員のジョセフ・マッカーシーの告発をきっかけにしているので
「マッカーシズム」とも呼ばれる反共産主義運動です。

ハリウッドで共産党と関連づけられた人物は「ブラックリスト」に載り、
その中でも、召喚や証言を拒否した10人(ハリウッド・テン)は
かなり長い間業界から干されていたという話が有名です。


そんな流れを受けて、1952年、俳優協会が映画スタジオに対し、
誰であってもアメリカ連邦議会で自身の潔白を証明できなかった人物の名前を
自主的にスクリーンから削除できる権威を与えるという出来事がありました。

ヒューズはその前から、スタジオから共産主義者(とされる人物)を排除するために
いわゆる「踏み絵」的な映画の制作を、何人かに試しています。

その映画のタイトルは「私は共産主義者と結婚した」


つまらなさそう・・・

最初に監督を打診されたジョン・クロムウェルもジョセフ・ロージーも、
これを拒否し、会社によって罰せられた上ブラックリスト入りしました。

ニコラス・レイはというと、これがとんでもないやつで(笑)
一旦引き受けておいて、製作が発表された直後に辞退してしまいました。
彼に何があって辞退したのかは謎です。

彼の解雇が検討されましたが、なぜかヒューズは契約を切りませんでした。

これは推測の域を出ていませんが、この時二人に何かしらの密約があって、
レイはその条件として、本作を撮ることになったのではないかと言われています。

本作はハリウッド的には露骨な戦争推進映画であり、
(戦争映画を見慣れているとこんなものだろう、としか思いませんが)
本来ならリベラル左派のレイが手がけるような内容ではありません。

「リベラル監督に、ゴリゴリタカ派のウェイン主役の戦争映画を撮らせる」

確かに誰が見てもこれは「罰ゲーム」です。

ゆえに、これがレイの当局に対する「アリバイづくり」、
あるいは彼をブラックリストから外すよう働きかけたヒューズへの
「借りを返す」ための作品であったと見られているのです。

しかし、レイ監督、そこは腐っても映画人の端くれ?ですから、
黙っておとなしく戦争礼賛映画を撮ると見せかけて、
(というか実際にもちゃんと撮りきってその評価も高いのですが)
保守派の代表のようなウェインの「カウンターパート」、
リベラル俳優のロバート・ライアンを送り込んだとされています。



本作のポスターからもわかるように、サブテーマは二人の男の対立です。

ロバート・ライアンの役どころは部下思いで人気があり(というか受けがよく)、
下からは隊長への就任を望まれていたのに、
ジョン・ウェイン演じるダン・カービー少佐の推薦が受けられず、
のみならず上に立たれてそのやり方を一から否定されるグリフ大尉です。

ロバート・ライアンは大学ボクシング部出身の「タフなタイプ」で、
リベラルでありながら「Kick Wayne's ass」(ウェインに立ち向かえる?)
ができる唯一の俳優とみなされて、キャスティングされたと言われます。


しかし、蓋を開けてみると、関係者全員にとって意外な展開が待っていました。

確かに撮影の間、ライアンはウェインから、例のブラックリスト支持を熱く語られ、

「中国の都市に核攻撃をして朝鮮戦争を拡大させるべき」
「ソ連を東欧から追い出すために軍事力を行使するべき」

などといった演説を拝聴せざるを得なくなったのも確かですが、
一旦撮影が始まると、二人は互いの政治的な立場は一切脇に置き、
良好な関係のままプロフェッショナルに仕事を完了させました。

そのライアンをキャスティングした監督のニック・レイも同様でした。

政治的には対立する立場であったはずウェインとの関係は実際には悪くなく、
というか、撮影中は全クルーがウェインを称賛し、
ウェイン自身も、全てのクルーに対し満足していたというのです。

ここで思い出していただきたいのですが、以前当ブログで紹介してこともある、
後年撮影されたウェインのベトナム戦争もの「グリーンベレー 」では、
ほとんどの俳優とクルーがウェインを嫌い、対立関係にあったという事実です。

「グリーンベレー」とこのときとの違いはなんだったのでしょうか。

一つはウェイン本人が脂の乗り切った時期で、まだ「老害化」しておらず、
現場でスタッフの人心を掴み得たこと、そしてもう一つは、
このときの朝鮮戦争と、後年のベトナム戦争に対する
大衆感情の「温度差」にあったのではないかとわたしは思います。

ちなみに、監督ニコラス・レイとジョン・ウェインは
映画撮影から20年後になる1979年6月のほぼ同じ時期に亡くなりました。
6月11日がウェイン、16日がレイの命日です。


■ 新隊長就任



さて、それでは始めましょう。
おなじみの海兵隊マーチが何のひねりもなく始まり、タイトルには

「この作品を米国海兵隊の、特に航空団に捧げる
この作品を可能にした彼らの協力と支援に対して感謝の意を表します」

とあって、映画の撮影に海兵隊の協力があったことを強調しています。



舞台はハワイのオアフにある海兵隊航空団基地。




ここにVMF247航空団「ワイルドキャッツ」が駐屯しています。



彼らは負傷した前指揮官の後任として、敬愛する上官、
グリフィン大尉が自分たちの隊長になって戻ってくると思い込み、
いち早く祝賀会を開いて大尉を迎える用意までしていました。



ところが、グリフィン大尉は新任の隊長、ダン・カービー少佐を伴っていました。
大尉はカービー少佐の推薦を受けられず、昇進できなかったのです。
このことは後々まで二人の間の問題として尾を引きますが、普通、
自分が就任するポジションに他の大尉を推薦するなんてありえませんよね。
推薦しなかったのはカービーではなく前任の隊長のはずなのですが。



カービー新隊長は、鷹揚に、この人違いの就任パーティを続けるようにいいますが、
テキサス出身の「カウボーイ」ヴァーン・ブライス中尉が履いている
ロデオブーツに目を止め、さっそくお小言を与えます。

「私甲高なんで・・」



意味不明の言い訳をするブライス中尉に新隊長は、

「飛行中は履くな!」

カウボーイはグリフィン=グリフ大尉の義弟、そして金持ちだ、と
グリフ大尉が紹介しますが、その口調からも、カービー少佐は
隊の中にすでに「馴れ合い」「ゆるみ」が蔓延しているらしいと察します。

かたや部下たちも新隊長に決していい感想は持ちません。

「俺たちを馬鹿にした目で見てたな」
「非情な男で、訓練で地面すれすれの超低空飛行をさせるそうだ」



真ん中にいる、マッケイブ中尉役の俳優ですが、
どこかで見たことがあると思ったら、あの世紀の駄作「オキナワ」で
インテリ乗組員エマーソンの役をしていたジェイムズ・ドブソンじゃないですか。

しかし、悪口に興じる隊員の中、一人だけカービー少佐に
強いシンパシーを持つマラーキ(Malotke)中尉。(右)

彼はミッドウェイ海戦で兄を亡くしており、そのときの航空隊長であった
カービーから送られてきた、心のこもった手紙に感銘を受けていました。



部隊の戦線への移動が決まりました。

マラーキ中尉の家族は、兄のように弟も戦争で失うのかと
移動でしばらく手紙が書けないという彼の報告に絶望しています。



ハロルド・ジョーゲンソン大尉の妻は赤ちゃんを産んだばかり。



「キュートなビリー・キャッスルから手紙が来たわ。
あたしあの子好きなのよね」


キュート・リトルボーイ・キャッスル(絶賛モテアソバレ中)

周りに侍らせた軍服の男たちに満面の笑みで言いながら、
他の男の戦地からのと一緒に暖炉の上にビリーからの手紙をピンで止める派手な女。

どうも彼女は「軍服愛好家」「コレクター」で、
ビリー・キャッスルはそのコレクション(取り巻き)の一人のようです。



ナバホ族出身のチャーリーも、両親に短い手紙を書きます。



彼らの両親は文字が読めないので、居留区の世話役が音読してやっています。



早速問題を起こした「カウボーイ」ブライス中尉。



彼の自慢の美人妻が、「パパからの手紙」を一男一女に読んでやります。
手紙が一瞬映りますが、彼の家族はLAに住んでいる模様。

・・・さて。

この一連の隊員とその家族などのシーンは、画像の粗いバージョンと、
Amazonプライムの本作からはバッサリとカットされています。

しかし、この部分、実はのちに回収される「フラグ」なのです。(あ言っちゃった)
ここをカットするなんて、映画の楽しみを半減させかねない蛮行じゃないかしら。


■ガダルカナル進出



VMW247航空隊はその後ガダルカナルに進出することになります。

この部隊は実際のVMF-223「ブルドッグ」航空隊をモデルにしています。
「ブルドッグ」はF4Fを搭載した海兵隊戦闘飛行ユニットで、
最初にガダルカナルに転出した航空隊でした。

現在でもVMA-223、海兵隊攻撃航空隊として存在しており、
AVー8Bハリアーを運用し、イラク・アフガニスタンにも参加しました。



カービーの部隊がガダルカナルに進出して以降の実写映像はすべてカラーです。
さすがアメリカ、あの時代にこれだけカラー映像が、と思いきや、
実はほとんどが朝鮮戦争のニュースリールからの抜粋だそうです。



ニック・レイがなぜカラー映像の使用に拘ったかと言うと、彼にとって
これが初めてテクニカラー映画となったからで、カラーと白黒映像を混ぜるという
後年よく見られる手法を嫌ったのでしょう。

ですから、本編の映像には、第二次世界大戦には存在しなかった航空機が
ところどころ発見できるそうですが、画像が悪いので判別できません。
(わたしの場合判別できないのは画像だけが理由ではありませんが)



ガダルカナルで最初にVMF247が搭乗するのはF6Fヘルキャットですが、
「ブルドッグ」が運用したのは、先ほども書いたようにF4Fワイルドキャットです。

F6Fは1943年後半まで日本軍と交戦することはありませんでした。

映画に登場するF6Fは、先日来当ブログでご紹介してきた航空博物館の近く、
エル・トロに拠点を持つ訓練部隊に当時現役で運用されていた機体です。

映画撮影当時、ワイルドキャットはほとんど残っていませんでしたが、
ヘルキャットの方はまだかなりの数残っていたのです。



日本軍に苦戦しているという地上軍の支援攻撃に指揮を執る新隊長カービーですが、
彼はここでもご紹介した、カクタス航空隊のジョン・スミス少佐がモデルです。



本物と比べるまでもなく、ウェインが歳取りすぎ。

スミスがガダルカナルでエースになったとき、すでに38歳くらいだったので、
44歳の俳優なら、なんとか演技でカバーできないこともないと思うのですが、
ウェインはどこまでいってもジョン・ウェインだからなあ。

鈴木亮平みたいに役作りのための増量減量なんて考えたこともなかったでしょう。



さて、カービー隊長就任後、最初の任務で早速問題が発生しました。
何を思ったか、勝手に敵機を追って編隊を離れていってしまうシモンズ中尉。

そのまま彼はその日帰投しませんでした。



ガダルカナルに到着したカービー少佐は、ミッドウェイ以来旧知だった
ライン・チーフのクランシーに再会します。

ラインチーフはフライトライン(航空隊)の維持管理を監督する下士官です。

クランシーは「足りないものはジャップの攻撃以外全てだ」といい、
さらに燃料補給を手動でしなければならない、と愚痴を言います。



軍医のクラン中佐もミッドウェイ以来です。
こういう映画には相談役としてつきものなのが軍医です。


いかにも素人さん

このとき、カービー少佐に基地の地上員が挨拶したりしますが、
彼らは本物の海兵隊員で、エキストラとして出演しているようです。

協力の「お礼」といったところでしょうか。



カービーらが司令部に向かったところ、零戦が単独で攻撃を加えてきました。
クランシーによるとこれは「日常茶飯事」であるとのこと。




何人か出てくる零戦搭乗員、そして日本軍の砲兵はクレジットにありませんが、
記録には「フランク・イワナガ」「ロリン・モリヤマ」という
二人の日系人俳優の名前が残されています。

彼らの乗っている零戦は、白く塗って日の丸をペイントしたヘルキャットです。



「あーびっくりした」

司令部に続く道にある傾いてしまった看板には、

「この通路は世界最速の海兵隊員たちが通行します」

と書かれています。
この言葉は海兵隊なら誰でも知っている、

”Through these portals pass the world's finest fighting men
: United States Marines"

の改編です。


零戦はひとところにまとめて駐機されていた航空機を一撃で撃破していきました。
ただでさえ利用可能な機体が少ないと言うのに。


翌日、昨日行方不明になったシモンズ中尉が意気揚々と帰還してきました。

帰投命令を無視して離脱して敵機を追いかけ、あげくに
燃料の無くなった戦闘機を乗り捨ててパラシュート降下し、
ドヤ顔で帰ってきてうそぶいていうことには、
「交戦のベテランである俺様に、貴様ら、なんでも聞いてくれよ!」
カービー隊長は彼に激怒し、軍法会議にかけると叱りつけます。
そうなればグリフ副隊長も厳しく言わざるを得ません。

「君が落とした機種は」

「さあ・・軽偵察機だったような・・わかりませんが」

「君の出身校はどこだ」

「ハーバードビジネススクールです」

「君が失くした戦闘機の値段は!」

「1万5千ドルです」

「それでは敵の偵察機の値段は!」

「わかりません」(´・ω・`)
「考えろ!」

これだけ厳しく言ったら大丈夫、と思ったら、カービー隊長は
要するに貴様のその甘い態度がいかんのだ、とマジお怒りモード。


そして司令所の入り口にあった、謎の漢字らしきもの
(『軍』からあっちこっち抜き取ったような)が書かれた板を、
腹立ち紛れに叩き落として去ります。

それにしてもこの現場には漢字がわかるスタッフが皆無だったんですね。

その晩、グリフ副長を交えた隊員の中で、カービー少佐に対する愚痴が噴出。
アンチ・カービーの急先鋒はマッケイブ中尉ですが、そんな彼らを
一応はなだめていたグリフは、カービーの信奉者マラーキが、

「どんな時にも命令が下せる、カービーはプロフェッショナルの軍人だ」

と激褒めすると、それは俺への皮肉か、と気色ばみ、
物資も戦力も不足のこの戦地で、ちょっとしたことで
部下を軍事裁判にかける非情な隊長、カービーに対する反感を口にします。
「俺だってプロフェッショナルの兵隊だ!」



続く。


映画「フライング・レザーネックス」(太平洋航空作戦) 中編

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ジョン・ウェインの海兵隊航空もの、「フライング・レザーネックス」2日めです。

■喪失


負傷兵の輸送のためにPPY(水陸両用機)がやってた夜、
ガダルカナルには大雨が降りました。


空襲がない代わり、海から海軍が派手に艦砲を撃ち込んできます。


昼間来たばかりのPPYは撃破され、非難していた穴に爆弾が直撃して
兄をミッドウェイ で亡くしたマラーキ中尉は即死しました。

晴れわたった翌日の哨戒で、またも犠牲者が出ました。


出撃するなりアーニー・スターク中尉が、
エンジンの不調を訴え、基地への帰投を要請しました。
言下に「ネガティブ!」とそれを拒否するカービー。
しかし、アーニー、度重なる要請を出し、OKを得て離脱しました。
さて、彼の機は本当にエンジンが不調だったのでしょうか。


直後、敵機編隊が現れて交戦になります。

零戦との空戦が終了し、編隊を組みなおそうというときになって、
ジョーゲンセン大尉が、弱った敵機を見つけ、
ニヤリと笑って編隊を離脱し、追いかけていってしまいました。


しかし、ジョーゲンセン機の背後から別の敵機が襲ってきます。


機体が今度こそ炎上し、ベイルアウトしたジョーゲンセンでしたが、
パラシュートで宙吊りになっているところを日本軍に発見され、射殺されました。


帰投した隊員たちが、ジョーゲンセンの身を心配していると、
ラインチーフのクランシーがケーキを運んできました。
「砲兵隊の食堂で出しっぱなしになってたもんで」

「砲兵隊の連中、どこでこんなものを作る材料を手に入れるんだろうな」


そこに、怖い顔をした隊長と副長がやってきました。
ジョーゲンソン大尉の遺体がジャングルで見つかったのです。

「遺体置き場に行け、そしてじっくりとジョーゲンソンを見てこい!
次に単独で勝手に攻撃に行きたくなったら思い出せるように」
みんなは(´・ω・`)として言われた通りにしますが、グリフ副隊長は
「皆思い知ったでしょう。あの言い方はどうかと思いますが」
「残酷だったとでも言いたいのか」
「せっかくクランシーがケーキを差し入れしていたのに・・」
そういう問題か?
カービーもわたしと同じ意見で、同じようなことを言い、
次の瞬間、唐突にシモンズの軍法会議行きを取り消すと宣言しました。

ジョーゲンセンの死が確実になった今、貴重なパイロットを軍法会議にかけている場合ではない、と言う判断です。
そして、冷酷にも(グリフにとっては)こう言い放つではありませんか。
「ジョーゲンセンの件はシモンズのより良い教訓になったしな」


■ つのる焦燥


カービーはジョーゲンセン亡き後の部隊再編成にとりかかります。

まず、彼のバディだったパッジ・マッケイブ大尉に、
今度はアーニー・スターク中尉と組め、と告知すると、
「嫌いな奴と組むと士気が下がります。
個人的には嫌いでも好きでもないすが、彼、『操縦がが荒い』んで」
アーニーは前回の哨戒でエンジン不調を理由に
途中で帰ってしまった搭乗員です。
カービーはそれを聞いても表情を変えず、あっさりと命令撤回。
「そうか、じゃ取り消しだ」
「え・・何か不味かったっすか」

「いいや、正直に言ってくれてよかった」
そしてその足でアーニーのところへ行くと、

「俺と組め」

「少佐、私の機はエンジンの調子が悪くて・・」

「君がそう言うならそうなんだろうな」


「皆わたしと組むのを嫌がるんです」
「俺と組め」
思い切った様子でカービーを呼び止めたアーニーは、

「少佐・・マッケイブ大尉はエンジンのせいとは思ってないかもしれません」

つまり、自分が臆病風に吹かれて帰投したのを彼には見抜かれていると。

「しかし君を軍法会議にかけたら良いパイロットを失う」
「良いパイロット・・?
少佐、優秀なパイロットが任務注撃墜が怖くて汗をかいたり、
口がカラカラに乾いたりすると思われますか」

「誰もがそうだ」
「少佐も?」

「スロットルをフォワードに入れるときはな。
そうじゃないと言う奴は相手にするな、馬鹿だから」
それを聞くとアーニーの顔は別人のように晴れやかになり、
「ウィングを引き受けます」

日の丸をカーテンにするなっつーの

ある日、グリフ副長から素敵なお知らせがもたらされました。
台風が来るので敵が動けない24時間だけ航空隊は休みになるというのです。

わっと湧き立つ搭乗員たち。

「風呂入ろ!シービーズの奴ら、俺の風下に立つと鼻を鳴らしやがるんだ」

「海軍は狭い船で集団生活する形態上、清潔にこだわり不潔を嫌う」というのはどうも世界共通の傾向のようですね。
しかし、そんな彼らのささやかな期待は、次の瞬間
搭乗員の招集命令がきて、あえなく打ち砕かれました。

砲兵隊の援護任務について、砲兵隊大佐を交えた会議が行われるのです。



ピンクの横線は前線に、矢印は90m後ろに目印として設置します。
航空隊に与えられた任務は、矢印に沿って低空飛行し、
前線を攻撃しおわったら、前線と並行に退避すること。

すると、よりによってこんな会議の最中に「カウボーイ」がこんなことを。

「俺ら、休暇だと聞いてたんですがね」

他所様である陸軍大佐の前で任務に不平とはやってくれますなあ。
これは外部的にもみっともない上、隊長に恥をかかせているようなものです。
カービーはそれは噂だ、と一言で切り捨て、作戦について、

「とにかく低空飛行が作戦成功のカギだ。私の機についてこい」



するとカウボーイ、無視されて怒りが治らないせいか、

「少佐、ついでにプロペラのハブに銃剣をつけちゃどうです?」
と混ぜっ返してきました。
カービーは即座に、

「よし、貴様が大佐と一緒のジープに乗って偵察に行け。
そしたら前線で誰かが銃剣をつけたライフルを渡してくれるだろう」

とっさにこんな嫌味で答えられる、そんな人にわたしはなりたい。

砲兵隊の大佐はカウボーイの冗談になんの反応もしませんが、
彼のロデオブーツを見て呆れたような顔をします。
カービーは本人ではなくグリフに向かって、

「カウボーイ、あいつは馬鹿なのか。
ブリーフィングでジョークを言うなんて、君が義弟を甘やかすからだ」

しかし彼を庇って一方的に叱責されるグリフも面白くありません。

「休暇がもらえると思っていたところに、危険な攻撃を命じられたんですよ。
たまには休ませてやることも必要では?」



「戦場では誰にも休暇など必要ない!」

カービーはさらに、吐き気を訴えている隊員(ビリー・キャッスル)にも
出撃させろと言い放ちます。
それってマラリアじゃないのか。



ベテラン下士官でカービーの旧知であるクランシーは、
映画全編を通して「コミックリリーフ」(ボケ役)です。

燃料を手で入れるのはもううんざりとばかり、海軍設営隊の使っていた
自動食器洗い機を拝借してきて、そのポンプを「有効活用」するのですが、
このシーケンス、海軍とのカルチャーの違いもあって個人的にウケたので、
英語を一字一句漏らさず翻訳しておきます。

クランシーは大阪弁にしておきました。

「海軍さんて、こんな野営地に食器洗い機持ってきてるんですわ。
あいつら食器を手でよう洗われへんのやろか」



そこにシービーズの水兵がやってきて、

「航空隊に専用のキッチンはあるか?」

「いや、マッドマリーン(海兵隊歩兵)と共同やけど・・・何か?」

「今全部の厨房を調べてるんだが、’食器を洗うやつ’がどこかに行った」

「そらそいつ、勝手にどっかに行ってもうたんやろ。どんなやっちゃねん」

「やつじゃねーし。マシンだ」

「マシン?機械が皿洗うんかいな?」

「ああ」

「はえ〜、んなアホな話、聞いたことあらします?」

「ないなー」←カービー

「携帯キッチンユニットの一部なんだけど、自分が荷出ししたから間違いない。
もし盗んだやつを見つけたら・・・」

「砲兵隊の食堂は探しました?あいつらネコババやら平気でしよんねんで。
倫理観っちゅうもんがない連中やさかいに。ほら、あの辺におるわ」

「む・・・行ってみる」

ケーキを盗まれた上に窃盗の常習呼ばわりされて砲兵隊もいい迷惑だ。
ちなみに会話中の「mud Marine」は海兵隊の歩兵の通称というか愛称で、
同じ海兵隊でも他の職種と分けるためにこういう言い方をします。



「Mud Marine」で画像検索するといくらでもこんなのが出てくるのですが、



昨今は女性隊員も普通にこういう訓練を行います。



まあ、世の中にはこういう「マッドマリーン」(海の泥美容)も存在するので、
女性にはこの訓練、パックも兼ねて一石二鳥かもしれませんが。



見事食器洗い機のポンプで給油をしている現場を見てカービーは

「クランシー、君のこれからが心配だ」

「少佐、水陸両用部隊で海軍の食器洗い機を使うことを承認してくれますか」

「即興で創意工夫できるラインチーフを承認するのが少佐というものさ」


■ ガダルカナルの死闘

陸軍の要請を受けてカービー新隊長のもと、前線を支援する攻撃が始まりました。


朝鮮戦争で負傷者を担架で運ぶシーン
担架の背後を担いでいる兵が、撃たれたのか倒れ込んでいる



航空隊は歩兵も驚くほどの低空攻撃をやってのけます。

「これ以上低く飛べるものか?」
「独身ならね」

しかしこの日、嘔吐がとまらないと訴えていたのに
出撃を強制されて飛んだ搭乗員が撃墜されて未帰還となります。



砲兵隊大佐はその日のうちの再攻撃を要請してきました。
カービーがその時間を打ち合わせしていると、グリフがやってきて
デスクにコーヒーカップを叩きつけるように置き、睨みつけました。



死んだビリー・キャッスルのマグでした。

ちょっと余談をします。

山口の海兵隊飛行隊の基地内部をパイロット直々の案内で見せてもらったとき、
このような名前が書かれたパイロットたちのカップが
壁のボードに掛かっているのを見たことがあります。

海兵隊飛行隊だけの慣習なのか、他でもこうなのかは知りませんが、
レガシー・ホーネットの部隊であるそのユニットでは
ほぼ全員が、飲んだ後、洗わないカップをそのままラックに戻していました。
どれもこれも真っ黒なカップを見たパイロットの奥さんが呆れて、

「Boys.....」(男って・・・)

と呟くと、新婚の旦那さんであるパイロット(大尉)は慌てて

「僕はちゃんと洗ってますよ?」

と言い訳していたのが可愛かったです。


このカップは映画の中でしょっちゅう出てきますが、
(なぜか日本の旗を飾ったラックにかけてある)
カリフォルニアのメーカーがジョン・ウェインのオーダーで作ったものです。

なんでもウェインは、ここで作ったオリジナルマグに
映画クルーの名前を入れて全員にプレゼントしていましたが、
その慣習はこの映画から始まったと言うことです。

各々のカップには「デューク(ウェインの愛称)より」と書かれていました。

さて、死んだ隊員のマグをこれ見よがしに置いて見せたクリフ副長。
それは「吐き気があるのに無理やり飛ばせたから」という抗議ですが、
カービーは軍医から「吐き気は大したことなかった」と言辞を取り、
暗にそれを否定するのでした。


「文句あっか?」


「ありません」



ここで案外食えない砲兵隊大佐が、飄々とした様子で嫌味を言います。
さっき「歩兵と一緒に偵察してはどうだ」と
カービーに叱責されたカウボーイに向かって、

「君、やっぱり偵察として一緒に連れて行ってやろうか?」

それに対し、カウボーイはクソ真面目に、

「いや、私は飛ぶ方がいいです。陸の連中は荒っぽいから」

すると大佐、ニコニコしながら(怖い)

「いやいや、こちらこそ荒っぽい航空隊には怖がらせてもらってますよw」

これは、低空飛行のことを言っているのかもしれません。



カービーは例のクランシー曹長に命じてテントを集めさせます。

低空飛行に必要な目標にするつもりですが、
案の定、クランシーはそれを砲兵の部隊からこっそり「調達」してきた模様。

「砲兵の連中、自分たちのやー言うて取り返しに来たんですわ。
穴が空いてるとこにシリアルナンバーがあったはず、とか言い張るんで、
それ証明してみい、でけへんのやったら帰れ!言うたったんです」



クランシーの「調達」はこれだけではありませんでした。
カービーが去った後、MPがきて、クランシーにこんなことを。

「1時間前、トラックからランタンが十個盗まれたが、何か知ってますか」

このおっさん、調達とは他の部隊から盗んで間に合わせることだと思ってないか。

「あーそれな。ここだけの話やけど、あそこでシービーズの連中を見たわー」

食器洗い機を盗まれただけでなく、
ランタン泥棒の濡れ衣を着せられる海軍もいい迷惑だ。

ちなみにMPが去った後、クランシーは、

「Copper.」(カッパー)

と呟きますが、これは「銅」ではなく、警察官のことです。
おまわりめ、といったところで、ここではMPを意味しています。
(でもこれはある意味フラグ)



その夜、隊員は「ニップ」から略奪した「サケ」を飲んで大はしゃぎしていました。



マッドマリーンが日本の将校を殺して奪い、椰子の木の陰に隠していたのを
例によってクランシーがこっそり「調達」してきたのです。

皆の前で毒味と称して一気飲みし、その強烈さに目を白黒させるカウボーイ。



喧騒をよそに、カービー少佐は死んだビリーの家族に直筆の手紙を書きかけますが、
数行を書いたところで筆が進まなくなりました。



両親の写真、本人のID、そして遺して行ったカップ。

そこで、家族から送られてきたボイスレコード(シート)
の子供の声を聞いて気持ちを紛らせるのでした。



ミッドウェイにいるときに本国から送られてきた家族の声のシートを
彼は持ち歩き、何度となく戦地で再生しているのです。

遺族への手紙を書くのは、通常従軍牧師の仕事ですが、
牧師は今日戦死してしまったということで、隊長が書くしかありません。

しかも、今日亡くなったビリーは、マラリアの嘔吐に苦しんでいたのに
医務室に送るどころか、彼自身が命令して無理に出撃させているのです。

「本当のことなんて書けるものか!
なーにが『カクタス作戦』だ。こんなもん『靴紐作戦』だろうが」

つい軍医に愚痴を言ってしまうカービー隊長。

靴紐=shoestringは、「手元不如意」とか「物質不足」という意味があります。

日本語字幕ではこういう面倒くさそうな用語は一切翻訳できないせいか、
単に「危険すぎる」となっていますが、この翻訳はかなり変です。

どんな危険な任務であっても、部下にそれを命じ自分も毅然と出撃する軍人、
というカービー隊長という人物のキャラクター設定を考えると、
「危険すぎる」は彼がもっとも言わなさそうな台詞ではありませんか。

このように、この作品は、ネイティブにしか理解できない部分が多く、
(わたしもほぼ聞き取れず、文章で読んで初めてわかることばかりでした)
したがって、日本語字幕に頼って観ても、その面白さはおそらく
10分の1も伝わってこないんだろうなあとこういう誤訳に出会すたびに思います。



その夜、カービーは海兵隊の将軍に呼び出され、陸軍との連携でなく、
「我が歩兵の援護を低空飛行なしで」したまえ、とにこやかに釘を刺されます。
一見人が良さそうと言うか温厚ですが、なかなか腹黒い親父と見た。



日本酒でしたたかに酔い、今日のフライトは「地獄確定」となったグリフに、
翌朝クラン軍医が声をかけ、様子をうかがいます。
これも軍医の役目の一つです。



グリフは戦地での現状に苦しみ、隊員の喪失に苦しみ、
そして、その原因の一部はカービーにあると考えていました。

そんな「優秀な」指揮官だから、ここでも結果を出して上に評価されるだろう、と。

ちなみにこのとき、彼はカービーのことを、
「ダニエル・グザビエー・カービー少佐」とフルネームで呼んでいます。
アメリカ人が相手をフルネームで呼ぶとき、得てしてそれは
相手を思いっきり皮肉っているので念のため。


次の哨戒でナバホ族出身のパイロット、チャーリーが脚に銃撃を受けました。

最初のシーン(右足)


次のシーンでは左足に。もしかして単にフィルムが裏?


飛行機がひっくり返るシーンは模型使用?



彼は機体をなんとか着陸させますが、片足切断となりました。
切断したのが右が左かは不明です。



その夜野戦病院のベッドに様子を見に来たカービーに、彼は

「ナバホ族居留区の世話役に手紙を書いてくれませんか。
その人が字を読めない家族に手紙を読んで聞かせてくれるから。

そして僕の馬を売ってくれと。
この脚では荒馬はもう乗れないから・・・。
でもこれからは馬より車の時代ですよね」

と微笑みながらいうのでした。
カービーが慈愛に満ち溢れた笑顔で(こう言う時のウェインの優しそうなこと)
彼を励まして枕元を去ると、チャーリーの顔からはスッと笑顔が消えました。


続く。



映画「フライング・レザーネック」(太平洋航空作戦)後編

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映画「フライング・レザーネックス」邦題「太平洋作戦」後編です。




その夜、カービーとは決定的に対立します。

ベテランに地上攻撃をさせ、補充兵には爆撃機の援護をさせる、
というカービーの作戦にグリフは反発してきたのでした。

ちなみに例によってこの部分の日本語字幕はかなり細部が省略されていますが、
そのせいで彼らの言い合いがよく理解できないので、全文翻訳しておきます。

「これは逆ですよ!交代させてください。
彼ら(ベテランパイロットたち)は疲弊している」

「いや、これでいいんだ。彼らは地上攻撃の経験があるからな。

・・・いや、訂正だ。君を爆撃隊の援護に回してやる。
その代わり補充兵から一人選んで君の代わりにに地上攻撃に入れろ」

グリフは、補充兵の訓練記録がまだ来ていないため、
誰を地上攻撃に回していいかわからない、と命令を突っぱね、

「えーと、やっぱり(補充兵でなく)私が地上掃射に入りますよ」

するとカービーは、激昂して、

「グリフ、わたしの決断に不満ばかりだな。
君は自分では何も決断できない。
部下を指差して『死んでこい』ということができないんだ。

部下の訓練履歴だと?
誰の女たちがどう思うかとか、子供が生まれたことを知ってるかどうかとか、
そんなことばっかり気にしやがって!
自分のことだけ見てろ。他人の事情まで背負い込むな」

要するに、部下思いというより下から嫌われるのが怖くて、
非情な、しかし任務遂行に必要な命令を下すことができないのを責めているのです。

一旦引き下がりかけたグリフですが、テントを出るところでいきなりブチ切れ。

「もううんざりだ!もうあんたは信用できない!

私に言わせれば、カメになるのは簡単だ。
あんた自身を人間味ってものから甲羅で隔てればいいさ。

400年前の詩人が私よりうまいことを言ってますよ。
『人は孤島ではない』(人は一人で生きていけない)ってね。
葬儀の鐘がなるのは死んだ人間のためじゃないんです。
それは残されたものが全員で苦しみを共有するためなんだ。

なぜあんたはそれを分かろうとしない。
文句があるなら階級章を外して外に出ろ!」

気色ばんで二人が外に出たところ、人がカービーを呼びに来て決闘はお預け。



集められた幹部に告げられたのは、迫りくる日本艦隊の情報でした。
ここで司令は空母のことを「フラットトップ」と言っています。




最初に編隊離脱で叱責された後、反省して頑張っているシモンズにも声かけを。
ちなみに英語ではこの字幕の「命は大事に」の部分は

「死んだヒーローより生きている海兵隊だ」

となっています。



そして出撃。
さっそく零戦部隊と交戦し、1機を失います。





この時の零戦パイロットを演じているのは、
そこそこ活躍した日系人俳優、Ryoichi Rollin Moriyamaです。



そして、彼らは眼前にトーキョー・エクスプレスを発見しました。

ここから航空隊が容赦無く爆破していく艦船のカラー映像などが出てくるのですが、
これはもちろん朝鮮戦争のものではなく、第二次世界大戦のものでしょう。


どこかで見覚えのあるような


海兵隊マーチが高らかに鳴りひびくと、海面の艦隊はほぼ壊滅していました。


この出撃で航空隊はケルヴィンとシモンズを失いました。
「死んだヒーローになるな」という注意はやっぱりフラグとなったのです。



この任務成功により、カービーと部隊は内地帰還が決まりました。

カービーはなぜグリフを隊長に推薦しなかったか語ろうとしますが、
グリフは耳を傾けることも握手も拒み、二人は気まずい別れをします。

ちなみにカービーが右手に持っているのは酒と一緒に海兵隊が奪ってきた
(のをクランシーが盗んできた)日本刀です。

■ 帰国と『次の任務』





場面はいきなり輸送機からアメリカのカービー少佐自宅前。
タクシーで夜中帰着した少佐は、ポストに、妻が自分宛に出した手紙が
差し戻されて返ってきているのを発見しました。



ここで翻訳の間違い発見。



字幕では彼が嫁に「切手代が無駄になった」となっていますが、
実際には「切手はまだ使えるよ」と言っているのです。
(Amazonプライムの日本語版は『もう切手はいらない』となっていて正しい)

画面にアップにされる手紙の切手にはスタンプが押されていません。
つまり、本人が帰国したため、手紙は戦地に行かず戻されてきたというわけです。

もっとも、軍事郵便は無料だったはずなので、どちらにしても
切手にスタンプを押されることはなかったと思いますが。

もう一つおまけに、このとき手紙に貼られていた6セント切手は、
1949年発行で、戦争中はまだ存在していなかったということです。



息子のトミーは寝ていましたが、起こされて父親を見るなり、

「ハロー・メイジャー」
「パパを少佐とよぶのはやめなさい」
「そうだ、もうすぐカーネルとよばなきゃならんからな」

「ルテナント」がつくとはいえ、確かに中佐もカーネルですからね。



父親はベッドで息子にお土産の日本刀を渡し、

「パパが日本軍の将校と一対一の素手で戦って奪ってきたんだ」

嘘はいかんなあ、嘘は。



そしてここからがツッコミの嵐。
将校の刀=真剣を直接子供に与えて持たせることはもちろんですが、
寝室に残された息子が、日本刀を抜身にしてベッドでブンブン振り回し、
刀の上にジャンプして着地し、そのとき手を刀の下に挟んで怪我しないとか。
それから、息子の寝室の壁に貼られた「イエール」「ハーバード」
「C」「W」も謎です。



このとき、妻に心配げにいつ発つのか聞かれて、次の任務はワシントンなので、
ずっと一緒にいられるよ、と自信満々で請け合います。


んが、これはすぐに安請け合いだったとわかりました。
次の日司令部に呼ばれた彼は「新型戦闘機」搭載部隊への就任を告げられるのです。

つまり戦地に逆戻りです。



おまけに偶然なのかわざとなのか、上はまたしても
副隊長に天敵グリフィン大尉を当てがってきたのでした。

「わたしが隊長で大丈夫かい?」

「ハッピーってわけではありませんが、なんとかやれると思います」



カービーが外に出ると、「カウボーイ」と家族、その他メンバーとばったり。

カウボーイは愛想よくカービーを家で飲みませんかと誘い、
妻のバージニアを紹介するのですが、このときカービーは彼女に向かって、

「お久しぶりです」
なんて言っているのです。
はて、カウボーイとはカナルで初めて会ったんじゃなかったっけ。


ここで衝撃的な?シーンを。
カウボーイが抱いている息子のジャック、目に物凄いあざを作っています。
どう見てもメイクで描いた感じではありません。
そもそも父と久しぶりに会った子供にあざができてるという設定なんて変ですよね。

バージニア、つまり彼らの母親に、

「ジルのヘイメーカー(干し草を作る機械・拳)にぶつかったの」

と言わせて、姉が弟を殴ったということにしているのですが、
この濡れ衣はあまりにもお姉ちゃんが可哀想です。

男の子のあざはとても女の子が殴ったようなものには見えません。

これは、撮影直前に子役が怪我をして代役が立てられなかった
(あるいは親がどうしても下ろすのを承知しなかった)ため、
急遽説明くさいセリフを加えたように見えます。

この子供も、元気ならもう70歳は越しているはずですが、
このときの事情を今でも覚えているでしょうか。
このシーンでもう一つ不思議だったのは、
カウボーイがカービーを何度も自宅のパーティに誘ったり、
車の後部座席にはマッケイブ、アーニー、もう一人が乗っていて、
皆カービーにものすごく愛想よく会話をしていることです。

その様子はとても戦地で反発しまくっていた部下たちとは思えません。
いくらあっさりしているアメリカ人でももう少し根に持ちそうなものですが。



カービーが官舎に帰ると、妻は、彼のトランクに名前を書いていました。
昇進したので「中佐」をつけて。



また戦地に行かなくてはならないことをどうやって説明しよう、
と悩んでいたカービーですが、妻は明るく

「知ってたわ。妻同士のネットワークは早いのよ」
そして、あなたのような優秀な人が必要とされるのは仕方ないわ、と言います。
涙を見せずに部屋を出て行った妻ですが、代わりに入ってきた息子が



「ママが泣いてるよ」

うっ・・・・それはつらい。
部下との出会い、妻との絡みも、旧版では全てカットされていて驚きます。


■F4Uコルセア部隊



「新型航空機」とはF4Uコルセアでした。

F4Uがガダルカナルに進出したのは1943年ということで、これは史実です。
映画撮影当時、時代はすでにジェット機へと移りつつありましたが、
ジェット機はまだ木製甲板の空母の使用ができなかったため、
生産は続いており、撮影に借りるのに全く不便がなかったのです。



後半はF4Uが甲板から発進するカラー映像から始まりますが、
おそらくこれも朝鮮戦争時代のフィルムだと思われます。



がダルカナルの航空隊基地の片隅になぜか転がっているのが零戦の残骸。



「カナル」(日本人は省略するとき『ガダル』だがアメリカ人は後半を使う)
に帰ってきたカービーを、出迎えたのは、
なぜか降格されて一兵卒になったクランシーでした。

しかも、今度の配置はMPだというではありませんか。
おそらく「悪行」がバレて懲罰的に降格されついでにMPに行かされたのでしょう。



部隊は早速新任務を与えられました。

苦戦して先遣隊に追いつけない海兵隊部隊の支援です。
日本軍の根拠地をまたしても低空飛行で攻めることになりました。


司令室のプロッティングボードを囲み、
”Roger and out."と言いながらコマを動かしています。

というところでしばらく歩兵が移動するような実写映像が続くのですが、
ガダルカナルというのにヤシの木のジャングルどころか、
背景には草木一本見えない禿山で、どうみてもこれは朝鮮半島。



ね?


これはロケのようですが・・。



いかにもアメリカの広野でロケしてるって感じ?

戦死した日本兵のように挿入されていますが、明らかに朝鮮戦争の映像。


その日の夜、(これも別バージョンではカットされていた)
カウボーイが義兄でもあるグリフに神妙な様子で告白します。
戦闘機に乗るたびに恐怖が増していき、拭い去ることができないと。



グリフはこの義理の弟に対し、(あ、ということはバージニアはグリフの妹か)

「雷が同じ場所に2回落ちる確率は、他の場所に落ちる確率と同じだそうだ」

というバルトの法則を持ち出して慰めます。
それってどういう意味なの?



「お前が落ちる確率は、他の奴が落ちる確率と同じってことさ」

つまり滅多にないことだから安心しろと。

カウボーイはそれでもあまり理解できない様子で、国内の物資不足などを話題にしたかと思うと、グリフに
もしものことがあれば妻と子を頼む、などと気弱なことを言うのでした。

それはそうと、グリフのいう「バルト(Balt)の法則」とやらですが、
本当にこんな法則があるのかどうかは甚だ疑わしいとおもいます。
そもそも、バルトって数学者、実在するの?

さて、低空地上爆撃任務中の航空隊に、艦隊から急遽支援要請が入りました。


艦隊が苦戦していたのは神風特攻隊の迎撃でした。



特攻機が多数襲来して混乱しているので、急遽こちらに来て欲しいというのです。



特攻機搭乗員その1。
前にも見たことあるような日本人が特攻パイロットになっています。



特攻機搭乗員その2。
特攻隊なのに必勝の白鉢巻を締めていないのでアウト。



至急艦隊に向かうと連絡をしたカービーとグリフィンの小隊ですが、
ここでまたもやテキサスが、

「カマカ〜ゼ♪ カマカーゼ♪」
(ラクカラーチャのメロディで。この後は『線路は続くよ何処までも』)

とふざけ出すではありませんか。
カービーが何かいう前に、グリフが撃ち落とすぞ!と叱責します。

ところで、前段のカウボーイの葛藤とグリフに弱音を吐くシーンは、
許し難いことに粗悪版ではカットされて観ることはできません。

こちらのバージョンしか知らないと、カウボーイという男は、最後まで
単なる調子乗りの軽薄な人間で終わってしまうことになるのですが、
完全版を見ていれば、彼が必死で恐怖を克服しようとしているのだとわかります。

ちなみにこの歌の部分は脚本には書かれていません。
俳優のアドリブだと思われます。


テキサスの機は、その直後不調を起こしエンジン出力低下していきました。



離脱したところに零戦が急襲してきます。



この零戦の胴体には「左翼主要タンク」と大きく赤で書いてあります。



追われてテキサスは無線で編隊に助けを求めますが、グリフはこれを拒否します。
艦隊を救出に向かう任務は一刻を争うからです。



見かねたマッケイブ中尉がテキサスの救出に行く、と名乗りを挙げますが、
グリフは断腸の思いで間髪入れず禁止しました。

「黙れ、レッド10!」(マッケイブの機)

つまり、グリフは部下であり義理の弟を見殺しにする決定をしたのです。



超冷静そうな零戦パイロット・・これも森山さんか?





機を離脱しようとしたテキサスは、零戦の銃撃を浴び、脱出する前に
炎上した機体もろとも海に突っ込んで戦死を遂げました。



特攻で炎上する艦隊の上空に着いたカービーの部隊は、そこで特攻機と交戦します。

すでに攻撃が終わっている状態で、まだ現場に
特攻機がうろうろしているとはとても思えないのですが。





交戦中銃弾が無くなったカービーは、なんと特攻機に
自分の機を体当たり(特攻に特攻)させてそれを阻止しようとしました。



「脱出してください!」

当たり前のことを叫ぶグリフ。
言われなくても脱出しますって。

カービーの落下傘は無事開き、彼は駆逐艦に救出されました。



ヒットされたのは艦隊の8隻だけで、沈没には至らずなんとか耐え凌ぎました。
艦隊司令は、

「パンケーキ・オールフライヤーズ」

といい、

「パンケーキ・オール・ファイターズ」

と通信させます。
この「パンケーキ」、映画の最初からちょくちょく耳にするのですが、
これは第二次世界大戦中の軍隊スラングで、正確には

「航空機がちゃんと失速して着陸し、三つの車輪を同時に着地すること」

を意味します。
それから派生して「着陸」という意味で使われたと推測されます。
つまり、司令は、全ての機に着陸を許可したというわけですね。

一つまたどうでもいいことを知ってしまった。



帰投した隊員たちは、自分がどんな艦を攻撃し、それがどうなったかを
興奮気味に語りますが(タガサキ型タグボートという謎ワードあり)。


カウボーイを助けに行くと名乗って拒否されたマッケイブ中尉は、
自分一人がいなくても作戦は成功していたのに、
なぜ助けなかったのかと憤懣やるかたない様子です。



そして、作戦を成功させたカービーには、ついに帰国命令が出ました。



基地を去るカービー中佐の荷物に、お酒を入れておきましたよ、と、
いまや兵隊なのに相変わらずのクランシーです。

「盗んでまへんで。心配せんといてください。
輸送パイロットから買うたんです。
わたしのガラやないんですが、餞別ににちょうど盗んでこれるもんがのうて」

「君の記録の唯一の汚点だが大目にみよう。じゃあな、クランシー」

「お元気で、サー」

この後のセリフは、実は英語では赤字の通りです。


「最悪の指揮官の下で働きましたよ」
字幕*最高の指揮官だった


「こっちも最低のラインチーフを持ったもんだ」
字幕*お前も最高だった

翻訳とは正反対であるのにご注意ください。

心情はどちらも字幕の通りなんでしょうが、そこをあえて
お互いこう言い合うのが「現場の空気」というものなんでしょう。




そして最後に忘れちゃいけない、グリフとの別れです。
輸送機に負傷した腕で乗り込むカービー中佐に駆け寄ってきた彼は、

「隊長にあなたが推薦してくれるとは思いませんでした。
あなたは憎まれ役だと思ってた」

おお、カービー中佐、最後にグリフを推薦していったんですね。



「そのとおり、私は憎まれ役だ。そして君がこれからそうなるんだ。
私だって別に君を好きになったわけでもないよ、グリフ」

と憎まれ口を叩きながらも、こんなことをしみじみと語ります。

「カウボーイのことは残念だったな。あの決断はどれほどつらかったか。

君はこれから毎晩ベッドに向かうとき・・そうだな、
尻ポケットを引きずりながら、ベッドに向かい、横になる。
胸のむかつきを抱えて天井を見上げるんだ。

そして、神に願うんだよ。
明日の攻撃を、全部成功させてください。

でも、次の朝目覚めると思うんだ。大尉にまた戻りたいと。
そしたらもう誰かの命令を聞いてさえいればいいからな。

そして君は機嫌が悪くなり、怒りっぽくなる・・・そうだ、私みたいに。
そして君はいつか今の私のように尻ポケットを引きずって航空機に乗り込み、
国に戻って地上勤務をするだろう。

兄弟、私は君のためになるようなことは何もしてない」

黙ってそれを聞いていたグリフィンは、



「変なこと言っていいですか?(I'm going to say something dizzy.)
もし内地でお会いすることがあったら、
奢りますから、一杯飲んでくれませんか」



「喜んで『乗船』するさ。じゃあな」

「さようなら。
正しいプレーを心がけますよ。いいコーチがいたから」

「そうだな、国での『試合』を楽しみにしてるよ」


前隊長が機内に姿を消した後、輸送機の下に飛んできたのはアーニーでした。



「あなたが隊長で私が副長ですって?」

なんとアーニーが中尉から大尉に進級したってことですか。

シモンズとかジョーゲンセンとかカウボーイとか、
上が軒並みやられてしまったし、マッケイブは反抗的だし、
この際消去法でってこと・・・いやなんでもない。
まあなんだ。おめでとう。

「その通りだ。今すぐ状況報告せよ。全員を集合させるんだ」

「今すぐにですか?」

「今後全ての命令は速やかに実行せよ!(キリッ)」



命令される側からする側へ。
「鬼隊長」がひとり誕生した瞬間でした。



日本語訳、しかもあっちこっちカットされた画質の悪いバージョンで見ると
スカスカの作品にしか思えないのですが、アメリカでは評価の高い映画です。
左派監督がブラックリスト入りを免れるために撮った戦争映画は、
ウェインとライアンという天秤の平衡を決して崩すことなく・・、
というか、天秤の片側にウェイン、反対側に監督のレイとライアンが乗って
ちょうど均衡が取れ、いい感じに仕上がったと言う気がします。
そして、なんと言っても完全版を観て初めて評価の対象になった映画でした。

皆様もこの映画を見るときには、決して質の悪い「太平洋作戦」ではなく、必ず
「太平洋航空作戦」と言うタイトルを探して購入されることをお勧めします。


終わり。



ロフト爆撃とは A-4F スカイホーク〜フライング・レザーネック航空博物館

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ベトナム戦争時代のヘリコプターを紹介した後は、
戦闘機スカイホークを取り上げることにします。
ここフライングレザーネック航空博物館には、
なぜかスカイホークが少しずつ違うバージョンで3機展示してあります。
■マグドネル・ダグラス A-4 スカイホーク

ダグラス・A-4スカイホークは、1950年代初頭、
アメリカ海軍と海兵隊のために開発された単座亜音速空母対応攻撃機です。
使用年は「1956−1998」となっており、
まるまる40年もの間現役だったということになります。

A-4スカイホークは、ダグラス・エアクラフト・カンパニー、
後のマクドネル・ダグラスによって設計・製造された
デルタ翼のシングルターボジェットエンジン機です。

見た目からスマートなスカイホークは比較的軽量で、
最大離陸重量は11,100kg、最高速度は1,080km/時以上。
5つのハードポイント(武器搭載ポイント)には、さまざまな種類の
ミサイルや爆弾などの弾薬を搭載することができます。
【その任務-核投下のためのマニューバ】

USMCの攻撃任務、それは攻撃的な武装偵察を提供し、
海兵隊遠征隊の防空を行うことです。
軽量でありながら、A-4の爆弾搭載能力は、
第二次世界大戦中のボーイングB-17爆撃機と同等とされ、低空爆撃システムと「ロフトテクニック」と呼ばれる技術を用いて
核兵器を投下することもできました。
この英語でいうところの「ロフト」なる技術なのですが、
これを表す「デリバリーテクニック」を「運搬技術」と訳すと、
どうしても意味が噛み合わなくなるのに気が付きました。
ロフトはつまりトス・ボミング(Toss Bombing)と同義であり、
これ自体がアメリカ空軍の爆撃方法のことだったのでした。

トス爆撃 / ロフト爆撃 (Loft bombing)は、主に低空を飛行し、
機体を引き起こしつつ、爆弾を進行方向前方へと放り投げる方法を言い、
爆弾投下後、機体はそのまま上昇・反転し、退避します。

この方法の利点は、爆弾を放り投げるため、
投下機は目標に接近することなく、爆撃を行うことができるというもので、
なるほど、これなら核爆弾でも安全に落とせます、というわけですね。
そしてA-4は搭載能力がB-17並で、しかもインメルマンターンで
投下後避退することも可能な機体、ということが言いたいわけです。
Toss Bombing - Delivery Of Atomic Weapons By Light Carrier Aircraft - Execution (1959)
このビデオの3:00すぎから、どうやって核を投下し、
その場から退避するかを図解で説明しています。
後半には実際に爆弾投下をしている実写映像があり。



さらにこれはロフトテクニックの一つ、「オーバーザショルダー」という方法です。

第二次世界大戦の大型爆撃機は、核を落とす時、
(といってもそれが行われたのは合計二回だけだったわけですが)
高高度からほぼ無差別に投下するしかありませんでした。
しかし、この方法を用いると、低空から目的地にピンポイントに投下を行い、
しかも機体に爆発の影響が及ばないうちに速やかに現場離脱することが可能です。
技術上、民間人への無差別攻撃とならざるをえなかった
「広島・長崎」の教訓と反省が生かされた、
落とす側にも落とされる側にも優しい、
実に人道的な核投下方法と言えましょう。
(もちろん嫌味です)

【仕様】

A−4のデザインはいわば「シンプル・イズ・ベスト」の好例といえるでしょう。
前縁スラットは重力と空気圧がかかると適切な速度で
自動的にドロップするように設計されており、その仕組みには
モーターはもちろん、パイロットスイッチさえ必要としません。
翼の上のボタンが並んでいるような翼端前面がスラット
前縁スラットとは、主翼の前縁に垂れ下がった「張り出し」のことです。
フラップと連動して下がり、揚力を増やす効果を得るもので、
翼との隙間(スロット)によって大迎え角時の失速を防ぎ、
速度が上がれば格納されます。


構造をここで見ていただきます。

主脚(3本ある脚のうち、前方のもの)が主翼桁を貫通しておらず、
格納した時にホイール自体のみが翼の内側にあり、下部構造支柱は
翼下表面の下のフェアリングに収納されるように取り付けられています。
と文字では分かりにくいので、動画をご覧ください。
DOUGLAS A4 SKYHAWK LIGHT ATTACK AIRCRAFT SALES FILM 80624
フィルム最初に、主脚が格納される寸前までの映像を見ることができます。

この仕様の採用の目的は、強度を変えずに翼構造自体を軽くすることにあります。
また、重い翼の折り畳み機構をなくすことによって、
多大な重量の節約を実現することができるようになったという意味で
画期的だったといわれています。

エンジンは、当初ライト社製のJ65ターボジェットエンジンでしたが、
A-4E以降はプラット&ホイットニー社製のJ52エンジンを採用しています。
先ほどのA-4のビデオの4:10から見ていただくと、
エンジンが内蔵されている位置を赤でわかりやすく教えてくれます。

【A-4F バージョンノート】
A-4Fからのアップグレードには、1,300ポンド以上の推力を備えた
Jー52ーPー8Aターボジェットが含まれます。

着陸後の走行距離を最大1000フィート短縮するために、
翼には新しいリフトスポイラーが追加されました。
その他の変更点は、ゼロゼロ射出座席(A zero-zero ejection seat、
速度0、高度0でも、射出座席装置による機体からの脱出が可能)、
パイロットを保護するための機体への防弾、防空砲素材、
そしてコクピット後方にフェアリングハンプが追加されました。

フェアリング・ハンプ。コクピット後方が山なりに出っ張っている
この「コブ」の中には電子機器やアビオニクスが収納されており、
これらについても最新式のものに改良されています。
zerozero射出といえば、当博物館の室内展示を出る直前に、
このようなものが無造作に置いてあったのですが、
これはまさかそんなものではないですよね?

ゼロゼロ機能は、低高度・低速飛行中や地上での事故の際に、
乗員が回復不能な状態から上方に脱出するために開発されました。

通常、パラシュートは、安全に着地するための一定の高度を必要とします。
そのため、ゼロゼロ機能が導入される前までは、
最低の高度と低速度という条件が揃わなければ脱出できませんでした。

ゼロ(航空機)の高度から脱出しようとすれば、当たり前の話ですが、
シート自身を十分な高度まで持ち上げる必要があります。


初期の座席は、航空機から砲で発射される仕組みと同じものだったため、
座席内に仕込まれた非常に短い「砲身」に必要な衝撃を与えていました。
そうしないとパイロットの人体が押しつぶされてしまうからですが、これでは
どうしても総エネルギー量が制限され、高さを増すことができませんでした。

しかし、ゼロゼロ技術では、小型ロケットでシートを適切な高度まで上昇させ、
小さな爆発でパラシュートのキャノピーを素早く開くため、
パラシュートの開傘に対気速度と高度を必要としません。

まず、レバーが引かれると、シートキャノンがシートを機体から外し、次に
シート下のロケットパックが発射されてシートを高度まで持ち上げます。

ロケットの発射時間はキャノン砲よりも長いため、大きな力は必要ありません。
また、ゼロゼロロケットシートだと、イジェクションの際に
パイロットにかかる力は大幅に軽減し、怪我や脊髄の圧迫を減らすことができます。

もちろん人体への衝撃が全くなくなるわけではいので、
射出による脱出は、ゼロゼロ射席以降でも、パイロットにとって
「それを体験するときはパイロット人生が終わるとき」
というくらいの異常事態であることに何ら変わりはありません。
(とレガシーホーネットの海兵隊パイロット本人から聞いたことがあります)

A-4Fのプロトタイプは1966年に初飛行を行い、
海兵隊へは1967年から始まり、146機が製造されました。
【ベトナム戦争での運用】

A-4Fはベトナムでの使用を最初から目的に設計された最初のスカイホークで、
太平洋沿岸の飛行隊にのみ割り当てられ、大西洋艦隊には配備されませんでした。

ベトナム戦争に投入されるようになると、上空を飛行するパイロットの
主な脅威は、地上からの銃撃と高射砲となりました。

パイロットをこれらの攻撃から保護するために、
コックピットの周りには装甲板が設置され、先ほど書きましたが、
機体全体には耐弾性、耐対空砲性の素材が追加されます。


ベトナム戦争期間中、A-4Fに搭乗した海兵隊航空隊は
VMA-214「ブラックシープ」Blacksheep


VMA-223「ブルドッグ」Bulldogs

VMA-311「トムキャット」Tomcats


予備軍としてはVMA-131「ダイヤモンドバックス」、
VMA-133「ドラゴンズ」、VMA-134「スカイホークス」、
VMA-142「フライングゲイターズ」もA-4Fに乗っていました。
ちなみに311航空隊のトムキャッツは、2020年の秋に解散しています。
もしやコロナのせいで?と思ったのですがさにあらず、
ハリアーIIを装備していた部隊だったので、一旦解散してから
次にF-35Cに移行し、再就役をする予定だそうです。
F-35というから垂直離着陸型かと思ったら、Cが付くのは艦載機タイプの模様。

ちなみにVTOL、垂直離着陸できるのはB型、
F35-Aは空軍用で一般的な離着陸(CTOL)機。
ABCと順番に来ていますが、F35ーCは空母搭載型、つまり
CはキャリアーのCというわけです。


【FLAMのA-4F】

FLAMののA-4F(BuNo.154204)は、1967年8月に
海軍のVA-23「ブラックナイツ」に受け入れられ、
ヤンキー・ステーションのUSS「タイコンデロガ」(CV13)艦載飛行隊に
代替機として加わるというデヴューを果たしました。
1968年2月、204はヤンキー・ステーションに留まり、
USS「ボノム・リシャール」(CV31)搭載部隊、
VA-93の「ブルー・ブレイザーズ」に移され、
ケサンの戦いで米海兵隊を支援する任務に従事しました。

1968年5月28日、大規模な修理のために日本の厚木基地の
FAWPRA(Fleet Air West Repair Facility)に送られ、修理後
NAS厚木の戦闘作戦支援活動(COSA)に移され、再配置されました。

この機体は、USS 「コーラル・シー」(CV 43)乗組、
VA-153の「ブルーテイル・フライズ」 に連れられて、帰ってきました。

戻った後、VA-212「ランパント・ライダーズ」 "Rampant Raiders "
(獰猛な攻撃者という意味?)にすぐさま移され、再び
1969年、USS 「ハンコック」(CV 19)に搭載されてベトナムに戻ることに。

任務を成功させた後、VA-127 「ロイヤルブルーズ」"Royal Blues "に入り、
ここでは戦闘機の代替パイロットのための高度な全天候型ジェット計器の訓練や、
ライトジェット攻撃パイロットのための再教育訓練に使用されました。

ここでの5年間の任務の間、誘導ミサイルのテストを行うために
NAS Pt.MuguのVX-4に一時的に貸し出されています。

そしてまたしてもVA-55「ウォーホース」とともに最後のベトナム派遣で
再びUSS「ハンコック」に搭乗し、あの脱出作戦フリークエント・ウィンド、
イーグル・プル作戦、ブルー・スカイ作戦に参加しました。

USS「ハンコック」がカリフォルニア州アラメダ海軍基地に戻ると、
204は基地に残り、NASアラメダの航空隊予備軍、
VMA-133(MAG42)「ドラゴンズ」に14年間所属。

1989年海軍予備軍のVFC-13「セインツ」に移管され、
NASミラマーで異種空戦訓練(DACT)を行うアグレッサーとなりました。

この時、アビオニクスの「ハンプ」が取り除かれたので、
展示機には、どこを探しても本項に書いたところの特徴的なコブはありません。

その後1991年に運用を終了し、MCAS エルトロの博物館に展示されています。

続く。



マングースとスーパーフォックス TA-4Jスカイホーク〜フライング・レザーネック航空博物館

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FLAMにはA-4スカイホークが3機あります。
前回、A-4Fという最初のバージョンをご紹介したわけですが、
現地では少なくとも形に少しの違いも見分けることができませんでした。

そして今日ご紹介するスカイホークには頭に「T」が付いています。
それはこれが訓練機であることを表しています。
しかし、アメリカ軍の軍用機に詳しい人なら、
この機体を見ただけでこれが訓練用だとわかるのだそうです。
そのポイントはペイント。(お、韻を踏んでる)
オレンジと白のマーキングがどうやら訓練機を表しているらしい。

■ マクドネル-ダグラス TA-4Jスカイホーク Skyhawk
【そのミッションと訓練機の色々】

海軍及び海兵隊の学生飛行士のための高度な艦載ベースの
ストライク(打撃)ジェット訓練機です。
今更ですが、ジェット練習機とは、
基本的な飛行訓練や高度な飛行訓練を行うためのジェット機のことです。
通常それは専用に設計されるか、あるいは既存の航空機を改造して作られます。

軍用ジェットエンジン搭載機が導入され、同時に
専用の操縦訓練機が必要となりました。
1940年代、つまり最初の訓練機は、グロスター・メテオ(英)や
ロッキード・T-33などの既存の設計に手を加えたものでしたが、
その後、エアロL-29デルフィンやBACジェット・プロボスト(英)など、
最初から訓練機として設計されたものが登場しました。


ロッキード T-33
一般的に軍航空の訓練では、基礎訓練にピストン機やターボプロップ機を使い、
訓練が段階的に進むと、ジェット練習機の過程に入ります。

しかし、アメリカでは、セスナT-37ツィートのようなジェット練習機が、
訓練の初期段階にも使われるようになってきました。

さらに、イギリスでは、戦闘機や攻撃機のパイロットに選ばれたパイロットは、
フォーランド・ナット(Folland Gnat)のような、高度な訓練機を使いました。

RAF飛行訓練学校の訓練機フォーランド・ナット
アメリカ軍の練習機としては以下のようなものがあります。

ロッキードT2V シースター Sea Star(退役)
テムコTTピントPinto(退役)
マクドネル・ダグラスのT-45ゴスホークGoshawk(現役)
ノースアメリカンのT-2バックアイBuckeye(現役)
ノースロップT-38タロンTalon(現役)


T-38タロン

ちなみに我が自衛隊では、1962年からなんと2006年までの長きにわたり、
富士重工のT-1を使用してきました。

T-1
その後置き換えられたのは1975年から2006年までのT-2で、
生産は三菱重工業です。

T-2

現段階での空自での訓練パイロットの中等練習機は、
川崎重工のT-4であるのは皆様ご存知の通り。


T-4(ドルフィン)
TA-4J Skyhawk Documentary

【TA-4Jスカイホークのヒストリー】
1965年、スカイホークの最初のタンデム(縦列)二人乗り、
デュアルコントロールのトレーナー(訓練)バージョンが海軍用に開発されました。
その際、胴体は2フィート4インチ延長され、それに対し
胴体の燃料タンクは100ガロンの大きさにまで縮小されています。

T-4には、訓練機ではない方のA-4Fに利用可能であれば、
あらゆる種類の武器を搭載するだけの能力がありました。


【計器飛行訓練機】

A-4スカイホークの訓練機バージョンTA-4Jは二人乗りで、
T-9Jクーガーに代わって訓練の役割を担うようになりました。

そしてその後T-45ゴスホークに取って代わられるまでの数十年間、
白とオレンジのマーキングを施した上級ジェット練習機として活躍しました。

さらにTA-4Jは、すべての海軍マスタージェット基地で、
計器訓練RAGに割り当てられました。
RAGって何かしら、とアメリカ人でも思うと思うのですが、
ここには全く説明がありません。
RAGとは、「Replacement Air Groups」とかつて呼ばれていた海軍と海兵隊の部隊のことで、
現在はFRS「Fleet Replacement Squadron」ですが、
「RAG」という呼称はそのまま残っており、普通に使われています。

FRSは飛行士、飛行士官(NFO)、および下士官の乗組員を、
彼らが飛行を割り当てられた特定の最前線の航空機で訓練する部隊です。

リプレースメント(代替)・パイロットリプレースメント(代替)兵器システム士官

は、

(カテゴリーI)新たにウィングマークを取得した飛行士
(カテゴリーII)航空機を別のタイプに変更する飛行士
(カテゴリーIII)空白期間を経てコックピットに戻る飛行士

のことをいいます。

訓練を終えた卒業生は、艦隊飛行隊に配属されます。
また、FRSは航空機の整備士を育成し、飛行隊の減少に備えて代替機を提供し、
整備と航空機の運用を標準化する役割を担っています。
回り道をしましたが、TA-4Jは、この部隊における
計器飛行の訓練機として使用されていたということです。

また、TA-4Jは、海軍航空隊がまだ多くのプロペラ機を保有していた時期に、
ジェット機への移行のための訓練に利用されましたし、また、
海軍航空隊員の年次計器訓練、チェックライドに使われていました。
年次訓練というのは、現役を降りたあとのパイロットが
技量維持のために行う飛行訓練のことです。
英語では「チェックライド」と呼んでいるようです。

計器飛行というのは、前にも説明したことがありますが、
視界が天候等で不良となっても、目視なしで計器を頼りに操縦を行うことです。

もちろん平常の操縦では行われることはありませんが、
(それどころか、航空法によって有視界飛行が可能な場合は禁止されている)
どんなコンピュータ搭載の最新艦の乗組員でも、天測を行い、
海図に定規で線が引けるように、いざというときに備えて行われる
マニュアルモードでの訓練と考えていただくといいかと思います。
この事態は通常気象条件により起こってきますが、
これも航空法によって決められたところによると、
この条件が揃った状態のことを、

計器気象状態
 Instrument Meteorological Conditions ;
IMC

と称します。
計器飛行訓練に割り当てられたTA-4Jは、
外界の情報を遮断するために、フードが折りたためるようになっていました。

INSTRUMENT FLIGHT IN THE T-38A TALON TRAINING AIRCRAFT U.S. AIR FORCE FILM 84344

このアメリカ空軍編纂の計器飛行訓練の映像は、Tー38タロンで行われております。
7:30くらいから乗り込んで、8:30にキャノピーを下ろしますが、
後ろの訓練パイロットだけが、その後ゴソゴソと(笑)
手動でフードを引っ張って外界を遮断しています。

その後、

計器に従って離陸が行われ、(10:00~)
高度の維持、コースの入力に続いて、アプローチ(22:00~)
タッチダウン寸前からの再離陸(25:00~)
マニュアルモードに切り替えての着陸
と全てが一本で見られます。
なんか、見てるだけなら簡単で誰にでもできそうに思えますが、
ここに来ることができる時点で一握りの「エリート」なんだろうなあ。
ちなみにアメリカ海兵隊の計器飛行が行える部隊は、

VF-126(カリフォルニア州NASミラマー)
VA-127(ネバダ州NASファロン)
VF-43(バージニア州NASオセアナ)
VA-45(フロリダ州NASセシルフィールド、後にキーウェストに移転)

でした。
  【アドバーザリー(アグレッサー)】

さらに、単座のA-4スカイホークが世界各地の飛行隊(VC)に割り当てられ、
そこで訓練などに使用されました。

1969年にあの海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)が設立されます。
空戦機動(ACM)訓練が新たに重視されるようになったことで、
A-4スカイホークが機器RAG部隊とマスタージェット基地の複合飛行隊、
両方で利用できるようになりました。

軽快なA-4は、TOPGUNが好んで「MiG-17役」として使用します。

F-4ファントムももう誕生していましたが、
こちらはまだ戦闘機としての能力を最大限に発揮し始めたばかりで、
小型の北ベトナムのMiG-17やMiG-21相手には
期待したほどの性能を発揮できなかったのが正直なところでした。

TOPGUNでは、改造したA-4E/Fを使って行う、
異種格闘技戦訓練(DACT)を導入しました。

「マングース」(Mongoose)と呼ばれた改造機は、背骨のハンプ、
20ミリ砲とその弾薬システム、外部の貯蔵庫をなくしており、
スラットは固定されていました。

USN F-14A Tomcats vs. A-4 "Mongoose" & F-16N Air Combat Training
このビデオで0:14に映るのが改造されたA-4「マングース」です。
(マングースのスペルがMongooseだと初めて知ったわたし)

トムキャットは何の因果か、マングースとF-16を同時に相手にしている模様。

スカイホークは小型で、よく訓練された飛行士の手にかかれば
低速での優れた操縦性を発揮するため、艦隊乗組の飛行士に
DACTの細かいポイントを教えるのに理想的な機体だったと言われています。

中隊はやがて、アドバーザリー訓練という主要な役割に移行したことを示す、
鮮やかな「脅威タイプ」の塗装を施すようになりました。
(航空自衛隊でもアグレッサー部隊の塗装は派手でしたよね)

これらの訓練をより効果的に行うために、単座のA-4Eなどが導入されましたが、
「究極のスカイホーク」は、改良型のJ52-P-408エンジンを搭載した
「スーパーフォックス」SuperFox Agressorだったとされます。

画像はハセガワさんにお借りしております


ファロン基地のアドバーザリー部隊
この機種は、1974年のUSS「ハンコック」最終巡航時に艦載されたもので、
また、1973年にブルーエンジェルスが選択した機種でもあります。


旧USMCスカイホークが余ってきたこともあって、
A-4MバージョンはVF-126とTOPGUNの両方で使用されることになりました。

A-4は、F-5E、F-21(Kfir)、F-16、F/A-18によって
アドバーザリーの役割が強化されたにもかかわらず、
1993年にVF-43が退役し、その後まもなくVFC-12が退役するまで、
「仮想敵国の脅威の代用」機の役を果たし続けました。

2003年、スカイホークは退役、最後に運用したのはVC-8でした。

A-4Mをアドバーザリーの役割で運用していた部隊は他にもあります。
テキサス州ダラスにある海軍航空予備軍の
オペレーション・メンテナンス・デタッチメント(OMD)です。

ここに配備された4機のジェット機を操縦した飛行士の多くは、
空軍基地の司令官を含めてNASダラスに所属していました。

そしてF-4ファントムIIや後にグラマンF-14トムキャットの
仮想敵機としてその訓練と開発に貢献しました。
その他の任務は、カリフォルニア州ミラマー、
ネバダ州ファロンへの目標曳航などです。

それにしても、アグレッサーとなってから「究極の機体」が登場するとは、
何とも息の長い名機だったんだなと感嘆せずにはいられません。
【FLAMのTA-4J】
機体ナンバー158467は、地中海のNAS基地に展開していた
VT-7が海軍の学生パイロットの訓練に運用していた機体です。

1992年、MCASエルトロでクロスカントリー訓練を行っていたところ、
離陸事故が発生しましたが、学生とインストラクターに怪我はありませんでした。
機体はその後経済的に修理が不可能であると判断されたため、
1995年5月にこの博物館に運ばれて展示されています。
海兵隊の航空事故履歴を当たってみましたが、
事故と言えるほどの重大事故ではなかったのか、調べてみたところ、
どこをみてもその日(7月19日)にエルトロでの事故報告はありませんでした。
見た目は特にわたしには事故の形跡は全くわかりませんが、
見る人が見たら、なにか足りない部分があったりするのかもしれません。

続く。


最後のスカイホーク製造番号2960のペイントの謎〜フライングレザーネック航空博物館

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なぜかスカイホークだけが3機もあるここフライングレザーネックですが、
前回ご紹介した練習機、TA-4Fは、この横の航空基地で
訓練飛行の際に事故を起こし、修復が不可能とわかったので
そのまま運んできて展示するという特殊な経緯だったことがわかりました。
そして3機目のスカイホークですが、これも博物館にとって好都合なことに、
前者2機とバージョンが違い、塗装もご覧の通り全く別物です。
■スカイホークA-4M II

A-4MIIは、スカイホークシリーズの最後のバージョンとして製造されました。
つまり最終形というわけです。
名機と言われたスカイホークの最終形だけあって、
A-4MスカイホークIIは、明らかに最も高性能な機体となりました。
もともとスカイホークは、あのジェット機時代には、
アメリカ海軍の輸出機として最も人気のある機種であることは証明済みでした。
サイズが小さかったので、第二次世界大戦時代に就役した
古くて小型の空母でも、取り回しが可能だったからです。


その結果、1979年までの27年間の長きにわたり、
2960機もがあらゆるバージョンで生産されることになりました。
そのミッションはこのようなものです。

「攻撃的な航空支援、武装偵察、防空を
海兵隊遠征軍のために提供する」
A-4Mは近接航空支援プラットフォームの要件を満たすため、
アメリカ海兵隊に特別に製造された最後の機体と言ってもいいでしょう。
元々近接航空支援そのものは、空軍力の任務としては古典的であるがゆえに
航空優勢の獲得が航空戦の第一議となってくると重要性は低下していました。

しかし、アメリカ海兵隊の海兵隊航空団は、伝統的に
近接航空支援任務を重視しており、研究を重ねていたのです。
というのも、海兵隊の主任務の一つが地上部隊の支援であったからですが、この結果として開発された攻撃法の1つが、急降下爆撃だったというくらいです。

さて、その要件を満たす機体に搭載された
推力11,200ポンドのプラット&ホイットニーJ52-P408エンジンは、
従来のものよりも20%は強力なものとなりました。

また、視認性を向上させた大型のフロントガラスとキャノピー、
視覚的な爆撃精度を上げるためのアングルレート・ボミングシステム
(ARBS、角度速度爆撃システム)を搭載しています。
このARBSは元々海兵隊の攻撃機のために特に設計されたシステムで、
無誘導武器を使用して近距離支援活動を行う際に、
昼夜を問わず爆撃の精度を向上させることが目的でした。
これは通常外部か機首に取り付けられています。

また、共通の光学システムを使用した自動レーザー追尾システムと
パイロット制御の追尾テレビも搭載されているので、パイロットはARBSを使ってテレビの画面で地上目標を確認し、追尾装置をロック。

するとトラッカーがレーザーで照射されたターゲットに自動的にロックオンします。
パイロットはその後表示される指示に従うだけ、という簡単機能。

もうここまできたら、あとはコンピュータがダイブの角度と、
トラッカーの角度の許容範囲内の組み合わせを検出し、
勝手に爆弾を発射して攻撃までしてくれるというわけです。It's so easy!

展示機のノーズチップをご覧ください。
このブルーに見えるクリアカバーの後ろにマウントされているのがARBSです。
この世界ではずいぶんと早くからAI(といっていいのかどうかわかりませんが)が
人間の代わりを務めてきたようですね。

これによって、戦闘機パイロットには昔のような「射撃の腕」というものは
全く必要なくなってしまったということになります。

もちろんそれとは別の能力が要求されるようになるので、
パイロットになるのが簡単になったというわけではないと思いますが。
また、この写真でノーズセンサーの両側に、猫のウィスカーパッド(ヒゲ袋)みたいな形のがありますが、ここには
ALR-45レーダー警告システムのアンテナが設置されています。

1969年、より強力なSAMとAAAが登場したため、
米海軍は、海軍攻撃機用の次世代警告システムAN/ALR-45を開発しました。
AN/ALR-45は、ハイブリッドマイクロサーキットを搭載した
世界初のデジタルシステムです。

1970年から1974年にかけて、AN/ALR-45は導入されました。

機首の下には、ALQ-126デセプションジャマー送受信システム
のアンテナがあります。


また、艦上での着陸距離を短縮するためにドローグパラシュートが搭載されました。
これも当時の先端技術だったようです。
Solo Turk F-16 Drogue parachute landing and he lost a part of it RIAT 2018 AirShow

着陸後に小さなパラシュートが開くのはエアショーでお馴染みですが
なかなか可愛らしい光景でなごみます。
ドラッグシュート(Dragchute)という言い方もあります。

その他改良されたものは、
無煙バーナー缶
角型の垂直尾翼の上に配置された敵味方識別(IFF)アンテナ↓


ヘッドアップディスプレイ(HUD)などが変更されました。

最初のスカイホークの項で説明しましたが、
もともとA-4は核兵器の軽量運搬プラットフォームとして設計されました。
【運用】
Mighty Mikes「マイティ・マイクス」は
Mud Marines「マッド・マリーンズ」を守るための
究極の近接航空支援兵器として改良されました。
マッド・マリーンズは先日紹介した映画「フライング・レザーネックス」で
説明した通り、海兵隊歩兵を表すのですが、マイティ・マイクスって何?
マイティ・マイクスというとこれしか考えられないんですが。
30 minutes of Mighty Mike 🐶⏲️ // Compilation #8 - Mighty Mike


海兵隊でのA-4の愛称だったんでしょうか。推測するに、マイティ・マイクスはA-4機体の愛称なんじゃないかしら。

さて、先ほど説明したARBS= Angle Rate Bombing Systemの搭載で、
A-4Mは、間違いなく世界最高の近接航空支援ジェット機となったわけですが、
皮肉なことに、A-4MはA4Aを除くスカイホークの中で
唯一、戦闘に参加していないバージョンとなってしまいました。
なぜなら、A-4Mが初めて就役したのは、ベトナム戦争が収束に向かっていた
1971年であり、湾岸戦争に先立つ1990年2月には第一線を退いていたからです。

というわけで、海兵隊のA-4Mは、その現役期間中、

日本に前方展開して、実現しなかった戦争に備えていた

のでした。(-人-)
まあ、配備されるだけで終わる戦闘機は別にこれだけというわけではないからね。
それをいうなら自衛隊になってからの日本の戦闘機はどうなる。

ちなみに、A-4を運用していた他国軍にイスラエル軍がありますが、
ここは中東のいくつかの紛争があったのでMiG-17を敵として出撃しています。

ただし、中東で実戦に投入されたA-4は、ほとんどがドッグファイトなどより
対空砲(AAA)や地対空ミサイル(SAM)に撃墜されていたようです。
数少ない例の一つとして、エズラ・ドタン大佐が、
A-4のポッド式空対地ロケット弾でMiG-17を1機、
同じくA-4の30ミリ砲で翼を落としてもう1機、計2機を撃墜しています。

しかもEzra Dotanはイスラエル空軍のエース(勝利数5)として、
乗機はミラージュとネシェルのエースにカウントされており、
たまたまA-4に乗っていた時に撃墜しただけと認識されているようです。

A-4Mは合計160機が製造されました(うち2機は改良型のA-4F)。
【A-4の終焉】
1979年2月27日、アメリカ海軍がマクドネル・ダグラス社の
A-4M Bureau Number (BuNo) 160264
を受領したことにより、25年間にわたるスカイホークの生産が終了しました。

この間、2,960機のスカイホークがラインから出荷されました。
最後の『スクーター』(A-4の愛称の一つ)を最初に飛ばした飛行隊は
VMA-331バンブルビーでした。


1990年、VMA-211が最後のA-4Mから
AVー8BハリアーIIに移行させていきました。
そして最後にサービスを終えたのは1994年のことでした。
HPによると、ここにあるのはその最後の機体160264なのだそうです。さらに、最後に生産された2960機の、さらに一番最後の機体です。
その証拠、2960の数字が書かれている
最後に受領したのはNASレムーアのVA-23ブラックナイトで、1967年でした。
パッチに書かれているATKRONは前にも説明したことがありますが、
Attack Squadronからできた造語で「攻撃飛行中隊」を表します。


メリーランド州のNAS Patuxent Riverにある海軍航空試験センター(NATC)
カリフォルニア州のNAWCチャイナレイクにある
VX-5ヴァンパイアズにも所属して、ミサイルテストに参加していましたが、
その後海兵隊に返還され、海軍と海兵隊を行き来し、
NASメンフィスにあるVMA-124ウィストリング・デス Whistling Death
での所属を最後に引退しました。

ところで、HPには、間違いなくこの機体と同じ写真と共に、

「このジェット機は現在、MCASミラマーのVMA-124の
最後のカラーを身にまとっています」

と書かれているのですが、VMA-124の塗装はこれなんです。


「ブルーエンジェルス」としっかり書いてある現地の機体を
さすがのわたしも見間違えようがないのですが、ただしこのペイント、
記憶にあるブルーエンジェルスのそれとは全く違います。
なのにどうしてこう既視感があるんだろう、と考えてみたら、
これ、ブルー・インパルスに似てませんか?

機体には国旗が。
右からトルコ、ニュージーランド、クェート、アメリカ、イスラエル、
オーストラリア、青と白のはたぶんアルゼンチン。
この国旗の配列と、「ネイビー/マリーンズ」というペイント、
ブルーエンジェルスのマークを見てわたしははたと合点がいきました。

おそらく、この塗装はアメリカ軍の「どこにもない」オリジナルで、
FLAMが考えたところのA-4の歴史をあらわしているのではと。
その結果たまたまブルーインパルス に似てしまったのではないでしょうか。
国旗はA-4を採用した国全てを表し、
使用したのは海軍と海兵隊、ブルーエンジェルスの機体にも使われたことがある。
そういうことなんじゃないかな。
みなさまどうお思いになります?

しかし、それならそうとどこかに一言説明しておいてくれないと、って気がします。

今気がついたのですが、ここの入り口の看板には
このスカイホークが同じペイントのまま描かれていました。
オリジナルの塗装を施し、実際に飛ばすこともあったようです。


スカイホークの生産が1979年に終了した当時、
27年間にわたる生産期間はアメリカの戦術機の中で最長でした。

続く。


スコシ・タイガープログラム F-5EタイガーII〜フライング・レザーネック航空博物館

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今のところ閉館していて再開の予定が立っていないらしい
フライング・レザーネック海兵隊航空博物館ですが、
かつては、来館者に海兵隊航空への理解と協力を求めるための
いろんなイベントを開催していたものです。

オープン・コクピット・デイとは、その日決められた航空機に
乗り込んで、コクピットに座ることができるという企画のことです。


2013年から2019年まで続けられてきたのは、
「パイロットとピクニック」Picnic With a Pilotという企画。

海兵隊のヴェテランパイロットを囲んで現役時代の
体験や自慢話などをうかがうチャンスです。
たとえば2019年8月24日にお話を伺ったというアコスタ中佐は、
TOPGUNを卒業し、FAー18のインストラクターパイロットで、
最終的には海軍長官事務補佐官まで行ったという人です。


同じ話をするとしても、こういうギャラリーなら
やっぱり、おじさんとしてはいつもより張り切ってしまう感じ?
「パイロットとピクニック」企画は、毎週土曜日に行われていたようですが、
今は博物館そのものが閉館しているので残念です。
さて、今日ご紹介するタイガーIIは、
オープン・コクピット・デイが最後に行われたらしく、
コクピットに上がるための台が、いまだに設置されています。

 ■ノースロップ F-5E タイガーII


Fー5EタイガーIIは、 軽量・多目的戦闘機という位置づけで、
1950年代後半にノースロップ社によって設計された
F-5超音速軽戦闘機ファミリーのひとつです。
タイガーIIと呼ばれるのはアップデート型のF-5のEとFで、
F-5のAとBは「フリーダムファイター」Freedom Fighterという、
タイガーとは何の関連性もない名前で呼ばれていました。

同時代の戦闘機にはマクドネル・ダグラス社のF-4ファントムIIがありましたが、
こちらと比べてFー5シリーズは小型でシンプルなため、
調達・運用コストが低く、輸出機として生産が行われました。

1970年、アメリカの同盟国に低コストの戦闘機を提供するための
国際戦闘機コンペティションで優勝したノースロップが、
1972年に導入したのが、第2世代のF-5EタイガーIIということになります。

もともとノースロップは、第二次世界大戦時代の護衛空母に乗せるため、
F-5を開発していたのに、海軍がそれらを引退させてしまったうえ、
アメリカ空軍は軽戦闘機というものを戦略上必要としなかったため、
製品の行き場を海外の販路に求めたという事情もありました。
その後タイガーIIを導入した国は、南ベトナム、タイ、イラン、エチオピア、
サウジアラビア、ヨルダン、大韓民国、リビア(王政時代)、モロッコで、
カナダはライセンス生産を行っていました。

冷戦中の1972年までに同盟国のために800機もの機体が生産されています。
【計画と生産】

1953年、NATO(北大西洋条約機構)は、通常兵器以外に核兵器も搭載でき、
さらに荒れた飛行場でも運用できる軽量の戦術戦闘機を必要としていました。

そこでノースロップ社のチームはヨーロッパとアジアを視察して、
各国のニーズについて調査を行ったのですが、その結果、
どこも高価なジェット機を数年ごとに買い換えることはできないと判断し、
10年以上の使用に耐える機体を目指すことにしました。
持ちがいいというよりは、長期間にわたって
アップデートできる技術が導入された機体です。

その結果、設計チームは、性能と低コストのメンテナンスを重視し、
コンパクトで高推力のゼネラル・エレクトリック社製J85エンジン2基を搭載した
小型で空力に優れた戦闘機を開発しました。



F-5Aは、主に日中の制空任務を目的として設計されていますが、
地上攻撃のプラットフォームとしても機能する機体として、
1960年代初頭に就役しました。

冷戦時代には、米国の同盟国のために1972年までに800機以上が生産されました。
アメリカ空軍は軽戦闘機を必要としていませんでしたが、
F-5AをベースにしたノースロップT-38タロン練習機を約1,200機調達しました。


このアップグレードでは、より強力なエンジン、より大きな燃料容量、
翼面積の拡大と前縁延長による旋回率の向上、オプションの空対空給油、
空対空レーダーを含むアビオニクスの改良などが行われました。
主にアメリカの同盟国で使用されていますが、
サポート任務を行うため、F-5N/F型はアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサー訓練機として運用されています。
【プロジェクト・スパローホーク】
F-5からは偵察専用のRF-5タイガーアイ🐯👁が派生しました。

また、F-5は一連の設計研究の出発点ともなっています。
YF-17コブラやF/A-18といった海軍戦闘機は、
これが元になって誕生したといっても過言ではありません。
ちなみにコブラはFー16に負けて制式採用されませんでしたが、
実用化作業を施されてF/A-18になりました。


YF-17コブラ


F/Aー18ホーネット

ノースロップF-20タイガーシャークは、F-5Eの後継機として開発された
先進的な機体でしたが、最終的には輸出先が決まらず中止されました。
1964年、アメリカ空軍はプロジェクト・スパローホークを立ち上げました。
これは、軽攻撃機であるグラマンA-6A、ダグラスA-4、ノースロップF-5Aを
戦術的な任務環境で評価するというプロジェクトです。

テストの目的は、これらの航空機の近接航空支援能力を判断することでした。

結果から言うと、このプロジェクトでF-5Aフリーダムファイターが
有能な戦闘爆撃機であることが証明されたわけですが、国防長官は南ベトナム空軍にジェット機を供給することにあまり熱心ではなく、
しかも残念なことに、このときF-5Aは1機、模擬空戦中に失われました。

翌月に行われた評価テストはスコシタイガーと呼ばれるものです。
【スコシ・タイガープログラム Sukoshi Tiger Program】
ノースロップF-5A/Bフリーダムファイターは、当初、
軍事援助プログラムを受けている国と、
外国軍売却で航空機を購入する国に納入される予定でしたが、
ベトナムでの消耗が激しく、すぐに入手可能であったため、
空軍は東南アジアで使用するために200機の取得を要請しました。

同機は1965年までにすでに十数カ国の空軍で使用されて輸出に成功していました。

しかし、国防総省が同機の海外販売に熱心に取り組んでいるにもかかわらず、
米空軍はF-5を1機も発注していないと主張する声もありました。

そこでマクナマラ国防長官は、
「スコシ・タイガー」と名付けられたプロジェクトのもと、
東南アジアでF-5の運用評価を行うことを命じたのでした。
ある英語のサイトには、
「プロジェクト名は、日本語の「小虎」に由来している」
と大嘘が書かれていましたが、これは日本人なら誰も間違いだとわかりますね。



1965年、ウィリアムズ空軍基地に12機のF-5Cを搭載した部隊が編成されました。
この機体は、F-5Aにいくつかの改良を加えたもので、
飛行中の燃料補給機能、装甲板の追加、
アビオニクスや搭載兵器の変更などが行われました。

10月22日にウィリアムズを出発した飛行隊は、4日後に
ベトナムのビエンホアに到着し、同日中に最初の戦闘ミッションを行います。
戦闘評価は4ヶ月強の予定で、その後帰国することになっていました。
Sukoshiというのはご想像の通り「少し」で、(もちろん”小さい”ではない)
littleというところをわざわざ日本語にすることで、
「アジア」を強調したものと考えられます。
ベトナムに持っていくのになんで日本語なんだ?という気がしますが、
まあ、彼らにとって日本もベトナムもアジアだし、
みたいな大雑把な認識を持っていたことの現れかもしれません。
それにアメリカ航空隊というのは、第二次世界大戦中から
「サラ-マル」(空母サラトガのあだ名)とか「チョットマッテ号」
(アメリカ陸軍航空軍第98爆撃群第344爆撃隊に所属したB-29爆撃機)
とか、露悪的に日本語を使って喜ぶ悪い癖があったので、
この「スコシ」もその名残りだったのではないかという気がします。


スコシタイガーでの給油テスト中

この評価でF-5は、1966年1月1日からダナンに派遣され、
前線基地での活動や北ベトナムでの任務を経験することになっていました。

計画はいくつかの段階に分かれており、

第1段階ではビエンホアから遠くない目標を攻撃し、
第2段階では部隊をダナン飛行場に移動させて地元の目標を攻撃し、
第3段階ではビエンホア飛行場に戻って集中的な作戦を行うこと、

となっていました。
スコシ・タイガー評価は1966年3月9日に終了しました。
その期間飛行隊はビエンホアから2,093回、ダナンから571回の出撃、
合計3,116時間の戦闘飛行を行いました。

評価期間中に失われた機体は1機のみで、技術的な問題から16機が損傷し、
42回の出撃が中止されました。
しかし、 評価は成功したとみなされています。

折しもプロジェクト終了時に米国の戦力増強が承認されたばかりであったため、
F-5部隊はそのまま南ベトナムに留まることが決定され、
そのまま共和国空軍に引き渡されて、
ベトナム人飛行士と整備士の訓練が開始されました。
戦闘評価は33名のチームで行われ、性能、武器運搬精度、
整備性、信頼性、操縦性、生存性、脆弱性などが、
現地のF-4、F-100スーパーセイバー、F-104スターファイターとの
比較データとして提出されました。

その結果、F-5はフル装備で560発の20mm砲を2門、汎用爆弾を2個、
ナパームキャニスターを2個搭載した場合の平均航続距離は120海里と
他の戦闘機に比べ、航続距離が短く耐久性に欠ける、
という欠点が明らかになりました。

この不足を解消するために、給油機による支援が行われることになりました。
写真はそれを解消するための空中給油の様子です。

その他の細かい問題点はあっても、メンテナンスが非常に簡単で、
エンジンの交換もわずかな時間で済み、小型であるために
戦闘でのダメージも小さいうえ、搭載能力に優れ、
F-5はFACの地上攻撃機として人気を博し、最終的には
VNAF(ベトナム空軍)にも大量に供給されることになったのです。

そして1967年以降、同機はVNAFの最も強力な武器となったのでした。

【運用】


タイガーIIは、空爆と地上攻撃の両方の任務をこなすことができるため、
幅広い役割を果たしており、ベトナム戦争でも多く使用されました。
1987年に生産が終了するまで、タイガーIIは1,400機が生産されています。

F-5N/Fのバリエーションは、その後もアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサーとして使用されており、
2014年時点でまだ約500機がバリバリに就役しています。
【FLAMのF-5EタイガーII】

ここに展示されているF-5EタイガーIIは、
ノースロップ社がカリフォルニア州ホーソーンで製造した輸出用戦闘機で、
当初は南ベトナムに納入される予定でしたが、
南ベトナムが崩壊したので輸出の話はなくなり、国内配備になりました。

シリアルナンバーは74-01564で、
1976年にT-38Aタロンからのアップグレードに伴い、
まず、ネリス空軍の第57戦闘機兵器航空団に送られました。

F-5Eは、ソ連のMiG-21とほぼ同じ大きさと性能を持っていたため、
アグレッサーとなって敵対的な戦術を教えたり、
米空軍飛行隊にDACT(Dissimilar Air Combat Training)として使われました。

第57飛行隊は最終的に第64アグレッサー飛行隊となり、
当機は部隊指揮官の飛行機として活躍しています。

その後、米海軍に移管され、ネバダ州ファロンにある
打撃戦闘機群127飛行隊(VFA-127)の「デザート・ボギーズ」に送られ、
海軍飛行隊にアドバーザリー訓練を提供しました。
そして1996年、VFA-127が解体されるまでそこに所属し、
その後VFC-13戦闘機隊の「セイント」に移されます。

聖人って・・。

「セイント」は、海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)がファロンに移転した際、
NASファロンでのアドバーザリー訓練の役割を担いました。

2007年、この機体はフロリダ州セントオーガスティンにある
ノースロップ社のメンテナンス施設に送られました。
海軍がスイス空軍のF-5Nを購入した際に、本機の退役が決定され、
海軍籍から外されました。
■スイスから「輸入」されるタイガーII


これはどういうことかと思って調べてみたのですが、
米海軍がスイス空軍から取得したF-5E 16機とF-5F 6機を改造し
取得して、仮想敵の高高度・高速の戦術戦闘機として運用したということです。

F-5はここでも書いたように長年その役割を担ってきましたが、
最新の安全システム、航空電子機器、共通の戦術的能力がなかったので、
最近スイス空軍から取得した16機のF-5Eと6機のF-5Fを改造し、
アップグレードをして運用しようということのようです。

2020年から、米軍はスイスから22機のF-5E/Fを取得し、
現在就航している43機を補完し、場合によっては置き換えていっています。

PMA-226のアドバーザリー部隊チームリーダーであるフォーサイス氏は、

「このパンデミック下、1970年代の機体に21世紀の技術を統合するのは
技術、スケジュール、管理にかなりの問題があったにも関わらず、
パートナー、艦隊、PMA-226チームとの建設的な協力が任務を成功に導いた」
と述べているそうです。

アップグレード改造を受けるF-5機は、
F-5N+/F+と命名される予定です。
空対地警告、悪天候対策、燃料レベル警告などの必要な計器類を追加することで、
パイロットや機体を失う潜在的なリスクを低減するのが目的で、
このアップグレードはまた、「友軍」の空対空訓練を改善するため、
戦術的な機能が追加されたものとなっています。


特筆すべきは、Tiger IIがアドバーザリーの役割に理想的で、
安価に運用でき、保守が簡単で複雑なシステムがないことです。

しかし、現在の状態では、現実的には
MiG-21「フィッシュベッド」(MiG -21のNATOコードネーム)
程度の「脅威の再現」しかできないことがわかっており、
今、信頼できる対抗手段を現実として導入するために近代化が切実に必要なのです。



続く。



2機のファントムII F-4J (S)とRF-4B〜フライングレザー航空博物館

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サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライングレザーネックには、
F-4ファントムが2機展示されています。
我が日本国航空自衛隊では、ついこの間まで
このファントムが老体に鞭打って現役で頑張っていたものです。

とはいえ、アップデートにアップデートを繰り返し、
最後の頃には外側以外最初のオリジナル部分はすでになく、
わたしなどこれを現代のテセウスの船呼ぶべきではないか、
とさえ思っていたわけですが、とはいえ、
アメリカでは博物館でしかお目にかかれないこの機体が、
日本では相変わらず元気に飛んでいて、しかも最後まで
なかなか優秀だったなどという話を耳にしてからは、
むしろその運用方法を誇りに思ったものです。
■ マクドネル・ダグラス F-4J (S)ファントムII Phantom

F-4ファントムIIは、マクドネル・エアクラフト社が
アメリカ海軍のために開発した、タンデム式二人乗り、双発の
全天候の長距離超音速ジェット迎撃/戦闘機です。

適応性が大変高く、1960年にアメリカ海軍に就役してからは、
海軍のみならずアメリカ海兵隊やアメリカ空軍にも採用されるようになり、
1960年代半ばにはそれぞれの航空隊の主力戦闘機という位置を獲得していました。

ファントムは1958年から1981年までの間に合計5,195機が製造されました。
アメリカの超音速軍用機としては史上最も多く生産された機体であり、
冷戦時代の象徴的な戦闘機としての地位を確立した名機です。
【誕生までの経緯】
1953年、マクドネル社はアメリカ海軍に「スーパーデーモン」の提案を行います。

それはたとえば任務に応じて1人用または2人用のノーズを取り付けることができる
というユニークなアイデアのものでした。
しかし海軍は超音速戦闘機はもう間に合っているという態度だったため、
マクドネルは、全天候型の戦闘爆撃機に計画を作り直しました。

ところが、1955年5月26日、マクドネル社にやってきた4人の海軍将校は、
計画書を見て1時間も経たないうちに全く新しい要求を提示してきたのでした。

海軍はすでに地上攻撃用のダグラスA-4スカイホーク、
空中戦用のF-8クルセイダーを保有しているし、ということで、同じ全天候型ならと
戦闘爆撃機でなく艦隊防衛用迎撃機を要求してきたのです。
スカンクワークスのケリー・ジョンソンが
自社のマネジメント法則の第15番目として社員に伝えていた、
"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."
「忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならない。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるだろう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」
という「文章に書かれていない対海軍の法則」について以前書きましたが、マクドネル・ダグラス社も、海軍相手の商売にはいろいろと苦労したようですね。


それはともかく、新型機は強力なレーダーを操作するために、
座席をパイロットとWTOの二人乗りとすることになりました。
設計者は、次の戦争での空戦では、パイロット一人に負わせるには
多すぎるほどの情報必要となるだろうと考えたのでした。
この決定あっての名作「ファントム無頼」の誕生だと思うと胸熱です(嘘)

デザイン面で特に際立っていたのは、特徴的なインテークです。
スプリットベーンという固定式の形状のインテークから空気を取り込みます。
ここには固定式ランプと可変式ランプがそれぞれ1つずつ装備され、
マッハ1.4〜2.2の間で最大限の圧力回復が得られるように角度が調整されています。
スプリットベーンの、各吸気口の表面から低速で移動する境界層の空気を
「排出」するために追加された12,500個の穴も特徴的な工夫でした。
穴だらけ

また、量産機には、境界層をエンジン吸気口から遠ざけるための
スプリッタープレートも装備されました。

また、主翼には特徴的な「ドッグトゥース(犬歯)」が付けられ、
高攻撃角でのコントロール性が向上しました。
これのことかしら

レーダーはAN/APQ-50を採用し、全天候型の迎撃能力を実現。
空母での運用に対応するため、着陸装置は
最大沈下速度7m/秒の着陸に耐えられるように設計されていました。


ネーミングにあたっては、「サタン」や「ミトラス」(Mitras、光明神)という案もありましたが、最終的には議論の余地のない
「ファントムII」という名称に落ち着きました。

ファントムIIは一時的にアメリカ空軍からのみ
F-110A「スペクター」と呼ばれていたこともあるそうですが、
これらは公式には使用されませんでした。


ファントムは、最高速度がマッハ2.2を超える大型戦闘機です。
空対空ミサイル、空対地ミサイル、各種爆弾など、9つの外部ハードポイントに
18,000ポンド(8,400kg)以上の武器を搭載することができます。
F-4は、当時の他の迎撃機と同様に、当初は内部に大砲を搭載しない設計でした。
後のモデルでは、M61バルカン・ロータリー・キャノンを搭載しています。


1959年以降、F-4は絶対速度記録、絶対高度記録を含む
15の飛行性能の世界記録を達成しています。
ちなみにそのファントムの記録と達成年は以下の通り。
1. Altitude - Top Flight98,557 ft  1959 2. 500 km closed course 1216.76 mph  1960 3. 100 km closed course 1,390.24 mph  1960 4. Los Angeles to New York - LANA2 hr 49 min 9.9 sec 1961 5. 3 km Sage-burner902,769 mph 1961 6. 15/25 km Sky burner1,606.324 mph 1961 7. Sustained Altitude 66,443.8 ft. 1961 8. Time-to-Climb - High Jump

3,000 m6,000 m9,000 m12,000 m15,000 m20,000 m25,000 m30,000 m 34.52 sec48.78 sec61.62 sec77.15 sec115.54 sec178.5 sec230.44 sec371.43 sec 19621962196219621962196219621962 New York to London - Royal Blue 34 hr 3 min 57 sec 1969
【運用】

F-4は、アメリカ軍ではベトナム戦争で広く使用されました。

空軍、海軍、海兵隊の主力制空戦闘機として活躍し、
戦争末期には地上攻撃や空中偵察の役割を担うようになりました。

前にも書いたことがありますが、ベトナム戦争では、
米空軍パイロット1名、兵器システム士官(WSO)2名、
米海軍パイロット1名、レーダー迎撃士官(RIO)1名が、
敵戦闘機に対して5回の空中戦勝利を達成し、エースとなっています。

もみあげのカットが時代を感じさせます
以前当ブログでご紹介したことがある、海軍エース、
デューク・カニンガムとウィリー・ドリスコール。
Randall “Duke” Cunningham (pilot) and William P. “Willy” Driscoll (WSO)

ファントムは二人乗りで、パイロットとWSOがチームとなるのですが、
操縦を行うのがパイロット、これに対し、
武器システム士官は火器管制、レーダーや武器などの操作を行う役目です。

ですから、ファントムの勝利の栄光は、共同作業の結果として
どちらにも同等に与えられることになります。



F-4は1970年〜1980年代にかけて米軍の航空戦力の主力として活躍しましたが、
時代が代わり、空軍のF-15イーグルやF-16ファイティングファルコン、
米海軍のF-14トムキャット、米海軍と米海兵隊のF/A-18ホーネットなど、
より近代的な航空機が登場すると徐々に置き代えられていきました。

ここにあるF-4Jは、F-4Bの改良型で、
空対空戦闘能力と地上攻撃能力の向上に重点が置かれていました。

その後1977年、F-4JはF-4Sに改良され、
スモークレス・エンジン、機体強化、機動性向上のため、
リーディングエッジ・スラットなどの改良が行われました。

なぜスモークレスエンジンに替えられたかというと、これはわかりやすい理由で
大量に排出される黒煙は敵に発見されやすかったからです。


展示されているF-4Jは、1969年1月10日にアメリカ海軍に納入され、
F-4Bの後継機としてNASミラマーを本拠地とする
戦闘機114飛行隊(VF-114)の「ツチノコ」に配属されました。
ツチノコってこんな生き物か?
もちろん英語では”Aadvarks"(アアドバーク)です。
そういえばこの名前、「ツチブタ」と訳したことがありますが、
確かそんな名前の航空機もありましたですね。

ツチノコ飛行隊は、USSキティホーク(CV63)に搭載されて
東南アジアに2回派遣され、ベトナムでの戦闘に参加しています。

その後同じくミラマーにあったVF-213「ブラック・ライオンズ」と
VF-121「ペースメーカー」のツアーを経て、

MCASユマの海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊101(VMFAT-101)に配属され、
その後は艦隊海兵隊の乗組員の訓練に使用されました。

1980年にはハワイのカネオヘベイ基地に移され、
海兵隊戦闘攻撃飛行隊235(VMFA-235)「デス・エンジェル」や
VMFA-212の「ランサー」と一緒に活動しました。

その後、ノースアイランド、ハワイのVMFA-232「レッド・デビル」、そして最終的にはVMFA-235に所属しました。

1986年、17年の歳月と4,680時間の飛行時間を経て退役し、
博物館ではMCAS エルトロでファントムに乗っていた予備軍、
VMFA-134「スモーク」のマーキングが復元されています。

■ マクドネル・ダグラス RF-4BファントムII

Rとついているのですぐにお分かりのように、
ここには偵察バージョンのファントムIIもあります。
マクドネル・ダグラス社のRF-4Bは、汎用性の高い
F-4ファントムIIの写真偵察バージョンです。

1965年3月12日に初飛行し、1965年5月にはMCASエルトロを拠点とする
第3海兵隊複合ユーティリティー飛行隊(VMCJ-3)に最初の納入が行われました。

RF-4Bは、海兵隊複合飛行隊VMCJ-1とVMCJ-2にも搭載され、
1966年にはベトナムのダナンでVMCJ-1に装備されて戦闘に参加しました。
マクドネル・エアクラフト社が生産した46機のRF-4Bはすべて海兵隊に提供され、
1970年12月24日には最後のRF-4Bが納入されています。
(きっと”クリスマスプレゼント!”と洒落たのではないかと思われ)

このRF-4Bの最後の12機は、RF-4Cのフレームに大きなタイヤとホイールウェル、
強化された主翼を取り付けて製造されました。
RF-4Bはより長い機首に前方および側方斜視カメラを収納し、
夜間撮影用のフォトフラッシュカートリッジを搭載していました。


画期的だったのは、飛行中にフィルムを現像したり、
低空でフィルムカセットを排出したりすることで、
地上の指揮官が空中情報をいち早く入手できるようになったことです。

また、大型のAN/APQ-72レーダーは、はるかに小型の
AN/APQ-99前向きJバンドモノパルスレーダーに置き換えられました。
地形回避や地形追従に最適化され、マッピングにも使えます。

当初、現役の海兵隊航空団(MAW)には、
写真偵察機と電子対策機を別々に供給する運用中隊がありました。
1975年、海兵隊の写真偵察任務は第3海兵航空団のVMCJ-3が担当することになり、
この飛行隊はすぐに第3海兵写真偵察飛行隊(VMFP-3)と改称されます。
この飛行隊はその後、海軍と海兵隊の両方のユーザーに分遣隊を送りました。

海兵隊で使用された最後のRF-4Bは、「砂漠の嵐」前の1990年に退役しました。


【FLAMのRF-4BファントムII】



展示されているRF-4BファントムIIは、1965年10月15日に最初に受領され、
MCAS エルトロのVMCJ-3に引き渡され、そこでその生涯を過ごしました。

1981年には、チェリーポイント基地、岩国基地、そして
空母ミッドウェイ(CV-41)にも派遣されています。
(ということはずっと横須賀にもいたということですね)

1990年4月25日に5,364時間で退役し、博物館に寄贈されたこの機体は、
MCAS エルトロを拠点とする海兵隊写真偵察部隊3Marine Photo Reconnaissance Squadron Three, (VMFP-3)
ニックネーム「Eyes of the Corps」の塗装がされています。


続く。




EYES IN THE SKY 電子戦機EA-6Aプラウラー〜フライング・レザーネック航空博物館

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わたしがフライング・レザーネック博物館に行った時、
ただでさえ暑いサンディエゴの真夏の炎天下の下、
そこで何の遮蔽物もない航空機展示場を重いカメラを構えっぱなしで
しかも色々とそれなりに考えながら写真を撮って歩くのは
正直ベリーハードな体験でした。

展示されている航空機を一つも漏らすことなく短時間で説明まで撮影。
しかもアポロ13号ではありませんが、フェイリアーイズノットアンオプション、
撮影の失敗は決して許されません。(その心はおそらく2度と来ないから)
ですからどの航空機も全体1〜2カット、
細部で気になるところがあるときだけ直感で判断してズーム、
となると、どの機体も必要最小限のカットしか残っていないのですが、
あとで写真を見て驚いたのが、今日紹介するプラウラーだけは、なぜかしつこくしつこく何カットも撮っていたことです。


うーん、わたしってそんなにプラウラー好きだったのか。
■ グラマンEA-6B プラウラー(Prowler)


EA-6Bプラウラーの主な任務は、敵の電子活動を妨害し、
戦闘エリア内で戦術的な電子情報を取得することにより、
攻撃機と機上部隊を支援する敵の防空を抑制することです。
戦いにも色々ありますが、敵の防御を崩すという
非常に巧妙な戦法を任務として負わされている、それがプラウラーです。

正確にはこのモデルノートEA-6Bは、1963年に
F3D-2Q(EF-10B)スカイナイトの代替として開発した、

EA-6A エレクトリック・イントルーダー
Electric Intruder(直訳;電気的侵入者)
の続編ともいうべき機体でした。
EA-6Aは艦上攻撃機として誕生したイントルーダーの初期の電子戦型です。

スカイナイト
【電子戦機Electronic-warfare aircraftとは】
電子戦(EW)。
近年になって登場した、従来の陸空海の領域を超える、全く新しい戦争の顔です。
電磁環境の中で行われ、電子情報に依存した現代の戦闘において、
敵の情報収集を混乱させたり、誤った情報を与えたりする能力は、勝利に不可欠。

現在は多くの戦闘機がされたアビオニクス(航空電子機器)
を装備しているため、電子戦の定義そのものが曖昧になりつつあります。

たとえば戦闘機F-22ラプターひとつとってみても、
RC-135に匹敵する電子情報(ELINT)システム、
ボーイング社の空中警戒管制システム(AWACS)、
電子攻撃能力が搭載されているといった具合です。
【ジャミングとは?】

電子戦に特化した航空機EW機の基本任務は、
敵戦闘機の電子システムを妨害することです。

例えば、空対空戦闘中に敵機の無線機を沈黙させ、
他の航空機と通信できないようにするというように。

そのためにどうするかというと、使用するのがEWシステムとなります。
具体的には電波やレーザー光などの集束&指向性エネルギー(DE)を用いて、
相手の探知電子機器(レーダー、ソナー、赤外線、レーザーなど)
の機能を低下させるのです。

そのために、EW機は、必ず航空機のポッドに取り付けられたり、
機体に組み込まれたジャミング・システムを搭載しています。

EW機は電子戦に特化し、この目的のためだけに作られているので、
他の軍用機に比べると武装は必要最小限となっています。

EW航空機は防御手段も電子を利用して行います。
具体的には、敵のシステム上に複数の「デコイターゲット」を作成したり、
敵のターゲットディスプレイを不規則に動かすなどの戦法で自らを守るのです。

それでは攻撃はどうするかというと、
アジャイル・レーダーや周波数ホッピング・ラジオで、
相手のシステムの情報伝達を妨害するという方法で行います。


「ジャミング」ですが、無線とレーダー、両方の周波数で行います。
送信機を使って敵の受信機の信号を上書きし、代わりにノイズを発生させるのです。

音楽(!)ランダムノイズ、パルスなどで、敵のシステムに可聴ノイズをかけたり
「微妙な」妨害で、相手が全く音を受信できなくさせます。

レーダー周波数による妨害の方法は大きく分けて二種類。
機械的な妨害と電子的な妨害があります。
前者は反射技術を使って敵のレーダー信号を跳ね返し、偽の目標を作り出すもの。
この装置には、チャフ(異なる周波数を反射する金属片)、
コーナーリフレクター(立体的な反射物体)、
デコイ(航空機から独立した操縦可能な物体で、相手のレーダーに目標を示すもの)
などがあり、もう一つの電子妨害は、高濃度のエネルギーを送信して、
過負荷によるノイズ妨害、偽信号によるリピーター妨害を発生させます。
【プラウラーの電子戦】

現在、グロウラーに移行しているプラウラーは、
レーダー妨害などの通信障害を利用して地上部隊や攻撃部隊を支援する
SEAD(Suppression of Enemy Air Defenses)オペレーターでした。

ICAP(Improved Capability)IIIプログラムで
電子機器をアップグレードしたプラウラーは、
連続波(CW)送信機を搭載したALQ-99ジャミングポッド5基、
AN/ALQ-218 EW受信機、LR700リアクティブジャマー、
HARM(高速対放射線ミサイル)、Link16データリンク、
その他の非運動性の無力化機能を備えていました。
1994年、プラウラーは米軍の主要な戦術的EW機に指定されています。


【日本の電子戦機〜SIGINT】
電子戦機というのは高度な技術の総合体なので、
開発はもちろん、運用もいわゆる先進国に限られる、とされます。
というわけで、我が日本国自衛隊も国産の電子戦機を何機か保有しています。

Kawasaki C-1
あれ?これ輸送機ですよね。


EC-1
失礼しました。こちらでした。
って外側からはほとんど見分けがつかないわけですが。EC-1は電子戦訓練機です。
ちなみにSIGINTはsignals intelligenceからきた用語で、
今や電子戦よりこちらの方が優勢であると思われます。
耳で聞いたことはありませんが、おそらく「シギント」と発音するのでしょう。
違ったらすみません。

それではそのシギントってなんですか、って話なんですが、
通信、電磁波、信号等の、主として傍受を利用した諜報・諜報活動のことです。

それって電子戦と何が違うの?という気がしますが、
電子戦は同じようなハードウェアを使用し、その運用においては
部隊指揮官の意思決定が直接反映されるという点が違います。

RC-2、電子情報収集機

海自はP−3C型で データ収集機EP-3、
画像データ収集機(電子情報集偵察機)OP-3C、
電子戦訓練支援機UP-3D(標的の曳航やチャフ散布を行う)
試験評価機UP−3Cを運用しています。

EP-3C胴体上面のレドームが増設された(おそらく岩国)
【プラウラー(うろうろする人)】
何度か書いていますが、Plowrerとは「うろつく人」の意味があります。
情報収集が任務の航空機にはいいかもしれませんが、
日本語で「うろうろする人」と訳してしまうと、
とたんに単なるヒマな人か動揺している人みたいなニュアンスになってしまいます。
プラウラーの後継機であるグラウラー(Glowrer)は、
「唸るもの」という意味ですが、これはあきらかにプラウラーと
韻を踏んだ言葉を探してきた感じがあります。
プラウラーと名付けられた経緯はどのようなものだったのか、
そのエピソードなどがいつかわかるといいなと思っています。
EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」は、
1960年代に海兵隊のEF-10Bスカイナイトの後継機として開発されました。

EA-6Aは、標準的なA-6イントルーダーの機体をそのまま転用したもので、
2つの座席を持ち、電子戦(EW)装置を装備しています。

ベトナム戦争中、海兵隊の3つの飛行隊で使用されました。
27機生産され、そのうち15機は新規に製造されたものです。

ほとんどは1970年代に、そして最後の数機は1980年代に退役しました。
いわばより高性能なEA-6Bができるまでの暫定的な戦闘機だったのです。

ここに展示されているのは海軍のEA-6Bです。
スカイウォリアーズ(AKA-3B)の後継機として開発されたもので
大幅に設計変更され、より進化していました。
1971年からは空母で運用されるようになります。

【仕様】

2基のターボジェットエンジンを搭載しており、高い亜音速を実現しています。
長い間(1991年まで)生産されていたため、メンテナンス性が高く、
海軍や海兵隊の他の航空機よりも頻繁にアップグレードが行われています。


空爆任務のための電子戦および指揮統制機として設計されており、
単独で地上目標、特に敵のレーダーサイトなどを攻撃することも可能で、
もちろん電子信号の情報収集も可能です。


最終的なアップグレードでは、EA-6Bはシュライクミサイル(AGM-45)
AGM-88 HARMミサイルを発射できるようになりました。

【デザイン】

EA-6Bは、空母基地および先進基地での運用を想定して設計されています。
長距離・全天候型の能力、そしてと高度な電子対策。
どちらも兼ね備えた完全統合型の電子戦機です。

垂直尾翼の上に乗っかっているように見えるのはポッド型フェアリングで、
ここには追加のアビオニクス機器が搭載されています。


これですわ

プラウラーの乗員は4名。
構成はパイロットと3名のElectronic Countermeasures Officer(ECMO)。
「エクモ」というと最近は医療機器としか受け取られませんが。


前にも散々話題にしたツノのような給油プローブですが、
もしかしたらわたしの当機に対する「萌えポイント」はこれかもしれません。

この給油プローブ、右に曲がっているように見えますが、
実は本当に左右非対称の作りになっているのだとか。
プロープの根元にはアンテナが付いています。



キャノピーは、電子戦機器が発する電波から乗員を守るため、
金色の陰影がつけられています。
電磁干渉からの保護と一部の電磁放射の防止の役割を果たしているのです。

【運用の歴史】

EA-6Bは1970年艦隊補充飛行隊VAQ-129に就役し、
1971年には戦術電子戦飛行隊132(VAQ-132)が最初の運用飛行隊となりました。USS「アメリカ」(CVA-66)でベトナムへの初の戦闘配備を開始し、
USS「エンタープライズ」(CVAN-65)、
USS「コンステレーション」(CVA-64)に電子戦部隊が配備されました。

1995年、EF-111 「レイブン」Ravenが退役して以来、
EA-6Bは米軍唯一の空中レーダージャマー専用機として125機が活躍しています。
レイブンって感じのスタイル

【アフガニスタン・イラクでの活動】

報道によると、プラウラーは数年前からアフガニスタンでの
対爆発物作戦に使用されており、実際にガレージ・ドア・オープナー
(ガレージを自動で開ける時のスイッチ)や携帯電話などを使った遠隔起爆装置を
妨害して未然に防いでいるということです。

イラクにも2つのプラウラー飛行隊が配備されていました。

【FLAMのプラウラー】
機体番号161882のEA-6Bは、製造された170機の機体の105番目です。

ノースカロライナ州のMCASチェリーポイントで、VMAQ-1,2,3,4、
全ての海兵隊飛行隊に所属していました。

2011年、ワシントン州NASウィッピーアイランドの海軍に移動、
続いてVAQ-131ランサーズから海軍の乗員を乗せて飛行しました。
ランサーズの徽章。電子戦部隊らしさ満点
彼女をこの航空博物館に届けたのは、4名の乗員で、
パイロットは、

フランク「ウタWuta」ウィリス中尉、


マーク「ハイクHaiku」ハーン中尉、以下2名でした。
(以下2名のうち1名女性)

「詩(うた)と俳句」

何と風雅なタックネームでしょうか。
きっとこの人たち、日本勤務が長かったか、日本勤務中に付けたんだろうな。


プレイン・キャプテンの女性の名前がペイントされています。
プレイン・キャプテンの仕事については、
海軍のフィルムがあるのでこちらをどうぞ。
U.S. NAVY TRAINING FILM THE AIRCRAFT CARRIER PLANE CAPTAIN 81144

続く。

ドローン・ランチャーと無人航空機〜フライング・レザーネック航空博物館

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前回のプラウラーを持ちまして、フライング・レザーネック航空博物館の
展示航空機の紹介を終わったわけですが、ここには
どういう経緯かわかりませんが、航空機以外のものもあります。

まずワイルドキャットの横にあったこれですが、
おそらくこれは何のことはない牽引式のトレーラーです。
向こうには給油用のタンカー車が見えます。

問題はこれ。機銃があったのでそのご紹介をしましたが、
ここには戦車もあったのです。わたしにとって大変難儀なことに、戦車の類に説明がいっさいありません。

タンクの種類には違いないのですが、いかんせん砲が短いので
自走榴弾砲というようなものではないと思われます。
英語でいうところのarmoured personnel carrier、装甲人員輸送車的なものではないかと。
陸自の装備でいうと73式装甲車が一番近い気がします。




これはハウザー(榴弾)的な?

M60パットン戦車
これがパットン戦車であることくらいはわたしにもわかりました。
「パットン」は愛称であり、制式名称ではありません。

M60は46、47、48ときていきなり第二次世代バージョンで、
アメリカ軍では1991年の湾岸戦争まで使われていたそうです。
イランに供与された車両は異端イラク戦争でソ連製戦車と戦闘していますし、
トルコ軍のパットンはなんなら2014年でもISILと戦っていたそうです。

ところで超余談ですが、今回戦車画像を検索していて、
エジプトの自国製戦車の名前が「ラムセス二世」であることを知りました。
あと、カナダ軍は巡航戦車に「ラム」「グリズリー」という名前をつけています。
牡羊に灰色熊。
どちらも強いっちゃ強いですが、野生動物というのがカナダらしいですね。
■ ハンヴィーHMMWVとは

説明なしといえばこんなものもぞんざいに展示されていました。
陸自のLAVと言われる軽装甲機動車に似ています。
アメリカ軍の汎用軍用車のことを
「ハンヴィー」
(HMMWV, High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle,
高機動多用途装輪車両)といいますが、そのどれかといった面持ちです。

ちなみにわたしはつい最近までハンヴィーを車の名前だと思っていました。
現在アメリカ軍は、陸軍、海兵隊、特殊作戦軍統合によるハンヴィーの後の
JLTV(Joint Light Tactical Vehicle, 統合軽戦術車両)
を制定したばかりで、(といってももう6年前ですが)
オシュコシュのL-ATVが2018年以降調達されているはずです。



これはハンヴィーの一部を、より大きな積載量を持つ、
より生存性の高い車両ファミリーに置き換えるという計画です。
■ ドローン・ランチャーRQ-2パイオニア

まず、航空博物館のヤードに、突如レールを乗っけた
迷彩のトラックが現れました。
これは
M939 5tトラック M939 Series 5t Truck


言うて全く普通のカーゴトラックなのですが、問題は
これが乗っけているレールです。
このトラックは実はドローンのランチャー装置を載せているのです。打ち上げるドローンというのがこれ。

AA1 RQー2B パイオニア Pioneer

RQ-2パイオニアは、1986年から2007年まで
アメリカ海軍、海兵隊、陸軍で使用された無人航空機です。
当初は「アイオワ」級戦艦に搭載され、
砲撃スポットを提供するための偵察機としての能力がテストされましたが、
のちにその任務は主に水陸両用部隊のための偵察・監視に発展しました。

開発はアメリカの航空機関連企業であるAAIコーポレーションと
イスラエル航空機産業会社の共同によるもので、
なぜここにイスラエルの企業が出てくるかと言うと、このプログラムが
もともとイスラエル発のドローン機、
 タディラン・マスティーフTadiran Mastiff UAV
の実戦運用をきっかけに生まれたことに由来します。

タディラン・マスティフIII
マスティフはイスラエルで製造・運用された無人航空機(UAV)ですが、
アメリカ軍がレバノンに駐留するようになってからは、
何でも欲しがる米海軍が(個人の感想です)興味を示し、
無人偵察機開発の要求を行った結果、イスラエルの製造会社はこれを引き受け、
アメリカ企業がこれに乗っかる形で共同開発という形をとったのでした。

これはアメリカ軍そのものが、外国製品の輸入をよしとしなかったからです。

パイオニアは、海軍の要請により、より大量のペイロードを搭載するため、
このタディラン・マスティフをベースに、
それまでのリンバッハ社製の2気筒2ストロークエンジンから、
フィヒテル&ザックス社製の2気筒2ストロークエンジンに変更しました。
リンバッハ・モーターには、カリフォルニア州サンクレメンテにある
プロペラ・エンジニアリング・アンド・デュプリケーション社の
28インチ・プロペラが使われていましたが、
よりパワフルなフィヒテル&ザックス社製モーターには、
ペンシルバニア州ランカスターにある
センセニヒ・プロペラ・マニュファクチャリング・カンパニー社製の
29インチプロペラ(回転方向が逆)が搭載されました。


USS 「アイオワ」(BB-61)の乗組員がRQ-2 Pioneerを回収している

パイオニアは、ロケットアシスト装置(艦上)、カタパルト、滑走路から発射され、
34kgのペイロードを搭載して最長5時間飛行した後、
ネット(船上)またはアレスティングギアで回収します。

ビデオはジンバル式のEO/IRセンサー、CバンドのLOSデータリンクを介して
アナログ映像をリアルタイムで中継します。
1991年以来、パイオニアはペルシャ湾、ソマリア(UNOSOM II)、
ボスニア、コソボ、イラクの各紛争で偵察任務に従事してきました。

2005年には、海軍がパイオニアを2機(1機は訓練用)、
海兵隊が2機を追加し、それぞれが5機以上を運用している状態です。

外国軍で運用しているのは「発祥」となったイスラエル軍以外は
シンガポール共和国空軍です。

2007年、パイオニアはアメリカ海軍での任務を退役しました。
後継機となったのはRQ-7シャドーShadowUAVです。

イラクで運用中のRQ-7
こちらはアメリカ軍以外ではオーストラリア、イタリア、パキスタン、
ルーマニア、スウェーデン、韓国軍が運用しています。
【日本の無人機】
こういうのがいかにも得意そうなのが日本人じゃないかという予想通り、
日本では無人機の軍運用は大日本帝国軍時代から始まっていました。
完全自動操縦装置(帝国海軍)

海軍航空技術廠(空技廠)兵器部が進めていた完全自動操縦技術の実験で、
1937年(昭和12年)頃には研究が始まっています。

敵機編隊内での自爆攻撃、無人雷撃、新型機の無人試験飛行、
標的機や囮機としての運用などを目的に開発されたもので、中二的命名が好きな軍がなぜかこれには全く名前らしい名前をつけず、「完全自動操縦装置」
というのがこの無人機の名称だったようです。
まあ無人機なんで、かっこいい名前をつけたところで
それを誰が操縦するわけでなし、士気高揚の必要性もなかったってことでしょう。


無線操縦は油圧を介して他の誘導機から行われるという仕組みで、カタパルトで射出するとその衝撃によって時限装置が起動、
補助翼、方向舵、昇降舵の順で離陸前に所定位置に
セットされたクランプが外れていき、羅針儀と速度計の計測を元に、
一定高度まで自動上昇した後に無線操縦に切り替わり、着水も誘導機からの信号を受けてエンジン出力が絞られ、
水面に接触するとスイッチが作動してエンジンが自動停止する仕組みでした。
という感じで大変有用な機体となるはずでしたが、
いかんせん製作費が高すぎて運用できなかったということです。
そのほか、1930年代には個人が発明した
低翼単葉ロボツト機海軍が試作した軍用グライダー
無人標的機MXY3、
一式標的機MXY4などがありました。
日本の無人航空機のリストを挙げておきます。無人標的機 UF-104J/JA(F-104型無人機1997年退役)無人標的機 J/AQM-1空対空用小型標的 J/AQM-2(2012〜)無人標的機 KAQ-1(1950〜生産終了)空対空用無人標的機 KMQ-5遠隔操縦観測システム (FFOS)(陸自・遠隔操縦観測システム)新無人偵察機システム (FFRS)(無人偵察機システム)無人機研究システム(元・多用途小型無人機TACOM 防衛装備庁・富士重工)携帯型飛行体GPSカメラ搭載自律飛行機無人航空機用制御装置球形飛行体JUXS-S1IR-OPVフジ・インバックB2HYFLEX(NASDAによる極超音速実験機)ALFLEX(NASDAの自動飛行実験機)RTV(JAXAの完全再使用ロケット開発実験機)HSFD(JAXA)NEXST-1(NAL/JAXA小型超音速実験機)LIFLEX(JAXA)URAMS(放射線モニタリング無人機システム)S3CM(低ソニックブーム設計概念実証プロジェクトの静粛超音速研究機)McART3RCASS(ヤマハ発動機・農業量無線操縦ヘリコプター)R-50(ヤマハ発動機・無線操縦ヘリコプター)RMAX(ヤマハ発動機・ドローンヘリコプター)RMAX Type IIRMAX Type II GFAZER(ヤマハ発動機・多目的無線操縦ヘリ)戦後ドローン関係だけで日本はこれだけ運用した実績があります。
これはアメリカに次ぎ、ドローンの本場イスラエルより数は多くなります。
JAXAとNASDAがドローンを使った実験を行なっているためです。


【パイオニアの運用】

1991年の湾岸戦争で、アイオワ級戦艦USS「ウィスコンシン」(BB-64)が
発進させたパイオニアは、USS「ミズーリ」が塹壕を攻撃した直後、
イラク軍が降伏したのを確認し、国際的に有名になりました。

戦後、海軍がパイオニアをスミソニアン博物館に譲渡することを申し出たところ、
国立航空宇宙博物館の学芸員は、
「湾岸戦争でイラク軍が投降した瞬間を確認したUAV」
の寄贈をリクエストしたといわれています。
1991年の湾岸戦争では、アメリカ陸軍はアリゾナ州の駐屯地にあったUAV小隊を
三度ホーク作戦に飛行監視と目標捕捉の任務に投入しました。

ちなみに、パイオニアの名称の「RQー2B」の意味ですが、
「R」は国防総省の呼称で、偵察を意味し、
「Q」は無人航空機システムを意味します。
「2」は、目的を持って作られた無人偵察機システムの
これが第2弾であることを意味しています。



主な機能 
砲兵の照準・捕捉、近接航空支援の制御、偵察・監視、
戦闘被害評価、捜索・救助、心理作戦
コントラクター パイオニアUAVs, Incorporated、イスラエル航空機産業仕様

全長:4メートル
全高:1.0メートル
重量:205キログラム
翼幅:5.2メートル
速度:110ノット(200km/h)
航続距離:185kmで5時間(100海里)
高度:4600メートル
燃料容量:44〜47リットル
ペイロード デュアルセンサー(12DS/POP-200/POP-300)

在庫数 175台納入/35台就航


オペレーター
アメリカ海軍
VC-6「ファイアービーズ」ノーフォーク海軍基地(退役)
訓練航空団第6UAV分遣隊。海軍航空基地ホワイティングフィールド(退役)
アメリカ海兵隊
VMU-1「ウォッチドッグス」海兵隊航空地上戦闘センター
VMU-2「ナイトオウルズ 」
スリランカ空軍・海軍
続く。



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