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MATCALS(海兵隊航空管制&着陸システム)〜フライングレザーネック航空博物館

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フライング・レザーネック航空博物館の展示紹介、いよいよ最終日になります。
最後に残ったのは航空博物館には非常に珍しいものなのですが、
その紹介の前に、この時滞在していたホテルからの
サンディエゴ軍港の眺めを貼っておきます。

ホテルはミッドウェイ博物艦から歩いて5分の距離でした。



このときはまだコロナ前で、普通にミッドウェイは観光客で賑わっています。

甲板の上に展示されている航空機も、名前がわかるくらいの近さです。


ミッドウェイの甲板の向こうには「カール・ヴィンソン」が。
この頃にはサンディエゴを母港として海自との合同訓練をしていました。
今年の夏から横須賀に来ており、10月には
日米英蘭加新共同訓練に空母「ロナルド・レーガン」などとともに参加し、
英海軍空母「クイーン・エリザベス」を中心とする空母打撃群CSG21、
海上自衛隊護衛艦「いせ」などと訓練を行っています。


手前から「ロナルド・レーガン」「クィーン・エリザベス」
「いせ」「カール・ヴィンソン」。
米英の巨大空母と比べるとなんて可愛らしいの、「いせ」。


隣で修復中?
「セオドア・ルーズヴェルト」。
やはりこのころ、日本海で日米共同訓練を終わって帰ってきたところです。

パンデミックでは結構えらい目にあったようです。

2020年3月24日、3人の水兵がCOVID-19に陽性反応を示し
その後数十人にまで感染は蔓延。
なんと「セオドア・ルーズベルト」は、洋上でCOVID-19が発生した
米海軍初の艦船に認定されてしまいました。

感染者が100人を超えたため、艦長のブレット・クロージャーは海軍に助けを求め、
上司である太平洋艦隊の提督・艦長10人にメールを送り、自艦の退避を要請。

それに対し、トーマス・モドリー海軍長官代理が、
「電子メールで支援要請を、しかも指揮系統上ではなく『幅広く』送った」
としてクロージャーの指揮権を剥奪し、さらに
その対応がプロらしくないと非難しました。
このあと乗員を前にした演説で前艦長のことを
「あまりにも愚か」と発言し、一部の乗員が罵声を浴びせた音声が流出し、
これが原因でモドリーは辞任しています。

その後乗員の陽性反応は585人に表れ、ついに一人が死亡。

隔離と検査を繰り返し、一旦は1000人近くが陽性反応だったのですが、
発生から1ヶ月半の5月21日に「セオドア」は海に戻りました。

クロージャー艦長は復職が期待されていましたが、
結局措置はそのままになりました。


ドーム状の建物の向こうには航空機が見えることから、
これは格納庫ではないかと思われます。


さて、余談はさておき、最後のFLAM展示はこれです。
迷彩柄にペイントされた巨大アンテナ付きのコンテナ。

これ関連の設備の配置図はご覧の通り。
レーダー付きのコンテナ、なしのコンテナ、
そして何かわからないもの。


この何かわからないものを横から眺めてみました。



プレートを読めば何か手掛かりが見つかるかな?


AN/TPS-73
AIR TRAFFIC CONTROL SUBSYSTEM
なるほど、こいつは海軍の宇宙海洋戦システム部門が開発したもので、
航空管制のサブシステムであるらしいことがわかりました。
AN/TPS-73は、完全なソリッドステート(SSD)の
一次監視用S-Band多機能レーダーの機種で、
長距離戦術航空管制レーダーとして、ギャップフィリング(間隙埋めって何)
や監視任務に使用することができます。

このシステムは、不明瞭なレーダースクリーンや電子対策が施された環境での監視、
検出、追跡、識別という航空管制上の要求を満たすように設計されています。

サバイバビリティ、軍事的優位性に必要な静音性に優れたレーダー特性を実現し、
監視領域全体で高い目標視認性が確保されるという優れものです。



アレーニア社製のオープンメッシュで先端を切り取ったパラボロイド・アンテナは、
クラッター性能を高めるためにデュアルビームで照射されます。

「AN/TPS-73は約3mのISOシェルターに格納されており、
アンテナ関係の部品を輸送中に保管することもでき、
陸、海、空(C-130、CH-53)で輸送が可能です」

とありますから、つまりこれそのものがシェルターで、
同時にアンテナ機器のコンテナであろうと思われます。

AN/TPS-73は、1990年に海兵隊が購入し、イラク戦争でも使用されました。

そして、TPS-73レーダーは、USMCの
Marine ATC And Landing System(MATCALS)
の一部ということになります。
ここにある三つの構造物がそのMATCALSで、
バリバリイラク帰りの退役装備なのです。


MATCALS(マトカルズ)の正式名称は、
Marine Air Traffic Control & Landing System
(海兵隊航空管制&着陸システム)

となります。


装備のセッティング例。



イラクでの使用例。

左にさきほどのTPNー22レーダーがあります。
このレーダー、つまりPrecision Approach Radar(PAR)ですね。

航空機のパイロットが着陸する際に、着陸しきい値に達するまで、
横方向と縦方向の誘導を行うためのレーダー誘導システムの一種です。

PARのディスプレイを監視しているコントローラは、
各航空機の位置を確認し、最終接近時に航空機が
コースとグライドパスを維持するようパイロットに指示を出します。


これにより、このパラボラアンテナが付いた装備を

TPS-73
AIRPORT SURVELLANCE RADAR(ASR)
(エアポート・サーヴェイランス・レーダー)
と呼ぶことがわかりました。


空港監視レーダー(ASR)は、空港で使用されるレーダーシステムで、
空港周辺空域の航空機の存在と位置を検出して表示する機能を持ちます。

一般の空港においても主要な航空管制システムで、大規模空港だと
安全性のため、一次監視レーダーと二次監視レーダーで二重に構成されています。


アンテナのついていないコンテナもあります。


土方セットは砂漠では必需品なのかも。
どういう場合に使うのかはっきりわかりませんでしたが、
もしかしたら砂でドアが開かなくなったりするのでしょうか。入り口にあるからには、しょっちゅう使う事情があったものと思われます。


ドアには内部の見取り図が貼ってあります。
この猫の額のようなコンテナに入っていて非常口がわからなくなる事態とは一体。

右下は室内の脱出口が記されています。
ファーストエイドキットにカンテラランプ。
もしかしたらこれ、外側からの救出なんて事態もあるかもってことかしら。



任務中ずっとここに立って戸を締め切って機械に囲まれる生活。
一歩外に出ればそこは灼熱の砂漠。
これはなかなか辛いものがあるかもしれません。
何人でオペレートするのか知りませんが、一人だったら寂しいだろうし、
気の合わない人や嫌な上司と一緒だったらもはやそこは地獄。

そしてこのモニターをずっと監視しているわけですねわかります。



レーダー、アンテナなどの操作パネルですが、
さりげなくもう昔の機器という感じの佇まいです。

赤いパネルには、

危険!
フレームや露出した金属部分がすべて接地されていない状態で、
この機器を使用しないでください

とかかれています。
金属部分が全て設置されていない=アースがされてない
ってことかな。

展示のために、表面はすべてアクリルガラスで覆われていました。


これは発電のための電池群だと思われ。
一つの大きな電源でなく小さいのがたくさん、というのは
リスク回避のためでしょうか。


ん?こんなところに落書き?と思ったら・・・、



なんか重要なことなのでマジックで直接書いたようです。
アメリカ人、こういう数字の書き方する人多いですよね。
4だか9だかわからないこともあるんだこれが。



機器のステータスボードですね。
ラジオ、電話、インターコムと全てボタン式なのが時代を感じさせます。


ボードのラック



建物上部には空調のファンが見えます。
「一般目的コンピュータ」「特別目的コンピュータ」と分かれており、
これ全体がモニタとなっているようです。


これらのシステムは全部で18台が米軍に納入されたといいますから、
その数少ないうちの一台がここにあるというわけです。

製造はパラマックス社(ユニシス)、その後、ニューヨークの
ロッキード・マーチン・タクティカル・ディフェンス・システムズ社と
イタリア・ローマのアレニア・SpA社が製造を手掛けました。

現在は、多機能レーダーAN/TPS-80「G/ATOR」に置き換えられています。

レーダー単体はアレニア社(現レオナルド社)がライセンス生産し、
「Argos(アルゴス) 73」の名称で販売されていました。



イラクに展開していたMATCALSサイトの様子です。

どういう勤務体系で、つまりコンテナには何人が入り、
何時間交代で、その間彼らはどういう風に任務をおこなっていたのか、
そういったことについての情報は、残念ながら見つかりませんでした。
決して楽な任務ではなかったという気はします。


ただ、狭いながらにカウンターらしきものが辛うじてあったので、
ここにきっとコーヒーメーカーくらいはあったと思うのです。

アメリカ人の職場にコーヒーがないなんてとても考えられませんから。
それがたとえアラスカでも、イラクの砂漠でも。

というわけで、フライングレアーネック航空博物館の紹介を終わります。この「海軍の街」サンディエゴにいつかまた行ける日が来るのを願いつつ。


フライング・レザーネック航空博物館シリーズ終わり



映画「水兵さん」〜入団

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松竹映画が海軍省の後援で昭和19年に製作した国策映画、
「水兵さん」をご紹介します。


横須賀鎮守府の検閲も行われていますが、これは、
物語の舞台が横須賀海兵団であるからです。


昭和19年5月5日完成、とありますが、この頃、米軍は飛び石作戦で
アドミラルッティ諸島を占領しており、海軍乙事件で古賀峯一大将が殉職、
民間では疎開が始まるなど、戦況の不利が目に見えてきた頃です。
この時世に戦地に送り込む対象をより引き下げたい海軍としては、
海兵団への志願を募るために絵に描いたような宣伝映画を製作しました。

それが本作「水兵さん」です。
軍艦行進曲に乗って連合艦隊の勇姿が現れたかと思うと、
それに万葉集の和歌が字幕で重ねられます。

於保吉美能 美許等可之古美 伊蘇尓布理 宇乃波良和多流 知々波々乎於伎弖

万葉集の原文が振り仮名つきで最初の画面に現れます。
防人であった丈部造人麻呂の歌で、

「大君(おほきみ)の、命(みこと)畏(かしこ)み、磯に触(ふ)り、
海原(うのはら)渡る、父母(ちちはは)を置きて」
意味は、
天皇陛下の命令に従い、磯づたいに海原を渡ります。父母を故郷に残したまま
となり、それはそのまま国のために軍隊に身を投じ、
海軍軍人となって海に出ていく防人のことばとなっています。

つまり、主人公である海兵団の少年たちの未来ということになります。
横須賀海兵団といえば、昨年当ブログでご紹介した
映画「海軍特別年少兵」は、まさにこの横須賀海兵団が舞台でした。
戦後に反戦をテーマに作られたこの映画は、言うならば
「水兵さん」の「その後」ということになります。

両作品を見比べてみると、後者には前者の表現や設定流用したものが多く、
明らかにいくつかのシーンは前者を参考にしていることがわかります。

「特別年少兵」は、つまり戦後の「反省の立場」に立って、
「水兵さん」に釣られて海軍に志願した純粋な少年たちが、
その後どうなったかを糾弾した映画、とでも言ったらいいでしょうか。

あからさまな宣伝を目的にされた本作は、それゆえ綺麗事すぎて
そこに描かれる世界はいかにも作り物めいており、喩えは変ですが、
アメリカの原爆実験でネバダの実験地に作られた家の中に配された
マネキンの家族のように、不気味ですらあります。

■ 志願

さて、それでは始めましょう。
軍艦が描かれた少年誌を熱心に眺めている少年森村新八、それが本作主人公です。


実に素朴で当時としては普通の、その辺にいくらでもいそうな少年ですが、
演じているのは子役出身の星野和正という俳優です。

ちなみに星野は1930年生まれですから、この頃14歳と
ちょうど海兵団の入団資格年齢であったことから抜擢されたようです。
子役として騒がれ、この頃が俳優としての全盛期で、
同じ年に「君こそ次の荒鷲だ」という航空兵徴募宣伝映画、
「陸軍」という陸軍省後援映画に立て続けに出演しましたが、
戦後は数えるほどの作品のチョイ役のみで、いつの間にか映画界から消えました。
演技も上手いとはお世辞にも言えず、この容姿では
失礼ながら当時でも宣伝映画の少年兵以外役はなかったでしょう。


少年は悩んでいました。
海兵団の願書の締め切りが迫っているのに、父親の許可が得られないのです。

彼は母親に父の説得を頼み、母ははいはい、とまるで
ボタンつけを頼まれたように軽く請け負っております。

普通母親ってもう少しこういうことに慎重じゃないのかな。

父親は表具師で、自分の後を継いでほしい一方、息子がとにかく弱虫なので
海軍なんぞでやっていけないだろうと決めてかかっています。


やはり海兵団を受験する友達は、
「君のお父さん、笑ったことある?いつも怖い顔してるね」

この手の映画で興味深いのは、合間に映る当時の街並みです。
ほとんどの地面が当たり前ですが舗装されていない地道です。


その夜、母親が「石頭」の父を説得している間、彼は
なぜか瓢箪に紐を巻きつけています。
この瓢箪が何のためにあるのかも謎ですが、これも表具師の仕事とは・・。


そしてこの母親。
当人が23で嫁いできたと言っているので、すぐに子供ができたとして
せいぜい38歳〜40歳のはずですが、ものすごく老けて見えます。



ここで突如登場した眼鏡っ娘、近所に住む新八くんの従姉妹ですが、
戦時中のこととて、セーラー服にモンペという当時のスタンダードスタイルです。

彼女は新八が友達と海軍に入る約束までしたのに、
いまさら志願を辞めるなんて卑怯者だといきなり責め立てます。

「だって親の承諾がないと応募できないんだよ・・・」(´・ω・`)


眼鏡っ娘としちゃんの母である新八の叔母は、父親の妹。
近所で床屋さんをやっています。
あの父親の妹がこれ?というくらいの美人です。

夫婦は息子の受験について、「近所の御隠居」とやらに相談に行きました。

「近所の御隠居」というワードが普通に存在していた時代。
夫婦はお互いが「内内」のつもりで息子の海兵団受験について
相談に来たのですが、御隠居宅でバッティングしてびっくり。


二人にお茶を運んできたのは、御隠居の家の嫁で、
彼女は海軍軍人である御隠居の息子と結婚したばかり。
夫婦が御隠居に相談に行ったのは、息子が海軍士官だからでした。
「(夫が)家に帰ってくるのは月に一度か二度でございますの」

海軍士官が見染めた美人妻という設定ですが、どうにもこの女優さん。
何やら見ていて不安になる微妙な容姿をしています。
失礼ですが、おそらく歯並びのせいではないかと思われます。



その夫である海軍軍人というのが、本作出演中当時最も有名だった俳優、原保美。

当ブログで紹介した映画でも「海軍」「乙女のゐる基地」
「日本戦没学生の手記 きけ、わだつみの声」「ひめゆりの塔」
「激動の昭和史 軍閥」などに出演しています。
当時はいわゆるイケメン俳優枠で各映画に出演していました。



今回、この原保美が原阿佐緒の息子だと知ってカナーリ驚きました。
阿佐緒は当時一世を風靡した「美人すぎる歌人」です。



この写真は昔から原阿佐緒のバイオグラフィで知っていましたが、
左端が保美だったことも今初めて知りました。
ちなみに右端の玉木宏似は阿佐緒の長男で映画監督の原千秋(つまり千秋様)です。


さて、尺の関係なのか、近所の御隠居がどう夫婦を説得したのか、
全く成り行きが描かれないまま場面は検査会場。


検査では体力試験や健康診断などが行われます。
そしてすぐにその場で合格証書が渡されるというご都合設定。


家に帰っってきた号泣寸前の息子を見て、父親は、

「だからおとっつぁんやめとけって言ったんだ!」



「合格した・・・」
「バカ!合格して泣くやつがあるかい」


これが横須賀鎮守府の海軍水兵採用証書だそうです。
鎮守府長官の名前がないようだが。


その夜、父は息子に風呂で背中を流してもらいながら、
ごくありきたりの激励を行うのでした。(いいシーンという設定)


それからが大変です。
近所の御隠居がなんかわからん近所の人たちを引き連れてやってきて、
海軍に関する本をおしつけていったり、



眼鏡っ娘、ときちゃんから宝物の東郷元帥メダル(レアもの)を押しつけられたり。

入団の朝、親子は地元の護国神社に武運長久を祈願します。

■海兵団



ここからは横須賀海兵団での様子が活写されます。(おそらく本物)



教班の分隊長が原保美演じる山口中尉が、
入隊した水兵の名簿に、森村新八の名前と写真を見つけました。
実際は知り合いが分隊長になる確率は低いだろうと思うのですが。

教班ごとに食事の卓が分かれているというこのシーン、
全く「特別年少兵」と同じアングルですね。

ただし本作における教班長は、「特別年少兵」の、
少年たちを理不尽に扱きまくる地井武男のような鬼兵曹ではありません。

「厳しいところもありますが、とても優しいいい方です」
まあ、宣伝映画で、何かあるごとに竹刀で殴られるとか、
集合が遅い班は机を抱えて立たされるとか描かんわなあ。



新八は早速海軍の大掃除が徹底的なのに驚かされます。
海軍の清潔好きは好きというより必要からで、狭い艦内で
伝染病などの病気が蔓延することを極度に警戒することからきています。


初めて水兵服を支給され、敬礼の練習。
そういえば、どこかの海自基地でこんなシールが貼られた鏡を見たことがあります。



相撲の教練には、本物の力士が部屋ごとごっそり稽古をつけにやってきます。
これは兵学校でもそうだったし、何なら水泳の教師として
オリンピックの選手レベルが来たという話もあります。


お次は伝令訓練。
報告を受けて別部署にそれを伝えるという訓練なのですが、



この山鳥という訓練生、何度やり直しても伝達が復唱できません。
「特別幼年兵」にも若き日の中村梅雀演じる落ちこぼれがいましたが、
どうやら本作におけるそういう少年がこの山鳥くんのようです。


銃を持って小走りに走る訓練生たち。
銃は本物で、本当に海兵団の訓練施設から借りているのだと思われます。


山鳥がどうしても復唱できない時には笑っていた教班長が、
色をなして激昂する出来事がありました。



訓練生の小山田が銃を収納する時安全装置をかけ忘れたのです。

「バカっ!貴様それでも軍人か!中は軍人の魂だ!
貴様来い!軍人魂を教えてやる」


二人がどこかに行ってしまったので彼の班は昼ごはんが食べられません。
山口中尉が見回りに来て脚を止めます。


「小山田の銃の取り扱いが悪かったんであります」「銃か・・」


ところが黙っていればいいものを、森村新八、わざわざ

「小山田もわざとやったんじゃないので許してやってください」
などとでしゃばり、こっぴどく中尉に叱られるのでした。

自分が山口中尉の知り合いだということで、
取りなせば多目に見てもらえるとでも思ったのかもしれません。

道場に連れて行くといったとき、流石に銃に関わる失敗とあっては
鉄拳制裁発動やむなしとわたしも思ったのですが、なんと海軍、
この後に及んで宣伝の妨げになるような実態描写を避けてきました。

教班長の下した小山田への罰直。

それは道場でただ正座して、無言の時間を過ごすことでした。
んなあほな、と戦後この映画を見た人は誰もが思うでしょう。しかも、教班長である鈴木軍曹、実に悲痛な様子で、



「お前の不注意は俺の教育が足りなかったためなんだ!俺の責任だ」

「・・・・教班長!」
うーん、これは気持ち悪い。じゃなくて、いたたまれない。
鉄拳制裁よりある意味こたえるかもしれんね。
■ 父の転職



次のシーンでいきなり造船所での作業が映し出されます。


当ブログが、プロパガンダ映画で大した筋でもないとわかっていながら
本作をあえて取り上げたのは、こういうシーンがあるからです。
海軍工廠のものか、民間の物かはわかりませんが(この写真は民間船?)。


三菱や玉野などの造船所の内部を歩いたことがありますが、
それでいうと、基本的にいまの造船所とあまり変わらないような・・。
なぜこういうシーンが現れたかというと、それは新の父が、
息子の海軍入りに触発されて、いきなり妻に内緒で
造船所で働くことを決めてきたからでした。

妻も妻で、全く驚きもとがめもせず、むしろそれを大喜びします。
たしかに戦時中は表具屋よりは軍需工場の方が身入りも良さそうですが、
問題はこの1年半後です。

こ敗戦を待たずおそらく父親は軍需工場での仕事はなくなっただろうし、
下手したら空襲に遭うことになっただろうし、無事に終戦を迎えても
戦後は表具の仕事に戻ったところでそんな仕事はなかっただろうし・・。


さてこちら新八くんには、海兵団に入って最初の試練が訪れていました。
マスト上りです。


下を見るなと言われるのについ見てしまい、怖くて体が動きません。


一方造船所に勤め始めた父ちゃんも頑張っています。
作業に入る前に研修?として、皆で槌を振るうポーズの練習。

「イチ、ニ、イチ、ニ!」

こっちも「イチ、ニ、イチ、ニ!」と平泳ぎの陸練習。
何と横須賀海兵団には室内プールが完備していた模様。


続いてはおなじみカッター漕。



ここで海に落ちる生徒が出てくるのも「特別年少兵」と同じ。
場所を交代しようとして落ちるのは、案の定要領の悪そうな山鳥です。
そして、落ちる生徒は必ず泳げないというお決まりのパターン。


「年少兵」とちょっと違うのは、この山鳥、櫂に捕まらず、
「山鳥泳げます!」
を連呼して自力で泳ごうとしてそれに成功するところです。


「嬉しかったー!」とりあえず何とか泳げたことを皆に自慢する山鳥。



教班長もまた、彼の班のカナヅチの一人が泳げるようになったので、
他の教班長に自慢したりしております。

そんなある日、新八の父が山口中尉に手紙をよこしました。
かれは、父が軍需工場に転職したことを山口中尉の口から聞かされ驚きます。


山口中尉はついでに新八の成績がいまひとつであることをやんわりと説教します。

「お父さんはいつもお前のことを自慢しているというが、
それにふさわしいと自分で言えるか?」
山口中尉は要するに、先日森村がでしゃばったことを含め、
自分たちが知り合いであることで勘違いするな、と釘を指しているのです。

それどころか、教班長にもわざわざ、
「分隊長の知り合いであるからと言って特別扱いは決してせぬように」
と言い含めるのでした。
海軍は、宣伝映画を通じて、海軍の知り合いがいたからといって、
特別扱いはしませんよ、と警告しているように見えます。

山口中尉の叱責を受けたその次の自習時間、森村は姿を消しました。


心配した教班長が探すと、苦手なことからとりあえず克服しようと
一人でマストに登って行く森村新八の姿がありました。



続く。


映画「水兵さん」〜卒団

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昭和19年5月に制作完了した海軍省後援による宣伝映画、
「水兵さん」の後半です。


山鳥はまだ寒いのに海に落ちたせいで、熱を出してしまいました。


その日、分隊長の留守により、遊興が許された分隊では、
急遽隠し芸大会が行われていました。

おっさんの浪曲など聞いて何が楽しいのかという気もしますが、
娯楽の少ない当時、少年たちは目を輝かせて聞き入っています。



そのとき、鈴木教班長に山鳥の姉が面会を求めてきました。
新兵の間は面会ができないのでかわりに教班長に会ってくれというのです。

演芸会の途中で教班長に生徒の姉が面会に・・・?

これと全く同じシーケンスが「特別年少兵」にもありましたよね。
あの時は、小川真由美演じる生徒の姉は、いわゆる「商売女」でしたが、
こちらではもちろんのこと、そうではありません。

浅田真央ちゃん似
「父がこの度靖國神社に合祀されまして」

母を既に亡くしていた山鳥家は、父を戦地でなくしたので
今はこの姉一人が田畑を守っているのです。
鈴木兵曹はそれらの事情を既に身上調査で全て知っていました。

「特別年少兵」では姉は弟にタバコやお酒を託けようとしますが、
この姉が預けようとしたのは、母の墓の土です。

父も母もいるこの土を、船に乗る時、身体につけていけるように
弟にこれを渡してほしい、といわれ、兵曹は厳粛な面持ちで頷きます。

隠し芸大会はたけなわ。
いつ練習したのか、森村の班員によるハーモニカ合奏が聞こえてきます。


鈴木教班長は山鳥をベッドに見舞い、姉が面会に来たことを伝えます。

「どうしてお父さんのことを誰にも言わなかったのだ」
「父親を戦地でなくしている者は他にもいるでしょうから」

鈴木兵曹は山鳥の健気な言葉に泣きそうになりながら、
預かった母のお墓の土を彼の手に握らせて励ますのでした。


病室に森村が教班長を呼びにきました。
「皆が鈴木兵曹の演奏を待っております」


隠し芸大会のトリは、鈴木兵曹のバイオリンでした。
ところで皆さん、いまさらですが、この鈴木兵曹役、誰だと思います?

若き日(35歳)の小沢栄太郎なのです。
左翼劇場出身の俳優小沢栄太郎は、1940年、所属していた新劇を
軍からの弾圧によって解散させられ、自身も検挙されています。この映画で海軍兵曹を演じた小沢は、直後に応召され戦地に行き、
復員して日本に帰ってきたのは昭和20年11月でした。
鈴木兵曹がバイオリンで演奏したのは「海行かば」でした。
   
ソロのバイオリンの旋律は、2コーラス目には荘厳なオーケストラへと変わり、
雨の中、弟を訪ねて会えずに帰って行く姉の姿に重ねられます。


去って行く姉の姿をまぶたに描く山鳥。
彼は知っていました。

鈴木兵曹は、国に命を捧げた、山鳥の父のような人々の魂のために
この調べを捧げているのだということを。


■ 山口中尉の出征



主人公森村新八の所属する92分隊の分隊長、山口中尉が
特別に修身の講義を行いました。

 今日(けふ)よりは顧(かへり)みなくて大君(おほきみ)の 
醜(しこ)の御楯(みたて)と出(い)で立つ我(われ)は
山口中尉が吟じた万葉集の防人の歌の意味は、
「今日からは後ろを振り返らず天皇の至らぬ盾となって出発する私」
であり、黒板に見えるもう一首の歌は、

大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて

大君の命令を受けて父母を置いて大海原を渡るという意味です。
映画の冒頭の歌もそうですが、このころの陸海軍では
万葉集の防人歌を軍人精神の涵養に用いていました。


日本で軍人を表す防人が形成されたのは大化改新以降で、
当時の「仮想敵国」、唐からの襲来に備えるため、各国から兵隊を募集して
防波堤となる北九州に集めたが最初と言われています。

防人歌はそんな各国から集められた軍人たちが詠んだものです。
ちなみに任務地は九州でしたが、どこから行くにしても
交通費は自費、食料も武器も自分で用意していたそうです。



「お前たちは畏れながら」

山口中尉が背を伸ばしながらこのことばを口にしただけで
全員が姿勢をしゃんと伸ばします。

「陛下の御盾となって国を守る武人である」


山口中尉が特別に修身の講義を行なったのは、これが最後となります。
中尉に出撃の命が降ったのでした。



「姿勢を正せ!敬礼!」
さすがに海軍直々の監修だけあって、無帽の挙手は行いません。
このような場合の敬礼は、軽く低頭するのみです。



「分隊長!」「おめでとうございます」
部屋を出ると、教班長らが後から出てきますが、
この時には全員が着帽しているので敬礼を交わし合っています。

その敬礼の角度もさすがに文句のつけようがないほど海軍流。



そして後任の河野大尉(ちゃんと”だいい”と発音している)に引き継ぎ業務。
この大尉が誰かは皆さんもお分かりですね。
笠智衆です。



その夜が、山口中尉にとって内地で過ごす最後の夜となります。
軍服のまま端然と書を記す夫を、



妻は万感の思いを秘めた表情でただ見つめるだけです。
しかし、夫はむしろ淡々と、書の配り先などを指示し、
何か言いかける妻の様子など全く気づかぬ風で、



ゴクゴクー
「もう一つもらおう」
茶碗を持って部屋を出かけた妻ですが、たまりかねて、



「あなた」「なんだ、あらたまって」
生きて帰ってきてほしい。
本当に彼女が言いたいのはこの言葉であるはずです。
映画の製作者にも、見ている人にもそれがわかっています。
しかし、防人の妻である彼女はこう言うしかありません。
「ご武運をお祈り致します」
これを聞いた山口中尉、むしろちょっと驚きながら


「改まっておかしいぞ。船乗りが船に乗るんだ。別に変わったことじゃない」
うーん、そう言うことじゃなくってだな。

■ 陸戦訓練

軍歌「総員起こし」に合わせて銃を担い行進する少年たち。
今から海浜で陸戦訓練が始まるのです。

「海軍特別年少兵」は、この映画からいろんなシチュエーションを
そのまま流用していますが、これもその一つです。
本作で描かれているのは横須賀海兵団が二つに分かれ、
第二海兵団として分かれた武山海兵団です。
武山海兵団のあった横須賀市御幸浜には、現在
海上自衛隊横須賀教育隊があって、海の防人の養成が続けられています。
彼らが隊列を組んで向かっているのは辻堂だということです。
まさかとは思うが、御幸浜から辻堂まで歩いて行ったんだろうか。
距離にすれば26〜7キロで、普通に歩けば5時間ですが・・。



「特別年少兵」では、梅雀演じる落ちこぼれ少年が短銃を紛失し、
責任を感じて自殺するというストーリーが用意されていましたが、
こちらは海軍の宣伝映画なのでそんな展開にはなりません。



演習を指導するのは新分隊長、河野大尉。

分隊長の指令によりこの水兵さん(多分本物)が手旗信号を送ります。
陸戦訓練の様子は「総員起こし」の歌のもと、音声なしで描写されます。

「特別年少兵」では、演習で旅館に泊まった少年たちが、
久しぶりに畳の上で寝られるので喜びはしゃいでいましたが、
なんとそんなことまでこの映画からの流用であることがわかりました。
森村新八が家族に出した葉書に、そのことが書かれています。


 
葉書には、もうすぐ横須賀の「三笠」見学があるので、
そのとき家族で会えないかということも書かれていました。

戦後、米軍の手によって陵辱にも等しい扱いを受けた「三笠」ですが、
この頃はオリジナルの姿のまま、日露戦争での
日本海軍の偉業を示す資料館として公開されていたのです。


新八の父母に叔母、従姉妹のとき、そしてなぜか
山口中尉の父である近所の御隠居が繰り出してきました。

「いよっ」この後、新八と家族がお互い相手を探して艦内をうろうろし、
あっちへ行ったりこっちに行ったりするのが、ちょっとした
微笑ましい様子となって描かれます。






新八と父は三笠をバックに二人で写真を撮りました。



彼の訓練ももう終わり、卒業が近づいています。

■ 海戦


ちょうどその頃、太平洋某所では山口中尉の乗り組んだ艦が、
まさに戦いに投じられようとしていました。
超粗い画質での艦隊が単縦陣で波を切る実写映像が流れます。



そして戦闘開始。
もちろんこれらは模型を使った特撮となります。



炎の効果を表すためか、夜戦という設定です。



いきなり「軍艦」が鳴り響き、この海戦に帝国海軍艦隊が
勝利したと言うことになっております。


聯合艦隊大勝利のニュースをラジオで聞いた河野大尉は、
喜び勇んで早速皆にこのことを知らせることにしました。


艦艇実習の最中なので、総員が後甲板に集められます。



メザシになった他の艦からも白い事業服がラッタルを渡ってやってきます。



実習艦の甲板を使っての撮影でしょうか。



「我が水雷艇隊が〇〇〇〇で(聞き取れない)敵の基地に夜襲を決行、
敵戦艦1隻、巡洋艦2隻、その他を撃沈、または撃破した。」
このときから2年前の昭和17年11月、駆逐艦隊8隻が
ルンガ沖夜戦で勝利していますが、その時の戦果は
重巡1隻沈没、重巡3大破でした。

夜戦の勝利というのは同じ時期に二度ありますが、
どちらも一応勝っているものの、特に前者は
「戦術で勝って戦略(輸送)に負けた」と言われています。

まあしかし、海軍の宣伝映画では勝利を描くしかありませんから、
2年も前の戦果をちょっと盛って表現しているわけです。

昭和19年の春くらいなら、まだ国民は、実際には
聯合艦隊が追い詰められていることを知らなかったでしょう。
河野大尉は全く軍人らしくない喋り方でこう続けます。

「しかも、その水雷艇隊の指揮官が誰だったと思うか。
お前たちの分隊長だった山口中尉だぞ」



「山口中尉はそれこそ文字通り、必死妄執、
敵の懐中深く飛び込んでこの偉勲を成し遂げた。
お前たちの分隊長がだぞ」

「このことを深く腹の底に刻み付けて覚えておけ。いいか」

「お前たちの覚悟はいいか!」


艦艇実習が終わった夜、鈴木軍曹は、班員たちが立派になるまでと
いままで我慢していたタバコを晴れて吸うことができました。



ハンモックの中で目が冴えてしまう新八。



眠れないのはみな同じでした。
山口中尉の殊勲を聞いて興奮しているうえに、
明日は彼らの海兵団生活の最後を飾る日です。

「こんな夜に寝られる奴は山鳥くらいだよ」



「寝てやしないよ。ちゃんと起きてますよ」


「何だ起きてたのか」

見回りに鈴木兵曹がやってきました。

「お前たちが明日この団門を出れば、戦艦が、巡洋艦が、
駆逐艦がお前たちを待っている。
海の決戦場が待っている。
ただ立派な、一人前の水兵として、この団門を出てゆく。
そのことが大事だぞ。いいか」

「ここに諸子が蛍雪の功成ってめでたく海兵団の過程を終了することが・・」




いよいよ彼らが海兵団を巣立つ日がやってきました。



子供のような彼らを一人前の水兵に育て上げ送り出す教班長たち。



今から諸子の双肩には日本海軍の大責任がかかったことを
忘れてはならない、という言葉が述べられ、
彼らは海兵団の門を出ていきます。



敬礼しながら門に進む、連綿と続いてきた「海軍流の旅立ち」の姿です。



彼らが左手に下げているのはどう見ても桶なんですが・・・。
「海の男の初陣の 血潮高鳴る太平洋
見事撃滅し遂げねば 生きちゃ戻らぬこの港

君は血潮の陸戦隊 俺は千尋の潜水艦」
そんな流行歌っぽいメロディの歌が流れます。



そして、最初とは別人のようにたくましくなった森村の姿が。



多くの森村新八のその後を知っている我々には、この写真が
その後どんな思いで眺められることになるのだろうとか、
親子で撮った最後の写真になったかも、などということを考えずにいられません。

写真を見る父と母の笑顔に、森村の思い詰めたような
防人の表情が重ねられ、この国策映画は終了します。


「我に敵なし太平洋」
こうして発った森村は、山鳥は、そして山口中尉や鈴木兵曹は、
日本という国体を守るという使命の下、戦いに身を投じていきました。

その結果、彼らは生きて終戦を迎えることはできたか。

その点にのみ焦点を当てて答えを出そうとしたのが、
同じ昭和の、30年後に作られた映画「特別年少兵」といえましょう。


終わり。

A BIRD'S EYE VIEW 軍事偵察の航空史〜スミソニアン航空博物館

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さて、「フライング・レザーネック航空博物館」シリーズも終わったので、
次シリーズとして、今度はスミソニアン博物館の展示から、
軍事航空偵察に関するテーマでお話ししようと思います。
「歴史を通じて、我々は世界を上空から見ることによって
自ら住む世界をよりよく理解しようという欲求を持ち続けてきました。

最初に木や丘、要塞の塔に登り、高みから土地を観察します。
今日、航空機と宇宙船は地球を見下ろして、天気を予測し、地形を調査し、
作物を、森を監視し、都市を計画し、資源を見つけ、情報を収集しています。
気球から航空機、そして宇宙船と進化していく過程で、
我々は自らをさまざまな目標や課題に沿って高みへと押し上げているようです。
それでも、これらのスリリングな冒険に参加した多くの人は、
最後には「我が家」を振り返ることを忘れませんでした。」
こういう文章で始まるこのコーナーのスポンサーは、
聞いて納得、イーストマン・コダック社です。
■ バーズ・アイ・ビュー(鳥瞰)
人類の歴史に写真が登場すると、それはすぐに空に飛ばされ、
スパイの成果を残す手段として使われ始めました。
それまでは高いところから地形をスケッチするしかなかったわけですが、
この新技術使えばそれ以上の高いところから偵察できるんでね?
と言うことに世界中の人々が気づくのに時間はかかりませんでした。
【フォトカイト(カメラ凧)】



1895年にアメリカ陸軍の一中尉が行なった凧写真の実験風景。
この凧の糸の先にカメラを取り付けました。



糸の先につけられていたカメラがこれ。
結局180mの高さからの撮影に成功したそうです。

そのときの写真。
当時のカメラで遠隔操作してこのピントの合い方はすごいと思ってしまった。
【フォトロケット】


この頃、「ロケットカメラ」なるものが設計されていました。
1888年にフランス人のアメデ・ドニース(Amédée  Denisse)が考案したもので、
この種のものとしては史上初めてのデザインとされています。

ロケットのノーズコーンの下に12枚のレンズを持つカメラが装着されており、
フィルムを露光した後、カメラとロケットはパラシュートで地上に帰還する仕組み。

このドニースという人はイラストレーターで写真家、発明家だったそうですが、
このロケットが実際に作られたかどうかまでわかっていません。



また、ノーベル賞に名を残す、アルフレッド・ノーベルは
1897年に「フォトロケット」を発明しています。

アルフレッド・ノーベルが発明したフォトロケットで撮られた
1897年のある日のスェーデンの村の鳥瞰写真。ノーベルは当時、気球を使ったカメラの実験もしていたそうですが、
これはロケットの方で、高度は100メートルだったそうです。
なんか現在のトイカメラみたいな画像になっていますね。

アルフレッド・ノーベルのフォトロケット設計図。
当時にしてはすごい発明(だと思う)。

それから10年経過して、フォトロケット系の発明では
パイオニアと言われているドイツの
アルフレッド・マウル(Alfred Maul 1870–1942)
が1904年に撮った空中写真がこちら。
ノーベルのとは段違いに画質が良くなっています。

マウルはドイツの技術者であり、航空偵察の父ともいえる人物です。
実験はともかく、実用化した人がほとんどいなかったロケットに
カメラを取り付けて大地を撮影するというアイデアを思いつき、
実行に移した実業家で、自身の工場を持っていました。

1903年、彼は「マウル・カメラ・ロケット」の特許を取得しています。
カメラは黒色火薬のロケットで空中に打ち上げられ、
ロケットが高度600~800mに達した数秒後に、上部が開き、
カメラはパラシュートで降下する仕組みになっていました。
撮影はタイマーで行われる仕組みでした。

右側のがロケット発射台。

これを軍事利用する動きになったのは当然の成り行きでしょう。
1906年、軍人たちの前で極秘のデモンストレーションが行われ、
マウルは軍事偵察のためにさらに発展型のカメラロケットを披露しています。

1912年、マウルのロケットカメラは、20×25センチの写真プレートと、
安定した飛行と鮮明な画像を確保するため、
ジャイロスコープによる操縦を採用したものへと進化していました。
ロケットの重量は41キロと大変重いものでした。
このころには運用はドイツ軍が行なっていたようで、
写真に写っているのも軍人です。
まさかとは思うが右の人の持っているのがロケット?

ただし、彼の発明が脚光を浴びたのは航空機の発達まででした。
第一次世界大戦では、従来の飛行機が空中偵察の役割を果たしたため、
マウルのロケットは軍事的な意義を持たなくなり、
彼の発明品はその名前とともに忘れられていきます。

しかし腐ってもパイオニア、メダル受賞各種
■ 鳩カメラ(Miniature Pigeon Camera)


1903年、ユリウス・ノイブロンナー博士( Dr. Julius Neubronner )は、
タイミング機構で作動するハトのミニチュアカメラの研究を始めました。

これが本当の「バーズアイ・ビュー」写真です。
凧はカメラを搭載できますが、欠点は動きや速度に大きな制限があったので、
より速く、より活発な空中偵察が必要となったのです。

薬屋であり、ハト愛好家でもあったユリウス・G・ノイブロンナー博士は、
1907年、ドイツの特許庁に「ハトカメラ」を提出しました。

鳩とおじさま

彼はそれまでも、フランクフルト近郊の自宅から数キロ離れた療養所との間で、
ハトを使って処方箋や緊急の薬の交換を行っていました。
鳩の帰巣本能はかなり確実なもので、あるときノイブロンナー鳩が
1ヶ月も行方不明になったあと無事に厩舎に帰還するという事件があり、
この出来事をきっかけにノイブロンナー博士が思いついたのが、
宅配便の飛行を記録するために、鳩が身につけられる軽量のカメラです。

ハトグラファーたち(誰うま)

ノイブロンナーは、一定の間隔でシャッターを切るための空気式タイミング機構、
革製のハーネス、アルミニウム製の胸当てなどを備えたモデルを試作しました。

鳩グラファー用装備設計図

60マイル離れたところから鳩を放すと、鳩は最も近道を通って帰宅します。
重荷なので寄り道もしないというわけですね。
博士は機動性を高めるために、暗室を備えた鳩舎を作り、
鳩が持ち帰ったフィルムを即座に現像できるような工夫も加えました。


しかし、この申請に対しドイツの特許庁は、当初、
「家鳩では75gの荷物は運べない」という理由で出願を却下しました。

ノイブロンナーは論より証拠の写真を並べて反論します。


羽が・・・・写ってます。

この写真で写っているのはクロンベルグのシュロス・ホテルだそうですが、
勇敢な作者の翼端を偶然にも撮影したことで特に有名な一枚です。






こっちを見ている人が写ってます


Google マップ並み


もしかしたら屋根の上で休憩中?

そんな努力の甲斐あって、特許庁は1908年にようやく申請を許可しました。
この発明は、1909年から11年にかけてドレスデン、フランクフルト、
そしてパリで開催された博覧会で発表され、世界的な注目を集めることになります。

ドレスデンでは、カメラを搭載した伝書鳩の到着を観客が見守ることができ、
撮影された写真はすぐに現像されて絵葉書として販売され好評を博しました。

当時としては全く画期的な「鳩写真」。
特に、ドイツ軍はこの映像を十分に評価し、
西部戦線の戦場で鳩カムのテストを行うところまででした。

しかし、ロケットと同じく、飛行機による偵察が急速に進歩したため、
ノイブロンナーの鳩はメッセージを伝えるという伝統的な役割に終始しました。

■ 気球(Baloons)


タデウス・ロウ(Thaddeus Lowe)。
なぜかこの名前にものすごく聞き覚えのあるわたしです。

しかし残念ながらそれ以上の記憶がなかったので、自分のブログ内検索で
この名前をかけてみたところ、南北戦争時代に
気球部隊を陸軍に作るため、携帯用の水素ガス発生器を開発させた人でした。

ロウは気球偵察のパイオニアという称号を持っています。



ロウは南北戦争中、戦場の上空を飛んで部隊の動きを観察していました。
この写真では、北軍の将校が味方しかいないと予想していた地域に、
南軍の連隊が接近したことを報告しているところだそうです。

1860年、気球カメラで撮られたボストンの街。ジェームズ・ウォレス・ブラック(James Wallace Black)が
高さ1,200フィートの気球から撮影したものです。


なまじ知らない街でもないので、どの部分を撮ったか調べてみました。
この楕円を左上空から見たのが気球の写真です。
当時の建物でこの写真に残っているのは、左の
パークストリート教会の白い塔でしょう。空撮写真の左の方に見えています。
高さ660mなので当時はその辺で一番高い建物でした。

ボストンの革新的な写真家・肖像画家であったブラック(1825-1896)は、
ボストンコモンに繋がれていたサミュエル・アーチャー・キングの熱気球、
「Queen of the Air」号に乗り込み、ガラス板ネガを露光しました。

撮られた写真は
「Boston, as the Eagle and the Wild Goose See It」
(ボストン、鷲あるいはワイルドグースの見たまま)
と題され、アメリカで初めての航空写真となったのでした。

気球を開発したキングは、何度も墜落するなどの実験の失敗を重ねながら、
「クィーン・オブ・ジ・エアー」を飛ばしました。

そのうち気球は人々の関心を集め、博覧会や巡回ショーなど、
大きな行事の目玉となっていきます。
アメリカが建国100年を迎えた1876年には、キングは
記念博覧会が開催されていたフィラデルフィアからたくさんの気球を飛ばしました。

彼はアメリカ東部のほぼ全ての都市から気球をあげるという
実績を積んでおり(合計450回以上といわれている)、
その旅に毎回のように写真家を同行させていますが、
ボストン上空を撮影した写真家、ブラックはその最初の一人として、
歴史に名前を残すことになったのです。
冒頭の写真はスミソニアンの展示で、説明が見当たらなかったのですが、
おそらくこのときのカメラマン、ブラックだったのではないでしょうか。


1907年、気球のカメラから撮られた最初の空撮写真。
ワシントンD.Cです。
その後も人類は、空から見た風景を記録に残すべく、より高く、
さらなる高みへと、技術と経験を積み重ねていくことになります。

続く。

THE SKY SPIES 航空偵察の歴史〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館プレゼンツ、「軍事偵察の歴史」、
このコーナーには本日タイトルの「The Sky Spies」が冠されています。

意味はそのまま「空のスパイ」ですが、「SPY」という単語は
日本語の「スパイ」の他に「みつける」「見張る」という意味もあります。前回の「鳥の目」のように、高いところから偵察を行うとき、
新しい方法として航空機が使われるようになったのは当然の成り行きでしょう。
航空機より一足早く人類が手に入れた写真という手段と
航空機が組み合わされ、偵察が行われるようになります。

軍事情報の収集としての航空写真の命はなんといっても正確性にあります。
その意味で偵察パイロットはもちろん、
「Photointerpreter」の技量は重要な役割を担っており、その結果の成功か失敗、
正確か不正確か、準備ができているかどうかの分かれ目を決めます。
というのがスミソニアンの説明なのですが、この「Photointerpreter」
(Photo+interpreter)は直訳すれば写真通訳者となります。

この言葉は1940年代に生まれた造語で、
「航空写真の解釈を専門に行う人」
であり、黎明期にはそういう名称はなかったものの、そういう人がいたようです。

つまり、パイロットが撮ってきた写真を現像し、
そこに写っているものをアナライズするという専門職があったようですね。
■ 初期の航空偵察技術とその機材


スミソニアンの「スカイスパイ」コーナーには、実物大展示として
前回の気球のカゴから写真を撮る人と、この
de Havilland DH-4
から航空写真を撮っている人がいます。
【第一次世界大戦の写真偵察機DH-4とL-4カメラ】


まず、このデ・ハビランドの汎用機「DH-4」ですが、
軍用機としても民間機としても多くの役割を果たした機体でした。

第一次世界大戦では爆撃機の任務を負っていたDH-4は、
観察と写真偵察のための航空機でもありました。

1917年4月6日にアメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、
陸軍信号部隊の航空課は戦闘に耐えうる航空機を保有していなかったので、
国内で生産するため、前線で使用されている連合軍の航空機を調査します。
そして検討されたのは、フランスのスパッドXIII、イタリアのカプローニ爆撃機、
イギリスのSE-5、ブリストル・ファイター、DH-4などでした。
どれも当ブログでは紹介済みですし、これも繰り返しますが、
第一次大戦ごろのアメリカの航空技術は、欧州、ことに
イギリスやドイツと比べると大人と子供レベルで遅れていたのです。
(さらにソ連はというと、そのアメリカのレベルにも達していないくらいでした)

DH-4が選ばれたのは、構造が比較的シンプルで量産性に優れていたことと、
アメリカ製400馬力リバティV型12気筒エンジン
の搭載に適していたからです。
アメリカ人の好きな「リバティ」なんとかがここにも・・・・って、
リバティ・エンジン、リバティ・プレーン・・・
これ前にもご紹介していますよね。

そのときの展示室にはリバティエンジンはありましたが、
DH-4はこの模型だけでした。


ちなみにこの左側にあるのがリバティエンジンです。
その時の項にも書きましたが、おさらいの意味でもう一度書くと、
機種は決まったものの、アメリカの量産方法を採用するためには、
イギリスのオリジナル設計からかなりの技術的変更が必要でした。

アメリカ製はパイロットと偵察員の間に燃料タンクがあってコンタクトしにくく、
墜落した時危険という設計上のミスというか問題点がありましたが、
「リバティ・プレーン」と呼ばれて1918年にフランスに送られることになります。
余談ですが、アメリカのカルチャーというのか、アメリカ人はよく、
自国の軍事行動に「リバティ」「フリーダム」の冠を被せたがりますね。

ちょうど我が家が西海岸に住んでいた頃、イラク戦争が起こりました。
フランスがそれに反対したことでアメリカ人は怒り、なぜか
フレンチフライに八つ当たりを始め、
フランスけしからんから「フリーダムフライ」と呼ぶお!となった、
という「ニュースが」流れました。
そんなある日、カリフォルニアのフリーウェイでロスアンジェルスまで行く途中、
ランチを取るために入ったメキシコ料理店で、隣のテーブルが
ちょうど注文のフレンチフライを食べながら、父親が息子(小さい)に
「なんかこれ、これからフリーダムフライになるらしいよ」
と笑いながら説明しているのを見たわたしは、むしろ、
メディアとそのやらせ以外でどこのだれがフリーダムフライと呼んでいるのか、
と疑問に思ったものです。

そして、どうして他国に攻撃をかけることが「リバティ」「フリーダム」なのか、
わたしはマイケル・ムーアは嫌いですが、彼が発したこの疑問だけには
全く同じ疑問(というか懸念)をいまだに感じ続けています。

理屈がわからん。
そして、あの日から今日まで、フレンチフライのことを
フリーダムフライと呼ぶ人や店を一例たりとも見たことがありません。
さて、約100年後、フレンチフライにまで目くじらを立てることになる
そのフランスに、アメリカは、DH-4を1,213機送りました。
そのうち進攻圏に到達したのは696機です。

DH-4の戦闘期間は4ヶ月に満たなかったが、その価値は証明されました。
第一次世界大戦中に飛行士に授与された6つの名誉勲章のうち、
4つはDH-4に搭乗したパイロットとオブザーバーが受賞したものです。

つまり、その真価は攻撃より偵察で発揮されたと言ってもいいでしょう。

第二次世界大戦になってもDH-4は「リバティ・プレーン」として、
森林警備や地質調査、陸軍航空局の航空地図、
写真撮影用の標準機として10年間使用されています。


ここにある航空宇宙博物館の機体は、この中で最初に製造されたものです。

さて、その偵察についてですが、DH-4に搭載された空撮カメラは、
手持ち以外に、後部コックピットの内側または外側に取り付けることができました。

展示されている機体には、コックピット内に
コダックのL-4カメラが設置されており、
床の小窓から写真を撮ることができます。


四角い穴と丸い穴が機体の底に空いていますね。

DH-4のマネキンが持っているのは、A-2カメラといって、
コダック社が開発したカメラで、第一次世界大戦の航空写真に使用されました。

Kodak製A-2カメラ
オリーブドラブ色に塗られた金属製のカメラで、木製のハンドルが付いています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空局がオープンコックピットの航空機の側面から
斜め方向の写真を撮るために使用したコダックA-2ハンドヘルドエアリアルカメラ。

カメラには2つの4x5プレートマガジン、「アイアンサイト」、
ストラップが付いています。
A2型は陸軍航空局が使用したもので、海軍はA1型を使用していました。



ここには、イーストマンコダック製が第一次大戦時に
偵察のために設計したK-1カメラ実物が展示されています。
15センチのフィルムを使用し、フィルム用マガジンが内蔵されています。


初期の航空カメラは、垂直方向の映像を得るために、この写真のように
飛行機の外側に固く取り付けられていた時期がありました。

しかし、これ、問題がありますよね。
飛行機の振動です。
そりゃま機上で手持ちよりはマシだったのかもしれませんが、
細かいエンジンの振動がブレを産むことの方が多かったでしょう。

だからといって、垂直方向にこの大きなカメラを手に持って
機体から乗り出すのは、あまりにも危険な気がします。
まあ、この方法だと少なくともカメラを取り落とす心配だけはなかったかと。
【フェアチャイルドの空撮飛行機と空撮カメラ】

むむ、まるで映画俳優のようなダンディ氏、これは誰?
その名も、シャーマン・ミルズ・フェアチャイルド(Sherman Mills Fairchild)。

その名前からも想像がつくかと思いますが、名門の生まれであり、
当たり前のように実業家・投資家として成功した人物で、
フェアチャイルド・エアクラフト、フェアチャイルド・インダストリーズ、
フェアチャイルド・カメラ&インストゥルメントなど70以上の会社を設立し、
航空業界に多大な貢献をし、1979年には全米航空殿堂入りを果たした人物です。

資産家の息子で、28歳にして父の数百万ドルの遺産を手にし、
父が保有していたIBMの株式も相続し株主になり、いきなり人生イージーモード。

これもごく当たり前のようにハーバード大学に入学し、
1年生のときにカメラの同期シャッターとフラッシュを初めて発明しています。
その後、アリゾナ大学、コロンビア大学で学び、企業家になることを決意。

こんな名門超金持ち高学歴高身長(最後はたぶん)のイケメンですから、
さぞモテたと思うのですが、いかんせん彼は生涯結婚しないまま通しました。
(LGBT関係であったという噂もなかったようです)
そして会社の経営以外に建築、料理、ジャズ、ダンス、哲学、テニスなどを楽しみ、
写真には特に造詣が深かったようです。
カメラの性能を地図作成や航空測量にまで拡大したいと考えた彼は、
1921年、フェアチャイルド航空測量社を設立し、
第一次大戦で余っていたフォッカーD.VIIを購入して航空写真の撮影を始め、
写真地図作成や航空測量を受けを行うをための会社を設立。

地上調査より航空写真の方が早くて安価で正確であるという評価を得ます。


フェアチャイルドFー1航空カメラ



F-1は、フェアチャイルド社が第二次世界大戦中に開発した航空カメラです。
手持ちで斜めからの写真を連続して撮影することができるため、
軍事施設の高所撮影に多用されました。


フェアチャイルド社製F-1によるニューヨークの空中写真

空中撮影を行ううちに、フェアチャイルドは既存の飛行機では
空撮で頻繁に遭遇する状況には適していないことに気づきます。
そこで1925年、フェアチャイルド・アビエーション・コーポレーションを設立し、
正確な航空地図の作成と測量のための専用機、FC-1を製造しました。


FC-1

この時期、フェアチャイルド社は航空業界で圧倒的な存在感を示し、
米国最大級の民間航空機メーカーにまで成長していました。

この後継となるFC-2は後にチャールズ・A・リンドバーグの
アメリカ横断旅行に使われることになります。

フェアチャイルド社はわずか9カ月の間に、
初期生産から世界第2位の航空機メーカーになったのでした。
しかしその後いろいろあって、ファチャイルドが亡くなると
会社も吸収合併を繰り返したすえ、跡形も無くなってしまうわけです。

ちなみに彼は亡くなったとき、50人以上の親戚、友人、
元従業員一人一人に遺言をのこしていったそうです。

2億ドルを超える遺産のほとんどは、彼が生前に設立した2つの慈善財団に寄付され
その他病院、救世軍に20万ドル、アメリカ動物虐待防止協会、
また、母校のコロンビア大学への新校舎の寄付にと見事に使い切った形です。

私見ですが、こんな逸話から彼が孤独だったような感じは受けません。
あまりにやりたいことが多すぎて、家庭を作ることまで時間が至らなかった、
という感じなのかなと思ったりします。

さて、そんなフェアチャイルドが若き日に生み出した
「K-3」は、画期的な航空カメラでした。
電気駆動のK-3は、新しいシャッターとマガジンを搭載し、
航空写真の技術を向上させることに成功しました。



カメラマンが高高度で斜度撮影を行うために
焦点距離61cm(24インチ)のK-3カメラの準備を行なっています。

戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)に、
長距離航空写真の実験に使用されたK-3カメラ。

手持ちの空中斜度用カメラ、K-5。

航空機からの撮影の歴史について、もう少し続けます。


続く。

「バグリーの3レンズカメラ」と「ゴダードの法則」〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「The Sky Spies」軍事航空偵察のシリーズから
続きをお送りします。

【陸軍偵察航空】
■ジェイムズ・バグリー3レンズカメラ
第一次世界大戦の頃、航空機からの写真を撮るために、
こんなカメラが開発されたことがあります。


なんかこういうシェイプの海洋生物いるよね?って感じですが、
キモは先端に角度を変えて設置された三つのレンズ。

アメリカ陸軍のエンジニアだったジェイムズ・バグリーが
1917年に普及させた、「スリーレンズカメラ」です。



ジェームズ・ウォーレン・バグリー少佐(James Warren Bagley 1881~1947)
は、アメリカの航空写真家、地形工学者、発明家です。

第一次大戦に招集されるまで地質調査所の職員だったバグリーは、
アラスカの地形を記録するため、他の二人の地質学者と共同で
このカメラのアイデアを考案しました。
これはどういうものかというと、垂直方向に1枚、斜め方向に
2枚の写真を撮影することで、それまでの単レンズカメラにはできない
広範囲の写真を画像に残すことができるというものです。

3レンズカメラによる地上写真。
上がそれぞれのレンズの捉えた写真で、下のように
「合成」して地形を把握します。

偵察写真を素早く現像するために、飛行機を降りたところに
「ポータブルラボ」なるラボラトリーがセッティングされることもありました。

現像用とプリント用に分かれた部屋を備えたテントは、自家発電機を備えており、
1時間に200枚のプリントを処理することができました。


偵察機そのものにポータブルラボが搭載されている例もありました。
これなら迅速に現像処理ができますね!

レンズを三眼使ったこの空撮用のカメラは、
アメリカ陸軍が関与してきて実験を指導したようです。

この3眼マッピングカメラを製品化したのが、
前回お話ししたフェアチャイルド航空カメラ社でした。
「T-1」「T-2」「T-2A」はいずれもこの製品化されたものです。
T-2Aは垂直レンズ1枚と35度に設定された斜めレンズ3枚で、
飛行方向に直角な120度の視野を確保していました。

陸軍が関与したせいで、バグリーは工兵隊の大尉に任ぜられ、
後に少佐になりましたが、1936年には中佐の位で軍を引退し、
地理探査研究所の講師に就任しています。

軍には便宜上所属したものの、それは目的ではなかったということでしょう。
その後彼はオハイオのライト飛行場のエンジニア部門の責任者となり、
軍事用途の航空写真の研究を重ねて写真測量の基礎を作りました。
このときに開発した「T-3A」は5つのレンズを持つカメラで、
2点の距離が分かっている地質学者が残りの距離を計算すると
2次元の平面地図を作成することができる機能を持っており、
第二次世界大戦中に活躍しました。

5つのレンズ(四方と真ん中の写真)を持つT-3の画像。
3つのレンズでうまくいったからレンズを増やせばいいんじゃね?
的な発想で増やした結果です。
欠けたところは想像力で補っていたのでしょうか。
このT-3Aカメラでは、約640四方キロの範囲の撮影が可能です。
面積測定マップから作成された仮の地図から、標高を求め、等高線を埋めていく。
陸軍の地形大隊は1日に160平方キロ以上の
等高線の地図を作成することができるようになり、
戦場でのマーキングやターゲティングに欠かせない技術となりました。


ただしプリントされた5レンズのカメラの画像は、
体育館に並べていたようです。
これもう少しなんとかならなかったのかしら。
足の踏み場もないとはこのことだ。

スミソニアンには陸軍軍人がポータブル暗室を使っている模型もあります。
偵察機に搭載されたフィルムを迅速に処理するためのもので、
時には一刻を争う状態で情報が必要になる戦場では、
「写真通訳」が偵察任務に同行して、飛行中に現像されたフィルムを
直接目視で分析して無線を送るということもなされていました。


使われた年代は第二次世界大戦中。
偵察機に搭載され、フィルムを即時処理しました。
内部が「暗室」となっており、大きく穿たれた穴から両手を入れて作業します。



最終的にバグリー大佐はハーバード大学の講師となり、
そこでいくつかの論文と本を執筆する余生を送りました。
その時に執筆した記事の中で、こんなことを書いています。
「航空写真部隊は、軍事作戦中の空軍において、2つの目的を持っている。
第1に、敵地の軍事地図を提供すること、
第2に、敵の軍隊や装備の動きに関する詳細な情報を提供することである」
当たり前すぎて何を今更、という記述ですが、
バグリー中佐以前にはこの方法はなかったところがポイントです。

戦後は、この目的のために、より高高度から偵察する航空機に合わせて、
カメラはより大きなものが搭載されていくようになってきます。




■海軍・航空偵察の先駆 ジョージ・ゴダード准将


ジョージ・ウィリアム・ゴダード准将(George William Goddard 1889-1987)
もまた、航空写真の先駆者とされています。
イギリスに生まれて帰化したイギリス計アメリカ人で、
グレン・カーチスの飛行を目撃してから航空に興味を持ったそうですが、
陸軍信号隊の航空に入隊する前は、
フリーランスの漫画家をしていたという変わり種です。
コーネル大学で軍事航空学校の航空写真コースに入ったのは、
航空の興味と漫画家という前職が関係あるかもしれません。

機上でカメラを扱う彼に感銘を受けた 、あの
ビリー・ミッチェル将軍の勧めで空中写真の研究担当になった彼は、
赤外線や長距離写真、特殊な空中カメラ、写真機、携帯用野外実験装置
などを研究制作します。
1921年にミッチェルは、以前もここでお話しした、
航空機による軍艦爆破実験を行いますが、
この報道写真撮影を指揮したのは、他ならないこのゴダードでした。

また、1925年には夜間の偵察写真開発のために
80ポンドのフラッシュパウダー爆弾に点火して街全体を照らし出し、
世界初の空中夜景写真を撮影しています。


その時の写真がこれ。

夜間撮影されたとはとても思えないような鮮明さです。
この撮影はNYのロチェスター州の上空で行われ、
近隣の人々はそのフラッシュに驚かされた、と記録にあります。
ゴダードはこの時の夜間撮影の方法の特許を取り、
1950年代までこのシステムは使用されていました。

その後ゴダードは立体写真、高高度写真、カラー写真の先駆者となり、
フィルムストリップカメラを開発します。
ゴダード(左)Kー7カメラ(真ん中)

画面中央に写っている煙はカモフラージュのための煙幕ですが、
ゴダードの技術にあっては対空陣地の撮影はご覧のように可能でした。


【海軍に移籍】

ゴダードはまた偵察写真にカラー、動画のの手法も取り入れました。

彼とそのチームは100機のP-38ライトニングをF-4規格に改造しようとします。
んが、当時USAACの写真部長だったミントン・ケイ中佐と(個人写真資料なし)、
公的にも個人的にも激しく対立したゴダードは、中佐の策略によって性病対策のセクションに追いやられてしまいました。
しかし海軍が、彼の開発したストリップカメラ(日本語ではスリットカメラ、
カメラのレンズとフィルムの間にスリット(細い隙間)を設け、
撮影中にフィルムを巻き続けることでカメラの前方を通過する被写体を
1本のフィルムに連続的に撮影する手法)
が太平洋での水陸両用作戦に役立つと考えていたため、
ゴダードは引き抜かれる形で、この件以来海軍に転職することになるのでした。


海軍でゴダードは、F-8モスキートをレーダー撮影用に改造したり、
エドガートンD-2スカイフラッシュを使った夜間撮影の開発を支援しました。

そして自分を窓際に追いやった天敵に復讐することも
決して忘れていませんでした。

エリオット・ルーズベルト(ちなみに結婚歴5回)

当時同じ偵察隊にいたルーズベルト大統領子息の
エリオット・ルーズベルト大佐を補佐して、
ストリップカメラを導入させることに成功した後は、大佐を巻き込み、
2人でケイ大佐をワシントンのポストから外すことを要求する手紙を大統領に送り、
そのせいで、ケイは昇格を目前にしてインドに左遷されることになりました。
ケイ大佐がその後も不遇を託つことになったのはいうまでもありません。

(-人-)合掌

「寄らば大樹の陰」あるいは「虎の子の威を借る狐」というべきなのか。
アメリカ軍も相変わらずドロドロしているようですな。

天敵を葬り去ったその後のゴダードのキャリアは順風満帆で、ついには
ハップ・アーノルド将軍の寵愛を受けることになりました。


パリが解放されると、ゴダードはパリに司令部を設置し、
戦地の米空軍の偵察開発を主導し始めました。

パリではF-6マスタングにステレオストリップカメラを搭載する実験を行い、
ドイツが占領されると、シュナイダー光学工場、カール・ツァイス社、
そしてショットAG社の工場を買収してデータや資料を押収し、
多くの光学科学者を説得して西側に移住させたりしています。
冷戦期、朝鮮戦争期間にも彼は夜間撮影システムの革新を試み、
悪天候下での低高度ジェット機の運用に大きな成果を上げて、
アメリカ写真家協会から写真学修士の名誉学位、
写真家としては最高の栄誉とされたジョージ・W・ハリス賞を受賞しました。

この賞は、航空カメラ、機材、技術の開発を監督し、
航空写真の芸術に貢献したことが評価されたものです。


ゴダードは自分で言ったのかどうか知りませんが
「ゴダードの法則」なるものを遺しています。
それは、

「偵察の優先事項において、焦点距離
(focal length)にとって代わるものはない」

これも何を今更、って感じですが、当時としては画期的な理論だったのでしょう。

続く。


第一次・第二次世界大戦の空撮写真(の名作)〜スミソニアン航空博物館

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イーストマン・コダック提供によるスミソニアン博物館のシリーズ、
「軍事偵察写真」のコーナーをご紹介しています。
今日は、偵察写真の歴代「名作」を取り上げます。

スミソニアンにはこのように歴代の空中写真が説明付きで展示されています。
【第一次世界大戦の塹壕】



フェアチャイルドが開発した航空機空撮用カメラで撮影された
第一次世界大戦の戦線の写真です。
至る所に這うように伸びているジグザグの線は、塹壕を表します。

第一次世界大戦が「塹壕戦」であることを何より証明するこの写真は、
おそらくこの戦争における空撮写真の最高傑作と呼ばれています。

【フェアチャイルドKー3Bカメラ】


前回まででK-2までをご紹介してきましたが、
第二次世界大戦で主要な航空カメラとなったのが1920年代に開発されたK-3Bです。

垂直・斜め方向に撮影をし、合成画像で地上写真を作成しました。
手動と電動があります。
【フェアチャイルドK-20カメラ】

K-20は、第二次世界大戦中に使用された軽量の手持ち式航空カメラです。
高速シャッターを搭載し、1941年から1946年まで使用されました。

【Dデイ〜ノルマンジー上陸作戦】


ノルマンディーの海岸で繰り広げられている戦闘のはるか上空で、
飛行機は偵察風景を記録していました。

侵攻に先立ち、敵の防衛状況を詳細に把握するため、
大規模な写真解釈作業が行われています。


【遠すぎた橋 A Bridge Too Far】


映画「遠すぎた橋」で有名になったナイメーヘンのワールリバーの橋。
1944年9月20日、多くの犠牲を払った末連合国軍によって攻略されました。
28行でわかる「マーケット・ガーデン作戦」
ノルマンディー上陸作戦後、パリを解放しベルギー領内にまで達して
順調かに思われた連合国軍は、補給拠点確立に失敗し、足が止まってしまいました。

そこで、港湾都市を確保し、英国-欧州間の兵站を早急に確立するために、英国軍バーナード・モントゴメリー元帥は、オランダへと進み、港湾施設を奪取後、
ルール工業地帯を突破してドイツの継戦能力を失わせるという作戦を立案します。

連合国軍側最高司令官であるアイゼンハワーもGOサインを出し、
ナイメーヘンを含むオランダの各都市奪取のために、
そのために空挺部隊による降下作戦『マーケット』作戦、
アーネムまで4日で進出する『ガーデン』作戦を実施することになります。

ちなみにアーネムまでは200キロありましたが、
これを4日で突破というのはなかなかにして無理ゲーだと思われていました。
おまけに、現地のこの写真には何の説明もなかったのですが、実は作戦開始直前、連合国は軍偵察により最北のアーネム郊外に
SS装甲師団が配置されていることが確認されていたはずなのに、
なぜかこの写真は破棄され、情勢が部隊に伝わらなかったのです。
案の定、空挺作戦は降下場所が目標通りでなかったり、装備を失ったり、
ミスで無線機が使えなかったり、時間通りに出発せずに予定に遅れたり、
捕虜がドイツ軍に作戦書類を渡してしまったり、という体たらく。
ドイツ軍は囮の意味でこの橋を落とさなかったため、
連合軍は待ち伏せされているところに正面突破を試み、猛攻に曝されてしまいます。

その後色々あって橋を確保できないままジョン・フロスト中佐
(アンソニー・ホプキンスが演じた)率いる部隊は弾薬が尽きて降伏。
アーネムに降下した英国空挺師団1万名のうち、7千名が捕虜になり、
全滅判定を受けることになりました。最終的に投入した3万5千名のうち、半数を戦死・捕虜で失ったことになります。

アーネム橋は作戦失敗後、連合国軍が爆破しました。
戦後「ジョン・フロスト橋」という名前で再建され、
今現在もその名前のままです。


現在のジョン・フロスト橋。
かつて先人たちが苦労した空撮も、今はクリック一つで画像が手に入ります。
【V-2ロケット基地】

第二次世界大戦中、ドイツのロケット研究の拠点となった
ぺーネミュンデを撮影した偵察写真です。

ロケットとはあのV-2ロケットのことで、戦後アメリカで
ロケット開発を行ったヴェルナー・フォン・ブラウン博士がいました。

もともとドイツは(というかフォン・ブラウンのいた民間組織は)
宇宙旅行のために液体燃料ロケットを研究していたはずなのですが、
陸軍がその民間に出資をして陸軍兵器局で研究を続けるよう勧誘したのです。
科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン 
Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun(1912 - 1977)
は陸軍のために研究と実験を繰り返し、
V2の開発に成功しますが、それを察知したイギリス軍情報部は
早速ペーネミュンデの写真偵察を行いました。

その時に撮られたのがこの写真です。


画面の左上の白い部分に矢印がありますが、
この矢印が示しているのは横に寝た状態のV-2ロケットです。
この偵察をもとに、連合軍は1943年8月から「ハイドラ作戦」によって
ペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させました。

左手にギプスしているのがフォン・ブラウン博士。
みんな(´・ω・`)としていますが、それもそのはず捕虜になった後の写真だそうです。

左の帽子の人物はロケット推進者で科学者、
ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー(1895-1980)。

アメリカ軍の捕虜になった後、他の多くのドイツ人技術者のようにオハイオのライト・パターソン空軍基地でアメリカ空軍の顧問を務めました。

ベル・エアクラフトでは、ロケットで宇宙空間に出て
マッハ5の超音速で帰還するというX-20の開発計画相談役を務めています。
これはのちのスペースシャトル計画の先駆けとなるものでした。
そして、前にも書きましたが、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、
ジュピターなど人工衛星打ち上げやサターンロケットの開発を行いました。
もともと「宇宙旅行のためのロケットを作りたかった」彼は
手段のためなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思った
とナチスに協力したことをこのように言ったそうですが、最終的に
アメリカに来ることで、その夢を実現させたことになります。
【モンテ・カッシーノ】

モンテ・カッシーノは、1944年の初期に連合軍が
集中的に空爆・攻撃を行った場所でした。

当ブログでも、ナチスの略奪した美術品というテーマの時に、
連合軍によって破壊された歴史的な街、としてここを紹介したことがあります。



イタリア南西部にあるモンテ・カッシーノの大修道院が破壊されていく様子が
航空写真で克明に映し出されています。
【太平洋の激戦地】

『クワイ川の橋?』

タイのクウェーヤイ川に架かるこの橋は、
日本軍の補給路の要として捕虜たちによって建設されました。
1945年2月、アメリカ軍のB-24飛行隊によって爆撃され、
落下している様子が捉えられています。

ん?タイならクウェーヤイ川じゃなくて「クワイ河」って読むんじゃないの、
と思った方がもしかしたらいるかもしれませんね。

たしかに「クワイ河」なら、「クワイ河マーチ」なんてのもありますし、
映画を見てご存知の方も少なくはないかもしれません。

「クワイ川に架かる橋」
(The Bridge over the River Kwai)は
第二次世界大戦中、日本軍によって橋の建設を強制された
英国人捕虜の苦境を描いたフィクションですが、
これは、名前が似ているだけで全く違うものだそうです。

そもそもクワイ河という河は存在しておりませんし、
当時もこの川は「クワイ・ヤイ」などと呼ばれていたわけではなく、
それどころか「メークローン河の一部」で、固有の名前がなかったのです。

ところが、映画がヒットしたため、現地では、フィクションのイメージを
現地の観光資源にできるとでも思ったのか、
1960年になって、わざわざ「クワイ・ヤイ」と映画に寄せて命名したのです。

これが本当に「クワイ川」ならば歴史的な写真に違いなかったのですが、
いろんな点で微妙にハズしているといえなくもありません。

補給のために日本軍が設置したからこそ米軍が爆破したわけで、
捕虜を使役したのも間違っていないかもしれませんが。

ちなみに、鉄道建設中に亡くなった捕虜たちの墓も近くにあるそうです。
コレヒドール

フィリピン北部のマニラ湾口に位置する戦略的な島、コレヒドール。
米軍とフィリピン軍は1942年5月に日本に降伏し、
約3年間日本軍の駐留地となっていました。
ラバウル
南太平洋、ニューギニア島の東に位置するラバウルは、
1942年1月に日本軍に占領され、海軍と航空隊の重要な拠点となっていました。
火山に囲まれ、優れた港を持つこの日本軍の拠点は、
アメリカ軍の度重なる空爆の標的となり、最終的には無力化されることになります。
ソロモン諸島
ソロモン諸島は、ニューギニアの東に位置する南太平洋の島々です。
第二次世界大戦中、ガダルカナル島をはじめとする
ソロモン諸島の島々は日本軍に占領されていました。


ジャングルにおけるどちらにとっても過酷な戦いの結果、
1943年にアメリカ軍は島を奪取しました。
写真には島の先端に見えるのは大型の艦船でしょうか。

【アウシュビッツ】


1944年に航空偵察で撮影されたポーランドのアウシュビッツ収容所の様子。

1 処刑の壁
2「ブロック11」懲役ブロック3 受付ビル4 受付を待つ囚人の列(蛇行した線が見える)
5 収容所厨房 6 ガス室と死体焼却所
7 収容所管理棟8 収容所司令室9 収容所長の官舎

続きます。



オーマー大佐のカリフォルニア偽装大作戦〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン亜博物館の「スカイ・スパイ」シリーズ、
前回は第一次世界大戦から第二次世界大戦までに撮られた
歴史的な軍事空撮写真をご紹介しました。

今日は、その空撮に「対抗」した相手側のカムフラージュからです。
飛んでくる飛行機の撮影を防ぐことができないのなら、
その努力を阻止したり、写真の解釈を混乱させればいいのです。
そのためにいろんな技巧が凝らされました。

【影のないクレムリン】
第二次世界大戦中にドイツ軍の偵察隊が撮影したクレムリンのカモフラージュ。
訓練された目で見ると、「ダミー」の建物がはっきりとわかります。

ヒントは影。
本物の建物には長い影ができますが、平らな偽物にはほとんど影ができません。


【ゴムの装備隠し】
inflatable、ということなので、ゴムで空気が入れられるものを
戦車などの上にかけて形を分からなくするカモフラージュ方法のようです。
おそらくアメリカ陸軍の写真だと思われます。
【日本軍のベジテーションデコイ】

ものすごく念入りに艦船を植物でカモフラージュしています。

【墓地に見えますか】
これはオーストラリアのカモフラージュ例です。
オーストラリアでは日本軍の空襲に備えて、多くの飛行場が偽装されましたが、
この写真はそのうちの一つガーバット飛行場で、
上空から見ると墓地のように見えるようにカモフラージュされていました。

舗装された場所には、偽の木材でできたデコイの飛行機を置き、
格納庫を迷彩に塗り替えたりと言った具合です。

でもこの写真はどう見ても墓地には見えないような・・・。
■ オマー大佐の「カリフラージュ」大作戦
さて、ここからは、おそらく第二次世界大戦で、というか
かつて人類史上で、もっとも大掛かりで馬鹿馬鹿しく、
ある意味何よりアメリカらしい軍事偽装作戦と思われた、
オマー大佐のカリフォルニア偽装大作戦についてお話ししようと思います。

まずはこのビフォーアフターの写真をご覧ください。


【ビフォー】

カリフォルニアのロッキード社の工場。
もしカムフラージュをしていなければこんな感じです。


【アフター】
工場が並んでいたところは全て緑地帯になり、
家が立ち、畑となっています。
写真では不自然さは隠し切れていませんが、これが
陸軍の「迷彩の魔術師」、オマー大佐の一世一代の作品でした。

矢印の先に「道」のようなものがありますが、出口がなく、
どこにも繋がっていません。
しかし、これもじっと見ているからこそわかることで、
おそらく航空機からは認識されないと思われます。


そこでもう一度アフター写真をご覧ください。ちょっとわかりにくいですが、要するにこういうことです。

工場の屋上に畑と家を作って上空からは農村地帯にしか見えないという。
造園家に依頼してデザインされたそうで、とてつもなく大掛かり。
夜に電気がついていなければバレるのではという気がしますが、
つまり日本軍のパイロットの目さえ欺けばいいので、夜はどうでもいいのです。

よくできているように見えても、実物はこの通り。
それにしてもこのお姉さん何者?
現在「ボブ・ホープ空港」となっている
バーバンクのロッキード・エア・ターミナルでは、敵の攻撃に備えて
施設を大々的に偽装していたことで有名です。
その方法も、空港全体を迷彩ネットで戦略的に覆うという異例なもので、
さすが金持ちアメリカというか、お金はものすごくかかりそうですが
非常に効果的な方法がとられていました。
映画「1941」で描かれた「ロスアンジェルスの戦い」を覚えていますか?

あの映画ではサンフランシスコ湾の外で三船敏郎艦長の日本軍の潜水艦が
いきなり浮上するというオープニングでしたが、実際には同じように
1942年2月、サンフランシスコに到達した日本軍の潜水艦が数日後の夜、
サンタバーバラ沖に浮上して石油貯蔵施設に数発の砲弾を撃ち込みました。

そこで陸軍省は西部防衛司令部の責任者であるジョン・L・デ・ウィット中将に、
太平洋岸の重要施設を守るよう命令したのです。
守ると言ってもどうするの、というところで考え出されたのが偽装でした。
カリフォルニア州全土のカモフラージュ、つまりカリフラージュです。

その任務は、陸軍技術者ジョン・F・オーマーJr.大佐に任命されました。
なぜこの人だったかというと、1940年のバトル・オブ・ブリテンで、
大佐が指揮した入念なカモフラージュのおかげで
ドイツ空軍に何千トンもの爆弾を何もない野原に撒き散らし無駄にさせた、
という実績があったからです。

オーマーは、いわば迷彩の技術と科学に魅了されていた人で、
陸軍に入隊してからは、マジックと写真を組み合わせて、
目とレンズを欺くための独創的な方法を模索していました。

もし陸軍が、陸軍第604工兵迷彩大隊の隊長だったオーマーの、
ハワイのホイーラー・フィールドをすっぽり覆って隠すという案を
高すぎるという理由で却下しなければ、その年の末、
日本軍の真珠湾攻撃からこの基地だけは被害を逃れたかもしれません。

この時ホイーラー飛行基地は83機の戦闘機を失いましたが、
皮肉なことに、それらの1機当たりの値段は、ほとんどが、
オーマーが提案した隠蔽工作のコストに匹敵しました。


日本軍のカリフォルニア空襲はいまや差し迫った脅威となっていました。
特に上層部は木造の航空機組み立て工場が狙われることを恐れました。

結果としてオーマー大佐には「夢のような」任務があたえられます。

概念は単純、しかし範囲は巨大。
それは、サンディエゴからシアトルまで、
爆撃されそうなものを全て消滅させるという計画でした。
飛行場、石油タンク、航空機警報所、軍事キャンプ、防衛砲台など。
特にロッキードのような飛行機を製造する主要施設が1つでも失われれば、
軍が期待していた戦闘機、爆撃機、貨物機など約3,500機を失うばかりか、
工場の復旧には1年以上かかるでしょう。


オーマーが、最も優秀な民間人を探すために目をつけたのはハリウッドでした。

映画スタジオに出向き、セットデザイナー、アートディレクター、画家、大工、
造園家などのスキルをこの緊急課題に活用し、さらにアニメーター、
照明技師、小道具デザイナーなどの意欲的な人材を集めました。
映画のセットを時間との競争で作り上げる彼らが、誰よりも
イリュージョンの基本を理解していることを知っていたのです。

ハリウッドのほぼ全ての映画スタジオ・・・メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、
ディズニー・スタジオ、20世紀フォックス、パラマウント、
ユニバーサル・ピクチャーズなどの背景デザイナー、画家、アートディレクター、
風景アーティスト、アニメーター、大工、照明専門家、小道具係などの協力を得て、
オーマー大佐は街を丸ごと偽装する作業を開始したのです。

まずは、ダグラス・エアクラフトをはじめとする、
敵のターゲットとなりうる主要な工場や組立工場からです。

それこそあっという間に、プロの手によって、ロッキード・ベガ航空機工場は、
キャンバスに描かれた長閑な田園風景にゴム製の自動車が点在する
「田舎」に完全に偽装されていました。

動物がいる小さな農場、納屋、サイロなどの建物。
何百本もの木や灌木は、針金に接着剤をつけ、葉っぱには鶏の羽を使って、
さまざまな色の緑(茶色の斑点もある)に塗られ、
エアダクトは消火栓のように塗装されました。

キャンバス地の切れ端や配給箱、麻ひもをチキンワイヤーに貼り付けたデコイ機、
平らにしたブリキ缶などは、近くで見ると全く本物に見えないのに、
遠くから見ると目を欺くには十分でした。

おそるべしハリウッド。
しかし、一番お金がかかったのがロッキードで、他の、
コンソリデーテッドなどは偽装網をかけるだけで十分でしたし、
たとえば石油貯蔵タンクなどは、この写真のように、
【石油タンク隠し】
ごく簡単に偽装のための屋根をかぶせてカムフラージュしています。


タンクに屋根をかぶせているのですが、よく見ると家には見えません。
しかし、パイロットの目を一瞬欺くことができれば十分です。
【カモフラージュの下の世界】

上をカモフラージュで覆われていると、したの通路はこんな感じです。
まあ、日除けにはなったかもしれませんが。

結局ボーイング社の屋上は、53軒の住宅と10数軒のガレージ、温室、
サービスステーション、店舗で構成されていました。
それら建築物の幅と長さは実物大のままでしたが、
スピードとコスト、そして戦時中の物資不足を考慮して、
高さだけが6フィートとなりました。
高速で飛行する航空機からは高さまでは把握できないからです。
オーマーの「策略」にまずひっかかったのは味方のパイロットでした。
陸軍とハリウッドのスタッフは、要するに
パイロットを数分間混乱させさえすればいいというクォリティで
この「イリュージョン」を作り上げたのですが、
ダグラスを探す味方のパイロットたちは、見慣れた風景がなくなって
当初迷子になったりしたと言いますから、
関係者はそんな話を聞くたびにおそらく快哉を叫んだに違いありません。
もちろん、そのマジックが効果を持つのはせいぜい1万フィートの高度からで、
低空で着陸態勢に入ると、フェイクであることは丸わかりとなるのでした。
そして、それなりの「公害」もありました。
雨が降ると、塗料が染み込んだ羽毛はひどいにおいを放ち、暖かくなると、
緑色のタールでコーティングされたモコモコした羽毛が漂い、
工場から出荷されたばかりの飛行機に付着しました。

最後に、これはいわゆるつまらないアメリカンジョークの類です。

この仕事で特に中心となって仕事を受けたのはワーナーブラザーズでしたが、
そのため、社長のジャック・ワーナーは、ロッキードに媚びるあまり?
自社施設でロッキードの代わりに飛行機を作っているのだろうと思われかねないと、
ワーナーの社屋に「ロッキードはあちら→」と描かせた、
という嘘のような本当でない噂が関係者の間で流れたそうです。

続く。



令和3年 海上自衛隊東京音楽隊第61回定期演奏会@サントリーホール

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去る令和3年2月20日に東京赤坂のサントリーホールで行われた
海上自衛隊東京音楽隊第61回定例演奏会に参加させていただきました。
前日の雨は止みましたが、予報は一日曇りを告げる日曜です。
わたしは会員となっている商業施設の駐車場に早めに車を停め、
日曜で森閑としているビル内のスターバックスで開演を待ちました。

コロナ前であれば、オフィスは休業でももう少し人で賑わっていた場所です。
サントリーホールの前まで行ってみると、なんと向かいのビルは
カラヤン広場に面したカフェこそ営業していたものの、
ビル内部に続く扉はオフィス休業日ということで鍵がかかっていました。

サントリーホールには開館以来何度となく足を運びましたが、
こんな寒々しい開演前のカラヤン広場を見るのは初めてです。

昔・・・・・といってもまだバブルの尻尾的名残が残っていた頃、
当時の全日空ホテルに行くために広場前を横切ったら、
サントリーホールの前に、日本ではついぞ見たことがないような
ロングドレスにブラックタイの観客が、おそらくオペラの幕間だったのか、
外に出てきてなんとシャンパングラスを手に笑いさざめく光景を目撃しました。
(シャンパンはおそらくロビーカウンターから持ってきたもの)

流石にそんな光景を見たのはその時だけでしたが、
今にして思えばあれは日本が華やかな時代を享受し尽し終わる前の
最後の残光のようなものだったような気がします。

あれからいろんなことが起こり、今ではそんなことがあったのが
夢ではないかと思えるそのまさに同じ場所で、わたしは一瞬感慨に耽りました。


今回は届いた座席番号の書かれたハガキ状の入場券を見せると
係はそれを手に取って確認することなく、プロブラムを自分で取って、
席に着くという「非接触型」の開場になっていました。

ロビーに人が出てソーシャルになるのを防ぐため、
休憩時間を設けずに短めのプログラムを一気に行うのも以前と同じです。

わたし自身もコンサートというものにはしばらく足を向けていませんでした。
自衛隊以外では非常事態宣言前のペンタトニックス以来行っていないのですが、
これがコロナ禍下でのコンサートの新しい常識というものなんでしょうか。
席は前回と同じく一席ごと空席を設け、ステージ前数列も空席です。

ホール内では写真撮影禁止というアナウンスはありませんでしたが、
前回のように何が変わったかわからなかったので、
カラヤンが助言して設置されたというサントリーホールの流麗な
オーストリアのリーガー社製パイプオルガンの写真も我慢しました。

「サントリーホール オルガン プロムナード コンサート」
お昼休みの無料コンサート/演奏:坂戸真美(2017年11月2日)
ちなみに、サントリーホールは定期的にパイプオルガンの
無料コンサートを行なっています。

パイプオルガンは使用していないと、最悪ネズミ一家が住み着いたり、
埃などでいろんなところに不具合ができるので、料金が発生しない集客で、
演奏者にもボランティア的に出演してもらってでも稼働させないといけないのです。


今回は、会場内での会話を禁止するアナウンスはありませんでしたが、
演奏中の写真撮影、演奏後の時差退出などを告知するアナウンスの、最後に
「ブラボー」という掛け声などもご遠慮ください、というのには苦笑しました。
余談ですが、クラシック鑑賞業界?には「ブラボーマン」というのがいます。
それは、演奏終了後ブラボー!と叫ぶのを我が使命とし、あわよくば
有名演奏家の来日公演ライブレコードに我がブラボーを永久に残そうと、
演奏内容より終わりの瞬間を待ち受けることに全神経を傾けて
コンサート会場に通う、「自称クラシック通」のおじさんのことです。
(女性にはいない。見たことがないし聴いたこともない)

このブラボーマン、静かな曲の終演後にやったり、チャイコフスキーの交響曲6番で
3楽章の終わりについフライングしてしまったりするので、一般に評判が悪く、
演奏家にとってもあまり歓迎されていない(と思う)存在なので、
このようにホール側が堂々と「ブラボー禁止令」を出すことができたのは、
ある意味コロナ禍下における「奇貨」と言ってもいいんじゃないかと思いました。

そういえば、わたしの知り合いの演奏家の父上は、息子専門のブラボーマンで、
息子の演奏後、朗々たる美声で「ブラボー」はもちろん、
「マエストロ!」などとアレンジして叫ぶのを楽しみにしている方でしたが、
この楽しみがなくなってさぞがっかりしておられると思います。
っていうか、そもそも演奏会自体もできなくなっているかも・・。




■ 前半・イタリアオペラの世界

さて、前回、定例演奏会で海上自衛隊初の男性歌手が「お披露目」をした、
とご報告し、さらに今回の定期演奏会での曲目に
プッチーニの「誰も寝てはならぬ」があったことから、
今回のコンサートはこの男性歌手の正式なデビューになるだろうと予想しました。

プログラムは、どうやらそこに焦点を当てたらしく、1番から4番までは
イタリアオペラから、序曲、女性アリア、男性アリア、間奏曲という構成です。

1、歌劇「ウィリアム・テル」序曲より スイス軍隊の行進
ジョアッキーノ・ロッシーニ


演奏者の髪型と画質からかなり前の演奏?

イタリアオペラの序曲といえば、知らない人のいないこの曲。
もしかしたら、この部分が正確には序曲の4部であり、
「スイス軍の行進」という題がついているということを
知らずに聴いている人も多いかも知れませんね。

吹奏楽のアレンジが合うのでよくこのような編成で演奏されます。

案内なしで一曲目が終わると、おなじみ、ハープ奏者の荒木美佳2等海曹
(幕僚監部総務課広報部と自己紹介された)の司会により、
今回の定期演奏会はいよいよ始まりました。
曲と作曲者紹介の際、ロッシーニが美食家だったこと、それゆえ
世には「ロッシーニ風」料理がたくさん残されている、
という楽しい話題を取り上げて、掴みは万全のMCです。

ロッシーニ風はステーキとかカツレツとか、とにかく肉系の料理に多いようですね。
特にロッシーニ風ステーキとくれば、フィレ肉とフォアグラに、
マディラワインに黒トリュフソースという成人病一直線みたいな一皿でございます。

そんな贅沢料理を愛したロッシーニの死因は直腸癌だったとか。
自業自得とはいえ、本人も以て瞑すべしだった・・・と思いたい。

わたしは、料理についての彼の箴言?のうち、
「女が作る料理は、バターをケチるからいけない」
とか、自分の銅像が生きているうちに建つと聞いた彼が、その建造費を聴いて、
「それだけくれたら私がずっと立っていてあげるのに」
と言ったという話が好きです。


2、歌劇「ランメルモールのルチーア」より 辺りは沈黙に閉ざされ
ガエタノ・ドニゼッティ

まず、先輩歌手?の中川麻梨子三等海曹がオペラの大アリアを歌いました。
コアなオペラファンでもない限りご存じないオペラだと思いますが、
ヒロイン、ルチアの「狂乱のアリア」とこの曲は大変有名です。
この日中川三曹が選んだのは、好きでもない男と結婚させられそうになるルチアが
泉のほとりで、恋人を刺されて泉に沈められた女の幽霊話のついでに?
自分が本当に愛している男を思って歌うシーンのアリアでした。

ちなみにメトで歌い終わった後、12分間拍手が鳴り止まなかったという、
伝説の歌手ジョーン・サザーランドの歌唱はこちら。(アリアは5:00から)



お聴きになれば、いかに技巧の難しい曲かはお分かりいただけるでしょう。
中川三曹は声楽コンクールにも入賞している本格的なソプラノ歌手で、
歌いこなすだけでも大変なこの曲を見事に仕上げておられました。

ただ一つ残念だったのは、吹奏楽団の伴奏とのバランスの関係で、
ところどころ声が伴奏に埋没してしまったことでしょうか。

しかしこれは、自衛隊音楽隊における宿命のジレンマみたいなもので、
オケの曲を吹奏楽に編曲する限り、作曲者の意図とは乖離する部分が出てきます。

特にクラシック声楽曲と吹奏楽の相性は難しいと考えます。
一般にオペラ歌手は増幅装置一切なしでフルオケバックに声を響かせられますし、
今回は足元に目立たないマイクを置いて調整していたように見えましたが・・。


3、歌劇「トゥーランドット」より 誰も寝てはならぬ
ジャコモ・プッチーニ

Luciano Pavarotti's Last Public Performance - Torino 2006 Opening Ceremony | Music Monday
せっかくなので、トリノオリンピックでのルチアノ・パヴァロッティの演奏を。
トリノの時には、閉会式でアンドレア・ボッチェリも歌っていましたっけ。

つくづく、世界一の歌手がゴロゴロいる国は、いざオリンピックとなっても
アトラクションの方向性に一切迷いがなくていいですね(ため息)

今回大注目の男性歌手、ハシモト・コウサク二等海曹のデビューです。
自衛隊のポリシーとして隊員個人をクローズアップしないので、
バックグラウンドどころか名前の漢字すらいまだにわからんのですが、
音楽大学でオーソドックスな声楽の勉強をされた方のように思われました。

この曲は幸いオーケストレーションが元々そのようにできているので、
バックとのバランスはさほど気にならなかったです。


思うに、オペラのアリアは、その数分間で登場人物とその世界を演じ切る芸術です。

この「ネッスン・ドルマ」(誰も寝てはならぬ)という曲は、
何かの理由で結婚したくないがため、求婚者に謎解きをさせて(かぐや姫?)
解けない者を斬首させてきた紫禁城のトゥーランドット姫の元に現れた王子が、
謎をいとも簡単に解いてしまったにもかかわらず、往生際悪くゴネる姫に向かって、
今晩中に私の名前(カラフ)を当てたら私を殺すが良い、
私は朝には必ず勝利しあなたを手に入れる、と力強く宣言する歌です。

ハシモト二曹が「ビンチェロー!」(勝利する)の後の後奏の間、
カラフがそうであったように、勝利を確信した風に拳を握りしめて
炯々とした眼を宙に据えた立ち姿は、その長身もあって姿勢が実に美しく、
(この辺りは自衛官としての任務の賜物かも)この様子には心底感動しました。

まだお若いので、これからいろんな経験値を加えて身体作りを含め、
音楽家としての幅を広げていかれることを期待します。


4、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より 間奏曲
ピエトロ・マスカーニ

前半のイタリアオペラパートの最後に選ばれたのは、マスカーニの
翻訳すると「田舎の騎士道」というタイトルの歌劇の間奏曲でした。

イタリアンパートとしては最後の曲ですが、コンサート全体としては
この曲が中間点となる、という意味で選ばれたようです。

有名なこのオペラの中で最も人口に膾炙したと思われる間奏曲で、
誰もが一度は聞いたことくらいあるのではないでしょうか。

ただ、この曲に関しては吹奏楽のアレンジに物足りなさを感じました。

前奏部分が終わって主旋律となった時に、オケ版では弦楽器がメロディを奏で、
ハープ2台とコントラバスのピッチカートがそれを支えるのですが、
このアレンジだと、吹奏楽をハープ1台とコンバスだけで支えることになり、
このピチカートのメロディが埋もれて全く聴こえてこなかったのです。
マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
[吉田裕史指揮]


僭越ながら、原曲のスタイルにこだわらず、
いっそポップス風にアレンジしてしまった方がよかったのでは、と思いました。



■中間・海上自衛隊紹介(艦Tubeのことなど)

本来ならここで休憩というところで、改めて海自の宣伝が入りました。
海上自衛隊の「艦tube」(かんつべと読みます)の紹介などですね。

制服系公務員ユーチューバーとして、中の人が紹介しています。
【艦Tube】輸送艦「おおすみ」に潜入してみた!


【艦Tube】P-3Cで離陸してみた!


東京音楽隊の内部潜入バージョンも!(おすすめ!)

【艦Tube】東京音楽隊で演奏してみた!


■ 後半  ザ・吹奏楽曲

前半では歌手の歌声を堪能し、それはそれで大変満足しましたが、
その関係上、オーケストラ曲の吹奏楽編曲が続くことになったため、
後半最初のこの曲では、出だしのこれぞ吹奏楽!という響きに心が沸き立ちました。
遥かな海へ 川邊一彦

海上自衛隊 ~遥かな海へ~


ご存知、かつて東京音楽隊長でいらした川邊一彦氏の曲を、
海自の公式チャンネルが素晴らしい映像に被せた名作です。

海上自衛官にしか作れない音楽と海上自衛官ならではの素晴らしい編集、
海上自衛隊ファンなら1日に一度は必ず見たくなること請け合いです。

そして実際にネイビーであった人であれば、この、波の音や風の音まで再現し、
「出港用意」「入港用意」の声を配した曲に特別の感慨を持たれるでしょう。

わたしの一つ置いた隣にはアメリカ海軍らしき方が座っておられたのですが、
同じネイビーとしてこの曲をどう思っておられるかな、などとつい考えていました。

ところで、楽譜に書かれている「出航用意!」「入港用意!」の声を
このステージではどの楽器が担当しているんだろうと思っていたのですが、
最後に樋口隊長が、後ろに座っている歌手のハシモト二曹を紹介しました。

なるほど、男性歌手の「使い方」として何たる適材適所。

そして、予想通り、演奏が終わってから樋口隊長は客席を探す仕草をしてから、
観客の一人となって演奏を聴いておられた作曲者を紹介しました。

座っておられた席が近かったので、退場の時声をかけられる距離を歩いておられ、
わたしはこの曲が大好きであることと、川邊隊長が退官前の音楽まつりで
歌声を披露され、すっかりそれに魅了された記憶があったことを
お伝えするチャンスだったのですが、こういうとき極端に引っ込み思案のわたしは、
結局どうしても声が出ず、心の中で称賛を送るにとどまりました。



吹奏楽のための第一組曲 Suite for Military Band op.28
グスターブ・ホルスト
「吹奏楽のための第一組曲」イギリス式 金管五重奏 
海上自衛隊 横須賀音楽隊『按針フェスタ2017』


ホルストといえば「惑星」ですが、この曲は原題である
「For Military Band」の通り、元々は軍楽隊のために作曲されました。

この曲の解説では、吹奏楽が軍楽隊から発展したものであることなど、
その起源が紐解かれて、観客の興味を引きました。

説明の通り、吹奏楽=軍楽とはっきり記録に残されているのは
1557年に結成されたロイヤル・アーティラリーバンドだと言われます。

しかし、「ミリタリーバンド」というのは英語の解説によると、
必ずしも軍楽隊だけを意味するものではなく、20世紀以降は
地元の警察や消防団、さらには工業会社が組織する民間バンドなど、
木管、金管、打楽器を含むあらゆるアンサンブルに
「ミリタリーバンド」という言葉が適用されるようになったとあります。

この日の前半がたまたまそうであるように、当初イギリス軍楽隊では
演奏していた音楽の大半がポピュラー音楽やオーケストラの編曲だったそうです。


つまり、吹奏楽というメディアのために特別に作曲された本格的な音楽はまだなく、
従って楽器編成も標準化されていなかったということですね。

これは、管楽器群からなるアンサンブルは音色のまとまりに欠ける、
という管弦楽至上主義的な考え方が浸透していたことに加え、
決まった楽器編成がないことが作曲家にとって大きな障害だったようです。

ホルストがわざわざ「軍楽隊のために」と楽器構成を指定して作曲したのが、
この「変ホ長調組曲」で、吹奏楽というメディアを念頭に置いて作曲された
ほとんど初めての試みだったとする説もあります。

しかしながらわざわざそう断るだけあって、非常によく練られており、
響きも計算されていて、それというのもホルスト自身、
トロンボーン奏者としてバンド経験を重ねる中、従来の吹奏楽レパートリーに
大いに不満を抱いていたことが作曲のきっかけだったからだそうです。

ただし、この作品については詳しいことはほとんどわかっておらず、
委嘱作品であったという記録もないため、作曲の直接の動機は不明だそうです。


ともあれこの組曲は、吹奏楽のために書かれた本格的な作品であり、
軍楽隊特有の課題に対応するためのオーケストレーションで書かれています。

先ほども書いたように、当時は軍楽隊に標準的な楽器編成がなかったため、
ホルストは19の楽器のスコアを書いているものの、
残りの17のパートにはなんと、「ad lib.」と記されています。

ちなみに当時のイギリスの軍楽隊は20人から30人程度だったので、
19のパートをカバーした後、残りのパートは文字通り「アドリブ」で
作品の完成度を損なわずに追加したり削除したりできる仕組みでした。

この第1組曲は音楽史的、というか吹奏楽音楽史的に重要な意味を持ちます。

多くの著名な作曲家たちに、この曲以降、木管楽器、打楽器、金管楽器という
組み合わせを使って本格的な音楽が書ける確信を与えたのです。

レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」(1923年)、
ゴードン・ジェイコブの「ウィリアム・バード組曲」(1923年)
などがその代表的な例と言われています。
曲は3楽章から成り、どれも「スコッチ風」が色濃く匂いました。


「ハイランド讃歌」より フラワーデール
フィリップ・スパーク

フィリップ・アレン・スパーク(1951年生まれ)はロンドン生まれ。
コンサートバンドやブラスバンドの音楽で知られています。
ホルストに続いてスパークで、後半は川邊氏以降オールイギリスだったわけです。
初演は2002年で、テーマはスコットランドですが、民謡は使われていません。

組曲全体は7つの楽章からなり、すべてスコットランドの
ハイランド地方にちなんだ名前となっていますが、この日はその中から

フラワーデイルFlowerdale - ソプラノ・コルネット・ソロのための
が演奏されました。
この曲はその地名ごとにユーフォニウム、コルネット、フリューゲルホルン、
ホルン、バリトンにソロを与えるという形式がとられていたので、
この日はヒラタ・クンペイ三等海曹がこのソプラノコルネットを演奏しました。
ソプラノコルネットは普通の楽器より短く、吹奏楽の最高音域を出します。
ピッコロよりも高いってことですね。
どんな音が出るのかは下のよーつべでお確かめください。

Flowerdale-Soprano Cornet Solo-


宇宙の音楽Music of the Spheres
フィリップ・スパーク


作曲者自身が指揮をしているバージョンを見つけました。
最後に、選ばれたのは、同じスパークの吹奏楽の大曲です。

宇宙の音楽とは普遍音楽、musica universalisとも言います。
曲の題名にスフィアとあるのでお分かりかと思いますが、これをまた
球体の音楽、球体の調和とも呼ぶこともあります。

古代ギリシャで生まれ、ピタゴラス学派の教義となっていた理論で、
太陽、月、惑星などの天体の動きの比率を音楽として捉える哲学的な概念です。

16世紀になって、天文学者ヨハネス・ケプラーがこの理論を発展させました。
ケプラーは、この「音楽」が耳に聴こえるものではなく、
魂によって聴くことができると考えていたようです。

この思想はルネサンス末期まで学者たちを魅了し続け、
人文主義を含む多くの思想家たちに影響を与えました。

スパークもまたこの思想に着想を得て、宇宙の創生から未来を表しました。
1、「t=0」テナーホーンの独奏により宇宙の始まりを表す
2、激しい「ビッグバン」
3、「孤独な惑星」生まれたばかりの地球
4、「小惑星帯と流星群」地球に迫る危機
5、「天球の音楽」6、「ハルモニア」宇宙全体が奏でる音楽
7「未知なるもの」宇宙の未来

という7つのパートに分かれます。

演奏をお聞きいただくとわかりますが、打楽器パートの目覚ましい活躍をはじめ、
その音の洪水が織りなす「宇宙観」には飲み込まれずにはいられません。

最後に、「遥かな海」でも使われた風を表すための大きなローラーを演奏した
打楽器奏者を、樋口隊長がスタンドアップさせる時、
ぐるぐる手を回す動作をされていたのに個人的にウケました。

この曲、元々は管弦楽のための曲だったそうですが、
作曲者本人の手によって吹奏楽のスコアも書かれました。

ホルストの「軍楽隊のために」で音楽としての定型を得た吹奏楽が、
その後進化したその一つの最終形、という言葉が出てくるほどの完成度の高さ。
それを演奏した東京音楽隊の完成度と意欲の高さもまた素晴らしいものでした。


そして、海上自衛隊音楽隊の終演時には必ず演奏される行進曲「軍艦」の後、
時差退場が始まり、ステージの上の隊員の皆さんが、
演奏時の表情から一転破顔して両手で客席に手を振ってくれるのに
送られながらサントリーホールを後にしました。

そして、会場のロビーでアンケートの回収などの作業をおこなっている
自衛官の方々の応対も、丁寧で温かく、言葉を交わしただけで
心が癒されるようだったということもぜひ付け加えておきたいと思います。


素晴らしいひとときを本当にありがとうございました。



U-2事件と捕らえられた偵察パイロット〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の軍事偵察・写真のコーナーから、
今日は偵察機ロッキードU-2を取り上げます。
その前に、アメリカ空軍の偵察パイロットであり、
数奇な運命により有名になったある人物の話をしましょう。
■捕らえられたU-2パイロット
 フランシス・ゲーリー・パワーズ大尉
Francis Gary Powers 1929-1977

パワーズ大尉
米ソ冷戦の真っ只中であった1960年5月1日、アメリカのU-2偵察機が、
ソ連領内深くで空中偵察を行っている最中に、ソ連防空軍に撃墜されました。
これをU-2撃墜事件といいます。

CIAパイロット、フランシス・ゲリー・パワーズが操縦する単座機は、
スベルドロフスク、現在のエカテリンブルグ付近上空で
S-75ドビナ(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルを受けて墜落し、
機体から脱出したパワーズはパラシュートで降下し、捕らえられます。
アメリカ政府は当初、NASAの民間気象調査機が墜落したと言い張っていましたが、
数日後、ソ連政府が捕虜となったパイロットとU-2の監視装置の一部、
作戦中に撮影されたソ連軍基地の写真などを公表したため、
それがアメリカ軍の軍事偵察機であることを認めざるを得なくなりました。

【U-2事件の背景】
当時の両国首脳はアイゼンハワー大統領とフルシチョフ首相でした。

キャンプデービッドにおけるアイクとフルシチョフ

まずいことに、両巨頭は2週間後にパリでの東西首脳会談を控えていました。

フルシチョフとアイゼンハワーは、前年すでにキャンプデービッドで
歴史的な直接会談を行なっており、その成果がまずまずだったことから、
アメリカ政府は、次の会談を、米ソ関係の雪解け、
冷戦の平和的解決につなげようと大きな期待を持っていました。

ところがよりによって最悪のタイミングでこの事件が起こってしまったのです。

先の会談の開催地名から、両者の歩み寄りと友好具合をして
「キャンプ・デービッドの精神」と世間にもてはやされているときに事件が起こり、
予定されていたパリでの首脳会談は中止となってしまいました。

U2の事件はアメリカの顔に泥を塗ることになってしまったのです。
アイゼンハワーは、この知らせを受けて俺おわた、と思ったに違いありません。

そもそも、どうしてよりによってこんな時期に、
アメリカはソ連の領地奥深くに入り込んで偵察をしていたのか。
そのきっかけとなったのは、他でもないアイゼンハワー大統領その人でした。

キャンプ・デービッド会談の前年となる1958年7月、
アイゼンハワー米大統領は、パキスタンのフェローズ・カーン・ヌーン首相に、
パキスタン国内にアメリカの秘密情報施設を設立することを求めました。

当時のソ連戦闘機では届かない高高度を飛行し、ミサイルも届かないと考えられた
U-2偵察機を、ソ連になんとか潜入させることができる場所、ということで
ソ連領内の中央アジアに交通至便なパキスタンが選ばれます。

その結果、アメリカ国家安全保障局(NSA)は大規模な通信傍受を行い、
ソ連のミサイル実験場、主要インフラ、通信の監視が可能になったのでした。

U-2、通称「空のスパイ」は、衛星観測の技術がない時代に、
敵の重要な写真情報を得るための大変有効なツールであったのです。

【アイゼンハワーの誤算】

しかしながら、アイゼンハワー大統領本人は、そもそも
自国のパイロットを直接ソ連の上空に飛ばすことには否定的だったといいます。

それは、もしこのパイロットの一人が撃墜されたり捕らえられたりすれば、
それが侵略行為とみなされる可能性があると考えたからに他なりません。

とくに冷戦時代には、侵略行為とみなされるだけでも、それが
両国間の紛争に発展しかねない一触即発の緊張関係にあったからです。

しかし、せっかくパキスタンに偵察の根拠地を得たので、なんとかここを使いたい。

というわけで、CIA(中央情報局)の代わりに、同盟国であるところの
イギリス空軍のパイロットがソ連の空を飛ぶという案が浮上しました。
当時イギリスは、スエズ動乱でエジプトに負けてスエズ運河を取られ、
国内もしっちゃかめっちゃかという「スエズ後遺症」が残っており、
アメリカの要請を無視できる立場ではなかったので、
結局この提案を飲み、英軍パイロットを偵察に出すことを了承します。
U-2をイギリス人パイロットに操縦させることによって、
アメリカは何かあってもシラを切れる、いや関与を否定できるというわけです。

汚いさすがアイゼンハワー汚い。
しかしこの作戦、イギリスには一体どういうメリットがあったのかと思いますよね。
ジャイアンアメリカの機嫌を損ねることを恐れていたのかな。
イギリスさん、スエズ動乱でそんなに弱り目だったのでしょうか。
それはともかく、最初の2人のイギリス人パイロットは偵察に成功しました。
これはいける、と喜んだアイク、ソ連の大陸間弾道ミサイルの数を
より正確に把握するために、さらに2つの偵察ミッションを許可しました。
その後、2回の成功で調子にのって、パイロットをアメリカ人にしたことが、
アイクとアメリカ政府にとって大きな後悔を生む結果となります。
これが5月16日に予定されていた4カ国首脳会議(パリサミット)の前のことです。

そして1960年4月9日、CIA特別部隊「10-10」のU-2C偵察機は、
ソ連の南側国家境界線をパミール山脈付近で越え、セミパラチンスク実験場、
Tu-95戦略爆撃機が配備されているドロン空軍基地、
サリシャガン付近にあるソ連防空軍の地対空ミサイル(SAM)実験場、
チウラタムミサイル射場(バイコヌール宇宙基地)という
ソ連の4つの極秘軍事施設の上空を飛行しました。


国家境界を飛行した時点でソ連防空軍に探知され、U-2は飛行中に
MiG-19とSu-9による数回の迎撃を受けますが、これを回避し、
諜報活動をまず一回成功させました。
【U-2撃墜さる】

パリでの東西首脳会議開催予定日の15日前の5月1日。

ロッキードU-2C偵察機「アーティクル358」に搭乗した
ミッションパイロットのフランシス・パワーズ大尉は、
作戦コード「グランドスラムGRAND SLAM」を受けて基地を出発し、
バイコヌール宇宙基地やプレセツク宇宙基地のICBM発射場などを偵察、
撮影するというミッションを成功させました。

しかしながらソ連側はU-2の飛来を十分予測していたため、
ソ連ヨーロッパ地域と極北のソ連防空軍の全部隊が警戒態勢に入っていました。
機影が探知されるやいなや、全空軍部隊の指揮官に、

「進路範囲内を全てくまなく警戒飛行し、
侵入者を攻撃、必要とあらば『体当たりram』せよ」

という過激な発令が下されました。


ramというのはAir rammingともいいます。
昔の軍艦に装備されていた衝突用の「衝角」をラムといいますが、
航空機のラムは、空中での体当たりのことで、
戦法として行うため自身は生き残ることを目的としているところが戦略であり、
自死が前提の神風特別攻撃とは全く違っています。
このときソ連軍司令部が出した「体当たりしてでも」という命令は
偵察機に対する戦法としてはあまりにアグレッシブですが、
「資本主義者の侵略意地でも許すまじ」とでもいう気概だったのでしょう。

しかし、ソ連軍の戦闘機による迎撃は失敗に終わりました。
先ほども書きましたが、U-2の航行高度が極端に高かったためです。

戦闘機の攻撃を難なくスルーしたU-2はウラル地方のコスリノ付近まできました。
そこで、ミハイル・ボロノフ中佐が指揮する砲台が発射した
3発の地対空ミサイルSA-2ガイドライン(S-75 Dvina)のうち、
最初の1発がU-2にヒットし、撃墜されることになります。


なぜか写真ではなく似顔絵しか残っていないボロノフ中佐

U-2を撃墜した対空ミサイル

スミソニアンに現物展示中
皮肉なことに、CIAはすでにこのミサイルの発射位置を
情報活動によって把握していたはずでした。
このとき、U-2を追っていたソ連のMiG-19戦闘機の1機も
ミサイル一斉射撃で破壊され、結局撃墜されて
パイロットのセルゲイ・サフロノフ中尉は死亡しています。

さすがはおそロシア(あ、ソ連か)と思ったのですが、
いくらソ連でも、味方と分かって撃ったわけではなかったようです。

サフロノフ中尉にとって不幸なことに、この日5月1日が祝日だったため、
MiGのIFFトランスポンダーが5月の新コードに切り替わっておらず、
その結果、機体がミサイルオペレーターに敵と認識され、
さらに一斉射撃が行われたというのが真相のようです。

気の毒すぎるサフロノフ中尉(享年30歳・妻子あり)
しかも、サフロノフ中尉には赤旗勲章が授与されたものの、
勲章には死亡理由などは書かれておらず、彼の存在は、そ30年後の
グラスノスチの時期まで明らかにされなかったそうです。
(やっぱりおそロシア)

没後50周年には、ボリショエ・サビノに駐留するミコヤン製のMiG-31戦闘機に
サフロノフの名前が付けられたそうですが、なんだかなあ。


【パワーズ捕虜になる】
パイロットのパワーズは、この時点では軍人ではありません。
U-2を運行していたのは、軍ではなく、CIAだったからです。
もともとF-84のパイロットであった彼は、朝鮮戦争で数々の戦果を挙げ、
CIAに引き抜かれた後、空軍を除隊し、CIAのU-2による偵察活動に加わりました。

操縦用のスーツを着用したパワーズ
撃墜された機からベイルアウトしようとしたパワーズは、
酸素ホースを外すのを忘れていたため、ホースが切れるまで格闘した末、
ようやく機体から離脱することができました。

さすがのベテランも初めてのことで少しパニクっていたのかもしれません。
パラシュートで降下したパワーズは落下地点の住民に救出されました。
当初ソ連軍兵士と思われていたのですが、すぐに
所持品からスパイであることがバレて逮捕されることになりました。
U-2パイロットのためのサバイバルキット。
U-2パイロットは、フィールドでのサバイバルのために、
驚くほど完全かつコンパクトなキットを装備していました。
マチェーテ(サバイバルナイフみたいな刀)
リップバーム(左真ん中の注射器状のもの)
水分補給キット
サメよけ
浄水タブレット
日除けゴーグル
虫除け

シャープストーン(砥石)
サンスクリーン
バッテリー
サバイバルマニュアル
ホイッスル
コンパス

釣り道具(左下のカードのようなもの)
ウォーターバッグ
ラジオ
シーダイ・マーカー(海難救助用マーカー)
シグナルミラー
単眼鏡

この他、おそらく偵察パイロットの多くが、捕らえられたときのために
何らかの自決用道具を持っていたと思われるのですが、このときパワーズも、
貝由来のサキシトキシンを含んだ致死性の針を改造した銀貨を持っていました。

しかし、彼がそれを使うことはありませんでした。
すぐに没収されてしまってできなかったのか、それどころではなかったのか、
あるいは自決は全く考えなかったのかは謎です。


アメリカ軍司令部は航空機が破壊されたことに30分以上も気づきませんでした。


ソ連当局に捕らえられたパワーズは公開裁判にかけられました。
偵察スパイ行為を行っていたことを自白し、有罪判決を受けた彼は禁固10年、
それもシベリア((((;゚Д゚)))))))送りの刑を言い渡されます。
ちょっと待て、アメリカがパワーズのために何もしなかったはずはないだろう?
と思われた方、あなたは正しい。

もちろんアメリカ側もパワーズの救出のためにいろいろと画策しましたともさ。

その策とは、アメリカでスパイ容疑で逮捕されていた捕虜KGB大佐ルドルフ・アベルとの身柄を交換するというものです。

結果申し入れが成立してパワーズは解放され、無事帰国することができました。

パワーズの有罪を伝える国内紙


帰国することを知り涙するパワーズの妻(美人)

【アメリカ帰国後のパワーズ】
パワーズがアメリカに帰国したとき、アメリカ国内では英雄扱いどころか、
偵察員としての彼の行動に非難の声が起きました。

つまり、撃墜されてからソ連側に逮捕される前に、U-2機密情報や偵察写真、
部品を自爆装置を用いて処分するべきだったでしょ、というわけです。

そして、やはりというか、一部からは
CIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判
もなされました。
戦時中までの日本なら当たり前だったかもしりれない、この
「生きて虜囚の辱めを受けず」論ですが、アメリカでも
軍人に対してはこういう言説があるのかとちょっと驚かされます。
もっとも、今回はパワーズが偵察員であったことが批判の原因でした。
「恥」などではなく、機密保持のためなら自殺も辞すな、というわけです。
パワーズは、帰国後にCIA、ロッキード社(U-2の製造者)、空軍から
事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、
その結果、重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断されました。無実が証明されたというわけですが・・・・本当かしら。
彼はその後、ロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、
1970年、事件における自身の体験を綴った本、
“Operation Overflight”を共著で出版しています。

この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命した、あの
リー・ハーヴェイ・オズワルドがソ連側に渡したレーダー情報が
U-2撃墜事件につながったと指摘しているそうです。

これはどういうことか、5行くらいで説明しておきます。

オズワルドというと、ケネディ大統領の暗殺犯の疑惑がかけられたまま暗殺されてしまっったあの人物ですが、彼は海兵隊員として
厚木で航空管制官をしていたことがあり、そのときに得たU-2の情報を
のちにソ連に亡命したときに当局に売り渡し、その情報をもとにして
ソ連軍はこのときU-2のミサイル撃墜を可能にした、というのが彼の説です。

ケネディ暗殺が謎に包まれているのでこの辺のことも全く明らかになっていません。



1998年、U-2偵察活動についての情報が極秘解除され、
この偵察活動は合衆国空軍とCIAの共同作戦だったことが判明しました。

今もなおアメリカ国内では、パワーズは逮捕時自殺すべきであった、
との世論も根強くあるといいます。

しかし、高度2万メートルで搭乗中にミサイルに撃墜された事例は他になく、
また通常脱出装置が作動しても生還できないケースも多いことから、
自爆操作や自殺が可能であったかなどについては疑問が残されています。

■パワーズが着用したU2フライトスーツ

このときのパワーズの写真が添えられたU-2搭乗員の装備が展示されています。


フランシス・ゲリー・パワーズがソ連から帰国後、
ロッキード社のU-2をテストパイロットとして操縦した際に着用した高高度分圧服。
(実物です)

高高度飛行による生理的影響を防ぐために1950年代に開発されました。
U-2の高高度服のさらなる改良は、
初期の宇宙服開発の技術革新によるものでもあります。

U-2のフライトスーツは、パイロットの体にスーツを密着させるために、
膨らませたチューブとクロスステッチを使った
「キャプスタン原理」を初めて採用していました。
キャプスタン原理については詳しいことはわからなかったのですが、
おそらくこれが関係あるかと・・・。

キャプスタン方程式
これにより機械的な圧力が発生し、
高高度での体内のガスや液体の膨張を抑えることができました。
【フランシス・パワーズの死】

1977年8月1日、パワーズは、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとして
ヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。

事故の原因は燃料計の故障でした。

自分の操縦する機体を撃墜されてその人生を狂わされた男が、
その人生を墜落事故によって終わらせたということになるのですが、
運命とはなんと手の込んだ皮肉な真似をするものです。

墜落中の彼は、かつてU-2から脱出した瞬間を思い返したでしょうか。
2000年、事件から40年後、既に亡くなっていたパワーズに
捕虜章(Prisoner of War Medal)、
殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)、
国防従軍章(National Defense Service Medal)が授与され、
彼の遺族がそれを受け取りました。



パワーズの遺体はアーリントン国立墓地に埋葬されています。
続く。

偵察機のパイロットたち〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の展示のコーナーから、
航空軍事偵察・写真の歴史を取り上げてきました。

今日は少し視点を変えて、やはり現地で紹介されていた
航空偵察機のフライヤー(パイロットではない)たちについてです。
戦闘機のパイロットや爆撃機のチームとは違い、
直接敵を攻撃することがないだけに、軍事航空の世界では
ほとんど取り上げられることのない彼らですが、
さすがはスミソニアン、そんな角度からもちゃんと光を当てています。


偵察パイロットやその他の飛行要員は、多くの場合、非武装で単独で行動し、
多くの戦闘やキャンペーンを陰で支える縁の下の力持ち、
そしてアメリカ人の好きな言い方で言うところの「知られざるヒーロー」でした。

彼らが収集する相手の位置、動き、兵力、そしてその意図に関する貴重な情報は、
我が方が十分な情報に基づいて意思決定を行うのに必要な知識、
条約遵守の保証、そして来るべき危険に対する警告そのものとなります。

彼ら「フライヤー」が歴史的にも注目されず、認識されなかったかというと、
その理由は全て、彼らの仕事が機密事項であるからに他なりません。

ここに数人のアメリカ人が紹介されています。

彼らは敵地の空に勇敢に立ち向かい、
決定的な一枚の写真を集めようとした無名のヒーローたちです。
■ カール・ポリフカ中佐(Karl L.Polifka 1910-1951)

「キル・イン・アクション」任務中戦死という言葉が没年に加えられていたのは、
ミリタリー・ウィキのページであり、普通のウィキには名前すらありません。
しかし、アメリカで最も有名な偵察パイロットと言われています。

その名前からおそらく東欧系アメリカ人と思われる彼は、
第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の中佐でした。

陸軍航空隊のカール・L・ポリフカ中佐は、第二次世界大戦中の1943年、
イタリアの山岳地帯上空での空中偵察任務中に、F-4偵察機のパイロットとして
敵軍と空中戦を行い、これに対し殊勲十字章を授与された人物です。
朝鮮戦争の頃になると、すでに彼の年齢は三十代半ばになっており、
危険な偵察任務に就くには歳を取りすぎていると思われていましたが、
彼は出撃名簿を「ジョーンズ中尉」と偽名を記して飛んでいました。
責任感が強いというのか、いつまでも飛んでいたいという人だったのでしょう。

ある日武装したF-51機で目視偵察のために低空まで降下した際、
敵の激しい地上砲火に遭遇し、機体に大きな損傷を受けました。

損傷した機体で味方陣地へ帰投を試みるも、それ以上の操縦は不可能と判断し、
ポリフカ大佐は機体からパラシュートで降下しようと試みたのですが、
パラシュートが尾翼に引っかかり、脱出に失敗して死亡しました。

■ エリオット・ルーズベルト
(Elliott Roosevelt 1910-1990)


偵察で有名だったゴダード准将の天敵を失脚させるためにどうしたこうした、
という話をした時、このルーズベルトの息子が登場したわけですが、
5回の結婚歴やらその「黒さ」にちょっと驚いてしまいました。

そして、大統領の息子だからといって多目に見られていただけで、
どうせろくなもんじゃないだろうぐらいのことを思っていたのですが、
偵察の世界では、それなりに名前を残しているということがわかりました。

謹んでここにお詫び申し上げます。
写真は、1942年、北アフリカでドワイト・アイゼンハワーに偵察報告をする
エリオット・ルーズベルト(もちろん左)。

この年、ルーズベルトは第12空軍の写真部隊の司令官となっています。
その間、カメラマン、オブザーバー、ナビゲーター、ラジオオペレーターなど、
任務を帯びて、多くの偵察飛行に自発的に同行していたということです。

仕事してまっせ
北アフリカの写真偵察隊の指揮官として、エースパイロットの一人、
フランク・L・ダン中佐(左)と地図を確認するルーズベルト大佐。
なにしろ現大統領のご子息なんで、危険な偵察任務の類は、
周りも忖度したかもしれませんし、本人が望むなら、
後方でお飾りの任務をしてやり過ごすこともできたかもしれませんが、
彼はノブレスオブリージュという概念を理解していたようです。

1943年には地中海の広い範囲で連合軍の偵察活動の指揮をとった彼は、
1945年には准将となり、殊勲飛行十字章をはじめ多くの勲章を受けています。

■ウィリアム・B・エッカー海軍少佐
William Ecker (1924 –2009)

彼がなぜ偵察飛行家として有名かというと、それは
1962年のキューバ・ミサイル危機で活躍したということからです。

1962年10月23日、写真偵察隊62(VFP-62)の司令官であった
ウィリアム・エッカー中佐(当時)は、キューバ・ミサイル危機の最中に、
キューバ上空で初の低空偵察飛行を行い、
ソ連のミサイル基地を初めてクローズアップして撮影することに成功しました。

この任務では、RF-8クルセイダーを使用していました。


偵察士官って頭良さそうに見えませんか

キューバ危機終了後、エッカーはその功績により殊勲飛行十字章を受章。
彼が指揮したVFP-62部隊は海軍部隊表彰を受けることになりました。
1962年11月26日の式典でジョン・F・ケネディ大統領から直接表彰を受けました。

余談ですが、軍退役後、エッカー大佐は
スミソニアン国立航空宇宙博物館の施設で案内係を務め、
一般向けのツアーを行っていたということです。

やっぱり自分の展示の前では力が入ってしまったりしたんでしょうか。

2000年、ケビン・コスナーがプロデュースした映画『サーティーン・デイズ』で、
JFKの甥であるクリストファー・ローフォードがエッカー大佐を演じています。
キューバ危機についてはもう一度別の項でお話しします。

■ルドルフ・アンダーソンJr.少佐
Rudolf Anderson, Jr



ルドルフ・アンダーソンJr.はアメリカ空軍の少佐でありパイロットであり、
アメリカ軍および空軍の2番目に高い勲章である空軍十字章の最初の受賞者です。
アンダーソンは、キューバ・ミサイル危機において、
乗っていたU-2偵察機がキューバ上空で撃墜され、
敵の攻撃によって死亡した唯一の米国人パイロットとなりました。

彼は朝鮮戦争にもパイロットとして参戦しており、
その頃は日本の小牧基地から偵察任務に出撃していたということです。

戦後アメリカでロッキードU-2の資格を取得、キューバ危機において
U-2Fドラゴン・レディで6回目となるキューバ上空でのミッションに出発。 
二歩、キューバのバネス上空で発射された2発のソ連の
S-75ドビナ(NATO呼称SA-2ガイドライン)地対空ミサイルのうち、
1発に撃墜されたとされています。
爆発した近接弾頭の破片が彼の圧力服に穴を開け、高高度で減圧されたのが
直接の死亡の原因だったと結論づけられました。


事故直後の機体。
アンダーソン少佐の遺体は危機終了後の11月4日にキューバから返還され、
2日後、グリーンビルのウッドロー記念公園に埋葬されました。

メモリアルではなく、これそのものがお墓のようですね。アンダーソンの乗っていた機体は現在もそのまま遺されています。


エンジン


エアインテイク

フロントランディングギア

1964年、ケネディ大統領の命令により、アンダーソンは空軍十字章のほか、
空軍特別功労章、パープルハート、チェイニー賞を授与されました。

キューバ危機の際に実際にキューバ上空を飛行したU-2パイロットは
全部で11名いましたが、アンダーソン少佐はその中で唯一の戦死者となります。


■ ジェームズ・R・ブリッケル中佐の写真


1967年ベトナム戦争中に撮られたタイ・ニュエン製鉄所。


これを撮影したのはベトナム戦争のトップ偵察パイロットの一人、
ジェームズ・R・ブリッケル中佐
Lt. Col. James R. Brickel。

この写真は、飛行中に85mm砲弾を受け、左エンジンとエルロンが損傷した
ブリッケル中佐の乗っていた偵察機(どうなっているのかわからない)。
ご本人、コーヒーを手に渋い笑いを浮かべて余裕です。

【DICING(ダイシング)】



ノルマンディー海岸のダイシングショット

「ダイシング」とは?
偵察目標を斜め方向から接近して撮影するための低空飛行のことです。
この写真はその代シングショットで撮られたノルマンディ海岸です。

この言葉は、"dicing with death "に由来します。
ダイシングはご想像の通り「ダイス」サイコロのことで、
この低空飛行にいかに命の危険があるかを表しています。


最後は、女性戦場カメラマンについてです。

■ 戦場写真家 マーガレット・バーク-ホワイト


冒頭写真は、何を隠そうHMS「ザ・クィーン・エリザベス」です。
ハドソン川でタグボートが巨大な船の入港作業を行っている様子ですが、
このブログをご覧の方の多くは、この後船がどうタグボートによって方向を変えていくか想像がつくことでしょう。


撮影は女性写真家であり戦場カメラマンの草分け、
マーガレット・バーク-ホワイト(Margaret Bourke-White 1904 –1971)で、
1952年発行のライフマガジンのフォトエッセイ、
「アメリカを見る新しい方法」のために撮られました。
マーガレット・バーク-ホワイトは常に世界をその目を通して見る時
常にユニークな角度を模索していた写真家でした。

飛行機やヘリコプターのドアからぶら下がって、
空中から見た地上をフレームに収めるという極端なことさえしています。


どうやって撮ったんだろう、と首を傾げる写真が
一枚ならずあるので、ぜひお時間のある方はご覧になってみてください。

バーク=ホワイトは、コロンビア大学では爬虫類学を学んだそうですが、
興味を持っていた写真を仕事に選びました。

結婚は2回して二回とも短期間(2年と3年)で離婚しています。
パーキンソン病を発症し、後半生はその症状と戦いつつ
治癒することなく亡くなりました。

経済的には大変困窮した生活の中での孤独な死だったそうです。

若い頃、彼女のクライアントの一つ、製鉄業のオーティス・スチール社は
セキュリティ担当者が彼女の撮影に難色を示しました。

製鉄会社が防衛産業であるからだというのですが、
国防の観点からなぜ女性であることが懸念されたのかはわかりませんね。

もう一つの理由は、製鉄所内の猛烈な暑さや危険で汚い環境に、はたして
女性とデリケートなカメラが耐えられるかどうか疑問視されたのです。

しかしなんとか懇願し、撮影の許可が出た後、彼女をトラブルが襲います。

当時のモノクロフィルムが、高温の鉄の赤やオレンジではなく、
青い光に反応したため、写真は露出不足で真っ黒になってしまいました。

そこで彼女は白い光を出す新しいタイプのマグネシウムフレアを持参し、
アシスタントにフレアを持たせて撮影を敢行しました。
その結果、当時としては最高の製鉄所の写真が撮れ、
この写真が有名になって彼女は全国的にも注目されるようになったのです。

1930年、彼女は西側の写真家として初めてソ連への入国を許可され、
またナチス政権下のドイツ、オーストリア、チェコスロバキアの撮影のため
ヨーロッパにも渡っています。

ソ連では5カ年計画を記録し、スターリンとその家族を撮影しました。



彼女は第二次世界大戦が始まると、1941年、
戦闘地域で働くことを許された最初の女性となってソ連に渡りました。

ドイツ軍が侵攻してきたとき、彼女はモスクワにいた唯一の外国人写真家でした。
彼女はアメリカ大使館に避難し、大火災の様子をカメラに収めました。

戦争が進むと彼女は北アフリカのアメリカ陸軍航空隊を始め、
ヨーロッパに進出した陸軍に配属されるようになりました。



1943年1月22日、飛行隊指揮官のルドルフ・エミール・フラック少佐は、
バーク-ホワイトを乗せたまま、第414爆撃隊B-17F
「リトル・ビル」でチュニジアの敵飛行場を爆撃しています。

行動中、地中海で魚雷を受け、ドイツ空軍の空爆を受け、北極圏の島で立ち往生し、
モスクワで爆撃を受け、ヘリが墜落してチェサピーク号から引き上げられた彼女は、
『不滅のマギー』 'Maggie the Indestructible'
と呼ばれました。
こんな彼女を嫌う人たちはたくさんいたようですが、
ドワイト・D・アイゼンハワー将軍もその一人だったようです。

ここで紹介したことがあるベトナム戦争の女流カメラマン、
ディッキー・シャペルも、軍関係者にはえらく嫌われていたそうですが。
1945年の春、彼女はジョージ・S・パットン将軍とともに行動し、
悪名高い強制収容所、ブッヘンヴァルトで撮影を行いました。
このときも、のちの朝鮮戦争でも、パキスタンでも、彼女は
散乱した死体うや虚ろな目をした人々を記録しましたが、彼女自身は
対象物と自分の間にカメラがあったことはまだしも「救いだった」と述べています。


また、1948年、ガンジーが暗殺される数時間前に、
彼にインタビューして、あの有名な写真を残したのでした。


続く。

「OからUまで」軍事偵察機の近代史〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の軍事航空偵察の世界、
題して「スカイ・スパイ」の展示から、今日は偵察を行う航空機についてです。
偵察機については、スミソニアンが誇る(たぶん)模型製作部が
航空模型を製作し、それを展示して説明が添えられています。
■ ノースアメリカンNorth American0−47

0-47は、第一次世界大戦で使用された3人乗りの観測機で、
空中観察や写真撮影のために広い視野を確保できるように設計されています。
軍団・師団用の観測機として設計されたのですが、実際、
第二次世界大戦中はほとんど練習機や標的曳航機となっていました。

模型からもなんとなくお分かりのとおり、O-47は、
当時の標準的な単発軽爆撃機をかなりずんぐりした形にしたものです。

密閉されたコックピットに3名の乗員が搭乗し、
胴体の基部には観測者が見やすいようにガラス張りの部分が設けられていました。
産卵直前のグッピー的ななにか
試作機は、850馬力のライト・サイクロン・エンジンを搭載。

この試作機は、後に登場する連絡機よりもはるかに高速だったのですが、
後に登場する通称「パドル・ジャンパー=水たまり飛び」よりも、
多くの支援と優れた飛行場が必要だった、と説明されています。
要するに手間がかかり性能がイマイチだったということになります。
Puddle Jumperは、航空会社のハブ空港である大空港から
適度な距離にある小空港を結ぶフライトによく使われる小型飛行機のことで、
座席数は6~20席程度、大体1時間以内のフライトしかしないので、
乗り心地も、荷物を入れるところも、ほぼないに等しいという感じです。

わたしも乗ったことがある、ラスベガスとグランドキャニオンを往復して
観光客を輸送する飛行機が、まさにその「パドルジャンパー」でした。

そのパドルジャンパーより性能が劣ると言われるO-47。

なぜこんな機体を3人乗りに?と疑問が湧きますが、観測機に必要な人員数について多くの議論がなされた結果、こうなったのだとか。



O-47は第一次世界大戦以降の観測機の中では最も多く調達され、
合計238機が製造されました。

1940年ごろになると、観測連絡機に求められる条件は超低速で飛行し、
小さな平地で離着陸できることでしたが、O-47にその能力はなく、
機動性が向上した現代戦にはその大きな機体はもはや時代遅れでした。

後発のO-49でさえ大型で複雑であることが判明し、
彼女らの代わりに民間の軽飛行機をベースにした、
はるかに小型の航空機が観測の役割を果たすことになります。

(テーラークラフトL-2、アーロンカL-3、パイパーL-4。
これらはいずれも『グラスホッパー』と呼ばれていた)

というわけで、時代遅れとなった巨体のO-47は、
第二次世界大戦中、訓練機や標的曳航機として使用されました。

O-47は第二次世界大戦中、訓練機や標的曳航機として使用され、
1939年の開戦時には、ナショナルガードの航空機のほぼ半数を占めていました。

書き忘れましたが、O-47のOは偵察(observation)のOです。
ちなみに、飛んでいる写真の機体の上部に丸い輪っかが乗っていますが、
これ、サンフランシスコのメア・アイランド海軍工廠博物館にあった
方向探知機(Direction  finder)ですよね。
これです

アメリア・イヤハートの写真に写っていましたが、これ、
本人が失踪したときの飛行機に積んでいたらしいんですね。

使い方が難しく、本人も知識がなくて使うことができなかったのが
失踪のファクターとなったという記述を見つけ、ショックを受けたことがあります。

アメリアー、遊んでる場合じゃないだろ?って。
このアンテナはベンディックス社のラジオ方向探知機のものでした。


■ロッキードF-5ライトニング
 Lockheed F-5 Lightning


「ペロハチ」といわれたP-38の偵察バージョン、F-5です。

ここでもスミソニアンの展示の写真を挙げたことがあるP-38ライトニングは、
独自のツインブームデザインと三輪着陸装置を備えた大型双発戦闘機です。

写真偵察バージョンは、武装を取り除いた機首にカメラを据え、
左右と下方向の写真が撮影できるようになっていました。

ライトニングはスミソニアンによると総合的な能力は零戦より下でしたが、
零戦に勝る部分であった高速・高高度性能が
敵地上空での非武装写真偵察任務に理想的だったとされます。


なんと、この偵察ペロハチ乗りを、あのウィリアム・ホールデンが演じた
30分の教育映画が、陸軍広報部によって製作されていました。

P-38 Reconnaissance Pilot starring William Holden (1944)

「偵察パイロット」というこの短編映画の内容は、

太平洋での任務を終えて帰る飛行機の中でタバコを吸う主人公
恋人・家族との再会
回想〜入隊の誓い、航空訓練(複葉機、レシプロエンジン機)
Fー5に配置されがっかりする主人公
偵察機パイロットとしての特殊訓練
出撃後任務を重ねる
零戦編隊との遭遇 交戦して勝利15:40〜
主人公の偵察によって日本軍基地(ラバウル?)への爆撃成功

しかし偵察隊がその成功を直接評価されることはありません。

爆撃機のパイロットが戦功章を受賞するのを後ろの列で見ている主人公ですが、
その成功が自分の偵察にあることを密かに誇りに思い、
今故郷で自分の肩に頭を乗せている恋人に、戦地でのことを
「悪くなかったよ」

とだけ微笑みながら告げるのでした。(完)まあなんだな、偵察パイロットを志望する人員を増やしたかった、つまり
それだけ皆が応募したがらない職種だったってことなんでしょう。


■ McDonnell RF-101 ブードゥーVoodoo

RF-101 Voodooは超音速の偵察機で、非武装で飛行し、
最大6台のカメラを搭載することができました。
キューバにおけるソ連のミサイル開発の低空偵察や、
北ベトナムでの写真撮影などの任務に活躍しました。

有名なキューバのミサイルサイトの写真。
U-2全盛の時代、ブードゥーによって撮影されました。

ちなみにわたくし、エンパイアステート航空博物館で、
偵察でない方のブードゥーにお目にかかっております。
翼の付け根の三角のインテイクが目印(と覚えておこう)

ナイアガラの帰りに見つけたエリー湖沿いの軍事博物館にもいました。
1959年には8機が台湾に譲渡された関係で、台湾空軍は
中国大陸の偵察を行うためにこれを運用しています。
■ Lockheed SR-71

当ブログでは模型も含め何度も紹介しているSR-71、通称ブラックバード。
ブラックバードはあくまでも愛称であり正式名ではありません。

高高度を飛び、偵察を行っていた偵察機です。


とても・・・・薄いです・・。

着陸の時はドローグを使うとは・・・。

せっかくなので、わたし撮影のSR-71写真を。
機体の85%がチタンでできていると、こんな色になるんですねー。塗料に鉄粉を含むフェライト系ステンレスを使っています。



薄いのは偵察飛行でレーダーに捕らえられないように。
伝説の偵察機SR-71はその現役期間、完璧にノーマークでした。


前にも書きましたが、SRの名付け親?はカーチス・ルメイです。
この機体以前、偵察機は

reconnaissance/strike (偵察爆撃)=RS

だったのですが、それを退け、

strategic reconnaissance(戦略偵察)
にしたといわれています。
偵察機は偵察の任務に特化されるようになったので、
爆撃のSは必要がなくなったということなのか。


一人で着ることはできず、着用には必ず介助を必要する
SR-71のフライトスーツ。
ちなみにこの飛行機、シートベルトすらも自分で付けることはできません。
しかも、着脱の際、急減圧が起こると、体外の空気の減圧により気泡が生じ、
血液の流れが阻害される潜水病と同じ「空気塞栓」が起こる可能性があるので、
搭乗前に充分な時間を掛けて100%の純酸素を呼吸し、
血液中の窒素を追い出してからスーツを着用する必要がありました。
■ Lockheed U-2

SR-71の非公式名「ブラックバード」のように、U-2にも
「ドラゴン・レディ」という愛称が付けられています。
先日、U-2撃墜事件の偵察パイロット、フランシス・パワーズについて
お話ししてみたわけですが、自分の撮ったスミソニアンの写真の中に、
U-2を撃墜したミサイルがあったので、ちょっと驚きました。
忘れていたのか?わたし。

SA-2 ガイドラインミサイル Dvina (ドヴィナー)
SA−2はNATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。
ところで、当ブログではSR-71を設計した
スカンク・ワークスのクラレンス・ケリー・ジョンソンについて、
何度か取り上げているのですが、このU-2を設計したのもジョンソンです。
もう一つついでに、P-38ライトニングもこの人の設計です。

当時「第二の真珠湾攻撃」をソ連から食らわないように、
そして、より高高度からの偵察を目的に、U-Sは1950年代半ばに
ロッキード社を介してジョンソンに設計が依頼されました。
ジョンソンは、プロジェクトを予定よりも早く完成させることで知られていました。
最初に設計したCL−282という機体は武装しておらず、
専用のカートから離陸して胴体着陸する(どんなんだ)という、
まあいわば、ジェットエンジンを積んだグライダーみたいなものでしたが、
ルメイ将軍はこれを見るや、
「車輪も銃もない飛行機に私は興味がない!」

といって、プレゼンテーション会場を出て行ってしまったとか・・。

しかし、結局このプロトタイプは採用されました。
(採用を決める委員会のメンバーに帆船好きがいたり、
インスタント写真を発明したエドウィン・ランドがいたせい、という話もある)
つまり軍ではなくCIAが運用するならいいんでない?
というところに落ち着き、アイゼンハワーもこれを了承しました。
最終的には軍が飛ばすことになるんですけどね。
名前のU-2の「U」は、なぜか偵察と関係のなさそうな
多用途とか有用の「utility」から取られています。
U-2に搭載する大型カメラは高度18,000mから76cmの解像度を持っていました。
カメラの光学関係を開発していたジェームズ・ベイカーが、ジョンソンに
610cmの焦点距離を持つレンズのために、
機体にあと15cmのスペースを確保してほしい、と頼んだところ、彼は
「その15センチのためにわたしはおばあちゃんを売るよ!」
と答え、ベイカーは代わりに133cm×33cmフォーマットの
460cm F/13.85レンズを最終設計に使用ししたという逸話が残されています。

スミソニアンに展示されているU-2のカメラ


前にも一度上げていますが、もう一度。
U-2の積んでいた偵察のためのお道具一覧です。

U-2撃墜事件でソ連のジェット機はともかく、
対空ミサイルにはその性能を発揮できないことが明らかになったあとも、
1962年のキューバにおけるソ連のミサイル増強の偵察、中国の核実験の検証、
ベトナムや中東での偵察、民間の災害調査や環境監視など、
重要な役割を果たしてきました。
航空宇宙博物館の機体は、空軍の特別プロジェクトのために
迷彩色に塗装されたU-2Cです。
U-2の生産は1989年に終了しましたが、今現在も現役で運用中です。
続く。

映画「ビロウ」〜呪われた潜水艦

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今日は3月3日。
世間一般では雛祭りですが、海軍的にはちょっと違います。

ということで(どういうことだ)今回お送りするのは、
当ブログ映画部にとっても前代未聞となるオカルト戦争映画、「Below」です。

わたしは、年に何度か、ブログのネタのために、内容をほとんど精査せず、
それらしいタイトルの廉価版DVDをまとめ買いするのですが、
このDVDはどういうわけか、パッケージに日本語が書かれておらず、
再生してみると日本語字幕もない正真正銘の海外版でした。

さては輸入盤が間違って届いてしまったのか?と思ったのですが、
普通に再生はできるので、DVDのリージョンは日本ということです。
????

もうこの時点でオカルトです。

とりあえず観てみると、わたしでも英語字幕さえあれば意味がわかるレベル。
知らない単語といえば、劇中盛んに「malediction」と言い出したので、
Siriさんに「”めあでぃくしょん”ってなんですか」と聞いたくらいでした。
潜水艦とオカルト、というのは洋の東西を問わず相性がいいようで、
我が帝国海軍にも沈没潜水艦と33の数字にまつわる有名な話があったりします。
当作品はその相性の良さをベースに、オカルト要素を前面にした作品です。
タイトルの「ビロウ」Below は文字通りの「水面下」。
日本の配給会社には珍しく、原題そのままを採用する英断です。
タイトルの、水深計の数字が移り変わる影とともに、
陽の照る海面の映像から、ゆらゆらと湧き上がるように現れる「BELOW」の文字。

さすがにこのタイトルに対し「呪いの潜水艦」とかはまずいだろう、
とさしもの映画配給会社邦題担当氏も考えたに違いありません。


映画は第二次世界大戦中、1943年の大西洋上空から始まります。

イギリス王立空軍RAFのPBYカタリナ哨戒機のパイロットが
手紙を入れたコーヒーボトルを海上に投下していました。
海上に漂う、英国籍の病院船「フォートジェームズ」生存者にあてたその手紙の内容は、
「燃料が足りない 救助を寄越す」


そして、イギリス軍から海上の生存者を救難する要請を受けたのは、
折りしも付近を航行していたアメリカ海軍潜水艦、USS「タイガーシャーク」。
この「タイガーシャーク」として映画撮影に使用されたのは、
ガトー級USS「シルバーサイズ」Silversides SS-236です。

「シルバーサイズ」は第二次世界大戦中14回の哨戒にも生き残った殊勲艦で、
戦後は、金銭的な問題から存続の危機に見舞われながらも、
記念艦としてミシガン湖マスケゴンで保存されています。

撮影は「シルバーサイズ」をミシガン湖の中央まで曳航しそこで行われました。
本作への出演は、彼女にとって保存のための資金を稼ぐチャンスでしたが、
肝心の映画が全く不評で、配給収入も低調に終わったのは無念というべきでした。


救助要請を受けた「タイガーシャーク」のブライス大尉とルーミス大尉は、
なぜか暗い顔をして、現場への急行を渋る様子を見せるのでした。
しかし上からの命令とあっては仕方ありません。

翌朝、彼らは赤い帆をつけた救難ボートを発見します。
帆が赤いのはイギリスの救命ボートである、と
艦長は本作主人公であるところのオデール少尉にいいます。

「独軍の救命艇なら帆は白い。教わらなかったのか、少尉?」
この航海が潜水艦最初の任務だというオデール少尉は、
「いえ、ラテン語の『潜水艦員のモットー』は習いましたけど」

艦長は呆れた顔で少尉を眺めます。

この最初のシーンはわたしにとってまずまずで、たとえ世間的にB級映画でも、
こういう蘊蓄があればヨシ!といきなり本作に対する点数が甘くなりました。

その時、レーダー駆逐艦の艦影を捕らえたため、救助は急ピッチで行われました。
重症の一人目、そして二人目と収容していき、三人目・・。
”Next man!"  ”Next man!”

「ねくすとめ(絶句)・・・・・」
なんと3人目は女性、撃沈された船の看護師だったのです。
大戦中、潜水艦に救出された看護師を乗せたという例は、
映画「ペチコート作戦」のときにも説明したように存在しましたし、
なんなら「太平洋航空作戦」の冒頭に出てきたシーケンスのように、
女子供を潜水艦が運んだということも現実にありました。

しかし、この状況で若い綺麗なお姉さんが乗り込んでくるなど、
ベテランの潜水艦乗員にとっても想定外だったでしょう。
一同「虚を突かれた思いがした」様子ですが、今はそれどころではありません。



早速急速潜航の行き詰まる一連のシーケンスが展開されます。



艦体そのものは「シルバーサイズ」を使っていますが、
実際に動かす必要がある装備には新たに作られた小道具が使われているらしく、
操舵器には経年劣化が全く見られません。



潜航のためにフィンが降ろされています。(本物)


「シルバーサイズ」は一応まだ稼働できるようで、潜航シーンもあります。



鯨のお腹のようなデッキから水が噴き上がります、


おそらくこの後、模型と切り替わっていると思われますが、
あまり自然なので模型だと見分けられる人は少ないかもしれません。


接近してきた艦船を羨望鏡で確認。



ブライス大尉は「ドイツ海軍のZ級」駆逐艦であるらしいと確認し、
潜航深度をさらに下げる決定をしました。

その頃潜水艦乗員の間では、司令塔から後ろと前に向かって、
救出した中に女性がいるという衝撃のニュースが伝言ゲームされていきます。
「3人のブリッツ(イギリス人)だ。一人は女(スカート)だぞ!」
女性=スカートくらいなら、何の問題もなかったと思うのですが、
ここから倫理コードに引っかかりまくりのセリフが出てきます。



bosooma・・・辞書には載ってなくても意味はわかってしまうという。
さらにこの時、女性=「bleeder」と表現したせいで、(たぶんですけど)
この映画はPGー13レーティングを取れず、結果として
上映が非常に限られた映画館でのみのものとなってしまいました。

この表現は、乗員が「女性はbleeding=不浄だから不吉である」
というジンクスを抱くという流れにつながっていて、観ている者は、これで
「女性が乗ったから不吉なことが起こるのだな」と先入観を持たされます。

しかし、実は、種明かしをすると、こう思わせることが映画に仕掛けられた
一種の「トリック」となっているのです。

というわけで、この表現は、たとえPG-13が取れないとわかっていても、
監督にとって、どうしても外せなかったということなのでしょう。


病院船に乗り組んでいたというクレア・ペイジ少尉に対し、
乗員の中で最初にまともな会話を交わしたのは、若いオデール少尉でした。



彼は潜航中の物音に怯えるクレアを気遣います。

しかし、クレアはどことなく挙動不審です。
重症である生存者の一人の手当てを決して乗員にさせないのです。


その後、幹部らとオデール少尉は、もう一人の軽傷の生存者、
商船海軍二等航海士のキングズリーから沈没に至る事情を聞いていました。

船を攻撃したのは確かにUボートだった、と彼は証言します。
しかしオデール少尉はその証言は変だと直感します。


そこにやってきたペイジ少尉を目を逸らし気味に見ながら、ブライス大尉は
彼ら二人に、遠回りになるからイギリスまで送れない、と宣言します。
そしてついでのように彼女に、

「乗員たちと馴れ馴れしくしないでくれ。
中にはちょっと変わっているというか・・」
「迷信深い人がいるって意味ですか」

「普通でない状態だからね」

士官たちも動揺してしまうくらいの別嬪の存在が兵に与える影響について、
最先任としては当然持つべき懸念という気はしますが、どうも
このブライス大尉の様子が何かを隠しているようで怪しい。
クレア・ペイジに対する接し方も、警戒し過ぎているように見えます。


その頃下の階では、通信員ウォラースが乗員に怖い話を朗読していました。
(手前の乗員は魚を飼っている)

ここで早速出てくる単語が「Malediction」です。



十代の水兵が幽霊話を怖がるのを皆で面白がっていますが、
実はこれはわかりやすい伏線となっています。

オデール少尉は、ルーミス大尉に病院船沈没に対する疑問をぶつけました。

「Uボートが魚雷一発しか攻撃しなかったって、変じゃないですか?」

たいしたことじゃないさ、と一見軽い調子で答えるルーミス中尉は、
話しながらずっとヨーヨーを弄んでいます。

彼が劇中で披露するヨーヨーの技は「世界一周」「犬の散歩」などで、
このために特別レッスンをブライアン・カビルドというプロに受けました。

カビルドは「ヨーヨーWiki」に名前が載っており、
ロールエンドにもその名がクレジットされています。

その夜、通路を歩いていたブライス大尉が
重傷救助者が収容された部屋の前で立ち止まると、中では・・



大尉は「ほらな」と言いたげなうんざりした表情を顕にしてその場を去ります。


そのとき、レーダーが頭上の艦を感知しました。



海上にいるのはE級駆逐艦であろうと予測されました。
彼は通信士官のクアーズ中尉です。



エンジンを止め、息をするのすらはばかる沈黙が艦内を支配しました。潜水艦映画おなじみの「全員で上を見る」あのシーンです。


その静寂の中、やおらニシンの缶詰を開けて
手で摘んで上から口に放り込むルーミス中尉。
どうでもいいけどその手であっちこっち触るなよ。
そのときです。
いきなりベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」、
あのあまりにも有名なイントロが大音量で鳴り出しました。


慌てて駆けつけてみると、ターンテーブルの上のレコードが
誰もいないのに、針を乗せて回っているではありませんか。
危険海域でわざわざジャズを鳴らして攻撃されていた間抜けなUボートも
他の潜水艦映画には登場しましたが、さすがにこんなとき
大音量でレコードを鳴らすのは分かりやすく自殺行為です。
問題は、なぜ勝手にレコードが鳴り出したか。
つまりこれが「最初の奇怪な出来事」だったのでした。



その結果、たちまち爆雷が雨霰と降ってきました。


ここで嘘だろ・・と思ったのが、一瞬全員が天井に張り付いて、
次の瞬間床に叩きつけられるシーンです。
潜水艦が激しく下方に振動すればこういうことも起こりうるのでしょうか。


爆雷がデッキを転がる不気味な音を、目で追う乗員一同。
こういうシーン始め、潜水艦映画としての表現はなかなか見応えがあります。


敵は去りましたが、皆に植え付けられた不信感は拭えません。
なぜピンポイントで駆逐艦が来たのか、なぜレコードが鳴り出したのか。
これを艦内に呼び入れた三人に結びつけるのは自然な流れです。しかも、ルーミス中尉は、オデール少尉が美人にデレデレして、
何か機密を漏らしたのではないかと言い出す始末。
ちょうどその時、ブライス大尉は、重傷者の手当てに当たった衛生兵から
彼が着ていた衣服のタグを見せられました。


これで謎が解けた、とばかり手錠と銃を持ち、
クレアが怪我人の包帯を巻き直しているところに踏み込んで、


「起きろ、ドイツ人」
すると彼は慌てる様子もなく、



「やあ、マイン・カピタン(我が艦長)」
ちなみに後にして思えば、このドイツ人パイロットのセリフも、
一つの伏線となっているのですが、この時点では誰も気づきません。
彼は撃墜されたドイツ機のパイロットで、戦争捕虜として
クレアの乗っていた病院船に収容されていたのでした。
クレアは必死で、彼はPOWでありジュネーブ条約で保護される立場だ、
と訴えるのですが、艦長は問答無用で射殺してしまいます。

そして、彼女がそのことを言わなかったせいで、
全員の命が危なかった、と激しく詰り、彼女を監禁させました。
駆逐艦の攻撃やレコードを全部ドイツ人のせいにしたいようですが、
死にかけていた彼がどうやってそれを?となぜ誰も突っ込まないのでしょうか。


現に、ドイツ人を殺害した後、またレコードが鳴り出します。
それを任務の重圧でおかしくなった乗員の誰かのせいにして
幹部らは納得しようとするのでした。
乗員の「侵入者」に対する忌避感は、一人がドイツ人であったことで顕在化し、
次いで乗員たちは「よそもの」「女性」であるクレアに嫌がらせを始めます。


彼女のベッドの下に遺体を転がしておくとか悪質すぎ。

ブライス大尉は嫌がらせの犯人に一応は注意して見せますが、
クレアの「船の(ship)乗員全員が死者に敬意を払うべき」という抗議に対し、
「shipじゃない、これはboat(潜水艦)で君はゲストだ」と言い返します。

要するにシロートは余計な口を出すな、と言っているわけですな。


悪戯がうまくいったので声を殺して馬鹿笑いする乗員AとB。


しかし、乗員Bが死体袋からかすかな声を聞いたような気がします。

「引き返せ・・・」「ひっ・・・・」

引き返すって、どこに?


それからが怪奇現象のオンパレード。
まず、クレアの目の前に、ドサリとどこからともなく落ちてきた
シェイクスピア悲劇全集は、ブライス大尉のものでした。

彼女が手に取った時、開かれていたのは「マクベス」のページでした。
「マクベス」は自分を殺した殺人者に復讐する幽霊の話です。

ここは艦長室のようです。

ここでもどこからともなく男性の声が聞こえてきたり、
ドアが跳ね返ったりして脅かしにかかってきますが、彼女はこの部屋が
つい最近までウィンターズ少佐という艦長のものであったことを突き止めます。



つまり、今の今まで彼女が艦長だと思っていたブライス大尉は
ウィンターズ少佐の副長だったということになります。

そこにやってきたクアーズ中尉にクレアが尋ねると、
「今はブライス大尉がスキッパーだ」・・と妙な返事。

これは、この哨戒中に何らかの事故で艦長が失われたということになります。
その後艦長室を追い出されたクレアが、心配して見にきたキングスレーに
見せた一葉の写真、それは、



慰問で訪れたベニー・グッドマンと前艦長ウィンターズ少佐のツーショットでした。


クレアがブライス大尉に前艦長ウィンターズのことを尋ねると、彼の答えは、



「ドイツの船を撃沈した後、艦長は暖炉の上の飾りにでもするつもりか、
海上の破片を拾おうとして、転落死したんだ」

うーん・・こんな話信用できる?


その時です。
異様な衝撃が艦体に響きました。


海面の駆逐艦が「曳鉤攻撃」を仕掛けてきたのです。
駆逐艦が引っ張る一本の鎖にはいくつかのフックが装着されています。

鉤縄を曳航して海中の潜水艦を傷つけるこの戦法は、
第一次世界大戦中にドイツとイギリスの海軍によって使用されましたが、
第二次世界大戦中のドイツ海軍が用いた記録はありません。

しかも、相手の沈んでいるところまで縄が伸ばせなくては意味がありませんから、
使用は浅瀬に限られていました。

ただ、英語のサイトによると、第二次世界大戦中、
日本帝国海軍の艦船がフック攻撃をしたという報告もあるにはあるそうです。

ちょっと調べようとしてみましたが、全く引っかかるものがなく諦めました。



鉤フック攻撃によって、潜望鏡は引き裂かれ、艦体は深く抉られ、
たちまち浸水が始まりますが、致命傷には至りません。

「タイガーシャーク」はそれでも海底から全速で移動し、
フックを逃れることに成功しました。


傷ついた艦体から漏れた油が海上に流れると敵に発見されるぞ、
などと対処法を皆で話し合っていると、一人がついに、
「この潜水艦は呪われてる(This boat is cursed.)」
という言葉を発し、皆がギョッとしてそちらを見るのでした。


艦長代理のブライス大尉は、潜水艦の外に出て外殻から内部に入り
漏れを塞ぐ修理をする特別班に、オデール少尉を指名してきました。


オデールが指名したのは、怖い話を朗読していたウォラースと、


掌帆員のスタンボです。


これにクアーズ中尉も加わり、四人は、まず内側ハッチの外に出て、
そこに海水を注入し、その後外に泳ぎ出していきました。
ところで、いきなり外に出て水圧とか大丈夫なんだろうか。


外に出た途端、マンタの群れに遭遇しドッキリ。
襲われないと分かっていてもこれは怖い。


外側を泳いでマンホールの穴のようなところをくぐると、
そこには水のないこのような空間があるのですが、
本当に「ガトー級」潜水艦ってこんな構造なんでしょうか。


その時、ブライス大尉は、空白となっていた「あの日」のことを
航海ログに記入していました。

「2330、ドイツ軍艦の沈没を確かめるために、士官4名が外に出た
ウィンターズ少佐、私、ルーミス大尉、そしてクアーズ中尉である」

そのクアーズ中尉に、オデール少尉は誰も他にいない絶好のチャンスとばかり、
ウィンターズ少佐の死について尋ねてみました。
するとクアーズ中尉の答えは、

「ウィンターズ少佐は海上の生存者を撃ち殺せと命令したが、
それを拒否した我々ともみあいになり、足を滑らせた少佐は頭を打って死んだ」


「事故だったんだ」

ところが・・・!


クアーズ中尉は、次の瞬間、滴る海水の中から現れた人影が
振り下ろした「その槌」で「後頭部を強く打ち」死亡しました。

パニック状態で艦内に戻ってきたのは三人。
スタンボは完全に錯乱状態で、ケアをしようとしたクレアを突き飛ばし、
オデールは身体の激しい震えが止まりません。


そのとき、外側から規則的に艦体を叩く音がしました。
「モールス信号だ」
「B・・・A・・・C・・・K」「・・少佐が戻ってきたんだ」

オデール少尉は、潜望鏡もソナーもダメになったこの状態で、
どうして2日で到達するイギリスの港に寄らず、
アメリカに帰ることに固執するのか、とブライス大尉に食ってかかります。
救助した病院船の航海士であるキングスレーは、
深度、防戦網、機雷原がどこかも分かっているのだから、
とオデールはキングスレーと一緒にブライスを説得しようとするのですが。


「乗員も最悪の状態だし、幹部が二人も死んでるんですよ!」
「それが戦争というものだ」

英語ではご覧のとおり「戦争へようこそ」となっています。
この「ウェルカムトゥ」は、

「ウェルカムトゥアメリカ」(これがアメリカですよ)
「ウェルカムトゥジャパン」(日本ってこうですよ)
と、大抵は悪い意味でよく使われます。


そこで空気読まない部外者のクレアがこう言い放つのでした。

「誰も言わないなら私が言ってあげる。
この潜水艦には何か出るわ(haunted)。
すぐに安全な港に戻るのが先決よ」


皆真っ青な顔をして黙り込みますが、ブライス大尉だけは、


コネチカットに帰還すると言い放ちます。
そして、部下ではないクレアには何も言えないものだから、
代わりにオデール少尉に八つ当たり。
「反乱罪の罰を誤魔化そうとしているな。
なんなら今武器庫を開けて銃を再装填して来ようか?
これ以上乗員や私を煽るようなことを言うならな」


オデール少尉は上官に対し、返す言葉を知りませんでした。

続く。


映画「ビロウ」〜見える敵と、見えない敵

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オカルト戦争映画「ビロウ」二日目です。
この作品の日本発売のDVDパッケージの

「見える敵と見えない敵」
というアオリ文句には、上手いこと言うじゃないかと珍しく感心させられました。
さて、前回までで、「タイガーシャーク」前艦長が、この哨戒で命を落とし、
霊となって超常現象を起こしているらしいとわかりました。

潜航中にレコードが鳴り出して敵の攻撃が始まったり、
艦外修理中にクアーズ中尉が謎の死を遂げたり、
艦外からモールス信号で「帰ってきた」と通信されたり。

こんな潜水艦という舞台でしか起こり得ない怪奇現象は、
全て戦闘行為や事故ではなく、乗員によって命を断たれた艦長が
恨みから起こしているのだろう、と見ている誰もが映画半ばで気づきます。

ホラー映画の定石から言うと、この後の見るべきところは
艦長の死の秘密が解き明かされ、彼を手にかけた真犯人を、
呪いのパワーがどんな酷い目に遭わせてくれるのかといったところです。
つまり、この後の展開はホラー的にはもう見えたも同然なのですが、
ただこの映画の他と違うところは、これが戦争中の、潜水艦の中の出来事という
ディティールにあり、逆にいうとそれしかないということでもあります。
さて「タイガーシャーク」の異変は続いていました。


操舵席ではおかしなことに、舵輪が勝手に動き出して
二人がかりでも修正することができなくなり、果ては弾け飛んでご覧の有り様。


「タイガーシャーク」乗員は、この相次ぐ異常現象をどう捉えているのか。

「俺たち実はもう死んでるんでね?」

「なるほどー、気づかんかったわ」
冷静な機関長は、蓄電池から出た水素のせいで、
酸素不足が皆の脳にバグを起こしたに過ぎず、おかしなことも
たまたま起こった機械のトラブルだ、と言い切ります。

航海士であるキングスレーやオデール少尉、クレアの三人は、艦が、
いつの間にか敵を撃沈したとされる場所に向かっていることに気が付きました。
オデール少尉は、そのことをルーミス大尉に質問しますが、
お前がイギリスに行きたいからなんかしたんじゃないのか、と逆ギレされるのみ。



さて、壊れた舵は油圧を回復すれば動くようになるはずですが、
油圧管が通っているのは蓄電室であり、しかも水素が充満しています。

そこでブライス大尉とルーミス大尉は、なぜか乗員に知らせずに
下の区画をこっそり密閉して、蓄電室での修理を決行することにしました。

どうしてせめて乗員を上の区画に避難させないんでしょうか。
何を考えているんだこの幹部たちは。



危険な作業がドアの向こうで行われていることを何も知らずに
潜水艦での「日常」を過ごす乗員たち。



イリノイ州ノックスビル出身の乗員は、就寝前に娘の写真に投げキスします。

しばらくしてブライス大尉がチーフと連絡を取ろうとしますが、返答がありません。
そりゃあるわけないよね。


恐る恐る水密ドアを開けてみると、
全員が真っ黒になった区画の中で焼け爛れて死亡していました。

火花が水素に引火して爆発したんです。
ってさ、どうしてなんの振動もなく音も叫び声も聞こえてこないの?
狭い潜水艦で区画一つが吹っ飛んだと言うのに。

しかも、中に踏み込んだオデール少尉らは、爆発直後だというのに
普通にドアのノブや床のグレーチングに素手で触っています。

こんな大爆発を起こして激しく炎上し燃えたなら金属は熱くなるよね?
他の区画も無事ではいられないと思うんですが。

まあ、それはよろしい。よろしくないけど。
わたしがホラー映画として一番怖かったのはこのシーンです。ドアの鏡に映るルーミス大尉の動きが、実際より一瞬だけ遅いのです。
しばらく映像を凝視して動作を確認していたルーミスですが、鏡に背を向けた瞬間、
彼は感じました。
鏡の中からこちらを見ている自分自身を。

振り向いた彼が見たものは・・・
「ああああああ〜〜〜〜」(画像自粛)


血相変えて飛び出してきたルーミス。



「ルーミス?」

「奴がいる!」
錯乱状態のルーミス大尉はそのまま出て行ってしまいました。


外に。


アクアラングなしで。

生き残った数名の乗員が呆然としていると、物が落ちる音がしました。
駆けつけてみると、廊下には前艦長ウィンターズ少佐の私物一式が・・・。

そのときブライス大尉は艦長室のカーテンの奥に、
確かに「それ」を見たのです。
艦体はそのまま海底に鎮座し、暖房が切れてバラストも動かなくなりました。

スタンボという掌帆員はまだ生きていて、床でぶつぶつ独り言を言っていました。


そこで看護師のクレアが彼を正気にするために殴りつけます。
この怒れるスタンボのセリフも、PG-13が取れなかった理由の一つでしょう。

ここでオデール少尉は、いきなりクレアにこんなことを言い出します。

「ルーミス大尉は勲章が欲しかった。
ブライスは昇進してアナポリスに行こうとしていた。
クアーズは故郷に美人のガールフレンドが待っていた。
だからだ。」
いや、ちょっと待ってほしい。

まず、オデール少尉は、艦長の死の真相を知っているのでしょうか。
それとも知らないで想像でこれを言ってるんでしょうか。

本人も言うように、彼にとってこれが初めての哨戒任務であり、
途中でどこかに行っていたとかでないのならば、当然彼は
艦長が亡くなった時、「タイガーシャーク」の幹部としてそこにいたわけです。

「ドイツの船を沈めた後、艦長が暖炉の飾りを拾おうとして海に落ちた」

と言うのを今まで信じていたのが、おかしなことが起こりだしたので、
どうやらそれは嘘で、3人の士官が艦長を殺したらしいと気付いたのでしょうか。
それならどうしてその理由だけをこんなにはっきり言い切るのか。
しかも、なぜ3人が自分の保身のために艦長を殺したのか、
艦長は何をしようとしたのかについては、わかっていないようなのです。

そんな馬鹿な。

だって、オデール少尉も潜水艦の幹部のひとりなのに、
なぜ彼だけがその時何も知らずにいられたのか、知らされなかったのか。


なぜこの映画はこんな無茶苦茶な設定になっていると思いますか?お分かりいただけただろうか。
ヒントは、「映画の主人公が誰か」です。

本作の主人公は、若いアメリカ人イケメン士官であるオデール少尉です。
彼は事件が発覚するきっかけを作った女性看護師のカウンターパートでもあります。
主人公が、同盟国の女性看護師とともに黒い殺人事件の真相を暴く。
それには、オデール少尉が「事件を起こした側」であってはなりません。

しかし、潜水艦という特殊な狭い環境下で起きた事件について、
いくら下っ端でもここまで知らずにいられるわけはないのです。
完全にこれは映画の設定ミスというやつです。

わたしは、オデール少尉の役は、救難機かなんかのパイロットで、
撃墜されて英病院船にいたことにすればよかったのにと思っているのですが、
彼が「潜水艦乗員」であることは外せなかったのかもしれません。


さて、そうしている間にも、艦内の空気は残り少なくなり、
クレアも朦朧としてきてしまいます。


そのとき彼女はこのメモとブライス大尉の書いた航海ログを見つけました。
そして彼女はついに事件の真相を知るのです。



その日、2315、ドイツ軍艦らしき艦影を発見した「タイガーシャーク」は
1発の魚雷を放ち、命中の手応えを感じました。



隔壁の破れる音を確認し、撃沈は確実だと思った四人の士官たちは
敵艦の沈没を確かめるために、甲板に上がります。

「標的艦は炎上しており、海面には無数の人間が漂流していた」
クレアが読み進めたところ、そこで記述が途絶えていました。

そのとき彼女は寝台の上に人影を見ました。
人影は彼女に何かを告げているようにも見えます。

怯えながらも、彼女の脳裏にある考えが閃き、彼女は震える手で
あの日沈めたと彼らが言うところのドイツ艦と、
自分自身が乗っていた病院船、フォート・ジェームズ号、
二つの艦影を重ね合わせてみたのです。

するとそれはほぼ同じ艦であるかのようにピッタリと重なりました((((;゚Д゚)))))))
つまりフォート・ジェームズ号を沈めたのはUボートではなく、
この「タイガーシャーク」だったのです。

これが真相でした。
ウィンターズ艦長は間違って同盟国の病院船を1発で撃沈したことを知り、すぐさま海上の生存者を救出させる指令を下そうとします。

ところが、軍法会議にかけられキャリアを台無しにすることを恐れた三人の士官が、
暗黙の了解のうちに艦長を亡き者にしてしまったのです。


その頃潜水艦内では浮上のための努力が続いていました。

蓄電池が切れたので空気を送るために、全員が一丸となって
ワイヤーを素手で掴んで引っ張っております。

これをするとどうなって空気が送られるのかわたしにはわかりませんが、
空気が少なく、飲み残しのコーヒーがカップの中で完全に固まるくらい寒いのに、
全員全く白い息も吐かず、元気いっぱい綱引きをしております。

「もうおしまいだ!」
「ちくしょー!」
と言いながら引っ張っていると、あら不思議、
艦が浮上していくではありませんか。


こう言うところの詰めが甘いのは、ホラーに話を振り切った結果ですかね。


しかし、このとき引っ張られたワイヤーの先の部品が飛んで、
それを頭部に受けた病院船の航海士キングスレーは亡くなってしまいました。

この人は艦長の死に何も関わっていないのに・・・・。

見事浮上したところに別の艦が接近していることが探知されました。
どうやら同盟国艦船らしい、と一同が沸き立ったそのとき、


「よくやった、オデール少尉」

折り目もパリッとした軍服にタイを締め、ブライス大尉登場。
こざっぱりと髪の毛までいつの間にか撫でつけて。
そういえばさっきこのおっさん暗闇で髭を剃って靴を磨いていたな。

「私はもう大丈夫だよ」
”I'm feeling much better now."

オデール少尉がもはや艦を捨てるべきです、というと、ブライス大尉は、



「コネチカットになんといえばいい?」

と、この期に及んで艦を維持することを主張するのでした。
オデールが構わず通信員に救助をコンタクトするようにいうと、ブライス大尉、

「君は艦長ではないぞ」

するとオデール少尉、ここぞとばかり、
「あなたも違いますよね!?」


ブライス大尉は途端にキレてオデール少尉を殴りつけ、
腰の銃を抜くが早いか、通信機にぶっ放して破壊してしまいました。

気がくるっとる。


ところで、男たちが無益な争いの真っ只中にいる間、
ここでもいい意味で空気読まない働き者のクレアは、勝手に外に出て、
雨の中、通りすがる船にカンテラを振って助けを求めておりました。

彼女のいないのに気がついて甲板に上がってきたブライス大尉に、

「みんなを艦もろとも葬るつもりなのね?」
と烈しくなじり、ブライスに突きつけられた銃を自分の喉元に当てて、

「殺すなら殺しなさいよ!え?」

この映画で最も男前なのは実はこのクレアだったりします。
ついでに英語では彼女、ブライスに対して

「このf×××ing coward!」
とまで罵っております。

これは、階級社会の軍隊の中で彼女だけが無関係だからです。(看護師ですが)

「女性が乗ってきたから縁起が悪い」

という最初の思わせは全く逆で、潜水艦の置かれた最悪の事態を打開したのは
実は勇気あるこの女性というオチだったんですね。

見張り塔には、ハッチを開けて出ていったルーミス大尉が引っ掛かっていました。

いよいよおかしくなったブライス大尉、ルーミス大尉の亡骸に向かって
パンパンと銃を当てながら彼を罵ります。

「『すぐに離脱するんです!
彼らはUボートのせいだと思ってくれるでしょう』だと?
『見つからないように早くここから去りましょう』だと?
他にアドバイスはないのか、チャンプよ?」
あー、間違えて病院船を撃沈した現場から離脱しようと言ったのは、
だれかと思ったらルーミス大尉だったのね。

でも、ブライス大尉だってそれに同意したんだよね?
人のせいにしてはいかんよ。



そのとき、先ほどの船が灯りに気づいたのかこちらにやってきました。


ブライス大尉は夢遊病のひとのようにクレアに語りかけます。

「私はどうにかしようとしたんだ・・・なんとかなると・・
なんとかしてウィンターズの名誉を傷つけないようにと・・

私はこのユニフォームを着て港に帰るはずだったんだ。
だが・・・・
私はどうしたらいい、ミス・ペイジ?

もう・・何もわからない!」

「ライトを拾って私にちょうだい!」
甲板に駆け上がったオデール少尉とウォラースが見たのは、
まるで手負の獣を宥めるように、ブライス大尉に手を差し伸べるクレアの姿でした。


ライフルを構えるオデール少尉の前で、ブライスはこう言います。

「ああ、わかったよ。どうして彼が私を殺さなかったかが・・
彼はそれをする必要がなかったからだ。

さて、私は何をすると思う?ミス・ペイジ」

(え・・・・?)


次の瞬間、彼はライトを海に放り込み、続いて銃をこめかみに当てました。




そもそも、最初にイギリスの病院船を敵と間違えたのは誰だったのでしょうか。
艦長はじめ、ブライス大尉、ルーミス大尉、クアーズ中尉の誰もが
海軍軍人として任務を遂行する上で起こり得るミスを起こしたにすぎず、
少なくともその時点では誰一人として悪人ではなかったのです。

しかし、「軍人としての名誉を守るための嘘」は、
犠牲になった艦長の霊の深い恨みとなって彼らを死に引き摺り込みました。

危ない人がいなくなったので、ここぞとオデール少尉は銃をぶっ放し、
近づいてきた船に合図を送ります。


ところが、船は通り過ぎていくではありませんか。


一同が絶望的になったそのときです。


船から信号花火が打ち上げられました。



彼らを救出したのはイギリス船籍の民間船RMS「アルキメデス」でした。

この映像では船尾にユニオンジャックがありますが、彼女は商船なので、
実際なら旗竿に近い上の隅に、ユニオンフラッグがついた
小さな赤い旗だけをつけているはずだそうです。(ネット情報ね)

助かったのは、まず、通信員の「物知り博士」ウォラース。
集めていたポップコーンのおまけである潜水艦をなぜか海に指で弾き飛ばします。


そして我らがクレア・ペイジ看護少尉。


彼女に平手打ちを喰らって正気を取り戻したスタンボ。

「あんたは今までで俺を殴った最初の女ってわけじゃないが、
最後の女になることもなかったわけだ。
・・・俺を正気に戻してくれてありがとよ」

「Well done」を互いに投げかけ検討を讃えあう二人でした。



そしてオデール少尉。
船端に佇む彼のところに船長がやってきて、


「君の船が沈んでいくよ」



本当だ・・・。

艦体は悲鳴のような軋みをあげ、艦尾を上に向けて海に姿を消しました。彼はクレアとこんな会話を交わします。
「君ならなんて”これ”を説明する?」
「今となってはもう誰も信じないわよね」
「ウィンター艦長が死んだとき、彼は・・残していったんだ
・・どう言えばいいんだろう」

ええ?ちょっと待って?
もしかしたらオデール少尉、艦長が死んだ時のこと何か知っていた?
このセリフ、一体どういう意味なんだろう。
それに対してクレアは、

「あなたが思う通り言えばいいわよ、少尉。
でも、わたしたちは何か訳があって引き戻されたんだと思うわ」


そのとき、彼らには知る由もないことでしたが、海面から姿を消した潜水艦は
真っ直ぐ、目的を持っているかのように確信的に海中を落下していました。



そして、海の底で潜水艦を待っていたのは・・・・・。
潜水艦は引き寄せられるように「フォート・ジェームズ」の側に横たわりました。


今回、どこかの映画サイトの感想(日本語)に、

「なぜ前艦長だけが呪いのために現れたのだろうか。
それをいうなら、殺されたドイツ人や撃沈された病院船に乗っていた
たくさんの犠牲者は一斉に化けて出てこなくてはいけないはず」

というのがありました。

この感想を書いた人は、おそらく最後のシーンをちゃんと見ていないか、
あるいは日本語字幕にとらわれてペイジ少尉の最後の言葉を
きちんと解釈しなかったのではないかと思われます。

間違えて撃沈された病院船の元に潜水艦を引き戻したのは、
果たして艦長の霊だったのでしょうか。
それとも誤爆で命を失った無辜の民間人の怨念だったのでしょうか。



軍事航空偵察とキューバ危機〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「スカイ・スパイ」軍事航空偵察のコーナーから、
今日は冷戦とキューバ危機について焦点を当てたいと思います。


■ 冷戦の始まりと航空偵察

戦後の最初の10年間、冷戦といわれる時代に突入してすぐ、
アメリカはソ連の(後には「赤い」中国の)広大で封印された範囲に含まれる脅威、
すなわち核の有無を確認するという緊急性に駆られるようになります。

しかし当時の航空機は、ほとんどが爆撃機を改造したものにすぎず、
ただ周辺を偵察することに任務の範囲が限られていました。

その極秘裏に行われたミッション中に起こり、公表されていない事件で、
少なくとも数十人の偵察機乗員が死亡または捕虜になったといわれます。

アメリカが恐れていたのはソ連による「真珠湾攻撃の再来」つまり不意打ちでした。
そこで敵の動向を探るため上空からの偵察が行われるようになります。


のちに主流となる人工衛星は1940年代後半から計画がありましたが、
当時はまだ技術的なハードルが多く残っていたため、
その諸問題がクリアできるまでの間は、とにかく
カメラを目標の上空に持っていくしか手段がなかったのです。


気球を使った撮影も試みられました。
カメラを搭載した気球をイギリス、ドイツ、トルコから中央アジア経由で
1000機ほど打ち上げたものの、回収できたのは55台だけでした。

風任せで飛ぶ気球にどんな効果を期待していたのか、と
逆に現在のわたしたちにはそちらの方が大いなる疑問です。
もちろん偵察効果は皆無に近かったに違いありません。

しかし、そうこうしている間に光学技術が向上してきました。
迎撃する航空機やミサイルの影響を受けない高度からでも
目標を画像におさめることができるカメラやフィルムが出てきたのです。

より高い位置からでも偵察が可能となってからは、
航空機の性能も、高度に焦点を絞って開発されるようになっていきます。

そしてレーダーによる短波長領域だけでなく、近・遠赤外領域のセンサーなど、
時代はつぎつぎと新しい偵察のための手段を可能にしていきました。

そして前回もお話ししたように、ロッキード社は、究極の上空偵察機、
U-2とSR-71を世に送り出したのでした。

U-2とSR-71、伝説の偵察機のツーショット


初期のU-2ミッションが撮影したソ連中央部のチウラタムSS-6ミサイルサイト。
【ボマー・ギャップ】

カーチス・ルメイはそれが航空機っぽくないのが気に入らなかったようですが、
偵察機U-2はジェットエンジンを搭載したグライダーで、
高度8万フィートを飛行し、ソ連の上空をほぼノーマークで飛び回り、
より鮮明な写真を撮ることを可能にしました。

偵察によって撮影されたソ連の潜水艦群

U-2から撮影された原子爆弾の発射実験基地。

というわけでこの期間、アメリカはソ連についてかなりの情報を得ていました。
これが前提です。


日本人である我々にはいまいちピンと来ない言葉ですが、アメリカでは
冷戦時代、「ボマー・ギャップ」という言葉が、盛んに使われたそうです。

「ボマー・ギャップ」とはアメリカ当局が国内に向けてアナウンスした言葉で、

「ソ連はジェットエンジン搭載戦略爆撃機の配備において
我が国より優位に立っている」

ということを表しています。

キャッチフレーズではないですが、語感がキャッチーなせいか、
国民には数年前からそれが広く受け入れられていましたし、
特に国防費の大幅増額を正当化するための政治的な論拠となりました。

実際、ボマーギャップを埋めるため=ソ連の脅威に対抗するためという名目で
米空軍は爆撃機はピーク時には2500機を超える大規模な増強を行っています。


しかし、結論から言うと、実は
ボマーギャップは存在していませんでした。しかもこの大号令をかけた「中の人たち」は、
U-2の偵察がもたらした情報によって、これを知っていました。

「ボマーギャップ」がないことを明らかにした
U-2の偵察写真。
1956年にはこの事実が明らかになっていました。

しかし、「ボマーギャップがないことの証明」はできませんでした。

それが「悪魔の証明」(ないことは証明できない)だからではなく、
どうやってソ連の爆撃機大量配備はないことを知ったかが明らかになるからです。
アメリカの偵察技術の実態がソ連側にもバレてしまうことが何より問題ですし、
それに、ボマーギャップがあることにしておいた方が、
いろいろ便利(軍事予算の獲得もスムーズに行くわけ)ですしね。


そうそう、「ないことを知っているのにあるかのように決めつけて」といえば。

この半世紀後、ブッシュ政権も、大量破壊兵器があるという情報を根拠に
イラク戦争に突入していますが、これ、本当にあると思ってたんですかね?

凄まじい精度のアメリカの諜報&偵察能力をもってすれば、
実は大量破壊兵器がないことはわかっていたのに、
あえてわからないフリをして・・ってことじゃなかったのかしら。



閑話休題。

1960年5月に、U-2がソ連のミサイルで撃墜される撃墜事件が起き、
期待されていた冷戦の雪解けも頓挫してしまいます。


SR-71、ブラックバードは1960年代半ばに衝撃のデビューをしました。
約8万5,000フィートで飛行するマッハ3の航空機で、
瞬く間に傍受されない性能を確立し、
毎時10万平方マイルの速度で画像を収集しました。
これほど速く、高く飛ぶ飛行機は他にありません。

■ キューバ危機

キューバ危機のことを、英語ではCuban Missle Crisisといいます。
1962年の、この世界を揺るがした歴史の転換点、
キューバ危機では、空撮が重要な役割を果たしました。

航空写真によってキューバにソ連のミサイルが存在することも確認されたのです。



このU-2偵察写真には、キューバでのミサイル組み立ての
具体的な証拠が写っています。

ミサイル輸送機と、燃料補給やメンテナンスが行われるミサイル準備テントです。



この写真は見ておわかりのようにミサイル準備区域を低空から撮影しています。

このショットを撮影したパイロットは、
高度約250フィート(76m)を音速で飛行して生還を果たしました。



同じく、キューバ危機の時にキューバのサン・クリストバルに設置された
ソ連の中距離弾道ミサイルサイトのUー2による空撮写真です。



こちらはRF-101ブードゥーが撮影したミサイルサイトの写真。
ロシアのSA-2(地対空ミサイル)のパターンを見て、
アメリカはロシアがキューバを武装化していることを確認しました。


【アメリカ政府の表明】



キューバのミサイルの航空写真を国連で見せる
アドレー・スティーブンソンII(1962年11月)。
スティーブンソンは民主党の政治家で、安全保障理事会の緊急会合で
ソ連の国連代表ヴァレリアン・ゾーリンに
「キューバに核ミサイルを設置しているかどうか」
を詰問口調で尋ね、ゾーリンが答えにくそうにしていると、

「翻訳を待つのではなく、イエスかノーで答えたまえ!」

と言い放ったことで有名になりました。
イエスかノーかで有名になった人は我が日本国にもいましたですね。
このときゾーリンは、

 「私はアメリカの法廷にいるわけではないので、
検察官のようなやり方で質問されても答えられない」
とごもっともなことをいってケムに巻きました。
まあ、結果としてイエスだったんですけど、
彼の立場では答える権限になかったのでしょう。


スティーブンソンはまた、ミサイル危機の対処法として

「ソ連がキューバからミサイルを撤去するなら、アメリカは
トルコにある旧式のジュピター・ミサイルを撤去することに同意する」

という交換条件を大胆に提案しています。
もちろんこの案は大勢から非難轟々だったのですが、
ケネディ大統領も弟のロバートもこれを評価しており、
実は明らかにはなっていない段階で、ケネディ政権はこの案を
ソ連側に打診していたのではないかという説もあるのだそうです。

歴史って、実は表向きはともかく、
明らかになっていないことの方が多いのかもしれない、
などと思ってしまう逸話です。


大統領執務室でカーティス・ルメイ将軍(ケネディの左隣)、
キューバミッションに参加した偵察パイロットと会談するケネディ大統領。

左から3人目は、キューバのミサイルが最初に確認されることになった
写真を撮影したリチャード・S・ヘイザー少佐です。


962年10月14日の日曜日の早朝、ヘイザー少佐は、
カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で、急遽「USAF 66675」と再塗装された
CIA U-2F、アーティクル342(空中給油用に改造された2機目のU-2だった)
に乗り込み、「真鍮のノブ」作戦(Brass Konb)と名付けられた
キューバ上空飛行(ミッション3101)に出発しました。


メキシコ湾上で日の出を迎えた彼は、ユカタン海峡を飛行した後、
北に向きを変えてキューバ領土に侵入します。
その時点でU-2Fは72,500フィートに達していました。

ヘイザー少佐はカメラのスイッチを入れ、自分のミッションを行いました。
彼のU-2が島の上空にいたのは7分足らずでしたが、
あと5分滞在していたら、2つの地対空ミサイルにさらされる危険性がありました。

ヘイザー少佐にはドリフトサイト(爆撃機用の照準サイト)をスキャンして、
キューバの戦闘機や、最悪の場合、SA-2ミサイルが向かっていないかを確認し、
もしそうなら、ミサイルレーダーのロックを解除するために、
S字を描くように急旋回してから遠ざかるようにと指示がされていました。
しかし、キューバの防空網からは何の反撃どころか反応もありません。
ヘイザーはコースアウトして、フロリダ州のマッコイ空軍基地に向かい、
ちょうど7時間の飛行の後、米国東部標準時の0920に同基地に着陸しました。


着陸後、持ち帰ったフィルムはすぐにワシントンD.C.の
ナショナル・フォトグラフィック・インテリジェンス・センターで処理され、
最初に上がった画像は武装したガード付きのトラックで運ばれました。

解析の結果、NPICのアナリストは正午までにSS-4ミサイルの輸送機を確認。

10月22日、ジョン・F・ケネディ大統領は、ヘイザー大佐の写真によって、
ソ連がキーウェストからわずか90マイルのところに
核ミサイルの秘密基地を建設していることが証明されたと発表します。

それから起こった様々なことは今回の種子ではないので省略しますが、
ソ連のニキータ・フルシチョフ首相がキューバからのミサイル撤去を命じたことで、
キューバ危機は終結することになったのでした。


ヘイザー中佐は、2005年にAP通信とのインタビューでこう語っています。
「危機が平和的に終わったことに自分以上に安堵した者はいなかったでしょう。
第三次世界大戦を始めた男として歴史に名を残したいとは思いませんから」



■ 歴代大統領と「偵察」
Presidents and Reconnaissance
アメリカの歴代大統領は、航空偵察による正確で最新の情報を信頼していました。
今日は最後にそんな偵察にかかわる大統領のシーンをお届けします。


航空写真を見るフランクリン・D・ルーズベルト大統領とジョージ・ゴダード准将。
ゴダード准将については先日当シリーズで説明したばかりです。
いわば、アメリカ空軍の写真航空偵察のパイオニアというべき存在です。

偵察士官だった大統領の息子エリオット・ルーズベルト と組んで、
自分を性病検査のセクションに左遷した大佐を追い落とした、
というなかなかに黒い面を持つ人だったのが印象的。

Uー2航空機の役割について語っているドワイト・D・アイゼンハワー大統領。

パイロットが撃墜されることになったU-2撃墜事件ですが、
スパイ行為を強く押し進めたのはアイクだった、という話でしたね。
この事件によって、冷戦の雪解けは棚上げになり、
アイクは絶好の歴史的名声を得るチャンスをレーガンに譲ることになります。

サムネで見たらビリヤードをしているのかと思ったのですが。空中偵察で得られたデータから作成された3次元地形モデルを見る
リンドン・B・ジョンソン大統領。

航空写真から作成した地形モデルを検討するジェラルド・フォード大統領。
フォードの左で地図を指差しているのは、
当時国務長官だったヘンリー・キッシンジャーではないかと思われます。

空中偵察について説明を受けているジミー・カーター大統領。
横に仁王立ちしている女性が誰かはわかりません。


偵察写真から得られた証拠について、
ロナルド・レーガン大統領が国民に語りかけています。

写真にはソ連のミサイルサイトが映っているようですので、
これは就任してすぐに、レーガン大統領が
ソ連を「悪の帝国」(an Evil empire)呼ばわりした時ではないかと思われます。

この何年か後に、ゴルバチョフと会談するためにモスクワに行ったレーガンは、
「今でも悪の帝国と思っていますか」

と聞かれて、すぐさまいいえ、と言った後、

「わたしが言ったのは別の時間、別の時代のことですよ」"I was talking about another time, another era."

と答えたそうです。

続く。

宇宙からの「眼」 無人衛星偵察の目指すもの〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン博物館の軍事航空偵察シリーズ、「スカイ・スパイ」。
冷戦時代の高高度偵察機について前回お話ししてきたわけですが、
人が乗った航空機で偵察を行うというのは、どうしても撃墜されたり捕まったり、
それこそU-2ではありませんが、最悪国家の危機レベルでのリスクを伴います。
そこで、人を使わない偵察機、ドローンの登場となります。

■ ドローン


ここ数十年の間に急速に普及したのが、遠隔操作で操縦する無人航空機です。
この写真の輸送機の主翼の下、パイロンには、ドローンが装着されています。
最初にドローンが軍事偵察(主に写真偵察)に投入されたのはベトナム戦争で、これらの航空機は、一般的にジェットエンジンを搭載した高速機でした。

その後、マイクロチップの導入により、カメラや制御技術が小型化されたことで、
より小型で低速の飛行体が開発され、投入されていきます。
後世の多くの紛争では、攻撃の評価や計画、コンプライアンスの監視に
ドローン、UAV(無人航空機)の飛行が不可欠となっていくのです。

RQ-4グローバルホークの整備を行う飛行士:2008年9月

ネットでの拾いもの・・どうしてこうなった状態のドローン
■ 衛星偵察
空中偵察の次のステップは、宇宙軌道上からの偵察です。
衛星は軌道上から広大な地域を詳細に監視することを可能にしました。
【ディスカバラー13再突入カプセル】
「ディスカバラー」は、ソ連を監視するための人工衛星を開発する秘密計画
アメリカの「コロナ計画」の公称(つまり表向き名称)です。

アメリカは「コロナ計画」をあくまでも宇宙開発計画として発表していましたが、
その実態はソ連を監視するためのスパイ衛星を打ち上げることでした。

航空機による偵察は、これらの宇宙計画までの単なる「場つなぎ」にすぎなかった、
という話を前回しましたが、この計画は実は1950年代後半に始まっていました。

アメリカが考えた、宇宙に偵察カメラを送り作動させるという壮大な計画。

これは実に最初から失敗の連続だったのですが、さすがアメリカ、
1960年8月、「ディスカバラー13」カプセルを回収することに成功しました。

これは、軌道上で回収された人類史上最初の人工物となります。
「13」カプセルはテストだったので、フィルムは搭載されていませんでしたが、
その1約週間後に打ち上げられたディスカバラー14号が、
約2週間後には宇宙からフィルムを持ち帰ったのです。


航空機が偵察型衛星を再突入時にキャッチしています。
ディスカバラーで撮影したカプセルは、ソ連が取得することのないように
海中に落ちてからではなく空中でキャッチすることにしました。

カプセルはある程度の浮力を持っていましたが、敵の取得を恐れ、
一定の時間が過ぎると沈むようにできていたので、
それでほとんどの最初のカプセル実験は失敗したと言われています。

何回めかの実験の時には、ソ連が情報を手に入れて、落下地点付近で
潜水艦を待機させているらしいとわかって、実験そのものが中止されました。

アイゼンハワー大統領の前にある金だらいのようなものが、
回収されたディスカバラーのカプセルです。
大統領はアメリカ国旗を持って、なにかパフォーマンスをするつもり?

と思ったのですが、実はこのお釜の中に仕込んであった国旗だそうです。
アメリカ人の好きそうな演出ですな。

というか、それまでのディスカバラーにはもれなく国旗が仕込んであったのか?
ヤラセくさいなあ・・・と思うのはわたしの心が汚れているせいでしょうか。

ディスカバラー計画は1960年代初頭にひっそりと終了しましたが、
これは打ち上げの言い訳をもうしなくて良くなったからで、
コロナ計画そのものは1972年まで秘密裏に続けられていました。


1995年2月、ビル・クリントン大統領は大統領令に署名し、
1960年から1972年までの機密扱いの衛星偵察写真を公開していますが、
それがこれからご紹介するいこれからご紹介する一連の画像です。

この機密解除された1962年8月の画像には、旧ソ連のアラル海が写っています。

過去数十年間の地球環境の変化を研究する科学者にとって、
このような詳細な画像は学術的にもたいへん有用なものです。


こちらも同じランドサットによるアラル海の画像ですが、
先ほどの写真から23年経った1987年8月撮影のものになります。
画像がカラーなのはもちろん、画像の鮮明さが技術の進歩を語ります。
ただし、写真にはこの期間、アラル海で起きた環境破壊の様子が示されています。

農薬の過剰使用や不適切な灌漑が20年以上も繰り返された結果、
かつては広大で豊かだったアラル海は汚染され、縮小してしまっています。

上の画像と比較してみてください。

発射される偵察衛星
年代を追って


ロケットが立派に・・・。
■ ランドサット

ランドサット衛星は、1972年から地球を観測しています。

地球の数百億平方キロメートルがランドサットのセンサーによってカバーされ、
その画像は地球科学のさまざまな分野の科学者に実用的な情報を提供してきました。

ランドサット1

ランドサット1は、高度917kmの軌道に打ち上げられました。
1日に地球を14周し、18日ごとに同じ場所を通過していました。

ランドサット4

ランドサット4と5は高さ705kmの軌道で、16日サイクルです。
ランドサット5は現在も稼働中です。

ランドサット1、2、3に搭載されていた地球画像センサーは、
マルチスペクトラルスキャナー(MSS)と呼ばれていました。

ランドサット4号、5号には経年劣化が比較できるように同じMSSに加え、
さらに進化したTM(Thematic Mapper)というセンサーが搭載されました。

ちなみにランドサット4号は故障で引退し、
ランドサット6は所定の軌道に到達できずに行方不明のままです。(おい)

1999年、ランドサット7はさらなる改良バージョンであるセンサー、
ETM+(Enhanced Thematic Mapper Plus)を搭載しました。



マルチ・スペクトル・スキャナー(Multi-Spectral Scanner)

ランドサット6号機に搭載されたセンサーです。
約34,000平方キロメートルの範囲を、約80メートルの解像度で画像生成します。MSSは、可視光と赤外線の両方の波長でデータを取得し、
振動鏡を使って地球をスキャンするしくみです。


【テマティック・マッパーThematic Mapper】



マッパーは「地図化」ということだと思われます。

スミソニアンにあるこのマッパーですが、実物大のモデルです。
まるでスピーカーみたいですが、これは撮像素子、
イメージセンサーと言った方が分かりやすいでしょうか。

横に立っている人が怖い・・ってそこかい

ランドサット4号、5号に搭載されているもので、
初期のランドサットに比べて約3倍の大きさの地形を捉えることができ、
より多くの波長帯のデータを収集することができます。

博物館に展示されている実物大のモデルは、
ヒューズ・エアクラフト社の提供によるものです。

セマティック・マッパーでランドサットから撮ったルイジアナ州ファルムランド。

同じく、ラスベガスのミード湖。
ミード湖は世界最大の人工湖で、コロラド川のフーバーダムを形成します。
「レッドリバーバレー」という歌がありますが、この辺りは地層が赤いんです。

ランドサットTMが捉えたミズーリ川の氾濫前

氾濫後。
さらにその後。
川のラインがはっきりしないくらい氾濫しています。
■ 人工衛星が見た海洋・シーサット


「シーサット」は、レーダーによる海洋監視に特化した初の人工衛星です。



1978年に打ち上げられたこの衛星は、98日間にわたって運用され、
1億平方キロメートルの地表の画像を作成するのに十分なデータを取得しました。

高度800kmの軌道を周回し、海氷、海流、渦、内部波など
多くの海洋の特徴をレーダー画像で提供することができました。

スミソニアンに展示されているのは20分の1スケールモデルで、
 ジェット推進研究所による提供です。
海底の地形を知る
シーサットには、海面の地形を計測する装置も搭載されていました。

この画像で明るい色合いは隆起を、暗い色の部分は窪みを表しています。
海面の変化は、海底の海溝や海嶺の地形を表します。
海洋の温度を知る

NOAA-12衛星に搭載された
高性能超高解像度放射計(AVHRR)のデータによる海面温度の画像。

オレンジと赤の色は温度が高く、紫と青の色は温度が低いことを表します。
この1997年の画像では、メキシコ湾流の暖かい部分がはっきりと確認できます。

AVHRRは実際の海面温度を知ることに役立ちますが、
海水温を知ることで、漁業関係者の海流や餌場などの特定情報に役立ちます。
海底の地形を知る

マサチューセッツ州ナンタケット島沖の尾根や浅瀬による表面の凹凸が、
シーサットの画像にはっきりと現れています。
表面の模様と海中の様子がよく一致していますね。
河川底の堆積物を知る

アラスカ南西部のクスコクウィム川河口の堆積物が、
シーサットの画像にはっきりと映し出されています。
明るい部分は川の流れによって形成された水路です。
モザイク合成

モザイク画像で表されたシーサットによるグランドバハマ島周辺。
南側には、島の西海岸の水の流れによる渦が見られます。
海洋温度を知る


熱容量マッピングミッションによる画像。

暖かい水は明るい色調で、冷たい水は暗い色調で表示されています。
写真の下の方に見えるのがメキシコ湾流。
メキシコ湾流の端には巨大な2つの渦が確認されます。
海洋温度を知る2


熱容量マッピングミッションによるメキシコ湾流の別の画像。
白い部分が温かいメキシコ湾流で周囲の水は冷たいことがわかります。
■ 広視野センサSeaWiFS


黒海のSeaWiFS画像。
1997年8月に打ち上げられた衛星「SeaStar」に搭載されている
広視野センサ(SeaWiFS)です。

1997年8月に打ち上げられたSeaWiFSは、海の色を測定し、
植物プランクトンの濃度データを提供するとともに、
海と地球の変化の関係を研究することを目的としています。
センサの発達については長くなるのでここでは扱いませんが、
目に見える可視光だけでなく、赤外線など、
放射線を見ることができるセンサがいつの間にか?現れました。
それらの情報はフィルムに記録されるのではなく、
コンピュータの画像に変換できるもので、ピクセル
(小さな四角のモザイク)で構成されているのは皆さんご存知の通り。
■レーダー
陸地を見るもう一つの方法は、レーダーを使うことです。

レーダーは雲も見通すことができ、日の光を必要としません。
そのため、昼夜を問わず、大気の状態が悪くても画像を記録することができます。

レーダー画像は、表面の粗さ、方向性、含水率、組成などの物理的特性と、
シーンを「照らす」レーダー信号の波長に依存しています。



1978年に運用されたシーサット衛星のレーダー画像。

左上から右下にかけてサンアンドレアス断層が広がっています。
暗いところは断層の北東に位置するモハーベ砂漠。
明るい部分は南西に位置するサンガブリエル山地であり、
右下には主要な道路がはっきりと示されています。


アパラチア山脈が折り重なっている様子をシーサットレーダーで撮影したもの。

■シャトル・イメージング・レーダー

1981年にスペースシャトルに搭載された
シャトル・イメージング・レーダー装置(SIR-A)は
地表の約1,000万平方キロメートルの画像を撮ることができました。



エジプト西沙漠のランドサット画像に重ねられたシャトル画像レーダー実験
(SIR-A)のデータには、古代の干上がった川の水路が写っていました。
かつて水が流れていた河道の特定は考古学者の研究に役立ちます。



ガラパゴス諸島のイサベラ島にあるアルセド火山の3D画像。
地形データとSIR-C/X-SARのレーダー画像を重ね合わせて作成されたもので、
粗い質感の溶岩流は明るく、滑らかな灰の堆積物や溶岩流は暗く見えています。

■ラダーサット

1995年11月に打ち上げられたラダーサットは、カナダ宇宙庁が運用しており、
さまざまな解像度のレーダーデータを提供しています。



南極大陸のパインアイランド湾に突き出たベア半島(左)とスウェイツ氷河の末端。

この画像は、カナダとアメリカが共同で行っている
南極マッピングミッション(AMM)の一環として取得されたものです。

AMMは、1997年9月に開始された、
宇宙から南極大陸全体を高解像度でマッピングするプログラムです。
レーダー画像から氷に覆われた南極の詳細な地図が作成されています。


21世紀に入ってからの10年間は、衛星による上空からの偵察が主流でした。

戦場の状況を迅速に把握し、広範囲の電磁波を継続的にサンプリングするためには、
依然として空力的な飛行体が必要です。しかし、これらはますます無人化されていくでしょう。
手のひらサイズのマイクロマシンから、グローバルホーク、
NASAの太陽電池駆動のパスファインダーまで。

さまざまなUAVが存在しますが、これらは何日も継続して飛行することができます。

UAVの研究と発展の目指すものは、
かつての有人の空中戦の原点を再現することにあるのかもしれません。

より確実に。人的被害を被ることなく。

続く。


宇宙からの「スパイ」とシギント収集艦「オックスフォード」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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実は「スカイ・スパイ」のシリーズを前回をもって一旦終わったと思い、
その他のスミソニアン博物館の「マイルストーン」(歴史的)航空機とか、
宇宙開発で打ち上げたカプセルなんかについての説明ログを制作していたわたし。

まだ扱っていない「スカイスパイ関係」展示があるのに気がつき、
慌ててこれを取り上げる次第です。(何か不備があったらすみません)

なぜこの部分を積み残してしまっていたかというと、
スミソニアンの展示配置にその原因があって、「スカイスパイ」の展示と
宇宙開発展示の合流?するところに、この「宇宙からのスパイ」があり、
わたしはこれに気がつかないまま別のコーナーに移ってしまっていたのです。


まあ、そもそもアメリカの宇宙開発の最終目的は偵察にあったわけですから、
この二つのコーナーに重なる部分があっても当然だったんですけどね。
スミソニアンには偵察衛星のモジュールや宇宙カメラや、
何ならハッブル望遠鏡まであったりするのですが、
これらは「スカイスパイ」なのか、「宇宙開発」なのかと言われても
どちらにも当てはまるカテゴリなので、このパネルを見つけて初めて
このコーナーが「スカイスパイ」の最後であることに気がついたというわけです。

ちなみに、パネルの向こうに見学している人の足が写りこんでいますが、
ちょっと現地の雰囲気をお伝えできるかなと思って?トリムせずに挙げておきます。

■スパイイング・フロム・スペース

宇宙からのスパイ、つまり偵察ですね。
日本語ではスパイとは「スパイする人」という意味でしかありませんが、
英語だと普通に偵察です。

まずはこのパネルのメインの文言には衛星偵察についてこのように書かれています。

「衛星偵察プログラムは、秘密裏にされてきました。

一般の人々が一部とはいえそのことを知り得たのは、
1960年以降のこととなります。

アメリカは、第二次世界大戦以来、偵察に使用していた航空機、船舶、
そして地上のステーションを増強するために、
1950年代後半に衛星の開発をいよいよ開始することにしました。

衛星偵察には、これら他のプラットホームに比べて重要な利点があります。それらは広大なカバレッジ(行動範囲)を提供し、
攻撃に対しても遥かに優位で、決して脆弱ではないことです。

そしてアメリカは、衛星偵察を開始してから今日まで、
画像情報と信号のデータを諜報手段として取得し続けています。

偵察は、他の情報源とともに、民間および軍の指導者に世界中の政治、
軍事、および経済の発展に関するタイムリーで正確な情報を提供します。
また軍の作戦を実際に支援することもあるでしょう。」

そして偵察種類が定義されています。
割と当たり前のことしか書いていませんが、一応整理のために載せておきます。


偵察 RECONNAISSANCE

別の組織・別の国家に関する情報を取得するために設計された秘密の活動

画像諜報活動 IMAGERY INTELLIGENCE
飛行場、造船所、ミサイル基地、地上部隊、指揮統制センター、
およびその他のターゲットの写真

シグナル・インテリジェンス:シギント
SIGNALS INTELLIGENCE :SIGINT

【電子インテリジェンス Electric Intelligence】
レーダーおよびミサイルと宇宙船間で送信される信号の傍受

【コミュニケーションインテリジェンス Communications Intelligence】外交および軍事メッセージの傍受
「シギント」という言葉は前にも説明しましたが、
シグナルズ・インテリジェンスの頭から三文字ずつ取った短縮形です。

■国家による偵察衛星機関 
National Reconnaissance Office: NRO
ケネディ政権は、1961年、偵察衛星の設計開発、うちあげ、運用のために
あくまでも密かに政府機関である国立偵察局NROを設立しました。
ところで、アメリカの政府機関の「ビッグ5」って何かをご存知ですか。

CIA、国家中央情報局くらいは誰でも知っているでしょうし、
何ならその一つにFBIを挙げる人もいそうですが、FBIはビッグ5ではありません。
アメリカのビッグ5機関とは次の通りです。
CIA アメリカ国家中央情報局 Central Intelligence Agency

NSA アメリカ国家安全保障局 National Security Agency

DIA アメリカ国防情報局  Defense Intelligence Agency

NGA 国家地理空間情報局 National Geospatial-Intelligence Agency
NRO アメリカ国家偵察局 National Reconnaissance Office

このアメリカ国家偵察局ですが、バージニア州シャンティリー、
ダレス国際空港からすぐ近くにその本拠があり、3000人が所属します。

職員は、NROの幹部、空軍、陸軍、CIA、NGA、NSA、海軍、
米宇宙軍からなる混成組織となっています。
その任務内容から国防省に属し、ビッグ5の他機関と緊密に連携しています。
NROが手がけた最初の写真偵察衛星計画は、もちろんあのコロナ計画です。
表向きはディスカバラー計画として宇宙開発を目的に打ち上げた衛星は、
冷戦時代のソ連を上空から写真撮影するのが目的でした。


コロナ計画の機密は前にも書いたように1992年に解除され、
1960年から1972年までの情報が公開されました。
1973年には、上院委員会の報告である議員がうっかり
NROなる存在を暴露してしまい、そのことからニューヨークタイムズに掘られて
NROが国防総省や議会に知らせずに年間10億〜17億ドルを溜め込んでいる、
とスキャンダルまで一挙に暴かれて公開されてしまいました。

このすっぱ抜きはちょうどCIAが調査をしている最中だったそうです。
CIAの調査でNROが長年積み上げていた前倒し金は65億ドルに上るとしました。
NROの「いざという時の金」(レイニーデイ・ファンド)だったというのですが、
それはいくら何でも貯め込みすぎだろうって。
当初は衛星偵察が極秘だったこともあって、NROそのものが秘匿されていました。日本語のWikipediaには、

「かつては諜報関係者すら、
公的な場所で組織名を口にする事さえ禁じられた
ほどの秘匿機関であり、組織の存在が暴露された後も長きに渡り
現職長官名も公開されない極秘機関だったが、
このような秘匿は情報公開法に抵触するとの抗議を受け、
現在では公式サイトでその概要を知ることができる」
とあります。
また、NROは独自に人工衛星を運用しており、その「ポピー」Poppyという衛星は
1962年から1971年の間、国民に秘密裏で7号まで打ち上げられていました。

こんな名前の衛星があったことなど知らない人の方が多いのではないでしょうか。


このいかにもキレッキレそうな目つきのおじさんが、NRO初代所長です。
ジョセフ・ヴィンセント・チャリック(Joseph Vincent Charyk)
カナダ生まれのウクライナ系ですが、アメリカ国籍を取っていると思われます。
カルテックで博士号をとり、アメリカ空軍で主任科学者を勤めていたことから
ケネディ大統領に初代NRO所長に抜擢される流れの中で
アメリカ国籍を与えられることになったのかもしれません。

■アメリカの航空偵察


U-2偵察機

カメラと電子情報機器を搭載したU-2偵察機が任務を始めたのは
1956年で、ソビエト連邦上空を飛行し始めました。
これらの任務は、ソ連がフランシス・ゲイリー・パワーズが操縦する
U-2を撃墜する「U-2撃墜事件」が起きて1960年に停止しましたが、
停止したのはソ連上空だけで、他の地域では偵察は継続されましたし、
空軍は現在も高度なU-2を運用し続けています。

ストーンハウス STONEHOUSE


エチオピアのアスマラにあった、ストーンハウス深宇宙受信ステーション。
1965年から1975年まで運用されており、ここでは
ソ連の深宇宙探査機のコマンドの応答や探査機から受信が可能でした。

右の写真は85フィートの反射鏡、左の写真は直径150フィートのアンテナです。
月、火星、金星など遠方にあるソ連の宇宙探査機からの
ごく微弱なテレメトリー信号を受信するために、
これほど巨大なアンテナが必要だったというわけです。

この施設は1975年に閉鎖されましたが、世界中の同様のステーションは、
シギントを実行し続けています。
■データ収集用プラットフォーム艦


USNS 「ジェネラルH.H.アーノルド」
USNS ジェネラル・ホイトS. ヴァンデンバーグ (AGM-10)

これらは、大西洋範囲計測船 (ARIS) を情報データ収集用に改造したものです。
主要な移動式技術情報収集プラットフォームとしてレーダー信号データを提供し、
カムチャッカ半島や太平洋でソ連のICBMからテレメトリーデータを収集しました。

ARISは、ソ連のICBMの発射実験が予想される時期に、
年に数回、太平洋上で情報収集任務を遂行しています。

これらは1960年代から1970年代にかけて運用されましたが、ヴァンデンバーグは
現在退役し、フロリダ州キーウェスト沖で人工岩礁として使用されています。


USS オックスフォードAGTR-1/AG-159
「オックスフォード」も情報収集艦として運用された艦船の一つです。
第二次世界大戦中にはリバティシップとして建造されたのですが、
冷戦後電子信号情報収集のために改装されて
航空機、船、地上局からの送信を傍受しました。
「オックスフォード」は電子信号軍事情報(シギント)を収集のために
最新のアンテナシステムと測定装置を装備し、
海軍の「通信に関する研究開発プロジェクトの包括的プログラム」
つまり電子スパイの能力を備え、かつ世界各地に赴くことができる
「高度な移動基地」となったわけですが、他のシギント収集艦と同様、
特に任務内容と雇用そのものすら、機密扱いとなりました。
これらの「研究」船は、秘密活動のための有効な隠れ蓑を作るために、
海洋学的実験を行うための装置と人員ということになっていました。

■シギント収集艦「オックスフォード」

【キューバ危機】

1962年秋、それはキューバ危機が起こった年でしたが、「オックスフォード」は
キューバ・ハバナ沖でゆっくりと、「8の字」を描くように航行していました。
その任務は、キューバ全土のマイクロ波通信を盗聴することでした。

キューバのマイクロ波システムの仕組みについて、アメリカ側は既に
情報を収集して知悉しており、「オックスフォード」は、
キューバの秘密警察、キューバ海軍、防空、民間航空を盗聴できたのです。

1962年9月15日、「オックスフォード」のレーダー員は、
NATOが「スプーンレスト」と呼ぶソ連のP-12レーダーの存在を検知します。

これは、ソ連ががキューバの目標追跡・捕捉システムを
密かにアップグレードしていたことを示唆するものでした。

1962年10月27日、その日は「黒い土曜日」とも呼ばれていますが
「オックスフォード」はSAMミサイル基地からのレーダー信号を検出し、
キューバのソ連防衛の突破口を発見したのです。

この発見により、その後F-8クルセイダーの低空飛行による写真撮影と
高高度でのU-2の偵察飛行の両方が出動しました。


【史上初の「ムーンバウンス」通信成功】

1961年12月15日、「オックスフォード」は、
月を通じて陸上施設からのメッセージを受信した最初の船となりました。

「ムーンバウンス通信」は、地球-月-地球(EME)通信とも呼ばれ、
地球から月に向けて電波を送信する技術です。

地球から月へ電波を送り、月面で反射させ、地球上の受信機でキャッチする。
この技術は、海軍の艦船との安全な通信を可能にするものでした。

1961年12月15日午前0時頃、海軍作戦部長ジョージ・W・アンダーソンと
NRL研究部長R・M・ページ博士が、メリーランドから約2414km離れた
大西洋上のUSS「オックスフォード」に、月経由でメッセージを送信します。

海軍が地上局から艦船へのメッセージ送信に成功したのは、これが初めてでした。

この出来事は秘密にされていたわけではなく、AP通信が小さな記事を書き、
それが12月17日付のワシントン・ポストに掲載されています。
あまりにささやかなニュースなので騒がれなかったのですが、偉大な功績でした。

送信の成功を受けて、「オックスフォード」には操縦可能なパラボラアンテナと
送信機が設置され、双方向通信が可能になりました。


冒頭にも挙げたこの写真は「オックスフォード」甲板で、
通信技術者である乗員二人がアンテナに乗務?している貴重なシーン。

この成功を受けて、海軍は
技術研究船特殊通信システム(TRSSCOMM)、世界のどこにいる船でも、
マイクロ波を月に向けて発射し、メッセージを送ることができるシステムを得ます。

これは分かりやすくいうと、月が反射板となり、
地球上の90度の範囲にある受信局へ電波を送り返すという仕組みでした。


【技術研究艦USS オックスフォード (AGTR-1)】

その後「オックスフォード」(AG-159)は1964年4月1日に
技術研究艦(AGTR-1)に改名されました。

電磁波受信だけでなく、海洋学や関連分野の研究を行う艦として
世界の海を航海しました。(名誉職みたいな感じですかね)

退役は1969年12月19日。
日本の横須賀で海軍艦艇登録簿から抹消されました。


海軍は現在でも艦船を使ったシギントを実行しています。


続く。


衛星偵察:宇宙に浮かぶ秘密の目〜スミソニアン航空宇宙博物館

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「私たちは宇宙開発に350億ドルから400億ドルも費やしてきました。

しかし、もし衛星写真から得られる知識以外に、何も得られなかったとしたら、
それは私たちにとって、このプログラム全体にかかった費用は
10倍は高くついてしまったということになるのです。

なぜなら、今夜、我々は敵のミサイルの数を知りました。
我々の推測は大きく外れていたのです。

私たちは必要のないことをやっていたのです。
作る必要のないものを作っていたのです。
私たちは、持つ必要のない恐怖を抱いていたのです。」

リンドン・B・ジョンソン大統領、1967年


スミソニアン博物館の展示から、「スカイ・スパイズ」、
空からの偵察の歴史についてご紹介してきたわけですが、
衛星からの偵察のコーナーの端が宇宙開発のゾーンと物理的に重なっており、
なるほど、色々と考えているなあと感心した次第です。

宇宙開発競争、それはロケットを飛ばすことによって可能となる
高所からの敵攻撃能力の誇示であり、かつ抑止力となるもののはずでしたが、
それは同時に、高所からの偵察の「眼」を持ちうるということも意味します。

スパイ衛星からの写真は、宇宙開発競争と冷戦の重要な遺産と言えます。
なぜなら偵察は宇宙飛行の最初の優先事項とされていたのでした。
■偵察と宇宙

1950年代半ば、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、
ソビエト連邦による奇襲核攻撃の可能性を懸念していました。

このような不安を解消するために、アメリカには2つの選択肢がありました。

一つ、ソビエトに無断でスパイ活動を行うか
一つ、互いの軍事活動を監視する協定を交渉するか

そして、アイゼンハワー大統領は、その両方を試みたのです。
彼は1955年の国際リーダー会議で、ソ連とアメリカの偵察飛行を
互いに許可し合うという「オープンスカイ」提案を行いました。
どうせどっちもやってるんだから、もうお互いオープンにしない?というわけです。

しかし当然ながら、ソ連はこれを断固拒否してきました。

というわけで、航空機や気球による偵察には限界があり、
さらには外交交渉もうまくいかなかった、という理由を得たアメリカは、
スパイ衛星という新しい技術に活路を見出し、舵を切ることになります。

偵察機U-2

これについても既にお話し済みですが、1950年代には、航空機による
ソ連領土の探査や、カメラを搭載した偵察気球も、短期間ながら活躍しました。

中でもU-2は、特に高所からの偵察任務のために設計された究極の偵察機でしたが、
1960年5月、「U-2撃墜事件」によってアメリカの偵察行動が明らかになります。

U -2のパイロット、ロバート・パワーズは捕まり、スパイ容疑で裁判にかけられ、
ソ連の裁判で有罪判決を受け、シベリア送りになりましたが、
外交交渉で捕虜交換システムによって救出され、帰国することができました。

■ 「フリーダム・オブ・スペース」
「宇宙の自由」とは

偵察衛星の開発と投入は、国際法上の微妙な問題を提起することになります。
ここで人類は、こんな疑問について自問自答せざるを得なくなりました。

「宇宙は外洋のように万人に自由なのか。
それとも空域のように一国の主権的領土の一部なのか」
アイゼンハワー大統領らアメリカ首脳陣の考えは、前者でした。
宇宙は万民に自由であり、この考えが国際国際的に広がることを望んでいたのです。

歴史的に移民を受け入れて成り立ってきたアメリカらしい考えと言えますし、
穿った見方をするなら、アメリカの技術力を持ってすれば、
たとえ宇宙がフリースペースでも、そこで常に優位に立てる、
という絶大な自信と誇りが言わせたことだったかもしれません。

「宇宙の自由」を提唱したいアイゼンハワーは、1957年の

国際地球物理年(International Geophysical Year)
(日本語では国際地球観測年とされた)

を利用して、世界的規模による地球に関する科学的研究を行い、
この先例を作ろうと考えました。

アイゼンハワーは、スパイ衛星よりも議論の矛先に上がりにくそうな科学衛星を、
アメリカにとって最初の宇宙進出の対象にすることを決定し、
これを国際地球観測年計画の一部に組み込んだのです。
(あくまでもこれらは”表向き”の動きで、アメリカが偵察衛星打ち上げに向けて
裏で色々やっていたことは歴史の示す通り)

とかなんとかやっていたら、1957年末にソ連がスプートニクを打ち上げました。

アメリカはスプートニクにショックを受けながらも、1958年1月には
科学衛星「エクスプローラー1」が打ち上げ、
「宇宙の自由」への第一歩を踏み出すことになります。
【日本と国際地球観測年】

余談です。
この年、日本はまだ戦後6年でまだ独立していませんでしたが、国際的地位の復活のために赤道観測を行うと協力を申し出ました。

しかし体よくアメリカに断られてしまったため、日本はその代わり南極観測を行うことにして昭和基地を建設し、観測に協力しました。

その後国の威信をかけた南極観測隊を送り、昭和基地で始まった観測は、
「観測年の間だけ」という当初の予定を大幅に超えて、現在も継続されています。

■ ディスカバー/ コロナ
アメリカ初の偵察衛星

1960年から1972年にかけて、アメリカはコードネーム「コロナ」で
日常的に宇宙からソ連を撮影する偵察プロジェクトを実施していました。
きっかけは、ここで何度もお伝えしている1960年の偵察機U-2撃墜事件です。

実はこのコロナ計画、ソ連に遅れを取っていると表向きでは言いながら、
実はかなりの実質的な成果を上げていたのでした。

実際、月への人類派遣に匹敵する困難なプロジェクトだったはずなのですが、
宇宙計画と違い、いかに成功しても、事柄の性質上その実態は
決して一般に知らされることはありませんでした。

U-2偵察の時もそうでしたが、偵察活動を大々的に宣伝するわけにいきません。
特に宇宙からのスパイ活動はシークレット中のトップシークレットした。

お互い様という気がしますが、アメリカもソ連も、冷戦中
最も警戒するべきは相手の核攻撃の進捗状態です。

アメリカにしてみれば「秘密主義」のソ連の核の実態を知るには、
鉄のカーテンの向こうで何が行われているかを知らないわけにいきません。

「コロナ」はその重要な答えとなったのです。
さて、ソ連がスプートニク1号を打ち上げた数ヵ月後の1958年初め、
中央情報局(CIA)と米空軍による偵察衛星プロジェクトが承認されました。

それは、簡単にいうと、カメラを搭載した宇宙船を軌道上に打ち上げ、
ソ連を撮影し、そのフィルムを地球に帰還させるというものでした。
この秘密スパイ衛星にCIAによって名付けられた名前が「コロナ」です。

しかし、その真の目的を隠すために、「ディスカバラー」と表向きに名付けられ、
科学的な研究プログラムであるという公式発表がなされました。

この辺は英語の語感がわからない外国人としてはなんとも言えないのですが、
「コロナ」より偵察がばれなさそうな、科学的なイメージがあるんでしょうか。


このコロナシステムで、1960年から1972年の間の100回以上のミッションで
80万枚を超える写真が撮影されたと言われています。

そしてその間も休みなく向上するカメラや画像処理技術を取り入れつつ、
コロナをはじめとする高解像度の偵察衛星は、アメリカの情報分析担当者に
ますます詳細な情報を提供するようになっていきました。

■ディスカバラー(実はコロナ)13号:最初の成功

とはいえ、アメリカの宇宙打ち上げ計画は当初失敗続きだったのはご存知の通り。

一回も成功しないまま、粛々と打ち上げ数だけが増えていた
ディスカバラー/コロナ・ミッションですが、これが初めて成功したのは、
1960年8月、実に13回目の打ち上げ実験でのことでした。

この時初めてアメリカは衛星から帰還カプセルを軌道上から回収したのです。

ディスカバラー14号がカメラを軌道に乗せ、宇宙から撮影した
米国初のソ連領の写真が入ったカプセルを帰還させたのはそれから1週間後でした。


アイクとディスカバラー13号カプセル(カレー鍋じゃないよ)


ほおこれがアメリカ国旗か〜(横の軍人たちの目よ)

宇宙から撮影された米ソ初のスパイ写真



ディスカバリーという名前のコロナ計画の偵察衛星が初めて撮った、
宇宙船から撮影されたソ連軍用地の最初の写真は、
チュクチ海近くのミス・シュミッタにあるシベリアの航空基地でした。

高度160km以上から撮影されたもので、約12mの物体が写っています。
ディスカバラー14のフィルムは、それ以前に行われたU-2航空機による偵察で
得られたすべて合わせたよりも多くのソビエト領土をカバーすることができました。

「宇宙の自由」を謳うことによって、アメリカは何の気兼ねもなく?
U-2が見舞われたような国際非難とパイロットの危険もなく、
それ以上の情報を手に入れることができるようになったのです。

■コロナのミッション



冷戦時代、アメリカはソ連の核兵器の脅威について
常にを正確に把握することを至上目的としていました。

もし長距離弾道ミサイルが発射されれば破壊的な到着までわずか数分しかないため、
安全保障的に、兵器設置場所に関する正確でタイムリーな情報を
できるだけ早く入手することが必要と認識したのです。

このため、「コロナ・カメラ計画」が発動されました。


ロケットで軌道上に打ち上げ、目標地域の上空に送った衛星に
ソ連の施設の画像を撮影し、送信するようにカメラを仕込むのです。
プロジェクトの目標は、軌道上から地球の広い範囲を詳細に撮影することでした。
そのためには、プロジェクトチームがクリアする必要があったのは
3つの大きな技術的課題でした。

1、時速27,000kmで移動しながら、地表から高度160km以上から
高画質な写真を撮影できるカメラを設計すること

2、カメラを安定させなければいけない 特定の場所を鮮明に撮影すること

3、撮影したフィルムは地球に持ち帰ること
割と当たり前のことばかりですが、それが簡単にできれば誰も苦労しません。それを達成するために、コロナの技術開発・運用には、
実に数十社の企業と数千人の人々が秘密裏に取り組んでいました。


■コロナのカメラ

カメラは回転することで高解像度のパノラマフィルム画像を生成しますが、
当時はまだ取得した情報を利用するためには、
露光したフィルムのリールを回収して処理する必要がありました。

そのため、パラシュート型のノーズコーンにフィルムを収納し、
大気圏に突入してから空中にあるうちに確保していました。

このように、技術的にも戦略的にも大変複雑なものでしたが、
これらは功を奏し、1959年から1973年までの間に、
何百回ものフライトによってソ連の活動を知ることができました。

戦争につながるかどうかという不確実性から緊張を緩和することができたのです。

コロナカメラシステムの本体の向こうには、
アイゼンハワーが宇宙から戻ったディスカバラーを開けるお馴染みの写真が・・・。

このお釜は、「ディスカバラー計画」の回収されたリターンカプセルで、
つまりコロナ計画の原初的な作戦として、ソー・アジェナロケットで打ち上げられた
わずか750kgの人工衛星でした。

この頃の「失敗」は、つまり大気圏突入後の回収がほとんどで、
機密保持のためにカプセルはしばらくしたら水没する仕組みになっていました。

ソ連もどういうわけかこの情報を知っていて、
カプセル落下地点で潜水艦が待ち構えているのがわかると
直前で中止されるなど、お互いそれこそ水面下での熾烈な戦いがありました。
カメラの説明は以下の通り。
「KH-4B カメラは1967年から1972年までコロナ衛星に搭載されて
世界各地の偵察写真を撮影し続けた」
カメラ製造元 Itek
フイルム持ち帰りカプセル製造元 ゼネラル・エレクトリック
打ち上げ機 ソー・アジェナ(Thor-Agena)打ち上げ機製造元 ダグラス(ソー)ロッキード(アジェナ)

まずはコロナを打ち上げたKH-4Bコロナ衛星です。
KHはKey Holeのことで、鍵穴=「覗き見る」からだとか・・・。
中が覗けるキーホールなんておそらく当時はもう存在しないんですが、
まあ隠喩的というかこの言葉が「覗き見」のイメージなんでしょう。

そしてこの衛星の先っぽの部分が、目的たるカメラです。


(先端から左回りに)#1 フィルム返還カプセル
#2 フィルム返還カプセル
コンスタントに回転しているステレオ・パノラマカメラ
フィルム補充カセット
フィルム通路

この、「コンスタントに回転するパノラマカメラ」というやつが
どう回転するのかわからんのですが、まさか360度回転?

スミソニアンHPのもう少し詳しい図



この部分なんですけど、どうも複雑な回りかたをするようです。


スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館にあるこれは、
現存する唯一のコロナカメラです。
(コロナカメラと打とうとすると、途中でコロナ禍と出てしまう今日この頃)

スミソニアンはこのカメラの評価と保存を請け負うことになり、
パーツをまず分解した後、フィルムキャニスター、ノーズコーン、
フィルム搬送装置、熱シールドが、処理前にスタジオで調査されました。

その後、掃除機と中性洗剤で汚れを除去し、
その際腐食した材料は除去され、保存処理がなされました。
劣化した金属も、金属光沢剤と腐食防止剤で慎重に処理され、
バッテリーの端子は洗浄し、劣化が進行しないように分離。

金メッキされたノーズコーンは、クリーニングと研磨が行われ、
熱シールドは洗浄、安定化、充填、インペイントが行われました。
ちなみに、このカメラで撮影した写真には、地表の2mの物体も写ります。
今ではそんなの当たり前どころかもっと小さなものも写りますが、
最初のこの技術があったからこそ、現代の技術へと繋がっているということを
我々は忘れてはいけないかもしれません。(適当)

処理された部品は、博物館に戻され、
クライアントによって処理されたフレームに再び設置され、
スミソニアンに展示されて今日に至ります。

続く。


偵察衛星ガンビットとアメリカの諜報〜スミソニアン航空宇宙博物館

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前回、スミソニアン博物館の展示から、アメリカが冷戦時代に打ち上げた
ディスカバラー計画という名の実はコロナ偵察衛星に搭載された
コロナカメラをご紹介したわけですが、今日はもう一つの偵察衛星、

KH-7 GAMBIT in the house

について書いてみようと思います。

前回取り上げたコロナ計画が立ち上がったのは1960年.対して、今日のガンビットKH-7が立ち上がったのは1963年です。

■セイモス計画と偵察衛星GAMBIT


1963年7月12日。
極秘の偵察衛星GAMBIT、別名エアフォースプログラム206の1号機が
アトラス・アジェナロケットに搭載されてカリフォルニアの空に飛び立ちました。

ガンビットはアトラス・アジェナブースターを製造したコンベア社とロッキードが、
それまでの、何度もミッションに失敗してきたロケットに代わって、
初めて次世代ロケットシステムを使用して打ち上げられました。

あまりにも失敗が続くのでこれはNASAと空軍の打ち上げの手順が
バラバラだからではないかい?と第三者機関が勧告し、これによって
ブースターの材料やら試験方法やら手順を統一した結果だそうですが、
三軍バラバラで宇宙開発をやった結果、ソ連に先を越されたということに
反省はなかったん?と思わず突っ込んでしまいますね。

さて、GAMBITについて読んでいると、いきなりこんな文章にぶち当たりました。
GAMBITは、1960年にアメリカ空軍の
セイモス(SAMOS)計画の灰から生まれた
不死鳥のような存在である。
コロナ計画もガンビットも、そもそもそんな名前初耳だが、
とおっしゃる方はこれを読んでいる人にも多いかと思うのですが、
それもこれも、偵察衛星事案は国家機密だった期間が長かったせいです。

おそらく、セイモス(SAMOS)計画についてもご存知と言う方は稀でしょう。

わたしも、この偵察衛星について調べ出して以来、次々出てくる衛星の名前に、
一体この国はどれだけこの時期、偵察衛星をこっそり上げまくっていたのか、
とはっきり言って呆れております。

しかし、名前が出てきたからには説明しないといけませんね。
セイモス計画は、

Satellite And Missile Observation System, SAMOS, Samos E,
「衛星及びミサイル観測システム」

で、やはり1960年第初頭に開始されていつの間にかひっそり終わった計画です。

セイモス計画は、空軍主導で行われたさまざまな偵察衛星の開発を言います。
最初のプロジェクトは、セイモスE-1とセイモスE-2と名付けられました。

簡単にいうと、従来のフィルムで画像を撮影し、軌道上でそれを現像し、
ファックスに相当するもので画像をスキャンする「フィルム読取衛星」でした。

その際、空軍はリスクヘッジのため、「フィルム回収衛星」として
セイモスE-5、E-6なるものを運用する予定にしていたそうです。

その頃アメリカでは、ソ連のICBMのより解像度の高い画像を収集するために
GAMBIT衛星計画がアイゼンハワー大統領によって承認されました。

GAMBITは、イーストマン・コダック社が開発したカメラと、
ゼネラル・エレクトリック社が開発した衛星を使用し、
長時間録音可能なフィルムを搭載し、撮影後は再突入機に格納し、
それを地球に送り返すというシステムになっていました。

1963年初頭、GAMBIT計画は波乱万丈のうちにスタートしました。

最初の衛星はバンデンバーグ空軍基地でさあ打ち上げというとき、
ブースターに充填中の推進剤に気泡が発生し、排出バルブが損傷します。

このせいで、ロケット全体が地面に崩れ落ち打ち上げは失敗。

あーあー

火災や爆発こそ起こりませんでしたが、地面との衝撃でカメラが押しつぶされ、
レンズが破壊されたため、衛星はかなりの被害を受けます。

もちろんアメリカとしてはGAMBIT偵察衛星を乗せていることは秘密で、
関係者以外にはその姿を見られることなく終わりました。

何度も話していますが、アメリカは宇宙開発の陰で実は偵察を目的にしており、
「コロナ」をわざわざ「ディスカバラー」と言い換えたように、
セイモスの飛行も、一般には科学的なミッションとして宣伝されていました。

しかし、さすがにこれだけ度重なると、科学的なデータが得られなかった理由を
それらしく説明するのは難しくなってきました。

流石のアメリカも言い訳の種が尽きてきたのかもしれませんし、下手な嘘をつけば、
世界中からのツッコミは避けようがないと思ったのかもしれません。

そこでアメリカは嘘をつくのはやめました。

堂々と隠蔽することにして(おい)1961年末、ジョン・F・ケネディ大統領が
偵察プログラムそのものを隠匿する=秘密のベールをかけるよう命じます。

1963年のGAMBITのデビューまでに、国防総省の発表には
「機密ペイロード」の打ち上げ以外の詳細は一切記載されなくなりました。
■アメリカの諜報活動は有人打ち上げを予測した

「The President Daily Briefing」

秘密といえば、このコーナーにはこんな資料もあります。
ジョージ・W.ブッシュ大統領時代のもので、ファイルの下方には
「トップシークレット」と書かれています。

50年以上、CIAが作成していた日報の表紙の写真ですが、
これは毎日のブリーフィングで取り上げられた重要な政治案件、軍事関係、
そして経済発展と世界情勢などに関するテーマが綴られています。

この日報を見ることができたのは、大統領とその側近など、ごく限られた人々のみ。
諜報機関(インテリジェンス・エージェンシー)は、1950年代以降、
外国の兵器システムから特定の国の政治的な発展に至るまで、
幅広い主題に関する国家諜報活動の見積レポートを作成してきました。

それらは、行政機関のほんの数人の高官、および軍関係者にのみ配布されます。



これはCIAの「レビュープログラム」。
日付は1960年の5月3日で、まさにこのGAMBITが打ち上げられた頃となります。

冒頭には、機密解除になった印にTOP SECRET
とわざわざ取り消し線が引かれています。

この国家諜報活動の見積(Estimate)は、そのタイトルも

「ソビエトの誘導ミサイルおよび宇宙船の能力」


黄色くハイライトされたところだけ訳しておきます。
この報告が、ある意味恐ろしいくらいその後の未来を言い当てています。

いかにアメリカの諜報能力がものすごかったかということでしょう。

我々はソ連が来年中には次に挙げるうちの一つ以上を達成できると考える

a. 垂直またやダウンレンジ飛行と有人カプセルの回収;

b. 無人の月面衛星または月面着陸;
c. 火星または金星の近くの探査;
d. 装備、動物、そしてその後、おそらく人間を乗せて
カプセルを軌道に乗せ、その後回収すること;
:(;゙゚'ω゚'):
1960年5月から始まったこの国家諜報活動の「見積」には、
ソビエトの試験飛行の監視、諜報活動に基づき、

「ソ連が来年中に人類を軌道に送り、宇宙に送って回収することができるだろう」

と書いてありますが、このまさに1年後の1961年4月12日、
ソ連はユーリ・ガガーリンを宇宙に打ち上げることに成功しました。

この諜報活動とその分析が正しいことが証明されたのです。
ここでふと思ったのですが、アメリカの諜報は、1957年当時、
スプートニクの打ち上げを全く予測できなかったんですよね?

つまり、アメリカのこの時点=1960年当時の諜報能力は、わずか3年で
ここまで相手の動向を手にとるようにわかるほどになっていたってことですよね。

うーん・・・やっぱりアメリカすごいわ。


これはもう少し時代が下って、1973年の国立写真解釈センターのレポートです。

このレポートは、エジプトの地対空ミサイルの種類と場所を
詳細に説明する内容となっています。

同センターはいくつかの諜報衛星からの画像取得ミッションに基づいて、
これらの内容のレポートを定期的に作成しました。

一部の報告には、U-2やS R-71ブラックバードなど、
戦略偵察機から撮影された写真が組み込まれていて、
どちらの方法もいまだに現役であることを表しています。
■GAMBIT、その後



GAMBITの前には、アメリカの諜報活動についての資料として赤字で

「大統領と政策立案者に情報を提供し続ける」

と書かれています。
衛星偵察とは、まさにそういう目的のための発明なのです。


さて、GAMBITの打ち上げに失敗してしまったアジェナは、
その後修理のためロッキード社に送り返され、アトラス(201D)ロケットが
1963年7月12日に最初のGAMBITミッションの打ち上げを行いました。

アトラスロケットは完璧な性能を発揮し、GAMBITを高度189kmの極軌道に投入。
空軍はこれをミッション4001と命名しています。

GAMBITは、長いチューブの両端に2枚の大きな鏡がついていました。
一方の鏡は、衛星の下の地面を筒の中に反射させ、もう一方の鏡に当て、
集光して筒の中の細いスリットに通された大きなフィルムに光を送り返します。

このカメラシステムは、高解像度で地上の細長い画像を露光することができました。


この図面では、ペイロードデータの「ステレオストリップカメラ」の型番、
その他見られてはまずい?ところが黒塗りされています。

GAMBITミッションは、その後何機かが成功したりしなかったり、
多くのミッションでは画像が不十分だったりそもそも画像がなかったり、
まあ結構な問題が発生していたようです。

当時の記録システムはワイヤ記録システムで信頼性に乏しく、
打ち上げたうち2機が太平洋の藻屑となっています。
それからバッテリーが爆発したり画像が戻ってこなかったり、
いくつもの失敗はありましたが、全体として見ると、これでも成功と言ってよく、
国家偵察局と大統領に質の高い情報を提供することができたとされます。


GAMBITは40機製造され、1967年6月に最後の1機が打ち上げられました。
2015年6月30日、ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に、
最後に残ったGAMBITの1機が展示されることになりました。

■NASMのGAMBIT

国立航空宇宙博物館で展示されているスパイ衛星「GAMBIT」。



1995年、CIAと米国の情報衛星を管理する国家偵察局は、
まずCORONAと呼ばれる最初の写真偵察衛星プログラムの機密を解除し、
スミソニアン博物館にCORONAカメラシステムを引き渡しました。



過去20年間、ワシントンDCの国立航空宇宙博物館で展示されてきたCORONAは、
飛行物体ではなく、プログラム後期のエンジニアリングカメラ1台と
モックアップの機材が含まれています。

CORONAが機密解除されると、情報当局は、それに続くシステムである
GAMBITとHEXAGONの機密解除を検討し始めます。
そして1996年には数年以内に両システムの機密解除を計画していました。

スミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されているスパイ衛星GAMBITは、
1997年、当時の国家偵察局長官キース・ホールが博物館を訪れ、
大型偵察機数台を博物館に寄贈する計画について博物館関係者と協議を行いました。

ホールは寄贈するつもりのものが何かを伝えなかった(なぜかしら)と言いますが、
博物館の学芸員は置き場所を考えるために、その寸法を伝えました。

これはお互い口には出さなくとも通じ合っていて、
「スミソニアン、お主も悪よのう」「長官様こそ」みたいな?


その中には、ソ連邦の変化を探るためにエリアサーチを行った巨大な衛星「HEXAGONカメラシステム」、そして
GAMBIT(ガンビット)衛星が含まれていたのです。

ヘキサゴンカメラシステムはまだスミソニアンで見ることができません。

ちなみに、この頃打ち上げられたKHと呼ばれる偵察衛星を、
まとめて最後に列挙しておきたいと思います。

 KH-1、KH-2、KH-3、KH-4 コロナCORONA
KH-5アルゴンARGON
KH-6ランヤード LANYARD

KH-8ガンビット GAMBIT

KH-9 ヘキサゴン HEXAGON

KH-10有人軌道実験室(MOL)

KH-11 ケンナンKENNAN

KH-12

KH-13

続く。

キング・オブ・スカイスパイ ハッブル宇宙望遠鏡〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン博物館の「スカイ・スパイズ」のシリーズ、
スミソニアンでは決してそうと標榜しているわけではないですが、
流れ的にこれこそが「宇宙からの眼」の集大成ではないかと思い、
最後に、ハッブル宇宙望遠鏡の展示で締めたいと思います。
宇宙望遠鏡は空中からの偵察などという狭義の物ではなく、もっと純粋な、
そう、アメリカがずっとその偵察衛星の歴史で標榜してきたが如き、
人類の科学技術の発展のためのものであることに間違いはありませんが、
小さな小さな人工衛星から始まった「宇宙の眼」の技術が発展した
一つの究極の形であることは確かだと考えるからです。

それでは参りましょう。

■ ハッブル宇宙望遠鏡
ハッブル宇宙望遠鏡(HST、Hubble)。
1990年に地球低軌道上に打ち上げられ、現在も運用されています。
もう稼働を始めて32年になるわけです。

史上初の宇宙望遠鏡ではありませんが、これまでで最大であり、
最も用途の広い望遠鏡の一つであり、重要な研究ツールとして、また、
地球の大気に邪魔されない環境で天文学の広報活動を行う重要な設備です。

宇宙望遠鏡は1923年にはすでに考案が始まっていました。

ハッブル以前の宇宙望遠鏡には、1983年にNASAとオランダ、
イギリスが共同で打ち上げた赤外線天文衛星、IRASというのがありました。

IRAS Infrared Astronomical Satellite


ハッブル望遠鏡は、天文学者エドウィン・ハッブルの名にちなんでつけられました。

【ガチの天才】宇宙を広げた超人 「エドウィン・ハッブル博士」の天才っぷりがヤバすぎる【ゆっくり解説】

ついにゆっくり解説という禁断の領域に手を出してしまう当ブログである
ハッブル以降打ち上げられた宇宙望遠鏡、

チャンドラX線観測衛星(1999-現在)
スピッツアー宇宙望遠鏡(2003-2020)

などとともにいまだにNASAの大観測所の1つとなっています。
ちなみに我が国がこれまで運用した天文衛星は、

X線天文衛星 「すざく」 (ASTRO-EII)
赤外線天文衛星 「あかり」 (ASTRO-F)
太陽観測衛星 「ひので」 (SOLAR-B)
惑星観測衛星「ひさき」(SPRINT-A)
で、「ひので」「ひさき」は現行運用中です。
■打ち上げ直後にトラブル発生!

ハッブル望遠鏡は1970年代にNASAが資金を提供し、
欧州宇宙機関からも寄付を受けて建設されました。

1983年の打ち上げを目指していたのですが、技術的な遅れや予算の問題、
そして1986年のチャレンジャー号事故のためプロジェクトは難航しました。

これが宇宙望遠鏡の「主鏡」です。
ハッブルは 2.4m の「鏡」を持ち、5 つの主要な観測機器で
紫外線、可視光線、近赤外線の電磁波を観測しています。

1990年にようやく打ち上げられたハッブルですが、配備された直後に
主鏡の取り付けに失敗していたことがわかりました。
具体的には、間違った研磨のせいで球面収差が発生してしまったのです。

球面収差とは、これも簡単にいうと、形状が歪だと、
鏡の端で反射した光が中心とは違うところに焦点を結ぶということです。
焦点がずれると光が損失し、暗い天体の高コントラストの撮像に影響があります。
このミラーの欠陥の実態は人間の髪の毛の50分の1レベルだったそうですが、
それでも球体収差はハッブル望遠鏡にはあってはならないことでした。

そこで、主鏡の補正のために、NASAのエンジニアたちは、
それこそ欧州宇宙機関をも巻き込んだ危機管理会議を開いて検討しました。

問題となったのはどうやって現行の狭いチューブに、
補正光学レンズ、そしてミラーを挿入するかでした。

この時、エンジニアの一人ジェームズ・クロッカーがシャワーを浴びていて、
ホテルのシャワーヘッドが垂直のロッドを移動するのを見て思いついたのが、
(向こうのシャワーは壁に直接ついているタイプが多い。
これはおそらく壁に取り付けられて高さだけがスライドできるものだったと思われ)

「必要な補正部品をこのような装置(つまりシャワースライド?)に搭載し、
筒の中に挿入してからロボットアームで必要な位置まで折り畳み、
副鏡からの光線を遮って補正し、様々な科学機器に焦点を合わせる」
というアイデアだったそうです。
なんかよくわかりませんが、少なくともこれ、
日本のホテルのシャワーなら思いつかなかったことは確かですね。

そこで、クロッカーはアメリカに帰ってから
Corrective Optics Space Telescope Axial Replacement (COSTAR)
つまり補正光学宇宙望遠鏡軸上交換装置の開発を進めました。
(軸上、というのがシャワーの取り付け軸のことだと思う。知らんけど)

NASAの宇宙飛行士とスタッフは、COSTARの開発とその設置方法、
もしかしたらこれまでで最も困難なものになるであろうミッションの準備に
11か月を費やしました。(逆にたった11ヶ月でできたのかという説も)

そして1993年12月、スペースシャトル「エンデバー」に乗った7人の飛行士が
HSTの最初のサービスミッションのために宇宙に飛び立ちました。
このエンデバー、STS-61はワンミッション。
つまり打ち上げ、ハッブル望遠鏡の修理、以上、でした。

髪の毛の50分の1の傷のために一体いくら使う気なのという気がしますが、
それだけハッブルの修理は最優先課題かつ大ごとだったということです。


ハッブル望遠鏡修理のために宇宙に行った人々
STS-61 Mission Highlights Resource Tape, Part 2

おそらく最終日、飛行8日目、5回目の宇宙遊泳のフィルムです。

1時間もかかるので全部みっちり見たわけではありせんが、
大体15:00〜から船外作業が始まり、35:00ごろには作業が終わって、
CAPCOMの女性がお礼を言って、43:00ごろ修理箇所が写り、
47:27にCAPCOMが「フロリダ上空のすごい映像が映っています」と報告し、
最後に男性のCAPCOMがプロフェッショナルな仕事でした、
我々はあなた方を誇りに思う、と褒め、最後に
"We wish you Godspeed in a safe trip home."(無事帰還を祈ります)
と眠そうに(この人はサブで、メインは夜中なのでいないみたい)言っております。

これだけ見ると1日で簡単に修理ができたようですが、修理には
史上2番目に長時間となる7時間50分の滞在を含む計5回の船外作業を要しました。

ハッブル宇宙望遠鏡とディスカバリー(下)。
これは1997年の2回目の整備ミッション中。
太陽光の中に持ち上げられています。

このサービスミッションにより、ハッブルの光学系は本来の品質に修正されました。
ハッブル望遠鏡は、宇宙飛行士が宇宙でメンテナンスできる唯一の望遠鏡です。

5回のスペースシャトルミッションで、観測装置など望遠鏡のシステムの修理、
アップグレード、交換が行われてきました。

5回目のミッションは、コロンビア号の事故(2003年)の後、
安全上の理由から当初は中止されましたが、その後2009年に完了しました。
■ ハッブル望遠鏡の仕組み


1、後部シュラウド・ベント(AFT Shroud Vents)
望遠鏡内の科学機器の換気を行うためのベントです
2、バーシング・ピン(Berthing Pin)停泊ピン?
オービターのペイロード・ベイに取り付けられた
サポートシステムのラッチに装備されています

3、アンビリカル(Umbilical)臍の緒
ペイロードべいでの任務及び展開奏者中、オービターから望遠鏡に
電力を供給するから「臍の緒」
4、エレクトリカル・インターフェース・パネル
(Electrical Interface Panel)メインとバックアップの「臍の緒」を接続します


他の望遠鏡と同様に、HST(ハッブル望遠鏡)には、
光を取り入れるために一端が開いている長いチューブがあります。

それは、その「目」が位置する焦点に光を集めてもたらすための鏡を持っています。
これが先ほどから話題になっていた「メイインミラー」です。

HSTはいくつかのタイプの「目」を持っています。
昆虫が紫外線を見ることができるように、人間が可視光を見ることができるように、
ハッブルは天から降るさまざまな種類の光を見ることができなければなりません。
具体的にハッブルが装着しているのはカセグレン反射望遠鏡というものです。

開口部から光が入り、主鏡から副鏡へと反射します。
副鏡は、主鏡の中心にある穴を通して光を反射し、その後ろに像を結びます。
入射光の経路を描いた場合、「W」の状態になることが必要です。
具体的には下の図をご覧ください。


焦点では、より小さい、半反射、半透明のミラーが
入射光をさまざまな科学機器に分配します。
HSTのミラーはガラス製で、純アルミニウム(厚さ10万分の7ミリ)と
フッ化マグネシウム(厚さ10万分の2ミリ)の層でコーティングされており、
可視光、赤外線、紫外線を反射します。
主鏡の直径は2.4メートル、副鏡の直径は30センチとなります。
ハッブル望遠鏡は地球の大気の影響を受けず歪みが生じない軌道を回るため、
地上と違い背景光が大幅に少なく、高解像度の画像を撮影することができます。

また、可視光だけで詳細な画像を記録することができ、
宇宙の奥深くまで見通すことができるのです。

ハッブル望遠鏡による多くの観測は、宇宙の膨張速度の決定など、
天体物理学の分野で画期的な進歩をもたらしています。


ハッブル望遠鏡は2020年4月で運用期間が30年を迎えました。
今後も2030年から2040年まで耐用できると予測されています。

もちろんそうなる前に後継機も用意されており、
ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)は
2021年12月25日に打ち上げられたばかりですでに稼働中となっています。


このジェイムズ某望遠鏡がまた画期的でしてね。
太陽光や電磁波、赤外線がノイズになって影響を及ぼすのを防ぐため、
遮光板が必要となるのですが、これがその折り畳まれた遮光板です。
5層のレーヤーになっていますが、一枚は人の髪の毛の薄さしかありません。
物質が付着しないように、見学者はネットを被って見ていますね。


下から見たところ。
上に乗っている金色のものが主鏡で、望遠鏡の方式はカセグレン式です。
これ、何かを思い出しません?
そう、折り紙による紙飛行機ですよ。

ハッブルの100倍高性能! NASAが「オリガミ宇宙望遠鏡」の展開試験に成功
How NASA's $10 Billion Origami Telescope Will Unfold The Early Universe 
わたしの知り合いに、折り紙で有名な人がいるのですが、
彼女は科学系の学者が本業であり、NASAの先端宇宙技術にも
実は折り紙が使われていて、と昔話していたのを思い出しました。
このことだったんかしら。
JWSTは今後地球からおよそ100万マイル(160万km)の軌道から、
星、他の太陽系と銀河の誕生、そして
私たち自身の太陽系の進化に関する情報を明らかにするでしょう。

JWSTが搭載しているのは主に4つの科学機器です。
近赤外線(IR)カメラ、近赤外線マルチオブジェクト分光器、
中赤外線機器、そして調整可能なフィルターイメージャーです。
■ スミソニアンの”ハッブル宇宙望遠鏡”
ハッブル宇宙望遠鏡構造物試験機(SDTV)
ハッブル宇宙望遠鏡(HST)が建設されることになった1975年、
ロッキード・ミサイル・アンド・スペース社は実物大のモックアップを製作し、
さまざまなフィージビリティ(実行可能性)研究を行いました。

当初は宇宙船の取り扱い方法をテストするための金属製の円筒でしたが、
ロッキード社が実際の宇宙船を製作する契約を獲得するにつれ、
この試験体は研究に次いで進化を重ね続けました。

そしてこの試験体は、最終的に実際の宇宙船のケーブルや、
ワイヤーハーネスを製作するためのフレームとして使用され、また、
軌道上での保守・修理作業を開発する際のシミュレーションにも使用されました。

その後振動試験や熱試験など動的な研究が行われ、
ハッブル宇宙望遠鏡構造物試験機(SDTV)と正式に命名されたのです。


この試験機は、使用の役目を終えて1987年6月にNASMに寄贈され、
カリフォルニア州サニーベールのロッキード社で屋外に保管されていましたが、
そこで改修され、1976年当時の形状に復元されました。

そして1996年、シャトルから放出されるHSTの実物を再現するために、
SDTVは展示から取り外されてまたミッションに復活されることになりました。

この大規模なアップグレードは、ロッキード社、HSTの下請け業者、
NASAゴダード宇宙飛行センター、NASMスタッフとボランティアによって行われ、光学望遠鏡アセンブリの機器部分、開口ドア、高利得アンテナ、ソーラーアレイ、
後部シュラウド手すり、その他多数の細部を製作することに成功しました。
主な追加作業は、現実的な多層(ノンフライト)熱ブランケットとテーピング、
インターフェースハードウェア、ウェーブガイド、そしてアンビリカルでした。

NASAは、アップグレードされた物体を床から劇的な角度で展示できるように、
大型の機器クレードルも提供して、今日スミソニアンで展示されています。

ハッブル宇宙望遠鏡は30年の月日を日夜稼働し続け、
次世代型望遠鏡JWSTの打ち上げによって引退を考える時がやってきました。

しかし、我々人類はハッブルの果たした務めを決して忘れてはなりません。
HSTの長年にわたる比類のない発見のおかげで、地球の大気圏外の様子が、
そこでの魅惑的な画像が、地球で一生過ごす誰にも楽しめるようになりました。

2つの渦巻銀河間のまれな配列から、銀河団間の強力な衝突まで。
ハッブル宇宙望遠鏡は天界の片隅で起こっていることを、
我々の住むこの地球に近づけることを可能にしたのです。


「ザ・スカイスパイ」シリーズ終わり。


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