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スカイラブの軌道上ワークショップと3人の地上実験クルー〜スミソニアン航空宇宙博物館

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今、スミソニアン博物館の、マイルストーンコーナーという
歴史的な機体の数々を順次ご紹介しているわけですが、
その中には、月着陸船やジェミニ計画のカプセルなど、
歴史的でありかつアメリカの宇宙開発を物語る展示もあります。

そして同じ空間に、1950年代の米ソの宇宙開発競争から、
近年の国際協力に至るまで、米ソの宇宙開発競争の歴史をたどる
大規模な展示のほとんどは、そのテーマのどちらにも属するというわけです。

■マイルストーンとしての米ソ宇宙開発競争関連展示
今日のテーマに入る前に、このコーナーの展示を
ざっと網羅しておこうと思います。
当ブログではこれからこのテーマについてしばらくお話しするつもりです。

「宇宙開発競争の軍事的起源」
Military Origins of the Space Race

宇宙開発競争の根底にあるのは、文字通り「核」でした。
ロケットは、イコール熱核弾頭を地球全域に飛ばすことができるツールです。

このコーナーでは、米ソの二大大国が、最終的な核攻撃の手法を
互いに相手より早く開発しようと競争に突入していった事情が説明されます。
軍事的起源の実例としてドイツのV-1「バズボム」、
そしてV2ミサイルが展示されています。

「宇宙を見つめる目」
Secret Eyes in Space

長い間秘密にされてきた偵察プロジェクトや、
最近機密解除されたスパイ衛星カメラ「コロナ」などが紹介されています。
最初の偵察衛星「ディスカバラーVIII」の実物も展示されています。

「月への競争」
Racing to the Moon

ソビエトの月面宇宙服「クレチェット」やアポロの宇宙服など、
アメリカとソ連両国の公的な成果を紹介します。

「月探索」
Exploring the Moon

アポロ11号の月着陸以降、月面の写真を地球に送信したり、
土壌の化学分析を行ったり、その他、科学実験を行うために開発された
さまざまな機器、そしてアポロ月着陸船(Lander)も含まれています。
「宇宙における恒久的プレゼンス」
A Permanent Presence in Space

科学的発見の継続と宇宙協力の時代の幕開けのために、
恒久的な宇宙ステーションを設置しようとする
米ソ両国の取り組みについて紹介しています。
アメリカの宇宙ステーション、スカイラブ軌道上のワークショップ、
(これは今日のテーマですが)その内部などが展示されています。
「有人宇宙飛行の50年」
Fifty Years of Human Spaceflight

では、冷戦時代のあの1961年、ソ連と米国が
どのように競争して人類を初めて宇宙に送り出したかを検証しています。

ここではアポロ1号やソユーズ11号などの悲劇についても語られます。

ソユーズTM-10宇宙船、コスモス1443「メルクール」宇宙船、
ロシア人を月に着陸させるという「未完成のミッション」のために作られた
宇宙服などが展示されています。ところで、ソ連とアメリカ両国の宇宙船があるのは当然として、
ガガーリンの宇宙服までがここにあるのはなぜなんでしょうか。

「ハッブル宇宙望遠鏡の修理」
Repairing the Hubble Space Telescope 

広視野惑星カメラ2(WFPC2)と、1993年に望遠鏡の光学系を修正した
補正光学宇宙望遠鏡軸方向交換(COSTAR)を特集しています。

ここにはハッブル宇宙望遠鏡の実物大試験機が展示されています。


正直なところ、わたしはスミソニアン博物館の中にあって、
この構造物が、あまりに建物の壁と同化していたので、
歴史的な何かとは全く思わず、前まで行ってみることもしませんでした。
写真を見たところ、どうも内部を覗き込むことができるような
通路が設けられていて、わたしの撮った冒頭写真では、
人が中に入っていっているではありませんか。

今後いつワシントンDCなんぞに行けるのかもわからないのに、
その時はどうしてこれほどぼーっとしていたのか、自分で自分を叱ってやりたい。

で、わたしが宇宙ステーションを模した建物の一部だと思い込んだこれは、
「軌道上ワークショップ」The Orbital Workshop
という、これだけ聞いたら何のことやらという展示でした。
これを説明するには、まずスカイラブから理解していただく必要があります。
■スカイラブ計画

日本語だと同じ表記になってしまいますが、Loveではありません。
スカイラブはSky Lab、つまり空の実験室の意味があります。

スカイラブは、NASAが打ち上げたアメリカ初の宇宙ステーションです。
1973年5月から1974年までの約24週間にわたって滞在し、その間
3人の宇宙飛行士による3つの別々のクルーによって運用されました。

運用されたのはスカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4の3基。
軌道上ワークショップを含み、太陽観測、地球観測、数百の実験を行いました。

2022年現在、スカイラブは米国が独占的に運用する唯一の宇宙ステーションです。

スカイラブの構成要素

スカイラブは、ワークショップ、太陽観測所、そして
数百種類の生命科学と物理科学のラボなどで構成されています。



地球低軌道へはサターンVロケットを改造し無人で打ち上げられました。
サターンVロケットは、スプートニクショックの後のアメリカが
ソ連に追いつけ追い越せで作り上げ、アポロ月面着陸に使用されたことで有名です。

第1段がボーイング、第2段がノースアメリカン、第3段がダグラスと、
アメリカのビッグ3に配慮しまくって製造されております。

アポロ計画の余剰品のロケットや宇宙船を使用して
科学的探査を行うことを検討する、アポロ応用計画として
宇宙ステーション建設が立ち上がり、それはスカイラブ計画となりました。

スカイラブを打ち上げたのがサターンVにとっては最終飛行となります。
スカイラブには、アポロ望遠鏡マウント(マルチスペクトル太陽観測所)、
2つのドッキングポートを持つマルチドッキングアダプタ、
船外活動(EVA)ハッチを持つエアロックモジュール、
スカイラブ内の主要な居住空間である軌道ワークショップが含まれます。

電力は、巨大なソーラーパネルを見ればお分かりのように、
ドッキングされたアポロCSMの太陽電池と燃料電池から供給されました。

ステーションの後部には、大きな廃棄物タンク、操縦噴射用の推進剤タンク、
そして放熱器なおが設置されています。

スカイラブでは、運用期間中、宇宙飛行士がさまざまな実験を行いました。


■ 軌道上ワークショップ

軌道上ワークショップは、アメリカ初の宇宙ステーションである
スカイラブの最大の構成要素です。

そこには、居住空間、作業・保管場所、研究機器が設置され、
3人の宇宙飛行士であるクルーをサポートするために
必要とされる物資のほとんどが収容されているのです。

スカイラブは2基製造されています。
1973年5月にはそのうち1基が地球軌道に打ち上げられました。

そして地球からの飛行が到着するのを待っていたのですが、スカイラブ計画は
それからスペースシャトル開発への取り組みに移行したため中止されました。

スカイラブ計画が中止された後、NASAは1975年に
バックアップのためのスカイラブを国立航空宇宙博物館に移管しました。

というわけで、軌道上ワークショップは1976年から
当博物館のスペース・ホールに展示され、
若干の改装を施されて居住区は歩けるようになっています。

居住区を歩ける
居住区を歩ける?
うわあああああ(血の涙)

この一文ほど最近自分自身を打ちのめしたものはありません。
ぼーっとして気づかなかった自分が改めて憎い。
このバックアップの宇宙船についても書いておきます。

もし軌道上での救出ミッションが必要となった場合、そして
ステーションが何らかの深刻な損傷を負った際に備えて、
NASAはバックアップのアポロCSM/サターンIBに2名の飛行士を乗せて打ち上げ、
救出に向かわせるというプランを立てていました。

幸い、この車両は一度も飛行することなく終わり、スミソニアンにあるわけです。


居住性・食糧・寝室

製造にあたっては工業デザイナーが関わり、居住性を重視する提言を行いました。
食事や休憩のためのワードルームや窓の設置、色使いなどについてですが、
肝心の宇宙飛行士たちはその類の配慮に疑問を持っていたようです。

ただ、持ち込む本や音楽については各自のこだわりがあり、
当然のことながら、食糧については大変な関心事でした。

宇宙開発の黎明期には食事は「実験のため」の意味合いが強く、
一に栄養二に機能性だったため、味は二の次三の次で、
ほとんど飛行士にとって苦痛でしかなかったようです。

その伝統は初期のアポロ計画まで受け継がれました。
NASAのボランティアが実験的に宇宙食で過ごしたところ、
4日間でもアポロ食で暮らすことはほぼ拷問に近いと結論を下しました。
相も変わらずキューブやチューブの形のそれは、悲惨なものでした。

そこで、スカイラブの食事は、栄養学的な必要性よりも
食べやすさを優先させることで、以前のものより大幅に改善されたのです。
(当社比)


各宇宙飛行士には、プライベートな空間も一応用意されました。
カーテン、寝袋、各自のロッカーを備えた、
小さなウォークインクローゼットサイズのプライベートな寝室です。

設計者はまた、飛行士の快適さと地球での検査結果を得るために、
正確な排泄物が取れるシャワーとトイレの設置にこだわりました。
人体からの廃棄物のサンプルは研究のために非常に重要な資料なので、
万が一救助ミッションが行われる事態になってもこの確保が優先されたはずです。

スカイラブでは、尿を飲料水に変えるなどのリサイクルシステムはなく、
廃棄物を宇宙に捨てるという処理も行いませんでした。

軌道上ワークショップの下には液体酸素タンクがありますが、
エアロックを通過したゴミや廃水を保管するために使用されたのみでした。

■ 運用の歴史 完成と打ち上げ



1969年8月8日、マクドネル・ダグラス社との契約を受注し、
オービタルワークショップは1970年2月にNASAのコンテストの結果
「スカイラブ」と改名されました。

スカイラブは1973年5月14日に改良型サターンVによって打ち上げられます。

打ち上げと展開の際に、サンシェードと太陽電池パネルの1つを失い、
ステーションの電力は大幅に不足するという事故に見舞われました。

有人ミッションは、スカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4が行われ、
スカイラブ5はスタンバイしていましたが中止になっています。


スカイラブ2司令 ピート・コンラッド


スカイラブ3司令 アラン・ビーン

スカイラブ4司令 ジェラルド・カー

3人ともなんか同じようなタイプに見えるのはわたしだけでしょうか。
ヘアスタイルのせいかしら。

ちなみにこれがスカイラブのシャワー施設。
起源よく入っているのはコンラッドですが、
この人はすきっ歯で有名?でした。
今なら「信頼できない」とか言われて宇宙飛行士になれなかったかもですね。
入浴は、温水の入った加圧ボトルをシャワーの配管に連結し、
中に入ってカーテンを固定した後行います。

シャワーの上部にプッシュボタン式のノズルが硬質ホースで接続されていて、
1回のシャワーで約2.8リットルの水が使用できます。
水は個人衛生水タンクから汲み上げる仕組みで、計算量しか搭載していないので、
液体石鹸と水の使用は慎重に計画され、入浴は週に1回と決まっていました。

宇宙シャワーを最初に使用した宇宙飛行士の感想は、

「予想以上に使用するのにかなりの時間がかかったが、いい匂いで出てくる」

シャワーを設置し使用済みの水を放散する時間を含めて、
全行程でなんと約2時間半かかるのだとか。
苦行か。

シャワー操作手順は以下の通り。

1、加圧水筒にお湯を入れ、天井に取り付ける
2、ホースを接続し、シャワーカーテンを引き上げる
3、水を吹きかける
4、液体石鹸を塗布し、さらに水を噴射してすすぐ
5、液体をすべて掃除機で吸い取り、アイテムをお片付け

宇宙で入浴する際の大きな懸念事項の1つは、
水滴が間違った場所に浮かんで電気ショートを起こすことです。
したがって、真空水システムはシャワーに不可欠なものでした。

排水は廃棄袋に注入され、そのまま廃棄タンクに入れられます。

また、スカイラブでは、クルーごとに色分けされた
縫い目のあるレーヨン製のタオルが420枚搭載されていました。

使い捨てか・・まあどっちにしろ洗濯できないしな。



最初の有人ミッションであるスカイラブ2は、
悲惨な状態のままであったステーションの修理がミッションとなりました。
乗組員は日除けを展開してステーションの温度を許容レベルまで下げ、
オーバーヒートを防ぐことに成功しました。

クルーは2回の宇宙遊泳(船外活動:EVA)を行い、
スカイラブとともに28日間軌道上に滞在しました。

スカイラブ3の打ち上げ日は1973年7月28日、続いて
1973年11月16日にはスカイラブ4がほとんど立て続けに打ち上げられ、
ミッション期間は段々伸びて59日間と84日間となりました。
宇宙空間で2ヶ月半っていうのもなかなかの拷問のような気がします。

また、中止となったスカイラブ5以外にも、
レスキューのためのスカイラブが待機していたそうです。

5名乗りのレスキュー用モジュール これはひどい。
アフリカから奴隷を運んでくる船か。

宇宙空間に出てしまえば、何というか覚悟も決まるのですが、
1972年には奇特なことに、56日間、地球上の低圧で過ごした
スカイラブ医療実験高度試験(SMEAT)の3人のクルーがいました。
SMERTクルーのエンブレム
 
クルーのクリッペン、ボブコ、ソーントン

医療実験装置の評価、そしてスカイラブのハードウェアのテストのために
完全重力下での宇宙飛行アナログ試験として行われたものです。

医療知識は得られた、と穏便な?書き方をしていますが、
SMEATの主な目的は、スカイラブミッションで使用するために提案された
機器と手順を評価することの他に、
試験室に閉じ込められたクルーの生理学的データの基準値を取得し、
ゼロGで生活するスカイラブの軌道上のクルーと比較することでした。
その結果、スカイラブの尿処理システムの欠陥が明らかになりました。

彼らの尊い犠牲のおかげで、(死んでませんが)
スカイラブのトイレは、軌道上でのミッションの後、
宇宙飛行士から広く賞賛されることになったのでした。

宇宙にいけないのに、宇宙並みの苦労をしたクルーですが、
そんな彼らの様子は報道陣によってカメラに収められたりしました。

宇宙でもないのに酸素マスクを着用していたため、
入場時に報道陣と話すことはできませんでしたが、
報道陣の一人にサイン入り写真を渡すなどして大いに楽しんだようです。

サインをもらった中には、NASAの関係者も多数いたということですが、
なぜ彼らが地上クルーのサインを欲しがったのかは謎です。

そして、宇宙ほど危険でないとはいえ、クルーは1/3バールの圧力、
そして70%の酸素濃度にさらされ、
閉回路テレビに逐一チャンバー内の行動を映像に撮られていました。

これはある意味宇宙にいるよりストレスかもしれません。

56日間のSMEATシミュレーションでは、スカイラブの模擬シャワーも使用され、
クルーは「良い経験になった」(棒)と述べています。

■実験成果

これで終わるのも何なので、実験成果について書いておきます。
実験は大きく6つのカテゴリーに分けられました。


1、生命科学 - 人間の生理学、生物医学の研究、概日リズム(マウス、ブヨ)

2、太陽物理学と天文学 - 太陽の観測(8台の望遠鏡と個別の装置)
コホーテック彗星(スカイラブ4)、恒星の観測、宇宙物理学

3、地球資源-鉱物資源、地質、ハリケーン、土地と植生のパターン

4、材料科学 - 溶接、ろう付け、金属溶解、結晶成長、水・流体力学

5、学生が提案した19種類の研究
器用さの実験や、低重力下でのクモによる網紡ぎの実験など

6、その他 - 人間の適応性、作業能力、器用さ、生息地の設計・運営


スカイラブ2は、ステーションの修理があったため、
実験に費やせる時間が予定より少なくなりましたが、
スカイラブ3号とスカイラブ4号は、クルーが環境に慣れ、
地上管制官との快適な作業関係を確立し、当初の計画を上回る成果を上げました。

ジョン・ホプキンス大学のリカルド・ジャッコーニは、
スカイラブに搭載された太陽からの放射の研究な度によって、
X線天文学という分野の誕生に寄与した功績を讃えられ、
2002年のノーベル物理学賞を共同受賞しています。

どう考えてもこの件で一番ご苦労様だったのは地上クルーの3人ですね。
彼らには決して各種勲章は与えられませんが。


続く。


「赤は言う 次は月だ」 スプートニク・ショック〜スミソニアン航空宇宙博物館

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このブログを始めて以来、何度かこの言葉を必要上挙げてきました。
「スプートニク・ショック」
米ソが宇宙開発競争に入ったのは、宇宙ロケット開発に必要な技術が
イコール最終武器となるミサイルであり、戦後の東西2大国となった米ソが
互いの軍事バランスを保ちながら相手より少しでも先んじようとしたからでした。

それまでなんの根拠なく自国の優位性を信じて疑わなかったアメリカが
天狗の鼻をへし折られ、実は周回遅れというくらいこの方面において
ソ連に引き離されていると知った事件、それがスプートニク打ち上げだったのです。
今日はスミソニアンの展示から、スプートニク・ショックに始まる
アメリカの挫折と、ソ連への挑戦についてお話しします。
まず、冒頭のパネルには、
SPUTNIK!
という!付きの一言がタイトルになった記事があります。
この一言だけで、アメリカ国民の当時のショックが如何なものか、
今の人たちにも十分に伝わるということなのでしょう。

その下の「First Satellite」は、もちろんスプートニクが人類初めての
人工衛星であったことを意味します。
ところで、皆様は、その後しばらくアメリカのトラウマともなった
スプートニクとは、どんなものだと考えておられましたか?
衝撃の大きさの割に、その実寸はあまりにも小さなものでした。
「1957年10月4日。
ソビエト連邦は、スプートニク衛星の打ち上げで世界を驚かせました。
無線送信機を含む光沢のあるバスケットボールサイズの球体であるスプートニクは、
まさに宇宙時代の始まりを告げるものとなったのです」
「バスケットボールと同じ大きさ」ですよ。
わたしもこの事実を知ったとき、思わず嘘でしょ、と声に出してしまいました。

■スプートニク


スプートニク(Спутник、ロシア語で『衛星』の意)は、
ソ連の宇宙開発計画で打ち上げられた宇宙船です。

18世紀からあった言葉で、接頭辞s-は「共に」、「旅人」のputnikで
「仲間の旅人」を意味し、英語の「衛星」の起源である
ラテン語の語源satelles(「護衛、従者、仲間」)に対応する意味を持つので、
これ以降、『衛星』『人工衛星』という意味になりました。
それ以前は衛星という物体がなかったんですから、名前もなかったんですね。

スプートニク1号はソ連の宇宙計画の一環として、地球低軌道に打ち上げられ、
電池が切れるまで3週間ほど軌道を周回し、1958年1月4日、
大気圏に突入するまでの2ヶ月間、地球を静かに周回していました。


形状は直径58cmの磨き上げられた金属製の球体で、
4つの外部無線アンテナを持ち、無線パルスを発信します。
電波信号はアマチュア無線家に容易に探知され、傾斜角65°の軌道の長さにより、
飛行経路は人が住む地球全体をほぼカバーしていました。


この衛星の予期せぬ成功は、アメリカの「スプートニク危機」(クライシス)
を引き起こし、冷戦の一環である宇宙開発競争の引き金となります。
■スプートニク・クライシス(危機)


1957年10月13日、日曜日のニューヨークタイムズに掲載された戯画です。
窓の外を通過するスプートニクがけたたましく鳴らす警報に
眠りから叩き起こされた老人がこう言っています。

「起きたぞ。やっとな!」
さて、この爺さんは一体誰なのでしょうか。
どうもあの「君が必要だ」の「アンクル・サム」(U.Sでアメリカの擬人化)
みたいな気がするのですが、ベッドのヘッドボードを見るとこう書いてあります。
「complacence」
コンプラセンスとは、自己満足とか独りよがり、そんな時に抱く気持ちのことです。

アンクル・サムがスプートニクに警鐘を鳴らされて飛び起きた寝床は、
アメリカ合衆国がこれまで甘んじてきた我こそ世界一の科学技術大国、
という「自己満足」に過ぎなかっただろう、とNYTは言っておるわけですな。


このパネルに、「マイルストーンコーナーにスプートニクのレプリカがある」
と書いてあったので、慌てて写真を全部調べて見たら、
なんとか小さく写っていたのが一つだけ見つかりました。
こりゃ普通に見ていたら気づかないわ・・・。


ロスアンジェルスタイムズ。
一面全部をスプートニクのニュースに上げています。
ヘッドラインは、
「ロシアが史上初の地球衛星を560マイルの空に打ち上げる」



カナダのデンバーポスト。
「ロシアの”月”(衛星のこと)560マイル上空を18,000MPHで周回」

560マイルは901キロくらいとなります。
さすがカナダ、対岸ならぬ北緯49度の向こうの火事とばかり、
ショックを受けるアメリカの象徴として、慌てる科学者の写真を
なぜか一面トップに持ってきたのがちょっと人ごとという感じです。

3人の科学者(字が潰れてしまい誰かわかりません)は、
コースタイムのチャートを作成しているところなのだとか。

ニューヨークタイムズも大体同じような感じですがちょっと長いですね。
一応3行でまとまっていますが、ヘッドラインとしてはいかがなものか。

「ソヴィエトは宇宙の衛星から地球を攻撃する;
地球を18,000MPHで周回;
184パウンドの球体からの信号を感知」
83キロのドッジボールは地球を「攻撃」fireしたわけではありませんが、
これこそがアメリカ国民が一斉に考えたことでした。
かつて日本軍が空母から発進した飛行機で本土を撃したとき、
「その手があったか」と驚愕し、総パニックに陥ったのとほぼ同じ状態です。

このドッジボール地球周回の成功が、つまり空からの攻撃につながる、
という人心の不安をそのまま言葉に表したのが、このヘッドラインと言えます。

デンバーポストは、またこうも書いています。

Red Say ’Moon Next’  In Race Into Space
「次は月だ」赤は言う レースは宇宙へ
ソ連をわかりやすくレッドと一言で呼ばわっております。


各新聞が一斉に掲載したスプートニクの地球周回航路。
さすがにアメリカ上空は飛ばなかったんですね。当たり前か。
■ RACE BEGINS(レース開始)

と言うわけで米ソの宇宙開発競争が始まってしまうわけですが、
スプートニク・クライシス以降は、ずっとソ連のターンのままでした。
「スペースレース」の初期の頃、「成功」とはつまり「ファースト」=
最初のヘッドラインをマークすることを意味しました。

「最初の衛星」「月への最初の無人宇宙船」「最初の宇宙」、
「最初の宇宙に行った女性」「最初の船外活動」・・・・。
これらの「ファースト」はことごとくソビエト連邦によって達成され、
アメリカはその度に失望を焦りを繰り返すことになるのです。

しかしながら、このことは、負けず嫌いのアメリカにとって、結果的に
ソ連に追いつき、ソ連を追い越すための強いモチベーションの起爆剤となりました。

【スプートニク2と宇宙犬ライカ】

ライカさん・・・(涙)

アメリカ国民の「オクトーバー・サプライズ」からわずか1ヶ月後のことです。
ソビエトは次の衛星を打ち上げました。

今度のスプートニク「2」は先のものより大型で、
しかも「ライカ」と言う名前の犬を乗せていました。

スプートニク2号は重いペイロードを打ち上げることによって
ソビエトの高い優位性を示し、これによってソ連が間も無く
人間を宇宙に投入する可能性があることを示唆したのです。
1958年〜1961年の間、さらに6機のスプートニクが打ち上げられました。
これらは全て最初のものよりも大型で、人類の飛行のために
再突入と回収のための技術が改善されていました。

余談ですが、このライカがどうなったかというと、死にました。
享年2歳か3歳でした(-人-)
そもそもどうして矢継ぎ早に2号を打ち上げたかというと、
フルシチョフが重要とみなす、10月革命40周年記念に当たる日が、
1号の1ヶ月後だったからというだけの?理由だったのです。
ソ連はそれまでにも12頭の犬を弾道飛行で打ち上げており、
初めての軌道上飛行に犬を乗せれば世界が驚くんでないかい?
とフルシチョフの側近が思いついたのがライカ嬢の不幸でした。
そんな事情だったので2号の建造はほぼ突貫工事状態で、
最低限の「打ち上げた」と言う結果だけを求めたものでした。

ライカはモスクワの街角拾われた雑種の雌でした。

小さな檻に長期間閉じ込められるという「訓練」の後カプセルに乗せられましたが、
ミッション当時は、宇宙飛行が生物に与える影響についてほとんど知られておらず、
そもそもカプセルは軌道離脱の技術もまだ開発されていません。

ライカはとりあえず生命体を打ち上げると言う実験に使われただけで、
事実オーバーヒート(90℃以上)で打ち上げ数時間で死亡したと言われます。
その後スプートニク2号は死んだ犬を乗せて5ヶ月間軌道を回っていましたが、
ソ連政府は、ライカが数日は生きていたと微妙な嘘を広報しました。

ソ連の宇宙ミッションでは、通算で犬が71回打ち上げられ、
そのうち14匹が死亡しました。

バーズとリシチカは1960年7月28日にR-7ロケットが発射直後に爆発して死亡。
プチョルカとムシュカは1960年12月1日にスプートニク3が大気圏再突入後、
軌道を外れたため、カプセルに仕込まれた爆発物で破壊されました。

これは他国の手にカプセルが渡らないための策です。


ロシアの宇宙飛行士訓練施設であるスターシティには、
耳を立てて宇宙飛行士の後ろに立つライカの銅像とプレートがあります。

1964年に建てられた「宇宙征服者記念碑」にもライカの名前が刻まれています。
また、2008年にも宇宙ロケットの上にライカを乗せた記念碑が除幕されており、
 ライカを描いた切手や封筒、ブランド物のタバコやマッチが存在します。
■スプートニク5のリカバリー

スプートニク回収の指示カード
1960年8月、ソ連では最初にカプセル回収に成功したスプートニク5号。
これには、ベルカとストレルカと言う二匹の犬を乗せていました。


中に人入ってね?
ご安心ください。
今回のベルカとストレルカは、最初から「回収」が目的だったため、
訓練で最も優秀な成績を残したエリートとして彼らが選抜され、
同じく打ち上げられたうさぎ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、
そしてたくさんの植物や菌類と共に地球を17周して帰還したのです。

カプセルに内蔵された写真のカードには、回収ゾーンを外れた場合に備えて、
見つけた人は必ずすぐに地元の役人に連絡するようにと書いてありました。

カプセルは開けないこと、着陸した場所に置いておくこと、
とも書かれているようです。
ちなみに二匹の犬は無事に帰還後、ソ連の研究所で余生を送りました。
ストレルカが産んだ子犬プーシンカは、おそらくマウントを取るために、
その後ジョン・F・ケネディへの贈り物にされてアメリカに渡り、
そこでテリアのチャーリーとの間に子犬を産みました。

■ ルナLUNA3 の月周回

最初のスプートニク打ち上げからちょうど2年後の1959年10月4日、
ソビエト連邦は最初の宇宙船で月の周りを回りました。
ルナ3号は、月の裏側の画像を記録し、地球に放送したのです。

裏側画像

1ヶ月前、ソ連は合計5回のトライに失敗しており、
さらにルナ2号宇宙船が月に衝突するという失敗を乗り越えての快挙でした。



月の裏側の画像は、1959年に出版された、ソビエト宇宙計画のチーフである
セルゲイ・コロリョフが妻に送ったルナ3号の画像本からのコピーだそうです。

コロリョフ
コロリョフについてはまた別の日に、アメリカのカウンターパートである
フォン・ブラウン博士と共に語ることがあるかもしれません。

書かれた文字は彼の自筆で、

「ソビエト科学の素晴らしい業績の良き思い出と共に」
とあるそうです。
■ ソビエトの「秘密」
ソビエト連邦は当時宇宙技術における世界のトップを走っていましたが、
その宇宙計画について、西側諸国ではほとんど知られていなかったのも事実です。

ミッション、プログラムマネージャー、エンジニアの身元に関する詳細な情報は、
厳重に守られた最高レベルの国家機密でした。

何十年にもわたってその存在が隠されていたエンジニアであり宇宙飛行士、
コンスタンチン・フェオクティストフのノートには、
1958年から1959年までの初期のソビエト宇宙計画に関する
舞台裏の洞察が記されているのだそうです。

フィオクチストフ(Konstantin Feoktistov)
ナチス占領下で彼はSSに捕まり、銃殺刑に処されるも、
弾丸が貫通したため死体置き場から這い出して命永らえたと言う人です。

「極秘」と記された検閲スタンプが押されたフィオクチトフのノート。
1989年に公開されました。




このメモは、各宇宙船コンポーネントを担当する研究機関と設計局のリストです。
これらの組織はソビエト科学アカデミー、国防省、その他の組織から集められ、
彼はその名称を全て略語で記しています。



有人宇宙船のスケッチが含まれており、これは
スプートニクの直後から宇宙飛行士の打ち上げが勘案されていたことを示します。
ちなみに1969年10月、フェオクティストフはNASAのゲストとして
アメリカ国内を旅行し、好きな都市を訪ねています。

この旅行には、ユージン・サーナン、ニール・アームストロングなど、
アメリカの宇宙飛行士たちもホストとして参加していました。

ハリウッドでは、カーク・ダグラスらがレセプションを開き、
ユージン・サーナンに連れられて行ったバーなどにバンドがあれば
必ず「Fly Me to the Moon」が彼のために演奏され、
カリフォルニアのディズニーランドでは「Trip To The Moon」と言う
月探検のアトラクションを楽しみ、アメリカの宇宙飛行士たちと
「月じゃなくて、ディズニーランドに行ったんだ♪」
と冗談を言い合うなどして大いに国際的な友情を育んだようです。
国同士は冷戦中でも、同じ宇宙飛行士同士、
互いに尊敬し親密になるのはある意味当然と言ったところでしょう。
いやー、いい話だなあ。
続く。




宇宙開発競争 アメリカのプレッシャー〜スミソニアン航空宇宙博物館

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さて、前回は「スプートニク危機」をアメリカに与えたところの、
ソビエト連邦のぶっちぎり宇宙開発期についてお話ししました。

今日はぶっちぎられた方のアメリカについてです。
スプートニクうちあげからルナ3号に至るまでのソ連の快進撃資料の横に、

「PRESSURE ON AMERICA」
というタイトルで紹介されたコーナー。

ここでは、東西二大陣営の技術力最高峰を自負していたアメリカが、
あれ?余裕こいていたのに俺たち意外と負けてね?とショックを受けた後、
文字通りソ連に追いつけ追い越せの奮闘を始めるわけですが、
そこには大きなプレッシャーがのしかかってたんですよまあ聞いてください、
と大体そういうことが語られています。
アメリカは1957年に最初の科学衛星打ち上げを計画していました。
しかし、海軍のヴァンガードロケットを使用した2回の打ち上げの試みは
惨事に終わりました。

■ ヴァンガード・ロケットVangard Rocket
というわけでその惨事に終わったヴァンガードですが、説明にわざわざ
「海軍」と書かれていることに気づかれたでしょうか。

衛星ロケットヴァンガードを開発したのはアメリカ海軍なのです。

あれ?NASAじゃなかったの、という声もあるかと思いますが、
この頃まだNASAはなく、政府が人工衛星の打ち上げは海軍が行うとし、
陸軍には弾道ミサイルの開発、と分業されていたのです。

もちろん空軍も別に開発を行なっていました。

結局この分業制のせいでソ連に勝てないんと違うんかい、
となってNASAが生まれるわけですが、その話は後に回します。

【科学衛星の開発】

1955年、アメリカは1957〜58年の国際地球観測年(IGY)に向けて、
科学衛星を軌道に乗せる計画を発表しました。
ソ連がなんたら記念日に間に合わせるためにスプートニク2号を上げたように、
こういう事業には何かしらの「お題目」を必要とするんですね。

当時、打ち上げのためのロケットには陸海軍3つの候補がありました。

陸軍弾道ミサイル局のSSM-A-14レッドストーンの派生型
海軍のRTV-N-12aバイキング観測ロケットをベースにした3段式ロケット
空軍のSM-65アトラス

の三案です。
そもそもなんで軍が開発していたかというと、当時の宇宙事業の目的が
偵察衛星=兵器システムだったからで、計画も最高機密区分だからでした。

「軍事偵察の歴史」でも触れたように、偵察に関しては合法性の問題があります。
その点、平和的民間衛星であるIGY衛星は、いい「隠れ蓑」となり、
宇宙の自由という先例を作るという大義名分にもなります。

そしてNSCは、IGY衛星が軍事計画に干渉してはならない、と強調しました。

ヴァンガードを打ち上げた 海軍研究所(NRL)もまた、
軍事組織というより科学組織と見做されていたのです。
この頃、陸軍がドイツの科学者、フォン・ブラウンの協力のもと、
レッドストーン弾道ミサイルを計画していたのですが、
IGYの責任者は海軍研究所を科学組織と捉えていたため、
陸軍やドイツの学者の案を退け、
ヴァンガードを推進するように政治的に動いたのです。

そして1955年、国防総省は、
ヴァンガード計画をIGYプロジェクトに選びました。
ヴァイキングを製造したマーティン社がロケットの主契約者です。

ロケットは3段式。
第1段はゼネラル・エレクトリック社の液体燃料エンジン、
第2段はエアロジェット社の液体燃料エンジン+慣性誘導システム、
自動操縦機能、
そしてスピン防止機能付き3段目は、
固体燃料ロケットモーターでできていました。

【スプートニクならぬ”カプートニク”】
1957年12月6日。

アメリカ海軍はケープカナベラルから1.5キログラムの衛星を搭載した
ヴァンガードTV-3ロケットを打ち上げました。



このロケットは高度1.2メートルに達したところで落下し、爆発しました。
このロケットに搭載されていたのが、冒頭写真の衛星です。


搭載している時はこんな形状でした。
スミソニアンに展示されている衛星は、脚がぐにゃりと歪んでいますね。

ロケットは高度1.2メートルに達したところで落下し、爆発しました。

「悲惨なロケット事故ワースト10」などのYouTubeで見ることができます。衛星はロケットの上部から爆発し、発射台近くの茂みに着地し、
そしてそこで信号を発信し始めました。


「OH, WHAT A FLOPNIK!」
共産国家のソ連なら、こんなタイトルを考えた奴は即刻シベリア送りでしょう。
良くも悪くも自由主義国家なんで、この失敗を大いに楽しんだのは
実は皮肉屋のメディアだったかもしれません。
Flopというのは物がどさっと落ちるという意味がありまして、
もちろんこれを「スプートニク」と合わせているわけです。

他にも、「Kaputonik」カプートニクなどという愛称?もありました。
こちらはKaput=ダメになった、イカれた、破壊されたという意味で、
ドイツ語起源の単語のチョイスに、当時関係者にドイツ人が多かった、
ということへの皮肉が込められているような気がします。
事故調査の結果、燃料タンクの圧力不足により、高温の排気ガスが逆流、
インジェクターヘッドが破壊され、エンジン推力が完全に失われていました。

ヴァンガードロケットはその後、10回が打ち上げられ、衛星を
軌道に乗せることができたのは3回で1号、2号、3号と名付けられました。

とりあえず成功したら号数を振っていくというやり方ですか・・。
【NASA誕生と人工衛星打ち上げ成功】


最初のヴァンガードの失敗の時、怒りを込めて
だから言わんこっちゃない的なコメントしたのは、
あのドイツ人科学者、フォン・ブラウンでした。

1958年1月、フォン・ブラウンの指揮の下、陸軍は衛星打ち上げの承認を得て、
改造されたレッドストーンミサイル、ジュピターCが、
アメリカ初の衛星エクスプローラー1号を宇宙に打ち上げました。


海軍がヴァンガード3号の打ち上げに成功したのは3月のことです。



しかし、ソ連の後ろ姿はこの時点ではまだ遠くでした。
周回遅れ、と言ってもいいくらい引き離されていたと言っていいでしょう。
そもそも、この新聞にも、「陸軍のミサイルが」なんて書かれているように、
陸海空が別個にこういうことをやっていては効率が悪い、
ソ連が国家事業として国力を挙げてやっているのに、こんなことではいかん、
とアイゼンハワー大統領が考えたのも当然です。
ちなみに、スプートニクショックの後、それまで陸海空バラバラでやっていた
宇宙開発の指揮系統の一本化を決め、まずNACA(アメリカ航空諮問委員会)
を設立し、そこにいるのは「NACAの人」と呼ばれていました。

繰り返します。「NACAの人」と呼ばれていました。
が、当時のアイゼンハワー大統領は宇宙計画のための独立した組織の設立を求め、
アメリカ初の人工衛星エクスプローラーの打ち上げに成功した後、
アメリカ航空宇宙局
(National Aeronautics and Space Administration)
NASAを誕生させることになったのです。




■ ガガーリンの有人打ち上げとケネディ演説


とかなんとかやっているうちに、決定的な出来事が起こりました。

1961年4月12日、ソ連が有人飛行を成功させてしまったのです。
ユーリ・ガガーリンの宇宙服もここにはありますが、その紹介は別の日に。


前にも挙げたことがあるこの写真。
この時ケネディがライス大学で行った演説は「ムーン・スピーチ」と呼ばれます。

ガガーリンの打ち上げ成功直後、ケネディ大統領はソ連から主導権を奪うために
アメリカが宇宙で何をできるかを知りたがりました。

そこで出ばってきたのが、当時の副大統領、JFK暗殺後に大統領となった
リンドン・ジョンソンで、彼の号令によってNASA、関係業界、
そして軍の指導者たちから聞き取り調査などが行われ、その結果、

「ソ連を『おそらく』打ち負かすことができるとしたら、
それは強大な努力によって月の周りに人を送るか、あるいは
月そのものに人を着陸させるということでしょう」
と報告したのです。
その報告を受けて行われたのが「月演説」でした。

JFK Moon Speech

われわれは月へ行くことを選びます。
この10年のうちに月へ行くことを選び、
そのほかの目標を成し遂げることを選びます。
われわれがそれを選ぶのは、たやすいからではなく、困難だからです。
この目標が、われわれの能力と技術のもっとも優れた部分を集め、
その真価を測るに足りる目標だからです。
この挑戦が、われわれが進んで受け入れるものであり、
先延ばしにすることを望まないものであり、われわれが、
そして他の国々が、必ず勝ち取ろうとするものだからです。
このような理由から、昨年わたしが下した宇宙開発を促進する決断は、
大統領就任以来、もっとも重要な決断のひとつだと考えます。
(JFKライブラリー資料ページの日本語版引用)

”We choose to go to the moon.”

という言葉の繰り返しがあまりにも印象的なこの15分の演説がもしなかったら、
アメリカはソ連を追い越すことはできなかったかもしれない、と言われます。

しかし、米ソどちらの国もその時点ではまだそのような任務に耐える
十分に強力なロケットを持っていませんでした。
月への到達は、アメリカが不利な立場のまま始められるものではなかったのです。

この記事のクリアな画像が欲しくてNYTのアーカイブを探したのですが、
見るだけで料金が発生することが分かり断念しました。

まず、タイトルは、

AS EXPLORER JOINS SPUTNIK
(スプートニクに混ざろうとするエクスプローラー)
左は、エクスプローラーがヴァンガード(字が消されている)の胸ぐらを掴み、

”Let me show you, Dud, how things are done."
「おとっつぁんよ、見せてやろう。物事はどう進めたらいいかをな」
うーん、エクスプローラー氏態度悪すぎ。
右側は、ずいぶん古めかしい格好の人が、
”I feel better already."「すっかりいい気分になったわい」
いや、これさあ・・。
打ち上げただけで気分良くなってちゃダメでしょ。
エクスプローラーもさ、ヴァンガードにマウントとってどうするの。
つまりこの漫画は何を言いたいかというと、
アメリカが成功させたエクスプローラーの成果が、いかに世間からは
「自己満足の周回遅れ」
と冷ややかに見られていたってことなんじゃないでしょうか。


こんなにはしゃいじゃって・・・・。
左がジェット推進研究所の開発責任者ウィリアム・ピッカリング、
真ん中は「ヴァン・アレン帯」に名前を残したジェームズ・ヴァン・アレン、
右側がヴェルナー・フォン・ブラウンです。


スミソニアンのどこかにエクスプローラーの予備機があると知ったので、
改めて探してみたら、どうもこれらしい。↓


あまりにも小さく、メディアには散々コケにされたものの、
衛星としては有用であったエクスプローラーは、
アメリカに追いつこうとする反撃の狼煙
となったのです。

どうなるアメリカ!


続く。




ロシアの「史上初」とガガーリン〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館のメインコーナーでは、
アメリカと、アメリカが追い求めたソ連の宇宙科学技術を表す展示が
実にわかりやすいパネルにされております。

ただの写真解説ではなく、何と言ってもスミソニアンですから、
普通にロケット本体とか、宇宙服をその目で見ることができるのです。

例えば、この冒頭の写真、これは、

ユーリ・アレクセイビッチ・ガガーリン少佐
Yuri Alekseyevich Gagarin / Юрий Гагарин

のトレーニングスーツです。
スーツは密閉された空間で呼吸を可能にする圧力層を可能にするもので、
この下には防寒着を着用していました。

このスーツの目的は、宇宙飛行の最後を締めくくる
高高度パラシュート降下で生存するためでした。


スペーススーツヘッド部分。
素材は金属のようですが、さぞ着用したら重かったでしょう。




ブーツは意外すぎるくらい普通だなと思ったり。

ガガーリンは1961年4月12日のボストークでの飛行のために、
このSK-1与圧スーツで訓練を行いました。

注目すべき機能として、この重たそうなバイザー付きヘルメットは
スーツから取り外しできなかったということです。

着水するようなことがあったら膨張し、展開させるゴム製の襟
(兼フロート)がついた明るいオレンジ色のナイロン製スーツです。


袖に付いているのは鏡だよね?と思ったら本当に鏡でした。
これは、動きが取れない船内で、スイッチやゲージを見るのに役立ちます。
(こんなものがないと見られない状況って一体・・・)

圧力をかけるためのライナー(内側の層)にこれでもかと繋がれた
各種コネクターは、生命維持とコンタクトのために必要な各種機器。

手袋は革製、重たそうなブーツも革製、ラジオヘッドセットも革張りでした。
■ガガーリン

ユーリ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン (1934年3月9日 - 1968年3月27日)
は、人類初の宇宙飛行士となったソビエト連邦のパイロット、宇宙飛行士です。

1961年4月12日、「ボストーク1号」カプセルで地球を1周することに成功し、
宇宙開発競争におけるこの重要なマイルストーンを達成しました。


労働者階級の家に生まれたガガーリンは鋳物工として働きだし、
その後、ソ連空軍のパイロットであった時、初の宇宙開発計画に選抜されます。

宇宙計画の主任だったウラジーミル・コロリョフは、
ボストーク・カプセルの限られたスペースに収まるように、
候補者は体重72kg未満、身長1.7m以下と指定しました。
この時空軍から選出された候補者が154人でしたが、
その中から5人が最終選考に残りました。
人に好かれるタイプで(自分以外で誰を最初に飛行させたいか、という
匿名の投票をさせたら、ガガーリンが圧倒的に多かったらしい)
集中力があり、自分にも他人にも厳しく、肉体的・心理的な耐久性に優れ、
控えめで調子に乗らず、記憶力があり、鋭い注意力と洞察力を持ち、
想像力豊かで、反応は機敏、忍耐強く、活動や訓練のために丹念に準備をし、
天体力学や数式を簡単に扱い、高等数学にも長けており、
自分が正しいと思えば、自分の意見をはっきりと主張する。

史上初の宇宙飛行士として、ソ連が選び抜いたのはこんな人物でした。
決して「ラッキーボーイ」というレベルの人物ではなかったのです。
ボストーク2号に乗ったゲルマン・チトフも超優秀な人物でしたが、
彼の両親は知的階級で、そこそこ裕福な家庭の出身でしたから、
ガガーリンのような貧しい労働者出身の方が、
国家事業第一号のヒーローとして「映える」とされたようです。

あと、チトフのファーストネーム「ゲルマン」は、
つい最近までドイツとドンパチっていたソ連的にはいまいちで、
「ユーリ」という典型的なロシアンネームの方が
これも英雄としては大衆に受け入れられると考えられました。

Comrade Gagarin the first man in space


ボストーク1が人類初の宇宙旅行者となったガガーリンを乗せて
バイコヌール宇宙基地から打ち上げられた時、
コールサインはケドル(Кедр、シベリアの松または杉)でした。

Radio communications between Yuri Gagarin, Sergei Korolev and Ground Control


英語訳字幕に「Cedar」とあるのがお分かりいただけるでしょう。
発射管制室とガガーリンの無線通信

コローリョフ:予備ステージ...中間...メイン...。
リフトオフ! 良いフライトをお祈りしています。すべて順調です。
ガガーリン: 出発です!さようなら、近いうちに【会う】まで、親愛なる友よ。

非公式なのでこの音声には残っていないようですが、ガガーリンは最後に

「ポイエカリ!」(Poyekhali! Поехали!, 'Off we go!')

といい、これは、後に東欧圏で
宇宙時代の始まりを意味する表現として使われるようになります。

打ち上げ後、宇宙船は108分間周回してカザフスタンに着陸しました。
こうしてガガーリンは人類初の地球周回飛行士となったのです。


ちなみに搭乗前中尉だったガガーリンは飛行中に2階級特進し少佐になりました。
これは、本来ならば名誉の戦死に対して行われる昇進ですが、
宇宙飛行中に昇進したことを本人が知っていた方が、
その後何が起こってもおそらく本望だろう、という配慮からと思われます。

本来の2階級特進の事態がいつでも起こりうると考えられてたんですね。


国家どころか人類の英雄となったガガーリン。
彼は母について、こんな孝行息子なことを述べて世界を感動させました。

「私は母を非常に愛しており、達成したすべてのことは母のおかげです」

ガガーリンの筆跡。
几帳面で丁寧で、書き手の明晰さも窺えます。

ガガーリンは歴史的な飛行の二日前に、宇宙飛行に関するスピーチを
ソビエト国家委員会において行っています。

その中で、彼は同僚のパイロットたちが

「私が最初に宇宙に飛び立つにあたり信頼をしてくれたこと」に感謝し、
「ソビエト人がそうであるように、私は嬉しく、また誇らしく、幸福だ」

と付け加え、さらにまた、

「飛行の成功の結果を疑っていない」

とその場の聴衆に力強く保証して結びました。
ここに展示されているのは、この時に行ったスピーチのために
ガガーリンが書いた自筆原稿の複製です。
ともあれ、ソ連は最初に人類を宇宙に送ることになり、
それは世界に・・・とりわけアメリカに衝撃を与えました。

ガガーリンの飛行は、アメリカの宇宙飛行士、アラン・シェパードが
初の弾道飛行を行う1ヶ月前でしたし、
宇宙飛行士ジョン・グレンが地球をアメリカ人として初めて周回した
10ヶ月前にすでに行われていたということになります。

これは、ソ連が宇宙開発競争において、圧倒的にアメリカの先を行くことを
あからさまに示す出来事になりました。

フルシチョフに花束を贈られるガガーリンを表紙にした
1961年4月21日発行のライフ。(ちなみに値段は20セント)

このIDは、スミソニアンがロシアのスターシティにある
その名も「ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センター」の
博物館のものをコピーさせてもらったもの、と説明があります。

まず、こちらはガガーリンが訓練中の宇宙飛行士であるというID。


そしてこちらは共産党のメンバーであるというIDつまり党員証です。
アメリカ人にはこういうのが地味にショックかもしれません。

しかし、歴史的な宇宙飛行の間、彼が帯同していたのは
もちろん宇宙飛行士としてのIDでした。


■ソ連の連続”初めて”


ボストークとボスホートというコーナーです。

1961年から1965年の間に行われたボストーク、ボスホート計画は、
宇宙におけるソビエトによる「史上初」となる一連の任務を成功させました。

ボストークVostokという名称は、ロシア語で「東」を表す一般名詞です。
1961年から最初2年間での6回のミッションで、
ボストーク宇宙船は宇宙飛行士を長時間地球軌道に乗せることに成功しました。
その後、ボストーク宇宙船は、2〜3人の飛行士を収容するサイズになり、
名前もボスホートVoskhodと変えました。
今度は「日の出」を意味する単語です。
そして3人の宇宙飛行士が、1964年10月、ボスホート1号による
1日の軌道周回に打ち上げられ、成功します。
これは、アメリカが二人乗りのジェミニ計画を成功させる5ヶ月前でした。
そして、1965年には、ボスホート2号の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが
軌道を回る宇宙船の外に出て、世界最初の人類による宇宙遊泳を達成します。

ちょっとここで、ソ連のボストークによる「初めて」5連打を表にしておきます。
1961 初めての有人飛行打ち上げユーリ・ガガーリンの1周回飛行(ボストーク)

1961 初めての1日周回飛行ゲルマン・チトフ(ボストーク2)
1962 初めての2機打ち上げ
ボストーク3と4

1962年 初めての長期耐久ミッション
宇宙船で5日滞在(ボストーク5)
1963年 初めての女性宇宙飛行士打ち上げ
ワレンティナ・テレシコワ(ボストーク6)
もうこうなったら、次はどんな初めてにしよっかなー、と
皆で目を輝かせて「初めてネタ」を協議してたって感じですね。


ゲルマン・ステパノヴィッチ・チトフ
Герман Степанович Титов、Gherman Stepanovich Titov
ボストーク2で地球周回軌道より遠い軌道での飛行を行ったチトフ。

史上初めて宇宙で乗り物酔いをした人物としても名を残しました。
史上初めて宇宙船を操縦し、史上初の宇宙でものを食べた人物でもあります。



また、史上初めて宇宙から地球を撮影した人物にもなりました。

この写真はチトフが撮影した地球。
左上にサインがありますね。

2000年、チトフは65歳で亡くなっていますが、これがまた、
サウナに入っている時、心筋梗塞になったのが死因だそうで。
おそらくですが、サウナで死んだ史上初の宇宙飛行士となったと思われます。



最初の女性宇宙飛行士となった、
ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(1937〜)
Валенти́на Влади́мировна Терешко́ва
 Valentina Vladimirovna Tereshkova
ガガーリンが「シベリア杉」チトフが「鷲」だったように、
テレシコワのコールサインは「チャイカ」(Ча́йка、かもめ)だったため、
打ち上げ後に
«Я — Чайка» ヤー・チャイカ=「こちらチャイカ」
と言ったのがその後世界でバズりました。
この写真は、飛行中のモーションピクチャーのキャプチャですが、
なんかすごく可愛らしいというか・・。

「お黙り!」とか言われそう(ちなみに空軍少将)
こういうイメージとは全く違う表情ですね。



これがボストークだ


当時のことなのでフライトプランは全て手書きとなります。
これはボストークのフライトプラン。

初のガガーリンによる有人打ち上げに関するチェックリストのドラフト。

前回ご紹介した技術者であるフェオクチストフの手によるもので、
打ち上げ前、軌道上、および降下中、従うべき特定の手順が指示されています。
これもオリジナルのコピーです。
■負けを認めたアメリカ



「ケネディ:我々は立ち遅れている」

こんな見出しが目につきます。
どんなことが書いてあるでしょうか。

記者会見の記録から

問:大統領は本日、宇宙分野でアメリカがロシアの幸甚を配しているのに
うんざりしているとおっしゃいました。
今大統領は宇宙計画をスピードアップするために議会に予算を要求しました。
我々がロシアに追いつき、追い越せるという見込みはなんですか。
大統領:そうですね。
ソ連はより大きなブースターで重量を支えることで利点を獲得しました。
そしてしばらくはそれが役に立つでしょう。
誰もがどんなに疲れていても・・・私ほど疲れてる人はいないと思いますが、
そう言ったことに時間がかかるのは事実です。
それを認識しなければならないと思います。

彼らは大きなブースターでスプートニクによって最初を手に入れ、最初に宇宙に人を送りました。
今年も関係者の生活の問題に気を配りながら頑張っていきたいですが、
とにかく私たちは遅れています。

彼らは先に行くために集中的に努力をしているでしょう。
土星にさらに重点を置き、ローバー(探査機)を計画しています。
私たちはより強力な地位を与える他のシステムを改善しようとしています。
しかしそれらは非常に効果であり全てに数十億ドルがかかります。

その上であなたの質問に答えると、一般教書演説で言ったことですが、
私たちが追いつくまでにはしばらく時間がかかるでしょう。
私たちは、「最初」になることができて、おそらく人類に
より長期的な利益をもたらす分野に行くことを望んでいますが、

とにかく今は遅れているんです。

記者会見の別の時点で、大統領は宇宙開発競争についてこう述べた。

「”宇宙の最初の男”が自由主義の弱体化の兆候であるとは考えていませんが、
過去数年間行われた共産主義者の宇宙への動員は、
私たちにとって大きな危険の源であるとは考えています。

そして、私たちは今世紀の残りの大部分を通して
その危険を抱えて生きていかなければならないだろうと考えています。
(略)
私たちの仕事は、自分達の優れた資質がより効果的に発揮されるまで
自らの力を維持することです」
アメリカはどうやってこれから巻き返していくでしょうか。

続く。

フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフの「手品師の杖」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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米ソの宇宙開発では、多くの組織で何十万人もの人が働いていました。

どちらの側にも多くの優秀なエンジニア、有能な管理者、
そして「ドリーマー(夢見る人)」がおそらくはたくさんいましたが、
二カ国のそれぞれの頂点に立って、重要な技術的、
管理的役割を果たした二人の人物のキャリアには、
この両大国における違いのいくつかが物語られていると言えます。

アメリカ側に君臨したのは、チーフデザイナーとして実力もあり世評が高く、
アメリカの一般社会で大変よく知られた人物でありましたが、
方や、秘密主義のベールで覆われたソ連側の人物については、
その情報の多くが彼の死後まで公にされることはありませんでした。

今日は、「宇宙開発競争のライバル(Competitors)」というタイトルで
フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフについてお話しします。

■ ヴェルナー・フォン・ブラウン



「ミサイル・マン・フォン・ブラウン」

などとタイムの表紙で呼ばわれております。
サー・エルトン・ジョンかな?・・あれはロケット・マンか。

陸海軍が別々に宇宙開発(というかミサイル開発ですね)を行なっていたため、
要するにこんなことだからソ連にスプートニクられたんと違うんかい、
と考え、反省したアメリカは、三軍の垣根を取り払った宇宙開発組織、
NASAを立ち上げたわけですが、その創立直後、
ドイツ出身の科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン率いる
陸軍の弾道ミサイル研究所は、民間の宇宙開発組織になり、
そして1960年にはNASAの一部として、アラバマ州のハンツビルにある
マーシャル宇宙航空センターの中核をなすことになりました。

1970年まで、フォン・ブラウンはマーシャルセンターの初代所長として
アメリカの月ロケットである巨大なサターンVを含む、
ロケットとロケットエンジンの開発を担当しました。

フォン・ブラウンは宇宙探査開発研究の熱心な支持者でした。

1950年代、それは世界中の人の関心が宇宙に向けられつつあった頃ですが、
彼はこの頃将来必ず訪れるであろう宇宙時代を描いた一連の雑誌記事、
そしてテレビ番組に出演し、その存在は有名になります。

Disneyland 1955 - Man in Space - Wernher von Braun

途中からフォン・ブラウン(英語ではフォンではなく”ヴォン”と発音する)博士の
解説が始まりますが、さすがドイツ人、英語がわかりやすい(笑)
英語の字幕をつけるとさらにわかりやすくなりますのでお試しください。

【初期の人生】

ヴェルナー・フォン・ブラウンは1912年3月23日、
当時のドイツ帝国の小さな町ヴィルジッツで生まれました。

政治家だった父も、母も中世ヨーロッパの王族を祖先とする貴族で、
父の名前には「フライヘア」という称号がついています。

彼のバイオグラフィを見ていて、当ブログ的に大いに驚き興味深かったのは、

フォン・ブラウンはチェロとピアノを習い、作曲家志望で
パウル・ヒンデミットから直接レッスンを受けていた

という事実でした。

「ヒンデミット:シェーンベルクらの無調音楽に対しては、自然倍音の正当性を守る立場から否定的で
教育も一風変わっておりヴィルヘルム・マーラー式和音記号を採用せず、
数字付き低音の正当性を主張したドイツ人作曲家」
の薫陶を受けたフォン・ブラウンの現存する曲の作風は、
どうしてもヒンデミットに似ているんだそうです。
うーむ、聴いてみたいぞこれは。
探してみたら物好きな人が彼の曲をCDにしているのが見つかりましたが、
再生できないようになっていました。

代わりに?ミュージックコメディアンが歌う
「ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌」が見つかりました。

Tom Lehrer - Wernher von Braun

忠誠心が便宜によって支配されている男
偽善者というよりむしろ政治的だと呼んでくれ

だそうです。(適当)
学校時代決して数学の天才とかではなかったようですが、
宇宙に興味を持ち出した彼は物理学と数学に専念し、
ロケット工学への関心を追求し始めました。

そのきっかけは、少年時代に読んだSF作家の作品だったようです。
好きが高じて微積分と三角法をマスターし、
早いうちからロケットの物理学を理解していたとか。
ベルリン工科大学で機械工学を学んだ彼は、留学して物理学で博士号を取得し、
さらに大型で高性能のロケットを作るという夢を膨らませていきました。
ある日、高高度気球飛行のパイオニアであるオーギュスト・ピカールが
講演を行ったとき、若い学生だったフォン・ブラウンが近づき、
「あの、僕いつか月に行こうと思ってるんですよねー」
と言ったそうです。
ピカールは、お、おう・・・となりましたが、とりあえず
この無謀な夢想家らしい若者を励ましたということです。

そんな彼が選んだ就職先とはドイツ軍。

そこで液体燃料ロケットの開発に携わることになったのでした。
陸軍での研究をもとに、フォン・ブラウンは物理学の博士号を取得しました。

【V2ロケット開発】


どうしてこうなった。

V -2の研究施設があったペーネミューデで、
ナチスの偉い人たちに囲まれるフォン・ブラウン。

ここで何度となく話していますが、大陸間弾道ミサイルや
宇宙ロケットの前身であるV2弾道ミサイルは、
フォン・ブラウンのロケットチームが中心になって開発したものです。
ここでちょっと面白い?話を一つ。

ベルサイユ条約で武器開発に制限が設けられたドイツですが、
この時禁じられた兵器開発のリストにロケット工学が含まれていなかったのです。
フォン・ブラウン自身、この「不思議な見落とし」のおかげで
ロケット科学者としてのキャリアを積むことができた、と感謝していたという。
まあ、それを取り決める担当者が時代を読めなかったってことですね。


V-2は、弾頭を200マイル離れた目標に打ち込むことができるミサイルです。

Vは「報復」を意味する「Vergeltungswaffeヴェルゲルトングスヴァッフェ」
の頭文字で、宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルス閣下直々の命名だったとか。

目標はとりあえずイギリスとベルギーで、100機製造されましたが、
誘導システムの精度が低く、確たる戦果を上げることはできなかったようです。

この時期フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕されていますが、
その理由は、彼がヒトラーのことを

「チャップリンの口髭をつけた尊大な愚か者」
「全く良心のない、自分を唯一の神と考える無神論者」
「もうひとりのナポレオン」
と断じていたのがバレたから・・・・では、勿論ありません。

フォン・ブラウンは後年、こういった「ナチス・ディス」を盛んに行い、
ヒムラーにSSに誘われて入ったが、制服を着て写真に写ったのは一度きりで
言うたらコスプレみたいなもの、階級も便宜上と言い訳をしたそうですが、
実際は公式の会合には毎回制服で出席していたし、
少尉任官後、きっちり少佐にまで昇進もしていますし、
V-2ロケットの収容所囚人労働のことも、

「いかなる死や殴打も個人的に目撃したことはない」

と断言していながら、囚人への残虐行為を黙認どころか、
なんなら囚人に鞭打ちをさせていたこともある、などと証言されており、
後からなかなかツッコミどころ満載な話がボロボロ出てきているんだとか。

まあしかし、保身上の理由から彼がナチス時代そのものを否定したとしても
アメリカ人にフォン・ブラウンの嘘?を責める資格はないと思います。

ナチスとの関わりを全て知った上で、技術と頭脳欲しさに
西側に引っ張ってきたのは、他ならぬアメリカだったのですから。

上のYouTubeのコメントにもこんな皮肉がありますよ。

"Are you a Nazi?"
"Yes"
"Were you part of the leadership that sent millions of innocent men, 
women and children to their deaths?"
"Yes"
"Do you know anything about rockets?"
"Yes"
"Well that's alright then; welcome to America!"


さて、フォン・ブラウンが逮捕された話に戻ります。

V2計画を含むすべてのドイツの軍備計画を支配しようと企てたヒムラーが、
技術の問題解決協力を餌にフォン・ブラウンを抱き込もうとしたところ、
彼はV2の問題は技術的なものなのでそれには及ばない、と断りました。

その後彼はSDの監視下に置かれていましたが、ある日の同僚との会話で、
武器開発でなく宇宙船の開発がしたい、などと言っていたこと、さらに
戦争がうまくいっていない、と「敗北主義」的態度を取ったことを、
SSのスパイであった若い女性歯科医に報告されてしまうのです。

それから共産主義者のシンパっぽいとか、政府支給の飛行機を定期的に操縦し、
いつでもイギリスに逃げる準備をしていると疑われ、ゲシュタポに逮捕されました。

彼はなぜ自分が勾留されたのか全く知らされないまま独房で2週間過ごしましたが、
当時の軍需・戦争生産省大臣だったアルベルト・シュペーアが
彼が研究に不可欠であることをヒトラーに認めさせ、放免となりました。
ちなみに彼のSSでのキャリアは次の通り。

SS 番号: 185,068ナチス党員番号: 5,738,692階級SS-Anwärter:  1933 (候補生、SS騎馬隊?)SS-Mann:  1934 (上等兵)SS-Untersturmführer:  1940 (中尉 Second Lieutenant)SS-Obersturmführer: 1941 (大尉 First Lieutenant)SS-Hauptsturmführer: 1942 (大佐 Captain)SS-Sturmbannführer:  1943 (少佐 Major)
【アメリカでのキャリア】

1944年末には、ドイツが破壊され占領されることは明白となり、
フォン・ブラウンは戦後の計画を立て始めました。

連合国がV-2ロケット施設を占領する前に、フォン・ブラウンは南下し、
そこで他の主要なチームリーダーとともにアメリカに降伏したのでした。
ペーパークリップ計画と呼ばれる軍事作戦の一環として、
彼と125人の初期グループがアメリカに送られたという話もしましたね。

彼らがアメリカで当初どういう待遇を受けたかについてはあまり語られませんが、
とにかくアメリカの料理の不味さ?には参ったようです。
物資不足のドイツでしたが、ペーネミュンデでは特別扱いだったため、
そんな彼らにとってアメリカの「ゴム引きの鶏」は耐え難いものでした。

しかも引っ張ってきておいて、アメリカではフォン・ブラウンは
工学部を卒業したというだけの26歳の陸軍少佐の下で、
「ウェルナー」呼ばわりされて研究など何もさせてもらえない始末。
その後、ドイツからV2実物が送られてきて、ようやく彼の出番となります。
この時も、彼らは一種の軟禁状態で、軍の護衛なしに
実験場敷地を出ることができなかったため、彼らは自分達のことを

「PoPs=Prisnors of Peace(平和下の捕虜)」
と自嘲していました。

そのうちアメリカをスプートニクショックが見舞うと、
ようやくアメリカは、「ペーパークリップ作戦」なんてのを発動して
苦労してかき集めてきたはずのドイツからの頭脳を、
持ち腐れさせていたことに気づくのです。
1960年、陸軍のレッドストーン工廠にあったロケット開発センターが
フォン・ブラウンごと新設のアメリカ航空宇宙局(NASA)に移管されました。

NASA創設は、つまりフォン・ブラウンをはじめとするドイツ人の
「再利用」を意味し、その主な目的は、巨大なサターンロケットの開発でした。

NASAのマーシャル宇宙飛行センターの所長となったフォン・ブラウンは、
人類を月に送り込むサターンVロケットの設計責任者となるのです。

その後のマーシャル宇宙飛行センターでは、初の宇宙飛行士アラン・シェパードを
軌道下飛行させるためのロケット、レッドストーン・マーキュリーの開発を行い、
シェパードの飛行が成功するや否や、ジョン・F・ケネディ大統領は、
「10年後までに人類を月へ送る」という目標をぶち上げました。

そして、1969年7月20日、人類初の月面着陸成功により、
アポロ11号は、ケネディ大統領のミッションと
ヴェルナー・フォン・ブラウン博士の生涯の夢の両方を達成したのです。



■セルゲイ・コロリョフ

Sergey Pavlovich Korolyov (Сергей Павлович Королёв)

1930年代、ロシアのエンジニア兼飛行士であったセルゲイ・コロリョフは、
モスクワを拠点とする愛好家のグループであるGIRDを率い、
ソビエト連邦初の液体推進剤ロケットを製造してテストしました。

第二次世界大戦後、コロリョフはソ連のミサイル開発設計局のトップに任命され、
1975年までに彼はそこでR-7を建造して打ち上げました。
それは、スプートニク号を地球軌道に乗せ、
ルナ宇宙船を月に向けて推進させるために使用された、
史上初の運用可能な大陸間弾道ミサイルでした。

コロリョフの残した偉大な功績は、ボストークとソユーズの有人宇宙船、
さまざまな弾道ミサイルとロケット、ゼニット(Zenit)偵察衛星、
モルニヤ(Molniya)通信衛星、有人月面宇宙船などです。

コロリョフが指揮した設計局は、その後進化し、
エネルギア・ロケット&スペースコーポレーション、(RSC Energia)
として、現在も活動しています。
【初期の人生】


10代の頃。あらイケメン
ロシア軍人の父と裕福な商人の娘である母の元に1907年生まれたコロリョフは、
幼い頃は両親が離婚するなど、なかなか複雑な環境で育ったせいか、
頑固で粘着質、口が達者で友達が少なく、いわゆる陰キャのぼっちだったそうです。

勉強ができ、教師からは好かれたので、同級生から嫉妬されたという説もあります。

建築職業学校で大工の職業訓練を受けていた頃、航空ショーを見て、
航空工学に興味を持つようになったコロリョフは、勉強の傍ら、
気晴らしに独学でグライダーの設計を始め、自分でも乗っていました。

1924年にキエフ工科大学航空分校に入学したころ、彼は
グライダーで墜落し、肋骨を折る大怪我をしています。

ちなみに指導教官はあのアンドレイ・ツポレフだったということです。

【初期のキャリア】

卒業後は実験課航空機設計局 OPO-4 でソ連の優秀な設計者と共に働き、
1930年、ツポレフTB-3重爆撃機の主任技師として働きながら、
液体燃料ロケットエンジンの可能性に興味を持つようになります。

パイロット免許を取得したコロリョフは、自分の操縦する飛行機の
高度限界の先には何があるのか、どうすればそこに到達できるのか、
その限界を探っていたのです。

これが彼の宇宙への興味の始まりであったと考えられています。


1931年。
コロリョフはソビエト連邦で最も早く国営ロケット開発センターとなった
反応運動研究グループ (GIRD) の設立に参画し、
そこで3種類の推進システムを開発し、それぞれ成功を収めました。

1933年にソ連で初めて液体燃料ロケットGIRD-Xを打ち上げます。

コロリョフはその後 ジェット戦闘機、巡航ミサイル、そして
乗員付きロケットエンジン搭載のグライダーの開発を指揮しました。
ちなみにコロリョフの奥さんも科学者で、最初の彼のプロポーズを
勉強に多忙という理由で断ったそうですが、コロリョフは
その後めげずにトライして結婚に漕ぎ着けています。
ちなみにこの奥さん、子供ができた後も、夫とは全く別に研究者として
バリバリキャリアを積んでいたそうです。

コロリョフも優秀なエンジニアリングのプロジェクト・マネージャーでした。

部下に対する要求は高く、勤勉で、規律正しい管理スタイルを持ち、
最初から最後まで自分の責任で作業を監視し、細部にまで細心の注意を払う。
実にカリスマ性のあるリーダーとして各方面からの信頼を集めていました。

しかし・・・・。
【逮捕・収監】


なんと、戦後の米ソ宇宙技術者のトップは、かつてどちらも
祖国の手で逮捕される経験をしていました。

コロリョフの逮捕は、ソ連を席巻した「大粛清」によるものです。
コロリョフは研究所の仕事を故意に遅らせたという疑いで逮捕され、
拷問を受け、裁判にかけられて死刑の判決を受けました。
しかしこれは表向きの嫌疑で、逮捕された本当の理由は、
ロケット研究所の専門家同士の技術的な齟齬からくるものでした。

どういうことかというと、当時国内で
多連装ロケットを推していた専門家筋が計画した
弾道ミサイル派に対する粛清と言われているのです。

この説が本当なら、中世の魔女裁判のように、大粛清というパージを利用して
自分の対立するグループを消そうとする計略にかかったということですね。

何人かの同僚が処刑された後、コロリョフはシベリア極東の収容所にやられ、
金鉱で労働をさせられる身分になりました。
収監中は心臓発作を起こし怪我を負い、壊血病で歯の大部分を失う、
という壮絶な目に遭いながらも、労働収容所にあった
昔の恩師であるツポレフの技術施設で働き、なんとか生き延びます。
彼に対する「容疑」が最終的に晴れたのは1957年のことです。
これはとってもおそロシア。


その後の人生で、コロリョフは収容所での体験をほとんど語りませんでした。

自分が知る軍事機密のために処刑される恐怖に晒され続ける日々。
長かった収容所での生活は、彼を極端に控えめで慎重な性格に変えました。

後にコロリョフは、自分を告発したのが設計局の局長だったことを知ります。

それを知ったとき、彼はその局長の下の副設計長として
一緒にロケットの設計を行なっていたのだそうですが、
コロリョフがそれを知ってどうしたかはわかっていません。



【弾道ミサイル】

左:コロリョフ
戦争が終わると、コロリョフはドイツのV-2ロケットの技術回収のため、
他の多くの専門家とともにドイツに連行されています。

ソ連とアメリカとの間に「ドイツの技術争奪戦」が起こったわけですが、
ソ連は2000人以上のドイツの科学者と技術者を確保しました。

スターリンはロケットとミサイルの開発を国家の優先事項とし、
コロリョフは特別設計局の長距離ミサイルの主任設計者に任命されました。

彼らはV-2ロケットを分解して作った設計図をもとにレプリカを製作し、
R-1ロケットとしてとテストを行いましたが、このテストでは
11発のうち5発しか目標に命中せず、V-2の信頼性の低さが証明されました。

ちなみにコロリョフ自身は、ドイツ人専門家と仕事をすることを拒否し、
実際に会うことさえしようとしなかったそうです。

2年後、コロリョフのチームはR-2をV-2の射程の2倍にし、
独立した弾頭を利用して、計算上イギリスを射程に入れることに成功します。

その後、世界初の本格的な

大陸間弾道ミサイル(ICBM)セミョールカ 
(Семёрка, Semyorka)-7

を開発しました。

【宇宙開発】
コロリョフは、ICBMとして設計されているロケットの軌道上に
R-7で人工衛星を宇宙に上げる提案をしましたが、共産党に却下されます。

宇宙開発?なにそれ美味しいの?
そんなことよりアメリカにミサイルぶち込む方が先だろうが!みたいな?

そこでコロリョフらは、一計を案じました。

まず、ソ連の新聞に宇宙計画について派手に書かせ、餌を撒き、
それにアメリカの新聞が食いつけばアメリカ当局は興味を示すはず。

目論見通り、アメリカがソ連に触発されて衛星を上げることを思いつき、
予算獲得のために議会で騒ぎだしたのを確認すると、
コロリョフらはおもむろに共産党にこう提案します。

「アメリカより先に衛星を打ち上げることが国際的な威信につながる」

そしてまんまとプロジェクトを承認させることに成功しました。

策士やのう。

ところで、どうしてこの頃の宇宙開発戦争でソ連が圧勝だったかですが、
こんな説もあります。

アメリカは、当初、宇宙事業技術者の血筋にこだわって、
「100%アメリカ人」であることを優先し、
最も「近道」であるはずのフォン・ブラウンを
意図的に設計の根幹から遠ざけ、宇宙飛行学の講義をさせたり、
ウォルト・ディズニーと遊ばせたりしていたので、
ロケット設計作業をスピード優先でやってのけたコロリョフに勝てなかった。

わたしはかなりこれは正しいと思います。

現に、フォン・ブラウンらが関わるようになってから、アメリカはじわじわと
ソ連に追いつき、最後についに月面着陸で追い抜いたのですから。

さて、コロリョフがスピード優先で自ら慌ただしく組み立てを管理し、
わずか1ヶ月で完成したビーチボールほどの大きさの金属の球体、
スプートニク1号は、無事に完成し、1957年10月4日、
史上初めての衛星として宇宙へ飛び立ちました。

この快挙に対する国際的な反応はかつてないほど衝撃的であり、
政治的な影響は数十年にわたり続いたとされています。

コロリョフは実用宇宙工学の父と称されています。

この後、スプートニク2号による犬のライカの打ち上げ、続くスプートニクとボストーク計画の初期の成功を監督し、
1961年、ガガーリンの人類初の地球周回ミッションを成功させました。


しかしコロリョフの人生の最後は壮絶なものでした。

コロリョフはシベリアでの収容所生活の間に体(特に腎臓)を悪くしており、
これ以上仕事をしたら死ぬと医師からも忠告されていましたが、
休むことなく無理をし続けました、

その理由は、彼はフルシチョフが真に宇宙開発の意義を理解しておらず、
大掛かりな宣伝としか考えていないことを知り尽くしており、
もしソ連がアメリカに主導権を奪われ始めたら、
宇宙開発を完全に中止するだろうと恐れていたからと言われています。

腸の出血で入院、心臓の不整脈、胆嚢の炎症と彼の体はボロボロでした。
さらに重なる仕事のプレッシャーから疲労が蓄積し、また、
大音量のロケットエンジン実験に何度も立ち合い難聴にもなっていました。

コロリョフは突然死去しましたが、死因は明らかにされませんでした。

大腸の出血性ポリープの切除手術中出血し、挿管を行おうとするも、
収容所時代に痛めた顎のせいで呼吸チューブの取り付けに支障をきたし、
このせいで亡くなった、と推測されているそうです。

合掌。

しかも、スターリンの政策により、コロリョフの存在は世間から隠され、
ソ連国民は彼の功績を死後まで知ることはありませんでした。


■手品師の杖

コロリョフとヴェルナー・フォン・ブラウンは、
宇宙開発競争の立役者としてしばしば比較されます。

フォン・ブラウンもそうでしたが、コロリョフはソ連国内において
月への飛行計画を持つライバルと絶えず競争しなければなりませんでした。

しかもアメリカに渡ったフォン・ブラウンとは異なり、彼はまた、
特に電子機器やコンピュータなどの多くの面でアメリカに立ち遅れた技術で
仕事をしなければならず、また極度の政治的圧力に耐え続けていました。


コロリョフ死後の後任は、彼の右腕として活躍した優秀なエンジニア、
ヴァシリー・ミーシンVasily Pavlovich Mishin
 (Russian: Васи́лий Па́влович Ми́шин) (1917 – 2001)でした。

設計責任者ととして欠陥だらけのN1ロケット計画を受け継ぎますが、1972年、打ち上げに失敗して解雇され、
ライバルのグルーシコに任務を譲り渡すことになります。

しかもその頃、アメリカがすでに月へ到達するという目的を達したため、
白けた?ブレジネフ書記長によって宇宙計画は中止されてしまいました。

政治のトップは変わっていましたが、アメリカが先を越したら
ソ連は宇宙開発に興味を失うだろうというコロリョフの予言は当たりました。




スミソニアンには、二人の名前とそれぞれの計算尺が展示されています。

まず、上のがフォン・ブラウンのもので、下のがコロリョフの
「スライド・ルール」であると説明されています。

フォン・ブラウンのは勿論ですが、コロリョフのものもドイツ製です。
コロリョフを知る人たちは、この計算尺のことを

「The Magician's Wand」(手品師の杖)
と呼んでいました。


フォン・ブラウンは、共にV2を開発したドイツのロケット工学者、
ヘルマン・オベルト(Herumann Oberth)から大きな影響を受けています。

実験中の爆発で右目を失ったというこの科学者について、彼は、

「ヘルマン・オベルトは、宇宙船の可能性について考えるとき、
スライド・ルーラー(計算尺)を手に取り、数学的に分析した
コンセプトとデザインを提示した最初の人でした。

私自身、彼のおかげで人生の道標ができただけでなく、
ロケット工学や宇宙旅行の理論と実践に初めて触れることができたのです。
科学と技術の歴史において、宇宙工学の分野における
彼の画期的な貢献に対して名誉ある地位が確保されるべきです」
と語っています。

続く。

映画「サブマリン爆撃隊」〜第一次世界大戦駆潜艇

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古い戦争映画ばかりを集めたDVDセットから、今回選んだのは
1939年作品「サブマリン爆撃隊」Submarine Patrolという海軍もの。

てっきり潜水艦映画だと思ったら、「潜水艦を爆撃する隊」のことで、
第一次世界大戦時の駆潜艇に乗る主人公の話でした。

これは戦争映画としても極めて珍しいジャンルです。
しかも監督はあのジョン・フォードですからちょっと期待できそうですね。

それでは早速始めましょう。

「錨を揚げて」がロマンチックなワルツに変わり、
錨のシルエットをバックにしたタイトルロールが浮かび上がります。

海軍を扱っていますが、メインが恋愛ドラマなので、
こんなアレンジになったのだろうと思われます。



ここはかつてニューヨークにあったブルックリン海軍工廠。

1801年に創設され、南北戦争時に拡張された海軍工廠で、
第二次世界大戦時は稼働のピークでしたが、1966年に廃止されました。
戦艦「アイオワ」もここで建造されています。



一台のロールスロイスがゲートに突っ込んできて警衛を突き飛ばしました。
この乱暴なドライバーが主人公のペリー・タウンゼント3世。

タウンゼント姓はアイルランド系で「3世」となるといかにも金持ち風です。



工廠司令のジョセフ・マイトランド少将に面会にきたと、
金持ちらしい尊大な態度で名乗ります。

警衛の海兵隊軍曹はいかにも金持ち風の彼にちょっとムカついたのか、

「そうか、私はジョー・ダッフィー・ザ・ホイスト(ホイスト1世)だ」



この海軍士官はジョン・C・ドレイク中尉。

ドレイク中尉は任務上のミスを上官に報告するために、
マイトランド少将の執務室の前で面会の順番を待っていました。

そこに足取りも軽やかに登場したタウンゼント3世、
順番を全く無視して、来るなり副官(士官)に向かって気易く
「やあセイラー!」と許可証を叩きつけ、少将の部屋に入っていきました。

ドレイク中尉も他の並んでいる人も、おいおい、と呆れ顔。



少将も少将で、タウンゼントを見るなり、父上はお元気かね、などと愛想したついでにドレイク中尉に悪びれる様子もなく、

「すまんが君の時間はなくなった。
報告は明朝『フィッツジェラルド』のウィルソン艦長にしたまえ」


彼がここにやってきたのは「ふと海軍に入りたくなったから」。
すでにパパに頼んで海軍長官に話を通してあるから、とふんぞりかえって、

「下っ端で使われたくないから”長”のつくポジションをお願いしますよ」

おい、海軍なめとんのか。



「ボートレースが得意で機械に詳しい・・・と。
よし、それなら機関長として新しい駆潜艇に乗ってもらおう」

「それは面白そうだ。それに”チーフ”なら僕にふさわしい」


彼が戻ってくると、ホイスト1世が絶賛婚約者を口説き中でした。
戻ってきたペリーに彼女はウキウキと、

「あなたも少将に任命されたの?」
「似たような感じかな!機関長に任命されたよ」
こいつら馬鹿ップル丸出し。


ご機嫌で工廠を出ようとすると、立ち往生している車が道を塞いでいます。
ブーブークラクションを鳴らしても動かないので、文句を言いに行くと、
運転手はなんとびっくり、俺好みの美女ではありませんか。


機械に強いタウンゼント三世、クランクの問題を瞬時に解決してやって、
彼女に恩を売りつつ、しっかり自己アピールするのを忘れません。



さて、富豪のプレイボーイ、タウンゼントが海軍入隊したことは
早速新聞のゴシップになっております。

「社交界からその姿が消えるのを惜しむ声もある」



さて、入隊のためにトランクを持ってトコトコ工廠にやってきたペリーは、
偶然先日の美女運転手、スーザン・リーズに遭遇しました。

彼女は父親が船長をしている武器弾薬補給船、「マライア・アン」号乗員で
生まれてこの方船に乗ってきた、筋金入りの「海の女」でした。

「そうか、君の船は僕の駆潜艇(サブ・チェイサー)が守るよ」

モノを知らない彼の言葉に彼女は噴き出します。

「なぜ笑う?駆潜艇は勝敗の鍵を握る戦艦(バトルワゴン)だぞ」

「ぷっ・・・あなた、もしかして駆潜艇見たことないの?」



はい、見たことありませんでした。

駆潜艇、「Submarine Chaser」は、対潜水艦戦を目的とした小型艦艇で、
第一次世界大戦ではUボートと戦うために特別に設計されました。

SC-1級駆潜艇は全長34m、区分のSCはSubmarine Chaserを表しており、
主力武器は爆雷で、機関銃や対空砲を搭載します。

ちなみに日本海軍も第二次世界大戦中、約250隻の潜水艦追跡機を保有し、
このうち一部は生き残って戦後、海上自衛隊で活躍しています。

さて、実際の駆潜艇を初めてその目で見たペリーは、

「嘘だろ?親父のヨットより小さいじゃないか」
言うことがいちいちムカつくなこのドラ息子は。

彼が赴任してきた駆潜艇の乗員たちは、基本気のいい連中ですが、惜しむらくはほとんどが新兵で、全く兵隊の自覚に欠けています。

大学の研究(ネズミ)材料を船に持ち込んでいる「教授」こと
ラザフォード・デイビス・プラット水兵や、
タクシー運転手を兼業しているハガーティ、
すぐ職場を離れてどこかに行ってしまうコックのスパッズ。年齢をサバ読んで16歳で入隊した少年、友達に誘われてぶっちゃけノリで来たヤツなど、はっきり言ってどいつもこいつも意識低すぎ。



会ったばかりの人間にいきなり金を借りようとする奴もいます。

「ねえ、2ドル貸してくれない?」

「細かいのがないから5ドルでいいかい」
かるーく5ドル札をハガーティに渡すペリーに、皆が顔色を変えます。
1939年当時の5ドルは現在の日本円で2万6千円ほどの価値なので、
1万円貸して、と言ったらその2倍以上くれたという感じですかね。

「ナイスガイだな!」
現金な彼らはすっかり気前のいい機関長を気に入りました。


ペリーは口にしようともしない不味いシチューを食べながら一人が、
「ところでこれなんの肉なんだ」

コックはまたしてもフラフラとどこかに行ってしまい、不在です。

「ラムだと言ってたけど」

「ラクダの味がする」

その時教授が、

「アビー(実験用マウス)がいない・・・ストーブで温めてたのに」
皆ギョッとしてシチューを食べるのをやめますが、
アビーは無事に生きて誰かの水兵帽から出てきました。



不機嫌なペリー、取り敢えずここを出て飲みに行くことにしました。


その辺の水兵を誘ったところ、皆大喜びでお供に着いてきました。
全く厳禁な奴らです。


大盤振る舞いしてくれる金持ちの上司は誰もが大歓迎。

「機関長、今日は誕生日っすか?」

「かもね」(適当)

「それ、みんなで、ハッピバースデーツーユー♩」

と大騒ぎ。


同じ酒場に、偶然先ほどのスーザンと彼女の同僚マカリソンが来ていました。

ペリーは早速彼女を発見して下心満々でダンスに誘いますが、
父親から娘のお目つけ役を仰せつかっているマカリソンが断固阻止。

マカリソン、ちょっと彼女に気があるようですし。
そこでペリーはその辺の水兵に小銭をやって、
マカリソンを呼び出し、電話ボックスに閉じ込めてしまいます。



そして金持ちパワーを見せつけるべく、彼女をホテルリッツに誘うのでした。


新聞で見て憧れていたリッツのディナー、ハンサムで金持ちの男。
彼女の警戒心はもうゆるゆるです。

うーん・・・これ、なんだかね。


ここまで漕ぎ着けたら、プレイボーイの異名は伊達じゃない。
船で生まれ、世界各地を転々としてきたと語る彼女に、
各国語で「アイラブユー」を言わせて悦に入るペリー。

船上育ちのウブな娘を落とすのは赤子の手をひねるようなものです。



彼らがダンスしていると、すぐ横で先日警衛にいた海兵隊軍曹が
タウンゼントの婚約者?と踊っているではありませんか。

なぜ軍曹がリッツホテルに?
そしていつの間にペリーの彼女は軍曹の誘いに応じたのでしょうか。

この辺の謎は最後まで解き明かされません。


楽しい「踊るリッツの夜」が終わり、ペリーは彼女の住居兼職場である
「マライア・アン」まで女性を送ってきました。

「ではおやすみのキスを」(ワクワク)



「朝の4時よ」
「じゃおはようのキスを」

すると彼女はため息をついて、

「あなたもその辺の水兵と一緒ね」

ムッとしたペリーがそりゃ悪かったねと踵を返すと、彼女が取り縋って、



「ペリー!」

なんかよくわからない女心である。
どうすれば正解だったのか。

まあ男にとってみればどっちでも結果よければ全てよし。


彼女を船室に見送ると、ペリーは父親である船長に呼び止められました。

おもむろに船長室に呼ばれ、

「君のような男は今まで何人も見てきたが、
全く信用できないからもう娘に近づくな!」

と釘を刺されてしまいます。
わたしが親でもきっとこう言うね。



さて、この大佐は何艦かわかりませんが「フィッツジェラルド」の艦長です。
ペリーのせいで少将に約束をすっぽかされたドレイク中尉に
「御沙汰」を言い渡す役目の偉い人と思ってください。


実はこのドレイク中尉、見張り中に駆逐艦を座礁させるというミスを犯し、
処分を待っているという辛い立場だったのです。

「情状酌量の余地はなかったのか」

大佐はこんなことを聞いてくれるのですが、
ドレイク中尉は潔く、ありません、とだけ答えました。

大佐はドレイク中尉を降格処分とし、駆潜艇599号の艇長に任命します。
駆逐艦の見張り士官から駆潜艇の艇長は、降格ということでよろしいか。

新兵ばかりの駆潜艇乗員を、4人のベテランの力を借りて鍛えられれば、
先のチャンスはあるというところで、これも「温情判決」なのでしょう。



さて、そういうわけでドレイク中尉が駆潜艇に着任してきました。

水兵たちは、ドレイク中尉に尋ねられても、船の最先任が誰かも知らず、
しかも、船長らしき士官がきたのに、誰一人敬礼せずぼーっとしています。



新艇長は、早速総員を後甲板に集め、配属命令を読み上げるや否や、
ビシバシとまず艇内清掃の徹底から取り掛かりました。

やる気と厳しさを叩き込むにはまず掃除から。
アメリカ海軍でもこういう精神が基本となっていたようです。


頻繁にいなくなるコックのスパッズですが、なんと彼は
海軍と兼業で街に自分のレストランを経営していました。
流石にオーナーが店の様子を見に行かないわけにいかないので、
駆潜艇のキッチンの仕事の合間に抜け出していたというわけです。

ドレイク中尉はまだそのことは全く知りませんが、
船に帰ってきた彼をいきなり捕まえて、
ゴミ入れに溢れたゴミを捨てろ!と叱責しました。

このゴミ捨てはとりあえず後の伏線となっています。

それから機関長、タウンゼント3世とやらを呼びに行かせるのですが、



機関長はその時、高価なジュエリーを餌に女を口説いていました。


「こんなの高価すぎる。受け取れないわ」
「じゃあ捨てて魚の餌にするぞ」

「だめよ!」

女も女。しっかり受け取ってしまい、ペリーの思う壺です。



呼ばれて艇に駆けつけたペリー、新艇長というから来てみたら、
先日少々の部屋の前で会ったしょぼい士官じゃないですか。

すっかり甘くみて、

「やあ、また会ったね」

もちろん色んな意味で彼のことをよく思っていない艇長は、
「私が呼んだらすぐ来るんだ!私のことはサーと呼べ!」

「なんだその服は!」

「仕立て屋に作らせてて明日の昼間にできるんですが」
「海軍工廠の支給品を着るんだ!」


ムカついてペリーは例の少将にねじ込みます。

「ぼかあ、あんな木製の風呂桶に乗るために海軍に入ったんじゃありません!
あの艇長、ワシントンに言い付けてやる!」

「そもそもあのドレイクとかいう奴、僕にこんな酷い軍服を押しつけて・・
帽子も見てくださいよ。まるで猫みたいだ・・・ほら!」


しかし、少将、今回は打って変わって厳しい態度で、
「海軍は権力には屈しないし君を贔屓もしない。
タウンゼントの名前はここでは通用しない。
駆潜艇に戻るか、一水兵として軍艦に乗るかどちらか選べ!」



(´・ω・`)「・・・・」

外にいた下士官兵にザマーミロとニヤニヤ笑われ揶揄われながら退場。


駆潜艇では、新艇長の厳しい指導のもと、艇内清掃が着々と進んでいました。
ペリーも仕方なく機関室を磨き上げます。



続いて少将が送り込んだ新兵を鍛えるためのベテラン4名が着任しました。
その中の一人はドレイクの父親にも仕えたことのあるクィンキャノン。

洗濯板のような袖章を舐めていちゃもんをつける怖いもの知らずの新兵を
一撃で転がし、睨みを効かせる流石の超ベテランCWOです。



総員を甲板に整列させ、ドレイク艇長は出航準備を命じました。
なぜか慌てるスパッズ。
(その心は自分のレストランの種火の始末をしていない)


ペリーは急いで抜け出し、スーザンと別れを惜しみました。
彼女の船も出航を予定しています。



出航を控えた駆潜艇599号は、岸壁での体操や、持ち物検査が行われます。
さて、後1時間で降る極秘命令とは。



そこにスーザンの父親がカッカと怒りながらペリーを訪ねてきました。

父はスーザンにやった高価なジュエリーを突き返しにきたのですが、
ペリーが彼女に言ったように、返すくらいなら捨てろというと、
彼は秒の躊躇いもなく海に放り込んでしまいます。

しかも激昂して殴りかかったペリーを床に打ちのめして行ってしまいました。


そして出航。

殴られたペリーも機関長としてそれなりに仕事を果たしました。
全く海軍未経験の彼には実際なら絶対無理だったでしょうけど、
これは映画なので多少はね?

自由の女神に見送られ、荒波に漕ぎ出した小さな30メートルの船のゆれは、
船に慣れていない船員たちを全員船酔いにします。


「お前が海軍に誘ったからだ。殺してやりたい」



平気なのはチーフと給養長のスパッズ二人だけ。



と思ったら、もう一人全く元気な人がいました。
我らがペリー・タウンゼント3世は、ヨットの達人なのです。

倒れた部下に水をかけ、汚いモップで顔を拭き、外に空気を吸いにいかせて、
となかなかの「長」ぶりを発揮しているではありませんか。


その時、通信士が本部からの通達を受けました。
通達の内容は「命令書を開封せよ」。

この頃の艦艇では、艦内の金庫に命令書が入っていて、
指令が降りてきたとき、初めてそれを開封して読む慣例でした。
なんで最初から読んでおかないといけないの、と思いますが、
まあ当時の海軍のいろいろな事情を勘案した結果でしょう。

知らんけど。


甲板に総員集合がかけられ、目的地と任務が通達されました。

イタリア行きの船団の警護、つまり、愛するスーザンと、
その憎き父親の乗る「マライア・アン」を護衛するという任務でした。

「僕が駆潜艇に乗って君の船を守るよ」

この最初の彼の言葉通りになったのです。


続く。


映画「サブマリン爆撃隊」〜Uボート急襲作戦

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第一次世界大戦のアメリカ海軍駆潜艇もの、
「サブマリン・パトロール」後半です。

金持ちの気まぐれで海軍に入ったら、小さな木製の駆潜艇に放り込まれ、
文句を言う間もなく船団護衛の任務に乗り組むことになったペリー。

しかし、衝撃的に恋に落ちた女性が、偶然護衛する補給船の船長の娘でした。
これはもう、頑張っていいところを見せようと張り切ってしまうでしょう。



船団は荒れた海を乗り切り、ようやく外海に出ることができました。

初めて取る船内での食事の席で、駆潜艇乗員たちの会話から、
ペリーは、その愛するスーザンの乗る爆薬輸送船
「マライア・アン」が、潜水艦に攻撃を受けるも難を逃れたと知ります。

すでに船団はUボートの出没する海域に差し掛かっていたのでした。



食事後、ゴミを甲板から廃棄していたコックのスパッズは、
うっかりドラム缶を海に落としてしまいました。



波に漂うドラム缶を見張りの「教授」は潜水艦の潜望鏡と見間違え、
警戒警報を発令したため、たちまち総員配置が命じられます。



機銃、爆雷にも配置し、機関室のペリーも初戦闘に張り切るのですが、
皆初めてのことで緊張し、幾つものミス連発。



すぐにそれは誤認だとわかり、ジェネラルクォーターは解除となりました。



しかし、実はその時Uボートの方は本当に船団を発見していました。



ミスをした教授は皿洗いを命じられましたが、チーフが怖くて降りられず。
狭い見張り台でベテランと一緒にくっつき合ってワッチしていたところ、
汚名返上、今度こそ本物の潜望鏡を発見しました。



たちまち艇内にベルが鳴り渡り、再び総員配置です。
さっきのはリハーサルだったと思えばいいのよね。



停止に前進全速、次々と降りてくる指令に、機関室のペリーもフル回転。
それにしても彼、いつの間に機関室での任務をマスターしたのか。



聴音員に、艇長は潜水艦の機位を探知させました。



どこかでも見たことがあるV字型の爆雷投射機も発射準備完了です。

発射するには、Vの根本にあるスイッチを足で押すと、
V字の先から爆雷が飛んでいくという仕組みです。
日本海軍の装備だと、九四式爆雷投射機がこんな感じです。
Y砲と呼ばれていたものですね。



艇長が右手の紐を引くと、それが「テー」と言う合図のようです。
この頃の駆潜艇独特の仕組みかもしれません。


駆潜艇から雨霰と降ってくる爆雷に、ついにUボートは浸水を始めました。

しばらくして海上に浮いてきた救命胴衣を見て、(キールと書いてある)
艇長は沈没した独潜水艦の掌帆長のものだ、と判断し、すぐに命じます。
「スロウエイトの鐘を」




鐘の鳴り響く中、全員が死者の魂のために敬礼を捧げました。
スロー8はいわゆる「八点鐘」です。一般的にエイトベルは「ワッチ(当直)の終わり」を意味しますが、
これから転じて、弔いの鐘として船乗りが亡くなった時に鳴らされます。



「八点鐘」(eight bells)という用語は、航海用語の婉曲表現では
「終わり」を意味し、 一般人の死亡記事などで使用されることもあります。



潜水艦発見の功労者である見張りの教授も、マストの上から敬礼。



そしてドレイク中尉にとって、これが艇長となって初めて上げた
文字通りの「金星」となりました。


船団は無事イタリアのブリンディジに到着しました。
イタリア半島をブーツに喩えたとき、ヒールに相当する位置にあります。



アメリカ軍の艦艇が寄港する港で、小さな駆潜艇の乗員は、
戦艦乗りの水兵たちに最初馬鹿にされますが、そんな彼らも
駆潜艇のマストに付けられた星を見ておとなしくなりました。



それはUボート撃沈を表す殊勲の印だからです。



船団と護衛艇に別れてイタリアに到着した恋人たちは、早速お互いを求めてソワソワと浮き足立ちますが、まず、スーザンは、
こんなところで女は目立つから船の外に出るなと言い渡されてしまいます。



ペリー・タウンゼントの方は自転車を漕いで駆けつけてきますが、



イタリア人の警衛とマカリスターに阻まれて、岸壁で足止めです。



そこでペリーは身の軽い16歳の駆潜艇の水兵、ジョニーを輸送船に潜り込ませ、
彼女を誘い出すための手紙を渡すことに成功しました。



手紙を見た彼女が約束の地元の高級ホテルに行くと、そこには案の定、
ペリーが金に物を言わせ、ホテルの特別室を借りきって待っていました。



当ホテルのホテルマン、ルイジは、かつてニューヨークにいたことがあり、
タウンゼント三世とは旧知の仲でした。

ルイジは二人のために窓の外に楽団まで用意しており、
彼の合図で「サンタ・ルチア」の演奏が始まるという趣向です。



イタリアでのロマンティックな逢瀬にうっとりと酔う恋人たち。

実はペリー、このホテルで彼女と結婚してしまうつもりで、
アメリカ政府を通して領事館の書記官やら市の職員を手配済みです。

しかしスーザンはペリーの性急さにちょっと引き気味。

いくらお付き合いは結婚申込から、と言うこの時代でも
こんなに手回しが良すぎるのも怪しいと誰もが思いますよね。

それに父親の反対が彼女には引っ掛かっているのです。



ペリーにすれば父親は自分を殴った煙たい相手ですし、
娘を自分にやりたくないという気持ちもまあわからないでもないので、
親父抜きでとっとと結婚してしまおうというわけです。

高まる愛のムードにルイジが感極まって泣き出したその時、



どうやってここを知ったのか。
マカリスターと父親のリーズ船長がズカズカと踏み込んできました。


父親は有無をいわせず娘をマカリスターに連れて行かせ、
怒りに任せてペリーをまたもや殴りつけます。

この映画、殴るシーン多すぎ。



二人がうまく行っても、うまく行かなくても泣いてしまう、
泣き虫のルイジにとりあえずお礼を言って、ペリーは
非常召集のかかった艇に戻ることになりました。



艇の舷門では、警備による身体検査が行われます。
外国の港では色々まずいものを持ち込む輩がいるからですね。



チーフはひと睨み、舷門を身体検査なしで顔パスしてしまいますが、



スパッズはズボンの中の酒瓶がバレて、服の上から叩き割られてしまいます。


こちら、「マライア・アン」号のスーザンの部屋では、
リーズ船長がカンカンの娘を一生懸命なだめていました。

スーザンは父の横暴を責め、ペリーを愛していると言って聴きません。



そこに船長を訪ねてきたのは、なんとイタリア海軍の従軍牧師です。

牧師は、アメリカ大使代理がペリーとスーザンの結婚許可証を出したので、
頼まれてホテルに行ったところ、式は中止になっていた、
あなたが反対したせいで結婚式がダメになったと聞いたが本当か、と言い、

「私には知る権利がある。
あなたが娘をどうしてあんな善良な若者と結婚させたくないのか」

アメリカ政府、大使、従軍牧師、というパワーワードに、
案外権威に弱いらしいリーズ船長は最初オタオタしていましたが、
牧師が二人の結婚許可証実物を見せると、顔色が変わりました。

遊び人だと思っていたが、あいつ、もしかして本気なのか・・・?



さて、同時刻、港の駆潜艇599号の甲板では、ドレイク艇長が
本部から打診された秘密の決死作戦について説明していました。

これまで31隻もの同胞の船を撃沈してきたUボート「オールドマン26」が
アドリア海の機雷堰の裏にいると特定されたので叩きに行く。
自分は「個人的な理由で」(懲罰人事だから実績を挙げなければならない)
任務に志願したが、上からは志願兵だけで出撃しろといわれた。

俺と一緒に任務に参加する志望者を募る。

と、こういう話です。



総員が無言で一歩前に踏み出しました。
我らがタウンゼント三世ももちろんその中の一人です。

駆潜艇の出航準備が始まりました。

その時です。
リーズ船長が、結婚許可証についてペリーに真意を糺すためやってきました。


気が立っている上に腹も立っていたペリー、
今更何しに来たんだと問答無用でリーズを殴りつけてしまいます。

なかなかどちらも暴力的な人たちですな。

しかもこの非常時、後甲板の隅に転がっているおっさんに誰も気がつかず、
艇はあっという間に岸壁を離れてしまいました。



リーズ船長がフラフラ立ち上がった時には時すでにお寿司。
いかに小艇といえども作戦に急行する軍艦を止めることはできません。



止めてくれたら泳いで帰る、と言いかけた船長ですが、
ドレイク中尉が「オールドマン26号」を追うと言った途端、
手伝うから連れて行ってくれと言い出すではありませんか。
いや、民間人を軍艦に乗せてはダメだろう。

しかしドレイク中尉は、この際ベテラン船長の腕を借りることにしました。

「ありがとう、キャプテン(船長)」

「ありがとう、キャプテン(艇長)」


機関室に配属?されたリーズ船長に、ペリーは何も言わせず、
彼を新兵としてコキ使い出すのでした。



駆潜艇はいよいよ機雷原に突入しました。
ここから先は船のエンジンを止め、タグボートで駆潜艇を引っ張りながら
機雷を慎重に避けて進んでいきます。

タグボートの船頭に乗り込むのはベテランのチーフです。
船端に立ったチーフは、ボートに乗り移る直前にこう言います。

「艇長、親子二代にお仕えできて良かった」

これは・・・・遺言代わり?




つまりこういう状態で進みます

今やチーフの目は駆潜艇乗員全員の目。

チーフが機雷を見逃したら、その時は全員が爆死です。
もちろんサーチライトも懐中電灯も使えません。



ただオールが波を切る音だけが聞こえます。
耳を押さえている人は、聴音長で、音声を探知しています。



機関室で二人っきりになったスーザンの父と恋人。
父はただ言葉少なに娘のことを褒め、恋人もそれに同意します。



今やこの二人は一緒に死ぬかもしれない運命にあるからです。
最後の瞬間まで父と恋人が喧嘩していたことを知ったら、
彼女はどんなに悲しむか知れません。



チーフが見張るタグボートと駆潜艇の横を、機雷がいくつも流れていきます。
ツノを触らないように手で避けながらじわじわと進んでいくと、



ついに機雷堰の向こうのU26の根拠地に到達しました。
瞬時に総員配置、そののち急襲による攻撃開始です。

ちなみにこの頃はまだナチスが政権をとっていませんから、
潜水艦にはハーケンクロイツではなく鉄十字だけがペイントされています。



先制攻撃はまず機銃から。



Uボート側も反撃開始。



Uボートの艦砲だと思われます。



激しい艦砲の応酬の末、駆潜艇の機関室部分が浸水。



床に昏倒し意識を失ったペリーをリーズ船長は抱き起こし、

「私だ!父親だ!スーザンの父だ!」

二人は協力してポンプによる排水作業とダメコンを行いました。



何人かの負傷者を出し、火災に見舞われながらも、
なんとか先にUボートを撃沈することに成功。



「撃ち方止め!」

長い沈黙の後、タバコを咥える艇長でした。



翌日、駆潜艇599号は無事帰港しました。



怪我人は出ましたが、死者はなし。



リーズ船長は駆潜艇を去る前に、今や危機を乗り越えてお互いに意気投合し、
理解しあった娘の恋人に、濡れてしまった結婚許可証を渡しました。



艇長とも握手、そして下艇です。
日本語字幕では「海軍のことがわかってきた」となっていますが、正確には
「海軍のことは以前より好きでなくなったが、
前より海軍のことを考えるようになった」
と言っています。



そしてペリーとドレイク中尉です。

ペリーはドレイクにタバコを勧められ、火をつけてもらったライターを
そのまま結婚祝にやると言われて感激するのでした。

ここで二人の最初の出会いのシーンを思い出してみます。

少将の部屋の前、ペリーはドレイクにタバコの火を借りて、
調子の悪いライターの調子を直してやっていましたが、
彼の印象は悪く、ドレイクはペリーにムカつくというものでした。

つまり、あの時から今回までに二人が乗り越えた出来事が、
同じ動作にも全く違う意味を与えているというわけです。

ジョン・フォードの作品は、このようにディティールが細やかで
この頃の作品ながら、子供騙しのような矛盾点が見られません。

これが、フォードが名匠と呼ばれる所以なんだなと思います。


駆潜艇隊に、故郷から手紙が届きました。

あなたのためにケーキを焼くわという母の手紙を読み上げる者、
手紙に香水の香りがするなどと叫ぶ者で艇内は賑やかです。



手紙で初めて本名が知られた乗員もいます。

「エルズワース・フィケットって誰?エルズワース・フィケット」

スパッズが黙って教授から手紙をひったくりました。

これは日本語で喩えれば、ジャガイモと呼ばれていた(spud=ジャガイモ)
おっさんの本名が、実は万里小路薫だった、みたいな感じかと。




皆が唖然として注目していると、エルズワース・フィケットは、

「義母が俺のカフェの名前を勝手に変えやがった。
『 COSY NOOKIE COOKIE SHOPPIE』だとさ」
なんかわからんがこれはひどい。



「博士」は大学から学士号が授与された通知に大喜び。
「Magna cum laudeだ!」(最優秀賞のこと)



その時、隊司令の車が到着したと知らせがありました。




上官の敬礼は部下にワンテンポ遅れて、船尾の旗に向かって行います。



「ドレイク、全艦隊が君を尊敬しているぞ。よくやった」



大佐と同行してきた士官全員が、旗への敬礼を行います。



副官ともう一人、中尉まで。
さすが海軍オタクのジョン・フォード、こんな描写も手を抜きません。



そして激励とねぎらいの言葉を賜りました。



その頃、「マライア・アン」船上では、ルイジの仕切りによって
ペリーとスーザンの結婚式の準備が勝手に進められていました。



ケーキに花束、牧師さんの用意もバッチリ。
あとは花婿が到着するばかりです。
ルイジは早くも感激で嗚咽し始めました。



そこに人がやってきたという知らせあり。

「花婿だ!」

ルイジの合図で楽団の演奏が始まりました。
が、そこに飛び込んできたのは「教授」。



「え・・・?」



教授はペリーから彼女に当てた手紙を持ってきたのでした。
我々はもう出航するという言葉に、ルイジがガッカリして嗚咽をはじめます。
手紙には、

「このあとマルタで船を修理してからバルト海に出撃する」

と書かれていました。



呆然とするスーザン。



しかし、ペリーは任務に忠実であろうとしただけで、
決して彼女を捨てたのではありません。
「マライア・アン」の横を航行する駆潜艇から、彼はスーザンを呼び、



「スーザン!僕は君を・・・・皆、手伝ってくれないか?
『僕を愛してる?』って!

1、2、3!

ドゥー・ユー・ラブ・ミー?」



「いえ〜〜〜〜す!」

マカリスターも一応叫んでます。
彼、実はスーザンに想いを寄せていたのに、いいやつじゃないですか。



「ウィル・ユー・ウェイト・フォー・ミー?」



「いえ〜〜〜〜〜〜〜す!」


「ジブラルタルで会おう!」



晴れやかな顔で投げキッスを送るスーザンでした。



悦びに溢れながらもキリリと軍帽を被るペリーの表情に
「錨を揚げて」が重なり、映画は終結します。



1939年の映画ということであまり期待せずに観ましたが、
さすがはジョン・フォード、一瞬も人を飽きさせない展開はさすがで、
最後まで楽しんで見ることができました。

Submarine Patrol (1938) Director John Ford


スペイン語字幕版ですが、YouTubeでは英語字幕も可能です。
ディレクターズカットで是非ご覧ください。


終わり。


アメリカ到着〜MKの卒業式

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早いもので、MKの大学生活もあっという間に終わりました。
4年間無事に学業をして卒業の運びとなり、
わたしはその出席のために今アメリカにおります。



今回のPCR検査は空港で受けることにしました。
検査結果が出るのに3時間は見ておかなくてはならないため、
夕刻の出発だというのに、家を出たのは朝早く。

今回は11日と滞在が短いこともあり、空港近くの駐車場に車を預けました。

今の出国は、事前にワクチンの接種などについて書類提出が必須です。
それをデータとして前もって使用する航空会社に送っておいたのですが、
それを窓口で係員がチェックするのに結構時間がかかりました。

しかし前もってデータを送っておかないと、空港窓口で職員に
ゼロから手作業で入力させることになり、時間はさらにかかるのだとか。

来るたびに空港の状況と対応が変わっているのには驚きますが、
いちいちそれに対応する空港の職員は本当に大変だと思います。

さらに空港でのPCR検査は24,000円、もし予約しなければその倍かかり、
この非常識な値段にはどうにも納得いかないのですが、仕方ありません。

しかも、結果によっては飛行機に乗れなくなるわけですよ。

わたしたちは預ける荷物を三つに分け、「第3の荷物」は、
どちらかが陽性だった場合にも無事だった方がもって行くことにして、
そこにMKに頼まれたものとかお土産、卒業式で必要なものを入れました。

ちなみにMKが今回特に持ってきて欲しい頼んできたのは、ノギスでした。
ノギスなんか何にするのと聞くと、『あると便利だし』

わけわからんが、何かを測りたいのはわかった。

世界的にも有名な精密測定機器のミツトヨのノギスがいいけど、
アメリカで買うと高いからもってきて欲しいと息子に頼まれて、
TOは、わざわざ新宿東急ハンズまで行って調達してきました。

なんでも都内ではそこに一つしか在庫がなかったということです。



PCRの検査結果が出るまで、昼ごはんを食べにモールに行きましたが、
ちょっと変わった物販店などは軒並み閉鎖したっきりになっていました。

メインの通りのいわゆるハイブランド店は復活していました。



空港のラウンジはここ最近で最も混雑していました。



便数は一時より増えているようです。



シカゴまでの便も、満席ということでした。
飛行機会社も徐々に回復して行くことを期待しているでしょう。


離陸直後の成田付近を上空から。



アミューズはパテのようなものとクッキーのようなもの。



ANAは一時に比べるとコロナが流行り出してからの方が
食事に関しては良くなったような気がします。
選んだ和食は二の膳が刺身、冷しゃぶ、ぬたはホタルイカ。

噂によると、今年はホタルイカが大漁らしいです。


これまでなかった企画のような気がしますが、和食は
有名どころの料亭と提携してメニューをコラボしているようです。

今回のコラボ先は銀座の「奥田」でした。
膳には小さなカードが添えられ、よく見ると、これを持ってきたら
ファーストドリンクサービスをするという広告を兼ねています。


飛行機の中でiPhoneを使って写真を撮ると、どうして不味そうなのか。
これは兼ねてから不思議に思っていることの一つですが、
このサワラの主膳?は写真で見て思うよりずっと美味しかったです。



降機前の最後のご飯にも和食を選んでしまうのだった。
ビーフのパスタか魚だったら日本人ならこっちを選びがち。


アメリカ大陸横断中。
今回のフライトは立っていられないくらいの揺れが二、三回来ました。

そしてシカゴに到着して気温32度の暑さに驚きました。
機内から出たときにも真夏のムッとする暑さです。

冬尋常でなく寒いのに(マイナス12度とか)夏はこの時期から暑いなんて、
シカゴって大変な気候だなあとちょっと住んでいる人に同情しました。



トランジットまで3時間あったのですが、なんとびっくり、
今回新しくいつものターミナルに寿司レストランができていました。

もちろん回る寿司とかではありませんし、カウンターの中で
中国人寿司職人が握ってくれるという(直接注文はできない)方式の店です。

ターミナルを確認に行ったらアメリカ人が皆
枝豆をボウルから摘んでいたので、ついフラフラと入ってしまいました。

枝豆はいかにも解凍したもので、味噌汁にはなぜか天かす入りですが、
まあとりあえずそれらしい味にはなっていました。
アメリカ人もスシという食べ物を普通に味わうようになり、
アメリカン寿司とでもいうジャンルとして成立している今日この頃です。


この店は、空港という配膳までのスピードを問われる場所で、
実際に寿司職人が握るという形態をとっているわけですが、
オーダーしてそう待つこともなくこの「ロール」が到着し、
ことスピードに関しては十分クリアしているかに思われました。

しかし、アボカドと鰻と海苔を内側に巻き込んだ、
(アメリカ人が黒い海苔が外にある寿司を嫌うため)
この「カリフォルニア式」の巻物、一つ一つの形が皆違い、
端っこは切り揃えられておらず、すし飯は箸で持つとぐずぐずに壊れ、
先日TOと一緒に「次郎は寿司の夢をみる」を見たばかりのわたしには
とても同じジャンルの(というか同じ名前の)料理には思えませんでした。

日本の寿司職人なら100年洗い場から出るんじゃねえ、
と即座に言い渡されそうなくらい壮絶に下手っぴーな巻きです。

しかし、不味くない。
いや、積極的に美味しいのです。なんか悔しいけど。

前にもオヘア空港で寿司を食べて美味しかった記憶がありますが、
下手な日本の寿司よりずっとまともなのがアメリカの寿司です。

3時間待って時刻通りにピッツバーグ行きが出発しましたが、
今回、コロナ前とはずいぶん変わったことがありました。

まず、入国審査にESTAの機械による自動受付がなくなったこと。
一律人間による本来の入国審査が行われていました。
これは空港によるのかもしれません。

ブースに立つと、入国の目的を聞かれ、TOは簡単に
「息子に会いに」とだけ言いましたが、それだけではいかんらしく
管理官は「学校にいるんですか」と聞いてきたので、わたしが
「卒業式なんです」と答えました。

そして、地方便に乗るためのゲート検査ですが、

ここ何年かで初めてアメリカで靴を脱がずに済んだのです!
靴を脱がなくていいし上着も取らなくていい、しかも
カバンからパソコンやタブレットを取り出して並べなくていい、だと?

一体何があったオヘア空港。

ただ荷物をそのまま預けて、金属検査の前で手足を広げて立つだけ。
わたしは金属探知機がぴーッと鳴りましたが、係官が向こうから

「ブレスレット外してください」

わたしが外して彼女に渡したものだけ通して鳴ったのを確認すると、
出た後に体を触るなどのボディ検査一切なしで通して貰えました。

アメリカの手荷物身体検査が厳しくなったのは911以降のことですが、
今時は手荷物より、検査のために人が並ぶこと、そして係官が
体に触れる検査を極力排除することを優先した結果かと思われます。

そのおかげで、手荷物検査に並ぶ人の数は驚異的に少なくなっていました。

あと大きく変わったのは、手荷物検査の前の通路の中ほどに
「K-9検査スペース」があって、そこを全員が通過していくことです。

靴や服を金属探査機に通すより、K-9に手伝ってもらってその分検査手順を簡略化させることにしたんですね。

K-9とはここでは検査犬のことですが、その何分か前にわたしは
麻薬犬(オヘアの麻薬犬は超可愛いビーグル)を見ながら
「K-9」についてその語源などについてTOに説明をしたばかりでした。

彼はさっき知ったばかりの言葉が早速目の前に現れたので、
この偶然にことのほか感激していました。
ちなみにここでお仕事していたK-9は麻薬探査犬より大型で強そうでした。


そして時間がきてピッツバーグ行きが出発したのですが、わたしはまず、
機内のヘッドレストの小さなモニターがなくなったのに気がつきました。

ユナイテッドでは、国内便のモニターは廃止しているようです。
その理由は、ほとんどの乗員が今は自分のデバイスを持っているから。

機内のWi-Fiは全便無料になっていて、デバイスで指示された
ユナイテッドのHPに飛ぶと、そこからWi-Fiも使えますし、
HP内で配信された番組をフライト中のみ鑑賞することができます。


そして、一番驚いたのが到着してからの乗客たちの振る舞いでした。

機体が降機場所に到着して、ポーンと音がすると、
全員がほぼ同時に立ち上がって押し合いへし合い?しながら
とりあえず上からの荷物を出し、降りる順番が来るまで立って待つ、
というのがこれまでのおなじみの光景だったのですが、
ポーンが鳴っても誰も立ち上がらず、自分の順番が来て初めて荷物を下ろし、
整然と一人ずつ出て行きます。

これだと後ろの方の人はずっと座ったまま待っていられます。
特にアメリカの国内便は機内の荷物入れが小さくて数が少ないので、
自分の席より後方に荷物を入れなくてはいけなくなることが多いのですが、
この方法だと人波に逆らったりすることなく、
誰もいない通路をさっさと歩いて荷物を取りに行くことが可能です。

おそらくCOVID19流行以降、できるだけ人の接触をなくすこと目的に
このような降機方法が編み出された?のだと思われますが、
どうしてこれまでこうしなかったんだろう、と思うくらい合理的です。
日本の航空会社もぜひこの方法を取り入れていただきたいです。

疫病流行は悪いことばかりではありません。どんな事故も、それを教訓に良い方に変わるシステムの礎となり、
時にはこんな美しい?習慣が短期間で導入されることもあります。


ピッツバーグ空港に到着したのは夜9時でした。
この時間にしてもう空港内は深閑と静まり返っています。

エスカレーター前に歴史博物館の衣装が展示されていました。



今からエスカレーターに乗ろうとしている二人は、
この(昔の)スティーラーズの人と記念写真を撮っていました。



そして次の日。
時差ぼけで早く起きてしまったので、MKを誘って、
あの伝説のカフェ、コンステレーションにコーヒーを買いに行きました。



わたしがMKに続いて入っていくと、女性のバリスタさんが
わたしに向かって、「ウェルカムバック」と手を振ってくれました。

色々あって、ここのバリスタには、

「この人たちは超コーヒー好きでしかも味がわかる」

といい方に勘違いしてもらっているらしいとは思っていましたが、
お帰りなさいと迎えられるとさらに嬉しいではありませんか。



今回、お店の名前「星座」デザインのアパレルが登場していました。



なかなか絵心のあるオーナーと見た。




お店の隣は今空き地になっているのですが、
そこは暖かい時期、アウトドアのカフェになっています。

今回初めてここでコーヒーをいただきました。



この辺の建築物も普通に築100年越えで煉瓦造りです。
地震のない地域って羨ましい。






コーヒーを楽しんだ後、いつもの公園に散歩に行きました。
夏はもうこの時間暑くて歩くのが辛いですが、
5月のピッツバーグは暑くも寒くもなく、気候は最高です。



去年あたりから地域で警戒している害虫、
「スポッテッド・ランタンフライ」駆除啓蒙看板。
(見つけたら車を)停めて、(車から)剥がして、
(足で)踏み潰してください、と穏やかではありません。

そうでもしないと、地域の植生が変わってしまうくらいの害虫なのです。



帰りの道で黒いリス発見。



この後スーパーに買い出しに行ったところ、
鮮魚カウンターでなんと鮭のハラミ(スナズリ)発見。
日本だと生で売っていますが、なぜか焼き上げ済みです。

珍しいので買ってフライパンでもう一度焼いていただきましたが、
なかなか美味しかったです。



今週末はいよいよMKの卒業式です。



今日卒業式を行う学部もあって、ガウンを着た人たちが
あちこちで記念写真を撮りあっていました。

この写真では木にぶら下がっている人を撮影しています。
コロナ禍で卒業式が行えなかった去年と一昨年の卒業生に、
普通の式で卒業させてあげたいという学校の親心?により、
今年は三年分の卒業生(希望者のみ)が式に参加する予定となっていて、
参加人数がいつもより多く、三日に分けて行なわれているのだそうです。
今日はぎりぎり晴れていますが、明日明後日と雨の予報。

アメリカの大学の卒業式はTOの時以来となりますが、
その時は滅多に降らない大雨に祟られた大変な卒業式となりました。

今度も雨なら、わたしはいよいよ「雨女」決定ですが、どうなりますことやら。



アメリカの大学卒業式〜学部編

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無事にアメリカに到着したのはいいけれど、時差ボケが治らない状態で
あっという間にMKの学部卒業式当日になってしまいました。
今日はその1日についてご報告させてください。

前もって入れておけば、駐車場やイベントの情報が刻々と通知されてくるという
便利なアプリをダウンロードし、前もって調べておいた
会場に一番近い駐車場に車を停めました。

アメリカの大学なんで、駐車場は普通にたくさんあるし、この日は無料です。


駐車場を出たところで野ウサギくんと遭遇。
キャンパスに至るところ自然が残っているのがアメリカの大学。



この地域で写真を撮ると否が応でも映り込むピッツバーグ大学の学びの塔。
ピッツ大の卒業イベントはもう終わっているようです。


カーネギー音楽ホールが本日の卒業式会場です。
アンドリュー・カーネギーが寄付した自然史博物館、図書館などと並んで
歴史登録財となっている建築物の一つです。


開館は1895年。
現在は地元交響楽団ピッツバーグ・シンフォニーのホームとなっています。


ホール外壁にはいやっちゅうほどたくさんの偉人の彫像があります。
バッハやシェイクスピアなどもいるのですが、こちらミケランジェロ。



地球を背負ったモチーフの地球儀を手にするのはガリレオ・ガリレイ。


早く来すぎたかと思ったら、卒業生家族が続々と入っていくので、
わたしたちも入館することにしました。

入り口に立っているのは、昔使われていた蝋燭立てに違いありません。

ロビー脇の小部屋の床は総大理石。


ロビーには卒業生が既に待機していました。



今まで来たことがありませんでしたが、素晴らしいホールです。
HPによると、石造りを計算した音響も完璧なのだとか。

夏にもう一度最後の訪問をする予定なので、その時には
ここでぜひピッツバーグ響の演奏を聴いてみたいと思いました。
ところでここでわたしはとんでもないことに気がつきました。

今回、久しぶりに一眼レフカメラを持ってきたのですが、

カメラの使い方をほぼ忘れていたのです。

重たいのとなまじiPhoneのカメラがそこそこいいのと、
そもそも自衛隊イベントの参加が無くなったせいで、
カメラを持って出撃ということがほぼ皆無になっていたこの2年間。

全盛期は何も考えずに使えていた各種システムの変更方法が
全く感覚に残っていないのに、わたしは愕然としました。

今日は学部卒業式で、会場は暗いコンサートホールで行われます。
わたし的には最も難関であるところのこのシチュエーションに、
この時になって初めて焦り出しました。



そこでわたしはとりあえずステージ上の卒業証書のテーブルを
設定を弄りつつ何回も映してにわかの練習を始めたのでした。

しかしながら、結局最後まで思い出せない部分があって、
お恥ずかしい話、自分的には最低の画質となってしまいました。

後でMKに聞かれた時、即座に「ほぼガベージ」と自嘲したくらいですが、
ましなのを画像ソフトで加工してアップすることにしました。

ちなみにこの卒業証書はセレモニーのための「ダミー」で、
白い紙を丸めてリボンを巻いてあるだけです。

わたしがカメラと格闘していると、教授が入場してきました。
アメリカの大学の卒業式がビジュアル的に素晴らしいのは、
古来から伝わるアカデミックなガウンに身を包んで場を彩る伝統です。


今年は3年ぶりに行われるライブの卒業式となり、
巷ではごく一部の人を除いてマスクをほとんどしていない状態ですが、
ファカルティ、教授、卒業生はマスク着用で臨んでいます。
ちなみに教授のガウンの色は、その人の出身大学を表します。
黄色いガウンはジョンズ・ホプキンス大学、ブルーはUCバークレー、
白いのはMITだそうですが、必ずしも出身大学のを着るわけではないとか。




まず最初に卒業生一同がアルファベット順で入場。MKは学帽のトップにデコレーションしているので上からわかりやすい。学帽デコレーションは何人かの人がやっていましたが、
MKは学校の機材を最後にフル活用して凝ったのを作ったため、
大変目立ちました。

おかげでどこにいるのかすぐわかって親にはありがたかったです。

まずは工学部学部長のありがたいお言葉。
ヘンリー8世チックな衣装が似合いすぎて怖い。
この後、セレモニーは各種アワードの授賞式となります。
各部門で優秀と認定される学生を認定委員会が選び、表彰されるのですが、できるだけたくさんの人に賞を与えるため、
一人がたくさんの賞を独占することがないようにしているそうです。


松葉杖の女性はMKの共同研究パートナーで親友だそうです。
今回一緒にやったプロジェクトで、彼女がアワードを取りました。
なぜMKの名前がなかったかというと、一つのリサーチにつき
一人だけに賞を与えるということにしないと人数が増えるからではないか、
というのが「中の人」の情報です。


その次の「バーネット・プライズ」で、このイケメン教授が
コールした中にMKの名前が!!


MKはそういうことを親にいうのを極力省略するので、
全く予想していなかったわけですが、このバーネット賞、
GPA(Grade Point Average)が4.0(オールA)の学生に与えられます。



つまりMKは最優秀のトップ6だったということらしいです。
ちなみに一人を除いて全員がメダルをかけていますが、
このメダルはいわゆるアメリカのドラマなどで時々出てくる
「優等生メダル」で、GPAが3.5以上の学生に与えられます。
(この一人がなぜ何も付けていなかったかは謎)


この後は、マスター(修士号)とドクター(博士号)の部に入りました。
確かこの人はPhDのアワードを取った人だったかと思われます。


授与する教授が小さな女の人なので、ハグがこんなことに。
ちなみにこの教授はUCバークレーの卒業です。


最後に全員が証書を受け取り、退場しました。
今年は2020年、2021年、2022年卒業クラスが卒業式を行うことになり、
いつもはそうでもない工学部のセレモニーがかなり長くなったそうです。

過去2年の卒業式は、コロナのせいでライブで行えなかったため、
改めてこの日まとめて参加できる卒業生が集められました。



アメリカ人にとって、いかに大学の卒業式というのが
大事で貴重なイベントであるかということがわかった気がします。

もちろん、2年前に卒業した人も現在の住居や仕事など、
来たくても無理な事情があるため、全員が参加できるわけではありませんが、
もし万が一、全員来るという返事が来たとしても、
学校としては何とか実現させようと努力したことでしょう。


式終了後は、この壮麗な大理石造りのホワイエで、
ちょっとしたソーシャルが行われることになっています。


テーブルの上にあるバーガンディのものは、本物の卒業証書となります。
卒業式は3日間で行われ、最初の2日は、学部卒業式、
最終日が全体のセレモニーとなりますが、この日もいろんな学部が
学内のあちらこちらで式をあげていました。

アメリカの大学にしては小さいとはいえ、日本の大学に比べると
規模もキャンパスも比べ物にならないほど大きい学校である上、
今年は3年分の卒業式をやらなくてはいけないのですが、
伝統的に本学は発祥が工科大学なので、歴史が一番古く、
力関係でいっても一番いいこのホールを使えるというわけです。


ホワイエでは真面目に飲み食いする人はおらず、ほとんどが
友人同士や恩師と挨拶をし、記念撮影を行います。

お世話になった教授と。



制御工学の教授だそうです。


大きな博士課程優秀者とハグしていた小さな教授。



一通り挨拶を済ませたら、皆あっという間にどこかへ行ってしまいました。
こういう日はランチやディナーを家族で取るアメリカ人が多く、
市内のちょっと洒落たレストランの予約が取れなくなります。


ミュージックホールを少し歩くと、何だか見覚えのある場所に出ました。
ここは内部でカーネギー自然史博物館と繋がっていたのです。

確かここは古代の墓所の建築物をそのまま移設している展示室だったかと。


卒業式参加の家族が記念写真を撮りまくっていました。


ところでMKですが、何だかガウンの上に色々とぶらぶらさせているので、
何なのか聞いてもはっきりと答えてくれません。

「そのロープ何?」

「メカニカルエンジニアリングとオナーリサーチだよ」
だから機械工学とオナーリサーチの何なんだ。
まず、メダルはGPA3.5以上の「優等生メダル」これはわかった。
白いタスキは何かというと、これはいわゆる機械工学の優等生協会、
ΠΤΣ(パイタウシグマ)の会員であるという印。

MKはやはり機械工学のオナーソサエティ、
TβΠタウベータパイにも入っていて、プログラムにも名前が載っていますが、
そちらはなぜか何もくれなかったというのです。

タスキは二つかけられないので、どちらかからしか貰えないのかもですね。



MKと仲のいい学友のガウンを見ると、真ん中の女子は
女子にもらえるオナーソサエティのタスキと、
機械工学のロープを2本、メダルをかけていますが、
右側のように普通に何もない人がほとんどです。

口の重い彼が何度聞いてもちゃんと説明しないので、
夫婦でプログラムを熟読してその意味を解読したところによると、
このロープは「オナーズ」つまり学部の優等生に大学と学部から与えられるもので、
つまり機械工学科とオナーリサーチでいい成績をとったという印なのだとか。

それならそうとハッキリと言えよMK。
親にそれくらい説明してもバチは当たらんだろう。


ちなみに目立っていた彼の学帽の飾りですが、
知っている人は知っている、ゲームで有名な?ガチョウが、
「SLEEP」(睡眠)を「削って」Eを二つ、
「ENGINEER」(工学)に当てはめているモチーフでした。

誰かに何か言われたか聞いてみると、
結構みんなに写真撮られてた、ということです。

学部の式が終わり、もらうべき賞をもらってホッとするMK。



そうそう、心配した天気ですが、雨どころかこの日は
朝からずっと超いい天気に恵まれました。
雷雨の予報は一体何だったんだ。

AIやコンピュータが何でもできる現代でも未だ天気予報を100%的中させられない。
このことを皮肉にも思い知らされた工学部卒業式の日でした。

続く。




アメリカの大学卒業式〜大学全体編

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天気予報が外れて晴天に終わったMK学部卒業式の翌日、
全体の卒業式が本校グラウンドで行われました。
実は、この日も前日の予報は雷雨だったのですが、
ホテルの窓から見える空はむしろとてつもなく暑くなりそうな気配です。

グラウンド近くの駐車場に車を停めるために走っていたら、
学校の向かいの家(多分学生のドームになっている)に
マスコットの黒いスコッチテリアが卒業のよき日を寿ぐため、
タータンチェックのスカートを履いて仁王立ち?していました。

この大学のいいところはマスコットが可愛いことなのに、これは酷い。


MKの集合時間に間に合うように現地に着いたので、
招待客(多分OB、OG、 OLGBTQIA+)席の後ろに座ることにしました。ここなら正面のテントの真前です。


卒業式を中継するために、こんな本格的なカメラを出動させています。
本学には全米でも有名な演劇科があり、有名俳優を輩出しているので、
装備に関しては下手な自主制作映画会社より充実しているかもしれません。


本日のメインイベントは卒業生の入場行進です。
すでに建物の影に待機の列が待機しています。

まず、会場内にバグパイプの音が響いたと思ったら、
本大学所属のバグパイプ隊が、ハウスチェックの衣装に身を包み、
伝統のケルティック音楽を奏でながら入場してきました。

  本学開校は1900年ということになっていますが、
バグパイプ隊は1939年に設立され、それ以来学生の課外活動として
行事の折にはこのように演奏を披露します。なぜバグパイプかというと、設立者の出身と関係あるかと思われます。     
1985年以来、学生のクラブから正式な音楽科の専攻科目に昇格しました。      

この人はおそらくバグパイプ隊監督だと思われます。

続いて、ファカルティと先生を先頭に立てて入場。


工学部とビジネススクールの先生が入場してきました。先頭の女性教授、いい味出してます。
流れる音楽はもちろんエルガーの「威風堂々」。
有名な1番と4番が繰り返し全員入場し終わるまで演奏されます。

行進といっても自衛隊のとは違い、ただ歩くだけです。ここに写っている人のほとんどは何らかのオナーソサエティに所属していてその印であるストールをかけています。
前回「たすきは二つがけしないはず」と想像で書きましたが、ここに写っている中には重ねている人もいます。
アフリカ系卒業生がしているたすきは、その色合いからもアフリカ系のオナーソサエティのだとわかりますね。

MKは卒業直前にアキレス腱断裂で松葉杖になった学友に付き添って荷物を持ってやり一緒に歩いていたのですが、会場係に別れさせられ、なんだよー隣に座りたかったのに、と言っていると思われます。

左側の子にこの写真を送ったら、即座にこうなって返ってきたそうです。

帽子を改造してくれたおかげでどこにいるかすぐわかるMK。

そして前日はカメラの使い方を忘れていて愕然としたわたしですが、
夜にマニュアルを見ながら使い方のおさらいをしたおかげで、
この日は何とかかつての感覚が戻ってきました。

卒業生が全員入場したので、学長学部長クラスが登場。ガウンは大変重々しくて立派ですが、そこは所詮アメリカ人、足下からスニーカーやコットンパンツがのぞいているのでした。

あらためてバグパイプが奏楽しながら行進してきました。



テント前で演奏。
バグパイプの響きは、こういうアカデミックな祝いの雰囲気を厳粛にします。

前列左から二人目が学長、前列の四人は名誉博士号受賞者、
その右側はサイエンスの卒業生で、今年の「スピーカー」です。


まず、アメリカ合衆国国歌の斉唱。
独唱を行うのは、音楽学部の優秀卒業生と思われます。


全員が起立してスターズアンドストライプスの斉唱です。
帽子を取る人、胸に手を当てる人、どちらもしない人とさまざまですが、
わたしは外国人なのでどちらもしませんでした。

敬意を払って立つのみです。

この歌詞を見て、改めてアメリカ国歌の歌詞の内容に驚きました。
これは後半に入ったところで、

「砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた」
と言っています。
この後、

「ああ、星条旗はまだたなびいているか
自由の地 勇者の故郷の上に」

となるわけです。



続いて学長のお言葉。
学長だけがメダリオンとチェーンを身につけていますが、これは
代々の学長が受け継いできた歴史的な象徴です。
メダリオンには大学の印章が刻まれ、そのうち二つには
二人の大学創設者の肖像画があしらわれており、さらに
一つ一つのメダリオンは創設者のモットーである
「My heart is in the work.」(私の心は仕事にある)

を表しています。


ここからは偉い人の話が続きます。
この人は、数学とコンピュータサイエンスで学士号を取った後、
大手で働いてその後大学に戻ってビジネススクールで修士号を取り、
ビジネスやら何やらを成功させて大学同窓会の理事をしています。


次のスピーカーと交代する時、拳を合わせる挨拶で。
最近のアメリカでは悪手でなくこれがスタンダードの挨拶になりました。

わたしも昨日サラダをピックアップしに行ったら、
お店の人がこれをしてきたので初体験したばかりです。


卒業生のスピーカーになったのはアフリカ系の女性で、
彼女は政治戦略研究所や国際開発庁などで特に
ナイジェリアミッションの外務インターンなどを経験し、
ナイジェリアのは親のいない子供のケアをする非営利団体の責任者、
若いアフリカ系指導者協会、模擬国連の会員など、
学問以外にも多種多様な社会活動を行い、スピーカーとなりました。


そして、名誉博士号を受賞したこの女性は、
ジョディ・ダニエルズ陸軍予備中尉。

わたし的には大変興味を持ってスピーチを聞かせていただきました。

現在陸軍総司令官である彼女は、当大学では応用数学を専攻しましたが、
ロッキードマーチンで先端技術研究所の高度なプログラムに関わりました。

軍人としての各種戦功賞も授与されています。
名誉博士号はこの人の他に三人、フランス系女性ノーベル化学賞受賞者と、
ポルトガルのリスボン大学機械工学の教授、
ハーバード大でアフリカ系アメリカ人研究をおこなっている女性教授です。


そしてもう一人の名誉学位受賞者、本学卒業生の俳優、歌手、監督、
作曲家、作家、劇作家であるビリー・ポーター、
この人の話がもう長かった。

スピーカーが極力短いスピーチを心がけているのに、この人だけは
全くお構いなしに延々と喋り続け、途中で歌まで歌ったからね。
(ちなみに”We shall over come”)

「ノーベル賞とアカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞、
この受賞者を出す一つの大学ってすごくないかい?」
みたいな話に始まり、自分の苦労話で、最低の時に
お金が一銭もないしHIVで陽性になるしで大変だった、みたいな話まで。

わたしは英語なのでぼーっと聞いていましたが、途中で確か
かなりヤバめの言葉も飛び出してましたし。


彼は特にゲイとして、黒人として人権問題に取り組んでいるので、
アフリカ系の卒業生の反応が映し出されていました。
右下にいるのは手話通訳の女性です。


12時に終わるはずの卒業式なのに、この人のスピーチが長く、
1時間くらい伸びて帽子をかぶっていない人は辛かったと思います。

最後の「オチ」はガウンを脱ぎ捨てると、そこに
VOTE(投票に行こう)と書かれた文字でした。


各種スピーチが終わると、学部ごとに立ち上がって紹介されます。
まずエンジニアリング、工学部から。

この後ビジネススクール、芸術学部、コンピュータサイエンス、
社会学部、サイエンスと続きました。


笑いを誘ったのは、学長が自ら「自撮りタイム」を要求したことです。


自撮り棒を使って学長自撮り中。
教授連が笑ってるぞー。

プログラムが全て終了し、「アルマ・マータ」の独唱となりました。
アルマ・マータはまだ本学が工科大学の頃作曲された校歌のようなものです。

本来はここで帽子投げとなるのですが、ああ非情にも、
最後の学部長の挨拶で、今年は時節柄それは控えます、と言われてしまい、
それでも投げてみたい卒業生があちこちで散発的に
帽子を投げる風景が見られました。

そんな中、締めくくりとしてもう一度バグパイプが登場。
会場を後にしてセレモニーは正式に終了となりました。

わたしも帽子投げのために連写モードにして待っていたので、あちこちでゲリラ的に行われる帽子投げを見つけては
シャッターを切って楽しんでいました。


全体的に工学部は地味な感じですが、華やかで金髪の長い髪が多い一団、
これは将来の俳優女優も含まれる芸術学部の人たちです。
演劇科は男性も一般学生と全く雰囲気が違うので何となくわかります。

本格的な望遠レンズは海外なので持って行けませんでしたが、
タムロンのそこそこレンズでこれだけ遠距離が明瞭に写せました。


帽子の内側の字まで読めたのには驚きです。


今の光学技術ってすごいよね、と思ってしまった一枚。


肉眼では確認できない表情もしっかり写っているのだった。

ところでヘルメットを被っている人がそこそこいたけど、何だったのか。
しかもヘルメットのてっぺんに赤い房をつけてる・・・。


というわけで、炎天下の大学卒業式が終わりました。
後でMKに聞くと「面白かった」だそうです。
わたしたちも、親として初めての息子の卒業式をアメリカで体験し、
なかなか面白い体験をさせてもらったことに、改めて感謝しました。


続く。



最近の自衛隊写真(Kさんアーカイブ・海自編)

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渡米がわずか11日ということで何かと忙しい間を縫ってお送りするのは、
許可をいただいた上でいつものKさんシリーズです。

説明文は全てKさんのメールから拝借したものとなります。


まずは横須賀写真から。
冒頭は米海軍のイージス艦USS「ベンフォールド」。
長い航海から帰ってきたばかりだったそうです。



わたしも一度乗せていただきました。
接待が主任務の特務艦、艦番号91「はしだて」。


いつもは横浜にいて時速80キロで進む
アメリカ海軍の双胴輸送艦USS6「ブランズウィック」。



これは珍しいですね。
Kさんは横須賀軍港を定点観測されていますが、
「ブランズウィック」始め、この日は珍しい艦ばかりだったとのことです。



去年の11月に日本に寄港したドイツ海軍のフリゲート艦「バイエルン」。

2021年8月にドイツを出港し、ソマリア沖のアデン湾で
派遣海賊対処行動水上部隊として派遣されていた
護衛艦「ゆうぎり」と共同訓練を行い、訪日後は関東南方海空域において
海上自衛隊護衛艦「さみだれ」と日独共同訓練を実施し、
東京国際クルーズターミナル(東京都江東区)に寄港したところです。

独海軍艦艇が日本に寄港するのは約20年ぶりということで、
岸信夫防衛大臣の視察も行われました。

「バイエルン」は当初中国に寄港することも計画していましたが、
中国政府は本艦の上海入港を許可しなかったそうです。


この寄港でいつものように「対番」を務めたのは護衛艦「さみだれ」でした。
母港の呉から出動してきたんですね。

「バイエルン」は日本を出航後、対北朝鮮制裁を定めた
国連安全保障理事会の決議に基づく「瀬取り」の監視活動も行いました。

また、2022年1月、再びアデン湾において「ゆうだち」と共同訓練を実施し、
クロスデッキ、戦術運動、近接運動を訓練したそうです。


フランクフルトを背景にフランクフルト。

昨年12月の横須賀だそうです。

「いせ」と「いずも」の全通甲板コラボ、米艦含めて溢れんばかりの横須賀港。
戦闘艦だけで20隻を超えています。
🇯🇵🇺🇸世界最強艦隊、集結。(原文ママ)

このときのKさんの出撃のいでたちは五航戦瑞鶴で。(ハワイ攻撃シリーズは自粛したとのこと)



昨年12月の横須賀から見える富士山。


このとき1ヶ月近い訓練を終えて帰ってきた艦たちだそうです。
手前から「あさひ」「はるさめ」「おおなみ」「あすか」。

「あすか」は試験艦となります。

左から「むらさめ」「やまぎり」?
一番右は・・・何かわかりません(; ̄ー ̄A 


潜水艦(見たらわかる)。


RR。

「夜の飲み屋横丁は海自の乗組員だらけのことでしょう」
とのことですが、このときはどうだったかなあ。
まだ自粛っぽい雰囲気じゃありませんでしたっけ。


「間違いを探そう」というタイトルです。

この写真も昨年の12月4日(かな)。
軍港巡りの観光船にようやく立ち見客が見られたそうです。

ここからはお正月に当ブログでも紹介したものですが、
もう一度。


昨年12月31日の横須賀軍港の様子。
潜水艦の環境にも正月飾りをかけるんですね(驚き)
みかんとかついてるのかな。

車の正月飾りはいつの間にか姿を消しましたが・・。

「いずも」甲板には黄色いラインが描き加えられたとのご報告。
これはF35戦闘機発着用とのことです。



ロービジ化された「あまぎり」とされてない「むらさめ」。



ロナルド・レーガン先生と比べれば「いずも」もかわいらしく見えます。
ここからは今年3月下旬の横須賀港です。



新造イージス艦の「179まや」「180はぐろ」。



「まや」。
Kさんもおっしゃっていますが、かなり前の「こんごう」「あたご」に比べ
シャープなシルエットになっているのがわかります。



「はぐろ」お食事中。  

ちょうど「てるづき」が出航するところだったので、
「航海の安全」を熱く祈願していたら・・・・、





10分後帰ってきたそうです(笑)
まあ、入出港訓練でも「航海」に違いはなし。
Kさんの祈願が通じて無事に帰ってきたということです。

アメリカ海軍第7艦隊「タイコンデロガ」三兄弟。
年季の入り方が凄まじい。

3月31日、この日の横須賀基地です。



今年は桜が早かったので、満開からは少し過ぎた頃でしょうか。



「長門の碑」のところの桜は美しいですね。



さて、ここからは3月31日に送っていただいた「横須賀基地離任式」。
年度末恒例の隊員・事務官人事異動に伴う離任式です。



基地司令訓示が終わって敬礼する寸前の雰囲気です。


「帽振れ」。



「帽振れ」はいつ見ても、どこで見ても、どんな瞬間でも感動的です。



ここからはその翌日、「いずも」にヘリが着艦しているところ。






普段、横須賀所属艦艇は館山基地のヘリを房総半島沖海上で乗せるのですが、
横須賀停泊中の「いずも」への着艦は初めてでした、とのことです。


さて、この斬新なシルエットは?
そう、新造艦「くまの」です。
艦番号が「2」というのも感動的ですが(何がだ)、
艦種のFFMがフリゲート+機雷(MINE)を意味するというのが新しい。



いやー、これは何から何まで新しいわ。
シンプルイズベスト。
日本の護衛艦もだんだんアメリカのに似てきましたか。



全体を見るとかなりツルッとしていてこれはステルス効果も抜群?



どこから見ても角度がおかしい(笑)

Kさんによると「プラモデルにするとつまらなさそう」。
わたしは作る人じゃないのでその辺はわかりませんが、
作るのが簡単になるというメリットはあるんじゃないかな(ドヤ顔)


というわけでKさんアーカイブより海自編でした。
アーカイブの開示をご許可くださったKさんにお礼を申し上げます。






アメリカ卒業式参加旅行(アフター・コメンスメント編)

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 というわけで、MKの大学卒業のための渡米旅行から帰ってきて、
前回と同じく、早速アプリに所在地を見張られている毎日です。

ただし、これはわたしがワクチンをまだ2回しか摂取していないからで、
3回摂取者は7日間の自宅待機を免除されることになっています。

ちなみにこれから海外に行く人のために書いておきますと、
アメリカに滞在した場合、搭乗時間の72時間以内にPCR検査を受け、
その結果をチェックインの時にカウンターに見せるわけですが、
日本政府発行の書類には、必ず検査者のサインとハンコを押す欄があって、
アメリカの陰性証明書類にはないというのが困りものなんですねー。

アメリカで大抵の人が検査を受けるドラッグストアのファーマシストは
受験者がメールで受け取る検査結果とは全く無関係に生きているため、
前回も今回も、日本語の書類を持って「ここにサインしてくれ」
と言いにくる日本人(TO)に困惑することしきりでした(TO談)

もしかしたら適当にアメリカ人ぽいサインを偽造すればそれでいいのか?
という悪魔の囁きもこうなると聞こえてこないでもありません。

しかしうちは家訓によりそういうことができないため、
真面目に毎回ストアのカウンターに書類を持って行っているのです。(TOが)

毎回毎回方式が変わり、結果にホッと胸を撫で下ろしたり、
スケジュールの調整と書類を点検したりと、(TOが)
どうしてこんな大変な試練を受けないといけないのかと
何度二人で顔を見合わせながらぼやきあったことでしょうか。


さて、今日は卒業式の合間と済んだ後の滞在記となります。


卒業式の後、TOが「卒業式の時に三人で写真を撮らなかった」と言い出し、
そういえばそうだったと、ちょうど他州から遊びにきていたMKの友人と
キャンパスに行ってシャッターを押してもらいました。


メインの建物の前で写真を撮ろうとしたら、アジアンガールズが
お揃いの白のワンピースの上にストールと帽子だけつけて
撮影会真っ最中だったので、しばらく待っていたのですが、
終わるどころか、人数が二人から四人に増殖したので諦めました。


キャンパスの芝生は、学校が設立された時から変わっていません。
アメリカの大学ではこのようにキャンパス中央にグリーンを敷き詰めて
広場のようになっているデザインがよく見られます。


本学名物の「最も塗り替えられたフェンス」は超手抜き作品。
上海のロックダウンをテーマにしていました。
「我々は上海と共にある」みたいな感じでしょうか。
今思ったんですが、これを塗り替えるペンキってどうしてるんだろう。


本学マスコットの黒いスコッチテリア、スコッティーくんは
ちゃんとブロンズ像になって讃え祀られています。

夏にももう一度来ますが、スクールショップに立ち寄ってみました。前から気になっている日の丸のついたストール、これは一体何?



さて、ここからはアクティビティの話。
遊びにきた友人がデザイン専攻という関係で、わたしが運転して
現代アート専門美術館「マットレスファクトリー」に連れて行きました。



わたしとMKはもうすでにここのノリについては知っていたのですが、
TOは最初から最後まで拒否感示しっっぱなしでした。


特に彼が首を捻っていたのが、この「肉を縫う」作品。
真ん中のメガネ女性が思い立って肉片を黒い糸で縫い合わせ、
その映像と結果写真をアートとしているものです。

これは前回来た時にはない作品でした。



部屋まるまる一つ使って、一人の作品。
吊り下げられた布は切り抜かれた跡があり、切り抜いた部分は・・・



これから縫い合わせるということでミシン台に畳んで積み重ねてあります。
タイトルは「アーティストの洋服」。



わたしとしては、古い住宅を使った展示場のこの電気ソケットの方が
はるかにアートとして値打ちがあると思ってしまったのでした。
少なくとも現在でも「何かの役に立っている」という意味で。
まあ、前衛アートは"Don't think, feel!" くらいの鑑賞態度でいいと思います。素人はね。


この日はライブハウス「コン・アルマ」に予約を入れました。
以前ここでも紹介したことがある郊外のライブハウスのダウンタウン店です。

ご覧になればお分かりのように、マスクをしている人はいません。
この時のアメリカのマスク着用状況は、空港では職員、
卒業式ではファカルティと卒業生全員が着用で、
あとは努力義務という感じでしたが、レストランや戸外ではほぼ0%。

日本のように「マスク会食」などという妙な?奨励はされていません。


前にも書いたかもですが、有名なミュージシャンが、
「いいライブハウスの条件は良いキッチンを持っていること」
といったことがありまして、それでいうとここは合格ってこと。

これはわたしが注文したマグロのPOKE丼。
ハワイ発祥の海鮮丼ぶりのことですが、これは謎の植物乗せ。
紫のは和食にも使う穂紫蘇でいいとして、黄色いのは・・・菊のつもりか?



MKが予約をしていてくれたので、ピアニスト(体重1t)の横に座りました。
左の方にいる真っ白な顔の女性がこの日の歌手です。
トリオの時にはバリバリのジャズを演奏していましたが、女性歌手は
ジャズだけでなくアメリカ人大好き「I say a little prayer 小さな願い」
「アンジー」など、ポピュラーを歌って観客には大いに受けていました。



メニューが面白かったのでつい頼んでしまったノンアルコールカクテル、
その名も「ラッシュライフ」(酔いどれ人生。ノンアルなのに)。




そのメニューがこちらです。
「Lush Life」はジャズの有名なスタンダードです。
この楽譜はジャズ屋さんならご存知「フェイクブック」のコピーかと(笑)



デザートにアイスを頼んだらこんな物騒なものが出てきました。


卒業式の後の「記念ディナー」に予約が取れたのはかろうじてここだけ。
アンディウォホール美術館や球場があるノースショアのレストラン、
その名は40 North。



同じ地域にマットレスファクトリーもあり、この一帯は
アフリカ系のコミュニティとなっていますが、それとは別に
古いピッツバーグの面影を色濃く残す住居が立ち並んでいます。

ここは天井が高いビルの中身を改装して、半分が書店、半分がレストラン、
そして真ん中にはグランドピアノのあるステージとなっており、
コンサートも行われるなかなかカルチュアルなスポットとなっています。

壁にはいろんな言語の文字が意匠として書かれているのですが、
その中でもひらがなが妙にかわいらしいのでした。


料理も洗練されていました。
これはわたしが頼んだパンフライドされた虹鱒の一品。



ビーツとキャベツのスープ。
ディルを混ぜたヨーグルトとゆで卵にチリペッパーがかかっています。



ところで、キャンパスでシャッターを押してもらった友達というのは、
MKの高校の同級生だった女子です。


彼女は身長170センチ近くあるそうです。

今の青少年は皆そうなのか、アメリカだからそうなのかはわかりませんが、
彼らの友情関係に男女は関係ないようです。

以前MKは休暇の時に彼女の実家に泊めてもらっていますし、
今回もMKの部屋に泊めてやっていました。
また、同じアパートの別階に住んでいる同級生の親友?も女子です。
卒業式の時にMKと同じようにいろんなものをガウンに付けていた子ですが、
今回彼らはどちらもめでたく同じ西海岸の大学院に合格しました。

その「友達」の話をわたしたちはしょっちゅうスカイプで聞いていましたが、
現地に行って初めて、それが女の子であることを、
しかも彼らの教授から聞かされ、驚いたものです。
ちなみに教授は、二人がプロジェクトを一緒にしているのみならず、
あまり仲がいいので、付き合っているのかと聞いたそうですが、
二人とも現下にそれを否定したということでした。

「あれだけ友達の話してたのに、女の子だってことだけなぜ言わなかったの」
というと、
「聞かれてないし、別にそんなの関係ないから」
という返事でした。
いや、関係あるだろう。

彼が「友達」が日本に行きたがっているから一緒に帰るかも、というので、
もしそうなったら京都旅行をアレンジしてやろうと思っていたのですが、
女の子だと知らなかったら、二人同室にするところだったよ。
でもその時はやっぱり「友達だから」といって同じ部屋に泊まったんだろうか。

MKは男だから構わなくても、女の子と特にその男親は
大いに構うと思うんだけど、こういう考えを「古い」で片付けられてもなー。


続く。

アメリカ卒業式参加旅行(帰国編)

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わずか11日の滞在、卒業式という記念行事ということもあって、
今回のアメリカ滞在中は結構奮発ぎみのレストランが続きました。
この日は、冬滞在した時に大雪にもかかわらず突撃した絶景レストランへ。

卒業式後ディナーもここがいいんじゃない?と言ったら、MKが生意気にも
あそこは味があまり好きじゃない、というので最後まで避けていたのですが、
この日ちょうどオープンテーブルで日没の7時半に予約が取れたこともあり、
TOはまだ来たことがないし、別のメニューを選んだら?と説得しました。

結果、あの大雪の日とは打って変わって美しい初夏の景色を
日没から夕暮れまで楽しむことができて最高でした。


夏暑さが厳しく冬は雪が降るので、この時期ピッツバーグは工事シーズン。
道路も張り替えのため、あちこち通行止めになって迂回が多かったこと。

ブリッジの工事にはこんなカバーをかけて行っていました。


ここからは、カーネギー・サイエンスセンターが展示している潜水艦、
USS「レクィン」SS-481を対岸から見ることができます。

「レクィン」はコロナ下では閉鎖されていましたが、今見たら
内部の見学は再開したようなので、最後のピッツバーグ滞在となる次回、
必ず内部の見学をしてくることを皆様に約束します。


まるでケーキのようなグラスフェッド牛肉のタルタル。


この日のわたしのチョイスはマッシュルームのパピヨット(紙包み)。
各種キノコの下にはポレンタ(コーンミール)が敷いてあります。


TOのカモの胸肉いちごバルサミコソース添え。
カモにオレンジ以外のフルーツを合わせたあたりが挑戦的。



だんだん陽が暮れて暗くなってきました。
対岸の常設野外ステージでは、おりしもロックコンサート中。

写真を拡大してみると、ブラック・ストーン・チェリーという
ヘヴィメタの人気バンドでした。
全米ハードロックのチャートで一位になったこともあるということです。

そのこちら側には「ミスター・ロジャース」のブロンズ像が・・。
ミスター・ロジャースといえばピッツバーグの生んだ偉人。

「アメリカの最もいい人」としてここでも紹介したことがありますが、
帰りの飛行機でトム・ハンクスの「幸せの回り道」をもう一度観て、
あらためて嘘くささとトム・ハンクスの演技に背中がゾワゾワしました。

特にダウンタウンのレストランで、週刊誌記者のボーゲルに、

「1分間でいいから君の愛している人のことを考えてみて」

といい、ボーゲルが目を瞑ってそれを試みている間、
彼を見ているロジャースの目つきが、もう怖いのなんのって(笑)

ちなみに英語の映画サイトを覗いてみると、世間はおおむね好評ですが、
たまにわたしと同じ感想を持つ人もいて、ほとんどが辛辣です。

「フレッド・ロジャースは、かけがえのない遺産を残した偉大な人物であり
人道主義者であり、トム・ハンクスは非常に著名で好感の持てる俳優だ。
それでもこの映画は、不気味さが散りばめられた単純に不自然なものだった」

「Mr.ロジャースのトワイライト・ゾーン版を見ているような気分でしたね。
まさに『Bizarre』。
カフェでの1分間の沈黙、トムの表情、
トワイライトゾーンのテーマ曲の出番です。 :(」

評価は真っ二つで、絶賛かさもなくば否定しかない映画です。
でもかえって観たくなった方もいるかもしれませんね(笑)



さて、お待ちかねデザートは三者合議の末、キャロットケーキを選びました。
薄切りのニンジン(茹でてあるかも)をバラの花にして、揚げた飾り付き。



食事が終わった時にはすっかり暗くなっていました。
9時近かったので当然といえば当然ですが。
ピッツバーグはこの時期日の入りが8時くらいです。

ところで、メニューを調べるために検索していたところ、
このレストランに昨日トラックが突っ込んだことがわかりました。

Truck slams into side of Altius restaurant in Mt. Washington

何突っ込んでるんだよ(笑)
これ、確かトイレがあった場所だと思う。


ところでわたしの座った席からは窓の外に
POW/MIA「あなたたちを忘れない」の旗が見えていました。

レストラン隣はピッツバーグ名物ケーブルカーの駅なのですが、
その前に戦争鎮魂碑が建っていたからです。

ここは正式名「デュケイン・インクライン」(Duquesne incline)の
終点(というか上と下をつなぐ線路ですが)駅です。


昔は斜面を上り下りするケーブルカーが20以上あったのですが、
電車やバス、車の発達につれ、姿を消していきました。

最後の二つのケーブルカーも、1960年代に廃止されそうになりました。


(廃止されかかっているケーブルカー)

歴史的価値を惜しむ住民が保存運動を展開し、資金を集めた結果、
ピッツバーグのアイコンとして残されることになりました。


(存続が決まって喜ぶケーブルカー)


ケーブルカーの駅。レトロです。
チケットの自動販売機だけがタッチパネルでカード対応と最新式。


昔のままに残っているケーブルカー操作ブース。
拡大してみると中の人がレンズをものすごい凝視していました。


駅舎内では、ピッツバーグの古い写真や資料が展示されています。


フランク・ロイド・ライトにあの「フォーリング・ウォーター」を作らせた
あのユダヤ人実業家カウフマンのデパートが「カウフマンズ」です。カウフマンズはその後メイシーズに買収されました。

その頃まだ稼働していた他のケーブルカーなどの写真も見られます。


1836年の大冠水と1845年の大火事の写真。
特に大火事は「ホロコースト」というくらいの惨事になったそうです。

一体どうなってこうなるのか、洪水もものすごいことになっています。
現在のダウンタウンの部分が水浸し。


この日は「Fig & Ash」(イチジクと灰)というレストランに行きました。
チャコールグリルが売り物なので「アッシュ」なのかもしれません。

この名前からも何やらセンスを感じるし、とにかく利用者の評判がいいので、
卒業式ディナーにぜひ行きたいと思ったのですが、全く空きがなく、
MKの友達が来てからやっと、キッチン横のカウンターの席が取れました。

実はこの時座ったカウンターテーブルのエンドに、
海兵隊員の若い男性の写真が飾ってあり、(撮影は控えました)
それがオーナー兼シェフらしい男性に顔がそっくりだったことから、

「もしかしたらアフガンかどこかで亡くなったんじゃないだろうか」
とみんなでヒソヒソ言い合いました。(当人に聞くわけにもいかないし)

この料理人は、ずっと火の前で薪をくべたり、その上に鍋を置いたり、(時には薪の上に直にフライパンを置くなど、ストーブの扱いがすごかった)
焼き物一般を全部手がけていましたが、シェフではありません。

シェフは、キッチンを腕組みしながら見ているだけの人で、過去、地元フットボールチーム「スティーラーズ」のキャンプで
シェフを務めた経歴があるとHPの紹介に書いてありました。
わかりませんが、シェフとしてかなり評価されているということなのでしょう。
もう一つついでに、火の前にいるのはスーシェフで、ピッツバーグ大学卒。
ビジネスの学位を取って一旦会社で働いた後、料理人に転身した人だそうです。


わたしが頼んだのはHulibut、ハリバ、日本語ではオヒョウの味噌ソース。
アメリカで白身の料理というと必ずと言っていいほどハリバです。
付け合わせはビーチマッシュルーム(シメジのことかと)とケールでした。


TOはこのマカロニ的な何か。
家族で食べに行くと全員が違うものを頼んでシェアします。



MKはハンガーステーキ。



MKの友達の女の子が頼んだポークベリーはその大きさにびっくりです。

彼女はわたしたちにも味見のため肉を分けてくれましたが、それでも
まだたっぷりある肉の塊をぺろりと残さず平らげ、驚かされました。

若いって素晴らしい。

デザートは二人にひとつづつ、合計二皿頼みました。
これはわたしとTOのフラン(プリン)。
とにかくここの料理は今回滞在の2トップに数えられるくらいで、
感動的ですらありました。


ピッツバーグ最後の夕食は、ここも人気でなかなか予約の取れない
高級タイ料理「プサディーズ・ガーデン Pusadee’s garen」へ。

これも予約が取れず、ずっとキャンセルが出るのを狙っていましたが、
MKがキャンセルが出たところをすかさず抑えてくれたのです。
昔からビール醸造所が集まっている地域にあるこのレストランは、
その一角の煉瓦造りの建物2軒をウィングで繋いで、
真ん中の部分をお店の名前通りのガーデンとしていて、雰囲気抜群です。

この日は木曜でしたが、写っているのはいずれもデートディナーの人たち。

特に右奥のカップルのアジア系女性は、社会通念上限界ギリギリに胸を露出し、
今晩中にデート相手(眼鏡に七三分けのナードタイプ白人)を籠絡しないと
家族に危険が及ぶという切羽詰まった事情があるのではないかと疑われるほど、
とにかく気合が入りまくっていました。



一度仲間で来たことがあるMKによると、何を食べても美味しいということで、
散々迷いましたが、とにかく量も多いということもあり、
基本なんでもシェア前提にオーダーを組み立てました。

テーブルには大きなURコードが貼ってあって、説明されなくても
それだけでこれがメニューだとほとんどの人が違和感なく気づきます。

日本でもこの方式のメニューが増えていますね。
これは「グリーンマンゴーのサラダ トーストココナッツ和え」。
珍しいだけでなく、真に美味でした。



アメリカ生活で初めて知ったのがこのロティでした。

ロティはナンに似たお焼きみたいなもので、全粒粉をフライパンで焼いたもの。
ナンより薄く、サクッとしています。

だいたいカレーの付け合わせとして付いてくるもので、
この日もこのイエローカレーに添えられていました。



メインは全員がタイカレーを選びました。
右からMKのスパイシーチキンカレー、真ん中はMK友達のポークベリーカレー、
左はわたしとTOが二人で頼んだパンプキンカレーでいずれもご飯付き。

パンプキンカレーのカボチャは「roasted Kabocha」となっていました。
アメリカのパンプキンはオレンジで(ハロウィーンのあれ)、
日本のカボチャのようにねっとりしておらず、まるで瓜みたいな食感です。
付け合わせのライスはタイ米ではなくスティッキーライスで、
TOはお代わりを頼んだほどでした。



この後暗くなって一層いいムードのガーデン。
初夏の夜の風は爽やかに甘く吹き渡りました。
夏に必ずもう一度来るつもりです。


わたしとTOは空港近くのホテルにすでに荷物を移しておいたので、
ここから直接レンタカーを返してホテルに戻り、次の朝出発しました、



というわけで、あっという間にピッツバーグ離陸です。
下に見えているのは全て空港の駐車場。
バスが巡回していて、どこに停めても拾ってもらえますが、とにかく広い。

空港の駐車場がビルでなく平地というのがさすが広大なアメリカです。


とにかく空港では(TOの)入念かつ慎重な準備のおかげもあって、
カウンターでも問題なく、チェックインが完了しました。

前回は予想もしていなかったため、ちょっと焦らされた、
「日本政府が要求するQRコードのダウンロード」も今回は事前に済んでおり、
係員に提示を求められてもさっとスマホから見せることができました。

しかしこんなことに慣れても、どうせ次は事情が変わってるんだろうな。



帰りの機内食もついつい和食一本槍でいってしまったわたしですが、
オードゥブルの段階からある違和感を感じたのでした。

「行きの和食は美味しかったのに、これは一体・・・」

左はトマトの下にほとんど味のないキノコの得体の知れない料理、
右はなぜか激甘のナッツ。

取り合わせもさることながら味の組み合わせも悪い。


これなど、たかが?幽庵焼きをどうしてここまで苦く作れる?
と思わざるを得ない不可思議な風味の一品となっておりました。

行きと帰りの違いは、銀座の料亭の監修のあるなしですが、
それだけでこれほどあからさまに味が違ってしまうのか・・。

それとも帰りの料理は日本から運んでくる間に劣化した?



食事が済んでからしばらくしてふと外を見ると、
ちょうどアラスカを通過するところでした。



沿岸には人が住んでいるらしく、集落も見えます。
当たり前ですが、こんなところに住んでいる人もいるんだなあ・・・。


成田に到着すると、乗り継ぎをする人(タイ航空とのシェア便だった)は
先に降りていき、残りはそのまましばらく待って、検疫に進みます。

機を降りたらあとは係員の誘導に従ってあっちに並び、こっちで紙をもらい、
唾を試験管に入れて携帯を見せ、アプリのダウンロードを確認され、と、
次々に行く先々で要求される「クェスト」を淡々とこなしていきます。

全て済んで空港の外に出たとき、到着時間から3時間経過していました。

前回と全く時間が変わっておらん。

ともあれ、いろいろあった卒業式参加旅行も無事終わりました。

とかなんとか言ううちにすぐに次の渡米が待っています。

次回は車でシカゴ近辺の海事史跡巡りをするつもりですので、
いずれその結果をここでご報告できればいいなと思っております。


終わり。

宇宙遊泳(イグジット・トゥ・スペース)〜スミソニアン航空宇宙博物館

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さて、卒業式シリーズも終わったので元のシリーズに戻ります。

しばらくの間、宇宙開発競争におけるソ連とアメリカ双方の奮闘努力、
そこで行われた技術者たちの真摯な取り組みについて語ってきました。

そもそも宇宙開発競争の大きな渦に二大国家がのめりこんだのは、
巨大な国家的意志がそれを是としたからに他なりません。

しかし、もっと根源的なところにあったはずの最初の小さなきっかけ、
人類を宇宙へ向かわせる強い意志を、巨大な流れへの原動力に変えたのは、
他ならぬ人間=「宇宙を夢見る人」であったはずなのです。
それは一体誰だったか。わたしはこのクェスチョンに、今ならこう答えられます。

それは、人類を宇宙に送りたい、宇宙の神秘に少しでも近づきたい、と
ロケット開発を夢見ていたロシアの科学者、セルゲイ・コロリョフと
その仲間という一握りのロケット開発者だった、と。


コロリョフの解説でも書きましたが、元々ソ連共産党は、
宇宙開発などになんの意味があるのか、という態度で無関心でした。
コロリョフがソ連メディアを焚きつけ、アメリカのメディアがそれを書き立て、
ついにはアメリカ政府が宇宙開発競争を受けて立ったことを知るまでは。
アメリカはというと、それでも自国の優位を信じ現状に甘んじていました。
本気になったソ連がスプートニク打ち上げに成功したと知るまでは。

つまり、米ソが宇宙開発競争へと国家の舵を切っていったそのきっかけが
セルゲイ・コロリョフであったということがお分かりいただけるでしょう。


最初にコロリョフにスプートニクの実物(ビーチボールに脚がはえたような)
を見せられたフルシチョフは、何じゃこりゃと言ったとか言わなかったとか。

しかし、ロケット科学者の煽りに乗って半信半疑でゴーサインを出したら
このビーチボールで宿敵アメリカに途轍もない打撃を与えたことを知ります。

フルシチョフ、これにすっかり気をよくして、よし、もっとやれ、
どんどん打ち上げて我がソ連の威光をアメリカに見せつけろ、
とさらなるイケイケモードに突入し、アメリカはそれを追う形で
二大国家の「宇宙戦争」の構図は出来上がっていったのでした。
■宇宙飛行士たち

その際、国家が生んだ偉大な宇宙のヒーローとして、
全面的にメディアの前に立ったのは(科学者ではなく)宇宙飛行士たちでした。

ソ連は、ロケットを打ち上げた科学者は、機密上の理由から、
その存在すら「赤いカーテン」と言われる機密に隠されていたので、
その分、宇宙飛行士がわかりやすく宇宙開発の象徴となったのです。


ソ連の「最初」の宇宙飛行士たちが揃った珍しい瞬間です。
ソ連では宇宙飛行士をアストロノーではなく「コスモノー」と呼びました。
彼らはレーニンの顔と飛ぶR7ロケットのパネルの前でマイクを囲んでいます。
おそらくテレビの座談会か何かのシーンであろうかと思われます。
彼らは全員がボストーク計画の宇宙飛行士(コスモノー)であり、
テレシコワを除く全員が軍パイロット出身で、全員軍服着用です。非公式の写真で、撮られたのは1960年代ということがわかっています。
左から右に向かって:(括弧内はコールサイン)

パーヴェル・ポポーヴィッチ(イヌワシ=ベルクート)
 ボストーク4号・ソユーズ14号 初のランデブー成功

ユーリ・ガガーリン(ヒマラヤ杉=ケードル)
ボストーク1号 人類初の有人飛行に成功

ワレンチナ・テレシコワ(カモメ=チャイカ)
 ボストーク6号 初の女性宇宙飛行士

アンドリアン・ニコラエフ(ファルコン) 
ボストーク2号 ソユーズ8号 軌道上への滞在時間の最高記録を更新

ゲルマン・ティトフ(ワシ=オリョール)
ボストーク2号 初の宇宙からの地球撮影 初の宇宙酔い経験者

テレシコワは最終的に空軍少将になっていますが、
彼女が軍に入隊したのは宇宙旅行を成功させてからのことなので、
おそらくこの時はまだ軍人ではなく、私服で出演しているのでしょう。
ちなみに彼女が工学博士号を取得したのは、40歳の時です。
■フェオクチストフのフライトスーツ
(彼が宇宙服なしで打ち上げられた理由)


先の座談会には出席していませんが、宇宙飛行士であり、宇宙技術者だった

コンスタンチン・ペトロヴィッチ・フェオクチストフ
Konstantin Petrovich Feoktistov
 Константин Петрович Феоктистов、1926-2009
のスペーススーツ実物がスミソニアンには展示してあります。

これがスペーススーツ?無印良品のポロシャツとチノパンでは?
とつい思ってしまったわたしはきっと疲れています。

フォエクチストフについては、以前当ブログで
ナチスに捕虜になって撃たれたけど弾が当たらず助かった、
(多分死んだふりをして後で脱出したのだと思われる)
という話をしたのを覚えておられるかもしれません。

ちなみに座談会に呼んでもらえなかったのは、もしかしたらこの人が
宇宙飛行士で唯一、宇宙飛行士でありながら設計にも加わった技術者で、
博士号を持っているけど軍人でも共産党員でもない唯一の民間人だったから。
・・・かもしれませんしそうではないかもしれません。

さて、フィオクチストフが搭乗したのはボスホート1号でした。

ボスホートはボストーク宇宙船の発展形です。
一人〜二人乗りだったボストークに、3人も乗せるために改造したものです。

改造するといったって、部屋を建て増しするみたいにスペースを広げる、
なんてことは不可能なので、シートを増やしただけでした。
(まあ改造はそれだけではないんですが)

するとどうなるかというと、内部が狭いので、スペースを確保するために
それまであった宇宙飛行士の座席射出のシステム装置がなくなりました。
それまでのボストーク宇宙船は、降下時に宇宙飛行士は射出されて
パラシュートが自動で開き、地上に降下したのですが、
それができなくなったので、宇宙船にパラシュートをつけて降下し、
地面が近づいたら新しく増設した逆噴射ロケットで
減速させて着地するという仕組みになりました。

あと、これが最も困ったことに、宇宙船内が狭いので、
宇宙飛行士は宇宙服を着せてもらえませんでした。



というわけで、そのとき乗り組んだフィオクチストフは、
宇宙服の代わりにこの無印良品のポロシャツとチノパンを着て、
右下の写真にあるラグビーのヘッドギアみたいなのを被っていました。

これ、もしズボンがショートなら、まんまラグビーする人みたいです。

ユーリ・ガガーリンが人類として初の宇宙打ち上げに臨んだとき、
フェオクティストフが作成した宇宙飛行士のチェックリストの草稿です。
打ち上げ前、軌道上、降下中の手順をガガーリンに指示しています。
宇宙飛行士が打ち上げセンターのスタッフとして他のミッションに臨み、
これから任務をおこなう宇宙飛行士にアドバイスをしたり、
何か起こった時に対処法をサジェスチョンするという態勢は、
ソ連よりむしろアメリカによく見られるパターンです。

ボストーク1号と2号を比べてみると、明らかに増設された部分があります。
しかも、2号は乗員が二人だったので、宇宙服を着ることができました。
ってか、宇宙服って着るのが当たり前ですよね?
着せずに宇宙に打ち上げるって、かなり酷くないか。
ほんと無茶しますよねこの頃のソ連って。
宇宙飛行士の人権より、国威とアメリカに勝つことだけが大事だったのね。


ボスホート1号に搭乗した3人とは、宇宙工学者のフィオクチトフ以外に、
宇宙飛行士ウラジーミル・コマロフ、そしてもう一人は
宇宙医学を専攻した医師のボリス・イェゴロフとなります。


イェゴロフ

3人乗せるなら医師もいた方がいいよね、ということだったのでしょうか。
イェゴロフは宇宙に行った初めての医師となりました。

イェゴロフヘッドギア装着の図。
男前が台無しだ。


医師で宇宙飛行士、おまけにこのイケメンである。
というわけで女優と次々浮名を流し、そのせいなのか、結婚歴3回。

しかし、脳梗塞でわずか50歳代で他界してしまいました。

小さくてすみません
フィオクチストフのスペーススーツ(ってもんじゃないですけど)
の横には、そのときに携えていったサバイバルギアが添えられています。

これは「ボスホート・ナイフ」と呼ばれています。

ソ連の宇宙船は陸地に降りるように設計されており、
できれば発射場近くの平原に降りるのが理想的とされていました。
しかし万が一、回収予定地以外の荒野に着陸したときのために、
クルーのサバイバル・キットには狩猟用ナイフが含まれていました。
何のためにこんなものが、って?
それはあなた、もちろん着地してからの食糧確保と外敵駆除でのためですよ。

フェオクティストフらのボスホート1号では使う必要はなかったのですが、
ボスホート2号の乗組員にとっては、大変お役立ちキットとなりました。

なぜならボスホート2号は予定地から約2,000キロメートル外れて着陸し、
原野で回収を待つハメになったからです。

宇宙飛行士は救助隊が来るまでの間、
近くで動物の遠吠えを聞いた:(;゙゚'ω゚'):と報告しています。

■ 史上初!!宇宙遊泳



タイトルの「イグジット・トゥ・スペース」は「宇宙に出る」、
つまり宇宙遊泳を意味します。

前にもスミソニアンシリーズで一度お伝えしていますが、成り行き上
もう一度、アレクセイ・レオーノフの初の宇宙遊泳について書きます。

最初からエアロックを増設した宇宙船に乗せた乗員二人は、
先ほども言ったように宇宙服を着せてもらうことができました。
その理由は史上初の人類による宇宙遊泳を成功させるというのが
ボスホート2号の重要ミッションだったからです。

スミソニアンに展示されているのは、まさにレオーノフが宇宙空間に出た
その瞬間の再現シーンであり、スーツはもしかしたら本物かもしれません。


ここで注目していただきたいのは、エアロックと呼ばれる「トンネル」です。

宇宙飛行士が加圧された宇宙船から出るために、
ソ連の技術者たちは柔軟なエアロック・アタッチメントを設計しました。

エアロックは軌道上で膨らませるトンネルで、
宇宙船から出たり入ったりしても、密閉された状態を保つ仕組みです。

アレクセイ・レオーノフは、打ち上げ前からこのエアロックを使って
宇宙遊泳の訓練を行い、史上初の宇宙遊泳に備えました。

のちにアメリカも宇宙飛行士の宇宙遊泳に成功しましたが、その時は
宇宙船は完全に減圧され、ハッチが直接宇宙に向かって開く仕組みでした。

ちなみにレオーノフが最初に宇宙空間に出他とき、彼の体は
4.8メートルのテザー(命綱)で宇宙船と繋がっていました。

しかしそのとき、問題が起こります。
宇宙を初めて「歩いた男」は、危うく最初の死者となるところでした。

というのも、「宇宙遊泳中、レオーノフのスーツは予想以上に膨張し、
硬くなり、大きすぎてエアロックに入らなくなったのです。

エアロックに入れない、つまり宇宙船に戻れないということです。


スミソニアンに展示されているのはレオーノフが訓練で使用した
ベルクート(ゴールデンイーグルの意味)与圧服というものです。
本番でも同型のものが使用され、おそらくソ連のどこかにあるのでしょう。


宇宙服が膨れてトンネルを通れなくなってしまい、どうしたかというと、
彼は最新の注意を払って宇宙服から圧力を減らして萎ませていきました。
そしてなんとかギリギリにエアロックに入れる大きさに調整し、
宇宙船に戻ることができました。
当初、船外活動をリアルタイムで放送する予定でしたが、
緊急事態を受けて放送は即座に中断されました。

万人監視の中、レオーノフが宇宙に取り残されるようなことがあったら、
国威発揚どころの騒ぎではなくなるからですねわかります。

この時に限らず、宇宙空間に遊泳するというのは、
我々が現在想像するより遥かに危険と隣り合わせでした。
テザーが切れたり、膨らみすぎて宇宙船に戻れなかったとしたら、
もうその瞬間、彼を救出する術はありません。
その体は生命が失われた後も永遠に宇宙空間を彷徨い続けることになります。

あ・・昔、そんなシーンが出てくるSF小説を読んだことがあったっけ。
アシモフだったか、ハインラインだったか、ブラッドベリだったか。
題も覚えていないし、本当にそんなシーンがあったかも漠然としませんが。

そうそう、ソ連が秘密にしているので全く知られていないけど、実は
宇宙で「彷徨っている」ソ連飛行士がいるとかいう噂もありましたっけ。

ま、なんだ、レオーノフは無事に帰って来られてよかったですね。

ちなみに、レオーノフが素人画家であるという話は以前にもしましたが、
彼はちゃんとスケッチブックを持っていき、軌道上の日の出を見ると
すぐさまこれをスケッチして、宇宙で初めて絵を描いた人第一号にもなりました。



その「史上初の宇宙でのアート」が左。
色鉛筆に紐がついていますが、レオーノフが手首につけるためのものです。

お宝写真。
自分で描いた宇宙遊泳の作品の前に立つレオーノフ。
JALのハッピと鎖帷子ふうシャツと本人の表情の取り合わせがシュール。

宇宙遊泳のその日から52年後の写真だそうです。

さて。ボスホート2号のミッションによって、宇宙服さえ適切なものであれば、
人類は宇宙空間で活動が可能であることが実証されました。

このことは、実証されてみればなんでもないかもしれませんが、
初めてその空間に一歩(っていうのかな)を踏み出す者にとっては
そこ知れぬ恐怖と不安しかなかったものと思われます。

しかも想定外のアクシデントに見舞われたにもかかわらず、
その問題を解決して生還した宇宙飛行士、レオーノフの冷静さと優秀さは
もっと歴史的にも評価されて然るべきではないでしょうか。


続く。


マーキュリーとジェミニ〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の展示から、
「マーキュリーとジェミニ」というタイトルでお送りします。

冒頭写真はアメリカ初の有人宇宙船計画、マーキュリー計画のために選ばれた
アメリカ最初の宇宙飛行士7名、通称「マーキュリーセブン」です。

前列左から:ウォリー・シラー、デイク・スレイトン、ジョン・グレン、スコット・カーペンター
後列左から:
アラン・シェパード、ガス・グリソム、ゴードン・クーパー

映画「ライト・スタッフ」では、この写真を撮るシーンがありましたね。
「セブン」という数字が狙っている感じさえしますが、
元々マーキュリー計画の宇宙飛行士は6人ということに決まっていたのが、
最終的に7人になったという話をどこかで読んだ気がします。
マーキュリーセブンは、最終的に全員が宇宙飛行を行いました。
マーキュリー計画を始め、その次のジェミニ計画、
アポロ、そしてスペースシャトルに至るまで、この中の誰かが参加しています。
■マーキュリー計画

ソ連のスプートニク打ち上げ以降、国力を上げてこれに追いつき、
追い越そうとするアメリカがまず立ち上げたのはマーキュリー計画でした。



マーキュリー計画はカプセル一人乗りでした。
アメリカは、安全な宇宙飛行と地球への帰還のためのハードウェアの開発、
そして人類が宇宙でどのように生存し、生活できるかを
マーキュリー計画を通じて探究しようとしました。

1961年から1963年までの間で、アメリカは多数にわたる試験飛行と
6回の有人マーキュリーミッションに挑戦しました。

そして、それはソ連に周回遅れと言いながらも、華々しい成功を収めます。
1961 初打ち上げ〜アラン・シェパードとマーキュリー3号


「ライト・スタッフ」では艦載機で空母に着艦するシーンで登場した
アラン・シェパードが、まずマーキュリー3号で宇宙に。

つまり彼がアメリカ人初の宇宙旅行者です。

飛行時間は短かったのですが、待機時間の間にトイレに行きたくなり、
懇願して宇宙服の中で用を足し、スッキリして打ち上げられました。

つまり宇宙服の中で用を足した最初のアメリカ人となったわけですが、
ソ連ならこういう話は絶対オフレコになっていたでしょう。

1962 初軌道周回〜ジョン・グレンとマーキュリー6号



ジョン・グレンのマーキュリー6号に使われたフレンドシップ7は
スミソニアンにその実物が展示されています。


軌道に打ち上げられた初めてのアメリカ人が、ジョン・グレンです。

何度か当ブログでも取り上げていますが、グレンは海兵隊パイロットです。
弾丸飛行で大陸間横断時間の最短記録を樹立した
大変優秀なテストパイロットでした。

初めての宇宙飛行士をどこから選ぶかという話になった時、
選考委員会は航空機パイロット、潜水士、深海潜水士、
登山家(サーカス芸人という話も)など、
必要とされる技能を持っている職業の中から、
軍のテストパイロットが最もこれに適していると判断しました。

その理由はいくつもありますが、選考プロセスが簡略化されること、
またこの役割はほぼ確実に機密情報の取り扱いを伴うため、
セキュリティ上の要件も満たしているというのが大きなものでした。

宇宙飛行士の選考基準は次なようなものです。

40歳未満であること。
身長5フィート11インチ(1.80m)以下であること。
健康状態が良好であること。
学士号またはそれに相当する学位を持っていること。
テストパイロット養成校を卒業した者。
総飛行時間が1,500時間以上であること。
ジェット機パイロットの資格を持つ。

年齢が40歳までというのは随分緩い基準に思われますが、
学士号を持っていてテストパイロットの学校も出ていて、
飛行時間をクリアしているとなると、当時は20代では無理だったのです。
また、身長制限があったのは、マーキュリー宇宙船の設計上、
背の高い人を収容することはできなかったからです。


しかし写真を見るとガス・グリソム(160センチ台。腕組みの人)以外、
結構皆180センチぎりぎりっぽいですね。
カーペンター(右端)とか、これ身長誤魔化してないか?


そしてスミソニアンに展示されているジョン・グレンの宇宙服セット。


フル着用バージョン

1962年2月20日、ジョン・グレンがアメリカ人として初めて
地球周回軌道に乗ったときに着ていた宇宙服がこれです。

ガガーリンのSK-1与圧スーツ ヘルメットは取り外し不可

ここにはガガーリン宇宙飛行士のスーツもありますが、それと同様、
戦闘機のパイロットが着用する高高度与圧服を応用したデザインです。
世界初の宇宙服であるS K -1は、ヘルメットのバイザーはガラス仕様、
そのせいで20キロの重量がありましたが、アメリカが開発した
グレン着用の「マーキュリースーツ」は、アルミナイズされたナイロンで
カバーレイヤーとする軽量な多層構造でできており、重さは10キロ。

バイザーがアクリル樹脂だったことで随分軽くなったようですが、
ヘルメットと頭をしっかり固定する作りだったので、首を回せない
(つまり横を見るときには体ごと向けないといけない)のが問題でした。

13個のジッパーと、カスタムメイドの手袋、ブーツ、ヘルメット。
これらが体にぴったりとフィットするカスタムメイドでした。
ガガーリンの宇宙服と比べてみると、フィッティング度が違うというか、
ソ連の方は随分ダブダブしているように見えますが、
これでも小柄なガガーリン(160センチ台)に合わせて作ったものだとか。

冒頭の宇宙服のうち何人かのものからは腰から管が出ていますが、
これは酸素供給用で、排気はヘルメットから行います。

最後にマーキュリー計画の有人飛行の成果を一覧表にしておきます。
MR-3 フリーダム7号 アラン・シェパード アメリカ人初の打ち上げ

MR-4 リバティベル7号 ガス・グリソム 海上で回収中ハッチ開かず

MR-6フレンドシップ7号 ジョン・グレン アメリカ人初の軌道3周

MA-7オーロラ7号 スコット・カーペンター計算間違いで着水地点がずれる

MA-8シグマ7号 ウォルター・シラー 耐空時間新記録(9時間) 

MA-9 フェイス7号 ゴードン・クーパー 軌道22周で記録更新

マーキュリー7のうちディーク・スレイトンは、心臓に疾患が見つかり、
マーキュリー計画には参加できなかったのですが、その後
体を鍛えて再挑戦し、アポロ・ソユーズテストで飛行することができました。
余談ですが、当時オンエアになった人形劇「サンダーバード」には、
主人公の何人かの名前が、マーキュリー7の名前から取られています。

スコット・トレーシー← スコット・カーペンター

ジョン・トレーシー← ジョン・グレン

バージル・トレーシー← バージル・アイヴァン・”ガス”・グリソム

ゴードン・トレーシー←ゴードン・クーパー

アラン・トレーシー←アラン・シェパード

アメリカ人なら皆知っていたと思いますが、あなたはご存知でしたか?


■ ジェミニ計画
一人乗り宇宙船だったマーキュリー計画の後、
NASAは2人の宇宙飛行士を乗せるため、
スペース拡大を目的に再設計したジェミニ宇宙船を導入しました。

1964年から1966年にかけて、宇宙船の制御、ランデブーおよびドッキング、
船外活動(宇宙遊泳)の技術を向上させるために、
10回の有人ジェミニ・ミッションが飛行されました。

あるジェミニ計画のミッションでは、2週間を宇宙で過ごすことに成功。
これは、将来のクルーが月へ行き、探索し、帰還するのに十分な時間でした。

これがジェミニ宇宙船。

二人乗りで、各自のコンパートメントに扉が別々に付いています。
身動きというのができない狭さであることがよくわかりますね。

閉所恐怖症には絶対に乗れない代物です。

宇宙軌道上のジェミニ宇宙船

1965 エドワード・ホワイトとジェミニ4号


アストロノー、エドワード・ホワイトの空軍軍人姿

ところで、アストロノー(Astronaut)という単語は昔はなかったもので、
宇宙飛行が始まったとき、アメリカの中の人(NACAの人。しつこい?)が
「空の旅人」を意味する「aeronaut」から思いついたつもりでした。

実はその言葉は1920年からSFの世界で存在していたのですが、
中の人はそれを知らず、オリジナルだと思っていたようです。

しかし、このブレインストーミングの結果、オリジナルではないとはいえ、
アストロノーという言葉を正式に採用することになったのです。

そのとき委員会では宇宙飛行士の給与についても規定を作り、
それは公務員として等級12から15まで資格と経験によって決まり、
実際には年俸は現在の73,953〜113,370ドル
(8478.5266〜12999.1176円)が提案されました。

能力と危険手当て込みと思えば、年俸8千万〜1億3千万は高くありません。
(むしろ安いのでは?とわたしは思います)

さて、このエドワード・ホワイトがアメリカ人として初めて
宇宙遊泳を行ったということは以前もお伝えしました。


左手の時計にご注目

宇宙遊泳のことを英語でスペースウォーク、EVAといいます。
EVAはExtravehicular activityのことで、
世界最初のEVAは前にも書いたようにアレクセイ・レオーノフが行いました。

レオーノフのEVA時間は12分9秒。
白い金属製のバックパックに45分分の呼吸・加圧用酸素を入れ、
15.35mのテザーを引っ張る以外、動きを制御する手段がない状態でした。

このときレオーノフの宇宙服が内圧で膨らみ、
宇宙船に戻れなくなって内圧を抜きながらなんとか生還していますが、
この時の宇宙飛行士の覚悟については、
わたしが以前想像したより事実は凄まじいものだったのがわかりました。

レオーノフは、もし宇宙船に帰れずに回収できなかったら、
もう一人のクルーに自分を置いて帰るようにと遺言?を残し、
さらに宇宙空間に取り残されたときに飲む毒薬を用意していたそうです。
そもそもその状態でどうやって毒薬を飲むのかという気もしますが。
いつでも噛み砕けるようなカプセルをヘルメットに仕込んでいたのかしら。

レオーノフは薬を噛み砕く事態にはならず、潜水病のような状態とはいえ
きちんと生きて帰ることができたのは前回書いた通りですが、
この時の問題をソ連はなかったものとして冷戦終結後まで隠蔽していました。
もしレオーノフが宇宙に取り残される事態になっていても、
おそらく冷戦が終わるまでそのことは秘密のままだったでしょう。


ホワイトの宇宙遊泳は、1965年6月3日、21分間に渡って行われました。
宇宙船に繋がれたホワイトに酸素は7.6mの管を通して供給され、
通信装置も搭載されていました。

アメリカはこのとき、宇宙で初めて手持ち式の操縦装置を使い、
自分の動きを制御することに成功しています。

これはジップガンと呼ばれた手動の酸素排出器で、
わずか20秒分推進するだけのものでしたが、実際にうまく作動しました。

ホワイトはこれがめっぽう楽しかったらしく、
あっというまにガスを使い切ってしまいました。

そして、帰りたくねえ!と駄々をこねたというのは有名です。
ちなみにこの時の会話(一部脚色しています)。

グリソム(打ち上げセンター):
フライトディレクターが言っている、戻って来い!

マクディビット(クルー):ガス、ジムだ。何かメッセージはあるか?

グリソム: ジェミニ4号、戻れ!

マクディビット:オーケー!
(ホワイトに)すぐに戻れって言ってるんだけど・・

ホワイト:いや・・・写真撮らなきゃだから・・もう少しだけ!

マクディビット:だめだよ。すぐに帰ってこないとまずいってばよ

ホワイト:ちっ・・俺の人生で一番悲しい瞬間だわ・・

ちなみにホワイトが宇宙遊泳している姿を写真に撮ったのは
クルーのマクディビットです。

この時、ホワイトはオメガのスピードマスタークロノグラフを付けており、
写真の腕にはバッチリその時計が写っていました。

NASAは宇宙飛行の開発当初から宇宙で使用できる時計を選定するために
大規模な実験をおこなっていたのですが、その結果、
宇宙での使用を承認した二つのメーカーのうち一つがオメガでした。



しかし、肝心のオメガ社は、宇宙でマクディビットがホワイトの写真を撮り、
それが公開されるまで、自社製品がNASAで実験されたことも、ましてや
宇宙飛行士がそれをつけて打ち上げられたことも知らなかったそうです。

まあ、NASAが宣伝するわけではないので、文句のつけようもないですが。

この時宇宙遊泳中着用されたオメガのモデルは、
「エド・ホワイト」と呼ばれ、時計コレクターの間では、
256万(今日現在)円で取引されています。


ジェミニ計画の「計画」

それでは、ジェミニ計画において達成した成果などを書いておきます。

ジェミニ3号 ガス・グリソム/ジョン・ヤング

ジェミニ計画としては初めての有人飛行
コールサインはモーリー・ブラウン(タイタニックの不沈のモリーより)
ヤングが宇宙にサンドイッチを持ち込みめちゃくちゃ叱られる

ジェミニ4号 エドワード・ホワイト/ジェームズ・マクディビット

アメリカ初の船外活動 (宇宙遊泳) 
ジェミニ5号  ゴードン・クーパー/ピート・コンラッド

アポロ計画で最低限必要となる8日間の宇宙滞在・燃料電池使用

ジェミニ6A号 ウォルター・シラー/トーマス・スタッフォード
ジェミニ7号 フランク・ボーマン/ ジム・ラヴェル

アメリカ初のランデブーを達成・7号は14日間の宇宙滞在
ジェミニ8号 ニール・アームストロング/デビッド・スコット

深刻な機器の故障から無事生還

ジェミニ11号 ピート・コンラッド/ リチャード・ゴードン

アジェナ衛星のロケットを使用して最高高度1,369kmに到達
この記録は現在に至るまで破られていない

ジェミニ12号 ジム・ラヴェル/バズ・オルドリン

オルドリンによる長時間の船外活動で、人間が生命に危機を及ぼすことなく
宇宙空間で行動できることを実証

さて、アメリカは宇宙開発において、
長らくソ連に遅れを取っているように思われていましたが、
実際には、それぞれのミッションが前のミッションの上に立ち、
それを拡張するという、計画的な
「ステップバイステップ」のプログラムに従っていたのです。

マーキュリーとジェミニは、アポロ計画への道を慎重に準備するものであり、
それだけでなく、これらを

「アポロ計画の準備段階」「アポロ計画の一環」
とする考えもあるほどです。

国威発揚のためにともすれば人命を軽視してまで結果を急いだソ連の背中を、
アメリカは戦略的に実績を重ねて、追い抜くチャンスを待っていたのです。

一歩ずつ、着実に。



続く。



映画「グラマ島の誘惑」〜宮様と軍人と9人の女(とカナカ族の男)

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敗戦直前の昭和20年。
米軍に乗っていた船を撃沈され、南海の孤島グラマ島に流れ着いた
皇族軍人兄弟とお付きの武官、そして慰安婦と従軍記者、未亡人ら
3人の男と9人の女がそこでどうなって戦後どうなったかを描い作品、
それがこの

「グラマ島の誘惑」
です。

これが果たして戦争映画というジャンルなのかというと大いに疑問ですが、
東宝・新東宝の戦争映画コレクションに入っていたのでそうなんでしょう。

■ アナタハン島事件

本作は、飯沢匡作「ヤシと女」という戯曲が下敷きになっています。
大東亜戦争では実際にノブリス・オブリージュの意味で
士官学校・海軍兵学校を経た高級将校として皇族が勤務したのですが、
この戯曲の主人公はなんとその「宮様軍人」なのです。

よりによって無人島に慰安婦軍団を主とする女性と流れ着くのが
宮様軍人兄弟(森繁久彌とフランキー堺)とその御付き(桂小金治)だった、
という着想が、当時世間を騒がせた「アナタハン島事件」だった、
というのも、異色中の異色と言っていいでしょう。

アナタハン事件というのは、戦争末期、北マリアナ諸島アナタハンで、
一人の女性と32名の男性が共同生活を送った結果、
男たちの間に女一人をめぐる諍いが起こり、
終戦後6年経って全員が救出されたときには、全体の半分弱に当たる13名が
死亡・行方不明となっていたというショッキングな出来事でした。

センセーショナルで好奇心を煽らずにいられないシチュエーションに
世間は沸き立ち、「アナタハン」は一大ブームとなりました。
たった一人の女性というのが、決して美人でもなんでもなかった、
ということも、世間にかなりの衝撃を与えたようです。

世の、特に大衆娯楽ではこれにインスパイアされた創作物も生まれました。
この戯曲もブームを受けての便乗ものと言えなくはありません。

この事件を取り扱った創作者中、最も大物だったのは、間違いなく
「モロッコ」、ディートリッヒ主演の「間諜X27」「嘆きの天使」を監督した
ジョセフ・フォン・スタインバーグ監督でしょう。

その作品とは題名もズバリ「アナタハン」The Saga Of Anatahan。
YouTubeではフルバージョンも鑑賞できます。
まさかとは思いますが、観たいという方がいた時のために貼っておきます。

Ana-ta-han (1953)


戯曲「ヤシと女」は、スタインバーグのこの映画があまりに酷いので、
もう少しマシな「アナタハンもの」を世に出したいと
脚本家飯沢匡が負けん気を出して創作した作品となります。

しかし、「ヤシと女」は史実を喜劇・パロディ化するため、
女性と男性の比率を逆にして、「逆アナタハン」を作り上げました。
のみならず、制作当時の時事を盛り込むため、
皇族を主人公として当時の皇太子殿下ご成婚ブームを取り入れたり、
「ビキニ諸島」を想起させる名前である本作舞台の「グラマ島」で、
戦後水爆の実験が行われたりと、今なら絶対に
どこかからストップがかかりそうなギリギリのネタが登場します。

■ 宮様と軍人と9人の女



それでは始めましょう。
ここは復興を遂げつつある現代(昭和34年)の東京。



書店のショーウィンドに並ぶのは3週間連続ベストセラー、
坪井すみ子著「グラマ島の悲劇」。

映画はこの本の映像に重ねてタイトルロールが始まります。

黛敏郎先生が手がけたタイトル音楽は沖縄風のメロディに始まり、
ドラムの連打に続き、「葬送行進曲」が紛れ込むうち、
飛行機のエンジン音、機銃の音、爆発音に非常ブザー、叫び声が加わります。

タイトル音楽だけでお話の発端となる輸送船の沈没を表しており、
これだけでもなかなか画期的なアイデアだと思われます。



撃沈された船には皇族軍人、航空隊司令香椎宮為久海軍大佐と、
その弟宮の為永陸軍大尉が乗っていました。

「為永、タバコ持ってない?」

「あ、お兄様、ございます」
「濡れてるね・・・これ乾かしておいて」

無人島らしき島に漂着し、とりあえずなんとか
何日かを過ごしたばかりといった様子です。



この島は太平洋のグラマ島。(のつもり)

ロケは当初沖縄になる予定でしたが、スターを大量に集めたため
全員のスケジュールが合わず、結局千葉県安房郡太海海岸で行いました。

撮影は現鴨川シーワールドの近くの国定公園、仁右衛門島で行われました。
しかし千葉の海を南洋に見せることは至難の業です。
そこでスタッフは椰子の木を持ち込んで植え、小石川植物園に行って
南洋の植物の勉強をし、ベニヤや紙で熱帯植物を作って画面に配しました。

海面を近景に入れるときには、カメラのフレームに入る部分にだけ
青い泥絵の具を大量に流しているのだそうです。

なんでも画像を弄ってできてしまう現代の映像作家には考えもつかない
当時の映画関係者の苦労が偲ばれます。



森繁久彌演じる香椎宮為久殿下は、いかにも皇族らしく、おっとりと鷹揚。
悪く言えば現状に対し楽観的すぎます。

御付き武官の兵藤大佐(桂小金治)が、慌てて
漂流してきた兵隊たちが見えない、と言いにきても、

「どこか安全なところに(船を)移したんだろう。
ところで今朝の朝飯はどうなってるの?」



為永は漂流物に自分のトランクを見つけました。

「何か口に入るものはないの?」

「ああ・・ハーモニカが入ってございます」


3人の男たちはとりあえず漂着した女性たちを呼び集めてみました。



彼ら二人が皇族と聞いて俄に緊張する女たち。
女たちのほとんどは慰安婦です。

ちなみに為久と為永は軍任務から内地に帰還するため
揃って乗っていた民間船が撃沈されたというわけです。

夫の遺骨を持った未亡人の八千草薫は、
技師だった夫をサイパン島で亡くし、内地に帰る途中でしたが、
夫婦で以前ここに住んでいたため、島の様子を知っています。

それによると島の反対側に畑があり、飼っていた豚がいたはずだと。
食べ物に困っていた一同は一日がかりで行ってみることにしました。

かつての村落跡地に到着したところで、
兵藤大佐が仕切って全員に「官姓名申告」を行わせました。



9人の女のうち6名は、引率の女将(浪花千栄子)筆頭に、
海軍からの依頼で派遣された、公式には「特要員」と呼ばれる慰安婦です。



「お前も特要員だな」

「アタクシ詩人でございますわ。報道班員を拝命いたしまして」

「詩人が報道班員になって何をやるんだ」
「戦意高揚ですわ」
報道班員は、詩人の報道班員、香坂よし子(淡路恵子)と
画家の坪井すみ子(岸田今日子)の二人です。

従軍詩人、(というのがいたのかどうか知りませんが)
従軍画家などが、報道班員として戦地に従軍していましたが、
特に日中戦争以降は、多くの有名無名の画家が従軍しました。

有名なところでは小磯良平、藤田嗣治も従軍画家として作品を残しており、
藤田などは、戦後このため戦争協力者の誹りを受けて、
(戦後共産主義化した同業者にやっかみ半分で告発されたらしい)
このためすっかり日本に嫌気がさし、フランスに帰化してしまいました。

なまじ教養のあらせられる為久殿下は坪井すみ子に興味を持ったらしく、

「あ、会はどこ?二科?結婚してるの?
今度わたしの絵を描いてもらおうかな」


慰安婦の年齢は下は18歳から上は34歳(轟夕起子)まで様々です。

兵藤「18歳?騙されてきたのか?」
「お国のために来たんですう〜」

慰安婦の一人を演じた春川ますみは、浅草ロック座のヌードダンサーでしたが
この映画がきっかけで女優に転身しました。

スタンバーグ監督の「アナタハン」でダンサー根岸明美が起用されたので
それを意識したキャスティングと言われており、
世間ではこの抜擢はかなり話題になったものでした。

演技やセリフは多くありませんが、身体の線を出す衣装やポーズに、
彼女の職業を想起させずにいられない過剰な露出が窺えます。

沖縄出身の慰安婦名護あい(宮城まり子)がふらっとどこかに行ってしまい
帰ってきたと思ったらバナナを持っていました。

女将が頭の前で指をクルクルと回し、

「この子はここがちょっとアレでして」

と今では誰もやらない動作と説明をします。

原作の「ヤシと女」で、彼女は「金田あい」という朝鮮人慰安婦でしたが、
本作では、「アナタハンの女王」実物が沖縄出身だったこともあり、
全体的に沖縄色を出すために改変されました。


あい子にバナナをどこで見つけたか尋ねると、
カナカ族が食べていた、と言います。



一同が行ってみると、カタコトの日本語を喋るカナカ族の男
(三橋達也)が漁をしていました。

カナカはパラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島の住民を指す俗称です。
厳密にそういう民族がいるわけでなく、サイパンやロタに住むカロリンや
チャモロ族のことを日本人はカナカ族と呼んでいました。



そのとき、カナカの男が沖を指差しました。
船が出航していきます。

攻撃を避けて島に上陸していた船の乗員と兵隊が、
彼らを置いて勝手に修理をしたであろう船を出港させてしまったのです。
仮にも皇族を乗せていた船が生存を確かめもせず出航はないと思いますが。


唖然として彼らが自分達を置いて出ていく船を眺めていると、
そこに米軍機が飛来し、そして・・・



沖の船を爆撃しコッパミジンコにしてしまいました。



みんな色を失って茫然と海を見つめた。
外の世界との連絡はこれで完全に断たれたのだ。
誰も石のように動かなかった。



宮様も、軍人も、



報道班員も、戦争未亡人も、そして慰安婦たちも。
こうしてグラマ島の悲劇が始まった。

ナレーターは岸田今日子、じゃなくて戦後作家となった坪井すみ子です。
これは彼女が戦後書いた本の一節という設定です。

この場面、映像は皆がストップモーション風にじっとしているだけで、
全員が髪を風に靡かせ、グラグラ動いているのが斬新です。

■島での人間関係


こうして島での閉ざされた生活が始まりました。
暇があれば未亡人の家に来て写真を撮る為永。



カメラを向けられるとついポーズを取ってしまう未亡人。



カナカのウルメルも未亡人が気に入った様子。
獲った魚を貢いで彼女の気をひこうとしています。


為久殿下は坪井に肖像画を描かせながら、話しかけずにいられません。

「君はブラマンクは好き?」
「嫌いです。造形が甘いと思います」

「そう?甘いかね?でも」

「今口を描いているので(黙れという意味)」


為久は彼女の絵を評価していませんし、内心馬鹿にさえしているのですが、
彼女の気が強く、小賢しいところがなぜかお気に召している模様。
 弟宮にそのことを指摘されると、

『まさかここで慰安婦を相手にできないから』

これが全くの口だけだったことは後に判明します。

弟宮の為永はというと、あの未亡人を慰めてあげなさいと兄に揶揄われ、

「ワタクシはそんなことは致しません!」

「京都の菊子姫に気兼ねをしているのか」

平民である兵藤大佐は身分については何の障害もないので、
いつの間にか年増女のたつ(轟夕起子)と懇ろになっていました。

それというのも権力者に媚びて得をしようと考えるたつが
兵藤に擦り寄ったからで、すっかりこので頃では女房気取りです。

島のヒエラルキーは、兄殿下を頂点とする厳然たるものでした。
慰安婦グループが僕(しもべ)として殿下にかしずく毎日です。

殿下の食事を皆で隊列を組んで運び、殿下のために
藁で編んだ食事用前掛けやフィンガーボールまで用意され、
食事中は肩を揉み、団扇で仰ぎ、配膳をし、毒見役も務めます。
慰安婦たちは、この島で皇族に仕えることはチャンスで、
我慢していれば、戦後褒美がもらえるかもしれないと考えているのです。

しかし、皇族や軍人に媚びることを潔しとしない報道班員二人は孤立し、
兵藤大佐にも露骨に嫌われてコロニーを去っていきました。

そんなある日、島に大事件が起こります。
慰安婦の一人、あいが妊娠していたのでした。

たつは、

「宮様がわたしらのような女を相手にするわけがない」

ゆえに父親は兵藤だと決めてかかって大騒ぎ。



身に覚えのない兵藤は、カナカのウルメルを問い詰めようとしますが、
肝心なところで言葉の壁が邪魔をします。



そこで、妊娠したあいちゃん本人に聞きました。
最初からそうすればよかったのにと思うのはわたしだけ?


真相はかうでした。
しかもこの二人、結構満更でもなさそう。
あいちゃんはもちろん、殿下は皆にそれが露見しても悠然としています。



しかし、月満ちて生まれた子供(女の子)は、
生まれて間も無く栄養失調でこの世を去ってしまいました。
(赤ちゃんの運命を表すシャボン玉画像)



海を見下ろす小高い丘に建てた「泡雲夢幻童女」の墓標の前で、
あいは一人、故郷の沖縄の歌を歌っていました。


続く。



映画「グラマ島の誘惑」〜クーデターと投降

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戦前の価値観崩壊の上に制作された怪作、
「グラマ島の誘惑」中編です。

ミクロネシアあたりの小さな島、グラマ島に流れ着いた
宮様二人と御付き軍人という男3人に9人の女の生活は、
当初平時のヒエラルキーそのままに恙無く運んでいましたが、
そこはそれ、モデルとなったアナタハン島でもそうであったように
日を経るに従い、そこで生まれる人間関係が秩序を崩壊させていくのでした。
■下剋上発生

為永殿下の未亡人上山とみ子への思いは募るばかりです。
ある晩「お話ししようと」部屋に忍んでいき、すっかり嫌われる羽目に。



こちらはグループから離れて丘の上に移住した報道班員二人。

残された女たちの間では、彼女らがなぜか綺麗な白い服を着込み、
食べ物や薬を持っているらしい、という噂が立っていました。

そんな折、慰安婦が二人マラリアにかかったので、
助けを求めるため女将が彼女らの居住区を訪ねてみると、
報道班員たちは噂通りの生活をしており、チョコレートに缶詰、
キニーネを気前よく分け与えてくれました。

種明かしをすると、彼女らは、コロニーを去った後、島の反対側で
アメリカ軍の飛行機の残骸を発見したのです。
搭載されていた潤沢な物資で生き延び、落下傘で服を作って着ていました。

そして、様子を見にきた慰安婦たちに「蜂起」を扇動し始めるのでした。
それがなかなかに過激です。

「あんたたち、あれが本物の宮様だと思ってるの?
国民のことをいつも考えてくださってるお優しい天皇陛下の親戚が、
あんな食べることと女のことしか考えない下品な連中なわけないじゃない!」



そしてなぜか行きがかり上ウルメルを先頭に立て、
下克上のクーデターが起こりました。

プラカードを持ち、皇族兄弟と兵藤を追いかけ回して縛り上げ、
自分達のコミュニティから追放して、

「もう威張る奴はいないわ。皆平等なのよ!」



追放されてトボトボと歩いて行く二人の宮様と一人の軍人。

「革命だね。しかし女の革命だから命は取られずに済んだ」

兵藤は怒り心頭ですが、為久殿下は案外のんびりと達観しています。



その頃女たちは宮様の住居を占拠し、賑やかに飲んで踊って歌っていました。


さて、島を歩いていた3人は、報道班員たちが既に発見していた
撃墜されたB29の残骸を見つけました。

この機体の残骸には、ちょっとしたいわくがあります。

実はこれ本物のB29の残骸で、川島監督がどうしてもこだわって
本物をセットに持ち込むことを主張し、実現したものなのです。

その頃はまだ戦争中の名残が国内で手付かずになっていたのかもしれません。

スタッフは機体を手に入れるため、まず防衛庁と航空会社に交渉しましたが、
全く成果はなく(というか相手にされなかったんだと思う)
ついに最後の手段、脚本を英訳して米軍立川基地に持ち込み、交渉しました。

米軍は持ち込まれた脚本をつぶさにチェックした結果、
全くこの内容に政治的な問題はない、と返答した上、
その筋に協力させて、B29の機体残骸を入手して提供してくれました。

二つに輪切りにされたB 29は、半分づつ、トレーラーで
ロケ地のあった千葉に運ばれた・・・ということです。

特に当時の日本では、残骸とはいえ、もしそこで誰かが亡くなっていたら、
それだけでダメになりそうな話ですが、アメリカ人にとっては
全くその辺に対するタブーはないのが幸いしたということかもしれません。


機体の中に恐る恐る踏み込んだ3人が見たものは、
ノーズペイントを描くための見本なのか、肌も顕わな女性の写真でした。

男たちが生唾を飲み込んでいると、機体の奥に人影が動きました。



物資を漁りにきていたカナカの男、ウルメルでした。
兵藤は機内にあった銃で迷わず彼を撃ち、その姿は崖下に落ちていきます。



「殺さなくたっていいのに」
得意になってそれを報告する兵藤に、為久はかなり引き気味。

しかも兵藤が、この銃で脅かして、女たちを軍事裁判にかけて処刑してやる、
とまで息巻き始めると、為久はため息をつき、

「連中が死んだら誰が私たちのために働くんだ」

兵藤は軍人の固定概念に縛られたドグマに忠実で残忍な男ですが、
殿下にとって平民の命は自分達の生活のための労働力に過ぎません。
いい悪いではなく、そのことに疑問も持っていない、
殿上世界に生きてきた人間特有の傲慢さがここに垣間見えます。

しかし、兵藤が、革命の首謀者である坪井すみ子だけでも殺してはというと、
命令だからあの女だけは殺してはいかん、と珍しく強く言います。

兵藤は不満げな様子を隠しません。


■兵藤中佐の死


墜落機から写真の現像液を手に入れた為永は、
早速マイアルバムを作成しております。

木で作ったアルバムのページには、未亡人の姿が多数貼られることに。

この写真が、のちにとんでもない事情で使われることになるのですが、
この時の為永はそんなことなど知る由もありません。


ついでに米軍の残していったノーズアート見本写真が大量に現像されて、
そこここに飾られるようになりました。



銃を手に入れたことで権力を取り戻した兵藤。
なぜか’たつ’はお払い箱となり、お相手は詩人の香坂に代わりました。



その時です。
兵藤が殺したと思われたウルメルが皆の前に姿を表しました。

兵藤が銃を持って追いかけ回しますが、派手な立ち回りの末、
(家をぐるぐる同じ方向に回り、背中を向けた相手に気づかないなど
いかにもベタな喜劇展開)銃声が1発響きました。

そして皆の前に姿を表したのはウルメルだけ。

全てを見ていた未亡人と坪井すみ子が皆の前に現れ、
兵藤は追いかけっこの末、「心臓発作で」死んだと言います。

「えええ〜!」

本当に心臓発作だったか解き明かされぬまま、兵藤の出番はここで終わり。

今やウルメルは武器を手に入れた島の実力者となりましたが、
しかし、権力を得た彼が欲したのは、ただ一つのこと、いや女性でした。


彼は上山とみ子未亡人を連れて島のどこかに姿を消し、
2度と人々の前に姿を現すことはなかったのです。


グラマ島の構成員は、いつの間にか男二人、宮様兄弟だけになりました。
女性は未亡人の上山とみ子がウルメルに連れていかれたので8人です。
■水爆実験



島での生活も月日が重なっていくと、そのうち
委員長を香椎為永とするグラマ島自治運営員会も創立されました。

ちなみに香椎為久の役割は「宴会委員」となっています。

階級社会は一旦クーデターによって破壊されたという建前上、
この島で皇族は身分を主張しないことと決まりました。

自由平等の民主制度がここグラマ島に生まれることになったのです。


全員で椰子の木を削って作った待望のカヌーもようやく出来上がり、
いよいよ進水式というある日のことでした。



進水前のカヌー「あほうどり」号上に、香椎宮為久殿下、
もとい、香椎為久と慰安婦のあいの姿がありました。

彼らは、誰も見ていない間に、何を思ったのか沖に漕ぎ出してしまいます。



二人がいないのに気づいた全員が進水式会場に来てみると、



「めんそーれ〜!」「さらば〜!」

既に沖に向かいつつあるあほうどり号。
二人はその後、島から姿を消してしまいました。
(音楽はハワイアン調)


「あいちゃーん」「お兄様ああ〜〜!」

それっきり二人は島には二度と帰ってきませんでした。


それからまた月日が巡り、一年が経ったという設定。



島の四つの墓標の前で、香椎宮為久王殿下、兵藤惣五郎陸軍中佐、
名護あい及びその娘の1年記念法要が行われております。

今や島でたった一人の男性となった為永が、
USAFの印のついたトイレットペーパーを巻き紙に、
法要の弔辞を読み上げて儀式は終わりました。


彼らが最後の一枚のフィルムで記念写真を撮ろうとしていると、



轟音と共に沖でキノコ雲が発生!



「あんたあれ見てなんか変なこと想像してない?」

「まあやーだあ、オホホホ」

彼女らは終戦前に島に流れ着いたので誰も原爆のなんたるかを知りません。

■ 投降


そこに米軍機がやってきて、投降勧告ビラを撒いていきました。
それによると、もう戦争は6年前に終わっているではありませんか。



早速米軍に投稿した彼らを出迎えたのは、通訳とサイパンの民生部長、
G.P.ジョンソン少佐、連絡将校のハガティ中佐でした。
ジョンソン中佐を演じるのは、当ブログでもおなじみハロルド・コンウェイ。
そしてハガティ中佐役はアレキサンダー・ヤコブ。

「ワタシ通訳の赤井八郎座右衛門でいらっしゃいます。
彼方連絡将校のハガティ中佐でござります」
という日本語が達者なようなそうでもないような2世役は、加藤武。
香椎為永に質問します。

「アンタ、宮様でござりまするか?」
「はい」


「ヒー・イズ・プリンス」と聞いてジョンソン司令は畏まり、
握手と敬礼を求め、ハガティ中佐も最敬礼で挨拶します。

ちなみにこのハガティ中佐の英語は、

「アイム・コマンダル・ハガティ、ハピトゥミーチュー」

とあんまり「ハガティ」っぽくない発音です。
この役者、フィリピンかヒスパニック系の人なんじゃないかしら。

逆に加藤武の英語の発音が恐ろしく上手なので、あらためて経歴を見ると、
早稲田大学英文科を卒業した人でした。

奇しくも為永役のフランキー堺とは麻布中学の同級生だったそうです。



その頃、報道班員坪井すみ子は、ウルメルに拉致?された未亡人に、
皆と一緒に日本に帰ることを熱心に説得していました。

しかしどういうわけか、彼女はウルメルとここで暮らすことを選びます。



島の女たちがいわゆる「玄人」でノリが良かったせいか、
尋問の合間にすっかり米兵たちは女性たちと仲良くなっていました。

いつの間にかダンスパーティが開催されております。



すみ子がウルメルととみ子を連れてくると言いながら、
一向に帰ってこないので、ジョンソン司令官は困惑します。

赤井八郎座右衛門通訳を通じて、

「その二人ねー、今日我々が迎えにいらっしゃいますことを
知っていたでしょうかしら〜?」

「あと十分お待ちたてまつるのでございます」

などと伝えていると、そこに坪井すみ子が帰ってきて衝撃の一言を・・・。

「(二人とも)死んでました」


死んだとあらば仕方ない。
一人の男と7人の女を乗せた船はグラマ島を出港し日本に向かいました。

っていうか、これどう見てもアメリカ海軍の船じゃないよね?



島の先端には、その船を見送るウルメルととみ子の姿がありました。
二人は死んだわけではなく、島に残ることを選んだだけだったのです。

ちなみにウルメルが着ているのは米軍第13爆撃隊のステンシル入りシャツで、
テントか何かを拾ってきて、とみ子が仕立て直したものだと思われます。
たった二人でこの島で生きていくつもりなのでしょうか。



続く。

映画「グラマ島の誘惑」〜それぞれの戦後

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戦後の価値逆転映画、「グラマ島の誘惑」、最終回です。

■ 帰国



アメリカ軍に投降し、日本に帰国するその船上で皇族為永が見た新聞には、
グラマ島からあいと出奔した兄為久が生きていたことが書かれていました。
6年間の島生活の後島を出たカヌーはどこかに流れ着き、生還した、
とニュースでは大々的に報じられています。

しかし、一緒だったあいのことはどこにも書かれていませんでした。


女たちがこの新聞記事を目にして驚いたことは、
香椎兄弟が本当の皇族だったいうことでした。

あまりに島の生活で人間らしすぎるその実像を見たものだから、
これまで殿上人だった皇族がこんな俗物な訳がない、
と全く信じられなくなっていたということです。
しかしながら、これは単に庶民の思い込みであり、皇族といえど人の子、
欲望もあれば俗っぽい価値観もあるはずで、
そういう血筋に生まれたからといって、どんな環境下にあっても
(特に無人島に流されるなどという)それでも高貴な精神を堅持できるか、
などと問うのはあまりにも残酷な仮定だろうと思います。


船上で為永は宮内庁から来たという皇族廃止の通知を見せながら、
女たちに向かってこんなことを朗らかに宣言します。

「もう日本には皇族は無くなるんだ。
みんな、内地に帰ったらあの島の民主的な経験を役に立てましょう」


それじゃ天子様もいなくなるのか、と不安そうな女たち。
しかし、為永はこう女たちに太鼓判を押すのでした。

「天皇陛下はおいでになる!」



その言葉はもちろん正しかったのです。

戦争が終わって貴族制度は廃止になり、皇族家は野に降りました。

しかし皇室は残り、天皇陛下は戦後も象徴として
「おいでになる」ことが決まったのは歴史の示すとおりです。

ついでながら、皇族が平民に降りることが決まったときも、
いつ何時元に戻るようなことがあってもいいように、
常にその心でいて欲しい、と言葉があったと聞きます。


そして、グラマ島から彼らが帰国して間もなくのこと。
日本中が皇太子殿下と民間人正田美智子さんとの婚約で沸くことになります。



本作撮影中、ちょうど皇太子殿下のご婚約が発表になりました。

旧皇族の男性を主人公としていた当作は、脚本を変更して
すかさずこれをストーリーに取り入れました。

まずは、書店のウィンドウに、お二人の写真とミッチー本。
その一隅に報道班員坪井すみ子が書いた「グラマ島の悲劇」新刊書が
ベストセラーとして飾られているといった具合です。



折しもクリスマスの街角。
その前を、サンタクロースの格好をしたサンドイッチマンや、
新しく創設された警備隊(後の自衛隊)の制服を着た一団が通り過ぎます。

よく見ると、電柱には「原水爆実験反対」のビラが貼られています。

■ それぞれの戦後



グラマ島の人々も、それぞれのもといた場所に戻って行きました。
とはいえ、価値観の変わった日本では、彼らの生き方も、
戦前と同じというわけにはいきません。

ここ銀座にあるマッサージ付き温泉施設の前に停まった
運転手付きの黒塗りの車からは、兄の香椎為久が姿を現しました。

リュウとした粋な仕立てのスーツに白手袋という装いです。


こちらは慰安婦たちの引率だった女将、佐々木しげ。

坪井すみ子の「グラマ島の悲劇」が世間を騒がせ、話題になって
マスコミはグラマ島の関係者のもとに詰めかけていました。
外から野次馬が覗く中、ブリブリしながらインタビューに答える彼女。
慰安所を経営していた彼女の夫は赤線廃止がショックで亡くなってしまい、
仕方なく残された店を流行りのトリスバーとして経営しています。
しかしどうにも昨今のご時世では、経営もなかなか苦しい模様。



さて、「大銀座温泉」に入って行った香椎為久は、
そこで『背番号21』をつけた娘にマッサージを受けていました。

実はこの背番号21、縁故採用なのでしょうか、
あの兵藤惣五郎中佐の娘(市原悦子)だったりします。
桂小金治の娘が市原悦子って、なんか納得してしまうんですけど。

彼女は為久の御身を激しくマッサージしながら、ぷんぷん怒っています。
「痛い痛い痛い」

為久は叫びますが、手加減せず、

「『グラマ島の悲劇』での父兵藤中佐の描かれ様があまりに酷い。
もう坪井すみ子を訴えようと思っている」

と忿懣やる方ありません。

彼女は為久になんとか父がそんな人間でなかったと証言させたいのですが、
為久はあんな島のことは思い出したくもない、とそれを拒むのみ。
それに、酷く描かれていることにおいては、
兵藤より為久の方がずっと赤裸々だったりするわけですしね。

為久に断られた兵藤の娘は泣きながら部屋を飛び出してしまいました。
(市原悦子の出番これで終わり)



そこにやってきたのは、為永の一男一女、為成とより子でした。
為成はシルクハットにタキシード、より子はロングドレスという装いで、
これでどちらも高校生というからびっくりです。

実は、大銀座温泉を経営しているのは為久の妻、彼らの母親です。
一家の主がいなくなった戦後を生き抜くために、彼女は
杉山という男性と温泉施設を共同経営してきたのでした。

杉山たる人物は登場しませんが、当然男性であり、
為久の長い不在中、彼女の実質的なパートナーだったようです。


兄妹は「グラマ島」を読んだといって父親を揶揄ったりします。
父親に対する尊敬とか同情はあまりなさそうです。



そこに激しく怒りながら入ってきて、子供たちを追っ払ったのは
羽付の帽子のガウンというものすごい格好をした為久の妻であり、
「大銀座温泉」の副社長、香椎智子。

智子を演じる久慈あさみは26本の社長シリーズで森繁の夫人役だった人。
この二人のコンビを見て安心?した観客は多かったのではないでしょうか。

ただし、今回、夫人は留守中パートナーができてしまったため、
死んだと思われていた夫が帰ってきても嬉しくないという役回り。



奥方にとって都合よく、坪井すみ子が孤島での夫の行状を
あからさまに公開する暴露本を書いてくれたということになります。

烈火の如く怒って見せ、

「誇りを傷つけられたからもう殿下とは離婚させていただきます!」

とヒステリックに言い立てるのでした。



さて、弟の為永の方も、帰国後、なんとか働き方を考えていましたが、
とりあえず趣味の雑誌を創刊しようとして失敗。

家も抵当に入り、職もない旧宮家の兄弟は、
平民として戦後の日本をどうやって生きていけばいいのでしょうか。



そこで為永は、心機一転、食品会社を起こすことにしました。
おりしも戦後でアメリカとの文化交流も盛んになる中、
スキヤキの割下を瓶詰めソースにして、輸出するというアイデアです。

そこで、トリスバーで苦戦しているおしげ婆さんに協力してもらい、
彼女の店をそのまま会社にすることになりました。

吉原にある店なので、為久が商品名を「ヨシワラソース」と名づけました。



その夜、為久は為永を沖縄料理店に誘いました。
為永は、兄に兼ねてから気になっていた、あい子のことを尋ねます。

知的障碍があるけれど心優しく、為久の子供を身籠った女。
カヌーで一緒に島を出て行ってからどうなったのかと。

坪井すみ子の書いた「グラマ島の悲劇」には、
二人のカヌーがサイパンに流れ着いた時、皇族の体面を考えた為久が、
まるで愛子を殺したように書かれていたというのです。

為永がそのことを兄に伝えると、為久はため息をついて

「あの坪井という女はよっぽど私が嫌いだったんだな」
と言ってから、

「あの子はね、死んだよ」

「ああ・・・やっぱり死んだんでございますか・・」

「・・・・だろうと思うんだ」



「え?」


為久は悲痛な表情で、しかし淡々と続けました。

「あの子は私に何か食べさせようと思って、海に潜っていったんだ。
それっきり上がって来ないんだ」

自分はいつまでも、その辺が真っ暗になるまで彼女を待ったが、
水の中でフカにやられたか、シャコ貝に挟まれて溺れてしまったか、
ついに帰ってくることはなかった、としみじみ語りました。


その時です。

為永は、あいが生前歌っていた曲が舞台から流れているのに気がつきました。
襖を開けてステージを見ると、そこには彼女に生写しの女がいます。

息を呑む為永に、為久は彼女があいの妹であると説明しました。
彼女は「かな子」と言い、「グラマ島」を見て為永を訪ねてきたのです。




さて、為永の興した割下スープ、「ヨシワラ」の事業は、
それを使用したレストラン、スキヤキハウスに発展するなど、
なかなか波に乗って為永もしげも忙しくなりました。



「殿下〜〜〜あ」

そんなある日、茶髪に染めた髪に羽をつけ、ザーマス風の眼鏡をかけた、
詩人の報道班員、香坂よし子(淡路恵子)がやってきました。

彼女もまた「グラマ島」で書かれた自分のことに不満を持っており、
為永と為久の力で本を発禁にして欲しいと泣きつきに来たのです。



そこに運悪く、「グラマ島」の作者本人、坪井すみ子がやってきました。

金銀に光る着物にまるで獅子舞のような白いロングのカツラと意味不明。
一体何をしていたらこんな衣装を着ることになるのでしょうか。



二人はたちまちキャットファイトを始め、
エキセントリックな香坂は、為永に、

「アタシと香坂さんとどっちがお好きなんですか殿下!」

と訳のわからないことを言って掴みかかるのでした。



その頃、為久殿下のロールスロイスに便乗して、銀座まできたあいの妹、
かな子は、おそらく為久に買わせたのであろう最新流行のドレスに身を包み、
ボーイフレンドとの待ち合わせ場所に送らせて、さっさと降りて行きます。



彼女を映画館の前で待っていたのは、大学生風の青年でした。
トレンチコートに肩からカメラを下げ、いかにも良家の出に見えます。

振り返って車の為久に手を振る彼女は、
顔形はそっくりでも、あの「あい子」とは別の人種のようでした。
っていうかさ、かな子さん、一体なんのために為久のところに来たの?
姉のグラマ島でのことをネタに、ソフトに恐喝でもしてるのかしら。



為久は何か鼻しらんだ様子で彼女を見送るのでした。
彼も、なんでかな子の面倒を俺が見るんだ、と思っているのでしょう。

皇族は廃止寸前、自分自身は離婚寸前。
人の面倒を見ている場合ではないのですが。



さて、坪井すみ子が為久の元にやってきた理由は意外なものでした。

彼女が示した新聞には、わずか二日後、
他ならぬグラマ島で行われる水爆実験が報じられていたからです。

米軍に投降したとき、坪井は二人は死んでいたと嘘を言ってしまいましたが、
彼らだけは、そこに未亡人とウルメルがいることを知っています。

それに、と、坪井すみ子は「グラマ島の悲劇」に書かなかった
ある秘密を打ち明けました。

あのウルメルと名乗る男はカナカ族でもなんでもなく、
実は城山という名前の脱走兵だったのだと。

つまり、グラマ島に残っているのは二人の日本人なのです。



同じ新聞の別の欄には、グラマ島の慰安婦たちが
沖縄で買春容疑で捕まったというニュースが報じられていました。

しげはだから言わんこっちゃない!と叫びますが、しかしとりあえず、今はそれどころではありません。

このままでは二人の日本人が水爆に巻き込まれるかもしれないのです。



居ても立っても居られない彼らは立ち上がり、
たまたま家の外に停まっていた霊柩車を拝借して出かけることにしました。
なぜ霊柩車が?などと言ってはいけません。
これはきっと何かの暗喩なのです。知らんけど。


お茂は霊柩車から顔を出して呟くのでした。

「まあまあ、どこの国の人か知らないけど、
水爆みたいなおっかないもの、やらなきゃ良いのに」



為永はとみ子とウルメルの写真を掴み、霊柩車に乗り込んでいきます。
こんな時に彼女をストーカーしていたことが役に立つとは。

しかし、一体どこに行って、何をすれば、二人を助けられるのでしょうか。



そして、二日後の朝。(おいおい)
為久を乗せた黒塗りの車は、皇居に向かって走っていました。



後部座席で新聞を読む香椎為久。
新聞にはグラマ島の水爆実験が本日行われるということが書かれていますが、
彼にとっては特にこの件に関する思い入れはないようです。
グラマ島にいたときもそうであったように、彼の脳には
身の丈とその周りの自分のことしか関心を持たないような
特殊なプログラムでもされているような感じです。



「この車とももうすぐお別れだな」

運転手の秋山は僅かに表情を動かしますが、無言です。



「秋山」
「はい」

「お前タバコ持ってない?」

「はい、しんせいでございますが」

「ああ、結構」



タバコもないのかよ、とはもちろん秋山は言いません。
尻ポケットからくしゃくしゃのタバコを差し出してやります。

為久がそのタバコに火をつけた途端。


グラマ島に水爆が投下されました。

原作の「ヤシと女」では、ビキニ環礁の核実験で被害に遭った
第五福竜丸の記事を見ながら、ふたりも巻き込まれたのでは、
と心配するにとどまっているのだそうですが、映画では本当に炸裂します。



水爆実験によるキノコ雲の周りに、いくつもの十字架が重なります。
しかし、この演出には正直かなり興醒めしました。

グラマ島の四つの墓標が砕け散るなどの演出の方が良かった気がします。

このキノコ雲は、例によって、水にインクを落としたものを
逆さまに撮影する、この頃多用された手法の賜物だと思われます。



本作は、荒唐無稽なくだらない喜劇仕立てと言いながら、
そのシュールな舞台設定と衝撃の展開が心に残り、妙に後をひく作品です。

特に、誰も悪人として描かかず、皇族の兄弟の「普通さ」と、
彼らがその身分を失う「悲しみ」にまで言及されている点を評価します。

ただ、創作物ながら、島に残された二人のその後の運命については、
あまりの残酷さに、想像すると心の底が冷えるのを感じずにいられません。
笑いが片頬で引き攣るブラックな喜劇だと思いました。






宇宙でのトイレ事情(小編)〜スミソニアン航空宇宙博物館

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宇宙飛行に対して、声に出して言わないまでも誰もが持つ疑問があります。

"宇宙ではどうやってトイレをするのだろう?"

アメリカ国立航空宇宙博物館における一般公開においても、
そのことは見学者の多くが質問するしないに関わらず考えることです。
そんな疑問に少しでも答える展示がスミソニアンにあります。
さて、今日は宇宙でのトイレ事情についてお話しするつもりですが、
宇宙開発が始まって以来、そこには笑いあり涙ありの、
トイレ事情の歴史とその発展、工夫がありました。
(そしていまだにある意味解決されていないという)

それをお話ししていく都合上、直截に表し難い言葉もあり、また
そのものをズバリ表現するには、途方もない羞恥心の克服を要します。

てなわけで、論文とか正式の文献ではない当ブログとしては、
そこんところをできるだけ穏便に、かつ婉曲しつつ、
マイルドに、遠回しに表していることをどうかご了解ください。

とはいえ、念には念を入れて、食事をしながらお読みになることは
厳に慎むことをお願いする次第です。


スミソニアンには、なぜか、ソ連のソユーズが搭載していた

Human Waste Disposal Unit
「人類用廃棄物処理ユニット」
の実物がロケットや宇宙船の谷間にひっそりと展示されています。
Male Configuration=「男性用(構成)」
ということでご理解いただけましょう。

ソユーズは、有人宇宙飛行船の中で最も長い運用期間を誇ります。
ガガーリンが有人飛行を行った時から、現在も国際宇宙ステーションへの
人々の輸送に使用されて、バリバリ現役なのは皆さんご存知ですね。

今回のロシア侵攻以来、宇宙の開発事情にも大きく関わるのではないか、
というのは誰しもが懸念するところだと思いますが、その話はまた別に。
さて、そのソユーズですが、ソ連らしく実に合理的なことに、
最初から「自己完結型」を目指していたため、トイレも完備でした。

アメリカの宇宙船トイレ事情一般があまりに悲惨だったことを考えると、
宇宙のトイレ事情に関しては、一貫してソ連の圧勝だったと言えます。
アメリカがソ連に追いつき、追い抜いた後も。


これがソユーズの「人類用廃棄物処理装置」。
収集タンクが取り外し可能です。


そしてこれがどうやら男性専用のアタッチメントである模様。


説明がなかったのですが、取り付けられている位置関係から考えて
こちらも「廃棄物処理用」であることは確かです。

JSC Zvezda

という文字が見えますが、これはロシア連邦の企業である
NPPズヴェズダのことです。

ズヴェズダとはロシア語で「星」を意味し、宇宙飛行士の生命維持装置、
宇宙服(与圧服)、月面用宇宙服、射出座席などを製造しています。

■悲惨だったアメリカの宇宙トイレ事情
もうこの際はっきり言ってしまいます。
アメリカという国が、宇宙開発事業において
世界一の科学技術先進国でありながら、
どうして宇宙飛行士の生理というものにこれだけ無情でいられたのか、
わたしにはさっぱりわかりません。
いや、わかる気もしますが、わかりたくありません。

宇宙飛行士。

勇敢で、知的で、常に冷静で、目も眩むような秀でた能力を評価され、
数多の優秀な候補者の中から選ばれた一握りの・・超エリートです。
つい最近、ディズニープラスのナショジオ制作による
「The Real Stuff」(マーキュリーセブン」を少しずつ観出したのですが、
改めて7人の選考予定を見て、こいつら只者じゃねえ、と感嘆しました。

(ちなみにジョン・グレンを演じているのが『スーツ』のマイク・ロス役で、
これは全然違うだろう!と画面に出てくるたびに全力で不平を言うわたし)

「マーキュリーセブン」は、秀でた人間の人間らしい弱さや個人事情、
家庭の事情などに今のところ焦点を当てている様ですが、それは逆に、
今まで彼らがスーパーマンとして描かれてきたと言うことでもあります。

しかしパイロットとしての能力はともかく、彼らも人間である以上、
人間的な弱さはもちろんのこと、物を食べ、それを外に排泄するという
ごく当たり前の、しかし本人にとってはプライベートであるべき、
かつ、切実な本能を有しています。

ところが、1960年代に宇宙飛行士を月に送り込むための競争を始めたとき、
NASAは「人類が宇宙で膀胱と腸を空にする方法」にほぼ無関心でした。

無関心というか、よく言われるのが、NASAの技術者は、
ロケットを飛ばし、人を乗せて生きて帰らせることのみに注力しすぎて、
排泄の問題を(ロケットを飛ばすことに比べれば)
「ほんの些末な問題」と考えていたか、あるいは全く考えていなかった
(専門の対策もしなかった)ということです。

思い出してください。

アメリカ人として最初に宇宙に行った宇宙飛行士、
海軍一のパイロットと自他ともに認めるところのアラン・シェパードが、
1961年、ロケット発射台でどんな恥ずかしい目にあったかを。
【アラン・シェパード飛行士の場合】

ライトスタッフ・シェパード出発シーンThe Right Stuff Pee & Light the Candle Scene from Marcus on Vimeo.
アランが尿意を訴え、スタッフが慌て始めるのが3:15~。

アランが「ゴードン」と呼びかけているのはマーキュリーセブンの同僚、
ゴードン・クーパーのことで、打ち上げのCAPCONには必ず飛行士が交代で入り、
連絡を行ったり対策を一緒に考えたりしました。

「スーツの中でやれ」

とスタッフのチーフが許可するのが4:50。
ほっとするアラン、次いで液体の移動がセンサーに反応。
心臓と呼吸のモニターの電子センサーがショートする。
そしてそれとは全く関係なく打ち上げは成功!

・・・してしまったので、この問題は、些末なこととして
(むしろ緊張の中のちょっと和む逸話として)
その成功の喜びにかき消された、と言ったらいいかもしれません。


1961年5月5日のシェパードの飛行時間は15分程度と想定されていたため、
NASAがトイレについて考えなかったのは当然といえば当然かもしれません。
が、
それは彼らが、概念上でしかその問題を捉えていなかった、
ということの表れと言えましょう。

確かに飛行時間は15分程度でしたが、シェパードが最初に宇宙服を着て、
カプセルに入り込み、待機する時間は何時間にも及ぶことを
おそらくスタッフの誰一人考えたこともなかったに違いありません。
映画のシーンを観た方ならお分かりのように、
アランが搭乗前皆に拍手で迎えられている時、周りは真っ暗です。
この直後からはおそらく彼はトイレに行く環境にはなかったはず。
そりゃ途中で行きたくなっても時間的に当然というものでしょう。
何時間もノーズコーン内に座っていたシェパードは、そのうち
膀胱が我慢できないほどいっぱいになっていることに気づき、訴えましたが、
宇宙服を脱ぎ着している時間はもうありませんでした。

最初は漏電の可能性を考えて拒否していたNASAも(てか拒否してどうする)
アラン・シェパードがもう我慢できない〜と再度訴えたため、
自分の座席で「逝く」ことを許可しました。


アラン・・・(-人-)
彼は後にこう語っています。
「もちろん、その時綿の下着を着用していたので、すぐに染み込んでしまいました。
打ち上げの時には完全に乾いていました」
しかしこれって、国家の英雄に語らせるようなことじゃないよね。ソ連ならきっと同じことがあっても「グラスノスチ」はなかったでしょう。

マーキュリーカプセルが回収された後のアラン・シェパード宇宙飛行士
この時には宇宙服内部はすっかり乾いていた
次のマーキュリー計画4号の時、ガス・グリソム飛行士は、
打ち上げの1日前に急遽作ったという、
二重のゴムパンツに、採尿設備が埋め込まれたもの
を穿かされています。

どんなものかはわかりませんが、さぞかし気持ち悪かったことでしょう。
宇宙船の中は結構温度が上がって暑くなることもあったそうですから、
そんなところでゴムのパンツを履くなど、考えただけで汗疹ができそうです。

その後、反省した(のかどうかわかりませんが)NASAは、
ジェミニ計画の後に続く宇宙飛行士に排「尿」設備を与えるようになりました。

繰り返します。排「尿」設備です。

それがこれ。
スミソニアン国立航空宇宙博物館所蔵

NASAの命名す流ところの「ロール・オン・カフ」
という男性用のラテックス製カフは、プラスチック製のチューブ、
バルブ、クランプ、回収袋に接続されていました。

これは見て想像できる通り、あまりいいシステムとは言えませんでした。
時々漏れることもありました。

って当たり前みたいにいうなっての。
しかしながら、この後に及んでも、NASAは
宇宙飛行士の排泄の問題を真面目に取り組もうとせず、それどころか、
NASAのアポロ宇宙ミッションに関する公式報告書(1975)には、

「有人宇宙飛行の初期から、排便と排尿は
宇宙旅行の煩わしい側面であった」

とあくまで他人事のように書かれています。

煩わしい、という言葉からは、どうにかせんといかんことはわかっているが、
本人でない技術者には煩わしいことでしかない、
という他人事感がダダ漏れに溢れ出ています。

これって、全く関係ないようですが、
「犬や猫は可愛いけど糞尿の始末をするのは煩わしい」
みたいな話と同列に思えてきますね。


【ジョン・グレンとジェミニ宇宙飛行士の場合】


この「カフ」を初めて使用したのが、ジョン・グレン飛行士です。
マーキュリーアトラス6「フレンドシップ7」のミッションでのことでした。

(しつこいですが、エド・ハリスのジョン・グレンがあまりに良かったので、
ナショジオの「マーキュリー7」におけるジョン・グレン役
パトリック・J・アダムズが全く受け入れられないわたしです)
このミッションで、彼はアメリカ人として初めて軌道に乗ったのですが、
飛行時間は4時間55分ということもあり、準備から回収までの間に
食事もするしトイレもするであろうということが最初から予想されたのです。

というか、このミッションでは、
生理的な実験データを取るというのもプログラムの一つでした。


ここで改めて考えてみると、宇宙でのこの手の問題が複雑になるのは、
無重力という特殊な状況が関わってきます。

地上では可能なことでも、無重力下だとダメなことはいくつもありますが、
この排尿という事案では、スーツ内に圧力を高めるバルブを導入しなければ、
尿というものを排出することすらできないという問題がありました。
その結果生み出されたこのガジェットですが、
結論から言うとそこそこうまく機能したようです。

それは具体的にこういうものでした。


ジョン・グレンが使用した装置(というか袋)

地球上に生存している人間は、膀胱の隙間が半分以下になると、
神経センサーが脳に信号を送り始め、トイレに行きたくなるものなのですが、
微小重力下での尿は膀胱の底に溜まらず、膀胱内で浮く
状態になるため、ジョン・グレンは飛行中、
膀胱がほぼ満杯になるまで自然の欲求を感じることはありませんでした。

その後、彼は尿バッグに約800mlの液体を入れて帰還しました。

ジョン・グレンの採尿バッグは、1976年から
アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されています。


■ アポロ計画と”人体廃棄物”問題
そして時代はジェミニ、次いでアポロ計画へと進んでいきます。
しかしNASAの技術者たちは、相変わらず
宇宙飛行士を月に送り届ける方法を考えるのに忙しく、
1960年代と70年代のアポロミッションの時代になっても、
頑なにトイレを設計しようとはしませんでした。

実際、1980年代にスペースシャトルにトイレが搭載されるまで、
アメリカの宇宙船にそれが設置されることはなかったのです。

ソ連の宇宙飛行士が、当初から座席の下にトイレを組み込み、
座席に座ったまま用をたしていたということを考えると、
この非人道的かつ非科学的な態度にはどうにも首を傾げざるを得ません。
欲しがりません勝つまでは、ってやつかしら。
それとも贅沢は敵だ、的な?
心頭滅却すれば火もまた涼し・・いやこれも違うな。

さらに時代は下り、1970年代のスカイラブ宇宙ステーションには
一応技術的にトイレと呼べるものがあるにはありましたが、
それは壁に穴が開いたような原始的かつ無残なもので、
宇宙飛行士は特別な区画で排泄物を乾かしたり?していました。

どうしてNASAは専門家、それもズバリ、トイレの専門家の意見を
もう少し積極的に取り入れなかったのか、と不思議に思わずにいられません。

もし依頼してくれていれば、当時のTOTOがNASAに
何らかの画期的な提案ができたかもしれないのに。

【だがしかしアポロ計画でもトイレはなかった】
NASAが初めて本格的な宇宙トイレを設置したのは、
1970年代初頭に打ち上げられたスカイラブ宇宙ステーションからで、
本格的なトイレが設置されたのは、
1980年代のシャトルミッションのときです。

そして人類初の月着陸を可能にしたアポロ11号には
トイレはありませんでした。

宇宙飛行士のニール・アームストロングとバズ・オルドリンは、
50年前の1969年7月20日にアポロ11号が月面に着陸したとき、
月面に降り立った最初の人間になったかもしれませんが、
彼らが月面着陸をやり遂げるために払った犠牲は、こと排泄という
根本的な生理的快不快の点で言うと、あまりに大きかったと思われます。
トイレがなければ、袋にすれば良いじゃない。

・・とNASAの中の人が言ったかどうかは知りませんが、
トイレを作ることをすっかり放棄したNASAが選択したのが「袋」でした。

小をするときは、先程のカフに行うのですが、
それは短いホースで袋につながれています。
ただ、カフは毎日取り替えることができました。

そしてアポロの宇宙飛行士は当たり前のように全員男性だったので、
女性が使うためのシステムについては検討されたこともありませんでした。
ソ連は早いうちに女性飛行士テレシコワの打ち上げを行いましたが、
驚くべきことに彼の国はそっち方面の問題もちゃんと解決していました。

対してアメリカは、男性のトイレ問題にすら苦労していたわけですから、
女性宇宙飛行士を打ち上げるなどまず物理的に不可能だったのです。

しかも男性専用とされたこの装備も、決して素晴らしいというものではなく、
よく外に溢れたと言いますから、女性用など夢のまた夢?でした。

さて。

しかしながらこれまで語ってきたことは、排泄という問題の
ごく限られた、あくまでもライトな部分に過ぎません。

宇宙計画が進むということは、滞在時間が長くなるということで、
最初のうちそんなことは考慮すらされなかった状態から、
いよいよNASAは「その問題」に対峙しなければならなくなってくるのです。
(意味は・・・わかるね?)

その解決方法は、あまりにも情けなく(宇宙飛行士にとって)
苦痛と、何とも言えない一抹の悲しみを伴ったものとなりました。

次回は、あくまでもその問題を避け続けたNASAのせいで、
代々宇宙飛行士たちが直面せざるを得なかった、
プライドさえもズタズタになるような、恥辱に満ちた宇宙飛行についてです。

引き続き飲食をしながらの閲覧はご遠慮ください。


続く。


宇宙のトイレ事情(大変)〜スミソニアン航空宇宙博物館

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さて、当ブログ的にも画期的なシリーズとなった「宇宙のトイレ事情」。
前半では発射台でお漏らしをさせられたアラン・シェパードから、
NASAから渡されたラテックスの筒に行ったジョン・グレン、
そしてそれを踏襲したアポロ11号の月面着陸メンバーに至るまで、
歴代宇宙飛行士の「小事情」を「小編」としてお送りしました。

というわけで今日は「大編」となるのですが、
タイトルの「大変」は決して変換ミスではありません。

その実態を知ると、あえてこのように言い換えずにいられなくなったのです。
■ アメリカ宇宙飛行士と”袋”の関係



それまで見て見ぬふりをしていたNASAが、初めてその問題に取り組んだのは、
1960年台のジェミニ計画が始まってからのことです。

しかし、取り組んだと言っても、そのために最初に作られたのは、
宇宙飛行士のお尻に貼り付けるだけの「袋」でした。

そう、またしても袋です。
NASAというところは、この問題についてどうしてこう投げやりなのでしょうか。
もしかしたら君ら、エンジンの機能とかを考える人の方が、
快適なトイレを設計する人より偉いとか考えてないか?
そんなNASAが宇宙飛行士に課したミッションとは次のようなものでした。

「排便後、クルーは袋を密封し、液体の殺菌剤を中身に混ぜて練り、
望ましい程度の固形の安定化を図る必要がありました」
「望ましい安定状態」ってどんなのだよ!
「混ぜて練る」って宇宙飛行士に一体何させるんだよ!
これってあれですよね。
通常なら見るのもアレな自分の●を袋ごしにねるねるねるねろと。

しかしさすがのNASAも、これを当たり前と思ったわけではなかったらしく、

「この作業は著しく不快であり、膨大な時間を必要とするため、
低残渣食品と下剤が一般的に打ち上げ前に宇宙飛行士には使用されました。」
低残渣食品とは、泊まりがけのドックを経験した人ならご存知、
検査前日の夜に食べさせられるアレです。

流動食のように腸に長時間とどまらない食べ物で、
人間ドックで大腸の内視鏡を行う前の日は、昼夜食べさせられます。
その上で腸を空っぽにして搭乗するように推奨していたというあたりからも
いかにこのミッションが恥辱に満ち、不評だったかがわかります。
(まあ好評なわけないんですけど)

でも、・・・あれ?
マーキュリー計画時代、アラン・シェパードが打ち上げの日取った朝食は、

オレンジジュース、フィレステーキのベーコン巻き、スクランブルエッグ

というガッツリ高残渣が予想されるもので、ミッションが成功したため、
その後しばらく、宇宙飛行士たちは、飛行前にステーキと卵を取るのが
一種の「伝統」になっていたと聞きましたよ?

証拠写真。シェパードとジョン・グレン朝ご飯。



証拠写真もう一つ。奥、ガス・グリソム。
ジェミニ3の打ち上げ前です。
これもステーキとスクランブルドエッグがテーブルに並んでいます。



もう一つ。「伝統食」を前に、アポロ11号付き着陸メンバー。
左からニール・アームストロング、コリンズ、バズ・オルドリン。
(手前の人は知らん)

もしかしたら、歴代飛行士、袋を揉むという作業の不快さを甘く見て、
というか考えもせず、そんなことより出発前のステーキウエーイ!
って感じだったのか。

そして、案の定、
写真でステーキやら卵やらを平気で食っているアポロ11号のクルーには、
他のすべてのアポロミッションと同様に、
悪臭を放つ袋と格闘する運命が待っていたのです。

その過程はこうでした。
NASAの報告書によると、

「体内からあれを除去するための積極的な手段を提供するシステムがないため、
機内でのあれ収集は、極めて基本的なシステムに頼らざるを得なかった」

「使用された装置は、あれを捕らえるために
臀部にテープで固定されたビニール袋であった」


左下にあるのがその「袋」となります。
「Facial bag」と書かれているものですね。
この袋には、トイレットペーパーを入れるスペースがあり、
指をかけるカバーが内蔵されているので、
お尻に袋を乗せても清潔に保つことができました。(意味不明)

使用時にはどうするか。

その時は宇宙服の背中にある小さなフラップの中に袋をセットするのですが、
この作業は決して簡単ではありませんでした。
あるアポロの宇宙飛行士は、その準備に約45分かかったと推定しています。

それでも、このトイレ袋の仕掛けは完璧ではなく、事故も起こりました。


1969年5月のアポロ10号のミッション中、
宇宙飛行士のトム・スタッフォードがアラートを発声しました。

そのログは、NASAの公式記録に残されています。
「ナプキンを・・早く持ってきて!
空中にあれが浮いてる!」


左より:ユージン・サーナン、スタッフォード、ヤング

「それ」が誰のものだったかは今に至るまでわかっていないそうです。
ジョン・ヤング飛行士(右)は、

”I didn't do it. It ain't one of mine."
「俺じゃない。俺のものじゃない!」
と否定したとNASAの記録にはあるそうですが、のみならず、
この時3人とも全員が自分のじゃないとシラを切り続けました。

NASAのために言い訳するつもりは全くありませんが、どうしてNASAが
頑なに袋にこだわったかというと、それは検査のためでした。

人体の宇宙における生理的いろいろのデータを取るために、NASAは宇宙飛行士がすべての排泄物を持ち帰ることを主張したのです。

そこでアポロ宇宙飛行士は用を足した後、報告書の詳細にあるように、
袋を密閉して「練り」、排泄物を安全に地球に戻すため、
殺菌剤を混ぜて、終わったら
よりによって食料品を入れる箱に入れて持ち帰りました。
しかし、もし、その練るという工程で少しでも手を抜くと、
袋の中でガスが発生し、袋が破裂して中身が漏れ出す
という大惨事が起こるのでした。

ジェミニ7号には、あの「アポロ13号」の船長も務めた
ジム・ラヴェルとフランク・ボーマンが乗っていましたが、
この事故で船内には復路の中身が飛び散りました。

しかし、どうしようもないので帰還まで1週間の間、
ただ我慢していたそうです。
ドライブと違って、そのくらいの事故では帰るわけにいきませんしね。
ちなみにこのラヴェル-ボーマンはアポロ8号でも悲劇に見舞われています。

ボーマンが宇宙酔と下痢で、上からも下からも液状のものを排出したため、
乗員3人は(特にやらかした本人のボーマンは)泣きながら掃除をしました。

この時、ラヴェルは、NASAの連中の「気の利かなさ」について、

「NASAの理系野郎たちは、
No.2に液体が存在しないと思っていたんじゃないか」

と皮肉っています。
ナンバーツーとはそれを婉曲に言うための隠語です。

さて、薬を混ぜて練られた後、袋は「できるだけ小さく丸められて」保管されることはお話ししました。
そのやり方は、バックパッカーの掟、
「詰め込んで、詰め込む」という、マントラに忠実に。

現在、アポロ11号ミッションにおける5つの宇宙での
排泄物の完全なログが残されているそうですが、
この「完全なログ」の状態がどんなものかはどこにも記されていません。

しかし、当然のことながら、アポロ計画の最終トイレ報告書には、
「臭いの問題が絶えず存在した」と当然の結果が記されることになりました。

そして、このように結論づけられています。

「アポロの廃棄物管理システムは、
工学的見地からは満足のいくものであった。
しかし、クルーの受容性の観点からは、
システムには悪い評価を下さざるを得ない」

NASAの理系野郎たちにとってたとえ問題がなくとも、
現場の人たちには我慢できないものだった、と言っているわけですな。

宇宙で排泄することは、非常に気持ち悪く、時間もかかり、
済んだら済んだで臭いも耐え難く、何と言っても精神にきます。

そこで宇宙飛行士は打ち上げ前に下剤を服用したり、
腸の動きを遅くする薬に頼る人までいました。

早めるか遅めるか、という選択で、できるだけ現地での運用を避けたのです。
それだけこれは嫌な「仕事」だったということです。

■アポロ11号の場合

さて、打ち上げ前にガッツリステーキやら卵やらベーコン食ってた
アポロ11号のメンバーはどうだったでしょうか。
彼らは他のミッションと違い、月着陸を目標としています。

アポロ計画でそれまでは「袋」を着用していたと述べました。
が、月面で宇宙服を着たままでは、流石に
この袋で排泄物を受け止めることができません。

そこで、アポロの宇宙飛行士は、宇宙船を離れるときに
「fecal containment(封じ込め) system」
という、基本的にはおむつのようなものを身につけました。
これはNASAの誇る技術の粋を集めたもので、
吸収素材を何層にも重ねたアンダーショーツで構成されていました。

今なら高分子ポリマーとか、なんなといい素材ができていますが、
この頃の吸収素材がどの程度だったかはわかりません。

月面着陸をしたバズ・オルドリンとニール・アームストロングが
21時間36分の月滞在中にこの「システム」をフル活用したかどうかは
NASAの記録はわかりませんが、公式にははっきりしていません。

しかしバズは他の天体でNo.1をした最初の人間であると主張しています。なんでも、月着陸40周年記念の講演会か何かで、彼は、

「外は地獄のように寂しかった」
といった後、こう付け加えたのだそうです。
「私は宇宙服の中でPをしたんです」

なぜそのセリフの後にそれが来る。


バズ・オルドリン(オムツ着用中)


1975年にアポロ計画が終了した後、無重力状態で「する」ための仕掛けは、
それ以来、少しずつではありますが、快適になっていきました。

少なくとも宇宙飛行士は、排泄物が周囲に浮かないように
「する」のが上手になりました。
そんなこと上手になってどうする。

■ 女性宇宙飛行士の場合

NASAで665日という記録的な宇宙滞在をした女性宇宙飛行士、
ペギー・ウィットソンは、
宇宙でのトイレは無重力空間中の行動で最も嫌いだと言っています。

最初のPキャッチャーをNASAはロールオンカフと呼んでいましたが、
この器具は、そもそも女性が使うようには設計されていませんでした。

いわゆる「袋の時代」を経て、1973年にNASAが
最初の宇宙ステーションであるスカイラブを建設したとき、
何カ月も宇宙で生活することになる宇宙飛行士のためには
いよいよ本当のトイレが必要になってきました。

スカイラブは1973年と1974年に3回の有人宇宙飛行を支援し、
最後の最長ミッションは84日間にものぼりました。

スカイラブの宇宙飛行士の「トイレ」は、基本的に壁に穴が開いていて、
扇風機と袋が接続されているというものです。

スカイラブに搭乗した男性は、排泄した後、排泄物を熱で真空乾燥させ、
廃棄物タンクに捨てたり、研究したりしなければなりませんでした。

そして、スペースシャトル時代の到来とともに、
宇宙での女性(とトイレ!)の活躍も始まったのです。

女性宇宙飛行士が打ち上げ時や宇宙遊泳時にトイレができるように、
NASAは使い捨て吸収式コンテナトランクを作りました。

開口部の幅は4インチ以下で、通常のトイレの穴の4分の1程度の大きさです。
そのため、宇宙飛行士はまず地上でトイレの訓練を受けなければならず、
また、特殊なシート下カメラを使って狙いを定める試験も行われました。

トイレに紙を入れることは許されず、それは別に捨てなければなりません。
マイク・マシミーノ宇宙飛行士は、宇宙トイレに座るときを
このように表現しています。

「まるでチョッパーバイクに乗っているような姿勢になるので、
地上では大腿部の拘束具を使って壁に貼りつきました。
宇宙で『イージー・ライダー』のピーター・フォンダになった気分です」

と。

いつしか時代は変わりました。
宇宙飛行士は袋を揉むミッションから解放されました。

宇宙飛行士が用を足した後廃棄物は、ビニール袋に入れられ、
最終的には地球に向かって疾走する間に燃え尽きてしまうのです。

しかも、それはサステイナブルなリサイクルまで可能となりました。

現在、ISSのトイレはかなり効率的に尿を回収することができ、
約80~85%がリサイクルされて宇宙飛行士の飲み水になります。
自給自足というわけです。

また、宇宙飛行士は、宇宙遊泳時や打ち上げ・着陸時、
また男女の宇宙飛行士が同空間?で宇宙遊泳をする場合には
吸水速乾性ガーメント(オムツですね)を使用し、配慮します。

■これからの宇宙トイレ問題

2017年、NASAは宇宙飛行士が(例えば火星へのミッションのように)
何日も宇宙服に拘束された場合に起こりうる問題を解決するために
「Space Poop Challenge」を立ち上げました。

NASAは民間に問題を丸投げする作戦に出たのです。

最優秀賞の15,000ドルを獲得したサッチャー・カードン博士のシステムは、宇宙服や衣服の股間にある小さなアクセスポートを使い、
そこに付けた沢山のバッグやチューブから排泄物を逐一回収するもの。

この発明は、飛行士が宇宙服を脱がずに下着を交換するのにも役立つでしょう。

サッチャー・カードン博士は空軍将校、家庭医、航空外科医でもあり、
同じ設計コンセプトで、体の他の部位にも緊急手術が可能だと述べています。

「へその真上にこのようなポートをつければ、
腹部の手術ができるようになるかもしれません。

宇宙飛行士が宇宙で小惑星の採掘のような外傷を伴う状況になった場合、
そのポートが命を救うという場面もあるはずです
■ ミールの宇宙トイレ

ミール宇宙ステーション、女性型汚物処理装置
さて、そこでスミソニアンの展示です。



アルミニウム製の大型タンクにキャップを取り付け、
ゴム製とプラスチック製の2本のホースを、
グレーのラッカー仕上げの台座に取り付けています。


1986年から2001年までの地球軌道で、ミールは
長らく運用されていた宇宙ステーションでした。

ミールユニットには、宇宙ステーションの
主調な廃棄物処理タンクに接続するチューブがあります。

このトイレには女性用アタッチメントが取り付けられています。

つい最近、日本の富豪が宇宙飛行を経験していましたが、
そこでの生活は、少なくともトイレとかお風呂に関する限り、
リッツ・カールトンのように快適とではなかったことは想像できます。

時代を経て進化したとはいえ、最後はオムツ頼み。
これが現在の限界なのです。

1975年にNASAがぼやいたように、その問題は
宇宙と関わる人間にとって、最後まで完璧には解決できないかもしれません。

もうこれは仕方がないかな。


続く。

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