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ソ連のムーンショットは成功する可能性があったのか〜スミソニアン航空宇宙博物館

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「宇宙開発戦争」(Space Race)というテーマであるスミソニアン展示から、
これまで、まずは先んじたソ連のボストーク計画、
そして追いつけ追い越せのアメリカがマーキュリーとジェミニ計画で
着実にソ連の後を追ってきたところまで紹介しました。

今日は、ソ連の最後の頑張り?となった月探索計画についてです。


1958年から1976年まで、ソビエト連邦は、宇宙に自動探査機を送り込み、
月を周回、着陸させ、探査機を実際に歩かせることができました。

3機の探査機が月の土サンプルを採取し、地球に持ち帰ったこともあります。
しかし、ソ連は宇宙飛行士を月面に着陸させる、とは表明しませんでした。

アメリカが、ジョン・F・ケネディの目標で月に人を送る、と宣言しても、
ソ連はそれまでわかりやすくアメリカに勝つことに挑戦してきながら、
それでもその目標を言明することがなかったのです。
これはなぜだったのでしょうか。

徹底した秘密政策のため、それらがわかったのは冷戦終結後となりました。
そのとき、ソ連の月探査計画の実態もまた明らかになったのです。

新たに公開された日記、技術文書、宇宙機器などから、後世の人々は
ソ連の野心的な有人月探査計画の一端を垣間見ることになりました。

人類の月着陸を言明しなかったにもかかわらず、その資料の中には
月着陸のための宇宙服のプロトタイプなどが見つかったのです。

これは、ソビエト連邦が月着陸に本気で取り組んでいたことを意味します。

■ ミーシン日記



ソ連のトップ技術者だったセルゲイ・コロリョフが急死した後、
後任となったのは、実験設計局でコロリョフの副官であるロケット科学者、

ヴァシリー・パブロビッチ・ミーシン 
Vasily Pavlovich Mishin
 Васи́лий Па́влович Ми́шин (1917 – 2001)
でした。

コロリョフの下で彼は多くの宇宙プロジェクトを共に手掛けていたので、
1966年に彼が亡くなると、ところてん式に主任設計者に就任し、
ソ連の有人月探査計画の責任を引き継ぐことになったのです。
ミーシンは第二次世界大戦末期に、やはり
ナチスドイツのV-2施設を視察しています。
そして、コロリョフの副主任時代、ソ連初のICBMやスプートニク計画、
ボストーク計画にももちろん参加しています。

主任としてL1、N1-L3有人月探査計画、ソユーズ有人宇宙船、
サリュート宇宙ステーション、さらにMKBS軌道基地をはじめとする
いくつかの無名の計画の飛行試験段階において、同局を率いました。


コロリョフが大腸癌摘出手術中に死亡、つまり急死したので、
ミーシンがコロリョフ主導でやりかけていた開発を引き継いだのですが、
これは全体的に、ソ連の、とにかく世界初ならあとはどうでもいい的な、
拙速で人命を軽視した計画であったと言われています。

ソ連は、1961年にケネディの人類月着陸宣言が行われる前から、
アメリカに先んじることだけを目標に、人類の月着陸計画を進めました。

しかし、そのN1ロケットプログラムとは、
主に資金不足からなる致命的な欠陥をはらむものであり、
ミーシンはその負の遺産を引き継ぐ形で責任者となったのです。
全てに失敗したN1(エーヌ・アヂーン)計画
(横に倒してお見せしております)
N1の開発はミシンが指揮を執る10年前の1956年から始まっていました。
そのミッション目的は月着陸。

しかし、コロリョフの下では、資金不足で適切な設備にお金が回らないため、
そして試験飛行を少しでも早く行うという目的のため、
通常の地上試験の多くを省くという、
どう考えても拙いんでないかい的な前例が始まっていました。

ミーシンはそんな状態のプロジェクトを引き継いだのですから、就任後、
技術的失敗に直面したとしても、必ずしも彼のせいではないともいえます。

ミーシンの名誉のために付け加えておくと、
彼が非常に優秀な技術者であったことに間違いはなく、
例えばエンジンの故障に対処するため、KORDシステムといって、
もしモーターが故障した場合、自動的に反対側のモーターを
ロケット基部で停止させて(バランスのため?)
自動計算によって欠けたモーターを補うと言う装置を導入したりしています。
このシステムは、1969年の最初のテスト飛行で早速正常に作動し、
配管が原因で火災が起きたにもかかわらず、大ごとになることを抑えました。

しかし、N-1ロケットは結局4回の試験打ち上げ全てに失敗しました。

その失敗は、全て引き継ぎが行われた段階で、ミーシンがもし
さらなる試験を行っていれば、回避できたかもしれないものでした。

ミーシン日記

さて、ここスミソニアンには、そのミーシンが
多忙な仕事の合間に残した日記が展示されています。

日記と言ってもこれらは1960年から1974年までにミーシンが残した
ソ連の宇宙開発における日々の動きと、決定されたことなどのメモ、
会議のメモ、To-Doリスト、プレゼンテーションのアウトライン、
そして技術的な計算メモなどで、完全な文章はほとんどありません。

メモなので略語も多く、原文はロシア語が読めても理解不能だそうですが、
略語の専門家による解釈が入った「完全版」が2015年に発行されています。

ちなみに解読チームはここまで漕ぎ着けるのに何年もかかっています。


それによると、ミーシン日記は、ソ連の宇宙開発をめぐる
多くの謎と論争に洞察を与えてくれるものだそうです。

また、これにより、ソユーズ有人軌道シリーズ、
ソユーズ・コンタクト・ドッキングシステム実験、月着陸船Ye-8、
ソユーズ-Sなど、不可解なプログラムの根拠が明らかになりました。

ここに経年劣化で破損しそうな手帳のページのコピーが展示されています。


この、1965年の記述で、ミーシンは、今後のソ連の宇宙活動は
設計局が主導的な役割を果たすであろうとその根拠を要約しています。

そして、軍事衛星、宇宙ステーション、宇宙飛行機、
月での様々な活動について言及し、また、月への有人着陸に必要な道具、
地図、宇宙服などの品目、そしてそこで行う作業も数多く列挙しています。

ナンバーが項目ごとに振られていますね。


1967年、ボルシェビキ革命50周年記念のために計画された
宇宙開発の概要、月周回有人飛行とN-1の実験がリストアップされています。


1968年の日記で、ミーシンは3つの主要な宇宙飛行計画のため、
宇宙飛行士候補の名前をリストアップしています。

地球軌道、周回軌道、月着陸の3つの宇宙飛行計画の候補者には、
アレクセイ・レオーノフ、コンスタンチン・フェオクティストフ、
その他エンジニアやソビエト空軍のパイロットの名前が書かれていました。


このページは他のと違い、日記の体をなしているように見えます。
この1960年の時点で、ミーシンはこんな爆弾発言をしています。

「コロリョフは、月や火星への有人飛行を含む
長期的な科学的宇宙探査の基本計画を採択するための議論と、
政府の遅れに非常に失望していた」
結局、ソ連が有人月探査を決定したのは、
アメリカが宇宙開発競争の究極の目標である月面着陸を実現した後でした。

その他、ミーシン日記にはこのようなことが書かれていました。

「我々はもはや、ソ連の有人周回飛行では、乗組員を着陸船と切り離して
別に打ち上げなければならなかったことは間違い無いだろう」

「ソ連の有人月面着陸は、N1スーパーブースターを2回打ち上げ、
2回目の打ち上げでホーミングビーコンを月面に着陸させ、
バックアップの月面着陸船も一緒に打ち上げるというものであっただろう」

果たしてその方法が可能だったのかどうか。

アメリカに初の月面着陸を奪われて以降、ソ連はその研究を中止したので、
それは永遠の謎となってしまいました。
ミーシンに対する評価
ミシンはロケット工学者としては優秀な人物でしたが、行政官、
リーダーとしては有能とはいえず、月面着陸計画の失敗の責任者とされます。

仕事のストレスのせいか、元々そうだったのかはわかりませんが、
アルコールを大量に摂取したため、それも非難される原因となりました。

ついにはソビエト首相のニキータ・フルシチョフが

「(彼は)彼の肩にかかっている何千人もの人々もの管理に対処する方法、
かけがえのない巨大な政府の機械(ロケットのこと?)を
なんとかして働かせるための方法を全く考えていない」
と詰るまでになります。

非難の声は現場からも上がりました。

1967年5月、ユーリ・ガガーリンとアレクセイ・レオノフは、
ミーシンの

「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知識の低さ、
飛行や訓練活動において宇宙飛行士と協力することの欠如」

を批判し、ガガーリンにとってはこれが一番の理由だと思いますが、
確実に失敗すると分かっていたのに決行して、

ウラジーミル・コマロフが亡くなったソユーズ1号の事故

に関する公式報告書に彼の責任を書くべきだと言いました。


ソユーズ1号とその事故現場、そしてコマロフ
また、 レオーノフはミーシンについてこうも断罪しました。

「いつもためらっていて、やる気がなく、決断力に欠け、
リスクを取ることを過度に嫌がり、宇宙飛行士の管理が下手」

うーん、これは決定的にリーダーシップに欠けるってことですかね。

彼の任期中の失敗は、ソユーズ11号のコマロフの事故死以外には、
3つの宇宙ステーションの損失、
火星に送った4つの探査機のコンピュータ障害などがあります。


4回のN1テスト打ち上げがすべて失敗し、その責任を取らされる形で、
1974年5月15日、おりしも入院中だったミーシンは主任を解雇されました。
後任となったのは彼のライバルだったヴァレンティン・グルーシコでした。
その後、ミーシンはモスクワ航空研究所のロケット部長として
教育・研究を続け、宇宙開発における功績により、
社会主義労働英雄の称号を授与されています。

そして、2001年10月10日、モスクワで死去、享年84歳でした。



■ソ連の月着陸計画

さて、話をまだミーシンが主任だった頃に戻します。

コロリョフは在任中月面着陸のための宇宙船の設計にも着手していたので、
ミーシンが指揮をとるようになってからハードウエアの製作が引き継がれました。
ソ連は数種類の異なるプログラムを月探索のために立ち上げていました。
以下それを列記します。

【ルナ】 1959〜1976
各種自動軌道周回機、着陸機、土壌サンプルリターンカプセル


Luna2


【L-1/Zond】1965~1970
自動周回飛行、『有人月周回飛行』の試運転



2人の宇宙飛行士を乗せて月面を1周する有人宇宙船L-1は、
度重なる機器の故障により、クルーを乗せずに飛行しました。



しかし、有人月探査に必要な宇宙船と操縦方法をテストするため、
L-1の無人宇宙船がZond(プローブ)という名前で5回月面に飛んでいます。
1968年9月、ゾンド5号は初めて月を周回し、地球に帰還しました。

【ソユーズとコスモス】1966〜1969
月探査機とマヌーバをテストするための
地球軌道上での有人および自動ミッション

ソユーズ1号のコマロフ、ソユーズ11号では宇宙飛行士3名が酸欠で死亡

【ルノホード Lunokhod】1970~1973
 自動月探査機


1970年と1973年の2回のルナ・ミッションでは、
着陸地点周辺を歩き回るロボット探査機「ルノホード」が搭載されました。
乳母車じゃないよ

ルノホードは、写真撮影や岩石・土壌サンプルの分析など、
宇宙飛行士が月で行うのと同じような作業を行うことができました。

このようにソ連のロボット探査機は成功を収めていたのにもかかわらず、
アメリカの有人探査の影に隠れてしまいました。
【L3 】1968年末予定
「マン・オン・ザ・ムーン」実行されず

アメリカのに似ているような

有人月面着陸計画(L-3)は、軌道船と着陸船で構成されていました。
(ミーシン日記に書かれていた通り)
月着陸船のプロトタイプは、1970年と1971年に3回、コスモスという名前で、
乗員を乗せずに地球周回軌道上で実験に成功しています。




ソ連の月着陸船は、アポロ月着陸船の半分の大きさ、重さは3分の1でした。

月面に降り立つ宇宙飛行士は一名、
もう1人は月周回軌道に留まることを想定していたそうです。

しかし、度重なるロケットの不具合により、
有人飛行に至らず計画は中止されることになりました。



スミソニアンには、ソ連が開発していた月探査用の宇宙服があります。

「クレシェット(黄金の鷹)」と呼ばれるこの宇宙服は、
アポロの宇宙服とはいくつかの点で異なっています。

まず、バックパックの生命維持装置がドアのようにヒンジ式になっていて、
宇宙飛行士がスーツに足を踏み入れて着用する仕組みです。

展示されていない後ろから見たスーツ。
宇宙服というよりもはや人体用カプセル。

手足は柔軟に動かすことができますが、胴体は半剛体のシェルとなっており、
胸部のコントロールパネルは、使用しない時は折りたたんで収納できます。
そしてブーツは柔軟なレザー製。

ヘルメットはアポロのものと同じような感じで、
ゴールドコーティングされたアウターバイザーは、
明るい日差しから身を守ります。

生命維持装置のバックパックも同様で、酸素供給、スーツ内圧、
温度・湿度調整、通信のためのシステムが搭載されています。

同様の宇宙服を、ロシアの宇宙ステーション「ミール」で
外部活動する宇宙飛行士が使用しました。


しかし、ソ連が人類を月に打ち上げる日は来ませんでした。
月着陸船、月探査船、そしてこんな高性能な宇宙服まで持っていたのに。
それはなぜか。

彼らに欠落していた重要な部分は、ただ一つ。
有人宇宙船を月に送るのに十分協力で信頼性に足るロケットの存在
でした。

コロリョフが死なず、ミーシンが上に立たなければ、
あるいは共産党政府が資金をふんだんに出し、
目先の「初」にとらわれず、人命を重視した宇宙開発をしていれば、
結果はあるいは逆転していたのかもしれません。

誰もが考えずにいられませんが、所詮歴史に「もし」はないのです。


ちなみに1959年から1976年までにソビエトが打ち上げた
約60機の月探査機のうち、成功したのはわずか20機だったということです。



続く。


海軍のヴァイキングと陸軍のジュピターC〜スミソニアン航空宇宙博物館

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さて、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている
ロケット群から、年代を追ってご紹介していきましょう。
さて、最先端を行っていたドイツのV-2ロケットの技術は、
その後究極の兵器を求める米ソ両国に受け継がれました。

しかしアメリカでは、1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
B-52ストラトフォートレス爆撃機が戦略的抑止力の主役だったのです。

V-2の技術の直系の継承にソ連の方が熱心だったのはなぜか。
それはソ連が長距離戦略爆撃機戦力で劣っていると自覚していたからです。
最初から不利な技術で勝負せず、相手のまだ手をつけてない技術で
優位に立とうとしたという訳ですね。


しかし米ソ共に、ロケット技術が未熟であった初期には、
遠方の敵を攻撃する方法として、ある技術に目をつけ始めるのです。

それが、こんにち巡航ミサイルと呼ばれる無軌道の飛行爆弾でした。

巡航ミサイルは、翼と空気で動くエンジンを持って飛びます。
つまりロケットと違って大気圏外では活動できないのですが、
さらに航空機と決定的に異なるのが、無人で操縦され、
自動航行装置によって目標まで誘導されるという、
当時として画期的な仕組みを持っていました。


そしてスプートニク1号の打ち上げに使われたソ連のR-7ロケットは
世界最初のICBM(大陸間弾道ミサイル)でした。
両国はその技術を宇宙開発の名の下に昇華してゆき、
それはついに音速の5倍以上の速さ(極超音速)で移動し、
地上からの信号にも依存しないICBMに結集します。

これこそが人類に生み出せる「究極の兵器」とも思われました。


■ミサイル・観測ロケット・打ち上げロケット

というわけで、次のコーナータイトルが、いずれも同じ技術から発展し、
アメリカとソ連がその開発競争を長い間行ってきたロケット技術の結果、
ミサイル、観測ロケット、打ち上げロケットの「ロケット三兄弟」です。

三者の違いを簡単に言うと、

ミサイルロケット爆発性の弾頭をもち目標に打ち込む兵器

観測用ロケット大気圏上層部に科学観測機器を打ち上げる

ランチ・ビークル(打ち上げロケット)宇宙船を地球周回軌道などに運ぶ

これらのロケット三兄弟は、ロケット工学の研究、国防、
そして宇宙開発の分野において重要な役割を持ちます。



スミソニアンにはこれらの歴代ロケットが、
まるでペン立てのボールペンのようにまとまって林立しており、
その眺めは壮観です。

今日はこれらをご紹介していきましょう。
まずは、この中の手前に見える、ほっそーいロケットからです。

■ WAC CORPORAL (ワック・コーポラル ロケット)
〜V2時代のアメリカのロケット技術(の限界)



TRYING CATCH UP WITH THE V-2

というのがWACコーポラルロケットの説明のタイトルです。
「V-2の背中を追って」「追いつくために」
みたいなイメージでしょうか。
いずれにしても、「トライ」のまま終わった感じダダ漏れです。

ドイツのV-2が第二次世界大戦中、ヨーロッパの各地を攻撃していた頃、
アメリカでは、まだ長距離ミサイルの研究は緒についたばかりでした。

V-2ロケットとこのWACコーポラルの見かけの違い、
それは大きさ太さだけでもスリコギとシャープペンくらいの違いですが、
それはそのまま、1945年現在における両国のロケット技術の違いでした。



WACという意味は、誰もが
「Women’s Army Corps」陸軍女子隊
の意味であり、さらにコーポラルは普通に伍長の意味だと思うでしょう。

ではワック・コーポラルとはなんぞや。


カリフォルニア工科大学、通称CAL-Techの中のジェット推進研究所
が開発したことから、こんな名前が付けられたという説もありますし、
例によって、アメリカ人の悪い癖で、自虐的に

"Without Attitude Control"(態勢コントロールなし)

という意味から取られたWACだったという説もあるようです。


カルテックというところは、もちろんアメリカの名門工科大学ですが、
規模としては(アメリカにしては)小さく、MKの大学選びのために
見学に行ったときには、なんかわからんが変人が多そうな印象があって
(印象ですよ)ドームも随分荒んだ様子が感じられ、
願書も出さずに終わり、わたしの中ではあまり良い印象がありません。

というのとは関係があるのかないのか(もちろんない)、この研究所は
1930年代にカルテックの中にできたロケット愛好団体が発祥で、
当初は団体名が「Suicide squadron」(自殺部隊)だったそうです。

ちなみにワック・コーポラルの前は
「プライベート・コーポラル」
という名前だったらしいのですが、これもいつの間にか昇進させています。

つまり、この団体のネーミングセンスはヘン、ということだけはわかります。



推進は海軍飛行艇のために開発された液体燃料エンジンが使われ、
フィンはなぜか革新的な3枚(黒1枚、白2枚)というものでした。

最初から大気圏観測ロケットとして構想されたもので、
実験では高度72キロメートルまで達したようです。

BUMPER WAC(バンパーワック)

BUMPER WAC

このWACをドイツ開発のV-2と組み合わせるという
画期的な実験が行われたことがあります。
世界初の2段式液体燃料ロケットとなる
「バンパー計画」として実験が行われました。

1949年、5回目の飛行で高度390kmを達成し、
この記録は1957年まで破られることはありませんでした。

WACコーポラルは、アメリカ発の観測ロケットでありましたが、
その最終目標は軍事弾道ミサイルであったのはいうまでもありません。
■ 海軍のヴァイキング〜V2の発展形



第二次世界大戦後、アメリカはドイツで大量に鹵獲してきた
ドイツのV-2ロケットを超高層大気圏の研究に使用していましたが、
ほぼ使い捨てだったので、そのうち数が減少してきました。

そこでV -2の後継機として、アメリカ海軍研究所(NRL)による
大型液体推進観測ロケット、ヴァイキングVikingが開発されました。

これも最初から科学観測用とされていましたが、暗黙の了解として、
当時観測用ロケットは将来的に兵器になることを前提に設計されました。

元々兵器であるV-2の後継ですから、それを参考に開発されたロケットは
「根っこは同じ」であり、宇宙開発もすなわち潜在的な兵器開発となります。

バイキングに搭載された推力2万ポンドのXLR-10液体燃料ロケットエンジンは、
リアクション・モーターズ社が開発しました。
円筒形で先端が鋭く尖り、基部に4枚の十字型三角形のフィンがあります。
全体は白で塗装され、フィンのすぐ上に黒い帯のような塗装がなされました。

4枚のフィンはそれぞれSE、NE、NW、NWと名称がついていて、
各フィンは、飛行中のロケットを視認するために配色が少しずつ違います。

SEとNEは白と黒の半々、NWは黒、SWフィンは白、といった具合です。


1949年から1957年にかけて、14機のバイキングが製造・飛行され、
さまざまな機能のテストや、より大きな観測機器の搭載が行われました。
バイキングの設計には、制御、構造、推進力において
重要な革新が導入され、12基製作されましたが、
2つとして同じものはありません。

それらは主に長距離無線通信に影響を与える
上層大気の領域を研究するために使用されました。

しかし、海軍研究所が「戦術的弾道ミサイル」の可能性を調査するための
研究と試験発射を兼ねていたのは当然のことでしょう。



エンジン部品などはプレキシグラスを通して見えるのだそうです
(が見えません)
ロケットの機首に配置されている機器などは以下の通り。

航空機用カメラ(フォルマー・グラフレックス社製)
映画用カメラ、木製モックアップカメラ、太陽面カメラ、ラジオドップラー
20チャンネルテレメーター送信機、電離層用送信機など
ヴァイキングは1号の1949年初打ち上げ後、12号まで打ち上げられ、
一連の実験に成功を収めた海軍研究所の科学者たちは、
より強力なロケットを開発すれば人工衛星の打ち上げが可能と自信を持ち、
それがヴァンガード計画へと繋がっていくのです。
スミソニアン展示のヴァイキング12号は、オリジナルのロケットから
回収された部品をもとに復元されたものとなります。

形はバイキング8号機以降によく見られるもので、
主要メーカーであるグレン・L・マーチン社によって製作されました。


その後、ヴァンガード計画がどうなったかについては何度も書いていますので
ご存知のことかとは思いますが、もう少し後で述べます。


■ジュピターC
大気圏突入のための”ノーズコーン”実験


UEと書かれたロケットがジュピターCの実物大模型です。
ヴェルナー・フォン・ブラウン率いるアメリカ陸軍弾道ミサイル機関(ABMA)と
クライスラー社製造によるサウンディングロケット=観測ロケットで、
「A」をベースに開発されたので「C」(なぜかBなし)と命名されました。
ジュピターCケープカナベラルでの初打上げ日 1956年9月20日
最終打上げ日 1957年8月8日
打上げ回数 3


レッドストーンMRBMを採用したジュピターCロケットは、
先ほども書いたようにジュピターAの後継機です。
ジュピターCは、1956年から3回の無人の準軌道宇宙飛行に使用されました。
観測ロケットと言いながらその任務の中でメインだったのは、ジュピター計画で
宇宙船が大気圏に再突入する際のノーズコーンをテストすることでした。

何度か書いていますが、1958年にNASAが設立されるまでは、
ロケット開発は陸海空がそれぞれ別に請け負っていたので、
中には協力的なプロジェクトもありましたが、ほとんどはご想像通り
互いに先んじようと激しく競争していた(特に陸海)というのが実態です。

ジュピターCが打ち上げられたハンツビルのレッドストーン工廠は
元々1950年に陸軍のミサイル開発センターとして開設されました。

レッドストーン開発グループの中心は、戦後にドイツから渡米した
フォン・ブラウンを中心とするドイツのロケット技術者チームです。

彼らはドイツのV-2ロケットの技術をベースにロケット開発プロジェクト、
すなわちレッドストーンロケットの開発を行います。
それは射程100マイルの地対空ミサイルとして構想されました。

レッドストーンには、フォン・ブラウンがドイツで開発した(つまりV2)技術と、
ノース・アメリカン・アビエーション社がアメリカ空軍の
ナバホ(NAVAHO)巡航ミサイル計画
のために開発したエンジンの改良型が使用されました。
ナバホ

ナバホは1946年に開発された大陸間ラムジェット巡航ミサイルです。
これもV-2ロケットエンジンの研究から生まれた技術でした。

そしてロケットの設計が始まるわけですが、当時のアメリカでは
朝鮮戦争のため国防資金が限られており、グループは創意工夫を強いられました。

ロケットを試験するための「試験台」を作るために75,000ドルの入札を受けた後、
チームはわずか1,000ドルの材料でそのモデルを作り上げ、
自らそれを「プアマンズ・テストスタンド」と自嘲していたくらいです。

現在もハンツビルのマーシャル宇宙飛行センターには、
「貧乏人の試験台」が歴史的な建造物として展示されています。


■陸軍までがヴァイキングを選んだわけ

さて、これでヴァイキングが海軍、レッドストーンが陸軍によって
制作されたロケットであることがお分かりいただけたかと思います。
この頃、空軍もアトラスミサイル計画を立てていました。

以上を頭に置いて次に進みましょう。

1955年、アメリカは地球の軌道を周回する
工衛星の打ち上げ計画を開始します。

これに、陸軍のレッドストーン、海軍のヴァイキング、そして
空軍のアトラスが三つ巴となって競争することになりました。

ところが、です。

陸軍と業界と委員会がなぜか海軍のヴァイキングを選択し、
海軍がヴァンガード(衛星)計画を請け負うことになったのです。
陸軍がなぜ海軍のヴァイキングを選んだかというと・・あれですか?
レッドストーンの中心人物がドイツ人だったからかな?
そうだな?そういうことなんだな?
海軍のヴァイキングも、もちろん陸軍のレッドストーンも、
なんなら空軍のアトラスも、その出発点はドイツのV-2ミサイルです。

ならば、その開発者であるフォン・ブラウンを獲得した陸軍が
三軍の中で断然有利だったのでは、という気がするのですが、
そこはそう単純なものではなかったようです。

実はアメリカとしては、やはり国家初の宇宙事業の中核に、
ドイツ人を据えたくなかったというか、純国産でやりたかったのではないか、
と今では言われているようですね。
まあ仕方ないかもしれん。

その後、カリスマ的なリーダーであるエンジニアの
フォン・ブラウン率いる組織は、陸軍弾道ミサイル局と名称を変えて、
行政的な制約に縛られることなく、
ジュピターの開発を継続することになります。


そして、1957年10月4日、アメリカ(と海軍)にとって屈辱の日が訪れます。

ソ連がこの日世界初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功し、
「スプートニク・クライシス」
とまで言われるショックを国民に与えたのに続き、
期待された海軍のヴァンガード計画は失敗してしまうのです。
Vanguard (Flopnik)

打ち上げ時間は2秒で終了。

発射台から飛び立つことなく木っ端みじんこになってしまったというね。
Flopnikはスプートニクのもじりで「バタンとニク」みたいな意味があります。
この失敗を受けて、フォン・ブラウンが喝采したかどうかはわかりません。
わかりませんが、これで彼とレッドストーンの「出番」になったのは事実です。

・・・やっぱり喝采したんだろうな。
現にこんな話があるのですからね。
当時、次期国防長官が決まってたニール・マッケロイは、
「偶然」レッドストーン工廠を訪問しているその最中、
スプートニク打ち上げを知りました。

その夜、関係者によるマッケロイ歓迎のディナーが催されたのですが、
その席でレッドストーン工廠のジョン・メダリス司令官と、
ヴェルナー・フォン・ブラウンがしっかりとマッケロイの脇を固めて、
「閣下、人工衛星うちにやらせてください💏」
と両側からガンガン売り込んできたそうです。

なんとこの二人、ヴァンガード失敗以前から、
レッドストーン工廠なら4ヶ月以内にジュピター打ち上げできる!
と関係者に売り込んでいたのでした。

思うに、フォン・ブラウンは、ヴァンガードの欠点を知っていて、
失敗することも予測していたんではないでしょうかね。

その後11月3日、
ソ連がスプートニク2号で犬のライカを打ち上げに成功します。
これですっかり焦った国防省が、陸軍の申し入れを承諾した直後、
フォン・ブラウンの予想通り、ヴァンガード計画は見事失敗。

ほれ見たことか、と1月31日に満を持して打ち上げた
ジュノーI、レッドストーンロケット、ジュピターCに
衛星軌道用のブースターを追加した陸軍のミサイルは、
アメリカの期待を一身に担うことになったというわけ。

この計画を、軌道に乗せた衛星の名前をとって

エクスプローラー1号(Exporer I)

と言います。

エクスプローラーI型衛星はジェット推進研究所(JPL)が開発し、
JPLとレッドストーン工廠チームが固体燃料の上段ロケットを考案しました。


1958年1月31日、予定よりわずか2日遅れはしましたが、
ジュピターC(正式にはジュノーI)は、
エクスプローラーIを軌道に乗せることに成功したのです。

ばんざーい
エクスプローラー1実物大を持って万歳するフォンブラウン(右)

この衛星には、宇宙線、温度、微小隕石の衝突を測定する科学機器が搭載され、
地球周辺のヴァン・アレン放射線帯の存在を検出したことで知られています。

前にも書きましたが、この真ん中にいるのがヴァン・アレンです。
放射線帯に自分の名前をつけてしまうなんてラッキーな学者ですよね。

(ちなみに、ヴァン・アレン帯については、うちにあった手塚治虫全集
『鉄腕アトム』にその名前が出ていたことから、わたしは物心ついた時には
ヴァン・アレン帯という言葉だけは知っていたのですが、
もしかしたら手塚治虫先生は存在検出のニュースを受けてすぐ
この作品にこれを取り入れたのかも、と今にして思います)

このロケットは、エクスプローラーIII、IVの打ち上げにも成功しましたが、
エクスプローラーII、Vを軌道に乗せることには失敗しています。

その後もジュピターは陸軍の主力ロケットとして、
空軍のトールロケット、そしてアトラスロケットと競合する存在でした。
(え、ヴァイキングは?ヴァイキングはもうダメってことになったの?)

この3つのロケットはいずれも第1段ロケットとして使用されましたが、
レッドストーンロケットは、その後アメリカ人を初めて宇宙へ運ぶ
マーキュリー・レッドストーンシリーズのロケットとなりました。

その後、NASAが設立され、陸軍弾道ミサイル局・ABMAは
レッドストーン工廠の敷地内に新設された
NASAのジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターへ移管されました。

そして、フォン・ブラウンを中心としたABMAのジュピター開発チームは、
アポロ計画の推進システムであり、アメリカの宇宙飛行士を月に運んだ
あのサターンVロケットの開発にも携わることになります。

■ ジュピターCのノーズコーンの謎



宇宙に打ち上げ、回収された本物のノーズコーンです。

ノーズコーンは核弾頭を運ぶための中距離弾道ミサイル実験の、
文字通り、マイルストーンでもあります。

地球の大気圏への再突入中に経験する途方もない高温から保護するために、
セラミックで作られた熱シールドを備えた設計になっています。

陸軍弾道ミサイル局が1957年8月8日、ケープカナベラルから打ち上げた
ジュピターCロケットの先端に、このノーズコーンは装着されていました。

再突入時、温度は1100℃にまで達したと言われています。
その後、ノーズコーンは海上に着水し、海軍艦艇によって回収されました。


コーンはステンレス製の円錐形が白く塗られた素材で覆われています。
見る限り、表面の素材は滑らかで、炭化した形跡は一切ありません。

ここでちょっと不思議な話があります。
ここにあるのはジュピターCのノーズコーンには違いないのですが、
ある高官レベルの軍関係者の日誌によると、打上げ後の1957年11月、
ノーズコーンをホワイトハウスに運ぶ前に、
剥離材が「剥がされた」
というのです。

これがオリジナルのロッキードのコーティングの下地であるか、
1957年8月の飛行後に付けられたものであるかについては、
資料も残っていないのだそうです。

しかし、2006年に検査した応用物理学研究所の2人の科学者は、
そこにセンサーパスが見られたことから、
おそらくこの表面は「下地」であろうと述べています。

しかも後端部にはステンレス製の板が溶接され、ボルトで固定されており、
これがオリジナルの装備かどうかすら不明です。

内部には計器類は全く残されておらず、
熱電対などのセンサーに使われたと思われる継ぎ手があるのみ。



苦労して外側を削った後、みたいな?



1957年11月7日、ホワイトハウスで、
ジュピターCミサイルのノーズコーン模型を横に演説する
ドワイト・D・アイゼンハワー大統領。

ノーズコーンの「模型」・・・?。

大統領はこれが本物だと信じて疑っていませんが、
なぜ本物を大統領の横に置いてあげなかったのでしょうか。

何のためにホワイトハウスに運ぶ前に
本物のノーズコーンから外側を剥離したのか。
何か本物を見られては都合が悪い事情があったのか。

宇宙は謎に満ちています。


続く。


初期の観測用ロケットと「スペースモンキー」〜スミソニアン航空宇宙博物館

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さて、前回「ロケット三兄弟」という言葉を紹介しついでに、
スミソニアンに乱雑に?立ててある各種ロケットについて
ちょっとだけご紹介してみた訳ですが、続きとまいります。
WACコーポラルロケットなどと同じ、観測用ロケットです。
■アエロビー AEROBEE 150
〜海軍初の打ち上げ観測ロケット


機体中央部の模様が中華丼風というかギリシャ風なのはなぜ。

アエロビー150ロケットは初期の観測ロケットで、
その期限を遡れば、酢電位1947年には打ち上げられています。

アエロビーシリーズもやはり、ナチスドイツのV-2ロケットの
技術転用による開発で生まれました。

こうやって見ていくと、本当にアメリカのロケット技術者は
ナチスドイツとフォン・ブラウンに足を向けて寝られないくらいです。

それはいいのですが、アメリカ、せっかく乱獲してきたV-2ロケットをたくさんあるからと気を大きくして、惜しげもなく
宇宙線の性質や太陽スペクトル、大気中のオゾン分布など、
各種データ収集にふんだんに使いまくって消費してきたため、
だんだん数が足りなくなってきました。

そもそもV -2の組み立てと打ち上げには結構な費用がかかったのですが、
まあ基本的に、戦後のアメリカという国は、宵越しのV-2は持たねえ、
なくなりゃなんとかならあなくらいの感じだったんだと思います。

そして前回ご紹介したWACコーポラルは小さすぎて
積載量が少ないことから、新たに科学研究に使うための
安価で大型の観測ロケットを開発することになったのです。

建造の中心となったジェームズ・ヴァン・アレンの応用物理研究所は、
エアロジェット社にその条件に合うロケットを発注し、
同社とダグラス・エンジニアリングの共同で開発が始まります。

ところでこの「エアロビー」の「ビー」ですが、ご想像の通り蜂のことです。

エンジン製造元の「エアロジェット」の「エアロ」と
海軍の誘導ミサイル計画の「バンブルビー計画」の「ビー」を合体させて、
「エアロビー」というわけです。

何度も言いますが、この頃はロケット開発を陸海空別々に行っていたので、
ネーミングまで別々となり、
海軍ではRTV-N-10(a)、空軍ではRTV-A-1と命名されています。

その後空軍はが949年12月に打ち上げた最初のロケットは、
宇宙からの写真を撮るのに成功しましたが、本体を翌年まで回収できず、
見つかった時には中身は無くなっていました。

しかし、その後打ち上げた32機のエアロビーはほとんどが成功し、
1951年には猿を乗せて打ち上げたりしています。

今回は打ち上げられた猿についてお話ししようと思います。

■ エアロビーと「スペースモンキー」

あ、あんた俺が見えるのかい?ってそら見えるわ
Animals in Space - Aerobee 3 Sounding Rocket Documentary
お猿さん、アルバートVIヨリック生還の瞬間は12:33〜
エアロビーの説明は3:48〜

あまり話題になったことはありませんが、
アメリカはドイツから取ってきたV-2で猿を打ち上げているのです。

そのお猿さんたちの悲惨な運命について書いておくと、
初代は飛行中に窒息死、二匹目はパラシュートが開かず激突死、
三匹目は空中爆発死、四匹目はパラシュートが開かず激突死。

V-2に載せられた4匹の猿の名前は順番に
アルバート I、II、III、IVでした。

便宜上振り分けた名前なのに1世、2世って・・・。

それにアルバートだったらヨーロッパの王族に同じ名前の人がいるでしょ?
アルブレヒト6世とか、アルベール2世とか。
6世と2世がいるくらいだからきっと他にも実在してたはず。

アメリカ人には全く関係ないからって失礼じゃないの。
さて、エアロビーに載せられたのはアルバートのVからです。
彼は激突死しましたが、その次のアルバートVIは宇宙から生還しました。


生還したアルバート6世

アルバートという名前が失敗続きだったので、縁起を担いだのか、
アルバートVIにヨリックという「別名」(愛称かな)
をつけたのがよかったのかもしれません。

だがしかし。
宇宙から生還した初の霊長類に、アルバートVI、akaヨリックは、
着陸してから2時間後に死亡しました。

彼は高温のカプセルの中で、救出まで2時間の間に脱水症になったようです。
この時のアエロビーには、ヨリックの他にネズミも載せていましたが、
もちろん彼らも全員が生きてはいませんでした。
関係者は彼の功績を称え、デスマスクを製作しています。

アルバート6世デスマスク
エアロビーによる打ち上げでは、この後アルバートという名前は廃止され、
代わりにパトリシアとマイクという名前のつがいを乗せたところ、
彼らは生還した上、着陸後も長生きしたということです。
やっぱりアルバートがまずかったのでしょうか。


エアロビーはその後40年にわたって天文学、物理学、航空学、生物医学など
膨大なデータを収集するという役割を果たし続けました。

■スペース・モンキーズ

さて、アエロビーに乗せた猿の話が出たついでに、
今日はアメリカの実験で宇宙に打ち上げられた霊長類について、
お話をさせていただこうと思います。

ロケットに生命体を乗せることは、先ほどのビデオにもあったように
早くから試みられてきましたが、ソ連は犬を最初に取り上げたのに対し、
アメリカはネズミの次にいきなり霊長類を打ち上げようとしました。

もちろん最初は小さな猿からです。
V-2ロケットに最初に乗せたアルバート1世と2世、4世はアカゲザル、
アルバート3世はカニクイザルという種類で、
カップルのパトリシアとマイクもカニクイザルでした。

【ゴード Gordo】



1958年、ジュピターA M-13で打ち上げられたリスザルのゴード、
別名オールド・リライアブル(信頼くん?)は、
15分間の弾道飛行に成功しました。

しかもカプセルは着水予測の1m以内にどんぴしゃりで着水したのに、
その後カプセルごと行方不明になってしまいました。

つまり回収できなくて助からなかったということです。
衝突の瞬間までゴードが生きていたということはわかったため、
計画は成功🙌とされたようですが。

生きて帰ってくるまでが遠足、じゃなくて計画ってもんじゃないのか。

【エイブルAbleとミス・ベイカー】

わたしが行った時には貸出でもされていたのか、メンテ中だったのか、
見ることはできませんでしたが、スミソニアン博物館には、
ジュピターA M-18に搭乗したエイブルの実物があります。

実物、つまりご遺体の剥製です。

1959年、アカゲザルのエイブルとリスザルのミス・ベイカーは、
宇宙旅行の生物医学的影響を調べるために計画された陸軍の実験で、
ジュピターに乗せられて、ケープカナベラルから打ち上げられました。
Space Monkeys Able and Baker

彼らの宇宙船は最高高度482kmから時速16,000kmで下降して
大気圏に再突入し、海軍艦船に回収されることに成功しました。
映像によると、彼らを回収したのは海軍のタグ「カイオワ」です。
コーンから艦上で引き出されているエイブルの姿がまさにこれ。


彼らはミッション成功後、記者会見まで行ったようです。
猿なのに。

しかし、エイブルは飛行後手術を受けることになりました。
おそらく体組成などを調べるための当人にはなんの必要もない手術で、
麻酔から覚めることなく死亡してしまいました。
陸軍が1960年にエイブル(の剥製)をNASM(スミソニアン)に譲渡し、
国立自然史博物館が保存することになったので、
宇宙博物館は宇宙開発関係の展示の一環として
時々ご遺体を「借りてくる」のかもしれません。

エイブルの剥製は宇宙に打ち上げられた時の姿をそのまま再現しています。

猿も打ち上げ中、身動きできないのは死ぬほど苦しかっただろうに、
死してなおこのような状態のままというのは本猿的にどうなんだろう。
ちなみに彼らの名前は、アメリカ式フォネティックコードのAとBで
エイブルとベイカーと付けられたそうですが、
この名前は(どちらもメスなのに)女の子っぽくないので
どちらも常に「ミス」をつけて呼ぶことになっていました。

自衛隊のフォネティックコード、アルファ・ブラボーではなく、
こちらは、

エイブル・ベイカー・チャーリー・ドッグ・イージー・フォックス・ジョージ

となります。

ついでにベイカー嬢のビデオもどうぞ。

彼女はあまりに賢くて可愛いかったため、
「親切に思いやりを持って世話をする」という意味の
「Tender Loving Care」からTLCと医師から呼ばれていたと言ってます。

アメリカにTLCというネットワークがあったけどそういう意味だったのか。

The Story of Miss Baker


そして彼女は、アストロノーならぬ「モンキーノー」(Monkeynaut)として
「正しい資質」The Right Stuff ザ・ライト・スタッフ
を持っていたと激賞されています。

ミス・ベイカーは帰還後ファンレターが殺到し、専用の秘書が付き、
死後は宇宙基地内に立派なお墓を作ってもらって、
連れ合いの隣に静かに眠っています。
お墓には、今も訪れる人がバナナ🍌を供えていくそうです。


【サムとミス・サム】


猿権なし

1959年12月、アカゲザルのサムが
マーキュリー計画のリトルジョー2号機で、
1ヶ月後にミス・サムがリトル・ジョー1Bに乗せられました。

ミス・サム(流し目美人)

ミス・サムは8分35秒の飛行に耐え、宇宙に行った猿の一頭になりました。
名前のSamは、テキサス州サンアントニオにあるブルックス空軍基地の
航空宇宙医学部 the School of Aerospace Medicine 
から取られています。

【ハム】


そういえば、昔アメリカにいた夏、MKが観たいというので
「スペース・チンプス」という映画を見に行ったことがあります。

Space Chimps - JoinMii.net Wii Trailer


実験ではなく、ちゃんと宇宙飛行士扱いされている猿たちが主人公で、
実験動物として乗せられていた実態とは全く別世界の話ですが、
主人公?のチンパンジーの名前は「ハム3世」だったのを覚えています。

これは誰でも知っている、マーキュリー計画で打ち上げられた
チンパンジーのハムの子孫という設定だったのでしょう。

Hamという名前も、ホロマン空軍基地の、

ホロマン航空宇宙医学部
Holloman Aerospace Medicine 

から取られています。
ハムは2歳からその名前の元となった、
ホロマン空軍基地航空医療フィールド研究所で
青い光の点滅を見てから5秒以内にレバーを押す訓練を受けました。

正しい反応をすればバナナペレットがもらえますが、
逆に失敗すると足の裏に軽い電気ショックがかかる飴と鞭作戦です。


1961年、ハムはマーキュリー計画のミッションの一環として
フロリダ州ケープカナベラルから軌道下飛行で打ち上げられました。

その生命反応と行動を、地球上のセンサーとコンピュータによって
常に監視されながら飛行を終え、カプセルは大西洋に落下し、
その日のうちにUSS「ドナー」によって回収されました。

ハムの身体的損傷は鼻の打撲だけ。
飛行時間は16分39秒でした。



回収されたLSD-20「ドナー」の甲板で、艦長の歓迎の握手を受けるハム。

ちなみに、ハムは帰還後ワシントンDCの国立動物園に移され、
その後17年を動物園で過ごし、1983年に亡くなりました。

死後、ハムの遺体は軍隊病理学研究所に送られ、剖検されています。
ハムの遺体も剥製にしてスミソニアンに展示する予定だったようですが、
この計画は、世論が否定的だったせいなのか、中止になりました。

しかし、結局最終的に骨格が残されて、そのほかは埋葬されているので、
「剥製が残酷だったから」とかそういう理由には当たらなさそうです。


ハムのお墓(立派)

ハムの骨以外の部分は、ニューメキシコ州にある国際宇宙殿堂に、
ちゃんとした正式の追悼式の後、埋葬されたそうですが、
その骨格は国立保健医療博物館が所蔵しているのだそうです。

ハムの骨格・国立保健医療博物館

思ったよりバラバラだった。

ハムのテスト飛行の結果は、1961年、アラン・シェパードが
フリーダム7で行ったミッションに直接つながる貴重なデータとなりました。

もちろんハムの結果だけが役に立ったというわけではありません。

歴代の実験動物たちが命と引き換えに残したデータの積み重ねが、
人類を宇宙に送ることを可能にしたのです。
アメリカの宇宙開発実験で犠牲になった霊長類は以下の通りです。

 アルバートI 1948/6/11 V2ロケット内で窒息死

アルバートII 1949/6/14 V2パラシュートの故障で激突死

アルバートIII 1949/9/16 V2爆発で死亡

アルバートIV 1949/12/8 V2パラシュート事故で衝突死

アルバートV 1951/4/18 エアロビーパラシュート故障で衝突死

アルバートVI(ヨリック)1951/9/20 エアロビーで打ち上げ成功、着陸後死亡
ゴード 1958/12/13 ジュピターA M-13打上げ後パラシュート故障で死亡

エイブル 1959/5/28 ジュピターA M-18打上げ、帰国後麻酔で死亡
リスザル ゴライアス 1961/11/10 アトラスロケット爆発で死亡

赤毛猿 スキャットバック 1961/12/20 軌道飛行後着水後行方不明

ブタオザル ボニー 1969/7/8 バイオサテライト3号着陸後死亡

スペース・モンキーノーたちの尊い犠牲に、敬礼。∠( ̄^ ̄)
続く。


映画「潜航決死隊」Crash Dive〜魚雷艇から潜水艦へ

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今回の映画は1943年、第二次世界大戦真っ只中にリリースされた
潜水艦&恋愛映画、「クラッシュ・ダイブ」です。

例によって邦題は無難な「潜航決死隊」となっていますが、
原題のCrash Diveとは、潜水艦の急速潜航の時の号令そのままです。
時期的にバリバリの海軍プロパガンダ映画でもあるのですが、
そこはアメリカ、当時大人気だった美男俳優タイロン・パワーと、
これも美人女優で人気絶頂だったアン・バクスターを絡ませ、
男性にも女性にも、全方位に受ける作りを目指しています。

なお、パワーと美女バクスターを取り合うことになる潜水艦の上官役に、
「我らの生涯の最良の年」で成功を収めた演技派のダナ・アンドリュースと、
当時としては最強の布陣で撮られたといっても過言ではない戦争映画です。

ただし、わたし個人の評価はあくまでもB級戦争映画に留まります。

その理由は戦争映画なのにロマンス要素を盛り込みすぎ。
あちこちに受けようとして、どちらからも嫌がられるタイプですね。

さらには、恋愛部分はあまりにも都合が良すぎて嘘くさいし、
肝心の戦争部分は、あまりにスリリングすぎてこれも現実味がゼロです。

戦争中のプロパガンダ映画ですから、当然ながら海軍も
これで入隊者が増えたらいいな的な意図で協力しているはずですが、
この映画を見て潜水艦に乗ろうと思う人が果たしていただろうか、
といらぬ心配までしてしまいます。


それではとっとと始めましょう。

潜水艦隊の徽章をバックに、監督のアーチー・メイヨーの名前が出たあと、
コネチカット州ニューロンドンの潜水艦隊の士官・下士官兵の皆さんに
映画制作協力についての厚い御礼が掲げられます。

ニューロンドンにある潜水艦博物館については、
当ブログで訪問の上、色々ここでお伝えしたことがあります。

この映画には、そのとき博物館で名前を見た当時の潜水艦の実物と、
それに乗り組んでいた実際の軍人たちの在りし日の姿が映し出されています。

劇中音楽担当はエミール・ニューマン。
テーマソングはマーチのリズムで「錨を揚げて」に代わり終わる、という
この頃の海軍協賛映画にはよく見られる技法によるものですが、
正直、フレーズの解決一つとっても音楽的にあまりいい出来とは思えません。
作曲者は有名だった「作曲一家」ニューマン・ファミリーの一員で、
ほとんどが低予算からなる200本以上の映画音楽を手がけた人です。


映画は撃沈された船の救命ボートが、トルピードボート、通称PTボート、
アメリカ海軍の高速魚雷艇部隊に発見されるところから始まります。



魚雷艇部隊指揮官はタイロン・パワー演じるワード・スチュアート大尉。
映画の配役には「タイロン・パワー U.S.M.C.Rとして」とありますが、
これはタイロン・パワーが映画撮影時点で現役軍人だったからです。

彼が海兵隊に入隊したのは1942年8月。
サンディエゴの海兵隊新兵訓練所(ブートキャンプ)での新兵訓練、
クアンティコ海兵隊基地での士官候補生学校に参加し、
1943年6月2日に少尉に任命されるというガチの軍人コースを辿りました。

職種は航空で、入隊前すでに180時間の単独飛行を済ませていたため、
短期間の集中飛行訓練によってウィングマークを手に入れ、
同時に中尉に昇格しています。
しかしながら、彼は当時30歳で戦闘飛行の年齢制限を越えていたため、
戦闘地域での貨物機の操縦士しかさせてもらえませんでした。

年齢さえ許せば、戦闘機で戦うつもりだったのでしょう。

1944年、パワーは副操縦士として海兵隊輸送飛行隊に配属され、
1945年2月にマーシャル諸島のクェゼリン環礁、
硫黄島(1945年2月~3月)と沖縄(1945年4月~6月)で、
貨物輸送と負傷した海兵隊員を搬送するミッションに参加しています。

そして、後年この時の任務により、三つの勲章を授与されました。

1945年11月に帰国したパワーは、現役を解かれた後も軍籍に留まり、
1951年予備役大尉、1957年に予備役少佐にまで昇進しています。
翌年に急死しなければ、おそらくその先もあったでしょう。
パイロットとしてのパワーの評判はよく、海兵隊航空隊の飛行教官は、

「彼は優れた生徒で、一度教えた手順や話したことを決して忘れなかった」

と激賞していますし、また、軍人としても優秀だったらしく、
軍隊の中からも、彼が尊敬されていたという話しか出て来ないそうです。

パワーが44歳という若さで心臓発作のため撮影中倒れて急死したとき、
(死因は劇症型狭心症)葬儀は現役軍人に対する栄誉をもって行われました。

先日ここで紹介した「緯度ゼロ大作戦」に悪役で出たシーザー・ロメロは
パワーの大親友だったため、葬儀で弔辞を読んでいます。

検索すると、撮影現場で衣装を着たまま倒れている写真も出てきますが、
彼はその目をしっかりと見開き、信じられないと言った表情で、
まさか自分がこの後すぐ世を去るとは夢にも思っていない様子です。

正直今でもタイロン・パワーの顔は華美すぎて好きではありませんが、
今回初めてこの俳優について知った一連の軍エピソードで、
現金にも個人に対する好感度は爆上がりしたことを告白しておきます。




さて、話に戻ります。
ボートの人員を魚雷艇に移そうとしていたら、潜水艦が現れました。
スチュアート大尉は一旦救助を中止し、潜水艦の攻撃を命じます。

魚雷艇というくらいですから、もちろん魚雷も搭載しておりますが、
潜水艦に対しては、爆雷を手動で落として攻撃しています。

この爆雷で、潜水艦は駆逐されました。



早速魚雷艇の功績を讃える記事が新聞の一面を飾ります。



パワー以外は本物の魚雷艇乗組員だと思われます。
(撃沈シーンで本当に操縦や通信、爆雷の投下も行っていることから推察)

パワーはこの時もう入隊していたので、写真に写っているのは
全員が軍人ということになりますね。


場面は変わり、ここはコネチカット州ニューロンドンの潜水艦基地です。


本物の潜水艦の甲板、本物の潜水艦員が写っています。
水兵さんたちはカードゲームをしているようですね。

向こうを通過していくのはUSS AG Sommes「ソムズ」という
「クレムソン」級のソナーテスト型駆逐艦です。
ソナーテスト型の駆逐艦があるということを初めて知りました。



多分本物、なぜか潜水艦のてっぺんで手旗信号している水兵。
係留中の潜水艦の上から、一体どこに何を通信しているのか。


乗艦のために岸壁を行進していく水兵たちの列の後ろから、
魚雷を搭載した運搬車が付いて行きます。



映画ではサービスとして潜水艦の魚雷搭載も見せてくれます。



さて、ここはそんなニューロンドンの潜水艦隊司令部。

司令部に呼ばれた魚雷艇長のワード・スチュアート大尉を迎えたのは、
彼の叔父であるところのスチュアート提督でした。
スチュアート家は代々海軍軍人を輩出してきた海軍一族です。

叔父スチュアートが甥スチュアートをわざわざ個人的に呼び出して、
何をいうかと思ったら、それは潜水艦への職種変換、転勤でした。
「せ、潜水艦・・・・?」(スチュアート大尉)

「潜水艦は人手がない・・・特に士官が足りんのだよ」

事情はわかりますが、PTボート乗りとしてPTボートに誇りを持ち、
他のどんな軍艦より強いPTボート最高、何ならPTボートと結婚してもいい、
ってくらいPTボートを愛しているワードに、これはあまりにもご無体です。



案の定、どんよりと暗い顔になるスチュアート大尉。

「昔経験しましたが、潜水艦は人が生活できる場所じゃないと思います」

汚くて狭くて暗くて怖くてキツくて厳しい潜水艦、
これからの人生で乗りたいとは決して思わない、とまでいうワードに、
提督はニコニコしながら有無を言わさず決定を言い渡すのでした。
軍人に配置拒否の権利なし。


ワードが不承不承頷いたそのとき、岸壁では
ちょうど潜水艦隊が出航していきました。
それを司令官室の窓(1階)から(見えるわけないのに)見送る二人。
これは2隻ともガトー級でよろしいでしょうか。


ところが、この出撃を複雑な思いで見送っている二人の軍人があります。

出航する潜水艦を羨ましげに見送る潜水艦「コルセア」艦長、コナーズ少佐と
先任下士官、チーフのマクドナルド(通称マック)です。

彼らは一日も早く戦列に加わりたいのですが、
副長のポジションが不在のままなので、出航できずにいるのです。


「出航できないので乗組員は太り、艦体にフジツボがついて・・」

やってきた潜水艦隊司令に、早速出撃できない愚痴を言い始めますが、
艦長、ご心配なく。



司令があなた方待望の副長を連れてきましたよ。

しかし、この副長とやら、どうも態度が悪い。ニコニコしながら開口一番、前職のPTボートをやめたくなかった、
潜水艦には来たくなかった、などと余計なことを言い、
艦長をイラッとさせにかかります。

軍人には無駄にイケメンすぎるのもなんだか腹立たしい。(よね)
艦長、むかつきを抑えるためタバコを吸おうとするも、切れていたので、
目の前のニヤケ男に一本もらう羽目になりました。

反発し合う軍人が、嫌々?煙草をやりとりするというシーケンスが
先日ご紹介したジョン・フォードの駆潜艇ものにもありましたね。

この映画もそうですが、煙草は男同士の関係性を表す重要なツールです。

後半、この二人は戦いを経てのち、再びタバコをやりとりしますが、
互いへの感情は、全く最初とは違うものになっているという仕組みです。

これは「厭戦的なドイツ人将校が戦場でピアノを弾くシーン」と共に、
ある時期まで戦争映画のあるあるパターンだったようです。

戦時平時を問わず兵士たちの必携だった煙草ですが、(多分現在も)
映画の画面上では煙草そのものがタブーになってしまったので、
これからこのようなシーンが描かれることはないかもしれません。
煙草に限らず、最近のポリコレはっきり言ってうんざりっす(独り言です)


ここはニューロンドン駅です。



パリッとした制服に着替えた潜水艦長デューイ・コナーズ少佐は、
ベタ惚れの恋人、教師のジル・ヒューイットが、ワシントンに
優秀な生徒を見学旅行に引率するのを見送りに来ていました。

ジルを演じるのはアン・バクスターです。

この名前を見た途端、ネガティブな感情が湧いてきたのにふと気づき、
それはなぜだろうとよく考えたところ、バクスターが演じた
映画「イブの総て」のイブ・ハリントンという役柄のせいでした。

自分を売り込むために嘘をつき、人を陥れ、枕営業も厭わず、
一流スターの座を手に入れるためには何でもする美人だが「汚い」女、
というあのキャラクターがあまりに強烈な印象だったため、
わたしは彼女が他に何に出ていたかの記憶すらありません。

そういえばこの映画で彼女が演じるジル・ヒューイットというヒロインも、
特に女性から見るとかなり反感を持たれそうな役です。



のみならず、結構非常識な女性の役で、バクスターが気の毒になります。

まず、見送りにきた恋人に、寂しいから次の列車で一緒に来て💖と懇願。

あの、あなたは教師で生徒を引率してるんですよね?無理です。いくら美人の恋人が頼んだところで、今は戦時中。
恋人は潜水艦乗り、もうすぐ出撃を控えてます。
なんだろう、もう少し公私の区別をつけませんか(ひろゆき構文)

そして、このワガママが聞き入れられないことが、
彼女にとって、のちの浮気やら心変わりやら実は愛していなかったやら、
そういう疾しさに対するエクスキューズとなる予定です。
あーやっぱりやな女だ。


彼らが遠足で向かうのは首都ワシントンD.C.です。
今ならコネチカットーワシントン間は飛行機であっという間ですが、
当時は夜行列車で一晩という長旅だったようですね。

ということで、ここで事件が起こってしまうのです。



列車にはちょうどDCに向かうワード・スチュアート大尉が乗っていました。

そして、ジル・ヒューイットが乗り込んだ自分の寝台に、
上下を間違えて、パジャマを着てすでに収まっていたのです。

しかし彼女、先客に気づかずガウンを脱いでシルクのネグリジェになり、
(昔は寝台車でこんなの着てたんだ)枕を整えて横になって、
初めて他人が横に寝ているのに気づいて叫び声を上げるのでした。
気付くのが遅すぎ。

これは、

「予期せぬ気恥ずかしい出会い、女が男に(理由を問わず)激怒」

という現在のドラマでも嫌というほどよくあるパターンで、
もちろんこの後二人は恋に落ちるという予定です。
ただ、この映画の見かけタイロン・パワー並みのイケメンですが、
これはこれでかなり問題のある男でした。



陽キャでやたら厚かましく、押しが強いんだこれが。
翌日の食堂車で生徒たちの目も構わず、グイグイ自己紹介。



彼女らのホテルの予約がキャンセルされて困っているのを見るや、
軍人枠の自分の部屋をチェックアウトして彼女らに部屋を譲り、

・・と見せかけて、彼女らの部屋に鍵を使って堂々と入っていきます。
そして、あなたはストーカーなの?と詰る教師に向かって居丈高に、

「いいか、ここは僕の部屋だぞ!」

「あなたはチェックアウトしたはずよ」

その通り。
チェックアウトした部屋に鍵を使って侵入、これは立派な犯罪です。

しかし、逆ギレしてお前が部屋を奪ったんだろうと相手を犯罪者呼ばわり。
僕は軍人だから、もし揉めても追い出されるのはそちらだと脅迫するので、
世間知らずの女性はすっかり相手に気圧されてしまいます。

「・・・ねえ、キャプテン」

「大尉だ!」

「どうか寛大な対応を」

「宥和政策には反対だが平和交渉には応じる」

つまり、部屋を出ていってやるから、その代わり夕食を一緒にしろ、
何なら朝まで自分と一緒に過ごせと。

なんだ、ただの女好きの卑怯者か。

ジルもそう思ったらしく、

「That isn't gold on your uniform - it's brass!」
(あなたの制服についてるのは金じゃなくて真鍮ね!)

言ってやれ言ってやれ。

案の定この部分は、ほとんどの評論家や鑑賞者に不評です。

戦争コメディ?ならこれもありだと思いますけど、戦闘部分が
戦時中ということもあって、シリアスなだけに皆違和感を感じるようです。


その後、大使館のパーティに彼女を連れ出したワードは、
(なぜかパーティの時だけ夏用の第二種軍服を着込むあざとさ)
すっかり浮かれた彼女にここまでやってしまい、彼女も拒否しません。

おいおい、あんた彼氏がいるんじゃなかったのか。

男はこれはいける!と次の日の夕食の約束も取り付けますが、
ジルは「ワシントンより家の方が安全」という置き手紙を残し
生徒を連れてニューロンドンに逃げ帰ってしまいました。

たった一泊で旅行を切り上げさせられる生徒もいい迷惑だ。



めげないワード・スチュアート、今度は学校まで追いかけてきました。


「君、約束を破ったね。チャンスをあげよう。今夜夕食を一緒に」

立派な変質者ですありがとうございま(略)


珍しく彼女がワードの誘いをキッパリと断ることができたのは、
今カレとのデートの予定が既に入っていたからでした。

将校クラブでのディナーの席で、何を思ったか彼女は、
いきなりデューイ・コナーズに逆プロポーズをかまします。

「結婚して」

あなたが繋ぎ止めてくれなくちゃ、あの男を好きになりそう、ってか?

デューイだって結婚したいのは山々ですが、現実的な彼は、
戦時中である今だからこそ生活に安定が必要なので、給料や家のこと、
子供の教育費のことなんかを考えると、中佐に昇進するまで待ってほしい、
と熱くなっている恋人に水を浴びせるようなことをいうのでした。堅実か。

しかしながら、恋に恋する乙女には、堅実も度を過ぎると
しらけてしまうんだよな。知らんけど。



お互い知る由もないことながら、同じ女性を好きになった艦長と副長を乗せ、
潜水艦「コルセア」がいよいよ哨戒に出航することになりました。
ちなみにこの撮影で使用されたのはUSS 「マーリン」Marlin (SS-205)で、
司令塔は姉妹艦USS 「マックレル」Mackerel (SS-204)に似せてあります。



"Takin' 2 and 3. Takin' 4. Takin' 1."

潜水艦初乗艦のはずのスチュアート大尉、ちゃんと任務をこなしています。
舫を外す順番なんて、いきなり来た魚雷艇の人にはわからんのとちゃう?

「右舷3分の2後退。左舷3分の1後退。舵中央」
これもお試しで乗ったことあるくらいでは多分無理な指示じゃないかしら。
でも普通にやってしまえるスチュアート大尉、なぜならこれは映画だから。



「コルセア」チーフのマックが、出港後も何やら具合が悪そうで、
薬を飲んでいるのを、コックのオリバーが心配そうに見ています。
オリバーはこの時代、調理係として乗り組むこともあった黒人兵の一人です。
海軍は陸軍のようにセグレゲート(人種分離)システムを持たず、
一つの船に普通にアフリカ系が勤務していました。
船を分離するわけにいかないからですね。

オリバーはマック先任が飲んでいるのがニトログリセリンで、
心臓が悪いらしいことまで突き止めますが、マックはこの黒人兵を
まるで犬でもあるかのように、うるさそうに追い払うのでした。


哨戒24日目、「コルセア」はスウェーデン船籍の貨物船を発見しました。


敵ではないので臨検を行うべく浮上し、船尾旗を掲げました。



「ブンダバー!」

あ、わかった。これドイツ人の船や。



艦長は臨検のためスチュワート副長を送ることにしました。
ゴムボートに乗る彼に「PTボートほど速くないがね」と嫌味を言いながら。

ワード、潜水艦上でもPTの素晴らしさを語りすぎて嫌われてる、と_φ(・_・


ゴムボートが近づくと、貨物船はメインマストにナチスの旗を揚げました。

このように、映画でアメリカ軍が貨物船など一般船を攻撃するときには
相手は必ず「卑怯な偽装」をしているものです。

なぜなら、戦争中であっても、アメリカ軍が軍艦ではなく
一般人殺害をするためには、理由(言い訳ともいう)が必要だからです。


船の横っ腹がどうなってるんだというくらい大きくパカっと開くと、
なんと!アメリカ製のブローニング銃がこちらを撃ってくるのでした。

副長はゴムボートをUターンさせ、潜水艦に飛び乗って急速潜航。
題名通りの「クラッシュダイブ」ですな。

「クラッシュダイブ」についてのネット情報を集めたところ、以下の通り。

通常の潜航では、潜水艦がバラストタンクで沈むため、
潜水面は最小の下降角度に設定され、ゆっくりと水没します。

しかし、クラッシュダイブを行うとき、つまり緊急に潜航するには、
タンクは浸水し、潜水面は極端な下降角度に設定され、
プロペラは実際に潜水艦を潜らせるために使われます。

緊急時とそうでない時の降下角度の違いは20〜25度もあるのだとか。


潜航後鎮座した「コルセア」に、ドイツ船は爆雷を落としてきました。
貨物船のふりをして、一体どこにY字型爆雷なんて積んでたの?


一連の爆雷に耐えた後、艦長は余裕で10分間喫煙休憩などと言い出します。
あほですかこの艦長は。
こんなもので済むわけない&潜水艦内でタバコ吸うな。
案の定この後、しつこいドイツ軍に強かに攻撃を受けるんですけどね。

再々ここで書いていますが、第二次世界大戦時代の潜水艦には
空気浄化装置が搭載されておらず、
供給された限られた空気をすぐに使い果たしてしまうため、
海中での喫煙は決して許可されませんでした。

喫煙は浮上している間のみ許可され、乗員は船体の外、甲板上、
または「タバコ甲板」として知られる司令塔の後部の特定の部分、
いずれかで喫煙することになっていたはずです。

戦時中の映画なのになぜこうなるかというと、繰り返しますが、
喫煙という行為が各所で象徴的に扱われているからだと思います。

この時も最初の出会いと同じく、艦長は煙草を切らしていて、
副長スチュアートが分け与えるということになります。


ドイツ船がしつこいのと、艦体に破損も出たということで、
艦長はおなじみ「潜水艦死んだふり作戦」を命じました。

これは後年潜水艦映画で多用されすぎて、しまいには
女性下着を放出するというネタまで(ペチコート作戦)生んだほどで、
潜水艦好きなら知らない人がないくらい有名なネタとなりましたが、
この頃はまだ情報として新鮮だったのかもしれません。



救命胴衣、服、空箱を油と一緒に海面に放出した「死んだふり」に
疑うことを知らないドイツ人たちはあっさりと騙されてくれました。

「ブンダバー」また言ってますね。


しかし副長、ここで逃げるのではなく、反撃を行うことにしました。


チーフに魚雷の装填が命じられました。

これってチーフが行うことなんかな?と素人は思いますが、
まあ人手不足ってこういうことなのかもしれません(適当)



日頃魚雷発射係をしているらしいチーフは、魚雷発射管の上に
金色の布袋さんの像を飾っていて、いざという時には
そのお腹を撫でると射撃が成功するというジンクスを持っています。
どこから来たのか布袋さん。



そして、羨望鏡を覗きながら発射指令を行う副長も、面白いことに、
両手の指を発射の瞬間鉤型にぎゅっと組む動作をしています。
アメリカ人が話しながらよくやるお馴染みのやつ。
一般に、人から聞いた言葉が実際には本当ではないと思ってるときに使うので、何故魚雷発射でこれをするのか検討もつきませんが、
現役の潜水艦乗りから取材して採用された動作かもしれません。

そして副長、魚雷が命中したのを見届けると、鉤を解き、にっこりと笑います。
このこなれっぷり、とても今回が潜水艦初勤務とは思えません。

っていうか、昨日今日PTボートから来た奴には、ぜってー無理だよね。
当時もし本物の潜水艦乗りがこの映画を観たとしたら、
んなわけあるかい!ときっと呆れてたと思うんだ。


続く。


映画「潜航決死隊」Crash Dive〜戦時下の三角関係

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第二次世界大戦中の戦争映画「クラッシュダイブ」続きです。



副長として乗艦した最初の哨戒を無事成功させたワード・スチュアート大尉。

艦長コナーズの彼に対する第一印象は、決してよくなかったものの、
勝てば官軍終わりよければすべてよし、ということなのか、
ニューロンドンに帰港する艦橋で機嫌良さそうに、

「そのうち(君の乗りたくなるような)潜水式の魚雷艇が誕生するかもな」

とPTボート大好きマンのワードへのリップサービスをします。

これに対しワードは、50ノットの潜水艦なんていいですね、と言いますが、
2022年、つまり映画からサクッと70年後の現在では、
原子力潜水艦なら45ノット近くまで速度を出せるものがあるようです。

彼らの頃には高速駆逐艦でも最高時速40ノットちょっとが限界でした。
ワードは夢のような速さのたとえとして50ノットと言いましたが、
流石に潜水艦の50ノットは、今後も不可能かと思われます。

この時二人は初めて互いをファーストネームで呼び合い、
ポケットをまさぐるデューイにワードが煙草を薦めます。

二度目の共に喫煙シーンです。





彼らの潜水艦「コルセア」は帰還しました。
司令塔の潜望鏡にお約束のほうきをくくりつけて入港です。

これは特に潜水艦が「Clean Sweep」=海から敵を一掃したとして、
哨戒を成功させて帰港する際行う慣習です。

この慣習は1650年代オランダが発祥と言われていますが、
第二次世界大戦中の米国潜水艦部隊で盛んになりました。
箒を立てる基準は「すべての標的を沈めた場合」でしたが、
どの程度が「全て」なのかは判断の難しいところだったかもしれません。

哨戒とそれに伴う掃討作戦という潜水艦の出撃形態がなくなった今では、
せいぜい海上公試全てに合格した軍艦が箒を立てて入港するくらいで、
伝統は細々と意味合いを変えて継承されています。



それにしてもこのシーンには驚きました。
当時のアメリカには潜水艦士官用の日光浴サロンなんてのがあったんですね。

「あー、パームビーチを思い出すなあ」

「最初から魚雷艇に乗っていたらこんなことする必要ないんですけどね」

まだこいつ魚雷艇の話をするか。パームビーチはフロリダ半島の左っ側のリゾート海岸です。




それから二人は将校クラブで「豪遊」開始。

「豪遊」とは、テーブルに着くなりセロリに歓声を上げてまず丸齧りし、
次々と生野菜、新鮮な牛乳とバター、果物を貪り食うこと。

紹介帰りの身体が求めているってことなんですね。

バターが来るなり歓声を上げて、1センチの厚切りにし、
二つ折りにしたパンに挟んでそのまま齧り付くってどんだけ。



給仕のリーさん(中国系)が運んできたのは特製野菜と果物の盛り合わせ。


牛乳ゴクゴクー

「sea cow(ジュゴン)からは牛乳取れませんからねー」

中国人リーさん精一杯の英語ジョークです。



その時デューイに電話が取り継がれました。
てっきり恋人のジーン・ヒューリットが折り返してきたのだと思い、

「ハローダーリン、アイラブユー💓」



「・・それはどうもご丁寧にありがとう、デューイ」

ブライソン司令は、今回の哨戒成功に対し功労賞が与えられるので
代表として艦長にワシントンに出張するよう命じてきたのです。



「コルセア」のチーフ、マックにも昇任の話が持ち上がりますが、
彼は健康を理由に、それを辞退しようとしています。

なぜか彼のことが好きでたまらない黒人スチュワードの
オリバー・クロムウェル・ジョーンズ水兵は、
退役後の年金が上がるから、辞めるにしても話を受ければ?と心配します。

しかしマックの昇進辞退の理由は実は他にありました。

彼は、先の大戦で、潜水艦配置を健康を理由に拒否していました。
しかし、本当の理由は潜水艦に乗るのがどうしても怖かったからでした。

その後、彼は自分が乗るはずだった潜水艦が哨戒で撃沈され、
乗員全員が戦死したことを知ります。
以来彼はずっと、潜水艦から逃げた弱い自分を許せずにきたのでした。
そんな自分にこれ以上の昇進など許されないというマックに、
息子のような歳のオリバーは、こういうのが精一杯でした。
「人間は誰だって完璧じゃありませんよ」



さて、ここはジーン・ヒューイットが先生を務めるなんちゃら女学校。
アーチェリーの授業が行なわれています。

女学校でアーチェリーの授業なんかやるか?と思われるかもしれませんが、
アメリカ、特に東部の学校は、小中高を問わず敷地が広いので、
寄宿制のプライベートスクールならばありだと思われます。

例えば昔MKをサマースクールで参加させていたボストン郊外の小学校は、
プールはもちろん、広大な芝生の専用サッカー場が何面も完備、
なんなら夏にはボストンレッドソックスの選手をコーチに迎えて
ベースボールキャンプをするくらいのグラウンドがありましたから。

それにしても、このジル・ヒューイットとかいう先生の服装がすごい。
白のミニスカートに真っ赤なウェッジソールのサンダルでアーチェリーって。
体育の授業を行う格好にしては、非実用的で派手すぎないかい。


そこに、1941年型のマーキュリーコンバーチブルを学校内に乗り入れ、
迷いなくこちらに向かってやってくる男がいました。

イケメンストーカー、ワード・スチュアートです。



まーた始まった。

乱入男のために授業を中止し、生徒を追っ払って二人きりになる教師、
夕食の約束をしないとここから出て行かないとまたしても脅迫する男。

どっちもおかしいよ?



その夜のデート、しっかり着飾って車に乗ったジーンを隣に乗せ、
ワードは行き先を言わず、かれこれ3時間も車を走らせています。
すでに州境を越え、車はマサチューセッツに来ていました。
普通なら一体どこの山の中に連れて行くつもり?とか心配になりませんかね。



彼が連れてきたのは自分の実家でした。
豪邸から執事が出てきてお出迎え。
なるほど、これが見せたかったのか。

騙されて自宅に連れ込まれた!ととりあえず女が怒って見せていると、



自称サバサバ系の金持ちばーさんが出てきて、
「新しい娘(こ)?」「ふーん、今度のはよさそうね」
などと謎の上から目線で品定めされ、
いつの間にかペースに巻き込まれて居座る羽目になりました。

この孫にしてこの婆あり。




婆さん、タバコをスパスパしながらアルバム紹介。



そろそろ帰らねば、というジーンにワードはタバコを勧め、その際、
ケースに挟んであったジルの写真(新聞からの切り抜き)をチラ見せ。

「最初に見た時衝撃を受けた」

「航海中も君のことばかり考えていた」

と懸命に口説くのでした。


ニューロンドンに着いたときには、すっかり朝になっていました。

ワードは自分の海軍兵学校のクラスリングを彼女の指にはめて口説き、
(今まで同じ手を何度使ったんだろう)
やっぱり最後はこうなってしまうのでした。

彼氏がいるのに、男が強引なのをいいことに、
案の定なるようになってしまう女性に対し、ほとんどの赤の他人は
(これが現実ならば)嫌悪感のようなものを持つのかもしれません。

しかし、もし現実にタイロン・パワー並みのイケメン海軍士官、
高級車と豪邸に執事付き、ボストンの名家御曹司がぐいぐい迫ってきたら、もうこれは白馬に乗った王子様がネギ背負ってやってきたみたいなものです。
今カレの小市民ぶりにうんざりしているジーンのような上昇志向の強い女、
自己評価が無駄に高い女ほど簡単にこうなってしまうのかもしれない。

映画「サブマリン爆撃隊」も、金持ちの御曹司が海軍に入る話でしたが、
その財力にものを言わせて、リッツやホテルのディナーで女性を口説き、
女性も案外あっさりとその気になっていましたっけ。

つまり映画は、それに共感する層をターゲットにしているのです。
映画は大衆の望みを再現しようとしますから。

ワードは美貌と財力、家柄能力を兼ね備えた完全な男として描かれます。
そんな男に自分が熱烈に求められることを夢みる女性たちのために。



翌日、ニューロンドンの潜水艦基地には、
ワシントンに出張に行っていたデューイを乗せた連絡機が帰ってきました。

海軍はワシントンとの往復も水上機で行なっていたのでしょうか。



二人で牛乳をがぶ飲みしながら次の任務の打ち合わせ中、
中佐に昇進したデューイは、これで結婚するつもりだ、と言い出します。



おめでとうございます、と言った途端、ワードは寝室に飾ってある写真が
今朝別れ際に熱く抱擁した女性と同一人物であることに気づきました。



ショックを受けたワードは、将校クラブにいるというジーンに会いに行き、
どんなつもりで二股しているんだ、と相手を問い詰めます。女の言い訳は以下の通り。

1、最初は関係ないと思った
2、でも違った
3、あなたとは会わないように努力したけどあまりに強引だった
4、デューイのプロポーズは断る
5、あなたの言葉に私は心を打たれた
6、デューイを愛していない
7、あなたが現れなければ彼と結婚していた
8、今からデューイに正直にいうべきだと思う



その時。

「その(正直に話す)必要はない!」

たった今、全部聞いてしまったからですねわかります。
デューイ、君怒っていいよ。



USS「コルセア」は、気まずい二人を乗せて出航してしまいました。

おずおず声をかけるワードを、デューイはミスター・スチュアートと呼び、
その話は帰国するまで一切するな!と冷たく釘を刺すのでした。



まあここからは仕事だから切り替えていこう。

今回の任務は、ドイツ軍のUボート基地を見つけ、破壊することです。
しかし映画評ではこのシーケンスの評判もめっぽう悪い。

「北大西洋にあるドイツ軍のUボート基地?それはどこにある?
第二次大戦中の潜水艦の性能を考えると、
その基地はブロック島(カナダ)かマーサズ・ヴィンヤード、最悪でも
ニューファンドランドのグランドバンクでなければならないだろう」

「映画は、ナチスが大西洋の神話上の小島のどこかに
秘密の潜水艦基地を建設したなんてことを信じろというのか。

彼らはニューロンドンからほんの短い航海で基地に到着するが、
さて、ナチスは一体どこで活動していたのだろう」

マーサズ・ビンヤードはボストン沖のケネディの別荘地がある島です。
たしかに映画にの表現(帰港時乗員の髭が全く伸びてない)を見る限り、
これ絶対近場しか行ってないよね、と思われても仕方ありません。

もっと辛辣な批評者は、

「実際に軍隊に入り、戦地を知っているタイロン・パワーは
後年これを見てその馬鹿馬鹿しさを笑っていたに違いない」

とまで書いています。

しかし、実際のところ、第二次世界大戦中の米国の潜水艦は、
真珠湾から日本の本拠地に行き、数週間パトロールし、
ディーゼル燃料の単一のタンクで真珠湾に戻っていました。

ガトー級潜水艦なら給油なしで11,000マイルをカバーできるため、
グロトンからドイツの本拠地をパトロールし、
帰ってくることができたと考えられます。

ナチスの基地はきっとグリーンランドにあったんじゃないかな(適当)


それから、前にも一度書きましたが、アメリカの潜水艦は、
大西洋側にはほとんど哨戒にも出なかったと言われています。

連合軍は基本的に大西洋にいる潜水艦=ドイツ軍のUボートだと考え、
有無を言わさずその場で攻撃される可能性が高かったためです。

実際、あるアメリカの潜水艦は、この映画の舞台であるニューロンドンから
大西洋を通ってパナマ運河に向かいましたが、その後消息不明になりました。
いずれの側からかはわかりませんが、攻撃され喪失したとされています。

それでも映画で大西洋で戦う米潜水艦の話がなぜ後を絶たないかと言うと、
前にも言ったように、そこには「Uボートがいたから」に違いありません。




哨戒中、副長ワードは油槽船を見つけ、撃沈しようとしますが、
艦長は即座にその提案を拒否します。
てっきり私情を交えたイジメか?と思ったらそうではなく、艦長の考えは、
油槽船をつけていって、敵基地を発見することにありました。

防潜網も一瞬開くので、一緒に潜り込めば良いと。
しかもタンカーのプロペラの後方をついて行けば機雷を避けられます。

そんなうまい話があるのかと思いますが、そう言うことにしておきます。



目論見通りタンカーはナチスの基地に潜水艦を連れて行ってくれました。
向こうに見えているのはアルプス山脈だと思います(適当)



機雷原の長いトンネルを抜けるとナチス海軍基地であった。by川端康成
だからそれはどこにあるんだよう!


艦長は、早速志願者からなる陸戦隊を派遣して爆破作戦を決行します。
急襲部隊を率いるのは副長のスチュアートです。



上陸部隊は夜陰に乗じるため顔に墨を塗って黒くしますが、
黒一点のオリバーは自分は必要ない、とおどけます。

オリジナルは
”I'm the only born commando here!”
で、コマンドーは水陸両用奇襲部隊のことですから、
『ここで俺だけが生まれながらのコマンドーだ』
となります。

普通に人種差別ネタですが、今ならポリコレがあって
こう言う基本的なギャグも言えなくなっています。

本当ポリコレって(略)



ワードは、生きて戻れなかった時のために一言だけ、と断ってデューイに

「私のことはどうでもいいが、ジーンを責めないで欲しいんです。
自分はあなたとジーンの関係を知らなかった。
知っていたらあんなことにはなっていませんでした」

言いたいことはわかるが、出会った途端ガンガン口説き始めて
彼氏の有無も知ろうともせず、相手に考える隙も与えなかったのは誰?

それに、その理屈なら、悪いのは自分ではなくジーンだって言ってない?
実際この件で誰が一番悪いかというと、二股した彼女なんだし。



まあそれはどうでもよろしい。実際どうでもいいし。


8人の上陸部隊は浮上して舟艇に乗り込み、30分の間に
敵をなんとかしてこいというミッションを与えられました。

上陸後、タンク、弾薬庫など、どこに何があるかわからないのに
彼らはチームに分かれて爆破活動を開始します。



歩哨の隙を見てタンクに爆発物をテープで貼り付けて仕掛け、爆破。



ピースオブケーキ=あっさりと成功です。



チーフのマックとオリバーのチームも爆薬倉庫の爆破に成功。
ドイツ軍、ちょっと油断しすぎじゃないかい?



地上が混乱している隙に、潜水艦の魚雷が港湾の艦船を襲います。

このシーンで、燃える海に人が飛び込んでいるのですが、
どうやって制作したのか、合成映像となっています。

この時代にしてはすごい技術で、後から知ったところによると
本作品はこの襲撃シーンの特殊効果でオスカーを取っているのだとか。



「ファイア・ファイブ・・・ファイア・シックス」



容赦無く畳み掛けるように船を攻撃する潜水艦。
弾薬は勿論きっと燃料もぎりぎりまで使い果たしたに違いありません。



ここで実行部隊に犠牲者が出ました。
撤退の際、チーフのマックが銃弾に斃れたのです。

瀕死のマックは泳いで逃げるオリバーとワードを掩護するため、
最後の力を振り絞って立ち上がり、敵を掃射して海に落ちて行きました。

燃え盛る海面を潜水艦まで戻るため、二人は息を止めて
海中を泳ぎ切りました。



潜水艦は先ほどからの攻撃で潜望鏡が破損し潜水することができません。

艦長は海上航走で退避することを決定しますが、その方法がすごい。
自分が艦橋に残り、潜水艦の目となって操舵の指示を行うというのです。



この状態である。

潜水艦が9メートル沈降して、その深度を保ったまま進むと
自動的に上に立っている人は胸まで海水に浸かることになります。

詳しい方も多いのでマジでお聞きしたいんですが、
これは現実的には可能なんですか?

胸まで海水に浸かっていたら流されないかとか、中と外で、
しかも外の人は肩まで水に浸かっているのに交信できるのかとか。

周りでは流出した油で火が燃え盛ってるし、どう考えても無理ゲーですよ。

しかも艦長、この状態で外から指示して、湾内に停泊したドイツ船を狙い、
魚雷攻撃で撃沈させたりしております。



潜水艦はその状態でようやく湾口に辿り着きました。

少し安心した艦長が深度を7メートルまで上げさせます。
胸まで浸かっていた状態からちょっとマシになるかと思ったのですが、



ちょうど沿岸の砲撃隊からの攻撃があり、運悪く艦長負傷。



皆が慌てて艦長を艦内に引きずり入れました。
床に倒れたままの艦長、なんとここで煙草を所望するではありませんか。



すかさずワードがポケットからシガレットケースを差し出すと、
(この人さっき海中を潜って泳いできたばかりじゃなかったっけ)
中からジーンの写真がこれみよがしに落ちました。

な、なんてことするだー!

今にも死にかけてる人に、その仕打ちは酷すぎませんか。

しかし、艦長はそれを見ても眉ひとつ動かさず、

「(落ちないように)貼り付けておけ。失くすぞ」

と一言。
これは自分は身を引くから二股女とよろしくやれという意味でよろしいか。


次の瞬間「コルセア」は無事にニューロンドンに帰還しました。
潜望鏡が壊れて潜水できない状態でよく無事に帰ってきたものです。

この映像は本物の潜水艦ですが、



次の映像からセット撮影になりました。
折れた潜望鏡の間には「お掃除完了」の箒もちゃんと立ってます。



艦長、死にかけてたと思ったけど、軽傷だったみたいでよかったですね。



そして次の瞬間ジーンとワードは早々と結婚を済ませているのでした。

ボストンの実家を訪ねるジーンは、早速ミンクのコートを着込んでいます。
女学校の先生をやめてクラスがアップしたって感じでしょうか(嫌味)



実家で叔父のスチュアート提督と二人になった甥スチュアートは、
まだ潜水艦より魚雷艇がいいか、と質問され、こう答えます。



「魚雷艇は最高です!」



しかし、とつづけて、



「潜水艦は七つの海を股にかけ大活躍している」


「航空母艦は敵艦を沈める爆撃機を乗せており」


「巡洋艦はそんな航空母艦の護衛を行う」



「そして、弩級戦艦、超弩級戦艦」
ドレッドノート、スーパードレッドノートと言っています。



「そこから放たれる砲弾の威力は計り知れない。
各々が役割を果たし、一丸となって戦っているんです」



「任務に優劣などなありません」



「兵士たちは高速魚雷艇、潜水艦、沿岸警備艇、
機雷敷設艦、補給艦、軍隊輸送艦、強襲揚陸艦、油槽艦に乗る。
それらを動かし、戦地に赴くのです」

海軍だけでなく沿岸警備隊にも気を遣っていますね。



「それが海軍です。アメリカ合衆国海軍なんです!!!」

音楽はいつの間にか「錨を揚げて」になっています。

甘ったるいラブストーリーを冗長に展開していたと思ったら
いきなり早回しで都合良いところに落としこんでからの、
このゴリゴリなジンゴイスト的エンディング。

そうか、ただの国威発揚映画(ロマンスのおまけ付き)だったのか。



終わり。



最終兵器を求めて スカウトD〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空宇宙博物館の展示より、今日もまた
宇宙開発(という名の兵器開発)の過程で建造されたロケットを紹介します。
■最終兵器

冷戦が始まると同時に、米ソの戦略家と国家指導者たちは、
いかに敵の心臓部を素早く攻撃できるかという方法を模索し始め、
その答えは終戦と同時にドイツから持ってきた
「フライングボム」=飛行爆弾にあると考えられました。

つまり、のちの巡航ミサイルです。

しかし、ドイツから召し上げた初代巡航ミサイルのV-1は低速で精度が低く、
さらにそれを発展させたV-2も、ミサイルの原型としてはともかく、
この時代に使うには、あまりに精度も射程も不十分でした。

なにしろ冷戦時代の米ソは、ドイツがV-2で相手にしていた国との距離など
問題にならない遠方の敵にダメージを与えないといけないのですから、
それだけに状況に合った性能を持っていなければ話になりません。

そこで両国の技術者たちは、これらドイツの技術を発展させ、

V-1は長距離巡航ミサイル( long-range cruise missile )
V-2は大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile ICBM)
へと改良されていきます。

【ナバホとトマホーク〜長距離ミサイル】



1946年に開発が始まったナバホミサイル(SM -64 NAVAHO)は、
ラムジェットエンジンを搭載し、長距離を飛翔する
大陸間巡航ミサイルを目指していました。

アメリカが戦後最初に取り組んだプロジェクトで、
V-2ロケットのエンジン研究から、より効率の良い新しい設計が試みられました。

1950年代には、無人による長距離飛翔体爆弾は、
まだ技術的に射程距離や精度が不十分で、
簡単に撃ち落とされてしまうという問題がありました。
1958年までの間、ナバホの研究は継続されていましたが、
そうこうしているうちに
長距離弾道ミサイル(ICBM)が実用化される見通しとなり、
開発の必要がなくなり中止されました。


【巡航ミサイルの分類】
1970年代に入ると、推進装置、電子機器、誘導装置の小型化が進み、
さらに偵察衛星によって詳細な地形図の情報が得られるようになってくると、
巡航ミサイルはいよいよ通常兵器や核兵器を搭載して実用可能となります。

巡航ミサイルの定義は、

「翼を持ち、推進力を伴って長距離を飛行し目標を攻撃するミサイル」

ですが、サイズ、速度、射程距離、発射される設備によって名称が違うので、
一応全部書いておきます。

ALCM( air launched cruise missile、空中発射巡航ミサイル)

GLCM(ground launched cruise missile、陸上発射巡航ミサイル)
SLCM(surface ship launched cruise missile、水上艦発射巡航ミサイル)
SLCM(submarine launched cruise missile、潜水艦発射巡航ミサイル)


水上艦と潜水艦の略字が同じですが、これはどちらでも通じるってことかな。
ちなみに空中や潜水艦から発射されるものは、運用の関係から
陸や艦から発射されるものより小型化されていました。

また、何を攻撃するかによっても名称が違います。

対艦攻撃:ASCM(anti-ship cruise missile、対艦巡航ミサイル

対地攻撃:LACM( land-attack cruise missile、対地巡航ミサイル)
また、巡航速度によっても二種類に分けられます。
亜音速巡航ミサイル(subsonic-speed cruise missile)
超音速巡航ミサイル( supersonic-speed cruise missile)
また誘導装置もミサイルによって異なり様々でした。

慣性航法、TERCOM、衛星航法など。
さまざまな航法システムを何種類も搭載できるミサイルもありました。

大型の巡航ミサイルは通常弾頭と核弾頭のどちらかを搭載することができ、
小型のものは通常弾頭のみを搭載することができます。

【トマホーク】


トマホーク
トマホークは、上記の分類に入っていませんが、分類としては
陸地攻撃ミサイル(ランドアタックミサイル・TLAM)です。

トマホークも分類分けしてみると、

海軍開発、艦船・潜水艦ベースの(SLCM)

陸上攻撃作戦に使用する(LACM)、

長距離、全天候型、ジェットエンジン搭載の
亜音速巡航ミサイル(Subsonic)

などがあります。
潜水艦から発射!

トマホークは、直近では2018年のシリアに対するミサイル攻撃で
米海軍が使用し、この時には66発のミサイルが
シリアの化学兵器施設をターゲットに発射されています。


【大陸間弾道ミサイル  ICBM】

ドイツのV−2から始まった長距離弾道ミサイル。
音速の5倍の速さ(極超音速)で移動することができ、
地上からの信号にも依存しないICBMは、当時にして
「究極の兵器」「最終兵器」と思われました。


1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
アメリカ軍はB-52ストラトフォートレス爆撃機を
戦略的抑止力の主役にしていたというのは何度もお話ししてきました。

しかし、冷戦時代、ソ連が国力を上げてV-2の技術を改良しているとき、
相変わらず戦略爆撃機に重点を置いていたことは、宇宙開発の初期に
アメリカがソ連に引き離された原因の一つとなります。

なぜかというと、アメリカは最初、軍民宇宙計画に明確な区別をつけず、
ヴァンガード計画も表向き純粋な科学研究のためとしていた上、
科学衛星計画は非軍事という認識(というか建前)があったからです。
しかも、宇宙計画の責任や打ち上げ計画は、
実質軍部に任されていたというのに、肝心の空軍が
有人戦略爆撃機至上主義から一歩も出ていませんでした。
一方、ソ連はなまじ長距離爆撃機の戦力がアメリカに劣っていたため、
最初からV2を発展させて利用することに前向きでした。

そして国家の総力を挙げて開発したのが、
スプートニクを飛ばしたR-7ロケットです。


【ミサイルギャップ】

ミサイル「ギャップ」と打ったら、すかさず「ギャップ萌え」と変換される
わたしのPCですが、萌えている場合ではありません。

アメリカは、世界一の座にあぐらをかいていたのでしょう。

各種核兵器を現地に送り込む最も確実な方法は戦略爆撃機であり、
その方法ならソ連に負けるはずがない、と思いこんでいたのです。
しかし、同じドイツから技術と技術者を引っ張ってきておきながら、
ほとんど彼らを飼い殺しにしていたアメリカと違い、
ソ連はV-2技術を発展させ、世界初のICBM、R-7を作り、
そしてスプートニク1号を打ち上げてしまったのは歴史の示す通り。

アメリカの自尊心と自信をぶち壊したこの「スプートニク・ショック」は、
核の運搬方法において戦略爆撃機を上回る方法を敵に先に開発された
ということに対する恐怖を伴っていました。


【究極の武器とICBMの決定】

技術の進歩により、初期のミサイルはさらに強力な
「最終兵器」へと近づいていきます。

小型の熱核弾頭の開発は、広島と長崎に投下された原子爆弾よりも
遥かに強力な破壊力をミサイルに与えました。
1954年初め、アメリカ空軍にある極秘報告書が提出されました。

この極秘文書の内容は、最近の核兵器技術の進歩を踏まえた上で、
弾道ミサイルの効果を再評価する内容となっていました。

ミサイルギャップの時に議論されたことですが、この時戦略ミサイル評価委員会は、
長距離弾道ミサイルでロシアが米国に先行する可能性を懸念し、
空軍にミサイル開発を "極めて高い優先順位 "で扱う指令を下したのです。


■ポラリスミサイル 〜テクニカル・ブレークスルー

アメリカは、1953年までに水素爆弾を小型・軽量化することに成功しました。
つまり、ICBMの本体を大きく作る必要がなくなったのです。



1954年に南太平洋で行われたキャッスル作戦の「ブラボー」実験で、
小型化した新しい水素爆弾の実用性が確認されました。

ICBMの時代が到来したのです。

ちなみに、日本の漁船「第五福竜丸」が被爆したのはこの実験でのことです。

その後貯蔵可能な液体および個体推進剤により、ICBMS(大陸間弾道ミサイル)は
地下サイロや、SLBM(submarine-launched ballistic missile)
つまり潜水艦から発射することができるようになります。
また誘導システムの改善により、精度が劇的に向上しました。


1960年にテストされたポラリスA-1はアメリカ初のSLBMでした。

潜水艦という検出され難い装備から放たれるSLBMは当時
最も有効な戦略核兵器システムとして評価され、米ソ両陣営で1960年〜65年ごろ配備されました。

ソ連側はSLBMと潜水艦をセットで開発して運用しています。

ちなみに、映画「K-19」で原子炉事故を起こした話が描かれた
「カ-19」は、ソ連海軍最初のSLBMを搭載した原子力潜水艦でした。

また、1970年代初頭には、
MIRVS Multiple independently targetable reentry vehicle
マーヴ、複数個別誘導再突入体
ひとつの弾道ミサイルに複数の弾頭(一般的に核弾頭)を装備し
それぞれが違う目標に攻撃ができる弾道ミサイルも現れます。


分かりやすいマーヴの弾道軌道イメージ
■スカウト:NASAの’ワークハウス’(主力製品)



この写真では右の、「UNITED」の文字が見えるのがスカウトです。

細長い円筒形で、ロケットの約半分まで徐々に細くなり、
直径の小さい第2段、直径の大きい第3段、第4段、
ペイロードセクションが熱シールドフェアリングに収納されています。

第1段の底部には4枚の固定式三角形空力フィンがあり、
フィンの外側は可動式で、方向制御と安定性を補助しています。

インジャンV(エクスプローラー40)とエクスプローラー39の
バックアップ衛星の2つのペイロードが見えるように、
この標本は上部が切り取られています。

1968年8月8日、スカウトDはオリジナルのペイロードを打ち上げました。


NASAが結成されて最初のタスクとなったのは、小型衛星と探査機を
宇宙に打ち上げるための信頼性の高いロケットの開発でした。

その結果NASAが開発したのはその歴史で最も小さかった

スカウト(SCOUT Solid Controlled Orbital Utility Test system)

です。
NASAは新しいロケットをできるだけ早く稼働させたかったので、
既存の固体推進剤ロケットのコンポーネントを使用して、
つまり既製品を使ってロケットを製造しました。

1段目は海軍のポラリスミサイル、
2段目は陸軍のサージャントミサイル、
そして上2段は海軍のヴァンガードからと言った風に。


短距離弾道ミサイル MGM-29 サージェント(Sergeant)

カリフォルニア工科大学と陸軍が開発したサージャントについては
少し前にもお話ししています。

スカウトに陸海ロケットを混ぜて使ったのは、忖度か内部事情か、
あるいは本当に科学的な理由によるものかは分かりません。

スカウトは「全米で最も成功した信頼性の高いロケット」と言われます。

Solid Controlled Orbital Utility Test system
(個体制御軌道汎用テストシステム)

の頭文字から取られた名称で、これまで打ち上げは118回行われ、
その成功率なんと96%を誇ります。
おそらく、スミソニアンに一緒に並んでいる各種ロケットの中で
最も評価が高く完成度も高い「優等生」に違いありません。

スカウトが打ち上げたのは、欧州宇宙機関のためにドイツ、オランダ、
フランス、イタリア、イギリスの衛星などを含み、
94の軌道ミッション(海軍の航法衛星27基、科学衛星67基)、
7つの探査機ミッション、12の再突入ミッションに関わりました。

スカウト計画に携わることによって、技術者たちは
米国の宇宙開発計画に独自の貢献をしたことになります。



当然ですが、開発当初から、スカウトの構成は進化し続けています。
各モーターは少なくとも2回改良され、ロケットエンジンの設計の改良により、
より大きなペイロードを搭載できるようになっています。

しかし、現在のスカウトG-1の形状は、開発当初とほとんど変わっていません。

確かに

これは取りも直さず、初期の設計の完成度の高さを証明していると言えます。


ロケットの各段には名前がつけられています。
「アルゴル」「キャスター」「アンタレス」「アルタイル」と。

ロケット1段目は「アルゴル」(Algol)。

長さ9,144m、直径114cm。
このモーターは平均82秒燃焼し、最大推力は140,000ポンドです。
下部には、1段目の高度制御用ジェットベーンとフィンの先端があり、
最初の打ち上げ時に機体を操縦します。

第2段目の「キャスター」Castorは、長さ約6m、直径76cmの大きさです。
この段は41秒間燃焼し、6万ポンドの推力を発生させます。


第3段めのロケットモーター「アンタレス」Antaresは、
長さ3m、直径76cm。
第2段と第3段の制御は過酸化水素の噴射で行います。

第4段「アルタイル」Altairは、長さ152cm、直径50cmの小さなものです。
燃焼時間は34秒で、6000ポンドの推力を発生します。
その制御にはスピン安定装置が用いられています。


第4段とペイロードセクションを覆う熱シールドは、
コルクとグラスファイバーのラミネートでできています。

打ち上げ場は、バージニア州ワロップス島のNASAワロップス飛行施設(ワロップスってネットスラングっぽい?)
カリフォルニア州バンデンバーグ空軍基地の西部試験場、
それからアフリカのケニアにあります。



最初のスカウトは1960年に打ち上げられ、その後、モーターを改良し、
進化を続け、1972年に展示されているD型スカウトが登場します。

最後のスカウトが打ち上げられたのは1994年。

このロケットは1977年にNASAのバージニア州ワロップス島の施設より
スミソニアン博物館に寄贈されたものです。


続く。

ミニットマンIIIミサイル〜スミソニアン航空宇宙博物館

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前回まで、戦後のV-2から技術発展させた飛翔体ミサイルについて
歴史的に順を追い、さらにここスミソニアン航空宇宙博物館に
展示されているロケットの実物やレプリカの写真と共に語ってきました。

そして、あっという間に宇宙開発と並行して研究されてきた
ICBMの時代が幕を開けることになった、というところからです。


ソ連もアメリカも、戦後の冷戦の期間に競って研究してきたのは、
つまり「核兵器を運搬するための強力なミサイル」でした。

アメリカに限っていうと、陸上で運用する大陸間弾道ミサイルICBMとして、

アトラス、タイタン、ミニットマン、ピースキーパー(MX)

海上で運用するSLBM潜水艦弾道ミサイルとして、
ポラリス、ポセイドン、トライデント

を配備していました。

ちなみに冒頭写真の真ん中のペールグリーンのミサイルは、
今日ご紹介する「ミニットマン」です。


技術の進歩はミサイルの精度を格段に変えました。
短時間で発射でき、かつ複数の弾頭を搭載できるようになりました。

このように性能が向上したことで、ミサイルはより魅力的な武器となります。


■アトラスとタイタン:宇宙飛行に使われたミサイル

アメリカ初のICBMである「アトラス」と「タイタン」が、
宇宙船の打ち上げロケットとして民間宇宙開発にも使用されたことは、
今まで何度もマーキュリー計画を語る上で触れてきています。
【アトラス】

アトラスは1962年にジョン・グレン宇宙飛行士を乗せたマーキュリー宇宙船、
「フレンドシップ7」を初めて軌道に乗せました。

その後、アトラスは

「エイブル」「アジェナ」「ケンタウルス」

などの上段と組み合わされ、
さまざまなアメリカの宇宙船を打ち上げる役割を果たします。
タイタンIIは、1965、66年にジェミニ計画全10ミッションを打ち上げ、
その後改良を加えつつ、大型の惑星探査機や軍事衛星の打ち上げに使用されました。


アトラスの打ち上げ

宇宙船を打ち上げるのみならず、元々ICBMであるS M-65アトラスは、
兵器として1959年から1965年まで現場に配備されることになりました。
しかし、完成まで長い準備期間を要した割に、
わずか6年で廃止になった理由はなんだったかというと、
雪崩のようにミサイル開発が進んで、たちまち陳腐化したことと、
迅速な発射ができない
という、兵器としては割と致命的な欠陥にあったといわれております。
しかし、宇宙ロケット打ち上げに関しては何の問題もないので、アトラスは宇宙開発の方面で長らく活躍し、その歴史を刻みました。
あの「マーキュリー計画」では、結果的に
宇宙飛行士4名を軌道に乗せる働きをしています。

アトラスの派生形である、
アトラス「ジェナ」、アトラス「ケンタウルス」
ファミリーは宇宙開発の成功の礎を築いたと言っても過言ではありません。

アトラスの推進機構は、2基のブースターの間に1基の主エンジンを持つ、
「ステージ・アンド・ハーフ」方式といわれる液体燃料ロケットです。
Stage-and-a-Halfとは、アトラスロケットが、後に実用不可能となる
多段式ミサイルの製造というリスクを避けて採用した独自の方法で、
2基のブースターとサステインエンジンの3基のエンジンに、
同じ液体酸素/RP-1(ケロシン混合燃料)推進剤タンクを供給し、
発射時にすべて点火するシステムです。

飛行開始後、軽量化の為ブースターを落下させ、燃焼を続けるというもので、
2基のブースター・エンジンLR-89は、ロケットダイン社が開発しました。


フロリダのNASAビジターセンターには、
このアトラスロケットが展示されているということですが、
わたしはアメリカに住んでいた頃、ここに見学に行っていながら、
当時はあまりに宇宙事業に対して基礎知識がなかったため、
アトラスロケットを現物を見たかどうか全く記憶にありません。

フロリダNASAビジターセンター
まあこういう感じで十ぱ一絡げにロケットが林立しているので、
当時のわたしに何らの記憶も残らなかったとしても無理はありません。

わたしが今も強烈に覚えているのは、発射センターを再現した空間で行われる
当時の発射までのカウントダウンの再現と、外にあった
任務中殉職した数々の宇宙飛行士たちの名前を刻んだメモリアルです。


【タイタン】

タイタンIはアメリカ発の多段式大陸間弾道ミサイルで、
同じく1959年から3年間だけ運用されました。
タイタンIは空軍のアトラスミサイルの「予備機」として設計されましたが、
最終的にはアトラスに負けた形であまりにも早い引退となりました。

最初からアトラスのバックアップということだったので、製造元が
プロジェクトに真剣に取り組まず、失敗が結構多くて空軍が不満を持ち、
その分タイタンIIに期待が集まったという話もあります。

タイタンは、1962年にアメリカ戦略航空軍で運用が開始され、
万が一の攻撃から守るため、地下の硬化型サイロから発射されました。



1965年に配備された改良型のタイタンII打ち上げ。

サイロからの発射は、万が一、敵の核による先制攻撃があったとしても、
ここだけはそれを乗り切り、二次攻撃で報復することを意味します。
また、そのことを抑止力とする目的がありました。

タイタンIIはタイタンIの2倍のペイロード(搭載量)となり、
米軍のICBM中、最大の核弾頭を搭載することができました。

推力方式も変わったので、以前のようにサイロからいちいち機体を引き出して
燃料を添加しなおさないといけないという面倒は無くなりました。


【もし、大統領の発射命令が下されたら?】

今でもそうですが、核の使用権限は大統領に委ねられています。
当時もタイタンIIの発射命令は、アメリカ大統領が独占的に有していました。
「核のボタンを持っている」
とはそのことを指しています。

この当時、明文化されていた、発射命令までの手続について、
その「手順」は次のようなものになります。

発射命令が出される

SAC本部やカリフォルニアのバックアップからサイロに発射コードが送られる
この信号は、音声で35文字の暗号となって伝えられる

2人のミサイル・オペレーターが、その暗号をノートに記録する

オペレーターは、ノートにコードを記録し、そのコードを照合
もし一致すれば、ミサイル発射の書類が入った赤い金庫に向かう

金庫の鍵はオペレーターごとに分かれており、
オペレーターは自分だけが知っている組み合わせでそれを解錠

金庫の中には、表に2つの文字が書かれた紙の封筒が何枚も入っているので、
その中から、本部から送られてくる35文字の暗号に埋め込まれた
7文字のサブコードの最初の2文字が書かれた封筒を選んで開ける

封筒の中には、5文字が書かれたプラスチックのクッキー?が入っており、
それがサブコードの残り5桁と一致すれば、初めて打上げ命令が認証される

このメッセージには、ミサイルのロックを解除するための
6文字のコードも含まれ、このコードは、さらに
ミサイルエンジンの酸化剤ラインのひとつにある

バタフライバルブを開くため、別システムで入力される

ロックが解除されると、そこで初めてミサイルは発射可能な状態になる

メッセージの他の部分には、発射時刻が書かれている
それは即時かもしれないし、将来かもしれない
二人のオペレーターはそれぞれのコントロールパネルにキーを差し込み、
それを回して発射させる
キーは2秒以内に回し、5秒間は押し続けなければならない

それは同時に行われなければならないが、1人で2つのキーを回すには、
コンソールの間隔が広すぎるので、二人で行う

うまく回せると、ミサイル発射のシークエンスが開始

タイタンIIのバッテリーが完全に充電され、サイロの電源から切り離される
サイロの扉が開き、制御室内に「SILO SOFT」の警報が鳴り響く

タイタンIIの誘導システムがミサイルの制御を行い、
ミサイルを目標に誘導するためのデータを取り込むように設定される

メインエンジンの点火開始

数秒間推力を蓄積させた後、サイロ内でミサイルを固定していた支柱を
火工品ボルトで解放し、ミサイルを離陸させる

1980年代半ばになると、アトラスミサイルの改修品の在庫が
品薄?になっていたので、空軍は
退役したタイタンIIを宇宙打上げ用に再利用することを決定し、
1988年最初のタイタン23G宇宙用ロケットの打ち上げに成功しています。

1962年から2003年の間に、282機のタイタン IIが打ち上げられましたが、
そのうち宇宙打上げに使用されたのは(たったの)25機でした。

■ミニットマンIII

ミニットマン(Minuteman)というと、わたしは条件反射で、飲料、
「ミニッツメイド」を思い出してしまうわけですが、
何と今回、ミサイルのミニットマンも飲料のミニッツメイドも、
その語源は独立戦争の時パトリオットと共闘した
民兵=ミニッツのことだったと思い出しました。

昔、ボストンのアーリントンという街に住んでいたことがあるのですが、
隣の街が空母の名前にもなっている「レキシントン」で、
家の前を通る幹線道路を車で15分行くと、この像が立っていました。


ミニットマンの像
ミニット=1分、つまり1分で出撃OKな人たちのことです。

さて、そこでここスミソニアンでその実物が拝めるミニットマンですが、
やはりこちらも1分で発射OK、ということでこの名前になったようです。

Launch With A Minte’s Notice

ということですね。

ミニットマン・イン・ザ・サイロ!
いうてサイロというより井戸の中って感じです。

3段式のミニットマンミサイルは、アメリカの標準的なICBMとなりました。

初期のサイロ発射式ICBMは、発射準備に時間がかかるのが難点でしたが、
ミニットマンはさすが1分でOKマン、それはもう即応性のあるミサイルです。

これは燃料を固体燃料にしたから、ということのようです。
液体だと発射直前にいちいち燃料の酸化剤を注入しなければならず、
しかもロケットをサイロから出すので時間がかかってしまっていたんですね。

初代ミニットマンは1962年から西部・中西部のミサイル基地に配備され、
各ミサイルには核弾頭が1つずつ搭載されていました。

その後、改良された「ミニットマンII」と「ミニットマンIII」が登場します。

1970年に配備された固体推進剤使用の3段式ミサイル、ミニットマンIII。
長年にわたって最大3基の独立した標的を攻撃できる核弾頭を搭載しました。

スミソニアンに展示されているのはミニットマンIIIです。

ミニットマンIIIは、独立した標的の核弾頭を3つ搭載することができます。
1970年以降、実に約550基のミニットマンIIIが米国に配備され、
現在も国内に残っている唯一運用可能なICBMです。

Arms Control agreements(軍備管理協定)

では、現在ではそれぞれを単一の核弾頭に制限することに決まっています。
これはおそらく、当初は軍備管理協定の中の1972年に締結された

弾道弾迎撃ミサイル制限条約
Anti-Ballistic Missile Treaty ABM条約

のことだったと思われますが、このアメリカ合衆国とソビエト連邦間における
弾道弾迎撃ミサイルの配備を制限した条約は、2002年にアメリカが脱退し、
無効化されているので、「Now」がどうなっているのかは分かりません。

最初に締結された条約の内容は、米ソともABM配備基地を
首都とミサイル基地一つの2箇所に、のちに1箇所に制限するもので、
これに基づき、ソ連はモスクワ近郊、アメリカはノースダコタ州の
グランドフォークス空軍基地にミサイルを配備していました。
1990年代に入り、中小国も弾道ミサイルが装備されるようになると、
アメリカはそれに対抗するためにミサイル防衛に乗り出すのですが、
結論としてこのミサイル防衛がABM条約に抵触することから脱退しています。
現在はブッシュ-プーチンの時に結ばれたモスクワ条約が有効のようですが、
それによると、アメリカではワイオミング、ノースダコタ、
そしてモンタナの空軍基地が所有するミサイルサイロに装備されています。
ここに展示されているミニットマンIIIミサイルは、
訓練と展示のためのもので、推進剤も弾頭も含まれておりません。


ファーストステージ(第一段)の下部ケーシングと呼ばれる部分には
コルクの剥離層が挿入されており、サイロから発射される際の熱、
大気中を上昇する際の猛熱から本体を保護します。

ただ、コルクはカビや腐敗に弱い有機物であるため、劣化を防ぐために
防カビ剤処理をしてあり、そのためこの緑色をしているということです。

現地に展示されていた「LIFT」と書かれた黒い板。
これはミニットマン・ミサイラー、ミサイル担当者の技術指令パッケージです。

打ち上げのための手順や関連する重要知識の説明、そして
長時間の勤務のため、カードのデッキ?を収納するためのものです。



開けたところ。

左上にあるのは空軍が1962年から採用した、当時未開発だった新技術、
集積回路(シリコン「チップ」)です。
迅速に目標を再設定することを目標にデータが入力されていました。

このチップは、その後ミニットマン製造契約により、
消費者市場へ導入されることになります。


ミサイルサイロでの長時間の勤務に備えたトランプもあります。
もしスマホがある時代でも持ち込み禁止だろうな。



真ん中に見えるのがこの「シニアミサイルマン」の記章です。



wiki
ミニットマンIIIの弾頭部分です。
左上が核弾頭を搭載する「バス」。
右側のコーンが弾頭を待機の衝突から守る「シュラウド」という部分です。

ちなみに知らなくても全く困らない知識ではありますが、
ミニットマンIIIがどのように打ち上げられるかを書いておきます。

Minuteman-III MIRVの打ち上げシーケンス

1. 第1段ブーストモーターを発射し、サイロから発射される

2. 発射から約60秒後に第1段が落下し、第2段モータが点火
ミサイルシュラウドが射出される

3. 打ち上げから約120秒後、第3段モータが点火し、第2段から分離

4. 打ち上げから約180秒後、第3段モータが点火、第2段モータから分離
5. 再突入ロケット(RV)の展開に備え、機体の姿勢制御を行う
 6. 後方離脱中にRV、デコイ、チャフを展開
7. 高速で大気圏に再突入し、飛行中に武装
8.核弾頭は空中炸裂または地上炸裂で始動
2019年9月現在の情報によると、アメリカ空軍はミニットマンIIIを
2030年まで運用する予定であるということです。


今も緑なのね

運用中のミニットマンミサイルは、年に3回ほどテストが行われます。

空軍は無作為にミサイルを選び、弾頭を取り外し、
カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地に輸送され、そこから
約7,700km離れたマーシャル諸島にある試験目標に向けて発射されます。

この試験は、ミニットマン構成部品の精度や信頼性、
固体推進剤の経年劣化の影響に関するデータを収集するためのものです。


続く。




ムーンレースの終焉〜スミソニアン航空宇宙博物館

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当ブログでは、スミソニアン博物館の展示に沿って
アメリカとソ連の間の宇宙開発競争について書いてきました。

そしてその一隅に展示された月着陸スーツの横には、

「月競争の終焉・ MOON RACE ENDS」

というコーナーがあります。

その競争に終止符が打たれるイベントが何だったかというと、
これはもうアメリカの月着陸に他ならないわけです。

今日はその「競争の終焉」についてです。



1969年7月20日、世界中の何百万の人々がテレビで見守る中、
二人のアメリカ人が初めて別の世界に足を踏み入れました。

アメリカはついに月への着陸に成功し、宇宙飛行士たちは
無事に帰還するという快挙を成し遂げました。

これはこの少し前にケネディ大統領が打ち上げたビジョン、
1960年代に有人宇宙飛行を可能にするという目標の達成でした。

月面着陸は、壮大な技術力の結集とその成果、
人類の精神力の勝利として広く祝われることになります。

人類は、その生存中にライト兄弟の成し遂げた
地球上での最初の動力飛行から、月への最初の第一歩を記すという
大きな飛躍を遂げることができたのです。



ニューヨークタイムズのヘッドラインです。

「人類月を歩く」

宇宙飛行士が飛行船を着陸させ、
岩を採集、旗を立てる
大見出しはともかく、小見出しがイマイチな気がしますが、
とにかくこの3行で全てを言い切ろうとした結果かもしれません。



ライフ誌の表紙は月面上に残された足跡だけ。

ON THE MOON
Footprints and photographs
by Neil Armstrong and Edwin Aldrin
月面
ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンによる
足跡と写真

エドウィンというのはオルドリン飛行士の本名で、
皆がよく知っている「バズ」というのは自称&愛称です。

小さな時に彼の姉が彼のことを「brother」と言おうとして、
「バザー」になったことからBuzzが通り名となってしまいました。

最終的にオルドリンはこちらを法的な名前にしていますが、
月着陸の頃はまだ本名が採用されていたのです。

バズ・オルドリンについてはまた別の機会にお話しするかもしれません。


■ ネック・アンド・ネック(互角の戦い)

スミソニアンでは、アメリカとソ連の開発競争を、
Neck and Neckと表現しています。

これはレースやコンテストで結果が僅差であること、あるいは、
ほとんど互角の戦いを表現する時に使う熟語です。

アメリカとソ連の月への競走のペースは、1968年加速しました。
互いに月着陸の「一番乗り」を目指して奮闘努力したからです。

ここで、その進捗状況について年表がありますので挙げておきます。

1968年9月
ソ連の無人機ゾンド5号が月の周りを周回し、帰還

ゾンド5リクガメ・ショウジョウバエ・ミールワーム・植物・種子・細菌、
放射線検出器を取り付けた等身大の人形を搭載生物は全て生存

10月アメリカアポロ7号有人テスト飛行
コマンドおよびサービスモジュールの実験




笑ってるけど実は大変だったミッション。
原因は船長のウォルター・シラーが風邪をひいて鼻詰まりで
意見の違いで管制官とミッションの間中喧嘩をしていたこと。
また、全員が宇宙酔いで酷い目に遭っています。

ソ連、ゾンド6号の月周回飛行。
有人月接近飛行計画(ソユーズL1計画)に使用する
7K-L1宇宙船の3回目のリハーサル飛行として。

12月
ソ連、ゾンド6号の次に有人飛行を行う予定だったが、
安全性が確保されていないという理由で延期される。

アメリカ、アポロ8号で月周回のち帰還。
ラヴェル船長デザインによる徽章
左から:ジム・ラヴェル、ウィリアム・アンダース、フランク・ボーマン

ゾンド6号の次に有人飛行を見合わせたことで、
ソ連は初めてアメリカに先を越されることになります。

1969年
2月
ソ連、N-1(エーヌ・アヂーン)ムーンロケット
の打ち上げに失敗
N-1
アメリカが月へ人類を送ると宣言した後、ソ連は
セルゲイ・コロリョフの指導で月計画を提案しました。

N-1は有人月面探査のために開発されたロケットでしたが、
技術的にもそれを克服するための資金にも不足があり、
4回の試験打ち上げに失敗して計画は破棄されています。

3月
アメリカ、アポロ9号打ち上げ試験

初めての3機同時打ち上げとランデブー、ドッキングを表現


左から:ジェームズ・マクディビット、デイビッド・スコット、ラッセル・シュワイカート

初めてのアポロ司令・機械船と月着陸船同時打ち上げ。
史上2番目となる有人宇宙船同士のランデブーとドッキングに成功し、
月着陸船の安全性の証明と、アポロ計画の究極の目的である
月面着陸への準備が整いました。
5月 

アメリカ、アポロ10号で月着陸船のテスト飛行で
月の軌道から月面への低高度への降下を確かめる。


右側に着陸しようとする宇宙船を表現


左から:ユージン・サーナン、トーマス・スタフォード、ジョン・ヤング

この飛行で、アメリカはいよいよ月にリーチをかけました。
着陸船を月面に再接近させることに成功したのです。

ちなみに彼らの司令船の名前は「チャーリー・ブラウン」、
着陸船の名前は「スヌーピー」だったそうです。
当ブログの「トイレ事情」ログでお伝えしましたが、
「想像力の足りないNASAの理系野郎たちのせいで」
船内が汚物でパニック状態になったことでも有名なミッションですが、
まあそれはアメリカの場合このミッションに限ったことでもないので、
そちらエピソードは忘れて差し上げてください。


7月

ソ連、二度目のN-1ロケットの失敗。

ソ連、ルナ15号着陸船を打ち上げる。

ソ連はアメリカのアポロ11号に先駆けて月の石を回収し、
地球に送ることを目的とし、最後にこれをダメもとで打ち上げましたが、
プロトンロケットにより打ち上げられた探査機は月面に衝突しました。
アメリカ、アポロ11号の乗組員が月面着陸に成功。

ルナ15号が月面に墜落したわずか数時間後、
アポロ11号は世界初の有人月面着陸に成功しました。


■ いつムーンレースの勝敗が見えたか

ムーンレースの終わりが見えてきたのは、この表から見ても
アメリカのアポロ8号とアポロ10号の成功の頃ではないかと思われます。
1968年12月、アポロ8号の乗組員は、
スリルとサスペンスに満ちた最初の飛行で月の周りを周回しました。

ラヴェル、ボーマン、アンダースの3人の宇宙飛行士は、
日の出ならぬ「地球の出」(Earthrise)を
人類で最初に見たメンバーになりました。

5ヶ月後、アポロ10号の乗組員は月周回軌道から、
月への部分的なモジュールの降下をテストしました。

これらの任務は、アメリカが月面着陸に王手をかけ、
すでに準備が整っているという確信を築くことになりました。

その頃ソ連が何をしていたかということは大きな疑問です。
■ファイナル・ソビエト・ギャンビット


1968年12月に発行されたタイム誌の表紙のイラストは、
「月へのレース」として、激化する米ソのムーンレースを表現しています。

ソ連は、2回目のN-1ロケットの打ち上げに失敗した後、
今後ソ連がアメリカに先んじて月に人を送ることは不可能であろう、
とはっきり認識していたと思われます。

そして、せめて最初に月の石と土壌のサンプルを取ろうと、
宇宙飛行士の代わりにロボットを月に送りました。

このコーナーのタイトルである
Final Soviet Gambit
とは、ソ連の「最後の先手」とでも訳したらいいでしょうか。

チェスの打ち始めの手のことを「ギャンビット」と日本語でも言いますが、
この変わった言葉はイタリア語の足=「ガンバ」が語源となっています。


その「最後の初手」を取るため、ソビエトは、一か八かで
自動化されたサンプル採取船である
ルナ15号をアポロ11号打ち上げの何と2日前に打ち上げたのです。

もう、こうなったらタッチの差でも何とか先に、という必死さが見えますね。

しかし、アメリカの宇宙飛行士ニール・アームストロングと
バズ・オルドリンが最初に月に踏み入れたその直後、
ルナ15号は、よりによって月面に衝突着陸してしまったのです。

これはソ連にとって決定的でした。

歴史にもしもはありませんが、もしルナ15号が墜落しなかったら、
アポロ11号の乗組員のわずか数時間前にミッションを成功させ、
ソ連が「初めての月」を主張していたことでしょう。

ソ連はその可能性に最後の望みを託し、敗れました。
歴史はアメリカに微笑み、敗者のことは誰の記憶にも残っていません。


■アポロ月着陸用スーツ



スミソニアンには、このようにアポロ計画で月の上で飛行士が着た
宇宙スーツの実物が展示されています。

1971年7月31日に月面に降り立ったアポロ15号の船長、
デイビッド・ランドルフ・スコットが着用していたものです。



ヘルメットにはアポロ15号と書かれています。



スーツにはスコットの名前入り。
全体的に黒く埃が付着していますが、特に足の部分には
現在も月を歩いた時に付いた月の埃がまだ残っています。

スーツの胸部にはこれでもかとノズルの差し込み口がありますが、
宇宙服は飛行士の生命維持のニーズを全て満たすため、
バックパックから通信、データ表示システムに酸素、温度、湿度制御、
与圧システム、電力などが提供されていました。

素材は22層のあらゆる種類のレイヤーから成っており、
一番肌に近い部分に3層の下着を付けます。

この素材は、寒暖が極端な月の上の気温に対応するだけでなく、
微小隕石から体を保護する役目も果たしました。



着用していたデイビッド・スコット。
この写真に写っている真っ白なパリッとしたのと同じものなんですね
(しみじみ)

スコットは二人乗りのジェミニ時代からメンバーに何度も選抜されており、
ジェミニ8号、アポロ9号、そして15号と、3回も宇宙に飛んでいます。

■栄光と悲劇



ムーンレースの影で、数えきれないほど悲劇も起こりました。
(人間以外の犠牲者も含めるとさらに)
宇宙開発に犠牲は当初から多くあったのですが、
スミソニアンでは、アポロ1号の3人のメンバーの火災による事故死と、
ソ連のソユーズで着陸に失敗したウラジーミル・コマロフの記事が
米ソ両国の忘れてはならない悲劇として紹介されています。

「勝利、そして悲劇」と題されたコーナーでは、こうあります。

宇宙飛行は危険と裏表です。
宇宙探査は人命の犠牲なしでは達成されませんでした。

1967年、最初のアポロミッションの訓練中に、
宇宙飛行士のヴァージル”ガス”グリソム、エドワード・ホワイト、
そしてロジャー・チャフィーが発射台の宇宙船の中にいるとき、
フラッシュファイアが発生し、内部で起こった火災で死亡しました。

アポロ宇宙船はこの後再設計されたため、
アメリカの有人飛行は実質2年間停止されることになりました。



「ライフ」の表紙の写真は、国家的犠牲となった飛行士たちを送る
国葬の葬列を写しています。


実際の宇宙船の中のチャフィー、ホワイト、グリソム飛行士。
運命の事故が起こる、わずか8日前の写真です。



火災後の宇宙船。



そしてソ連側の悲劇として、コマロフの事故が取り上げられています。

「1967年4月、ソユーズ1号の飛行は悲劇で終わりました。
カプセルの降下パラシュートが開かなかったため、カプセルは地面に激突、
炎上してウラジーミル・コマロフは死亡し、次のソユーズの有人飛行は
18ヶ月予定より遅れることになります」

ウラジーミル・コマロフはユーリ・ガガーリンと親しかったため、
映画「ガガーリン」でもその死が取り上げられています。

映画『ガガーリン 世界を変えた108分』予告編

彼が乗ったソユーズ宇宙船(7K-OK)は、無人での試験飛行に
まだ一度も成功していませんでした。
しかし、設計上の問題を差し置いて打ち上げを進めようとする
政治の圧力によって、無理を承知で計画は決行されたと言われています。

ガガーリンはこのことに気がついており、飛行を止めるため
ソユーズ1号ミッションに自分が乗ることを申し出ました。

どういうことかというと、彼はすでにこの時、
人類初の宇宙に飛んだ人間として国家的英雄になっていましたから、
自分が乗るとなれば、国も、確実に危険が予測されるミッションをゴリ押しで遂行することはあるまいと考えたのです。

しかし、このガガーリンの考えは甘かったと言わざるを得ません。
当のコマロフも、状況について非常に冷静な目で見ていました。

つまり、今の共産党が多少の理由で打ち上げをやめるわけがないので、
自分が搭乗を拒否すれば、きっとガガーリンが死ぬことになるだろうと。

ガガーリンは自分を国が死なせるはずはないと信じていましたが、
彼は共産党政権の非情さを見くびっていたのだろうと思います。

コマロフはそれらすべてを承知の上で死の任務に就いたと言われています。


ソユーズ1号の技術者達は、党指導部に、
ソユーズには200箇所の設計上の欠陥がある
ことを報告していたらしいのですが、

「宇宙開発における一連の快挙によってレーニンの誕生日を祝う」

という政治的圧力の前には、技術者の意見など無力でした。
つまり、ソユーズ1号の事故は起こるべくして起こったわけです。
検索すると、もはや人間だったとは思えない炭化した物体を前に、
(´・ω・`)となっている軍人たちを写した写真が出てきますが、
彼らは自分の忠誠を誓う国家が、一人の人間をこんな姿にしたことに
果たしてどのような気持ちを抱いていたのでしょうか。

そして、当時のソ連国民にとって、コマロフの惨死は、
凄まじいばかりの衝撃だったと言われています。
ソ連ではソユーズ1号の事故の後、ソユーズ計画を18ヶ月停止しました。


不思議なことにアポロ1号の事故はソユーズ1号の3ヶ月前に起きました。
アメリカもやはり宇宙計画そのものをしばらく停止し、基本的方向性を大幅に見直すという、ソ連と同じ経緯を辿っています。

奇しくもわずか3ヶ月違いで起こった米ソの悲劇的な事故は、
人類がまだ到達したことがない峻厳な技術の高みを目指すとき、
そこに驕りはないか、競争に目が眩んで何かを見失っていまいかと、
宇宙、或いは神と呼ぶ絶対的な存在が自省を促すために人類に与えた、
あまりにも残酷な警告だったというべきなのかもしれません。


死ぬと分かっていながら宇宙へと旅立った男の話
この映像の解説では、もしコマロフが拒否しても
ガガーリンは搭乗させられることはなかっただろうと言われている、
としていますが、わたしはそうは思いません。
ガガーリンが宇宙飛行から遠ざけられたのは、事故が起こってからのことでした。
そもそも眼前に炭化したコマロフの遺体を突きつけられるまで、
ソ連国家は科学技術をあまりにも過信していたからです。

1967年4月26日、ウラジーミル・コマロフはモスクワで国葬で葬られ、
その遺灰は赤の広場にあるクレムリン壁墓所に埋葬されました。

アメリカの宇宙飛行士は、代表者をコマロフの葬儀に参列させてほしいと
要請しましたが、ソ連政府はこれを断っています。


続く。




パーシングとパイオニア、レーガンとゴルバチョフ〜スミソニアン航空宇宙博物館

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わたしが国立宇宙航空博物館、通称スミソニアン博物館を見学したのは、
まだこの世にCOVID19が存在していない頃でした。


これまで紹介してきた歴史的な航空宇宙化学の結集が一堂に。
この様子も壮観ですが、フロアに溢れる人々が誰もマスクしていません。
街ではほとんどマスクを着用しなくなったアメリカですが、
3月11日より見学者のマスクは不要となっています。
ただし、

「訪問中にフェイスマスクを着用した方が快適だと感じる訪問者は
全員、着用することが推奨されます。」

と「マスク派」についても気を遣っています。
ワクチン接種の証明も必要ありませんが、可能な限りソーシャルディスタンスを保ち、
できるだけ平日の空いた時間に訪問することを推奨しています。


さて、このフロアに立つと、案外目を引くものは
実は地味に奥にある中距離弾道ミサイルだったりします。



特に、表面に升目と文字が描かれたソ連製のミサイルは
その一種異様さで目立っている気がしました。

 ソ連のSS-20と米国のパーシングII。
1987年の
中距離核戦力(INF)条約
で禁止された2,600発以上の核ミサイルのうちの2つです。弾道ミサイルを禁止した条約は、核戦争からの後退の一歩であり、
冷戦終結の前触れとなりました。


ここになぜその二つのミサイルが並んでいるかというと、条約によって、
いずれかの博物館的なところに展示することを指定されたからなのです。

もちろん不活性化してあります。

今日は、そのソ連製SSー20ミサイルと、横に並べられた
アメリカ製のパーシングーIIミサイルについてお話しします。

■パーシングII


  パーシングIIは、1983年から西ドイツの米軍基地に配備された移動式の中距離弾道ミサイルです。
マーティン・マリエッタが設計・製造した固体燃料式2段式で、
1973年、パーシングの改良型として開発が開始されました。
パーシング1aはかなりの過剰威力だったため、
精度を向上させるという目的でIIを生産することになりました。

攻撃目標はソビエト連邦西部です。

各パーシングIIは、TNT5〜50キロトンに相当する爆発力を持つ
可変収量の熱核弾頭を1つずつ搭載していました。

これに対抗し、ソ連がRSD-10パイオニア(SS-20セイバー)を配備。
こちらが4,300kmの射程と二つの弾頭を持っていたので、パーシングは
東ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア到達する仕様に変更されました。
つまり、この2基のミサイルは、かつて米ソにあって
互いに向けて攻撃するために「睨み合っていた」一対なのです。


■ RSD-10パイオニア SS-20セイバー

RSD-10パイオニア(ракетасреднейдальности(РСД)は、
1976年から1988年にかけてソ連によって配備された弾道ミサイルです。
SS-20セイバーはNAT Oによるコードネームになります。

本体に書かれた「CCCP」表記はキリル文字によるUSSR、つまり
ソビエト社会主義共和国連邦の意味であることはご存じですね。
かつてオリンピックなどで見るソ連選手のユニフォームには
必ずこの4文字が書かれていたものです。


パーシングと比べてもかなり大型で、高さ16.5m、直径が1.9mとなります。

弾頭部分を見ていただくとそのデザインの異様さでお分かりのとおり、
核弾頭を三個搭載することができます。

このミサイルは液体燃料でなく固体燃料を搭載しており、
そのため液体燃料を注入する危険な作業を必要とせず、
命令が出ればすぐさま発射できるというものでした。

ソ連がSS-20を開発した理由については、いろいろな説があります。

1、ソ連のグローバルパワーへに対する挑戦の一環であった

2、SALT条約(米ソ第一時戦略兵器制限交渉)で、
長距離ミサイルが量的制限を受けたため、中距離ミサイルに注力した

3、失敗したSS−16ICMBミサイルプロジェクトのリベンジ企画
あるいはSS16のための技術と部品のリサイクルが目的
4、ソ連がそれまで欠いていた第二次攻撃力の強化
(第三次世界大戦に向けた洗練された核戦略のため)


4の第二次攻撃能力について少し解説しておくと、これは核戦略用語です。

相手国から第一撃が先制的に打込まれたのちに、
残存している核ミサイル、核搭載有人機などを用いて、
相手国にただちに報復攻撃を加えられる能力を言います。

戦略的にはこの能力をしてそのまま核抑止力とするという考え方ですが、
1960年代国防長官だったアンドレイ・グレチコ元帥は、
第一撃を選択する、つまりもし第三次世界大戦が始まったら、
ソ連はNATO諸国に対しすぐさま核攻撃を行うという考えを持っていました。


グレチコ元帥(映画化の際には配役リアム・ニーソンの予定)

つまり、最初の核先制攻撃で相手の核報復力を破壊するということです。
しかし、これはあくまでグレチコ個人の意見ですよね?(ひろゆき構文)

この意見にソ連内部で反発する意見ももちろんあって、

「洗練された第二次攻撃能力で抑止力を目指すべき」

というものでした。

ちなみにグレチコ元帥は在職中に(いうて72歳でしたが)急死しています。
死因は動脈硬化と冠状動脈不全だったとか。

ともあれ、RSD-10は、ソ連にそれまで欠けていた戦域内での
「選択的」標的能力を提供することになりました。

それはすべてのNATOの基地と施設を破壊する能力を持ち、
ソ連の望む抑止力として十分機能する、とされたのです。

こうしてソ連は、サージカル・ストライク(正当な軍事目標にのみ損害を与え、
周囲の建造物、車両、建物、一般民衆のインフラや公共施設には全く、
あるいは最小限の付随的損害を与えることを目標とした軍事攻撃)
によってNATOの戦術核戦力を無力化する能力を獲得したのでした。



■冷戦における核配備競争への懸念


パーシングIIが飛翔する写真を表紙にしたタイムズ紙。
タイトルは、

「核ポーカー」
掛け金はどんどん高くなる

核の装備が、常に相手を上回ることを目標にしているうちに、
どんどんリスクが高くなっていくことを懸念する内容です。

冷戦下で激化した軍拡競争は、世界中に武器の配備が進みました。

万が一使用すれば、たった1発でも壊滅的な被害をもたらす武器が
世界中を埋め尽くしていくかのような勢いでした。



中距離弾道ミサイルの配備をめぐって、1980年代は
抗議の動きに火がついていくことになります。


■ レーガンとゴルバチョフ




アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンとソビエト連邦書記長、
ミハイル・ゴルバチョフの間の相互尊重関係がなかったら、
INF条約の調印はうまくいかなかったかもしれません。

1986年10月11日、12日に開催されたレイキャビク・サミットは、
レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長の2度目の会談でした。

前年のジュネーブ首脳会談に続き、核兵器削減の可能性について議論し
合意を進めた両首脳は合意に至らなかったものの、
多くの外交官や専門家はこのサミットを冷戦の転換点と考えています。

1985年のジュネーブ・サミットで、両首脳は
攻撃型兵器削減の重要性では一致していたのですが、
レーガンが提案した戦略防衛構想(SDI)をめぐる意見の相違が、
交渉の大きな障害となりました。

ゴルバチョフは、もし米国がSDIを効果的に開発すれば、
核の先制攻撃でソ連は不利になるという懸念を持っており、
レーガンの、SDIをソ連と共有するという申し出を信用しなかったのです。

とはいえ、両者はそれまでの米ソの指導者に比べて
はるかに友好的な関係を築くことができていたのは有名です。

その効果もあって、核兵器削減の協力をうたう共同声明が作成され、
米ソ双方に前進への希望を与えることができました。

首脳会談後、レーガンはゴルバチョフに手書きの書簡を送っています。
核兵器廃絶の希望と、ゴルバチョフの協力を確認しようとしたのです。

ほぼ同じ時期に、ゴルバチョフもレーガンに手紙を送っており、
米国がソ連の核実験モラトリアムに自発的に参加することを求めました。

ただ、モラトリアムに同意するということは、
アメリカの SDI 開発を停止することを意味します。
結局レーガンはこの要請に応じることはありませんでした。

ゴルバチョフはレーガンの最初の書簡への返信で、

「宇宙攻撃兵器は、防御と攻撃いずれもの能力を持っており、
極めて危険な攻撃的潜在力の蓄積をもたらす技術です。
これが軍拡競争を激化させることは避けられないでしょう」

と、繰り返し懸念を表明しています。
つまりSDIが交渉の障害になっているのは確かでした。

ゴルバチョフが提案したのは、2000年までに
「核兵器を完全に廃絶する前例のないプログラム」でした。

その内容は、3つのステージから成っていました。

第1段階5年から8年で、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の50%削減、
宇宙兵器実験の相互放棄、ヨーロッパからのすべての核兵器の撤去

第2段階5〜7年で、すべての核実験を中止し、中距離核兵器を整理。
この段階には、他の核保有国(イギリス、フランス、中国)も含む

最終第3段階残りの核兵器をすべて廃棄し、
「1999年末までに地球上から核兵器を根絶する」

ゴルバチョフはまた、

「これらの兵器が再び復活することのないよう、世界的な合意をすること」

を強く求めました。
(BGM ジョン・レノン『イマジン』で)


彼は、ソ連の核実験に対する自主的なモラトリアムを更新し、
再び米国に参加を呼びかけ、もし米国がこれに応じるならば、ソ連は
以前から争点となっていた相互立入検査に同意する、と書いています。


当然ながら、ゴルバチョフが目指した核兵器廃絶に、
ソ連指導部のすべてが賛成していたわけではありません。

特に軍部が反対していました。

軍部は核軍縮案を提出しましたが、これはソ連が完全な軍縮を支持していると
世界に示すプロパガンダの役割を果たすものにすぎず、
アメリカがこの提案に同意しないであろうことも折り込み済みでした。

レイキャビク会談で、レーガン、ゴルバチョフ両首脳は、
この会談が大きな賭けであることを認識しました。
レーガンは、

「世界に戦争と平和のどちらを残すかを決めるまたとない機会だ」
ゴルバチョフも、

「軍備交渉で行き詰まった外交を解決するのが目的だ」

と同意しました。

この最終会談でのアメリカの提案は、次のようなもので下。

「双方、5年間に戦略的攻撃兵器の50%削減を達成する。
残りのすべての攻撃型弾道ミサイルについて削減のペースを維持し、
2回目の5年間の終わりまでにすべての攻撃型弾道ミサイルを全廃する。
10年後に攻撃型弾道ミサイルが全廃されれば、
どちらかが防衛策を導入する自由を有する」

対してソ連の提案は

「ABM条約の非撤回期間を5年ではなく10年とし、
「対弾道ミサイル防衛のすべての宇宙構成要素」を研究所に限定する。
戦略兵器を5年で50%削減し、10年で全廃する」
というものです。

そこでレーガンとゴルバチョフは、2つの異なる提案のうち、
どの兵器を対象とするかについて具体的に話し合いました。

レーガンは、すべての核兵器を廃絶してもかまわないと言ったそうですが、
この「核兵器のグローバルゼロ」といわれる提案は、
米ソ関係においてかつて前例のないものとなりました。

ゴルバチョフもレーガンに同意し、国務長官だったシュルツも

 "Let's do it."(やりましょう)
と言ったそうです。

やってます

そしてゴルバチョフとレーガンは中距離核戦力全廃条約・INF条約に調印。
1987年12月、ワシントンD.Cでのことです。



今更ですが、INFとはIntermediate-range Nuclear Forcesのことです。

これを受けて米ソ両国は配備していたミサイルを退役させ、撤去しました。

撤去されたミサイルは解体、ないしは破壊されましたが、15基のみ、
博物館への展示を目的に使用不能の状態で保有することが許されたので、
退役したミサイルの一部は博物館に寄贈されました。

というわけで、ここスミソニアン博物館とモスクワの航空博物館には
米ソ双方の政府から、退役したミサイルが寄贈され、
どちらの国立博物館にもパーシングIIとSS-20が並んで展示されています。



スミソニアンのSS-20とパーシングIIミサイル。
SS-20がパーシングIIに比べて太く長いのは、
SS-20の方がペイロードが多く、また射程がより長いためです。

条約の定めるところにより以下に示すミサイルは退役しました。
その後ミサイルは廃棄され解体、または破壊されましたが、
作業は検証の対象となり、ソビエトでの爆破によるミサイル破壊作業は
マスコミにも公開されたそうです。

アメリカ合衆国
MGM-31A パーシングIbMGM-31B パーシングIIBGM-109 地上発射巡航ミサイル

ソビエト連邦R-12(SS-4 Sandal)R-14(SS-5 Skean)OTR-22(SS-12 スケールボード)OTR-23 Oka(SS-23 スパイダー)RSD-10 Pioner(SS-20 セイバー)SSC-X-4 Slingshot - Kh-55(AS-15 Kent)
空中発射巡航ミサイルの地上配備型
OKA(スパイダー)



最後のオカー廃棄に関する報告書に署名する米ソ担当者の図


また、スミソニアンでは、このような部品を見ることができます。

パーシングIIのロケットケーシングから排除された部分で、
楕円形のアクセスプレートには八つのネジ穴があります。



写真を失敗してよくわからないのですが、右側がその部品、


これはSS-20を破棄のため爆破した際残った部分です。


本条約はソビエト連邦が崩壊した後はロシア連邦に引き継がれましたが、2010年代、ロシアは巡航ミサイルの開発を進めていたため、
アメリカは、これが条約違反に当たると指摘しています。

世界が感動したレーガンとゴルビーの努力も、喉元過ぎればというのか、
時間が経つとどちらの側にも条約違反がみられ、
条約を守らないことが対立の火種になるというスパイラルに陥りました。

さらにややこしいことに、この条約に参加していない中国が
ミサイル開発を推し進め始めたため、アメリカは2019年、
トランプ大統領政権下で本条約の破棄を表明することになりました。

ロシア連邦もこれを受けて条約の定める義務履行を停止し、
本条約は2019年に失効しました。


スミソニアンのこのコーナーには、ロナルド・レーガンの言葉、

「私とゴルバチョフの間の最初の手紙は、
我々の国の間のより良い関係だけでなく、
二人の人間同士の友情の基礎となるものの両側で
慎重に始まりを示したことを私は理解しています」

そして、ミハイル・ゴルバチョフのソ連政治局会議での言葉、

「世論で外の世界に印象を与える最大のステップは、
私たちがパッケージを解き、私たちの最も強力なミサイルを
1000発削減することに同意するかどうかにかかっている」

という言葉が並べられています。

続く。

ソユーズの悲劇とウクライナ侵攻後の宇宙計画〜スミソニアン航空宇宙博物館

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今日はソ連のソユーズについてお話しするわけですが、
積み残した宇宙開発関係の画像をちょっとその前にご紹介します。


■バズ・オルドリン

スミソニアンの外側にあった巨大なバナーには、
アポロ11号の乗組員三人と、宇宙船の写真があしらわれています。

この3人についてはいろんな形でお話ししてきましたが、
最近一番驚いたのが、バズ・オルドリン(右)がまだ生きていて、
いや、生きているどころか元気にツィッターをやっていることでした。

2022年5月現在92歳ですがまだまだご健在のようです。
ちなみにフォロワーは155万9千人いるようですね。

ほとんどが宇宙関係の話題でほぼ毎日ツィートしておられますが、わたしが見た時には5月4日のツィートで、星条旗を立てたR2D2に

MAY THE FOURTH BE WITH YOU.

というキャプション。
意味は・・・わかるね?
いや、わからん、という人はこれで嫌というほど聞くが良い。
フォースと共にあらんことを。

May the Force be with you 


5月4日が「スター・ウォーズの日」であることを知っている92歳。
まあ、この5月4日=May The Forth からこの日がSWDになったことは
アメリカ人ならほぼ全員知ってるかもですが。

https://twitter.com/i/status/1515214281096245249
今も自転車漕いで鍛えてるみたいだし。

前にちょっと予告していましたが、オルドリンについては
色々と逸話があって、その最も有名な話を書いておきます。

それは相手の名前をとってバート・シブレル事件と呼ばれています。

2002年、バズ・オルドリンが72歳の時、宇宙をテーマとした
日本の子供向け番組のインタビューを受けるため、
(この番組がなんだったのかどこにも書かれていない)
ビバリーヒルズのホテルに赴いたところ、そこで待ち構えていた
月陰謀論者のバート・シブレル(Bart Sibrel)が、バズに詰め寄り、月の着陸がインチキで捏造されたものでないことを
聖書に手を置いて誓うようにと詰め寄ったのでした。

バズは敬虔な信者であり、またこれゆえ
「人類で初めて月面上で宗教儀式を行った人物」です。
月面上で聖体拝領をとり、新約聖書を読んでいます。

シブレルという人物はこのことを知っていて、聖書を使い、
自分の信じるところの「月着陸捏造」を暴こうとしたのです。

バズは彼を無視して去ろうとしましたが、シブレルは後を追い、
「臆病者、嘘つき、泥棒」(最後意味不明)
と罵ったため、キレたバズは彼の顎を殴り、
それはシブレルのスタッフにより無事撮影されてフィルムに残されました。

目撃者によると、シブレルは聖書でバズを小突くようにしたそうで、
バズは自分自身と一緒にいた継娘を守るための行動だと証言しました。

この件で警察はバズ・オルドリンに対する告発を受け付けませんでしたし、
それは誰が見てもシブレルに対する当局の非難の意と思われました。

バズ・オルドリン。

アームストロング以降何人かが月を歩きましたが、
アームストロング以外でおそらく最も有名なアストロノーに違いありません。

いくつになっても世間から忘れられない人物で、
その言動は事件も含め常に世間の耳目を集めてきました。
2007年には自らフェイスリフト手術を行ったことを発表しています。

フェイスリフトってことは、顔の皮膚を一旦剥がして、
下の筋肉を一緒に引っ張り上げる若返り手術ですよね。

これについて彼は、宇宙で受けたGのせいで
(つまりGフォースと共にあったことで)顎が弛んだから、
それを改善しようと思った、と堂々と言い訳をしたそうです。

やるな。77歳になってからの今さらフェイスリフト。

ちなみに、ディズニーのトイストーリーのキャラクター、
宇宙服を着ている「バズ・ライトイヤー」の名前は
彼の愛称から来ているってご存じだったでしょうか。



■ ソユーズ:ムーンレースののち



ソユーズ宇宙船は、世界で最も長い間使用されている有人宇宙船です。
1960年代に月探査のために設計され、
1967年4月、初めて宇宙飛行士を宇宙に送り出しました。

それ以来、ソユーズとその後継機であるソユーズT、ソユーズTMは、
地球周回軌道上で数多くの有人飛行を実現してきました。

その後、ソユーズは、ソ連・ロシアの宇宙開発において、
主力となるミッションであり続けました。

1967年以来、100人以上の宇宙飛行士が
ソユーズでさまざまな地球周回ミッションに参加してきました。

改良を重ね、より効率的で信頼性の高い宇宙船となった今も、
基本的な構造は当初とあまり変わっていません。

【ソユーズの設計とミッション】

ソユーズ宇宙船は、主に3つの部分から構成されています。
前方の大きな球状の部分が軌道モジュール。
中央の鐘のような部分が着陸モジュール。
そして後部の円筒形の部分は、観測機器モジュールです。

上の写真は軌道上のソユーズです。


:軌道上モジュール(オービタル)

打ち上げ時の保管場所、飛行中の宇宙飛行士の作業場兼居住区として使用。

長さ:2.5m(8フィート2インチ)
直径:2.2m(7フィート2インチ)
重量:1,200kg(2,700ポンド)

:着陸モジュール(ランディング)

打ち上げ・再突入時に使用される客室で、
ソユーズの中で唯一地球に帰還する部分。

長さ:2.2m(7フィート2インチ)
直径:2.2m(7フィート2インチ)
重量:2,800kg(6,200ポンド)

:観測機器モジュール(インストゥルメント)
推進、加熱、冷却、通信など、宇宙船の主要なシステムが搭載されている。

長さ:2.3 m(7フィート6インチ)
直径:2.2m(7フィート2インチ)
重量:2,650kg(5,850ポンド)

:太陽電池(ソーラー)パネル

ソユーズに電力を供給する

:ドッキングデバイス(装置)

宇宙船をより大きな構造物に連結し、
クルーがシャトルから宇宙ステーションに移動するための準備として、
ソビエトは複数機のソユーズミッションにおけるランデブー、
およびドッキングに取り組み、自動および手動制御の両方をテストした。
1967年以降、5つの主要なドッキングシステムの設計が行われた。
エンジニアは効率性を高め、各宇宙船の特定のミッションに適合するように、
長年にわたってソユーズのドッキング装置を修正した。

■ソユーズ宇宙船



スミソニアン博物館に展示されているのは、
ソユーズ宇宙船の生みの親であるエネルギア社が製作した
実物大のソユーズ宇宙船の模型です。

この模型には、通常、打ち上げ時や飛行中に機体を包む
サーマルブランケットが付属していません。

ソユーズの改良版はいくつかのバージョンが製造されています。

●オリジナルのソユーズ
1966年、宇宙服なしの宇宙飛行士を3人乗せることができました。

●ソユーズ・フェリー
1972年 宇宙服を着た2人の宇宙飛行士と機器を
サリュート宇宙ステーションに送受信するためのもの。

●ソユーズT(輸送機)
 1979年、宇宙服を着た宇宙飛行士3名を乗せ、
宇宙ステーションとの間を往復する長時間の輸送機。

●ソユーズTM(modified transport)
1986年、ミール宇宙ステーションへの輸送を目的に改良されました。

ソユーズはより効率的な電子機器やナビゲーションシステムを追加し、
着陸モジュール内部をより広く使えるように配置を変更するなど、
基本設計から大きく進化を遂げてきました。

ソユーズ宇宙船は、国際宇宙ステーションの乗員救助機として
使用される予定となっていましたが・・・(後半に続く)

■ ソユーズロケット



有人宇宙船ソユーズを打ち上げるロケットも、ソユーズと呼ばれます。

3段式のソユーズロケットは1963年登場以来何度も改良されてきました。
最初の人工衛星であるスプートニクを打ち上げたロケットでもあります。



ソユーズロケットは、最大7,500kgのペイロードを
地球低軌道に投入することができます。
また、科学衛星や軍事衛星の打ち上げにも使用されています。

【軌道上からの離脱】


地球に帰還する準備をするソユーズの模式図
ミッション終了後、観測機器と軌道モジュールを分離し、地球に帰還します。

【着陸のためのブレーキ】


着陸時に展開されるソユーズパラシュート

地球の大気との摩擦により、宇宙船は減速されますが、
それでも衝突に耐えるには速すぎます。
パラシュートでさらに降下速度を落とさなくてはなりません。

写真提供:RSCエネルギア

【着陸とレスキュー】

パラシュートは、着陸直前まで機体の速度を落とします。
地上2メートルの地点で、宇宙船の底部にある
4つの小型レトロロケットでさらに減速し、よりソフトに着陸させます。

【ソユーズをなぜ地上に着陸させるのか?】



アメリカのマーキュリー、ジェミニ、アポロが海に着陸したのとは対照的に、
ソ連はすべての有人宇宙船を地上(カザフスタン南部)に着陸させました。

この人口の少ない地域に着陸した宇宙船には、
救助隊が容易に到着することができました。
また、ソ連はアメリカとは異なり、海難救助のための大規模な海軍を
海上に置いていなかったのが地上に着陸させた大きな理由です。

アメリカはなんなら自衛隊が回収を手伝ったりしてましたものね。
映画(緯度ゼロ大作戦)の中の話ですが。


【ソユーズ・レトロ・ロケット】

ミッション終了後、熱シールドが解除され、地上2mの高さで、
着陸船の基部にある4基の小型エンジンが点火されます。


エンジンのうちの一つ

ソユーズに乗った宇宙飛行士は、皆、飛行の最後の瞬間、
突然の衝撃を受けたと表現しますがこれは着陸を和らげるものです。

【ソユーズ天球儀】



1969年、ソユーズ4号に搭載された天球儀。

宇宙飛行士はこのような装置を使って、
舷窓から見える星に合わせて地球儀の星座を調整し、
宇宙船の位置を割り出していました。

ウラジーミル・シャタロフ宇宙飛行士は、この地球儀を
ソユーズの軌道モジュールに残しておくのはもったいないと考え、
着陸モジュールに持ち込んで、再突入時の位置を確認しました。

【ソユーズ飛行の有用性】

ソユーズ宇宙船は、30年の運用期間を経て、
宇宙ステーションに人や貨物を輸送するための
信頼性の高い宇宙船となりました。

ソビエト政府は、この宇宙船を政治的な目的にも使用しました。

■宇宙ステーションへの「フェリー」

ソユーズとドッキングする宇宙ステーション

1971年以来、宇宙飛行士を宇宙ステーションに送迎してきたソユーズ。

ソユーズ宇宙船が使用され始めた最初の10年間は、
宇宙飛行士の軌道上での滞在予定が、
ソユーズ宇宙船のバッテリーの寿命を超えてしまうことがありました。

そのため、食料、水、空気の補給と同じように、
ソユーズ宇宙船は常にアップデートをする必要がありました。

ソユーズ宇宙船は宇宙ステーションへの誘導にクルーを必要としません。
しかし、定期的な訪問者やクルーの交換は、
軌道上の日常生活に変化をもたらすため、
通常は宇宙飛行士が宇宙船をフェリーに載せて運ぶことになっています。

このような社交的な伝統は、ロシアの宇宙開発にも受け継がれ、
つい最近まではその伝統は守られてきました。



メンデス

ソユーズの補給ミッションは、いくつかの宇宙での
"初 "を実現する機会を提供しました。
いわゆる有色人種初の宇宙飛行士である

アルナルド・タマヨ・メンデス(キューバ)
Arnaldo Tamayo Mendez

と、女性初の宇宙遊泳を行った、


スベトラーナ・サヴィツカヤ
Svetlana Savitskaya

は、サリュート宇宙ステーションへの訪問ミッションで飛行しました。

■ ディプロマシー・イン・スペース




1978年3月、ソ連は、チェコスロバキアのパイロット、
ウラジミール・レメックを宇宙ステーション「サリュート6」に運ぶ
ソユーズ28号の打ち上げで「ゲスト宇宙飛行士プログラム」を開始しました。

ゲスト宇宙飛行士プログラムは、ソ連当局が
他の社会主義国との友好関係を促進する方法を提供したと言えます。

このプログラムは急速に拡大し、
ソ連の同盟国や他の国々も参加するようになりました。

1996年まで26回のフライトに19カ国の代表者が参加しました。
1995年、アメリカ人宇宙飛行士ノーマン・サガードが、
ソユーズで打ち上げられた最初のアメリカ人宇宙飛行士となります。

Norman Thagard



このプログラムに参加した国が国旗で表されています。

チェコスロバキア  ポーランド  東ドイツ  ブルガリア
ハンガリー  ベトナム  キューバ  モンゴル
ルーマニア  フランス  インド シリア
アフガニスタン  日本  英国  オーストリア
ドイツ  カザフスタン  アメリカ合衆国

【費用対効果】

1986年、ソビエトの有人宇宙飛行計画は、
より進化したモジュール式の宇宙ステーション「ミール」が打ち上げられ、
新しい時代に突入しました。

しかしながら、諸事情のため宇宙計画の費用を正当化するために、
ソ連はもはや外国の宇宙飛行士に
無料で宇宙旅行を提供することはできなくなりました。

そこでソ連政府は、ソユーズTM宇宙船とミール宇宙ステーションへの搭乗を
有料ということにします。

言い方は悪いですが、お金さえ払えば誰でも乗せるお、
ということになったので、早速日本のマスコミ界が手を上げ、
1990年には、日本人ジャーナリスト(秋山豊寛)が
宇宙で初めてお金を払った乗客となりました。

ちなみにミール宇宙ステーションへの往復航空券は
1200万ドル(約12億円)相当だったと言われております。

そうだったのか・・・・・。
日本はその時バブルでお金があったってことだったんですね。
この時秋山氏が乗ったのは、ソユーズTM−10宇宙船でした。



宇宙船は再突入時の熱で大きく黒焦げになっています。
帰還した宇宙飛行士は、回収に成功した宇宙船に
サインをするのが慣例となっていて、この機体にも
チョークで書かれた乗客のサインとお礼の言葉が残っています。

■ ソユーズの悲劇



冒頭写真の右側ケースの中には、この人形が展示されています。

人形には、1971年、ソユーズ11号の飛行直前に、
宇宙飛行士ヴィクトル・パツァイエフが書いたサインが残っています。



パツァエフと同僚のゲオルギー・ドブロボルスキー、
ウラジスラフ・ボルコフの3名は、サリュート1号に3週間滞在した後、
降下中のカプセルが減圧する事故で死亡しました。

人形は彼が宇宙船に持ち込んでいたものです。
映画化の際には配役ニコラス・ケイジで

彼ら3名の名前は小惑星に付けられて残ることになりました。

■ウクライナ侵攻後のソユーズ計画

欧州のロケット運用会社アリアンスペースは2022年3月4日、
ロシアと共同で運用していた「ソユーズ」打ち上げ中断を発表しました。

欧州はこれまで、ロシアと協力し、ソユーズを使って
欧州の衛星などを打ち上げてきました。
しかし、ロシアのウクライナ侵攻にともなう制裁措置に反発し、
ロシア側が打ち上げの中断を一方的に決定。
つまり、ご想像通り運用ができなくなったのです。

アリアンスペースは今回の事態を「大きな危機」とし、

「現在の状況が引き起こす影響をできる限り正確に評価するとともに、
必要な解決案を見いだす」

としています。

ソユーズ・ロケットは、小型・中型衛星のほか、
国際宇宙ステーション(ISS)へ向けた有人宇宙船「ソユーズ」や、
物資を補給する無人補給船「プログレス」などの打ち上げに使われています。

その原型は、世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であり、
そして初の人工衛星「スプートニク」や有人宇宙船
「ヴォストーク(ボストーク)」を打ち上げた「R-7」にまでさかのぼります。

以来、改良を重ねつつ、その姿かたちはほぼそのまま、
半世紀以上にわたり使用。世界でもトップレベルの実績、信頼性を誇り、現行の「ソユーズ2」ロケットは、より効率的な衛星打ち上げを実現。

ソユーズは、ロシアの主力ロケットであると同時に、
欧州へ輸出され、欧州が運用するロケットとしても活躍していました。

欧州におけるソユーズは、欧州のロケット打ち上げ基地である
ギアナ宇宙センター(仏領ギアナ)から、また
バイコヌール宇宙基地(カザフスタン共和国)と
ヴォストーチュヌィ宇宙基地(ロシア)からも打ち上げられていました。


2月下旬の時点で、ギアナ宇宙センターでは4月6日の打ち上げを目指し、
ガリレオ測位衛星を積んだソユーズの打ち上げ準備が進行中でした。

またバイコヌール宇宙基地でも、3月5日の打ち上げを目指し、
衛星ブロードバンドインターネットを構築を目指す
「ワンウェブ(OneWeb)」を積んだソユーズ打ち上げ準備が進んでいました。

しかし2月24日、ロシアはウクライナに対する軍事侵攻を開始。
これを受け、EUや英国はロシアに対する制裁措置を決議したのです。

それに反発する形で、ロスコスモスは2月26日、

「EUによるロスコスモスへの制裁措置に対抗し、ギアナ宇宙センターからの
ロケット打ち上げにおける欧州との協力を停止する」
と発表し、打ち上げは無期限延期となってしまいました。

アリアンスペースによると、ソユーズは打ち上げ可能な状態で保管され、
搭載されるガリレオ測位衛星はいずれも安全な状態に保たれているそうです。

アリアンスペースは、
「ロシアによるウクライナ侵攻に対して国際社会
(欧州連合、米国ならびに英国)が決議した制裁措置を尊重する」
としつつも、
「ロシアがギアナ宇宙センターから引き揚げ、
ソユーズの打ち上げを中断することを
一方的に決定したことによって、大きな危機に直面している」
との声明を発表しました。
一方、バイコヌール宇宙基地からのワンウェブ衛星を積んだ
ソユーズの打ち上げについても、無期限延期となりました。

これに前後してロスコスモスは、
ロケットに描かれたワンウェブに関連する各国の国旗のうち、
制裁措置を取った国の国旗にシールを貼って削除。

また、ロケットを運搬する車輌に、
ウクライナに侵攻したロシア軍の兵器にならって
「Z」、「V」といった文字を書くなど、前代未聞の行動をとっているとか。
アリアンスペースが運用するソユーズは、
欧州の安全保障にかかわる衛星の打ち上げから商業打ち上げまで、
なくてはならない存在であり、これまでに64機が打ち上げられるなど、
打ち上げ数も実績も高かったと言われています。

そのため、今回の事態は欧州の宇宙開発にとって大きな打撃となりました。
一方、欧州製のアリアン5とヴェガの、2022年の打ち上げについては、
予定どおり順調に準備が勧められており、また、
開発中の次世代ロケット「アリアン6」と「ヴェガC」に関しても、
2022年中の初打ち上げを目指す方針に変わりはないということですが・・。


続く。






スミソニアンのチャールズ・リンドバーグ展示〜「翼よあれが巴里の灯だ」

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スミソニアン航空宇宙博物館には、この飛行界のパイオニアにして英雄、
あるときは非難の対象となったチャールズ・リンドバーグについて、
大変なボリュームの資料と展示があちらこちらにあります。

その最も大きく、彼の存在意義が一目でわかる展示が、
このスピリット・オブ・セントルイス号、1927年5月21日、
リンドバーグが史上初めてノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功した
ライアン NYP-1 であることは言うまでもありません。
今回はスミソニアン博物館のリンドバーグ関連展示を紹介していきます。

歴代の有名飛行家コーナーはミリタリーとシビリアンに分けられており、
リンドバーグはその筆頭に紹介されています。
「チャールズ・リンドバーグとライアンNYPスピリットオブセントルイス」

というパネルには、見るからに仕立てのいいスーツに長身を包み、
飛行帽を被ったリンドバーグの等身大の写真が添えられています。

「1927年5月27日、チャールズ・A・リンドバーグは、史上初めて
単独かつノンストップで、愛機スピリットオブセントルイスによる
ニューヨークのロングアイランドからパリまでの飛行をおこなった」
チャールズ・オーガスタス・リンドバーグとは?

⚫︎バーンストーマー。航空郵便パイロット

⚫︎大西洋を単独横断した最初の人間

⚫︎飛行機が安全で信頼できる輸送手段であることを証明するため
スピリットを48州全てに飛ばした

⚫︎航空会社のアドバイザーとして航空界の発展を助けた

barnstormerというのは元々旅芸人とかの意味がありますが、
飛行機が登場してからは、アクロバット飛行やパラシュート降下を見せて
全国を巡業する職業パイロットのことを言うようになりました。
1922年、リンドバーグはウィスコンシン大学で1年半学んだ後、
ネブラスカ・エアクラフト社で航空学を学びはじめます。

名門ウィスコンシン大学のマディソン校で工学を少し学んでいますが、
1年半で中退し、彼は本格的に飛行機人生を歩むようになります。
【陸軍とリンドバーグ】

チャールズ・リンドバーグ陸軍少尉、23歳ごろ

すでにこの頃彼はバーンストーマーとして活動していましたが、
何を思ったか陸軍で軍事飛行訓練を受け、卒業しています。

最初104人いた同期の訓練生は卒業時には18人しか残っていませんでした。

その中で首席だったリンドバーグは陸軍予備少尉に任官しますが、
当時陸軍は現役のパイロットを必要としていなかったため、
彼は予備役に席を置きながら民間でバーンストーマーや教官をしていました。

そしてセントルイスのミズーリ州兵第35師団第110観測飛行隊に所属し、
軍の飛行も部分的に続けて1926年には少尉から大尉になっています。
予備役となってから、彼はセントルイスとシカゴを結ぶ
民間航空便のパイロットを務めていました。
その後彼は飛行家としての栄誉に伴い、軍における階級は
最終的に1954年准将にまで昇進しています。


【翼よあれが巴里の灯だ】


そもそもどうしてリンドバーグは大西洋横断飛行をすることになったか。

それは彼がトランス・アトランティック航空が企画したコンテスト、
成功すれば賞金25,000ドルがもらえる
「ニューヨーク・パリ間横断飛行」に自ら応募したからでした。
1919年、フランス生まれのホテルオーナー、レイモンド・オルテイグは、
ニューヨークからパリまでノンストップで飛行した最初の飛行家に
2万5千ドルの賞金を出すことを提案しました。

スミソニアンには、この時のエントリーシートが展示されています。
1927年当時の2万5千ドルは2022年現在で5千万円ちょっとの価値です。
誓約書の条件を見ると、全米飛行協会に定められた規則の遵守、
気象条件やその他アクシデントによって不利益を被った場合も
主催者にその責任を問うことを放棄するということが書かれています。
また、サインされた日付は、コンテストの約3ヶ月前となっています。
後年、リンドバーグは

「賞金よりも飛行に挑戦することにずっと興味があった。
(賞金にも興味がないわけではなかったけど)」
と書いています。

"平和と親善の使者は、時間と空間の壁をまた一つ打ち破った"
1927年、チャールズ・A・リンドバーグの大西洋単独横断飛行について、
カルヴィン・クーリッジ大統領はそう語りました。

その後、1969年にアポロ11号が月面着陸したというニュースまで、
リンドバーグが小さなライアン単葉機をパリに着陸させたときほど、
全世界が航空イベントに熱狂することはなかったと言えます。

1927年初頭、彼はわずか数人の知人の支援を得て、1919年、
2万5千ドルの賞金を賭け、史上初となるニューヨーク-パリ間、
初の無着陸飛行に挑戦することになり、サンディエゴのライアン航空に、
そのために必要な仕様の航空機を発注しました。

設計開発は、飛行の目的を考慮して慎重に行われました。
主翼幅の10フィート拡大、胴体と主翼の構造部材は
より大きな燃料負荷に対応できるよう設計し直され、
主翼の前縁には合板を貼るという工夫がされましたが、
胴体は、2フィート長くなった以外は標準的なM-2の設計を踏襲しました。

コックピットは安全のため後方へ、そしてエンジンはバランスのため
前方へ移動し、燃料タンクが重心になるように据えたことで、
パイロットは前方をペリスコープか、あるいは機体を回転させて
側面の窓からしか見ることができなくなりました。

これは地味に精神的ストレスになったのではないかと想像されます。

エンジンはライト社のワールウインドJ-5Cを使用。
1927年4月下旬に機体の整備が完了しました。

機体は銀色で、垂直尾翼上部に登録番号N-X-21 1が記され、
他の文字もすべて黒でペイントされました。


リンドバーグは本番まで何度かテスト飛行を行っています。

写真は、テスト飛行でサンディエゴからニューヨークまで飛行した後のもの。
セントルイスへの着地を含め飛行時間は21時間40分でした。



ニューヨークで数日間天候に恵まれるのを待った後、
5月20日の朝、ガーデンシティホテルで前夜眠れなかったリンドバーグは、
スピリットオブセントルイス号を、現在ショッピングモールとなっている
カーティスフィールドの格納庫から、長い滑走路に牽引させました。
明るいうちから大勢の人が集まり、リンドバーグを見送りました。
この時のことを彼は後に、
「パリへのフライトの始まりというより、葬儀の行列のようだった」
と語ったそうですが、彼の目から見て、見送りの人々は
ことごとく不安からくる暗い表情をしていたのでしょうか。

そしてリンドバーグはたった一人でパリに向けて飛び立ちました。

その後彼は17時間飛び続け、40時間近く起きていた時のことを
自らの言葉で痛々しく表現しています。

「背中はこわばり、肩は痛み、顔は火照り、目はしょぼしょぼした。
これ以上飛び続けるのは到底不可能に思えた。
そのとき私がこの人生で望むことはたった一つ、
体を横たえて伸びをし、眠ることだけだった・・・」
数十年後、リンドバーグは、24時間飛行した後、
このような幻覚を見ていたことを認めています。

「ぼんやりとした輪郭で、透明で、動いていて、
飛行機の中で私と一緒に無重力で移動している誰かの姿」
それら(複数だったらしい)は善良な人間のような形をしていて、
エンジンの轟音の中で彼に話しかけてきたのみならず、
「普通の生活では得られない重要なメッセージ」を与えてくれたと。

やがて彼らは彼を置いて消えてしまい、彼は別の幻影を見ました。

機体を旋回させ、波の上約15mを飛行しながら窓から身を乗り出して、
漁師に「アイルランドはどっちだ」と尋ねるというシュールなものです。
もちろんそれは幻覚なので答えはありませんでした。
(これは日本語のwikiでは実際に起こったこととして書かれている)

ちなみに後年彼をモデルにしたビリー・ワイルダーの映画の日本語タイトル、
「翼よ、あれが巴里の灯だ」ですが、原題も原作となった
リンドバーグの自伝も、タイトルは彼の愛機である
「Spirits of St.Louis」

であり、さらにはこの感動的な言葉はリンドバーグ自伝の抄訳を手がけた
翻訳家の佐藤亮一が良かれと思ってつけたオリジナルです。
リンドバーグ本人も全く預かり知らぬ言葉であり、
言ってみれば余計なお世話なのですが、ことこれに関しては
あまりにキャッチーでイケているため、どこからも文句が出ていません。

流石のわたしも、良しとせざるを得ないほどの?名作です。

Spirit of St Louis -- landfall at Ireland
アイルランドディングル湾で陸地を発見するシーン。眠そう

彼が実際にパリに着いてから発した言葉は、

「誰か英語を話せる人はいませんか」

(その人に)「ここはパリですか」
だったという説、また、

「トイレはどこですか」

という説がありますが、いくら何でもいきなりトイレはないだろうから、
この三言は流れるようにこの順番で発せられたとわたしは想像します。




これがリンドバーグが大西洋横断の時機内に積んでいたグッズだ!

1、陸軍航空隊謹製、非常用レーション

2、釣り糸と釣り針(いざという時用)

3、何かに使える糸を丸めた球



4、非常用発光装置(ハンドフレア)

5、弓のこ

6、針

7、(口紅ケースのようなもの)マッチ入りマッチホルダー



「スピリットオブセントルイス」が積んでいたバログラフ。

バログラフはバロメーター値を記録できるデバイスです。
リンドバーグが大西洋ノンストップ飛行を行った時の飛行機の高度、
そして飛行時間が正確に記録されました。

5000万円という賞金の出るレースですから、規則によって
飛行機が正しくノンストップで直行したかを証明する必要がありました。
このドラムには、リンドバーグの離陸と上昇、それに続き、
適切な風を求めて硬度を変えつつ上昇した様子、そして
嵐や霧に遭遇した時の操作のあれこれ、乱気流によるエアポケット、
アイルランド近くでしばし降下したこと(あれ?あの話本当だったの?)
そしてイギリス南西部を通過しフランス北西部からパリに着陸したこと、
全てが明瞭に記録されていました。



ロングアイランドを離陸してから33時間30分後、
パリ近郊のル・ブルジェ飛行場に無事着陸したリンドバーグの機を迎える
10万人の熱狂的な観衆。



その熱狂ぶりがいかにすごかったかがわかる一枚。
ところでこの写真はどこからどうやって撮ったのか。
他の飛行機からかな。
【凱旋帰国と栄光】



リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号は、
6月11日にU.S.S.「メンフィス」で米国に帰国しました。
写真は「メンフィス」に載せられたSOS号。

埠頭に出迎える人に挨拶するために「メンフィス」デッキに立つリンディ。
世紀の英雄と歴史的飛行機を運ぶ大役を担った「メンフィス」乗員も
全員がビシッと第二種軍服でキメて舷側に立つ姿はいかにも誇らしげです。

USS「メンフィス」は現在では原子力潜水艦になっていますが、
この時は軽巡洋艦で、艦種はCL-13でした。
帰国したリンディはワシントンD.C.とニューヨークで、
熱狂的とも言える歓迎を受けました。

その後7月から3ヶ月かけて、彼はこの名機で全米を巡業して回りました。

そして12月、スピリット・オブ・セントルイス号とともに
ワシントンからメキシコシティまで直行便で飛びます。


メキシコシティで学校の生徒たちに歓迎されるリンディ。
右横を歩いているのはアメリカ大使ドワイト・モローです。

皆様、ぜひこの「モロー」(Morrow)という名前を
記憶の片隅に留めておいてください。
試験に出ます。

そして中米コロンビア、ベネズエラ、プエルトリコを経由して、ハバナへ。



キューバのハバナで演説するリンドバーグ。
右端はヘラルド・マチャド・イ・モラレス大統領、周りは政府高官です。

そしてこの後、セントルイスに戻り、巡業は終わりました。



この時に訪問した国の国旗はカウリングの両側に描かれました。

実はリンドバーグは、後にアメリア・イアハートの夫となる
出版社社長のジョージ・パットナムと、もし大西洋横断に成功したら
その感動的な体験を綴った本を書くことを約束していました。

帰国してすぐ、彼は父親の知り合いグッゲンハイムの豪邸で缶詰になり、
3週間で「We」という陳腐な冒険譚を書き上げ、
スピリット・オブ・セントルイスによる3ヶ月の全米順行に出かけました。

パットナムはこの本がヒットすることが出版前からわかっていました。

リンドバーグの本は、大西洋横断の2ヶ月後、1927年の7月末に発売され、
1928年6月にはすでに31刷りになっていました。
ベストセラーといっても過言ではありません。

しかし、その文章は、ほとんど子供のような単純なものでした。

彼はその後も自伝を多くの出版社から求められては書きましたが、
年月を経るごとによくなっていき、50年代に書いた
『スピリッツ・オブ・セントルイス』は、ピューリッツァー賞を受賞しました。

これが日本で「翼よ、あれが巴里の灯だ」と訳された本です。
ワイルダーは、この本をジェームズ・スチュワート主演の映画に使い、
48歳のスチュワートは25歳のリンディを好演し、映画は大ヒットしました。

1928年4月30日、スピリット・オブ・セントルイス号は
セントルイスからワシントンDCへ最後の飛行を行いました。

その後、リンドバーグはこの機体をスミソニアン博物館に寄贈し、
それ以来それはここにあります。
続く。





「ラッキーリンディー」〜スミソニアン博物館のチャールズ・リンドバーグ

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前回に続き、スミソニアン航空博物館プレゼンツ、
チャールズ・リンドバーグ特集です。

冒頭イラストは、スミソニアン博物館おなじみの飛行家紹介コーナーのもの。
「The Lone Eagle」というキャッチフレーズは、
彼が成し遂げた大西洋横断飛行の際、
機体を改造したこともあって一人しか乗れず、
バックアップのパイロットなしで飛行したことを指しているかもしれません。

【”ラッキーリンディ”ブーム】



大西洋単独飛行ののち、彼は一躍ヒーローになりました。
まさに、バイロンの言うところの「目覚めてみたら有名になっていた」です。

リンドバーグの大西洋横断を報じるニューヨークタイムズ。
ヘッドラインは

「リンドバーグがやった!
33時間30分でパリへ;

雪とみぞれの中1000マイル飛行ののち;
彼を讃えるフランスの人々がフィールドから彼を運ぶ」
そのほか、めぼしい文章を書き出してみますと、
「聴衆の歓迎の声は雷鳴の如く鳴り響いた」
「兵士と警察のラインを突破してコックピットから
疲労し切った飛行士をコクピットから飛行機の上に押し上げた」
「彼が食べたのはサンドイッチ一つと半分だけ」
「大使館で行われたインタビューで彼は冒険を語った」

セントルイスのパイロット仲間やビジネス界の後援者の間で
「スリム・リンドバーグ」と呼ばれていた彼は、見るからに内向的で
有名になってからもどこか陰気さが拭えない目立たぬ青年でしたが、
英雄となってから世間に巻き起こった「リンディ・ブーム」で、
名前に便乗して儲けようと、あらゆる商人が彼を利用しました。

彼の飛行機にちなんだ「スピリット・オブ・セントルイス」レターオープナー、
「ラッキーリンディ・リッド」と呼ばれる婦人用帽子。
いくら流行りでも、これは後で被ってたのが黒歴史になるレベル

彼の写真が上部に挿入されたパテントレザーの靴、少年用半ズボン、
そして「ラッキーリンディ・ブレッド」までもを生み出しました。

「太陽🌞ビタミンD増量」と謎の謳い文句のあるパンの包み紙
ひ、日の丸?

当然、そのものズバリ「ラッキー・リンディ」という歌もありました。


「西海岸から東海岸まで、その名を響かせた人に乾杯しよう」
(1番)
「子供のように微笑むこのヤンキー野郎のせいで世界は大騒ぎ」
(2番)

一応読める方のために楽譜を載せておきます。

Lucky Lindy


なんと手巻きの蓄音機で音源をアップしている人が・・・。
(わたしが発見した段階で再生回数26回)
我慢して聞いていると、国歌と「ヤンキードゥードル」、
続いて飛行機のプロペラの音が聴こえてくるという凝った?構成。
曲が終わったと思ったらエンジン音が去っていく、という具合です。


リンドバーグは、塗り絵からゲーム、おもちゃなどの子供向け商品でも
一種のマーケティング現象を起こしたため、
全米で彼の名を知らない子供はいないというくらいになりました。

なぜか飛行機が描かれたトラックまで


そして航空業界で空前の「リンドバーグ・ブーム」が巻き起こりました。
彼の快挙で航空機業界の株が跳ね上がり、飛行への関心は高まりました。
この子供たちの中からは、のちに何人もの有名な飛行家が出ました。
それだけでも大した影響力だったと言えます。
そして、彼がその後行ったアメリカ全土への飛行行脚は、
飛行機がいかに安全で信頼できる輸送手段であるかの可能性を
国民に宣伝するのに大いに役立ったのです。

そしてリンドバーグは自分の名声を、惜しみなく
商用航空の拡大を促進させようとする航空業界に提供しました。

【ザ・リンドバーグ・ライン】
トランスコンチネンタル・エア・トランスポート、
(大陸横断航空輸送)TAT社幹部とリンドバーグ

TATは現在トランスワールド航空(TWA)となっていますが、
この頃は「エアライン」という会社名は存在しませんでした。
民衆の移動手段として航空という概念がなかったからです。



1929年に始まったTATの「大陸横断旅行」では、汽車と飛行機を乗り継いで
48時間で大陸を横断ができるというのがキャッチフレーズでした。

TATはリンドバーグをアドバイザーに雇い、
彼のアドバイスでこの大陸横断プランを開発し発売します。


ちなみにこの時売り出された移動方法は、
ポスターの地図に示されていますが、具体的には以下の通り。

🚃夜行列車でニューヨークからオハイオ(中西部)まで行く

🛫翌日日中、オハイオ州コロンバスからオクラホマ(南中部)まで飛行機移動

🚃その夜サンタフェ鉄道でニューメキシコ(南西部)まで寝台車で移動

🛫次の朝飛行機に乗ってロスアンゼルスに到着

ニューヨークからロスまで48時間、338ドルで行けるのがウリでした。
今のおいくら万円かと言いますと、当時の最新モデル新車、
シェボレー・コーチが525ドルだったことから、現在の日本円では
片道300万円強くらいだったのではないかと考えられます。
上のポスターは、ニューヨークからオハイオまでの陸路を担当?する
ペンシルバニア鉄道の宣伝です。

この方法だと、エアラインという割に汽車移動が多いので、
TAT社は「Take the A Train」社などと揶揄されていたと言いますが、
それでも、この乗り継ぎ方式は画期的な新基軸でした。
それから100年後の今では、NYからロスまで6時間半で移動できます。
まさに文字通りの隔世ですが、その最初の一歩のきっかけとなったのが
他でもないリンドバーグの成功だったことは言うまでもありません。


TAT社はその後TWA社と名前を変えました。
この頃にはリンドバーグの開発した路線は「リンドバーグ・ライン」として
普通に有名になっていたということです。
この企業への協力でリンドバーグが成し遂げたのは、
空路の開拓と、全米に数多くの空港を設立したことでした。

もっと端的にいうと、「リンドバーグ以前」には、
世界のどこにも商業航空という概念は存在していなかったのです。

リンドバーグがたった一人で小さな飛行機に乗って海を渡ったとき、
人類は安全に空を飛び、予定通りに正確に目的地に行くことができる、
という現在ではごく当たり前のことが可能であることを
当時の人々は初めて知ることになったのでした。
この瞬間から航空はビッグビジネスとなっていくのです。
【アン・スペンサー・モロー】

リンドバーグを語って彼の妻、アン・モローを語らないわけにはいきません。


大西洋横断を成功させた後、彼が凱旋飛行としてメキシコを訪れたとき、
アテンドした当時のメキシコ大使、銀行家のドワイト・モローとその娘、
アン・スペンサー・モロー嬢。
恥ずかしくなるほどわかりやすい経緯を経て、リンドバーグは
モロー大使の令嬢に引き合わせられ、そして結婚しました。

「わかりやすい経緯」と書きましたが、そのいきさつは実はわかりません。わかりませんが、安易に想像がつくではありませんか。

モロー大使はその後JPモルガン商会のパートナーとして
リンドバーグのファイナンシャルアドバイザーを務めた人物です。

まあいわばリンディの後援者でありタニマチという位置付けですね。

メキシコへの訪問の際、彼は21歳の名門スミス大学在学中のアンと出逢い、
そしてアンはその時のことをこう書いています。

「彼は他の誰よりも背が高かった。
群衆の中でも頭一つ高く、目立つ彼の視線は誰よりも鋭く、
しかし澄んでいて明るく、より強い炎で照らされているようで、
それがどこを向いているのかすぐに気づくのだ。
わたしはこの青年に対して何を言えただろう?
何を言ってもそれは凡庸で表面的な言葉にしかならない。
まるでピンクのフロスティングシュガーをまぶした花のように。

わたしはそれ以前の世界を、軽薄で、表面的で、刹那的なものと感じた」
この文章を見てお気づきの方もおられると思いますが、
アン・スペンサー・モローは大変文学的な女性でした。

彼女の父親は大使、そして母親は詩人で教師。
彼女は毎晩母親の読み聞かせを1時間聴いて育ち、詩を書き、
大学で文学士号を取得し、のちにはエッセイや小説を残しています。

ところで、夫となったチャールズ・リンドバーグですが、前にも書いたように
大西洋横断成功後に、出版業者の大物パットナムとの契約にのっとり、
グッゲンハイムの豪邸に缶詰になって、3週間で書き上げた自伝は
実に単純な、悪くいえば稚拙なものだったとされていましたね。

書くものは時代を経るごとに良くなっていったそうですが、彼は
その自伝の中で、バーンストーマー時代の同僚の「女好き」を揶揄し、
陸軍で見た士官候補生たちの「安易な」恋愛観を批判したりしています。

国民的英雄に、その著書中、ほとんど名指しで書かれた当事者たちが
どう思い、また彼らが周りからどう言われるか、
その辺をちょっとでも考えたことはなかったのでしょうか。

そして彼の理想的な恋愛とは、
「鋭い知性、健康、強い遺伝子を持つ女性との安定した長期的なもの」
であり、
「農場で動物を飼育した経験から、優良な遺伝子の重要性を学んだ」

とも述べています。

彼は有名になるとほとんど同時にアンと知り合い、結婚しましたから、
これらの考えは、彼女との関係性の中で生まれてきたものと思われます。
が、それにしても、アン・モローの文学的内省的表現に対し、
リンドバーグのこの考えは、いかにも即物的で、

それは恋愛観ではなく生殖観だろうが!

と思わず突っ込んでしまいたくなるほど愛がありません。
何やら違和感とこの二人の性質の齟齬すら感じてしまいますね。

もし彼女が夫の影響で自らも飛行家に転身しなければ、
おそらく二人の破局は避けられなかったのではないかという気がします。



アン・モロー・リンドバーグは、スミソニアン博物館において
リンドバーグの妻ではなく、一人の女流飛行家として紹介されています。

恥ずかしがり屋で学究肌の銀行家の娘、アン・スペンサー・モローは
1906年、ニュージャージー州イングルウッドで育ちました。

彼女はスミス大学を優等で卒業し、執筆で賞を受賞しました。

アンは、父親が在メキシコアメリカ大使を務めていたメキシコシティで
有名な飛行士、チャールズ・リンドバーグに出逢いました。

リンドバーグがアンに操縦のレッスンを行うと同時に二人は恋に落ち、
1929年5月27日(リンディが大西洋横断を成功させたちょうど2年後)、
結婚しました。
1933年に彼女はナショナル・ジオグラフィック協会の
ハバード金メダルを受賞した最初の女性になり、
1934年には飛行家に与えられるハーモントロフィーを受賞しました。

1934年まで、アンは「航空のファーストレディ」(First Lady of Aviation)
と呼ばれており、それから作家としても評価されるようになりました。
また、彼女は3000マイルの長距離無線通信記録を樹立し、
ベテラン無線事業者協会の金メダルを受賞した最初の女性となりました。

1931年、彼女は夫リンドバーグと一緒にパンアメリカン航空から依頼されて
北太平洋航路調査のため、ニューヨークからカナダ・アラスカを経て
日本と中華民国まで水上機「ティンミサトーク」で飛行しています。

これは先日の帰国時のアラスカ
この飛行でアラスカを超え、着地する瞬間について、
彼女が自著で書いている言葉がこの写真に添えられています。


”四方に高い雪が縞模様に積もった山がある。
わたしたちはついに氷山の間に着陸するのだ。”

アン・モロー・リンドバーグ 1933年8月6日


リンドバーグ夫妻が日本に到着するシーンが見られる
一連のニュースフィルムが残っています。

ジングル?というかニュースの始まりには、先ほどの
「ラッキー・リンディ」のイントロがそのまま使われていて、
この曲が彼のテーマソングとして扱われていたのがよくわかります。
霞ヶ浦に着水するのは3:40から。
リンディの飛行機を海中で抑えて?いるのは、その事業服から見て
霞ヶ浦航空隊の兵隊さんたちであろうと思われます。
到着に対し、全員で万歳していることも、アナウンサーは報じています。

Lindbergh With His Wife Aka Lindburgh With His Wife (1931)
飛行機から降りてきたリンドバーグがスーツにネクタイというのがすごい。

次回はリンドバーグ夫妻についてのスミソニアンの記述をご紹介します。

続く。




靖国神社のチャールズ・リンドバーグ夫妻〜スミソニアン博物館

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前回に引き続き、スミソニアン博物館のリンドバーグ展示をご紹介します。


「ヒストリカル・エアプレーン」の一つとして、それは
ここスミソニアン航空博物館に展示されています。

ロッキード・シリウス ティングミサートゥク
Lockeed Sirius Tingmissartoq
この水上機はセレブリティ夫婦、チャールズ・リンドバーグ夫妻を乗せ、
霞ヶ浦に着水して民衆に熱狂的に歓迎されたことがあります。

680馬力のライト・サイクロンを搭載したロッキード低翼単葉機、
シリウスは1929年にジョン・ノースロップらによって設計された新型で、
このモデルは、着水用のポンツーンフロートと地上用の車輪、
いずれかを装着して飛行するよう、特別に設計されています。

チャールズとアン・モロー・リンドバーグ夫妻は、
このロッキード・シリウスで2回の長く危険な飛行旅行を行い、
航空会社の海外ルートを開発するという調査を行なっています。
【1931年、アジア航路の開拓】
一度目、1931年に彼らを乗せたシリウスは東洋へ飛びました。
これが「大圏航路」によって極東へ到達した最初の航空機となります。

のちにリンドバーグは、この旅のことをこう表現しています。

「始まりも終わりもなく、
外交上も商業上の意味も持たず、
求めるべき記録もない休暇」
航空会社の調査とはいえ、この飛行がいかに自由気ままで冒険に富み、
彼らにとっての「心の飛翔」でもあったことがわかる気がします。


グリーンランドのゴダブに訪れたとき、いかなる経緯かはわかりませんが、
エスキモーの少年がこの機体に、現地の言葉で
「ティンミサートク」(『鳥のように飛ぶ者』『大鷲』)と名付けました。

機体の側面には、その少年の手によってこの名前が描かれています。



リンドバーグがパンアメリカン航空の技術顧問を務めていた1933年、
リンドバーグ夫妻はこのシリウス号を使って大西洋を横断し、
パンアメリカン航空の飛行経路を開拓する2回目の任務を行いました。
いずれの飛行も、広大な水域と未知の人口の少ない地域を巡る旅で、
商業飛行という概念を芽生えさせるきっかけを作ったリンドバーグが、
今度は国際的な空の旅のルートを航空会社の要求に応じて探索したのです。
全く商業的な意味が絡まないわけではありませんでしたが、彼らが心からこの飛行を楽しんだ大きな理由の一つは、
1927年に国民的英雄となって以降、リンドバーグに常に付き纏っていた
世間の目からしばし解放されたことが大きかったかもしれません。
写真は、ロングビーチに到着し、陸揚げされたシリウスと夫妻の姿。

アラスカのエスキモー部落で、犬ぞりに座るアンと後ろに立つチャールズ。



赤線が1931年、破線が1935年の航路を記したものです。
1931年の航路は以下の通り。

ニューヨーク→オタワ→チャーチル→ポイントバロー(アラスカ)
→シスマレフ(アラスカ)→ノーム(アラスカ)
→ペトロパブロフスク(カムチャッカ半島)→ケトイ島(千島列島)
→紗那村(択捉島)→国後→根室→東京→大阪→福岡
→南京→漢口
霞ヶ浦に到着したリンドバーグ夫妻の乗った車を取り囲む人々 
リンドバーグ夫妻が来日した時の詳細は次のとおり。

8月23日、アラスカから千島列島を伝って北海道へ到達

根室に2日間滞在後、26日霞ケ浦へ飛来

フォーブス駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、
小泉又次郎逓信大臣(小泉純一郎の祖父)ら、
日米の政府高官や海軍関係者など約1000人が出迎える

同日列車で東京へ向かい、聖路加病院トイスラー院長邸に滞在、
トイスラー邸が東京での根拠地となる

27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問

9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養

5日は日光を周遊し金谷ホテルで1泊、6日に東京に戻る

チャールズが逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、
霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進ている間、
アン夫人は博物館の見学や茶道・華道の体験

13日大阪へ飛来後、自動車で京都に入洛し、都ホテルに宿泊

奈良から大阪を経て、福岡へ向かう
9月17日福岡を離陸
冒頭の靖国神社の写真はこのときのもので、
案内をしている陸軍軍人は杉山元陸軍大臣であろうと思われます。

アン・モローはこの時の記録として『NORTH TO THE ORIENT 』を著し、
その中に、関西滞在中、京都の少年がリンドバーグ夫妻の飛行機に潜入し、
密航を企てる事件が発生したことが書かれているそうです。

ところでこのときリンドバーグがなぜアラスカを経由したかですが、
地球の形状から、アメリカ本土とアジアを最短距離で結ぶには
アラスカに北上する必要があると考えられたからでした。

このとき初めてリンドバーグが飛行機で飛んだことで、
新しく北極圏の航空路が開拓されたわけですが、皆様もご存知の通り、
現在でもアジアとアメリカを結ぶ旅客機のほとんどは
アラスカを経由するルートを飛行します。

前回アラスカ上空で撮ったiPhone写真

アメリカへの行き来の際、アラスカ上空をいつも飛行しているわけですが、
これがリンドバーグが最初に「パス・ファインダー」としての開拓の賜物で、
後世の我々はあまねく恩恵を被っていたということを今回初めて知りました。
今更ですが、ありがとうリンドバーグ夫妻。



で、このアン・モローの写真ですが、彼女がが着用しているのは、

「パーソナル・フライングエキップメント」。

彼女以前に飛行機に乗って極寒の地に飛んだ女性はなかったので、
全ての装備装具は彼女が自前で開発することになりました。

彼女が着用しているのは「ハドソンベイパーカ」「ハドソンベイキャップ」
そしてハンドメイドのストッキング型ブーツ、ミトン。
リンドバーグ夫妻がソ連のレニングラードに到着した時の装いです。
彼女が着ているからオシャレに見えますが、フライト用の実用スーツです。
何しろ飛行機には重量物を積むのはご法度、というわけで、
彼らは自分がフライトで着るアウターウェア以外に
それぞれたった18ポンド(8kg)の服しか持っていませんでした。

靖国神社での彼らの装いを見ると、夏服ですが、
フライトには完全防寒と風避けのため
大使館でのパーティ用の服もあったに違いありません。

今と違って軽い合成繊維の衣類などありませんから、
背の高いリンドバーグのスーツは重く、きっと一着を着回していたでしょう。


スミソニアンはこの「ハドソンベイ・シリーズ」現物を展示しています。

パーカは白のウールで胴のラインは黒。ポケットは二つ。
パーカには取り外しできるフード(左上)が付いています。

ブーツもウールで、これで歩くのはなかなか大変そうですが、
赤と緑の刺繍がなかなかかわいいですね。

ミトンもウールで、赤と青のメランジ風の編み込みがされており、
アン・モローがお洒落にこだわりを持っていたことが窺えます。


アン・モローが驚嘆したアラスカ山脈を越える瞬間を
後世の人が絵にしたものだと思われます。


アウチ。

リンドバーグ夫妻の飛行は最後まで順調でしたが、
中国の漢口で事故が起こります。

イギリスのエアクラフトキャリア「ハーミス」号から
シリウスを揚子江に降ろす際、片方の翼が船のケーブルに当たって
横転したまま川に転落してしまったのです。

ひっくりがえった愛機の上に半裸で乗って、点検しているのは
他でもないリンドバーグ本人です。

破損した飛行機はアメリカに戻さざるを得なくなり、
1931年のリンドバーグの飛行はここで終了となりました。

もしここで飛行機が破損しなければ、リンドバーグ夫妻は
もしかしたらこの後中国国内を何箇所か巡っていたかもしれません。
【1933年の飛行〜大西洋航路開拓】


パンアメリカン航空と他の四つの大手航空会社は、
商業用航空路の開発にビッグビジネスの活路を見出していたため、
リンドバーグに今度は可能な大西洋ルートの調査を依頼しました。

リンドバーグはパンアメリカンのテクニカルアドバイザーとしてニューファンドランドからヨーロッパへのルートの開発を目的とした
調査飛行に派遣されました。

この時の航路は大体以下の通り。

ニューヨーク→ニューファンドランド→ラブラドール
→グリーンランド→アイスランド
→コペンハーゲン→ストックホルム→ヘルシンキ
→レニングラード→モスクワ→オスロ
→サウザンプトン→パリ→アムステルダム→ジェノバ
→リスボン→バサースト(ガンビア)
→ナタール(ブラジル)→マナウス→サンフアン(プエルトリコ)
→マイアミ→チャールズタウン→ニューヨーク
ニューヨーク出発は7月9日、到着は12月19日でした。総飛行距離は3万マイル(4万8000キロ強)、
訪れた国は合計で21カ国にのぼりました。
この時彼らの調査で分かった気象条件と地形についての報告は、
航空会社が商業航空路を計画する上で大変貴重な資料となりました。

つまりこの時の調査飛行も、現在の航空会社の航路として生かされています。ありがとうリンドバーグ夫妻。

【ティングミサートクに積まれた装備と必要品】

リンドバーグ夫妻は、自分たちが歴史に名を残す存在であることを自覚し、
旅行のために用意した品々の大半を大切に保存していました。

スミソニアンではこれらを近年初めて公開し、展示について、

「リンドバーグの素晴らしい計画への洞察力を認識すると同時に、
旅行の時に持って行く荷物に頭を痛めたことのある来館者なら、
長旅のために彼が何を選んだかに共感することでしょう。 」
と自画自賛しています。そのグッズとは。

当時のグラノーラバー的な麦芽乳のタブレット
グリーンランドの氷冠に不時着したとき用、全長約11フィートの木製ソリ、
スノーシュー、アイスアイゼン
海に不時着したときのためのマストと帆をつけたゴムボート
虫除けや牛タンなどの食料缶色々

また、スミソニアンにはこんな展示もあります。


「これはなんでしょう?」と興味を引くように書かれた水筒のようなもの。


アームブラスト・カップといいます。

顔に装着することで、呼気の結露を飲み水に変えるという不思議なもので、
海に不時着するような非常時を想定したサバイバルグッズです。

飛行機には重量制限があるため、限られた量の水しか積めません。
リンドバーグは、大西洋単独横断飛行の前にこの新発明について読み、
1つ手に入れて持って行ったのです。

彼はこれをシリウス号での旅行にも持参していました。
シリウスでの飛行は順調だったので使われることはありませんでしたが、
いざという時のため、 重さに見合うだけの価値があると考えたのでしょう。
スミソニアンではこの物体の名称がいくつも表記があって、
どれが正しいのかわからなかったそうです。

アンの著書には"armburst "カップと書かれていましたが、学芸員が
この商品の特許を取った人物チャールズ・W・アームブラストの名前から
”Armbrust”が正しいことを突き止めたそうです。

でっていう話ですが。


リンドバーグがシリウスに搭載したものの中には、ソリ、
ピスヘルメット(イギリスの防暑用のヘルメット兼帽子、サファリ帽とも)
蚊除けネット・・と並べると奇妙な取り合わせがありました。

彼らは最も寒い気候の国を通り抜け、最も暑い国に移動したため、
(北極圏に近いところからアフリカ、ブラジルのアマゾンまで)
グリーンランドで氷冠に緊急着陸する場合に備えて組み立て式のソリ、
そしてアフリカやブラジル、南半球ではピスヘルメットで頭部を守り、
さらには虫から顔を守るためのネットも必要だったのです。


スミソニアンには、このロッキード・シリウスが陸上機だった時の
ホイールタイヤが展示されています。
タイヤはグッドリッチ・シルバーストーンというメーカーによるものです。

現在はミシュランのブランドの一つ、「グッドリッチ」となっています。


同じくホイールカバー(英語ではホイールパンツというらしい)。
【チーム・リンドバーグ】


二人の後ろに船員らしき男性の姿が見えていますが、これは
1933年の飛行旅行の際、チャーターされたデンマークの蒸気船、
SS「ジェリング」Jellingの船長ではないかと思われます。



リンドバーグ夫妻の調査旅行に随伴した「ジェリング」は、
調査を依頼したパンナムがチャーターしたもので、リンドバーグの飛行を
燃料などの補給やサポートすることを目的に、カナダの探検飛行家で、
パンナムの社員だったロバート・ローガン指揮するチームが乗っていました。

「ジェリング」は地図で緑色の線で記されている航路を航行して
その間シリウスの後を置い、同時に海上で調査プロジェクトを行い、
気象条件の観察、空港候補地の地図作成、海の深さと潮流の科学測定、
港の地図作成なども行っていました。

このことはパンアメリカン航空の社史のページに、
次の動画とともに掲載されています。

With Charles and Anne LIndbergh in Greenland, 1933


写真でアンが抱えているのは無線機器です。

1931年と1933年のフライトで、彼女は無線手順、モールス信号、
そして天体航法までを完全にマスターしていました。

このフライトで妻に遭遇させるかもしれない「潜在的危険」について
記者に尋ねられたリンドバーグは、このように答えています。

「しかし、覚えておく必要があります。
彼女は乗員であるということです」

すでに彼女は同伴者ではなく、フライトチームの一員である、
ということを言いたかったのでしょう。

続く。



チャールズ・リンドバーグはナチスシンパだったのか〜スミソニアン航空博物館

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リンドバーグという人物にたとえ全くの興味がなくても、
その名前を聞いたことがないという人はいないのではないでしょうか。

わたし自身もそれほど多くを知っていたわけではありませんし、
今回スミソニアンの資料を点検して初めて
彼らが日本を訪れ、靖国神社参拝まで行っていたことも、
航空会社の依頼を受けて航路を開拓したことも知ったくらいですが、
それでも、かなり昔から知っていたことがあります。

それは、彼が愛児を誘拐され殺された悲劇の父親となったこと、
ナチスの親衛隊の服装をした恐ろしい形相のリンドバーグを
戯画化したことに表される、彼とナチスドイツとの関係、
そしてアメリカとヨーロッパで二つの家庭を持ち、
どちらでも父親と呼ばれていたことなどです。

それまで誰もしたことがなかった単独による大西洋横断飛行。この偉業を成し遂げたがゆえに、後世の人々は彼にあらまほしき英雄像を重ね
のみならずその行動から彼を理解しようとします。
しかし、特にこの人物を完全に理解することは、
飛行から数十年経った今でも、どんな識者にも容易ではないと言われます。

伝記作家A.スコット・バーグは、この有名な飛行家について

「事実上孤立の中に育った人物」
と述べています。

「深い私的な性質を備えて生まれ、自立と不適合の原則に従って育てられ、
そして、偉大な行いは必然的に誤解を生むという代償がつきものだと本能的にリンドバーグは理解していた」

【チャールズ・リンドバーグJr.誘拐事件】
CRIME OF THE CENTURY: Lindbergh Kidnapper Brought to Justice | History's Greatest Mysteries: Solved

Huluでシリーズ化されているわたしの好きな番組で、リンドバーグの息子、
チャールズ・リンドバーグJr.の誘拐を取り上げています。
以下、このビデオからの情報です。

犯人は梯子で赤ん坊の寝ている部屋に侵入し、わずかな隙に誘拐して
15000ドルを身代金として要求しました。
乳母がそれを発見してから30分で世間は大騒ぎになったといいますから、
それだけでもリンドバーグの有名ぶりがわかります。

息子の遺体はその後、家の近所に埋められて発見されました。

ビデオによると、犯行を疑われていたハウスキーパーの女性は、
尋問に耐えられ図に精神を壊し、公聴会の前日に自殺していますが、
FBIの捜査では彼女は関与していないと結論づけられました。
ここで後に大統領にまでなるJ・エドガー・フーバーが登場し、
間違いだらけの脅迫状から犯人が教養のないドイツ系であると判断します。
そして現場に残されたノミなどの証拠から、
犯人は木工を行う職場で働いている、という情報が上がってきます。

ここでコンドンという訳のわからない怪しげなおっさんが出てきて、
仲介役を引き受け、身代金を渡した際に犯人の顔を目撃。

そして身代金のナンバーに相当する札をガソリンスタンドで使ったとして
ドイツ系の大工、ブルーノ・リチャード・ハウプトマンに容疑がかかります。

自宅からは札と、脅迫状そっくりの筆跡が見つかり、
彼は第一級殺人の疑いで逮捕され、裁判の結果有罪となって
電気椅子で処刑されました。

ただ、
このハウプトマンも冤罪ではないのか?
国民的英雄の関連する事件だけに警察やFBIが結果を逸り、
それらしい犯人をでっち上げたのでは?という説もあるそうです。

ブルーノ・ハウプトマン〜殺人博物館
(閲覧注意)

【ナチスとリンドバーグ】


リンドバーグは1936年から1938年にかけて数回ドイツを訪れ、
ドイツの航空を評価していますが、これはアメリカが依頼した任務です。

このときアメリカ人として初めて、ドイツの最新爆撃機ユンカースJu 88と
戦闘機メッサーシュミットBf 109を調べ、操縦することを許された彼は、
特にメッサーシュミットBf109について、
「構造の単純さとこれほど優れた性能特性を併せ持つ追撃機は他にない」

と激賞しています。

ここまでの情報から鑑みるに、ドイツにリンドバーグを派遣したのは
アメリカであり、当時のドイツが彼を歓迎したとしても当然です。

この時のことを、あのハップ・アーノルド将軍も、
「リンドバーグが帰国するまでヒトラーの空軍について
我々に有益な情報を与えてくれた者はいなかった」
とそれが至極普通のことであったと表明しています。


アドルフ・ヒトラーに代わって
リンドバーグに勲章を贈呈するゲーリング

この時にナチスの高官にメダルをもらって機嫌良くしていたことが、
数週間後、「水晶の夜」と後に呼ばれるようになるユダヤ人排斥が起きると
彼への大非難となって炎上していくのです。

いやしかし、そもそもこの夕食会も、駐独アメリカ大使が企画し、
ゲーリングやドイツ航空界の中心人物を招いたのもその大使なんですが。
リンドバーグがこの時ゲーリングから受け取った勲章を突き返していれば、
もしかしたらアメリカ国民はそこまでヒステリックに
彼を非難することはなかったのかもしれません。

しかしリンドバーグは勲章の返還を断りました。

「平和な時代に友情の証として与えられた勲章を返還しても、
何の建設的効果もないようだ」
「もし、私がドイツの勲章を返上するとしたら、
それは不必要な侮辱になると思う」

「このような状況下で贈られた勲章を拒否すれば、
良識に反する行為であると感じていた。
(夕食会は大使公邸で行われたため)そこでは
大使の客人に対して不快な行為であったろう」
ここまでは至極真っ当に思われますし、これだけなら
その後もそれほど非難されることはなかったのかもしれませんが。


■不干渉主義とアメリカ第一主義

1938年以降、リンドバーグは各国の航空機の現場を視察することで
政治的な事情に深く関わらざるを得ない立場に入り込んでいきます。

彼の私見は一貫して不干渉主義とアメリカ第一主義でした。

具体的には、ヒトラーのチェコスロバキアとポーランドへの侵攻の後、
リンドバーグは脅威にさらされている国々に援助を送ることに反対し、
次のように発言しています。
「武器禁輸を廃止することがヨーロッパの民主主義を援助するとは思わない」

「戦争をしている一方を援助するという考えのもとに武器輸出をするなら、
なぜ中立という言葉で我々を惑わすのか」

「海外で武器を売ることで自国の産業を発展させようとする人々に応える。
我が国はまだ戦争の破壊と死から利益を得たいと思う段階には至っていない」
今なら、ウクライナ軍に武器を売る国を非難するようなものでしょうか。
これも、中立のふりをして武器を売って儲ける企業の思惑に乗るな、
ということを言っているだけのような気がします。
しかし、リンドバーグがヒステリックなまでに叩かれるようになったのは、
それだけでなく、彼が「アメリカ第一主義」を唱える中で国内のメディアをユダヤ系が牛耳っていることに疑問を呈したからでしょう。

世界のヒーローとなったリンドバーグの発言が影響力を持ち始めた時、
必ずしも彼の考えを歓迎しない巨大な勢力もまた存在し、
彼を存在ごと潰そうというキャンペーンが繰り広げられた、
彼の発言の内容からはこんな仮定が自然と導き出されます。

1940年後半、リンドバーグは非干渉主義をモットーとする
アメリカ第一委員会のスポークスマンとなっていました。

マディソン・スクエア・ガーデンなどで行われた演説で、彼は
アメリカにはドイツを攻撃する筋合いはないということを力説しています。
演説するリンドバーグ

「私は深く懸念していました。
アメリカという潜在的な巨大権力が、無知で非現実的な理想主義に導かれて、
ヒトラーを滅ぼすためにヨーロッパに聖戦に参加するかもしれないことを。

そしてその結果、ヒトラーが滅亡すれば、今度はヨーロッパが
ソビエト・ロシア軍の強姦、略奪、野蛮にさらされ、
西洋文明が致命的な傷を負わせられるであろうことを理解せずに」
結論としてはアメリカは参戦し、ヒトラーは滅亡して
その後アメリカはソビエトとの冷戦に突入することになりましたから、
ある意味リンドバーグは慧眼だったことになります。

アメリカが参戦しなかった世界が現実のものより良いものになったか、
という仮定にはもちろん誰も答えを出すことはできませんが。

■ルーズベルトとの確執

フランクリン・ルーズベルト大統領は、リンドバーグの意見を「敗北主義者、宥和主義者」と断じました。
リンドバーグは直ちにアメリカ陸軍航空隊の大佐を辞職し、
アメリカ・ファーストの集会でこのように述べています。

「この国を戦争に向かわせる3つのグループ、それは
イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権だ」
「アメリカ・ファースト」を掲げたドナルド・トランプが、
民主党的リベラルやユダヤ系のメディア、GAFAに嫌われたように、
ルーズベルトの「アメリカ・ファースト」も、それは排他主義、
そして民族主義だと非難の謗りを受ける運命でした。

今にして見れば勇気のいる発言だったと思われる、
当時のリンドバーグのユダヤ系に対する意見をご覧ください。
今ならその地位がなんであっても社会的抹殺されそうな種類のものです。

「ユダヤ人がなぜナチス・ドイツの打倒を望むのかを理解するのは
難しいことではありません。
彼らがドイツで受けた迫害は、どのような人種であれ、
激しい敵を作るに十分だと思います。

人類の尊厳の感覚を持つ者は、誰であっても
ドイツにおけるユダヤ人に対する迫害を容認することはできません。

しかし、誠実で先見の明のある人なら、彼らの戦争推進政策を見て、
そのような政策が我々にとっても彼ら自身にとっても
危険であることを見抜かないわけにはいかないでしょう。

この国のユダヤ人グループは、戦争を煽るのではなく、
あらゆる手段で戦争に反対すべきです。

寛容は、平和と強さに依存する美徳です。
歴史は、それが戦争と荒廃に耐えられないことを示しています。
少数の先見の明のあるユダヤ人はこのことを理解し、
介入に反対する立場をとっています。
しかし、大多数はまだそうではありません。

この国にとっての彼らの最大の危険は、映画、報道、ラジオ、
そして政府における彼らの大きな所有権と影響力にあるのです。

私は、ユダヤ人とイギリス人のどちらを攻撃しているのでもありません。
どちらの民族も、私は賞賛しています。

しかし、私が言いたいのは、イギリスとユダヤの両人種の指導者たちは、
我々から見て好ましくないのと同様に彼らの視点からも理解できる理由、
つまり「アメリカ的ではない」理由で、
我々を戦争に巻き込みたいと考えているということなのです。

彼らが利益と信じるものに注意を払うことを責めることはできませんが、
私たちもまた、我々の利益に注意を払わなければなりません。

私たちは、他国民に備わった感情や偏見が、
我が国を破壊に導くことを許すことはできないのです。」

長いので3行でまとめると、アメリカはアメリカファーストであり、
ユダヤ人が主導する組織がドイツでのユダヤ人のために
アメリカを戦争に巻き込もうとするのは間違っていると。
ユダヤ人の苦境は十分に理解した上で、それでも
アメリカは不干渉を貫くべきだと言っているわけですね。


そしてこうなる

アン・モロー・リンドバーグ夫人は、彼の演説に対する批判に対して、
リンドバーグの評判が不当に汚されることを懸念しました。

「リンドバーグの誠実さ、勇気、そして本質的な善良さ、公平さ、優しさ、
その気高さ・・私は一人の人間としてリンドバーグを最も信頼している。

それなのに、彼がしていることについて私が深い悲しみを感じているのは
どういうわけだろう?
もし彼が言ったことが真実なら(そして私はそう思いたい)、
なぜそれを述べることがいけなかったのだろう?

彼は戦争を支持するグループを名指ししたのだ。
彼が英国や政権を名指ししても誰も気にしない。
しかし、「ユダヤ人」と名指しすることは、
それが憎しみや批判なしに行われたとしても、非米国的である。
なぜだろうか。」
アンは、リンドバーグが敵に回した勢力の巨大さと
その力に底しれぬ恐怖を感じているように見えます。

しかし彼はユダヤ人の迫害までを容認していたわけではありません。
1938年11月「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」が起こりました。
これに対しリンドバーグは不快感を示しています。

「(こんなことは)ドイツ人の秩序と知性に反しているように思える。
彼らは間違いなく困難な "ユダヤ人問題 "を抱えていたのに、
なぜこれほど理不尽に処理する必要があるのか」
彼は、全人口に対するユダヤ人の割合が高くなりすぎると、
必ず反動が起きるおで、適切な割合に調整するべきだとして、

「適切なタイプの少数のユダヤ人は、どの国にとっても
財産であると思うので、残念なことである」
と述べ、この考えは多くのアメリカ人に深く共鳴され、
彼の優生学と北欧主義は社会的に受け入れられていきますが、
ナチスの優生学とリンクしており、肝心のナチスが彼を称賛したため、
ナチスのシンパであると疑われていました。

ルーズベルトはリンドバーグの政権の介入政策への率直な反対を嫌い、
財務長官ヘンリー・モーゲンソー(ユダヤ系)に

「もし私が明日死ぬとしたら、これだけは知っておいてほしい、
私はリンドバーグがナチだと絶対に確信している」

といい、陸軍長官ヘンリー・スティムソンにも

「リンドバーグの演説を読んだとき、これは
ゲッペルス自身が書いたとすればこれ以上ない表現だと感じた」
繰り返しますが、リンドバーグはユダヤ人の迫害に
一度たりとも賛同したことはありません。
実は白人の優位性を信じ、ユダヤ嫌いであったかもしれませんが、
それはそれ、これはこれという態度です。

終戦後まもなく、ナチスの強制収容所を見学した彼は、

「人間、生と死が最低の品位にまで達している場所であった」

と激しい不快感を示しました。
優生学といえば、彼はヨーロッパ系の血の継承を尊重、つまり
外国の軍隊による攻撃と外国の人種による希釈から自分たちを守る限り、
平和と安全を得ることができるという考えでした。

「科学と組織に関するドイツの天才、
政府と商業に関するイギリスの天才、
生活と人生に対する理解に関するフランスの天才」

「アメリカではそれらが混ざり合って、
最も偉大な天才を形成することができる」
と信じていたといいます。

ホロコースト研究家(つまりユダヤ系側の人間)にとって彼は、

「善意はあるが偏見に満ちた誤ったナチスのシンパであり、
その孤立主義運動のリーダーとしてのキャリアは
ユダヤ人に破壊的な影響を与えた」

リンドバーグのピューリッツァー賞受賞の伝記作家A・スコット・バーグは、

「リンドバーグはナチス政権の支持者というよりも、
自分の信念に頑固で、政治工作の経験が比較的浅かったため、
ライバルが自分をそう描くことを簡単に許してしまったのだ」

と主張していて、わたしはこちらが公平な視点かと思われます。

時代がそういうことにしてしまったからこそ
ナチス新派などという色に染められたリンドバーグでしたが、
ナチスから勲章をもらったのも当時のアメリカ政府の手引きでしたし、
その考え方は戦間期のアメリカでは一般的なものであり
多くのアメリカ人の意見でもあったということを忘れてはなりません。

■ スピリット・オブ・セントルイスの卍


真ん中にハーケンクロイツが書かれたスピナーキャップ。
これは外されてしまいましたが、オリジナルのリンドバーグの愛機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に装着していたものです。

1927年5月12日、リンドバーグがロングアイランドに到着した後、
スピナーシュラウドに亀裂が発見されたのでノーズコーンが交換されました。

この時航空機の仕事をした男女は、皆でノーズコーンにサインをしました。

その名前の中には、ライアン航空の社長だったB・F・マホニー、
ライアンの工場長で有名な飛行機設計者ホーレー・ボウラスがあります。

スピナーの真ん中にある鉤十字にギョッとしてしまったのですが、
よく見てください。
日本の神社の印と同じで、鉤の向きが反対です。
これはスミソニアンによると、
「ネイティブアメリカンのグッドラックシンボルです」
なのだそうです。
SWASTICA(卍)がなぜスピナーの真ん中に描かれたかはそこまでスミソニアンの説明にないのですが、
おそらく卍の周りにあるマホニー、ボウラスと後二人が
何か意図してこれを書いたのかもしれません。
マホにーもボウラスも、およそネイティブアメリカンとは
関係なさそうなのが何やら不気味ですが・・・。

続く。








アメリカで見た半旗

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しばらくブログを制作するどころかPCも開けられない状態だったのは、
アメリカに来ているからです。

しかも、いつもと違って、今回はシカゴに到着後、
車でまるまる5日かけて5つの州を跨ぎ、そこを走破し、
片っ端からネイバルミュージアムを訪れるという
とんでもない計画をたててしまいました。

その道中についてはこれからお伝えしていくつもりですが、
ミシガン州のグランドラピッズにいるとき、安倍元首相の訃報を聞きました。



陸自の観閲式の姿がわたしにとって
実際に見た安倍首相となってしまいました。
その後、シカゴのあるイリノイからインディアナ、ミシガン、
オハイオ、ペンシルバニア、ニューヨークと州を跨いで走っている間、
そう、訃報を聞いて翌日だったと思いますが、
訪れたパーキングエリアの国旗が反旗になっていました。


ここは確かニューヨーク州だったと思います。
POW .MIAの旗と共に反旗に掲げられたアメリカ国旗。
JFKを暗殺したとされるオズワルドが元海兵隊員だったことと、
今回の犯人が元自衛官だったことに言及するメディアもありました。
たまに旗を見上げながら何か話し合っている一団もいて、
アメリカ人にとってもこの事件は
衝撃のニュースとして受け止められているようです。








「ハンドシェイク・イン・スペース」アポロ-ソユーズ実験プロジェクト

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スミソニアン博物館の宇宙事業関連展示を見ていて、
かなり驚いたのは、米ソが共同で行っていた宇宙開発事業があったことです。

アポロ-ソユーズは、1975年7月に米ソ共同で実施された
初の有人国際宇宙ミッションです。

アメリカのアポロ宇宙船とソビエト連邦のソユーズカプセルが
ドッキングする様子を、世界中の何百万人もの人々がテレビで見守りました。

このプロジェクトと宇宙での印象的な握手は、
冷戦下の2つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴であり、
1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたことで始まった
宇宙開発競争の終わりを告げるものと一般には考えられています。



それは、見学に来た人が疲れたら座り込むのにおあつらえむきの場所、
高さといい広さといいちょうどいい設置台の上に見ることができます。




■アポロ-ソユーズ実験プロジェクトASTP

ちょうど今日、7月15日から24日は、"宇宙での握手 "で有名な
アポロ・ソユーズ テストプロジェクトから47年目にあたります。

このミッションは正式にはアポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
ソ連ではもちろんソユーズ・アポロと呼ばれています。
Экспериментальный полёт "Союз" - "Аполлон"(ЭПАС)Eksperimentalniy polyot Soyuz-Apollon (EPAS)

また、ソ連は公式にこのミッションをソユーズ19と命名しています。

アメリカはすでにアポロ計画を中止しており、使っていない機体を
番号をつけずに「最後のアポロ」として飛ばすことにしました。



ASTPは、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船をドッキングさせる試みでした。
この世界の2大プレーヤーが共同作業に至った理由、それは
1972年に締結された二国間協定に基づくものでした。

間接的には、米ソの間で締結された、核兵器の保有数、運搬手段の制限、
複数弾頭化の制限が盛り込まれた

「第二次戦略兵器制限交渉」

の流れからきていたと思われます。

目的は、将来の米ソ宇宙船のドッキングシステムの研究で、
宇宙空間の平和利用のための協力に関する覚書に基づいて計画されました。

■緊張期
アポロ・ソユーズの目的は、ズバリ、
冷戦時代の超大国である米ソのデタント政策でした。

つまり政治目的事業というやつです。

アメリカが「赤化から世界を救う」ためのベトナム戦争に参戦している間、
当然ですがこの2つの超大国の間には緊張が走っていました。

ソ連の報道機関は一貫してアメリカのアポロ宇宙計画を強く批判し、
例えば1971年のアポロ14号打ち上げの写真には、

「アメリカとサイゴンの傀儡によるラオスへの武力侵入は、
国際法を足元から踏みにじる恥ずべき行為」

というキャプションをつけたくらいです。

一応ソ連のニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党20回大会で
「平和共存理念」としてソ連のデタント政策を公式化してはいますが、
両国の緊張緩和はなかなかそのきっかけを掴めないでいました。

それは1962年、ジョン・グレンが地球周回軌道に乗った
初めてのアメリカ人となった後のことです。

ジョン・F・ケネディ大統領とフルシチョフ首相との間に交わされた
手紙をきっかけに、NASAのドライデン副長官とソ連の科学者、
アナトリー・ブラゴンラヴォフが中心となって
ある計画について一連の話し合いが行われるようになりました。

驚くべきことに、科学者同士の話し合いは、
キューバ・ミサイル危機の真っ只中にあった1962年10月に、
ドライデン-ブラゴンラヴォフ協定として正式に結ばれることになります。

その内容は、気象衛星のデータ交換、地球磁場の研究、
NASAの気球衛星Echo IIの共同追跡などの協力などです。

この時、トップがケネディとフルシチョフであったことは大きく、
雰囲気としては、もう少しでケネディはフルシチョフに
有人月面着陸の共同計画を持ちかける可能性すらあったと言われていますが、
1963年11月ケネディが暗殺され、その一年後フルシチョフが罷免されたため、
それぞれの指導者がいかなる個人的な希望を持っていたとしても、
もう物理的かつ永久にそれは無理となってしまったわけです。
ご存知のように、この後両国の有人宇宙計画間の競争は過熱していき、
この時点でさらなる協力への努力は終わりを告げることになりました。

■宇宙競争と更なる緊張

その後は極度に両国の関係は緊張し、さらに軍事的な意味合いから、
米ソ間の宇宙協力は1970年代初頭にはあり得ませんでした。

1971年6月、ソ連は初の有人軌道宇宙ステーション
「サリュート1号」の打ち上げに成功しており、一方、アメリカは
その数ヶ月前にアポロ14号を打ち上げ、人類を月に着陸させるための
3度目の宇宙ミッションを行っていました。

月競争は終わりを告げたと言っても、そこで両国の関係が変わるはずもなく、
この計画が立ち上がってからも、米ソ両国は
お互い相手の工学技術に対して厳しい批判をし合っていました。

まずソ連ですが、アポロ宇宙船を「極めて複雑で危険」と批判。

ソ連の宇宙船は、ルノホド1号とルナ16号が無人探査機、
ソユーズ宇宙船は、飛行中に必要な手動制御部分を極力少な口することで
ヒューマンエラーによるリスクを最小限に抑えるように設計されていました。

一方、アポロ宇宙船は人間が操作することを前提に設計されており、
操作するためには高度な訓練を受けた宇宙飛行士を必要とする、
というのがソ連の考える「ダメな理由」です。

しかしアメリカはアメリカで、ソ連の宇宙船はダメだと盛んに批判しました。
例えば、ジョンソン宇宙センター所長のクリストファー・C・クラフトは、
ソユーズの設計についてこんなことを言っています。

「私たちNASAは冗長構成に頼っている。
たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えて
ミッションを継続しようとするが、
ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、
一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる」

ソユーズ宇宙船は地上からの制御を前提としていたため
アメリカソユーズ宇宙船を非常に低く評価していたということですが、
自動制御で特別に訓練された宇宙飛行士がいなくても遂行できるのと、
インシデントを予測して人間に対応させるのと、
さて、どちらが安全でしょうという命題となります。
という風に互いのやり方を否定し合っている同士が、
政治的案件で一緒にプロジェクトを成功させなくてはなりません。

しかも今回の計画は、これまでのアポロ計画とは全く違い、
カプセルから飛行することを前提とした実験となるわけです。

結局、アポロ・ソユーズ試験計画のマネージャーであるグリン・ルニーは、
ソビエトを怒らせるようなことを(たとえそう思っていたとしても)
マスコミに話すな!と関係者に注意をしたと言われます。

ルニー「ソ連様を怒らせちゃいけねえだ」

NASAは、アメリカ流の軽口がソ連に理解されにくいことを知っており、
ちょっとした言動や批判が原因でソビエトが手を引き、
ミッションが廃棄されることを心から恐れていたのです。

1971年の6月から半年にわたり、ヒューストンとモスクワで
米ソのエンジニアは会議を行い、宇宙船のドッキングの可能性について
相違点を解決してすり合わせを行いました。

その中には、ドッキング中にどちらかが能動的にも受動的にもなれるという、
2隻間のアンドロジナス周辺アタッチシステム(APAS)設計も含まれます。


そしてベトナム戦争が終結すると、アメリカとソ連の関係は改善され始め、
宇宙協力ミッションの実現性も高まってきました。

アポロ・ソユーズは両国の緊張の融解によって可能となると同時に、
プロジェクト自体にアメリカとソ連の関係を改善する働きが期待されました。

フルシチョフの後任となったソ連の指導者レオニード・ブレジネフは、


いいこと言ってみた

「ソ連とアメリカの宇宙飛行士は、
人類史上初の大規模な共同科学実験のために宇宙へ行くことになる。
彼らは、宇宙から見ると我々の惑星がより美しく見えることを知っている。
私たちが平和に暮らすには十分な大きさだが、
核戦争の脅威にさらされるには小さすぎる」

と述べました。
1971年、ニクソン大統領の外交顧問であったヘンリー・キッシンジャーは、
このミッションの計画を熱心に支持し、NASA長官に対して、

「宇宙にこだわる限り、やりたいことは何でもやってくれ」

と激しくゴーサインを出しています。

そして1972年4月までに、米ソ両国は

「平和目的の宇宙空間の探査及び利用に関する協力に関する協定」

に署名し、1975年のアポロ・ソユーズ試験計画の実行を取り決めました。


ASTP実験の画期的だったところは、初めて外国人飛行士が
ソ連の宇宙船にアクセスすることができるようになったということです。

ソ連の宇宙計画はソ連国民に対してすら情報が秘匿されていたのに、
アポロの乗組員はその宇宙船、乗組員の訓練場を視察することが許され、
ソ連の宇宙開発について情報を共有することになったのですから。

もちろん逆も真なりで、ソ連の関係者は
決してアメリカの宇宙事業に関わることは許されませんでしたが。

まあ、なんというか非常に融和的なおめでたいニュースなのは事実ですが、
ASTPに対する反応がすべて肯定的だったわけではありません。

多くのアメリカ人は、ASTPがソ連の宇宙開発計画に過大な評価を与え、
あるいはNASAの高度な宇宙開発努力を譲り渡すことになると危惧しました。

一方ソ連ではそういうアメリカ側の懸念について、

「ソ連との科学協力に反対するデマゴーグ」

と批判する人もいました。

とはいえ、この事業によってアメリカとソ連の間の緊張は軟化し、
このプロジェクトは将来の宇宙における協力プロジェクト、
シャトル-ミール計画や国際宇宙ステーションなど、
共同作業の前例となったのは動かし難い事実でもあります。

■ 乗組員



アポロ乗組員

司令官:トーマス・スタッフォード(後ろ)
ヴァンス・ブランド(前列真ん中)
ディーク・スレイトン(前列左)

覚えておられる方もいるかもしれませんが、
スレイトンはマーキュリーセブンの一員でした。

彼は心臓に疾患が認められたため、打ち上げをずっと見送って
NASAのディレクターとして宇宙船を「見送る側」でしたが、
ついにこのプロジェクトで宇宙に行く唯一の機会を得ました。

ソユーズ18号乗組員

司令官:アレクセイ・レオーノフ(後ろ右)
フライトエンジニア:ワレリー・クバソフ

レオーノフといえば、人類最初に宇宙遊泳をした男。
絵を描くのが得意で、宇宙でスケッチをしたあの人です。

■打ち上げ



1975年7月15日、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、
その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアポロ宇宙船が打ち上げられました。





両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングしました。

その3時間後、ミッション指揮官のスタッフォードとレオーノフは
ソユーズの開いたハッチから宇宙で初めて握手を交わしたのです。


国際握手会開催中

この歴史的な握手により、軌道上での約47時間に及ぶ
ドッキング作業が開始されました。
写真は16ミリ映画フィルムの1コマを複製したものです。


2隻の船が停泊している間、3人のアメリカ人と2人のソビエト人は、
共同で科学実験を行い、旗や贈り物(後に両国に植えられた木の種など)
を交換し、音楽を聴かせ合いました。

ちなみに、ソ連側からはMaya Kristalinskaya - Tenderness

アメリカ側からはWAR - Why Can't We Be Friends? (Official Video) [Remastered in 4K]

こんな選曲だったそうです。
「どうして僕たち仲良くなれないんだろうね?
調和して暮らしていけるなら肌の色なんて関係ないのに」



そして彼らは証明書に署名し、お互いの船を訪問して一緒に食事をしました。


スレイトンとレオーノフ

彼らはお互いの言語で会話をしました。
つまり、お互い相手の言葉を勉強していったということです。

この時、オクラホマ出身のスタッフォードのロシア語がソ連側にウケました。
レオーノフは後に、こんなことを言っています。

「ミッションでは3つの言語が話されていました。
ロシア語、英語、そして『オクラホマスキー』です」

ドッキングや再ドッキングの際には、2つの宇宙船の役割が逆転し、
ソユーズが「活動的」な側となることもありました。



そしてその一つがこの「プラーク合体」です。
アストロノー(アメリカの宇宙飛行士)とコスモノー(ソ連の宇宙飛行士)
は、国際協力のシンボルとして、軌道上で記念プレートを持ち寄り、
合体させて完成させました。
■アポロ-ソユーズテストの科学的成果

このミッションで行われた実験のうち4つは、
アメリカの科学者が開発したものです。
発生学者のジェーン・オッペンハイマーは、
無重力が様々な発達段階にある魚の卵に与える影響を分析しました。

あのオッペンハイマーとは関係ありません

44時間一緒にいた後、2つの船は分離し、
ソユーズの乗組員は太陽コロナの写真を撮り、
アポロは人工日食を作るために操縦を行い、短いドッキングの後、
二つの船は分かれてそれぞれの航路をたどりました。

ソ連はさらに2日間、アメリカは5日間宇宙に滞在し、
その間、アポロのクルーは地球観測の実験も行っています。

ASTPで、アメリカは宇宙から地球を体系的に観察・撮影し、
軌道上から地球を探査・研究するための新しいデータを取得しました。

このミッションで、スミソニアン国立航空宇宙博物館が
重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。

ファルク・エルバズ博士は、博物館の地球惑星研究センターの創設者であり、
ASTPの地球観測・写真撮影実験の主任研究員でした。
この光地質学実験がミッションに含まれるようになったのも、博士の功績です。

エルバズ博士は、アポロの宇宙飛行士が月を周回する際の
目視観測を訓練した経験があり、今回は地球がターゲットとなりました。

博士は、宇宙飛行士がT-38飛行機で上空から地質を観察し、
写真に撮る練習をするための飛行計画を立てました。

宇宙飛行士は宇宙空間で約2,000枚の写真を撮影し、
そのうち約750枚は雲に隠れていないなど、質の高い写真でした。



地球観測・写真撮影実験 アンゴラ
アフリカ南西部のアンゴラを撮影したもの。(出典:NASA)

エルバズ博士は、地質学、海洋学、水文学、気象学などの分野で
画像を分析する科学者チームを結成しました。
軌道写真は上空を広くカバーしているため、大きな構造物や広い分布、
従来の現地調査が困難な地球上の遠隔地やアクセスしにくい場所などを
直接調査することが可能です。

地図の更新や修正、地球資源のモニタリング
動的な地質学的プロセスの研究、海洋地形の調査など、
これらの写真の用途は広範囲にわたります。


博物館の宇宙戦争ギャラリーでは、ドッキングした状態の
アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船を見ることができます。

展示されているアポロのコマンドモジュールとサービスモジュールは試験機で
2つの宇宙船をつなぐドッキングモジュールは
バックアップフライト用のハードウェアとなっています。

ソユーズ宇宙船は、ソユーズを最初に製造した
エネルギア設計局によって作られた実物大模型です。



最後に、スミソニアン所蔵のソ連の国旗を。

この旗は、米ソ共同のアポロ計画で、アポロ司令船に搭載された
特別な「ギフトバッグ」に含まれていた10枚のソ連国旗のうちの1枚です。

また、アメリカの国旗10枚、白トウヒの種の特別な箱、
宇宙船がドッキングしたことを証明するASTP証明書も含まれていました。

1975年7月、アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングしている間に
宇宙飛行士の間で贈呈され、交換されたものです。


続く。


アメリカ5州博物艦巡りの旅①〜出国、シカゴ、ミシガン州マスキーゴン

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今回のアメリカ行きは、MKの卒業式旅行があったため、
例年よりも出発が後ろにずれ込んでしまったのですが、
そんな年に限ってこのお元気ですか日本列島は異常な暑さに見舞われ、
日本の湿度のある暑さに慣れていない体には堪えました。
しかしようやくアメリカに到着してホッとしたのは、日本にはない
からりと湿気の低い心地よい暑さのせいだけではありません。

とにかく今回は特典航空券で便を抑えるのが大変だったそうです。
(この辺りの手続きは皆TOに任せているので伝聞)

というのは、我々の最近の移動は全てクレジットカードの特典航空券、
つまり言うたらおまけのチケットに準拠しているので、
疫病がひと段落して旅行が可能になった国内外の移動は、
リベンジツァーの影響下、都合のいい便がうまく取れなくなっていたのです。

何度も(TOが)カードデスクと丁々発止やり合ったにも関わらず、
どうしてもピッツバーグまでうまく繋がる便が取れず、
最終的にシカゴから車で移動ということになってしまったのです。

しかし、これは実はわたしにとっては猫にまたたびのような天の配剤でした。

実は5月もそのパターンになりかけ、そこで、

「シカゴからなら潜水艦『シルバーサイズ』を見に行こう」

とひらめいて、すっかりその気になっていたところ、その後、
乗り継ぎ便が取れてしまい、無念にも計画は水泡に帰したのでした。

しかし今度は本当にシカゴまでしか飛行機は飛ばない。
これをリベンジツァーと言わずなんと言う。そして、今後の人生でアメリカ中北部をうろうろできる機会が
(時間的にも体力的にも)またとあろうか、いや、ない。

と考えたわたしは、さらに欲張って計画を練りました。

シカゴからピッツバーグまで車でノンストップなら8時間。
この行程を5日間に引き伸ばし、五大湖に係留されている海軍艦艇を
片っ端から見て歩くという、当ブログ的豪華特別企画です。
早速、キッチン付きのホテルと近くにホールフーズがある場所に
点々と泊まり歩くような予定をガッチリと組み、渡米に備えました。

■出発



今回の航空便予約がいかに難しかったか。

それは、わたしとTOが、羽田と成田からほぼ同時刻に飛行機に乗り、
シカゴ空港で再会するという当初の予約にも表れていました。
これをTOは、
「われても末に逢はむとぞ思ふ作戦」
と名付け、それなりにうまい作戦だと悦に入っていたのですが、
当日の朝、アクシデントが発生。
わたしの乗る羽田発のユナイテッド便が欠航になったのです。

なんでも出発地のシカゴが雷雨で離陸が3時間遅れ、
羽田に着いてみれば機体不良が見つかりもう飛ばせなくなったとのこと。

そこでTOが、自分と同じ飛行機に無理やり頼み込み捻じ込んで、
(元々その便には特典航空券の席はなかったのですが)
奇跡的に同じ便でシカゴまで行けることになりました。

何という禍転じて福とナス。今回の旅行は何だか幸先がよろしいようです。
■ 機内

今回の出国は、PCR検査が必要なくなっていたため、
過去2年の困難がまるで夢のように思われるほど簡単でした。
(つまり以前の通りに戻っただけなのですが)

航空会社もようやく底を脱してホッとしていることでしょう。

ただ、PCR検査一人一回2万円也のフィーバー状態が終わった
空港などの検査機関は、ちょっと残念に思っているかもしれません。

知らんけど。



結局ユナイテッドでなくANAになったので、
機内での夕食は迷わず和食にしました。

今回もどこかの料亭とのコラボによる献立で、普通に美味しかったです。



メインが豚の角煮というのは初めてです。



今回は後半ぐっすり寝過ぎて、目を覚ましたら朝ご飯が終わっていました。

「寝ておられたのでお声をかけませんでしたが、
何かお召し上がりになりますか」
とFAさんに言われて初めてそのことに気づき、
軽食メニューの「ヘルシーカツ丼」なるものを頼んでみました。

このメニューは3月から始まった代替食材料理で、
豚カツに替わるカツ部分をおからとこんにゃくで形成したもの。

国際線ビジネスクラスの軽食でのみ提供されていて、
世界的な流れである「サステイナブル」に配慮した形です。

開発した会社「ディーツ」の名前をつけた代替肉ディーツは、
おからとこんにゃく由来で、通常の「カツ丼」1000キロカロリーを4割、
脂質は5割カット、逆に食物繊維5倍というものだそうです。

何も考えずに頼んでみたのですが、代替肉としてはよくできていて、
見た目もさることながら、肉質、食感もいい線いっていました。

しかもご飯は、こんにゃく米と白米を半々で使用したものでしたが、
食べている時には全く気付かず、今ANAのHPで初めてそうと知ったほどです。

研究の結果、「究極の配合」白飯と半々なのだそうです。

■ シカゴ・オヘア空港着



いつも何の気なしに飛行機の窓から景色を撮っていますが、
いつの頃からか、撮った景色の地名が明記されるようになりました。

これはイリノイ州のDu Page Countyの「フォレストプリザーブ」という
緑地帯で、オヘア空港の地図では左下に位置します。

さて、というわけで無事オヘア空港に降り立ったわけですが、
入国審査が空前絶後というくらいの人大杉でびっくりしました。

COVID19の頃もハブ空港のオヘアはそれなりに人がいましたが、
今回はリベンジツァー真っ最中というだけあって、
いつも並ぶ通路に人が収まりきらず、臨時にコンコースに作った通路で
地の果てまで行って帰ってきてから本来の通路に並ぶという具合。

わたしたちはシカゴが最終目的地だから関係ありませんが、
これでは乗り継ぎ便に遅れる人続出だろうと思われました。


シカゴにはもう何回も来ていますが、降りたのは初めてです。
そのため、レンタカーの乗り場がどこなのかわからず、
とりあえず表示を頼りに歩いて行ったら、斜め上の矢印を最後に
表示が消えてしまい、仕方がないのでその辺の空港の職員に聞いたら、
こいつが全くの出鱈目を教えるものだから、カートの荷物を押しながら
あっちにに行ったりこっちに行ったりを繰り返すハメになりました。

最後に聞いた人がちゃんと「トレインで最終駅まで行くんですよ」
と教えてくれて何とかレンタカーセンターにたどり着き、
ホンダの4WD、しかも走行距離600マイルのピカピカの新車を選んで、(何を隠そうわたしはゴールドメンバーなので好きな車を選べるのである)
やっとのことでホテルに到着したのでした。


ホテルはいつもキッチン付きのレジデンスインバイマリオットを選択します。



今回はこれまで貯めていたアップグレードのプレゼントを使い、
1ベッド+ソファベッドの安い部屋から2ルームにアップグレードしました。
さすがシカゴ、極寒の地だけあって、部屋に暖炉があります。

その日は車で15分ほどのところにあるホールフーズで
ホットデリを取ってきて、部屋で食べ、明日に備えて寝ました。

■ U-505



今回、シカゴ近辺の海事遺跡を調べていて、
シカゴの博物館にU-505の実物が展示されていると知った時は、
思わず胸が高鳴ったものです。

この捕獲Uボートの実物を見ることほど今回楽しみだったことはありません。

Uボートの展示がされているのは、

Museum of Science+industry Chicago(シカゴ科学産業博物館)

大都市シカゴの中でも特に充実した博物館で知られており、
そのほかの展示も、



航空機群あり、



テスラコイルの実演ありとすごかったです。(小並感)


このあと、博物館を出て、車の機能を確かめながら次の場所に向かいました。


駄菓子菓子、困ったことに、今回の時差ボケもかなりキツく、
前夜は明日のために眠るぞー!とメラトニンを飲んで寝たのに、
3時に目が覚めてしまい、そのあとはどんなに頑張っても眠れません。

早起きしてしまった睡眠不足のツケは翌日の昼過ぎに払うことになり、
車を運転していていきなり悪夢のような眠気が襲ってくるたびに、
PAに停めて仮眠をとりながら移動していました。

この時差ボケは最終日のバッファローまで全く解消することはなく、
それまでは途中の仮眠とスタバのオーツラテ(グランデ)が頼りでした。

■ ミシガン州マスキーゴン

Muskegon。
当初何と読むのかさえわからなかったミシガン州の、
ミシガン湖に面した港町であります。

ここに、先日当ブログでご紹介した映画「BELOW」で使われた
潜水艦「シルバーサイズ」があります。



前日はミシガン湖を地図上で見ると左岸に近いシカゴから、
車で湖に沿って走った内陸にあるグランドラピッズに宿泊しました。
もちろん初めて知る地名ですが、ミシガン州ではデトロイトに次ぐ都市で、
言うたらミシガン州の大阪という位置づけです。

到着した時から感じていましたが、さすが北の方にあるだけあって、
この辺の気候は日差しは強くとも風がひんやりして、
北海道の夏を思わせる心地よいものでした。



なぜか駐車場のコンクリの上にいたカメさん。



グランドラピッズからミシガン湖沿いの街、マスキーゴンまで40分ほど。

ここでまず昼ごはんを食べることになりました。
車で通りかかってピンときた、ヨガ教室に併設されたデリ&カフェです。

地元の野菜を使ったロールやサラダ、アサイーボウルなどを、
自分の好みでトッピングを注文することができるお店で、
カウンターの中も外も女性でいっぱいでした。


潜水艦「シルバーサイズ」は、港に係留されており、
そこに地元渾身の潜水艦博物館も併設されています。


内部も自由に見学することができました。

改めて中を見て、実際にあの中にカメラを持ち込むのは無理、
潜水艦内の映像はセットによるものだと確信しました。


併設された潜水艦博物館は、戦争博物館、そして
地元のベテランを顕彰する役割を持った、お馴染みのタイプです。

改装したばかりらしく、パネル展示が新しかったのですが、
展示室に入った途端、これにお迎えされてしまいました。


そして、そのマスキーゴンを湖沿いにほんの何分か北上すると、
揚陸艦USS.LST393が展示されています。

五大湖沿いはアメリカ、カナダ共に記念艦の展示が多いのですが、
海沿いより潮による劣化が少なく管理しやすいからかもしれません。

他にもミシガン州ヒューロン湖沿いカナダ国境のマッキノーには
その名も砕氷艦「マッキノー」が展示されています。

今回わたしは無謀にもこれを見学するつもりでいました。

机の上で地図を見ながら計画を立てているときには、
マッキノーから舌のように突き出したミシガン州の舌の先まで行って、
砕氷艦を見学したらそのまま同距離をその日のうちに
マッキノーとほぼ同じ緯度上にある宿泊地に戻れると思っていたのですが、
如何せんアメリカは広かった。

ミシガン州だけで実は日本の本州より1割大きいというくらいですから、
それは例えるなら、大阪から車で東京に行って、
その日のうちに京都に帰ってくるというような無茶苦茶なプランでした。

現地で走りながらそれを改めて実感し、砕氷艦は諦めて、
おとなしく次の街、アナーバーに向かうことにしたわたしです。


続く。



アメリカ5州博物艦巡りの旅②〜ミシガン州ベイシティ、オハイオ州クリーブランド

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潜水艦「シルバーサイズ」と揚陸艦LST393のあるマスキーゴンから
ミシガン州を少しずつ南下しながら東に進むと、
半島の真ん中あたりに、ミシガン州都であるランシングがあり、
(大都市は州都に在らずの法則はここにも)
さらに南に下るとミシガン州最大の都市デトロイトがあります。

デトロイトから横V字に折り返して少し南西に行くと、
次の宿泊地、アナーバー、Ann Arborに到着しました。
アナーバーは都市を設立した二人の男性の妻の名前がどちらもアンで、
さらにこの地にに自生するオークの森の木陰が作り出す光と影から、
「あずまや」(Arbor)にちなんで Ann Arbor と命名されたそうです。

今回いろんな都市を駆け足で巡りましたが、その中では
この街が一番住みやすそうであると二人の意見が一致しました。

実は昔、TOがここにある全米10位以内という大学の日本人関係者から
大学院への留学を勧められたということがあったそうで、
そのときアナーバーは日本人にとってとても住みやすくていいですよ、
と聞いていたらしいのですが、結局彼は別の大学を選びました。

冬に氷のトンネルができるくらい寒いミシガンに決まらなくてよかった、
くらいの認識しか当時のわたしにはなかったので、
アナーバーなる都市の名前も今回の計画立案の段階で初めて知ったのですが、
よりによって偶然そんな若干の因縁のある街を選んでいたとは。
まあ、夏に訪れたからこそ住みやすそうなどと思ったのであって、
零下20℃の冬に来ていたら違う感想だったことは想像に難くありません。
札幌出身の人が、昔、
「夏の北海道に観光で来ただけで住みやすそうなどというのを見ると腹立つ」
と言っていたのをふと思い出しました。




アナーバー宿泊は週末だったせいか、リクエストしたアップグレードを
一度ホテルからメールでお断りされていたのですが、
チェックインの時、とても感じのいいフロントの女性が、
お部屋が空いたのでスイートにさせていただきました、
とにこやかにいうので、アナーバーの印象もアップグレードしました。

今回、時差ボケと戦いながらの旅なので、一部屋を占領して
寝られないなりに一晩自由に過ごせるのはありがたかったです。



まだ新築らしく、同じ名前のホテルでも、
間取りや内装が洗練されていてこれもまた気に入りました。


ダイニングテーブルとソファの両側に部屋が一つづつある作りです。


夕食は何も考えず調べておいた近隣のホールフーズに行ってデリを買い、
部屋で食べるか、イートインで食べて済ませていました。

ホールフーズというオーガニックスーパーマーケットは、
価格帯がお高めなので、富裕層とまでは行かないまでも、
少なくとも意識高い系やオーガニック派やサステイナブル族などの住む、
ある程度以上の生活レベルの層が住む地域にしか出店しません。

ですから、現地のことを全く知らない旅行者であったとしても、
ホールフーズがあるだけで安全な地域であるという一つの目安になります。
(サンフランシスコやニューヨークなどの大都市は少し事情が違いますが)

それから、アメリカのブランディングシステムのありがたいところで、
広い全米どこに行っても、似たような商品を扱っているので、
慣れていると買い物が簡単で楽というメリットがあります。


さて、アナーバーは心惹かれる街で、もう少し滞在したいくらいでしたが、わたしには行くべき次の場所がありました。

アナーバーから3時間ほど車で北上すると、サギノー(Saginaw)という、
どこかで聞いたような街があります。

わたしが「聞いたことがある」というのは、たいがいその都市名が
海軍艦艇につけられているパターンが多いのですが、
「サギノー」も、まずSloop-of-warという種類の南北戦争時代の軍艦、
(甲板上に大砲を有する蒸気又は帆走式の軍艦)
USS Saginaw 

と、近代のタンク・ランディング・シップ=戦車揚陸艦、

USS Saginow (LST−1188)
が何となく記憶の底にあってその名前を見覚えていたようです。

LST「サギノー」の方は、湾岸戦争にも出撃したという艦で、
アメリカ海軍を退役した後は、オーストラリア海軍に売却されて、
2011年まで現役で活躍していたということです。

今回訪問したのはそのサギノーから少し北に行った、ベイシティという街。

写真はこの日昼ごはんを食べた、
ヒューロン湖から流れるサギノー川沿いにある大型ホテル、
「ダブルツリー」のレストランからの眺めです。


そしてサギノー川の上を飛翔するサギ。



アメリカのレストランでお馴染みの「アヒ・ツナ」をいただきました。

ここのはふんだんに胡麻を塗したもので、なかなか悪くありません。
マグロの身がフニャッとしてどうにも締まりがないですが、そこは我慢。
昨今は味のグローバル化で、どんな都市に行っても、このような
日本人の口に合う料理が食べられるようになったのはありがたいことです。


お昼を食べてから、いざ艦艇見学に出発・・・・と思ったら、
街中なのに、ものすごい鉄屑の山を発見。

これ、そのままデトロイトの自動車の原料になったりするのかな。


■ 駆逐艦「エドソン」@ベイシティ



ベイシティのヒューロン湖沿いには、

駆逐艦 USS Edson 「エドソン」DD-946
が係留展示されています。
記念品グッズ売り場を兼ねた建物で観覧料(確か18ドルくらい)を買ったら、
ボランティアらしいカウンターの男性が、
「わたしのワイフは日本人なんですよ」
と言って奥さんを呼んできてくれました。
こんなところで日本人に会うとは、さても奇遇です。

トモコさんとおっしゃるこの女性は、週に一回ボランティアで
「エドソン」に夫婦で来ておられるということでした。

アメリカ人男性(ベテランかも)と結婚して、
ミシガン州の五大湖沿いの小さな町で共に人生を重ねるとは、
昔どんな素敵なご縁があったのでしょうか。

彼女によると、この街に日本人は二人だけしかおらず、
しかも向こうとは関わりがないので日本語を喋るのは久しぶりだとか。

「喋らないと本当に日本語出てこないんですよね」
そんなもんなんですね。

それから、トモコさんから伺ってもっと驚いたことがありました。
わたしたちが訪れたこの前日、「エドソン」には、

日本人女性がたった一人で見学に来ていた

というのです。

「日本女性が」「アメリカの小さな街の展示艦を」「一人で見学」?
わたしは思わず、それはわたしではないのかと思いました。
同時に、わたしが今までやってきたことは、わたしの目から見てさえ、
かなり風変わりで奇異なことに思えたのが不思議でした。

この女性がアメリカ在住なのか、日本からの旅行者かはわかりませんが、
こういった展示軍艦の見学というのは、一般的に
あまり女性の興味を惹かないものだと、他ならぬわたし自身が
持っていた偏見めいた目に、あらためて気付かされた次第です。


2022年7月上旬に、駆逐艦「エドソン」を一人で見学したという方、
もし万が一このブログをお目に留められることがあったら、
一体どんな方で、どんな目的のもとに来られていたのか、
差し支えなければご一報くださると大変幸いに存じます。




「エドソン」がこの街にやってきて展示されるようになったのは、
トモコさんによると10年前のことだそうです。

そのうち内部についてこのブログでも細かくご紹介しますが、
とにかく感心したのは、展示が見学者にとって懇切丁寧なこと。

どんな部分にも必ず説明が添えられていて、
軍艦初心者にも自分の見ているものが何か分かりやすくなっています。
いろんな街の展示艦を見てきましたが、その親切なことにおいて
「エドソン」は間違いなくトップクラスでした。

もっともこれは、「ミッドウェイ」のような大規模な展示のように
インターネットで調べれば細かい部分も全て情報が上がっている、
というような記念艦ではなく、その分ボランティアの熱意や
展示の仕方の工夫に全てが委ねられている小さな艦ならではかもしれません。


かつての乗員を記念艦に招いてイベントを行うなど、
ボランティアによる活動も活発に行われているようです。

写真のご夫婦は、「エドソン」のかつての艦長夫妻だと思います。

「エドソン」は主にベトナム戦争時代に活動のピークだった艦艇で、
1960年には極東での配備のために台湾海峡をパトロールし、
沖縄沖で水陸両用作戦に参加し、そして
日本近海ででさまざまな種類の演習を行っています。

■ クリーブランド

この日は午前中にアナーバーからベイシティまで2時間弱、
ベイシティからその日の宿泊地であるオハイオ州クリーブランドまで
4時間強、合計6時間一人で運転をすることになっていました。

時差ボケの治り切らない体調では不安でしたが、幸い、
この前日くらいから一旦夜中に目が覚めることはあっても、
その後6時くらいまで寝ることができるようになっていました。

結果として、この4時間のドライブ中眠くなることは一度もなく、
快調にアナーバー、トリード(Toredo)と通過して、
クリーブランドという名前だけはよく知っている
(クリーブランド交響楽団という超有名オケがある)
オハイオ州第2の都市に到着しました。



途中でちょうど走行メーターがちょうど1000マイル(1609km)になったので、別に深い意味はないですが、記念写真を撮っておきました。

ちなみにこの時の時速67マイルは107kmで、アメリカの高速道路は
だいたい60〜70マイルが制限速度となっています。

日本の高速のように、みんなが100キロで走るような高速で
制限時速を80キロにしておいて、パトカーに捕まった時には
自動的に?20キロオーバーになっているというような
不合理な制限時速設定はしていません。

この頃にはオートクルーズ機能を使いこなしていたので、
制限時速に設定して走行していました。

モードによって写真のようにiPhoneの曲の題名を
パネルに表示することもできます。

パネルに「イントルーダー」という字が写っていますが、
これはあの戦闘機のことではなく、MKがダウンロードした
「Fight Songs: The Music of Team Fortress」

というアルバムの「Intruder Alert」(侵入警報)という曲です。



クリーブランドのレジデンス・イン・バイ・マリオットは、
まだ新築らしく、内装はとても近代的でとてもいい感じでしたが、
アフリカ系フロント係が、ホテルマンのくせに気が利かなさすぎでした。

都市部のホテルなので、駐車場代に一晩15ドル取られるのはいいとして、
それを説明しておきながら、駐車場の入り方を教えない。
こちらが困って聞きに行くまで、どうやってゲートを入るか、
どうやって駐車場を出るかを前もって教えないという不親切ぶり。

次の日、わたしたちは別の宿泊客が何やらフロントで
クレームをつけているのを見ましたが、彼女に向かって、
フロントのアフリカ系女性は、

「2時になるまで責任者が出勤してこないので、
あなたの部屋をそれまで延長しておくから待っていてください」
と言い放っていました。

その客に飛行機に乗る予定があってそれまで待てなかったら、
どうする気だったんだろう。


旅の印象というのはこんなところでも決まってしまうもので、
残念ながらわたしたちにとって、一泊しかしなかったクリーブランドは、

「アフリカ系の従業員が悉くやる気なく働いているところ」

になってしまいました。

観光業の人たちには、くれぐれも自分の言動が、その場所、
ひいてはその国を印象付けることもあるということを
重々意識して接客していただきたいものだと思いました。
大抵の日本の観光業に携わる方々には釈迦に説法だと思いますが。





クリーブランドの部屋は、もともとツインが取れていたので
アップグレードはしませんでしたが、十分な広さでした。


ここには大きなコンピュータデスクがありましたが、
なにしろ着いたら荷物を整理してお風呂に入って寝るのが精一杯で、
せっかくのデスクも、PCを充電する台としてしか機能せずじまい。



窓の外には少し離れたところにクリーブランドの中心部が望めます。
クリーブランドのさらに向こう側には、「アクロン」という都市があります。

アクロンと日本語で検索すると、洗剤の情報しか出てきませんが、
わたしにとっては「アクロン」は悲劇の海軍飛行船の名前に他なりません。


ところで、クリーブランドに行く少し前、このアクロンで、
またしても警官によるアフリカ系男性への銃撃があり、
それがオーバーキルであり黒人に対する差別であるとして、
BLMな人たちがデモをする騒ぎになっていました。

警官が黒人男性射殺、約60発の銃弾 米オハイオ州で

しかしいつも思うのですが、こういうことに抗議する人たちは、

「同氏は軽微な交通違反で車を止めるよう促され、車に乗ったまま逃げた」

「数分間追跡された後、車を捨てて逃走」

「警官の方を向いており、その際に銃を所持していると考えられた」
(銃は車の中から発見された)

このとき警官は8人がかりで男性に60発を撃ち込んだ、というのですが、
男性が銃を持っているかどうか確かめていたら先に撃たれるから、
そして撃たれてからではもう遅いからこそ、アメリカの警官は
条件反射で発砲するようにと訓練されているんじゃないんでしょうか。

車で逃げて逃走するような男性でも「あやしきは罰せず」というのは、
つまり、向こうが撃ってくるまでこちらから何もするなということ?

それって、警官の命は被疑者より軽いということにならないのかな。

まあ、歴史的にも色々と不条理な目にあってきた黒人さん側には、
こういうことがあるたびにそりゃ言いたいこともあろうかと思いますが、
この手の事件(そして必ずしも黒人男性は『真っ白』ではない)が起こると、
必ず人種差別問題に火がついて抗議デモが起こるというこの流れ、
対岸の火事的立場からは何だかなーと割り切れない想いに見舞われます。

さて、クリーブランドで一泊したら、あとはエリー湖に沿って
ひたすら北に進んでいくのみ。

そこには、以前外から見るだけで終わった、この地域最大の
バッファローネイバルパークがあるのです。

ついでにナイアガラの滝参りももう一度するぞ〜!

続く。


アメリカ5州博物艦巡りの旅③〜ニューヨーク州バッファロー

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クリーブランドはほぼエリー湖沿いにある街です。
ここで一泊したあとはエリー湖に沿うような道を北に向かって進みました。

途中で一瞬ペンシルバニア州を通過しますが、これはアメリカの州あるあるで、
ペンシルバニア州が水路(つまりこの場合エリー湖岸使用の権利)
を確保するためにほっそーく伸ばした触手の部分となります。

さらに北上したところはニューヨーク州ですが、これも同じ理論で、
つまりニューヨーク州がエリー湖岸の地権を獲得した結果です。

知らない人は、なぜこんなところにまでニューヨーク州が、と驚きますが、
州境を決定するとき、各州がそれぞれ利益を主張しあった結果、
このような一見不思議な州の形が決まっていったということなのでしょう。
■ バッファロー・ネイバル・パーク到着

エリー湖沿いのニューヨーク州の街、バッファロー。
ここのウォーターフロントにはこの地域最大のネイバルパーク、
バッファロー・アンド・エリー郡海軍・軍事公園
があります。

もしかしたら覚えておられる方もいるかもしれませんが、当ブログでは
去年の冬、お正月明けにナイアガラ参りをしてその帰りに、
ここの存在を知り、車を停めて立ち寄った時のことをお話ししています。
その時にはアメリカもCOVID19の自粛規制真っ最中だったため、
艦艇の中を見学することはできずに外側の写真だけをアップしました。
その後夏に訪れた時にもまだ自粛が続いているっぽい雰囲気だったので、
様子を見ているうちに滞在期間が過ぎてしまったのですが、
今年はMKも大学院進学で西海岸に文字通り河岸を移すことになり、
最後のチャンスなので、なんとしてもここは制覇するつもりだったのです。


アメリカのパーキング事情は年々進化していっており、最近では
アプリをダウンロードすれば携帯で支払いができ、もし出先で
追加が必要になった場合も現地に戻ることなく支払いができます。

ただし、それはアメリカに住んでいる人には便利なシステムですが、
我々のように海外から来ている旅行者は、いきなりQRコードを出されて
ダウンロードしてここで支払ってください、と言われても、
ダウンロードがうまくいかなかったりするわけです。

この時も、ダウンロードの段階で先に進めず、諦めて
駐車管理係が回ってきた時、ウィンドウに挟んでいく紙に従い、
ペナルティ付きの(といっても銀座と比べればタダのような値段)
駐車料金をネットで支払うことにしました。

アメリカの交通違反は、日本のように免許の点数制などは付随せず、
違反を切られたら料金を払いさえすれば刑事罰にもならないので、
堂々と日頃メーターにお金を入れず停め続け、運悪く違反を切られたら
それを駐車場代として支払うという主義の人もいます。
MKの友達の一人がそうらしいのですが、日本人であるわたしには
どうも気持ちが悪くてどうしてもできないことの一つです。


前回は閉店していたチケット売り場併設のシーフードレストランで
見学の前にお昼ご飯をいただくことにしました。

この日は快晴の夏日で、日差しが平気なアメリカ人たちは
外のテーブルに座るために順番待ちをしていましたが、
わたしたちは迷わず中に席を取りました。



ここバッファローは言わずと知れたバッファローウィングスの発祥の地です。

ただしウィング(アメリカ人はこう呼ぶ)の歴史は新しく、
80年代にテレビを通じて有名になったという程度のものだそうです。
赤い色はカイエンペッパーで、たいていピリリと辛く、
それをセロリと白いランチドレッシングで中和していただきます。

バッファローに着いたので、早速これを注文しました。


わたしは「ブッダボウル」なるミックスサラダ的ボウルを頼みました。
どの辺がブッダかというと、豆腐ステーキや枝豆、
アメリカ人が和風と考えるところの、スパゲティ状のメカブを
ごま油で和えたもの、生姜のガリが入っているあたりでしょう。

TOは何かのタコス風ロールを頼んでいます。

レストランの建物は、戦跡や戦争記憶を後世に残すための
各種団体や組織の活動拠点になっていると思われます。

艦艇の管理やメインテナンスもここで請け負うのでしょう。

レストランの反対側にある売店のカウンターでチケットを買うと、
手首に支払い済みの印として紙テープを巻いてくれます。

カウンターの中年の女性は、わたしが時計をしている手を差し出すと、

「反対側の手につけさせてちょうだい。
潜水艦に乗るときにバランスが取れていないといけないから」

と言って片頬で笑わせてくれました。



そしてネイバルパークの見学開始。

前回は誰もおらず、凍った雪で歩くのが大変だったこの通路も、
週末だったこともあり、全く違う顔を見せています。

右側の一角は陸軍の戦車や戦闘機などを展示していて、
中には入れませんが外から間近で機体を眺めることができます。
ネイバルパークは、全部で三隻の軍艦を「品」という漢字の形状でつなぎ、
岸壁の駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の右舷から入って、
奥の軽巡洋艦「リトルロック」の後甲板から入って行き、それがすんだら
右舷前方から潜水艦「クローカー」に下りる、というコースで見学します。

■ 沈没した「ザ・サリヴァンズ」


「セルフガイドで見学してください」

と聞いていたので、「ザ・サリヴァンズ」に乗艦すると、そこには
ヴォランティアの解説が待っていて、見学にあたっての説明、
黄色い見学用の線に沿って進むこととか、
展示されている三隻の艦の大まかな説明をしてくれました。

「ザ・サリヴァンズ」の艦名は第三次ソロモン海戦で沈んだ
軽巡洋艦「ジュノー」に全員が乗っていたため、
全員が戦死した悲劇で知られるサリヴァン兄弟に因んでいます。

わたしはこの話を以前ここで紹介したこともあり知っていたのですが、
解説の方が次に続けた言葉に驚きました。

「実はサリヴァンズは4月に沈没してしまったのです」
沈没して全員戦死した兄弟の名前の記念艦が沈没って、なんの悪い冗談?

USS The Sullivans navy ship sinking

解説の人によると、COVID19の自粛は2月には解け、
平常に公開し始めて2ヶ月後の4月、「ザ・サリバンズ」が夜のうちに沈み、
右舷に大きく傾き、着底しているのが翌朝発見されたそうです。

すぐさま緊急修理クルーと水中ダイビングチームが
現場で破損の原因究明と救出を行った結果、裂け目は右舷の中船尾にあり、
船が後方に傾き、右に傾く原因になっていたことがわかりました。

関係者は、艦を平衡に戻すためポンプで一晩かけて水を排出し、
現在の状態に戻して「ポンツーン」としての役目を取り戻しました。

水深が浅く、沈没しても着底だけだったことで
復元がなんとか可能だったということです。

しかし、流石にまだ内部を公開するという状態には至っておらず、
従ってわたしは今回も内部を観られませんでした。


■ 軽巡「リトルロック」と潜水艦「クローカー」

軽巡洋艦USS「リトル・ロック」の展示の目玉は、なんといっても
この艦が備えていた「タロス・ミサイル」のシステムでしょう。

ミサイル発射室は、この右側の黄色い線に沿って入って見学します。
その後は甲板下の設備を下に向かって順に進み、
もう一度同じ甲板の後方に出てくるのですが、さすがネイバルパーク、
内部の展示はとても機能的でわかりやすく、充実の見学となりました。


「リトル・ロック」の舷側からは、エリー湖に続く港口を臨みます。

この日は週末ということでたくさんの人々が
湖上にボートなどで繰り出して楽しんでいました。

自家用ボートのオーナーはここぞとばかりに。



拡大してみると、ポーズをとるお子様と、
操縦しながら彼女の写真を撮るお母さんの姿がありました。


この手前の二人の立ち漕ぎボートも楽しそうです。



波がない湖上をこんなサイクルボートで散策するのもいいですね。



「リトルロック」の見学をすべて終えて甲板に上がると、
(ちなみに艦橋の公開はしていない様子だった)
眼下には潜水艦「クローカー」の甲板が見渡せます。



「リトルロック」から「クローカー」までは、
ご覧のラッタルを降りて移動します。



「クローカー」は前部発射管から後部発射館室まで隈無く見られました。
説明も多く、大変満足の見学となりました。


「リトルロック」から見える巨大国旗竿。
この時は安倍元首相に対する半旗の期間は終了していました。


前回、氷と雪で真っ白に覆われた同じ場所を、足元を取られながら歩き、
記念碑の写真を撮りながら歩いたのと同じ場所とは思えません。

今回は逆にあまりの日差しの強さに、日陰を選って歩いたほどでした。

ただ、この地域は冬寒いだけあって、日陰に入りさえすれば
凌ぎやすいというか、むしろ暑さが心地よく感じるほどです。

逆に日本の湿度の高い暑さが身体に堪えるものなのか実感しました。



前回人っ子一人いなかった通路には、アイスクリームや
氷の屋台が軒を並べていました。

それにしても、ディープフライ(油揚げ)オレオのインパクトがすごい。
フライした上にフロストシュガーまでかけてあるんですがこれは。



■ バッファロー


というわけで怒涛のネイバルパーク見学を終え、まだ夕方にならないうちに
以前もナイアガラに来た時に泊まったレジデンス・インに到着。



前回も窓から見えていたこの彫像付きの建物ですが、
今回門柱の文字を撮影してみたら、ここは
セオドア・ルーズベルトが大統領に就任した場所だとわかりました。

セオドア・ルーズベルトは、副大統領であった1901年、
ウィリアム・マッキンリー大統領が一般市民の前に姿を見せた際、
狙撃されて死亡したため急遽大統領に就任しています。

大統領射殺の報受け、ルーズベルトは休暇先から急いで戻ってきました。
(当時、”急いで”移動することは並大抵のことではありませんでした)。

ここは元々学者で弁護士の私邸だったのですが、どういういきさつか、
急遽ルーズベルトの就任式が行われることになったということです。


バッファローの歴史的に最も価値のある建造物とされており、
就任式が行われた重厚な図書館は、大勢の人々が詰めかけ、
ルーズベルトが借りたスーツで宣誓を行った時のまま保存されています。

また、就任式の混乱の最中、カメラマン同士が諍いで揉み合った末、
一人が誤ってカメラを地面に叩きつけ、レンズを粉々にしたのですが、
その場所もそのまま残されているということです。

ちなみに当のルーズベルトが騒ぎに激怒して二人を追い出したので、
この出来事を記録した写真は存在していません。



部屋は前回と同じツインで、これもダイニングテーブル付き。
このホテルの気に入っている部分は、一階のロビーと
スターバックスがつながっていて、宿泊客は10%引きしてもらえることです。

その日の晩御飯は、ホールフーズのデリでバッファローウィングスを取って
部屋で食べようということになったのですが、
行ってみるとなぜかデリのコーナーが終了していました。

アメリカでは日曜の夕食くらい従業員に家でご飯を食べさせてあげよう、
という親心?なのか、店やモールが早々に閉まってしまうことがありますが、
どうやらこの日のホールフーズもそれだったようです。
仕方がないので車で走りながらレストランを探します。
しばらくいくつかのお店をパスしながら走っていると、
バッファローウィングス専門店の看板を見つけました。

いかにも昔のダイナーのような建物で、あまりいい予感はしませんでしたが、
駐車場に異常なくらいの車が停まっているので、もしかして?
と思い、入ってみることにしました。



20分くらい待たされている間、そのウィングスの店が
オリジナルのTシャツやグッズまで作っており、しかも壁には
いろんな賞を受けた「名店」に選ばれているという記事がずらり。

もしかして、これは当たりを引いたか?



だってねー、オバマも来てるんですよ。
多分遊説のついでにルーズベルト就任の家に寄ったりして、
何かの弾みで来てしまったんじゃないかと思うんですが。



なぜか宇宙飛行士も4人来ていましたし、このほかにも
ロックバンドの「The Guess Who」(ゲスフー)が来ていたようです。

「The Who」なら知ってるけど・・。

ということで、この日曜日の夕刻、
アメリカ人が喜んでかぶりついているバッファローウィングスとは。



元々夜は二人ともあまり量を食べないので、とりあえず
ウィングとこの部分を5ピースずつ頼んでみました。

「フライはどうしますか?」

と聞かれて、いらない、と答えると、フレンチフライなしで食べるなんて
なんて変わった人なのみたいな顔をして驚かれました。
確かに周りをみると、まるで洗面器のようなボウルに山盛り入ったフライを、
(ウェイトレスがテーブルにばんと置くと3〜4本転がり落ちる)
皆当たり前のように標準装備してむしゃむしゃやっています。
しかし、要らんものは要らんのだ。

そして運ばれてきた件のバッファローウィングはというと、
はい、不味かったです。
あんまり、とか微妙、とかいうラインを突き抜けて、
はっきり言ってこんなまずいチキンは食べたことがないというレベル。

まずこの見た目ですが、バッファローウィングスじゃなくて、
ほぼ唐揚げですよね?

この唐揚げの外側が、とにかく猛烈に硬い。そして辛い。
その辛いというのも、バッファローウィングス特有のチリの辛さではなく、
とにかく塩っ辛い。精魂込めて極限まで塩を叩き込んだ味がします。

一応我慢して一つ完食しましたが、チキンの身に辿り着くまでに、
まるでゲンコツ揚げのような外側の岩塩をそのまま塗ったような
揚げ粉の部分を、あたかも「恩讐の彼方に」の洞窟掘った人みたいに
根気よく少しずつ噛み砕いて行かねばなりません。

一口食べるなり二人ともむっと押し黙り、
セロリとニンジンをポリポリポリと齧り、申し合わせたように
もう一種類のウィングスも一口トライして、同時にやめました。
そして言葉少なに感想を述べ合いました。
「辛い」

「硬い」

「不味い」

人は不味いものを食べた時、どうして惨めな気持ちになるのでしょう。

チェックを頼んだら、ウェイトレスはほとんど手付かずのウィングを見て、
何かを察したはずなのに何も言いませんでした。

それにしても不思議なのが周りのアメリカ人たちです。

確かにサンフランシスコやピッツバーグにいる人たちのような
インテリっぽい人はあまりいないようでしたし、
皆が皆判で押したように太っていましたが、
本当に皆こんなダダ辛い代物を美味しいと感じて食べているのか。
オバマも本当にここのチキンを美味しいと思ったのか。


バッファローウィングスのリベンジは翌日に持ち越されることになります。


続く。


ナイアガラフォールズとニコラ・テスラの関係

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gooブログの〇〇機能のせいで、せっかく仕上げた記事が
ほとんど全て記憶されておらず、ゼロからやり直す羽目になりました。
こういう時には本当にやる気がなくなるのですが、頑張ります。
(独り言です)

さて、空前絶後に不味かったバッファローウィングスの夜から一晩空け、
次の日、後述するナイアガラフォールズ観光を済ませてから、
わたしたちは懲りずに美味しいバッファローウィングスを求めて
ナイアガラからもう一度ホテルのあった市街に戻ってきました。

昨日のあれをバッファローでの最後のウィングスにしてしまったら、
もうバッファローウィングスの存在そのものを嫌いになりかねない、
とTOが言うもので、(わたしはそうは思いませんでしたが)
今一度、バッファローにチャンスを与えることにしたのです。

って何様だよ。
というか、どれだけバッファローウィングス好きなのわたしたち。



ナイアガラの滝近くから、ピッツバーグに戻る道ぞいにある
目ぼしいウィングの店の情報を片っ端から検討して行った結果、
市街の飲食店が立ち並ぶ通りにあるレストランなら堅いだろう、
と店を決め行ってみたところ、何やら良さげな雰囲気の店。



ピンときて入ってみると、専門はハンバーガーで、しかもこの店は
エイジドビーフを使ったバーガーもあるというのです。

そんな店ならバッファローウィングスも普通に美味しいんじゃないかな。

店内はオールドアメリカンな感じで、壁には至るところに
LPレコードのジャケットが飾ってあって、店主の趣味がうかがえます。

ビリー・ジョエル、ジョーン・バエズ、ビートルズ、スティング、
ロッド・スチュアートにモンキーズ・・・。
写真右側に写っている3人の初老の男性たちは、ドンピシャの世代なのか
顔を巡らせてジャケットの曲について話題にしていました。

ここもオリジナルのTシャツなどを扱っているようですが、
少なくともオバマ来店の写真や新聞記事などを飾ってはいません。

日本でも有名人の色紙を壁に貼っているところって、
碌なもんじゃねえ、とまでは言いませんが、有名人が来ることと、
美味しいことは全く関係ないことだと思うんだな。



ウィングとバーガー、サラダを頼むことにしました。
サラダは果物やナッツ、ドライフルーツがたっぷりです。
このサラダもゴートチーズが当たり前のように入っていましたが、
わたしはヤギも羊も苦手なので、抜いてもらいました。



これがバッファローウィングス(本物)ですよ。
テリのある表面、食べるとチリパウダーとカイエンの刺激がピリッとして、
淡白なチキンの身を楽しく美味しいものにしてくれます。

辛くなった口を人参とセロリで少し宥め、なんならほんの少し
ドレッシングを香る程度につけると「味変」にもなります。

これですっかりわたしたちのリベンジは成立しました。

左は、おそらくアメリカで初めて食べるアヒツナバーガー。
マグロの身は「たたき風」でシアーという半生状態です。

ビーフバーガーがメインですが、ビーフが食べられない人のために、
チキンはもちろん、ダック、ひよこ豆のパテ、そして
なんとマグロのたたきのバーガーも提供しているお店でした。

その意気や良し。



さて、時間を戻して、その日の朝、我々はナイアガラフォールズの
手前にある公園の入り口の駐車場に車を停めていました。

これが今回借りているホンダのCR-Vなる4WDです。

シカゴのレンタカーでは、大都市の空港ハーツということで
膨大な数が展示されたVIP会員専用サークルから車を選べたのですが、
わたしは、こういう時には迷わずドアを片っ端から開け、
車内に首を突っ込んで、匂いを嗅いで車を選びます。

車内の匂いで車の経年が瞬時にしてわかるからです。

臭いのチェックをしながらも、車内に置かれた鍵を視認して、
インテリジェントキーかどうかを確かめるのも怠りません。

そういういわばプリミティブな方法で、今回は
走行距離1000キロも行かないほぼ新車をゲットすることができました。

HPを調べたら、WLTCモード14.2km/L(今は10モードじゃないんだ)
ということで、燃費もなかなか悪くありません。

実際、五大湖沿いを走り回っていた頃は毎日給油が必要でしたが、
街中を走るようになってからは給油は一週間に一度で済んでいます。

ただし、皆様もご存知かと思いますが、今アメリカでは物価高、
特にガソリン代が急騰していて、昨日一番安いunleadedを満タンにしたら、
なんと53ドル(日本円で7,000円くらい)かかってしまいました。

今の車の二代前、ハイオク車に乗っていたことがありますが、
円高のせいもあってそれ以上なのにちょっとびっくりです。



このナイアガラ公園の駐車場には、前回MKときた時にも停めています。

もし万が一、今後ナイアガラ観光を車で行うという方のために
何度も書いていますが、くれぐれも車は滝の近くに停めず、地元の人が散歩に来て停めるこの無料の駐車場をご利用ください。
このロットが満車でも、もう一つ奥に無料の場所があります。

ここに車を停めるメリットは、無料であることの他に、
滝に向かって流れていくドラマチックな流れを見ながら歩いて行けること、
そして夏は鳥たちの姿が川の近くに見られることです。



さっそく変わった鳥が姿を現しました。

黒に羽の付け根だけが赤と黄色のナイキマークというこの鳥は、
Red-winged Blackbird、和名を ハゴロモガラス (羽衣烏)といい、
オスだけがこの模様でメスは茶色だそうです。


サンドパイパー=イソシギではないかと思います。

スタンダードナンバーになっている「The Shadow of Your Smile」
という曲がありまして、この曲の題は日本語で「いそしぎ」です。
Andy Williams ~ The Shadow Of Your Smile (Live)


「いそしぎ」というのは原題「Sandpiper」という、
エリザベス・テイラー主演の映画で、ヒロインのテイラーが
翼の折れたいそしぎを保護して連れて帰るというシーケンスがあります。

もっと大きな鳥だと思っていましたが、こんなに小さかったのね。



川面にコロニーを作って生活しているらしいいそしぎの集団。
この辺りはまだ流れがそう激しくないので、水鳥が多く見られます。



右側のイソシギ、首を傾げていてかわいい。


隣の草地はグースの縄張りでした。
皆しめしあわせたように川面に体を向け、くちばしは後ろに向けて。
何かあったら水に逃げるための習性でしょうか。



その横手に、なんとガチョウの保育所がありました。
本日の預かり児童は三羽、保育士さんはちゃんと子供たちを見守っています。
そういえば、イルカもペンギンもコロニーを作る動物の中には
子供だけを集めた保育所があり、面倒を見る保育士がいるらしいですね。



マザーグースが雛鳥を引率中。
雛鳥歩いてないし。



これがグースの赤ちゃん。
身体の大きさに比べて脚の比率が大きい。



しばらく(と言っても数分)歩くと川面も水鳥の姿も無くなりました。
そして川の流れがご覧のような激流になります。

しかし、人がここに落ちれば確実に命はないような場所でも、
護岸工事や柵は必要最小限しか行われていません。

日本ならガチガチにコンクリで岸を固めて柵をつけ、ご丁寧に
川の横には「危険!」「水遊び禁止」と立て札を立てるでしょう。

そんなこと言われなくてもわかっとる、と誰でも思うことを
あえて呼びかけて憚らないのが、日本の行政というものなのです。

もっとも、景観を重んじて行政の手を入れるのを住民が拒み、
その結果災害の規模が大きくなるということも実際にはあるので、
一概にそれが悪だとはいいませんが、まあ少なくとも観光資源に対しては
極力手をつけないで自然のままに残す方向でお願いしたいものです。




ただし、夜になるとこの激流をライトアップするために
実にたくさんの投光器が岸に取り付けられています。



ライトアップといえば、これはMKが冬友達とカナダに行った時の写真。



時間ごとに色が変わっていくそうです。



絶対カナダ側から見る方がいいですよね。



というわけでアメリカ滝の横にたどり着きました。
いつ見てもこの凄まじい眺めには心を掴まれるような気がします。

ここからは向こうにカナディアンフォールというカナダ側の滝が見えます。



滝つぼから巻き上がる水滴が虹のアーチをかけ、
そのアーチの下を滝巡りの遊覧船が通過していきます。



赤い遊覧船は、向こう岸のカナダから出ています。
カナダの国旗の色から赤い船に赤い水滴よけコートというわけです。

見たところ観光客は圧倒的にアメリカ側の方が多く、
遊覧船の待ち時間もカナダはアメリカの5分の1くらいのようでした。

滝の眺めもカナダ側からの方がいいらしいし、
一度はカナダからナイアガラを見ておくべきだったかな・・。


前回はコロナ禍下でしたし、真冬だったので、
人影がなかったアメリカン・フォールの向こう側に人の姿が見えます。


アップしてみました。
あれ?この写真の上の方に何か銅像がありませんか?



これは、公園の入り口にあった案内図ですが、TOが指差しているところの
左側は、アメリカの「ゴート・アイランド」といいます。

さらに調べたところ、アメリカンフォールの横手には、

ニコラ・テスラのモニュメント

があるということがわかりました。
はて、なぜナイアガラの滝にテスラの像が・・・・?



そこでこれですよ。

前回人気のないナイアガラで、この写真を撮った時、当ブログでは
昔ホテルでもあったんだろうか、などと適当なことを書いたのですが、
これは廃墟などではなかったのです。

The Tunnel at the Niagara Parks Power Station
「ナイアガラパークスの発電所のトンネル体験。
100年以上前に建設され、復元された水力発電所を探検してみてください。
インタラクティブな展示、魅力的なモデルなどを発見してください」
などという言葉があり、特にこの「トンネル」から
ナイアガラを眺めるというのは、ぜひ体験してみたくなります。



今回発電所の存在に気づいたのは、この写真を拡大したら
デッキの上に黄色い制服らしきものを着た人がいて、
さらにエレベーターの装置らしきものがあることを確認したからでした。


HPによると、発電所の中にはいつでも入れ、中にはかつての
発電所の遺構がそのままの形で保存展示されて見学することができるとか。

で、この発電所なんですが、ここにニコラ・テスラが関わっていました。

かつてナイアガラフォールズにあった世界初の大規模水力発電所は、
他ならないニコラ・テスラの残した業績の一つでした。

ニコラ・テスラはジョージ・ウェスティングハウスと共に、
ナイアガラの滝に世界初の水力発電所を建設し、
世界を「電化」の第一歩に導くという偉業を成し遂げています。

この旧ナイアガラフォールズ発電所の唯一の遺構である
アダムズパワーステーション(パワーハウスNo.3)が、
そのとき建造された水力発電所の一つでした。

人類が電気というものを生活になくてはならないものとして
使い始めてからの歴史の中で大きなターニングストーンである
このアダムズパワーステーションは、国定歴史建造物に登録されており、
さらに今後、ここには科学博物館を作るという話もあるそうです。

ナイアガラの滝のアメリカ側を訪れる観光客は年間約800万人。
カナダ側には年間約2,000万人が訪れます。
(あれ?ということはカナダ側の方が多いんだ)

よく、人はナイアガラフォールズのことを、

「死ぬまでに一度は見ておくべき場所」

と呼びますが、ここにあるのは、自然が作り出した造形美のみにとどまらず、
世界を今日の「電化」に導いた歴史的遺跡でもあったのです。

ナイアガラ・フォールズの「電気的な意味」は、
テスラの生み出した多相交流電流(AC)の最終的な勝利であり、
今日、地球全体を照らし続けているのはそのシステムです。

こちらがアメリカ側のニコラ・テスラ像。
上の写真に写っているのがこちらです。



こちらは2006年に除幕された、カナダ側、
クイーン・ヴィクトリア・パークにあるテスラモニュメント。

テスラが特許を取得した700の発明の一つである、交流モーター
(交流誘導電動機、多相交流を用いて回転磁界を作る原理を元にした装置)
の上に立っています。

アメリカとカナダ、どちらにも一つづつテスラ像があるというのも、
彼の成した偉大な功績を思えば、もっともなことかと思われます。


続く。



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